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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

一点キリスト

 「一点キリスト」。これはSugarさんから学ばせていただいた言葉だ。
 私たちがキリストの歩まれた道を歩む時、主のご計画に基づいて、さまざまな不思議な出来事が身の回りに起こって来る。しかし、そんな時、私たちは決して、自分の五感に訴えかけてくる現象の中に主がおられると思って、現象に注目し、現象そのものを求めるようになってはいけない。
 また、祈っても、何の現象も起こらず、主からの応答もないように思われる沈黙の時があるだろう。しかし、そんな時にも、現象の有無を基準にして、御心をはかっているようではいけない。

 御霊に導かれて歩むとは、五感に訴えかけるこの世の現象に基づいて、私たちが信仰の判断を下すことではなく、ただ信仰の導き手であり、完成者であるイエスから目を離さずに、この方だけを見つめながら、歩み続けることである。
 ただ一点キリスト。私たちが見るべきは、このお方だけである。そうしていれば、どんなことが周りに起こっても、現象に惑わされて、信仰を見失うことはない。

 たとえるならば、この世は不完全な鏡のようなものであって、そこに映し出される主の栄光は、全体のほんの一部分、しかも一つの角度からの反映に過ぎない。「私はありてある者」と言われる方は、鏡の中にはお住すまいにならず、四隅に区切られない、永遠を住まいとされる。だから、この世の現象がキリスト者にとって、どんなに素晴らしく感じられることがあったとしても、私たちの眼差しは、いつもこの世を越えて、ただ見えない世界にだけ注がれる、思いはいつも、御座についておられるキリスト、ただそれだけである。

 さて、無事、家を決めてきた。
 夜行バスはさすがに疲れる。解体が進むチボリ公園前の広場で、深夜、バスに乗り込み、翌日、たった一日で、引越し先を決めて戻って来た。

 これまでに幾度も引越しを行った経験に立つと、見知らぬ土地で、一日で、しかも5つにも満たない選択肢の中から、物件を決めるというのは、無謀極まりないことである。今回、私は、これが最善であるとの確信を持てる策を実行したつもりだが、行ってみると、さすがに、こんなことをやっていて、本当に大丈夫だろうかとの恐れが心をよぎった瞬間があった。(最近、気づいたことは、肉体的に疲労困憊している時は、聖霊の導きに対しても鈍感になるということである。)

 だが、主は不思議な方法で道を開いて下さり、制度上の不可能事をさえ、次々と、可能として下さり、私は困難を乗り越え、3つの選択肢の中から、最良のものを選ぶことができた。非常に悪くない選択だったと自分でも思う。

 とある独立行政法人の営業センターで契約について話をしていた最中、私が隅々まで暗譜しているセザール・フランクのヴァイオリンソナタ イ長調がかかっていた。その時には、気にもとめていなかったのだが、今から考えると、我が主は、まことに茶目っ気のある方のようで、こんな形でも、私の門出を祝福して下さっていたのかも知れない。

 今回、私は一つ一つの行程を進むに当たり、幾度も、主の明確な導きを求めて祈った。チボリ公園の解体工事を例として学ぶべきであるように、キリスト者は、自分の欲望や、目先の利益だけに惹かれて、自分勝手な計画を立てても、決して、その後の人生は上手く行かない。私たちには、真理に逆らっては、何事も成し遂げる力がないのだ。そのことを、私は幾度、自分の人生で、思い知らされてきただろう…。莫大な資金と、果てしない労力をかけて、精魂こめて積み上げてきた計画が、失敗に終わり、人手に渡され、無惨に解体されていくところは、もう二度と見たくない。

 だから、今は何事についても、主との質疑応答の繰り返しの上、進んでいる。これから先も、きっとそうなるだろう。特に、今回、私が引越しに関して、すでにいただいているいくつもの証拠の上に、また新たに主に願い求めた証拠は、私が選んだ物件を、父が祝福してくれるように、ということであった。

 それはかなえられた。帰宅して引越し先について報告すると、父は「良かったじゃない、いいところが見つかって」と喜んでくれた(それに支援を快諾してくれた)。今回、父が私のためにしてくれたことは本当に大きい。十字架の和解があったので、もはや家族の間に恨み事はないが、もし今、私がそのような負の感情を引きずっていたとしたら、このような恵みを受けることもなかっただろう。

 さて、山積する次なる課題の中でも、最大は職探しである。パウロが教会に迷惑をかけないために手ずから働いたように、私も、この先、エクレシアに迷惑をかけずに済むよう、一刻も早く、今のような窮乏生活から抜け出したいと本気で願う。主はこのことをも必ず、かなえて下さるだろう。

 そして私には今もう一つ、主に願い求めている証拠があるが、それはエクレシアの成員と会う時まで、この先のお楽しみとして取っておきたい。

 以上のことは全て、主がなさったことであり、私の力にはよらない。私に必要なのはいつも、信仰を持って応答することだけである。そして、この先も、私には一連の大変な行程が待っており、その全てを一人でこなさねばならないのだが、その中においても、主との静かで密接な交わりを保つなら、そこで、一つ、一つ、主の導きを見いだすだろう。御霊に導かれて歩むということの味わい深さを、こうして、日々、経験していくことができるのは、何にもましてゴージャスな恵みだと思う。

 田舎に帰ってくると、すでに稲穂が色づきかけていた。いよいよ収穫の時が近づいて来ている。

 主を恐れる人はだれか。
 主はその選ぶべき道をその人に教えられる。
 かれは みずからさいわいに住まい、
 そのすえは地を継ぐであろう。(詩篇25:12-14)

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神のエコノミー(1) 自己犠牲による借金返済はむなしい

「あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言い伝えに基づくものにすぎない。キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。」(コロサイ2:8-10)

「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまで取り上げられるであろう。」(マタイ25:29)
 

 人間には基本的に二つの生き方しかない。一つ目は、人類の罪という負いきれない借金を自分で背負って、それを何とか自分で返済しようと努力し、もがき、苦しみながら生きていく方法。そこでは、どんなに努力しているつもりでも、借金はあまりにも重く、もがけばもがくほど、利子は増え、負債に負債が増し加わり、せっぱつまって失敗が重なり、やがて自己破産へと近づいていく。それはマイナスの上にマイナスが増し加わる生き方である。

 もう一つは、神によって巨額の借金を全額返済していただき、すっきりと身軽になって、人生の再スタートを切り、その後の人生の行程も、全て神にお任せし、ただ御霊の導きにだけ乗っかって進むという楽な生き方。時に窮乏するように見えることがあるかも知れないが、心にはいつも平安があるので、道に迷って堂々巡りしたり、重荷を負って、きりきり舞いして苦しむということがない(マタイ11:28-30)。
 さらに大きな喜びがある。それは、あなたが神の財産の良き管理人とされ、神の財産を的確に運用することで、それを豊かに増やす使命を帯びていることだ。こうして、あなたの豊かさは、神の財産の利息で暮らしていけるほどになり、あなたは豊かに与えるキリストの性質に自分もあずかり、人にもその豊かさを存分に届けて生きていく者となる。

 この二つの生き方には、決定的な違いがある。あなたはどちらの生き方を選びたいだろうか? マイナスの世界を一歩も出られない、借金まみれの人生か、神にあって、プラスを構築し、豊かな財産を成していく生き方か。負いきれない負債の自己返済という課題だけで一生を終えるのか、それとも、負債などというものから完全に解放されて、キリストの豊かさをさらに増し加え、神に喜ばれる人生を送るのか?

 前回、チェルノブイリ原発事故のリクヴィダートルの話を持ち出したのには意図がある。私たちキリスト者が、十分に気をつけなければならない、ある悪しきイデオロギーについて触れたいと思ったからだ。その悪しきイデオロギーとは、人間の肉による自己犠牲を賛美する思想のことである。私たちはそれを警戒し、退けなければならない。

 キリスト者は、生まれながらの人間による、生まれながらの人間のための自己犠牲を賛美したり、美化したり、それに感謝を捧げたりしてはいけない。そんなものに負い目を感じて、束縛されるようなことがあってはならない。

 神を知らない、生まれながらの人間には、自分のために各種の生贄を要求するわがままさが本能的に備わっている。人間は自分のためにどこまでも利益をもとめてやまず、そのために他人を踏み台にし、犠牲にしてはばからない。他人に犠牲を強いる人間の身勝手な要求は、「道徳」や「慣習」にすりかえられて、公然と幅を利かせているだけでなく、時には、他人に命を捨てることを堂々と求め、他人を生贄とすることを積極的に肯定し、奨励するような、悪しき宗教、思想、イデオロギーを生み出すことがある。

 生まれながらの人間は、元来、自分のために他人が苦しむことを損失と思わず、自分のために他人が死ぬことさえも追い求め、それを「貴い犠牲」として美化し、喜ぶような醜い心を持っている。これは人間の堕落した悪しき性質から出て来るものであり、それが宗教や思想にまで高められると、大変、恐ろしい。

 たとえば、線路に落ちた子供を助けるために、ある青年が線路に飛び降りて、子供の命を救ったが、自分は電車に轢かれて死んでしまった…という事件が起きたとしよう。すると、世間は早速、それを美談として報道する。青年の「隣人愛」や、「自己犠牲の精神」を誉めたたえ、彼が自分を身代わりにして、子供の命を「救った」ことを賞賛するのである。そこには、まるで青年が死んだのは良いことであり、彼の死は「私たちのためでもあった」とでも言いたげな雰囲気がある。青年の命が失われたという損失には注意を払わず、彼が他人の犠牲になって死んだことを美化し、喜ぶのである。

 このような、肉なる犠牲を喜ぶ精神に基づいて判断するならば、チェルノブイリのリクヴィダートルは、まさに「私たちのために自己犠牲を捧げてくれた貴い人たちだった」という結論になるだろう。彼らが悲惨な死を遂げてくれたおかげで、大規模な放射能汚染が食い止められ、残りの人類が、今、安全に暮らせるようになっているのだ…、だから、彼らの「貴い犠牲」によって、私たちは生かされていることを知るべきであり、その恩恵について、彼らに感謝を捧げるべきである、彼らはまさしく人民の英雄だったのだ…という話が出来上がるだろう。
 だが、このような考え方に、キリスト者は絶対に同意してはならない。私はそう信じている。一体、人による犠牲が、人を救い得ようか。そんなものは人間の身勝手によって作り出された考え方、要するに、人身御供の肯定でしかないのである。

 疑いを抱いている人のために、このことが誰にでも分かるように、さらに丁寧に説明しておきたい。かつて、私たちの歴史に、人柱というものが存在していたことがあった。どこまで事実であったのかは分からないが、伝承によれば、たとえば、ある地域で、氾濫を繰り返す河のせいで苦しめられた村人たちが、それが悪鬼の祟りによる仕業だと考えて、悪鬼の怒りをなだめるべく、生きた人間を川岸に埋めて、彼(彼女)を生贄に捧げることによって、氾濫を食い止めようとした…、といった話がある。

 このような話を聞くと、私たちは何という不毛で恐るべき考え方だろうかと、ぞっとするだろう。河の氾濫を防ぐためには、堤防を建設することが必要不可欠なのであり、自分たちの仲間の中から、誰か生きた人間を岸に埋めたところで、何の解決にもならない。そんなものは、損害に損害を増し加えることにしかならないではないかと。

 さらに、今、どこかの火山が大規模に噴火したとしても、その噴火を人柱によって埋められるなどと考える人は一人もいないだろう。たとえ何万人という数のリクヴィダートルを現地に派遣して、噴火口で人柱となって火山灰に生き埋めになってもらったとしても、そんな犠牲によって火山の噴火を食い止めることは不可能だと誰にでも分かる。

 ところが、こういう話を聞いて、何と愚かなことよと言ってせせら笑う人たちが、ほんの数十年前には、我が国で、同じことをやっていたのである。つまり、何らかの巨悪の進出を食い止めるために、人々が次々と己の命を生贄として差し出し、そうすることが美徳とされ、奨励され、強制され、制度化されるような時代がこの国にあったのである(今でも恐らくその精神は残っているだろう)。

 私たちはこのように、「人間の自己犠牲から何かが生まれるという考え、自己犠牲を美化する精神」、「人間の自己犠牲を宗教にまで祭り上げる精神」というものの恐ろしさをよくよく考えてみる必要がある。一体、人が他人のために人身御供となって命を捨てることを、美徳として奨励するような思想に、どんな気高さがあるのだろうか? 自分の身代わりの生贄として、身近な他人を堂々と死に赴かせておきながら、彼らが死んだ後になって、塚や記念碑を立てて、「私たちはあなたの貴い犠牲に感謝を捧げます、私たちはあなたのおかげで今生きられているのです、あなたたちのことは忘れません」などと言うことが、果たして、真実な感謝の名に値するだろうか? 断じて、それは人類の身勝手に身勝手を増し加えた行為でしかない。

 私たちは今、誰のおかげで生きているのだろうか。私たちのために、犠牲となって死んで下さった方はただお一人である。その方の死によって、私たちは生かされ、アダムの堕落以来、絶えることなく続いてきた人類のあらゆる罪の負の遺産から解放されたのである。

 アダムの堕落は、どんな原発事故もかなわないほどの史上最悪の汚染を全地にもたらした。アダムの堕落がなければ、大地は不毛とはならず、人類史には死そのものが持ちこまれていなかった。そのアダムのもたらした問題に、完全な解決をもたらしたイエスの十字架は、その貴い血潮によって、私たちの最悪の借金を棒引きにした。こうして、史上最悪の問題をすでに解決している十字架は、今日的な様々な問題にも、すでに解決を与えて余りあるものなのである。

 キリストの十字架は、あらゆる問題に対する永久不変の万能膏薬である。十字架こそが、私たちを全ての脅威から救いうる、ただ一つの解決である。それがどんな問題であろうと、関係ない。家庭問題であろうと、病であろうと、地震であろうと、戦争であろうと、放射能汚染であろうと…。世の人々はこれを聞いて、愚かな信仰だと笑うだろうが、十字架は救いにあずかる私たちにとっては、「神の力」である(Ⅰコリント1:18)。

 従って、貴い犠牲とは、何か。それは、十字架で血を流された小羊をおいて他にない。私たちのために生きた人柱としてご自分を捧げられたのは、イエス・キリストただお一人であり、その犠牲の御業はすでに完成したので、それ以上の犠牲は、誰にも必要とされていないのである。
 だから、人間の努力によって、十字架に何かを付け加えようとしたり、新たな贖いを作り出そうとする行為や思想を、私たちは、忌むべきものとして、きっぱり退けなければならない。人間によって作り出される様々な犠牲が、私たちを罪による堕落や、脅威から救い出すのではない。
 何度も繰り返すが、私たちを死をもって贖い、生かして下さっているのは、イエス・キリストただお一人である。だから、この方以外の誰かの死や、自己犠牲を、偉業として誉めたたえたり、それが贖いの犠牲であるかのように感謝を捧げることを、忌むべき偶像崇拝として、私たちは退けるべきである。

 人間の肉による自己犠牲を高らかにほめたたえようとする宗教は、神から出て来たのではない、人の肉から出て来た、悪しきイデオロギーである。それはサタンの作り上げた人命の使い捨て思想であり、人殺しの思想であるため、この先も、何らかの脅威を持ち出しては、人類を脅迫し、絶えることなく、その負債の返済のために、人柱を要求し続けることだろう。

 リクヴィダートルが、チェルノブイリから私たちを救ったのではない。チェルノブイリは今も、人類の火薬庫のような脅威として存在し続けているが、あの原発にとっての本番は、恐らく、これからになるのではないだろうか…。リクヴィダートルの犠牲が、痛ましい損失でしかなかったことは、今後、歴史によって、さらに明らかにされるだろうと思う。チェルノブイリのために要求される人柱は、これからも絶えないであろう。

 だが、私たちは感謝しよう、キリストの十字架を信じている私たちは、もはや各種の脅威が迫り来る時、存在もしない何らかの神々の怒りをなだめるために、あるいは、支払いきれない罪という借金を返済するために、自分の命を犠牲にして、人身御供として我が身を差し出すという誤りに陥らなくて良いのである。私たちはイエスの十字架によって、すでにあらゆる脅威から解放されているのである。

 私たちが警戒しなければならないのは、キリストの十字架によらずに、人間が自らの自己犠牲によって、人間を救おうとする様々なイデオロギー、価値観、宗教である。それら人間の努力や、血と汗と涙が結晶化して出来上がっている肉的価値観、肉なる宗教をこそ、警戒しなければならない。それはどんなに犠牲を高らかに謳いあげていようと、結局、負債に負債を増し加える結果にしかならず、生贄の上に生贄を要求するばかりで、貧困から貧困へと落ちていくのである。

 現在、ニッポンキリスト教は、そのような自己犠牲の精神で固められた宗教となっている。そこでは、イエスが完成された十字架の贖いが退けられて、逆に、人間の努力、人間の自己犠牲、人間の血と汗と涙によって作り上げられた計画や運動が、高らかに誉めたたえられている。だが、小羊の聖めの血潮によらないで、どうして人間が救いを得られよう? 「私は神のためにこれほど多くのものを捧げ、これほどの努力をし、これほどに自分を捧げました」と、どれほど自らの犠牲を誇っても、幸福は遠ざかり、苦しみは増し加わり、借金はますます大きくなり、負いきれない負債だけが残るだろう。それはマイナスからマイナスへの人生である。だからカルト化教会には貧困と悲惨と死しかないのである。

 では、そのような永遠に返しきれない借金返済の義務からすでに解放されて、神の財産の管理人となっている私たちは、どのようにしてキリストの豊かさを人々に届ける存在となるのだろうか? どうすれば、その豊かさはプラスからプラスへと増えていき、キリストの満ち満ちた豊かさにまで達するのだろうか。続けて、そのことを見てみよう。

(P.S.朝から3時間以上かけて書いたワード文書が、パソコンがフリーズし、全部、ぶっ飛んでしまった。いささか意気消沈したが、重要な内容だったと思うので、何とか復元に努めた…。ちなみに、ロシア語の聖書で黙示録の「苦よもぎ」にあたる単語はполыньでした。)


この世の臭気

 十字架で自己が死んで、復活した日。それはもしかすると、バプテスマを受けたその日よりも、もっと記念すべき日になるかも知れない。何しろ、この日を境に、やっと人は、サタンの虜から本格的に解放されて、世から隠され、主にあってまことの命を生き始めるのだから。
 そして、復活の次なるステップは、キリストと共に御座につくことである。御座につくとは、一体、どういうことなのだろうか?

 今、私は自分が御座についているとは感じない。だとすれば、それはこれから経験することなのだろう。どうか主が、十字架における死と復活を私に明確に経験させてくださったのと同じように、御座につくとは何であるか、その本質を、私にはっきりと分からせて下さるようにと願う。そのことについて、知識の上でも、理解を深めていきたい。

 さて、今日は、十字架上で自己が死に、そして復活して以来、世界の意味が私にとってまるで変わってしまったことについて話をしたい。この事件を経て、自分でも驚いていることが一つある。それは、私がこの世の全てのものに対して、無関心、かつ、冷淡となり、いや、もっと言うならば、激しい嫌悪感さえ抱くようになったことである。

 初め、こんな冷淡さが、本当にキリスト者にふさわしいものなのだろうかと、私は自分を疑った。以前の私は時々、人から言われたものだ、「あなたは人の痛みが分かる人ですねえ。弱者に優しい、人の痛みに敏感な人ですねえ」と。私は当時、それを誉め言葉として受け取り、情け深い自分自身のありようを(愚かしくも)美徳と考えて喜んでいた。

 ところが、この「弱者に優しいワタシ、ニンゲンの弱さをよく理解するワタシ」というものが、十字架上で死んでしまったのだ。そして、その代わりに、生まれながらのニンゲンに対して、無関心かつ、それを厭わしく感じる私が生まれたのである。
 かつて、私が必死でかぼうとしてきたもの、生かそうとしてきたもの(それは総体としては「この世」なのだが、天然の、生まれながらのニンゲンに何より代表される)に、私は興味を失い、それらを唾棄すべきものとして嫌悪し、厭い、退けるようになった。生まれながらのニンゲンのために涙を流し、ニンゲンに同情し、ニンゲンを滅びから救おうと汗水流して活動する運動のすべてが、御心に反する虚偽だという結論に至ったのである。

 だが、しばらくの間、自分の中に生じた嫌悪感の意味が私には分からなかった。それは非人間的な、冷たい感情のように思われた。私がかつて持っていた弱者への共感、人へのいたわりと共感、人の痛みに対する同情心、人の欠点や、悪に対してすらの共感と理解…、そういうものはどうなったのだろうか? 

 私はこの世に対する嫌悪を、かなり激しい言葉を用いて語っている自分に気づいて驚いた。もしかして、私は悪く変わってしまったのではないか? このような気持ちが、本当に、主にあって与えられたものだと言えるのだろうか?との疑問が生じた。

 だが、主はこのことの意味を、私に理解させて下さった。

 すでに書いたことではあるが、神の御前に、サタンに支配されるこの世は、唾棄すべき、厭わしいもの、呪われたもの、滅ぼされるべきものなのである。そして、サタンによって堕落させられた人間もまた、神の御前には、忌むべきもの、死すべきものである。サタン的価値観と、それに汚染された全てのものは、神の御前に、忌むべきものであり、救われる見込みを持たない。だから、キリスト者が、旧創造を目の前にして、主が感じられるのと同じように、それを厭わしく感じるのは、むしろ当然なのである。

 このようにも表現できるだろう、罪の性質を帯びたものは、すべて堕落したものであり、堕落したものは全て朽ちゆくものであり、朽ちゆくものすべては、独特の臭気を発しているのだと。それは霊的な死臭である。そして主のものとされたキリスト者には、この臭気がかぎ分けられる。だから、彼は当然のごとく、それを厭わしく感じ、できる限り、避けようとする。

 たとえば、考えてみよう、この世の物質でさえ、腐るということがある。健康な人間は、生ゴミの臭気を嫌い、新鮮さを好む。新鮮な野菜を食べれば、元気が出るし、新品の服を着て歩けば、気分も良い。
 学者でもない限り、毎朝、百年前に発行された同じ新聞をテーブルに広げて、繰り返し読みたいと願う人がいるだろうか? 私たちは常に新しいものを求める。同じことの繰り返しは、人に何ももたらさない。

 健康な人間は、朽ちてゆくものを嫌い、退ける。腐った果実は、人の体を殺すことはできても、生かす力はなく、着古した服は、さっさと捨てるべきだと、私たちは知っている。
 だから、私たちは、古くなったものに執着することなく、それを容赦なく捨て去る。そして古いもののことは忘れて、新しいものに喜びを見出し、新鮮なもので自分の生活を満たそうとする。

 ところが、そのように新鮮さを好む人間が、自力ではどうしても理解できないことが一つある。それは、生まれながらの人間もまた、朽ちてゆくものの一部であり、容赦なく捨て去られるべきものであり、人間は例外なく死の臭気を発しているということである。
 これを一言で言い換えるなら、Sugarさんがかつて書いておられたように、人間は皆、神の御前に、腐乱死体だということになる。

どんな人であっても、その正体は神に呪われた墓の下の腐乱死体に過ぎないことを
 私達は決して忘れてはなりません。<…>

 いわゆる霊の切り分けは、魂側からの切り分け、即ち
 『自分の魂の正体への深刻な認識』からもたらされるものでもある、
 と私は思っております。」

 十字架の死と復活を経験した後に、この言葉の意味が、私にはっきりと分かった。
 朽ちてゆくもの全てが発する臭気を、御霊を通して、感じ取るようになったからである。そこで、腐乱死体という言葉が、決して、大袈裟な比喩でなく、真実であると理解できる。

 残念ながら、腐乱死体の死臭は、たとえば、私の肉の体からも発している。今、私の身体には青あざがある。ようやく腫れは引いたが、血液が紫色に変色して皮膚の内側で凝固しているのが不気味であり、もしそれを絆創膏で覆っていなければ、人は誰もその醜い傷跡を正視し得ないだろう。

 この傷は、あと2,3週間ほどもすれば、きれいさっぱり癒えて、元通りになる。そういう意味では、何の心配も要らない、他愛のない、一時的な怪我なのだが、深刻な事実が一つある。それは、この醜い怪我が、私の肉なる性質の本質を表しており、たとえ身体の傷は癒えても、霊的な意味では、私の身体は全身、醜い傷跡と腐敗に覆われているミイラも同然だということなのである。
 
 もしも今、私の全身が、内出血や、かさぶたや、みみず腫れに覆われていたとしたらどうだろう? 誰一人として、私の姿を二目と見られないだろうし、まともなおつきあいも成り立たなくなるだろう。だが、霊的な観点から見ると、それこそが、肉なる私の本質なのである。
 全身、生々しい傷とかさぶたとみみず腫れと内出血と腐敗に覆われたミイラ、それが肉なる私なのである。

 私の肉体は、罪なる性質を帯びた全てのものが発するのと同じ、独特の死の臭気を発している。それはこの先、どんどんひどくなっていき、やがて死に至るだろう(この死臭を薄め、かなりの割合で、かき消すことができるのは、キリストの香りだけである)。私の肉体は、不治の病にとりつかれている。それは私がどんなに流行の化粧をして、髪型を整えて、美しい着物を着て、颯爽と人々の前を歩いて、元気そうに見せてみたところで、絶対に変わらない、動かせない事実である。

 肉なる私の本質は、腐乱死体である。どんなに隠そうとしても、分かる人にはそれが分かる。だから、たとえ私の身体が何らかの事故で変形したとしても、あるいはもっと極端に、生きたまま焼かれようと、はっきりと言えるのは、それは(以前に考えていたほど大きな)損失だとは言えないということ、醜く歪み、朽ちてゆくこと、それはまさに堕落した肉の本質であり、避けて通れない道だということである。

 肉体がキリスト者にとって、仮の宿に過ぎないことは幸いである。何と不思議なことにか、永遠の存在である聖霊は、このように忌むべき容器としての、私の罪と死のからだの内に宿られ、今、それを通して働かれている。だから、その限りで、私たちは宮の外殻を成しているこの肉体をも、大切に扱う必要がある。そして、やがて、来るべき時に、私たちは、この死の体から解放されて、もっと良い、朽ちない体をいただくだろう。

 だが、いすれにせよ、死すべき存在として、私の肉は死臭を発しており、それは肉体にとどまらない。その臭気は魂からも発するのである。
 私は10代前半の頃から、ほとんど途切れることなく、日記をつけて来た。荷物の整理をしていると、書き溜めたノートが出て来る。以前は、そのような文章を、魂の軌跡として、大切に保管していた。ところが、今になってページをめくってみると、それらの文章に表れている私の天然の魂である「自己」が発する強烈な臭気に、耐えられない思いがして、読む気がうせてしまう。人の自己憐憫、自己義認、自己を立てようとする願い、そういった、神を介さないで生まれてきた天然の魂の衝動が全て、腐臭を発していることが分かるようになったのである。

 健康な人間は、生ゴミに顔を突っ込んで、その臭いを嗅ぎたいとは思わないだろう。同様に、私は人の生まれながらの魂が発する腐臭に、嫌悪を催す。それをあえて吸い込みたいとか、保存しておきたいとは、少しも思わなくなった。
 だが、文章の中に、神に誠実に向き合う姿勢が出て来たり、真摯な祈りが現れたりすると、私の心は喜び、共感を覚え、嬉しくなってくる。そういう、キリストの香りが表されている文章は、私の魂に喜びを与え、御心にかなったものだとすぐに分かるのである。

 こうして、神を経由しないもの、まことの命をいただかないもの全てに、私は何の共感も感じられなくなり、それら全てが忌まわしく感じられるようになったので、それを弁護しようという気持ちも、なくなってしまった。(こうして今書いている文章すらも、キリストの香りを放たない、ゴミ捨て場行きの文章だと非難されたとしても、何も言い返すまい、御心にかなわないものが、全て処分されることは、私にとって喜びだからである。)

 腐乱死体はもともと命を持たない、死すべきミイラであるからして、たとえ腐乱死体の上に最も残酷な実験や拷問が行われ、世界で最も残酷な見せしめ処刑が行われたとしても、それは誰にとっても、脅威とはならず、損失ともならず、「被害」は全く発生しないのである。

 つまり、堕落した罪深い人間(この世を含む)は全て、滅ぼされるべきものであり、幾重に処罰されたとしても、どれほど厳しく罰せられたとしても、誰もそこに文句をさしはさむ余地がなく、滅びるべきものが滅ぶのは当然であり、そうなることが、むしろ、より良い秩序へとつながるのだ、との結論に至るのである。だから、滅ぶべき運命にあるものの存続を願う気持ちは消えうせるのである。

 ところが、生まれながらの人間には、この事実が、決して理解できない(なぜなら彼も腐乱死体の一人だからである)。生まれながらの人間は、腐乱死体に対する(神からの)処罰を決して認めないし、それに徹底的に抗おうとする。腐乱死体という「弱者」を必死になってかばい、腐乱死体を何とかして延命させようと、腐乱死体の「痛み」をあるまじきこととして訴え、腐乱死体の「生きる権利」を主張し、それを脅かすものを「罪」として告発し、腐乱死体へも「隣人愛」を注ぐよう要求し、腐乱死体のために涙を流すよう要求し、腐乱死体が一日でも長く生きながらえられるように、救命運動をし、闘うのである。その愚かしさが理解できないのである。

 だが、着古した服は、廃品回収業者に任せるか、ゴミの日に出して、焼却されるのが最善であるのと全く同様に、腐乱死体にとっての最善は、処刑されて滅ぼされることであり、自分勝手な願いに基づいて、いつまでも、公衆に迷惑を巻き散らしながら、生きながらえることではないのである。
 もしも今日、どこかの病院の霊安室から、死後何週間も経た身元不明の腐乱死体が一人起き上がって活動し始め、自分にも生きる権利があると主張し始めたら、社会にはどんな混乱と騒ぎが持ち上がるだろう? 人々はどんな迷惑をこうむるだろう? そのようなことはあってはならないし、誰にとっての利益ともならない。

 これと同じことが、神の国の秩序についても言えるのである。神の御国は、死すべき罪人のための場所ではなく、まことの命をいただいて生きている人たちのための場所である。生きている人とは、イエスの十字架によって、復活の命にあずかった人たちのことである。その命を持たない死人が御国に闖入することは、あり得ないし、決して、許されることではない。

 ある人々は、それを聞くと、早速、怒り出し、反論するだろう、やっぱり、キリスト教徒は独善的で傲慢で、自分たちだけが救いに価すると思い込んでいる、視野の狭い人たちなのだと。クリスチャンは、自分だけが正しく、天国を独占できると思い込み、他宗教の信者を見下し、彼らの救いを否定し、救いの可能性を奪おうとしている、愛のない、心の狭い人たちなのだと。
 そのような反論こそ、腐乱死体の身勝手な言い分であり、腐乱死体の支離滅裂な「生きる権利の要求」である。

 腐乱死体のためには、この世という霊安室がちゃんと用意されており、それで十分である。この世は彼らのものであり、そこで彼らは住人としての権利を思うままに行使して、何でもやりたいことをできる。だが、その代わり、死体は霊安室を出て、御国の秩序に入ることはできない。死体は死体であるから、よみがえることはできず、死すべき世界を一歩も出ることができない。腐乱死体が、いつまでも生きながらえ、神と人との愛を一身に受け、永遠の命までも得たいと願うのは、わがままである。

 この世は霊的に見るならば、そのものが巨大な霊安室であり、巨大な火葬場であるとさえ言えるだろう。この世はどこまでも累々たる死体が連なる焼け野原と同じであり、そこに生きているように見える人たちも、全員が、焼却を待っている腐乱死体でしかない。この世は、滅びるべき定めをどうしても変えることはできない。

 神はしかし、この世がただ滅びるのを望まれなかった。神はこの世を愛されるがゆえに、この世を救おうとなさったのだ。だが、それは、霊安室を霊安室のまま保存し、火葬場を火葬場のまま存続させ、腐乱死体を腐乱死体のまま永久に生きながらえさせることではなかった。

 神はこの世を刷新することで、この世を滅びから救おうとなさったのだ。その刷新は、ただイエスの十字架によってしかもたらされない。それは自動的な刷新ではなく、信仰を働かせなければできない選択であり、霊的な切り分けである。人が十字架の死を経由して、イエスの命によって、もう一度生まれ変わるならば、御国の秩序の中に移されて、永遠に生きることができるが、それを経由しないならば、その人はこの世と共に滅びて終わる(その上、魂には永遠の刑罰が待っている)。神の救いの不思議さは、この世の忌まわしい終局としての滅びすら、新しいキリストの命に接木するプロセスとして、活用されていることである。
 再び、Sugarさんの記事から。

 「十字架は完全な死であり完璧な終結なのですが、
 しかし何と、その後、それに復活の要素を入れ込むことを可能とするお方が
 私達の神なのです。

 そこで神は、サタンの故に、サタンから出てきた終結(死)というものを、
 神の至高の知恵によって、時間の中においてそれを『活用された』のです!

 時間の中で死は完全終結です。
 従って時間の中に存在する旧創造・旧物質は死によって完全に終結されます。
 しかし、もしも ここに、キリスト・イエスにある神御自身が介入されるのであれば、
 イエスの復活において、死・終結は完全打破されるのです。
 それは、神に創造されたいかなるもの(時空と万物)も
 創造者御自身に勝ることなどあり得ないからです。
 敵によって汚染された万物を完全終結し、
 しかもその万物を生かして、それを『新物質』とする唯一の手段、
 それが死と復活であったのです。

 ここに初めて人は復活において『卓越した永遠』と
 一つに結合されることが可能となったと言えます。<…>

 信仰とは結合を意味します。従って信仰がなくては
 『復活と卓越した永遠』に対して人が結合されることはあり得ないのです。」

 こうして信仰によって、十字架を受け取り、それを自分に適用し(自分の力によってではなく)、自己に死んで、復活の命をいただくという過程を経ない限り、人はいつまでも、滅び行く死臭を発する腐乱死体のままであり、そこに永遠の命が宿ることはあり得ない。
 だから、たとえ腐乱死体が生きる権利を主張し、隣人愛を要求し、天国にまで入る権利を主張していたとしても、そのような主張は一切、耳を傾けるに価しない、滅茶苦茶なものである。人間が腐乱死体のまま、生きながらえることが、御心なのではない。死すべき人間が十字架を経て完全に死に、復活して、キリストの命によって生きることこそ、御心なのである。

 だから、十字架の死を経由しない人間にそのままで生きてもらおうと願うことは、聖書的な愛とは呼べない。堕落した人間をそのままの姿で何とか生かそうと延命をとりはからうことが、人への愛なのではなく、そのような生まれながらの自己に、十字架のもとできっぱり死んでもらい、その後で、永遠の命を受け取ってもらうように願うことこそが、御心にかなう愛なのである。
 人にとっては残酷なようであるが、それが神の、人に対するご計画であり、愛なのである。この点を間違って理解してしまうと、私たちの主張する「愛」は、容易に、人間の、人間による、人間のための、人間救済活動となってしまう。それは腐乱死体のみっともない延命活動であり、死体の生存を確保するための(ナンセンス極まりない)権利運動となってしまうのである。

 アブラハムはソドムの街のためにとりなしの祈りを捧げたが、それはソドムの街そのものの存続を願うがゆえではなかったし、ソドムにいて、やりたい放題している悪人達の延命を願うゆえでもなかった。アブラハムは、ソドムに住む義人のためにとりなしたのである。神を信じる正しい者たちが、悪人と一緒になって滅ぼされるようなことがないよう、神に祈ったのである。(従って、とりなしの祈りとは、神を冒涜する者たちの延命を願う祈りでは決してないことが分かる。)

 私たちは、神を喜ばせる、まことの命を生きる者たちをこそ、擁護し、彼らのために真剣にとりなすものでありたい。



闇はこれに勝たなかった!!

エクレシアの結びつき、一致は、特別なものだ。それは人の短い生涯を越えて、永遠に至る結びつきだからだ。だから、そういう人たち(エクレシアを持っている人たち)と接触していると、初めはそうと気づかないのだが、次第に分かってくる、彼らが私にとって、本当に、特別な意味を持つ人たちであるということが。

 かつてある場所を訪れた際には、私はまだ安息していなかった。目に見える世界の出来事に、あまりにも気を取られ過ぎていたからだ。しかし、今は待ち遠しい、冬になって、ペチカの火を囲んでその場所で過ごす時間が。その時、誰がそこに連なっているのか知らないが、誰であろうと、きっと、私たちは静かに、永遠に、ただ主だけを思いながら、神を誉めたたえるだろう。今度こそ、人生相談をするためではなく、ただ主を誉めたたえるためだけに、そこに集うだろう。

 エクレシアを思う気持ちは、仲間を恋しく思う気持とは、異なっている。共に神を誉めたたえたいという思いが何にもまして、出発点となって、人々が集まるからだ。私たちが一同に集まる時、私たちの内側から、賛美が爆発的なパワーとなって溢れ出すだろう。ちょうど合唱隊員が集まると、合唱が始まらないではおかないのと同じだ。隊員にとっては、忘我の境地で、歌の真っ只中に身を浸すことが、本分である。

 主を賛美することは、私たちの本分である。だから、その瞬間が、待ち遠しくてならない。
 私自身の存在や、願いなどもはやどうでもよく思われる。主との一致の中にとどまり、そこでただ主を賛美したい、それが願いの全てとなる。私の内におられるキリストが、多分、誰よりも、その時間を待ち望んでおられるだろうという気がする。その瞬間のためにこそ、私は生かされていると言って過言ではない。

 私自身にとっても、その一致は、焦がれるほど待ち望む、歓喜に満ちたものであるのだが、この先、私の生活がどれほど忙しいものになろうとも、神ご自身が、その至福のひと時を絶対に、用意せずに置かないという気がする。何しろ、誰よりも、主ご自身が、その時を待ち望んでおられるのだ。二、三人の聖徒たちが集まって、心を合わせて、主を誉めたたえ、主を賛美するその時を。

 私には分かるような気がする、主がご自分への妙なる捧げ物であるこの甘美なひと時を、絶対に、自ら手放されるはずがないと。神ご自身が、ご自分の栄光のために、神を誉めたたえる聖徒たちを起こされたのだ。もし仮に私がその本分を果さないならば、他の人たちがその偉大な任務に召し出されていくだろう。
 主が定められたエクレシアは、何があっても、衰退しない。それは必ず成就する不変の御旨である。

 だから、たとえ束の間、私たちが暗闇や孤独の中を通されることがあったとしても、ばらばらになるように見えることがあったとしても、主との一つの結びつきは、ぐらついたり、消滅したりすることなく、時を経て、なお一層、輝きを増し、強められて姿を現すであろう。

 我が神よ、私たちのエクレシアは、今、本当に、しみもしわもない花嫁にまで整えられようとしているのですね。あなたご自身が、その花嫁の聖なる美しさをご覧になって、畏怖の念さえ抱くほどまでに、私たちはあなたの前に清められ、整えられ、あなたにふさわしい聖なるパートナーとして、建て上げられようとしているのですね。それを全て、私たち側からの努力でなく、あなたご自身の力で、成し遂げようとなさっておられるのですね。

 あなたにふさわしい、聖なるパートナー、誰がその意味を真実、理解できるでしょうか。どうして塵に過ぎない私たちがそんな大それた聖なる召しに耐えられるでしょうか。けれど、主よ、あなたがなさるのです、あなた以外には誰もそんなことは成し得ません、あなたがそれをなさろうとしておられるのです、ご自分の栄光のために!

 栄光は限りなく主のもの。私たちが努力によって成し得ることなど、何一つありません。私たちはただ自分を差し出し、あなたが働いて下さるに任せるだけなのです。

 何という時代に私は生きているのでしょうか。この世の闇の暗さ、深さと、そこに星のように輝く光のコントラスト。光は、やがてまぶしいほどに輝き出て、ついには、闇を覆い、闇を葬るでしょう。
 闇はこれに勝たなかった!!(ヨハネ1:5)

 エクレシアに婚礼の鐘が鳴り響く瞬間が近づいています。どんな悪魔の業も、神と聖徒たちとが愛によって結ばれるその一致を妨げることはできません。岩盤のような固い壁を突き破って、生ける水がエクレシアからほとばしり出、怒涛のように溢れ出すことでしょう。その時のために、心のすべてをささげ尽くして、主なる神を愛する聖徒たちが、今、全地に起こされようとしているのです…。

 動脈硬化などもう沢山です。キリストの御身体にどうしてそんなものがあって良いでしょう。詰まった血管は、奔流のように流れ来る生ける水によって押し流され、通り良き管へと変えられるでしょう。
 貧困や、病や、欠乏や、抑圧、難行苦行はもう沢山です。どうしてそれらの欠乏が、あなたの栄光の証となりましょう?

 サタンの虜にされている聖徒たちを、今、あなたの力によって、解放してください。そして、私たちがあらゆる恐れとためらい、嘆きや涙を捨てて、あなたの偉大な解放の御業を、心から誉めたたえられるようにして下さい。
 これまで、いわれなく、苦しめられ、獄屋に閉じ込められてきた聖徒たちの叫びをかえりみて、どうか速やかに彼らを解放して下さい。兄弟姉妹たちが獄屋に閉じ込められているままで、どうしてあなたの栄光をあまねく全地に告げ知らせることができるでしょうか。

 私たちはいつまでも互いの欠乏を補い合い、互いに傷をなめあい、互いに依存し合い、同情し合うためだけに召し出されたのではありません。何よりも、あなたの栄光を誉めたたえ、あなたの憐れみ深さ、いつくしみ深さを世に証していくことが私たちの任務であります。しかし、そのために、まず、私たち自身が、あなたの十字架、御座にいますキリストから流れ出るまことの命の豊かさ、健やかさを、隅々まで体験する必要があるのです。

 私たちがこれまでどうやっても打ち破ることのできなかった束縛の枷を、今、あなたの十字架の御力によって、打ち砕いて下さい。あなたの恵みが人知をはるかに越えた素晴らしいものであることを、私たちが隅々まで味わうことによって、これまでとらわれてきたちっぽけな知識の枠組みから完全に解放されるようにして下さい!

 御身体はあらゆる人情を廃して、ただあなたの御力によって、一つとされるでしょう。しみやしわは消えうせ、壊死した細胞は丹念に取り除かれ、悲しみの涙は最後の一滴まで拭われて、若返りの命が、エクレシアなる御身体全体から、川のように、芳香のようにあふれ出るでしょう。御霊の命の息吹が、キリストの香りとして、キリスト者全員の内側から立ち上るでしょう。それをなさるのは、あなたなのです!

 主よ、今、あなたの御身体を名乗っているものの中には、全くそうでないものが混じっています。200歳ほどに年を取った、つぎはぎだらけの醜い怪物、何度、手術されても再生の見込みのない、腐臭漂うミイラは、その老化と衰えと貧しさゆえに、甚だしく倒れ、息絶えることでしょう。それで良いのです。どうして、そんなものがあなたの花嫁を名乗って良いでしょうか。死すべきものは、ますます衰退し、滅びへと向かい、聖なる十字架によって額に刻印を帯びた、まことの命を持つ者だけが、真の豊かさ、健康さを帯びて、全能なる神の永遠の誉れにふさわしく、喜びと賛美を持って御前に立ち、また、世にあなたを証するのです。

 私たちはそのような者として召し出されていることを確信し、あなたの十字架の解放の御業を感謝して、誉めたたえます!!

 主よ、この偉大な御業の立会人とされている恵みの大きさに、私は言葉も失いそうです。私は死すべき汚れた罪人の一人であるのに、どうしてこんな恵みがあり得たのでしょうか。しかし、それをなさったのも、やはり、あなたであるのです。主よ、あなたが一方的に私を憐れまれ、死体の山の中から私を掘り起こされ、死刑宣告された罪人に過ぎない私に、十字架上で、罪の赦しと、復活の命を与えられたのです。だから、私は生きることができるのです、あなたの力によって、あなたのために!

 この願いを私の心に植えられたのは主でありますから、ためらうことなく、心よりお願いします、どうか私を永遠にあなたと共におらせて下さい、いつまでも、あなたの一致の中にどまらせて下さい、兄弟姉妹と共に、貴い御身体の一部として下さい、そして人知をはるかに越えた、あなたの永遠なる御業の完成に、可能な限り、あずからせて下さい、あなたの聖なる御業は始まったばかりなのです。

 

イザヤ書49章

この世に対して死んでしまうと、この世の財産の回復や、傷つけられた名誉の回復に対して、何の関心もなくなる。主が一つのものを取り去られる時は、もっと良いものを私たちに下さろうとしている時であると、かけ値なしに信じられるようになるため、自分で自分を回復しようとする一切の試みに関心がなくなっていく。

 私がこれから言うことは、きっと、極端に聞こえるだろうことは承知である。たとえあなたがカルト化教会で全財産、失ったとしても、悲しむには及ばない。ヨブのように息子達を一挙に失ったとしてさえ、悲しむには及ばない。今、仮にあなたがやもめであろうと、みなし子であろうと、産まず女であろうと、盲目であろうと、障害者であろうと、無一文であろうと、宿無しであろうと、何一つ、憂う理由にはならないのだ。それは、あなたが主イエス・キリストを信じて従っているならば、あなたを通して、神がご自身の栄光を現されようとするそのご計画は永遠に不変だからであり、その計画は必ず成就し、あなたは栄えるからである。

 そんなわけで、私は生い立ちや家庭について悲しむことを全く忘れてしまった。この世で不当に奪われ、失われた価値のために涙し、嘆くことを禁じられてしまったような有様だ。だから、世の中のどんな幸せなニュースを聞いたとて、何一つ、羨ましく思うこともなく、心が痛むこともなく、ただ穏やかな笑顔で祝福を祈り、主はこの私には何をなして下さるのだろうかと期待に胸を膨らませるのみである。
 主のご計画の観点から物事を見るならば、一つのものが失われることは、新しいものの始まりであり、神のさらなる栄光が現されるきっかけである。そのことを確信を持って理解できたので、私は失われたものを嘆かないどころか、手ぶらになったことが、かえって嬉しい。空になった壺を、新しい油で主が満たしてくださると信じているからである。

 このような考えは、私の力では持ち得ないものである。これほどまでに多くを失って、未来に希望が見えているわけでもないのに、なお喜んでいる人間がいたとしたら、馬鹿か、あるいは、気が狂っていると世間では思われるだけであろう。気が狂っていると思われようとも、私は少しも構わない。主が確かに私を変えられたことを信じるからである。これが、私の知性にも、感情にも及ばないことであるのが、誰の目にも明白であるので、かえって、そこに主の栄光が現されることを喜んでいる。

 さて、勝手ながら、以下の御言葉を私のために引用させていただきたい。

しかし、シオンは言った、
「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。
「女がその乳のみ子を忘れて、
その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、
わたしは、あなたを忘れることはない。


見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。
あなたの石がきは常にわが前にある。
あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、
あなたを荒らした者は、あなたから出て行く。

あなたの目をあげて見まわせ。
彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。
主は言われる、わたしは生きている、
あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、
花嫁の帯のようにこれを結ぶ。

あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、
住む人の多いために狭くなり、
あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。
あなたが子を失った後に生れた子らは、
なおあなたの耳に言う、
『この所はわたしに狭すぎる、
わたしのために住むべき所を得させよ』と。

その時あなたは心のうちに言う、
『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。
わたしは子を失って、子をもたない。
わたしは捕われ、かつ追いやられた。
だれがこれらの者を育てたのか。
見よ、わたしはひとり残された。
これらの者はどこから来たのか』と」。

主なる神はこう言われる、
「見よ、わたしは手をもろもろの国にむかってあげ、
旗をもろもろの民にむかって立てる。
彼らはそのふところにあなたの子らを携え、
その肩にあなたの娘たちを載せて来る。

もろもろの王は、あなたの養父となり、
その王妃たちは、あなたの乳母となり、
彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、
あなたの足のちりをなめる。
こうして、あなたはわたしが主であることを知る。
わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。

勇士が奪った獲物を
どうして取り返すことができようか。
暴君がかすめた捕虜を
どうして救い出すことができようか。

しかし主はこう言われる、
勇士がかすめた捕虜も取り返され、
暴君が奪った獲物も救い出される。
わたしはあなたと争う者と争い、
あなたの子らを救うからである。

わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、
その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。
こうして、すべての人はわたしが主であって、
あなたの救主、またあなたのあがない主、
ヤコブの全能者であることを知るようになる
」。

 主はご自身の栄光をあまねく全地に知らせるために、ご自分に忠実な民の全ての損失を回復されると言われる。そこでは、失われたものは何一つ忘れられることはない。(裁判などが何になろう。)私たちを生かす方は、ただお一人である。私たちのために、闘って、報復される方は、ただお一人である。私たちの救い主、あがない主、全能主はただお一人である。私はもはや自分のためにいかなる報復も求めない。しかし、このお方は、ご自分が生きて、今日も働いておられ、全能であることを示すために、私たちの人生を用いられる。この方により頼むなら、私たちは決して恥を見ることはない。
 私たちを通して、神はご自身が今日も生きておられることの証とし、ご自分の栄光を現されようとしておられる。そのご計画は永遠である。主の御名は誉むべきかな。

真実な候補者

いくつかの政党の選挙カーが緑の田舎町を練り回り、候補者の名前をやたらに繰り返している。いよいよ、今の日本も20世紀初頭のロシアのようになってきたなあと思う。私は個人的にずっと前から考えてきた、今の日本は革命前のロシアの状態に極めてよく似ていると。だから、遠からず、何らかの政変が起こるであろうとの予測は変わらない。それが、ますます現実味を帯びて来ているように思う。情勢の不安定さが政治への関心の高さとなって表れている。

 だが、よほど私はひねくれた性格なのか、世の中が一斉にその方向を向くような事件があると、それを捨て置いて、誰もいない方向へ進みたくなってしまう。だから、世間が選挙、選挙と言い始めると、途端に選挙に一切の関心がなくなってしまうのだ。もし仮にこの先、富国強兵のようなスローガンを国民が一斉に唱えるようになるならば、のんびり釣りや、山へ散策に出かけたいと今から考えている。

 だが、これではいけないのではないか、私もこの国の国民なのだから、このような世と隔絶した考えで生きていくのはよくないのではないか、私も何がしかの決断をすべきなのでは、とも思ったが、心の底から沸き起こる違和感には何かしら拭い去れないものがある。
 そんな中で、Straysheepさんの記事を読んで、ほっと胸をなでおろした。私の手前勝手な読み方で恐縮ではあるが、次の一句を読んで、何かしら心からに通じるものを覚え、また、嬉しかった。以下、引用。

蝉しぐれ マニフェストと 声競う
真実は 細き御声に あらわれり


続いて、記事では、まことに適切なことに、イザヤ書42章が挙げられていた。訳の違いはあるのだが、それは無視して、冒頭からもう一度、引用させていただきたい。

「わたしの支持するわがしもべ、
 わたしの喜ぶわが選び人を見よ。
 わたしはわが霊を彼に与えた。
 彼はもろもろの国びとに道をしめす。
 彼は叫ぶこともなく、声をあげることなく、
 その声をちまたに聞えさせず、
 また傷ついた葦を折ることなく、
 ほのぐらい灯心を消すことなく、
 真実をもって道をしめす。
 彼は衰えず、落胆せず、
 ついに道を地に確立する。
 海沿いの国々はその教を待ち望む。」(イザヤ42:1-4)

 この御言葉は、神が選ばれた、御心にかなう候補者とは誰か、私たちが支持するべき候補者が誰であるか、教えている。またその候補者は私たちの前でどのように振舞うかということも示している。

 「彼は叫ぶこともなく、声をあげることなく」、これはとても重要なことである。
 その候補者は、声を限りにメガホンを持って叫んだり、巧みに考え抜かれた演説によって、人の注意を引き、心を動かすことのない方である。
 その候補者は、弱者救済を声高に訴えることないにも関わらず、しかし、傷ついた葦を折ることなく、くすぶる燈芯をも吹き消すことなく、人の心に残っている最後の信仰のともし火(神によりすがる希望)を決して無視されないお方である、つまり、最も傷ついて弱くなった者たちの心をも、いたわりをもって扱える方なのである。

 彼は真実をもって道を示す。偽りの甘言を並べただけの公約を掲げ、政権についた途端、それをきれいさっぱり忘れる、ということはない方である。
 彼は倦むことなく、どんな状況にあっても、定めた目標に向かって働き続ける。疲れているから、今は遠慮してくれと言って、私たちの訴えを退けられることのない方である。
 そしてついに彼は道を確立するのである。私たちは、彼が作った道の後を着いていくだけでよい。もはや獣道を辿って、山の中で遭難せずともよくなるのである。

 私たちはこの候補者が誰であるか知っている! 他に誰一人、頼るべき方がないことも知っている! 今、声高に訴えられるマニフェストの中に、いずれも、真実は、ない。そのようなもの以外に、人生の指針を持たない人たちは不幸である。

 このように決め付ける私を、政治に無関心すぎる愚か者だと考える人はきっと多いだろう。今、汗水流して、一生懸命に全国を走り回っている人たちには失礼ながら、私は目に見える世界は、今後、より一層の深い闇と虚構の中に落ち込んでいき、そこには一抹の真実もなくなっていくだろうと思っている。

 けれども、何という幸いだろうか! 「私は真理であり、道である」と言われる方を私たちは知っており、この方について行けば大丈夫、この道にありさえすれば、大丈夫だという道を知っているのだ。主に感謝を捧げたい。

 

キリスト経由でいただく命

キリスト者は、主の御霊によって導かれて生きているのであって、その命はキリストと共に神のうちに隠されている、私たちは、この世に対しては死んでおり、もはや自分の肉に対して生きる責任を負ってはいない、ということを、たとえば私はどんな瞬間に感じるだろうか?

 答え: ご飯をちゃんと食べられている時に感じる。

 そのご飯が、主が備えて下さっているものであることが分かるからである。私は蒔かなかった、だから、本来、刈り取る資格のないものをいただいている。主は一羽の雀を生かすように、わたしを生かしていて下さる。さらには、これまで私の生存に無関心だった人が、私のために食事を備えてくれていたりするの目にするのは、本当に奇跡を見るようである。
 エリヤを養われたように、神は、今、私をも養ってくださるのだなあと実感して、感無量だ。これまで食事は大きな問題であった。だが、今は、私の命が尽きることがないように、神ご自身が心配して下さっているのだと考えることは、本当に喜びである。

 答え: 絆創膏が用意されている時に感じる。

 傷を覆う絆創膏が尽きた。さて、ではどうしよう、と思う時に、まず祈る。すると、誰かが頼みもしないのに、すでに何かを用意してくれているのである。やはり感動である。

 こんな風にして、日常生活の具体的必要の全てを、何もかも、祈りによって主に願い求める。すると、本当に、私の命を支えているのが主であるという事実が、生活を通して、分かって来るのだ。今まで、肉にあって自分を支えようとひたすらあくせくし、失敗したり、不足してきた様々なことが、こんなにしてもらって良いのだろうかと思うほどに、主によって備えられていることを知る。

 この一歩、一歩を通して信頼を学んでいくのが大切だろう。よちよち歩きの子供が、親の手にすがって歩くようなものだ。神が本当に根気強く、また気前よく、人の面倒を見て下さる方であることを学ばせてもらっている。今は、見えない主の御手に思い切りよりすがろう。

 世界がたとえどんな混乱に見舞われようとも、キリスト者にだけは関係がないと信じられるほどの安心。こんな安心は、これまで味わったことはなかった。
 キリストの十字架を信じ、御霊に導かれて生きることができれば、人生はこんなにも楽になるのだ。世に対して死ぬまでは、かなり厳しい道のりだったが、世に対して死んでしまってからは、楽になった。不思議なことである。

 主がよくして下さったことを何一つ忘れるな!


この世は私に対して十字架につけられ…

私は岡山の地がとても好きだ。長く関西に住んでいると、瀬戸内海沿岸の穏やかな気候に、心も身体もなじんでくる。この静かな田舎町にいると、いつまでも心穏やかに、健康に生きられそうな気がする。
 季節ごとに花々が咲き乱れ、米も野菜も豊富に収穫され、台風も冷害も地震もない穏やかな土地。もしも、何の問題もなかったならば、年老いるまで、ずっとここに住み続けるのも悪くない。

 けれども、それはいかにも人間的な考えである。もしも主が私について違ったご計画をお持ちならば、私は移動すべきである。失業率もますます高まっているようで、先行きが明るいとはお世辞にも言えないが、このような時だからこそ、今以上にさらに良いものが行く手に準備されていることを信じたい。神は憐れみ深い方であり、神のご計画の素晴らしさを、私たちは生きるごとにさらに深く味わうことができる。
 主とは、そのようなお方である。

 神のご計画には、後退するということは決してない。従って、神を信じて従う者たちには、生きるごとに、主のご計画の完全さ、素晴らしさ、醍醐味をリアル・タイムで味わうことができる幸せが与えられている。私もその幸いな一人である。

 さて、以下の記事で、私が反戦運動に関心がなくなったことについて書いたが、その意味について誤解が生じることのないよう、説明を補足しておきたい。

 最近、特に分かったことがある。それは、人間の道徳や、宗教、思いやり、愛、義理人情…などを含めて、人間から出て来るあらゆる「良かれ」という気持ちほど、神の御心に最も悪質に敵対する曲者はない、ということである。
 言い換えるならば、神なき世界(=サタンに支配されるこの世)を救おうとして、人間の中に生まれる各種の考えは、人間から見ればまことに道徳的で、立派な考えに思われるのだが、そのほとんどは、御心に悪質に反するものだということである。

 私たちはいつでも、自分の命を死から救うことを何よりも第一に考える。それは人間に染み付いた習性であり、本能である。その本能に基づいて、私たちは自分と同様に、大切な身近な人の命をも、死から救い出したいと考える。それこそが善であり、思いやりであり、愛だと、私たちは思い込んで生きている。

 人間の狭い考えの中では、我と他者がこの地球上で平和に生き延びられるようにすることこそが、最高の善である。愛とは、私たち人類が皆、できるだけ苦痛を減らして、平和に、生き延びられる可能性を、互いが作り出そうとする願いや努力とされている。従って、人間の考える罪とは、人間の生存を脅かす諸行為のことである。

 しかし、神の御心は、そのような人間の生命だけを中心にする狭い考えとは決定的に異なっている。聖書の定める罪とは、人間の生存を脅かす諸々の行為のことではなく、何よりもまず、神に背く行為を指す。人間にとっての最善が、究極的には、人間のこの世での命を守ろうとするものであるならば、神の最善とは、たとえ人間のこの世での命が脅威にさらされたとしても(あるいは死ぬとしても)、ただキリストとの一致の中で、人に永遠の命を与えようとするご計画である。

 従って、人間の考える罪や愛の概念と、聖書の想定する罪、愛の概念が決定的に異なっていることをまず私たちは知らねばならない。その区別ができていなければ、クリスチャンは、恐ろしい誤謬に落ち込んでしまいかねない。
 今日、カルト化教会などでは、聖書の説く「隣人愛」とは何かを知らないがための悲劇が絶えない。「隣人愛」の概念を悪用して、指導者が「日本のリバイバルのために」、弟子を過剰なまでの奉仕に駆り立て、極貧の生活を送らせたりする例がある。「隣人愛」を口実に、教会の中で過剰な奉仕や献金を要求され、人生を不当に奪われている信徒たちはかなりの数、存在するだろう。

 このような罠にはまってしまうのは、私たちが、聖書の説く愛が、人の考える愛とどう異なっているかを知らないためである。一言で言うならば、神の愛を、人間に都合の良い愛や、義理人情とすりかえ、神の御心の代わりに、この世を救おうとする人間の「良かれ」という計画や理論を、最高の善としてしまうためである。そして、そのように人間の考え出した教えや計画に背くことを「罪」だと教えるためである。

 人間にとっての最高の善とは、自分の肉体や世界を滅びから救い、できるだけ人類が平和に調和して長く生き永らえることであろう。しかしそのようにして、人間が十字架によらず、自分自身の肉体をも含めて、この世全体を救おうとする思いは、神のご計画とは根本的に異なっている。
 Dr.Lukeの記事「この世」から抜粋しよう。

「『この世』とは、神に対立してサタンによって確立された一種の霊的体系を指します。例えば、宗教・哲学・科学などは一見人の目にとっては高貴なものであって、問題はないかのように見えますが、真の神であるの御言葉や価値観に対立しているとすれば、神の目から見れば良しとされません(例えば進化論を考えて下さい)。むしろそれらはもっともらしい装いによって真の神を見えなくすることにおいては、単なる罪の享楽よりも、狡猾なサタンの欺きと言えます。

すなわち、『この世』とは、真の神であると私たちの間に立ちふさがり、私たちの信仰を破壊し、神との交わりを絶ってしまうあらゆる要素を含んだサタンによって組織された一つの霊的体系と定義されます。したがって人間的価値判断による善か悪かということから切り離して考えないと、『この世』を霊的文脈において正しく評価し、それに適切に対処する際に、混乱や誤りを生じることになります。あくまでも神の目から神の御言葉に基準を置いて判断する必要があります。」

 私たちが自分の生命だけを基準にして、何が正義であるかを考え、自分や他人を肉体的滅びから救うことをこそ善であり、愛だと考えているうちは、私たちは、聖書の御言葉を基準にして、何が罪であり、何が愛であるかを正確に理解することは決してできないままに終わるだろう。聖書の説く愛とは、この世や、この世における人の命を可能な限り、苦痛なしに生きながらえさせようとするあれやこれやの対策ではないのである。

 話を進めよう。聖書の説く隣人愛を考える上で、何よりも、クリスチャンの出発点となるべきは、人類はそのままでは神の御前に皆、立ち果せず、死に絶えるべき存在である、という事実である。これはショッキングな事実であるが、真実である。

 「それを食べれば必ず死ぬ」と言われた実を取って食べたアダムは、自ら、死すべき運命を選んだ。そのアダムとエバの堕落以降、肉なるもの、目に見えるものは(被造物の全てがそこに含まれるのだが)、全て人類の罪のために呪われてしまった。
 そのため、やがて来る神の永遠の御国は、今の堕落した世界の上には建設できない。御国が到来する前に、見える世界は全て滅びなければならない。今、私たちの住む世界全体は、人類の罪のために、まさに滅びへと向かっているのであり、その運命は私たちが変えられるものではない、いや、私たちこそが父祖アダムと共にそれを自ら選んだのだと言えよう。

 人間は神に背いた時点で、死すべき存在となり、この地上で平和に生きる生存権を失った。(サタンは最後まで人間の生命を取ろうとして、執拗に人間を脅かし続ける。それでも、人が生きているのは、ひとえに神の憐れみによる。)

 だから、たとえ私たちが今、声を大にして平和運動を展開したとしても、世界を救うにはもう遅いのである。どれほど医学が進歩し、科学技術が進歩したとしても、どれほど政治情勢が良くなったとしても、束の間、平和が訪れることはあるかも知れないが、肉なるものとしての人類と、旧創造に属する被造物全体の滅びを阻止することは私たちにはできない。

 黙示録の記述は、私たちの住んでいる地球そのものが、いずれ荒廃した場所へと変わるだろうことを示している。イエスご自身が、戦争、飢饉、地震の噂を聞くであろうと警告されたことを思い出したい。その噂を通して、私たちは、今、終末がそこまで近づいていることをすでに感じ取っている。
 聖書を素直に読むならば、この先、人類を待っている未来が暗黒であり、絶望だけがそこにあるということが分かるだろう。

 では、そんな中で、私たちクリスチャンがなすべきことは何であろうか? 核廃絶を訴えること? 反戦運動を繰り広げること? 地雷撤廃運動に参加すること? 温暖化防止に努めること? 平和運動を進めること?
 いや、これらの「良かれ」と思われる全ての運動には、キリストの命がないことを私たちは知っている。

 幾度も繰り返してきたように、戦争も、争いも、搾取も、対立も、人類の罪から出て来るのであり、人類の罪を浄化する力は人間にはない。従って、人類救済のために打ち出される全ての運動、計画が、それらを阻止することができないままに、無効に終わってきたのである。

 イエスの十字架による罪の贖いを受け取らないままで、人類が、自らの力によって、人類を救おうとする試みは、キリストを抜きにした人類の自己救済の道であり、それは御心から出たものではない。ここには人間が善意によって作り出すあらゆる運動や活動も含まれている。クリスチャンは、罪と死の法則に支配されている人類を救済しようとする一切の組織的な運動や活動が、全て虚しく終わることを知っている。
 だが、それでは、クリスチャンは何をすれば良いのか。絶望のうちに手をこまねいて、人類の破滅を待つべきなのか? まさかそうではない。

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。」(ローマ8:1-2)

 滅びへと向かうこの地上世界にあって、唯一滅びないもの、永遠へ続くものがある。それは地上でキリストの十字架を信じ、水と霊によって生まれ変わったクリスチャンである。私たちの肉体は、まだ「罪の法則の中」(ローマ7:23)に閉じ込められており、肉体の完全な贖いはまだ再臨の時を待たねばならないとはいえ、御霊によって生きることによって、キリスト者はすでにこの罪と死の法則から解放されている。

 従って、滅び行く世界のためにキリスト者が出来ることは何か。それは世界全体を滅びから救うために活動することではない。地上における存在に目を留めて、それらを危機から救うためにナントカ運動に生涯をささげることでもない。目に見えるものを救おうとして奔走することは無駄である。そこで、見えないものに目を留めることこそ、重要である。
 ちょうど、ノアが神のご計画に従って、愛する者たちを箱舟の中に避難させたように、私たちは見える世界に住んでいる人たちを、滅びから救うために、キリストの十字架という箱舟に案内し、見えない世界(朽ちない永遠の世界)へと誘導することができる。

 ここで、個人の体験に話を移すことをお許しいただきたい。私は先日、神のはからいによって、肉体的な死を免れたと信じているが、それでも、同時に、自分が死んだのをはっきりと感じる。
 何を矛盾したことを言っているのかと笑われるかも知れない。これを上手く説明することはできそうにないが、それでも、あえて説明を試みよう。

 以前、カルト化教会で事件に遭遇した時、私は何ヶ月間も、悲しみに暮れて泣き暮らした。そのせいで白髪は増え、表情は人も驚くほどやつれ果て、それが分かった時には、そのせいでさらに悲しんだものだ。
 だが、今、私は、自分が今、負っている怪我についても、何の心配もしていないし、衣食住についても、心配していない。私は自分の肉体に対して死んだ、ということをはっきり感じるからである。主は私に本当の意味では死をくぐらせなかったとはいえ、この事件を通して、私に、肉体に対して死ぬことの意味を学ばせたのである。つまり、この滅び行く肉体が私を生かしているのではなく、御霊が私を生かしているのだという事実を、はっきりと思い知らせたのである。

 さらに、私はこの世に対して死ぬことを学ばせられた。この世にあって、何とか人々と折り合いをつけて、知恵をめぐらして、摩擦を減らして生きて行かなければならないという、あの生存の恐怖と、絶え間ない人間関係の苦労に対して、私は死んだのである。私はぎりぎり限界まで力を振り絞って、自分の生存を確保しようとしてみたが、そこに下されたのは、死刑判決のみであった。そのことを通して、もはやこの世が私を生かしているのではなく、主の霊が私を生かしておられるのだという事実を、神は私にはっきりと伝えられたのである。
 再び、Dr.Lukeの記事からの引用。
 
「そして『この世』からの圧迫と圧力に対して神が用意された策は、『この十字架によって、この世は私に対して十字架につけられ、私もこの世に対して十字架につけられた』(ガラテヤ6:14)とある通り、やはり『この世』に対する死です。十字架は私と『この世』の関係を絶ち切るのです。したがって、私たちはもはや『この世』の価値観によって、あるいは『この世』からの評価を気にして生きる必要はありません(ローマ12:2)。」

 これに加えて、次の御言葉をも引用しよう。
「それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」(ローマ8:12-14)

 私はこの御言葉の意味を、今回の事件を通して、理性ではなく、御霊によって、初めて明確に理解させられた。私はこの世に対して死んだのであるから、もはやこの世がどうあろうとも、それと取っ組み合って生きる責任を負わなくてよくなったのである。世界情勢、家族関係、近所づきあい、日本の政治、就職率、不況、…今まではそういった要因を絶えず気にしながら、何とかして、それらと折り合いをつけて、刻一刻と変わる情勢を読みながら生きていくことが、私の自己責任として求められていた。自分の生存に対して自分で責任を負わねばならなかった。しかし、私はそれを全うすることができないまま(元々私は世を生きるにはかなり不器用な人間だったが)、十字架を通して、この世に対して死ぬことによって、ついにそこから免責された。そして、気づくと、自分がこの世とは違った世界に生きていることが分かった。

「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちはキリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ3:1-3)

 確かに、肉体を持っている限り、この世との接点はなくならない。我が国の政治とも、地域社会とも、家族とも、何らかの関わりは続くだろう。しかし、それは薄い膜を一枚、隔てたような関わりであって、真の関わりではない。キリスト者の命は、キリストと共に神のうちに隠されている。従って、この世に対して、私たちは亡き者も同然であり、私たちが生きているのはすでにこの世とは違った永遠に続く世界なのである。だが、私たちがこの世に死んで、御霊によって生きるようになる時、逆説的に、主は私たちがこの世でも生きられるように必要を整えて下さる。だが、そのことは決して、私たちが再びこの世の支配下に置かれるようになったことを意味しない。
 今となっては、私たちが自分の努力によって生存を保っているのではなく、あるいはこの世との良好な関係によって生存を保っているのでもなく、主ご自身が御霊によって私たちを導かれ、私たちの死ぬべき身体があえてこの世で生きながらえることができるようにして下さっているのである。それは私たちがこの地上で神のために果たすべき仕事を全うすことができるためである。

 だから、私は反戦運動を含めて、この世を存続させようとするあらゆる運動や試みに、関心が持てなくなった。それらは全て、地上にあるものを何とかしてそのままで(十字架を経由することなく)存続させたいという人間の願いから出て来るものだからである。

 キリスト者は知っている。水と霊によって生まれなければ、誰一人、滅びから救われることはないのだと。たとえ全世界をもうけても、まことの命を損じたら、無意味であると。私たちがどんなに努力したところで、一人の隣人も死から救うことはできない。いや、一人、二人の命くらいならば、もしかしたら、救うことはできるのかも知れない。だが、その人の魂を滅びから救う力は私たちにはないのだ。

 人を滅びから救いうる力はキリストの十字架にしかない。
 従って、もしも誰かを心から愛するならば、私たちが彼のためになすべきことはただ一つ、キリストの十字架を伝えることである。それが、何より最高の愛であり、御心にかなった愛の形である。
 私たちはそうして、たとえ何が周囲で起ころうとも、ひたすら上を、上にあるものを、すなわち神の右に座しておられるキリストを見上げながら生きていくのである。

平和と繁栄の回復――捕囚の終わり――

今日も元気だご飯がうまい。
 今までの疲労を一挙に取り返すように、沢山眠って、沢山食べて、健康な生活へ戻ろうとしている。荷物を整理しようと思って、この地に来てから、一度も紐解かれなかったダンボールの山を見て、ため息ついた。どうして私の荷物はこんなに増えてしまったのだろう? どうやってこれを整理して身軽になろう?

 研究生活を送っている間にかき集めた書籍の山。師匠から譲り受けた書籍の山。10分の1もまだ目を通していない。本など、図書館で借りて必要部分だけコピーすれば済むのに、随分、無駄な買い物をしてしまったものだ…。これからはもっと計画的に自分の荷物を管理することを心がけたい。

 地上のものの良き管理者になれなくて、どうして主の見えない財産を管理することができようか? 私にはまだ主のためにどんな小さな仕事も引き受ける資格がなさそうだ。浮世の生活を通して、学ばなければならないことがこんなに沢山ある。今、御許に召されたら、破産者として神の御前に立つことになってしまう。これでは駄目だ。まだ、御国へ行くべき時ではない。とにかく、毎日の生活をしっかり送ろう。
 
 さて、選挙が近づいているが、平穏な田舎町では、特に未来を憂える人もいない。植えて、収穫して、いつも通りの生活があるだけだ。だが、識者たちは一様に、我が国の未来について暗い言葉を投げかけている。
 ブログを書き始めた頃、私もずっとそのような言葉を並べてきた。この国は一旦、燃え盛る炉の中に投げ込まれなければならないだろう、政治が弱体化すればするほど、虐げられた弱者の怨念を起爆剤にして、何かしらの革命的な事件が起こらずには済まされないだろう…、信徒を躓かせたキリスト教界にも粛清が行われるだろう…etc.

 もしいずれ政変のような事態が起これば、それが私の生活にも無関係には終わらないことは分かっている。だが、私の心にはとても大きな安心感があって、政情の移り変わりがどうあろうとも、主は私を守って下さるだろうと信じられるようになった。

 私たちの目に見える世界が焼け野原になる時、人々は阿鼻叫喚の中を逃げ惑うかも知れないが、神は必ず、焼け野原の中から、小さな可愛らしい芽を生じさせる。どんなものによっても、一度も汚されたことのない、主ご自身が植えられた聖なる芽を。

 人の目には破滅としか思えないことが、神の御前では始まりとなる。神はいつでもどこででもどんな状況の中からでも、ご自分の栄光を現すことがおできになるのだ。そして聖徒たちの思いは、地上の栄えではなく、ただ神の栄光が地に現されることだけである――それがどんな形なのかは私たちには予測できないが――私たちの思いは、神の栄光が全地に現されること、ただそれだけ!

 だから、私はとても喜んでおり、日本の行く末を思って憂う気持ちが吹き飛んでしまう(ある人々は私の無関心と楽観ぶりを見て気分を害するかも知れない)、滅ぶべきものが滅ぶ時、神の栄光がますます地に現されることを信じているから、喜ばずにいられないのだ!

 主の懲らしめの中を通された時、私は自分の肉なるものが、全て滅びねばならないものであることを知った、この身体も、髪も、皮膚も、私の魂も…(まだその学習は完全には終わっていない)。私は自分を苦しめるものすべてに怒りと涙を持って立ち向かおうとしたが、結局、分かったのは、人間の善意の全てが、人の死すべき運命を変える力を持たない、忌まわしいものであるということ、自分の力で自分を救おうとする一切の試みが、無意味であることだった。 

 生活の土台が根底から揺らぎ、健康が揺らぎ、生存そのものが危うくなる時、私たちは何に頼って、一日、一日、希望をつなぐのか、試される。その時、頼れるお方が、ただ一人しかいないことを学ばされる。政治などが、この世のものが、何の助けになろう(もちろん、それも私たちを生かすのに完全に無関係な要素とは言えないのだが)。しかし、全ての条件を、私たちの人生にタペストリーのように絶妙に織り込まれるのは主なのだ。

 信仰という、かぼそい糸以外に何も頼るべきものがない、真っ暗闇の中を通される時、それまで状況に頼って生きて来た私たちの心は変えられる。徹底的に低められ、弱くなる体験を通して、逆説的に、キリスト者はこの世に対して死に、内側から、ただ霊によって、強くされるのだ。そして、たとえ全世界が焼け野原と化したとしても、私たちはこのお方に頼っていさえすれば、安心だという確信が与えられる。

 だから、この先、世界がどう変わって行こうとも、恐れはない。今後、この過越しの印としてのキリストを内にいただいていない者、サタンとの馴れ合いの中で生きて来た全ての人たちは、その報いとして、混乱に投げ込まれ、朽ちない火で焼かれることになろう。キリスト者を捕囚として来た者が、捕囚にされる時がやって来たのだという気がする。

 だが、私について言えば、捕囚の時代は終わったのだと確信している。ついにシオンの娘が解放されて、バビロンが成敗されるべき時が来たのではないだろうか。いよいよ神は、これまで敵の手の中でもてあそばれたキリスト者のために妬みを起こされ、彼らの悲しみをかえりみて、彼らを奪還し、真に成敗されるべき者たちに怒りを移されるのではないだろうか。神に背いたために荒地となったエルサレムは、美しい都、新エルサレムとして建て直され、姿を現し、バビロンは混乱と破滅に向かうだろう。神の花嫁の回復、それは今すでに始まっているのだ。

 不謹慎な表現としてひんしゅくを買うとしたら申し訳ないが、私には今、反戦を呼びかけようとの気持ちがまるでなくなってしまった。たとえバビロンに幾度、最新の核爆弾が投下されたとしても、私は、それを人道に対する罪として訴えることも、それゆえに嘆くこともしないだろう。むしろ、廃墟の中から、神が新エルサレムを建設されることを信じて、その誕生を喜び、神を誉めたたえるだろう! (主はそのようなことがおできになる方である。)

 私にはやっと分かって来た。私たちが真に訴えるべき相手は、人間を脅かすあれやこれやの脅威ではなく、主に敵対する者なのだと。人間は元来、滅ぶべきものであり、人道に対する罪など初めから問題ではない、むしろ、神に背く罪こそ告発されるべきものなのだ。そして平和は、死すべき人類を救おうとする反戦、核軍縮、政治改革、政権交代その他によってもたらされるのではなく、ただ、人を水と霊によって生まれ変わらせ、死すべき命を生かすことのできる神によってのみ、もたらされるのだ。

 ゼカリヤ書8章1-13節から。
「万軍の主はこう仰せられる、『わたしはシオンのために、大いなるねたみを起し、またこれがために、大いなる憤りをもってねたむ』。主はこう仰せられる、『わたしはシオンに帰って、エルサレムの中に住む。エルサレムは忠信な町ととなえられ、万軍の主の山は聖なる山と、となえられる』。
万軍の主は、こう仰せられる、『エルサレムの街路には再び老いた男、老いた女が座するようになる。みな年寄の人々で、おのおのつえを手に持つ。またその町の街路には、男の子、女の子が満ちて、街路に遊び戯れる』。
万軍の主は、こう仰せられる、『その日には、たとい、この民の残れる者の目に、不思議な事であっても、それはわたしの目にも、不思議な事であろうか』と万軍の主は言われる。
万軍の主は、こう仰せられる、『見よ、わが民を東の国から、また西の国から救い出し、彼らを連れてきて、エルサレムに住まわせ、彼らはわが民となり、わたしは彼らの神となって、共に真実と正義とをもって立つ』」。

 万軍の主は、こう仰せられる、『万軍の主の家である宮を建てるために、その礎をすえた日からこのかた、預言者たちの口から出たこれらの言葉を、きょう聞く者よ、あなたがたの手を強くせよ。この日の以前には、人も働きの価を得ず、獣も働きの価を得ず、また出る者もはいる者も、あだのために安全ではなかった。わたしはまた人々を相たがいにそむかせた。
しかし今は、わたしのこの民の残れる者に対することは、さきの日のようではないと、万軍の主は言われる。そこには、平和と繁栄との種がまかれるからである。すなわちぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を与える。わたしはこの民の残れる者に、これをことごとく与える。
ユダの家およびイスラエルの家よ、あなたがたが、国々の民の中に、のろいとなっていたように、わたしはあなたがたを救って祝福とする。恐れてはならない。あなたがたの手を強くせよ。
 

乞食から家臣へ

 昨日もいつもと変わりなく日が過ぎた。
 家人と特に話すこともない。今までと何の違いがあるだろうと思うような一日の過ごし方だ。けれども、私の中では、これで大丈夫との確信がある。私がここを出るまで、私は安全である。家人のことはこれ以上、気にかけてはいけない、彼らとの関係について案じてはならない、ただ自分の人生をしっかり歩むことを考えればよい、との安らぎがある。

 主の前で静かに考える時間を持った。そこで得た内容を書き記そう。

「私はこれまで、自分の必要性(欠乏)のためだけに生きて来た。絶え間ない悲しみと痛みが私を苛んでいたので、私にとって、神は不足を訴え、憐れみを乞い、乞食のように必要なものを乞うためだけに存在していた。そこには、神と私との信頼はほとんどなかった。私が一方的に憐れみを乞うだけだったのである。
 だが今後、神と私との関係は、王と乞食のようではなくなり、王と臣下(僕)のようになるだろう。そしてやがてついには、王と王子(王女)のようになるだろう。

 家臣は、王の家来にふさわしく装う。乞食のようにぼろ切れをまとって城門に座っているということはない。家臣には仕事がある、王命を民に伝え、実行に移すという仕事が。乞食のように日がな門に座っていることはない。家臣は毎日、活動する。乞食に活動はない。家臣には威厳がある。乞食に威厳はない。家臣には同僚がいる。乞食に仲間はない。家臣には明日の計画がある。乞食に明日はない。

 私は、右や左の旦那様の気まぐれによって人生を左右される乞食の立場から、王の命令だけによって動かされる家臣へと変わるだろう。どうしてあるキリスト者がこれほど私の注意を引いたのか。それはその人が僕ではなく、息子としての権利を行使して自由に大胆に振舞っていたからではないか。
 私もいずれ、この地上にいながらにして、王の娘として自由に振舞う時がやって来るだろう。たとえキリスト者の使命が、最後には神のために命を捨てるところへと向かっているのだとしても、この世で一度たりとも自由と解放を味わっていない者が、どうして主のために命を捨てることができようか? 奴隷が主君のために命を投げ打つのは当然である。それはただ命令を実行しただけであり、捧げ物にはならない。だが、自由の子が友のために命を捨てるからこそ、それは捧げ物となるのである。

 私は自由の子とされるだろう…。私の態度に、王の威厳が反映され、その日暮らしでない安定感が生まれ、信頼感が生まれる日が来るだろう。世の中がどう悪くなろうと、私は恵みを享受するだろう。それはただ主によってなされるのだ。私の生来の誠実さをたとえありったけかきあつめたとしても、私には到達不可能な場所へ、主が私を連れて行かれるのである。それは神が神ご自身のためになされる回復である。神はご自分の栄光のために花嫁を創られた、だから、神が神のために私を回復されるのだ。私が自分で回復するのではない。

 今回の事件を通して、神はきっと不屈なまでに頑なな私の努力、私の誠実さ、優しさ、人情、そういうものをへし折られたのだろう。何度、努力しても、私の力で家庭の人間関係が少しも回復しなかったのは、そのためなのだ。主の娘として、私が真に回復されるために、何より取り除かれなければならなかったのは、私の人情、優しさ、正義感、善意、義憤、期待だったのだ…。私の『良かれ』と思う気持ち、その『良かれ』を自力で成し遂げようとする気持ちのすべてが、打ち砕かれ、取り除かれなければならなかった。私にとって、それは人としての最高の善意であったが、それは主の御心に反するものであり、私が乞食のぼろ服にしがみつくことを意味していたのである。

 人の善意や情けや正義感のもたらす欺きはまことに深く、それは地獄へと通じている。それは人間による自己栄化、自己救済の道であり、神が死を宣告された旧創造を救おうとする試みだからである。だから、人の目にどんなに麗しく見えても、人の生まれながらの情けや善意、平和を願う気持ちは、すべて堕落しており、紆余曲折を経て、結局、地獄へと通じているのである。

 19世紀のロシアで、60-70年代に、『人民の中へ』運動が盛んになった。教養ある貴族の青年たちが、虐げられている民衆の痛みを放置してはならないと思い、民衆を救い、民衆に負債を返すために、貴い生まれを捨てて、民衆のぼろ服をまとって、民衆の生活に分け入って行った。

 シオンの娘も、『人民の中へ』のスローガンに同調して、全能主の娘という貴い生まれを捨てて、民衆のぼろ服をまとって、民衆と一体となった。弱者へのいたわりと、人としての正義感ゆえに、民衆と苦難を共に忍ぼうとしたのだ。しかし、娘は、自らがあれほど憐れんだ民衆の中に、少しの正義も、善意も見なかった。民衆は彼女を嘲笑い、受け入れず、騙し、遊郭に売った。彼女が助けたいと思った民衆は、救済に値しなかったのだ。虐げられた弱者、美しい民衆とは、虚構の概念であった。そして、彼女は王の娘としての位を永久に失ってしまった。もし王が彼女を助けなければ、彼女は自分の正義感ゆえに永遠に滅んだだろう。

 人としての正義感。いたわり。情愛。それは人の目から見てどんなに貴い、麗しいものであろうと、全て救いようなく堕落しており、希望がない。主の目から見れば、それは陰険で、悪質で、曲がりきっており、ゴミ箱で焼却されるしかない、腐臭漂う乞食のぼろ服なのである。主はこのぼろ服を私から取り上げて、別の服を着せたいと思っておられる。王の娘、息子としてふさわしい衣装を。けれど私たちはぼろ服にしがみついて、それを放そうとしない。それが人間としての最高の善意だと思っているから。
 私のぼろ服は、主によって強制的に取り上げられた。そして気づくと、王の娘としての衣装が着せられていた…。」
 


神へのいけにえは砕かれた魂

あるキリスト者のお便りから。

「この道にいるだけで! 
主はあなたの状況に応じて 敢えて奇跡も行われます。
(主にとって不可能なことはありません)
しかし それは必ず 決して私に『これっぽちの栄光も与えない』やりかたで です。
 (私の全く予期出来ない方法で、100% 主がなさる方法で)
 
でも、主は奇跡を行われないで、
敢えてその中で、私に『ある学課』を学ばせたい時には
主は私に対して わざと無反応です。
(ゲッセマネの主の切実な祈りに対する父のように。
あの時間帯 『無言』だけが 父の唯一の反応でした)
 その時間帯は これからのあなたにとっても 更に貴重なものとなるでしょう。

あなたに対して 全能の神の明確なみこころがあり、
それに向かって これから主はあなたに働いて行かれます。

主にとって あなたほど貴重な宝はないのです。
何故なら 主にとって あなたにしか出来ない 
この地上における明確な使命があるからです。
(イエスにしか出来ない使命があった。
 原則的には それと何らの相違もありません)
 
これは神の誠実さ、真実さと あなたに対する愛によります。
ですから、私達もこの道の中で、
出来るだけ真実に主に向かうのみ
です。
私達にそれ以外に出来ることは何もないでしょう。
 
主が欲しいのは私達の『その心』です
能力なら 主には有り余るほどあるのです
(神には超能力の天使が無数にいるではありませんか)
 
これからの 歩み、そのようにして 
ただ主を信じ、
一歩一歩 歩を踏み出して 行って下さい。
 
具体的には それが何であるのか、その行き先に何があるのか 
人にはわかりません。
(アブラムのように、見えるのは 見えない神の手)
 
そうです、
『あなたではない、私がします』なのですから。」

 私にはこの先の道が見えない。どこへ行き、何をすべきかも、今はまだ具体的に分からない。御心を尋ね求めるだけである。改めて思う、私にできることは、何もないのだと。ただ真実な心を主に捧げる以外には!
 

 


主は我が家に奇跡を起こされた!!

 あまりに信じがたいことゆえ、私自身がしばらく呆然としていたため、読者への報告が遅れてしまったことをお詫びしたい。
 本日午後、主は私のために奇跡を起こされた。そのことについて説明したい。

 数日前、私は、この岡山の土地をエクソダスすべきかどうかについて、あるキリスト者に相談を持ちかけた。その際、その方は言われた、「これ以上、あなたはそこにいるべきではないと思いますよ。二度と実家へは戻らず、二度と肉親には頼らない覚悟を決めて、ただ自分一人だけの力で、そこを出られた方がいいんじゃないですか。」
 その会話は、この地をエクソダスすることが、事実上、肉親と生き別れになることであると私に感じさせた。

 ソドム化した場所にこれ以上いるべきでないという実感を、私もその時、持っていたとはいえ、正直、その言葉を聞いて、私はひるんだ。私はこれまでにも何度か、家を出たことがあるが、いずれの回にも、完全な自立を果たすことはできなかった。その経験に立つと、家族に対する不満や恨みなど、各種の不健全な心理を引きずったまま家を出ても、それはかえって人生を害するだけではないかとの懸念があった。それに、祖父母はもう80代になっている。もし今、こじれた形で彼らと別れれば、それがきっと最後になってしまうだろう。
 さらに、またもや、私は天涯孤独の身にならねばならないのかと思うと気が重かった。どこにも頼るべき人がいない、みなし子のような生活がどんなものかは経験済みである。不慮の事故が起こっても、助けを求める人がおらず、どんな非常事態にも対応する余裕を持たない、常に崖っぷちを歩くような人生を送ることが、どれほどの疲労をもたらすか私は知っている。疲れても、骨休めできる場所はなく、経済的に困っても、助けを求められる場所はなく、年末年始になっても、帰る場所がなく、病気になっても、看病してくれる人はいない。どんな時にも、頼るべきはいつもただ自分一人しかいないという生活に、再び、耐えなけなければならないのか…。

 カルト化教会での事件を通して、孤立無援の状況が、どれほど人にとって危険となり、人の判断を狂わせるものであるか、私は身を持って思い知らされた。何よりも怖いのは、心細さのあまり、物事の判断が狂ってしまうことだ。頼るべきでない人を頼り、信用してはならない人を信用し、騙されてしまうことなのだ…。一度そのようなことを経験しているだけに、二度と孤立無援の状態に身を置きたくなかった。とはいえ、現状も、孤立無援とそう大差なく、このまま暮らし続けることが不可能であることは目に見えていた…。

 先日の流血事件があった際、家人は敵意に満ちて私に言った、「今度の定休日にこの話の決着をつけようじゃないか」と。その話とは、私がいつ家を出て行くのかということであった。不和と憎しみが高じ、いよいよ追い出される時が近づいているのだ…。

 その定休日が今日であった。
 きちんとエクソダスするためには、家人との話し合いを避けて通れないとはいえ、それを望む気持ちは私にはなかった。我が家で穏やかな話し合いが成立したことは、これまで歴史上、一度もない。しかも、流血事件以来、家人の誰も、私と口を利こうとせず、彼らが私に対して理不尽な憤りを抱いているのは明白であった。私に怪我を負わせたにも関わらず、彼らには何の罪の意識もないどころか、そのことでさらに私を恨んでいるようにしか見えない。私は家の中で、隠れるようにして暮らし、食事も家の外で取っていた。
 こんな状態で、家人と話し合って、どんな良い成果が生まれよう? これ以上、流血沙汰も、裁き合いも、泥仕合もこりごりだ。頭蓋を幾度も地面に打ちつけられた時の記憶は忘れられない。それはまだかなり手加減の入った弱い攻撃であったとはいえ、そのような行為が、殺意から来るものであることは明らかであった。これはエスカレートして、必ずや、殺人へと結びつくだろうというはっきりとした予感があった。私は殺されるだろう。いや、私でなくとも、きっと誰かが殺されるだろう。だから、私はその決定的瞬間が延ばされるために、家人が話し合いのことを忘れてくれるように願った。

 昼が来るまで、私は壊れた電子ピアノをパイプオルガンの音に設定して、聖歌を立て続けに弾いていた。家では食事ができないので、朝から何も食べていない。空腹だ。しかし、話し合いのことが気になって、食べるどころではない。私自身の心を鎮めるために、また、賛美歌の懐かしいメロディを聞いて、せめて家人が少しは心を和らげてくれないかとのむなしい期待をこめて、ありったけの聖歌を弾いてみる。だが、私が悠長に音楽に携わっていることが、余計に両親を苛立たせたらしい。

 私が手を止めた時、階下から呼ぶ声があった。話し合いに出て来いという、憤りに満ちた両親の声。聞けば、隣家の祖父母も加わって、5人で話の決着を着けようとの結論に彼らは勝手に至り着いていた。一体なぜ、祖父母が呼ばれる必要があるのか? 私には何の断りもなく、両親によって、勝手に決められた不可解な話の展開に、私は半ば恐れを感じた。

 幼い日から、我が家での「話し合い」とは、吊るし上げの別称でしかなかった。それは家族の成員それぞれの意見を尊重した穏やかな話し合いのことではなく、要するに公開裁判のようなものであり、特定の誰かが悪者とされ、残り全員から非難されるためだけに設けられる見せしめの場であった。だから、今回、5人で話し合いをしようとの強硬な提案がなされた裏には、4人がかりで、私を標的に吊るし上げようとする狙いが隠されていることは明らかだった。

「どうして話し合いに5人も必要なの? 皆で寄ってたかって、弱い一人を非難するつもりなら、そんなものに参加するつもりはないよ」と私。
「今後のあんたの身の振り方を皆に考えてもらうために、全員が必要なんだよ。それに、誰が正しいことを言っているのか、冷静に判断するために、第三者の立会いがどうしても必要だって、以前、あんたが言ったんじゃないか。自分であれほど言っておきながら、都合が悪くなったら、今更、逃げるつもりなのか」と父。 
 一体、どう考えれば、祖父母が冷静な第三者に該当するのだろうか。それに、私が話し合いから「逃げる」とは、どこからそんな発想が生まれて来るのか。これまでにも、祖父母は話に加わったことはあったが、中立的な立場ではなく、いつも事なかれ主義によって、両親の横暴を見逃し、事実を隠蔽する側に回っていた。祖父母は私の味方には決してならなかった。そこで彼らは、今回も、私の味方にはならないだろうし、たとえ私が怪我の理由を正直に述べたところで、きっと信じないだろう。だから、今回、祖父母が話に加われば、私の立場はより不利になり、4人の敵によって、私はかわるがわる攻撃され、ざんげを要求されることになるのは目に見えていた。

 さらに、もしも再度、暴力的な事件が勃発したと仮定して、祖父母は私を助ける側に回ってくれるだろうか? 否。彼らは両親を止める力を持っていない。そして、そのようなことがもしあれば、彼らはほとんど何もせずにおいて、事が終わった後で、4人全員で、被害者の口を塞ぎ、都合の悪い事件は、全てなかったことにして闇に葬り去ろうとするだろう。4人の中に、誰も私の味方はいないのだ。私は当然のごとく、祖父母の話し合いへの参加に反対したが、両親は私の反対を一切受け付けなかった。

 そこで、私は絶望的な気持ちで提案した。
「あなたたちがどうしてもそんなに大勢で話し合いたいと言うなら、それは承知するから、代わりに、私の希望も聞いて。私は外で話したい、世間の人々のいる前で話したいの。とにかく家ではないところでなければ、話し合いに応じられない。ファミレスとか、人のいるところなら、行っても構わないよ」と私。
「どうしてそんな遠くまでわざわざ行かなくくちゃならないんだ、どうして家では駄目なんだ、おばあちゃんも具合が良くないっていうのに、出かけろというのか」と、父が苛立たしげに難癖をつける。
「私がこんな怪我を負わされた以上、世間の見ていないところで話をすることに、私が身の危険を感じるのは当然でしょう?」と、私は言い返す。
 私の顔面の怪我は、見知らぬ人が見ても、不審に思うようなものだ。ものを食べるにも痛みが伴う。
「何を馬鹿馬鹿しいことを言ってるんだ、すべては自分が悪いからそうなったんだろう、あんたさえまともな態度を取っていたら、話し合いがこじれるなんてことはないんだ、何が身の危険だ、馬鹿らしい。自分が穏やかな態度を取らなかったせいで起こったことに何の反省もなく、未だにそんな大仰なことを言い立ててるのか」
「ちょっと、自分が何をしたか分かってるの? 警察へ行けば、私の怪我は立派に人身傷害になると思うよ?」

 両親は私の台詞を聞いて芝居じみた声で高らかに笑った。
「なーにが人身傷害? あほらしい。その怪我はあんたが勝手に転んで、勝手に自分で負ったんじゃないか!」
「そうよ、あんたが自分で勝手に飛び出してきて、自分でそうなったんじゃない」
 父母が二人とも口をそろえてそう言ったので、私は心底、ぞっとした。

 つい先日、あれほどまでに明確な形で三人の前で起こった事件を、もうすでに、両親は自分に都合よく歪曲しているのだ。ここから推して知るべしだ、たとえ今日、家人の暴力によって私が殺されようとも、彼らはそれを自分の罪だとは決して認めないだろう。そして、全ては私の罪に転嫁されてしまうのだ。こんな危険な人たちと、どうして密室の中で、何時間も向き合って話し合ったりできるだろうか。いや、絶対に、彼らと密室に閉じこもってはいけない。私の身の安全が確保される場所でなければ、彼らとの話し合いに応じてはならない。絶対に、公の場所でなければ駄目だ。私の脳裏には、誰も見ていないところで、両親と祖父母と4人がかりで、私の死体がどこかへ片付けられる場面が思い浮かんだ。

 両親は話し合いを主張して譲らなかったし、エクソダスを成し遂げるために、私はそれに応じないわけにいかなかった。そこで私は、祖父母の参加を承諾することと引き換えに、話し合いの場をファミレスとすることを交換条件として強硬に主張した。両親はついに折れた。そして不機嫌極まりない口調でそれに同意し、ぐずぐずせずにさっさと家を出るようにと私を促した。

 私は両親と祖父母の車には乗らず、彼らより一足先にバイクでファミレスへと走った。ファミレスの中であれば、誰も私に暴力を振るうことはできない。それに、バイクがあれば、いつでも危険な話し合いから自分の判断で逃げ出すことができる。そう自分に言い聞かせて、何とか心を落ち着けようとしたが、涙が勝手に流れて来る。一体、敵対的な4人を相手に、どうやって、私一人だけで自分の身をかばうことができるのか。こんなのはあんまりだ。一体、これから、どんな非難の言葉を投げつけられることになるのか、考えただけでも恐ろしかった。先日の流血事件も、私に全責任があるとして、謝罪を求められることになるだろうし(私の側に挑発的な言動がなかったとは言えない)、そして、私がこの地に帰って来たこと自体が、皆にとっての迷惑であったと言われるだろうし、家に滞在を許してやったことでも、さんざん恩に着せられ、挙句の果ては、皆の迷惑だから、明日にでも出て行って欲しいと言われるのが落ちだろう、その後で、延々と、私の過去の言動についての断罪が続き、ここ一年間に起こった思いつく限りの事件について、私の落ち度があげつらわれ、一方的に謝罪を求められることになるだろう…。その儀式が一通り済んでからでなければ、私には自分の事情や弁解を持ち出すことも許されないだろう…。

 これから何が起こるのか、あまりに恐ろしかったので、私は思いつく限りのキリスト者の名を呼んで、祈りの支援を求めながら、主イエス・キリストに祈った、主よ、この話し合いにあなたが臨在して下さい、あなたの明確な介在と、明確な奇跡を私は求めます…。

 ファミレスはランチタイムで大混雑であった。もしかすると、駐車場も、客席も空いていないかも知れない。そうなると、両親は待ち時間を惜しんで、やっぱりここで話し合うのはやめて、家で話そうと言い出すかも知れない。そんなことになると困る。私は主に祈った、どうか私たちの席を空けて下さい。そして、待ちきれない思いで席が空くのを待った。どんなことがあっても、私はここで話し合いを完了しないうちに家に戻ったりしない、そう決意を新たにした。

 両親と祖父母が店に到着した。思ったよりも、彼らの間での意思疎通ができていない様子を見て、私はほっとする。祖父母は何のために自分たちが呼ばれて来たのか、あまりよく分かっていないようだった。祖父母は普段通りの態度で、私に対する敵意は表立っては見られない。両親は祖父母の手前、よそいきの笑顔を作っている。これは良い前兆だと私は思う。機嫌の良い祖父母の前で、私に悪口雑言を思い切り投げつけることは、さすがに両親にはできないだろう。そこで、私も可能な限り、さりげなく自然に笑顔でふるまう。そうすることで、険悪な雰囲気を少しでも遠ざけることができるようにと願いながら…。

 さらに、到着する前から考えていた苦肉の策として、私は席に着くなり、昼ごはんを注文すると宣言した。朝ごはんも食べていないのだから、そのくらいのわがままは許されるだろうが、とにかく、時間をかけて食事を取ることに専念することにした。食べることに集中しているように見せかけることによって、会話の濃度を薄め、両親の攻撃意欲をそぎ、その場の雰囲気が険悪化することを防ぐのだ。場合によっては、食べられようと、食べられるまいと、無限にメニューを注文し続け、話に身が入らないふりをしよう、そんなことさえ考えた。
 
 全員がメニューを注文し終わった。誰も何も言わないが、明らかに、両親が極めて不機嫌であることが私に伝わって来る。母はこわばった表情であり、父も言葉少なげだ。いつ本題を切り出して、私を非難しようかと待ちかねているのが手に取るように分かる。だが、彼らはまだきっかけをつかめないでおり、祖父母の雑談に気前よく応じているようなふりをしている。ああ、このまま、話の糸口がつかめないまま、雑談のうちに話し合いが終わってくれれば…。

 私は祖父と二、三言、何気ない会話を交わし、それから、一体、この先、会話をどう運ぶべきか、どうやって本題が切り出されるのを阻止すべかを思い巡らそうとした。その時だった。明確に主が私の内で語られたのだ。
あなたがやってはいけない。私がやるのだ」と。

 私は心の中で応じた、はい、分かりました、私は何もしません、主よ、あなたが語って下さい、と。
 それから、奇跡が起こった。

 私たち5人のうち、2人は無宗教、1人は生長の家の信者、1人は似非キリスト者(エージェント・クリスチャン)、私と信仰を共有している人はその場に一人もいなかった。つまり、私を除いて、真のキリスト者は一人もおらず、価値観を共有できるはずもない人々が共に集まっていた。そして程度の差こそあれ、全員が、心の中では、私に対する積年のわだかまりや、憎しみ、不満を抱えていたのである。

 ところが、それにも関わらず、5人全員の口を借りて、主は語られたのである。

 そんなことがどうして起こり得たのか、不思議に思われる方もいるだろう。私にも分からない。だが、神にはできるのだ、神を未だ信じてもいない人たちに働きかけて、御霊によって、真実を語らせることが。

 私は自ら話し出した。まず、この一年間に、外から見れば、全く何も変化がないように見える私の生活に、実際には、どんなに大きな新しい展望が開けたかを。どれほど多くの貴重な友人が、それも私にはもったいないような優れた友人(本当は主にあっての兄弟姉妹なのだが、家人の前では友人と言わざるを得ない)が与えられたことだろう。彼らの存在がどれほど私にとって励ましとなり、勇気を与えてくれただろうか。彼らの生き様が、どれほど私にとって人生の指針となっただろうか。
 私は彼らのおかげで、もうほとんど立ち直ったと言える、だから、私はできるならば、近いうちに、知り合いの多く住んでいる関東に移住したいと思っているのだ、私はそう打ち明けた。関西のことは、これまでに住んでみた経験から、ある程度分かっているが、関東のことはまだ何も知らない。できるならば、私の見知った人々がいる関東に、私も行ってみたいのだ…。

 それを聞いているうちに、父がついに本題を切り出した。しかしその話し口調は、私には驚くべきものだった。
 話の最初から、父は私の傷ついた感情への配慮を示していた。父は語った、私が岡山に戻ってきた当初、祖父母が快く私を受け入れず、私をたらいまわしにしたこと、その結果として、私は望んでいなかった父の元に滞在するはめになったこと、初めから、この滞在が私にとって印象悪い始まり方をしたこと、それから一年間、意志の不疎通が重なりに重なったこと、父自身も、仕事に追われるだけで、私にとどまらず、他の人々の感情に、全く配慮せず、それを後回しにしてきたこと、それゆえ、私にとっては、人間関係が常に不本意な形で進んできたこと、それは決して、誰もが願うような形ではなかったこと…、

 そうして、父はここ約一年間の人間関係についての総反省を述べた上で、それでも、一年間の休養期間を終えて、私は人生の次なるステージに移った方が良い、岡山を離れた方が良いと思うということを言った、そして次に、驚くべきことを提案したのである。

「ヴィオロンが新しい人生を始めるに当たって、過去の負債があるのは良くない。何一つ負債のない状態で、新しい人生のスタートを切って欲しいと私は思う。そこで、今、毎月少しずつ返済している奨学金を、私たちが一括で返済してあげたいと思うが、どうだろう?」

 私は耳を疑った。そんな深い思いやりに満ちた提案が父からなされたこと自体が、全く意外だっただけではない。私の奨学金の返済額の総額を、彼はあまりにも軽く見積もっているのではないか。それがどんな金額か、本当に知っているのだろうか? 一括返済など無茶なことを…。そんな金額が我が家にあろうはずがないではないか。
 しかし、父はあくまで一括返済ということを提案した。私は冗談のように笑いながら言った。

「それはほんとにありがたい提案ではあるけど、まさか親にそこまでやってもらうわけにはいかないでしょう。それに、知ってる? 私の奨学金は、私が死んだら、返済義務もなくなるものなの。生きているうちだけ返済すればいいんだよ。私だってこの先、いつまで生きているか分からないでしょう。それなのに、初めから一括返済なんてもったいないことはしなくていいよ、生きている間、自分で地道に少しずつ返して行けばいいと私は思っているから」
 するとそれを祖母がさえぎってぴしゃりと言った、
「そんなずるい考えは駄目!」

 正直、この祖母の言葉に私はとても驚かされた。一体、祖母が今まで、私の奨学金返済の話題に真面目に関心を寄せたことなど、一度でもあっただろうか。これはどういう風の吹き回しなのか。だが、祖母は、借りたものは全部返さなければならない、今がそのチャンスだから、父の提案を快く受けなさいと、その言葉を通して、私に示したのだ。

 それから、話題はいかにして私が人生の再スタートを快調に切るか、ということになり、両親と祖父母はそれなりの支援をするつもりであるから、私は素直にそれを受けて、彼らと縁を切ることなく、穏やかにこの土地を離れ、過去ではなく、今後のことだけに目を向けて、自分の幸せを模索して生きなさいという結論になった。彼らは、私が幸せになることを願っているのであり、これ以上、彼らの事情にとらわれて、余計なことに気を遣って人生を無駄にしてほしくないと幾度も強調した。いくつかのお説教めいた発言もあったが、それは決して、私の意志を踏みにじって、一方的に私を断罪するようなものではなかった。

 すべては信じられない展開であった。そこには全く期待もしていなかった誠意が感じられた。私もいくつか発言したが、それも極めて良好な文脈であった。そして、父は円満に話をしめくくり、極めつけとして、ファミレスを去り際に、私の怪我について配慮を示し、謝罪さえしたのだ。

 ファミレスの外で、私は父に丁重にお礼を言って、いくつかの話を穏やかに交わした。父は微笑んでそれを聞いていた。私は、この一年間を岡山で過ごしたことが、私にとって無駄ではなかったこと、私が今はここを去って新しい仕事を始めた方が良いという父の判断は間違っていないと思うこと、私たちは互いにコミュニケーションを取るのが不器用だけれども、言葉の壁を越えて、これからは私も父の誠意を信じたいと言って、私たちは別れた。そこには特に興奮もなく、極めて冷静で穏やかな話があった。

 この会話が終わった後、私はこれは全て主によって起こされたものであることを静かに確信していた。つい数時間前、我が家を後にする前に、誰がこんな展開を予想しただろうか? そこには絶望的な予測しかなかった。両親があれほどあからさまについていた嘘はどこへ消えたのか? 積年の対立は、憎しみはどうなったのか? 今までにも、表面的な和解、その場しのぎの和解、取り繕った平和ならば、何度か、我が家に起こったことがあった。だが、それはすぐにそれと分かるうわべだけの平和であり、数日も経たないうちに、すぐに消えて、憎しみに満ちた関係が再び現れるのであった。ところが、今回、起こったことは、そのような偽りの平和とは根本的に異なるものであることを私ははっきりと認識していた。

 これは主が我が家に起こされた奇跡である。そうとしか言いようがなかった。私は今でも自分の直観を疑っていない、もしも主が介入されなかったならば、我が家には、殺人以外の末路はあり得なかっただろう。私たちはまっしぐらに破滅へ向かっていたのだ。ところが、主がそれを押しとどめられ、人知を越えた方法で私たちのうちに働かれて、我が家に平和をもたらし、私たちを滅亡から救われたのである。これは主が家人全員の心に奇跡的な刷新をもたらしたのであり、一時的な気の迷いによる出来事ではなく、二度と覆ることがない奇跡であり、主によって信頼の種がそれぞれの心に植えられたのである。あれほど長年に渡って続いてきた、私たちの間の取り除くことの出来ない不和、憎しみ、対立は、永久に我が家から消え去った、そのことを私は霊のうちに確信していた。

 理屈では、このようなことは誰にも理解できない。はっきりしているのは、心理学的見地から判断しても、きっと、30年以上に渡って、精神的にみなし子のように扱われ、両親から愛を受けることなく、憎しみを注がれて育ってきた人間が、その痛みと苦しみの記憶から瞬時に抜け出すことは不可能だということである。ところが、それにも関わらず、今日の話し合いを終えた時点で、私の心の中からは、家庭に関する被害者意識というものが、全く消え去っていたのである。

 私は愛されて育った普通の子供たちと同じように、自分の両親に満足していた。彼らの約束を疑わずに信じることができた(この簡単な信頼というものがどれほど手の届かないものであっただろう)。確かに、両親には不器用なところがあり、まだまだ改善すべき点も残っているのかも知れないが、それは私も同様であり、そんなものは取るに足りない事柄であり、彼らは基本的に愛すべき人々である。私と両親との間には、もはや以前にあったような恐ろしい不和、断絶、憎しみ、絶え間ない裏切り、疑心暗鬼、永久に乗り越えられない溝、不信感、意志不疎通はなくなっていた。そして両親の方でも、特に父は、私に対してこれまで抱き続けてきた恐ろしいまでの疑いや、不信感をもはや持っていないようである。私たちの間に、今までただの一度もありえなかった信頼が自然に生まれ、互いの本心を疑うことなく、穏やかに話しができるようになった。祖父母もこの結果に基本的に満足しているようだった。

 何よりも不思議なことは、私の心の中から、物心ついてこの方、ついぞ消えることのなかった鈍い心の痛みが、消え去ったことである。私は欠陥のある家庭の出身者であり、このつらい生い立ちのために、生きている限り、決して、自分が普通の人々と同じにはなれないということを、どんな瞬間にも感じさせられてきた。壊れた家庭の出身者であるというコンプレックス、家庭的幸せを求めても得られなかったことから来る心の痛みは、いかなる瞬間にも、私の心を去ることはなかった。が、どういうわけか、今日、それは私の心から消え去ったのだ。我が家は、普通の場所となった。家はもはや私にとって世界で最も危険に満ちた場所ではなくなり、安全な場所となった。私は我が家で安心してくつろいでも良くなったということを、経験によらず、御霊によって、確信させられたのである。

 何も言わずとも、私にははっきりと分かっていた、今日、あの席にいた全ての人々が憎しみを捨てたのだと! 敵意は磔にされ、初めて私たちは和解し、真実に立ったのだと!
 私たちの会話には、決して、涙ぐましい和解のシーンや、仰々しい弁解、長々しい謝罪の言葉はなかった。誰も昔の事件には触れなかったし、それに対する責任も問われなかった。にも関わらず、そこでは一切の対立と不和に関する謝罪と和解が成就していたのである。

 すべてが私の理解を超えて、あまりにも素晴らしすぎたため、私は家人と別れて後も、呆然としたままであった。ショッピング・モールへ走り、しばらくベンチに腰かけて、何とか心を落ち着けようとしながら、起こったことは何だったのかと思い巡らした。そして分かったことがある。

 そこにあったのは十字架だったのである。神が主イエス・キリストの十字架を通して、私たち一家のうちに働いていた根深い憎しみと、裁きと、隔ての中垣を全て取り除かれたのである。

 今日、語られた話題には、表面的な言葉の意味を越えた、深い奥義があることに私は気づいた。
 私たちの会話の中には、イエス・キリストという言葉も、十字架という言葉も、罪の赦しや、和解という言葉も、一度も登場しなかった。そこでは救いの教義はまるで説明されなかった。家人はクリスチャンではない。どうして彼らがそういうものをあらかじめ理解できるだろうか。

 にも関わらず、今日、そこにいた全員が、主の霊に触れられて、理屈を越えて、十字架についてそれぞれ語っていたのである。私たちは理性で語りながら、御霊によって語らされていたのである。

 父が持ち出した奨学金の話は、現実の世界では金銭に関する話題に過ぎないが、霊的な意味においては、十字架そのものを指していたのである。
 父の言葉を借りて、主が私に語られたのだ。私がどうしても逃れることのできなかった一切の過去の負い目という、負っても負いきれない巨大な負債に対して、神は今日、一方的な全額返済を完了されたのだと。私の痛み苦しみに満ちた過去、自力ではどうすることもできなかった体験から生じた私の心の破れ目を、神は全額返済することによって償われた。だから、私はこれ以後、過去に対する負い目を何一つ持たずに、心を白紙にして、ごく普通に、新しい人生のスタートを切りなさいと、主は私に語られたのである。

 私は初め、その途方もない申し出にたじろぎ、それを辞退しようとした。負債があっても、それは生きている間だけしか効力を発しないのだから、自分の力で、毎月返済しようと努力すればそれでよいことだと思った。しかし、祖母はそれは「ずるいやり方」だと私を戒めた。仮に生きている間、こつこつ自力で返済したとしても、結果として、それが全額に満たないのであれば、借金の責任は道義的に残り、それは誠実さの証とはならないと私を戒めたのである。だから、私は両親からの奨学金の返済の申し出を受け入れた。だが、そうすることによって、私は別の面では、同時に、私が人生でこれまでに遭遇してきた無数の負の出来事に対する、神による全額返済を受け入れていたのである。

 十字架による罪の贖い、それは常に一括返済であり、全額返済の道である。私たちは、十字架によって自分の罪を赦していただかなくては、誰一人、自力で自分の罪という借金を返すことができない存在なのだ。自力で負債を返済しようとすることは、不誠実であり、謙遜の名を借りた傲慢である。私たちは、全額返済してあげようとの主の申し出を、ただ感謝して素直に受けるべきであり、主が十字架を適用されるのに任せなければならない。十字架を主から奪い取り、我が物として手中におさめ、分割して適用したりすることは許されない。十字架を適用されるのは、主ご自身であって、私たちではない。だから、私たちは、自分で自分の負債をどう返済しようかと首をひねるのをやめて、ただ自分の負債を神の御前に差し出し、主が十字架によってその負いきれない巨大な借金を一方的に返して下さるのに任せれば良いのだ。そして一旦、主の御手に渡った負債の証書は、主が確実に返済されるのだから、私たちは二度と思い出す必要がない。

 奨学金に関する私たちの会話は、未来の返済の約束であったが、霊においては、この会話がなされているまさにその時、私自身が自覚することもできない昔から始まっていた私の罪という負債が、全額返済されたことが確かに分かる。そのため、この会話を終えて後、私は言葉に言い表せない重荷が肩から転げ落ちたような気がする。家庭に関する深刻な傷が癒やされた。それによって、私の人生は格段に軽くなり、苦しみの日々はもう思い出せないほどに昔のものとなった。この負債の返済は、ただ私の罪の返済であっただけでなく、そこに居合わせた全ての人々の罪の返済でもあった。
 
 今日、私たちは自分が何を喋っていたのか知らないままで、主によって、御霊によって語らされていたのだと思う。理性では、まだキリストを受け入れていないはずの人々が、聖霊によって、存在の奥深いところで、自らの罪をはっきりと十字架上に置くよう、主によって求められたのである。私たちはそれに応じた。すると、私たちがこれまで長年に渡り、争い合い、傷つけ合い、憎み合い、恨み合い、互いを非難し合ってきた、その告発が延々と書き連ねられた目に見えない証書を、主は、テーブルの真ん中で、粉々に引き裂かれ、無効にされた。私たちの力では、永久に乗り越えることのできなかった隔ての中垣、憎しみ、我が家の成員全員に対するサタンの終わりなき告発状を、主は席上で破り捨て、全く無効にされたのである。

 だから、私たちはその会話を終えた時には、理性をも経験をも超えた不思議な神の力によって、一切の敵意を取り除かれて、全員、和解させられていた。私たちは言葉の上で、赤裸々に罪を告白しはしなかったし、ざんげもなかったし、涙ながらの和解もしなかった。主イエスを証することもなかったが、それでも、確かに、その席上に、主は臨在して下さり、全ての成員が、主によって触れられ、自分の罪を十字架につけさせられたのだと、私は信じている。そして、これまでにそれぞれが自己弁護のために駆使し、作り上げてきた嘘偽りの城壁が取り除かれて、それぞれが真実な心に立ち戻らされたのである。

 そこに確かに主がおられた。そのことの何よりの証拠となるのは、私が今まで、どうやっても自力では乗り越えることのできなかった、つらい過去から来る絶え間ない心の痛みが、私の心から取り去られたことである。長年に渡って、身体に染み込んだ家族のメンバーに対する恐れや、不信感、家族から愛されなかったことから来る悲しみ、悔しさ、孤独を、主は私から一挙に取り除かれた。そして和解の十字架の中で、私たち家族は一つにされたのである。肉にあっては、決して生まれることのできなかった信頼、一致の芽が生まれた。どんなに努力しても手の届かなかったものが、上から与えられたのである。これは聖徒たちの切なる祈りに応えて、主がなさった奇跡であるとしか言いようがない。

 だから、我が家にはもう虐待者はいない。殺人鬼もいないし、犯人もいない。悪人もいないし、善人もいない。加害者もなく、被害者もなく、ただ主によって罪赦され、聖められた罪人がいるだけである。きっと、我が家の成員が主イエス・キリストの御名をはっきりと口にするようになるのは、もう時間の問題だろう。主は今日、それぞれの心に確かに触れられたのである。

 神は何と誠実に私たちの願いに応えて下さることだろう。神のなさることは何と不思議ではかり難いことだろう。主は黄泉に下るべき者さえ、救い、生かすことができる。粉々に砕け散った宝を回復できるただ一人のお方なのだ。主はとこしえに我らと共にいます、主の御名は誉むべきかな!!

 
 


主の山に備えあり

ある人が私に言った、「クリスチャンはね、時には神に不平不満を訴えることがあってもいいのですよ。『何故ですか、主よ?』と、神の胸ぐらをつかんで抗議し、主と直談判するような瞬間があってもいいのですよ。それは主とあなただけの時間です。主があなたに求められるのは、あなたが純粋で、正直であること、神の御前に自分の心を包み隠さず、弱さも、不満も、何もかもをさらけ出し、自分をまるごと御手に委ねることなのです。」

 神と二人きりの直談判の時間を、私は今日、ある場所で持った。そういう時、私はノートを携えてとある店へ行く。黙って机に向かい、心の丈を祈りとして文章に書き出す。
 書いているうちに、文章が次第に主への苦情になってきた。一体、何度、主は私の生活の平穏を奪われたら気が済まれるのか。いくら地上には人の居場所はないと言っても、生まれたその日から、落ち着き先がなく、望みを持ってどこかに移住しても、その移住先が次々と奪われるのでは、あまりにも不当ではないか。今度はどこへ行けと主はおっしゃるのか。そこでも、再び平安を奪われないという保証がどこにあるのか。主はあまりにも私の信仰を買いかぶっておられる、この波乱万丈な人生という贈り物は、私にはあまりにも荷が重すぎて負いきれない…。

 私は元々逆境に強い人間ではない。試練にある時、力強く立ち向かい、主の備えを堅く信じられるだけの信仰心が、ない。一言で言えば、私はきわめて臆病で、信仰の薄い、弱腰な人間の一人なのだ。だから、今までにも、何か大きな苦しみや混乱がやって来ると、いつも心に思ったものだ、そろそろ、このあたりで人生が終わっても、別にどうということはないのではないか。悪魔に太刀打ちできずに、志半ばで人生を終えたとしても、それが何だろう、私の弱さを考慮すれば、全ては仕方がないこと、誰が私を責められるだろう。それに、主の御許で安息できるなら、地上の生がどんな形で終わりを告げようと、別に問題はないどころか、むしろ、それこそが、私の望みなのだ。たとえ敗北としか見えない形であっても、この人生に終止符が打たれるならば、どんなに楽になれるだろう…。

 伝道の書にあるとおり、人の地上での生活とは、積み上げても、積み上げても、壊れるばかりで、残るものは何もない。人は塵に過ぎず、悪魔の攻撃に耐える力をしょせん持たない。人の罪はあまりに深く、その思いは曲がりきっていて、救いようがない。人は神の怒りの前に誰一人、立ち果せる資格がない。義人ヨブでさえ懲らしめられたのだから、まして悪人はどんなに罰せられても、文句を言う資格がない。人は皆、死すべき存在なのだ。死すべき存在なのだ! 
 だが、そんな自明の理を、私を通して証明するためだけに、主は私を造られたのだろうか?

 それで終わったのでは、キリストの御救いの意味はどこにあるだろう。主の十字架があるのに、なぜ人はなお呪いと、罪の報いをいつまでも背負って生きなければならないのか。生涯に一日たりとも安心して枕することのできない人生を人間にお与えになることが、神の御心なのだろうか。そんなはずはない。神のいつくしみとまこととは、絶えることがないと聖書に書いてあるではないか。神は憐れみ深い方であるはずではないか…。

 主よ、あなたの憐れみはどこにあるのですか?

 こうして、主と問答しながら、どうやって生きるべきなのかを思い巡らした。私は疲れ切っていた。どこに生きていく力と、希望を求めればよいのか? 私が最も望む居場所は、天であり、御国である。主イエスの御許で安らぐことこそ、全てに増す私の願いである。(それを望まないクリスチャンが一人でもいるだろうか?)
 けれども、もしも、今すぐ主イエスと共にパラダイスにおりたいという願いかなわないならば、この地上のどこかで命をつながねばならない。だが、ただ生きるだけの人生はもう御免だ。そこに主の導きがあり、守りがあると分からない限り、私はどこにも動くつもりはない。闇雲に彷徨うのでは何の希望もない。「私を祝福して下さるまではあなたを去らせません」と言ったヤコブのように、私は強情にその場に立ち尽くした。主よ、導きを下さい、それがあるまで私は動きません、と。どこに主の御心にかなう、平安に暮らせる場所があるだろうか?

 そうして思い巡らしているうちに、ふと窓の外に目をやると、この土地ではまず滅多に見かけることのないナンバーの車が駐車場に止まっていた。人はどう思うか知らないが、私にはそれが全く偶然の出来事であるようには思えなかった。
 普段ならば、こういう現象を通して、主の御心を探ろうとすることは私にはない。どんなに珍しい現象であっても、それを安易に信じるのは危険だからだ。カルト化教会でも何度もこの手の符号の一致には騙されてきたのだ。何らかの符号の一致があったからと言って、どうしてそれが御心だとすぐに言えよう。そういうもので自分を喜ばせるのは、危険だ。だが、その時ばかりは、事情が違っていたように思う。(そのナンバーは、エクレシアを想定させるものだったのだ。)

 私にはこう感じられた、主は私の心に残っている希望を最後までご存知であると。
 私の心、私の宝がどこにあるか、ご存知であると。
 私の宝とは、地上の財産ではなく、キリストの御身体なるエクレシアのことであり、主にある兄弟姉妹のことである。
 私の願いは、この地上にあっても、やがて天にあっても、ただキリストのおられるところに、キリストの平安の中に、私もおりたいということだけである。
 その願いが、主の御心に反するだろうか。
 その願いを与えて下さったのは主であり、主は必ず道を開いてくださると言えないだろうか。
 だから、それを信じて、一歩を踏み出せばよいのではないか。

 この状況は主が導いておられるのだ、初めてそう思えて、希望がわいてきた。今いるソドムから脱出する道を、主は必ず備えて下さるだろう。ある事件が起こることを神が許される背景には、いつも、それなりの理由がある。私には分からなくとも、そこにはご計画があり、今よりも良い状況が用意されているはずなのだ。だから、愚痴と泣き言を捨てて、主を信じて、歩き出そう。主の山に備えがあることを信じ、主の完成された御業を誉めたたえよう。

 神にむかって歌え、そのみ名をほめうたえ。
 雲に乗られる者にむかって歌声をあげよ。
 その名は主、そのみ前に喜び踊れ。
 その聖なるすまいにおられる神は
 みなしごの父、やもめの保護者である。
 神は寄るべなき者に住むべき家を与え、
 めしゅうどを解いて幸福に導かれる。<…>
 神よ、あなたは恵みをもって
 貧しい者のために備えられました。<…>
 日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな。
 神はわれらの救である。
 死からのがれ得るのは主なる神による。 (詩篇68篇4-6,10,19-20)

 私の願いではなく、御心がなりますように。

見ゆるところによらず

山谷少佐の今回の説教「霊と心と身体の健康」では、「御霊に導かれて生きるとはどのようなことか」について分かりやすく解説してくれている。日常生活に起こって来る様々な問題に心が思い乱れる時、また、身体が苦しめられる時、私たちはどのようにして御霊に従って生きて、主を待ち望めばよいのか、その指針を与えてくれている。

 詳細はどうぞ記事をお読みください。私の感じたことを述べます。
 心と身体の苦しみは、私たちが常に不完全な存在であること、堕落した存在であることを示している。時には、自分の過失ゆえに、病気になったりすることもあるだろうし、自業自得の悩み苦しみも生じるだろう。そうした痛みは、私たちの目を常に自分の不完全さに留めさせようとする。自分の失敗に心を向けさせようとする。そして、現状に対する不満を心に生じさせ、いかに自分が駄目な存在であり、生きるのに不器用な人間であるか、また、将来に希望を持たない卑小な人間であるかという思いを抱かせる。

 しかしながら、自分のそうした失敗、または成功、自分側からなされるあらゆる行動とその結果を全て超えて、聖書は、ただ一方的な神の御約束として、神が私たち信じる者を、霊にあっても、心身にあっても、何一つ欠けるところのない完全な者として下さることを保証してくれている。

「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」(テサロニケ一5:23-24)

 非のうちどころのない人間になるために、自分側からの努力はもう必要ないのだ。そのことをこの聖句がはっきりと告げている。神がそのようになして下さる、そのことをただ信じて、神の真実に身を委ねるだけである。
 私は自分の非ゆえに責められることが多い者である。周囲にいる人々は鵜の目鷹の目のようにして、私の落ち度を探し出してはあげつらう。それを聞いていると、確かに私の落ち度に該当するものは沢山あり、それを考えるならば、私はどのような罰を受けても仕方がなく、どのように扱われても仕方がなく、生存の場を失ったとて、文句を言えないという思いが去来する。だが、私は自分自身をも、見ゆるところによって判断するのをやめなければならない。私がどれほど不完全な人間のように見えようとも、未だに落ち度が多く、失敗に悩むことがあったとしても、「神の思い(御心)」は、それでも、私を完全な者とするところにあるのである。そうすることが、神の御心なのである。そしてそれは単に死後に実現されるだけで現在とは関わりのない望みではなく、今、この瞬間から、永遠の未来へと途切れることなく続いていく約束であると私は思う。

 だから、疑わないでいよう、現状の不完全さに心を留めないでいよう、人の言葉に流されるのをやめ、また状況に流されるのをやめて、御心が何であるかにひたすら思いのピントを合わせよう。そして、御霊によって祈り続けることによって、日常の浮き沈みや、身体の調子、魂の思い煩いを越えたところにある、私たちに平安を与えようとする神のご計画に思いを馳せ、やがてキリストと共に栄光に入れられる時を忍耐強く待ち望み、神が与えようとなさっておられる安息をできるだけ我が内にもいただくことができるようになろう。少佐の祈りを、心を合わせながら、引用させていただきたい。

祈り

聖なる御父。あなたは、わたしたちを十字架の道へと、お招きになりました。
わたしたちは、わたしたちの体という、小さな十字架を負って、歩んでおります。わたしたちは、わたしたちの心という、小さな十字架を負って、歩んでおります。
そのようなわたしたちに対して、あなたが今日、霊による導きを与えていてくださることを、心から感謝いたします。
わたしたちが主イエスキリストの十字架による救いを信じて、祈ったとき、御父よ、あなたとわたしたちとの間にあった隔ての中垣が取り除かれ、神の御霊であるところの聖霊が、わたしたちのうちにおいでくださり、わたしたちのうちに親しく臨んでくださり、わたしたちの霊のうちに、聖霊がお宿りくださったことを、心から感謝いたします。
どうか、わたしたちが、「自分の思い」を置いて、聖霊が示したもうところの「神からの思い」に従って、生きることができるようにしてください。
どうか、わたしたちが、見るところによらずして、信仰によって、生きることができますように。
どうか、わたしたちが、自分を見るのでなくして、ひたすら主イエスキリストを見つめることができますように。
どうか、わたしたちが、自分に望みを置くのでなくして、主イエスキリストに望みを置くことができますように。
わたしたちの心と体は、今は不完全な状態に置かれております。しかし、主イエスキリストが再び来たり給うとき、わたしたちは、まったく贖なわれ、復活させられ、まったき心と、まったき体とが授けられることを、信じて、待ち望みます。
どうか、その栄光の日に向かって、わたしたちが、おのれの小さな十字架の道を、ひた走ることができるようにしてください。
わたしたちの主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン

Quo vadis, Domine?

昨日から今日にかけて、ウクライナで買った『クオ ヴァディス』のDVDを観た。ポーランドで製作されたこの映画(監督E.カヴァレローヴィチ)は、最初に観た当初は、あまり印象が残らなかったが、改めて、観ると、静かな感動に満たされる。

 今まで、皇帝ネロの時代に生まれ合わせたキリスト教徒はきっと不運だったに違いないと考えてきたが、もはやそれを他人事のように考えることは、私にはできなくなりつつある。
 なぜならば、はっきりした根拠はないものの、これからの私たちの時代こそが、新しいネロの時代となるような予感がしてならないからである。

 私が初めに『クオ・ヴァディス』の物語の存在を知ったのは、とあるホーリネスの教会で、女子パウロ会から出版された漫画を目にした時のことだった。それは子供向けのような漫画であったが、そこには、マルクス・ウィニキウスのリギアへの恋、彼の内面の変化が見事に描かれていた。

 ローマの神々を信じる当時の貴族の誰もがしていたように、数多くの奴隷たちにかしずかれ、何不自由ない暮しの中で、奔放で罪なる生活を送っていたウィニキウス。だが、彼の内面は、リギアとの出会いと、様々な紆余曲折と、使徒たちを含めたキリスト者たちとの出会いを通して、全く新しいものへと変わって行く。

 繁栄と飽食を極め、世界に比類ない大帝国として栄えたローマが没落と退廃に転じた時代だった。その時代の象徴として君臨するのは、皇帝ネロ。並み居る臣下におだてあげられて、分を見失ったネロは、元来は小心者であるにも関わらず、自分の愚にもつかない詩作のために、ローマの街へ放火する。
 さらには、ペトロニウスの忠告をも振り切って、その大火の罪を無実のキリスト教徒に着せるべく、キリスト教徒に対する大規模な迫害に乗り出した。それはネロの悪魔的魂が成したことであったが、同時に、帝国の中で職にあぶれ、火事で家を焼け出され、貧しさの中で行き場を失った民衆のフラストレーションを、パンと見せ物でなだめようとする策でもあった。

 観ているうちに、ローマの凋落に我が国の歴史が重なって見えてくる気がしてならない。(私にはネロとポッパエアの姿が、今日、政界に進出しつつある何某教祖夫妻を思い起こさせてならなかった。)

 特権的な生活にあぐらをかいた貴族たちは、もはや現実感覚を失い、合理的な知性に基づいて政治を動かすことができなくなっていた。愚かしい政治の中で引き回され、行き場を失って、怨念渦巻く民衆。異なる階級同士が衝突し、大衆の巨大な波と化した怨念の矛先を何とか逸らそうと、打ち出される政策は、その場しのぎにばらまかれる金と、見せ物としての裁判と処刑だけだった…。

 暗い時代にあっても、使徒ペテロやパウロとの出会いを経て、ウィニキウスの信仰は、リギアがクリスチャンとして捕らえられる頃には、確固たるものとなっていた。

 クリスチャンの道はいつも決まっている。キリストのために誤解され、非難され、迫害され、果ては命さえ取られる道である。キリストがそうされたように、自らが徹底的に低められていく道である。愛する者を失うかも知れない恐怖にさらされながら、いつの世も同じであるキリスト者のただ一つの道を、ウィニキウスはいつしか自分も歩く決意を固めていた…。

 ひとりの人間としてのマルクス・ウィニキウスの内面の変化の描写が見事に描かれているこの作品は、数ページを読んだだけでも、真にクリスチャンでなければ書けないものであることが感じられる。私は女子パウロ会の漫画を少し読んだ後で、早速、図書館で小説を借りて目を通した。

 今、この映画を観ると、当初は恋愛物語のように思われたマルクス・ウィニキウスとリギアとの愛が、花婿キリストと花嫁であるエクレシアの愛に重なって見える。暗い退廃の中で滅びゆくローマを背景にして、彼らの間に育まれる清い愛情が、闇を貫く閃光のように輝く。今日のキリストとエクレシアとの愛情も、きっとそのようになっていくのではないかと思う。

 クリスチャンとしての信仰をついに持つことなく、ローマ文化の世界から抜け出られなかったとはいえ、ペトロニウスとエウニケの最期も人間としては見事なものに思われる。地上的生だけに目を向けるならば、それは美の完成であるとさえ言えるだろう。だが、地上のものは全て滅び行く運命にある。ペトロニウスの破滅はローマの破滅を意味していた。そして、私の心は、彼らを離れて、幼いイエスを連れてエジプトに逃げたマリヤとヨセフのように、どこへ行くとも知れない旅路についたウィニキウスとリギアに寄り添う。

 さて、話が急に変わるが、今日、これまでずっと私が懸念してきた事件がついに我が家で起こった。争いがついに流血を伴うものへ発展したのだ。キリストを信じる者に、心底からの憎しみを抱いている人々が、キリスト者をいずれ肉体的に抹殺することを目的としていると、少し前に予感したことは、正しかったと思う。

 皇帝ネロによるキリスト教徒の迫害のシーンと合わせて、サタンに操られている人々の目的が何であるかが、はっきりと私の心に迫って来た。主にあっての兄弟姉妹に祈りを求め、また、相談を乞いつつ、今はやはり、このソドムを脱出すべき時であると感じた。どこへ行って、何をすべきか分からないし、正直に言って、アクションを起こす余裕もあるとは言えないが、主がすべてを導かれるだろう。

 バビロン化したキリスト教界を出ることが必要だったように、ソドムと化した場所からはエクソダスすべきなのだ。彼らと争ってはいけない。

 Quo vadis, Domine? 主が導かれるところに私は着いて行きます。
 脱出先がこの世のどこであろうとも、私の避難所はただキリストの御許だけなのです。

キリストにあって一つの身体

 不思議なほどの安らぎ。言葉は要らない。
 血肉にあっての人々との絆がどうなろうとも、周囲の状況がどう悪化しようとも、何も気にならないほどの心の静けさ。主によって与えられた兄弟姉妹たちへの消えることのない、穏やかな愛情。

 兄弟姉妹たちがまるで数珠のようにどこまでもつなぎ合わされているその糸が見えるようだ。あらゆる状況を越えて、上から与えられる不思議な安らぎが、私の心を悪から守っている。これはきっと、聖徒たちの祈りのおかげなのだろう。

 だが、祈りだけではない。キリストのくびきを負って、キリストに学ぶこと、そこにこそ、私たちの魂の安息の秘訣がある。キリストの十字架こそが、私たちの避難所。十字架こそが、安らぎの源。キリストを見上げること、そこに全てがある、主こそ恵みの全てである。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

 キリスト者は、主にあって、一つのからだである。偽りのない愛情で結ばれている一つのからだなのだ。これは何と素敵なことだろう。キリストを信じている限り、誰一人として、一人ぼっちになる者はいないのだ。
 「わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。<…>愛には偽りがあってはならない。<…>兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬しあいなさい。<…>喜ぶ者とともに喜び、泣く者と共に泣きなさい。互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。<…>だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」(ローマ12:5-18)

 楽しい時も、苦しい時も、共に一つのからだとして、支え合って、生きていきたい。


肉の思いと御霊の思い

「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者はそれを得るであろう。」(マタイ10:34-39)

 イエスの語られたこの御言葉が、どういうわけか、ここ数年、文字通りの形で、私の人生に成就している。「家の者が、その人の敵となるであろう」ということが、比喩でなく成就することを主がこの御言葉によって示されたのだとしたら、それは恐ろしいことだ。家庭に刺客が潜んでいるような状況で、一体、人は誰を信用し、どこに安息の場を求めれば良いのだろうか。
「兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。」(マタイ10:21-22)との御言葉もあるが、このようなことが私の身の回りに現実として起こっていることに、どんな意味があるのだろうか。思い巡らさないわけにいかない。

 とにかく、血肉にあってのつながりや、血肉にあっての望みが、キリストを信じることのために、ことごとく断ち切られなければならない瞬間が私の人生にやって来た。それは魂の暗闇と呼んでも差し支えないほど、私の心に大きな問題をもたらした。この問題に、精神的に疲労困憊せずに、勝利するためには、地上のもの、肉的なものに惹かれる魂の衝動に対して死に、真に聖霊に導かれる人となることをもっと学ばなければならないことを感じる。

 現実の様々な問題に直面する時、私たちの肉体は苦しめられ、魂は思い煩う。それは生まれながらの人間の自然の心理である。しかし、その思い煩いは、肉と魂との連携から生じるのであり、御霊が人を導く方向とはまるで異なっている。思い煩いは、何とかして肉の身体を生かし、死から救おうとする試みだが、結局、人を死から救うことはできない。それどころか、聖書は肉の思いが結局、死そのものであるとまで言っている。

「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。」(ローマ7:6-7)
「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。<…>あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(マタイ6:25,27)

 どうすれば、現実の問題が私たちを苛む時にあっても、御霊の思いである「いのちと平安」の中に安らぐことができるのだろうか。自己超越とか、瞑想とか、覚醒とか、そういった異教徒が様々に駆使しているような、キリストの十字架も聖霊をも抜きにした、魂の偽りの方法を通してではなく、聖霊の思いであるいのちと平安に真に安んじることは、どのようにして可能なのだろうか。

 生きることが困難となり、行動が制限され、衣食住も満足に確保されないような状態になると、私たちは強い不快感を覚える。飢えや渇きや孤独や苦痛が身体を現実に苛むようになる。だが、この肉体的苦痛に対しては、十字架にあって、すでに死んでいることを何度でも思い出す必要がある。肉体に対して死んでいる以上、肉体を取り巻く状況に対しても死んでいるはずである。肉を生かそうと試行錯誤する責任から解放されているのである。
「わたしたちは、果たすべき責任を負っているものであるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:12-13)

 キリスト者の肉体は、罰を受けて一度死んでいる以上、サタンはいかなる肉体的苦痛を伴う方法を通しても、私たちをキリストから引き離すことはできない。私たちが目指すべきは、肉を生かそうとして焦ることではなく、霊によってからだの働きを殺すことである。

 だが、そうは言っても、肉体は現実に苦痛を覚え、魂は苦しみから逃れようと、あれやこれやと思い煩い、対策を講じようとする。その時に、私たちは、魂のこの天然の衝動に突き動かされて行動しないように気をつける必要がある。主イエスは、魂の衝動を一切、父なる神に委ねられて、聖霊の導きなしには、自分からは何事もなさなかった。

「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」(ヨハネ6:38)

 主イエスは自分の魂の願いに従って行動することは全くなされなかった。彼は御父の御心だけを行われたのである。しかし、多くのキリスト者は(私を含めてそうなのだが)、困難に見舞われると、御霊に聴くことを放棄して、御父を抜きにして、自己の内なる衝動に身を任せ、現実問題にあれやこれやの対策を講じようとする。人は苦痛を覚える状況の中で、片時もじっとしていることができない。だが、肉を救うために奔走すると、人は神との霊的合一からますます引き離されて、平安から遠ざかっていく。

 オースチン-スパークスは書いている、「サタンが常に力を注ぐ点は、(神と結ばれている)霊か(自己指向的な)魂かの問題です。サタンが聖書を引用する場合、それは神との内なる合一を破壊するためです。」
 
 荒野でサタンが御言葉を使ってイエスを誘惑したのは、イエスを御父の御旨から離れさせて、御霊の導きなしに、自己の内なる衝動に従わせるためであった。今日、私たちが試練に遭う時、同じように、御霊の思いとは反する魂の衝動が内に沸き起こり、私たちを御父のご計画に反する行動にひたすら駆り立てようとすることがあるだろうが、それを警戒しなければならない。

 その衝動に従うことは、一見、外から見れば、合理的な行動に見える。この競争社会では、私たちが自己の命を救おうとして取る行動は、世間からはどれも立派な行動として賞賛される。社会では、自分の命を救うためにどれくらい数多くの保障を得ることができたかということが、人としてのステータスにつながっているからだ。命を救うために、日々、行動し、立派な地位を得よ。命を救うために、自分の老い先について案じよ。命を救うために、着る物、食べる物にこだわれ。命を救うために、子を産み、出世し、趣味を持ち、老後の蓄えを築け。自分の命を危険から救うために行う全てのことは、社会では賞賛される。

「私たちの魂のいのちはなんと自己を守り、救おうとすることか!しかし、私たちの欺きに満ちた心から私たち自身が解放されるために、神に服従してこの罠の性質と暗示に対して敏感であることがどれほど必要でしょう。」

 キリスト者は、自分の命を救おうとする魂の各種の衝動に耳を傾けず、その衝動に対して死ぬ必要がある。そうでなければ、御霊に聴き従うということは不可能なままに終わるだろう。ではいかにして魂の各種の衝動に死ぬのか。

「二つのことが魂に起きなければなりません。第一に、魂は自己の力と支配に関して、キリストの死によって致命的な一撃を受けなければなりません。神がヤコブの腿、腱に触れてから、ヤコブがびっこのまま生涯の最後まで過ごしたように、『魂は何もできないし、何もすべきではない。神が魂の力を滅ぼされた』という事実が永遠に魂の中に刻印されなければなりません。

 次に、神のいっそう高い異なる道のために、魂は僕として『勝ち取られ』、支配され、治められなければなりません。聖書がしばしば述べているように、魂は私たちが獲得すべきものであり、それに対して権威を行使すべきものです。たとえば、
『あなたたちは忍耐することによって、自分の魂を勝ち取ります』(ルカによる福音書21章19節)
『あなたたちは真理に服従することによって自分の魂を清めました』(ペテロ第一の手紙1章22節)
『あなたたちの信仰の結果である魂の救い』(ペテロ第一の手紙1章9節)」

 ここで、魂を勝ち取るとは、魂を抑圧するとか、魂そのものを滅ぼし去ってしまうことでは決してないことに気をつけたい。私たちの魂は、肉にあって深く毒されているとはいえ、魂そのものを滅ぼしてしまえば、もはやまともな人間は成り立たなくなる。必要なのは、魂を肉の支配下から連れ出し、御霊の支配下へと新たに導き入れることである。魂に思い煩いではなく、いのちと平安を得させることである。
 魂の間違った衝動から逃れるために、禁欲主義的な生活を送り、魂のいかなる衝動をも滅却しようと努めることは無意味であり、それは逆に魂の反乱を招くだけに終わるだろう。私たちに必要なのは、魂を肉と連結したままで終わらせないこと、魂を霊の配下に置くことであり、それが魂を勝ち取るという御言葉の意味なのである。

「私たちの人間的本性は、すべて私たちの魂の中にあります。本性は一つの方向で抑圧されるなら、別の方向で逆襲します。これは多くの人が抱えている問題ですが、彼らはそれを知りません。抑圧の生活と奉仕の生活には違いがあります。御父に対するキリストの従順、服従、奉仕は、魂を滅ぼす生活ではなく、安息と喜びの生活でした。」

「霊性は抑圧の生活ではありません。これは消極的です。霊性は積極的です。霊性は新しい特別な生活であり、自分を治めようと奮闘する古い生活ではありません。魂は顧みを受ける必要がありますし、新しい高い知恵を学ぶようにされる必要があります。私たちが神と共に完全に歩もうとするなら、知識、理解、感覚、行いのための魂の力と能力はすべて終わらされ、私たちは――この面で――困惑し、茫然自失し、何もできずに立ちすくむでしょう。<…>
 次に、新しい別の神聖な理解力、拘束、力が私たちを前に進ませ、私たちを前進させ続けます。このような時、私たちは自分の魂に言わなければなりません、『私の魂よ、神の前に静まれ』(詩篇62篇1節)、『私の魂よ(中略)神に望みを置け』(詩篇62篇5節)、『私の魂よ、私と共に来て主に従え』。
 しかし、魂が霊に従うよう拘束され、その証しとして高い知恵と栄光を知覚する時、何という喜びと力があることでしょう。『私の魂は主をあがめます。私の霊は救い主なる神を喜びました』(ルカによる福音書1章46節)。霊に関しては完了形が使われており、魂に関しては現在形が使われています――時制に注意して下さい。

 ですから、満ち満ちた喜びに至るには魂が必要です。魂は暗闇と自分自身の能力の死を通されなければなりません。それは高くて深い現実――霊がそのための第一の器官であり機能です――を学ぶためです。

 あなたの魂を抑圧したり、さげすんだりする生活を送ってはなりません。そうではなく、霊の中で強くありなさい。それはあなたの魂が勝ち取られ、救われ、あなたの満ち満ちた喜びに役立つものとされるためです。主イエスが望んでおられるのは、私たちの魂に安息があることです。これは彼のくびき――合一と奉仕の象徴――によって実現されます。」

 魂の暗闇。恐らく、何年間もかけて私はそこを通過しつつあるように思う。ここでは逆境に対するいかなる抵抗も無意味となる。自分の無力さを思い知らされて、魂は思い煩い、悩み、苦しむが、暗闇から抜け出そうとするあらゆる試みが無駄に終わり、人間的な努力のすべてが打ち砕かれてしまう。平安はなくなり、安息は消え、不安、恐怖、苦痛、悲しみ、悩み、といったものだけが残る。
 文字通り、そこでは人間は虚無に服さなければならなくなる。この暗闇を無事に通過するためには、人知や努力やごまかしによらない、別の方法――従来の魂に導かれた生き方ではなく、御霊に導かれることを第一とする生活に転換すること――が必要である。

 聖書は、滅ぶべき肉のからだを持ちながら、霊に導かれるキリスト者として生きることが、矛盾に満ちた苦しみであり、決して単純な喜びだけに貫かれた生活ではないことを示している。

「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。」(ローマ8:22-25)

 だが、このように矛盾に満ちた状況にあっても、キリスト者がなお望みを抱くことができる秘訣は、どこにあるのだろうか。肉はただ苦痛をもたらす目先の状況から逃れ、一瞬でも肉の命をつなぐことだけを希望としている。しかし、御霊にあっての望みは、具体的状況をはるかに越えて、逆境を忍耐強く忍びつつ、その先にあるまことの解放、まことのいのち、まことの平安、真の自由を思うことを意味する。それは、被造物同様に、人間が滅びのなわめから解放されて、栄光の自由に入る時を待ち望むことである。それは主の再臨を待ち望むことと同義である。

 さらに、驚くべきは、地上的なものに死んで、見えないものへの望みに堅く立つことが、逆説的に、今日に限定された具体的状況の中で、私たちの死ぬべき身体を生かすことにもつながるということだ。
「もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」(ローマ8:10-11)

 ここに、「キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる」と書いてあることに注意しよう。魂の思い煩いが、死ぬべき身体の寿命を一日たりとも延ばすことができない代わりに、神は御霊によってそれが可能となると示されている。これはどういうことだろうか?

 終わりの時代にあって、経済は不安定となり、保険会社も破綻し、地上の生を安楽に暮らすためのあらゆる保障が不確かなものとなり、家庭内暴力の話題が毎日のように新聞に載り、血肉にあってのつながりさえ、頼りがいのない、危険なものへと変わっていく時、聖霊に導かれて生きることこそが、人がその日、その日の人生をつなぐ保険となると言っても、過言ではない。なぜなら、聖書はこう言っているからだ、「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。」(エペソ1:13-14)

 この御言葉を読む時、聖霊が、私たちがただ未来に神の国を継ぐことを漠然と保証してくれているだけで、今日という日については何も語っていないと考えるべきではないと思う。これは神がキリスト者に与えて下さった永遠の約束であり、今日という日から、未来へと絶え間なくつながる力強い保証である。これは人類が未来にかける「切ない望み」などではなく、私たちが神の国をつぐことの保証を受けることによって、あらゆる問題への解決をすでに得ていること、私たちの弱さにも関わらず、私たちがキリストにあってすでに全てを得ていること、今日を生き抜くために必要なものをすでに備えられていることの力強い約束である。

 


キリストという避難所

 クリスチャンのブログを読む人々は、もしかすると、書き手の文章を通して平安を得ることを期待しているかも知れない。だから、平安が感じられない文章を読むと、怒り出す人さえ、ひょっとすると、いるかも知れない。そのような人たちには残念な知らせかも知れないが、キリストにあっての平安を真に獲得するまでには、きっと、私はこの先、かなり困難な時期を経なければならないだろう。正直に書けば、私には未だ平安に安んじることが時折、困難なことがある。私の魂が、波乱に満ちた現実の問題のためにしょっちゅう思い乱れるからである。

 どうか弁解を許していただきたい。もしもキリスト者として信仰の強められた人が、強制収容所に投獄されるならば、彼はそれを信仰のための試練として受け止めることができるだろう。しかし、もし人が生まれて間もなく、はっきりした信仰も持っていないのに、何のためかも分からないままで、強制収容所に投獄されたとしたら、その人の魂は混乱し、人生の意味は失われ、絶望のあまり、死を願うことが度々起きるようにならないだろうか。

 私の人生は後者に似ていた。何のためなのか、それが何を意味するのか、理解できないうちから、試練が始まっていた。そのため、長い間、ただそれにきりきり舞いさせられ、肉的な反応を返すことしかできないうちに時間が過ぎて行った。当時、キリスト者が平安と呼んでいるものの意味は、私には全く分からなかった。通っていた教会の中にも、平安らしきものは見受けられなかった。そこで、私は平安とは、結局、私には手の届かないものであり、永遠に人が手に入れられないもののように思った。また、それは、人々が見たくない他人の現実問題に蓋をし、懇切丁寧に話を聞いてやったり、涙を流す手間を省くために、手っ取り早く持って来て、あるがごとくに見せかけている嘘に過ぎないもののようにも思った。

 だが、神と差し向かいで向き合うようになると、人生が嵐のように荒れ狂う時に、主にあっての平安にどうやって到達するかということが、抜き差しならない問題となって私に迫ってくるようになった。主はこの問題に関して、私が決して生半可な、言葉だけの上っ面の知識で終わることができないように、私を取り巻く現実が、極度に私を苦しめるものとなることをお許しになった。

 すなわち、肉体的・精神的に死が間近に迫っているような環境にあって、人は決して口先だけの平安によりすがることはできないのだ。それがその人を救うことができないのは明白だからである。文字通り、死に打ち勝つほどの力ある答えを持たなければ、決して、切り抜けることができない苦境がある。キリストの十字架と死と復活と、御座につくこと、それらが文字通り現実の力を持って私の前に現れて来なければ、解決できない問題が、目の前に用意された。だから、今、主が私のために用意された環境は、私が完全な答えを見つけるための学課であると考えて良いと思う。

 そこで、今、私は、魂ではなく、霊に従って歩むことによって、理屈を越えた平安、現実を越えた、キリストに源を発する平安に安んじることを学ばされている。だが、その勉強はまだ初歩の初歩の段階だ。だから、その学課を、あたかも悟ったように、獲得済みのもののように言うことは私にはできない。私の歩みはかなり遅々として見えるだろう。かなりぐらついて見えるだろう。私の歩みには思い煩いだけがあって、平安がない、と感じる人もいるかも知れない。いまだにこんな現実問題で思い乱れているのか、何と信仰が足りないことよ、と言う人もあるだろう。けれども、そう見える時があっても、どうか私の乏しい信仰を馬鹿にしないでいただきたい。そして主にあっての兄弟姉妹にお願いしたい、どうぞ私のために祈り続けて欲しい。

「しかし、見えないもののために見えるものを、永遠のもののために現在のものを、天のもののために地のものを、実際のもののために『成功』を手放すには、なんという価値観の変化が必要でしょう!」

 オースチン-スパークスは「人とは何者なのでしょう?」の中で上記のように述べている。私たちが絶望的に見える現実の状況ばかりを見るのをやめて、見えないもの(神の霊によって構築されている世界)に視点を移すことは、口で言うほど易しいことではないことが分かる。なぜなら、そうするためには、見えるものだけに主眼を置いて暮らしてきた私たちの価値観、習慣そのものが転換せねばならないからである。

 従って、見えるものから見えないものへの視点の変化は、私にも、ゆっくり起こるだろう。さんざん現実問題で思い煩っていた人が、ある日、突然、何かを悟って、完全な平安に安息する霊の人に変身するなどということは決して起きないだろう。

 オースチン-スパークスは、エデンでの人の堕落の本質は、人が「霊における神との合一」から切り離されたことにあると分析している。それこそが、人が平安を失ってしまった理由であるだろうと私は思う。
「人の知識と力は本質的に霊的でなければならず、人生の絶対的な主権と頭首権は神のものであり続けなければなりませんでした。霊の関係、霊の器官と機能がこれを可能にしました。」

 しかし、蛇からの誘惑は「人は自分で決定し、自分で所有する、自分ひとりで十分な独立した者になれる」という提案の形を取ってやって来て、それは人の「理性、願望、意志――魂の諸機能――」に働きかけた。人は神に主権を委ねることをやめて、自分の独立した自己決定権を行使し、その結果、神と人との霊的合一は壊れてしまった。

「人に関する神の絶対的な頭首権と主権が排除されました。そして、耳を傾けるべき相手として、サタンに神の地位が与えられました。このこと、すなわち、『この世の神』となることが、なにものにもましてサタンが欲していたことでした。」

 話が脱線するのを許して欲しい。私自身は大の音楽好きにも関わらず、音楽にさえキリスト者にとっての危険が含まれていると再三に渡り、警告してきたのは、この世のものに「耳を傾ける」ことの危険が、今、音楽を通して世間に広まっていると感じるからである。時を追うごとに、この地上のものは全てサタンによって、よりひどく汚染されつつあるように見受けられる。文化そのものが汚染されつつある。150年以上前のヨーロッパの婦人たちの服装と、今の娘たちの流行の服装を比べてみればよい。TV番組も数十年間のうちにどれほど著しく変質しただろうか。20世紀初頭には、人類を幸福に導くと多くの人によって信じられていた科学技術が、人類を何度も死滅させるほどの威力を持ったのはなぜだろうか。地上的なすべてのものと同様に、音楽も時代と共に変質しつつある。

 私たちは今、バッハやモーツァルトを聞かなくなり、どのような思いで作られたのかも分からない、場合によっては、演奏者も不明、作者すら不明の音楽を、まるでヘビースモーカーが煙草を手放せないように、ひっきりなしに吸収し続けることに慣らされている。一人きりの世界に閉じこもって、音楽を聴くことに対する全社会的な中毒症状、快楽としての音楽に対する中毒症状、これに私はどうしてもまがまがしいものを感じずにいられないのである。
 それは、何かしら自然でない音楽の楽しみ方である。手ずから楽器に向かって根気強く練習し、日が傾くのを感じながら、人と楽しく連弾したり、協奏したりして、平和に毎日を人と共に過ごして楽しむのではなく、一人でイヤホンをかけて、出所不明の音楽の刺激に手っ取り早く、次々と身を任せることによって、ひっきりなしに刺激を得、五感の興奮を煽り、それがなければ、もはや居ても立ってもいられなくなる…、そんな中毒症状が、当世風の時間の過ごし方として、全社会的に奨励されているのである。これは明らかに何かがおかしいのではないだろうか。

 だが、このようなことを言うと、極端な保守主義者、禁欲主義者のレッテルを貼られ、きっとひどい反発を食らうであろうから、今は音楽の問題はこれで終わりにしておこう。そして、先に述べた家庭の問題に戻ろう。このことについて、私はこれまで様々なキリスト者に相談を持ちかけてきたが、役に立つ助言はあまり得られなかった。大概の助言は、赦しなさいとか、平安の中にいなさいとか、問題から離れなさいとかいった漠然としたもので終わっており、具体的に役に立つものではなかった。

 今、改めてこの問題について考えてみよう。たとえば、もしも家庭が恒常的に暴力にさらされる危険な場所となってしまった場合、キリスト者はどこに避難して安らぐ場所を求めるべきなのだろうか。緊急に、現実的な答えがこれに必要となるだろう。DVに対する社会的取り組みについて、ここで議論するつもりはない。キリスト者として、この問題にどう答えるべきかを考えてみよう。
 家庭に問題を抱えた多くの人たちが真っ先に取る反応は、その悩みから逃れるために、世の中に逃げて行こうとすることである。どこかに居場所がないか探しながら外に出て行き、できるだけ、問題のある家へは戻らないようにする。一見、それは合理的な策に見えるだろう。家庭から独立したように見せかけて「静かな家出」を決行する大人たちもあるし、10代や20代の青年達の中には、もっと性急に家出をして、夜の街にたむろし、闇の世界の食い物にされていく者もある。

 だが、私はこの問題に対して、主にあって、きっぱりした答えを得なければならないと思う。その答えとは、地上にはキリスト者の居場所は無いという自覚を心底から得るというものである。そんな残酷な返事が人に希望を与えないのは分かっている。いたいけな子供達に家庭の暴力の犠牲となって人生を終われというのか、居場所はないという答えに甘んじて、どこにも逃げるなと言うつもりかという返事が返って来るだろう。そうではない。 

 私たちが逃げる場所は、この世のどこそこにはなく、ただキリストの御許にのみある。この世の問題から逃れるために、神の御心が何であるのかを探ることなくして、あれやこれやの人知による策を駆使して、あちこちへ逃げ、ひたすら自己決定権を行使するのをやめること、そして、ただキリストの御許に居場所を求めて身を投げることが何より先決である。

 世の中の人々は、私たちが何か深刻な問題を抱えていることが分かると、お節介な助言を始めようとするかも知れない、「あなたはどうしてこの策、あの策を講じないのですか。」「あの方法はもう試してみましたか。これをしないのはなぜですか。」
 これらの助言は、私たちが問題から逃れるために、キリストの頭首権に服し、自らの主権を神の足元に投げ出すのでなく、むしろ、私たちが自分の頭で早急に色々と対策を講じ、自己責任の下で、良質と思われる策を次々、行使することを求める。それらはまことにもっともらしい助言なので、聞いているうちに、問題がいつまでも解決しないのは、私の努力が足りないせいなのだと感じさせられ、何やかやの策を実行すべきだとの焦燥感に駆り立てられ、また、それを実行しないで来たことへの罪悪感さえ感じさせられるだろう。

 これらの助言の中で最も数多く聞かれるのは、「問題ある現場からは逃げなさい。なぜあなたはその場所から離れるために具体的な策を講じないのですか」というものだった。しかし、それらはただ「離れなさい」というばかりで、どこに逃げれば、確実に安全になるのかという問題にはついぞ答えてくれなかった。従って、このような無責任な助言を実行に移しても、その最終的な結果は全て自分の身に負わなくてはならなくなるのは明白だ。安全な逃げ道が分かっていないのに、闇雲に逃亡するのは、さらなる危険である。もしも誤った場所へ逃げていけば、そこで起こる悲劇をさらに背負わなくてはならなくなるからだ。

 このような助言を数多く受けているうちに、私はそれが(少なくとも私の人生にとっては)何の解決にもならない偽りであると分かった。どこへ逃げても、時間稼ぎにしかならない。逃げても、問題は解決しない。逃げれば、問題はただ追って来るだけである。私たちは、自分を神の主権から離れさせ、自己責任という重いくびき(地上的、サタン的くびき)を負わせて、あちらこちらへと彷徨わせるような助言に、耳を傾ける必要はない。「自己決定権を行使して、自分が正しいと思う策を早急に実行に移しなさい。もし対策を講じないならば、あなたが破滅するのは自己責任である」という考え。それは人を神から引き離そうとしてきた悪魔の常套手段である。

 大体、自己責任という言葉はどこから生まれて来たのか。自己決定権を大胆に行使して、その結果起こることすべてを自己責任として従容と受け入れるようにという考え、「欲するものを大胆に何でも取りなさい。その代わり、結果を自己責任として身に負いなさい。あなたが何も対策を講じないから、問題は良くならないのだ」という考え。それこそサタンの誘惑ではないのか。

 キリストは、人に自己責任を問われなかった。神が人に求められたのはただ御心に従うことだけであったが、それすらできなかった人間が負うべき責任も、キリストはご自分が率先して十字架上で負われたのである。その時、人の自己責任という概念、つまり、人が自分の人生に対して最終的な責任を負わなければならないという考えは、キリストと共に死んだ。キリストは、ご自分こそが人にとっての最終的な解決であり、避難所であることを示されたのである。問題に遭う時、あちらこちらへ逃げていくのではなく、あの手この手を講じようとするのでもなく、自分のもとへ来なさい、そこに最終的な解決があるから、と主は言われたのである。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30) 

 これは、苦労している人たちが、教会の門をくぐって、毎週の日曜礼拝に集って涙ながらに祈るべきだとか、牧師や神父のカウンセリングに早急に予約すべきだという意味ではない。文字通り、重荷を背負っている人たちは、キリストのおられる場所へただ行きなさいということを意味している。それは見える教会のことではなく、あれやこれやの地上的な場所のことでもなく、キリストという目に見えない場のことである。目に見える教会に所属していながら、キリストのもとにいない人々も存在するが、それでは本末転倒である。
 家庭内問題で苦しんでいる人たちにも、逃れ場はただ一つしかない。家庭の外に行けば、私たちの逃れ場があると安易に考えるべきではない。(もちろん、私たちが御心によって危険な場所から連れ出される場合はあるのだが。)忘れてはならないのは、対策が私たちを救うのではないということ、私たちにとってのまことの避難所は、ただキリストだけだということである。

 続きは次回にしよう。


 


血肉に対する戦いではなく…

音楽について少し付け足そう。ある時期、音楽は確かに私にとって偶像だった。そして主は驚くべき方法で私の偶像を処分された。
 だから、今、私が持っている音楽は、かつての偶像としての音楽ではない。主によって取り上げられて、そして聖別され、以前とは違う形に変えられて、私の手に返されたものである。

 私の人生でいくつか偶像だったものがある。第一は友人、第二は音楽だ。第一について言うならば、大学時代に出会った友人が、かなり長い間、私の心の偶像となっていた。それは私が家庭内の問題で悩んでいた時期であり、人に頼りたいという甘えが随分、心を支配していた時期だった。その頃、私は孤独と真正面から向き合う術を知らなかったし、そうなることを恐れていた。ちょうど教会に幻滅していた時期であり、苦しみから逃れるために、神ではなく人に頼った。
 だが、その友人はある条件を見れば、主が私に遣わしたのでないことは明らかであった。にも関わらず、この世に対する未練ゆえに、私はその友人を手放さなかった。そして、ついに、友人は劇的な形で私との信頼関係を裏切って去って行った。結果的には、主が彼を私から取り上げられ、私の偶像を打ち砕いて、偶像に信頼していた私に恥をかかせたのである。もし私がもっと早く、御心に従っていれば、すべては違った結果となっていただろう。

 その間にも、第二の偶像として、音楽が私の心を支配していた。私は音楽家ではないが、子供の頃から、音楽に携わり、並大抵でないくらい、音楽に憧れていた。だが、ちょうど第一の偶像が粉砕された直後、第二の偶像も粉砕されることになった。私は教会である音楽家に出会ったが、その出会いは私に何一つ有益なものをもたらさなかった。私が音楽というものに対して持っていた自分勝手な憧れと夢、野望と呼んだ方が良いヴィジョンは、その出来事を通して粉みじんにされた。

 今、私の手に再び戻って来ている音楽は、神によって取り上げられ、聖別されて返されたものである。それは以前と同じように見えるが、もはや以前のものではない。私を喜ばせるためではなく、もっと別のことのために存在している音楽だ。もちろん、私自身もそれによって恵まれているし、大きな喜びを得てはいるのだが、それは以前のような形ではない。以前は自分を感覚的に楽しませてくれる曲だけをひたすら追い求め、自分のために演奏の機会を求めていた。自分を喜ばせるために曲を書き、自分のために音楽が存在しているのだと思っていた。

 しかし、今は、音楽の中にも、主の御心、清さ、そういうものを追い求めるようになった。音楽の中にも、良いものとそうでないものがあり、また演奏の中にも、良いものと、そうでないものがあることが分かる。そして何より、装置としての音楽の危険性を感じるようになった。だから、時々、私の演奏を主に捧げますと、弾く前に祈ることがある。また、私がどれほど練習を積もうと、何を夢見ようと、主が許されない限り、私には今もこれからも、人前で弾くことは絶対にできないということが分かった。

 かつて小さな演奏会程度でよいから、自分の演奏を人前で披露する機会が欲しいと随分、願ったものだった。協奏という形でそれができないかと何度も願った。しかし、明らかに、主は私の野心を押しとどめられた。主は私がそういう場に立つことを一切、お許しにならなかった。これからもお許しにはならないかも知れない。ここには何か隠された意味があるように思う。

 舞台というものは、牧師の講壇もそうだが、そこに立って脚光を浴びる人の心理を狂わせるような魔力を持っている。舞台演奏家や、ショービジネスの世界に生きる人々がどのような私生活を送っているか想像してみればよい。それは舞台人の世界には必ず働く誘惑を示している。ある種の人間は、舞台というものが持つ誘惑に決して打ち勝てないがゆえに、そこには絶対に立つべきではないのかも知れない。

 だから、もし人前で弾かないことが御心ならば、それで良いと思う。私の音楽は、もはや私自身の満足のために存在しているのではないので、脚光を浴びようと浴びなかろうと、評価されようとされなかろうと、評価の水準に達しようと達しまいと、それはもうどうでも良い。何のために弾き続けているのかよく分からないが、日々の練習には平安があるのだから、地道に進んで行けばよいことである。日々の練習の中で出会う様々な楽曲は、私の内面を豊かにしてくれ、私の生活に喜びをもたらしてくれる。ただそれだけである。

 こうして私の生活の中からあらゆる偶像が取り除かれ、粉みじんに粉砕された後、それまでになかった展開が人生に起こるようになった。ああ、明らかに、主は私の音楽を違うものへと変えられようとしているのだな、これはもう私のものではなくなりつつあるのだな、と感じさせられる瞬間があった。

 同様に、このブログもそうだが、今、次第に私の人生が私のものでなくなりつつあるような実感がある。ある人は、私がこのブログを書き続けているのを、実生活を放棄しているがゆえの逃避行動だと嘲笑うかも知れない。ネット上の生活がメインになっており、現実を生きていないのだと。しかし、その非難はあたらないだろう。

 ある時、私がこのブログを信仰告白だと言ったのを読者は覚えておられるだろうか。それ以来、恐ろしいくらいに、私は四方八方から観察されているように感じている。人から、というよりも、主から観察されているのだ。私は本来、創作が大好きで、皮肉や悪ふざけに満ちた文章や、フィクションを書くのが好きなのだが、ここに創作を書いて人の注目を集めることはできない。私はここで真実を語らなければならない。誠実でなければならない。私はここでは創作家になってはならず、どこまでも信徒でなければならない。
 従って、たとえ実生活でどんなに滑稽で惨めな日々を送っていたとしても、見せ物になるのは嫌だと言って、本心を偽ることはできない。どんな時にも、あるがままで主を見上げるようにしなければならない。私はキリストのための愚者とならなければならなかった。

「神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。わたしたちはキリストのゆえに愚かなものとなり<…>わたしたちは卑しめられている。今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。」(Ⅰコリント4:13)

 正直なところ、私も自分を「この世のちり」、「人間のくず」と感じる瞬間が多々あった。そんな時、これ以上、自分を愚者として、見せ物として心傷つけられたくないと心から思った。私は自分の心の痛みをほんの少しだけ打ち明けるといった芸当がもともとできない性質なので、書くときはすべてを書いてしまう。だが、みっともなく、惨めな思いをして、悲しんだり、打ちひしがれているとき、そのことを赤裸々に書くのは嫌なことであった。

 しかし、主は、私が正直に誠実にあるがままのことを書きながら、悩みと苦しみの中にあっても、主を証していくことを選び取る時に、思いもかけない恵みを常に与えて下さった。主は信じる者に惨めな思いをさせて恥をかかせるだけでは絶対に終わらせないということが分かった。そこで、私は自分の心を守ろうとすることよりも、真理を証することの方が大切であることを知った。
「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」(ヨハネ12:25)

 ところで、今、私の最大の懸念事項となっていることが何であるかを、そろそろ書きたいと思う。そのことについて兄弟姉妹たちの祈りが必要だからでもあるし、このことをこれ以上、一般に語らずに、特定の人々だけに助言を求めるのが良くないと感じるからである。どうして私はハンナのような涙に満ちた祈りを捧げねばならないのか。それは、私の信仰が薄いせいだとはどうか思わないで欲しい。私が家人からいわれなく憎まれて、存在の場を奪われているためである。
 家人の名誉のためと思って、このことを告白するのは今まで控えて来た。また、被害者意識から抜け出せないでいるなどと人から責められるのもこりごりだったので、語りたいと思う話題でもなかった。しかし、そろそろ語っても良い時が訪れたように思う。

 キリストがいわれなく憎まれたのと同じく、キリスト者もいわれなく世から憎まれても何の不思議もないことは、聖書に書かれている。我が家で起こったのはまさに聖書が予告している出来事であった。
「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。」(ヨハネ15:18)
「しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。<…>あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。」(ルカ21:16-19)
「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29) 

 私は幼い日にキリストを信じた瞬間に、父母双方からの愛をほぼ完全に失った。以来、彼ら双方から憎まれ、人生のあらゆる成功を妨害され、蔑まれ、嫌われる存在となってしまった。洗礼を受けることを父に告白したその日は、生涯で忘れられない悲惨な一日となったが、それは同時に、キリスト者を名乗っていた母からも見放された日となった。
 こういうことは、カルト的な宗教にのめりこんでいる家庭では決して珍しい現象ではないことを断っておきたい。宗教は我が家の成員をバラバラに引き裂き、さんざん悲劇を生み出す根源となった。我が家では、私が幼い時分から、まことのキリスト者に対する迫害がずっと続いていた。本当のことを言うならば、はっきりとキリストを信じるより以前から、その迫害は始まっていたのだが…。
 同じ信仰を持っているはずなのに、憎み合うことしかできない。信仰を我が家に持ち込んだ者が、まことの信仰者を迫害するのである。この支離滅裂は説明のしようがない。私の年下のきょうだいたちも教会で信仰を持ったが、今はそこから離れている。あまりにも悲しい出来事がありすぎたから、仕方がないとも言える。だが、それこそが迫害の真の目的だったのだ。つまり、私たちをキリストの愛から引き離して、人生をむなしく失わせることが敵の狙いだったのである。

 両親はそれぞれ異なる宗教観を持ち、観念的には対立しているにも関わらず、どういうわけか、霊的には一致してキリスト者となった子供たちを迫害してきた。今、私が両親、特に父から受けている憎しみにはすさまじいものがある。先日、一触即発の危機的な事態が展開されたが、もう2,3回そのようなことが起これば、誰かが大怪我を負わずには済まないだろうと感じた。本当にこれが私の父だろうかと、表情を見て疑う。それほど、彼には情けというものが感じられなくなってきている。年々、それはひどくなっている。彼が我が子をそれほどまでに憎んでいるとは信じがたいが、それは事実である。今はかろうじて、まだ私であることを認識してくれて手加減しているとはいえ、この感情がそのまま進んで行くと、殺人に至る危険さえある(すでに精神的には数え切れない回数、殺されているのだ)。

 父がこれまで私のピアノはおろか、私の手がけた一切の仕事をずっと快く思っていなかったのはよく知っている。だが、これほど憎まれるに至っては、もはや我が家ではピアノどころではない。父のいるところで食事をすることもできない。そこで、彼を避けて、隠れ、存在していないかのようにして生きていくことしかできない。きょうだいもそうして暮らし、ついに耐え難い気持ちのまま家を去って行った。父は私の存在を今からすでに無いものとして扱っており、そもそも私の生存を願う温かい気持ちが一切、彼の中に存在していないことは明白である。

「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。」(ヨハネ8:44)

 こんな御言葉を自分の親に重ねて見なければならないとは、何ともやりきれないことだが、これが偽りのない事実である。人の同情を乞いたいがゆえにこんなことを言っているのではない。両親の罪を告発するためでもない。私の両親はかの者に恐るべき影響を受けて操られているだけである。今まで、理解できない親の仕打ちにどう対処すべきか分からなかったがゆえに、ただ悲しんだり、苦しんだりしながら、抵抗し、愛されなかったことに深く傷つき、自分の落ち度ゆえにそうなったのではないかと恐れ、悩み、関係を修復するためにあらん限りの知恵を振り絞って努力してきた。そして、安心して生きられる場所をどこにも持たないことに苦しんできた。

 だが、今、これは気持ちの問題ではないということを確かに感じる。あらゆる感傷を越えて、敵に対してきっちり向き合う必要があると感じる。敵は個々の誰それではなく、サタンである。退却するとか、逃げるとか、そういう選択肢をいつまでも取るだけで、対決を避け、敵に打ち勝つということをしなければ、その戦いはいつまでも続くのだ。そのことが徐々にはっきりと分かって来た。
 私は両親を憎んではいないし、両親の変容のことでそれほどまでに悲しんでもいない。憎むべきは人ではなく、その背後にいて人を操っているサタンだ。

 恐らく、サタンの玉座のようなものが、我が家の中に気づかない昔からもうけられていたのだろう。だが、悪鬼に対して、毅然と立ち上がるべき時が来た。彼が私についてあることないことさんざん告発して私を苦しめ続け、私をみなし子にまでおとしめてきたように、私も彼の罪とがをあらん限り、主の御前で告発し、早急に彼が成敗され、敗北し、何重にも呪われて、打ち捨てられることを求めよう。もちろん、どんなことがあっても、最後まで耐え忍ぶことは必要であるが。カルトとの戦いよりも、こちらの戦いの方が、本当は、私にとっては最初からより重要かつ深刻であった。

「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)

 恐らく、戦いはこれから本番を迎えるのだろう。今後、何が起こるのだろうか。
 戦いに臨む上で、次の御言葉も助けになる。主は言われた、「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。」(ヨハネ12:26)
 「わたしのおる所」とはどこか。神がキリストに与えられた絶大な権威を見てみよう。

「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソ1:20-23)

 心から主に従って行こうとする者たちの命は、ただ神のうちに隠されているだけではない。キリストのおられる御座の高みに引き上げられ、キリストの権威と共にあるのである。それは万物を足の下に従わせる権威である。生きた人間が、その前で何の力を持つだろうか。

「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」(ヨハネ11:25-26)

 悪しき日にあって、これ以上、敗北し続けるわけにはいかない。心を新たにして、御霊によって祈り、二度と敵の策略に陥ることがないように、目を覚まして祈っていよう。もし心ある兄弟姉妹がおられるなら、この問題について、私が二度と敗北せずに済むよう、心を合わせて祈って欲しい。

山小屋での交わりを経て

ブログを書くのが久しぶりだからか、それとも、まだ私の心がこの地に戻っていないせいなのか、文章は進まないわ、書いた記事は操作ミスで消えてしまうわ、なかなか調子が元に戻らない。一体、何時間、パソコンに向かっているだろうか。なのに、未だに最初の行を書いているのはなぜだろう?

 Sugarさんの山小屋を訪れて、兄弟姉妹との交わりの場に加わり、無事にこの地に戻って来た。距離にすれば、日本列島を半分くらいは横断しただろうか? 随分、無謀な思いつきのように見える旅だった。しかも、行きがけには、地震による夜行バスの延着というハプニングまであったのだ。横浜で私を車で拾ってくださる予定になっていたLuke兄弟にはそのせいでひどく迷惑をかけてしまった。
 私は携帯電話も持たず、時計も持たずに家を出た。そこで、東名高速道路が不通となり、バスがどことも知れぬ住宅街の一般道を、まるで亀のような遅さで進み始めても、外界と連絡を取る方法をまったく持たなかった。兄弟たちは、バスがいつ到着するか分からず、情報が何も入らないので、もうヴィオロンは到着しないのかもと思いながら、話し合っていたらしい。

 しかし、私の方は暢気なもので、絶対に私は置き去りにされることはないと安心していた。たとえ何時間遅れようとも、夜になろうと、兄弟は必ず現場で待っていてくれるだろうと勝手に確信していた。それくらい相手を信頼して命を預けていたといえば聞こえは良いが、結局、それは私が能天気すぎるということかも知れない。

 主のはからいだったのだろう。バスは終着点だったはずの横浜に、順番を入れ替えて真っ先に到着してくれた。遅れは一時間で済み、そこから兄弟の車で、さらに5時間ほどかけて山小屋まで走ったが、着いた時はまだあたりは明るく、夕方になっていなかった。
 こうして兄弟姉妹たちのはからいのおかげで、途方もない距離を越えることができたのだが、一つ不満だったのは、私を送って下さった兄弟が、あれほど念押ししたにも関わらず、翌日、私を煙に巻いて、交通費を請求せずに帰って行かれたことである。今となっては、そこにも、主が働いておられたと信じ、ただ感謝することにしよう。

これは誰でしょう? さて、山小屋滞在中は、鳩さんの奥様の手料理にあずかった(というよりも、私は料理において戦力外)。
 鳩さんの一家は、まことに微笑ましい、自然で、健全な、キリスト者らしい家庭だった。キリスト者らしい、と言っても、そこには、わざとらしさや、不自然さな押し付けは見受けられない。子供達は両親を心から愛し敬っているのが感じられたし、誰もが何の隠し立てもなく、自然に振舞っていた。
 あまりにも元気いっぱいの子供達は、毎日、小屋の中をドタバタ駆け回り、毎瞬のように喧嘩が起こっていた。それでも、すぐに仲直りし、兄弟仲も極めて良い。私にもよく懐いてくれた。

 後日、山小屋に合流したTさん親子(大学院生の息子さんとその母親)も、やはり健全で自然な親子関係を築いていた。今回、私がこの二つの家庭と間近で接触したことには、何かしらの意味があったのかも知れない。私自身は自然な家庭というものをこれまでに一度も経験したことがなく、しかも、我が家ではこれまで、キリスト教は悲劇の源にしかならなかった。そこで、私には平和で穏やかで健全な家庭というものに対する、悲しい、根深いコンプレックスがあったし、それに、教会での体験を通して、キリスト者の家庭というものに、あまり好感を持っていなかった。
 にも関わらず、今回、お会いした二つの家庭には、もしもこの先私が家庭を築くならば、ぜひともこのようでありたいと思わせる、微笑ましさ、仲むつまじさ、自然さ、健全さがあった。さらに、信仰が少しも不自然でない形で家庭に同居しているのを見るのは興味深いことであった。

山の散策 今回の旅の中で、私にとって、最も嬉しく、かつ、印象深かったのは、最終日に、Sugarさんと駅のホームで電車を待ちながら過ごした束の間の時であった。それは私にとって、それまでの数日間を合わせたよりも、なお、意味深い交わりの時となった。
 その時、始まったばかりのこの交わりが、永遠に続くものであること、そして、私の山小屋訪問が、今回限りでは絶対に終わらないことを確信した。

 エクレシアとは何かについて、これ以上、だらだらと詳しく述べる必要はないだろう。ただ一つ言いたいことは、そこには天的感動とか、情熱的な一致団結、などというものはなかったということだ。エクレシアに集っていたのは、少々地味すぎるほどに、ごくごく普通の人たちであり、そこにあったのは、少々飾り気がなさ過ぎるほどにごくごく普通の日常生活であった。しかも、強調したいのは、集った人たちは、決して、細部にわたるまで意見を同じくしたりしていなかったということだ。そこには、同じ思想、同じイデオロギー、同じ見解などは見られず、代わりに、様々なことについて異なる意見があった。キリスト者としての先人についての理解も異なり、聖句の解釈にさえ、度々、意見の一致が見られなかった。さらに、性格も、年齢も、好みも、生い立ちも、興味ある話題も、人それぞれに異なっていた。

 それほど異なる性格や見解の持ち主が、不思議に、同じ信仰を共有し、兄弟姉妹という自覚で結ばれているのがエクレシアなのだ。
 真のエクレシアには統一的なユニフォームはなく、それぞれに異なる、似ても似つかない人々が、異なる姿のままで、逆説的に「一つ」として用いられている。見解が同じだから、考え方が似ているから、行動様式が似ているから、あるいは同じ名称の組織に属しているから、同じ規律を守っているから、同じ教義の理解をもっているから、同じスローガンを掲げているから、同じヴィジョンを持っているから、だから上手くやっていける仲間同士なのだという感じ方は虚構であり、それは主が働かれる方法ではない。

 神は信じる者たちをそれぞれに異なるままで用いることがおできになる。信者たちが何かの統一的なバッジをつけることを神は喜ばれないどころか、むしろ、許されないだろう。私たちにはどんな目に見えるバッジもなく、共通点は、内におられるキリストだけである。

 私が今回接触したエクレシアは、まだ生まれたての赤ちゃんのような、小さな芽に過ぎないものであったと思う。それはすくすくと育って、この先、もっと確かなものへと成長していく必要があることを感じる。小さな愛に過ぎないものが、確かで力強く揺るぎない愛へと成長し、今現在のあらゆる見解の相違を超えて、兄弟姉妹たちには、この先、キリストを信じる信仰の一致、キリストを知る知識の一致がもたらされる必要があるだろう。そして、互いがキリストの身体としてしっかりと関節に組み合わされて機能するようになる必要があるだろう。そうなる時、初めは小さな芽としての集まりに過ぎなかったものが、目に見えない形であるにせよ、背の高い太い幹へと成長し、空の鳥も憩うほどに葉を生い茂らせ、道行く人々に安らかな木陰を提供するようになるだろう。
 エクレシアが、整えられた主の花嫁として姿を現すには、まだ時間がかかるに違いない。しかし、できるならば、生きているうちにその不思議な御業の完成を目撃したいし、生きてそこに連なることができるならば、何という幸いだろうかと思う。

 今朝、Sugarさんに無事帰還の連絡を入れると、そのまま、電話は交わりになった。不思議なこともあるもので、つい昨日まで、直接話をさせていただいたというのに、今日の交わりは、昨日とは全く打って変わって新しい。ある人は、そんな感じ方は孤独のなせる業だ言って、私を笑うかも知れないが、そうは思わない。キリスト者の交わりは常に新しく、常に人の心身を潤すものとなるだろう。他のキリスト者から溢れ出る生ける命の川々に触れる時に、それが私にとって喜びをもたらし、私の心身を健やかにするものとならないわけがどこにあるだろうか。キリストがおられるからこそ、エクレシアの交わりは人に命をもたらすものとなるだろう。その喜びにあずかれる幸いを思う。

 今、私の故郷では、身近で交わりのできるキリスト者が見つかっていない。けれども、「主が何かを起こされる時には、その単位として、共に行動することのできる二、三人のパートナーを与えられるでしょう。あなたにもそれは与えられるはずですよ」と、Sugarさん。
 きっとそうだろう、この地にも、すでにその二、三人が起こされつつあるのに違いない。私がまだ出会っていないだけで…。そういうエクレシアを、今、至るところで、主は起こしたいと願っておられるのではないだろうか? 主はこの先、どんな方法で私を彼らと出会わせて下さるのだろうか? どうやって、この地にも、交わりが成り立つのだろうか? そうなる時が、待ち遠しくてたまらない。

山小屋の屋上からの見晴らし。見事な晴天!

古き人を脱ぎ捨て、新しい人を着る

 今夜、Sugarさんの山小屋に向けて発つので、しばらくブログは更新できない。この旅はきっと、私が地上のものを後にし、キリストが満ちている高みへ向けて踏み出す確かな一歩となってくれることだろう。それは霊的滋養を私に与えてくれる旅となるだろう…。

 この出発と合わせるようにして、昨日、私の周りでひどい騒動が起こった。それはまるで、地上を離れると宣言した私への、地上からの陰険な引きとめ策とさえ受け取れるものであった。その事件を通して、主が明らかにされようとしたのは、多分、私の中に、まだ地上的なものに心惹かれる魂の欲求が強く残っており、それが触発された時に、自動的に反応を起こしているということであった。私の中で、肉なる人への愛情を求める欲求、未練、執着が死に切れていなかったこと、言い換えるならば、私の行動がそれによって無自覚に支配されていたことが明るみに出たのだ。

 しかし、人を愛し人から愛されているうちは、地上的な愛を求める欲求は、決して、御心に反する罪や、悪として浮き上がって来ることはない。このような魂の欲求の正体が暴かれるのは、「可愛さあまって憎さ百倍」と言われるように、相思相愛が成立せず、愛が得られなくなった時なのだ。その瞬間になって、初めて、魂からの愛は、その悪なる正体を目に見える形で現す。つまり、この世的な愛を求める人は、それが得られなくなると、それに対する激しい執着と未練に駆られ、まるで禁断症状に陥ったように、得られない愛を求めてどこまでもストーカーのように追いすがる。心乱れ、髪振り乱し、もはやキリストの平和のうちにとどまっていないのは一目瞭然だ。ついには、公然と、御心を捨てて、地上的な愛を追いかけるが、満足させられない欲求は、その人の中で、不満、憎しみ、怒り、恨みつらみに変わって荒れ狂う。その嵐のような衝動は、最後には、自己もしくは他人を死(殺人等)へと導くだろう。

 つまり、この世的な愛を得たいとの欲求は、そのものが、神の御心に反するのだと理解することが重要である。だが、そのような肉なる衝動にまだまだ私は知らずに突き動かされていたことが、今回の事件によって判明した。私は霊の衝動と魂の衝動を見分けることを今までやって来なかったのである。キリスト者の交わりを通して、私はこの事件に霊的な意味があったことに気づかされた。私は自己の内なる魂の衝動をきちんと見分け、それを管理し、御心に反する魂の衝動に死んで(私を慕い求める罪をきっぱりと退け)、霊に導かれて生きることが求められているのだ。

「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4:22)

 私たちの心の中には、どれほど改められなければならないものが含まれているだろうか。 「情欲に迷って」、という言葉の中に、たとえば、肉親や兄弟や親戚や友人、知人たちの地上的な愛を求める欲求を含めることができるのではないだろうか?
 人として生まれてきた以上、皆から愛されたい、好意をもたれたい、と願わない人はいないだろう。だが、地上に住む人々の愛や好意や賞賛や注目を少しでも多く勝ち得たいという欲求も、情欲と同じく、滅び行く古き人から発する欲なのである。

 非常に厳しい言葉を使うならば、人は生まれて初めてお目にかかる他人、すなわち、両親からの愛を得たいという欲求にさえ、死ぬ必要があるのではないだろうか。赤ん坊にとっては、両親からの愛を受けられるかどうかは、生死を分けるほどの重大問題だ。きっと、良識ある人々であれば、それを諦めるべきだとか、その欲求に死ぬべきだなどとは言わないだろう。しかし、それほど重大な死活問題であるからこそ、親の愛を求める欲求は、人間の生まれながらの自己(古き人)に由来する、極めて抜き難い、本能的な、魂の奥底から出て来る欲求なのだと言えるのではないか。そして、主の視点から見るならば、親を代表とする地上的な人々の愛が、あなたの幸福決定権を握っているという感じ方は、完全な偽りなのだ。あなたを生かすのは、ただキリストの愛、キリストの命のみなのだから。

 従って、親兄弟、親戚、友人を含め、肉なる人から与えられる愛を求める願いに、私たちは十字架を通して死ぬべきなのであり、そのような諸々の魂の欲求に支配された古い人を完全に脱ぎ捨てて、聖霊によって歩む人へと変えられる必要がある(だが、それは決して、親兄弟との関係を一概に絶つとか、ニヒリズムに陥るとか、あるいは、人に対して薄情になれというような意味ではない)。
 キリスト者が関心を向けるべきは、地上の人々によって与えられる愛ではない。家人、親戚、友人、知人、そういう人々があなたを愛するか否か、それはあなたにとって死活問題でないどころか、何の問題にもならない。彼らには、あなたを唯一の命の源であるキリストから引き離す力が備わっていないのだから。

 地上的なつながりのある人たちの愛は、人間関係が上手く行っている間は、何の問題もなく、あなたを満たしてくれるだろう。それでも、それらに左右されて生きているレベルを、私たちは必ず、後にしなければならない時が来るだろう。それは地上的なものを理性や感情や意識の上で超越するという意味ではない。私たちが本当にキリストの愛のみによって生きるようになる時、おのずから、地上的な愛、魂から来る愛には自分を生かす力がないことが分かって来るのだ。

 以下は、ジェシー・ベン・ルイス、「魂の力」対「霊の力」、から抜粋。

「マーレーは、『『魂』は我々の『自己意識』の座である』と記しています。
『魂は我々の道徳、知的能力、意識、自己決定、精神、意志を含む』
『人は霊によって神と彼の御旨に結合される。アダムの堕落において、『魂』(自己)は霊に従うか、それとも体と目に見えるものの誘惑に従うかを決定しなければならなかったのである』
『堕落において、魂は霊の支配を拒み、体の奴隷となった。・・・こうして、魂は肉の支配に服し、人は『肉になった』と言われている。それゆえ、魂のあらゆる属性は肉に属し、『肉の力の下』にある」

「マーレーの次の厳粛な言葉から、この事実の重要性がわかります。
『教会や個々の信者が恐れなければならない最大の危険は、精神や意志の力によって魂が過度に活動することである。多くの人の中で、魂は長い間支配してきた。そのため、キリストに服する時でさえ、『今こそ服従の働きを成し遂げなければならない』と魂は思い込むのである。この自己(魂)は非常に巧妙で力強いため、魂が神に仕えることを学ぶ時ですら、肉が依然として力をふるって、御霊だけに導かれることを拒むのである。宗教的であろうとする魂の努力もまた、大いなる敵であって、御霊を妨げ、消してしまう。・・・御霊によって始まったことが、非常に速やかに、肉に信頼する結果に終わってしまうのである」

 私は極めて魂的な人間であるから、これまで、魂の衝動のみで生きて来たと言い切っても過言ではないくらいだ。御言葉について語っている時でさえ、途中から、魂の興奮に突き動かされて喋っていることがある。しかし、私の中で魂の活動が活発化する時に、その危険性を見極め、聖霊という消化器でその衝動を吹き消し、御霊に聞くという訓練を行うことが今、求められているのが分かる。それをしないと、私は魂の衝動に無自覚に突き動かされて、結局、道から足を踏み外してしまう。だから、魂に対して勝利する方法を学ぶことは、キリスト者にとって、死活的重要性のある問題なのだ。

「それは、パウロがガラテヤ人への手紙5章17節で描写した昔ながらの戦いです。
『肉の欲は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らいます』。『肉の思いは神に対して反抗します』(ローマ人への手紙8章7節、参照コロサイ人への手紙1章21節)。
『肉』と『霊』は真っ向から対立しますし、今後も常にそうであり続けるでしょう。『肉』が『魂』の形を取って現される時、すなわち『肉』が生まれながらの人に固有の精神や意志などの力を通して現される時も、『肉』と『霊』は真っ向から対立します。これらは『肉の行い』として、次のように列挙されています。『偶像崇拝、魔術(魔法、Conybeare)、憎しみ、不和、騒乱、異端』(ガラテヤ人への手紙5章19~21節)。これらの活動はみな、肉の力の下にある魂の力によります。」

 肉の行い、すなわち魂の働きの結果もたらされるものの中に、「憎しみ、不和、騒乱」が含まれていることを、しっかりと覚えておきたい。家庭内騒動、家庭内不和というものがなぜ起こるのか。そこに魂の欲求が強く働いているからに他ならない。キリスト者はこのような魂の欲求の渦に巻き込まれることを拒否し、肉や魂の衝動に動かされる古き人を脱ぎ捨てて、「心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」。
 新しき人とは、聖霊によって導かれる人である。

 また、アンドリュー・マーレーによれば、私たちの「道徳、知的能力、意識、自己決定、精神、意志」もまた魂の働きによる。ナントカ主義、ナントカ運動、そして宗教などはまさに魂の産物であると言えるし、科学、創作もそれに含まれるだろう。(今日、魂の影響に汚染されていないものを見つけることの方が極めて困難である。)
 今、キリスト教界に広がっている各種の誤った運動や、教えを見るならば、魂の働きがこれらの汚染や堕落の根源となっていることが分かるだろう。聖霊という言葉を巧みに使いながら、その実、肉体的感覚を煽る運動、魂の興奮を煽る運動などが展開されている。それらはまさに警戒すべき偽りである。

『魂の力』対『霊の力』。これが今日の戦場です。キリストのからだは、自らの内にある聖霊の力によって、天に向かって前進しつつあります。この世の雰囲気は、魂的な潮流(その背後には悪霊たちが集結しています)に覆われつつあります。神の子供にとって、危険を逃れる唯一の道は、キリストと結合したいのちを経験的に知ることです。キリストと結合したいのちの中で、神の子供はキリストと共に神の中に住み、有害な空気(その中で、空中の軍勢の君が彼の働きを進めています)を超越します。清めるキリストの血、キリストの死と一体化させる彼の十字架、復活・昇天された主の力―――これらを聖霊によって絶えず宣言し、握りしめ、行使することによってのみ、(キリストの)からだの肢体は勝利して、昇天されたかしらと結びつくでしょう。」

 心の深みまで新たにされて、新しい人を着る方法を、これからもさらに学んでいこう。

 前回と今回、ご紹介したオースチン-スパークス、ペン-ルイスなどの著作は、Olive Gardenをご参照下さい。
 


聖なる都、新エルサレム

 先日、私は家人に言った、「今、ほとんどのクリスチャンたちは、まるで分厚い雲のような偽りにごまかされているように思う。私もずっとその下で暮らしてきた。未だにそれ以外の世界を知らない。でも、今から、この雲を突き抜けて、太陽が輝いている世界を見たいと思わずにいられない。どうしても雲の上の世界に行きたいと思わずにいられない…。」

 それはほとんど愚痴のような言葉だった。けれど、今から、思い出すと、その言葉は、私の魂から出たのではなく、主の導きによって与えられたものだったのかも知れない。主は不思議な方法で、今、私の人生に働いておられるが、それを通じて分かることは、いよいよ、私は本格的に地上を離れなければならないということだ。

 私は今までほとんど強制的に地上のものに対して死ぬことを求められて来た。それはいわゆる運命のいたずらによってだった。驚くような事件に遭遇し、地上の宝を失い、自分がどれほど弱く、不完全であるかを思い知らされた。肉なる愛情で私を愛してくれていたはずの人たちが、敵意をむき出しにし、それまでかろうじてあったはずの信頼さえなくなった。
 これら全ては人知を越えた驚くような事件だったが、そうなっても、まだ、私は人生を何とか元の軌道に乗せたいと、そればかりを願ってきた。けれど、その願いはどうやっても叶えられない。いや、叶えられるはずがなかった。それは、私の居場所は元々この地上にはなく、私の幸福は地上にあるのではないからだ。

 地上には、私を完全にするものは何一つとしてない。完全なるものは全てキリストの中にのみ存在する。自己流の方法で自分の不完全さを補おうとすることは、この世への妥協と、霊的な死を招くだけである。
 以下は、オースチン-スパークスの言葉の引用。

「さて、私はとても強い言葉を述べたいと思います。それを受け入れるのは、あなたにとって困難かもしれません。あなたは、この世が呪いの下にあることを、理解しておられるでしょうか?
神は今のこの世の上に呪いを宣告されました。呪いはどのように表れるでしょう?呪いのあるところには挫折の法則が働きます。あなたはそこそこ進めるだけで、それ以上進むことはできません。人間生活はそこそこ進んで、それでおしまいです。完全と完成に至るまで進み通すことはありません。すべてが不完全であり、死によって挫折させられます。
イエス・キリストが話されたある男は、一生の間に大量のたくわえを積み上げて、ほくそえんで自分に言いました、『魂よ、もう引退することができる。自分のために大量のたくわえを積み上げたのだから、食べて、飲んで、楽しめ』。しかし、神は言われました、『愚か者よ、今夜お前の魂は取り去られる。お前が用意したものは、誰のものになるのか?』(ルカによる福音書12章20節)

 呪いと死は、人のもくろみがすべて挫折することを意味します。人間生活に言えることは、この世にも言えます。ああ、何と多くの人が挫折という堅固な壁を打ち破ろうとしてきたことでしょう!今日、人は何と遠い道のりを進んできたことか!25年前に今日の様子を告げられていたら、あなたはそれを決して信じなかったでしょう。そうです、人はとても長い道のりを進んできました。月に到達しさえしたのです――そして、誰かの指がボタンを押すだけで原子爆弾の投下が始まり、人の業は一瞬のうちにすべて一掃されてしまいます。すべての人がこの可能性を知っていますし、まさにそうなるであろうことを神の言葉はとても明確に告げています。呪いがこの世の上に臨んでいるため、この世は決して完成に至ることはありません。

 私が言っているのはこういうことです。もしあなたと私が霊の中でこの世に束縛されるなら、私たちは霊的死の下に来ることになるでしょう。聖霊に敏感なクリスチャンは誰でも、この世に触れる時、何かが間違っていると感じるでしょう。そして、『私は下って来てしまいました。この呪われた世に触れて、私の霊の中に死が感知されました』と反応するでしょう。

 この地上の霧を超越しない限り、神に属する事柄は決して見えないでしょう。もしあなたが自己の生活に下るなら、それは挫折です。もしあなたがこの世の生活に触れるなら、それは挫折であり、霊の中でこの世を超越しない限り、神に属する事柄は見えないでしょう
『私は御霊の中にいた。また、私は大きな高い山の上にいた。そこで私はあるものを見た』。この言葉はとても単純であり、とても意義深いです。ご覧のように、これらがクリスチャン生活の霊的原則であり、とても現実的です。私たちがこれについて知ることを私は希望します。」

 私がすべきことは地上の事柄に完全に死んで、地上の偽りと欺きとごまかしの霧を抜け出し、霊的な目で、高みに立って、新エルサレムなるエクレシアを見ることだ。実は、そうしようと思うよりも前に、すでにそこに引き入れられている幸いがあるのだが、ただ現象としてのみ、それを感じるのではなく、しっかりと目を開いて、肉眼ではなく、霊的な目で、今目の前に起ころうとしていることが何であるか、理解する必要がある。

クリスチャン生活はキリストが増し加わることです。これが私たちに対する聖霊のすべての取り扱いの理由です。なぜなら彼の唯一の目的は、教会をキリストの豊満にもたらすことだからです。キリストの豊満とは何か知りたければ、聖なる都、新エルサレムというこの象徴的表現を見ればわかります。」

「あなたは自分の人生の中に主イエス・キリストを受け入れたでしょうか?受け入れた後、自分をさらに十分に占有することを彼に許してきたでしょうか?あなたの人生でキリストは絶えず増し加わってきたでしょうか?これが裁きの規準であり、中に入れるか外にとどまるかを決定するものです。」

 私はこの世に死するために、今の状況をくぐらされたのだった、そのことが今日ほどはっきり分かったことはなかった。ただ主だけに従うために、父母、きょうだい、友人…、肉なるもの全てを失った。そうである以上、ここで、失ったものに、未練を感じたり、引け目を感じ、元の生活に戻ろうとしてはいけない。この世ときっぱり訣別し、この世に死んだ以上、新しい目的地を目指すべきである。

 向かうべき先は、キリストが満ち満ちておられる栄光の都。嵐の日に船が積荷を海に投げ捨てるように、私は目的地へ向かうために、無用な荷をまず捨てた。目的地のことを思う時、畏怖の念に近い感動がこみ上げて来る。
 天路暦程の主人公と同様に、私は確かな目的へ向かって旅をしている。新エルサレムという都へ向かって。もちろん、すでに私自身が都の一部としての性質を持ってはいるのだが、同時に、キリストのさらなる豊満を求めて旅は続く。

「都は統治の座であり、命の水の川は御座から流れ出ていることがわかります。ですから、すべてを生み出すのは御座です。この意味はおわかりでしょう!それは神と小羊の御座です。一言で言うと、それはイエス・キリストの絶対的主権を意味します。万物のまさに中心に、イエス・キリストの統治があります。この統治は彼の十字架の効力によるものであり、小羊としてです。他のすべてのものは、イエス・キリストが占められる地位に全くかかっており、私たちがどれだけ彼に自分を委ねるかに全くかかっています。もし私たちが自分を全く主に委ねており、彼が全く主であるなら、命が流れるでしょう。そして、命に関して述べたことが、私たちの間で実現されるでしょう。それはイエス・キリストへの絶対的明け渡しの証しになるでしょう。」

 夕刻に庭を歩くと、涼しい風の中、それぞれに美しい色とりどりの各種の花が、皆一様に、太陽に向かって顔を上げていた。何という不思議だろう。全ての花が太陽に向かっている。それと同じように、永遠なるもの全てが、キリストの御座に向かって顔を上げている。キリストの御座から流れ出る川が、一切の命の源だからである。命なるキリストに向かうところに、一切の信仰の歩みがある。

 私の心は畏怖の念に包まれる。ああ、目指すべきはただキリスト、キリストだけ。他に何もない。今も将来も、向かうべきはただキリストだけ。

「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがた満たされるように、と祈る。
 どうかわたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることのできるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世よ限りなくあるように、アァメン。」(エペソ3:16-20)
 


 


荒野にあっても…

 解放の神学について調べながら、かつてキリスト教の中に非キリスト教としての解放の神学がどうやって入り込み、どのようにして全体を腐食して行ったのか、その歴史を学んでいる。そこには、ちょうど今、繁栄の神学が、キリスト教の内側に仕掛けられた爆薬として、この宗教を内部崩壊させるような活動をしているのと全く同様の構図が見られる。

 しかし、資料を読めば読むほど、このように既存の宗教の弱点を見事についた、既存の宗教の影の部分を訴えるべく登場してきている擬似宗教が、どれほど人間に強く働きかける力を持っているかを感じるため、慄然とする。

 目の欲、肉の欲、持ち物の誇り、という言葉を聞く時、私たちはそれが何か大それた贅沢を願う、途方もない、現実離れした欲求のように感じがちだが、しかし、実際はそうではない。
 それは、今、まさに、社会的・経済的に疎外された状態に暮らす私が、この疎外の状態を解消したいと願う欲求と一致するのだ。

 飢えた子供が、死にたくないので、せめて一切れのパンが欲しいと願うその欲求を、どうして私たちは罪深い肉の欲として退けたりできるだろうか。それは私たちの目に、まことに善良で、純粋な願いのように映るだろう。同様に、社会から疎外された弱者が、せめて生きていくための手段が欲しいと叫ぶその願いを、誰が却下できるだろうか。誰もが餓死せずに適度な労働をして自立して生きていける社会制度を作ることが、今後のわが国の政治課題であると誰もが言うだろう。人として最低限の生きる権利、私たちはこの言葉を聞きなれ、それを保障してくれる民主主義、ヒューマニズムになじんでいる。それらは、決して、人の肉から出て来る切なる哀れな欲求を退けたりしない。

 だが、人間が人間の生存を保障しようとするそのような考えや制度のまさに延長線上から出て来たのが、解放の神学であり、繁栄の神学なのである。それは私たちの肉から出て来る切なる願いであるがゆえに、私たちを惹きつける。それは全ての肉なる欲求の代弁であり、それを神によらずに保障するための保険のようなものである。(どこかの保険会社のために谷川俊太郎が書いた詩をまさに思い出す、「人間の未来への切ない望みがこめられています…」)

 苦しい状況に立たされた時、人が状況の改善を願うのは当然だろう。そんな時に、苦痛を感じるまいと思っても、無理な相談だ。
 イエスが荒野で断食されていた間、当然のことながら、空腹を覚えられたことだろう。石がパンに見えてくるほど、空腹に苦しんだかも知れない。あるいは、ひと思いに崖から身を投げて死んでしまえば楽になれると思うほどの苦痛があったのかも知れない。現実逃避的な夢が頭の中に押し寄せて来て、それに浸りこんでいれば楽になれる気がしたかも知れない。

 きっと、人としてのイエスは、私たちがもしそのような状況に置かれたならば、感じるであろう苦痛を極みまで覚えられたことだろう。だが、イエスは悪魔からの誘惑を退けることによって、現状への不満に根ざした各種の現状改革案をきっぱり退けられた。自殺願望も、虚無主義も、当然、退けられた。イエスは、惨めな状態で、空腹のまま、一人ぼっちで、人里離れた荒野で断食している自分を少しも否定せず、その状態で生きることに不満を訴えず、神の御心として与えられたの苦境を、定められている時までしっかり受け止め、耐え忍ぶことを選ばれた(その試練の最たるものが十字架であった)。

 私は今、ひょっとすると、荒野に導かれているのかも知れない。その間に、自分の内側に起こる全ての肉的欲求、衝動、願いに死ぬことを学ばされているのかも知れない。だとしたら、それはまだまだ終わらないだろう…。この状況への私の無駄な抵抗がまだ死に切れていないから。誘惑は全て目の前を通り過ぎていくだけで、それをつかむことはできない。人生の貴重な時間が、指の間から滑り落ちるように虚しく浪費されていっても、ただ黙って見ていることしかできない。何かを積み上げようと思っても、それが残らないことを目撃させられる。主の憐れみによって、私のために、毎日、目に見えない烏があまり美味とは言えないパンを運んで来てくれるのだが、ケーキをくれとねだることはできない。今という時から得られる収穫を貪欲に、最大限に追い求めるために、荒野を捨てて、下界に降りて行きたいが、それはできない。そこにはソドムの街しかないことは分かっている。

 退却を許されないところにやって来て、十字架の中に閉じ込められて、せめてこれだけはと思うような小さな欲求であっても、それが肉から出たものであるならば、それに従って行動することが、神に対する反逆にしかならないことを思い知らされ、それにさよならを告げるべきだということを学ばされている。

 それらの欲求は、結局、私にこう告げているからだ、「おまえの今の状態について、神に不服を申し立てよ。こんな扱いは不当だ。おまえは何も悪いことはしていない。なのに、神はなぜおまえを捨てたのか。なぜ神はこの状態を改善して下さらないのか。この追い詰められた状況について、神に不服を申し立てよ。そしてそれでも神が答えを下さらないなら、その時は、自分で決起せよ。私が(神に)虐げられた弱者としてのおまえを救済する運動の方法を教えてやる」と。

 現状への欲求不満から生じる願いの全ては、たとえどんなに善良そうな見せかけをしていたとしても、あるいは社会正義のような装いをしていたとしても、結局は、御心に対する反逆である。それは自分の今の状態を否定し、現実の中に働いている御旨を見いだすことを拒否し、自分のアイデンティティを卑しめ、神が成して下さっている全ての事柄を不完全なものとみなす考えである。

 アダムとエバに対して蛇が何と言っただろう、「それを食べるとあなたたちの目が開けて善悪を知るようになることを神は知っておられるのです」と言ったのだ。蛇の誘惑はいつもこれである。今、私たちにない何かを目の前にちらつかせる。今とは違うもっと良い現実があるのではないかとそそのかす。神は私の知らない何かを、不当にも、私から取り上げ、私から隠しておられるのではないか。それゆえに、神は私を今のような惨めで卑しい状態にあえてとどめておられるのではないか。神の愛はその程度のものでしかないのではないか…。だから、神のご計画が成就するのをただ待っていてもだめだ、むしろ神の裏をかいてでも、人知をめぐらし、この惨めさから脱出する方法をぜひとも探し出さなければならない…。そんな風にして、神が私を置かれた状況を不当だと感じさせる疑いがやって来る時、それに耳を貸してはいけない。そして神に禁じられた方法で、今、得られないものを早急に手に入れようと考えてはいけない。

 この荒野がどんなに厳しかろうとも、そこを通ることが御心であるなら、私には欠けているものは何一つないと言える。キリストがうちに住んでいてくださっているがゆえに、私は完全なのだ。私は弱くとも、キリストの強さが私を覆っている。だから、私は誰からも救済される必要がないし、同情されるべき立場にさえない。この世界も堕落していて不完全だが、それすらも主のご計画の内にある。今の世界がどう悲惨であろうと、自分を取り巻く状態がどう理想からかけ離れていようと、神のご計画は十字架を通してすでに成就しており、今また現実として成就しつつある。だから、私はすでにキリストの完全な勝利の中に入れられており、疑わないで、それに安んじることが求められているだけなのである。

 肉的な欲求は当然、生きている限り生じるだろう。それが最大限になって極度の苦痛をもたらすこともあるかも知れない。今、求めても得られない何か、をいつも欲しがろうとする死の法則性からは、肉体がなくならない限り、完全には解放されないだろうと思う。しかし、たとえ苦痛が極みまで達したとしても、そこから逃れたいという欲求は、ただ神にお返しすることにしよう。すると、主が各種の欲求をえり分けて、中から、正しいものを恵みとして返して下さる。だから、「われらにパンを与えよ、しかるのちに善行を求めよ」と叫んだりせずに、ただ全ての問題を御心に信頼して任せることにしよう。御言葉なるイエスこそが、私たちを生かして下さる命の根源なのだから。

 ところで、現状への不満から生じる肉的な欲求とは別に、神が与えて下さる願いがある。それは肉の欲とは異なり、決して、現状を不完全だと感じる感覚から生まれてくるものではない。主が与えて下さる願いは、常に現実から出発している+αである。いや、現実のもっと先に見えている、見えないものと見えるものとの再統合である(見えるものは全て一旦消滅しなければならない)。肉の欲が、目の前にある現実の否定、現実の打倒や、現実の破壊、あるいは現状改革を訴え、現実の影の部分に対して反旗を翻すのに対し、神が与えて下さる願いは、言葉では表しにくいが、現実という土台の上に立って、その向こうに何か見えない建物を建て上げるようなもので、しかも、それがすでに完成していることを霊によってあらかじめ感知することができる。

 神はサタンをさえ用いることができる。どんな逆境も全て主の御手の中にある。私を訴える者も全て御手の中で動かされているだけである。だから、神のご計画のうちではすべてが完全なのである。それを信じる時に、不合理な状況から生じる肉体的感覚、苦痛、そんなものがほとんど効力を失っていく。そして汝の敵を愛せよと言われた御言葉の意味が真に浮かび上がってくる。敵はすでにいないも同然だが、抜け殻のようにまだ存在しているその敵を動かしているのは、主の愛に基づいたご計画である。だから、一切の恐れを払拭する神の揺るぎない愛の確信の中に立って、敵に言葉をかけるならば、まるで子供が誕生日ケーキのろうそくを吹き消す時のように、敵の放つ火矢はことごとく吹き消されていくだろう。

 私の存在が不完全であり、私は完全を模索してまだ何事かを自力で成さねばならないという焦り、もしくは恐れは、悪魔のしかける罠である。キリストが共におられるから、何一つ、私には欠けているものはない。従って、現状改革など一切必要ない。繁栄の神学も、解放の神学も無用。そして今後、何が起こるかは、私は知らなくとも、主がちゃんとご存知だ。その計画が完全であることを知らされている。だから、時には、不意に嵐が来て驚くこともあるかも知れないが、できる限り、安心して信仰の船に乗っていよう。心騒がせず、落ち着いているならば、その旅は、きっとかなり楽しいものとなるはずだ…。


聖霊運動についての補足

 ところで、次の話題に移る前に、私がここで第三の波、ペンテコステ・カリスマ運動をひっくるめて非キリスト教であるとみなしていることが、物議をかもすかもしれないので、それについてお断りを入れておきたい。

 記事を読んで、私を次のように非難する人がいるかもしれない、「あなたは自分も聖霊派で信仰を持ったのに、聖霊派の信仰を一概に否定するつもりなのか」と。けれども、私はそんな主張を展開したいのではない。私は確かに聖霊派の枠組みの中で信仰を持ち、バプテスマを受け、彼らの言う聖霊体験にもあずかった。しかし、それが聖霊派の教会の中で起こった出来事であったからと言って、すべて間違っており、無効であったとは考えないし、聖霊派の牧師から洗礼を受けたために、その洗礼は無効であり、受けなおすべきだとも思わない。

 私がここで取り上げているのは、個々の信者の信仰の真偽ではなく、あくまで聖霊運動が打ち出す一般的教説とプログラムの問題性なのである。聖霊派の中にも真の信仰を持った信者は当然、いるであろう。そのことまで否定するつもりは私にはない。個人がイエス・キリストを信じ、御言葉に従って歩んでいくならば、たとえ彼を取り巻く環境がどうあろうとも、その信者の決断は神の御心にかなったものとして祝福されたものとなるだろう。
 どのような教団教派の中であろうと、あるいは教会の枠組みの外であろうと、主は一人ひとりの信仰に応じて働いて下さる。神にとっては教団教派の枠組みなど全く問題ではない。だから、ペンテコステ・カリスマ運動が仮にこの先、どれほど過激化し、どれほど深刻なカルト化現象を引き起こしたとしても、それはその運動の将来が絶望的であるというだけの話で、個々の信者の中には、立派な信仰を持つ人々も当然存在するであろうし、またこの先、現れるだろう。

 繰り返すが、私は聖書に記された聖霊降臨の出来事が今日も起きうるものであること、聖霊の賜物が存在すること、異言、預言が存在し、御言葉による超自然的な癒しや奇跡などが今日も起きうるものであることを否定するつもりはない。そのような超自然的現象が起きているところがすべて非キリスト教だと決め付けるつもりもないし、聖霊のバプテスマを信じているから、あるいは、「ペンテコステ的現象」が観察されたから、一概に拒絶し、異端だと決め付けることは、それもやはり現象に頼った浅はかな見方であると思う。

 問題なのは、聖霊運動推進者たちが、ただ聖霊のバプテスマを、回心とは別個の体験としてとらえて、十字架にさらに何かを付け加えた段階的な祝福を唱えていることだけではない。問題は、彼らが超自然的な現象や、超自然的な体験を、個々の一過性の祝福や恵みとしてとらえるのではなく、それを一つの類型と考えて、万人にあてはまり、かつ、いつでもどこででも繰り返しうるプログラムとみなして唱道し、集会等において、おびただしい回数、実践していることなのである。そうなると、そのプログラムは私たちを解放するのではなく、むしろ、拘束するものへと変わる。

 カルト被害者救済活動についても同じことが言えるのだが、たとえば、私たちのうちの誰かが、ある日、家に空き巣に入られたとしよう。被害はかなり深刻であった。当然、それ以後、私たちは家のセキュリティを強化する。けれども、一回、空き巣に入られたからと言って、私たちは残る全生涯を空き巣撲滅運動に捧げ、全国各地の空き巣被害のニュースを聞く度に、現地へ飛んで被害者の救済につとめたりするだろうか。そんな人がいたとすれば、その心理は何かしら不自然だと誰でも感じるだろう。
 同様に、一度、カルト被害に遭ったからと言って、残る全生涯をカルト撲滅運動に捧げるという発想にも、同じ異常性(強迫反復的なとらわれ)が見て取れるのである。

 イエスが(旧約時代の預言者が)死人を復活させた、という聖書の記述を私は否定しない。また、今日(からし種一粒ほどの信仰があればの話だが)、キリスト者には、パウロがまむしを腕から払い落としたように、毒物の害を受けず、病人を癒し、あるいは死人をも甦らせる力さえ与えられているだろうことも信じる。それは次の聖句の通りである、「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」(マルコ116:17-18)。
 しかし、私たちは、イエスが死人を復活させ、病人を癒し、その力が今日のキリスト者にも与えられているという記述を文字通り信じていることをただ証明したい、というだけの理由で、毎日、自分も病人を癒し、死人を復活させるべく、病室や霊安室を巡り歩いたりすべきであろうか? イエスが悪霊を追い出された記述が聖書にあるからといって、毎日、自分も悪霊の潜んでいそうな家の片隅やその他の場所に向かって悪霊追い出しの祈りをしたりすべきであろうか?

 私たちは、繰り返せない時空間の中に生きていることを自覚し、今、何が主の御心であるかに耳を澄ますべきであるし、また、今しか味わうことを許されていない恵みを存分に受け取り、楽しんでよいのである。神が起こして下さる奇跡は、本来、繰り返せない一過性の出来事であり、私たちの人生に与えられる固有の恵みであるはずである。しかし、そのような奇跡を常習化して、手っ取り早く、いつでも、どこででも、引き起こそうとするプログラムがあれば、私たちはそれを警戒すべきである。
 人間側のニーズに応じて、イエスの御名を用いて、繰り返し奇跡を引き起こそうとすることは、主の御名をみだりに唱えることを意味し、また、神を試す行為である。そのように、みだりに主の御名を濫用する、パターン化された各種の超自然的体験のプログラム(神癒、預言、奇跡、いやし、各種の超自然現象)を推進しているのが聖霊運動であるのだが、そのようなプログラムにはまってしまうと、私たちは人生の貴重な時間をパターンの繰り返しという退屈な作業に浪費していくことになる。

 ペンテコステ・カリスマ運動、第三の波運動が華々しく打ち出している神癒、預言、悪霊追放の超自然的プログラムを実行している信奉者たちは、それらの事柄が繰り返せない時空間内で一過性のものとして与えられる恵みであることをほとんど考慮していない。この運動に関する書物を読めば、そういう超自然的な出来事は、まるで特定の時間・場所で起こった一度限りの物語のように描写されているが、ところが、実際にそれが現場で推進される際には、運動の推進者・信奉者たちは、まるでテレビゲームの戦闘を繰り返すようにして、神癒、預言、悪霊追放などを日常的に実行し続けているのである。
 たとえば、信者達が集団で、何時間もぶっ通しで患者を拘束して悪霊追い出しの祈祷を続けた挙句、患者が亡くなった。神癒を信じるがゆえに、医学的治療を拒否した患者が、症状が悪化し、後遺症が残った。そのような例は、すべて、奇跡をパターン化して実行しようとするプログラムの中で起こったことである。そこにはもはや奇跡はなく、ただ、奇跡を麻薬のように求め続ける人たちの果てしない欲求、一種の禁断症状のようなものがあるだけである。神から恵みを与えられたという喜びがあるのではなく、奇跡を求めねばならないという強迫観念があるだけである。

 超自然的な体験がプログラム化されると、それは人間を解放するという表向きのスローガンとは裏腹に、人間を拘束するものとなり、それを繰り返し実行せねばならないという恐怖の中に人を陥れていくのである。そういう意味で、私は聖書に記されている奇跡そのものを否定するわけではないが、プログラム化された奇跡や、悪霊追放や、預言などは、愛ではなく、恐れから出て来たものであり、イエスの御名をみだりに唱えている点でも、キリスト教ではありえないと断言して構わないと思っている。

 

* * *

 ひまわりがきれいに咲きました。暑さに弱い私は、昼間はほとんど何も手つかず。私の住んでいるところから、Sugarさんの山小屋まではかなり遠いようです。本当にたどり着けるのでしょうか。無事に帰って来られるのでしょうか。無謀な思いつきをしてしまったのではないか…、関係諸氏に随分と迷惑をかけてしまっているのではないかしら…と、今更ながら、ちょっと心配になりつつも、ただ主がすべてを成して下さるように、恵みを分かち合う良い機会となるように願いつつ、準備を進めています。
 皆様に祝福がありますように!


すべての罪咎を覆われる主

「わが敵よ、わたしについて喜ぶな。
 たといわたしが倒れるとも起き上がる。
 たといわたしが暗やみの中にすわるとも、
 主はわが光となられる。
 主はわが訴えを取りあげ、
 わたしのためにさばきを行われるまで、
 わたしは主の怒りを負わなければならない。
 主に対して罪を犯したからである。
 主はわたしを光に導き出してくださる。
 わたしは主の正義を見るであろう。
 その時『あなたの神、主はどこにいるか』と
 わたしに言ったわが敵は、これを見て恥をこうむり、
 わが目は彼を見てあざ笑う。
 彼は街路の泥のように踏みつけられる。<…>

 だれかあなたのように不義をゆるし、
 その嗣業の残れる者のために
 とがを見過ごされる神があろうか。
 神はいつくしみを喜ばれるので、
 その怒りをながく保たず、
 再びわれわれをあわれみ、
 われわれの不義を足で踏みつけられる。
 あなたはわれわれのもろもろの罪を
 海の深みに投げ入れ、
 昔からわれわれの先祖たちに誓われたように
 真実をヤコブに示し、
 いつくしみをアブラハムに示される。」(ミカ7:8-10,18-20)
 

 最近になって私は、かつて経験した不義なる事件について、神ご自身がこの先、公平な裁きをなして下さり、私の名誉と損害を最後まで回復して下さることを切に願うようになった。私自身も主の懲らしめを身に背負ったが、義に飢え乾く者は幸いである、という御言葉に従い、私自身の義ではなく、神の義が全地に輝き出ることを心から願う。そうなって初めて、この事件は本当に終了したと言えるだろう。

 失われた幸福が取り戻される日が近いだろうという予感がする。以前、悲しみのあまり、味も、匂いも、何も感じられなくなったことがあったが、今は、全ての感覚が新鮮だ。主はこの先、私の人生にどんな不思議な御業を成して下さるのか、期待が膨らんでいるので、どんな些細なことにでも、子供のように喜んでしまう。エクレシアの仲間と会える日が待ち遠しくてたまらない。期待が募るので、心落ち着かせて、記事を書くのが難しい。

 一昨日より、エクレシアと主の結婚について、聖書に書かれている壮大なドラマを思い巡らしていた。そこには一筋縄では行かない出会いと、別れ、また再会がある。聖書に見る神の花嫁たる民は、決して、挫折抜きに歩んできた品行方正な乙女ではなかった。むしろ、夫ある身でありながら、遊女のように偶像に身を売り、神を裏切って歩んで来たのが、花嫁たるイスラエルの民だったのだ…。なのに、神は失われた花嫁を愛され、どこまでも探し、尋ね求められたのだ…。

 過ちを犯し、神から遠く離れた経験のない人もいるだろう。絶体絶命の窮地を経験せず、魂の暗闇を通ったことのない人もいるだろう。もしもつまづきなしに歩めるならば、それが理想かも知れない。
 けれども、罪を犯し、神から遠く離れ、また神の助けを全く失ったように思われるその瞬間があればこそ、私は、己の限界を知り、罪を赦される神のあわれみの深さ、失われた者を尋ね求める主の熱心さを知ることができた。だから、今となっては、私は自分の過去を悔いていないし、すでに罪赦された以上、誰にも引け目を感じる必要がないと思う。

 人のどのような歩みにおいても、ただすべての咎を覆う神の愛があるだけだ。
 放蕩息子にも、その兄にも、同じように神の愛が注がれる。罪人も、義人も、ともに神の祝宴にあずかることができる幸いが与えられている。
 そこに人の運命の不思議がある! 神の知恵のはかりがたさがある!

 天国というところでは、恐らく、人の全ての過去の傷が愛によって覆われているのだろうと想像する。地上において、どんな歩みをして来た人も、互いに誇りあうようなことはなく、誰もが謙遜な自覚を持ち、他人の過去に対して、深い共感を持つことができるだろう。

 人はそれぞれに異なった運命を背負っている。それだからこそ、面白い。それだからこそ、愛しいし、貴い。クリスチャンが歩むべき統一的な生活の型というものを私は考えたくない。特に、品行方正や挫折のなさをクリスチャン生活の模範として振りかざす人々には、私は正直、うんざりしているのだ…。それは、その人たち自身にとっては、恵みかも知れないが、自らの体験を規範化して、他人にまであてはめようとする必要はないだろう。誰もが自分のようでなければならないと考えて、自分の体験談を統一的な物差しとして万人にあてはめようとする行為は、はっきり言って、あまり美しくないと思う…。

 間違いを犯したくなくとも、間違ってしまうのが人間だ。カルトも、人間社会の一つの形態だと私は思っている。それは人間がどれほどの幅と奥行きを持っているかを証明する一つの要素に過ぎない。

 実際に、カルトを経験した人に聞いてみれば分かることだが、カルト社会にはただ悲惨があるだけではないのだ。そこには尽きせぬドラマがあり、興味深い人たちがおり、信じられないような様々な貴重な出来事が隠されている。
 人間学、という観点から見れば、何一つ、参考にならない経験はない。それに、どんな事柄の中にでも働かれるのが私たちの主なのだ。
 私たちの視点から見れば、それは「あってはならない事」にしか映らないかも知れない。だが、神の視点から見れば、人の過去や現在の生き様は、その人の救いとは関係がない。救いはただ神の一方的なあわれみによるのだ。「あってはならない事」の中にも、主の御手は働いている。だから、狭い人間的な思惑に視界を阻まれて、浅はかな善悪の概念を振りかざして、安易に人を断罪しないように気をつけたい。

 人を創られた神は、どんな人生の中にあっても、働かれる。神が創られ、神が負われるのだ。だから、あなたの過去がどんなものであったとしても、一旦、十字架で自分に死んだなら、それをいつまでも恥じる必要は全くない、それを負われるのは神なのである。

「ヤコブの家よ、
 イスラエルの家の残ったすべての者よ、
 生れ出た時から、わたしに負われ、
 胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、
 わたしに聞け。
 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、
 白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
 わたしは造ったゆえ、必ず負い、
 持ち運び、かつ救う。」(イザヤ46:3-4)

 イエスが下さる十字架は軽く、負いやすい。白髪となるまで持ち運んでくれる神を信頼しよう。