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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。

「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。

そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるとおりです。

見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、
 シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。

従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」
 のであり、また、
「つまずきの石、
 妨げの岩」
 なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。

 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 あなたがたは、

「かつては神の民ではなかったが、
 今は神の民であり、
 憐れみを受けなかったが、
 今は憐れみを受けている」
のです。」(Ⅰペテロ 第2章)

* * *

当ブログは、聖書の神が、正しい、唯一の神であって、キリストの十字架の贖いが、人類にとってただ一つの救いであることを証しするために執筆されている。

従って、当ブログの最終目的は、神に栄光を帰することであって、それ以外の目的にはない。

このブログは、筆者が信仰の証のために書き続けているものであって、筆者の自己満足や、筆者が栄光を受けることを目的としていない。

とはいえ、このブログには、筆者自身の人間らしい歩みも率直に記されているので、一見すると、無価値にも見える多くの記事があるかも知れない。しかし、それも含めて、このブログは、干潟に溜まっている泥水のように、外見的には、みすぼらしく、魅力も、見栄えもしないが、そこには、神の愛に満ちた眼差しが確かに注がれているのであって、人知れず光合成が起き、泥水にしか見えない水が、神の目に尊く、すべての人々に役立つ、永遠に価値ある生ける水に変えられている最中なのである。

筆者がこの地に置かれてから後、筆者に与えられたミッション――すなわち、干潟を開拓して、そこから命の水が湧き出るためのパイプラインを建設し、これを稼働させること――が開始するまでに、相当な年月がかかった。

それは、この地にパイプラインを建設できるような土壌がなかったためで、地盤作りに年月がかかったからである。さらに、地中を深く掘り下げ、地下深いところから水を汲み上げるためには、多くの苦難が必要となった。

神の御業が現れるためには、信じる者の側にも、深い飢え渇き、願い求めが必要で、旱魃のようにも見えるむなしい実り少ない月日の間に、深く深く井戸を掘ることが必要となった。

だが、ある時が来ると、掘削作業は終わり、確かに水脈に達し、地下水を汲み上げる作業が始まった。そして、ついに筆者は、命の水が確かに流れ出す瞬間を見たのである。

二、三年ほど前までは、多くの交わりが試練に耐え得ず、分解させられるところを幾度も目撃して来た。

だが、そのことを通して筆者が学んだのは、人間関係とは、キリスト者の交わりも、そうでない交わりも含め、全て試され、揺さぶられることなしに、本物にはならないということである。不信や、対立や、分裂をもたらそうとする悪しき力や、様々な策略が働くときに、これに勇敢に立ち向かって、人々との信頼の絆を保ち、目的に向かって共に一致協力して前進できる関係を手放さない方法を学ばなければ、私たちは、順調な時しか人々と協力できず、逆境になると、すぐに人間関係が壊れ、これを手放すこととなり、そんなことでは、周囲の人々が、一体、何のために私たちの周りに置かれたのか、彼らが私たちにとって、どんなに重要かつかけがえのない役目を果たしてくれるかを、決して生きて知ることはできないままに終わる。

そうして不信や対立を乗り越えて、信頼を維持・強化する方法を学ぶためだけにも、相当の歳月が必要であった。
 
これと同様のことが、当ブログにも当てはまる。信仰の証としての当ブログは、これを中断させ、放棄させようとする様々な試みによって、絶え間なく揺さぶられ、試練を味わわされて来た。

しかし、それもまた、筆者が信仰の証を確固として保ち続けるために、これをやめさせようとするすべての策略に勇敢に立ち向かって、神への賛美と証を続けることの重要性を学ぶ過程であったと言える。

困難や試練に見舞われても、神に栄光を帰する作業を決してやめないでいること、兄弟姉妹や、愛すべき人々を、嵐のような試練の中で守り抜き、彼らとの絆を決して絶やさないように守ることの重要性を学ぶまで、確かに歳月はかかった。しかし、ついに、揺さぶられても、決して壊れることのない交わりが生まれ、相互の固い信頼の絆が生まれたのである。

そうして、地下深く掘り下げられた井戸から、汲み上げられた命の水が、地上から流れ出し始めた・・・。

今でも、当ブログを地上から殲滅したいとの願望が、筆者に向かってあからさまに述べられることがある。筆者がすべての主張を放棄し、これまで獲得したすべてのも成果を投げ捨てることによって、あたかも筆者の安全が保たれ、平和が到来するかのような主張を聞かされることがある。

だが、筆者に証を述べることを辞めさせようとする願望を聞くとき、筆者は、殉教者たちのことを思い出す。長崎のキリシタンであれ、皇帝ネロの時代のクリスチャンであれ、みな同じ要求を突きつけられ、同じ試練の道を通ったのである。自分の命や、自分の身の安全を第一優先し、神の御言葉を恥じて捨てるのか、それとも・・・。

主イエスは言われた。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」(ルカ9:23-26)

筆者が第一に優先せねばならないことは、自分の命を真っ先に優先して守ろうとすることではなく、神の国とその義を第一とし、神の御言葉を人前で恥じることなく、伝え続けることである。
 
これまで当ブログでは、東洋思想(グノーシス主義)の時間の概念は、円を描く曲線であるが、キリスト教の時間軸は直線である、ということを書いて来た。

ここで言う「グノーシス主義」とは、聖書とは真逆の偽りの教えを総称したものである。
 
この問題を考えるとき、筆者が当ブログにおける信仰の証を自ら放棄・否定して、これまで達成して来たすべてを、なかったこととして否定しさえすれば、あたかもすべての争いから解放されて、安息を得られるかのような考えが、偽りであることが分かる。

何度も述べて来たように、聖書に反するグノーシス主義のシンボルは(東洋思想も含め)「円」である。この円とは、人類が時間軸を逆にして、歴史の初めと終わりを一つに結びつけること、すなわち、循環する時間の概念を表している。
 
このシンボルの究極的に意味するところは、人が自力で、神と人とが分離する前の状態に逆戻ることである。すなわち、聖書によれば、神が天地を創造され、人を創造された後、人は自ら神に反逆し、罪によって堕落し、神と断絶するに至った。

しかし、グノーシス主義は、人間が自分で時間を遡り、神から分離する前の状態に逆戻ることによって、あたかも、人が神に対する反逆という問題を起こしたことがなかったかのように、罪の問題を自力で解決して、自ら神に回帰し、救いに到達できるかのように教える。そのような偽りの考えを示すシンボルが、円(東洋思想における「道」)なのである。
 
それは、人が自力で母の胎内に逆戻り、生まれる前の状態に逆戻ることによって、この世の悩み苦しみの全てから解かれ、両親との一体性を取り戻し、胎内でもう一度、安息を得ようとする試みにたとえることもできよう。

しかし、普通に考えて分かる通り、人が自力で母胎に逆戻ることなど、できるはずもないのであるから、同じように、罪によって神と断絶した人類が、時間軸を逆向きにして、神と分離する以前の状態に自力で回帰することなど無理な相談である。

そのことを考えれば、筆者が当ブログを閉鎖したり、信仰によってエクソダスを遂げたことを否定して、幼い頃から慣れ親しんだもとの故郷に逆戻り、そこから出た後、昨日までに打ち立てたすべての達成を自ら否定してみたところで、それによって生まれる成果など何一つないことがはっきりと分かる。

私たちは、昨日までの歴史を否定したり、自分の信仰の証や、果ては兄弟姉妹の存在や、自分自身の存在までも否定して、何も起きなかった当初の状態に逆戻ることで、心の平和を得られるわけではない。

そういう意味で、人類が、神によって創造され、罪によって堕落したことは、それ自体、著しい悲劇なのであるが、それでも、私たちは、その悲劇が起きなかった以前の状態に自力で逆戻ろうとすることによって、問題解決を成し遂げ、平和を手に入れられるわけではなく、その悲劇の事実をしっかりと見据えた上で、これを真に克服できる方法を探し求め、それを手に入れて、先に進んで行かねばならない。

そして、神と人との断絶を克服する方法は、神の側から恵みとして与えられた十字架以外には存在しないのである。十字架は、エクソダスの道である。生まれながらの自分自身から、古い肉的な故郷から、私たちが目で見て、耳で聞いて、感覚を通して確かめて来たこの世そのものからのエクソダスである。
 
これまで当ブログでは幾度も述べて来たことであるが、聖書には、こうある。

「わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:30-32)

筆者が、この御言葉を幾度も引用するのには、理由がある。ここで述べられている内容は、非常に重要な奥義であって、それは神と人とが一体であるかのごとく親しく結びつき、一つとなって共に住まうことが、神の望みであることを示している。

つまり、聖なる神の宮として造られた人類に、神ご自身がやって来られ、人の内に住まわれること、そうして、神と、宮なる人類が一つとされ、それによって、花婿なるキリストと花嫁なる教会の結婚が実現すること、それこそが、教会の奥義なのである。

だが、この一体性が成り立つために必要な条件は、「人は父と母を離れて・・・」というものである。父と母を離れるとは、人が自分の生まれながらの出自に死ぬことを意味し、生まれながらに持っている堕落した天然の命に対し、キリストの十字架の死を経由し、自分の生れ故郷(ヘブル書では「出て来た土地」(ヘブライ11:15))を離れ、信仰によってよみがえらされて、新しい命により、新しい天の故郷へ到達するために、歩みを続けることを意味する。

生まれ故郷を離れないことには、新しい故郷にたどり着くこともない。地上的な故郷との結びつきが断ち切られないことには、天の故郷への道も開かれない。だからこそ、人はバプテスマを経て、生まれながらの自分に死んで、上から生まれることが必要なのであり、筆者自身も、真実な信仰を知って、神ご自身を探し求めるためには、エクソダスの道を通らねばならなかった。

筆者は幼い頃から形式的にはキリスト教徒だったのであり、信仰それ自体も、持っていたとはいえ、それでも、「父と母」のいる、もといた「故郷」、すなわち、物心つく前から筆者を取り巻いていた慣れ親しんだ宗教的な環境において、古き自分に死ぬことなしに、神ご自身に出会うことは不可能だったのである。

ヘブル書には次の通りある。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが、実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ11:13-16)


神の御言葉は、あたかも裁判の判決が法的拘束力を持つように、霊的な拘束力を持つものである。そこには、人類に対する神の約束事が書かれている。約束が成就していないうちば、御言葉は、単なる空手形のようにも見えるかも知れないが、その約束には、生きた効力があり、聖書の御言葉には、約束を実現させる力が込められている。

とはいえ、その約束は、私たち自身がこれを承認し、信じ続けなければ、実現することのないものである。従って、私たち自身が、何があっても、御言葉に基づく望みの確信を手放さないことをせず、その確信を途中で投げ捨て、自ら否定してしまえば、その効力は失われる。
 
たとえば、ちょっとした困難が起きただけで、自分の命や、身の安全が惜しいからと、当ブログの信仰の証を、筆者が自ら否定し、捨て去ったり、筆者に与えられた尊い御言葉の約束を、筆者が自分で否定したりすることは、約束の放棄を意味し、それは結局、筆者が出て来た故郷へ戻ろうとする試みと同じなのである。そのようなことをすれば、さらにまさった天の故郷へ向かう道は断たれる。

それだけでなく、筆者のエクソダスも、意味がないものとなり、地上の故郷を出した後に打ち立てられた信仰的成果もすべては無に帰され、当ブログの存在も無用なものとなるばかりか、筆者自身の存在も、消えてなくなるであろう。

いや、消えてなくなるくらいならまだ良い。キリスト者が信仰の証を捨てれば、塩気を失った塩として、誰にとっても無用なものとして、道端に捨てられ、踏みにじられて終わることになるだけである。争いが終結して平和が訪れ、自分の命と安全が保たれるどころか、すべてが「無」に帰され、踏みつけられて終わるだけなのである。
 
当ブログは、筆者なりに、天の故郷へと続く道を歩く行程(天路歴程)なのであり、これを否定したり、放棄することで、筆者の安息(救い)が得られることは決してない。そのような考え方の中には、筆者を古い故郷へと戻らせようとする、偽りの思想に基づく循環の時間の概念が反映していると言える。

だが、繰り返すが、人類は自力で神の懐に回帰することができない以上、筆者がこれまでの歴史を否定してみたところで、それによって達成される成果など何もないのである。
 
私たちは、不可逆的な時間の流れの中に立っており、時には、根こそぎ心を揺さぶられ、自分が一体、何のために生きているのかも分からないと思うような、悲痛な出来事に遭遇することもある。だが、悩み苦しみが大きいからと言って、自分がこの世に誕生し、ものを考えるようになり、自己の意思を表明するようになり、神を求めるようになり、信仰を見いだす以前の、生まれなかった前の状態に逆戻ることによって、問題が解決するなど、断じてあり得ず、それは詭弁でしかない。
 
むしろ、目の前に大きな困難があるように見えるときにこそ、私たちには、神の御言葉という、絶大な効力を発する、勝利の約束が与えられていることを思い起こし、私たちの存在に、神の愛が注がれていること、それゆえ、御子の十字架が与えられていることを思い起こし、勇気を奮い起こして前に進んで行かねばならない。

御言葉が、私たちに勝利を約束してくれている以上、一体、何を恐れて、これを自ら否定し、証をやめて、御言葉を知らなかった頃の、古い故郷に駆け戻る必要があろうか。
 
なすべきことは、エジプトを恋しがり、あるいはソドムに未練を感じて振り返ることではなく、約束の確信に基づいて、目の前の紅海を最後まで渡り終え、復活の領域に達することである。

キリストこそ、私たちにとって、すべてのすべてであるから、この方の中にこそ、地上のあらゆる問題に対する「正解」がある。この方を信じる者は、失望に終わることはないと、はっきりと聖書に記されている通りである。その約束に立脚して進んで行くのか、恐れて退却するのかは、各自の自由な判断であり、選択である。
 
「「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
 遅れられることはない。
 わたしの正しい者は信仰によって生きる。
 もしひるむようなことがあれば、
 その者はわたしの心に適わない。」
 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:37-39)
  
さて、不思議なことに、筆者の人生においては、様々な困難が存在しているように見える中でも、失われた兄弟姉妹の交わりが、少しずつ回復している。筆者がキリスト教界をエクソダスして後に築かれた兄弟姉妹の交わりが、戻って来ており、そこで10年以上前から温められていたプロジェクトが、今も進行中であることが分かった。

それは、筆者がエクソダスを遂げるに際し、とても重要な役割を果たしたプロジェクトである。あれから相当な歳月が経ったので、筆者は、さすがにこの計画はもう放棄されているのではないかと思っていたが、そうではなかったことが分かった。

それは他の人たちが撤退して行った場所で人知れず続けられている計画であり、このことを見るにつけても、筆者は、神の国と神の義をまず第一にすれば、すべてのものは添えて与えられるとの御言葉の確かさを確信させられる。

人の目から見てどう見えようとも、神の御言葉の約束を信じてこれを追い求め続ける人の人生には、神ご自身がすべての責任を取って下さるという、生きた見本を見せられているようである。

聖書には、不正な裁判官のたとえがある。

神を畏れず、人を人とも思わぬ裁判官に対しても、やもめが懇願を続けて、ついに裁判官の心を動かし、正しい裁きを得たという、主イエスが語られたたとえ話である。
 
このたとえ話に登場する不正な裁判官は、神を象徴している。神を不正な裁判官にたとえるのはどうかと思われるかも知れないが、神の采配は、私たちには、ときには、非常に理解しがたく、納得できないものに見えることがある。

たとえば、神はなぜサタンの活動を許しておられるのか。なぜこれほど理不尽な悪事や災害が世に溢れ、神はこれを放置されているのか。もしも神がただちにサタンの働きを滅ぼしてしまえば、私たちは、現在の悩み苦しみからすぐにでも解かれたであろうに、なぜ神は善良に見える多くの人々の苦しみを黙認しておられるのか・・・。

そういった疑問は、クリスチャンであっても、実に多くの人たちが抱くものである。だが、それは愚門であると言えよう。神が望んでおられるのは、あくまで私たち自身が、自らの信仰を通して、理不尽や混乱に満ちたものに見えるこの状況の只中に、御言葉の約束の効力を及ぼし、それによって、サタンのわざを後退させて行くことだからである。

だから、私たちがせねばならないことは、いかなる状況の中でも、その状況の理不尽さに目を留めるのではなく、神の采配がどんなに理解できないものに感じられるときでも、神は正しく、真実で、公平な方であって、私たちのために、常に最善の解決を用意して下さっていることを固く信じ、主がカルバリで打ち立てて下さった勝利の御業を誉めたたえ、その約束に信頼しつつ、新たな一歩を信仰によって大胆に踏み出していくことなのである。

そうして、私たち自身の努力によるのではなく、神の側から恵みとして与えられている御言葉の約束に基づく解決を、混乱に満ちた状況の只中に、力強く現実的かつ具体的に引き下ろすことである。

そのために、私たちに必要なのは、あくまで望みを捨てずに祈り続けること、執拗に懇願し続けること、目的に向かって進み続け、決して後退しないことであり、断じて、脱出してきたはずのい故郷に帰ろうと考えることではないない。

そこで、仮に今、誰かが筆者の隣にやって来て、筆者の耳元で、自分の身の安全が惜しいなら、あなたの信仰の証をさっさと放棄しなさいとささやいたとしても、筆者は、そんなことは無理です、としか答えられない。

なぜなら、筆者には、キリストに出会わなかった以前の状態に戻ることはできないからである。その答えの中に、一切が込められている。キリストを否んで、信仰の証を捨てることができるか問われれば、当然のことながら、答えはノーであるが、それと同様、愛すべきキリスト者との交わりを手放せるかと問われれば、答えはノーである。敬愛する権威者・友人を捨てられるかと問われても、答えはノーであるし、裁判所の飛び地のようなところで、筆者に与えられている仕事を放棄できるかと問われても、答えはノーである。自分に与えられた信仰によるミッションも終わらないうちに、この街を出て行き、よその土地で暮らせるか、と尋ねられても、やはり答えはノーであると言うしかない。

信仰によるエクソダスをなかったことのように否定して、ブログを立ち上げる前の状態に逆戻り、地上的故郷に舞い戻り、そこで自分自身の名で、自分のために、地上的な功績を打ち立てることを目的とする人生を送れるかと問われれば、そのような人生は、すでにバプテスマと共に、水の底に沈んで死んでいる以上、思いめぐらすこともできないし、取り戻すことも不可能だと言うしかない。

そこで、誰かが筆者のそばにやって来て、筆者に向かって、あなたがエクソダス後の成果を頑固に手放さないから、私はあなたに間違った信仰の証を辞めさせるために、あなたを殺害することにしますと予告したとしても、やはり、筆者の答えは変わらないだろうとしか言えない。

だが、それは決して筆者が、歯を食いしばって、必死の思いで、あるいは涙ながらに、自分はこれからあらゆる恐怖に打ち勝って、信仰を守り通さねばならないと告白するような、悲壮な決意表明ではない。

筆者は、ただ与えられた御言葉の約束と、その前味として、すでに筆者の人生において成就している恵みの素晴らしさを知っているがゆえに、もはやそれを知らなかった頃に逆戻ることはできないという、シンプルで自然な思いを述べているに過ぎない。

一言で言えば、自分の全てを捧げてキリストに従うとは、愛ゆえに生まれて来る自然な告白なのであって、自分の力であらゆる苦難に立ち向かって信仰を守り通そうとする頑固で必死の努力の賜物ではないのである。

すべては愛のゆえである。信仰による応答は、まず何よりも、十字架でご自分の命を捨ててまで、筆者を救って下さった神の深い愛に対する、筆者の側からの愛による応答である。いかに幼い頃から信仰を持っていたとはいえ、筆者は目に見える教会生活を送っていた時代には、十字架のキリストを内に啓示されることで、主に出会うことはなかったのであり、その後、教会生活をエクソダスして、初めて、主ご自身に出会うことができ、聖書の御言葉と、それに基づく信仰の、真実で正しいことを身を持って知った。今、それによって得たすべての恵み、そして、来るべき報いに対する望みの確信を放棄して、主ご自身に出会う以前の状態に逆戻ることは、筆者には死を意味することであって、全く考えられもしない。

主に出会ったときに、筆者の人生は根本的に変えられ、自分が何のために生き、存在しているのか、その目的も、意味も、以前とは全く異なるものに変わった。ひと言で言えば、筆者はもはや自分のために生きているのではなく、神に贖われた者として、筆者のために命を捨てて下さった神に栄光を帰するために生き、存在している。どんなにその目的が、わずかしか達成されていないように見えたとしても、筆者に与えられた使命が失われるわけではない。

それに加えて、筆者がこれまで出会って、支えられて来たすべての人たちとの愛に満ちた交わりや、信頼関係がある。キリスト者の交わりへの慕わしい思い、筆者を助け、支えてくれている人たちへの愛がある。困難の中で得られた信頼や交わりは、とりわけ価値があり、それは筆者の手柄ではなく、まさに主が恵みによって与えて下さったものであるとしか言えない。

こうした信頼関係は、交わりがふるいにかけられて試される以前のように、頼りない、壊れやすいものではなく、試練にさらされても、それに耐えて残るだけの力があると確信できるものとなっている。

そうして新たに生まれた信頼に満ちた交わりが、とても喜びに満ちた、麗しく、慕わしいものであるがゆえに、それらを自ら否定したり、侮辱するくらいなら、ただちにこの場で殺されて息絶えた方がましだと筆者には思えるのである。
 
このように、主が与えて下さった人々の価値、また、自分が守ろうとしている信仰の証の価値を知っているがゆえに、それを守るために、死をくぐらなければならないとしても、筆者にはそれは大したことではないと思われる。

 おそらく、殉教した時のステパノは、そういう心境だったのに違いない。彼は栄光に満ちたキリストをそば近くで拝し、自分が今しも迎え入れられようとしている天の故郷の絶大なる価値を確信していたがゆえに、群衆に石打ちにされそうになっている瞬間にも、誰も彼を助け得なかったことなどには何の注意も向けず、むしろ、兄弟姉妹を安全なところにかくまい、自分を殺そうとして打つ人々に神の福音が届けられることを願いつつ、率先して地獄の軍勢の憎しみの只中に立ち、息絶えたことであろうと思う。

それは、彼が神の愛を通じて、人々を愛することを知っていたために、できたことなのである。断じて殉教者になることを目指し、それによって、信仰的に偉業を達成しようなどと考えて起きた出来事ではない。

そういうわけで、筆者は、人前で信仰の証を守り通すことは、ぜひとも必要だと考えているが、それも、神と人とに向けられる自然な愛の中で達成されることであって、決して、正しい信仰を何が何でも守り通そうとする不自然な努力の結果ではないと思っている。

しかも、聖書には、逆説的に、自分の命を捨てる者がそれを得る、と書いてあるから、筆者は、歴史的殉教者のようにはならないことであろう。筆者は、主の御名のゆえに、忍ばなければならない苦難や試練を避けるつもりはないが、それは決して悲劇的最期を迎えたいがゆえの愚かしい意思表示とは異なるのである。
 
むしろ、私たちキリスト者の人生は、終わりに近づけば近づくほど、ますます明るさを増して、健全かつ喜び言満ちた輝きを発することになろう。今、筆者の歩いている行程の先には、花婿なるキリストが、筆者を迎えようと、天に住まいを準備されている。筆者は、地上的住処には全く満足していないし、天には住まいがたくさん用意されていると、主ご自身が言われたこともあって、天の故郷に大いに期待しているのだが、最終的にそこにたどり着くまでの間にも、主は筆者のために、その時、その時で、恵みに満ちた地上の仮住まいを、備えて下さるだろうと信じている。そして、その仮住まい(筆者自身が仮の地上的幕屋である)を通して、神に栄光を帰するために、私たちは互いに交わりを持つ。

主の御名によって集まる二、三人の交わりの中に、主が共にいて下さる。主は互いに愛し合いなさいと、信じる者たちに命じ、そのことによって、私たちがイエスの弟子であることが皆に分かるようになる、と言われた。

やがて花婿なるキリストが再び地上に来られるとき、主が地上における信徒の小さな交わりに目を留め、それがとても愛に満ちた麗しいものである様子をご覧になって、ぜひともそこに共にいたいと願って下さるためにこそ、私たちは地上に存在している。

そういう意味で、筆者は使徒行伝の終わりが好きである。使徒パウロは、おそらくは皇帝ネロの迫害により殉教したにも関わらず、使徒行伝の終わりには、殉教を思わせる記述は全くない。かえって、これから何かが始まりそうだという期待感に満ちたしめくくりとなっている。

「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒行伝録28:30-31)

パウロが自費で借りた家に住んでいたことや、自分の私生活を後回しにして、誰でも訪問者を歓迎したことは措いておくとして、ここには、「全く自由に何の妨げもなく」(!)と書かれている。そのことは、パウロにこの間、いかなる迫害も及ばなかったとか、制約も生じなかったということではない。神の福音は、たとえ信じる者が鎖につながれるようなことがあっても、決してつながれず、地上的な、人間的な、あらゆる制約を超えて、人々のもとに自由に届けられて行ったのである。

これが、生ける水をもたらすパイプラインの効果である。キリスト者は、主の御名のゆえに、様々な信仰的な試練を通過するし、制約も負うが、御言葉は、その制約の只中から、溢れ出る泉のように湧き出て、全く自由に、何の妨げもなく、人々のもとへ届けられて行く。

筆者も、地上で重荷を負って、労苦奮闘しているが、その只中から、命溢れる成果が生まれ、やがてその苦労の先に、想像を超える大きな収穫が待ち受けていることを思うと、今感じている労苦など、何でもないという心境になる。

神が喜んで下さることこそ、私たちの喜びであり、満足なのであって、その達成のためになら、信仰のゆえに、地上で味わう試練などは、全く取るに足りない。それがどんなに人の目に損のように映ったとしても、神はそれを補って余りある恵みを、私たちに与えて下さることのできる方であり、それが幾分かすでに与えられている以上、筆者は、私たちが地上で味わうすべての労苦には、天の大いなる報いがあると確信する。
 
そこで、筆者は最近、目の前で何が起きていようとも、主が出会わせ、結び合わせて下さった愛してやまない人々と共に、この先も、主を賛美しつつ、地上での生涯を終えられるだろうとの確信を持つようになった。

エクレシア(教会)は、あちらこちらを訪ね求めて見つかるものではなく、私たちの信仰の只中から、私たち自身の神への愛と献身によって、生まれて来る。その愛に満ちた麗しい交わりこそ、キリストが再びこの地上へ来られるときを早め、引き寄せるための鍵である。
  
そうして、どんな困難や迫害の最中にあっても、私たちが喜びに溢れて主を賛美し続け、互いに愛し合い、神が私たちのそば近くにやって来られ、早く共に住まわれたいと、切に願って下さるような交わりを、地上で打ち立て、御言葉の約束を固く守り、これを実現していれば、主は私たちの抱えるすべての地上的問題に対して、速やかに解決の手を差し伸べて下さり、私たちが地上において悩みの種としているような問題のほとんどは、塵芥のごとく吹き飛び、あっけなく消えて行くであろうと予想する。

そのようにして、御言葉を守り、これを実現して生きることが、今、私たちに最優先で求められている課題なのである。
 
そして、それが真に神の御心にかなうことならば、私たち自身が、生ける水の川々を流し出す泉となることを止められる者は、地上に誰もいない。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

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わたしの愛にとどまりなさい。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。

 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。


あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:9-17)

* * *

全く不思議なことで、このところ、キリスト教徒を名乗っていない人との間に、信仰の交わりのようなものができ、神を知らないはずの人から、筆者は神の愛を知らされている。
 
筆者は、とても敬愛しているある権威者の言葉を通して、適宜、神から必要な助言を送られているような具合である。

これは実に不思議な交わりであって、信徒の交わりというものを、久しく失って、孤独を感じていた筆者にとっては、まるで神が、筆者の心の願いに応えて、慰めを与えて下さったように思える。

その人は、筆者に言った、無用な対立を一切避けなさいと。そして、こう言ったのである、筆者は、その権威者の代理人も同然であって、筆者の存在は、もはや筆者だけのものではなく、その人自身でもあるのだから、筆者がその権威者自身であるかのように振る舞いなさいと。

現実の筆者には、何の権限もなければ、職責があるわけでもない。むしろ、単なる使用人の立場である。ところが、その人は、あたかも筆者にその人自身の持っている高い職責や、大いなる権威や、権限が付与されているかのごとく、筆者は筆者だけのものではないから、その人自身のように行動しなさい、と助言したのである。

その人は、もちろん、筆者の信仰のことも、訴訟のことも知らず、筆者の身内でもなければ、キリスト教徒でもない。なぜにそのような発言がなされたのか、その交わりが何であるのか、筆者は知らない。
 
だが、その忠告は、実に深い意味を持っており、私たちキリスト者一人一人が、神の代理権威であって、神は私たちを本当に神御自身に似た者とされ、私たちを彼の栄光の高みにまで引き上げようと願っておられることを、筆者に想起させた。

以下の御言葉の通りである。

「主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:17-18)

似た者・・・という言葉には、まだ多少の距離感が残っているように感じられる。しかし、キリストと教会の関係は、「二人は一体」なのである。そこには、決して切り離すことのできない完全な一致、一体性が存在している。

そのようにして、神は信じる人を、ご自分と瓜二つになるほど近づけ、そこに完全な同質性が生まれるまで、一致させようとしておられるのであり、ご自分が持っておられるすべての富、栄光、威光、尊厳、栄誉、尊いご性質のすべてを私たち信じる者と分かち合おうと願っておられる。

そういうことは、今までの筆者には、御言葉の知識としては存在していたが、まだ現実としては理解されていなかった。しかし、目に見える人の助言が、筆者にこれを至上命題のごとく、目の前に突きつけたのである。

主に似た者とされるという栄化は、空を見上げて待っていれば、降って来るようなものではない。それは、約束としては与えられているが、その実現は、私たちの側からの積極的な応答にかかっており、筆者自身が、それを現実として受け入れるかどうかにかかっている。

そして、さらに分かったことがあった。それは、神が人をご自分に似た者とされる、とは、神が人の心を、ご自分から二度と引き離したくないというほど、強く愛しておられ、他のものを一切見ないでもらいたいと願っておられる、そういう排他的な愛と、密接な関係があるということである。

聖書における神と人との愛は、排他的な愛の関係である。雅歌の次の御言葉もそれを示している。

「わたしを刻みつけてください。
 あなたの心に、印章として
 あなたの腕に、印章として。

 愛は死のように強く
 熱情は陰府のように酷い。
 火花を散らして燃える炎。
 大水も愛を消すことはできない
 洪水もそれを押し流すことはできない。
 愛を支配しようと
 財宝などを差し出す人があれば
 その人は必ずさげすまれる。」(雅歌8:6-7) 
 
「熱情」と書かれているところは、「妬み」とも訳されている。
 
筆者に分かったことは、神の愛から人を引き離すすべてのものに対して、神は妬みの炎を燃やされる、ということである。

筆者は、貴重な助言を受けたように感じたが、すぐにはそれに従えなかった。なぜなら、筆者から見て、神はあまりにも高いところにおられ、私たちからはそこからあまりにも遠く、卑しい私たちが、神に似た者として振る舞うなど、あまりにも大それたことであって、要求されても、すぐには実現不可能と感じられたからである。

そこで、筆者は、依然、生まれながらの人間のように振る舞い、神の偉大さ、完全さに注目するのではなく、自分自身の限界、不完全さに注目して、色々と嘆き、不満を述べ、無理だとつぶやいていた。だが、そうした嘆きや不満が、実は、神との一体性を何よりも損ない、筆者を神から遠ざける要因となっており、神はそのようなすべての隔てとなる要因を何よりも非常な怒りを持って憎まれ、筆者の心を神から遠ざけるすべてのものに対して、妬みの炎を燃やされる、ということが分かったのである。
 
聖書における神の妬みとは、要するに、神ご自身と、信じる者とを隔てるすべてもののに対する、神の尽きせぬ憎しみを表しているのである。

悪魔と暗闇の勢力は、信じる者の心を、常に神の愛から外に引き出そうと試みるが、筆者はただ真直ぐに、神だけを信頼して見つめなければならないのであって、横道に逸れてはならないのである。そうして初めて、神の完全性、栄光、威光、尊厳が筆者自身にも分け与えられる。

もしもそこから目を離し、別のものに注意を向け始めると、神ご自身との一体性は損なわれ、私たちの尊厳は曇らされ、損なわれる。神は信じる者の注意を、もう一度、ご自分に引き戻そうとされるが、神は不従順を非常に憎んでおられるため、不従順は罰を伴い、神は信じる者の注意をご自分から奪うものすべてを憎まれ、妬みの炎を燃やされる。

もしも信者が、神との一体性を損なうものを、心の中で手放さず、それを依然、心の中で抱きしめて進んで行こうとするならば、信者は、たとえそれがサタンであっても、自分が心の中で注目しているものと一体となり、やがて神は、信者をご自分から引き離した敵だけではなく、敵と言一体となったその信者自身にも、妬みを向けて、手のひらを返して、信者を憎むべき者と共に滅ぼされるだろう、ということが分かって来たのである。

正直な話、筆者には今まで、聖書における神の妬みというものが、どのような性質のものなのかが、今一つ理解が及ばなかった。妬むほどまでに愛するということの意味が、はっきりとは分からなかったのである。だが、現実に起きた出来事を通して、不従順が、あっという間に、神と信者とを隔て、その一体性を損なうものであること、また、それが、愛による一致を妨げ、死と断絶と呪いを招き、やがては信者自身が神の敵と化する原因とまでなるものであることが分かった。

神は高きにいまし、威光と尊厳を身にまとい、すべてのものを超越して、御座から支配される方であるが、私たちから決して遠くにおられるのではなく、常に私たちと共にいて、共に支配して下さり、私たちをその支配下に置いて、守って下さる。だから、私たちはその懐に安心して飛び込み、そこで安らぎ、安息すべきなのであって、愛する御子の支配から一歩たりとも、外に出るべきではないのである。

そこで、筆者は、自分自身も、神ご自身の完全性、その安息、栄光と尊厳から、筆者を遠ざけようとするすべてのものを憎み、退けねばならないことに気づいた。そうして、ただ神の愛の中だけにとどまり、それに浸され、何があっても、心をそこに留め置くよう、そこから心を逸らされることがないよう、自分を律しなければならないと分かったのである。
 
* * *

さて、控訴審では、重要な和解協議が開かれている最中であり、さらに当ブログに対して様々な権利侵害を繰り返して来た掲示板に対する法的措置も進行している。

この非常に重要な時期に、ある牧師が、またしても、色々な非難を筆者に対してしかけていることが分かった。筆者は一つ前の記事に、訴訟に関する記事はこれが最後になるかも知れないと書いたにも関わらず、筆者が訴訟に関連する記事を次々に書き始めることを恐れ、先手を打ったものと見られる。

むろん、彼の主張は嘘であるから、いくらでも具体的な反論は可能なのであるが、筆者は、以上に挙げた、筆者にとって非常に敬愛する人からの助言を受けて、反論の記事を、あえて掲載しないことに決めた。

さらに、筆者は、現在、和解協議中であるから、そこでの筆者の提案が、真実であることを示すために、ある人物に関する記事をホームページから外すことに決めた。

筆者は、その人物は、これまで教会でさまざまな仕打ちを受けたがゆえに、多くの傷を負っており、それゆえ、ブログで現在の教会のあり方に対する反対意見を表明せざるを得ない事情があったことを知っている。

とはいえ、筆者は、そうした活動が、その人の生涯に渡る主要な活動になって欲しくないのである。訴訟においては、精力的に書面を書き記すことができ、また、ブログでも旺盛に記事を書いて、ある時は日に5千人に達するほど、多くの人々の注目を集めることができ、学問の道でも、それなりに成果をおさめ、人的ネットワークを作り上げることが得意であったその人には、これ以上、無益な法廷闘争は似合わないし、そのようなものは、性格的にも合わないため、無益な心労にしかならないものと思う。

そこで、筆者は、今後、その人には筆者との無益な闘いに人生を奪われることなく、自分の持っている力を、人の役に立つ活動に割いてもらいたいと願っており、その願いが、真実であることを示すことにした。

その人物は、非常な幸運に見舞われており、かつてある牧師から提訴の予告を受けたのに、提訴されることもなく、その牧師に告訴された信徒は、相当にひどい扱いを受けたのに、彼自身は、その信徒とは、全く異なる扱いを受けている。そのことは、ただ幸運というだけではなく、やはり、その人に対する神の愛と憐れみの大きさを示しているように筆者には見受けられる。

筆者は、神が惜しみ、憐れみをかけ、愛を示しておられるものを、筆者のこの手で壊そうとは思わない。そこで、今後の歩みの妨げとなるものを残したくはないと考えており、その言葉が真実であることを示すために、約束に先駆けて、記事を修正して行くことに決めた。

これを筆者の「敗北宣言」と受け取りたい人が出て来たとしても構わない。一体、何のための訴訟だったのか。誰に勝利し、何の収穫があったのか。そう受け取りたい人たちには、そう思わせておけば良い。
 
いずれにしても、筆者が判決を通して受けた宝とは、勝訴などという言葉ではおよそ呼べないものであった。筆者は、この訴訟の判決を受けて、自分自身が見えない命を受け取って、死からよみがえらされて生かされたのであり、さらに、判決も筆者と共に、死をくぐって生かされたと考えている。

筆者はこの訴訟とその判決のおかげで、心に敬愛する人ができ、新しい人生のフィールドを見つけ、筆者が判決を手に進んだ新しい分野においても、尽きせぬ敬意と愛情を持って関われる人を見つけた。

筆者はできるなら、この訴訟を担当してくれた裁判官が、横浜の街にいるうちに、何かしら関わることができたらと思ったが、時すでに遅しであった。だが、神は、筆者の心の寂しさを知っておられ、その裁判官に代わって、新しい助言者を筆者のもとに送って下さり、その人のもとで、筆者の訴訟と判決は、命の交換を伴う「交わり」に転換したのである。

筆者は、裁判官に代わって、新たな友となった権威者から、これ以上、訴訟を提起してはならないと言外に忠告されているように感じている。神の法廷で、サタンと共に主張を争ったことは、筆者にとって極めて重要な体験であり、貴重な成果であったが、神は筆者の勇気をたたえると同時に、これからはただ神にのみ目を向けなさいと筆者に言われ、神の愛の中にとどまるよう求めておられる。

まだせねばならない訴訟の残務処理は色々と残っており、進めねばならない手続きはあるとはいえ、筆者はこの先、決して魔女狩り裁判に関わることはないし、そんな時間もないと、はっきり言っておきたい。
 
今、新たな世界が筆者の前に開けており、神と筆者との間を隔てていた隔ては、より一層、取り除かれ、愛による一致の関係が始まった。遮蔽の措置の中にいる筆者を、高みから見つめていた裁判官の眼差しは、新しい権威者・友の眼差しに置き換えられ、さらに、そこには、天から神ご自身が筆者に注がれる愛に満ちた眼差しが重なっている。

あなたの心を私に与えよ、と主は言われる。わたしの愛から引き離そうとするすべてのものから、あなたの目を離し、あなたの心をただわたしにのみ与えよと、神は言われる。

その呼びかけに応答した時、聖化に続き、栄化という、信仰の第二のステージが始まるのであり、私たちは、原告席から、法壇の高みへの招かれ、いや、地上から、御座の高みへと招かれ、主に似た者へと変えられて、主と共に統治するという「変容」が起きる。

エクソダスは完了し、箱舟から新天地へと私たちは足を下ろす。過去の残滓は、もうないか、あったとしても、ことごとく取り除かれる。そして、神が人とともに住まわれ、人と共に生きられる人生が始まる。敵はまだ存在しているものの、私たちから遠ざけられ、触れることができない。そこは、復活の領域であって、そこに神と私たちを引き離すものはもうない。


どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカによる福音書12:2-3)

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
 このゆえに、もろもろの天と、
 その中に住む者たちよ、喜べ。
 地と海とは不幸である。
 悪魔は怒りに燃えて
 お前たちのところへ降って行った。
 残された時が少ないのを知ったからである。」(黙示12:10-12)
 
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができるでしょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

わたしたちは、あなたのために
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている
 と書いてあるとおりです。

 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39)

* * *
 
去る11月12日、控訴審の和解協議のために東京高裁を訪れた。前回とは違って、二方向に大きな窓があって、大きなスクリーンやラウンドテーブルの置いてある、青空の見渡せる広々とした部屋に案内された。

東京高裁全体の陰気な雰囲気と異なり、横浜地裁を思い起こさせる、明るい、開けた部屋であった。筆者は自分が横浜へ瞬時に場所を移動して、電話会議が行われていた部屋に戻り、裁判官が来るのを待機しているような錯覚を覚えた。

待機時間はたっぷりあったので、筆者は自分も裁判所の職員の一人になったような感覚で、誰もいない部屋の中を幾度か歩いてみた。部屋の雰囲気が、解放的で、霞が関のビル群の中にいることを完全に忘れさせてくれるものだったので、筆者は目の前で起きている出来事をすべて忘れ、安堵しながら、懐かしい人々を思い出しつつ、自分の番が来るのを待った。

ラウンドテーブルの他に、立会人たちが座れるソファも置いてあるこの部屋に、大勢の人々がやって来て、和解調書に調印する光景が心に思い浮かんだ。また、ある時は、誰もいないこの部屋を、法衣を着た裁判官と書記官が慌ただしく行き来し、本を片手に研修を行ったり、セミナーなどを開いて、スクリーンを指し示しながら、何かを説明をする様子が見えて来るような気がした。

以前から書いている通り、裁判所は、筆者にとってもはや家同然であり、それ自体が大きな要塞であり、砦である。どんなに予想外の事態が持ち上がっても、最後にはその安心感へと戻って来る。

それは、筆者と裁判所との間で交わされた、秘密の約束のようなものである。その日も、夜になるまで用事があり、疲れを覚えつつ、筆者は暗い廊下のパイプ椅子に待機していたが、そのときにも、何とかして、もっと裁判所の近くに来られないか(これは決して物理的な距離のことでなく)、ここで目にする人々の喜怒哀楽のすべてに、もっと深く接近し、入り込むことはできないかと考えを巡らした。

不思議なことであった。どんなに気が滅入る慣れない不案内な手続きを進めている時でも、あるいは失望を覚えるような出来事の最中でも、筆者は心の中で、ここは家同然であるから、最も安全な場所であり、離れたくない…という感覚を覚えるようになっていたのである。

* * *

さて、被告Aは、裁判所が秘匿の措置を認めないことが分かってから、和解協議の場を最大限、自分に都合よく利用し、毎回、毎回、脅しめいた条件を提示しては、解決金の支払いを遅らせて来るようになった。

前回は、何と筆者に向かって、訴えそのものを取り下げろと要求し、命にも等しい判決を手放すよう求めた。

そして、それを阻止するために、筆者が記事の修正を申し出ると、今度は、分厚い苦情の手紙を裁判所に送りつけ、筆者が被告Aの名を出していない記事を指し示して、筆者が示談をしてもその約束が守ると思えないから、和解協議を蹴る、などと言って来たのであった。

裁判官と書記官は、被告Aを説得したとみられ、長い時間、筆者は部屋の中で待たされ、様子を見守った。

ようやく筆者の番が来て話し合いが行われたとき、裁判官はあくまで非常に落ち着いて、和解協議を成功裏に導ける確信を捨てていなかったが、書記官はいささか青ざめた表情であった。おそらく、被告Aの筆者を赦せないという思いや、筆者を提訴したいとの願望がどれほど強いものであるかを、本人の言を聞いて理解し、初めて被告Aの真の性格を理解したのではないかと思われた。

被告Aは、一見すると、権威に忠実で、他者に食ってかかったり、論争をしかけたりすることのない、穏やかな性格のように見える。電話会議でも、はっきりした発音で、静かに裁判官に返答しており、苦情を述べている時でさえ、声を荒らげて論争することはなく、その声や話し方だけに注目するならば、決して悪印象を持つことはなかった。

だが、それだからこそ、被告Aがどれほど筆者に対して深い恨みを持っており、それがもはや合理的なレベルを超えて、一生、筆者に報復しなければ気が済まないほどのレベルに達しているか、その執念の深さは、人々には分かりにくいのである。

だが、筆者は前から被告Aのことを知っているし、彼から送りつけられたメールの数々もこのブログにはまだ公開してある。その論調、話し方、要求の内容などを考えると、被告Aが控訴審で自らに有利な判決が出る見込みが薄い中でも、あくまでこの先も、筆者を提訴するなどして対決を続け、筆者を罪に問うて何とかして人生を滅ぼしたいという願いを述べ続けていることは、筆者にとっては、何ら不思議ではない。

さらに、村上密も、控訴審になってから、筆者を法廷に引きずり出したかったのに、それができなかったことの悔しさをにじませる記事をブログに投稿している。

筆者は、10年以上前から、村上密の真の願いは、カルト化を防止するという名目で、自前の異端審問所を開設し、そこで無実の一般クリスチャンを魔女狩り・見世物裁判に引きずり出して辱めることにあると指摘して来た。

筆者は2009年に、村上密がかつて提唱していた「カルト監視機構」の構想に、真っ向から異議を唱え、このような機構が設立されれば、キリスト教会には「カルト化を防止する」という口実で、密告が溢れ、やがて魔女狩り裁判が横行し、無実のキリスト教徒が異端者の濡れ衣を着せられて迫害されることになるだけで、カルト監視機構は、まるで秘密警察のように、何の権限も与えられていないのに各教会を調査するなどして、教会に対して君臨するようになるだろうと予告した。

その頃から、村上はカルト監視機構を設立しなかったが、その代わりとなる組織として、宗教トラブル相談センターを設置していた。そして、筆者がカルト監視機構に抱いた危惧は、ことごとく宗教トラブル相談センターの中で実現することとなったのである。

クリスチャンたちは、宗教トラブル相談センターに関わった信者がその後、どうなったのか、筆者の例を見て、よくよく学習しておくことだろう。

村上密は、今年、一審が終わってから、「唐沢治の陳述書」と題する4つの記事をブログに投稿した。そして、記事の中で、筆者のかつての牧師でもあった唐沢の陳述書を公開するに当たり、唐沢から全く了承を得ていないことを自ら明かした。

村上は、自分は唐沢治とは何の関係もない、提携もない、協力関係があるというのは、筆者の思い込みだ、などと嘲笑気味に記事に書き記しており、答弁書でも同じことを述べている。

だが、これは非常に恐ろしい発言である。要するに、村上密は、唐沢治の陳述書やその他の書証を、本人からの承諾も、依頼も全くないのに、勝手に独自のルートで調べ上げて、ネット上に公開したということなのだ。

さらに、村上の公表した四つの記事には、筆者が唐沢に宛てた親書メールも含まれているため、陳述書の内容もさることながら、こうした他者のメールを承諾なく公表する行為が、プライバシー権の侵害に該当することはまず間違いがない。

しかも、村上自身は、唐沢治の陳述書とその他の書証を、裁判所に出向いて自ら記録閲覧・謄写したわけでなく、それを行ったのは被告Aだけなのである。そして、村上は、誰からどのようにして陳述書と書証を入手したのか明らかにしておらず、被告Aしかこれを閲覧・謄写した人間もいない以上、被告Aが村上に情報提供したと考えるのが自然な流れである。

第一審では、被告Aとの協力関係はない、提携はない、と言って、筆者から受けた嫌疑を否定していた村上であるが、村上は、唐沢の陳述書を被告Aから入手していないとは一切発言していない。

しかも、村上がそのように入手の経路を明かさず、相談者でもない唐沢の陳述書を勝手に公開した先は、宗教トラブル相談センターの公式ブログなのである。

村上は、このブログの仕様を今日、ようやく変えて、とうに期限切れとなった10年以上前に撮影した写真をようやくトップ画面から一掃したようだが、初めは極めて陰気な背景画像にしており、それを変えた後も、依然、ブログのレイアウトは崩れたままである。筆者の見解としては、前のままの方がはるかに良い。

それはともかく、村上密は、どこから、誰から、どのように、何の権利に基づいて、唐沢治の陳述書や、その他の書証や、唐沢と筆者の交わしたメールを入手したのか、どんな正当な理由があって、これを本人の了承なく無断でブログに公開したのか、情報源も、理由も、全く明かしていない。

繰り返すが、これは非常に恐ろしいことである。宗教トラブル相談センターは、少なくとも、今までは一応、形ばかりは、誰かからの被害相談を受け、村上がその相談者の代理人となって、紛争解決のために動くという名目を保って来た。それだからこそ、被害者の救済という大義名分が保たれ、センターの活動への理解が成り立って来たのである。

しかしながら、その後、村上密は、誰の代理人にもなっていないのに、宗教トラブル相談センターを使って、自分の一存だけで、唐沢治と筆者との間で係争中の事件の記録を調べ上げ、両者の個人情報に当たる記録を、本人の了承なく公開してしまったのであり、これは明らかに両者に対する人権侵害に相当する。

村上がブログ記事に引用している書証は、非公開の保全事件の記録であり、村上は牧師としての守秘義務も負っている以上、勝手に信者の身辺調査を行い、その情報を本人の了承なくネットに投稿したりすれば、当然ながら、罪に問われる。また、唐沢の陳述書には多くの嘘の記述もあるため、それを一方的に鵜呑みにして引用する行為も、筆者に対する名誉毀損行為になり得る。

村上は、答弁書の中で筆者の名前も無断で公表した事実を認めているため、こうした事実はすべて、筆者が主張すれば、筆者に対する不法行為として認定される可能性の極めて高いものである。

こうして、宗教トラブル相談センターは、まるで戦前の特高などの秘密警察のごとく、正当な理由もないのに、ただ自分たちの活動に批判的な信者をターゲットとして、秘密裏に身辺調査を行い、信者に制裁を加えるために、信者本人にとって望ましくない、あるいは不利となりそうな個人情報を集めては、ネット上に次々と曝し始めたのである。

その上、その信者を一方的に刑事告訴までし、提訴したいという願望をも言い表しているのだから、これは筆者が前々から予告して来た通り、宗教トラブル相談センターが、魔女狩り的な異端審問に走ったことの何よりの証左である。

村上密のブログ記事からは、筆者が控訴審に出席しなかったことを不満に思い、自分が提訴されたことが許せないから、その報復に、何とかして筆者を公開裁判に引きずり出したいという思惑が透けて見えるし、さらに、村上は、牧師であるにも関わらず、相談者であり信徒でもあった筆者を右京署に刑事告訴したと、はっきりと答弁書で主張している。

筆者は神社に油を蒔いたこともなければ、カルト宗教に入信したこともなく、村上に対しては危害を加えたことも一度もないし、控訴審さえまだ開かれている途中で、民事訴訟の終結もまだである。それにも関わらず、一審判決では不法行為に問われなかったのを良いことに、それだけでは満足せず、むしろ、それを皮切りに、筆者に対する人権侵害を堂々と開始し、さらに筆者のとことん人生を破滅させなければ気が済まないという執念を持って、筆者を告訴したというのである。

筆者は10年以上前に村上のもとへ相談に赴き、解決も得られず、失意のうちに村上の教会を離れ、その後も、何か月間も村上の教会で受けた心無い言葉に泣き暮らしつつ、それでも自分を責めていた頃のことをよく覚えている。その上、この仕打ちであるから、一体、こんなセンターが、カルトを防止するための何の役に立つというのか。それ以前から、村上の義理の父が牧会する教会で、何が起きたかもすべて公開している通りである。

この人々は、ただカルトを防止することを名目に、無実の一般信徒を標的にして、中世の魔女狩り裁判、クリスチャンの迫害を再現しようとしているだけのことである。

筆者は2009年からそのように予測して来たのであり、それだからこそ、このような活動に従事する人たちは、いつか必ず、筆者を見世物裁判に引きずり出して辱めたいという願望を赤裸々に表明する時が来るだろうと、ずっと考え続け、また、その通り主張して来た。

実際にこれまで、幾度となく、筆者を提訴・告訴したいという台詞を、筆者は被告A・村上密の双方から聞かされて来たので、正直なところ、それこそが、彼らの悲願だと初めから思っている筆者は、今、再び同じ台詞を聞いても、驚きはしない。

そこで、被告Aが和解協議の場においても、改めて裁判官の勧める和解案を蹴って、自分に敗訴判決が下されることも覚悟で、その後、筆者を提訴したいとの願望を言い表し、村上も準備書面に全く同じ内容を書き記して、こうして二人ともが、声をそろえて、生きている限り、筆者を赦すつもりはなく、何とかして報復として筆者を被告として裁判に引きずり出し、刑罰を受けさせることが人生の悲願であると主張しても、筆者は別に驚かない。

だが、一般の人々は、それを聞いて青ざめるだろう。答弁書や準備書面に書いていることは、あくまで法廷闘争のための文字上の主張であって、現実には、それとは違ったもっと柔軟な行動を取る人々は数多くいるし、そうなるものと人々は考えている。村上も被告Aも準備書面では色々言うであろうが、それはあくまで法廷闘争のテクニックであって、本気ではないと人々は考えたい。だが、実はそうではないと分かると、人々は衝撃を受ける。

筆者が2009年に、村上密が秘密警察を作ろうとしている、魔女狩り裁判をしようとしている、と述べたとき、その言葉を、あまりに大袈裟な誇張だと思って一笑に付した人は少なくなかったろう。ところが、実際にその通りの願望が彼らの口から発せられ、彼らがその通りの行動を取り、信者の身辺調査を行ってそれを無断で公開したり、信者を刑事告訴したり、提訴して法廷に引きずり出そうとし、それを表向きには協力関係にないはずの人間が傍聴しようとしたり、協力関係にないはずの人間が裁判所で閲覧・謄写した記録が、村上のブログから公開されたり、その人間が、和解協議の場で脅しめいた要求を突きつけ、これを相手を震え上がらせるための場として利用し、紛争を可能な限り長引かせることで、生涯に渡って相手を苦しめ続け、報復を果たしたいという欲望を言い表しているのを見たとき、人々はその度を超えた残酷さと復讐心に色を失い、恐れをなして逃げ出すに違いない。

宗教トラブル相談センターにはそもそも何人の協力者がいて、どのような方法で情報を集め、いかなる法的根拠に基づき、収集した個人情報を管理しているのか、最低限度のガイドラインさえ、全く公開されていない。

村上は、ブログには勝手に筆者の個人情報を掲載し、自分に関わりのない紛争に、代理人でも相談役でもないのに、何の資格も権限もなく介入し、他者のプライバシーを暴いておきながら、自分は被害者だと自称して、告訴まで遂げたというのであるから、筆者には実に呆れる話である。
なお、村上密は、第一審の最中、被告Aが20本以上の記事を書いて筆者を中傷していた時にも、一切、被告Aをいさめず、むしろ、被告Aと一緒になって筆者に反訴を予告し、しかも、反訴を実行しなかった経緯があるので、筆者はそうした村上の行動を通して、いかに彼が残酷で容赦のない人間であるかを見ることができた。

さらに、村上は、第一審において、筆者が削除を要求した記事を自ら削除すると途中まで約束していたにも関わらず、前言を翻したのであり、筆者の村上に対する反論が手薄になったのも、村上が自ら記事を削除すると約束していたことを、筆者が審理の途中までは信じてしまっていたせいでもある。

牧師として公の場で約束したことを簡単に翻す、これだけでも、非常に信頼を損なう行為である。しかも、村上が筆者にしたことと、被告Aが筆者にしたことは同条件ではなかったのに、村上は、被告Aと一緒になって、筆者が両者に対して一切の賠償なしで和解するよう要求し、その条件に筆者が応じない限り、筆者に反訴すると予告し、これを実行しなかったのである。

そして、今また被告Aが、賠償金を支払わないまま、控訴審の和解協議の場で、前々回は、筆者に対して訴えを取り下げろと要求し、前回は、和解協議を一方的に蹴ると通告し、協議をいたずらに引きのばし、筆者を苦しめ、目の前でひざまずかせるための要求だけをひたすら突きつけている。

第一審が終わったのが3月、それから今までもはや半年以上が過ぎた。被告Aはこの間、自分からは賠償金を一銭も支払わず、筆者の取立行為を「恐喝」と呼んで非難し、筆者が取立を続けるなら刑事告訴すると息巻き、通話が成立もしていないのに、恐喝の電話を受けたなどと「被害」を主張し、筆者が郵便物を送ってもいない人々に、郵便物を送りつけたと主張、今もただいたずらに紛争を長引かせるためだけに、和解協議を続け、要求の内容も、エスカレートしている。

最初は、筆者の口座番号が分からないから金を払えない、と自己正当化をはかっていたが、控訴審の席上で払うことを提案されても、まだ理由をつけて支払わず、口を開けば、訴えを取り下げろとか、筆者を提訴・告訴してやりたいと、脅しめいた要求ばかりである。

このようなものが、和解を目的にする協議とはとても思えないのであり、筆者は勤務も休んで協議に出席しているため、こうした損害も、別訴の提起があったときには、損害賠償請求の対象となり得るものと考えている。

さらに、被告Aは書面の中で、筆者が告訴したこともない人物の名を複数名挙げて、彼らを筆者が告訴したと断言したり、明らかに誤った、事実に反する告訴罪名で、筆者が被告Aを虚偽提訴したなどと主張して、筆者を非難しているため、これらはあまりにも行き過ぎた事実無根の主張として、訴訟における名誉毀損を構成する可能性が十分にあると筆者は考えている。

被告Aは、この先、和解協議を蹴っても、それで彼にとって色の良い判決が出ることはまずないであろうと予測されるし、それどころか、それによって、彼は刑事事件でも、温情を受ける余地を徹底的に失ってしまうことになるにも関わらず、それでも、未だ筆者を提訴したいと述べ続け、判決に従うことを拒み、先延ばしにしている様子には、合理性が全く感じられず、筆者をとことん追い詰めて人生を破滅させたいという尽きせぬ執念以外には感じるものもない。

筆者は今回、裁判官の勧めも考慮して、被告Aに対する最大限の譲歩を示し、被告Aの個人情報をすべてブログ記事から削除し、被告Aのブログ名や、個人情報に当たらない記述もすべて削除することに同意して良いとまで提案した。

従って、この提案を受ければ、これまで被告Aが要求して来たことは、ほぼかなえられる上、別訴を提起する権利も、被告Aから取り上げられない。それにも関わらず、筆者自身の提案であるその約束を、信用できないとして拒み、たった一つの個人情報さえ本当に削除できるかどうか分からない不毛な訴訟を今後、提起して、筆者にリベンジする願望が捨てられないから判決を求めるなどと主張することには、報復目的以外に見いだせるものはないのであって、そのような態度で示談を拒んで判決に進んでも、その結果、今後の訴訟の展開が、被告Aにとって有利となることはないであろうと筆者は確信する。

そんな風に、合理的な理由もなく、判決を軽んじ、裁判官の勧告をも、相手方の譲歩をも、一切、かえりみず、いたずらに和解協議を長引かせた結果、これを蹴るという態度を取る人のために、今後、真面目に審理を進めてくれる裁判所が、この世に一つでもあるとは、筆者は思わない。

しかも、被告Aは当初、自分から解決金を支払うと述べたのであり、筆者がブログ記事を修正するなら、多少、解決金を上乗せすることができるかも知れないとまで提案していたらしい。なのに、その言葉を途中ですべて翻し、筆者に対する脅しめいた不満を並べ続けた挙句、ついに自ら協議を蹴ったとなれば、彼の言う和解協議とは、ただ相手にいたずらに期待を持たせ、いつまでも苦しめ続けるための機会でしかなかったこととなる。

裁判所は、そもそも報復目的以外に必然性のない無駄な提訴によって、余計な仕事を増やされることを非常に嫌っている上、判決では、筆者にはブログ記事を修正せねばならない義務は全く課されておらず、和解協議はすでに複数回、開かれているため、この間に示談締結をしておけば、筆者はもはや被告Aに対する記事を書けない状況になっていたのである。しかし、それをあえて先延ばしにしているのは、被告A自身であり、それゆえ、現時点でも、筆者は被告Aのことを記事に書いてはならないという義務を全く負っておらず、なおかつ、被告Aは、筆者がブログ記事を修正するために時間が必要であることを分かりつつ、どんどんその時間がなくなるように仕向けているので、このままだと修正さえも不可能となり、期限が延ばされない限り、その条項を外す以外には方策がなくなる。

通常、和解協議の席で、相手を提訴したいという願望など述べる者はまずいないから、今回のことは、裁判所にとっても、一つの教訓となるのではないかと筆者は思っている。さすがに今までは被告Aの言い分にも少しは理があると考え、彼をなだめようとしていた人々も、次第に、被告Aの目指している目的が、決して合理的な解決ではなく、ただ筆者を永遠に苦しめ続けることにあると気づき始め、それゆえ、彼の望みを助けることから手を引き始めたのではないかと感じられる。

そのようなわけで、筆者は示談が結ばれて、互いに個人情報を書かないという約束が成立したならば、それを機に、訴訟に関する記事を書くこともやめ、記事を修正するという約束が結ばれれば、この記事も含め、その約束を忠実に果たす用意はあるが、未だ掲示板での筆者に対する誹謗中傷その他の権利侵害が今も止まらない様子を見るにつけても、個人情報をブログに書くことをやめられないのは、筆者ではなく、「彼ら」自身ではないかと思われてならない。

示談の締結を引き延ばしているのは、それを締結してしまうと、もはや筆者の個人情報を弄び、これを無断で好き勝手に投稿・公開できなくなることに躊躇しているからではないのか。

筆者から見ると、被告Aや村上本人も、彼らの支持者たちも、他人の秘密を調べ上げ、個人情報を暴露したくてたまらない願望を持っているように見える。その抑えきれない欲望を、示談書の締結によって終わらせることができないからこそ、被告A本人も、何かと理由をつけてはその締結を先延ばしにしているのではないのかと思われてならないのだ。

もしもこの予測が的中しているとすれば、今回の協議の落としどころは、被告A自身が最初に約束した通り、ただ賠償を支払って終わりとするにとどまるのであって、それ以上でもそれ以下でもないことになろう。

その最低限度の事項すらも拒めば、今まで以上に厳しいものになると思われる判決が、彼を待ち受けているだけであり、その先には、もう一度、法廷に被告として呼び出される運命が待っているだけである。筆者は、判決が出たとしても、全く恐れはしない。なぜなら、筆者の側からの反撃の材料はすでに多く集まっており、おそらく、判決とほぼ同時に、筆者自身が、村上・被告Aに対して別訴を提起するという運びになるだけだからである。

控訴審では、原審の枠組みから出られないので、以上のような主張を全く提起できなかっただけで、別訴ではそれが可能となる。一審では自由に主張を追加できるからだ。被告Aも村上も、未だ筆者を提訴したいと息巻いている以上、筆者が十分な反訴の材料を蓄えておくのも当然である。

ちなみに、筆者は裁判を提起する前に警察に行って色々と調べてもらうことにしている。警察の判断は、裁判所の判断とそれほど大きく違わないと見えるため、警察が事件を受理するかどうか、どのような罪名で受理するか、といった点は、今後、反訴や別訴を提起したとき、どのような判決が得られるかを予測する大きな参考材料となる。

だから、筆者もこれまでの教訓に学び、勝ち目のない主張で訴訟の提起は行うつもりもないのであって、提訴するとなれば、ほぼ確実に不法行為が認定される証拠のある話に限られることであろう。

* * *

とはいえ、矛盾するようだが、筆者の真の願いは、今後、別訴を提起することにはなく、むしろ、この訴訟の判決を書いてくれた原審の裁判官の判決によって、この紛争を終わらせることにある。

筆者が誰に判決を委ねるかは、筆者自身の個人的な願望によっても決まることであり、筆者は、第一審判決を書いてくれた裁判官が、筆者にとって、筆者のために最終的な確定判決を書いてくれた最初で最後の裁判官となることを願っている。

たとえその判決が、筆者にとって完全な勝利でなくとも、筆者は構わない気持ちでいる。

また、村上が唐沢の陳述書を無断で公開したことも含め、ネット上では、筆者と唐沢治を何とかして訴訟対決させたいと考えて、陰から紛争を煽り、唐沢の個人情報までも、次々と本人の了承なく公開している者たちがいるが、そうした連中を喜ばせても意味がないため、筆者は、唐沢に対する訴訟それ自体を再考することとした。

唐沢はたった一つしか筆者に対する記事を書いていないし、それも「ヴィオロン」に対するものにとどまっている(組み合わせによって著作者人格権の侵害が成立しうることは措いておく)。

筆者は、唐沢の個人情報を無断で公表したことなどないし、当ブログとホームページ以外の場所に投稿をしたこともない。

そこで、出回っている陳述書と書証のコピーを見るときには、よく注意されたい。

当事者が裁判所から送達を受けた書証には、事件簿を綴るための黒紐が写っていない。だが、当事者でない者が、記録を閲覧・謄写し、勝手に公開した書証には、裁判所の事件簿の紐までが写っている。裁判所で記録をコピーする際には、紐を緩めることができるだけで、外すことができないからだ。だから、紐が写っている記録は、当事者に送達された記録ではなく、何者かが裁判所で事件簿を閲覧・謄写した記録であると見て良い。

ちなみに、裁判所で唐沢治の陳述書と書証の閲覧・謄写を行った人間は、何度も言うように、本年10月28日時点になっても、被告A一人しかいないのである。

このようなわけで、筆者の個人情報の漏洩、また、筆者の事件に関わった人々の個人情報の漏洩には、あらゆるところで、被告Aの影がちらついているのであり、そうした状況で、被告Aが個人情報を収集・開示しないという条件の示談の成立に乗り気でない理由は、考えれば誰にでも分かるのではないだろうかと思う。

この状況で、筆者は、様々な点で意見が対立したままの唐沢に対しても、かつては兄弟姉妹と呼び合っていた仲として、対応を考え直すこととした。

不思議なことに、唐沢は、筆者が彼を信頼して書き送っていた頃の最も意義深いメールを、一つも裁判所に提出していない。

唐沢が裁判所に提出したのは、最も無価値かつ無用な内容のないメールでしかなく、それ以外に、筆者が当時、率直に彼を信頼して色々と相談したり、書き送っていたメールがあるはずだが、唐沢はそれらを悪事の記録であるかのごとく裁判所に提出することを控えた。

この点は、唐沢を見直す点である。それは彼自身が、自分が信頼されていた頃に送られた手紙の内容を、自ら衆目にさらすことで、否定し、穢すには忍びないと考え、公開しなかったからである。

このように、唐沢と筆者とのメールのやり取りには多くの「聖域」が保たれたままであり、唐沢自身が裁判所に提出したのは、被告Aに関わる部分だけである。そして、村上が、T第1号証から6号証までの書証を入手したとしながらも、被告Aが筆者の個人情報を無断で公開すると予告するために筆者に送りつけた脅しのようなメールを、唐沢が転送メールとして提出したT第2号証、T第3号証の記録には、言及すらもしていないことも、注目に値する。

このように、唐沢も信徒を告訴した過去があるとはいえ、村上密とは性格が全く異なるのであって、村上がこの度、誰の代理人でもないのに、自分に無関係な牧師や信徒の身辺調査を行って、唐沢治の陳述書を本人の了承もないのに公開し、無関係な他者の争いの火をつけようとした行為については、明らかに、筆者だけでなく、唐沢も被害者なのである。

これは、明らかに、村上が牧師としての一線を超えたものであり、十字架の装甲から外に出た行為だと筆者は考えている。

これまでにも書いたように、もともと村上がこれまで使って来た「代理人」とか「相談役」などという呼び名は、村上が巧妙に他者の悩みに寄り添うように見せながら、他者の意思を絡め取って行き、クリスチャン同士の対立が修復不可能になって教会が分裂するよう、兄弟同士を争わせ、紛争の傷口を押し広げるための口実に過ぎなかったものと筆者は見ている。

鳴尾教会の伝道師夫妻と津村牧師との対立、鳴尾教会の離脱反対派の信者の裁判、Y牧師とT牧師との紛争など、村上が関わって来た紛争は、一つ一つを振り返ると、どれもこれも、紛争当事者が憎み合い、ほとんど永久的に和解不可能となったものばかりである。カルト被害を受けた信者の裁判でも、犯人が逃亡したりして和解が成立しなかったケースもあり、平和裏に紛争が解決したと言えるようなものは、ほとんど見当たらない。

このようなことでは、村上の仲裁者としての力量が根本的に問われるだけであって、ただでさえ「代理人」などの法的な位置づけがよく分からない名称を勝手に名乗って、紛争を激化させてきた村上が、この度、「代理人」という最後の仮面さえもかなぐり捨てて、自分の本音をむきだしにして、ただ筆者を追い詰めるためだけに、自分には無関係の事件記録を不明な方法で調べ上げ、筆者のみならず、筆者に関わる人々(兄弟姉妹)の個人情報にまで手を出し始めたことには、空恐ろしさを感じるのみである。

村上はそうまでして、かつて仲の良い兄弟姉妹のように見えたクリスチャン同士を、何としても引き裂き、分裂させ、さらに法廷でまで対決させて、兄弟同士の罵り合いを世間の見世物にしたいとの願望を捨てきれないのだろうか。そうまでして、教会を分裂に導き、兄弟姉妹を憎み合わせたいのか。

だが、筆者はその作戦には乗らない。そのようなわけで、村上の件では、唐沢も紛れもなく被害者なのであって、それが分かるだけに、筆者は唐沢に対する訴訟は見合わせ、すでに措置を講じた他の方法で紛争解決を目指すこととした。

筆者が目指すのは、法廷闘争ではなく、判決でもなく、あくまで個人の意思を重視した和解である。そのことが、裁判所に関われば関わるほど、ますますよく理解できるようになった。だからこそ、筆者は、このブログを巡る訴訟の第一審判決が、筆者の人生で、最初で最後の確定判決となることを願っているのである。

一審判決では、筆者の村上に対する勝利はない。とはいえ、村上は一応、筆者の牧師であった時期もあるわけだから、筆者はそれでも構わないのである。すでに書いた通り、別訴を提起すれば、村上を不法行為に問える可能性は十分にある。だが、信徒と牧師が法廷で対決する必要はないのであって、責任の追及の方法は、民事訴訟以外にも存在する。前から述べている通り、村上の犯した罪を裁かれるのは、誰よりも神ご自身なのである。

結論に戻るが、こうして、カルト化したキリスト教会による人権侵害を許さない、と一方では言いながら、他方では、ただ自分たちの活動が批判されたというだけで、人権侵害を犯してまで報復行為を続け、魔女狩り裁判に及ぶ宗教トラブル相談センターを、皆さんどう思われるだろうか。

特に、誰からの相談も依頼もないのに、信者の身辺調査を行って個人情報を無断で公開するようなセンターを、皆さんどう思われるだろうか。

筆者は、村上の告訴状を入手した暁には、これを全文公開したいと思っている。牧師が信徒を刑事告訴した際の告訴状が公開されたことなど、これまで一度もないから、これは世界初の現代社会の魔女狩り裁判の貴重な事例となって残ることであろう。むろん、そこにどんな虚偽が含まれているかも、明らかになる。

それに先立ち、筆者が結論として言えることは、どんなにひどいカルト化した教会でも、牧師は信徒を告訴しないし、10年以上に渡って、個人情報を無断で公開して信者への弾劾を続けることもないので、このような恐るべきセンターに比べれば、カルト化教会ははるかにましな場所だということである。

だから、些細なトラブルをきっかけに、このセンターに足を向け、自己の正義を貫き通して戦い続ける道を選ぶよりは、受けた被害のことで、自分にも神の御前に罪があったのではないかと、真摯に悔い改めることを勧めるのみである。

* * *

終わりに、以上は、訴訟シリーズの総まとめとして書いたものであり、このシリーズの再開とはいえ、最後の記事になるかも知れない。

というのは、筆者は最近、とても忙しく、魔女狩り裁判にも興味はないし、無意味な訴訟にこれ以上の時間を割いている暇はなく、宗教論争をしている暇もないのが現状だからである。

特に、筆者は最近になって、いかなる状況でも信頼し、助け合うことのできる人物に出会い、自分の正義を投げ捨てて、人々と協力して生きることの価値を知った。

そして、理不尽な出来事が起きても、権威に忠実であることの意味を知らされ、自分の上に立てられた指導者に服して生きる道を選んでいる。今や宗教団体にも一切関わっておらず、宗教紛争などに巻き込まれるのも御免と考えている。

そこで、カルト被害を防止したいがゆえに、裁判をやりたいという人がいるなら、好きにすれば良いことであり、それに対してとやかく言うつもりもない。

この先、掲示板の権利侵害を追及するためには、訴訟における言語の壁を超える必要があり、申立書の英訳なども必要になると言われており、それも、やろうと思えばできるだろうと疑わないが、正直に言って、今、筆者の最もやりたいこと、やるべきことが、それだとは思えないものがある。

最後に和解協議のために裁判所を訪れてから、筆者の心にひたすら湧き起こるのは、裁判所のもっとそば近くで生きる方法はないか、さらにもっと裁判所の近くに筆者の生きるフィールドを定められないかという願いだけである。

だが、それは決して、法廷闘争を糧に生きたいという願いではないのだ。ただ、真に人々の痛み苦しみを引き受け、これを適切に解決することを、日々自らの責務としている裁判所の仕事と似たような仕事をしながら、筆者は自分の残りの生涯を、紛争処理に携わって生きたいという願いを、改めて確認するのみである。

筆者は、裁判所で起きる出来事に煩わされたり、失望を覚えることがないとは言わないが、それでも、裁判官一人一人が、こじれた紛争を丁寧に解きほぐしながら、感情に流されることなく、これを穏やかな解決に導こうとしている努力と手腕には、いつも敬服している。そこには、やはり、仲裁者としての確かな力量、そして、それができるだけの人間的な度量と経験の蓄積があると思っているし、それを女房役として助けている書記官たちのきめ細やかな配慮と、裁判官との見事な連係プレーにも感心させられている。

裁判所はそれ自体、筆者にとって非常に近しい、身内のような存在であって、そこで、どんなに困難な事件が取り扱われていても、それによって、筆者が裁判所全体に感じている畏敬の念や、親近感が取り去られることは今後も決してないと思う。

判決によって、筆者は裁判所に結ばれたのだが、筆者は、裁判所とのさらなる一致を目指しているのであって、それは法廷闘争を通して達成されるものでもなければ、目に見える建物としての裁判所との一致でもない。ただ筆者の心の中にある「干潟」としての裁判所との、心の完全な一致なのである。

その目的のために、必要な時間を考えると、無意味な係争のために割いている暇などほとんど残りはしない。だから、色々と書いてはいるが、結局のところ、筆者は、今後、すべての裁判手続きから遠ざかりたいという思いを述べているに過ぎない。それは訴訟の提起を恐れているためではなく、たとえ勝てると思う訴訟があっても、これ以上の判決をもらいたいという願いが積極的に湧いて来ないからだ。

これからは特に、紛争当事者としてではない立場から、改めて裁判所の門をくぐる方法を模索することになろう。その前進のために必要であると判断し、あえて今回の記事を書いたが、これも、紛争を激化させるために書いたものではなく、魔女狩り裁判のような執念とは、関係のないところで生きたいという筆者の意見表明に過ぎない。

今回、明確な収穫があるとすれば、それは何となくではあるが、筆者なりに、この紛争の「落とし所」がどこにあるか、分かったような気がしたことである。今後、筆者の気が変わらないとの保証はないが、唐沢も村上の被害者であることを考慮し、唐沢への訴訟は見合わせることとし、村上には勝訴を確定判決として贈っておき、被告Aには個人情報を書かないという約束を抜きに、筆者を提訴・告訴する可能性をあえて残したまま、示談するという選択肢も悪くない。

そして、第一審判決の内容は、永久に人の目から隠され、訴訟記録も隠されたまま、筆者は魔女狩り裁判には永久的にさようならを告げることになる。

被告Aに対するブログ記事の削除は実現しないかも知れないが、当分の間、筆者に対する記事もそのままになる。筆者は、今後、筆者に対する告訴や、提訴が成立すると全く思わないが、そういうことをあえてやりたいと思う人が、筆者を提訴してやりたいとの願望を何が何でも表明したいというなら、それを止めるつもりもない。書きたい人は、自ら法的責任を負う覚悟で、書けば良いことである。

筆者に言えるのは、どんな中傷を浴びせられようとも、筆者は自分の信じるところに従って進んでいくのみであり、その目的のためならば、自分の命を惜しまないことだ。その覚悟は、信仰の交わりにおいても、それ以外のフィールドにおいても、全く同じである。

今は昔となったが、かつて苦難の日々の最中、ただ御言葉だけを頼りに、か細い御霊の声を聞き、何とかしてすべての地上の重荷を脱するために、正しい信仰を求めて、夜行バスで11時間以上もかけて横浜にたどり着き、その後、唐沢の車で、さらに5時間以上かけて、福島の兄弟のもとへ送り届けられたときを思い出す。当時と、筆者の覚悟と決意は今も何ら変わらない。

神の御心を真に満足させる正しい目的のためならば、そして、筆者自身が真実な価値を見つけるためならば、筆者はどれほどの距離をも、代償をも乗り越えて、探求を続けても構わないと、その当時も願ったし、今も願っている。

当時、筆者が夜行バスの中にいる間に、地震が起き、バスは渋滞に加えて、さらに到着が遅れ、携帯電話も持っていなかった筆者は、兄弟たちにいつ到着するのか、連絡さえ取れず、車中で不安な時を過ごした。福島の兄弟は、唐沢に向かって、筆者を置いていけと指示したらしいが、唐沢は待った。彼にはそうしたところで、妙に義理堅く人情に篤いところがあった・・・。

そうした連携プレーのおかげで、筆者はその頃、初めて、信仰によって生きて働く御言葉の意味を知ったのであり、その経験を後悔することは決してないが、それが終着点でもなかったことが分かる。筆者は過去を否定しているわけでなく、過去を乗り越えて、自分の代価を払いつつ、前に向かって進んでいるだけであり、今後も、代価を払うことなしに、筆者の信仰に真実に応えて下さる神の御業を生きて知ることはないと思っている。

だから、その過程で、誰かから提訴されたり、告訴されたり、反訴されたりすることが、どうしても必要だというならば、それを拒むつもりは筆者には全くない。筆者の目指すところは、「私ではなくキリスト」であるから、自分の栄光、自分の身の安全、自分の個人的幸福が、筆者の守りたいすべてではないのである。

とはいえ、筆者の見立てによると、おそらく、筆者は、法廷闘争には向かないタイプであり、それが筆者の生きるフィールドでもなく、魔女狩り裁判に引き出されることが、筆者の運命でもないから、冒頭に挙げた御言葉に照らし合わせても、そういうことは起きないであろうと言っておきたい。すでになされた告訴に対しては、筆者の側からの幾重にも渡る告訴が、これを相殺する手段になるだろうと前々から述べている。

ただ、法廷闘争はともかく、この度、筆者が裁判所と出会ったことだけは、非常に運命的な出会いであり、絆であったと言える。これは筆者の人生の宝であり、判決を通して成就したこの不思議な「干潟」と筆者との「結合」、「一致」は、これからも、おそらく生涯に渡り、続いて行くはずである。

筆者は、判決を通して、裁判所の仕事に結び合わされたのであり、今や裁判所の飛び地のような「家」もでき、そこで筆者の「帰宅」を待っている人たちも現れた。離れから母屋に行くときが、この先も、あるかも知れないし、ないかも知れないが、筆者がどこにいようと、母屋はいつも筆者の心の中にあって、どんなに遠く、顔を合わせることがなくとも、そこに暮らしている「家族」は、筆者といつもつながっている・・・。

このようにして、筆者には新たな「家族」が出来たのであり、裁判所それ自体が筆者の「家」である以上、筆者はこの先、わざわざ訴訟を起こしたり、訴訟を提起されることによって、裁判所の中に入れてもらおうと門戸を叩く必要もないのである。

干潟は今や筆者と一つになり、筆者の心の内側から、命の水が流れ出すようになった。筆者はその水を求めて門戸を叩く側に立っているのでなく、かえってその生ける水を人々に分与して、慰めを与える立場になっている。魔女狩り裁判に関わっている暇はもうない。今後は新たな使命を全うして行くために、残りの時間を費やすだけである。


主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします。

「わたしを刻みつけてください。
 あなたの心に、印章として
 あなたの腕に、印章として。

 愛は死のように強く
 熱情は陰府のように酷い。
 火花を散らして燃える炎。
 大水も愛を消すことはできない
 洪水もそれを押し流すことはできない。
 愛を支配しようと
 財宝などを差し出す人があれば
 その人は必ずさげすまれる。」(雅歌8:6-7)

キリストの復活の命は、無から有を生み出すことのできる命であり、この世の経済も、人間関係も、仕事も、すべてを支配し、キリスト者にいつでも必要な助けを供給することができる。

とはいえ、それらはあくまで私たちの精神的生長にふさわしいレベルにおいて、一歩一歩、実現する。私たちが主の死と復活の命を知ったからとて、いきなり一足飛びに億万長者になるとか、桁違いの賢人に引き上げられるというわけではない。

私たちの無力に見える人間的な要素の只中に、キリストが働いて下さり、すべての必要を満たすに十分な不思議な秩序が生まれるのである。

良い人間関係を得るには、キリスト者の人格的生長が必要である。たとえば、本人が無知である間は、周りにも、無知な人々が取り巻くであろうし、心の生長と共に、価値ある尊い人々との出会いが生まれて来る。

今、十年来、筆者の周りで続いて来た混乱に満ちた紛争が、終わりを告げようとしている。筆者の周りには、どんなことが起きても、筆者を決して見捨てず、裏切らず、そして、筆者の言い分の正しさを信じて、筆者の心の求めに応答してくれる人々が現れ始めたためだ。それは敵が長い間、蒔き続けて来た、分裂や、疑心暗鬼といった作戦が、ついに功を奏しなくなって、打ち破られたことを意味する。

しかし、そのように信頼できる人々が現れたのも、筆者自身が、彼らを命がけで愛し、従い抜こうと決意したことの結果であって、筆者が全く心を開かないのに、人々の側だけで、心を開いてくれたり、筆者を信じてくれることはない。

ある意味で、自分が人に与えたものだけが、自分に戻って来ているのだと言うこともできよう。
 
ところで、人に対して心を開くことは、裏切られたり、誤解されたり、離反されたり、不意の別れに至るリスクをも負うことを意味するから、容易なことではない。何より正直であらねばならないため、常に自分の心を試される。もちろん、信頼できる相手を見抜くための十分な知識と経験も必要となることは確かだが、人間関係に初めから100%の保障などというものがあるはずもない。

私たちは、常に様々な試練によって翻弄され、試されながら、自分で望んでいる関わりを、自分で作り上げて行くのである。状況や、相手の態度が、結果を決めるわけではない。物事の最終決定権を持っているのは、私たちキリスト者自身であり、私たちが心に信じ続けたことだけが確固として実現するのである。
 
2009年にキリストの十字架の死と復活の意味を知って以来、筆者は神に従う道を選びつつ、人間の指導者につき従うことを避けて来た。ところが、ここに来て、信仰者でないにも関わらず、目に見える人間としての地上の権威者に対し、神に従うのと同じように、従い抜くことの意味を教えられている。

そこには非常に不思議な、信仰者の交わりにも似た、えも言われぬ満足をもたらす関わりが存在することが分かった。
 
それは宗教団体とは関係のない、ごくごく普通の生活の中で起きていることである。

聖書はこう述べている、「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:22-24)

これは奴隷制のあった古代ローマ帝国の時代に、奴隷たちに向かって述べられた言葉であり、現代では、奴隷制度の肯定のためかと批判を受けることもあるかも知れない。確かに、奴隷制度は様々な理不尽をはらんでいたとはいえ、聖書はそうした制度の理不尽さを強調して、制度の廃止のために運動を起こすことなどを決して信者に奨励してはいなかった。

むしろ、各時代に、どんなに不合理な社会制度があっても、キリスト者は、あくまで地上において定められた主従関係や、社会の秩序を守りながら、その秩序を転覆させることなく、信仰のない主人に対しても、キリストに従うように従いなさい、その従順によって神に仕えることができる、と教えていたのである。

筆者はここしばらく、以上の御言葉の確かさを教えられている。信仰のない人々のもとで、地上の主人に従いながら、神に仕えることが、実際に可能なのだということを知らされている。

しかも、力づくで脅されて従うのではなく、生活のためにやむなく嫌々従うのでもなく、あくまで自由な意思により、真心から、主人に仕えなさいと言われているのであって、そのような関わりを打ち立てることは、実際に可能なのであり、それによって、天における報いを得ることができると知らされている。
 
それにしても、筆者の人生において実現している物事は、すべてが信仰によって呼び出されて来たものばかりである。

筆者はキリスト者の交わりに属していた頃も、新たな交わりに足を踏み入れる前には、必ずと言って良いほど、兄弟姉妹の心を得られるように、主に祈った。「主よ、あの人の心を私に与えて下さい」と、あまりに大胆かつ率直な祈りをしていたことを、しばしば兄弟姉妹にも、語ったくらいである。

それは、筆者が、見知らぬ交わりの中に出て行こうとする時、自分の生来の力を頼みとして、人々との関わりを築くことができないのを分かって、恐れを感じつつ、ただ主の御名のゆえに、自分がそこで受け入れられ、願っている交わりが実現するよう、神に求めたものであった。

そして、神は筆者がやむにやまれぬ思いから、新たな交わりに足を踏み入れる必要を覚えていることを知って下さり、必ずと言って良いほど、願いに応えて下さり、ほとんど特別と言っても良いほどに親しい交わりを与えて下さったのである。

筆者は、通過したほとんどの交わりにおいて、最も重要な部分を目撃し、必要不可欠と思われる体験を得ることができたと考えている。筆者が自らそれを手放すまでの間、その交わりは有意義であり続けた。だが、当時の筆者は、信仰の有無に関わらず、あらゆる人間関係は、暗闇の勢力によって激しく試され、その試練を乗り越えたものだけが、永遠に価値あるものとして残るのだという事実を知らなかった。

筆者が属した交わりにおいては、絶えず分裂、敵対、信頼関係を破壊するための様々な陰謀や工作がはりめぐらされた。それらすべての策略を乗り越え、信頼関係を守り抜かなければ、交わりを有効に保つことができないという事実を、筆者が知らされるまでには、相当に長い月日と、痛みに満ちた経験がなくてはならなかった。

そうした試みのすべてを耐え抜くためには、ただ現実的な策を講じるだけでは不十分であり、何より自分の心で、大切にしている人々や価値を、最後まで手放さずに、守り抜くための激しい防衛戦が必要となった。

目に見える状況に変化が起きるよりも前に、まず自分自身が、その交わりが、どれほどの疑いの中でも、神聖さを保たれ、守り抜かれることを信じ切らねばならないのである。心の戦いを突破したものだけが、現実生活において、揺るぎない価値として守り抜かれるのであって、防衛を諦めてしまった時点で、結果は確定する。

それが、とりなしの祈りの効果でもあるのだが、それには、とりなしの祈りなどという一般的な言葉では表現しきれないほどの意味がある。愛する人々を、絶対に一歩も退かないという強い覚悟と決意のもとで、敵の陣営から行われる激しい攻撃と圧迫の中から断固、守り抜く姿勢が必要となる。そうした激しい心の戦いに勝利をおさめ、自分の心のすべての恐れを自ら打ち破って、尊い価値ある交わりを保たなければならないと分かったのは、様々な試練によって、実に多くの交わりが、壊滅的なダメージを受け、破壊され、離散して、だいぶ後になってからのことであった。

私たちは、敵のあらゆる攻撃から、自分たちの交わりを信仰によって守る必要がある。そうして敵の放つ死の力によって触れられることなく、それによって滅ぼされなかったものだけが、復活の領域に移行し、揺るぎない価値として残るのである。

そのようなわけで、筆者が受けた判決文も、バプテスマを通過することを求められた。判決を放棄せよと求められたこと自体が、筆者にとって、一種の「死」を意味した。これは王妃エステルが王の前に進み出るに当たり、死を覚悟した瞬間にも似て、筆者が、価値ある宣言を守り抜くために、与えられた試練であった。

だが、こうして判決文が筆者と共に、信仰よって試されることになったのは、非常に良い契機であり、また必要不可欠な試練だったと言える。なぜなら、それによって、私たちは新たに死をかいくぐって、復活の世界に移行することができるからである。

筆者はすべての恐れに打ち勝って、これを守り抜くことができると確信している。そして、洪水のあとには、静けさと平和が訪れ、以前のような戦いはもうなくなることも。その領域に移行した時こそ、以下の御言葉を大胆に宣言できるだろう。

「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます。
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。

 主は必ず良いものをお与えになり

 わたしたちの地は実りをもたらします。
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

このような天的秩序が実現するためには、私たちが深く主の死の中にとどまることが必要であり、それだからこそ、筆者が大切にしている価値は、常にあらゆる方法で試され、信仰によって試され、死を経由して復活の領域に移行し、そこで目に見えない永遠の証印を押されなければならないのである。

判決文は、筆者にとって、初めから、死んだ文字ではなく、実に不思議な効力を及ぼして、筆者に生きた命に溢れる出会いを与えてくれるものだったのだが、それが復活の領域に移行した後では、今まで以上に、不思議な効力を持つものへと変わるだろうと思う。

それはもはや紛争当事者に対する法的宣言などという意味合いをはるかに超えて、永遠に至るまでも変わらない、神から筆者へ向けられた愛の宣言のような効果を持つものとなり、常に筆者の生きているそば近くに、この地にいつまでも約束としてとどまり、筆者のみならず、筆者の死後に至るまで、広域に渡り、影響を及ぼすだろうという気がしてならない。
 
主を畏れる人に救いは近く
栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 
それは未来に起こることでありながら、同時に現在起きていることなのであり、筆者は、信頼する人たちと共に、その宣言がもたらす洪水のような愛の只中にすでに立たされていることを感じている。その生きた宣言あればこそ、現在の人間関係も与えられたのであり、その交わりはこれから生長し、深まって行くものなのである。

判決文に限らず、すべての言葉は、筆者から見ると、実体を呼び起こすための命令である。命令としての効力を失って、抜け殻となった言葉は、もはや言葉とは呼べず、単なる死んだ文字の羅列でしかなく、筆者は、そういうものを憎んでいる。

だから、法的効力を失った判決文などというものを、筆者は考えることさえできないのであって、元来、言葉というものは、およそすべてが命を保った、実体の伴う、生きた効力を持つものでなければならず、権威ある命令でなくてはならない。

私たちキリスト者は特に、自分は神の力ある御言葉によって生かされているのであって、目に見えるすべてのものは、神の言葉によって保たれていることを信じている。その言葉とは、うわべだけの文字の羅列でなく、神が最初に天地を創造され、「光あれ」と命じられた時と同じ、真のリアリティとしての言葉である。

だから、判決文が、その効力を保つかどうかという問題は、筆者にとっては、筆者自身の生死に直結しており、それはつまり、筆者が、この先、命なるキリストご自身を知って、その御言葉によって生かされることの絶大な価値を知った後の、生きた言葉の世界にとどまるのか、それとも、キリストご自身に出会う前の、一切の希望のない、死んだ文字の世界に自ら逆戻るのか、という問題に直結している。
 
それは筆者がエクソダス前の世界に戻るのか、エクソダス後の世界にとどまるのか、という分岐点でもある。

エジプト軍は、何とかしてエクソダスを押しとどめようと、武器を手に主の民を追って来るが、私たちはすでに紅海を渡ったのであり、時計の針を逆にして、エジプトに戻って罪と死の奴隷になることはできない。

筆者は、ただ時間軸を逆にできないから、キリストを知る以前には戻れないというだけでなく、新たな出会いによって生まれた愛の関係が、あまりにも強く、死によっても断ち切れないほど強いものであるから、それに出会う前の自分に戻ることは決してできないと言う他ない。

そのことは、人がキリストに出会って、花嫁なる教会として完成するためには、「その父と母を離れ」、すなわち、自分の生まれながらの出自に死んで、新たな出会いに向かうことが必要であるという次の御言葉にも重なる。

「「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:31-32)

ウォッチマン・ニーが、このことを『キリスト者の標準』の中で巧みに表現している。人類は、キリストの十字架を知って、救われる以前には、アダム、もしくは、モーセの律法(罪と死の法則)という残酷な「夫」に結ばれて、己が罪のゆえに絶えず責め立てられ、罰せられ、奴隷として売られ、過酷な生活を送っていたが、主と共なる十字架の死によって、その悪しき天然の関係が断ち切られ、キリストを新たな主人とする「再婚」が成立し、私たちは新たな自由な生活に入ったのだと。

エクソダス前の世界は、律法の支配する世界であり、そこには、罪と死の法則だけが働き、人は絶え間なく死の恐怖に脅されて、暗闇の勢力に屈従するしかない。それは不自由と、苦痛の満ち溢れた世界である。それは生まれながらの父母、すなわち、アダム来の出自が支配する世界である。

だが、神は私たちを暗闇の支配から連れ出し、愛する御子の支配下である、エクソダス後の世界へと導かれた。私たちはそこで生まれながらの「父と母を離れ」、新たな主人であるキリストに結ばれて、命の御霊の法則の中を、自由と安息の中を生きる。

「主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:17-18)

これは花嫁のベールアウトの瞬間であると以前に述べたことがある。ただ罪と死の法則から解放されるだけでなく、神と人とが、顔と顔を合わせて相見え、「似た者同士」へ変えられる。人類にとっては、弱く、劣って、みすぼらしい生まれながらの出自に死んで、神の栄光を反映し、キリストの性質を内側から付与されて、主に似た、新しい者へと変えられて行く過程である。

これが、キリストとエクレシアとの「結婚生活」であり、その生活は、私たちにあまりにも大きな平安、安息をもたらすものであって、そこには愛に基づく自由な関係が成立しており、栄光に満ちた変容がある。

そこで、このような絶大な解放、栄化の恵みが、信じる者に約束されていることを知ってしまった後で、再び以前の世界に、すなわち、「父と母」(アダム来の出自)に戻ることは、もはや不可能である。

そのような復活の領域へ向かう過程で、判決文のみならず、筆者自身や、筆者の人間関係や、筆者の交わりも、すべて絶え間なく、十字架を通るよう、試されており、死をくぐることによって、新たな価値としてよみがえらされている。

筆者の側で必要なことは、どんなに試みられても、心の中で、固く信頼を保ち、価値ある宝を手放さずに保ち続けることである。

保ち続けるとは、絶えずエクソダスを経て、復活の領域にそれらが保たれるよう、筆者にとってかけがえのない価値であるもの、人々を、絶えず守り抜き、かくまうことである。
 
それは言葉を変えれば、愛し、信頼し続け、呼び寄せ続けることを意味する。必ずしも、愛には愛で応答があるから、誰かを愛する、というものではない。地上でどんな関わりがあろうと、応答があろうとなかろうと、その関わりを決して手放したくない、敵に渡したくないと願うならば、自分の側からの愛と信頼を、どんなことがあっても、投げ捨ててはならないのである。

私たちが信仰の領域で、手放さなかった関係だけが、永遠に至るまで残り続ける。この法則性はすべてにおいて同じである。私たちの生活も、健康も、経済も、何もかもすべてが、私たちの信仰にかかっているのであって、信仰の領域において、私たちがあらゆる試みにも関わらず、確固として守り抜いて手放さなかったもの以外は、すべて滅びゆくものとして消え去って行くことになる。
 
そのことが筆者に分かるまで、相当に長い歳月が必要であった。だが、それを学習するために、最も必要だったのは、筆者が命を投げ打ってでも、自分自身がどうなっても構わないから、自分のすべてと引き換えにしてでも、守り抜きたいと思う交わりや、人々、価値に出会うことだったかも知れない。

キリストと信じる者とが、非常に強い信仰による愛の絆によって一つに結ばれているように、その他の人々との間でも、同じような強固な愛と信頼による連帯が、生まれることが必要だったのである。

神の御言葉は、相当以前から、筆者の心に蒔かれ、筆者の内側で発芽し、霊的には一つとなっていたが、筆者は、自分一人だけでは、主の御身体なる教会を完全に構成することができず、主の御思いを表すためには、団体に編成される必要があった。

敵はそれを全力で妨害し、筆者が決して人々と連帯しないよう、分裂や、悪評や、疑心暗鬼の種を蒔き、筆者を人々から引き離そうとしたが、判決は、そうして蒔かれた不信を打ち破り、筆者を信頼へと導き、筆者と人々との間に、確固とした協力関係、連帯が成立しうることの最初の強力な証しとなった。

主の御言葉が、筆者の霊に刻みつけられ、神との関係を再生させたように、人の書いた言葉である判決も、不思議な形で、筆者の心の中に刻みつけられ、筆者の人間関係を新たに再生させたのである。

そこで筆者は、以前には、信仰のためならば、命を賭しても構わないと、絶えず告白し続けて来たが、現在は、そうした生き方が、主に対して仕えるように、人々に仕え、人々を愛し、信頼するために、自己放棄するという生き方の中に実現するようになった。

以前には、筆者は、自分には確固とした信念があると思っていたが、今はかえって、人々の方に、筆者よりも、まさった信念、あるいは、高い目的があり、権威ある言葉や、宣言を発することができる人々がいることも分かったので、そうした人々を見ると、筆者は喜んで自分の考えを投げ捨て、彼らと共に協力して進んで行くようになった。

信仰者であるかないかはもはや関係がなく、信仰がなくとも、そこに信徒の交わりに非常に近い、それと同じくらい、愛情や、配慮に満ちた、強い信頼で結ばれた関係が成立している。筆者は、彼らに信仰がなくとも、自らの信仰によって、彼らを覆い尽くし、彼らを十字架のバリケードの中に入れてしまう。

そのように自由で新しい協力関係が、気づくと始まっており、筆者はもはや一人で生きているのではなく、キリストの目に見えない御身体なる団体の一員として召されている事実を発見した。また、そこで間接と関節をつなぎ、命を流し出すための管として置かれている役目が分かってしまったので、その役目を発見しなかった以前に逆戻ることはできない。

おそらく、生ける水を流し出すための干潟の掘削作業の中で、その水の流れを押しとどめていた最後の障害を、判決はぶち抜いて取り払ったのである。

だから、今や前から書いている通り、この不思議な名のついた土地から、全国に向かって、命の水が、生ける水の川々が、奔流のように流れ出す時が来ている。それはやがて洪水のようにすべてを覆い尽くし、やがて命が死を飲み尽くしてしまうだろう。

その頃には、筆者が辿って来た苦難の痕跡など、人が思い出すこともなくなるに違いない。筆者自身は、それを覚えているが、それも慰めや励ましによって、良き思い出に変えられていることであろう。

今、巨大なパイプラインからの放水作業が、すでに始まっているのであって、この作業はもはや何人もとどめることができないほどの勢いになろうとしている。

神は人々を死に至らしめるのではなく、立ち帰って生きることを望んでおられるのであって、尊い御子の犠牲の上に、神が自由を宣告された人々を、再び死の恐怖の奴隷とすることは、誰にもできない。

神が結び合わせたものを、人が引き離すことはできない。そこで、キリストとエクレシアとが強い愛と信頼の絆で結ばれているように、エクレシアの只中にも、愛や慰めや配慮に満ちた命が駆け巡っているのであって、一人一人はそこで助け合い、支え合う関係に置かれているのであり、これらをばらばらに分解して、再び出会わなかった以前に引き戻すことはできない。
 
主の民を追って紅海を渡ろうとしたエジプト軍は溺れ死んでしまった。主の民を絶滅させようと企んだハマンは木にかけられて吊るされた。筆者に命を与えた宣言を無効化しようなどと考える人々がいれば、かえってその人々自身が、命を奪われることになる。
 
筆者には、目には見えずとも、筆者のいる干潟から、命の泉がすでに激しい流れとなって湧き出ていること、祝福に満ちた流れとなって、筆者の周囲を潤していること、やがては洪水のような流れにさえなって行くだろうことが確信できる。敵にとらわれていた人でさえ、その様子を見れば、立ち帰って、その恩恵にあずかりたいと願うことであろう。

多くの人々が、敵の策略によって分裂、離散したが、同時に、信仰によって、多くの人たちを獲得し、さらにまさった交わりを得ることができた。その交わりは、未だかつてないような深いレベルに達しており、筆者の弱ったところや、欠けたところをも、覆い尽くしてし、互いの弱さをかばい、支え合うことのできる命の交換が確かに行われていることが分かる。

だから、いつの日か、紛争などというものがかつてあったことさえ、忘れ去られる時が来よう。それよりも、こうして、団体としての体が、少しずつ組み合わさり、生ける霊の家として生長しつつあり、御座から始まる、激しく、同時に、優しく、清らかで、澄んだ、生ける命の水の流れを、ようやくこの地から、本格的に流し出す作業が始まったことが、大きな喜びである。

この見えない事業の価値を確かに知っている人は、ほとんどいないが、筆者には、非常に長期に渡る壮大な事業が確かに開始したことが分かり、それがやがて多くの人々を潤すときを待ち望むだけである。
 
「いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の満ちにとどまらず
 傲慢な者と共に座らず
 
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。

 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

 神に逆らう者はそうではない。
 彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
 神に逆らう者は裁きに堪えず
 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

 神に従う人の道を主は知っていてくださる。
 神に逆らう者の道は滅びに至る。」(詩編第1編)

あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死にそこに葬られたいのです。

「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:6-9)

「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、
そんなひどいことを強いないでください。
わたしは、あなたの行かれる所に行き
お泊りになる所に泊まります。
あなたの民はわたしの民
あなたの神はわたしの神。
あなたの亡くなる所でわたしも死に
そこに葬られたいのです。
死んでお別れするならともかく、
そのほかのことで
あなたを離れるようなことをしたなら、
主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」(ルツ1:16-17)

* * *

先日の和解協議において、被告Aは訴えを取り下げろ、さもなくば和解しない、という条件を提示して来た。

一つ前の協議において、被告Aは双方からの控訴の取り下げを和解の条件としていたにも関わらず、その要求をさらに拡大して、原審において、ちょうど被告Bと息を合わせて筆者に反訴を予告したときと同じように、筆者が訴えそのものを取り下げなければ、和解協議を決裂させるぞと言って、自らにとって不利な判決を撤回させようとして来たのである。
  
それに伴い、彼ら(人物は特定できないし、いかなる協力関係があるのかも不明だが、あえて「彼ら」と表記しておく)は、まずは当サイトの名前を悪用した権利侵害サイトを作り、そこにおいて、筆者のドッペルゲンガーを作って、彼らの前にひざまずかせ、懺悔させ、訴えの取り下げの「リハーサル」を行わせた上で、現実に行われた和解協議の場においても、訴えの取り下げを要求し、掲示板においても、匿名の投稿者が次のような投稿を行って、訴えを取り下げなければ、ひどい目に遭うぞと予告したのである。



これを見れば、筆者が向き合っている相手が、いかにまともではない人々であるかということが誰にでもよく分かるであろう。
 
しかも、こういう投稿は、これまでにも絶えまなく行われて来たのであって、何ら珍しい内容でもない。要するに、ブログを執筆するのをやめなければ、人生が破滅するぞと脅していた今までと同様である。

結局のところ、彼らはこう言っている。「被告らに対する訴えを全面的に取り下げないと、なしりすましサイトを100個作るぞ。それから、あんたを何重にも提訴・刑事告訴してやる。和解協議が決裂するくらいのことでは済まない。犯罪者にされていいのか。人生が破滅するんだ。考え直せ」

彼らは、何としても、筆者に訴えそのものを取り下げさせることで、判決を無効にしたいのである。
 
命が惜しいなら、主張を撤回せよとの「踏み絵」である。
 
控訴審では、秘匿の措置が認められていないので、判決に向かってためらいなく突き進めない事情がある。それを分かった上で、裁判所も判決言い渡し日をあえて未定としており、和解協議を勧めたのであり、さらに、被告Aも以上のような条件に、筆者が応ずるよう迫っているのである。

しかしながら、筆者はこの訴訟においては、もともと完全な敗訴もしていないし、完全な勝訴もしていない。さらに、被告Aは何年間にも渡り、筆者を告訴しようとしても、できなかった経緯があるため、この先も、告訴が受け入れられる見込みはまずないものと考える。

被告Bについても、被告Bが筆者を告訴したと主張する前から、筆者自身がすでに被告B対策を幾重にもして来たのであり、先週もさらに大量の資料を警察署に送って備えとしたところである。

さらに、以上のような投稿がなされたのを皮切りに、掲示板も、これまでは文体などが投稿者の身元の確認に役立つと考えて様子を見て来たのだが、そろそろ時期が来たと判断した。発信者を特定してIPアドレスを警察に提供し、犯人を告訴し、損害賠償請求訴訟を提起するための準備に入る。

だから、掲示板が聖域になるなどといった考えは捨ててもらわなければ困る。身元が特定された暁には、当然のこととして、人物が公表される可能性があることを十分に考慮してもらわなくてはならない。そうなれば、手が後ろに回るのは、こうして藪の中から石を投げて無責任な生き方をしている匿名の投稿者なのであって、筆者ではない。投稿前によく考えることをお勧めするのみである。
 
さて、和解協議において、被告Aから訴えを取り下げないと、和解に応じないとの条件が、裁判官を通して告げられたとき、筆者は尋ねた。

「判決が下された後に訴えを取り下げたらどうなるのですか?」
「判決は法的には効力を失うでしょう」

筆者はしばらく言葉を失った。判決を無効にしたならば、賠償も行う義務はないのであって、何のための和解なのか。ごくわずかな金銭と引き換えに、命に等しい約束を手放させようなどというこの卑劣な条件に、心の底から憤りが込み上げて来た。

ここに懐剣があれば良いのに・・・、との思いが脳裏をよぎった。

もちろん、裁判所には小刀一つ持ち込むことはできないが、筆者は、まるで武家の娘になったような気分で、裁判官の前で、黙って懐剣を差し出し、テーブルの上に置くことができればいいのに・・・との思いに駆られた。

「一体、あなた方は、私を誰だと思っているのですか。私がはした金と引き換えに、個人情報を開示されたくないとか、提訴や告訴をされたくないなどという願いと引き換えに、自分を生かすと言ってくれた人の言葉をやすやすと裏切って、命乞いをするような女だと、本気で思っているのですか? あなた方はあまりにも大きな考え違いをしています。そんなことをして自分の操を穢すくらいなら、私はいっそこの場で自分の命を絶って、この先の世界を一瞬たりとも見ないで済むことを願います。」

むろん、筆者は自殺などするつもりもない。以上は単なる比喩である。しかし、そのような思いが込み上げて来たとき、筆者は同時に、何かえも言われぬ感動を覚えた。

いつの間にか、判決は、筆者にとって、もはや二度と離れることのできない、かけがえのない命となり、友となっていた。これがあったからこそ、今日まですべてを耐え抜き、控訴審まで来ることもできたのだ。

これは筆者の苦悩を深く理解し、ねぎらってくれた裁判官が、その善良な思いのすべてをかけて、筆者に「生きよ」と命じてくれた、忘れ形見のような命である。

この判決と引き離されるくらいなら、筆者は、むしろ、死を選ぶ。この宣言を自分で否定して、これまで戦ったプロセスを自分ですべて否定して、抜け殻となった宣言を手に生きるくらいならば、喜んですべての苦難を引き受け、何重にも告訴・提訴された上、潔く死に追いやられることを願うだろう。

敵は何でも願うことを筆者に対してすれば良い。だが、筆者はそのすべてを恐れない。全く恐れないし、逃げようとも、隠れようとも思わない。筆者は全力でそのすべてに立ち向かい、提訴されるなら反訴するし、告訴されるなら、虚偽告訴罪を主張して、どんなに訴訟が泥沼化しようと、命の限りを尽くして徹底的に立ち向かい、彼らの常軌を逸した残酷さを証明し、身の潔白を証しする機会とするだけである。
 
筆者が恐れるのは、自分に害を加えられることではなく、自分を愛し、かばい、助け、命を与えようとしてくれた人の言葉を裏切って、否定することなのだ。そうして、自分一人だけ、身の安全を保ち、生き延びようとして、再び、真っ暗闇の世界に投げ出され、その挙句、栄誉だけでなく、命をも失うことなのである。

確かに、判決は人間の言葉であるため、神の御言葉のように完全なものではないが、自分に命を与えてくれた権威ある裁判官の判決を否定し、裏切ることは、神の御言葉を否定し、裏切ることにも通じるほどの恐ろしい効果がある。

判決を保とうとすることが、筆者の破滅につながるのではなく、逆に、筆者を生かし、守る命である判決を裏切り、これを否定し、捨てることこそ、筆者の身の破滅につながるのである。

それは、聖書がファンタジーだと言って、聖書の神の御言葉の正しさを否定している人が、その後、正常な意識を保って生きられなくなるのと同じである。

被告らは、筆者のブログをファンタジーだ、創作だと言っているが、その背後には、聖書の神の御言葉の揺るぎないことを否定しようとする思いがある。だからこそ、彼らは権威ある裁判官の下した判決にも服さず、これを何とかして自分たちの言葉で飲み尽くし、否定し、覆そうと試みているのである。

それは彼らが自分たちは裁判官よりも上に立っていると考えていることの証拠である。しかし、 聖書の秩序はこれとは逆であり、死ではなく、命が死を飲み尽くすのだ。

だから、この踏み絵を踏んではならない・・・ということが、筆者には実によく分かった。

この訴訟を提起した時、筆者には支援する者はなく、ただ一人、裁判官が、筆者の心を知っており、これを汲み上げてくれた。その後、裁判官が下してくれた判決は、筆者に命を吹き込んで、新たな場所へと導き、そこで新たな人々に出会わせてくれ、かけがえのない助言者や、理解者をも与えてくれた。

以前は支援者もなかったが、今はもうそうではない。職場も、同僚も、筆者の生活も、すべてこの宣言文が書かれた後に与えられたものであり、筆者はこれまでどんなにこの宣言に助けられて、支えられて生きて来たろうか。

その判決文から権威ある命の効力を除き去って、これを抜け殻同然の空文句に変えてしまうことに自ら同意するくらいならば、筆者はこの判決文と、目に見えない領域で、しっかりと手に手を取りあったまま、その場で一緒に殺されてただちに息絶えることを選ぶだろう。

判決文の威力を殺すことは、筆者を殺すことと同じなのであり、私たちは不可分の存在なのであるから、判決が無効化された世界に、筆者一人だけが生きていることはできない。

だから、絶対にこれを無効化するようなことに同意してはならない。

そこで、筆者は一計を案じ、自分にできるただ一つのことを提案した。

それは、判決の正しさを守り通す代わりに、筆者が自分の主張を放棄するという、これまでに幾度となく取って来た策である。

筆者はそれまでの協議の深刻な雰囲気とは打って変わって、にっこりと笑って裁判官に言った。

「私は判決文をスキャンして一般に公開したこともありませんし、事件番号も公開していません。この事件記録を閲覧した人も、今日まで誰もいませんので、被告Aについては、誰もどんな判決があったのか、現物を手にして見たわけではありません。客観的な証拠がないので、ネット上では当てにならない噂しか流れていないのです。被告Bも、自分に関することしか書いていませんので、被告Aのことは誰も知る術がありません。

ですから、そうした状況で、私が訴えを取り下げることで、判決を無効化する必要もないのです。公開しなければ、判決もただ裁判所の記録として残るだけで、その外に出て行くことはありません。実態が分からない以上、誰にも不名誉を与えることはないのです。

ですが、ネットに書かれた個人情報は、いつまでも人の目に触れるところに残り続けて、現実的な悪影響を及ぼす恐れがあります。被告Aは、個人情報を消して欲しいのでしょう? それなら、たとえこの先、被告Aが私を提訴し、告訴したところで、到底、目的は遂げられるものではありません。権利侵害の事実は、自ら立証しなければ認められませんし、権利侵害に当たらないと判断されれば、削除も認められませんので、すべての記述を取り去るためには、膨大な分量の書面を、ものすごい時間をかけて書き続なければなりません。多分、一生かかっても、目的は達成できないと思います。

そんな無駄な訴訟を起こしても意味はありませんから、その代わりに、私が自分で記述を修正してはどうでしょう。本当は一年くらい欲しいところですが、もっと早くしろというなら、可能な限り、迅速に行うことはできます。それで、この先は双方、互いの個人情報を書かないという約束で、和解すればどうでしょう?」

裁判官はその要望を被告Aに伝え、被告Aは、弁護士と協議すると言って、その日の話し合いは終了した。

すでに夕方になっていたが、筆者にはまだ裁判所に用事があったので、帰宅するわけにいかず、裁判官は何度も「被告を先に返しますよ?」と筆者に念押ししてから、実際にそうした。

実は、裁判所には、勝訴(もしくは勝訴的和解)を遂げた方が先に帰宅するという暗黙のルールがあるのだ。被告Aが先に帰宅するということは、あたかも被告Aが勝ったと言っているも同然であるが、筆者にとっては、それは些細なことであった。

被告らは、見かけの栄誉を何より重んじる。人前に自分がどう映るかを気にする。しかし、筆者は人に知られないリアリティを重んじる。だから、外見的に、被告Aが勝訴したかのごとく扱われたとしても、別にそのことで何とも感じることはない。この点で、被告らの考え方と、筆者の考え方は、正反対なのである。

これまで被告らの書面を公開しようかと考えたことも何度もあったが、それをしないで来たのも、何かしらそれを押しとどめるものがあったためである。公開すれば、どんなにひどい主張をされているのか、万人に開示して訴えることもできたであろうが、なぜかそれに踏み切れない思いがあった。

おそらく、それも理由のないことではなかっただろう。

この訴訟は、筆者にとって、人の思いを超えたところにある、何かしら神聖と言っても良いほどの価値のあるものである。特に、原審はそうであった。だから、たとえ判決が、裁判所から一歩も外に出ず、誰にも閲覧されず、何が書かれているのかも分からないまま、まるで聖域のような領域に、膨大な事件記録の一つとして、人知れず眠るだけであったとしても、その誰にも知られないリアリティの中に、筆者の栄誉、筆者の正しさが、確かに込められていることを感じてならないのである。

逆に言えば、筆者が訴えを取り下げ、その事実が、仮に誰にも知らされなかったとしても、それは確かなリアリティであるから、人が知ろうと知るまいと、筆者が判決を否認し、自分の正しさを認めてくれた人の言葉を裏切った事実は、宇宙的な規模で悪影響を及ぼし、何万光年先になっても拭い去れない罪と恥の記録になるに違いない。
 
筆者が肯定していればこそ、判決は尊い価値を持って、聖域の中に静かに保たれるのであって、もしも筆者がこれを否認すれば、それはまるで悪党どもによって暴かれた墓のように、さらしものにされ、土足で踏みつけにされ、神聖さを失って、蹂躙・冒涜されることであろう。

筆者は、これまでそのような瞬間を何度も見せられて来た。筆者が心の中で手放さなかった人々、手放さなかった団体、守り通したものだけが、確かな揺るぎないリアリティとして保たれるのであって、もしも筆者が、それらを守り通すことを断念したならば、それは敵の陣営に引き渡され、防衛の外に追いやられ、蹂躙されて、恥をこうむることになる。

だから、筆者と判決とは、互いに守り合い、かばい合う関係にあり、それはかけがえのない強い愛の絆にも似て、私たちは見えない領域で結ばれた手を、互いにしっかりと握り合い、死に至るまで、決して離してはならない。筆者が新たに出会った人々との関係においても、同様の愛の関係が成立しているのである。

それは死によっても、引き離すことができないほどの強い結びつきであり、命をかけてでも、守り抜きたいと願う、かけがえのない価値である。

ところで、筆者にも、和解協議の期日が来る前に、弁護士に相談することができそうなチャンスがあった。だが、のど元まで出かかった言葉を、筆者は飲み込んで、何も言うべきでないと思い直した。

信頼できる人に、せっかくの貴重な時間を、わざわざこのような事件のために費やさせる必要もないと思っただけではない。それ以上に、筆者の助言者は、ただ一人、キリストだけであり、御霊だけであるから、誰にも助けを乞わずとも、自分自身で何が正しく、何が間違っているかを判断することができるはずだと信じた。その強さ、独立性を失ってはならない、と思い直したのである。

さて、前回の期日に、双方から控訴の取り下げを行うという提案がなされた後、控訴の取り下げを行うと、事件記録が横浜地裁に戻って来ることを筆者は書記官から聞かされた。

その時、筆者の心には大きな喜びが湧き起こり、まだ結果が確定もしていないうちから、そうなることが動かせない事実であると感じた。被告Aから訴えの取り下げを要求された時でさえ、その確信は変わらなかった。

あの陰気な東京高等裁判所の建物ではなく、この海と空のある地にこそ、事件記録を迎えてやりたい。戻って来たら、おまえはよくやった、勇敢に戦った、と言って、その栄誉をたたえて、いつまでもここで静かに眠りなさいと、まるで祖国のために勇敢に戦って戦死した夫の亡骸を迎える妻のように、心の中で花束を携えて、出迎えてその労をねぎらってやりたい。

そして、その後も、筆者の生きているそば近くの、人に知られない静かな聖域のような一区画に、記録を眠らせておこう。あの電話会議が実際に行われた明るい裁判所の中に、海と空を同時に見ることのできるこの開放的な空間の只中に、その記録を保ち、それがいつも自分と共にあること、今も生きて効力を及ぼしていることを思い出し、見えない領域で互いを見守りながら生きて行きたい。

そうこうしているうちに、きっとその判決は、ますます不思議な効力を及ぼして、多くの人々を筆者のもとに送り、多くのかけがえのない宝をこの地にもたらしてくれるに違いない。それは誰も見ることのない秘められた聖域として、契約の箱のように、この地に眠るだろう。

筆者は人生で初めて、自分以外のものを、命がけで守りたいと願った。冒頭に挙げた御言葉は、ただ人間の男女のことを指しているだけではない。霊的には、それにはもっと深い意味があって、それは神の御言葉と、人が一体となること、御言葉なるキリストが、信仰によって、人の内に住まわれ、神と人とがもはや不可分の引き離せない関係になることを言い表している。

神はどれほど人を愛され、また、人の側でも、神を慕い求めた結果、神と人との出会いが生まれることだろうか。双方からの強い願いの結果、神が人に対してご自身を現して下さり、人の内側に住まわれるという信じ難い出来事が起きるのである。

そのことが、この事件を通して、筆者はよく分かる気がする。

判決はもはや筆者と不可分の関係になったのであり、今更、これを分離することはできない。歴史を逆行して、出会わなかった前に戻ることはできないし、出された宣言を無効化することもできない。 神が出会わせて下さったものを、人の力で引き離すことはできない。

だが、筆者は新たに出会った人たちにも、全く同様のことを思う。私たちは、人の力によって、決して引き離すことのできない領域で出会い、結び合わされたのだと。その結びつきから、未だかつて見たことのない新しい歴史がすでに始まっているのだと・・・。

そういう意味で、判決以前の世界と、判決以後の世界は、まるでノアの洪水のように、大きな境界となって、筆者の人生を二つに分けている。それには、まるでB.C.(Before Christ)とA.D.(Anno Domini)を隔てるくらいの威力があり、これも大きな十字架なのである。洪水と共に、以前の筆者は死んだのであり、泥沼の法廷闘争にも、すでに終止符が打たれた。その大いなる宣言がある以上、今更、被告らが筆者に何を述べたとしても、結論は変わらない。

紛争は、もはやとうに終わっているのであって、筆者には、ただ筆者に命と平安を与える命令に服し、これを忠実に実行に移すために労する義務と、これにそぐわないすべての行きがかりを最終的に終わらせるために知恵を尽くす任務が任されているだけである。


覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカによる福音書12:2-3)

さて、この一週間、筆者は示談書の内容を考えながら、ネット上の動きを観察していた。神は私たちに非常に丁寧かつ誠実にすべてを教えて下さる方であるため、私たちがお人好しや、楽観のゆえに、危険な領域に足を踏み入れようとしていても、信仰があって、主に聞く姿勢をきちんと持っているならば、きちんと警告して下さる。

前の記事に書いたように、筆者はすべての行きがかりを帳消しにする用意があったのだが、そういう行き過ぎた行為に及んではならないと、はっきりと示されたものと思う。

それはこの重要な時期に、紛争当事者が関わっていないとも決して言い切ることのできない、大きな疑惑を呼ぶ新たな権利侵害がネット上で続行したためである。
 
人物は特定されていないとはいえ、これは非常に残念なことである。筆者はこの事件についてはそっとしておいてほしいと書いたところであるが、一体、なぜ、ある人々は罪赦されることができるチャンスを自ら踏みにじり、救いが与えられているのに、そこから目を背け、暗闇の中に逃げ込んで行くのであろうか。

こうした権利侵害が今も続いている以上、犯人がきちんと特定されるまでの間は、その手がかりとなる可能性を含む情報を抹消してはならないと分かった。何より、これまで積み上げて来た事実関係を自ら否定するような行為に及ぶべきでない。
 
だが、もともと示談とは、あくまで一定の範囲の出来事について決着をつけるだけのものであって、紛争の永久解決を意味しないから、その範囲が限定されるのも、やむを得ないことである。

交通事故でも、事故後、すぐに示談を結んでも、しばらく経ってから後遺症が発生すれば、その時は別途、対応が必要になる。多くの場合は、後遺症には別途対応する旨が、示談書に予め盛り込まれる。

このように、もともと示談は紛争の永久的解決としての和解とは異なる上、さらに、一般に、クリスチャン生活における戦いの成果は、専有した領域の大きさで決まる。光の子らがもしも退却するならば、その領域は悪の諸霊に明け渡される。もしも私たちが自ら権利を放棄するなら、放棄した部分は、敵対者が占めることになる。

だから、紛争をとにかく早く終わらせたいという人間的な思いだけで、すべてのことが明らかになっていないうちに、事件を終結させたり、重要な証拠を消してしまうようなことをしてはならないのである。そのようなことをしてしまうと、物事が非常に中途半端なままに終わってしまい、本来、明らかにすべきであった結論が出されないまま、歴史的後退が起こってしまう。

当ブログを巡る訴訟では、筆者が人間的な感情に流されて判断を誤らないよう、随所で、天からの警告のようなものがなされて来た。

たとえば、筆者は当初、控訴もせずに、第一審判決で争いを終わらせるつもりだったが、それにも関わらず、判決の確定前に、控訴せざるを得ない新たな事情が出来た。それは筆者の予想を超えた事態であって、筆者自らが紛争の継続を願って起きたことではなかった。

また、控訴審では議論を戦わせることも念頭に置いていたが、それもしてはならないと示され、代わりに一方の紛争当事者との和解協議となった。その和解協議で、筆者は紛争の永久解決を目指すつもりであったが、それも今はしてはならず、踏み越えてはならない限度が明白にあることが示されたのである。

一言で言えば、原審判決は守らねばならないのだが、それが許した範囲を超えて、紛争を終わらせたいがための和解条項を結ぶことは、許されていないと分かったのである。さらに、紛争当事者は、おそらくは筆者の赦し自体も、届くかどうかが分からない場所にいる。赦しや救いを受け取り、和解が成立するような状態ではないということである。

こうした一つ一つの出来事は、筆者が人間的な感情に流されて判断を誤らないように示された天からの警告であると筆者は受け止めている。

前から述べている通り、当ブログはインターネット上で激しい権利侵害を受け続けており、今もそれは続行している。最近の裁判の流れとして、悪質な権利侵害サイトにリンクを貼るだけでも、有罪となる世の中だということを読者には周知しておきたい。そして、ネット上で行われている犯罪行為は、決して放置されているわけではないし、犯人が特定されれば、公表するつもりであることは前々から予告している通りであるから、こうした犯罪行為には、読者は絶対に関わらないように注意されたい。

リンクだけで警察に逮捕されます」(日本表現の自由協会)

「2ちゃん」にリンク貼るだけで名誉毀損 ウソの内容を書き込むのと同じと判断(東京高裁2012年(平成24年)4月18日判決)

筆者は、誰も罰せられることを望んでおらず、罪を犯した人にも、悔い改めて、罪赦されて、人生をやり直して歩き出して欲しい・・・と願っている。

それは嘘ではなく、どんな人間が相手であっても、筆者は自ら紛争を拡大したいとか、長引かせたいなどとは微塵も願わない。だが、そのことと、今もインターネット上で続いている犯罪行為の全容を明らかにすることは、全く別の話なのであって、今回の訴訟でも、本来の目的は、これらの権利侵害の全容を解明することにあった。

その目的がまだ果たされていないうちに、浅はかな楽観に基づき、今後、その究明の妨げとなるようなことを自らしてはいけないし、するわけにもいかない、ということが、今回、示されたのである。

だが、これも主の采配である。おそらく、こうした事態が起きなければ、筆者は楽観に基づいて、紛争は解決したものとして、踏み越えてはならない境界をあっさり踏み越えていたかも知れない。

残念なことであるが、筆者がどんなに赦したいと願っても、筆者の思いだけでは、事は成らず、相手が罪を悔い改めてもいないのに、筆者がその罪を赦すこともできないし、相手が守らない約束を、筆者だけが結ぶこともできない。片方だけがどんなに願っても、それによって最終的な和解が成立するわけでもないし、感情的な行きがかりを決着させることと、事実を明らかにすることは異なる。
  
しかし、繰り返すが、このような展開になっていることにも、神の深い采配が働いているのであって、冒頭に挙げたとおり、神は物事を明らかにされる方であって、隠す方ではない。今後、ますます事の真相は明らかになる方向へ向かうのであり、すでに明らかになっている事柄については、やはりきちんと公に記録に残しておかねばならないのであって、筆者の人間的な思いだけで、これを白紙撤回するわけにはいかないのである。

死に至るまで、キリストの復活の証人であり続けるとは、おそらくそういうことなのであろう。私たちの灯は、公然と街の上に掲げておかねばならない。それを隠すなら、証には意味がなくなってしまう。

迫害されたから、権利侵害に及ばれたから、紛争から早く解放されたいから、あるいは、提訴するとか、告訴するなどと脅されたから、そそくさと事実を闇に葬り、隠れたところで取引したり、公然と証言したことを撤回するというのでは、私たちの証は力を失ってしまう。

そういうわけで、今回の教訓は重く、おそらくは罪の赦しが相手に届かないことをよく物語っているように思う。この訴訟に提出された記録も、早晩、きちんと整理し公表することが、必要不可欠になるものと考えている。紛争を激化させるためではなく、何が行われたのか、事実を明らかに記録しておくため、そして、それに基づき、今後も、何が起きるかを記録して行くためである。

ところで、私たちは、兄弟姉妹を引き裂き、互いに対立させ、教会を分裂させようとする目に見えない力が働いていることに注意しなければならない。

筆者はかつて横浜である牧師が率いていた集会においても、敵の様々な陰謀工作が働いて、中傷が横行し、集会が分裂に追い込まれ、兄弟姉妹が互いに信頼を保てなくなり、牧師と筆者とを互いを引き離し、集会をバラバラにする作戦が功を奏するところを見せられた。

その結果、牧師は筆者に対して罪を犯すこととなり、筆者もその牧師の考えには全く共感できなくなり、その後、集会そのものが異端化するという事態が起き、我々は全く無関係となっているが、そうなるまでに、教会の破壊を試みた敵の分裂工作がいかに卑劣かつ巧みであったかは、今となっては十分に理解している。

その時のみならず、現在になっても、この牧師も、筆者も、誰も依頼もしていないのに、事件に全く無関係な者が、この牧師と筆者を何とかして対立させて、公の場所で対決させ、かつて兄弟姉妹だった人々が、いがみあい、教会が分裂する有様を、見世物にしようと願って、様々な情報をばらまいている。

その勢力が、今も自分は姿を隠して、様々な事件に介入し、当事者になりすましたり、その代弁者になることで、実生活においても、兄弟同士の争いを激化させ、インターネット上にも、人々の争いを煽る情報をひたすら投稿し続けているのである。

このような形で、人々の「代理人」になろうとし、他者の思いをあたかも代弁するかのように見せかけながら、クリスチャンの紛争や対立を煽り、徐々に人々の存在を乗っ取り、その相手を貶めて行くことが、この勢力のかねてよりの常套手段であったことに注意を向けたい。

むろん、こうした行為を行っているのが誰であるのかは、現時点では特定されていないが、彼らのやり方は常に同じであるから、その行動パターンの中に、彼らの本質的な特徴がよく表れていると言えよう。
 
彼らは、人々の許可がないのに、勝手に他者の代弁者となったり、権限もなく、他者の争いに介入することで、争いの火に油を注ぎ、兄弟同士をいがみあわせ、対立を修復不可能なまでに押し広げ、教会を分裂させるのである。

その上、クリスチャンを公開裁判の場に引きずり出し、できるならばそこで有罪宣告を受けるよう仕向け、教会が立ち直り不可能な打撃を受け、まことの主を信じるクリスチャンが孤立し、兄弟姉妹を通じて命を受けられなくなるようにし、神の花嫁たる教会を辱めて、神ご自身が損失を受けられるように仕向けることを目的にしている。

私たちを分裂させ、互いに敵対させようと、陰から争いの火に油を注いでいる存在が確固としてあることに、まず気づかねばならないのである。
 
だが、筆者は、そのように、自分は名を隠して、陰から人々の対立や争いを煽り立てている人物こそ、存在を暴かれ、名を公開され、裁判にかけられ、損害賠償請求を行われるに最もふさわしい者であると考えている。

自分は正体を隠したまま、他者になりすましたり、頼まれてもいないのに、自分には無関係の争い事に次々と介入・干渉しては、兄弟姉妹の対立を激化するために、火種をふりまくような者は、断じて裁かれねばならない。たとえその者が刑事罰を受けて、監獄の向こうに行くようなことがあっても、筆者は追及をあきらめるつもりはないことも、断っておきたい。

だから、このような問題が進行中である事情を考えると、なおさらのこと、今、証拠となる情報を消し去ってしまうような愚かで浅はかな約束を結ぶことはできないのである。
 
何とかしてクリスチャンを中世のような見世物裁判に引きずり出しては互いに争わせようとする人々がいることを分かっていながら、その脅しに屈するわけには行かない。かえって、こういう人々の名を特定し、その所業を公表し、彼らを排除し、報いを受けさせることによって、初めて教会は平和を取り戻せる。

それによって、誰がクリスチャンを最も憎んでいるのか、誰が匿名に隠れて、兄弟同士の対立を煽って来たのか、誰が教会に最も大きな打撃を加えて来たのか、世間の前にはっきり証明できるだろう。それは筆者では断じてないのである。

そういう意味で、現在の筆者は、かつてとは様々な点で異なっている。新しい人たちが筆者の周りに現れたおかげだ。もしも時を遡ってやり直せるなら、多分、あの時、こういう言葉で助言はしなかった、ああいう風に伝えただろう、などと思うことはたくさんある。

だが、以前と何より異なっているのは、真心から仕えて構わないと思うリーダーに出会ったことだろう。人を陥れたり、欺いたり、策略を弄しない、約束を守る謙虚なリーダーに出会ったことである。それによって、権威に服従することは、何ら困難ではなく、私たちは権威者に対してもの申すとき、王妃エステルが王の前に命をかけて進言したように、命がけでなければならないことが、よく理解出来るようになった。

私たちは、権威者が誤った道に逸れかけているときは、適宜、忠告せねばならないが、それはあくまで権威への服従の中で行われるべきことであって、忠告に名を借りて、秩序を覆すことが求められているわけではない。その服従とは何であるのか、どのようにすれば、敵の策略に翻弄されずに、信頼関係をつなぎとめることができるのか、様々な場面で、筆者は学ばされている。

以前から、筆者には(霊的な意味において)関節をつなぐ力があると書いて来たが、切れかけた絆も、完全な断絶に至っていないうちは、修復できる。弱った部位に命の息吹を注ぎ込み、傷を丹念に修復し、体が一体性を保って、健全かつ敏捷に機能するようになるまで、ひたすら命を吹き込み続け、回復をはかる。

王妃エステルは、ユダヤ人たちが絶滅を命じられることで、体(宮)としての教会が消滅しないで済むよう、彼らを不当な命令から救うために、命がけで、王に進言をする役割を担った。そのために、彼女は十字架の死を通る必要があったのであり、私たちが今日、何かをリーダーに本気で進言するときには、必ず、命がけと言っても良い服従のプロセスが必要となる。それがあって初めて、忠告は功を奏し、団体の滅びが押しとどめられるのであって、敵のあらゆる分裂工作は、私たちがそれを乗り越えて信頼を維持することを学ぶための戦いなのである。
 
そのようにして、激しい戦いの中で、互いの信頼関係を確固として維持し、互いに守り合い、弱った部位には命を吹き込み、回復されるべきは、兄弟姉妹と呼ばれる人々であって、兄弟たちを分裂に追い込む者ではない。

そういう意味で、憐れみを注ぐべき対象を見誤ってはならないのであり、当ブログを巡る訴訟は、教会に対する迫害が完全に終わらない限り、本当の意味では決着を見ないのであるから、やはり過去に起きた事実を白紙撤回するなどということはできないのである。

この先、控訴取り下げが行われたり、示談が結ばれたからと言って、ネット上でクリスチャンの争いを煽っている勢力に対する追及が終わるわけではなく、控訴審で取りこぼした課題も、それとは別に、これから解決を図らねばならないのであって、決着が着いたと言える日はまだ来ていない。

そういうわけで、今、越えようとしているステップは、ほんのわずかな一歩でしかなく、筆者にはこれからまだ解決せねばならない多くの仕事が残っている。
  
王妃エステルは、命がけで王の前に立つことで、ユダヤ人を絶滅から救っただけではなく、ハマンの処刑に貢献したことを、忘れるわけにはいかない。兄弟たちを分裂させ、主の民に滅びを願うような者は、相応の報いを受けねばならない。たとえ兄弟姉妹の絆が断ち切れて、もはや修復不可能になっているように見える場合にも、それは同じである。

だから、筆者にとって極めて重要であった聖徒の交わりをかく乱し、破壊し続けて来た者どもには、しかるべき報いを受けさせねばならない。そのために、暗闇で行われて来たことを明るみに出すことが、今後は最も先決の課題となる。必ず、その者は最後に存在を暴かれ、裁かれることになるため、くれぐれも読者はそうした犯罪行為に加担されないよう注意されたい。

* * *

<補足>

ところで、刑事事件においては、証拠の有無のみならず、被害者が犯人の処罰を求める感情がどれくらい強いのかも、ものを言う。そこで、示談というのは、刑事事件における罪を軽くすることにも貢献できるかも知れない非常に重要な手続きだったわけである。

筆者はこれについても、考えていたところであった。そのようなタイミングで、円滑な紛争解決や温情が注がれる余地を排除するような新たな権利侵害事件が起きたことは、非常に運命的かつ予表的な出来事であると筆者は思っている。もしも救われるべき人間を相手にしているならば、このようなことは決して起きないからだ。

示談が成立していなければ、訴えられた人間には、刑事事件を有利に運ぶ強力な材料がなくなるが、示談後にも、同様の権利侵害を行っていた事実が発覚するとか、再犯したなどの事実が加われば、それも非常に悪い印象を残すことになる。

これまで当ブログを巡る事件において、筆者は相手方のために、何度も、何度も、猶予をもうけて来たが、その温情も猶予も、紛争を有効に終わらせるために機能したことが一度もなく、かえってこじらせるために悪用されて来た経緯がある。そのことを考えても、やはり、罪赦されるチャンスがいくらでもあるのに、罪赦されることを自ら拒んで、自ら救いから遠ざかって行く人間というものも、この世には存在するのではないかという気がしてならない。

訴訟に関する記録は、いつかはまとめて公表せねばならないと考えて来たが、紛争を拡大しないために、今までこれを控えて来た。示談成立がないような場合には、やむをえないので、ただちに公開し、別訴を提起するなどして、対策を講じねばならない。

なぜなら、紛争のもう一方の相手方が筆者を告訴したなどと言っている以上、筆者も安全策を講じる必要があるためだ。しかし、そうすると、筆者を刑事告訴したとしている牧師の名も、当然ながら本人の書面により全国に向けて明らかになる。果たして信徒を告訴する牧師のもとへ行きたいと願う信徒がいるのかどうか、甚だ疑問である。

しかも、その牧師が、一審ではブログ記事をすべて削除して和解すると言っていたのに、途中で態度を翻したことも、本人の書面を通して明らかになり、なおかつ、当ブログの著作者人格権を侵害した事実があることや、当事者からの依頼もないのに、他者のプライバシーを侵害する記事をブログに多数、掲載している行為が、明らかに、不法行為に当たることも明白となる。

このように、他者の代理人となって紛争に介入することは、筆者の目から見ると、非常に怖いことなのである。今までにもこの人は、多くの事件に資格なく干渉を繰り返して来たわけであるが、それでも、その当時、それは誰かの依頼を受けてやっていることであったため、他者の権利を守るという大義名分がついていた。

だからこそ、筆者は、その人は他の牧師から依頼(提携)を受けて、非公開の資料を公にするようなブログ記事の公開に踏み切ったのだろうと考えていたが、その牧師は、そんな提携はない、それは筆者の考え違いであると嘲笑った。そして、本人の言によると、実は、その牧師は、誰からの正式な依頼も受けていないのに、勝手に他者の代理人になって、他者のプライバシー権を暴き、自分とは無関係の紛争に介入したことが、本人の書面の内容から、明らかとなった。これは極めてまずいことである。

捜査機関が、誰からの依頼もないのに、独自に動き出し、人々の身辺調査を秘密裏にやり出したら、どうなるだろうか。しかも、自分たちの機関に逆らった人々の情報を秘密裏に集めて勝手に公表するようなことをすれば・・・?そうした懸念があることを、ずっと前から筆者は訴え続けて来たのであるが、相当にそれに近いところまで現実が追いついていることが発覚したのである。もはや「代理人」や「相談役」という肩書さえかなぐり捨てて、他人の名を勝手に使って、縦横無尽に争いに介入するところまで来てしまったのであり、その次なるステップとして残るのは、あからさまな「なりすまし」のみ・・・。

よく考えてもみられたい、一体、誰が頼まれてもいない他者の代理人に勝手になって、他者の人物像を勝手に「創作」などしているのであろうか? 誰が他者の名を使って、クリスチャン同士の対立の火に油を注ぎ、教会を分裂させ続けて来たのか?

筆者が訴えて来たのは、そうした「なりすまし」の目的は、教会の簒奪にあるということ、すなわち、聖なる者でない者が、聖なる者の名を詐称して、自分には手に入れられない高みにある宝を奪い取り、これを破壊し、最終的には、教会を乗っ取ることで、神ご自身を簒奪することにあるということである。

クリスチャンの名や存在を簒奪することは、聖なる神の教会を簒奪することを意味し、花嫁なる教会の簒奪は、花婿なるキリストの簒奪・蹂躙を意味する。本物を駆逐・破壊して、偽物だけを残すこと。これが異端の目的なのであり、実は異端狩りに熱中している人たちこそ、最も教会を簒奪・破壊している危険な存在なのである。

そのことを、当ブログでは再三再四、主張して来たのだが、それがついに誰の目にも明白になるほどまでに客観的に明らかになろうとしているのが現在である。


主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

筆者が初めて横浜に来た際、横浜にいる兄弟と、福島にいる兄弟との連携により、福島の山小屋へ連れて行ってもらい、そこで親しい交わりを持った時のことを思い出す。

もう10年も前のことであり、その時の交わりも今はもうないが、今も不思議な縁で、筆者はこの二つの土地に縁のある暮らしをしている。筆者は福島へは行かないが、それでも、この土地と密接なつながりができ、御言葉の交わりの代わりに、法を中心とした交わりが出来、信徒の交わりではないが、これまでに出会うことのできなかった新しい貴重な人々に出会うことが出来た。

最近も、心癒される交流のひと時があったが、そこでこれまで筆者がキリスト者を名乗る人々と関わった時には全く得られなかった大きな収穫が得られた。

これまで筆者の人生においては、真に心から喜んで従うことのできる権威者というものは、現れなかった。言葉ではなく、その人の生き様そのものが、筆者の心の琴線に触れ、接しているだけで、あらゆる説明抜きに、筆者自身が変化を迫られるような関係というものは、あった試しがなかった。

いや、断片的には、そういう出会いもなかったわけではないのだが、それは束の間であり、筆者が何かを掴みかけたと思うと、すぐにその交わりも散ってなくなっていった。

だが、今回、新たな交流が生じたことにより、筆者がこれまで自分では気づけなかったもの、自分では取り払うことのできなかった限界が、何の説得も、命令もなしに、軽々と取り去られてしまった。

それと同時に、「助け手」であり、「影」である筆者の役目が、はっきりと形を取って現れ始めた。

筆者は、これまで著名な指導者の率いる宗教団体や、権威者のいる団体に足を踏み入れた際、筆者を秘書や参謀のように使えば、その指導者は栄えるだろうに・・・と考えたことが何度かあった。ほんの少し観察しているだけで、何をどうすれば、その組織がもっと良くなるか、指導者に何を補えば、その人が引き立つのか、筆者には尽きせぬアイディアが生まれて来たからである。

10年以上も前から、そのような考えは何度も湧き起こった。そして、その度に、筆者は家族などにもよくそうした印象を話していたものだ。「もったいない。あの人たちは、私の使い方を全く知らない。私を有効活用すれば、もっと大きな成果が得られるのに」と・・・。

そうした考えは、おそらくは決して筆者の自信過剰や、思い過ごしではなかったものと思う。

それらの指導者や権威者は、筆者の当時の考えなどには全く注意を払わなかったし、筆者の助言にも忠告にも何らの価値も見いださなかった。筆者の発言は、単なるこざかしい子供の自信過剰か大言壮語として忘れられて行っただけであろう。

だが、そうして筆者の助言を軽んじたことの結果として、彼ら指導者にも、人生そのものが根本的に狂わされるような何かが起き、栄光を傷つけられることになったのである。

なぜ自分の周りに適切な助言者を置かず、正しい忠告を退け、自分一人の考えだけで前に進んで行き、人生を滅ぼすのか・・・、筆者は非常に残念な思いであった。

その後、幾度か出会いを重ねているうちに、少しずつ、筆者に助言者の役割があることを知って、これを開発しようと期待をかける人々が現れるようになった。ところが、その場合でも、筆者が決定的な助言をせねばならない瞬間になると、必ず、信頼関係をかき乱し、破壊しようとする人々が現れて、筆者はそれにどう打ち勝てば良いかも分からないまま、策略に翻弄され、その結果、筆者が心から伝えようとしている言葉が、権威者に届かなくなる、という結果が繰り返された。

そして、かえって筆者が濡れ衣を着せられたりして、信頼関係が損なわれて、助言も役に立たないまま、関わりが離散してしまうのである。その後は、お決まりの通り、その権威者もまた、誤った道を歩き続けることになり、筆者を迫害する側に回るだけであった。

筆者はその後、沈思黙考し、一体、自分の助言者としての役割は、何をどう補えば存分に発揮されるのかを考えた。どうすればこの人々を敵に渡すことなく、信頼を損なわず、策略によって破壊されることもなく保ち続け、共に命に至り着くことができたのであろうかと。

だが、そうした出来事はあまりにも大きな幻滅を筆者に抱かせるものであったため、筆者は、その後、人間の指導者や、権威者には注意を払わず、静かに神に仕えて生きようと考えた。目に見える人間の思惑に振り回されるなど、もはや御免だと思っていたのである。

筆者は、自分のことを今も「取り分けられた器」であると感じている。ガイオン夫人やら、マーガレット・バーバーに自分をなぞらえるのはおこがましいかもしれないが、それでも筆者は、今、自分自身のために生きているのではなく、主のために特別に捧げられ、人々から取り分けられた存在であるとみなしている。

これは、自分が特別だと言っているのではなく、むしろ、自分の満足を捨てて、主の訪れを待ち望むために待機して生きることが、筆者の召しであると言っているだけである。

繰り返すが、筆者は、神のために特別に取り分けられた器になりたいし、そうして生きることに満足を覚えている。

それは10年前に福島の兄弟が教えてくれたことであった。せわしなく活動し、集会から集会へ飛びまわり、人々の前で教師然とメッセージを語り、多くの人々から感謝され、いかにも自分は神に仕えている御言葉の奉仕者であると、人々に盛んにアピールしながら生きるのではなく、かえって、静けさの中に立ち止まり、自分の人生の時間を人々に対してではなく、ことごとく主に捧げ、人には知られないところで、祈りの中で主を待ち望んで過ごす・・・、そういう奉仕のあり方が存在することを知った。

そして、神はそのようにご自分のために心を捧げる人々をかえりみて下さることも分かった。

その時から、筆者は自分の存在は、まことの主人を満足させるためにあるものだととらえている。それが人類が神に対して担うべき、本当の意味での「内助の功」であり、神の助け手としての私たちに任されたとりなしの役目なのであろうと思う。

だが、そのような考えも、振り返ってみると、近年になって初めて筆者の中に生まれたのではなく、10年以上前から、筆者はひたすら助言者となるための訓練を続けさせられて来たように感じている。

しかし、それはすでに述べた通り、失敗の繰り返しであり、筆者の「使い方」を知っている人は現れなかった。そうであるがゆえに、筆者は人に仕える道を断念し、神に仕えさえすればそれで良いと考えて、その後は権威者には関わらず、人生を送って来たのである。

ところが、この度、改めて筆者の助け手としての召しを引き出そうとする人が現れた。そして、その召しが発揮されるためには、筆者が、まず権威に服従するという過程が必要となることが分かった。

助け手としての役割が、服従なしには決して成し遂げられない仕事であることが分かったのは、当ブログを巡る訴訟の最中のことである。

訴訟を提起するまでは、筆者は自分があたかもすべての物事において、人生の主人であるかのように振る舞い、仲間を持たず、単独で先頭に立ち、自分が創造的な役目を率先して担うべき立場にあることを信じて疑わなかった。自分自身が誰にも服従せず、また、誰からの助けも受けることなしに、望みに向かって邁進すべきと考え、それができると信じ、そう行動して来た。

それゆえ、筆者は自分の主張について、誰がどのように反応しようと、それによって全く影響されることのない自信や確信を持っていたのである。

そこで、訴訟を提起した当初、裁判官でさえ、筆者にとっては、自分の主張を裏づけてくれるための存在としか見えておらず、筆者は裁判官に心を開いていたわけでもなければ、裁判官に訴訟を指揮する主導権を委ねていたわけでもなかった。

むしろ、自分が提起した訴訟なのであるから、最後まで自分で引っ張って行かねばならないと決意していた。

原審を担当した裁判官は、最初の口頭弁論期日から、筆者が、全世界から心を閉ざすがごとくに、遮蔽の措置の中で、自分の作り上げた訴状を目の前に、じっと黙って何も見えない前方を見つめている姿を注視していた。

遮蔽の措置は、すべての方向に対して閉ざされており、ただ裁判官に対してのみ開かれていたが、これはある意味で、予表的なことであった。

筆者は、裁判官の眼差しが、決して悪意のあるものではなく、むしろ、好意的に、筆者を自分の主張の外へ連れ出そうとしているものであることをうすうす感じていたが、それでも、その当時の筆者は、誰にも頼らずに、自分の願っていることを実現するために、人の同情や助けにすがってはならないと考え、裁判官の眼差しをも、気づかないふりをして半ば排除していたのである。

それは、もしも筆者がその当時、誰かからの同情や慰めの言葉を受け、それを受け入れてしまったならば、多分、心弱くなって、そこで倒れて立ち止まり、もはや自力で前に進んで行く力を失ってしまうかも知れないという予測から出た防衛的行動でもあった。

だからこそ、筆者は気丈に顔を上げて、裁判官からさえ同情を受けず、審理の行く末は自分で決めるのだと考え、そう振る舞っていたのである。そのため、訴訟に出す書面も、途中までは、裁判官に読んでもらうために出していたのではなく、天に向かって書いているものと考え、裁判官も読み切れないほどの分量の書面を出すことにも、全くためらいがなかった。

だが、そんな筆者も、原審の審理の途中で、裁判官に対して、ついに心を開かざるを得ない時が来た。その過程を詳しくここで振り返る必要はないであろうが、様々なきっかけがあり、筆者はある瞬間に、訴訟における主役は自分ではないこと、自分が積み上げて来たすべての議論も、ただ一人の裁判官に認定されることがなければ、無きに等しい暗闇にしかならず、裁判官との協力・協調関係がなければ、自分一人では、決して事件を正しく終結に導くことができないことを思い知った。

そのことが分かった瞬間、筆者は、これまで自分が、自分の人生の主役であるかのごとく考えてひた走って来たが、実は、筆者は自分の人生においてさえ、補佐役、助け手でしかなかったことを理解した。助手は、主人がいなければ何もできない。

筆者は、それまでの人生には、誰も筆者を従えることのできる権威者がいなかったのに、それにも関わらず、自分が、誰かに服さねばならない存在であり、そうしてこそ、初めて自分の真価が発揮されることが分かった。自分があたかも神から光をあてられて、よみがえらされる瞬間を待ちながら、墓の中にじっと横たわっている死人のような存在でしかなく、単独では完成に至れないことが分かったのである。

「光あれ」と誰かが命じてくれなければ、存在すらも、あるかどうか分からない真っ暗闇。それゆえ、まことの主人の到来を待ち焦がれて、墓の中にむなしく横たわり、命令を待つしかない存在。苔むしたかび臭い土の中で、見た目の美しさを失いながら、ただまことの主人から「生きよ」との声をかけられなければ、すべてのものから見捨てられ、蔑まれ、忘れられ、踏みつけにされ、生きていることさえ、認められず、痛みも苦しみも否定される存在。それが、自分自身の本質なのであり、被造物の影なる本質なのであり、全被造物が持つ、悲しいまでの「女性性」なのだということが分かって来たのである。

命を吹き込む役割は、男性にしかなく、被造物の象徴たる女性には、単独ですべてを支配する力はない。それゆえ、筆者の役目は、補佐や助け手になることであっても、自分が人生の主人として立つことではない、ということが、その時にはっきりと分かった。同時に、そのようにして、神に対して補佐役をつとめることが、人類の役目であるということも分かったのである。

そこで、補佐役なる私たちは、すべての苦労を、自分のまことの主人と分かち合わなくてはならない。神が私たちの地上での労苦をねぎらってくれて、慰めと、励ましを与えて下さらなければ、私たちが地上で何を苦労してみたところで、その成果はむなしい。

共に喜びと悲しみを分かち合い、心に起きるすべてのことがらを何もかも知ってもらい、これを受け止めてくれる存在がなければ、私たちの被造物としての苦労に、一体、何の意味があるというのだろうか。

筆者は、自分の主張した事実や証拠が認定されないことを恐れたのではない。人生において初めて、筆者は目の前にある存在に対して心を開き、心を分かち合い、筆者の協力を待っている人の命令を聞いて、その守りの盾の中に隠れねばならないことを知ったのである。

それができたときに初めて、筆者は守られ、かばわれ、安全地帯にかくまわれることが分かったのであった。

そのことが分かってからは、筆者はもはや訴訟を自分だけが思う方向へ引っ張って行くのではなく、裁判官と協力して成果を打ち立てなければならないことを理解した。さらに、そこから一歩進んで、裁判官を信頼して判断を委ねねばならないことが分かり、また、そうして判断を委ねるに際し、筆者の主張が邪魔になる場合には、これを投げ捨てねばならないことも分かった。

それは筆者が最も大切にして来たものを、投げ捨てることを意味した。筆者の主張は、筆者の正しさそのものであり、筆者の生き様の集大成でもあり、よすがであり、経験であり、苦労の蓄積でもある。

だが、筆者はそうして生まれた自らの主張も、判断も、すべて放棄することを決めた。裁判官は、筆者がそうした後で、筆者を守ること、筆者の求めに応じて、権威ある命令を下し、筆者を生かすことを約束してくれ、筆者はそれに応えて、その命令に従うと約束した・・・。

* * *

それにも関わらず、筆者が提起した控訴審は、非常に面白い展開を辿った。ひと言で言えば、すべてが、原審判決を鉄壁のように完全に守り抜く方向へと動いたのである。

筆者の理屈が正しくなかったというつもりはない。だが、控訴審においては、筆者が知らなかった制約があった。それは、控訴審における議論は、原審で築かれた議論の土台から一歩たりとも外に出ることができないという制約である。

そのため、原審判決言い渡し後に、原審において提示していなかった新たな証拠を提出しても、それが原審において審理されていた事件の根幹に関わるものでなければ、却下されてしまうという結果になる。

今回、筆者は判決言い渡し後に被告Bが書き加えた記事を、被告Bによる新たな不法行為の証拠として控訴審に提出し、また、被告Aもそれに関与していることを主張し、それにより、原審における主張を補おうとした。

ところが、このアクロバティックな議論と一連の新たな不法行為の証拠は、原審の議論の土台の外にある(原審とは異なる木を接ぎ木しようとするもの)という裁判体の判断により、控訴人が提出した一連の書証そのものが採用されないという結果になったのである。

そこで、裁判所は、筆者の提出した控訴理由書は採用するが、甲号証はすべて却下、また、その後、筆者が提出した答弁書や第一準備書面とその続紙についてもほぼ同様に、原審判決から外に出る議論はことごとく却下した上で、それ以外の部分だけを採用して陳述扱いするという措置を取ったのである。

証拠が採用されない限り、不法行為が認定されることなど絶対にあり得ないから、これでは、控訴自体にほとんど意味がなかったことになる、と思うだろう。それどころか、こんな状態で審理を進めれば、この先、どんなひどい判決が待っていることやら、と。

ところが、そこから先が、裁判所の知恵の見せ所であり、これまで筆者が一度も見たこともない手続きが取られたのである。

裁判所は、以上の措置を取った上で、一回の口頭弁論で審理を終結し、あえて判決言い渡し期日を未定とした。

これは、結局のところ、裁判所自体が、こんな判決は俺たちも出したくはないんだぜ、だから、控訴を考え直してくれやと、言外に言って、当事者に再考を促したことの表れである。

もう少しソフトな表現をすれば、原審判決を維持することが、あなたたち全員の身のためですよ、という言外の忠告を込めて、そうしてくれたのである。

むろん、そんな忠告を、筆者は誰から受けたわけでもないが、現実にはそういうことであると理解した。

こうして、三人の裁判官は、ほとんどやる気のない態度とも見える措置を取って、結論を当事者に投げ返し、弁論をただちに終結したのであった。だが、これは非常に優れた知恵と配慮の結果であり、裁判体は、このようにすることによって、原審判決には指一本、触れることなく、これを守り抜くために一計を案じたのである。

このようにして、裁判所は、審理を進めているふりをしながら、原審の結審時で永遠に議論の時計の針が止まるようにしてしまった。

しかも、その間に、裁判所は筆者と被告A、筆者と被告Bとの審理を、口頭弁論が始まる前に分離し、筆者と被告Aとを別室に隔離して、ただちに和解協議を開始することとした。

被告Aとの間では、口頭弁論さえ開かれず、控訴審でいきなり和解協議の運びとなったのであるが、それも、水面下で実に様々なやり取りがあった結果であり、いずれにしても、裁判所の深い配慮がそこに込められていた。

こうして、筆者と被告Aとが出会わなくて良い措置が取られた一方で、筆者と面識のある被告Bとの口頭弁論においては、遮蔽の措置も認められなかった。

被告Bとの口頭弁論が始まる前、書記官は、筆者がまだ甲号証が却下になることも知らないで、審理の行く末に望みを抱いているうちに、筆者を和解協議のために用意された部屋に導いて、そこで審理が分離され、被告Aとの間では和解勧告がなされたことを告げた。その上で、被告Bとの間では、遮蔽の措置は取られていないと説明し、「出廷しますか?」と筆者に尋ねた。

実は、期日当日になるまで、遮蔽の措置が取られるかどうかも決まらず、筆者はその前日にも、こんなにも決定が遅れているようでは、裁判所に行って良いかどうかも分からず、判断ができないと書記官に尋ねていた。その後、ようやく、期日前日の夕方になって、当事者が顔を合わせなくて済むよう配慮がなされるという漠然とした回答が得られたのであった。

筆者はそれを受けて、てっきり遮蔽の措置は認められるのであろうと考えたが、裁判所は、被告Bとの口頭弁論に遮蔽の措置は取らないと、当日になって言い渡した。だが、それもあくまで表向きのことであり、裁判所は、筆者がそれまでさんざん訴えていた危険について、相当に心ある配慮をなしてくれ、筆者を始めから別室に案内した上で、誰もいないところで、書記官が、遮蔽の措置なしに口頭弁論に出席するかどうかを改めて筆者に尋ねたのである。

「悔いのないように主張をされたいなら、出廷された方が良いと思いますが?三人の裁判官に会うことができるのは、今を措いて他にないですからね」

筆者はこの質問を受けて、悩みながら尋ねた。

「傍聴人がいるかどうか見てもらえますか」

「今の様子でいいですか?」

書記官はそう言って、法廷の様子を見るために部屋を出て行った。

その後、筆者は一人で声に出して祈った。

「主よ、私には何もかもが突然すぎて、こんな状況でどう行動すべきかも分かりません。でも、私の願いは、私の考えではなく、あなたの栄光が表されることですから、私が間違った選択をすることがないよう、何が正しい行動であるか、疑いのないように、はっきりと教えて下さい。」

書記官は法廷を覗いてから戻って来て、傍聴人は現時点で誰もいないが、被告Bとの口頭弁論を、被告Aが傍聴したいと言っている旨を告げて来た。それを聞いた瞬間に、筆者は、出廷してはならないことを確信した。

おそらく、被告らは、筆者が出廷すると考えて、そのために、被告Aも傍聴を希望したものと考えられる。そこでもしも筆者が遮蔽の措置なしに出廷すれば、筆者はまるで捕らえられた獲物のように、見世物として法廷に引き出されたことになってしまう。

どんなに出廷することが権利であるにせよ、霊的にはそのような文脈にしかならない。むろん、そんなことをすれば、原審において、せっかく裁判官が深い配慮のもとに取ってくれた遮蔽の措置も、まるで意味がないことになってしまう。そのような行動を絶対にとってはいけない、と分かった。

筆者はその時、「悔いのないように争いたい」などという願いが、もしも心にわずかでもあれば、それが命取りになるであろうことを、はっきりと理解した。逆に、こういう時は、絶対に争ってはならないのである。

ウォッチマン・ニーが幾度となく書いていた「十字架の装甲」の中にとどまるべきなのであって、その外に一歩でも出れば、命の保障はない。

筆者は法廷という場所に厳粛な思い入れを持ち、また、裁判官という職務を尊敬しているが、だからと言って、十字架の装甲から外に出てまで、彼らに会いに行ってはならないということは理解できた。遮蔽の措置は、それ自体が、装甲なのである。法廷の中には、その一区画がない以上、筆者が、和解協議のための部屋にとどまることこそ、装甲の中にとどまることを意味した。

それに加えて、控訴審が始まる数ヶ月前から、筆者は、今後はもはや裁判官の一存に判断を委ねてはならないと、心にはっきりと示されるものがあった。決めるのは裁判官ではなく、筆者自身であると。

何度か書いて来たように、原審判決をもらった時点で、筆者は、この審理を担当してくれた裁判官から、自ら判断を下すために必要な命を吹き込んでもらったのだと思っている。自分では事実認定をすることもできなかった無に過ぎない筆者は、裁判官から、判決を通して、裁判官によく似た仕事を果たすために必要な力をもらい、これを継承して、新たな職務へと赴いたのである。これは霊的な文脈で起きたことである。

そのことの重大性を自分でもよく分かっていなかった頃は、筆者は再び別な裁判官に自分の判断を全面的に委ねようとしたりもしたが、その度毎に、ひどい事態が持ち上がったため、筆者はそれを受けてようやく、これ以上、誰かの判断に自分を委ねてはならず、むしろ、自ら判断を下さねばならない立場に置かれたことを思い知った。

それゆえ、筆者は、三人の裁判官に会わないことに何の未練も残さず、擬制陳述で済ますことを選んだのである。

書記官が戻って来て、法廷で起きた一部始終を説明してくれた。色々と予想外の事態が起きて、あたかも筆者に対しては不利な措置が取られたようにも見えるにも関わらず、あらゆる点に、裁判所の深謀遠慮が行き届いていることが分かった。

その後、裁判長がやって来て、書記官と共に、別室にいる被告Aとの間を行き来して、和解協議が進行したが、その話し合いの中で、筆者と被告Aとは双方から控訴を取り下げ、被告Aは原審判決が命じた賠償額に相当する解決金を支払うことで、筆者と示談を行うという方向で提案がなされた。

何と被告Aもそれにおおむね同意している旨が告げられた。

実は、これこそ、筆者が控訴審を提起したことの真の成果、「隠れた収穫」だったと言えよう。今まで頑なに賠償を拒み、筆者を非難していた被告Aが、支払いを行った上で和解することに同意している旨が告げられたのである。

このような点でも、控訴審においては、徹底して、原審判決を完全に実現するための条件が整えられたのだと言える。

この先、被告Aとの間で和解が成立したとしても、それは裁判外の示談となるため、原審判決は、いささかの曇りもなく、揺るぎないものとして確定することが予想される。そして、そうなるためにこそ、裁判所はすべての手続きを思いもかけない形で整えたのである。

筆者から見て、数ヶ月間もかけて書き上げた理由書に付随する証拠が採用されていないことや、2名の被告に対して共に勝訴できなかったことは、残念と言えないこともなく、遮蔽の措置すらも取られないことは、当日になるまで、予想もしていなかった結果ではあるが、それでも、こうなったことには非常に深い意味があると、筆者はみなしている。

とにもかくにも、ここが筆者が今、進んで良い限界点であることがはっきりと示されたのである。

おそらく、神は原審における審理の全過程と、筆者がそこで裁判官と約束したことは、永遠に残るという判断をこの出来事によって示されたのであろう。

あの時、筆者は、自分のすべての判断と議論を投げ打つ代わりに、裁判官に紛争を終わらせてもらうための判決を委ねた。どんな判決が下されようと、受け入れる準備が出来ていると言った。だとすれば、その後、状況が変わっても、その時に結んだ約束は変わらず、この裁判官こそが、本訴訟における唯一の裁判官であり、最高の指揮者であり、権威者であることは変わらないのである。

その厳粛な事実を覆してはならず、決してその秩序を変えてもならず、筆者が法廷で議論することは、その秩序を壊すことにつながるということが、はっきりと分かった。筆者は、原審を担当した裁判官に対しては、深い尊敬と愛情のようなものを覚えていたので、たとえ筆者の新たな主張が認められなかろうと、そのために筆者がそしりをこうむろうとも、筆者の正しい主張が退けられようとも、神の目から見て、原審判決が維持されることが、正しい結論ならば、そうなることにいささかの不服もないと考えている。

前から述べている通り、筆者が目指すものは、自分の満足ではなく、真に正しい判断が打ち立てられることなのである。

だが、それと同時に、判決は、人の心に逆らって、強制的に命令を下すものであるため、人の心を変える効果はなく、反発を呼び起こすという側面も持っている。そのために、被告Aは、強制的な命令には従えないとして、これに服従しなかったのであるが、その点を補うために、筆者自身が、被告Aとの間で、和解協議を行い、被告A自身の意思を尊重する形で、紛争を終わらせる手続きを取る運びとなった。

このことは、筆者自身が、人は外側からの強制によっては決して変わり得ないと主張して来たこととも合致する。

こうして、原審判決を崩すことなく、示談を行う可能性が開かれたなど、何と深淵な知恵ではないかと思う。そして、このようなことが可能であることを知るためにも、今までの経験が相当に役に立ったことを思う。そういう意味で、浅はかで愚かな知恵に見えたかもしれないが、自分にできる最善を尽くして、正しい判断を求めたことは、決して無駄には終わらなかったのである。
 
筆者は、恨み深い性格ではないため、きちんと償いがなされれば、どんなに長い紛争があろうと、どんなに深い権利侵害を受けようと、一切を帳消しにする用意がある。

適切な償いがなされるなら、その時点で、被告Aとの間での紛争は永遠に終わることになろう。

なお、被告Bは牧師にも関わらず、筆者を告訴したと答弁書の中で述べており、筆者の主張が控訴審で取り上げられなかったのを良いことに、筆者に対する不法行為責任もいささかも認めておらず、かえってこれからも、自分は筆者に完全勝訴したとさらに誇るであろうことが予想される。

だが、被告Bがそのような態度を取っていることも、控訴審においては、筆者にとってさほど悪い方向へは働かなかった。おそらくは、それがあればこそ、以上に挙げた通り、筆者に対しても、深い配慮が示されたのだと思う。

そして、原審判決が確定に向かっていることは、筆者がこれまで幾度も述べて来た通り、神の僕を名乗って公に活動している人々に対する裁きは、神ご自身が下されることを、よく表しているように思う。

筆者の目から見て、被告Bは明らかに道を踏み誤っているのであるが、そのことが、被告Bをどのような結末に導くか、最終的な結論は、筆者が全く手を加えることなく、神ご自身が自らなされる裁きとなるだろうという気がする。

刑事事件においては、色々と主張しなければならないことが残っているが、それは民事訴訟のように、筆者自身が主張立証を行うことで、当事者同士が対決するという性質のものではない。おそらくは、告訴と告訴がどこかで出会って互いを相殺する結果になって終わるのではないかと予想する。

このように、被告Bとの間では、まだまだ多くの問題が残っているとはいえ、被告Aとの間で、10年間にも渡る紛争が、被告A自身の了承のもとに決着しようとしていることは、実に大きな収穫であり、成果であると言える。

本紛争の難しさは、筆者から見ても、被告Aと被告Bとの行為を分離することが非常に難しかった点にあった。特に、原審においては、両者が意気投合して同じ条件で和解を要求していたため、これに別個に応じるという選択肢を思いつくことさえできなかったのである。

しかし、被告Aは筆者を告訴すると幾度も言いつつ、結局、告訴することもなかったし、脅し文句のように様々な言葉を述べはしたが、インターネット上の権利侵害以上に、手荒な措置に出ることもなく、賠償をしないと言いつつも、結局、支払いに応じる姿勢を見せた。

こういった矛盾の中に、被告Aと被告Bとの性格の違いが非常によく表れているように思う。騒ぎを拡大し、ひどい権利侵害に及んで来たのは、被告Aのように見えるかも知れないが、それはある意味、表面的な様相でしかないと、筆者は考えている。

このようにして、非常にスリリングな展開の中で、控訴審が終結したが、内心では、さすがの筆者も、これ以上の緊張感はもう御免だと考えた。まだ協議は続いているが、その結果をここに詳しく発表するようなことはおそらくないであろう。結果は、ブログに起きる変化を見て判断してもらいたい。

これまで筆者は、控訴審では、原審では十分に議論できなかったより深い議論ができるのではないかと期待していたが、実際には、控訴審の意味合いは、それとは全く異なるものであることも分かった。裁判所は、大学の研究室とは違う。紛争というものは、どんなものであれ、長く続くことは望ましくなく、必要不可欠な限度にとどめねばならない。歴史資料を積み重ね、議論の限りを尽くし、物事の真相を究明するために、裁判所が役に立つと考えることは間違っている。

そういう意味で、筆者は、筆者にふさわしい限度内でのみ、裁判所を利用することができ、法廷闘争の最も残酷な性質を味わわされることなく、裁判所を通じて受けられる恩恵を十分に受け、裁判官や書記官の配慮を受けることができたことは、神の恵みであると考えている。

見世物裁判、魔女狩り裁判のようなものに、筆者は絶対に関わってはならないという天からの命令が下され、そういう戦いからは、はっきりと一線が引かれ、筆者は隔離されたのである。

そして、たとえ判決に事実と異なる部分があり、自らの主張がすべては考慮されていない部分があると感じるにせよ、これ以上、争ってはならず、裁判官と交わした約束は、永遠であるという事実が示されたのである。

ちなみに、原審において、筆者にとって、出頭することの意味は、控訴審とは全く違ったものであった。原審を担当してくれた裁判官は、当事者同士が顔を合わせずに済むよう、電話会議を設定してくれたが、原告は、電話会議であっても、裁判所に来るよう求められていたので、毎回、裁判官と書記官と顔を合わせて手続きを進めることが必要であった。とはいえ、何度も書いて来たように、それは筆者にとって、安全な場所で、裁判官や書記官と同じ目線で、顔と顔を合わせて審理を進められ、お互いが何を感じているかを身近で共有できるという、非常に大きな「役得」となったので、身を削るような緊張感の漂う審理とはならず、むしろ、ようやく助けを求める場所が出来たと安堵できる瞬間となったのである。

筆者は今でも思い出すのだが、海をそば近くにして、法廷ではない閉ざされた小部屋で、裁判官と書記官とに脇を固められるようにして、電話を使って被告らとやり取りしていたあの時空間は、それ自体が、十字架の装甲であったものと思う。少しの恐れも覚えることなく、筆者はそこに通うことができ、裁判官は、筆者の痛み苦しみを理解した上で、快く出迎えてくれた。

それが終わった後では、原審判決それ自体が、筆者を力強くかばい立てする十字架の装甲となった。それが肉眼で見てどのように見えようとも、筆者は、その装甲から一歩も外に出てはならないことが今回、示されたのだと思っている。

重要なのは、理屈の上での正しさではなく、目に見える勝敗でもない。事実が本当に踏まえられた判決が出されたかどうかですらもない。今、筆者がどこまで進むことが許されており、どこからが足を踏み入れることが禁じられた領域であるのか、きちんと見分け、紛争をこじらせるのではなく、解決へ向かわせるために知恵を使うことなのである。

すでに述べた通り、控訴審を提起したことは、被告Aとの間で紛争を終わらせるためには、大きく役立ったので、無駄にならなかったとはいえ、控訴審において、筆者が出廷し、被控訴人らと議論を戦わせる行為は、霊的文脈においては、絶対的に禁じられていたと言えよう。

なぜなら、その先には、当事者が我欲をむき出しにした泥沼の法廷闘争が待ち受けているだけであり、そんなところに足を踏み入れれば、筆者は原審において受けたすべての恩恵をも配慮をも失ってしまうことになるだけだからである。

筆者は、おそらく、これから先の人生においては、原審を担当してくれたただ一人の裁判官だけが、真の裁判官であり続けるだろうという気がしている。それ以外には、どんな裁判官にも、判断を委ねることはもうあるまいと。

まだまだ裁判所を通じて片づけねばならない問題は山積しているとはいえ、本訴訟において筆者に判決をくれた裁判官以外の全ての裁判官は、筆者が自ら判断を下せるように、必要な助言や手助けをしてくれただけであり、この他に、不本意な判断を下した裁判官がいるとしても、それも将来的に是正されるに終わるだろう。

そういうわけで、もはや原審のように、深い共感や理解を互いに分かち合いながら、協力して審理を進めるような手続きは、今後は起きることはないという気がする。その代わり、筆者は何が正しい判断であるかを、誰にも頼らず、自ら決定せねばならない立場に置かれたのである。

こうして、原審を担当してくれた良心的な裁判官は、筆者の人生から去り、おそらくは、望んだとしても、会うことも、言葉を交わすこともできない所へ行ってしまったが、神はとても慰めに満ちた方であり、その代わりに、判決が新たな場所へと筆者を導き、そこで互いに言葉を交わし、眼差しを交わしながら、共に話し合い、励まし合い、協力して進んで行くことのできる稀有な人物に筆者を出会わせてくれた。

筆者は、原審を担当してくれた裁判官にどこかしらよく似たその人から、原審で学ぼうとしていたことの続きを教えられている最中である。その人は、筆者の訴訟に対する考え方を根本的に変えたのみならず、弁護士などという種族に対して筆者が持っていた不信感をも払拭し、真に勝負に勝つとは、ただ表向き、勝訴することを意味するのではなく、むしろ、自分の正義を手放し、自分よりも弱い人の前でひざを折り、負けることによって得られる絶大な勝利がある、ということを、筆者に初めて言葉を通してではなく、実際の生き様として教えてくれたのである。

すでに前の記事に書いたことであるが、筆者は、この人の前に出たときに、自分が正当な主張をしているにも関わらず、まるでそれが間違ったものであるかのように、すべての訴えを自ら撤回し、勝負をする前に自ら敗北を宣言し、自分を打ち破った者に服従することで、筆者自身が守られることになると知った。そうして得られる絶大な利益があることを知り、それが深い愛情と思いやりに基づく犠牲であって、喜んでそうして構わないと思う人々を見つけたのである。

このように、勝負には、様々な「勝ち方」がある。負けながら勝つという方法もあるし、勝ちながら負けたふりをするという方法もあるし、この度、裁判所が見せてくれた方法の中にも、二重三重のメッセージが込められている。そして、紛争の解決のためには、判決における勝敗だけが重要なのではなく、誰もが同意できる形で、納得のいく妥協点を根気強く探り続け、あきらめずに当事者に語りかけを続け、平和を打ち立てるために努力を払うことにこそ、真の解決があることを教えられる。知恵はそのために存在するものである。

だから、勝ち負けや優劣にこだわっている限り、平和など訪れるはずもない。

結局、筆者はこの訴訟においても、それ以外の場所でも、人々を愛するがゆえに、自分の主張を投げ打ち、自己放棄して、他者に栄光を帰することこそ、真に戦いに勝利する秘訣であることを知らされていると言えよう。それを強制されたり、命令されたりしながら、嫌々させられるのではなく、喜んでそうしたいと思う人々に出会ったことは、筆者にとって、かけがえのない財産であり、控訴審の口頭弁論期日の直前に、そのことを学ばされていなかったならば、筆者はどうなっていたかも分からず、そうしたところにも、筆者の信じる神の深い憐れみと知恵に満ちた采配があったことを感じる。

こうして、筆者は自分が義人であることを捨てて、罪人の陣営に下ることを決めたのである。

律法はいささかも揺るぎなく、罪は罪として依然、罰せられるにも関わらず、その罰から人類を救い出すために、神は御子に十字架を負わせ、細く狭い例外の道をもうけられた。

こうして、義である方が、ご自分の義を捨てて、罪人のために罪となられることにより、多くの人々が義とされたのである。

そこで、筆者も自分の義を捨てて、罪人の仲間になることにより、筆者の義が、人々の中に働いて、彼らの義となり、彼らが死から立ち帰って生きる方が、筆者一人だけが義人で居続けるよりまさった結果であるものと思う。

そういうわけで、筆者は、自分が正しい主張をしているにも関わらず、その正しさが認められず、却下されたり、もしくは、自分自身でその主張を放棄するという結果になっても、それを恥であるとも、悔いが残るとも考えない。

これを負け惜しみと受け取りたい人々がいるならば、好きに考えさせておけば良かろう。少なくとも、法廷に出廷せずに、一つの主張も述べずに、悔いを残さないで審理を終えるなど、以前の筆者には考えられなかったことであるが、原審の結審時に、神聖な法廷は、筆者の心の中に移行したのであって、物理空間としての法廷が、筆者に救いを与えるわけではない。

このことは、教会とよく似ている。筆者は幼い頃は、教会に通い、そこに通うことで救いが見いだされるかのごとく教えられて来たが、その後、そうではないことが分かった。救いは、信仰を通じて、信じる者の只中に与えられており、それゆえ、キリストの復活の命を受けた私たち自身が、教会を構成しているのであり、それにも関わらず、私たちが罪から救われるために、あちらこちらの物理空間に通い続けて、助けを求めて麻酔薬を打ってもらう必要はない。

法廷が筆者の中に移行すると同時に、筆者を守っていた遮蔽の措置も、目に見えない領域に移行した。それによって、原告と被告Aとの間に打ち立てられていた霊的な障壁が破壊され、原告と被告Aとは出会っていないのに、接点が見いだされ、神から提示された和解勧告を受け入れる用意が出来たのである。

筆者は、この先、地上のどんな目に見える教会も、牧師も、決して与えることのできないであろう慰めに満ちた命を、自分が人々に分与できることを確信している。

それは、筆者がまことの神から直接、信仰によって受け取ったよみがえりの命である。この命は私たちが人間として地上で受けるどんなに深刻な被害をも打ち消すことのできるほどの圧倒的な力を持っている。

筆者はこの命に基づいて、人々に赦しと、承認と、賛同を与えることができ、それによって、倒れて死んで枯れた骨のようになった人々をも立ち上がらせることができると信じている。また、骨と骨をつなぎあわせ、一つの体にしていく作業にも貢献できると信じている。

それは、筆者が自分の力によってなすことがらではなく、神が筆者を遣わして人々に与えようと願っておられるまことの命によるものである。使徒パウロも、死人をよみがえらせたが、主イエスに従う人々は、主イエスと同じかそれ以上のわざを行うだろうと主は告げられた。

もしも今回、被告Aと筆者とが法廷で出会っていれば、そこには対立しか生まれず、筆者が持っているまことのよみがえりの命も、被告Aに分与されることはなかったであろうが、我々は、肉眼で見える人間同士のつながりを超えて、信仰による見えない絆によって、目に見えない領域で新たに出会ったのである。

その命が、どのようにしてこれから被告Aの中で発芽し、育って行くか筆者は知らないし、被告Aも全くそのようなことが自分の身に起きたとは考えてもいないことであろうが、とにもかくにも、筆者が願っていた一つの解放のわざが実現したのであり、筆者は、被告Aにとどまらず、筆者のもとにやって来るすべての人々に向かって、主イエスの御名によって、彼らがあらゆる告発から解かれ、罪赦されて、病から解かれ、すべての被害を帳消しにされて、力強く立ち上がって、歩き出すことを命じ、それが彼らの身の上に現実となって成就することを信じるのみである。

一瞬だけしかプライドを満たすこともない、つまらない一過性の承認や賛同の代わりに、筆者は、永遠に揺るぎない、神からの肯定的な判決があることを、その人たちに示すことができる。その見えない判決を受け取ることの方が、地上の束の間でしかない満足を得るより、はるかに価値ある成果ではあるまいか。
 
今回の裁判では、どんなに滅茶苦茶な方法であれ、門戸を叩き続けた者が、最終的には、望んでいる報いを得るという結論が示されたものと思う。その意味で、筆者も、被告Aも、全く違った方法ではあるが、熱血的に、自分の求めることをあきらめずに主張し続けたのであり、それゆえ、両者ともに望んでいるものを手にしようとしているのだと言えないこともない。

水が低い方へ向かって流れるように、恵みは、へりくだる者へ向かって流れる。この度、勝ったと豪語する者ではなく、負けたとして踏みつけられたはずの者たちが、恵みを得る結果になっているのは、実に不思議な結果ではないだろうか?

そして、筆者は勝ったわけでもなく負けたわけでもなく、判決言い渡しでありながら、同時に和解であるこの原審判決が、筆者にとって、実に最高最善の贈り物であるような気が今はしている。

干潟から生ける命の水を汲み出すためには、へりくだりが必要なのであって、それを身につけるためには、罪人たちからのあらゆる反抗を耐え忍び、人々のしんがりから着いて歩く覚悟が必要となる。

その作業は、日々、自分の十字架を取って主に従うことにより、成し遂げられるのであって、私たちの死の中に、人々に対する命の力が働く。そうこうしているうちに、ついにはいつしか死の力が最終的に命の中に飲み込まれて、死の棘がことごとく無効化される瞬間を、私たちは見ることができるだろう。

筆者が望むのは、人々が自分を縛っている罪と死の力から真に解放されて、人としての真の尊厳を取り戻すことである。その実現のために、ただひたすら、命を見る瞬間が来ることを願ってやまない。だから、この記事をあまり余計な場所に転載したり、噂話に利用しないでもらいたい。特に、被告Aのことは、この先、そっとしておいてもらいたい。まだ協議は続いているためである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。


死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(一コリント15:54-58)

キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(コンリントの信徒への手紙 二 5:11-21)

* * *

キリストの愛が私たちを取り囲んでいる、押し迫っている、圧倒している・・・。

以上のくだりは様々に訳すことが可能であるが、いずれにしても、海のように広く深い愛が私たちの周りを取り囲んでいる。

筆者はこれまで、真実、正しいことが何であるかが明らかにされるためならば、どんな代償を支払うことをもいとわないと考えて進んで来た。しかし、最近、愛のゆえに、自分の義を捨てることも、可能なのだと分かった。

可能というよりも、まず神が、そのような愛で、私たちを愛して下さり、罪人である私たちを義とするために、ご自分の義を捨てて、罪とは何の関わりもない、正しい方である御子を罪とされたのである。

何の誤りも犯していない正しい方が、罪人のために、ご自分の義を捨てて、罪となられた。それゆえ、私たちは義とされた。十字架に込められた神の深い深い愛情が、最近、ある出来事を通して、筆者に深く伝わって来た。

最近、筆者が主張しさえすれば、その主張が正しいとして、人々の違反が認定されるはずのある出来事があった。時間の経過と共に、深刻な対立が起きようとしており、そこで、筆者が主張しさえすれば、筆者を圧迫する人たちに対して、自分の正しさをアピールし、優位を勝ち得られたはずであった。ところが、筆者はそこで自らの訴えを自分で破棄し、破り捨てたのである。

それは、筆者の主張により違反に定められるかも知れない人々が、筆者を追いかけて来て、筆者をなだめ、心を変えさせたからである。筆者は、その人々が、あまりにも弱く、羊の群れのように無防備で、苦しみと蔑みでいっぱいになり、到底、打撃を加えるに忍びない人々であるのを見て、彼らに対して自分の正しさを主張しても、無意味であると考え、かえって同情心が込み上げて来て、自らの主張を破り捨てただけでなく、彼らの弱さを共に担うことに決めた。

それ以来、筆者は自分の正しさを捨てて、彼らの味方となった。それゆえ、彼らの弱さをも共に背負わされているが、それでも構わないと決めたのである。もしも彼らが罪人であるならば、筆者も一緒に罪人となり、もしも彼らが弱いなら、筆者も一緒に弱くなり、もし彼らが罰せられるなら、筆者も一緒に罰せられ、何もかもを共にして、進んで行こうと決めたのである。

しかし、それは筆者が罪に定められ、弱くなり、罰せられるためではない。むしろ、筆者の義が、彼らの中に働いて、彼らの義となり、筆者の強さが、彼らの強さとなり、筆者の潔白が、彼らの潔白となって、彼らがいかなる違反にも認定されずに、正しい生き方をするためである。

そうなるために、筆者は彼らが弱々しい赤子の状態を抜け出し、大人として立ちあがるまで、そばにいて様子を見ようと決めた。たとえ筆者にとってもどかしいほど彼らが弱く、中途半端に見えても、最後まで共にいようと決めたのである。

筆者はこれまで、人々のために、自分は無実にも関わらず、罪に定められても良いと思ったことは一度もない。むしろ、キリストにあって得られた義は、筆者をあらゆる罪定めから救ってくれるため、筆者が無実にも関わらず、罪に定められるようなことは絶対になく、不当な讒言に対しては毅然と立ち向かわねばならないと考えて来た。

むろん、カルバリで流された血潮がある限り、この先も、筆者が罪に定められることはない。筆者はそれを知っているが、それにも関わらず、この人々のためならば、かえって筆者が罪に定められ、彼らが義とされても構わないと思う人々に出会ったのである。

なぜそのような深い愛情が突然にして生まれたのかは知らない。いや、それは突然にして生まれたわけでは決してなく、最初からあったものなのだが、それが新たに強固な強い絆のようになり、人々の解放を願う心となって湧き起こって来たのである。

この人々のためならば、筆者がどんな風に思われても構わない、ただ彼らがまことの命に至り着き、本当の義とは何かを知って欲しい、そのために、彼らの弱さと恥と罪を自分のものとして共に担おうと思ったのである。

筆者は、自分の思惑次第で、人々の罪を赦すことも、赦さないでおくことも可能であると知っている。だが、赦す赦さない以前に、筆者が手に持っている訴えに記された名前を見て、彼らが罪に定められて滅びて欲しくないという願いが、抑えがたいほど強く心に湧き起こるような人々には、これまで出会ったこともなかった。

そういうわけで、筆者は自分が正しいにも関わらず、人生で初めて、正しい主張を自ら放棄し、罪人の仲間になっても構わないと思った。それは決して悪人と馴れ合い、悪事を見逃し、自分も悪事に手を染めるためではなく、むしろ、彼らが本当の義にたどり着くため、人として真にあるべき尊厳を回復するためであり、そのためにならば、筆者は自分の主張を脇に置いて、後ろに退き、彼らの生長を見守るべきと考えたのである。

そのとき、神が私たちを愛された愛が、筆者の心に押し迫って来た。

このようにして、神は弱い私たちのために、弱さを担われ、ご自分の義をとことん投げ捨てられたのである。

だが、同時に、そこまで筆者の心を変えさせた人々も、なかなかのつわものである。何かしらの相思相愛の関係のようなものが、やはり、初めに出会った時から成立していたのであろう。

この人々は、渇いた地が水を吸い込むように、筆者の中にある愛情と慰めを彼ら自身のために引き出して行った。信仰者でないのに、彼らは筆者の中に、彼らのための解放が用意されていることを知っていた。

彼らは筆者のうわべだけの様相に欺かれず、筆者の心の中にある本当の願いを掴んでおり、それを巧みに引き出して、自分たちのために必要なものを獲得したのである。

* * *

筆者は、筆者を生かすと書いた判決を受け取り、それによって吹き込まれた命を携え、新たな場所に赴いた。そこで干潟を開拓しているのだが、干潟から命の水を存分に汲み出すためには、筆者自身の心を、何よりコントロールせねばならない。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

この御言葉は、私たち信じる者自身が、生ける水を流し出す泉となることを表している。そして、その生ける水の根源となるものは、御霊であり、キリストの復活の命である。

だが、これを流し出すためには、私たちが不信感で心を曇らせてはならず、どんな困難に見舞われるときも、平安の中にとどまり、人々に命を与えることができるという強い確信を、決して手放さないようにしなければならない。

「わた子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。
 わたしの言うことに耳を向けよ。
 見失うことなく、心に納めて守れ。
 それらに到達する者にとって、それは命となり
 全身を健康にする。
 
 何を守るよりも、自分の心を守れ。
 そこに命の源がある。
 曲がった言葉をあなたの口から退け
 ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。

 目をまっすぐ前に注げ。
 あなたに対しているものに
 まなざしを正しく向けよ。
 
 どう足を進めるかをよく計るなら
 あなたの道は常に確かなものとなろう。
 右にも左にも偏ってはならない。
 悪から足を避けよ。」(箴言4:20-27)

目の前には、常に心に思い描くものと相反する光景が広がっている。私たちを失意に突き落とす材料は尽きず、目的の達成が不可能だと思わせる材料は山とあり、忍耐を圧迫する出来事は果てしなく起きる。

約束の地は目の前にあるのに、そこは敵に占領されており、我々のための場所はなく、敵はあまりにも強そうで、我々を傲然と見下ろし、勝利の確信は遠のく。

だが、目の前の混乱に気を取られず、信じ続けなければならない、必ず、この地に目指している秩序を打ち立て、命と平安に至り着くことができると。そこは敵のための場所ではなく、我々のための領土なのである。

* * *

先週から今週にかけて、書面を次々に書き終えて発送した。筆者は時折、紛争に「とどめを刺す」ために、アクロバティックな行為に及ぶことがある。本来ならば、1ヶ月以上の時間をかけて準備すべきところを、一挙に書類を放出する。これは、相手方の主張が筆者に到達する前に、これを空中で相殺するための太刀打ちである。

告発を放置していれば、それは徐々に効力を及ぼし、死の力を発揮する。だから、飛んでくるミサイルは即座に迎撃しなければならない。紛争が持つ強力な罪定めの力を、瞬時に無効化するための時間が用意されたので、必要な作業を完遂した。

こういう作業をしていると、敵は人間ではないということが身に染みて分かる。人間を含め、目に見える様々な事物の背後にいて、これを動かしている悪の勢力が存在する。戦いは人間相手のものではなく、人々の背後にいる見えない悪意を打ち砕くことが目的である。その悪意とは、告発や非難の中に込められた罪定めの力、もっと言えば、罪そのものが持つ死の効力である。

人々には、サタンから発せられた罪定めの火の矢に込められた死の棘が、いくつもいくつも突き刺さり、これがじわじわと効力を発して、人格を傷つけ、肉体をむしばみ、最終的には死へと追いやっている。

筆者は、この死の棘を自分自身からも抜き取り、そして他の人々からも抜き取り、人々を死ではなく命へと向かわせるための作業をしている。飛んでくるミサイルに対しては、迎撃ミサイルを撃ち込まねばならないが、筆者の目的は、人間を攻撃して滅ぼすことにはなく、ミサイルすなわちサタンの放つ火の矢を粉砕・撃墜することで、人々をその火中から救い出すことにある。

そのために、この巨大な死の棘が、これ以上、人々を傷つけることのないよう、命によってこれを飲み込んで解毒・無害化せねばならない。それができるのは、キリストの復活の命を用いる場合のみである。

死を打ち破ったこの命に立つときのみ、私たちは、敵からのどんな攻撃からも身を守ることができる。そこで、この命を引き延ばして、防衛の盾を張り巡らして、愛する人々をその要塞にかくまう。かつては敵対していても、投降して来る人々はことごとく安全地帯に避難させる。

筆者は、敵陣に捕虜として連れて行かれた人々を奪還し、これ以上、誰も敵に渡さないために、心の中で奮闘している。なぜなら、戦いは、まずは筆者自身の心の中から始まり、そこにおいて、筆者自身が、アブラハムが人々のためにとりなしたように、自分自身と周りにいるすべての人々のためにとりなし、勝利の確信を打ち立てなければならないからだ。

心の中から不信感を追い出し、失意や無力感や敵意を追い払い、自分を含め、愛する全ての人々を、確固とした神の守りの中にかくまい、彼らを縛っている罪と死の力が打ち破られるよう主に願い出、敵に奪還された人々を取り返すための作戦を練り、心の中で、勝利の確信が訪れるまで、戦い抜かねばならない。

これまで、筆者はソドムとゴモラに飽き飽きしてそこからの脱出をひたすら願っていたが、今はどれほど嫌悪を催す光景が目の前に広がっていても、神が未だ忍耐されていることを心に覚え、今ひとたび、何とかしてこの世の腐敗から救い出されて、罪赦されて命に至り着く人々が少しでも増えるようにと願っている。

その奮闘の中で、最近、どういうわけか、敵陣から命からがら筆者の陣営に投降して来る人々の数が増えるようになった。見かけは取るに足りない、何らの価値も持たないように見える筆者のもとに駆け寄って来るのである。神の御前でとりなす作業は一人だが、孤軍奮闘する時代が明らかに終わったことを感じる。


わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。(2)

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。


死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(一コリント15:54-58)

* * *

「求めよ、さらば、与えられん」「叩け、そうすれば開かれる」
信仰を持たない一般人の間でも、ことわざのように使われるこの言葉は、実は聖書から来ている。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7章7-12)

ある時、一つの大きな問題をどう解決したものか、考えあぐねていた時、ふとしたことから、裁判官を通じて貴重な助言を受けた。民事訴訟法においても、民法上でも、信義則というものが存在する。これは伝家の宝刀のような規則であり、私たちが普段、法に縛られていることを認識していないようなことがらを裁くときに使える法である。

たとえば、行政法の多くには罰則規定がない。そして、罰則規定があったとしても、行政法は個人の権利義務を定めたものではないので、行政法に違反しただけでは、個人の権利が侵害されたとはただちには言えない。そういう時に、民法上で権利侵害を主張するために利用することができるのが、この法である。

その他、たとえば、訴訟の相手方が、特段の理由もないのに答弁書を送ることを先延ばしにして、訴訟をいたずらに長引かせる行為に及んだとか、何一つ相応の根拠もないのに、準備書面に虚偽の事実を書き記して、相手方への誹謗中傷を書き連ねるなどした場合にも、訴訟における信義則違反を主張できる。

あまりにもひどい内容が訴状や準備書面に書かれており、どのように制止されても、警告を受けても、紛争当事者がそれを聞き入れることもなく、いつまでもただ相手方を中傷するためだけの相応のない主張をだらだらと続けるようであれば、訴訟においても、信義則違反、また、名誉毀損等に問うことを考えた方がよかろう。

裁判官とはどんなに短くとも、話すことがとても有益であると言えるのは、ほんの短い助言から、実に多くのことが分かるからである。

思いもかけない時に受けた助言であったが、それを受けたおかげで、当時、どうしても理不尽なので黙って通り過ぎることはできないと思った問題を、解決する糸口が見え、途中であきらめなくて本当に良かったと思った。

このように、あきらめず根気強く主張を提示し、助言を探し求めることは、決して無駄にはならない。それは警察官との間でも同じであった。今はまだ何も起きていないように見えるため、どれだけ多くの人たちが筆者を支えてくれているのかも、外側からは全く見えないことであろうが、筆者を迫害している人々についても、すべての情報は共有されている。

これまで多くの困難を乗り越えながら、根気強く関わりを続けることで、互いに信頼できる関係が時間をかけて築かれて来たのである。
  
昨今は、そのように不思議な協力関係を生む出来事が続いている。

一つ前の記事にも書いた通り、人々に罪を告げるというのは、とても嫌な役目を果たすことである。 何かを理不尽だと主張したり、他者を告発することは、告発された相手が、それを不快に思い、信頼関係が崩れたり、報復を受けるきっかけとなりかねない怖さをはらんでいる。

筆者はそれでも、悪者にされることを覚悟でものを言うし、どんな相手に対してもひるまない。それを無防備だと考える人も、あるいは蛮勇だと思う人もあるかも知れないが、ところが最近、筆者の周りでは、どういうわけか、そんな筆者の無防備さを、さらに力強い防衛の力によって覆い、どこまでも味方になって追いかけて来る人々が出現し始めた。

筆者が何かを言ったことによって、信頼関係が壊れるのではなく、むしろ、壊れたと思う信頼関係までが、回復することが続いている。そして、それは筆者の力ではなく、上からの力である。

それが始まったのは、昨年の当ブログを巡る訴訟の最中であった。筆者は裁判所以外には主張を訴える場所もなく、他に助言者も協力者もいないような状況で、自ら助けを求めて裁判所に駆け込んだのだが、その際、前にも書いた通り、原告となった筆者は、法廷ではないところで、裁判官と直接、対面して弁論準備手続きを進めることのできる「役得」にあずかった。

そのため、被告と電話がつながっていない時に、裁判官と打ち合わせをすることもできたのである。これは本当に大きな恩恵であったと今も感じている。

ある時、審理が大荒れになり、裁判官が議論を制止して、被告との電話会議が終わった。すでに何度も言及した通り、その時には、被告らから反訴の予告があり、もはや当事者の心はバラバラとなり、原告と裁判官との信頼関係も壊れたかに思われた。

だが、筆者は発言を遮られたその後の打ち合わせの時に、忌憚なく裁判官に心中を打ち明け、激論を戦わせたのであった。

「お願いです、発言を遮らないでください、最後まで言わせて下さい。」

というリクエストから始まり、筆者がこの訴訟にかけている思いの丈を裁判官に伝えたのであった。どんな結果が出ようと、裁判官のせいにするつもりはないと告げ、それでも、明らかにせねばならないことがたくさん残っている以上、筆者はそのために犠牲を惜しむつもりはなく、まだまだ労苦せねばならないこと、そして、筆者が求めているのは、真に正しい判決であり、ただ早く紛争が終わって解決されることではないのだという思いを伝えた。

率直に思っているところを伝えているうちに、裁判官はしまいには事情をすっかり理解してくれたのであった(そのように見えた)。

ちなみに、断っておくと、激論を戦わせたというのは言葉の綾で、裁判官はほとんど心中を述べないので、実際には議論があったわけではない。

それでも、話の最後に、裁判官が、「今、分かったことがある」と、決然とした表情で言ったとき、筆者は、思いが通じた、という気がして、一瞬、表情を緩めた。

だが、裁判官はその瞬間、立ち上がって深々と礼をして、原告と書記官だけを残して、一人部屋を立ち去って行った。

どんな印象を受けたか、どんな結論に至り着いたか、決して当事者の前で自らの判断を口にしてはいけない裁判官の鉄則を守ったのである。

だが、筆者は、まるで返答の代わりに、深々とお辞儀をすることで、「よく言ってくれた。ありがとう」と、言外に言い表されたように感じ、ちょっと面食らい、照れくさくなった。

もちろん、その時、裁判官が筆者の言葉から、実際に何を受けたのかは知らない。だが、当事者の切なる痛み苦しみを、真正面から受け止めてくれた裁判官は、信頼に値するだけでなく、男らしく、頼もしいと感じた。

筆者は、決して安易な慰めの言葉や、自分にとって有利な決定が欲しくて、発言したわけではない。そこには、何の約束も、取り引きもなく、ただ筆者の苦悩があっただけかも知れない。

反訴を予告されるなど、全くもって誰にも望ましくない混乱としか言いようのない状況であったが、筆者は、それでも自分のことを気遣う前に、裁判官に恐怖を覚えてもらいたくなかったし、ただ物事が紛糾して欲しくないという思いから、紛争が手に負えなくなったという印象を持って終わってもらいたくなかった。何よりも、そんなつまらないことで、互いの信頼関係が断ち切れるのが嫌だったのである。

その時初めて、筆者は、どんなことをしても敵に渡しくないと願う人に出会った。というより、自分自身がどんなに追い詰められても、自分をかばうのではなく、自分と共に協力して働いてくれている人をかばわねばならないという心境になったのである。

裁判官の思いは、筆者の思いであり、彼の行動は、筆者の行動であり、その判断は、筆者の人生を左右するものであり、決してこの人を敵に渡すわけにいかないから、信頼を壊すものを排除せねばならないと覚悟して、発言したのである。

だが、その時、筆者が予想していたよりももっと、裁判官には、人の苦しみを深く理解し、受け止める力があり、その用意がある、ということが、言外に伝わって来た。

筆者が語ったことを、決して迷惑だとも、鬱陶しいとも思わない裁判官の態度があった。それは、書面においても同じであった。審理の行く末に影響を与えることがらだけでなく、そうでない内容も、たくさん書いていたが、それを鬱陶しいとか、時間の無駄だから、事実関係に関することだけに的を絞ってもらいたい、などといった忠告を一切受けたことがなかった。

その頃から、裁判所というところは、筆者にとって「干潟」と感じられるようになったのである。誰も取り扱うことができないようなこじれた紛争、誰が本当のことを言っているかも分からないような錯綜した紛争、もつれた人間関係と当事者のおさまらない思い、誰一人受け止めることもできないような深い苦悩の伴う紛争をも、丹念に解きほぐし、事実を究明していく力を持った人々がそこにおり、何よりも、人の深い苦悩を受け止める力を持った人たちがいる。
 
もちろん、裁判所で出されるすべての決定や判決が何もかも正しいというつもりは毛頭ない。証拠がなければ、真実な訴えも、認められないのが裁判なのである。だが、それでも、人々の切なる思いを汲み上げ、真実な裁きを下すことが、裁判所の使命であることに変わりはない。

そして、裁判官の中には、それができるだけの包容力や、理解力も備わっている人たちが、ちゃんといることを筆者は信じている。そして、事実、それを確かめて来たのである。

その上、筆者が不利な立場に立たされても、その時には、また別の人たちが現れて、助けの手を差し伸べてくれるようになった。どういうわけか、後から、後から、助言者や、助け手が現れるようになったのである。

「ヴィオロンさん、こんなにもはっきりと、ものが言えるのはあなただけです。他の人にはできません。私たちは、あなたが自分勝手な思いから発言しているのではないことを知っています。だから、私たちはあなたにバトンを託します。負けないで下さい。」

まるでそう言われているかのように、援護射撃がどこからともなくやって来る。
 
不思議なことに、当ブログを巡る訴訟とは関係のないところで、争いや混乱が起きたり、あるいは起きそうになって、信頼関係が壊れそうになるときにも、昨今は、 聖書に、兄弟から訴えられたらすぐに和解しなさいと書いてある通り、この世の信仰を持たない人たちが、あたかも筆者の兄弟のごとく行動して、和解の手を差し伸べて来るようになった。

「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クォドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:23-26)

信仰を持たないはずの人々が、信仰者を標榜している人たちよりも、もっと真摯に悔い改めて、筆者に和解を呼びかけるのである。

筆者は自分をかえりみない。良く思われようとうわべを飾ることもなく、ご機嫌取りもしないし、誤解されても、弁明しようとも思わないが、どこからともなく、そんな筆者のために、誤解を解こうとしたり、駆け寄って自ら和解しようとしたりする人が現れるようになった。

筆者がどうしても理不尽だと思うことについて、身を挺して本気で主張すると、どういうわけか、すぐに駆け戻って来て、心をなだめ、和解のために手を差し伸べる人たちが現れるのである。

それも、深刻な争いになることを恐れているためでは決してない。その行動の背後に、筆者に対する、もちろん、それ以外の人々に対してもだが、深い愛情や、信頼のようなものが感じられる。

要するに、筆者を惜しみ、筆者との関わりが断ち切れてはならないと惜しみ、そして、筆者の主張の中に込められた真実を見失ってはならないと思うがゆえに、筆者の非難の言葉を聞くや否や、たちまち駆け戻って来て、和解の手を差し伸べるのである。

そういうことが、最近、どういうわけか、連続して起きるようになった。

そんなわけで、これまでのように、意を決して憎まれ役に徹しようと思っても、それができない時がやって来たのである。

つい最近も、当ブログを巡る訴訟に携わってくれた裁判官によく似た経歴を持つ人が、しばらくぶりに筆者の前に現れて、争いが起きるよりも前に、友のように手を差し伸べてくれた。

長い別離の期間中に、誤解はうず高く積み重なり、当初の信頼はすっかり薄れ、互いにそっぽを向いて、関わりも悪化して終わるだけのように思われた。
 
「ごめんなさい。もうきっと遅い(手遅れだ)と思います」

と、筆者は当初、すげなく言ってみたが、相手は全くひるむことなく、しかも卑屈ではない態度で首を横に振った。

「そんなことは決してありません。あなたの主張を私は止めるつもりはありませんが、今ここで話し合っているのに、問題が起きることはありません。あなたが望んでいることを率直に言って下さい。応じられる限度があるとはいえ、できることは応じましょう」

筆者は驚いた。この人には、筆者のような立場のない年下の者からもの申されて、腹を立てたり、プライドを傷つけられたと感じる心はないのだろうかと。そんな人間に自ら譲歩するなど正気だろうか。そこで言ってみる。

「私のような人間から、何かを言われれば、それだけで、信頼関係が壊れた、と腹を立てる人もあると思います。たとえ正論であっても、これ以上、何も言われたくないから、耳を塞ぎ、関係を断ち切る、という人もいると思いますが?」

「確かにそういう人もいるでしょう。でも、私はそうしません。あなたの言っていることが正しいのであれば、それは実行しなければいけないと思います」

筆者は、その相手から、何か反撃らしき言葉が投げかけられるのを待った。怒りだけでなく、蔑みや、嘲笑や、悪意でも良い。だが、その人は筆者を責めない。言いたいことは山ほどあると思われるし、材料にできるものもあるかも知れないのに、決して責めず、攻撃の言葉を使わない。権威を持って威圧しようと思えば、それもできるのに、そうせず、その代わりに、言った。

「でも、あなたも最初に約束してくれたことを守ってくれなくてはいけませんよ?」

拍子抜けするほど、争うつもりのないその姿勢を見て、筆者は、ただ頷かざるを得なかった。当ブログを巡る訴訟を担当してくれた裁判官、そして、筆者に助言をくれた裁判官を思い出すのだが、彼らと同じように、その人にも、筆者のすべての負の思いを吸収し切ってしまうくらいの包容力と理解力があった。

いわば、筆者の側で感じている悲嘆、悩み、苦しみなどは、すべてお見通しだと言えるほど、言葉にしなくとも伝わる人間力のようなものがあったのである。

それだけの理解を受けていることが分かると、どんなに立腹する瞬間があっても、この人の言い分には決して逆らえない、この人を傷つけることはできない、この人と争うこととはできない、と思わされてしまう。

そして、絶対にこのような人を敵陣に渡すことはできないから、何としても信頼関係を失うことはできず、問題が大きくなるよりも前に、関わりを修復しよう、と思わされる。

前から書いている通り、キリスト者はみなそうであるが、筆者にも、人々に対する試金石としての役目がある。確かに、筆者にも未熟なところはあり、それゆえ、誤解が生まれることもあるのだが、その未熟さや誤解もすべて含めて、筆者に対して、人々がどういう態度を取るのかが、その人たちのその後の命運を分けてしまうのである。

もしも筆者が若輩者だから、未熟だから、力がないからと、あるいは性別により、筆者を見下げ、その主張を退け、筆者を踏みにじってしまうと、その後、決定的にその人々は暗闇の軍勢に引き渡されて、その後の人生を狂わされてしまう。

それも、並大抵の狂わされ方ではなく、誰が見てもおかしな人生を送り始めることになってしまうのである。それが、彼らが暗闇の勢力に引き渡されたことの証左である。

ある時は、団体まるごと、暗闇の勢力に引き渡されることもある。そうなると、その団体はもはや栄えることもできず、四、五年もする頃には、何かのスキャンダルに見舞われて不正が明らかになるだけである。

だから、筆者は、愛する人々を、決して敵に渡したくないという願いを持つようになった。人々が筆者に対する恨みに燃えて、自分は裏切られた、見捨てられた、罪に定められた、プライドを傷つけられた、信頼されなかった、という思いだけを抱えて、生涯を地獄の業火で焼かれて、憎しみと復讐心だけを糧に過ごすようなことには決してなってもらいたくはないし、もしも人々の心を取り戻せるなら、何としても取り戻したい。

昨今、筆者に和解の手を差し伸べた人は、筆者の非難の言葉をことごとく吸収してしまい、筆者の新たな要望をかなえる代わりに、筆者にも新たな約束をさせた。

敵かも知れないと身構えていたその人は、筆者に向かって、頼もしい友になれと、有力な助言者になれ、参謀になれ、カウンセラーになれ、といったニュアンスのことを言ったのである。

筆者はまたしても驚いてしまった。筆者よりも強い立場にある者が、筆者に助言を求めるなど、あって良いものだろうか。しかも、あわや敵対関係に陥るかというときにである。

だが、そのへりくだりに、筆者はすっかり戦闘意欲を失い、むしろ、懐柔されてしまったのである。争い事としては、これでは徹底抗戦ができないので、敗北なのかも知れないが、人間関係としては、そうではない。

むろん、これは最終的な和解というよりも、むしろ、おそらくこれから提携して大きな困難を乗り越えなければならない奮闘の始まりとなる可能性があるが、それが分かっていても、やはり人は孤軍奮闘するのではなく、協力することでしか立ち向かえない困難があることを思わされる。

筆者は、これまで自分の持っているエネルギーの使い道がよく分からず、悩んで来た。職場などでも、博士号を持っているか、博士課程で学んだような人たちを何人か身近に見かけたが、その人たちはいずれも、常人を上回る非凡で圧倒的なエネルギーを持っていた。

それと同じように、司法試験を受けて裁判官や弁護士になったりする人々にも、常人の及ばない巨大なエネルギーがあると思われる。それは生まれ持った人間としての器の大きさ、力量の大きさである。

しかし、これまで筆者は、そういう人たちに関わることも非常に少なかったので、自分の持っているエネルギーを上回る力を持つ人に出会うこともなく、筆者の主張や思いを真正面から受け止める力量のある人もおらず、それだけの知識や、経験を持つ人もおらず、助言を受ける機会も、理解を示してもらう機会もほとんどなかった。

むしろ、弱い犬ほどよく吠える、といった具合に、力の弱い人は、自分が攻撃を受けていると少しでも感じると、もうそれに耐えられず、ものすごい勢いで吠えかかってきたりもする。

悪意などなくとも、ほんのちょっと誰かから何かを言われただけで、生涯、恨みに燃えて、復讐しようなどと考えるほど、器の小さい人も、世にはいないわけではない。

だが、大きな犬は、小型犬から吠えられても、びくともしないし、ゆったり構えている。それどころか、遠くから小型犬の姿を見かけただけで、威圧せずに、敵対心を和らげることもできる。

大きな犬と小さな犬が、仲良く互いの面倒を見ていたり、犬と小鳥が友達になったりしているのを見るのは、とても快い、慰めに満ちた光景である。

そういうことが、人間としての器の大きい人には簡単にできてしまう。敵対者さえ魅了し、自分に対するすべての不利な訴えを、何の策略も打算もなしに、到達前に空中で打ち砕いてしまうことができる。

だが、それには、人間としての力の大きさがものを言うだけでなく、やはりへりくだりのためであろうと思わずにいられない。

人々が、自分よりも弱く、無力な者の訴えの前に、率直にへりくだり、悔い改めや、和解や、譲歩や、償いによって、新たな関係を結ぶことを申し出るのを見るとき、何かしら得も言われぬ感動を覚え、彼らが立ち帰ったことが、我がことのように嬉しく、筆者はそういう人たちに対して全く闘う意欲がなくなってしまうのである。

以前には、筆者は主張を受け止められず、むなしい奮闘しかしていなかったかも知れないが、今は、筆者よりも強くて、心ある善良な人たちが、筆者の悲しみも、痛みも、苦しみも、怒りも、悩みも、ためらいも、小骨を取り除くように、丹念に取り去って行ってしまうので、筆者は議論の途中で、むしろ、彼らのファンか、心強い味方か、友のようにさせられてしまう。

これは明らかに筆者よりも強い者が現れたことを意味する。筆者にはない力を持ち、そして、筆者の弱い所を覆い、欠けた所を満たし、痛みを和らげることのできる共感能力と権威を持った人たちが、一人ならず現れ始めたのである。

そういう状況に、筆者は深い慰めを覚えている。

動かない壁に向かって、何かを訴え続けるのは、とても骨の折れる作業であり、それが耳の痛い苦言を他者に向かって呈するような内容であれば、嫌われたり、憎まれ者になることも覚悟せねばならず、非常につらいことである。そういう風にしてまで、何かを言わねばならない立場は、孤独かつ痛みに満ちたものである。

しかし、それを聞き入れて謝罪と償いと和解のできる人たちが次々と現れるとき、その言葉の意味は全く違ったものとなる。

筆者が、他人に悔い改めを迫るなど、全くおこがましい作業に思われるかも知れない。だが、筆者は、指導者や、権威者としてそんなことを他者に向かって命じているのではなく、人を辱めるために言うのでもなく、ただ自分自身のやむにやまれぬ思いを、そして、正しいと信じることがらを打ち明けているだけである。
 
筆者自身も、筆者の言葉も、未熟で不正確な部分があることであろう。それにも関わらず、人々が筆者の呼びかけの前に、へりくだってひざを折り、対立を乗り越えて、自分の歩む道を変えて行くのを見させられるとき、何かそこに筆者を超えた力が及んでいることを思わないわけにいかない。

筆者の忠告を無用なものとして退け、憤りに満ちて立ち向かったり、無視して通り過ぎるのは、実に容易である。それなのに、取るに足りない筆者の忠告の前に、自らひざを折り、へりくだり、あなたには何が必要なのかと問うて来る人々の姿を見るとき、また、彼ら自身にも、筆者の力が必要だという言葉を聞かされるとき、何か今までとは全く違った関係性が出来つつあるのを感じる。

筆者がどんな人間であれ、真実を訴えたことで、壊れない関係が現れたのである。うわべだけを取り繕い、互いの耳に心地よい言葉ばかりをささやきあっているから、関わりが続くというのではなく、本当のことを言っても壊れない、これまでとは異なる関係が、次第に、姿を現し始めたのである。

こうして、決裂し、壊れるはずだった関係が、修復され、告発されていた人が、罪赦されて歩き出すのを見、裁判所へ向かう道すがら、訴えたはずの相手が追いかけて来て、和解を呼びかけ、償いを申し出、途中まで書いていた訴えを、筆者が自ら破り捨てることとなり、判決によって不法行為の認定を受けて当然の相手が、潔白となり、それを見て、筆者自身が、まるで自分が解放されたかのように、大いに喜ぶ・・・。

そんな具合に、悔い改めと、罪の赦しと、償いと、和解が、これでもかというほど連続して起き、人々が解放されるのを見ることで、筆者は、本当に喜びと感動を覚えるようになった。
 
しかも、それによって筆者が傲慢になったり、栄光を受けたりすることもないのである。相変わらず、筆者は見栄えのしない干潟そのものであり、権威を持って命令する立場にはなく、むしろ、うわべは、筆者が罪に定められているようにしか見えないので、何かが筆者の功績だとたたえられるようなことは決してない。

筆者にとって大切なのは、自分自身ではなく、人々が正しい道に引き戻されて、自分を縛っていた罪による告発の力から解放されることである。

病も、死も、根本的には、何もかも人を縛る罪の力から来る。

その力を源から断ち切ってしまうことにより、人々は解放される。だが、そのためには、誰かが彼らに対して真の意味での和解勧告をなし、人との和解だけでなく、神との和解の可能性があることを告げなければならない。

知らずに罪によって浸食されている部分に対し、十字架の切り分けの力がどうしても必要なのである。

筆者は、そういう意味で、筆者自身の中に、何か非常に不思議な解放的な力があって、それをこれまで周囲の人々が、何としても引き出そうと、筆者に殺到して来たのを知っている。だが、それを引き出す秘訣を知っている人たちは非常に少なかったため、多くの人々は、それを得られないまま、むしろ、筆者の不倶戴天の敵のようになって去って行った。

だが、そうした決裂が何度起きても、今なお、筆者は自分の中に「干潟」が存在していることを知っている。そして、これが機能するための設備を建設し続け、その可能性を開発し続けている。

そうしていたところ、その設備が間もなくフル稼働するというときに、真っ先に、その水が欲しいと名乗り出る人たちが現れるようになった。筆者が常に追い詰められて、生きるだけで精一杯となり、その上、争ったり、戦ったりしているだけのように見える中、どうして彼らは、それでも、筆者の中に、彼らのための慰めや解放や平安が用意されていることを知っているのか。

なぜ筆者から甘い言葉を聞かされるのではなく、耳の痛いことを言われている最中に、筆者の中に、彼らのための慰めがあることを、この人々は察知するのだろうか。
 
だが、他ならぬ筆者自身が、それが確かにあることを知っている。そして、それが現れるために、筆者自身が、打ち砕かれねばならないことも知っている。そのために、一時的に、誤解を受けたり、憎まれたり、悲しみを負うことも避けられないのであり、栄光ではなく、痛みや、恥や、蔑みを負わねばならない時もある。

だが、たとえそのようにしてでも良いから、何とかして、罪の力から、死の力から、人々が解放されて、自由になって欲しいというのが、筆者の切なる願いであり、そのためにこそ、筆者は天の秩序を地に引き下ろそうとして奮闘しているのであって、そのためにこそ、すべてを主張している。

それは、告発のための告発ではなく、人々が告発から解放されて、自由になるための第一歩である。

なぜそんな苦労を背負わねばならないのか、知らないが、それでも、ただ心の命じるままに進んで行くのみである。何があっても、その奮闘を恥じるつもりもなければ、自ら退却するつもりもない。

だが、本当に不思議なことに、わざわざ決意のほどを語らなくとも、以上に記した通り、人々が筆者の敵になるどころか、自ら謝罪と償いと和解を求めて、駆け寄って来るようになった。しかも、それがすべて信仰を持たない世人ばかりであることに、筆者は改めて意義深いものを感じている。

今、救いをもたらす福音は、もしかしたら、神の家から取り上げられて、その他の人々に向いているのかも知れない。
 
これらの人々は、筆者の人生において、出会うべくして出会わされているのであって、多分、これからもかけがえのない役目を果たしてくれるだろうと思わずにいられない。

いずれにしても、それはすべて主のなさる解放のわざであって、筆者の手柄ではない。

当ブログの題名の通り、高く掲げられるのは「私」ではなく「キリスト」ただお一人なのである。彼は栄え、筆者は衰える。それが命の水が流し出されるための唯一の原則である。

今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。

あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。

今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。
「正しい人がやっと救われるのなら、
不信心な人や罪深い人はどうなるのか」
と言われている通りです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」(Ⅰペテロ4:12-19)

兄弟たちは、小羊の血と

 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

* * *

夏が終わると同時に、筆者の心の休暇も完全に終わり、筆者に与えられた厳しい任務の全容が見えて来た。

人を助けることを仕事とするために、筆者は相応しい仕事に就き、干潟を開拓している最中であると書いた。しかし、人を助けるためには、人に対して優しい態度を取るのではなく、逆に、人の欲しない事柄を告げて、厳しい態度を取らねばならないという逆説があることを思わされる。

人間の欲望を助長し、人間を甘やかし、人間の罪を大目に見ることと、人を助けることは、正反対なのである。

筆者の訴えを裏づけるために、憎まれたり、嫌われる役目を果たしてくれた大勢の人たちがいる。警察も、行政の役人も、裁判官も、他者に違反を突きつけ、犯人を悪者とし、上から指導したり、有罪を宣告するために働かなくてはならず、その意味で、彼らは決して人に優しい仕事をしていない。

だが、そのようにして他者を罪に定めねばならない悲しみを知っているがゆえに、この人たちには、筆者がなぜ他者を告発するような訴えを出さざるを得なくなったのかを理解するだけの深い同情や思いやりもあった。

すべてがすべてそういう人たちばかりだったとは言わないが、不法行為は裁かれなければならないとの信念のもと、彼らの多くが、忠実に役目を果たしてくれたのである。

だとしたら、筆者は、彼らの仕事の成果を無駄にしないように働かねばならない。他人には、厳しい罪の宣告を口にさせておきながら、自分だけは、人に受け入れられ、誰にも苦言を呈さなくて済むよう上手く立ち回り、甘言だけを弄して、彼らの積み上げた仕事の成果を自ら台無しにするような生き方をするわけには行かないのだ。

そういう意味で、次第に、筆者自身が、彼らと同じように、権威を持って他者を裁くという立場に立つ時が近づいているのを感じる。もはや裁判官や、警察官や、弁護士や、役人など、宗教指導者はもちろんのことだが、誰か自分以外の権威者に決定を委ねるのではなく、彼らの果たしてくれた功績を基礎として、その上に、自ら判断を打ち立てねばならない時が近づいているのである。

聖書の神は、決して人類に媚びて、人に甘い顔をされる神ではない。

以前、当ブログでは、旧約聖書において、神がどれほど厳しい宣告を自らもしくは預言者を通じて人類に突きつけられたかを列挙したことがある。

ゼファニヤ書などは冒頭からこのように始まっている。

「わたしは地の面から
すべてのものを一掃する、と主は言われる。
わたしは、人も獣も取り去り
空の鳥も海の魚も取り去る。
神に逆らう者をつまずかせ
人を地の面から絶つ、と主は言われる。」(ゼファニヤ1:2-3)

人を地の面から絶つ・・・何度神はそのような宣告を人類に対してなされたことであろか。すべては人類の罪のためであった。

神は決して人類に対し、決して媚びて語りかけられるようなことをせず、一貫して、人類が耳を塞ぎ、足早に逃げ去り、聞かされたくないと願うような宣告を突きつけ続けて来られた。

神が人類に突きつけられた事実とは、人類は罪を犯し、神に背いており、生まれながらに死の宣告と永遠の滅びの刑罰にしか値しないという内容である。そして、その宣告の集大成が、カルバリの十字架なのであり、そこでキリストが受けられた死の刑罰こそ、生まれながらの人類にふさわしい神からの最終的な「判決」であり、恥辱に満ちた人類の真の姿だったのである。

だが、私たちはその刑罰をキリストだけに押しつけ、自分は一切無関係で生きて行くのでは、いつまで経っても、その贖いは、私たちのものとはならない。

自分で自分を十字架につけたり、自分で自分を苦しめたり、蔑む必要はないとはいえ、それでも、私たちには、日々、主と共に十字架を負う姿勢は必要である。主の十字架が私たちに適用されるからこそ、私たちはもはや罪の宣告を受けなくて良くなるのであり、その代わりに、その十字架が、罪赦されていない罪人と、私たちの間を、決定的に分けてしまう。

だから、この十字架の切り分けにより、私たちがどんなに和解を願っても、決して和解することもできず、一つになることのできない人たちが出現して来るのである。

地上の裁判官の最も主要な仕事は、他者に対して罪の宣告を下すことである。裁判官は、紛争当事者に和解を勧めることもあるが、最も重要な仕事は、やはり判決を書くことにあると言える。しかし、判決は、実に多くの場合、訴えられた者の不法行為を認定して、賠償を命令するものとなる。

裁判官がその役目を果たしてくれるからこそ、原告はそれによって救われるのである。

しかし、もしもこの世の裁判官が、判決を書く際、権力者や、宗教指導者や、企業の代表や、有名人などといった、この世で力と名声を持つ人々に媚び、自分が彼らに恨まれたり、報復されること怖さに、彼らをできるだけ罪に問いたくないと考え、この世の権力者に有利な判決を書いたとすれば、そんな訴訟に、あなたは原告として何を期待することができようか。

ところが、そういう日和見主義的な裁判官も、この世には相当数、存在するものと思われる。だが、裁判官に求められるのは、そんな自己保身や、この世の名声に気を取られ、この世の権力を持つ者を擁護し、彼らの罪を無罪放免したり、彼らに有利な決定を下す姿勢ではない。

そんな裁判官に訴訟を委ねるくらいなら、自らが判断した方がはるかにましなのである。だが、それを考えるとき、やはり、自分が恨みを買うことも恐れず、判決が憤りや反発を呼び起こすことも十分に理解した上で、それでも事実を厳粛に見据え、たとえ権力者であっても、悪者に対しては厳しい宣告を下すことが、人にとって非常に困難を伴う作業であることも分かる。

裁判官は、この世の権力者に媚びてはならないだけでなく、人類そのものに媚びてはならない。人類というものに幻想を抱き、人間を美化してとらえ、人間がそんなに悪いことをするはずがないとの先入観から、人をできるだけ罪に問いたくないなどと考え、どんな罪でも、できるだけ赦すべきだなどと説いて、和解勧告ばかりを行ったり、不法行為を認定して厳しい判決を書くべきときに、かえって不法行為を大目に見る判決ばかりを書き続けていたのでは、この世の秩序は崩壊してしまう。

そういう意味で、裁判官の仕事は、決して生まれながらの人類を満足させることにはなく、人間の罪なる本質をできる限り明らかにすることは避けて通れない、と言えなくもない。

このように、あらゆる紛争においては、誰かが命を得るためには、誰かが罪を宣告されねばならないという側面がある。罪人に対して、いつも容赦する決定が下されているのでは、誰も報いを得る者はない。赦しがあるとしても、それは、悔い改めと、謝罪と、償いのあとにもたらされるものであり、罪の自覚がないところに、謝罪も、償いも、赦しも、あるはずがなく、人は悔い改めない限り、罪赦されることなく、神に立ち返り、義とされることもないというのは、聖書の事実である。

そこで筆者は、キリスト者に与えられた使命は、どこかしら、この世の裁判官と似ており、決して、この世に迎合し、その罪を大目に見ることではないのだと知らされる。バプテスマのヨハネが、人々に悔い改めを迫ったように、十字架が、今も人類に対する罪の宣告なのであり、それゆえに、そこにはりつけられている人類の罪なる本質を決して見誤ることなく、その事実に立って、すべての物事を見据えねばならないのだと思い知らされる。

そういう意味で、筆者の仕事は、決して人間にとって喜ばしいものではないし、そうであってはいけないのであって、この世において真に正しい裁きが実現することを願うなら、筆者自身が、人類に対して媚びて甘い判断や決定を下してはならないのであって、決して人間的な感情から、対立を恐れ、違反を容赦してはならないのだという厳しい現実があることを思わされる。

おそらくプロテスタントもそうであるが、地上のキリスト教のあらゆる組織や団体が、地の塩としての役目を失ったのは、人助けと称して、この世に迎合し、人間が「恵まれる」ことだけを目的に、自己満足的なイベントを追及し、人類に対して甘い言葉しかかけなくなったためであろう。

カルト宗教にはすべてそういう要素がある。偽りのキリスト教は、偽りの救済論に基づき、罪ある人々が、罪を悔い改めずとも、罪あるままで、自己救済によって、救いを得ることができると説く。

偽りのキリスト教には、キリストの十字架の贖いがないので、そこには、その代わりに、人類の自己流の「罪滅ぼし」がある。それは一生続き、人生のすべてを投入してもまだ足りないのであって、罪滅ぼしのために、カルトの集団生活があり、不法行為が存在すると言って良い。

つまり、カルトの集団生活とは、人類の自己救済の手段なのであり、カルト宗教が犯す不法行為のすべては、彼らが結局、返済しきれない罪の負債をごまかして終わるための自殺行為のようなものなのである。

当初は「世界救済」などという名目をつけて、善行を行っているように見えても、そこで行われているのは、結局、自己救済のための不毛な「罪滅ぼし」である。

しかし、今日の組織としてのキリスト教にも、この世における労働にも、それと非常に似た要素が見いだせる。

最近、ふとしたことから、プロテスタントにおいては、2017年に日本信徒前進大会なる奇怪なイベントが催されていたらしいことを知ったが、そこに出席した信徒も、「恵まれる」どころか、きっとその正反対の災いしか受けなかったであろうと確信する。

以前には、こうしたイベントは「リバイバル」を売り物にしたお祭り騒ぎ的な内容のものが多かったが、クリスチャン・トゥデイの記事を読む限り、今は殺伐とした世相に合わせて、終末を感じさせる内容にシフトしつつあるように感じられる。

だが、どんな内容であれ、こうしたイベントは、すべて筆者にはマサダの自決へと続く「蛇の道」であるように思われてならない。以前から、「喜びの集い」や「リバイバル待望集会」や「聖霊降臨待望会」や「再臨待望集会」などと、様々な名をつけては、全国各地の信徒たちが、集団決起大会のようなイベントに、鈍行を乗り継ぐなどしながら、多大な時間的・経済的負担を負って駆けつけていたことを筆者は知っている。

しかし、筆者は、個人的には、それらのイベントのすべてが、要するに信者が浮世のすべての悩みを忘れ、我を忘れて現実逃避するためのまやかしでしかないから、そのようなイベントが、信者に幸いをもたらすことは決してないどころか、彼らの生活を後退させるだけであるとみなしている。

ノアはこの世に身を置いて、世人から嘲られながら、箱舟を建設していたのであり、洪水が来たときに、初めてノアの信仰の正しさが明らかになった。

ところが、今日の実に多くの信者たちは、洪水が来てもいないのに、早々と箱舟を作ってその中に閉じこもり、この世に出て行って奮闘するどころか、この世と接触して悩み苦しみを受けるなどたくさんだとばかりに、自分たちの間でしか通用しない特別な掟を振りかざし、特別空間としての箱舟に逃げ込み、いつか洪水が来て、自分たちの引きこもり生活の正しさが証明されると言っては、自分たちは「選民だ」と互いに囁き合い、慰め合っている。

その間にも、時は流れ、世の中では様々な事件が起き、彼らの家庭においても、子供たちが苦しんだり、夫婦が争ったり、彼らが自ら責任を果たして積極的に解決しなければならない出来事がたくさん起きるのだが、この人々は、信仰のイベントこそ、人生の中心であるかのようにみなし、彼らにとっては無菌室に等しい、居心地の良い特別の閉鎖空間(箱舟)に閉じこもり、そこから独自の理論を振りかざして物事を口先だけで論じているだけなので、この世においていかなる問題が起きても、見向きもせず、その解決に取り組むことも、責任を果たすこともない。

彼らはただ箱舟にさえ乗っていれば、この世のすべての困難は自動的に解決されるかのようなまやかしの救済論に身を委ね、実際に汗水流して取り組まなければならない様々な現実的な困難に取り組むことを自ら放棄して避けているので、そのような状態が長く続けば続くほど、現実に起きる様々な問題に対処する能力が低下して行き、この世も、彼らが現実逃避にいそしんでいるうちに、ますます悪くなって行くだけであり、彼らにはそれを止める力もない。

結局、この人々は、この世に正しい秩序をもたらすために働いているのではなく、この世の悩み苦しみから手っ取り早く逃避し、我を忘れるために、イベントに駆けつけているだけで、その現実逃避が「救済」であるかのように錯覚させられているだけなのである。

その光景は、カルト宗教の集団生活と何ら変わることはない。まだ地下鉄にサリンを蒔くところまで至っていないだけで、その末路は非常に厳しいものになると、筆者は予測せざるを得ない。

もっと進んで言えば、こうした特別なイベントだけでなく、彼らが何より重んじている日曜礼拝、教会生活そのものが、カルト宗教の集団生活と何ら変わらない、「現実逃避」なのであって、それは信者が自分自身の真の罪ある状態から目を背けるための「引きこもり生活」と呼んだ方が良いものであると筆者は感じている。

もしも彼らが真に現代のノアでありたいならば、この世に積極的に出て行き、そこにおいて、たとえ嘲られ、自分が劣勢にあるように思われても、粘り強く戦って、不正義の中に正義をもたらすために努力を重ねるべきであろう。

いつまでも手をこまねいて待っているだけで解決する問題などあるはずもなく、「自分たちは選民だ!」と豪語しながら、身内だけで集まり、自画自賛を重ねるだけで、世が罪を認めて彼らのもとにやって来ることは決してなく、天を地に引き下ろし、正しい秩序と裁きが、この世に実現するために、時を無駄にせず、労苦を惜しまないで取り組むべき様々な問題がある。

さらに、信仰者には、世に勝利した者が着いておられる。それなのに、なぜ大胆に世に出て行くのではなく、むしろ逆に箱舟など作って、そこに引きこもる必要があるのか。

「神から生まれた人は皆、世に勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(ヨハネの手紙一5:4-5)

その信仰はどこへ消えたのか。その不安心理はどこから来るのか。筆者はとても奇妙に思う。

だが、そういうことになるのは、きっと彼らが真に十字架の贖いを受け入れて、罪赦されていないことの証なのであろう、と思わざるを得ない。

これは恐るべき逆説である。病院は、病人のために必要な場所であって、健康な人のための場所ではない。同じように、地上の組織や団体としての教会は、罪人のために存在するのであって、罪赦された人のためには必要ない。

イエスは、病を癒し、罪を赦すために来られたが、イエスの救いにあずかった人々は、自由になって召し出されて行ったが、その救いを拒んだ人たちは、どこにも召し出されることなく、かえって隔離されてしまったのである。

誰も彼らを力づくで隔離したわけではない。だが、彼らは罪赦されていないからこそ、自分たちは清められなければならないと考え、いつか罰せられる日に怯えて、身を寄せ合い、かばいあうために、バリケードを作り、そこを自分たちの安全地帯とし、神からも人からも顔を伏せて生きているのではないだろうかとみなさざるを得ない。

だが、自分たちがいつまでも罪のゆえにこの世から隔離され続けているなどとあまりに恐ろしすぎて認められないので、自分たちは贖いのために精進を重ねているのであって、聖化の途上にあるなどといったことを自分に言い聞かせ、何とかして罪赦されていない現実の恐怖から目を背け続けているのではあるまいか。

つまり、この世で一般的に教会生活とみなされているものは、いわば、己が罪を自己申告した人々による隔離生活のようなものであって、罪赦されたという確信がない限り、その人たちは、何度でも、罪悪感を薄めてもらうための投薬を求めて、隔離病棟に通い続けるしかないのである。そのような生活を重ねれば重ねるほど、罪の赦しが得られるどころか、ますます赦しは遠のき、不安と、ごまかしが増し加わって行くだけである。

そういう生活は、はたから見ると、カルト宗教の驕りに満ちた「世界救済」を目的にした集団生活と何ら変わるところはないように見える。だからこそ、その末路も、カルト宗教と同じものになるだろうと筆者は感じているのである。

5年、10年、あと何年かかるか分からないが、毎年のごとく繰り返されているこうしたイベントが、いつか最後には破滅的な内容になるだろうとの予感を持たないわけにいかない。

だが、そのようなことは脇に置いておこう。今までずっと書いて来たように、筆者の目から見れば、この世における労働も、実は、教会生活と本質的には全く変わらない、人類の自己救済のための集団生活(隔離生活)なのである。

あの悪名高いカルヴァンの予定説――人は救いの確信を内側に持つことはなく、神にしか、誰が救われるか分からないという、あの荒唐無稽な説が、救いの確信を持てない大勢の人々に不安を抱かせ、その不安心理から逃れるために、人々が労働に励む――という悪循環を作り出す。

その労働とは、とどのつまり、神に救われているかどうかが分からない人々が、自己の不安と罪意識から逃れるために、外側を飾って、自分が善行に励んでいるように見せかけるための、自己救済としての終わりなきバベルの塔建設の試みに他ならないのである。

だから、そのような文脈での労働は、従事すればするほど、ますます神への反逆としてその本人に豊かさではなく、死と呪いとをもたらすものとなってしまう。

筆者はある時にそのことに気づき、こうした悪循環としての労働からは退かねばならないことに気づいた。そして、自己救済のための労働ではなく、真に意味のある働きをせねばならないと理解した。

だが、その真に意味のある有益な仕事とは、筆者が当初考えたような、単純な人助けではなかったのである。

裁判官の主要な任務が、人の罪を告げ知らせ、場合によっては、死さえ宣告せねばならないものであるように、やはり、信仰者に与えられた最大の任務も、人に罪を告げ知らせ、裁きと、処罰の日があることを告げて、悔い改めを求めるという、この世では栄光の少ない仕事なのであろうという気がしてならない。

人類の耳に心地よい自画自賛の言葉をささやき、誰に対しても「あなたの罪は赦された」と言うのはたやすい。だが、違反と、罪の宣告を厳しく告げなければならないときに、そのような心地よい言葉ばかり並べて、罪人を大目に見ているならば、後でひどい処罰がその人自身に下るに違いない。

人々に率直に罪を宣告し、謝罪と、償いを求め、この世において、地の塩としての役目を果たすことは、非常に苦労の多い仕事であり、それは、人間にとっては、同胞を敵に回すがごとく、とても気の進まない、憎まれる、嫌な仕事であり、この世における報いも非常に少ないように見えるだろう。

だが、それを果たさなければ、私たちキリスト者に地の塩としての価値はないのである。そして、救いとは、この世から離れたところに存在する内輪の集まりでもなければ、集団生活でもない。

私たちはこの世のあらゆる不合理の只中に立って、決してそこから逃げることなく、その最中に正しい裁きと秩序がもたされるよう、奮闘しなければならない。

そして、十字架において御子の贖いが達成されていればこそ、私たちの奮闘にも、勝利が約束されているのである。この勝利の約束から、私たちはすべてのものを引き出す。地上における助力者も、必要な物資も、適宜、必要な時に届けられる情報も、慰めも、決定も、必要の何もかもである。

神の国と神の義を第一として生きている限りにおいて、私たちには、地上生活においてすべての必要を満たされることが約束されている。そして、真に命の豊かさに至り着く道を、見つけたいと願うならば、この優先順位は、決して逆転されてはならない。地上において人前に栄光を受け、人に喜ばれ、受け入れられることが、神から喜ばれ、栄光を受け、受け入れられることよりも優先されるようなことは、決してあってはならないのである。

当ブログが、神の御前に立ち続けることができているのも、それがあるためなのである。

もしも筆者が世に迎合し、さらに世に迎合している偽りのキリスト教に迎合し、人の恨みを買いたくないとか、争いを避けて通りたいというだけの理由で、地の塩としての役目を果たすことをやめて、罪人の罪を大目に見ることを始めたなら、当ブログも、役目を終えたものとみなされ、踏みつけにされて終わるだけである。
 
歴代預言者のすべてが同じ細く狭い道を通った。このように、キリストの十字架の贖いの正しさを主張するならば、どうしても人々の罪を告発するという仕事を避けて通ることはできない。神と人(富、世)との両方に兼ね仕えることは絶対にできないのである。
  
そういう意味で、この先の道は、今まで以上に狭き門、細い道となることであろうと思う。現代のキリスト者が最もなさなければならないのは、おそらく、神の家を支配する穢れを告発し、これに触れないようにしながら、本物の見えない神殿を構築することなのであろうと思う。

かつて多くの人たちが、日本のプロテスタントの嘆かわしい現状を訴え、改革に着手しようとした。その人たちが、真に御言葉に立って、神の家を告発していた間は、いかにその言葉が厳しくとも、神もその人を守って下さったことであろうと思う。

だが、その人たちは、みすぼらしい干潟のほとりで、神からのみ栄光を受けるために、人からは忌み嫌われる仕事を忠実に果たすことをやめて、かえって人からの栄光を受けようと、不公平な判断を下し、ついには、神の家を支配する穢れに自ら迎合し、干潟など見るのも嫌だと、きらびやかな公共事業を建設する方向へとなびいて行ってしまった。

その結果、彼らは堕落し、不法行為に手を染め、かえって筆者がその人たちからバトンを奪い、その人たちに罪を告げ知らせるという厳しい任務を任されている。
 
だが、筆者は、もしも地の塩としての役目を捨てるなら、誰であろうと同様のことが起きるであろうと理解している。

私たちは一体、何に依拠して、他者に対して厳しい宣告を突きつけることができるのか。カルバリで下された神の判決に立ってである。それがあればこそ、この世の何人をも恐れずに、私たちはあるがままの事実を彼らに対して宣告することができる。逆に私たちが世に媚びることは、十字架を曲げることであって、神を敵に回す行為を意味する。

筆者はこれまで地上の紛争を通して、裁判官が筆者を死地から救い出してくれるように考えたり、あるいは、警察官に助けられたり、善良な上司や、信仰の友に出会い、それによって、大いに救われたように考えて来たこともあったが、事実はまるでそうではないことがよく分かった。

そういうものはすべて神が備えて下さった束の間の条件の一つに過ぎず、それらすべての条件を超越したところに、キリスト者は立たされている。そして、最終判断はすべて、キリスト者自身が、誰にも奪われることなく、自ら下さねばならないのである。それは、神と二人三脚で進む孤独な道であって、そのようにしてすべてを自ら判断することができなければ、どんな困難をも人は切り抜けることはできない。

このようにして、他者に対して罪の宣告を行うという筆者の「任務」は、この先もずっと続くであろうし、それが筆者の仕事なのだということを、筆者は理解させられている。そのために、誤解や、迫害を受けることも、当然に予測される試練のうちであるし、もしこの「任務」が真に必要なものであれば、それを切り抜ける方法も、必ず天に備えられているはずである。

「キリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。」と聖書に言われている通り、それは何ら恥ずべき試練ではないし、いつか重い栄光で報いられる時が来る。

だから、もしもあなたが箱舟を作りたいならば、心の中に、神と自分とのみが入れる箱舟を作り、そこに避難しなさい。鳥が高い高い崖の上に巣を作り、そこに我が子を置くように、決して他者の入り込めない高みに、小さな安全地帯を設け、そこで、神と一対一で、誰にも知られないひそかな語らいを持ちなさい。いつ、誰に対し、どんな判断や決定を下さなければならないか、あなたが人々に何を告げねばならないかも、そこで考え、主に相談して決めなさい。

そうすれば、そこでひそやかに下された決定が、やがて大きな影響力となって、地上の出来事に波及し、あなたは自分の下した宣告が、まるで動かせない判決のようになって、すべての物事に効果を及ぼすのを見るだろう。

悪者は断ち切られ、正義が実現されて、命の水と、豊かさが川のように溢れ流れる。だが、そうなるまで、あなたは祭司として身を清め、神の御前で多くの孤独な時を過ごさねばならない。決して世に媚びたり、迎合したり、報復を恐れず、人からの寵愛を失うことを恐れず、非難されることを恐れず、神との間に、誰をも置くことなく、自分のすべてを、神の国とその義を地上に実現するために捧げなさい。

カルトの集団生活からは、何一つ生まれるものはなく、そこにあるのは、嘘と、虐げと、不法行為だけであるが、あなたが人の目からは完全に隠れたところで、生きておられるただお一人の神に捧げたものは、何一つ忘れられることはなく、豊かな報いと共に返される。地上の人々は、あなたの生き方を損だと言って、あなたが自分の幸福をすべて後回しにしてむなしいもののために身を捧げていると嘲るかも知れないが、恐れることはない、主はあなたの労にちゃんと報いて下さるからである。


罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

このところ、人の罪の赦しという問題について考えさせられていた。

紛争が起きた際、なぜ途中で和解することのできる人々と、そうでない人々が分かれるのだろうか。その違いが生じるポイントを考えると、やはり、罪の悔い改め(反省や謝罪)と償いができるかどうかにかかっているだろうと思わされる。

聖書には、兄弟から訴えられた場合には、早く仲直りをしなさいという忠告がある。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クォドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)

これは早く謝罪と償いをして仲直りしておかないと、罪に問われて、返せないような負債の返済を命じられるかも知れない、という警告である。

この世の紛争においても、早期に和解することができなかった場合、紛争は長引き、時と共に、その告発の内容もより重くなって行く。

不思議なことに、起きた事件の性質は変わらないのに、時間の経過と共に、告発の書面がうず高く積みあがり、訴えられる罪の重さが増し加わって行くのである。

さらに、時間の経過と共に、関係性もより修復不可能となる。徹底的に事実を争えば争うほど、和解は遠のき、互いの印象が悪くなり、いつか最後には、罪を犯した者には、容赦のない裁きが下る時が来る。

この世の裁判は、私人間の争いであり、被害を受けた者が自ら被害を立証し、主張を争うので、判決が確定するまでは、事実の認定も確定せず、最後まで、どちらが勝つか分からない駆け引きのような部分がある。

担当裁判官の裁量も大きくものを言い、基本的に文系の人間である裁判官には、得意分野もあると思われ、不得手な分野については、どんなに証拠があっても、公平な判決が下せない場合もあると見られる。

しかし、行政機関に出される各種の訴えは、それとは種類が異なる。これは基本的に、被害の立証の責任を、訴えを出した本人が負うものではなく、最低限度の主張があれば、それに基づき、訴えが受理され、その後、行政機関が自ら捜査・調査を行う。

そういった種類の訴えは、受理された時点で、ある意味では、出した本人の手を離れる。その後は、手続きとしては、自動的に粛々と進んで行くことになるが、そこにある種の怖さがある。

なぜなら、そうした手続きは、事件の加害者と被害者が相対して事実関係を徹底的に争いながら、共に解決を目指すというものではないので、ゼロから主張を争う民事裁判とは異なり、基本的に、出された訴えに基づき、違反を裏づける方法で調査が進む。

民事裁判では、基本的に、訴えた人も、訴えられた人も、平等に扱われるし、当時者のどちら側からでも、裁判の行く末を見据えて、判決が下る前に、和解を提案することができるので、条件さえ合致すれば、いつでも争いに終止符を打てる。

いかに対立しているとはいえ、法廷で相対していれば、責任を持って向き合っているという意識が生まれないわけではなく、それにも関わらず、心から憎み合うのは難しいだろう。

何よりも、民事訴訟は、処罰を求める性質のものでないため、判決が下されて不法行為が認定されても、最終的には、金銭的な支払いで事は終わる。

ところが、刑事事件などの場合には、民事訴訟のように、当事者の主張が大きくものを言うわけではなく、当事者の意を汲んで捜査が行われたり、審理が進められるわけでもない。

加害者は、起訴されれば、被害者とではなく、国(検察)と対峙することになり、疑わしい訴えは、初めから受理されないため、高度な政治性を含む事件でない限り、罪の大小はともかく、何らかの違反が確定する方向へ向かって、事件が進められて行く。

事件の当事者が法廷で顔を合わせて議論を戦わせるわけではないので、そこには心理的な要素が働きにくい。だが、それゆえに、厳粛に処罰へ向けて事件が進められるという、ある意味では、容赦のない側面があるように筆者には感じられる。
  
以下のサイトでは、日本の法律では、「被害者が加害者に対して制裁を加える復讐などの自力救済を禁じている」と記されており、被害者が加害者に自ら報復しないためにこそ、刑事事件の手続きが存在すると解説されている。

 「誰かを刑事事件で訴えて処罰を願うなんて・・・」などと、犯人を訴えることを、何かしら、あるまじきことのように思っている人があるならば、人が自分で復讐することに比べ、こうした手続きが存在することの意味を、今一度考えてみた方が良いだろう。
    
刑事事件とは、傷害、窃盗、痴漢などの、いわゆる犯罪行為をしたと疑われる者(被疑者、被告人)について、警察や検察といった国の捜査機関が介入し、その者が犯罪を行ったのかどうか捜査を行い、裁判において刑罰を科すかどうか等について判断を行う手続のことを言います。

日本の法律は、被害者が加害者に対して制裁を加える復讐などの自力救済を禁じていますので、被害者に代わって国家機関が加害者の責任を追及し、最終的に刑罰という形で制裁を加えることになります。刑罰を科すためには、原則として、刑事裁判を起こすことが必要です。そして刑事裁判を起こすことができるのは、検察官のみとされています。

すなわち、刑事事件は、国を代表する検察官vs犯罪を疑われている被疑者・被告人という構図になります。

【弁護士監修】刑事事件とは?|刑事事件手続きの流れと民事事件との違いについて
   
 ここには書かれていないが、不慮の交通事故のように、特に加害の意志があって起きたわけでもない事件も、多数、刑事事件に含まれている。犯人が不明のまま進められる事件もある。そのような事件が毎日のように無数に裁かれ、世の中の秩序が保たれている。

刑事事件の他にも、行政が取り扱っている訴えがあり、裁判所で審理が行われないものもあるが、基本的に、出された訴えに従って、違反を裏づけるために調査が行われるという点では、同様である。

それは、和解の余地もなければ、当事者の了承もないまま調査が進められ、ある日、証拠が積みあがった時点で、違反が認定される方向で、結論が下されるという点で、軽微な内容の訴えであっても、筆者から見ると、非常に恐ろしい側面のある手続きである。

筆者が、違反を宣告されることを恐れているがゆえに言うのではなく、その手続きの事務的な進み方が、民事訴訟に比べて、非常に厳粛だと考えるため、ある種の畏怖を覚えるのである。

筆者は、当ブログを巡る訴訟もそうであったが、訴えを出すときには、二本立てで進めるのだと書いたことがある。

筆者自身の印象を言えば、民事訴訟は、非常に人間的な要素が強く、当事者感情が大きくものを言う争いであり、なおかつ、証拠の分量やら、主張の立て方で、同じ事実を巡っても、結論が180度違って来たりもする。
 
民事訴訟では、口頭弁論などの雰囲気次第で、相手方を罪に問いたくない、という感情が当事者一同に生まれたり、逆に、赦せないから何としても不法行為を認定したい、などの感情に傾くこともある。あるいは、訴訟に疲れたから、事実はどうあれ、もう争いをやめよう・・・などという結論になだれ込むこともあるだろう。

だが、民事訴訟において、様々な感情に見舞われつつも、これと並行して、当事者感情があまり大きく働かない別の訴えが並行して静かに進められることによって、感情に流されて冷静さを欠く判断が最終的に下されて、それが最終的に確定することを防ぐことができる。

これを保険のようなものだと言えば、不適切なたとえかも知れないが、なかなか自分の感情を客観的に見つめることのできない当事者にとっては、非常に重要な参考材料なのである。

そのことを最近も、筆者は、和解不可能かつ、心理的要素があまり大きく働かない別な訴えの進行状態を観察することを通して、学習させられた。

筆者があたかも不利な立場に立たされて、解決がより遠のいているかのように思われた問題について、筆者の知らないところで、粛々と進められていた手続きの進展が、伝えられたのであった。

前回、書いたように、筆者にも、できれば、誰をも罪に問うことなく、誰の処罰なども願うことなく生きていければ、それが最善だという願いがある。

人を罪から解放し、滅びから救いたいと、私たちクリスチャンの信じる父なる神は、願っておられるはずである。

私たち信じる者が、それにも関わらず、誰かを罪に定めることを心から願うはずもない。

だが、そうした願いとは別に、おそらく、人の犯す罪の中には、人の思惑次第で、赦して終わりにできる罪と、そうでない罪が存在するのではないかと筆者は思う。それが、和解できる人々と、そうでない人々が分かれる根拠なのである。
 
「和解しないって、ヴィオロンさん、それはあなたの心が頑なだからでしょう?」などと問う人があるかも知れないが、筆者は、和解は、願ったからと言って、かなうものではなく、和解できる条件と、そうでない条件が存在し、たとえ和解を拒むことによって、紛争の解決も遠のき、自らの負担も増えるとしても、事実がきちんと明らかにならず、誰も罪を認めることもなく、反省すらもしていないうちに、和解が成立することはないとみなしている。

それは民事訴訟と刑事訴訟の違いにもどこかしら似ているかも知れない。
 
この世の罪人は、ある意味では、自分が気づいてもいないうちに、神と人から二重に訴えられている存在だと言っても良いかも知れない。
 
人が人に対して犯した罪も、確かに罪であることは間違いないが、聖書における罪の概念とは、何よりも、人が神に対して犯した罪を指している。

人が人に対して犯した罪は、忘れられることもあれば、気づかれないこともあり、訴えが出されなければ、ないこととして扱われるかも知れない。当事者が赦そうという気持ちになれば、そこで終わる。

しかし、人が神に対して犯した罪は、人が自らの力で決して取り除くことができず、どんなに償いをしても、償いが完了することもなく、処罰が完了しない限り、決して忘れられることはないものである。

罪が赦されるためには、刑罰を受け切らなければならないが、その罰たるや、永遠という時を費やしても、まだ終わらない刑罰なのである。
  
人類は生まれ落ちたその瞬間から、すでに堕落しており、罪を犯しているのであって、やがて神から有罪宣告を受けることが確定している。従って、人類は訴えられている存在であり、その事件は、人類が気づこうと気づくまいと、粛々と終わりに向かって進められている。

検察が犯人を訴え、その罪を追及して処罰を求めるように、人が神に対して犯した罪は、決して訴えとして取り下げられることなく、決着がつけられるまで、事件は続行して行くのである。

そして、人が自分が罪により訴えられていることさえ知らず、滅びの宣告へ向かってひた走って行くのか、それとも、途中で気づいて、神と和解する道を探るのか、そのどちらかしか選択肢はない。

基本的に、この訴えに和解というものはなく、刑罰を受ける以外に道はないのだが、それでも、何事にも例外があるように、人類が滅びの刑罰へ突入することを逃れる方法がただ一つある。

それは、人が生きているうちに自らの罪を悔い改めて、キリストの十字架上の贖いを受け入れることである。

まず己が罪を悔い改め、次に、自分自身では償いきれないその罪に対して、神が自ら与えられた神の独り子なるキリストの十字架上の贖いを受け入れて、神と和解すること、それだけが、永遠の滅びの刑罰の例外として、人類に与えられた救いである。

* * *

だが、人がこの贖いを受け入れるに当たり、大きな障壁となるものがある。

それは、多くの人が、自分が生まれながらに罪人であることを認めることができないということである。

それは、人が人に訴えられた時点でも、和解できるかどうかを決定的に分けてしまう大きな違いとなる。

すでに述べた通り、人が人と和解するためには、罪を認め、反省し、謝罪し、償いをするというプロセスが必要となる。罪を認めない人間を赦すことは、誰にもできない相談である。

人が神と和解する時にも、その原則は同じである。

だが、世の中には、どうしても罪を認めることができず、悔い改めることも拒む人々が出て来る。

たとえば、異端化したキリスト教には、罪の概念もなければ、悔い改めもない。

カルト思想は、世界が滅びに瀕していると教え、そこから人類を救済することが自らの使命であると教え、独自の救済論を唱えるが、その救済のために、不法行為を正当化する。

世界を救うという大義名分さえあれば、どんな不法行為を行っても罪にならないと教える。たとえば、ハルマゲドンを近づけて世界を滅びから救済するためならば、地下鉄にサリンを蒔いても構わない、というのがその典型例と言えよう。

しかし、筆者が当ブログで述べて来た問題は、異端と闘い、カルトを是正すると言っている人たちの中にも、実に多くの人たちが、カルトを取り締まるためならば、不法行為を行っても、罪にはならないとして、いつの間にか、カルトや異端とほとんど変わらない思考に陥ってしまっているという事実である。

カルト宗教は、教祖の考えに従ってさえいれば、そして、カルトの集団生活に従ってさえいれば、救いから除外されないと教える。しかし、実際には、教祖も集団生活も、信者を救わないどころか、より一層、誤った道に導き入れるだけである。

ところが、キリスト教の中にも、同じような考えを信じている人々が見られる。牧師の教えに従い、日曜礼拝に通ってさえいれば、救いが保たれるというのである。

さらに、キリスト教徒であると告白し、カルトの脅威と闘うと豪語している人たちの中には、カルトと闘う自分たちこそ、世界を滅びから救おうとしている救済者であるかのようにみなし、カルトの脅威を阻止するという大義名分さえあれば、自分たちがどんな不法行為を行っても正当化されるかのように思い、法の裁きに身を委ねず、自ら報復行為に走りながら、自己正当化をはかる人々が、かなりの数、出現して来た。

強制脱会活動なども、そうした誤った考えに率いられた運動の一つである。カルトの脅威に立ち向かうなどと言っても、本来は、人が自分で報復しないためにこそ、法律が存在するのであるから、そこに任せれば良い。

たとえすぐに願っている通りの結果が得られないことがあっても、粘り強く戦い抜き、諦めずに主張を提示し続ければ良い。

それなのに、ある人々は、法的措置に出ることを野蛮な手段であるかのように言いながら、報復のための私刑を容認する。カルト宗教に対しては、報復しても構わないと、独自の理論を振りかざし、他者に対する人権侵害を容認する。

一体、なぜそのようなあべこべな考えが成立するのか、筆者には未だ分からない。目的は手段を決して正当化しない。カルトとの闘いやら、世界救済といった名目がついているからと言って、不法行為は正当化されないし、人権侵害は人権侵害に他ならない。

ところが、その人々は不法行為を犯しながら言う、自分たちは「カルトの脅威から人々を救う」ために闘っているだけだと。そして、恐ろしいことに、多くの人々が、それを聞いて頷く。

まるで昔、我が国で地震や火事がある度に、民族的マイノリティが攻撃されたことを思い起こさせるような風景である。「カルトの脅威から人々を救う」と言いながら、その攻撃の対象は、カルトへは向かず、かえって最も弱い、無実の人々に向いて行く。

「自分たちはカルトの脅威に脅かされている」と感じている人々が、集団となって、身を守る術もない弱い人々を攻撃し、大勢の人々は、黙ってこれを見物し、不法行為が犯されているのを見ても、不満のはけ口が見いだされたのは良いことだと言わんばかりに、それを見て見ぬふりをし、悪だと認識する力を失ってしまう。

筆者にとっては、これは極めて異様かつ不可解な光景である。

こうした現象に、抗う力もない今日の組織としてのキリスト教とは何なのかという疑問を、深く覚えざるを得ない。

筆者は今でも聖書への信仰に立つキリスト教徒なのであるが、前から書いている通り、だからと言って、たとえば、統一教会の信者を脱会させるために、人権侵害を容認して良いとは全く考えない。カルト宗教の信者が相手であれば、何をしても良いとは、考えることもない。

そのような人権侵害を伴う強制的な脱会活動を、「自分たちは正しい信仰を信じているから、救いを知らない人々に、これを教えてあげなければならない」という自負のもとに正当化して来たプロテスタントのあり方も、正しいものであるとは、筆者は考えない。

そして、プロテスタントが今日に至るまで、こうした強制脱会活動に対して、一度たりとも、これを反省する公式声明を出したことがないことも、恐るべき問題であるとみなしている。

反カルト運動だけが誤っているわけではない。聖書の信仰それ自体は正しくとも、以上のような誤った理念を生む母体となった組織や団体のあり方に、根本的な歪みがあるのではないかという気がしてならない。

そして、そういう活動を疑問にも思わない人々が、プロテスタントのあり方に絶望したと言ってカトリックに去ったところで、少しも問題は解決しないまま、未来に先送りされて行くだけであると筆者はみなしている。

当ブログを巡る訴訟の背後には、そうした問題が隠れている。

人間的な感情としては、筆者は誰をも罪に問いたいとは思わない。

だが、ここには、筆者の思惑次第では、どうにもならないほど大きな問題が横たわっていて、罪人への処罰は、筆者の感情次第で取り除けるものではない、ということを思わされる。

前から書いている通り、それが、当ブログを巡る訴訟が、一審判決で終わらなかった理由なのである。

一審判決が不完全であることは知りながらも、筆者はそこで紛争を終わりにするつもりであった。そして、当事者が完全に争いを放棄した状態は、非常に美しい平和的な解決のようにも見えた。

判決に100%満足がいかずとも、どうせこの世における争い事なのであるから、そこで、事実が完全に明らかになることなど期待しても仕方がない。まずまずの成果があれば、紛争を早期に終わらせて、そこから解放されることの方が、大切ではないか?

そういうわけで、筆者はある程度の成果があれば、そこで立ち止まるつもりであった。特に、何かしらの償いめいたことがらが成就して、約束が守られさえすれば、その後は、誰がどこでどう生きて行こうと、全く関与するつもりもなかったのである。

関係者の尽力は得られ、かなりの達成が得られたように見えた。

ところが、事件はそれで終わりにならず、筆者の感情をも裏切った。

そして、今も裏切り続けている。それはこの事件に限らず、他の場所においても同じであり、筆者がどんなに願っても、解決する争いと、そうでないものが分かれる。

和解を願っても、成立する場合と、そうでない場合がある。

兄弟に訴えられた人が、大急ぎで戻って来て、赦しを乞うこともある。そうなれば、筆者も心を和らげて、早期和解を模索し、すぐに争いは終わり、調和に満ちた美しい解決が訪れる。

赦すと決めたなら、筆者は二度とその人たちの罪を思い出すこともない。

だが、呼んでも、戻って来ない人たちがいる。筆者は、どんなに人を罪に問いたくないと考えても、貫徹せねばならない戦いがあって、結果が明らかになっていないのに、中途半端に諦めることも、退却することもできないことが分かる。

この世の判決に完全を願うことが、どんなに無理な注文であることが分かっていても、筆者には、それでもそれを踏み超えて、前に進まねばならないと分かるだけである。

人の思惑がどうあれ、ただ納得のいくところまで進み、成果を打ち立てねばならないことが分かるだけなのである。

何を明らかにしようとしているのか、自分自身で分かっていなくとも、それでも進んで行かなくてはならない。

これは同胞を刺し通したレビ人の剣であり、非常に喜ばしくない任務である。

ある時点までは、筆者から見て、行政機関の動きは遅く、とてもではないが、そこに何一つ正義など期待できないように見え、また、民事訴訟の判決には、初めから期待しても無駄であると見えていた長い時期があった。

それらはしょせんこの世の動きであって、聖なる事柄を裁くにはあまりにもレベルが低すぎる。それゆえ、もともと期待できることなどないし、期待する方が愚かである、と筆者は考えていたのである。

それにも関わらず、この地上においても、訴えを貫徹して行くときに、そこに成果が現れて来る。たまたま良い裁判官や、親切な警察官や、働き者の行政職員に出会ったから、成果が出たという話ではない。

時には、つきあいたくないと考える人を相手に、長時間、忍耐をすり減らす交渉を行い、これ以上の苦労はたくさんだと互いに思わされるまで、主張をぶつけあうような関係にあってさえ、徹底的に主張を貫徹すれば、成果が打ち立てられることが分かるのである。

従って、必要なのは、この世の規範とはかけ離れた、何かしら聖域のようなものを作って、そこに逃げ込むことで、自己の安寧を保とうとすることではなく、不完全かつ混沌として、しばしば不正義が支配するだけのように見えるこの世の中で、根気強く、正しい裁き、正しい解決、悔い改めと、真の和解を目指して、進み続けることなのである。

そうして、この世に正しい裁きを引き下ろすために、奮闘し続けるからこそ、その戦いに価値があるのであって、初めからこの世になど何も期待できないとあきらめて、自分の作った安全圏に逃げ込むことが、解決策ではない。

そこで必要なのは、現状がどうあれ、願っている目的を達するまでは、最後まであきらめずに主張を貫き通す姿勢である。徹底的に物事の真相を明らかにしたいと願い、また、そうするために努力を惜しまない姿勢があれば、この地上においても、目的の達成はそれなりに得られるのであり、それを合法的に、達成することができる。
 
こうして、物事を明らかにしたいという筆者の願いは、ただ個人的な願望を言い表しているのではなく、真実が明らかになり、正しい裁きが行われて欲しいという、筆者の切なる願いに基づいている。
 
最終的には、正しい裁きを行われるのは、神であるから、人が地上で事件を裁くときにも、ただ単に人間的な観点から見て、満足の行く結果が得られることを目指すのではなく、そこで真実が明らかになり、正しい裁きが反映されるようでなくてはいけないし、それを目指すのでなくては意味がない、と筆者は考えている。

つまり、天を地に引き下ろすことが必要なのであって、そのために奮闘があるのだと言えよう。
   
これまで筆者は、地上において様々な人たちに関わり、彼らに判断を委ね、彼らの協力を得て進んで来た。だが、少しずつ、そうした人々から筆者は離れつつあり、最終的には、他人に判断を委ねるのではなく、自らこれを決定する姿勢が必要となるだろうと思う。

もちろん、地上で物事を裁くのは私たち自身ではないのだが、罪を赦す権限も、赦さないでおく権限も、実はキリスト者が有している。私たちが出した訴えが、その後、どうなるのかは、地上の裁判官やら判事やらにかかっているのではなく、私たち自身が、その事件に対してどういう態度を取るかにかかっている。
 
この地上で、正しい裁きを求め、それが実現するように、あくまで法に従い、許された範囲で奮闘して行くとき、ある人々に対しては、どうしても、筆者の思惑や感情次第で、訴えを撤回することができず、罪の赦しも成立しない場合があることを思わされる。

考えたくもないことであるが、それはもしかすると、その人たちとは、和解の道が、永遠に閉ざされているからなのかも知れない。

筆者自身は、ためらいもすれば、悩みもする人間の一人に過ぎず、自ら対立を願うわけでもないし、他者の人生を変えようと願っているわけでもない。他者の心を変えるのは、筆者の力ではできず、いたずらに紛争を起こしたり、人が破滅に至るような影響を、誰が及ぼしたいと願うだろうか。

だから、筆者はただ最後まで、人々に立ち帰って、自らの罪を悔い改め、過ちについては、早々にこれを改め、生き様を変えるように呼びかけるだけなのであるが、そんな筆者の考えや思いとは別に、厳粛に手続きが進み、筆者自身が赦す・赦さないの問題を別として、いつかは罪を犯した人々には、何かしらの違反が認定されて、宣告される時が来ることを思う。

たとえ多くの人々が、筆者の試みは、成功に終わらないと高をくくっていても、筆者にはその時が来ることが分かる。

そうなる前に、謝罪と償いができるかどうかは、それぞれの人々に与えられた運命的な選択である。

聖書によれば、神は憐れもうとする者を憐れみ、心頑なにしようとする者の心を頑なにされる。従って、誰がへりくだって罪を悔い改め、神と人と和解し、自らの罪を赦されて、告発から解放されることができるのか、それは神が決められる事柄であって、罪を認めて悔い改めること自体が、人自身の功績ではなく、恵みとして与えられるものなのである。

筆者はそのことを思う。

干潟の恩恵に浴するためには、へりくだりが必要である。そして、そのへりくだりとは、人間の本質について、これを粉飾することなく直視する姿勢を含むかも知れない。

自分に対しても、他者に対しても、うわべを飾り、本質を偽る都合の良いものの見方をせず、人間が堕落している事実をあるがままに認め、その上で、人が塵に過ぎないことを認識し、互いを生かし合う関係を双方の側から模索することができるかどうかにかかっているであろう。

そうしていたわり合い、赦し合い、理解と配慮を示し合うことができれば、人は互いに告発し合う不毛な関係からは脱することができる。それは、ただ罪人同士が目くばせし合って、互いの罪を大目に見るという意味での「配慮」ではなく、自分の犯した過ちの有害性を知っていればこそ、これを深く悔い、他者の痛みにも共感と配慮を示すことが出来、しかし、だからと言って、自分を否定するのでもなく、あるがままの地点を出発点として他者と向き合い、それゆえ、他者もその事実をあるがままに認め、その罪を赦して和解に至り着くことができるという新たな関係性である。

罪を認めても、それが終わりではなく、現実的な出発点となり、また、罪を認めたからと言って、人から拒まれるのでもなく、かえって赦されて新たな関係に入れる。
  
だが、自分自身を偽り、自分にはいかなる罪もないと、自分を粉飾したままでは、現在地も分からないのに目的地へ向かうようなもので、偽った土台の上には、自分の人生設計も立てられないばかりか、他者との正常な関係も築けない。

従って、己が罪を頑なに認めないで自己正当化をはかる人々は、一時的には勢いがあり、正しいように見えるかも知れないが、その土台はひび割れ、水漏れがし、やがては偽りであったことが暴露される。

どんなに他者に偽りを吹き込み、自己宣伝に明け暮れ、自分を誇大に見せかけて、一時的に優勢に立っても、それが真実でないならば、必ず、その勢いは覆されることになる。

人が自らの罪を認めるとは、あたかも人が自己の存在を全否定することのように思われるかも知れないが、そうではない。賢明な人は、それが全面否定どころか、死の宣告を回避するための最善の策であることをすぐに理解する。

愚かな人は、一時的な面子にこだわり、その後の人生を失うが、賢明な人は、一時的な面子を失ってでも、その後の人生を回復する。

罪を認め、悔い改めることによって、死の剣が振り下ろされるのは一瞬のことで、ただちに贖いと赦しが適用されて、和解が成立する。

神との間でも、人との間でも、和解が成立し、罪と死の宣告は取り除かれる。多く罪を赦された者は、多く愛することができ、自分が罪人であることを知っている人間は、赦された喜びも大きく、自分自身もまた、他者の罪を覆い、赦すことができる。

どちらの生き方を選ぶのかは、筆者が決めることではなく、その人自身が選ぶ選択である。それは、筆者には、手の届かない、変えることのできない領域である。

人自身の人生には、その人でなければ、決して決められない事柄があって、罪の悔い改めに関しては特に、人は人に促すことはできても、他者の決断に介入できない。なぜなら、それは救いに直結している問題だからであり、信仰の根幹でもあるためである。

この信仰の問題については、キリスト教徒を自称しているかどうかや、異端やカルトとみなされる宗教に入信した経歴があるとかないとかいった、うわべだけの問題はまるで関係ない。

ただ、人が自らの罪を率直に認めて、神に立ち返ることができるかどうかが肝心なのであり、それができるかどうかが、人の救いを分ける。そして、キリスト教徒を名乗り、自分は救われていると言いながら、自らの罪を認めることも、これを悔い改めることも、兄弟と和解することもできない人間が、非常に多くの数、存在することは確かなのである。
 
そもそも目に見える兄弟を愛さない者に、見えない神を愛することはできないと、聖書は言う。従って、兄弟と呼ばれる人々と和解できるかどうかという問題の背後には、神と和解できるかどうかという問題が隠されている。

目に見える兄弟姉妹に対して、過ちを犯しても、これを告白することもできず、これを認めることも、詫びることも、償うこともできないとすれば、その人が神に対してだけ、罪を認めて悔い改めることはあり得ない。
 
そこで、神の家族とされ、兄弟姉妹の一人とされた筆者が、この手に抱えている訴えは、筆者の訴えでありながら、同時に、そこには、筆者の思惑とは別個に、厳粛に進んで行く「もう一つの手続き」が背中合わせに存在する。
  
そこには、神ご自身から、人に対して発せられた告発がセットになっており、それに人がどう応答するかという問題が、おのずから含まれている。

これはある意味では、とても厳粛で恐ろしい種類の手続きである。

筆者が訴えを出し過ぎていると非難する人たち、もしくは、訴えを出さないことこそ、解決であるかのように主張する人々がいるが、それでも、人々が目に見える人間としての筆者を相手に、事実を争っているときは、それはまだまだ平和な紛争なのである。

なぜなら、筆者は一人の人間に過ぎないので、筆者の感情を動かすことも、思いを変えさせることも、それほど難しいことではなく、いつでも紛争は停止できるし、和解も可能であるし、未熟な人間である筆者には、不当な攻撃を加えて劣勢に追い込むことさえ、可能である。

しかし、そこにもう一つ、筆者の思いによっては左右されない訴えが表裏一体になっており、そこには、神の福音に対して人がどう行動するのかという問題が含まれている。
 
そして、不思議なことに、そのもう一つの手続きが、どのように進んでいくのかは、筆者に対して、相手方がどのような態度を取るかにもかかっている。
 
筆者がこの手に抱えている訴えの中には、神の家を司る者に向けられた告発も含まれている。

聖書は、裁きは常に神の家から始まることを告げており、神の家を司る者の責任が非常に重く、とりわけ厳しいものであることを告げている。しかも、自ら神の家を告発し、神の家を司る者たちを告発し、兄弟たちを訴え続けて来た者が、自ら告発を受けるときには、その者の責任はいかばかりになるだろうか。

この問題は、筆者の手に負えるものではなく、また、筆者の思い次第でどうにでもなるものではない。地上の未熟な人間としての筆者は、あまりにも弱く、誰もが本気で相手にする価値すらもあるようには見えないかも知れないし、それゆえ、筆者の述べている主張を、軽視する人々は多いのであるが、筆者の主張の向こうに控えているもう一つの厳粛な訴えは、たとえ誰かが筆者を力づくで排除したとしても、決して消滅することのないものである。

それがあるから、未だに当ブログを巡る訴訟も続いているのであり、次第に、その訴えが、だんだん筆者個人のものではなくなり、その内容も、筆者の手から離れつつあることを感じさせられている。

つまり、これまで筆者が非常に人間的な思いで握りしめていた訴えが、次第に、個人的な思いから解かれ、筆者の思いの届かない領域まで移行し、厳粛な結論へ向かって、自動的に進み始めているのである。
  
筆者の主張の中には、常に悔い改めと和解を求める勧めが含まれており、それゆえ、そこには救いの問題が含まれている。筆者の主張に対する応答は、軽い問題でしかないが、神の救いに対する応答は、極めて厳粛なものであり、永遠の領域に至るまで、人々の生死を分けてしまう。
 
キリスト者を自認し、福音を聞かされて知りながら、自らの罪を認めることも、罪赦されることもなく、神と和解することもなく、兄弟と呼ばれる人との間で争いを終わらせることもなく、ただ救いを拒んで終わってしまったら、その人は、何のためにキリスト者になったと言えるだろうか。その人は福音を知らされなかった方が、はるかにましだったと言うしかないことであろう。

 改めて、罪を悔い改めて神と人と和解することの意義を繰り返すだけである。
    
「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」 (マタイ25:40)
 
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(ヨハネ一4:19-21)

   
* * *

「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるのです。わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリント5:16-21)


神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。

「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるのです。わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリント5:16-21)

上記の御言葉において、「キリストと結ばれる(新創造とされること=キリストと教会との結婚)」ことと、神との和解が、同じ文脈で語られていることの深い意味を改めて思わされる。

前回、二つの対照的な手続きについて書いたが、先日、出された死の宣告と言って差し支えない宣言も、それから間もなく、新たな命に至る宣告によって上書きされた。

もちろん、これらは本当は何の関連性もない別個の手続きであるから、それぞれがお互いを打ち消すわけではないし、上書きされることもない。

とはいえ、手続きの受け手は、共に筆者という一人の人間であるから、受け止める者の感覚としては、一つの試練のあとに、豊かな慰めが与えられた、という感覚である。やはり、何事も思い悩んではならないという聖書の御言葉は正しく、キリストの御身体には、何か一つの苦しみが生じても、こんなにも早く、新たな回復の力が働く。

だから、筆者はディスカウントの宣言を信じず、それを打ち消すために、再び歩いて行くのみである。

その日、決して晴れがましい席ではないところに、筆者が呼んだのではない、たくさんの人たちが来ていた。結婚式にも似て、厳かな宣言がなされ、見知らぬすべての人たちが、筆者と共に命と安息を得たことを、共に喜び、祝福してくれているようであった。

こうして、初めて出会う人たちとの間でも、隔てなく喜びと悲しみを分け合う、そういう不思議な関係が地上にありうるのだと筆者は知って、何か厳かな感動が込み上げて来た。

聖書において、冒頭に引用した通り、人が完全に罪から贖われて、神と和解し、神と一つとされることは、キリストと教会の結婚の奥義である。

従って、神と和解すること、人がキリストに結ばれ、新しく造られた人になることは、同じ意味なのである。

だとすれば、神と人だけでなく、人と人とが和解し、人の間で、すべての敵意と隔てが取り除かれて、新しい関係性が打ち立てられることも、どこかしら、神と人との和解によって、一人の「新しい人」が造られる過程に似ている。

見ず知らずの人々であっても、全員が一つに和合し、まるで一人の新しい人のように、新たな関係性の中に入れられるのである。

結婚があれば、家ができる。新しい家族が生まれる。それと同じように、主にあって、和合した人々は、新しいコミュニティの一員となる。

そのようにして、筆者は、新たな関係性が誕生する瞬間に立ち会わされたような気がした。

その場面が、想像していた以上に、素敵で、そして、味わい深い、感動の伴うものであり、筆者を大いなる尊厳で覆ってくれたがゆえに、筆者はさまざまなことについて、考えを新たにせざるを得なかった。

おそらく、天の御座において、神の御前に立たされるときには、きっと、このような光景が見られるのではないかと感じた。そこには、見知らぬ「雲のような証人」たちがこうして立ち合い、神と共に、筆者の労をねぎらってくれるだろう。

「あなたはよくやりました。ここでは、誰も恥を受ける必要はありません。あなたもこれ以上、奮闘する必要はありません。これがあなたの報いであり、あなたの慰めであり、安息です。どうぞ、自分の報いを受け取りなさい」

そう言って、筆者の地上での労苦をねぎらい、祝福の言葉で包んでくれるのではないだろうか。
 
いつの間にやら、筆者はもはや一人ではなくなり、大勢の人たちに、助けられ、支えられながら、共に進んでいたことが分かった。

味方ではないと思っていた人たちまでが、味方となり、呪いは解除され、すべての人たちが生かされる正しい決断が下され、新たな命の力が、筆者に注ぎ込まれた。

そこには、誰も筆者を憎んでいる者もおらず、嘲る者も、見下す者もおらず、筆者自身も、もはやこれまでのように、怯えながら、自分よりも強い誰かにしがみつき、助けを求めるだけの存在ではなくなって、自分自身で、命に至る水を見つけ、これを汲み出し、それを人々と分かち合う方法を、学び始めたのである。

そうなったのも、多くの人たちが、正しい結論へ至りつけるように、根気強く筆者を導いてくれたおかげである。

その語りかけに気づき、これに耳を傾けたおかげで、筆者は、当ブログを巡る裁判の結審がそうであったように、心砕かれ、へりくだった人でなければ、決して立ち入ることができない、非常に神聖で、厳粛な場へと導かれたのである。

それは本当に、結婚式に似ていた。当ブログを巡る訴訟の時の結審の時にも、筆者は泣いておらず、むしろ、こうなるのが当然と言わんばかりに、単純に喜んでおり、落ち着いていたのに、今はその時に分からなかった多くのことが分かるようになったおかげで、さらに深い感動を味わうことになった。

それは、誰も罪に問われないことが持つ深い解放の意義を知ったからである。すべての人々が解放され、自由になることの意味を理解し、その再生の瞬間に立ち会ったことにより、筆者は自分が罪に問われているわけでもないのに、まるで自分を罪に問うた債務証書が、目の前で破り捨てられるのを見たのと同じくらいの感動を受けた。

人と人との関係性が修正され、生まれ変わって、新たなものにされることには、それくらいの衝撃がある。マイナスだったものが、プラスに変えられ、無益だった関係が、有益なものに生まれ変わり、憎み合い、責め合うだけであった関係が、慰めといたわりに満ちた、互いを生かし合う関係に変えられる。

断絶ではなく、敵意でもなく、和合と、新しい始まり――その劇的な変化が、目の前で進行しているのを見たとき、まるで自分が死地から救われたような感動を覚え、涙が込み上げて来た。

それは確かに、あの訴訟の結審の時に似ていた。筆者は、あの時、あれが本当の終わりになるのだと思っていたし、それにふさわしい見事な終わり方だったと、今になっても思う。

当ブログを巡る裁判は、未だ続いているとはいえ、正直に言って、これから始まる戦いが、一審以上のものになると、筆者は思っていないし、間違いなく、この訴訟の主役は、当事者3人と、一審を担当した裁判官だったように感じている。この訴訟は、本当は、あの結審の時に、実に調和のとれた形で、すでに終わっているのだ、という気さえしないわけではない。

これは、筆者が主張を放棄して争いをやめるとか、その後、書かれた判決が間違っていたなどと言うわけでは決してない。しかし、正直に言って、訴訟で下される法的な結論と、当事者や関係者すべての思いとの間には、大きなずれがあるのが普通なのである。

訴訟における法的な決着は、必ずしも、事実に沿ったものとはならないし、すべての人にとって望ましく、ふさわしい解決にもならない。これは当ブログに関わる裁判とは関係のない話だが、世には、まるで嫌がらせのような決定や判決を書く不正な裁判官も存在するため、必ずしも、正しい判決が下されない場合も、多々あるし、どんなに理不尽でも、法的には責任を追及できない事件なども膨大な数、存在する。

証拠がないゆえに、どんなにひどい仕打ちを受けても、立証できない被害もないわけではないし、法そのものにも、抜け穴や、欠陥があり、時代の進歩が遅れているがゆえに、整備されていない部分がある。

さらに、たとえ判決が100%正しいと言える場合であっても、これを動かせない結論として突きつけられた人が、それに従うとは限らない。

少しでも疑いがあれば、当然ながら、紛争は長引くこととなり、また、強制的な判決によって、力づくでそれに従わされた者がそれに納得せず、新たなリベンジを思いつくような場合さえ、ないわけではない。

だからこそ、判決以外にも、紛争そのものをおさめるための解決方法が存在するのであり、それは裁判官だけが作り上げるものではなく、当事者全員が作り上げて行く全員参加型のものなのである。

そのことが、時を遡って、あの結審の日に、おぼろげながら、見えたのではあるまいか、という気がした。もちろん、筆者は、あの時に提案された不公平な和解案なるものを、受け入れれば良かったと言うわけではない。あの時には、判決を得ることこそ最善策であり、それがあってこそ、今の筆者の解放が得られたのである。

だが、それにも関わらず、結審の時には、それ以上に非常に大切な何かが、今現在手にしている成果をはるかに超える何かが、見えていたような気がしている。

あの時、まだ筆者は、助けは他者から、筆者よりも賢明で、強い誰かからやって来るのだと考え、裁判官に助けを求め、裁判官の中に存在している筆者のための自由を引き出さなければならないと思っていた。

だが、その後、必ずしも、自由と解放は、常に他者の決断の中にあるわけでないことが、徐々に分かって来たのである。むろん、あの時、裁判官が判決を書いてくれたことの意義は非常に大きい。それは筆者が望んだことであり、完全でないとはいえ、多くものがそれによって達成された。

とはいえ、裁判官はもともと事件の当事者ではないから、起きた出来事を詳細に知り尽くしているわけでもなく、証拠があったからと言って、必ずしも、公平で正しく物事を判断できるわけでもない。だから、判決はどんなものであれ、100%完全にはならず、また、100%完全になる日は、どんなに待っても来ないかも知れないという気がする。

その代わり、裁判官には、事件の当事者を仲裁する優れた能力と経験がある。それをフルに活用しながら、当事者自らが、何が正しい解決なのかを、自分自身の力で絶え間なく考え、それを作り上げて行くために努力を払うことの方が、裁判官にすべてを任せるよりも、有益な場合があるのではないかと。
 
だが、それを生み出し、選び取るためには、相当な力と知恵がいる。何よりも、自分のイニシアティブで物事を進めるための強い決意と勇気と覚悟と自信が必要となる。あの頃、筆者にはまだそれがなかった。決めるのは自分ではないと考え、誰かに判断を委ねることで、安全が確保できると思っていた。

だが、あの時、すでに見えかけていたものが、時と共によりはっきりとした形になって、さらに優れたアイディアとなって、現れて来たのである。

それは、誰も罪に問われず、なおかつ、誰もが争いから手を引き、しかるべき償いがなされて、紛争が終結するという奇跡的方法である。

その可能性が、おぼろげであっても、見えていたからこそ、当ブログを巡る訴訟の一審において、最も神聖な瞬間は、今も筆者の目には、法廷で言い渡された結審の時のように見えているのではないかと思う。

争いの終結と、平和の到来、それが、あの時におぼろげに見えていたものの正体なのである。不法行為は、不法行為として確かに裁かれなければならないが、それにも関わらず、それを超えた領域にあるさらに正しい結論が存在する。その時に見えていたかすかな可能性、そこに込められている奇跡的な再生の力を、筆者は、全く関係のない別の出来事を通して、より具体的な形で、理解したような気がする。

だが、それに到達するためには、何よりも、へりくだりと、謝罪や償いといったすべてのプロセスがなくてはならず、さらに、それは、ふさわしくない人間には、立ち会うこともできない、神聖な瞬間、場所である。

私たちが命に至るためには、らくだが針の穴を通るようなへりくだりが必要で、それがなければ、人間関係が再生されることもなければ、紛争に終止符が打たれることもない。

だから、筆者は今回、二つの手続きが、正反対の結末へと導かれたことには、深い意味があると思っている。人々との関係を真に再生に至らせるためには、自分がそれにふさわしく身を清めねばならず、誰でもそういう場を作り出し、もうけることができるわけではない。

そこで、一方の手続きがきちんと終了に至らず、筆者にとっても、他の人々にとっても、非常にまずい不本意な結果に至り着いていることは、決して偶然ではないと筆者は考えている。

なぜなら、そこには、本当に意味での信頼関係が存在しなかったことが、後になって分かったためである。何よりも、そこでは、筆者に対する信頼というものが、土台から存在しなかった。

そのような状態で、関係する全員が喜びと悲しみを共有し、全会一致で同じ結論に至りつき、互いにへりくだって、互いを自分よりも尊い優れた存在として認め、互いに手を差し伸べ合い、和合することは、決して無理な相談であったろうと思う。

だから、信頼関係のないところでは、ふさわしい解決が与えられないことは、むしろ当然なのである。それゆえ、そうした手続きには、やがてふさわしい別な人々が現れて、解決へと導かれるのを待つことになろう。
  
だが、もう一方の場においては、それが成就するだけの素地が、初めから整っていた。そこでは、すべての人々が、筆者を殺してはならないと決意し、筆者を生かすために、立ち止まって、筆者の応答を真剣に根気強く待ってくれたのである。

それを見ても、やはり、他者のために苦しみを担い、人を生かす仕事を成し遂げることができる力は、女性よりも、男性の方にはるかに多く備わっていると思わずにいられない。

女性は苦しみを厭い、自分の美が人前で割かれ、栄光を失うことにほとんど耐えられず、手間を省き、楽をすることを願い、何が自分にとって得であり、損であるかという自分中心の考え方を離れることができないが、男性たちには、自分を離れて、大局的に物事を見、自分の損になってでも、他者を救うために深く苦悩を負う能力が備わっている。

危険な場所にでも飛び込んで行って、自分よりも弱い者たちを救い出し、辱められた人たちを尊厳の衣で覆い、彼らの痛み苦しみを我が事のように担い、自分よりも弱い者たちに命を与えるために、自分を犠牲にしてはばからず、忍耐することができる力がある。

前にも書いた通り、そういう力は、女性にはほとんどないものである。そして、そういう性質は、どんなに利己的な男性であっても、男性である限り、どこかしら存在の根本に流れているものであって、それは、筆者の目から見ると、神聖さは失って、非常にかすかなものとなっているとはいえ、キリストが花嫁なる教会のために恥をも厭わず、ご自分の命を投げ出して、十字架に赴き、罪に背いた人々を救おうとされた、神の救済者としての性質に由来するものなのである。

そうして、他者に命や解放を与える役割こそ、男性の栄光であり、存在意義そのものなのではないかと筆者は思っている。
 
だから、筆者の人生において、筆者に害を与えず、有益な決断を下してくれた人々の名を列挙しようとすると、そこにほとんど女性の名は残らない。全くいないわけではないが、女性は多くの場合、嫉妬や競争のためなのか、何のせいであるのかは知らないが、至る所で、助けを求めた筆者をかえって疑い、辱め、残酷に引き裂くような決断を平然と下し続けている。

女性が女性に対して極度に残酷になり、自ら女性を束縛の中に閉じ込め、それゆえ、他の女性を解放しないだけでなく、自分自身も、解放から遠のいて行く場面というのは、幾度となく見せられて来た。

それはやはり、女性はどんな女性であれ、常に自分が助けられる(救われる)側に立ちたいと願い、他者を助ける(救う)側に立つことが、極めて難しいからだと思わざるを得ない。自分自身が常に解放を求め、救われることを求め続けているがゆえに、他者を救う力がないし、場合によっては、それを喜ぶことさえできないのである。それが、筆者の目から見ると、女性が単独では完全になれない虚無性、女性が存在の根本に抱えている不完全性、理不尽性なのである。
  
とはいえ、筆者も、もはや強い指導者や権威者を探しては、彼らに一方的に支えられ、かばわれるだけの弱い立場ではなくなり、自分よりも強そうな他者に自己決定権を委ねるのではなく、自分自身の判断で、正しい結論に至り着くことができるよう学習を促されている。

こうして、結婚の儀式にも似た短い手続きが、平和に、静かに終わった後で、これまでになかった全く新しい関係性――和合――が生まれ、何かしら巨大な解放に満ちた変化が、筆者の中に生まれたような気がした。

それまでに起きたすべての事は、嘘のように過ぎ去り、洪水は去り、筆者は新しい大地に足を踏み出した。

そこには、新しい生き方、新し関係性、新しい領域があり、すべての争いや対立や敵意が終了した、新たな世界が始まっていたのである。

多分、それが、当ブログを巡る訴訟の結審の日に、おぼろげながら見えていた神聖な光景なのだろうと思う。

まだまだ多くの未解決の問題があって、筆者は奮闘を続けなければならないが、筆者にはようやく分かった。解決は、裁判官や、筆者よりも強そうに見える様々な指導者、権威者から来るのではなく、他でもない筆者自身の中にあるのだと。

誰一人、筆者以上に、筆者が辿って来た人生や、遭遇した出来事について、正しい認識と判断を打ち立てられる者はおらず、他者に判断を委ねるよりも、自分自身で、結論を導き出して行くことの方が、はるかに有益であり、確実な解決なのだと。
 
当ブログを巡る訴訟では、担当してくれた裁判官は、筆者の主張を疑わず、信じてくれて、可能な限りの解決を模索してくれたが、その解決の最高の形態は、全員が協力して紛争を終わらせるという同じ目的へ向かった、あの日に見えた何かなのかも知れないと思わされる。

それゆえ、筆者には、結審の日が、神聖な儀式のように尊いものに感じられるのであって、だとしたら、その時に得た教訓を、今度は、筆者自身が判断する側に立つことによって、活かさねばならない。
   
こうして、干潟は、いつの間にか、筆者自身の内側に移行し、筆者自身が、人々を生かすための判断を下すべき立場に立たされていた。
 
このように、立ち上がって、自ら判断することができるはずだという気づきを得たのも、それが起きるまで、忍耐強く筆者を待っていてくれた人々がいるためである。
  
筆者が黙っていると、筆者の意見などないも同然とばかりに、自分にとってのみ都合の良い結論を押しつけようと、筆者を無視して、筆者の取り分を勝手に分け合い、あるいは、筆者をさらに黙らせようと、脅しつけたりすることなく、あるいは、筆者を置き去りにして、さっさと先に進んで行こうとしない人たちがいてくれたおかげで、協力して互いを生かし合う関係を打ち立てるという最善の策へと至り着くことが可能となったのである。

何より、すべての人々にへりくだりがあればこそ、そうしたことが可能となったのであろう。
 
気づくと、ないないづくしの制約だらけの環境で、互いに責め合い、罵り合う関係は、はるか後ろに、逃げるように消え去り、筆者を喜んで迎え、尊厳によって包んでくれる、新たな社会、新たな関係性が出現していた。

そこには、貧しさもなく、侮辱もなく、傷つけ合いも、否定もなく、その代わりに、豊かさと、いたわりあいと、完全性があった。

筆者は、新たに踏み出した一歩が、巨大な祝宴へと続く道であり、その道は、天のエルサレムにおける「我が家」にまで、はるかにつながっていることを思う。人々は孤児のようであった筆者を着飾って、栄光に満ちた花嫁のように、新たな家に向かって送り出してくれた。

主イエスは弟子たちに向かって、こう言われた。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネ14:1-4, 12-14)

主イエスは、私たちのために、まことの父なる神の御許に行って、天に住まいをもうけるために、十字架へ赴かれた。主は今も私たちのための住まいを天において準備中である。

だから、私たちも、地上において、神の住まいにふさわしく整えられるために、訓練を受け、神の家として建設されている最中である。
 
私たちの願うこと――それは、私たちのすべてが、孤児とされず、豊かな住まいを得、誰も貧しさや、悲しみや、死に脅かされることなく、十分な豊かさにあずかり、神がまことの主人となって、私たちの守り主となり、私たちを配偶あるものとして、美しく飾って、ご自身の身許に迎えられることである。

その日、その時、すべての戦いが止むだろう。私たちは恥を尊厳で覆われて、安息の中に導き入れられる。すべての罪の痕跡は取り除かれ、死の苦しみはなくなり、罪の債務証書はことごとく破り捨てられ、涙は拭われ、苦しんだ痕跡さえもなくなる。

失敗も、悲しみも、挫折もなく、嘆きも、叫びも聞かれない。もはや、いかなるディスカウントの言葉も発せられない、贖われた完全な新しい人、新しい天と地、新しい社会が出現する。

そこには、一切の罪の痕跡のない、聖なるキリストの花嫁なる教会だけが用意されていて、私たちは欠点のない者として、神に迎えられる。

私たちは、そういう日に向かっており、その日が近く、確かにそば近くまで、やって来ていることを感じる。そして、そのようにして贖われるのは、筆者だけではなく、数えきれない大群のような人々なのである。

それは、筆者の理解を超える出来事である。筆者はこれから起ころうとしていることのスケールを垣間見せられ、それに驚かされている。

暗闇の軍勢の手に渡り、決して解放されることはないであろうと思った人々、二度と取り戻されることなく、再生されることもなく、断絶し、廃棄する以外に方法がないであろうとあきらめた関係に、新たな命が注ぎ込まれる。負であった記憶が、正に塗り替えられ、断絶と離反ではなく、和合と新たな関係性の出発が生まれる。

これまで、筆者だけが自分の手に握りしめていた解放の宣言は、筆者の手からもぎ取られるようにして、他の人々に渡された。それを待っていた多くの人たちがおり、その人々が、筆者の前で、筆者と同じように、まるで神に贖われるように、人としての尊厳を回復されて、新たに造り変えられて、完全な者として筆者の目の前に立たされるのを見た。
 
そこには、敵はもういない。紛争もなければ、サタンとの終わりなき論争、嘘や詭弁、不当な死の宣言、騙しや、ディスカウントの言葉はない。

そこには、人をディスカウントするものは何もなく、ただ罪から贖われ、清められ、完全とされて、神と和合したただ一人の人がいるだけである。
 
筆者は、そのような世界が、手の届くほど近くに見えていること、筆者さえ了承すれば、それがすぐにやって来ること、しかし、そこへ至るためには、非常に多くの苦しみと、へりくだりを経なければならないこと、自分を低くした者だけが、そこへ至り着くことを知らされ、贖われて取り戻された人たちが、どれほど美しいものであるかを見て、言葉を失っている。

これがおそらく干潟の効果なのであろう。筆者だけが、自由になり、解放を得て、花嫁のように飾られるのではなく、人々も同じように、花嫁のように飾られて、新たにされる時がやって来た。告発や、罪のなすり付け合い、断罪、断絶、離反から一切解放されて、自由になった人々の美しさを見るとき、筆者はそこに働く解放のわざの大きさに心を打たれずにはいられない。

自分のためだけではなく、人々が解放されたことの喜びの前に、えも言われぬ感動を覚えたのである。

それが、新しい関係性の始まりであった。

神は最も無用で、役に立たない、廃棄するしかない材料を用いて、新たな尊い器を作られる。その砕けた破片とは、筆者自身のことでもある。

己が罪のために打たれて、粉々に砕け散り、互いに全く役に立たなくなった者同士が、互いを傷つけ合い、罵り合い、否定し合っているのが、いわば、人類社会だと言えよう。

だが、神は人が息に過ぎず、その人生が一瞬で過ぎ去るに過ぎないことを知っておられ、人間が自力では罪を贖うこともできず、命にもたどり着けないという、途方もない苦しみを負っていることも知っておられ、それゆえ、神は人の罪を人自身に負わせることをよしとされず、砕けた器の破片を丹念に綴り合せて、新たに命を吹き込み、尊い役に立つ器へと造り変えるために、その手に取られた。

筆者が造り変えられることができるなら、同じ恵みにあずからない存在があるはずもない。筆者が取り戻されることを信じて、根気強く待ち続けてくれた人々の存在があることを知ったとき、筆者自身も、人々が自分と同じように取り戻され、回復されるために労しなければならないことを知った。それこそが、筆者の下すべき正しい判断であり、筆者の仕事であり、そこに命の法則が働くことを知らされたのである。
 
「あなたの罪は赦された。安心して行きなさい」との宣告は、筆者に向けられた言葉であるばかりでなく、筆者自身も、他の人々に同じ解放の宣言を告げて、人を自由にする力を持っていることが分かったのである。
 
だから、間もなく、もはやこれまでのように、誰か強そうな人たちを探して来ては、彼らに物事を決めてもらわなくても良い時が来るだろう。そして、私たちは、手を携えて、同じ祝宴に向かう。いつしかそれはしゅろの葉を手に持ち、白い衣を着た大群衆となる。

人を罪から救い出し、死の力から解放し、すべての敵意の隔てを取り除く宣言の、いかに絶大なものであるか。その最高の形は、カルバリの十字架であるが、地上で行われるささやかな宣言であっても、そのひな型となるものは、神聖と言って良いものであり、筆者の小さな人生のスケールを打ち破って、圧倒的な解放の力を発揮する。
 
その宣告は、他でもない筆者自身が作り出すものなのである。地上では、取るに足りない、忘れられ、かえりみられもしない筆者のような人間が、何を赦し、何を赦さないでおくかが、それほどまでに重要な深い意味を持ち、人々の心を束縛から解放し、尊厳を回復するかどうかの鍵を握っている。

人が罪から解放され、告発から解放されて、自由とされ、尊厳に覆われる瞬間を見、また、その圧倒的な効果が、筆者自身にも波及して、筆者の尊厳をも回復するのが分かったとき、何か非常に新しい、とてつもないことが、これから筆者の人生で始まろうとしているのを、感じないわけにいかなかった。
 
以前から述べている第二の人生、第二のミッションが本格的に始まったのである。人を命に至らせるための法則性が分かった以上、これまでと同じような堂々巡りや、失敗は、もはや起きて来ることはないだろう。パイプラインは、確かに稼働し始め、解放の宣言は、筆者だけのものではなく、多くの人たちに共有され始めたのである。

「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」


何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。

「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞切れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(ヨハネ一5:13-15)

ここ一週間、曇天と雨が続き、それに合わせて、心を曇らせる出来事が山のように起きた。

だが、同時に、誰かが筆者のために、非常に心を砕いて心配してくれていることも、ひしひしと伝わって来た。

そういうことは、これまでにも幾度かあった。 筆者の身を案じてくれているのが、誰なのか分からないこともある。もしかしたら、御使いなのかも知れない。

それでも、苦難がやって来るときに、錯覚とはとても思えないリアルな感覚として、本当に筆者のために心を悩ませてくれている人がいることが伝わって来る。誰であれ、そういう人がいると分かると、心が慰められるし、立ち上がって、圧迫を粉砕するため、何度でも奮闘しようとの力が湧いてくる。

昨朝、目覚めた際、懐かしい知人が、まるで顔を覗き込み、「ヴィオロンさん、大丈夫ですか 私はあなたの味方ですからね」と、幾度も語りかけているように感じられた。

何をそんなに心配されねばならないような理由があるのかと、その時は思ったが、理由はあとになって分かった。その慰めは、しばらく経った今も続いている。これは主から来た慰めなのか、それとも、人から来たものなのか、御使いによるものか、知らない。だが、至る所で、特別な配慮に満ちた励ましをそば近くに感じる。

だから、筆者は出来事に振り回されることはなく、また、人の思いとは一切関係なく、静まって、内なる気力を養い、虚偽と、不当な制約と、死の宣告を打ち破るために、何が必要なのかを神に知らせて下さいと願うのみである。

サタンからは、絶え間なく、筆者のもとに「あなたは値しない」という証書が届く。

「あなたが望んでいることは、あなたに値しない」「あなたの言い分は、あなたに値しない」「あなたの願いは、あなたには値しないから、あきらめなさい」「あなたが抱えている不自由と苦しみと制約こそ、あなたが選んだ、あなたにふさわしいものである」

しかし、筆者は、その証書を破り捨て、サタンの言い分は粉砕し、さらなる自由と解放を求めて、神が望んでおられる道を歩いて行くために必要な知恵と手立てが与えられるように天に願う。
 
突飛な話と感じられるかも知れないが、このようなことについて考える時、筆者はどうしても、人を生かす力は、女性にはなく、男性からやって来る、と思わざるを得ない。

このところ、筆者に関わる全く同じような手続きを、女性と男性の二人の権威者が、違ったやり方で成し遂げるのを筆者は見させられた。

その結果、この二つのケースにおいて、ほとんど同じ状況で、180度異なる結論が出たのである。

女性は、筆者に自由や解放を与えず、困難を乗り越えて信頼を維持し、手続きを成功裏に導くことができなかった。それだけでなく、筆者に疑いを抱き、大きなダメージを与える結果をもたらしたが、他方、男性は、そういう困難を打破して、根気強く、誰もが生きられるような結論を導き出すことができた。

この二人が相手にしたのは、筆者という同じ人間である。この二つのケースがあったおかげで、筆者は、何もかもが自分の選択の結末ではなく、誰を相手にするかによって全く結論が変わって来ることを思い知らされた。

女性は早々に筆者に向かって、信頼を手放し、望みをあきらめるよう釘を刺したが、男性はそのようにはしなかった。だとすれば、信頼を維持できないことは、必ずしも筆者の側の責任ではないことが分かる。
 
筆者の目には、女性には、困難を根気強く乗り越えながら、互いに信頼を維持し、願っている自由へ向かって、あきらめることなく、手を携えて進んで行く能力が、そしてそのために苦しみを負う能力が、男性に比べ、極度に不足しているように見えてならない。

だから、女性との連帯は、困難が来るとすぐにあっけなく壊れ、かえって女性が女性を束縛し、死に導くという結果が起きてしまいがちなのである。

こうした出来事を筆者はこれまで山のように見せられて来た。職場でも、それ以外の場所でも、女性に自分の決断を委ねようとすると、なぜか命に至り着くどころか、束縛と、死の宣告を受け、死に触れることになるのである。

最近、その傾向がますます強まっており、女性が筆者にもたらす死の力は、何かしらものすごいものとなっているように見受けられるため、一体、これは何なのだろうかと、どうしたらそのような影響を防げるのかと、筆者は考えさせられている。

虚無に服した被造物全体を象徴する女性が、非常に美しい笑顔で笑いながら、死神のように、サタンが作った債務証書を筆者に突きつける。

「あなたにはこの限界がふさわしい。いい加減、あきらめてそれが自分の運命だと悟りなさい。私もあなたと同族で、大きな制約を負って生きてきたのです。なぜあなたは自分だけがそこから逃れられるなどと思うのですか。そんなのはわがままです」

だが、筆者はそれでも首を振り、限界と死の宣告を受け入れない、という意思表示を行う。不可能事を望んでいると言われても、構わない。見えない領域に向かって、その証書を突き返し、改めて死の力ではなく、生きた命をもたらすことのできる人々へ担当者の交替を願い出る。

筆者は死神など呼んだ覚えはなく、神の御言葉に沿って正しい解放をもたらすことのできる存在を呼んだのである。
 
当ブログでは、繰り返し、聖書によれば、男性が先に創造され、女性は男性から後になって造られたという順序があり、男女の秩序は決して覆せないものであるということを述べて来た。

男性は、主イエス(救済者)のひな型であり、女性は、教会(被造物)のひな型である。もちろん、人類は男性も女性も含め、神の神殿であり、宮なのだが、とりわけ象徴的には、男性は神を象徴し、女性は被造物全体を象徴している。

そうである限り、男性には、誰であれ、またどんなにそれがかすかなものとなっていようとも、人を困難から救い出し、追い詰められている人を解放し、自分の命を投げ出してでも、弱い他者を救うことを、己が使命とするキリストの面影が宿っているように見える。

男性には、男性である限り、誰であれ、救済者になろうとする願望がある。それはしばしば誤った形で発揮されることも多いが、いずれにしても、その性質の中には、神ご自身が持っておられる他者を生かす力が、受け継がれていると筆者は見ている。

だが、女性にはそうした性質がない。女性は憐れむことはできるが、それは自分を投げ出してでも、他者のために命を与えることとは、別の種類のものである。

教会は宮であり、あくまで主がなければむなしい存在であるから、女性は単独では虚無であり、解放者ではなく解放される側に立ち、空っぽで満たされるのを待っている器である。それゆえ、単独では、制約と、死を象徴する。

このようなことを言い始めると、たちまち差別だと誤解する人たちも出て来るかも知れないが、あくまでそういう文脈ではないことを断っておきたい。

以上のようなわけで、女性は、筆者から見ると、その存在自体に、単独では「理不尽」と書きこまれていると言って良い存在である。だからこそ、その存在に触れるとき、理不尽に触れてしまうことになり、死の力が及ぶのである。女性は、自分だけでは、その理不尽を打ち破ることができず、その中に閉じ込められているからこそ、他の女性を解放することもできないのである。
 
そこで、筆者はこの先、被造物の象徴としての女性の受けている死の圧迫を避け、その制約から自由になるために通るべき道を知らねばならないと思わされている。

さしあたり、筆者を生かすことのできる人々を天に向かってオーダーすることしかできないが、一体、この問題に終止符を打つために具体的に何が必要なのであろうか、と考えさせられる。
 
* * *

とはいえ、女性同士の間でも、痛みを分け合いながら、共に進んでいくことのできる人たちがいる。

人生が落ち着いたときに、時折、互いに身の上話をして来た友人と久々に会話したところ、その人は、筆者に向かって、いつになく確信に満ちた断固たる口調で、早いうちにボーナスや退職金が支給される環境に行かなければならない、そうでなくては、生涯の賃金格差を決して乗り越えることができない、と切々と説いた。

その言葉は、いつになく切迫した重要な助言のように響いた。なぜなら、ちょうど筆者の感じていた危機感と一致していたからである。

筆者は雇用契約書に目を通す際、育児休暇・産前産後休暇、介護休暇に賃金が支払われるのかどうかを気にしている。さしあたり、そうした休暇をすぐに取る予定があるわけでないのに、それに注意を払うのは、もしもそれらの休暇が、無給であれば、その職場は、真に人を人間として育てて行こうとの意識がないところだから、そう長くは続けられない、と認識して構わないからである。

社員を労働力としてしか見ず、人として豊かな生活を送るために、必要な余裕を与えない職場では、社員が幸福を求めて行動を起こすと、大きな障壁にぶつかる可能性が高い。

それは身長の高い人が、天井の低い家に住むようなもので、人間の身の丈に合っておらず、窮屈な生活の中で、幾度、頭を鴨居にぶちつけて痛い思いをするか分からないのを分かって、あえてその家に住もうとするのは愚かである。

もちろん、短期の派遣の雇用や、契約社員の雇用に、そのような恵まれた条件があるはずもなく、通勤交通費さえ支給されない職場に、有給の産前産後休暇や介護休暇を望むのは愚かである。

そういうものは、屋根も壊れて雨漏りのする家のようなものであって、それが家だと思っている限り、その人には安全な暮らしさえ保証されない。

筆者は、人が人らしく生活を営むことと、働くことが両立しうるような雇用体系の中に身を置かない限り、その人の勤めている職場は、結局、人を使い潰すことしかできない、という法則性は変わらないという結論を得ている。

そのことを明白に悟ったとき、筆者は、これまでの自分が、あまりにも微小なものしか求めず、ほんのわずかな条件の向上を見ただけで、天から救済者が現れたかのように喜び、本当の意味で、自分の身の丈にあったものが何であるのかを、知らず、それを探し求め、得る道があることを十分には知っていなかったことを思い知らされた。

たとえるならば、カビの生えたパンを毎日食べながら、これが食事だと思い込み、雨漏りのする家に住みながら、これが家だと思い込んでいるような具合で、本当の食事とは、本当の家とは、決してそのようなものではない、ということを漠然と感じながらも、では、一体、自分の探し求めているものは何なのかを具体的に知ることなく、ただ一体、なぜ自分はこんなに窮屈で不快な思いをしながら毎日を苦しんで暮らさねばならないのだろうか、これが本当に人の生活というものだろうかと思い悩んでいたような具合である。

自分の望む真の食事とは、真の家とは何なのかを見極め、見極めたならば、それが自分に値することを信じなければならない。

そういうわけで、筆者は、限界と制約と死の象徴である死神が、どんなに限界だらけの証書を筆者のもとに届けても、それが筆者にふさわしい最終宣告であると受け入れる気はないのである。

「あなたには、雨漏りのする家と、カビの生えたパンで十分である。あなたは自らそれを望み、知っていて、それを選んだのだ。だから、それがあなたの人生にふさわしい応酬だ。それを不満に思い、それをあなたに与えた者を、騙したなどと言って、非難する資格はあなたにはない」

などと言われても、筆者は言う、

「そんな馬鹿なことはない。私は雨漏りのしない本当の家らしい家と、カビに悩まされることなどない食事に憧れ、それを探し求めてあらゆる場所の門戸を叩いた。その結果、知りもしないうちに、雨漏りのする家をつかまされ、カビの生えたパンを口に押し込まれたとしても、それが自ら招いた選択であり、私の望んだ結果であり、私にふさわしい結末であったなどとは、決して認めない。私はこういうものを、家とも、食事とも思っていないし、そんなものを求めた覚えもないし、そんなものしかないなどという話も聞かされていない。にも関わらず、これが私に値するものだとどうして言えるのか。制約よ、引きさがりなさい。」

実りをもたらさない干からびた大地をいつまでも耕し続け、貧しい家の中で、こんなにも収穫がないのは誰のせいなのだと言って互いを責め合うのは、愚かな所業であり、そんな場所からは、離れるべきなのである。必ず、実りをもたらす大地が存在するはずである。

筆者と久方ぶりに話した知人は、前途洋々たる20代、30代の中に、多額の借金を抱えている人たちが非常に増えていることを話してくれた。筆者よりも年下の世代の中に、筆者の世代よりもさらなる困難の中に投げ入れられている人々がいることが分かった。

私たちの世代も大きな困難の中に長い間、助けなく放置されて来たが、それより下の世代は、無知と無防備につけこまれ、さらにもっと大きな抑圧の中に置かれている様子が垣間見えた。

誰がこの人たちの抱えている苦難に目を留め、彼らのために自由を用意し、貧しさの連鎖が生まれないように手立てを打つのであろうか。それは大人たちが考えてやらねばならないことではないだろうか。

こんなことでは、貧しい農村から、若者を身売りさせ、騙してひどい職業に従事させたり、特攻に送り出していた戦前・戦中と何が違うのだろうかとため息をつきたくなる。

しかし、知人は、そういう悲しい出来事ばかりを毎日のように見聞きする状況を離れ、貧しさではなく、豊かさを求めねばならないこと、働くことが苦痛でしかない環境を去り、喜びを感じられる仕事を選んだこと、筆者にも、あきらめて制約を受け入れるのではなく、飽くことなく自由を探し求めるよう、改めて背中を押してくれた。

その時、筆者の目の前には、今見ているものより、はるかに遠く、もっともっと先にある目的がおぼろげながら思い浮かんだ。

雨漏りのしない本当の家――貧しさや、限界や、不幸に追い詰められ、絶えず家族のメンバーがいがみ合い、争うような不幸な家ではなく――生きるために馬車馬のように働き、休息も取れず、不意の事態にも対応できないような生き方ではなく――家族が集まって、安心して団らんのできる、幸福な家、笑顔の溢れる家――安息に満ちた生き方――それは絶対にあるはずだし、筆者はそれをこそ絶え間なく探し求めて来たはずである。

何度、騙されかけ、何度、あきらめるよう求められ、何度、制約の中に閉じ込められ、何度、それがあなたの選んだ選択であって、それ以上のものにあなたは値しないと言われたとしても、決して、それが筆者の動かせない結論であるとは認めない。

もちろん、ここで言う家とは、あらゆる環境条件のことである。そこには、雇用条件や、それ以外のあらゆる条件も含まれる。

雨漏りのしない堅固な家を願うなら、それは必ず、存在し、手に入れることが可能であり、また、自分はそれに値するという確信を持つ必要がある。あなたはそれに値しないという、サタンの死の宣告を破り捨て、これを無効化する、新たな命に満ちた証文で上書きしなければいけない。

たとえ荒野の中を通されていても、そこが永住の地ではないことを、私たちは信じている。乳と蜜の流れる土地へ向かって、長い長い道のりかも知れない。だが、その約束の地がなぜ遠く、長い道のりに感じられるのかと言えば、私たち自身が、それが自分に値することを、まだ十分には知っておらず、信じる力が十分に達していないためである。

しかし、神は私たちを根気強く教えて下さる。

主は、日々起こる波乱のような出来事の中で、瞬間、瞬間、こう言って下さる。

「私はどんなことがあっても、あなたの味方であり、あなたを見捨てません。私があなたを教え、あなたを平安に導きます。だから、どんなことがあっても、落胆せず、私に従って来なさい。私は必ずあなたを安息の地に導くことができます。それがあなたのための私の約束なのです。」

筆者はその約束を信じている。だから、試練があるときにこそ、慰めは深く、解放も近いということを、常に思わされている。

わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。

「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

 聖書にこう書いてあるからです。

 「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。」

 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」

 のであり、また、
 「つまずきの石、
 妨げの岩」
 なのです。

 彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 あなたがたは、
「かつては神の民ではなかったが、
 今は神の民であり、
 憐れみを受けなかったが、
 今は憐れみを受けている」
のです。」(ペトロの手紙一2:1-10)

* * *

まだ8月も終わっていないというのに、蝉の声がめっきり減って、すっかり秋の気配が感じられるようになった。駆け足で冬がやって来ようとしている。あまりに早すぎる時の流れに、困惑を覚えずにいられないほどである。

さて、前回に引き続き、「重荷を跳ね返す」ことの重要性について書くことから始めたい。これは正しくは、サタンから来た重荷をサタンに跳ね返す、という意味だ。

このテーマを書くに当たり、類似した内容を書いている人が他にいないか探してみたが、見つからなかった。
 
この問題は、注目されていないようだが、キリスト者にとって極めて重要であると筆者は思わずにいられない。

私たちは、日々の十字架として、主から来た重荷を担うべき時がある。その中には、信仰ゆえの試練もあれば、恐怖に打ち勝って前進することが必要な場合もある。

しかし、時に、私たちが負うべきでない重荷が、敵から押しつけられる場合がある。そのとき、私たちは不当な圧迫をもたらす策略を事前に見抜き、その重荷が私たちの手に押しつけられる前に、罠を粉砕して、そこから抜け出すようにしなければならない。

それができないと、人生において長期に渡り、不当な重荷に苦しめられ続けることになる可能性がある。

サタンは責任転嫁の達人である。人をターゲットとして、自己の罪を他人に押しつけ、重荷を押しつけられた人が、あたかもそれを自分のものであるかのように考えて、自らそれを背負い込むよう仕向ける。一旦、背負い込んだら、ますますその荷を重くし、その重荷から二度と抜け出せないように仕向ける。

また、サタンは他人の成果を横取りする達人でもある。私たちが勝ち取った苦労の結果を、まるで我が物であるかのように、栄光をかすめ取ろうとする。

しかしながら、前回、述べた通り、神から来た重荷は、そのような性質のものではない。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

だから、私たちは、一口に重荷と言っても、その中には、神が私たちを成長させるために許されて起きた試練と、人を不当に苦しめ、栄光をかすめ取り、人生を停滞させようとして悪魔がもたらした重荷の2種類が存在することに気づき、後者の重荷については、これを受け取り拒否して、サタンにお返しする方法を学ぶ必要がある。

自分の人生にやって来る様々な困難を、どんなものであっても、すべて神から与えられたものとして受け取っていてはいけない。その出所をきちんと見分け、敵から来たものは、敵に担っていただくのが一番なのである。

* * *

 筆者はこれまで長い間、書類作成の仕事をして来たため、書面を作り上げることはまるで苦にならないと思い、訴訟や、各種の法的手続きのために時間を費やすことを、損と思うこともなく進めて来た。

しかし、そうは言っても、今年は、昨年と違い、審理や各種の手続きのために要する時間を、できるだけ省略する方法を考えなくてはならないと思うようになった。

それは特に、相手方が常に締め切りに遅れ、証拠もない支離滅裂な内容の書面を提出して来るのを見て、このような無意味な主張に、いつまでも膨大な手間暇を割いて反論していてはいけないと思わされたためでもある。

それに、筆者の人生が、訴訟から解放されなければならない必要性があることにもようやく気づいた。

訴訟を提起してからというもの、筆者の人生は、ずっと訴訟を中心として成り立って来た。筆者は、裁判所の仕事に心から敬意を払っているものの、今や審理と同じほど重要な仕事ができた以上、今までのように、準備書面を作成するために、仕事を脇に置くことはできない。仕事だけでなく、自分の人生の時間をきちんと守るため、訴訟に割ける時間を配分しなければならない。

とはいえ、それによって、訴訟において成し遂げなければならない事柄を省略するわけにも行かないため、この先の歩みには、神の助けと知恵が必要である。

それにしても、筆者が新たに選んだ仕事は、本当に、主がこれを与えて下さったのだと思わずにいられない貴重なものである。

そのことは、職場で日々起きてくる様々な難題に、筆者が正しい答えを見つけようと努力しさえすれば、常に問題が解消されて行くことを見ても分かる。
 
時に、働いていると、私たちの仕事の成果を、その本来の意味から全くかけ離れたものへと変えてしまおうとする悪しき圧力がかかることがある。真面目に働く気のない人間が、真面目に働く人たちの努力の成果を、自己の怠慢を覆い隠し、他者の栄光をかすめ取る目的のために、横領するように吸い上げ、利用しようとすることがある。

筆者はこれまでの職場においては、そうした理不尽に、立ち向かう術はないとあきらめていた。

なぜなら、日本の多くの営利企業では、労働の成果が個人に還元されず、集団の成果とされるため、そこでは、働けば働くほど、その者が、働かない者の怠慢をカバーすることになるような理不尽な仕組みがもとから存在するためである。

共産主義社会のようなものである。そこでは、無責任で何もしない人間が、最も軽い荷を負い、高い能力を持ち、責任感も強く、会社の行く末を案じ、周囲に気配りができる、最も誠実な人間が、人一倍、重い荷を負わされることになる。

もっと言えば、1人の優秀な社員の目覚ましい働きに、怠け者の5人の社員がたかり、怠け者が、働き者の仕事の成果をかすめとって自己の怠慢を隠すための集団が、始めから作り上げられていると言っても良い状況がある。そして、働き者は、働かない者の怠慢をカバーするために雇用されると言っても良いほどの仕組みがある。

筆者はそのような労働は、真に社会に役立つことはなく、呪われた罪の連帯責任のように、負債を分かち合うことにしかつながらないと考え、これと訣別すべく、「バビロン体系」を脱したのであった。

その後、筆者が携わっている仕事は、もはや以上のようなものではない。だから、筆者は、他人の労働の成果を我が物としてかすめ取ろうとする人々の不当な干渉が起きたとき、これをきちんと排除し、重荷はこれを考えついた本人に跳ね返すことが可能であることに、ようやく気づいた。

そのようなことが可能となったのも、筆者の行う仕事が、基本的に、筆者自身の裁量に委ねられており、他者からの干渉を受けずに、独立した判断を下すことができるためである。

筆者には、裁判官の仕事にどこかしら似た性質を持つ仕事が与えられたと書いた。裁判官の仕事は、独立しており、合議審を除き、単独審では、一人の裁判官の判断によって判決が下されるし、合議審の場合であっても、裁判官一人一人の判断は、独立しているはずである。

その独立性を保つためにも、裁判官は3年くらいのスパンで全国各地を異動している。地域とのしがらみや癒着が生じて、公平な判断が下せなくなることを阻止するためだという。

筆者がかつて属していた宗教団体の教団でも、同じような制度が存在したと聞かされている。牧師が一つの教会にとどまりつづけると、様々なしがらみが生じるため、それは良くないということで、数年間で、教会を転任するという制度が存在したのである。

ところが、今やその仕組みは崩れ、牧師たちは一つの教会に長年、堂々ととどまるようになり、さらにその息子や娘までが、その教会の跡を継ぐようにまでなった。しかし、裁判官が異動している世の中で、牧師たちが転任を拒む理由は、ないという気がしてならない。
 
わずか3年で全国各地を異動して行くのでは、どこにも定着できない寄留者のような感覚も生じるだろう。家族がいても、単身赴任になることもあろうし、子供たちも、学校を転校するなど、荷を負わなくてはならない。全く新たな見知らぬ土地に行って、その日から、何事もなかったように、日常生活を開始することもできまい。

それでも、あえてそのような制度をもうけることで、市民の訴えに対し、公平性が保たれるよう配慮がなされているのである。
 
筆者は、神から与えられた召しに基づき、信仰によって、この地にやって来たため、果たすべき役割がまだ終わっていないうちに、よその土地に移されることはないであろうと考えている。実際に、筆者自身がよその土地に移ろうと試みたことも何度もあったのだが、その試みはすべて頓挫して終わった。

筆者は、こうして異動こそしていないが、これまで仕事に就くときには、一切、コネを利用せず、常にアウトサイダーとして新たな組織の中に入って来た。
 
その原則は、ずっと前から同じである。どんな時にも、すべてを天に任せ、正攻法で、表玄関を通過して来た。さらに、最近は、複数の応募を同時に行うこともやめて、不実な企業に騙されるリスクがあっても、本命一本だけで勝負するようになった。そこで、勝負の全うさは、以前よりも増し加わっていると言えよう。

筆者の人生の原則は、ただ一つの真実だけを追求するというものであり、それは、神との関係、人との関係だけでなく、あらゆる場所において、貫かねばならない原則であると考える。

そこで、職場を選ぶにも、唯一無二の相思相愛の関係が成立しないような場所に赴く必要はないと考えて、不実な応募はしないことに決めた。相手が不実だから、自分も不実であることが許されると思うのは間違いであって、騙す側に回るくらいならば、騙される側に立つ方がましなのである。

その原則が、間違っていたと証明されたことは一度もない。

そこで、第一審が終わり、筆者が裁判所の近くにとどまり、紛争処理を生きるフィールドに定めようと決意したときにも、当然のごとく、筆者はたった一つの仕事にしか応募しなかった。

しかも、その時、筆者は審理の準備のために、数ヶ月も仕事を辞めていたので、無職となっていた。それまでの筆者ならば、そういう状況で、また新たに就職活動を行わねばならないことを非常に苦痛に思い、不利なスタートとして恐れを感じたであろう。

しかし、筆者にはその時、全く恐れがなかった。それだけでなく、生き方を根本的に変え、目指す方向性を変えようという考えがあったので、それはちょうど良い新たな門出にしか感じられなかった。

さらに、筆者の人生には、財布の中身を決して勘定しないという、もう一つの原則がある。ダビデが王になって人口を数えたことが、罪であると聖書に書いてあるように、筆者は自分の財産を数えないことに決めている。

そこで、いつ何をして働くべきかも、すべて天の采配による。明日のことをあれやこれやと思いめぐらし、懸命に自分の残りの財産を勘定して、損がないように立ち回るなどの計算は全くしない。

だが、歴代の宣教師たちの多くが、そうして自分の生計をすべて主に委ねながら、未開の地に赴き、伝道して来たことを思えば、これは何ら例外的な原則でも、不思議な方法でもない。

神の国とその義を第一にして生きるなら、すべての必要は添えて与えられるのであって、何をして生きるべきか、どうやって日々の糧を得るべきかという問題が、私たちにとって心を悩ませるべき第一義的課題ではないのである。

とはいえ、筆者がバビロン体系の中で生きているうちは、常に嘘や、搾取などといった問題から解放されることはなく、それゆえ、絶えざる困難に悩まされたため、筆者は熟慮の末に、バビロン体系そのものを離れることにした。

そうして、判決を手に新たな任務を探し、新たな場所へ赴き、そこで筆者の裁判を担当してくれた裁判官に、どこかしら似た経歴を持つ上司が、筆者を面接し、その場でただちに内定を受けたのであった。

判決が、まるですべての扉を自動で開けるための鍵のようになって、今までには筆者がどんなに努力をしても、得られることのなかった成果として、新たな進路をもたらしてくれた。

筆者は即日にして、これまでに最長の契約期間を得て、給与の額さえ、自己申告するよう求められた。その上司は、筆者の見栄えのしない履歴書に対し、ディスカウントの言葉を発することは全くなかった。

だが、それでも、筆者はこれを最高の満足とはとらえておらず、すべてはまだ始まったばかりで、この現状で満足してしまっているようでは、前進もないと考えている。さらなる自由、さらなる豊かさを勝ち取るために、進んで行かなくてはならない。

バビロン体系と訣別した以上、筆者の仕事の目的は、もはや自己実現、自己顕示にはない。そういう意味で、この干潟は、筆者にとって休息の場所であり、これまでのように忙しない、生きるためにやむを得ず、馬車馬のごとく働くための「労働」の場所ではない。

筆者は、この干潟のはしくれのような職場にたどり着いてから、一見、頼りなさそうに見える小舟に乗って、そこで船頭の一人のようになって、見張り人の役目を果たしている。舟が危ない岩にぶつかりそうになれば、その都度、警告を発するようにしている。

舟は、筆者の警告を聞き入れて、危険を回避している。こうして、筆者にも、何がしかの役目が与えられ、必要とされていることが分かっているうちは、そこを離れようとは夢にも思わない。

筆者の役目は、自分の労働の成果を誇示して、輝かしい栄達を遂げ、誰かを圧倒することにはない。ちょうど主イエスが、嵐が荒れ狂って、舟に乗った弟子たちが安全確保のために狂奔しているときに、船底で熟睡されていたように、誰からも存在すらも気取られないようなさりげない自然な方法で、舟の安全を守ることにある。

このような働き方は、これまでの筆者の人生にはなかったものである。

労働でありながら、それは安息であって、自分にも、他人にも、安息をもたらす働きである。

他者からの不当な干渉を排除し、自分自身の判断の独立性を保ちながら、自己の望む、真に正しいと信じる事柄を成し遂げるために働く。

徒党を組まず、不誠実な試みには加担せず、独立不羈を貫きながら、それでも、自分一人ではなく、仲間の存在がある。

そのような生き方が成り立つためには、他者と連帯せずに、独立して仕事を進められる自由がなくてはならない。しかも、そこに、仕事そのものが持つ深い意味づけ、筆者の判断が生かされる余地、真実を追求することに価値が見いだされなくてはならない。

さらに職場そのものが、そのような追求に価値を見いだし、これを評価できるところでなくてはならない。

そうした希少な条件が揃った「干潟」が、筆者の人生に出現した。それはまだ完成に至っておらず、本領も発揮しておらず、真の姿には至り着いておらず、船出したばかりであるが、完成体を表す萌芽のようなものが、はっきりと見出され、そこには、筆者と似たような理念、似たような価値観を持つ人々が集まっている。

だから、筆者は彼らと同じ船に乗って、この船の向かう方向性に期待をかけて、そこにとどまっている。おそらくは、一生のつきあいになる可能性もあるのではないかと見ている。

このようなことは、筆者の人生にはこれまで起きたことがなかった。一審で得た判決が、筆者を呪いの言葉から解放し、目に見えない宝を与え、新たな扉を開くための手形のようになってくれたのである。

こうして、筆者の目指す命の川の流れが少しずつ出現している。これはこの先、何年間もかかって完成に至る大型プロジェクトの始まりであって、筆者は地下から大量の生ける水を汲み出すための目に見えない大型パイプラインを建設している最中である。

その生ける水は、筆者が訴訟の最中、裁判所の地下に流れていることを偶然にも発見したものである。訴訟において、筆者は小さな井戸を掘っただけであったが、それだけでも、確かにそこに生ける水が流れていること、これを地上に汲み上げる方法があることが分かった。そこで、筆者は、裁判所の飛び地になっている干潟を探して、これを中継し、地下から地上にこの水を大規模に汲み出すためのパイプラインを作り始めたのである。

もちろん、これは比喩であるとはいえ、比喩とは言い切れない部分がある。判決には人を解放する力があり、人々の切なる訴えが集積している裁判所は、天に向かって人の訴えが届いている場所でもある。人間に過ぎない裁判官も、人々の悲痛な訴えに耳を貸し、自由と解放を与える判決を書くが、神もそれをお聞きになっていることを筆者は疑わない。
 
筆者の抱える訴訟においては、まだ第二審の最初の期日も開かれていないが、筆者の主要な関心は、もはや個人的な係争にはない。警察における手続きも、控訴審の行く末も、筆者の新たな仕事も、やがてはすべてがパズルのピースのように絶妙に組み合わさって、今までになかった新たな形が生まれて来るだろうという気がしている。

今はまだそれがどういう形で起きるのか分からないが、少なくとも筆者は、これまでのように、返済してもしても埋め合わせることのできない負債を返すというむなしい働きのために生きているのではない。ゼロからプラスを構築し、真に正しいと信じられる目的の実現のために働いている。

こうして、干潟に流れるうたかたのように、泥水の中に身を横たえて、上から光を当てられる瞬間をただ待っていただけの、影に過ぎない存在であった筆者が、今や干潟に光を当てて、神秘的作用を自ら引き起こす側に回ろうとしている。

どうしてそんな役目が筆者に回って来たのかは分からない、だが、これはとても光栄な働きであって、何かしら途方もないことが、これから起きようとしていると感じる。筆者はその瞬間に向かって、一人ではなく、他の人々と共に手を携えて進んでいる。

* * *

筆者は10年ほど前、夜行バスに乗って、横浜の街を幾度か訪れた時のことを思う。その頃、この街は、筆者にとって、まさに生ける水が泉となってわき出すために用意された特別な街のようであった。

早朝になって、窓から外の景色を覗くと、窓を開けたわけでもないのに、命の水の流れが、地下だけでなく、地上においても、大気の中に溶け込み、新鮮な空気となって、上から降り注いでいるように感じられた。

駅を歩くだけでも、筆者はこの泉の気配を感じずにいられないほどであった。その頃、筆者は、キリスト者の集会の中に、命の流れの源があるのだと思っていた。兄弟姉妹と共に、手を携えて、これからその泉を地上に流し出す仕事をするのだと考えていた。

その読みは、誤ってはいなかったのかも知れない。だが、その命の流れは、間もなくせき止められ、バリケードで塞がれ、これを受け継ぐ仕事は、筆者にバトンタッチされた。筆者は彼らの舟から失格者のように降ろされたにも関わらず、その仕事は、まさに筆者に受け継がれたのである。

それから何年も経ち、主イエスがスカルの井戸でサマリヤの女に出会われた時のように、筆者は誰も見向きもしないみすぼらしい干潟のほとりで、再び、この泉を発見した。その時、筆者には分かった。生ける命の水の泉を発見する秘訣は、へりくだりにあるのだと。

私たちが、人に捨てられ、誰からも見向きもされず、関心も持たれず、徹底的に侮られ、嘲られ、踏みつけにされ、孤独と、悲しみに暮れて、真のへりくだりに達しないことには、主イエスも、私たちの前に、姿を現すこともできないし、私たちを救うことも、手を差し伸べることもできない。

なぜなら、私たちはあまりにも強すぎて、自信満々で、独りよがりに陥り過ぎていて、常に自己過信し、自己充足し過ぎているためである。その自己過信が取り去られ、自己充足が打ち破られて、私たちが心から本当に主を求めないことには、神でさえ、人をどうすることもできない。

筆者が裁判所から離れたくないと思うのは、いつまでも訴訟にとらわれ、争いを続けたいがためではない。そこで学んだへりくだりから離れたくないためである。自分が最も低くされ、孤独であり、寄る辺なく、助けがなかった時に、神が筆者を見捨てられず、筆者の訴えを取り上げて下さり、筆者を迎える場所を用意し、必要な措置をすべて講じて下さったことの恵みを、片時も忘れたくないためである。

地上の裁判官は、人として束の間、この事件を担当してくれ、一瞬の出会いがあったに過ぎず、地上で筆者が得た判決文の文字も、完全なものであるわけでもない。それゆえ、係争は終わっておらず、判決の約束さえ、未だ完全な実現を見ていない。だが、そんなこととは一切関係なく、神ご自身が、この出来事を通して、筆者の前を通り過ぎて行かれたことを、筆者は忘れたくないし、その感謝に満ちた出来事を、終わらせたいとも、思っていない。

パイプラインの建設が完成に至るためには、おそらくは筆者自身が、第一審が開かれていた時と同じように、絶えず自己を無の立場に置いて、低めることが必要になろう。それは、筆者がただ神にのみ希望を見いだし、自分の何もかもを脇に置いて、この街にやって来た時と同じ心境である。

その頃の筆者は知らなかったが、そのようにして筆者がこの地に招かれたのは、その後、筆者が人の目に偉大な事業を成し遂げるためではなく、その後も、同じへりくだりの中にとどまり続けるためであった。

だから、現在、筆者は、自分が解放されたからと言って、これまで通過して来た大いなる試練を忘れたいとは思わない。最も重要なのは、筆者が解放されたことそれ自体ではなく、筆者を解放しようとして、あらゆる手を尽くしてくれた人々が存在すること、また、彼らの配慮を通して、神の豊かで憐れみに満ちた采配が、今も筆者に降り注いでいることなのである。

だから、筆者は、そのことを心に刻みつけておくために、あえてこの思い出深い場所を離れたくないと考えている。人が苦難の中に、いつまでもとどまり続ける必要は全くないが、人の心の泉は、苦難によって、人の魂に刻みつけられた裂け目から、流れ出す。神に出会うためには、私たち自身が、神と同じほど己を低くすることが必要で、それがなければ、私たちが飽くことなく求めている幸いも、自由も、解放も、決して私たちの人生に真にもたらされることはないのである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)


わたしが、あなたと争う者と争い わたしが、あなたの子らを救う。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。」

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

* * *

8月15日を境に秋の気配が漂うようになった。夏が去ってしまうことが名残惜しい。

今年の前半はほとんど審理の準備に費やされたが、筆者の人生はそれによって停滞することなく、実人生においても、これまでにない大きな前進と収穫があった。

裁判で学んだ様々な有益な教訓を活かして、人々を助けるために、社会との新たな接点や、新たなミッションが与えられたからである。

一審判決が言い渡された時には、地球上にたった一人の裁判官以外には、筆者の主張を認める人もないかのように見えたが、たった一人であっても、信頼と協力を打ち立てることのできる人間が現れたことの意味は大きく、これを突破口のようにして、その後、援護者、協力者が増えつつある。

今や様々な人々と円滑な協力関係を築きながら、事件の解決へ向けて、物事を進められるようになった。気軽な世間話のように、この事件の行く末に関して論じ合うことのできる日も、そう遠くはないであろう。

それは世の人たちであって、信仰者ではないが、筆者はこの地にやって来た時から、ここを生ける水の川々の流れ出す場所にしたいという願いを持っていたので、人々との間で、真実で偽りのない信頼関係、協力関係が築かれつつある有様を見ると、その願いが、少しずつであるが、実現していると思わずにいられない。

紛争は、筆者を絶望に追いやることなく、かえって、一見、厭わしく、みすぼらしく、無益のように見えるこの「干潟」を中心に、そこから流れ出す命の泉が、確実に周囲を潤し、人々の心の思いや、関係を変えて行くようになった。紛争を機に、静かに、そして人目にはつかない形で、確実に社会のあり方が変わって行くのである。

控訴審が開かれるのは、秋になろうが、昨年に比べ、筆者の荷は軽い。相手方が遅れに遅れて出した書面も非常に軽いが、それだけではなく、今や筆者は、様々な重荷を自分の手から離し、その本来の持ち主にお返しする方法を学び始めた。

重荷を減らすためには、これを本当の持ち主に返還するのが一番である。主イエスは、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われたのであるから、負うことが困難なほどに重い荷がやって来れば、それは主から来たものではないものとして、持ち主をよく調べて、真の受取人にお返しすべきである。

控訴審の荷が軽いのは、主がすべてを筆者に負えるよう采配して下さっていることはもちろんのこと、判決が守りの盾となっているからでもある。

一般に、法律家でもない素人が、新たな証拠もなく、判決を覆すのは、まず無理だと言って差し支えない。だから、判決を不服として控訴する者は、判決と戦っているのであって、事件の当事者と直接、戦っているわけではない。

その上、筆者は、キリスト者を訴えられる者は誰もいないという聖書の御言葉を繰り返し引用しているのであるから、そのバリアを破ろうとする不遜な試みは、聖書の御言葉そのものに逆らい、これを破ろうとすることを意味するわけで、神を相手に戦いを挑んでいるようなものである。

そういう試みの結果、生じる途方もない重荷は、その本人のみが負えば良いものであって、他の人たちには関係がない。アナニヤとサッピラが、聖霊が定めた境界を欺きによって乗り越えようとして、エクレシアの戸口で神に討たれて死んだように、不遜な試みは、ただ失敗に終わるだけではなく、必ず、何かの恐るべき報いを伴うこととなる。

筆者はそのようなことが起きないように、モーセが燃える芝の前で靴を脱いだように、自分の超えてはならない分を超えて、立ち入るべきでない領域に足を踏み入れないよう、聖なる領域の前で、心の靴を脱ぐ。

筆者自身も、判決の変更を求めている部分があるが、筆者は、裁判官の下した判断と戦うのではなく、むしろ、判決と筆者の主張の両方を土台に、新たな共同作品を打ち立てるつもりでいる。

そのために一審において言い尽くせなかった新たな主張を加え、新たな証拠を提出し、数ヶ月間を費やし、書面を作成した。ちなみに、高裁では、裁判所ではなく、「裁判体」という言葉が多く聞かれるが、複数の裁判官が事件を裁くわけであるから、その意味でも、新たな判決は共同作品となる。

だが、筆者にとって、一審判決は、まだ筆者の主張に味方する者も、これを公に認める者も、助けの手を差し伸べてくれる者も、ほぼ皆無に近かった頃に下されたものであるという意味で、一人の善良な裁判官の残してくれた、忘れ形見のように、かけがえのないものである。唯一無二の「オーダーメイド」の判決と言ってもよく、これを無に帰するようなことは決してしたくはない。

聖書にはこうある。

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(一コリント15:54-57)

この御言葉は不思議である。なぜなら、朽ちるものと、朽ちないものとの間には、接点はなく、それはどこまで行っても、異質なもののはずである。ところが、聖書は、朽ちるものの上に、朽ちないものが着せられ、死は勝利に「のみ込まれた」と言う。

ここに、筆者の言う「上書き」の原則もある。

一審判決には、幾分か、死の棘がまだ残っている。この小骨のような棘を、敵の主張と共に飲み込み、上書きする過程で、取り除いて行くのである。

それはちょうど壁に塗られたペンキの剥げた部分を丁寧に塗り直しながら、壁全体を新たな色に塗り替えて行くようなものである。

筆者の主張の中で、欠けている部分を補い、古いもの、過ぎ去るべきものを、新しいもので上書きし、覆い、造り変える。

それによって、判決にも新鮮な生きた新しい命を吹き込み、新しい命が、古いものを覆い尽くし、みすぼらしい部分、恥となる部分、瑕疵となる部分は消えて、見栄えのする部分、光栄な部分、完全な部分に変えられる。

どうしても造り変えを拒むようなものも、新たな命に飲み込まれ、覆われて消える。

このように、自らの主張と判決とを合わせて補強・上書きし、さらに新鮮な命の通うものにして行くことができると筆者は信じている。

だが、そうこうしているうちに、おそらくやがて紛争自体が、命によって飲み込まれ、上書きされ、消えて行くだろう。

たとえば、昨年は、筆者は審理を進めることを第一目的として仕事をしていたが、今年は、仕事も審理と同じほど重要になったので、これを守りながら、審理を進めて行くこととなる。そのことは、次第に、紛争が筆者の人生に占める割合が減って来ていることを意味する。これが進むと、やがて実人生の方が、紛争よりもはるかに重いものとなる。
 
そうなる頃には、判決も、筆者の書面も、何もかもが、もはや過ぎ去ったものとして、足の下となり、人生が紛争から解放されることとなる。論敵の主張などは、無かったもの同然に忘れ去られ、消え去ることであろう。

だが、そうなっても、この事件に生きて関わってくれた多くの人々の存在は、筆者の中で、かけがえのない貴重な財産として残るに違いない。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:40-42)

筆者を受け入れ、助けてくれる人たちは、神の御前に覚えられ、筆者と同じ報いを受ける(=似たような性質が分与される)。また、筆者自身も、彼らから何がしかの性質を受け、そこで「命の交換」が行われる。

筆者が紛争を通して裁判所や警察に関わり、それによって彼らの仕事の内容を知り、それが筆者の血肉のようになって、紛争が終わっても、そこを立ち去ることなく、筆者の生きるフィールドに定めたいと願ったように、筆者に関わった人々も、信仰者でなくとも、筆者から何か大切なものを受ける。(むろん、筆者の与えられる最高のものは、キリストご自身である。)

このようにして、何がきっかけであるにせよ、新たな命の通う、真実で、良き関係を築くことは可能なのである。

今や筆者は紛争の当事者という立場を離れ、これを天高くから、まことの裁き主と一緒に、見下ろす立場に立とうとしている。天の御座に就いておられる方が、地上におけるすべての物事をはるか足の下に見下ろすことができる視野を与えて下さる。

だから、筆者は自分の人生を、紛争から徐々に解放すると同時に、より自分自身という一人の限界ある人間の立場を離れて、物事を見るよう促されている。少しずつではあるが、筆者はこれまで絶え間なく行って来た「モーセの書」の作成とそのための議論から解かれ、膨大な書面からも解かれて、顔を上げる。

その時、私たちは、サタンの訴えの前に必死になって自己弁護を行う当事者の立場を離れ、むしろ、モーセの書を事件ファイルのように手にしながら、まことの裁き主なる神と共に、地上のすべてのものを足の下に治め、敵(サタン)を目の前に、私たち信じる者には勝利を、敵には敗北を力強く宣告することになる。

そうなるまでの間、筆者はこの紛争から、学べるだけのものを学び、これを糧として吸収し、その教訓を活かして、自分以外の人々にも利益をもたらす秘訣を探ろうとしている。それができるようになった頃、この紛争はすっかり終結して、誰にも用のない抜け殻のようになって、消えて行くことになろう。

紛争によって筆者に重荷をもたらそうとした者たち、また、その渦中で筆者を見捨てて行った者たちが、その頃、どこでどうなっているか、筆者は知らない。可能な限り、筆者はそうした人々をも、敵に引き渡すことなく、取り返したいと願っているが、仮に彼らが戻って来なかったとしても、その代わりに、新しい人たちが筆者の人生を占め、にぎわせるだろう。

筆者が以下の御言葉を引用したのは、2018年2月のブログ記事「十字架の死と復活の原則―敵のあらゆる力に打ち勝つ御名の絶大な権威を行使し、サタンを天から投げ落とし、イエスの命を体に現す―」のことである。

それから今まで、筆者は猛特訓を受けて、勇気と力を与えられた。筆者の人生においては、以下の御言葉における多くの事柄が成就したものと思う。

「主のほかに神はいない。
 神のほかに我らの神はいない。

 神はわたしに力を帯びさせ
 わたしの道を完全にし
 わたしの足を鹿のように速くし
 高い所に立たせ
 手に戦いの技を教え
 腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

 あなたは救いの盾をわたしに授け
 右の御手で支えてくださる。
 あなたは、自ら降り
 わたしを強い者としてくださる。

 わたしの足は大きく踏み出し
 くるぶしはよろめくことがない。
 敵を見、敵に追いつき
 滅ぼすまで引き返さず
 彼らを打ち、再び立つことを許さない。
 彼らはわたしの足元に倒れ伏す。
 
 あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ
 刃向う者を屈服させ
 敵の首筋を踏ませてくださる。
 わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。

 彼らは叫ぶが、助ける者は現れず
 主に向かって叫んでも、答えはない。
 わたしは彼らを風の前の塵と見なし
 野の土くれのようにむなしいものとする。
 
 あなたはわたしを民の争いから解き放ち
 国々の頭としてくださる。
 わたしの知らぬ民もわたしに仕え
 わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い
 敵の民は憐れみを乞う。
 敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。

 主は命の神。
 わたしの岩をたたえよ。
 わたしの救いの神をあがめよ。

 わたしのために報復してくださる神よ。
 諸国の民をわたしに従わせてください。
 敵からわたしを救い
 刃向う者よりも高く上げ
 不法の者から助け出してください。
 
 主よ、国々の中で
 わたしはあなたに感謝をささげ
 御名をほめ歌う。
 
 主は勝利を与えて王を大いなる者とし
 油注がれた人を、ダビデとその子孫を
 とこしえまで
 慈しみのうちにおかれる。」(詩編18:32-51)

以上の御言葉の後半はこれから成就しようとしている。報復の時、敵に対する裁き、敵の敗北、そして、キリスト者の完全な勝利は、これからもたらされる。

だが、それと同様に、筆者の心の中にはいつも次の聖句がある。テーマは「失われたものの回復」である。

「島々よ、わたしに聞け
 遠い国々よ、耳を傾けよ。
 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。

 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
 わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
 わたしに言われた

 あなたはわたしの僕、イスラエル
 あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

 わたしは思った
 わたしはいたずらに骨折り
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。

 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。

 主の御目にわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、わたしの力。

 今や、主は言われる。
 ヤコブを御もとに立ち帰らせ
 イスラエルを集めるために

 母の胎にあったわたしを
 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。

 わたしはあなたを僕として
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

 だがそれにもまして
 わたしはあなたを国々の光とし
 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

 イスラエルを贖う聖なる神、主は
 人に侮られ、国々に忌むべき者とされ
 支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。

 王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。
 真実にいますイスラエルの聖なる神、主が
 あなたを選ばれたのを見て。

 主はこう言われる。
 わたしは恵みの時にあなたに答え
 救いの日にあなたを助けた。
 わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて
 民の契約とし、国を再興して
 荒廃した嗣業の地を継がせる。

 捕らわれ人には、出でよと
 闇に住む者には身を現せ、と命じる。

 彼らは家畜を飼いつつ道を行き
 荒れ地はすべて牧草地となる。

 彼らは飢えることなく、渇くこともない。
 太陽も熱風も彼らを打つことはない。
 憐れみ深い方が彼らを導き
 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。

 わたしはすべての山に道をひらき
  広い道を高く通す。

 見よ、遠くから来る
 見よ、人々が北から、西から
 また、シニムの地から来る。

 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。
 山々よ、歓声をあげよ。
 主は御自分の民を慰め
 その貧しい人々を憐れんでくださった。

 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。

 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。
   あなたの城壁は常にわたしの前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃虚とした者はあなたを去る。

 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。
 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。

 破壊され、廃虚となり、
 荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子らは
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕らえられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。

 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を地につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう。

 そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。

 主はこう言われる。
 捕らわれ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。
 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。 」(イザヤ書第49章)


実際に、神は力強い助け主として、筆者と共にいて下さり、多くの人々を筆者の前に連れて来て下さっている。筆者はこれらの人々を花嫁の帯の飾りのようにつなぎ合わせながら、心に思う、「私は助けのない状態に、一人で置かれていたはずなのに、この人々はどこから現れたのか」と。

さらに筆者はいつか周囲を見渡してこう思うだろう、「私たちにはもっと広い場所が必要だ。ここは住むには狭すぎる」と。その願いは筆者の内にすでに生まれている。

主がどのような形で、今後、信じる者の人生を豊かに満たして下さるかは分からないが、筆者はすでに泉のほとりに導かれた。判決が守りの盾になるように、まして神の御言葉は、私たちの揺るぎない強固な防衛の砦であって、これにより頼む者と争う人は、主ご自身と争うのである。

だから、そのような争いには主ご自身が応えて下さり、私たちはその重荷を負わなくて済む。

改めて、筆者はこの年の後半、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」という御言葉の意味を知りたいと願っている。
  
「書類から人へ」のシフトは、ゆっくりではあるが、確かに進行中で、干潟に流れるうたかたのように、紛争もゆっくりと終わりに向かっている。
 
神に望みを置く者が恥を受け、敗北に終わることはない。その御言葉は、真実であるから、主が筆者の人生をどのように豊かな宝で満たし、飾って下さるのか、楽しみにしている。  


何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。

実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それならば、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。

権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。

あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(ローマ13:1-7)
 
奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい

あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。

主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(エフェソ6:5-9)

奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。

あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。

主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。」(コロサイ3:22-25,4:1)


* * *

前回、「顔を上げて主をまっすぐに見る」必要性について書いた。

聖書には「目を上げて・・・を見よ」というフレーズが幾度も登場している。

該当する聖書箇所を探そうと検索すると、以下のコラムが見つかった。特定の教会の宣伝のためではなく、これまでの記事内容に重なる非常にタイムリーな内容として、あえて引用しておきたい。

目を上げて遠くを見よ」(キリストの栄光教会 2015 年 4 月 25 日)

「聖書には、「目を上げて、見る」という表現がたびたび出てきます。

ヨシュアがヨルダン川を渡り、未知の敵地カナンに踏み込んだとき、偉大なる主の軍の将に出会ったのは、「彼が目を上げて見る」ことによってでした(ヨシュア 5:13)。その方は「抜き身の剣を手に持って」ヨシュアの前方に立っておられました。下を向いたり、自分を見つめたりしても、強大な敵と戦う力は受けられません。不安になるだけです。

詩篇の作者は歌いました。「あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ」(詩 123:1)。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」(詩 121:1)


なぜ高くそびえる山があり、広大な海があり、突き抜ける空があり、月星の世界があるのか。それは、私たちが目を上げ、遠くを見るためです。


アランというペンネームで知られるフランスの思想家エミール=オーギュスト・シャルティエがこう語っています。「抑うつ病にかかっている人に、わたしの言いたいことは、ただ一つしかない。『遠くを見よ』・・・人間の目というものは、書物との間の距離のような短い距離に合うようには作られてはいない。広々とした空間のなかで憩うものなのだ。星や水平線をながめていれば、目はすっかり安らいでいる。目が安らいでいれば、頭は自由になり、足どりもしっかりしてくる。身体全体がくつろいで、内臓までがしなやかになる。・・・自分のことを考えるな。遠くを見よ」(『幸福論』社会思想社)。


地上のことで悩むより、目を上げて、はるか遠くを見よ。今が苦しいのなら、天にある国籍を思え。やがて私たちのために完成され、住むことになる永遠の神の国に思いを馳せよ。日常のさまざまな出来事の只中にあって、目を上げ、主を見よ。そうすれば、何が大切かそうでないかが分かってきます。過ぎ行く事々に振り回されず、まず永遠を見つめましょう。」


 
* * *

前回、「書類から人へ」の移行が、筆者の人生に徐々に起きつつあることを書いた。

先日、仕事中、書類とパソコン画面に見入っていると、現場を巡回していた上司が、さりげなく筆者の様子を気にかけて、声をかけて行った。

筆者が目を上げて書類から人へ視線を移し、自分の上に立てられた権威者を見上げる瞬間である。

滅多に会えるわけではない上司であるが、この人とも、第一審において、裁判所がくれた判決が筆者を出会わせてくれたのである。

その人は、一審を担当した裁判官と、どこかしらよく似た雰囲気と経歴を持つ人物であり、決して人を脅かしたり、上から権威を振りかざして人を威圧することなく、誰をも辱めることなく、誰に対しても、穏やかに、明朗に接することのできる不思議な能力を持っていた。

人の心の痛みをよく知る、砕かれて謙虚な心を持つがゆえに、そのようなことができるのだろうと感じさせられる。

こうして、会うたびに、この人に着いて来て良かったと思える上司は、存在自体が稀有であり、そのような出会いは、人生における大きな財産であると言えよう。
  
上司は、短い言葉で、筆者に向かって、仕事の様子を尋ねたが、言外にこう述べているかのようであった。

「今はすべてが過渡的な段階にあるため、あなたには環境に様々な制約があるように感じられることもあるかも知れません。でも、私はあなたに、自分で自分に制約をもうけないで欲しいのです。あなたにはすべての状況を乗り越える力があると信じています。あなたには私たちの期待に応えるだけの力があります。だから、できないとは言わないで下さい。私たちにはあなたの協力が必要なのです。私たちを信じて着いて来てくれますね?」
 
筆者はそれに頷いて言外に答える。「もちろんです。私はあなたの目指す方向を信じて、それに従いたいと思って、ここに来ることを望み、呼ばれて来たのです。ですから、環境の制約に目を留めることはもうしません。環境は、時間が経てば整うでしょう。でも、もしも初めからすべてが整っていれば、そこには私のいるべき場所はなく、果たすべき役割もなかったかも知れません。私はあなたを失望させないために、ここに置かれたのですから、あなた方に着いて行き、自分の役目を果たします」

むろん、以上のような受け答えが、文字通り、あったわけではなく、実際には、ただ二、三の短い言葉を通して、筆者の心が改めて問われたのであった。困難に遭遇したとき、どのような態度を取るか。権威に対して、どう接するか。自分のために、権威者にすべてを提供してもらうことだけを望むのか、それとも、彼らが望むことに従い、共に協力してすべてを作り上げて行くのか。穏やかで優しい問いかけではあっても、そこには深い意味が込められていたように思う。

筆者は、一審の最中、自分の上に立てられた権威である裁判官を信頼し、正しい裁きが得られることを信じて、その采配に身を委ねられるかどうかを試された。様々な波乱が起き、望ましくない出来事が次々と起きる中、信頼関係を断ち切られることなく、協力して物事を前に進めることの大いなる意味を学ばされたのである。

今はそうして得た判決を携えてやって来た新たな場所で、地上の権威としての上司を敬い、困難の中でも、彼らに従い、協力してすべてを成し遂げられるかを試されている。

聖書が教える通り、地上における権威者は、天におられる権威者を象徴している。だから、地上の主人に対して、僕である私たちが、真心を込めて従うかどうかは、非常に重要な選択であって、地上の主人に対し、様々な不満を心に抱えつつ、神に対してだけは、従順に従うということは、無理な相談であろうと筆者は思う。

職場に限らず、私たちは、この世に生きる限り、あらゆる場所で、実に多くの制約を負う。実に多くの、自分の願いとは合致しない、理想からはほど遠い、混乱した状況、あるいは、理不尽と見える状況にも遭遇する。

だが、そうして望ましくない状況に遭遇する時にも、そこに神の采配が働いていることを信じられるか、目に見える状況がどうあれ、神のご計画には、いささかの理不尽も、狂いもないことを信じ、上に立てられた権威を通して、主の御手が自分に働いていることを理解し、その采配に従うことができるかどうかを、私たちは常に試されている。

筆者の心は、いかなる不合理な事件に遭っても、いつも穏やかで、一切揺るがされないなどとは言い切れるものでないが、それでも、常に神の采配が万全であり、完全であることを信じ、主に従って歩みたいと願わされている。間違っても、状況の理不尽さだけに目を留めて、自分を犠牲者のように考えたいとは思わない。
 
だが、もしも私たちが、目の前にある制約や、望ましくない不合理な条件だけに目を留めて、神や、上に立てられた権威者は、自分に理不尽かつ不可能なことばかりを求めていると感じ、自分を不憫に思って、彼らに不信感を抱いて、彼らに従うことをやめ、前進をやめれば、そこで、主が私たちをそこに配置して下さり、始めようとしておられたすべてのプロジェクトも、終わってしまう。

私たちの心がそのような状態になって、自分の限界でいっぱいになってしまうと、地上における協力関係は断ち切れ、私たちを配置した権威者にも、もはやどうすることもできない。

むろん、権威に従うとは、私たちが自分の判断を一切放棄して、権威者の言うことにただ盲従することを意味せず、理不尽な命令にまで黙って従って、自分をいたずらにすり減らすことをも意味しない。あくまで判断は、私たち一人一人が自分でせねばならないのであり、誰からの指示や命令を受けた時であれ、限度を超えて、何かを行うようなことをしてはならない。

しかし、決して誰かの言い分にロボットのように従うのではなく、あくまで自分自身の判断を保なちながらも、様々な制約に直面しても、決してあきらめることなく、上に立てられた権威を心から敬い、主に仕えるように、真心からその人たちに仕え、彼らの指示や命令に従いながら、彼らと手を携えて、共に協力して困難を打破して、前に進んで行くことは可能なのである。

そうした協力関係が打ち立てられる時、そこからは、ただ単に何か自分の願うことを達成したと言うだけにはとどまらない、不思議な関係と効果が生まれて来る。山上の垂訓がまさに地上に引き下ろされ、神の御心がこの地に実現したと言う他のない、命の水の流れが生まれ、周囲が潤される。

困難に直面したとき、自分の限界から目を背けるために、不都合な事実から目を背け、互いに重荷を押しつけ合い、責任をなすりつけあって、責め合って終わるのか。それとも、様々な限界を背負ったままで、互いを信頼し、協力しながら、進んで行くことができるのか、どちらを選ぶかによって、人生は大きく変わる。

本当は、そのような協力関係を打ち立てるためにこそ、筆者は仕事をしている。ただ労働を提供することが、働くことの真の目的なのではなく、その働きを通して、あるべき秩序が打ち立てられて、人々が解放されることこそ、真の目的なのである。だから、筆者が人々に与えられる最大の成果は、労務を超えたところにあると、筆者は確信している。筆者が人々に提供できる最高のものは、正しく、価値ある尊い目的意識を共有し、そこに共に手を携えて向かって行くというビジョンである。

もしも裁判官が正しい裁きを象徴し、上司が部下に最高のねぎらいを与えてくれる主人を象徴するならば、筆者は、彼らの裁きと命令に従順に従い、その権威に服し、彼らの心を満たすことで、栄光を帰する僕を象徴する者であると言えよう。

僕の最高の役目は、主人に栄光を帰することにあり、その役目を果たし、正しい秩序に服し、あるべき関係をもたらすことこそ、筆者の本当の意味での「労務」なのかも知れないと思う。

つまり、筆者は、何かしら人々を圧倒するような輝かしい労働の成果を個人的に求められたがゆえに、ここに配置されているわけではなく、ただ僕としての役目を心から全うすることで、主人に仕え、主人の心を満たし、人々との間にあるべき秩序と関係をもたらすために、呼ばれて来たのである。それを果たすことこそ、真の意味で、筆者に与えられた「労務」なのであろうと思わずにいられない。
   
* * *
 
さて、法廷に入廷した当事者たちは、裁判官が法廷に入って来て開廷を宣言する瞬間を、沈黙のうちに待ち望む。そして、裁判官の姿を見ると、立ち上がって礼をし、裁判官が法壇に就いて事件ファイルを開き、発言し始めるのを一心に待つ。

当事者は、自分たちに下される裁きを気にかけていればこそ、裁判官から目を離すことができない。

裁判官は、法廷においては、一人の人間であるというより、裁きそのものの生ける象徴である。正しい裁きを恐れなく待ち望む者にとっては、切に待ち焦がれた解放の宣言の体現者であり、他方、己が悪事を明るみに出され、不利な裁きが下されることを恐怖する者にとっては、恐るべき権威者である。

むろん、地上における法廷は、信仰とは関係がないとはいえ、筆者は、正しい裁きが下されることを切に待ち望む者の一人として、地上の法廷に、天的な裁きの絵図を見いだし、地上の裁判官の姿に、まことの正しい裁き主の姿を重ね、判決を支える法にも、神の揺るぎない掟である御言葉を見ないわけにいかない。それゆえ、地上の法廷に、尽きせぬ畏敬の念を抱かずにいられない。

以前からずっと書いているように、筆者の思いは、この地上に正しい裁きをもたらす神秘的な干潟としての法廷に魅了されてしまい、審理が開かれていない間も、そこから思いが離れられなくなった。筆者の心の中心には、常に見えない法廷が置かれ、筆者の思いも、正しい裁きとそれをもたらす法の周りを常に行き巡っているような有様である。

そのような筆者の思いは、ダビデが詩編に綴っている思いとどこかしら重なる部分があると感じる。
 
私たちが今、この地上に生きている一瞬一瞬のすべては、あたかも天におられるまことの裁き主に対して、私たちが申し開きのために書き記している目に見えない「準備書面」や「陳述書」のようなものである。
 
詩編には、随所で、神の正しい裁きを願う作者の思いが綴られているが、私たちも、自分が人生で置かれている見えない法廷において、神に対して常に正しい裁きを願い求め、また、自分なりの申し開きをしている。

正しい裁きをもたらすために必要なものは、言うまでもなく、正しい掟、すなわち、神の御言葉であり、神を愛する心と、神の掟である御言葉を守り、それに従って生きたいと願う心は、一つである。

私たちは、神を信じると言っても、ただ漠然と知りもしないものを信じているのではなく、神の御言葉を信じ、これに従って生きていればこそ、神も私たちを裁きの時に擁護して下さる。それは、裁判官が、法を守らない当事者を、全く擁護できないのと同じで、正しい掟を守っていればこそ、正しい裁きを求め、それを受けることができると信じられる。
   
詩編第1編は、次の有名な言葉で始まっている。

「いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の道にとどまらず
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」
 
ダビデは、神を愛し、神の正しい裁きを待ち焦がれるがゆえに、昼も夜も、神の掟である御言葉に思いを馳せて、その教えから片時も注意を逸らしたくないと考えていた。

主の教え(神の掟、御言葉)とは、律法を指すが、今日の言葉に置き換えれば、法にたとえても良いかも知れない。

むろん、この世の法には、いかなる宗教的な意味合いもなく、それは神から発せられた御言葉そのものでもないが、この世の法もまた、神の掟の絵図であり、神の御言葉を守って生きることは、この世の法に従って生きることと決して矛盾しない。
 
そして重要なのは、うわべだけ法律の条文に精通して、自分を専門家のように見せかけることではく、その掟を生み出した精神そのものを愛し、正しい定めに従って生きることである。

正しい掟に従って生きるとは、命の水の湧き出る泉のほとりに住むのと同じで、必ず、その人の人生を潤し、繁栄をもたらしてくれる。正しい掟を守って生きている人が、悪人と一緒に、いたずらに罰せられ、死に定められることは決してない。

ダビデは、生涯を神の掟に従って生き、死ではなく、命を見たいと願い、そのことだけを日々思い続け、神の掟から逸れることがないよう、「むなしいものを見ようとすることから わたしのまなざしを移してください。と主に願った。

詩編第119編の中盤にはこうある。

「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。
 最後までそれを守らせてください。
 あなたの律法を理解させ、保たせてください。
 わたしは心を尽くしてそれを守ります。
 あなたの戒めに従う道にお導きください。
 わたしはその道を愛しています。

 不当な利益にではなく
 あなたの定めに心を傾けるようにしてください。
 むなしいものを見ようとすることから
 わたしのまなざしを移してください。

 あなたの道に従って

 命を得ることができますように。

 あなたの僕に対して、仰せを成就してください。

 わたしはあなたを畏れ敬います。
 わたしの恐れる辱めが
 わたしを避けて行くようにしてください。

 あなたは良い裁きをなさいます。

 御覧ください
 わたしはあなたの命令を望み続けています。
 恵みの御業によって
 命を得させてください。」(詩編119:33-40)

これはダビデの必死の懇願のように感じられる。彼は、主の教えを守り、そこから逸れることさえなければ、神がやがて来られて正しい裁きをなし、正しい命令を発して下さるときに、自分は必ず、すべての災いから救い出され、命と幸いを得ることができると信じ、それゆえ、昼も夜も、神の正しい掟と、その裁きに思いを馳せて、地上にありながら、神の御思いと一つになって、その只中を生きたいと願い続けた。

そのダビデの思いは、筆者にとっては、法廷において、当事者が何とかして裁判官の心の内を知り、その心をとらえたいと願い、その裁きによって生かされたいと願う思いを思い起こさせる。裁判官は、法の体現者であり、正しい裁きの象徴であるから、その裁判官の心を探ろうとすることは、当事者自身が法によって守られ、生かされようとすることと同じなのである。

筆者は判決を得ただけでは満足せず、もっと法そのもに近づき、より(まことの)裁き主の心を知りたいと考え、そのために、見えない裁き主の姿を追い、片時も正しい掟のそばを離れずにいられるように、法律の世界に足を踏み入れた。そうした筆者の願いは、神を愛し、昼も夜も主の教えを思い、これと一つになって生きようと願ったダビデの心と、共通する部分があると感じられる。

ダビデは、主の教えを追い求めつつ、一つの願いを心に抱く。それは、神の住まう家を建てるため、神殿を築きたいという願いである。

その神殿建設の夢は、神の願いに合致しており、神の御心を、非常に大きなスケールでとらえたビジョンであった。すなわち、地上の建物を建てることが、彼の終局的な目的なのではなく、ダビデは神が真に望んでおられることは、人がやがて完全に贖われて、神の住まう聖なる幕屋となり、神が人と共に住まい、神と人とが完全な一致に至ることであると、知っていたのである。その神の願いを地上において表現したものが、神殿建設であった。

その神殿は、ダビデの代で完成することはなかったが、神はダビデが絶えず自分の主人の心を探り、主人の心と一つになって生きたいと願っていたことを知っておられ、僕としての彼の思いを評価され、その存在を重んじられた。

さて、聖書には、キリストと人との合一、すなわち、人が完全に贖われて神の御心を満足させる新しい人とされ、神が人の内に住まわれ、花婿なるキリストと花嫁なる教会が、完全に一致の中に入れられるという、永遠の合一が予告されている一方で、それとは異なる、もう一つの「合一」がある。

それは、神を介さない、人間同士の偽りの集団的合一である。先の合一は、永遠性を持つが、後者の合一は、束の間でしかなく、やがて分裂に至り、跡形もなく消え去る偽りである。

「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。

「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」
(創世記. 11:1-9)

バベルの塔を建設した人々は、神の掟には思いを馳せず、自分たちの主人の栄光を求めるのではなく、僕に過ぎない自分たちの栄光を築き上げるために、一致団結して、天まで届く(永遠の不滅の)家を建てようと試み、一代でそれを築こうとした。

言い換えれば、彼らは自分自身を神として、自分のための神殿建設をしようとした試みたのである。彼らの連帯は強固であり、その作業は万全であった。

ところが、まことの主人の思いを抜きにした彼らの連帯は、分裂によって崩され、意思疎通が不可能になり、建設は途上に終わることとなる。
 
この二種類の建設の違いは何だろうか?

バベルの塔の建設に向かった人々は、うわべは連帯しているように見えたであろうが、実際には、最初から、めいめいがてんでんばらばらな願望を抱いて、その塔に自分勝手な欲望を重ねるために集まっていたに過ぎない、烏合の衆であったものと筆者は思う。

その塔の建設は、自己満足、自己義認、自己肯定、自己充足など、すべて神を抜きにして、人類が自分で自分の欲望を満たすための自己実現の試みでしかなく、人が大勢集まっているがゆえに、そこには孤独はなく、勢いがあるように見えたかも知れないが、実際には、そこにはただ人の思いがあるだけで、神からの承認はなく、人々の間でも、真実な連帯も、協力も、相互理解も、助け合いも、存在しなかったのである。

おそらく、信仰を持たない地球上の多くの人たちは、今でも、自分たちの思い、感覚、意志こそが、すべてに勝るリアリティだと考え、そこから一歩たりとも外へ出ることなく暮らしているものと思う。彼らは、自分たちが傷つけられた時の痛みには、非常に敏感で、神でさえ、彼らの言い分に耳を傾けるべきであると確信し、自分たちが力強く前進しているときには、その成果には、神も目を留めて下さり、よくやったとねぎらって下さらねばならないと確信している。

要するに、何をするにも、考えるにも、彼らの思いは自分を中心としており、神に対して何かを願うときにも、あくまで自分の願いが中心にあって、神は彼らの願いを承認するために、お飾りのように存在しているものに過ぎない。

もしも人の判断と、神の判断にズレがあることが分かったとしても、彼らは、自分たちには、神をさえ説得することが可能であると思い込み、神が自分たちの言い分に耳を傾けて下さらないと分かるや否や、そんな神は要らないと、神を踏みつけにして、自分たちの思いを遂げるために、めいめい好き勝手な方向へ前進して行くことであろう。

筆者が何を言いたいのかと言えば、人間は生まれながらに、自信満々で、常に自己充足しており、喜んでいる時も、悲しみ、打ちのめされ、失望落胆している時でさえ、常に自分の感情だけで、心をいっぱいにし、それを中心にして、自己充足しながら生きているのであって、神を必要としておらず、間違っても、自分たちが「誰かを待っている存在」であり、「誰かがやって来て、命を吹き込んでくれなければ、決して完全にはならない、他者の承認を待つだけの、命の通わない、空っぽで、死んだ存在」であるとは考えていないということである。

この人たちにとっては、自分の思い、行動、感情がすべてであり、自分こそが、リアリティであり、神は自分たちの言い分を権威付けしてくれるための添え物でしかない。そこで、彼らは、たとえ神の名を語っているように見える瞬間があっても、本当は、心の中で、神など全く必要としていない。

筆者はそういう生き方の無意味なることを知っていたが、第一審の最中、改めてそうした自己充足の殻の中から、外に連れ出され、自分自身から目を離し、自分を生かすことのできるまことの権威者だけを信頼して見つめるよう促されたのであった。
  
私たちの移ろいゆく思いの中には、リアリティはなく、私たちが確かな存在を見つめる時にだけ、私たちの存在も、確かなものになる。

だから、自分から目を離し、むなしいものを見つめるのをやめ、敵対者の言い分や、心を煩わせる様々な事象に惑わされることをやめて、揺るぎない信頼の中で、自分を生かすことのできるまことの主人だけを見つめるよう、絶え間なく促されたのである。

ほとんどの人たちは、おそらく、自分の人生の主役は、自分自身であると確信していることであろうが、実はそれさえも事実ではない。
  
人間の思い、感情、考えは、人から見れば、それこそがまさしく現実のように感じられるであろうが、それらは実際には、裁判官から認定されるのを待ってうず高く積み上げられている書面のようなもので、光が当てられて、まことの主人から認められなければ、その一切の思いはむなしく、リアリティを持たない、移ろいゆく影のようなものに過ぎない。

闇の中に咲く花は、朝日が昇らない限り、人々の鑑賞の対象となることはなく、存在していることさえ、誰にも気づかれないように、まことの主人がやって来られて、私たちの存在を認めて下さらなければ、私たちは存在そのものが、むなしく、闇でしかない。どんなに人が渾身の訴えを作り上げ、どれほど人としての思いを吐露しても、その感覚も、思いも、存在も、すべてがむなしく、生かされることなく、始めから無かったもののように、空中に消えて行くものでしかない。
 
神が私たちの訴えを取り上げて下さるからこそ、私たちの主張や存在が生きるのであって、それなしに自分で自分を是認することは、私たちにはできない相談なのである。

つまり、法廷の主が、当事者ではなく、裁判官であり、法廷に入って来た裁判官が、審理の場を完全に支配してしまうように、筆者が人生において呼び出されている目に見えない法廷の主役も、筆者ではなく、筆者を超える権威者が存在する。

その権威者の眼差しが、徐々に筆者をとらえ、筆者の存在を、自分中心から、まことの主人を中心とするものへと変えて行った。その時、筆者が頼みとし、よすがとしていた様々な力も、単独ではすべてむなしいことが判明したのである。
   
被造物の存在は、目に見えないまことの主人に認められ、評価されるためにこそある。そこで、まことの主人とのパートナーシップが成り立たないのに、被造物だけが単独で何を訴え、何を成し遂げたとしても、それは誰からも認められず、生きた現実とならないむなしいものでしかない。

私たちの人生は、まことの主人である見えない神に仕え、この方の権威に服し、その方を喜ばせるために与えられている。そのまことの権威者から是認されずして、私たちの存在が、リアリティを帯び、満たされ、生かされることはないのである。

そのことを、筆者は自分では知っていると思っていたが、審理を通して、改めて教えられた。すなわち、人は外側からの承認(神からの承認)を受けなければ、決して自力では完全になれない存在であり、それが被造物の変えることのできない性質であり、ある意味で、「女性性」と呼んでも良い性質であり、限界なのだと。
 
そうして、筆者は、自分の存在が影に過ぎないことを知らされたのであるが、それは決して、悲しんだり、落胆すべき出来事ではなく、むしろ、それは筆者に被造物たる人間の本質を、そして、私たちには、まことの主を待ち望むという使命が存在すること、主が来られたときにこそ、私たちの存在が完全になるという喜ばしい事実を、改めて教えてくれた。

それが分かったときに、筆者は自分の超えることのできない被造物としての限界が、とても喜ばしいものであって、筆者のまことの主人に栄光を帰するものであるという不思議が分かったのである。

僕は、僕であればこそ、主人に栄光を帰することができる。僕が主人のようになり、主人を超えようとすることには、何の意味もない。

時折、職場にやって来る上司は、裁判官と同じように、筆者は自分のために生きているのではなく、自分の上に立てられたまことの主人たる権威者の思いを体現し、その主人を喜ばせるために生きているという事実を思い起こさせてくれる。

これまで、自分のために働き、自分の望みに従って生きていた筆者は、自分の人生が、自分自身のためにあるのではないということが分かったときに、方向性を大きく転換した。

もちろん、筆者は信仰者として、死んでよみがえって下さった方のために生きていることを信じてはいたが、それでも筆者の人生には、まだ真の意味で、他者というものが訪れたことがなく、天におられるまことの主人を喜ばせるために、地上生活を送るとは、どういうことなのかを、具体的に知らされていなかったのである。

訴訟における審理が、早くとも月1回程度のペースでしか開かれず、裁判官に会うことも少なく、その時間も短いように、筆者に最初にミッションを与えてくれた上司が、職場に稀にしかやって来ないことにも、何か意味があるように思われてならない。
  
それは、主人の姿が見えないと、僕たちの心が一層、露わにされるからである。主人に観察されることを望まず、何事も自分の思い通りにしたいと望んでいる僕にとっては、主人の到着は、全く喜ばしい出来事ではなく、来ない方が良い瞬間である。

しかし、常日頃から、主人に仕えるために、心を砕いている僕にとって、主人の到来は、喜ばしい訪れであり、その眼差しは、決して厳しいものでも、不快なものでもない。

その主人は、私たちが用意もできていない時に、私たちを辱め、恐れさせるために、不意にやって来るのではないし、主人から目を留められ、働きを報告するよう求められることは、僕の労苦がようやく報われることを意味するから、忠実な僕にとっては、何ら戸惑うべきことではなく、むしろ、待ち望む瞬間である。

その方は、気づくと、もう私たちの心の戸口に立って、扉を叩いている。私たちがその求めに応じて、戸を開けるなら、彼は私たちの口から、嬉しい報告を聞くことを期待しつつ、静かに私たちのそばに立ち、笑顔で声をかけて、苦労をねぎらってくれる。
 
私たちが困難の只中にあることが分かれば、「私が着いているのだから、あなたにはきっとできるはずだ」と力づけ、励ましてくれる。

「あなたがたには世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20) 
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(コリントニ12:9)

 
こうして、目には見えずとも、私たちには、決して私たちを置き去りにしていくことのない真の主人が着いておられる。だから、僕としての限界、制約は、私たちにとって重荷とはならない。この方に仕え、その眼差しをとらえ、評価を受けようとして生きることが、どうして光栄でないはずがあろうか。

それに引き換え、ただ自分で自分を肯定するために、誰にも仕えず、誰にも承認されることのない、終わりなき一方的な自己主張を繰り広げながら、自己充足のために、自分で自分を栄光化する建物の建設を続ける作業は、大変、むなしく、報われない孤独な奮闘である。

自分のためにどんなに立派な神殿を建てても、そこに住まうのが、自分一人であれば、それは家と呼ぶべき場所ではなく、また、光栄であるはずもない。自分で自分をどんなに肯定してみたところで、そこから何が生まれて来るのだろうか。そびえたつ絶壁と、高い塔は、一見、人間にとっては、孤独とは無縁の、栄光に満ちた住まい、強固な守りの砦であるように見えるかも知れないが、それはどこまで行っても、人類の独りよがりでしかない、家とは呼べない、断崖のような孤独な住まいであり、そこで行われるすべての営みも、人類の自己満足に過ぎないものとして、誰からも認められることなく、やがて塔が崩れ去るときに、始めから無かったもののように、忘れ去られて終わるだけである。もともと自分しか認められない人間が、地上からいなくなったとて、誰がその人間を思い出してくれるのだろうか。
 
被造物は、神を抜きにして、決して完成に至ることはなく、人類だけでどんなに団結しようと、神からの承認がなければ、人の一切の営みは無意味である。

だから、筆者は目を上げて、自分自身の思いと、移ろいゆく地上の有様から目を離し、ただ一人の目に見えないまことの主人の到来を思いつつ、それを待ち望む。花嫁なる教会が、花婿なるキリストを待つように、天におられる方を仰ぎ望み、こう言わずにはいられない。「来たりませ」と。

その方が来られるとき、私たちには真の慰めと、栄光が与えられ、すべての労苦はねぎらわれ、豊かな満たしがある。

地上における日々は、見えない主人の到来を待ち望むために与えられた貴重な訓練期間である。
 
* * *
 
最後に、使徒パウロが、コリント人への手紙の中で、教会内で起きた紛争をこの世の法廷に持ち出し、この世の裁判官に裁きを委ねることに反対した背景には、キリスト教とは完全に異質な異教の神々への信仰を土台とするローマ法という特殊事情があることについて書いておきたい。

これを「特殊事情」と呼ぶのは、今日の我々の生きている時代の法と、パウロ存命当時のローマ法とは、その土台となる理念も概念も異なるためである。

当時、ユダヤ人たちは、ローマ帝国の中でも一定の自治を保っていたようであり、その自治は、宗教的にも、ある程度認められていたものと見られる。それでも、ユダヤ人たちが、もしくは、異邦人も含め、教会内にいる信者たちが、自分たちの間で起きた紛争に対する裁きを、この世の法廷に訴え出れば、その紛争は当然、ローマ法に従って裁かれることになる。しかし、多神教への信仰を理念とするローマ法に従って、どうしてキリスト教会内で起きた紛争を裁けるのか。

しかも、以下で示す、パウロがコリントの信者たちに宛てて書いた忠告では、当時、教会内の信者たちが、およそ信仰とは関係のない日常的な事柄を巡って、争い事を起こし――たとえば、土地や、所有物や、金銭や、日用品や、食べ物などを巡って――多数のトラブルが発生し、そうしたこの世的な些末な争い事を、教会内では仲裁できる者もなく、誰もがこれを放置した挙句、結局、仕方がないから、その争いを世の法廷に持ち出し、そこでおさめてもらおうと、信者たちがこの世の裁判において、紛争を起こそうとししていた様子が分かる。

パウロはそうした争いのみっともなさ、矛盾を指して、そんな争い事を世に持ち出すことは、信徒の名折れであり、教会を辱めるものであり、それ自体が敗北以外の何物でもない、ということを述べたのである。

「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。あなたがたは知らないのですか。

聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。

それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。

兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。

なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。」(コリント人への手紙一6:1-9)


今日、私たちは異教の神々を信奉する理念のもとに作られた法体系の中を生きているわけではなく、また、筆者は日常的な争い事をおさめるために、兄弟と呼ばれる教会の信者との争い事を、この世の法廷に持ち出しているわけでもないから、以上のくだりと、筆者の提起した訴訟との間には、多くの相違点があることは言うまでもない。
 
さらに、筆者は、この世の裁判所の人々は、私たちと同じ信仰者ではなくとも、同時に、異教の神々を信奉し、その理念に基づいて人々を裁く者でもないから、私たちは彼らを上に立てられた権威として尊重し、服すべきであるとみなしている。もちろん、裁判所のみならず、この世のすべての権威は、同様に敬うべきであると考えている。

とはいえ、以前にも書いたように、パウロはここで、キリスト者一人一人が「世を裁く者」、「天使たちをさえ裁く者」であると告げていることは重要であり、これは、信仰によって、想像を超えた絶大な権威が、私たち一人一人信じる者に与えられていることを意味する。

主の御名は、すべての名に勝る絶大な権威であるから、この方の御名の権威を与えられている私たちキリスト者一人一人も、地上のすべての物事を超越する存在なのである。この世のどんな為政者も、権力者も、私たちの中にあるまことの命を否定することはできないし、これを消滅させることもできない。地上のすべての物事は、一見、権威ある人々の発する命令から始まるように見えても、実際には、私たちが信仰によって抱く望みによって始まり、信仰によって完成させられる。
 
だが、そのように絶大な御名の権威を託されているからと言って、私たちはこれを人々に対して居丈高に振りかざし、他の人々の上に立って、彼らを威圧し、支配するようなことを決してせず、むしろ、主がそうされたように、僕として、己をむなしくして、この世の権威に服する。

パウロが殉教に向かったのは、異教の神々を信奉するローマ帝国内で、正しくない裁きが行われた場合であっても、この世の権威に逆らわず、それに服することで、十字架の死に赴かれたキリストにならうためであったろう。
 
今日の政治情勢下で、私たちが不当な裁きによって殉教を命じられるようなことはまずあり得ないことは幾度も述べたが、それでも、私たちには、日々、耐え忍ぶべき小さな十字架がある。

以下の御言葉は、信者に与えられた忠告ではあると同時に、幾分か、この世の人々との関係においても当てはまるものである。なぜなら、そこには,教会だけでなく、この世においても、私たちの権威や、栄光が、自分で自分を高く掲げることから来るのではなく、互いに自分をむなしくして、僕として仕え合うことから来るという原則が表れているためである。

自分一人だけが、他の人々に先んじて、知識を蓄え、他者を凌駕して、優位に立ったり、他者を圧倒するような力を身に着け、誰かを押しのけ、隅に追いやることで、栄光が得られるわけではない。

何度も言うように、被造物は、それ自体のために造られたのではなく、造った方を喜ばせるために存在しているのであって、その本来的な努めをまっとうするところにこそ、私たちの幸福がある。それにも関わらず、被造物同士が、互いに比べ合い、押しのけ合い、君臨し合い、凌駕し合い、優劣をつけ合うことによって、どんな栄光にもたどり着けるわけではないし、それによって自分の訴えの正しさや、優位性が認められて、他者に勝るリアリティを獲得できるわけでもない。
 
ただ私たちを選び、立てて下さった方からの承認だけが、私たちを生かす力なのであり、そして、その方に評価され、栄光を受けるための道は、十字架を通ることにしかない。ヨルダン川の川底に立ち、人々が安全に川を渡り終えるまで、契約の箱を支えて立つ、その仕事にしかない。

だから、己を低くして、互いに仕え合いなさい、とイエスは弟子たちに幾度も言われたのである。パウロも、信者が何か奥義的な知識を身に着けたとして、それを他の信者に対して吹聴することを戒めている。

そうして仕え合う関係は、信者が教会の人々に対して取るべき態度だけでなく、すべての人々に対して取るべき態度を表している。栄光は、人々に君臨し、圧倒し、支配することから来るのではなく、仕えることから来る。その原則は、いかなる場所においても、変わらない。主の御前で、主にならって、自分を低くする者が、高くされるのである。
   
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げられ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:1-11)


自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。

「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:6)

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、 ただあなたの御名にのみ帰してください。」(詩編151:1)

「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。<略>
わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、あなたがたを超えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。

「誇る者は主を誇れ。」自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。」(二コリント10:12-17)

 とある用事を終えて人と別れ、東神奈川の駅に続く高架橋の階段を上った途端、ダイナミックな花火が始まった。大勢の人たちが足を止めて夜空を見上げ、スマホで撮影していた。筆者も足を止めて、ビルの合間から、夜空に万華鏡のように映し出される光景に見惚れた。週末に向けて、天からの思いがけない特別なプレゼントを受け取ったような気分である。

キリスト者の人生は、神とその人との共同の歩みであり、そこで起きる出来事に偶然はない。主はまことにすべての出来事を、信じる者のために絶妙なタイミングで計らって下さり、ご自分に聞き従う人たちのために、良い出来事も、悪い出来事も、何もかも最終的に益になるようにとりはからって下さる。
 
さて、今日のテーマは「顔を上げて主をまっすぐに見る」必要性である。

これまで筆者にとって、書類の束は、人生には欠かせない道連れのようであった。仕事でも、それ以外の場所でも、果てしない時間を、書類とのおつきあいに費やして来たのである。

しかし、このところ「書類から人へ」のシフトが起きつつある。

それが起き始めたのは、皮肉なことに、当ブログを巡る裁判の第一審の最中であった。

ちょうど約一年前、最初の期日に出廷した際のことは今でもよく覚えている。

その日、筆者は人生最初の裁判に臨むために、百ページを超える訴状を携えて、被告が出廷するよりもかなり前に、法廷に入って着席していた。それは筆者にとって初めて法廷を見る機会であったが、およそすべてが常識から外れたこの事件では、何もかもが通常通りではなかった。

遮蔽の措置を願い出ていた原告の席は、被告席とも、傍聴席とも、囲いで隔てられ、顔を合わせるのは裁判官のみであった。

書記官に案内されて、その衝立で囲まれた席に着席した後、筆者は表情をこわばらせたまま、机の上に訴状を置いて、開廷の時を待った。裁判官が法廷に入って来て着座したが、それでも被告はまだ来なかった。

非常に長く感じられる沈黙の数分間が過ぎたが、裁判官が、その間、まじまじと筆者を見つめているのが分かった。一体、このような非凡な事件を提起したのはどういう人間なのか、今、原告は何を考えているのか、心の中まで観察されているようであった。

法廷の主は、裁判官ただ一人であり、そこで裁判官の意思を妨げるものは何もない。

だが、被告と対面せずに審理を進める手続きが取られた時点で、裁判官は、筆者の危惧を真剣に受け止めてくれていることが分かっていたため、裁判官は決して筆者に悪意を持っておらず、筆者の敵でもない、ということは分かっていた。

そこで、裁判官から観察されていることは、筆者にとって、不快な印象ではなかったが、筆者はあえてそれに気づかないふりをして、緊張気味に、手元の訴状に視線を落とした。

それが、筆者と法廷との最初の出会いであったが、こうして人生最初の裁判の期日において、法廷に最初に登場して来たのが、裁判官であったこと、一審の最初から最後まで、筆者が対面したのも、裁判官と書記官だけであったというのは、何かしら非常に印象的かつ象徴的な出来事であった。

筆者は以前にも書いた。対面することは、知り合うことを意味し、関係性が深まって行くことを意味するのだと。この審理において、筆者は被告とは知り合わず、全世界に対して、自分を閉ざしていた代わりに、ただ一方向に向かってのみ、裁判所の人々に対してのみ、心を開いていた。

そのため、この審理の間に学んだことも、被告に対してどう答えるかということではなく、むしろ、裁判官の言動の一つ一つに注意を払うことの重要性であり、控訴するに当たっても、判決文を読んで、自分の主張の足りないところを学ぶことが必要となった。

裁判官の書いた判決と争うのではなく、それを読んで、自分の論理にどう足りない部分があったのかを学んだのである。
 
これは裁判というもの自体に対する筆者の見方を変えた。筆者はそれまで裁判とは、主に被告に反論するための場所だと考えていたが、実際には、裁判において注意を払うべき相手は、被告ではないこと、また、以前にも書いた通り、裁判官と心が通わないまま、被告との議論に誘い出されて行き、それに溺れることが、いかに重大な危険であるかを知らされた。

さらに、裁判官は決して筆者に言葉で注意を促したことはなかったが、筆者が裁判官の話している最中に気もそぞろであったり、うつむいたり、わき見していたりすると、やや苛立たし気に、自分に注意を向けるよう、暗黙のうちに促していたように思われた。

そうして裁判官に注意を向けることには、ただ裁判の進行から目を離さないとか、自分に有利な結果を得たいがために、裁判官の心を自分に向けさせるといった目的とは異なる、より深い意味があったように思う。

なぜなら、その頃、筆者の勤めていた会社でも、上司がさかんに同じようなことを筆者に求めていたからである。

その当時の筆者に必要なのは、自分を生かし、解放することのできる権威者から、片時も目を離さず、その人間のそばを離れず、その陰に隠れ、一人で危険や死へ赴かないために、絶えずその人間に注意を注ぎ続けることであったように思う。

それまで何事も自分で判断し、自分で決断して歩み続けて来て、それに不足はないと考えていた筆者にとって、それは新しい学びであった。

とはいえ、それは裁判官や、あるいは上司の判断を鵜呑みにして、自分自身では何も判断しないということとは異なる。他者へ依存することをも意味しない。それだからこそ、判決を得ても、筆者の判断で、審理はまだ続いているのである。

とにもかくにも、このようにして、筆者が書き上げて来た膨大な書面に、注意深く耳を傾ける者が現れ、権威を持って事件を裁く者が現れたおかげで、筆者の作り上げた書面は、一方通行ではなくなり、裁判をきっかけに、筆者の注意は、「書類から人間へ」シフトし始めた。

当初は高みから筆者を観察していた裁判官は、次に筆者のそばへやって来て、同じ目線で語り合い、やがて筆者の眼差しをとらえ、筆者の関心をとらえた。

そうして、筆者が果てしない時を費やして積み上げて来た膨大な書類に生きた光が当てられ、それに見えない承認印が押され、現実に大きな変化をもたらす効果的な宣言が下された。だが、そのように解放的な宣言を受けたこと以上に、筆者は、不思議な「干潟」に働く作用に何より心を奪われたのであった。

だからこそ、筆者は一審が終わった後も、このフィールドに尽きせぬ関心を寄せて、そこにとどまり続けて、そこから、自分だけでなく、他者のためにも、不思議なエネルギーを汲み出す方法を開発しているのである。

ところで、「顔と顔を合わせて『知り合う』」ということは、ただ面識が出来て互いが何者であるかを知ること以上の意味がある。

聖書において、キリストと人とが顔を合わせるのは、人の贖いの完成の瞬間のことであり、顔と顔を合わせた者は、似た者同士になる。

「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(二コリント3:15-18)


これまで当ブログでは、聖書をさかさまにした偽りの悪魔的教えであるグノーシス主義の構造の分析に、多くの紙面を費やしてきたが、「鏡」とは、グノーシス主義において、極めて重要なシンボルとして利用されていることをも示した。

グノーシス主義における「鏡」とは、弱い者が、強い者の性質を盗み取る(簒奪する)ために使うトリックである。

映画"MISHIMA"の分析シリーズでそのことはすでに示したので、詳しく繰り返さないが、「神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から③」などを読んでいただければ、そのトリックがよく分かるものと思う。

グノーシス主義においては、被造物は「神々」であり、そこには無限のヒエラルキーがあり、その頂点に君臨する至高神とされている「神」は、「鏡」にたとえられる。
 
グノーシス主義では、神を「鏡」にたとえることにより、神があたかも被造物によって「見られる存在」、「知られる存在」(=対象)であるかのように置き換え(貶め)、被造物の誕生は、神が造物主として自らの意思で被造物を創造したことによるのではなく、至高神という「鏡」に、神の意思とは関係なく、神の姿が似像(映像)として乱反射するように映し出されることによって、そこに映し出された映像が、「存在の流出」として、「神々」すなわち被造物を誕生させたのだという。

このような概念の「鏡」は、神の概念を骨抜きにするものであり、被造物が何らかの方法で神を盗撮することにより、神の意思とは関係なく、神の聖なる性質を盗み取って、自己を栄光化したと言った方が良く、聖書における創造とは正反対である。

上記のコリント人への手紙を読めば、聖書において「鏡」とは、神ではなく、むしろ、被造物を指していることが分かるはずである。
 
鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」というフレーズによく表れているように、私たち信じる者たち一人一人が、神の栄光を、鏡のように映し出すことにより、主の似姿に変えられて行く存在なのである。

つまり、神が被造物の栄光を映し出す「鏡」なのではなく、被造物である私たち人間こそが、神の栄光を反映するための鏡なのである。だから、グノーシス主義はこの点で、聖書とはさかさまであり、神と被造物との関係性を逆転させていることがはっきり分かる。

さて、神と人との関係は、どこまで行っても、神は「知る者」であり、人間は「知られる者」であるという秩序から出ることはない。とはいえ、神と人とが対面して知り合うことによって、むなしい鏡に過ぎない被造物に、神の聖なる性質が光のように反映するのである。

このことは、人間が宮であり、神殿として創造されたことと密接な関係がある。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(一コリント3:16-17)

人間は誰であれ、信仰の有無に関わらず、神を迎えるための宮として造られている。神に見捨てられ、神が不在となった宮は、単なる空っぽな入れ物に過ぎず、何の価値も持たず、聖なる場所でもない。

神が不在である宮は、灯りをともされない真っ暗な建物にもよく似て、そこに光が当てられない限り、どんな機能があって、どんな構造になっているのか、誰にも分からない。しかも、宮として造られた建物は、通常の住居としても使えないので、どんな優れた装飾が施されていようと、神がやって来られて使用されなければ、何の役にも立たない無用の長物でしかない。

同じように、鏡は、映し出すべき対象がなければ、誰に対しても役目を果たさない。そのことは、私たち人間が、自己の力では、自分を知ることさえできないことをよく表している。

私たち被造物という「鏡」には、私たちが目にするもの、心に注意を向けるものが映し出される。

だが、その「鏡」に映し出されるのは、誰なのか、何なのか。この世の移ろいゆく事象か、自分自身の思いか、それとも、サタンの姿なのか、神の姿なのか・・・。

私たち自身が誰に目を向け、何に心を留めるかによって、私たちが心の鏡に映し出す映像が変わる。だが、その映像の如何によっては、その鏡は、ナルシスが覗き込んだ水面のように、「虚無の深淵」となって、私たち自身を吸い込んで終わるだろう。

なぜなら、鏡それ自体には、何も創造する力もなければ、自力で映し出すべき対象を見つけることもできず、映し出した対象に命を与えることもできないからだ。ただ鏡の持ち主がやって来て、自分の姿をそこに移し出すとき、初めて、鏡の役割が全うされるのである。

そのことは、被造物それ自体は、罪に堕落した瞬間から、滅びに定められ、虚無に服しているため、被造物の栄光は、ただお一人の神に目を向けることからしかやって来ず、人間は、自分では何も生きたものを生むことのできない虚無であることをよく物語っている。

人間の知識は、無限の鏡と、そこに映し出された果てしない自己の映像の中を生き巡っているだけで、どんなに鏡の中に自己の姿を映し出しても、そこから真実は見えて来ず、永遠の堂々巡りというトートロジーに陥るだけである。
 
そこから解放される手段は、私たちのまことの主であるただお一人の、生きておられる神に目を向けることだけである。

モーセの書は、何も映し出さない鏡のようなものである。それは、筆者が書き上げた膨大な訴状や、準備書面にも似て、そこには、意味のない事柄が書き連ねられているわけではないが、事件を裁く者が誰もいなければ、それは誰からも認定されることのない、正しいのかどうかも分からない、命が与えられることもない、一方的な主張に過ぎない。

モーセの書は、人間の違反を宣告するものであり、人間には自力で神の聖に到達する手段がないことを告げ知らせるだけの、人を生かす力のない「死んだ文字」である。その書のどこを探しても、終わりなき善悪の議論が展開しているだけで、そこから人間を救い出し、人にまことの命を与えるために、キリストが来られる必要があったのである。

第一審の開始当初、筆者の鏡には、まだ自分のモーセの書しか映し出されるものはなかったが、裁き主はすでに登場していた。

筆者はこの審理の最中、自分の心の鏡に「被告(ここでは象徴的にサタンとする)」を映し出すことをやめねばならないことに気づかされた。対面せずとも、心の鏡に映し出された対象と、筆者は向き合っているのと同じだからである。
 
そこで筆者は、自分の心の鏡には、真に価値あるものしか映してはいけないということに徐々に気づかされた。映し出された者と、筆者とは、鏡を通して「知り合う」こととなり、その鏡を通して、映し出された者の性質が、筆者に命として分け与えられる。
 
それは簒奪によるのではない、善意と自由意志と責務に基づく真実な分与である。

もしも筆者よりも弱い者が、鏡を使って筆者の映像を盗み取ろうとするならば、筆者はそれによって力を奪われ、卑しめられるであろう。しかし、筆者よりも強い者が、筆者を解放するためにやって来て、その鏡に自分の姿を映し出すならば、それによって、その者の強さが、筆者に分与されるのである。
 
不思議なことに、判決を通して、裁判官の持っていた性質が、幾分か、筆者にも付与された。裁判官の書いてくれた判決は、筆者に法的な世界へ扉を開いてくれる目に見えない紹介状となり、その紹介状を持って、新たな場所へ向かったところ、利害の異なる、対立する人々の言い分をジャッジするという、裁判官の仕事にどこかしら似た、新たな任務が与えられた。

これが命の分与の結果であった。筆者は判決を通して、ただ自分が訴状において求めていた解放を幾分か得たというだけにとどまらず、裁判官から分与された目に見えない命を通して、裁判官の行っていた仕事の性質を、幾分か分け与えられたのである。

こんなことは、およそ信じがたい、ファンタジーのような話だと思われるのは結構である。幻想と言われようと、そうなったことは変わらない事実である。

筆者の心には、自分に解放的な宣言を与えてくれた人にならって、自分も他者に同じように解放を与えることのできる仕事をしたいという願いが生まれ、その願いに応じて行動した時、次なる出来事が起きたのである。
 
* * *

さて、ある日、仕事に従事している最中、同様の作業に従事する人たち全員に一人一枚の「抽選券」が配られた。

そこには、仕事の奥義を学びたい、とりわけ熱意あるえりすぐりの有志たちに向けて、ある学習会が提案されていた。

誰もが参加できるわけではないが、申し込みは誰でも可能だというので、筆者は浅はかにも、学習を積む良い機会だと思って、行列ができる前に、応募してみた。

ところが、その抽選は極めて当たる確率が低く、しかも、学習会は、建設中の「バベルの塔」の中で行われることが判明した。
 
申し込んだ後で、当選の条件も変更された。学習会へ招かれるためには、まずは分厚い学習書として、モーセの書を自費で購入した上、それに精通し、ピラトの階段をひざで上り、今いるよりも上層のヒエラルキーまで昇格せねばならないことが知らされた。

だが、モーセの書は高価で、通常の書店に売っていない上、分厚く、とてもではないが、その勉強は、学習会の開催に間に合いそうにもなかった。しかも、ピラトの階段は、人がようやく登れる程度の幅しかなく、大変な高所にあるため、登っている最中に落ちて死んだ人が後を絶たないのだという。

筆者はピラトの階段に挑戦しようとしたが、一段、登ろうと、上の段に手をかけた途端、背中のリュックに入れていたモーセの書が、途方もない重さになって体にのしかかり、思わずよろめいた。

その瞬間、筆者の後から階段を上って来ていた同僚の誰かが「大丈夫ですか?」と親切そうに声をかけ、手を差し出してくれたので、筆者がその手につかまろうとしたところ、その同僚は、筆者の手を思い切りつかんで、筆者を下に引きずりおろし、筆者を押しのけて、さっさと上段に登って行った。その際、聞こえよがしに「身の程知らず」とささやいて行った。

こうして、階段を上るどころか、早々にひきずりおろされた筆者は、学習会と書いた旗が、はるか階段の上方にひらめいているのを見て、これは何かしら人間を愚弄するとてつもない罠のような話だから、そのような提案には乗らない方が賢明だとようやく理解した。

さて、見学会を率いる隊長は、ピラトの階段どころか、断崖絶壁を膝でよじ上るのが趣味で、すでにいくつもの奥義的な知識を身に着け、誰よりも上層のヒエラルキーに到達しているという噂であった。その人自身が、「ラビ」と呼ばれ、まるで断崖絶壁のような性格であった。親切そうに、謙虚そうに振る舞ってはいたが、人を容易には寄せつけず、また、彼の後を追って、ピラトの階段を登って行く人たちは、みな彼と同じような性格の人たちばかりであった。

いつの間にか、筆者を笑顔で階段から蹴落とした誰かが、当選者になっているという話も聞こえて来た。

筆者は、少数精鋭の当選者の集団が、バベルの塔で開かれる特別な奥義的知識を得るための学習会に向けて出発した後で、彼らが捨てて行った抽選券を拾い上げてみた。すると、そこには、誰が書いたのか、赤文字で、「クーデター。盗んだ水は甘く、ひそかに食べるパンはうまい。高ぶりは倒れに先立つ。バビロンから遠ざかれ。塔の崩壊に巻き込まれるな」と書き込まれてあった。

その時、筆者のもとには、紹介状に形を変えた判決文があったので、それを見ると、そこには、「あなたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたを選んだ。権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によって。わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さの中に完全に発揮される。」との文章が書き加えられていた。

筆者はそれを見て、塔の見学は高ぶりへの道だったことに気づき、このような抽選には申し込んではならなかったのであり、行かなかったことも、幸いだったと知った。そして、今一度、偽りの知識をためこむ生活から離れ、手元にあるモーセの書から目を離し、まことの主人に向かって目を上げなければならないと気づいた。

バベルの塔とは、別名を善悪知識の塔と言い、そこには、人が獲得した知識の程度に応じて、無数のヒエラルキーがあることを示す、果てしのないピラトの階段が、まるで塔にからまるツタのように、周りをらせん状に取り巻いている。その上層部には、あらゆる学者、宗教学者、数々の「専門家」らが名を連ね、彼らには絶大な富と、栄光が約束されている。

だが、筆者は、その塔が人に約束している幸福を与えず、彼らの独占する知識が、人を解放にも導かないことを知っていた。筆者自身が、専門家という呼称がいかにむなしいものでしかないかを思い知らされて来たのである。

しかも、このヒエラルキーがよすがとしている知識とは、昔々、サタンがエデンの園で、蛇の形を取って人類の前に現れ、この知識を身に着ければ、あなたは神のようになれると嘘を吹き込んだ、偽りの知識に由来するものである。

それは人を高慢にする知識であり、それをサタンから伝授された日以来、人類は果てしなく天に至るまでの塔を建設し続け、ピラトの階段をひざでよじ登り続け、互いに分裂と争いを続けている。

だが、筆者に与えられたミッションは、他でもないバベルの塔建設や、ピラトの階段を上る最中に、不幸な目に遭った人たちを助けることにあり、そこで筆者の課題は、人を不幸に追いやるピラトの階段のヒエラルキーを承認するのではなく、かえって、そこから零れ落ちた人々を助けることにあった。

この塔がためこんでいる知識は、どこまで行っても、人間を生かさない、独りよがりの閉ざされた知識であり、その知識を追求する限り、その人の人生に、他者というものは、一人も現れて来ない。

どんな家庭を築こうと、どんなに友達を増やそうと、どれほどの権威を身に着けようと、その知識を追求する人間にとっては、すべての人間が競争者であるから、彼は徹底的に孤独であり、人を信頼することができないのである。

筆者は、目の前に置かれたモーセの書を見ながら、法廷で訴状を前に、緊張しつつ、裁判官に見つめられていた瞬間のことを思い出した。

その時、筆者を取り囲んでいた囲いは、筆者が八方塞がりの状況にあること、解放は、ただ裁判官だけから来ることを告げていた。

だが、その時、筆者はまだ目の前に置いていたモーセの書にすがりつくように、これを一心に見つめ、裁判官でさえも、筆者の人生に、まだ生きた人間として、受け入れられていたわけではなかった。

その書面は、筆者の精いっぱいの自己防衛の手段であり、他者に自分を理解してもらうための唯一の説明であったが、筆者はその頃、他者とは誰かということさえ分かっておらず、裁判官でさえ、きっとこのような事件は、理解できまいと、心の中で考えていたのであった。

そこで、筆者は、自分で自分を肯定するために作り上げた書面を、唯一の武装手段のように思い、それが他者から承認されることなくして、生きたものとならないという現実――それゆえの他者の重要性――を、まだ十分に分かっておらず、事件の解決は、自分の努力によるものであって、他者からの助けは要らないかのように考えていたのである。

モーセの書は、人間の目に、あたかも正しい知識や、身を守るための理論武装の方法を教えてくれる武具のように見える。それは知識による人間の自己防衛の手段である。

だが、それを手に入れるために、人はどれほど果てしない苦労を費やさねばならないだろうか。筆者も、自分なりの書面を作り上げるために、どれほどの月日を費やしたかを思い出すが、その時、目の前に置かれていた訴状は、今でもまだ筆者の人生に形を変えては現れている。

裁判官は、筆者の作り上げた書を隅から隅まで読み、何度もそれを読み返し、その作成の苦労を知りつつも、その後、時間をかけて、筆者がモーセの書から目を離し、そこから解放されるように仕向けた。

裁判官は、筆者の作成した命の通わない書物に光を当てて、これを蘇生させた上で、共同作品のような宣言を作り上げたが、最も重要なのは、そこに書かれていた理屈ではなかった。

重要なのは、筆者の命の通わない訴えに、他者が命を吹き込んだということなのである。それによって、筆者に新たなミッションが与えられ、裁判官の任務の重要な性質の一部が、筆者の人生に分与され、それまで一方の当事者の立場にしか立つことのできなかった筆者に、自分を離れて、物事を俯瞰する新たな視点が与えられた。

こうして、筆者が一方の当事者である自分の立場だけから、すべての物事を見、主張し、判断するという制約から解き放たれたことは、おそらく筆者の人生を根本的に変えてしまうほどの大きな転換であって、これから先、徐々に筆者を取り巻くすべての人間関係に波及していく絶大な効果を持つ出来事なのだろうと予想する。

さらに、それまでモーセの書の研究という果てしなく孤独な作業に従事していた筆者が、そこから解放されて、生きた関係性の中に入れられたのである。

何か大きな逆転現象が起き、筆者がピラトの階段から、訣別宣言を突きつけられたのを機に、筆者と入れ替わるように、それまでモーセの書になどほとんど縁もゆかりもなかったと思われる大勢の人々が、筆者を押しのけるようにして、その階段に殺到して行った。

筆者は未だ手元の書面から、完全に目を離したわけでなく、そこから完全に解放されたわけでもないが、それでも、モーセの書をよすがに生きる人生を離れ始めた。

筆者のためのまことの裁き主は、常に筆者のそばにいてくれ、筆者に目を注ぎ、筆者の訴えを精査して、筆者の苦労を隅々まで分かち合いながら、常に筆者のために、弁護人となってくれ、知恵を与えてくれると同時に、筆者に対し、自分自身から目を離し、主ご自身に目を向けるよう、いつも教えてくれている。

「わたしを見なさい。わたしこそが、あなたにとって道であり、真理であり、命なのです。あなたの思いをわたしにすべて分かち合いなさい。わたしこそが、あなたの知恵であり、豊かさであり、あなたのための解放であり、安息なのです。わたしを見なさい。」

筆者は以前に、女性とはなぜ絶えず愚痴ばかりをこぼし続けている存在なのだろうかと書いたことがあった。このようなことを言えば、フェミニストが早速、抗議して来るかも知れないが、女性の話す内容に耳を傾けてみれば、その8割から9割は、愚痴と不満から成り立っており、残りの1~2割が自慢話と他愛のない雑談である。

古来から、異教の宗教では、女性は命を生み出す者として、豊饒のシンボルとして扱われて来たが、筆者はそうは考えない。聖書的な観点から見れば、命は女性から始まるのではなく、あくまで男性から始まる。その性質は、あらゆる場所に波及しており、フェミニストは、女性は男性と対等であるべきと言うが、筆者から見れば、女性には、男性と対等であれるだけの資質が初めから備わっていない。女性の働きは、どこまで行っても、陰のようである。

とはいえ、女性がその弱さを男性に対して率直に打ち明けるならば、男性は大いに彼女をかばい、守るであろうし、己が力を誇示して優位に立とうとは考えず、むしろ、彼女を助けることを光栄に思うだろう。

ただし、どういうわけか、そういう結果になることは少ない。弱いにも関わらず、女性が男性に君臨し、支配するというケースは至る所で見られる。多くの家庭ではそうなっているらしい。だが、もしも筆者の見立てが正しく、女性が本質的に虚無であるとすれば、女性による支配は、決して功を奏することはないだろう。

それでも、例外的に、女性の中には、女性の抱える弱さの制約を超えて、男性と同じような働きを成し遂げる人々がいないわけではない。だが、その場合でも、女性の抱える制約は、男性に比べて、圧倒的に強い束縛となると筆者は考えている。それは社会の進歩が遅れているせいではなく、生来の特徴から来るものである。

もしもそうした制約から完全に逃れたいと思うならば、条件はただ一つ、神に直結し、キリストに結ばれることである。そうすれば、その人は性別に関係なく、この世のすべての人々を超越することになる。
  
だが、そうした場合を除き、筆者から見ると、女性とは、限界ある被造物の象徴のようである。女性の弱さと限界は、被造物が、造物主なくしては、虚無でしかないことをよく表している。従って、女性が絶え間なく口にし続けている愚痴と不満も、とどのつまり、「私は単独では虚無である」ということを述べているに過ぎない。そこで、この虚無の中をどんなに探しても、正しい答えは見つからない。
 
この話は、性別の問題を論じるために持ち出したものではないし、女性差別の観点から主張しているわけでもない。

筆者はただ、女性の弱さと限界は、神の助け手として造られた人類が、神の御前で抱えている弱さと限界を象徴的に表している、ということを述べているだけである。

男であろうと女であろうと、人類が神の御前でしたためた書面には、自己の弱さと、限界と、苦悩の跡と、愚痴と不満しか書かれていない。誰であれ、神の御前では、弱さ以外に主張するものはないからである。

だが、神は人間が切なる訴えを抱えて、ご自分の御前に進み出るとき、決してこれを軽く扱うことはされないし、もちろん、人間の弱さを嘲笑うこともされない。

神の御前で全被造物は虚無であり、神は私たちの弱さ、限界、それゆえの惨めさをよく知っておられる。徹底的に心の中を探られても、私たち自身の内には、いかなる善も見つからないことも、予め知っておられる。

しかし、神はキリストのゆえに、私たちのすべての訴えに承認印を押して下さり、私たちの泣き言にも、十分に耳を傾け、疲れ切った私たちに新しい力を与え、罪に堕落し虚無に服した被造物を、御子のゆえに、洗い清め、義とし、新たな命を与え、生かして下さる。

それだけでなく、弱く、限界ある、堕落した、朽ちゆく卑しい存在であったはずの人間を、神の栄光を受けて、これを反映させる新たな高貴な人へと造り変え、万物を御子と共に統治する権威者、天の無尽蔵の富を受け継ぐ御国の相続人へと引き上げて下さる。

そこで、神と人とはもはや対立し、支配し合う関係ではなくなり、どちらかと言えば、パートナーのようになる。あれほど人間が求めてやまなかった神の聖、神の義、贖いが、すでに恵みによって、信じる者には約束されており、幾分か、実現してさえいる。もはや人間は、見捨てられて、弱く、孤独で、卑しい、寄る辺ない、蔑まれるべき存在ではない。

とはいえ、それはあくまで神の側からの恵み(恩寵)によるのであって、この恵みを受けるためには、人間の側でも、自己の限界を率直に認め、その恵みを求め、受け入れる姿勢が必要となる。

人間が、自分に弱さはなく、限界もないと言い張り、自分は神の助けを受ける必要はないと、自分を取り繕い、自力で神に等しい存在になろうと自己を鍛え、学習を積んでいるうちは、神の恵みはその人に注がれることはないであろう。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」(ヨハネ15:16-17)

そこで、筆者は改めて、自己推薦によってえりすぐりの集団に属するのではなく、神の推薦によって選ばれる人になりたいと願う。神ご自身が、ご自分の尊い性質を、私たちに分け与えようと自ら願って下さり、私たちを引き上げて下さる瞬間を待ちたいと思う。自力でピラトの階段を這い上り、自ら神の聖に到達しようとして、そこから転落して不幸になる道は御免である。

そこで、誰にも安息を与えることなく、高ぶりだけをもたらす偽りのヒエラルキーには背を向け、人の目に尊ばれるのでなく、恵みによって、神に選ばれ、生ける石となる道を行くことこそ、最高の安全策であることを思う。

そういうわけで、実に緩慢な変化であるとはいえ、筆者は手元の書類から徐々に目を離し始めた。書類は、これまで筆者にとって唯一の救命ボートのように見えており、武装手段でもあったが、力強い援護者が現れた以上、もはやそれにしがみつく価値はなくなったのである。

このことは、筆者が今後、訴訟を起こすことはないとか、書面を作成することはないという意味ではない。だが、モーセの書は高価な上、あまりにも重すぎて抱えきれず、救命道具どころか、大変な重荷となって、筆者の前進を阻んで来た。
 
ピラトの階段に別れを告げると、いつの間にか、主が筆者のそばにやって来て、筆者の手からこの重荷を取り上げ、代わりに持ち運んでくれるようになったのである。

今や筆者の人生には、様々な人々がやって来て、「あなたがこのような荷物を運ぶ必要はありません。私に任せなさい」と言って、筆者の手から重荷を取り上げて行く。そうでなければ、その重荷がまるで貴重な宝であるかのように、率先してそれを筆者から奪い取って行く人たちが現れる。
 
これは不思議な現象である。これまでの筆者は何でも自分でやってみたいと考え、挑戦するのが好きであり、苦労を苦労とも考えていなかったので、自分から断崖絶壁を登っていたのであり、その際、重荷を持ち運んでいるという自覚すらもなかったが、確かに、考えてみれば、このような重すぎる書物を自力で持ち運ぼうとすることは、それ自体が「身の程知らず」な行為だったと言える。

そういう意味で、バベルの塔へと続くピラトの階段の最初の一段目で、筆者が階段側から拒否されてこの道を離れたことは、まことに正しい結果だったと言えよう。それはまさに人にとって負い切れない重荷を担う苦行にしかならないからである。

今でも、目に見える地上の多くの教会には、まるで標語のように、以下の聖句が掲げられているが、筆者は、これを標語としてではなく、真実として受け止め、重荷を主に任せ、神によりかかって、安らぎのうちに歩きたいと願う。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)
  
この道は、筆者が始めたものではなく、神ご自身が始められ、筆者を任命されたものであるから、その行程を歩き通す力も、筆者自身に由来するのではなく、神が与えて下さるものでなくてはいけない。イザヤ書(40:25-31)にはこうある。

「お前たちはわたしを誰に似せ
 誰に比べようとするのか、
 と聖なる神は言われる。 

  目を高く上げ、
 誰が天の万象を創造したかを見よ。

 それらを数えて、引き出された方
 それぞれの名を呼ばれる方の
 力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。

 ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、
 歩いても疲れない。」

筆者に与えられた新たなミッションは、鳥のように天高く舞い上がり、そこから、地上のすべてを俯瞰するというものである。バベルの塔がどんなに高くとも、その高度はさらにそれを上回る。

筆者は天的な法廷に招かれ、そこで安全な囲いの中に入れられ、正しい裁きを宣告された。筆者の訴えは忘れられておらず、神ご自身が、筆者に正しい訴えを提起するための知恵を授けられたのである。
 
このように、神の側には、常に信じる者がすべての出来事に対処するに十分な備えがあり、神はへりくだった方であるから、へりくだった人を助けて下さる。そして、神は弱い人間を助けることを、心から光栄に思って下さる。人間が神の助け手として造られたにも関わらず、神は喜んで私たちを助けて下さり、またそうしたいと常に願って下さる。

だから、何事も主に相談し、すべての重荷を神ご自身と分かち合い、主に委ねよう。そうして、主と共に進むならば、私たちの荷は軽くされる。そして、自己の生来の限界と弱さにも関わらず、私たちは疲れることなく、立ち止まることもなく、常に軽い足取りで、心に喜びを絶やさず前進して行くことができるだろう。

走っても弱らず、歩いても疲れないだけでなく、翼をかって天高く舞い昇り、この世のすべてを天的な高度から見下ろし、平安のうちに統べ治めることができる。


主は計らい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる。

悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 彼らは草のように瞬く間に枯れる。
 青草のようにすぐにしおれる。
 
 主に信頼し、正義を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

 あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。

 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。
 繁栄の道を行く者や
 悪だくみをする者のことでいら立つな。
 怒りを解き、憤りを捨てよ。
 自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。
 
 悪事を謀る者は断たれ
 主に望みをおく人は、地を継ぐ。
 しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。
 彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。

 貧しい人は地を継ぎ
 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。
 
 主に従う人に向かって
 主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが
 主は彼を笑われる。
 彼に定めの日が来るのを見ておられるから。

 主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り
 貧しい人、乏しい人を倒そうとし
 まっすぐに歩む人を屠ろうとするが
 その剣はかえって自分の胸を貫き
 弓は折れるであろう。

 主に従う人が持っている物は僅かでも
 主に逆らう者、権力のある者の富にまさる。

 主は御自分に逆らう者の腕を折り
 従う人を支えてくださる。
 無垢な人の生涯を
 主は知っていてくださる。
 彼らはとこしえに嗣業を持つであろう。
 
 災いがふりかかっても、うろたえることなく
 飢饉が起こっても飽き足りていられる。
 しかし、主に逆らい敵対する者は必ず滅びる。
 捧げ物の小羊が焼き尽くされて煙となるように。

 主に逆らう者は、借りたものも返さない。
 主に従う人は憐れんで施す。
 神の祝福を受けた人は地を継ぐ。
 神の呪いを受けた者は断たれる。

 主は人の一歩一歩を定め
 御旨にかなう道を備えてくださる。
 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
 主がその手をとらえていてくださる。

 若いときにも老いた今も、わたしは見ていない
 主に従う人が捨てられ
 子孫がパンを乞うのを。
 生涯、憐れんで貸し与えた人には
 祝福がその子孫に及ぶ。
 悪を避け、善を行えば
 とこしえに、住み続けることができる。

 主は正義を愛される。

 主の慈しみに生きる人を見捨てることなく
 とこしえに見守り
 主に逆らう者の子孫を断たれる。
 主に従う人は地を継ぎ
 いつまでも、そこに住み続ける。

 主に従う人は、口に知恵の言葉があり
 その舌は正義を語る。
 神の教えを心に抱き
 よろめくことなく歩む。

 主に逆らう者は待ち構えて
 主に従う人を殺そうとする。
 主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
 罪に定められることをお許しにならない。
 
 主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
 地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。

 主に逆らう者が横暴を極め
 野生の木のように勢いよくはびこるのを
 わたしは見た。
 しかし、時がたてば彼は消えうせ
 探しても、見いだすことはできないであろう。

 無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。
 平和な人には未来がある。
 背く者はことごとく滅ぼされ
 主に逆らう者の未来は断たれる。
 
 主に従う人の救いは主のもとから来る
 災いがふりかかるとき
 砦となってくださる方のもとから。
 主は彼を助け、逃れさせてくださる。
 主に逆らう者から逃れさせてくださる。
 主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」(詩編第37編)

* * *

さて、以前にも、なぜ使徒行伝には、使徒たちの殉教の場面が書かれていないのかということについて書いた。

本来ならば、使徒たちの殉教は、信仰の道を貫くためのクライマックスであるから、物語としては、これが描かれていた方が、ドラマチックで完成しているように見える。

それに引き換え、現存の聖書66巻に含められている使徒行伝では、使徒の殉教は随所で示唆されてはいるものの、実際にその場面の描写はなく、むしろ、使徒たちおよびクリスチャンが迫害に耐え抜いて、信仰を宣べ伝え、各地の教会が紆余曲折を経ながら成長して行く過程が重点的に描写されている。

使徒行伝の締めくくりにはこうある、「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒行伝録28:30)

ここには、パウロがいずれ殉教するのだという悲壮感は全くない。むしろ、神の国を告げる福音が拡大して行き、これからエクレシアは完成へ向かって行くのだという期待感が感じられる。

これは中途半端とも見えるような、未完成を思わせる終わり方である。花嫁エクレシアはまだ幼く、婚礼の支度にも入っていないが、もっと後になれば、物語のクライマックスがやって来る。しかし、それはこの時代にはまだ起きていない事柄であるから、描かれていないだけであって、真に重要な出来事は、これから始まる、まさにあなたたちの生きる時代に起きるのですよ・・・、とでも言いたげな期待感を込めたニュアンスが伝わって来るように思う。

つまり、使徒行伝は終わっておらず、今日の時代までずっとこの物語は続いていているのであり、パウロの生活から、一歩、前へ足を踏み出せば、そこに私たちの時代があって、私たちもその続きを生きているのだ、と言いたげな終わり方に感じられる。

とにもかくにも、エクレシアが完成に向かうというテーマに比べると、使徒たちが殉教して生涯を終えるということは、取るに足りない事であるかのように扱われているような気がしてならない。

さらに、使徒たちの殉教の描写が聖書にないのは、それがローマ帝国という多神教の異教的世界観を土台とした政治状況の中で起きた出来事だからこそであると、筆者はかつて書いた。

もしも使徒行伝の中に使徒たちの殉教の場面が描かれていたならば、おそらく、それを読んだ後世の人々は、彼らの生涯の終わりを模範のように考えるようになり、信者は誰しもそのようにして、時の政治権力と対立関係に陥り、迫害されて、非業の死を遂げるのが理想だとさえ考えるようになるだろう。

しかし、聖書はもともと人類の罪を贖うためのキリストの死と復活を中心に据えており、最初から最後まで、被造物の代表・初穂として贖われ、ただ一人神の目にかなう「完成された人」であるキリストについて語っているのであり、政治問題には全く主眼を置いていない。時の政権による信仰に対する迫害というテーマは、聖書のメインテーマから外れている。さらに、聖書はこの世において立てられた権威に逆らうようにとは信者に全く教えていない。従って、聖書は、信者を政権に対して刃向かうように、政治闘争へ赴くように焚き付けることを全く目的としていない。

しかも、使徒たちの殉教は、ローマ帝国が多神教の神話を建国の理念とし、キリスト教を公認していなかった時代という、一定の政治・時代状況を背景にしてこそ、起き得たものなのであって、今日の民主主義に基づく政治体制において、同様の現象が再び、繰り返されうるかと考えれば、それは(独裁体制やら共産主義国などの特殊な政治形態を除き)考えにくい。

そこで、そのように特殊な政治状況、時代状況のもとにしか起き得ない現象を、あたかも普遍的な事象(もしくは信者のあるべき模範)であるかのように描くという混乱が起きないために、また、キリスト教徒を政治権力との無用な対立関係に陥らせたり、使徒を迫害したこの世の政治権力に対する反感をいたずらに信者たちに抱かせるという結果が起きないよう、あえて聖書には、使徒たちの殉教の描写が省かれているのではないかと筆者は考えるのである。
 
ところで、「ルカによる福音書」と「使徒行伝」はともに同じ著者による二巻の書物であるが、どちらもが、パウロの死後十数年以上が経過してから書かれたものであるとみなされている。つまり、使徒行伝は、パウロの殉教後に書かれたものであって、まだ事件が起きていなかったために、この書物にパウロの殉教の描写がないというわけでは決してない。

さらに、パウロの殉教後に書かれている以上、これらの2つのルカによる書物が、パウロが裁判において有利な結果を得られるよう援護射撃として書かれたとみなす理由は存在しない。

ルカの2巻の書物が目的としているのは、パウロの運命を左右するために何らかの手立てを講じることではなく、あくまでキリストがどのような方であるかを宣べ伝えることにある。
 
さらに、パウロが上訴したカエサルとは、今日、キリスト教徒の迫害者として知られている悪名高い皇帝ネロである。その時代、ネロはまだキリスト教徒に対する大迫害に及んでいなかったが、パウロがカエサルに上訴したことによって、裁判において有利な立場に立ったとか、勝訴判決を得たといった記述は、聖書の中では全く見受けられない。

パウロがネロに上訴したことによって、いかなる結果が起きたのか、また、パウロが殉教に至った理由と、パウロがそれまでに受けた裁判との間にどのような関連性があるのか、具体的なことは不明である。

とはいえ、パウロは皇帝ネロの命により、斬首されて処刑されたとも言われている。パウロの殉教は、暴徒による襲撃などの結果ではなく、為政者から有罪とみなされたがゆえの処刑であったことは、ほぼ定説である。

このように、パウロがキリストの復活の命にあずかり、神からの力強い義認を受けていたにも関わらず、なぜ異教的世界観の支配するこの世の不正な裁判によって罰せられたり、不正な君主によって死をもって処罰されるようなことが起き得たのかという問題は、聖書では取り上げられていない。このことは他の聖書箇所と対比して、大いなるパラドックスに見えるかも知れない。

なぜなら、もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:31-34)

というあの力強い神の義認に関する宣言は、他ならぬパウロ自身の記述だからである。このように書いたパウロが、ユダヤ人からの讒言に基づき、裁判で有罪を宣告されるか、もしくは皇帝から不当な判決を受けて処刑されたりするようなことがどうして起き得ようか。

聖書はこのパラドックスを説明していないが、筆者の目から見ると、それはやはり、ギリシア・ローマ神話の多神教の世界観に基づくローマ帝国という特殊な政治・時代背景と関係があるように感じられる。つまり、パウロの殉教という出来事は、異教的な世界の中で、その時代状況に限定して起きた出来事だったからこそ、聖書はあえてパウロの殉教を「キリスト者の模範」のように描くことなく、むしろ、「例外」のごとく扱い、パラドックスとして説明することもなく、通り過ごしているように思えてならないのである。

確かに、聖書には多くの殉教者が存在することが記されている。殉教そのものは、キリスト教徒の召しの中で非常に重い価値のあるものである。ステパノの殉教の時と同じように、使徒たちの殉教が土台となればこそ、その後、福音の広がりがあり、ローマ帝国へのキリスト教の浸透という出来事も起きたのであろうと見られる。今日我々が享受している信教の自由も、そうした犠牲の上に獲得された権利であると言えるかも知れない。

しかしながら、使徒たちの殉教は、教会の最初の礎が築かれたことを意味しているに過ぎず、今日のキリスト教徒が、パウロや、他の使徒たちと同じ政治状況に生きていないのに、彼らと同じように、時の政権からの迫害と受難の末、殉教すべきであるという定式のようなものは、決して存在しないと筆者は見ている。

むしろ、今日の「殉教」のスタイルは様々であり、「日々の殉教」というものもありうるし、何よりも、信者が殉教を目的化して、自ら死を目指すようなことを、聖書は全く教えていない。特殊な政治情勢下における迫害が起きた場合を除いて、今日のキリスト教徒のために、神は死ではなく命を、罪定めではなく、小羊の血潮に基づく潔白を、圧迫ではなく、むしろ、大いなる自由を与えて下さり、主により頼んで生きるすべての人々に対し、様々な苦難はあれど、神は最終的には、冒頭に挙げたダビデの詩編のごとく、

「あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。」

主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
 罪に定められることをお許しにならない。
 
 主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
 地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。

と記された通り、主により頼む信仰者が、不当な濡れ衣を着せられて恥をこうむり、罪に定められるようなことが決してないよう、キリストの義がそれにあずかる者にもたらす絶大な効果を、クリスチャンのみならず、この世の人々の前でも、真昼の光のように輝かせ、私たち信じる者を悪人たちによる謀略や、あらゆる虚偽の訴えから、守って下さるものと筆者は確信している。

だから、筆者自身も、真に信仰により頼んで生きるキリスト者が不当な判決を得て有罪に終わることなど全くあり得ないこととみなしており、

「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。」

「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。」

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」


とのパウロの宣言を文字通り、心に確信している。パウロに起きた出来事は、あくまでローマ帝国でキリスト教が国教化される前の、帝国内にキリスト教が浸透しつつあり、教会が生まれたばかりで成長し始めていたその困難な状況の中で起きた出来事であり、今日の一人一人のクリスチャンがそれを模範や理想として生きるために起きた出来事ではないのである。

だから、我々が心がけるべきは、あらゆる理不尽な出来事が降りかかるように思われる時にも、虚偽の訴えや、謀略によって追い詰められるような時にも、心真直ぐに主を信頼し、神がふさわしい解決を与えて下さり、信じる者を義として下さることにいささかも疑いを抱かないで、憤りを捨て、心騒がせず、平安の中に座すことであろうと考えるのである。
 
「無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。
 平和な人には未来がある。
 背く者はことごとく滅ぼされ
 主に逆らう者の未来は断たれる。
 
 主に従う人の救いは主のもとから来る
 災いがふりかかるとき
 砦となってくださる方のもとから。
 主は彼を助け、逃れさせてくださる。
 主に逆らう者から逃れさせてくださる。
 主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」

* * *

ところで、一旦、御言葉による確信に立ったならば、恐れや、不安や、疑いを抱かないことは重要である。なぜなら、これまでにも幾度も書いた通り、キリスト者にあっては、彼の霊の内側で起きることが、周囲の環境にそのまま影響するからである(霊的命が環境を創造する)。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37)
 
イエスが言及された「生ける水の川」とは、御霊であり、復活の命であるキリストの霊の只中から生まれて来る命の流れであり、天的な秩序のことでもある。

 信仰によって、不正のあるところに正義をもたらし、嘘の只中に真実をもたらし、弱く貧し人たちを豊かさへと導き、悲しむ者に慰めを、とらわれ人を自由にすることのできる、天的な秩序をこの地に引き下ろすことのできる、清く純粋な命の泉は、信じる者の霊の内側にある。

その清い命の流れは、人の霊の内、心の只中から湧き出て来る。その流れを絶やさないようにし、周囲を潤すことのできる、清い心の泉を枯れさせないよう守るためには、信者が神と自分の心との間に、さえぎるものを置かないようにすることが重要である(それが無垢であることの意味である)。

我々の生活の中では、理不尽だと感じられる出来事は、絶え間なく起こる。それによって、心を曇らせ、霊を圧迫されて、命の流れをせき止めてしまうと、私たちの働きは止む。

様々な疑念、不満、悩み、理不尽であるという憤りなどが、どんどん心をにため込まれて行くと、それはやがてバリケードのようにうず高く積みあがり、命の流れを完全に塞いで、せき止めてしまう。

キリスト者の霊の内側から流れ出す命の流れは、その人の心が信仰によって抱く喜び、愛情、希望、信念等と密接な関係があり、心が重荷で塞がれて、意気阻喪していたり、憤りに満ちているときに、開放的な命の流れを生み出すことはできない。

だから、信者は絶え間なく、新しい創造を行って、大胆に主の御業の中を生きるためには、心に去来する様々な重荷や圧迫を手放し、投げ捨て、自分自身の霊(むろん心も)の状態を常に明朗に、清く、軽快に、開放的に保っておくことが必要なのである。

それは決して、ポジティブ・シンキングのような心のコントロールを意味するものではないし、あるいは、不当な状況の只中に置かれても、笑ってなすがままになれという意味ではないし、理不尽な出来事を、理不尽であると感じて憤ってもならず、そのように主張してもいけないという意味ではない。

以前にも書いた通り、理不尽な状況は理不尽であると主張して構わないのである。ただし、状況の理不尽さを打ち破るための最大の秘訣は、憤って自分で誰かに報復したりすることにはなく、ただまっすぐに主の救いを信頼し、これを砦とし、糧とし、よすがとして、喜びを持って歩み続ける信仰の姿勢を捨てないことにある。

だから、心を憤りでいっぱいにしてはならないのである。

私たちの心は、被告であるサタンに対して開かれていたのではいけない。しかし、憤りを持ち続けると、やがてそれは報復願望や、悪事の企みへとつながって行き、悪魔に対して心を開くことにつながりかねない。

だから、私たちは、理不尽な状況に遭遇したとき、敵対者に対する憤りを心に抱き続けるのではなく、むしろ、まことの裁き主である神に直接、その事件を訴え、私たちの力強い弁護者でもあ神に自分の言い分を聞いていただき、主が自らの言い分を私たちに向かって述べて下さるときを待ち望むべきなのである。

そうして、理不尽と見える様々な状況の中に置かれたときにも、その状況の理不尽さだけに目を留めることなく、むしろ、その状況の中に、神の御手が働いており、その状況さえも、私たちが自分の心を治める上で、必要不可欠な訓練として与えられているものであって、私たちがその訓練において学ぶべきことを真に習得しさえすれば、その状況は、早急に取り除かれることを思うべきなのである。

神が信者のために正しい裁きを輝かせて下さるのは、私たちがそれを理解した後の瞬間のことである。つまり、私たちは今この時代に、使徒たちのように殉教して命を捨てることを自ら願う必要はないにしても、「日々の殉教」は否が応にも与えられる。

私たちにとって、理不尽かつ苦難と感じられる出来事は日々起きて来る。その中には、私たちの感情を揺さぶり、圧迫し、怒りを抱かせるような、相当に困難と感じられる出来事も含まれているであろうが、すべての状況には意味があり、それも神の深い采配の下に与えられているのであって、信者がいかなる状況においても、主を信頼して心騒がせず、勝利の確信に立って、揺るがされない方法を学びさえすれば、信者を取り巻く状況は、劇的に改善する。

悪の軍勢はカルバリで打ち破られているため、本当は、私たちを取り巻く状況が真実なのではなく、私たちが何を信じるのかにすべてがかかっているのである。だから、私たちは自分の外で嵐のような出来事が荒れ狂う瞬間にも、心を穏やかに保ち、勝利はすでに主にあって取られているという確信に常に立てるようにならなければならない。それができるようになれば、状況はもはや信者の心に触れなくなり、悪しき様々な問題には終止符が打たれる。

すべての試練、困難な状況は、信じる者が、自分で自分の心を守り、そこから湧き出る価値ある命の流れを絶やさず、いかなる状況においても、注意を逸らされずに、自分のミッションを果たし続けることを学ぶためにこそ、与えられているものなのである。

だから、神に対して心を開き、その御言葉に従い、サタンの言い分には心を閉ざし、これを退けなさい。あなたの心を、敵の蒔く様々な悪しき思いから守り抜き、喜びを絶やさないで目的へ向かって進む方法をできるだけ早いうちに学びなさい。
 
「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」(箴言4:23)


あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。

「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。

あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(ルカ22:24-30)


訴訟の判決が、出口のない堂々巡りのような問題に、待ち望まれていた新たな脱出口を与え、紛争当事者だけでなく、社会のあり方までも変えることが分かって以来、筆者は、裁判所という不思議な場所に魅了されてしまった。そこから、汲めども汲めども尽きることなく流れて来る命の泉のような流れに、日々、何かの形で関わりたい、もしくは、関わることができないかと願っている。

身近で日々、法律関係、裁判関係の用語を見聞きすることができるのは、筆者にとっては、まさに、演奏家が毎日、様々な楽曲の音色に耳を傾け、楽譜をめくっているような具合で、幸いである。

筆者の夢は、この地に召されてやって来たときから、いつかここから、生ける水の川々が尽きせぬ洪水のような流れとなって溢れ、流れ出ることにある。

これがいわば、筆者に与えられた「開拓伝道」である。これを馬鹿らしいファンタジーを語っていると笑いたい人がいれば、それはそれで結構である。

筆者の住んでいる県の名前は、全国で唯一、神の名がつけられている都道府県であるが、長年、命の川どころか、荒野しか見当たらない中で、敵の襲来や、かんばつに脅かされ、一体、初めに与えられたビジョンが、いつどういう形で実現するのか、分からない月日がずっと続いた。

もはや筆者に何かの召しがあったことさえ、人々はもちろん、筆者自身さえも忘れ去ろうとしていた頃、筆者は、裁判所という不思議な「干潟」を見つけ、そこから不思議な命の流れが湧き出ていることを発見した。

霊的大干ばつの最中のことである。裁判所には、人々が目を背け、耳を塞ぎ、足早に通り過ぎて行きたくなるような、こじれた訴えばかりが送りつけられ、うず高く積まれていた。それはまるで見栄えのしないヘドロや泥水ばかりがたまった何の役にも立たない「干潟」のようである。

筆者自身が、誰も見向きもしない訴えを抱えてそこにたどり着いた。その時は、誰一人として筆者を応援する者もなかった。しかし、筆者はそこに正しい裁きが存在するという噂を聞きつけ、最後の望みを持ってそこにたどり着いたのである。

やはり、噂は嘘ではなかった。その「干潟」にたどりつくと、そこにたまった「あぶく」の一つ一つに、不思議な光が当てられ、光合成が働き、それが神秘的な作用により、新たな命を生み出すエネルギー資源へと変えられていることが分かった。

干潟は単に水が腐った無用な地帯ではなく、そこには人手によらず、太古から続けられて来た途方もなく不思議な天然のエネルギー資源の循環があった・・・。そこで、筆者も自分の訴えに順番が回って来て、光が当てられるのを待った。実際に、その結果としてどういう現象が起きるのかを知ってから、この不思議な「干潟」に魅了されて、そのそばを離れられなくなったのである。

裁判所が扱う訴えの範囲は、とどまるところを知らない。たとえば、筆者は我が国に、行政職員を罷免する制度がないのは、本当に異常であると感じている。本来ならば、国家公務員に対して、国民は罷免権を持っているはずだが、行政の職員に対してはそれはない。

筆者は我が国で国家・地方公務員と呼ばれている人々は、憲法上定められた公務員の定義から外れており、これは戦前の遺物としての「官吏」の残存物のような、不明な位置づけにある集団だという考えを、他の人々の主張を踏まえ、提示して来たが、罷免権がないという意味でも、その考えは裏づけられているように思う。

本来ならば、公務員の選定と罷免は、国民固有の権利であるはずなのに、実際には、行政職員に対しては、市民は何もできない立場に置かれており、それゆえ、あまりにも行政の腐敗が進み過ぎたのである。

国家公務員の不祥事について、人事院は個別の要件を扱わず、関係省庁は苦情があったからと言って、何の対処の権限も実際にはほとんど行使しない。行政に関する苦情について、市民にはどこにも訴える場所がほぼないのが実状である。

だからこそ、今日の行政には決して自浄作用というものが全く期待できず、裁判所のように市民からの訴えを真剣に取り上げる場もほぼほぼなくなっているため(システムが形骸化してしまっている)、一旦、役所が腐敗すれば、その腐敗はとどめようもなく、仕事をしない役人がいたからと言って、これをクビにする方法も市民にはないといった状況が生まれる。

行政は、市民と直接、接しているにも関わらず、市民からの声を汲み上げづらい状況にあり、その乖離がますます進んでいるように見えてならない。
 
もちろん、行政といっても、ありとあらゆる分野が存在するわけで、すべてがすべて腐敗の危険の只中にあると言うつもりはないが、やはり、国民からの選定と罷免の権利が及ばないことには、それだけの大いなる暗闇が存在するものと筆者は思う。
 
ところが、裁判所はそうした用件であっても扱える。もちろん、裁判所が公務員を罷免するわけではないにせよ、事件を裁判所に持ち出すことによって得られる効果は絶大である。裁判所には、行政の決定さえも覆すだけの権威がある。そして、その原動力となるのは、やはり、取るに足りない弱い無名の市民からの一つ一つの訴えである。

紛争を起こすことは、一見、物事を紛糾させ、問題を深化させるだけの行為のように見えるかも知れないが、筆者は、その一つ一つの訴えには、はかりしれない意味があると考えている。

物事を丸くおさめ、自分が譲歩して、あるいは願いをあきらめて、穏便に早期に和解によって紛争を解決するのは、「美しい」決着のように見える。それに比べ、紛争を提起する行為自体が、和を乱す「美しくない」行為と見える。まして紛争を徹底的に戦い抜いて、白黒決着をつけるなどの行為は、なおさらそう見えるだろう。

だが、実際には、その見栄えの悪い、調和を壊すような「美しくない」訴えの数々の中から、はかりしれない価値が生み出されているのが現実なのである。リスクを覚悟で最後まで訴訟を戦い抜く人々がいなくては、画期的な判決が生まれることもなく、その分だけ、社会の進歩や、成果が、勝ち得られずに終わる。

そういう意味で、筆者は、当事者が戦い抜いて得た判決には、やはり決して社会全体がおざなりにできず、またそうしてはならない絶大な価値があるものと考えている。

賠償金がいくら払われるか、どうやって支払わせるのか、といった金銭的な問題だけがすべてではないのである。もちろん、債務名義は、強制執行を行うこともできる根拠となるが、そのことをさて置いても、裁判所がもたらす新たな判決は、それ自体が、新しい生命の息吹となり、社会の目に見える物事の正邪を切り分け、目に見える物事を超越した立場からこれに裁きを宣告し、実際に物事を是正し、変えて行くだけの力を持つものである。
 
筆者は、裁判所が持っている権威の大きさや、市民が起こす一つ一つの訴えの意義、そして裁判所の使命について、飽くことなく考えさせられている。

我が国における三権分立は、決して行政を司法の下に置くものではないにせよ、もしも腐敗した行政というものがあるとすれば、それはやがて裁判所の権威の下に是正されることになるだろうと筆者は思う。
  
ところで、当ブログに関する訴訟の第一審は、そのほとんどの部分が、法廷ではないところで、弁論準備手続きとして行われ、裁判官が法衣を着て現れたのも、全体で三度でしかなかった(開廷の時、弁論終結の時、判決言い渡しの時)。

さらに、今、事件は控訴審へ向かっているため、これからは三人の裁判官が事件を担当することになる(それも何かしら三位一体を象徴するようにも感じられる)。

しかし、筆者にとって、法廷のイメージとは、常に法衣をまとった一人の権威ある裁判官が、原告・被告の双方が揃っているところで、厳かに判決を言い渡すというものである。

ただ裁きに権威があるというだけでなく、裁判官は決して当事者と同じ目線に立たず、当事者を見下ろす法壇に立ち、そこから裁きを宣告するからこそ、より一層、厳粛に感じられるのである。

この法廷のイメージは、筆者の心の中で、神とサタンと人間とが相対してそれぞれの主張をぶつける天的な法廷の地上的な絵図のようである。

ところで、筆者は三権分立を、不正確なたとえとはいえ、霊、魂、体という聖書に登場する三部位に置き換えて考えてみる。

行政とは、いわば「からだ」であって、司法は「頭脳」である。
 
立法は「命令」そのものを考えて発令する部位であり、聖書にたとえるなら、「光あれ」といった命令が発せられるところである。筆者から見ると、この発令は、あたかも霊からすべてが始まることを予表するかのようである。

司法は、発せられた命令に基づき、目に見える物事が実際にあるべき秩序にかなっているかという是非を判断し、違反を是正する部位であるから、一旦、「光あれ」という命令が下されたなら、何が光であり、何が闇であるかを精査し、光と闇とが決して混ざることのないようにこれを切り分ける機能を持つ。

つまり、絶えず善悪の判断を行う魂の働きになぞらえられる。

行政は「からだ」であって、目に見える物事の世界で、命令されたことを実行する手足のような機関に当たる。

この世における三権分立に主従関係はないが、霊、魂、体はそれぞれ主従関係にあり、その中で、最も卑しい部位は体である。なぜなら、体はこの世(目に見える世界の物事)と接触する部位であって、自ら判断を行うわけではないからである。

筆者は以前に、ハンセン病者は、体に痛みを感じなくなることによって、自分で自分の体を傷つけても、それに気づけなくなり、それが原因となり、体の一部を失って、いびつな姿になって行くのだと書いた。

もしかすると、我が国の行政には、これと似たような病が起きているのかも知れないと筆者は思う。我が国の行政は「からだ」である。ところが、この「からだ」は、良心の機能から切り離されて、次第に、自己を統制する力を失いつつある。
 
行政が、国民に奉仕しながらも、国民の選定・罷免が及ばないことによって、ほぼ完全に閉ざされた自存それ自体を目的とする自己目的化した機関のようになっていることは書いた。そのために、これはあくまで比喩であるとはいえ、三権の中でも、行政は、司法からも、立法からも、抑制が及ばなくなって、「良心の機能」という痛みの感覚から切り離されて、自分で自分を傷つけても、あるいは他人を傷つけても、それが分からない状態に陥っているのではないかと感じられる。

そのために、体のあちこちをぶつけ、随分、歪んでいびつな姿になってもそれが分からず、国民からの監視も、選定も、罷免も行き届かないことにより、すでに壊死しているような部分も、たくさんぶらさがっているのではないだろうか。

その「からだ」とは、「頭脳」のコントロールが効かなくなり、「知性」から切り離されて、感覚麻痺した不気味な体である。

そこで、このような「からだ」の感覚鈍磨、もしくは麻痺状態を是正するためには、生命の通わなくなった部位を本体から切り離し、そこに新たな生命力をもった「細胞移植」が必要となる。

良心の働きを、すなわち、痛みの感覚を取り戻すために、死んだ細胞の代わりに、新たな細胞を移植し、体の働きに「頭脳」の指令がきちんと行き届くようにせねばならない。

むろん、筆者が「移植」を行うわけではない。それは筆者とは何の関係もない事柄である。

しかし、自然淘汰に近いような形で、実際には、どんどん「移植」が行われている。行政サービスの様々な分野は、民間企業やその他の様々な団体に移行(委託)されているが、このことは、裏を返せば、純粋に「行政」と言える機関には、もはやこれらの仕事を自ら遂行する力がなくなりつつあることを意味するのではないだろうか。

新たな発想、そして、優れたノウハウが生まれて来るために、もはや自己の力だけではどうしようもなく、外へ助けを求めざるを得ない状況が生まれているのである。

だが、そのようなことは、行政が「閉ざされた機関」ではなく「開かれた機関」であったなら、おそらく起きなかった現象であろうと筆者は考えている。役所から見れば、それは単なる外部委託に過ぎない事業であろうが、真の意味で、政府が(もしくは地方行政が)、長年に渡る業務遂行を通して、絶え間なく国民・市民からの直接の声を汲み上げることができていたならば、その間に、サービスの向上、多様化が進み、民間委託するしか方法がないという状態には陥らなかったことであろう。

むろん、委託によって新たな生命の息吹が注ぎ込まれることは、歓迎すべきことなのであるが、筆者はどうしても、そういう現象が起きていること自体に、行政の行き詰まりのようなものを感じずにいられない。
  
以上で、裁判所の権威とは、目に見える物事を超越した領域から、裁きを宣告することにあると書いた。そこで、三権分立には、主従関係はなく、それは互いに抑制し合い、働きを分散させたものに過ぎないとはいえ、そうはいえども、筆者の目から見ると、実はやはり、目に見える領域で働く「体」=「行政」は、最も知性からはほど遠い場所にあると言って差し支えなく、その意味で、これは、命令を実行する手足のような機関であり、かつ、裁きに服さねばならない、徹底して「仕えるため」にある部位であると考える。

にも関わらず、「体」が知性を凌駕し、頭脳との関係までも覆し、一人の人間の中で、王様になってしまうと、人間の本来的な秩序が転倒する。ところが、我が国では、半ばそれに類することが起きているのが現状ではないだろうかと筆者は考えざるを得ない。

今は問題提起の段階なので、これ以上のことは深く語れないが、筆者はそのように、たとえるならば、麻痺しかかったような状態にある「体」に、良心と生きた感覚の機能を取り戻させるために、いかなる方法(手術・治療)が必要であるのかについて、ずっと考え続けている。

冒頭に挙げた御言葉は、従来の聖書的な解釈によれば、当然ながら、一人一人の信者に適用されるものであるのだが、それと同時に、これは「からだ」の働きを持つすべての職に当てはまる。

人に仕える立場にあるはずのものが、王様のように君臨している状態は、明らかに異常であるから、そのような状態を是正するためにも、自然と、壊死した細胞を生きた細胞に取り替える必要が生じているのではないだろうか。罷免が及ばなくとも、必然的に、何かしらの淘汰や刷新に近いことが起きているのである。

筆者がいたずらに行政の無為を批判し、役立たずの役人を罷免する制度が欲しいと言いたいがために、こうした事柄を、決めつけで書いているとは考えないでもらいたい。国家・地方公務員の選定と罷免を国民の側から可能とすることは、何らかの方法で必要であろうと考えるが、その問題とは別に、まずは行政と司法との間で(筆者は立法府のことはまだ知らず、関わっていないため言及できない)、生きた橋渡しを行い、真に抑制し合う関係を打ち立てるために、今後、必要となることは何なのか、筆者は自分自身の置かれた立場から考え続けねばならないと述べているだけである。

* * *

最後に、いくつかの個人的な事柄について書いておきたい。以下の二つは、筆者が当ブログを巡る訴訟が行われている期間中に学んだ最大の教訓である。
 
➀物事は非常に困難な方法で取り組んでみることにこそ価値がある(望みうる最高の願いを決してあきらめずに、犠牲を払ってそれに向かうことに価値があること)。
②理不尽だという思いを捨てることこそ、すべての物事の解決の最短コースだということ。

➀について言えば、通常の感覚では、訴訟の提起そのものが著しい冒険であり、未知の分野への挑戦であったため、それにも関わらず、控訴審まで及ぼうとしていること自体が、途轍もない大いなる挑戦(もしくは無謀な冒険)と映ることであろう。

しかし、周りからどのような評価を得たとしても、筆者は、やはり、どうしてもこれだけは譲れないと考える望みに対しては、人は妥協なしに取り組まねばならないことをいつも思い知らされている。

筆者の目から見て、なぜ裁判所がそれほどまでに尊い場所に映るのかという理由もそこにあるのだ。それは、そこに人々の命がけの「望み」が託されているためである。

訴訟には一つ一つ、個人的な争いにはとどまらない社会的な価値があると、筆者は考えている。当ブログに関する訴訟では、特に、クリスチャンの側から、どうしても述べておかねばならない問題があった。強制脱会活動の違法性の問題である。

遅ればせながら、ようやく控訴審になってからこの問題に言及することが可能となったとはいえ、こうなったのは運命的な巡り合わせであり、かつ、これははかりしれない価値あるテーマだと筆者は考えている。

なぜなら、今までクリスチャンの側から、強制脱会活動の違法性を認め、こうした活動を批判したり、反省する発言が、公の場所で聞かれたことはほぼないと考えられるためである。しかし、筆者は、これをプロテスタントの恥ずべき歴史としてとらえており、そのことをプロテスタントの中から(これまでプロテスタントの信者であった者の側から)公式に認め、声明することには、非常に重い意味があると考えている。

筆者は牧師でもない一信者に過ぎず、そもそも訴訟では他者の不法行為を指摘しているのであって、自分自身が脱会活動に携わって来たわけではないが、当ブログでは、そもそもの初めから、強制脱会活動はプロテスタントの汚点であるということを指摘し続けて来た。

その意味で、筆者の訴えは、キリスト教徒の側から、異教徒に対して、反省し、懺悔せねばならない問題があることを公に宣言するという意味を持っていないわけではない。筆者の訴えは、統一教会とは何の関わりもないところで提起されているとはいえ、クリスチャンの側から、こうした脱会活動を強く非難する言葉を、公の場所で述べておくことはぜひとも必要であると考えている。

そのチャンスが巡って来たのは、やはりこの戦いを控訴審へ持ち込むことに、真に意義があったたことを表しているように思われてならない。
  
さらに、②の理不尽だと感じる思いを捨てることは、決して誰から何をされても一切異議申し立てをしないという口封じの圧力に屈することは訳が異なる。理不尽なことは、理不尽であると、むしろ、公然と訴えるべきなのである。だが、そのことと、許せないという感情をいつまでも持ち続けることは異なる。

筆者は、第一審が終わってから数ヶ月ほどたった時に、心の中で理不尽だという思いを手放しつつ、それでも、訴えを続行することは可能なのだということを学んだ。それは、真実を明るみに出し、きちんと事実関係と責任の所在を明らかにし、物事をあるべき所に是正して行くために、必要な措置だから、訴えを続けるというだけのことであり、相手を徹底的に追い込むとか、自分の思い通りの決着に従わせるために、何としても争いを続行するというものではない。

そのように個人的な感情を手放すことができた時、その訴えは、神ご自身が取り上げて下さり、人間の努力によらずとも、速やかにしかるべき解決が与えられることを筆者は学んで来た。

ただし、これは繰り返すが、うわべだけ謙虚さを装い、波風立てないことだけを第一として、相手の前にわざと自分の主張を放棄して折れて出るとか、望みをあきらめるということとは全く意味が異なる。筋を通さなければならない場面では、不本意な妥協や和解を退け、最後まで物事を公然と明らかにすることは必要である。だが、それを個人的な怒りや報復感情とは関係のないところで、真に物事があるべき姿を取り戻すためにこそ、行うことは可能だと学んだのである。
 
ところで、最後に蛇足ながらつけ加えておくと、政府の行う行政サービスの中に、国側が敗訴した国賠訴訟への対応というものもある。さすがに、この仕事は外部委託はできないため、半永久的に、政府自身が行わなくてはならないであろうが、その領域まで行くと、役所はもはや自己正当化ができなくなる。たとえば、先の大戦中に政府が犯して来た数々の過ちの償いの問題があるし、ハンセン病者とその家族への償いもあろうが、こうした問題を扱っている役人は、どうしても国民の前に「悪者として立つ」ことを避けられない。

その領域まで来て、初めて行政サービスに自己反省と自浄作用の余地が生まれる。(言い換えれば、それ以下の国賠訴訟で敗訴を味わったことのない下部の行政機関には、我がふりを自分で正すという自己反省の力がないということである。)

だが、それとて、市民たちが必死の覚悟で訴訟を戦い抜いたことの成果なのであって、行政自身の自然な自浄作用によって生まれた結果ではない。集団的な国賠訴訟が起こされなければ、行政が自ら過ちを認めることはなく、苦情の電話や書面といったレベルで対応がなされることも決してなかったであろうと筆者は確信する。

そういうことを考えても、筆者は、やはり、行政が今や決して自力で到達できなくなっている自己反省の部分を補うという意味でも、司法の働きの重要性を思わずにいられない。そして、司法には、人間の魂の最も重要な機能としての「良心」の働きがあるように感じられてならない。だからこそ、そこに筆者は尽きせぬ興味関心を抱くのである。
 
弱く無力で追い詰められた立場から、国を相手取ってでも、訴訟を戦い抜いて、判決を勝ち取った人々の努力と成果があってこそ、先の敗戦によって生じた様々な混乱の責任を含め、数々の過ちの責任を政府に追及することが可能となり、我が国の今日の様々な法と社会のあり方が打ち立てられているのであって、その訴訟がなければ、政府自身が己が過ちを認めることは決してなかったであろうことを考えると、それを起こした人々の努力にはやはり敬意を持たないわけには行かないと思うのである。

それと同時に、「体」に働く痛みの感覚とは、人の良心の働きであって、人が自己反省によって軌道修正して行く力そのものであろうが、それを失ったとき、人は他者を傷つけるだけでなく、自己をも傷つけることになることを思わされる。

自浄作用をなくした行政の腐敗という問題と、プロテスタントが繰り広げた強制脱会活動の問題とは、そういう意味で、筆者から見ると、何かしらの共通点を持っているような気がしてならない。「プロテスタントの教会に自浄作用が働くなったために、被害者は裁判を起こすしかない」と警告していた牧師自身が、強制脱会活動に関わって来たことはまるで運命の皮肉のような話である。

なぜプロテスタントはそのようにまで盲目的で自己反省のない状態に陥ったのか。なぜ自ら神を信じると豪語する人々が、それほどまでに良心を失い、自分自身を正義の担い手のように考えながらも、他者から裁判を起こされるまで、人々の悲鳴に耳を貸さなくなったのか。(さらにもっと言えば、裁判を起こされても、なお不都合な判決には耳を貸さなくなった。)信者はこの問題についてよく考えなければならないものと思う。

筆者は、そこに、数々の外注の業者や、末端の下々の職員を絶え間なく(内心では見下しながら)「選定」したり「クビ」にしながらも、自分たちだけは、決して誰からも「選定」されることもなく「罷免」されることもないという自己安堵に陥った行政役人の「驕り」と、自分たちは由緒正しい正統な信仰を維持するキリスト教徒であるから、救いを知らない(で地獄に落ちる)他の人たちとは全く異なると自負する信者の「驕り」という、何かしら非常に似通った心理的問題があるような気がしてならない。
 
とにかく、そこに共通する問題として、高慢さとその結果としての自分とは異質な他者に対する君臨というものが存在することは確かであろう。それだからこそ、筆者は、逆にキリスト教徒の側から、誰か一人でも、この問題について、自分たちの側に責任があることを認めて、異教徒の前に頭を下げる人間が現れることが必要ではないかと考えている。

そのために、筆者は、誰が当事者として耳を貸すわけではないとしても、また、筆者自身が、責任を負うわけではないにしても、少なくとも、信仰者を名乗る人間が、こうした問題が起きていることに、気づきもせず、神と人の前で、声をあげることもない鈍感さと良心の欠如は、実に恐るべき感覚麻痺であって、そのような状態を避けるためにも、この問題について、真実を公然と明らかにし、責任の所在を問うことは、必要な作業であると感じている。そして、そのチャンスが与えられたことは、光栄だと感じているのである。

人は自分自身が罪を犯したわけではなくとも、人々の代表として、頭を下げなくてはならない瞬間がある。そして、聖書が根本的に述べているのも、人は誰も義人ではなく、生まれながらに罪人であるから、誰もヒーローにはなれないということである。

救われて、キリストに似た者とされるとは、より一層、へりくだって仕える人になることをしか意味せず、尊大で他者を見下しながら、自分だけは特別だと己惚れる人間になることを意味しない。だから、たとえ自分に罪がなくとも、信者にはへりくだることが必要であり、そのために、自分の憤りを手放すことも必要であり、それがなされた時に初めて、我々の訴えは、神と人との前に義と認められて、速やかに聞き入れられるものとなるのではないかと感じている。

そのことを、筆者は自分自身の訴訟を通しても、日々の生活の中でも、毎回、毎回、繰り返し、思い知らされつつ、同時に、それでも手放すこともできず、あきらめることもできない切なる願いを、神と人とに訴え続けながら生きている。それだからこそ、それだけの言葉に言い尽くせない思いを通過しながら、学び、勝ち取られた成果としての判決には、そこに書かれている文字以上の価値があると思わないわけにはいかない。また、そうした人々の悲痛な思いが集積されているのが裁判所であることを思うと、その場所には、畏敬の念や、厳粛さと同時に、深い憧れや愛情にも似た特別な思い入れを抱かないわけにいかないのである。

わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。

さて、非常に意義ある一週間を過ごした。相変わらず、裁判所と警察と数多くの書類のやり取りを重ねており、その作業はこれからも続く。だが、控訴理由書を書き上げるために、主が特別に与えて下さった最後の自由時間が終わった。

数ヶ月をかけて書き上げた理由書が、ようやく筆者の手を離れると、主はたちまち新しい進路を筆者のために指し示された。

筆者が書類を自分で運んで行くことに決めて、霞が関駅へ向かっている最中、日比谷線の六本木駅あたりで、電話が鳴った。天はすべてを見ている。いつ筆者の仕事が終わったのか、いつのタイミングで新たな課題を与えるべきか、主はすべてご存じなのである。

こうして、御国への奉仕が一つ終わると、次の新たな仕事が与えられる。筆者は前回の記事で、自分の専門を去り、残る生涯を、見栄えのしない「干潟」としての紛争処理というフィールドにとどまり、この干潟から、可能な限りのエネルギーを汲み出して生きようと決意したと書いた。

これは決して筆者が法廷闘争に生きることを意味しない。裁判所で働こうとしているわけでもない。だが、筆者は、法律家ではない立場から、困っている人たちのために自分の経験を役立て、法律をパートナーに新たな人生を生きようと決意したのである。

かつての専門は、筆者とはついに相思相愛の関係にはならなかった。これは不幸な片想いの道で、このパートナーは、利己的で、横暴で、筆者に幸いを与えることもほとんどなかったが、新たな道連れは、どうやら非常に気前が良く、豊かで、何より正義と真実に溢れており、筆者を守ってくれることができるらしいと分かったのである。

そこで、筆者はこの新しく頼もしい道連れと、常に一緒にいられて、一瞬たりとも離れないで済むように、また、いつでもこのパートナーに頼んで、自分のみならず、他の人々のためにも、必要な命を汲み出すことができる働きをして生きることに決めたのである。

筆者には、まだまだこの「干潟」にとどまってなさねばならない仕事がたくさんある。

そうして、筆者が自分の興味関心ではなく、真に価値ある正しい目的のために、多くの人々を利する目的のために生きようと決意した途端、これまでとはうって変わって、ただちに生きる心配など全く無用な立場に置かれた。日常のために、あれやこれやと心を煩わせる心配もなくなったのである。

さらに、この一年間、筆者が取り組んでいた別の難問も、向こうから筆者を手放し、立ち去って行こうとしている。

筆者はこれらの問題について、どういう解決策を選ぶべきか、自分では分からず、まだまだ取り組む必要があるのかと覚悟を固めていた。しかし、自分だけの思いや判断で、誤った選択をしてしないように、神が願われる事柄が実現するよう、祈り求め、手探りで進んでいたところ、神は「もうよろしい。あなたの任務は終わりました」と言われるように、これらの問題に終止符を打たれたのである。

改めて、主の御心の中心は、当ブログを巡る訴訟――というより、筆者が最後まで、信仰の証しを守り通し、十字架上で約束された復活の命を通して、キリストにある新しい人として生きることを、どのくらい実現できるのか、というテーマにあるように感じられる。それ以外のすべての問題は、些末なものでしかなく、この戦いにおいて最後まで勝利をおさめるためにこそ、すべての時間と資金が采配されていると思わずにいられなかった。

だが、その戦いとは、要するに、筆者自身が、すべての恐れと圧迫に打ち勝って、神が約束された新しい人としての内なる尊厳を完全に取り返すための戦いなのである。

一審判決の前後、筆者に時間的余裕が与えられていたことには、非常に深い意味があった。この時に、ネット上で起きている事柄に注意を払っていなかったならば、当然ながら、控訴のタイミングも逸したであろうし、紛争は中途半端なまま終わっていただろう。

しかし、神はそのようなことが起きないよう、時間的余裕をもうけて下さっていた。その間、ネットで起きていた議論は、すべて控訴理由書の土台となるものであった。その当時に記事にしたためた内容を、正式な書面の形で書き表すために、数ヶ月を要した。

古書として破格の値段で入手した室井忠著『日本宗教の闇 強制棄教との戦いの軌跡』手元に届いたのは、理由書を提出しようとする前日であった。

今回、どうしても訴えねばならなかったのは、カルト被害者救済活動の中心には、こうしたプロテスタントの猛毒の副産物と言うべき強制脱会活動が脈々と流れているということである。

当ブログでは、カルトと反カルトは本質的に同じであって、どちらも牧師制度の悪から出て来るものだということを幾度も書いた。プロテスタントは、カトリックのような聖職者のヒエラルキーと、聖職者による聖書の独占という問題から、信徒を解放したものの、その解放は、牧師制度を残すことによって、不完全に、中途半端に終わっているのであり、今やプロテスタントからの「宗教改革」が必要とされているのである。

プロテスタントが、もはやかつてのような新鮮な御霊の息吹を失って、形骸化した歴史的遺物となり、さらに有害なものにさえなりつつあることが、様々な現象を通して、確認できるのが、今日という時代なのである。

そこで、この度、筆者はプロテスタントそのものを脱出することにした。

筆者のもらった判決は、見えない紅海を渡って、新たな復活の領域に到達するために、なくてはならない「エクソダス」の道を指し示すものであった。
 
数ヶ月前に、筆者は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(1)」という記事を書き、そこで、バビロン王国を去り、エクレシア王国の住人になったと書いた。

そのエクソダスは、理由書を書き上げている数ヶ月の間にいつの間にか完了していた。

エクレシア王国は、復活の領域であるから、そこに生まれながらの自分自身(セルフ)から出たものは、何一つ持って入ることはできない。

そこで、筆者はバビロン王国を脱出し、エクレシア王国の永住権を得るに当たり、➀プロテスタント、②資本主義、③筆者のかつての専門、この三つを「セルフ」に属するものとして捨てねばならなかった。

さらに、筆者は営利を目的としないエクレシア会社(企業ではないので、エクレシア法人としておこう)に雇用されるに際して、最初の給与は、判決という名の手形として支払われるから、これを現金化する方法を学びなさいと、ただ一人の主人から命じられたと書いた。

筆者は、それはあたかも取立によって債権を回収しなさいという意味であるかのように考えていたが、実はそうではなく、判決は、天の尽きせぬ富を引き出すための手形であり、目に見えない「干潟」から利益を汲み出す方法を知りなさいという命令だったのである。

地上の判決は、被告に対しては、永遠の断絶を言い渡し、天から新たな宝を引き出すための根拠となるものであった。
 
だが、それは死んだ文字だけにとらわれていれば、決して見えて来ない事実であった。

そこで、筆者は、見えない法の世界への招待券に書いてある、目に見えない地図に従って、しかるべき団体に出向いた。すると、そこに実際に、筆者が地上で果たすべきミッションを示す契約の書類が用意されており、それに対する報酬も約束されたのである。

地上の判決には、まだ補うべき点が存在しているが、そこには、それ以上に、もっと深い、尽きせぬ霊的な意味が込められていた。それ自体が、汲んでも汲んでも汲み尽くせない命の泉のような、終わりなき「支払い」を筆者に約束する手形だったのである。

しかも、それは筆者のためだけに命を与えるものではなく、いつの間にか、他の人々に命を分け与えるためにも役立つものとなっており、それが、筆者の新たなミッションとされていたのである。

ただし、その支払いは、純粋に天から来るのであって、地上のものに依存しておらず、地上の被告とは関係がなく、地上の人々に対して行使するものでもなかったのである。

その手形を天に向かって行使することが、天の富を地上に引き下ろす方法であって、これが天のサラリーを「現金化」する方法だと初めて分かったのである。

もしも判決を地上的方法で行使していれば、そこに死んだ文字として書かれたもの以上のものは決して得られない。ところが、筆者が得た天の報いは、使えば尽きてしまうようなものではなく、終わりなき富であり、新たな世界での筆者の身分を保証するものであった。

このようなことをどう表現すれば良いかよく分からない。多分、比喩としてさえほとんど理解されないのではないかと危ぶむ。

筆者はかつて裁判所は家のようなものだと書いた。筆者の目から見ると、そこは正義の実行される場所、真実が何であるかが明らかにされる場所、虐げられて、弱り切った人たちが、ようやく正しい裁きを得て、休息と安堵にたどり着く場所であった。

むろん、これは筆者の理想化に過ぎないと考える人たちは多いだろう。この世には、裁判所に正義など見いだしておらず、むしろ、不当判決ばかりの世界だと考えている人たちもいるかもしれない。

しかし、筆者はそうは見ていなかった。筆者にとって、そこは要塞であり、砦であり、真実と、正しい裁きが生まれて来る場所であり、それが与えられると信じないことには、そもそもそこに助けを求めて近づくわけにもいかなかったのである。

そのような望みを抱いてやって来た筆者の目には、まるで裁判所の地下に、見えない命の泉があって、そこから、人々を生かし、潤す命の流れが、こんこんと湧き出ているようにさえ映った。

ところが、いざ自分が判決をもらってみると、いつの間にか、その泉は、筆者の内側に移行していた。筆者は、「あなたは解放された。自由になって生きなさい」との宣言を受けたが、気づくと、その自由は、筆者自身の内側に書き込まれ、根づき、筆者自身が、与えられた命を持ち運び、これを他の人々に分かち与える存在となっていたのである。

判決を通して、筆者に分与された不思議な命は、筆者が地上の債権を回収しようとむなしい取立を行っている最中も、日々刻々と生長し、いつの間にか、それなりの分量に達して、筆者自身の内側から外へ川のように流れ出して、周囲を潤すものへと変わっていた。
 
それはまだ小さな川なので、気づくか気づかないという程度であろう。だが、それがやがて大きな川となって流れ出す時が来る。それが筆者に地上で与えられた真のミッションなのである。

一体、どういうわけでそういうことが起きたのか知らないが、まるで蝋燭から蝋燭へ火が灯されるように、筆者が飽くことなく求めて来た正しい裁きは、筆者の中に種のように蒔かれ、気づかぬ間に発芽し、他の人たちに向かって、新たな命をもたらす小さな種として伝播するようになっていた・・・。

こうして目に見えない終わりなき命の連鎖が始まった。それは地上におけるいかなる人間関係にもよらない、それを飛び越えた領域で起きる不思議な命の伝授である。
 
そうした立場を得たことで、筆者は内側で、あるべき尊厳を回復し、自分が何者であるかを、よりはっきり自覚するきっかけを得た。筆者は、自分があるべき場所、果たすべき使命に相当に近づいたことを感じている。

人の高貴さは、その人が抱いているミッションの気高さと大いに関係がある。聖書に登場する霊的先人たちはすべて神の解放のみわざに従事し、民を自由に導こうとする主の御旨を体現する人々ばかりであった。ヨセフは幼い頃から、おぼろげながらに自分に与えられた使命の大きさを知っていた。だが、そこへ到達するためには、様々な苦い試練を味わい、徹底的にへりくだらされねばならなかったのである。

それが十字架の道である。すべての先人はその道を通った。だが、へりくだる人に神は恵みを注いで下さり、試練がその人の糧となり、ますます高貴で栄えあるミッションを与えてくれる。その栄光、高貴さは、生まれながらのその人自身から来るものではない。

「主は霊である。そして、主の霊のあるところには自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(Ⅱコリント3:18)

「顔の覆い」とは、罪による隔てを意味する。地上の判決は、被告との間に打ち立てられた「永遠の遮蔽の措置」であると書いた。
 
その隔ては、裁判官と原告との間にはない。これは、あたかもまことの裁き主なる神と、贖われた人との関係を指すかのようである。

これらはすべて予表である。

地上における判決は、カルバリの十字架において破り捨てられた私たちの罪の債務証書を予表している。それは悪魔によって、私たちに転嫁されていたあらゆる不当な責め言葉や呪いを断ち切って、これを負うべき者へと投げ返すものである。

カルバリの十字架における宣言を根拠に、私たちは顔の覆いなしに、何の隔てもなく、まことの裁き主である父なる神に、子として近づき、大祭司なる方の恵みの御座に大胆に進み出て、必要なものを何でも願い出ることができる。
 
同時に、「顔の覆いなしに」とは、花嫁のベールアウトの瞬間のようなものである。花嫁の顔を覆っていたベールが取り払われるのは、結婚式のことであり、そこで花婿と花嫁とが初めて「顔と顔を合わせる」。

以上の御言葉は、キリストとエクレシアとが、ついに婚礼によって顔と顔を合わせる、人の贖いの完成の瞬間を指したものである。その時、神と人との間には、すべての隔てが取り除かれる。罪による隔てが、完全に取り除かれる日が来る。こうして、隔てが取り除けられたとき、人は神の栄光を映す存在となり、人は創造の当初、神に似せて造られたその目的と使命を完全に回復する。

人は神の助け手として創造されたのであり、人の役目とは、神が宣言なさることに対し、「アーメン(その通りです)」と答えることにある。第一審判決に対しては、筆者はまだ完全に「その通りです」と言えない部分が残っているがために、それを補うために控訴に及んでいるものの、このことは、あたかも、人の贖いが、地上にあっては、まだすべては完成されていないことを指すかのようである。

私たちには、完全な約束が与えられているが、その贖いの完全な成就は、来るべき世を待たねばならない。

とはいえ、そのことは決して、この地上において、私たちが目的に近付けないことを意味しない。むしろ、逆であり、筆者は、その瞬間へ向かって、一歩一歩、あるべき姿を確かに取り戻している。

ただし、それは純粋に筆者の内なる尊厳の回復であって、外見のことを指すわけではない。筆者の滅びゆく地上の人としての外見は、年々、ますます取るに足りない、見栄えのしないものとなっていくだけであろうが、主の御手の下にへりくだらされた人は、まるで外なる人に反比例するがごとく、内側では、栄光と尊厳がますます増し加わって行く。

その高貴さ、尊厳は、やがて隠しようのない不思議な魅力、権威、力となって、その人の内側から外へ溢れ出し、かつ他の人たちにも分け与えられて行くことであろう。

十字架で一度限り永遠に下された判決は、私たちに一生、必要なものをすべて与え、さらなる自由を、尊厳を取り戻させてくれる。もはや後ろを振り返る必要はない。

第二審は、より完全な贖いの成就を予表するものとなり、キリストにある新しい人の出現を、さらにはっきりと約束してくれるものとなるだろうと筆者は見ている。だが、それと並行して、筆者には、それと同じくらい重要なミッションがあって、今や自分だけではない多くの人たちにも、自由に至るエクソダスの道があることを告げ知らせ、自分に与えられた解放を、他の人々のために役立てたいとの願いがある。

その成果が一定の分量に達したときに、さらに大きなミッションが与えられることになるだろうと筆者は前もって感じている。いずれにせよ、筆者はなさねばならない仕事、新たな課題の只中に置かれたのであり、それを果たせることは、筆者にとってはかりしれない光栄である。


愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。

「神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
  魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
  心の思いと意図を素早く識別します。
 (ヘブル人への手紙4:12、改訂訳)

「はじめに神は天と地とを創造された。
 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。 」(創世記1:1-4 口語訳)

それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。

 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:17-18 新改訳)

わたしの民がわたしに聞き従い、
 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。

 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたがたを飽かせるだろう。」(詩編81:14-17)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)


* * *

今から何年も前のことだ。ある職場に勤め始めたとき、上司が「チサイに行ってくるね」と声をかけた。その頃、勤め始めたばかりだった筆者は、ぽかんとした顔で上司を見上げた。

「ああ、あなたはまだ入ったばかりだから分からないよね。チサイって、地裁のこと。東京地方裁判所のこと。」

地裁は職場から歩いて行けるところにあり、上司たちは連れ立って何度も訴訟に出かけていたのであった。筆者自身は、主に事務所の留守番をつとめ、一度も彼らと共に外出することはなかったが、その頃から、少しずつ、裁判所は筆者の人生に近づいて来ていたような気がする。

自分自身が裁判に臨んで、学んだことは無限にあった。汲み出しても、汲み出しても、まだ汲み尽くせないほど、そこには無限の学習があった。筆者はそこに、命の水の流れがあることを感じた。誰も見向きもしない、味気ない紛争のフィールドは、隠された命の宝庫のようであった。ここに、筆者だけでなく、多くの人たちを解放する秘訣があると、筆者は直観で悟ったのである。

筆者はその確信を胸に、二度とそのフィールドを離れないことに決めた。二度と生涯、専門家を名乗ることはないだろう。ただの無名の市民として、この泉のほとりにとどまり、これを自分の生きるフィールドと定め、可能な限りの命を汲み出してみようと決意したのである。

筆者は、プロテスタントと資本主義を離れることに決めたと幾度も書いた。詐欺と、搾取と、弱肉強食の横行する、人間を骨までしゃぶり尽くす過酷な競争の場と化した貪欲な金儲けの世界を永遠に離れ、自分の専門を離れ去り、今後は自分の満足のためでなく、真に人々の益になるよう生涯を捧げようと決意した。

すると、あれよあれよという間に、まるで天がずっと前からあなたをここで待っていたのだと言ってくれたような具合に、すべてが開けたのであった。

これまで、あれほど生きるために苦労していた心配は、何だったのであろうか。今までを振り返っても、これほどすべてが首尾よく運んだことなど一度もないというほど、すべてがビジョンの通りに運んだ。

ああ、これで本当に良かったんだなと思った。どうやら、筆者は運命的な出会いを見つけたらしい。この道は、これまでのように、筆者の片思いではないし、悲劇へと続く道でもない。相思相愛の道、豊かな報いが約束されている道だ。

どんよりとした陰気な曇り空の下、不安の中で踏み出した一歩だったが、物事は見た目ではなかった。紛争とよく似ている。見た目は非常に好ましくない、がっかりさせられるような味気ない外観の中に、永遠にまで至る、尽きせぬ喜びと感動が隠されている。

それは謙虚さや、低められることの意味を知っている人にしか、たどり着けない命の泉である。

さて、このところ、筆者が主に回答を委ねていた複数の問題があった。

この世には、妥協もできず、和解してはならない相手というものが存在する。人間的な思いでは、私たちは誰とも離反したくはないし、誰をも罪に定めたくないと思うだろう。しかし、DVを繰り返す人間が、許せば許すほど、ますます増長して行くだけであるように、許すことが有害な相手、和解してはならない相手というものも、この世には存在する。

もしも私たちがエジプトを真に去ったのならば、後ろを決して振り返ってはいけない。二度と元いた場所に戻ろうと思ってはいけない。だが、そのためには、エジプトと私たちとの間には、紅海という不可逆的な断絶が横たわらなくてはならない。

エクソダスである。御言葉による切り分けである。

そういう意味で、判決とは、相容れないものを永遠に断絶させて、物事の是非を切り分けるための宣言であることが分かった。

原告となって自ら訴訟を起こした多くの人たちは、判決を得ても、賠償が支払われないかも知れない恐れなどから、和解を選択する。判決を取れば、罪に定められた相手が反発し、賠償金を踏み倒すかも知れない。その上、控訴してくるかも知れないと恐れる。だが、和解ならば、きっと双方が自主的に選択した解決だから、誰もこれを踏みにじることはあるまいと考えるのだ。

彼らは思う、判決によって物事を永遠に切り分けるような「残酷な」措置を取るくらいなら、人の面目を潰さず、金銭的和解にとどめておいた方が「穏便な」解決であると。

ところが、筆者は考えてみればみるほど、実はそうではないことが分かって来る。

筆者の心の中で、判決に対して沸き起こる尽きせぬ畏敬の念、憧れのような感情は、一体、どこから来るのだろうか。なぜ筆者はこれほど正しい裁きを切望するのか。

この曲がった世の中で、どうしても、誰かが上から力強く裁きを宣言し、争いに終止符を打ってくれなくてはならない。誰の過失によって、このような事態が起きたのか、はっきりと白黒つけて、宣言してくれなければならない。誰かが力強い腕で、死にかかっている我々を泥沼から救い出し、引き上げてくれなくてはならない。

当事者同士の終わりなき話し合いでは、私たちは闇の中をさまよい続けることしかできず、決して光にたどり着くことができないのだ。

それは神なくして生きる被造物の真っ暗闇の世界に似ている。どれほど主張書面をうず高く積み上げようと、これを認定してくれる存在がなければ、私たちの訴えはむなしい。

もしも一度で正しい裁きが得られないなら、二度でも、三度でも、挑戦して構わない。自分の都合だけを認めてくれと叫ぶのではなく、とにかく光へ向かって、私たちを照らし出してくれる正しい光へ向かって、全力で走って行って、命を獲得しなくてはならないのである。

判決を得ることは、和解することに比べ、多大なる困難がつきものである。しかし、判決の最も大きな効力は、隔てられるべきものを永遠に隔てると宣言することにある。
 
もしも私たちがエジプトを真に去って来たならば、もはやエジプト軍との和解はあり得ないはずだ。追っ手を恐れてはならない。紅海で溺れ死ぬのはエジプト軍であって、我々ではない。

筆者は思う。神は私たちの心から、断ち切られるべきものが断ち切られることを、望んでおられるに違いないと。和解ではない。必要なのは隔てである。

神は十字架を通して、私たちを罪から永遠に断絶させ、永遠の隔てを置こうとなさっておられる・・・。

これまで一度も記したことがなかったが、当ブログを巡る訴訟では、筆者は遮蔽の措置というものを願い出た。

これは法廷で被告と対面しなくて良いための措置である。このような措置が認められるのかどうかは、大きな賭けであった。もしも認められなければ、我々は法廷で一同に会することになる。面識ができることになる。面識が出来るということは、知り合うということであり、関係性がより深まって行くことである。

訴訟が始まるまでの間、一体、この問題はどうなるのかと、筆者は不安に駆られていた。幸い、裁判官はこれを許可したが、被告は憤慨した。被告は筆者が彼らを過度に警戒し、危険人物扱いし、侮辱しているかのように主張していただけでなく、その後、裁判官がこの措置を認めたことまでも、裁判所の不法行為だと言い立てていたくらいである。

一審の最中、筆者は、この遮蔽の措置とは、神と人とを隔てる十字架の象徴であり、人の意思では決して取り除くことのできない、救われた者とそうでない者、聖なるものとそうでないものとを隔てる区別なのだと、準備書面に書いた。

被告がもし信仰によって結ばれた兄弟姉妹として、罪を認めて謝罪と償いができるならば、こんな隔ての壁は要らない。和解も可能なのに違いない。だが、もしも罪を認めないならば――それはただ筆者に犯して来た罪を認めないことを意味するだけでなく、人としての原罪までも否定する行為を意味し、神の救いに逆らっているのであって、彼は兄弟ではない。私たちは対面することができず、知り合うこともできず、神の怒りという遮蔽の措置によって、永遠に隔てられたままに終わるだろう。

こうして、我々は最初から最後まで、対面することがなかった。そして、判決が我々をさらに遠く永遠に隔てた。もう一人の被告は、一度たりとも法廷に出向くことはなかった。

ところが、こうして永遠の隔てが置かれているにも関わらず、それでも一審判決後、筆者は賠償金の取立のために、自らの意志で被告に会いに行こうとしていた。筆者は当初、それが自分の責務であるかのように考えていたのである。

ところが、それも成らなかった。被告は筆者が出向こうとしていることを憤怒して非難し、筆者も忠告を受けて計画を中止した。やはり、我々には、目に見えない霊的な領域において、どうしても乗り越えることのできない隔てがあるらしい。筆者がどう考えようと、会うことが「禁じられている」のだ。

それだけではない。賠償金の取立のための接触さえも、行ってはならないことが、だんだん分かって来た。筆者と被告とは、一切、無関係であり、ただ被告が筆者に対して負い目を負っているだけで、筆者の側から、被告に対してなすべきことはない。

訴訟における判決とは、人間の造り出した法的拘束力を伴う言葉である以上に、霊的な領域においても、隔てられるべきものを永遠に隔てる宣言であり、それ自体が、原告と被告との間に横たわる永遠の「遮蔽の措置」としての十字架だったのである。

二審では、それがもう一人の被告に対しても宣言されねばならない。それによって、呪いが完全に断ち切られるであろう。

これは考えるだに厳しい、峻厳な霊的原則であって、人間的な感情に基づいたものではなかった。

筆者が飽くことなく判決を求める願いはどこから来るのか、少し分かったような気がした。それは、事を荒立てたいという願いから来るのでもなく、誰かを罪に定めたいという願望からでもない。何が正しい事柄であり、何がそうでないのか、何が神に喜ばれる尊い事柄であって、何がそうでないのか、何が清い、聖なるものであって、何がそうでないのか、何が真実であって、何が偽りであるのか、何が正義であり、何が不法であるのか、筆者自身が、可能な限り、その区別を明らかにして、正しい裁きをなして欲しいという切なる心の叫び求めから来るのだと分かった。

たとえ筆者自身が罪人の一人として焼き尽くされ、無とされても良いから、神の喜ばれる正義が何であるか、真実が何であるかが明らかになって欲しい。もうこれ以上の嘘と不法はたくさんだという切なる願い求めがあった。

だが、キリストの十字架ある限り、筆者は、罪から救い出され、死から救われて生きるであろう。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。 「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、 雪のように白くなる。 たとい、紅のように赤くても、 羊の毛のようになる。」(イザ1:18)

これは言葉に言い尽くせない峻厳な「切り分け」である。私たちの罪が赦されるすべての根拠はキリストの十字架にある。これが私たちの唯一の防御の盾であり、装甲である。

だから、汚れたものと分離しなさい、と主は言われる。この点について、主の命令は厳しく、妥協なく、絶対的である。中途半端な分離というものはない。彼らを断ち切りなさい! 心の中からも、生活の中からも、一切を断ち切りなさい! 十字架の装甲の中に隠れなさい! 二度と彼らを振り返ってはいけないし、関わってもならない。対話してもいけないし、和解する余地は二度とない。

こうして、二度と後戻りできない断絶が宣言される、それが判決なのだということが、だんだん分かって来た。いや、それが訴訟というものなのである。

和解の問題を考える度に、心に沸き起こってくる厭わしさは、そのためだったのかと分かった。暗闇の余地を残してはならないし、グレーなままで終わりたくない。負うべきでない負い目を、これ以上、恐怖のために負わされたたくない。どんなにリスクが伴っても、正しい裁きへと至り着き、命に到達したいという願いをあきらめられないのだ。

これがエクソダスの原則なのである。エクソダスしたならば、二度と後ろを振り向いてはいけない。堕落したものとの分離において、中途半端な態度ではいけない。山頂に達した人が、そこに自分の旗を立てるように、私たち自身が自分の心に宣言しなければならないのだ。

脱出は完了した。裁きはカルバリにおいて下された。我々はこの十字架を通して、この世に対してはりつけにされ、この世も私たちに対してはりつけにされて死んだ。生きているのはもはや「わたし」ではない。世は私たちに触れることはできないし、重荷を負わせることもできない。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(ヘブライ12:1-3)

「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」、私たちはどこへ向かって走るのか? もちろん、自由へ向かって、解放へ向かって、約束された天の都に向かって、復活の命の領域に向かってだ。後ろを振り返ってはいけない、ただ真直ぐに前だけを見なさい。真直ぐに天だけを見つめ、目的に向かって走り抜けなさい!

まるで霊的な目が開けたように、これは人情でどうにかできる世界ではない、と分かった。鳥肌が立つような厳粛さがそこにあった。もしも後ろを振り返るなら、不信者と共につりあわないくびきを負わされ、ソドムを振り返ったロトの妻のような運命が待ち受けているだけである。

訴訟というのは、分岐路である。もはやそこに来た以上、後戻りはできないのだ。あなたは一体、何を選ぶのか、何を望むのか、問われている。

筆者が慕い求めるべきは、エジプトでもなく、ソドムでもない。御言葉によって与えられた、まだ見ぬ約束である。それがまだ成就しておらずとも、いや、成就していないからこそ、私たちはこの約束を価値あるものとして握りしめ、これを慕い求め、その約束が成就する日を信じて待ち続け、忍耐しながら目的へ向かって走るのである。

その約束の真の意味は、キリストが私たちを迎えに来られることである。そして、私たちの完全な救い、完全な贖いが成就することである。その日のために、私たちはもう一度、自分自身を聖別し、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、自分が何者であり、誰のために捧げられた者であるのか、片時も忘れないように心を決める必要がある。

教会はただ一人の男子キリストのために捧げられた聖なる花嫁である。汚れた者はこれに触れることができない。もう一度、冒頭にも挙げた御言葉を引用しておこう。

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。
 全能の主はこう仰せられる。」

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)


私ではなくキリスト―事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(3)

最後に、これまで当ブログでは、掲示板とは、グノーシス主義の「鏡」に当たるものだと主張して来た。この「鏡」とは、本質的に「虚無の深淵」であり、本体の像を盗み、これを歪んだ形で映し出し、出来損ないの贋作を大量に作り出すことによって、本体の尊厳を奪おうとする、悪意ある鏡である。

この贋作は、言い換えるならば、「なりすまし」である。グノーシス主義における神々の誕生は、「存在の流出」という概念に基づくものであって、これは被造物が神になりすますものであることも述べた。

聖書には次のくだりがある。

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


この御言葉を読む限り、鏡とは、被造物である私たちであり、私たち自身が鏡のように主の栄光を反映する存在であることが分かる。

しかし、グノーシス主義はこれとは反対に、創造主である神を「鏡」と規定する。そうすると、本体(造物主)と影(被造物)との関係が逆転し、神は虚無となり、その鏡には、もろもろの被造物の姿が映し出されることになる。

結局、それは、被造物が、自分の姿を鏡に映し出し、それを指して「これが神だ!(私が神だ!)」と言っている状態を意味するのであって、それは虚無に過ぎない被造物が神になりすました世界であるため、その世界をどこまで旅しても、虚無以外のものは見いだせない。

匿名掲示板、おびただしい数のミラーサイトなどは、どこまで行っても、鏡に映った映像以外の何物でもなく、決して「本体」に巡り合うことのない世界である。しかも、その映像は、本体の性質を盗み取って出来た質の悪い模造品であり、自分では何も創造する力がなく、他人のエネルギーを吸い取り、奪い取ってしか生きられない人々の作り出した虚無の世界である。

 * * *

今ちょうどディプログラミングの問題性について書いているところです。(掲示板でおそらくカルト被害者救済活動の支持者と見られる人々の行っている)著作権侵害も、強制脱会活動の一環とみなすことができるかも知れません。

ディプログラミングというのは、米国では70~80年代に行われ、数々の民事・刑事訴追により信教の自由の侵害及び人権侵害の犯罪行為と認定されて、とうに違法となって廃れた強制脱会活動のことですが、日本ではこれが2016年になるまで、プロテスタントのキリスト教会の複数の牧師たちによって続けられて来ました。

要するに、これは「カルト問題の専門家」を自称する人々が、「カルトのマインドコントロールの被害を受けている」と勝手に決めつけた信者の「誤った宗教洗脳」を「解除」しようと、彼らを拉致したり、監禁しながら、彼らが自らの誤りを認めて「棄教」して、脱会カウンセラーにとって都合の良い考えを「正しいもの」として受け入れるまで、無理やり人権侵害を繰り返し続けながら、棄教を強要することなのです。


日本では、統一教会の信者を対象に、ディプログラミングに基づく拉致・監禁を伴う信者の強制脱会・棄教運動が行われて来たことは、すでに述べました。拉致や監禁といった人権侵害を繰り返すことで、「その考えを捨てねば、おまえをもっと苦しめてやるぞ」と圧迫を加え、ディプログラマーが自己に都合の良い「再プログラミング(再洗脳)」をその人に施すのです。

まあ、平たく言えば、拷問で自白を強要して罪を認めさせるようなものです。拷問を受け続ければ、誤った考えを持っていない人でも、いつかは降参して自分の考えを誤ったものとして捨てることになるでしょう。


米国のディプログラミングも、専門家でない人々によって行なわれていたようですが、日本はもっとそうです。たとえば、「脱会・救出カウンセラー」を名乗る村上密、ジャン・ドウゲン、パスカル・ズィヴィー、ウィリアム・ウッド、これらの人々はみな専門的なカウンセラーでも臨床心理士でもない。カウンセリングは、通信教育などで学んだ程度で、大学教育で専門的に学んだわけでなく、実践的な訓練を受けていない。そうして専門家の資格を持たないまま、牧師や宣教師の立場から、カルト問題に関わるようになり、「脱会・救出カウンセラー」を名乗るようになった。いわば、自称専門家であって、真の専門家とは言い難い人たちが中心に、カルト問題を扱って来たのが日本なのです。

さらに、被害者の代理人などという立場は、もっと何者であるか、よく分かりません。私から見れば、ドッペルゲンガーとでも呼ぶべき不気味な存在で、他人の分身になることによって、その人をマインコドントロールするのに非常に都合の良い立場です。

たとえば、誰かの後見人になれば、その人の法的権利まで取り上げられますから、後見人制度を悪用する人たちもいるわけですが、代理人には権利は取り上げられないが、誰かの意思を代弁することはできるのです。


しかも、代理人が、本当にしかるべき代弁をしているならまだしも、鳴尾教会に対する裁判の時のように、代理人が信者を敗訴に導いているのであれば、いかに敗訴は、提訴した信者の責任であると言っても、信者を裁判へ焚き付けた代理人にも、「道義的責任」が生じることは、免れられないでしょう。

なぜ代理人に関する話と、主任牧師引退の話が結びついているのか、すごく分かりにくい不思議な記事ですね。代理人が、信者に訴訟を勧めても、訴訟の途中で、約束した和解を蹴って、加害者が逃亡する例もある。そういう加害者にも、真に「応分の酬い」を受けさせているのであれば、代理人には、道義的責任など生じるはずもないことですが、勝てると思った訴訟で、加害者に逃げられてしまった被害者たちは、無念を噛みしめざるを得ないでしょう。

さらに、代理人が訴訟を勧めても、信者が敗訴した場合、敗訴という不名誉な事実を覆い隠すために、加害者とみなした人間にいつまでもブログで誹謗中傷を重ねることは、不法行為でしかなく、加害者に対する「応分の報い」とは全く呼べないことは言うまでもないですね。


掲示板も、それ自体が、ドッペルゲンガー(グノーシス主義の悪意ある鏡)であり、本体を凌駕して滅ぼすための「分身」なのです。

私に対して悪意を持つ者(おそらくカルト被害者救済活動の支持者)が、ディプログラミングの手法に基づき、このブログを私が更新し続ける限り、嫌がらせをやめないぞという意思表示をしているわけなんです。

被告Aは私が異端者であるとブログにも準備書面にもあからさまに書いていましたが、掲示板の著作権侵害も、私の考えが「異端的教説」であるとみなし続ける人間が、「俺たちを批判するおまえの口を封じるまで、権利侵害に及ぶぞ」と言って加えている懲罰だと私は受け取っていますよ。


被告Bのブログが引用されて締めくくられるところを見ても、こうした権利侵害を繰り返す人間が、カルト被害者救済活動を擁護したいがためにやっているという目的は明らかではないですか? 常に被告Bに更新をリードさせておきたいから、私のブログを引きずりおろし、かつ、被告Bの記事を見せつけるために、コピペを繰り返しているのではないでしょうか。

被告Bは自らのブログで、法的措置が難しい場合には、社会的制裁として、自らのブログでカルトの疑いのある人物や団体を批判する、と書いていませんでしたか? これと同じように、もしくは、これにならって、掲示板で、カルト被害者救済活動の敵対者とみなした人物に「社会的制裁」を加えたい人たちがいるということだと私は思っています。


日本のプロテスタントの牧師らが行って来た強制脱会活動については、まだ全体が裁かれたことがなく、統一教会からは多数の批判と裁判例があり、さらに書籍も出てますが、まだまだ世間にこの問題が一般に周知されたとは言い難い状況にあります。

そこで、今回、このような運びになっていることには、運命的な巡り合わせを感じます。これまで強制脱会活動の違法性を訴えて来たのは、主に統一教会の信者でした。しかし、カルト被害者救済活動が違法であることを、キリスト教の中からも、誰かがはっきりと証明し、キリスト教徒の側からも、この運動を真に終わらせることが必要な時期に来ているのだと私は思っています。


掲示板の権利侵害は、毎回、これまで、裁判の判決などが近づくとやたら激化して来ました。この度、控訴審が始まろうとしていることが、よほど怖いのではありませんか。まあ、私としては、ネット上の嫌がらせを行っている人物を特定する材料が提供されて手がかりが増えるのは、ありがたい限りなんですが・・・。

それにしても、「応分の報いを受けている」。これはすごく怖い言葉だと思います。こういう言葉をさらっと言える人って、人間としてどうなのかと思います。私は勝訴した人物からも、賠償金を払われてないですから、加害者は応分の報いを受けていません。でも、それがかえって今の私にとっては良き効果を生んでいると思うんですよ。

これは賠償金を払わないことを正当化したり、免罪するために言うわけではありません。ただし、勝訴したからと言って、相手を完全に叩き潰すがごとく、執拗に追い続けて「応分の報い」を受けさせるなどということは、私には到底、許されてもいないことを言っているのです。


たとえば、家や土地があれば、わずかな賠償金で家を追われる事態にもなりかねないわけで。職が分かっていれば、仕事もクビになる可能性があるわけで。やろうと思えば、債務名義を片手に徹底的に相手を追い詰めることが可能なわけですし、それができるなら、そうなっていたかも知れませんが、そういう運びになっていないこと、そうなる前に各種の制止があり、かつ、控訴審も始まり、あくまで裁判所が許可した範囲でしか動かないよう道が限定されていることも、私にとっては極めて幸運であって、私が神に愛されていることの一つの証明なのです。

「応分の報い」を受けさせるって、とても怖いことです。加害者を追うのも、あくまで法的に許容された範囲で、判決に基づく強制執行くらいでとどめておかないと。鳴尾教会に対する裁判のように、敗訴した人間が、法的措置も及ばないはずの領域で、自ら相手に「社会的制裁」を加えるなどということは、絶対にやめた方がよろしい。

報復される方は神ですからね。勝っても負けても、自分自身で相手に報復した場合、その人も、悪魔と同じ報いを受けることになりかねません。


ですから、私は当ブログを巡る裁判では、一度で全部勝たなかったことも、争いが控訴審に持ち込まれて長引いていることも、私自身は何の栄光も受けていないことも、すべて神の采配と思いますよ。私には慢心するまで勝利を喜ぶ暇すらも与えられておらず、踏みつけられ、苦難が続いているだけなのですが、そのこと自体が、最大の防御であり、神の恵みと憐れみの証拠なのです。

そういう現状があればこそ、なおさら、一審判決は、私にとって価値ある尊いものなのですへブル人への手紙のごとく、。「まだ見ぬ約束」であればこそ、私は約束のものをはるかに仰ぎ見て、信仰によってこれを喜びを持って迎え、自分がこの地上では寄留者であって、目に見える都ではなく、見えない都を目指して歩んでいることを、尽きせぬ憧れと、誇りと、感謝を持って言い表すのです。

私たちの「応分の報い」は天にあるのです。そのことを考えれば、仮に約束のものに到達せずに死ぬことがあっても、決して恥とは思いませんね。なぜならば、天にはもっと大きな報いが待ち受けているからです。


しかも、神はいつでも私たちに必要なものを、別のルートで、すべて必要なタイミングで供給して下さいますので、苦難があれば、豊かな慰めも伴うのです。このように、判決を得ることには多くの犠牲が伴うものの、それだからこそ、なお一層、判決は尊く価値あるものと私には見えるのです。

* * *


名誉毀損により刑事告訴されたカルト被害者救済活動を率いる牧師が、ブログ記事を非開示にしたと言いながら、一部、閲覧可能なまま放置している。判決で削除を命じられた記事についてもそうだが、ブログが削除されたのか、非開示にされたのか、閲覧者が限定されただけなのかは、実に大きな違いである。

さらに記事の一部が残っていた場合、削除したことになるのか。こうした問題については、慎重な見極めが必要である。

掲示板の著作権侵害は、犯人が特定されるまで、続行された方がむしろありがたいかも知れない。終わったと思ってもまたぞろ出て来るのは、やはり特定せよという天の声とみるべきかも知れない。
 
 筆者は大々的な権利侵害のネットワークを何としても徹底追及しようとは考えていないのだが、これだけ執拗に繰り返されるのは、やはり追及せねばならない理由が存在するからではないのかと思わずにいられない。

筆者は、賠償金の回収を自分の責任として負わないこととしている。この問題には、裁判所が何らかの応答をするであろうし、それは筆者にとって、決してマイナス要因としては働かないだろう。

払おうとしなければ、払わない人間の信用が下がるだけである。一審判決を重んじない人が、何を目的として控訴するのか。二審でも自分に不利な判決が下った場合、それも無視するのかと、問われることは間違いがない。


カルト被害者救済活動を率いる牧師も、他人には謝罪と償いを要求しながら、自分自身が責められる段になると、賠償を払わないダブルスタンダードを容認するのでは、これから先、社会的信用は得られないだろう。

当ブログを巡る今回の裁判によって、カルト被害者救済活動の本質がとことん明らかになった、と筆者は考えている。この運動を今になっても正義の活動のように考えている人は、世間ではほぼ見当たらなくなったのではないか?

警察でさえ、牧師が信徒を名指しで非難するなどあり得ないと発言していた。まして告訴するなど言語道断な所業と言って差し支えない。宗教を知らない一般人から見ても、こうした牧師のしていることは異常と映っているのだ。

こうして、2009年から筆者の指摘した通りの過程を、カルト被害者救済活動は辿っている。めくらめっぽうの異端狩り、無実のキリスト教徒の粛清、魔女狩り裁判・・・。

当時から、被害者意識などに溺れていては、何も始まらないと、筆者は何度も警告している。自分には甘く、他人には厳しく、自己の責任は何も負おうとしないで、ただ他者だけを延々と責め続けるなどのことをしていれば、とんでもなく甘えた人間になって行くだけである。他人を責めるなら、なおさらのこと、自分自身も責められたとき、潔く責任を取らなくてはならない。

被害者意識、特に、神と教会に対する被害者意識は、人間を狂わせる。教会が教会に戦いをしかけ、互いに潰し合うなど、悪魔の所業としか言いようがない。

* * *

昔、学校では風紀員会などというものがあり、校則に違反したり、掃除をさぼっている生徒がいたら、先生に報告する「チクリ屋」の生徒がいましたが、カルト被害者救済活動に従事している人たちは、どこかしらそれに似ていると思いませんか。

当初から予想していたことですが、この運動は、初めは「カルト化した教会」だけを取り締まるなどと言いながら、いつの間にか、役所や、安倍政権批判をする人たちまでも「取り締まる」ようになっているようです。

自分たちは、過去の罪を反省して、清く正しく美しい生き方を目指してリハビリを重ねているという自負(実は束縛されているだけ)が、自由に生きている他者へのバッシングに向かうのでしょか。

掲示板は、役所への批判には過敏に反応しますね。(カルト被害者救済活動の支持者たちは)、自分たちは権力に勇敢に立ち向かっているかのように見せかけながら、いつの間にか、権力に迎合し、弱者や、権力になびかない変わり者をバッシングするようになったのです。私は当初からそうなるとずっと予告して来ました。

政権は自分になびかない国民を攻撃するために掲示板を都合よく利用しているともっぱらの噂です。こうした状態が続けば、いずれ宗教の枠組みを超えて、秘密警察か、隣組のような自警団だって出来かねないと思います。ディプログラミングの手法を使って、自警団のごとく集まった人々が、何の資格も知識もないのに、政権に不都合な人たちを「カルト」や「狂人」に仕立て上げるといったことも、起きかねないのです。

皇帝ネロが今風にキリスト教徒を迫害するとしたら持ち出しそうな理屈ですね。本当は何がカルトかなんて問題はどうでもよく、現政権に都合の悪い人物を迫害したいだけだとすればどうでしょう?

ところで、なぜこの時期に主任牧師引退の話など持ち出して来たと思いますか? 自分は引退なんてしていないぞと、アピールせずにいられない動機があるからでしょう。いつも権力を振りかざし、地位を誇りに思い、いつでも自分が相手よりも優位に立っていることを確認しないと気が済まないからではないでしょうか? 

こういうタイプの人は潔く引退しません。引退を求められても、しぶりにしぶり、引退したように見せかけて、陰の実権になったりして、あとを濁すのですね。どこかの教会ですでにそういう事件が起きました。そんな風に地位にしがみつくのは、自分が他人から権力を持たない無力な人間、人々の支持を失っていると見られることを何より嫌うからです。地位を誇示していないと自信が保てないのです。

すでに書いた通り、ディプログラミングに基づく強制脱会活動に携わっていた人々には、ほとんど専門家としての資格がありませんでした。無資格か、もしくは、通信教育などで学んだ程度のにわか知識で、カウンセラーを名乗っていたのです。真に専門家としての教育を受けていないからこそ、肩書や地位にこだわるのではないですか?

さらに、専門的な資格がなくても、教育訓練を受けておらずとも、代理人という立場を使えば、いくらでも他者の紛争に介入することができる。これはとても恐ろしいことです。無報酬で働いているから、非弁行為ではないというのは、表向きの弁明ではないでしょうか。弁護士のような報酬を受け取らずとも、「献金」ならば、受け取り可能だからです。謝礼金に等しいものを受け取っても、それを他の名目で献金扱いし、無報酬で働いているように見せかけることは、いくらでもできます。被害者が裁判に勝訴してから、報酬という形ではなく、「献金」を受け取れば、それは表向きには成功報酬とはなりません。

しかし、そんな問題は放っておきましょう。私はこういう生き方とは真逆の道を行きます。常にダビデの石つぶて以外には何も持たない無名の市民として、徒党を組まず、権力にすがらず、地位をふりかざさず、富をひけらかさず、自分の手で敵に報復せず、困難な道を行き、裁きは神に委ねます。「応分の報い」を自分から要求しますまい。でも、そうしていれば、必ず、神はその人を高く上げて下さる時が来るのですよ。これは本当のことです。自分で自分を高める人は低くされ、自分を低くする者が高くされる。これが聖書の原則です。

私が神に愛されていると信じられるのは、慢心するよりも前にしたたかに打たれるからです。ひっきりなしの苦難が降りかかり、勝利さえ束の間にしか喜べないのは何のためでしょう? 訓練のためです。そうして十字架を絶え間なく負わなければ、人間というものは、必ず自己過信に陥るのです。それは誰しも同じです。次から次へと好ましい事件だけが起きて、何もかもが順風の時は、人間は必ず慢心します。勝訴も人を高ぶらせるきっかけになります。そういうことが許されない環境を、自分自身が作らなければならないと同時に、主が采配されるのです。

だから、私には勝訴しても、手柄も無ければ報いもなく、誰かがそれを共に喜ぶわけでなく、喜んでくれるはずだった友までも離反し、もう一方の被告からは敗訴だとさんざん踏みつけられ、賠償金は支払われず、取立もむなしく非難されるばかりで、相も変わらず、疑われ、讒言され、迫害を受け続けているのですが、それは、私が打ち立てる勝利は、私のためではなく、主に栄光が帰されるものでなくてはならないからです。そうなった時に、初めて勝利が確立するからなのです。

ダビデが、勇士の部下たちが敵陣で彼のために取って来た水を、自分では飲まず、神に捧げたのと同じですね。その域に達すれば、戦いは完全に終わります。

神は私が自分のための利益と栄光を求めているのか、それとも、主の栄光を求めているのか、どちらなのかをご覧になっておられます。そこで、私が誤った道へ迷い込む前に、適宜、警告や制止や軌道修正がなされることは、私は恵みであると思っています。一番怖いのは、人前に徹底的に踏みにじられて、自己の栄光や誇りを傷つけられることではないのです。むしろ、高ぶりと自己過信に陥り、自分を誇大に見せかけて、嘘に嘘を重ねる生き方から後戻りできなくなることなのです。

ですから、そのような誤りに陥るよりは、恥をこうむっていた方がまだましでしょう。人には何が自己から来るもので、何がそうでないのか、自分で見分けることはできず、神だけがその違いをご存じで、神はこれを切り分けることができます。だから、人は、御言葉の剣に身を委ね、その手術を甘んじて受けねばならないのです。そうして人は、神の力強い御手の下でへりくだらされ、自分自身を練られ、訓練されることが必要なのです。

でも、ふさわしい時が来ればすべてが成就し、嘘は跡形もなく消し去られ、自由と解放が訪れます。栄光ですら与えられます。今、確かめられているのは動機なのです。 


 * * *

さて、これを書いた後、筆者は実際に、書いた通りの出来事に遭遇した。神は大いなる方であり、約束を違わない方であり、へりくだる者を尊ばれる方である。

筆者は新しい目的を見つけたと書いた。船の右に網を降ろせば、いっぱいに収穫があると書いた。本当にそうなったのである。


正しい道を行けば、豊かな報いがある。神の国とその義とを第一として生きるならば、異邦人たちが切に願い求めているようなものは、何一つ苦労することなく与えられる。問題は世の情勢にあるのではない。我が国の情勢や、世界の情勢がどうあろうと、神は私たちの心を直接、ご覧になり、私たちの信仰による確信と願い求めに応じて働かれる。

筆者の第二の人生の始まりである。筆者のみならず、多くの人々が恩恵にあずかることを目指して、自分のためだけでない、新たな生き方の始まりである。この生き方は今後、変わらない。10年くらいのスパンで、筆者はなすべき仕事を果たすであろう。その後、真の大きな挑戦が待っている。その計画が開始したのである。


私ではなくキリスト―事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(2)

ところで、当ブログを巡る訴訟で、筆者が得た最も大きな収穫の一つは、訴訟そのものに対して、また裁判官に対して、それまで持っていた印象が完全に変わったことであった。

訴訟を提起する前、筆者はADRと民事調停しか経験したことはなく、ADRでも民事調停でも、判決文は出ない。

そこで、それらの小さな紛争しか知らなかった頃の筆者にとって、裁判官や弁護士といった法律の専門家は、厭わしい紛争で束の間、やむなく関わるだけの、よそよそしく、近寄りがたい人々であって、そもそも他人の争いを糧にする職業に従事する、可能な限り、関わりたくない人たちとしか見えていなかった。

そこで、その当時の筆者には、そんな紛争の関係者のために、親切心から、読みやすい書面を提出しようなどというサービス精神は、ゼロどころかマイナスであった。筆者にとって、紛争は、可能な限り、関わるべきではないもので、関わっても、1、2回の期日でさっさと終わらせるべきで、長く時間をかけて取り組む価値などないものであった。

そこで、そのような場所に提出する書面は、とにかく審理を早く終わらせることだけを念頭に置いて、短期間で、可能な限りの主張を出し切ってしまうのが最善と見えていた。
 
筆者は当ブログを巡る訴訟が始まった最初の頃にも、可能な限り、早く審理を終えられるよう、書面を圧縮して出していたのである。

もちろん、フォントサイズは10.5以上にしようとは思わない。行間も、文字数も、最大限、一枚の紙面に詰められるだけ詰めて、書面の分量を圧縮する。できれば、期日の回数を減らしたいので、期日直前であっても、追加書面を提出するのは当然である。

それを受け取った人たちが、読みにくいと感じる方がむしろ良いのだ。誰もそんな厭わしい書面を丹念に読み続けて、この紛争を続けたいと願わない方が効果的である。世に陽気な紛争などというものがあるわけでなし、誰にも笑顔を見せる必要などない。とにかく正しい理屈が書かれてさえあればそれで良いのだ。

そういう考えが、はっきりと変わったのは、何度目かの弁論準備手続きが進められている最中のことであった。

一審を担当してくれた裁判官は、相当な時間をかけて、何度も書面を読み直す几帳面なタイプの人物であったらしく、まず筆者の訴状を読了するまでにも、約1ヶ月近くの時間が必要だと言われた。本当に1度や2度でなく、書面を読み返しているらしいことは、後になって分かった。

そこで、早くまとめて書面を提出したからと言って、早く終われるという雰囲気ではなかったため、筆者は急いでもあまり意味がないことに気づき、腰を据えて取り組まねばならないと理解した。

幸運なことに、筆者が生涯で初めて行ったこの訴訟は、そのほとんどの期日が法廷ではなく、電話会議という形でなされた。裁判官と書記官とは、筆者と同じ目線で毎回、テーブルについたので、回を重ねるうちに、筆者には、彼らが筆者のために払ってくれている労の大きさが、目に見える形ではっきりと理解できた。

電話からは、相手が飛び出して来ることはないとはいえ、こじれた紛争の最中、自分が独りぼっちでそこに置かれているのではなく、裁判所の人たちがそばにいてくれたことは、筆者まるで心の防波堤を得たように、頼もしく感じられた。

次第に、紛争がこじれたものであればあるほど、その解決に協力してくれている人たちに、敬意を払わないわけにいかなくなった。

そこで、第一審も終わりに近づく頃、筆者の心に、以前には考えたこともなかった書類の出し方に対する注意も芽生えた。

筆者は、以前にはまるで高い壁を築くように、とっつきにくい書面を作り上げ、頑なにフォントサイズも行間も文字数も変えまいとしていたそれまでの姿勢を改めた。以前には、誰に宛てて書いているのかさえ自覚がなかった書面が、人格を持った裁判官に宛てて出すラブレターのようなものだと気づいた。

被告への反論がすべてではない。被告との終わりなき議論に溺れるのは危険である。むしろ、書面は、裁判官に宛てたものだということを忘れないようにして、判断を仰ぐべき時をきちんと見極めなければならない。

人間相手の書面であるから、そこには当然、人としての思い、配慮、理念のすべてがこめられていなければならない。論理構成や法的根拠だけが重要なのではなく、自分は誰で、何を思い、どういう気持ちでその書面を書いているのか、文字には表れて来ない姿勢も、どうでも良いことではないのだ。

ようやく念願の判決を得たときには、世にこんな判決があるのかと、その分厚さに驚いた。55ページもあった。審理終結から判決までは3ヶ月間あったが、分厚いファイル4冊分にまで達した事件記録を網羅し、対立する双方の陣営の主張を比較衡量して、公平な判決を書くことは、その当時、筆者には、頼まれても、自分にはできそうにない仕事だと思わされた。

筆者はこれまで自分のためにしか書面を書いたことがなかった。何事においても、一方の当事者としてしか生きて来なかった。筆者の世界には、筆者以外の人間が、いなかったと言っても良い。束の間の訪問者はたくさんいたのだが、彼らは筆者の最も言いたい事柄を、結局、理解することができず、それに応える力をも持っていなかったため、入れかわり立ちかわりやって来たすべての人が、この事件については、何一つ理解できないまま、立ち去ることしかできなかったのである。

しかし、この訴訟を通して、筆者には初めて、自分の主張を受け止める誰かが存在することが分かった。紛争の関係者が、それまでとは違って、生きた存在として視野に入った。

そして、自分のためにではなく、他者のために書面を書く仕事が存在すること、しかも、弁護士のように一方の当事者だけを擁護するのではなく、対立する双方の言い分を考慮しつつ、当事者ではない立場から、客観的に、公平にこれを裁く仕事の意味を知らされた。

これは今までに筆者が見たことのない仕事、新しい世界、新しい分野であった。
 
筆者は、どれほど長い間、こうした世界の出現を願っていたであろうか。誰も裁く者がいないという暗闇が、どれほど絶望的に感じられたろうか。ただ当事者同士と野次馬だけが、ずっと延々と終わりなき議論を繰り広げ、いつまでも互いの要求と限界を突きつけ合いながら、見かけ倒しの譲り合いや妥協を求め合うしかない、疲れ果てる泥沼のような紛争から、どれほど救い出されたいと願って来ただろうか。
 
泥沼の争いに力強く終止符を打ち、その深い沼から筆者を引き上げてくれる存在を、どれほど長い間、待ち望んで来ただろうか。

判決は法そのものではないとはいえ、その宣言は法的拘束力を持つ。解放の宣言を手にした時、筆者は法体系へ一歩近づいたような気がした。この判決の向こうにあるもの、これを生み出した根源となるもの、筆者を真に解放する力を持っているものに、もっと近づいてみたいという気持ちが生まれた。

それはまるで何か見えない世界への招待券をもらったような具合であった。

裁判官の存在を介して、筆者が目に目えない法の世界へ向かって書き送った大量のラブレターに、片思いではなく、返事が返って来たのである。膨大な書面は、もはや筆者の独り言では終わらず、報いが与えられたのであった。

その時、筆者の周りを牢獄のように覆っていた高い壁に、ダイナマイトが撃ち込まれ、大きな穴がぶち開けられた。筆者は壁が壊れたのを見て、自分が解放されたことを知り、壁に開いた穴の隙間から、その向こうに広がっている自由な世界に目を凝らした。

今までの果てしない堂々巡りは終わったのだ。だが、壁に穴を開けた者の正体は何なのか。筆者を今、招いている世界は何なのか。筆者はどうしても知らずにおれなくなった。

裁判官が異動して去って行った後、筆者は自分が何をすべきか思案した。事件は控訴審に行った。しかし、もはや重要なのは事件だけではない。筆者に招待状を送って来た存在を見極めるために、そのあとを筆者は追いかけることにしたのである。

* * *

判決文を書くのは実際のところ、ものすごく大変だと思います。私は判決文の10倍をはるかに超える分量の書面を出しています。控訴理由書だけでも数百ページにのぼります。こうした膨大な書面をすべて網羅・整理して、わずか数ヶ月の内に一つも項目をもらさず判決を書くというのは、至難の業と思います。しかも、いくつもの事件と並行しながらその合間にこれを行うわけですから。それを考えれば、確かに判決に不備があったとしても、それは仕方がないという気はしてきますし、判決を書いてくれた裁判官を責めることなどすまいと思いますが、そうした事態が起こらないためにも、書面の出し方には気を使わなくてはいけないと思います。

訴訟を知らなかった頃は、私は弁護士も裁判官も大嫌いで、紛争など関わりたくないし、見向きもしたくないという心境しかなく、そういう場に出す書類は、とりわけ心情的にも厭わしかったので、当事者にとっての読みやすさなど全く度外視して、決して嫌がらせではないですが、ただ紙の分量が減って、送付代がかからないことだけを考え、極力、分量を圧縮して書いていたんです。当然ながら、そういうわけで、フォントサイズも小さくなるし、行間も行数もすし詰めのようになる。読みにくいことこの上ない書面になったはずですが、そんなことは完全にどうでも良く、まさかフォントサイズで不利になるはずもないし、そんなまがまがしい紛争なら最初から何も期待などできはしないと心に決めて、弁護士が大きな字で読みやすい書面を出すのを、裁判官への媚びだと内心馬鹿馬鹿しく思っていたくらいでした。

むろん、広告代理店ではありませんので、今でも、まさか書面のフォントの種類や紙面の読みやすさで媚びを売ろうとは決して思いませんが、それでも、一年近く訴訟をすれば、裁判官であろうと、被告であろうと、当事者に対する思いやりと配慮は当然、生まれて来ます。(もちろん、弁論は対決の場ですから、そこで当事者への思いやりなど公然と述べはしませんが、心情的には当然、そういう配慮は生まれるのです。)

ですから、書面の書き方も、フォントサイズも、紙面の分量も、送付にかかる料金についても、一切、以前とは考えが変わりましたね。紙と代金の節約だけを念頭に、読みにくいことをかえって自慢にするようなことは全く考えられなくなります。今回も、第一審では、エクセル表で出した記事が一つ、削除対象から漏れるという「事故」が起きましたが、あの書面の分量では、そういう事故が起きるのも、全く仕方がないことだったと思います。事件記録は分厚いファイル4冊分に達し、審理が終わった時には、ものすごい量のふせんがつけられていたのだとか・・・。それを書き上げて3日くらいで慌ただしく裁判官は関東から西日本まで異動して行きました。その間に一度だけ更正決定をお願いしましたが、それを果たす以上の時間と余力はきっとなかったでしょう。

そういう有様を見ますと、今後は、分かりやすさ、読みやすさに気を使って書面を書かねばならないと心させられます。もちろん、これは主張のレベルを落とすことを意味しないし、裁判官にはしっかりやってもらわねばなりませんよ。ミスなどあってはならないのです。でも、とりわけ、訴訟では決して、よほどの場合を除き、エクセル表で自らの主張を述べることはすまいと決意しました(笑)。訴訟はもともと文系にとっての得意分野ですから、純粋に文系のやり方で勝負するのが一番かと・・・。

当ブログの文面もそうでしょうし、私自身もそうでしょうが、「人受け」を狙って、見やすいもの、分かりやすいもの、人の目に好ましいものを作ることには、ものすごく抵抗感があるわけです。内実の伴わない、うわべの印象だけで勝負したくない。だからこそ、あえてぶっきらぼうに、近寄りがたく、理解されがたい、回りくどくて、不親切な方法を取ることがある。それが孤高の人のように見え、あるいは、高慢さであるかのように見え、誤解されやすいので、損と言えば損な性格でしょう。

しかし、そんな人でも、さすがに自分の心の最も重要な部分を開示して人と付き合うとなると、不親切な態度は改めざるを得なくなります。誰もが見向きもしたくない紛争を自分自身で提起しているのですから、それを慎重に取り扱ってくれる人たちには、当然ながら、それなりの敬意を払わないわけには行かないですし、愛着も湧きます。弁護士はともかく、裁判官が嫌いなどと自ら言うことはもはや決してありませんね。判決がどういう内容なのかは、出てみるまで分からないとしても、そして、むろん、それに異議を唱える可能性は予め100%排除はできないとしても、少なくとも、自分の心を大事に扱ってくれる人たちを粗末に扱おうとは全く思えなくなります。

そういうわけで、私が訴訟を通して学習させられた最も大きなものは、勝ち負けだけではなく、勝つためのロジックでもなく、むしろ、その内容であり、人間関係だったかも知れません。紛争そのものは人生で他にも遭遇するかも知れませんが、この訴訟には、一生忘れられないほどの重さがあったことは確かなのです。第二審は、もっとシビアに理論上の勝負になるかも知れませんが、第一審は少なくともドラマでした。目に見える判決以上の、理論以上の収穫を得たと思います。

こうした現象はおそらく書面の出し方やら紛争当事者だけにとどまらず、やがてはすべての人間関係に波及して行くでしょう。壁は崩される時が来るということです。しかし、その時、多分、世界が白黒反転し、壁を築いているのはこちら側ではなく、むしろ、あちら側であったということが分かって来ると思いますが・・・。

* * *

もちろん、世には悪徳裁判官としか言いようのない人々も存在する。高圧的だったり、不親切だったり、人を辱めるような詰問口調で話したり、強引に自分の願う解決を押しつけて来たり、果ては、証拠もないのに、印象だけで、誰かを悪者と決めつける裁判官もいないわけではない
 
筆者はそういう人たちのことまで擁護するつもりは決してない。だが、たとえそんな人たちに出会ってしまうリスクがあったとしても、それでも、やはり、筆者は訴訟を起こし、戦い抜いて、判決を得ることには価値がある、という意見を変えないつもりだ。

裁判所は市民にとっての最後の砦である。そして、筆者は、信仰者としても、神と人との前で、飽くことなく正しい裁きを求めることには、絶大な価値があると思わずにいられない。

地上の裁きは不完全であるが、それでも、筆者は地上の法廷に訴えを持ち出すことによって、神に向かって、正しい裁きをも願い求めているのである。

呼び求めれば、答えがあること、神が願い求める者たちに、正しい裁きをなして下さると信じることができなければ、誰にも訴えなど出すことなどできはしない。

そこで、世にどれほど不正な裁判官が存在していようとも、筆者は、正しい裁判官に会うという願いを捨てないであろうし、同様に、地上の裁判官をはるかに超えた、まことの裁き主である神は、私たちの叫び求めに必ず答えて下さる方であるという確信を捨てない。

ただし、誰かを訴えることには、それなりの重さが伴う。自分だけは正義であるかのように思い上がり、我がふりをかえりみることなく、他者だけを一方的に責め続ける人間とならないためには、やはり、自分自身がリスクを負って、最後まで矢面に立ち続ける覚悟が必要である。

だからこそ、筆者は、誰の代理人にもならないし、誰かに代理人になってもらおうとも思わないのだ。リスクは他の誰かに都合よく押しつけて、自分だけは矢面に立つことなく、栄光だけをせしめようと考える人たちに、チャンスを与えるつもりもない。

筆者の主張の全責任は、最後まで、筆者自身が負う。だからこそ、真剣かつ全身全霊の訴えになるのである。その覚悟と決意があって、初めて、その訴えは人を動かすものとなり、神の御心にも届くものとなるだろうと筆者は考えている。

* * *

少しつけたしておきます。ひとこと欄に書いた「膨大な資料を基に判決文を書くのは大変だ」という話ですが、悪意がない過失であれば十分に許せますが、悪意ある「事故」までは、正当化できないでしょう。これは判決であれ、決定であれ、同じですね。

やっぱり、私たちが人を赦せるかどうかの最も大きな分かれ目は、どのくらい故意性があったか、意図的なものであったか、誤りを謙虚に認めるかによるものと思いますよ。これはどんな場合の誰であれ、すべてに共通しますね。

懸命に事件を裁いてくれた裁判官は何らかの落度があったところで、責めようとは決して思いませんが、ぞんざいに事件を扱い、あからさまに高圧的で人の意見も聞かないまま、証拠もないのに一方だけを悪者にする裁判官がいれば、やはりこれは過失では済まされない・・・となるでしょう。他の人たちの場合も全く同じです。故意性のない単なる過ちはいくらでも許せますし、修正もできますが、悪意によって他人を陥れるがごとき行為は、赦そうと思っても赦せるものではありません。だから、赦す赦さないの問題以前に、まずはそうした行為があったことを公然と明るみに出すことからすべてが始まるでしょう。

私はそういう意味で厳しすぎるというか実直すぎるのかも知れませんが、裁判官であろうと、どんな有名人、権力者、企業であろうと、相手によって態度を変えるつもりは全くなく、原則は同じと思います。また、問題を明るみに出したところで、すぐにそれを認めて責任を取る人を、決してそれ以上責めるつもりもありません。まして償いをし、謝罪をした人を責め続けるようなことは酷と思います。ですから、問題を明るみに出すことで「解毒」できると分かったなら、その時点で、すべてが終わります。私はただ筋を通したいだけで、悪事を暴くことをライフワークにするつもりもありませんし、人の罪を訴えることを稼業とする人々と同じ道を行くつもりもありません。

そして、他人の問題だけに熱中するつもりもなく、まずは自分自身をきちんとかえりみ、修正すべきところは修正し、神と人との間で透明性を保てるように生きるべきと思います。自分を吟味する姿勢がないのに、他者だけを責めるのは、それ自体、とても恐ろしいことです。

そのような暴走が起きないための策としては、➀行き過ぎに陥ることがないよう、自分自身が常に主の御手によって打たれ、へりくだらせられることを拒まない。②他者を非難する際、必ず自分自身が矢面に立ち、犠牲を他人に負わせない。などのことは最低限度、必要かと思います。だから、私は他者の代理人にはなりません。もしも私の言い分に瑕疵がある場合に、決してその責任を他人が負わされずに済むようにしておくためです。このように、自分の主張の全責任が自分にふりかかるようにしておけば、下手なことはできず、失敗も許されませんから、当然ながら、行き過ぎに陥るよりも前に必要な警告を慎重に受ける姿勢が保たれます。慢心による暴走や行き過ぎは、多くの場合、周りからおだてあげられたり、担ぎ上げられたりすることによるのです。

ただし、キリストに立っていれば、失敗というものは基本的にないのです。何もかもすべてを主が覆って下さるからです。それから、私の場合は、あまりにも外見的に弱そうに見えることが一つの防御かと思います。私が本気で怒っても、取るに足らない無力な人間と思われるのか、真に受けて立ち向かって来る人の方が少ないので、感情にまかせた戦いに発展せず、まずは筋を通して地道に主張して行く以外にもともと方策がないことですね。だから、物事を訴えるのにすごく時間がかかります。しかし、その間に、数多く学ばされることがありますし、軌道修正もできます。時間がかかるだけに、極端な主張は生まれて来にくいのです。

当ブログを巡る事件は、10年近い月日を経て裁判にまでなりました。その紛争も1年を超えようとしています。膨大な証拠の積み上げと、緻密な論理構成なしに主張できないものです。一審で足りないものをさらに二審で補い、主張を補強し続けているわけです。このような根気強さできちんと物事を訴えることが、紛争解決の基本です。裏づけのない正義感やら、慢心やら、単なる非難やら、報復感情では、決してできない根気の要る作業です。感情論ですと、多分、途中で息切れになると思います。そして、感情論でないからこそ、筋を通して物事を明らかにするだけの価値があるのですね。

とにかく、本人がどれほど深く犠牲を負ったか、その事実がはっきり周囲に見えるようになれば、誰も私が感情論だけでものを言っているなど、到底、考えられなくなり、攻撃もできなくなります。私には基本的に協力者はいませんし、被害者同士の連帯などもなく、紛争に巻き込んだ人もいません。支援者も募りませんし、負うべきものは私一人が負っています。牧師が信徒を名指しで非難すること自体、世間ではあり得ない事態と見られる中、私は牧師含め複数名を、弱い立場から、一人で相手にしています。その上これだけの期間が経過していますから、遊びや悪ふざけや私怨や空想では決してできない作業ですよ。そのことは、この先、もっと明らかになるでしょう。何のためにこのようなことをするのか。それが自己の利益のためでないことは、時と共に明らかになるでしょう。

おそらくは、内心の恐怖を完全に克服した時、この紛争は朝露が光を浴びて消えるように、跡形もなく消失するのではないかという気がします。歴史としては残るでしょうが、もはや全く人の心に影響を与え得ないような領域へ追いやられるのではないでしょうかね。私は人間の生活を曇らせるもの、恐怖で脅かそうとするものをすべて排除して、神の贖いの完全性を証明するために紛争を起こしたのですよ。贖いが完全なら、私の完全な無実が証明されるはずなのです。最後の敵である死が、命にのみ込まれて消えるとは、そのことなのです。

裁判官も人間ですから不完全さや、不備も当然あると思います。人間的なプライドを持ち過ぎた人も中にはいるでしょうし、印象に流されることもないとは言えない。しかし、そういうことを考慮しても、やはり私は、裁判官に判決を求めるという行為は、神に向かって真実な裁きを求める姿勢とどこか重なるように思うのですね。重なるというより、それをやめてしまうと、踏みにじられた弱い者が、真実と正義を求める心の願いには、全く行き場がなくなってしまうことになり、私はそれだけは決してあきらめるわけにいかない願いだと思わずにいられないのです。その願いが真剣であればあるほど、裁判所という場所には敬意を持たないわけにいかないのですよ。そうして本気で正しい裁きを求める者を、神も、人も、決して無碍には扱われないと信じるわけです。ですから、地上の人間を介しつつ、神に向かって真実な裁きを呼び求めているというのが実際のところでしょう。

* * *

<続く>


私ではなくキリスト―事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(1)

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)

さて、再び著作権侵害の証拠として、ひとこと欄の文章を掲載しておこう。
 
筆者は年々、絶望的になって行くこの国の雇用情勢の中で、谷川を慕い求める鹿のように、どこへ行けば、命の泉を見いだすことができるのか探りつつ、ただ信仰によって、居場所を探し求めて来た。

前にも書いた通り、昨今、筆者が専門していた分野では、ますます搾取と排除のし合いが横行し、もはや活路を見いだせそうにもない状況となったため、筆者は新たな分野を切り開く必要に迫られた。

その時、考えたのは、残る生涯を、自分のためにだけ生きるのでなく、より多くの人の益になることをして過ごしたい、ということであった。

では、どんな目的のために身を捧げて生きるべきか?

新たな分野が存在することに気づかせてくれたのは、訴訟であった。裁判は、法というものへの尽きせぬ興味を筆者に抱かせた。訴訟を通して、新しい物事のありようを切り開くことができる。歪んだ現実を変え、失われた権利を取り戻せる。

しかし、裁判の途中で気づいたのは、現存する法そのものにも、実に多くの欠陥や不備があり、それが多くの問題を引き起こしているということであった。そのため、真に物事を是正するためには、法そのものを変えて行かねばならない場合が存在する。

戦い抜いて手にした判決は、尊い価値あるものである。だが、何とかして、もっと法体系そのものへ近付けないだろうか? 何とかしてその中へ入り込み、内側から変えて行くことができないだろうか? どうすればそれができるだろうか? 筆者の関心はそこに集まった。

法改正は、一部の代議士や、政治家たちだけの仕事ではないだろう。大臣や官僚に任せておけば良い話ではない。法律家だけがそれをやれば良いわけでもない。

社会を大きく変えて行くような画期的判決は、無名の市民たちがリスクを払って戦い抜くことで、初めて得られるのだ。だとすれば、目指している目標がどんなに遠大なものであっても、筆者の立場から、今できることが必ず存在するはずだ。

筆者は、これまで新たな政党が生まれる度に、期待しつつ公募条件を見て、常にがっかりさせられて来た。どれだけ政党が生まれようと、政治の門戸は貧しい人たちには開かれていない。「何人支援者がいますか?」、「供託金は払えますか?」、「どれだけ資金がありますか?」

そんな文言を見る度に、ああ、これではどんな候補者が立とうと、結局は同じだ・・・と筆者はいつもため息をつくのだった。なぜって、何一つ従前と変わっていないからだ!!
 
変わっているのは、舞台で踊る俳優たちの顔ぶれだけだ。それはショーなのである。人目を惹く候補者が立てられても、それは何百人ものオーディション落選者を土台に選ばれたごくわずかなうわずみのようなものである。注目を集めている複数の政治的トピックに関して、その問題を象徴してくれそうな強烈な個性の持ち主を選べばよい。

これは何かに似ている、と筆者は思う。そうだ、ペンテコステ運動の指導者たちの集会だ。TVチャンネルをつけ、あるいはインターネットの動画で、自分の好みに合いそうな指導者を選んでその説教に耳を傾ければ良い。感動的な讃美歌、心揺さぶるメッセージ、壮絶な人生の体験談・・。

筆者はリモコンを操作して、画面の前から立ち去る。去り際に、誰かが言っているのが聞こえる、「ああ、2000年前のイエスが現代に現れたようだ」と。

そんな馬鹿馬鹿しい話があるか、と筆者は心に思う。主イエスは、どんな方であったか。筆者がよく記憶している新改訳から、イザヤ書42章1~9節を引用しよう。

「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、
わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
彼は国々に公義をもたらす。

彼は叫ばず、声をあげず、
ちまたにその声を聞かせない。

彼はいたんだ葦を折ることもなく、
くすぶる燈心を消すこともなく、
まことをもって公義をもたらす。


彼は衰えず、くじけない。
ついには、地に公義を打ち立てる。
島々も、そのおしえを待ち望む。


天を造り出し、これを引き延べ、
地とその産物を押し広め、
その上の民に息を与え、
この上を歩む者に霊を授けた神なる主は
こう仰せられる。

「わたし、主は、義をもってあなたを召し、
あなたの手を握り、あなたを見守り、
あなたを民の契約とし、国々の光とする。

こうして、盲人の目を開き、囚人を牢獄から、
やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。

わたしは主、これがわたしの名。
わたしの栄光を他の者に、
わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。

先の事は、見よ、すでに起こった。
新しい事を、わたしは告げよう。
それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」


「国々に公義をもたらす」との箇所は、新共同訳では「 彼は国々の裁きを導き出す。」とある。
主イエスこそ、この地に正しい裁きを下される方である。
そして、この方は、叫ばず、巷に声を響かせない。

メガホンを持って自分の名を連呼することもなければ、怒りのメッセージを轟かせることもない。むしろ、ご自分が十字架にかけられる時でさえ、屠り場に引いて行かれる羊のように声を上げなかった方である。
声をあげることさえできない者の弱さを知っておられるからこそ、いたんだ葦を折らず、くすぶる燈心を消さず、弱った者を力づけ、倒れかかっている者を起こすことができるのである。

筆者は、 新たに登場して来る候補者の街宣に耳を傾け、これに期待しているようでは、また同じことの繰り返しでしかないと思う。
 
まやかしの、めくらましの時間稼ぎに心を奪われ、代議士になど期待を託している場合ではない。誰かが始めた政治運動に希望を託すのではなく、自分が今できることを、地に足をつけて行っていかねばならない。

動物は、自力で餌のありかを探し出し、寝床とすべき場所や、憩いの水際を探し出す。誰にも教わることなく、自分でどう生きるべきかを定める。

私たちは、信仰者であるならば、なおさらのこと、キリストの復活の命という心の羅針盤を頼りに、自分でどう進むべきかを決められるはずではないか。

誰かに道を指し示してもらうのではなく、誰かに代わりに助け手もらうのでもない。ただ主にあって、自分の内なる霊の命の只中から、自分自身の生きる力を使って、あるべき場所を見つけ、なすべき仕事を見つけることが必ずできるはずであり、そうすべきである。
  
* * *

(ひとこと欄から)

暗闇の勢力には毅然と立ち向かうのみ。今日も実に実に大きな収穫がありました。これから何を目的に目指すべきか、どこへ向かうべきか、はっきりと分かって来たのです。

やはり私は法体系に近づき、できればこれと一体化して、それを内側から変える作業に携わりたいと思うのです。 それがただの願望で終わらず、実人生と結びついて一歩一歩、前進して行く時が来ました。前々から法体系という大きなビルの地下に降りて構造を確かめていると書いていますが、それは後々これを変えるための下準備なのです。今行っている戦いも、すべてそのための予行演習です。

私が目指しているのは、現存の法を物事に適用して違反を是正し、そこから自らの利益を得ることだけではない。それ以上に、法体系(というよりもっとその根源となっている見えない秩序)そのものに限りなく近づき、これとずれなく一つとなること、そこから自分の命を汲み出すこと、また多くの人たちが命を汲み出せるようにすることなのです。

法体系は家の基礎構造のようなものです。もし屋台骨が腐れば、家が崩壊する。ですから、この基礎構造を堅固なものとし、実際にその骨組みによってあらゆる物事をきちんと支えられるようにすることが、家を安全に保つ第一の秘訣です。しかし、我が国という家にはいくつも屋台骨の腐食が見られる。土台の交換が必要となっている部分がある。

死文化した法というものが存在します。現実にはいくつもの違反があるのに、それを取り締まるための法が、ほとんど機能しなくなったような例があります。特に行政法はそうです。こうした法を現実に適用可能にしていくためのプロセスが必要なのです。


言葉は生きています。それを生きたものとして現実に当てはめるために、蘇生して命を通わせる方法論を編み出すことが必要なのです。その蘇生措置でも死文化した法が生きて来ないなら、法そのものの改正が必要です。

こうした問題はあらゆるところに転がっています。屋台骨が腐食しているから、多くの人々が困っているのに助けを求められない。そういう事例があることさえ、人々は知らない。今すぐに交換作業はできませんが、いつか未来にこの腐食部分を交換するための下見と点検を私は行っているのです。問題を取り上げて指摘する人がいなければ、そこに光が当てられることさえない。私が行っているのは、まずは問題を光の下に持ち出し、やがて来るべき改正に備えて議論の土台を作ることなのです。

* * * 

私は訴訟をやってみて、裁判所に関わり、人々に命や解放を与える判決を書く仕事はやはりものすごく尊いものだと思います。私は法律家ではなく、生涯、専門家にもならないと思いますが、彼らとは全く異なる立場から、自分なりに、目に見えない法秩序の中から、目に見える命や自由を具体的に汲み出す方法をよく知り、それを通して自分のみならず、自分以外の人々をも解放する作業に貢献したいと思うのです。

この作業は、信仰によって御言葉を実際とするという生き方とすごく共通するものがあります。 クリスチャンは、御言葉から命を引き出す秘訣を知っています。たとえば、この世でも、一つの画期的な意味を持つ判決が下れば、それに伴い、多くの違反が是正され、かつ、未然に違反が防止されます。判決はすでに起きた違反を是正して権利侵害を克服するにとどまらず、将来起きうる違反に対する抑止力ともなります。画期的な判決は、多くの類似した事件を裁く際の前提となります。 

信仰の世界でも、同じように、何よりも、主がカルバリで取られた勝利の判決が、我々が実生活で遭遇するすべての問題を克服する根拠となっています。しかし、その他にも、一つ一つの小さな御言葉を現実生活に適用することで得られるさらに具体的な勝利があるのです。

目に見えるものは、目に見えるものによって規定されているのではなく、見えないものによって規定されています。人々の現実生活は、見えない法によって規制を受け、また、それによって違反を是正されています。

しかし、上記の通り、私は現存の法によって違反を是正したり、 人の生活を自由にする方法を知るだけでなく、法そのものの改正により、 将来的に、人々の生活にさらに自由度を増し加える必要があると感じています。私の取っている方法論は、他の人々が通常取る方法とは異なりますが、これから長い長い時間的スパンで、ライフワークとも言える形で、その解放の作業に関わることになると思います。

たとえば、レジ袋の有料化などという無意味な法整備をするくらいなら、死文化した労働関係の行政法規の文言を一つ変えるだけで、どれほど大勢の人たちが恩恵を受けるかはかりしれません。法規の一つ一つはこれまで人類が勝ち取って来た自由の歴史でもありますから、そこに歴史的後退をつけ加えるのではなく、前進と言える成果を勝ち取ってつけ加えなくてはいけない。ただ飾っておくだけでは法律も無意味であって、これを現実に適用し、さらにその内容を前進させて行くのは一人一人の市民の役目なのです。

そのために、飽くことなく戦って困難に立ち向かい、成果を勝ち取らなくてはならないのです。
今私がしていることはすべてそのためであり、将来の解放のための土台作りです。 

* * *
 

これだけ労働関係の行政が腐敗すれば、この国の労働市場が悪くなるのは仕方がないですね。
厚労省でもデータの改ざんが問題となりましたが、その下の役所はもっと徹底的に腐敗しています。 

やはり日本の労働市場はあまりにも遅れていますね。 役所は取締を放棄しており、ブラック企業は溢れ、 法改正も遅い。毎年、毎年、役所がブラック企業への罰則をもうけるという話が出て来ては、立ち消えに なっている。おそらく企業側からのものすごい反対があるのだと思います。そして、労働関係の多くの法はあまりにも企業側に有利にできすぎており、役所は違反があってさえこれを取り締まらない。 
だから、こうした現状を変えるためには、裏技のようなテクニックが必要となり、労働者は役所には泣きついても無駄という現状がある。さらに、ユニオンや労連からNPOから始まり、労働者の問題をさらに食い物にする様々な団体が控えている。 まして外国人技能実習生などは、日本語も日本の法律も分からないのでは、どこにも訴えることもできない。 そうした声も上げられない弱い人たちを容赦なく踏みにじり、犠牲にする日本という国。この精神性のものがすでに亡国を示すものだと言って差し支えない。

* * *

しかし、私はこうした事情から、特に絶望は感じません。むしろ、雇用情勢を色よく見せかけ
この国の様々なデータを改ざんして来た大本営発表がもうすぐ終わる気配を感じます。彼らは下々の者に責任を押しつけて、自分たちは悪事を隠して逃げる時を待っています。営利が目的の民間企業だけでなく、役所の腐敗が何よりも労働者を搾取し、日本の雇用情勢の悪化の原因を作って来たのです。なるほど国が外国人技能実習生を見殺しにするはずです。

しかし、恐ろしいほどの知性の崩壊を目の前に、この国の終わりが近いと感じます。日本がかつて敗戦した時、責任を取れるリーダーは一人もいなかった。破滅へ向かっていることをみな知りながら、それを止める力もなかった。権威が、権力が、正しく行使されなかったのです。今はその状況に似ている。お偉いさんたちが、私利私欲のことしか考えなくなり、弱い者たちを平気で見殺しにした結果、国ごと理性を失っいるのです。私は一度労働関係の役所が企業と意を通じて徹底的に腐敗していることについて、記事をまとめてみたいですね。 

* * *
 

私は個人的にいつかこの状況を変えたいし、変えねばならないと思わずにいられません。ただし、これは社会運動などではだめなのです。法律そのものが必ず将来的に変えられなければならないからです。労働関係法のみならず、他にも似たような抜け穴だらけの法はいくつもあります。 しかし、それを変えるための最前線となるのは、毎年法整備を行おうとしては挫折している役所ではないでしょう。
国会前の座り込みだのビラまきだの街宣だのが完全に無意味だと馬鹿にするつもりはありませんが、しかし、物事を形作っているおおもとは法の規制にあり、法自体が空洞化しているのでは、
規制のしようさえもないという問題について、もっと大勢の人たちが立ち止まってきちんと考えてみなくてはならないのです。

しかし、デモや街宣で他人の説教を聞いて熱狂している限り、このような問題に人々が着目し、取り組むことはないでしょう。法整備が一部の議員や役所の専売特許と考えられている限り、 人々は法改正こそが現状を変えるための有効な策だということにずっと気づかないままだと思います。

そういうわけで、私は多くの政治運動には、キリスト教会のお祭り騒ぎ的な礼拝や集会と似たような要素をいつも感じるのです。そこにあるのは束の間のまやかしのような熱狂であって、何かを根本的に変えて行く原動力ではない。ワーっと騒いで、理想を語り、愚痴を吐き出して、現状は1ミリも変わっていないのに、何かをしたような気分になる、一種の現実逃避なんですね。

むろん、極論と分かって言えば、プロテスタントと資本主義が根本的に同一の起源から出て来ているとすれば、どちらも双方がまやかしなんです。労働市場が遅れているというにとどまらず、
労働市場それ自体がすでにまやかしのマーケットになりつつあると言った方がいい。ザル法、スポンジ化した法の破綻はそのまやかしから、これをごまかすために生まれて来ているわけです。
そして、キリスト教会に対して反キリスト教界の運動が存在するように、デモも街宣もそのまやかしの変種のようなもの。
では、一体、この鏡の中の鏡のように連綿と嘘の続く世界で私たちがなすべきことは? 鏡に映った映像の中に命を探し求めるのをやめて、真実な実体を探すことですね。本体に近づくべきなのです。それが結局、新しい判断を求め、これを自ら打ち立てることなんですね。 

ただし、こうした情勢を終わりに近付けるのも、私たち一人一人の努力で可能です。個人の力で様々な事柄を明るみに出せますし、それなりに是正することもできるのです。私が訴訟を提起したのは、まず法律の専門家としての肩書がなくとも、個人の力で物事をはっきりさせることに貢献できると示したかったから。法令順守の精神を、行政や役所が失った代わりに、個人が持ち続けることができると示したかったから。

私は弁護士でも法律家でもありませんが、法律に対する畏敬の念はあります。現行法が完全だとは言わない。しかし、今あるものを守ろうとしない人たちが未来に向けて規則を制定してみたところで、これを守るはずがない。法律は義務も定めているが、私たちの自由の根源であり
存在を深い所で規定しているのです。

私は違反に対しては、裁判所の判決や行政による罰則の適用を求めると同時にできるなら、もっと法律そのものに近づき、中へ入り込みたいという気持ちがあります。なぜなら、法それ自体が変わることによって、多くの人たちの生活が根本的に変わりもっと解放される見込みがあるからです。法律家の観点とは異なる立場から、私は未来に向けての法整備に人生のどこかで関わりたい気持ちがあるのですね。 そのための試行錯誤が現在であり、現行法の抜け穴や欠陥と言える部分についても学習を重ねているのです。

私は、命令が私自身のうちですなわち実行となる時、約束された保障が値引きなしに実現される世界を求めています。私たちは憲法で保障されている権利さえ、まだ値引きなしに自分の手にしたことがない。多くの保障が絵に描いた餅で終わっているのです。その観点から見ますと、法体系からは、まだまだ汲み出せるものが無限にあると共に法に保障された私たちの権利が実現しないように妨げている中間搾取者の排除も必要です。牧師階級からの信徒の自立が不可欠であるように国民が肥大化した役所の助けを不可欠とする時代も終わりつつあるように思います。
私たち自身が自立へ向かうことが肝要なのですね。

ただし、私の取り組みは一歩一歩ですよ。法改正などは壮大な問題ですから、
これから十年以上のスパンをかけて、この問題に対してじっくり向き合うことになるのではないかと思います。

しかも外側から。資本主義とプロテスタントを脱出する不思議な道が開けていますから、私はこれから先、この問題の内側から取り組むのではなく、外側から取り組むことになるのではないかと思います。おそらくこのまやかしの世界に後戻りすることはもうないかと。

そして、何度も言っているように、私は専門家としてこうした問題に取り組むことはなく、どこまで行っても、権力を持たない無名の市民の立場から取り組みます。でもいつかはその道を貫徹することによって、必ず大きな目的を達成する時が来るものと考えています。
責任を持たされるのも一歩一歩ですから。

* * *

<続く>

 


私ではなくキリスト―主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」(詩編151:1)

ここ数日間、悩みに悩んでいた問題があったが、突如、その重荷が肩から転げ落ちた。

やはり、解決は、自分を手放すことにあると分かった。自分自身の力で戦うことをやめ、主の解決を信じ、それにすべてを委ねることである。

改めて、最も困難な道を行こうと覚悟した。

その瞬間、心の羅針盤の針が再び目的地をはっきりと指し示した。筆者は道に迷っているのではなく、まさにいるべき場所、立つべき場所に立っていることが分かった。

私たちが心に抱えている問題の中には、本当は、私たちが引き受けるべきでない問題がたくさんある。どこかから押しつけられて、いつの間にか負わされることになった重荷がたくさんある。弱い者同士が、その重荷を互いに押しつけ合っては、互いに滅ぼし合っている。

そのような重荷を一つ一つ、手放すところから私たちの歩みは始まって行く。自分で解決しようとしていた問題を手放した度合いに応じて、心の自由も増える。

訴訟では、勝ちたいという思いや、賠償をきちんと払わせようとする思いも、どこかの時点で手放す必要がある。これは決して判決を放棄することではないし、白黒つけることを放棄するわけでもない。

主の御心にすべてを委ね、すべてが自然になるときが来ることを信じて待つのである。実際、それ以外に解決の手段は存在しない。どんなに自分で望む方向へ物事を引き寄せようと考えたとしても、成らないときには成らない。

当ブログを巡る訴訟では、前から書いている通り、和解はあり得ない。なぜなら、これは人間的な観点に基づく紛争ではなく、神の御言葉を巡る論争であり、白黒つけることを避けて通れない問題だからである。

だが、そうしてきちんと物事に決着をつけることと、自己のプライドを立てようと、物事を自分の望む方向に強引に引っ張って行こうとする態度は異なる。

自分のプライドと感情を満足させるよりも、もっともっと静かで深い意味を持つ解決を求めることは実際に可能なのだ。
 
筆者は、当ブログを巡る訴訟の一審判決に到達できると分かった時の大いなる喜びのことをよく覚えている。

一般に、訴訟においては、悪質な被告と、そうでない被告が存在する。もしもあなたが原告となって悪質でない被告を相手に戦うなら、いたずらに紛争をこじらせるような発言を受けたり、行き過ぎた侮辱を受けることもなく、早期に解決を見いだせ、あるいは和解も可能であろう。

しかし、悪質な被告は、いつまでも自分に不利な判決が下らないように、無益な論争を続けようとしたり、裁判官と原告との信頼関係を引き裂いて、協力が成り立たないようにしたり、反訴や控訴などを持ち出して、心理的な圧迫をかけようとする。

そして、原告であるあなたがそのような心理作戦に踊らされていたのでは、いつまで経っても、議論は終わらず、判決にたどり着くこともない。

当ブログを巡る訴訟の第一審で筆者が得た解決は、最終解決ではなかったとはいえ、筆者は、やはり、あの時と同じように、どんな時でも、重荷を自分の手から放し、自分で背負おうとしない態度が必要になるのだと感じさせられている。
 
訴訟というものは、格闘技にも似ており、これを続行するための多大なるエネルギーが必要になる。書面を書き上げるためには、膨大な労力が必要で、怒りのエネルギーも、その原動力になる。当事者感情も、すぐに克服できるものではない。人は嫌なことをされて、すぐにそれを忘れることもできず、怒りや敵意をすぐに手放すこともできない。何かの折に、心にため込んだ不満や悲しみが一気に噴出することもある。

だが、そういう感情はやがて冷めるものであり、すべて一時的なものでしかない。そして、神は、私たちが語り終えるときを静かに待っていて下さり、私たちがようやく自分の発言を終えて、自分を手放したとき、おっしゃられる。

「あなたの気持ちはよく分かりました。そう考えるのももっともでしょう。でも、今、目を上げて周りを見てご覧なさい。私があなたのためにすべてを成し遂げました。あなたの敵はもういません。私が一掃したからです。だから、あなたはこれ以上、怯える必要もなく、自分の力で戦って、懸命に何かを成し遂げる必要もありません。あとは私に任せなさい、私がやります・・・。」

どれほど困難に見える瞬間にも、事実は、ただ一つしかない。それは、神がどれほど私たちを愛しておられ、私たちのためにあらゆる瞬間、すべてを良きにはからって下さっているかということである。

人の心も、周りの状況も、何もかも私たちのために恵みとして与えられたものばかりである。

前回の記事で、散歩中にダンプカーが通り過ぎるかどうかは、私たちの心次第だということを書いた。そこから少し進んで、人の心も、私たち次第であると言いたい。

他人の心など、コントロール不可能なものでしかないように見えるだろう。まして敵対している人たちの心など、どうやってコントロールするというのか。

筆者は長い間、人々の離反や、裏切りや、誤解は、防ぎようのないものだと考えていたが、実はそうでないことが分かって来た。

主イエスはイスカリオテのユダの裏切りを予め知っておられた。ユダの裏切りも、イエスの許しなしには起きなかったのである。神はアブラハムのもとに御使いたちを送って、ソドムの滅亡を知らされた。神は今日も私たちの心に全く何も知らせずに突然、予期せぬ出来事を起こしたりはなさらない。

だから、キリスト者の人生に起きて来ることの一つ一つは、神とその人との共同の歩みの中で起きることであり、主は必ず、ご自分に聞き従っている人に必要な事柄を知らせて下さる。

そこで、私たちは人々の離反や、裏切りを防げるだけでなく、場合によっては、紛争の激化を防ぎ、敵対的な陣営にいる人たちの心でさえ、取り返すことができるのである。

真の敵はサタンであり、私たちは敵に渡したくない人々、手放してはならないもの、最後まで守り抜かねばならないものを、はっきりと境界線を定めて、自分の心の中で、これは自分たちの陣営にあるものだと宣言せねばならない。

他人がどう行動するかを考えては悪い想像を心に巡らすよりも前に、まずは自分の心の中で、しっかりと、どこまでが自分たちの陣営に属する領域であるのか、どこまでが決して敵に触れさせてはならないものであるのか、境界線を引いてしまわなければならない。

そうするとき、人々と敵対関係に陥ることを防げるだけでなく、そのような状態になりかかっていた人たちでさえ、取り戻せる場合がありうる。
 
前回、書いた通り、敵の攻撃をどこまで許すかは、私たち自身にかかっているのである。そして、私たちは攻撃を未然に防ぎ、これを撃退することが可能なのである。その原則は、人の心にも当てはまる。

私たちが愛しているものを、絶対に敵に渡してはいけない。私たちが必要としている人々を、決して離反させてはいけない。私たちは、自分を見失って、終わりなき無益な戦いに引き入れられることなく、自分自身も、自分に関わる全ての人たちをも守り抜かねばならない。

そのためには、事実に先だって、まずは自分の心の中で起きる戦いに勝利し、恐れを征服して、人々をも、物事をも、自分たちの陣営に取り返し、しっかりと所有権を宣言しなければならないのである。

紛争の行く末も、当事者の思いも、時も、環境も、状況も、すべてはキリスト者の心の支配にかかっている。

そういう意味で、筆者は自己のプライドや感情を満たすために戦うつもりはないが、この地に正義と平和がなるために必要なことをせねばならないと考えている。
 
そのために、必要な知恵を神に希う。そして、すべての戦いはすでにカルバリで決着がつけられて終わっていることを宣言し、それゆえ、すべてのものが御名の支配に服すべきことを宣言し、それを立脚点として、現実に必要なあらゆる物事を采配する。

私たちの栄光のための勝利ではなく、主の栄光のためにこそ勝利に至り着くことができるように。