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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

十字架の死と復活の原則―カルバリに住む―権勢によらず、能力によらず、ただ神の霊によって生きる―

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃え盛る火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。

もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(Ⅰペテロ4:12-14)

* * *

キリスト者は荒野の中で泉を探して地中を深く掘り続けているうちに、ついに願っているものに達した。神が信じる者のために用意して下さった尽きることのない命の水脈を発見したのである。

そこで、次なる課題は、灌漑設備を作り、命の水を荒れ果てた大地に広く流れさせ、土地を潤し、再生させるための装置を建設することにある。

生ける水の川々が流れだす秘訣は、十字架の死と復活にこそある。

キリスト者が自己を否んで十字架を負う時、そこに復活の法則が働く。信者は束の間、低められても、それがまるで嘘だったかのように、高く引き上げられ、重い栄光に満ちた瞬間を見る。

日々、主にあって、ほんの少しの軽い患難を負い、自分が低められることや、誤解されたり、栄光を奪われることに同意し、常に何者かでありたいと願って、人前に栄誉を受けようとする自己の願望を退け、十字架の死を負うならば、信者が自分自身で「何者かになろう」と努力する代わりに、主が信じる者を高く引き上げて、願っておられるところに到達させて下さる。人間の願いではなく、神が願っておられることが何であるかを見せて、実現して下さる。その時、多くの場合、信者一人だけでなく、信者を通して、多くの人々が潤されることになる。

この復活の命の現われこそ、御座から流れる生ける水の川々である。

* * *

ウォッチマン・ニーは、クリスチャンが生ける水を流し出す秘訣を「血の高速道路」と呼んだ。

血の高速道路とは、何ともすさまじい表現ではないだろうか。十字架が、文字通り、剣のように、クリスチャンの自己を貫き通し、刺し通すという意味である。つまり、主にあって真に祝福を得たいと願い、主と共に栄光を見たいと思うなら、その信者は、主と共に十字架を負い、自分が低められることに同意しなければならない。キリスト者の自己が裂かれた分だけ、生ける命の水の川々が、そのキリスト者自身から流れ出すのである。

その血がにじむほどの、いや、血が噴き出るほどの苦しみが、高速道路と表現されているのである。おそらく、それは他者がそのキリスト者の栄光を奪い、彼を踏みつけて、その上を走って行くことにも同意せよ、という意味であろう。

これはある意味、キリスト者が主にあって負うべき苦しみの極致を示していると言える。最終的には殉教を指している。

しかしながら、クリスチャンは殉教といった巨大なスケールに達するよりも前に、これをもっとごく小さなスケールで繰り返して生きており、日々、信者が神の国の義のために、神への愛のために、他者への愛のために、人知れず自分を裂き、注ぎだした分だけ、そこに命の法則が働くというのは確かな法則なのである。

ところで、殉教といった言葉を聞くと、必ず、反発する人たちが現れる。そういう考えはカルト思考だというのである。しかしながら、聖書の神は、願ってもいない人たちに、殉教を強制されるようなことは絶対にない。だから、クリスチャンが神のために死を強いられているなどといった考えは全く正しいものではない。たとえば、かつての日本がそうであったように、皇国史観に基づいて天皇のために国民に強制された死と、クリスチャンの殉教を並べて論じるのは正しいことではない。
 
キリスト者が日々、主と共に負っている十字架は、あくまで霊的な文脈であり、信仰によって、信者が自主的に同意して成るものである。そして、キリストを信じる者にとって、十字架の死は、決して死で終わることなく、復活という、実に栄光に満ちた事実と分かちがたく一つである。人間に過ぎない君主のために命を捧げても、何の見返りもないであろうし、それは人情の観点からは讃えられても、何も生み出すことのない無駄な犠牲でしかない。

だが、キリストはまだ我々が罪人であり、背く者であった時に、我々のために十字架でご自分の命を与えて下さったのであり、我々はそのまことの、永遠の命にあずかり、その命をこの地上に流し出し、主と共に天で永遠の栄光を受けるためにこそ、カルバリの十字架に自分を重ね、日々、主と共に自分が死んだことを認め、彼の死に自分を同形化するのである。
 
クリスチャンは、こうして日々、主と共に死を負うことにより、苦しみが苦しみで終わらず、患難が患難で終わらず、死が死で終わらず、御名のゆえに負った苦難には、どんな小さなものであれ、必ず、絶大な命の法則が働くことを実際の体験を通して知っている。

筆者もまた十字架の死と復活の法則が確かなものであることを、日々、自分の意志によって試しており、そこに相応の成果を見ているので、このやり方に間違いはないと確信している。

信仰の初歩においては、信者は殉教などといったテーマを考えることなく、日々の小さな十字架から始めるのが良いだろう。そうしているうちに、最終的にもっと大きなスケールの試練にも耐えうる力が養われる。

だが、信仰者にとって、一体、何が主の御名のゆえに負う「十字架」であるのか、一体、何が後々、天の栄光に満ちた益をもたらす土台となりうる苦難なのかは、人間的な観点からは、はっきりとは分からず、見分けがたいとしか言いようがない。

たとえば、人の目から見て、空振りや、無駄でしかないと見える様々な事柄、もっとうまくやりさえすれば、時間を短縮して、浪費を少なく出来たはずなのにと後悔するような出来事であっても、あるいは、みっともない恥だ、失敗だ、と思われるような出来事さえも、信仰の観点からは、損失でないばかりか、後々、えもいわれぬ大きな収穫を生み出す土台となることもあり得るのだ。おそらく、神の観点から見て、信者が御名によって耐えた全ての試練に、無駄というものはないのではないかと思われてならない。

たとえば、筆者は、ある年末年始の休日に、歯痛に襲われ(実際には一時的なストレスから来るもので病気ではなかったのだが)診療所を探して行ってみた。すると、祝日にも関わらず、待合室は大混雑して、長蛇の列ができており、待ち時間が一時間以上に渡り、パイプ椅子が並べられていたにも関わらず、数が足りず、子連れの親も数多く来て騒がしかった上に、診療それ自体も、決して良い雰囲気ではなく、結局、大した治療もできず、しかも病気でもないことが判明し、筆者は疲労だけを手に完全な無駄足だったと思いながら帰途に着いたという出来事があった。

ところが、その後まもなく、実に不思議ないきさつで、その診療所のすぐ近くに拠点を構えるある企業に仕事上でお世話になる機会を得たのであった。筆者が無駄足だったと思いながら、疲れて帰途に着いている時には、そのような縁が生まれることを予測せず、地上で誰一人、そのようなことが起きると知る者もなく、筆者自身も、その会社組織の存在さえ知らなかったが、今となっては、歯科医を探してその場所へ赴いたこと自体が、まるで未来へ向けての下見のようであった。神はそのような全くの無駄に見える出来事の中にさえ、しっかり働いておられ、不思議な形で、この出来事を新たな有効な出会いへと結びつけて下さり、筆者と共に生きて働いて下さっていたのである。この話には後日談もあるのだが、それはまたの機会にしよう。

さて、筆者は、キリストの復活の命に生きるために、何年も前にこの土地へやって来たのだが、長い間、悪魔の巧妙な策略のために、生ける水の川々を流れさせる法則をうまく掴めないでいた。

それは、かつて筆者の周りにいたクリスチャンたちの間では、主のために信者がすすんで負うべき苦しみについて、ほとんど語られなかったせいでもある。あるいは、語られることはあっても、実践されなかったのである。

その当時、筆者を取り巻いていた交わりでは、信仰者が主のために苦しむこと、いわれなき苦難を負うこと、主のために損失や、恥や、無駄を負うことについては、何か時代遅れの気まずい話題のように避けられ、信者が神を信じたことによって得られる祝福や恵みばかりが強調されていた。

信者たちは、仲間内で、自分が神に愛されている者として、他の人々には与えられない優れた祝福にあずかり、どれほど幸福に生きているかというイメージを演出することを、一種のお約束事のようにしていた。そうすることで、彼らは自分たちが他の信者たちの及ばない霊的高みに達している証拠のように誇示していたのである。

だが、筆者はこれにいたく疑問を感じていた。筆者はもともと世故に長けて器用に立ち回ることによって、己が力で人生の成功者となりうるような才覚の持ち主ではなく(もしそんな才覚が生まれつきあれば、自己過信して、神を求めることもなく、キリストに出会うこともなく、信仰を持つこともなかったであろうから、そのような手練手管を持たなかったのは、極めて幸いなことであり、また、それが神の筆者への特別なはからいであり、愛に満ちた恵みであることを疑わないが)、さらに、確固たる信仰を持つよりも前から、筆者はそのような地上的な成功を目指して生きることに、何の意味をも感じていなかったので、人生の成功だけを全ての価値のようにみなすこの世の不信者の社会においてならばともかく、信仰者の社会においてまで、自分が「上手に器用に立ち回って失敗を避け、そつなく生きている成功者」であり、「霊的勝ち組」であるかのようなイメージを演出して自己の成功を誇る空気には、全く同意できなかった。

そのため、仲間内で器用に立ち回って賞賛を浴び、他人の名誉が傷つけられても一向に平気であるにも関わらず、自分の名誉が傷つけられることだけには敏感で、それが起きないように先手を打ち、あるいは自分に歯向かう者には策謀を巡らして徹底的に報復し、自分だけは人と違って高みにいて幸福だと豪語して、他者の苦しみを高慢に見下す周りのクリスチャンたち(?)(おそらく彼らはクリスチャンとは呼べまいが)のあからさまな自慢話を聞かされる度に、筆者は首をかしげ、悩まされ、苦しめられていた。

幾度か、彼らのあまりの自画自賛のひどさに耐えきれず、それとなく間違いを指摘してみたこともあったが、しかしながら、いかなる説得によっても、彼らの強烈な思い込みを変えることは無理であった。

ついに最後には、筆者と彼らとの生き様や信仰的な立場の違いは、否定しようにも否定し得ないほどの大きな溝となり、彼らから見れば、筆者の存在自体が、彼らのままごと遊びのようなお楽しみの括弧つきの「信仰生活」に水を差すもの、彼らの虚飾の栄誉をいたく傷つけるものでしかないと感じられたのだろう。彼らは、すでに上流階級の特権的社交界クラブと化していた彼らの偽りのソサエティから、筆者を似つかわしくないメンバーとして除外したのであった。(ただ除外しただけでなく、相当な報復をも加えたのである。)

筆者は、彼らの進んでいる方向が、根本的に聖書に相違する間違ったものであることを随分前からよく分かっていたので、そのような結末に至ることを予想済みであったが、何とかその結末を食い止めて、彼らを真実な道に立ち戻らせることができないかと当時は思っていたので、その願いにも関わらず、目の前にいる生きた人間から排斥され、残念と思われる結果に至ったことに、何の痛みも感じなかったわけではない。

だが、その体験は、主にあって、筆者の人生でまことに幸いな実を結び、大きな恵みを受けることへとつながった。それからほどなくして、筆者は自分が神に出会って後、心から正しいと確信していた通りの、聖書に基づく、純粋で素朴な信仰生活に何の妨げもなく平穏に立ち戻ることができただけでなく、まがいものの交わりの代わりに、もっと親しく愛情に満ちた豊かな交わりに加えられ、人生の別な方面においても、収穫を得たのである。

その後も、色々なところで、類似した出来事が繰り返された。誤解や、非難や、対立や、排斥といった出来事は、往々にして起きて来るものであり、クリスチャンと呼ばれる人々の中では、特に、激しい戦いが常に起こるものであるが(なぜなら、真に聖書の御言葉を実践して、神に忠実に従う信者は、クリスチャンを名乗る者の中にも、極めて稀だからである)、今、思うことは、信者がそういった何かしらの尋常でない苦しみや痛みを伴う事件に遭遇し、人の誤解や、非難や、嘲笑、排斥に遭遇し、慣れ親しんだコミュニティを離れることがあったとしても、そのような出来事のせいで、傷ついたり、落胆する必要は全くないということである。

むしろ、信者が地上において、主に忠実に従うがゆえに、人からの拒絶を受ける時には、常にほどなくして、それに相応する天の栄光が待ち構えていると言って良いから、それを待ち望むくらいでちょうど良いのである。信者が主に従う過程で負った苦しみには、どんなものであれ、必ず、天での報いが伴う。

だから、信者は、人間に過ぎない者たちの言い分や、人の思惑に振り回される必要がなく、また、自分の地上生活における苦しみだけに注目して、落胆したりする必要もなく、それとセットになって天に備えられている絶大な栄光に思いを馳せ、神が地上の軽い患難と引き換えにどのような大きな喜びをもたらされるのか、それだけを心に留めて進んで行くべきなのである。

繰り返すが、信者が地上でいわれなき苦難を黙って身に背負うとき、神はその信者の態度をよく見て下さり、信者のどんな些細な苦しみに対しても、予想だにしない大きな祝福を備えて待っていて下さる。

むしろ、そのようにして、自分が地上で低められ、恥を負うことによって、十字架の死を負う態度がなければ、信者はキリストの死に同形化されることができず、キリストの死に同形化されていない者が、キリストの復活に同形化されることは決してない。

つまり、信者が主と共に十字架を負うことに同意しない限り、その者に神の復活の命の現われが見出されることもないのである。主の死を共に負わない信者が、キリストと一つであると豪語するのは、嘘であり、悪魔の罠でしかない。主の死に同形化されずに、主の復活にあずかろうとする者は、神に従うどころか、逆に悪魔と同じ高慢さに落ちて行くことになる。これは大変恐ろしい罠である。

聖書ははっきりと告げている、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)。これは世人のみならず、まさにクリスチャンを名乗る人々にも同様に当てはまる事柄である。

いのちに至るための小さな門、狭い道とは、主と共なる十字架の死のことである。主と共に、人前に蔑みや、排斥や、そしりを負い、自分で自分を高く掲げないことである。もし神の御前で高くされたいなら、その人は、まず低くされることに同意しなければならない。神と人との前に真に賞賛に値する者とされたいならば、まず、人前に低められ、誤解されたり、そしられたり、嘲られたり、のけ者にされたり、拒まれ、栄光を奪われ、無とされることに同意しなければならない。その経緯を辿って初めて、天の栄光にあずかることができるのである。

筆者がしばらくの間、生ける命の水の川々を流し出す秘訣を十分に知らずにいたのは、この絶えざる十字架の死こそ、復活の命の現われであると、まだはっきりと気づいていなかったためである。信者の信仰生活につきものである苦難を驚き怪しむどころかこれを積極的にキリストの苦しみにあずかる機会として用い、御名のゆえに、自己を余すところなく十字架の死に渡すことが、どれほど絶大な喜びへとつながるか、まだ具体的に十分には知ってはいなかったためである。
  
クリスチャンになってまで、主のための苦しみを避け、自分が人生の成功者であり、失敗や痛み苦しみとは一切無縁であるというイメージを醸し出しては、それを神の恵みと称して、人前に誇っているような人々は、ただ自分の生まれ持った肉の力を誇っているだけである。だが、人が生まれ持った人間的な手練手管によっては、誰も、神が信じる者のために備えて下さっている天の栄光にあずかることはできない。

旧約聖書に登場するヤコブは、自分の手練手管により、兄であるエサウを出し抜いて、長子の権を奪うことには成功したが、その後、彼より上手だったラバンからしたたかに利用され、つらい様々な紆余曲折を経なければならなかった。ヨセフは、父のお気に入りの息子として、他の兄弟たちにまさって親の愛を受け、自分が将来、兄たちの上に立つ支配者になることを幼い頃から予感していたが、その栄光に満ちた召しへたどり着くためには、兄弟たちに裏切られて、奴隷として売られ、家からも親の愛からも遠く引き離されねばならず、さらには使用人として仕えていた家でも、主人の妻の偽りの証言がもとになって、いわれなく投獄されたり、相当につらい体験を味わわなければならなかった。モーセも、エジプトの王子として育てられ、言葉にもわざにも力があったが、イスラエルの民をくびきから解放するという光栄な召しを果たすために、神によって指導者として立たされるまで、長い間の失意の逃亡生活を耐えなければならなかった。

待望の息子が生まれるまでに肉の力が尽きるまで待たされたアブラハムとサラは言うに及ばず、このようにして、天の栄光が信者に現れるためには、必ず、信者が地上で低められるという過程がなければならない。それによって、信者が生まれ持った肉の力が尽き、どんなに生まれつき才覚のある人間でも、もはや自分自身の力で自分を高く上げることができなくなったときに、信仰によって、神の力がその人に臨み、人間の努力や才覚によらず、ただ神の霊により、神の御言葉により、その信者を通して、神のご計画が成就し、信じる者がキリストと共に高く上げられるということが起きるのである。

筆者は、20世紀に地上の人間として生まれ、人間としての常識を持っているために、さまざまな問題が持ち上がる時、人間的な観点から、常識に従って、その解決方法を考えないわけではない。時には、専門家と呼ばれる人々に助けを求めたことがなかったわけではない。ヨセフがポテパルの妻の讒言が災いして投獄されていた時、一刻も早く釈放されたい願いから、他の囚人に助けを求めたように、人間の助言や力に頼ろうとしたこともないわけではない。だが、そういう方法では、決まって問題が解決せず、かえってこじれることの方が多いということを、筆者は思い知らされて来た。

つまり、神が信者のために供えられた苦難に対しては、神が定められた方法でしか、解決が与えられないのである。そして、その解決とは、人間の力によらず、ただ神の御言葉から来る。

人間は、自分の体に不調があれば、医者にかかれば治ると思うかも知れない。それがこの世の常識である。だが、結局、医者ができることなど限られており、人間の体を健康に戻す最大の力とは、その人の生命それ自体に備わった自然の治癒力にこそある。そして、しばしば医者の助言は、患者にとって極めて有害なものともなりうる。たとえ大手術をしても、手術が患者を救うのではなく、その手術から回復する力がなければ、むしろ、手術自体が命取りになりかねない。そして、本当に必要な手術でない手術も、病院では「治療」と称して極めて多く行われている。
 
人間が生まれ持ったアダムの命の治癒力には限界があるが、この治癒力を他のどんなものよりも効果的かつ完全に発揮できるのは、キリストの復活の命である。そこで、キリストの復活の命を持っているということは、その信者が、あらゆる問題を、主と共に、自らの力で解決することができる立場に立っていることを意味する。

同様のことは、病気だけでなく、人間が遭遇するあらゆる問題に共通する。何かしらのこじれた問題が起きれば、人は弁護士のもとを尋ねたり、裁判所に赴いたり、警察に赴いたりすれば、解決が早まると信じるかも知れない。だが、その問題を解決する力は、そのような識者や専門家にはなく、その人自身の霊的な状態と思考力、その人自身の判断力、交渉力、決断力にこそある。

だから、筆者は、今となっては、様々な問題が発生する時に、その解決を、この世のどんな「専門家」に委ねようとも思わない。そのような人々に接近して、自分の問題解決を委ねた信者たちがいることは知っているが、彼らの末路は決して明るいものではなかったとはっきり言える。

幾度も述べて来たように、医者に頼る者は、不安を煽られて、切除しなくても良い臓器まで切り取られて健康を失い、裁判に頼る者、警察に頼る者は、信仰の道から逸れて、人間のプライドを立てるためだけの終わりなき闘争に引きずり込まれて行った。

神は筆者に対して、そのような方法を決してお許しにならなかった。そこには何か目に見えない線引きがあって、他の人たちにはできることが、筆者には許されず、神ご自身がはっきりとそれ以上、その道を進んで行ってはならないと、ストップをかけられるのである。つまり、人間的な力を用いて、自分の名誉や権利を力づくで取り返そうとすることを、神は決して筆者にはお許しにならない。これは極めて厳粛な線引きである。そして、このような神の知恵と守りがなければ、信仰の道から脱落した他の信者たちと同様、筆者も誤った道に容易に足を取られていたであろう。

神は筆者に対してこのように語られる、「ある人々は、自分の名誉が傷つけられれば、徹底的に相手に報復することで、自分が潔白であると主張しようとするでしょう。そのためならば、他人に濡れ衣を着せて告発したり、有罪に追い込み、悪口を触れ回ることをも辞さないでしょう。しかし、あなたはそのような人たちが、自己を守るために引き起こしている絶え間ない争いを見て、それを美しいと思うでしょうか。そこに栄光を見るでしょうか。むしろ、その反対ではないでしょうか。

クリスチャンとは、人を罪に定めるために召された存在ではなく、神の和解と赦しを勧めるために召されたのです。人を告発し、罪に定める仕事よりも、人に罪の赦しを宣べ伝え、解放を告げる召しの方が、どれほど栄光に満ちた、名誉ある、感謝される仕事であると思いますか。どちらがあなたに栄光をもたらす仕事だと思いますか。あの不正な管理人のたとえ(ルカ16:1~13)を思い出しなさい。

だからこそ、信者には、この召しの実行のために、人前に甘んじて不義を受けるという態度が必要なのです。私があなたの義である限り、あなたの潔白はゆるぎません。誰もあなたを再び罪に定めることのできる存在はありません。しかし、私はあえて私の愛と栄光を、信じる者たちを通して地上に現したいのですよ。そのために、あなた方に、反抗する罪人たちに、終日手を差し伸べる者となって、私の耐えた苦しみを、あなた方にも共に背負ってもらいたいのです。私が神であるにも関わらず、その栄光を捨てて地上に弱い人間として生き、その中でも最大の恥辱を負って十字架にかけられることを辞さなかったように、その愛にあなた方もならって、地上で自分を低くすることで得られる天の栄誉の大きさをを共に知ってもらいたいのです。それによってしか、私の栄光をあなた方が共に得ることはできないのです。」

だから、信者は、どんな瞬間にも、自分は主と共にすでに死んでいることを思い、日々、人生に起きて来る、ごく些細な苦しみに同意して、神の御前に自分を低めることによって、ただ神だけがなしうる不思議な方法で、その些細な苦しみと引き換えに、それとは比べものにならないほどの、絶大な天の栄光が与えられるのを確認するのである。

信者にとって真のリアリティは、苦しみではなく、それと引き換えにもたらされる天の栄光である。地上的な試練は、ほんの束の間に過ぎ去るものでしかない。たとえば、車の運転をするときに、障害物だけを見つめて運転していたのでは危険であろう。また、障害物が現れたからと言って、それを迂回せず、無理やりどけてから進むという者はいないだろう。そんなやり方では1mも前進はできない。

同じように、信者の信仰生活には、様々な「試練」や「苦難」や「障害物」が現れて来るが、信者はそれを見つめず、あくまで進むべき進路だけを見つめ、道の先に待っているもの、目指している目的地だけをまっすぐに見つめるのである。それが天の都、信者が主と共にあずかるはかりしれない永遠の重い栄光である。

多くの信者たちは、障害物がリアリティだと思い込んでしまうので、そこでつまずいて前に進めなくなってしまう。自分が傷つけられ、栄誉を奪われれば、取り返さねばならないと思い、目の前に何か大きな障害が立ちはだかって、前進が妨げられているように見えるときには、その問題を解決しない限り、前に進めないと思い、主と共に解決を落ち着いて考えようともせずに、苦しみから早く逃れようと、不安を煽られて、専門家のもとを闇雲に走り回り、無用な忠告を受けて道に迷わされ、さらに問題をこじらせてしまう。人間的な力で物事を正そうとするがゆえに、御言葉を退け、十字架につまずいて、前に進めなくなってしまう。そして、もっと悪いことには、それをきっかけに、信仰から逸れて行ってしまう者も多い。

覚えておかなければならないのは、信者の人生に、主と共に信者が自分で乗り越えられないような障害物は、地上に何一つ存在しないということである。障害物を絶やすことは、信者の力ではできず、それらをすべて力づくで除去することもできない。必要なのは、障害物は進路ではなく、注意を払うべき対象でもなく、さらには現実でもないことを認識して、真にリアリティである方から目をそらさずに、まっすぐに前だけを見て進む方法を見つけることである。間違っても、障害物を除去するまでは前進できないなどと誤解してはならない。

信者が障害物を乗り越える方法は、その時々によって様々である。人間的な手練手管によって、上手に迂回することはほとんどの場合は無理である。むしろ、人間的な力や策謀によらない、実に不思議な方法によって、神はそれを乗り越える方法を信者に示して下さる。それが、御言葉が信者の人生において実際になるということである。障害物は、最初は巨大な壁のように見えても、信仰によって進んで行くうちに、いつの間にか、それは全くリアリティではないこと、すでにキリストによって打ち破られて、効力を失っており、注目に値しないことが分かる。信者に障害物だけを見させて、前進を忘れさせるのが、悪魔の目的なのである。
 
地上にどんなに障害物が多く現れても、キリスト者にとって、道がなくなることはない。道とはキリストである。この方だけが真のリアリティである。だから、信者はこの方だけを見つめ、他のものから目をそらすのである。すべてのすべてであられる方が自分と共におられ、すべての解決であられる方が、自分の内に住んで下さっていることを確信し、地上で何が起ころうと、それに心を留めず、自分の目の前に置かれた喜びだけをまっすぐに見つめて、天の栄光だけを信じてまっすぐに進むのである。

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(マルコ5:34)と、主イエスが言われたように、信者が信仰によって目を注ぎ、心に思い、それがリアリティだと思って見つめるものが、現実になるのである。あなたにとっての現実とは何だろうか。病が現実なのであろうか。障害が現実なのであろうか。苦難が現実なのであろうか。はたまた、不幸な過去や、嘆かわしい生い立ちや、過去の失敗や、恥や、不完全な自分自身や、人の身勝手な思惑や、いわれなき讒言や、迫害や、傷つけられた自己の名誉やプライドが現実なのであろうか。

仮にそういうものがどれほど数多くあったとしても、神はあなたにとってそういうものを解決できないほどまでに弱々しい存在なのであろうか。あなたは一体、何を現実として選び取るのか。人の弱さや不完全さの中にこそ、神の強さと完全が生きて働くという幸いな事実を見ることができるだろうか。信者が地上において御名のゆえに負うすべての苦しみは、信者を通して、神の栄光が現されるためのほんの些細なきっかけでしかないという幸いな事実を見ることができるであろうか。
 
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。


「あなたのために、私たちは一日中、

死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。」

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威あるものも、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)
   
    

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地上にあるものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
 
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

今ほど、この御言葉がしっくり感じられる瞬間はないような気がする。
 
少し前の記事で、筆者は「キリスト者の新しい時代の幕開け」と書いたが、この度、大きなエクソダスがまた一つ達成された。今や聖徒らが、差別と搾取に基づく牧師制度を肯定するプロテスタントと訣別し、キリスト以外にどんなリーダーもいない、信徒一人一人が直接、キリストにつながり、御霊を通して神ご自身から御言葉を教わり、信徒がみな対等な兄弟姉妹としてエクレシアに連なる万民祭司の理念がまさに実現しようとしているのである。

2009年、既存の教会組織に疑問を持ち、真実な信仰を求めて、神だけに従うために出発する多くのキリスト者が出現していた頃、彼らが一様に見ていたのは、まさにこのような展望であった。

つまり、しみもしわもないキリストの花嫁にふさわしいまことの教会の姿を、みな一心に追い求めていたのである。

2000年以上前に、主イエスが地上に来られ、十字架の死と復活を経験され、信じる者に御霊を与えて下さった時に、万民祭司の時代はすでに始まっていた。だが、それにも関わらず、地上に広がったキリスト教界の宗教組織は、常に人間的な思惑に基づき、この世との妥協を重ね、後退を繰り返して来た。

その結果、聖書の御言葉を通して、信じる者に与えられたとてつもない特権、キリストのものとされ、神の子供とされた信者たちが持つ絶大な特権が、常に骨抜きにされ、値引きされ、曖昧にされ、過小評価され、ごまかされ、水で薄められ、掠め取られ、否定され、悪魔に奪い取られて来たのである。地上のキリスト教組織は、いつの時代も、始まるや否や、もう聖書の御言葉から逸れ、御霊の息吹のない、聖書におけるエクレシアとは似ても似つかない、死んだ組織と変わり果てていた。だが、地上の宗教組織が、世と妥協を重ねる一方、そこから出て、聖書に立ち戻ろうとする新たな信仰復興運動も、常に生まれて来たのである。

プロテスタントも、当初は信仰復興運動として始まった。この運動はその名の通り、何よりもカトリックの堕落や腐敗に対する抗議運動として登場し、既存の宗教組織に対する強い疑念のもとに、聖書に立ち返ることを目指して始まった。プロテスタントは、聖書の各国語への翻訳などの事実にも見られるように、それまでカトリックでは聖職者だけが独占していた聖書の真理についての知識を、一般大衆に解放すべく努力し、世界の隅々まで伝道を繰り広げることにより、無学で貧しい人々を含めた世界中のあらゆる人々に福音を宣べ伝えることをその使命とした。プロテスタントは、その興隆の時期が資本主義の発展に重なることにも見るように、大衆向けの大規模伝道を繰り広げ、それによって来たるべきマスメディアの発展の基礎をも築いた。

プロテスタントの中には、義憤に基づく革命的な体制転換の試みと、すでに述べたように、労働に基づく人間の自己変革の試みや、さらに、大規模に大衆に訴えかけるマーケティングの手法などといった、資本主義のみならず、その後の社会主義思想の土台ともなる発想や、現代社会における様々な大衆向けの運動の土台となる発想が山のように込められていたと言えるかも知れない。

しかしながら、そのプロテスタントも時と共に腐敗し、もともとこの運動が持っていた地上的な要素の問題が明らかになった。既存の宗教組織に対する強い抗議の精神は、カトリックなどの別宗派に向けられるだけでなく、プロテスタント内の信者たちにも向けられて、教義や解釈の違いからくる様々な相克や分裂を引き起こした。その結果、プロテスタントの中には、それぞれ異なる教義を提唱する数えきれないほどの教団教派が生まれ、さらにそれらの組織が互いに反目し合って、時には同士討ち的な争いを繰り広げ、教会同士のいがみあい、対立が常態化した。また、マスメディアを用いた一般大衆向けの大規模伝道も腐敗して行き、ペンテコステ運動の指導者のようないかがわしいにわか伝道者たちが、一獲千金のために大衆を欺いて繰り広げる偽りのミニストリーにも、存分に活躍の機会を提供することになった。

プロテスタントは、カトリックが隆盛を極めた時代に、聖職者たちだけによって独占されていた聖書の真理を一般大衆向けに解放するという点では、確かに巨大な役割を果たしたが、その解放は、不完全なものであった。プロテスタントは、カトリックのように統一された強固な聖職者のヒエラルキーを持たなかったものの、牧師制度を肯定していたことにより、神と信者との間に、キリスト以外の目に見える人間を仲介者として置き、信者が直接、神から御言葉を教わるのではなく、牧師という目に見える人間の理解や解釈のフィルターを通して、聖書の真理に接触するようにし向けたのである。

プロテスタントの信者は、特定の牧師の牧会する教会に身を置いている限り、どんなに自分自身で聖書に触れて理解しようとしても、結局、牧師の限られた理解の範疇から出ることを許されず、常に牧師という親鳥が咀嚼してかみ砕いた乳のような餌を、口づてに与えられる幼鳥の立場を抜け出せなかった。信者は教会の中で、もしも聖書について、牧師の理解と異なる主張をすれば、即、異端者として教会を追放されるしかなかった。このような牧師制度が生み出した制約は、信者一人一人の信仰の自主的な成長を妨げ、信者がキリストの身丈にまで達することを著しく妨げる要因となった。

結局、プロテスタントにおいては、聖書の真理が、カトリックの聖職者の独占状態からは解放されたものの、今度は、牧師によって独占され、信徒一人一人が、直接、キリストに結びつき、御霊によって直接、御言葉を教わりながら、キリストにある成人にまで成長するという、聖書によればごく当たり前の真理が、制度的に妨げられたのである。こうして、万民祭司の理念は、謳い文句にとどまり、実現しなかった。

プロテスタントの持つこのような制度的な欠陥のゆえに、やがてプロテスタントという宗派そのものが、聖書の真理を持ち運ぶ宮というより、聖職者階級を支えるための母体と化してしまった。それと共に、プロテスタントの大規模伝道の形態も堕落して行き、それは聖書の真理を忠実に大衆に伝えるものよりも、信者を欺いてこの母体の中に閉じ込める手段と化した。

大衆への大規模伝道を繰り広げることにより、プロテスタントが、全世界の隅々にまで福音を宣べ伝えるという使命を果たした時、この宗派は、それと同時に役目を終えたのだと言えるかも知れない。今やインターネットも普及し、ごく限られた僻地や少数民族を除いて、世界のどの場所でも、非キリスト教国であっても、聖書の福音に触れることは難しくない。

こうして、全世界に福音が届けられた時、クリスチャンの信仰生活には、それまでとは異なる時代がやって来たのである。それは、今までのように、対象を選ばずに無差別的に誰にでも福音が語られる時代から、福音を聞いた者が、聞いた御言葉に従うかどうかによって、一人一人の内面が試されるという時代である。

既存のキリスト教界の組織から脱出する者たちが現れていた当時、一時、「御言葉の飢饉」という言葉がよく聞かれた。それは、フェイクと化した大衆向けの伝道ばかりが巷に溢れる中で、真実、神に従いたいと願う純粋な信者たちが、心から御言葉を宣べ伝える声がほとんど聞かれなくなったという嘆きでもある。

万人に無差別的に福音を宣べ伝える大衆向けの伝道は、全世界に福音が宣べ伝えられた時点で、使命を終えたのだと言えるのではないかと思う。大衆伝道は、福音を知らない地域にいる福音を知らない者たちを対象にしてこそ意味があるのであって、福音を何度、聞いても、真理に聞き従う気のない者たちを対象にするのでは意味がない。また、信者たちが「堅い食物」を自分で採るようになって、聖職者階級を必要としなくなることがないよう、いつまでも信者を霊的幼児にとどめおくために、この世的な舞台演出のちりばめられた各種のいかがわしい大衆向けのミニストリーに引きつけておくのでは意味がない。

こうして、すでに使命を終えたにも関わらず、依然として、続行される無差別的な大衆伝道という手法は、ただ時代遅れであるだけでなく、有害な結果を招くようになった。教会は本来、聖書の神の救いを個人的に信じて受け入れ、贖われた者のためにあるはずにも関わらず、大衆伝道の旗を掲げているうちに、いつの間にか、不信者にも門戸を開き、教会の奉仕の対象が、神から大衆へとすり替わって行ったのである。

大衆伝道の旗を降ろさないために、教会は、御言葉に従順でなく、教会にも福音にも理解を示さない、この世の不信者ら(しばしばカルト宗教の信者)にさえ、自ら歩み寄って、贖われない大衆の利益に積極的に仕えることで、彼らの心を引こうとした。そうした妥協の結果、教会には不信者も数多く入り込み、贖われた者とそうでない者との区別は消え、教会はこの世の人々に対するマーケティングのために、ますますこの世的な手段を公然と駆使するようになり、聖書から遠ざかり、ただ大衆を喜ばせるための単なる奉仕活動の場へと転落して行った。
 
こうして、プロテスタントの多くの教会からは、世に厳しく罪を指摘して悔い改めを迫るメッセージや、心飢え渇いた信者たちに真にキリストの御言葉の衝撃力を伝えるメッセージが消え、教会は、すべてのものの上に立つかしらであり、一切の権威をこえる権威であるキリストの権威と支配を自ら捨てて、堕落したこの世の支配に屈し、その結果、世の支配下で踏みしだかれて、塩気を失ってしまったのである。
 
このように聖書から離れて世の方を向き、キリストの香りを失ったプロテスタントの多くの教会に代わって、今や、聖書の真理を担う、新たな信仰復興運動が必要とされているわけだが、その形態は、どのようなものになるのか、少し考えてみたい。

当ブログでは幾度となく繰り返し引用して来たオースチン-スパークスの「私たちのいのちなるキリスト」の一部をもう一度引用したい。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。

一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。
他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。


こうしたことには三つの要素があるでしょう。

第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。

第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となること
です。

この短い引用文の中に、奇跡や、お涙頂戴の信仰の証や、名だたる宗教指導者や、ヒューマニズムに支えられる各種の救済事業などを売り物にして、大衆の心を引きつけ、牧師制度を通して、人間に栄光を帰するプロテスタントの大衆伝道のあり方が、今日の終末の時代においては、むしろ、反キリストの支配の手段とされつつある現状を見ることができる。

神に仕えることを第一とせず、聖職者階級と、この世の一般大衆(人間)に奉仕することを何より重んじ、この世の社会を発展させることを目的に、各種の支援活動を繰り広げるプロテスタントは、もはやそれ自体が「人造のキリスト教」と化して、キリストの命を失っているのであり、それ自体がフェイクと言って差し支えない体系になっているのである。そこで一般大衆に提供される「支援」は、神の救いからはほど遠い、地上的・物質的な利益に過ぎず、そこで信者たちが行う熱心な奉仕や学びも、「自らの勢いで生成発展する偽りのいのち」であって、「キリストのまことの命の代替物」でしかない。どんなに信者が奉仕と学びを重ね、鍛錬を積んでも、キリストの真の命とは全く無関係のまま、堕落した「セルフ」は十字架の死を経ることはなく、ますます神に逆らう堕落した人間の自己と欲望が高められ、人類に栄光が帰されて終わるだけであって、そこに神の栄光につながるものは何も存在しない。

このように神への反逆の殿堂と化した「人造のキリスト教」の中から、大衆を苦難から救う救世主を騙る反キリストが登場して来るまで、もうあとほんのわずかな期間を残すばかりである。
 
これ以上、「人造のキリスト教」についての描写を続けることは無用であろう。それよりも、今回の記事では、「そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだ」し、「真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求」が生まれるという、後半部分に主眼を置いており、ここにこそ、限りない希望を見いだしている。腐敗した偽りの体系からはエクソダスして、真実、神ご自身を求める信仰者の群れが出現するのである。

信者の人生には、決定的に重要な霊的「エクソダス」の瞬間が幾度かある。それは信者が偽りと知らずに接触して来たこの世の体系からの分離の瞬間である。その「エクソダス」の中には、偽りの宗教体系からの脱出も含まれる。

信者は、キリストと共なる十字架の死を通して、この世に対して死ぬことを知った後も、世と深くつながっている堕落した偽りの体系に知らずに接触することがあり、そのような場合には、真にキリストだけに従いたいなら、偽りと気づいた瞬間に、そこから自らを分離せねばならない。この分離は、信者が神に逆らう全ての思想から自分自身を分離することを意味し、必ずしも物理的・地理的な脱出を伴うものではない。

筆者のこれまでの経験からも言えるのは、信者の「エクソダス」の瞬間には、嵐のような多くの激変や圧迫が観察されることである。偽りの体系は自らの奴隷を一人でも逃がすまいと追っ手を遣わし、信者の人生には、しばしば、未だかつて起きなかったような圧迫がもたらされる。だが、モーセが民を率いてエジプトを脱出する際に、どれほどの苦労を払わねばならなかったかを考えれば、それは全く不思議な現象ではなく、さらに、それは信者が心を騒がせるに値する事件でもない。信者を引き戻そうとする全ての圧迫にも関わらず、御言葉の真実のゆえに、信者を「マトリックス」につないでいたへその緒は全て断ち切られ、ファラオの軍隊は水に沈み、エクソダスは完了するのである。

さて、2009年当時は、日本各地に、代償を伴う厳しいエクソダスの過程を経て、キリストに贖われた信者たちが、まるで若々しい新芽のように、あちらこちらに出現していた。その後、激しい暴風雨と、生い茂るいばらとあざみと、荒らし回る獰猛な野獣の中で、この新芽が消え去ったのか、それとも、やがて来るべき豊かな実りに備えて、地中深く根を下ろしながら、時を待っているのか、今はまだはっきりとは分からない。だが、いずれにしても、筆者は思うのである、もし信者が一度、神のために自分の生涯を残らず捧げる決意をしたならば、その召しは決して変わることはなく、たとえ自分の召しが分からなくなったように思える時でも、その約束は、神が覚えて下さり、その使命を果たすために必要な条件を神ご自身が整えて下さるだろうと。

「私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください」」(イザヤ6:8)

すでに書いたように、キリストのものとして贖われ、救いの確信があるからと言って、その信者には、常に神が分かるわけではない。神は遠くにおられるように感じられることもあれば、沈黙しておられることもある。黙示録を書いたヨハネも、パトモス島にあって、絶えず啓示を受け続けていたわけではない。偉大な霊的啓示が絶えずひっきりなしに信者の人生に注がれると思うなら、それは間違いであり、多くの沈黙の時、待ち望みの時、忍耐の時がある。啓示によって明白に示された真理さえ、自分の内に失われたかのように感じられる時がある。そして、信者が神を知ることができるのは、ただ霊の内だけであり、それはしばしばかすかな御声であり、信者の肉的な思いがこれをかき消してしまう。信者の人間的な感覚は神から絶えず離れており、神を知るのには役立たない。

だが、それにも関わらず、主に贖われた者が、神から引き離されることはなく、主を知る知識を切に求め続ける信者の純粋な探求と、神がどこにおられるのか分からないと言って、自己の外に神を探し求める人々の探求には決定的な違いがあると言えるのである。

それは、我々、聖徒らの心の内深くに、神に対する尽きることのない愛が、絶えず存在していることからも言える。見たこともない方をどうして信じ、愛し、崇めることができるのか、それは人には説明できない事柄である。我々は、肉眼で見るようにキリストの姿を見たり、耳でその声を聞いたり、この手で触れたりするわけではない。だが、それにも関わらず、キリストに思いを向ける時、この方が確かに生きておられ、我々の救い主であり、力強い助け主であり、世の終わりまで共にいて下さり、決して我々を見放されることはないということが、自然な水の流れのように、信仰告白として口をついて出て来るのである。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

我々は、主を見ていないが、心から愛しており、再び地上に来られる姿を見ていないが、戻って来られることを信じており、主を待ち望むという召しに、心から光栄と喜びを感じている。

私たちは、自分の外に神を求めて探し回る必要はない。キリストは、信仰を通して、信じる者の内側に住んで下さり、御霊を通して、ご自身を現して下さるからである。そして、この方が信じる者に提供して下さっている完全な義、完全な贖い、完全な聖は、信仰を通じて確かに私たちのものであり、そして、やがて来るべき世で、神が私たちのために備えて下さっているはかり知れない相続財産のことをも、私たちは知っている。それらのはかり知れない恵みと、絶大な特権のゆえに、ただおそれかしこみつつ、喜びを持って、私たちは主を褒めたたえることをせずにいられないのである。

この尽きせぬ喜びと、賛美と、神に栄光を帰することが、私たちが確かに贖われた者であることを教えてくれる。神は我々にとって真にリアリティなるお方であり、まるで雛鳥が親鳥を見分けて鳴き、狐が自分の巣に帰るように、私たちは、喜びに満ちた確信を持って、この方こそ我々の創造主であると告白し、自分がこの方に確かに結ばれており、キリストのものとされていることを大胆に告白することができる。私たちは、すでにすべてのことを知ったなどとは言わない。キリストを十分に知ったとも言わない。ただキリストを知る知識をますます深く追い求めてはいるが、それでも、「神はどこにおられるのか」と言って、自分の外に神を探し求めたりはしないのである。

パウロは言った、「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。

私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それをちりあくたと思っています。

それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ピリピ3:7-9)

信者にとっては、キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、キリストを知る以前に持っていた全てのものは無価値となってしまう。キリスト以外の一切のものが「損」になるだけでなく、「無」にすらなる。これは、信者がキリスト以外のいっさいのものを「無だと感じている」とか、「無とみなそうとしている」ことを意味するのではなく、実際に「無になる(=無効化される、影響力を全く持たなくなる)」ことを意味する。

パウロは贖われる前に、人間的な観点から見れば、他の誰にもまして、誇るべきものを持っていた。生まれも、育ちも申し分なく、優れた業績や、落ち度のない立派な行いを誇ることができた。しかし、そのような「キリストを知る以前の自分自身」は、キリストと共に十字架につけられた時、一切合切、無いものとして墓の向こうへ追いやられたのである。

エクソダスの瞬間を超えたことがある信者ならば、きっと分かるであろうが、このようなことは、人が自分自身の力で達成できることではない。キリストと共なる十字架の死が適用されるまで、信者はあくまでこの世の人間であり、自分の生まれや、育ちや、知識や、経験や、能力や、業績や、世間からの評価や、地上的なつながりといった、ありとあらゆるこの世的な要素を引きずって、それらにより頼み、それらを心に留めて、そうした地上的な要素こそ、自分自身を形成するのだと思って生きている。それは、あまりにも深く慣れ親しんだ世界なので、それ以外の世界があり得るとは想像もできず、また、そこから自分自身の意志で脱出・分離するなど、到底、無理な相談である。

だが、信者に御言葉への信仰に基づいてキリスト共なる十字架における死が適用されると、それが実際となって成就した瞬間から、信者は、そのような地上的な要素が、自分に対して死んでいることを理解するのである。自分自身で何かを捨てようと努力するのではなく、かつて自分を構成していたこの世の要素が全て水に沈み、すでに完全に手の届かないところに去って、自分の思いや感情に触れなくなるのが分かるのである。

だから、信者がこの世においてかつてはあれほど大事にしていた地位、名誉、評判、業績、信者がこの世の人として持っていた過去の記憶や、この世の人々からの意見や評価や賛同などが、どんなものであれ、完全に「墓の向こう」へ行ってしまい、気にすべき事柄でなくなり、それがたとえ自分に関することであっても、信者の関心の対象でなくなり、聞かされても、思いに触れず、まるで他人事のように感じられるのである。

ちょうど死んで墓に入ってしまった故人が、自分についてこの世の人々の間でどんな会話が交わされていようと、一切、それを感じることも、注意を払うこともできないように、キリストと共に死んで神の内に隠されているキリスト者には、かつて自分自身であったものも含めて、この世の事象が触れることができなくなるのである。

そして、かつての地上的な出自に代わって、今度は、キリストにある者としての天的な出自が、信者にリアリティとして迫って来る。「もはや、私ではなくキリスト」となるのである。むろん、信者がキリストに変身するのではなく、信者の内に住んで下さっているキリストを、信者自身が見るわけでもない。それでも、信者の心の中に、もはや「私」はなく、キリストが住んで下さり、生きておられることを信じることができるのである。

信者は、たとえ復活の命の何たるかがまだよく分かっていなかったとしても、キリストの死を通して、自分に対する神の贖いが永遠に達成されており、自分がキリストのものとされていることが分かる。信者にはもはや「足りない」ということがなく、「取り返しがつかない」こともない。キリストにあって、信者はすべてに満たされている。だから、感謝を持って心に言うことができる。

主よ、あなたのためならば、私には何も惜しくはありません。
あなたのために、私が留保しているものはもう何もありません。
主よ、私の若い頃からの約束を覚えて、心に留めて下さい。
私は生涯、あなたのためだけに、捧げられた供え物であり、
もはや自分自身のために生きておりません。
あなたの栄光のために、私をお使い下さい。
私自身と、私の生涯は、残らずあなたのためにあり、
私は、あなたのものなのです。

信者は、命を投げ出して自分を贖って下さったキリストへの心からの応答として、愛を持って自分を捧げることができる。主と共なる十字架において自分に死んでしまえば、もはや留保しているものはなくなり、自分の生涯そのものを神への捧げものとして惜しむことなく差し出すことができる。

だが、それは決して人間的な思いに基づく情緒的な魂の愛の結びつきではないのである。その決意は、代償を伴うものであり、生涯に渡る御言葉への従順を通してしか達成できない。

イザヤ書では、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と応答した預言者に衝撃的な言葉が告げられる。神の言葉を携えて世に出て行く預言者が、高貴な存在として、大衆に歓呼して受け入れられることはない。大衆が預言者の言葉を聞いて悔い改め、素直に神に立ち返ることで、大きな喜びと収穫がもたらされるとは、神は言われなかった。むしろ、逆の事柄が告げられたのである。

「行って、この民に言え。
聞き続けよ。だが悟るな。
 見続けよ。だが知るな。』
 この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」(イザヤ6:9-10)

これは旧約の時代も、新約の時代も変わらず同じである。神の言葉を託されて世のもとへ遣わされた預言者を、世は受け入れない。神の独り子として世の罪を贖うために遣わされた尊い小羊を、世は拒み、十字架につけて殺したように、イエスの弟子たちをも拒み、迫害した。世は何度、福音を聞かされても、己が罪から目を背けるために、これを拒み、イエスの復活の証人たちを憎み、排斥したのである。そうしたことが、今日になったからと言って、変わることは決してない。

だから、世人に福音を告げるというのは、すべてのキリスト者にとって命がけの召しであり、何らその個人にとって感覚的に喜ばしい、栄誉をもたらす光栄な使命ではない。この事実を見るにつけても、キリスト者の道は、大規模大衆伝道を通して、大衆と一体化して、この世の人々と手を携えて歩むことには決してないと分かる。

キリスト者は、復活の証人として、イエスの復活を、また、自分自身も信仰を通してイエスと共に死と復活にあずかっていることを、大胆に世に向かって語り続ける。しかし、世はそれを信じず、受け入れもしない。

だから、キリスト者は、世へ理解を求めず、絶えず神に向かって行く。世が神の言葉を受け入れない分、なおさらのこと、ただ一心に神に向かって行くのである。神は、贖われたキリスト者を、二度と世の友、世の奴隷として遣わされることなく、むしろ、ご自分の器として民の間から聖別して取り分けられる。キリスト者と世との間には、十字架が、永遠に交わることのない隔たりとして立てられている。

このようなことを聞くと、世人は言うであろう、「一体、それは、何のための救い、何のための贖いなのでしょうか。キリストを信じたがために、世から拒まれ、理解されなくなり、迫害されるのでは、信じた後では、信じる前より、生きることがより一層、苦しくなるだけで、どこに信じることのメリットがあるんですか。その上、過去に積み上げ来た業績も無になるのでは、神のためにすべてを捨てたキリスト者には、一体、何が残るのでしょうか。そんな人生に、どんな満足があるのでしょうか。」

世人にどんなに分からなくとも、キリスト者には何も残らないのではなく、「私」ではなく「キリスト」が残るのである。そして、それこそが、キリスト者にとってのはかり知れない満足である。なぜなら、この方にこそすべてが満ちているからである。キリスト者は、もはや自分自身の満足のために生きておらず、神の満足のために、神の栄光のために召し出された者であり、主と共に十字架の死によって、すでに水の中に沈み、分離したものを取り返したいとは願わないのである。

神の御心は、やがて万物がすべてキリストに服すること、「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられる」(ピリピ2:10-11)ことにこそある。

クリスチャンはすべてのものがキリストに服する来るべき世に向けて、「神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われた」(黙示14:4)者たちである。ここに「人々の中から」贖われたと書いてあり、「人々と共に」ではないことに注意したい。キリスト者は、世に対して死んだ者として、世人とは一線を画し、ただ神と小羊のためだけに、世から取り分けられて、召し出された人々である。だから、クリスチャンは福音を世に向かって語ることはしても、決して世と同化して、世人の利益に仕える僕とはならない。贖われた者はどこまでもただキリストの僕であって、もはや自分自身のものでさえないのである。

「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。

キリストはすべての支配と権威のかしらです。

<…>あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」(コロサイ2:8-12)

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
なたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです


私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:1-4)

 


真の謙遜とは何か(3)

謙遜と信仰は、聖書においては、多くの人々が知っている以上に、密接な関係を持つものとされています。このことを、キリストのご生涯においてながめてみましょう。主がりっぱな信仰について語られた場合が二つあります。

主は「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と言って百人隊長の信仰に驚嘆されました。それに対して彼は「先生を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と言ってはいないでしょうか。また、主から「ああ、あなたの信仰はりっぱです」と言われた母親は、小犬と呼ばれることに甘んじ、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも……パンくずはいただきます」と言わなかったでしょうか。

たましいをして神の御前になきに等しい者とするのは謙遜です。それはまた、信仰のすべての障害を取り除き、神に全面的によりたのまないことにより神に不名誉をもたらすことだけを恐れさせるのです。

主にある友よ。私たちが聖潔の探求において失敗する原因は、ここにあるのではないでしょうか。私たちの献身、私たちの信仰をこの上なく皮相的なものとし、この上なく短命なものとしていた理由はこれではないでしょうか。たとい私たちが知らなかったとしても。

高ぶりと自我が今なおひそかに私たちのうちに働いていること、神のみが私たちのうちにおはいりになり、その強い御力をお用いになることによってそれを追放することがおできになること――私たちは、これらのことを全く知りませんでした。私たちは、古い自我と全面的に取って代わる新しい神の性質のみが、私たちをほんとうに謙遜にすることを理解していませんでした。

絶対的な、不断の、普遍的な謙遜が、他の人に対するすべての取り扱いの基礎でなければならないとともに、またすべての祈り、すべての神への接近の基礎でもなければならないということ、そして全面的な謙遜、心のへりくだりなしに神を信じ、神に近づき、神の愛のうちに生きようとするのは、あたかも目なしに見、呼吸なしに生きようとするようなものであること――私たちは、これらのことを知らなかったのです。

主にある友よ。私たちは次のような失敗をしてはいなかったでしょうか。すなわち、信じようとして非常な努力をしながら、他方においては、高ぶった古い自我があって、それが神の祝福と富を所有しようとしているといった失敗をしていなかったでしょうか。私たちが信ずることができなかったのも無理もないことです。私たちの方針を変えましょう。

まず何よりも先に、神の力強い御手の下に、私たち自身が謙遜になりましょう。神は私たちを高くしてくださるでしょう。イエスがご自身を低くされた十字架、死、そして墓は、神の栄光への道であったのです。私たちの唯一の願い、私たちの熱烈な祈りの題目を、彼とともに、そして彼のようにへりくだることとしましょう。神の御前に、人々の前に私たちをへりくだらせるものは、どのようなものでも喜んで受け入れましょう。――これのみが、神の栄光への道なのです。

アンドリュー・マーレー著、『謙遜』、pp.65-67.


これまで、真の謙遜とは何かというテーマで連続して記事を書いてきた。各記事の冒頭に挙げているアンドリュー・マーレーの言葉は、記事本文とだいぶ調子が異なるため、ともすればどんな脈絡があるのかと問われそうにも感じられるが、それでも、謙遜というテーマについてのこの引用文はあえて残しておきたい。

上記のマーレーの文章の中から、今回は「神の祝福と富を所有する」という、クリスチャンが犯しうる大罪について注目したい。そして、多くのクリスチャンが謙遜への道だと誤解しながら、知らずに陥りがちな誤謬について、この場で考察しておきたいと思うのだ。

これまでの一連の記事において、筆者は、真の謙遜とは、キリストにあって自分は何者であるか、ということを信者が余すことなく認識し、神がキリストにあって自分にお与え下さった自由や権利を十全に行使できる状態にあることを指すと書いた。それは信じる者が、自分の不完全さにより頼まずに、神の完全さにより頼んで生きることである。

しかしながら、この世における謙遜は、これとは全く逆に、人が自分の不完全さを強く認識し、自己の欠点を己が努力によって克服しようと努めることによって、自己を抑圧するか、もしくは自分の正当な権利までも自主的に放棄して、自分を弱く、低く、無力に見せかけることを指す場合が多い、ということについて触れた。

ともすれば、以上に挙げたアンドリュー・マーレーの言葉も、そうした文脈で誤解されたり、悪用されたりする危険性があると言えるであろう。マーレーは書いている、「神の御前に、人々の前に私たちをへりくだらせるものは、どのようなものでも喜んで受け入れましょう。――これのみが、神の栄光への道なのです。」

このような言葉を使って、「神と人の前にへりくだりましょう」ということを口実として、教会の権威者や信者が、他の信者を組織の序列の中に組み込み、権威者の言い分に従うことを「へりくだり」であると思わせ、人の思惑の中に信者を拘束し、あるいは無権利状態に甘んじるよう誘導することはたやすい、と筆者は思う。しかし、マーレーはもちろん、そのようなことを意図して上記の文章を書いたわけではなく、人の目に謙遜だと評価されたいがために世の思惑や、人の思惑を気にして、それにがんじがらめに支配され、て生きることと、神の御前での謙遜は全く異なる事柄である。

神の目には、そもそも人間が自分の力で自分の欠点を克服しようとすること自体が、謙遜ではなく、むしろ、高慢である。神の御前の謙遜とは、人が自分の弱点や問題を自分の力でどうにかしようという希望を一切捨てて、自分そのものを全く処置不可能な堕落した存在として神に委ね、御言葉に基づいて、神がこれに霊的死を適用して下さった上で、十字架を通して新たな命によって生かして下さることに完全に期待することを意味する。

しかし、世間では、幾度も指摘してきた通り、それが全く逆にとらえられている。そして、その誤った考え方は、クリスチャンの間にも、根強く広まっている。今回は、そのようなことが起きる背後に、誤った世界観が横たわっていることを理解し、クリスチャンが以上のような誤謬に陥って人や世の思惑にがんじがらめにされることなく、キリストにある完全さ、自由を手にして、人としてあるべき姿に生きるヒントを見つけることができればと考えている。

信仰をもたない世間、特に我が国の一般社会では、もし人が世間から「謙虚な人間」とみなされたいならば、決してその人は自己の諸権利などについて主張せず、むしろ、自分に与えられている当然の権利を行使するにあたっても、自分はどれほどそうした権利に値しない未熟者であるかということをしきりにアピールする必要があるかのように思われている。自分の権利ばかりを当然のものとして主張する人間は、「わがままだ」とみなされてバッシングされる風潮が強いからである。

そこで、人は自分が権利ばかりを当然のように求めているわけではない、と見せかけるために、自己卑下を繰り返し、自分がいかに諸権利に値しない人間であるかを人前で強調するだけでなく、自分の未熟さや欠点にも積極的に言及し、己が欠点をどれほど切実に自覚しており、自分を未熟者と考えているか、自己の欠点を克服しようとどれほど真面目に努めているか、それにも関わらず、その痛ましいまでの努力が、今に至るまで、どれほど実を結んでいないか、ということをも、ワンセットで強調することが一種のお約束事となっている。

もし誰かが「これだけ努力したので、私はもう自己の欠点をすでに克服し、ひとかどの人間になりました。そこで、私は自分に与えられている諸権利に十全に値する人間となったと思いますので、この権利を当然のものとして要求します」などと言おうものならば、その人は世から「若造に過ぎないくせに、何と高慢なことを言うのか。厚かましく自分の権利を要求する前に、自分の果たすべき義務について考えろ。もっと果たすべき努力が残っているのではないか」などと言われ、バッシングされかねない風潮がある。そこで、人々はそういったことが起きないための自己防衛策として、「私は自分の欠点をよく自覚しており、自分が様々な権利に値しない未熟者であることをよく分かっています。そして、目下、欠点を克服する努力はしているのですが、残念ながら、未だ道半ばで、思ったほどの成果が出ていません。きっとそれも、私の努力が足りないせいか、あるいは私が愚かで知恵が足りないせいなのでしょう・・・」などと、どこまでも自己卑下を繰り返しながら、いかに自分が一人前の人間からほど遠いかを強調することが普通に行われている。そのような自己卑下を繰り返す人間が、世間では「謙虚だ。自分の分をわきまえている」とみなされるのである。

言い換えれば、この世においては、何事についても、「達成した」と言うこと自体をタブー視するような暗黙の風潮が存在するのである。何かを「達成した」と主張することは、「自分はひとかどの(一人前の)人間になった」と主張することに等しいが、生きた人間が「一人前の人間」になること自体、社会では、一種のタブーとみなされていると言っても良い。そこで、誰かが何かを「達成した!」と述べと、それ自体が、「とんでもない高慢だ」とみなされる危険性があるのだ。

むろん、キリスト者ならば、なすべきことを「達成」された方は、キリストお一人であることをよく知っている。私たち信仰者は、キリストの十字架における死と復活に同形化されることによって、彼の達成された御業を自分のものとして受け取る。彼の御業にこそ、キリストにあって、信者が受けとることのできる完全さ、安息、自由、達成が存在する。ただキリストにあってのみ、彼の死と復活と一体となることによってのみ、信者は自己の努力による一切のもがきをやめて、自分自身を神に受け入れられる清く、貴く、完全な人間とみなして、安息することができる。それはただ御子の達成された御業によるのであって、信者の自己の努力の結果ではない。

キリストの中にこそ、「完全な(成熟した一人前の)人間」が存在する。信者は地上においては霊的に幼子のようで未熟であったとしても、キリストを信じて受け入れた時から、神の目には、彼の完全さをデポジットのように受けとっているのである。

だからこそ、信者はキリストにあって安息し、自分の未熟さを自分で克服するための努力をやめて、御子との達成の中で安らぐことができる。キリストにあって、自分を不完全で罪深く未熟な存在とみなして、責め続けたり、卑下することをやめて、キリストを通して、彼の持っておられる権威、自由、祝福を受け取り、これを行使することができる。ところが、そのようにキリストにあって信者が新しい自己の完全を受け取って生きることをも、世の風潮は「高慢だ」とみなして、激しくバッシングする。そして、あろうことか、この世的な偽りの「謙遜」の概念に欺かれた信者が、自分ばかりか、他の信者からも、神がキリストを通してその信者にお与え下さった権利を奪い取り、自由を妨げようとすることも、しばしば起きている。だが、そのようなことは神の御心ではない。神は人を自由にするために、御子を送って御業を成し遂げられたのであって、「謙遜」の名の下に、人間の思惑に信者をがんじがらめにするために十字架が存在するのではないからである。

そのような歪んだ捉え方が生まれる背後には、(グノーシス主義的)世界観がある。(ここで言うグノーシス主義的価値観とは、聖書のまことの神の御言葉に基づかない異教的価値観の総称として、筆者が広義で用いているものである。)

長い説明はさて置き、ここでは結論のみ述べたいのだが、たとえば、仏教では、仏陀は死後も現在に至るまで修業中ということになっているが、こうしたところに、グノーシス主義的世界観が顕著に表れていると言えるのではないかと思う。グノーシス主義とは、一言で言えば、人類が自らの努力によって神の叡智に達するための、果てしない探索の過程だと言えるかも知れない。しかしながら、クリスチャンであれば、誰しも分かっている通り、人類が自己の努力によって「叡智」に達し、それによって安息を得る日は決して来ない。だから、そこで言われている「悟り」というものは、事実上、あってないようなものだと考えて良い。死後、何百年間と終わらない修行によって得られる「悟り」などというものは、一種の言葉遊びのようなもので、無に等しいと言って差し支えない。さらに、すでに悟りを得た人間が、死後に至るまでも、さらなる悟りに達するために修行を積まねばならないのだとすれば、そのような人間の弟子となった人間の誰も師匠を超える悟りに達し得ないのは当然である。つまり、こうした世界観においては、人は死後に至るまでも、終わりなき永遠の努力を続けるしか道がないのである。

グノーシス主義的な世界観には、必ず、終わりなき無限のヒエラルキーがつきものであり、こうした世界観が反映する社会でも、無限のヒエラルキーが肯定される。そこでは、この世だけでなく、死後の世界においても、霊界のヒエラルキーなどというものがあることにされて、人の霊魂は、生前のみならず、死後においても、さらなる高みに上昇するために、絶えざる努力(修行)を積まねばならない決まりになっている。

つまり、グノーシス主義的世界観とは、人間の霊魂が(神のような高みに)上昇することを至上の価値とする考え方だと言うこともできるものと思う。ところが、その世界観においては、上昇するための梯子は無限であるため、どれだけ人が修行を積んでも、達成したという時が来ないのである。仏陀が未だ修行中なのも、霊界におけるヒエラルキーをさらに上に昇って行くための修行が続いているためであり、それは言い換えれば、人の魂が修行という「自己の努力」によって、「神」の高みに達しようという試行錯誤は、永遠に終わらないことを象徴的に指している。

言い換えるならば、その霊魂上昇のための終わりなき努力は、ルターが自力で登ろうとしてあきらめたピラトの階段にもたとえられよう。よく知られているように、ルターは贖罪のためにピラトの階段をひざで這い上っているうちに、人間が自力で神に到達することは不可能であるという聖書の真理に気づいて、「義人は信仰によって生きる(=人はキリストによらず、自己の努力によって神に贖われて義とされることはできない)」という結論に達し、果てしない階段を自力で上り続けることによって、自分で自分を贖い、神の聖に達しようとの努力を放棄した。

だが、信仰によって生きない不信者は、今でもこの階段を膝で登り続けている。場合によっては、死後に至るまでも、その努力はやまないのである。

多少、話は脱線するようだが、筆者はこれまで、日本の官僚制度や牧師制度などを強く批判して来たが、それはこうした制度の背後に、グノーシス主義的な無限のヒエラルキーの階段が潜んでいると考えているためである。つまり、こうした制度は単なる制度ではなく、ある種の世界観の反映として出来上がっているものなのである。

現存する社会の制度や仕組みの背後には、必ず、それに相応する目に見えない価値観・世界観が存在する。一つの制度が生まれて来る背景には、それを肯定し、生み出す原動力となった何らかの宗教・哲学的イデオロギーが必ず存在しているのである。この点に注目しなければ、ただ人の目に時代錯誤で歪んだものと見える社会制度だけをどれほど糾弾したところで、その制度の本質にまで迫って、制度自体が根本的に悪であるということを訴えることはできない。そして、歪んだ制度を支える世界観とは何かという問題を追求して行くと、ほとんどの場合、結局、グノーシス主義の終わりなきヒエラルキーに行き着くのである。

たとえば、官僚制の背後には、人に抜きんでて優秀な人間とみなされるための努力を積んで、学校で良い成績をおさめ、受験競争を勝ち抜いて、より良い就職口を得て、組織内で出世し、高給と安定的な暮らしを経て、国を動かすような組織の頂点に立つことを至高の価値とするような価値観がある。それは、人の人生とは、他者に抜きんでてエリートの階段を上って行くための絶え間ない努力の過程である、という価値観を象徴している。

牧師制度もそれによく似て、献身して神学校に入り、特別な教えを受ければ、その信者は、他の信徒とは別格の霊的な祝福を得て、信徒の模範的存在になれるかのような考えに基づいている。こうした考えには、学習を積み、知恵を手に入れた人間は、他の人間よりも優れた価値ある別格の存在として、他の人間の及ばない有利な待遇を手に入れるに値する人間となる、という前提がある。教会においては、学習を積んで、エリート的な指導者になったからこそ、牧師はその奉仕に報酬をもらうことが教会内で認められるが、信徒の奉仕は無償なのである。

このようなものは、人間の平等、信徒の平等の原則に反するエリート制度であり、聖書に合致する概念でもない。そこにあるのは、偽りの霊界のヒエラルキーの階段を上り続けた人間だけが、優れた価値ある人間になる、グノーシス主義的世界観である。

なぜキリスト教界からのエクソダスなどを筆者が唱え続けているのか、その理由もここにある。それは、既存の教会組織においては当然のものとみなされている牧師制度や(もしくはカトリックのような聖職者のヒエラルキーは)、根本的に聖書の御言葉に反しており、信徒の平等を否定するものだからである。

そのような階級制度、ヒエラルキーは、官僚制度が憲法に違反しているのと同じくらい、聖書の御言葉に反している。これは聖書的な制度ではなく、むしろ、グノーシス主義的・異教的価値観を取り込んで成立したものであり、教会の堕落やこの世との妥協を示す一例である。この問題については以下でもう少し詳しく触れる。

我が国を含め、非聖書的なグノーシス主義的世界観の支配する社会では、序列というものがほとんど絶対化され、人間存在は、無限のヒエラルキーの階段を上昇し続けるためだけに生きているかのようにとらえる。

たとえば、現在の我が国の至るところに蔓延する長時間残業の習慣化といった現象などにも見られるのは、合理性よりも、情緒的かつ無意味な、うわべだけの「頑張り」や「自己犠牲」を評価し、奨励する風潮である。効率的に仕事を終えて、定時にすべての課題を「達成して」帰宅する社員よりも、非効率的に仕事をして遅くまで会社に残って残業し、いつまでも課題が達成できないと嘆きながら奮闘している社員の方が、上司から高く評価されるといったナンセンスな評価が起きて来るのも、その背後に、以上のような考え方が存在するためである。

グノーシス主義的世界観においては、人間存在はどこまで行っても「道半ば」であって、終わりなき霊魂上昇の梯子を上り続けるための道具でしかない。この世界観において、絶対的な価値を誇っているのは、霊魂上昇のための永遠の梯子だけであって、人間はその梯子によって値踏みされる存在でしかない。だからこそ、人の人生は終わりなき苦行の連続であって、そこに完全さや、達成は存在せず、人が安息することは、死後になっても、永遠に許されないのである。

そこでは、どんなに努力しても、人は「ひとかどの人間」には到達しない。どんなに懸命に階段を上っても、その階段には終わりがなく、一つ課題を終えても、次から次へとさらなる課題がやって来るだけで、いつまでも「努力中」という看板を下ろすことが許されない。たとえ何か一つの事を達成してみたところで、それは果てしないヒエラルキーの梯子全体から見れば、無にも等しい。だから、このような価値観においては、人間の努力は全く報われず、人は何事も「達成した」と言ってはいけないという暗黙の前提が存在するのである。

ある意味では、早くそのカラクリを見抜いて、「努力中」という看板を表向きにだけ掲げておいて、その実、サボタージュに及んだ人間の方が、必死で努力し続けて報われない人生を送る人間よりもまだ賢いということになる。

だからこそ、そのような世界観の中で、己が霊魂を上昇させるための絶えざる努力をずっと続けている人々には、どういうわけか、お決まりのように、悲劇的かつ逆説的な現象が起きて来て、いつの間にか、彼らが口で唱えているご大層な理想と、彼ら自身の現実のありようが正反対のものとなり、その乖離状態・偽善性が誰しも否定できないまでになって、その矛盾を他者から指摘されてさえ、「どうせ私は努力中の身で道半ばですから」ということを口実に、自らの未熟さ・不完全さに居直るまでに至る人々が出現するのである。こうした人々にあっては、自己の努力などといったものは、単なるアリバイ工作でしかない。

このようなものは、人の努力や願いそのものをあざ笑うかのような、実に絶望的かつ悪意ある世界観である、と思わざるを得ない。このような世界観に基づいて成立していればこそ、この社会においては、人は自分がいかに未熟者であるかを強調することによって、自己卑下を繰り返さざるを得ず、自分がいかに何かを「達成した」と言える「ひとかどの人間」からかけ離れているかを、絶えず口にしないわけにいかないのである。

出る杭は打たれる」などという風潮も、その意味において単なる風潮ではなく、その背後にあるのは、グノーシス主義的世界観である。そこでは必死の努力を積んで何かを「達成した」と述べた人間が「高慢だ」とバッシングされ、「未半ばで努力中です」という看板だけを掲げて自己の欠点に居直っている人間の方が、「謙虚だ」とみなされるのである。

この世界観は人間にとって大変不幸なものである。このような世界観においては、いつまで経っても、人の努力が認められ、何かを達成したと、堂々と胸を張って安息できる日は来ない。仏陀ですら今も修行中なのだから、人間が修行から解放される時は死後も永遠に来ない。このような世界観は、非常に歪んだ、悪意ある、人を不幸にするだけのものである。それは常に言う、「人間存在とは、自己の努力によって、(いつかは神に達するために)、ピラトの階段を上り続ける宿命を負った存在だ。その苦役から永久に解放されることはできない。それをまだ始めたばかりの人間が、自分は何かを達成し、特別にこの苦役から解放されので、もう努力する必要はなくなった、などと思うのはとんでもない思い上がりだ」と。

ただし、この世界観においては、永久に達成も安息もやって来ないかも知れないが、人は自分の必死の努力のおかげで、梯子をいくらか上に昇り、下界にうごめいている無知蒙昧な衆生に比べれば、いくらかましな存在になったと自己満足する程度のことは許されるかも知れない。そのような優越感・特権意識だけが、この終わりなき梯子を自力で昇って行くというむなしい報われない努力に生きる人々を支える原動力となっているのである。

だから、こうした考えが根底に横たわっている社会においては、個人の絶対的な価値というものは否定されるのは仕方がないであろう。なぜなら、そこでは個人の価値とは、ヒエラルキーをどれだけ昇ったかによって変わって来るものだとみなされているからである。結局、そこでは、個人というものは、端的に言えば、人類が自己の努力によって神に到達するための道具でしかないのである。「神に到達する」と言えばまだ聞こえは良いかも知れないが、現実は、特攻と同じくらい、達成不可能かつ無謀な目的のために、永遠に奉仕させられる道具なのである。ただ各種の偽りの美徳でおだてられて、自分の進歩に鼻高々になっているために、この偽りの梯子の操り人形となっている個人は、自分が何をさせられているのか分からないだけである。

さて、話を戻すと、クリスチャンでさえ、以上のようなこの世的な偽りの世界観に立って、信仰生活における自らの進歩のなさを克服するために、熱心な勉強会を開いたり、祈祷会を開いたり、あるいは懸命に霊的なハウツー本のようなものを探し出して来て、クリスチャン同士教え合ったり、優れたクリスチャンの功績に習おうと頑張っているという現状がある。

この世的な観点から見れば、そのように自己の不完全さを自覚して、足りないものを補うために、熱心に勉強している信者の姿は、謙虚に見えるかも知れない。だが、一つまかり間違えば、このような勉強熱心さは、神の御前では、謙遜とは無関係であるばかりか、「神の祝福、富を、(人間が自己の力で)所有しようとする」大いなる高慢、大罪に相当する恐れが十分にある。

前回の記事において、エクレシアという語に「教会」という訳語を割り当てること自体が、不適切である、と筆者は書いた。

今日、当然のごとく使われているキリスト「教」、「教会」という呼び名は、他に相当する語がないため、一般に使用を控えることが難しい状況があるが、本当のことを言えば、これは聖書の御言葉の本質を適切に表すにふさわしい訳語とは呼べない。

そもそもキリスト教は、人間の作った「教え」ではなく、イエス・キリストを開祖としてできた宗教哲学でもなく、エクレシアとは「教える会」ではなく、「クリスチャン」のという語のもともとの由来は「キリストに属する者」という意味であり、英語の"christianity"という単語にしても、「教え」という意味は含まれていない。にも関わらず、この訳語に「教」という語が入っていること自体、不適切かつ誤解を呼ぶものだと言える。

このように不適切な訳語が割り当てられているために、キリスト教には「教え」の要素が色濃く強調されているのだが、 筆者の考えでは、これは決して偶然に起きたことではなく、ここにも、牧師制度と同じほどにグノーシス主義的価値観の反映が見られるように感じられてならない。

つまり、この訳語のために、信者の間でさえ、教会というところは、あたかも「霊的偏差値を上げるための熱心な勉強会」のようにとらえられているのである。だが、それは御言葉の正しい解釈ではなく、人間の驕りに基づくとんでもない勘違いでしかない。

前回の記事において、信者は聖書が教えている通りに、キリストご自身から、御霊を通して、御言葉を直接、教わるべきであって、人間の指導者から教えを受ける必要はないことを書いた。たとえ信徒同士で励まし合ったり、戒め合ったりすることが有益であるにせよ、信徒がキリストご自身の役割を奪ってまで、他の信徒を教える立場に立ち、他の信者を自らの精神的指導下に「弟子化」して行くことは誤っているという考えを述べた。特に、ネズミ講のような目に見えないピラミッド体系を作り、上に立つ信者が配下にいる信者から様々な諸権利を奪い取り、不当な自己犠牲を強いることによって、奉仕を受けたり、栄光を受けたりして、霊的搾取に及ぶなど言語道断である。

それにも関わらず、霊的先人たちの教えを「教本」のように用いながら、他の信者に対して、教師然と君臨し、教える立場に立とうとする信徒は枚挙に暇がなく、またそのような教師や指導者になりたがる信者に、自ら教わろうとして弟子化されていく信徒も終わりがない。このようなものこそ、まさに人間による「教え」によって作り出された霊的搾取と支配のためのヒエラルキーの体系なのである。

しかも、すでに述べたことであるが、今日、たとえば、ウォッチマン・ニーであれ、オズワルド・チェンバースであれ、誰であっても構わないが、霊的先人たちの教えをしきりに引用しては、他者を教える立場に立ち、熱心な学びをアピールしている信徒のうち、どれほどの人々が、自ら教えていることに忠実に生きているかを見てみれば良い。残念ながら、その圧倒的大多数は、心からその教えに従いたいと願っているというよりも、むしろ、自らの本質を覆い隠すための二枚舌、アリバイ工作として、霊的先人の教えを表向きに掲げているに過ぎない、という現状が見えて来る。先人たちの教えを数多くストックしつつ、他者を教え、自分も学んでいることをしきりにアピールしている実に数多くの信者が、口先で唱えている教えとは正反対の生活を恥ずかしげもなく送り、自らの信念を裏切っているのである。一体、そのような偽善的な人々の「説教好き」や「勉強熱心さ」は、どこから来たものなのかを、我々は今一度、吟味してみなければならない。

アダムとエバが、神に対して最初に罪を犯し、堕落したきっかけは、彼らが、神が許された限度を超えて、自分たちの力で霊的な高みに上り、「神のようになろう」としたことであった、という事実を思うとき、信徒が霊的な進歩を追い求めて、自ら熱心な学びを進めようとすることに潜む大いなる落とし穴の存在を思わずにいられない。

信者がカルバリの十字架において、この世的な栄光を一切奪われたところで、キリストご自身の死に同形化されて、ただ神からの栄誉のみを求めて、御霊によって教わるのではなく、信者がキリストの十字架の死という土台を離れたところで、この世や、周りにいる信者たちから、「熱心に努力している優秀な信徒」とみなされて好評を博し、拍手を受け、自己満足・自己肯定することを目的に、御霊が教えてくれるのを待たずに、自ら様々な教本に手を伸ばし、その学びを通して神に近づこうとすることは、大変危険な行為である。それは人類が自らの力で霊的に進歩し、神に到達しようという欲望そのものを表す行為であると言って差し支えないからだ。

たとえば、ローカルチャーチを批判しながらも、ウォッチマン・ニーの教本を長い間使用し、ついに自分たちを神だと宣言したKFCとDr.Lukeの例を考えてみる意義は大きいであろう。彼らが引用していた「教本」は、ウォッチマン・ニーに限らず、様々な聖霊派の教えや、心理学や、脳についての非科学的な発表など、多岐に渡る知識の寄せ集めであったが、それらすべての人工呼吸器や点滴のような知識の「栄養補給」が彼らにもたらした結論は、そうした学びによって、彼らが「神に到達した」という結論だけだったのである。

このような宣言は、決して御霊に導かれる信者から出て来ることはないものである。彼らの学びの意欲は、彼らを謙遜に導くことは決してなく、彼らをますます高慢にして行き、ついに神の高みに自力で達し得たと豪語するまでのところまで、彼らを導いたのである。キリスト教界とローカルチャーチの欺瞞を批判していた人々が、批判していた対象と全く同じ偽りに陥ったことに注意したい。

こうした事実から察するに、この人々が手に取った「知識」とは、御霊から来るものではなく、サタンから来る「人が神になるためのノウハウ」であった、と考えるのが妥当である。

筆者は、すべての霊的先人が間違った記述を残していると言うつもりはなく、中には御霊に導かれて書き残された記述もあることだろうと思う。これまで筆者自身が、そうした記述から有益な霊的な糧を受け取ったこともあれば、そうしたものを紹介してくれた信者から、必要な御言葉を聞いたこともある。だから、こうした「教本」のすべてが無益でむなしいものだと主張しているわけではなく、また、信者がそれらから学ぶことが皆無で、全く有害でしかないと言うわけでもない。

だが、よくよく覚えておかなくてはならないことは、どんなに霊的先人たちの残した記述が優れているとしても、信者がそのような記述を可能な限り身の回りにかき集めて来て、自分の知識の本棚にストックし、クジャクの羽をつけたカラスのように見せびらかしたからと言って、それによって、カラスがクジャクになることは決してない、という事実である。キリストとの直接の交わりがなければ、どんなに優れた先人の残したどんなに優れた知識をどれほど大量に蓄積したところで、それによって、その信者の堕落した自己の本質は決して寸分たりとも変わりはしないのである。その信者は、そのような学習によっては、一歩もキリストに近づくことはなく、むしろ、そのような方法でこうした「教本」を利用すると、どんなに優れた学習教材も、その信者が自己の本質を偽り、自分を飾るためのイチヂクの葉以上の効果を全く持たないものとなってしまう。

しかし、こうした問題について、KFCだけを断罪するのは当たらないであろうと思う。というのは、類似した問題が、キリスト教界全体に起きているからである。筆者が何を言いたいか、もうお分かりの読者もいるかも知れない。

キリスト教は人間の作り出した言い伝えや教えではなく、エクレシアは「教える会」(勉強会)ではないにも関わらず、それが意図的に「教会」と訳され、その訳語のために、エクレシアが霊的偏差値をさらに高めるための勉強会のようにみなされている背景には、エクレシアの本質を何かしら別物にすり替えようとする暗闇の勢力の意図が働いているのではないかと思わざるを得ない。

一体、何のための「勉強会」なのであろうか? そこで教えられているものとは何なのか? 

端的に言えば、そこで教えられているのは、「人が神になるためのノウハウ」なのである。その点で、今日、キリスト教界で広がっている光景は、主イエスが地上に来られた時の宗教家たちの姿とさほど変わらないものだと言えよう。当時の律法学者やパリサイ人たちは人一倍、神に近づくことに熱心な人々であった。彼らは律法を守り、落ち度なく行動し、聖書にも精通しており、人からも尊敬を受けていた。そして、彼らは自分たちの宗教熱心さのゆえに、自分自身を神にも等しい聖なる存在のようにみなしていた。それにも関わらず、実際は、彼らの熱心な努力は、彼らを神に近づけることは全くなかったのである。主イエスは彼らの偽善性を指摘してこれを罪として非難された。

今日の状況もそれとよく似ている。人前に何の栄光ももたらさない十字架の死という土台にとどまって、信者がただキリストご自身が、御霊によって、直接、信者の霊に啓示を与えて下さるのを待つかわりに、手っ取り早く人間が自ら作り出した学習教材に手を伸ばし、そこから疑似的な啓示を受け、そこで受けた刺激や感化を通して、自分を飾り、あたかも自分がそれによってキリストに近づき、人間性が改善・進歩したかのような錯覚に陥っている。それはどこまで行っても、神を抜きにした人類の独りよがりな自己改造の努力に過ぎないのだが、それが分からなくなった信者は、そのようなヴァーチャルな変化を積み重ねて行くことにより、神との合一に達しうるかのように考え、ついには神に達したと宣言するまでに至っている。このヴァーチャルかつ偽りの自己改造の努力を、会員全体で積み上げることによって、皆で霊的偏差値を上げてキリストに近づき、到達しましょうというのが、「教会」という訳語が本来的に意図する目的なのではあるまいかと筆者は考えずにいられない。

そのように考えると、今まで教会について疑問に思われたすべてが腑に落ち、納得できるのである。今日のキリスト教界がなぜ現状のような有様になっているのか、なぜとりわけ熱心そうに見える教師然とした信徒たちが、恐るべき偽善的な生活を恥ずかしげもなく送ることができるのか、なぜ信者間に競争があり、差別があり、排除があり、同胞を貶め、排除しながら、特定の集会に居残った人たちが、まるで神に選ばれたエリートであるかのように勝ち誇るといった現象が起きているのか、すべてがよく理解できるのである。

それは、彼らが信仰の名のもとに目指しているものが、キリストご自身によらずに、自分たち人間の力で神に到達し、神の聖なる性質を我が物とすることだからである。一言で言えば、彼らは霊的な淘汰の競争を勝ち抜いて、霊的なヒエラルキーの階段を高みに駆け上って、自ら神の選民となり、神と合一することを目指しているのだと言える。

だが、そのような願いは御霊から出て来た思いではない。だからこそ、そのようなこの世的な歪んだ競争原理、淘汰の原則の働くところ、もっと言えば、霊的な優生思想とで呼んでも差し支えない悪しき歪んだイデオロギーの支配する場所では、様々な不幸な現象が起きて来ることは避けられず、それはもはや一部の教会だけがカルト化しているなどといった次元の問題ではないのである。にも関わらず、キリスト教界組織そのものに根本原因があることを見ずして、キリスト教界がキリスト教界を取り締まるために、自らが繰り広げるカルト被害者救済活動など、全く根本的な対策とはならないのは当然である。

信徒間にヒエラルキーを作り出し、霊的支配と搾取を肯定し、ただ神からの栄誉を求めるのではなく、世と人前でに栄誉を受けることを求め、神の働きを静かに待ち望むのでなく、人間の側からの熱心な努力により頼んで、神に近づき、神の聖に至りつこうとしている今日のキリスト教界そのものが、「ピラトの階段」と化しているのである。

霊的な進歩を求めて熱心に学習を積むことは、人の目には善良なことのように映るであろう。しかし、神の目には、神ご自身から生まれたものでなければ、決して価値あるものと評価されることはない。そして、神からの栄誉と人からの栄誉を同時に受けることは決してできない。神の祝福や富が人間に注がれるためには、カルバリの十字架における霊的死がどうしても必要なのであり、人の古き自己が完全に焼き尽くされ、灰にされた地点でのみ、神からの祝福がその人に注がれるのである。

にも関わらず、人前での栄誉、世からの栄誉を追い求め、これを完全に失う十字架の死の地点を経由していないのに、信者が自己の努力で様々な学習を積んで、神の聖に近づこうとすることは、神を抜きにして、人が神に到達しようとする驕りである。そのような学習を通じて得られる知識は、信者を高ぶりに陥らせるだけで、決して神に近づけることはない。

繰り返すが、人が神に到達する道は、十字架以外には存在しない。その十字架は、人前に何の栄光もなく、その道は、人前に「熱心で模範的な優秀な信徒」や、「優れた霊的賜物を持つ教師」などとみなされて評価され、誉めそやされて脚光を浴び、感謝と拍手を受けて、栄光化されることとは全く相容れない道である。

私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。

オリーブ園の新着ブログに、十字架についてのオースチン-スパークスの記事が掲載されている。当ブログでは、基本的に聖書以外の先人の引用は控えることを原則としたいと思っており、また、オリーブ園に掲載されているペンテコステ系の記事を筆者は支持していないこともすでに述べた。

だが、「主の御腕」には、十字架の働きについて、同感できる様々な点があるため、あえて引用しておきたい。

誰もが知っているイザヤ53章、キリストに関するあの有名な詩編は、次のように始まる。

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
 の御腕は、だれに現れたのか。」(イザヤ53:1)

これは矛盾に満ちた始まりである。オースチン-スパークスは記事全体を通して問いかける。「主の御腕は誰に向かって伸ばされたのか?」と。つまり、「神は誰を擁護されたのか?」、「神が満足される人の姿とは、どのようなもので、どのような条件を備えた人を、神はご自分の僕として力強く弁護されるのか?」
 
この問いかけが極めて重要なのは、それが次のようなくだりとも呼応しているからだ。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天の御国にはいるのではなく、ただ、天におられるわたしの父みこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)。

「主よ、主よ」と日々熱心に祈る人々は、いかにも外見は敬虔そうで、天の御国にふさわしい信者に見えるかも知れない。多くの証を語り、ひざまずいて涙して祈り、たくさんの奇跡を経験し、人々をキリストのもとへ導いているように見える信者たちがあるかも知れない。

だが、神は、あくまで人の外見や行動ではなく、心をご覧になられる。その人が何をしゃべり、行なっているかではなく、その人が「父のみこころを行なっているかどうか」を基準にすべてを判断されるのである。

そして、一体、「父のみこころ」とは何であるのか。イザヤ書の上記のくだりを読んで行くと、神が満足される条件を備えていたただひとりの人であるキリストは、何ら人の目から見て賞賛されるべき特徴を持たなかったこと、世間で敬虔な信者として認められるために今日多くの人々が熱心に求めているすべての条件において、むしろ完全に規格から外れていたことが分かる。

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
 輝きもなく、
 私たちが慕うような見ばえもない。
 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:2-3)

このような人は、今日の教会からも「のけ者にされ」相手にはされるまいと思う。

だが、今日、信者は、イエスに従い、日々自分の十字架を負って彼に従おうと決意するとき、果たして、自分も主が通られたこの道を通り、父なる神の御心を真に満足させる人となりたいと願うだろうか?

たとえ自分の願望が否定され、自分のプライド、名誉欲が傷つけられ、人に賞賛されることなく、疎んじられ、裏切られ、蔑まれることになっても、本当に、古き自己のものが十字架につけられ、自分が主の御前に恥を受け、低められることに甘んじることができるだろうか? そのようなことを人は決して自ら願わないが、もし主の御心ならば、自分がキリスト共に十字架につけられることに信者は同意することができるだろうか?

聖書にはこんなくだりもある、

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論できず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21:10-19)

そろそろ、この終わりの記述が少しずつ近づいて来たようである。殉教者以外は「髪の毛一筋も失われることはない」と言われている。それが復活の体のことなのか、それとも、地上における体を指しているのか、筆者には分からない。

主がご自分に忠実に従う者を守って下さることがよく分かる記述である。おそらく、もし殉教しなければならない者がいるとすれば、そのことも主は事前に知らせて下さるだろうと筆者は確信している。

だが、それにしても、とにかく、すさまじい記述である。「両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られる」。誰がそのようなことを願うであろうか。

しかし、筆者はこれをあらかた実際に経験して来たのでよく意味が分かる。特に今日、クリスチャンを名乗る者がクリスチャンを裏切り、売り渡すということがどれほど現実味を帯びているか、よく理解できる。十字架に敵対する者、十字架を通らずに神に至ろうとする者があまりにも多いからである。

そこで、もし自分の十字架を真に負って主イエスに従おうとする者が現れるなら、この世全体が(特に、クリスチャンを名乗っている者たちが)立ち上がって反対する、「そのようなことは正気の沙汰ではないのでどうかやめてくれ、あなた一人に本当に十字架に赴かれたら、我々全員の嘘がバレるので迷惑だ、どうか我々の商売を妨害しないでくれ」と言って引き留めようとする。その説得もかなわないと、ついに「狂信者」というレッテルを貼って排斥するのである。人を喜ばせる偽りの砂糖菓子のような「十字架」を拒み、この世と調子を合わせたご都合主義的な福音と訣別し、真に聖書の御言葉に立脚して生きるような信者は「悪魔の使い」とされて排斥される、今日の情けない似非信仰者たちの実態である。

そういう者たちからの裏切りが起きたときには、人は混乱したり、原因を色々考えたりしない方が良い。原因を探す必要などない。それは聖書が予告していることだからである。

だが、それにしても、筆者の経験も、まだ聖書の記述の深さにまでは達していない。似たようなところは常に通ってはきたが、いつもどこかに祈ってくれる者や、励ましてくれる者たちも主が備えて下さり、「わたしの名のために、みなの者に憎まれます。」言葉という言葉の深さにまでは達していない。次第に、しかし、時が縮まっていることは感じられる。

主イエスは最も身近な弟子たちにも裏切られ、見捨てられ、一人で十字架に向かわれた。確かに、そのためにこそ、私たちは死から救われ、贖われ、命を与えられた。まず、神が愛する独り子の命を、不従順な我々の贖いの代価として差し出して下さったのである。

だが、だからと言って、神は、この苦しみを御子だけに押しつけておいて、あたかも自分だけは一切、何の苦しみも悲しみも味わわずに、十字架の死など絶対に通らず、ハッピーな人生を送りたい、愛する人々と常に手を携えて、孤独を知らずに共に歩み、仲間に裏切られたり、憎まれるなどまっぴらだ、そのように自分は決して傷つくことも蔑まれることもない安楽な人生のために神を利用し、御言葉を利用して、自分を立派な信仰者として飾り立てたい、と願う似非信者によって、侮られ、利用されるようなお方ではない。

だから、信じる者は、そのようにならないために、常に自分の命を拒んで十字架を取り、主イエスに自ら従う決意が求められているのである。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたし仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:24-26)

私たちは人生においてしばしば激しい戦いを通過する。その時、信者は自分は神に守られていると思っているかも知れない。だが、神の側には、私たちを擁護するにあたり、外せない条件があるのだ。それが、信者がカルバリに留まり続けるという条件である。

だから、もし信者の側がその条件を満たしていなければ、誰であろうと、最も重要な決戦の時に、自分から力が失せていたことを知らないまま、敵にやすやすと捕らえられたサムソンのようになる可能性がないとは言えない。デリラを愛しすぎたことが、サムソンの弱点だったと言って、これを他人事のように笑う人々は多い、しかし、デリラとは、人のセルフなのである。それが分かれば、サムソンを笑える人は誰もいないであろう。

主の御腕は誰に向かって現されたのか、神はどのような人をご自分の民としてお認めになり、どのような人を力強く弁護し、守って下さるのか。

主の御腕は誰に現れたのか。

十字架は、決して人にとって心地よく、優しいものではなく、人の五感にとって甘く、麗しいものでもない。カルバリには人が慕い求めるどんな見ばえの良い姿も、輝きもない。カルバリには何の栄光もなく、人からの賞賛や理解もない。そこにはただ十字架につけられたキリストがおられるだけである。それでも、その栄光の消え失せた十字架に主と共にとどまり、これを自分自身の死として受け取り、全焼の生贄として静かに祭壇に身を横たえ、御言葉が実際になることに同意するだろうか。

十字架を回避して、己を神と宣言する人々が身近に増えて行くに連れて、筆者は厳粛にそのことを思わされる。一体、どれだけ大勢の人々がこの先、惑わされるのであろうか。そして、誰が十字架にとどまり続けるのであろうか。

人にはできない、しかし、神にはできる。駱駝に針の穴を通過させるのは、神の仕事である。お言葉通りになりますようにと応答するのが信者の側の仕事である。

その時に、主は御腕を力強く伸ばされ、山々を割いて降りて来られ、山上の垂訓のあの完全な統治を信者は生きて知るであろう。しかし、今、ダイナミックな復活の命の統治だけに注目するよりも前に、人に注目されることのないこの霊的死の意義にあえて心を向けたいのだ。たとえ主が御腕を力強く伸ばされ、ご自分の民を人知を超えた力によって擁護して下さるその光景を見ても見なくとも、主の御腕の守りの中にとどまり、人に承認されるのでなく、神に承認される者として生きたいのである。


神のこの奇妙な道はなぜか?


 さて、このような反応をすべてまとめると、神が御腕を現す方向に向かって動かれる時の、神の深遠な道を目の当たりにすることになります。神の道は何と深遠なのでしょう!何と神秘的なのでしょう!何と見出しがたいのでしょう!そして、ああ、神の道が分かり始める時、それは何と驚くべきものなのでしょう!私たちはこの御方が神の御子であり、人の贖い主であることを知っていますが、この御方に対して人の思いが下すこの解釈や判断について考える時、このような道は神の深遠な道であることを認めないわけにはいきません。神は動いておられます――常に動いておられ、堅い決意をもって、毅然として動いておられます――御腕を現す地点に向かって動いておられるのです。これが神の道であるとは、凄いことではないでしょうか?

 さて、ここで二つの疑問が生じます。一つは、「なぜ世の人はこのエホバの僕に対して、このような普遍的反応を示すのだろう?」という疑問です。クリスチャンとしての私たちの観点からすると、人が普遍的にこのような判断や反応をすることができるとは驚くべきことです。しかし、事実、人々はそのような判断や反応をしたのです。さらに、これは依然としてそうであることを、私たちは知っています。この世の人々の思いからすると、この十字架に付けられた御方には慕うべき点は何も見あたりません。

 第二に――おそらく、この疑問はこの問題全体の核心・根幹にさらに迫るものですらあります――「なぜ神は、人からのこのような反応を避けられない、このような道をわざわざ取られたのでしょう?」。この道は本当に奇妙です。まるで人からこのような反応を引き出すために、神はこの道を行かれたように思われます。なぜ神は誰からも認められる「まったく愛らしい」御方、一目見ただけで誰からも受け入れられる立場にある御方を遣わされなかったのでしょう?なぜ神は御子を遣わすとき、威厳、光輝、栄光の中で遣わされなかったのでしょう?なぜ彼は最初に天からのあらゆるしるしを示して、すべての人が見るようにされなかったのでしょう?なぜ神は、このような反応を生じさせる道をわざわざ取られたのでしょう?神はわざとそうされたように思われます。そのような反応は必然的でした。イザヤが描いたように、この絵を描いて下さい、「彼の顔立ちは損なわれて人と異なり」――その姿は「人の子と異なっていた」。他にも詳しく記されています――次に、この絵を持ち上げて、「これがあなたの贖い主です!」と言ってみて下さい。神は人を驚かせて憤慨させる道を、わざわざ取られたように思われるでしょう。

 そして、神はそうされたのです!しかしなぜでしょう?

人の間違った価値観のため


 今や、この現実的問題にかなり迫っています。人の価値観はまったく間違っており、神はそれをご存じなのです。人の価値観はまったく完全に間違っています――なぜなら、それは人の自尊心の所産だからです。次のような言葉は自尊心が傷つけられたからではないでしょうか。「こんな水準まで降りなければならないだって!自分の救いのために、そんなことを受け入れなければならないだって!こんな水準まで身を低くしなければならないだって!絶対嫌です!そんなことは人の性質に反します!」。そうです、これは人の性質には人の高ぶりによって生み出された全く間違った価値観が備わっているためなのです。ですから、この受難の僕という思想は人の自尊心にとって侮辱であり、つまづきであり、人の価値観に対する挑戦なのです。まさにこの理由により、ユダヤ人も異邦人もこの知らせを受け入れようとしませんでした――自尊心がそれを許さなかったのです。私たちは次のように歌います。

 「素晴らしい十字架を見渡す時
 私は自分の自尊心をまったく蔑みます。」

 これが十字架の及ぼす影響であるべきです。しかし、そうではありませんでした。人はこのような者なので、人の自尊心はそれを受け入れようとしません。ですから、「彼はさげすまれ、拒絶された」のです。「彼には私たちが慕うべき美しさは何もありません」。

 私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。十字架は人の自尊心や尊大さのまさに根本を打ちます。十字架は人自身の威信や価値観に基づく生活の根本を打ちます。たとえ、この世の観点やこの世の価値観からすると、人はひとかどの者になって、それなりのものを得ることができたとしても、また、先天的あるいは後天的に、自分の頭脳や賢さによって、熱心に働いたり学んだりすることにより、人は何らかの地位、栄光、成功、威信を得ることができたとしても、もしあなたや私が神の御前でそのようなものに基づいて生活するなら、私たちもまた神の価値観に完全に反している人々と同類と見なされるでしょう。


キリストの十字架にとどまれ!

キリストの十字架にとどまれ!
から転載します。

十字架にとどまれ!

今日、サタンが最も恐れていることは何でしょうか。それは一人ひとりのクリスチャンが、自分の無力な力(魂と肉)によって闘う戦士ではなく、神の絶大な力(御霊)によって、サタンに立ち向かう強力な戦士へと変わることです。ですから、サタンが今日、最も心を砕いて行っていることがあるとすれば、それは、クリスチャンが神の力に信頼せず、己の力により頼んで闘おうとする無力で愚かな戦士にとどまるように仕向けることです。

私たちクリスチャンと神との関係を、手をつないで歩く親子にたとえることができるでしょう。御父ははかりしれないほどに力強い大人ですが、私たちは小さな子供なので、一人では全く無力です。私たちは父なる神の見えない手を堅く握り締めて歩いている間は、御父に守られているので安全です。しかし、そこにサタンが邪魔をしにやって来ます。

サタンの目的は、私たちを御父との「一つ」の状態から切り離し、私たちを神の守りから遠ざけて孤立させ、無力にした上で、私たちを打ちのめし、滅びへと引きずり込むことです。サタンは私たちが神と離れて単独では非常に弱い存在であることをよく知っています。そこで、私たちを神から引き離そうとして、私たちの信仰をぐらつかせるような状況を作り、闘いを挑んでくるのです。

サタンは自分の手下となっている人間たちを使って、私たちを攻撃します。また、日常の出来事を通して攻撃します。(不快な事件だけでなく、愉快な事件や、成功も、サタンに用いられる可能性がありますが、そのことについて今は述べません。)サタンは私たちをあらん限りの罪で告発し、非難するでしょう。私たちの過去の失敗を持ち出しては、くどくど非難したり、馬鹿にしたり、屈辱を加えたり、願いを潰して失意を抱かせたり、予想外の困難を置いて慌てさせたり、突然の不幸に出遭わせたり、脅して恐れを抱かせたり、信頼している人に裏切らせたりすることによって、様々な打撃を加え、私たちを挑発するでしょう。

そんな時、私たちは自分の力を使って彼と闘わないよう、よくよく気をつけなければなりません。なぜなら、サタンの目的は、私たちが御父の力によってではなく、自分の力により頼んで彼と闘おうとして、自己防衛に走った結果、敗北することだからです。御父の手を振り切って、私たちが自分の判断で勝手に走り出し、神の守りの外へ飛び出せば、敗北することは決まっています。それが彼の狙いなのです。つまり、私たちが神の導きを待たずして、神の守りに信頼せず、己の魂と肉により頼んで、問題解決しようとして、失敗し、恥辱をこうむることが彼の目的なのです。

人が自分の力でできることには非常な限界があります。たとえ生まれつき素晴らしい才能と能力を持っている人がいたとしても、やはり、人の力でできることには限界があります。私たちが肉と魂によって、何かを達成しようとしても、私たちにできるのは小さなことだけです。

神が私たちに望んでおられるのは、私たちがそのような生まれながらの限界だらけの力を頼んで善行を成したり、御心を行い、問題を解決しようとして苦しんだり、悪の軍勢と対決しようとして敗北することではありません。神の御心は、むしろ、私たちが生まれながらの自己に死んで、純粋に、神の力によって、日々、生きるようになり、勝利をおさめることなのです。私たちが天然の自己にますます死んで、御霊の力によって、生きるようになることが神の願いなのです。

ではどうすれば、御霊によって生きることができるのでしょうか? 

心から主イエスを信じているクリスチャンの中には、たとえ一人ひとりが自覚できなくとも、聖霊が確かに住んでおられます。そのことに反対するクリスチャンはいないでしょう。ところが、実際に、その御霊の力を経験しながら生きているクリスチャンはあまりにもわずかしかいません。

それは、一つには、私たちが主イエスの十字架を自分の十字架として受け止めておらず、主イエスの死を自分の死として受け止めていないからです。多くのクリスチャンは、主イエスの十字架が自分の罪の贖いのためであったことは信じていますが、自分の自己(魂と肉)も、イエスと共に十字架につけられて死んだという事実を知りませんし、その事実を自分に適用したことが一度もありません。彼らには十字架の経験が個人的にないのです。十字架についての、そのような認識が欠けているのです。

その結果、多くのクリスチャンの場合がそうですが、信仰によって罪は赦され、永遠の命は得られても、古き人である自己は、一度も十字架で死ぬことがないままに延命します。そして、アダムの堕落した性質を帯びた肉と魂が、あまりにも堅い覆いとなって、聖霊の現われを全く阻んでしまうのです。そのようなクリスチャンには、古き人(肉と魂)の力がまだ強く働いていますので、彼らは肉的、もしくは魂的なままにとどまってしまいます。本当に御霊に働いていただきたいならば、私たちは、「イエスと共に、私たちの古き人(自己、魂と肉)はすでに十字架につけられて死んだ」ということを事実として受け止め、それを実際に経験せねばなりません。その信仰の適用によって、私たちの古き人である自己が十字架で死ねば、それだけ、聖霊は私たちの内で解放され、外へ向かって自由に流れ出るようになっていくのです。

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。
 わたしはキリストと共に十字架につけられた。
 生きているのは、もはや、わたしではない。
 キリストが、わたしのうちに生きておられるのである
。」(ガラテヤ2:19-20)

今日、多くのクリスチャンは、イエスの十字架を、ただ約2000年前に起こった過去の出来事として信じているだけで、経験としては、自分とは全く関係ないものと思っています。しかし、実際には、私たちが罪の贖いとして十字架を信じるだけでは、不十分なのです。私たちがクリスチャンとして真に霊の命を生きるようになるためには、自分の人生においても、私たちはキリストと共に十字架につけられ、イエスの十字架を通して、自分が個人的に死んだという経験することは、避けて通れないのです。

神の御霊は、私たちが十字架上で自己に死ぬことによって解き放たれます。神の法則はいつもそうですが、私たちの古き人の死があって、初めて、次にイエスの復活の命が現れ、私たちは新しくされるのです。私たちの古き人が死ななければ、復活の命もありません。ですから、私たちは自分の古き人の死がすでに十字架上で成就していることを、機会あるとごに、信じ、それを宣言し、十字架を自分に適用し、受け入れなければなりません。

私たちが古き人をしっかり握り締め、古き人の中で生きている状態では、御霊は働かれません。ある人たちは、御霊をまるで生まれながらの自己の威信を誇示する道具であるかのように勘違いしています。彼らは自己を保ったまま、その上に、聖霊という力を新たにいただけるのだと誤解して、聖霊の賜物を得て、自分がパワーアップするために色々な集会に顔を出しています。また別の人は、ペンテコステとは、ある日、突然、自分がスーパーパワーを手にした超能力者となることであるかのように勘違いしています。そうやって特別な力を得たいがために、聖霊、聖霊と言っている人がいますが、それは大きな間違いです。

御霊に導かれて生きるとは、決して、そんなことを意味するのではありません。聖霊は、私たちの生まれながらの自己、すなわち、古き人を強めるための道具では決してありませんし、そのような安っぽい方法で働かれることはありません。そのようにして、人に栄光を与えるために用いられる「霊」があるとすれば、それは全く神から来たのではない力であるとして警戒すべきです。

御霊は私たち自身の思いではなく神の思いを表します。そして私たちの古き人が死んだ後、全く新しい人を私たちの中に形作ります。それは神の霊によって生かされる新創造、神の御心にかなう新しい人間です。私たちの外側の殻である古き人が十字架につけられて死に、私たちの内側で御霊が働かれるようになって初めて、私たちに、霊的な視界が開けるでしょう。自分の魂と、霊とは、全く別次元に属しているように、全く違うものであること、魂が感じることのできる世界の他に、霊の世界があることを、はっきりと感じ取るようになるでしょう。

しかし、そのためにはまず古き人の死がなければなりません。バプテスマを受けて再生したクリスチャンが、その瞬間から、御霊が自分の内に宿っていることをはっきりと自覚することはまずありません。幼子のようなクリスチャンは、霊に関することをほとんど感知することができません。それは彼が古き人に死んでいないし、キリストと共に自分が十字架につけられて死ぬという経験を経ていないからです。

私たちがキリストの十字架を自分の十字架として受け止め、彼と共に自分もはりつけにされて死んだことを事実として信じ、その死を完全に信仰を持って受け入れる時にこそ、私たちは新しくされます。私たちはこの世ではますます無力になりますが、信仰をもって十字架を受け取る時、私たちの内から外へ向かって御霊が自由に解き放たれるのです。私たちの自己が追い詰められ、この世で居場所をなくし、力を失い、絶体絶命となり、死へ向かう時、それを信仰を持ってイエスと共なる十字架上の死として受け止めるなら、御霊が私たちの自己から解放されるでしょう。私たちはこの世では決定的に無力となりますが、その私たちの死が、キリストの復活の命に接木され、復活の命の力が地上にもたらされるのです。私たちはその死を経て初めて、自分がそれまでと違う全く新しい命の力によって生かされるようになったことを経験することができます、その時、御霊によって生かされるとはどういうことであるかを実際に感じ取るでしょう。

御霊によって導かれ、御霊によって強められ、御霊の力によって生かされるためには、私たちは必ず、イエスと共にゴルゴタの十字架につけられねばなりません。それは一度限りのことでは終わらないでしょう。日々起こる大小様々な出来事をも、十字架の経験として受け止めることは大切です。私たちがどんな小さな出来事をも、イエスと共に十字架で死に、復活の命をいただく機会として、喜びを持って受け入れるならば、イエスの復活の命が、あらゆる機会に私たちの人生に現れるようになるでしょう。御霊がどのくらいあなたを通して働くことができるかは、信仰暦の長さにかかっているのではなく、あなたの勉強の程度にかかっているのでもありません。あなたがどのくらい実際にイエスの十字架を個人的に経験し、自己の生まれながらの力に死んでいるかが、御霊があなたの内でどれくらい自由に働くことができるかの秘訣なのです。

私たちの生まれながらの自己(魂と肉)は、常に、神の力が現れる妨げになっています。考えてみましょう、私たちの天然の自己は、自分が攻撃されたり、脅かされるような出来事が起こると、自己を守ろうとして必死に防衛します。私たちの魂は、人から非難されると、怒って、反論しようとします。いわれのない非難には、無実を証明しようとして、自己弁明します。屈辱をくわえられると、それを晴らそうとして闘います。そのような時、私たちは、考えるよりも前に、本能的に、自己防衛に走っています。

私たちの生まれながらの魂は、常に自分の力で自分を守ろうとしています。自分を圧迫するネガティブな出来事に対して、私たちの魂は、何とかしてその状況から逃れようと、ありとあらゆる策を振り絞って立ち向かい、負担となるものを取り除けようとします。理不尽な事件の中に意味を見出すことは、私たちの自己にはできない相談です。

しかし、神が願っておられることは、そうやって私たちが自分のちっぽけで自己中心な力により頼んで、自分を守ろうとすることではなく、私たちがどんな問題にも、イエスの復活の命により頼んで立ち向かうことなのです。私たちの天然の力は弱すぎるために、元々、サタンに立ち向かう何の武器にもなりません。また、堕落し腐敗しているので勝利の力とはなりません。神の力は無限ですが、私たちの天然の自己から来る力には大きな限界があります。たとえ全力を振り絞って闘ったとしても、十字架の死を経由しない、生まれながらの古き人の方法を用いて闘っている限り、私たちには遅かれ早かれ敗北が待っているのだけなのです。

神が願っておられることは、私たちが自力ではなく、神の力によって生きるようになることです。私たちが日々、己を頼りとせず、神を絶対的に信頼して、生きるようになることなのです。私たちが困難にぶつかる時には、神を信頼して、神の影に隠れるべきなのですが、むしろ反対に、自分で問題に取り組もうとして、己の正義や、己の考えを武器にして、戦場へ出て行くと、私たちは敗北します。キリスト以外の方法を用いて闘おうとすると、私たちは神の守りを失い、復活の命を生きるチャンスを失います。私たちが自己を生きれば生きるほど、その分、私たちは神のまことの命を生きるチャンスを失っていくのです。

私たちが御父の手をしっかりと握って離さず、キリストが用意して下さった神との「一つ」の中にいつでもしっかりとどまりながら、自分の力では何もせず、ただキリストご自身が、私たちの力となって下さり、あらゆる問題への解決となって下さり、私たちを守って下さることを信じ、そうなるまで忍耐強く待っていることができるようになれば、私たちは自然と、これまで知らなかった力によって生きるようになり、思いもしなかった勝利を得るようになります。

それができるようになるために、私たちは、幾度もの失敗を経ながら、自分の力を使って闘うことの無意味さを思い知らされる必要があります。十字架を通して自己に死ななければ、どんな解決もなく、ただ復活の力によって生きることだけがすべての解決であることを見るようになります。神を信頼し、己を頼まず、いつでも十字架に立ち戻ることの重要性を、私たちは何度も学ばされるでしょう。

私たちは自己の無力を知らなさ過ぎるのです、自分に力があると思い込んで、自惚れています。私たちはわざわざ十字架を経由しなくとも、自分には知識があり、沢山の方法があるから大丈夫だと思っています。私たちは本能的に自分を信頼しており、自己がそれほどまでに悪しき、無力な、汚れたものであり、私たちの魂の最も善良な思いつきですら、堕落によって汚されているということを知りません。

そこで神は、私たちが、己を頼みとして行動しなくなるまで、何度も、私たちに失敗させるでしょう、私たちに、十字架以外の拠点に立って闘うことの無意味さを思い知らせるでしょう。自分が傷つけられるのを防ごうとして、あるいは、自己を立てようとして、何かをしようと駆け出す度に、私たちは手痛い失敗をこうむって、敗北して帰ってくるのです。そして、神の導きを待たずして、自分勝手な考えを実行したこと、十字架の死と復活を経由しない、天然の力を用いて闘おうとしたことを反省しなければならなくなるのです。そうして、私たちは改めてイエスの十字架に立ち戻り、自己の力では何もしないことを学び、この世ではひたすら無力になりながら、自分の死の上に、ただイエスの復活の力が働いて下さるまで、信仰を持って待つようになります。

そうしているうちに、いつか、私たちは困難な事件に遭遇しても、衝動的に、自分の知恵によってそれに立ち向かったりせず、十字架を拠点とし、そこで忍耐強く、神の解決を願い求めるようになるでしょう。あらゆる困難は、自己を十字架につけ、キリストに働いていただくための貴重な機会であり、神から特別に提供された学課であることが分かるようになるでしょう。十字架の死と復活を経由しないどんな力も、自分の助けにはならないことを理解するでしょう。たとえいわれなく非難されたり、恥をこうむることがあっても、それをも、キリストの命が働いて下さる貴重な機会として耐え忍ぶことができるようになるでしょう。全ての事件は、イエスの死と復活をさらに経験する機会とするために、神が特別に送って下さったものであると理解するようになります。

こうして、十字架は私たちの家となります!

「人は主イエスが十字架につけられたことを、彼の失敗であると見なすかもしれません。しかしながら、そここそまさに勝利の場所なのです。<…>
 主は十字架につけられ、死人の中から復活されました。彼は死の中へと入れられ、死と戦い、死の力に打ち勝ち、あらゆるものに対して勝利を得られました。主が死んで復活しなかったとしたら、サタンに勝利を得たと言うことはできません。<…>

 サタンはゴルゴタで打ち破られました。別の場所でサタンと戦おうとする者はすべて、失敗する運命にあります。ゴルゴタ以外では、サタンは常に勝利を得ます。彼はただゴルゴタにおいてのみ打ち破られました。また、彼は永遠にゴルゴタで打ち破られました。こういうわけで、ゴルゴタの小羊に結合し、ゴルゴタにおける彼の勝利の土台の上に立ち、別の新しい勝利を獲得しようとせず、ただ一つの勝利を現在の戦いで表現する者はすべて、勝利を得るでしょう。敗北は、自己に信頼することからやってきますが、勝利は、ゴルゴタの立場に立つことからやってきます。ゴルゴタが勝利の場所です! ゴルゴタがわたしたちの家です! 何がわたしたちを恐れさせることができるでしょうか?
(ウォッチマン・ニー著、『クリスチャン生活と戦い』、p.202-203)

 ところで、イエスと共に自己を十字架につけるとは、決して、私たちが自分からわざと苦しもうとして、自虐的な生き方を選ぶことではありません。私たちは自分から困難を願い求めたりしてはいけません。自分で自分を十字架につけようとして、自虐的な行動に走ったり、自己を打ち砕こうとして、あれやこれやの方法を試して四苦八苦する必要はありません。誰かの指示に妄信的に従って、自分を不当に苦しめる必要もありません。私たちは御言葉を信頼して、自分がイエスと共に十字架につけられたことをただ信じ、日々、様々な出来事の中で、それを自分に宣言し、適用するだけでよいのです。自分から十字架を求めてどこかへ出かけて行く必要はありませんし、自分でそれを作り出そうとする必要もありません。自分で自分を痛めつけることによって、人は自己の死を経験できるわけではありません。

また、私たちがイエスと共に十字架で死ぬことを選ぶ時、復活を神に願い求める必要は全くありません。どのような方法で復活の力が私たちに働くのかは、神が決められることであって、それは私たちのあずかり知らぬことです。私たちは「何月何日までに復活したいので自己の死はそれまでにして下さい」などと指定することはできませんし、あれやこれやの復活の方法を指定することもできません。ただ神を信頼して、十字架上での己の死に徹し、神が働いて下さるのを信じて待つことができるだけです。

私たちがなすべきことは、良いことも悪いことも、あらゆる出来事を、神の私たちへの最善の采配として受け止め、そこに御心を求め、ただ神を信頼し、十字架の地点に立ち続けることです。どんな状況にあっても、神が私たちを守って下さり、私たちのために必要な備えと解決を下さり、万事を益として下さると堅く信じ、キリストという解決を待ち望むことです。

こうして、あらゆる出来事が、神によって与えられたものであり、キリストが働いて下さる機会であることを信じ、自分の感覚や感情、思いに頼らないようになれば、私たちから、本当に、はかりしれない神の力が実際に外へ向かって、自然に流れ出すようになるでしょう。信仰、そして十字架における死と復活によって、私たちは勝利を得るようになるでしょう。御霊は、もはや私たちの不信に妨げられることなく、自由に私たちを通して働かれるようになるでしょう。そのようにして神の力を帯びたクリスチャンこそ、神の敵にとって大いなる脅威となり得るのです。


人情に流されて十字架を拒絶することの大きな誤り

「『すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、『主よ、とんでもないことです……』と言った。イエスは振り向いて、ペテロに言われた、『サタンよ、引き下がれ』(マタイ十六・二二―二三)。

悪魔は自分の敗北を十字架上に見いだしました。こういうわけで、彼は、人が十字架へと行き、ゴルゴタの勝利を得ることを最も恐れます。ここでサタンは、大胆にも主イエスご自身を誘惑しました。彼は主イエスに、神のことよりも人のことを思わせようとしました(二三節)。

悪魔は人情を用いて、人を十字架の道から引き離すのが上手です。彼は人に、この道は非常に苦しい、困難なものであり、その道を取ることはとても過酷なことであると思わせます。もしわたしたちが人のことを思うなら、神のことを思うことはできないでしょう。こうして、自己憐憫を通してであれ、他人に対する天然の関心を通してであれ、わたしたちは必然的に神の御心に損失をこうむらせることになるのです。<…>

自己愛、自尊心、自己憐憫はすべて十字架の道に反します。逃避すること、自己をあわれむこと、恐れること、妥協することは、北が南に対するように、ゴルゴタに対するものです。サタンの方法は、人に自己をしっかりと握らせ、人情にしがみつかせることです。サタンは、人が十字架に行き、十字架につけられ、そして死から復活することを恐れます(二一節)。こういうわけで、彼は力を尽くして、人が十字架に行くことを妨げます。というのは、十字架以外には、主によって定められた他の方法はないからです(Ⅰテサロニケ三・三)。

今日、あなたはどの道をとろうとしているのですか? 多くのクリスチャンが十字架を見ると横に避け、すすんで十字架につけられようとしないことは哀れなことです! 彼らは苦難を免れますが、彼らが獲得する安楽さと慰めとは、彼らが失う神のみこころとは比較になり得ません! もし彼らが真に死ぬなら、真に復活するでしょう。そして、サタンの立つ場所はなくなるでしょう。これが、サタンの最も憎むことです。サタンは、わたしたちが十字架上で死に、死から復活することを恐れているのですから、なおさらわたしたちは主に信頼することを通して自己に死に、死から復活すべきです。」(p.208-209)


今日、キリスト教界には背教がはびこり、痛ましい事件が多発し、クリスチャン同士が互いに傷つけ合い、相争っています。ある人々は、受けた被害を取り返し、自己の名誉を晴らそうとして、裁判を起こし、抗議行動を行っています。そしてそのような被害者たちの周りには、人情に従って、彼らに同情の涙を注ぎ、彼らに甘い言葉をかけて、もっと自己の名誉を毅然と取り戻し、雪辱を晴らすために闘い、報復するようにと促す人たちがいます。
一体、誰が正しいのでしょうか。悪事を声を大にして糾弾し、傷つけられた名誉を取り返すために闘っている人たちが正しいのでしょうか?

私たちも、生活の中で、何らかの理不尽な被害を受けることがあるかも知れません。そのような時、私たちはイエスの十字架を取るのか、それとも、自己の名誉を取るのか、選択を迫られることになるでしょう。神を信頼して十字架の死に徹するのか、それとも、己の正義を信頼して自分を生かそうとするのか、選択を迫られるでしょう。

甚大な被害を受ければ、誰しも、自分を被害者とみなしたい気持ちになります。自分の名誉を守るために闘い、裁判を起こし、街頭に立って署名を募り、デモを起こし、一大運動を組織したくなるでしょう。声を限りに、自分の被害を世に向かって訴えたい気持ちになるでしょう。しかし、それがどんなに重大な被害であっても、理不尽な事件であっても、どうか気をつけてください、私たちが不当な目に遭わされたと思って、その事件に怒りと不満を抱けば抱くほど、私たちはその事件の中に神の御心を見いだせなくなります。どんな事件に遭遇しても、神を信頼し、神が全ての事柄を私たちのために按配して下さっており、いつでも必要な解決を与えて下さることを信じて待つことと、自分を被害者だと思って、自分を憐れみ、自己の名誉を取り戻すために、立ち上がって闘おうとすることは、正反対です。前者は神を選ぶことですが、後者はこの世を選ぶことです。自分を助けるために自分で闘う道を選ぶことは、私たちが「神ではなく、人のことを思う」ことであって、御心から逸れることを意味します。私たちが自力で自己の名誉を取り戻そうとして闘うことは、十字架の道を選ぶこととは正反対なのです!

自分を被害者とみなして自己を憐れみ、不満をいだくことは、信仰による態度ではありません。なぜなら、自分が不当に扱われたという怒りと不満を抱くことは、あらゆる出来事の中に神の最善の采配を見て、神を信頼する姿勢とは相容れないからです。

人情の世界では、虐げられた人に同情することは、尊い美徳のように思われるでしょう。傷つけられた人の名誉を挽回するために、被害者と共に闘うことは、美しい行為のように見えるでしょう。しかし、それはイエスが十字架へ向かわないよう、主をいさめようとしたペテロの言葉と同じく、サタンから出た巧妙な欺きなのです! 私たちは信仰を働かせさえすれば、どんなに理不尽な事件の中にも、神の最善の計画を見ることができます。困難な事件は、私たちを訓練するため、私たちの自己を十字架につけるため、一粒の麦が死んで豊かに実を結ばせるために、神から贈られた特別な贈り物であることを見ることができます。信仰があれば、あらゆることに感謝して、それを十字架として受け止め、勝利を得ることができるのです。

ところが、人の愚かな知恵は、理不尽な事件は神からの贈り物ではないから、決して私たちに役に立つことはないだろうと言い聞かせます。そんな事件からは、何も学べることはないから、あらゆる手を尽くして、早く逃れた方が良いと思わせるのです。また、理不尽な事件に遭遇したならば、苦しい状況を終わらせるために、自力で闘うべきだと思わせます。被害者となった自分を、思う存分、憐れみ、自己憐憫を吹聴し、世の人々の同情を乞い、もっともっと自分の権利を取り返すために、みんなで一緒になって闘うべきだと思わせるのです。こうして、人が生まれながらの自己を守ろうとすることこそ、「美しい行為」であり、「人間の当然の権利運動」であり、人が十字架上で自己の死を遂げることなど「言語道断」であるとサタンは人に思わせます。

しかし、人が生まれながらの自己を守り、「虐げられた可哀想な弱者である私」の名誉を挽回しようとして起こすあらゆる運動や思想は、神から出たものではありません。それは私たちが十字架を目を逸らし、それを避けるようにと、サタンから出た誘惑です。それは私たちの自己愛と自己憐憫を刺激することによって、私たちの目を自分に向けさせ、決して神の御心を見ないよう、十字架を受け入れないよう注意をそらし、私たちを天然の自己の力によって闘わせることによって、敗北へと導くのです。

ここで私は、決して、どんな悲惨な出来事に遭遇しても、悪いことは全て無かったことにして、泣き寝入りすべきだと言っているわけではありません。また、苦しんではいけない、怒ってはいけない、悲しんではいけない、と言っているわけでもありません。私たちは生きた魂であって、命のない人形ではありませんから、感情を殺すことはできません。理不尽な事件に遭遇する時、私たちの魂が怒りや、苦痛を覚えたり、誰かに同情したり、悲しんだりするのは自然なことであって、感情そのものを否定することは無意味です。

しかしながら、私たちは、事の理不尽さに注目しすぎるあまり、そこに神のご計画が働いていることを忘れて、ただ怒りや、憐れみや、義憤などの感情に押し流されて、安易な解決を求めて、古き人の力で立ち上がることがないよう、気をつけなければなりません。一時的に怒ることは許されても、ずっと怒りを持ち続けてはいけません。怒りを一つの主義や、信念や、運動にまで高めて、それを武器に、生涯かけて闘ったりしてはなりません。度を越えて怒りの感情を持ち続けることは、非常に危険なことであり、サタンに機会を与えることにつながります。
また、自己憐憫、被害者意識などの感情を、長期にわたって持ち続けることも同様に危険です。それらの感情に圧倒されそうな時は、神に向かって助けを求める必要があるでしょう。どれほど多くの人々が、怒りと、被害者意識と、自己憐憫を過剰に持ちすぎたせいで、人格を損ない、不毛な戦いに人生を費やし、暗闇に落ち込んでいったでしょうか。

私たちはネガティヴな感情も、ポジティヴな感情も、全ての感情を含めて、魂に由来するどんな感情にも、決して、過剰に固執したり、のめりこんだり、溺れてはなりません。私たちが自分の感情を見つめ、それを中心として生活し、自分の感情を大事にし、いたわろうとすればするほど、私たちは十字架から逸れていき、サタンの誘惑にさらされるでしょう。むしろ、そんな時には、私たちは御言葉を通して、キリストと共に、私たちは十字架上で魂の古い性質に対しても、すでに死んでいるのだという事実を思いださなければなりません。

これは決して、私たちが自分の心を乱暴に扱い、自分の感情をことごとく否定し、無視すべきだという意味ではありません。私たちは生きた魂ですから、魂を全て殺してしまうことが求められているのではありませんし、魂の活動によって生きることを避けられません。しかし、過剰な感情に支配されてはなりません。古き人の感情を中心にして生活を送ってはいけません。嵐のような感情が自分を支配しそうになっているならば、それを十字架上に置いて、宣言しましょう。私たちはイエスと共にこの世に対して十字架につけられ、私は死に、この世(魂を苦しめるあらゆる状況を含む)に対して、死んだのだと。そして、もはや生きているのは、私(の古き人である魂と肉の性質)ではなく、キリストなのだと。

私たちはたとえ理不尽な事件に遭遇したとしても、自己憐憫や不平不満や復讐心に溺れることを拒み、ただ神を信頼して、そこに神の最善の采配を見いだして、十字架を自分に適用して、魂に平安を得るべきです。そうすれば、神ご自身があなたのために立ち上がり、あなたのための解決となって下さいます。どんな時でも、私たちは神にありのまま思うことを申し上げ、自分の裁きを性急に下そうとせず、まことの裁き主であられ、私たちのまことの牧者である神が、問題に適切な解決を与え、私たちを守って下さることを信じ、神の解決を信頼して待つべきです。自己憐憫、被害者意識、正義感など、魂の命を守ろうとする感情に駆り立てられて、性急に立ち上がり、この世的な方法を用いて悪と闘うことは、十字架を退けて、自分の方法を取ることであり、それは一見、近道のように見えても、私たちを必ず敗北へと導きます。なぜなら、ゴルゴタ以外の場所には、私たちの勝利は一切ないからです。

理不尽な状況にあっても、神を信頼することは、私たちの魂にとって十字架となるでしょう。私たちの心は、逆境にある時、疑いや不信や怒りや不満にさいなまれます。そのような魂の衝動を積極的に拒まなければ、私たちが、神を信頼することはできません。不平不満と、疑いと、怒りと、不信に満ちた自己の魂を、キリストの十字架に重ね、キリストと共に私の自己がゴルゴタで死んだことを事実として受け入れ、もはや自分の力でなく、キリストの復活の力によって生きることを願い、また信じるならば、素晴らしい祝福を私たちは受け取るでしょう。どんなに神を信頼することが困難な状況にあっても、それでも、私たちが神を信頼し、十字架を経由してこの世に対して死んで行く時にこそ、イエスの復活の命が本当に私たちの力となって現れるのです。

私たちの闘いは、血肉による闘いではありません。私たちに敵対しているのは、人間ではなく、その背後にいて彼を操っている悪しき霊なのです。従って、私たちが裁判その他のこの世の方法を用いて、どんなに人間と闘ったとしても、本質的な問題は何一つ、解決しません。本質的な問題は、霊的な世界にあり、私たちの闘いの相手は、暗闇の勢力だからです。

私たちは暗闇の勢力に対して、血肉によって、つまり、自分の力や、この世的な方法を用いて、勝利をおさめることはできません。だからこそ、そこにはイエスの十字架の死と復活が必要なのです。そしてキリストはすでにサタンに勝利を取られたのです。にも関わらず、クリスチャンが相変わらず、キリストを退けて、この世的な方法を用いて悪と闘っている限り、サタンは私たちを嘲笑うだけでしょう、なぜなら、そのような闘いには全く勝ち目がないからです。光以外のものは、闇に打ち勝つことはできません。私たちが暗闇の勢力を打ち負かすことができるのは、光なる御子イエスの復活の命に生きる時だけです。サタンが最も恐れるのはゴルゴタの十字架です。そこに復活があるからです。だからこそ、サタンは教会からも、十字架を取り除こうと必死なのです。サタンは十字架を遠い日の物語に変えてしまい、十字架を単なる飾り物に変えてしまい、一人ひとりのクリスチャンが自分の人生において、決して十字架を経験しないように妨害し、むしろ、十字架を退けて己の力で問題に立ち向かうようにそそのかしているのです。

サタンは、私たちの注意を十字架からそらすために、私たちを人情にしがみつかせます。自己憐憫や、被害者意識や、同情心や、自己愛や、自尊心を煽り立てることによって、私たちがどんな困難に直面しても、決して、神に信頼せず、それを十字架として受け取らないように、むしろ己が苦しめられたことを不当に感じるように仕向けています。そうして自己を憐れみ、自己を延命させようとしている限り、私たちはサタンに勝利する力を持たないからです。

サタンは、十字架は、あまりにも重く、苦しく、つらく、困難すぎて、イエスには負えても、私たち人間には負えるはずがないから、私たちが十字架を本気で経験しようとすると、必ず病気になるだろうと、今日もさかんに脅しをかけています。彼は十字架には死があるだけで、復活はないと思わせます。私たちが十字架を経由するなど、全く馬鹿らしいことであり、泥臭く、時代遅れであり、当世風のスマートな生き方ではないと、さかんに言い聞かせています。問題があるなら、裁判所へ行きなさい、弁護士を頼んで、自分の力で、名誉挽回しなさい、有名な先生にカウンセリングを受けて、慰めてもらいなさい、嫌なことは忘れて、気晴らしに楽しいことでもやりなさい、美味しいものでも食べなさい、旅行にでも出なさい、そんなに十字架ばかり見つめて、自己の死という憂鬱なテーマを思い巡らしていると、あなたはきっと精神の健康を害しますよ、と、十字架以外のあらゆる他の方法を私たちにすすめるのです。

しかし、私たちに必要なのは、十字架から逃げることではなく、まさに十字架にとどまることなのです! 十字架を避けて、人のちっぽけな力を頼みに、悪と闘おうとすれば、その方がよほど苦しい闘いを強いられるでしょう。たとえ安逸が得られとしても、それは絶えざるごまかしと敗北の中にあります。そこに勝利はありませんし、神の御心もありません。あなたは神から賞与を得る機会を逃してしまうのです。十字架を避けて他の方法で問題解決しようとすることは、永遠の世界では、常に私たちの損失であり、命の浪費へとつながります。

今日、私たちが十字架を経由して、キリストと共に自己に死に、復活することをサタンは最も恐れています。なぜなら、私たちの生まれは罪深い肉に過ぎませんが、もしも私たちが真に十字架上でキリストと共に死に、復活するならば、神の命が私たちを真に生かすようになり、神のはかりしれない力が、私たちを通して実際に外に流れ出るようになるからです。その時こそ、私たちは勝利者となります。だから、復活の命が、サタンにとって最も脅威なのです。そこで彼は、多くのクリスチャンが、十字架を過小評価し、自分には適用する意味がないと思わせ、あるいは、自己を哀れんで、十字架を拒否するように仕向け、その結果、彼らが復活の命の性質を帯びることが決してないように妨害します。ほとんどのクリスチャンは、その策略に騙されて、復活の命を一切、経験することなく、御霊とは何であるかを知らないままに、無力な生活の中にとどめ置かれているのです。

クリスチャンは、神を信じ、聖霊を内にいただいている誰もが、キリストの復活の命を実際に生きているわけではない、ということを知る必要があります。いくら聖霊が内に宿っていても、私たちの自己が死を経ることがなければ、私たちは、依然として古き人にコントロールされて生きているままで、御霊によって生きることがどういうことなのか、その実際を分からずじまいに終わるのです。私たちがイエスの十字架を自分の十字架として経験し、古き人に死ななければ、復活の命を見ることは決してないのです。

自分で自分を救おうとする者は、かえって自分の命を失います。自分の魂の命をイエスと共に十字架上で拒否する者だけが、永遠の命と共に、自分の魂をも取り戻すのです。私たちが自分を憐れみ、キリストの十字架なしに、自力で、自分を守ろうとすればするほど、私たちはますます危険にさらされ、解決は遠のいていきます。私たちが自分の名誉を挽回しようとして闘えば闘うほど、ますます問題はこじれ、争いは泥沼化し、生きる希望がなくなっていくでしょう。自分で自分を守るための闘いは、私たちをただ消耗させるだけで、何の実も結ばせません。理不尽な事件に遭遇する時に、神を信頼せずに、自分で自分を助けようとすることは、最悪の対処方法です。そんな時にこそ、私たちは、キリストご自身がその問題に解決となって下さることを信じ、神を信頼して忍耐強く、解決を待ち望む必要があります。そうして私たちが十字架にとどまり、そこで自己の死に徹し、神が復活の命を与えて下さることを信じて待つならば、いつでも、驚くべき解決が与えられるでしょう。

私たちが自己を否んで、キリストに道を譲るのを、キリストはずっと待っておられます、私たちのあらゆる罪を引き受けて死んで下さったキリストは、今日も、喜んで私たちを守るための闘いを引き受けて下さいます。古き人を否んで、キリストに道を譲るときこそ、私たちから圧倒的な御霊の力が現実に流れ出すようになります。私たちの勝利の力の源はすべて十字架上にあります。たとえ苦しめられたり、辱められることがあっても、それをただの事件として終わらせず、イエスの十字架の死と復活が、あなたの人生に直接、働く機会として受け止めるならば、この世での損失は、御国の成果へと変わります。あなたはあらゆる場面で霊の命を生きるようになり、素晴らしい祝福があなたに臨むでしょう。自分で自分を救おうとしてはいけません。古き人の力ではなく、イエスの復活の力によってのみ、私たちは暗闇に覆われたこの世のあらゆる問題に立ち向かうことができます。キリストの復活の霊なる命こそが、クリスチャンの勝利の秘訣です。イエスのまことの命こそが、私たちをあらゆる問題に勝たせ、悪しき勢力から救い出し、真に御心にかなった人間として生かす力なのです。


私は山に向かって目を上げる。私の助けは、天地を作られた主から来る。

さて、このところ日々、深い平安の中で、主の御業を見る。
あまりにも些細な日常の出来事なので、詳しく書き記すこともないが、実に面白い小さな日常の出来事の中に、いつも主のわざを見る。

物流、天候、人の反応、動物たちの行動…、どんな出来事の中にも、主が共にいて下さり、力強く働いて下さっている目に見えない臨在を見る。

昨日は、またしても必要が整えられたので、満月のような丸く赤い月が空に浮かんでいるのを見ながら、広々した空間で、天を見上げ、主に感謝の願いを捧げた。

公生涯を始められてから、主イエスは誰にも頼ることなく、父なる神だけを頼りとして地上で生活された。人の子には枕するところもないと言われた通り、自分の家を構えることもなく、自分の技術や知識により頼んで身を立てることもなく、地上では完全に寄留者として、一切、父なる神以外の庇護者を持たなかった。

それにも関わらず、暗闇の勢力の前で、父なる神の絶大な愛と御力を証された。十字架の死という究極の弱さを通られても、なお、復活の命によって悪魔を打ち破られた。キリストこそ、造られた世界のまことの統治者なのである。

キリスト者も、同じでなければならないことを思う。

いや、同じでなければならないというだけでなく、どんな目に見える庇護者よりも、神がはるかに強く、信頼できる方であることを、キリスト者は生きて味わい知り、また証明する必要がある。

筆者は、これまでたくさんの人々との関わりの中で、信者であっても、とかくリーダー格になりたがったり、人助けにいそしんでは人前に栄光を受けたがる人々もいることを知ったが、決して、主イエス以外のリーダーは必要ないのだと心から確信している。

リーダーだけではない。助力者も、助言者も、教師も、弁護者も、医者も、カウンセラーも、すべてが主イエスご自身だけなのだ。私たちの助け主は、天にも地にも、ただお一人しかいない。

人はこれを見て「寄る辺ない状態」と言うかも知れないが、ところが、神ほど強力な助け主はない。キリスト者は、一切の人知による助けに頼らず、ただ神に栄光を帰すれば帰するほど、ますます強く、勇敢になって行くのである。
 
主イエスが地上で歩まれたように歩もうと、心に決めた。父なる神だけを頼りとして、どれほどのことが信者に可能であるのか、神の愛と憐れみに満ちた御心とご計画のダイナミックさと不思議を生きて味わい、証明するために、何よりも栄光をただお一人の神だけに帰するために、大胆に、歩みを進めて行こうと思った。

神の子供たちよ。強くあれ、雄々しくあれ。キリストはすでに世に勝利された。主の愛がキリスト者を四方から取り囲んでいる。神の愛が津波のように信者に押し迫っている。
 
「私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を作られた主から来る。」(詩編121:1-2)


恐れるな、小さき群れよ。御国を下さることは、父のみこころなのです(3)

夜明けと共に外へ出て小鳥たちのさえずりを聞く。まだ人が起き出していない時間帯は、空気が澄んで冴え渡っている。雀が喜びに満ちて空を飛び交い、我が家にも可愛らしい挨拶をしに来る。新しい朝と共に、何とも言えない感動が溢れて来る。神が創造されたこの世界は美しい。

「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)

非常によかった。この言葉を思い出す。主が造られたものは、神の創造の不思議を余すところなく体現しており、何の欠けたところも、不足もなかった。その時、世界は神の目からどう見えていたのか、今見えるものを見つめながら、思う。

何の変哲もない毎日の風景の中に、主が、確かに共におられ、力強く生きて働いておられることを感じる。私たちのただお一人の守り主、救いの岩、やがて来るべき王、王の王、主の主。神は御子によって全ての御わざを完成されたのである。たとえこの目に見える被造物全体が、贖いを待っているにしても、ここに確かに、キリスト者と共にすでに新しい秩序が到来している。キリストはすべてのわざを十字架において完了され、それは私たち信じる者たちのものである。

「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」ルカ17:21)
 
海の向こうから聖徒らが贈り物を携えて主の宮に集まって来る足音が聞こえるような気がする。神はアダムのためにエバを造られたように、愛する御子キリストのために花嫁エクレシアを召し出された。召し出された者たちが、収穫を携えて、喜びの涙と共に集まって来る。

「主に贖われた者たちは帰って来る。
 彼らは喜び歌いながらシオンに入り、
 その頭にはとこしえの喜びをいただく。
 楽しみと喜びがついて来、
 悲しみと嘆きとは逃げ去る。」(イザヤ51:11)

それは遠い未来の日のことではない。神は信じる者のために全てを達成された。すべては十字架において御子によって達成されたのである。私たちはそこからすべてを引き出す。この古き世界に身を置きながら、私たちはすでに新しい秩序の中を生きているのである。

神の愛が私たちを取り囲んでいる。恐れるな、強くあれ、雄々しくあれ、神の子供たちよ。主が共にいましたもう。万軍の主が共におられる。聖徒らを御前に訴え出ることのできる者はどこにもいない、神は彼らを義とされたのである。

神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた型であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
 「あなたのために、私たちは一日中、
 死に定められている。
 私たちは、ほふられる羊とみなされている。」
 と書いてあるとおりです。

 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:30-39)

召し出された者たちに対する神の愛が、圧倒的な波のように押し寄せて来る。私たちがこの地上において遭遇するどんな出来事をも、神の愛は、はるかに高く超えて行く。地上で起きるどんな出来事も、どんな状況も、神の愛から聖徒らを引き離すことはできない。

私たちのために御子をさえ惜しまずに与えて下さった方は、この方の命によって、ご自分の子供たちのすべての必要を満たし、豊かに生かして下さる。御国は、すでに来ている、聖徒らの只中に。キリストのお与え下さった命によって、聖徒らにはすべてが与えられているのである。

だから、恐れるな、強くあれ、雄々しくあれ、神の子供たちよ。神が私たちを愛し、私たちのために御子を遣わして、その命をお与え下さったように、私たちも命ある限り、主を愛し、その愛の中にとどまり、御言葉の中にとどまる。この目に見える世が終わり、来るべき世が来て、主と共に栄光にあずかるそのときまで、私たちは変わらず主の復活の証人である。

「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」(ルカ12:32)

この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀

(これはホームページに掲載する予定の論考の一部です。)

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――カルト被害者救済活動の暴走――
~この世の原則を聖書の原則よりも上位に置いてキリスト教を貶める
村上密牧師と杉本徳久氏の思想と活動の危険性について~



 1.キリスト教のイメージを貶める一方で、神社の政治イデオロギーの危険には口を閉ざし、聖書に立脚して異端を識別するための真の霊的戦いの必要性を無視する村上密氏の活動の危険

前述の記事「東洋思想とは何か。その柱は何を再建しようとしているのか」においては、明治憲法時代に逆戻りし、戦前の軍国主義・国家主義・国家神道を復活させようとの狙いのもと、神社本庁が主導して行っている危険な改憲運動について触れた。

今や神社が七五三などの場面で利用される平和で世俗化した宗教団体ではなくなり、こうした過激かつ危険な政治運動に手を染めて、我々クリスチャンの信じる神への敵対行為を行う砦のようになっている事実を見るときに、これまで当ブログにおいて再三に渡り、その活動の危険性を指摘して来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏が昨年に行った「神社への油まき事件」についての告発と記者会見(クリスチャン・トゥデイ記事)も、改めて違う角度から見えて来るのである。

村上密氏はこれまで「キリスト教界のカルト化の危険」を声高に訴え、支持者らと共に、キリスト教界における不祥事を次々と世間に発表しては、その是正の必要性があることを訴え、これを口実に、自ら「カルト化の疑いがある」とみなしたクリスチャンを次々と法廷に訴え出ては、訴訟沙汰に巻き込んでいくことによって、キリスト教界の混乱とイメージダウンに貢献して来た。

筆者は、こうした法廷闘争などのこの世の争いを主要な舞台とする村上密氏による「カルトとの闘争」が、従来の平和的な福音伝道を中心とするプロテスタントの牧師活動から逸脱したものであるとみなし、こうした活動が、キリスト教界のカルト化問題の解決に役立つものとは一切考えていない。そのことは、最近の記事「悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構」、「村上密牧師による自己流の「異端審問」」等でも詳しく記して来た通りである。
 
まず、平和な福音伝道という牧師の本来的な使命から大幅に逸れている点で、村上氏の活動は、到底、正常なクリスチャンとしての信仰に基づくものとは言えない。また、聖書的な観点から見ても、この世の司法や警察という世俗の権力の力を借りて異端を取り締まる活動は、この世の権力を教会の内政よりも上位に置くことを意味し、それは結局、この世の堕落した悪魔的な統治を神の御霊による霊的統治以上に高く掲げることであるから、聖書の秩序を転倒させる行為であり、その点で、反聖書的であるばかりか、悪魔的な思想に基づくものであると言って差し支えない。

こうした村上氏の活動は、キリスト教界全体を泥沼の法廷闘争と行き過ぎた異端審問に巻き込み、恐怖政治を生むことはあっても、同氏が唱えているような、カルト化問題に対する解決をもたらすことは決してできない。このことについては、当ブログでは記事「カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について」を通して、実に早い段階から警告して来た通りである。

キリスト教界のカルト化を解決する糸口は、クリスチャンが聖書に立ち戻り、キリストの十字架を原点として、聖書にそぐわない異端の教えを自ら識別して退ける判断力を持つことにしかない。そこで、村上氏の法廷闘争は、キリスト教界のカルト化問題を解決するには完全に無力であり、キリスト教界により深い混乱をもたらす源となるだけでなく、これはただ同氏がキリスト教界において権力を握るための政治闘争の手段に過ぎず、クリスチャンをますます聖書から遠ざけて、人間に権力を集中して行く危険な活動である。この問題についてはすでに記事「「キリストの十字架以外に救いはない」や、論稿「 罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反しているのか。」においても詳しく警告しているのでそちらを参照されたい。

また、村上密牧師がどういう人物であるかを判断するに当たっても、同氏がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中で行って来た信頼できない不透明な活動について、以下の記事にまとめているので参照されたい。「 村上密牧師による鳴尾教会への不当な介入問題 まとめ
   
さて、名は体を表すとはよく言ったもので、世間を騒がせた「神社への油まき事件」に関しても、この事件を引き起こした男が韓国系のキリスト教の伝道者であることを警察に率先して情報提供した(=密告した)のは村上密氏であり、同氏は自らそのことを隠し立てなく自身のブログ記事で告白している

むろん、これまでにも「カルト化の疑いがある」とみなした牧師や信徒を次々と法廷に訴え出ることを辞さなかった同氏のことであるから、こうした行為も、公共の秩序維持、社会の安寧のために正義感から行ったという認識しかなく、「危険人物を当局に率先して売り渡した」という後ろめたさなど微塵も感じてはいないことだろう。

誤解のないように言っておけば、筆者は、この油まき事件を引き起こした人物を擁護するためにこの記事を書いているわけではない。いかにキリスト教信仰に熱心な人間であっても、神社の境内に油をまいたり、他宗教に対して攻撃的な活動に走ることは、容認されるべきではないと考えている。そのような過激で自己本位な活動が正常なキリスト教の信仰に基づくものであるとも考えていないし、そんな過激な行動を伴う「霊の戦い」が正常な信仰生活であると言うつもりもない。

だが、この事件に関しては、それとは別の文脈で注目しなければならないことがある。

それは、村上密氏がこれまで「キリスト教のカルト化の危険」を声高に訴え、キリスト教の内部で起きた不祥事を大々的に世間に公表することによって、これを自身がカルト化問題の専門家として脚光を浴びる機会として来ただけでなく、キリスト教の世間でのイメージを著しく低下させることによって、「カルト対策」という自分自身のライフワークの需要を自ら作り出して来たことである。

従って、この「神社への油まき事件」も、村上密氏にとっては、自らの続行する「カルトとの闘い」が世間で脚光を浴びるための最適の機会となったのであり、同氏がキリスト教の浄化が必要であると訴えて自らの活動の需要を世間にアピールするための絶好のチャンスとなったのである。
  
こうした村上密氏の活動には、クリスチャンが決して見落としてはならない巨大な盲点、落とし穴が存在する。
 
村上氏は、神社へ油をまいたキリスト教徒の活動だけを危険なものとして取り上げて、「キリスト教界のカルト化の危機」を声高に訴える一方で、神社はただその被害者であるという文脈で、神社の唱える信仰そのものの反聖書的な危険性という問題と、神社の主導する国家神道の復活という危険な政治イデオロギーに基づく活動の危険性には全く口を閉ざしている。

同氏はこれまで常に「キリスト教の行き過ぎた霊の戦い」の愚かさと危険性だけを強調することによって、キリスト教において「霊の戦い」という名で呼ばれるすべての活動が、何かとんでもなく狭量で偏見に満ちた、馬鹿馬鹿しく荒唐無稽な概念であるかのような印象を読者に抱かせようとして来た。その一方で、聖書に立脚した真の「霊的戦い」が確かに存在するという事実や、信者が聖書に基づいて正統な信仰と異端思想を鋭く識別して、誤った思想を退ける必要性を覆い隠そうとして来たのである。

聖書は「霊の戦い」そのものが存在していないとは全く言っていない。パウロは書いている。

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ちむ悪ことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。…」(エペソ6:10-13)
 
聖書は、キリスト者には「血肉」に対するものではない、目に見えない霊の領域における戦い、すなわち、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対する戦い」が確かに存在することを教えている。そして、信者がこの霊的戦いに勝ち抜くための武器が、聖書の御言葉であることも教えている。
 
「霊の戦い」とは、筆者の言葉で説明するならば、目に見えない霊的領域における激しい霊的・思想的論戦である。聖書によれば、キリストの御霊が存在するように、悪霊というものも存在するが、クリスチャンには悪霊そのものを根絶することはできない。従って、クリスチャンが「霊の戦い」においてしなければならないことは、悪霊そのものを根絶しようとすることではなく、悪霊から来る思想を見分け、これを受け入れずに退け、その嘘に欺かれて悪魔の吹き込む虚偽を信じないことである。

当ブログではこれまで幾度となく指摘して来たことであるが、霊の戦いとは、キリストの御霊に属する思想と、これに反する敵の吹き込む思想とを信者が厳粛に区別し、敵の偽りを見破り、退けるための論戦なのである。

人の行動の背景にはすべてそれなりの動機があり、その動機を作り出しているのは、その人の思想や信念である。一人の人間の言動をじっくり観察すれば、その人がどのような信念の持ち主であるかが分かるであろう。そして、その信念が聖書に立脚したものであるかどうかをつぶさに調べることによって、信者は、その人がやがて行き着こうとしている人生の目的も客観的に理解することができるのである。

すなわち、人を導いているものは、その人の持つ霊的・思想的信念なのであり、一方には、聖書の御言葉に立脚したキリストの御霊から来る思想があれば、他方では、悪霊に属する思想がある。そして、悪霊の思想は、必ず、聖書の御言葉を毀損し、歪曲し、御言葉の信用を貶めるという特徴がある。
 
さらに、当ブログでこれまでずっと分析を重ねて来たように、悪霊の思想である異端思想には、太古から現在に至るまで共通する特徴があり、共通する思想的な原型が存在するのである。
 
異端思想の根幹は、神が唯一であることを否定し、神と人とが罪によって断絶していることを否定し、神と人との交わりを回復するためのキリストの十字架の贖いを否定することである。

クリスチャンは、日々、聖書の御言葉だけに堅く立って、これに反する全ての思想を識別して退け、受け入れないように気をつけねばならない。実際に、暗闇の勢力による欺きは日々行なわれているのであり、信者が注意深い識別力を持って、何が聖書にそぐわない思想であるかを識別し、これを排除するために目を覚まして警戒することがなければ、暗闇の勢力の策略を見抜くことはできず、欺かれて翻弄され、貴重な時間と労力をむなしく失うだけであろう。
 
従って、霊の戦いとは具体的に何かと言えば、それは何か超能力のようなものによって普通の人には見えないお化けのような幻影を見いだしてそれと戦ような愚かしい闘いを意味せず、また、いわゆる「悪霊退散」などのように、お化けを撃退したり根絶することを意味せず、また、キリスト教に属さない他宗教をのべつまくなしに敵視してこれを根絶しようとする愚劣な闘争をも意味せず、それは、クリスチャンが聖書の御言葉を武器として、様々な影響力となって信者のもとにやって来る敵(暗闇の勢力)の吹き込む目に見えない様々な霊的思想を識別し、何が聖書に忠実である正しい思想かを見分け、敵の虚偽を見分けて退け、真理だけに立脚して生きるための絶え間ない論戦なのである。
 
つまり、霊の戦いとは、すなわち、聖書の御言葉を曲げようとする異端思想との闘いなのであり、それは激しい論戦である。この論戦の重要性は、キリスト教の初期の歴史に存在したいくつもの公会議や、霊的先人による異端反駁などを思い出すだけで十分に理解できよう。しかし、その戦いは、異端者を火刑にしたり、残酷な処罰を行うといった外的強制力によって成し遂げられるものではなく、異端思想とは何かという、偽りの思想の骨子を明らかにし、偽りが偽りである所以を聖書に照らし合わせて明らかに証明することにより、何が正統な信仰であり、何が異端であるかを識別し、偽りを退けて、正統な信仰を守り、継承する作業なのである。

この識別は、聖書が実際に奨励していることである。

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしない。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。

人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。

イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」(Ⅰヨハネ4:1-3)

すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」(Ⅰテサロニケ5:21)
 
上記の御言葉は、反キリストの霊というものが確かに存在しており、反キリストの告白する思想というものが実際にあることをクリスチャンに教えている。そして、クリスチャンが敵の霊を見分けるポイントが、その霊の告白する思想の内容にあることをも明確に教えている。つまり、ある霊の告白する思想が、神の御子キリストの十字架に対して、どのような立場を取っているかが、大きな見分けのポイントになるのである。
  
信者は、自分のもとに人や出来事を通してやって来る霊の述べる思想の内容を吟味して、「敵の霊を見分ける」ことをせねばならないのである。しかし、信者にもたらされる悪霊の影響力は、必ずしも、人の述べる思想や言動だけにはとどまらない。信者の日常生活に起きるすべての出来事によっても、信者の心に何らかの影響が及ぼされるのであり、環境によって引き起こされる影響力も、同じように吟味の対象とならなければならない。信者の日常生活には、暗闇の勢力が及ぼす事件というものも確かに存在するからである。

もし何の霊的識別の努力もしなければ、信者は、ただ暗闇の勢力の引き起こした事件によって翻弄され、悲しみのどん底や、落胆や、失意に追いやられ、絶望感、罪悪感、自己憐憫などの感情を吹き込まれ、神がキリストの十字架において信者のためにすべてを達成されたという聖書の事実から逸れて行き、この事実に基づいて信者はすでにすべての災いから救い出されているのであり、罪からも清められ、キリストにあって、あらゆる問題の解決をすでに得ているのだという事実を簡単に忘れてしまうであろう。

こうして、聖書の御言葉だけに堅く立って、御言葉に合致しない全ての影響力を退け、キリストの十字架を通して信者に与えられている特権としての義や、自由といった権利を守り抜くための絶え間ない戦い――思想的・霊的論戦こそが、クリスチャン生活の真の意味での「霊の戦い」なのである。

しかし、村上氏は、「キリスト教のカルト化問題」を取り上げる際、キリスト教界に起きている諸問題が、信者が聖書から逸れたために、すなわち、御言葉に合致しない敵(暗闇の勢力)の欺きを受け入れてしまったがために起きたものとして、信者に聖書に立ち戻ることを促すのではなく、むしろ、こうした問題が、あたかもクリスチャンがあまりにも聖書の御言葉だけにこだわりすぎて、「二元論思考」に陥ったために起きたものであり、まるでキリスト教そのものが、こうした問題を引き起こす原因を抱えているかのように描き出すのである。

こうして、村上氏は「キリスト教界における行き過ぎた愚かで過激な活動」が、まるでキリスト教そのものに原因があって起きているものであるかのように、キリスト教界やクリスチャンを糾弾し、巧みにキリスト教そのものの信用やイメージを貶める一方で、信者が実際に闘いぬかねばならない真の「霊の戦い」があることや、信者が聖書にそぐわないあらゆる欺きを鋭く見分けて、これを退けながら、実際に「霊の戦い」を闘いぬいて勝利し、御言葉に基づく信仰を堅く守る必要性を覆い隠してしまうのである。
  
「神社への油まき事件」も含めて、村上氏は、クリスチャンの恥ずべき過ちだけを盛んに取り上げることにより、キリスト教における神と悪魔、光と闇、天と地、霊と肉、新創造と旧創造、等々の「切り分け」や「二分」そのものが、何か非常に疑わしい、行き過ぎてカルト的な思考であり、非常識で誤った「二元論的思考」であるかのような印象を人々に抱かせようとするのである。
  
村上氏はキリスト教界に起きた誤った事件ばかりを取り上げることによって、クリスチャンが聖書に照らし合わせて何が正しく、何が間違っているのかを自ら識別して判断する必要性を覆い隠し、むしろ、そうした識別・区別の作業自体が、クリスチャンの独善的で、狭量で、独りよがりな間違った思い込みであるかのような印象を読者に抱かせるのである。

村上氏が「キリスト教における行き過ぎた霊の戦い」の馬鹿馬鹿しさだけを強調すればするほど、クリスチャンは、信者として自分が本来持っていなければならないはずの聖書への忠実さ、貞潔さ、正常な警戒心や、識別作業までが、まるで必要のない潔癖症か、あるいは、信者の高慢さや狭量さや偏見に由来する行き過ぎた態度であるかのように思わされ、これを自己反省して改めなければならないようなプレッシャーを感じさせられるのである。

こうして同氏は、非常に巧妙な形で、聖書における十字架の切り分けや、神の霊に属するものとそうでないものとの絶対的な区別(聖書の持つ「二分性」)そのものを、あたかも実在しない想像の産物や、クリスチャンの歪んだカルト的な思考の産物であるかのように描き出し、聖書の御言葉の真実性そのものを疑うように信者に仕向けて行こうとする

その一つの証拠として、村上氏は、「油まき事件」以後、同氏のブログを読んでクリスチャンから寄せられたというキリスト教特有の「二元論的思考の誤り」に関する信者の反省文を、得意げに自らのブログ記事でいくも披露している

むろん、そこに記載されている行動は、確かに、筆者の目から見ても、正しい「霊の戦い」とは言えない。しかしながら問題は、村上氏が常にこうした誤った事例の愚かしさばかりを強調することにより、聖書の神こそが、まことのただお一人の神であり、これを否定する思想がいかに危険であり、信者がいかに目を覚まして聖書を歪曲する思想の誤りに気づいて偽りを退ける作業が重要であるかという点に触れようとしない点である。

特に、クリスチャンを名乗り、プロテスタントの牧師であるはずの村上密氏が、キリスト教の不祥事だけを一方的に取り上げてクリスチャンを叩くことはしても、唯一の神を否定して「八百万の神」を唱える東洋思想に基づく神社の信仰の危険性、また、神社本庁が主導する軍国主義・国家主義・国家神道の復活へ向けての改憲を促す政治活動の著しい危険性という極めて差し迫って重要な問題について、全く触れようとしないことは不気味でさえある。
 
同氏は、こうして「この世の思想」の危険については完全に沈黙しながら、他方では、行き過ぎに陥ったクリスチャンの反省文を公然と掲げることにより、この世の思想の前に、クリスチャンをひれ伏させて、懺悔と自己反省を迫るのである。そして、クリスチャンが聖書に基づいてこの世(神社も含む)の思想の誤りを指摘して糾弾するなど、無礼千万な思い上がりに過ぎず、信者が聖書に基づいて偽りの思想を糾弾して退けようとする行為自体が、愚かで非常識な偏見に基づく寛容さの欠如であり、無用で行き過ぎたカルト的思考であるかのような印象を醸し出そうとするのである。
  
このようにして、キリスト教だけを断罪しながら、巧みに世の霊に寄り添うのが、村上氏の活動の常なる特徴である。同氏は、キリスト教界に起きた不祥事ばかりを一方的に取り上げて糾弾することによって、いつの間にか、まるで聖書に立脚したものの見方そのものが、過激で行き過ぎた危険な思想であるかのような印象を世間に抱かせ、かつ、キリスト教や聖書そのものに、何かこうした行き過ぎを生み出す源となるものがあるかのように思わせ、あたかもキリスト教が大変、危険な宗教であるかのように世間に思わせようとする一方で、神社の信仰や政治思想のようなものには一切、批判を加えないのである。

同氏の活動は、常にこうしてこの世の不信者の間で空気のように蔓延している反聖書的な思想の危険性についてはほとんど完全に口を閉ざしながら、キリスト教界の不祥事だけを大々的に取り上げることによって、キリスト教が危険な宗教であるかのように世間に思わせることに貢献して来た。また、この世の圧倒的大多数である不信者の世論を味方につけて、この世のマジョリティの力にものを言わせて、日本の人口においては1%程度のマイノリティであるクリスチャンを断罪し、自己反省を促し、懺悔を迫るという形を取って来た。

(ちなみに、クリスチャン人口が約6%にまで上昇したという記事(クリスチャン・トゥデイ)もあるが、いずれにしても日本の全人口においてクリスチャンが圧倒的マイノリティであることに大差はないと言えるだろう。)
 
このようにして同氏は、自らの非難の対象をほとんどキリスト教(と明らかにキリスト教の異端と分かっているもの)だけに絞り込むことによって、自ら牧師であるにも関わらず、キリスト教のイメージを貶めることに貢献して来た。そして、「この世」に蔓延している反聖書的思想の危険性は非難することもなく無罪放免するばかりか、むしろ、この世が「キリスト教の被害者」であるかのように主張して、この世の常識によってキリスト教界に起きた事件を裁き、この世の司法などの強制力を通してキリスト教に強制介入し、聖書の御言葉よりも、この世の常識を上位に据えて、この世の力によって教会を裁くことを正当化しようとして来た。

最終的には、同氏の活動は、聖書の御言葉に基づく信仰自体が、何かしら「過激なとんでもないもの」であり、「二元論的でカルト的な誤った思考」であり、キリスト教や聖書そのものが「カルト思想」を生む源であるかのような印象を人々に与えることにより、聖書の御言葉の真実性を毀損し、聖書の御言葉に忠実であろうとする信者の信仰を「カルト的な行き過ぎ」であると断罪し、そのような「行き過ぎ」に陥らないために、「キリスト教を監視する必要性」まで訴えるのである。
 
こうして、村上氏がキリスト教に起きた不祥事を奇禍として、キリスト教界において権力を掌握してこれを取り締まりの対象としようとしているだけでなく、クリスチャンが何が正しくて何が間違っているかをはかるためのものさしを、巧妙に「聖書」から「この世の常識」にすりかえ、キリスト教の行き過ぎだけを断罪しながら、他方で「この世」の誤った思想の危険性を無罪放免することにより、結局、「聖書の御言葉」よりも、「この世の常識」を上位に置こうとしていることに注意が必要である。

このような文脈で見ると、村上密氏が「神社への油まき事件」に関して行った記者会見は、これまで世間でとらえられていたのとは全く違った文脈で理解されるのである。すなわち、同氏はこの事件を通して、クリスチャンがまたしても神社に対して過ちを犯して「世間に迷惑をかけ」、キリスト教がまたもや過激な行き過ぎに陥って世間に対して「罪を犯している」かのような印象を与えることで、まるで先手を打って、神社本庁が主導する危険な改憲運動や、国家神道の復活といった反聖書的なイデオロギーのはかりしれない危険性について、クリスチャンが聖書に立脚して非難することが、より難しくなるように道を整えようとしているかのようである。
 
このような点で、村上氏の活動は、決して聖書の御言葉に立脚したキリスト教の信仰に基づいて生まれたものとは言えず、むしろ、同氏のすべての活動は、徹底的に信者ではなく、この世の不信者の目線に立ってなされたものである。同氏が牧師であるからと言って、キリスト教的な観点から活動しているのだと思い込むことはできない。むしろ、同氏は、この世を非難することもなく無罪放免し、クリスチャンだけに懺悔を迫ることによって、キリスト教そのものが危険な宗教であるかのように描き出し、結局は、キリスト教そのものと、聖書の御言葉の信用を貶めることに貢献しているのだと気づくべきである。

このような活動は、聖書の御言葉の信用を巧妙に貶めるものである点で、反キリストの霊とこの世の利益に積極的に貢献するものだと言える。

村上密氏による「カルトとの闘い」が、常にこうして信者の側ではなく、むしろ、信仰を持たないこの世の人々の側に立って、この世の価値観を基準として、この世の人々を利するために行われて来たことに注意が必要である。
 
当ブログでこれまで取り上げたいかなる事件においても、同氏は、徹頭徹尾、「勝ち馬に乗る」ことを目指すかのように、この世の「強者」に歩調を合わせ、この世の「強者」の利益を代弁すべく行動することはしても、声を上げることもできない「弱者」である信者の心の必要性をくみ上げ、これを代弁して行動することはなかった。

それは、同氏が初期に行った統一教会等に入信した信者らを、親族らの要請に基いて、拉致監禁という信者の人権侵害を伴う形で強制的に脱会させては「救出」していた頃から見られる特徴であり、また、鳴尾教会において、村上氏が教団や教会の規則を無視して不法に行なった介入と、その結果としての伝道師らの鳴尾からの追放という事件においても共通して見られた。

前者の拉致監禁を伴う「救出」活動においては、村上氏は、信仰を持たない人々の観点に立って、カルトに入信した信者の内心を容赦なく踏みにじり、強制的に過ちを認めさせて棄教を迫ったのであり、後者の鳴尾教会で起きた事件においては、同氏は最初から最後まで、自分の義理の父であり、当時、鳴尾教会の主監者であった津村氏という「強者」に味方して、弱者の立場にあった伝道師らの訴えを容赦なく見殺しにしたのである。

さらに、鳴尾教会がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離脱の決定を下した際にも、村上氏は教会へのスラップ訴訟に及んでまで、これを阻止しようとしたが、これもまた、同氏が弱い立場にある教会に対して、教団という権力側に立って威圧的に振る舞ったことを意味する。

村上氏があらゆる宗教のカルト化を監視する必要があるとして提唱した「カルト監視機構」も、そのメンバーはクリスチャンに限定されたものではなく、この世の有識者、あるいはキリスト教以外の他宗教の信者から成るものであった。 
  
こうして、キリスト教界のカルト化問題を監視するということを口実に、同氏は、日本の人口の圧倒的大多数を占める「強者」である不信者の側に立って、1%程度の信仰者全体の信仰生活を監視し、取り締まる必要性を訴える。不信者の利益を確保するために、クリスチャンを監視・断罪・処罰・抑圧することを肯定するという極めて恐ろしい思想を提唱するのである。

こうして常にこの世の「強者」に味方しては、真の弱者の声を容赦なく圧殺し、見殺しにするという村上氏の手法は、同氏が教会のカルト化問題の解決方法として積極的に推し進めて来た裁判という手法に関してさえ、同じように観察された。キリスト教界の不祥事の犠牲になったとされるいわゆる「カルト被害者」全体の中でも、村上氏が勧めているような裁判を提起することのできる人間はほんのわずかしかいない。訴訟に至るケースは、世間を揺るがすような大がかりな不正事件の場合のみであり、ほとんどの小さな事件は、世間に公表されることもなく、被害者の泣き寝入りで終わっている。だが、そのような弱者の声なき声に対して、村上氏の活動は、何ら答えも解決をも与えるものではない。村上氏自身が、キリスト教の大々的な不祥事をきっかけに、世間で注目を集めて来たという事実を見ても、同氏が、裁判にもならず、自分にとって何の手柄にもならない小さな事件の被害者は容赦なく切り捨てて来たことがおのずと理解できるのである。
 
このように同氏が、キリスト教界の不祥事を大々的に取り上げることにより、盛んにキリスト教が世間に迷惑をかけているかのような印象を世間に与え、クリスチャンを世間に対して不利な立場に置いて、聖書の御言葉ではなく、「世間の常識」や、「この世の司法の力」をふりかざして、「世」にとって有利なように、キリスト教界に介入し、クリスチャンの信仰生活を取り締まろうとして来たことが、一体、なぜなのか、考えてみる必要がある。
 
このような特徴を見れば、結局、同氏の活動は、キリスト教そのものに敵対する運動であると言わざるを得ない。これは聖書の真理を否定し、この世の原則を聖書の御言葉以上に高く掲げて、信者の信仰生活を抑圧の対象とし、内心の自由を奪い、果てはキリスト教のみならず、あらゆる宗教をも疑いの眼差しで見て監視の対象とし、すべて神と呼ばれるものを否定して、神への信仰を否定して、自ら全宗教界に君臨するという、反キリストの欲望へと結びつくものであることは、すでに記事で訴えて来た通りである。

この点で、村上氏の活動は、キリスト教の名誉を棄損し、キリスト教の信用そのものを貶めるために行なわれるキリスト教に敵対する、キリスト教の内側からの破壊活動だと言って過言ではない。いかにキリスト教の牧師を名乗っていても、同氏が実際に目指しているのは、いわば神への信仰そのものを取り締まり、これを監視し、抑圧することであり、結局、それは神に代わって信者の内心を裁くことにより、神以上に己を高く掲げることであり、従って、それは神そのものを仮想敵とし、信仰そのものに敵対する活動だと言って差し支えないのである。

そのように見て行くと、村上氏が自分もキリスト教の牧師であるにも関わらず、なぜ「油まき事件」を通して、神社を擁護し、キリスト教の信用をより一層貶めるという結果に至っているのかも納得できるであろう。

それは同氏の活動がもともと、キリストの御霊から出ておらず、この世の霊、反キリストの霊に導かれる運動だからである。

村上氏の活動が、常に真の弱者を見殺しにする「強者の論理」に貫かれているのも、同じ理由からである。それは同氏の活動が、「叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせ」ず、「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともな」い(イザヤ42:2-3)キリストの御霊の謙虚さに基づくものではなく、むしろ、力と恐怖によって人を支配する弱肉強食のこの世の論理に基づいているためなのである。

この世の霊に導かれていればこそ、同氏は常に勝ち馬に乗ることを目指して、「強者」の利益を確保するために、「強者」の観点から物事を見、「強者の世論」と歩調を合わせて活動して来たのである。
   
同氏の活動が誰の利益になっているのかという観点から物事を見れば、同氏が神に仕えているのか、それとも、この世に仕えているのか、答えは明白であろう。
 
神社への油まき事件も、極めて愚かしい出来事であったとはいえ、それはあくまでキリスト教の一伝道者の行った活動に過ぎなかった。だが、神社の政治活動は、日本全国の神社を巻き込み、国家単位で、国家神道を大規模に復活させることを最終目的に掲げている点で、前者とはくらべものにならないほどの絶大な危険性を持つ。にも関わらず、村上密氏はキリスト教徒の誤りだけは強調しながら、後者のはかりしれない危険性を覆い隠してしまうのである。
   
村上氏が盛んに「キリスト教の霊の戦い」の愚かさを強調している真の意味についても、我々クリスチャンはよく考えてみなければならない。

もし信者一人一人が、聖書の御言葉に精通して鋭い識別力を持ち、村上氏が一体、何の霊に導かれているのかを試し、明らかにし始めるなら、村上氏にとっては大変、困った事態が持ち上がるであろう。

誰よりも同氏が、自分が何の霊に導かれているのかが明るみに出されると困るのである。それだからこそ、同氏はこの世の常識を隠れ蓑にしつつ、キリスト教における行き過ぎた不祥事や、荒唐無稽な「霊の戦い」ばかりを強調することによって、先手を打って、クリスチャンに自己反省を促し、クリスチャンが決して世の罪に気がつかず、間違っても聖書の御言葉に基づいて、この世の堕落した思想の危険性を見抜き、それを訴え、糾弾し、排除したりすることがないよう、予め阻止しているのである。

聖書の御言葉に基づく「切り分け」や「二分」そのものを、何かしらカルト的な疑わしい狭量な思考のように思わせる影響力には注意が必要である。結局、それはクリスチャンに罪を着せる一方で、堕落した「この世」の罪を無罪放免するために流布されている偽りだからである。


主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者は一人だに罪に定められることはない。

「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きる者だと、思いなさい。」(ローマ6:11)

「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。」(コロサイ2:14)

 「主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。」(詩篇34:22)

 「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:33-34)
 
「彼を信じる者は、さばかれない。」(ヨハネ3:18) 

「それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。」(ローマ6:7)



このところ、十字架で流された子羊の血潮により、キリストの義が永遠に信者を覆っていることの絶大なる意味を思わされている。

この世においては、信者は見かけはありふれた平凡な人間に過ぎず、未熟さもあれば、欠点もあり、どこにでもいる不完全な人間の一人に過ぎない。ところが、信仰を通して、この不完全な人間をキリストの完全さが覆うのである。生まれながらの人間の罪をキリストの義認が覆い、生まれながらの不真実な人間を神の永遠の真実が覆うのである。

そのため、キリストがその命をもって贖われた信者を再び罪に定めることのできる存在はどこにもいないのである。

このことの絶大な、はかりしれない意義。

この世の倫理や道徳律、良識はすべて人間の罪と死に対する恐れから出たものである。この世の法も同じである。この世では、人間が互いを傷つけあい、害し合って無秩序が生まれることのないように、いくつもの掟が定められている。いくつもの法が、人に危害を加える行為に対しては罰が加えられることを告げて、人間が互いに害し合うことを戒めている。

だが、この世の倫理道徳・法体系はみな人の恐れから出たもので――究極的には人間の死への恐れから出たものに過ぎない。それは人間を死未満のところに何とかおしとどめておこうと呼びかけることはできるが、死を超越することができない。

たとえば、日本には死刑制度が残っているが、死刑を容認するかどうかは別として、残酷な方法で人の命が奪われるようなことがあったとしても、この法体系がその罪に対して提示できる解決はせいぜい「目には目を」ということだけであり、すでに犯された罪に対して、厳罰に処することで対応するという方法しか存在しない。しかも、命が奪われたことに対して、命を奪うことをもって報いるというのでは、本当にそれが解決なのかどうかも、疑わしいところである。なぜなら、それは両方ともが人類の損失を意味し、人が人を傷つけることを意味するからである。

つまり、罪に対する報酬である死そのものに対して、この世の法は何ら解決を示すことができないのである。

これに対し、この世を超越するキリストの霊的統治は、死を超えたところにある。それはすべての罪に対する報酬が完済された世界なのであり、キリスト者はこの領域を生きている。正直に言って、この領域のことは、どんな常識をもってしても、解説することができない。

およそ罪ある生まれながらの人間が生きている領域と、このキリストの復活の命の霊的統治が及んでいる領域は、全くかけ離れており、相容れないからである。

さて、「すべての人を偽り者としても神を真実な方とせよ」という御言葉は、このブログでは以前から何度にも渡り、繰り返して来たが、年々、その重要性がますますはっきりと見えて来る。

どういうわけか知らないが、年々、筆者の人生は、それまで生きて来たこの世の常識という岸辺を離れ、新たな領域へ向かって出航している。その過程で、筆者自身も、人としての常識や、この世のものの考え方を改めることを迫られている。

それは、キリストが信者に約束して下さった解放がどれほど大きなものか、まだ筆者自身も知らないことに常に気づかされ、それまでの狭量なものの見方を改めさせられているからである。はっきり言えば、キリストの愛の深さを、生きて十分に思い知ったと言える人間は一人もいない! 生きている限り、私たちは新たに目を開かれては、神の愛の深さに瞠目させられることの連続なのである!

最近もまた壮絶な戦いがあった(さわやか読者のことではない)。その過程で、キリストの義に徹底的に立ち続けることによって、悪魔が卑怯にも筆者から奪おうとした平和を取り返すという出来事があった。識者らはこぞって反対したが、私はその反対を信じなかった。そして、徹底的にキリストの約束に立ってそれを主張し続けると、結果的に、それが事実となり、この世の識者らの忠告はみな虚偽でしかなかったことが判明した。主は私と同労して下さり、平和を確固として守られたのである。

何ということだろうか、キリストが十字架において義として下さった信者を、再び罪に定めることができる存在はどこにもいない。キリストが御言葉により、信者にお与え下さった解放を、信者から奪うことのできる存在は誰もいない。そうした出来事を通して、私は神が人を思うその愛の強さについて考えさせられる。私が神を愛するだけでなく、神が私を愛して下さるその愛の強さを思う。いかに信者が生まれながらの人間としては、頼りなく不完全な存在に見えようとも、人の不完全さよりも、神が信者をつかんでおられる愛の方がはるかに強いのである。絶対に、神が私をあきらめられ、見捨てられることはないという確信が生まれ、神の完全さが私を永遠に至るまでも覆っていることの不思議を思わされる。

以前「環境を創造する―キリストと共に統治する~主を待ち望み、その道を守る者は高くされて地を受け継ぐ~」という記事において、神は信者の生活のすべてを保障して下さるので、信仰があるならば、生活を縮小してはならないということを書いた。そうした一連の記事の中で、ジョージ・ミュラーの信仰などにも触れたものと思う。

妙なたとえかも知れないが、仮に貧しい農村で、あらゆる厄災に見舞われ、極度の生活苦に脅かされるある一つの家庭があったとして、そこで一組の両親が、明日の心配から、ふと家を訪ねて来た悪徳業者に言葉巧みに丸め込まれ、出来心から、騙されて娘を遊郭に売ったとしよう。だが、娘が業者に連れ去られた直後、その親は我に返り、大変な過ちを犯したことに気づく。悪徳業者の後を追いかけ、金など要らぬから、何としても血のつながった我が娘を取り戻そうと試みる。

むろん、悪徳業者のことだ。生涯、娘を使役することによって懐にできる利益は計算済みだ。どんなに懇願されても、絶対に娘を返すまい。親子の絆よりも、娘を売った証書の方が効力があると言うだろう。その証書ある限り、罪に定められるのは、親の方だと言って彼らを脅しつけ、撃退し、彼らの追手を残酷に振り切って、どんどん遠くへ逃げ去って行くだろう。

それでも、もし親子の絆が本物であれば、親はあきらめないはずである。血のつながった親子としての情愛よりも、悪徳業者が言葉巧みに彼らを騙して作り上げた証書の方が効力を持つなど、到底、納得もできまいし、信じることもできまい。取り返しがつかないとあきらめてしまえば、娘は二度と帰っては来ない。そこで、彼らの激しい闘争が始まる。どんな苦難が待ち受けていたとしても、彼らはあきらめることはない。親子としての絆と平和が元通りに取り戻されるまで、その闘争はずっと続くのである。
 
これは単なるたとえにすぎないが、生まれながらの親子の絆でさえ、生涯に渡って何者によっても否定し得ず、断ち切ることもできないほどの強力な意味を持ちうるならば、まして神が子として下さった信者一人一人に対して持っておられる愛は、もっと信頼できる確固とした強いもののはずである。私たちがよりどころとしているのは、生涯、何が起きようとも、私たちを決してあきらめることのない神の愛なのである。

神は私たちが完全に失われていた時に、すべての必要な代価を払って私たちを買い戻された。私たちが悪魔の奴隷として売られていた時に、神はあらゆる危険を冒して我々のために戦い、十字架においてご自分を徹底的に低くされ、命を捨てて身代わりの刑罰を受けて下さり、なおかつ、死を打ち破って、悪魔の嘘を破り、これを辱めて打ち倒し、悪魔の奴隷として売られていた我々の債務証書を無効とされた。我々を売った人々の約束もみな反故にして、我々を救い出し、買い戻された。我々は安全な場所に移されたのである――神の子供として、天の王侯貴族として。こうして、私たちが、この世の暗闇の圧政から、愛する御子の支配下へと取り戻され、買い戻されたこと、これは永遠に変わらない事実である。

キリスト者は、この事実に立って、そこからすべてを信仰によって要求する。死への恐れからではなく、死を打ち破られたキリストの復活の命が我々の論拠である。もし信仰によって要求したならば、与えられたものを確固として握りしめなさい。二度と恐れに駆られ、奴隷に落ちてはいけない。与えられたものを握りしめるだけでなく、豊かに拡張しなさい。こうして、神が信者を愛しておられる愛のどれほど強いものであるか、御子が十字架で血潮を流されて我々にお与え下さった義がどれほど確かなものであり、カルバリで死を打ち破ったキリストの復活の命がどれほど豊かなものであるかを生きてこの世に証明しなさい。

我々の解放者はまことの神ただお一人である。キリスト者が従うべきは、あれやこれやの人間ではなく、ただお一人の神であり、この神の他に、我々の頼れる岩はない。救い主はただお一人であり、もし目に見えるあの人、この人を頼りにしようとすれば、たちまち、その人間は「偽り者」でしかないことが判明するだろう。

もし誰かが、自分よりも偉い人の気持ちを忖度し、人のご機嫌伺いをして生きることによって安全に身を守れると考えるならば、その人は真っ先に神の御心をこそ忖度し、神のご機嫌伺いをすべきである。キリスト者が第一に気にすべきは人の思惑ではない。もし誰かの思惑を気にするならば、神の御心を損なうことをこそ第一に恐れるべきである。

罪の奴隷状態にあった我々を永遠に買い戻すために、その独り子をさえ惜しみなく与えて下さった方は、天にも地にもただお一人の神だけである。この方こそ我々の救い主であり、解放者であり、他に誰もそのような存在はいない。そして、この方はまことの命であるから、ただ我々を買い戻し、解放されただけに終わらず、キリストの満ち満ちた命の豊かさにまで、我々を導いて下さる。

神は御声に聴き従う羊たちを、安らかな丘へと、憩いの水際まで、導いて下さる。そこに、買い戻された全ての信者が喜びに溢れて集まって来て、我々は共に主の愛と憐れみの深さを思い、神に感謝して喜び歌う。私たちが生きているのは、もはや自分自身のためでなく、私たちのために死んで、命を与えて下さった方への信仰によるのであり、永遠に至るまでこの方と共に生きて、御心を天から地に引き下ろし、神の愛と憐れみとその解放の偉大さと豊かさを生きて世に証明することが、我々信仰者の役目なのである。
 


カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール④

<杉本氏からの恫喝メール 続き>

本記事は、カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール③の続きに当たる。

杉本氏からは以前にも、同氏にとって気に入らない記事を削除せねば、ヴィオロンの個人情報を無断で公開するなどの脅しを含むメールがおびただしい回数、送られて来た。その罵倒や恫喝に満ちた文面は、記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メールー」でも示している通りである。

以下は5月2日に杉本徳久氏からさらに送られて来た恫喝メールである。
   
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 ▼投稿されたメッセージ
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

REMOTE_ADDR: 219.215.163.80

[ 名前c ]
杉本徳久

[ メールアドレスc ]
sugimotonorihisa@gmail.com

[ メールアドレス再入力c ]
sugimotonorihisa@gmail.com

[ 件名c ]
4/30付けの文章につきまして

[ ご感想c ]
前略、〇〇さん

杉本徳久です。再三、ご連絡をとっていますが、その内容を引用してさらに挑発したり、侮蔑したりする文章を書き加えられている様子を拝見しました。4/30付けの文章につきまして、こちらですね。

http://sosudy.blog.shinobi.jp/Entry/134/


このままですと本当に洒落にならないことになっていきましょう。刑事告訴されるような事態をお望みですか?

すでに警視庁・武蔵野署の刑事さんにも何度も相談済みです。貴殿の立場、状況を鑑み、告訴状を出していないだけの話です。これまであなたの名などについて一切、公開してきませんでしたが、それは一にも二にもあなたの状態を慮ってのことです。

あまり手荒に〇〇さんを追い詰める様なことはいたしたくありませんが、このあたりが当方としても忍耐の限界ですので予め申し添えます。

すぐに書かれた文章を削除されてください。

草々



刑事告訴に至るまでには相当の時間がかかる。しかも、よほどの強力な証拠がなくてはならない。ゴールデンウイーク中はどこの警察も弁護士も対応しない。もし杉本氏が本気で刑事告訴を望んでいるならば、このようにゴールデンウイーク中を見計らってメールフォームから悠長に手紙を送るなどの措置に及ぶことなく、とうに手続きに及んでいたはずである。
 
にも関わらず、なぜ今まで杉本氏の告訴はずっと成就しなかったのか。それは同氏が述べているような、私に対する手加減ゆえではない。坂井氏を訴えた杉本氏であり、また、同氏から私に対する多年の嫌がらせの執拗さ・悪辣さを見ても、同氏にはいかなるクリスチャンに対しても情状酌量があるとみなすことはできない。

告訴が成立しないのは、私の側に何らの罪状もなく、また、私に対して罪を犯しているのは杉本氏であることが明らかなためである。

もし杉本氏が相談を繰り返してきた警視庁・武蔵野署の刑事が、これを刑事事件として扱うことができると判断していれば、杉本氏はとうに告訴に至っていたはずである。杉本氏の性格と主張を考えれば、同氏はクリスチャンを告訴するきっかけが欲しくてたまらないはずである。同氏が何度も警察に相談したにも関わらず、未だに事件化されていないのは、本件が同氏が私を告訴するための構成要件を満たしていないためである。
 
本件は、2009年に私が杉本氏のブログに自分で書き込んだコメントを削除してほしいと杉本氏に依頼したことをきっかけに、これを恨みに思った杉本氏が、以後、約7年近くに渡り、インターネット上で執拗に私に嫌がらせを加えて来たことによる。

2009年当時、杉本氏が速やかに私の望むコメントを削除し、さらに、自身のブログに私に対する一千件のコメントを伴うバッシング記事を掲載したりせず、人の知られないところで、私に嫌がらせメールを再三に渡り送り付けたり、当ブログに悪意あるアクセスを集中させたり、筆者の個人情報を違法に暴露するなどと脅迫したりしなければ、このような事態には至っていない。

杉本氏が筆者に対して何をして来たかは、無数の証人が見て知っている。当ブログでも、杉本氏が用いて来た嫌がらせの手法はすべて公開し、明らかにしている通りである。
 
しかも、私は何年も前から、当ブログにおいて幾度も杉本氏にネットを通じて平和的に和解するよう呼びかけ、速やかに筆者の求めるコメントを削除し、クリスチャンに対する逆恨みと嫌がらせに及ぶのをやめるよう勧めている。
   
にも関わらず、杉本氏は自らの違法行為を反省することもなく、筆者の助言にも提案にも全く耳を貸さず、不法な形で筆者に嫌がらせを続けることにより、事態を煽り続け、悪化させ続けて来た。このことは万人の目に明白である。

にも関わらず、杉本氏がクリスチャンをさらに「手荒に追い詰める」ような措置に及び、本当に「日夜、兄弟たちを訴える者」の道を全うしたいと望むならば、筆者はそれを止めはしない。だが、同氏に勝ち目はないであろう。

聖書には、クリスチャンが法廷に引き出されるのは、キリストの証をするためであると書いてある。歴代の信仰者も、鳴尾教会の信者たちも、みなこの道を通り、あらゆる中傷や迫害を耐えたのである。彼らは恫喝スラップ訴訟をただ耐え忍んだだけでなく、これを立派に戦い通して、真理を守って勝利したのである。

従って、私もまた、神の御前に私の信仰告白を守り通す義務があり、信者に与えられたキリストの義の完全性を訴え続ける義務がある。杉本氏にはこの最も肝心なもの――キリストの義がないのである。神の法廷において、キリストの血潮によってすでに義とされているという、宇宙最大の武器を持っているのに、この世の法廷を恐れるがゆえに、脅しに屈して自主規制をするつもりは筆者にはない。たとえ訴訟が提起されたとしても、かえって主の御名が証され、事実が世間により広く知らしめられるきっかけとなるだけである。
  
杉本氏は、私に記事の削除を求める前に、2009年当時から私が同氏に削除を要請しているコメント及び杉本氏が筆者について書いた一連の記事の削除するのが筋である。そして、筆者に対してこれまで及んできた嫌がらせについて謝罪し、二度とそのようなことを繰り返さないと約束すべきである。それをしてから、筆者に連絡を寄越すのが当然である。


カルバリの十字架とそのメッセージ


ジェシー・ペンルイス「カルバリの十字架とそのメッセージ」

第八章

死者の中から生かされた者として、あなたがた自身を神にささげなさい。
あなたがたの肢体を、武器として神にささげなさい。
(ローマ六・十三)

十字架のいのちの面

ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
彼がすべての人のために死なれたのは、
生きている人々が、もはや自分自身にではなく、彼に生きるためです
(二コリント五・十四、十五)

これまで、「十字架には二つの面がある」とよく言われてきました。すなわち、死による消極的な解放を意味する地的な面と、生ける主と結合されたいのちについて告げる天的な面です。キリストが罪のための身代わりになられたことと、彼を信じる者はみなキリスト共に罪に対して死んだこととは、分けることができません。それと同じように、クリスチャン生活の全行程を通して、死といのちは分けるべきではありません。

彼の死と同じようになって彼に結合されるなら、私たちは彼の復活とも同じようになります とパウロはローマ人に書きました。すでに見たように、これは聖霊の働きです。聖霊は私たちを彼の死の実際にあずかる、真に緊密な結合にあずかる者」として下さいます。この結合は、「接ぎ木された枝と幹の間の結合関係のように」(ローマ六・五、コニーベアのノート)実際的です。

このような緊密な結合が何を意味するのかは、聖霊の働きによってしか知ることができません。聖霊は、カルバリの十字架上のキリストの御業に信頼する信仰に応えて働かれます。

聖霊は、生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭い」「十字架の言葉」を用いて、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別して、新しいいのちから古いいのちを分離されます。聖霊のこの働きは、上からのいのちが妨げられることなく支配するようになり、贖われた人が真に十字架のいのちの面に基づいて生きるようになるまで続きます。

しかし、復活の主から離れるならいかなる「復活のいのち」もありえない、ということを覚えておかなければなりません。私たちは「彼の死」の中に植えられました。私たちが十字架につけられたのは彼と共にであり、私たちは生ける方である彼に結合されています。これにより私たちは、私たちの領域である彼の中で、いのちの新しさによって歩むことができます。復活のいのちも継続的ないのちです。それは遠い昔の何らかの転機で通過した一度きりの経験ではなく、生けるキリストです。生けるキリストご自身こそ復活であり、私たちの内に住んで、私たちを通してその大能の力を現わされます。ただしそれは、彼にそうすることを許す条件を私たちが満たすならばの話です。

なおまた、いのちは模倣することができません。活のいのちを持っているとどんなに主張してみたところで、それを生み出すことはできません。しかし、いのちが現存するなら、それを主張する必要はありません。なぜなら、いのちはその力を現して、自ら証しするからです。

神に感謝すべきことに、キリストと結合したいのちは正真正銘のいのちであり、確固たる強い力であって、魂を復活のキリストとの生ける交わりに導き入れます。この交わりにより、魂は来たるべき時代の力を味わい、永遠の観点から時間の中の出来事を見、高く引き上げられて誘惑や地上の事柄に対する執着を超越します。

十字架の復活の面で、聖霊はカルバリの十字架を照らされます。この照らしは、心の目に「十字架につけられたイエス・キリストがはっきりと示される」ようになるまで、そして魂が彼の死の新たな面を常に教わるようになるまで続きます。なぜなら、罪の束縛からの解放がなされ、それに続いて心と生活の清めがなされなければ、主はその心の中で王座に着くことができず、聖霊もカルバリのさらに深い学課を教えることができないからです。

使徒パウロは、コリント人への第二の手紙五章十四節以降で、十字架の復活の面に基づく生活を描写し、カルバリの死が神からのいのちの基礎であることをはっきりと示しています。

新しい生活の原動力

キリストの愛が私たちを縛っています。(十四節)

パウロが用いている「縛っている」という言葉は、新約ギリシャ語原文中、圧倒的で抗しがたい「捕縛」や束縛を表現する言葉として数回現われます。この言葉はピリピ人への手紙一章二十三節では「圧迫される」となっています。また主ご自身も、ご自分の前に置かれた苦難のバプテスマについて語られた時、この言葉を用いて、「それが成し遂げられるまで、どれほど『圧迫される』ことであろう」(ルカ十二・五十)と言われました。

この言葉は、イエスを捕らえていた者たち」(ルカ二十二・六十三)、またキリストの臨在によって大いなる恐れに「捕らえられた」人々、ひどい熱に「捕らえられていた」シモンの妻の母らの様子を描写するのにも使われている言葉です。

これらの事例とその文脈から、自分を縛っているキリストの愛について述べた時、パウロがこの言葉をどんな意味で使ったのかがわかります(W.D.モファット)。キリストの愛は彼を「縛り」、一つの道に制限して、そこから逸れないようにします。彼はこの大いなる愛に「捕らえられ」ています。また、それに完全に支配され、前に向かって進むようせき立てられ、駆り立てられています。キリストの愛は進路にあるものをすべて押し流す一本の激流のようです。

キリストは神と等しい方でしたが、それを固守すべき尊いこととは見なさず、かえってご自分をむなしくし、へりくだって人の姿を取り、死に至るまで、実に十字架の死にまで従われました。キリストの愛はこのような愛だったのです。

そしてこの愛は、生ける主と結合した新しい生活の原動力です。それは聖霊によって心の中に豊かに注がれる愛であり、あらゆる自己愛と利己主義を取り除き、その力で魂を完全に捕らえる愛です。

<中略>

新しい生活の目的

彼がすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分自身にではなく自分のために死んでよみがえった方に生きるためです。(二コリント五・十五)

彼と共に「死んだ」人々は、今、彼のいのちによって「生きます」。彼らは、彼が死なれたのは「自分のため」であったこと、そして「自分のため」に彼は生きておられることを悟ります。それゆえ、彼らは彼のためにもはや自分自身にではなく彼に生きることに、喜んで同意します。

彼らは自分が彼と共に十字架につけられたことを見ます。そして今、死んでふたたびよみがえった方が、彼らの視界をまったく満たします。彼は彼らを縛って、彼らの体を「聖い、神に受け入れられる」生きた供え物としてささげさせます。これは彼らにとって、喜ばしい「理にかなったささげもの」です。

<中略>

キリストにある新しいいのち

ですから、だれでもキリストにあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去りました。見よ、それらは新しくなりました。(十七節)

十六節と十七節の「ですから」という言葉は十四節を指し示しています。だれでもキリストにあるなら――彼の死の中へバプテスマされたのなら――十字架の門を通って、キリストが自分の環境、自分のいのちの新たな源になる領域に入ります。生けるキリストと結合されることにより、古いものは過ぎ去ります。なぜなら、キリストにある人は新創造であって、旧創造を改善したものや教化したものではないからです。

十字架のいのちの面で生けるキリストに結合された魂は「新しい人」(コロサイ三・十、十一、C.H.参照)を着たのであると述べられています。

日毎のイエスの霊の供給により(ピリピ一・十九)、「新しい人」は「絶えず成長して、さらに完全な造り主の知識と似姿に至り」(コロサイ三・十、十一、C.H.参照)「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」領域の中で、「造り主のかたちにしたがって成長します。子どもは自然に父親の似姿に成長します。そして贖われた人に伝達される新しいいのちは、新創造の創造者である方の似姿に成長します。ただしそのためにはキリストと共に死んだことを臆すことなく認め、「古いもの」を真に過ぎ去らせて、「義と聖と真理とをもって神にかたどり造り出された」(エペソ四・二十四欄外)新しい人の成長のために場所を備える必要があります。

人々のための新しい奉仕

これらのことはすべて、神から出ているのです。
神は和解の言葉を私たちの内に置かれました。私たちはキリストのための使節なのです。(十八、十九、二十節)

神が「和解の務め」を委託されるのは、キリストにある新しい人――自分が神へと分離されたことをはっきりと知り、どんな人とも、もはや地的な立場によってではなく、万人のために死なれた方の御名の中で会う人――に対してです。改訂訳の欄外の別訳は示唆に富んでいます。それは、「神は彼の使節の内に十字架のメッセージ――『和解の言葉』――を置かれる」と言っています。

和解の言葉は彼らの心に記されており、彼らの存在そのものの中に造り込まれています。それはちょうど、エゼキエルが「巻物を食べて」から、まさにその神の言葉をイスラエルに語ったのと同じです。キリストの使節もそのように、キリストのために「神に代わって」真に語ることができるよう整えられます。

彼らを通して、「十字架の言葉」は神の力であることが明らかにされます。なぜなら、彼らは「彼と共に働いて」いるからです。彼はご自分の死の対象である人々に、「神の恵みをむだに受け」ないように、かえってこの救いの日に彼の召しに心を留めるようにと、彼らを通して嘆願されます。

外側の生活の描写

どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることで自分を神のしもべとして推薦しているのです。(二コリント六・三、四)

私たちは五章十四節の十字架の基礎の上から、カルバリから生じる生活、死んでふたたびよみがえった方と結合した生活の特徴を順番に見てきました。

もはや自分のためではないという堅い決意。私のために死なれた方のため」という不動の目的。万人を彼の死の対象として見る」という人々に対する行動原則。「古いものは過ぎ去った」という過去に対する一貫した姿勢。「彼は和解の言葉を私の内に置かれた」という人々に対する変わらぬ責任感。「彼と共に働かなければならない」という制限された注意深い日々の姿勢。

もはや自分のためではない」という鮮やかな実例が、使徒自身の生涯の短い描写の中に続けて示されています(二コリント六・四~十参照)。彼の外側の状況は、艱難、欠乏、困窮、むち打ち、投獄、暴動、労役、徹夜、断食でした。しかし、大いなる忍耐、純潔、神を知る知識、辛抱強さ、親切のうちに、新しいいのちが現わされました。彼は現された神の力によって真理の言葉を語り、そのいのちを「聖霊によって」、純粋な愛によって生きました。

義の鎧で全面を守られ、ほめられる時もそしられる時も、悪評の時も好評の時も、パウロはこのいのちを生きました。彼は人をだます者のようにみなされましたが、真実であり、知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きていました。それは、彼の内にあったいのちの日毎に新しい力によりました。

彼は激しい苦しみによって罰せられているようでしたが、殺されませんでした。敵は彼のいのちに触れることができなかったからです。彼は死にかけている世のあらゆる必要を悲しんでいましたが、彼が知ることを学んだ方にあっていつも喜んでいました。彼はあらゆることで乏しいようでしたが、多くの人を永遠の富で富ませました。彼は自分のうちに、また自分のためには何も持たないようでしたが、キリスト――この方の内に知恵と知識との宝がすべて隠されています――にあってすべてのものを持っていました。

ああ、神の子供よ、この模範には自己に生きる余地はまったくありません。もしあなたがあなたの主と真に結合されて主の死に同形化されるなら、あなたはあなたの度量にしたがって、カルバリから発するこのいのちを知り、主が歩まれたように歩んで、神の栄光と誉れに至るでしょう。

得たものによらず、失ったものにより、
飲んだぶどう酒によらず、注ぎ出したぶどう酒により、
あなたのいのちを測りなさい。
なぜなら、愛の力は愛の犠牲にあり、
多く苦しむ者ほど、多く与えるものを持つからです。

キリスト教界からエクソダスした人々~エレミヤ氏の聖書の暗号の誤り~



 今しばらく少し軽めの記事を書いていきたい。2009年~2010年あたりは、キリスト教界の腐敗について、多くのクリスチャンが指摘していた時期であった。多くの信仰者らがキリスト教界の誤りに気づき、そこからエクソダスすることが盛んに取沙汰された期であった。

 だが、すでに述べたように、その後、厳しい時期が到来する。キリスト教界の誤りという問題自体が、「カルト被害者救済活動」という商業ベースの活動へと利用されていったためである。これは極言するならば、キリスト教界で被害を受けたと主張する「被害者信徒」をうまく利用して、これを名声やビジネスチャンスに変えて行こうとする人々(似非指導者、自称救済者)の率いる運動であった。いわば、「被害者救済ビジネス利権」とでも呼ぶべきものが存在し、被害者信徒の壮絶な争奪戦が繰り広げられたのである。

 この被害者救済運動は、キリスト教界がキリスト教界を叩くという構造になっている以上、マッチポンプ型のビジネスであり、それゆえ、もとより真の改革運動にはなり得ない性質を持っていた。

 キリスト教界の誤りについて声を上げていた個人クリスチャンは、次々とこうした運動の犠牲になるか、もしくは陰に追いやられ、無意味な争いに巻き込まれたり、嫌がらせや弾圧を受けるなどして、ネットから撤退を迫られた。こうして、一時はキリスト教界からのエクソダスという話題そのものが聞かれなくなり、ネットはあたかもキリスト教界の公式見解だけが占める場所のようになった。「キリスト教界からエクソダスせよ」と訴えていたKFCも、自らキリスト教界と同化して役割を捨てたことはすでに書いたのでここでは触れない。

 だが、こうして議論そのものが下火になったことが逆に幸いした部分もある。それは、被害者救済活動も衰退したからである。全体的にすっかりこうした問題への世間の興味が後退したので、無益な空騒ぎも後退した。そして、再び少しずつではあるが、個人による議論が活発化して来た。

 もちろん、こうした間も、ずっと声を上げ続けていた人々が存在する。これらの人々の体験を改めて読むにつけても、聖書に忠実であろうとした誠実なクリスチャンたちが、次々と「悪魔扱い」されて「教会」を追われたことが分かる。

 このことは聖書が警告していることと一致する。真に神に忠実であろうとするクリスチャンたちは、「自分たちこそ正しい信仰を維持している」と公言して教団や教会の囲いの中に残るのではなく、むしろ、逆に、囲いの外に散らされていく。それは以下の通り、聖書に告げられている事柄である。

 「人々はあなたがたを会堂から追放するいでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。」(ヨハネ16:2-4)


 たとえば、谷川鹿男さんのケース。
  
 Dr.Lukeの知人にエレミヤ牧師という人がいる。このエレミヤ氏は一時期、「聖書の暗号」にはまり、誤った予言の数々を信徒らに伝えていた。谷川鹿男さんのブログ「Yahweh-yahshua ヤウエ ヤシュア 本当の名前」には、エレミヤ氏の誤りを警告した谷川氏がエレミヤ氏の教会を追放されたいきさつが記されている。これはDr.LukeがKFCから自らに逆らう信徒を追放した経緯と極めて類似しているが、信徒を悪魔扱いするというのは、そもそも、全くKFCに始まったことでなく、キリスト教界にいるすべての牧師が意にそぐわない信徒を追放するときの常套手段である。

 すでに書いて来たように、当時、私はDr.Lukeにこうした”お友達の間違い”について知らせていたが、彼は決して知人に聖書に立ち戻るようにと呼びかけることはなかった。むろん、今から考えるなら、詐欺師が詐欺師に詐欺をやめるよう忠告しないのは当然である。知りながら忠告をしなかったすべての人々は、”同業者”であるからこそ、歩調を合わせていたのであろう。

 以下は谷川氏の記事である。

牧師として危険きわまり ない 状態  20:52

未だ変わらぬ レムナントキリスト教会 
聖書の暗号を教理とする 全く矛盾した異端 レムナントキリスト教会 

エレミヤ牧師 の聖書の暗号を教理とする 2010年までに オバマが暗殺され ヒラリーが 大統領になり メットロムニー を666の獣 反キリスト を 任命する という 事を 本まで出版し 公言されました 

未だ このことは 成就しておらず この様な ヨタ話が まとも とは 到底 思え無いことが 証明されました。
この件につき 抗議 しましたが エレミヤ氏 は 聖書の暗号は 神から示されたものだ 疑うなら 出て行け と言われ 口論となりました

ヨハネ16:2 人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。

又 氏は 時など 私が いつ 言ったのだ! と 言い切りましたが 自身の 本にも 2010 の預言と 項目まで設けてありますし 私たちは口頭で何度も聞いています。

この様に 何とか病に近い状態であり 自分の言っていることも 分裂していて 意味を成さない状態となっています。 又 彼自身が 外部に述べているような スタンスではなく ほとんど 教理になっています。

申命記18: 20 ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」

21 あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。」と言うような場合は、 22 預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない

これは エレミヤ氏自身が メッセージの中で 語っており 自ら を 偽預言者と 証明してしまったのですが 礼拝で暗号を用いたり 暗号を元に 聖書を解釈してみたり 牧師として危険きわまり ない 状態となっております。

まだ この場に及んで 日本のリバイバルは 2019 から2020だと 言っています。 未だ 信徒の方々に この事 が 理解されていないのでは と思います。 御言葉に忠実になるべきか エレミヤに忠実になるべきか ? なのです、あれほど 神の言葉に忠実になれ 人から出た 言葉を  杖に すれば 滅びにいたる と 言いながら いざ この様な状態になると 判断が出来ないでいます。 

上着を取りに入るな はこのことでは 無かったのか
毒入りの麦 を 食べる よりは 直接 主より 食べ物をいただく べきでは ないのか?
偽預言の訓練しか していなかったので エレミヤの 毒麦 しか 食べれないのなら 情けないことでは ないのか
どうした 神から 糧を得る方法を しらないのか
おろかな物よ 混ぜ物 付け加えるものは 刑罰を受ける

http://www.geocities.co.jp/Outdoors-River/7540/m396.html

以下聖書の暗号について 問題視しているサイト
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/bible/bible75.html http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/146234246.html
http://zaakai.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-3178.html
http://www.nazotoki.com/bible_code.html
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/bible/bible75.html


より引用↓


この方のすべてを肯定するものではありませんが この記事については ほぼ 同意いたします

(2)暗号としての聖書 聖書(でなくてもよいのですが)には、それが表向きに書かれていることとは別に、他のメッセージが隠されている、という主張が正当であることが認められるためには、その暗号を解くための鍵(どのように隠されたメッセージを読む取るかという方法)が正当なものであると認められねばなりません。

たとえば、ある日付(x月x日)を暗号化して「10285125」という文字列を造ったとします。表向きはただの数字ですが、この数字の列から隠された日付を読みとる鍵を「偶数位置」だとしますと、2番目4番目6番目8番目の数字を抜き取って、隠れた日付「0815」すなわち「八月十五日」を読みとることができます。

そうではなく、鍵は「最初の2桁と最後の2桁」であるとしますと、隠された日付は「1025」すなわち「十月二十五日」ということになります。
そうではなく、鍵はもうすこし複雑で、「最初の4桁の日付から1週間後」ということにすると、「十月二十八日から一週間後」ですから、「十一月四日」が隠された日付になります。このように、暗号の鍵を何にするかによって、隠された意味は変わってしまいます。

この簡単な例からも明らかなように、特定の鍵が予め決定されていなければ、「10285125」という単純な文字列からでも、実は、どんな日付でも読みとることが出来ます。

同様に、聖書のような膨大な量の文字列からは、どんな好みの文章も読みとることができます。そのために、聖書に隠された意味を見つけたと主張する人は、同時に、彼の使用する鍵が正当なものであることを証明しなければ、まったく彼の主張はナンセンスとなります。

鍵の正当性(神が『聖書の暗号』の著者にこの鍵を与えたという事実)が証明されていない暗号解きがいかに無意味であるかは、『聖書の暗号』と同じような「予言」が、他の本(たとえばメルビルの小説『白鯨』など)からも読みとれることを示すことによって証明することができます。『源氏物語』や夏目漱石の小説などからも、「阪神大震災」の予言を読みとることができるでしょう。

(3)予言のトリック

予言のトリックの常套手段は昔から明らかにされています。

(ア)曖昧な予言をする(あとで、どうにでも解釈できる)
(イ)事件が起きた後、それがすでに予言されていた、と主張する(「古い巻物が見つかった」)
(ウ)いつでも起こりそうなことを予言する(地震や戦争など)
(エ)人々が心配していることを予言する(核戦争など)
(オ)外れたときの言い訳がある(「予言は正しいが解釈が間違っていた」など) これらのトリックをマスターすれば、だれでも予言者になることができます。

「著者は事件前にラビン首相が暗殺されることに気づいていた」というのは、(イ)および(ウ)のトリックを使用したものといえるでしょう。イスラエルの首相はいつでも暗殺の危険にさらされているからです。

「日本で大地震が起きる事」という予言も(ウ)のトリックに相当します。日本に地震があるのは当然だからです。

ノストラダムスの予言はとくに(ア)のトリックを使用したものです。ノストラダムスの予言の曖昧さは、それをどのようにでも解釈できる都合のよい予言なので、新興宗教団体が自分たちの信者を増すために好んで利用しているようです。

第三次世界大戦や核戦争の予言は(エ)の代表的なものです。このトリックも、新興宗教に頻繁に利用されているようです。

(「わたしたちの教団に入って、それを止める使命を果たしましょう!」とか「うちの教団に入会すれば破滅を逃れることのできる選ばれたひとりになれます!」)

聖書の中の予言などはほとんど(イ)のトリックを使用しています。
たとえば、聖書のダニエル書のすくなくともその一部は、それが書かれた当時のこと(前二世紀)が、あたかも、数百年前のダニエルという人の予言の言葉であるかのように書かれている「事後に書かれた予言の書」であることを現代の多くの学者が指摘しています。

それでは、なぜ、いかがわしい予言書のたぐいが、あきもせず出版され続けるのでしょうか。それは、ペテン師がなぜペテンをやめないか、という問いに対する答えと同じです。まず第一に、それが儲かるからです。第二に、新興宗教に信者を集めるのに便利だからです。第三に、世を騒がすのは面白いからです。予言書なるものは大体そんなものだ、というのがわたしの意見です。

漫画や週刊誌を読み捨てる調子で通勤時間を楽しむ程度の価値はあるかも知れませんが。 『聖書の暗号』の著者は、プロレスリングのレスラーのように、大げさな演技をやって、遊んでいるのだと思います。とくに、彼の本の内容をまじめに受け取っている読者を見て、きっと彼は笑っているに違いありません。


 さらに、エレミヤ氏の誤りについては、以下のサイト「シオンの城壁」にも記述がある。
 思うに、「反ユダヤ主義」(偽ユダヤ人批判)を掲げている人々の心の根底には、逆説的に、屈折した選民思想への憧れ(コンプレックス?)があるのではないだろうか。だからこそ、ユダヤ主義を批判しつつ、日ユ同祖論に飛びつくという結果に至るのではないか。
 
 大学時代、私はヘブライ語の先生に日ユ同祖論について尋ねたことがあったが、「そんなものは言語学的に全くの荒唐無稽」と一笑に付された。人の好奇心を刺激する話としては楽しいかもしれないが、科学的には根拠ゼロだということである。

シオンの城壁より 偽預言者?「エレミヤ」 2012/1/19
 
前回 http://blogs.yahoo.co.jp/judahephraim/7926404.html
 触れた、
「反ユダヤ主義を掲げる日ユ同祖論者」の一例を挙げる。


『エレミヤの部屋』 http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6810/ 
(サイト内コーナー『角笛 終末の警告』 http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5614/というHPを公開している自称「エレミヤ」なる人物だ。

この中では、目を覆いたくなるばかりの酷い反ユダヤ、反イスラエル記事がたくさん公開されている。一方で彼は、日本人がイスラエル人の末裔であるとも主張している。

実は、私は2009年に彼の本を購入したことがある。『聖書の暗号が語る獣の国アメリカ、反キリスト』(エレミヤ著)という本だ。この中で彼は、当時大統領候補だったオバマ氏が暗殺され、ヒラリー氏が大統領になり、その下で登用されるロムニー氏(現在、次回の大統領選挙に出馬予定の人物)が、2010年に「反キリスト」として登場すると述べている。

だが、周知のとおり、この「預言」は見事にはずれた。この件について、「エレミヤ」氏はHP上で、意図的に「聖書の暗号」を改ざんした悪意の人間にだまされたと弁明をしている。 『暗号の削除、訂正の件』http://www.geocities.jp/ou7540jp/teisei.html

だが、彼自身がこう述べている。

『NO.396 偽預言者を見分ける 』 
http://www.geocities.co.jp/Outdoors-River/7540/m396.html


「一体我々はどのようにして、これらの(自称)預言者を見分ければよいのでしょうか?

”22 預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。”

たった一つの見分けのポイントがここに書かれており、それは未来に関することです。すなわち、たとえ(自称)預言者が「語っても、そのことが起こらず、実現しないなら」それは神からのことばではなく、それは偽預言者に過ぎないということです。」


「エレミヤ」氏自身が、偽預言者であるというそしりは免れないだろう。

 
<つづく>

リンデはなぜ亡くなったのかを検証する 異端の教えと子供の犠牲の相関関係


異端の教えと子供や若者を
犠牲にする価値観との相関関係

~リンデはなぜ亡くなったのかを検証する~

 





1.子供や若者を犠牲にする弱肉強食のこの世の価値観
 
ようやく今回のブログの本題に近づいてきました。今回、どうしても書いておきたいテーマの一つに、聖書から逸脱した異端思想に基づく組織はどのようなものであれ、必ず、子供(や若者)への虐待を発生させるという問題があります。
 
カルト的異端思想に基づいた宗教組織はいずれもネズミ講のようなピラミッド型年功序列の組織作りを行う特徴があります。そこは早く来た者勝ちの世界、年功序列、弱肉強食の世界です。ですから、その組織的な歪みのゆえに最も大きなしわよせを受けるのは、弱い立場にある者たちです。子供や、若者への虐待が発生しないはずがありません。

けれども、見渡せば、今の日本もまるで同じことですね。大きな世代間格差があります。社会に早く出た者がより多くの特権を手にし、年長者は優遇される一方、社会に遅れて来た者、つまり、年少者、子供たち、若者たちは不利な立場に置かれ、大きな不利益をこうむっています。

少し考えれば、日本社会そのものが大きなカルト団体と同じであることが分かります。カルト団体では、よく知られているように、信者が決して団体の異常性に気づかないように、冷静な判断力を奪うために過剰な訓練や労働を課して徹底的に疲弊させます。賃金も将来もない希望なき労働によって、若者や、貧しい者たちが徹底的に使い果たされている現在の日本社会も、カルト団体とほとんど変わらない誤った理念に支配されていることが分かります。
 
 
 
2.「後の者が先になり、先の者が後になる」聖書の価値観の不思議
 
しかし、聖書の世界観はこのようなものではありません。

「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせて、彼らに言われた。

「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。
あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」(ルカ9:46-48)

労働に関しても、聖書の世界観はこの世の世界観とは真逆です。

この世では、労働もまた早い者勝ちの年功序列の世界で、企業や団体の高職に就けるのは、特権的な家に生まれた者、早くから特権を手にした人々、経験ある年長者らであり、この世に後からやって来た、生まれもごく普通で、経験の乏しい若者などは、圧倒的に不利な立場に置かれます。

聖書の価値観はこれとは正反対です。

「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。

それから、九時ごろに出かけてみると、別な人たちが市場にたっており、何もしないでいた。
そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』彼らは出て行った。

それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。

また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あながたがも、ぶどう園に行きなさい。』

こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。

そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナずつであった。

そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。
ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』

このように、あとの者が先になり、先の者があとになるのです。」(マタイ20:1-16)

もしもこの世でこんな風に「あとの者が先になり、先の者があとになる」ようなことが起きれば、大混乱が発生するでしょう! 自分が有利になるために、人間が一生懸命に蓄えて来た教養、実績、スキル、年齢などが何ら有利な条件とならず、ベテランの経験者が後からやって来た経験の乏しい人々と同じ給与にあずかるなど、人のプライドが許すでしょうか。


3.暗闇の圧政からキリストの支配下へのエクソダス

しかし、それでも聖書の価値観はこうなのです。人から見た価値観とは異なる、神の価値観というものがあるのです。そこでは、神の気前の良さ、公平さ、この世の弱い者たちへの憐れみの深さが存分に示されていますが、そもそも、神はこの世で弱い人たち、幼い人たち、未熟な人たちを、弱いとも、幼いとも、未熟だとも考えてはおられません。神は人の経験や実績に全く目を留めておられず、人の努力や資質に基づいて、人を判断されることがないのです。

そのことは、人が信仰によって神と共に歩むようになると事実として分かります。人の目から見て、全くあり得ないことが起きるようになるからです。ある人は、この世から見れば、全く成功の望みのない、人の目に重宝される価値を全く持たない、見込みのない人間に見えるかもしれません。その人の再起の可能性は誰から見ても全くゼロです! 本人も周りもそう思って絶望しています。 しかし、その人がただ信仰だけによって立ち上がるとき、不思議に様々な助けを得て苦境から抜け出し、神の恵みを経験する、そういう不思議なことが起きます。それによって、この世とは違う、この世を超えたもう一つの価値体系、この世よりももっと強力な別の支配体系が確かに存在していることが分かるのです。個人的に経験しなければ、分からないかもしれませんが、そこへ脱出することが、本当の意味でのエクソダスなのです。

つまり、この世の悪魔的価値化体系から、まことの神の価値体系へのエクソダスすることです。病、圧迫、欠乏だけが支配するこの世の支配体系から、神の無尽蔵の富と憐れみの支配する別の霊的体系へのエクソダスです。それがなければ、おそらくこの先、生きられないような時代がやってくるかもしれません。

「神は、私たちを暗やみの圧政から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:13)
 
この世は基本的にケチです。この世はあなたを幸福にしようとは全く考えていませんし、幸福の基盤となるものを与えるつもりもありません。節電という言葉に象徴されるように、この世はあなたが豊かに暮らせるようになることを全く願っておらず、むしろその逆で、あなたが何かを消費する度にもったいないとケチをつけて来ます。電気さえ自由には使わせたくないのですから、他は推して知るべしで、あなたの給与も値切ってくるでしょうし、あなたのためにはすべてがもったいなく、あなたは豊かさに全く値しないと言ってくるでしょう。この世はあなたができる限り自由にならないように、快適にならないように、窮屈に暮らし、選択肢が限られ、願いがかなわないで絶えず圧迫されるように、あらゆる機会をとらえて脅かして来ます。この世はあなたを苦しめて袋小路に追い込むことしか願っていません。苦しみの果てに、ついには命さえ奪い取ろうとしているのです。しかし、神はそのようには願っておられません。

神が人に願っておられるのは、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」(創世記1:28)です。それは人の創造の時から変わらない命題です。豊かさが前提にならなければ、生むことも増えることも地に満ちることもできません。権威がなければ、地を従えることはできません。

一体、どのようにそれが可能となるのでしょうか。

「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17)のです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル10:1)

すべては十字架にかかられたキリストのゆえです。「権勢によらず、能力によらず」、ただ信仰を通して働く神の霊によって、すべての望みが成し遂げられるのです。

信仰とは不思議なものです。もしも今、目の前に豊かさが広がっているならば、誰も何も信じる必要はないでしょう。現に見ている風景がすべてです。待ち望む意味もありません。しかし、周りに何もなく、すべてが終わりに向かっているように思われるときに、神を信頼して歩み始めるからこそ、信仰なのです。それは、神が私たちを滅ぼすことを願っておられるのではなく、キリストのゆえにすでに死から救い出して豊かに命を与え、私たちを生かすことを決めておられ、私たちの幸福を確かに保証して下さると信じることです。しかし、その望みは今現在よりも、未来に向かっているのです。

それにひきかえ、能力や、経験や、実績や、経歴や、仲間の数といったものは、人が努力によって築き上げた成果であり、今現に見ているものに過ぎず、信仰によって待ち望む必要もありません。こうしたものは、神の目から見たときにより頼むべきものではないどころか、むしろ、信仰の障害にさえなるのです。

しかし、これは途方もない価値観なので、この世の観点からは理解できないでしょう。合理的な説明を試みようとも私は思いません。しかし、もしあなたがこの世において全く望みが絶たれているならば、より頼むべきものを持たないならば、新しい価値体系へ移行する絶好のチャンスです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

このことは、キリストの十字架を信じた瞬間から、誰であれ、直ちにエクソダスが完了していることを意味します。仰々しい悔い改めの儀式は必要なく、滂沱の涙を流して回心する必要もありません。あなたはすでに御子による新しい支配体系へと移し出されているのです。

キリストによるこの新しい世界・新しい支配体系は、絶えざる窮乏を押し付けてくるこの世の古い支配体系とは異なり、豊かさにあふれる神の新しい世界です。ただし、それは神を信じた翌日には億万長者になるようなことを意味せず、信じる人が日々、目の前に置かれた障害物を信仰によって乗り越えていくことを必要とするのです。

多分、この世の支配体系はあなたを絶対に逃がすまいと追ってくるでしょう。この世の絶望的混乱はますますひどくなり、あなたは敵対勢力によってますます追い詰められているように感じるかもしれません。どこに自由が、幸福が、復活の命があるのでしょう? 神はどこにおられるのでしょう? 神はあなたを見捨て、助けてくれないのでしょうか? しかし、それでも、エクソダスは完了していることを信じ続けるのです。この世にはもうあなたに対する支配権がありません。ですから、そのことを繰り返し宣言し、すべての状況が敵対的に思われるその瞬間に、信仰によって望んでいる事柄が現実になるまで信じ続けるのです。

そうすれば、悪魔は必ず後退します。あなたに対する悪魔の支配は虚偽であり、あなたに対する悪魔の支配権はキリストの贖いによってすでに失われていますから、あなたが真実に立つことによって、虚偽は必ず後退します。

ただ、今はちょっとその話は脇に置いておきます。



4.異端の教えは必ず子供たちを食い物に(いけにえ)にする

今回は、異端の教えは必ず子供への虐待に結びつくということを述べたいと思います。
それは、旧約聖書の時代から変わらない事実です。旧約聖書には、選民でありながら唯一の神を捨てたイスラエルの民が、自分たちの用意した木切れや刻んだ像に過ぎない偶像のために、自分の娘息子を火に焼いていけにえに捧げたことが書いてあります。この背信のために、民は荒廃の中に投げ入れられ、町は廃墟となることが告げられます。

「そこであなたは彼らに言え。この民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。真実は消えうせ、彼らの口から断たれた。

『あなたの長い髪を切り捨て、
 裸の丘の上で哀歌を唱えよ。
 主は、この世代の者を、激しく怒って、
 退け、捨てたからだ。』

 それは、ユダの子らが、わたしの目の前に悪を行なったからだ。―主の御告げ。―彼らは、わたしの名がつけられているこの家に自分たちの忌むべき物を置いてこれを汚した。
 また自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ。

 それゆえ、見よ、その日が来る。―主の御告げ。―その日には、もはや、そこはトフェテとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。人々はトフェテに、余地がないほどに葬る。この民のしかばねは、空の鳥、地の獣のえじきになるが、これを追い払う者もない。
 わたしは、ユダの町々とエルサレムのちまたから、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす。この国は廃墟となるからである。」(エレミヤ7:28-34)

私にはこの旧約聖書に描かれている現象がまさに今日の日本社会そのものに重なって見えてなりません。偶像崇拝、すなわち、まことの神を捨て、聖書から逸れ、自分たちを神々とし、己の欲望を神とすることの結果は、存在しない神(偶像)のために我が子をいけにえにして捧げるという行為へ必ず結びつくのです。
だから、私はそのような時代を「子殺しの時代」と呼んでいます。

今なぜ日本社会に(国家によって意図的に引き起こされようとしている)戦争や、労働環境の悪化、生活の破壊等の数々の脅威が迫っているのでしょうか。これを変えられる道はどこにあるのでしょうか。この国が自らますます荒廃へと落ち込もうしているその原因がどこにあるのか、我々は(ただ政府のみを糾弾して終わりとする姿勢をとる前に)立ち止まって考えなければなりません。

それはこの国が犯し続けて来た罪のためではないのでしょうか。嘘、不正、搾取、弱肉強食、腐敗、堕落、陰謀…。真実や正義などどうでもよく、今さえ自分さえよければそれでいいという発想、自分よりも弱い人々を平気で踏み台にし、誠実な人を欺いて陥れ、他人を犠牲にしてでも、自分さえ安全でより良くなればそれで良いという生き方、金と権力と地位と名誉、己の安寧がすべてであるという生き方、こういった恐るべき罪がうずたかく積み重なった結果、現在のような時代になったのではないかと考えられます。

ですから、時代を真に変えるためには、このような腐敗・堕落した価値観そのものから離れ、これを糾弾せねばなりません。たとえそのために自分自身が脅かされることがあっても、このような腐敗した価値観に身をゆだねないことを決意せねばなりません。隣人がどんな目にあっていても見殺しにし、危険がわが身に迫ってくるその瞬間まで、ずっと沈黙し続けることの罪について考えなければならないと思います。特にクリスチャンが背教と手を切り、聖書に戻ることが肝心です。自分の被害を訴える前に、まことの神がおざなりにされている事実を認める必要があります。それをせずに、ただ他人の罪だけを糾弾している姿勢では、時代を変えることは極めて難しいのではないかと私は思います。


5.吉祥寺キリスト集会の事例~リンデはなぜ亡くなったのか?~

 


上の写真は吉祥寺キリスト集会が御代田に建てた巨大なセンターです。(写真の出典:2003年御代田コンサート

美しい写真ですが、このブログを知っている人であれば、巨大なセンターという言葉が決して肯定的な意味で用いられていないことを理解されるだろうと思います。
 
吉祥寺集会はキリスト教界のどの大規模教会にも負けないほどに規模が大きく、日本全国にその支点となる家庭集会があります。この集会には二つの特徴があります。それは第一に、キリスト教界から脱出して来た人たちが非常に多く集まっていること、第二に、ローカルチャーチとは無関係ながらも、ウォッチマン・ニーの教えを受け入れていることです。

ローカルチャーチは「~にある教会」と銘打って地域ごとに教会を運営していますが、こちらの集会(彼らは自分たちを教会と区別するために集会と呼ぶ)は地域ごとの家庭集会を組織しています。 

大規模施設を建造する資金能力があり、企業家、学者、専門家など高名なクリスチャンが集まり、集会全体が非常に社会層が高いという印象があります。一見すると、とても繁栄している昔ながらの伝統的なクリスチャンの集まりという風に見受けられます。

この集会に集う人々は、指導者であるゴットホルト・ベック氏の書いた「リンデ 実を結ぶ命」という本を必ず読んでいます。この本はこの集会に入るための入門書のようなもので、ベック氏(彼らはベック兄と呼ぶ)の娘さんのリンデが20歳を迎える際にがんで亡くなるまでの闘病生活を信仰的な観点から記したものです。
  
この本は、非常に巧みに書かれており、一見、涙なしに読めない内容になっています。ある意味、ウォッチマン・ニーの生涯にもよく似て、悲劇ゆえに人の心を強くひきつけるのです。

しかしながら、ここでは、あえてこの著書を疑いながら読んでみたいと思います。実に多くの人が涙する悲劇の物語に異議を唱えようとしているわけですから、どんな反応が返ってくるかは分かりませんが、私はこの著書には極めて大きな不審点・疑問点があるという印象を強めています。


6.誤った宗教教育の可能性~リンデががんに冒される極度の痛みを家族にも打ち明けなかったことへの疑問~

まず、リンデが発病したのは、ベック夫妻が日本で宣教しており、リンデがドイツで看護師になる勉強をしていた時ですが、なぜ彼女はがんに冒されるという極度の痛みを誰にも言わずに、特に家族にも打ち明けずに一人で耐え続けたのかということが、最大の疑問として残ります。

著書が今手元にないため、ネット上(出典元)に掲載されているベック氏の告白を引用しましょう(内容はほぼ本と一致しています)。

いつリンデに対する病気の時が始まったか、もちろん知りません。もちろん、今日私たちは、彼女が長い間、痛みを持っていたことを知っていますし、彼女が、患者さんたちのベッドを作るときに、しばしば目の前が暗くなったことも知っています。
また彼女が、自分で痛み止めで、苦痛を和らげようとしたことも知っています。

29年前にドイツに帰る前、私たちは本当に忙しかったのです。
ドイツのことを喜んで考える余裕がない程でした。
けどそのような時に、リンデから一通の手紙が来ました。その内容は、次の通りです。
「私は、みんなと会えるのがうれしくて、夜も寝られないほどです。」

なぜ、その時喜んでドイツに帰らなかったのか理由ははっきりしません。おそらく、あんまりにも大勢の人々が悩むようになり、苦しむようになり、イエス様によって救われたいと願ったからでしょう。間違いなく、それもひとつの理由です。
そのために、私たちは日本に留まりたかったです。
けれども、リンデが家族に会える喜びのあまり、夜もほとんど寝られないほどですというリンデの手紙の一部分は、私たちも喜んで帰国したいという思いを起こさせました。

家族に再会できるというリンデの喜びは、やがて、自分が病気であり、しかも自分が考えている以上に重い病気であるということを知ったことによって、少し変わったものとなりました。
というのは、翌日、リンデはお手洗いで排泄物の中で血を見いだしたのです。
その時リンデは姉に、私は癌だと思う。けれども、家族に絶対に話さないでと言ったそうです。

その後に続く聖書の引用と美しい物語はさておき、ここではなぜ、リンデは手遅れになるまで、自分の痛みを、しかも、がんだと分かっていながら家族に打ち明けなかったのか、という重大な疑問だけに焦点を絞ります。

リンデは自分を神にささげ、他人の幸福のために奉仕し、人に迷惑をかけないように生きることを目的にしていたのでしょう。そのために、病める人々の世話をすることを自分の職業にしようとしていたのだと思います。しかし、日々、自ら病気の人々を世話する仕事をしており、多少なりとも医学の知識もあったわけですから、激痛をこらえて病気を手遅れになるまで放置することのリスクを知らなかったはずがありません。痛みを我慢するよりも、早期に検査を受けて適切な処置を施すことの方がはるかに合理的な選択であることも分かっていたはずです。外国にいる身内を束の間煩わせたとしても、手遅れになって皆を悲しませることに比べれば、はるかにましな選択であることが分かっていたでしょう。

にも関わらず、なぜ彼女は我慢し続ける道を選んだのか。考えられることはただ一つ、彼女が家庭において常日頃から、わがままを極度に禁じられる環境にあり、自分の体の不調や痛みを両親に打ち明けることさえ、わがままとみなされかねない教育を受けていたのではないかということです。宣教師として外国の人々のために身を捧げている両親の働きを自分の都合で邪魔することは、彼女にとって、自己中心なことであり、わがままであり、他の人々の模範にならない行動のように見えていた可能性があるのではないかと思われるのです。

つまり、人々の幸福のために一心に身を捧げて生きることこそ善であり、自分に注意を払うこと、人々にも自分に関心を払ってもらおうとすることは悪である、そういう極端な価値観の中を生きていた可能性があるのではないかと考えられるのです。

もしそうであれば、このような宗教的価値観は子供にとって極めて過酷な要求となりかねません。なぜなら、子供は大人たちから関心を払われ、世話を受けなければ生きていけない存在だからです。もし両親が、宗教教育を盾にとって、自分たちが子供を世話するのではなく、むしろ、子供の側に大人への積極的な配慮を求めていたらどうでしょう。子供にとってはそれは重過ぎる要求となってしまいます。しかし、そういう実例は、キリスト教界には絶え間なく発生しているのです。
 
カルト的な宗教団体では、子供に十分な関心を払わないで宗教行事に没頭している両親が、「神のため」という大義名分を用いて、その行為を正当化し、神の御用を邪魔する子供の要求が罪深いのだと考えることはよくあることです。

また、両親が宣教師という職業についている場合、その職業そのものが神聖視されるため、子供が両親の仕事の邪魔をすることは、下手をすると、神の邪魔をすることと同一視されかねません。 
 
ですから、リンデも、体の不調という自分の都合を訴えることによって、両親を煩わすことが、神が喜ばれない自己中心で罪深い行為だと考えて、自分だけの秘密としてこらえようとしていた可能性があるのではないかと思うのです。わがままで罪深い子供とみなされるくらいなら、自分の一切の必要を殺してでも、ただ「愛の人」として他人の幸福を優先して生きるべきであり、その方が立派な信仰者として両親からも他の信者からも評価してもらえると考えていた可能性があるのではないかと推測されます。逆に言うと、そこまでの何かしらの悲痛で尋常ならぬ固い決意がなければ、十代の少女が進行していくがんの痛みを黙って耐えることは無理であっただろうと思われるのです。それは、他者の幸せのために積極的に自分を放棄して犠牲にすべきだと常日頃から教え込まれていなければ、決して至りつくことのなかった選択だっただろうと私は思います。


7.大人たち(強者)の都合のために子供たち(弱者)を積極的に犠牲にし、いけにえを美化する誤った宗教思想

もしそうであったとするなら、それはリンデが他人のために愛のゆえに自己犠牲したのではなく、ただ大人たちの都合のために、誤った宗教イデオロギーの犠牲となっただけであることを意味します。聖書のまことの神は、絶対にそんな犠牲を人に要求することはありません。

「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア6:6)

常識的に考えても、自分が保たれていて初めて他者への奉仕が可能となるわけですから、自分のすべての必要を滅却して、自己管理のできない状態で、他者に仕えることは不可能であり、それは決して美徳とは言えません。

ですから、リンデの死の背景に何があるかを考えると、そこには、弱い者が強い者のために自己を放棄して奉仕するようにとの誤った宗教イデオロギー(宗教的な装いをした”弱肉強食”の理論)があって、それゆえに、本来ならば、救えたはずの命が、犠牲になったのはないかと考えられてならないのです。

また、異端思想がいかに死を親しみあるものとして描き、歓迎するかということについてはカルバリーチャペルに関する記事の中でも書きましたけれども、聖書が一貫して死を罪の結果として憎むべきものとして記しているのに対し、この著書には、死を憎み、死を拒み、死に向かって力強く信仰によって立ち向かっていくという姿勢が見受けられません。むしろ、病や闘病生活や死が美化されていると言っても過言ではなく、その美しい闘病生活の物語を読んでいるうちに、人は信仰によって病を拒否し、死を拒否すべきだという姿勢を失ってしまいます。
 
にも関わらず、こういった疑問がさしはさまれることなく、リンデの死は「天国への凱旋」、信仰によって過酷な闘病生活を耐え抜いた少女の美談として大いに利用され、今も数多くの信者を集会に集める有力な広告材料のようになっています。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12:24)という聖書の言葉を引用して、闘病生活の中で信仰を証した彼女の立派な死があったからこそ、多くの人々の回心が起こったのだ、という説明がされています。

さて、この集会には家庭内で問題を抱える信徒が多数集まっています。特に子供の自殺、うつ病、等々に苦しんでいる両親が多く存在します。そのような人々には、この物語は特に強烈に心に訴えかけるものがあるのではないかと感じられます。

高度経済成長期に日本の多くの一般家庭では、父親がサラリーマンとして企業戦士となることを要求され、母親は専業主婦として自分のキャリアを捨てて家庭に入り、夫に仕えることが要求されるという家庭のモデルが出来上がったわけですが、そこでは経済活動ばかりが優先され、人としての自由や、内面的な豊かさや、家庭の幸福がおざなりにされたために、日本の一般家庭に大きな歪みが生じました。その犠牲となったのは子供たちです。追い詰められた子供たちの自殺や、非行や、うつ病や、数えきれない問題が発生しました。

自分たちのエゴのために我が子を犠牲にしてしまった大人たちは、行き場のない罪意識を、あくまで個人の問題として抱え続けるしかありませんでした。なぜ我が子はこのような人生を歩んだのか、なぜ自分はそれを救えなかったのか、その無念をどうすることもできないでいたとき、この著書が彼らの心にある種の現実逃避的な慰めを与えたのではないかと想像されます。

つまり、リンデの死に自分たちの家庭の悲劇や、子供の痛ましい犠牲を重ね合わせることによって、自らの罪悪感を消化できないで来た大人たちが、そうした悲劇は自分たちが責任を放棄したために起きた「あるまじき出来事」ではなく、むしろ、「神の摂理」、「信仰の完成」、「天国への凱旋」であったととらえて美化することにより、自分の心の傷を慰め、子供たちを犠牲にしたり、死に追いやった本当の原因をすりかえるという心理的なトリックが働いたのではないかと考えられてならないのです。そこには、子供の犠牲を美化することによって、大人が罪意識から逃れようとする心理的なテクニックがあるように思われてならないのです。

歴史を振り返ると、これと全く同じことが、靖国(国家神道)にあてはまります。戦争が泥沼化し、日本が負け続けで途方もない犠牲が出ている時に、そのおびただしい犠牲を正当化するために、犠牲そのものを美化し、賛美する思想が必要となりました。もはや、勝つための犠牲ではありません。何の合理的な目的にも寄与しない、残酷で無意味な死、人命の使い捨てが起きており、到底、通常の感覚で正視しうるような現象ではありませんでした。そこで、この正視できない残酷な状況を正当化するために、死んだ人々は神になったのだという理屈をつけていたわけです。亡くなった人々は無意味の死を遂げたのではなく、自ら神に身を捧げたのだという理屈をつけて、いけにえそのものを美化する思想を作り上げていたわけです。

これは生き残った者たちや、弱い者を積極的に犠牲にした人々が、自己を慰めるために作り出した偽りの思想です。その当時、親が子を、教師が生徒を、上官が部下を積極的に戦地に送り出し、国民が国民を互いに死地に追いやらなければいけない社会があったわけです。強い者が弱い者を積極的に犠牲にする、そういうことが至るところで起きるわけです。それは弱肉強食が最後に行き着く姿だと言えますが、普通の意識では耐えられないことです。ですから、弱い者を積極的に死に追いやった人たちが、自らあるまじき犠牲を作り出した罪を正当化し、生き残った人々が自己を慰めるために、死んだ者たちを「神々」に祭り上げ、あたかもそれが自主的な犠牲であったかのように装い、その犠牲の塚に涙を注ぎ、その死を「名誉の死」として栄誉にすりかえ、あたかも亡くなった人々を尊んでいるかのような外見を装うわけです。人の命を奪って、殺しておいて、その後で、これは立派な犠牲であったと言って、犠牲そのものを讃えることにより、自らの行為を正当化しようとするわけです。一見、死者に敬意を払っているように見えますけれども、実際のところはそうではなく、それは犠牲そのものを肯定し、犠牲になった人を死後に至るまで犠牲にし続ける、大変恐ろしい思想なのです。


8.子供たちへの誤った思想教育としての「労働による再教育」

このような誤った宗教思想はいつの時代にも現れうるものですが、吉祥寺キリスト集会の場合は、年功序列、弱肉強食の「大人たちの支配」を正当化するために用いられている教本として、ウォッチマン・ニーの「権威と服従」があります。これに限らず、彼らが使用しているのは、ローカルチャーチの出版社である「福音書房」から刊行されたニーの全集です。

実のところ、ウォッチマン・ニーは同時代の霊的先人から一定の評価を受けて認められているクリスチャンの奉仕者であり、そのメッセージには非常に重要な主張も含まれていると私は思いますが、彼の著書に関しては、取扱いに非常な注意が必要になります。

まず、ニーは自分自身では数少ない著書しか残していないため(「キリスト者の標準」、「霊の人」は自身の著作だと言われています)、今日、ウォッチマン・ニーの著書とされているものの多くは、メッセージの速記録を他者が後から書き起こしたものであり、どこまでが本当に本人の言説であるのか、判別しがたい事情があります。さらに、仮に本人が実際に語っていた内容が記されているとしても、ローカルチャーチが出版に及んだ段階で、内容が改ざんされている可能性が十分にあります。特に、ローカルチャーチは「神と人とが混ざり合う」ことを教えている団体ですから、聖書に照らし合わせて矛盾する内容が記されていることについて、私はすでに指摘しました。

ですから、ローカルチャーチが刊行したウォッチマン・ニーの著書を無批判に権威あるものとして受け入れている時点でこの集会にもすでに大いなる問題があると言えます。

さらに、すでに述べたように、「兄弟姉妹は対等であるから牧師制度は要らない」と主張しながらも、事実上、指導者を置いていたKFCと同じように、この集会にも、二重性があります。この集会はホームページにも記されているように、「牧師制度がなく、組織や会則がなく、会員制度がなく、献金制度もない」と謳っています。特に、聖書に忠実であるために、牧師制度を持たないことを公言している点は重要です。しかし、実際には、ベック氏を頂点とする、どの教会の牧師制度にもないほどの強力な中央集権的ピラミッド型の組織が作られています。

今日のキリスト教界には女性牧師も多数存在していますが、この集会では兄弟(男性)だけがメッセージを行うという決まりがあり、こうした性差による待遇の違いもまた、重層的な差別構造に基づくピラミッド型宗教組織の特徴であると言えます。会則もないわけですので、当然ながら、献金の使途も不明です。このように、組織を持たないという表向きの説明を口実にして、実際には強力な独裁体制を可能とする集会運営が行われているのです。

年功序列のピラミッド型の組織を作り上げるためには、福音書房から刊行されているウォッチマン・ニーの、「権威と服従」は、まことに良い教材です。というのも、この著書においては、「年少者はたとえ納得できなくても年長の兄弟たちの指示に従うべきである」という内容が説かれているからです。これは年長者への絶対服従を求める思想であって、それが本当にウォッチマン・ニー自身の見解であったのかどうかも定かではないですが、上記したように、聖書の価値観は明らかにそのような「年功序列」を肯定していないので、これは明らかに聖書に合致しない教えであることが分かります。

しかし、吉祥寺キリスト集会では、こうしたローカルチャーチの教えを無批判に取り入れて組織強化のためのイデオロギーとして用いた結果、年少者は年長者へ服従を求められ、(男性優位+)年功序列の信徒の関係が出来上がっています。

さらに、この集会にはうつ病になったり、自殺したり、社会に不適応となった子供たちを抱える家庭が多数、集っていることはすでに述べましたが、学校や社会で不適応となった子供の中には、集会の信徒が吉祥寺に開いているお店「リンデ」で働いている子供もいるそうで、信徒らはそれが宗教教育上、子供に大変、好ましい更生の影響を及ぼしていると考えています。

しかしながら、私はこうした風景を見ると、どうしても「労働による再教育」を謳っていた共産主義体制を思わずにいられないのです。‪反体制的な人間を逮捕・収監して社会から隔離した挙句、労働を通して思想教育を施し、思想改造して、共産主義社会にふさわしい人間に思想改造しようということが歴史上、行われていました。しかも、それは奴隷的労働であったのです。

そもそも、日本の学校教育や社会には、大きな歪みと問題があると私は思っていますので、仮に子供がそれに適応できなかったとしても、それは必ずしも適応できなかった側だけの問題であるのかどうか分かりません。むしろ、社会の側にも深刻な問題があって、そうした結果が引き起こされた可能性も十分に考えられます。ですから、こうした点を見ないで、ただ大人たちの作った社会に適合できなかったことを子供の責任とし、社会に適合させることだけを目標に子供たちを教育していくことは、いずれ悲劇的な結果を招くことにつながりかねないように思えてならないのです。

学校教育に適応できない子供であっても、それ以外の場所で、それ以外の様々な機会を通して才能を伸ばしていくことは可能です。子供が苦痛を感じている学校や社会に適合させることだけが必ずしも望ましい結論ではないと思います。仮に更生させるにしても、その方法が労働を通じてというのでは、まるで刑務所やラーゲリのようです。未成年者を労働させることそのものが搾取ではないのかという批判もあるでしょう。こうして子供たちを働かせながら、大人たちは自由に集会を行き来しているのでは、なおさらのこと疑問が生まれます。

ですから、これはどうにも誤った宗教思想であり、宗教的な装いをした弱肉強食の思想の生んだ未成年者の労働の可能性があるように思われてなりません。社会に不適合とされた人間を不利な条件で働かせて搾取を正当化することは、共産主義体制で実際に行われていたわけですから、誤った宗教教育でも同じことが起きても不思議ではありません。特に、社会に不適応との烙印を押された子供たちの矯正手段として労働を肯定するような思想が、正しいものなのかどうか疑念がさしはさまれねばなりません。
 
最後に、この集会は近年、大規模な分裂を経験していますが、御代田にある立派な素晴らしいセンターの建設に深く関わった人々の言によると、このセンターは設計そのものに無理があり、耐震、防火、非難経路など、安全性を確保するための基本的な建築の基準が満たされていないということでした。

毎年、行事がある度に、この御代田のセンターには全国からたくさんの信者がお参りのように訪れ、そこで家族そろって礼拝に出席できることは、特別な喜びとされています。裕福な信徒の多くはセンターには宿泊せず、近くに別荘を持っています。こうしたことは大きな幸福であり祝福であるように見えるでしょう。しかしながら、カルバリーチャペルやKFCの場合と同様、表向きとても繁栄していて楽しそうに見える礼拝が、本当に神の喜ばれる礼拝なのだろうかと、巨大な疑問が沸き起こってならないのです。

そこには、病や死に力強く立ち向かっていく姿勢もなければ、この世の諸問題に勇気をもって立ち向かい、虐げや不正や搾取に立ち向かい、強い者の横暴から弱い者を守ろうとする姿勢も見受けられません。むしろ、再臨を待って、連日、楽しい集会が開かれているので、この世の諸問題からは注意がそらされているのです。彼らはすでに望む安定を得てしまっているように思えてなりませんが、もしそれが、虐げや、搾取や、弱い者たちの犠牲の上に築き上げられた繁栄や栄光であったなら、どうでしょうか。神はそんな犠牲を本当に喜ばれるでしょうか。

キリスト教界と同じで、本当に神を求める人々は、こうして自分たちこそ正しい信仰を持ち、祝福された人々であると誇って囲いの中にとどまっている人々ではなく、囲いの外にいて見失われた人々の方なのではないかと思えてならないのです。

「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。
『貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。
 いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。

 人の子のために、人々が あなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。

 その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。

 しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。
いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。
いま笑っているあながたがは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。
みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。」(ルカ6:20-26)


神を畏れることこそ知恵の始めである~国家の危険なプロジェクトからは脱出せよ~

これまでにも書いて来たことだが、神を畏れることこそ知恵の始めであり、神を拒むことは愚かさと精神崩壊の始まりである。人は神ではない。人はどんなことをしても神にはなれない。だから、人が神を自称することは恐るべきことである。それはキリスト者でなくとも、誰しも認めることではなかったのだろうか。

ところが、それにも関わらず、自ら神になろうとしている人たちは何もキリスト教界にばかりいるわけではない。歴史の教訓を捨て、再び「神国」という驕りに支配され、自ら神々となろうとしている人たちに率いられる日本政府は、もはやあらゆる批判を受けつけず、専門家の意見にも耳を傾けなくなり、合理性と知恵そのものに逆らって、危険な道を進んでいるように見受けられる。被災地を犠牲にして嘘でだまし取ったオリンピック。虚飾の栄光に輝く東京の街と、安倍首相の提唱する「この道」の先に待ち受けている未来は何なのか。

 
「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。

基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。(ルカ14:28-30)
  
 
 
 すでに2013年の時点で無謀な計画だと十分すぎるほどの批判を浴びていた新国立競技場案。強引に建設されても、ただ日本の愚かさを証明する象徴となってしまいそうな予感がする。
 
「アンビルドの女王」の異名をとる設計士の作だという点ですでに不吉であるが、採算度外視の設計で費用が足りずに建たない程度であればまだ良い。無理に作ろうとすると、建築の安全性さえ満たせず、崩壊の危険性さえ十分にあるのではないか。

この計画を誰よりも積極的に推し進めているのは、皇国史観に基づく「神の国」発言で解散に追い込まれた森喜朗元首相である。
 
以下の記事を読んでも、改めて、計画の圧縮を提案していた元東京都知事の猪瀬氏が失脚した理由について再考の余地があるような気がする。


1.採算度外視かつ無用なデザイン

新国立競技場めぐり国と都が対立? 「アンビルトの女王」ザハ・ハディドさんデザイン案に「巨大すぎる」との声も (The Huffington Post  投稿日: 2013年10月29日 07時54分 JST   更新: 2013年10月29日 09時10分 JST)

2020年夏季オリンピック・パラリンピックのメインスタジアムとなる新国立競技場をめぐって、「建設費がかかりすぎる」として政府が東京都に費用の一部負担を求める可能性も出てきた。これに対し東京都の猪瀬知事は「規模維持したまま、費用は圧縮が可能だ。都に負担を求める必要は全くない」と反論。国と都の意見が対立している。さらにコスト面だけでなく、景観や安全性の観点から「巨大すぎる、変更すべきだ」と疑問を呈する声も上がる。国立競技場の建て替えの行方は――。

「周辺(整備)については縮小する方向で考えたい」。下村博文五輪担当相は10月23日の参院予算員会で新国立競技場計画について、整備費が最大約3000億円になるとの試算を明らかにし、縮小を検討する方針を示した試算額については「あまりに膨大」と指摘した。 

文科省は予算を1300億円と想定しているが、資材や仕様によっては費用は最高で3千億円になるとの試算を業者が出している。下村氏は、試算額について「あまりにも膨大」と指摘。計画縮小に関して「デザインそのものは生かす。競技場の規模はIOC(国際オリンピック委員会)基準に合わせるが、周辺は縮小する」と説明した。

文科省によると、競技場上部のアーチを細くしたり、周辺の回廊を縮小したりする案が検討されている。

((朝日新聞デジタル「新国立競技場、計画縮小へ 文科相「試算あまりに膨大」」  2013/10/23 20:33)

■猪瀬知事「1500億円でできる」 「東京都に負担求める必要全くない」

この「3000億円」という試算に対し、東京都の猪瀬知事は「3000億円かからない。圧縮が可能だ」と反論する。新国立競技場は8万人の収容規模が計画されているが、猪瀬知事は10月25日の会見で「全ての座席を恒久化する必要はない。一部を仮設にすればいい」と述べ、収容規模を維持したまま、費用を圧縮することができるとの認識を示した。

さらに、政府から東京都への費用負担を求める見方が出ていることについては、「基本的にはもう国立。しかも3000億円を1500億円にしてやれば、東京都に負担を求める必要は全くない」と話している

3000億円かからないですよ。あれ、デザインですから、あのデザインのままやったらかかるというだけで、あのデザインを生かして基本設計をすれば、それは1500億円だってかかりませんよ。まずそこですよ。

椅子が全部8万席のわけがない。つまり5万席であって、例えば仮設の部分で、あと2000とか3000やればいいわけですからね、それを恒久化する必要なんか全くないわけですよ。ただ、8万ぐらいの席を入れようと、ロンドンもそうですからね。そういうことをやればいいわけですよ。あと、その後の維持管理、運営、そういうものを考えた場合に、コストがかかり過ぎるものはいけませんよね。

1500億円でできるはずですよ。そしたら、1500億円でやれば、別に東京都に負担を求める必要は全くない、そういうことになりますよね。

(東京都「猪瀬知事定例記者会見 平成25年10月25日(金曜)」より抜粋)


国立競技場を運営する日本スポーツ振興センターは、当初総工費を1300億円と想定してデザインを公募。しかし「デザイン通りに造れば2千数百億円になるかもしれない」と関係者は言う

■「アンビルトの女王」デザインに「巨大すぎる」

デザインは、世界的な建築家・安藤忠雄さんが審査を務めるコンペで決まった。最終選考に残った作品のなかでも、この建物がひときわ目をひく。

この奇抜な建物をデザインしたのはイラク出身でロンドンを拠点に活躍するザハ・ハディドさん(62)。53歳のときに「建築界のノーベル賞」とも呼ばれるプリツカー賞を女性で初めて受賞した建築家だ。曲線、直線をダイナミックに扱う斬新な作風で、ロンドンオリンピックで使用された水泳センター、イタリア21世紀美術館などを設計した。かつては、「建てた建築よりも、実現しなかったプロジェクトの方が有名」といわれ、その斬新すぎて技術的に造れない設計が多いため、「アンビルト(建築されていない)の女王」とも呼ばれている。ナオミ・キャンベルの自宅や現在建設中のソウルの東大門デザインプラザ(DDP)なども彼女が手がけた。

しかし、この未来的なデザイン案に疑問を呈する声が上がっている。世界的建築家で東京大教授も務めた槇文彦さんは新国立競技場デザイン案について、景観や安全性の観点から「巨大すぎる、変更すべき」と指摘する。

もともと神宮外苑は東京の風致地区第1号に指定された場所。周知の通り、明治天皇崩御後に民間有志らの請願により、天皇を記念する神宮内苑・外苑、表参道・裏参道を一体として整備した歴史的経緯がある。

2016年の五輪招致計画のように、臨海部に建設する案ならいい。聖徳記念絵画館とイチョウ並木を中心に濃密な歴史と美観を保つ地域、しかも限られた敷地(約11ヘクタール)に、総床面積29万平方メートルという五輪史上最大のメーンスタジアムをなぜ建てなければならないのか。

(MSN産経ニュース「新国立競技場案「巨大過ぎる」建築家・槇文彦さんが疑義、幅広い議論を」2013/10/9 11:08)

槇さんは前出の記事の中で、「可能な限りプロジェクトを小さくし、将来的に建物が緑で隠れることを願う。巨大なものを将来的に抱え続けることが本当に幸せなのか、皆さんに考えてもらうきっかけになればうれしい」と結んでいる。

<記事内容、以下略>



2.採算度外視だけでなく危険、土台の安全性は保たれるのか
新国立競技場の基本設計が終わらない理由3 (The Huffington Post  投稿日: 2014年05月11日 11時53分 JST   更新: 2014年05月11日 12時15分 JST )

(*この記事は、2014年4月13日「建築エコノミスト 森山のブログ」より転載されたものです。)

記事内容をかいつまんで途中まで説明してみますと、
巨大なメインアーチを支えるための基礎となる土台をどうやって作るかということが大問題となります。スタジアムの競技フィールドが地上より低いところにあるため、フィールドよりもさらに地中を深く掘り下げて大規模な基礎工事を行わなければならないのです。



   
  巨大な橋と同じような構造となるそうです。安全性を満たすためには、どれほど深く地下を掘り下げた大規模工事が必要でしょう?


  ここからが建築エコノミストの森山氏の発言の引用です。

「これだけのスパンの横力をもっとも非合理な垂直方向に向かって、引き抜きで対処しようというものですが、これが、国立競技場周辺の地盤データです。」

つまり、データによると、国立競技場の地下の地盤はこうした基礎工事に適していると言えるほど固くないと! むしろ、「ういろう」のように柔らかい地盤なのです。

地下30mまでいっても全然岩盤とか出てこないんだけど、、、
地下50mとかまでアンカーするつもりなんだろうか

Thrust block foundationというのは下図の赤丸ようなものなのですが、これはエドモントンにあるスパン250mの橋の図面です。」
「これ見てもお分かりのように、アーチのスラスト(横すべりと跳ね上げ)を押さえようというのが目的なので軸力方向に圧縮と引っ張りに効かすように斜めに打ち込まれているのが分かりますよね。

新国立競技場の今の配置でそれやったら、超ヤバイんですけど。
なぜなら、すぐ近くに地下鉄大江戸線が通っているからなんです。」




  地下ホームがちょうど地下30mくらいだから、
斜めにアンカーするのはかなり危険だと思いますしそもそも地盤が、データ見る限りシルトから細砂とかだからまだ「ういろう」状態だと思うんですよね。

このアーチのライズとスパンと敷地断面を模式化してみるとこんな感じです。」

「ドンピシャで駅に当ててんじゃないでしょうか」!!


アンカーが駅にぶつかって打てそうになく、代わりの策も提示されていない。
どうなるのだろうか、この計画。
思うに、残るただ一つの手段は、費用の採算性を度外視したように、安全性も度外視して無理やり建設することだけではないかと…。

基礎工事がどのように行われたかということは、建設に携わった人々以外には分からない。地盤の性質がどうあろうとも、駅の位置がどうであろうと、安全性を満たすための十分な土台が作れず、まるで手抜き工事のような、危険な迂回策が仮に取られたとしても、その情報が建設に関わった人々以外に伝えられないならば、一般人には何も分からない。地上に立派な建物が立ってさえいれば、「きっと安全だろう」ということで、おとなしく中へ入って行くだろう。

 だが 、「安心、安全」と政府の折り紙つきだった建造物が、どんなに信用ならない脆いものであったかは、すでに歴史の教訓により学んだはず…。

安保法制や、こうした無意味で危険な箱物建設計画を含めて、もしも国家があらゆる合理的な反対意見やリスクを一切無視して、無謀で危険なプロジェクトを一方的に推し進めるならば、我々に残るただ一つの選択肢は、自分の個人的な選択によって、それに関わらない道を選び、身を守ることだけであろう。すなわち、夜道と同じで、危険なプロジェクトからは遠ざかり、一目散に逃げること、それに近づかないこと、それに関わって巻き込まれる道を断固拒否すること。

すなわち、

エクソダス あるのみだと思うのです。

集団的自衛権とカルト監視機構の構造的類似性

・集団的自衛権とカルト監視機構の構造的類似性
秀逸な作品なので、引用させていただきます。

(画像の出典:工場長 安全第一さん)


  
・カルト監視機構バージョンのアネクドート

A「なあ、俺、クリスチャンなんだけど、最近のキリスト教界ってやばくね?」
B「うん、そうだよなー、最近も牧師の油まき事件とかあったしな」
A「そうなんだよ。おまえもそう思うだろ!
 なあなあ、知り合いの専門家の先生によるとさ、
 特にプロテスタントが危ないって言うんだぜ。
 教会のカルト化とか、牧師の不祥事とか連発してるらしいんだよ」
B「ふーん、そうなんだあ、こわいなあ」
A「おまえもそう思うよな! 
 で、俺、こう見えて結構、正義派なんだぜ。
 弱い信徒が悪徳牧師に不当に苦しめられてるの、見逃せないじゃん。」
B「うんうん、悪徳牧師はちゃんと成敗しないと」
A「日本ってさ、宗教法人には特に規制が甘いからさ、
 教会内の不祥事を取り締まる有効な措置がないんだよ。
 俺たちが自主的に活動しないと、教会はブラックボックス、
 異端思想は入り放題、悪徳信徒・牧師はやりたい放題」
B「そういうの、ほっとけないよなー」
A「だよな、まっとうな人間だったらそう思うのが当然だよな。
 だからさ、ここからが本題なんだけど、
 俺たち、あの有名な専門家の牧師先生と一緒に秘密結社作ったんだ」
B「え?おまえ、すげーな、あの先生と知り合いだったんだ。
  秘密結社?なんだかわくわくするなー」
A「うん、俺と先生が仲間だってことは、一応、内緒なんだけど、
 ゆくゆくはカルト監視機構っていう公の組織になる予定なんだ。
 でも、設立されるまで手をこまねいて待ってなんかいられないだろ。
 ホームページとかブログもすでにちゃんと作ったんだ。
 そこで信徒の密告によって手に入れた不祥事の情報をバンバン公開してるんだぜ。
 カルト教会は内情がバレバレになって、もう大騒ぎ、脱会者が増えて悪徳牧師も真っ青だぜ」
B「気分いいよなー、やっぱ、そういう社会正義に貢献する仕事をしないと」
A「それでさ、こないだ、俺、その先生と一緒に街歩いてたんだ。
 そしたら、いけすかねー野郎が肩で風切って俺たちの前歩いててな、
 隣の先生が耳打ちするには、そいつはなんでもカルトの悪名高い
 どこそこ有名教会の悪徳有名牧師だってんだ。
 異端思想にかぶれてるくせにさ、偉そうに信徒ぞろぞろ引き連れて歩いてたんだぜ」
B「ゆるせねーよなー」
A「だろ? 牧師が牧師なら夫人も信徒も最悪でな。
 高学歴を誇ってインテリぶって自前の説教するような高慢ちきな奴らばっかりでさ。
 それで、俺たち、後でそいつらを さんざんブチノメしてやったんだ。
 俺もうこーふんしちゃってさ」
B「え、そんなことして大丈夫なの」
A「馬鹿だなー、ブチノメしたってのはあくまで表現さ。
 俺たち、一応、暴力反対の知識人の専門家だからな、卑劣な方法は使わないんだよ。
 実は牧師の不祥事を俺のブログで暴露してやった上に先生が教会ごと高額裁判に訴えてやったんだ」
B「そうかあ、やっぱ、おまえ、頭いいよなあ、
 法律ってそういうことのためにあるんだよな」
A「そうだよ。法律ってのは、悪人を成敗するためにあるものなんだ、
 有効利用しないとな。
 でも、尊敬する専門家の先生に手を汚させたりできないだろ。
 だからさ、先生は表で裁判や被害者救済運動を弁護士やなんかと一緒に組織して、
 俺が裏でブログでさんざん教会の悪評を流布してやったんだ。
 俺は一般市民だから、そうすれば先生が教会を中傷してることにはならないだろ?
 たださ、そのいけすかねー奴らが結託してブログとか作って
 うるさく反論してきやがったんで、
 みんな順番に吊し上げて一網打尽にしてやったさ」
B「異端集団てのは怖いよなあ、死ぬまで己の過ちを認めないんだからなー」
A「そうなんだよ、妄想と怨念で塗り固めたような駄文なんか読んでられるかって。
 しかも、女ばっかじゃなくて、男にも色々言ってくるバカがいたんで、
 そういうバカどもは次々、刑事告訴してやったんだ」
B「当然だよ。そういうやつらの口は封じとかないと」
A「隣のシマでも俺たちと同じような活動やってる不倶戴天のライバルがいてな。
 そいつが刑事告訴してたんで、俺もそれを見習ったんだよ。
 なあ、知ってるか、おまえ、告訴って、結構、ボロい仕事なんだぜ。
 警察は告訴を拒否できないし、裁判費用もほとんど要らないしな。
 信徒一人当たり数十万円の儲けと思えば、ボロいもんだよ。
 だからヤクザなんかもよく利用するんだよ」
B「おまえほんとに頭いいよなー。で、裁判でも儲かったんだろ?」
A「それがさ、実は、勝てると思ってた裁判が、難航してるんだ」
B「へええ、おまえや先生みたいな頭のいいやつがどうして」
A「うん、泥沼化しててな。証拠不十分で負けるかもしれないんだ。
 しかも、裁判が長期化するうちに、悪徳教会は独立するは、
 被害者信徒は自立するは、だんだん救済の必要性が薄れてきてな。
 異端団体も信教の自由を盾に逆に訴訟をふっかけてきたりして」
B「へええー、敵も手ごわいねえ、それで監視機構、設立できそうなの」
A「分からない。しかも、前はいっぱい色んな奴らが俺を応援してくれたんだが、
 俺が刑事告訴するようになってからは、蜘蛛の子を散らすように仲間が激減したんだ」
B「人の心って不思議だよなー。裁判やればやるほどおまえ孤立して行ったんだな。
 でも、見かけはまだたくさん支持者がいるようだけど?」
A「いや、ブログの閲覧数なんて全くあてにならないぜ。
 見てるのはほとんど敵方ばかりなんだよ。
 いつ俺が破滅するかを虎視眈々と見物してるんだ。
 隣のシマのライバル同業者なんてすごいぜ、信者を刑事告訴してから一気に
 信者が激減して孤立した。いろいろ叫んでるけど、もう負け犬の遠吠えさ。
 しかも今、俺自身が訴えられそうでな」
B「なあ、おまえ、クリスチャンなんだろ。
 聖書に書いてなかったっけ、
 さばくな、自分がさばかれないためである、とか。
 それから、剣を取る者は剣で滅びる、とか。
 結局、裁判を起こす者は裁判で滅びるってことなんじゃないか?」
 
    
・総統閣下シリーズ
(これが一番傑作でした。出典:院長の独り言さん)


官僚制度の闇 〜なぜ日本政府は憲法と国民を敵視するのか〜③


日本国を蝕む大蛇の正体1/2


日本国を蝕む大蛇の正体2/2
 
<以下、筆者の判断で要約しました。>


日本国を蝕むものの正体 

~永遠に肥え太り続ける公務員大蛇~

<要約>

1.法を公然と守らない公務員 ~公務員の手続きの二重性・二枚舌~


国民・市民につかえる立場にありながら、公務員は市民のためになる仕事は決してしない。
市民のためにならず、自分たちの利益になる手続きばかりを進め、法を守っているふりをしている。法で禁止されていることでも、抜け穴を作って堂々と推進する。

たとえば、この国では賭博を禁じており、韓国にはパチンコ屋がない。
にも関わらず、なぜ日本ではパチンコ屋が繁盛するのか。
それはパチンコ屋が警察の天下り先になって、警察に保護されているからです。

一事が万事この調子で、この国は徹底的に腐敗しています。
警察も裏金を作っており、事実を公表した者は懲戒免職され、検察、裁判所も裏金作りにいそしんでいる。


2.国民に有利な判決を出すと昇格しない裁判官



裁判所の場合、国民のためにならない判決を出さないと昇格しない仕組みになっている。
裁判官は二十年ほど勤めると、四号判事から三号判事に昇格し、四百万円ほど年収が上がるようになっている。
予算的には誰もが四号判事になれるだけの余裕があるのに、実際に昇格するのは全体のうち何割かでしかない。そして、昇格した者たちが昇格しなかった者たちの分のための予算の差額分を懐に入れる仕組みになっている。

裁判官の昇格は、どんな判決を出すかが出世の決め手となる。
国民に有利な判決を出した者は出世しない。
だから、裁判官は出世して泥棒する側になりたくて、国民に不利な判決を出す。

泥棒することだけを目的に判決を出し続ける裁判所。
これは大変な問題である。


3.強大な利権集団として国民の上に君臨する公務員という特権・犯罪者階級

公務員は全体が一つにつながっている。
仲間意識があり、不祥事が起きてもかばいあい、裁判所は公務員に有利な判決を出す。
就職のときにも公務員の口利きがあると有利になるなど。
マスコミも警察の手先になっており、国民は洗脳されている。

そのほか、役所と癒着する業者や、身内やOBやらがいて、
みんなが一体となってこの大蛇に寄生し、大蛇をかばっている。
公務員は特権階級で、国民はその下に置かれている。

つまり、この国は身分社会なのである。
事件が起きて、公務員が失職するようなことがあれば、「公務員」という特権階級から「平民」に転落したということで、罰を減らすなどのことが平然と行われている。


4.公務員大蛇は結託して自分たちの得ている過剰な利権を隠してきた


公務員は自分たちが過剰な利権を得ていることを隠している。
公務員が結託してマスコミも含めて皆さんに本当のことを知らせないようにしている。
阿久根市にも、職員組合、自治労があるが、市民の平均年収が二百万くらいだとすると、
職員は七百万円くらいで、ざっと三倍はある。仕事は三分の一くらいにも関わらず。
それだけひどい格差があることをずっと隠し続けて来た。

税金の使い道なので、本当は市民が知っていて当然にも関わらず、ずっと隠し続けて来た。
職員の給与は議会で決定されるが、議員が開示を請求しても出さない。
出すのは訳のわからない計算式ばかりで、実質給与をいくらもらっているのか公表しない。

こんなのはおかしいということで、(竹原氏が)市長の時に公表したら大騒ぎ。
阿久根市の次に給与を公開した市町村はない。本当にひどい国である。

公務員がどれほどの利権をむさぼっているか、事実を公表するような政治家は
 現れてはいけないことになっている。
現実、選挙で選ばれた政治家が何をやっているかと言えば、
この公務員大蛇のうろことなって、大蛇を守っているだけ。

うろこは、見かけはぴかぴか光って役に立ちそうに見えるが、
やっていることは、国民を裏切って、利権集団である大蛇を守ることだけであり、
もし大蛇を守ることをやめて、痩せさせるようなことがあれば、全力で叩き落としてくる。

マスコミがその手先となり、あるいはこの蛇が飼っている癒着業者や身内などの手先が一体となって攻撃して来る。その洗脳に騙された市民も攻撃に参加して応援すると。

この構図ある限り、公務員大蛇はどんどん太り続ける。
中に入った人は裏切ることが許されない。
本当のことを言ってはいけないので、ずっと国民・市民を騙し続けなくてはいけない。

阿久根市では、公務員は自分たちの給与は市の税金から支払われているのではなく、
公務員給与として別枠がもうけられているという嘘を触れ回っていました。
議員たちさえ騙されており、市民は知りもしない。

ところが、公務員は自分たちが故意に知らせないで来たことを、
議員や市民が不勉強だから分かっていないんだと言う、
市民を敵に回す戦闘集団です。

公務員はもし選挙違反をしても、それがたとえば自治労などで決めたことならば、
不正に加担した人間を全力で守ります。
たとえ違反のために家宅捜索を受けても、一日一万円が支払われるとか、
留置所へ入れられても、日額三千円の差し入れがあるとか、
裁判費用ももってもらえるし、その期間中の給与も補償される、
懲戒免職になっても、退職金やら、再就職の支援も全面的に行われる。
規則にそう書いてあり、インターネットでその規則も見れます。

やくざもこんな規則を作らない。
一般企業でクビになっても生活を保障するなんて規則があれば、
どれほど社会的な批判を浴びることか。

それが公務員だけは例外で、警察もそれを取り締まらない。
自治労が奪い取った高い給与の恩恵を受けるのは
警察、検事、裁判官、などであり、この大蛇は全体が犯罪者集団、強盗団に乗っ取られている。
だから、大蛇は太り続ける。


5.国民を苦しめる者が出世する犯罪者集団 事実を追求する政治家は闇に葬られる


こういう風ですから、この公務員大蛇の中では、
税金を上げたり、天下り先を作ったりして、国民を苦しめた者が出世する。
事務次官なんてのは最悪の例です。

それから、警察にも志布志事件のような冤罪があって、
全く事実でないことをでっちあげて裏金作りをしていた。
その時も、一人だけは免職になったと思いますが、退職金などは警察が全員でカバーしたそう。
再就職の世話もしてくれたりして。
その他のこの事件にかかわった人たちはみな出世して、
違法だったことが明らかになってもなお出世したまま。

これがこの国を蝕んでいるものの正体、どうにも止まりません。
民主党が公務員改革をできない理由もここにある。
大蛇は強大な組織であり、もし公務員改革を本気でやろうという人間が出てくると、
小沢一郎のようにされる。

検察が二度も嫌疑がないとしたものを、マスコミが噛みついて大騒ぎにして、
群がる民主党議員たちが一斉に裏切って、全体が一体になって、
この大蛇だけを太らせようと、邪魔な人間を排除した。


6.公務員大蛇の不当な利権に命をかけて立ち向かう市民や政治家を生むことができるかが、
この国の未来を分ける決め手である

   
  
警察がやっていることは裁判所もやっており、下から上まで結託した一つの組織。
この国が消滅するまで(嘘と泥棒の腐敗が)続くでしょう。

彼らは自分たちが泥棒をしているなどと認めるはずがないから、
これは絶対にやまない。これを抑える政治家が必要です。
それを生み出すことができるかどうか、みなさんにかかっているんです。

この人々がどれほど嘘を言って騙し、買収しようとして来ても、
そのすべての誘惑と罠に抗って、正義を貫き通すことができるか。
それだけが、次の世代を、この国を、ひいては世界を破滅から救う手段なんです。

大蛇が自分から心を入れ替えることは絶対にありません。
ですから、みなさんが、何と言われようと間違っていることは間違っている、
違法なことは違法だ、と主張し続けることが肝心です。

学校の先生方は何も知りません。彼らも公務員として一体であり、
決められたカリキュラムをこなすことしかできない。
文部省は子供たちを本当に賢い人間に育てようとは思っていない。
国民を育てる義務があるとは思っておらず、むしろ、
自分たちの行っている不正や腐敗に気づかないように、
愚かなままでいてくれるような教育を目指しています。

このすべてを乗り越えて、この大蛇という犯罪者・利権集団に挑んでいき、
事実を明るみに出し、これを解体に追い込む市民や政治家を生み出すことができるかどうか、
それがこの国の未来を決定する最重要課題です。

 


官僚制度の闇 〜なぜ日本政府は憲法と国民を敵視するのか〜②


公務員法問題について、内閣官房官僚 との対話 2014.7.23



公務員法トリック 元鹿児島県 阿久根市長の竹原信一さんが語る人格障害の政府について22

(以下「公務員法トリック」書き起こし
 *長文のため、筆者の判断で小見出しを付けました。)


法に仕組まれた堕落

  えー、ま、この国というのは一体どんな状態なんだろうかという風にずっと考えてきました。で、最近やっと、私が気がついたことがあります。ま、実際、感覚としてはですね、この社会はほんとに腐敗、政府、ですね主に、腐敗していてまるっきり人格障害の人間たちがやってると、いう風に感じられます。その根っこは何なのか、ということを考えてみました。それは、法律に組み込まれた、仕組まれた堕落があるということです。 


1.絶望の裁判所
  ~裁判所は権力に都合の良い秩序維持のために民を愚かに保ち支配し続ける装置~

 今年の2月にある本が出版されました。これは、えー、もと裁判官の瀬木比呂志さんという方が『絶望の裁判所』というのを出されました。そのサブタイトルが、「裁判所の門を叩く者は一切の希望を捨てよ」というものです。

 「私は日本の裁判所、裁判官トップと多数派に深く失望、絶望している。日本の裁判所は権力、政治家、大企業にとっての秩序を維持するのに非常に都合よく民を愚かに保ち続け、支配し続ける装置である。」と言っております。 裁判所が腐敗しきっているということです。

 
 

2.公務員法トリック 官僚によるクーデター 憲法違反の公務員法

 ~憲法によれば政治家が公務員であるのに、官僚が公務員の地位を詐称している現状~


 その例の根本にあるものは何かということを考えてきました。 それは、実は、公務員法トリックと私が呼んでいるものです。実は、日本国憲法15条に、公務員について、「公務員の選挙については成年者による普通選挙を保障する」つまり、政治家が公務員なんです。

そして、
すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」、政治家が全体の奉仕者だと、憲法に書いてあります。 また、役人については、73条に出ております。つまり、役人は公務員ではないんです。
   


 ところが、国家公務員法には、「この法律はもっぱら日本国憲法73条にいう官吏に関する事務を掌理する基準を定める」つまり、役人に関するものです

役人に関する法律を「国家公務員法」とすりかえてしまっております。公務員を、役人を公務員と格上げしたわけです。
 

 
2条に「国家公務員の職は、これを一般職と特別職とに分かつ。」つまり、政治家を、役人並みに格下げしたわけです。96条には、公務員法の96条に、「全体の奉仕者」としてあります。つまり、役人を公権力に格上げしてしまったわけです。憲法違反の公務員法になっております。

 


3.公務員法トリックが社会に及ぼした悪影響
  ~ 政治家から全体の奉仕者としての自覚が消えて、選挙が形骸化し、権威が国民から小役人集団に移った~


 あわせてみるとこういう形でした。この、公務員法のトリックのおかげで、何が起こったかというと、結局、政治家に「全体の奉仕者」としての自覚がなくなってしまいました。そして、公である役人の保護者になっちゃったんです。

また、有権者にも選挙が「全体の奉仕者」を選ぶ行為なんだという認識ではなくなってしまったわけですね。

また、権威というものが、憲法にいう国民から、小役人集団に移ってしまった。その結果、役人が過剰な利権・特権を持ち、それを隠し、だましあう社会になってしまった、ということです。

 
  

4.公務員法トリックは戦前からの勢力によって憲法制定直後に仕込まれた
 ~戦前からの勢力が現存の政府を所有する仕組み~


  これは、誰にこんなことが作れるでしょうか。 昭和21年に憲法が作られて、22年、1年後に国家公務員法が作られたその間にトリックを仕込むことができる人間たちがおるわけです。支配層です。

戦前からおる勢力がそれを維持するために、今の政府を所有している
と、いうのが現実です。公務員、役人を彼らの手先にする仕組みが出来上がってるわけです。




5.官僚による法秩序そのものへの見えないクーデター
  ~政府が憲法を無視し、現場の役人が最大の裁量権を持つ無法国家~

 法律はどんな状態に置かれているかというと、実際に私たちが学校でならうのは、法の下の自由・平等、ですから、憲法が最上位にあって、法律、政令、省令、規則、一番下に裁量権というものがあって、役人の自由にできないようになっています。法の上下関係がしっかりあって、それが壊れてないんだと、みなさんは思わされております。 



ところが、実際には、憲法は常に無視されています。今の総理大臣も、解釈で何とでも読んでいいんだと、はっきり言っておりますね。他の法律もその通りになってます。さきほどの公務員法もそうなってますね。

実際には現場の役人の裁量権でやってしまう、それをおかしいじゃないかと裁判にかけても、「違法とまでは言えない」と裁判所が判断するわけです。だから、この国は法治国家じゃ
ないんです。

 

6.官僚と既得権益による憲法違反のクーデターの結果、
  民を欺いて支配するための暴力・犯罪装置と化した人格障害の日本政府


すなわち、日本政府というのは、実際のところ、役人、権力、政治家、大企業にとっての秩序を維持するために憲法違反の法と暴力を操る支配装置でしかないと、政府自体が、反社会的な犯罪装置なんです。

この支配層といいますか、政府、役人、トップの人たちの精神状態というのはですね、この瀬木さんが裁判官について言っているのは、裁判官にとって、国民というのは、書類のどっかにかかれた記号に過ぎない、人間扱い、そういう認識はもうないんですね人間を記号扱いしかできない人格障害者というのが、この政府の色んな機関のトップの人たちの精神状態です。




7.人格障害の暴力装置としての政府の狙いは、国民をあらゆる方法で衰弱させて逃げ出せないように支配することにある


 この人格障害のような政府の狙いというのは、支配です。支配に便利なように、国民を衰弱させておく、抵抗しないようにする、それが国家の意図です。
だから、今までのように、意図的に犯罪組織を維持させ、反日組織を育成し、集団主義を推進させて、また、コンプライアンスという、特権を維持するための法令遵守というようなことをやらせております。そして増税、果ては戦争、これは、国の意志でやるものです。政府がもうかるからやるのが戦争なんです。
 



8.戦争の真実 
~政府が儲けのために自国民を騙し、政府が自国民に戦争をしかけて殺し合わせる~
 

 
 戦争の真実というのは、実際には、政府が自国民に戦争を仕掛けます
政府に対する愛国心を国民に強要するわけです。敵を作ったり。そして、自国政府に騙された者同士が殺しあうと、それが戦争です。

殺してしまう相手には何の恨みもない人たち同士がやるわけです。しかし、交戦国の裏の政府、利益団体には連携があったりします。両方の国の支配者層はもうかるんです。戦争すると最終的にはえー、罪を国民にかぶせて支配が生き伸びるこれがこの国で、あるいは世界で、アメリカでもそうですけど、繰り返されていることです。

 


 たとえば、太平洋戦争のときの政府の態度を見てみましょう。日本政府は最初から負けが決まった戦争を始めました。また、米軍は真珠湾攻撃を完全に知っておりましたアメリカ人の国民を戦争に引き込むために、わざと被害を受けたんです。そして、日本軍の方は手抜き攻撃を政府が軍隊に対してさせました。
 
 そしてそれから、原爆を落とされましたけれども、広島と長崎の両方で、原爆機の情報はありましたが、迎撃はしませんでした。空襲警報も出さずに両方で被爆させました。ウランタイプとプルトニウムタイプ両方の原爆の実験場にされたわけです。

日本側は、政府は、被爆直後、被害者の治療よりも、アメリカに渡す原爆の成果報告書作りに励みました。つまり、抵抗するような国民を間引きするための戦争だったわけです。
 
 



9.国は国民に対する支配装置に過ぎない
 ~人格障害の政府は良心をもたないエリートの嘘によって維持され、国民はひたすら消耗疲弊させられる道具として支配されている~


 で、このような、この体制を作っていくこの政府の支配のための仕事というのは、今の社会を見てください。政府がやってきていることを。良心をもたないエリートを選抜して天下りなどを使って買収をする。一方では、一生を消耗して終わる兵隊・労働者作りと。

それから、不正選挙や多数決によって、民主主義を偽装し、おカネの仕組みなどを隠し不景気、増税、戦争で劣化させる。それが政府の本当の仕事です。政府は、この支配から国民を逃がすくらいなら殺してしまえと、考えております。


10.国に対する幻想を捨てよ 政府は国民に対する支配装置に過ぎない
   ~人格障害の政府に支配されないためには、政府の嘘を見抜き、政府に支配されず、憲法を守り、自分の良心に従って生きることである~



 国、というのは、私たちは国民の私たちの容れ物のように、錯覚させられていると思います。この絵というのは、大日本帝国領の領土の範囲ですけれども、これはもう帝国政府が勝手に領土宣言した範囲です。そもそも国境というのは曖昧なものなんです。


というのは、私たち一人ひとりに対する支配装置だと、理解して下さい。 このような支配から逃れるには、支配を許さないようにするためには、政府の正体が分かってなきゃいけないそれから、政府権力に依存しないということ。憲法に書かれている通り、権威を自分の良心に置かなきゃいけない、ということです。

 


日本国憲法を守るということが一番大事
です。憲法の約束、この国が法治国家であるならば、法を守らなきゃいかん。憲法を守らなきゃいけないんです。
悪い法律はたくさんあります。悪い法律というのは、憲法違反の法律です。
憲法を守りましょう。

憲法の前文を見てください
政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」した。
「そもそも国政の権威は国民に由来し」、「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づく」「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」。

 

 
 11.日本国憲法を守ることの大切さ
   ~日本国憲法は時の政府の思惑を超えた人類普遍の原理に基づいている~


「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
政府じゃないですよ、諸国民です。国民同士手をつなげばいいわけです
私たちは、国境、国などあると思ってます。実際には、地球上に国境はありません。ひとつの地球、ひとつの海、ひとつの空、ひとつの空気、私たちをさえぎるものは実際にはないんです。私たちが本来の気づきに戻らないかん。

 
 しかし、この人格障害者たちが支配する人格障害の日本政府は、今後も、必ず嘘を言います。戦争をしたくなければ、だまされてはいけません。良心を手放しちゃいかんです。非国民と呼ばれることもあるでしょう。私たちは、良心を手放さないことが一番大事です。

 


行き詰まりの打開は方策でなく、心の改革が根本である

さて、神戸連続児童殺傷事件の話題に戻ると、不思議なことに、犯人が書いたとされる「懲役13年」は、全く逆説的ながらも、外側からの人間の矯正の可能性(規定や罰則の強化による人間の矯正)を否定する内容となっている。そこには著者の深い哲学的な思想が表れているので、あえて解説を試みたい。

 

いつの世も同じことの繰り返しである。止めようのないものは止められぬし、殺せようのないものは殺せない。時にはそれが、自分の中に住んでいることもある。「魔物」である。仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして深い腐臭漂う心の独房の中… 死霊の如く立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい何が見えているのであろうか。「理解」に苦しまざるを得ないのである。

 

いつの時代も、魔物は人間の心の「外」にいるのではなく、心の「内」に住んでいる。悪はいかにも悪そうなあの人、この人の心の中にだけあるのではなく、他でもない自分自身の心の内にあるのだ。

「義人はいない。一人もいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ3:10—18)

これは何も特別な悪人や犯罪者だけを指して言われた言葉ではない。生まれながらの人間すべてを指しているのだ。だが、人は自分でそのことに気づこうとはしない、なぜなら人は自分を善人であると思っており、罪人であると指摘されることに耐えられないからだ。人は自分が思いやりに溢れた優しい心を持ち、あの人、この人とは違って清く、穢れた心など持っていないと考えている。人は自分の心について理想郷にも似た仮想のユートピアを思い描き、本当の自分がどのような人間であるかを知らないし、知ろうともしない。

その仮想の空間である「清らかな心の理想郷」の片隅に、まるで独房に閉じ込められたように、無視され、気づかれないまま、人知れず壁の向こうを見つめながら、死んだように、だが確かに、魔物は息づいている。人は気づかない、自分だけはそんな魔物を心に飼ってはいないと思っているからだ。そんな魔物は誰かの心にはいたとしても、自分の心にはいないと思っているから、その魔物の心を自分の心として理解することなどできるはずがない…。

 

魔物は、俺の心の中から、外部からの攻撃を訴え、危機感をあおり、あたかも熟練された人形師が、音楽に合わせて人間に踊りをさせているかのように俺を操る。それには、自分だったモノの鬼神のごとき「絶対零度の狂気」を感じさせるのである。到底、反論こそすれ抵抗などできようはずもない。こうして俺は追いつめられていく。「自分の中」に…

しかし、敗北するわけではない。行き詰まりの打開は方策でなく、心の改革が根本である。

 

自分の心にはいないと思っていたはずの魔物が、何かの拍子に、突如、暴れ出す。「そら、国際情勢は悪化しているんだ。今や一国だけでは防衛できない。この先、黙っていたら、諸外国が日本に攻め入って来るぞ!やられっぱなしでいいのか、立ち上がれ!武装しろ!公共の秩序を護るため、武器を構えろ、ぐずぐず考えている暇なんかない!」、「そら、教会が異端に侵入されているぞ!このままでは、日本全国の教会がカルト化するだけだ!今、防衛のために立ち上がり、組織的な裁判を起こさないと、我々は自分の信仰を守れない!被害者を集めろ!みんなで結集して異端の異教徒の悪徳牧師は罪に問うて講壇から追放するんだ!」

こして「外圧」の存在を聞かされ、自分への「外からの攻撃のサイン」があったと聞いたとき、先制攻撃が行われたというニュースに、まるで機械仕掛けの人形のように、俺の中の「自分」が本能的に弾かれて飛び上がり、立ち上がる。鼓動は早まり、血が騒ぎたつ。俺は正しい、俺は正義の味方だ、なぜ攻撃などされねばならない、憎き敵を殲滅し、悪代官をやっつけて、俺を脅かす者は一網打尽にしてやると言って、それまでに思いも寄らなかった冷酷無慈悲さで、俺は武器を構え、心の中の魔物の指図する通りに、「敵」に向かって噴射する…。だが、心のどこかで俺は知っているのだ、その「外圧」とやらはまやかしであって本物でなく、「敵」に対する恐ろしいほどまでの憎しみは、本当は正義でもなければ、善でもないこと、その「敵」は自分の心の魔物が作り出した幻想であり、本当はどこにもいはしないのだと。

だから、心の中で、俺は必死に抵抗する、攻撃などどこからも来てはいない、俺は誰にもやられてなんかいない、ただ自分が脅かされているという幻想のせいで恐怖に駆られているだけなんだと。目を覚ませば敵なんかどこにもいやしないことがすぐに分かるはずだと。

魔物は強いが、真実が分かっている以上、警報のように頭の中で鳴り響くまやかしのシグナルに、やすやすと騙されて敗北することはできない。分かっている、外圧によってやられるかも知れないという恐怖は、その恐怖をやっつけるために新たな武器を構えて防衛を強化し、より強い権限を手にして「敵」とみなした奴らを殲滅するという方策では決して対処できない。恐怖を振り払うことは、ただ自分の心の改革によってのみ可能なのだと。

 

大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、事実は全くそれに反している。通常、現実の魔物は、本当に普通な彼の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際そのように振る舞う。彼は徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう… ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみやプラスチックでできた桃の方が、実物が不完全な形であったのに、俺たちの目にはより完璧に見え、バラのつぼみや桃はこういう風でなければならないんだと俺たちが思い込んでしまうように。

 

大勢の人たちは、悪とは、無抵抗の人間を恐ろしい方法で殺戮し処刑する残忍な暴徒や、金銭欲に取り付かれた悪徳宗教の教祖であったりと、とにかく自分とははるかにかけ離れた大悪人たちだけの専売特許だと思っている。だが、事実はそうではない。本当の悪とは、毎日テレビのニュースで流される凶悪犯罪に関わった者たちだけに生まれ備わったものなんかじゃなくて、むしろ、人並み以上の徳を持ち、良心的で、弱い人々に同情し、困った人たちを見ると助けずにいられないような、親切心に溢れた善良な「先生方」、いわゆる「救済者」のように見える偉い人たちの中にこそ、隠され、はびこっているものなのだ。しかし、俺たちはその人たちの笑顔が、とても悪人面には見えず、その人たちの言葉も、高邁で思いやりに満ちているように聞こえるので、その内心の悪には全く気づかずに、あっけなく騙されてしまう。巷でプラカードを掲げて、時代遅れなスローガンを叫び、「救済者面した偽善者どもを信じるな」と喚いている無骨で魅力のない人々の言うことなんかよりも、滑らかな舌で親切を語る魅力的な「センセイ方」の方がよっぽど説得力がある、まさか彼らが悪人であるはずがないと…。

 

今まで生きてきた中で、敵とはほぼ当たり前の存在のように思える。良き敵、悪い敵、愉快な敵、不愉快な敵、破滅させられそうになった敵。しかし、最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存在であることに気づいた。そして一つの「答え」が俺の脳裏を駆け巡った。
「人生において、最大の敵とは自分自身なのである」

 

今まで俺は幾度そういう偽善者たちに騙されては、「外圧だ!敵の急襲だ!立ち向かえ!」という「脅威論」にまんまと煽り立てられては立ち上がり、敵と戦ってきたか知れない。中には面白い敵もいたし、手ごわい敵もいた。男も女も老人も子供も…。色んな戦いを経て、それなりに自分が強くなったような気もして、誉めそやされて有頂天になっていたこともあった。

だが、最近になって、ようやく気づいたのだ。その戦いも外圧の脅威も、みんな俺たちの作り出した幻想であり、自分は正しいという思い上がりでしかなかったんだと。そもそも敵なんておらず、戦いもどこにも存在していなかったのに、俺たちが思い込みによって彼らを敵にでっちあげ、争いを起こしたんだと。俺たちが殺した中には、子供もいたし、老人もいたし、女たちもいた。俺たちはそいつらが敵だと思い込んでいたので、容赦なくぶちのめした。だが、本当は、全て自分の心の恐怖が作り出した幻想であり、強くなったと思っていた自分も幻想でしかなく、本当の自分は、自分で考えていたようなヒーローではなく、むしろ、獣だった。本当の俺は惨めで、哀れで、裸で、屈辱と蔑みでいっぱいになって、これ以上馬鹿にされ、脅かされてなるものかと、必死で壁に身を寄せて、ただただ恐怖に打ち震え、助けてくれと叫んでいたのだった。その惨めで哀れな自分を絶対に認められなかったからこそ、俺は自分が強い人間であることを証明しようとして、自分よりも弱そうな、あるいは強そうな「敵」に向かって突進し、奴らをぶちのめすことで自分の弱さをごまかしていたのだ。

そして俺は気づいた、真に恐ろしい悪とは、悪を自分の外にあるものと思い込み、常に自分以外の誰かの中に見出しては、そいつをやっつけることで、そうやって自分だけは正義の味方で、人々を救ってやっている立派な指導者なんだと自分に言い聞かせながら、自分の周りに次々と巧みに「敵」を作り出して、ひっきりなしに戦いを煽る偽善者の中にこそあったのだと。自分は真の統率者であって決して間違わないので、自分のかけ声次第で、いつでも世直しができると本気で思い込んで招集をかけている愚かな為政者たちの思い上がりこそ、最も警戒すべき悪だったのだと。悪は悪の顔をしてやって来ず、むしろ正義の仮面をつけて来る。自分だけはずっといつまでも正義の味方で、他人を指導し、悪人をやっつける資格があると思い込んでいる指導者たちの思い上がりに、俺は気づかず操られ、奴らの思う通りに利用されていたんだと。

 

魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう気をつけねばならない。深淵をのぞき込むとき、その深淵もこちらを見つめているものである。
「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた」

 

ある時点から、迷宮に迷い込んだように、何かがおかしくなった。それまで俺は自分を正義の味方だと思いながら戦ってきたが、俺はなぜだかヒーローではなくなり、今までのように、戦いに正義も見出せなくなった。いつの頃からか、あんたの残酷な暴力は、あんたが敵とみなしている悪人たちよりも、もっとひどいと言われるようになった。いつの頃からか、あんたはあんたが非難して打ち倒した悪徳宗教詐欺師よりももっと悪く、彼らを非難する資格などないと非難されるようになった。いつの頃からか、外国に攻め込まれる前に軍隊を増強せよと、人々に危険を教えてやっていたはずのこの俺が、どの諸外国の最悪のリーダーと比べても、もっと無責任で自己中心で、この国最大の脅威だと名指しされるようになった。

気をつけよ。カルトとアンチカルトは同一であり、統一教会と反統一教会は同一であり、キリスト教界とアンチキリスト教界は同一なのだ。人は自分が見るものに同化する。敵の悪事ばかりを見つめて奴らを糾弾し、自分を正義のヒーローだと思って彼らと戦っていると、いつの間にか自分も敵と同化し、自ら敵とみなしていた極悪人よりももっとはるかに悪い獣と化していたということにならないように。

ゆめ忘れてはいけない。人間は堕落しており、誰にも正義などないのだ。戦いは人の心を狂わせる。やればやるほど泥沼にはまる迷宮である。魔物は誰の心にも住んでおり、それを抑え、あるいは退治できる方法があるとすれば、それは戦いや規制や罰則や抑圧によって、外側から人の悪を克服しようと人間性を押さえつける方法にはなく、本人の気づきによって、内側から改革するしか道はないのだ。そうなるためには、人は魔物とは他人の心の中だけに住んでいるのでなく、己の心の中にこそ住んでいるものであることをまず認識しなければならない。矯正され、救われなければならない人間とは、自分の身の周りの誰かではなく、まず己自身であることに気づく必要があるのだ。解放は、その気づきの後にやって来る。だが、この気づきを受け入れるには謙虚さが要る…。自分をいつまでも善人だのヒーローだの救済者だのと思い込み、自分の愚かさ惨めさに目を向けることもできない臆病者に、心の魔物を退治する方法など決して分かるはずもないのだ。


外側からの変革か、それとも内側からの変革か

私はキリスト者であるが、どの教会組織にも所属しておらず、日曜礼拝にも出てはいない。そのことでいかなる不足もなく、ただ聖書に立った信仰だけを維持し、それで十分であると感じている。私が知りたいのは、人間が自分の欲のために築き上げた偽の信仰ではなく、まことの神への真実な信仰によって生きることである。

私がこのように完全に組織を離れた経緯は、もとのブログに詳しい。だが、そこに記していない多くの顛末もあるので、改めて少しずつ説明したい。


✳︎ ✳︎ ✳︎

私はプロテスタントの教団で子供の頃に洗礼を受け信仰を持ったが、今から振り返っても、教会では正常な信仰が見受けられなかった。私は神を信じているし、そのことを少しも後悔していないが、教会に所属していたために、とにかく異常な出来事に遭遇し、傷ついて教会をを去る多くのクリスチャンに出会った。

だが、そのように教会の腐敗によって心傷ついた「被害者」の信徒らに優しく手を差し伸べ、腐敗した教会に裁判をしかけて制裁を加え、腐敗を正すべく、「カルト被害者救済活動」を繰り広げている牧師や活動家たちにも、私は共感を持てなかった。それは、こうした「救済活動」が、裁判によって戦うという外側からの強制力にはなり得ても、聖書の言うように、人を内側から作り変える真の救いとしての信仰とは、全くかけ離れた活動であることを思わずにいられなかったからだ

カルト被害者救済活動を率いるプロテスタントの代表的な牧師、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏は、当時、自身のブログにおいて、「カルト監視機構」の設立の必要性を訴えていた。同氏は自身でも公言しているように、元統一教会員の脱会者である。統一協会が信者に徹底したマインドコントロールを行うことは知られている。同協会の脱会者だという人々に複数、私は接したが、誰もが一様に口にするのは、脱会後もずっと深く心に残るマインドコントロールの悪影響であった。脱会後、本人は抜けたつもりであっても、植えつけられた思考パターンの構造を打破することは、並大抵の努力ではできないようである。

そういうこともあって、私は後になって、「統一教会流の思考」というものが確かに存在しているのではないかと考えるようになった。全く奇妙なことだが、それは安倍首相の論法と、村上密氏の論法に、実によく似た共通点があることからも感じられるのだ。

むろん、現在進行中で統一教会と深い関わりのある安倍首相と異なり、村上氏は自身のブログにおいて統一教会の危険性を訴えて安倍氏を批判しており、表向き、村上氏は統一教会とはすでに縁が切れている。だが、不思議なのは、統一教会流の信仰からはとうに離れたはずの村上牧師が、なぜ安倍氏の発想と構造的に酷似する主張をしているのかということだ。


* * *
 

かつて私は「カルト監視機構という名の秘密警察」という記事を書き、そこで村上密牧師の「カルト監視機構」というアイディアがどんなに危険なものであるかを公に示して批判した。それは、村上牧師がプロテスタント教界への異端の流入の結果としての「カルト化」に警鐘を鳴らし、カルト化の悪影響が進行するのを防ぐ名目で、日本の全プロテスタント教会を取り締まることのできる権限を持った「カルト監視機構」の設立を提唱していたことが、非聖書的であり、教会を危険にさらす大変恐ろしい発想であると考えたためである。
 
このような機構の設立は、日本の諸教会に君臨し、教会を取り締まることのできる絶大な権限を持った秘密警察のような組織を作ることにつながり、独裁を招くだけでなく、教会の自治を破壊するものであり、信徒の密告や、教会同士や信徒同士の争いを助長し、取り締まりや罰則や裁判等の行使により、信徒の信仰生活という内面の自由に強制介入してこれを破壊し、教会に恐怖政治をもたらすだけの恐ろしい発想であると警告した。
 
私がその頃、何より主張したのは、カルトの取り締まりという名目で、人の内心を外側から強制力によって変えようとする試みに着手することの危険性であった。聖書の基本理念は、人はキリストを主として自主的に心に信じて受け入れることによってのみ、救いを得られるということにある。罰則や外からの様々な圧力によって人の心の悪を「矯正」し、人を救いや正しい考えに導こうとすることは、聖書の基本理念に逆らうものである。

聖書はそもそも神によらない救済を認めず、外側からの圧力によって人が人を変えたり、救ったりするという発想を認めない。仮に百歩譲って、もし人が人を力によって変えうるとしても、私たち間違いやすい人間のうち一体、誰が、強制力を持って他人の内面に干渉し、正しく取り締まるにふさわしいというのか。そのようなことを可能だと思い込むのは、自分だけは決して間違わず、他人を指導する資格があると妄信している恐ろしい宗教指導者だけであろう。そして、自分は正しく決して間違わないという盲信こそ、他のどんな悪よりも恐ろしいものではないだろうか。

カルトを取り締まるということは、カトリックの聖職者のように、告悔を聴くというだけにとどまらず、もっと積極的に人の内心に介入していく行為である。そこで、自分だけは決して間違わないと自負している人間が、カルト監視機構の指導者になり、数え切れない人々の心の問題に介入するようになったら、どうなるのか想像してみれば良い。権力を手にしたが最後、自分は正しいと思い込んでいるだけにそれまで以上に誰の忠告にも耳を貸さなくなり、やりたい放題で、気に入らない人間はみな仮想敵とみなして攻撃・排除するようになり、歯止めが効かなくなるだろう。こうして、たとえカルト監視機構が出来ても、「取り締まり」という名目で、「独裁」と「魔女狩り」が始まること以外には何一つ予想されないのである。
 

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「外来の異端という脅威の侵入」という「外的脅威」を強調することにより、日本全国の教会を取り締まろうという発想は、決して正常な信仰を持つクリスチャンの聖書的な発想ではなかった。聖書に基づかない以上、私は人間が人間の信仰を指導し、取り締まるというその試みが成功に至ことは決してなく、もしこれを阻止しなければ、教会の自治は破壊され、教会は裁判や争いや密告で溢れ、混乱と恐怖政治に落ち込むだけであると、記事で警告したのである。

この私の警告に対し、村上氏は私の主張内容には一切触れることなく、私は世間から隔絶した変わり者であるがゆえに、彼の高邁な思想を理解できないのだと言うような反論を述べていた。それは私へのれっきとした人格攻撃、ネガティブキャンペーンであったが、今はそのことは本題でないのでしばらく脇に置こう。

重要なのは、私が同氏の日付の記されていなかった記事を、比較的最近の記事だと考えて引用したという周辺的な事柄(ミス?)を取り上げて、村上氏が私の記事全体を「誤報」であると非難したことである。「カルト被害者救済活動という名の秘密警察」の誤報」(村上密Blog) 

 

後になって、これと非常によく似た非難の構図が、官邸主導により政府が朝日新聞の従軍慰安婦問題に関して行った「誤報」バッシングの時に見られた。官邸は、朝日新聞の報道のほんの一部の誤りだけを針小棒大に取り上げて、それがさも大変な過失であるかのように責め立てることにより、朝日の報道そのものを「誤報」と決め付け、あたかも慰安婦問題そのものが虚偽の報道であったかのように、この歴史問題の持つインパクトを薄め、できれば慰安婦問題そのものもなかったことしてかき消してしまおうという態度を取ったのである。


(日本政府主導で行われたこの「慰安婦誤報問題」による朝日新聞への大バッシング騒動への海外からの目線は極めて冷ややかだった。海外メディアはこの事件をきっかけに日本政府が慰安婦問題のインパクトを薄め、歴史修正に走ろうとしていることにむしろ警戒感を強めた。
「朝日新聞の誤報謝罪のインインパクト、米ではゼロ」「朝日新聞・慰安婦報道の訂正が韓国にインパクトを与えない理由」「朝日誤報事件、中国の反応は」など。)

 

 この「誤報」騒動は要するに論点のすり替えであり、些細で周辺的な問題を針小棒大に扱って非難することにより、最も肝心な論旨そのものを覆い隠し、否定し去ってしまおうとする詭弁である。しかし、安倍首相によって率先して行われた朝日新聞の「誤報」に関する報道と、村上密氏が私に向けた批判においては、そのような詭弁の論法のみならず、そこで使われた「誤報」という言葉まで、そっくり共通していたことが私を驚かせた。それを機に、これはひょっとして統一教会おなじみのディベート(詭弁)論法なのではないかと気づかされたのだった。
 


また、当時、村上氏が提唱しようとしていた「カルト監視機構」は、現在、安倍政権が推し進めようとしている安保法制にも体系的に非常によく似た構造を持つ。

村上氏は「今のままでは外国から流入した異端の教えがプロテスタント教界に蔓延して教界そのものがカルト化するのは時間の問題で、それにより日本中の教会が危機に晒されるので、日本の教会には今から実効的な取り締りや指導の権限を持つカルト監視機構をぜひとも設立する必要がある」という趣旨のことを提唱していた。

他方、安倍首相は、「今のままでは日本や日本の同盟国が外国から攻め込まれても防衛できないために日本国民の安全が脅威に晒されかねないから、今のうちにこれに対抗するために安保法制を整備し、諜報機関なども作り、日本も軍隊を持って国内外で戦えるようにせねばならない」言うのである。

両者に共通するのは、「外からの脅威」を強調し、このままでは国内の安全性が脅かされると不安を煽り、そこに救済者然と登場して、解決策として、力による争いを提案し、絶大な権限を持った取り締まり機関を作り、その力を行使する権限を自分一人の手中におさめられるよう話を持って行こうとしている点である。いわば、外圧の脅威を叫ぶことにより、新たな独裁を可能にするための道筋を整えようとしているのである。その論法は、いかに分野は違えど、そっくりである。

(追記:~救済者になりたい人々~ 写真の出典
左:統一教会出身でプロテスタントにおいてカルト撲滅運動に取り組むアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団京都教会牧師 村上密
右:統一教会の国際勝共連合「世界思想2013年9月号」に掲載された「救国政権」率いる安倍首相



*カルトとの闘いにも、勝共連合にも、活動の根本的類似性、思想的類似性が見られることに注意したい。上記の二人が統一教会出身という共通点があるだけでなく、このようにして思想的な「仮想敵」を作り出すことにより、これと闘って国や組織を救うヒーローを装って登場し、政治的権力を握ることを目指すところにも共通した構図がある。


さらに次のような類似点もある。村上密牧師は自らの思想や活動を宣伝するに当たり、杉本徳久氏のような、自分の教団とは本来何の関係もない一般人のブログやコメント者を利用して、自らの反対者に対してインターネットで次々とネガティブ•キャンペーンを張った。

村上氏が杉本氏のような賛同者を利用してネットで繰り広げた主張の中には鳴尾教会に対する誹謗のように事実の裏付けの全く乏しい風評レベルの決めつけや中傷も多く、その結果、裁判で信憑性を問われるとあっけなく敗北に追い込まれた。このような手法は、ネトウヨを駆使して反対者を排除する安倍自民党の手法と極めて酷似しており、まさにネトウヨの精神性そのものと言わざるを得ない。 

このように、「仮想敵」を作り出しては脅威を叫ぶことにより、それに対抗するための強制力の必要性を訴えて自らを救済者のように描き出し、権力を握ろうとする一方で、無実の罪で反対者を糾弾して疲弊させ、恫喝によって言論を弾圧し封殺することにより、卑怯な方法で反対者を追い込み異論を封じ込め、権力をただ自分だけの手中におさめて行こうとする手法は、村上密牧師と安倍氏にそっくり共通しており、これは個人的なアイディアを超えて、統一教会の伝統的な権力奪取の手法そのものではないかと感じられる。)  

 
 
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こんなことが起きるのも、統一教会のみならず、結局のところ、すべての異端は同じ道に通じるからである。それは全ての異端が、キリストの十字架を否定し、信仰による内側からの変化を否定し、外からの圧力による人心支配、人間の浄化作戦を行うことにより、地上天国を作り出そうとするからである。これは神が定められた救済を否定し、それを模倣することによってサタンの作り出した幻想の救いであり、それが実行に移されると、地上天国や救いどころか、未だかつてない地獄のような混乱がもたらされるのである。

繰り返すが、人にはもともとただ二つの自己変革の道しかない。一つは罰則や脅しや人を縛る数々の規定によって、外側から強制力に基づいて、人間を変えようとし、人の悪を「矯正」しようとする道。もう一つは、人が自主性に基づいて内側から悪の克服の努力をし、外からの力によらず、自主性に基づいて内的に刷新される道である。

ちなみに、ここで平等に断っておかねばならないが、当時、私の警告に賛同していたDr.Lukeも、キリスト教界の腐敗を声高に告発していた指導者であったが、結局、村上氏と全く同じ危険性の罠の中に足を踏み入れて行くことになった。安倍氏を非難しながら、安倍氏とそっくり同じ統一協会流の主張を繰り広げる村上氏と同じように、Dr.Lukeもキリスト教界だけを非難しているうちに、自らキリスト教界と同化して行ったのである。そのことは後に詳述するが、そこで当時、Dr.Lukeが私の記事に度々登場しては同調したのは、村上氏が述べたように、私の主張に便乗してセンセーショナルに騒ぐことによって、議論の真面目さを覆い隠し、議論ではなくDr.Lukeに注目を集めるきっかけとすることを隠れた目的にしていたということに加え、あたかも私に同感であるかのように見せかけることによって、彼はいち早く反対者になりそうな人間を味方につけて口封じをはかったと見ることができる。

今、煩わしい便乗者がいなくなったことを理由に、以前の主張を撤回する気は私にはない。いつの時代も、己が正しいと考える人間は、悪を他人の内にのみ見出し、他人を力によって矯正しようとしてきた。悪いのはカルトの親玉牧師や、キリスト教界であり、他方、自分は優れて正しい存在であって他人を指導する権限があり、人に道を教え、人の間違いを正し、人を罰する権限があるとさえ考える人間が、「異端審問官」のような仕事を自ら買って出てきたのだ。

だが、そうした人間による世直しの試みが成功したことは歴史上、一度もなく、聖書はそれとは真逆の方法で救いを提唱している。神は正しい方なのに、決して救済を人に押し付けようとはされなかった。我々が自分で信仰によって神に立ち返る日まで、我々に命ある限り、どれほど罪過ちを犯したとしても、神は強制することなく忍耐強く待っていて下さる。神はどれほど正しいにせよ、人の自主性を脅かす方法により、無理矢理人の悪を矯正して、神の正しさを強制するということがない。確かに、神は全ての人を裁かれる。だが、この世が続いている限り、神は私たち人間の自由意志を尊重して待っておられるのだ。それは私たちが誰から強制されたからでもなく、自ら神を求めるのを待っておられるからである。

私たちクリスチャンは自分が神によって救済されるべき人間であったことを謙虚に認めたはずなので、間違っても、自分が世界を救う側に立つという思い上がりを持たないようにしたい。聖書が言う通り、救済者はただ一人、イエス・キリストしかおらず、この座を奪うことのできる存在は被造物の中に誰もいない。地上のどんな人間も、指導者も、神に代わって人間を救済することはできない。それが聖書の根本原則である。だから、人の内心に関わることは非常に慎重に行わなくてはならず、強制力によって人の内心を、ましてや信仰を取り締まるようなことは、生きた人間には決して着手してはならない試みなのである。

その後も、私は統一教会に深く関わった人たちに出会った。だが、統一協会に限らず、多くのクリスチャンには、どうしても、自分こそが世界を指導し、世界を救済する側に立ちたいという願望があるようであった。むろん、すべての異端の影響は結局そこに行き着くのだが、 クリスチャンであっても、自分が一人の惨めで哀れな罪人であることを忘れ、ともすれば、自分が神のように人の上に立って、他人に向かって指導者然と振る舞い、他人の内心の悪を「指導」し、「罰し」、「矯正」しようとする誘惑は非常に深いものであるらしい。特に宗教指導者にとってその誘惑は思っている以上にはるかに深く、そのようにして人の内心に君臨することは、捨て去れない愉悦なのである。そういうわけで、初めはとても親しみのある謙虚で優しかったクリスチャンの兄弟姉妹たちが、講壇に立ってメッセージを語り始めると、突然、「指導者」に変身し、傲然と上からものを言うようになり、自分よりも弱い、問題を抱える信仰者を見下し、人の罪を赤裸々に暴き、悪魔扱いしたりしながら、自分だけは正しく決して間違わないと自負するようになるのを私は幾度も見てきた。かつては普通だった人々のまるで残酷で傲慢な人間への変わりようは、「指導者になりたい」、壇上に立って人より優位に立ち、正しい道を人に教えたいという誘惑に基づいておら、自分は真理を知っているという思い上がりから来るものであった。

いずれにせよ、人々を救済してやると言って、他の兄弟姉妹の上に立つことは、神の立場を奪い取ることに等しい。自分が世界を正すための資格や権限を持っていると思い込み、他人の人生を指導し、監督し、誤りを罰し、追放する資格さえあると本気で考えるようになると、その思い上がりが高じて、人はいつしか謙虚さや、砕かれた心や、自己反省の能力を失ってしまう。たとえ熱心に人助けをしていたとしても、本当の目的は自己義認と自己顕示へとすり替わり、助けてやった人間と自分との間に圧倒的な格差ができてしまうことに気づかない。救済者然と振る舞って人に感謝され、武勇伝を語って脚光を浴び、自分が助けてやった人間から栄光を奪って独り占めすることにより、ついには真の救済者である神からも栄光を奪うことになる恐ろしさが分からない。

これは神の救いとは真逆の道であり、聖書の真理とは反対である。そうである以上、そのような方法で、人の内心を「指導」、「矯正」しようとする試みは、目的とは逆に非常に恐ろしい結果しか引き起こさないのだ。 


村上密牧師による鳴尾教会人事への不当な介入 資料④ 宗務時報No.115

~鳴尾教会のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からの離脱と
同教会に対する教団側からのいわれなき制裁の数々~

鳴尾キリスト福音教会は、アッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団からの離脱に伴い、これを阻止しようとした教団側から、恫喝裁判も含めた様々な嫌がらせを受けた。

以下で引用した文化庁の宗教法人審議会議事録は、同教団が鳴尾教会の教団離脱に際し、その手続きの違法性を主張して認証取消を求めたものであるが、結果として、教団側の主張は全く一顧だにされない形で退けられた。教団側はこの都合の悪い事実には沈黙している。

鳴尾教会に関する文化庁での審議の過程は、第159回(平成22年10月18日)第160回(平成22年11月25日)第163回(平成23年10月19日)の議事録で確認できる。

なお、これらの審議を受けて、同教会の教団離脱の取消しを求めたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による異議申し立ては、完全に棄却されて終わったが、その詳細については宗務時報No.115 (平成25年3月)を参照されたい。
  
教団は、鳴尾教会の教団離脱の手続きが正当でなかったかのように主張して、教会に対する裁判にまで及んだが、これらの争いにことごとく敗れ、それを通して教団の主張の虚偽性が明らかになった。その事実の経緯は、鳴尾教会の現在の牧師が運営するブログ「鳴尾キリスト福音教会から皆様へ」に詳しいので、こちらをご参照いただきたい。
 
なお、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と鳴尾教会との相克の歴史は長く、事の発端は、2001-2002年にかけて、当時の鳴尾教会の主監者であった津村昭二郎牧師(村上密氏の義理の父)が、鳴尾教会の後継者として教団から正式に派遣された伝道師夫妻に、いわれなき嫌疑をかけて教会から追放した事件に遡る。
 
この事件によって鳴尾教会に引き起きされた混乱をも、教団サイド(村上密牧師及び津村昭二郎牧師)は、現在の鳴尾教会の牧師夫妻で起こったかのように責任転嫁し、現在の牧師夫妻にもでっちあげの嫌疑をかけて非難し、教会からの追放を試みていた。

当ブログでは、2001-2002年にかけて鳴尾教会で起きた事件の真相について、当時、教団側から公式に配布された証言者の説明資料に基づき、以下の一連の記事で詳しく示した。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について③
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について④
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について⑤
    
鳴尾教会問題とアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について(まとめ)  
   
ちなみに、鳴尾教会が教団から離脱したことを、あたかも「教会の乗っ取り」が起きたかのようにデマを主張していたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であるが、驚くべきことに、同じ頃、同教団の信徒が、別の教会に身元を隠して潜入し、教会を乗っ取るという事件が起きていた。この呆れるような事件については、以下の記事に記したのでご参照いただきたい。

カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~

こうした一連の事件を詳しく振り返るならば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と、その指導者である村上密牧師及び津村昭二郎牧師が、どれほど信用ならない不誠実な人物であり、正当な手続きを経ないで鳴尾教会の人事に密室で介入し、同教会の正常な牧会を妨げて、教会に混乱をきたし、長年に渡り、執拗に教会関係者を追跡・迫害しては、信徒の平穏な信仰生活を妨害し、いわれなき打撃を与え続けて来たかがよく分かるであろう。

だが、教団側からの恫喝裁判を含めたあらゆる迫害にも関わらず、この小さな教会は消滅することはなかった。教団離脱後、「鳴尾キリスト福音教会」として新たに出発を遂げたこの教会の新しいホームページには、以前とは見違えるようにきれいになった白いチャペルが映っている。この改装も、教会が喜びのうちに新たな門出を果たしたことの明白な証拠である。祝福のうちに見守りたい。 
 

注) 教団は裁判においても全面敗北しているが、今日に至るまでなお過ちを認めることなく、あらぬ疑いをかけて誹謗した鳴尾教会関係者への謝罪も行っていない。それどころか、村上密牧師は未だにブログ等で、同教会に対する事実無根の非難を続けている有様である。

 このように、信徒の平和な信仰生活をどこまでも執拗に妨害してやまず、虚偽を言い広めて恥じることもない恐るべき教団が、本当に聖書に基づくキリストの平和な福音に立脚しているのか、極めて疑わしく感じられる。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、フランスではすでに準カルトに指定されている。村上密牧師は、「宗教トラブルセンター」や「カルト被害者救済活動」などの看板を掲げて、他教会のカルト化を糾弾し、取り締まろうとする前に、まずは自教団の深刻なカルト化にこそ目を向け、自分自身を取り締まるべきである。
 

 
宗務時報 No. 115 平 成 25 年 3 月
文化庁文化部宗務課
(PP.42-47)   
 
行 政 資 料
1 宗教法人「鳴尾キリスト福音教会」の規則変更認証決 定に係る審査請求に対する裁決
(平成22年12月1日)
裁 決 書
審査請求人
東京都豊島区駒込三丁目15番20号
宗教法人 日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団
代表役員 A

記審査請求人から平成22年7月23日付けで提起された宗教法人鳴尾キリスト福音
教会の規則の変更の認証に係る審査請求については,次のとおり裁決する。

主 文
本件審査請求は,棄却する。

不 服 の 要 旨

審査請求人の不服申立ては,兵庫県知事(以下「処分庁」という。)が平成22年5月
27日付けで行った宗教法人鳴尾キリスト福音教会(以下「鳴尾教会」という。)の規則
(以下「本件規則」という。)の変更の認証(以下「本件処分」という。)は,次のとお
り,違法なものであるから,その取消しを求めるというものである。

1 本件規則41条によれば,規則の変更には「教会会議において出席した教会議員の3
分の2以上の議決」が必要なところ,鳴尾教会では,慣行として教会会議を招集する場
合には事前に何を議決するのか具体的に明示して周知していたが,審査請求人である包
括宗教法人日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(以下「審査請求人」という。)
との被包括関係の廃止に係る規則の変更(以下「本件規則変更」という。)のための議
決を行った平成21年4月5日の教会会議(以下「本件教会会議」という。)の招集通
知には「規則変更に関する件」と記載されていただけで,被包括関係の廃止を内容とす
るものであることが記載されておらず,招集手続に不備がある。

2 本件教会会議の招集通知には委任状が添付されており,委任の内容として「一切の権

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利を総会議長に委任いたします。」と記載されているところ,委任状提出者には,招集
通知に記載されている「規則変更に関する件」が被包括関係の廃止を内容とするもので
あるという認識はなかったのであるから,委任状提出者の票が,本件規則変更について
賛成票として取り扱われた議決は無効である。

3 宗教法人法(以下「法」という。)26条2項及び3項に基づく,被包括関係の廃止
についての信者等に対する公告及び包括宗教法人に対する通知は,本件教会会議の前に
なされなければならないが,その後にしかなされておらず,その点において手続違反で
ある。

4 本件教会会議において,被包括関係の廃止という重大な議案を議決するにしては,十
分に時間が取られておらず,一方的かつ感情的,さらには脅迫じみた演出のもとに議決
され,鳴尾教会信徒らが,本件教会会議の議決の無効確認を求める訴訟を提起している
ところ,これは,法28条及び14条1項2号の「当該規則がこの法律その他の法令の
規定に適合していること」という要件を備えているかどうかを確認することができない
ときに当たるため,認証することができない旨の決定をしなければならない。

5 処分庁は,法14条2項を活用し,鳴尾教会及び審査請求人に対して意見陳述の機会
を与え,双方の意見を聞くべきであったが,その手続を怠っている。
6 本件規則変更以前に,平成16年5月7日付けで本件規則の変更の認証がなされてい
るが,その変更の際の手続に違反があるため,本件規則変更の申請には法令違反が認め
られるので,認証してはならない。

裁 決 の 理 由

1 法28条1項は,宗教法人の規則の変更に関する認証に当たって審査すべき要件とし
て,その変更しようとする事項が法その他の法令の規定に適合していること(同項1号)
及びその変更の手続が法26条の規定に従ってなされていること(同項2号)を挙げ,
これらの要件を備えていると認めたときは,所轄庁は,その規則の変更を認証する旨を
決定しなければならないとしている。


2 まず,本件教会会議の招集方法について検討する。

(1)本件規則24条において,教会会議は「代表役員が(中略)招集するものとする。」,
「責任役員の定数の過半数から招集を請求されたときは,代表役員は臨時に教会会議
を招集しなければならない。」と規定されているものの,そのほか,本件規則上,教

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会会議の招集についての具体的な手続は規定されていない。

(2)鳴尾教会が,議案として「規則変更に関する件」とのみ記載した招集通知(平成2
1年3月22日付け)を配布したこと及び「教会規則変更に関する件」とのみ記載し
た公告(平成21年3月22日付け)をしたことは,提出された資料より認められる
が,審査請求人は,そのような招集通知又は公告では不十分であり,本件規則に違反
していると主張する。

確かに,信徒等を対象とした会議において,被包括関係の廃止といった宗教法人の
組織及び管理運営について根本的な変更を招来することとなる重要な事項を扱う場合
には,その招集に当たって,事前に議案の内容がある程度分かるように知らせること
が望ましいとはいえる。

しかしながら,上記のとおり,本件規則には,教会会議の招集についての具体的な
手続は規定されていないのであるから,そのような招集通知又は公告の記載の内容な
いし方法のみをもって不認証とすることはできないといわざるをえない。


3 次に,本件教会会議の議決について検討する。

(1)審査請求人は,出席者24名に委任状提出者23名を加えた47名が出席し,その
3分の2に当たる32名の賛成が必要であったところ,出席者24名中23名が賛成
したものの,委任状提出者には被包括関係の廃止について委任する意思がなかったの
であるから,委任状を賛成票として取り扱うことはできず,47名中23名の賛成し
かなかったことになり,したがって,本件教会会議の議決は無効であると主張する。

(2)本件規則41条によれば,規則の変更に当たっては,「出席した教会議員の3分の
2以上の議決」が必要なところ,本件教会会議議事録によると,「議員総数 62名
出席者24名(他,委任状23名)」とされ,「満場一致で議決」とあるものの,平
成21年5月29日付けで審査請求人から処分庁に送付された法26条4項に基づく
通知の添付書類において,出席者とされる信徒の一人が賛成しなかったと述べる書面
が添付されている。

しかしながら,出席者24名中,少なくとも23名が賛成したこと及び委任状提出
者が23名であることは,審査請求人も認めるところである。

(3)本件規則41条の「出席した教会議員」に,委任状提出者を含めるか否かについて
特段の規定がないところ,委任状提出者23名を含めた場合,委任状において「一切
の権利を総会議長に委任いたします。」と明記されているのであるから,議長がそれ
らを議決の結果に賛成するものとして取り扱うことが不合理であるとは認められず,
したがって,議決は有効であると認められ,審査請求人の主張は採用することができ
ない。

(4)なお,本件教会会議の議決については,その無効確認を求める訴訟が提起されてい
るが,当該訴訟が係属中であるという事実は,上記1で述べた規則変更の認証の要件

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の確認に影響を及ぼすものではないから,その事実をもって認証することができない
旨の決定をしなければならない場合に当たるとはいえない。


4 また,審査請求人は,法26条2項及び3項に規定されている被包括関係の廃止につ
いての信者等に対する公告及び包括宗教法人に対する通知について,本件教会会議の前
になされるべきであったと主張する。

しかしながら,法26条によると,信者等に対する廃止公告については「認証申請の
少くとも2月前」(同条2項)と,包括宗教法人に対する廃止通知については「公告と
同時に」(同条3項)と規定されており,本件規則変更が平成21年10月30日付け
で申請されているところ,信者等に対する廃止公告は平成21年6月28日から同年7
月13日までなされ,また,包括宗教法人に対する廃止通知は同年6月28日付けで送
付されている。したがって,同条の規定に従った手続がなされていると認められ,審査
請求人の主張は採用することができない。

5 その他,審査請求人は,法14条2項を活用すべきことを主張するが,同項は,規則
を認証することができない旨の決定をしようとするときの申請者に関する規定であっ
て,本件処分の場合とは異なる。また,審査請求人は,平成16年5月7日付けでなさ
れた本件規則の変更の認証についても疑義を述べるが,その規則の認証はすでに確定し
たものであって,本件処分に影響を与えるものではない。


以上のとおり,審査請求人の主張はいずれも認めることができない。
よって,主文のとおり裁決する。


平成22年12月1日
文部科学大臣 髙 木 義 明

村上密牧師による鳴尾教会人事への不当な介入 資料③ 文化庁第163回宗教法人審議会議事録

~鳴尾教会のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からの離脱と
同教会に対する教団側からのいわれなき制裁の数々~

鳴尾キリスト福音教会は、アッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団からの離脱に伴い、これを阻止しようとした教団側から、恫喝裁判も含めた様々な嫌がらせを受けた。

以下で引用した文化庁の宗教法人審議会議事録は、同教団が鳴尾教会の教団離脱に際し、その手続きの違法性を主張して認証取消を求めたものであるが、結果として、教団側の主張は全く一顧だにされない形で退けられた。教団側はこの都合の悪い事実には沈黙している。

鳴尾教会に関する文化庁での審議の過程は、第159回(平成22年10月18日)第160回(平成22年11月25日)第163回(平成23年10月19日)の議事録で確認できる。

なお、これらの審議を受けて、同教会の教団離脱の取消しを求めたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による異議申し立ては、完全に棄却されて終わったが、その詳細については宗務時報No.115 (平成25年3月)を参照されたい。
  
教団は、鳴尾教会の教団離脱の手続きが正当でなかったかのように主張して、教会に対する裁判にまで及んだが、これらの争いにことごとく敗れ、それを通して教団の主張の虚偽性が明らかになった。その事実の経緯は、鳴尾教会の現在の牧師が運営するブログ「鳴尾キリスト福音教会から皆様へ」に詳しいので、こちらをご参照いただきたい。
 
なお、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と鳴尾教会との相克の歴史は長く、事の発端は、2001-2002年にかけて、当時の鳴尾教会の主監者であった津村昭二郎牧師(村上密氏の義理の父)が、鳴尾教会の後継者として教団から正式に派遣された伝道師夫妻に、いわれなき嫌疑をかけて教会から追放した事件に遡る。
 
この事件によって鳴尾教会に引き起きされた混乱をも、教団サイド(村上密牧師及び津村昭二郎牧師)は、現在の鳴尾教会の牧師夫妻で起こったかのように責任転嫁し、現在の牧師夫妻にもでっちあげの嫌疑をかけて非難し、教会からの追放を試みていた。

当ブログでは、2001-2002年にかけて鳴尾教会で起きた事件の真相について、当時、教団側から公式に配布された証言者の説明資料に基づき、以下の一連の記事で詳しく示した。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について③
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について④
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について⑤
    
鳴尾教会問題とアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について(まとめ)  
   
ちなみに、鳴尾教会が教団から離脱したことを、あたかも「教会の乗っ取り」が起きたかのようにデマを主張していたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であるが、驚くべきことに、同じ頃、同教団の信徒が、別の教会に身元を隠して潜入し、教会を乗っ取るという事件が起きていた。この呆れるような事件については、以下の記事に記したのでご参照いただきたい。

カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~

こうした一連の事件を詳しく振り返るならば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と、その指導者である村上密牧師及び津村昭二郎牧師が、どれほど信用ならない不誠実な人物であり、正当な手続きを経ないで鳴尾教会の人事に密室で介入し、同教会の正常な牧会を妨げて、教会に混乱をきたし、長年に渡り、執拗に教会関係者を追跡・迫害しては、信徒の平穏な信仰生活を妨害し、いわれなき打撃を与え続けて来たかがよく分かるであろう。

だが、教団側からの恫喝裁判を含めたあらゆる迫害にも関わらず、この小さな教会は消滅することはなかった。教団離脱後、「鳴尾キリスト福音教会」として新たに出発を遂げたこの教会の新しいホームページには、以前とは見違えるようにきれいになった白いチャペルが映っている。この改装も、教会が喜びのうちに新たな門出を果たしたことの明白な証拠である。祝福のうちに見守りたい。 


第163回(平成23年10月19日)宗教法人審議会議事録

  • ○ 日時 平成23年10月19日(水曜日)
  • ○ 場所 旧文部省庁舎5階特別会議室
  • ○ 議題
    1. 開会
    2. 議題
      1. (1)宗教法人「在日大韓基督教神戸東部教会」の規則変更認証決定に係る審査請求について
      2. (2)その他
    3. 閉会
  • ○ 出席者
    【委員】
    新井委員 井田委員 打田委員 小串委員 巫部委員 櫻井委員 佐藤(禎)委員 佐藤(典)委員 杉谷委員 戸松委員 原田委員 深田委員 保積委員 村鳥委員 矢吹委員 渡辺委員
    【文化庁】
    吉田文化庁次長 小松文化部長 佐藤宗務課長 井上宗教法人室長
    その他関係者

1.開会

○井田会長
 ただいまから,第163回宗教法人審議会を開会いたします。
 まず開会に当たりまして,吉田文化庁次長より一言御挨拶をお願いいたします。
○吉田次長
 第163回宗教法人審議会の開催に当たりまして,一言御挨拶を申し上げます。委員の先生方におかれましては,本日はお忙しい中御出席いただきまして,誠にありがとうございます。
 本日は,宗教法人の規則変更認証決定に係る審査請求が1件,文部科学大臣宛てになされておりますので,その件に関する諮問を行わせていただきたいと存じます。
 その後,最近の宗務行政の状況について御報告申し上げたいと考えております。
 文化庁といたしましては,委員の先生方それぞれのお立場からの貴重な御意見,御助言を賜りまして,適切な宗務行政の推進に努めてまいりたいと思いますので,どうぞよろしくお願い申し上げます。
 以上,簡単ではございますが,御挨拶とさせていただきます。
○井田会長
 ありがとうございました。
 次に,委員の任命の件について御紹介いたします。本年4月21日に開催されました前回の会議から,第30期の宗教審議会が発足いたしましたが,10月1日付で打田文博委員が再任されていらっしゃいます。また,同日付で新たに小串和夫委員が任命されていらっしゃいます。
 それでは審議に入ります前に,事務局から本日の配付資料の確認をお願いします。
○事務局
 それでは配付資料を確認させていただきます。
 (配布資料の確認)
○井田会長
 続きまして,定足数の確認をいたします。宗教法人審議会規則第6条により,総委員の5分の3以上の出席がなければ,議事を開き議決することができないことされております。本日,20名の総委員中16名出席がございまして,定足数を充足していることを確認いたします。
 また,本日の審議内容の公開に関する取扱いについて確認いたします。当審議会における申合せにより,会議自体は非公開ですが,後日,不服審査に係る審議 の内容については議事要旨を,また,その他の審議の内容については議事録をそれぞれ作成して公開することとなります。議事録・議事要旨については各委員の 自由な討議を確保するため,委員の意見は匿名となります。
 さらに,個別の宗教法人名は議事録等では公開しないこととされていますが,答申の中で記載された法人名については,この限りではないとされており,公開されることになります。
 以上,念のため申し添えます。

2.議題

○井田会長
 それでは,本日の議事に入りたいと思います。

議題(1)

●宗教法人「在日大韓基督教神戸東部教会」の規則変更認証決定に係る審査請求についての議事要旨は次のとおりである。本件について文部科学大臣に代 わり文化庁次長から諮問を行った。本件は,小委員会を設け,そこで検討を行うこととされた。井田会長から小委員会委員として,新井委員,井田委員,佐藤 (典)委員,島薗委員,戸松委員,原田委員,山岸委員が指名された。

議題(2)

○井田会長
 それでは次に,議題の(2)のその他ですが,事務局から最近の宗務行政について報告があります。
○事務局
 最近の宗務行政について,御報告させていただきます。資料は資料6及び資料7です。
まず,過去に本審議会で御答申いただいた案件の中で,前回の審議会以降に裁判で動きのありました3事例についての経過を,御報告いたします。資料6を御覧ください。
 まず,1事例目として,宗教法人「宝榮山妙法寺」の規則変更不認証決定に係る案件でございます。これは第157回審議会において諮問させていただきまして,平成22年1月25日に答申を頂いた案件でございます。
 事案としましては,宗教法人が平成20年8月開催の責任役員会において,包括宗教団体である久遠妙宗(任意団体)との被包括関係の廃止及び主たる事務所の移転等を内容とした規則変更の認証申請を,所轄庁である東京都知事に対して行ったものです。
 これに対して所轄庁は,当該規則変更について議決を行った責任役員会における責任役員と代表役員が,規則に沿った適正な手続によって選任されたことが確認できなかったことなどを理由として,不認証処分を行いました。
 これに対して当該宗教法人は,平成21年10月6日付で文部科学大臣に,所轄庁が行った不認証処分の取消しを求める審査請求を行いました。
宗教法人審議会での御審議の結果,当該規則変更の議決を行った責任役員会における代表役員や責任役員が,規則に沿った手続によって選任されたかということは確認できないということから,所轄庁の不認証処分を適法であるとした答申を頂きました。
 これに対して,当該宗教法人側は不服として出訴しましたが,本年9月21日の1審判決において,請求棄却となり,宗教法人審議会の御答申が認められました。当該宗教法人は1審判決を不服として,今月4日に高裁に控訴したということで,現在控訴審中の事案でございます。
 次に,2事例目として,宗教法人「鳴尾キリスト福音教会」の規則変更不認証決定に係る案件です。本案件は,平成22年11月25日の第160回宗教法人審議会において御答申を頂いたものです。
 本件は,兵庫県知事所轄の宗教法人「鳴尾キリスト福音教会」が,包括宗教法人「日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団」との被包括関係の廃止等について,認証変更申請を行ったというものでございます。
 これに対して,所轄庁は当該規則変更を認証いたしました。
 これに対して,包括宗教法人が文部科学大臣に,所轄庁の行った認証処分の取消しを求める審査請求を行った案件でして,宗教法人審議会で御審議を頂いた結果,所轄庁の行った認証処分は適法であるということから,審査請求棄却という答申を頂きました。
 本件については,本年6月4日に出訴期間が満了しておりますので,終結ということになろうかと思われます。出訴期間についてですが,これは処分又は裁決 のあったことを知った日から半年,又は処分又は裁決の日から1年以内に行うという規定があり,6月4日に出訴期間が満了したということでございます。
 最後に,3事例目として,宗教法人「天将神社」の規則変更認証決定に係る案件でございます。これは,平成23年2月23日の第161回宗教法人審議会において諮問させていただきまして,4月21日に答申を頂いた案件でございます。
 本件は,兵庫県知事所轄の宗教法人「天将神社」が,被包括関係廃止等を内容とする規則変更認証申請を行い,所轄庁がこれを認証したものです。
これに対して,包括宗教法人「神之導教」は,昨年12月24日付で文部科学大臣に,所轄庁の行った規則変更認証処分の取消しを求める審査請求を行いました。
 宗教法人審議会で御議論を頂いた結果,所轄庁の行った規則変更認証処分は適法であるということから,審査請求を棄却する答申を頂きました。本件につきましては,まだ出訴期間が満了していないという状況でございます。
 資料6につきましては以上でございます。
○井田会長
 ただいまの事務局からの報告について,何か御質問がありましたら承りたいと思います。
 ないようですので,次の説明をお願いします。
○事務局
 続いて,「行政不服審査法の見直し」について御報告させていただきます。資料7を御覧ください。
 これは先般の審議会でも簡単に御報告させていただきましたが,現在,行政不服審査法の改革など,行政救済制度の在り方を検討するため,総務大臣と行政刷 新担当大臣を共同座長とし,有識者の方々からなる行政救済制度検討チームが設置されているところでございます。その中に不服申立て前置の全面的見直しとい うのがありまして,行政処分に対する権利救済手段としては,行政上の不服申立てを行うか,あるいは直接裁判所に訴訟を提起するかについて,一般原則法であ る行政事件訴訟法によれば自由選択制というのが原則とされているところ,実際には各個別法によって,不服申立て前置が規定されている例が多くありながら, 昭和37年の行政事件訴訟法制定以来,これらについて見直しが行われないまま今日に至っているという状況でございます。
 ここで宗教法人法について見てみますと,宗教法人法第87条に,宗教法人の規則認証や合併の認証等処分について取消しを求める場合には,裁判所に訴訟を提起する前に,文部科学大臣に不服申立てを行うことが必要であると規定されております。
 また,第80条の2により,その際文部科学大臣は,単独で裁決をするのではなく,宗教法人審議会に諮問し,答申を頂いた上で,不服申立てに対する決定を 行う,とされております。具体的には,このように不服申立て前置というのが宗教法人法第87条で義務づけられておりますけれども,ここを改正し,不服があ る方については文部科学大臣に不服申し立てをするのもいいし,あるいは直接裁判所に出訴することも認められるべきではないかと主張されております。
 本件については,現在,文化庁としては,当該不服申立て前置制度は必要であるとお願いしているところでございます。
 簡単にその理由を申し上げますと,まず,文部科学大臣に不服申立てをするということは,宗教法人審議会に諮問をして答申を頂くということであり,宗教法 人審議会は,宗教家及び宗教に関し学識経験がある方から構成され,所轄庁として宗教団体との間の緩衝的役割を果たす機関であって,大変意義深い審議会であ るということです。
 また,裁決に当たっては,信仰,規律,慣習等,宗教上の事項などを尊重する必要がございますが,このような宗教法人の宗教上の特殊性を考慮するため,宗教法人審議会が関与する形での不服申立ての前置制度というのは必要であるということでございます。
 本件については,現在,折衝中という状況でございます。また来月早々に,ある程度の審議の取りまとめが行政救済制度検討チームから出される見込みでございます。
 行政不服審査法の見直しにつきましては以上でございます。
○井田会長
 仮に,もしこれから改正が行われるとなりますと,訴訟に持っていくか,宗教法人審議会で審査するかが自由選択になり,審議会で扱う案件が激減することもあり得るという,非常に大きな改正になる可能性があるということで,何か御意見,御質問ございますか。
○ 裁判の経験がありますが,裁判官の中には宗教について興味がないという方もいらっしゃいます。ですので,裁判の前 に一旦,宗教法人審議会のように宗教者が入った議論の場があった方が,ある意味でより公平といいますか,宗教者の考えを取り入れて議論をし,一度答申とい う形で決着をつけ,再度その議論を取り入れて裁判で決めてもらうというのがいいように思います。しかし,訴訟とするか審査請求とするかは,選ぶ人の判断が あると思います。
 なお,宗教者が審査請求案件について議論するという点で,宗教法人審議会はとても大事だと思っています。
○井田会長
 ありがとうございます。宗教法人審議会での審査については,迅速に結論が出るのが一つのポイントでしょうし,また先ほど御紹介もありましたよう に,後で裁判所で宗教法人審議会の答申と別の結論が出ているという例は非常に少ないということもありますので,非常に審議会での審議の意味があるという感 じがするんですけれども,何かほかに御意見ございますか。
○ 全く同じ意見でございます。宗教法人審議会では,宗教団体の,特に内部のなかなか一般には出ないような事案や,あ るいは宗教団体にとって本来あるべきでない事案が審議されます。このような事案について真摯に受けとめ,なおかつ,あるべき姿を求める,それから宗教者が ここで出てきた事案を受けとめて,同じような事案が起きないような枠組みをつくっていくという点で,宗教法人審議会は大きな意味で社会に対する公益性を 持っておりますし,また,宗教法人としての公益性,あるいは遵法精神等を堅持する意味でも,情報共有できるという点で非常に重要な審議会だと思っておりま す。
○井田会長
 ありがとうございます。この機会にどうぞ,いろんな御意見を頂きたいと思います。
○ 資料7の見直しの視点,これの一つ一つごとにこの宗教法人審議会がどういうステータス(例えば認容率や出訴率等)を持っているのかを,説得力があるものであれば,むしろお出しいただいた方がよいのではないかと思うんですが,いかがでしょう。
○井田会長
 事務局も具体的にはこの位置で御努力はされているんだと思います。
○事務局
 今の御質問につきましてはそれぞれ先生御指摘のとおり,見直しの視点というのが幾つかあるわけでございますけれども,それについて文化庁として は,確かに年間の裁決件数というのは少ないですけれども,第三者的機関による裁決という観点から,また,憲法に規定する信教の自由を確保する観点から大変 重要であるということなどを論拠として,担当の事務局に主張しているところでございます。
 聞いた話によりますけれども,1,000件ぐらいの年間の処理件数が必要ではないかということも考えているかのようにお伺いしているところでございます。
○井田会長
 何かこれに関連して御意見ございますか。件数だけの問題でもないということだと思います。
 もしこれ以上御意見がございませんでしたら,そろそろ議事につきましてはこのぐらいで終えるということでよろしいでしょうか。全体について,あるいは全体を通してもし御発言等ございましたら,是非この機会によろしくお願いいたします。よろしいですか。
 また,資料8としてお配りしてあります第162回,前回の宗教法人審議会の議事録につきまして,特にこの際お目通しいただいて,何か御意見ございませんでしょうか。もしございませんでしたらこういう形で,一応確定させていただくということにしたいと思います。

3.閉会

○井田会長
 それでは最後に事務局に閉会の挨拶と次回の審議会の日程を説明してください。
○事務局
 本日は御審議を頂きまして,ありがとうございました。
 次回の審議会の日程については,11月24日午後4時からの開催を予定しております。小委員会におきまして御審議を頂いた上,次回は答申案をお諮りさせていただければと考えております。よろしくお願いいたします。
○井田会長
 特に御発言等なければ,本日はこれで閉会といたします。ありがとうございました。

―― 了 ――


村上密牧師による鳴尾教会人事への不当な介入 資料② 文化庁第160回宗教法人審議会議事録

~鳴尾教会のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からの離脱と
同教会に対する教団側からのいわれなき制裁の数々~

鳴尾キリスト福音教会は、アッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団からの離脱に伴い、これを阻止しようとした教団側から、恫喝裁判も含めた様々な嫌がらせを受けた。

以下で引用した文化庁の宗教法人審議会議事録は、同教団が鳴尾教会の教団離脱に際し、その手続きの違法性を主張して認証取消を求めたものであるが、結果として、教団側の主張は全く一顧だにされない形で退けられた。教団側はこの都合の悪い事実には沈黙している。

鳴尾教会に関する文化庁での審議の過程は、第159回(平成22年10月18日)第160回(平成22年11月25日)第163回(平成23年10月19日)の議事録で確認できる。

なお、これらの審議を受けて、同教会の教団離脱の取消しを求めたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による異議申し立ては、完全に棄却されて終わったが、その詳細については宗務時報No.115 (平成25年3月)を参照されたい。
  
教団は、鳴尾教会の教団離脱の手続きが正当でなかったかのように主張して、教会に対する裁判にまで及んだが、これらの争いにことごとく敗れ、それを通して教団の主張の虚偽性が明らかになった。その事実の経緯は、鳴尾教会の現在の牧師が運営するブログ「鳴尾キリスト福音教会から皆様へ」に詳しいので、こちらをご参照いただきたい。
 
なお、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と鳴尾教会との相克の歴史は長く、事の発端は、2001-2002年にかけて、当時の鳴尾教会の主監者であった津村昭二郎牧師(村上密氏の義理の父)が、鳴尾教会の後継者として教団から正式に派遣された伝道師夫妻に、いわれなき嫌疑をかけて教会から追放した事件に遡る。
 
この事件によって鳴尾教会に引き起きされた混乱をも、教団サイド(村上密牧師及び津村昭二郎牧師)は、現在の鳴尾教会の牧師夫妻で起こったかのように責任転嫁し、現在の牧師夫妻にもでっちあげの嫌疑をかけて非難し、教会からの追放を試みていた。

当ブログでは、2001-2002年にかけて鳴尾教会で起きた事件の真相について、当時、教団側から公式に配布された証言者の説明資料に基づき、以下の一連の記事で詳しく示した。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について③
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について④
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について⑤
    
鳴尾教会問題とアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について(まとめ)  
   
ちなみに、鳴尾教会が教団から離脱したことを、あたかも「教会の乗っ取り」が起きたかのようにデマを主張していたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であるが、驚くべきことに、同じ頃、同教団の信徒が、別の教会に身元を隠して潜入し、教会を乗っ取るという事件が起きていた。この呆れるような事件については、以下の記事に記したのでご参照いただきたい。

カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~

こうした一連の事件を詳しく振り返るならば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と、その指導者である村上密牧師及び津村昭二郎牧師が、どれほど信用ならない不誠実な人物であり、正当な手続きを経ないで鳴尾教会の人事に密室で介入し、同教会の正常な牧会を妨げて、教会に混乱をきたし、長年に渡り、執拗に教会関係者を追跡・迫害しては、信徒の平穏な信仰生活を妨害し、いわれなき打撃を与え続けて来たかがよく分かるであろう。

だが、教団側からの恫喝裁判を含めたあらゆる迫害にも関わらず、この小さな教会は消滅することはなかった。教団離脱後、「鳴尾キリスト福音教会」として新たに出発を遂げたこの教会の新しいホームページには、以前とは見違えるようにきれいになった白いチャペルが映っている。この改装も、教会が喜びのうちに新たな門出を果たしたことの明白な証拠である。祝福のうちに見守りたい。 

第160回(平成22年11月25日)宗教法人審議会議事録

  • ○ 日時 平成22年11月25日(木曜日)
  • ○ 場所  文部科学省3F2特別会議室
  • ○ 議題
    1. 開会
    2. 議題
      1. (1)宗教法人「鳴尾キリスト福音教会」の規則変更認証決定に係る審査請求について
      2. (2)その他
    3. 閉会
  • ○ 出席者
    【委員】
    飯野委員 井田委員 打田委員 大石委員 巫部委員 清重委員 小林委員 斎藤委員
    佐藤(禎)委員 佐藤(典)委員 杉谷委員 滝口委員 田中委員 戸松委員 深田委員 山岸委員 
    【文化庁】
    吉田文化庁次長 小松文化部長 佐藤宗務課長 井上宗教法人室長
    その他関係者

1.開会

○大石会長
 ただいまから第160回宗教法人審議会を開会いたします。
 まず,開会に当たりまして,吉田文化庁次長から一言御挨拶をお願いしたいと存じます。
○文化庁次長
 ただいま御紹介いただきました文化庁次長の吉田でございます。
本日は,去る10月18日にこの審議会で文部科学大臣から諮問させていただきました,宗教法人の規則変更認証決定に係る審査請求に対する裁決案につきまし て御審議を頂き,御答申を頂きたく考えております。委員の先生方のかっ達な御審議を賜りますようお願い申し上げまして,簡単ではございますが御挨拶とさせ ていただきます。どうぞ,よろしくお願いいたします。
○大石会長
 ありがとうございました。
 それでは審議に入ります前に,事務局から本日の配布資料の確認をお願いします。
○事務局
 それでは配布資料の確認をさせていただきます。

(配布資料の確認)
○大石会長
 続きまして定足数の確認をいたします。
 宗教法人審議会規則第6条によりまして,総委員の5分の3以上の出席がなければ,議事を開き議決をすることができないとされております。本日は,20名の総委員中16名の出席で,定足数を充足しているということを確認いたします。
 なお,本日の審議内容の公開に関する取扱いについて確認いたします。
 当審議会における申合せにより,会議自体は非公開ですが,後日,不服審査に係る審議の内容については議事要旨を,また,その他の審議の内容については議事録を,それぞれ作成して公開することとなります。
 議事録,議事要旨については,各委員の自由な討議を確保するため,委員の意見は匿名となります。
 さらに,個別の宗教法人名は,議事録等では公開しないこととされておりますが,答申の中で記載された法人名につきましては,この限りではないとされておりまして,公開されることになります。
 以上,念のため申し添えます。

2.議事

議題(1)

 宗教法人「鳴尾キリスト福音教会」の規則変更認証決定に係る審査請求についての議事要旨は以下のとおりである。

  • ・ 平成22年10月18日及び11月1日に開催された小委員会における検討結果の報告が行われた。
  • ・ 審議の結果,審査請求を棄却する旨の裁決をすることを適当とする旨の答申が行われた。

議題(2)

○会長
 次に,議題(2)その他について,事務局から報告がございます。
○宗務課長
 お手元の資料を御覧いただきたいと思います。
 昨年の1月にも御報告をさせていただきました不活動宗教法人対策につきまして,その後の状況を御説明させていただければと思います。
 各都道府県に,平成21年12月31日現在の不活動宗教法人数を調査したところ,都道府県知事所轄で4,149法人あることが分かりました。文部科学大臣所轄が4法人ありますので,不活動宗教法人は全国で4,153法人ということになります。
 系統別につきましては,仏教系が2,190法人,神道系1,722法人,キリスト教系43法人,諸教系198法人となっております。また,包括・被包 括・単立別で言いますと被包括宗教法人が3,741法人,包括宗教法人が7法人,単立宗教法人が405法人となっております。これまでの文化庁における取 組ですが,平成16年から平成22年まで,都道府県向けとして不活動宗教法人対策会議の開催,不活動宗教法人対策マニュアル・対策事例集の配布・作成を行ってきました。
 また,包括宗教法人向けの取組としては,包括宗教法人への文書による協力依頼,個別包括宗教法人に対するヒアリングの実施,包括宗教法人向けの不活動宗教法人対策会議の開催,不活動宗教法人対策手引書・対策事例集の作成・配布を行ってきました。不活動宗教法人数の推移について御説明しますと,文部科学大臣所轄では平成16年に17法人あったものが,平成22年には4法人となり,都道府県知事所轄では平成16年に4,731法人 あったものが,平成22年には4,149法人となり,それぞれ減少しています。
 つまり,文部科学大臣所轄については,13法人減少の76.5%減,都道府県知事所轄については,582法人減少の12.3%減となっています。不活動 宗教法人については,法人として維持・存続させる意思がある場合には活動再開を念頭に置きますが,そのような意思がない場合は,法人格の整理を検討することになります。その場合,役員がそろっている又は補充が可能である場合は法人の自主的な解散手続である吸収合併や任意解散を,それができない場合には,裁判所への解散命令請求を検討することになります。
  今後の課題ですが,不活動宗教法人のうち,調査不足などのため,対策方針の策定ができていない法人が存在します。都道府県知事所轄の法人についていいますと,実態別として,解散命令請求の要件にもなっている,代表役員が1年以上不在であるとか,境内建物が2年以上不存在であるとか,そういった分類分けができている法人もありますが,対策方針を策定のために調査をするべき法人が1,916法人あります。
  整理阻害事由としては,残余財産が存在して清算が困難で先が進まない,法人関係者が不明である,あるいは法人関係者の協力が得られないというような場合があります。
  次に,書類未提出法人ですが,文部科学大臣所轄1,043法人のうち997法人が提出しており,提出率は95.7%となっています。また,都道府県知事所 轄ですと18万1,484法人のうち16万4,780法人が提出しており,提出率は90.8%となっています。未提出法人については,今後も提出を促すよう努めるとともに不活動の疑いがある法人があれば,実態調査等を行っていく必要があります。
  最後に,対策上の問題点として,特に都道府県の問題点ですが,専任の事務担当者がいない県が多く,認証等の事務がある中で,対策に着手できていない状況が あるということや,解散あるいは清算に費用がかかるという意見があります。それから,包括宗教法人の方でございますが,いろいろな形で対策に取り組んでい ただいている法人と,そうでない法人があると思っております。なかなか対策が進まない包括宗教法人の御意見を聞きますと,人的協力とか費用負担についてい ろいろ難しいというお声を聞きます。一方,宗派において対策委員会を設けておるところもございます。不活動宗教法人対策のみならず後継者対策等に論点をあ てるなど積極的に取り組んでいただいております。
  また,包括宗教法人がない単立宗教法人の場合には,その実態が十分に分からない上に,対策の効果的な手法・ノウハウが欠如していると思われます。
  最後に,今後の取組としまして,考えている対策について御説明いたします。
  まず,被包括宗教法人への対策と単立宗教法人への対策に分けてそれぞれ対策を講じます。
  被包括宗教法人につきましては,包括宗教法人の協力が得られるのかどうかによってその対策の進み方が大きく違います。特に,宗派ごとの不活動宗教法人のリストアップ,情報共有,それから対策の進んでいない宗派に対しての個別のお願い,また,都道府県担当者と宗派の情報交換や協議の場が設定できないか等,考えております。単立宗教法人については,不活動宗教法人の法人格が悪用されないように一層厳格な認証事務の実施やその実態把握調査などを行っていきます。
  厳格な認証事務の実施という点につきましては,法人格の譲渡や売買という報道もございましたが,所轄庁では,そういったことがないように,宗教法人の事務 所の移転や名称変更などの規則変更の認証に当たっては,宗教活動や礼拝施設の現状や役員等の選任過程など十分に調査を行い,宗教法人の同一性,継続性が維 持されているかどうかを確認し,法人格が売買の対象になっていないかどうか慎重に対応しています。仮に法人の同一性や継続性が維持されない場合は,新規法 人の設立の手続によることになります。
 また,平成23年度に新規事業の実施を検討しております。
 これは,都道府県知事所轄の不活動宗教法人等の整理を進める上での効果的な手法・ノウハウの収集・蓄積等を行い,その成果を全国に普及させることを目的とした「不活動宗教法人対策推進事業」として概算要求をしているところでございます。
  以上でございます。
○大石会長
 ただいまの事務局からの報告について,何か御質問がありましたら承りたいと思います。
○宗務課長
 次に,情報公開に対する対応状況について御説明させていただきます。これは,毎年1回御報告させていただいておりますが,平成22年度は,宗教 法人法第25条の提出書類に対する情報公開請求が1件,規則に対する情報公開請求が12件ありました。請求に対する決定については,法律に従って,登記事 項等の公知の事項を除き,不開示情報として取り扱うなど,適切に処理しているところです。
 それから,情報公開法改正について,内閣府の行政透明化検討チームにおける取りまとめ概要が8月24日に出されておりますので御参考までにお知らせいた します。現段階では開示手続の迅速化・強化ということで,開示請求に係る手数料を原則として廃止するとともに,開示実施に係る手数料を引き下げ,開示決定 までの期間の短縮ということで,開示請求から開示決定等までの原則的期限を30日から14日にするということなどについて議論が進められていると承知して おります。
 以上でございます。
○大石会長
 ただいまの事務局からの報告について,何か御質問がありましたら承りたいと思います。
 それでは,一応予定されていた報告は以上ですが,お手元にある平成17年3月と平成20年3月に作成した「海外の宗教事情に関する調査報告書」を御覧ください。平成17年のものは法律的な側面や制度ではなく,それぞれの国,地域でどのようになっているかというのが主になった報告書で,以前からこういう調査をしているところでございます。
 一番最近の資料は,平成22年3月に作成したものでございまして,平成20年作成の報告書本体の附属資料として,資料 編の1から5まで,イギリス,ドイツ,フランス,イタリア,アメリカの宗教関係法令が,各巻で原文とともに翻訳も載っているということでございます。基本的な宗教と政治といいますか,いわゆる政教関係がそれぞれの国でどうなっているか,宗教団体の制度がどうなっているかということを5か国横並びで分かりやすいようにチームを組んで検討したものでございまして,非常に充実した内容になっております。
 それから,現在,宗教法人法の英語訳の作業が進められております。これは,政府の平成22年度翻訳整備計画に宗教法人法が挙げられているためです。会社法等他法令につきましても,既に英語訳が作成されているものもあります。
 さて,最後の点ですが,前回の議事録を御確認いただけましたでしょうか。特に支障がなければこれで確定させていただきたいと思います。
 本日の議事につきましては,以上でございますが,最後に全体を通して御発言等はありませんでしょうか。特に御発言等なければ,本日はこれにて閉会します。

村上密牧師による鳴尾教会人事への不当な介入 資料➀ 文化庁第159回宗教法人審議会議事録

~鳴尾教会のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からの離脱と
同教会に対する教団側からのいわれなき制裁の数々~

鳴尾キリスト福音教会は、アッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団からの離脱に伴い、これを阻止しようとした教団側から、恫喝裁判も含めた様々な嫌がらせを受けた。

以下で引用した文化庁の宗教法人審議会議事録は、同教団が鳴尾教会の教団離脱に際し、その手続きの違法性を主張して認証取消を求めたものであるが、結果として、教団側の主張は全く一顧だにされない形で退けられた。教団側はこの都合の悪い事実には沈黙している。

鳴尾教会に関する文化庁での審議の過程は、第159回(平成22年10月18日)第160回(平成22年11月25日)第163回(平成23年10月19日)の議事録で確認できる。

なお、これらの審議を受けて、同教会の教団離脱の取消しを求めたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による異議申し立ては、完全に棄却されて終わったが、その詳細については宗務時報No.115 (平成25年3月)を参照されたい。
  
教団は、鳴尾教会の教団離脱の手続きが正当でなかったかのように主張して、教会に対する裁判にまで及んだが、これらの争いにことごとく敗れ、それを通して教団の主張の虚偽性が明らかになった。その事実の経緯は、鳴尾教会の現在の牧師が運営するブログ「鳴尾キリスト福音教会から皆様へ」に詳しいので、こちらをご参照いただきたい。
 
なお、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と鳴尾教会との相克の歴史は長く、事の発端は、2001-2002年にかけて、当時の鳴尾教会の主監者であった津村昭二郎牧師(村上密氏の義理の父)が、鳴尾教会の後継者として教団から正式に派遣された伝道師夫妻に、いわれなき嫌疑をかけて教会から追放した事件に遡る。
 
この事件によって鳴尾教会に引き起きされた混乱をも、教団サイド(村上密牧師及び津村昭二郎牧師)は、現在の鳴尾教会の牧師夫妻で起こったかのように責任転嫁し、現在の牧師夫妻にもでっちあげの嫌疑をかけて非難し、教会からの追放を試みていた。

当ブログでは、2001-2002年にかけて鳴尾教会で起きた事件の真相について、当時、教団側から公式に配布された証言者の説明資料に基づき、以下の一連の記事で詳しく示した。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について③
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について④
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について⑤
    
鳴尾教会問題とアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師の非聖書的で危険な活動について(まとめ)  
   
ちなみに、鳴尾教会が教団から離脱したことを、あたかも「教会の乗っ取り」が起きたかのようにデマを主張していたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であるが、驚くべきことに、同じ頃、同教団の信徒が、別の教会に身元を隠して潜入し、教会を乗っ取るという事件が起きていた。この呆れるような事件については、以下の記事に記したのでご参照いただきたい。

カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~

こうした一連の事件を詳しく振り返るならば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と、その指導者である村上密牧師及び津村昭二郎牧師が、どれほど信用ならない不誠実な人物であり、正当な手続きを経ないで鳴尾教会の人事に密室で介入し、同教会の正常な牧会を妨げて、教会に混乱をきたし、長年に渡り、執拗に教会関係者を追跡・迫害しては、信徒の平穏な信仰生活を妨害し、いわれなき打撃を与え続けて来たかがよく分かるであろう。

だが、教団側からの恫喝裁判を含めたあらゆる迫害にも関わらず、この小さな教会は消滅することはなかった。教団離脱後、「鳴尾キリスト福音教会」として新たに出発を遂げたこの教会の新しいホームページには、以前とは見違えるようにきれいになった白いチャペルが映っている。この改装も、教会が喜びのうちに新たな門出を果たしたことの明白な証拠である。祝福のうちに見守りたい。 


注)以下の第159回(平成22年10月18日)宗教法人審議会議事録においては、アッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団サイドに立つ信者の異議申し立てにより、鳴尾キリスト福音教会の教団離脱の手続きが適正であったかどうかに関して審査を行うための小委員会が設けられることが決定されたことが示されている。該当部分は赤字にしてある。なお、教団サイドに立ってこの認証取消手続きを請求した信者が誰であるのか名前は公表されていない。

第159回(平成22年10月18日)宗教法人審議会議事録

  • ○日時 平成22年10月18日(月)
  • ○場所  文部科学省3F2特別会議室
  • ○ 議題
    1. 開会
    2. 議題
      1. (1)宗教法人「鳴尾キリスト福音教会」の規則変更認証決定に係る審査請求について
      2. (2)その他
    3. 閉会
  • ○ 出席者
    【委員】
    井田委員 打田委員 大石委員 清重委員 黒住委員 小林委員 斎藤委員 佐藤(典)委員 島薗委員 杉谷委員 滝口委員 戸松委員 深田委員 山岸委員
    【文化庁】
    小松文化部長 佐藤宗務課長 井上宗教法人室長 その他関係者

1.開会

○大石会長
 ただいまから第159回宗教法人審議会を開会いたします。
 まず,開会に当たりまして,小松文化部長から一言御挨拶をお願いいたします。
○文化部長
 第159回宗教法人審議会の開催に当たりまして,一言御挨拶申し上げます。委員の先生方におかれましては,本日はお忙しい中御出席を頂きまして,誠にありがとうございます。
 本日は,宗教法人の規則変更認証決定に係る審査請求が1件,文部科学大臣宛てになされておりますので,その件に関する諮問を行わせていただきたいと存じます。
 また,併せまして最近の宗務行政の状況について御報告申し上げたいと考えております。
 文化庁といたしましては,委員の先生方それぞれのお立場からの貴重な御意見,御助言を賜りまして,引き続き,適正な宗務行政の推進に努めてまいりたいと考えておりますので,よろしくお願い申し上げます。
 以上,簡単ではございますが,御挨拶とさせていただきます。
○大石会長
 それでは最初に,委員の異動の御紹介を申し上げます。
 昨年6月29日に開催されました会議から,第29期の宗教法人審議会が発足いたしましたが,本年3月末をもって,島薗進委員,深田惠子委員,深澤信善委員のお三人が任期満了となられました。このうち島薗委員,深田委員は4月1日付で再任されていらっしゃいますので,引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
 また,4月1日付で戸松義晴委員が新たに就任されておりますので御紹介いたします。それでは戸松委員から一言お願いいたします。
○ ただ今御紹介いただきました,全日本仏教会事務総長を務めております戸松と申します。どうぞ,ひとつよろしくお願いいたします。
○大石会長
 次に,文化庁側の異動もございました。この点につきましては,事務局の方から御報告願いたいと存じます。
○宗務課長
 7月31日付けで文化庁側の異動がございましたので,御紹介させていただきます。
 文化庁長官につきまして,前任の玉井日出夫が異動になり,後任に近藤誠一が就任いたしました。
 文化庁次長につきまして,前任の合田隆史が異動となりまして,後任に吉田大輔が就任いたしました。吉田次長につきましては,本日出席予定でございましたが,急遽用務が入りましたため席を外しております。
 それから,文化部長につきましては,7月30日付けですが,現任の清木孝悦が異動となりまして,後任に小松弥生が就任いたしました。
○大石会長
 それでは,審議に入ります前に,事務局から本日の配布資料の確認をお願いしたいと存じます。
○事務局
 では資料の確認をさせていただきます。

(配付資料の確認)
○大石会長
 続きまして,定足数の確認をいたします。宗教法人審議会規則第6条により,総委員の5分の3以上の出席がなければ,議事を開き議決することができないこととされております。本日は,総員20名中14名の出席で,定足数を充足していることを確認いたします。
 また,本日の審議内容の公開に関する取扱いについて確認いたします。
 当審議会における申合せにより,会議自体は非公開ですが,後日,不服審査に係る審議の内容については議事要旨を,また,その他の審議の内容については議事録を,それぞれ作成して公開することとなります。
 議事録・議事要旨については,各委員の自由な討議を確保するため,委員の意見は匿名となります。
 さらに,個別の宗教法人名は,議事録等では公開しないこととされていますが,答申の中で記載された法人名については,この限りではないとされており,公開されることになります。
 以上,念のため申し添えます。
2.議題
○大石会長
 それでは,議事に入ります。
議題(1)
●宗教法人「鳴尾キリスト福音教会」の規則変更認証決定に係る審査請求についての議事要旨は以下のとおりである。宗教法人鳴尾キリスト福音教会(兵庫県知事所轄)について文部科学大臣に代わり文化部長から諮問を行った。本件は,小委員会を設け,そこで検討を行うこととされた。大石会長から小委員会の委員として,大石委員,井田委員,斎藤委員,佐藤(典)委員,島薗委員,山岸委員が指名された。
議題(2)
○大石会長
 それでは次に,議題(2)になります,最近の宗務行政についてということで,事務局から報告がございます。よろしくお願いいたします。
○宗務課長
 お手元の資料6を御覧いただければと思います。
 この審議会の答申案件のその後の経過について御報告させていただきます。
 3件ございます。1件目は宗教法人氣多神社の規則変更認証処分に係る案件でございます。平成18年5月15日に,この審議会答申が出されまして,事案の内容につきましては石川県知事が被包括関係の廃止を内容とする規則変更の認証をしたところ,神社本庁らからその処分の取消しを求めて審査請求がなされた事案でございます。
 このとき,変更後の規則は必要的規則記載事項とされている財産処分に関する規定が全部削除されているということを理由として,石川県知事の認証処分を取り消す旨の裁決を行ったということでございます。
 これに対して,平成18年11月10日に裁決取消請求訴訟が氣多神社の元役員らから国を相手方としてなされたということでございます。平成19年9月13日に地裁におきまして国が敗訴いたしました。ただ,平成20年9月10日,1年後東京高裁では原審取消判決で,国が勝訴したところでございます。先ほど申しました宗教法人法の規定に鑑みて,「基本財産,宝物その他の財産の設定,管理及び処分」に係る事項は,宗教法人において本質的事由に係る不可欠の規定というべきであって,規則において一義的に明示されることが求められている事項であるというような御判断を頂きまして,また,本件裁決に行政手続法上違反はないというようなことも示されました。
 しかしながら,その後,氣多神社の元役員らが上告いたしまして,平成22年4月20日に最高裁で,高裁判決破棄,つまり国敗訴との判決が出されました。その後,判定の確定を受けて,石川県知事は,文部科学大臣の裁決に基づき行っていた平成18年5月22日付けの不認証決定を取り消しました。
 特に最高裁判決の要旨でございますが,法12条8号最後にある「その他の財務に関する事項」の例示であると,文言に照らせば財務に関する事項の例示であるということで,宗教法人の規則に記載することが望ましいことはいうまでもないが,これを必ず記載しなければならないとまではいえない,という御判断でございます。
 それから,規則中,特に財産処分に関する明示的な規定を持たない法人があったとしても,法23条及び24条の定める範囲で,これは財産処分等に係る公告などの手続の規定でございますが,財産の不当な処分が防止され保全がされることから,財産の処分に関する明示的な規定を持たない規則を有する宗教法人が存在していることも予定して,その財産保全を図っているという判断が出されています。
 そうすると宗教法人の規則上,財産処分に関する事項を明示的に定めた規定が存在しない場合であっても,それだけでは法12条1項8号に違反するものとはいえないということで,最高裁判決では,合わせ読みという形で判断されたものと認識しております。
 この最高裁判決を受けまして,当庁といたしましては,基本的には,宗教法人における基本的かつ根本的な事柄である財産処分に関する事項については,最高裁も触れているように規則に記載することが望ましいため,今後とも宗教法人の規則に記載するよう求めてまいりたいと思っております。以上でございます。
 次に,冠纓神社の規則変更不認証決定に係る案件でございまして,これについては基本的に神社本庁と冠纓神社の被包括関係廃止に係る規則変更の認証の関係でございますが,平成20年5月12日の宗教法人審議会の答申を踏まえまして,文部科学大臣は審査請求を棄却しました。
 その後,平成20年11月14日に,冠纓神社がこれは香川県を被告として,取消訴訟を起こしました。
 平成22年2月1日,高松地裁で県勝訴との判決が出され,これに対して冠纓神社が控訴しましたが,同年7月22日に高松高裁でも県勝訴との判決が出されております。現在,冠纓神社が上告中でございます。
 それから,最後でございますが,宝榮山妙法寺の規則変更不認証決定に係る案件でございます。これは昨年,この審議会で御審議いただきまして,平成22年1月25日に答申を頂き,同年2月2日に文部科学大臣が審査請求を棄却するという裁決を出しております。
 これにつきましては,宝榮山妙法寺が今年の7月30日に東京都を相手方として東京地裁に提訴し,現在係争中でございます。
 以上御報告でございます。
○大石会長
 以上,3件についての経過を御紹介いただきましたが,これについて何か御質問等ありましたらお願いいたします。
 今御説明いただきました案件を御覧になって分かりますように,都道府県の知事の決定をそのままこちらで認めるということになりますと,その都道府県を相手方として取消訴訟を提起することになるわけですが,氣多神社の場合は,文部科学大臣が石川県知事の処分を取り消すとの裁決を出しましたので,国が被告となったわけでございます。
 何か御質問等ございませんでしょうか。よろしゅうございますか。それでは次の説明をお願いします。
○宗務課長
 「宗教法人が行う事業に関する調査」の結果が取りまとめられましたので,概要を御紹介させていただきたいと思います。
 この調査は,平成20年度,21年度において,今後の宗教法人制度の適切な運営の在り方や,宗務行政の円滑な推進について指針を得るという観点,それから,宗教法人に対して今後の各法人の適切な運営に供するための参考データを提供するということで実施したものでございます。
 調査に当たりましては,学識経験者,宗教関係者及び都道府県の事務担当者に協力者として委嘱しまして,ワーキンググループを設けて調査をいたしました。  調査対象につきましては,[1]「全国10%抽出の単位宗教法人」を対象に,[2]として「全ての包括宗教法人」,それから[3]として「都市部と地方部の全単位宗教法人」を設定しまして,平成20年10月1日現在の実情について,郵送アンケートにより回答を求めたということでございます。
 同様の調査は,前回は20年ほど前にしておりまして,経年変化を比較するため,それぞれの調査結果を掲載しているところでございます。
 調査結果につきましては,お手元の宗務時報?111(平成22年9月)に結果を掲載して,文部科学大臣所轄宗教法人等に配布している状況でございます。
 この調査対象ですが,(2)に回収状況とありますが,[1]の単位法人の関係でございますと,今回は一番上にもありますように,送付が1万7,932法人ありまして,返ってきて有効回答数としては10,031法人で,前回よりは回収率がよかったということでございます。10,031法人のうち,事業をやっているというのは989法人で,9.9%の宗教法人が宗教法人法上の宗教活動以外に,公益事業あるいは公益事業以外の事業を行うことができる,というふうになっておりますので,そういう事業等をやっているというのが分かると思います。
 [2]の包括宗教法人でございますが,右の結果を見ていただきますと,今回は有効回答率が81.5%ございまして,特に事業をやっているというのが97法人で,31.0%の包括宗教法人が事業等を行っているというふうにいえるかと思います。  それから,[3]の都市部と地方部の関係でございますと,都市部は特に東京都の特別区の法人を対象にしておりますが,基本的に事業ありという法人は,有効回答が3,078法人のうち1,196法人ありまして,38.9%が事業をやっていると。ただ一方,青森県の方でございますが,1,255法人の回答,有効回答率83.0%でございます。そのうち事業をやっているというのが47法人ということで,事業の実施率が3.7%ということで都市部と地方部での違いが出ているかなというふうに思っております。
 それから,主な特徴が出ているものについて簡単に御説明させていただきます。
 まず,単位宗教法人が行う事業の傾向ですが,系統別による事業の実施率ということで,ここを見ていただきますと,今回の調査での有効回答の法人について系統別では,神道系が6.1%,仏教系が14.4%,キリスト教系が15.7%,諸教が2.5%というようなデータになっております。
 基本的に数としては,神道系と仏教系がほとんど数を有しているということでございますが,そのような特徴が出ているということでございます。
 それから,事業実施の業種でございますが,ここにありますように基本的には複数回答でございますが,第1位が貸地・貸間等56.7%,第2位が駐車場で40.7%という形でございます。それから,第3位として霊園が上がってきております。前回調査と比較しますと,霊園が比率として4.9%から9.1%に増加して,結婚式場とか旅館・宿泊業等が減少傾向の数値にあるというのが要因ではないかなと思います。
 事業の業種数につきましては,1業種が69.8%,2業種が26.3%でございます。  事業を行う理由につきましては,ここにございますように,宗教法人の財政基盤を強化するということと,社会や地域住民の要請のためというのが多い傾向になっています。
 事業会計の歳入ということで,基本的に特に全体の73.2%が事業の歳入規模が1,000万円未満であるということでございます。全体の2.9%が1億円以上の法人という結果が出ているところでございます。
 収益があった場合の一般会計及び特別会計への繰入れについては,基本的に全体の41.5%が100万円未満,全体の5.9%が1,000万円以上ということでございます。回答なし,多分収益が上がらなかったというのは17.7%と出ております。これが単位宗教法人でございます。
 包括宗教法人が行う事業の傾向ですが,系統別では,神道系が22.6%,仏教系が29.2%,キリスト教系が53.7%,諸教が31.6%というような数字になっております。
 実施事業の業種でございますが,基本的に単位宗教法人と同じように,第1位の貸間等が40.2%,第2位としては駐車場が33.0%という傾向となっております。
 ただ,第3位が出版業でございまして,その他絵はがき等写真とか暦を初めとする物品製造販売が23.7%とか,本山とか本部に泊まる宿泊,信者を宿泊させるための旅館・宿泊業等々,包括法人に想定される事業としてなっている傾向があると思います。
 事業の業種数につきましては,全体的に1業種が52.6%で2業種が23.7%というような傾向で複数の事業を行う法人の割合が単位より多くなっていると思います。
 事業会計の歳入の規模については,基本的に,単位宗教法人よりは全体的に高い傾向にあるということでございます。  繰入れ,繰出金額等につきましては,該当なしというのが39.6%あるというようなデータも出ています。
 今回の調査で,単位宗教法人と包括宗教法人が行う事業の管理運営に関する点についても,御質問させていただいているところでございます。
 法人規則への事業の記載については,宗教法人法上,法人規則上事業を行った場合記載するというような形になっておりますが,記載されていると,一部記載されているを合計すると,単位宗教法人が57.3%,包括宗教法人が86.8%というようなデータが出ております。
 収支計算書の作成については,これも税法上,収益事業を行った場合,収支計算書を分けて作るという形になっておりますが,ここにつきましては,単位宗教法人が68.7%,包括が81.2%というデータが出てきております。
 事業に関する書類の備付けについては,宗教法人法上,備え付けなければならないとなっておりますが,備え付けているというのが56.9%,包括が83.8%となっております。今後,法遵守という観点から,宗教法人の実務者等の研修会等で周知をしていきたいと思っています。
○大石会長
 はい,ありがとうございました。
 大変興味深い資料だと思いますが,今の御報告について何か,御質問等ございませんでしょうか。これは別途報告書みたいな形で作るのですか。
○宗務課長
 先ほど述べたとおり,宗務時報No.111(平成22年9月)で報告という形でまとめて文部科学大臣所轄宗教法人等に配布いたしました。今後宗教法人対象の実務研修会にてこの概要を説明したいと考えています。
○大石会長
 それでは,議事は以上になります。ありがとうございました。
3.閉会
○宗務課長
 次回の日程につきましては,11月25日の16:30から開催させていただきたいと思っております。おって会場含めて開催通知を御案内させていただきたいと思います。
○大石会長
 はい,分かりました。
 繰り返しますと11月25日の16:30から予定をしております。それまでに小委員会が今日を含めて何度か持つことになると思うのですが,よろしく御承知おきいただきたいと思います。
 ほかに特に御発言がなければ,本日の会議はこれで閉じたいと思いますが,よろしゅうございますか。
 それでは本日の159回宗教法人審議会は,以上をもって閉じたいと存じます。ありがとうございました。
―― 了 ――

日本人の集団性(1) 東洋的世界観とグノーシス主義

あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。
(ローマ3:4)

「次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。 彼らの足は、血を流すのに速く、 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。 そして、彼らは平和の道を知らない。 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」
(ローマ3:10-18)
 
筆者の大嫌いな言葉に「協調性」なるものがある。

日本人は協調や連帯が大好きだ。確かに、狭い組織の中で、お互いに傷つけ合わず、耳の痛いことをあえて言わずに、お互いに気分を害さずにやりくりしようとする精神性は、ある意味では、礼儀正しさであり、日本人の美徳と言える。

東日本大震災が起きたとき、駅のホームなどで帰宅難民となり、不便な状態で夜明かしした人々が、暴動を起こすこともなく、場所の取り合いで争うこともなく、静かに事態を受け入れている様子を映した映像は、世界各国の人々を驚かせた。

大惨事が起きたときにも、自分の利益を真っ先に優先するのでなく、まずは全体を見回して、全体が混乱しないためにどのように行動すべきかを考える日本人の几帳面な国民性に、世界は驚いたと言われる。またそのようにして黙って苦難を耐え忍んでいる被災者の姿が、世界の同情を集めたことは当然だろう。

しかし、それはほんの表面的な事象に過ぎない。震災後すぐに、被災地へボランティアに入った若者たちに私は職場で出会ったが、その人たちが一様に口にしたことは、テレビで報道されているような秩序正しい被災地の姿はほんの見せかけに過ぎず、実際には、被災地では略奪、暴行を含めて、さまざまな犯罪と混乱が起きているのだが、それはあえて報道されないということであった。

一体、誰のために報道されないのか? 当然ながら、それは内地(ここでは被災地以外)に住む人々の心の安寧を脅かさないためである。

私は、福島県はもうこの時から、中央政府と内地の人々から見捨てられ、なきものにされてしまっていたのではないかという気がしてならない。

だが、もしも本当に実際に起こっている混乱が報道されなかったのだとしたら、それは明らかに、「被災地の秩序は保たれている」という偽りの雰囲気を演出するために行われていることを意味する。

このような偏った報道姿勢は、安倍首相による、福島原発事故は「コントロールされている」という発言にも通じる。つまり、「(現存の体制の)秩序は維持されており、微塵もほころびがないので、国民は何も心配するようなことはない」と、震災と原発事故以降、日本政府は繰り返し、繰り返し、まるで子守唄のように国民に言い聞かせて来たのだと言える。

その意図が、各メディアによる報道姿勢にも透けて表れている。台風については毎回、大騒ぎする。用心しすぎて困ることはないので、大いに命の心配をして下さいと、煽り過ぎるほどに不安を煽る。ところが、被災地では、まるで原発事故そのものがなかったかのように、人々は汚染された地域へ帰還を促され、子供たちは被災地への修学旅行を勧められ、汚染された海で泳ぎ、果物を摘んで食べているのである。

被爆の影響がこれからどんな形で現れてくるかも分からないのに、この人々は役者のごとく、「全ては安全だ、無事である、秩序は保たれている」という雰囲気の演出に駆り出されているのだ。

こうしたことの背景には、集団信仰、あるいは組織崇拝にも近いような現体制への礼賛、何かしら異常な域に達している日本人の「和」に対する信仰があるように思われてならない。

日本人は秩序が壊されることを嫌い、自分個人の利益よりも、まず全体(集団)の利益を念頭において行動するよう、幼少期からしつけられ、教育されている。「協調性」という言葉は、いかに全体の和を乱さず、全体の秩序を壊さないように配慮して行動できるかという個人の資質の度合いを表すもので、日本ではしばしば個人の能力や実力以上に、「協調性」の方が重んじられる傾向にさえある。

だが、日本人の協調性の恐ろしさは、時として一歩間違えば、それが集団催眠にも似た一種の盲目的状態となり、目指す目標が良いものか悪いものか、自分では何も吟味することなく、空気のような集団意識に流されて、レミングのように手に手を取り合って、破滅へ突っ走って行くような無責任な心理状態へと早変わりしかねない点にある。

たとえば、ある企業に入社したとして、そこで全ての社員が自主的にサービス残業をしていたら、自分も貧しさと過労で倒れるまで、それに黙って加わるのが「協調性」なのだろうか。むろん、サービス残業に異を唱えれば、当然、角が立つだろう。その場の空気を乱し、秩序を乱したことにもされかねないだろう。だが、そうやって、周りの空気に合わせて巧みに道理を引っ込め、「空気」なるものに流されて、白を黒とし、黒を白として生きることが、果たして人間として評価される立派な資質になりうるのだろうか。それは協調性というよりも、むしろ人としての卑しさに他ならないのではないか。

あるいは、誰かが被災地で暮らしていたとして、周りのみなが放射能による被爆に不安を抱えて生活を送っているところ、自分ひとりだけ、そこから引っ越して、不安を解消するわけにはいかないと、いつまでも汚染された土地に住み続け、不安を抱え続けながら生活するのが、「協調性」なのだろうか。

そんなものは「協調性」でも何でもない。それは単に問題を見過ごしにして解決を先延ばしにしているだけの無責任な姿勢である。

協調性という言葉を、誰かに問題を見過ごしにさせ、悪事に目をつぶらせ、不自由や、貧しさや、犠牲を黙って我慢させるための都合の良い口実に用いるのはナンセンスである。「赤信号みんなで渡れば怖くない」の心境で、大勢が行なっていることだからからと、悪い結果が伴うのを知りながら、それに苦言を呈することなく手をこまねいてみているか、もしくはその悪事に加担することを 「協調性」とは呼ばない。

ところが、昨今、この「協調性」というものが、人に理不尽な犠牲や苦痛や損害を黙って耐えさせるための実に都合の良い口実として用いられているような気がしてならない。

もっと言うならば、日本社会全体が、まるで「欲しがりません、勝つまでは」と言われた戦時中のように、当然のごとく貧しさや困難の中に落ち込みつつあって、いつの間にかそれに抵抗して豊かさを取り戻すのではなく、むしろ、みんなが耐えているのだから、自分も耐えるのが当然だと、無意味な貧しさに自分を合わせ、必要のない自己犠牲に甘んじるべきだとするような、意味不明な精神論が醸造され、奨励されつつあるように思われてならない。

たとえば「節電」なるものもそうである。

多くの人々は、節電とは、東日本の震災以後に、電気が逼迫するという差し迫った必要性から呼びかけられるようになったスローガンだと思っていることだろう。震災のために原発が停止し、電気が足りなくなるかも知れないと、計画停電が行われてから、電力会社が先頭に立って節電を呼びかけるようになったのだと勘違いしている人も多いのに違いない。

だが、実際はそうではない。東京電力は東日本大震災が起きるよりずっと前から、自主的に「節電」に取り組み、「節電」を呼びかけてきたのである。それは震災以前から、東京電力の発電所などの施設で、不要な電気が消灯され、節電を呼びかけるポスターが壁に貼られていたことではっきり分かることである。

不思議なことである。電気を売る会社でありながら、電気をじゃんじゃん使ってもらって利益を上げようというのではなく、むしろ電気を使うなというがごとくに、自ら省エネをするだけでなく、道行く人々にも省エネを呼びかけていた。それはこの会社の理念の一つだったのだと言える。それがただ震災をきっかけに、何らかの大義名分を得て、東京電力の枠組みを超えて、関東全域に(日本全域に)爆発的に広がり、まるで正しいことのように押しつけられて行っただけの話である。

押しつけられて行った、と言うのは、震災後しばらくの間、関東では電気を普通に消費することがまるで後ろめたいこと、悪いことであるかのような「空気」が出来上がったからである。人々は自主的に節電に取り組み、節電を呼びかけるポスターが街のあちこちに貼られ、駅構内の電気は消えて、人の集まる場所は暗く、陰気になり、大観覧車も消灯し、街から活気が消えた。

こうして関東の人々が自主的に耐乏節電生活を送っている最中、西日本から復興ボランティア合唱隊などがやってきて、電気の消えた陰気な駅構内で、被災者の心を励まそうと晴れやかな明るい歌などを歌っていた。それを聞くと、何だか異次元の風景を見ているような気持ちになり、いかに関東と西日本が切り離されてしまったのかを痛感したものだ。本当に戦時中にいるような気がした。

とにかく、関東の人々はその頃、極力、電気を使わない生活を耐え忍ばなければならないかのように思い込まされていた。多くの人々が駆け込むように家庭の電気契約のアンペアを下げた(本当はそんなことでは節電にはならないのだが)。そのような節電奨励の「空気」が変わり始めたのは、原発が停止しても、電気が足りなくなる恐れがないことがはっきりと実地で証明され、さらに過度な電気使用の自粛が日本経済(産業)の成長の足かせとなり、国民の過度な消費生活の抑制が市場経済の成長に打撃を与えることがはっきり国と人々に認識されるようになってからのことである。だが、その認識が広まるまで、「電気をじゃんじゃん消費すると、大変なことになるかも知れない」という恐れに満ちた「空気」が醸造され、人々はそれに踊らされて、自ら電気の個人消費を控えて苦しい生活を送ろうとしていたのである。

余談になるが、なぜ東京電力は、震災が発生してもいない前から、節電を奨励していたのであろうか。一体、いつからそのような考え方があったのか。それは分からないが、考察に値するテーマだと思う。それは何か戦前を思わせるようなとても奇妙な考え方である。すでに書いたように、電力会社である以上、電気を消費してもらうことこそ、企業の利益につながるはずなのに、その逆を自ら呼びかけるというところに、何かしらとても屈折した理由があることを思わずにいられない。

地球環境問題が出現してきた頃から、「エネルギー大量消費は地球を滅ぼす脅威であるから悪である」という発想が世界に広まった。その観点に立てば、電気も節約すべきエネルギーとなるのかも知れない。だが、そもそも、この省エネの発想の根底にあるものは、「個人の欲望に基づくエネルギー大量消費は悪である」、なぜなら、「地球のエネルギー資源は、地球全体の人口を養うのには足りない」という考えである。地球全体の人口が小さなパイを取り合うように、少ない食糧、エネルギー資源、等々を奪い合っているから、その中で個人がエネルギーを大量消費することは、他の人の分を取り上げることになり、全体の利益を脅かす悪だというのである。

だが、それは一体、本当なのだろうか。またしてもここで「全体」が登場する。まず個人として何がしたいのかというところから出発するのでなく、まずは地球「全体」のことを考えて、地球全体が迷惑をこうむらないように、個人としての自分を抑制し、自分の欲望を抑制して、自分の取り分が少なくなるように消費を控えなさい、そうでなければ、地球は維持できません、という考え方である。

もっともっと端的に言うと、これは「あなたの欲望に基づく消費活動は地球全体にとっての迷惑だから控えて下さい」と言われているのに等しい。この路線に沿って、「人類の欲望が地球環境を壊した」などと言われるのである。

だが、こうした考え方の根底には、脅しが含まれているだけでなく、さらには人間の欲望を悪としてとらえ、人間の消費生活を罪悪であるかのようにとらえ、ひいては欲望や消費生活と切り離すことのできない人間そのものの存在を悪としてとらえる考え方が潜んでいるように私は思う。

そして、このような発想には果たして信憑性があるのかどうかを疑う。

なぜなら、まず、人間の欲望や消費生活がない限り、決して文明や経済が発達することはない。人の欲望も消費生活も、文明発展の起爆剤である。それを抑制することによって、地球環境を改善できるという考え方には非常に疑問が残る。

さらに一人のクリスチャンとして私は考えるのだが、神は人間を創造した際に、「生めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従えよ」との命題を人に与えられた。これは神が人間をとても高く評価し、崇高で力強い使命を与えておられたことを意味する。それなのに、神が人間を創造しておきながら、他方では、人間の数にふさわしいだけの資源を地球に備えなかったという説には非常に疑問を持つからである。

では、戦争や、食糧危機や、旱魃や、飢餓はなぜ起きるのか、という問いもあろう。一言で言えば、それこそ防ぎうる、もしくは手立てを考えることのできる災害ではないだろうか。それを神の責任にするのは、責任転嫁というものだろう。信仰をよそにしても、エネルギーや食糧を含めて、地球上の資源の不公平な分配という問題は、資源そのものが足りないために起きているのではなく、植民地支配の名残や、差別に満ちた不平等な社会、不正な企業活動等による環境破壊や、政府の怠慢などの問題が放置されていることに起因するものであり、そこを正さない限り、個々人がどんなに頑張ってみたところで、そんな大海の一滴のような成果で、全体的問題が解決されることはあり得ないと思うからである。

むしろ、節電などの個人に負担を強いるだけの(ど根性耐貧論、精神論的)省エネ生活などは、むしろ、この問題を作り出している本質的原因とその責任者の存在をごまかすためのカモフラージュに他ならないと考える。

計画停電中に、計画停電の不便を耐え忍んでいる世帯に配られた東電の検針票に「電気は無駄なく正しく使いましょう」と書かれてあったことから、それに怒り心頭に達して、東電に苦情をたたきつけた者もあった。原発事故の被害の実態さえも明らかにしようとしない企業が、電気という、家庭生活に欠かせないライフラインのひとつを握っているからと言って、それを質に取るように、上から当然のごとく、各家庭に節電を押し付けてくる高飛車な姿勢に、人々が怒り狂ったのは無理もないことであった。しかも、原発を再稼動しないと電気が足りなくなるから再稼動に賛成せよと、福島原発事故の悪夢も覚めやらないうちに、まるで脅されているも同然だと、関東の人々が怒りと恐怖を感じたのは無理もないことである。

電気を使わねばならない立場にあるからと言って、なぜそんなにまでも見下げられ、脅されなければならないのだろうか???平和に見えたごく普通の企業が、多くの人々の目の前で、ヤクザのように変身して正体を見せた瞬間であった。そのようなわけで、東電の電気を二度と使うまいと、さっさと太陽光発電に変えてしまった知人もいた。

話を戻せば、このようにして、震災を機に、わずかな期間で、利用できるものも極力利用せずに、わざわざ苦しい生活を耐え忍ぶのが全体のためだという「空気」が関東に醸造されたのである。そしてこの「空気」は今も残っており、全体として、さらに危険な方向へ向かっているように思われる。もはや節電などという可愛いレベルではなく、「放射能汚染はない」とか、「原発事故はコントロールされている」とか、重度の安全神話が形成されつつあり、やがては「被災地は存在しない」、「そもそも原発事故などなかった」と言い出しかねない、恐ろしい妄想じみた方向へと進んで行っている。

「空気」は暴走するものだ、と言っておきたい。

どんなときにも、自分を一個人としてではなく、自分の属する集団の一員としてしかとらえることができないために、一個人としての自由や解放を目指して声をあげることができず、組織の枠組みの中に自分を押し込めて、自分の声を殺してしまう日本人の国民性は、この国民の大きな限界であり、盲目性であるとも言えるのではないだろうか。

その限界あるゆえに、どんなにひどい事態が起こり、どんなにひどい人権侵害を受けても、この国民は概して、一個人として、自分を取りまく集団の状況を変えるために、怒りをもって立ち上がることができないのではないだろうか。

それどころか、むしろ、今の集団のあり方がおかしいと気づいて声を上げる勇気ある人が出現すると、「赤信号」を黙って渡っていたい大勢の人々が大挙して押しかけてきて、その人を取り囲み、リンチして、主張を押しつぶしてしまう。それはちょうど狭いバケツから這い上がろうとするカニが出現すると、他の多くのカニがそれを引き摺り下ろして、脱走を阻止してしまう風景にも似ているし、何やらカルト宗教団体に近いまがまがしい雰囲気である。

良い団体に入って恩恵を享受していると信じていられるうちだけが花であり、何かが変だぞ、ここはおかしいと気づいたが途端、早速、他の「信者」たちが血相を変えて押しかけてきて、「絶対におまえをここから逃がさないぞ」、「ここから自由にはしない」、「しゃべったら命はないと思え」、「ここ以外におまえの居場所はない」、「ここを出たら破滅するだけだ」などとさんざん脅してくる。

こうなっては集団は個人を閉じ込めて権利を奪うための監獄にも等しいものになる。しかも、その時に何も気づいていない大勢の「信者」=「囚人」たちが、事実に気づいた人間に対して無意識に取る行動の残酷さは言い知れないものがある。

そうなることが怖いので、みなは何かに気づいても、気づかないふりをしている。そしてその沈黙を「優しさ」や「思いやり」や「協調性」などの言葉で巧みにごまかして正当化しながら、互いをかばいあっている。

結論から言うならば、何を隠しているのかと言えば、つまり、自分たちは「囚人」であり、そこは「監獄」であるという事実を隠しているのだ。その不自由さには、できるだけ気づかないように気をつけながら、「私たちは自由であり、恵まれており、解放を目指している最中なのだ」と、正反対のことを主張して、自画自賛しているのだ。

今まで、このような風景に何度、遭遇してきたか分からない。それは宗教団体のみならず、被害者運動も然り、原発問題も然り、学校も、企業においても然り、すべてにおいて共通して同じ現象が繰り返されていた。

本当は、形あるものに絶対はないはずであり、組織も目に見える愚かな人間の集まりに過ぎないわけで、間違うこともあれば、狂ってしまうこともある。組織の理念が、時代を超える普遍的、絶対なものでありうるかというと、そういうことは決してない。

それにも関わらず、人が集まると、いつの間にか、自分たちの組織や理念を絶対的なものとしてとらえるようになり、自分たちの属する集団を崇拝の対象にさえしていくのはなぜなのか。しかも、それに向かって石を投げる人間に、徹底的に報復しないでは気が済まないという恐ろしい驕りが生まれるのはなぜなのか。

それは、本来、絶対でありえないはずのものを絶対視しているという前提あってこそ、起きることなのではないだろうか。そうなると、これはただメンツや建前の問題を超えて、宗教や信仰心の領域に入っていく。

一体、なぜそれほどまでに日本人は組織や集団を絶対視するのか、その背景を探っていくと、どうしても東洋独特の文化的・精神的土壌に行き当たらないわけにいかなくなる。それは一見、礼節や、常識を装っているが、その根底には似非宗教めいた、非常にまがまがしい信仰心のようなものが隠されているのではないか。

それをつきつめて行くと、東洋的世界観が浮かび上がってくる。
やはり、グノーシス主義へと行き着かざるを得なくなるのだ。

一体、この東洋的世界観とは何なのか。
それと向き合わないことには、この問題は究明できないだろう。

これから長きに渡って、「協調性」も含めて、日本社会の根底に流れる集団性の正体が何であるのか、また、それがグノーシス主義とどうつながっているのかをきちんと説明していきたい。

御霊に導かれて歩む(3)ゴルゴタとペンテコステ

もしわたしたちが力を受けて、キリストのために証しをし、サタンと戦うことを欲するなら、聖霊で満たされる経験を求めないわけには行きません。確かに、今日、聖霊の満たしを尋ね求める人は日ごとに多くなっています。しかし、彼らが聖霊で満たされることと霊的力を受けることを尋ね求める目的は、何のためでしょうか? 

どれだけ多くの人が、見せびらかすために力を尋ね求めているでしょうか? 自己の肉をさらに輝かしいものにするための人が、どれだけ多くいることでしょうか? 人々を自分の前に倒れさせ、尋ね求めて戦うための活力を彼らから奪ったりするような力を、受けることを望んでいる人が、どれだけ多くいることでしょうか?

わたしたちは、霊的力を受けることにおけるわたしたちの動機が何であるかを、はっきりと見なければなりません。もしわたしたちの動機が神にしたがっておらず、また神から出たものでないなら、わたしたちはそれを受けることはないでしょう神の聖霊は、人の『肉』の上にはとどまられません。彼のとどまられる所は、神が新しく創造された霊だけです。

これは、わたしたちが外なる人(肉)を生きさせておきながら、神にわたしたちの内なる人(霊)を聖霊の中でバプテスマしてくださるよう求めることではありません。もし肉が対処を経過していないなら、神の霊は人の霊の上に下られません。なぜなら、肉的な人に力を与えることは、彼を高ぶらせ、さらに肉的にさえさせるほか、何の結果も生じないからです。」(ウォッチマン・ニー著、『霊の人』、第二巻、p.49-50)

クリスチャンが御霊に導かれて生きる人となることは、神の御心にかなったことです。主イエスは、真理の御霊であり、助け主である聖霊が、いつまでもクリスチャンと共にいて下さることを約束してくださっています(ヨハネ一四・一六―一七)。クリスチャンは主を信じた時に、御霊によって新しく生まれており、御霊がすでにその人の内に宿っています。たとえそのような実感がなくとも、主を信じている人は自分が聖霊をすでに内にいただいていることを信じるべきです。

ですが、それにとどまらず、クリスチャンはさらに聖霊に満たされ、聖霊によって力づけられる必要があります。ペンテコステの日に、信徒たちが聖霊によって力づけられたように、私たちも聖霊の力を受けて強められ、また日々、神の命の力によって強められることができます。そうなる時に、信徒は、聖霊によって内なる霊を強められ、神の御心を深く知り、大胆に御言葉を宣言し、サタンに対抗し、御心を実際に実行する「霊の人」となり、御国のために有用な働き人となることができます。

聖霊は、「命を与える霊」(Ⅰコリント十五・四五)であり、クリスチャンはこの聖霊の命の力を経験することなしには、神のまことの命を実際に生きることは決してできません。聖霊は、まことの命そのものだからです。また、真理の御霊を通さなければ、信徒は御言葉の意味が何であるかを理解できず、神の御心が何であるかを適時に知ることはできません。聖霊の導きによらずには、信徒は御心にかなった祈りを一つも捧げることができません。聖霊が力を与える時だけに、信徒は臆することなく神の御心を実践する人へと変えられます。

しかしながら、私たちは、十字架の働きを抜きにして、聖霊の力だけを追い求めるようなことをしてはいけません。今日、御霊の満たしを受けるためには、まず信徒自身の肉が十字架で対処されていなければならないことを真に知っている人がどれほどいるでしょうか。御霊は、高慢で高ぶった肉的な人と共に働くことは決してできません。「なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは、肉に反するから」です(ガラテヤ五・十七)。ところが、今日、多くのクリスチャンが聖霊を求めている動機は、限りなく肉的であることが疑わしい場合が多いのです。

実に多くの人たちが、自己の栄光のために、自分の肉をさらに飾り立てるために、自分をさらに魅力的な人間にするために、聖霊を求めています。すでにあれやこれやの才能や、持ち物を持ち、自己を誇っている人が、さらに特殊な霊力で身を飾り、あるいは魅力的な自己を作り出そうとして、聖霊の満たしを願っている場合があります。しかし、そのような間違った動機から捧げられる願いが、神に聞き届けられることはありません。(「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」(ヤコブ四・三)

にも関わらず、十字架で肉が対処されていない人々が、何らかの超自然的な力を誇っている場合がありますが、私たちはこのような力の源を警戒せねばなりません。御霊は決して個人に名誉や成功をもたらすことを目的として働かれません。聖霊が人の肉を強めたり、人を高ぶらせたり、自己中心にしたり、高慢にさせたり、理性を失わせたり、無秩序状態に陥れたりする形で働かれることは決してありません。明らかに聖書は告げています。神の霊の他に、「この世の霊」(Ⅰコリント二・十二)があり、サタンとそれに従う邪悪なもろもろの霊たちが存在していると。

また、「聖書はわたしたちに告げていますが、聖なる注ぎ油のほかに、それに『似たような』(出三〇・三三、原文)注ぎ油があるのです。それは同じように調合されますが、聖なる注ぎ油ではありません。」(p.52)私たちは混合物としての霊があること、聖霊に似て非なる霊があることを知って、そのようなものを警戒し、ただ純粋に混じりけのない、神から来た聖霊を願い求めるべきです。

聖霊は必ず人を十字架へと導きます。聖霊は、主イエスが達成された十字架を、私たちが人生においてより深く経験するように導きます。

「人の再生の時、人の霊は神の命を受け、生かされるようになります。この働きを活発に達成するのは聖霊です。罪、義、裁きについて人を責めるのは、聖霊です。聖霊は人の心を備え、主イエスを救い主として信じるようにと願わせます。十字架の働きは、主イエスによって達成されます。しかしながら、これを罪人の上に、また罪人の心の中へと適用するのは、聖霊です。

わたしたちは、キリストの十字架と聖霊の働きとの関係を理解しなければなりません。十字架はすでにすべてのことを達成しましたが、聖霊はすでに達成されたことを人の中で達成するのです。十字架は人に地位を得させますが、聖霊は人にその経験を持たせるのです。十字架は神のために『事実』を成し遂げますが、聖霊は人にその経験を与えるのです。」(p.12)

聖霊は信徒が生涯、十字架のより深い働きを実際に経験するのを助けます。それによって信徒は、神の御前に、よりくだかれた、へりくだった魂となり、罪と分離し、肉の情と欲を捨て、自己の天然の命を否み、混じりけのない、純粋な、清い霊によって支配される人へと変えられていくでしょう。聖霊が肉なる人の上に注がれることはありません。ですから、聖霊の満たしを受け、聖霊によって力づけられたいと願う人は誰でも、まず、ゴルゴタを経て、自分自身の肉が主イエスと共に十字架につけられて、死に渡されるという経験を経ている必要があります。

「わたしたちは何度も言ってきましたが、十字架はペンテコステの前にやってきます。聖霊は、まだ十字架を経過していない男女には力を与えられません。ゴルゴタこそ、エルサレムの屋上の間へと至る唯一の道です。この模範に従う者だけが、聖霊の力を受ける可能性を持つのです。神の言葉は言います、『これは……聖なる注ぎ油であって、常の人の身にこれを注いではならない』(出三〇・三一―三二)

最も汚れた肉であろうと、最も教養のある肉であろうと、神の聖霊はその上に下ることはできません。十字架の釘跡がなければ、聖霊の注ぎ油はあり得ません。主イエスの死が、アダムにあるすべての人に対する神の判断です。すなわち、『すべてのものは死ななければならない』のです。

神は、主イエスが死なれるまで待たれました。その時はじめて、神は聖霊を遣わされました。同様に、もし信者が主イエスの死を経験することがなく、また旧創造に属するすべてのものに対して死んだことがないなら、彼は聖霊の力を見ることを望むことはできません。歴史上のペンテコステは、ゴルゴタの後にやってきました。霊的経験における聖霊の満たしもやはり、十字架を担った後にやってきます。」(p.50-51)


肉が十字架につけられるという経験は、決して、私たちの内にある、人の目から見て否定的で不愉快な性質だけが死に渡されなければならないということをさしているのではありません。たとえ人の目にどれほど善良に見える性質であろうとも、崇高に見える性質であろうとも、宗教的に見える性質であろうと、立派な知識、才能、美徳、人から賞賛される資質、魅力的な性格などであろうとも、それが肉から来たものであり、天然の命から来た性質であるならば、それは神の御前に全て死ななければならないのです。私たちの肉そのものが神の御前に死ななければならないのです。そのために、神は御子を十字架につけられました。この十字架の死を通して、信者の肉の古い命が死に渡されます。新しい命そのものである聖霊は、その死の後に初めて、復活の命として与えられ、信徒を内側から生かし、力づけ、立ち上がらせるのです。

「肉は神の前で永遠に罪定めされています。神はそれが死ぬことを望まれます。信者は、肉が死ぬのを望まず、反対に聖霊を受けて肉を飾り、肉にさらに多くの力を備えさせて、神のために働かせようとするかもしれません(もちろん、これは絶対的に不可能です)。このことすべてにおけるわたしたちの動機は何でしょうか? わたしたちの動機は、個人的な魅力、名声、人の歓迎、霊的な信者からの賞賛、成功、人に受け入れられること、自己を建て上げることでしょうか? 

清くない動機、すなわち『二心』の動機を持った者たちは、聖霊のバプテスマを受けることはできません。わたしたちは、自分の動機はとても清いと考えるかもしれません。しかし、わたしたちの大祭司は環境を通してわたしたちに、わたしたちの動機が真に清いかどうかを知らせてくださいます。わたしたちの現在の働きが完全に失敗し、人々がわたしたちの名を悪いものとみなし、わたしたちを軽んじ、拒絶する点にまで至らなければ、わたしたちの動機が完全に神のためであるかどうかを知ることは、とても困難でしょう。主によって真に用いられた人はすべて、この道を歩みました。いつであれ十字架がその働きを達成する時、その瞬間、わたしたちは聖霊の力を受けます。」(p.51)

私たちは自分の古き人が十字架で対処されることをさえ、自己の栄光や、人からの賞賛を受けるために求めるという過ちを犯すことがあります。周りにいる信者たちから、「霊的」であるとみなされたいばかりに、聖霊の力をさらに求めようとするという誤りを犯すことがあります。さらに、私たちは、可能な限り、楽をして、自分に痛みが少ない方法で、手っ取り早く、成長を遂げて、素晴らしい「霊の人」になれればよいと思っていないでしょうか? 霊的な人になりたいという私たちの動機は、一体、どこにあるでしょうか? 

神は私たちの動機が肉的でなく、純粋に御心に沿ったものとなるまで、ずっと環境を通して私たちを練られます。私たちの動機の中から自己目的が取り除かれ、私たちの動機が、神の願いと一致する時が来ない限り、神が私たちに聖霊の力を付与されることは決してないと思って差し支えないでしょう。私たちは覚悟する必要があります。神は私たちが、たゆみない成功の中で、賞賛の嵐の中で、人からの歓迎や注目の中で、快感と享楽の中で、順風満帆で何不自由のない生活の中で、聖霊の力をますます増し与えられ、力づけられて、大胆に進んでいくようなことはまずなさいません(それではあまりにも私たちを高慢にさせるだけに終わることは目に見えています)。

むしろ、それどころか、聖霊の力が与えられる前に私たちが経ていなければならない十字架は、私たちにとって極めて不快かつ、負いたくないような、痛みの伴うものであるかもしれません。神は、私たちの働きがことごとく失敗に終わり、私たちが人から見捨てられ、悪しざまに言われ、軽んじられ、誤解され、疎んじられ、拒絶され、敗者としての烙印を押され、「霊的なクリスチャン」として賞賛を浴びるどころか、クリスチャンの風上にも置けない人間との評価を受けて、孤独の内に、たった一人、見捨てられて、魂が微塵に打ち砕かれるような経験をまずお求めになるかも知れません。たとえそうなったとしても、私たちはただ神のみをまっすぐ見上げて、自分の肉と魂の欲求のすべてを脇において、それを捨てて、その願いに死んで、まず、御心だけを第一に求めることができるでしょうか? 自分自身が完全に絶望であるとの認識に立ち、見える評価の一切を拒み、ただキリストだけを見上げて、自分の栄光のためでなく、神の栄光のためだけに、聖霊によって力づけて、立ち上がらせて下さいと求めることができるでしょうか?

どうか、大祭司なる主イエスが、私たちの隠れた動機を明らかにして下さいますように。私たちの願いを御心に沿ったものへと練り清めて下さいますように。