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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。

「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。

そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるとおりです。

見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、
 シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。

従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」
 のであり、また、
「つまずきの石、
 妨げの岩」
 なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。

 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 あなたがたは、

「かつては神の民ではなかったが、
 今は神の民であり、
 憐れみを受けなかったが、
 今は憐れみを受けている」
のです。」(Ⅰペテロ 第2章)

* * *

当ブログは、聖書の神が、正しい、唯一の神であって、キリストの十字架の贖いが、人類にとってただ一つの救いであることを証しするために執筆されている。

従って、当ブログの最終目的は、神に栄光を帰することであって、それ以外の目的にはない。

このブログは、筆者が信仰の証のために書き続けているものであって、筆者の自己満足や、筆者が栄光を受けることを目的としていない。

とはいえ、このブログには、筆者自身の人間らしい歩みも率直に記されているので、一見すると、無価値にも見える多くの記事があるかも知れない。しかし、それも含めて、このブログは、干潟に溜まっている泥水のように、外見的には、みすぼらしく、魅力も、見栄えもしないが、そこには、神の愛に満ちた眼差しが確かに注がれているのであって、人知れず光合成が起き、泥水にしか見えない水が、神の目に尊く、すべての人々に役立つ、永遠に価値ある生ける水に変えられている最中なのである。

筆者がこの地に置かれてから後、筆者に与えられたミッション――すなわち、干潟を開拓して、そこから命の水が湧き出るためのパイプラインを建設し、これを稼働させること――が開始するまでに、相当な年月がかかった。

それは、この地にパイプラインを建設できるような土壌がなかったためで、地盤作りに年月がかかったからである。さらに、地中を深く掘り下げ、地下深いところから水を汲み上げるためには、多くの苦難が必要となった。

神の御業が現れるためには、信じる者の側にも、深い飢え渇き、願い求めが必要で、旱魃のようにも見えるむなしい実り少ない月日の間に、深く深く井戸を掘ることが必要となった。

だが、ある時が来ると、掘削作業は終わり、確かに水脈に達し、地下水を汲み上げる作業が始まった。そして、ついに筆者は、命の水が確かに流れ出す瞬間を見たのである。

二、三年ほど前までは、多くの交わりが試練に耐え得ず、分解させられるところを幾度も目撃して来た。

だが、そのことを通して筆者が学んだのは、人間関係とは、キリスト者の交わりも、そうでない交わりも含め、全て試され、揺さぶられることなしに、本物にはならないということである。不信や、対立や、分裂をもたらそうとする悪しき力や、様々な策略が働くときに、これに勇敢に立ち向かって、人々との信頼の絆を保ち、目的に向かって共に一致協力して前進できる関係を手放さない方法を学ばなければ、私たちは、順調な時しか人々と協力できず、逆境になると、すぐに人間関係が壊れ、これを手放すこととなり、そんなことでは、周囲の人々が、一体、何のために私たちの周りに置かれたのか、彼らが私たちにとって、どんなに重要かつかけがえのない役目を果たしてくれるかを、決して生きて知ることはできないままに終わる。

そうして不信や対立を乗り越えて、信頼を維持・強化する方法を学ぶためだけにも、相当の歳月が必要であった。
 
これと同様のことが、当ブログにも当てはまる。信仰の証としての当ブログは、これを中断させ、放棄させようとする様々な試みによって、絶え間なく揺さぶられ、試練を味わわされて来た。

しかし、それもまた、筆者が信仰の証を確固として保ち続けるために、これをやめさせようとするすべての策略に勇敢に立ち向かって、神への賛美と証を続けることの重要性を学ぶ過程であったと言える。

困難や試練に見舞われても、神に栄光を帰する作業を決してやめないでいること、兄弟姉妹や、愛すべき人々を、嵐のような試練の中で守り抜き、彼らとの絆を決して絶やさないように守ることの重要性を学ぶまで、確かに歳月はかかった。しかし、ついに、揺さぶられても、決して壊れることのない交わりが生まれ、相互の固い信頼の絆が生まれたのである。

そうして、地下深く掘り下げられた井戸から、汲み上げられた命の水が、地上から流れ出し始めた・・・。

今でも、当ブログを地上から殲滅したいとの願望が、筆者に向かってあからさまに述べられることがある。筆者がすべての主張を放棄し、これまで獲得したすべてのも成果を投げ捨てることによって、あたかも筆者の安全が保たれ、平和が到来するかのような主張を聞かされることがある。

だが、筆者に証を述べることを辞めさせようとする願望を聞くとき、筆者は、殉教者たちのことを思い出す。長崎のキリシタンであれ、皇帝ネロの時代のクリスチャンであれ、みな同じ要求を突きつけられ、同じ試練の道を通ったのである。自分の命や、自分の身の安全を第一優先し、神の御言葉を恥じて捨てるのか、それとも・・・。

主イエスは言われた。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」(ルカ9:23-26)

筆者が第一に優先せねばならないことは、自分の命を真っ先に優先して守ろうとすることではなく、神の国とその義を第一とし、神の御言葉を人前で恥じることなく、伝え続けることである。
 
これまで当ブログでは、東洋思想(グノーシス主義)の時間の概念は、円を描く曲線であるが、キリスト教の時間軸は直線である、ということを書いて来た。

ここで言う「グノーシス主義」とは、聖書とは真逆の偽りの教えを総称したものである。
 
この問題を考えるとき、筆者が当ブログにおける信仰の証を自ら放棄・否定して、これまで達成して来たすべてを、なかったこととして否定しさえすれば、あたかもすべての争いから解放されて、安息を得られるかのような考えが、偽りであることが分かる。

何度も述べて来たように、聖書に反するグノーシス主義のシンボルは(東洋思想も含め)「円」である。この円とは、人類が時間軸を逆にして、歴史の初めと終わりを一つに結びつけること、すなわち、循環する時間の概念を表している。
 
このシンボルの究極的に意味するところは、人が自力で、神と人とが分離する前の状態に逆戻ることである。すなわち、聖書によれば、神が天地を創造され、人を創造された後、人は自ら神に反逆し、罪によって堕落し、神と断絶するに至った。

しかし、グノーシス主義は、人間が自分で時間を遡り、神から分離する前の状態に逆戻ることによって、あたかも、人が神に対する反逆という問題を起こしたことがなかったかのように、罪の問題を自力で解決して、自ら神に回帰し、救いに到達できるかのように教える。そのような偽りの考えを示すシンボルが、円(東洋思想における「道」)なのである。
 
それは、人が自力で母の胎内に逆戻り、生まれる前の状態に逆戻ることによって、この世の悩み苦しみの全てから解かれ、両親との一体性を取り戻し、胎内でもう一度、安息を得ようとする試みにたとえることもできよう。

しかし、普通に考えて分かる通り、人が自力で母胎に逆戻ることなど、できるはずもないのであるから、同じように、罪によって神と断絶した人類が、時間軸を逆向きにして、神と分離する以前の状態に自力で回帰することなど無理な相談である。

そのことを考えれば、筆者が当ブログを閉鎖したり、信仰によってエクソダスを遂げたことを否定して、幼い頃から慣れ親しんだもとの故郷に逆戻り、そこから出た後、昨日までに打ち立てたすべての達成を自ら否定してみたところで、それによって生まれる成果など何一つないことがはっきりと分かる。

私たちは、昨日までの歴史を否定したり、自分の信仰の証や、果ては兄弟姉妹の存在や、自分自身の存在までも否定して、何も起きなかった当初の状態に逆戻ることで、心の平和を得られるわけではない。

そういう意味で、人類が、神によって創造され、罪によって堕落したことは、それ自体、著しい悲劇なのであるが、それでも、私たちは、その悲劇が起きなかった以前の状態に自力で逆戻ろうとすることによって、問題解決を成し遂げ、平和を手に入れられるわけではなく、その悲劇の事実をしっかりと見据えた上で、これを真に克服できる方法を探し求め、それを手に入れて、先に進んで行かねばならない。

そして、神と人との断絶を克服する方法は、神の側から恵みとして与えられた十字架以外には存在しないのである。十字架は、エクソダスの道である。生まれながらの自分自身から、古い肉的な故郷から、私たちが目で見て、耳で聞いて、感覚を通して確かめて来たこの世そのものからのエクソダスである。
 
これまで当ブログでは幾度も述べて来たことであるが、聖書には、こうある。

「わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:30-32)

筆者が、この御言葉を幾度も引用するのには、理由がある。ここで述べられている内容は、非常に重要な奥義であって、それは神と人とが一体であるかのごとく親しく結びつき、一つとなって共に住まうことが、神の望みであることを示している。

つまり、聖なる神の宮として造られた人類に、神ご自身がやって来られ、人の内に住まわれること、そうして、神と、宮なる人類が一つとされ、それによって、花婿なるキリストと花嫁なる教会の結婚が実現すること、それこそが、教会の奥義なのである。

だが、この一体性が成り立つために必要な条件は、「人は父と母を離れて・・・」というものである。父と母を離れるとは、人が自分の生まれながらの出自に死ぬことを意味し、生まれながらに持っている堕落した天然の命に対し、キリストの十字架の死を経由し、自分の生れ故郷(ヘブル書では「出て来た土地」(ヘブライ11:15))を離れ、信仰によってよみがえらされて、新しい命により、新しい天の故郷へ到達するために、歩みを続けることを意味する。

生まれ故郷を離れないことには、新しい故郷にたどり着くこともない。地上的な故郷との結びつきが断ち切られないことには、天の故郷への道も開かれない。だからこそ、人はバプテスマを経て、生まれながらの自分に死んで、上から生まれることが必要なのであり、筆者自身も、真実な信仰を知って、神ご自身を探し求めるためには、エクソダスの道を通らねばならなかった。

筆者は幼い頃から形式的にはキリスト教徒だったのであり、信仰それ自体も、持っていたとはいえ、それでも、「父と母」のいる、もといた「故郷」、すなわち、物心つく前から筆者を取り巻いていた慣れ親しんだ宗教的な環境において、古き自分に死ぬことなしに、神ご自身に出会うことは不可能だったのである。

ヘブル書には次の通りある。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが、実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ11:13-16)


神の御言葉は、あたかも裁判の判決が法的拘束力を持つように、霊的な拘束力を持つものである。そこには、人類に対する神の約束事が書かれている。約束が成就していないうちば、御言葉は、単なる空手形のようにも見えるかも知れないが、その約束には、生きた効力があり、聖書の御言葉には、約束を実現させる力が込められている。

とはいえ、その約束は、私たち自身がこれを承認し、信じ続けなければ、実現することのないものである。従って、私たち自身が、何があっても、御言葉に基づく望みの確信を手放さないことをせず、その確信を途中で投げ捨て、自ら否定してしまえば、その効力は失われる。
 
たとえば、ちょっとした困難が起きただけで、自分の命や、身の安全が惜しいからと、当ブログの信仰の証を、筆者が自ら否定し、捨て去ったり、筆者に与えられた尊い御言葉の約束を、筆者が自分で否定したりすることは、約束の放棄を意味し、それは結局、筆者が出て来た故郷へ戻ろうとする試みと同じなのである。そのようなことをすれば、さらにまさった天の故郷へ向かう道は断たれる。

それだけでなく、筆者のエクソダスも、意味がないものとなり、地上の故郷を出した後に打ち立てられた信仰的成果もすべては無に帰され、当ブログの存在も無用なものとなるばかりか、筆者自身の存在も、消えてなくなるであろう。

いや、消えてなくなるくらいならまだ良い。キリスト者が信仰の証を捨てれば、塩気を失った塩として、誰にとっても無用なものとして、道端に捨てられ、踏みにじられて終わることになるだけである。争いが終結して平和が訪れ、自分の命と安全が保たれるどころか、すべてが「無」に帰され、踏みつけられて終わるだけなのである。
 
当ブログは、筆者なりに、天の故郷へと続く道を歩く行程(天路歴程)なのであり、これを否定したり、放棄することで、筆者の安息(救い)が得られることは決してない。そのような考え方の中には、筆者を古い故郷へと戻らせようとする、偽りの思想に基づく循環の時間の概念が反映していると言える。

だが、繰り返すが、人類は自力で神の懐に回帰することができない以上、筆者がこれまでの歴史を否定してみたところで、それによって達成される成果など何もないのである。
 
私たちは、不可逆的な時間の流れの中に立っており、時には、根こそぎ心を揺さぶられ、自分が一体、何のために生きているのかも分からないと思うような、悲痛な出来事に遭遇することもある。だが、悩み苦しみが大きいからと言って、自分がこの世に誕生し、ものを考えるようになり、自己の意思を表明するようになり、神を求めるようになり、信仰を見いだす以前の、生まれなかった前の状態に逆戻ることによって、問題が解決するなど、断じてあり得ず、それは詭弁でしかない。
 
むしろ、目の前に大きな困難があるように見えるときにこそ、私たちには、神の御言葉という、絶大な効力を発する、勝利の約束が与えられていることを思い起こし、私たちの存在に、神の愛が注がれていること、それゆえ、御子の十字架が与えられていることを思い起こし、勇気を奮い起こして前に進んで行かねばならない。

御言葉が、私たちに勝利を約束してくれている以上、一体、何を恐れて、これを自ら否定し、証をやめて、御言葉を知らなかった頃の、古い故郷に駆け戻る必要があろうか。
 
なすべきことは、エジプトを恋しがり、あるいはソドムに未練を感じて振り返ることではなく、約束の確信に基づいて、目の前の紅海を最後まで渡り終え、復活の領域に達することである。

キリストこそ、私たちにとって、すべてのすべてであるから、この方の中にこそ、地上のあらゆる問題に対する「正解」がある。この方を信じる者は、失望に終わることはないと、はっきりと聖書に記されている通りである。その約束に立脚して進んで行くのか、恐れて退却するのかは、各自の自由な判断であり、選択である。
 
「「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
 遅れられることはない。
 わたしの正しい者は信仰によって生きる。
 もしひるむようなことがあれば、
 その者はわたしの心に適わない。」
 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:37-39)
  
さて、不思議なことに、筆者の人生においては、様々な困難が存在しているように見える中でも、失われた兄弟姉妹の交わりが、少しずつ回復している。筆者がキリスト教界をエクソダスして後に築かれた兄弟姉妹の交わりが、戻って来ており、そこで10年以上前から温められていたプロジェクトが、今も進行中であることが分かった。

それは、筆者がエクソダスを遂げるに際し、とても重要な役割を果たしたプロジェクトである。あれから相当な歳月が経ったので、筆者は、さすがにこの計画はもう放棄されているのではないかと思っていたが、そうではなかったことが分かった。

それは他の人たちが撤退して行った場所で人知れず続けられている計画であり、このことを見るにつけても、筆者は、神の国と神の義をまず第一にすれば、すべてのものは添えて与えられるとの御言葉の確かさを確信させられる。

人の目から見てどう見えようとも、神の御言葉の約束を信じてこれを追い求め続ける人の人生には、神ご自身がすべての責任を取って下さるという、生きた見本を見せられているようである。

聖書には、不正な裁判官のたとえがある。

神を畏れず、人を人とも思わぬ裁判官に対しても、やもめが懇願を続けて、ついに裁判官の心を動かし、正しい裁きを得たという、主イエスが語られたたとえ話である。
 
このたとえ話に登場する不正な裁判官は、神を象徴している。神を不正な裁判官にたとえるのはどうかと思われるかも知れないが、神の采配は、私たちには、ときには、非常に理解しがたく、納得できないものに見えることがある。

たとえば、神はなぜサタンの活動を許しておられるのか。なぜこれほど理不尽な悪事や災害が世に溢れ、神はこれを放置されているのか。もしも神がただちにサタンの働きを滅ぼしてしまえば、私たちは、現在の悩み苦しみからすぐにでも解かれたであろうに、なぜ神は善良に見える多くの人々の苦しみを黙認しておられるのか・・・。

そういった疑問は、クリスチャンであっても、実に多くの人たちが抱くものである。だが、それは愚門であると言えよう。神が望んでおられるのは、あくまで私たち自身が、自らの信仰を通して、理不尽や混乱に満ちたものに見えるこの状況の只中に、御言葉の約束の効力を及ぼし、それによって、サタンのわざを後退させて行くことだからである。

だから、私たちがせねばならないことは、いかなる状況の中でも、その状況の理不尽さに目を留めるのではなく、神の采配がどんなに理解できないものに感じられるときでも、神は正しく、真実で、公平な方であって、私たちのために、常に最善の解決を用意して下さっていることを固く信じ、主がカルバリで打ち立てて下さった勝利の御業を誉めたたえ、その約束に信頼しつつ、新たな一歩を信仰によって大胆に踏み出していくことなのである。

そうして、私たち自身の努力によるのではなく、神の側から恵みとして与えられている御言葉の約束に基づく解決を、混乱に満ちた状況の只中に、力強く現実的かつ具体的に引き下ろすことである。

そのために、私たちに必要なのは、あくまで望みを捨てずに祈り続けること、執拗に懇願し続けること、目的に向かって進み続け、決して後退しないことであり、断じて、脱出してきたはずのい故郷に帰ろうと考えることではないない。

そこで、仮に今、誰かが筆者の隣にやって来て、筆者の耳元で、自分の身の安全が惜しいなら、あなたの信仰の証をさっさと放棄しなさいとささやいたとしても、筆者は、そんなことは無理です、としか答えられない。

なぜなら、筆者には、キリストに出会わなかった以前の状態に戻ることはできないからである。その答えの中に、一切が込められている。キリストを否んで、信仰の証を捨てることができるか問われれば、当然のことながら、答えはノーであるが、それと同様、愛すべきキリスト者との交わりを手放せるかと問われれば、答えはノーである。敬愛する権威者・友人を捨てられるかと問われても、答えはノーであるし、裁判所の飛び地のようなところで、筆者に与えられている仕事を放棄できるかと問われても、答えはノーである。自分に与えられた信仰によるミッションも終わらないうちに、この街を出て行き、よその土地で暮らせるか、と尋ねられても、やはり答えはノーであると言うしかない。

信仰によるエクソダスをなかったことのように否定して、ブログを立ち上げる前の状態に逆戻り、地上的故郷に舞い戻り、そこで自分自身の名で、自分のために、地上的な功績を打ち立てることを目的とする人生を送れるかと問われれば、そのような人生は、すでにバプテスマと共に、水の底に沈んで死んでいる以上、思いめぐらすこともできないし、取り戻すことも不可能だと言うしかない。

そこで、誰かが筆者のそばにやって来て、筆者に向かって、あなたがエクソダス後の成果を頑固に手放さないから、私はあなたに間違った信仰の証を辞めさせるために、あなたを殺害することにしますと予告したとしても、やはり、筆者の答えは変わらないだろうとしか言えない。

だが、それは決して筆者が、歯を食いしばって、必死の思いで、あるいは涙ながらに、自分はこれからあらゆる恐怖に打ち勝って、信仰を守り通さねばならないと告白するような、悲壮な決意表明ではない。

筆者は、ただ与えられた御言葉の約束と、その前味として、すでに筆者の人生において成就している恵みの素晴らしさを知っているがゆえに、もはやそれを知らなかった頃に逆戻ることはできないという、シンプルで自然な思いを述べているに過ぎない。

一言で言えば、自分の全てを捧げてキリストに従うとは、愛ゆえに生まれて来る自然な告白なのであって、自分の力であらゆる苦難に立ち向かって信仰を守り通そうとする頑固で必死の努力の賜物ではないのである。

すべては愛のゆえである。信仰による応答は、まず何よりも、十字架でご自分の命を捨ててまで、筆者を救って下さった神の深い愛に対する、筆者の側からの愛による応答である。いかに幼い頃から信仰を持っていたとはいえ、筆者は目に見える教会生活を送っていた時代には、十字架のキリストを内に啓示されることで、主に出会うことはなかったのであり、その後、教会生活をエクソダスして、初めて、主ご自身に出会うことができ、聖書の御言葉と、それに基づく信仰の、真実で正しいことを身を持って知った。今、それによって得たすべての恵み、そして、来るべき報いに対する望みの確信を放棄して、主ご自身に出会う以前の状態に逆戻ることは、筆者には死を意味することであって、全く考えられもしない。

主に出会ったときに、筆者の人生は根本的に変えられ、自分が何のために生き、存在しているのか、その目的も、意味も、以前とは全く異なるものに変わった。ひと言で言えば、筆者はもはや自分のために生きているのではなく、神に贖われた者として、筆者のために命を捨てて下さった神に栄光を帰するために生き、存在している。どんなにその目的が、わずかしか達成されていないように見えたとしても、筆者に与えられた使命が失われるわけではない。

それに加えて、筆者がこれまで出会って、支えられて来たすべての人たちとの愛に満ちた交わりや、信頼関係がある。キリスト者の交わりへの慕わしい思い、筆者を助け、支えてくれている人たちへの愛がある。困難の中で得られた信頼や交わりは、とりわけ価値があり、それは筆者の手柄ではなく、まさに主が恵みによって与えて下さったものであるとしか言えない。

こうした信頼関係は、交わりがふるいにかけられて試される以前のように、頼りない、壊れやすいものではなく、試練にさらされても、それに耐えて残るだけの力があると確信できるものとなっている。

そうして新たに生まれた信頼に満ちた交わりが、とても喜びに満ちた、麗しく、慕わしいものであるがゆえに、それらを自ら否定したり、侮辱するくらいなら、ただちにこの場で殺されて息絶えた方がましだと筆者には思えるのである。
 
このように、主が与えて下さった人々の価値、また、自分が守ろうとしている信仰の証の価値を知っているがゆえに、それを守るために、死をくぐらなければならないとしても、筆者にはそれは大したことではないと思われる。

 おそらく、殉教した時のステパノは、そういう心境だったのに違いない。彼は栄光に満ちたキリストをそば近くで拝し、自分が今しも迎え入れられようとしている天の故郷の絶大なる価値を確信していたがゆえに、群衆に石打ちにされそうになっている瞬間にも、誰も彼を助け得なかったことなどには何の注意も向けず、むしろ、兄弟姉妹を安全なところにかくまい、自分を殺そうとして打つ人々に神の福音が届けられることを願いつつ、率先して地獄の軍勢の憎しみの只中に立ち、息絶えたことであろうと思う。

それは、彼が神の愛を通じて、人々を愛することを知っていたために、できたことなのである。断じて殉教者になることを目指し、それによって、信仰的に偉業を達成しようなどと考えて起きた出来事ではない。

そういうわけで、筆者は、人前で信仰の証を守り通すことは、ぜひとも必要だと考えているが、それも、神と人とに向けられる自然な愛の中で達成されることであって、決して、正しい信仰を何が何でも守り通そうとする不自然な努力の結果ではないと思っている。

しかも、聖書には、逆説的に、自分の命を捨てる者がそれを得る、と書いてあるから、筆者は、歴史的殉教者のようにはならないことであろう。筆者は、主の御名のゆえに、忍ばなければならない苦難や試練を避けるつもりはないが、それは決して悲劇的最期を迎えたいがゆえの愚かしい意思表示とは異なるのである。
 
むしろ、私たちキリスト者の人生は、終わりに近づけば近づくほど、ますます明るさを増して、健全かつ喜び言満ちた輝きを発することになろう。今、筆者の歩いている行程の先には、花婿なるキリストが、筆者を迎えようと、天に住まいを準備されている。筆者は、地上的住処には全く満足していないし、天には住まいがたくさん用意されていると、主ご自身が言われたこともあって、天の故郷に大いに期待しているのだが、最終的にそこにたどり着くまでの間にも、主は筆者のために、その時、その時で、恵みに満ちた地上の仮住まいを、備えて下さるだろうと信じている。そして、その仮住まい(筆者自身が仮の地上的幕屋である)を通して、神に栄光を帰するために、私たちは互いに交わりを持つ。

主の御名によって集まる二、三人の交わりの中に、主が共にいて下さる。主は互いに愛し合いなさいと、信じる者たちに命じ、そのことによって、私たちがイエスの弟子であることが皆に分かるようになる、と言われた。

やがて花婿なるキリストが再び地上に来られるとき、主が地上における信徒の小さな交わりに目を留め、それがとても愛に満ちた麗しいものである様子をご覧になって、ぜひともそこに共にいたいと願って下さるためにこそ、私たちは地上に存在している。

そういう意味で、筆者は使徒行伝の終わりが好きである。使徒パウロは、おそらくは皇帝ネロの迫害により殉教したにも関わらず、使徒行伝の終わりには、殉教を思わせる記述は全くない。かえって、これから何かが始まりそうだという期待感に満ちたしめくくりとなっている。

「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒行伝録28:30-31)

パウロが自費で借りた家に住んでいたことや、自分の私生活を後回しにして、誰でも訪問者を歓迎したことは措いておくとして、ここには、「全く自由に何の妨げもなく」(!)と書かれている。そのことは、パウロにこの間、いかなる迫害も及ばなかったとか、制約も生じなかったということではない。神の福音は、たとえ信じる者が鎖につながれるようなことがあっても、決してつながれず、地上的な、人間的な、あらゆる制約を超えて、人々のもとに自由に届けられて行ったのである。

これが、生ける水をもたらすパイプラインの効果である。キリスト者は、主の御名のゆえに、様々な信仰的な試練を通過するし、制約も負うが、御言葉は、その制約の只中から、溢れ出る泉のように湧き出て、全く自由に、何の妨げもなく、人々のもとへ届けられて行く。

筆者も、地上で重荷を負って、労苦奮闘しているが、その只中から、命溢れる成果が生まれ、やがてその苦労の先に、想像を超える大きな収穫が待ち受けていることを思うと、今感じている労苦など、何でもないという心境になる。

神が喜んで下さることこそ、私たちの喜びであり、満足なのであって、その達成のためになら、信仰のゆえに、地上で味わう試練などは、全く取るに足りない。それがどんなに人の目に損のように映ったとしても、神はそれを補って余りある恵みを、私たちに与えて下さることのできる方であり、それが幾分かすでに与えられている以上、筆者は、私たちが地上で味わうすべての労苦には、天の大いなる報いがあると確信する。
 
そこで、筆者は最近、目の前で何が起きていようとも、主が出会わせ、結び合わせて下さった愛してやまない人々と共に、この先も、主を賛美しつつ、地上での生涯を終えられるだろうとの確信を持つようになった。

エクレシア(教会)は、あちらこちらを訪ね求めて見つかるものではなく、私たちの信仰の只中から、私たち自身の神への愛と献身によって、生まれて来る。その愛に満ちた麗しい交わりこそ、キリストが再びこの地上へ来られるときを早め、引き寄せるための鍵である。
  
そうして、どんな困難や迫害の最中にあっても、私たちが喜びに溢れて主を賛美し続け、互いに愛し合い、神が私たちのそば近くにやって来られ、早く共に住まわれたいと、切に願って下さるような交わりを、地上で打ち立て、御言葉の約束を固く守り、これを実現していれば、主は私たちの抱えるすべての地上的問題に対して、速やかに解決の手を差し伸べて下さり、私たちが地上において悩みの種としているような問題のほとんどは、塵芥のごとく吹き飛び、あっけなく消えて行くであろうと予想する。

そのようにして、御言葉を守り、これを実現して生きることが、今、私たちに最優先で求められている課題なのである。
 
そして、それが真に神の御心にかなうことならば、私たち自身が、生ける水の川々を流し出す泉となることを止められる者は、地上に誰もいない。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

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どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカによる福音書12:2-3)

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
 このゆえに、もろもろの天と、
 その中に住む者たちよ、喜べ。
 地と海とは不幸である。
 悪魔は怒りに燃えて
 お前たちのところへ降って行った。
 残された時が少ないのを知ったからである。」(黙示12:10-12)
 
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができるでしょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

わたしたちは、あなたのために
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている
 と書いてあるとおりです。

 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39)

* * *
 
去る11月12日、控訴審の和解協議のために東京高裁を訪れた。前回とは違って、二方向に大きな窓があって、大きなスクリーンやラウンドテーブルの置いてある、青空の見渡せる広々とした部屋に案内された。

東京高裁全体の陰気な雰囲気と異なり、横浜地裁を思い起こさせる、明るい、開けた部屋であった。筆者は自分が横浜へ瞬時に場所を移動して、電話会議が行われていた部屋に戻り、裁判官が来るのを待機しているような錯覚を覚えた。

待機時間はたっぷりあったので、筆者は自分も裁判所の職員の一人になったような感覚で、誰もいない部屋の中を幾度か歩いてみた。部屋の雰囲気が、解放的で、霞が関のビル群の中にいることを完全に忘れさせてくれるものだったので、筆者は目の前で起きている出来事をすべて忘れ、安堵しながら、懐かしい人々を思い出しつつ、自分の番が来るのを待った。

ラウンドテーブルの他に、立会人たちが座れるソファも置いてあるこの部屋に、大勢の人々がやって来て、和解調書に調印する光景が心に思い浮かんだ。また、ある時は、誰もいないこの部屋を、法衣を着た裁判官と書記官が慌ただしく行き来し、本を片手に研修を行ったり、セミナーなどを開いて、スクリーンを指し示しながら、何かを説明をする様子が見えて来るような気がした。

以前から書いている通り、裁判所は、筆者にとってもはや家同然であり、それ自体が大きな要塞であり、砦である。どんなに予想外の事態が持ち上がっても、最後にはその安心感へと戻って来る。

それは、筆者と裁判所との間で交わされた、秘密の約束のようなものである。その日も、夜になるまで用事があり、疲れを覚えつつ、筆者は暗い廊下のパイプ椅子に待機していたが、そのときにも、何とかして、もっと裁判所の近くに来られないか(これは決して物理的な距離のことでなく)、ここで目にする人々の喜怒哀楽のすべてに、もっと深く接近し、入り込むことはできないかと考えを巡らした。

不思議なことであった。どんなに気が滅入る慣れない不案内な手続きを進めている時でも、あるいは失望を覚えるような出来事の最中でも、筆者は心の中で、ここは家同然であるから、最も安全な場所であり、離れたくない…という感覚を覚えるようになっていたのである。

* * *

さて、被告Aは、裁判所が秘匿の措置を認めないことが分かってから、和解協議の場を最大限、自分に都合よく利用し、毎回、毎回、脅しめいた条件を提示しては、解決金の支払いを遅らせて来るようになった。

前回は、何と筆者に向かって、訴えそのものを取り下げろと要求し、命にも等しい判決を手放すよう求めた。

そして、それを阻止するために、筆者が記事の修正を申し出ると、今度は、分厚い苦情の手紙を裁判所に送りつけ、筆者が被告Aの名を出していない記事を指し示して、筆者が示談をしてもその約束が守ると思えないから、和解協議を蹴る、などと言って来たのであった。

裁判官と書記官は、被告Aを説得したとみられ、長い時間、筆者は部屋の中で待たされ、様子を見守った。

ようやく筆者の番が来て話し合いが行われたとき、裁判官はあくまで非常に落ち着いて、和解協議を成功裏に導ける確信を捨てていなかったが、書記官はいささか青ざめた表情であった。おそらく、被告Aの筆者を赦せないという思いや、筆者を提訴したいとの願望がどれほど強いものであるかを、本人の言を聞いて理解し、初めて被告Aの真の性格を理解したのではないかと思われた。

被告Aは、一見すると、権威に忠実で、他者に食ってかかったり、論争をしかけたりすることのない、穏やかな性格のように見える。電話会議でも、はっきりした発音で、静かに裁判官に返答しており、苦情を述べている時でさえ、声を荒らげて論争することはなく、その声や話し方だけに注目するならば、決して悪印象を持つことはなかった。

だが、それだからこそ、被告Aがどれほど筆者に対して深い恨みを持っており、それがもはや合理的なレベルを超えて、一生、筆者に報復しなければ気が済まないほどのレベルに達しているか、その執念の深さは、人々には分かりにくいのである。

だが、筆者は前から被告Aのことを知っているし、彼から送りつけられたメールの数々もこのブログにはまだ公開してある。その論調、話し方、要求の内容などを考えると、被告Aが控訴審で自らに有利な判決が出る見込みが薄い中でも、あくまでこの先も、筆者を提訴するなどして対決を続け、筆者を罪に問うて何とかして人生を滅ぼしたいという願いを述べ続けていることは、筆者にとっては、何ら不思議ではない。

さらに、村上密も、控訴審になってから、筆者を法廷に引きずり出したかったのに、それができなかったことの悔しさをにじませる記事をブログに投稿している。

筆者は、10年以上前から、村上密の真の願いは、カルト化を防止するという名目で、自前の異端審問所を開設し、そこで無実の一般クリスチャンを魔女狩り・見世物裁判に引きずり出して辱めることにあると指摘して来た。

筆者は2009年に、村上密がかつて提唱していた「カルト監視機構」の構想に、真っ向から異議を唱え、このような機構が設立されれば、キリスト教会には「カルト化を防止する」という口実で、密告が溢れ、やがて魔女狩り裁判が横行し、無実のキリスト教徒が異端者の濡れ衣を着せられて迫害されることになるだけで、カルト監視機構は、まるで秘密警察のように、何の権限も与えられていないのに各教会を調査するなどして、教会に対して君臨するようになるだろうと予告した。

その頃から、村上はカルト監視機構を設立しなかったが、その代わりとなる組織として、宗教トラブル相談センターを設置していた。そして、筆者がカルト監視機構に抱いた危惧は、ことごとく宗教トラブル相談センターの中で実現することとなったのである。

クリスチャンたちは、宗教トラブル相談センターに関わった信者がその後、どうなったのか、筆者の例を見て、よくよく学習しておくことだろう。

村上密は、今年、一審が終わってから、「唐沢治の陳述書」と題する4つの記事をブログに投稿した。そして、記事の中で、筆者のかつての牧師でもあった唐沢の陳述書を公開するに当たり、唐沢から全く了承を得ていないことを自ら明かした。

村上は、自分は唐沢治とは何の関係もない、提携もない、協力関係があるというのは、筆者の思い込みだ、などと嘲笑気味に記事に書き記しており、答弁書でも同じことを述べている。

だが、これは非常に恐ろしい発言である。要するに、村上密は、唐沢治の陳述書やその他の書証を、本人からの承諾も、依頼も全くないのに、勝手に独自のルートで調べ上げて、ネット上に公開したということなのだ。

さらに、村上の公表した四つの記事には、筆者が唐沢に宛てた親書メールも含まれているため、陳述書の内容もさることながら、こうした他者のメールを承諾なく公表する行為が、プライバシー権の侵害に該当することはまず間違いがない。

しかも、村上自身は、唐沢治の陳述書とその他の書証を、裁判所に出向いて自ら記録閲覧・謄写したわけでなく、それを行ったのは被告Aだけなのである。そして、村上は、誰からどのようにして陳述書と書証を入手したのか明らかにしておらず、被告Aしかこれを閲覧・謄写した人間もいない以上、被告Aが村上に情報提供したと考えるのが自然な流れである。

第一審では、被告Aとの協力関係はない、提携はない、と言って、筆者から受けた嫌疑を否定していた村上であるが、村上は、唐沢の陳述書を被告Aから入手していないとは一切発言していない。

しかも、村上がそのように入手の経路を明かさず、相談者でもない唐沢の陳述書を勝手に公開した先は、宗教トラブル相談センターの公式ブログなのである。

村上は、このブログの仕様を今日、ようやく変えて、とうに期限切れとなった10年以上前に撮影した写真をようやくトップ画面から一掃したようだが、初めは極めて陰気な背景画像にしており、それを変えた後も、依然、ブログのレイアウトは崩れたままである。筆者の見解としては、前のままの方がはるかに良い。

それはともかく、村上密は、どこから、誰から、どのように、何の権利に基づいて、唐沢治の陳述書や、その他の書証や、唐沢と筆者の交わしたメールを入手したのか、どんな正当な理由があって、これを本人の了承なく無断でブログに公開したのか、情報源も、理由も、全く明かしていない。

繰り返すが、これは非常に恐ろしいことである。宗教トラブル相談センターは、少なくとも、今までは一応、形ばかりは、誰かからの被害相談を受け、村上がその相談者の代理人となって、紛争解決のために動くという名目を保って来た。それだからこそ、被害者の救済という大義名分が保たれ、センターの活動への理解が成り立って来たのである。

しかしながら、その後、村上密は、誰の代理人にもなっていないのに、宗教トラブル相談センターを使って、自分の一存だけで、唐沢治と筆者との間で係争中の事件の記録を調べ上げ、両者の個人情報に当たる記録を、本人の了承なく公開してしまったのであり、これは明らかに両者に対する人権侵害に相当する。

村上がブログ記事に引用している書証は、非公開の保全事件の記録であり、村上は牧師としての守秘義務も負っている以上、勝手に信者の身辺調査を行い、その情報を本人の了承なくネットに投稿したりすれば、当然ながら、罪に問われる。また、唐沢の陳述書には多くの嘘の記述もあるため、それを一方的に鵜呑みにして引用する行為も、筆者に対する名誉毀損行為になり得る。

村上は、答弁書の中で筆者の名前も無断で公表した事実を認めているため、こうした事実はすべて、筆者が主張すれば、筆者に対する不法行為として認定される可能性の極めて高いものである。

こうして、宗教トラブル相談センターは、まるで戦前の特高などの秘密警察のごとく、正当な理由もないのに、ただ自分たちの活動に批判的な信者をターゲットとして、秘密裏に身辺調査を行い、信者に制裁を加えるために、信者本人にとって望ましくない、あるいは不利となりそうな個人情報を集めては、ネット上に次々と曝し始めたのである。

その上、その信者を一方的に刑事告訴までし、提訴したいという願望をも言い表しているのだから、これは筆者が前々から予告して来た通り、宗教トラブル相談センターが、魔女狩り的な異端審問に走ったことの何よりの証左である。

村上密のブログ記事からは、筆者が控訴審に出席しなかったことを不満に思い、自分が提訴されたことが許せないから、その報復に、何とかして筆者を公開裁判に引きずり出したいという思惑が透けて見えるし、さらに、村上は、牧師であるにも関わらず、相談者であり信徒でもあった筆者を右京署に刑事告訴したと、はっきりと答弁書で主張している。

筆者は神社に油を蒔いたこともなければ、カルト宗教に入信したこともなく、村上に対しては危害を加えたことも一度もないし、控訴審さえまだ開かれている途中で、民事訴訟の終結もまだである。それにも関わらず、一審判決では不法行為に問われなかったのを良いことに、それだけでは満足せず、むしろ、それを皮切りに、筆者に対する人権侵害を堂々と開始し、さらに筆者のとことん人生を破滅させなければ気が済まないという執念を持って、筆者を告訴したというのである。

筆者は10年以上前に村上のもとへ相談に赴き、解決も得られず、失意のうちに村上の教会を離れ、その後も、何か月間も村上の教会で受けた心無い言葉に泣き暮らしつつ、それでも自分を責めていた頃のことをよく覚えている。その上、この仕打ちであるから、一体、こんなセンターが、カルトを防止するための何の役に立つというのか。それ以前から、村上の義理の父が牧会する教会で、何が起きたかもすべて公開している通りである。

この人々は、ただカルトを防止することを名目に、無実の一般信徒を標的にして、中世の魔女狩り裁判、クリスチャンの迫害を再現しようとしているだけのことである。

筆者は2009年からそのように予測して来たのであり、それだからこそ、このような活動に従事する人たちは、いつか必ず、筆者を見世物裁判に引きずり出して辱めたいという願望を赤裸々に表明する時が来るだろうと、ずっと考え続け、また、その通り主張して来た。

実際にこれまで、幾度となく、筆者を提訴・告訴したいという台詞を、筆者は被告A・村上密の双方から聞かされて来たので、正直なところ、それこそが、彼らの悲願だと初めから思っている筆者は、今、再び同じ台詞を聞いても、驚きはしない。

そこで、被告Aが和解協議の場においても、改めて裁判官の勧める和解案を蹴って、自分に敗訴判決が下されることも覚悟で、その後、筆者を提訴したいとの願望を言い表し、村上も準備書面に全く同じ内容を書き記して、こうして二人ともが、声をそろえて、生きている限り、筆者を赦すつもりはなく、何とかして報復として筆者を被告として裁判に引きずり出し、刑罰を受けさせることが人生の悲願であると主張しても、筆者は別に驚かない。

だが、一般の人々は、それを聞いて青ざめるだろう。答弁書や準備書面に書いていることは、あくまで法廷闘争のための文字上の主張であって、現実には、それとは違ったもっと柔軟な行動を取る人々は数多くいるし、そうなるものと人々は考えている。村上も被告Aも準備書面では色々言うであろうが、それはあくまで法廷闘争のテクニックであって、本気ではないと人々は考えたい。だが、実はそうではないと分かると、人々は衝撃を受ける。

筆者が2009年に、村上密が秘密警察を作ろうとしている、魔女狩り裁判をしようとしている、と述べたとき、その言葉を、あまりに大袈裟な誇張だと思って一笑に付した人は少なくなかったろう。ところが、実際にその通りの願望が彼らの口から発せられ、彼らがその通りの行動を取り、信者の身辺調査を行ってそれを無断で公開したり、信者を刑事告訴したり、提訴して法廷に引きずり出そうとし、それを表向きには協力関係にないはずの人間が傍聴しようとしたり、協力関係にないはずの人間が裁判所で閲覧・謄写した記録が、村上のブログから公開されたり、その人間が、和解協議の場で脅しめいた要求を突きつけ、これを相手を震え上がらせるための場として利用し、紛争を可能な限り長引かせることで、生涯に渡って相手を苦しめ続け、報復を果たしたいという欲望を言い表しているのを見たとき、人々はその度を超えた残酷さと復讐心に色を失い、恐れをなして逃げ出すに違いない。

宗教トラブル相談センターにはそもそも何人の協力者がいて、どのような方法で情報を集め、いかなる法的根拠に基づき、収集した個人情報を管理しているのか、最低限度のガイドラインさえ、全く公開されていない。

村上は、ブログには勝手に筆者の個人情報を掲載し、自分に関わりのない紛争に、代理人でも相談役でもないのに、何の資格も権限もなく介入し、他者のプライバシーを暴いておきながら、自分は被害者だと自称して、告訴まで遂げたというのであるから、筆者には実に呆れる話である。
なお、村上密は、第一審の最中、被告Aが20本以上の記事を書いて筆者を中傷していた時にも、一切、被告Aをいさめず、むしろ、被告Aと一緒になって筆者に反訴を予告し、しかも、反訴を実行しなかった経緯があるので、筆者はそうした村上の行動を通して、いかに彼が残酷で容赦のない人間であるかを見ることができた。

さらに、村上は、第一審において、筆者が削除を要求した記事を自ら削除すると途中まで約束していたにも関わらず、前言を翻したのであり、筆者の村上に対する反論が手薄になったのも、村上が自ら記事を削除すると約束していたことを、筆者が審理の途中までは信じてしまっていたせいでもある。

牧師として公の場で約束したことを簡単に翻す、これだけでも、非常に信頼を損なう行為である。しかも、村上が筆者にしたことと、被告Aが筆者にしたことは同条件ではなかったのに、村上は、被告Aと一緒になって、筆者が両者に対して一切の賠償なしで和解するよう要求し、その条件に筆者が応じない限り、筆者に反訴すると予告し、これを実行しなかったのである。

そして、今また被告Aが、賠償金を支払わないまま、控訴審の和解協議の場で、前々回は、筆者に対して訴えを取り下げろと要求し、前回は、和解協議を一方的に蹴ると通告し、協議をいたずらに引きのばし、筆者を苦しめ、目の前でひざまずかせるための要求だけをひたすら突きつけている。

第一審が終わったのが3月、それから今までもはや半年以上が過ぎた。被告Aはこの間、自分からは賠償金を一銭も支払わず、筆者の取立行為を「恐喝」と呼んで非難し、筆者が取立を続けるなら刑事告訴すると息巻き、通話が成立もしていないのに、恐喝の電話を受けたなどと「被害」を主張し、筆者が郵便物を送ってもいない人々に、郵便物を送りつけたと主張、今もただいたずらに紛争を長引かせるためだけに、和解協議を続け、要求の内容も、エスカレートしている。

最初は、筆者の口座番号が分からないから金を払えない、と自己正当化をはかっていたが、控訴審の席上で払うことを提案されても、まだ理由をつけて支払わず、口を開けば、訴えを取り下げろとか、筆者を提訴・告訴してやりたいと、脅しめいた要求ばかりである。

このようなものが、和解を目的にする協議とはとても思えないのであり、筆者は勤務も休んで協議に出席しているため、こうした損害も、別訴の提起があったときには、損害賠償請求の対象となり得るものと考えている。

さらに、被告Aは書面の中で、筆者が告訴したこともない人物の名を複数名挙げて、彼らを筆者が告訴したと断言したり、明らかに誤った、事実に反する告訴罪名で、筆者が被告Aを虚偽提訴したなどと主張して、筆者を非難しているため、これらはあまりにも行き過ぎた事実無根の主張として、訴訟における名誉毀損を構成する可能性が十分にあると筆者は考えている。

被告Aは、この先、和解協議を蹴っても、それで彼にとって色の良い判決が出ることはまずないであろうと予測されるし、それどころか、それによって、彼は刑事事件でも、温情を受ける余地を徹底的に失ってしまうことになるにも関わらず、それでも、未だ筆者を提訴したいと述べ続け、判決に従うことを拒み、先延ばしにしている様子には、合理性が全く感じられず、筆者をとことん追い詰めて人生を破滅させたいという尽きせぬ執念以外には感じるものもない。

筆者は今回、裁判官の勧めも考慮して、被告Aに対する最大限の譲歩を示し、被告Aの個人情報をすべてブログ記事から削除し、被告Aのブログ名や、個人情報に当たらない記述もすべて削除することに同意して良いとまで提案した。

従って、この提案を受ければ、これまで被告Aが要求して来たことは、ほぼかなえられる上、別訴を提起する権利も、被告Aから取り上げられない。それにも関わらず、筆者自身の提案であるその約束を、信用できないとして拒み、たった一つの個人情報さえ本当に削除できるかどうか分からない不毛な訴訟を今後、提起して、筆者にリベンジする願望が捨てられないから判決を求めるなどと主張することには、報復目的以外に見いだせるものはないのであって、そのような態度で示談を拒んで判決に進んでも、その結果、今後の訴訟の展開が、被告Aにとって有利となることはないであろうと筆者は確信する。

そんな風に、合理的な理由もなく、判決を軽んじ、裁判官の勧告をも、相手方の譲歩をも、一切、かえりみず、いたずらに和解協議を長引かせた結果、これを蹴るという態度を取る人のために、今後、真面目に審理を進めてくれる裁判所が、この世に一つでもあるとは、筆者は思わない。

しかも、被告Aは当初、自分から解決金を支払うと述べたのであり、筆者がブログ記事を修正するなら、多少、解決金を上乗せすることができるかも知れないとまで提案していたらしい。なのに、その言葉を途中ですべて翻し、筆者に対する脅しめいた不満を並べ続けた挙句、ついに自ら協議を蹴ったとなれば、彼の言う和解協議とは、ただ相手にいたずらに期待を持たせ、いつまでも苦しめ続けるための機会でしかなかったこととなる。

裁判所は、そもそも報復目的以外に必然性のない無駄な提訴によって、余計な仕事を増やされることを非常に嫌っている上、判決では、筆者にはブログ記事を修正せねばならない義務は全く課されておらず、和解協議はすでに複数回、開かれているため、この間に示談締結をしておけば、筆者はもはや被告Aに対する記事を書けない状況になっていたのである。しかし、それをあえて先延ばしにしているのは、被告A自身であり、それゆえ、現時点でも、筆者は被告Aのことを記事に書いてはならないという義務を全く負っておらず、なおかつ、被告Aは、筆者がブログ記事を修正するために時間が必要であることを分かりつつ、どんどんその時間がなくなるように仕向けているので、このままだと修正さえも不可能となり、期限が延ばされない限り、その条項を外す以外には方策がなくなる。

通常、和解協議の席で、相手を提訴したいという願望など述べる者はまずいないから、今回のことは、裁判所にとっても、一つの教訓となるのではないかと筆者は思っている。さすがに今までは被告Aの言い分にも少しは理があると考え、彼をなだめようとしていた人々も、次第に、被告Aの目指している目的が、決して合理的な解決ではなく、ただ筆者を永遠に苦しめ続けることにあると気づき始め、それゆえ、彼の望みを助けることから手を引き始めたのではないかと感じられる。

そのようなわけで、筆者は示談が結ばれて、互いに個人情報を書かないという約束が成立したならば、それを機に、訴訟に関する記事を書くこともやめ、記事を修正するという約束が結ばれれば、この記事も含め、その約束を忠実に果たす用意はあるが、未だ掲示板での筆者に対する誹謗中傷その他の権利侵害が今も止まらない様子を見るにつけても、個人情報をブログに書くことをやめられないのは、筆者ではなく、「彼ら」自身ではないかと思われてならない。

示談の締結を引き延ばしているのは、それを締結してしまうと、もはや筆者の個人情報を弄び、これを無断で好き勝手に投稿・公開できなくなることに躊躇しているからではないのか。

筆者から見ると、被告Aや村上本人も、彼らの支持者たちも、他人の秘密を調べ上げ、個人情報を暴露したくてたまらない願望を持っているように見える。その抑えきれない欲望を、示談書の締結によって終わらせることができないからこそ、被告A本人も、何かと理由をつけてはその締結を先延ばしにしているのではないのかと思われてならないのだ。

もしもこの予測が的中しているとすれば、今回の協議の落としどころは、被告A自身が最初に約束した通り、ただ賠償を支払って終わりとするにとどまるのであって、それ以上でもそれ以下でもないことになろう。

その最低限度の事項すらも拒めば、今まで以上に厳しいものになると思われる判決が、彼を待ち受けているだけであり、その先には、もう一度、法廷に被告として呼び出される運命が待っているだけである。筆者は、判決が出たとしても、全く恐れはしない。なぜなら、筆者の側からの反撃の材料はすでに多く集まっており、おそらく、判決とほぼ同時に、筆者自身が、村上・被告Aに対して別訴を提起するという運びになるだけだからである。

控訴審では、原審の枠組みから出られないので、以上のような主張を全く提起できなかっただけで、別訴ではそれが可能となる。一審では自由に主張を追加できるからだ。被告Aも村上も、未だ筆者を提訴したいと息巻いている以上、筆者が十分な反訴の材料を蓄えておくのも当然である。

ちなみに、筆者は裁判を提起する前に警察に行って色々と調べてもらうことにしている。警察の判断は、裁判所の判断とそれほど大きく違わないと見えるため、警察が事件を受理するかどうか、どのような罪名で受理するか、といった点は、今後、反訴や別訴を提起したとき、どのような判決が得られるかを予測する大きな参考材料となる。

だから、筆者もこれまでの教訓に学び、勝ち目のない主張で訴訟の提起は行うつもりもないのであって、提訴するとなれば、ほぼ確実に不法行為が認定される証拠のある話に限られることであろう。

* * *

とはいえ、矛盾するようだが、筆者の真の願いは、今後、別訴を提起することにはなく、むしろ、この訴訟の判決を書いてくれた原審の裁判官の判決によって、この紛争を終わらせることにある。

筆者が誰に判決を委ねるかは、筆者自身の個人的な願望によっても決まることであり、筆者は、第一審判決を書いてくれた裁判官が、筆者にとって、筆者のために最終的な確定判決を書いてくれた最初で最後の裁判官となることを願っている。

たとえその判決が、筆者にとって完全な勝利でなくとも、筆者は構わない気持ちでいる。

また、村上が唐沢の陳述書を無断で公開したことも含め、ネット上では、筆者と唐沢治を何とかして訴訟対決させたいと考えて、陰から紛争を煽り、唐沢の個人情報までも、次々と本人の了承なく公開している者たちがいるが、そうした連中を喜ばせても意味がないため、筆者は、唐沢に対する訴訟それ自体を再考することとした。

唐沢はたった一つしか筆者に対する記事を書いていないし、それも「ヴィオロン」に対するものにとどまっている(組み合わせによって著作者人格権の侵害が成立しうることは措いておく)。

筆者は、唐沢の個人情報を無断で公表したことなどないし、当ブログとホームページ以外の場所に投稿をしたこともない。

そこで、出回っている陳述書と書証のコピーを見るときには、よく注意されたい。

当事者が裁判所から送達を受けた書証には、事件簿を綴るための黒紐が写っていない。だが、当事者でない者が、記録を閲覧・謄写し、勝手に公開した書証には、裁判所の事件簿の紐までが写っている。裁判所で記録をコピーする際には、紐を緩めることができるだけで、外すことができないからだ。だから、紐が写っている記録は、当事者に送達された記録ではなく、何者かが裁判所で事件簿を閲覧・謄写した記録であると見て良い。

ちなみに、裁判所で唐沢治の陳述書と書証の閲覧・謄写を行った人間は、何度も言うように、本年10月28日時点になっても、被告A一人しかいないのである。

このようなわけで、筆者の個人情報の漏洩、また、筆者の事件に関わった人々の個人情報の漏洩には、あらゆるところで、被告Aの影がちらついているのであり、そうした状況で、被告Aが個人情報を収集・開示しないという条件の示談の成立に乗り気でない理由は、考えれば誰にでも分かるのではないだろうかと思う。

この状況で、筆者は、様々な点で意見が対立したままの唐沢に対しても、かつては兄弟姉妹と呼び合っていた仲として、対応を考え直すこととした。

不思議なことに、唐沢は、筆者が彼を信頼して書き送っていた頃の最も意義深いメールを、一つも裁判所に提出していない。

唐沢が裁判所に提出したのは、最も無価値かつ無用な内容のないメールでしかなく、それ以外に、筆者が当時、率直に彼を信頼して色々と相談したり、書き送っていたメールがあるはずだが、唐沢はそれらを悪事の記録であるかのごとく裁判所に提出することを控えた。

この点は、唐沢を見直す点である。それは彼自身が、自分が信頼されていた頃に送られた手紙の内容を、自ら衆目にさらすことで、否定し、穢すには忍びないと考え、公開しなかったからである。

このように、唐沢と筆者とのメールのやり取りには多くの「聖域」が保たれたままであり、唐沢自身が裁判所に提出したのは、被告Aに関わる部分だけである。そして、村上が、T第1号証から6号証までの書証を入手したとしながらも、被告Aが筆者の個人情報を無断で公開すると予告するために筆者に送りつけた脅しのようなメールを、唐沢が転送メールとして提出したT第2号証、T第3号証の記録には、言及すらもしていないことも、注目に値する。

このように、唐沢も信徒を告訴した過去があるとはいえ、村上密とは性格が全く異なるのであって、村上がこの度、誰の代理人でもないのに、自分に無関係な牧師や信徒の身辺調査を行って、唐沢治の陳述書を本人の了承もないのに公開し、無関係な他者の争いの火をつけようとした行為については、明らかに、筆者だけでなく、唐沢も被害者なのである。

これは、明らかに、村上が牧師としての一線を超えたものであり、十字架の装甲から外に出た行為だと筆者は考えている。

これまでにも書いたように、もともと村上がこれまで使って来た「代理人」とか「相談役」などという呼び名は、村上が巧妙に他者の悩みに寄り添うように見せながら、他者の意思を絡め取って行き、クリスチャン同士の対立が修復不可能になって教会が分裂するよう、兄弟同士を争わせ、紛争の傷口を押し広げるための口実に過ぎなかったものと筆者は見ている。

鳴尾教会の伝道師夫妻と津村牧師との対立、鳴尾教会の離脱反対派の信者の裁判、Y牧師とT牧師との紛争など、村上が関わって来た紛争は、一つ一つを振り返ると、どれもこれも、紛争当事者が憎み合い、ほとんど永久的に和解不可能となったものばかりである。カルト被害を受けた信者の裁判でも、犯人が逃亡したりして和解が成立しなかったケースもあり、平和裏に紛争が解決したと言えるようなものは、ほとんど見当たらない。

このようなことでは、村上の仲裁者としての力量が根本的に問われるだけであって、ただでさえ「代理人」などの法的な位置づけがよく分からない名称を勝手に名乗って、紛争を激化させてきた村上が、この度、「代理人」という最後の仮面さえもかなぐり捨てて、自分の本音をむきだしにして、ただ筆者を追い詰めるためだけに、自分には無関係の事件記録を不明な方法で調べ上げ、筆者のみならず、筆者に関わる人々(兄弟姉妹)の個人情報にまで手を出し始めたことには、空恐ろしさを感じるのみである。

村上はそうまでして、かつて仲の良い兄弟姉妹のように見えたクリスチャン同士を、何としても引き裂き、分裂させ、さらに法廷でまで対決させて、兄弟同士の罵り合いを世間の見世物にしたいとの願望を捨てきれないのだろうか。そうまでして、教会を分裂に導き、兄弟姉妹を憎み合わせたいのか。

だが、筆者はその作戦には乗らない。そのようなわけで、村上の件では、唐沢も紛れもなく被害者なのであって、それが分かるだけに、筆者は唐沢に対する訴訟は見合わせ、すでに措置を講じた他の方法で紛争解決を目指すこととした。

筆者が目指すのは、法廷闘争ではなく、判決でもなく、あくまで個人の意思を重視した和解である。そのことが、裁判所に関われば関わるほど、ますますよく理解できるようになった。だからこそ、筆者は、このブログを巡る訴訟の第一審判決が、筆者の人生で、最初で最後の確定判決となることを願っているのである。

一審判決では、筆者の村上に対する勝利はない。とはいえ、村上は一応、筆者の牧師であった時期もあるわけだから、筆者はそれでも構わないのである。すでに書いた通り、別訴を提起すれば、村上を不法行為に問える可能性は十分にある。だが、信徒と牧師が法廷で対決する必要はないのであって、責任の追及の方法は、民事訴訟以外にも存在する。前から述べている通り、村上の犯した罪を裁かれるのは、誰よりも神ご自身なのである。

結論に戻るが、こうして、カルト化したキリスト教会による人権侵害を許さない、と一方では言いながら、他方では、ただ自分たちの活動が批判されたというだけで、人権侵害を犯してまで報復行為を続け、魔女狩り裁判に及ぶ宗教トラブル相談センターを、皆さんどう思われるだろうか。

特に、誰からの相談も依頼もないのに、信者の身辺調査を行って個人情報を無断で公開するようなセンターを、皆さんどう思われるだろうか。

筆者は、村上の告訴状を入手した暁には、これを全文公開したいと思っている。牧師が信徒を刑事告訴した際の告訴状が公開されたことなど、これまで一度もないから、これは世界初の現代社会の魔女狩り裁判の貴重な事例となって残ることであろう。むろん、そこにどんな虚偽が含まれているかも、明らかになる。

それに先立ち、筆者が結論として言えることは、どんなにひどいカルト化した教会でも、牧師は信徒を告訴しないし、10年以上に渡って、個人情報を無断で公開して信者への弾劾を続けることもないので、このような恐るべきセンターに比べれば、カルト化教会ははるかにましな場所だということである。

だから、些細なトラブルをきっかけに、このセンターに足を向け、自己の正義を貫き通して戦い続ける道を選ぶよりは、受けた被害のことで、自分にも神の御前に罪があったのではないかと、真摯に悔い改めることを勧めるのみである。

* * *

終わりに、以上は、訴訟シリーズの総まとめとして書いたものであり、このシリーズの再開とはいえ、最後の記事になるかも知れない。

というのは、筆者は最近、とても忙しく、魔女狩り裁判にも興味はないし、無意味な訴訟にこれ以上の時間を割いている暇はなく、宗教論争をしている暇もないのが現状だからである。

特に、筆者は最近になって、いかなる状況でも信頼し、助け合うことのできる人物に出会い、自分の正義を投げ捨てて、人々と協力して生きることの価値を知った。

そして、理不尽な出来事が起きても、権威に忠実であることの意味を知らされ、自分の上に立てられた指導者に服して生きる道を選んでいる。今や宗教団体にも一切関わっておらず、宗教紛争などに巻き込まれるのも御免と考えている。

そこで、カルト被害を防止したいがゆえに、裁判をやりたいという人がいるなら、好きにすれば良いことであり、それに対してとやかく言うつもりもない。

この先、掲示板の権利侵害を追及するためには、訴訟における言語の壁を超える必要があり、申立書の英訳なども必要になると言われており、それも、やろうと思えばできるだろうと疑わないが、正直に言って、今、筆者の最もやりたいこと、やるべきことが、それだとは思えないものがある。

最後に和解協議のために裁判所を訪れてから、筆者の心にひたすら湧き起こるのは、裁判所のもっとそば近くで生きる方法はないか、さらにもっと裁判所の近くに筆者の生きるフィールドを定められないかという願いだけである。

だが、それは決して、法廷闘争を糧に生きたいという願いではないのだ。ただ、真に人々の痛み苦しみを引き受け、これを適切に解決することを、日々自らの責務としている裁判所の仕事と似たような仕事をしながら、筆者は自分の残りの生涯を、紛争処理に携わって生きたいという願いを、改めて確認するのみである。

筆者は、裁判所で起きる出来事に煩わされたり、失望を覚えることがないとは言わないが、それでも、裁判官一人一人が、こじれた紛争を丁寧に解きほぐしながら、感情に流されることなく、これを穏やかな解決に導こうとしている努力と手腕には、いつも敬服している。そこには、やはり、仲裁者としての確かな力量、そして、それができるだけの人間的な度量と経験の蓄積があると思っているし、それを女房役として助けている書記官たちのきめ細やかな配慮と、裁判官との見事な連係プレーにも感心させられている。

裁判所はそれ自体、筆者にとって非常に近しい、身内のような存在であって、そこで、どんなに困難な事件が取り扱われていても、それによって、筆者が裁判所全体に感じている畏敬の念や、親近感が取り去られることは今後も決してないと思う。

判決によって、筆者は裁判所に結ばれたのだが、筆者は、裁判所とのさらなる一致を目指しているのであって、それは法廷闘争を通して達成されるものでもなければ、目に見える建物としての裁判所との一致でもない。ただ筆者の心の中にある「干潟」としての裁判所との、心の完全な一致なのである。

その目的のために、必要な時間を考えると、無意味な係争のために割いている暇などほとんど残りはしない。だから、色々と書いてはいるが、結局のところ、筆者は、今後、すべての裁判手続きから遠ざかりたいという思いを述べているに過ぎない。それは訴訟の提起を恐れているためではなく、たとえ勝てると思う訴訟があっても、これ以上の判決をもらいたいという願いが積極的に湧いて来ないからだ。

これからは特に、紛争当事者としてではない立場から、改めて裁判所の門をくぐる方法を模索することになろう。その前進のために必要であると判断し、あえて今回の記事を書いたが、これも、紛争を激化させるために書いたものではなく、魔女狩り裁判のような執念とは、関係のないところで生きたいという筆者の意見表明に過ぎない。

今回、明確な収穫があるとすれば、それは何となくではあるが、筆者なりに、この紛争の「落とし所」がどこにあるか、分かったような気がしたことである。今後、筆者の気が変わらないとの保証はないが、唐沢も村上の被害者であることを考慮し、唐沢への訴訟は見合わせることとし、村上には勝訴を確定判決として贈っておき、被告Aには個人情報を書かないという約束を抜きに、筆者を提訴・告訴する可能性をあえて残したまま、示談するという選択肢も悪くない。

そして、第一審判決の内容は、永久に人の目から隠され、訴訟記録も隠されたまま、筆者は魔女狩り裁判には永久的にさようならを告げることになる。

被告Aに対するブログ記事の削除は実現しないかも知れないが、当分の間、筆者に対する記事もそのままになる。筆者は、今後、筆者に対する告訴や、提訴が成立すると全く思わないが、そういうことをあえてやりたいと思う人が、筆者を提訴してやりたいとの願望を何が何でも表明したいというなら、それを止めるつもりもない。書きたい人は、自ら法的責任を負う覚悟で、書けば良いことである。

筆者に言えるのは、どんな中傷を浴びせられようとも、筆者は自分の信じるところに従って進んでいくのみであり、その目的のためならば、自分の命を惜しまないことだ。その覚悟は、信仰の交わりにおいても、それ以外のフィールドにおいても、全く同じである。

今は昔となったが、かつて苦難の日々の最中、ただ御言葉だけを頼りに、か細い御霊の声を聞き、何とかしてすべての地上の重荷を脱するために、正しい信仰を求めて、夜行バスで11時間以上もかけて横浜にたどり着き、その後、唐沢の車で、さらに5時間以上かけて、福島の兄弟のもとへ送り届けられたときを思い出す。当時と、筆者の覚悟と決意は今も何ら変わらない。

神の御心を真に満足させる正しい目的のためならば、そして、筆者自身が真実な価値を見つけるためならば、筆者はどれほどの距離をも、代償をも乗り越えて、探求を続けても構わないと、その当時も願ったし、今も願っている。

当時、筆者が夜行バスの中にいる間に、地震が起き、バスは渋滞に加えて、さらに到着が遅れ、携帯電話も持っていなかった筆者は、兄弟たちにいつ到着するのか、連絡さえ取れず、車中で不安な時を過ごした。福島の兄弟は、唐沢に向かって、筆者を置いていけと指示したらしいが、唐沢は待った。彼にはそうしたところで、妙に義理堅く人情に篤いところがあった・・・。

そうした連携プレーのおかげで、筆者はその頃、初めて、信仰によって生きて働く御言葉の意味を知ったのであり、その経験を後悔することは決してないが、それが終着点でもなかったことが分かる。筆者は過去を否定しているわけでなく、過去を乗り越えて、自分の代価を払いつつ、前に向かって進んでいるだけであり、今後も、代価を払うことなしに、筆者の信仰に真実に応えて下さる神の御業を生きて知ることはないと思っている。

だから、その過程で、誰かから提訴されたり、告訴されたり、反訴されたりすることが、どうしても必要だというならば、それを拒むつもりは筆者には全くない。筆者の目指すところは、「私ではなくキリスト」であるから、自分の栄光、自分の身の安全、自分の個人的幸福が、筆者の守りたいすべてではないのである。

とはいえ、筆者の見立てによると、おそらく、筆者は、法廷闘争には向かないタイプであり、それが筆者の生きるフィールドでもなく、魔女狩り裁判に引き出されることが、筆者の運命でもないから、冒頭に挙げた御言葉に照らし合わせても、そういうことは起きないであろうと言っておきたい。すでになされた告訴に対しては、筆者の側からの幾重にも渡る告訴が、これを相殺する手段になるだろうと前々から述べている。

ただ、法廷闘争はともかく、この度、筆者が裁判所と出会ったことだけは、非常に運命的な出会いであり、絆であったと言える。これは筆者の人生の宝であり、判決を通して成就したこの不思議な「干潟」と筆者との「結合」、「一致」は、これからも、おそらく生涯に渡り、続いて行くはずである。

筆者は、判決を通して、裁判所の仕事に結び合わされたのであり、今や裁判所の飛び地のような「家」もでき、そこで筆者の「帰宅」を待っている人たちも現れた。離れから母屋に行くときが、この先も、あるかも知れないし、ないかも知れないが、筆者がどこにいようと、母屋はいつも筆者の心の中にあって、どんなに遠く、顔を合わせることがなくとも、そこに暮らしている「家族」は、筆者といつもつながっている・・・。

このようにして、筆者には新たな「家族」が出来たのであり、裁判所それ自体が筆者の「家」である以上、筆者はこの先、わざわざ訴訟を起こしたり、訴訟を提起されることによって、裁判所の中に入れてもらおうと門戸を叩く必要もないのである。

干潟は今や筆者と一つになり、筆者の心の内側から、命の水が流れ出すようになった。筆者はその水を求めて門戸を叩く側に立っているのでなく、かえってその生ける水を人々に分与して、慰めを与える立場になっている。魔女狩り裁判に関わっている暇はもうない。今後は新たな使命を全うして行くために、残りの時間を費やすだけである。


主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

筆者が初めて横浜に来た際、横浜にいる兄弟と、福島にいる兄弟との連携により、福島の山小屋へ連れて行ってもらい、そこで親しい交わりを持った時のことを思い出す。

もう10年も前のことであり、その時の交わりも今はもうないが、今も不思議な縁で、筆者はこの二つの土地に縁のある暮らしをしている。筆者は福島へは行かないが、それでも、この土地と密接なつながりができ、御言葉の交わりの代わりに、法を中心とした交わりが出来、信徒の交わりではないが、これまでに出会うことのできなかった新しい貴重な人々に出会うことが出来た。

最近も、心癒される交流のひと時があったが、そこでこれまで筆者がキリスト者を名乗る人々と関わった時には全く得られなかった大きな収穫が得られた。

これまで筆者の人生においては、真に心から喜んで従うことのできる権威者というものは、現れなかった。言葉ではなく、その人の生き様そのものが、筆者の心の琴線に触れ、接しているだけで、あらゆる説明抜きに、筆者自身が変化を迫られるような関係というものは、あった試しがなかった。

いや、断片的には、そういう出会いもなかったわけではないのだが、それは束の間であり、筆者が何かを掴みかけたと思うと、すぐにその交わりも散ってなくなっていった。

だが、今回、新たな交流が生じたことにより、筆者がこれまで自分では気づけなかったもの、自分では取り払うことのできなかった限界が、何の説得も、命令もなしに、軽々と取り去られてしまった。

それと同時に、「助け手」であり、「影」である筆者の役目が、はっきりと形を取って現れ始めた。

筆者は、これまで著名な指導者の率いる宗教団体や、権威者のいる団体に足を踏み入れた際、筆者を秘書や参謀のように使えば、その指導者は栄えるだろうに・・・と考えたことが何度かあった。ほんの少し観察しているだけで、何をどうすれば、その組織がもっと良くなるか、指導者に何を補えば、その人が引き立つのか、筆者には尽きせぬアイディアが生まれて来たからである。

10年以上も前から、そのような考えは何度も湧き起こった。そして、その度に、筆者は家族などにもよくそうした印象を話していたものだ。「もったいない。あの人たちは、私の使い方を全く知らない。私を有効活用すれば、もっと大きな成果が得られるのに」と・・・。

そうした考えは、おそらくは決して筆者の自信過剰や、思い過ごしではなかったものと思う。

それらの指導者や権威者は、筆者の当時の考えなどには全く注意を払わなかったし、筆者の助言にも忠告にも何らの価値も見いださなかった。筆者の発言は、単なるこざかしい子供の自信過剰か大言壮語として忘れられて行っただけであろう。

だが、そうして筆者の助言を軽んじたことの結果として、彼ら指導者にも、人生そのものが根本的に狂わされるような何かが起き、栄光を傷つけられることになったのである。

なぜ自分の周りに適切な助言者を置かず、正しい忠告を退け、自分一人の考えだけで前に進んで行き、人生を滅ぼすのか・・・、筆者は非常に残念な思いであった。

その後、幾度か出会いを重ねているうちに、少しずつ、筆者に助言者の役割があることを知って、これを開発しようと期待をかける人々が現れるようになった。ところが、その場合でも、筆者が決定的な助言をせねばならない瞬間になると、必ず、信頼関係をかき乱し、破壊しようとする人々が現れて、筆者はそれにどう打ち勝てば良いかも分からないまま、策略に翻弄され、その結果、筆者が心から伝えようとしている言葉が、権威者に届かなくなる、という結果が繰り返された。

そして、かえって筆者が濡れ衣を着せられたりして、信頼関係が損なわれて、助言も役に立たないまま、関わりが離散してしまうのである。その後は、お決まりの通り、その権威者もまた、誤った道を歩き続けることになり、筆者を迫害する側に回るだけであった。

筆者はその後、沈思黙考し、一体、自分の助言者としての役割は、何をどう補えば存分に発揮されるのかを考えた。どうすればこの人々を敵に渡すことなく、信頼を損なわず、策略によって破壊されることもなく保ち続け、共に命に至り着くことができたのであろうかと。

だが、そうした出来事はあまりにも大きな幻滅を筆者に抱かせるものであったため、筆者は、その後、人間の指導者や、権威者には注意を払わず、静かに神に仕えて生きようと考えた。目に見える人間の思惑に振り回されるなど、もはや御免だと思っていたのである。

筆者は、自分のことを今も「取り分けられた器」であると感じている。ガイオン夫人やら、マーガレット・バーバーに自分をなぞらえるのはおこがましいかもしれないが、それでも筆者は、今、自分自身のために生きているのではなく、主のために特別に捧げられ、人々から取り分けられた存在であるとみなしている。

これは、自分が特別だと言っているのではなく、むしろ、自分の満足を捨てて、主の訪れを待ち望むために待機して生きることが、筆者の召しであると言っているだけである。

繰り返すが、筆者は、神のために特別に取り分けられた器になりたいし、そうして生きることに満足を覚えている。

それは10年前に福島の兄弟が教えてくれたことであった。せわしなく活動し、集会から集会へ飛びまわり、人々の前で教師然とメッセージを語り、多くの人々から感謝され、いかにも自分は神に仕えている御言葉の奉仕者であると、人々に盛んにアピールしながら生きるのではなく、かえって、静けさの中に立ち止まり、自分の人生の時間を人々に対してではなく、ことごとく主に捧げ、人には知られないところで、祈りの中で主を待ち望んで過ごす・・・、そういう奉仕のあり方が存在することを知った。

そして、神はそのようにご自分のために心を捧げる人々をかえりみて下さることも分かった。

その時から、筆者は自分の存在は、まことの主人を満足させるためにあるものだととらえている。それが人類が神に対して担うべき、本当の意味での「内助の功」であり、神の助け手としての私たちに任されたとりなしの役目なのであろうと思う。

だが、そのような考えも、振り返ってみると、近年になって初めて筆者の中に生まれたのではなく、10年以上前から、筆者はひたすら助言者となるための訓練を続けさせられて来たように感じている。

しかし、それはすでに述べた通り、失敗の繰り返しであり、筆者の「使い方」を知っている人は現れなかった。そうであるがゆえに、筆者は人に仕える道を断念し、神に仕えさえすればそれで良いと考えて、その後は権威者には関わらず、人生を送って来たのである。

ところが、この度、改めて筆者の助け手としての召しを引き出そうとする人が現れた。そして、その召しが発揮されるためには、筆者が、まず権威に服従するという過程が必要となることが分かった。

助け手としての役割が、服従なしには決して成し遂げられない仕事であることが分かったのは、当ブログを巡る訴訟の最中のことである。

訴訟を提起するまでは、筆者は自分があたかもすべての物事において、人生の主人であるかのように振る舞い、仲間を持たず、単独で先頭に立ち、自分が創造的な役目を率先して担うべき立場にあることを信じて疑わなかった。自分自身が誰にも服従せず、また、誰からの助けも受けることなしに、望みに向かって邁進すべきと考え、それができると信じ、そう行動して来た。

それゆえ、筆者は自分の主張について、誰がどのように反応しようと、それによって全く影響されることのない自信や確信を持っていたのである。

そこで、訴訟を提起した当初、裁判官でさえ、筆者にとっては、自分の主張を裏づけてくれるための存在としか見えておらず、筆者は裁判官に心を開いていたわけでもなければ、裁判官に訴訟を指揮する主導権を委ねていたわけでもなかった。

むしろ、自分が提起した訴訟なのであるから、最後まで自分で引っ張って行かねばならないと決意していた。

原審を担当した裁判官は、最初の口頭弁論期日から、筆者が、全世界から心を閉ざすがごとくに、遮蔽の措置の中で、自分の作り上げた訴状を目の前に、じっと黙って何も見えない前方を見つめている姿を注視していた。

遮蔽の措置は、すべての方向に対して閉ざされており、ただ裁判官に対してのみ開かれていたが、これはある意味で、予表的なことであった。

筆者は、裁判官の眼差しが、決して悪意のあるものではなく、むしろ、好意的に、筆者を自分の主張の外へ連れ出そうとしているものであることをうすうす感じていたが、それでも、その当時の筆者は、誰にも頼らずに、自分の願っていることを実現するために、人の同情や助けにすがってはならないと考え、裁判官の眼差しをも、気づかないふりをして半ば排除していたのである。

それは、もしも筆者がその当時、誰かからの同情や慰めの言葉を受け、それを受け入れてしまったならば、多分、心弱くなって、そこで倒れて立ち止まり、もはや自力で前に進んで行く力を失ってしまうかも知れないという予測から出た防衛的行動でもあった。

だからこそ、筆者は気丈に顔を上げて、裁判官からさえ同情を受けず、審理の行く末は自分で決めるのだと考え、そう振る舞っていたのである。そのため、訴訟に出す書面も、途中までは、裁判官に読んでもらうために出していたのではなく、天に向かって書いているものと考え、裁判官も読み切れないほどの分量の書面を出すことにも、全くためらいがなかった。

だが、そんな筆者も、原審の審理の途中で、裁判官に対して、ついに心を開かざるを得ない時が来た。その過程を詳しくここで振り返る必要はないであろうが、様々なきっかけがあり、筆者はある瞬間に、訴訟における主役は自分ではないこと、自分が積み上げて来たすべての議論も、ただ一人の裁判官に認定されることがなければ、無きに等しい暗闇にしかならず、裁判官との協力・協調関係がなければ、自分一人では、決して事件を正しく終結に導くことができないことを思い知った。

そのことが分かった瞬間、筆者は、これまで自分が、自分の人生の主役であるかのごとく考えてひた走って来たが、実は、筆者は自分の人生においてさえ、補佐役、助け手でしかなかったことを理解した。助手は、主人がいなければ何もできない。

筆者は、それまでの人生には、誰も筆者を従えることのできる権威者がいなかったのに、それにも関わらず、自分が、誰かに服さねばならない存在であり、そうしてこそ、初めて自分の真価が発揮されることが分かった。自分があたかも神から光をあてられて、よみがえらされる瞬間を待ちながら、墓の中にじっと横たわっている死人のような存在でしかなく、単独では完成に至れないことが分かったのである。

「光あれ」と誰かが命じてくれなければ、存在すらも、あるかどうか分からない真っ暗闇。それゆえ、まことの主人の到来を待ち焦がれて、墓の中にむなしく横たわり、命令を待つしかない存在。苔むしたかび臭い土の中で、見た目の美しさを失いながら、ただまことの主人から「生きよ」との声をかけられなければ、すべてのものから見捨てられ、蔑まれ、忘れられ、踏みつけにされ、生きていることさえ、認められず、痛みも苦しみも否定される存在。それが、自分自身の本質なのであり、被造物の影なる本質なのであり、全被造物が持つ、悲しいまでの「女性性」なのだということが分かって来たのである。

命を吹き込む役割は、男性にしかなく、被造物の象徴たる女性には、単独ですべてを支配する力はない。それゆえ、筆者の役目は、補佐や助け手になることであっても、自分が人生の主人として立つことではない、ということが、その時にはっきりと分かった。同時に、そのようにして、神に対して補佐役をつとめることが、人類の役目であるということも分かったのである。

そこで、補佐役なる私たちは、すべての苦労を、自分のまことの主人と分かち合わなくてはならない。神が私たちの地上での労苦をねぎらってくれて、慰めと、励ましを与えて下さらなければ、私たちが地上で何を苦労してみたところで、その成果はむなしい。

共に喜びと悲しみを分かち合い、心に起きるすべてのことがらを何もかも知ってもらい、これを受け止めてくれる存在がなければ、私たちの被造物としての苦労に、一体、何の意味があるというのだろうか。

筆者は、自分の主張した事実や証拠が認定されないことを恐れたのではない。人生において初めて、筆者は目の前にある存在に対して心を開き、心を分かち合い、筆者の協力を待っている人の命令を聞いて、その守りの盾の中に隠れねばならないことを知ったのである。

それができたときに初めて、筆者は守られ、かばわれ、安全地帯にかくまわれることが分かったのであった。

そのことが分かってからは、筆者はもはや訴訟を自分だけが思う方向へ引っ張って行くのではなく、裁判官と協力して成果を打ち立てなければならないことを理解した。さらに、そこから一歩進んで、裁判官を信頼して判断を委ねねばならないことが分かり、また、そうして判断を委ねるに際し、筆者の主張が邪魔になる場合には、これを投げ捨てねばならないことも分かった。

それは筆者が最も大切にして来たものを、投げ捨てることを意味した。筆者の主張は、筆者の正しさそのものであり、筆者の生き様の集大成でもあり、よすがであり、経験であり、苦労の蓄積でもある。

だが、筆者はそうして生まれた自らの主張も、判断も、すべて放棄することを決めた。裁判官は、筆者がそうした後で、筆者を守ること、筆者の求めに応じて、権威ある命令を下し、筆者を生かすことを約束してくれ、筆者はそれに応えて、その命令に従うと約束した・・・。

* * *

それにも関わらず、筆者が提起した控訴審は、非常に面白い展開を辿った。ひと言で言えば、すべてが、原審判決を鉄壁のように完全に守り抜く方向へと動いたのである。

筆者の理屈が正しくなかったというつもりはない。だが、控訴審においては、筆者が知らなかった制約があった。それは、控訴審における議論は、原審で築かれた議論の土台から一歩たりとも外に出ることができないという制約である。

そのため、原審判決言い渡し後に、原審において提示していなかった新たな証拠を提出しても、それが原審において審理されていた事件の根幹に関わるものでなければ、却下されてしまうという結果になる。

今回、筆者は判決言い渡し後に被告Bが書き加えた記事を、被告Bによる新たな不法行為の証拠として控訴審に提出し、また、被告Aもそれに関与していることを主張し、それにより、原審における主張を補おうとした。

ところが、このアクロバティックな議論と一連の新たな不法行為の証拠は、原審の議論の土台の外にある(原審とは異なる木を接ぎ木しようとするもの)という裁判体の判断により、控訴人が提出した一連の書証そのものが採用されないという結果になったのである。

そこで、裁判所は、筆者の提出した控訴理由書は採用するが、甲号証はすべて却下、また、その後、筆者が提出した答弁書や第一準備書面とその続紙についてもほぼ同様に、原審判決から外に出る議論はことごとく却下した上で、それ以外の部分だけを採用して陳述扱いするという措置を取ったのである。

証拠が採用されない限り、不法行為が認定されることなど絶対にあり得ないから、これでは、控訴自体にほとんど意味がなかったことになる、と思うだろう。それどころか、こんな状態で審理を進めれば、この先、どんなひどい判決が待っていることやら、と。

ところが、そこから先が、裁判所の知恵の見せ所であり、これまで筆者が一度も見たこともない手続きが取られたのである。

裁判所は、以上の措置を取った上で、一回の口頭弁論で審理を終結し、あえて判決言い渡し期日を未定とした。

これは、結局のところ、裁判所自体が、こんな判決は俺たちも出したくはないんだぜ、だから、控訴を考え直してくれやと、言外に言って、当事者に再考を促したことの表れである。

もう少しソフトな表現をすれば、原審判決を維持することが、あなたたち全員の身のためですよ、という言外の忠告を込めて、そうしてくれたのである。

むろん、そんな忠告を、筆者は誰から受けたわけでもないが、現実にはそういうことであると理解した。

こうして、三人の裁判官は、ほとんどやる気のない態度とも見える措置を取って、結論を当事者に投げ返し、弁論をただちに終結したのであった。だが、これは非常に優れた知恵と配慮の結果であり、裁判体は、このようにすることによって、原審判決には指一本、触れることなく、これを守り抜くために一計を案じたのである。

このようにして、裁判所は、審理を進めているふりをしながら、原審の結審時で永遠に議論の時計の針が止まるようにしてしまった。

しかも、その間に、裁判所は筆者と被告A、筆者と被告Bとの審理を、口頭弁論が始まる前に分離し、筆者と被告Aとを別室に隔離して、ただちに和解協議を開始することとした。

被告Aとの間では、口頭弁論さえ開かれず、控訴審でいきなり和解協議の運びとなったのであるが、それも、水面下で実に様々なやり取りがあった結果であり、いずれにしても、裁判所の深い配慮がそこに込められていた。

こうして、筆者と被告Aとが出会わなくて良い措置が取られた一方で、筆者と面識のある被告Bとの口頭弁論においては、遮蔽の措置も認められなかった。

被告Bとの口頭弁論が始まる前、書記官は、筆者がまだ甲号証が却下になることも知らないで、審理の行く末に望みを抱いているうちに、筆者を和解協議のために用意された部屋に導いて、そこで審理が分離され、被告Aとの間では和解勧告がなされたことを告げた。その上で、被告Bとの間では、遮蔽の措置は取られていないと説明し、「出廷しますか?」と筆者に尋ねた。

実は、期日当日になるまで、遮蔽の措置が取られるかどうかも決まらず、筆者はその前日にも、こんなにも決定が遅れているようでは、裁判所に行って良いかどうかも分からず、判断ができないと書記官に尋ねていた。その後、ようやく、期日前日の夕方になって、当事者が顔を合わせなくて済むよう配慮がなされるという漠然とした回答が得られたのであった。

筆者はそれを受けて、てっきり遮蔽の措置は認められるのであろうと考えたが、裁判所は、被告Bとの口頭弁論に遮蔽の措置は取らないと、当日になって言い渡した。だが、それもあくまで表向きのことであり、裁判所は、筆者がそれまでさんざん訴えていた危険について、相当に心ある配慮をなしてくれ、筆者を始めから別室に案内した上で、誰もいないところで、書記官が、遮蔽の措置なしに口頭弁論に出席するかどうかを改めて筆者に尋ねたのである。

「悔いのないように主張をされたいなら、出廷された方が良いと思いますが?三人の裁判官に会うことができるのは、今を措いて他にないですからね」

筆者はこの質問を受けて、悩みながら尋ねた。

「傍聴人がいるかどうか見てもらえますか」

「今の様子でいいですか?」

書記官はそう言って、法廷の様子を見るために部屋を出て行った。

その後、筆者は一人で声に出して祈った。

「主よ、私には何もかもが突然すぎて、こんな状況でどう行動すべきかも分かりません。でも、私の願いは、私の考えではなく、あなたの栄光が表されることですから、私が間違った選択をすることがないよう、何が正しい行動であるか、疑いのないように、はっきりと教えて下さい。」

書記官は法廷を覗いてから戻って来て、傍聴人は現時点で誰もいないが、被告Bとの口頭弁論を、被告Aが傍聴したいと言っている旨を告げて来た。それを聞いた瞬間に、筆者は、出廷してはならないことを確信した。

おそらく、被告らは、筆者が出廷すると考えて、そのために、被告Aも傍聴を希望したものと考えられる。そこでもしも筆者が遮蔽の措置なしに出廷すれば、筆者はまるで捕らえられた獲物のように、見世物として法廷に引き出されたことになってしまう。

どんなに出廷することが権利であるにせよ、霊的にはそのような文脈にしかならない。むろん、そんなことをすれば、原審において、せっかく裁判官が深い配慮のもとに取ってくれた遮蔽の措置も、まるで意味がないことになってしまう。そのような行動を絶対にとってはいけない、と分かった。

筆者はその時、「悔いのないように争いたい」などという願いが、もしも心にわずかでもあれば、それが命取りになるであろうことを、はっきりと理解した。逆に、こういう時は、絶対に争ってはならないのである。

ウォッチマン・ニーが幾度となく書いていた「十字架の装甲」の中にとどまるべきなのであって、その外に一歩でも出れば、命の保障はない。

筆者は法廷という場所に厳粛な思い入れを持ち、また、裁判官という職務を尊敬しているが、だからと言って、十字架の装甲から外に出てまで、彼らに会いに行ってはならないということは理解できた。遮蔽の措置は、それ自体が、装甲なのである。法廷の中には、その一区画がない以上、筆者が、和解協議のための部屋にとどまることこそ、装甲の中にとどまることを意味した。

それに加えて、控訴審が始まる数ヶ月前から、筆者は、今後はもはや裁判官の一存に判断を委ねてはならないと、心にはっきりと示されるものがあった。決めるのは裁判官ではなく、筆者自身であると。

何度か書いて来たように、原審判決をもらった時点で、筆者は、この審理を担当してくれた裁判官から、自ら判断を下すために必要な命を吹き込んでもらったのだと思っている。自分では事実認定をすることもできなかった無に過ぎない筆者は、裁判官から、判決を通して、裁判官によく似た仕事を果たすために必要な力をもらい、これを継承して、新たな職務へと赴いたのである。これは霊的な文脈で起きたことである。

そのことの重大性を自分でもよく分かっていなかった頃は、筆者は再び別な裁判官に自分の判断を全面的に委ねようとしたりもしたが、その度毎に、ひどい事態が持ち上がったため、筆者はそれを受けてようやく、これ以上、誰かの判断に自分を委ねてはならず、むしろ、自ら判断を下さねばならない立場に置かれたことを思い知った。

それゆえ、筆者は、三人の裁判官に会わないことに何の未練も残さず、擬制陳述で済ますことを選んだのである。

書記官が戻って来て、法廷で起きた一部始終を説明してくれた。色々と予想外の事態が起きて、あたかも筆者に対しては不利な措置が取られたようにも見えるにも関わらず、あらゆる点に、裁判所の深謀遠慮が行き届いていることが分かった。

その後、裁判長がやって来て、書記官と共に、別室にいる被告Aとの間を行き来して、和解協議が進行したが、その話し合いの中で、筆者と被告Aとは双方から控訴を取り下げ、被告Aは原審判決が命じた賠償額に相当する解決金を支払うことで、筆者と示談を行うという方向で提案がなされた。

何と被告Aもそれにおおむね同意している旨が告げられた。

実は、これこそ、筆者が控訴審を提起したことの真の成果、「隠れた収穫」だったと言えよう。今まで頑なに賠償を拒み、筆者を非難していた被告Aが、支払いを行った上で和解することに同意している旨が告げられたのである。

このような点でも、控訴審においては、徹底して、原審判決を完全に実現するための条件が整えられたのだと言える。

この先、被告Aとの間で和解が成立したとしても、それは裁判外の示談となるため、原審判決は、いささかの曇りもなく、揺るぎないものとして確定することが予想される。そして、そうなるためにこそ、裁判所はすべての手続きを思いもかけない形で整えたのである。

筆者から見て、数ヶ月間もかけて書き上げた理由書に付随する証拠が採用されていないことや、2名の被告に対して共に勝訴できなかったことは、残念と言えないこともなく、遮蔽の措置すらも取られないことは、当日になるまで、予想もしていなかった結果ではあるが、それでも、こうなったことには非常に深い意味があると、筆者はみなしている。

とにもかくにも、ここが筆者が今、進んで良い限界点であることがはっきりと示されたのである。

おそらく、神は原審における審理の全過程と、筆者がそこで裁判官と約束したことは、永遠に残るという判断をこの出来事によって示されたのであろう。

あの時、筆者は、自分のすべての判断と議論を投げ打つ代わりに、裁判官に紛争を終わらせてもらうための判決を委ねた。どんな判決が下されようと、受け入れる準備が出来ていると言った。だとすれば、その後、状況が変わっても、その時に結んだ約束は変わらず、この裁判官こそが、本訴訟における唯一の裁判官であり、最高の指揮者であり、権威者であることは変わらないのである。

その厳粛な事実を覆してはならず、決してその秩序を変えてもならず、筆者が法廷で議論することは、その秩序を壊すことにつながるということが、はっきりと分かった。筆者は、原審を担当した裁判官に対しては、深い尊敬と愛情のようなものを覚えていたので、たとえ筆者の新たな主張が認められなかろうと、そのために筆者がそしりをこうむろうとも、筆者の正しい主張が退けられようとも、神の目から見て、原審判決が維持されることが、正しい結論ならば、そうなることにいささかの不服もないと考えている。

前から述べている通り、筆者が目指すものは、自分の満足ではなく、真に正しい判断が打ち立てられることなのである。

だが、それと同時に、判決は、人の心に逆らって、強制的に命令を下すものであるため、人の心を変える効果はなく、反発を呼び起こすという側面も持っている。そのために、被告Aは、強制的な命令には従えないとして、これに服従しなかったのであるが、その点を補うために、筆者自身が、被告Aとの間で、和解協議を行い、被告A自身の意思を尊重する形で、紛争を終わらせる手続きを取る運びとなった。

このことは、筆者自身が、人は外側からの強制によっては決して変わり得ないと主張して来たこととも合致する。

こうして、原審判決を崩すことなく、示談を行う可能性が開かれたなど、何と深淵な知恵ではないかと思う。そして、このようなことが可能であることを知るためにも、今までの経験が相当に役に立ったことを思う。そういう意味で、浅はかで愚かな知恵に見えたかもしれないが、自分にできる最善を尽くして、正しい判断を求めたことは、決して無駄には終わらなかったのである。
 
筆者は、恨み深い性格ではないため、きちんと償いがなされれば、どんなに長い紛争があろうと、どんなに深い権利侵害を受けようと、一切を帳消しにする用意がある。

適切な償いがなされるなら、その時点で、被告Aとの間での紛争は永遠に終わることになろう。

なお、被告Bは牧師にも関わらず、筆者を告訴したと答弁書の中で述べており、筆者の主張が控訴審で取り上げられなかったのを良いことに、筆者に対する不法行為責任もいささかも認めておらず、かえってこれからも、自分は筆者に完全勝訴したとさらに誇るであろうことが予想される。

だが、被告Bがそのような態度を取っていることも、控訴審においては、筆者にとってさほど悪い方向へは働かなかった。おそらくは、それがあればこそ、以上に挙げた通り、筆者に対しても、深い配慮が示されたのだと思う。

そして、原審判決が確定に向かっていることは、筆者がこれまで幾度も述べて来た通り、神の僕を名乗って公に活動している人々に対する裁きは、神ご自身が下されることを、よく表しているように思う。

筆者の目から見て、被告Bは明らかに道を踏み誤っているのであるが、そのことが、被告Bをどのような結末に導くか、最終的な結論は、筆者が全く手を加えることなく、神ご自身が自らなされる裁きとなるだろうという気がする。

刑事事件においては、色々と主張しなければならないことが残っているが、それは民事訴訟のように、筆者自身が主張立証を行うことで、当事者同士が対決するという性質のものではない。おそらくは、告訴と告訴がどこかで出会って互いを相殺する結果になって終わるのではないかと予想する。

このように、被告Bとの間では、まだまだ多くの問題が残っているとはいえ、被告Aとの間で、10年間にも渡る紛争が、被告A自身の了承のもとに決着しようとしていることは、実に大きな収穫であり、成果であると言える。

本紛争の難しさは、筆者から見ても、被告Aと被告Bとの行為を分離することが非常に難しかった点にあった。特に、原審においては、両者が意気投合して同じ条件で和解を要求していたため、これに別個に応じるという選択肢を思いつくことさえできなかったのである。

しかし、被告Aは筆者を告訴すると幾度も言いつつ、結局、告訴することもなかったし、脅し文句のように様々な言葉を述べはしたが、インターネット上の権利侵害以上に、手荒な措置に出ることもなく、賠償をしないと言いつつも、結局、支払いに応じる姿勢を見せた。

こういった矛盾の中に、被告Aと被告Bとの性格の違いが非常によく表れているように思う。騒ぎを拡大し、ひどい権利侵害に及んで来たのは、被告Aのように見えるかも知れないが、それはある意味、表面的な様相でしかないと、筆者は考えている。

このようにして、非常にスリリングな展開の中で、控訴審が終結したが、内心では、さすがの筆者も、これ以上の緊張感はもう御免だと考えた。まだ協議は続いているが、その結果をここに詳しく発表するようなことはおそらくないであろう。結果は、ブログに起きる変化を見て判断してもらいたい。

これまで筆者は、控訴審では、原審では十分に議論できなかったより深い議論ができるのではないかと期待していたが、実際には、控訴審の意味合いは、それとは全く異なるものであることも分かった。裁判所は、大学の研究室とは違う。紛争というものは、どんなものであれ、長く続くことは望ましくなく、必要不可欠な限度にとどめねばならない。歴史資料を積み重ね、議論の限りを尽くし、物事の真相を究明するために、裁判所が役に立つと考えることは間違っている。

そういう意味で、筆者は、筆者にふさわしい限度内でのみ、裁判所を利用することができ、法廷闘争の最も残酷な性質を味わわされることなく、裁判所を通じて受けられる恩恵を十分に受け、裁判官や書記官の配慮を受けることができたことは、神の恵みであると考えている。

見世物裁判、魔女狩り裁判のようなものに、筆者は絶対に関わってはならないという天からの命令が下され、そういう戦いからは、はっきりと一線が引かれ、筆者は隔離されたのである。

そして、たとえ判決に事実と異なる部分があり、自らの主張がすべては考慮されていない部分があると感じるにせよ、これ以上、争ってはならず、裁判官と交わした約束は、永遠であるという事実が示されたのである。

ちなみに、原審において、筆者にとって、出頭することの意味は、控訴審とは全く違ったものであった。原審を担当してくれた裁判官は、当事者同士が顔を合わせずに済むよう、電話会議を設定してくれたが、原告は、電話会議であっても、裁判所に来るよう求められていたので、毎回、裁判官と書記官と顔を合わせて手続きを進めることが必要であった。とはいえ、何度も書いて来たように、それは筆者にとって、安全な場所で、裁判官や書記官と同じ目線で、顔と顔を合わせて審理を進められ、お互いが何を感じているかを身近で共有できるという、非常に大きな「役得」となったので、身を削るような緊張感の漂う審理とはならず、むしろ、ようやく助けを求める場所が出来たと安堵できる瞬間となったのである。

筆者は今でも思い出すのだが、海をそば近くにして、法廷ではない閉ざされた小部屋で、裁判官と書記官とに脇を固められるようにして、電話を使って被告らとやり取りしていたあの時空間は、それ自体が、十字架の装甲であったものと思う。少しの恐れも覚えることなく、筆者はそこに通うことができ、裁判官は、筆者の痛み苦しみを理解した上で、快く出迎えてくれた。

それが終わった後では、原審判決それ自体が、筆者を力強くかばい立てする十字架の装甲となった。それが肉眼で見てどのように見えようとも、筆者は、その装甲から一歩も外に出てはならないことが今回、示されたのだと思っている。

重要なのは、理屈の上での正しさではなく、目に見える勝敗でもない。事実が本当に踏まえられた判決が出されたかどうかですらもない。今、筆者がどこまで進むことが許されており、どこからが足を踏み入れることが禁じられた領域であるのか、きちんと見分け、紛争をこじらせるのではなく、解決へ向かわせるために知恵を使うことなのである。

すでに述べた通り、控訴審を提起したことは、被告Aとの間で紛争を終わらせるためには、大きく役立ったので、無駄にならなかったとはいえ、控訴審において、筆者が出廷し、被控訴人らと議論を戦わせる行為は、霊的文脈においては、絶対的に禁じられていたと言えよう。

なぜなら、その先には、当事者が我欲をむき出しにした泥沼の法廷闘争が待ち受けているだけであり、そんなところに足を踏み入れれば、筆者は原審において受けたすべての恩恵をも配慮をも失ってしまうことになるだけだからである。

筆者は、おそらく、これから先の人生においては、原審を担当してくれたただ一人の裁判官だけが、真の裁判官であり続けるだろうという気がしている。それ以外には、どんな裁判官にも、判断を委ねることはもうあるまいと。

まだまだ裁判所を通じて片づけねばならない問題は山積しているとはいえ、本訴訟において筆者に判決をくれた裁判官以外の全ての裁判官は、筆者が自ら判断を下せるように、必要な助言や手助けをしてくれただけであり、この他に、不本意な判断を下した裁判官がいるとしても、それも将来的に是正されるに終わるだろう。

そういうわけで、もはや原審のように、深い共感や理解を互いに分かち合いながら、協力して審理を進めるような手続きは、今後は起きることはないという気がする。その代わり、筆者は何が正しい判断であるかを、誰にも頼らず、自ら決定せねばならない立場に置かれたのである。

こうして、原審を担当してくれた良心的な裁判官は、筆者の人生から去り、おそらくは、望んだとしても、会うことも、言葉を交わすこともできない所へ行ってしまったが、神はとても慰めに満ちた方であり、その代わりに、判決が新たな場所へと筆者を導き、そこで互いに言葉を交わし、眼差しを交わしながら、共に話し合い、励まし合い、協力して進んで行くことのできる稀有な人物に筆者を出会わせてくれた。

筆者は、原審を担当してくれた裁判官にどこかしらよく似たその人から、原審で学ぼうとしていたことの続きを教えられている最中である。その人は、筆者の訴訟に対する考え方を根本的に変えたのみならず、弁護士などという種族に対して筆者が持っていた不信感をも払拭し、真に勝負に勝つとは、ただ表向き、勝訴することを意味するのではなく、むしろ、自分の正義を手放し、自分よりも弱い人の前でひざを折り、負けることによって得られる絶大な勝利がある、ということを、筆者に初めて言葉を通してではなく、実際の生き様として教えてくれたのである。

すでに前の記事に書いたことであるが、筆者は、この人の前に出たときに、自分が正当な主張をしているにも関わらず、まるでそれが間違ったものであるかのように、すべての訴えを自ら撤回し、勝負をする前に自ら敗北を宣言し、自分を打ち破った者に服従することで、筆者自身が守られることになると知った。そうして得られる絶大な利益があることを知り、それが深い愛情と思いやりに基づく犠牲であって、喜んでそうして構わないと思う人々を見つけたのである。

このように、勝負には、様々な「勝ち方」がある。負けながら勝つという方法もあるし、勝ちながら負けたふりをするという方法もあるし、この度、裁判所が見せてくれた方法の中にも、二重三重のメッセージが込められている。そして、紛争の解決のためには、判決における勝敗だけが重要なのではなく、誰もが同意できる形で、納得のいく妥協点を根気強く探り続け、あきらめずに当事者に語りかけを続け、平和を打ち立てるために努力を払うことにこそ、真の解決があることを教えられる。知恵はそのために存在するものである。

だから、勝ち負けや優劣にこだわっている限り、平和など訪れるはずもない。

結局、筆者はこの訴訟においても、それ以外の場所でも、人々を愛するがゆえに、自分の主張を投げ打ち、自己放棄して、他者に栄光を帰することこそ、真に戦いに勝利する秘訣であることを知らされていると言えよう。それを強制されたり、命令されたりしながら、嫌々させられるのではなく、喜んでそうしたいと思う人々に出会ったことは、筆者にとって、かけがえのない財産であり、控訴審の口頭弁論期日の直前に、そのことを学ばされていなかったならば、筆者はどうなっていたかも分からず、そうしたところにも、筆者の信じる神の深い憐れみと知恵に満ちた采配があったことを感じる。

こうして、筆者は自分が義人であることを捨てて、罪人の陣営に下ることを決めたのである。

律法はいささかも揺るぎなく、罪は罪として依然、罰せられるにも関わらず、その罰から人類を救い出すために、神は御子に十字架を負わせ、細く狭い例外の道をもうけられた。

こうして、義である方が、ご自分の義を捨てて、罪人のために罪となられることにより、多くの人々が義とされたのである。

そこで、筆者も自分の義を捨てて、罪人の仲間になることにより、筆者の義が、人々の中に働いて、彼らの義となり、彼らが死から立ち帰って生きる方が、筆者一人だけが義人で居続けるよりまさった結果であるものと思う。

そういうわけで、筆者は、自分が正しい主張をしているにも関わらず、その正しさが認められず、却下されたり、もしくは、自分自身でその主張を放棄するという結果になっても、それを恥であるとも、悔いが残るとも考えない。

これを負け惜しみと受け取りたい人々がいるならば、好きに考えさせておけば良かろう。少なくとも、法廷に出廷せずに、一つの主張も述べずに、悔いを残さないで審理を終えるなど、以前の筆者には考えられなかったことであるが、原審の結審時に、神聖な法廷は、筆者の心の中に移行したのであって、物理空間としての法廷が、筆者に救いを与えるわけではない。

このことは、教会とよく似ている。筆者は幼い頃は、教会に通い、そこに通うことで救いが見いだされるかのごとく教えられて来たが、その後、そうではないことが分かった。救いは、信仰を通じて、信じる者の只中に与えられており、それゆえ、キリストの復活の命を受けた私たち自身が、教会を構成しているのであり、それにも関わらず、私たちが罪から救われるために、あちらこちらの物理空間に通い続けて、助けを求めて麻酔薬を打ってもらう必要はない。

法廷が筆者の中に移行すると同時に、筆者を守っていた遮蔽の措置も、目に見えない領域に移行した。それによって、原告と被告Aとの間に打ち立てられていた霊的な障壁が破壊され、原告と被告Aとは出会っていないのに、接点が見いだされ、神から提示された和解勧告を受け入れる用意が出来たのである。

筆者は、この先、地上のどんな目に見える教会も、牧師も、決して与えることのできないであろう慰めに満ちた命を、自分が人々に分与できることを確信している。

それは、筆者がまことの神から直接、信仰によって受け取ったよみがえりの命である。この命は私たちが人間として地上で受けるどんなに深刻な被害をも打ち消すことのできるほどの圧倒的な力を持っている。

筆者はこの命に基づいて、人々に赦しと、承認と、賛同を与えることができ、それによって、倒れて死んで枯れた骨のようになった人々をも立ち上がらせることができると信じている。また、骨と骨をつなぎあわせ、一つの体にしていく作業にも貢献できると信じている。

それは、筆者が自分の力によってなすことがらではなく、神が筆者を遣わして人々に与えようと願っておられるまことの命によるものである。使徒パウロも、死人をよみがえらせたが、主イエスに従う人々は、主イエスと同じかそれ以上のわざを行うだろうと主は告げられた。

もしも今回、被告Aと筆者とが法廷で出会っていれば、そこには対立しか生まれず、筆者が持っているまことのよみがえりの命も、被告Aに分与されることはなかったであろうが、我々は、肉眼で見える人間同士のつながりを超えて、信仰による見えない絆によって、目に見えない領域で新たに出会ったのである。

その命が、どのようにしてこれから被告Aの中で発芽し、育って行くか筆者は知らないし、被告Aも全くそのようなことが自分の身に起きたとは考えてもいないことであろうが、とにもかくにも、筆者が願っていた一つの解放のわざが実現したのであり、筆者は、被告Aにとどまらず、筆者のもとにやって来るすべての人々に向かって、主イエスの御名によって、彼らがあらゆる告発から解かれ、罪赦されて、病から解かれ、すべての被害を帳消しにされて、力強く立ち上がって、歩き出すことを命じ、それが彼らの身の上に現実となって成就することを信じるのみである。

一瞬だけしかプライドを満たすこともない、つまらない一過性の承認や賛同の代わりに、筆者は、永遠に揺るぎない、神からの肯定的な判決があることを、その人たちに示すことができる。その見えない判決を受け取ることの方が、地上の束の間でしかない満足を得るより、はるかに価値ある成果ではあるまいか。
 
今回の裁判では、どんなに滅茶苦茶な方法であれ、門戸を叩き続けた者が、最終的には、望んでいる報いを得るという結論が示されたものと思う。その意味で、筆者も、被告Aも、全く違った方法ではあるが、熱血的に、自分の求めることをあきらめずに主張し続けたのであり、それゆえ、両者ともに望んでいるものを手にしようとしているのだと言えないこともない。

水が低い方へ向かって流れるように、恵みは、へりくだる者へ向かって流れる。この度、勝ったと豪語する者ではなく、負けたとして踏みつけられたはずの者たちが、恵みを得る結果になっているのは、実に不思議な結果ではないだろうか?

そして、筆者は勝ったわけでもなく負けたわけでもなく、判決言い渡しでありながら、同時に和解であるこの原審判決が、筆者にとって、実に最高最善の贈り物であるような気が今はしている。

干潟から生ける命の水を汲み出すためには、へりくだりが必要なのであって、それを身につけるためには、罪人たちからのあらゆる反抗を耐え忍び、人々のしんがりから着いて歩く覚悟が必要となる。

その作業は、日々、自分の十字架を取って主に従うことにより、成し遂げられるのであって、私たちの死の中に、人々に対する命の力が働く。そうこうしているうちに、ついにはいつしか死の力が最終的に命の中に飲み込まれて、死の棘がことごとく無効化される瞬間を、私たちは見ることができるだろう。

筆者が望むのは、人々が自分を縛っている罪と死の力から真に解放されて、人としての真の尊厳を取り戻すことである。その実現のために、ただひたすら、命を見る瞬間が来ることを願ってやまない。だから、この記事をあまり余計な場所に転載したり、噂話に利用しないでもらいたい。特に、被告Aのことは、この先、そっとしておいてもらいたい。まだ協議は続いているためである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。


死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(一コリント15:54-58)

罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。

このところ、人の罪の赦しという問題について考えさせられていた。

紛争が起きた際、なぜ途中で和解することのできる人々と、そうでない人々が分かれるのだろうか。その違いが生じるポイントを考えると、やはり、罪の悔い改め(反省や謝罪)と償いができるかどうかにかかっているだろうと思わされる。

聖書には、兄弟から訴えられた場合には、早く仲直りをしなさいという忠告がある。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クォドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)

これは早く謝罪と償いをして仲直りしておかないと、罪に問われて、返せないような負債の返済を命じられるかも知れない、という警告である。

この世の紛争においても、早期に和解することができなかった場合、紛争は長引き、時と共に、その告発の内容もより重くなって行く。

不思議なことに、起きた事件の性質は変わらないのに、時間の経過と共に、告発の書面がうず高く積みあがり、訴えられる罪の重さが増し加わって行くのである。

さらに、時間の経過と共に、関係性もより修復不可能となる。徹底的に事実を争えば争うほど、和解は遠のき、互いの印象が悪くなり、いつか最後には、罪を犯した者には、容赦のない裁きが下る時が来る。

この世の裁判は、私人間の争いであり、被害を受けた者が自ら被害を立証し、主張を争うので、判決が確定するまでは、事実の認定も確定せず、最後まで、どちらが勝つか分からない駆け引きのような部分がある。

担当裁判官の裁量も大きくものを言い、基本的に文系の人間である裁判官には、得意分野もあると思われ、不得手な分野については、どんなに証拠があっても、公平な判決が下せない場合もあると見られる。

しかし、行政機関に出される各種の訴えは、それとは種類が異なる。これは基本的に、被害の立証の責任を、訴えを出した本人が負うものではなく、最低限度の主張があれば、それに基づき、訴えが受理され、その後、行政機関が自ら捜査・調査を行う。

そういった種類の訴えは、受理された時点で、ある意味では、出した本人の手を離れる。その後は、手続きとしては、自動的に粛々と進んで行くことになるが、そこにある種の怖さがある。

なぜなら、そうした手続きは、事件の加害者と被害者が相対して事実関係を徹底的に争いながら、共に解決を目指すというものではないので、ゼロから主張を争う民事裁判とは異なり、基本的に、出された訴えに基づき、違反を裏づける方法で調査が進む。

民事裁判では、基本的に、訴えた人も、訴えられた人も、平等に扱われるし、当時者のどちら側からでも、裁判の行く末を見据えて、判決が下る前に、和解を提案することができるので、条件さえ合致すれば、いつでも争いに終止符を打てる。

いかに対立しているとはいえ、法廷で相対していれば、責任を持って向き合っているという意識が生まれないわけではなく、それにも関わらず、心から憎み合うのは難しいだろう。

何よりも、民事訴訟は、処罰を求める性質のものでないため、判決が下されて不法行為が認定されても、最終的には、金銭的な支払いで事は終わる。

ところが、刑事事件などの場合には、民事訴訟のように、当事者の主張が大きくものを言うわけではなく、当事者の意を汲んで捜査が行われたり、審理が進められるわけでもない。

加害者は、起訴されれば、被害者とではなく、国(検察)と対峙することになり、疑わしい訴えは、初めから受理されないため、高度な政治性を含む事件でない限り、罪の大小はともかく、何らかの違反が確定する方向へ向かって、事件が進められて行く。

事件の当事者が法廷で顔を合わせて議論を戦わせるわけではないので、そこには心理的な要素が働きにくい。だが、それゆえに、厳粛に処罰へ向けて事件が進められるという、ある意味では、容赦のない側面があるように筆者には感じられる。
  
以下のサイトでは、日本の法律では、「被害者が加害者に対して制裁を加える復讐などの自力救済を禁じている」と記されており、被害者が加害者に自ら報復しないためにこそ、刑事事件の手続きが存在すると解説されている。

 「誰かを刑事事件で訴えて処罰を願うなんて・・・」などと、犯人を訴えることを、何かしら、あるまじきことのように思っている人があるならば、人が自分で復讐することに比べ、こうした手続きが存在することの意味を、今一度考えてみた方が良いだろう。
    
刑事事件とは、傷害、窃盗、痴漢などの、いわゆる犯罪行為をしたと疑われる者(被疑者、被告人)について、警察や検察といった国の捜査機関が介入し、その者が犯罪を行ったのかどうか捜査を行い、裁判において刑罰を科すかどうか等について判断を行う手続のことを言います。

日本の法律は、被害者が加害者に対して制裁を加える復讐などの自力救済を禁じていますので、被害者に代わって国家機関が加害者の責任を追及し、最終的に刑罰という形で制裁を加えることになります。刑罰を科すためには、原則として、刑事裁判を起こすことが必要です。そして刑事裁判を起こすことができるのは、検察官のみとされています。

すなわち、刑事事件は、国を代表する検察官vs犯罪を疑われている被疑者・被告人という構図になります。

【弁護士監修】刑事事件とは?|刑事事件手続きの流れと民事事件との違いについて
   
 ここには書かれていないが、不慮の交通事故のように、特に加害の意志があって起きたわけでもない事件も、多数、刑事事件に含まれている。犯人が不明のまま進められる事件もある。そのような事件が毎日のように無数に裁かれ、世の中の秩序が保たれている。

刑事事件の他にも、行政が取り扱っている訴えがあり、裁判所で審理が行われないものもあるが、基本的に、出された訴えに従って、違反を裏づけるために調査が行われるという点では、同様である。

それは、和解の余地もなければ、当事者の了承もないまま調査が進められ、ある日、証拠が積みあがった時点で、違反が認定される方向で、結論が下されるという点で、軽微な内容の訴えであっても、筆者から見ると、非常に恐ろしい側面のある手続きである。

筆者が、違反を宣告されることを恐れているがゆえに言うのではなく、その手続きの事務的な進み方が、民事訴訟に比べて、非常に厳粛だと考えるため、ある種の畏怖を覚えるのである。

筆者は、当ブログを巡る訴訟もそうであったが、訴えを出すときには、二本立てで進めるのだと書いたことがある。

筆者自身の印象を言えば、民事訴訟は、非常に人間的な要素が強く、当事者感情が大きくものを言う争いであり、なおかつ、証拠の分量やら、主張の立て方で、同じ事実を巡っても、結論が180度違って来たりもする。
 
民事訴訟では、口頭弁論などの雰囲気次第で、相手方を罪に問いたくない、という感情が当事者一同に生まれたり、逆に、赦せないから何としても不法行為を認定したい、などの感情に傾くこともある。あるいは、訴訟に疲れたから、事実はどうあれ、もう争いをやめよう・・・などという結論になだれ込むこともあるだろう。

だが、民事訴訟において、様々な感情に見舞われつつも、これと並行して、当事者感情があまり大きく働かない別の訴えが並行して静かに進められることによって、感情に流されて冷静さを欠く判断が最終的に下されて、それが最終的に確定することを防ぐことができる。

これを保険のようなものだと言えば、不適切なたとえかも知れないが、なかなか自分の感情を客観的に見つめることのできない当事者にとっては、非常に重要な参考材料なのである。

そのことを最近も、筆者は、和解不可能かつ、心理的要素があまり大きく働かない別な訴えの進行状態を観察することを通して、学習させられた。

筆者があたかも不利な立場に立たされて、解決がより遠のいているかのように思われた問題について、筆者の知らないところで、粛々と進められていた手続きの進展が、伝えられたのであった。

前回、書いたように、筆者にも、できれば、誰をも罪に問うことなく、誰の処罰なども願うことなく生きていければ、それが最善だという願いがある。

人を罪から解放し、滅びから救いたいと、私たちクリスチャンの信じる父なる神は、願っておられるはずである。

私たち信じる者が、それにも関わらず、誰かを罪に定めることを心から願うはずもない。

だが、そうした願いとは別に、おそらく、人の犯す罪の中には、人の思惑次第で、赦して終わりにできる罪と、そうでない罪が存在するのではないかと筆者は思う。それが、和解できる人々と、そうでない人々が分かれる根拠なのである。
 
「和解しないって、ヴィオロンさん、それはあなたの心が頑なだからでしょう?」などと問う人があるかも知れないが、筆者は、和解は、願ったからと言って、かなうものではなく、和解できる条件と、そうでない条件が存在し、たとえ和解を拒むことによって、紛争の解決も遠のき、自らの負担も増えるとしても、事実がきちんと明らかにならず、誰も罪を認めることもなく、反省すらもしていないうちに、和解が成立することはないとみなしている。

それは民事訴訟と刑事訴訟の違いにもどこかしら似ているかも知れない。
 
この世の罪人は、ある意味では、自分が気づいてもいないうちに、神と人から二重に訴えられている存在だと言っても良いかも知れない。
 
人が人に対して犯した罪も、確かに罪であることは間違いないが、聖書における罪の概念とは、何よりも、人が神に対して犯した罪を指している。

人が人に対して犯した罪は、忘れられることもあれば、気づかれないこともあり、訴えが出されなければ、ないこととして扱われるかも知れない。当事者が赦そうという気持ちになれば、そこで終わる。

しかし、人が神に対して犯した罪は、人が自らの力で決して取り除くことができず、どんなに償いをしても、償いが完了することもなく、処罰が完了しない限り、決して忘れられることはないものである。

罪が赦されるためには、刑罰を受け切らなければならないが、その罰たるや、永遠という時を費やしても、まだ終わらない刑罰なのである。
  
人類は生まれ落ちたその瞬間から、すでに堕落しており、罪を犯しているのであって、やがて神から有罪宣告を受けることが確定している。従って、人類は訴えられている存在であり、その事件は、人類が気づこうと気づくまいと、粛々と終わりに向かって進められている。

検察が犯人を訴え、その罪を追及して処罰を求めるように、人が神に対して犯した罪は、決して訴えとして取り下げられることなく、決着がつけられるまで、事件は続行して行くのである。

そして、人が自分が罪により訴えられていることさえ知らず、滅びの宣告へ向かってひた走って行くのか、それとも、途中で気づいて、神と和解する道を探るのか、そのどちらかしか選択肢はない。

基本的に、この訴えに和解というものはなく、刑罰を受ける以外に道はないのだが、それでも、何事にも例外があるように、人類が滅びの刑罰へ突入することを逃れる方法がただ一つある。

それは、人が生きているうちに自らの罪を悔い改めて、キリストの十字架上の贖いを受け入れることである。

まず己が罪を悔い改め、次に、自分自身では償いきれないその罪に対して、神が自ら与えられた神の独り子なるキリストの十字架上の贖いを受け入れて、神と和解すること、それだけが、永遠の滅びの刑罰の例外として、人類に与えられた救いである。

* * *

だが、人がこの贖いを受け入れるに当たり、大きな障壁となるものがある。

それは、多くの人が、自分が生まれながらに罪人であることを認めることができないということである。

それは、人が人に訴えられた時点でも、和解できるかどうかを決定的に分けてしまう大きな違いとなる。

すでに述べた通り、人が人と和解するためには、罪を認め、反省し、謝罪し、償いをするというプロセスが必要となる。罪を認めない人間を赦すことは、誰にもできない相談である。

人が神と和解する時にも、その原則は同じである。

だが、世の中には、どうしても罪を認めることができず、悔い改めることも拒む人々が出て来る。

たとえば、異端化したキリスト教には、罪の概念もなければ、悔い改めもない。

カルト思想は、世界が滅びに瀕していると教え、そこから人類を救済することが自らの使命であると教え、独自の救済論を唱えるが、その救済のために、不法行為を正当化する。

世界を救うという大義名分さえあれば、どんな不法行為を行っても罪にならないと教える。たとえば、ハルマゲドンを近づけて世界を滅びから救済するためならば、地下鉄にサリンを蒔いても構わない、というのがその典型例と言えよう。

しかし、筆者が当ブログで述べて来た問題は、異端と闘い、カルトを是正すると言っている人たちの中にも、実に多くの人たちが、カルトを取り締まるためならば、不法行為を行っても、罪にはならないとして、いつの間にか、カルトや異端とほとんど変わらない思考に陥ってしまっているという事実である。

カルト宗教は、教祖の考えに従ってさえいれば、そして、カルトの集団生活に従ってさえいれば、救いから除外されないと教える。しかし、実際には、教祖も集団生活も、信者を救わないどころか、より一層、誤った道に導き入れるだけである。

ところが、キリスト教の中にも、同じような考えを信じている人々が見られる。牧師の教えに従い、日曜礼拝に通ってさえいれば、救いが保たれるというのである。

さらに、キリスト教徒であると告白し、カルトの脅威と闘うと豪語している人たちの中には、カルトと闘う自分たちこそ、世界を滅びから救おうとしている救済者であるかのようにみなし、カルトの脅威を阻止するという大義名分さえあれば、自分たちがどんな不法行為を行っても正当化されるかのように思い、法の裁きに身を委ねず、自ら報復行為に走りながら、自己正当化をはかる人々が、かなりの数、出現して来た。

強制脱会活動なども、そうした誤った考えに率いられた運動の一つである。カルトの脅威に立ち向かうなどと言っても、本来は、人が自分で報復しないためにこそ、法律が存在するのであるから、そこに任せれば良い。

たとえすぐに願っている通りの結果が得られないことがあっても、粘り強く戦い抜き、諦めずに主張を提示し続ければ良い。

それなのに、ある人々は、法的措置に出ることを野蛮な手段であるかのように言いながら、報復のための私刑を容認する。カルト宗教に対しては、報復しても構わないと、独自の理論を振りかざし、他者に対する人権侵害を容認する。

一体、なぜそのようなあべこべな考えが成立するのか、筆者には未だ分からない。目的は手段を決して正当化しない。カルトとの闘いやら、世界救済といった名目がついているからと言って、不法行為は正当化されないし、人権侵害は人権侵害に他ならない。

ところが、その人々は不法行為を犯しながら言う、自分たちは「カルトの脅威から人々を救う」ために闘っているだけだと。そして、恐ろしいことに、多くの人々が、それを聞いて頷く。

まるで昔、我が国で地震や火事がある度に、民族的マイノリティが攻撃されたことを思い起こさせるような風景である。「カルトの脅威から人々を救う」と言いながら、その攻撃の対象は、カルトへは向かず、かえって最も弱い、無実の人々に向いて行く。

「自分たちはカルトの脅威に脅かされている」と感じている人々が、集団となって、身を守る術もない弱い人々を攻撃し、大勢の人々は、黙ってこれを見物し、不法行為が犯されているのを見ても、不満のはけ口が見いだされたのは良いことだと言わんばかりに、それを見て見ぬふりをし、悪だと認識する力を失ってしまう。

筆者にとっては、これは極めて異様かつ不可解な光景である。

こうした現象に、抗う力もない今日の組織としてのキリスト教とは何なのかという疑問を、深く覚えざるを得ない。

筆者は今でも聖書への信仰に立つキリスト教徒なのであるが、前から書いている通り、だからと言って、たとえば、統一教会の信者を脱会させるために、人権侵害を容認して良いとは全く考えない。カルト宗教の信者が相手であれば、何をしても良いとは、考えることもない。

そのような人権侵害を伴う強制的な脱会活動を、「自分たちは正しい信仰を信じているから、救いを知らない人々に、これを教えてあげなければならない」という自負のもとに正当化して来たプロテスタントのあり方も、正しいものであるとは、筆者は考えない。

そして、プロテスタントが今日に至るまで、こうした強制脱会活動に対して、一度たりとも、これを反省する公式声明を出したことがないことも、恐るべき問題であるとみなしている。

反カルト運動だけが誤っているわけではない。聖書の信仰それ自体は正しくとも、以上のような誤った理念を生む母体となった組織や団体のあり方に、根本的な歪みがあるのではないかという気がしてならない。

そして、そういう活動を疑問にも思わない人々が、プロテスタントのあり方に絶望したと言ってカトリックに去ったところで、少しも問題は解決しないまま、未来に先送りされて行くだけであると筆者はみなしている。

当ブログを巡る訴訟の背後には、そうした問題が隠れている。

人間的な感情としては、筆者は誰をも罪に問いたいとは思わない。

だが、ここには、筆者の思惑次第では、どうにもならないほど大きな問題が横たわっていて、罪人への処罰は、筆者の感情次第で取り除けるものではない、ということを思わされる。

前から書いている通り、それが、当ブログを巡る訴訟が、一審判決で終わらなかった理由なのである。

一審判決が不完全であることは知りながらも、筆者はそこで紛争を終わりにするつもりであった。そして、当事者が完全に争いを放棄した状態は、非常に美しい平和的な解決のようにも見えた。

判決に100%満足がいかずとも、どうせこの世における争い事なのであるから、そこで、事実が完全に明らかになることなど期待しても仕方がない。まずまずの成果があれば、紛争を早期に終わらせて、そこから解放されることの方が、大切ではないか?

そういうわけで、筆者はある程度の成果があれば、そこで立ち止まるつもりであった。特に、何かしらの償いめいたことがらが成就して、約束が守られさえすれば、その後は、誰がどこでどう生きて行こうと、全く関与するつもりもなかったのである。

関係者の尽力は得られ、かなりの達成が得られたように見えた。

ところが、事件はそれで終わりにならず、筆者の感情をも裏切った。

そして、今も裏切り続けている。それはこの事件に限らず、他の場所においても同じであり、筆者がどんなに願っても、解決する争いと、そうでないものが分かれる。

和解を願っても、成立する場合と、そうでない場合がある。

兄弟に訴えられた人が、大急ぎで戻って来て、赦しを乞うこともある。そうなれば、筆者も心を和らげて、早期和解を模索し、すぐに争いは終わり、調和に満ちた美しい解決が訪れる。

赦すと決めたなら、筆者は二度とその人たちの罪を思い出すこともない。

だが、呼んでも、戻って来ない人たちがいる。筆者は、どんなに人を罪に問いたくないと考えても、貫徹せねばならない戦いがあって、結果が明らかになっていないのに、中途半端に諦めることも、退却することもできないことが分かる。

この世の判決に完全を願うことが、どんなに無理な注文であることが分かっていても、筆者には、それでもそれを踏み超えて、前に進まねばならないと分かるだけである。

人の思惑がどうあれ、ただ納得のいくところまで進み、成果を打ち立てねばならないことが分かるだけなのである。

何を明らかにしようとしているのか、自分自身で分かっていなくとも、それでも進んで行かなくてはならない。

これは同胞を刺し通したレビ人の剣であり、非常に喜ばしくない任務である。

ある時点までは、筆者から見て、行政機関の動きは遅く、とてもではないが、そこに何一つ正義など期待できないように見え、また、民事訴訟の判決には、初めから期待しても無駄であると見えていた長い時期があった。

それらはしょせんこの世の動きであって、聖なる事柄を裁くにはあまりにもレベルが低すぎる。それゆえ、もともと期待できることなどないし、期待する方が愚かである、と筆者は考えていたのである。

それにも関わらず、この地上においても、訴えを貫徹して行くときに、そこに成果が現れて来る。たまたま良い裁判官や、親切な警察官や、働き者の行政職員に出会ったから、成果が出たという話ではない。

時には、つきあいたくないと考える人を相手に、長時間、忍耐をすり減らす交渉を行い、これ以上の苦労はたくさんだと互いに思わされるまで、主張をぶつけあうような関係にあってさえ、徹底的に主張を貫徹すれば、成果が打ち立てられることが分かるのである。

従って、必要なのは、この世の規範とはかけ離れた、何かしら聖域のようなものを作って、そこに逃げ込むことで、自己の安寧を保とうとすることではなく、不完全かつ混沌として、しばしば不正義が支配するだけのように見えるこの世の中で、根気強く、正しい裁き、正しい解決、悔い改めと、真の和解を目指して、進み続けることなのである。

そうして、この世に正しい裁きを引き下ろすために、奮闘し続けるからこそ、その戦いに価値があるのであって、初めからこの世になど何も期待できないとあきらめて、自分の作った安全圏に逃げ込むことが、解決策ではない。

そこで必要なのは、現状がどうあれ、願っている目的を達するまでは、最後まであきらめずに主張を貫き通す姿勢である。徹底的に物事の真相を明らかにしたいと願い、また、そうするために努力を惜しまない姿勢があれば、この地上においても、目的の達成はそれなりに得られるのであり、それを合法的に、達成することができる。
 
こうして、物事を明らかにしたいという筆者の願いは、ただ個人的な願望を言い表しているのではなく、真実が明らかになり、正しい裁きが行われて欲しいという、筆者の切なる願いに基づいている。
 
最終的には、正しい裁きを行われるのは、神であるから、人が地上で事件を裁くときにも、ただ単に人間的な観点から見て、満足の行く結果が得られることを目指すのではなく、そこで真実が明らかになり、正しい裁きが反映されるようでなくてはいけないし、それを目指すのでなくては意味がない、と筆者は考えている。

つまり、天を地に引き下ろすことが必要なのであって、そのために奮闘があるのだと言えよう。
   
これまで筆者は、地上において様々な人たちに関わり、彼らに判断を委ね、彼らの協力を得て進んで来た。だが、少しずつ、そうした人々から筆者は離れつつあり、最終的には、他人に判断を委ねるのではなく、自らこれを決定する姿勢が必要となるだろうと思う。

もちろん、地上で物事を裁くのは私たち自身ではないのだが、罪を赦す権限も、赦さないでおく権限も、実はキリスト者が有している。私たちが出した訴えが、その後、どうなるのかは、地上の裁判官やら判事やらにかかっているのではなく、私たち自身が、その事件に対してどういう態度を取るかにかかっている。
 
この地上で、正しい裁きを求め、それが実現するように、あくまで法に従い、許された範囲で奮闘して行くとき、ある人々に対しては、どうしても、筆者の思惑や感情次第で、訴えを撤回することができず、罪の赦しも成立しない場合があることを思わされる。

考えたくもないことであるが、それはもしかすると、その人たちとは、和解の道が、永遠に閉ざされているからなのかも知れない。

筆者自身は、ためらいもすれば、悩みもする人間の一人に過ぎず、自ら対立を願うわけでもないし、他者の人生を変えようと願っているわけでもない。他者の心を変えるのは、筆者の力ではできず、いたずらに紛争を起こしたり、人が破滅に至るような影響を、誰が及ぼしたいと願うだろうか。

だから、筆者はただ最後まで、人々に立ち帰って、自らの罪を悔い改め、過ちについては、早々にこれを改め、生き様を変えるように呼びかけるだけなのであるが、そんな筆者の考えや思いとは別に、厳粛に手続きが進み、筆者自身が赦す・赦さないの問題を別として、いつかは罪を犯した人々には、何かしらの違反が認定されて、宣告される時が来ることを思う。

たとえ多くの人々が、筆者の試みは、成功に終わらないと高をくくっていても、筆者にはその時が来ることが分かる。

そうなる前に、謝罪と償いができるかどうかは、それぞれの人々に与えられた運命的な選択である。

聖書によれば、神は憐れもうとする者を憐れみ、心頑なにしようとする者の心を頑なにされる。従って、誰がへりくだって罪を悔い改め、神と人と和解し、自らの罪を赦されて、告発から解放されることができるのか、それは神が決められる事柄であって、罪を認めて悔い改めること自体が、人自身の功績ではなく、恵みとして与えられるものなのである。

筆者はそのことを思う。

干潟の恩恵に浴するためには、へりくだりが必要である。そして、そのへりくだりとは、人間の本質について、これを粉飾することなく直視する姿勢を含むかも知れない。

自分に対しても、他者に対しても、うわべを飾り、本質を偽る都合の良いものの見方をせず、人間が堕落している事実をあるがままに認め、その上で、人が塵に過ぎないことを認識し、互いを生かし合う関係を双方の側から模索することができるかどうかにかかっているであろう。

そうしていたわり合い、赦し合い、理解と配慮を示し合うことができれば、人は互いに告発し合う不毛な関係からは脱することができる。それは、ただ罪人同士が目くばせし合って、互いの罪を大目に見るという意味での「配慮」ではなく、自分の犯した過ちの有害性を知っていればこそ、これを深く悔い、他者の痛みにも共感と配慮を示すことが出来、しかし、だからと言って、自分を否定するのでもなく、あるがままの地点を出発点として他者と向き合い、それゆえ、他者もその事実をあるがままに認め、その罪を赦して和解に至り着くことができるという新たな関係性である。

罪を認めても、それが終わりではなく、現実的な出発点となり、また、罪を認めたからと言って、人から拒まれるのでもなく、かえって赦されて新たな関係に入れる。
  
だが、自分自身を偽り、自分にはいかなる罪もないと、自分を粉飾したままでは、現在地も分からないのに目的地へ向かうようなもので、偽った土台の上には、自分の人生設計も立てられないばかりか、他者との正常な関係も築けない。

従って、己が罪を頑なに認めないで自己正当化をはかる人々は、一時的には勢いがあり、正しいように見えるかも知れないが、その土台はひび割れ、水漏れがし、やがては偽りであったことが暴露される。

どんなに他者に偽りを吹き込み、自己宣伝に明け暮れ、自分を誇大に見せかけて、一時的に優勢に立っても、それが真実でないならば、必ず、その勢いは覆されることになる。

人が自らの罪を認めるとは、あたかも人が自己の存在を全否定することのように思われるかも知れないが、そうではない。賢明な人は、それが全面否定どころか、死の宣告を回避するための最善の策であることをすぐに理解する。

愚かな人は、一時的な面子にこだわり、その後の人生を失うが、賢明な人は、一時的な面子を失ってでも、その後の人生を回復する。

罪を認め、悔い改めることによって、死の剣が振り下ろされるのは一瞬のことで、ただちに贖いと赦しが適用されて、和解が成立する。

神との間でも、人との間でも、和解が成立し、罪と死の宣告は取り除かれる。多く罪を赦された者は、多く愛することができ、自分が罪人であることを知っている人間は、赦された喜びも大きく、自分自身もまた、他者の罪を覆い、赦すことができる。

どちらの生き方を選ぶのかは、筆者が決めることではなく、その人自身が選ぶ選択である。それは、筆者には、手の届かない、変えることのできない領域である。

人自身の人生には、その人でなければ、決して決められない事柄があって、罪の悔い改めに関しては特に、人は人に促すことはできても、他者の決断に介入できない。なぜなら、それは救いに直結している問題だからであり、信仰の根幹でもあるためである。

この信仰の問題については、キリスト教徒を自称しているかどうかや、異端やカルトとみなされる宗教に入信した経歴があるとかないとかいった、うわべだけの問題はまるで関係ない。

ただ、人が自らの罪を率直に認めて、神に立ち返ることができるかどうかが肝心なのであり、それができるかどうかが、人の救いを分ける。そして、キリスト教徒を名乗り、自分は救われていると言いながら、自らの罪を認めることも、これを悔い改めることも、兄弟と和解することもできない人間が、非常に多くの数、存在することは確かなのである。
 
そもそも目に見える兄弟を愛さない者に、見えない神を愛することはできないと、聖書は言う。従って、兄弟と呼ばれる人々と和解できるかどうかという問題の背後には、神と和解できるかどうかという問題が隠されている。

目に見える兄弟姉妹に対して、過ちを犯しても、これを告白することもできず、これを認めることも、詫びることも、償うこともできないとすれば、その人が神に対してだけ、罪を認めて悔い改めることはあり得ない。
 
そこで、神の家族とされ、兄弟姉妹の一人とされた筆者が、この手に抱えている訴えは、筆者の訴えでありながら、同時に、そこには、筆者の思惑とは別個に、厳粛に進んで行く「もう一つの手続き」が背中合わせに存在する。
  
そこには、神ご自身から、人に対して発せられた告発がセットになっており、それに人がどう応答するかという問題が、おのずから含まれている。

これはある意味では、とても厳粛で恐ろしい種類の手続きである。

筆者が訴えを出し過ぎていると非難する人たち、もしくは、訴えを出さないことこそ、解決であるかのように主張する人々がいるが、それでも、人々が目に見える人間としての筆者を相手に、事実を争っているときは、それはまだまだ平和な紛争なのである。

なぜなら、筆者は一人の人間に過ぎないので、筆者の感情を動かすことも、思いを変えさせることも、それほど難しいことではなく、いつでも紛争は停止できるし、和解も可能であるし、未熟な人間である筆者には、不当な攻撃を加えて劣勢に追い込むことさえ、可能である。

しかし、そこにもう一つ、筆者の思いによっては左右されない訴えが表裏一体になっており、そこには、神の福音に対して人がどう行動するのかという問題が含まれている。
 
そして、不思議なことに、そのもう一つの手続きが、どのように進んでいくのかは、筆者に対して、相手方がどのような態度を取るかにもかかっている。
 
筆者がこの手に抱えている訴えの中には、神の家を司る者に向けられた告発も含まれている。

聖書は、裁きは常に神の家から始まることを告げており、神の家を司る者の責任が非常に重く、とりわけ厳しいものであることを告げている。しかも、自ら神の家を告発し、神の家を司る者たちを告発し、兄弟たちを訴え続けて来た者が、自ら告発を受けるときには、その者の責任はいかばかりになるだろうか。

この問題は、筆者の手に負えるものではなく、また、筆者の思い次第でどうにでもなるものではない。地上の未熟な人間としての筆者は、あまりにも弱く、誰もが本気で相手にする価値すらもあるようには見えないかも知れないし、それゆえ、筆者の述べている主張を、軽視する人々は多いのであるが、筆者の主張の向こうに控えているもう一つの厳粛な訴えは、たとえ誰かが筆者を力づくで排除したとしても、決して消滅することのないものである。

それがあるから、未だに当ブログを巡る訴訟も続いているのであり、次第に、その訴えが、だんだん筆者個人のものではなくなり、その内容も、筆者の手から離れつつあることを感じさせられている。

つまり、これまで筆者が非常に人間的な思いで握りしめていた訴えが、次第に、個人的な思いから解かれ、筆者の思いの届かない領域まで移行し、厳粛な結論へ向かって、自動的に進み始めているのである。
  
筆者の主張の中には、常に悔い改めと和解を求める勧めが含まれており、それゆえ、そこには救いの問題が含まれている。筆者の主張に対する応答は、軽い問題でしかないが、神の救いに対する応答は、極めて厳粛なものであり、永遠の領域に至るまで、人々の生死を分けてしまう。
 
キリスト者を自認し、福音を聞かされて知りながら、自らの罪を認めることも、罪赦されることもなく、神と和解することもなく、兄弟と呼ばれる人との間で争いを終わらせることもなく、ただ救いを拒んで終わってしまったら、その人は、何のためにキリスト者になったと言えるだろうか。その人は福音を知らされなかった方が、はるかにましだったと言うしかないことであろう。

 改めて、罪を悔い改めて神と人と和解することの意義を繰り返すだけである。
    
「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」 (マタイ25:40)
 
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(ヨハネ一4:19-21)

   
* * *

「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるのです。わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリント5:16-21)


神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。

「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるのです。わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリント5:16-21)

上記の御言葉において、「キリストと結ばれる(新創造とされること=キリストと教会との結婚)」ことと、神との和解が、同じ文脈で語られていることの深い意味を改めて思わされる。

前回、二つの対照的な手続きについて書いたが、先日、出された死の宣告と言って差し支えない宣言も、それから間もなく、新たな命に至る宣告によって上書きされた。

もちろん、これらは本当は何の関連性もない別個の手続きであるから、それぞれがお互いを打ち消すわけではないし、上書きされることもない。

とはいえ、手続きの受け手は、共に筆者という一人の人間であるから、受け止める者の感覚としては、一つの試練のあとに、豊かな慰めが与えられた、という感覚である。やはり、何事も思い悩んではならないという聖書の御言葉は正しく、キリストの御身体には、何か一つの苦しみが生じても、こんなにも早く、新たな回復の力が働く。

だから、筆者はディスカウントの宣言を信じず、それを打ち消すために、再び歩いて行くのみである。

その日、決して晴れがましい席ではないところに、筆者が呼んだのではない、たくさんの人たちが来ていた。結婚式にも似て、厳かな宣言がなされ、見知らぬすべての人たちが、筆者と共に命と安息を得たことを、共に喜び、祝福してくれているようであった。

こうして、初めて出会う人たちとの間でも、隔てなく喜びと悲しみを分け合う、そういう不思議な関係が地上にありうるのだと筆者は知って、何か厳かな感動が込み上げて来た。

聖書において、冒頭に引用した通り、人が完全に罪から贖われて、神と和解し、神と一つとされることは、キリストと教会の結婚の奥義である。

従って、神と和解すること、人がキリストに結ばれ、新しく造られた人になることは、同じ意味なのである。

だとすれば、神と人だけでなく、人と人とが和解し、人の間で、すべての敵意と隔てが取り除かれて、新しい関係性が打ち立てられることも、どこかしら、神と人との和解によって、一人の「新しい人」が造られる過程に似ている。

見ず知らずの人々であっても、全員が一つに和合し、まるで一人の新しい人のように、新たな関係性の中に入れられるのである。

結婚があれば、家ができる。新しい家族が生まれる。それと同じように、主にあって、和合した人々は、新しいコミュニティの一員となる。

そのようにして、筆者は、新たな関係性が誕生する瞬間に立ち会わされたような気がした。

その場面が、想像していた以上に、素敵で、そして、味わい深い、感動の伴うものであり、筆者を大いなる尊厳で覆ってくれたがゆえに、筆者はさまざまなことについて、考えを新たにせざるを得なかった。

おそらく、天の御座において、神の御前に立たされるときには、きっと、このような光景が見られるのではないかと感じた。そこには、見知らぬ「雲のような証人」たちがこうして立ち合い、神と共に、筆者の労をねぎらってくれるだろう。

「あなたはよくやりました。ここでは、誰も恥を受ける必要はありません。あなたもこれ以上、奮闘する必要はありません。これがあなたの報いであり、あなたの慰めであり、安息です。どうぞ、自分の報いを受け取りなさい」

そう言って、筆者の地上での労苦をねぎらい、祝福の言葉で包んでくれるのではないだろうか。
 
いつの間にやら、筆者はもはや一人ではなくなり、大勢の人たちに、助けられ、支えられながら、共に進んでいたことが分かった。

味方ではないと思っていた人たちまでが、味方となり、呪いは解除され、すべての人たちが生かされる正しい決断が下され、新たな命の力が、筆者に注ぎ込まれた。

そこには、誰も筆者を憎んでいる者もおらず、嘲る者も、見下す者もおらず、筆者自身も、もはやこれまでのように、怯えながら、自分よりも強い誰かにしがみつき、助けを求めるだけの存在ではなくなって、自分自身で、命に至る水を見つけ、これを汲み出し、それを人々と分かち合う方法を、学び始めたのである。

そうなったのも、多くの人たちが、正しい結論へ至りつけるように、根気強く筆者を導いてくれたおかげである。

その語りかけに気づき、これに耳を傾けたおかげで、筆者は、当ブログを巡る裁判の結審がそうであったように、心砕かれ、へりくだった人でなければ、決して立ち入ることができない、非常に神聖で、厳粛な場へと導かれたのである。

それは本当に、結婚式に似ていた。当ブログを巡る訴訟の時の結審の時にも、筆者は泣いておらず、むしろ、こうなるのが当然と言わんばかりに、単純に喜んでおり、落ち着いていたのに、今はその時に分からなかった多くのことが分かるようになったおかげで、さらに深い感動を味わうことになった。

それは、誰も罪に問われないことが持つ深い解放の意義を知ったからである。すべての人々が解放され、自由になることの意味を理解し、その再生の瞬間に立ち会ったことにより、筆者は自分が罪に問われているわけでもないのに、まるで自分を罪に問うた債務証書が、目の前で破り捨てられるのを見たのと同じくらいの感動を受けた。

人と人との関係性が修正され、生まれ変わって、新たなものにされることには、それくらいの衝撃がある。マイナスだったものが、プラスに変えられ、無益だった関係が、有益なものに生まれ変わり、憎み合い、責め合うだけであった関係が、慰めといたわりに満ちた、互いを生かし合う関係に変えられる。

断絶ではなく、敵意でもなく、和合と、新しい始まり――その劇的な変化が、目の前で進行しているのを見たとき、まるで自分が死地から救われたような感動を覚え、涙が込み上げて来た。

それは確かに、あの訴訟の結審の時に似ていた。筆者は、あの時、あれが本当の終わりになるのだと思っていたし、それにふさわしい見事な終わり方だったと、今になっても思う。

当ブログを巡る裁判は、未だ続いているとはいえ、正直に言って、これから始まる戦いが、一審以上のものになると、筆者は思っていないし、間違いなく、この訴訟の主役は、当事者3人と、一審を担当した裁判官だったように感じている。この訴訟は、本当は、あの結審の時に、実に調和のとれた形で、すでに終わっているのだ、という気さえしないわけではない。

これは、筆者が主張を放棄して争いをやめるとか、その後、書かれた判決が間違っていたなどと言うわけでは決してない。しかし、正直に言って、訴訟で下される法的な結論と、当事者や関係者すべての思いとの間には、大きなずれがあるのが普通なのである。

訴訟における法的な決着は、必ずしも、事実に沿ったものとはならないし、すべての人にとって望ましく、ふさわしい解決にもならない。これは当ブログに関わる裁判とは関係のない話だが、世には、まるで嫌がらせのような決定や判決を書く不正な裁判官も存在するため、必ずしも、正しい判決が下されない場合も、多々あるし、どんなに理不尽でも、法的には責任を追及できない事件なども膨大な数、存在する。

証拠がないゆえに、どんなにひどい仕打ちを受けても、立証できない被害もないわけではないし、法そのものにも、抜け穴や、欠陥があり、時代の進歩が遅れているがゆえに、整備されていない部分がある。

さらに、たとえ判決が100%正しいと言える場合であっても、これを動かせない結論として突きつけられた人が、それに従うとは限らない。

少しでも疑いがあれば、当然ながら、紛争は長引くこととなり、また、強制的な判決によって、力づくでそれに従わされた者がそれに納得せず、新たなリベンジを思いつくような場合さえ、ないわけではない。

だからこそ、判決以外にも、紛争そのものをおさめるための解決方法が存在するのであり、それは裁判官だけが作り上げるものではなく、当事者全員が作り上げて行く全員参加型のものなのである。

そのことが、時を遡って、あの結審の日に、おぼろげながら、見えたのではあるまいか、という気がした。もちろん、筆者は、あの時に提案された不公平な和解案なるものを、受け入れれば良かったと言うわけではない。あの時には、判決を得ることこそ最善策であり、それがあってこそ、今の筆者の解放が得られたのである。

だが、それにも関わらず、結審の時には、それ以上に非常に大切な何かが、今現在手にしている成果をはるかに超える何かが、見えていたような気がしている。

あの時、まだ筆者は、助けは他者から、筆者よりも賢明で、強い誰かからやって来るのだと考え、裁判官に助けを求め、裁判官の中に存在している筆者のための自由を引き出さなければならないと思っていた。

だが、その後、必ずしも、自由と解放は、常に他者の決断の中にあるわけでないことが、徐々に分かって来たのである。むろん、あの時、裁判官が判決を書いてくれたことの意義は非常に大きい。それは筆者が望んだことであり、完全でないとはいえ、多くものがそれによって達成された。

とはいえ、裁判官はもともと事件の当事者ではないから、起きた出来事を詳細に知り尽くしているわけでもなく、証拠があったからと言って、必ずしも、公平で正しく物事を判断できるわけでもない。だから、判決はどんなものであれ、100%完全にはならず、また、100%完全になる日は、どんなに待っても来ないかも知れないという気がする。

その代わり、裁判官には、事件の当事者を仲裁する優れた能力と経験がある。それをフルに活用しながら、当事者自らが、何が正しい解決なのかを、自分自身の力で絶え間なく考え、それを作り上げて行くために努力を払うことの方が、裁判官にすべてを任せるよりも、有益な場合があるのではないかと。
 
だが、それを生み出し、選び取るためには、相当な力と知恵がいる。何よりも、自分のイニシアティブで物事を進めるための強い決意と勇気と覚悟と自信が必要となる。あの頃、筆者にはまだそれがなかった。決めるのは自分ではないと考え、誰かに判断を委ねることで、安全が確保できると思っていた。

だが、あの時、すでに見えかけていたものが、時と共によりはっきりとした形になって、さらに優れたアイディアとなって、現れて来たのである。

それは、誰も罪に問われず、なおかつ、誰もが争いから手を引き、しかるべき償いがなされて、紛争が終結するという奇跡的方法である。

その可能性が、おぼろげであっても、見えていたからこそ、当ブログを巡る訴訟の一審において、最も神聖な瞬間は、今も筆者の目には、法廷で言い渡された結審の時のように見えているのではないかと思う。

争いの終結と、平和の到来、それが、あの時におぼろげに見えていたものの正体なのである。不法行為は、不法行為として確かに裁かれなければならないが、それにも関わらず、それを超えた領域にあるさらに正しい結論が存在する。その時に見えていたかすかな可能性、そこに込められている奇跡的な再生の力を、筆者は、全く関係のない別の出来事を通して、より具体的な形で、理解したような気がする。

だが、それに到達するためには、何よりも、へりくだりと、謝罪や償いといったすべてのプロセスがなくてはならず、さらに、それは、ふさわしくない人間には、立ち会うこともできない、神聖な瞬間、場所である。

私たちが命に至るためには、らくだが針の穴を通るようなへりくだりが必要で、それがなければ、人間関係が再生されることもなければ、紛争に終止符が打たれることもない。

だから、筆者は今回、二つの手続きが、正反対の結末へと導かれたことには、深い意味があると思っている。人々との関係を真に再生に至らせるためには、自分がそれにふさわしく身を清めねばならず、誰でもそういう場を作り出し、もうけることができるわけではない。

そこで、一方の手続きがきちんと終了に至らず、筆者にとっても、他の人々にとっても、非常にまずい不本意な結果に至り着いていることは、決して偶然ではないと筆者は考えている。

なぜなら、そこには、本当に意味での信頼関係が存在しなかったことが、後になって分かったためである。何よりも、そこでは、筆者に対する信頼というものが、土台から存在しなかった。

そのような状態で、関係する全員が喜びと悲しみを共有し、全会一致で同じ結論に至りつき、互いにへりくだって、互いを自分よりも尊い優れた存在として認め、互いに手を差し伸べ合い、和合することは、決して無理な相談であったろうと思う。

だから、信頼関係のないところでは、ふさわしい解決が与えられないことは、むしろ当然なのである。それゆえ、そうした手続きには、やがてふさわしい別な人々が現れて、解決へと導かれるのを待つことになろう。
  
だが、もう一方の場においては、それが成就するだけの素地が、初めから整っていた。そこでは、すべての人々が、筆者を殺してはならないと決意し、筆者を生かすために、立ち止まって、筆者の応答を真剣に根気強く待ってくれたのである。

それを見ても、やはり、他者のために苦しみを担い、人を生かす仕事を成し遂げることができる力は、女性よりも、男性の方にはるかに多く備わっていると思わずにいられない。

女性は苦しみを厭い、自分の美が人前で割かれ、栄光を失うことにほとんど耐えられず、手間を省き、楽をすることを願い、何が自分にとって得であり、損であるかという自分中心の考え方を離れることができないが、男性たちには、自分を離れて、大局的に物事を見、自分の損になってでも、他者を救うために深く苦悩を負う能力が備わっている。

危険な場所にでも飛び込んで行って、自分よりも弱い者たちを救い出し、辱められた人たちを尊厳の衣で覆い、彼らの痛み苦しみを我が事のように担い、自分よりも弱い者たちに命を与えるために、自分を犠牲にしてはばからず、忍耐することができる力がある。

前にも書いた通り、そういう力は、女性にはほとんどないものである。そして、そういう性質は、どんなに利己的な男性であっても、男性である限り、どこかしら存在の根本に流れているものであって、それは、筆者の目から見ると、神聖さは失って、非常にかすかなものとなっているとはいえ、キリストが花嫁なる教会のために恥をも厭わず、ご自分の命を投げ出して、十字架に赴き、罪に背いた人々を救おうとされた、神の救済者としての性質に由来するものなのである。

そうして、他者に命や解放を与える役割こそ、男性の栄光であり、存在意義そのものなのではないかと筆者は思っている。
 
だから、筆者の人生において、筆者に害を与えず、有益な決断を下してくれた人々の名を列挙しようとすると、そこにほとんど女性の名は残らない。全くいないわけではないが、女性は多くの場合、嫉妬や競争のためなのか、何のせいであるのかは知らないが、至る所で、助けを求めた筆者をかえって疑い、辱め、残酷に引き裂くような決断を平然と下し続けている。

女性が女性に対して極度に残酷になり、自ら女性を束縛の中に閉じ込め、それゆえ、他の女性を解放しないだけでなく、自分自身も、解放から遠のいて行く場面というのは、幾度となく見せられて来た。

それはやはり、女性はどんな女性であれ、常に自分が助けられる(救われる)側に立ちたいと願い、他者を助ける(救う)側に立つことが、極めて難しいからだと思わざるを得ない。自分自身が常に解放を求め、救われることを求め続けているがゆえに、他者を救う力がないし、場合によっては、それを喜ぶことさえできないのである。それが、筆者の目から見ると、女性が単独では完全になれない虚無性、女性が存在の根本に抱えている不完全性、理不尽性なのである。
  
とはいえ、筆者も、もはや強い指導者や権威者を探しては、彼らに一方的に支えられ、かばわれるだけの弱い立場ではなくなり、自分よりも強そうな他者に自己決定権を委ねるのではなく、自分自身の判断で、正しい結論に至り着くことができるよう学習を促されている。

こうして、結婚の儀式にも似た短い手続きが、平和に、静かに終わった後で、これまでになかった全く新しい関係性――和合――が生まれ、何かしら巨大な解放に満ちた変化が、筆者の中に生まれたような気がした。

それまでに起きたすべての事は、嘘のように過ぎ去り、洪水は去り、筆者は新しい大地に足を踏み出した。

そこには、新しい生き方、新し関係性、新しい領域があり、すべての争いや対立や敵意が終了した、新たな世界が始まっていたのである。

多分、それが、当ブログを巡る訴訟の結審の日に、おぼろげながら見えていた神聖な光景なのだろうと思う。

まだまだ多くの未解決の問題があって、筆者は奮闘を続けなければならないが、筆者にはようやく分かった。解決は、裁判官や、筆者よりも強そうに見える様々な指導者、権威者から来るのではなく、他でもない筆者自身の中にあるのだと。

誰一人、筆者以上に、筆者が辿って来た人生や、遭遇した出来事について、正しい認識と判断を打ち立てられる者はおらず、他者に判断を委ねるよりも、自分自身で、結論を導き出して行くことの方が、はるかに有益であり、確実な解決なのだと。
 
当ブログを巡る訴訟では、担当してくれた裁判官は、筆者の主張を疑わず、信じてくれて、可能な限りの解決を模索してくれたが、その解決の最高の形態は、全員が協力して紛争を終わらせるという同じ目的へ向かった、あの日に見えた何かなのかも知れないと思わされる。

それゆえ、筆者には、結審の日が、神聖な儀式のように尊いものに感じられるのであって、だとしたら、その時に得た教訓を、今度は、筆者自身が判断する側に立つことによって、活かさねばならない。
   
こうして、干潟は、いつの間にか、筆者自身の内側に移行し、筆者自身が、人々を生かすための判断を下すべき立場に立たされていた。
 
このように、立ち上がって、自ら判断することができるはずだという気づきを得たのも、それが起きるまで、忍耐強く筆者を待っていてくれた人々がいるためである。
  
筆者が黙っていると、筆者の意見などないも同然とばかりに、自分にとってのみ都合の良い結論を押しつけようと、筆者を無視して、筆者の取り分を勝手に分け合い、あるいは、筆者をさらに黙らせようと、脅しつけたりすることなく、あるいは、筆者を置き去りにして、さっさと先に進んで行こうとしない人たちがいてくれたおかげで、協力して互いを生かし合う関係を打ち立てるという最善の策へと至り着くことが可能となったのである。

何より、すべての人々にへりくだりがあればこそ、そうしたことが可能となったのであろう。
 
気づくと、ないないづくしの制約だらけの環境で、互いに責め合い、罵り合う関係は、はるか後ろに、逃げるように消え去り、筆者を喜んで迎え、尊厳によって包んでくれる、新たな社会、新たな関係性が出現していた。

そこには、貧しさもなく、侮辱もなく、傷つけ合いも、否定もなく、その代わりに、豊かさと、いたわりあいと、完全性があった。

筆者は、新たに踏み出した一歩が、巨大な祝宴へと続く道であり、その道は、天のエルサレムにおける「我が家」にまで、はるかにつながっていることを思う。人々は孤児のようであった筆者を着飾って、栄光に満ちた花嫁のように、新たな家に向かって送り出してくれた。

主イエスは弟子たちに向かって、こう言われた。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネ14:1-4, 12-14)

主イエスは、私たちのために、まことの父なる神の御許に行って、天に住まいをもうけるために、十字架へ赴かれた。主は今も私たちのための住まいを天において準備中である。

だから、私たちも、地上において、神の住まいにふさわしく整えられるために、訓練を受け、神の家として建設されている最中である。
 
私たちの願うこと――それは、私たちのすべてが、孤児とされず、豊かな住まいを得、誰も貧しさや、悲しみや、死に脅かされることなく、十分な豊かさにあずかり、神がまことの主人となって、私たちの守り主となり、私たちを配偶あるものとして、美しく飾って、ご自身の身許に迎えられることである。

その日、その時、すべての戦いが止むだろう。私たちは恥を尊厳で覆われて、安息の中に導き入れられる。すべての罪の痕跡は取り除かれ、死の苦しみはなくなり、罪の債務証書はことごとく破り捨てられ、涙は拭われ、苦しんだ痕跡さえもなくなる。

失敗も、悲しみも、挫折もなく、嘆きも、叫びも聞かれない。もはや、いかなるディスカウントの言葉も発せられない、贖われた完全な新しい人、新しい天と地、新しい社会が出現する。

そこには、一切の罪の痕跡のない、聖なるキリストの花嫁なる教会だけが用意されていて、私たちは欠点のない者として、神に迎えられる。

私たちは、そういう日に向かっており、その日が近く、確かにそば近くまで、やって来ていることを感じる。そして、そのようにして贖われるのは、筆者だけではなく、数えきれない大群のような人々なのである。

それは、筆者の理解を超える出来事である。筆者はこれから起ころうとしていることのスケールを垣間見せられ、それに驚かされている。

暗闇の軍勢の手に渡り、決して解放されることはないであろうと思った人々、二度と取り戻されることなく、再生されることもなく、断絶し、廃棄する以外に方法がないであろうとあきらめた関係に、新たな命が注ぎ込まれる。負であった記憶が、正に塗り替えられ、断絶と離反ではなく、和合と新たな関係性の出発が生まれる。

これまで、筆者だけが自分の手に握りしめていた解放の宣言は、筆者の手からもぎ取られるようにして、他の人々に渡された。それを待っていた多くの人たちがおり、その人々が、筆者の前で、筆者と同じように、まるで神に贖われるように、人としての尊厳を回復されて、新たに造り変えられて、完全な者として筆者の目の前に立たされるのを見た。
 
そこには、敵はもういない。紛争もなければ、サタンとの終わりなき論争、嘘や詭弁、不当な死の宣言、騙しや、ディスカウントの言葉はない。

そこには、人をディスカウントするものは何もなく、ただ罪から贖われ、清められ、完全とされて、神と和合したただ一人の人がいるだけである。
 
筆者は、そのような世界が、手の届くほど近くに見えていること、筆者さえ了承すれば、それがすぐにやって来ること、しかし、そこへ至るためには、非常に多くの苦しみと、へりくだりを経なければならないこと、自分を低くした者だけが、そこへ至り着くことを知らされ、贖われて取り戻された人たちが、どれほど美しいものであるかを見て、言葉を失っている。

これがおそらく干潟の効果なのであろう。筆者だけが、自由になり、解放を得て、花嫁のように飾られるのではなく、人々も同じように、花嫁のように飾られて、新たにされる時がやって来た。告発や、罪のなすり付け合い、断罪、断絶、離反から一切解放されて、自由になった人々の美しさを見るとき、筆者はそこに働く解放のわざの大きさに心を打たれずにはいられない。

自分のためだけではなく、人々が解放されたことの喜びの前に、えも言われぬ感動を覚えたのである。

それが、新しい関係性の始まりであった。

神は最も無用で、役に立たない、廃棄するしかない材料を用いて、新たな尊い器を作られる。その砕けた破片とは、筆者自身のことでもある。

己が罪のために打たれて、粉々に砕け散り、互いに全く役に立たなくなった者同士が、互いを傷つけ合い、罵り合い、否定し合っているのが、いわば、人類社会だと言えよう。

だが、神は人が息に過ぎず、その人生が一瞬で過ぎ去るに過ぎないことを知っておられ、人間が自力では罪を贖うこともできず、命にもたどり着けないという、途方もない苦しみを負っていることも知っておられ、それゆえ、神は人の罪を人自身に負わせることをよしとされず、砕けた器の破片を丹念に綴り合せて、新たに命を吹き込み、尊い役に立つ器へと造り変えるために、その手に取られた。

筆者が造り変えられることができるなら、同じ恵みにあずからない存在があるはずもない。筆者が取り戻されることを信じて、根気強く待ち続けてくれた人々の存在があることを知ったとき、筆者自身も、人々が自分と同じように取り戻され、回復されるために労しなければならないことを知った。それこそが、筆者の下すべき正しい判断であり、筆者の仕事であり、そこに命の法則が働くことを知らされたのである。
 
「あなたの罪は赦された。安心して行きなさい」との宣告は、筆者に向けられた言葉であるばかりでなく、筆者自身も、他の人々に同じ解放の宣言を告げて、人を自由にする力を持っていることが分かったのである。
 
だから、間もなく、もはやこれまでのように、誰か強そうな人たちを探して来ては、彼らに物事を決めてもらわなくても良い時が来るだろう。そして、私たちは、手を携えて、同じ祝宴に向かう。いつしかそれはしゅろの葉を手に持ち、白い衣を着た大群衆となる。

人を罪から救い出し、死の力から解放し、すべての敵意の隔てを取り除く宣言の、いかに絶大なものであるか。その最高の形は、カルバリの十字架であるが、地上で行われるささやかな宣言であっても、そのひな型となるものは、神聖と言って良いものであり、筆者の小さな人生のスケールを打ち破って、圧倒的な解放の力を発揮する。
 
その宣告は、他でもない筆者自身が作り出すものなのである。地上では、取るに足りない、忘れられ、かえりみられもしない筆者のような人間が、何を赦し、何を赦さないでおくかが、それほどまでに重要な深い意味を持ち、人々の心を束縛から解放し、尊厳を回復するかどうかの鍵を握っている。

人が罪から解放され、告発から解放されて、自由とされ、尊厳に覆われる瞬間を見、また、その圧倒的な効果が、筆者自身にも波及して、筆者の尊厳をも回復するのが分かったとき、何か非常に新しい、とてつもないことが、これから筆者の人生で始まろうとしているのを、感じないわけにいかなかった。
 
以前から述べている第二の人生、第二のミッションが本格的に始まったのである。人を命に至らせるための法則性が分かった以上、これまでと同じような堂々巡りや、失敗は、もはや起きて来ることはないだろう。パイプラインは、確かに稼働し始め、解放の宣言は、筆者だけのものではなく、多くの人たちに共有され始めたのである。

「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」


あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。

「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。

あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(ルカ22:24-30)


訴訟の判決が、出口のない堂々巡りのような問題に、待ち望まれていた新たな脱出口を与え、紛争当事者だけでなく、社会のあり方までも変えることが分かって以来、筆者は、裁判所という不思議な場所に魅了されてしまった。そこから、汲めども汲めども尽きることなく流れて来る命の泉のような流れに、日々、何かの形で関わりたい、もしくは、関わることができないかと願っている。

身近で日々、法律関係、裁判関係の用語を見聞きすることができるのは、筆者にとっては、まさに、演奏家が毎日、様々な楽曲の音色に耳を傾け、楽譜をめくっているような具合で、幸いである。

筆者の夢は、この地に召されてやって来たときから、いつかここから、生ける水の川々が尽きせぬ洪水のような流れとなって溢れ、流れ出ることにある。

これがいわば、筆者に与えられた「開拓伝道」である。これを馬鹿らしいファンタジーを語っていると笑いたい人がいれば、それはそれで結構である。

筆者の住んでいる県の名前は、全国で唯一、神の名がつけられている都道府県であるが、長年、命の川どころか、荒野しか見当たらない中で、敵の襲来や、かんばつに脅かされ、一体、初めに与えられたビジョンが、いつどういう形で実現するのか、分からない月日がずっと続いた。

もはや筆者に何かの召しがあったことさえ、人々はもちろん、筆者自身さえも忘れ去ろうとしていた頃、筆者は、裁判所という不思議な「干潟」を見つけ、そこから不思議な命の流れが湧き出ていることを発見した。

霊的大干ばつの最中のことである。裁判所には、人々が目を背け、耳を塞ぎ、足早に通り過ぎて行きたくなるような、こじれた訴えばかりが送りつけられ、うず高く積まれていた。それはまるで見栄えのしないヘドロや泥水ばかりがたまった何の役にも立たない「干潟」のようである。

筆者自身が、誰も見向きもしない訴えを抱えてそこにたどり着いた。その時は、誰一人として筆者を応援する者もなかった。しかし、筆者はそこに正しい裁きが存在するという噂を聞きつけ、最後の望みを持ってそこにたどり着いたのである。

やはり、噂は嘘ではなかった。その「干潟」にたどりつくと、そこにたまった「あぶく」の一つ一つに、不思議な光が当てられ、光合成が働き、それが神秘的な作用により、新たな命を生み出すエネルギー資源へと変えられていることが分かった。

干潟は単に水が腐った無用な地帯ではなく、そこには人手によらず、太古から続けられて来た途方もなく不思議な天然のエネルギー資源の循環があった・・・。そこで、筆者も自分の訴えに順番が回って来て、光が当てられるのを待った。実際に、その結果としてどういう現象が起きるのかを知ってから、この不思議な「干潟」に魅了されて、そのそばを離れられなくなったのである。

裁判所が扱う訴えの範囲は、とどまるところを知らない。たとえば、筆者は我が国に、行政職員を罷免する制度がないのは、本当に異常であると感じている。本来ならば、国家公務員に対して、国民は罷免権を持っているはずだが、行政の職員に対してはそれはない。

筆者は我が国で国家・地方公務員と呼ばれている人々は、憲法上定められた公務員の定義から外れており、これは戦前の遺物としての「官吏」の残存物のような、不明な位置づけにある集団だという考えを、他の人々の主張を踏まえ、提示して来たが、罷免権がないという意味でも、その考えは裏づけられているように思う。

本来ならば、公務員の選定と罷免は、国民固有の権利であるはずなのに、実際には、行政職員に対しては、市民は何もできない立場に置かれており、それゆえ、あまりにも行政の腐敗が進み過ぎたのである。

国家公務員の不祥事について、人事院は個別の要件を扱わず、関係省庁は苦情があったからと言って、何の対処の権限も実際にはほとんど行使しない。行政に関する苦情について、市民にはどこにも訴える場所がほぼないのが実状である。

だからこそ、今日の行政には決して自浄作用というものが全く期待できず、裁判所のように市民からの訴えを真剣に取り上げる場もほぼほぼなくなっているため(システムが形骸化してしまっている)、一旦、役所が腐敗すれば、その腐敗はとどめようもなく、仕事をしない役人がいたからと言って、これをクビにする方法も市民にはないといった状況が生まれる。

行政は、市民と直接、接しているにも関わらず、市民からの声を汲み上げづらい状況にあり、その乖離がますます進んでいるように見えてならない。
 
もちろん、行政といっても、ありとあらゆる分野が存在するわけで、すべてがすべて腐敗の危険の只中にあると言うつもりはないが、やはり、国民からの選定と罷免の権利が及ばないことには、それだけの大いなる暗闇が存在するものと筆者は思う。
 
ところが、裁判所はそうした用件であっても扱える。もちろん、裁判所が公務員を罷免するわけではないにせよ、事件を裁判所に持ち出すことによって得られる効果は絶大である。裁判所には、行政の決定さえも覆すだけの権威がある。そして、その原動力となるのは、やはり、取るに足りない弱い無名の市民からの一つ一つの訴えである。

紛争を起こすことは、一見、物事を紛糾させ、問題を深化させるだけの行為のように見えるかも知れないが、筆者は、その一つ一つの訴えには、はかりしれない意味があると考えている。

物事を丸くおさめ、自分が譲歩して、あるいは願いをあきらめて、穏便に早期に和解によって紛争を解決するのは、「美しい」決着のように見える。それに比べ、紛争を提起する行為自体が、和を乱す「美しくない」行為と見える。まして紛争を徹底的に戦い抜いて、白黒決着をつけるなどの行為は、なおさらそう見えるだろう。

だが、実際には、その見栄えの悪い、調和を壊すような「美しくない」訴えの数々の中から、はかりしれない価値が生み出されているのが現実なのである。リスクを覚悟で最後まで訴訟を戦い抜く人々がいなくては、画期的な判決が生まれることもなく、その分だけ、社会の進歩や、成果が、勝ち得られずに終わる。

そういう意味で、筆者は、当事者が戦い抜いて得た判決には、やはり決して社会全体がおざなりにできず、またそうしてはならない絶大な価値があるものと考えている。

賠償金がいくら払われるか、どうやって支払わせるのか、といった金銭的な問題だけがすべてではないのである。もちろん、債務名義は、強制執行を行うこともできる根拠となるが、そのことをさて置いても、裁判所がもたらす新たな判決は、それ自体が、新しい生命の息吹となり、社会の目に見える物事の正邪を切り分け、目に見える物事を超越した立場からこれに裁きを宣告し、実際に物事を是正し、変えて行くだけの力を持つものである。
 
筆者は、裁判所が持っている権威の大きさや、市民が起こす一つ一つの訴えの意義、そして裁判所の使命について、飽くことなく考えさせられている。

我が国における三権分立は、決して行政を司法の下に置くものではないにせよ、もしも腐敗した行政というものがあるとすれば、それはやがて裁判所の権威の下に是正されることになるだろうと筆者は思う。
  
ところで、当ブログに関する訴訟の第一審は、そのほとんどの部分が、法廷ではないところで、弁論準備手続きとして行われ、裁判官が法衣を着て現れたのも、全体で三度でしかなかった(開廷の時、弁論終結の時、判決言い渡しの時)。

さらに、今、事件は控訴審へ向かっているため、これからは三人の裁判官が事件を担当することになる(それも何かしら三位一体を象徴するようにも感じられる)。

しかし、筆者にとって、法廷のイメージとは、常に法衣をまとった一人の権威ある裁判官が、原告・被告の双方が揃っているところで、厳かに判決を言い渡すというものである。

ただ裁きに権威があるというだけでなく、裁判官は決して当事者と同じ目線に立たず、当事者を見下ろす法壇に立ち、そこから裁きを宣告するからこそ、より一層、厳粛に感じられるのである。

この法廷のイメージは、筆者の心の中で、神とサタンと人間とが相対してそれぞれの主張をぶつける天的な法廷の地上的な絵図のようである。

ところで、筆者は三権分立を、不正確なたとえとはいえ、霊、魂、体という聖書に登場する三部位に置き換えて考えてみる。

行政とは、いわば「からだ」であって、司法は「頭脳」である。
 
立法は「命令」そのものを考えて発令する部位であり、聖書にたとえるなら、「光あれ」といった命令が発せられるところである。筆者から見ると、この発令は、あたかも霊からすべてが始まることを予表するかのようである。

司法は、発せられた命令に基づき、目に見える物事が実際にあるべき秩序にかなっているかという是非を判断し、違反を是正する部位であるから、一旦、「光あれ」という命令が下されたなら、何が光であり、何が闇であるかを精査し、光と闇とが決して混ざることのないようにこれを切り分ける機能を持つ。

つまり、絶えず善悪の判断を行う魂の働きになぞらえられる。

行政は「からだ」であって、目に見える物事の世界で、命令されたことを実行する手足のような機関に当たる。

この世における三権分立に主従関係はないが、霊、魂、体はそれぞれ主従関係にあり、その中で、最も卑しい部位は体である。なぜなら、体はこの世(目に見える世界の物事)と接触する部位であって、自ら判断を行うわけではないからである。

筆者は以前に、ハンセン病者は、体に痛みを感じなくなることによって、自分で自分の体を傷つけても、それに気づけなくなり、それが原因となり、体の一部を失って、いびつな姿になって行くのだと書いた。

もしかすると、我が国の行政には、これと似たような病が起きているのかも知れないと筆者は思う。我が国の行政は「からだ」である。ところが、この「からだ」は、良心の機能から切り離されて、次第に、自己を統制する力を失いつつある。
 
行政が、国民に奉仕しながらも、国民の選定・罷免が及ばないことによって、ほぼ完全に閉ざされた自存それ自体を目的とする自己目的化した機関のようになっていることは書いた。そのために、これはあくまで比喩であるとはいえ、三権の中でも、行政は、司法からも、立法からも、抑制が及ばなくなって、「良心の機能」という痛みの感覚から切り離されて、自分で自分を傷つけても、あるいは他人を傷つけても、それが分からない状態に陥っているのではないかと感じられる。

そのために、体のあちこちをぶつけ、随分、歪んでいびつな姿になってもそれが分からず、国民からの監視も、選定も、罷免も行き届かないことにより、すでに壊死しているような部分も、たくさんぶらさがっているのではないだろうか。

その「からだ」とは、「頭脳」のコントロールが効かなくなり、「知性」から切り離されて、感覚麻痺した不気味な体である。

そこで、このような「からだ」の感覚鈍磨、もしくは麻痺状態を是正するためには、生命の通わなくなった部位を本体から切り離し、そこに新たな生命力をもった「細胞移植」が必要となる。

良心の働きを、すなわち、痛みの感覚を取り戻すために、死んだ細胞の代わりに、新たな細胞を移植し、体の働きに「頭脳」の指令がきちんと行き届くようにせねばならない。

むろん、筆者が「移植」を行うわけではない。それは筆者とは何の関係もない事柄である。

しかし、自然淘汰に近いような形で、実際には、どんどん「移植」が行われている。行政サービスの様々な分野は、民間企業やその他の様々な団体に移行(委託)されているが、このことは、裏を返せば、純粋に「行政」と言える機関には、もはやこれらの仕事を自ら遂行する力がなくなりつつあることを意味するのではないだろうか。

新たな発想、そして、優れたノウハウが生まれて来るために、もはや自己の力だけではどうしようもなく、外へ助けを求めざるを得ない状況が生まれているのである。

だが、そのようなことは、行政が「閉ざされた機関」ではなく「開かれた機関」であったなら、おそらく起きなかった現象であろうと筆者は考えている。役所から見れば、それは単なる外部委託に過ぎない事業であろうが、真の意味で、政府が(もしくは地方行政が)、長年に渡る業務遂行を通して、絶え間なく国民・市民からの直接の声を汲み上げることができていたならば、その間に、サービスの向上、多様化が進み、民間委託するしか方法がないという状態には陥らなかったことであろう。

むろん、委託によって新たな生命の息吹が注ぎ込まれることは、歓迎すべきことなのであるが、筆者はどうしても、そういう現象が起きていること自体に、行政の行き詰まりのようなものを感じずにいられない。
  
以上で、裁判所の権威とは、目に見える物事を超越した領域から、裁きを宣告することにあると書いた。そこで、三権分立には、主従関係はなく、それは互いに抑制し合い、働きを分散させたものに過ぎないとはいえ、そうはいえども、筆者の目から見ると、実はやはり、目に見える領域で働く「体」=「行政」は、最も知性からはほど遠い場所にあると言って差し支えなく、その意味で、これは、命令を実行する手足のような機関であり、かつ、裁きに服さねばならない、徹底して「仕えるため」にある部位であると考える。

にも関わらず、「体」が知性を凌駕し、頭脳との関係までも覆し、一人の人間の中で、王様になってしまうと、人間の本来的な秩序が転倒する。ところが、我が国では、半ばそれに類することが起きているのが現状ではないだろうかと筆者は考えざるを得ない。

今は問題提起の段階なので、これ以上のことは深く語れないが、筆者はそのように、たとえるならば、麻痺しかかったような状態にある「体」に、良心と生きた感覚の機能を取り戻させるために、いかなる方法(手術・治療)が必要であるのかについて、ずっと考え続けている。

冒頭に挙げた御言葉は、従来の聖書的な解釈によれば、当然ながら、一人一人の信者に適用されるものであるのだが、それと同時に、これは「からだ」の働きを持つすべての職に当てはまる。

人に仕える立場にあるはずのものが、王様のように君臨している状態は、明らかに異常であるから、そのような状態を是正するためにも、自然と、壊死した細胞を生きた細胞に取り替える必要が生じているのではないだろうか。罷免が及ばなくとも、必然的に、何かしらの淘汰や刷新に近いことが起きているのである。

筆者がいたずらに行政の無為を批判し、役立たずの役人を罷免する制度が欲しいと言いたいがために、こうした事柄を、決めつけで書いているとは考えないでもらいたい。国家・地方公務員の選定と罷免を国民の側から可能とすることは、何らかの方法で必要であろうと考えるが、その問題とは別に、まずは行政と司法との間で(筆者は立法府のことはまだ知らず、関わっていないため言及できない)、生きた橋渡しを行い、真に抑制し合う関係を打ち立てるために、今後、必要となることは何なのか、筆者は自分自身の置かれた立場から考え続けねばならないと述べているだけである。

* * *

最後に、いくつかの個人的な事柄について書いておきたい。以下の二つは、筆者が当ブログを巡る訴訟が行われている期間中に学んだ最大の教訓である。
 
➀物事は非常に困難な方法で取り組んでみることにこそ価値がある(望みうる最高の願いを決してあきらめずに、犠牲を払ってそれに向かうことに価値があること)。
②理不尽だという思いを捨てることこそ、すべての物事の解決の最短コースだということ。

➀について言えば、通常の感覚では、訴訟の提起そのものが著しい冒険であり、未知の分野への挑戦であったため、それにも関わらず、控訴審まで及ぼうとしていること自体が、途轍もない大いなる挑戦(もしくは無謀な冒険)と映ることであろう。

しかし、周りからどのような評価を得たとしても、筆者は、やはり、どうしてもこれだけは譲れないと考える望みに対しては、人は妥協なしに取り組まねばならないことをいつも思い知らされている。

筆者の目から見て、なぜ裁判所がそれほどまでに尊い場所に映るのかという理由もそこにあるのだ。それは、そこに人々の命がけの「望み」が託されているためである。

訴訟には一つ一つ、個人的な争いにはとどまらない社会的な価値があると、筆者は考えている。当ブログに関する訴訟では、特に、クリスチャンの側から、どうしても述べておかねばならない問題があった。強制脱会活動の違法性の問題である。

遅ればせながら、ようやく控訴審になってからこの問題に言及することが可能となったとはいえ、こうなったのは運命的な巡り合わせであり、かつ、これははかりしれない価値あるテーマだと筆者は考えている。

なぜなら、今までクリスチャンの側から、強制脱会活動の違法性を認め、こうした活動を批判したり、反省する発言が、公の場所で聞かれたことはほぼないと考えられるためである。しかし、筆者は、これをプロテスタントの恥ずべき歴史としてとらえており、そのことをプロテスタントの中から(これまでプロテスタントの信者であった者の側から)公式に認め、声明することには、非常に重い意味があると考えている。

筆者は牧師でもない一信者に過ぎず、そもそも訴訟では他者の不法行為を指摘しているのであって、自分自身が脱会活動に携わって来たわけではないが、当ブログでは、そもそもの初めから、強制脱会活動はプロテスタントの汚点であるということを指摘し続けて来た。

その意味で、筆者の訴えは、キリスト教徒の側から、異教徒に対して、反省し、懺悔せねばならない問題があることを公に宣言するという意味を持っていないわけではない。筆者の訴えは、統一教会とは何の関わりもないところで提起されているとはいえ、クリスチャンの側から、こうした脱会活動を強く非難する言葉を、公の場所で述べておくことはぜひとも必要であると考えている。

そのチャンスが巡って来たのは、やはりこの戦いを控訴審へ持ち込むことに、真に意義があったたことを表しているように思われてならない。
  
さらに、②の理不尽だと感じる思いを捨てることは、決して誰から何をされても一切異議申し立てをしないという口封じの圧力に屈することは訳が異なる。理不尽なことは、理不尽であると、むしろ、公然と訴えるべきなのである。だが、そのことと、許せないという感情をいつまでも持ち続けることは異なる。

筆者は、第一審が終わってから数ヶ月ほどたった時に、心の中で理不尽だという思いを手放しつつ、それでも、訴えを続行することは可能なのだということを学んだ。それは、真実を明るみに出し、きちんと事実関係と責任の所在を明らかにし、物事をあるべき所に是正して行くために、必要な措置だから、訴えを続けるというだけのことであり、相手を徹底的に追い込むとか、自分の思い通りの決着に従わせるために、何としても争いを続行するというものではない。

そのように個人的な感情を手放すことができた時、その訴えは、神ご自身が取り上げて下さり、人間の努力によらずとも、速やかにしかるべき解決が与えられることを筆者は学んで来た。

ただし、これは繰り返すが、うわべだけ謙虚さを装い、波風立てないことだけを第一として、相手の前にわざと自分の主張を放棄して折れて出るとか、望みをあきらめるということとは全く意味が異なる。筋を通さなければならない場面では、不本意な妥協や和解を退け、最後まで物事を公然と明らかにすることは必要である。だが、それを個人的な怒りや報復感情とは関係のないところで、真に物事があるべき姿を取り戻すためにこそ、行うことは可能だと学んだのである。
 
ところで、最後に蛇足ながらつけ加えておくと、政府の行う行政サービスの中に、国側が敗訴した国賠訴訟への対応というものもある。さすがに、この仕事は外部委託はできないため、半永久的に、政府自身が行わなくてはならないであろうが、その領域まで行くと、役所はもはや自己正当化ができなくなる。たとえば、先の大戦中に政府が犯して来た数々の過ちの償いの問題があるし、ハンセン病者とその家族への償いもあろうが、こうした問題を扱っている役人は、どうしても国民の前に「悪者として立つ」ことを避けられない。

その領域まで来て、初めて行政サービスに自己反省と自浄作用の余地が生まれる。(言い換えれば、それ以下の国賠訴訟で敗訴を味わったことのない下部の行政機関には、我がふりを自分で正すという自己反省の力がないということである。)

だが、それとて、市民たちが必死の覚悟で訴訟を戦い抜いたことの成果なのであって、行政自身の自然な自浄作用によって生まれた結果ではない。集団的な国賠訴訟が起こされなければ、行政が自ら過ちを認めることはなく、苦情の電話や書面といったレベルで対応がなされることも決してなかったであろうと筆者は確信する。

そういうことを考えても、筆者は、やはり、行政が今や決して自力で到達できなくなっている自己反省の部分を補うという意味でも、司法の働きの重要性を思わずにいられない。そして、司法には、人間の魂の最も重要な機能としての「良心」の働きがあるように感じられてならない。だからこそ、そこに筆者は尽きせぬ興味関心を抱くのである。
 
弱く無力で追い詰められた立場から、国を相手取ってでも、訴訟を戦い抜いて、判決を勝ち取った人々の努力と成果があってこそ、先の敗戦によって生じた様々な混乱の責任を含め、数々の過ちの責任を政府に追及することが可能となり、我が国の今日の様々な法と社会のあり方が打ち立てられているのであって、その訴訟がなければ、政府自身が己が過ちを認めることは決してなかったであろうことを考えると、それを起こした人々の努力にはやはり敬意を持たないわけには行かないと思うのである。

それと同時に、「体」に働く痛みの感覚とは、人の良心の働きであって、人が自己反省によって軌道修正して行く力そのものであろうが、それを失ったとき、人は他者を傷つけるだけでなく、自己をも傷つけることになることを思わされる。

自浄作用をなくした行政の腐敗という問題と、プロテスタントが繰り広げた強制脱会活動の問題とは、そういう意味で、筆者から見ると、何かしらの共通点を持っているような気がしてならない。「プロテスタントの教会に自浄作用が働くなったために、被害者は裁判を起こすしかない」と警告していた牧師自身が、強制脱会活動に関わって来たことはまるで運命の皮肉のような話である。

なぜプロテスタントはそのようにまで盲目的で自己反省のない状態に陥ったのか。なぜ自ら神を信じると豪語する人々が、それほどまでに良心を失い、自分自身を正義の担い手のように考えながらも、他者から裁判を起こされるまで、人々の悲鳴に耳を貸さなくなったのか。(さらにもっと言えば、裁判を起こされても、なお不都合な判決には耳を貸さなくなった。)信者はこの問題についてよく考えなければならないものと思う。

筆者は、そこに、数々の外注の業者や、末端の下々の職員を絶え間なく(内心では見下しながら)「選定」したり「クビ」にしながらも、自分たちだけは、決して誰からも「選定」されることもなく「罷免」されることもないという自己安堵に陥った行政役人の「驕り」と、自分たちは由緒正しい正統な信仰を維持するキリスト教徒であるから、救いを知らない(で地獄に落ちる)他の人たちとは全く異なると自負する信者の「驕り」という、何かしら非常に似通った心理的問題があるような気がしてならない。
 
とにかく、そこに共通する問題として、高慢さとその結果としての自分とは異質な他者に対する君臨というものが存在することは確かであろう。それだからこそ、筆者は、逆にキリスト教徒の側から、誰か一人でも、この問題について、自分たちの側に責任があることを認めて、異教徒の前に頭を下げる人間が現れることが必要ではないかと考えている。

そのために、筆者は、誰が当事者として耳を貸すわけではないとしても、また、筆者自身が、責任を負うわけではないにしても、少なくとも、信仰者を名乗る人間が、こうした問題が起きていることに、気づきもせず、神と人の前で、声をあげることもない鈍感さと良心の欠如は、実に恐るべき感覚麻痺であって、そのような状態を避けるためにも、この問題について、真実を公然と明らかにし、責任の所在を問うことは、必要な作業であると感じている。そして、そのチャンスが与えられたことは、光栄だと感じているのである。

人は自分自身が罪を犯したわけではなくとも、人々の代表として、頭を下げなくてはならない瞬間がある。そして、聖書が根本的に述べているのも、人は誰も義人ではなく、生まれながらに罪人であるから、誰もヒーローにはなれないということである。

救われて、キリストに似た者とされるとは、より一層、へりくだって仕える人になることをしか意味せず、尊大で他者を見下しながら、自分だけは特別だと己惚れる人間になることを意味しない。だから、たとえ自分に罪がなくとも、信者にはへりくだることが必要であり、そのために、自分の憤りを手放すことも必要であり、それがなされた時に初めて、我々の訴えは、神と人との前に義と認められて、速やかに聞き入れられるものとなるのではないかと感じている。

そのことを、筆者は自分自身の訴訟を通しても、日々の生活の中でも、毎回、毎回、繰り返し、思い知らされつつ、同時に、それでも手放すこともできず、あきらめることもできない切なる願いを、神と人とに訴え続けながら生きている。それだからこそ、それだけの言葉に言い尽くせない思いを通過しながら、学び、勝ち取られた成果としての判決には、そこに書かれている文字以上の価値があると思わないわけにはいかない。また、そうした人々の悲痛な思いが集積されているのが裁判所であることを思うと、その場所には、畏敬の念や、厳粛さと同時に、深い憧れや愛情にも似た特別な思い入れを抱かないわけにいかないのである。

愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。

「神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
  魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
  心の思いと意図を素早く識別します。
 (ヘブル人への手紙4:12、改訂訳)

「はじめに神は天と地とを創造された。
 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。 」(創世記1:1-4 口語訳)

それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。

 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:17-18 新改訳)

わたしの民がわたしに聞き従い、
 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。

 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたがたを飽かせるだろう。」(詩編81:14-17)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)


* * *

今から何年も前のことだ。ある職場に勤め始めたとき、上司が「チサイに行ってくるね」と声をかけた。その頃、勤め始めたばかりだった筆者は、ぽかんとした顔で上司を見上げた。

「ああ、あなたはまだ入ったばかりだから分からないよね。チサイって、地裁のこと。東京地方裁判所のこと。」

地裁は職場から歩いて行けるところにあり、上司たちは連れ立って何度も訴訟に出かけていたのであった。筆者自身は、主に事務所の留守番をつとめ、一度も彼らと共に外出することはなかったが、その頃から、少しずつ、裁判所は筆者の人生に近づいて来ていたような気がする。

自分自身が裁判に臨んで、学んだことは無限にあった。汲み出しても、汲み出しても、まだ汲み尽くせないほど、そこには無限の学習があった。筆者はそこに、命の水の流れがあることを感じた。誰も見向きもしない、味気ない紛争のフィールドは、隠された命の宝庫のようであった。ここに、筆者だけでなく、多くの人たちを解放する秘訣があると、筆者は直観で悟ったのである。

筆者はその確信を胸に、二度とそのフィールドを離れないことに決めた。二度と生涯、専門家を名乗ることはないだろう。ただの無名の市民として、この泉のほとりにとどまり、これを自分の生きるフィールドと定め、可能な限りの命を汲み出してみようと決意したのである。

筆者は、プロテスタントと資本主義を離れることに決めたと幾度も書いた。詐欺と、搾取と、弱肉強食の横行する、人間を骨までしゃぶり尽くす過酷な競争の場と化した貪欲な金儲けの世界を永遠に離れ、自分の専門を離れ去り、今後は自分の満足のためでなく、真に人々の益になるよう生涯を捧げようと決意した。

すると、あれよあれよという間に、まるで天がずっと前からあなたをここで待っていたのだと言ってくれたような具合に、すべてが開けたのであった。

これまで、あれほど生きるために苦労していた心配は、何だったのであろうか。今までを振り返っても、これほどすべてが首尾よく運んだことなど一度もないというほど、すべてがビジョンの通りに運んだ。

ああ、これで本当に良かったんだなと思った。どうやら、筆者は運命的な出会いを見つけたらしい。この道は、これまでのように、筆者の片思いではないし、悲劇へと続く道でもない。相思相愛の道、豊かな報いが約束されている道だ。

どんよりとした陰気な曇り空の下、不安の中で踏み出した一歩だったが、物事は見た目ではなかった。紛争とよく似ている。見た目は非常に好ましくない、がっかりさせられるような味気ない外観の中に、永遠にまで至る、尽きせぬ喜びと感動が隠されている。

それは謙虚さや、低められることの意味を知っている人にしか、たどり着けない命の泉である。

さて、このところ、筆者が主に回答を委ねていた複数の問題があった。

この世には、妥協もできず、和解してはならない相手というものが存在する。人間的な思いでは、私たちは誰とも離反したくはないし、誰をも罪に定めたくないと思うだろう。しかし、DVを繰り返す人間が、許せば許すほど、ますます増長して行くだけであるように、許すことが有害な相手、和解してはならない相手というものも、この世には存在する。

もしも私たちがエジプトを真に去ったのならば、後ろを決して振り返ってはいけない。二度と元いた場所に戻ろうと思ってはいけない。だが、そのためには、エジプトと私たちとの間には、紅海という不可逆的な断絶が横たわらなくてはならない。

エクソダスである。御言葉による切り分けである。

そういう意味で、判決とは、相容れないものを永遠に断絶させて、物事の是非を切り分けるための宣言であることが分かった。

原告となって自ら訴訟を起こした多くの人たちは、判決を得ても、賠償が支払われないかも知れない恐れなどから、和解を選択する。判決を取れば、罪に定められた相手が反発し、賠償金を踏み倒すかも知れない。その上、控訴してくるかも知れないと恐れる。だが、和解ならば、きっと双方が自主的に選択した解決だから、誰もこれを踏みにじることはあるまいと考えるのだ。

彼らは思う、判決によって物事を永遠に切り分けるような「残酷な」措置を取るくらいなら、人の面目を潰さず、金銭的和解にとどめておいた方が「穏便な」解決であると。

ところが、筆者は考えてみればみるほど、実はそうではないことが分かって来る。

筆者の心の中で、判決に対して沸き起こる尽きせぬ畏敬の念、憧れのような感情は、一体、どこから来るのだろうか。なぜ筆者はこれほど正しい裁きを切望するのか。

この曲がった世の中で、どうしても、誰かが上から力強く裁きを宣言し、争いに終止符を打ってくれなくてはならない。誰の過失によって、このような事態が起きたのか、はっきりと白黒つけて、宣言してくれなければならない。誰かが力強い腕で、死にかかっている我々を泥沼から救い出し、引き上げてくれなくてはならない。

当事者同士の終わりなき話し合いでは、私たちは闇の中をさまよい続けることしかできず、決して光にたどり着くことができないのだ。

それは神なくして生きる被造物の真っ暗闇の世界に似ている。どれほど主張書面をうず高く積み上げようと、これを認定してくれる存在がなければ、私たちの訴えはむなしい。

もしも一度で正しい裁きが得られないなら、二度でも、三度でも、挑戦して構わない。自分の都合だけを認めてくれと叫ぶのではなく、とにかく光へ向かって、私たちを照らし出してくれる正しい光へ向かって、全力で走って行って、命を獲得しなくてはならないのである。

判決を得ることは、和解することに比べ、多大なる困難がつきものである。しかし、判決の最も大きな効力は、隔てられるべきものを永遠に隔てると宣言することにある。
 
もしも私たちがエジプトを真に去って来たならば、もはやエジプト軍との和解はあり得ないはずだ。追っ手を恐れてはならない。紅海で溺れ死ぬのはエジプト軍であって、我々ではない。

筆者は思う。神は私たちの心から、断ち切られるべきものが断ち切られることを、望んでおられるに違いないと。和解ではない。必要なのは隔てである。

神は十字架を通して、私たちを罪から永遠に断絶させ、永遠の隔てを置こうとなさっておられる・・・。

これまで一度も記したことがなかったが、当ブログを巡る訴訟では、筆者は遮蔽の措置というものを願い出た。

これは法廷で被告と対面しなくて良いための措置である。このような措置が認められるのかどうかは、大きな賭けであった。もしも認められなければ、我々は法廷で一同に会することになる。面識ができることになる。面識が出来るということは、知り合うということであり、関係性がより深まって行くことである。

訴訟が始まるまでの間、一体、この問題はどうなるのかと、筆者は不安に駆られていた。幸い、裁判官はこれを許可したが、被告は憤慨した。被告は筆者が彼らを過度に警戒し、危険人物扱いし、侮辱しているかのように主張していただけでなく、その後、裁判官がこの措置を認めたことまでも、裁判所の不法行為だと言い立てていたくらいである。

一審の最中、筆者は、この遮蔽の措置とは、神と人とを隔てる十字架の象徴であり、人の意思では決して取り除くことのできない、救われた者とそうでない者、聖なるものとそうでないものとを隔てる区別なのだと、準備書面に書いた。

被告がもし信仰によって結ばれた兄弟姉妹として、罪を認めて謝罪と償いができるならば、こんな隔ての壁は要らない。和解も可能なのに違いない。だが、もしも罪を認めないならば――それはただ筆者に犯して来た罪を認めないことを意味するだけでなく、人としての原罪までも否定する行為を意味し、神の救いに逆らっているのであって、彼は兄弟ではない。私たちは対面することができず、知り合うこともできず、神の怒りという遮蔽の措置によって、永遠に隔てられたままに終わるだろう。

こうして、我々は最初から最後まで、対面することがなかった。そして、判決が我々をさらに遠く永遠に隔てた。もう一人の被告は、一度たりとも法廷に出向くことはなかった。

ところが、こうして永遠の隔てが置かれているにも関わらず、それでも一審判決後、筆者は賠償金の取立のために、自らの意志で被告に会いに行こうとしていた。筆者は当初、それが自分の責務であるかのように考えていたのである。

ところが、それも成らなかった。被告は筆者が出向こうとしていることを憤怒して非難し、筆者も忠告を受けて計画を中止した。やはり、我々には、目に見えない霊的な領域において、どうしても乗り越えることのできない隔てがあるらしい。筆者がどう考えようと、会うことが「禁じられている」のだ。

それだけではない。賠償金の取立のための接触さえも、行ってはならないことが、だんだん分かって来た。筆者と被告とは、一切、無関係であり、ただ被告が筆者に対して負い目を負っているだけで、筆者の側から、被告に対してなすべきことはない。

訴訟における判決とは、人間の造り出した法的拘束力を伴う言葉である以上に、霊的な領域においても、隔てられるべきものを永遠に隔てる宣言であり、それ自体が、原告と被告との間に横たわる永遠の「遮蔽の措置」としての十字架だったのである。

二審では、それがもう一人の被告に対しても宣言されねばならない。それによって、呪いが完全に断ち切られるであろう。

これは考えるだに厳しい、峻厳な霊的原則であって、人間的な感情に基づいたものではなかった。

筆者が飽くことなく判決を求める願いはどこから来るのか、少し分かったような気がした。それは、事を荒立てたいという願いから来るのでもなく、誰かを罪に定めたいという願望からでもない。何が正しい事柄であり、何がそうでないのか、何が神に喜ばれる尊い事柄であって、何がそうでないのか、何が清い、聖なるものであって、何がそうでないのか、何が真実であって、何が偽りであるのか、何が正義であり、何が不法であるのか、筆者自身が、可能な限り、その区別を明らかにして、正しい裁きをなして欲しいという切なる心の叫び求めから来るのだと分かった。

たとえ筆者自身が罪人の一人として焼き尽くされ、無とされても良いから、神の喜ばれる正義が何であるか、真実が何であるかが明らかになって欲しい。もうこれ以上の嘘と不法はたくさんだという切なる願い求めがあった。

だが、キリストの十字架ある限り、筆者は、罪から救い出され、死から救われて生きるであろう。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。 「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、 雪のように白くなる。 たとい、紅のように赤くても、 羊の毛のようになる。」(イザ1:18)

これは言葉に言い尽くせない峻厳な「切り分け」である。私たちの罪が赦されるすべての根拠はキリストの十字架にある。これが私たちの唯一の防御の盾であり、装甲である。

だから、汚れたものと分離しなさい、と主は言われる。この点について、主の命令は厳しく、妥協なく、絶対的である。中途半端な分離というものはない。彼らを断ち切りなさい! 心の中からも、生活の中からも、一切を断ち切りなさい! 十字架の装甲の中に隠れなさい! 二度と彼らを振り返ってはいけないし、関わってもならない。対話してもいけないし、和解する余地は二度とない。

こうして、二度と後戻りできない断絶が宣言される、それが判決なのだということが、だんだん分かって来た。いや、それが訴訟というものなのである。

和解の問題を考える度に、心に沸き起こってくる厭わしさは、そのためだったのかと分かった。暗闇の余地を残してはならないし、グレーなままで終わりたくない。負うべきでない負い目を、これ以上、恐怖のために負わされたたくない。どんなにリスクが伴っても、正しい裁きへと至り着き、命に到達したいという願いをあきらめられないのだ。

これがエクソダスの原則なのである。エクソダスしたならば、二度と後ろを振り向いてはいけない。堕落したものとの分離において、中途半端な態度ではいけない。山頂に達した人が、そこに自分の旗を立てるように、私たち自身が自分の心に宣言しなければならないのだ。

脱出は完了した。裁きはカルバリにおいて下された。我々はこの十字架を通して、この世に対してはりつけにされ、この世も私たちに対してはりつけにされて死んだ。生きているのはもはや「わたし」ではない。世は私たちに触れることはできないし、重荷を負わせることもできない。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(ヘブライ12:1-3)

「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」、私たちはどこへ向かって走るのか? もちろん、自由へ向かって、解放へ向かって、約束された天の都に向かって、復活の命の領域に向かってだ。後ろを振り返ってはいけない、ただ真直ぐに前だけを見なさい。真直ぐに天だけを見つめ、目的に向かって走り抜けなさい!

まるで霊的な目が開けたように、これは人情でどうにかできる世界ではない、と分かった。鳥肌が立つような厳粛さがそこにあった。もしも後ろを振り返るなら、不信者と共につりあわないくびきを負わされ、ソドムを振り返ったロトの妻のような運命が待ち受けているだけである。

訴訟というのは、分岐路である。もはやそこに来た以上、後戻りはできないのだ。あなたは一体、何を選ぶのか、何を望むのか、問われている。

筆者が慕い求めるべきは、エジプトでもなく、ソドムでもない。御言葉によって与えられた、まだ見ぬ約束である。それがまだ成就しておらずとも、いや、成就していないからこそ、私たちはこの約束を価値あるものとして握りしめ、これを慕い求め、その約束が成就する日を信じて待ち続け、忍耐しながら目的へ向かって走るのである。

その約束の真の意味は、キリストが私たちを迎えに来られることである。そして、私たちの完全な救い、完全な贖いが成就することである。その日のために、私たちはもう一度、自分自身を聖別し、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、自分が何者であり、誰のために捧げられた者であるのか、片時も忘れないように心を決める必要がある。

教会はただ一人の男子キリストのために捧げられた聖なる花嫁である。汚れた者はこれに触れることができない。もう一度、冒頭にも挙げた御言葉を引用しておこう。

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。
 全能の主はこう仰せられる。」

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)


私ではなくキリスト―事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(3)

最後に、これまで当ブログでは、掲示板とは、グノーシス主義の「鏡」に当たるものだと主張して来た。この「鏡」とは、本質的に「虚無の深淵」であり、本体の像を盗み、これを歪んだ形で映し出し、出来損ないの贋作を大量に作り出すことによって、本体の尊厳を奪おうとする、悪意ある鏡である。

この贋作は、言い換えるならば、「なりすまし」である。グノーシス主義における神々の誕生は、「存在の流出」という概念に基づくものであって、これは被造物が神になりすますものであることも述べた。

聖書には次のくだりがある。

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


この御言葉を読む限り、鏡とは、被造物である私たちであり、私たち自身が鏡のように主の栄光を反映する存在であることが分かる。

しかし、グノーシス主義はこれとは反対に、創造主である神を「鏡」と規定する。そうすると、本体(造物主)と影(被造物)との関係が逆転し、神は虚無となり、その鏡には、もろもろの被造物の姿が映し出されることになる。

結局、それは、被造物が、自分の姿を鏡に映し出し、それを指して「これが神だ!(私が神だ!)」と言っている状態を意味するのであって、それは虚無に過ぎない被造物が神になりすました世界であるため、その世界をどこまで旅しても、虚無以外のものは見いだせない。

匿名掲示板、おびただしい数のミラーサイトなどは、どこまで行っても、鏡に映った映像以外の何物でもなく、決して「本体」に巡り合うことのない世界である。しかも、その映像は、本体の性質を盗み取って出来た質の悪い模造品であり、自分では何も創造する力がなく、他人のエネルギーを吸い取り、奪い取ってしか生きられない人々の作り出した虚無の世界である。

 * * *

今ちょうどディプログラミングの問題性について書いているところです。(掲示板でおそらくカルト被害者救済活動の支持者と見られる人々の行っている)著作権侵害も、強制脱会活動の一環とみなすことができるかも知れません。

ディプログラミングというのは、米国では70~80年代に行われ、数々の民事・刑事訴追により信教の自由の侵害及び人権侵害の犯罪行為と認定されて、とうに違法となって廃れた強制脱会活動のことですが、日本ではこれが2016年になるまで、プロテスタントのキリスト教会の複数の牧師たちによって続けられて来ました。

要するに、これは「カルト問題の専門家」を自称する人々が、「カルトのマインドコントロールの被害を受けている」と勝手に決めつけた信者の「誤った宗教洗脳」を「解除」しようと、彼らを拉致したり、監禁しながら、彼らが自らの誤りを認めて「棄教」して、脱会カウンセラーにとって都合の良い考えを「正しいもの」として受け入れるまで、無理やり人権侵害を繰り返し続けながら、棄教を強要することなのです。


日本では、統一教会の信者を対象に、ディプログラミングに基づく拉致・監禁を伴う信者の強制脱会・棄教運動が行われて来たことは、すでに述べました。拉致や監禁といった人権侵害を繰り返すことで、「その考えを捨てねば、おまえをもっと苦しめてやるぞ」と圧迫を加え、ディプログラマーが自己に都合の良い「再プログラミング(再洗脳)」をその人に施すのです。

まあ、平たく言えば、拷問で自白を強要して罪を認めさせるようなものです。拷問を受け続ければ、誤った考えを持っていない人でも、いつかは降参して自分の考えを誤ったものとして捨てることになるでしょう。


米国のディプログラミングも、専門家でない人々によって行なわれていたようですが、日本はもっとそうです。たとえば、「脱会・救出カウンセラー」を名乗る村上密、ジャン・ドウゲン、パスカル・ズィヴィー、ウィリアム・ウッド、これらの人々はみな専門的なカウンセラーでも臨床心理士でもない。カウンセリングは、通信教育などで学んだ程度で、大学教育で専門的に学んだわけでなく、実践的な訓練を受けていない。そうして専門家の資格を持たないまま、牧師や宣教師の立場から、カルト問題に関わるようになり、「脱会・救出カウンセラー」を名乗るようになった。いわば、自称専門家であって、真の専門家とは言い難い人たちが中心に、カルト問題を扱って来たのが日本なのです。

さらに、被害者の代理人などという立場は、もっと何者であるか、よく分かりません。私から見れば、ドッペルゲンガーとでも呼ぶべき不気味な存在で、他人の分身になることによって、その人をマインコドントロールするのに非常に都合の良い立場です。

たとえば、誰かの後見人になれば、その人の法的権利まで取り上げられますから、後見人制度を悪用する人たちもいるわけですが、代理人には権利は取り上げられないが、誰かの意思を代弁することはできるのです。


しかも、代理人が、本当にしかるべき代弁をしているならまだしも、鳴尾教会に対する裁判の時のように、代理人が信者を敗訴に導いているのであれば、いかに敗訴は、提訴した信者の責任であると言っても、信者を裁判へ焚き付けた代理人にも、「道義的責任」が生じることは、免れられないでしょう。

なぜ代理人に関する話と、主任牧師引退の話が結びついているのか、すごく分かりにくい不思議な記事ですね。代理人が、信者に訴訟を勧めても、訴訟の途中で、約束した和解を蹴って、加害者が逃亡する例もある。そういう加害者にも、真に「応分の酬い」を受けさせているのであれば、代理人には、道義的責任など生じるはずもないことですが、勝てると思った訴訟で、加害者に逃げられてしまった被害者たちは、無念を噛みしめざるを得ないでしょう。

さらに、代理人が訴訟を勧めても、信者が敗訴した場合、敗訴という不名誉な事実を覆い隠すために、加害者とみなした人間にいつまでもブログで誹謗中傷を重ねることは、不法行為でしかなく、加害者に対する「応分の報い」とは全く呼べないことは言うまでもないですね。


掲示板も、それ自体が、ドッペルゲンガー(グノーシス主義の悪意ある鏡)であり、本体を凌駕して滅ぼすための「分身」なのです。

私に対して悪意を持つ者(おそらくカルト被害者救済活動の支持者)が、ディプログラミングの手法に基づき、このブログを私が更新し続ける限り、嫌がらせをやめないぞという意思表示をしているわけなんです。

被告Aは私が異端者であるとブログにも準備書面にもあからさまに書いていましたが、掲示板の著作権侵害も、私の考えが「異端的教説」であるとみなし続ける人間が、「俺たちを批判するおまえの口を封じるまで、権利侵害に及ぶぞ」と言って加えている懲罰だと私は受け取っていますよ。


被告Bのブログが引用されて締めくくられるところを見ても、こうした権利侵害を繰り返す人間が、カルト被害者救済活動を擁護したいがためにやっているという目的は明らかではないですか? 常に被告Bに更新をリードさせておきたいから、私のブログを引きずりおろし、かつ、被告Bの記事を見せつけるために、コピペを繰り返しているのではないでしょうか。

被告Bは自らのブログで、法的措置が難しい場合には、社会的制裁として、自らのブログでカルトの疑いのある人物や団体を批判する、と書いていませんでしたか? これと同じように、もしくは、これにならって、掲示板で、カルト被害者救済活動の敵対者とみなした人物に「社会的制裁」を加えたい人たちがいるということだと私は思っています。


日本のプロテスタントの牧師らが行って来た強制脱会活動については、まだ全体が裁かれたことがなく、統一教会からは多数の批判と裁判例があり、さらに書籍も出てますが、まだまだ世間にこの問題が一般に周知されたとは言い難い状況にあります。

そこで、今回、このような運びになっていることには、運命的な巡り合わせを感じます。これまで強制脱会活動の違法性を訴えて来たのは、主に統一教会の信者でした。しかし、カルト被害者救済活動が違法であることを、キリスト教の中からも、誰かがはっきりと証明し、キリスト教徒の側からも、この運動を真に終わらせることが必要な時期に来ているのだと私は思っています。


掲示板の権利侵害は、毎回、これまで、裁判の判決などが近づくとやたら激化して来ました。この度、控訴審が始まろうとしていることが、よほど怖いのではありませんか。まあ、私としては、ネット上の嫌がらせを行っている人物を特定する材料が提供されて手がかりが増えるのは、ありがたい限りなんですが・・・。

それにしても、「応分の報いを受けている」。これはすごく怖い言葉だと思います。こういう言葉をさらっと言える人って、人間としてどうなのかと思います。私は勝訴した人物からも、賠償金を払われてないですから、加害者は応分の報いを受けていません。でも、それがかえって今の私にとっては良き効果を生んでいると思うんですよ。

これは賠償金を払わないことを正当化したり、免罪するために言うわけではありません。ただし、勝訴したからと言って、相手を完全に叩き潰すがごとく、執拗に追い続けて「応分の報い」を受けさせるなどということは、私には到底、許されてもいないことを言っているのです。


たとえば、家や土地があれば、わずかな賠償金で家を追われる事態にもなりかねないわけで。職が分かっていれば、仕事もクビになる可能性があるわけで。やろうと思えば、債務名義を片手に徹底的に相手を追い詰めることが可能なわけですし、それができるなら、そうなっていたかも知れませんが、そういう運びになっていないこと、そうなる前に各種の制止があり、かつ、控訴審も始まり、あくまで裁判所が許可した範囲でしか動かないよう道が限定されていることも、私にとっては極めて幸運であって、私が神に愛されていることの一つの証明なのです。

「応分の報い」を受けさせるって、とても怖いことです。加害者を追うのも、あくまで法的に許容された範囲で、判決に基づく強制執行くらいでとどめておかないと。鳴尾教会に対する裁判のように、敗訴した人間が、法的措置も及ばないはずの領域で、自ら相手に「社会的制裁」を加えるなどということは、絶対にやめた方がよろしい。

報復される方は神ですからね。勝っても負けても、自分自身で相手に報復した場合、その人も、悪魔と同じ報いを受けることになりかねません。


ですから、私は当ブログを巡る裁判では、一度で全部勝たなかったことも、争いが控訴審に持ち込まれて長引いていることも、私自身は何の栄光も受けていないことも、すべて神の采配と思いますよ。私には慢心するまで勝利を喜ぶ暇すらも与えられておらず、踏みつけられ、苦難が続いているだけなのですが、そのこと自体が、最大の防御であり、神の恵みと憐れみの証拠なのです。

そういう現状があればこそ、なおさら、一審判決は、私にとって価値ある尊いものなのですへブル人への手紙のごとく、。「まだ見ぬ約束」であればこそ、私は約束のものをはるかに仰ぎ見て、信仰によってこれを喜びを持って迎え、自分がこの地上では寄留者であって、目に見える都ではなく、見えない都を目指して歩んでいることを、尽きせぬ憧れと、誇りと、感謝を持って言い表すのです。

私たちの「応分の報い」は天にあるのです。そのことを考えれば、仮に約束のものに到達せずに死ぬことがあっても、決して恥とは思いませんね。なぜならば、天にはもっと大きな報いが待ち受けているからです。


しかも、神はいつでも私たちに必要なものを、別のルートで、すべて必要なタイミングで供給して下さいますので、苦難があれば、豊かな慰めも伴うのです。このように、判決を得ることには多くの犠牲が伴うものの、それだからこそ、なお一層、判決は尊く価値あるものと私には見えるのです。

* * *


名誉毀損により刑事告訴されたカルト被害者救済活動を率いる牧師が、ブログ記事を非開示にしたと言いながら、一部、閲覧可能なまま放置している。判決で削除を命じられた記事についてもそうだが、ブログが削除されたのか、非開示にされたのか、閲覧者が限定されただけなのかは、実に大きな違いである。

さらに記事の一部が残っていた場合、削除したことになるのか。こうした問題については、慎重な見極めが必要である。

掲示板の著作権侵害は、犯人が特定されるまで、続行された方がむしろありがたいかも知れない。終わったと思ってもまたぞろ出て来るのは、やはり特定せよという天の声とみるべきかも知れない。
 
 筆者は大々的な権利侵害のネットワークを何としても徹底追及しようとは考えていないのだが、これだけ執拗に繰り返されるのは、やはり追及せねばならない理由が存在するからではないのかと思わずにいられない。

筆者は、賠償金の回収を自分の責任として負わないこととしている。この問題には、裁判所が何らかの応答をするであろうし、それは筆者にとって、決してマイナス要因としては働かないだろう。

払おうとしなければ、払わない人間の信用が下がるだけである。一審判決を重んじない人が、何を目的として控訴するのか。二審でも自分に不利な判決が下った場合、それも無視するのかと、問われることは間違いがない。


カルト被害者救済活動を率いる牧師も、他人には謝罪と償いを要求しながら、自分自身が責められる段になると、賠償を払わないダブルスタンダードを容認するのでは、これから先、社会的信用は得られないだろう。

当ブログを巡る今回の裁判によって、カルト被害者救済活動の本質がとことん明らかになった、と筆者は考えている。この運動を今になっても正義の活動のように考えている人は、世間ではほぼ見当たらなくなったのではないか?

警察でさえ、牧師が信徒を名指しで非難するなどあり得ないと発言していた。まして告訴するなど言語道断な所業と言って差し支えない。宗教を知らない一般人から見ても、こうした牧師のしていることは異常と映っているのだ。

こうして、2009年から筆者の指摘した通りの過程を、カルト被害者救済活動は辿っている。めくらめっぽうの異端狩り、無実のキリスト教徒の粛清、魔女狩り裁判・・・。

当時から、被害者意識などに溺れていては、何も始まらないと、筆者は何度も警告している。自分には甘く、他人には厳しく、自己の責任は何も負おうとしないで、ただ他者だけを延々と責め続けるなどのことをしていれば、とんでもなく甘えた人間になって行くだけである。他人を責めるなら、なおさらのこと、自分自身も責められたとき、潔く責任を取らなくてはならない。

被害者意識、特に、神と教会に対する被害者意識は、人間を狂わせる。教会が教会に戦いをしかけ、互いに潰し合うなど、悪魔の所業としか言いようがない。

* * *

昔、学校では風紀員会などというものがあり、校則に違反したり、掃除をさぼっている生徒がいたら、先生に報告する「チクリ屋」の生徒がいましたが、カルト被害者救済活動に従事している人たちは、どこかしらそれに似ていると思いませんか。

当初から予想していたことですが、この運動は、初めは「カルト化した教会」だけを取り締まるなどと言いながら、いつの間にか、役所や、安倍政権批判をする人たちまでも「取り締まる」ようになっているようです。

自分たちは、過去の罪を反省して、清く正しく美しい生き方を目指してリハビリを重ねているという自負(実は束縛されているだけ)が、自由に生きている他者へのバッシングに向かうのでしょか。

掲示板は、役所への批判には過敏に反応しますね。(カルト被害者救済活動の支持者たちは)、自分たちは権力に勇敢に立ち向かっているかのように見せかけながら、いつの間にか、権力に迎合し、弱者や、権力になびかない変わり者をバッシングするようになったのです。私は当初からそうなるとずっと予告して来ました。

政権は自分になびかない国民を攻撃するために掲示板を都合よく利用しているともっぱらの噂です。こうした状態が続けば、いずれ宗教の枠組みを超えて、秘密警察か、隣組のような自警団だって出来かねないと思います。ディプログラミングの手法を使って、自警団のごとく集まった人々が、何の資格も知識もないのに、政権に不都合な人たちを「カルト」や「狂人」に仕立て上げるといったことも、起きかねないのです。

皇帝ネロが今風にキリスト教徒を迫害するとしたら持ち出しそうな理屈ですね。本当は何がカルトかなんて問題はどうでもよく、現政権に都合の悪い人物を迫害したいだけだとすればどうでしょう?

ところで、なぜこの時期に主任牧師引退の話など持ち出して来たと思いますか? 自分は引退なんてしていないぞと、アピールせずにいられない動機があるからでしょう。いつも権力を振りかざし、地位を誇りに思い、いつでも自分が相手よりも優位に立っていることを確認しないと気が済まないからではないでしょうか? 

こういうタイプの人は潔く引退しません。引退を求められても、しぶりにしぶり、引退したように見せかけて、陰の実権になったりして、あとを濁すのですね。どこかの教会ですでにそういう事件が起きました。そんな風に地位にしがみつくのは、自分が他人から権力を持たない無力な人間、人々の支持を失っていると見られることを何より嫌うからです。地位を誇示していないと自信が保てないのです。

すでに書いた通り、ディプログラミングに基づく強制脱会活動に携わっていた人々には、ほとんど専門家としての資格がありませんでした。無資格か、もしくは、通信教育などで学んだ程度のにわか知識で、カウンセラーを名乗っていたのです。真に専門家としての教育を受けていないからこそ、肩書や地位にこだわるのではないですか?

さらに、専門的な資格がなくても、教育訓練を受けておらずとも、代理人という立場を使えば、いくらでも他者の紛争に介入することができる。これはとても恐ろしいことです。無報酬で働いているから、非弁行為ではないというのは、表向きの弁明ではないでしょうか。弁護士のような報酬を受け取らずとも、「献金」ならば、受け取り可能だからです。謝礼金に等しいものを受け取っても、それを他の名目で献金扱いし、無報酬で働いているように見せかけることは、いくらでもできます。被害者が裁判に勝訴してから、報酬という形ではなく、「献金」を受け取れば、それは表向きには成功報酬とはなりません。

しかし、そんな問題は放っておきましょう。私はこういう生き方とは真逆の道を行きます。常にダビデの石つぶて以外には何も持たない無名の市民として、徒党を組まず、権力にすがらず、地位をふりかざさず、富をひけらかさず、自分の手で敵に報復せず、困難な道を行き、裁きは神に委ねます。「応分の報い」を自分から要求しますまい。でも、そうしていれば、必ず、神はその人を高く上げて下さる時が来るのですよ。これは本当のことです。自分で自分を高める人は低くされ、自分を低くする者が高くされる。これが聖書の原則です。

私が神に愛されていると信じられるのは、慢心するよりも前にしたたかに打たれるからです。ひっきりなしの苦難が降りかかり、勝利さえ束の間にしか喜べないのは何のためでしょう? 訓練のためです。そうして十字架を絶え間なく負わなければ、人間というものは、必ず自己過信に陥るのです。それは誰しも同じです。次から次へと好ましい事件だけが起きて、何もかもが順風の時は、人間は必ず慢心します。勝訴も人を高ぶらせるきっかけになります。そういうことが許されない環境を、自分自身が作らなければならないと同時に、主が采配されるのです。

だから、私には勝訴しても、手柄も無ければ報いもなく、誰かがそれを共に喜ぶわけでなく、喜んでくれるはずだった友までも離反し、もう一方の被告からは敗訴だとさんざん踏みつけられ、賠償金は支払われず、取立もむなしく非難されるばかりで、相も変わらず、疑われ、讒言され、迫害を受け続けているのですが、それは、私が打ち立てる勝利は、私のためではなく、主に栄光が帰されるものでなくてはならないからです。そうなった時に、初めて勝利が確立するからなのです。

ダビデが、勇士の部下たちが敵陣で彼のために取って来た水を、自分では飲まず、神に捧げたのと同じですね。その域に達すれば、戦いは完全に終わります。

神は私が自分のための利益と栄光を求めているのか、それとも、主の栄光を求めているのか、どちらなのかをご覧になっておられます。そこで、私が誤った道へ迷い込む前に、適宜、警告や制止や軌道修正がなされることは、私は恵みであると思っています。一番怖いのは、人前に徹底的に踏みにじられて、自己の栄光や誇りを傷つけられることではないのです。むしろ、高ぶりと自己過信に陥り、自分を誇大に見せかけて、嘘に嘘を重ねる生き方から後戻りできなくなることなのです。

ですから、そのような誤りに陥るよりは、恥をこうむっていた方がまだましでしょう。人には何が自己から来るもので、何がそうでないのか、自分で見分けることはできず、神だけがその違いをご存じで、神はこれを切り分けることができます。だから、人は、御言葉の剣に身を委ね、その手術を甘んじて受けねばならないのです。そうして人は、神の力強い御手の下でへりくだらされ、自分自身を練られ、訓練されることが必要なのです。

でも、ふさわしい時が来ればすべてが成就し、嘘は跡形もなく消し去られ、自由と解放が訪れます。栄光ですら与えられます。今、確かめられているのは動機なのです。 


 * * *

さて、これを書いた後、筆者は実際に、書いた通りの出来事に遭遇した。神は大いなる方であり、約束を違わない方であり、へりくだる者を尊ばれる方である。

筆者は新しい目的を見つけたと書いた。船の右に網を降ろせば、いっぱいに収穫があると書いた。本当にそうなったのである。


正しい道を行けば、豊かな報いがある。神の国とその義とを第一として生きるならば、異邦人たちが切に願い求めているようなものは、何一つ苦労することなく与えられる。問題は世の情勢にあるのではない。我が国の情勢や、世界の情勢がどうあろうと、神は私たちの心を直接、ご覧になり、私たちの信仰による確信と願い求めに応じて働かれる。

筆者の第二の人生の始まりである。筆者のみならず、多くの人々が恩恵にあずかることを目指して、自分のためだけでない、新たな生き方の始まりである。この生き方は今後、変わらない。10年くらいのスパンで、筆者はなすべき仕事を果たすであろう。その後、真の大きな挑戦が待っている。その計画が開始したのである。


私ではなくキリスト―事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(2)

ところで、当ブログを巡る訴訟で、筆者が得た最も大きな収穫の一つは、訴訟そのものに対して、また裁判官に対して、それまで持っていた印象が完全に変わったことであった。

訴訟を提起する前、筆者はADRと民事調停しか経験したことはなく、ADRでも民事調停でも、判決文は出ない。

そこで、それらの小さな紛争しか知らなかった頃の筆者にとって、裁判官や弁護士といった法律の専門家は、厭わしい紛争で束の間、やむなく関わるだけの、よそよそしく、近寄りがたい人々であって、そもそも他人の争いを糧にする職業に従事する、可能な限り、関わりたくない人たちとしか見えていなかった。

そこで、その当時の筆者には、そんな紛争の関係者のために、親切心から、読みやすい書面を提出しようなどというサービス精神は、ゼロどころかマイナスであった。筆者にとって、紛争は、可能な限り、関わるべきではないもので、関わっても、1、2回の期日でさっさと終わらせるべきで、長く時間をかけて取り組む価値などないものであった。

そこで、そのような場所に提出する書面は、とにかく審理を早く終わらせることだけを念頭に置いて、短期間で、可能な限りの主張を出し切ってしまうのが最善と見えていた。
 
筆者は当ブログを巡る訴訟が始まった最初の頃にも、可能な限り、早く審理を終えられるよう、書面を圧縮して出していたのである。

もちろん、フォントサイズは10.5以上にしようとは思わない。行間も、文字数も、最大限、一枚の紙面に詰められるだけ詰めて、書面の分量を圧縮する。できれば、期日の回数を減らしたいので、期日直前であっても、追加書面を提出するのは当然である。

それを受け取った人たちが、読みにくいと感じる方がむしろ良いのだ。誰もそんな厭わしい書面を丹念に読み続けて、この紛争を続けたいと願わない方が効果的である。世に陽気な紛争などというものがあるわけでなし、誰にも笑顔を見せる必要などない。とにかく正しい理屈が書かれてさえあればそれで良いのだ。

そういう考えが、はっきりと変わったのは、何度目かの弁論準備手続きが進められている最中のことであった。

一審を担当してくれた裁判官は、相当な時間をかけて、何度も書面を読み直す几帳面なタイプの人物であったらしく、まず筆者の訴状を読了するまでにも、約1ヶ月近くの時間が必要だと言われた。本当に1度や2度でなく、書面を読み返しているらしいことは、後になって分かった。

そこで、早くまとめて書面を提出したからと言って、早く終われるという雰囲気ではなかったため、筆者は急いでもあまり意味がないことに気づき、腰を据えて取り組まねばならないと理解した。

幸運なことに、筆者が生涯で初めて行ったこの訴訟は、そのほとんどの期日が法廷ではなく、電話会議という形でなされた。裁判官と書記官とは、筆者と同じ目線で毎回、テーブルについたので、回を重ねるうちに、筆者には、彼らが筆者のために払ってくれている労の大きさが、目に見える形ではっきりと理解できた。

電話からは、相手が飛び出して来ることはないとはいえ、こじれた紛争の最中、自分が独りぼっちでそこに置かれているのではなく、裁判所の人たちがそばにいてくれたことは、筆者まるで心の防波堤を得たように、頼もしく感じられた。

次第に、紛争がこじれたものであればあるほど、その解決に協力してくれている人たちに、敬意を払わないわけにいかなくなった。

そこで、第一審も終わりに近づく頃、筆者の心に、以前には考えたこともなかった書類の出し方に対する注意も芽生えた。

筆者は、以前にはまるで高い壁を築くように、とっつきにくい書面を作り上げ、頑なにフォントサイズも行間も文字数も変えまいとしていたそれまでの姿勢を改めた。以前には、誰に宛てて書いているのかさえ自覚がなかった書面が、人格を持った裁判官に宛てて出すラブレターのようなものだと気づいた。

被告への反論がすべてではない。被告との終わりなき議論に溺れるのは危険である。むしろ、書面は、裁判官に宛てたものだということを忘れないようにして、判断を仰ぐべき時をきちんと見極めなければならない。

人間相手の書面であるから、そこには当然、人としての思い、配慮、理念のすべてがこめられていなければならない。論理構成や法的根拠だけが重要なのではなく、自分は誰で、何を思い、どういう気持ちでその書面を書いているのか、文字には表れて来ない姿勢も、どうでも良いことではないのだ。

ようやく念願の判決を得たときには、世にこんな判決があるのかと、その分厚さに驚いた。55ページもあった。審理終結から判決までは3ヶ月間あったが、分厚いファイル4冊分にまで達した事件記録を網羅し、対立する双方の陣営の主張を比較衡量して、公平な判決を書くことは、その当時、筆者には、頼まれても、自分にはできそうにない仕事だと思わされた。

筆者はこれまで自分のためにしか書面を書いたことがなかった。何事においても、一方の当事者としてしか生きて来なかった。筆者の世界には、筆者以外の人間が、いなかったと言っても良い。束の間の訪問者はたくさんいたのだが、彼らは筆者の最も言いたい事柄を、結局、理解することができず、それに応える力をも持っていなかったため、入れかわり立ちかわりやって来たすべての人が、この事件については、何一つ理解できないまま、立ち去ることしかできなかったのである。

しかし、この訴訟を通して、筆者には初めて、自分の主張を受け止める誰かが存在することが分かった。紛争の関係者が、それまでとは違って、生きた存在として視野に入った。

そして、自分のためにではなく、他者のために書面を書く仕事が存在すること、しかも、弁護士のように一方の当事者だけを擁護するのではなく、対立する双方の言い分を考慮しつつ、当事者ではない立場から、客観的に、公平にこれを裁く仕事の意味を知らされた。

これは今までに筆者が見たことのない仕事、新しい世界、新しい分野であった。
 
筆者は、どれほど長い間、こうした世界の出現を願っていたであろうか。誰も裁く者がいないという暗闇が、どれほど絶望的に感じられたろうか。ただ当事者同士と野次馬だけが、ずっと延々と終わりなき議論を繰り広げ、いつまでも互いの要求と限界を突きつけ合いながら、見かけ倒しの譲り合いや妥協を求め合うしかない、疲れ果てる泥沼のような紛争から、どれほど救い出されたいと願って来ただろうか。
 
泥沼の争いに力強く終止符を打ち、その深い沼から筆者を引き上げてくれる存在を、どれほど長い間、待ち望んで来ただろうか。

判決は法そのものではないとはいえ、その宣言は法的拘束力を持つ。解放の宣言を手にした時、筆者は法体系へ一歩近づいたような気がした。この判決の向こうにあるもの、これを生み出した根源となるもの、筆者を真に解放する力を持っているものに、もっと近づいてみたいという気持ちが生まれた。

それはまるで何か見えない世界への招待券をもらったような具合であった。

裁判官の存在を介して、筆者が目に目えない法の世界へ向かって書き送った大量のラブレターに、片思いではなく、返事が返って来たのである。膨大な書面は、もはや筆者の独り言では終わらず、報いが与えられたのであった。

その時、筆者の周りを牢獄のように覆っていた高い壁に、ダイナマイトが撃ち込まれ、大きな穴がぶち開けられた。筆者は壁が壊れたのを見て、自分が解放されたことを知り、壁に開いた穴の隙間から、その向こうに広がっている自由な世界に目を凝らした。

今までの果てしない堂々巡りは終わったのだ。だが、壁に穴を開けた者の正体は何なのか。筆者を今、招いている世界は何なのか。筆者はどうしても知らずにおれなくなった。

裁判官が異動して去って行った後、筆者は自分が何をすべきか思案した。事件は控訴審に行った。しかし、もはや重要なのは事件だけではない。筆者に招待状を送って来た存在を見極めるために、そのあとを筆者は追いかけることにしたのである。

* * *

判決文を書くのは実際のところ、ものすごく大変だと思います。私は判決文の10倍をはるかに超える分量の書面を出しています。控訴理由書だけでも数百ページにのぼります。こうした膨大な書面をすべて網羅・整理して、わずか数ヶ月の内に一つも項目をもらさず判決を書くというのは、至難の業と思います。しかも、いくつもの事件と並行しながらその合間にこれを行うわけですから。それを考えれば、確かに判決に不備があったとしても、それは仕方がないという気はしてきますし、判決を書いてくれた裁判官を責めることなどすまいと思いますが、そうした事態が起こらないためにも、書面の出し方には気を使わなくてはいけないと思います。

訴訟を知らなかった頃は、私は弁護士も裁判官も大嫌いで、紛争など関わりたくないし、見向きもしたくないという心境しかなく、そういう場に出す書類は、とりわけ心情的にも厭わしかったので、当事者にとっての読みやすさなど全く度外視して、決して嫌がらせではないですが、ただ紙の分量が減って、送付代がかからないことだけを考え、極力、分量を圧縮して書いていたんです。当然ながら、そういうわけで、フォントサイズも小さくなるし、行間も行数もすし詰めのようになる。読みにくいことこの上ない書面になったはずですが、そんなことは完全にどうでも良く、まさかフォントサイズで不利になるはずもないし、そんなまがまがしい紛争なら最初から何も期待などできはしないと心に決めて、弁護士が大きな字で読みやすい書面を出すのを、裁判官への媚びだと内心馬鹿馬鹿しく思っていたくらいでした。

むろん、広告代理店ではありませんので、今でも、まさか書面のフォントの種類や紙面の読みやすさで媚びを売ろうとは決して思いませんが、それでも、一年近く訴訟をすれば、裁判官であろうと、被告であろうと、当事者に対する思いやりと配慮は当然、生まれて来ます。(もちろん、弁論は対決の場ですから、そこで当事者への思いやりなど公然と述べはしませんが、心情的には当然、そういう配慮は生まれるのです。)

ですから、書面の書き方も、フォントサイズも、紙面の分量も、送付にかかる料金についても、一切、以前とは考えが変わりましたね。紙と代金の節約だけを念頭に、読みにくいことをかえって自慢にするようなことは全く考えられなくなります。今回も、第一審では、エクセル表で出した記事が一つ、削除対象から漏れるという「事故」が起きましたが、あの書面の分量では、そういう事故が起きるのも、全く仕方がないことだったと思います。事件記録は分厚いファイル4冊分に達し、審理が終わった時には、ものすごい量のふせんがつけられていたのだとか・・・。それを書き上げて3日くらいで慌ただしく裁判官は関東から西日本まで異動して行きました。その間に一度だけ更正決定をお願いしましたが、それを果たす以上の時間と余力はきっとなかったでしょう。

そういう有様を見ますと、今後は、分かりやすさ、読みやすさに気を使って書面を書かねばならないと心させられます。もちろん、これは主張のレベルを落とすことを意味しないし、裁判官にはしっかりやってもらわねばなりませんよ。ミスなどあってはならないのです。でも、とりわけ、訴訟では決して、よほどの場合を除き、エクセル表で自らの主張を述べることはすまいと決意しました(笑)。訴訟はもともと文系にとっての得意分野ですから、純粋に文系のやり方で勝負するのが一番かと・・・。

当ブログの文面もそうでしょうし、私自身もそうでしょうが、「人受け」を狙って、見やすいもの、分かりやすいもの、人の目に好ましいものを作ることには、ものすごく抵抗感があるわけです。内実の伴わない、うわべの印象だけで勝負したくない。だからこそ、あえてぶっきらぼうに、近寄りがたく、理解されがたい、回りくどくて、不親切な方法を取ることがある。それが孤高の人のように見え、あるいは、高慢さであるかのように見え、誤解されやすいので、損と言えば損な性格でしょう。

しかし、そんな人でも、さすがに自分の心の最も重要な部分を開示して人と付き合うとなると、不親切な態度は改めざるを得なくなります。誰もが見向きもしたくない紛争を自分自身で提起しているのですから、それを慎重に取り扱ってくれる人たちには、当然ながら、それなりの敬意を払わないわけには行かないですし、愛着も湧きます。弁護士はともかく、裁判官が嫌いなどと自ら言うことはもはや決してありませんね。判決がどういう内容なのかは、出てみるまで分からないとしても、そして、むろん、それに異議を唱える可能性は予め100%排除はできないとしても、少なくとも、自分の心を大事に扱ってくれる人たちを粗末に扱おうとは全く思えなくなります。

そういうわけで、私が訴訟を通して学習させられた最も大きなものは、勝ち負けだけではなく、勝つためのロジックでもなく、むしろ、その内容であり、人間関係だったかも知れません。紛争そのものは人生で他にも遭遇するかも知れませんが、この訴訟には、一生忘れられないほどの重さがあったことは確かなのです。第二審は、もっとシビアに理論上の勝負になるかも知れませんが、第一審は少なくともドラマでした。目に見える判決以上の、理論以上の収穫を得たと思います。

こうした現象はおそらく書面の出し方やら紛争当事者だけにとどまらず、やがてはすべての人間関係に波及して行くでしょう。壁は崩される時が来るということです。しかし、その時、多分、世界が白黒反転し、壁を築いているのはこちら側ではなく、むしろ、あちら側であったということが分かって来ると思いますが・・・。

* * *

もちろん、世には悪徳裁判官としか言いようのない人々も存在する。高圧的だったり、不親切だったり、人を辱めるような詰問口調で話したり、強引に自分の願う解決を押しつけて来たり、果ては、証拠もないのに、印象だけで、誰かを悪者と決めつける裁判官もいないわけではない
 
筆者はそういう人たちのことまで擁護するつもりは決してない。だが、たとえそんな人たちに出会ってしまうリスクがあったとしても、それでも、やはり、筆者は訴訟を起こし、戦い抜いて、判決を得ることには価値がある、という意見を変えないつもりだ。

裁判所は市民にとっての最後の砦である。そして、筆者は、信仰者としても、神と人との前で、飽くことなく正しい裁きを求めることには、絶大な価値があると思わずにいられない。

地上の裁きは不完全であるが、それでも、筆者は地上の法廷に訴えを持ち出すことによって、神に向かって、正しい裁きをも願い求めているのである。

呼び求めれば、答えがあること、神が願い求める者たちに、正しい裁きをなして下さると信じることができなければ、誰にも訴えなど出すことなどできはしない。

そこで、世にどれほど不正な裁判官が存在していようとも、筆者は、正しい裁判官に会うという願いを捨てないであろうし、同様に、地上の裁判官をはるかに超えた、まことの裁き主である神は、私たちの叫び求めに必ず答えて下さる方であるという確信を捨てない。

ただし、誰かを訴えることには、それなりの重さが伴う。自分だけは正義であるかのように思い上がり、我がふりをかえりみることなく、他者だけを一方的に責め続ける人間とならないためには、やはり、自分自身がリスクを負って、最後まで矢面に立ち続ける覚悟が必要である。

だからこそ、筆者は、誰の代理人にもならないし、誰かに代理人になってもらおうとも思わないのだ。リスクは他の誰かに都合よく押しつけて、自分だけは矢面に立つことなく、栄光だけをせしめようと考える人たちに、チャンスを与えるつもりもない。

筆者の主張の全責任は、最後まで、筆者自身が負う。だからこそ、真剣かつ全身全霊の訴えになるのである。その覚悟と決意があって、初めて、その訴えは人を動かすものとなり、神の御心にも届くものとなるだろうと筆者は考えている。

* * *

少しつけたしておきます。ひとこと欄に書いた「膨大な資料を基に判決文を書くのは大変だ」という話ですが、悪意がない過失であれば十分に許せますが、悪意ある「事故」までは、正当化できないでしょう。これは判決であれ、決定であれ、同じですね。

やっぱり、私たちが人を赦せるかどうかの最も大きな分かれ目は、どのくらい故意性があったか、意図的なものであったか、誤りを謙虚に認めるかによるものと思いますよ。これはどんな場合の誰であれ、すべてに共通しますね。

懸命に事件を裁いてくれた裁判官は何らかの落度があったところで、責めようとは決して思いませんが、ぞんざいに事件を扱い、あからさまに高圧的で人の意見も聞かないまま、証拠もないのに一方だけを悪者にする裁判官がいれば、やはりこれは過失では済まされない・・・となるでしょう。他の人たちの場合も全く同じです。故意性のない単なる過ちはいくらでも許せますし、修正もできますが、悪意によって他人を陥れるがごとき行為は、赦そうと思っても赦せるものではありません。だから、赦す赦さないの問題以前に、まずはそうした行為があったことを公然と明るみに出すことからすべてが始まるでしょう。

私はそういう意味で厳しすぎるというか実直すぎるのかも知れませんが、裁判官であろうと、どんな有名人、権力者、企業であろうと、相手によって態度を変えるつもりは全くなく、原則は同じと思います。また、問題を明るみに出したところで、すぐにそれを認めて責任を取る人を、決してそれ以上責めるつもりもありません。まして償いをし、謝罪をした人を責め続けるようなことは酷と思います。ですから、問題を明るみに出すことで「解毒」できると分かったなら、その時点で、すべてが終わります。私はただ筋を通したいだけで、悪事を暴くことをライフワークにするつもりもありませんし、人の罪を訴えることを稼業とする人々と同じ道を行くつもりもありません。

そして、他人の問題だけに熱中するつもりもなく、まずは自分自身をきちんとかえりみ、修正すべきところは修正し、神と人との間で透明性を保てるように生きるべきと思います。自分を吟味する姿勢がないのに、他者だけを責めるのは、それ自体、とても恐ろしいことです。

そのような暴走が起きないための策としては、➀行き過ぎに陥ることがないよう、自分自身が常に主の御手によって打たれ、へりくだらせられることを拒まない。②他者を非難する際、必ず自分自身が矢面に立ち、犠牲を他人に負わせない。などのことは最低限度、必要かと思います。だから、私は他者の代理人にはなりません。もしも私の言い分に瑕疵がある場合に、決してその責任を他人が負わされずに済むようにしておくためです。このように、自分の主張の全責任が自分にふりかかるようにしておけば、下手なことはできず、失敗も許されませんから、当然ながら、行き過ぎに陥るよりも前に必要な警告を慎重に受ける姿勢が保たれます。慢心による暴走や行き過ぎは、多くの場合、周りからおだてあげられたり、担ぎ上げられたりすることによるのです。

ただし、キリストに立っていれば、失敗というものは基本的にないのです。何もかもすべてを主が覆って下さるからです。それから、私の場合は、あまりにも外見的に弱そうに見えることが一つの防御かと思います。私が本気で怒っても、取るに足らない無力な人間と思われるのか、真に受けて立ち向かって来る人の方が少ないので、感情にまかせた戦いに発展せず、まずは筋を通して地道に主張して行く以外にもともと方策がないことですね。だから、物事を訴えるのにすごく時間がかかります。しかし、その間に、数多く学ばされることがありますし、軌道修正もできます。時間がかかるだけに、極端な主張は生まれて来にくいのです。

当ブログを巡る事件は、10年近い月日を経て裁判にまでなりました。その紛争も1年を超えようとしています。膨大な証拠の積み上げと、緻密な論理構成なしに主張できないものです。一審で足りないものをさらに二審で補い、主張を補強し続けているわけです。このような根気強さできちんと物事を訴えることが、紛争解決の基本です。裏づけのない正義感やら、慢心やら、単なる非難やら、報復感情では、決してできない根気の要る作業です。感情論ですと、多分、途中で息切れになると思います。そして、感情論でないからこそ、筋を通して物事を明らかにするだけの価値があるのですね。

とにかく、本人がどれほど深く犠牲を負ったか、その事実がはっきり周囲に見えるようになれば、誰も私が感情論だけでものを言っているなど、到底、考えられなくなり、攻撃もできなくなります。私には基本的に協力者はいませんし、被害者同士の連帯などもなく、紛争に巻き込んだ人もいません。支援者も募りませんし、負うべきものは私一人が負っています。牧師が信徒を名指しで非難すること自体、世間ではあり得ない事態と見られる中、私は牧師含め複数名を、弱い立場から、一人で相手にしています。その上これだけの期間が経過していますから、遊びや悪ふざけや私怨や空想では決してできない作業ですよ。そのことは、この先、もっと明らかになるでしょう。何のためにこのようなことをするのか。それが自己の利益のためでないことは、時と共に明らかになるでしょう。

おそらくは、内心の恐怖を完全に克服した時、この紛争は朝露が光を浴びて消えるように、跡形もなく消失するのではないかという気がします。歴史としては残るでしょうが、もはや全く人の心に影響を与え得ないような領域へ追いやられるのではないでしょうかね。私は人間の生活を曇らせるもの、恐怖で脅かそうとするものをすべて排除して、神の贖いの完全性を証明するために紛争を起こしたのですよ。贖いが完全なら、私の完全な無実が証明されるはずなのです。最後の敵である死が、命にのみ込まれて消えるとは、そのことなのです。

裁判官も人間ですから不完全さや、不備も当然あると思います。人間的なプライドを持ち過ぎた人も中にはいるでしょうし、印象に流されることもないとは言えない。しかし、そういうことを考慮しても、やはり私は、裁判官に判決を求めるという行為は、神に向かって真実な裁きを求める姿勢とどこか重なるように思うのですね。重なるというより、それをやめてしまうと、踏みにじられた弱い者が、真実と正義を求める心の願いには、全く行き場がなくなってしまうことになり、私はそれだけは決してあきらめるわけにいかない願いだと思わずにいられないのです。その願いが真剣であればあるほど、裁判所という場所には敬意を持たないわけにいかないのですよ。そうして本気で正しい裁きを求める者を、神も、人も、決して無碍には扱われないと信じるわけです。ですから、地上の人間を介しつつ、神に向かって真実な裁きを呼び求めているというのが実際のところでしょう。

* * *

<続く>


私ではなくキリスト―事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(1)

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)

さて、再び著作権侵害の証拠として、ひとこと欄の文章を掲載しておこう。
 
筆者は年々、絶望的になって行くこの国の雇用情勢の中で、谷川を慕い求める鹿のように、どこへ行けば、命の泉を見いだすことができるのか探りつつ、ただ信仰によって、居場所を探し求めて来た。

前にも書いた通り、昨今、筆者が専門していた分野では、ますます搾取と排除のし合いが横行し、もはや活路を見いだせそうにもない状況となったため、筆者は新たな分野を切り開く必要に迫られた。

その時、考えたのは、残る生涯を、自分のためにだけ生きるのでなく、より多くの人の益になることをして過ごしたい、ということであった。

では、どんな目的のために身を捧げて生きるべきか?

新たな分野が存在することに気づかせてくれたのは、訴訟であった。裁判は、法というものへの尽きせぬ興味を筆者に抱かせた。訴訟を通して、新しい物事のありようを切り開くことができる。歪んだ現実を変え、失われた権利を取り戻せる。

しかし、裁判の途中で気づいたのは、現存する法そのものにも、実に多くの欠陥や不備があり、それが多くの問題を引き起こしているということであった。そのため、真に物事を是正するためには、法そのものを変えて行かねばならない場合が存在する。

戦い抜いて手にした判決は、尊い価値あるものである。だが、何とかして、もっと法体系そのものへ近付けないだろうか? 何とかしてその中へ入り込み、内側から変えて行くことができないだろうか? どうすればそれができるだろうか? 筆者の関心はそこに集まった。

法改正は、一部の代議士や、政治家たちだけの仕事ではないだろう。大臣や官僚に任せておけば良い話ではない。法律家だけがそれをやれば良いわけでもない。

社会を大きく変えて行くような画期的判決は、無名の市民たちがリスクを払って戦い抜くことで、初めて得られるのだ。だとすれば、目指している目標がどんなに遠大なものであっても、筆者の立場から、今できることが必ず存在するはずだ。

筆者は、これまで新たな政党が生まれる度に、期待しつつ公募条件を見て、常にがっかりさせられて来た。どれだけ政党が生まれようと、政治の門戸は貧しい人たちには開かれていない。「何人支援者がいますか?」、「供託金は払えますか?」、「どれだけ資金がありますか?」

そんな文言を見る度に、ああ、これではどんな候補者が立とうと、結局は同じだ・・・と筆者はいつもため息をつくのだった。なぜって、何一つ従前と変わっていないからだ!!
 
変わっているのは、舞台で踊る俳優たちの顔ぶれだけだ。それはショーなのである。人目を惹く候補者が立てられても、それは何百人ものオーディション落選者を土台に選ばれたごくわずかなうわずみのようなものである。注目を集めている複数の政治的トピックに関して、その問題を象徴してくれそうな強烈な個性の持ち主を選べばよい。

これは何かに似ている、と筆者は思う。そうだ、ペンテコステ運動の指導者たちの集会だ。TVチャンネルをつけ、あるいはインターネットの動画で、自分の好みに合いそうな指導者を選んでその説教に耳を傾ければ良い。感動的な讃美歌、心揺さぶるメッセージ、壮絶な人生の体験談・・。

筆者はリモコンを操作して、画面の前から立ち去る。去り際に、誰かが言っているのが聞こえる、「ああ、2000年前のイエスが現代に現れたようだ」と。

そんな馬鹿馬鹿しい話があるか、と筆者は心に思う。主イエスは、どんな方であったか。筆者がよく記憶している新改訳から、イザヤ書42章1~9節を引用しよう。

「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、
わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
彼は国々に公義をもたらす。

彼は叫ばず、声をあげず、
ちまたにその声を聞かせない。

彼はいたんだ葦を折ることもなく、
くすぶる燈心を消すこともなく、
まことをもって公義をもたらす。


彼は衰えず、くじけない。
ついには、地に公義を打ち立てる。
島々も、そのおしえを待ち望む。


天を造り出し、これを引き延べ、
地とその産物を押し広め、
その上の民に息を与え、
この上を歩む者に霊を授けた神なる主は
こう仰せられる。

「わたし、主は、義をもってあなたを召し、
あなたの手を握り、あなたを見守り、
あなたを民の契約とし、国々の光とする。

こうして、盲人の目を開き、囚人を牢獄から、
やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。

わたしは主、これがわたしの名。
わたしの栄光を他の者に、
わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。

先の事は、見よ、すでに起こった。
新しい事を、わたしは告げよう。
それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」


「国々に公義をもたらす」との箇所は、新共同訳では「 彼は国々の裁きを導き出す。」とある。
主イエスこそ、この地に正しい裁きを下される方である。
そして、この方は、叫ばず、巷に声を響かせない。

メガホンを持って自分の名を連呼することもなければ、怒りのメッセージを轟かせることもない。むしろ、ご自分が十字架にかけられる時でさえ、屠り場に引いて行かれる羊のように声を上げなかった方である。
声をあげることさえできない者の弱さを知っておられるからこそ、いたんだ葦を折らず、くすぶる燈心を消さず、弱った者を力づけ、倒れかかっている者を起こすことができるのである。

筆者は、 新たに登場して来る候補者の街宣に耳を傾け、これに期待しているようでは、また同じことの繰り返しでしかないと思う。
 
まやかしの、めくらましの時間稼ぎに心を奪われ、代議士になど期待を託している場合ではない。誰かが始めた政治運動に希望を託すのではなく、自分が今できることを、地に足をつけて行っていかねばならない。

動物は、自力で餌のありかを探し出し、寝床とすべき場所や、憩いの水際を探し出す。誰にも教わることなく、自分でどう生きるべきかを定める。

私たちは、信仰者であるならば、なおさらのこと、キリストの復活の命という心の羅針盤を頼りに、自分でどう進むべきかを決められるはずではないか。

誰かに道を指し示してもらうのではなく、誰かに代わりに助け手もらうのでもない。ただ主にあって、自分の内なる霊の命の只中から、自分自身の生きる力を使って、あるべき場所を見つけ、なすべき仕事を見つけることが必ずできるはずであり、そうすべきである。
  
* * *

(ひとこと欄から)

暗闇の勢力には毅然と立ち向かうのみ。今日も実に実に大きな収穫がありました。これから何を目的に目指すべきか、どこへ向かうべきか、はっきりと分かって来たのです。

やはり私は法体系に近づき、できればこれと一体化して、それを内側から変える作業に携わりたいと思うのです。 それがただの願望で終わらず、実人生と結びついて一歩一歩、前進して行く時が来ました。前々から法体系という大きなビルの地下に降りて構造を確かめていると書いていますが、それは後々これを変えるための下準備なのです。今行っている戦いも、すべてそのための予行演習です。

私が目指しているのは、現存の法を物事に適用して違反を是正し、そこから自らの利益を得ることだけではない。それ以上に、法体系(というよりもっとその根源となっている見えない秩序)そのものに限りなく近づき、これとずれなく一つとなること、そこから自分の命を汲み出すこと、また多くの人たちが命を汲み出せるようにすることなのです。

法体系は家の基礎構造のようなものです。もし屋台骨が腐れば、家が崩壊する。ですから、この基礎構造を堅固なものとし、実際にその骨組みによってあらゆる物事をきちんと支えられるようにすることが、家を安全に保つ第一の秘訣です。しかし、我が国という家にはいくつも屋台骨の腐食が見られる。土台の交換が必要となっている部分がある。

死文化した法というものが存在します。現実にはいくつもの違反があるのに、それを取り締まるための法が、ほとんど機能しなくなったような例があります。特に行政法はそうです。こうした法を現実に適用可能にしていくためのプロセスが必要なのです。


言葉は生きています。それを生きたものとして現実に当てはめるために、蘇生して命を通わせる方法論を編み出すことが必要なのです。その蘇生措置でも死文化した法が生きて来ないなら、法そのものの改正が必要です。

こうした問題はあらゆるところに転がっています。屋台骨が腐食しているから、多くの人々が困っているのに助けを求められない。そういう事例があることさえ、人々は知らない。今すぐに交換作業はできませんが、いつか未来にこの腐食部分を交換するための下見と点検を私は行っているのです。問題を取り上げて指摘する人がいなければ、そこに光が当てられることさえない。私が行っているのは、まずは問題を光の下に持ち出し、やがて来るべき改正に備えて議論の土台を作ることなのです。

* * * 

私は訴訟をやってみて、裁判所に関わり、人々に命や解放を与える判決を書く仕事はやはりものすごく尊いものだと思います。私は法律家ではなく、生涯、専門家にもならないと思いますが、彼らとは全く異なる立場から、自分なりに、目に見えない法秩序の中から、目に見える命や自由を具体的に汲み出す方法をよく知り、それを通して自分のみならず、自分以外の人々をも解放する作業に貢献したいと思うのです。

この作業は、信仰によって御言葉を実際とするという生き方とすごく共通するものがあります。 クリスチャンは、御言葉から命を引き出す秘訣を知っています。たとえば、この世でも、一つの画期的な意味を持つ判決が下れば、それに伴い、多くの違反が是正され、かつ、未然に違反が防止されます。判決はすでに起きた違反を是正して権利侵害を克服するにとどまらず、将来起きうる違反に対する抑止力ともなります。画期的な判決は、多くの類似した事件を裁く際の前提となります。 

信仰の世界でも、同じように、何よりも、主がカルバリで取られた勝利の判決が、我々が実生活で遭遇するすべての問題を克服する根拠となっています。しかし、その他にも、一つ一つの小さな御言葉を現実生活に適用することで得られるさらに具体的な勝利があるのです。

目に見えるものは、目に見えるものによって規定されているのではなく、見えないものによって規定されています。人々の現実生活は、見えない法によって規制を受け、また、それによって違反を是正されています。

しかし、上記の通り、私は現存の法によって違反を是正したり、 人の生活を自由にする方法を知るだけでなく、法そのものの改正により、 将来的に、人々の生活にさらに自由度を増し加える必要があると感じています。私の取っている方法論は、他の人々が通常取る方法とは異なりますが、これから長い長い時間的スパンで、ライフワークとも言える形で、その解放の作業に関わることになると思います。

たとえば、レジ袋の有料化などという無意味な法整備をするくらいなら、死文化した労働関係の行政法規の文言を一つ変えるだけで、どれほど大勢の人たちが恩恵を受けるかはかりしれません。法規の一つ一つはこれまで人類が勝ち取って来た自由の歴史でもありますから、そこに歴史的後退をつけ加えるのではなく、前進と言える成果を勝ち取ってつけ加えなくてはいけない。ただ飾っておくだけでは法律も無意味であって、これを現実に適用し、さらにその内容を前進させて行くのは一人一人の市民の役目なのです。

そのために、飽くことなく戦って困難に立ち向かい、成果を勝ち取らなくてはならないのです。
今私がしていることはすべてそのためであり、将来の解放のための土台作りです。 

* * *
 

これだけ労働関係の行政が腐敗すれば、この国の労働市場が悪くなるのは仕方がないですね。
厚労省でもデータの改ざんが問題となりましたが、その下の役所はもっと徹底的に腐敗しています。 

やはり日本の労働市場はあまりにも遅れていますね。 役所は取締を放棄しており、ブラック企業は溢れ、 法改正も遅い。毎年、毎年、役所がブラック企業への罰則をもうけるという話が出て来ては、立ち消えに なっている。おそらく企業側からのものすごい反対があるのだと思います。そして、労働関係の多くの法はあまりにも企業側に有利にできすぎており、役所は違反があってさえこれを取り締まらない。 
だから、こうした現状を変えるためには、裏技のようなテクニックが必要となり、労働者は役所には泣きついても無駄という現状がある。さらに、ユニオンや労連からNPOから始まり、労働者の問題をさらに食い物にする様々な団体が控えている。 まして外国人技能実習生などは、日本語も日本の法律も分からないのでは、どこにも訴えることもできない。 そうした声も上げられない弱い人たちを容赦なく踏みにじり、犠牲にする日本という国。この精神性のものがすでに亡国を示すものだと言って差し支えない。

* * *

しかし、私はこうした事情から、特に絶望は感じません。むしろ、雇用情勢を色よく見せかけ
この国の様々なデータを改ざんして来た大本営発表がもうすぐ終わる気配を感じます。彼らは下々の者に責任を押しつけて、自分たちは悪事を隠して逃げる時を待っています。営利が目的の民間企業だけでなく、役所の腐敗が何よりも労働者を搾取し、日本の雇用情勢の悪化の原因を作って来たのです。なるほど国が外国人技能実習生を見殺しにするはずです。

しかし、恐ろしいほどの知性の崩壊を目の前に、この国の終わりが近いと感じます。日本がかつて敗戦した時、責任を取れるリーダーは一人もいなかった。破滅へ向かっていることをみな知りながら、それを止める力もなかった。権威が、権力が、正しく行使されなかったのです。今はその状況に似ている。お偉いさんたちが、私利私欲のことしか考えなくなり、弱い者たちを平気で見殺しにした結果、国ごと理性を失っいるのです。私は一度労働関係の役所が企業と意を通じて徹底的に腐敗していることについて、記事をまとめてみたいですね。 

* * *
 

私は個人的にいつかこの状況を変えたいし、変えねばならないと思わずにいられません。ただし、これは社会運動などではだめなのです。法律そのものが必ず将来的に変えられなければならないからです。労働関係法のみならず、他にも似たような抜け穴だらけの法はいくつもあります。 しかし、それを変えるための最前線となるのは、毎年法整備を行おうとしては挫折している役所ではないでしょう。
国会前の座り込みだのビラまきだの街宣だのが完全に無意味だと馬鹿にするつもりはありませんが、しかし、物事を形作っているおおもとは法の規制にあり、法自体が空洞化しているのでは、
規制のしようさえもないという問題について、もっと大勢の人たちが立ち止まってきちんと考えてみなくてはならないのです。

しかし、デモや街宣で他人の説教を聞いて熱狂している限り、このような問題に人々が着目し、取り組むことはないでしょう。法整備が一部の議員や役所の専売特許と考えられている限り、 人々は法改正こそが現状を変えるための有効な策だということにずっと気づかないままだと思います。

そういうわけで、私は多くの政治運動には、キリスト教会のお祭り騒ぎ的な礼拝や集会と似たような要素をいつも感じるのです。そこにあるのは束の間のまやかしのような熱狂であって、何かを根本的に変えて行く原動力ではない。ワーっと騒いで、理想を語り、愚痴を吐き出して、現状は1ミリも変わっていないのに、何かをしたような気分になる、一種の現実逃避なんですね。

むろん、極論と分かって言えば、プロテスタントと資本主義が根本的に同一の起源から出て来ているとすれば、どちらも双方がまやかしなんです。労働市場が遅れているというにとどまらず、
労働市場それ自体がすでにまやかしのマーケットになりつつあると言った方がいい。ザル法、スポンジ化した法の破綻はそのまやかしから、これをごまかすために生まれて来ているわけです。
そして、キリスト教会に対して反キリスト教界の運動が存在するように、デモも街宣もそのまやかしの変種のようなもの。
では、一体、この鏡の中の鏡のように連綿と嘘の続く世界で私たちがなすべきことは? 鏡に映った映像の中に命を探し求めるのをやめて、真実な実体を探すことですね。本体に近づくべきなのです。それが結局、新しい判断を求め、これを自ら打ち立てることなんですね。 

ただし、こうした情勢を終わりに近付けるのも、私たち一人一人の努力で可能です。個人の力で様々な事柄を明るみに出せますし、それなりに是正することもできるのです。私が訴訟を提起したのは、まず法律の専門家としての肩書がなくとも、個人の力で物事をはっきりさせることに貢献できると示したかったから。法令順守の精神を、行政や役所が失った代わりに、個人が持ち続けることができると示したかったから。

私は弁護士でも法律家でもありませんが、法律に対する畏敬の念はあります。現行法が完全だとは言わない。しかし、今あるものを守ろうとしない人たちが未来に向けて規則を制定してみたところで、これを守るはずがない。法律は義務も定めているが、私たちの自由の根源であり
存在を深い所で規定しているのです。

私は違反に対しては、裁判所の判決や行政による罰則の適用を求めると同時にできるなら、もっと法律そのものに近づき、中へ入り込みたいという気持ちがあります。なぜなら、法それ自体が変わることによって、多くの人たちの生活が根本的に変わりもっと解放される見込みがあるからです。法律家の観点とは異なる立場から、私は未来に向けての法整備に人生のどこかで関わりたい気持ちがあるのですね。 そのための試行錯誤が現在であり、現行法の抜け穴や欠陥と言える部分についても学習を重ねているのです。

私は、命令が私自身のうちですなわち実行となる時、約束された保障が値引きなしに実現される世界を求めています。私たちは憲法で保障されている権利さえ、まだ値引きなしに自分の手にしたことがない。多くの保障が絵に描いた餅で終わっているのです。その観点から見ますと、法体系からは、まだまだ汲み出せるものが無限にあると共に法に保障された私たちの権利が実現しないように妨げている中間搾取者の排除も必要です。牧師階級からの信徒の自立が不可欠であるように国民が肥大化した役所の助けを不可欠とする時代も終わりつつあるように思います。
私たち自身が自立へ向かうことが肝要なのですね。

ただし、私の取り組みは一歩一歩ですよ。法改正などは壮大な問題ですから、
これから十年以上のスパンをかけて、この問題に対してじっくり向き合うことになるのではないかと思います。

しかも外側から。資本主義とプロテスタントを脱出する不思議な道が開けていますから、私はこれから先、この問題の内側から取り組むのではなく、外側から取り組むことになるのではないかと思います。おそらくこのまやかしの世界に後戻りすることはもうないかと。

そして、何度も言っているように、私は専門家としてこうした問題に取り組むことはなく、どこまで行っても、権力を持たない無名の市民の立場から取り組みます。でもいつかはその道を貫徹することによって、必ず大きな目的を達成する時が来るものと考えています。
責任を持たされるのも一歩一歩ですから。

* * *

<続く>

 


私ではなくキリスト―主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。」(詩編151:1)

ここ数日間、悩みに悩んでいた問題があったが、突如、その重荷が肩から転げ落ちた。

やはり、解決は、自分を手放すことにあると分かった。自分自身の力で戦うことをやめ、主の解決を信じ、それにすべてを委ねることである。

改めて、最も困難な道を行こうと覚悟した。

その瞬間、心の羅針盤の針が再び目的地をはっきりと指し示した。筆者は道に迷っているのではなく、まさにいるべき場所、立つべき場所に立っていることが分かった。

私たちが心に抱えている問題の中には、本当は、私たちが引き受けるべきでない問題がたくさんある。どこかから押しつけられて、いつの間にか負わされることになった重荷がたくさんある。弱い者同士が、その重荷を互いに押しつけ合っては、互いに滅ぼし合っている。

そのような重荷を一つ一つ、手放すところから私たちの歩みは始まって行く。自分で解決しようとしていた問題を手放した度合いに応じて、心の自由も増える。

訴訟では、勝ちたいという思いや、賠償をきちんと払わせようとする思いも、どこかの時点で手放す必要がある。これは決して判決を放棄することではないし、白黒つけることを放棄するわけでもない。

主の御心にすべてを委ね、すべてが自然になるときが来ることを信じて待つのである。実際、それ以外に解決の手段は存在しない。どんなに自分で望む方向へ物事を引き寄せようと考えたとしても、成らないときには成らない。

当ブログを巡る訴訟では、前から書いている通り、和解はあり得ない。なぜなら、これは人間的な観点に基づく紛争ではなく、神の御言葉を巡る論争であり、白黒つけることを避けて通れない問題だからである。

だが、そうしてきちんと物事に決着をつけることと、自己のプライドを立てようと、物事を自分の望む方向に強引に引っ張って行こうとする態度は異なる。

自分のプライドと感情を満足させるよりも、もっともっと静かで深い意味を持つ解決を求めることは実際に可能なのだ。
 
筆者は、当ブログを巡る訴訟の一審判決に到達できると分かった時の大いなる喜びのことをよく覚えている。

一般に、訴訟においては、悪質な被告と、そうでない被告が存在する。もしもあなたが原告となって悪質でない被告を相手に戦うなら、いたずらに紛争をこじらせるような発言を受けたり、行き過ぎた侮辱を受けることもなく、早期に解決を見いだせ、あるいは和解も可能であろう。

しかし、悪質な被告は、いつまでも自分に不利な判決が下らないように、無益な論争を続けようとしたり、裁判官と原告との信頼関係を引き裂いて、協力が成り立たないようにしたり、反訴や控訴などを持ち出して、心理的な圧迫をかけようとする。

そして、原告であるあなたがそのような心理作戦に踊らされていたのでは、いつまで経っても、議論は終わらず、判決にたどり着くこともない。

当ブログを巡る訴訟の第一審で筆者が得た解決は、最終解決ではなかったとはいえ、筆者は、やはり、あの時と同じように、どんな時でも、重荷を自分の手から放し、自分で背負おうとしない態度が必要になるのだと感じさせられている。
 
訴訟というものは、格闘技にも似ており、これを続行するための多大なるエネルギーが必要になる。書面を書き上げるためには、膨大な労力が必要で、怒りのエネルギーも、その原動力になる。当事者感情も、すぐに克服できるものではない。人は嫌なことをされて、すぐにそれを忘れることもできず、怒りや敵意をすぐに手放すこともできない。何かの折に、心にため込んだ不満や悲しみが一気に噴出することもある。

だが、そういう感情はやがて冷めるものであり、すべて一時的なものでしかない。そして、神は、私たちが語り終えるときを静かに待っていて下さり、私たちがようやく自分の発言を終えて、自分を手放したとき、おっしゃられる。

「あなたの気持ちはよく分かりました。そう考えるのももっともでしょう。でも、今、目を上げて周りを見てご覧なさい。私があなたのためにすべてを成し遂げました。あなたの敵はもういません。私が一掃したからです。だから、あなたはこれ以上、怯える必要もなく、自分の力で戦って、懸命に何かを成し遂げる必要もありません。あとは私に任せなさい、私がやります・・・。」

どれほど困難に見える瞬間にも、事実は、ただ一つしかない。それは、神がどれほど私たちを愛しておられ、私たちのためにあらゆる瞬間、すべてを良きにはからって下さっているかということである。

人の心も、周りの状況も、何もかも私たちのために恵みとして与えられたものばかりである。

前回の記事で、散歩中にダンプカーが通り過ぎるかどうかは、私たちの心次第だということを書いた。そこから少し進んで、人の心も、私たち次第であると言いたい。

他人の心など、コントロール不可能なものでしかないように見えるだろう。まして敵対している人たちの心など、どうやってコントロールするというのか。

筆者は長い間、人々の離反や、裏切りや、誤解は、防ぎようのないものだと考えていたが、実はそうでないことが分かって来た。

主イエスはイスカリオテのユダの裏切りを予め知っておられた。ユダの裏切りも、イエスの許しなしには起きなかったのである。神はアブラハムのもとに御使いたちを送って、ソドムの滅亡を知らされた。神は今日も私たちの心に全く何も知らせずに突然、予期せぬ出来事を起こしたりはなさらない。

だから、キリスト者の人生に起きて来ることの一つ一つは、神とその人との共同の歩みの中で起きることであり、主は必ず、ご自分に聞き従っている人に必要な事柄を知らせて下さる。

そこで、私たちは人々の離反や、裏切りを防げるだけでなく、場合によっては、紛争の激化を防ぎ、敵対的な陣営にいる人たちの心でさえ、取り返すことができるのである。

真の敵はサタンであり、私たちは敵に渡したくない人々、手放してはならないもの、最後まで守り抜かねばならないものを、はっきりと境界線を定めて、自分の心の中で、これは自分たちの陣営にあるものだと宣言せねばならない。

他人がどう行動するかを考えては悪い想像を心に巡らすよりも前に、まずは自分の心の中で、しっかりと、どこまでが自分たちの陣営に属する領域であるのか、どこまでが決して敵に触れさせてはならないものであるのか、境界線を引いてしまわなければならない。

そうするとき、人々と敵対関係に陥ることを防げるだけでなく、そのような状態になりかかっていた人たちでさえ、取り戻せる場合がありうる。
 
前回、書いた通り、敵の攻撃をどこまで許すかは、私たち自身にかかっているのである。そして、私たちは攻撃を未然に防ぎ、これを撃退することが可能なのである。その原則は、人の心にも当てはまる。

私たちが愛しているものを、絶対に敵に渡してはいけない。私たちが必要としている人々を、決して離反させてはいけない。私たちは、自分を見失って、終わりなき無益な戦いに引き入れられることなく、自分自身も、自分に関わる全ての人たちをも守り抜かねばならない。

そのためには、事実に先だって、まずは自分の心の中で起きる戦いに勝利し、恐れを征服して、人々をも、物事をも、自分たちの陣営に取り返し、しっかりと所有権を宣言しなければならないのである。

紛争の行く末も、当事者の思いも、時も、環境も、状況も、すべてはキリスト者の心の支配にかかっている。

そういう意味で、筆者は自己のプライドや感情を満たすために戦うつもりはないが、この地に正義と平和がなるために必要なことをせねばならないと考えている。
 
そのために、必要な知恵を神に希う。そして、すべての戦いはすでにカルバリで決着がつけられて終わっていることを宣言し、それゆえ、すべてのものが御名の支配に服すべきことを宣言し、それを立脚点として、現実に必要なあらゆる物事を采配する。

私たちの栄光のための勝利ではなく、主の栄光のためにこそ勝利に至り着くことができるように。


私ではなくキリスト―どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために取り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために、
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-19)

さて、今回は、人の心から恐れの暗がりを取り払うことの必要性について書きたい。

当ブログでは、毎回、裁判の話題に熱中している。書いても書いてもテーマが尽きないほどに、訴訟を提起したことにより学んだ内容が多かったためである。

たとえば、物事を光の下に晒すことの重要性に改めて気づされたのも、訴訟の最中である。

人の記憶の中には、しばしば、自分でも光の下に持ち出すことがためらわれる多くの事柄が存在する。誰にでも、できれば語りたくない、人の目にさらしたくないと思う様々な出来事が存在するだろう。だが、そうした出来事も、かえって公然と光の下に持ち出すことで「解毒」できる場合がある。
 
裁判で取り沙汰されるほぼすべての事件は、それ自体、誰にも明るみに出すことがためらわれるような出来事ばかりである。

だが、事件をあえて人の目の前に持ち出し、裁きに委ねることで、悪しき影響力が焼き尽くされるようにして消失し、無効化される場合がある。
   
こうして人前に持ち出されなくとも、人の心には、誰しも、自分で気づいていない暗がりが存在する。それはちょうど部屋の中で、照明が行き届いていない、埃っぽく暗い片隅のようなものだ。暗がりの度合いも様々で、真っ暗闇のこともあれば、薄暗がりの場合もある。

この暗がりは、人の心の恐れと直結している。外からやって来る様々な良からぬ思念や影響力がこの一角に吹き寄せられる。思いがけない不安、良からぬ想像、悪い予感、悲嘆、失意、落胆、様々なネガティブな思念が、この一角に吹き溜まりのように寄せ集められるのだ。
 
だが、どんな暗がりであろうと、心の中に暗闇を残しておくことは望ましくない。そこで、心の大掃除をして、自分でも気づいていない恐れを払拭・克服することは重要である。

筆者が最近気づいたことは、人生に起きる様々な出来事は、それが良いものであろうと、悪いものであろうと、(特にクリスチャンの場合)、その人自身の意識的・無意識な許しのもとでしか起きないということである。

それはごく些細な事柄から大きな事件に至るまで、すべて同様である。特に、信仰者の場合にはそれが当てはまる。なぜなら、クリスチャンはすでにサタンの支配下から連れ出され、愛する御子の支配下に入れられているため、クリスチャンの人生に起きる一つ一つの出来事は、信仰によってコントロールが可能であり、決して、この世の人々のように、不可抗力に翻弄されることはないためである。

たとえば、筆者はペットと田舎道を散歩している時に、危険な大型ダンプカーがそばを通り過ぎることに危機感を募らせていた時期があった。

しかし、何度も散歩しているうちに、いつどんな車とすれ違うかまで、自分の無意識的なコントロールを及ぼせることがだんだん分かって来たのである。

むしろ、いつ危険な車とすれ違うかと、常にびくびく警戒しながら散歩していることで、かえって散歩の時間を無益な心配に浪費してしまう。そういう恐れを克服し、安全な散歩時間を「自ら創造する」ことが実際に可能なのだということが分かり始めたのである。

一体、ヴィオロンは何を言っているのか、気でも狂ったのだろうかと、信じない人々は信じなければ良いが、いずれにしても、人は自分の人生に起きる出来事の多くを、自分自身の心に恐れによって自ら招いている部分がある。
   
多くの人々は、自分の人生の未来について、ああなると困る、こういう出来事が起きるといけない、などといった様々な悪しき想像を巡らし、これを常に心の負担としながら、自分自身が人生の主人として、堂々と道の真ん中を歩いて行く権利を自ら失っているのである。
 
堂々と安全に散歩するために、まず排除しなければならないのは、こうした様々な悪しき思念である。

これはもちろん比喩である。筆者は、人の人生におきるすべての出来事が自業自得だと言って、不運な事件に遭遇した誰かを責めたいがために、このようなことを書いているわけではない。
 
たとえそうした出来事が起きても、人は必ず自分の心の中で、その出来事と取っ組み合って、これを昇華せねばならないのであって、さらにもっと言えば、そのような出来事に見舞われるよりも前に、まずは自分で自分の心の恐れの暗がりを取り払い、悪しき思念を、それが実現するよりも前に、道の脇に退避させなくてはならない必要性があることを説いているだけである。

退避せねばならないのは、私たちではなく、ダンプカーの方なのである。いや、もっと正確に言えば、ダンプカーに遭ってしまうかも知れないという恐れや思念自体に、道の脇に退避してもらわなくてはいけないのである。

こうして、心に不安を抱かせる思念、無意識に沸き起こる不安などを征服し、これを自分で道からどける作業が必要となる。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」 (箴言4:23) 
  
初めのうちは、方法論が分からないので、不安を交わすだけで精一杯であろうが、そのうち、散歩中の対向車を「未然に」撃退する秘訣が分かって来る。

この方法論は、すべてに当てはまる。たとえば、当ブログで前々から書いて来た通り、訴訟などにおける被告の行動は読めないし、反訴や、提訴、控訴の可能性などを、予めコントロールするなど誰にも不可能に思われるだろう。

しかしながら、これも道を通りかかるダンプカーと同じで、すれ違いを未然に阻止した上で、道の真ん中を堂々と歩いて行くことは可能なのである。
 
つまり、敵の攻撃をどこまで許すか、許さないかといった問題も、実はすべて私たち自身の心にかかっているのである。

もちろん、すべての戦いを最初から何もかも避けて通ることができるわけではない。むしろ、真正面からぶつかり、戦いに挑むことで、初めて心の恐れを克服、征服、撃退することが可能となる場合もある。

初回からすべての悪しき不運なすれ違いを完全に避けて通れるなどとは考えない方が良いであろう。
 
だが、そうこうしているうちに、戦いは目に見える形となって現れるよりも前に、「もし・・・したら」という悪しき思念の形ですでに自分の心で起きていることが分かって来る。

相手がダンプカーであろうと、人間の集団であろうと、方法論は変わらない。すれ違う相手が誰であれ、あなたが窮屈に道の端に幅寄せされることもなく、かと言って彼らと真正面からぶつかって事故になることもなく、自分の散歩時間を安全に守り抜いて、彼らに全く心乱されずに堂々と安全にすれ違うことは可能なのである。

あなたがそうして自分の人生の主人として、堂々と道の真ん中を歩ける日が来るまで、何度も、何度も、あなたは奇妙なすれ違いに遭遇し、それが自分の心のシミュレーションであることに気づいて恐れを征服する方法を学ぶまで、訓練を続けさせられるだろう。

人の人生の主人は、自分自身なのであって、あなたはその主導権を守り抜く術を学ばなければならない。そうでなければ、いつまで経っても、あなたは自分の人生において脇役にしかなれない。招かれざる客や、思いがけない不運な訪問者や、好ましくないすれ違いが、常にあなたの人生の主役であるかのように王座を占めて良いものであろうか。

しかし、人生の主導権を他人に奪われないためには、あなた自身が、自分の心をコントロールする秘訣を学ばねばならない。その秘訣とは、目に見える物事と取っ組み合うよりも前に、まずは、自分自身の心の目に見えない恐れを把握して、これを征服する秘訣を学ぶことである。
 
初めからすべてがコントロールし切れるわけではないので、失敗と見えることも多々、起きて来るかも知れないが、人間的な観点からは間違いと見えることさえも、キリスト者にあっては、安全の中で修正される。

カーナビが運転手がどれほど道を間違えても、目的地を指し示すことをやめることなく、運転手を叱りつけることもないように、私たちの主イエス・キリストは、根気強く私たちの行く先を示し続けて下さるからだ。

クリスチャンの人生は、ナビゲーターである御霊の導きのもとに、変わらない目的へ向かって進んでいる。そこに損失と言える出来事はない。どんなに損失や、回り道や、遅延や、停滞のように見えることがあっても、それも信仰ある限り、キリストの無尽蔵の命によって修正され、覆われて行く。

むしろ、遅延や損失だと考えていた事柄が、逆に後になってから、目的地までにかかる時間を大幅に節約する秘訣に変わっていたりもする。だから、失敗を恐れる必要はなく、停滞や、遅延や、損失や、回り道を恐れることはない。

筆者は、当ブログを巡る訴訟や掲示板に対する取り組みの中で、どれほどひどい迫害や中傷が起きようとも、これを心の中で完全に征服する術を学んだ。

これらはすべて散歩中に道ですれ違うダンプカーのようなものである。何一つその問題と本質的に変わるところはない。従って、それらはすべて起きるよりも前にコントロールすることが可能なのであり、ダンプカーが到来するよりも前に、これを阻止する方法が存在するのだと分かれば、目に見える現象に振り回されることはもはやなくなる。

そういう意味で、筆者は、当ブログを巡る訴訟の第二審が始まるよりも前から、すでにこの訴訟がほとんど決着してしまっていることを感じている。理論的には、これから提示しなければならない内容は数多くあるし、書面を作成するのは相当な時間と手間がかかり、かなり面倒にも感じられるが、霊的には、もはや戦いのほとんどの部分がすでに終了してしまっていることが分かるのだ。

それは、自分の心に沸き起こるすべての葛藤と恐れを克服するという、最も厳しい戦いがすでに終了しているためである。残るは緻密に理論を構築し、争点を漏らさず提示して行くことだけである。

これは昨年の今頃、第一審を提起した時とよく似ている。実は、その当時の最も重要な目に見えない争点は、第一審の最中に争われたような事柄ではなく、筆者がそもそも訴訟を提起するかどうかというアクションにかかっていた。

筆者の側から、訴訟が提起されることを恐れたからこそ、暗闇の勢力からはその当時、とりわけ激しい妨害が起来て来たのである。正直な話、暗闇の勢力は、ネット上でどちらが本当のことを言っているか分からないような中途半端な論争が行われている限り、誰から何を言われたところで、痛くも痒くもない。

だが、訴訟となれば、社会的影響力が及ぶ、はっきりした決着がつくことになる。

だからこそ、妨害が起きて来たのであり、同様のことは、クリスチャンが何か一つの決定的なアクションを起こそうとする前には必ず起きて来る。

たとえば、訴訟を提起すれば、判決を得るかどうかが次なる決定的なアクションとなるだろう。勝訴の見込みがあるならば、当然ながら、判決に至り着かせまいとする様々な妨害が起きて来るのは必至だ。

敵はささやくだろう。あなたの理屈には弱いところがあるのではないか。前例のない争いで、冒険をするのは危険ではないのか。裁判官は本当に味方か。当事者の誰かが控訴すれば、争いが長期化するのではないか。賠償が認められても、支払われなければ意味がないではないか。そんなリスクを負ってまで、戦い抜いて白黒決着をつけることに、本当に合理性があるのか、云々・・・。
 
こうしたささやきは、すべて「心のダンプカー」である。あなたは一体、何を望むのか。どんな目的にたどり着きたいのか。目的地を思い浮かべるより前に、すれ違うかも知れない様々なダンプカーを恐れて散歩を取りやめるのがあなたの第一目的なのか。

むしろ、実際に目に見える出来事が起きる前に、このダンプカーに道を通らせないことが重要である。もしもそれでもダンプカーが通ったら? 意に介さないことだ。二回目、三回目に、同様のことが起きそうになっても、二度と通らせない秘訣を一度目のすれ違いの時にしっかり学んでおくことだ。

その道は、あなたの道であって、ダンプカーのための道ではないのである。

そして、その道は、キリストがその命を投げ打って、あなたのために切り開いて下さった道なのだ。あなたはこれを邪魔者に譲ってはいけないし、誰にも塞がれてもいけない。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6).

いずれにしても、私たちが人生で遭遇するすべての戦いに共通することは、敵はあれやこれやの目に見える人間ではなく、もしくは、目に見える様々な悪しき出来事でもなく、私たちの心に暗闇の勢力から直接もたらされる各種の恐怖にあるということだ。
 
恐怖や悪しき思念が、心の中に吹き寄せられる一角を作らないように、私たちが自分の心を点検し、これを光の下に持って行き、すべての暗がりを取り払って、恐れを無効化する必要性がある。
 
暗闇の勢力の用いる最も主要な武器は、死と恐怖である。そこで、私たちが自分の心を見張り、恐れを征服する秘訣を学ぶことこそ、人生において様々な戦いや困難に勝利するために、第一義的に重要な課題なのである。

私ではなくキリスト―自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 (ヨハネ12:24-26)

とても奇妙な夢を見た。横浜の小高い丘の上に、保養施設のような大きな家があった。

その保養施設は、私のよく知るとある宗教指導者が、集会に通う信者のレクリエーションのためにもうけたものであり、その指導者は車で私をその家の前まで案内したのであった。

到着すると、指導者は私に鍵を手渡して、この施設の管理をこれからすべて私に任せると述べた。

門の向こうの敷地内には、広い庭が広がっていた。屋敷の正面玄関までは、車いすが五台くらい並んで通れそうなほど、広く緩やかな坂道が続いている。

その指導者がこの施設の鍵を私に託したことは、いずれこの施設そのものを私に譲り渡すという意思表示のように感じられた。家屋敷だけでなく、信者の管理も、私に任せるという意思だと感じられた。何と大きな信任であろうか。

後日、私は、自分一人で車を運転して、夜にこの施設にやって来た。これからこの家屋敷をどう管理しようかと考え、計画を練るために来たのである。ところが、中へ入ると、屋敷内では、幼い子供たちを連れたいくつもの家族連れが、勝手に中に入って走り回って遊んでいた。さらに、よく知らない住人までもいた。

彼らは宗教指導者が滅多にこの施設に来ないことを知っていて、この家屋敷を普段から遊び場として利用し、我が物顔に占拠していたのであった。だが、私の姿を見ると、親子連れはバツが悪そうにそそくさと立ち去って行った。

私はその屋敷内にたくさんの部屋があり、広い廊下があり、いくつもの収納があるのを確かめた。住居として利用しても、数多くの空き部屋があるため、何の問題もない。だが、まずは不法侵入者をきちんと撃退して、勝手に人々が立ち入りできないようにし、この家屋敷を信者のために役立てられるようにせねばならない。

どうやってこれを管理すべきだろうか。自分がここに住むべきか、それとも、頻繁に訪れて点検すべきか、どのようにして信者に利用させたら良いのか・・・

考えている途中で、ふと思い出した。その宗教指導者は、確か私とは対立関係にあったはずである。それなのに、なぜこのような大きな財産を私に託す気になったのだろうか。なぜ私にそのような権限を与える気になったのであろうか。

そう考えたところで目が覚めた。目覚めると同時に、ポテパルの家を管理していたヨセフのことを思い出した。

ヨセフの生涯は、苦難の連続であった。彼は幼い頃に、自分が兄弟の誰よりも高貴な責任ある地位に就くことになると予感していた。だが、その地位にたどり着くまでに、彼が経験したのは、裏切り、そして、徹底的な苦難の道であった。

それでも、ヨセフは次第に苦難に立ち向かう術を知り、周囲の人たちから信頼を得るようになる。生涯の終わりに近づくに連れて、ヨセフはより多くのもの、より責任の伴う大きなものの管理を任されるようになった。エジプトの宰相になったヨセフはついに国を任されるようになったのである。
  
夢の中で見た家屋敷は、私に託されたものであったとはいえ、たくさんの不法住人に占拠されていた。まずは彼らをどうやって撃退するかを考えるところから、管理は始まった。

それとよく似て、今、私はまだ人生で多くの事柄について、迷いやためらいを抱えている。だが、そのような中でも、これから何を目的に目指して生きるべきか、どこへ向かうべきか、少しずつ、おぼろげながらとはいえ、目標が分かって来たのである。

これまで、私は弱者救済という言葉がとても好きではなかった。正義の旗を掲げて、いかにも弱い人たち、困った人たちの助けになっていますといった風を装い、弱者の代弁者として生きる人々にはうさん臭さしか感じられず、自分がそのようなことを公言するのも嫌だと考え、極力避けて来た。

だが、そんなアピールをするかどうかはともかくとして、これから先、私は、私と同じような、無数の目に見えない弱者、虐げられた人々の代弁者として、彼らの自由や解放に貢献する者として生きねばならないし、そうしたいと思うのだ。

逆に言えば、それができなければ、決して真の意味での成功や、あるべき高貴な地位にも就けないだろうことが、次第に分かり始めたのである。

人間の本当の高貴さは、自分自身の能力や経験や知識に基づくものではない。私の人生は、私一人ではなく、多くの人たちと密接に関連している。現実の私は、もちろん、宗教指導者でもなければ、自分の群れの羊などもおらず、私の手に任された信者などもいはしない。ところが、目に見えない領域では、私の行動は多くの人たちと関係している。

そこで、人々との関係性の中で、真にあるべき使命を果たすことができるようになった時に、私は初めて本当に高貴な人として、あるべき地位に就くことができるだろうことが感じられるのである。

そのために、何をすれば良いのか。それが次第に見えて来たのである。

アンシャン・レジームが終わろうとしている。新しい体制の担い手として、新たな時代を到来させるべく働くことこそ、真にあるべき地位、あるべき立場を見いだす秘訣である。
 
それは、人の目にはまだはっきりと見えていない、見えない領域に存在する新しい事実を、見えるものとしてこの地上に打ち立てることである。
 
私は以前から法体系という巨大な高層ビルの地下に降りて、基礎構造を確かめていると書いている。それは後々これを変えるための下準備である。

法体系は家の基礎構造のようなもので、屋台骨が腐れば、家は崩壊する。基礎構造を堅固なものとし、その骨組みによって、あらゆる物事をきちんと支えられるようにすることが、家を安全に保つ第一の秘訣である。

しかし、我が国という家には、いくつも屋台骨の腐食が見られる。土台の交換が必要となっている部分がたくさん存在するのである。

死文化した法というものが存在する。現実にはいくつもの違反があるのに、それを取り締まるための法が、ほとんど機能しなくなったような例がいくつもある。特に行政法はそうだ。行政法を管理する役所までが機能停止しているため、法は死文化し、どれほど数多くの違反が発生しようとも、違反自体がなかったこととされて終わる。そんな例が無数にある。

こうして死文化し、機能不全となった法を蘇生させ、現実に適用可能にしていくためのプロセスが必要である。言葉は生きている。それを生きたものとして現実に当てはめる方法論が要る。

死文化した法を蘇生して命を通わせる方法、そして、もし蘇生措置がないなら、法そのものを改正させる方法が必要なのである。

今、屋台骨が腐食しているせいで、雨漏りがしようと、隙間風が吹こうと、困っている人たちはどこにも助けを求められない。そういう事例があることさえ、人々は知らない。

そこで、今すぐに交換作業ができずとも、いつか未来にこの腐食部分を交換して、しっかりした骨組みに変えねばならない。そのための下見と点検作業を私は行っているのだ。

問題を取り上げて指摘する人がいなければ、そこに光が当てられることさえない。私が行っているのは、やがて来るべき改正に備えて議論の土台を作ることである。

訴訟をしてみて分かったことは、目指す目的がどれほど遠大なものであるかによって、各人の歩みが決定的に変わってしまうことだ。どこまで遠く歩いて行けると信じるか、どこまで遠くを目指すのか、それは各人が払える犠牲の大きさによって変わる。

つい昨日まで、私は裁判官という職務をとても尊いものだと考え、人々に命や解放を与える判決を書く仕事は、とても価値あるものだと思っていた。

ところが、今日は、尊いのは裁判官ではなく、判決を得るために戦い抜く人たちであると分かった。どんなに人格的に傑出した裁判官が存在していたとしても、粘り強く判決を求めて戦い抜く人たちの勇気と努力がなければ、何一つ達成はされない。

つまり、本当の英雄は、戦い抜いて勝利する無名の市民たちなのだと分かったのである。

もちろん、裁判官の人柄も、裁判の行く末を左右する重要な要素の一つではある。人格高潔な裁判官の存在は、市民にとって必要である。

だが、 画期的な判決を得られるかどうかは、それを得るまで確信に立って戦い抜く人たちが存在するかどうかにかかっているのだ。

そこで、一番の立役者はやはり無名の市民なのだと言えるだろう。

信仰の世界でも、それと同じように、私たち自身が御言葉を信じて、どれほど遠くまで歩いて行けるかにすべてがかかっている。
 
キリストがカルバリで取られた勝利の判決が、我々が実生活で遭遇するすべての問題を克服する根拠となるとはいえ、最も大きくものを言うのは、私たち自身の側からの信仰による応答なのである。

もしも私たちに信仰がなければ、神でさえ、私たちの人生をどうすることもできない。御言葉は死んだものとして、私たちの人生に適用されず、何の解放も勝利も生まれては来ない。

御言葉を生きたものとして、私たちの人生に適用するために、必要なのは、我々の側からの信仰、信仰に基づく応答である。
 
それが、神がこの地上におけるすべてを私たち人間に託され、任せておられる所以である。
 
そういう意味で、遠くまで犠牲を払って歩いて行くために、覚悟を決めねばならない時が来ている。だが、それは想像するよりもずっとずっと難しいことである。

絶えず困難に直面する勇気と覚悟なしにはできない決断である。
 
その歩みができるかどうかは、私たちの心次第であって、決して善良な他人に期待したり、他人に解決のバトンを預けてはならない。他人の人柄や決断がものを言うのではなく、また、自分の心を満足させるために、安易な妥協点で立ち止まるわけにもいかない。主が満足されるレベルまで犠牲を払って到達しなければならない。

それが、当ブログを巡る訴訟でも、一審で立ち止まれなかった理由である。

筆者は当時、戦いを早期にやめることに価値があると考えていた。裁判官も、筆者を争いから救い出そうとしてくれたし、その配慮はとても深い思いやりや、優しさに基づく、善良さから出た行為であるように思われた。

筆者だけではない。その当時、当事者の誰一人、この解決に反対する者もなく、これを平和であり、解決であると考え、そこで終止符を打つことに疑問を持っていないように見えた。

ところが、それにも関わらず、物事はそこで終わりにならなかったのである。それは人間的な観点から見れば、申し分のない解決のように見えたかも知れないが、偽りの平和であり、中途半端な解決でしかなく、宣言されたその瞬間から、ほころびが見えており、崩れることが運命的に定められていたものと言える。

そのことは、未だに一審判決が実現していないことを見ても分かるのだ。もしもこれが平和ならば、誰もがそこで立ち止まっていただけでなく、きちんとその判決が実行に移されていたであろう。そして、実行に移されてさえいれば、私自身でさえ、満足してそこで立ち止まっていたに違いない。私はそれ以上のものを求めるつもりもなかったのだから。

ところが、そうなっていない現状があるのは、これが最終解決ではあり得ず、そこで立ち止まって満足してしまっては決していけない事情があるからなのだ。

戦いは続行しており、それがたとえ人間的な観点から見て、消耗や損失に見えたとしても、中途でこれを放り出して立ち止まってしまうわけには行かない事情が存在するのである。

これは断じて人間的な思いに基づいて生まれた結果ではない、と私は考えている。むろん、裁判官の落度でもなければ、当事者である私の落度でもない。人間の思惑を超えた領域で起きている戦いの結果である。
 
ここで満足して立ち止まることを、主は、私にも、他の誰にも、お許しにならなかったのである。
  
当事者がどんなに人間的な観点に立って、これこそ解決だとみなすものがあっても、成らないものは、決して成らない。

特に、私の人生においてはそうだ。私自身がどんなに人間的な情愛から相手を赦そうと願っても、決して赦すことのかなわない相手も存在する。どんなに人間的に和解や、融和や、提携や、協力を願っても、成り立たない関係も存在する。

肉親であれ、他人であれ、誰かを愛するにも、関わるにも離れるにも、決して私だけの思いでこれを実行に移すことが許されないのである。
 
そして、何をするにしても、神の満足される目標以下のものは、人間的な観点からどんなに満足と見えても、結局、偽りの解決として、退けられ、打ち壊され、否定される。

私自身の目に最高と見える願いでさえ、主の御旨に届かなければ、打ち壊されることとなる。

そういう結果になることを、私自身が幾度も見て来た。

そこで、私は物事を決断するに当たり、決して自分の人間的な思いで安易な妥協をせず、主の御旨だけがなるように深く祈らされる。

私の人間的な思いに基づく解決は徹底的に退けられて、神の満足される水準と目的が明らかにされるよう祈る。

なぜなら、私自身の思いに従って行動しても、それが主の御心に反するならば、決してその行動に実りはないことが分かっているからだ。

そして、一旦、目指すべき目標が分かったならば、そこに至るまでに必要なすべての犠牲を払うことができるよう、その目的を決して取り逃がすことがないよう、勝利を得るまで戦い抜くことができるようにと祈る。

今、私は、いくつもの決断を迫られている。目的地に向かって歩き通すことが必要ならば、そのために必要なすべての判断材料を主が集めて下さるように、そのための道しるべを示して下さるように、歩き通す力を与えて下さるようにと願わずにいられない。

なぜなら、その犠牲が払われた時、初めて、私以外の人たちが、私の戦いの成果によって、恩恵を受けることができるからである。

とはいえ、ただ困難のためだけに困難を求める必要はない。争いを早期に終わらせることが主の御心ならば、それは成就するであろうし、そうなる可能性が十分に残されているときに、これを無駄に退ける必要はない。
 
今、とても重要な出来事が進行中である。私はそこで何が真の解決であるかを見極めるための最後のテストをいくつか主に願い出ているところだ。

これらすべての試験が一つ一つリトマス試験紙となって、何が正しい答えであり、解決であるのか、私の行く道をはっきり指し示してくれるだろう。

もしも主が願っておられる事柄が何であるか知りたいならば、主の御心は、私たちの側からの忍耐強いテストをすべて通過して、これに耐えうるものであることを覚えておかれると良い。

神は私たちの理解や納得を置き去りにして、無理やり何かを私たちに強制されたりはなさらない。強引に力ずくで、私たちを圧倒して、私たちの願いを置き去りにして、何かを受け入れるよう求めたりはなさらない。もしも私たちが真に御心を知り、これに従いたいと願うならば、神は私たちが納得できるまで、御心を確かめることを許して下さる。

だから、私は主の御心だけが成るようにと願った上で、何が真の解決であるのか、示して下さいと願い求める。主が私に任されようとしているものが何であるか、私自身に見分けることができるようにと、祈らないわけにいかない。主は必ず、一人一人に分かるように示して下さるはずである。

* * *

さて、私は船の右側に網を降ろすことにした。

長年、携わって来た私の専門分野というものが存在したが、その分野は、ここ5年間ほどのスパンだけを取って見ても、年々、収穫がなくなり、未来の展望もなくなり、不毛地帯のようになって行った。

そこで観察されるのは、コネや血縁による出世、サークルによる癒着、専門家同士の排除のし合い、企業による専門家への徹底的な搾取、といったものばかりで、要するに、同業者が互いに潰し合っているだけで、目覚ましい成果もなく、この分野からは、何も未来につながる展望が生まれて来るようには見受けられなかった。

そこで、私は勝負する分野を変えることとしたのである。

一体、どの分野ならば、本当に私のような人間が必要とされているのか、何をすることが、残る人生の時間を最も有益に用いることになるのか、 もう一度、これから先の人生で何を目的として目指すべきか、再び、その土台から考え直すこととなった。

それに際して、以前にも書いた通り、プロテスタントにも、資本主義にも、私のかつての専門にも、もはや戻ることはないと決意したのである。

次なる目標は、長い間、立ち止まって考えずとも、それなりに見えて来た。

当ブログに対する権利侵害を裁判所に持ち出したとき、私は今まで全く知らなかった未知の分野に触れることとなった。そこに新しい人生の展望をおぼろげながら見いだしたのである。

それは、法によって保障された権利を人生において具体的に取り返し、実現するという展望である。

むろん、私は法律の専門家ではないので、裁判官や弁護士のように、生涯、法廷を戦いの舞台として生きるつもりはないし、その他の何かしらの専門家として、もしくは、人助けのために、他人の裁判に関わるつもりもない。

だが、裁判という勝負の舞台が存在することを知ったのは、私の人生において、非常に大きな学びであった。書面を書き、主張を練り上げ、判決を通して、自由を獲得して行く方法があると知ったこと、一つの画期的な判決が、どれほど社会に影響を与えるかを知ったこと、それを得るための苦労を知ったことも、人生の大きな前進であり、学びであった。

私は法廷闘争を人生の糧とすることは決してないが、裁判所の判決が社会を変えて行く力を持っていること、さらにそこからもっと進んで、法改正を行えば、もっと多くの自由を社会にもたらすことができることも分かった。

前述の通り、法体系の中に、非常に重要な、尽きせぬ命の泉のようなものが隠されていることを発見したのである。

そういう意味で、私は自分なりの方法で、この泉から命の水を汲み上げ、約束された自由と権利を手にできないでいる人々を助けるために、残る人生を費やしたいと願うようになった。困っている人たちのために働くなどと、標語のようなことを言うつもりはない。ただ私自身が、自らの人生で、戦って束縛を抜け出し、一歩一歩、自由と解放を勝ち取って行くことにより、おそらくは、私のみならず、同じような問題に直面している大勢の人たちにも、必ず、解放的な影響を与えることができると信じている。そういう歩みを進めて行きたいのである。

私はこうして、専門家である肩書も捨て去り、自分の分野を去り、ただの無名の市民に戻ることとした。おそらく、専門家などという肩書を今後、二度と振りかざすことはあるまい。戦いは困難であればあるほど面白い。ますます何者でもない無名の弱者の立場から、最も高く遠大な目に見えない目的を目指して歩き続けたいと願うのだ。生きているうちにどこまで進めるか分からないが、地道に一歩一歩歩いて行けば、必ず、いつかヨセフのような到達点が見えて来ることであろう。

私はどうしても我が国が今のような現状のままではいけないと考えている。現在の日本は階級社会に移行しつつあると言われている。もはや格差ではなく、階級が出現している。それがますます固定化しつつある。

だが、そうして弱い人々を蔑み、虐げ、踏みにじり、弱い者たちをいつまでも弱さの中にとどめ、束縛から自由にさせない今の目に見えない社会の体制と風潮は根本的に変えられねばならない。そのために、どうしてもこの風潮に風穴を開けねばならないという危機感を覚えている。

とはいえ、私はその願いを、他の人たちとは全く異なるユニークな方法によって、実行に移して生きていきたいと願う。その具体的な方法論を今ここに書くことはしないものの、これから、その目標を実現することが、私のライフワークとなって行くだろうと分かる。そして、その方法がより洗練されて明らなものになればなるほど、私自身のユニークな生き方が確立し、人生の到達点も見えて来るだろう。

とにもかくにも、私は自分の網を、今まで考えていたのとは全く反対側に向かって投げることにした。すると、あれほど長い不毛の月日が続いたというのに、一瞬のうちに、網には魚がかなりたくさん入り、重くなっている。こういうものなのだ。長い不毛な行列にいつまでも並んでいても仕方がない。開いた扉に向かって走りなさい。

神の国と神の義を第一とし、心から真に正しいと思う目的に奉仕して生きるなら、何一つ不安に思うことはない。必要なものはすべて添えて与えられる。そして、自由になった時間を、自分のためではなく、他の人々のために費やすことができるようになる。

私は、もはや私だけのために生きているのではなく、主が置いて下さったこの地上において、果たすべき役割を果たすため、目には見えないが、大勢の人たちと、見えない領域で、手を取り合うように、彼らの利益のためにも生きているという、この生き方の目標、感覚は、今後、二度と変わることはないだろうと思う。

それは、私が自分の専門や自分の知識や経験に生きている間は、ついぞ感じられることのない感覚であった。自分の個人的な人生の目的と個人的な満足を投げ捨て、自分自身の垣根を取り払い、何者でもなくなったとき、初めてその感覚は到来したのである。私は新たな人生の目的を見つけ、新たに奉仕すべき人々の群れを見つけた。この方向性は今後、変わることはもうないだろうと思う。


村上密その他を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(21)―すべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。

さて、本来ならば、筆者は「休養」していると言いたいところだが、 山のような仕事に追われ、突貫作業中だ。どれもこれも投げ出すわけにいかない重要な仕事だ。主がどのようにこれを達成させて下さるのか、信仰によって期待するのみ・・・。
 
さて、村上密に告げる。唐沢治とは早急に手を切り、杉本徳久が賠償金を支払えるよう、無利子・無期限でお金を貸してあげなさい。
 
京都教会は重大な危機を迎えている。長澤牧師もいなくなり、次には必ず、村上密も失うことになる。この教会は、やがて壊滅的な打撃を受ける。唐沢になど関わっていれば、存続さえできなくなるだろう。悪いことは言わない、今のうちに筆者の忠告を聞き入れなさい。

杉本徳久という人物は、今やフィクションのように消えかかっている。彼はすでに商工会議所も脱退しており、東京銀杏会の正会員でもないことが分かった。未だブログには偽情報が掲載されたままだが、どこからどこまでがフィクションで、何が実体なのかも分からない。 


 
このまま行くと、杉本という存在そのものが、当ブログに飲み込まれて伝説として消えるだろう。警察も、杉本には支払い能力がないとみている。筆者の目から見れば、杉本は村上のためにすべてをやった。
 
だから、村上が彼に賠償金を貸与してやり、杉本が府中支局でこれを供託しなさい。

村上が手を貸してやれば、筆者に対しても、少しくらいは良い仕事を果たしたことになろう。手続き方法を確認しておいた。ただし、本人でも確認されたい。

筆者の考えをメルヘン小説のごとく善意に期待していると嘲笑うのは勝手だが、今、ほんのわずかでも良いことをすれば、神はあなた方が苦難を受ける日に、もしかすると、それを覚えておいて下さることがあるかも知れない。

取り調べに当たっても、社会的責任は負うつもりがあるという恰好くらいはつけることができるだろう。
    
* * *

さて、筆者は、少し前に村上密の推薦図書を通して、村上の神観がどのようなものであるかを分析しようと、フィリップ・ヤンシーの二冊の著書を取り寄せた。
 
 

だが、グノーシス主義の文献を分析する時とは違い、これらの書物は、あまりにも不健全なほどに痛み苦しみにこだわっているため、読んでいるだけでめまいがし、読了できそうにもなかった。
 
ただ一つ極めて印象に残った話がある。それは、この書物の中で、ハンセン病患者のことが取り上げられていたことだ。ハンセン病者の体に変形が起きるのは、断じて潰瘍などのせいではなく、痛みの感覚がなくなることが原因だと記されていた。

つまり、ハンセン病患者は、痛みの感覚がなくなるがゆえに、自分の体を自分で防御することができなくなり、体に対する過酷な扱いをした結果、体の正常なかたちをどんどん失って行くというのである。
 
この書物は、そうした話から始まり、痛みの感覚が、人の自己防御のためにはどんなに有益なものであって、必要不可欠かという結論に読者を導きたいようであった。そして、次から次へと不幸な事故で重度の障害を負った人々や、激痛に苦しんでいる人の例を引き合いに出して来るのである。

だが、筆者は、人間の苦痛をあまりにもクローズアップしすぎているこの書物の内容に、同意することはできそうにもない。危険を告げ知らせるための信号として、痛みの感覚は必要かつ有益である。だが、絶え間のない苦痛と不自由に苦しめられる状態は、痛みのないハンセン病患者の生活の危険とは種類は違えど、それもやはり、「人のかたち」を脅かし、歪め、失わせる脅威であることは間違いない・・・。

そういう意味で、苦痛という人間の感覚を通して、神を探り究めようとするこの書物には、筆者は著しい違和感を覚える。痛み苦しみに勇敢に立ち向かっている人がいるという例話にはなっても、この書物を通して、神を知ることは難しいものと思う。しかも、同書にはほんのわずかしか、聖書の御言葉が登場もしない。

だが、筆者は、なぜ村上が、そこまで苦痛にこだわるのか、その理由を知りたいと考えて、この本を手に取った。なぜ彼らが被害者に心惹かれ、なぜ可哀想な人々を次から次へと引っ張って来ては、相談に乗り、絶え間なく彼らのためにという口実で、紛争を起こして来たのか、その理由を知りたいと思った。

なぜそんなにも苦痛が彼を引きつけるのか? その苦痛の根源にあるものは何か・・・。

とはいえ、そうした分析を行おうとしていた矢先、村上が唐沢治の陳述書を投稿した。これはまさに村上密という人物の終焉となるにふさわしい記事である。だから、村上の思想分析の仕事はおあずけだ。控訴審で名誉毀損等々の権利侵害を訴えるための理由書の作成をせねばならない。
 
ちなみに、レビ人の剣を取って、これを兄弟と呼ばれた人々に向けなければならないのは、筆者自身にとっても、つらい仕事である。

しかし、最後までその仕事は貫徹せねばならない。だから、筆者の休養はまだまだ先のことである。だが、一つだけ言えることがある。この責任の重い仕事を果たすまで、筆者はその責任から決して逃げはしないと。

筆者の休養のことなどに配慮してくれるなら、お返しに告げよう。あなたたちこそ、人間の死んだわざをやめて休みなさい。地上の働きを失っても、魂を失わないでいられるなら、その方が良い。神は何人の死も喜ばれない。だから、すべてのとがを離れ、心を翻して生きなさい。

もしかしたら、まだ悔い改めの余地が残っているかも知れない。筆者はそのために最後の呼びかけを行う。悪しき死んだわざを離れて、新しい心と新しい霊を受け、翻って生きなさいと。
 
「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(1コリント3:14-15)

「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。
あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。
わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。 」(エゼキエル18:30-32)

* * *

さて、人はあまりにも長く苦しみ過ぎると、痛みに慣らされ、もはや苦痛を感じても、苦痛と思わないほど、痛みのセンサーが鈍磨してしまうということは、健康な人にも起きうる現象だ。

ハンセン病者は、痛みが分からなくなると、自分の体を過酷に扱い、どんどんすり減らして行ってしまう。

だが、キリストの体なるエクレシアの場合、どうなるだろうか?

体のある部分が病むと、他の部分が共に呻き、苦しむことで、互いに助け合い、命を分け合って、かばい合い、一つの体を支え、守るのである。どの部分もすり減らされて、体から切り離されたりすることがないよう、体のかたちを守るのである。

筆者は昨年の年明けごろから、当ブログを巡って起きた紛争と真正面から向き合い、解決を得るために、あらゆる犠牲を払って戦い抜くことを決意した。

しかし、訴訟を起こすに先立ち、多分、その意味を理解してくれる人は誰もいないだろうと、筆者は思った。多くの反対を受け、憎まれ、孤立することをも覚悟せねばならないだろうと。

だが、たとえ全世界がこの戦いの意味を全く理解しなかったとしても、筆者は信じている結果が出るまで、一人で戦い抜こうと覚悟を決めた。生きているうちに、理解を得られずとも構わない。ただお一人、真実なる神の目に義と認められればそれで良いではないか。

「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる」
と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

そこで、筆者は、ただ神の正しい裁きを得るためにに、自分を投げ捨てよう、と覚悟を決めた。何もしなくとも、圧迫から逃れられるわけではないのだ。それならば、とことん向き合い、決着が着くまで、真実が何かを争おう。そうして、自分を振り返らずに進んで来た。

だが、訴えを提起すると、不思議な現象が起きた。筆者の心の内面にあったものが、徐々に外に持ち出され、他の人々に分かち合われるようになり、筆者にとてもよく似た、まるで筆者の分身のような人たちが、筆者に代わって、筆者の内面を表現するようになったのである。

筆者は彼らを見ているうちに、自分がどれほど巨大な苦しみを内に抱え、押し殺して生きて来たのかが分かった。だが、不思議なことに、それを筆者に代わって他者が表現してくれた時、もはやそれは苦しみではなくなり、慰めとなり、筆者は深い感謝と尊敬の念をその人たちに感じずにいられなかったのである。

そうして、筆者の心の最も深いところにあるものを分かち合ってくれた人々は、筆者にとって、まるで自分自身も同然となった。どうしてそのような人々を、憎んだり、非難したり、敵に回すことができようか。「我が身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 」(エペソ5:29)という御言葉が思い出される。

そうだ、彼らはもはや筆者自身なのだ。

いつの間にやら、そういう筆者自身のような人たちが、二人、三人と増えて行き、数えきれないほどまでに拡大した。
 
一体、どういうわけで、そういうことが起きたのか知らないが、全世界の人々の理解を置き去りにしてでも良いから、ただ一人、真実なる神の裁きを求めようと思った筆者には、いつの間にか、全世界の人々が、まるで自分自身のような存在として、取り戻されつつある・・・。

そして、この人々を自分自身のように思えばこそ、彼らをいつまでも苦しみの只中に留め置きたくはないのである。ただ筆者の内面を分かち合ってもらったというだけで、満足して終わりたくはない。皆で協力して敵の圧迫に立ち向かい、すべての分裂・敵対・争いを毅然と退け、互いを守り合い、いたわり合う関係を取り戻し、自由に至り着かねばならない。

聖書には、キリストのからだなる教会について、次のくだりがある。

「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(一コリント12:12-27)
 
ここで言及されている「苦しみ」とは、決して体の一部としての自分が、ただ自分だけを守るための自己防御のセンサーではない。

それはむしろ、互いに労り合い、共感し合い、助け合うためにこそ生まれる感覚である。

キリストの御身体には、ハンセン病者が痛みの感覚を失って、自分自身の体を過酷に扱い、体をすり減らして失って行くようなことは、起きない。なぜなら、体に危機が迫っているときに、一つの部位が痛みを感じなくなっても、他の部位がそれを感じ、体全体が、最も弱い部分が感じている痛みを、全体で共有するからである。

だが、痛みを共有するとは、決して、体全体が絶えず激痛にさいなまれ、活動もできなくなるということを意味しない。その苦しみは、全体で共有されることにより、慰めに変わる。

弱い部分が苦しめば、強い部分が、それをいたわり、弱い部分に集中してエネルギーを注ぎ込む。すると、弱さは強さで覆われ、痛みの原因が取り除かれて、苦痛が解消して行くのである。

筆者の訴えが世間に持ち出されたとき、筆者は自分より少しばかり強い人たちに、重荷を分かち合ってもらった。それによって、筆者の荷が軽くなったので、心に余裕が生まれ、その代わりに、筆者も他の人々をかばうことができるようになった。

強い者が弱い者をかばうように、時には、弱い者が強い者をかばうこともできる。

信仰を持たない人々の間でさえ、こうして重荷を担い合うことができるのであるから、キリストの御身体は、確実にそのような連帯を行うに足るのであって、それこそが、エクレシアの機能なのである。

こうしたことが分かった時、筆者はなぜキリストが十字架につけられた時、父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られたのか、なぜステパノが群衆からの石打ちに遭って殉教する直前にも、ひざまずいて、主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と叫んだのか、幾分か、理解できた気がした。

筆者は、自分自身のような誰かを、もはや一人として、敵に渡したくないのだ。人々が心傷ついて、失意に落ち込み、自分はプライドを傷つけられたという屈辱の思いから抜け出せなくなり、生涯、争いと、憎しみと、敵意の中に身を投じるところをもう見たくない。

聖書の神は、誰一人、滅びに至らせることなく、すべての人を救いに導き、そして、すべての人に、ご自分の友として御心を分かち合って欲しいと願っておられる。だから、我々はそのためにこそ、罪人らの反抗を耐え忍ばなければならない。

クリスチャンが擦り切れるほど暗唱しているあの聖句がそのことをよく物語っている。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。

<略>悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:16-21)

自分自身のような誰か。自分の半身のような誰か。その誰かを、憎しみと敵意と怒りに引き渡し、生涯、争いの中に生きる地獄の業火に渡し、ついにはレビ人の剣で自らその者を敵として刺し通さねばならないような事態にはなりたくない。

だが、多分、筆者がそう思っている以上に、神はその人を惜しんでおられるはずである。

創世記にはこうある、「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 」(創世記2:18)。そうして、神は人(男)のために、助け手として女を創造された。

だが、これはいわば、神の独り言であって、本当は、ここで言及されているのは、人間の男女のペアのことよりも、霊的な文脈における、神(キリスト)と人類(エクレシア)との関係なのだ。

つまり、神はご自分の助け手となるべく、人を創造されたのである。神は強い方であって、人間の助けなど必要としておられず、ただお一人で、栄光に満ちた存在として、何の不足もなかったはずであるにも関わらず、「独りでいるのは良くない」として、人を創造されたのである。

そうして神は、人をご自分よりも少し弱い存在として、助け手として創造された。詩編にはこうある、

「人の子は何ものなのでしょう。
 あなたが顧みてくださるとは。
 神に僅かに劣るものとして人を造り
 なお、栄光と威光を冠としていただかせ
 御手によって造られたものをすべて治めるように
 その足もとに置かれました。
 羊も牛も、野の獣も
 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。」(詩編8:5-9)

ダビデは驚きに満ちて言う、神よ、あなたはどうして人を創造されたのですか、と。強い者は、弱い者の助けなど必要としないはずで、強さこそ、栄光と威光の源であるはずで、弱さの中には、栄光も威光もなく、見劣りのする要素しかないはずではないか。

それなのに、なぜ神は人に栄光と威光を冠として抱かせ、御手によって造られた万物を統べ治めるという栄光ある仕事を任せられたのか。なぜ弱い人をかえりみ、懇ろに世話をし、ご自分の助け手として立たせられたのか・・・。

この詩編の箇所は、以上に挙げたキリストの体なる教会を指した聖書箇所とも響き合う。
神に僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠としていただかせ・・・
神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて・・・
体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。


お気づきだろうか、キリストの体としての教会の一体性について言及されている聖書箇所の中には、神と人との関係も表現されているのである。強い者が弱い者をいたわり、見栄えのする部分が見劣りのする部分を引き立たせ、他よりも弱く、不必要に見える部分がかえって必要となり、各部分が互いに配慮し合って、喜びと悲しみを共有し、一体性としての体のかたちを保っている・・・。

これはまさにキリストとエクレシアの配偶の関係を表現したものなのである。

我が身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 」(エペソ5:29)との御言葉にも、キリストと教会の愛の関係が表されている。

つまり、神は誰からも支えられたり、助けられたりする必要のない強い方であるはずなのに、見劣りのする、見栄えのしない、必要とも思われないような弱い人間を召し出され、人の弱さをご自分の強さで覆い、人の見劣りのする部分をご自分の栄光と威光で覆われ、人がご自分と同じ思いを分かち合って、すべてのものを治めることができるよう、使命を与えられたのである。

神の強さとは、そのようにへりくだった強さであるからこそ、そして、キリストが十字架の死に至るまでも砕かれ、へりくだって、身をもって弱さを知って下さったからこそ、神の強さは、人の弱さを覆い、その命は、多くの弱い者たちを生かし、力づけ、立ち上がらせることができるのである。

それは自己充足のための強さではなく、他者をいたわり、かばうための強さである。

「そこで、あなたがたにいくらかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ重いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:1-11)

キリストが神でありながら、御自分の栄光あるかたちを捨てて、むなしい人間と同じ姿になられたこともまた、「見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」という個所と響き合っている。

神は栄光ある方なのに、その栄光を、ご自分のために保存するのではなく、かえって、ご自分よりも弱く、卑しい者に、その栄光を分かち与えるために、命を投げ出されたのである。

わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。

「見劣りのする部分」、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分」、「見苦しい部分」とは、人間のことである。そのようなものが、賞賛に値するだろうか? 誰が恰好が悪く、見苦しく、見劣りのするものに注意を払うのか?

ところが、神は人を弱さと惨めさと孤独の中に打ち捨てては置かれず、弱い人間を「いっそう引き立たせ」、「恰好よくし」、「見栄えよく」するために、ご自分の聖なる性質を、信じる者一人一人に十字架で分かち与えられたのである。

そのようにされた目的は何か。

それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

神と人との敵対関係が終わり、神と人とが互いに助け合い、いたわり合う関係が回復されて、健やかな時も、病める時も、共に喜び、共に苦しみ、互いを尊ぶという、配偶の関係が回復されるためである。

神は人の創造の初めから、人をご自分の友として、すべての御思いを人に分かち合ってもらいたいと願われ、そのために人を造られたのである。

そんなことが本当にあるのかと問われるだろう。神と人とでは、あまりにも何もかも違いすぎるではないか。どうしてそこに理解が成り立ちうるのか。まして、友だとか、パートナーシップなどが成立しうるのかと。

もう一度、創世記に戻ろう。神は人を創造されるとき、ご自分のかたちに似せて創造されたとある。

「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 」(創世記1:26-27)

ご自分のかたちに似せて、とはどういうことだろうか。

まさか人(アダム)を塵から造られ、息を吹きかけられたということだけを意味するわけではあるまい。(塵は死を象徴するものであり、アダムが最初に神から吹き込まれた霊は、永遠の命ではなかったのである。)

創世記第2章27節には「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 」とある。

実は、ここには書かれていない、隠れた飛躍した文脈がある。それは、神がご自分にかたどって人を創造されたプロセスは、神が男と女とを創造されたプロセスに類似しているという点である。

前にも引用したが、もう一度、男から女が造られたプロセスを振り返ろう。

「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、 人は言った。
「ついに、これこそ
 わたしの骨の骨
 わたしの肉の肉。
 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
 まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 」(創世記2:21-24)

これはキリストと教会の関係を暗示している。このことは霊的文脈において解釈する必要がる。

キリストは十字架につけられ、死んで葬られ、3日目によみがえられた。十字架につけられたとき、彼はわき腹を刺され、そこから血と水が流れ出した。

そうして、キリストの死と復活にあずかり、彼のわき腹から、そのよみがえりの命と、血潮と、水(バプテスマ)を経由して生まれて来たのが、聖なるエバ、すなわち、キリストの花嫁なる教会なのである。

つまり、最初のアダムは、予表であり、次に来るアダムが正真正銘の人であり、最初のアダムとエバの創造は予表であり、キリストとエクレシアの誕生こそ、真の意味での男女の誕生なのである。

だからこそ、キリストは聖書において、第二のアダム(最後のアダム)と呼ばれている。

「「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。
最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。

わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」(1コリント15:45-49)

つまり、創世記において、神がご自分のかたちに似せて人を造られた、と言われるプロセスの中には、キリストの十字架を通してエクレシアが生まれたプロセスが、ある種の飛躍的な暗示によって、重ね合わされている。

そして、アダムとエバの創造よりも、後に来るもの(キリストとエクレシアの誕生)という隠れたプロットの方が、実は本物なのである。

神がアダム(男)に「命の息」を吹き入れられたことにより、アダムが「生きる者」となったように、アダム(男)から造られたエバ(女)も、神が人に命を与えられた関係と類似して、アダムに吹き込まれた命を受け継ぐ者となった。

「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。 」(創世記3:20

しかし、エバが命名されたこのくだりは、アダムとエバの二人が神に背いて堕落した出来事の直後に記されている。従って、このことを見ても、この命は非常に不完全なものだったことが分かる。
 
まず、アダムが神からもらった命は、神の非受造の命ではなく、永遠性のない、天然の動物的命に過ぎない、不完全な命(魂の命)であった。
 
次に、エバは、アダムが堕落して、人類が死を免れられなくなった後で、堕落したアダムの命を受け継いで、「すべての命あるものの母」となったわけであるから、エバの持っていた命は、アダムが堕落以前に神から与えられた命よりも、もっと不完全で、劣った命であったと言うことができよう。

(おそらく、アダムとエバが創造された当初、彼らには罪がなく、死も予定されていなかったので、二人には、自分たちが死ぬ代わりに、子孫を残すことによって、命を次世代につなげるという使命もなかったものと見られる。そうした役割が付与されたのは、明らかに二人が堕落して死を免れられなくなってからのことではないかと考えられる。)

だが、第二のアダムであるキリストの命は、十字架で死を打ち破り、よみがえられた神の霊なる命であるので、これはもはやいかなる堕落に脅かされることもない、永遠性を持つものである。その聖なるよみがえりの命を、キリストは十字架においてエクレシア(教会)に付与されたのである。

そして、私たち信じる者は、地上の生まれとしては、堕落した人間の一人として、朽ちゆく「アダムの似姿」として生まれたが、信仰によって、やがて栄光あるキリストの似姿になることが約束されている。

「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。

こうして、「見劣りのする部分」、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分」、「見苦しい部分」が、「いっそう引き立たせ」、「恰好よくし」、「見栄えよく」されて、神の聖なる性質にあずかり、キリストと共に万物をその足の下に治め、「栄光と威光を冠としていただかせ 御手によって造られたものをすべて治めるように その足もとに置かれました。」という御言葉が実現する時が来る。

もはや私たちの「母」は、朽ちゆくアダムの命を継承するエバではない。

「このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。」(ガラテヤ4:25-26)

前にも説明した通り、ハガルとは、アダムの堕落した命を受け継ぐエバと同じであって、堕落した人全体の総称である。シナイ山とは、律法を指す。

エバの命は、律法によって死に定められ、罪と死の奴隷として生きることしかできない、朽ちゆく堕落した卑しい命であったが、キリストのわき腹から生まれたエクレシア(天のエルサレム)は、キリストの死と復活にあずかり、罪と死の法則から自由にされた、聖なる永遠の命によって生かされている。

私たちはキリストを経由して、この新しい母(教会―エクレシア)に属する、キリストに属する新しい人類とされたのである。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやその類のものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェソ5:25-27)

こうして、キリストの体なる教会は、すべての堕落から清められ、もはやその痕跡さえも残らない、完全に聖なるものとして贖われる日が来るのである。

パウロはエペソ書でそのまま続ける。

「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ人は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、我が身を養い、いたわるのです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:28-32)

だが、おかしなことである。ここで語られているのは、夫婦がどのように互いを愛し、いたわり、尊重すべきかという話なのか、それとも、キリストがどのように教会を愛されたかという話なのか、それとも、キリストの体なる教会に属する一人一人の信者(兄弟姉妹)たちがどのように互いをいたわり、愛を示すべかということなのか、この文脈からは分からない。

いや、分からないのではなく、この文脈にはそのすべてが込められている。

つまり、キリストの体なる教会は、キリストが教会を愛して命を捧げられたように、体の一部である互いの信者を愛し、尊重しなければならないということが示されているのである。その愛は、当然ながら、地上の夫婦にも適用されなければならないが、ここで言われているのは、それ以上の事柄であり、夫が妻を自分自身のように愛するように、キリストの体なる教会は、それぞれ体の一部である一人一人の信者が、互いにねぎらい、いたわり、尊重する関係になければならない、ということが言われているのである。

それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この御言葉に込められているのも、私たちが、堕落したアダムとエバを父母とする地上の朽ちゆく出自を離れ、キリストのわき腹から生まれた聖なる教会として、天に属する者として、「見劣りのする部分」、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分」、「見苦しい部分」が、「いっそう引き立たせ」られ、「恰好よくし」、「見栄えよく」されて、「天に属するその人の似姿にもなる」、すなわち、いつか贖いが完成して、キリストの栄光ある似姿にまで変えられるプロセスのことを指しているのである。

堕落のために、人に当初、予定されていた栄光ある神のかたちは失われた。痛みの感覚がなくなり、自分で自分の体をとことん傷つけても気づかないハンセン病者と同様に、罪のゆえに、自己を防御することさえできなくなって、互いに憎み合い、争い、互いを傷つけ始めた人類からは、正常な「かたち」がどんどん失われて行った。生まれながらの人類の姿には何ら、人が神の栄光あるかたちに創造されたという痕跡はない。

しかし、そのように滅びに向かっている人類を救うべく、神が人の卑しい「かたち」を取られて、地上に来られた。神が神の栄光ある「かたち」を捨てて、むなしく、卑しい人の姿を取って地上に来られたのである。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

そうして、キリストが全人類の代表として、人のすべての痛み苦しみを担って、十字架の死に赴かれ、よみがえられたからこそ、彼を信じる人は、みな彼と同じ死を経て、よみがえりの命にあずかり、創造された当初の目的を取り戻し、いや、当初の予定を超えて、「栄光ある神のかたち」、すなわち、キリストの似姿とされるのである。
 
キリストは十字架において、人々に憎まれ、弟子たちに裏切られ、父なる神に見捨てられ、ただ一人でその死を負われたが、それでも、不思議なことに、最後までただ一人で十字架を負われたわけではなく、ほんのわずかではあるが、そこに人の関与もあるのだ。
 
「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。」(ルカ23:26)

ここに神の「助け手」としての人類が、ほんの一瞬だけだが、イエスを見捨て、裏切る側の登場人物としてでなく、姿を見せている。十字架の贖いは、もちろん、神の側からの一方的な恵みであって、人類の自己努力による達成ではない。それは神の側から一方的に提供された贖いであって、そこに、一切、人類の手柄の入り込む余地はない。

それでも、その十字架の御業の達成の中にさえ、神はこうして不思議な形で、取るに足りない人類を参与させていたのである。

ここにも、神がご自分の喜びと悲しみ、嘆きや苦しみのすべてを、人類に友として分かち合ってもらいたいという願いが、反映しているのではないだろうか?

むろん、今日も、神は信じる者に、少しばかり、ご自分の苦しみを分かち合ってもらいたいと願っておられる。

「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」(フィリピ1:29-30)

そう、イエスが十字架にかかられてから、少しばかり時間は経過したが、私たちは後に続く者として、彼が経験されたのと同じ戦いを戦っているのである。

もちろん、勝利はすでにカルバリで取られた。とはいえ、私たちは今日も、サタンのわざを打ち壊して後退させ、より多くの人々の魂を獲得して救いへ導くために、イエスにならって、日々、十字架の死に服し、キリストのために苦しむことが、恵みとして与えられている。

神はそうしてご自分のために、信じる人々が、喜びだけでなく、悲しみも、痛みも、苦しみも、すべての御思いを友として分かち合うことを望んでおられ、人々が御名のために耐えた労苦のことを決して忘れられることはない。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正し者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。

はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:40-42)

このように、神の強さとは、その強さを自己のためだけに使い、自分の強さに固執して、これを手放すことを嫌がり、その強さによって弱い者を圧倒し、弱い者を高みから見下ろして、勝ち誇るような強さではない。

むしろ、キリストはご自分が強いからこそ、徹底してへりくだり、弱い者を生かすために、死に至るまでの従順によって、父なる神への愛を人々に示されたのである。それだからこそ、夫は妻に対し、信者は信者に対し、自分が強いからと言って、その強さによって、弱い者を脅かすことなく、かえってキリストがそうされたのと同じ愛で、いたわり合い、慰め合い、補い合い、いたんだ部分をかばい、弱さを強さで覆い、互いを尊重し、仕え合い、互いを自分自身のように愛するようにと教えられたのである。

ステパノが殉教に際しても、喜びに満ちていたのは、そのようにして、自分を無にしてへりくだることこそ、他の人々を救うための鍵であることを知っていたからである。

彼は知っていたのである、自己を捨てること、それだけがキリストと同労する道であること。もしもキリストへの愛のゆえに、人々に誤解され、離反されて苦しむならば、そこには必ず深い慰めが伴うこと、必ず、それには報いがあって、損失は損失に終わらないこと、彼自身は、葬られても、他の人々がそれによって必ず命を得ることを――。

誰よりも主イエスこそ、その秘訣を知っておられた。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしのいる者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:24-26)

イエスは、神の栄光を捨てて人の姿となられ、ただ一人十字架に向かわれる時にも、ご自分の耐えておられることが、単なる損失に終わらず、その霊的死の中に、復活の命が働いて、多くの人たちに命が分け与えられる結果となることを予め知っておられた。それはイザヤ書に次のように預言されている通りである。

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。

見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、
死んで罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」 (イザヤ53:11-12)
 
 * * *

<続く>


村上密その他を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(12)―草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。

3.不利な判決から逃げ回る杉本徳久と、賠償金を支払えない株式会社メディアテラス

さて、杉本は、強制執行がなされたにも関わらず、未だ自主的に判決に従う態度も見せず、賠償金を支払ってもいないことを断っておかねばならない。

これは杉本の恐るべき怠慢および無責任である。杉本はブログで不祥事を起こした牧師を激しく非難し、彼らは民事、刑事できちんと責任を取るべきだと息巻いていた。たとえ国外に逃亡しても、その責任からは逃げ切れるものでないと非難していた。

なのに、自分が裁判で負けると、不利な判決からはとことん逃げる・・・。何という呆れるほどに卑劣な二枚舌であろうか、と筆者は憤りを覚えずにいられない。他人に向かっては、「市井の良識」などを上から目線で振りかざし、自分こそ他人に説教できる筋合いにあるかのように振る舞い、自分の考えに従わない者には、様々な権利侵害を予告して、脅しめいた圧力をかけつつ、命令口調で語っていた。なのに、自分自身はどこまでも法的・社会的な責任を負うことを拒否するとは。
  

 
第三債務者である株式会社メディアテラスの代表としての杉本の陳述書。極端に内容が手抜きで不誠実であるばかりでなく、判決にも自主的に従わず、強制執行されても、賠償金の支払い能力のないこの企業の信用が問われる。
 
だが、そもそも、判決言い渡し後、強制執行によって差押を実行せねばならないような相手は、まずまともとは言えない。その上、強制執行も空振りに終わるとなると、よほど悪質な相手と言える。真に資金繰りに苦労していることが考えられる。

これで、株式会社メディアテラスの実態も、杉本徳久という男の本質も、万人の目に明らかになったと言えよう。

こんな微々たる賠償金さえ、速やかに支払えない企業と取引することが、どんなに危険であるかは、今更、言うまでもないことである。しかも、判決に従わない人間が、一体、どんな人間の言い分ならば、聞くというのだろうか? 

筆者は、杉本に向かって、早く賠償金を裁判所に供託するよう強く要求する。いつまでも無責任かつ卑怯に逃げ回っていると、「逃亡の恐れあり」とみなして、こちらはより断固たる厳しい措置で臨むことになるだけだ。

そうなると、日常生活も完全に中断し、より多くの人々に失態が知れ渡り、その後、社会生活に復帰することも、難しくなるだけであろう。そうなる前に、早くこの問題を解決することである。

杉本自身の言葉を使うなら、「いつまでも逃げ回っていないで、市民として果たすべき責任を果たしなさい」ということだ。

この先、神の教会と贖われた人々を厚かましくも非難・断罪して来たこの男が、自らの責任からどこまで逃げ回るつもりか、見ものである。筆者は、杉本がこれまで教会に対してして来たことを思えば、彼は全世界に対する教訓となるのがふさわしいと考えているため、はっきり言っておくが、情けをかけるつもりはない。
   
こうして、判決を実行に移すためのすべての手間暇を、何もかも筆者にかけさせて、自分に不利なことは、何一つ自分から実行しようとしないところに、杉本徳久という男の利己的で甘えた性格がよく表れている。
 
これが今まで司法制度を使って、クリスチャンを脅かして来た男の本性である。自分から他者を訴えて来たにも関わらず、自分が債務から逃げれば逃げるほど、ますます不利になり、信用が落ちて行くだけであることを、分かっていないようである。
 
神はこの問題にもふさわしい解決を与えて下さるであろう。だが、杉本の名は、このようなことを繰り返せば繰り返すほど、恥に変わって行くことになる。
   
* * *
   
4.教会を冒涜するカルト被害者救済活動の要塞として利用された杉本ブログ

しかし、おそらく、以上のような性格は、杉本のみならず、掲示板で誹謗中傷を重ねているカルト被害者の擁護者全体にもきっと当てはまるものであろう。掲示板で権利侵害を繰り返して来た連中に、いざ訴訟に引っ張り出され、責任をきちんと担う覚悟があるとは到底、思えないからだ。
 
杉本もそうだが、この人々は、被害者意識というものが、人の人格を根底から腐らせてしまうことを示す生きた実例である。彼らは「被害者」の美名を利用して、ひたすら自己を美化し、自分だけを憐れんでいるうちに、全く他者のことをかえりみることのできない、どうしようもなく幼稚で甘え切った人間へと変わって行ってしまうのである。

筆者はこのような人々を見ると、彼らは何かしらの悪質な疑似宗教による重症のマインドコントロールに陥って、正常な意識を失っているのではないかという風に思えてならない。

筆者から見れば、それは戦前・戦中の軍国主義を彷彿とさせる出来事である。戦前・戦中の日本人は、自分が見たことも、会ったこともない天皇を神だと信じ、天皇を拝み、支持することによって、あたかも自分自身も、神々の子孫に高められるかのように思い上がっていた。

そして、彼らは自分たちが「神々」の子孫であると考えながら、天皇の名において、若者を特攻隊に送り、隣人を隣組により密告し、罪のない人たちを特高警察に売り渡し、侵略戦争を支持していたのである。それが己を「神々」であると自負するようになった人たちの忌むべき真の姿であった。

今、カルト被害者運動を支持する人々も、全く同様の誤謬に陥っているものと思われてならない。彼らにとって、詩織さんや、ビュン事件で被害を受けた人々や、その他の残酷な被害を受けた人々は、まるで「神々」のような存在である。

彼らは美化された被害者の像を、あたかも神聖なもののように伏して拝み、それに自分自身を重ね合わせることによって、あたかも自分も、何かしら神々しい存在になれるかのように思い込み、被害者意識を崇め奉ることによって、その高慢の中で己を滅ぼしているのである。

筆者から見れば、彼らは、被害者意識を擬人化して、これを神にまで祀り上げて拝んでいるだけである。だが、彼らが拝んでいる被害者意識の正体とは、生まれながらの人間の罪深いセルフ(自己)でしかない。そうであるがゆえに、彼らは自らが帰依している罪深い被害者意識に飲み込まれて、自らトラウマの権化のようになって、その中で自己を喪失して滅びてしまうのである。
 
我々はそろそろ、杉本ブログに集まる人々が、これまで盛んに自己を美化するために振りまいて来た「被害者」という美名や、彼らが作り出した耳に心地良い美談・お涙頂戴の物語の覆いを取り払って、その陰で、彼らが実際にはどれほどの無法を容認・助長して来たのか、現実を直視し、冷静に考え直すべき頃合いが来ているのではないかと思う。

さらに、掲示板の悪質な投稿は、村上密がブログに記事を投稿すると、早速、勢いづくという特徴があることにも、注目されたい。そのことを見れば、掲示板に最も影響を与えているのは、杉本ブログだけでは決してないことが分かるはずだ。

村上・杉本のブログは、これまでカルト被害者救済活動という、聖書に反する冒涜的運動の一大要塞として利用されて来た。それに唐沢治も加えて、これら数名のブログの投稿は、今やキリスト教会を嘲り、聖徒らを侮辱することによって、神を冒涜し、教会の前進に打撃を与えるための攻撃拠点として、暗闇の勢力に存分に用いられているのである。
  
* * *
 
5.他人の匿名性を非難しながら、自分は匿名に隠れる杉本徳久

さて、杉本は第一審で、「自分はカルト被害者救済活動などしていない。」と主張した上、カルト被害者の裁判にも無関係を装っていた。
 
だが、ネット上で、誰がそんな言葉を信じる人がいるだろうか? 杉本ブログの主要なテーマが、杉本自身の裁判も含め、カルト被害者の裁判に関する情報の発表にあり、カルト被害者の裁判をきっかけに、不祥事を起こした牧師たちや教会を声高に非難・断罪することにあったことは、誰の目にも明白である。

カルト被害者の裁判の模様をいち早く発表していたからこそ、杉本のブログは世間の大々的な注目を集めて来たのである。
 
ところが、今や、過去に自分に成功をもたらしたその事実さえ、都合が悪くなると、自分で否定するほどまでになっているとは・・・。

ちなみに、杉本は今や自分のブログから、自分の名を消している。

あれほど「匿名のブログには信憑性がない」と叫んでいた杉本が、今や「匿名に隠れている」。

これは、形勢が不利になって、これ以上、訴えられると困ると考え、杉本がそそくさと自分の名を消したというだけでなく、杉本が自分の名を当ブログに奪われたことをも意味する。
 
これは昨年2月に筆者が杉本に対して民事調停を提起してから、その後、現在に至るまでの間に、杉本が自己のプロフィールをどのように書き換えたかを示す画像である。

1.「随想 吉祥寺の森から」の書き換え前のプロフィール



ちなみに、ここで杉本が自分の氏名や連絡先を開示していただけでなく、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」などと、三島由紀夫を彷彿とさせるような発言を行っていたことも、注目に値する。一時は肉体を鍛えていたとも書いている。これは唐沢の理念とも共通するものであろう。

おそらく、このプロフィールが書かれた頃、杉本は若さと活気の絶頂にあったのではないかと見られる。様々な心のトラウマや不安、自信のなさが文章に見え隠れするものの、外見的には、これから未来を迎える若者として、それなりの自負を持っていた様子が伺われる。

だが、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という言葉は、聖書の理念とは決して相容れるものではない。筆者は、キリスト者の優先順位は、霊→魂→肉体であって、見えないものが見えるものを規定する、というものであることを再三に渡り、述べて来た。

ところが、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という言葉は、それをさかさまにするものであって、要するに、下部構造が上部構造を規定するという唯物論を指す。

別な言葉で言えば、健全な肉体とは、宮であり、器であって、これは神の神殿たる人間を象徴する。そして、健全な魂とは、人間の魂であるだけでなく、宮が迎える見えない神の霊のことを暗示している。

そのように考えると、以上の言葉は、神と人との聖書的な秩序を逆転させるものであって、神を迎える宮を立派に整えることで、そこに迎えられる神も立派になる、と言っているようなもので、結局のところ、人類を神以上に誉めたたえる異端的思想を暗示しているのである。

このプロフィールは、2005年に発表されたことになっているが、当時からこのように書かれていたのだとすれば、それはその当時から、杉本が聖書とは相容れない唯物論的思想を心に持っていたことを意味し、この「さかさまの思想」こそが、後に杉本を村上と共に「教会の破壊者」とし、破滅へと至らしめる暗い運命となったのだと言えよう。

2.「随想 吉祥寺の森から」の書き換え後のプロフィール

 
 
書き換え後のプロフィールは、以上に挙げた、若さと活気にあふれた輝かしい自己紹介と比べると、惨めなまでに寂しい内容である。杉本の名も、連絡先も、消されているだけではない。「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という言葉さえも、どこかへ消え去っている。

健全な肉体を造り上げることで、健全な精神を養うという、杉本流の神殿建設の試みは、不成功にしか終わらなかった。そして、プロフィールは圧縮され、ただ自分は年を取った、青春は過ぎ去った、と言わんばかりの哀惜の言葉で締めくくられている。

筆者は次の御言葉を思い出す。

人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、

 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24-25)

どんなに一時は勢いがあるように見え、輝かしい成功をおさめているように見えたとしても、それがもし束の間に咲き誇る花のようなものでしかないならば、その成果は一瞬で過ぎ去り、消え去って行く。

もしも主の御言葉に立たないならば、すべてはむなしく、存在しているように見えても、次の瞬間には消え失せてしまう。

健全な肉体が健全な魂を養うのではない。神から与えられた新しい霊が、私たちの心を治め、肉体をも治めるのである。この秩序を覆す者は、決して永遠の領域に入ることはできない。人間が己を神以上に高く掲げて、主の御前に立ちおおせることは決してない。

杉本と杉本のブログに今起きていることは、御言葉によらずして、神の教会を敵に回す者に、どのような運命が降りかかるかを万人の前で示したものである。

だからこそ、杉本は全世界の教訓となるだろうと筆者は述べているのである。
  
* * *

6.村上密を偽預言者であるとみなしていたにも関わらず、これを擁護した杉本徳久

ちなみに、話のついでに、第一審でも論じたが、杉本が当初は村上密に対していかなる不信感を持っていたかについても、述べておきたい。

以下は、2005年に杉本が書いた記事であるが、今でも閲覧可能である。ここに、その当時、杉本が村上をどのようにとらえていたかがはっきりと記されている。



ここで杉本は、不祥事を起こした聖神中央教会がペンテコステ派に属していることを説明した上で、当時、聖神中央の事件で被害を受けた少女たちのケアに当たっていた村上密を指して、これは聖神中央の牧師と同じほど信用できない牧師であるとして、辛辣な言葉で村上を批判している。該当の記述を抜き出しておく。

「ちなみに今回、少女たちを救い出す役回りを引き受けている村上密(「むらかみひそか」と読む)牧師はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の京都教会にいる人だが、このアッセンブリーズという教団もアメリカ源流の福音主義的ペンテコステ派。そのスタイルは全くそっくりである。私はずっとアッセンブリーズ日曜学校に行っていたからよく解る。だから、犠牲者の少女達は彼に相談したのだろう。

私は間違ってもアッセンブリーズを異端だと否定はしないが、相当に深い問題を感じている。ちなみにこの村上氏、詳細はとても申し上げる余裕がないが、私個人は全く一切、信用していない人である自身がかつて統一教会のカルトにはまっていた時期があり、そこからの「脱会」経験を持っているので、「カルト宗教からの被害者信者の救済」をライフワークにしている人であるとだけこの場では申し上げておくに留めたい。」


さらにこの記事で、杉本は幼少期にペンテコステ派の教会で受けた心のトラウマについて、これを性的凌辱事件になぞらえつつ、それが自分にとって、生涯、払拭しがたいほどの被害体験であると語ていた。ここにも、杉本の暗い運命を予表するいくつもの言葉が並んでいる。

杉本にとって、幼少期から属していた教会は、彼を神に導く場所ではなかったようである。杉本はペンテコステ派の教会で受けたトラウマのことしか語らず、そこで神を知ったことの意味を語ることはない。

幼少時に牧師から性的に陵辱を受けるという、こうした経験をしてしまった人たちはいったい、どれほどのトラウマを今後引きずることか、気の毒でならない。私など、あの「異言」や「祈りの細胞」、「Devotion」などを幼少期から青少年期にかけて、ろくに客観的な説明もされずに目の当たりにさせられたことでものすごい打撃を食らっている。カルトといわれてもやむを得ない面を、紛れもなくペンテコステ派や福音主義派は持っているのである。
 
 彼らのスタイルを絶対に認めないとはいわない。しかし、子どもに対する接し方、あるいは女の子や女性に対する働きかけに知恵と配慮があって当然である。それが全然ないという場合が少なくない。はっきり言って連中はばかじゃないかと思う。だから、今持って彼らに対する不信感と軽蔑の感情が私の脳裏から消えてくれない。今のままのスタイルを一切の見直しなしに進めていったとしたら、やがてまたこうしたカルト的軋轢や性的なスキャンダル(牧師だけでなく、教会員どうしのそれも含めて)を生んでしまうだろうと私は思う。」

確かに、ペンテコステ派の教会に様々な偽りの霊が入り込み、混乱した運動が多数、生み出されて来たのは事実である。そういう意味で、杉本の指摘は全く的を外れているわけではない。だが、杉本はペンテコステ派を批判するばかりで、聖書の御言葉に立ち帰らず、神の真実性を信じない。それゆえ、彼は教会につまずき、彼が教会に向けた批判が、そっくりそのまま、杉本自身に跳ね返り、彼がカルト牧師と名指しした人物への非難が、杉本自身への非難となって跳ね返るという悪循環に陥るのである。

これが、聖書の御言葉に立脚せずに、自分の人間的な判断や価値観に基づいて、神の教会や贖われた信徒たちを敵に回すことの非常に恐ろしい結末であると筆者は考えている。

どれほどひどい不祥事を犯したように見える牧師たちを非難する際でも、私たちが注意しなければならないことは、その非難は、人間的な観点からなされてはならず、聖書に立脚したものとならなければならない、という点である。

相手は一度でも神のために献身し、福音の使徒となった人々であって、そうした人々に向けて、聖書の御言葉による裏づけなしに、つまり、神による守りなしに、ただ人間的な観点からのみ非難の言葉を向けると、非常に恐ろしい結果が跳ね返って来る。
  
福音の使徒に、人間的な思惑に基づいて立ち向かえば、待っているのは敗北のみである。私たちは常に御言葉によって武装しなければ、こうした問題に立ち向かうことはできない。

そういう意味で、杉本が人間的な正義感に基づいて、教会を告発して来た作業は、神の知恵に逆らう恐るべき高慢の上に成り立ったものだと言えるのである。彼を支持するカルト被害者の擁護者たちのしていることも同様である。
 
さて、筆者自身が、ペンテコステ派の教会で育って来た思い出を振り返っても、むろん、この運動には、実に多くの問題があることは確かであるだが、そういった問題の存在を認めつつも、筆者は常に神への信仰を持ち続けて来たし、神が真実な方であることを決して忘れたことはない。

だから、筆者は杉本と違って、ペンテコステ派で立ち直り不可能なトラウマを負ったなどと、考えることもできないし、その後、ペンテコステ派以外の様々な教会で見聞きした混乱も、何ら筆者の信仰を弱めるものとはなっていない。

話を戻せば、杉本がもっと辛辣な言葉で、村上密を非難した記事がある。

これも2005年に書かれた記事で、今も閲覧することができるが、この記事の中で、杉本は、村上密が統一教会時代に、神の語りかけを聞いて回心したという体験談を、全く信用できない眉唾物の作り話として、一刀両断に切り捨てている。



ここでも、杉本は聖神中央教会の牧師による性スキャンダルに触れつつ、被害者の信徒をケアしていた村上密が、全く信用できない人間であり、加害牧師も、被害者のケアに当たっている牧師も、どちらも本質は同じであって、偽預言者に他ならないという厳しい結論に至り着いている。

そして、村上密が信用できない人間であることを示すために、彼の眉唾物の回心体験を引き合いに出し、懐疑の念を示している。該当箇所を抜き出しておこう。

「この聖神中央教会の被害者のケアに当たっているのが、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の京都教会、村上密(むらかみ・ひそか)牧師であることはすでに何度も私も書いたことだが、彼が牧師に転身したきっかけは「神の声を聞いた」からだそうである。
 
 当時、教祖・文鮮明が率いるカルト的教団、統一教会(桜田淳子などが会員であり有名)の信者だったのだが、ある日、

 「密(ひそか)、密(ひそか)」
 
 と村上氏の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 「なぜお前は私を迫害するのか?」
 
 主イエス・キリストのお声だったと彼は言う。統一教会のドグマ(教義、教条)が誤りであることに「気づいた」彼は、カルトの悪夢から目覚めてキリスト教徒に変わったのだとされる。

 以前にもちらっと書いたが、私自身はそういう「神秘的経験、バプテスマ的体験」はいっさいしたことがない。「声」も「姿」も私の五感でキャッチしたことは一度もない。負け惜しみで言うわけではないが、 
 
 「使徒パウロでもあるまいし、そうそう簡単に神の声が聞こえてたまるか。あほらしい。」

 といつも思う。
 
 くだんの村上牧師の逸話は、修辞学の名手といわれ、新約聖書の多くを記述し、屈指の文才を持った使徒パウロが、まだ自ら進んで初代キリスト教会に迫害の限りをつくしていた時に経験した
 
 「パウロよ、パウロ。なぜおまえは私を迫害するのか。」

 という神の声を聞いて以後の人生を大転換したという使徒行伝の下り(これを「パウロの回心」という。)と全く同じ。いきなり統一教会の教えが間違いだと気がつき、劇的に真理を知ったという話の突飛な展開とも合わせ、どうにも私には飲み込めない話である。

 「神の声を聞いた」

 という人の中には、本当にそういう恵まれた幸運に身を置くことが出来た人もいるのだろうが、多くは詐欺師的、偽預言者的な虚偽が混じっているので重々気をつけるべきだと、少なくも私は申し上げたい。

実際に村上がこのような話を当時から人前で吹聴して回っていたことは、筆者も見聞きして知っているので、この記述は嘘ではないと言えよう。アッセンブリー教団では、この手の奇跡体験はまことに人受けが良い。

だが、同時に、村上はその頃から、自分が統一教会を脱会したのは、父親と親族によってほとんど半殺しの目に遭わされて、力づくで家に連れ戻され、脱会させられたからだ、というもう一つの体験談をも披露していた。

そこで、そうした体験談も考慮すると、筆者は杉本同様に、このような奇跡体験が本物であるとは全く信じる根拠がないものと考える。これは村上の「創作」であるとしか言いようのない話である。あまりにも痛ましい形で、統一教会への逃避行に終止符が打たれた村上が、その心の傷を覆い隠すために作り上げた物語なのかも知れないし、あるいは、このようなことが自分の身に起きたと、村上は今でも本気で信じ込んでいるのかも知れないし、受け狙いの自慢話を「創作」したのかも知れない。

だが、いずれにしても、人が神に出会うことは、このように突飛な体験ではあり得ず、もう少し、知的にも、論理的にも、説明のできる出会いになるのが通常である。なぜ統一教会が誤っているのか、自分自身で考え、少しずつ、気づきが始まり、まことの神が分かり始めるというのが、カルトからの脱会の通常のパターンであろう。

このように理屈を超えた何らかの神秘体験に力づくで圧倒されるがごとくに、いきなりすべてが180度転回して、それまでの生き方が誤りだったと劇的に分かる、ということはまずない。

いずれにせよ、この記事を通して、2005年の時点では、杉本は村上を詐欺師・偽預言者と言わんばかりの目で見ていたことが分かる。

さらに、杉本の村上への不信感は、「干潟は水が腐っているわけではない」という記事の中でピークに達する。この記事についての解説は、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」という記事の中ですでに述べたので、繰り返さないが、この記事で杉本が指摘していることの中には、非常に重要な見逃せないポイントがあるため、なぜ杉本はこの時の自分の直観に従って、その後も、村上は信用できないという信念を持ち続けて生きることができなかったのであろうかと、筆者は首をかしげざるを得ない。
 
杉本は、この記事の中で、次の村上の言葉に猛反発していた。

 「悩み苦しみが心の中に溜まったままだと、悪水ぬきが必要です。話を親身になって聞いてくれる人は溝や堀のような存在です。悪水のはけ口になってくれるからです。良くない聞き手は、悪水を逆流させます。悪水をぬけば、悩み苦しみも心の肥やしになり、その人の心を沃野にします。」

当時の杉本の見解はこうであった、人の悩み苦しみは、断じて心の中に溜まった「悪水」などではなく、親身になって聞いてくれる人が現れ、その苦しみが取り除かれさえすれば、見栄えの悪い干潟は、整然とした街並みに置き換えられ、人の心は肥沃になり、ハッピーな人生を生きていける、などというお気楽で単純な結論は絶対にあり得ない。

それは、杉本自身が、アッセンブリー教団で心に抱えた言い知れないトラウマや、あるいは、人生で初めて被告とされた際に味わった裁判の屈辱が、決して誰にも打ち明けることのできない心の悲しみ、秘密として、永遠に捨てられずに持ち続けられるものとなることを、自分で予感していたためかも知れない。

人は誰しも、決して誰にも打ち明けることのできない心の秘密を抱えており、それは誰かに話したからと言って、決して解決に至ることはない。誰か良い聞き手を見つけて、自分の苦しみを吐露しさえすれば、話しただけで都合よく問題が解決するかのような村上の論は、あまりにも浅薄で、見当はずれであって、現実を無視しており、絶対に実現し得ない不可能事であることを、杉本自身が、自分の心の傷を振り返って、悟っていたのであろう。

それにも関わらず、杉本は村上を偽預言者としてきっぱり退けることに失敗するのである。

それは、ただ村上が、このような記述を不都合と思い、これを取り除くために、杉本を懐柔して行ったというだけでなく、杉本自身が、誰にも打ち明けられない自分の心の秘密を、黙って神の御許へ持って行き、神にのみ打ち明け、心を注ぎだして祈り、解決を求めることをしなかったためであると筆者は考えている。

むしろ、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という杉本の主張は、村上の論を嫌悪・反発しながらも、見栄えの悪い干潟はさっさと埋め立てて、公共事業により整然とした街並みを造ることこそ、人類の幸福であるかのような村上の論と響き合うものである。

これと同じことが、唐沢治と杉本との関係にも当てはまる。杉本は唐沢をも2010年当時は、偽預言者として非難していたが、結局、その主張を貫くことがないまま、自ら偽預言者呼ばわりしていた唐沢と意気投合するはめになる。

このように、杉本の心の中には、常に相矛盾する考えが同居しており、結局、杉本は何かを偽りだと見抜いても、その信念を最後まで貫くことができず、常に自分にとって安易な方を選んで妥協してしまうことを繰り返した。

それは、黙って根気強くただ一人の花婿だけを待ち望むことに耐えられず、手っ取り早く、自分を慰めてくれる理解者を求めて、幾人もの愛人で心を満たしたバビロンの姿を彷彿とさせる。

杉本は様々な教会の混乱を見るとき、そうした現象の背後にも、主の御手が働いておられることを見ようとしなかった。そして、混乱した有様だけを見て、信仰なくして教会をバッシングして、その手痛いツケがすべて自分に跳ね返って来ることになった。

杉本は自分が理解者であるかのように考え、飛びつき、手を伸ばした人々によって、さんざん欺かれ、利用され、人生を奪われ、滅ぼされてしまった。それだけではない。杉本が養おうとした健全な肉体も、健全な魂も、彼を裏切ったのである。そういうものは、何もかも、束の間に過ぎ去るものでしかなく、彼に栄光をもたらさなかった。

公共事業によって建てられた町並みは、人目には、堅固で、長持ちするように見えるかも知れない。だが、それは太古からの自然である干潟に比べ、あまりにも短命で、無内容の、薄っぺらい束の間の営みでしかない。公共事業の痕跡は、100年ほどで過ぎ去るであろうが、干潟は、何万年も残り続ける。

人と人との出会いや関係が、どれほど良好に見え、そこにどれほど大きな一大運動が出来上がり、自信と、輝きと、勢いがあったとしても、御言葉に立たないものは、すべて風のように過ぎ去り、消えて行くだけなのである。

杉本ブログの栄枯盛衰は、そのことを我々によく伝えている。御言葉を捨てて、人間の慰めにすがれば、すべての栄光はむなしく消え去るということをよく物語っている。
 
杉本は、筆者と当ブログに挑戦した時、自分の勢いによって、筆者を容易に打ち負かすことができると考えていたに違いない。だが、筆者は、御言葉によって武装していたので、彼を打ち破り、杉本によって人質にされていた筆者の像を彼の手から取り返し、逆に杉本の名を、杉本から奪った。杉本がブログから名を消したのは、当ブログに名を奪われたからであり、それはもはや杉本の存在そのものが、当ブログによって上書きされて、消えかかっていることを意味する。
 
これが神の教会の圧倒的な霊的優位性なのである。ものを言うのは、性別でも、外見でも、人数でもない。霊的優位性である――。この優位性を、筆者のみならず、教会全体が持っているのであり、今まで教会はさんざん杉本や村上の恫喝にも等しい非難によって圧迫され、また、唐沢の罵詈雑言によって嘲笑され、提訴の脅しによって、踏みにじられて来たように見えるかも知れないが、実際には、聖書の御言葉に立脚しないカルト被害者救済活動こそが、教会の足の下に踏みにじられるべき屑のような存在でしかない。それゆえ、その霊的事実は、間もなく実際として、この地上に引き下ろされることになる。
 
杉本が判決から逃げ回ることのできる期間はそう長くはない。遅かれ早かれ、彼はこれに従わざるを得なくなる。そして、杉本のみならず、杉本に深く関わって来たすべての牧師たち、信者たちも、彼と同じ罪にあずかり、彼と同様に、教会によって塵芥のように踏みつけられた上、外の暗闇の投げ捨てられ、恥をこうむり、足早に姿を消して行くことになると筆者は予告しておく。
 
これから杉本に起きることは、カルト被害者救済活動全体を震撼させる教訓となり、この運動を根底から揺さぶり、最終的には完全に瓦解させる効果をもたらすであろう。彼が教会や聖徒らに対して投げつけたすべての悪罵が、まさに彼の身の上に成就する時が来たからだ。

キリストを知らない、キリストによって贖われていない、聖霊を内に持たない人間が、生まれながらの肉の思いで、教会に手をかけることは、それほど恐るべき罪なのである。そのことは、アナニヤとサッピラの例を思い出すだけで十分である。


村上密その他を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(9)―たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放して下さいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(Ⅱテモテ1:7)

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。」(ルカ8:17)

 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)


 「このように、あなたがたも、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:11)

「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:5-6)

* * *

虚偽告訴罪(刑事告訴・告発支援センター)

「人に刑事又は懲戒の処分を受けさせる目的で、虚偽の告訴、告発その他の申告をした者は、3月以上10年以下の懲役に処する(刑法第172条)。 」

最新の記事で「霊的優位性」について書いたのは偶然ではなかったものと思う。

村上密が本日、ブログ記事で筆者を告訴したと発表している。この一報を最初に報じたのは掲示板であった。仮処分の申し立てを作成していなければ、気づかなかったかも知れないが、タイムリーに投稿があったので、リアルタイムに知ることが出来た。

 
*ちなみに、村上密はこの記事を投稿してすぐ削除した模様。
 悪ふざけなのか、本気で魔女狩り裁判を開始して、これから
 クリスチャンに有罪宣告を下したいという悲願を語ったものか、
 筆者には真意が完全に不明。

 控訴審できちんと釈明していただきましょうね・・・。
 もはやオーウェルのディストピアと化している宗教トラブル相談センター。
 人格権侵害と合わせれば、あまりにも重大な名誉毀損に該当するこの記事、
 信徒相手に、
普通に考えて、牧師としてヤバすぎでしょう・・・!?
 事実ならば、むろん、こちらも虚偽告訴罪で対抗するのみですが。


こうしてテレスクリーンに「ビオロンは人民の敵」との見出しが躍り、かの全体主義国では、筆者はゴールドスタインさながらの扱いを受けている。そこはすべてが鏡のようにさかさまに映っている。罪人が聖人に、聖人が罪人に置き換えられる・・・。

本日、筆者は、先にチェックをお願いしていた告訴状を、明日受理してもらうことで警察と合意していた。先週から人格権侵害の記事については、警察へ資料を提出、最終チェックと校正をお願いしていたが、明日には受理されると聞かされた。

従って、この情報が事実ならば、村上は筆者に先手を打とうとしたことになろう。

村上の告訴事実が何から成っているのかは知らないが、村上の記事内容から判断すると、村上は、筆者が訴訟において、村上と杉本から「反訴の脅しを受けた」と記していることが、名誉棄損に相当するという主張も含めているらしい。

しかし、村上が杉本と一緒に第一審において、筆者が彼らの提示する和解条件を飲まなければ、反訴すると筆者に主張したことは、まぎれもない事実である。そのことは、村上自身が、前掲記事で、「彼女は、裁判の中で私が反訴を口にすると、「反訴の脅しをかけた」と4月13日の記事に書いている」と書いている通りである。

そこで、村上の主張は、筆者にとっては、まさに「唐沢治から密室で呪いの予言を受けた」と主張したKFCの元信徒を彷彿とさせるものである。

筆者は当初、KFCの元信徒は、杉本のブログでありもしない虚偽の事実を主張したのだと考えていたが、後になって考えを翻したと書いた。従って、もしも筆者のその予測が的中しているならば、この信徒は、虚偽告訴罪を主張できたはずだということも、繰り返し書いて来た。

それは、虚偽の告訴に対しては、毅然と立ち向かい、その罪を相手にお返しすべきだという筆者の信念を述べたものである。
 
このような事情であるから、筆者は驚いてはいない。村上は筆者がこのニュースを聞けば恐れると考えたのかも知れないが、筆者自身が、告訴状が受理されて後、どういう顛末を辿るかを、実際に確かめて知っている。その上、筆者は、村上の行った権利侵害について、警察に相談を重ねて来たのである。
 
今、筆者は、4月1日にも、今回と同様のことが起きたのを思い出す。筆者は3月末日、コラム欄に、掲示板に実名を挙げながら村上密の家族に言及しているコメントがあるのを見て、こうした掲示板の投稿を整理して、村上密について書くつもりだと予告した。すると、それからわずか1時間も経たないうちに、村上は筆者の人格権を侵害する記事をブログに投稿したのである。
 
幾度も述べた通り、村上によるこの権利侵害がなければ、今回の訴訟は第一審で終わっていたはずである。筆者は、杉本徳久の記事が名誉棄損に相当することが認められただけでも、十分な成果だと考え、判決に不服を述べないために、一審で終了するつもりでいた。

ところが、神はこの紛争をここで終わらせず、第一審では出て来なかった不法行為の証拠として、村上に以上の権利侵害を犯させたのである。

村上はこの時、おそらく筆者に実名入りの記事を書かれる前に、先手を打ったつもりであったと見られるが、その焦りが、権利侵害を犯している事実を彼に見えなくさせた。筆者は、このことは、天の采配であり、この紛争を妥協せずに最後まで徹底的に戦い抜き、望む成果を勇敢に勝ち取りなさいという天の命令であると解釈した。

今回も、村上の主張を見る限り、これと同じ現象が起きているものと見られる。告訴状を提出するには、十分かつ入念なチェックが必要で、それがあったとしても、疑義や問責が生じる可能性は十分にある。

従って、自分の焦りできちんとした構成要件を満たさない告訴状を提出した場合、その不備が後になって重大な問題となって自身に跳ね返って来る可能性は大いにあると言えよう。

特に注意が必要なのは、匿名掲示板のように、誰が投稿したかも分からない投稿を告訴する場合ではなく、相手が分かっている場合である。

もしも誰かが、筆者の記述が真実であることを知りながら、これをあたかも虚偽であるかのように主張して、自分に対する名誉毀損であると主張して告訴した場合には、当然ながら、虚偽告訴罪に該当する可能性が出て来る。
 
上記した通り、虚偽告訴罪は重い罪である。従って、告訴人の言う告訴の事実に裏づけがなく、その理由に整合性が取れず、その訴えの真実性が証明できず、故意性が認められれば、いたずらに被告訴人とされた者は、告訴人に対してこの罪を主張しうる。

実を言うと、筆者は昨日まで、控訴審での戦いのポイントを思いめぐらし、かつ、明日受理される告訴状について考えながら、これではインパクトが足りないと考えていた。確かに、この告訴状には、受理される要件は整っている。そのことはお墨付きをもらっており、第二審においても、これが確かな材料となって行くであろうことは明白に予想できた。

だが、人格権侵害だけでは、いささか被害のインパクトが軽すぎる気がする。これでは起訴―有罪に持ち込む根拠とはならないだろうという予感がある。しかも、筆者の控訴状は、「未熟児のサイズ」と記した通り、昨日までの時点では、第一審で取りこぼしたわずかな記事と、人格権侵害の記事の削除および微々たる賠償を追加するだけのものでしかなかった。

むろん、手堅く事件を進めるためには、それで十分な主張なのだが、「小さく産んで、大きく育てる予定」と当初から書いていた通り、このような些末な理由で、二審を戦う結果には、きっとならないだろうという予感があった。こんな微々たる理由では、たとえ勝ってみたところで、御名を冠する戦いにふさわしい勝利と呼ぶには、いささかインパクトが小さすぎる。

そこで、今回起きたことも、やはり主の采配であると思わずにいられない。

筆者は二審について、大々的な注目を集めるつもりは全くなかった。だが、村上がこのような記事を出した以上、この戦いは、否応なしに注目を集めるものとなろうし、まさに筆者が2009年から主張して来た通り、反カルト運動の陣営による「魔女狩り裁判」の様相を帯びて来たのである。

筆者は2009年から、村上密の活動は、このような結果に至ることを幾度も予告して来た。今回のことは、その霊的法則性が成就しただけと言えよう。信者を解放するように見えて、人間の正義によって抑圧する反カルト運動の悪しき本質が、いよいよ正体を現したのである。

ところで、筆者は今回の裁判で、告訴が確かになされたという事実を客観的に証明すること自体が、かなりの苦労を伴うことを知った。

杉本は、筆者が告訴状を提出したことを否定していなかったが、あくまで事件化はされていないなどと主張していた。

村上と杉本が、一緒になって、筆者が警察を証人として呼ぼうとした行為をメールで嘲笑っていたことは、記事で記した通りだが、告訴状が受理されていることを客観的に証明するためには、確かにある種の苦労が伴うのである。

裁判官は筆者の申し出を調査嘱託に変えたが、それでも十分ではなかった。さらに、筆者はそれを補う証拠を提出したが、それでも、十分であったとは見られない。民事では、終結していない刑事事件の確かな進行状況を認定することは、およそ不可能であり、そのようなことを争点とするのも難しいのである。

そこで、結論から言えば、検察に事件が送付されて、きちんとした結末が出てもいないうちに、誰かに対する告訴の事実を名指しで公表することは、決して得策とも賢明とも言えない。そのようなことは、100%確実に勝算の見込みがある場合以外には、絶対にしてはならないと言えるほど、リスクの大きい行為だと言えよう。

筆者の事件では、今回は第一審において、はっきりと杉本による名誉毀損や侮辱の事実が認められたゆえに、刑事事件でも、ほぼ同等の結論が出ることを予想でき、それが大幅に覆ることはまずないとみなせる。それゆえ、以上のリスクは回避することができたし、筆者の論証も十分であった。
 
しかし、これがもし民事で名誉毀損が認められず、控訴審でその事実を争うとなった場合には、早まって人物を特定して刑事告訴を公表してしまった人間は、控訴審で窮地に立たされることになる。

たとえば、村上密自身が、五次元スクールから名誉毀損で告訴されたが、不起訴になったと得意げに記事に記している。そのような結果となったにも関わらず、それ以前に、早々と相手を告訴した事実を実名で発表してしまった場合、後になって、それは事実無根の主張として、重大な名誉棄損の罪に問われる可能性も出て来る。
 
しかも、ペンネームだけであれば、人権侵害には相当しないが、村上はすでにその条件を自分で破ってしまっているのである。

そこで、今回の村上の記事の発表は、筆者から見れば、勇み足と言うべき、村上自身にとって極めて重大なリスクをはらむ危険な行為であり、筆者にとっては、控訴審における主張を大いに補強する材料となる。

この記事は、筆者に対する人格権の侵害の記事と合わせれば、十分な名誉毀損行為に相当する要件を満たしているから、これこそ、控訴審を戦い抜く上で、御名を冠する戦いとするにふさわしい最も大きな被害のインパクトとなる。
 
さて、警察とのやり取りは、ものすごい消耗戦である。告訴状を出しさえすれば、後は警察が自動的に捜査をしてくれ、自分は何もしなくても、ただ待ってさえいれば、すぐに警察が犯人を逮捕してくれて、裁判が開かれ、犯人が有罪とされて事件が終わる・・・などという甘い世界はないことを、筆者はこれまで痛感して来た。

それは、民事でも刑事でも基本的に同じであるが、民事ならば、定期的に口頭弁論が開かれ、嫌でもいつかは審理終結が来るが、刑事事件の進展はまことに見えない部分がある。

そして、この壁を打破するために、筆者はものすごい苦労を払い、ようやくのことで、風穴を開けたのである(だからこそ、筆者の事件に、これ以上の遅延はないと断言できる)。
 
だが、刑事事件の進展が遅い場合、民事において、告訴されたこと自体を名誉毀損だと相手が主張して来た場合、告訴要件をきちんと満たしていることを立証することには、膨大な時間と手間を要する。

その作業を2名の被告を相手にしながら、筆者は一審で成し遂げたが、これから、その作業が、村上に課せられることになる。杉本と一緒になって、筆者が警察を証人に呼ぼうとしたことを嘲笑った村上である。どのような手法でそれを行うのかは、注目される。弁護士を雇ったとしても、唐沢治が出して来た陳述書のような理屈では、勝算の見込みは薄いであろう。
 
だが、それよりも、今回、注目されるのは、信徒を告訴したと自ら発表したことにより、村上密という人物の内面が、極みまで明らかになったことである。

かつて相談にやって来た信徒を告訴する牧師のもとに、これから身を寄せたいと願う信徒がいるとは思えない。そこで、村上の行為は、村上の率いる宗教トラブル相談センターに、致命的と言っても良いくらいの打撃を与えることであろう。

さて、筆者は、このようなことがあってもなくても、自分の果たさなければならない仕事を淡々とこなすだけである。

幾度も言うが、キリスト者の身には、神が許された事柄しか決して成就することはない。そして、神は信者の同意がないのに、突然、試練をもたらされるようなことはなさらない。

読者は知っている通り、2009年から、筆者は、村上が構想したカルト監視機構の危険性を世に訴えて来たのであるが、その時から抱いていた危惧が、このような形で成就するまでには、10年間という月日が必要であった。

本来ならば、10年もの月日があれば、記憶も薄れ、関わりも断たれ、かつてそんな主張がなされていたこと自体を、当人同士が忘れていておかしくない。だが、霊的な領域においては、記憶が忘却されるとか、主張が消滅するということは決してないのである。

だから、今回の出来事は、かねてより懸念されていた事柄が、実際となっただけであるが、そうなるまでの10年という月日は、筆者自身の霊的・内的訓練の期間であり、主は、筆者が当時から予想していた出来事に対して、十分な準備が出来るまで、待って下さったのである。

幾度も繰り返すが、筆者は個人の人権を守るためにここに立っているのではない。ここから先は、過越し――御名の主権がものを言う世界である。

今、カルバリで流された主の血潮の絶大かつ永遠なる効果のほどが、万人の前で問われているのであって、もしも筆者が罪に問われるようなことがあれば、それは主の名折れでしかない。

神はそのような方でないことを、筆者はこれまでの人生のあらゆる場面で実際に確かめて来て知っている。第一審でも、これと全く同じ、十字架の死を潜り抜けた。この事件に向き合うことを決めたときから、筆者の覚悟は固まっている。そこで、筆者にとって、このような出来事に対峙することは、日々の十字架でしかない。

神の救いは、一度限り、永遠のものであって、血潮の中に隠れる者を、罪に問える者は誰もいない。それにも関わらず、そのようなことを試みるなら、その訴えのすべてがその者自身に跳ね返ることになる。まさしく――虚偽告訴という罪として。

それが、過越しである。筆者は自分の家の鴨居に幾重にも小羊の血を塗っておく。そうしておけば、外に死の風が吹き荒れても、それは家の中の者に触れることはない。かえってエジプト人の長子が滅ぼされるのである。

神の御前で起きることに、何一つ偶然はない。そこで、なぜ村上が杉本と一緒になって反訴を言い立て、さらにこれを見送りながら、今、告訴を選んだのか、その理由は以下にあると筆者は見ている。

反訴には、どんなに虚偽の訴えを出そうとも、いかなる罪も伴わないが、告訴が虚偽だった場合には、罪に問われる。

それが、神が村上に告訴に及ばせたことの真の理由である。
 
* * *

さて、掲示板はこれまで、筆者が自分自身をエステル妃になぞらえているのを見て、さかんに嘲笑していたが、エステルは、モルデカイがハマンの策略によってユダヤ人が皆殺しにされようとしている計画が存在することを知ったとき、自分は死を覚悟して、王の前に進み出ると述べた。

すでに幾度も述べて来た通り、筆者は、杉本・村上からの反訴の予告をきっぱりと退けて、第一審を終えるだけでも、自分の命を最後まで注ぎだす必要があった。その時に、筆者の覚悟は決まったのである。

エステル記を読んでみれば良い。ハマンは自分の家の庭に、モルデカイを吊るすための絞首台を作った。その頃、モルデカイは、ハマンに手をかけることなど、考えてもいなかったであろう。

ハマンはモルデカイのみならず、ユダヤ人全体を殺害しようと考えていた。モルデカイ一人に対する憎しみをきっかけに、ユダヤ人全体に対する尽きせぬ殺意を抱いていたのである。

そして、ハマンは王の信任を得ていた。絶大な権限を持っていた。それにも関わらず、ハマンが作った絞首台は、ハマン自身の絞首台となった。

そうなるために、エステルが死を覚悟した勇気を振り絞ったからである。
 
筆者はこの物語に2018年の初め頃から、幾度となく言及して来た。それは、この戦いを貫徹するためには、筆者は、まさにエステルやモルデカイと全く同じ覚悟を固めねばならないことを初めから知っていたからである。

主はいつも筆者に問われる。「あなたはどのくらい本気ですか? 私のためにどんな代価を払うつもりがありますか?」

筆者は答える。「私は準備が出来ました。私はあなた以外に価値とするものは、何もありません。私はあなたがどういう方であるかを知っています。あなたが決してご自分のもとに身を寄せる者を見捨てられたり、失望に終わらせない方であることを、私は知っています。

私は自分のすべての利益に変えても、あなたご自身を現していただくことを利益と考えています。私が欲しているのは、私の正義以上に、あなたの正義、私の真実以上にあなたの真実であり、あなたの自由と解放、命に満ちた統治を得るために、自分の十字架を負うつもりです。たとえ、私が不真実であっても、あなたは真実な方です。あなたのおられるところに、私の命もあるのです。ですから、何が起きようとも、最後までご一緒いたしましょう・・・。」

これは宿命の戦いである。村上の思惑を忖度した信者らは、筆者が第一審で村上に勝訴できなかったことをさかんに嘲笑しているが、もしも村上密が、控訴審で必ず勝てると考えていたなら、このような措置を講ずる必要はなかったであろう。

筆者が控訴したことを、筆者よりも前に報じたり、筆者の告訴が完了する前に、筆者を告訴したと報じたりするところに、村上の恐怖心の表れを感じざるを得ない。

* * *

もう一度、エステル記(4:9-17、7:1-10)の以下のくだりを引用しておく。

「ハタクが帰ってきてモルデカイの言葉をエステルに告げたので、エステルはハタクに命じ、モルデカイに言葉を伝えさせて言った、「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという一つの法律のあることを知っています。ただし王がその者に金の笏を伸べれば生きることができるのです。しかしわたしはこの三十日の間、王のもとへ行くべき召をこうむらないのです」。

エステルの言葉をモルデカイに告げたので、 モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。


そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。」

「王とハマンは王妃エステルの酒宴に臨んだ。 このふつか目の酒宴に王はまたエステルに言った、「王妃エステルよ、あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。

王妃エステルは答えて言った、「王よ、もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしよしとされるならば、わたしの求めにしたがってわたしの命をわたしに与え、またわたしの願いにしたがってわたしの民をわたしに与えてください。 わたしとわたしの民は売られて滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています。もしわたしたちが男女の奴隷として売られただけなら、わたしは黙っていたでしょう。わたしたちの難儀は王の損失とは比較にならないからです」。

アハシュエロス王は王妃エステルに言った、「そんな事をしようと心にたくらんでいる者はだれか。またどこにいるのか」。 エステルは言った、「そのあだ、その敵はこの悪いハマンです」。そこでハマンは王と王妃の前に恐れおののいた。 王は怒って酒宴の席を立ち、宮殿の園へ行ったが、ハマンは残って王妃エステルに命ごいをした。彼は王が自分に害を加えようと定めたのを見たからである。

王が宮殿の園から酒宴の場所に帰ってみると、エステルのいた長いすの上にハマンが伏していたので、王は言った、「彼はまたわたしの家で、しかもわたしの前で王妃をはずかしめようとするのか」。この言葉が王の口から出たとき、人々は、ハマンの顔をおおった。 その時、王に付き添っていたひとりの侍従ハルボナが「王のためによい事を告げたあのモルデカイのためにハマンが用意した高さ五十キュビトの木がハマンの家に立っています」と言ったので、王は「彼をそれに掛けよ」と言った。 そこで人々はハマンをモルデカイのために備えてあったその木に掛けた。こうして王の怒りは和らいだ。

村上密その他を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(4)わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)

さて、日曜はゆっくり休んで、週明けになると、風邪もどこかへ去っていた。
  
週明けから暗闇の勢力に対して、予定していた厳しい措置を実行する。被告に法的措置を取るため、書類をしかるべき機関に宛てて送付した。これで「命令」を「実行」するためのすべての書類手続きが整ったことになる。

これは判決を得た以上、避けて通ることのできない過程である。筆者が人生で初めて足を踏み入れる新たな厳しい領域だ。
 
訴訟で負けた人には、様々なデメリットが降りかかる。仮執行は控訴によって実行を遅らせることはできない。従って、判決によって抱えた債務は、早々に整理しなければ、社会的に多くの負の影響をもたらし、ますます増えていく可能性すらもある。

被告はかつて「一度、自分の口から出た言葉は後から消すことができないということがわかっていない。もし、それがネット上のものではなく紙媒体の印刷物であれば不可能である。」と書いていたが、その言葉は誰よりも彼自身に当てはまるものとなることを考えてみたことがあるのだろうか?

聖書には、
 
「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)

とある通り、自分が他者に対して憐れみ深く接した人には、憐れみ深い態度が返って来るが、それをしなかった者には、いずれ自分が他人に行ったことが、そっくりそのまま跳ね返ることになる。

バビロンの崩壊が、今始まった。
 
掲示板の読者は特にそうだが、これから被告に起きる事柄を、読者にはぜひしっかりと見ておいて欲しい。なぜなら、掲示板において、匿名で当ブログ執筆者に対する誹謗中傷を日夜重ねている者たちは、自分にだけは決して追及の手が及ばず、自分には苦しみは降りかかることはないと高をくくっているのであろうが、人物が特定されれば、だれでも同じような末路を辿ることになるのだ。

被告の今日は、掲示板の投稿者の明白であるから、警告としてよく見ておいて欲しい。そして、天に唾すれば自分の顔に落ちるように、自分が他人に向かって吐いた言葉は、いずれことごとく自分に返されることの意味をよく考えてみることをお勧めする。

彼らは自分には報いが降りかかることがないと確信しており、筆者が凡人ではないという事実を否定して嘲笑しているようだが、学者という職業の人々は、もともと物事を徹底して追及することに慣れており、またその方法論を知っている。掲示板に対しても、被告に対するのと同じように徹底した態度で臨み、必ず、権利侵害に及んだ人間に対しては、実名を公表の上、責任を追及することを予告しておく。
  
* * *

さて、筆者は今、思い出すことがある。それは筆者がアッセンブリーに所属していた子供時代に、キャンプで初めて村上密を遠目に見かけたときのことである。

あの頃、筆者は中学生で、村上は「先生」と呼ぶよりも、子供好きな「お兄さん」という若さで、筆者よりも少し年上なだけの子供たちを楽しそうに引率していた。

それを見て、筆者は「若い先生のいる教会はいいなあ」と考えたことを思い出す。筆者の所属していた教会は高齢化しており、筆者は子供心にも、教会が高齢化していることに寂しさを覚えていたのである。

その頃、村上密がどんな活動をしているのか筆者は知らず、筆者から見れば、村上はただ単にアッセンブリー教団に属する教職者の一人の「若い先生」であり、まさかその後、現在のような状況が起きるとは、予想だにすることもなかった。
 
そのキャンプでは他教会の人々とは話すこともあまりなかったので、筆者は大勢の人々とにぎわいを楽しむということはなかった。その代わりに、聖霊の存在を知り、おそらくその時、洗礼の決意を固めたのではなかったかと思われる。

キャンプの終わりに、証しをしたい人は名乗り出るようにと求められたので、筆者は手を挙げて講壇に立ってマイクを握り、何か証しの言葉を語った。何を言ったかは覚えていないが、生涯、神様に着いて行くつもりだといった決意を語ったように思う。そのキャンプに連れていってくれた引率者の信者(日曜学校の先生)が嬉しそうに頷いていたことを思い出す。

家に帰って洗礼を受けると親に報告すると、深い感動が込み上げ、涙が出て来た。嬉しいというのとは違う。筆者に対する神の深い愛を感じ、その決意が、筆者の生涯を分ける決断になることを理解していたためである。

しかし、それから、家ではバトルが始まった。我が家の宗教は分裂しており、父はアッセンブリー教団にも疑問を持ち、子供を早くから教会に所属させることに反対で、そこで、当然、洗礼を受けることにも反対であったため、それを押し切って洗礼を受けるには極めて大きな代償が必要であった。

このように、筆者の人生には、子供の頃から、神に従うために、代価を伴う「エクソダス」の過程があった。ただ単純に信じますと言って、それですべてが成就するような安易な状況ではなかった。神に従うために、筆者はまず最初に、自分の家族の情愛や理解を、心の中で後回しにせねばならなかったのである。

その他にも、この世との別離もあり、子供としての筆者は、非常に大きな苦しみを耐えねばならなかったと言える。その上、筆者はアッセンブリーの教会生活には全く満足していなかった。教会生活そのものが苦痛に近いものだったと言っても良い。その当時の教会の様子について、改めて書く必要もないとは思うが、そこには大きな問題があり、真の信仰はほとんど見られない状況であった。筆者には、教会生活は人工的なもので、本物ではないという違和感が心に絶えずあった。

だが、その頃から、筆者は、教会と信仰は別物であって、死んだような礼拝とは別に、聖書の神御自身は生きておられるという確信が心にあった。そこで、教会生活がどれほど形骸化していようと、教職者がどれほど信用できない人々であろうと、そのことは筆者の内心に影響を与えなかった。むしろ、筆者はこれほど大きな代償と引き換えに、従おうとしている存在は、筆者の全自分を捧げるだけの価値のある方であって、筆者の人生は、その方のために聖別されて、とりわけられていることを知っていたのである。

筆者は子供の頃から、幾度か親に向かって、筆者の人生の終わりは必ず普通でないものとなるだろうという予測を語ったことがあった。それは決して非業の死を遂げるという意味ではない。ただ筆者なりに、神に従って生き、神に従って召されるという、殉教の予感であった。

だが、そういう決意も、大学生くらいになると散漫になり、ある時が来て、何もかもが一変するまで、筆者の生活は世人とほぼ同じであった。しかし、そのような生活をしている時でさえ、筆者は自分の人生の終わりは、完全に主のためだけのものとなること、自分のために何か特別な召しが存在するということを、心に感じることがあった。

そして、筆者に与えられた人生の最期の瞬間が来るまで、神の愛は余すところなく筆者に注がれているということをはっきりと感じたのである。

不思議なことに、殉教の決意などなく、信仰すらもあるのか分からない暮らし方をしていても、筆者は神を離れていたわけではなく、神も筆者を離れられなかった。従って、筆者は、自分が神を選んだのではなく、神が筆者を選んだのだということを、今でも確信せざるを得ない。人は、自分の歩みを自分で決めていると考えているが、それを決めておられるのは神である。そう考える他には説明できない、あまりにも数奇な事件が、筆者の人生には多すぎる。

さて、筆者の父親は、人間洞察力に関してはピカイチで、筆者の人間観察眼も親譲りである。(筆者は論理的な思考と冷徹な観察眼を父から、豊かな情感を母から受け継いだ。)

その後、筆者は2008年になって、他教会で起きたトラブルを解決する目的で、村上の教会に向かい、そこに親を呼んで村上と対面させたことがあった。

筆者の父が、その時に村上から受けた印象を後になって述べた。父はアッセンブリー教団の非や、キリスト教についての意見を述べる前に、村上と筆者では人間のスケールが合わないということを真っ先に指摘した。彼は言った、「あれはヴィオロンを相手にできる人間だと思わない。だから、すぐに(ヴィオロンの方から)離れて行くだろうと思った。実際にその通りになった」と。さらに言った、「初対面の人間に向かって、家族カウンセリングのために、実家を訪れても良いとか、やたら熱心に自分の活動や親切心をアピールするところに、かえってうさん臭さを感じた」と。

筆者はこの感想を聞いた時には、すでに村上の教会からもアッセンブリー教団からも完全に離れ去っていたので、この印象は正しいと感じた。そして、たった一度、1時間にも満たないくらいのごくわずかな時間、会話しただけで、相手の人間性を的確に見抜ける父の洞察力に感心した。

もちろん、それは世間知らずの若い牧師に比べて、この世でもまれながら生きて来た年長者としての正しい判断と知恵でもあったろうが、それ以上に、我が親族には、父に限らず、一人一人に、何かしら非常にシビアかつ不思議な観察眼が備わっている。
 
だだ、父というものは、やはり、自分の子供の人間のスケールを直観的に理解・把握していると言えるだろう。筆者のようなタイプの人間は、通常人に理解できる域をはるかに超えた、とらえがたい要素を持ち(これも親譲りだが)、これを理解し、受け止めるためには、並々ならぬ特別な資質が必要となる、ということを、父はよく知っていたのである。

だからこそ、村上密には、筆者のために何もできないで終わるだろうことを、父は最初から分かっていた。筆者のリクエストに応えるという形で、村上の教会を訪れはしたものの、村上が、自分は経験不足の未熟者でありながら、他人の家庭に僭越に口を出し、自力で他人の家庭を是正するために家族カウンセリングに取り組むなど、もってのほかだということを、よく分かっており、口にこそ出さなかったが、最初から全く相手にしていなかったのである。
 
それよりも、村上が他人の心を癒すこともできないのに、一体なぜ、何を目的として、信者に向けて熱心にカウンセリングなどを勧め、そこに家族までも巻き込んでいるのか、父はその真の目的がどこにあるのか、当初から非常に疑問に思っていたと語った。

それから後、村上の人間性は、今やすでに余すところなく明らかになっているので、言及する必要もないと思うが、筆者は時折、「ではどういう人間ならば、父の目に適うのだろうか?」ということを考えてみることがある。筆者の父は、信仰者ではないため、価値観は全く共有できないが、親として、この人間になら、子を預けても構わないという人物が現れれば、多分、一目でそれを見抜く洞察力はあるに違いない。

だが、それだけのスケールを持った人間とは、一体、どういう人物なのだろうかと、筆者は疑問に思う。そして、今のところ、地上のどの人間の中にも、筆者はそれほどの器を見つけたことがない。

筆者から見れば、日本人は特にそうだが、男性はあまりにもナイーブで傷つきやすすぎて、女性からの絶えざるサポートや励ましを常に必要としているため、非常に厄介で面倒な側面を持った存在である。

多くの男性は、自分が強くて、大きくて、頼もしい、懐の深い人間であって、か弱い女性をサポートできることを、心の誇りとし、自信とし、よすがとしているので、女性の方が自分よりも強いことが判明した場合、それだけで打ちのめされ、自分を否定されたように感じ、侮辱を感じ、憤ったりする。女性が自分を少しでも上回っていると感じただけで、もはや愛も消え失せ、憎しみだけが残ったりもするのだ。

それはちょうど多くの男性が、自分よりあまりにも身長の高い女性と連れ立って歩くことを嫌うようなものである。学校時代、筆者の級友の中に、190cmは身長があろうかという女生徒がおり、筆者はその人を容姿端麗だと思っていたが、彼女は色々な苦労があることを話してくれた。もちろん、自分に合ったサイズの服や靴を見つけるのに苦労するだけでなく、特に、男性からの妬みのような蔑み、嘲りがひどいと嘆いていた。

このように、ただ女性の身長が高いというだけでも、男性はコンプレックスを感じるらしいのだ。つまり、多くの男性は、すべての面で、自分が女性に優っていることを確認できなければ、それだけで、心傷つけられたように感じ、侮辱を感じる非常にナイーブな生き物で、少しでも自分が女性から「見下ろされている」と感じることに、耐えられないと言えるのではないかと思う。

筆者はこのことを考えると、多くの人々がこのようにまで傷つきやすく、心が脆弱で、自信喪失しているために、自分のあるがままを認められず、それゆえ、他者のあるがままをも認められない状態に陥っているということは、非常に不憫で気の毒なことであると思わずにいられない。

さて、心の身長などというものは、誰にもはかれないにせよ、筆者の場合は、たとえるなら、見えない心の身長は190cm以上(場合によっては、200cmくらい)あるかも知れない。だが、そうなると、そういう人には、世界が他の人々とは異なって見えるのは当たり前のことである。むろん、理解者が減って行くことも、同じ価値観を共有できる人が減って行くことも、当たり前のことである。

強い女性は、自分のスケールに見合った、自分を守り、かばうことのできる、より強い男性をなかなか見つけられないどころか、男性も女性も含めて、多くの人々から、いわれのないやっかみや差別を受け、かえって心弱い男性を守る側に立たねばならず、苦労することになる。自分よりも心弱い男性たちのプライドを考慮して、絶えず、自己の強さを発揮せず、弱いふり、かばってもらっているふり、気遣われるふりをせねばならない。

これは非常に大きな負担である。何をどう言ってみたところで、大は小をカバーできるが、その逆は成り立たないからだ。かばう側には立っても、かばわれることができないというのは、恐るべき孤独である。

だが、最近、神はそういうお方なのだということが分かって来た。神は私たちがあまりにも心のスケールの小さい人間であることをよく理解して、私たちのプライドを完全にへし折って、私たちが生きて行く気力をなくすことのないように、非常に気を遣いながら接している。強く、頼もしく、大きいからこそ、絶えず私たちの限界をかばうために、ひたすら忍耐して私たちにつきあうしかなく、時には私たちがあまりにも自分のちっぽけな心にこだわりすぎるのを見て、怒り、苛立ちながら、私たちが新たな一歩をやっと踏み出すのを待っていて下さる。これは途方もない忍耐だということが分かって来る。

さて、筆者の父は、人の人間的な器の大きさを直観的に見抜くことができる人だったので、筆者のような人間は、村上密のような人間に何とかできるような存在ではない、ということを確実に知っていたし、筆者もその通りだと考えている。

だが、これは以下にも書く通り、ただ単に人間のスケール云々という問題ではなく、私たちがそれぞれ何に立脚して立っているのかという問題を伴う。

村上と筆者の立脚点は、完全に対極にあり、それ だからこそ、この争いは、村上の勝利で終わらず、控訴審に持ち込まれたのであって、そこで一審判決は覆されることになる。理解ある裁判官が下した良識的な判断でさえ、神の目には完全でないため、覆されることになる。この争いに、決着をつけられるのは、神御自身である。

筆者は、神の完全なることを証明するために立たされた人間であり、その召しに立っていればこそ、主は筆者の願うことに応えて下さるであろう。

だが、このようなことは、筆者に限ったことではない。杉本徳久がかつて書いていた「干潟」に関する記事を思い出せば分かる通り、杉本も、かつて村上とは対立関係にあり、その当時に書いた、村上をほとんど偽預言者扱いせんばかりの記事を未だ掲載し続けている。
 
この「干潟」に関する記事で、杉本は、村上がカウンセリングを通して、人の心に溜まった「悪水」を抜けば、その人はハッピーになれると書き、自分の活動を、干潟を埋め立てる公共事業にたとえて自画自賛していたことを痛烈に批判し、干潟は断じて人の心に溜まった「悪水」などではない、村上は初歩的な思い違いをしている、と非難していた。

まさしくその通りなのである。

もしかすれば、地上には、一人くらいなら、筆者よりも強く、懐の深い、頼もしい存在はいるかも知れないし、あるいはそういう人々は、十人か百人くらいはいるのかも知れない。そういう人々によりかかれば、筆者の重荷は軽くなり、筆者はより悩みなく生きて行けるように思われるかもしれない。

だが、筆者は、誰か自分よりも頼もしい人間によりかかり、支えられ、理解され、慰められて生きたいとは全く思わず、それが幸福だとも感じないのである。

仮に肉の父の目にかなう人間が十人、百人いたとしても、天の父の目にかなうのは、御子ただお一人だけである。

従って、筆者は他のすべてのものと引き換えにしてでも、ただ真に完全で価値のあるものだけを掴みたいと願っている。

筆者が何を言おうとしているかと言えば、私たちにとって、孤独や悩み苦しみは、取り除くべきものではなく、それ自体が、神に通じる十字架の道だということである。誰か孤独や悩み苦しみを埋めてくれそうな人間に手を伸ばせば、手っ取り早くそういうものは、なくなるように思えるかも知れないし、それこそが人間の幸福のように考える人々がいるかも知れないが、それは根本的な誤りである。
  
そこで、子供の頃、キャンプで遠目に他教会の子供たちの楽しそうなにぎわいの様子を見たときのことを思い出すにつけても、あの時、あの孤独の中にあって、まことに良かったと筆者は考えている。

あの時、村上とその教会の人々は、筆者から見て「対岸」のようなところで、陽気に楽しんでおり、筆者は、こちら側の岸で、自分たちの教会には若い人々が少なく、子供も少ないので孤独だと感じていたが、それは何ら嘆かわしいことではなく、まさしくそれで良かったのだと思わざるを得ない。

これは筆者の所属していた教会が正しかったという意味でもなければ、アッセンブリー教団を肯定するものでもない。ただすべての状況の中に、神の御手が確かに働いていたということに過ぎない。

その頃から、筆者には様々な重荷、様々な孤独、言い知れない苦悩があったが、筆者は、そのようにして、世から取り分けられたことは、非常に良いことであったと考えている。

投獄されたパウロなどは言うに及ばず、ガイオン夫人も、ウォッチマン・ニーも、すべての信仰の先人は、必ず望むと望まざるとに関わらず、不思議な状況の巡り合わせによって、世から分離されるという過程を辿ったのである。

そこで、自分が孤独や苦しみとは一切、無縁の、心の「悪水」などとは一切関係のない、絶えず楽しそうなにぎわいの中で騒いでいられる「あちら側の人間」の一人であれば良かったのにとは、筆者は全く思わないのだ。

人のにぎわいからは離れた静寂の中に、神の選びと、愛に満ちた眼差しがあった。死んだような教会、心の通わない信徒の交わりとは別に、神は確かに筆者に対して、筆者自身の心の願いにこたえて、個人的に語りかけ、働いて下さった。むしろ、そのような環境があったからこそ、主は筆者に応答して下さったのだと言えよう。(これは断じてそのような教会にとどまり続けることを勧めるものではない。)

あの時、神ははっきりと、筆者にしか分からない方法で、あなたを選ぶとおっしゃって下さり、そのことを、筆者はすべての人たちの前で証し、そして、それが人生の極めて重大な一歩となって行ったのだから、それで十分なのである。筆者はとにもかくにも、見せかけでないもの、束の間でないもの、一番大切なもの、永遠に残るものを掴んだ。そして、筆者の心からの決意は、神に重んじられ、聞き届けられたはずである。

このように、神は常に人を荒野に導いて、ねんごろに語りかけられる。神が好まれるのは、見栄えのしない「干潟」であって、整然と整備された街並みとしての「公共事業」ではない。神は人の心にどれほど「悪水」がたまっていようと、そのようなことは決して障害とはみなされず、そのすべてを自分が受け止めることができるから、私のもとに来なさい、とおっしゃる。

むしろ、忌まわしいのは、神の目に、人が己を完全に見せかけようと、自分を飾り、自己浄化しようとして、自分には罪などない、悪水などない、問題などない、自分は聖い人間であって、豊かで、乏しいことはなく、むしろ、自分こそ、他者の問題を解決してやれる能力を持っているのだ・・・、などと己を偽り、思い上がりに陥ることなのである。

どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。

そこでイエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。

イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。

だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。

そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。」(ルカ36:-50)

* *  *

  
「あなたの信仰があなたを救った。さあ、安心して行きなさい。」

イエスのこの言葉を筆者はどれほど待ち望んでいることだろう。もちろん、筆者はイエスがすでに筆者を贖って下さり、自分が救われていることも知っている。

だが、改めて、どうしても今一度おっしゃっていただきたいと願わずにいられないのだ。

「生きよ」と。

全被造物は、罪のゆえに堕落し、神から切り離されて、まるで本体を失った影も同然となって、虚無の中をさまようしかなくなった。

それゆえに、全被造物は、自分自身の内には虚無以外には何も見いだすことができず、ただひたすら、その影の持ち主である本体に見出され、神の御言葉の光に照らされることで、もう一度、新たに生かされる瞬間を待ち望んでいる。

自分だけでは生きられない、ものを言うことも、存在を証明することもできない「影」。

ここに、被造物としての私たちの嘆き、呻き、苦しみがあり、悲しいまでの「女性性」がある・・・。
 
* * * 

ラザロは、もの言わぬ死者となって、墓に横たわりながらも、きっとそこでイエスが来られるときを待ち望んでいただろう。自分の愛する方がそばに来られ、「ラザロよ、出てきなさい」と力強く命じられる瞬間を。

その時こそ、死者はよみがえらされて立ち上がり、喜びと感謝に溢れて愛する者たちのところに駆けつける。地上の多くの人々は、生きていると思っているが、自分がラザロ同然に、実は死んで墓に横たわっていることを知らないのだ。

パリサイ人たちからは、屑のように蔑まれ、社会から排除されていた罪の女も、ただイエスに出会いさえすれば、必ず自分のすべての罪が赦され、あらゆる汚れから清められて、彼に似た、貴い、聖なる姿に変えられるはずだとひたすら信じて、イエスを見た時、わき目もふらずに御許にかけつけ、その足元に身を投げ出して、泣き伏さずにいられなかった。

彼女は信じていた、自分自身がそれまでどのように生きて来たかなど関係ない、ただ御姿を見て、イエスを見つめられさえすれば、そうすれば、彼女は救われて、変えられると・・・。

38年間、ベテスダの池のほとりで病の癒しを待ち続けた男も、同じように、心の中で、イエスを待ち続けていた。イエスの衣に触りさえすれば、病は癒されると信じた長血の女も、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(マタイ8:8)と述べた百卒長も、みなイエスに出会って、その声を聞き、その言葉を聞きさえすれば、失われた存在であった自分たちは見いだされ、命にあずかり、完全に回復されると信じ続けたのである・・・。

「主よ、お言葉を下さい。そうすれば、僕(しもべ)は生きます」

これは、筆者の懇願であると同時に、虚無に服しながら、完全な贖いを求める全被造物の切なる叫びだ。

主よ、ただあなたの一言を下さい、あなたの一瞥だけで良いのです。この塵に過ぎない者に、一言、お命じ下さい。「立ち帰って生きよ」と・・・。そうすれば、僕は生きましょう・・・。

「人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。

彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 」(エゼキエル33:11-12)


とこしえに生きておられる方。「わたしはある」と言われる方。すべてにまさるリアリティである方が、虚無に過ぎない私たちに向かって、その眼差しを注ぎ、声をかけて言われる。

「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んで良かろうか。」

私たちはすでに罪赦されて贖われた民であるが、なお、罪と死の痕跡の一切を取り除かれて、自分たちを縛っている死の縄目から完全に自由とされる日を待ち望んでいる。

まるで草花が夜の闇の中で静まりつつ、朝日が昇って、光の中で存分に身を伸ばす瞬間を待ち焦がれるように、全被造物が、虚無に服しながら、主イエスの言葉がかけられるのを待っている。

「立ち帰って生きよ。あなたの信仰があなたを救った。女(被造物)よ、あなたは完全に買い戻された。安心して行きなさい…」
 
私たちがイエスを待ち望むのは、彼(御子)こそ、失われた「影」としての私たちの「本体」であり、私たち被造物のまことの命であり、私たちの全ての全てだからである。

どうして影が本体を離れて、影だけで存在できようか。影だけの存在に、一体、何の価値があろうか。私たちは自分自身の内に何も見いださない。

どんなに声を張り上げて自分の言い分を述べ、あるいは、どれほど優れて美しい姿をしていたとしても、影はただ影でしかなく、本体が来られ、私たちを照らして下さらない限り、何の意味も持たない闇でしかないのだ。

かくて影はどこまでも本体を慕い求める。まことのリアリティの到来を待ち望む。暗闇でしかない自分自身から目を離し、ただ光なるお方を見つめ、ひたすら、本体である真実なお方から見出され、贖われ、再び一つとされる時を待ち望んでいる・・・。

* * *

創世記に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 」(創世記2:7)とあるように、神は最初の人間であるアダムを、塵の中から造られた。

アダムが塵から造られたことは、彼が被造物として、神を離れては無価値であり、虚無でしかないことをよく表している。

神が息を吹きかけられたとき、アダムは生きた人間となった。ここで言う「息」とは、神から与えられた霊であり、また、人を生かす神の御言葉のことでもある。

「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記:26-27)

聖書は、人類は「神にかたどって」創造されたと言う。だが、「神にかたどって(神のかたちに)」造られたとは、人類の外見を指すものではないだろう。塵から造られたアダムの外見に、神の栄光に満ちた「かたち」が表れているわけではないからだ。

むしろ、これは人類の役割のことである。

アダムの役割は、神の御言葉を守り、神に与えられた霊によって生かされることで、神の栄光を表すことにあった。アダムに与えられていた霊は、聖霊ではない。だが、御言葉が光となって彼を照らすことで、塵に過ぎないアダムに、神の栄光が反映していた。

こうして、神の御思いを体現し、鏡に映し出すように、神の栄光を反映し、神を誉め讃えて生きることが、アダムの役目であり、こうして神に栄光を帰して生きることこそ、被造物に与えられた栄光に満ちたつとめであり、それが被造物の表す「神のかたち」だったのである。

次に、神はアダムの肋骨からエバを造られた。

「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。

主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。 」(創世記2:18-25)


神はご自分の助け手として、ご自分の栄光を表す、ご自分に似た者として、アダムを創造されたが、次に、アダムのためにも、アダムに似た者として、助け手となる存在を用意された。

それがエバである。アダムが死のような深い眠りに落ち、再び、目覚めたとき、そこにアダムの性質をそっくり受け継ぎ、かつ、彼の栄光を表す者であるエバがいた。

アダムは彼女を見たとき、彼女が自分自身から出来ており、自分の栄光であることがすぐに分かったので、たちまち、自分を愛するように、彼女を愛した。

神は塵から造ったアダムに、息を吹き入れて、アダムをご自分の栄光を映し出す者とされたように、アダムの成分を使って造られたエバを、アダムのために、アダムの栄光を表す者とされた。

助手は、助手だけでは存在できない。必ず自分が仕えている主人が存在するはずである。もしもアダムが、神のかたちにかたどられた、影のような存在だとするならば、エバも、アダムのかたちにかたどられた、アダムの影のような存在であった。

そして、悲劇は、本体の栄光を表すために造られたはずの「影」が、本体から離反して、罪の堕落のゆえに、死を宣告されて、影だけで絶望の中をさまよわなくてはならなくなったことである。

人が神の御言葉を捨てて、罪を犯したとき、人の霊は死に、人の栄光は消え去った。彼を照らしていた御言葉の光は消え去り、人は真っ暗闇となって、自分自身の存在意義を見失ったまま、やがて消滅するのを待ちつつ、暗闇をさまようことしかできなくなった。

全被造物は、堕落によって神から切り離され、それ以後、自分の主人となるべき神を見いだせなくなり、己の堕落した虚無の世界を、ひたすら絶望のうちに堂々巡りせざるを得なくなったのである。

だが、被造物には、絶望の中でも、神を思う思いが与えられている。そこで、ひたすら、嘆き悲しみ、苦しみの中でも、自分を造られたただお一人のまことの神を思い、まことの神に見出され、贖われ、もう一度、息を吹きかけられて、神の栄光を表すものとして、御前に立たされる時を、切に待ち望んでいる。

主よ、もう一度、我ら全体におっしゃっていただきたいのです、立ち帰って生きよと、そうすれば、僕は生きましょう・・・。
 
主よ、あなたこそ私たちを造られた方、私たちの栄光なる望み、私たちは皆あなたによって、あなたの栄光のために、造られた者です。私たちはあなたの影、あなたは私たちの主、どうして私たちがあなたを離されて、存在し続けられましょうか。
 
主よ、お帰り下さい。お帰り下さい。そして、お言葉を下さい。このすべての世界は、あなたのために、あなたの栄光のために造られたのです・・・。

* * *

預言者ホセアは、神によって、姦淫の女を娶り、彼女の生んだ淫行の子らを引き取るようにと命じられた。

「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」 」(ホセア1:2)

神の預言は、ホセアの結婚が悲惨な過程を辿ることを始めから予告していた。

ホセアは、自分に忠実な汚れのない女性を妻に迎えたはずであったが、ホセアが娶った妻ゴメルは、神に逆らい続けるイスラエルの民を象徴する女であって、彼女は、ただ一人の主人だけを愛するには、最初からあまりにも心が多すぎた。

彼女はホセアと結婚して後、すぐに、彼を捨てて、子供たちと共に、愛人のもとへ去った。むろん、彼女が生んだ子らは、ホセアの子ではない。あまりにも気が多すぎる彼女は、やがて愛人にも捨てられて、ついには身を落として奴隷にまでなった。

それでも、ゴメルはなかなか自分の主人のもとに立ち帰ろうとはしなかった。

こんな「妻」から、誰がどんな良いものを見いだせようか。いや、こんな女を誰が「妻」と呼べようか。また、どうして彼女の子供を「我が子」と呼べようか。

この汚れた「母」を告発せよ――。

裏切られたホセアの嘆きは、神の嘆きにそのまま重なる。

このゴメルは、神の御言葉に従うことを捨て、奴隷に身を落とし、バビロンと化した今日の教会そのものである。欲に誘われるまま生き、時期尚早に多くの子を産みはするが、そこには、何一つ本当のものがない。彼女の勢いは束の間でしかなく、その幸福は不実で、何一つ永遠に残るものがない。

この汚れた「母」を告発せよ――。

その叫びに応えるようにして、剣を持った残忍な軍隊のような、獰猛な野獣のような勢力が彼女に押しかけ、教会という教会に対し、告発を重ね、多くの神の宮が、土足で踏み荒らされた。

それでも、彼女はいまだ着飾って、晴れやかな祝祭日を楽しみ、祝うことをやめない。そこで豪奢な食卓を用意しては、己が富や権勢を誇り、自分たちの慕う目に見える指導者らを拝んでは、我が幸福は永遠なりと豪語している。

彼女たちは、自分たちが拝んでいるものが、偶像であることにも気づかず、己が誇っている富が、これらの偶像によってではなく、ただお一人のまことの主なる神が与えられたものであることにも気づかない。

それゆえ、野獣の牙は、より一層、残忍に彼女に噛みつき、彼女を食い荒らし、蹴散らして、その富と栄光を奪い去り、彼女の恥を露わにして、彼女を壊滅にまで追い込む。

告発せよ、お前たちの母を告発せよ。
彼女はもはやわたしの妻ではなく
わたしは彼女の夫ではない。

彼女の顔から淫行を 乳房の間から姦淫を取り除かせよ。
さもなければ、わたしが衣をはぎ取って裸にし
生まれた日の姿にして、さらしものにする。

また、彼女を荒れ野のように
乾いた地のように干上がらせ
彼女を渇きで死なせる。

わたしはその子らを憐れまない。
淫行による子らだから。

その母は淫行にふけり
彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。
彼女は言う。「愛人たちについて行こう。
パンと水、羊毛と麻
オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」

それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ
石垣で遮り 道を見いだせないようにする。

彼女は愛人の後を追っても追いつけず
尋ね求めても見いだせない。

そのとき、彼女は言う。
「初めの夫のもとに帰ろう
あのときは、今よりも幸せだった」と。

彼女は知らないのだ。
穀物、新しい酒、オリーブ油を与え
バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのは
わたしだということを。

それゆえ、わたしは刈り入れのときに穀物を
取り入れのときに新しい酒を取り戻す。

また、彼女の裸を覆っている
わたしの羊毛と麻とを奪い取る。

こうして、彼女の恥を愛人たちの目の前にさらす。
この手から彼女を救い出す者はだれもない。

わたしは彼女の楽しみをすべて絶ち
祭り、新月祭、安息日などの祝いを
すべてやめさせる。

また、彼女のぶどうといちじくの園を荒らす。

「これは愛人たちの贈り物だ」と
彼女は言っているが
わたしはそれを茂みに変え
野の獣がそれを食い荒らす。
バアルを祝って過ごした日々について

わたしは彼女を罰する。

彼女はバアルに香をたき
鼻輪や首飾りで身を飾り
愛人の後について行き
わたしを忘れ去った、と主は言われる。

野獣に食い荒らされたゴメルの「ぶどう園」とは、あの強盗のような農夫たちに占拠されたぶどう園と同じだ。悪い農夫たちが、彼女のぶどう園を強奪し、その収穫を我が物としてかすめ取って来たが、そのぶどう園は、神の圧倒的な御怒りの前に、踏み荒らされて廃墟となり、破壊される。

ゴメルは罰せられ、彼女が生んだ、誰を父としているとも知れない子らも、罰せられ、神に討たれて、駆逐された。

神はゴメル(神に背いた教会)を依然、愛しておられるが、彼女を罪あるままで、受け入れることは決してできない。そのため、ゴメルは罰せられねばならない。偶像崇拝によって生まれた子らは、消し去られなければならない。

だが、ゴメルは貧しさと死の苦しみの中で、ホセアのことを思い出した。

一体、それはゴメルにとって、どれほど遠い記憶だったであろうか。何人の愛人が、彼女を通り過ぎて行ったことだろうか。しかも、今彼女を支配しているのは、彼女を奴隷として酷使する横暴な主であって、もはや愛人ですらない。

ゴメルには昔の美しさは見る影もなく、自由であった頃の面影もなく、今はただ貧しく蔑まれ、見捨てられて、やつれ果てた奴隷の女でしかない。

だが、彼女には、昔、確かにホセアという主人がいた。彼女は自由の身であった時があった。彼女はホセアを思い出したとき、ようやく自分を今まで支配してきたすべての者たちが、残忍で、嘘つきで、強盗で、人殺しである事実に気づき、これらの者どもを一切、自分から断ち切り、生き方を改めることを決意した。

彼女はホセアの名を呼んだ。だが、もう手遅れだ、遅すぎる、こんなにまで身を落として、どうして彼に助けを求められようか。どうして彼を夫と呼べようか。
 
ところが、ホセアは彼女の呼び声に応えた。ホセアは、奴隷に身を落としたゴメルを買い戻すために走った。海の向こうから、山々の向こうから、はるかな道のりを辿り、地の果てのようなところまでたどり着いて、見失われ、忘れられ、変わり果てた我が妻を探し出し、彼女を説得して家に連れ戻した。

イスラエルは、神の栄光を映し出すために造られた器。どうして神がこれを忘れられようか。神は手のひらを返して、見捨てられたゴメルのために報復される。彼女を蹂躙し、傷つけた者どもにしたたかに報復されて、追い払われる。

「島々よ、わたしに聞け
 遠い国々よ、耳を傾けよ。
 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。

 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
 わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
 わたしに言われた

 あなたはわたしの僕、イスラエル
 あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

 わたしは思った
 わたしはいたずらに骨折り
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。

 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。

 主の御目にわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、わたしの力。

 今や、主は言われる。
 ヤコブを御もとに立ち帰らせ
 イスラエルを集めるために

 母の胎にあったわたしを
 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。

 わたしはあなたを僕として
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

 だがそれにもまして
 わたしはあなたを国々の光とし
 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

 イスラエルを贖う聖なる神、主は
 人に侮られ、国々に忌むべき者とされ
 支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。

 
王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。
 真実にいますイスラエルの聖なる神、主が
 あなたを選ばれたのを見て。

 主はこう言われる。
 わたしは恵みの時にあなたに答え
 救いの日にあなたを助けた。
 わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて
 民の契約とし、国を再興して
 荒廃した嗣業の地を継がせる。

 捕らわれ人には、出でよと
 闇に住む者には身を現せ、と命じる。
 彼らは家畜を飼いつつ道を行き
 荒れ地はすべて牧草地となる。

 彼らは飢えることなく、渇くこともない。
 太陽も熱風も彼らを打つことはない。
 憐れみ深い方が彼らを導き
 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。

 わたしはすべての山に道をひらき
 広い道を高く通す。

 見よ、遠くから来る
 見よ、人々が北から、西から
 また、シニムの地から来る。

 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。
 山々よ、歓声をあげよ。
 主は御自分の民を慰め
 その貧しい人々を憐れんでくださった。

 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。

 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃虚とした者はあなたを去る。

 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。
 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。

 破壊され、廃虚となり、
 荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子らは
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕らえられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。

 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を地につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう。

 
そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。

 主はこう言われる。
 捕らわれ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。
 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。 」(イザヤ書第49章)


 * * *

神はこうして背信に背信を重ねて、完全に見失われた存在となったご自分の民を、彼らの内にごくわずかに残った、あるかなきかの信仰だけを頼りに、地の果てまで探しに行かれた。

そして、ご自分の呼び声に応答する者を一人でも見つけると、その者を家に連れ戻し、汚れた着物を脱がせ、一切の罪の汚れを水の洗いで清められ、真っ白な新しい服を与え、再び、ご自分の栄光を表すための、しみもしわもない、聖なる栄光の花嫁なる教会として、ご自分の前に立たせられた。

心の定まらなかったゴメルは、もういない。そこにいるのは、心の中から偶像を取り除かれて、ただ一人の主人だけを愛するようになった、忠実な妻である。彼女の罪は一切、消し去られ、痕跡すらも残らなくなり、ホセアとゴメルとの結婚は回復される。そして、彼らは祝福されて、その子らは海の砂のように、数えきれないほどになる。

その子らとは、天のエルサレムを母とする、サラの汚れのない子供たちである。この一家には神の慈しみと憐れみとが注がれ、彼らは神の栄光を表す器となる。もう誰も収穫を得られないのに労苦することはない。

「初めの愛」が回復されて、恋人に語らうように、主はご自分の花嫁なる教会に向かって優しく語りかけられる。

「それゆえ、わたしは彼女をいざなって
荒れ野に導き、その心に語りかけよう。

そのところで、わたしはぶどう園を与え
アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。

そこで、彼女はわたしにこたえる。
おとめであったとき
エジプトの地から上ってきた日のように。

その日が来れば
と 主は言われる。

あなたはわたしを、「わが夫」と呼び
もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない。

わたしは、どのバアルの名をも
彼女の口から取り除く。
もはやその名が唱えられることはない。

その日には、わたしは彼らのために
野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。
弓も剣も戦いもこの地から絶ち
彼らを安らかに憩わせる。

わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。
わたしは、あなたと契りを結び
正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。

わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。
あなたは主を知るようになる。

その日が来れば、わたしはこたえると
主は言われる。
わたしは天にこたえ
天は地にこたえる。

地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ
それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。

わたしは彼女を地に蒔き
ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ
ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって
「あなたはアンミ(わが民)」と言う。
彼は、「わが神よ」とこたえる。 」(ホセア2:16-25)

「イスラエルの人々は、その数を増し 海の砂のようになり 量ることも、数えることもできなくなる。彼らは 「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と 言われるかわりに「生ける神の子ら」と言われるようになる。

ユダの人々とイスラエルの人々は ひとつに集められ 一人の頭を立てて、その地から上って来る。イズレエルの日は栄光に満たされる。あなたたちは兄弟に向かって 「アンミ(わが民)」と言え。あなたたちは姉妹に向かって 「ルハマ(憐れまれる者)」と言え。」(ホセア2:1-3)


 * * *

神の裁きは正しく、神はご自分のもとに立ち帰るすべての民を回復される。

「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 
 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。
 
 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

* * *

創世記におけるアダムとエバの愛に満ちた関わりも、ホセアとゴメルの愛の回復も、すべてキリストと教会の愛の交わりの回復の予表である。

エクレシア(教会)は、十字架で死なれたキリストのわき腹から、水と血と霊によって生まれた聖なるエバである。それはキリストの肉の肉、骨の骨から生まれ出て、彼の息によって御霊を受けて生まれた、新しい生きた女(被造物)だ。

イエスは十字架にかかられた後、弟子たちのもとに現れて、ご自分の手とわき腹を見せて、ご自分が確かに死なれ、復活されたことを示された。そして、弟子たちに息をふきかけて、聖霊を受けよ、と言われた。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

そう言って、手とわき腹とをお店になった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

そう言ってから、彼らに息をふきかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:19-23)

ここに、聖なるエクレシアの誕生がある。本体なる神から切り離され、虚無の中をさまようことしかできなくなった、失われた影である被造物が、神に立ち帰り、イエスの十字架の死と復活にあずかり、彼のわき腹から新しく生まれ、彼のよみがえりの命によって生かされる、新しい聖なる女(被造物―人類)とされた。

その時、イエスが十字架にかかられたことに、はかり知れないショックを受けて、ただ恐怖の中に閉じこもり、ユダヤ人たちを避けて逃げ隠れることしかできなかった弟子たちは、再び喜びに満たされ、勇気づけられ、そして、地の果てまで、イエスの復活の証人となった。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)

かつて神が失われた民を、地の果てまで探しに行かれたように、今度は、見出された民が、地の果てまで、主の復活の証人となる。私たちの神が、私たちを愛し、私たちのために先に命を捨てられたように、今度は、私たちが、ただお一人の神を愛し、神のために、死に至るまでも命を惜しまず、自分を残らず注ぎだして従うことができるようになるのだ。

聖霊を受けた弟子たちは、主の死と復活にあずかることで、主と同じ霊にあずかり、それゆえ、彼らには主イエスが持っておられたのと同じ、御名の権威が与えられた。病人を癒し、蛇を踏みつけ、毒を飲んでも害を受けず、人の罪を赦す権限も、赦さないでおく権限も与えられた。

弟子たちに吹きかけられた息―聖霊は、アダムと生かした霊とは異なる、死と復活を経たキリストの霊、永遠の命であり、「臆病の霊」ではなく、「力と愛と思慮分別の霊」である。

それは信じる者を、どんな苦難や試練に耐え抜いてでも、最後まで、固く御言葉に立たせ、あらゆる敵の嘘による惑わしを打ち破る知恵を与え、死に至るまでも、主の復活の証人とすることのできる霊である。

パウロは言う。

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを耐え忍んでください。

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。

この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。

キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。

というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。

キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(Ⅱテモテ1:7-14)


キリストのために受ける苦しみを、恥じてはならない。失われていたものが見いだされ、死んでいた者が生き返り、神が大いなる喜びを持って、ご自分に立ち帰る民を迎えられるためならば、自分は何を耐え忍んでも構わない、パウロはそう語る。

今、神の御思いの中心にあるのは、被造物の完全な回復である。神は、立ち帰った民の罪を赦されるだけでなく、これらの民を、堕落した一切の痕跡のない、しみもしわもない、キリストの栄光に輝く花嫁なる教会として完成されようとしておられる。

死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者が見いだされることへの神の喜び。放蕩息子の帰還を喜ぶ父の言葉は、ご自分の民を迎える父なる神の喜びである。

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。そして、祝宴を始めた。」(ルカ15:22-24)

キリストがエクレシア(教会)を愛されるのは、エクレシアが、キリストの成分から成る、彼の栄光を表す器だからである。アダムがエバを見たときに、これこそ自分の肉の肉、骨の骨と叫んだように、主はご自分の前に立つ花嫁なる教会を見て、そこにご自分の死と復活を見、ご自分の聖なる性質を見、ご自分の栄光の反映を見て、心から満足される。

エクレシアは、キリストにとって自分自身のような愛の対象であり、エクレシアにとっても、キリストは自分自身のような愛の対象である。この二つは一つであって、互いに呼応し合って、離れることがない。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。

そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちはキリストの体の一部なのです。

それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(エフェソ15:22-33)

* * *

さて、今日、ホセアとゴメルの失われたはずの子ら、サラとアブラハムに約束された数えきれない子どもたちとは、一体、誰を指すのだろうか。

それは、黙示録に記されている、あの白い衣を着た数えきれない大群衆のことではないかと思う。つまり、キリストによって贖われ、新しく生まれた神の子供たち、主のものとされ、死から贖い出された者たち、それが、私たちが産みの苦しみを味わいつつ、労苦していることの実なのではないかと思う。

だが、それはただ数えきれない大群衆という、数の問題ではない。被造物が、この地上にある間に、どれくらいキリストのご性質にあずかり、彼に似た者とされるかという、贖いの成就の程度と、完成の問題である。

すべての被造物の贖いの完全な成就――これこそ、神の御思いの中心にあるテーマであり、それこそが、キリストの花嫁なる栄光に輝く教会の完成なのである。その完成のためにこそ、現在、私たち神の子供たちは、すべての被造物と共に、産みの苦しみに呻きつつ、御言葉の光によって照らし出されて、ますます主の栄光を反映させて、主の似姿とされるために、試練を耐えて労苦している。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」(ローマ8:18-24)

私たちには、罪赦されて贖われただけでは終わらない希望がある。それは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられ、神の栄光を完全に映し出す器とされることである。

「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、”霊”のことですが、主の霊のおられるところには自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:16-18)

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められたました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光を与えになったのです。」(ローマ8:28-30)

こうして、私たちが栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられるとき、私たちは、神の栄光を完全に表し、ご自分の造られた者への神の愛の深さを余すところなく証明する者とされる。私たちの存在そのものが、神の愛の深さ、その偉大さの証明となる。それが被造物に与えられた役割なのである。
 
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。


「わたしたちは、あなたのために
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

 と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35-39)

* * *



全能者である神、主よ、あなたの道は正しく、真実なもの。だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。

「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
 主はこの地を圧倒される。

 地の果てまで、戦いを断ち
 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
 
力を捨てよ、知れ
 わたしは神。
 国々にあがめられ、この地であがめられる。

 万軍の主はわたしたちとともにいます。
 ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」(詩編46:9-12)
 
さて、判決が近づくに連れて、言い知れない喜びが心に込み上げて来る。そして、心静まって、これを厳かに待ちたいと願わずにいられない。神が私たちのためになして下さった勝利と解放のみわざが、どれほど偉大なものであるか、神がご自分を愛してその約束を忠実に待ち望む民に、どれほど不思議で驚くべき方法で応えて下さるか、生きてこの目で確かめ、その喜びを心に迎えるめに、自分自身を整えたいと思わずにいられないのだ。

上記の御言葉の11節は、口語訳では「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とあり、こちらの訳は、全被造物が、神の偉大な裁きの前に、静まり、沈黙せねばならないことをよく表しているようで、筆者には耳慣れて、気に入っているフレーズである。

私たちの神は、偉大な神、力ある神、真実で、正義を実行される方、正しい者を力強い御手で苦難から救い出し、悪人には容赦のない裁きを宣告される方である。

今回の訴訟の決着には、主イエスの御言葉の正しさが、神の国の権益がかかっているわけであるから、どうして神がこの紛争をご覧にならず、これを心に留めず、見捨てて通り過ぎて行かれるようなことがあろうか。

そこで、筆者は、心から神を信頼して待ちつつも、まず筆者自身が、その大いなる正しい裁きに服する者として、深く頭を垂れて、厳粛に判決を待ちたいと思うのだ。
 
筆者は地上の裁判官の善良で情け深く親切な側面しか知らない。警察官についても同様で、筆者は彼らと常に市民として関わって来た。どんなにやきもきする瞬間があっても、彼らは筆者の目には、常に市民の権利を守る側に立っていたのであり、筆者は自分の思いのたけを彼らに告げることが許されており、彼らは筆者を威嚇したり、筆者の権利を否定し、これを取り上げて、追い払ったりするような恐ろしい人々ではなかった。

だが、権威を行使するということには、もう一つの恐ろしい側面が確かに存在する。筆者は彼らの手に、悪人どもへの裁きと報復を委ねた以上、これらの人々が、ふさわしい人々に向かって処罰を下すという恐るべき権限を行使することを願い出、かつ許したのである。

そこで、今、筆者は、改めて神の御前に心静まり、私たちの信じている神が、偉大な裁き主であって、恐るべき権威を持ち、しかるべき刑罰を下すことのできる方であることを思う。

もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

復讐はわたしのすること、
 わたしが報復する
と言い、また、
主はその民を裁かれる
 と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヘブライ10:26-31)
 
もしかすると、今回の訴訟の最も大きな収穫の一つは、それであったかも知れない。つまり、これまで筆者は、この事件を自分自身で持ち運び、可能な限りの策を自分で講じ、また、悪事を働く者どもに対しては、その報いが、正しい裁きが確かに存在することを警告して来たのだが、今や、その裁きは他の人々の手に委ねられたのだ。

従って、筆者が受けた仕打ちのために誰よりも憤り、筆者の名誉を守るために毅然と立ち上がり、そして、筆者に害を加えた悪人どもに対して、容赦のない裁きの宣告を下す存在は、筆者自身ではないのである。

少し前の記事で、筆者は、私たちに加えられた攻撃が、キリストに加えられた攻撃とみなされるほどまでに、私たちとキリストとは一つにならなければならない、と書いた。

ただ個人が攻撃されているというだけでは、神は立ち上がって下さらない。神が本当に立ち上がって、これ以上、悪事を見逃しておくことはできないと、怒りに満ちて天から裁きの宣告を下されるためには、神の国の権益に触れる事態が起きていなければならないのである。

そこで、そうなるまでに、キリストの十字架は、私たちの肉を深く貫通していなければならない。私たちのセルフは死んで、それ以上に深い攻撃がなされ、もはや、私ではなく、キリストに対する攻撃がなされ、神の国の権益が害されていると言えるだけの根拠が必要になる。

そこで、今回、白昼堂々、掲示板で犯罪行為が行われたことには、おそらくは深い意味があるに違いないだろうと思う。こうしたことは、何年も前から行われて来たことなのだが、やっと今になって、誰もが知りうる客観的事実として明るみに出され、ようやく彼らに処罰されるだけの根拠が整った。

だが、同時にそれは、いわばこの訴訟の最後の総仕上げであって、この訴訟が、筆者のセルフ(生まれながらの古き自己)を擁護する目的のためでないことが、公然と証明されるために必要な段階でもあった。

つまり、これから読み上げられる判決は、筆者のセルフを擁護するためであってはならず、また、筆者が、自分の弁論の巧みさや、もしくは、生まれながらの頭脳や、知性、受けた教育、社会的地位などの優位性によって、勝ち取ったものであってはならず、それはただ純粋に、神の御言葉の正しさを擁護するためのものであり、また、御言葉に立脚するがゆえの正しい裁きでなくてはならないのである。

そこで、この訴訟において、栄光を受けるのが、微塵も、筆者の生まれながらの自己であってはならない。そのために、筆者の自己はさらに深く徹底的に主と共に十字架で死に渡され、いかなる肉的な要素も有利にならず、また、主の他には、誇るべきものが何もないという地点へともたらされることが必要だった。

そして、この段階まで来たからこそ、神が筆者を擁護して下さること、これから筆者に起きることが、神の御言葉の正しさを公然と証するものであって、神の誉めたたえられるべき栄光に満ちたみわざであって、断じて筆者の力によるものではないと言えるのである。
 
このように、真に神に味方していただきたいと願うならば、私たちは、もはや自分の生まれながらの自己には、何の弁明の余地もなく、それによって状況を有利に変える見込みが全くなく、ただ神に対する全身全霊の信頼と希望以外には、何一つ頼るべきものがないという地点まで、もたらされなければならない。

そうなったとき、神は初めて私たちを擁護するために、天を引き裂いて降りて来られ、大胆に力強く私たちを苦難から救い出し、私たちのために勝利を宣言して、汚れたものの一切の痕跡を、私たちから断ち切り、私たちの涙を拭い去って、滅びの縄目から完全に解放して下さるだろう。

さて、筆者はこれから判決言い渡しまでの間にも、作成せねばならない新たな書面がいくつもあるが、今回の民事訴訟においても、次の御言葉を引用して、いずれ掲示板で行われているような犯罪ネットワークの全貌が、万人の前に明らかにされる日が来るだろうと予告して来た。

人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:26-31)

今回、民事訴訟に関わってくれた人々も、おそらくは今起きている騒ぎを知って、筆者が訴訟において訴えていた事実を、より深く知ることになっただろうと思う。そこで、このタイミングでこうした出来事が明るみに出されたことは、決して偶然ではなかったと思うが、今後も、筆者はこの訴訟に関わってくれたすべての人々に向けて、さらに事実を明らかにし続けていきたいと考えている。

聖書においては、神は隠れたことをみておられる」(マタイ6:6)方であると記されている。

また、「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」(ローマ2:16)とある通り、裁きの日には、神は人々の隠し事を明るみに出され、イエスを通して裁かれると予告しておられる。

だが、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」というのは、何も終わりの日のことだけを指しているわけではない。

今日、神をも畏れず、御言葉への反逆を続けている人々は、自分たちが暗闇の中で行っていることは、常に自分たちしか知らず、決して人々に知れ渡ることはないと高をくくっているのであろうが、そのような者に対する宣告は、次に記す通りである。

あなたは言った、「わたしは、とこしえに女王となる」と。そして、あなたはこれらの事を心にとめず、またその終りを思わなかった。 楽しみにふけり、安らかにおり、心のうちに「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもなく、わたしは寡婦となることはない、また子を失うことはない」と言う者よ、今この事を聞け。

これらの二つの事は一日のうちに、またたくまにあなたに臨む。すなわち子を失い、寡婦となる事はたといあなたが多くの魔術を行い、魔法の大いなる力をもってしてもことごとくあなたに臨む。
あなたは自分の悪に寄り頼んで言う、「わたしを見る者はない」と。あなたの知恵と、あなたの知識とはあなたを惑わした。あなたは心のうちに言った、「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもない」と。
しかし、わざわいが、あなたに臨む、あなたは、それをあがなうことができない。なやみが、あなたを襲う、あなたは、それをつぐなうことができない。滅びが、にわかにあなたに臨む、あなたは、それについて何も知らない。 」(イザヤ47:7-11)
 

バビロンは、自分を神以上の存在であると思い上がって、「わたしは、とこしえに女王となる」と心に思っただけでなく、「わたしを見る者はない」とつぶやいて、自分の悪事が誰にも知られておらず、暴かれることは決してないと考えた。

だが、神は彼女の悪事を確かに見ておられ、しかも、その報いを彼女に二倍にして返すと宣言された。しかも、その日は盗人のように思いがけない形でやって来ると言われている。

さて、筆者はこれまでの記事で、暗闇の勢力からの言いがかりに対抗するための弁論を、ほぼ言い尽くして終了したと思うが、今言い足すことがあるとすれば、ごくわずかに次の通りである。

パウロはコリントの信徒への手紙で、「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。」、「未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。」(Ⅰコリント7:7-8)と記し、あくまで主のために生涯を捧げるのが最善であって、娶ったり嫁いだりすることは、積極的には勧められないという考えを示している。

だが、すでに結婚している信者に対しては、「妻は夫と別れてはいけない」「また、夫は妻を離縁してはいけない」。」(Ⅰコリント7:10-11)と述べて、夫と妻が別れることを禁じた。だが、これにも例外がもうけられている。

「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと、妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。」(Ⅰコリント7:15-16)

信者であると言いながら、イエス・キリストが神の独り子であることを否定したり、あるいは、御言葉にそぐわない異端の教説を信じている者が、後者に当てはまるのは当然であろう。

このように、パウロは地上における結婚に全く積極的でなかったどころか、むしろ、それを地上的な移ろいゆく些末な事柄として奨励せず、それよりも、信仰にあって救いを保ち続けることの方が、はるかに重要であるとみなしていた。地上のどんな関係にも、信者の救いを失わせたりするほどまでの価値はないと彼は断言していたのである。

そこで、今、筆者は、地上の目に見える富や、自分を取り巻く擁護者の人数でなく、私たちのために天に用意されている恵みに満ちた栄光を思いつつ、次の御言葉を思う。

「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(ヘブライ12:22-24)

むろん、筆者はまだこれらの言葉の具体的な成就を見ておらず、シオンの山も、無数の天使たちの祝宴も、長子たちの集会も、見たことはない。だが、それでも、自分が近づいている生ける神の都である天のエルサレムを思う度に、言い知れない喜びが込み上げて来る。その晴れやかな祝宴には、一体、どれほどの栄光、喜び、感謝が満ち溢れていることであろうか。

「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、私たちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」(ヘブライ10:19-23)

前から幾度も書いている通り、地上の法廷は、天におけるまことの裁き主なる神の御座の絵図である。

そこで、筆者は、王妃エステルがすべての覚悟を決めて、王の前に進み出た時のように、塵と灰を被り、さらに入念にイエスの死を身に帯びて、王の王、万軍の主なる神の御前に進み出る。

前よりも随分、大きな苦難をかぶったために、やつれたかも知れないが、その分だけ、喜びも大きくなり、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(黙示7:14)と言われる殉教者らの道に、また一歩近づいたと言えるだろう。

こうして、イエスがご自分を割いて開いて下さった「新しい生きた道」を通って、筆者は聖なる裁きの御座に進み出る。そこには、白い衣を身に着けた人々の大群衆はあっても、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)の姿はない。そこは聖なる場所であって、汚れた者はそこに立ち入れず、彼らのための余地は全くないのだ。

こうして、心は清められ、もはや良心のとがめはなく、体は清い水で洗われて、ただ神を信頼しきって、真心から、御前に進み出て、こう言うことができる。

全能者である神、主よ、
 あなたの業は偉大で、
 驚くべきもの。
 諸国の民の王よ、
 あなたの道は正しく、また、真実なもの。
 主よ、だれがあなたの名を畏れず、
 たたえずにおられましょうか。

 聖なる方は、あなただけ。
 すべての国民が、来て、
 あなたの前にひれ伏すでしょう。
 あなたの正しい裁きが、
 明らかになったからです。」(黙示15:3-4)

「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。

救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。

 また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。

 「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉、力、威力が、
 世よ限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」

 すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を来た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。
 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。

彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。


 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、
 昼も夜もその神殿で神に仕える。
 玉座に座っておられる方が、
 この者たちの上に幕屋を張る。
 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、
 太陽も、どのような暑さも、
 彼らを襲うことはない。
 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、
 命の水の泉へ導き、
 神が彼らの目から涙をことごとく
 ぬぐわれるからである。」(黙示7:9-17)

我が主よ、あなたは正しい方、真実で、偉大な誉めたたえられるべき方。ご自分の約束を忠実に守り、あなたに頼る民を決して見捨てず、心砕かれた者を軽んじず、卑しめられた者を蔑まれない方です。あなたは永遠に変わらない、確かなお方であって、あなたを信じる民は、決して恥をこうむることなく、失望に終わることがありません。

ハレルヤ。主よ、来たりませ。私たちは喜びを持ってあなたを迎えます。栄光はとこしえにあなたのもの。力と威光と尊厳もあなたのもの。私たちの誉れと賛美はとこしえにあなただけに、ただあなたお一人だけに捧げられます。

我が主よ、あなたは私たちにとってどれほど偉大な喜びであり、かつ希望でしょうか。あなたはとこしえに私たちの主、そして私たちはあなたの民です。


あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。


天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべての者よりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた者です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」(コロサイ1:13-23)

今朝のオリーブ園に掲載されているオースチンスパークスの記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (9)」は、キリストと共に十字架で人の自己が死に渡されることがどれほどエクレシアにとって重要な事柄であるかを語るものであるため、以下に掲載しておく。

なお、一つ前の記事にキリストのからだとしてのエクレシアの働きについても、必要な聖書箇所を補っておいた。

これまで筆者は繰り返し、エクレシア(教会)に参加するためには、それぞれの信者の自己が戸口で焼き尽くされて死んでいなければならないことを書いた。以下の論説も、ちょうど同じテーマを扱っており、キリストと共に自己を十字架に死に渡すことなく、キリスト者の交わりに参加しようとする者が、どれほど神の福音の証しを損ない、交わりを害してしまうかについて言及している。

主と共に真に十字架に赴くことがない人々は、いわば、ただクリスチャンに偽装しただけのような存在であり、交わりをかく乱するだけでなく、真に主と共に十字架に自分を同形化しているクリスチャンにも多大な悪影響を及ぼす。

それは筆者が繰り返し書いて来た、神の最善を退けて、人間の思いを優先する次善であり、しかも、自分たちが次善であることが暴かれないよう「最善」を攻撃する「次善」であり、神の教会から真に衝撃力の伴う御言葉の証を取り去ろうとする。

ところが、嘆かわしいことに、今日、教会と呼ばれている団体の8~9割はこうした人々で占められているのではないかと思われる。それほどに、今日の教会は真に霊的衝撃力の伴う神の証しを失って、弱体化しかけている。

その状態が回復されるためには、やはり真に主と共に十字架を通る人々が新たに起こされる必要があり、キリストと共なる十字架とは何であるのかが、人々の目に公然と証される必要があろう。

今更、説明の必要もないとは思うが、信仰によって前進する過程で、私たちは、自己の安寧、自己の都合、自己の名誉・・・といった生まれながらの自己の必要性を、自分の手から離して、神に明け渡すことが、どうしても必要になる。その戦いは、個人個人によって性質が異なるものであり、何をどこまで主のために手放すのかは、人に要求されてすることではなく、各自が神との間で相談して自主的に決めることである。

今日、暗闇の勢力が行っている欺きはこういうことである、「主と共に十字架で死ぬですって?十字架で自己を手放すですって?何を言っているんですか。そんなのカルトですよ。あなたは日常生活も放棄して、自分の願いを自分で滅ぼして、自分で自分を否定して、自分の楽しみや喜びを放棄して、一体、何をしようとしているんですか。クリスチャンがそんなみすぼらしく、みっともない貧しく孤独な生活を送る必要はありません。日曜日に教会に通い、牧師の説教を聞いて、献金をしていれば十分ではありませんか!後の時間は、自分の幸福のために使えばいいんですよ。」

だが、神は私たちの全存在を求めておられ、私たちが全身全霊で神を愛し抜き、従い抜くことを願っておられる。それが代償なしに達成されるはずもない事柄であることは明白である。神が先にその愛する独り子を地上に送り、私たちのために犠牲とし、命を捨てて下さったのに、私たちの方は、自己の安寧を微塵も手放さず、ただひたすら自分のことだけを考えて、一つの痛み苦しみも味わうことなく、神に従えるというのだろうか。そんなことを考える方がどうかしているだろう。

しかし、もちろん、神は初めから私たちの理解も及ばないような著しい代価を求められることは決してない。神は私たちの弱さを知っておられ、あくまで私たちの同意に基づいて、ご自分のみわざをなさる。クリスチャンの従順は徐々に完成に向かうものであり、神の子としての訓練を受けることで、キリストの御丈まで成長するのである。

「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40)

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:5-9)

主と共なる十字架を知らない人々は、神に従う上で、自分自身にも払わなければならない代価があるということを知らず、肉を十字架において死に渡すことを知らないし、これに抵抗する。オースチンスパークスは書いている、

「新生の問題は、私たちが理解している以上に遥かに大きな問題です。この問題は神の教会の証し全体に影響を及ぼします。悪魔がしてきたのは、真に上から生まれていない人々を入り込ませることによって、イエス・キリストの主権についての証しを損なうことです。主の民は力を奪われています。これが主イエス・キリストの絶対的卓越性についての証しを滅ぼす敵の方法でした。それは三重の天然的関係であり、これを滅ぼせと主は言われました。

 これを言うのは難しいように思われるのですが、たんなる口先だけの者はすべて屠られなければならないという感覚があります。これはもちろん文字通りの意味ではありません。彼らは十字架に行って屠られ、キリストと共に新しい命の中によみがえらされなければならない、という意味です。

あなたは十字架によってとても強く打たれなければなりません。さもないと、証しは損なわれることになります。
ローマ人への手紙は救われていない者ではなく信者たちに対して書かれました。ローマ人への手紙の意義はこれに尽きます。もし八章と共に登場する御霊の中にある主権の生活を知ろうとするなら、それを知ることができるのは六章の死の生活を知る時だけです。キリストと共に死ぬこと、これが中に入る道です。


 十字架のメッセージは、口先だけの者たちを中身のある者たちから、見せかけを実際からふるい分けるのに必要です。そして、これは今日、多くの人にとってとても厳粛で深刻な問題です。肉は十字架に付けられることに憤り、死ぬことに憤ります。善良ではあるけれども口先だけのクリスチャンの群衆と共にあなたは長い道のりを行くことができますが、それはキリストとの一体化が実際的な問題になるまでのことです。その時、戦いが生じます。悪の軍勢はまったくの不信者たちの中に宿っているのと同じように、口先だけの者たちの中にも宿っています。これは敵の巧妙な活動の一つです。敵は露骨な無信仰によってはそれをすることができませんでしたが、「私はあなたたちと同じです」と公言する人々を入り込ませます。しかし、彼らは死んだことが決してなく、キリストと共に十字架に付けられることがどういうことか知りませんし、あるいは、自分たちの生活の中で彼の十字架の経験を実際的な方法で経験したことがありません。」
 
十字架の死と復活の働きは、神が御言葉を人に啓示されて初めて理解されるものであって、人が人に対して教えられるものではない。主と共に屠られるためには、人はしばしば大きな苦難を通らなくてはならない。苦難の中で自分を低めること、自分の主義主張を脇に置き、自分の願望を投げ捨てて、ただ神を信頼して御言葉に従う道を選ぶこと、それだけが、主と共なる死に自分を同形化する道である。

そして、クリスチャンが主と共なる十字架に自分を同形化することに失敗するとき、ある団体がまるごと暗闇の勢力に渡されるという悲劇的な結末がしばしば起きる。

上記の論説に書いてある通り、一つの団体の中に、似て非なる二つの異なる勢力が混在している。そこには、ハガルとイシマエル(肉によって生まれた者)と、ハンナとイサク(御霊によって生まれた者)という、全く異なる勢力に属する人々がいる。

御霊によって生まれた者は、常に「人にはできなくとも、神にはできる」と信じ、大胆に御言葉の証しを掲げ、神のみわざを待ち望んでいる。しかし、肉によって生まれた者は、口先で御言葉を唱えることはしても、そこに信仰がないので、神のみわざを信じて待ち続けることをしない。そして、試練に見舞われれば、すぐに退却し、「人には限界ばかりで、できることは何もない。人をこのように惨めな存在に造られた神は理不尽である」と不満を表明する。

肉とは、言い換えれば、死へ向かう滅びゆく人間が、自己の力で何とかしてその死の決定に逆らおうとする悲痛な努力の総体であり、堕落した人間の命の限界そのもののことである。

人は自分の生まれながらの生命を維持するために、絶え間なく外界からエネルギー源を摂取しなければならず、そこに各種の欲望が生まれる。しかし、これらの欲は、満たしても、満たしても、決して飽かされることがなく、その満足はすぐに消えて行き、またしても渇望が起こるだけであって、人間は生きる限りその欲望の奴隷状態から抜け出せず、自己を満たそうとするすべての努力が、死によってしか報いられないという恐るべき悪意ある逆説の中に置かれている。

肉とは、このように絶え間ない欠乏状態に置かれ、絶えず自己の生存を死によって脅かされ、死を避けるために、自分を救う力のない己の欲に踊らされ、自分の欠乏の惨めで屈辱的な奴隷状態から抜け出せない生まれながらの人間の腐敗・堕落した有限なる命の働きである。

しかし、御霊によって生まれた者は、この滅びゆく肉に対して、主と共なる十字架で死んでいるので、以上のような罪の奴隷状態から自分が解放されており、神の朽ちることのない永遠の命によって自分が新たに生かされ、神の命によってすべての必要が上から供給されることを知っている。

キリスト者が地上で生きるためのすべての必要性は、衣食住を含め、すべて自分で自分の生存を保とうとする自己の努力によってではなく、信仰によって、キリストの復活の命を経由して上から与えられる。従って、キリスト者は地上を生きる上で、自分を救う力のない己の欲によって自分を満たさなければならないという恐るべきパラドックスから解放されているのである。

しかし、肉によって生まれた者は、御霊によって生まれた者と自分が同じ存在であるかのように見せかけながら、御霊によって生まれた者に巧みに話しかけ、神に対する不満を吹き込もうとする。そして、決定的な瞬間に、「人であるあなたにはできない。神は理不尽だ。あなたは無駄なことを信じているのであって、あなたの希望はかなわない。」とささやき、信仰をくじこうとする。

肉の思いは、つまるところ、自己の力で自己を満たそうとしても、それができない人間が、神に対して不服を表明し、憤る思いである。その思いを、肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者に吹き込み、御霊によって生きる者の思いを穢すことで、神に対する信頼を失わせ、大胆な証を損なおうとする。

このようにして、一つの団体の中に、同じクリスチャンのように見える二つの勢力が併存し、やがてこの二つの勢力が、激しく敵対し、争うようになる。霊御によって生まれた者を、肉によって生まれた者が、堕落させ、迫害し、追い出そうとするが、御霊によって生まれた者は、その激しい迫害を乗り越えて、御言葉の証を保たねばならない。そのためには、十字架の装甲の中から決して外に出ない姿勢が必要となる。

「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ4:28-31)
 
だが、信者たちはしばしば失敗して、十字架の装甲から外に出て、証を失ってしまう。被害者意識や、神に対する不満の思いを心に注ぎ込まれ、思いを穢されてしまう。そして、一心に信頼して神だけを見つめることをやめて、神はすべての苦難から私たちを救い出して下さるという確信を失い、自己の限界を見つめるようになり、自分を不憫がるようになり、ただ自分の弱さに同情してくれる人々だけを周りに集め、その弱さの中に閉じこもって、前進することをやめて立ち止まり、そこに人の生まれながらの自己を守るための一大共同体を作り上げてしまう。
 
すると、御言葉の証は失われ、信仰による神の働きはやみ、御霊によって生まれた者は、ちょうど髪をそられたサムソンのように、勇士としての力を失って、捕虜とされ、外に追いやられ、苦役に従事させられることになる。

私たちは、悪魔の虚偽の訴えに対しては毅然と立ち向かい、御言葉の証を守らなければならない。公正、真実、正義に立って、御言葉の真理を高く掲げることをやめてはならない。しかし、同時に、その戦いは、決して私たちの生まれながらの自己を守るためではなく、それを超えたところにある神の御国の権益のためでなくてはならず、そうして私たちの掲げる目的が、真に自己のためでなくなるためには、私たち自身が、絶えず十字架の死をくぐる必要がある。自己憐憫や被害者意識を心に抱え、神の権益のために自己の利益を手放すことを惜しみ、自分の限界を取り払うことができないものと考えて、これを哀れんでいると、主と共に十字架の死を通過することができなくなってしまい、信仰の前進がやむのである。
 
そうして聖徒らが十字架を回避して、生まれながらの自己を保つようになると、彼らの証は力を失い、彼らは聖徒としての特長を失うことになる。そして、肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を追い出して、団体の頂点に立ち、一つの団体がまるごと敵の手に渡されてしまう。もしくは、彼らは出て行っても、暗闇の勢力の支配下で、また新たな腐敗した別な団体を作るだけである。

筆者はこうした現象を幾度も目撃するうちに、ようやくこれがクリスチャンと暗闇の勢力との間で繰り広げられている霊的な支配権の争奪戦であることを理解し、一体、これに対してどのように打つ手があるのかを考えるようになった。

もちろん、主と共なる十字架の装甲から一歩も出ないで、自己を十字架に死に渡すことこそ、勝利の秘訣であるが、勝利というからには、死で終わるのではなく、そこに復活が現され、瞠目すべき神のみわざが現され、明白な勝利を勝ち取らなければならない。それだけでなく、ただ真理を知らないだけで、故意に御言葉に逆らっているわけではない人々を、敵の欺きから取り返すことが必要である。

そこで筆者はようやく、祈りの防衛の盾をはりめぐらし、激しい戦いの中でも、そこに踏みとどまって、決して支配権を自ら放棄することなく、霊的領土を明け渡すことなく、なおかつ、そこに残っている人々を、自分たちの陣営にかくまい、保護するまで、あきらめずに戦いを続行することを学び始めた。

その団体に残っている人々のほとんどは、しばしば、何が起きているのかを全く理解しておらず、戦いがあることさえも分からないでいる人々である。彼らはちょうど戦争が勃発しているのに、そのことを知らされないまま、自分たちの土地に残された非武装の住民のようなものである。敵が襲撃して来れば、彼らに命はないことを私たちは予め知っている。そして、私たちは武装しているが、彼らは自分を守る術を知らない。

そこで、もしもこのような状況で、私たちが自分の命を惜しんで、真っ先に彼らを捨てて安全なところに退却するならば、彼らはみな敵陣に捕虜として引いて行かれることになり、そこでさまざまなひどい目に遭わされて、神は理不尽だという思いに生涯、とらわれ、憎しみと憤りと不満の中に生きることになりかねない。何よりも、彼らは自分たちを危険の中に捨てて行ったクリスチャンを憎み、許さないことであろう。

そのようなことが起きないために、私たちは最後まで戦って、真理を知らない人々を敵の襲来から保護し、むしろ、敵の勢力の方こそを、キリストの勝利の凱旋の行進の中に捕虜として引いて行かねばならない。

そのように激しい戦いを、神の武具で武装してすべてをキリストの支配下に置くまで決してあきらめないで戦うことを決意した人々が、勝利を得るまで忍耐強く信仰によって続行したときに、初めて、一つの団体が、罪の束縛の中から解放され、肉の支配下にある者ではなく、霊の支配下にある者の指揮権の下に置かれるということが起きるのである。

ここで重要なのは、冒頭の御言葉が、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られた」と述べていることである。戦いには初めから決着が着いており、御子はすでにカルバリで勝利を取られた。問題は、地上にいる主の民がそれを最後まで信じられるかどうかである。

わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、 わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。

わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、 わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(Ⅱコリント12:9)

「体は一つでも、多くの部分から成り、 体のすべての部分は数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

身体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。

神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。」(Ⅰコリント12:1-26)

休暇中の時間は筆者にとって黄金の時だ。この時間をぜひとも活用して、忙しいときにはできない正しい仕事を果たさなければならない。

今年の新年は警察との連絡で幕を開けた。新年早々の仕事が、告訴状の文面の練り直しとは。しかし、思い起こせば、ここ何年間も、年末年始をゆっくり過ごした記憶がない。大勢で観光地を訪れたり、家でくつろいで料理を作ったり、TVでスポーツ観戦することもなく、常に何か波乱の出来事に見舞われて、日常生活が中断していたような気がする。

そんな年が続いた挙句、今年はもはや普通の正月を過ごすことに未練がなくなった。人生はそんなにも長くはない。大切な仕事を果たすには、時間が限られている。どうせ同じ時間を使うならば、束の間で消えて行く個人としての地上の幸福を享受することよりも、むしろ、御国に到達してから神に褒められ、永遠の収穫として残る仕事を果たしたい。

これは2017~2018年に激しい戦いを乗り越えた後で、筆者が心に確信することだ。とはいえ、年末年始をくつろいで過ごせない職業の人々は、筆者の他に多数、存在しており、警察官もその一人である。

年末年始に警察は当直体制となり、少ない人数で管轄の全域を担当する。筆者の事件を担当してくれている警察官も、奇跡的に当直していたが、呼び出しても、呼び出しても、全くつかまらない。ようやく連絡が入って来たのは、当直明けのこと。つまり、勤務中ではなく、勤務外で、要するに、筆者の順番は、区内で一番最後なのだ。
  
とはいえ、勤務が終わったから、ようやく電話できるのだと言われるのは、勤務中だから時間がないと言われることに比べてかなり嬉しい。一番最後の順番とはいえ、最もほっとできる瞬間に電話がつながったのだと思える黄金の時。まさにボアズがルツのためにわざわざ畑に残しておけと命じた落穂を拾うルツの心境である。

当ブログに対する様々な権利侵害を事件化することを決めてから、こういうコミュニケーションを関係者との間で取れるようになるまで、何カ月もの歳月を要した。警察官は、下手をすると、一日、二日どころか、一週間以上もつかまらない。黙って電話を待ち続けることには未だに慣れられず、当初はそのことでどれほど巨大な不安に陥れられたか分からない。

しかし、担当者は、ない時間をひねり出すようにして、時には休日出勤して対応してくれたり(つまり、通常の勤務時間にはこの事件に向き合う暇がない)、近くの交番まで書類を届けてくれたりし、それを見ているうちに、筆者は考えが変わり、長い時間、待たされても、それが怠慢や悪意によるものではないことを理解し、やがて彼らの誠意を尊重しないわけにいかなくなった。

それは裁判所の人々との関わりも同じであった。不愉快な事件をきっかけに人々と関わるのは、誰にとっても気が進むことではなく、それだけで関係者一同に大きなストレスとなりかねない。しかし、この事件に関わってくれるすべての人々も生きた感情を持つ人間であることを理解し、筆者はついに自分の感情を乗り越えて、事件の影響を乗り越えて、互いをよく知って、理解・尊重し、信頼関係を築くことが最後には可能となった。

そうなるまでには、多くの時間がかかった。何度、取っ組み合ったことであろう。その間に、彼らにも、筆者の心の弱点などは、きっとお見通しになったはずである。だが、筆者は、どんな時にも、心から正直であり、目指している高い目標から決して目を逸らさなかった。だから、人々は筆者の心の弱さや限界を見ても、それが悪意によるものでも、怠慢によるものでもないことを理解してくれ、筆者の弱さを彼らの強さで補い、覆い隠してくれるようになったのである。

こうして、最後には互いが互いの限界を理解した上で、相手を尊重する術を学んだ。筆者はこのような体験を通して、絶望的な状況下で、どれほど様々な波風が起きても、目的を見失いさえしなければ、最後にはその波乱をすべて乗り越えることができると言える。

たとえ一時的にものすごい痛み苦しみを味わうことになったとしても、その犠牲があって初めて、新しい関係が生まれて来る。何が生まれて来るのかは、苦しんでいる当初には分からない。だが、信仰のあるなしに関わらず、人が命をかけて訴えていることを、無碍に扱うことができる人はそう多くはない。あきらめないで前進していれば、少しずつかも知れないが、理解者は増えて行く。そして、それがついにはやがて固いチームワークのような結束になって行くのである。

かつてあるクリスチャンが、「ヴィオロンさんには、関節と関節をつなぐ能力がある」と言ったことを思い出す。ここで言う「関節」とは、私たち一人一人、エクレシアの構成員のことである。キリストのからだなる教会の成長は、節々がしっかりと組み合わされ、補い合うことによると聖書にある。

「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:16)

その信者は、筆者には必要な関節と関節を出合わせ、互いに結束させる働きがあると述べたのであった。今、筆者は、いわゆる教会と呼ばれる建物の外で、その頃と同じような働きをしているのかも知れないと思う。

なぜそうなったのか。それは教会と呼ばれる団体があまりにも神の働きから逸れてしまったことによるものと筆者は思う。そこで、初めはユダヤ人に福音を宣べ伝えたパウロが、異邦人に向かねばならなかったように、筆者はいわゆる教会と呼ばれる信仰を持った人々の外に、関節や節を見つけるはめになったのである。

そうして、筆者が一人で始めた信仰を守るための戦いという目に見えない事業に、今や数多くの人たちが関係するようになった。そして、その人々は、嫌々ながらではなく、自らの意志で、自発的に積極的に事態に関与しており、筆者は彼らに大いに助けられている。

信仰者と呼ばれていないこの人々から、どれほど多くのことを筆者は学んだであろうか。彼らとの関わりは、本当に切実なメッセージを筆者の心に伝えてくれる。

この事件を進めるうちに、筆者は、人々から助けられることを学んだ。これまでの筆者はほとんどの作業をただ自分一人だけで成し遂げ、他者の力を借りることがなく、他者の知恵によって自分の知恵の不足を補われることもなく、そのような可能性があるという期待すらも持っていなかった。あまりにもすべてを自力で背負い、自力で処理することに慣れており、人を信頼する必要性にさえ見舞われなかったのである(それは裏切りや離反が横行していたためでもある)。

だが、今、筆者は、そうした離反を克服する方法を学び始め、自分の弱さを他人の強さによって補われる術を学び始めた。しかも、筆者が途中まで書きかけた歌の、見事な続きを書く人々が現れた。筆者が一人だけで行って来た途方もない気の長い作業が、他の人々の手に委ねられ、他の人々がこの作業に参加し始めたのである。

筆者はこのことに非常に驚いている。筆者は自分の肩から重荷が取り去られるのを感じ、初めて自分の知恵を超える知恵が存在すること(これは神の知恵のことではなく、神が地上のもろもろの人々を通して筆者に表して下さる知恵のことである)、その知恵に信頼して自分を委ねることを知った。人々を信頼して自分の仕事を託すことの意味を知った。こうして自分の知恵が限られていることを思い知らされ、他者によってそれを補われるのは、非常に嬉しく楽しいことである。

こうして、新たな関係性が生まれ、筆者が一人で編んでいた歌に、多くの人が参加するようになり、共同作業が生まれた。やがてはそれが大きな流れになり、合唱のようにまで至るのではないかとさえ思う。

これは実に不思議な関係性である。この世のほとんどの人たちの人間関係は、どんなに広いように見えても、地上的な絆の中に束縛され、そこから出ることがない。その人間関係は、自分の家庭、自分の職場、勤務上で生じた関係、所属団体の枠組みなどにとらわれている。

しかし、筆者が他者に関わるのは、そういう地上的な枠組みによるものではなく、信念に基づくものであり、信仰に基づく関係性である。そして、その関係性が、今や信仰を持たない人々にまで波及しているのである。

これまでもそうであったが、信仰のために必要なことならば、筆者は地上的な絆の束縛を超えて、どこまででも出かけて行く。そして、これまで知らなかった新しい人たちを見つけ出し、これらの人々を、一つの信念によって結びつける。

そうして彼らを目に見えないチームのように結束させるまで、根気強く説得する。だが、筆者は目に見えるチームを作っているわけでなく、そのリーダーでもないし、筆者が計画的にそのようなことを行って人々を感化しているわけでもないので、以上のような現象が起きているとは、はた目には分からない。

だが、筆者が命がけで人々に関わり、命がけで信念を訴えているうちに、いつの間にか、それまで敵対していたような人々にさえ影響が及び、協力してくれる人々や、筆者が目指しているのと同じ目的に向かう人々が増えて行くのだ。

このように、筆者の場合、人間関係を築く土台となる要素が、通常の場合とは全く異なる。それは個人としての筆者の利害に立脚するものでなく、それにとらわれるものでもない。それよりももっと広く、もっと高く、もっと大きな目的のために、筆者は人々に関わっている。そして、そうであるがゆえに、人々はその中で筆者の限界を見ても、それを寛容に扱ってくれ、筆者が目指している目的は、互いに立場の全く異なる人々を、個人的な限界を超えて、一つに結びつける原動力となりうるのだ。

このような人間関係が生まれるためには、やはり筆者自身はどこまでも十字架の死に身を委ねるしかない。一粒の麦として絶えず死に続け、自己を放棄する以外に手立てがない。

このことを指して、以上の信者は、「ヴィオロンさんには、関節と関節をつなぐ能力がある」と言ったのである。

そういうわけで、またも書面の練り直しである。世の人々は告訴状と聞いて眉をしかめるかも知れないが、これも公益のためであって、筆者個人の利益のためだけではない。この他にも大量の書面作りの作業が残っている。そして、筆者に関する事件の後処理が終われば、次に筆者と同じような被害を受けた人々の権利の回復を手伝う作業が待っている。それに着手できるのは、今年の春以降であろうか。気の長い仕事である。

味気ない新年であるが、自己の信念に基づく作業であるから、これで良しとせねばならない。こうして、筆者の心は地上を離れ、御国へと階段を上って行く。

だが、最後に一つ述べておきたい。聖書は、神のためにどんなに巨大な犠牲を払っても、愛がなければ一切は無意味だと述べている。ただ関節と関節をつないで、建物を作るだけでは不十分であり、そこに最後の総仕上げとして、上から神の愛が注がれなければならない。それはちょうど美味しそうな焼きたてのパンケーキに特上の甘いメープルシロップを注ぎかけるような具合で、エクレシアには上から下まで滴り落ちるほどに神の愛が溢れていなければならないのだ。
 
その愛は、私たち人間から生じるものではなく、まさに上から、神が注いで下さる愛である。ちょうど預言者エリヤが、死んだ子供を生き返らせた時のように、全焼のいけにえとなっている筆者の上に、新たに上から御霊によって吹きかけられる復活の息による。

人々は、死んでいたも同然の筆者が、生き生きとよみ返らせられるさまを見て、初めて神が今日も生きておられること、信じる者をあらゆる窮地から大胆に助け起こす力を持つ方であることを知る。

その御業は神のものであって、筆者の力によるものではない。だが、地上では極めて弱く限界ある存在に過ぎない筆者の神への信仰による愛と従順、そして、筆者に注がれる神の愛の深さを見ることにより、筆者の周りにいる人々も、神が生きておられること、そして、筆者のみならず、神を呼び求めるすべての人々に力強く応えて下さること、神が愛であり、すべての人間に対して、どれほど深い配慮を持っておられるかを知らされるのである。

筆者が行っていることはすべてそのためである。

そういうわけで、もう一度、以下の御言葉を引用しておく。

「「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のようにみなされている」
と書いてある通りです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:36-39) 


しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

ただ一点、キリスト。

以前にあるキリスト者からよく聞かされた言葉だ。その当時は、標語のようにしかみなしていなかったこの言葉が、筆者にとって、今はもっと深い意味を持つ。

当ブログとブログ主に対するさまざまな人権侵害を理由として筆者が起こしていた裁判が、12月27日に結審した。判決言い渡しは3月末に予定されている。

すでに記して来た通り、この裁判はネット上で起きた紛争処理の一部であり、これに付随して続行しなければならない訴えが複数残されている。そこで、この審理終結をもって事件が完全に終結したわけではない。

だが、今、筆者が書きたいのは、この紛争のために筆者が支払った犠牲のことではなく、むしろ、この事件を通して、神がどれほど筆者を含めた関係者一同に大きな恵みと学びを与えて下さったかということである。
 
今、判決を準備している最中の裁判官の心の静寂を邪魔したくないため、多くのことは書かないが、予め断っておけば、筆者は、 今回の裁判は、教会史の中に刻まれておかしくないほど、深い意義を持つものであり、今回の裁判を担当してくれた裁判官や書記官の名は、私たちクリスチャンの名と並んで、初代教会の時代から現在まで続く目には見えない使徒行伝の記録の中に、永遠に刻みつけられ、神の目に留められるだろうと信じている。

それほど神はこの裁判を通して、我々にお与え下さった救いの確かさを、余すところなく証明して下さったものと筆者は信じている。結審の様子を思い起こすと、今でも心に深い感動が込み上げて来る。

通常、裁判などというものは、原告であれ被告であれ、誰も関わりたくないと願うものであるが、今回の紛争において、筆者は弁論の回を重ねるごとに、裁判官や書記官を近しい存在に感じるようになった。これは、自分の住所の所轄裁判所で訴えを起こすことができる原告の役得のようなものである。

この訴訟においては、弁論のほとんどが電話会議という形で行われた。電話会議は、被告らにとっては遠方の裁判所まで足を運ばなくて良い利点があり、原告にとっては、法廷のような段差や距離感を取り払い、裁判官や書記官と顔と顔を合わせて互いの表情がよく見える近い場所で、リアルに感情を分かち合いながら審理を進められるという利点がある。

そうして回を重ねるうちに、最初は裁判所をただ近寄りがたい場所とみなし、紛争解決の糸口を探していただけであった筆者が、最後には、この事件に関わってくれた全ての人々に対する厚い信頼を持つようになり、最後にはまるでチームワークのような固く緊密な結束・連携により、弁論を終結に至らせることができたのである。判決をまだ聞いていないうちから、筆者は、このような紛争のために労してくれた人々に心からの感謝や敬意を払わないわけにいかない。

今回は、当事者の誰も弁護士をつけなかったことにより、それぞれが本音で心を開いて語り合うことができた。そのおかげで、非常にリアルでドラマチックな展開が生まれたのだと言える。関わった一人一人の正直な心の本音が、裁判所の関係者に至るまで、明らかにされたことにより、事件にふさわしい結論が導き出されるために必要なすべての前提が整えられたのである。

以前にも書いたように、筆者は弁護士という職業を好かない。筆者の弁護者は、今もこれからも見えないキリストただお一人だけで十分であり、もしも今回もこの審理の輪の中に一人でも弁護士が入っていれば、率直な話し合いはたちまち不可能となっていたであろうと思う。

筆者は最後の弁論期日において、電話会議が終了した後、法廷へ移動する前に少しだけ与えられた時間の中で、ちょうど投獄されたパウロが獄吏に向かって福音を宣べ伝えたように、裁判所の人々に対し、筆者を贖って下さった神の福音のはかりしれない意義を伝えることができた。そして、そのことこそ、他のどんな結果にまさって、有益かつ貴い収穫だったのではないかとみなしている。

神はこの事件を通して、御子キリストを通して筆者に与えて下さった贖いがどんなに揺るぎないものであるかを見事に証明して下さった。だから、筆者はこの紛争を提起したことに、何一つ後悔はなく、神に栄光を帰することができたと心から喜んでいる。

しかし、今回の結審を勝ち取るためには、筆者自身にも、己を低くして通らなければならない狭き門があった。

この裁判が始まった時から、裁判官は年度末に異動を予定していることを明かしており、もしも彼に判決を書いてもらいたいならば、我々は年内にすべての弁論を終えて審理を終結させる必要があった。しかし、被告らは反訴を主張して、それを不可能にしようとしていたし、この裁判を結審させて判決を勝ち取るためには、筆者も自分の主張を脇に置いて、個人の利益をはるかに超えたところにある、神の利益のために、身を投げ出すことが必要だったのである。

およそほとんどの裁判は、人権を守る目的のために起こされるものであるが、筆者はクリスチャンとして、この裁判を通して自己の権利だけを主張しようとしているのではなく、私たちのために贖いを成し遂げて下さった聖書の神の正しさを生きて世に証明し、神の利益を擁護するために立たされた。

クリスチャンには、自分の命と引き換えにしてでも、信仰の証しを守り通さなければならない瞬間が存在する。そこで、この裁判を通して、筆者は求められた代価を払うことで、わずかながらも、福音のために命をかけた初代教会のクリスチャンらのような殉教の精神を学ぶことができたものと思う。

キリストこそ私たちの人生の真の主人であり、私たちの全ての全てであり、我々の人権も、幸福も、すべてこの方に由来している。このお方を否定して、私たちにはいかなる命もなければ、権利も幸福もない。当ブログの標題にも引用している以下の御言葉の通り、私たちは代価を払って買い取られたのであり、もはや自分自身のために生きているのではないのである。

「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
(ガラテヤ2:19-21)


私たちはクリスチャンとして、何が聖書の御言葉にかなう真理であって、何がそうでないのかという事実については、決して主張を曲げることも、譲ることもできない。そうは言っても、私たちは自分の主義主張を掲げているのではなく、真理に立つ民として、福音の使徒とされているのであるから、ヨブのように、常に自分をむなしくして全焼のいけにえとして祭壇で焼き尽くされ、自分の主張を神の御前に投げ捨てる覚悟がなければならない。

そこで、裁判官の異動のためにもうけられた制約も、筆者の心を試す良い試金石となった。最後に行われた電話会議では、裁判官と書記官は、筆者をできるだけ早くこの紛争から解放するために、真心をこめて、この日に結審できるためのすべての手筈を予め整えてくれていた。

だが、弁論を終結するためには、あくまで筆者が自分自身を十字架に置くことが最後の決め手としてぜひとも必要だったのである。もしもこの日、筆者が自分の主張に固執し続けていたならば、年内終結というリミットは守れず、筆者は望んでいた判決を得ることもできず、裁判官の交替はやむを得ないものとなっていたであろうと思う。

この日、裁判官は、弁論が始まる前に、被告と口論にならないために、被告の主張を最後まで黙って聞くよう筆者に注意を促した。

さらに、裁判官は被告から締め切りを超えて出された書面があることを説明し、これを受けとるかどうかを筆者に尋ねた。筆者は、締め切りを守らず期日直前に出された書面を受けとりたくないという意向を前々から表明していたが、この日ばかりは、書面を受けとることに同意せざるを得なかった。

その後、書記官が被告らとの電話をつなぎ、裁判官がいつものように陳述扱いにする書面を読み上げ始めた。

筆者は当初、それをうつむいて聞いていた。裁判官が原告の提出した書面について尋ね始めた時も、まだうつむいて返事をしていた。ようやく目を上げようとすると、筆者の視界には、目の前で裁判官が読み上げた書面を手元の書類と照合してチェックをつけている書記官の様子が入りかけた。

筆者が何気なくその様子を見やろうとしたその瞬間、突如、どこからともなく、「いけない!目を上げて裁判官だけを真っすぐに見なさい!」という、まるで叱責のように鋭く厳しい制止の言葉が、筆者の心に飛び込んできたのである。

筆者ははっとして裁判官を見やったが、裁判官は事件のファイルと、陳述扱いにする書類を記載した書面をせわしなく見比べながら読み上げている最中で、以上の制止の言葉が、誰から(どこから)筆者に向けて発せられたのかは分からなかった。

しかし、筆者はこの警告を非常に重要なものと受け止め、それ以後は、しっかりと目を上げて、裁判官の言葉や態度から目を逸らすことなく注目し、ただ裁判官と連携して弁論を終結させることだけにすべての意識を集中した。

裁判官は、これが最後の弁論になることを断った上で、各自に最後の機会として自分の主張を言うよう、一人一人に発言を求めた。「まずは原告から」と、最初に発言を求められた筆者は、即座に、言うべきことは何もないと返答した。すると、被告らも、それに続いて、まるで調子を合わせるように、次々に言うことは何もないと発言し、原告に反訴もしないと答えたのである。
 
筆者の目の前で、書記官が心底、驚いている様子が伝わって来た。何しろ、その一つ前の弁論時には、議論は紛糾して非常に険悪な雰囲気となり、被告らは原告に必ず反訴すると宣言し、裁判官は我々の議論を遮って制止し、電話会議が終わった時、一同は絶望的な雰囲気に包まれ、裁判官は大きなため息をついて、これですべての希望が砕け散った、すべては原告のせいだ、と言わんばかりの表情をしていたのである。

だが、その時、筆者は信仰者として、被告らの反訴の脅しが決して実現しないことをただ一人確実に知っていたので、何とかして筆者のために労してくれている人々の心を取り戻し、絶望感を払拭して、勇気づけねばならないと思い、残された時間で、ほとんど捨て身と言っても良い態度で、すべてのことは想定内であり、どんな結果になろうとも、筆者はそれを身に負う覚悟ができており、反訴であろうと、控訴であろうと、その他の脅しであろうと、何一つ恐れているものはなく、誰の責任にするつもりもないと説明しなければならなかった。

しかも、筆者は、その時、まだすべての主張が言い尽くされたわけではなく、最後の総仕上げが残っているという印象を受けていたので、被告らの憤りを恐れず、最後まで主張を言わせてほしいと裁判官に頼んだのであった。
 
その後、筆者は自分の主張を書面で提出することができたので、最後の弁論では、いかなる主張もしないことを心に決めていた。そして、裁判官も、誰にも追加の主張がないことを確かめると、あっという間に口頭弁論の終結を言い渡した。その際、結審のために必要な最後の手筈までが予めすべて裁判所の側で整えられていたことが鮮やかに証明された。

こうして最後の電話会議は(双方の弁論の)開始からわずか1,2分程度で終了した。見事な連携プレーが成し遂げられて、議論の紛糾もなく、鮮やかに審理が終わった。

議論してはならないという裁判官の忠告がやはり正しかった。筆者は思わず満足の笑みを隠せず、裁判官もほっとして笑顔を見せ、一同、緊張が解けて解放感に包まれた。

しかし、このように息の合った連携は、もしも筆者が少しでも裁判官の判断に不服を感じていたならば、きっと成し遂げられなかったであろうことを疑わない。
 
人間が発したのではないかも知れないあの厳しい制止の言葉は、ほんの一瞬でも、その審理の場で最高の指揮官であり権威者である裁判官から筆者が目を離し、各自の思いがバラバラになったまま審理を進めることの危険性を筆者に告げたものだったように思う。

書記官も多くの配慮をなしてくれ、書類のやり取りはすべて書記官を通して行い、この審理の極めて重要な立会人となっていた書記官は、ついに筆者には親しみ深い、身近な存在になっていた。

とはいえ、この紛争の行く末を決める決定権を持っている存在は、裁判官を置いて他になかったのである。

そこで、権威に服するという点においては、決して覆せない序列がそこにあり、書記官は裁判官の権威に服し、それに従っていた。そこで、筆者も、この序列を壊さず、自分を解放する宣言を下すことのできる唯一の人間だけを真っすぐに見つめ、その発言に耳を澄まさなくてはならなかったのである。
 
筆者には、この事件を担当した担当してくれた裁判官が、この事件をとても深く理解してくれ、これを終結させるためにあらゆる努力を払ってくれていることが、前々からとてもよく分かっていた。だが、それでも、筆者がもしも最後まで自分の主張、自分のポリシーだけにこだわっていたとすれば、裁判官の深い配慮に気づけないまま、むしろ、裁判官に不服を覚えながら、各自の心がバラバラの状態で最後の弁論が行われた可能性がある。

たとえば、裁判官が弁論が始まる前に、筆者の発言に注意を促したことや、筆者が書面の当日受け取りをせざるを得なかったことなどの些細な事柄に、筆者が少しでも気を取られ、それに不満を覚えていれば、以上のような展開もなく、我々には着地点が見つからなくなって、弁論の終結もできなくなっていた可能性がないとは言えない。

つまり、この裁判官に判決を書いてもらいたいという筆者の願いが実現するかどうかは、筆者が彼を信頼してその采配に自分を委ね、その判断に全面的に従うことができるかどうかにかかっていたのである。(だからこそ、最後の弁論では、筆者はすべてを脇に置いて、裁判官を注視しなければならなかった。)

筆者から見て、地上に立てられた裁判官は、見えない裁き主としての神の権威を象徴する存在である。もちろん、すべての裁判官がみな同じような存在であるわけではない。しかし、私たちが地上の裁判官の判断にどのような態度を取るかは、私たちが神の裁きに対してどのような態度を取るかという問題ともどこかで密接につながっているように思う。
 
もしも私たちが、顔を上げて、まっすぐに自分の上に立てられた権威者を信頼して見つめないならば、その行為の中には、何かしら非常に恐ろしい危険が生じ得ることが分かったのである。

創世記において、カインは弟アベルを殺す前に、まず神に不満を抱き、神から目を逸らして、顔を伏せたとある。神の采配に対する不満が、カインの目を神から逸らさせ、顔を伏せさせるという行為につながり、そうして光であるお方から目をそらしたことで、カインの心に暗闇が生まれ、そこに罪が入り込む余地が発生し、彼は罪に誘われるまま、弟を殺したのである。

「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。 」(創世記4:3-12)

もしも私たちがただの一瞬でも、私たちの最も愛する方、私たちに命を与え、自由を与えることのできる方、私たちを祝福し、あらゆる悪から力強く救い出す権威を持ったお方から目を離し、神に向かって顔を上げることをせず、自分の顔を伏せて、自分自身の思いや、ほかのことに気を取られ始めるならば、その一瞬の気の緩みが原因となり、私たちは神との親しい交わり、神との同労を失い、あっという間に、御心から遠くへ引き離されて、神の御前から退けられてしまいかねない危険を思わないわけにいかない。

筆者はこれまで主に心の姿勢について語って来たのであり、私たちが肉眼で何を見つめるのかという目線の重要性を語ったことはなかった。しかし、私たちの目が何を見つめるのかという問題は、私たちの心の姿勢を如実に表すものであり、非常に重要な問題である。

この審理においては、ただ裁判官だけが、筆者を法的に保護する判決文を書くことができるのであって、他の誰にもその真似をすることはできない。その人物に向かって不服を表明することは、自分を解放する決定を自分で否定し、退けることと同じである。
 
裁判官の割り当ては、原告や被告の希望によって行なわれるものではない。しかし、審理の初めから、筆者にはこの人にはこの事件を理解して解決に導くことが可能であり、この人に判決を書いてもらいたいという願いがあった。そこで、一人の裁判官に判決を書いてもらうために、訴えを分割して他部署に委ねることをも断った。

そこで筆者は、弁論終結のためには、地上の裁判官の考えや判断を尊重してこれに同意し、彼が何を意図し、弁論をどのように導こうとしているのか、まっすぐに裁判官を見つめて、その言葉や表情に注意を払い、これに同意しなければ、次に起きることを予想できず、同じ目的に向かって同労して、自分を解放に至らせるための判決を得ることができなかったのである。

最初は偶然のように始まった人選であり、出会いであったが、弁論の終結が近づくに連れて、裁判官の交替という出来事は、筆者には何としても阻止せねばならない選択肢となって行った。それは筆者が自己の義に固執して正義の判決を失うこととほとんど同じほどの意味を持ち、そこで、裁判官は弁護士でないにも関わらず、筆者は待ち望んでいる判決を得るために、裁判官の判断に完全に同意してこれを受け入れ、彼と同労することが必要不可欠だったのである。

これと同様に、私たちはクリスチャンとして、地上において、絶えず神と同労する必要に迫られている。もしも私たちがその役目を放棄して、最高権威者である神ご自身に不満を抱き、一瞬でも神から目を逸らすならば、私たちは自分をあらゆる悪から救い出すことがおできになる方の力強い決定を見失い、生きる方向性を失って行くことになる。

最後の弁論では、そのような危険はすべて排除されて、鮮やかに審理が終結し、その後、信仰の証しをする時間までも与えられた。筆者は、裁判官や書記官の前で、改めてキリストの十字架の意義を伝え、この裁判が、筆者を贖い出して下さった神の御業を表すものであることを伝えることができたのではないかと思う。

その後、筆者は書記官に伴われて、予め準備が整えられていた法廷に導かれ、すでに法壇に着座して我々を待っていた裁判官に迎え入れられた。その時、ここは筆者が自分を捨てて十字架に服さなければ、決して到達することのできない場所であったことをしみじみと感じた。

この裁判を最後まで遂行するためには、筆者はクリスチャンの一人として、神の御言葉の正しさを公然と証するために、すべての虚偽の脅しに立ち向かって、自分の命を最後まで注ぎだす必要があった。また、自分の心の中で、己を低くして、狭い道を通り、狭き門としての十字架を通らなければならなかった。それができなかったならば、決して到達できなかった場所、得ることのできない決定に、筆者はたどり着いたと感じたのである。

主イエスは言われた。わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マルコによる福音書 8:34-38)

法廷はしばしば人間のエゴとエゴとがぶつかり合うたけの闘争の場所のように見えるかも知れない。しかし、実際には、そこで人の痛み苦しみの記録にじかに触れ、また、人の魂が切にあえぎ求めている解決に達するためには、それぞれが己を低くして通過せねばならない見えない門が存在する。原告や被告だけが苦しみながら戦っているのではなく、そこに一堂に会するすべての関係者が心に持たなければならない謙遜さが存在する。

法廷では、裁判官は最も高い席に着席し、それよりも一段低い席に書記官が着き、原告や被告などの紛争当事者には、傍聴席と同じ目線の一番低い席が用意されている。裁判官が最も高い席に着くのは、その権威の高さに照らし合わせて当然のことと思われるかも知れないが、その裁判官といえども、決して傲然と上から人々の苦しみを見下ろしているわけではない。

裁判官は退廷するとき、決して傍聴席に背を向けず、法廷を目の前にしたまま退出する。しかも、退出する時に通る扉はかなり低く、背の高い裁判官は、ちょうど法廷に向かってお辞儀をするような恰好で身をかがめて退出せねばならない。

筆者はそれを見るにつけても、裁判官にさえ、法廷に出るためには、己を低くして通過せねばならない狭き門があるのだと感じた。そして、筆者には筆者なりに、この最後のステージに到達するために、身をかがめて通過せねばならない見えない狭い門があった。各自がそれをクリアしなければ、この三者のメンバーで、審理を終結させることはできなかったであろうことを思わされた。

法廷は神聖な儀式の場ではなく、そこにあるのはキリスト者の交わりでもない。しかし、筆者は今、キリスト者の交わりが成立するためには、それに参加する信者らの自己が、ことごとくエクレシアの戸口で焼き尽くされて死んでいなければならないという、ある信仰者の言葉を思い出さずにいられない。

モーセは燃える芝の前で靴を脱ぐように言われたが、神聖な場所に入るためには、人は自己を焼き尽くされて死を通過していなければならない。今回、法廷においては、死に定められた者が、命を与えられ、贖い出されてゲヘナから連れ戻され、名誉を回復されるという、奇跡のようなことが起き、私たちが信じている神の救いの確かさが、それによって公然と世に証されたわけであるが、それが実現するためには、まず人の自己が低められ、十字架で死に渡されていることが必要だったのである。

こうして、今回の裁判では、その全過程において、神が随所で憐れみに満ちた采配を施して下さり、すべてがドラマチックな展開を辿った。おそらく、このような裁判は他に類例がないもので、一生、忘れることのない意義深い思い出として、関係者の脳裏に刻まれるのではないかと思う。

判決言い渡しの時に、もう一度、彼らと再会することが筆者には許されている。その時、筆者がどうなっているのか、どんな変化が身に起きているのか、それもまた楽しみである。

最後に、筆者はこの裁判を通して、クリスチャンがキリストにあって与えられている絶大な特権のことを思わずにいられない。筆者は教会やクリスチャンを罪に定めるカルト被害者救済活動がなぜ誤っているのかを説明するために、準備書面を作成する過程で、ビュン・ジェーチャン牧師が民事では賠償を命じられたものの、刑事事件では無罪判決を受けたことに触れたが、こうした事例を見るにつけても、ひょっとすると、クリスチャンに有罪を宣告することは、この世の人々には不可能なことなのかも知れないという気がしてならない。
 
信仰の道の途上で足を踏み外すクリスチャンは大勢いるであろうし、そうした信者や、過ちを犯した宗教指導者らが、神の御前で受ける裁きが格別厳しいものとなることも確かであろうが、それでも、私たちは、神が贖われたクリスチャンに罪を宣告できる者は、神ご自身と、福音の使徒以外には誰もいないという厳粛な事実を思わずにいられない。

誰かが福音の使徒とされたことには、それほど人間の理解を超えた神秘があり、神が義とされたクリスチャンに有罪を宣告し、手をかけることは、まさに悪魔(とその代弁者)にしか許されていない所業なのだと言えよう。

そういうわけで、神がキリストの貴い命と引き換えに贖って下さった筆者を告発できる人間は地上には誰もいない、という事実が、またしても公然と証明された。もちろん、筆者を刑事告訴したり、反訴したりできる人間も誰もいないことが。それは筆者が暗闇の勢力から脅される度に、幾度も述べて来た以下の御言葉の通りである。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。


「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のようにみなされている」
と書いてある通りです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:33-39)

 
教会とは、キリストの命によって新たに生まれたクリスチャンの総体であり、神が罪赦されて、キリストを通して義と聖と贖いを授けられた人々の集団である。神は地上の脆く弱い存在に過ぎない私たちをお選びになり、私たちをこの世から召し出されて、ご自分の栄光を表すための器とされた。神はこのように弱く脆い存在を通して、ご自分のはかりしれない知恵を、天上のもろもろの支配や権威に対して知らしめようとなさっておられるのである。

「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(エフェソの信徒への手紙3:10-13)

教会とは、キリストをかしらとするキリストのからだであって、キリストが満ちておられるところである。からだは、かしらであるキリストの思いを体現するためにこの世と接点を持ち、この世と接触する。私たちは、この闇の世において、キリストの栄光を証するための器官として、土の器の中に神のはかりしれない命をいただいて、星のように輝いている。
 
この先、どんなに教会が迫害されようとも、神はなお教会を通して、この世のすべての欺きを超越するご自分の多種多様な知恵を表されるだろう。だから、私たちは苦難を受けても落胆せず、あらゆる試練の中で、さらに一層、信仰を強くして、大胆に御座に進み出て、恵みを受けることができると疑わない。

敵がどんなに激しく活動して、クリスチャンの望みを絶やそうとしても、私たちは、どんな状況でも、神がご自分の栄光を力強く鮮やかに示して下さることを信じており、失望落胆する理由がない。

私たちが見るべきは、ただ一点、キリスト。詩編の中に記されている通り、奴隷が主人の手を一心に見つめるように、私たちはただキリストだけを一心に見つめ、すべての名にまさる彼の御名を高く掲げ、最高の権威者である神から目を離さない。

私たちはまっすぐに目を上げて、天の御座におられる方に目を注ぎ、神が私たちに何を望んでおられるのかに注目し、その御声に一心に耳を澄ます。

そして、神が私たちがまだ罪人であった時に、私たちを愛して、その独り子を地上に送り、命を捨てて下さったその愛をより深く知り、私たちもそれに同じ愛で応え、身を捧げて生きるために、ルツのように、心の中で愛と真実をもって神への従順を言い表すのである。

もし私たちが己を低くして主と共なる十字架で自分を死に渡すならば、神は私たちが信仰を守り通す上で受けたすべての苦難や損失を、それとは比べものにならないほどに豊かな命によって回復して下さる。

神は敵前で私たちのために宴をもうけ、私たちの頭に油を注ぎ、私たちの杯を満たして下さるだろう。

私たちの信じている神のどれほど不思議で偉大なことか。この方に賛美と感謝を捧げ、栄光を帰したい。
  
目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます
天にいます方よ。

御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ、
はしためが女主人の手に目を注ぐように
わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ
憐れみを待ちます。

わたしたちを憐れんでください。
主よ、わたしたちを憐れんでください。
わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。
平然と生きる者らの嘲笑に
傲然と生きる者らの侮りに
わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。」

* * *

「イスラエルよ、言え。
「主がわたしたちの味方でなかったなら
 主がわたしたちの味方でなかったなら

 わたしたちに逆らう者が立ったとき
 そのとき、わたしたちは生きながら
 敵意の炎に呑み込まれていたであろう。

 そのとき、大水がわたしたちを押し流し
 激流がわたしたちを超えて行ったであろう。
 そのとき、わたしたちを超えて行ったであろう
 驕り高ぶる大水が。
 
 主をたたえよ。
 主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。
 仕掛けられた網から逃れる鳥のように
 わたしたちの魂は逃れ出た。
 網は破られ、わたしたちは逃れ出た。

 わたしたちの助けは天地を造られた主の御名にある。

* * *

「主に依り頼む人は、シオンの山。
 揺らぐことなく、とこしえに座る。
 山々はエルサレムを囲み
 主は御自分の民を囲んでいてくださる。
 今も、そしてとこしえに。

 主に従う人に割り当てられた地に
 主に逆らう者の笏が置かれることのないように。
 主に従う人が悪に手を伸ばすことがないように。

 主よ、良い人、心のまっすぐな人を
 幸せにしてください。
 よこしまな自分の道にそれて行く者を
 主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。

 イスラエルの上に平和がありますように。」

* * *

「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて
 わたしたちは夢を見ている人のようになった。
 そのときには、わたしたちの口に笑いが
 舌に喜びの歌が満ちるであろう。
 そのときには、国々も言うであろう 
 「主はこの人々に、大きな業をなしとげられた」と。

 主よ、わたしたちのために
 大きな業を成し遂げてください。
 わたしたちは喜び祝うでしょう。
 主よ、ネゲブに川の流れを導くように
 わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。

 涙と共に種を蒔く人は
 喜びの歌と共に刈り入れる。
 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
 束ねた穂を背負い
 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
(詩編123-126編)


御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(5)


 夕べに田園風景の中を散歩すると、コスモスが見事に風に揺れていた。日暮れが早くなったので、我が家の動物たちとの散歩時間も早めねばならない。もうしばらくの間である、こうして静かに散歩できるのも。あと少しすれば、寒い冬がやって来る。

上記の写真は、鎌倉に住むとある(信仰にある)兄弟が生前、筆者を植物園に案内してくれた時のものだ。この兄弟は、夫人に先立たれ、筆者が仕事や人生で色々な困難にぶつかり、信仰の交わりのために連絡を取ることを控えていた間に、いつの間にか天に召されていた。

それまでの間にも、その兄弟はいくつもの大病を患い、何度も生死の境をさまよいながら、夫人に看病され、支えられ、何とか命を取り留めていたが、その夫人の死後、一人で地上に残されても、まだ元気そうな顔を見せてくれていたのは、筆者のための神の憐れみであったのだろうかと思い巡らす。

もしも筆者が、あの頃、この兄弟をもっと必要として、しばしば連絡を取って、もっと多くの回数、交わりに呼び出していたならば、神はもう少しの間、この人を筆者の必要のために、地上に残しておいてくれたのだろうか?

何しろ、そう考えても不思議でないほど、この夫婦はどちらもが地上に未練というものがなかった。ただ人のために役立つこと以外には、自分自身のためには、この地上で何一つ要求するものも、し残したこともないというすがすがしい人生を送る人たちだったのである。ある意味で、非常に恵まれた環境を生き、多くの人々が地上で執着するような事物には、全く関心がなかった。

だから、彼らは、身近に彼らを必要とする人がいなくなると同時に、ただちに天に召されて行ったのだという気がしてならない。多分、筆者が彼らにとって、地上に残るための最後の必要だったのではないかと思わずにいられない。

さて、我が家の小鳥のヒナたちは、朝から晩まで騒がしい。まるで赤ん坊の世話のように手が抜けないが、何羽もの小鳥が、けたたましく鳴きながら、大きな口を開けて飛びついて来るのを見るのは、何とも言えない喜びであり、愛らしさである。
 
鳥には春と秋に産卵期があるが、鳥のヒナを育てるならば、春でなく秋がお勧めだ。なぜなら、日本の夏は、素人には気温の調節が難しいからだ。特に、猛暑の終わりから秋にかけての気温の変化は、人体にとっても大きな負担だが、小鳥のヒナにとっては致命的な負担となりうる。

小鳥が体調を崩すにはほんの半日あれば十分で、特に成鳥になるまでの一年間は油断がならない。個体差もあるので、他の鳥にとって何でもない変化が、ある鳥にとってだけ大打撃となったりもするのだ。

とはいえ、小鳥がまだ活発に反応を返している間は、多少、具合が悪そうに見えても、処置はまだ十分に間に合うと期待して良い。成鳥でも、ヒナ同様の保温と、強制給餌とで、回復させることができる。我が家には強制給餌用のカテーテルはないが、鳥にまだ食べる力が残っているうちは、挿し餌と同じ要領で対応できる。固形物ではなく、流動食を与えること。とにかく絶食の状態が続かないようすることである。

これまで筆者には、子供の頃から、鳥に関してはさまざまな思い出があり、悲しい別れやつらい失敗談も数多くあった。特に、子供の頃に最初に見た光景は、人間の無知のゆえに、せっかくかえったヒナも育たなかったという悲しい結果であった。

そういうこともあって、多くの愛鳥家たちは、繁殖をこそ重視して、珍しい鳥のヒナをかえすための研究に日夜、心血を注いでいるが、筆者はそのような研究に没頭する気になれず、まだ卵からヒナを返し、無事に全羽を育て切る自信がないため、巣箱を入れる気にはなっていない。

来年には文鳥よりももっと高価な鳥たちの間で、新たに愛らしく美しいペアが生まれるだろう。新たな学習のチャンスで、美しい色の羽を持つ貴重なヒナたちを育てようと思えば育てられる。そろそろ、巣箱を入れることも、考えてみようか。文鳥あたりから始めるのが良いだろうか。そう思いめぐらしながらも、まだ決断がつかないでいる。

* * *

最近、霊的な戦いにおいて、一つの大きな山場を超えたことがよく分かる。多くの人たちが、まるで正気を取り返したように、最初から至極まっとうなものであった筆者の意見に、大きく頷いてくれるようになった。

一体、この国はもう滅びるしかないのだろうかと幾度も考えたが、崖っぷちのようなところで、何とか正気を取り返し、踏みとどまっている現状だと思う。これから、ここまで退却させられたすべてを押し戻さなければならない。
 
筆者は人からの理解や賛同を求めているわけではないが、主が送ってくれる援軍はとても心強い。その一言一言に勇気づけられ、心の尊厳を回復し、心を奮い立たせることができる。

だが、気は抜けない。最後の決戦までの大詰めの準備作業が残っているからだ。神は筆者にこの準備のために必要な期間をわざわざもうけて下さった。誰も知らないが、予定が先送りされて猶予が与えられているのは、理由のないことではない。

主のために、教会を守るために、公然と訴えを出せる立場にいながら、生計を維持するために、その作業を先送りしている人たちがいる。だが、筆者は彼らに言いたい、生計を維持することが、私たちの第一優先課題ではないのだと、真に天の御国の権益に寄与する仕事をすれば、すべてのものは添えて与えられると。生計を維持するためにも、まずは御国の権益のために働くことだと。

実際に、御国の権益拡大のために種を蒔くことが、私たちの地上における生存を豊かに保つための最大の秘訣なのである。この原則は、私たちが地上に生きている限り、決して変わらない。だから、勇気を奮って、この原則を試してみることをお勧めする。真に神に喜ばれる仕事を第一とするならば、生きるための必要はすべて添えて与えられる。

さて、筆者が鳥を好きなのは、地に足をつけない(根差さない)生き物だからである。

天高く、空高く、わしの翼のように、翼をかって、復活の命の統治の中を生きていきたいと願う。そう考えながら、ふとイザヤ書の第40章の節を思い出して、御言葉を調べると、何とタイムリーな内容ではないか。

この一章は今、まるで詩のように筆者の心に響いて来る。そうだ、主の回復の時を告げる幸いなニュースが、今、筆者の耳元にも聞こえて来ている。まだ何事も起こらないうちから、麗しい音楽のように、その調べが耳元に届くのである。

まるで訴えを出した人が、正義の判決文が読み上げられる瞬間を待ち望むように、筆者は、主の深淵な取り計らいに、その解放を告げ、自由をもたらす宣言に耳を澄ます。まことに草のようにはかない筆者の存在を、神は御心に留めて下さり、筆者の受けた他愛もない苦難のために、大いなる慰めを与えて下さったのだ。

そこで、筆者は羊のように神の懐に抱かれ、その腕の中で安らぐ。神は乳飲み子のような羊さえ、傷つけることなく優しく導かれる。万物の創造主であるからこそ、私たちすべての被造物の弱さと、そのしかるべき取扱いを心得ておられ、一つの命も絶やすことなく、私たちの呼び声に耳を傾け、適宜、助けの手を差し伸べて下さることができるのである。

自由を告げる福音が、今、私たちの耳に届いている。今日が恵みの日、救いの日である。解放の宣言に耳を澄まし、これを受け入れる人は幸いである。私たちを囚われ人の立場から自由にして下さった、大いなる主の御名の前に畏れかしこみなさい。主の御名を誉めたたえなさい、エルサレムよ、あなたの苦難はすでに終わったのである。
 
あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。

呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高底のある地は平らになり、険しい所は平地となる。


こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。
声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。

人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。

見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。

だれが、たなごころをもって海をはかり、指を伸ばして天をはかり、地のちりを枡に盛り、てんびんをもって、もろもろの山をはかり、はかりをもって、もろもろの丘をはかったか。だれが、主の霊を導き、その相談役となって主を教えたか。

主はだれと相談して悟りを得たか。だれが主に公義の道を教え、知識を教え、悟りの道を示したか。 見よ、もろもろの国民は、おけの一しずくのように、はかりの上のちりのように思われる。見よ、主は島々を、ほこりのようにあげられる。レバノンは、たきぎに足りない、またその獣は、燔祭に足りない。主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる。

それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか。偶像は細工人が鋳て造り、鍛冶が、金をもって、それをおおい、また、これがために銀の鎖を造る。貧しい者は、ささげ物として朽ちることのない木を選び、巧みな細工人を求めて、動くことのない像を立たせる。

あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか。初めから、あなたがたに伝えられなかったか。地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったか。
主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り、また、もろもろの君を無きものとせられ、地のつかさたちを、むなしくされる。

彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、わらのように、つむじ風にまき去られる。

聖者は言われる、「それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか」。

目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない。

ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。

あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。

弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

このイザヤ書の御言葉に、主よ、本当にその通りです、と、筆者は心から言うことができる。

我が主よ、あなたは私が弱った時に力を与え、私に勢いのない時に、強さを増し加えられました。私が若くても弱り、疲れ、倒れ果てそうになった時、あなたが私を支えて下さり、新たなる力を与え、わしのように天高く舞い上がる力を与えて下さったのです。

だからこそ、誰が私を見捨て、裏切ろうとも、どれほど援軍が少なくなろうとも、どれほど数多くの誤解が生まれようと、そんなことには一切、関係なく、私は頭を上げて、あなたのお与え下さった義と聖と贖いに立って、あなたと共に大胆に前進し続けることができたのです。そして、あなたは地上のどこからでも新たなる援軍を、私のために呼び起こして下さることができました。そのことを私はこの目ではっきりと見たのです。

そこで、私はあなたの民でない人々に助けを乞うことは金輪際しますまい。主の民が、異邦の民に助けを求めるのでなく、異邦の民が、主の民に仕えるのです。私の助けは、ただあなたお一人からやって来るのです。
 
我が主よ、あなたがおられるからこそ、今、私は自由であることができるのです。あなたの知恵に満ちた深淵なお取り計らいに、私は心から感謝せずにはおれません。あなたのはかり知れない知恵とご計画は、私の理解を超えているとはいえ、私は自分の訴えがあなたに顧みられていないとはもう申さないことでしょう。私の道があなたに隠れているとも申し上げません。

どれほど私の道が不確かに見える時であっても、主よ、あなたが私の同伴者である限り、あなたは必ず、目的地まで正しく私を導いて下さることがおできになると、私は確信しています。私のこの言葉は、信仰による宣言としてこの先も私の人生に残り続けるでしょう。あなたが私の決意を心に留めて下さり、私を最後まで御言葉の内に保って下さいますように。

我が主よ、私は頭を垂れて言います、あなたこそ、私たちの期待に応えて下さることのできる方、あなたこそが、私たちにとっての真の解決であり、助け手であり、希望なのです。あなたは私たちの期待を決して裏切られることのない方です。私たちを失望に終わらせない方です。どうか、あなたにふさわしい大いなるヴィジョンを、この枯れた骨のような、死んだような民にお与え下さい。

そして、私たちが、もう一度、生きた者として立ち上がり、あなたの大いなる御名に、栄光を帰する存在となりますように。あなたの御名にのみ、栄光が帰されますように。地上のもろもろの事物、すべての生きとし生けるものたちが、こぞってあなたの御名を讃え、あなたに服し、あなたに感謝を捧げますように。

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(4)

 

いつの間にか、横浜は紅葉して秋の美しい風情となっていた。
ついこの間まで、冷房が必要だったのに、今は動物たちのために暖房が必要である。

朝晩の寒暖の差が激しくなり、あやうく小鳥が体調を崩しそうになったので、遠赤外線ヒーターを小鳥のヒナたちのためにつけてやった。
 
言い尽くせない激戦の一年間であった今年も、もう終わりに近づいている。
 
懸命に走り抜けている間に、気づかぬうちにすっかり季節が変わっていた。
上は分厚い書類の束を抱えて幾度も訪れた裁判所の光景であるが、去り際に、思わず見事な銀杏に見とれた。

心の重荷は過ぎ去り、喜びと、平安とが訪れる。
 
我が人生の中で、類例のない大きな試練の年であったが、なすべきことを立派に成し遂げ、立ち向かうべきものに毅然と立ち向かい、守るべきものを守り通したという、形容しがたい平安と満足感が心に溢れている。

もちろん、まだ何も終了したわけではないが、それでも、本当に第一とすべきことを第一として生き、それによって、神の恵みの大きさを知り、神が愛する子供たちをどれほどはかりしれない配慮をもって守り、導いて下さるか、その一端を知ったというすがすがしい満足感があるのだ。やはり、神の国の前進のために生涯を捧げること以上に、有意義な生き方はなく、神と同労して生きる以上の満足は地上には決してないと自信を持って言える。

だが、そのために大きな犠牲が存在したことは言うまでもない。何しろ、手探りで前進し、一切、人間的な助けを受けずに、神だけを頼りとして、二人三脚で進んだのである。一人の不慣れな人間としては、言葉に言い尽くせない試練があったことは間違いない。

まさに「死の陰の谷」のような暗いトンネルを通過したと言っても良いだろう。

しかし、その間に生じた著しい犠牲さえも、神はただちに安息のうちに補償して下さった。「主が与え、主がとりたもう、主の御名は誉むべきかな」という姿勢を貫徹したときに、失われたものが、わずかなうちに前よりも豊かに回復されたのである。

これは筆者にとって、天からもう一度与えられたヨブの子供たちに等しい。

神にはこの世の経済や物流を支配することなど何でもなく、私たちが損失だと思っているようなものはいくらでも回復することがおできになる。

だから、試練があっても、筆者の人生に損失は生じなかった。そして、追い詰められて窮するということもなかった。その結果はこれから徐々に表れて来ることであろう。

しかし、目に見える結果がはっきりと現れるよりも前に、筆者自身の人間としての内なる尊厳が、完全な回復軌道に乗ったことが分かる。このことが何より最も肝心である。

たとえば、普通の人々は、脅されれば恐怖におじ惑い、いじめられれば泣いて逃げ、中傷されれば、悩み苦しむだけの、弱く、臆病な人間であろうが、そのようなどこにでもいるありふれた人間とは異なる、キリストと共に天の王国を統治するにふさわしい力と威光と尊厳を備えた真に「新しい人」が、筆者の内側に姿を現し始めているのである。

この新しい人格は、どのような試練が起きようとも、御名の栄光のためにすべてを捧げて前進することができる勇敢な新しい人格である。だが、それは勇敢な兵士のようであると同時に、言葉に言い尽くせない平安に根差した実にチャーミングな人格でもある。

それをクリスチャンの用語では「キリストが内に造り込まれる」と言う。しかし、キリストの人格が私たちの人格の内に彫り刻まれ、形作られるために、まず必要なのは、試練である、と言うと、多くの人たちがそんな苦しみは御免だと、ためらって去って行くかも知れない。

しかし、この試練をくぐりぬけずして得られるものは何もない。試練の只中で、忍耐して希望を持ち続けて信仰によって進むとき、初めて、この世のすべての有様を超越した、何によっても揺るがされることのない新しい人格が内側から生まれて来るのである。この世のどんな利益とも引き換えにならない神への愛と従順が生まれて来るのである。

だが、それは一足飛びには行かない、本当に少しずつ、少しずつの進歩である。

そして、この原則は全ての信じる者たちに共通する。当初は状況に翻弄され、きりきり舞いさせられ、四方八方に助けを求めているだけのように見えたか弱い人の中から、少しずつ、信仰によって、神の強さが発揮され始める。束縛されて苦しめられているだけのように見えた人の中から、自由と尊厳が回復される。混乱し、悩みに満ちていたように見えた人の中から、揺るぎない平安と喜びが生まれて来る。

今日が恵みの日、救いの日、日々、囚われ人が解放され、悲しむ者が慰めを得、キリストにある新しい人が、弱った人々の中に、徐々に姿を現し始める。

もちろん、キリスト者は信仰を持った時から、御霊が内に住んで下さるのだが、それだけではすべてが完了ではなく、その人自身の人格、考え方、気質、行動が、長い時間をかけて、人間的な水準から、御国の水準へと、変えられなければならないのである。

こうして生まれる新しい人格には、力と権威と尊厳が伴っている。それは幼い日のヨセフではなく、キリストの御丈まで成長し、霊的に成人に達したヨセフである。神の御心が何であり、何をすれば、神に喜ばれるのかを知っている熟練した神の僕である。

その新しい人格がはっきり姿を表せば表すほど、信仰者の内側から、キリストのまことの命の支配権が発揮され、行使されるようになる。筆者はそう確信している。
 
筆者はまだまだ御霊による支配を十分に知ったとは全く言えないが、少しずつ、御国の前進が、目に見える形で地上に及んでいることを感じつつある。そこで、この先の歩みは、これまでとはかなり違ったものになるだろうと予感する。

さて、そろそろスローテンポにしていたブログ更新をリアルタイムに戻したい。
 
これまで幾度となく述べて来たことの繰り返しになるが、神の国とその義をまず第一に追い求めなさい、そうすれば、すべては添えて与えられる、という御言葉は本物である。

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:30-34)

この御言葉が真実であることは、筆者が生きて来た行程のすべてを振り返っただけでも、十分に分かることである。もしも神の国とその義を第一として生きるということをしなかったならば、筆者は今、ここに存在することさえきっとなかったのに違いない。

そこで、読者にも言いたい、もしもあなたがこの困難なご時世を、最後まで無事にそして勇敢に高貴な人として生き延びたいと願うならば、神の権益に関わる仕事をしなさいと。

真に御国の権益に関わる戦いを始めなさい。そのために持てるすべてを投じなさい。そうすれば、それを実現するために必要なすべてが、天から与えられる。誰にも助けを求める必要はない。このことは間違いのない教訓である。

だが、一体、何をすれば、神の御名に栄光を帰することができるのか? その方法は人それぞれに異なる。重要なのは、人間の利益のために奉仕するのではなく、神の利益のために奉仕することを第一に目指すことである。

私たちクリスチャンは、神の栄光が損なわれ、御名が傷つけられている現場を見たとき、これを素通りするのでなく、御名の栄光の回復のために働くべきである、と筆者は強く主張する。真実が曲げられ、正義が曲げられ、嘘と虐げと搾取がはびこり、何よりも神の花嫁たる教会が告発され、穢され、傷つけられ、蹂躙されているのを見たとき、これを素通りするのではなく、神が贖われた者を告発する者には、小羊の血潮に立って毅然と立ち向かうべきである。

キリストの花嫁なる教会は、キリストにとってご自分と同じほどに価値ある存在である。キリストがその命を捨ててまで愛され、贖われた花嫁である。その教会が蹂躙され、混乱に陥り、主の民が離散し、行き場を失うことを、果たして神が望まれるであろうか?
 
悪魔は立ち向かえば、逃げ去る、そう聖書に書いてある通り、そうして回復される権益は、この世のすべての利益にまさる、御国の権益である。このようにして、御国の権益を地上で拡大して行くことが、神の喜ばれる奉仕なのである。

とはいえ、各自が主の御名の栄光のために奉仕する方法は、様々に異なるので、御国の権益を守り、拡大するための戦いの方法には、決まった型があるわけではない。だが、いずれにしても、その戦いに共通している点は、一人一人が、自分が生き永らえることだけを第一目的として生きるのではなく、真に神の栄光を回復するために、御国の拡大のために、自分の人生を残らず捧げることである。

そうするときに、どんな困難が起きようとも、神があなたの人生に最後まで責任を持って下さり、平安のうちに必要のすべてが備えられる。あなたの望みを実現に至らせて下さるのは神である。明日の苦労といったものは、本当に些末な問題でしかないことが分かるだろう。もちろん、兵士である限り、戦いは激しく、厳しいかも知れないが、それを切り抜けるために必要な知恵も、助けも、慰めも、物資も、すべて天から供給される。

だから、あなたは自分が一人ですべてに立ち向かっているのでは決してないことが徐々に分かって来るだろう。それどころか、私たちを中心として、すべてのものが、やがて私たちの内におられるキリストの権威と支配に服従するようになるのである。

キリストが万物を足の下に統べ治める方であるというのは、絵空事ではなく、私たちキリスト者一人一人の生き様を通して実現する事柄なのである。だから、私たちは、キリストの支配が本当に自分の身の周りで実現するまで、彼がすべてを足の下にするのを見るまで、ずっと十字架を貫き通さなければならない。試練があったからと言って、決してあきらめて退却してはいけない。

天から竜を投げ落とすための秘訣は、小羊の血(贖いによる義認)に固く立って、試練があっても、死に至るまで証の言葉を降ろさないことである。

また、ゼカリヤ書で大祭司ヨシュアを訴えるサタンが罪に定められたように、今日も、神は、クリスチャンを訴える悪魔に対してこそ、有罪を宣告される。

そして、神は私たちの汚れた衣を脱がせ、新しい祭服を着せられ、清い帽子をかぶらせて下さる。ちょうど帰って来た放蕩息子が新しい服を着せられたように。これは私たちの人格の内なる造り変えを象徴する描写である。

そして、この造り変え、聖別は、日々行われる。このように神に守られ、愛され、義とされ、とりなされ、聖別されるために必要なことは、日々、神の戒めを守り、御言葉に従って歩み、祭司としてのつとめを果たすことである。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(一ヨハネ4:18-19)

このようにある通り、全き愛は、恐れを取り除く。だが、そのような完全な愛は、神への愛、何よりも、神が私たちを愛して下さる愛の中にしか存在しない。御霊によって、その交わりの中に入れられるとき、私たちの心の中から、恐れは取り払われる。そのように神の愛を知る時、私たちは初めて、どんな試練にも臆せず、自分の残るすべての生涯を、御国の前進のために捧げることができるようになる。それは決して自分自身の決意や力にはよらない。

だが、同時にその愛は、私たち自身の人格を造り変え、私たちを神にあって、他者との関係にも、御心をもたらすことができる人へと変えて行く。ヨセフはエジプトに売られた後、自分の生まれ育った故郷とも、父とも兄弟たちとも関わりがなくなり、長い間、彼らとは二度と会うことさえないと考えていたであろうが、それにも関わらず、神はその当時から、ヨセフを通して、彼の一家に恵みをもたらそうと決意されていたのである。

私たちが本当に神に対して自分を捧げるならば、似たようなことが起きる。私たちの存在は、そのものが「キリストによって神に献げられる良い香り」(Ⅱコリント2:15)となり、私たちの自覚とは関わりのないところで、他者を生かすために用いられるだろう。私たちは自分で何かをしてやったなどとは全く思わないかも知れないが、私たちの存在そのものが、神のご計画の成就のために欠かせない一部となるのである。(しかし、滅びる者にとっては、「死から死に至らせる香り」であり、救われる者にとって「命から命に至らせる香り」である。)

* * *

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
神のメシアの権威が現れた。
我々の兄弟たちを告発する者、
昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と
自分たちの証しの言葉とで、
彼に打ち勝った。
彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:10-11)

* * *


「時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。  主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。
ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、 み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。 わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。
主の使は、ヨシュアを戒めて言った、「万軍の主は、こう仰せられる、あなたがもし、わたしの道に歩み、わたしの務を守るならば、わたしの家をつかさどり、わたしの庭を守ることができる。わたしはまた、ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる。」(ゼカリヤ書3:1-6)


御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(2)

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかりと保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
(ヘブライ4:14-16)

前回、オースチンスパークスの論説が、御霊によって、御国の法則を示したものだと書いたが、そのことをもう一度、強調しておきたい。オリーブ園の記事「私たちのすべてなるキリスト 第四章 開かれた天(1)」を参考に挙げておく。
 
今回は、これを踏まえつつ、時宜にかなった助けを受けることの必要性について語りたい。

私たちと神との関係は、御子が地上におられたときの、御霊にあっての御父との関係と同じだという言葉はまさにその通りである。

御霊を通して、私たちは神に向かって「父よ」と呼びかけ、その御前に子として進み出ることが許されているのであり、あらゆる必要を希う権利が与えられているのである。そして、主イエスは地上におられた間、絶えず隠れたところで御父に祈りを捧げられ、御父からまことのいのちの供給を受けられた。

私たちはこの権利を地上において行使する必要がある。この天につづくはしごを活用して、絶えず天を地に引き下ろさなければならないのである。

ただ、その作業のためには、積極的に願うこと、平安の中で願ったことが必ず実現に至ることを信じること、大胆に目的へ向かって進んで行くことが必要となる。

特に重要なのは、平安を失わないことである。平安が基礎とならないと、神に願いを申しあげても、それが実現すると信じることさえできない。そして、信仰に基づいて確かな足取りで歩んで行くことができないのである。
 
筆者は、かつてすべての教団教派を離れ、約1年ほどかけて、幼い頃から受けたキリスト教の教育で学んだ経験や知識もすべて脇において、まことの神ご自身は一体、どういう方なのか、聖書の御言葉が意味するものは何なのか、個人的に熱心に尋ね求め、そして神ご自身がそれに応えて下さり、直接、神を知った時から、筆者が神の子供として受け入れられている事実、神が今日も生きて働いて下さる事実を疑ったことはないし、信仰をなくしたことは一度もない。
 
その時から、人間の生きる目的のすべては、神を知ることにあり、自分自身の利益のためでなく、神のために生きるという一事のためにあることを確信して来た。

それは明らかに筆者自身の力によって得られた信仰ではなく、御霊を通して与えられた信仰であったと言える。なぜなら、筆者は教会生活を送っていた頃に、そのような確信を得たことが一度たりともなかったからである。

しかし、それでもその後の信仰生活には波乱がなかったわけではない。そして、最も大変な時に、一度だけ、果たして自分が本当に子として神の御前に恵みを求めて進み出ることが許されているのか、何かひどい疑いのようなものがついて回ったことがあった。

筆者は、これは暗闇の勢力からの攻撃ではないだろうかと感じ、それにどう抵抗すれば良いのか考えあぐねた。その頃、想像を絶することが次々周囲で起き、それはどれを見ても、まさにすべて暗闇の勢力からの攻撃としか言えない現象ばかりであった。

しかし、そうした疑惑は、それでも自分の心を頼りとせず、御言葉への信仰により頼みつつ、一定期間を過ごした後に、まるで暗いトンネルから抜け出て光のもとに出るように、あるいは霧が晴れるように取り去られ、気づくと以前と同じような大胆な確信の中に入れられていた。不明な圧迫に対しては、御言葉に基づき、とことんまで抵抗することで、暗闇の勢力との戦いが打ち破られて、重荷が取り去られたのであろう。
   
クリスチャン生活の中には、あまりにも戦いが激しく、防衛戦で手一杯となり、積極的に新たな霊的領土を征服するための攻撃戦に出て行くことができなくなり、何かを願うことさえ不可能に近い心理状況に追い込まれることがありうることは、幾度か書いて来た。

それはちょうどイエスがゲッセマネの園で、血の汗を流して祈られたという場面にも重なるかも知れない。むろん、私たちの誰一人、そのようなまでの苦境を通らされたことはないが、その時、主イエスの願いは、ただ十字架という杯を避けられるかどうか、という一事に絞られ、それまでのように、御父との優しい絶え間のない交流を得て、慰め、励まし、助けを得、すべての必要を父に満たしていただくために祈られたわけではなかったのである。

そういう、心の最後の平安までも失われたかに見える激しい心の戦いが、クリスチャン生活にないとは言わない。時には、神の御旨と自分の意志との間にずれが生じ、言い争いのようなことが起きることがないわけではない。
 
しかし、ほとんどの場合、私たちの祈りは、御父に向かって、自分の心の中にあることを穏やかに告げて、神の御心を示して下さいと率直に求め、神の御旨を信頼して自分を委ね、必要な助けを求めることである。

大きな試練の中にあって、何かしら神の取扱に納得できない事柄があったとしても、私たちの祈りは、最終的には、自分のすべてを神の御手に委ねて、御心の通りになさって下さいと申し上げる形で終わる。

そして、私たちが御旨に従うからこそ、必要な助けが与えられるのである。

平安は、その明け渡しの作業が完了した時にやって来る。大胆に恵みの座に進み出て、時宜にかなった助けを受けるとは、あれやこれやの自分の必要性を神に訴え、助けて下さいと願うことも含んでいないわけではないが、何よりも、この心の平安――私たちが確かに父なる神によって子として受け入れられ、贖われ、愛され、キリストの中にあって、聖霊によって、助けを得ているという確信――もっと言えば――すべての戦いは十字架においてキリストの勝利により決着がついており、その勝利は私たちのものであるという確信――を得ることである。言い換えれば、その十字架を通して、御父、子、聖霊の交わりの中に、私たちが確かに入れられているという確信を得ることである。

その確信が基礎となって、初めてすべての必要を神に願うことが可能になる。まず、子としての立場がなければ、何一つ御父に願う資格すらもないためである。

そして、子としての平安に満ちた確信は、私たちが神にあって、自分の全てをこの方に委ね、神の御心に従って生きることに同意することによって得られるのである。

地上のサラリーマンの給与は、企業などの団体に所属して、その団体の利益に奉仕することによってしか得られないであろう。しかし、天の御国の収穫のために、天に奉仕する働き人は、神の御旨に奉仕することによって、必要のすべてを満たすことのできる目に見えないサラリーをもらっている。もちろん、働きとは関係なく、子として養われている分もあるが、その上に、働きに応じた報酬も存在するのである。

私たちの本当の雇用主は、こういうわけで、天の父なる神なのである。
 
このことは幾度も書いて来たが、私たち信者が、真に天の御国の権益に関わる事柄に奉仕する時、それに必要なものは何もかも上から添えて与えられる。そこで、どうやって生きるかということだけを最優先課題として、地上の生活を第一に心配し、そのせいで御国への奉仕を後回しにする必要がなくなるのである。神が承認されたプロジェクトには、神がそれを完遂するために必要なすべての手段を与えて下さる。
 
そこで、神は何をするにしても、まずは私たちの動機を問われる。

「あなたのしようとしていることは、あなた自身のためなのでしょうか。それともわたし(神)の栄光のためなのですか。」との動機が問われるのである。

神は、聖霊の見えない証印が押され、確かに神の栄光のためになされたことでなければ、後押しされないし、責任も負われない。人間が自己の判断で自分の利益のために行ったことについては、神は決してこれを守ったり、ご自分から出たことであるかのように擁護し、責任を負って下さることはないのである。

だが、私たちは多くのことを自分の必要を満たすために行っている。いちいち御心を問うこともしていない。そして、そのすべてが、御国の収穫のために行ったとどうして言えるだろう?

ところが、そう言える根拠が存在するのである。パウロは、食べることや飲むことまでもすべてキリストのために行うと述べている。同様に、私たちは日常で行っているすべてのこと――それがたとえ直接的には神の栄光に関わりがないように見えても――をすべて神の栄光のために行うことができるのである。それは私たちの全き献身、自分のすべてを神に委ね切ることから始まる。

神への明け渡しは、繰り返すが、「私はあなた(神)の栄光のために生きます」と宣言し、自分のすべてを神に委ねることである。

たとえばある企業が、より大きな企業に吸収合併されれば、その名も、資産も、すべてが合併された会社に属するよう変更される。資産だけでなく、赤字も、合併した企業のものになる。

私たちが絶えず神への献身を行って行くとき、同じようなことが起きる。私たちの諸々の行動の中には、果たしてその出所が定かでないことも含まれているかも知れない。知識が足りないがゆえに及ばなかった行動があったり、私たちが何が神の御心であるかを自覚できていないまま、それが神の御心にかなうと一方的に考え、あるいは誤解していたような事柄さえも、含まれているかもしれない。後になってみれば、何と考えが足りなかったのだろうと思われることが多くあるかも知れない。
 
それはいわば赤字である。

だが、それも含めて、私たちが自分のすべてを正直に心から神に委ねる時、神が私たちの人生に対して最終責任を負って下さるのである。赤字をたくさん作って、にっちもさっちもいかなくなってから、自分よりも大きい企業に身売りをするのは、あまり良いやり方ではない。しかし、立ちゆかない経営を続けて倒産し、すべての従業員と家族を路頭に迷わせるよりはましであろう。

私たちのために重荷を担われる主、と聖書にある通り、十字架において人類のすべての負債を身代わりに背負うことのできた方には、今日も、私たちの抱えているすべての重荷を負って下さることができないはずがない。

だが、もちろん、神に都合よく重荷だけを押しつけ、自分は恵みにだけあずかりたいというような生き方は、初めて悔い改めて神に立ち帰る信者なら許されても、いつまでもそのようなことを続けていれば、誠実な献身とは言えないだろう。
 
私たちの主人に重荷ではなく、収穫をもたらすために、良い僕として働き、共に同労するという道があるはずである。

私たちは地上にある間は、神から離れて生きている。心には聖霊を通じてキリストが住んで下さっても、体は神から離れている。そして、この神から離れている部分は、私たちを絶えず、さらに神から引き離そうと圧力を加える。

しかし、私たちは自分たちの霊の内側で、それとは逆のベクトルの力を行使して、自分の体を霊に従わせる。飲み食いは体の仕事であるが、それも神のために明け渡すことで、体の働きをも聖別することができる。

こうして、自分自身を絶え間なく神の御旨の中に委ね、すべてのことを自分個人のために行うのではなく、神の栄光のために行うことを告白し続け、自らのあらゆる行動の動機を神に委ね続けるのである。

何かひっきりなしの異言の集会や、訳の分からない恍惚体験に身を委ねるのではなく、人の見ていない隠れた場所で、はっきりとした自覚を持って、自分自身の人生が、もはや自分のためにあるのではなく、神のために存在することを告白し、自分について、自分で把握できていることについても、把握していないことについても、すべてを神に委ねるのである。

その時、神があなたの人生に最終責任を負って下さり、どれほどあなたの人生に複雑に錯綜した幾多の問題があろうとも、神が必ずそれを最後まで解決へと導いて下さるという明確な平安が心に訪れる。その時から、あなたの心に秘密はなくなり、神との間に言い争いもなくなり、あなたはすべての問題について、神と同労しながら進んで行くことができるようになる。

そして、重荷が去った暁には、願うことを自由に口にできるようになる。

保護者の許可がないと多くのことができない子供には、願っても実現できない数多くのことがあるが、大人になれば、自分で行きたいところへ行って、したいことができる。大きな事業も始められる。
   
神はあなたがキリストにあって成人となり、自らの意志で神に従うことを選びつつ、神に栄光をもたらす多くのことができるようになるまで、ずっと後見人として付き添って下さる。御父が望んでおられるのは、信者が暗闇の勢力との戦いでへとへとになるまで、ただ防衛戦だけをいつまでも繰り広げることではなく、あらゆる圧迫を大胆に打ち破って、その先に、自由の中で、勝利の生活を打ち立てることにある。そして、その法則を、自分だけで楽しむのではなく、多くの人々に伝え、他の人々を自由へと導くことにある。
  
その時、あなたの祈りが、あなた個人だけでなく、あなたを取り巻く社会に対しても、影響を及ぼし、兄弟姉妹にも影響を及ぼし、祭司としての働きが始まるのである。それは決して、あなたが福音伝道をして何人がキリスト教に改宗したかといった問題とは関係ないことである。あなたが周囲に影響を及ぼしていることは、あなたには分かっても、他の人々にはほとんど分からず、そのことがあなたに栄光をもたらすこともない。

しかし、それでも、不思議なことに、あなたは周囲の人々に仕えながらも、彼らがあなたのために仕えているという逆説的な現象があることに気づくだろう。あなたの中におられるキリストが、あなたを通して、あなたを取り巻く社会に対しても、中心的影響力となっておられることに気づくだろう。そして、キリストこそ、全ての中心であり、万物を足の下に支配される方であることを知るようになるだろう。

私たちに与えられている時宜にかなった助けは、ただ自己保存という目的のためだけにあるものではなく、御国の法則を地に引き下ろすため、御国の拡大という霊的前進のために与えられているものである。

その前進に伴い、山上の垂訓が、信者の生活の中に確立し、生ける水の川が、信者の人生の中で、渇いた土地を肥沃にしていくということが起きなければならない。私たちは、御父に受け入れられたまことの大祭司なるキリストを通して、私たち自身も祭司となって、御前に進み出て、神の憐れみ深さ、愛の深さ、恵みの豊かさが、私たちの自己満足のためでなく、神の栄光のために、目に見える実際となって現れ、自由がもたらされるよう、絶え間なく、恵みの座に進み出て、飽くことなく懇願し、これを追求し続けなければならないのである。