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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

御霊に導かれて歩む(2)十字架と聖霊

「再生された信者は、霊が生かされ、聖霊が彼に内住していますが、依然として肉的な信者のままであり、霊が魂や体によってなおも抑圧されていることがあり得ます。再生された信者が、霊的になるのに成功するために特別に歩まなければならない道が、一つあります。

 簡単に言えば、一人の人には、彼の命において少なくとも二つの大きな変化があります。すなわち、滅びゆく罪人から救われた信者に変わることと、肉的な信者から霊的な信者に変わることです。ちょうど罪人が実際において信者となることができるのと同じように、肉的な信者も実際において霊的な信者となることができます。神は罪人を信者とならせ、ご自身の命を持たせることができます。神はまた、肉的な信者を霊的な信者とならせ、ご自身の命をもっと満ちあふれるほどまでに持たせることができます。<…>

 聖霊だけが、信者を霊的にすることができます。聖霊の働きは、人を霊的にすることです。神の贖いの方法の按配において、消極面では、十字架は破壊する働きを遂行し、アダムからのものすべてを滅ぼします聖霊は、積極面において、建設的な働きを遂行し、キリストからのものすべてを建て上げます

信者が霊的になることを可能にするのは十字架であり、信者を霊的にするのは聖霊です。霊的であることは、聖霊に属することを意味します。聖霊が人の霊を強めるのは、聖霊がその人全体を治めるようになるためです。ですから、もしわたしたちが霊的になることを追い求めるなら、わたしたちは聖霊を忘れるべきでなく、また十字架を脇へ置くべきでもありません。なぜなら、十字架と聖霊は、左右の手として働くからです。そのどちらも欠くことはできませんし、またこれら両者のどちらも単独で働きをすることはできません十字架は常に人を聖霊へと導き、聖霊は常に人を十字架へと導きます。霊的な信者は、自分の霊の中で聖霊と共にある経験を持たなければなりません。」(ウォッチマン・ニー著、『霊の人』、第二巻、p.24-25)

 この箇所を読んでいて、かねてよりの疑問が私の中で解けました。十字架は人の内のアダムからの命(旧創造)を滅ぼす働きをし、聖霊は人の内にキリストを建て上げる働きをします。十字架と聖霊は共に切り離すことができないものであり、どちらかのみが単独で働くことは決してあり得ません。ところが、今日、広まっている誤った教えの中では、多くの場合、この二つが全く切り離されています。健全な教えから外れてしまった教会では、信者たちは、十字架と聖霊とを全く別個のものに分けてしまい、これらが互いに無関係に、あたかも単独で働くことができるかのようにみなしているところに、重大な危険性があります。私たちも、もしも十字架と聖霊との関わりを見落とすならば、簡単に誤った教えに落ちてしまうでしょう。

 たとえば、信者が聖霊を抜きにして、十字架の破壊する働きだけに注目し、そのことばかり重視し始めると、それは信者に病的な破壊作用をもたらします。信者はどれくらい十字架を通して自分の自己が死んでいるかと自分をつぶさに振り返って、自己分析にふけったり、自己批判、他者批判に熱中したり、あるいは、自己を早く処分しようと自己破壊に熱中して、ついには精神に破綻をきたすことさえあり得ます。信仰の教師たちが、幼子のような信者に向かって、「神のためにあなたの自己を十字架上で早く捨てよ!」と、求めるようなことがあれば、それは信者に対するマインドコントロールとなり、それに基づいて支配や強制が生み出され、教会はカルト化し、信者は精神崩壊へと導かれるでしょう。

 私たちは、聖霊を抜きにしてやって来る偽りの「十字架」を拒否せねばなりません。御霊は、必ず、人の最も奥深いところから、その人自身の自主性を尊重する形で働かれます。ですから、御霊によって人が十字架へと導かれる時、十字架は確かにその人の内側で、古き人を壊すという意味では破壊的な働きをしますが、しかしそれによって、その人自身が自己崩壊に至ったりすることは決してありません。むしろ、十字架の働きが進めば進むほど、ますますその人自身は命に溢れ、調和の取れた人間へと変わっていくでしょう。それは御霊が新しい真の命としてその人の内側で建て上げる働きをするからです。

 ところが、御霊によらない、外側からの圧力としてやって来る偽りの「十字架」は、人の自主性を簡単に侵害し、人格を押しつぶすことができます。サタンはこうして、十字架の概念を悪用することによって、御霊によらない十字架を作り出して信者を惑わせ、外側から信者にマインドコントロールをかけ、破壊的な作用を及ぼすことができます。そこには聖霊がないので、信者の人格が(十字架を名目に)ただひたすら壊されていくだけで、新しい命を建て上げる働きは全くありません。もしも、その偽りを見抜けずに、そのような破壊的な作用に従うならば、最後には、信者は精神に破綻をきたすでしょう。私たちはこのような聖霊によらない十字架を警戒しなければなりません。

 さらに、十字架と無関係にやって来る偽りの「聖霊」というものも、私たちは警戒しなければなりません。今日、聖霊の名を語りながら、超自然現象へと信者を熱中させ、信者を恍惚状態や熱狂的陶酔に陥れたりして、それによって信者の人格と生活に破壊的作用を及ぼしている誤った教えがありますが、そこには、十字架が全くありません。十字架は常に人をへりくだらせ、私たちの天然の命を対処しますが、十字架と無関係に働く霊は、人を高慢にさせ、天然の命をさらに(異常に)増長させる効果を及ぼします。

 このような欺きに惑わされないために、十字架と聖霊とは左右の手のように切り離せないものであることを、私たちはしっかり覚えておく必要があります。

 さて、本題に戻りましょう。私たちはクリスチャンになった後も、ほとんど御霊の導きを内側で感じたことがないほどにまで、肉的・魂的な信者である場合が多いものです。どのようにして、私たちはそのような状態から抜け出し、御霊の導きを聞き分ける信徒となることができるのでしょうか。

「聖霊は信者の中におられますが、信者はそれを知らないか、あるいは聖霊に服従しないかのどちらかです。ですから、彼は自分に内住しておられる聖霊を知り、完全に聖霊に服従しなければなりません。

信者は、神の聖霊が一人のパースンであり、信者に内住し、教え、導き、キリストにある『実際』と真理を信者に与えることを、知らなければなりません。聖霊のこの働きは、信者が、自分の魂がいかに無知で鈍いかを認め、自分は愚かであっても喜んで教えを受けたいと決心してはじめてなされ得るのです。信者は、聖霊にすべてを支配していただき、真理を啓示していただくよう願わなければなりません。

信者が、神の聖霊は自分の存在の最も深い部分に、すなわち自分の霊の中に住んでいることを知り、彼の教えを待つ時、聖霊は働きをすることができます。わたしたちが自分では何も追い求めることをせず、完全に教えを受けることを願う時、聖霊はわたしたちに真理を、わたしたちの思いが消化できる方法で教えることができます。さもなければ、危険性が生じます。

わたしたちが、自分の内側には霊、すなわち神の至聖所があり、それは思いや感情よりも深いものであり、聖霊と交わることのできるものであることを知り、そこにおいて神の聖霊を待つ時、わたしたちは聖霊が真にわたしたちに内住しておられることを知ります。わたしたちが彼を告白し、彼を尊ぶ時、彼はご自身の力と働きを、わたしたちの内側の隠された所から現し、わたしたちの魂と知覚の命に彼の命を得させます。」(p.32-33)

 このことからも分かるのは、まず、信徒はクリスチャンとなった時からすでに自分の内なる霊の中に一人のパースンであられる聖霊をいただいていること(クリスチャンになった後に聖霊が与えられるのではないこと)、また、聖霊は、決して私たちの意志に反して、私たちの自主性をないがしろにするような働き方をしないこと(強制したり、脅かしたり、圧迫したりしないこと)、また、御霊は、私たちの知識や思いや感情の受けいれられる限度を超えて、私たちが自分をコントロールできなくなるような形では働かれないこと、御霊は私たちの限界を考慮して下さり、私たちの内で秩序を守ってくれること、決して、私たちの精神や肉体に破壊的作用を及ぼすような形では働かれないことです。

 聖霊は私たちの自主性を尊重して、私たち自身が信仰を働かせて、御霊に従って生きることを自ら選び取るのを待っています。もしも私たちが、聖霊に教えを受けたいと願わなければ、聖霊は私たちに教えることはありません。もしも私たちが聖霊に支配していたきたいと願わないならば、私たちは御霊によって支配されることは決してありません。そして聖霊は、外からの刺激や圧迫を通じて私たちに働くのではなく、また、外から私たちに何らかの賜物として分け与えられるのでもなく、私たちが内におられる聖霊を信じて待つ時、御霊は、私たちの内側の最も奥深くから、新しい命そのものとして、命の力として、現れ出るのです。私たちの古き人を砕くための十字架は、日々外的環境を通して整えられることはあるでしょうが、たとえそのような最中にあっても、御霊の命そのものは、必ず、私たちの最も奥深い内側から(私たち自身の霊を通じて)現れ出るのです。
<つづく>
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小羊の血

「まず、『彼らは小羊の血によってうち勝ち』ました(啓示録第十二章十一節参照―筆者註)。
霊の戦いにおける勝利は小羊の血に基づきます。血は罪の赦しと救いのためだけではありません。さらに進んで、それはわたしたちがサタンにうち勝つ根拠です。

ある人たちは主にあって成長したものにとっては血はそれほど大きな価値はないと思うかもしれません。彼らは血を必要としない程度にまで成長し得るものと想像しています。わたしたちは力をこめて言わなければなりません。そんなことは決してないと! いかなる人も血の必要を超越する程度にまで成長できるものではありません。神の言葉は
『彼らは小羊の血によってうち勝った』と言います。」(ウォッチマン・ニー著、『栄光の教会』、p.144)

今回の記事では、クリスチャンがサタンに立ち向かい、勝利を得るために、キリストの御血がどれほど必要不可欠なものであるかについて話したいと思います。サタンは日夜、クリスチャンを神の御前で訴えることを職業としています。サタンは、あらゆることについて、あることないこと、クリスチャンを罪定めしようとします。可能な限りの全ての口実をとらえて、彼は私たちを訴え、有罪にしようとしています。

サタンは私たちを訴えることにおいては天才的であり、その能力は私たちの想像をはるかに越えます。私たちが犯した大小の罪が非難されるのはもちろんのこと、私たちの犯していない罪までも、非難の材料となります。私たちの過去、現在、未来についてまでその非難は及び、一瞬たりともやむことなく、まさに私たちの一挙手、一投足のすべてにサタンの非難が向けられます。私たちが良心の咎めを持つように、あらゆる状況を通じて、サタンは私たちに非難を浴びせることができるのです。

たとえば、私たちが御言葉についてちょっとでも学ぶと、その御言葉を悪用して、サタンは私たちを罪定めしようとするでしょう。私たちが、人の古き命の性質が十字架で死を経なければならないということを学ぶと、早速、サタンは私たちの古き人がまだ少しも死んでいない!と言うことを根拠に、私たちを責めます。私たちが兄弟姉妹に対して、少しでも配慮に欠ける行動を取ると、おまえには兄弟姉妹への愛がない!と、私たちを責めます。私たちのクリスチャン生活に前進がないこと、その他、ありとあらゆる材料を持ち出して、彼は私たちがしかるべき状態にない事実を強調し、責めるのです。

サタンはクリスチャンを憎悪しています。彼は人を憎み、殺し、破壊し、誘惑し、偽証し、罪に陥れますが、クリスチャンを非難することも、彼の主要な活動の一部です。

「クリスチャンに敵対するサタンの主要な活動は、彼らを訴えることです。サタンは人殺しですか。そうです。彼は偽りを言い誘惑する者ですか。そうです。彼はわたしたちを攻撃する者ですか。そうです。しかしそれだけではありません。彼の主要な働きは訴えることです啓示録第十二章十節は言っています、『……われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落とされた』と。

わたしたちはここでサタンが兄弟らを夜昼訴えるのを見ます。彼は神のみまえで訴える者であるだけでなく、またわれらの良心のなかでも訴える者です。そして彼の訴えはわたしたちを弱くし、また全く無力にさせることができます。彼は人々を訴えて、彼らに自分は役たたずだと考えさせ、そうすることで彼らが彼と戦うすべての立場を失う程度にまで彼らを訴えることを好みます。

わたしたちはわれらの罪を対処する必要がないと言っているのではありません。わたしたちは罪に対して鋭い感覚をもたねばなりません。しかしわたしたちはサタンの訴えを受けいれてはならないのです。」(p.144-145)

私たちは、自分が犯した罪については、正直に神に告白して、赦しを乞わなければなりません。自分が犯した罪までも、それはサタンの訴えだから事実無根だと言い張ってはなりません。しかしながら、サタンによってもたらされる猛烈な非難は、私たちの考えられる範囲をはるかに越え、私たちの耐えうる限度をはるかに越えています。考えてみましょう、もしも、たとえ無実であっても、私たちが法廷に被告として立たされるようなことがあれば、どれほど自分を恥ずかしく思い、意気消沈するでしょうか。それなのに、夜となく昼となく、サタンから被告として責められ続けるということが、人にとってどんなに恐ろしいダメージとなるでしょうか。サタンは実際にそうする者であると聖書は言っています。サタンはあなたを、昼夜を問わず、人前であろうと、一人でいる時であろうと、絶えず、被告席に座っている人間のように非難し続けることができるのです。そして、このようなサタンの訴えに敗北して、消耗させられているクリスチャンがあまりにも多いのです。

「いったん神の子がサタンの訴えを受けいれると、一日中彼は自分は間違っていると感じるでしょう。朝早く起きると彼は自分は間違っていると感じます。祈るためにひざまずくと自分は間違っていると感じます。そして神は自分の祈りに答えてくださると信じることさえしません。集会でひとこと語ろうとすると、自分は正しくないのだからそれは何の役にも立たないと感じます。何か主にささげ物をしようとするとき、自分のような者のささげ物をどうして神はお受けになることができようかと思い、それなのになぜ何かをささげねばならないのかしらと怪しみます。

この種のクリスチャンのおもな関心は、主イエスがいかに栄光ある勝利の方であるかではなく、あらゆる状態のもとで自分らがいかに悪しくまた無価値であるかということです。朝から晩まで自分自身は無価値であるという思いに食いつくされます。彼らは働いていても、休んでいても、歩いていても、聖書を読んでいても、または祈っていても、いかに自分は無価値であるかと考えない一瞬間もありません。これがサタンの訴えです。もしサタンがわたしたちをこのような状態に保ち続けることができたなら、これは彼が勝利を得たのです。<…>

しばしばわたしたちは、自分自身が悪いという思いで占領されると、これがクリスチャンの謙遜だと容易に考え違いしてしまいます。しかしそれはわたしたちがサタンの訴えの有害な効果を受けているにすぎないことを知らないでいるのです。わたしたちが罪を犯したときは、それを告白して対処しなければならないことは真理です。しかしわたしたちの学ばなければならないもう一つの学課があります。わたしたちは自分自身を見ないで主イエスだけを仰ぎ見ることを学ばなければなりません。朝から晩まで自分を意識することは一つの病的な状態です。それはサタンの訴えをわたしたちが受けいれた結果です。<…>

 こういうわけで、わたしたちはサタンの訴えを軽く見積もってはなりません。彼のおもな仕事はわたしたちを訴えることです。<…>ついにわたしたちの良心はすっかり弱くされて、強くなることができなくなります。」(p.145-147)

今日、自分は完全に無価値であるという病的な思いに占領されてしまっているクリスチャンは多数います。これは彼の良心がサタンによって汚され、弱くされてしまった結果です。クリスチャンは、神の御前に、何のとがめもない、清い良心を持っていなければ、神にまっすぐに向かうことができません。もしも良心がつまずくならば、私たちは自分が神に向かってもはや頭を上げることができない者であると感じ、カインのように、御前で顔を伏せます(創世記4:5)。また、自分は神にまっすぐ向かう資格のない人間だから、祈っても聞き届けられるはずがないと感じ、神から遠く切り離されていると感じるようになります。私たちは罪を犯した時に、良心のとがめを感じますが、サタンは、私たちがたとえ罪を犯していなくても、事実無根の訴えをいくらでも作り出して、私たちに良心のとがめを感じさせ、つまずきを与えることができるのです。

「クリスチャンの日常の生活と働きにおいて、彼の良心は非常に重要です。使徒パウロはコリント人への第一の手紙第八章で、もし良心が汚されるなら人は滅びると言っています。この滅びるというのは永遠の滅亡のことではありません。ただその人はもう建て上げられることができなくなるという意味です。彼はあまりに弱くされてしまい役にたたなくなるのです。テモテへの第一の手紙第一章は良心を捨てたために信仰の破船をする人のことを言っています。破船したら航行することはできません。

こういうわけでクリスチャンが神の前に立つことができるかどうかは、彼がその良心につまずきがあるかどうかにかかります。いったんサタンの訴えを受けいれると、彼の良心はつまずきます。いったんその良心がつまずくと彼はもう神のために奉仕を続けることも、戦うこともできません。こういうわけでわたしたちはサタンのおもなわざはわたしたちを訴えることにあること、そしてわたしたちがうち勝たねばならないのは彼のこのわざであることを認識しなければなりません。」(p.147)


私たちは神の御前につまずきのない良心を持たなければなりません。そうすれば、私たちはまっすぐに神に向かい、神に心から礼拝を捧げ、喜んで御国のために働くことができます。しかし、私たちは罪を犯すことのある、間違いやすい人間です。どうすれば、聖なる神の御前に、清く汚れのない良心を維持し、サタンの訴えを退けることができるのでしょうか。

「どのようにしてわたしたちはサタンの訴えにうち勝つことができるのでしょうか。天からの声がわたしたちに告げます、『彼らは小羊の血によって彼にうち勝つ』と。血が勝利の根拠です。またそれがサタンにうち勝つ武器です。サタンはわたしたちを訴えるかもしれません。しかしわたしたちは御子イエス・キリストの血がすべての罪からわたしたちをきよめると答えることができます(第一ヨハネ一・七)。『すべての罪』とは大きかろうが小さかろうがどんな罪をも意味します。御子の血はわたしたちをそれらすべてからきよめるのです。

サタンはわたしたちが間違っていると言うかもしれません。しかしわたしたちは主イエスの血をもっています。主イエスの血はわたしたちの多くの罪すべてをきよめ去ることができます。これは神の言葉です、『御子イエスの血がすべての罪からわたしたちをきよめるのである』

 わたしたちは理由のない訴えを退けるだけでなく、理由のあるすべての訴えもまた退けなければなりません。神の子たちが何か間違ったことをしたとき、彼らは御子イエスの血だけを必要とするのであって、サタンの訴えなど必要としません。罪のために必要なのは尊い血です。訴えではありません。わたしたちが罪を犯した後訴えが必要であるなど、神の言葉は決して言っていません。ただ一つ問題はわたしたちが罪を告白したかどうかです。もしわたしたちがそれを言いあらわしたなら、それ以上何か言われるはずがありましょうか。<…>万一罪を犯したとしてもそれを言いあらわしたなら、わたしたちは訴えられるはずがありません。」(p.148-149)


こうして、神に向かって正直に罪を告白し、主イエスの血潮によって清められることを通して、私たちは、根拠のある訴えからも、根拠のない訴えからも、救い出されるのです。小羊の血は私たちのあらゆる罪を無効にすることができ、また、たとえサタンが私たちが犯してもいない罪を訴えたとしても、それも当然、無効にする根拠となります。私たちはあらゆる機会に主イエスの血による清めを求めて祈ることができます。そうして小羊の血を自分に適用したならば、私たちは神の御前に罪汚れない者とされたのですから、それ以上、サタンの訴えに耳を貸してはなりません。(それは感覚の問題ではありません。たとえ主イエスの血による清めを求めて祈った時に何の感覚がなくとも、私たちは清められたことを信じなければなりません。)

サタンは絶え間なく、私たちがいかに善良さに欠けているか、いかに欠点だらけで、未熟で、幼く、神の御前で忌むべき役に立たない人間であるかということを、繰り返し、繰り返し、強調するでしょう。サタンは言うでしょう、おまえの性格はあまりにも自己中心すぎる、おまえの古き人が邪魔になっている、おまえは傲慢すぎるゆえ、奉仕の役に立たない、あるいは、未熟すぎて、まだそんな奉仕をする力はない、等々。あらゆる機会をとらえて、サタンは私たちの振る舞いが常に間違っていると強調し、私たちが御国のための働き人にふさわしくない欠点を持っていることを非難するでしょう。そして、私たちがそういう自分のあれやこれやの未熟さや、欠点にばかり、絶えず、目を向けて、失意落胆するように仕向けるでしょう。そしてその欠点を何とか自力で克服して、もっともっと信仰的に成熟した人となり、自分の力でそれなりの義に達しなければ、人も私たちを受けいれないばかりか、まして神は、私たちを決して受けいれるはずがない、と言うでしょう。そんな訴えに耳を貸してはなりません!

「…わたしたちはどっちみち神の前に積極的な善など一つも持っていなかったことを記憶しなければなりません。神にささげることのできる善など一つもわたしたち自身のうちになかったのです。わたしたちはただ一つのもの―血―だけを神にプレゼントすることができます。わたしたちは血によってのみ義とされます。わたしたちのうちに積極的な義など一つもありません。わたしたちは贖いによって受ける義によってのみ義となります。恵みの御座に来る度ごとにわたしたちは恵みを求めて彼を仰ぎ見ることができます。それは恵みの御座です。義の御座ではありません。

わたしたちが神の前に来る度ごとに、わたしたちの唯一の資格は贖われたということです。クリスチャン生活でわたしたちがどれだけ前進したかではありません。『自分は最近かなりよくやっている、今やわたしは大胆に祈れるようになった』ということのできる段階にかりにも達することのできたクリスチャンなど一人もありません。そうです。わたしたちが神の前に出るとき、わたしたちの唯一の根拠、わたしたちの唯一の地位は血です。それは血の上に基礎づけられています。霊的成長のどれほどの量も血の効力に代わり得るものではないことをわたしたちは認識しなければなりません。霊的経験の一つだに血の働きにとって代わることはできません。<…>

 時々わたしたちが罪を犯したとき、サタンが来てわたしたちを訴えます。また時々わたしたちが罪を犯したのでもないのに、やはりサタンがわたしたちを訴えに来ます。時々それはわたしたちが罪を犯したかどうかの問題ではなく、わたしたちが神にささげる積極的な義を持っていないことが問題になります。そこでサタンはわたしたちを訴えます。しかしわたしたちはここではっきりしていなければなりません。わたしたちが神のみ前に来るのは血のゆえだけであって、他の何物にもよらないということですわたしたちが血によってきよめられ、血によって義とされた以上、わたしたちはサタンの訴えを受けるいかなる義務もないということです。

 尊き血は霊的戦争の根拠です。血の価値を知らないとしたら、わたしたちは戦うことができません。いったんわたしたちの良心が弱くされたら、おしまいです。こういうわけでわたしたちは責められるところのない、きよい良心を維持していないのでしたら、サタンを対処する道がありません。サタンはわたしたちに対抗して訴えようとしたら幾千という理由を使うことができます。もしそれらを受けいれたなら、わたしたちは倒れます。しかしサタンが語りかけてくるとき、わたしたちは血の答え一つで彼のすべての理由に答えることができます。血によって答えることのできないただの一つの理由もないのです。」(p.150-152)

 ハレルヤ! 小羊の血は全ての罪や汚れ(良心につまずきを与える全てのものを含む)から私たちを清めることができるのです。私たちが未熟でないことや、義人であろうと努力していることや、クリスチャン生活で前進していることなどが、私たちが神に受けいれられる条件なのではありません! 私たちの古き人がどの程度、十字架で死んでいるかが、神が私たちを受けいれる基準となるのではありません! 私たちがクリスチャン生活でどれくらい人に頼ることなく、自立して生きられるようになったかが、私たちが神の御前に義とされる根拠になるのではありません! ただ私たちが主イエスの血によって清められているかどうか、私たちに小羊の血が適用されているかどうか、それだけを神はご覧になるのです。小羊の血によってすでに清められたのなら、何も心配することはありません。神はキリストの血をご覧になって、私たちを義なる者として受けいれてくださるのです。

主イエスはわたしたちのための大祭司であり、仲保者であります(ヘブル二・一七―一八、四・一四―一六、七・二〇―二八、八・六、九・一五、第一ヨハネ二・一参照)。彼はいつでもこの地位―大祭司と仲保者として仕えておられます。彼の奉仕の目的はわたしたちをサタンの訴えから守るためです。人が彼を救い主として受けいれるのはわずか一瞬間のことです。しかしサタンの訴えに立ち向かうことは一生涯の問題です。

ギリシャ語の『仲保者』は『任命された弁護者』を意味します。主はわたしたちの仲保者、わたしたちの弁護者です。主はわたしたちのために語られるのです。問題はわたしたちが仲保者の側に立つか、それとも告訴者の側に立つかです。わたしたちの仲保者がわたしたちを弁護している最中に、わたしたちが告訴者の言葉を信ずるとしたら、それは馬鹿げたことです。弁護者がしきりに被告の有罪でないことを証明しているのに、被告は頑として告訴者を信ずるとしたら、それは全く馬鹿げたことではないでしょうか。

ああ、どうかわたしたちが主イエスはわたしたちの仲保者であること、また彼はわたしたちを弁護しておられることを見ますように。もしわたしたちが血の価値を認識するなら、今日地上に平安と歓喜のクリスチャンは大いに増加することでしょう。」(p.153-154)

この世で、人々は裁判で勝訴するために高いお金を払って有能な弁護士を雇います。しかし、クリスチャンには最高の弁護者がすでに任命されているのです。主イエスご自身が、私たちをサタンの訴えから守るために、私たちの弁護に立ち、私たちに日々仕えて下さっているのです! 被告席に座って、サタンの訴えを延々と聞かされるのは惨めな立場に思われるかも知れません。しかし勇気を出しましょう、私たちがどんなに弱くとも、主イエスご自身が私たちのために贖いとなられ、その血潮によって私たちを清めてくださり、私たちを弁護するために仕えて下さっているのです。これほど頼もしく光栄なことがあるでしょうか。小羊の血によって対処するならば、サタンのあらゆる訴えが無効になります。生涯、小羊の血によって、私たちはサタンの訴えに打ち勝たねばなりません。私たちは生涯、主イエスの血に頼り、キリストの御血に信頼しなければなりません。

「神はわたしたちを多くの無意味な訴えから救い出すことを願われます。神はそれらのくさりを断ち切りたいのです。来る日も来る日も訴えを受け入れ続けることが、わたしたちの謙遜であるなどと決して思ってはなりません。わたしたちはこれらの訴えにうち勝つことを学ばなければなりません。<…>勝利者は、血の価値を知らなければなりません。」(p.154-155)

十字架に戻れ!(5)

再び補足:十字架の間違った取り扱い方について

最近、気づかされたことがあります。それは、十字架の概念が度々、交わりの中で、誤用されている現実があるということでした。この危険性は、私たちが気づかないうちに忍び寄って来ます。たとえば、人が人に身勝手な要求を突きつけ、思い通りにならない人を責めたり、あるいは、厄介払いするための根拠として、「十字架」が使われている場合があり、それが意識もせずに行われ、キリストの御身体に損傷をもたらしている場合があります。

日々の十字架は、人が上からの光に照らされて、自主的に選び、負うべきものであって、いかなる理由があろうとも、人が人にそれを当然のごとく負わせるべきではありません。たとえば、私たちがある人に向かって、「あなたのその汚れた思いや感情という、古い自己を、さっさと十字架につけて下さい!」と命令するのは正しいことでしょうか。間違っています。

あるいは、仮に私たちが耐えられないほど嫌な人間に出会ったとしましょう。それでも、「あなたのその古い人を早く十字架で対処してください! 私があなたとつきあうのはそれからです」と、相手に求めてよいでしょうか。いいえ。私たちには、正直に、自分の思いを相手に告げて、つきあいが困難である人から離れ去ることは許されるでしょう。しかし、自分の嫌悪感を正当化する根拠として、御言葉を利用し、「その人の古き人が十字架で対処されていない」問題を持ち出すのは間違っています。

十字架がある人の人生において、どの程度、具体的経験として理解されているかは、人によって違いがあります。クリスチャンは、日々、十字架をより深く理解し、経験することをすすんで追い求めるべきです。いつまでも信仰の幼子のようであって良いと考えるのは間違っているでしょう。ですが、だからといって、そのことが他人への当然の要求や、強制となってはいけません。

私たちは、ある人が、まだ経験したことのない十字架の深い意義を、無理にでも、その人に経験させようと強いるべきではありませんし、また、その経験のなさを、非難したりすべきでもありません。

また、人が人に何かの負担を強いることの口実として、「自己を捨てる」よう要求したり、「十字架で自己を死に渡す」よう求めたりしてはなりません。それは十字架の概念の悪用です。人が自分の愛の足りなさ、寛容のなさ、利己主義を覆い隠すための口実として、他人にとって不利な負担を「十字架」としてすすんで耐え忍ぶよう要求したりしてはいけません。人から要求される「十字架」(多くの場合、圧迫や非難としてやって来る)には、常に注意が必要です。それは実に多くの場合、十字架の誤った取り扱い方に基づいているからです。

主は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われました(マタイ11:30)。また、「…日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(ルカ9:23)とも、言われました。神は常に人の自由意志を尊重して働かれます。私たちが強制されてではなく、自分の意志で、神が望まれる日々の十字架を選び取ることを、主は願っておられます。御霊は常に人の決定を待っていてくださり、人の意志を無視して働かれません。ですから、私たちは、御霊でないものから、十字架を強制的に負わされる必要はありませんし、十字架を理由に人から支配されたりしてはなりません。私たちはただ主から十字架を受け取れば良いのであって、人からそれを強制される必要は全くありません。

人が人に十字架を無理にでも負わせようとすることは、人が神に代わろうとする越権行為です。人が御霊の働きを越えて、他人に対して、「古き人が死ぬこと」や、「自分の命を捨てること」や、「十字架を負うこと」を求めるべきではありません。十字架はあくまで人の完全な自主性に基づいて選び取られなければなりません。また、人が十字架をすすんで負うためには、まず、その人の内側で、上からの聖霊による照らしと導きがなければなりません。人は御霊によって、日々、キリストの十字架へと導かれるのでなければなりません。もしそうでなければ、十字架の意味は全くありません。私たちは十字架について人に語り、勧めることは許されるでしょう。けれども、その人自身がまだ主から示されていない問題を、まるで当然のごとく、理解するよう人に要求してはいけません。また、苦手な人を排除する理由として十字架や古き人の問題を持ち出してはなりません。もしも、人の自主性を無視して、人から人への強制として押し付けられる十字架があるならば、それはたやすくカルトへと結びつくでしょう。

信仰暦の長さに関係なく、私たちは、御霊の働きを妨げるそのような越権行為を他人に対して気づかずにしてしまう場合があります。ある時は、私たちは、高慢ゆえに、主より先走って、人に犠牲を求めていながら、それを「十字架」という言葉で正当化している場合があるかも知れません。または、自分では気づかずに、自分に有利な状況を作り出すために、他人に「十字架」を課そうとしている場合があるかも知れません。私たち人間には、そのようにして十字架の概念を利己的に歪め、他人を支配する口実として用いる危険性が十分にあることをいつも覚えておく必要があります。そのような危険性の中に、気づかずに足を踏み入れてはいないか、自分を振り返る必要があります。

私たちは、決して、主の働きを越えてまで、その人の自主性を侵害してまで、あるいは、御言葉の本来の意図を外れてまで、自分勝手な理由で、人に十字架を強制することがないよう常に気をつけるべきです。十字架は、キリストが私たちに与えて下さった最も尊い御業です。十字架は、キリストの命の最高の表現であり、私たちに与えられている最大の恵みです。それは神と人との和解の場であり、人と人との和解の場でもあります。私たちを新しい人としてくれる唯一の通路が、十字架です。にも関わらず、尊い十字架を、私たちが互いに裁き合ったり、責め合ったり、排除し合ったり、利己主義をかなえたりする道具として使うことがないように、常に気をつけていなければなりません。


十字架に戻れ!(4)

主にあって強くなりなさい!

 肉には色々な性質があります。必ずしも否定的に見える性質だけではありません。すでに語ってきたように、肉には長所もあり、善を行う能力もあります。しかし、いずれにせよ、御言葉は、私たちの肉そのもの、さらに、肉や魂を支配している、生まれながらの古い命そのものが、堕落・腐敗した、罪なる性質を帯びたものであり、神の御前に、呪われた厭うべきものであることを示しています。肉にある者は神を喜ばせることはできません! 私たちが持っている生まれながらの命、古き人は、神の御前に永久に呪われ、廃棄されねばならないのです。

 人の生まれながらの魂は、自己を喜ばせ、自己に栄光を帰するために活動しようとします。私たちの魂は常に「自己」を中心として活動します。魂のそのような利己的で邪悪な性質も、古い人に属するものであり、私たちが御霊に従って歩むことを絶えず妨げます。
 「魂は、見られ、知られ、聞かれることを望む自分の中の『わたし』という自己愛、高慢の場所です。また、実際は『わたしは他の者のようではないことを神に感謝します』と言っている、宗教的高慢さに満ちた所でもあります。この宗教的高慢さは、最も霊的な魂の中にも忍び寄り、汚してしまいます。」(ウォッチマン・ニー全集第一巻、付録1、チャールズ・アシャー、p.248)

 私たちの肉と魂を支配するこの古い命の邪悪な性質を対処することができるのは、カルバリだけです。
 主イエスの御血の清めは、私たちを罪の汚れから清めますが、十字架は、私たちの古い命の邪悪な性質そのものを対処します。チャールズ・アシャーは言います、「わたしたちの邪悪な性質を対処するのは、血の清めではなく、十字架です。『わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた』(ローマ六・六)。『キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を……十字架につけてしまったのである』(ガラテヤ五・二四)。」(同上)

 カルバリの十字架において、主イエスはご自身の肉に私たちの肉を含められ、それらを全てはりつけにされました。信じる者にとって、十字架は、私たちの古き人―罪の肉が最も恥辱をこうむった形で永遠にさらしものとされている場所です。そこでは、私たちの古き人が、キリストと共に、死刑宣告を受け、刑罰に処され、殺されました。私たちの古い命は、カルバリで死に渡されました。サタンの思うままに支配されていた肉は、もはや死んだので、効力を失いました。これは霊的な事実です。私たちがこの霊的な事実を信仰によって日々、自分のものとして受け取る時、キリストの死と復活の力が私たちの内で実際となるのです。

 パウロは、コロサイ人への手紙第二章十四、十五節でこう言います、「神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。」

 イエスは十字架に向かわれるよりも前に、こう言われました、「…ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・十四、十五)
 モーセが荒野で青銅の蛇を掲げ、それを見た民が、蛇の毒から救われて生き延びた(民数記二一・九)ことは、このカルバリの予表でした。今日、御子の十字架を信じる者は、蛇(サタン)の死の毒から救われて、もはや罪に汚されることのない、清く、新しい、神の霊なる命によって生きるのです。

 御子が十字架につけられた瞬間は、サタンにとって、あたかも、勝利の瞬間のように思われたでしょう、それはあたかも神の敗北であるかのように見えたでしょう。しかし、主を誉めたたえます、御子はサタンによってもたらされた死を通して、逆説的に、サタンに勝利されたのです。主イエスは「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし」(ヘブル二・十四)たのです。

 主イエスは蛇(サタン)によって堕落させられた人類の罪を贖うために、十字架に上げられました。主イエスはそこで死なれましたが、カルバリで実際に滅ぼされたのは、蛇(サタン)でした。主イエスは肉体においては、全人類の身代わりに罪に定められて一度、死なれましたが、彼の内にある神の命は、彼の人としての死によっては何の損傷も受けることなく、よみがえりの命として、主を三日目に復活させたのです。それによって、主は蛇が人にもたらすことのできる最大の破壊である死に打ち勝ちました。そして、十字架を通して、主は、ご自身だけでなく、御子を信じる全ての人が、蛇に毒されることのない、神の新しい命によって生きる道を、キリストのご性質によって形作られる新しい人として生きる道を開かれました。カルバリは、主の死によって、蛇自身が滅ぼされる場所となったのです。

「創造主はその御子のパースンにおいて、全世界の罪をご自身の上に担い<…>、血と肉にあずかり、堕落した種族へと結合されるという束縛を受けられ、その神聖な性質において、あの堕落したアダムの命を十字架へともたらし、避けることのできない当然支払うべきものでもあり、またその結果でもある死の刑罰をそこで受けられました。それは、彼がその堕落した被造物のために、神へと立ち返る道を切り開き、彼の性質と実質そのものから建造され、形づくられた新しい種族のかしらとなるためです。」(付録5、ジェシー・ペン-ルイス、「十字架は蛇を滅ぼす」、p.297)

 十字架は堕落したアダムに属する人類の古い命が、神の刑罰を受けて死に渡される場所です。そしてまたカルバリは、堕落した古い種族が死んで、その代わりに、神の命と性質にあずかる新しい種族が生まれる場所でもあります。このカルバリに立ち、主の死に自分の死を同一化し、私たちの罪なる肉がすでにキリストと共に死刑に処せられた事実を、信仰によって受け取ることを通して、私たちは初めて、それまで自分を支配してきた罪の肉による支配から解放され、サタンによって支配されることのない、復活の新しい命によって生かされるのです。

 私たちの堕落した肉、魂、古き人は、これまで、邪悪な暗闇の勢力のもろもろの支配と権威に服し、邪悪な勢力によって思うがままに占有されてきました。わたしたちの内の古き人は、常に、サタンとその邪悪な霊たちを強めるための武具となり、彼らの家財道具となってきました。しかし、主イエスはカルバリで彼らに打ち勝たれ、強い人であるサタンを縛り上げ、サタンの武具とされて来た私たちの罪の肉を、ご自身からはぎとって、逆に、永久にさらしものとされたのです。こうして、サタンの支配と権威は、私たちから解除され、カルバリで主と共に私たちも凱旋し、サタンと邪悪な霊たちの支配と権威は永久に打ち負かされ、恥辱をこうむったのです。

「これが、その神聖な目的における十字架の意味であり、堕落した人がこの世、肉、悪魔に打ち勝つ勝利の道です。これが、堕落、すなわちサタンの霊によって占有された堕落した肉の意味です。これが、サタンに対する、また罪に対するカルバリの答えです。堕落した被造物が十字架につけられたのは、すべての人が古い種族から離れ去るという選択を持ち、最初のアダムという共通のかしらから離れ去り、『キリストにあって』再び新創造を始めるためです。」(同上、p.297-298)

 私たちは、自分は長い間、罪に支配されてきたので、そこから抜け出すのはあまりにも困難である、と言うかも知れません。私はあまりにも弱く、罪や誘惑に打ち勝つ力が少しもない、と言うかも知れません。しかし、私たちは決して、自分自身の弱さを見つめて絶望してはなりません。私たちがどんなに弱く、未熟であり、信仰生活において勝利した経験が少なくとも、カルバリには神の勝利の命があります。私たちは絶えず、十字架を通して、自分がすでに暗闇の支配から新しい命へと移し出されたことを信じる必要があります、そして、御子が十字架で達成された事実に基づき、古い命ではなく、新しい命である聖霊によって支配されて生きることを、大胆に神に願いもとめる権利があります。十字架は私たちをアダムの種族から連れ出し、新創造へ入らせる道をすでに開いてくれているのです。私たちは道であられるイエスを通って、キリストの新しい命を生きなければなりません。そのことによって、私たちは暗闇の勢力に実際に勝利し、キリストの支配をこの地にもたらす人となるのです。

「キリストにある信者と、やみの力に関する神の目的は何でしょうか? これを見るために、わたしたちはカルバリにおけるキリストの働きへと目を向け、カルバリの勝利を理解しなければなりません。カルバリの十字架において、彼はご自身から邪悪な支配と権威とをかなぐり捨てて、彼らをさらしものとされました。

キリストの死において彼と同一化された魂は、彼と共に、また彼にあって、『やみの王国』から昇天された主の『統治する命』の中へと移されています。カルバリの勝利を通して、あなたは神の目的にあってやみの王国から移し出され、その領域の中を歩かず、その視点、尺度、方法、邪悪さを受け入れないのです。

 しかし、これが実際の経験となる前に、あなたはまず、あなたに対する神の全き目的と、彼があなたをやみの力から移し出してくださったことを理解する必要があります。それは、やみの君がもうあなたに要求したりせず、あなたに対する権利も持たないようになるためです。というのは、神はその統治する命にあって、『(わたしたちをキリストと共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さった』からです。

たとえどれほどあなたがその経験に不足していようとも、あなたは自分に対する神の目的を決して引き下げずに、常に彼の意図を見つめ続け、彼が目的としておられる命へと、あなたを導いてくださるよう彼に求めなければならないことを覚えてください。あなたの立場は、『やみの力から移し出されている』というものです。

それでは、どれだけあなたは自分自身の中で、また自分の生活の中で、実際的に敵を縛っているでしょうか? <…>あなたの願いは、『やみの力から、その愛する御子の支配下に移され』、『キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さった』という神のみこころと同じでしょうか?(コロサイ一・十三―筆者註)」(付録6、ジェシー・ペン-ルイス、「やみの力から移し出される」、p.300-301)

 ジェシー・ペン-ルイスによれば、クリスチャンは三つの側面で勝利を得なければなりません。一つ目は、罪に対する勝利であり、すでに再三、語ってきたように、私たちが肉や魂の古い人に対して打ち勝つことです。ローマ人への手紙第六章は、十字架によって、私たちが「罪に対して死んだ者である」ことを認めるように教えています。第二の面は、たとえ私たちがキリストの御名のために人々に誤解され、そしられ、迫害され、罪に定められるようなことがあったとしても、その苦難を最後まで耐え忍ぶことによって勝利を得ること、あらゆる苦難に「勝ち得て余りがある」(ローマ八・三七)ようになることです。第三の面は、「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう。」(ヤコブ三・七)、キリストの御名によって悪魔に堅く抵抗する(Ⅰペテロ五・九)ことです。

 時々、これらの三つの面は互いに関連し合ってやって来ることもあるようです。たとえば、サタンの圧迫は、しばしば、身近な人々を通して私たちにもたらされます。身近な人々が、私たちに、信仰から逸れるように要求したり、圧力をかけたりすることがあります。それらの要求は、私たちが御霊ではなく、再び、肉に従って歩むようにという内容であるかも知れません。さらに、もしも私たちが彼らの助言や要求を拒否するならば、多くの人たちから非難されるかも知れない状況があるかも知れません。そんな時、私たちはこの全てに立ち向かって勝利せねばなりません。肉に従って歩むことは拒否せねばなりません。しかし、人々に対しては、小羊のようであらねばなりません。たとえ人から誤解され、そしられ、不当な苦しみを受けても、それらを耐え忍び、人を脅かさず、悪をもって悪に報いてはなりません(Ⅰペテロ三・九)。しかし、サタンの要求そのものに対しては、毅然と立ち向かって、それを積極的に拒まなければなりません。

 クリスチャンには火のように試練が降りかかることが御言葉によって予告されていますが(Ⅰペテロ四・十二)、これらの試練に打ち勝つことは、自分自身の力によっては到底、不可能です。私たちはただ「しし―小羊」であるキリストの命によって強くならなければなりません。試みを受けた時、私たちの内にキリストの霊が見いだされるのでなければなりません。

エペソ人への手紙第六章は、敵に抵抗することにおける、勝利の生活のこの最後の面を描写しています。主イエスは人に対して『小羊』であると共に、悪魔に対しては『しし』でした。彼はもろもろの支配と権威との武装を解除し、彼らをさらしものとされました。そして、人の目には敗北であったことが、神の目には勝利となったのです。人の目には『恥』であったことが、神の目には勝利であったのです。サタンとその邪悪な軍勢すべてに対しては、キリストはしし、すなわち、ユダ族のししでした。

 エペソ人への手紙第六章でわたしたちは、やみの力に対する何か霊的な戦い、ししの命を見ます。ここでわたしたちは、兵士の霊を持った兵士を見ます。『こういうわけで、強くなりなさい』。人の側では、キリストは『弱さのゆえに十字架につけられた』(Ⅱコリント十三・四―筆者註)のでした。しかし、彼は『強く』、『強い人』よりももっと強いのでした。彼の名は『強い』です。『もっと強い者が襲ってきて』(ルカ十一・二二―筆者註)。ですから、キリストの名は『もっと強い者』です。彼は『強い人』よりもっと強いのです。

ですから、『キリストの中に』立ち、サタンへと立ち向かう信者に対するメッセージの言葉は、『強くなりなさい』です。もはやあなたは、『弱さ』について語ってはなりません。あなたは人性と自分自身においては弱いかもしれません。しかしあなたは『主にあって強く』ならなければなりません。」(付録4、ジェシー・ペン-ルイス、「勝ち得て余りがある」、p.291)

 クリスチャンはたとえどのように信仰の幼い者であっても、すでに主を信じた時から、サタンとの荒れ狂う霊的な戦いへと一歩を踏み出しています。その戦いにおいて、いつまでも自分の弱さばかりを見つめている未熟な新兵であってはなりません。私たちは主にあって、強くされる方法を学ばなければなりません。

「最後に言う、主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。」(エペソ六・十、十一)

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ十六・三三)

<つづく>

十字架に戻れ!(3)

補足:カルバリについてのありがちな重大な誤解について

 以下に書いてきたような十字架のより深い認識について語ると、ある人はこう反駁します、「御子はすでに十字架上で勝利を取られたのだから、もはや私たちにはすることは何も残されていないはずです。サタンはすでに敗北しているのでしょう? 戦いはもう終わっているのでしょう? 私はもうサタンから完全に解放されたので、二度と、罪は私に触れることはできなくなったのです。私は神によって聖なるものとされ、もはや罪けがれとは全く無縁の人間になったのです。なのに、どうして私がこれ以上、サタンを恐れたり、警戒したりしなければならないのですか。どうして私がこれ以上、サタンの道具となるようなことがあり得るでしょう? そんなのは嘘です。そんなのはクリスチャンに対する侮辱です。サタンは敗北しているのです。彼はクリスチャンに対して何の権利も持たないのです。

 ですから、日々サタンは状況を通して私を圧迫しているとか、私の内に残る旧創造をサタンが利用して私に何とか罪を犯させようとしているとか、その旧創造を私がさらに十字架で死に渡さなければならないとかいった類の話は信じません。十字架を信じた時に、私はそれら一切からすでに解放されて、旧創造から全くきよめられたのです。この上まだ、解放を求める必要があるとは思えません。」

 読者よ、このような短絡的な誤りに落ちてはなりません。このような言い分は、二つの点で完全に誤っています。一つ目の間違いは、このような考えは、キリスト者が生涯においてずっと、十字架にとどまり続け、絶えず十字架が彼に適用される必要があり、そうでなければ彼はサタンに勝利する力を持たないという事実を見落としていること、また、十字架には罪からの贖いに加えて、私たちの古い命の性質を対処するという、より深い意義があり、私たちがそれを理解しておらず、求めてもいないうちに、それが私たちの意志を越えて自動的に適用されることはない、という事実を見落としてしまっている点です。

 十字架は永遠に達成された事実です。私たちは信仰によって、それを信じ、罪からの贖いを受け取り、クリスチャンとされました。しかし、十字架の意義はそれが全てではありません。私たちが罪からの贖いを受け取っただけであるのに、そこであたかも信仰の歩みはすべて完了してしまったかのように思い、私たちにはもう何もすることは残されておらず、十字架のさらに深い意義を経験する必要もないと考え、自分はもはやいかなる罪なる性質とも無縁な、完全にきよめられた人となったので、サタンを警戒する必要もなくなったと考えることは、完全な間違いです。

 私たちが主イエスを信じた瞬間から、神は、御子を受け入れたのと同様に、私たちをも受け入れてくださいます。私たちは救いを得た瞬間から、神の子供たちとされ、御子のあらゆるご性質にあずかるものとなりました。しかし、それは私たちの地位を保証しているのであって、私たちの実際の経験を表しているのではありません。実際には、救いを得た直後には、私たちは幼子のようなクリスチャンであって、さらに成熟していく必要があります。この地上において、私たちが、主に従う成熟した働き人となるためには、私たちは自分の古い命の性質が何であるかを知り、それが十字架を通して対処されることを避けて通るわけにいきません。

 思い出してください。ペテロは主イエスをとても愛して従っていたので、たとえ全ての弟子が主を見捨てて逃げ去っても、自分だけは、主を裏切ることなどありえないと自負していました。しかし、その愛は、彼の生まれながらの人(旧創造)から出て来た愛であり、いわば、彼の肉による誇りでした。それは主に従うには全く役に立たないものでした。しかし、その時、ペテロは自分に自信を持っており、自分の生まれながらの肉の強さが主に従うのには全く役に立たないものであり、むしろ、取り除かれなければならないものであるとは考えてもみませんでした。そこで、イエスは、ペテロが主を裏切り、見捨て、三度に渡って主を否定するという手痛い失敗を経験することを通して、自分が頼みとしてきたものが、神の御前では腐敗したものであるという事実を知り、自分の生まれながらの命が、主に従うのには全く役に立たないことを理解するよう導かないわけにはいかなかったのです。

 主に従うためには、私たちの生まれながらの、肉による力や、生まれながらの魂から来る感情は役に立ちません。主に従うためには、ただ上から、御霊によって与えられる新しい命の力や愛がなければならないのです。しかし、私たちはその事実をほとんど知っておらず、何が肉であり、何が御霊からのものであるかさえ、区別がついていません。そして自分勝手な思いに基づいて、主を喜ばせようとして、肉に頼って歩んでいることが多いのです。そこで、主は私たちにそれらの区別を知らせ、私たちの生まれながらの命の性質が死ななければならないものであることを教えるために、様々な出来事を按配する必要があるのです。

 神はどんな事柄についても、人の自由意志を尊重されます。それは、言い換えるならば、私たちの同意なしに、神は私たちの内で働かれないということを意味します。私たちが、日々、信仰と意志を活用して、神に向かって、具体的に祈り求め、信じた分だけしか、神は私たちに働くことができないのです。たとえ私たちの内にどれほどの腐敗が残されていたとしても、神は私たちの意志を越えて私たちを対処することはなさいません。それほどまでに、神は人の意志を尊重しておられるからです。

 このことは、私たちの内の古き人が十字架で対処されることについても言えます。神は決して、強制的に、あるいは自動的に、十字架を通して、何が何でも、私たちの古い命を対処するというようなことはなさいません。それは私たちの信仰による理解と求めに応じて、実際となります。もしも私たちが、キリストと共に、十字架で自分の肉がはりつけにされたという事実を信じないらば、十字架は実際に私たちの肉の働きを殺すことはありません。もしも私たちが十字架で自分の古い命の性質が死んだという事実を信じないならば、それは私たちの古い命の性質を実際に死に渡すことはありません。

 私たちの信仰(理解し、求めること)に応じて、十字架はより深く私たちの内に働きます。私たちが理解しておらず、求めてもいないものが、自動的に、私たちに適用されるようなことはありません。私たちがただ罪からの贖いのためだけに十字架を信じているうちに、十字架を通して、私たちの古き命の性質が死に渡されるようなことはないでしょう。後者は、私たちがより深く十字架の意義を認識し、それを求めた時に、それに応じて実際となるでしょう。

 私たちは恐らく、ペテロの失敗とよく似たような体験を通して、救いを得た後になっても、様々な出来事を通して、依然として、自分の肉がまだ生きていることを知るでしょう。主に従っているつもりが、肉によって歩んでいるだけであることを、神からの光を通して、何度も、何度も、教えられるでしょう。こうして、自己の腐敗の深さを知り、十字架を通して、自己を対処される必要があることを、私たちは、幾度も学ばされます。私たちは、救いを得たからといって、決して、その瞬間から、いかなる罪や汚れとも無縁のスーパーマンになったのではないことを思い知ります。救いを得た後も、私たちの自己は、依然として生きており、常に主に従う妨げとなっており、サタンを利する機会を与えていることを知らされるのです。それが分かる度に、私たちは沈痛な思いで、以前よりもさらに深く自己の腐敗を感じるようになるでしょう。そして、深いうめきを持って、その腐敗した性質から神が私たちを解放して下さることを願い求めるようになるでしょう。その時、私たちは十字架を以前よりもより一層深く理解し、旧創造を殺す十字架の働きを求めて祈るようになります。

 もしも私たちが「自分の内には十字架で対処されなければならないような古き命の性質は何もありません」と言い張るならば、神がそれを対処されることはありません。ですが、もし私たちが様々な失敗を通して、自分の内にある古い命から来る性質が、十字架によって死に渡される必要があることを認め、それを望むなら、その時、十字架上での御子の死はあなたの内で実際となり、古い性質は死に、よみがえりの命によって、あなたは全く新しくされるでしょう。

 こうして、十字架を通して、生まれながらの命である自己が対処されることは、一瞬で終わるようなことはなく、生涯に渡って、何度も、何度も続くでしょう。それなくして、私たちがさらにきよめられて、御心を地に成すための忠実な働き人へと変えられていくことはありません。自己の腐敗が明るみに出され、私たちが主の光によって倒されることは、痛みを伴う過程ですが、このような、痛みを伴う日々の十字架を避けながら、クリスチャンが実際にキリストの似姿へと変えられていくことは決してありません。

 これは決して、禁欲主義的な自制を通して、私たちが自分で自己を抑圧することと混同されてはなりません。私たちの旧創造を対処できるのは、神ご自身だけです。十字架は確かに、私たちが全く新しい人へと変えられる権利を保障してくれています。私たちは、それを信仰によって受け取り、神の命によって、日々、新しくされる必要があります。ある日、信じたから、それで終わりということは決してありません。古き命に死に、新しくされることは、人生を通じてずっと続かなければなりません。私たちはパウロのように、自分は日々死んでいるという認識に立たねばなりません。神の命の現われを妨げている私たちの自己、すなわち、古い命は、日々、死に渡され、無効にされなければなりません。

 そんなわけで、もしも前進するクリスチャン生活を送りたいのであれば、このようにしてキリストとの結合を積極的に選び取ることは、生涯、必要です。もしも、私たちが、日々、自分の十字架を取って、イエスに従うということを自主的に選び取らないならば、もしも自分の生まれながらの命の性質を憎み、それが死に渡される必要があることを認めないならば、私たちは、(たとえ永遠の命は得ていたとしても)、キリストの似姿へと変えられるチャンスを失うでしょう。キリストの死とよみがえりの命は、私たちの信仰による日々の応答なしに、自動的に私たちに適用されません。もしも私たちが自分の中には何もきよめられる必要のあるものはないと言うならば、神はそれ以上、私たちを新しくすることはなさらないでしょう。御子の勝利は永遠ですが、私たち自身が、御子の勝利を実際に受け取るためには、日々、私たちが肉を拒んで、肉を死に渡して、御霊によって歩むことを選び取っていかねばなりません。そこに一種の戦いがあることは明白です。

 さらに、前述のような意見の二つ目の間違いは、今の時代が何であるかということを読み違えている点です。御子が十字架でサタンに対して勝利を取られたのは永遠の事実です。しかし、この時空間において、今はまだサタンが実際に滅ぼされて地上から一掃されていないことは明らかです。今は恵みの時代です。御言葉がはっきりと語っているように、この時空間の中では、サタンはいまだにこの世を占拠しており、この世の君として支配、君臨しているのです。あなたは今、地上を見渡して、地上には災いも悲惨も流血もなく、サタンはすでに滅ぼされて地上を支配する権限を失っているので、クリスチャンは安堵してよいと言うことができるでしょうか。クリスチャンの間で、サタンは全く働く余地を失っているでしょうか。神の子供たちの間にはいかなる争いも分裂も見受けられないでしょうか。地上はキリストの支配だけに満ちているでしょうか。

 いいえ。永遠においては、カルバリでサタンは滅ぼされています。その事実は決して変わることはありません。その永遠の事実は、必ずや、神の御旨に従って、この地上にも、実際の事実となっていつか成就するでしょう。しかし、私たちはまだその途上の時代にいます。サタンが事実としてこの時空間の中でも敗北し、火の池に投げ込まれるまでには、まだ時間があります。そうなるまでに、私たちは何をしなければならないと、聖書は教えているでしょうか。

 御言葉は、私たちに「目を覚ましている」ことの重要性を教えています。サタンはほえたける獅子のように食い尽くすべきものを求めて地上を歩き回っており、神からのものとみまごうようなしるしと不思議と奇跡を行って、あわよくば、選民をも惑わそうとしていると御言葉は教えています。今の時代にあって、サタンは依然としてこの世を支配しており、多くの人達を罪の虜にすることによって、自分の滅びの道連れにしています。暗闇の勢力は、人の肉や魂を拠点として、人に働きかけ、人に住み込み、悪を行わせ、人を食い物として活動しているのです。サタンは神に逆らう人達を道具として用いることによって堕落した考えをこの世に普及し、さらに、人々の好みに合わせた偽の教えを流布することによって、キリスト者の思いをさえ不信でくらまし、神の民でさえも惑わそうと、日夜、激しく活動しているのです。御言葉は、信徒がこのサタンに対して信仰によって武装し、油断なく立ち向かう必要を教えています。それは、もし油断するならば、選民でさえサタンに惑わされる可能性があるということをはっきりと物語っているのです。

 キリストが達成された永遠の事実に基づいて、この時空間の中でサタンの敗北が実際となるためには、聖徒たちがさらに祈り、教会がさらなる前進を遂げなければなりません。クリスチャンたちは「御国が来ますように」、「御心が天になるごとく、地にもなりますように」と、祈ります。また、「主よ、来たりませ」と祈ります。それは、今の時代、教会がまだ前進している最中であるからです。御心は(永遠においては不変ですが)まだ今の時代にあってはこの地上に成就しつつある途中です。キリストの支配は地上にはまだ完全に確立されてはいません。キリストはまだ再び地上に来られてはいません。ですから、私たちはそれを求めて祈りつつ、自分自身が世の光として、御国を実際にこの地に現し、流し出していく管となる必要があるのです。もしも、私たちが日々の生活において、罪と欲に溺れ、サタンを実際に敗北させていないどころか、自分が罪の虜となって、暗闇の支配の中に生きているならば、どうしてそこに教会の前進があると言えるでしょうか。もしも私たちクリスチャンが肉に従って歩み、御霊を妨げているならば、どうしてそこに御国が現れていると言えるでしょうか。

 私たちを通して、内なる聖霊が生ける川々となって流れ、御国が実際にこの地にもたらされる時、初めて、サタンは敗北して私たちから逃げ去るでしょう。そうしてサタンに占拠されていた場所が、明け渡されることによって、そこに御国の秩序が到来するのです。この働きは、霊的なものであり、決して、地理的な領土の話であるかのように誤解されてはなりません。教会の地上の領土が広がり、教会の数が増えることや、クリスチャンの人数が増えることが、御国の拡大を意味するのではありません。御国の拡大、前進は、霊的な領域の事柄であり、何よりもまず、私たちの内側でこそ、日ごとにより深く、成就しなければなりません。まず、私たち自身の古き人が日ごとに十字架上で死に、私たちが日ごとに、古い命に従って生きるのではなく、キリストの新しい命によって生かされる新しい人とならなければ、どうして私たちは神の国を他の人にもたらすことができるでしょうか。

 一粒の麦が死ななければ、豊かに実を結ぶことはありません。これが神の国の変わらない原則です。御霊の現われを妨げている私たちの天然の命が死に渡される時、初めて、御国に収穫がもたらされるようになるのです。古き命が死んで、復活の命が芽生えた場所にのみ、御国が現れることができるのです。これが御国が地に実際にもたらされることの内容であり、私たちが自分の天然の命を拒み、神の命によって新しくされるその度合いに応じて、私たちを通じて、御国が実際に地にもたらされるのです。クリスチャンは、このようにして、神の国である教会を前進させ、神の光を世の光として輝かせ、闇を駆逐する使命を負っています。私たちがそれを成し遂げるならば、すみやかに主はこの地に来られるでしょう。

 いずれにせよ、私たちはまだサタンが激烈な活動を行っている時代に生きていることを忘れるわけにいきません。それを前にしながら、「主イエスが十字架で勝利を取られたのだから、私たちにはすることはもう何も残っていないし、私たちがもはや二度とサタンの虜にされることはなくなったので、安心して良い。」と、安易に考えてまどろむのは愚かなことです。私たちは決して、サタンを恐れる必要はありません。御子がサタンをすでに打ち負かし、世に勝ったのですから、それをあらゆる状況に対して信仰によって適用することが私たちに権利として与えられているのです。しかし、私たちが勝利を得るためには、「目を覚まして」いなければなりません。サタンが信者をさえ惑わそうと罠をしかけることを知り、目を覚まして警戒し、その罠を見破り、罪の誘惑や圧迫がやって来る時には、カルバリを拠点として、サタンに決然と立ち向かう必要があるのです。

 私たちは、御子の十字架に堅く立ち、キリストの死を絶えず自分の死として受け取り、この世の古い命の性質や、罪けがれとは一切関係のない、キリストの命によって新しく生かされることによってしか、サタンに対抗できません。しかし、それは、私たちが何も考えず、目をつぶっていても、自動的に起こる勝利ではなく、私たちが日々、信仰と意志によって選び取らねばならない決断です。ある日、十字架を信じたので、その時から、私たちにはもはやキリストの死と復活に自分を同一化することは二度と必要なくなったと考えるのは愚かなことです。

 神は人を通してサタンの敗北がこの地で実際となるよう願っておられます。そのために、神は御子の御血によって私たちのために道を切り開かれたのです。私たちは御子が開かれた道を通って実際に進んで行かねばなりません。御子によって永遠に達成された事実を、日々、信仰によって、自分自身に、また、実際の状況に適用しなければなりません。もし私たちが絶えず、キリストの死を自分の死とみなし、キリストの復活を自分の復活とみなさないならば、私たちはキリストとの結合から切り離されます。キリストとの結合から切り離されれば、御子の勝利は私たちには無関係なものとなり、私たちがサタンに勝利できる根拠はもはや何一つなくなるのです。

 十字架の意義は、罪からの贖いだけには終わりません。私たちはこの地上を生きている限り、さらに深く十字架を理解し、実際に経験していく必要があります。そのことを通して、私たちは御霊に従って歩むとは何であるかを理解し、神から賞与を得られる生き方を地上で送る秘訣を学ぶでしょう。旧創造から解放されて、罪の痕跡を一切持たない、御子の似姿なる新しい創造へと限りなく近づいていくことができるでしょう。神が人を通して実現しようと願っておられる素晴らしい計画を実際に生きることができるでしょう。
 十字架は理論ではなく、私たちが実際に経験していく必要があります。それは一歩、一歩、信仰によってたゆみなく続けられる歩みとなるでしょう。十字架はクリスチャンの生涯に、いかなる瞬間も、もはや要らなくなったとは言えないものです。十字架だけが、私たちをキリストへ結合し、私たちに、サタンに支配される旧創造に対する勝利の力を与えます。私たちが日々、目を覚まし、意志を活用して、常にカルバリの立場に立ち続けるならば、サタンは私たちから逃げ去り、主イエスが取られた勝利は、この地に実際としてもたらされるでしょう。

十字架に戻れ!(2)

ここ数日、サタンの放つ火矢に私は連日のように悩まされていました。その戦いの中で私は徐々に後退していました。十字架について語りながらも、私自身が、その十字架にとどまることが困難となっていたのでした。
 サタンは、アダムから今に至るまで、常に人間を研究して来ました。彼らは人の弱点を把握するプロと言って良いでしょう。ですから、私のどこをどのように攻撃すれば効果的なのか、暗闇の勢力が知らないはずがありません。

 サタンとのその軍勢の目的は、神の子供たちを十字架から引き離すことです。十字架を離れては、私たちには悪魔に打ち勝つ力がないことを暗闇の勢力はよく知っています。神の子供たちが十字架のもとを離れるようにと、敵が仕掛けてくる攻撃や作戦は数え切れません。

 暗闇の勢力は、人の中にある、まだ十字架で対処されていない「古き人」を足がかりにして攻撃します。彼らは私の弱点に対して一斉に火矢を放ち、私が霊的な穏やかさを完全に失うように仕向けます。私の願いが踏みにじられ、私が自尊心を傷つけられ、過去の悲しい出来事を思い起こさせられ、極度の悲しみや、疑いや、憤りで心がいっぱいになるような出来事を引き起こし、私が圧迫されて、それらの感情に完全に落ち込んでしまうように仕向けるのです。

 一例を挙げるならば、しばらくの間、私にはどういうわけか、まるで、会う人、会う人のすべてが、私の過去の心の傷を再び思い出させ、それを生きたものとするためだけに特別に派遣されて来たかのように見えました。耳に入って来る会話という会話のすべてが、私に特別な惨めさや、むなしさや、孤独を味わわせました。私は外から負わせられる重荷にどのように対処すべきか、まだ学んでいませんでした。その感覚があまりにも強く押し迫ってきたので、私は耐え切れないほどに圧迫され、魂は混乱の渦に投げ出され、ただ耐え切れない思いで、そこから逃げ出し、主の御許で涙を流すという他になすすべがありませんでした。

 その惨めな印象が覚めやらぬうちに、さらに、私が傷ついていることをよく知っている暗闇の勢力は、今度は私に自分を憐れむようにとささやきかけて来ました。「あなたには、未だに対処されていない心の傷があるんだよ。そんなにも心の傷の多いあなたが、すぐに十字架を負って、神の召しに応じるなんて、とても無理。あんまり高度な話題にふけらずに、今は自分の弱さを十分に考慮して、自分をもっともっと大切にした方が良いですよ。今は傷ついた感情をいたわり、神と人に十分に憐れんでもらうことだけを考えなさい。」

 連日のように、こうして、私の「心の痛み」が強調させられる事件が重なり、私はへとへとになりました。一体、このような場合、どうやって自分を憐れまないでいられるでしょうか。十字架は、こういう事柄に対処するには、あまりにも漠然としており、一般的すぎて、特に、私のような特殊な事例には当てはまらないように思えてきました。十字架の他に、もっと人の心の傷を早急に思いやりをもって癒すために、個別の、温かい方法がないものでしょうか。だんだん私はそのように思い始めていました。

 しかし、そんな考え方こそが欺きなのです!
 神は私が過去に立ち戻って、再び自分の心の傷を温め返し、自分を憐れみ、いたわるようにとは、全く命じておられません。神が命じておられるのは、私がそうした生まれながらの命に基づく思いや感情に従って歩むことではありません。むしろ、神が私に願っておられるのは、それらすべてがすでにキリストと共に死んだのだという事実を私が信仰によって受け取り、それらの圧迫が押し寄せてくる時に勝利すること、たとえ私自身は弱く未熟であっても、主によって「強くなる」秘訣を学ぶことでした。

「神がわたしたちの中で働かれるのを妨げるものの一つに、邪悪な生まれながらの命の活動があります。それは絶えずわたしたちをその霊(聖霊―筆者注)から引き離し、その霊の中を歩けなくさせます。わたしたちの霊は、絶えずこの邪悪な影響を受けています。そして、わたしたちは自分の霊を支配できず、神の静けさの中を歩くことができません。

この十字架につけられていない邪悪な性質はまた、サタンとその邪悪な霊が利用して、燃え立たせることができる道具でもあります。それゆえ、それはわたしたちとやみの力との戦いの多くの原因となるものであり、彼らが絶えず攻撃するための『土台』となるものです。<…>彼らはそこに『土台』がある限り、繰り返し戻ってきて戦いをいどむのです。」(ウォッチマン・ニー全集第一巻、「クリスチャン生活と戦い」、付録1、チャールズ・アシャー、「十字架に戻れ!」、p.244-245)

 何と恐ろしいことでしょうか! 私たちの中にある十字架にまだつけられていない古き人の性質、アダムに属する生まれながらの肉なる性質(旧創造)は全て、知らず知らずのうちに、サタンに用いられ、サタンが私たちを攻撃するための土台となっているのです! たとえば、もしも私が過去に受けた心の傷、そこから来る痛み、悲しみや孤独といったものに固執し、それらが十字架を通して死んだことを認めようとせず、未だ生きた傷とみなすならば、それは絶えずサタンと邪悪な霊たちが戻って来ては、攻撃をしかける足場となるのです。神の子供たちの多くは、神を信じた後も、なおもこうしてサタンの道具とされています!

 この他に、私たちの怒りっぽさ、疑り深さ、自己憐憫、妬み、恨み…数え切れない性質がサタンの道具となります。たとえば、私たちは人から自尊心を傷つけられる時に、何と容易に自制心を失って、怒り出すでしょうか。そういう時に、どれほど口にすべきでない言葉を容易に発するでしょうか。また、一旦怒り出すと、どれほど長く、怒りから抜け出せないでいるでしょうか。それがサタンに機会を与えることであると知っていながら、私たちはそれでも怒りを捨てようとせず、死の毒に満ちた言葉を吐き続けるのです。また、私たちは自分が傷つけられたと思うと、死をきたらせるような悲しみにさえ簡単に溺れてしまいます。

 他にも、私たちの名誉欲、自己愛、競争心、妬み、高慢などがどれほど私たちの生活を害して、絶えず、キリストとの結合を失わせているか知れません。さらに言うならば、否定的な性質だけでなく、一見、肯定的に見える性質でさえ、それが生まれながらの命に属する性質であるならば、私たちを神の御心から引き離してしまう障害となり得るのです。

 サタンと邪悪な霊たちは、私たちの弱さと欠点を知りつくしています。ですから、彼らは私たちが肉に従って歩むよう、絶えず、私たちの十字架につけられていない肉なる性質に攻撃を仕かけ、その性質を燃え上がらせようとするのです。たとえば、もしもあなたが自己憐憫を十字架に渡さないならば、闇の勢力はそこを拠点として、あなたが四六時中、自己憐憫に溺れるよう攻撃してくることは避けられないでしょう。

 私たちはそれぞれ、自分の中で対処されなければならない肉なる性質が何であるかを、ある程度、知っています。どうすればそれに打ち勝ち、肉によってではなく、神から与えられた新しい命によって歩むことができるのでしょうか。そうするためには、まず、あなたは自分はキリストと共に十字架につけられ、そこであなたの古い命は彼と共に死んだ、という事実に堅く立たねばなりません。

「カルバリは、キリストがあの木の上であなたの罪を担われただけでなく、罪人たちを木へと連れて行ったこと、すなわちあなたをそこへと連れて行ったことをも意味します。あなたが、神は古い命につぎ当てをするのではなく、あなたがそれを十字架につけられたと見なして、彼から新しい命を受け取るよう要求されることを認識するようになる時、あなたは新しい命の中には、それに属するすべての特質があることを見いだすでしょう。古いアダムの命にはそれ自身の特質があり、新しいアダムの命にもそれ自身の特質があります。<…>

 さらに、人の代表としてキリストは、あのカルバリの十字架へと罪人を連れて行かれただけでなく、その十字架の上で、またその十字架の死を通して、サタンを徹底的に征服されました(コロサイ二・十五)。こういうわけで、クリスチャンの側では、サタンを恐れる必要は全くありません。サタンは、カルバリの勝利を知っている魂にとっては、完全に征服された敵です。」(付録4、ジェシー・ペン-ルイス、「勝ち得て余りがある」、p.283-284。以下は全てペン-ルイスからの引用。) 


 サタンが私たちを肉なる性質に従って歩ませようとする時、私たちはカルバリに立って、自分の古き人そのものがすでにキリストと共に死んだという事実を、信仰によって自分に適用し、再び肉によって歩ませられることを断固拒否する権利があります。それでも、ある人々は言うでしょう、「私のかれこれの性癖はもう何十年間と続いているのですよ、これを直すためにはきっと特別長い訓練が必要になるはずです」、「私の心の傷は特別に深いのです。どんな方法によっても、それを癒せるとは思えません」。

 しかし、私たちが自分なりの方法で古き命の性質を対処しようとしている限り、それは何の解決にも至りません。私たちの肉に改良の余地が全くないからこそ、神は人の肉を一切、キリストと共に十字架につけられたのです。
 私たちは罪と完全に訣別する決意を持つべきです。もしも私たちが何らかの悪癖(または性質)を手放そうとせず、それを大目に見続け、それを甘やかそうとするならば、神はその罪(性質)を対処することができません。私たちは、自分を絶えず支配しようとしている邪悪な生まれながらの命の性質が何であるかを知った上で、主によってそれと全面的に訣別するという願いをはっきり持つ必要があります。そして、その古い命の性質はキリストと共に十字架ですでに死んだのだという事実に信仰によって立ち、その性質に、これ以上、支配されない権利を私たちは持っていることを覚え、古い命の性質が活動しようとする時、その権利をいつでも行使する必要があります。

「…キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」(ローマ六・十―十一)

キリストの死を通して救われた罪人は、罪との関係を絶つ権利を持っています。彼は、勝利を得るイエスの御名において、『罪にはわたしを征服する権利はありません』と言うことができます。
また例えば、あなたはローマ人への手紙第六章六節の立場に立って言うこともできます、『疑いを抱かせる習癖は、わたしに対して何の権利もありません。わたしはそれによって縛られることを、わたしのために死んでくださったかたの御名において、絶対的に拒みます』。

あなたは贖われた魂として、こう言う権利を持っています。なぜなら、十字架上でみわざがすでにあなたのために成されたからです。あなたは、キリストがあなたのために獲得されたすべてを捕らえ、それを自分のものとすべきです(ローマ六・十三)。このような罪に対する勝利はあなたの栄光ではありません。なぜならそれは<…>十字架上で成就されたキリストのみわざを通して獲得されたものだからです。<…>

 カルバリの勝利の事実と、サタンは征服された敵であるという真理をつかみましょう。キリストは敵をカルバリで征服されました。あなたがローマ人への手紙第六章に立ち、古い命は十字架につけられたと見なす時、あなたの霊はキリストへと結合されます。

『主に結合され、一つ霊となる!』。あなたは一人で出て行って、強くて恐ろしい霊の敵と戦うのではありません。『主と結合された』あなたの霊は、彼と『一つ霊』です。キリストは征服者です。そしてあなたは、一つ霊の中でこの征服者と結合されています。

 神は、あなた自身によってあなたに勝利を賜るのではありません。彼は、あなたが霊の中で勝利者に結合されることによって、あなたに勝利を賜るのです『あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである』(Ⅰヨハネ四・四)。<…>わたしたちは征服者に結合され、勝利者に結合され、一つ霊の中で結合されているのに、敵の前ですくみ、震えるのでしょうか?」(p.285-286)

 あなたの古い命の性質がキリストと共に十字架につけられたという確信に立つ時、初めて、あなたの霊はキリストに結合されて、キリストという征服者を通して、あなたは古い罪なる性質に勝利する力を得るのです。圧迫がやって来る時、あなたは自分の怒りや、悲しみや、憐れみなどによってそれに対抗しそうになるかも知れませんが、生まれながらの古い命から出て来る思いや力をもって戦うべきではありません。キリストとの結合の中にとどまるべきです。キリストとの結合のない戦いはあなたを勝利に導かず、かえって、あなたを肉によって歩ませ、サタンに支配させることにつながるのです。

「…あなたがカルバリへとやってきて、古いアダムの命がキリストと共に十字架につけられたという事実に堅く立つ時にはじめて、その『結合』がわかるでしょう。なぜなら、『古い命』は邪魔をして、何らかの『戦い』をしてしまいますが、それは敵に対して何の役にも立たず、むしろあなたを支配する立場と力を敵に与えてしまいます。

こういうわけで、古いアダムの命は十字架につけられたと見なされなければなりません。なぜならそれはサタンにとって道具であるからです。もし古い命が絶えず死の立場にとどめられるのでなければ、それはサタンが『火の矢』を放つ道具となります。サタンは、旧創造すべてを支配する全き権利を持っています。彼は、あなたの中にある古い命のまだ『十字架につけられていない』部分を知っています。そして、すべての火の矢をその部分に向けてきます。これらの矢には、その先端に地獄の火(ヤコブ三・六)がついています。そして、それがあなたの中に入ると、燃え上がり、炎を上げて燃え、あなたを『炎』にしてしまいます。
 あなたはクリスチャンの中に『炎』を見る時、それがどこから来るのかわかります。それは、古い命からやってくるのです。」(p.286-287)

 私たちの旧創造、私たちのアダムに属する部分、私たちの内で十字架につけられていない古い命の性質は、サタンに打ち勝つ材料とならないどころか、むしろ、サタンに利用される絶好の足がかりとなってしまうのです。サタンはあらゆる機会をとらえて、私たちの古い命の性質を燃え上がらせようと、地獄の火のついた矢を放ち、もし私たちが十字架の立場に立ってそれらの古い命の性質が死んだものであることを認めないならば、私たちの全身がその炎に飲まれてしまう結果になるのです。(自尊心をひどく傷つけられた人が、しばしば、制御できない怒りや悲しみ、恨みや嫉妬などにとらわれて「燃え上がって」しまうことを思えば、このことはよく理解できるでしょう。そして彼らは間もなく自分を不義の道具として捧げてしまうことになるのです。)

「舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」(ヤコブ三・六)

 このような炎で全身を燃え上がらせてはなりません。私たちが自分の身体を不義の道具とするようなことがあってはいけません。しかし、それを避ける方法は、ただ十字架にのみあります。

「神の子よ、あなたは『かっとなって』、言うべきでないことを言うことがあるでしょうか? あなたは不親切な事柄にすぐかっとなって、サタンによって『火で焼かれる』のでしょうか? これは、勝利を得ることができる『戦い』ではなく、常に敗北する戦いです。あなたは、ローマ人への手紙第六章の重要性を見ているでしょうか? もしあなたがローマ人への手紙第六章に立たないで、サタンを攻撃しようと企てるなら、何と彼はあざけり笑うことでしょう!

 彼は、『なぜわたしに属する『持ち物』がそこにあるのか。彼らはわたしの『物』をたくさん持っている』と言うでしょう。あなたは『強い人』を縛り上げることはできません。なぜなら、彼の家財は、あなたの中にあり、またあなたに関するものだからです。こういうわけで、あなたはカルバリの立場を取り、絶えず古い命が十字架につけられていると見なさなければなりません。それは、地獄からの火があなたに降りかかり、『生存の車輪』を燃やすことがないためです。それにはすでに、サタンがエデンで人に対して勝利を得たことを通して、蛇の毒があります。

 この黄泉のししとの戦いのためには、小羊の霊、しし―小羊、イエスの霊がなければなりません。火の矢がやってくる時、あなたの中に小羊―霊のおられることが見いだされるのでなければなりません。しかしながら、多くの人々はあなたを踏みつけ、虐待し、苦痛を加えるかもしれません。あなたの中には、『義の憤り』と呼ばれる炎があってもいけません! カルバリの解放が、そしてカルバリの小羊―霊が、必要となります。」(p.287-288)


 アダムの堕落以来、この世だけでなく、人の旧創造に属する部分も全て悪魔の家財となってしまいました。私たちは救いを得る前には、ただ罪にそそのかされて暗闇に生きるだけであり、存在そのものが悪魔の持ち物であったと言えるでしょう。しかし、救いを得た後でさえ、私たちの古き命の中で十字架につけられていない性質は、まだサタンの「家財道具」となって、敵に利用され続けています。

 「…まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を略奪することができる。」(マタイ十二・二九)

 サタンの支配下から、捕われている家財を取り戻すためには、誰かが「強い人」(サタン)を縛り上げねばなりません。そうしてサタンを征服されたのは、カルバリにおける御子イエスだけです。ですから、サタンを征服したカルバリの立場に立つことによってしか、私たちにはサタンの道具とされている古き命の性質に打ち勝つことはできないのです。
 たとえ人からどのように侮辱され、自尊心を傷つけられたとしても、生まれながらの命から出て来る義憤などによってそれに対抗してはなりません。肉の力によって戦おうとすれば私たちは炎に焼かれなければならず、ただ敗北が待っているきりなのです。サタンに立ち向かうためには、獅子のように強い小羊の力によって、霊的に武装する必要があるのです。
<つづく>

十字架に戻れ!(1)

今日、神の子どもたちに対して、サタンは何と巧妙に彼らが直面している霊的な戦いの実際と、その唯一の解決方法である十字架を隠そうとしていることでしょう。今日のクリスチャンたちの弱々しい様を見ればそれは明らかです。今や、クリスチャン同士が各地で互いに争い、傷つけ合い、教会は目を覆いたくなるほどの邪悪な事件に見舞われています。

 幼いクリスチャンたちは、十字架についてのより深い認識が欠けているため、神を信じた後になっても、自分の内に残る古き人(旧創造、肉と魂)を十字架で死に渡す経験がありません。そこで、彼らの全く対処されないままの古き人は、サタンにとってどれほど絶好の作業場となっているでしょう!
 たとえば、私たちの魂の持つ怒りっぽさや、性急さ、頑固さや、妬みや、自己憐憫、自惚れ、功名心などを考えてみるだけでよいのです。私たちの内側に残る数え切れないほどの利己的な性質が、外側からの邪悪な勢力の働きかけによってあまりにも簡単に敵に利用されています。その時、ほとんどのクリスチャンは、自らがサタンによって利用されていることを知るよしもなく、心の赴くままに従って、互いに裁き合い、互いに挑み合い、噛み合って、虚栄に生きているのです。

 サタンはこうしてクリスチャンたちの内側にある、十字架で対処されていない古き人の領域を足がかりにして働くことにより、クリスチャンを罪に陥れようと絶え間なく試みているだけでなく、外側からも、邪悪なこの世的な空気を用いてクリスチャンを汚染しようとしています。堕落した映像や言葉、価値観が、私たちの目にひっきりなしに飛び込んで来ます。また、日常生活にも、あらゆる困難を降り注ぐことによって、サタンはクリスチャンを消耗させます。私たちが暗闇の勢力に対する戦いに積極的に踏み出すならば、困難や誤解がひっきりなしにやって来ることを経験するでしょう。

 これら光の子らをひっきりなしに襲っている困難が、どこから来たのかを明確に見分け、また、どのようにしてその試練に立ち向かうのかを知らなければ、私たちはそこで訳が分からずに、ただ消耗し、絶望し、意気消沈する他なく、敗北を避けられません。
 チャールズ・アシャーは「十字架に戻れ!」のメッセージの中でこう言います。

「イエス・キリストは十字架へと行かれた時、わたしたちの罪のために償いをされただけでなく、わたしたちの霊的な敵であるサタンを打ち破られました。これは、カルバリにおけるキリストの働きの最も重要な部分です。

なぜなら、人は内側で罪に縛られているだけでなく、外側でサタンにも縛られているからです。イエス・キリストの働きのこの面を見失うことは、悪との戦いにおける立場を非常に弱めます。カルバリの勝利においてのみ、神の子供は、今日広がりつつあるサタンの力の現在の活動に立ち向かうことができます。

 サタンは、教会が天に向かって前進する道を彼の力によって遮り、こうしてキリストが地上で王として支配するために戻ってくるのを遅らせています。これらの力は霊的で、邪悪なものであり、霊的武具によってのみ対抗することができます。」(ウォッチマン・ニー全集第一巻『クリスチャン生活と戦い』、付録一、p.249-250)

 クリスチャンをいかにしてサタンが弱体化させ、キリストの再臨をいかにしてサタンが遅らせているか、その真の原因を、今日の聖徒たちは、ほとんど理解していません。クリスチャンは、むしろ、本質的な原因とは何の関係のない地上的な事柄に熱中することによって、再臨を早められるかのように誤解しています。たとえば、ある人たちは、地上にまだ教会の数が少なすぎることが、再臨を押しとどめているのだと思い、もっと多くの教会を建てようと運動に励んでいます。ある人々は、クリスチャンの小規模な集まりが必要であると思い、家庭的な規模での集会を増やそうと励んでいます。ある人々は、信徒を弟子として訓練することによって成熟させることが必要であると思い、弟子訓練プログラムを導入することに熱中しています。ある人々は、聖書の勉強会を開き、ある人々は、カウンセリングによってクリスチャンの心の傷を癒すことに熱中し、ある人々はカルトを取り締まり、キリスト教界を浄化することに必死です。

 しかし、これらの人為的な方法は、いずれも、私たちの地上の持ち物や、魂の知識を増し加えることはあったとしても、クリスチャンが敗北している真の本質的な原因には触れていませんし、それに対する何の処方箋ともなっていません。教会が天に向かって前進し、地上にキリストの支配をもたらすために、このような人為的な方法は何の役にも立ちません。なぜならば、再臨を遅らせている本質的な原因は、クリスチャンとサタンとの霊的な戦いにおいて、クリスチャンが勝利が得られていないことにあるからです。

 さらに、もっと悪いことに、暗闇の勢力との霊の戦いを主張している人々でさえ、その多くは欺かれて、無意味な戦いに時間をむなしく費やしています。ある人々は、ただいたずらに他宗教に敵対して、宗教の霊に対して戦いを挑んだり、悪霊追い出しの祈りに熱中していますが、これらの方法は正しくありません。

 クリスチャンはまず、私たちに敵対している勢力とは、あれやこれやの特定の霊力に限られたものではなく、その背後にいて彼らを操っているこの世の君(サタン)であることをまずはっきりと認識しなければなりません。そしてサタンと戦う方法はただ一つしかないこと、十字架を離れて私たちは敵に勝利できないことを認識すべきです。

「しかし、ある人は問うことでしょう、『どのようにして悪魔は、キリストが戻ってこられるのを遅らせることができるのでしょうか?』。
 それは、教会を敗北させておくことによってです。<…>

 神の民の多くは地的な事柄に注意を奪われているため、霊的な領域の事柄は彼らにとって全く聞きなれないことです。
 もう少し霊的な思いを持っている他の人も、絶えず打ち破られています。なぜなら、邪悪な力との戦いに立ち向かうための装備が貧しいからです。悪魔は、彼らの働きを絶えず侵害し、その労苦において彼らを悩ませることができます。そして彼らは、その攻撃がやってくる源がわからず、屈服し、こうして打ち破られてしまいます。
敵は彼らの働きを妨げるだけでなく、彼らの個人的な生活もまた敵の憎悪の対象となります。家庭問題、不和、誤解が次から次へと起こり、ついには彼らが絶えず消耗させられる状況が生み出されるに至ります。<…>
 わたしたちがそれらに抵抗しない理由は、その攻撃の真の原因を認識していないからです。わたしたちは、わたしたちの問題のひそかな、巧妙な源であり、わたしたちの考えの及びもつかない者であるサタンをそのままにしておきました。

しかし、わたしたちの目が開かれて敵を見いだす時、わたしたちはやみの力との個人的な霊的戦いへと召されたことに気がつきます。わたしたちはまた、教会に反対し、この世を支配している邪悪な力について、より広い幻と神聖な理解を得ます。そして、それらが超自然的で、サタン的なものであり、よみがえられた主との結合の中にある神の子供が抵抗しなければならないものであることを認識します。」(p.250-251)

 そうです、教会と個々のクリスチャンをあらゆる面で消耗させ、敗北させている真の原因はサタンであることをまず知らなければなりません。私たちはよみがえりの主を信じた瞬間から、望もうと、望むまいと、そのような戦いの中にすでに一歩を踏み出しているのです。では、その戦いに打ち勝つためにはどうすれば良いのでしょうか。「サタンよ、出て行け!」と大声で叫べばよいのでしょうか。悪霊追い出しの祈りに何時間も、熱中すれば良いのでしょうか。家の隅々の暗い一角に向かって悪霊払いをすればよいのでしょうか。そのような考えは完全に誤っています。

「しかし、どのようにして神の子供は、悪魔とその軍勢を征服することができるのでしょうか?
 ただイエス・キリストとの生き生きした結合を持つことを通してであり、サタンが完全に屈服される場所であるカルバリを霊的に認識することを通してです。

何と敵は注意深くこれを隠そうとしてきたことでしょう! また彼は何と巧妙に、自分が辱められ、敗北した場所から信者を引き離そうと企てていることでしょう!
」(p.251-252)

 そうなのです、今日、キリストの十字架こそがサタンの敗北の場所であるという明らかな事実が、クリスチャンの目から巧妙に隠されています。多くのクリスチャンが霊的な戦いを完全に誤った角度からとらえ、十字架の外にある誤った方法でサタンと対決しようとしては、敗北しています。それは敵による欺きなのです。クリスチャンが悪魔とその軍勢に打ち勝つことができるのは、ただ御子の十字架、すなわちカルバリだけなのです。

「ヨハネによる福音書第十二章三一節と三二節では、キリストが上げられることがサタンを追い出すことであることを、はっきりと教えています。
『今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう』。

どこに上げられるのでしょうか? 御座にでしょうか? 違います! 十字架にです。三三節は明白に告げています。『イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたのかを、お示しになったのである』。<…>
 キリストの死は、サタンとその軍勢を完全に屈服させます。しかし、その勝利がわたしたちの中にもたらされるためには、わたしたちは十字架に戻り、やみの力に対抗してそれを行使することを学ばなければなりません。そのやみの力は、この世でサタンを王座に着けるために熱心に労しているのです。」(p.252)

 クリスチャンは、十字架におけるキリストの死に常に立ち戻り、御子の十字架の死と復活の命へと自分自身を常に結合することによってしか、闇の力に打ち勝つことはできません。御子イエスは、地から上げられ、彼の十字架へと私たちを引き寄せて下さっているのです。私たちは彼の十字架の中に住まなければならないのです!
 もしも私たちが、自分はすでによみがえりの命をいただいたので、もはや十字架のキリストの死は必要ないと考え始めるならば、それは私たちに敵に勝利する力を失わせます。

「『わたしたちは十字架を離れて、よみがえられたキリストとの結合へと進むのでしょうか?』とは、神の民の多くが尋ねる質問です。そして、キリストの死を継続して生活に適用する必要があることを告げられると、彼らは言います、『しかし、わたしはよみがえられたキリストの中にいます。そして、わたしが必要とするのは生けるキリストであり、死んだキリストではありません』。

このような誤解の多くは、この祝福に満ちた真理を霊の中ではなく、文字の中で取り扱うことによります。『文字は人を殺し、霊は人を生かす』(Ⅱコリント三・六)

 キリストの霊はカルバリの霊です。十字架上のキリストの死は、キリストの命の最高の表現でした。あなたが彼の命にあずかる時、キリストの十字架の霊は、あなたの命の原則となります。
 パウロはよみがえられた主とのさらに深い結合を求めた時も、十字架を越えて進むことはしませんでした。生けるキリストとの結合が深まれば深まるほど、さらに深くキリストの死の中へと沈み込まなければならないことを、彼は見ました(ピリピ三・十)

 キリストと共によみがえらされ、生ける信仰によって彼の中に住むことは、あなたがキリストの死にあずかることを意味します。
 勝利を得るクリスチャン生活の条件は、キリストとの結合です。
 罪に打ち勝つ唯一の方法は、イエス・キリストと結合した生活によります。
」(p.240-241)


 わたしたちは、信仰によって、主の死と復活とに自分自身を結び合わせなければなりません。キリストの死だけでなく、復活だけでもなく、絶えずキリストの死と復活に結合されなければならないのです。これは私たちが一時的な過程として通り過ぎることのできるものではなく、日々、継続的に行われなければならない永遠の霊的な結合です。「主につく者は、主と一つの霊になるのである」(Ⅰコリント六・十七)。私たちは日々、この永遠の結合へと絶えず戻って行く(その結合の中にとどまる)必要があるのです。

サタンの願望は、信者を十字架から引き離すことです。そして彼は、よみがえらされた主と結合した生活を求めるよう人を駆り立てて、しばしば最も大きな成功を収めます。悪魔は、十字架を外にしては、また十字架から離れては、真の結合がないことを知っています。それで彼は、その代わりとして偽物の経験を与えるのです。

 パウロはローマ人への手紙第六章で、生ける信仰によってよみがえらされたキリストに結合され、彼の中に住むことは、わたしたちが彼の死にあずからなければならないことを意味すると、はっきりと教えています。『キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである』(ローマ六・三)
 彼はまたわたしたちに、キリストとのより深い結合は、わたしたちがより一層深い十字架の認識を持つ時にのみ可能であることも教えています。
ピリピ人への手紙三章十節を見てください。『すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり』

これが、わたしたちの知る必要のあることです。それは神学や感情においてではなく、実際の経験においてです。そしてその結果は、力に満ちた生活であり、罪、サタン、病、死、この世に対する勝利の生活です。これは、わたしたちが十字架に戻る時にのみ可能です。」(p.243)

 私たちは十字架のより深い認識を持ち、それを実際に経験する必要があります。神学的に十字架を知ることや、思いや感情、知識の中で十字架を知るだけでは、役に立ちません。私たちは十字架の経験を実際に持つことによって、個人的に、十字架をより深く知らなければならないのです。私たちの古き人が十字架によって実際に死に渡されるという経験を持つ必要があります。十字架のより深い認識について、次回に見ていきましょう。
<つづく>

キリストを着なさい

「わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。
主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。
主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、
わたしの足を岩の上におき、
わたしの歩みをたしかにされた。

主は新しい歌をわたしの口に授け、
われらの神に捧げるさんびの歌を
わたしの口に授けられた。
多くの人はこれを見て恐れ、
かつ主に信頼するであろう。

主をおのが頼みとする人、
高ぶる者にたよらず、
偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。
わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、
われらを思うみおもいとは多くて、
くらべうるものはない。」(詩篇40:1-5)

自分の力では絶対に這い上がれないほどの深い深い滅びの穴、罪の汚辱と汚泥の沼に落ちて、そこでもがき苦しみ、悲しみ、打ち砕かれ、絶望した経験のない人には、この箇所を心から理解することは難しいかも知れません。
しかし、神のご計画に従って召された者のために、万事を益として下さる神は、私たちがもしへりくだって、心から主に助けを叫び求め、己に頼らず、主に信頼し、主を信じて従うならば、どんなに深い罪の泥沼からでも、私たちを引き上げてくださり、どんなに取り返しのつかない失敗、どんなに赦されないほどの罪をも、御子の十字架を通して赦し、御子の御血によって私たちを罪から清め、愛によって私たちの恥を覆い、どうにもならない過去でさえ、主の栄光を証する機会へと変えてくださいます。

そして、御霊が私たちの内に宿り、働くようになる時、主は私たちの足取りを確かなものに変えて下さいます。私たちの歩みは、それまでのように、一歩、二歩、歩いては、またすぐに暗闇の中でけつまずいて、罪の泥沼に転落していくような、頼りないものではなくなり、まことの岩なるイエスをしっかりと土台とし、地ではなく、天をまっすぐ見上げて、サタンが足元にしかける罠を見抜いて進んで行けるほどに、堅固にされます。

御霊によって、私たちには新しい思いが与えられます。それまでのように、暇さえあれば、自分を憐れんで愚痴や不平不満を言い、心ふさぎ込んで悲しみに暮れ、あるいは、他人への妬みや陰口に明け暮れていたような汚れた思いが取り除かれ、主を思う新しい清い心が与えられます。
それと同時に、私たちの言葉も清められます。もはや以前のように日がな汚れた言葉ばかりを口にすることはできません。御霊が、私たちに神を賛美する新しい歌を授け、私たちに与えられた新しい心が、その歌を口ずさむよう促すのです。私たちは自分の心が、どういうわけか、いつも主への賛美へと戻って行くのを見て、自ら驚くでしょう。

そして私たちの周囲にいる人も、私たちを見て驚くのです。私たちの治りようのない欠点をよく知っており、私たちを見て、すでにあきらめていた人々、このような人間だけは、神でさえも、変えることはできないと、心ひそかに思っていた人々でさえ、私たちの思いや行動が、全く清められていくのを見て、目を見張り、神が確かに生きておられるのを知って驚くのです。

私たちは復活の主の証人です。私たちの口にする言葉、私たちの思い、私たちの人格、歩み、生きざまそのものが、十字架の死を経て、新しくされていなければ、それはクリスチャンの本当の歩みではありません。もしどの点から見ても、私たちが世人と何ら変わりなく、私たちの内に十字架の死の跡がなく、全く独りよがりな考えに導かれて歩んでいるだけだとすれば、そのような生活は明らかにキリストにならうものではありません。

しかし、私たちの古き人が対処され、私たちが内側から新しくされることは、決して、一瞬で済まされる事柄ではありません。回心は、ひょっとすると、一瞬で起こったかも知れません。しかし、私たちの古き人が対処されるためには、私たちが、生涯かけて続いていく十字架の深い働きに従わなければなりません。
私たちは、主を信じ、罪の汚れから救い出された後でも、自分が多くの点で、まだ古き人の特徴を引きずっていることに、きっと気づくでしょう。私たちは性急で、自分勝手で、主に従おうと思っても、少しもできないことを知り、苦闘します。主に従うと言いながら、その内実は、自分を喜ばせるために生きているだけであることを知って、落胆します。私たちの心の内に、汚れたぼろ服のような古き人にとらわれている自分自身に対する不満と、それを脱ぎ捨てて、キリストにふさわしい新しい人になりたいという切なる願いが起こらなければなりません。しかし、自力で自分を新しくすることはできないために苦しむのです。

私たちは、深いうめきをもって、主によって新しくされることを願わなければなりません。私たちがもしも、現在の自分の中には神への反逆となる要素は何もないと考え、少しも嘆くこともなく、自分に満足していられるのだとしたら、そこには神が働かれる余地は全くありません。ですが、もしも私たちが、心から、古き人から解放されて、キリストを着た新しい人となることを切に願い求めるなら、そして、そのために必要なもの全てを喜んで捧げ、主に従う決意を固めるならば、神はそこから本当に、私たちを新しくするための働きを開始されるでしょう。

私たちが喜んで従いさえするならば、十字架は、生涯、私たちの中で根気強く働き続けます。神の子供たちは、十字架を通して、永遠の命を受け取っただけに終わらず、十字架のさらなる深い働きを通して、肉体という幕屋の中にあるこの地上の歩みにおいても、主によって新しくされることを経験できます。地上にある間、この死の身体から完全に解放されることはできませんが、それでも、あなたがたはキリストを着なさいと、御言葉が教えているのですから、私たちはそれが十分に可能であると信じ、熱心に神に願い求めて良いのです。

世の多くの人たちでさえ、人間の自己があまりにも惨めなものであることを知って、何とかして自己から解き放たれ、自己を超越する方法がないかと探し求めています。古き自己から解放された、新しい人間たちの理想郷を作るために、人類は様々な社会理論をさえ考案しました。しかしそれらのものは一度たりとも人間を改良したり、新しくすることに成功したためしがありません。
キリストにある私たちは、古き人は改良することも、超越することも不可能であり、古き人はただキリストと共に十字架上で死に渡されなければならないことを知っています。私たちは、自己を改良することや、自己を超越することを求めているのではありません。キリストの死によって古き人が死に、キリストの復活の命によって新しく生まれるのでなければ、人間は誰一人、新しくされることは不可能であることをクリスチャンは知っています。

クリスチャンは、十字架の働きを生涯に渡って経験し続けるべきです。それによって、この地上にいる間にも、私たちが新しくされることが十分に可能であり、またそれが憐れみに満ちた神の御心によって、クリスチャン一人ひとりに与えられている大いなる特権であることを知るべきです。古き人を取り除くことは、神の働きです。私たちは主に信頼して、我が身を祭壇に横たえ、大祭司であられる主イエスが、御言葉の剣によって、私たちの肉と魂を刺し通し、私たちの内で、御霊を閉じ込め、御霊の妨げとなっている古き性質を徹底的に取り除かれることを願い求めなければなりません。そうすれば、日々、私たちは何が取り除かれねばならない古きものであるか、それが神に従うことのどれほどの妨げとなっているかを、御霊によって教えられ、それらのものから、一つ一つ、十字架を通して解放されていくでしょう。そうして古き人が十字架で死に渡されるごとに、私たちの内から、まことの命なるキリストの芳しい香りが外に向かって放たれるのです。
どうか、私たちが日々、この十字架の働きを経験することができますように! 私たちの中で十字架の働きがやむことがありませんように! 

「…あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しい人を着るべきである。」(エペソ4:22-23)

「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」(ローマ13:14)


キリストの十字架以外に救いはない!

最近、複数の方から、問い合わせがありました。
そのうち一つは、今後のキリスト教界の浄化のために、このブログで、私はもっとキリスト教界の不正と声を大にして闘うべきであり、社会正義のために、受けた被害内容を公然と世に明らかにすべきである、との強い要望でした。

これが言語道断な要望であることは言うまでもありません。「正義」のためならば、本人の意志さえ踏みにじって、どこまでも、土足で人の心に踏み込んでもよいと考えることは間違っています。

しかし、今、キリスト教界の悪事を訴えることに熱中している人たちの一部は、自分が従事している仕事が、絶対善だと信じるあまり、世間では当たり前の常識や、他人の心への当たり前の配慮さえ、忘れています。自分を義とみなし、高慢になり、自己反省能力を失った挙句、カルト化してしまった教会の牧師や信徒達とまるで同じように、他人の人生を軽々しく扱い、人を辱めるような行いに慣れきった下劣な人間に成り下がってしまっているのです。

彼らは悪事と闘うための材料になりそうなものならば、自分と一切関係ない人の人生であれ、誰かの持ち物であれ、何でも、自分の望みのままに、引っ張り出して、世間に公開できると考えており、浅ましいまでに次々と非難の標的を探します。それが正しい行動であると信じ、実際には、まるで三流のジャーナリストのような低俗な行いに自分が従事していることに少しも気づいていません。これは恐るべきことです。

これとは反対に、私はまた最近、別の方から、お便りをいただきました。その人は今までカルト被害者の立場に立って、キリスト教界の腐敗を訴えて来られたのですが、これ以上、自分の恨みがましい感情だけを延々と訴え続ける「被害者」の立場にはもう立てない、と述べておられました。

私の立場は後者に近いものがあります。私もかつてはカルト被害者の立場からブログを書き始めました。初めのうちは、悪事を明るみに出すことによって、キリスト教社会を幾分か改革できると考えていたこともありました。
しかし、今、私はもはやキリスト教界の不正を声を大にして訴えることに全く関心がありません。なぜならば、キリストご自身を求めなければ、他の問題をどれほど追及したとしても、何の解決にもならないからです。

十字架なくして、どのような社会改革やカウンセリングを試みたところで、私たちには何の望みもないのです!

どうぞご覧下さい、キリスト教界の不正を追求する仕事に熱中している人たちが、どれほどまでに、信仰をなくしてしまっているかを。彼らはただ自分自身しか見えておらず、キリストのことを、もはや完全に忘れてしまっているのです。信仰という点から見て、彼らとカルト化した教会との間に何の違いがあるでしょう?
しかし、私たちはクリスチャンだったはずです。私たちは恨みと怒りをもって闘い続ける人生を選ぶべきではなく、平和に福音を宣べ伝え、キリストを知る喜びを世に証し、「キリストの香り」を漂わせる人となるべきなのです。

かつて、私はキリスト教界で遭遇した事件を通して、一時は、完全に希望を失うまでに、打ちのめされました。自分の信仰がどこへ行ったのかもよく分からない時期がありました。しかし、私は自分の被害状況や嘆きを、世に対して訴えるのではなく、神に向かって訴えるべきだと気づきました。
そこで、私はこの世の裁判官にではなく、カウンセラーでもなく、ブログの読者たちにでもなく、まことの裁き主であられる主の前に、この問題を持ち出しました。

すると、ある時、神ご自身が私の人生に現れ、そして、私の心の問題を完全に解決されたのです。
神は、神を信じる者にあっては、苦しみに満ちた過去でさえ、益となること、私の人生においては、すべてが神に至るために避けて通れない痛みであったことを示されました。

私が損失だと思っていたものは、肉なる私にとっては確かに大きな痛みでしたが、神の目から見て、それは損失ではなかったのです。
私がキリスト教界で失ったものは多かったのですが、その代わりに、私は神に出会いました。打ちのめされ、傷つき、私の信仰が風前の灯のようになっていた時でさえ、主は愛をもって、根気強く、私を招いておられました。
そして私が痛みの中からでも、とにかく神を見上げ、神を信じ、人の義ではなく、神の義を求めたことを、主は喜んで下さったのです。
キリストが私と共に生きて下さる、これ以上の光栄が、クリスチャンにとってあるでしょうか!?
神に出会うことに比べて、他の何が価値を持つでしょうか!?

その時から、私は自分を被害者とみなすことはできなくなりました。
神は十字架を通して、私のあらゆる問題に完璧な解決を下さったのです。
というよりも、問題に苦しんでいた私そのものが、十字架につけられ、光に照らされ、死んだと言った方がいいかも知れません。
そして気づくと、イエスの復活の命による全く新しい人生がスタートしていました。
もはや心の痛みを延々と訴える必要もありません。私はイエスの復活を通して、健やかで、傷のない、完全な、新しい命をいただいたのです。

ニッポンキリスト教界の問題にはそれ以来、関わっていません。
キリスト教界の問題を延々と追及する人たちに、この先、関わりたいとの願いもありません。
カルトと闘うことを人生目標にしている全ての人たちに、私は賛意を表することはできません。被害者として永久にこの被害を忘れまじと公言している人たちにも、被害者をケアし救済するという名目で、その仕事を自己実現の手段として利用している人たちにも賛同することはできません。

神を冒涜している人々には、すでに御言葉によって、裁きが定められているのです。
私たちがなすべきことは、正しい裁きを神に求めることだけです。
私たちは何事についても、早急な裁きをせず、裁き主なるお方に信頼して委ねるべきです。

神は生きておられます、キリストは今日も生きて、信ずる者一人ひとりの信仰を通して御業を成しておられるのです。心の貧しい者、心の痛む者、悩んでいる者、悲しんでいる者は、裁判所に行くべきではなく、カウンセリングの扉を叩くのでもなく、まず、神のもとに駆けつけるべきです。神を信じ、心から誠実に神に求めるならば、神がその人に慰めと解決を与えて下さるでしょう。

考えてもみて下さい。
もしも神ご自身が、あなたをキリストの似姿へと変えたいと言われるならば、あなたは喜んでそれを受け入れたいと思わないでしょうか。
今のままの自分でいる方が良いと思いますか。それともキリストの似姿へ変えられたいですか?

神は今日も、私の古い性質を砕き、新しい人を私の中に形作りたいと願っておられます。
そんな素晴らしい約束があるのに、過去にこだわって被害者であり続けることは愚かです。

「キリストと共に生きる」、こんなにも光栄なことを神ご自身が望んで下さっているのです。クリスチャンはそのために召し出されているのです。喜びだけでなく、苦難を通しても、主は、私たちを招き寄せて下さっているのです。

召し出された以上、私たちに残された道は、自分自身を完全に、贖い出して下さった方に捧げて、他の何にも心を奪われず、ただ神ご自身を求めて生きること、キリストとともに、喜びのうちに生きることだけです。永遠に至るまでも。

本当に残念なことは、今現在、クリスチャンを名乗っている人々のうち、かなり多くの人たちが、キリストの十字架を捨ててしまっていることです。ある人々は、クリスチャンとしての正義感から、キリスト教界の不正を見逃せないのだと言うのですが、その実、彼らの心には、神の御心を求める姿勢がなく、神の真実を求める願いもなく、神に従って生きようとの決意も見いだせません。もしそうだとすれば、どうしてそのような人々が、「クリスチャンとしての正義感」から、他人の悪事を糾弾していると言えるのでしょうか?

まるで姦淫の女を石打にして殺そうとした殺気立った群集のようになっている人たちがいます。悪事を犯した人々を次々と引っ張り出して、断罪しながら、自分自身もまた罪人であるという点を、完全に忘れ去っている人たちがいます。自分は少しもイエスに従って生きておらず、キリストの香りを放ってもいないのに、クリスチャンらしくない他者を非難できる筋合いにはないということを忘れています。それは恥ずべき、みっともない矛盾です! 

もしも私たちが神の御前で正しい生活を送っていないならば、私たちには、他者を非難する資格がありません。彼らも悪人であるが、私たちも悪人であり、我らは共に神の御怒りによって、打ち滅ぼされるべき忌まわしい存在だ、という結論以外には、何も残りません。

以前にも書いたことですが、もしも真の被害者がいるとすれば、それは私たちではなく、神なのです。誰よりも侮られ、誰よりも蔑まれ、誰よりも不当に扱われているのは、神なのです。キリスト教界に広がる不正を見て、人間が苦しんでいる以上に、神が心を痛めておられます。不誠実な人間の身勝手な悲しみと、誠実な神の正しい悲しみと、どちらが真に注目に値するでしょうか?

ですから、私たちはともに頭を垂れて、この国の不誠実なクリスチャンが神の御前に犯した恐るべき冒涜について、彼らに代わって悔い改め、そして、人間の振りかざす正義ではなく、まことの神の正しい光だけが、私たちの上に照らされ、それによって、真理が啓示され、偽りが退けられ、悪が裁かれることを、心から求め、待ち望むべきです。

私たちがどんなに自分の正義を振りかざしても、そのことから救済はやって来ません。
むしろ、自分の正義をもって人を裁けば裁くほど、ますますその人は冷酷無情な人間になっていき、常識を忘れ、礼儀を忘れ、愛を忘れ、尊大さと、怒りに満ちた人となり、信仰から遠ざかっていくでしょう。

私たちを罪の汚れから救ってくれるのは、イエスがすでに用意して下さった十字架だけなのです。神が私たちのために、御業をすでに成して下さったのです。にも関わらず、なぜ今日、これほど多くの人々が、十字架を忘れ、再び律法だけを持ち出して、他人に石を投げつけるのでしょうか。その律法は、あなた自身をも死罪に定めるのです! 他人を裁いた基準で、自分自身が裁かれるのです! あなたが投げた石が、あなたに向かって投げつけられる時が来るのです! 他人を裁く人も、裁かれている人も、共に律法の下では同じ罪人なのです! 私たちはそのことを思えば、一刻も早く、むなしい議論をやめて、十字架のもとへ駆け寄り、この罪人に過ぎない惨めな私をどうか赦して下さい、私も他人の罪を赦しますから、私をも赦して下さいと、神に求めて祈るべきではないでしょうか。

自分の正義だけしか目に入らない生き方は、御心にかなう生き方ではありません。神の御心は、常に人間の思いよりも高く、神の正義は、常に私たちの正義より優れているのです。私たちは自分の思いを脇において、まず、神の高さを理解させていただくことを願い求めるべきです。

キリスト教界の悪事だけを糾弾し続け、キリストご自身に目を向けないことは間違っています。しかし、私たちがそれが罪であったことを正直に認め、キリストに目を向けるならば、主は私たちの過去をも赦して下さいます。そして、私の過去の失敗の記録ですら、神は、益としてくださるでしょう、なぜなら、その失敗を通して、どれほど私が大きな無知と誤りから救い出されたか、主に出会って、どれほど根本的に変えられたかが、はっきりと世に証されるからです。失敗を通して、私は死に、私の名誉は失われ、私は消えるでしょう。私は砕かれますが、代わりに、その裂け目から、キリストが現れられるならば、それは私にとって少しも恥ではなく、むしろ、それ以上の光栄はないのです!

改めて申し上げますが、カルトと闘う人生は、無意味です。
偽物をどんなに斬っても、そこから本物は現れて来ないのです。
私たちは神の栄光を盗んではいけません、己の力で義を目ざし、私たちを救って下さった方を忘れてはいけません。

私たちが真に人間らしく、真に自由に、真に自然に、神がかくあれかしと創造された、美しい、真の人間として生きるためには、私たちはまず十字架を経由して、一度、死に、イエスの復活の命をいただいて、これまでとは全く別の、永遠の原理によって、生かされなければなりません。
この復活の命を現実に生きる、という段階に入らない限り、私たちがクリスチャンとされたことの醍醐味を味わうことは決してないでしょう。

人間の訴える正義や、社会改革、告発や闘争の中にはいかなる正義もありません。
救いはただ、キリストの十字架だけにあります。
自分の正義感や、自分の知性によって問題に立ち向かおうとすれば、いつでも、私たちはつまずくでしょう。

どうか道を踏み誤らないで下さい。十字架の贖いを否定するならば、私たちにはもはやクリスチャンを名乗る資格はありません。それは偽善者です。十字架を退けてまで、社会改革を選び取ったとすれば、やがて神の御前に立つ時、私たちには申し開きができません。

私たちはみな罪人です、著しい罪を犯した一部の人々だけが罪人であり、悪人なのではありません。にも関わらず、憐れみによって、十字架が与えられているのです。
十字架を経由せずに、私たちが真に人間らしく生きられる道はありません。まず、私たちこそが、イエスとともに十字架につけられて死ななければならないのです。私たちこそが、まず、自分の罪と不信仰を悔い改め、除かれるべき悪を、どうぞ私の心から取り去って下さいと、神の御前に心砕かれて、赦しを乞うべきなのです。

どうか互いに訴え合い、己を義として闘争に突き進むだけのむなしい活動を離れて、へりくだって祈ろうではありませんか。

創世記について

兄弟姉妹へのメール

「ウォッチマン・ニーの『創世記を黙想する』を読み終えました。
ある兄弟とお会いした時に、彼が、天地創造は、聖書の記述通り、
1日を24時間として、7日間で行われたと信じていると言ったことを思い出しました。
 
その話を聞いた当初、私は『まさか』と思って、興味を示しませんでした。
なぜなら、創世記の『一日』は、何千年にもわたる長い期間を、神の基準で言い換えたもの、
という、多分、教会で教わったのではないかと思われる固定概念が
その時はまだ、私の中にしっかり植えつけられていたからです。

けれども、ウォッチマン・ニーがこの本の中で書いていることは、
『聖書を文字通りに読みなさい』ということでした。
つまり、『一日』とは、『一日=24時間』なのだと。
 
びっくりしました。
その他の点でも、この本は、あらゆる意味で、私の常識を覆しました。
まず、プレアダミック・エイジのこと。
それから、天地創造の7日間が、人の堕落とイエスによる命の回復
(十字架の死と復活と昇天)のプロセスと重なっているということ。
さらに、人類史の7つの時代とも重なること。
 
私の聖霊派時代、教会では誰一人そのような深いところまで、
解説してくれた人はありませんでした。
しかも、振り返ってみると、何かしら進化論が
聖書の解釈の中にもぐり込んでいたように思います。

この本の記述はどれをとってみても、私が教えられなかったことばかりで、
あまりにも、これまでの私の常識に反するように思われたので、
最初に目を通した時には、『ひょっとして、考えすぎなのでは?』とさえ思ったのですが、
しかし、御言葉による深い裏づけを読んでいくうちに、
なるほどなあ、そういう深い意味があったのか、
(たとえば、イエスが『義の太陽』であるという御言葉が、
創世記での太陽がすなわちイエスの予表であることを示している、など)、
どうにも納得せざるを得なくなってしまいます。
 
イエスは直接、ご自身を『ぶどうの木』にたとえられましたが、
そのようにはっきりとしたたとえがあった場合でなくとも、
御言葉の中に、キリストはさまざまな形で予表されており、
そのような隠れた文脈を、私たちは、深く辿っていく必要があると感じます。」
 

 


聖霊の訓練

以下で、私はバイクの盗難事件について書いたが、それを読んで、あまり悪い印象を受けて欲しくない。特に、それを、神に従う生活の味気なさや、虚しさの表れであるかのように誤解しないで欲しい。神は、愛する者たちの全ての必要に応えて下さり、また、私たちを悪から救い出し、守って下さる方である。神は耐えられない試練を私たちにお与えにならないし、決して、ご自身に心から従っていきたいと願っている者に、理不尽かつ意味のない事件を起こされることはない。

 私は、今回の事件もまた、上からの訓練の一つとしてやって来たのだろうと思っている。まだはっきりとは分からないが、それは私の所有物への取り扱いであったかも知れないと思う。何しろ、今回のことは、私が自分の持ち物を、天幕の中にあるものとみなし、もはや自分の所有物とはみなさないことを決意して後、起こったことである。口で言うほど、私の所有物への執着心は、完全には吹っ切れてはいない。そのことを、事件に対する私の反応が証明している。

 私たちは自分の魂が執着するもの全てについて、神の対処を受ける必要がある。ある時、私たちが自分の人生を神に全面的に捧げる決意をする。すると、その時から、神は私たちの存在そのものや、生活や、思いの中から、不要なもの全てを取り除く作業を開始される。それが、私たちの外なる人が、聖霊の訓練によって、砕かれる過程である。絶対的な献身の決意の後で、私たちの人生に起こることの中には、何一つ、偶然や、意味のない事件はない。たとえ突然に降って沸いた災いのように感じられる事件であっても、それは全て、私たちを訓練するために、上から与えられる必要な経験である。だが、不平不満の多い私たちは、いつでも、一つ一つの出来事から、神が自分に願っておられることを的確に理解できるとは限らないのだが…。

 私たちは神に自分を捧げる決意をした時から、神によって訓練されなければならない。キリストを信じれば、ただ平安と喜びだけに満ちて、毎日、優雅で快適で何不自由ない生活を一生、送れると思うのは大きな勘違いである。私たちが、本当に神がかくあれかしと願っておられる栄光の姿に近づくためには、私たちは、何度も、何度も、打ち叩かれ、失敗させられ、失望させられ、剥ぎ取られ、予想外の苦難に遭い、打ちのめされ、それらの経験を通して、この世をますます手放していかなければならない。この世からますます遠ざかっていかなければならない。私たちは途方に暮れるだろう、行き詰るだろう、しかし、それでも、主の守りの御手は、私たちから去ることはない。そこで必要とされていることは、どんな状況の中にあっても、私たちが神の采配が最善であることを信じ、神が望んでおられることは何かを理解し、それを受け入れ、従うことである。

 私の人生を振り返って言えることが一つある。それは、神は決して、信徒の意志に反して、信徒の人生に強制的に介入されるということはないということだ。ヨブは試練に見舞われた時、「主の御名は誉むべきかな」と、神を賛美することができたが、それは、裏を返せば、彼が信仰において、試練に遭うことに対して、心の準備ができていたことを示している。

 神はヨブの信仰の状態をご覧になられ、彼がどの程度、耐えられかを確認して、ふさわしい試練を与えられた。多分、今日、多くのクリスチャンは、神からのいかなる試練をも、与えられる恩恵にあずかることはできないだろう。それは彼らが、主が彼らに「与える」ことだけを願っており、主が彼らから「取られる」ことに対して、何一つ、同意しようとしないからである。かつての私の人生もそうであった。

 私が自分の所有物にしがみついて、どうしてもそれを手放そうとしなかった間、神は私の上に全く働かれず、私を無視し、目を背けておられた。しかし、私が心のどこかで、その所有物にもはや満足できなくなった時、そのような事物を大量に抱えた生活が、御心に反しており、間違っていること、そこに私の真の幸せがないことを、心のどこかで、かすかにでも理解し始め、そのような生活にうんざりし始めると、その瞬間から、ただちに、神は私の上に働きを開始された。

 しがみついていた所有物は、ほとんどの場合、あっけなく、取り去られた。それは友人であれ、家であれ、持ち物であれ、名誉や、地位であれ、誇りであれ、将来の夢であれ、みな同じであった…。神の御前に好ましくない私の所有物は、全て剥ぎ取られた。それは決して、神の側からの強制的な介入ではなく、私自身でさえ、心のどこかで、その生活が悪いものであることを分かっていたのに、それでも、私は失ったものを思って、嘆き悲しんだものだ…。二心に生きていた私の魂は、一つ剥ぎ取られる度に、大きな打撃を被った。

 クリスチャンは、自分の魂と肉体、そして所有物について、神に厳しく対処されなければならない。神が見てよしとされるのは、キリストの命を経由したもの、御霊によって生まれたものだけである。私たちの魂も、肉体も、神は肯定されない。私たちはあまりにも余計なものを持ちすぎ、神以外のあまりに多くのものに目を奪われすぎている。私たちがこの世のものを愛する時、神はそれを喜ばれない。この世の楽しみ、面白おかしい刺激、興奮、自分を楽しませてくれるあらゆる物質や、富…、そういうものを、神に徹底的に従うことを決意した時から、私たちは、一つ一つ、手放すことを学ばせられる。

 私たちが、神がかくあれかしと望んでおられる「真のあるべき人間」になるためには、物質的なものや、肉的なもの、魂的なものに惹かれる心、要するに私たちの旧創造に属する古い性質は、徹底的に滅ぼされなければならない。これは私たちが自虐的な方法で自己を取り除こうと努力すべきだという意味ではなく、聖霊が、そのような働きを私たちの上に自然に開始するのである。

 私たちの外なる人(魂と肉)は、御霊の訓練によって、打ちのめされ、剥ぎ取られ、苦しめられ、砕かれていく。その痛みを伴う学課(=日々の十字架)を受けずして、私たちがキリストの似姿へと変えられ、内なる御霊が私たちから自由に外へ向かって流れ出す日は来ない。ウォッチマン・ニーは再三に渡りそのことを述べている。以下、彼の著作から。

 「わたしたちの外なる人が砕かれるためには、わたしたちは自分自身を主にささげる必要があります。しかしながら、献身がすべての問題を解決するわけではありません。それは、わたしたちが喜んで自分自身を、無条件に、徹底的に、明確に神へささげる意図の表現にすぎません。<…>

 人が神によって用いられることができるかどうかは、献身だけにかかっているのではありません。献身がなされた後、聖霊から来る訓練がやはり必要です。これは非常に重要です。わたしたちが神に対して有用になるかどうかは、この点に大いにかかっています。<…>

 わたしたちは、自分についてしばしば無知です。わたしたちは、自分が何を通過する必要があるのか知りません。わたしたちの最も賢明な選択でさえ、間違いに満ちています。

わたしたちが必要であると考えるものは、往々にして、神によればわたしたちが実際に必要とするものではありません。わたしたちが自分の側から見るものは、全体の絵のごく一部にすぎないかもしれません。しかしながら、聖霊は神の光にしたがって、わたしたちのために事物を指図されます。聖霊の訓練は、わたしたちの思いが考え及ぶものをはるかにしのぎます。

わたしたちはしばしば、ある訓練に対して準備ができておらず、わたしたちはそのような訓練は必要ないと考えます。聖霊の訓練が実際にわたしたちを訪れる時、わたしたちは驚いてしまいます。環境の中で聖霊がわたしたちのために指図したものは、わたしたちが期待していたものではありません。聖霊からの多くの訓練が、神からの警告無しにやってきます。突如として、わたしたちは強打を被ります。

わたしたちは、自分は神の光の下で生活していると考えるかもしれませんが、神にとっては、この光は実に弱いかすかな光です。神は、それを光とは全く考えないかもしれません。しかしながら、聖霊は神の光にしたがって、わたしたちを対処されます。わたしたちは自分の状態を知っていると思いますが、実際には知っておりません。神だけがわたしたちを知っておられます。わたしたちが神を受け入れた時から、神はわたしたちの環境を整えてこられました。神が整えたものはすべて、わたしたちの最上の益のためです。神はわたしたちを知っておられ、またわたしたちの必要を知っておられるからです。

 わたしたちの中における聖霊の働きには、積極的な面と消極的な面とがあります。建造する面と取り壊す面があります。わたしたちが再生された時、聖霊はわたしたちの中に住んでおられますが、わたしたちの外なる人は聖霊の自由を制限します。これは新しい靴を履いている人に似ています。靴があまりに堅くてきついため、その靴では歩きにくいのです。

外なる人が内なる人を困らせます。内なる人は外なる人を管理できません。こういうわけで、わたしたちが救われた日から、神はわたしたちの外なる人を対処し砕いておられます。神がわたしたちの外なる人を対処されるのは、わたしたちが知覚する必要にしたがってではなく、神が見られるわたしたちの必要にしたがってです。神はわたしたちの中で何が固執するものであり、何が内なる人が管理できないものであるかを見いだされ、神が知っておられるものにしたがってわたしたちを対処されます

 聖霊は、わたしたちの内なる人を強化することによってわたしたちの外なる人を対処するのではありません。聖霊は、内なる人にさらに多くの恵みを供給することによって外なる人を対処するのではありません。これは、内なる人は強められる必要がないという意味ではありません。この意味は、神には外なる人を対処するには、異なる方法があるということです。

聖霊は、外側の事柄を手段として用いて、わたしたちの外なる人を減少させます。内なる人をもって外なる人を取り扱うことは、決して容易ではありません。なぜなら、これら二者は異なる性質を持っているからです。内なる人が、外なる人を傷つけたり砕くのは難しいことです。外なる人の性質は、外側のものの性質に対応します。すなわち、外なる人は外側の事柄に容易に影響されます。外側の事柄は、外なる人を、内なる人ができるよりももっと上手に押しつぶし、痛みを与え、傷つけることができます。こういうわけで、神は外側の事柄を用いて、わたしたちの外なる人を対処されます。」(ウォッチマン・ニー著、『霊の解放』、『p.105-109)

 さまざまな事件に遭遇する時、私たちは、すぐには神の御心が分からないことがあるだろう。望ましくない事件が起こった時には、特にそうだ。こんな事件のどこに、有意義な意味を見出せるだろう?と、私たちの心は混乱する。しかし、どんな時でも、それは私たちに必要な経験なのだ。どうか、神が私たちに光を送って下さり、一つ一つの事件を通して、神が私たちに願っておられることは何であるか、御心を理解できるよう、助けてくださいますように!

「十字架は単なる教理ではありません。それは、実行されなければなりません。十字架は、わたしたちにおいて実行されなければなりません。わたしたちに属するすべての事物は、滅ぼされなければなりません。私たちが一度、二度、また幾度も打たれていると、わたしたちが自然に目が覚める時が訪れます。…」(p.123)


 

ある失敗―音楽の恐ろしさ―(続)

キリスト者とのメールのやり取りから。

「改めて一つ気づかされたことがあります。
音楽が生み出す感動や、陶酔感というのは、たとえどんなに宗教的に見えたとしても、
私はそれを一種の偽物だと思うべきだということです。
 
かつて私は、レフ・トルストイの「クロイツェル・ソナタ」について記事の中で触れた時に、
そのことをはっきりと書きました。

けれども、それは私がまだ霊と魂の区別もつかなかった頃に書いたものですから、
その点で、お読みになる価値はありませんが、ただご参考までに挙げておきます。
「クロイツェル・ソナタに見る男女の悲劇」
「クロイツェル・ソナタに見る音楽によるマインドコントロールの危険」
 
この作品の中で、トルストイは、今や音大受験生の教科書のようになり、
現代人がきっと最も、安全かつ、厳格だと思い込んでいるベートーヴェンという作曲家を取り上げて、
その音楽芸術が持つ潜在的かつ重大な危険性について警告しています。
 
この物語は、いつも決まって、男女の性、夫婦の性という観点から語られますが、
実は、音楽によって破滅させられた夫婦の物語でもあるのです。
音楽というものが、特にこの終わりの時代にあって、いかに危険なものであるか、
それを示すことが、トルストイのこの物語の第二の非常に重要なテーマだったのですが、
その問題は、多くの人から無視され、未だかつて、それを十分に論じた人は
一人もいないのではなかろうか?と私は思います。
 
しかし、今から振り返ってみると、小説「クロイツェル・ソナタ」は、まさに私にぴったりの、
しかも、目を背けたくなるほどに運命的な話でした。

音楽がいかに麻薬的な陶酔状態、幼児的退行にも似た無防備な心理状態を人の心のうちに作り出すか、
いかに下劣な人間であっても、音楽という手段を巧みに用いさえすれば、
自分をたやすく聖人や救世主にまで見せかけることができるか、
かつて自分で書いた警告を、今、もう一度、自分に強く繰り返したいと思います。
 
セザール・フランクは教会奏楽者ですから、彼の音楽に信仰が表れていることは否定できない事実でしょう。
それでも、彼の音楽をすら、私は、退けるほどの慎重さが必要です。
幼少期から音楽を少しばかり学んだために、より一層、私の魂と肉体は、
音楽に影響されやすい構造になっているのです。
そのことが、過去の教会での手痛い失敗においても、私の弱さとして顕著に表れています。
そこから学ばなければなりません。
 
本当の御霊から来る感動とは、常に深く理性に裏付けられたものであり、
同時に、感情も伴うものであるはずです。
しかし、音楽が作り出す陶酔感は、外的影響が理性を覆ってしまうのです。

たとえその音楽が厳格な構成の上に成り立ち、
深い思想や哲学や信仰が内にこめられているとしても、
音楽が外的影響となって、聞く者の耳に及ぶ時、それは聞く者の理性のたがを外し、
魂の極めて無防備な心理状態(=一方的な受容)を引き起こし、
その結果、音楽は彼の魂の奥深くにまで到達、浸透していくのです。
その時、聞く者は、作曲者(または演奏者、あるいはその音楽を利用している人たち)の思いを、曲と共に一方的に受け入れてしまうのです。
 
一言で言えば、音楽に身を任せる人は、たとえ気づいていなくとも、同時に、
その場の雰囲気にも身を任せてしまうことになるのです。
ですから、音楽と共にやって来る支配をも、一緒に受け入れることになってしまうのです。
意識的に、その影響力に抗うことは困難です。
 
御霊に導かれている時、私はどんなことにも、激怒することはありませんし、
異が痛くなるほど悩む、ということもありません。
自分が取っている行動を客観的に見つめることができなくなるほどに、自制心や、コントロールを失うということはありません。
 
しかし、私の魂と肉体が、たとえば音楽の影響によって、
「非常に影響されやすい」状態(=心の無防備な全開状態)になっていれば、
私は御霊の声を忘れて、その場の雰囲気が作り出す影響力に、疑いもせずに流されていくことになるのです。
 
そのようなわけで、音楽に対して心を開きすぎることは、実に警戒すべきことです。
この辺りのこと、魂の混ざった霊的なものの見分けが、もっと私につくようになったならと思います…」


 
「このような「音楽の時代」に あなたが堂々と
「そのようなこと」を言われる潔さに快哉を叫ぶ思いです。
 
結論から言えば 「魂と物質」起源のものは 総て敵の手の武器となり、
キリストから彼を切り離し得るのです。
でも このように 総論だけを言うのは 簡単ですが
その各論となると 極めて受け入れられにくい状況があります。
  
しかし、事実としては
音楽、美術等 最高の美でさえ、たやすく キリストに代わり得るのです。
基本的な相違は 前者が旧創造に属し、後者は復活を経たものであることです。
これこそ決定的なことであり、
神がこの世の最高の美さえも あの木に釘付けたことは明白です。
 
今日のキリスト者であればこそ、その各論を受け入れることはまず不可能でしょう。
ですから、彼らは音楽と共に滅ぶ可能性さえあるのです。
 
ウォッチマン・ニー は言います:
天の実際と 霊的命の完全さを知って 初めて
彼はそれらを 心からさげすむでしょう。
なぜなら その両者は比べ物にならないからです
、と。
 
キリスト者にとって 最も難しいものは 己であり、物質であり魂です
何故なら それらには ある美しさがあるからです。
見て美しく、好ましいからです。これに勝利し得る人は おりません
 
 「真に霊的で永遠に属するもの」を見る目、
 そのための光こそが
 何にもまして 貴重である理由が そこにあります。
 
 これは 今日 私達がこれから遭遇するであろう
 極めて困難な問題です。
 
 さて対策は 
 私達が 天的で、超越した美しさを この人間性から
 真に表現しえるかどうか、ではないでしょうか。
 
そのような「真に美しい人間」が
 現にこの地上に 現れなければならない、ということです。 
 
 イエスこそ、谷間にひっそりと咲くユリです。
 その美に本当に吸引される人は 誰でしょうか。
 誰がその美しさを真に発見できるでしょうか。
 
そして、
 誰が その生活の中で イエスと一つとなり 
 彼の美しさを 真に現しえるのでしょうか。」

ある失敗―音楽の恐ろしさ―

今日の昼下がりのことだった。
昨日から、今日の午後には、予めリストアップした書籍を予約するため、図書館へ行くことを予定していた。
だが、午後になって、とても良い日差しが窓から差し込んでおり、ちょっと今しばらく、外出を遅らせて、ここ数日、ほとんど鍵盤に触れていなかったピアノを弾こうと思った。

久しぶりに弾いた曲はどれもこれも新鮮に、とりわけ美しく感じられた。特に、教会オルガン奏者の作曲した曲は、信仰の友に聞かせたいほどの美しさだった。「この曲はきっと、イエスの誕生と復活を謳っているのに違いない」という以前からの確信を私はその時も新たにした。

音楽の美しさは、私をまさに天にも昇るような気持ちにさせた。
そこで、私はこれはとてもとても信仰的な曲なのに違いない、イエスを証しているのだから、この感動や、喜びは、信仰から来るものなのに違いない、と思い、それから、弾くのを終えて、予定通り、外出の準備にとりかかった。

予め図書館に問い合わせねばならない用件があったので、電話をかけた…
「すみません、レファレンスサービスについてお伺いしたいことがあるんですが、よろしいですか?」

ところが、向こうで受話器を取ったのは、ひどく横柄なもの言いをする職員。
彼は開口一番、明らかに、私を門前払いしようとして、事務的な口調で言った。
「あ、それね、今日は注文できないから、明日、平日にまたかけ直して」

はあ!?
私は心の中で怒りを覚えた。
休館日でもないのに、明日かけ直せって、どういうこと?
(その時、今日が祝日であることは私の念頭から消え去っていた。)
まだ一つの質問もしていないのに、かけ直せって、どういうこと?

私は怒りをかみ殺して、職員に質問を重ねた。
「あのー、私は注文をしたいのではなくて、問い合わせのために電話をかけているだけなんですけど…」
「あ、そう、じゃあ、どうぞ」
悪びれる様子もなく、職員はぞんざいに返事を続けた。

それは時間の経つごとに、苛立ちの増す会話だった。
何を聞いても、曖昧な回答ばかり。
判で押したように、基本的なことしか言わない。
説明が他館で聞いた内容と食い違う。
明らかに、その職員が電話応対を面倒だと思っている様子が声を通じて伝わって来る。

親切心のかけらもない応対に、私は電話の間中、心底、業を煮やしていた。
また、結局、私が利用しようとしていたサービスは有料であることが判明した。
そこで、それを利用するならば、大がかりな出費が余分に発生することが分かり、
私は今までの計画をあきらめざるを得なくなった。

その時の私の落ち込みようといったら、限りなかった。

かろうじて、職員にクレームはつけずに済んだが、私は憤りのあまり、
かなり語気を荒げて会話を終え、投げ捨てるように受話器を置いた。
失望が大きすぎたため、電話後も、しばらくの間、胃がキリキリと痛んだほどだった。

だが、しばらくして、心が落ち着いてきて、私は思い至った。
おかしいのは、職員の対応ではなく、私の方だと!
(もちろん、市立図書館員として、彼の応対が、非常にまずかったことは事実である。
私がここで述べているのは信仰による見方である。)

私は自分の反応が、自分でも驚くほどに感情に流されていたことに気づいた。
まるでパブロフの犬のように、私は職員の物言いに、ただ肉的に反射しただけだった。
私は、神の御前に、深く、うなだれなければならなかった…。

昨日、一切の不平不満を捨てると、あれほど決意したのに、それはどうなったのだ?
不平不満は、全ての物事に主の最善の采配を見ることと正反対の行動であるから、
そのようなものは捨て去るべきだと、あれほど思ったのに、
なぜ、今日はそのことを思い出しもしなかったのか?

それどころか、思い返すと、私はその電話の間中、完全に神の御心を忘れ切っていた。
たった一瞬たりとも、主が私をどう見ておられるか、考えもしなかったのだ。
これは、何かがおかしい、と私は思った。
ただ私が利己的な反応を返したということに終わらない、恐ろしいほどの冷静さの欠けがそこにあった。

そのようなことは、御霊に導かれて生きるようになってから、一度も起こったことはなかった。
完全に、主を忘れ去っていたなんて!?
完全に、肉だけで反応するなんて!?

もちろん、御霊に導かれて生きるようになってからも、私には色々な失敗があったわけで、
ここには書かなかったが、私の魂や肉が先走りしてしまうことは往々にしてあった。
それでも、そんな中でも、常にどこかで、御霊の声を聞いてはいたのだ。

だから、私には、我を忘れるほど激怒することはなくなり、絶望することもなくなっていた。
どんな混乱の最中にあっても、いつでも、不思議な落ち着きが心の底にあった。
(「御霊の思いはいのちと平安である。」)

ところが、今日、ある一定時間、私は、まるで神を全く知らない人間に逆戻りしたかのように、
魂と肉100%の反応を返していた…。
自分でも気づかない間に、私は御霊によるコントロールの完全な埒外へ出ていた。
無意識のうちに、内なる人のコントロールを完全に失っていた。
なぜ、そのようなことが起きたのか?
なぜ、私はある時間帯、御霊の平安を完全に失ったのか?

考えていくと、音楽という原因の他、思い浮かべられるものはなかった。
楽曲の演奏の際のあの高揚感、陶酔感、歓喜、それらがいつの間にか、私を完全に魂と肉体だけの領域へと連れ出し、私の魂と肉体の感覚を異常なほどに鋭く研ぎ澄まし、その研ぎ澄まされ(すぎ)た感覚を維持したまま、私は電話をかけて、職員の対応を聞いたのだ。

音楽が私の心を全開にし、私を魂の領域へと連れ去った。
私はそれが純粋に霊的な感動だと思っていたが、そうではなかったのだ!
音楽を聴いて、喜びに浸っていた間は、それで良かったかも知れないが、
そのままの調子で、私は魂が全開になったまま、不快な会話の中に、突入して行った。
それはちょうど、静かな音楽を楽しんで聴いていた人が、突然、何の断りもなく、
最大のボリュームで、いきなり、ヘビメタやロックを聞かされるようなものだ。

職員の言ったことが、心を開きすぎていた私には、200%くらいの衝撃となって及んだ。
私はその印象に圧倒されてしまった。
魂と肉体の過剰反応が私の外なる人を圧倒し、御霊の声を聞けるだけの余地は、もはや私には残されていなかった。外なる人がビジー状態になったため、内なる人には全く居場所が与えられなかった。

私が信仰的な音楽だと思ったものは、魂と肉体の過剰反応を引き起こしていた!
霊的な感動だと思っていたものの中に、魂の過剰な活動を引き起こすものがあった!
そのことに気づいてから、私は今更のように、音楽に含まれている「魂的なもの」に、強い警戒心と恐れを抱かずにいられなかった。
以前から、音楽の危険性については、記事の中で幾度か触れて来たのだが、その頃はまだ、私には魂と霊との区別を通してその危険を理解する能力がなかった。
だが、今や、私は、音楽を含めて、クリスチャンを内なる霊から、いつの間にか、魂の領域へと引きずり出すあらゆる外的刺激(それは見かけはとても快いものとしてやって来る)を警戒せずにいられない!

もちろん、外的刺激を楽しむことを全て一概に悪だと決めつけたいわけではない。
(そのようなものを全て排除するためには、私たちはこの世を去らなければならない。)
私たちが警戒すべきものは、気づかないうちに、私たちの心を極めて無防備にしてしまう感奮、私たちを御心から引き離してしまう、魂と霊の混ざりものである。
極めて崇高で宗教的な形式や、霊的な風を装って、私たちの魂に巧みに働きかけてくる、かの者からの影響力である。

主よ、私をあわれんで下さい、欺きは予想を超えて深いのです!
何と私は外からの影響に弱い人間なのでしょう!
何が魂であり、何が霊であるか、私はもっとはっきりと知らねばならないのです!

キリストと共に昇天するとは

 十字架においてイエスと共に死ぬこと、イエスの復活の命によって新しく生きること、それはもちろん、クリスチャンが日々、経験しなければならないことであるが、大まかなプロセスとしてみるならば、確かに、私はその二つの経験を与えられた。ある日、御霊の光によって、私はそれらを経験的にはっきりと理解させられた。

 この経験は、ちょっとやそっとでない変化を私にもたらし、私を永久的に、完全に、内側から変えてしまった。それまで、私は自分が状況次第ではどんな大罪でも犯しかねない人間だと感じてきたが、それ以後、あからさまに罪を犯すことは全くできなくなった。私の魂はあらゆる傷から解放されて、健康になり、肉的な悪習慣は、跡形もなく消え去った。私は今や御霊の制限の中を生きており、かつてのような罪と死の法則性には二度と戻ることができなくなったのをはっきりと感じる。

 だから、W.ニーが随所で述べているように、御言葉が光となって人の内側を照らす時、光は人の中で死ぬべきもの(=旧創造に属する部分)を永久に殺してしまうということが分かる。この変化は、ある人が一旦、やめると宣言した悪習慣に、時が経てばまた逆戻するような、優柔不断で曖昧な変化ではない。上から来る光は、照らすと同時に、殺す力を持っている。御言葉は、肉なるものを切り分けると同時に、永久にそれを殺してしまう。だから、この先、私が自ら光を捨てない限り、私はかつてのように肉に支配されることはないだろう。

 暗闇にいた人が、光の下で、徐々に目が慣れて来るように、私は、何が肉であり、何が魂であり、何が霊であるのか、おぼろげながら、見分けられるようになった。たとえば、魂から出た愛情や、善意は、たとえどんなに美しく見えようとも、全て腐敗しており、希望がないこと、御霊によって生まれたものだけが、真のリアリティであることが理解できる。周囲で起こっていることを見ても、何が魂の活動であり、何が霊の活動であるか、その微妙な境目を、少しずつ、識別できるようになった。

 それに加えて、少しずつ、御霊による支配が始まった。内なるキリストが、直接、私を通して、状況に働かれたという他には、全く説明のつかないような出来事が、さまざまな場面で起きた。キリスト者の内に住まう聖霊が、確かに生きて力強く働かれることが分かって来たのである。

 だが、決してそこで私は完全になったわけではないことがよく分かる。新しく生まれたとはいえ、その新しい内なる人はあまりに力なく、弱すぎることが大きな問題だ。もはや暗闇の中を歩んではいないとはいえ、依然として、この世や、暗闇の権威に打ち勝ってもいない。暗闇からの圧迫は、予期せぬ事件や、突然の身体の不調、不安を煽るような状況などとなって、波のように寄せてくるが、それに対して私は、よくても受け身、悪い場合には、ただ敗北(後退)を繰り返している。

 この無力さは、昇天(または御座につくこと)を経験していないせいではないだろうか。資格の上では、すでにキリストと共に御座についているはずであるが、それがどういうことなのか、私は実際に経験したことはなく、「キリストと共に統治する」ということの意味を、実際には知らない。だが、昇天の経験は、暗闇に勝利する生活を送りたいクリスチャンにとっては、なくてはならないものだ。
 以下は、W.ニーからの引用。

復活の後に来るものは昇天です。昇天は、復活の後の極めて重要な真理です。昇天がなかったら、わたしたちの『新創造』は完成した働きではなくなります。わたしたちは主イエスを信じた瞬間、十字架や復活などのすべての真理同様、昇天を受けます。

わたしたちが主を信じた瞬間、神はわたしたちにまだその経験がないにもかかわらず、わたしたちを昇天の地位に置かれます。昇天の経験は復活の経験に続きます。もしわたしたちが本当に主と共に復活し、彼の復活の命に結合されたなら、わたしたちはこの地上で絶え間なく実を結ぶでしょう。また、わたしたちの霊的生活はもろもろの天にまで引き上げられるでしょう。

 神は『キリスト・イエスの中で、わたしたちを彼と共に復活させ、彼と共に天上で座らせてくださいました』(エペソニ・六)。復活があれば、ごく自然に昇天があります。すべてのクリスチャンはこの昇天した生活に到達しなければなりません。主イエスは死人の中からよみがえって神の右に座られ、『すべての支配、権威、力、主権……唱えられるあらゆる名を超えて、はるかに高くされました』(エペソ一・二〇―二一)。

昇天の生活とは、サタンのすべての権威と力とに打ち勝つ生活です。昇天の経験を持つ前には、わたしたちは、ただ肉、罪、この世に対して勝利を持つだけです。わたしたちが昇天の中にある時、すべての支配、権威、権力、権勢、統治と暗やみを支配するあらゆる名との戦いを経験し、そしてその戦いにおいて勝利を経験します

わたしたちの霊と魂が完全に分けられた時、わたしたちの霊が復活を経て完全に解放された時、わたしたちがもはや魂の感情と思いによって影響されなくなった時、すべての環境とこの世の事物に超越している時、わたしたちは昇天の生活に達することができます。昇天の生活に達した聖徒たちは御座から物事を見る目を持ちます。彼らは何物にも影響されない経験を持ちます。…」
(ウォッチマン・ニー著、『創世記を黙想する』、日本福音書房、p.100-101)


 もし、十字架の死、復活と、それに続く昇天の経験がなければ、クリスチャンが、キリストの王国の勝利と支配の前味を経験することはできないだろう。私の前には、たとえば、職業の問題、経済の問題が立ちはだかっているが、それはただ私一人が何とかして命をつなぎとめるために乗り越えるべきものではなく、私を通して、キリストに支配していただくための一つのきかっけである。ところが実際には、どうだろう、時代の趨勢は、私の属する世代にとっては特に、悪化の一途を辿っているが、私はその状況に対して、翻弄されるだけの弱い受け身の立場であり、少しも、御心に堅く立って支配するというところには至っていない。

 以下はあるキリスト者のメールの部分的抜粋。
* * *

あなたの「キリスト者の職業観」、
確かに捨て去りがたいものがあると思います。
何か、これから上からの託しがあるのかもしれませんね。
それについて、キリスト者の信仰のありかたや、
またある真理へと導かれるかも知れません。
 
だから、それについて とにかく直接 
神の門を叩かれるようにと希望しております。
神が直接 あなたに教えられるように!
   
多分 神が今 私達に 多くの物質の中で暮らさせている目的は 
私達が見えない神の敵のみならず
「総ての物質をも支配出来る命」 に対する信仰 のためでしょう。
 
神は私達に
当初のアダムのように、
今、総ての生き物、物、また「者」即ち 「地を這う生き者」を
総て支配させたいのでしょう
アダムの場合、そのために 「先ず」神は
エデンに彼らを置かれたのかも 知れません。
私達は 今とてつもないスケールの中で、そのところに
置かれているのでしょう。
 
その為には多分 私達が「魂を捨てる」と言う学課は
極めて重要なキーとなるはずです。
それは ただ「彼」をして 総てを支配させるため 
なのだと思います。

求めなさい、そうすれば与えられます

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜って神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソ1:17-23)

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヨハネ15:7)

「今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。」(ヨハネ16:24)

* * *

 ニッポンキリスト教界において、不正な事件のために傷つけられ、苦々しい思いのうちに、信仰を失って、去って行く人々が絶えない。そのような人々を見る度に、どうしようもなく心が痛むが、人に過ぎない私が、彼らをどうやって引きとめられるだろう。私に彼らを救う力があるわけではない。私の言葉の影響力によっては、誰一人の心をも変えることはできない。たとえ私が生涯をかけて、教界の不正を声を大に叫び、全力をかけて彼らと闘ったとしても、私には彼らを打ち倒す力はなく、すでに傷つけられた人々の心を癒す助けにもならない。さらに、そのような活動は、義侠心から出た肉の働きに他ならず、全て実を結ばない、むなしいものである。

 しかし、神が、知恵と啓示の霊をその人に賜るならば、どんなに深刻な被害を受けた人であっても、人間の力によらず、ただ神ご自身の力によって、自分が辿って来た道が、神によって絶妙に整えられたものであったことを見出すだろう。たとえ幼い頃から、不幸な事件の連続、不正な事件の連続ばかりを見聞きして来たとしても、災いでさえ、その人が主の御許に引き寄せられるために必要な行程だったことを見いだすだろう。彼は自分が神から愛されている(しかも特別に愛されている!)がゆえに、そのような特別の采配の下に置かれたことを知るだろう。そして、神は、その人が心から神を呼び求めるならば、必ず、窮地からその人を救い出して下さるだろう。

 だから、ある人に私は言いたいのです、希望を失わないで、神に救いを求めて下さい。そのために手助けできるなら、どれほど幸いなことでしょう。

 最近、ある姉妹が、私の変わりように驚いたと言った。かつては非常に傷ついて悲しみに暮れているようだったのに、今は喜びに満ちて、信仰が強められているようだと。もしそうだとすれば、そうなったのにはただ一つの理由しかない、私は多く赦されたがゆえに、多く感謝するようになったのだ。以前の私は、恐らく、どんなカウンセリングによっても立ち直れないほどに、絶望と悲しみに暮れていた。将来を思い浮かべても、希望らしきものが少しも見いだせず、人生に大きな負債を抱えている実感があった。しかし、その中から、ただ神を呼び求め、また、私のために兄弟姉妹の熱心な祈りが捧げられた結果として、今、私は心の全ての縄目から解放されて、負債を帳消しにされて、自由を与えられた。それは全て神がお与えになったものであり、私が自力で獲得したものは何一つない。悲しみも大きかったが、それゆえに、喜びもまた大きいのだ。

 だから、悲しむ者は幸いである、と私は思う。自己満足して、誰からも助けを必要としていない人には、神の栄光を見るチャンスが全くない。しかし、傷ついた人、弱り果てた人、悲しみに暮れる人、不正に心を痛め、義を求める人が、心からまっすぐ神に向かって祈る時(ただ神にのみ心を向けることが大切である)、そこには主の栄光が現れる大きなチャンスがある、神はそういう人たちに必ず、ご自身の力と栄光を現して下さるだろう。

 多く赦された人は、解放された後も、ただ自分の自由を満喫し、ハッピーな生活を送るだけで人生を終わろうという気持ちにはならない。私たちの望みは、この地上で、搾取や、蔑みや、不幸とは無縁の、幸せな人生を個人的に獲得することにあるのではなく、ただ見えない神の国でいただく栄光こそが、ゴールなのだ。確かに、今はもう、罪と死の囚人ではなくなったが、今度は、自分から、主の囚人となりたいと願う。与えられた恵みが大きければ大きいほど、きっと、そう願わずにいられないのではないだろうか。

 だから私は言いたいのです、教界の不正を見て心痛めている人たち、混乱に満ちた世の中で、自力では自分を満たすことができないと分かって、心が貧しく空っぽになった人たち、義に飢え渇いている人たち、どうか一心に、神に心を向けてください、イエスの御名によって、あなたの願うものを、神に求めて下さい。一回の祈りであきらめたりせず、求め続けてください。扉を叩き続けて下さい。

 イエスは万物を足の下に支配しておられ、イエスの御名は、万物に勝って高く掲げられています。彼の名は、この地上のあらゆる支配、権威、権力、権勢にまさり、きたるべき世においても、あらゆる名の上に置かれるのです。イエスの御名が、キリスト教界に勝って高いことは言うまでもありません。

 キリスト教界で正義を見失い、信仰のあり方まで見失った人たち、どうかその傷ついた心を正直に、ありのまま、まっすぐ、ただ神に向けて、あなたが心から求めるものを、イエスの御名を通して、父なる神に願い求めてください。人に求めず、神に願い求めて下さい、そうすれば、あなたたちは飽き足りるまでに満たされることでしょう。

 恵みは水のように、低い方へ向かって流れる、とよく言われる。高ぶった魂を、神は退けられるが、打ち砕かれて、へりくだった魂を、決して、神は軽んじられることはない。

内なる人と外なる人(2)

「今日、神の霊は人を通して解放されなければなりません。他の人が神の愛を見ることができるには、人の愛がなければなりません。他の人が神の思想を見ることができるには、人の思想がなければなりません。他の人が神のみこころに触れることができるには、人の決定が見いだされなければなりません。

しかし、人の問題は、その外なる人が自分の事柄で多忙すぎることです。彼には自分自身の見解があり、自分自身の思想があります。彼は自分のことで多忙すぎます。その結果、内なる人は解放される道がないのです。
こういうわけで、神は外なる人を砕かなければなりません。」(ウォッチマン・ニー、『霊の解放』、p.53)

 今日、多くのクリスチャンが、神のために働いていると自分自身では思いながらも、その実、自分のための計画や思いや活動でいっぱいになっており、そのせいで、少しも御心を表すことができないでいる。多くの教会が、クリスチャンが、毎週、毎日、自前のスケジュールに従って、ひっきりなしに、「神のために」何らかの活動を続けているのに、それらの活動が、ほとんど実を結ぶこともなく、無駄に終わっているのはなぜなのか、その理由をどれほど多くの人々が真剣に考えたことがあるだろうか。

 しかも、それほど忙しく働いているにも関わらず、彼らと接するとき、私たちは彼らの中に、少しも「キリストの香り」を感じることができない。そこには何らの神のご性質をも見ることができず、ただむき出しの生身の人間性と、頑なな性質以外には、何も感じることができないのはなぜなのか、考えたことがあるだろうか。人々は、自分たちは正しい活動をしているのであって、実を結ばないことこそが、おかしいと考えているかも知れない。しかし、心から神を求める人々は、そのような説明は何かがおかしいと感じ、そこには何か本質的なものが欠けていることを感じ取るだろう。

 私たちがどんなに神のために働いたつもりになっていても、現実には、ただ空振りにおわる諸計画を持って、地上を右往左往し、いたずらに彷徨っているだけのように思われることがよくある。その理由は、私たちが、自分自身の力では、何が滅びゆく魂を起源とする、御心にそぐわない思いや計画であって、何が、真に御霊の指し示す思いや計画であるかを区別する力を持たないために、魂の衝動を、御心であると勘違いして、自己を起源とするむなしい活動にひっきりなしに没頭しているからである。

 私たちは自分の力では、自分の思いや計画がどこから来たのかを識別することができない。霊と魂を区別することができない。自己の魂というものが、どれほど徹底的に自己保存の思いにとりつかれており、自分を喜ばし、自分を満たすことだけを念頭に置いて、御心をおしのけ、御心に反して、自分を守ろうとし、神をも自分自身をも欺くものであるか、魂というものが、そもそも御心からどれほど遠くかけ離れた、呪わしい、汚れたものであるかを知ることができない。

 しかし、たとえ私たちが自覚していなくとも、私たちの天然の自己、魂は、どんなに「神のための奉仕」のような形を装っていても、その実、自分自身のためとい動機に基づいて働いており、私たちの魂から捧げられる賛美・祈り・奉仕は、神の御前には決して受け入れられることはない、むなしい捧げ物である。私たちが自分の天然の魂から来る衝動に真に死んで、霊に導かれて生きるようにならない限り、どれほど必死になって奉仕を積んだとしても、それが神の御国のために役立つ日は来ない。それどころか、私たちが自己の思いを増強する度に、それがより一層、固い殻となっていき、一粒の種の発芽を阻み、御国のために実を結ばなくさせてしまうのである。

 神はこのように自己という固い殻に覆われた私たちの状態を変えたいと願っておられる。神が望んでおられるのは、私たちの天然の自己のエネルギーが弱められ、死ぬことである。そこで、神は私たちの人生において、外なる人(魂、肉体、古き人である自己)を御霊によって処理しようとされる。イエスを救い主として受け入れたクリスチャンには、その人がたとえ気づいていなくとも、神は彼の外なる人に対して、御霊による訓練、もしくは啓示による、魂の取り扱いを開始する。外なる人を、御霊と共に生きているその人の内なる霊に服従させるための訓練が始まる。御霊は、何度も、何度も、根気強く、私たちの人生に臨み、さまざまな障害物を置くことによって、外なる人を傷つけ、環境というるつぼの中で練り、砕き、ろ過し、不要な部分を取り除き、柔軟にしようと働きかけている。

 しかし、私たちは「外なる人が打ち砕かれる」という表現を耳にする時、何と好ましくない印象を受けることだろう。人生に突如として起きてくるさまざまな困難を通して、御霊が私たちの外なる人を取り扱う時、私たちはほとんどの場合、それが神による取り扱いであることを理解せず、ただ何とかして痛みを避けようとして、嵐が静まるまで、逃げ回っているだけである。私たちはこう考える、自分の意志を放棄すると、ロボットになってしまう! どこかのカルト団体に入信している信者のように、自分の意志を全て失い、うつろな目つきになって、ぼんやりと誰かの命令通りに動かされるだけの操り人形になってしまう! 私はそんな風になりたくない! 自分の意志、自分の願い、自分の計画、それらを放棄してしまったら、人間としての私は終わりだ! だから、どんな困難な状況にも屈服してはならない! 私は私の願いを決してあきらめない、私は「私らしく」生き続ける!

 しかし、このような考えがどれほど御霊にとって妨げとなり、私たち自身にとっても、深い欺きとなっているだろうか。神は人の自由意志を尊重される方であり、御霊は紳士的に働かれる。私たちは、神の真実な御霊による訓練を、人間性を奪うためのカルト団体における強制的な信者の訓練と混同すべきではない。御霊は、決して、私たち人間を、自由を奪われた操り人形や、拘束された囚人のようにされるために働いておられるのではない。

 しかし、今日、キリスト教を名乗っている多くの教派の間で、聖霊でないものを聖霊であると偽り、「これは聖霊が言われていることなのだ」と言いながら、人を人に服従させ、支配するための各種の訓練が行われているから、その点については、要注意である。そこでは、神の名を用いて、あらゆる偽りが行われ、人間の自己を砕いて、ただ他の人に服従させるために、さまざまな最新の運動が行われている。そのような場所では、悪しき霊が働いており、私たちはそのような偽の訓練や運動には近づいてはならない。神は私たちを真に自由にするために、訓練を行うのであって、私たちを、意志も感情も思いも奪われた他人の操り人形にするために、外なる人を打ち砕こうとしているのではない。

 私たちが追い求めているのは、人の思惑ではない。誰か人間の指導者による啓発や、訓練ではない。だから、私たちは、人を人に服従させるための諸計画に欺かれないようにしよう。人の考えとは関係ないところで、真に神の御前に静まって、畏れを持って進み出て、次のように祈るならば、真実なお方である神は、きっと私たちの願いに答えてくださるだろう、「主よ、私はあなたの御心を知らなかったがゆえに、これまで、あなたの計画を妨げ続けて来ました。けれど今日、自分自身を改めてあなたに捧げます。私をあらゆる偽りから遠ざけて、ただあなたの真実な御霊によって、導き、啓示を与え、訓練してください。あなたが私を貫いて働くための方法を持つことができますように、あなたが私を通して自由に働くことができるようにと願います。私の自己があなたのご計画の妨げとならないように、私の外なる人を砕いてください。必要な学課を最後まで学ばせて下さい。何が魂であり、何が霊であるかを私に教えて下さい。」

「こういうわけで、神は外なる人を砕かなければなりません。しかしこれは、意志はすべて殺されるべきであるという意味ではありません。この意味は『手のもの』、すなわち、意志の中のあるものは、意思がもはや独立的に振舞うことがないように、はぎ取られなければならないということです。これは、わたしたちの思想はすべて殺されるべきという意味ではありません。この意味は、わたしたちは自分自身にしたがってもはや考えないということであり、また、わたしたちはもはやあらゆる種類の考えを提案することができなくなり、また、わたしたちのさまよう思いによって迷うことがなくなるということです。これは、わたしたちの感情はすべて殺されるべきであるという意味ではありません。この意味は、わたしたちの感情は、内なる人の管理と指示の下に置かれるようになるということです。このようにして内なる人は、思い、感情、意志が、すぐに用いられる状態になっていることを知ります。」(p.54)

 神は私たちから、意志と感情と思いを奪って、私たちをロボットにするために、外なる人を打ち砕こうと願っておられるのではない。むしろ、私たちの自己を限りなく弱めることによって、私たちが内に住まわれる聖霊に柔軟に応じるようになり、私たちがもはや二重性を持たない、内的な矛盾を持たない、真に統一された自由な人として、神のために有用に働くことができるようにされたいのである。

 イエスを救い主として受け入れたその時から、聖霊と私たちとの二人三脚は始まっているのだが、私たちは絶えず、自分だけの意志、自分だけの思いによって、御霊を自分の思う方向へ引っ張って行こうとしているので、両者は絶えず対立し、せめぎあい、私たちは失敗するばかりで、二人三脚は一度としてうまく行った試しがない。にも関わらず、私たちはもっと頑張って、自分の思いで御霊を強く引っ張っていかなければならないと誤解している。だが、必要なのは、私たちがその自分勝手な活動に死ぬことである! 御霊は、私たちの自己に引きずられるのでなく、私たちの自己のエネルギーを極限まで弱め、私たちの外なる人が内なる人と調和して、両者が一体となって働くことを望んでおられる。もしもそれがなければ、決して、私たちは神のために有用な働き人となることはできないだろう。そのために、私たちは自分の手の中に固く握り締めてきたもの――自分のためだけの意志、自分のためだけの計画、自分のためだけの思い――を一旦、放棄して、それを神のためにいつでも用いられる状態へと解放し、自分を御霊に明け渡しながら、共に進んでいくことを学ばなければならない。

 それは決して、私たちが骨抜きにされて、死人のように生気を失ったり、自分の意志も感情も思いも持たずに、命令どおりに動かされるロボットのような状態になることを意味しない。外なる人が打ち砕かれる過程には、確かに、痛みが伴うだろう。しかし、御霊と調和して生きるところには、私たち自身にとっても、真の解放があり、自由がある。なぜなら、そうなって初めて、私たちはもはや分裂のない、統一された「新しい人」として調和の中に生き、神のために豊かに実を結ぶ働き人となるからである。

「霊は、自分自身を表現するために、思い、感情、意志を必要とします。霊は、自分自身を表現するために、死んだ外なる人ではなく、生き生きした外なる人を必要とします。霊は、封印されて触れられていない外なる人ではなく、打たれ、傷つけられ、砕かれた外なる人を必要とします。

今日、最大の障害物はわたしたちです。神の霊はわたしたちを貫き破ることができません。神の霊は、わたしたちの霊の中に住んでおられますが、わたしたちの霊から出て来ることができません。わたしたちの外なる人は、あまりにも満腹しています手のもので満ちていますわたしたちは、外なる人が砕かれて、内なる人が出て来るための道を持つことができるように、神にあわれみを求めなければなりません

 神は、わたしたちの外なる人を滅ぼしません。しかし、神は、外なる人が触れられることがなく、砕かれることがない状態のままであることを許されません。神は、わたしたちの外なる人を通過されたいのです。神は、わたしたちの霊が、わたしたちの外なる人を通して愛し、考え、決定をして欲しいのです。神の働きは、砕かれた外なる人を通してのみ達成することができます。もしわたしたちが神に仕えたいのであれば、わたしたちは、この基本的な対処を経なければなりません。<略>

 外なる人は、真に砕かれた後はもはや独立的には振る舞わなくなります。外なる人は滅ぼされてはいませんが、もはや内なる人と対立していません。内なる人に服従しています。このようにして、わたしたちの中には、ただ一人の人しか残らなくなります。外なる人は粉々に砕かれ、内なる人が用いるのに用意されています。
 外なる人が砕かれた人は、『一体化された』人です。彼らの外なる人は、内なる人の管理の下にあります。<略>

 人が主の御前で役に立つかどうかは、その人の霊が外なる人を通して解放されているかどうかにかかっています。内なる人が束縛されていると、外なる人がすべてのことを自分で行います。<略>主の恵みにより、主が坂道を平坦にし、外なる人を砕いてくださるなら、外なる人はもはや、提案をしたり、決定をしたりすることはなくなります。このことが起こると、内なる人は、外なる人の何の妨げもなく、自由に解放されます。もし主がわたしたちに恵みを賜り、外なる人を砕かれるなら、わたしたちは、自分の霊を活用する上で熟達した人になり、わたしたちは自分の願う時に、霊を解放することができるようになります。」(p.54-57)


内なる人と外なる人

先日、尋常ならぬ引越しに要した並々ならぬ気力・体力がついに限界に達したのか、原因不明の体調不良に見舞われた。昨日は、めまぐるしく浮き沈みを繰り返す気分のために、片時も、落ち着く間がなかった。

 体調が悪くなると、それに合わせて、さまざまな恐れ、不安、ネガティヴな思念が発生してくる。昔は、それが「呪われた死の身体」から発生する雑音であると気づくことさえなく、私は諸々の不機嫌や不安のなすがままに振り回されていた。

 けれども、今は、それらの不安定な感情と思惑が、私の外なる人、(主として)滅びゆく肉体から発生するノイズであり、私の内なる人、内側にある霊とは関係のない事柄であるのが分かる。そこで、それらと少しだけ距離を置けるようになった。だが、依然として、外界や、魂や、肉体の雑音に全く左右されずに、私が内なる平安を保てる人間になったというわけではない。ただ「真のリアリティであるキリストの命とは、こういうもののことではない」と思いながら、それらを何とかやり過ごすだけだ。その間、そのうるさい雑音によって、内なる平安はほとんどかき消されてしまう。

 不快な感覚の中で私は思った。なぜ私の信仰は、こんなにも外的条件に左右されるのだろうか。こんなにぐらつきやすい信仰で、この先、やっていけるのだろうか。どうして、ある日は平安に座していても、他の日には平安に座すということができなくなるのだろう。そんなにも安定がないのはどういうわけだろう。

 不安の中にいると、兄弟姉妹から、的確な助言や励ましをもらった。別段、私の方から、相談したわけでないのに、ある姉妹から、まさにそのテーマについてのメールをいただいた時、ああ、エクレシアは、一つなんだな、と改めて感じさせられた。あるいは、言い換えるならば、これはそれほどまでに、あらゆるクリスチャンにとって、重大問題なのかも知れない。

 今日、神の働きを最も妨げているのは、私たちの外なる人が、御霊によって十分に打ち砕かれていないことである、とW.ニーのある本は告げている。外なる人が、内なる人の働きを妨げる際に発する雑音とは、何も、肉体の弱さや、恐れや、不安や、不機嫌、疲労、多忙、外的な刺激から受ける諸々の影響ばかりではない。また、強情や、おしゃべりや、怠惰や、厚かましさや、高慢などの、あからさまに否定的な性格ばかりが、外なる人の性質を表すのではない。ある人にとっては、陽気すぎる性格、活発すぎる性格が、内なる人の妨げとなるだろうし、ある人にとっては、持ち前の正義感、頭脳明晰さ、善意、優しさ、そんなものが障害となる。外なる人の生まれつきの性質は、人によってそれぞれであるが、いずれにせよ、生まれつきの性質は、御霊によって、砕かれなければならない。

 外なる人は、もし聖霊によって砕かれるならば、もはや内なる人が働く妨げとはならない。外なる人と内なる人との間に調和が生まれ、両者は一致して同じ目的のために(神の御心のために)働くようになるだろう。だが、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、麦を覆うその固い殻が、発芽を邪魔し、実を結ぶことは決してない。私たちの外なる人の生まれつきの頑なな性質がそのまま残るならば、それは、生ける水が川々となって、私たちから外に流れ出るのを常に邪魔する。御子イエスは、御霊を制限されることはなかったが、私たちは、救われて御霊をいただいたにも関わらず、魂や肉体、生まれ持った自己の性質という固い殻が覆いとなって、神の地上での自由な働きをほとんど阻害してしまっている。

 そこで、御霊の自由な現れのためには、ヤコブがもものつがいを外されたように、私たちも、聖霊の取り扱いを受けて、生まれつきの性格を処理されなければならないのだが、それがほとんどないために、御霊は監禁状態に置かれ、私たちの中から外に出ることもできなくなっており、恵みの川の代わりに、ただよどみだけがあるというのが、今日の教会の一般的な姿だろう。

「四福音書の根本的な教えは、神が一人の人の中におられたということです。書簡の根本的な教えは、神が教会の中におられるということです。福音書は、神はただ一人の人の中におられたと告げます。神は、イエス・キリストの中におられるだけでした。書簡は、神は教会の中におられるだけであることを見せます。<略>

 全能の神がキリストの中に住んでおられた時、神はやはり全能な方でした。神は、どんな方法によっても、制限されたり、減少されたりすることはありませんでした。今日、神の望みと目的は、教会の中で全能者、すなわち、無限な方であり続けることです。神は、キリストの中で表現されたように、ご自身を教会の中で、自由に表現したいのです。もし教会が制限されると、神は制限されます。もし教会が無力であれば、神は無力です。これは非常に深刻な問題です。<略>

要約すれば、わたしたちの中のどんな障害物も、神に対する障害物となるということです。わたしたちの中のどんな制限も、神に対する制限になります。もし、神が教会を通して解放されなければ、神には前進する道がありません。今日、神の道は、教会を通してです。

 なぜ聖霊の訓練はとても重要なのでしょうか? なぜ、魂を霊から切り分けることがとても重要なのでしょうか? なぜ、外なる人が聖霊の訓練する働きによって砕かれなければならないのでしょうか? それは、神がわたしたちを貫く道を持たれる必要があるからです。決してわたしたちは、このことを、単なる個人的な、霊的な啓発に過ぎないと思ってはなりません。それは、単なる、個人的な、霊的な経験ではありません。それは、神の道と働きに、深くかかわりがあります。これは大きな問題です。

わたしたちは、神を制限すべきでしょうか? 神は、わたしたちの中で、自由を持っておられますか? わたしたちが対処され砕かれてはじめて、神はわたしたちの中に完全な自由を見いだされます。

 教会が神に高速道路を与えるためには、わたしたちは、神がはぎとられることを経験し、神がわたしたちの外なる人を砕くことを許さなければなりません。このことでの最大の妨げは、わたしたちの外なる人です。もし外なる人の問題が解決しなければ、神の水路としての教会の問題は、決して解決することはありません。わたしたちの外なる人が神の恵みによって砕かれるなら、神がご自身の働きへの水路としてわたしたちを採用してくださる方法には、何の制限もありません。」
(ウォッチマン・ニー著、『霊の解放』、日本福音書房、p.89-90)
<つづく>

アブラハム、イサク、ヤコブの神

つい先日、ある青年を病室に訪ねた。
数ヶ月前、初めて彼に会おうと思いついた時、
私はまだ遠い地に住んでおり、
こんなにも早く、主が私たちを会わせて下さるとは思ってもみなかった。

私とある兄弟とは、主のすばやい采配に驚きつつ、病院へ向かった。
だが 二人の心の中には、溢れる喜びがあった。
受付で面会を申し出て、青年と三人で向き合った時、
開口一番、彼が私に向かって話し出したのは、
『アブラハム、イサク、ヤコブの神』についてだった。

私は度肝を抜かれた。
わずか数日前に、私はその本を贈呈されて、読み始めたばかりだった。
しかも、青年が話し出したのは ヤコブがもものつがいを外された話。
道中の電車の中で、私がちょうど目を通したばかりの箇所だった。

すべてが偶然とは思えない面会。
主は何を意図して、この状況を整えて下さったのだろう?

さて、クリスチャンは、
アブラハム、イサク、ヤコブの3人全ての経歴を持たなければならない、
この本の中で、W.ニーは確かにそう言っている。
アブラハムだけではダメ、イサクだけでもダメ、ヤコブだけでもダメなのだ。
この3人全ての経歴を クリスチャンは持たなければならない。

信仰の父と呼ばれたアブラハム、
彼は信仰によって、父なる神から約束の嗣業を得た。
イサクは父に従順に従い、全てのものを父から受け継いだ。
策謀家だったヤコブは 生まれつきの性格を聖霊から取り扱われなければならなかった。

この3人のうち、私たちが最も避けて通りたいのは誰だろう?
きっと ヤコブ だろう。
私たちは 自分の生まれつきの性格が 聖霊によって打ち砕かれることを好まない。
自分の性格が それほどまでに悪く 腐敗しており、
神の働きの妨げになっているとは 認めたくないのだ。

だが、主はクリスチャン人生のどこかで、私たちの性格を取り扱われる。
私たちが 持って生まれた性格に、絶望せねばならない時が来る。
天然の魂から来るエネルギーが もはや 私たちを生かさない時が来る。

青年は私に向かって言った、
「生まれつき活発な人がいたとしても、果たして、その活発な性格が、
本当に主に喜ばれるものなのか、分からないですよね。
生まれつき、内向的な人がいても、その性格が、
そのままで主に用いられるのかどうか、分からないですよね。
自分の性格を聖霊によって管理されなければ、
本当の意味で 私たちが神のために働ける日は来ないのでしょう」

私たちは注意しなければならない、
アブラハムの子孫すべてが神の民なのではない。
イサクの子孫すべてが神の民なのではない。

ハガルから出たイシマエルは 父の嗣業を受け継ぐことはできなかった。
長子の権を売り渡したエサウも 父の嗣業を受け継ぐことはできなかった。
これらの人々は、選ばれた者の血筋をひいてはいるが、本質的には
肉によって生まれた 神の民に敵対する 約束の子ではない者たちである。

バプテスマのヨハネが民に向かって言った言葉を思い出そう、
「まむしの子らよ! 
迫り来る神の怒りから逃れられると 誰がおまえらに教えたのか。
自分たちの先祖には、アブラハムがあるなどと、思ってもみるな。
神はこの道端の石からでも、アブラハムの子孫を起こすことができる!」

今、その言葉通りに 肉によれば アブラハムの子孫であるはずの民が退けられ、
肉によっては アブラハムの子孫たり得ない異邦人が 
信仰によって アブラハムの子孫に接木されて 約束の子とされた。

だが、注意しよう 約束の嗣業を受け継ぐためには、
私たちは アブラハム、イサク、ヤコブ全ての子孫でなければならない。

今日、とりわけクリスチャンに欠けているのは、
ヤコブの経歴、だろう。
信仰によって義とされ、従順に恵みを享受し、聖霊によって管理され、日々、自己を否む。
この最後のステップが 何と私たちには 欠けていることだろう。

私たちは ヤコブのように 御霊によって びっこにされなければならない。
天然の自己を失うことなくして クリスチャンは 決して神の望んでおられる完成に至ることはない。
願わくば 主が私たちを憐れんで 早くもものつがいに触れて下さるように。

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2016年、この記事もある意味、今から思い返すと感慨深いものがある。
筆者は関東に来る前、KFCのメッセージをネットで聴いていたが、そこでDr.Lukeが「あなたたちはアブラハム、イサク、ヤコブのうち誰に習いたいですか?」と信者たちに尋ねていた。

ある信者が(今だから誰だかも分かるが)「イサク!」と、Dr.Lukeの望み通りの答えを嬉しそうに叫んでいた。

その頃のDr.Lukeは、筆者から見ると、その当時の筆者には望むべくもないほどの多くの富を手にして高みに輝いているように見えたが、同氏はそれらがすべて、「(神の)恵みによって与えられた」ものであることを強調していた。自分はヤコブのように、望んでいるものを獲得するために、もがき苦しんだり、人を出し抜いたり、策略を巡らすタイプではなく、イサクのように安息のうちに約束のものを上から受け継ぐのだと。

当時から、何事についても、絶えざる戦いを経なければ、約束のものを獲得することのできなかった筆者は、そういう生き方もあるのだなと、感心していた。

そして、もしすべての願いを、戦いも、苦しむこともなく手に入れることができるならば、ぜひとも自分もイサクのようになりたいものだと考えていた。

だが、今現在、Dr.Lukeは当時誇っていたイサク型の生き方を完全に離れてしまい、むしろ、ヤコブの策略によって長子の権を奪われたエサウのようになっている。己の欲のために、神の子供としての御国の後継という、最も売り払ってはならないものを売り払ったのである。

その結果、神の承認によらず、自己申告によって、「自分は神だ」と宣言するにまで至っている。

どうしてそのような恐るべきことが起きたのか、その過程をつぶさに検証するつもりもないが、それにしても、この世の欲や、人の賞賛への二心を捨てられなかったことが最も大きな原因であろう。

これは筆者の見解であるが、人の人生にはある意味、公平なところがあって、信仰者は決して己の人生においてすべての苦難や試練を避けて通ることはできないのだ。誰もが経験する痛みや苦しみや悲しみを全く経ておらず、常に苦しみとは無縁の安楽な人生を歩み、苦労なしに幸福の絶頂に輝いているかのように振る舞っている人間には、必ずウソが隠されており、その人には、当然、減るべき十字架の死を回避して歩んだ分だけ、その後の人生で、待ち受けている苦難は大きいものであるということが言えるのではないかと思う。

 Dr.Lukeに限らず、当時、筆者が出会った信者たちの多くが、恵まれた時代に青春を迎え、窮乏だとか、苦しみだとかとはおよそ無縁の生活を送っていた。むろん、彼らは自分たちにもそれなりに悩みはあったと当然、言うであろうが、その悩みの深さが、我々の世代とはまるで違ったのである。そうであるがゆえに、彼らは筆者が何のために苦しんでいるのか、その苦しみも、悲しみも、全く理解することができず、それは筆者が若く未熟なせいだと思い込んで、いつまで同じところを堂々巡りしているつもりかと辛辣に批判していたのであった。

だが、その彼らが、当時の姿そのままに、現在も安楽で平和な生活を送っているかと言えばそうではない。

その人々は信者を名乗っていたが、彼らの幸福は、時代の趨勢が与えたものであって、信仰によって獲得したものがどれほどあったのかは不明である。彼らは主の御名のゆえの苦難を甘んじて受けようとはしなかった。苦難がやって来ると、そこを通らなくて済むように、巧妙に従来の信仰を曲げるか、捨てるかして、世の情勢に自分自身を合わせ続けたのである。それが、カッコいい生き方だと、彼らは思っていた。だから、当時、筆者がエクレシアだと考えて交わっていた人々の大半は、恐るべきことに、後に異端の教えに逸れて行ったのである。

その結果、彼らはイサクとしての生き方ができなくなった。そのことを彼らは未だに認めようとはせず、あらゆる方法でごまかしているが、いずれ結果は誰の目にも明白になろう。つまり、本当に彼らが御国の後継者たる資格を今も持ち続けているのかどうか、それは必ず、明らかにされるのである。
 
誰もが通る試練がやって来た時、自己の美が失われることに耐えられず、もものつがいが外されることを頑なに拒み続け、他の哀れな信者たちの窮状や苦しみを高みから見下して、自分たちは彼等とは違うので、そのような痛み苦しみを通らされることはないと豪語しながら、まるで王侯貴族のように欲しいままに振る舞っていた人々は、ついには御国の後継者から除外されていくのであろうと筆者は考えている。
 
筆者自身は、未だヤコブのような人生を送っているが、それはそれで良いことであり、少しばかりイサクに近づいて来た側面もあるように思う。恵みによって手に入れた事物がそれを証明している。今では、「もものつがいを早く外して下さい」などと神に向かって祈ることはしない。わざわざそんなことを願い出なくとも、時の流れの中で、主の采配により、信者は自然に様々な学びをして変えられて行くことを知っているからである。

ただ、自己を神とするような恐るべき冒涜に落ちないことと、そのような誤った教えを信じる人々の誘惑や欺きに巻き込まれないことを祈るばかりである。

若い時に苦しみを受けるのは良いことだと聖書に書いてある。何の苦しみもなく人生の絶頂期を過ごし、その幸運を神の恵みだと誇っては自慢しながら、他者の窮状を見下していた人々の末路を見るとき、運命に甘やかされすぎることは、本人にとっては都合が良いかも知れないが、その人の人生全体に実に恐ろしい害をもたらすのだと思わずにいられない。

だから、筆者は自分の悩み苦しみと全く無縁でないこの地上の人生を振り返って自らケチをつけたり、それを恥じるつもりはない。苦しみのない人と比べて、自分は不幸だ、とも思わない。むしろ、筆者のあらゆる弱さの中に生きて働かれるキリストを賛美するのみである。筆者がどれほど傍目に不器用に、あるいは、無駄に苦しんでいるように見えようとも、神は「わたしの恵みはあなたに十分である。あなたの弱さの中に、私の力(強さ)が完全に現れるからである」と言われるだろう。
 


はかりしれないコントラスト

引っ越して来てから、幾人かの兄弟姉妹にお会いした。
その中のある方が、先日、私に尋ねた。
「それであなたは 毎週、そこの日曜礼拝に通ってるんですか?」

それは私の住処から最も近いところにある、とある素敵な集会を指す。
私は いいえ、と答えた。
引っ越してから一度も、私は日曜礼拝に出たことはありませんし、
出たいと思ったこともありません。

その方はちょっと驚いておられるようだった。
エクレシアのために、関西から関東まで大がかりな引っ越しを決行したと言っておきながら、
引越し後も、どこの日曜礼拝にも通っていないなんて!?
どこの集まりにも正式に属していないなんて!?
じゃあ、この人は何のために一体、この土地まで来る必要があったのだろう!?

もの問いたげな兄弟の眼差しを見つめながら、私は思った、
そうだろうなあ、これが普通の反応なんだろうなあ、
世間はきっと、そういう風に受け止めるんだろうなあ。

でもね、どう説明したらいいか分からないけれど、
私にとってのエクレシアって、全く、そんなんじゃないんです。
私が日々、神の御前で主イエスのまことの命を生きる、
それだけがエクレシアの始まりなんです。

* * *

最近、主にあって、些細だがとても重要な仕事の一端を任された。
その大任を 喜びのうちに 全力で果たそうと思って、
ちょっとだけ 以前の学究生活を思い起こさせるような不眠不休の時間を送った。

ところが せっかちな私がどんなに努力しても
いつも 判明するのは 過ちの連続ばかり。
私の常識が 真実には届かないことを思い知らされるばかり。

なのに、自分の限界を知らされることがとても嬉しい。
主は決して栄光を人にはお与えにならないと、
神の知恵はいつでも人の知恵にまさって高いのだと、
それを知らされることが なぜこんなにも嬉しいのだろう。

さらに嬉しいことがある。
三人集まれば文殊の知恵 ということわざがあるが
主にあっての二、三人は 軍隊にも勝るのだ。

一人では全力を尽くしても越えられないはずの限界を、
主にあっての二、三人が集まるときに、
私たちは 軽々と飛び越えていく。

まるで宇宙を足の下に踏みしだいているかのように
一人分の知恵と力ではどうにもならなかった限界をはるかに高く飛び超え
世からは半ば見捨てられたような ちっぽけな存在に過ぎない二、三人が、
誰も思いもつかなかった ありえないような事柄を達成している。

主にあって生きるとは 何と面白いことだろう。
この興味のつきない 終わりのないコントラスト!
固い殻に覆われて 自力では芽吹くことさえできない
一粒のからし種に過ぎない私と
永遠に豊かな実を結ばせる はかりしれない イエスの力ある命!

たとえ自己を焼き尽くされ、何も残らないのだとしても、
それでも燃え盛る炎のような光の中に 私たちは飛び込んで行く。
焼き尽くされるべきものすべてが焼き尽くされて
ただイエスの復活の命だけが 御前に残りますように!

蘇生する自己

さて、皆さん、お久しぶりです。

関東に来てからしばらく、ブログを更新するという重荷からも逃れて(笑)、夢のように解放的で充実した日々を送っていました。長らく記事を書いていなかったので、私のブログ読者は半分以下に激減したようですが、それもかえって嬉しく感じられます。過去にためこんだあれやこれやの荷物をきれいさっぱりと捨てて、日々の十字架だけを背負って、つつましい、新しいスタートを切ることができるのは、またとない幸いです。

人に言わせると、「ヴィオロンは著しく変わった」のだそうです。本当にそうなのでしょう。去る8月25日、紛争の絶えなかった我が家と、その我が家のために、救いがたく病んでいた私に、神が大いなる憐れみを注いでくださったその時から、私は十字架上で、御子イエスと共に自己に死に、イエスの復活の命をいただいて、御霊によって生きるように変えられました。以来、筆舌に尽くしがたい不思議なことが周りで起き、それからわずか1ヶ月の早さで、私は我が家を離れ、今住んでいる土地へとやってきました。この「エクソダス」は、エクレシアに連なりたいという動機だけに基づいて行われたことであり、それはどうやら、神の御心にかなって与えられた願いのようです。この計画にまつわるすべての事柄に関して、主は完璧すぎるほどに準備を整えてくださいましたので、私は何の問題もなく引越しを完了することができたのです。

しかし、解放感に浸るのはそろそろ終わりにしましょう。ここからが今日の記事の本題です。今、先人の言葉を参考にしながら、記事を書いています。

私が経験したのと同じようにして、キリスト者は、ある日、突然、何か劇的な事件が起こって、あるいは、些細な事件を通して、「十字架によって自己に死ぬとは何なのか」を学ばせられる体験をするかも知れません。その時、私たちは自分の弱さ、醜さを徹底的に思い知らされ、人知の癒しがたく腐敗していること、人間が魂の底まで、救いようなく堕落しており、生まれながらの人間から発生するどんな善良さも、絶望的なものであり、腐敗していること、人間には微塵もきよさはないこと、神の助けなくして、人間は一瞬たりともまともに生きられない邪悪な存在であることを思い知らされます。

御霊を通してやってくる真理の光に照らされ、私たちは絶体絶命へと導かれ、そこで自分たちの無力と腐敗を知ります。私たちは神の御前に万策尽きた状態となり、どんなあがきも、試行錯誤も、あの手この手も、自分を生かす力がないことを知ります。完全にお手上げです。私たちには、目の前にたちはだかる困難に立ち向かう力は全くありません!万策尽きました! 主よ、助けて下さい! それが、私たちが、自分の自己に対して、徹底的に殺される瞬間に、心の底から出て来る叫びであることでしょう。今までのプライドは打ち砕かれ、誇りにしていた経験も何の役にも立たず、知識は私たちを裏切り、感情は不毛な叫び声をあげるばかりです。私たちは、世間からどんなにみっともなく思われようとも、その時、ただなりふり構わず、神に助けを求める以外には、もはや何もできないことを知ります。こうして、私たちは、自己に死なされます。

その後、自己に死んだだけで終わるのでなく(それでは無意味です)、十字架を通して、イエスの復活の命が私たちに適用されるなら、私たちは、絶体絶命をくぐりぬけて、今まで経験しなかったような新たな力によって、自分が生かされていることを知るでしょう。ふと気づけば、あれほど強固に自分を苦しめていた縄目が地に落ちて、私たちは自分が勝利を得たことを知るのです。今まで知らなかった新しい命が自分を生かしていることを私たちは見ます。それは自分の力では決して得られなかった勝利です。ですから、私たちは、今や上から与えられた力が自分を生かしていることを知るのです。そして喜びのゆえに主を賛美します。主は新しい命を私たちに与えて下さったのです! ハレルヤ!

しばらくの間、この驚くような新しい力と、いまだかつてない勝利に、私たちは酔いしれます。聖なる御霊が自分の内に宿っていることを知り、聖書の御言葉が驚くほどよく分かるようになり、何かしらの啓示さえ受けるかも知れません。それまで、心の中にさんざん生い茂って、真理を阻んできた自己という雑草がことごとく取り払われたおかげで、私たちは自分が聖別されたことを感じ、霊的視界がクリアになり、どんな物事も澄んだ目で見られるようになったような気がします。自分が神に愛されている存在であることを前よりももっとはっきりと感じ、今までよりも、もっと親しく、近しく、主に向かって祈り、願うことができるようになったと思います。

しかし、ここで私たちは、勝利を得たのでもう学習は終わった、などと決して思うべきではありません。「私はすさまじい体験をくぐりぬけたおかげで、他人より抜きん出て霊的な人へと変えられた。私は勝利を得たのだから、もう二度とかつてのような事件は起きないだろうし、これ以上、自己に死ぬということを私は学ぶ必要はない」、とは、決して思うべきではないのです。

まず、私たちが経験した事件が劇的であればあるほど、それは、誇るべき経験ではなく、むしろ、私たちのしぶとく頑固だった自己を殺すために、神はそれほどの大事件を必要とされたという事実を見るべきです。私たちの自己は、ひょっとすると、悪質なゴキブリの千倍、万倍も、頑固でしぶとく、殺しても死なないほどの生命力を持っていたのかも知れません。いや、そうであるはずです。だからこそ、そのように腐敗しているにも関わらず、強靭な生命力を持った魂と肉体(自己)に死ぬということを私に経験させるために、神は特別な事件を私のために用意しなければならなかったのです。私の自己が他人と比べてあまりにもわがままで、しぶとく、腐敗しきっているために、神には大がかりな事件によって私を打ち砕く必要があったのです!

こうして、十字架という、罪を駆除する最も強力な光の照射によって、私たちの自己は、ある日は殺されたかも知れません。そして復活の命に生きる喜びを、私たちは全身全霊で感じたかも知れません。しかし、自己は一旦殺されても、時間が経つと、また蘇生してくるのです(蘇生とは、あるキリスト者の表現)。それはちょうど、一旦きれいに庭を掃除して、雑草を刈り取っても、手入れを怠れば、庭には再び雑草が生い茂るのと同じであり、退治しても、退治しても、また害虫がどこからか家に入り込んで、住み着くようになるのに似ています。

仮に私が昨日、どんなに徹底的に、大々的に、ドラマチックに、キリストの十字架を自分のものとして受け取って、自己に死に、キリストの復活の命によって生きることの意味を学んだとしても、それは私の今日の糧とはなりません。昨日の勝利は、今日の勝利にはならず、今日、私が自己を否んで、キリストの十字架を負っていることの何の証拠にもならないのです。

人は日々、自分の十字架を負って、イエスに従わなければいけません、自分の天然の命を拒否して、キリストの命を選び取ることを続けなければならないのです、その日々の十字架を負うことは、決して、どこかの団体や組織へ熱心に奉仕することと取り違えられてはいけません。日々の十字架を負うとは、まず何よりも第一に、真理なるキリストの光に照らされて、私たちが、自分の生まれながらの自己の本当の醜さを知り、それに絶望して、自己を否み、キリストを選ぶことを指しているのです。

私たちは自分の生まれつきの自己がどれほど癒し難く腐敗しているか、どれほど邪悪であるか、私たちの生まれつきの姿が、どんな犯罪者にもまさって、最悪の最悪の姿であるかを、直視しようとしません。それを直視することには大いなる痛みが伴うからです。私たちの肉体も、魂も、痛みを伴う事件を避けようとします。過去に大失敗があったからと言って、それでもまだ私たちは、それが自己の腐敗した本質によって引き起こされたという事実を直視しようとしません。むしろ二度と同じ痛みを味わわなくて済むように、こざかしいあの手この手を考え出すばかりなのです。そうやって、自己の本質を直視する痛みを避けて、自己を美化する楽な道を選び、毎日、自己を甘やかし、大目に見、自己を立て、自己から来る力を楽しんで生き、それを誇り思い、自己に栄光を帰そうとして、あれやこれやと計画し、走り回って活動しているのです。キリストのため、と言いながら、その実、活動しているのは私たちの自己なのです。

自己はまさしく欺きの天才です。ちょうど暗がりに隠れたゴキブリが、人のいないところを見計らって、夜半にこっそりと出て来るように、私たちの自己も、私たちの思いを欺いて、キリストの真理の照射する殺人的な光線を何とかして避けて、自らを生き延びさせようと、あらゆる狡知をめぐらします。自己は宗教活動にも偽装しますし、信仰にも偽装します。何にでも化けるのです。この自己の欺きを看破し、その策略を微塵に打ち砕くことができるのは、ただ御言葉――真理なるキリスト――まことの光だけです。私たちが自分の力でどんなに自己を鎮めようとしても、それは無理です。私たちは自分の力で、自己に死ぬことはできず、自分の力では、キリストの復活の命を受け取ることもできないのです。

方法は一つだけです、光の照射です。私たちが日々、まことの光に照らされて、自己の腐敗性、絶望性、無力さ、邪悪さを知り、その自己を神の御前に汚れた、忌まわしいもの、呪われたものとして拒否し、その代わりに、キリストの復活の命を選び取り、その復活の命によってのみ、生き、活動することが必要なのです。それには痛みが伴うでしょう! あなたは自分が無力になって、打ちのめされたと感じ、失望し、見込みを失うでしょう! 愕然とし、恥じ入り、頭を垂れるしかないでしょう。しかし、それは幸いな時です、この痛みを伴う訓練は、生きている限り続くものであって、誰一人として、その訓練はもはや自分には必要なくなったと言える人はいません。自分の十字架は日々、負わなければならないものなのです! 

ですから、私たちは(できるならば、毎日の生活のごく些細な事柄を通して)、何が自己から来る力であり、肉と魂の衝動に由来する忌まわしいエネルギーであるか、学ぶ必要があります。何が天然の命から生まれる願いや力であり、何が御霊から来る、御心にかなった願いと力なのか、識別することを学び、自己から来る力を行使しないことを学ぶ必要があります。
(注意していただきたいのですが、自己を否むとは、決して、自分の意志を放棄することではありません。それは決して、信徒が自分の意志を放棄して、誰か指導者の命令や思惑に妄信的に振り回されたり、何らかの教義の奴隷状態に陥ることを意味しません。私たちはあくまでしっかりした自分の意志を働かせつつ、自己を否み、キリストを選ぶのです、自分の自己を十字架上でキリストと共に死んだものとして拒否し、人の思惑ではなく、御霊の導きに従うことを選択し続けるのです。)

この毎日の学課(私たちが自己の絶望的な本質を知り、それを拒否して、真理に忠実に聞き従うこと)を的確に行うならば、神は私たちの自己を打ち砕くために、わざわざ大がかりで悲惨な事件(大失敗や絶体絶命の危機)を用意する必要はなくなることでしょう。しかし、私たちがかつてのある日、自分の自己が十字架につけられて死に、その代わりに信仰によってキリストの復活の命を受け取った、という体験の上にあぐらをかき、それに慢心し、日々、自己の厭うべき性質を知ることをやめて、自分の腐敗した性質を見ようとせず、むしろそれを甘やかし、増長させていくならば、神はその肥大した自己の忌まわしい性質をあなたに知らせ、それを断ち切るために、ある日、あなたが考えもしなかったような悲惨な失敗の体験をあなたの身に起こさなければならなくなるでしょう。

そんなわけで、大きな勝利が得られて、物事が順調に行き、自分がきよめられて、霊的になったように感じられ、神から特別に恵まれているとさえ思われるほどに幸福な時には、普段以上に注意が必要かも知れません。富んでいる人が天国に入ることは難しいと警告されているのです! 人の生まれながらの自己は、永遠の命を継ぐことはできません! その富が、勝利が、自己を慢心させ、肥大化させ、御霊に従って生きる道を奪うきっかけとならないよう、私たちは気をつけなければなりません。

信徒が自己を否んで御霊の導きを選び取り、キリストの復活の命によってのみ生きることを学ぶ学課は、私たちが地上を歩む限り、決して終わることはないのです。どうか、神が私を憐れんで下さり、私が日々負うべき、痛みを伴う十字架とは何かを、はっきりと悟ることができるようになり、それを避けようとすることがなくなっていきますように。

いつもただキリストを思う

「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられた…」(Ⅰテモテ2:5)

「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」(Ⅱテモテ2:8)

「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」(Ⅱテモテ3:12)

* * *

 今日、家族とのお別れ会を済ませた。誰もがくつろぐ、なごやかな席となった。主が我が家に与えられた平和。どんなに得がたい贈り物だったことだろう…。

 自己に死んで以来、主にあって、私は俄然、健康を取り戻した。毎日、1.5~2人前くらいの食事を摂っている。これまでになかったことだ。生きる意欲が、内側から回復しているのが分かる。
 本当に、主が共におられると、不思議極まりないことが、毎日、起こる。まるで何十年間も盲目だった人が、急に目が見えるようになったように、私は今までと違った世界を目のあたりにして、毎日、目をしばたたいている…。

 不思議の第一は、毎朝、目覚めた瞬間から、ただ主のことだけを考え続けていることだ。石の心が取り除かれ、肉の心が与えられた。私の思いがすっかり変えられてしまった。今やイエス・キリストに関わること以外は、何一つ、私の気を引かなくなってしまった…。

 ある人々は、それを宗教マニアだと笑うかも知れない。キリストを第一優先すると言いながら、マニアックな狂信に落ちているだけだと…。だが、第二の不思議は、私が人情にも義理にも価値を置かなくなったことだ。人からの外面的評価を意に介さないので、冷たい人間になったと思われるだろう。以前に大切にしていた諸々の人間的価値が、私に対して死んでしまった。

 特に、人知によって塗り固められた偽りの宗教、偽りの道徳、人間の作り上げた各種の倫理道徳的しがらみに対して、私は強い嫌悪を催すようになった。この世の価値観に嫌悪を催すことはあまりなく、何にもまして、耐えられない思いがするのは、宗教的偽善に対してである。神を崇めているように見せかけながら、その実、人間の努力を誇ろうとする心、人の血と汗と涙の結晶としての宗教的道徳や、宗教的遺産を誇ろうとする心、善を装いながら、その実、肉なる人間を立てようとする偽善、義理人情に縛られた遠慮と執着…、そういうものに、嫌悪を催すようになった。生まれながらの人間が、生まれながらの人間(死体)を延命させるために作り出す各種のきれいごと、括弧つきの善意こそ、何にもまして、耐えがたいものとなった…。

 生まれながらの人間の努力の結晶を弁護しようとの気持ちは、私にはもうない。たとえそれがどれほど敬虔な信仰心に見せかけられていたとしても、だ。生まれながらの人間の善意は、全て、死すべきものである。人間の努力によって作り上げられる宗教など、さっさと滅びた方が良い。それを擁護しようとの気持ちは、私には毛頭ない。だが、このように言えば、きっと、先人の努力を理解しない、人類の偉大なる宗教的遺産をないがしろにする、冷たい、独りよがりな人間だとの非難を免れられないだろう。だが、たとえそのような非難をこうむったとしても、構わない、イエスの復活の命以外のものを賞賛したいという気持ちは、私にはもうないからだ…。人間の努力による独りよがりの礼拝は、もうやめよう…。

 さて、話題を戻せば、今夜はただ美味しい食事にあずかれただけでなく、満足そうな家人の顔を見ているだけで、十分に満たされた食事会であった。血肉による家族に平和が戻ってきたことが嬉しいのではない。血肉による家族が、私の家族なのではないことは分かっている。私の家族は主によって生まれた兄弟姉妹だ。しかし、魂を失ったことによって、魂を得た。家族の魂を失ったことによって、私は彼らをもう一度、得たのだ…。

 自分の努力によっては、どうしてもつかめなかった平和が、そこにあった。ラバンがヤコブをさんざん苦しめたように、彼らは私の人格を燃え盛る炉の中に投げ入れ、そこで不純物である私の自己を死なせる役割を担った。それは主のご計画の中で許された出来事であったが、肉なる私にとっては、何と苦しい試練に感じられたことだろう。何十年間、その火に苦しめられて生きてきたことだろう。
 それが今や終わり、私たちは一切の隔ての中垣を取り除かれて、共に和解のテーブルに着いた。私が死んだことによって、和解が訪れた。自分の力では、自己に死ぬことさえもできなかった。すべてが上から、主によって与えられたことであり、私の努力による達成は何一つもなかった(何か誇れるものがあるとしたら、それはあまりにも不完全で不平だらけのみっともない忍耐だけだろう)。これは、どんなに神に感謝しても足りない恵みだ。

 新しい土地で、何が私を待っているのかさっぱり分からない。何のために主が私をそこへ持ち運ばれようとしているのか、今は全く不明だ。だが、主が私を祝福のうちにこの地から送り出そうとして下さっていることが、とても嬉しい。
 以前にも書いたことだが、神が召し出された者たちは、何らかの方法で世から隔離され、特別な忍耐の要求される苦境を通らされるように感じられてならない。私たちが自分から世を出て行くのではなく、不思議な方法で、自然と、世から遠ざけられ、患難が向こうからやって来るのだ。私のこの一年間の孤独と苦痛も、主が私に与えられた一種の隔離であった…。

 今は、主にあっての兄弟姉妹たちが与えられているので、私は一人ではない。初めは、このつながりが、この先、めまぐるしいほどの勢いで、強化され、増えていくのだろうと思っていた。しかし、そうではないことに気づいた。世からの隔離は、これからも終わらないだろう…。

 私は神の御前に、独り者として、これからも、歩み続ける必要がある。必要に応じて、交わりは与えられるだろうが、それにしても、荒野で、ただ一人きりで御前に立つこと、キリストにのみ捧げられた純潔の花嫁として、神の御前にただ一人で立ち続けること(これは生涯を独身で通すといった世的な意味ではない)が、私の神への真心の証としてこれからも求められるだろう。ただイエスお一人だけを見上げ、イエスだけに心を注ぎ出すために、私は荒野に導かれたのであり、ある意味で、荒野は終わったが、これからも荒野は続くのだ。

 御子の降誕を告げる天使の歌声を聞いた荒野の羊飼いたちのことを思う。一体、なぜ、天使たちの麗しい歌声を聞く特権を、他でもない貧しい羊飼いたちが得たのだろうか? 彼らに信仰心などというものがあったのだろうか? 分からない。どうして神が、彼らを選ばれたのか、分からない。東方の博士たちにしてもそうだ…。けれども、神はいつもそのような不思議な方法で働かれる。神は人の誉れの集中する場所には決して現れず、取るに足らない、打ち捨てられたような人々に眼差しを注いでおられる…。

 だから、私は今までと同じように、何の荘厳さもなく、きらびやかさもない荒野にいよう。そこで、静かに、差し向かいで神を礼拝することを続けよう。そこには、人知による信仰の手引き書は一切なく、いかなる方法論もない。目に見えるレールはどこにもない。御言葉なるイエスという見えない道を、御霊に従って、進んでいくだけだ。不安と言えば不安だ。レールがないのだから。けれど、真実と真心を主に捧げ、この先の道を示してくださいと主に願い求めながら、一歩、一歩を進んで行こう…。

 道は見えないが、霊には安息がある。今、分かっていることは、私は自由とされたのだから、二度と奴隷のくびきにつながれてはならないということ。そして、我が主が地上において、そしられたように、私も恐らく、この先、同じか、それ以上にそしりを受けるようになるだろうということ。そのそしりは、世から来るのではなく、何よりも、信心深い信者を自称する人々から最も激しくやって来るだろう。

 今はキリスト教においても、異端が花盛りだ。人々が健全な教えに耐えられなくなり、自分の好みに合わせて、よりどりみどりの教師や、カウンセラーを立てては、そこに殺到している、背教の時代である。そんな中で、偽教師たちを告発するような、まことの信仰者が現れれば、逆に、彼らこそが偽物であるかのように攻撃され、中傷されるのは当然だろう。

 (偽教師を人知によって見極めることは不可能な場合があることによくよく注意されたい。何が本物であるか見極めるためには、真実、御霊による証印を受けていることが不可欠である。クリスチャンには絶対に聖霊に導かれることが必要である。そのことを何度でも繰り返したい。)

 だが、厳しい迫害の中でも、しっかりとイエスに従う人々の道は、必ず守られるだろうことを信じて疑わない。このパラドックスを何と言い表せば良いだろうか。私は、手ぶら同然で出かけようとしているのに、豊かになることを信じており、何の保証もないところへ踏み出すのに、安全が守られると信じ、荒野へ導かれると思いながらも、ますます兄弟姉妹との愛の一致の中に入れられることを疑わず、落ち着き先がないのに、自由であると感じ、迫害を覚悟しながら、ますます栄光に満ちた姿へと変えられることを信じている。

 主は不思議な方であり、主が用意された矛盾の中を生きることは楽しい。私の魂と肉から出た計画には滅びあるのみ。私の思いをはるかに越えて、何にもまして優れた主の御旨がなりますように。

 さて、この先、しばらく、ブログはお休みです。皆様、良い秋をお過ごしください。


主につまずかないために

 イエスは言われた、 「私につまずかない者は幸いです」と(マタイ11:6)。この言葉を思う時、私は厳粛な思いにさせられる。私たちは一体、信仰生活を送る上で、何に最もつまずかされているだろうか? 聖書的な知識の欠如? 未熟なクリスチャンたちの冷たい態度? 日曜礼拝の味気ない説教? 教会組織の不本意なあり方? それとも、私たち自身の自己中心や不完全さ?

 答えは、そのどれでもない! イエスが言われたことは、真理そのものが、私たちがつまずく最大原因となるということなのである。他のどんなものよりも、イエスご自身が、私たちのつまずきの源となるのである。イエスという岩の上に落ちる人は、粉みじんに砕かれ、またその岩が落ちかかっていけば、人を粉みじんに打ち砕く、という御言葉の意味がそこにある(ルカ20:18)。

 イエスにつまずく。この言葉は、自分をクリスチャンだと思っている人々には、厳しいものとなるだろう。何しろ、私たちが最も愛していると思っている主に、他ならぬ私たちがつまずくのだ。つまずくということは、主から顔を背け、主を見捨てることと同じである。イエスが十字架にかかられる前に、弟子達が主を拒んで散り散りに散ったように、私たちも、思いを頑なにして、主から離れるときが来る、ということをイエスは予告されたのである。
 以下、色を変えてある部分は、ジェシー・ペン-ルイス著、「つまずかない者は幸いです」からの引用。

「その時、イエスは彼らに言われた、『あなたがたはみな、私につまずくであろう』。」(マタイによる福音書26章31節)

「ペテロは答えて言った、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません』。弟子たちもみな同じように言った。」(マタイによる福音書26章33、35節)

 主がこの世に来られた目的が成就される時が近づいたとき、彼はご自分の小さな群れにむかって、「あなたがたは、私につまずくであろう」と言われました。主は彼ら以上に、彼らのことをご存知でした。主の言葉は彼らの激しい抗議を引き起こしましたが、後に、「彼らはみな、彼を見捨てて、逃げ去った」と聖書は記しています。

 十字架のつまずきは、まだやんだわけではありません!昔、主に身近な者たちが主を見捨てたように、私たちも主を見捨てるかもしれないのです!

 「脱穀」が始まった時、私たちは試みに耐え、私たちの信仰の告白を揺らぐことなく堅く保ったかもしれません。私たちは、主が選んで遣わされた僕たちを通して、主の幻を見、主の御声を聞いたかもしれません。私たちは、彼の真理の鋭い刃を喜んで受け入れ、神の力強い御手の下にへりくだったかもしれません。私たちは、彼の御言葉を自分の心に秘め、彼に従ってその道を歩む時、「つまずかなかった」かもしれません。

 これがすべて真実だったとしても、主の十字架の真の交わりが身近に迫るとき、あの晩、ペテロが裁きの間で主を見捨てたように、私たちも主を見捨てるかもしれないのです。

 「私につまずかない者は誰でも、幸いです」は、特に今日のためのメッセージです。私たちは厳しい時代に生きており、多くの人は、主の再来が近づいていることを、内側深くで感じています。


 私にも、今までの人生で、何度も、主を捨てて立ち去った瞬間があった。それが、私が真理につまずいた瞬間だった。つまずきの瞬間は、暴露の瞬間である。人の心の中で、何が至高の価値であるかが、その瞬間に、暴露される。イエスを信じていると言いながら、真理以外のもの(=セルフ)を大切にしているならば、その人はその決定的瞬間に、必ず、真理なるお方を見捨てる。そして、光を捨てた報いとして、暗闇がやって来て、平安のない、混乱に満ちた人生が始まるのである。

 キリストのからだの生ける肢体たちは、火によってためされつつあります。すべて「火に耐える」ものは、「火の中を通され」つつあります(民数記31章23節)。

 一つの力が、(主を)告白する教会の中で働いており、主と真に結合されている者たちを、神と小羊へと分離しつつあります。

 十字架への招きが試金石です。十字架の道が試金石です。キリストは、「自分の十字架を負って、私について来ない者は、私にふさわしくありません」と何度も言っておられます。

 私たちの中で、小羊に従い、「つまずかない」人々は誰でしょう?

 主ご自身が、「私の名を告白する者の多くは、終わりの時代に『つまずく』であろう」と予告されました。

 「私の名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を欺くでしょう。また、あなたがたは、戦争、飢饉、疫病のうわさを聞くでしょう。・・・また、私の名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。・・・その時、多くの人がつまずき、互いに裏切ります。」(マタイによる福音書24章5~10節を見よ)

 時がたつにつれて、「十字架のつまずき」はますます激しくなるでしょう。この世は、キリストのからだの生ける肢体たちに、ますます激しく敵対するようになるでしょう。十字架を拒絶し、主の身代わりの死による救いの知らせを拒絶し、主に従って主の犠牲の道を歩むことへの召しを拒絶する人々は、十字架に栄光を帰し、十字架につけられたイエス・キリスト以外に人々の間で何も知らない人々を、ますます激しく拒絶し、憎むようになるでしょう。その時、「多くの人がつまずき」ます。しかし、悲しみの始まりの時代に、神と兄弟に「つまずかない者は誰でも、幸いです」。

 恐らく、今はつまずきの最も激しい時代なのであろう。キリスト教界の中で、何と多くのクリスチャンを自称する人々が、真理に、十字架につまずいていることだろう。十字架にあるはずのまことの命を否定し、互いに裏切り、告発し合って、果てしない罪定めのし合いという、泥仕合で信仰生活を終えてしまっている人々がどれほどいることだろう。悲しいことである。十字架がすでに全ての争いに対する和解の生贄を提供しているというのに、それを受け入れることができずに、司法の場に改めて和解を求めている人々がいるのだ。

 また、被害者のカウンセリング、各種の心のケア、リハビリテーション、などの心理学的方法論をさまざまな教会が公然と取り入れ、カウンセラーや牧師の手腕を堂々と誇って、世に宣伝し、まことのカウンセラーたる聖霊を強引に押しのけ、影に隠していることも、つまずきである。人知による方法論を誇り、十字架による復活の命を、人の目に触れないところに隠してしまっている人々も、十字架につまずいている。

 その他にも、生活の安穏を大切にしすぎるあまり、日々の十字架を負うことを拒んでいるクリスチャンがいる。自分たちの築いてきた組織形態に固執するあまり、他のクリスチャンを否定する人々もいる。合計するならば、おびただしい数のクリスチャンが、今日もキリストにつまずいていると言えるだろう。そして真理につまずいたクリスチャンが、まことのクリスチャンを攻撃し、迫害するという構図が続いているのである。

 私もかつては同じように無知なクリスチャンであり、死んでいた者だった。しかし、今は内なる人が変えられることによって、無知と誤謬から救われた。それはひとえに、私の努力や知識によるのでなく、ただ御霊の啓示によったのである。

 人に真理を啓示する力を持っているのは、聖霊だけである。その御霊を抜きにして、人が神の思いを知り、それに従うことは不可能である。過ちを犯した後の真摯な後悔や、自己反省や、カウンセリングとリハビリが人を救うのではない。

 「私がこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずかないためです。」(ヨハネによる福音書16章1節)

 主は、私たち自身と、私たちの弱さ、失敗、罪を啓示される時、必ず、私たちの必要を満たす神聖な備えについても知らせて下さいます。

 主は晩餐の席上、「今晩、あなたがたはみな、私のゆえにつまずきます」と言われました。しかし、主と弟子たちが別れる前に――主は十字架と苦難に、弟子たちは恥と悲しみに向かう前に――、主は弟子たちに神聖な秘密を解き明かされました。弟子たちは、その神聖な秘密によって、主が自分たちから取り去られても、また、取り残されて、主の御名を負い、彼のゆえにすべての人から憎まれる(ヨハネによる福音書15章18節) ようになっても、「つまずかない」でいることができました。

 主は弟子たちに、短く次のものを約束されました。
  • 慰め主なる聖霊の賜物
  • 復活された主の現れ
  • 父なる神を知る知識

 「私は父にお願いしましょう。そうすれば、彼は別の慰め主をあなたがたにお与えになります。」(ヨハネによる福音書14章16節)

 「私は(あなたがたに)私自身を現します。」(ヨハネによる福音書14章18~21節)

 「私の父は彼を愛され、私たちは彼の所へ行って、彼と共に私たちの住まいを造ります。」(ヨハネによる福音書14章20~23節)
 
 慰め主なる聖霊は、キリストに関する事柄を弟子たちにとって実際とし、彼らにキリストの心を伝えます。また、彼らにキリストのいのちを分け与え、彼らをキリストの平安と喜びで満たします。  内住する慰め主によって慰められている人は、「つまずき」ません!

  弟子たちが聖霊の慰めの中を歩むなら、復活されたキリストはご自身を彼らに現されます。そして彼らは、共に栄光にあずかる者となるために、喜んでキリストの苦難にあずかる者とされます。

 復活された主と親密に交わる人は、「つまずき」ません!

 弟子たちが啓示されたキリストの御旨に絶対的に従順に歩むなら、主は彼らにはっきりと御父について語られます。そして彼らは、聖霊によって、御子を通して、御父を内住する方として知るようになります。

 御父を知ることを学んだ人は、「つまずき」ません!

 「私につまずかない人は誰でも」、父なる神、子なる神、聖霊なる神の祝福によって、「祝福されて」います。

 
 真に御霊によって歩くことを学んだ人は、もはや真理につまずかない。キリストの復活の命によって生き、御父のご計画を、御霊によって理解し、命なるキリストのご性質を自分自身のものとして保ち、父と子と聖霊との一致の中に完全に引き入れられている人には、決して、十字架につまずくということは起こらない。
 さらに、そのような人の歩みは、徐々に洗練されたものとなっていき、他のクリスチャンををつまずかせることがなく、彼らの信仰を成長させるような歩みとなるだろう。

(ただし、これはあくまで、真に神の霊によって生まれた兄弟姉妹のことを指すのであって、イエスに従って歩まない偽兄弟は含まれない。滅びゆく人々にとっては、真理そのものがつまずきの源であるから、そのような定めにある人々は、真理に従うクリスチャンにも、必ずや、つまずくだろう。そういう意味では、真のクリスチャンは、イエスがそうであられたのと同じように、世人にとっては、常につまずきの石である。しかし、滅びに定められた人々が真理につまずくことは、私たちの責任ではない。私たちが注意を払うべきは、同じ御父から生まれた兄弟姉妹たちをつまずかせることがないように、ということである。)


 メッセージを終える前に、この今の邪悪な世に生きていながらつまずかない人々の特徴について、簡単に注目することにしましょう。

 彼らは「純真で、非難されるところのない者」です(ピリピ人への手紙1章9、10節)。なぜなら、彼らは深い謙遜と愛の中で、「務めがそしられないために、どんなことにも、つまずきの機会を与えない」ように努めるからです(コリント人への第二の手紙6章3節)。

 彼らは、知恵を持たない人々に対して、知恵によって接します。それは、「彼らをつまずかせないために」(マタイによる福音書17章27節)、主が知恵によって行動されたのと同じです。

 彼らは他の人々のために、合法的なものでさえも喜んで犠牲にします。それは、人々が「つまずいたり、・・・弱められる」ことがないためです(ローマ人への手紙14章21節)。

 彼らは、自分の生活を対処する時、自分を「つまずかせる」ものを(マタイによる福音書18章8、9節)、すべて断固として捨て去ります。なぜなら彼らは、主が次のように言われたことを知っているからです。

「この世はつまずきがあるから、災いです!つまずきが来ることは避けられません。しかし、つまずきをもたらす者は災いです。」(マタイによる福音書18章7節)

 十字架の要求につまずく者は、他の人々が歩む道の「つまずき」、あるいは「つまずきの石」になります。

 「つまずきが来ることは避けられません」。これは貧しい世にとって、何と悲しい言葉でしょう!この世はつまずきがあるから、災いです。不幸なことに、世は、神に似つかわしくない子供たちのために、神に背を向けているのです。

 クリスチャンを自称しながら、十字架の赦しにも、和解にも見向きもしようとせず、己を義人と考えて高ぶり、他人を容赦なく罪に定め、その結果として、互いに殺し合ったり、法廷で裁き合ったりしているクリスチャンを見れば、世が彼らにつまずくのは当然であろう。そのようにして、十字架に背を向けたクリスチャンが、クリスチャン全体の名折れになってしまっていることは言うまでもない。

 しかし、つまずきをもたらさないとは、それ以上のことである。私たちがたとえ十字架を拒んでいなくとも、うっかりした言動によって、信仰に入ったばかりのクリスチャンに誤解を与えたり、つまずきとなることは、できる限り、避けなければならない。この点で、自分にはすでに十分な思慮が与えられているので、誰のつまずきともならず、神に知恵を願い求める必要もないと断言できるような人は、一人でもいるだろうか?

 私は自分がこの点で軽率であり、知恵と知識に欠けていることを思わざるを得ない。しかし、兄弟姉妹たちの信仰に配慮するために必要な知恵を、願い求めるならば、御父は必ず与えて下さるだろうと信じる。


 神は私たちに恵みを与えて、つまずかない者にして下さいます。そして、つまずきをもたらす者たちの災いから、私たちを救って下さいます。

 「あなた(あなたの御旨)を愛する者たちは、大いなる平和を持ち、何ものも彼らをつまずかせることはありません。」(詩篇119篇165節)

 神を愛する愛の中には、大いなる平和があり、その平和が、まことのクリスチャンを一切の争いから救い、調和のうちに一つにしてくれる。自分の未熟さを知りつつ、畏れを持って、キリストの完全さを切に追い求めていくならば、御霊の与える知恵が、私たちの愚かさと無配慮に対する美しい覆いとなってくれ、私たちが主の戒めからはみ出すことのないように、歩みを健やかに守ってくれるだろう。それは私たち自身にとっても、蜜のように甘く、金よりも貴い、麗しい知恵である。

 「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、
 主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。<…>
 主を畏れる道は清らかで、
 とこしえに絶えることがなく、
 主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。
 これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、
 また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。
 あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。
 これらを守れば、大いなる報いがある。」(詩篇19:7-11)

 


エクレシア、この不思議なもの

以下の記事を補足します。

 どうやら、私の言いたいことは、私の拙い言葉ではかえって誤解や反発を生むばかりに終わりそうで、上手く表現しきれません。日曜礼拝という形式に私が疑問を持つとしても、それは、日曜礼拝を全て撤廃せよというスローガンを投げかけているのではなく、また、礼拝、勉強会、祈祷会、聖書通読、証の分かち合い、そういったことそれ自体をせずとも良いという意味ではなく、(それどころか、キリストの命を自分でも理解し、人に伝えるのに、そういう方法はなくてはならないものです。たとえば、主を知るに当たって、聖書を読まなくても良いとか、注解書は一切読んではいけないとか、人と一切交わらなくても良いとか、祈りもせずとも良いとかいうことは絶対にないでしょう。私が人との交わりから遠ざかっていたのは、一時的なことであり、その間にも、聖書は読みましたし、祈りもし、信仰を告白もし、ブログを通じてならば、証もし、人との交わりさえあったと言えるわけで、時には一人で賛美することもありました)。

 以下の記事の中で私が述べたかったことは、今日、キリスト教徒の集まりが、概して、日曜礼拝を一つの頂点として、ある主義となり、形式となり、規則となり、組織論となり、人間を束縛する枷となって、まことの命の現われをかえって阻んでしまっているところに、大きな逸脱があると思わざるを得ない、ということなのです。

 その問題はすでに幾万回も多くの人々によって論じられてきましたし、鳩さんの記事「キリスト教とキリスト」にある内村鑑三の次の言葉も、その問題性をよく表現していると思います。

「 主義にあらず、性格なり。 教理にあらず、生命なり。
 キリスト教にあらず、キリストなり。 
 主義はいかに高きも、教理はいかに深きも、偽文にして、束縛なり。
 われらは直ちに、生けるキリストにいたり、その生命を受けて、真の自由に入るべきなり。」

 しかしながら、では、すでにある人々がそうしているように、我々が内村氏の考えを信条として掲げて、現存するキリスト教を否定し、生けるキリストに至ることを目的に掲げた新しい会を設立すれば、それが正解になるかと言えば、それも絶対に違います。それでは、再び命のない主義、束縛に落ち込んでしまうだけなのです。
 結局、言えることは、どれほど偽物を定義し、暴露しても、そのことだけによって、本物を生み出すことができないように、キリストのまことの命とは、決して、何かに対するアンチ・テーゼにはとどまり得ない、その本質をまず個人的に掴まなければ、それが何であるか誰にも分からない種類のものだ、ということです。そして、それを知った個人の交わりが、集合体としてのエクレシアを形成していくのです。

 Sugarさんが、「この交わり=エクレシア」の中で書いておられることが、まさにそのことを指しているように、私には感じられました。
 私には、多分、キリストの霊なる命の中にある交わりや礼拝とは何であるかを、誰に対しても、誤解なきよう、明確に、完全に形容できる適切な言葉は見つけられないでしょうし、そのような定義はかつて存在したこともなく、これから先にも、存在しないように思います。

 何万語を費やしても、私たち人間は、小さな花一つ、小鳥一羽でさえ、形容することができず、明確にそのイメージを相手の脳裏に浮かび上がらせることができません。自分がその対象の身近に存在して、それと密接に関わることなくしては、理解できないものが、地球上にたくさんあります。
 命とは、そういう性質のものだと思います。
 キリストのまことの命は、地上的なものでないとはいえ(いや、地上のものでないからこそ)、我々の拙い言葉によって完全に定義できるようなものではなく、ただその中に入れられ、それを味わい、日々その中を歩くことによってしか、理解できないものであると思います。
 つまり、キリストと共に生きる、ということなくして、キリストの命を味わい知ることは誰にもできない相談なのです。

 私はまだそれを十分に知ったとは言えず、聖書を読むことも、祈ることも、交わりも、キリストをさらに知りたいという動機から行い続けているのであり、この先も、キリストとの一致を求める探求は、永遠に及ぶでしょう。

 けれども、こうして、キリストのまことの命をまだまだ十分には知らない私にも、一つ言えることがあります。それは、キリストという永遠の岩なるお方の上に建設されなかった団体は、必ず、時と共に廃れるということ、その老朽化して、命のなくなった礼拝の崩壊によって、そこにまことの命が欠如していたことが公に暴露されるということです。
 人間の理解は不完全ですので、私たちの目から見て、何が本物であり、何が偽物であるかを完全に識別することは難しく、また、全てのものの土台を見分けることはできませんし、性急な裁きは禁物です。けれども、すでに滅びかけている業界が、私たちの目の前に一つあります。それを見て、気づけることは多くありますし、そこで、まことの命とは何か?ということを真剣に考え、飢え渇きを持って探し始める人は幸いです。

 求めなさい、そうすれば与えられます、と聖書にある通り、私たちが心の底から主を真剣に求めるならば、必ず、神は誠実にそれに答えて下さるのです。偽物を暴き、糾弾することも、時には、有意義ですが、たとえそれにどんなに熱中したとしても、そのこと自体によって、真実なる神に出会えるわけではないでしょう。

 既存の団体や組織のあり方に異議を申し立てるだけならば、誰にでもできますし、そのようにアンチ・テーゼを唱えるだけの仕事は、政治の好きな一部の方々に任せておけば宜しいと私は思っています(とは言いながら、それでもついこの手の話題に入り込まずにいられなくなる時が、私にも往々にしてあるわけですけれども…)。
 私たちが第一に求めているものは、神の国とその義、なのです。ただ主ご自身をどれほど切に求めているか、どれほど主お一人だけに心を向けているかが、私たちが真実なるお方に出会い、まことの命なるお方と共にこの地上の生を歩む決め手となることでしょう。


その道は聖なる道

「あなたがたは弱った手を強くし、
 よろめくひざを健やかにせよ。
 心おののく者に言え、
 『強くあれ、恐れてはならない。
 見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、
 神の報いをもってこられる。
 神は来て、あなたがたを救われる』と。

 その時、見えない人の目は開かれ、
 聞こえない人の耳は聞こえるようになる。
 その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、
 口のきけない人の舌は喜び歌う。
 それは荒野に水がわきいで、
 さばくに川が流れるからである。
 焼けた砂は池となり、
 かわいた地は水の源となり、
 山犬の伏したすみかは、
 葦、よしの茂りあう所となる。

 そこに大路があり、
 その道は聖なる道ととなえられる。
 汚れた者はこれを通り過ぎることはできない、
 愚かなる者はそこに迷い入ることはない。
 そこには、ししはおらず、
 飢えた獣も、その道にのぼることはなく、
 その所でこれに会うことはない。
 ただ、あがなわれた者のみ、そこを歩む。
 主にあがなわれた者は帰ってきて、
 その頭に、とこしえの喜びをいただき、
 歌うたいつつ、シオンに来る。
 彼らは楽しみと喜びとを得、
 悲しみと嘆きとは逃げ去る。」(イザヤ35:3-10)


 イエス・キリストは、ご自分と共に、神の国がこの地上に来たことを告げられた。イエスは御霊の導きに従って、神の国の法則を地上に現され、さまざまな不思議な御業を成された。その時には、神の国は、御子イエスお一人の中に限定されて働いていた。だが、イエスは、弟子達にも、「聖霊を受けよ」と言われた。その言葉は、イエスが天に昇られた後で、現実となった。聖霊が信徒たちにも下った。それにより、神の国は、地上においてキリストの内でそうであったのと同じように、私たちクリスチャン一人ひとりの只中に、存在するようになった…。

 そういう話を、私は長い間、単なる教義として聞いて来た。その現実としての意味の大きさが分かっていなかったのだ。

 ところが、今、「神の国」が、私たちの只中に来ている。そのことを確かに私は実感して、喜ばずにいられない。今、私や愛する兄弟姉妹の只中に、神の御国が種蒔かれ、根づき、幹や枝を伸ばし、葉をいっぱいに生い茂らせている。しかも、イエスがそうであられたように、「家造りらが捨てた石」が、エクレシアの土台として集められている。所属する場もなく、無用なものとして打ち捨てられていた羊が、主によって、御国の成員として呼び集められ、エクレシアが着実に成長して行っていることを知る時の、何にもまさる大いなる喜び!

 エクレシアが建て上げられて行く、その奇跡のような主の御業を、今、私は現実に、こんなにも間近に見ている。その体験に自分もあずかっていることの光栄と、不思議さを思う。私は今、まさに使徒の時代の続きを生きていることを実感している…。

 あるキリスト者が、交わりの際に教えてくれた、「ヨハネの福音書の終わりにはどう書いてあるか覚えてますか? 『イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。』と書いてあるでしょう? つまり、ヨハネの福音書は完結していないんですよ。今もまだ、イエスの御業はずっと続いているんですよ。私たちはもしかしたら、ヨハネの福音書99巻目くらいの時を生きているのかも知れませんよ。」

 この会話を通して、私はその人と全く同じ実感を共有していることを知った。すなわち、私たちは、エクレシアが建て上げられていくまさにその歴史的時代を生きているのだ。福音書の続きを、使徒行伝の続きを生きているのだ。イエスが天に昇られるのを見送った後の弟子達と同じ心境で、その続きの時代を生きている。内にキリストをいただきながら、私たちは初代教会のクリスチャンたちとまさに同じ気持ちで、主に相見えることを待ち望みながら生きているのだ。

 目には見えず、文字にも記されていないが、私たちは今、聖書の名も知れない登場人物として、今の時代の使徒たちやクリスチャンと一緒になって、信徒の家々や名もない教会を行き来しているように思う。イエスの弟子達は、再臨のイエスに生きてお会いできるという希望を持ちながら、地上での生涯を全うしただろう。私たちも同じ希望を抱いており、イエスにお会いすることが、切なる望みである。だから、いつ主が来られても良いように、準備を整えて待ち望み、思いの一切を、キリストに捧げ、キリストに出会う時を、ひたすら喜びを持って待ち望む。主を待ち望むことがエクレシアの仕事であり、それが花嫁の花婿に対する愛の証であり、私たちの希望の全てである。

 パウロは言った、「あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。」(Ⅱコリント3:3)

 聖書の御言葉には限りがあり、ページ数にも限りがあるが、主の霊は、文字に限定されたり、時代に限定されることなく、今日も生きて働いている。御霊は、クリスチャンを通して働く。クリスチャンは一人ひとりがイエスの証人であり、生けるキリストの手紙である。私たちが伝道に携わるかどうか、メッセージを語るかどうか、あるいは毎日、聖書を何ページ読み、御言葉を人に語り聞かせるかどうか、そんな事に全く限定されず、パウロは、内にキリストをいただいている私たちの存在そのものが、(つまり、私たちの信仰、生き様、行動、言葉、交わり、日々の暮らしぶり、生きていることそれ自体!が)、キリストの手紙の内容なのだと教えている。つまり、新生したキリスト者そのものが、キリストの手紙なのであり、その内容は、私たちの心の板に、日々、御霊によって新たに書かれるのである。

 だから、私たちは御霊に導かれて、素朴な人生を生きるということを実践することにより、確かに、福音書の続きを、使徒の働きの続きを生きているのだと言えよう。それは決して、聖書に付加されることのない、目に見えない、人に知られない歴史であり、私たち一人ひとりは、自分がまるで取るに足らない人物のようにしか感じられないのだが、それでも、御心に従って歩むことにより、確かに、神のご計画の欠かせない一部となっているのである。私たち一人ひとりが、使徒時代のクリスチャンたちと何ら変わりない重要性を帯びて、地上に存在している。世に宣伝されることなく、人の目からも、隠されるだろうキリスト者の地道で素朴な歩みだが、私たちの一歩一歩から、初代教会にあったような愛の一致による交わりが、キリストの花嫁としてのエクレシアが確かに姿を現すのだ。

 この道に歩んでいると、毎日が、驚きと喜びの連続である。私が少し前に御国のために蒔いた種が、今日、早くも、正確に100倍に祝福されて帰ってくるのを目のあたりにした。主のために捧げたものは、何一つ、忘れられることはない、と信じてはいたが、こんなにも早く、そのようなことが起ころうとは、予想だにしていなかったので、私はただ主を畏れ、崇めることしかできなかった…。
 天に宝を積めと言われていることの意味を、今や理解しないわけにいかない。地上での相場は変動するが、御国の相場は決して変動しない。御国ほどに、私たちに豊かな利息を約束してくれている富の預け先は他にない。もしも有益な投資先を探している人がいるならば、その人は、虫もつかず錆びもつかない天の御国に、全能の父なる神の御旨に全財産を投資しておくのが最善である…。

 神はご自分に忠実な民に驚くほど気前良く恵んで下さり、また、多くの楽しみを授けて下さり、必ず、安全を確保して下さる。そのことを、私は日々、確かめている。そんなわけで、かつては自分をカインやエサウになぞらえていた私だが、その頃には、自分とは全く縁のない登場人物のように思っていたエノクや、ヨセフすらも、今では極めて身近に感じられるようになった。

 ヨセフには、主によって管理の賜物が豊かに与えられていた。神が常にヨセフと共におられたので、彼は何をしても栄えたし、権威者から絶大な信頼を得て、全ての管理を任され、周囲の人々に、惜しみなく恵みを流す管となった。また、エノクは何か偉業を成し遂げたわけではないが、人に知られざる人生を、素朴に、しかし、絶えず神と共に歩んだ。そして、「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記5:24) これは何と素晴らしい人生の終わり方だろう。

 神はご自分に従って歩む民に、平安と、安全と、豊かな恵みと、優れた賜物とを惜しみなく与えて下さる。だから、私たちが本当に主に従って歩むならば、豊かに与える神のご性質が、私たちを通して、必ずはっきりと周囲に表れずには置かないだろう。荒野のように荒れ果てた人生も、豊かに水の流れるオアシスに変えられ、過去の取り返しのつかない過ちも、拭い去られ、深い嘆きは、喜びへと変えられ、悲しみの涙は最後まで拭われる。どんな悪意をもった人間も、もはや、あなたを害することはできない。汚れた者はあなたに手を触れることができない。十字架によってあがなわれた者しか通ることのできない、聖なる道を、あなたは、キリスト者は進んでいるのだ。

 キリストと共に御座に着く、ということに、私は次第に近づいて行っているのではないかと思う。御座とは、全ての業を終えて休む安息の場であり、恵みの川の源である、と、教えられた。最近、私は主の恵みの中で、安息のうちに休んでおり、平和で素朴な(しかし驚きの絶えない)人生を送ることに専念している。今まで私のブログはまるでドタバタ劇の実況中継のようだったが、これから先は、主にあっての平安と喜びが中心に据えられるだろう。

 最後に、私たちに対する主のご計画は、まだまだ始まったばかりだということを思い出すために、次の測り知れない約束をも書き記しておこう。

 「主は霊である。そして、主の霊のあるところには自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(Ⅱコリント3:18)

一点キリスト

 「一点キリスト」。これはSugarさんから学ばせていただいた言葉だ。
 私たちがキリストの歩まれた道を歩む時、主のご計画に基づいて、さまざまな不思議な出来事が身の回りに起こって来る。しかし、そんな時、私たちは決して、自分の五感に訴えかけてくる現象の中に主がおられると思って、現象に注目し、現象そのものを求めるようになってはいけない。
 また、祈っても、何の現象も起こらず、主からの応答もないように思われる沈黙の時があるだろう。しかし、そんな時にも、現象の有無を基準にして、御心をはかっているようではいけない。

 御霊に導かれて歩むとは、五感に訴えかけるこの世の現象に基づいて、私たちが信仰の判断を下すことではなく、ただ信仰の導き手であり、完成者であるイエスから目を離さずに、この方だけを見つめながら、歩み続けることである。
 ただ一点キリスト。私たちが見るべきは、このお方だけである。そうしていれば、どんなことが周りに起こっても、現象に惑わされて、信仰を見失うことはない。

 たとえるならば、この世は不完全な鏡のようなものであって、そこに映し出される主の栄光は、全体のほんの一部分、しかも一つの角度からの反映に過ぎない。「私はありてある者」と言われる方は、鏡の中にはお住すまいにならず、四隅に区切られない、永遠を住まいとされる。だから、この世の現象がキリスト者にとって、どんなに素晴らしく感じられることがあったとしても、私たちの眼差しは、いつもこの世を越えて、ただ見えない世界にだけ注がれる、思いはいつも、御座についておられるキリスト、ただそれだけである。

 さて、無事、家を決めてきた。
 夜行バスはさすがに疲れる。解体が進むチボリ公園前の広場で、深夜、バスに乗り込み、翌日、たった一日で、引越し先を決めて戻って来た。

 これまでに幾度も引越しを行った経験に立つと、見知らぬ土地で、一日で、しかも5つにも満たない選択肢の中から、物件を決めるというのは、無謀極まりないことである。今回、私は、これが最善であるとの確信を持てる策を実行したつもりだが、行ってみると、さすがに、こんなことをやっていて、本当に大丈夫だろうかとの恐れが心をよぎった瞬間があった。(最近、気づいたことは、肉体的に疲労困憊している時は、聖霊の導きに対しても鈍感になるということである。)

 だが、主は不思議な方法で道を開いて下さり、制度上の不可能事をさえ、次々と、可能として下さり、私は困難を乗り越え、3つの選択肢の中から、最良のものを選ぶことができた。非常に悪くない選択だったと自分でも思う。

 とある独立行政法人の営業センターで契約について話をしていた最中、私が隅々まで暗譜しているセザール・フランクのヴァイオリンソナタ イ長調がかかっていた。その時には、気にもとめていなかったのだが、今から考えると、我が主は、まことに茶目っ気のある方のようで、こんな形でも、私の門出を祝福して下さっていたのかも知れない。

 今回、私は一つ一つの行程を進むに当たり、幾度も、主の明確な導きを求めて祈った。チボリ公園の解体工事を例として学ぶべきであるように、キリスト者は、自分の欲望や、目先の利益だけに惹かれて、自分勝手な計画を立てても、決して、その後の人生は上手く行かない。私たちには、真理に逆らっては、何事も成し遂げる力がないのだ。そのことを、私は幾度、自分の人生で、思い知らされてきただろう…。莫大な資金と、果てしない労力をかけて、精魂こめて積み上げてきた計画が、失敗に終わり、人手に渡され、無惨に解体されていくところは、もう二度と見たくない。

 だから、今は何事についても、主との質疑応答の繰り返しの上、進んでいる。これから先も、きっとそうなるだろう。特に、今回、私が引越しに関して、すでにいただいているいくつもの証拠の上に、また新たに主に願い求めた証拠は、私が選んだ物件を、父が祝福してくれるように、ということであった。

 それはかなえられた。帰宅して引越し先について報告すると、父は「良かったじゃない、いいところが見つかって」と喜んでくれた(それに支援を快諾してくれた)。今回、父が私のためにしてくれたことは本当に大きい。十字架の和解があったので、もはや家族の間に恨み事はないが、もし今、私がそのような負の感情を引きずっていたとしたら、このような恵みを受けることもなかっただろう。

 さて、山積する次なる課題の中でも、最大は職探しである。パウロが教会に迷惑をかけないために手ずから働いたように、私も、この先、エクレシアに迷惑をかけずに済むよう、一刻も早く、今のような窮乏生活から抜け出したいと本気で願う。主はこのことをも必ず、かなえて下さるだろう。

 そして私には今もう一つ、主に願い求めている証拠があるが、それはエクレシアの成員と会う時まで、この先のお楽しみとして取っておきたい。

 以上のことは全て、主がなさったことであり、私の力にはよらない。私に必要なのはいつも、信仰を持って応答することだけである。そして、この先も、私には一連の大変な行程が待っており、その全てを一人でこなさねばならないのだが、その中においても、主との静かで密接な交わりを保つなら、そこで、一つ、一つ、主の導きを見いだすだろう。御霊に導かれて歩むということの味わい深さを、こうして、日々、経験していくことができるのは、何にもましてゴージャスな恵みだと思う。

 田舎に帰ってくると、すでに稲穂が色づきかけていた。いよいよ収穫の時が近づいて来ている。

 主を恐れる人はだれか。
 主はその選ぶべき道をその人に教えられる。
 かれは みずからさいわいに住まい、
 そのすえは地を継ぐであろう。(詩篇25:12-14)