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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

聖霊の第三の波とは何か(2)

 初めに前回の話をもう一度、かいつまんで振り返りたい。

 ピーター・ワグナーが『聖霊の第三の波』において使っている、「第三の波」という用語の意味に注目することは、私たちがこの運動の真に野心的なプロジェクトを理解する助けとなるのではないだろうか。
 ワグナーの著書の内容は、直接的には、トフラーの『第三の波』と何らかの関連を持っているわけではないが、しかし、前述したように、「第三の波」という二つの用語には、言外のつながりがあると考えてよいと思う。なぜなら、ワグナーは、その用語を通して、自らが始めた聖霊運動が、トフラーの言う第三の波と同じように、全世界に伝播し、既存のキリスト教界を塗り替えてしまうほどの革命的な変革をもたらす波であることを告げようとしていると考えられるからである。

 言い換えるなら、ワグナーは自らの始めた運動が、小規模な運動で終わらず、世界征服を目指すものであることをその名前を通じて示しているのだと言えよう。それは聞く耳のある者に分かるメッセージだ。そのように考えることは自然である。なぜなら、聖霊の第三の波は、その世界征服の夢を戦略的に成し遂げる手段として、教会成長論という具体的方法論をも掲げているからである。

 もちろん、この世界征服の野望は、大宣教命令という美名によって覆い隠されている。そのため、それは表向き、キリストの福音を全世界に伝えるための善良な宣教計画であるとされ、特定の組織や、人間的な思惑に基づいた野望なのだと公然と言われることはない。

 しかし、ワグナーがその著作の中ではっきりと述べていなくとも、聖霊の第三の波の隠された目的や特徴を、私たちは文脈から掘り起こさなければならない。聖霊運動の影響を受けた日本の各地の教会で、これほどひどいカルト化現象が起こっているというのに、この著書の内容を文字通り、額面どおりに受け止め、内容を疑わないのは愚かなことである。

 前回提示した一つ目の疑いは、ワグナーは第三の波の運動が、ペンテコステとも、カリスマとも無縁のものであると述べているが、本当にそうなのかどうかというものであった。そのような説明は、ペンテコステ、カリスマ運動のマイナス・イメージから第三の波を切り離すための、表向きの説明に過ぎないのではないか。

 確かに、ペンテコステ、カリスマ運動、そして第三の波には、それぞれ具体的な差異があり、また、教団教派による違いもある。しかしながら、私は、そのような具体的差異を超えて、ペンテコステ、カリスマ運動は本質的に同じものであるとみなしている。そして結果的には、第三の波も、その中に含まれると考える。

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から出ている本ではあるが、『聖霊の神学』((アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー発行、1998年)を参考に、まず、ペンテコステ、カリスマ運動の定義についてざっと振り返ってみよう。

 狭義においては、ペンテコステ、カリスマ運動はそれぞれ別物として区別される。
 まず、ワグナーが示したように、ペンテコステ運動とは、主として20世紀初頭(1901年カンサス州トペカ、1906年アズサ街)で始まったリバイバルに端を発し、後にペンテコステ系の諸教会を形成していった流れであり、一方、カリスマの流れは、1960年代以降に、福音派の教会の中で起こった潮流であるとして、両者は区別される。

 これに加えて、聖霊体験をした信者が、その後、既存の教団や教派から出て、ペンテコステ派に所属するかしないかという点で、ペンテコステ派とカリスマ派を区別する見方がある。この見方は今日、一般に普及しているものである。 「一応大きく見て、いわゆるカリスマ派と言われる人たちは自分たちの教団の中に、教派の中にとどまっていて、その中で聖霊体験を主張し続けている人たちであると言えるのではないかと思います。これがいわゆるカリスマ派の、最大公約数的な定義と言えるでしょう。」(p.21)

 また、ペンテコステ派が異言の伴う聖霊のバプテスマを強調するのに対し、カリスマ派は「異言の伴うしるしという面では、唯一のしるしというよりも多くのしるしのひとつとして、もっと広くとらえ、それよりも聖霊の賜物を強調します。異言の伴う聖霊のバプテスマをあまり強調しないということです。」(p.205)という差異も挙げられる。
 これらの見方は大まかにみるならば、同じ聖霊運動に影響を受けながらも、ペンテコステ系の教団教派に所属するか、それとも、福音派の教会に所属するかという、信者の所属の違いによってペンテコステとカリスマを区別していると見ることもできるだろう。

 だが、広義においては、個々の具体的な差異を超えて、ペンテコステ、カリスマ運動は本質的に同じ運動であるとみなして良いと私は考えている。そのため、次の見解に賛成である。「広い意味では具体的な聖霊の今日的な働きを信じる人たちは、全部カリスマだと言うことができます」(p.20)。
 この広義のカリスマの中には、当然、第三の波も含まれると見てよい。「ピーター・ワグナー自身も言っていますが、第三の波に属する人たちは自分たちのことをペンテコステ派とかカリスマ派だと言われることを好みません。しかし、実際には、神癒、悪霊追放、預言、超自然的な働きなどの聖霊のカリスマティックな現われに心を開く福音派の諸教会が、第三の波に属しています。彼らは自分の教会にとどまって、その教会の神学と伝統に従いながら、聖霊の賜物を広い観点で見て、カリスマを実践していこうとしています。」(p.206)

 さらに、このことは、ワグナーの教説が、ペンテコステ・カリスマ運動に属する教会における教会成長に関するフィールド・ワークから生まれてきたことを見ても分かる事実である。ワグナー自身が第三の波をペンテコステ・カリスマ運動といかに切り離そうとしてみたところで、彼の方法論がペンテコステ・カリスマ運動から取られている以上、第三の波はやはり、ペンテコステ・カリスマ運動の直系の子孫なのだと言えよう。

 さて、では、ペンテコステ、カリスマ、第三の波(とりあえず「聖霊運動」としよう)が、本質的に同一の運動であるならば、それらに共通する特徴は何か、という疑問が生じるだろう。そのことについても述べておきたい。結論から言えば、それはこの運動が「キリスト者の段階的な祝福の体験」特に、「セカンド・ブレッシングとしての聖霊の満たしの体験」を主張していることである。

 まず、正統なクリスチャンであれば誰しも、キリストの十字架を信じて回心したと同時に、キリスト者のうちに聖霊が住まわれることを否定しないだろう。しかし、問題となるのは、その後、聖霊のバプテスマ、聖霊の満たし、聖霊の油塗り、など様々な用語で呼ばれている現象が、回心とは別個に、もしくは段階的に、いわゆる「セカンド・ブレッシング」として存在するのかどうか、という点である。

 この問題は、ウェスレー・ホーリネス系の教会などが主張している聖化という体験が、回心とは別個に起こるものであるのかどうかという議論にもつながるところであるが、大別すれば、これについての教説は、キリスト者体験の統一型(セカンド・ブレッシングなどというものはないとする説)と、段階型(段階的な祝福の体験を主張する説)の二つに分かれる。

 まず、キリスト者体験の統一型を主張する教説は、次のようなものであり、従来の福音派に最も多く見られるものである。「クリスチャン体験は全体として一つである。言い換えてみるならば、それは新生ということ、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる信仰によって新しく生まれ変わる回心の体験、新生の体験というものが基本であって、あとのものはこれに含まれるという考え方です。従いまして、聖霊のバプテスマなどという第二の体験はない、もしそれがあるとしたならば、キリストを信じたそのとき、新生の時にあずかっているのであり、新生がイコール聖霊に満たされる、聖霊のバプテスマであるという考え方です。従って聖めという体験も、新生の後に特別にあるものではない。新生の時に罪が赦され、そして聖められているのであり、キリストの救いは十全である、それ自体において完全である、その後何かつけ加えていくものではないという考え方です。これは主として伝統的な教会やまた福音派の中で、ペンテコステ運動に理解をもたない多くの人たちが持っている考え方なのです。」(p.9-10)

 このキリスト者体験の統一型の中には、そもそもキリスト者の回心や新生などを「体験的なもの」としてとらえること自体を拒否し、それらは個人が主体的に自覚するかどうかに関わらず、御言葉に立って行われるものだという考えが含まれている。

 これに対して、回心とは別に、セカンド・ブレッシングの存在を主張する、キリスト者体験の二段階型という教説がある。そこには、従来、「聖め」を主張するウェスレー・ホーリネス系、そしてケズィックの潮流が含まれると言えよう。なぜなら、それらは、キリスト者には回心の後で、聖化の体験が(完全にあるいは漸次的に)起こるとしているからである。

 さて、ペンテコステ系、カリスマの流れ、第三の波は、回心、新生、聖めなどの後に、さらに聖霊のバプテスマという体験が伴うと主張している点で、第二(あるいは第三の)段階的な祝福の存在を主張していると言える。
 ロサンゼルスのアズサ街で1906年から三年間起こったリバイバル運動の参加者の多くはホーリネス系の信者であったが、彼らには従来、回心、新生の次に、聖めがあるという教説に立っていたその上に、聖霊体験をしたことになるわけであるから、それは三段階の祝福体験であったとみなすこともできよう。バプテスト系ペンテコステ教会は、回心とは別に、聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし)という体験があると考えており、その点は、カリスマの流れにも共通する。

 すなわち、十字架を信じての回心、新生とは別に、キリスト者には聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし、聖霊の力強い働き)という新たな体験的な恵みが伴い得るとし、キリスト者体験の統一型を退けて、段階的な恵みを主張している点で、ペンテコステ、カリスマ、第三の波は全て同じ系列に属する。

 しかしながら、ここで、私自身の立場を述べるなら、私はこのような段階的な祝福を主張する立場には立たない。キリストの救いはそれだけで十全であり、私たちは十字架が人間の贖いとして完全な効力を持っていることを信じるべきであると考える。だから、救われた後に何らかの体験を付け加えなければならないとか、回心後に聖めが必要であるとか、聖霊のバプテスマが必要であるとか、異言を語ることが必要であるとか、聖霊の賜物の現われがなければならないとか、そのようなことを教説として信じる必要はないと思う。私たちは十字架を信じて新生したその時に、それら全ての恵みをすでに与えられていると考えてよい。
 回心後に別個の体験を主張する教説は、今のところ、どんなにそれらを「祝福」として強調し、「救いの条件ではない」としていたとしても、結果的には、必ず、十字架による救いの完全性を否定する教説を生み出さずにはおかないだろうと私は考えている。

 聖霊の油注ぎや、異言や、各種の聖霊の賜物を私は否定するわけではない。キリスト者として歩んでいるうちに、それらのものを体験することもあるだろうし、さらなる聖めや癒しを体験することもあるだろうと思う。しかし、問題なのは、それらの体験をキリスト者の歩みの中で、回心とは別個に伴うはずの段階的な祝福として教義化し、それを万人に当てはめうるべき公式として行くことなのである。
 聖霊のバプテスマに関しての教説を教義化することは、結局は、誰もがそのような体験をすべきものと主張していることに等しい。神学とは一旦、出来上がった体系を絶対的なものとせずにはおれない種類のものであり、セカンド・ブレッシングとしての聖霊体験の存在を主張する教義は、遠からず、十字架だけでは救われない、聖霊体験がなければ救われないという結論を必ずやもたらすだろうと私は思う。それは回心の体験に何かを付け加えようとしている時点で、すでに、初めからイエスの十字架による救いの完全性を損なっているのである。

 さて、話を戻そう。こうしてみてみると、聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし、聖霊の油注ぎ等)を、回心とは別個の祝福として捉えている点で、ペンテコステ、カリスマ、第三の波は、本質的に同じものだということになる。だが、そのように考えると、これらの「波」には実際には何の差異もなく、同一の波であったという結論になるではないか? それでは第一も、第二も、第三もなくなるではないか? という疑問が起こるだろう。

 ここで、そもそも、ワグナーの説明を額面どおりに受け取って、第一の波、第二の波をペンテコステ、カリスマ運動として捉えること自体に無理があるのではないかと疑ってみたい。もしも、ワグナーの言う「第三の波」をトフラーの「第三の波」と同じ規模のものであると考えるならば、必然的に、私たちはワグナーの言う第一、第二の波の内容をも見直さなければなくなるのではないだろうか。
 もしも第一の波を20世紀初頭のペンテコステ運動、第二の波を1960年代以降に起こったカリスマ運動とみなすならば、それらはたかだか一世紀ちょっとの間に起こった変化にしかならない。しかも、第一、第二の波は世界中のプロテスタントのキリスト教界を抜本的に塗り替えるまでの影響力には至らず、むしろ、プロテスタントの諸教会から排斥され、その波は世界に伝播することなく終わったのである。

 これに比べて、トフラーの述べている「波」の規模ははるかに大きい。第一の波(農耕文明)、第二の波(産業文明)は、ただ世界中の人々の生活様式を変化させたのみならず、人類史の長いタイムスパンの間に起こったものである。従って、その歴史的・地理的規模に注目するならば、ワグナーとトフラーの言う「波」はそもそも比較にならないものであることが分かる。両者を並べて論じようとすることが無理に思えてくるほどである。

 だが、もしも私たちが、ペンテコステ、カリスマ、第三の波が、実は、本質的に同じ第三の波に属するものだったのであり、ワグナーの説明は、ただその事実を読者の目から覆い隠す虚偽でしかなかったと理解するならば、そこには違った解釈が生まれるだろう。
 随分前に、私たちは手束正昭氏の『キリスト教の第三の波』という著書について論じた。手束氏はペンテコステ運動に影響を受けてはいるものの、厳密にはカリスマの流れに分類されると言えるだろう。そこで、自らをカリスマとは無縁とみなしているワグナーの説明を額面どおりに受け取るならば、手束氏の言う「第三の波」は、ワグナーの「第三の波」とは全く関係ないという結論に至る。しかし、これも表面的な理解に過ぎず、(教説における様々な差異はあれど)それらが大まかには同じ聖霊運動としての枠組みの中に存在していることは明白である。

 そこで、私たちはワグナー自身の説明を額面どおりに受け取るのをやめて、むしろ、彼の説明に反して、色々なことを疑ってみなければならない。そうするならば、ペンテコステ、カリスマ、第三の波は、広義においては、本質的に同じ聖霊運動に属する、一世紀近くの間に起こった同一の波であることが言えるだろう。だとすれば、第一、第二の波は、ペンテコステ、カリスマ運動ではなかったことになる。とすれば、キリスト教世界を席巻した第一、第二の波とは何だったのか? 農業文明、産業文明の波に匹敵するほどの歴史的な二大変革とは何だったのか?

 答えは一つしかないだろう。
 第一の波はカトリック、第二の波はプロテスタントである。

 これは著者の意向をあまりにも無視した仮説なので、私の創作として一笑に付されるかも知れないし、そうなっても構わない。だが、この見解に立つならば、ワグナーが著書の中で隠そうとしている事実があることを私たちは感じ取ることができるのではないだろうか。つまり、ワグナーが述べている第三の波とは、カトリック、プロテスタントに匹敵するほどに、キリスト教そのものに大変革をもたらす、全く新しい何らかの宗派の将来的な成立を暗示しているのではないか? ただその意図が、決して表立って言われることなく、文脈の中に隠されているだけなのだと考えられないだろうか? 
 第三の波は、ワグナーの考えでは、プロテスタントの福音派の中で醸造されなければならないものであった。そこで、それはどうしてもプロテスタントと同一の信仰を装い、プロテスタントに寄生して成長する必要があったのだ。ペンテコステ、カリスマ運動のように、プロテスタントの中で起こりながら、結果として、プロテスタントから排斥されたり、異端のレッテルを貼られるようではいけなかったのである。

 だが、本質的にはプロテスタントと異なるものであるからこそ、それらの波は排斥されてきたのである。にも関わらず、やがてこの聖霊運動はいつか津波のように巨大化し、第三の波として、必ずや、プロテスタントの既存の枠組みを打ち壊して、聖霊に関する新しい教義を持つ新しいキリスト教として世界を席巻する日が来るだろう、いや、ぜひともそうならなければならないのだ、そのことをワグナーは「第三の波」という言葉によって、暗に示そうとしているのではないだろうか。

 つまり、ペンテコステ・カリスマ運動を含む第三の波は、ともに、プロテスタントに寄生する非キリスト教だったのではないかと私は考えている。それはプロテスタントの既存の教会で、福音派と同一の信仰を装って生まれ、福音派を宿主として活動しながらも、自らこそが「まことのキリスト教」を知っていると考え、「力の伝道」を実践することによって、いずれ宿主を破壊し、既存の福音派を凌駕することを目指している危険な運動なのではないだろうか。
 いつか聖霊運動が、カトリック、プロテスタントに並ぶ、キリスト教の第三の新しいかたちとして、世界に頭角を現すことになるかも知れない、いや、それこそが、大世界命令の美名の下に隠されている聖霊運動推進者たちの見果てぬ夢なのではないだろうかと私は思う。

 次回から、具体的に「聖霊の第三の波」の運動の特徴について考えていきたい。

<つづく>

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聖霊の第三の波とは何か

 さて、今まで長いこと、内容の薄い記事ばかりを書き続けてきたが、そろそろ、クリスチャンとしての地の塩の役目に戻らなければならない。
 山小屋を訪れる日が近づくにつれて、厳粛な気持ちが高まってくる。私は夏休みの予定表を消化するためにエクレシアに駆けつけようとしているのではないのだから、今、できることは少ないながらも、気持ちを新たにして、キリスト者としての本分に立ち戻りたい。

 今回は、ピーター・ワグナーの『聖霊の第三の波』(辻潤訳、暁書房、1992年)を取り上げよう。きっと、反論があるだろうと予想しているが、一つの仮説を提示したい。

 私はこれまで、全体主義体制下で書かれた虚偽のプロパガンダ文書をいくつか読んで来た。嘘で塗り固められた歴史や政治事件を、国民にほんとうだと信じ込ませる目的で書かれた文書だ。新聞雑誌の記事もあれば、文学作品もあった。嘘を本当だと見せかけるには、メディア報道で十分ではないか、との疑問の声もあるかも知れないが、実は、大衆に偽りを普及するには、文学の果たす役割がまことに大きいのだ。なぜなら、文学は、新聞雑誌の記事以上に、大衆の感覚や感情に訴えかける力を持っているからだ。たとえば、詩の一行が持っている力など、普通は、些細で取るに足りないものにしか思われないかも知れないが、人間が真実をかぎつける嗅覚の鋭さは驚くほどものものである。言論統制の時代には、公表を許されるはずのないたった一行の反体制的な詩であっても、驚くほどの素早さで人々はその存在を察知し、規制の網の目をかいくぐって、それを語り継いで行ったのだ。

 だから、全体主義国は必ず、言論統制のために、メディアの報道だけでなく、文学を押さえようとする。しかも、ただ表現の自由を抑圧するのではなく、まことしやかに虚偽を普及させるために、文学を積極的に利用してきたのだ。政府御用達の作家たちが生まれ、彼らに創作内容が注文され、その出来栄えは検閲によって厳しくチェックされる(注文に応じない作家は作品の発表の場をなくした)。そのようにして、表向きには自由に書かれたように見せかけながらも、実際には、何らかの政治的な意図を隠し持って書かれた文学作品というものが、随分、沢山、生み出されてきた。それらは、時代が変われば、文学としての価値を失い、歴史資料として参考にされる以外には、誰にも見向きもされなくなる、遊女のように卑しい作品群であったが…。

 そのようなことについて調べるようになって以来、私は、この世には、無邪気な内容を装いながら、その実、大衆を惑わすために書かれた偽りの作品というものがれっきとして存在することが分かった。そこで、『聖霊の第三の波』とは何か、という問題に取り組む際にも、このような警戒心を持つことが大切であると気づいた。つまり、中卒程度の国語力があれば誰でも理解できるように平易に書かれたこの本は、初めからある政治的な意図を持って、それを広めるために書かれた宣伝文書ではないのか。書いてあることの表面的な文字面だけを追っているのでは、その奥にある真の意図(それが一般大衆をどこへ導こうとしているのか)は見えないのではないか。真の意図を暴き出すためには、表向きの文章を疑い、言外の文脈をも推察することが必要になってくるのではないかということである。

 そこで、あくまで推理の域を出ないとはいえ、今日、すでに多くのクリスチャンから絶大な疑いをかけられているこの本を、一度、懐疑のメスで徹底的に解剖してみようと思う。

 さて、『聖霊の第三の波』という名前を聞いて、まず、多くの人々が疑問に思うのは、「第三の波」という用語の意味だろう。当然、この言葉は、ベストセラーになったアルヴィン・トフラーの有名な著作『第三の波』(ここでは、徳岡孝夫監訳、中公文庫、1982年から引用)を連想させる。
 表向き、ワグナーの『聖霊の第三の波』と、トフラーの『第三の波』には直接的な関係はないとされている。だが、これほどまでに有名な用語を用いながら、関係ないなどということがあるだろうか。何かの比喩がこめられているのではないだろうか。そんな素朴な疑問も含めて、考えてみよう。

 まず、ピーター・ワグナー自身は、第一の波、第二の波をどう定義しているのだろうか。注目すべきことは、ワグナーは、自らの運動をペンテコステ・カリスマ運動の枠組みの中にあるものと全くみなしておらず、それらとは異なる新しい運動であると定義していることだ。
 ワグナーは書いている、「第一の波はペンテコステ運動として知られている。これは今世紀の初頭、アメリカにおいて始まり、すぐに世界中のいたるところに広まった。ペンテコステ運動の主要な特徴は、聖霊の力ある働きである。特に奇跡の分野でそれが現されたので、当時、多くのクリスチャンがこの運動を異常だと感じた。」(p.16)

 ワグナーによれば、聖霊の第一の波とは、ペンテコステ運動であった。彼によれば、プロテスタントの福音派の諸教会は、ペンテコステ運動における聖霊の大胆な働きを理解する神学的基礎を持っていなかったために、この運動にただ拒否反応を示し、異端であると決めつけた。それから、約半世紀が経過して、事情は変わり、ペンテコステのグループは教派を超えて、プロテスタントの諸教会に浸透し、承認されつつある。とはいえ、ペンテコステ運動には、福音派からの疎外という苦い挫折経験があったことは変わらない事実だ。つまり、第一の波としてのペンテコステ運動は、全世界の諸教会を塗りかえる世界的な波とはならなかった。

 さらに、ワグナーは言う、「二〇世紀における聖霊の第二の大きな波、それは今世紀半ばに現れたカリスマ運動である。初期のペンテコステの指導者たちが抱いた夢――聖霊の奇跡的な力の現われがキリスト教界の主流をなす諸教会にも流れていくという夢は、実現への一歩を踏み出した。カリスマ運動は、監督教会、ルター派、長老派、米国メソジストなどとともに、カトリック教会でも顕著に現れた。<…>
 それでもやはり、大部分の福音派はこの運動を受け入れることができなかった。彼らの保守的な神学では、奇跡が現代のクリスチャンの歩みの中で価値があると認めることができなかったのである。福音派の教会で教会員の何人かがカリスマ体験を受けた場合、しばしば、それらの人々は教会から追い出されるか、教会の分裂という事態を引き起こした。」(p.18)

 ワグナーは、聖霊の第二の波が、カリスマ運動であったと定義する。しかし、このようにして、時期的にペンテコステ運動とカリスマ運動を区別する説は、今日ではあまり主流になっていないように私には感じられる。しかも、これはあくまで福音派の教会を中心としてそれらの運動を見た場合に限られる。ペンテコステ運動は始まってこの方、聖霊派の中で中断することなく続いているし、ペンテコステ運動の枠組みの中に入っていなくとも、それに影響を受けた福音派の教会をカリスマと呼ぶ説もかなり定着してきている。ペンテコステ、カリスマ、聖霊派などの呼び名をめぐっては、今でも明確な定義は得られていないため、各種の異論もあるだろう。
 いずれにせよ、ワグナーによれば、カリスマ運動という第二の波は、第一の波と同様に、苦い挫折に遭い、全世界の諸教会に伝播することなく、志半ばにして終わった、ということになる。

 そして、第一、第二の波が引き潮になった後で、ついに第三の波が登場した。「第三の波とは、福音派の中で起こってきた新しい聖霊の働きである。それら福音派の教会は、何らかの理由でそれまでペンテコステ、カリスマの流れに入って来なかった教会である。第三の波の始まりということになると少しさかのぼる必要があるが、その動きが本格化し始めたのは一九八〇年代に入ってからで、二〇世紀の終わりに向かって、現在はその勢いを増しているところである。」(p.18)

 こうして、ワグナーは、自らの運動を、ペンテコステ・カリスマ運動という、挫折に終わった第一、第二の波と、何とかして区別しようと、その点を特に強調する。
 その理由として、彼は何やら具体的に理由を挙げてはいるものの、それはあまり説得力を持たない。
「聖霊が奇跡的な方法で働かれるという点では、第三の波も前の二つの波と同じであるが、その働き方がやや趣を異にしている。第一第二の波と非常に似通っているのではあるが、この第三の波はそれらとはやはり区別されるものであると私は見ている。<…>では、何が第三の波を特徴づけるかと言えば、それは聖霊のバプテスマについての理解と、異言が聖霊のバプテスマを受けたことの証明であるかどうかについての見解である。それで、私は人から自分がカリスマだと呼ばれることを好まないし、私自身自分がカリスマだとは思っていない。私は福音派の会衆派に属する一人のクリスチャンで、そして私を通して、また教会を通してご自由に働かれる聖霊の働きに心を開いているだけなのである。」(p.19)

 この説明はひどく胡散臭く感じられるので、あまり重大にとらえないようにしよう。(なぜならば、ペンテコステ運動やカリスマ運動の中でも、聖霊のバプテスマの理解や、異言の理解については、諸説が入り乱れており、統一的見解が見いだせないためである。)いずれにせよ、この文章によって、ワグナーがしきりに強調しようとしているのは、とにかく、自分が福音派に分裂・敵対するような新しい運動を起こしているのではないこと、彼自身は福音派に対立しない、福音派の教会に属するごく普通のプロテスタントの信者であるという点なのである。

 聖霊の第三の波は、第一や第二の波のように、プロテスタントの諸教会からの分裂や疎外という苦い経験とは無縁のものであり、福音派教会にとって決して危険なものではないということを訴えようとする狙いが、ここには当然、含まれている。つまり、ワグナーがしきりに強調したがっているのは、聖霊の第三の波の良いイメージであり、それを保つために、ペンテコステとカリスマの過去の失敗体験と袂を分かとうとしているのである。彼は聖霊の第三の波が、プロテスタントの伝統的な諸教会と異なるところに存在するのでなく、福音派の諸教会の只中から生まれて来て、福音派の諸教会の中に広まっていくものだという点を強調しようとしているのである。

 さて、ピーター・ワグナーとは関係がないとみなされているアルヴィン・トフラーの著作についてちょっと触れたい。トフラーは著作『第三の波』において、「波」という単語によって、世界中の国や民族の伝統的な生活様式の枠組みを越えて(壊して)、人々の経済体制・社会体制・生活様式に圧倒的な変革をもたらすような世界的な文明の変化を言い表した。
 トフラーの著作を初めて読んだ時、私は、その楽観性に心惹かれたものだが、今、読み返すと、これはあらゆるユートピア主義的な作品と同様に、批判的に読まなければならない、とても危険な作品であったことを感じる。これはマルクスの弁証法的歴史観を髣髴とさせるほどに、神なき世界の弁証法的な時代の交替と、人類の未来社会にやがて起こるであろうユートピア社会(実質的にはアンチ・ユートピア、バビロン)の到来を描いた青写真のように見えるからである。少し長いが、トフラーの著作の冒頭の文章を引用させていただきたい。

「人類は、これまでに二度、巨大な変化の波を知った。二度とも先行の文化と文明を拭い去り、それまでの人間には想像もできない新しい生活の戸を開いた。第一の波、つまり農業革命は、完成するのに数千年かかった。第二の波、産業文明の興隆は、わずか三百年で済んだ。今日、歴史はさらに加速した。第三の波が歴史を洗い、波が消え去るのには数十年もかからないかもしれない。いずれにしても、この衝撃的な瞬間に地球に住みあわせたわれわれは、死ぬまでに第三の波を頭からかぶることになるはずである。

 第三の波は、あらゆる人の足元をすくう。家族を引き裂き、経済を揺り動かし、政治制度を麻痺させ、われわれの価値体系をめちゃめちゃにするだろう。それは古くさい権力機構にぶち当たり、今日すでに揺らぎつつあるエリートの特権と特典を危うくし、あすの権力闘争のための舞台をしつらえる。
 新文明には、これまでの産業文明と矛盾するものが無数にある。高度に科学技術的であると同時に反産業的である。
 第三の波は、完全に一新された生活様式をつくる。その基礎になるのは多様かつ再生可能なエネルギー源であり、現代の流れ作業産業のほとんどを不用にする生産手段であり、新しい非核化や企業である。この新文明はわれわれのために新しい行動規範をつくり、標準化、同時化、中央集権化などを越え、エネルギーと富と権力の集中を過去のものにしてしまう。

 古い文明は挑戦を受け、官僚機構は転覆し、民族国家はもはや主役ではなくなり、脱帝国主義の世界に半自立的な経済を勃興させる。行政機構は簡素に、効果的に、今日よりはるかに民主的にならざるをえない。新しい文明は、独自の世界観と時間、空間、論理を持ち、また因果関係について独自の対応法を備えている。
 それだけではない。後述するように、第三の波は、生産者と消費者の対立を宥和し、新しい『生産=消費者(プロシューマー)』経済への道をひらく。そのほかにも理由はあるが、新しい文明は、こうしてわれわれの知的な協力により、世界史の中ではじめて真に人間的な文明になりうるのである。」(p.27-28)

 この最後の一行を読んだだけで、トフラーが事実上、世界を塗り替える第三の波を、人間を真に人間たらしめるユートピア社会の到来に通じるものとして考えていたことが分かる。
 今はこの著作に深入りするつもりはないが、しかし、そこに明るい未来社会の様子として描かれているものの中に、すでにいくつか今、実現しているものがあるので、それを通して、この著作の楽観的な描写と、現実との間に横たわる深淵について、私たちは感じることができるだろう。
 たとえば、児童労働や、フレックス・タイム制が、第三の波の脱規格化の現れとして提示されており、児童労働は青少年の社会からの乖離を防ぐ手段として、パート・タイム制は、職場への遅刻を過去のものにするとして、楽観的に謳われているが、私たちは児童労働が今、過酷な搾取の形態として広がりつつあることや、また、パート・タイム制が、これまた過酷な搾取の形態であり、決して自由で解放的な意味合いから生まれてきたものでないことをすでに知っている。だが、そういう事柄は、この著書では全く触れられていない。
 さらに、ユートピア的未来社会図につきものの「新しい人間像」、「新しい家族像」もそこでは提示されているが、エレクトロニクス住宅における、既存の家族制度の枠組みにとらわれない大家族なるものは、まるでカンパネッラの著作を思い出させる。そのようなものがどんな時代が来ようと、決して正常に機能するとは私には考えられない。だが、トフラーの著作については今はこのくらいにしておこう。

 ワグナーによる『聖霊の第三の波』が、トフラーの著作と同様に、ある種の未来予測的な側面を持っていることは否めないだろう。また、ここで使われている「聖霊の第三の波」という用語が、トフラーの使った「波」と同じように、全世界に伝播し、既存のキリスト教界の体制、礼拝様式、キリスト者の生活様式などを抜本的に塗り替えてしまう世界的変革を想定して使われていることは、言わずもがなである。したがって、たとえワグナー自身がトフラーの著作との関連性について全く言及していなくとも、この「第三の波」という用語には、明確な比喩がこめられているとみなして構わないと私は考えている。

 この比喩から暗に読み取れることは、「聖霊の第三の波」とは、これからプロテスタントのキリスト教界を席巻しようとしている世界的変革の波について告げている本だということである。この本が真に述べたいのは、聖霊の第三の波を受ける時、古くさく、力を失った既存のプロテスタントのキリスト教界の権威や体制は、必ず、大いなる挑戦を受けて、打ち壊されるであろうこと、そして、聖霊の第三の波は、プロテスタントのキリスト教界の中から始まりながらも、プロテスタントを止揚し、教界の体制を塗り替え、今までのキリスト教とは異なる、誰も予想しなかったような新しいキリスト教の未来を開くだろうということである。

 そして、そうなって初めて、キリスト者は真にキリスト者らしい生活を送り、真に教会らしい教会が生れるのであり、我々クリスチャンはそこに到達しなくてはならない、それがこの著書が言外に主張したい点なのである。(もちろんその最も過激な部分は決して文字にされることなく文脈の中に隠されている。)この世界的変革の波を何とかして現実に起こすべく、宣伝のために書かれた本が、『聖霊の第三の波』なのであり、その結構づくめの文章の向こうに隠された真意を紐解いていくならば、それは(あまりにも大雑把なたとえなので、ひんしゅくを買うかもしれないが)、『キリスト教界版共産党宣言』と呼びかえても差し支えない内容であると言えるだろう(つまり、プロテスタントの中から生まれ、プロテスタントと対立するものでない点をしきりに強調しながらも、その実、プロテスタントを凌駕し、覆し、止揚する波を起こそうとしているのがこの運動なのである。このことについては後述)。

 注目すべきことは、「聖霊の第三の波」の運動が、そもそもの初めから、その運動を世界的に拡大するための戦略的プログラムである教会成長論と、まるで車の両輪のように結びついて始まったことである。ワグナーによれば、1960年代に、彼は、フラー神学校世界宣教学部の初代学部長であり、「教会成長」という用語を創り出したドナルド・マクギャブランのもとで、教会成長論を学び始めた。そして驚異的な教会成長を遂げているラテン・アメリカ、チリのペンテコステ教会を調査対象として学び、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団での奉仕、驚異的な教会成長を成し遂げたジョン・ウィンバーとの協同の奉仕などをするうちに、しるしと不思議と奇跡が、教会に驚異的な成長をもたらしていることを知るようになる。

 やがて、ジョン・ウィンバーとピーター・ワグナーはフラー神学校でMC510という番号の講義を開いた。当初、「しるしと不思議と教会成長」と呼ばれていたが、後に「奇跡と教会成長」と呼ばれるようになった講義である。(p.26)
「一九八一年のこと、ジョンは私に、博士課程の学生を対象として、しるしおよび不思議と教会成長の関係について、講義を行う準備があるのだがと申し出た。私はそれに同意した。話はとんとん拍子に進み、一九八二年、フラー神学校の世界宣教学部はジョンを招き、しるしと不思議と教会成長に関する実験的なコース(MC510)を持たせることにした。この講義は五回開講され、教室に溢れるばかりの受講生があった。」(p.30)
 こうしてワグナーは、しるしと不思議と奇跡こそが、今日、力をなくして衰えつつある諸教会に圧倒的なパワーと人員増加をもたらす秘訣であると解釈し、それを公然と教え始めたのである。

 MC510は神学校全体の中では小さな講義であったが、その内容のために、フラーはカリスマになった、という批判が寄せられた。しかし、ワグナー自身はあくまで、自分が福音派であることを強調してやまなかった。「フラー神学校は決してカリスマの神学校ではないということを、私は言っておきたい。フラーは純粋に福音派であり、また超教派なのである。バプテストでもなく、長老派でもない。カルビニストでもなくウェスレアンでもない。艱難前掲挙説と艱難後携挙説のどちらか一方に固執しない。カリスマでもなければノンカリスマでもない。これらの教義上の理解が異なるさまざまな方々がフラー神学校で教え、また学んでいる。この神学校の意図は、『一つの考え方に極端に傾くことなく、あらゆる方面の考え方を拒まないことによって、聖書的なバランスを確立していく』というものである。神学校校長のデイビッド・アラン・ハバードが『フラー神学校は、御霊の望まれる歩みに近づくためには、ある種の危険を伴うこうしたやり方をもいとわない』と言っているとおりである。」(p.28-29)

 このような、一見、中立を装った、もっともらしい説明に煙に巻かれるわけにはいかない。これでは「フラー神学校は何も選ばない代わりにすべてを選ぶ」と言っているのと同じである。聖書的バランス、というものがもしあるとすれば、それはクリスチャンが「一つの考え方に極端に傾くことなく」して得られるものではなく、むしろ、パン種のない教えという、聖書が教えている「ただ一つの極端な教え」を死守することによってのみ得られるものだ。だが、フラー神学校は、「聖霊の望まれる歩みに近づく」という名目で、「ある種の危険を伴う」ことが分かっている道に自ら踏み込んで行ったのである。

 大審問官の台詞が思い出される。「われわれはお前(=イエス)の偉業を修正し、奇跡と神秘と権威の上にそれを築きなおした。」

<つづく>

 


救いはただ神から来る

兄弟たちよ。あなたが召された時のことを考えてみるがよい。
人間的には、知恵のある者が多くはなく、
権力のある者も多くはなく、
身分の高い者も多くはいない。

それだのに神は、知者をはずかしめるために、
この世の愚かな者を選び、
強い者をはずかしめるために、
この世の弱い者を選び、
有力な者を無力な者にするために、
この世で身分の低い者や軽んじられている者、
すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。

それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。
キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、
義と聖とあがないとになられたのである。
それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである。(Ⅰコリント1:26-29)
 

* * *

 これは私の好きな聖句の一つだ。
 私は弱い者として生まれた。その立場の弱さゆえに、これまで、様々な苦悩を経験せねばならなかった。人から蔑まれ、惨めな思いをせねばならなかったことも何度もあった。だが、神はあえてそのような弱い者を救いの対象として選ばれたのだとまさに聖書は告げている。それは、その人間が救われたのが、その人の力によらず、ただ神の力によることが証明されるためである。

 ああ、だから、私はこれからも、ずっと弱いままでいよう! そしてその弱さの中に、キリストの力が輝くことを、ただ目撃し、キリストの強さをのみ楽しもう! 
 時折、私は強くなりたいと願うことがある。人々から愛され、誇れるものをより多く身に付けたいと切に願うことがある。確かに、貧しさや苦しさ、孤独は、これまで耐え難いほど私を苛んだ。そこで、二度と、そのような目に遭いたくないと、人の気持ちとしては、強く願わずにいられない。
 だから、時として、聖書の約束に私は身勝手な形ですがりつく。キリスト教が、貧しさを抜け出し、孤独を抜け出し、幸せな生活を手に入れるための手段のようにさえ、映ることがある。

 だが、そのような思いにはさよならを告げて、やはり、私は、これからも弱いままでいようと思う! それは、私が弱いからこそ、そこにキリストの強さを見ることができるからだ。財産が、学歴が、強靭な体力や、健康が、何を私に保証してくれる(た)だろうか。それらが頼れるものであったなら、なぜ今までのような生活が私にあり得ただろうか。仮にこれから先、誰もかなわないほどの力ある、魅力的な友人を持ったところで、その人が私に何を保証してくれるというのだろう。その人が私に永遠の命を保障できるというのだろうか。

「神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれた」

 この聖句の中には、どんな革命も及ばないほどの大転換がこめられている。この世で知者だと自惚れている人たち、権勢があると自負している人たち、高貴な生れの人たち、すべての強者に勝って、神はこの世の愚者、貧者、軽蔑されている者、取るに足りない者を、御前に高く掲げられたのである! 神はこの弱い人たちを愛されたのである!

 だから、私は愚者でよかった。
 軽蔑されてよかった。
 取るに足りない者でよかった。

 私の救いは、ただ神だけから来る! そのことが、私を通して今後も証明されますように、と願わずにいられなかった。不思議な静けさが心に戻った朝であった。


和解の尊さ

 昨日、大学病院に両親とともに祖父を見舞いに行った。祖父は緑内障の進行を食い止めるために手術を行っている。今のところ、それほど悪化していないため、見舞いに行くのも気が楽であった。

 それにしても、私が時代遅れな人間であるせいかも知れないが、最近の大学病院内の設備の充実ぶりには驚かされた。病院内にスターバックス・コーヒーがある! すずらん通りと名付けられた通りがある! 寿司屋があり、美容院がある! シャワー室、トイレなどの設備の充実もさることながら、くつろぎのための施設の何と多いことかと、私はまるで観光客のようにもの珍しげに病院内を眺めて歩いた。まるで病院全体が一個の街のようだった。

 だが、奥まった通路に向かうに連れて、次第に、病院ならではの薬の臭いが鼻につき、だんだん閉じ込められるような閉塞感に襲われるのは、毎度同じであったが…。

 祖父は快適な病室で、携帯メールを打ちながら、ゆうゆうと過ごしていた。沢山の人からお見舞いのメールをもらって実に嬉しそうであった。(私などは生まれてこの方一度も携帯電話を持ったことがないというのに)。

 本当のことを言えば、眼の手術を受けるべきは祖父ではなく、私なのかも知れない。私は生まれつきの斜視(両眼視の不可)ゆえに、ものがそもそも二重に見えていることに加えて、右眼にかかっている軽い乱視が、近視の進行につれて、ますますはっきり感じられるようになりつつある。つまり、私にはものが四重に見えるようになってきているということだ。これは冗談ではなく、ひどい現実であり、そのために、眼精疲労が蓄積し、今は15分と本を読めなくなってきている。

 子供の頃には遠視のせいで、眼鏡が手放せなかったという経験もあって、今は眼鏡やら、コンタクト・レンズといった、人工的なアイテムは、できる限り、ご免こうむりたいと思っている。だが、そんな悠長なことを言っていられなくなってきた。私の左眼の視力は0.01以下、右眼も0.5を切っている。この両眼の視力の大差のためだけでも、脳内にかかる負担は膨大なものであり、本格的に視力を矯正すべき時が来ているのは明白だ。もしも両眼視不可の状態が手術によって治るなら、喜んでその手術を受けたいと思うのだが…。

 さて、祖父のいる病室で、両親と祖父との会話を、私はただ遠くから黙って聞いていた。元気に暮らしているきょうだいの消息などが耳に飛び込んで来ると、どうしても、私は今でもカルト化教会の残酷な事件がどれほど私の人生にとってロスになったかを思い出して、心に痛みを覚えずにいられなくなるのだ。

 けれども、その日、私はただそこにいるだけで十分であった。
 私は祖父を赦しており、和解の気持ちを表すために、そこへ赴いたからだ。何一つ言葉を交わさなくとも、祖父にはそのことが伝わっていた。

 一度は祖父から、「あんたは一生不幸だ!」という言葉までかけられた私であった。しかし、いつまでも人の暴言を記憶して、それを反芻しては恨み続ける苦さに比べて、和解がもたらす甘やかさは、いかほどのものだろうか。
 人を赦すということが、とてつもなく大きな特権であることを、私はその時、身を持って感じた。受けるより、与える方が幸いであるという御言葉の意味を感じた。赦されるよりも、赦すことの方が、幸せである。それを考えれば、人から非難されたことさえ、人を非難することに比べれば、幸せであった。

 私は赦すという権利を行使し、それによって絶大な心の安らぎを得た。赦しによって、相手が満足したのではなく、この私こそが深い満足を得たのだ。事件は解決した。もう犯人はいないし、被害もない。誰も不幸にならなくて良い。私にかけられた呪いの言葉は、私の内におられるキリストが受け取って無効にした。相手が投げつけた怒りと悲しみも、キリストが引き取って消化したのだ。

 ああ、非難されたのが他のきょうだいでなく、私で良かったなと、今はつくづく思う。なぜなら、キリストの十字架を信じているがゆえに、私はきょうだいの誰よりも強いからだ。私には人のいかなる悪意をも無効化する力が与えられている。キリストが私に代わってすべてを引き受けて下さるから、私にとっては、悪意も、中傷も、もはや恐ろしいものではなくなったのだ。

 もう少ししたら、カルト化教会での大失敗の経験も、痛みなしに思い出せる日が来るかも知れない。何気ない世間話を聞いて心に痛みを覚えることもなくなるかも知れない。非難だけでなく、無視や、無関心にも、動じなくなるかも知れない。私を取り巻く状況がたとえ変わらなくとも、主が共におられるゆえに、私こそは地上で最も幸せな人間なのだと、安らかに確信していられるようになるかも知れない。

 昔から人が好く、義理堅い性格であった祖父は、病室の外に出て、帰って行く私たちの姿をいつまでもいつまでも見送っていた。彼に福音の話をする機会が、この先、できるだけ早く与えられるようにと、私は祈らずにいられなかった。
 


港町の風景

KFCから届いたワーシップソングを聴いていると、どんなに悩みが山積していても、心のもつれがほどけていくようだ。中でも、私が一番好きなのは、"Jesus you are beautiful." 最も美しく感じられるメロディーだ。
 
 つい先ほどまで、人間関係において、道を踏み誤ることへの恐れがひどく私の心を苛んでいた。今まで、弱さゆえに、何度、同じ過ちを繰り返しては、人間関係を損なってきただろう。そのことを思うと、自分の弱さが二度と、以前のような形で大失敗となって現れることがないよう、泣きながら神に祈らずにいられなかった。

 考えているうちに、自信がなくなってしまった。私は本当に、主によって与えられた兄弟姉妹を心から愛していると言えるのか? ひょっとして、利己的な感情に基づいて、相手を利用しようとしているだけではないのか? 私が愛と呼んでいるものは、正真正銘、主の御心にかなう偽りのない感情なのか? それとも、利己心を都合よく言い換えただけではないのか?
 せっかく主によって与えられた兄弟姉妹との関係を有害なものに変えてしまうくらいなら、今のうちに、全ての人間関係を断ち切ってしまった方が良いのではないか。そんな恐れをさえ感じた。

 だが、賛美を聴きながら、心を鎮めた。そして、麗しいキリストの御業を思いながら、すべての人とのつながりが、ただ主によって一方的に与えられたものであったことを思い出した。私が主の御名を賛美することを始めてから形成されてきた人間関係の中には、私が自力で掴んだものなど、何一つない。それが分かった時、恐れは消え、はっきりと、今後、どうすべきかが分かった。
 これ以上の自己批判は一切、無用である。これ以上、自分の心に起こるあらゆる感情を、良いものも悪いものも含めて、一つ一つをまるで顕微鏡で調べるようにして、丹念に吟味し、不要なものがないか探し、自分の持っているあらゆる財産をズタボロに切り刻んでは、一片一片を丹念に日に透かして吟味しようとするような作業は必要ない。

 私は、仮に弱さが残っているにせよ、確信を持って、兄弟姉妹への愛に立って生きていけば良いのだと分かった。与えられた兄弟姉妹との関係を(正しいものにしようとして)コントロールしようとすることさえ無用なのだ。すべては主が成して下さること。だから、未来に起こるどんな出来事をも、もはや恐れまいと決意した。自分が間違うことさえ、恐れない。どんな背教も、汚れたものも、キリストがうちにおられる限り、私には触れることができない、ただそう信じることができるだけだ。
 もしも私の心の中で起こっている様々な感情について、外から介入しようとする試みがあれば、一切、退けることを決意した。いわれのない非難だけでなく、人の杞憂に対しても、耳を塞ぐ必要がある。本人の自主性を侵してまで、他者の心を切り刻もうとするあらゆる力を排さなければならない。

 サタンの非難の声にいちいち親切に耳を貸していれば、義人になれない地上の人間は、誰一人、正気を保てなくなってしまうことだろう。すでに十字架によって罪赦されている以上、私たちには、善悪のものさしに立って生きる必要はもうない。たとえ色々な弱点は消えないにせよ、それを糾弾する声に耳を傾けてはいけないのだ。罪はキリストの十字架によってすでに処理されているはずであるし、弱いところにこそ、キリストの強さが現れるのだから。もしも未処理の罪があるならば、キリストの十字架へ持って行くだけでよい。自分で自分を裁いたり、吟味し続ける作業は必要ない。

 近いうちにもう一度、横浜を訪れることができればと思う。
 以下は、懐かしい神戸の海。横浜の夜景はまだ一度も見たことがないが、きっとこれに似ているのではないかと思う。


どうなるか、夏祭り?

 昨日は、地元の夏祭りの予定日であったが、朝からあいにくの雨のため、一日延期。
 だが、今日も天気予報によれば、雨なのだ。しかも、朝から土砂降りの雨…。 

 

 いまだにアナウンスがない。ということは、役場で協議が続いているのだろう。果たして、祭りはどうなるのか…。私としてはぜひ開催して欲しい。田舎にも関わらず、川原でかなり壮大で豪華な打ち上げ花火が見られる機会はこれを除いてないのだから。

 今、10時半を回ったところだが、蝉が鳴き始め、鳥の声が聞こえ始めた。これなら希望がありそうだ。主よ、どうか私たちに楽しみの機会をお与え下さい!(左は何年も前の祭の写真。)

 朝から、エクレシアのことについて色々と思い巡らしていたが、主からの平安が心にやって来る。やはり、幾度、考えても、私の心は兄弟姉妹への温かい愛に戻って行く(その中にはまだ見ぬ人々も含まれている)。それでも、かつてのような失敗を二度と繰り返したくない、偶像礼拝や、間違った感情に陥りたくないと思ったため、自分の心の最終吟味のつもりで、私は以下の記事を書いた。

 だが、これ以上、何も思い煩う必要はないと分かった。この愛は、主が、互いに愛するようにと私に上から与えて下さったもの。主を愛する愛の中から生まれて来たもの。誰に対しても、何一つ、恥じるところはないし、それを無理やり吹き消そうとする必要もない。きっとこれから、交わりの輪はますます広がっていくことだろう。

 何もかも、平安のうちに、主におまかせだ! もちろん、今日の天気のことも含めて!

(追記:) なんと、記事を書いた時点ですでに祭りは中止されていたことが判明。川の増水のせいでもある。残念だが、「主が与え、主が取りたもう」と、主に感謝を捧げよう。
 信仰の仲間も、全て、主が与え、主が取られるもの。神に信頼して、これから起こることに期待しよう。

バビロンの包囲の中で

昨日、エクレシアのことを書いたが、重大な注意点を補足せねばならない。それは、キリスト者が集まって神を礼拝することの喜びが、たとえどれほど大きかったとしても、私たちは、その喜びを求めるために集まるようになってはならないという点だ。キリスト者は、人生最後の瞬間まで、ただ神ご自身のみに目を向け、神ご自身だけを切に求めるようにしなければならない。それが礼拝の目的である。

 ドストエフスキーが警告しているように、集団的な跪拝の対象を求める人類の欲望には、果てしない深みがある。私たちは人知によっては、何がバビロンであり、何がエルサレムであるのかをきっと見分けることができないだろう。それほどまでに、かの者の誘惑は深い。サタンの荒野の第三の誘惑である地上の王国の中には、必ず、繁栄ばかりでなく、統一的な地上の宗教が含まれている。私たちは、自分が神のみに目を注ぎ、神に栄光を帰するためにある場所へ赴こうとしているのか、それとも、集団的な跪拝が生み出すあの興奮を求めて出かけようとしているだけなのか、それを常に、吟味し続ける用心深さを忘れてはならない。

 たとえキリスト者の集まりがどれほどの深い感奮をもたらすものであったとしても、私たちは、それを得ることを目的にして礼拝を行おうとしてはならないのだ。仮に、隣にいるキリスト者の中に、どれほど感動的な主の臨在を感じたとしても、私たちはただ天に目をむけ、天にまします私のお一人なる神だけを見上げることを忘れてはならない。隣の人の中にこそキリストがおられると考えて、その人の内側に目を向けようとすべきではない。(確かにキリスト者それぞれうちにはキリストが住まわれているのだが。)

 なぜなら、もしもそのように注意していなければ、私たちはあまりにもあっけなく、隣人の中の「現人神」に目を奪われ、そのきらびやかさに魅せられてしまうだろうからだ。元来、神のかたちに似て創造された人間の中には、人の目を惹きつけてやまないある種の誘惑が潜んでいる。それを用いて、人が神に仮装することはまことに簡単なのだ。たとえ、その人が「私は神だ!」とあからさまに叫んでいなかったとしても。

 だから、人に惑わされないよう常に気をつけていなければならない。キリスト者はいつでも、ただ主ご自身だけを一心に見つめるようにしなければならない。そのことだけが、あらゆる惑わしからクリスチャンを救ってくれるだろう。

 考えれば、考えるほど、現代のキリスト者は、いずれも深いバビロンの中にとらわれており、バビロンによって全面的に包囲されているのではないかと思われてならない。このバビロンの誘惑は極めて深い。

 一つには、それはバビロン化したニッポンキリスト教のことであると言えるだろう。だが、しかし、これ以上、その名称を使い続けることがためらわれるのは、ニッポンキリスト教という枠組みの中だけで、背教を論じようとすることに、そもそも意味がないからだ。むしろ、ニッポンキリスト教界という名を多用することによって、私たちは、背教が、そこに限定されて働くものでなく、もっともっと深い危険性を持っているものであることを忘れ去ってしまうかも知れない。

 バビロンとはまず、私たちキリスト者を完全に包囲している空中に働く霊的影響力であり、地理的な境界や、あらゆる組織の枠組みを超えて働く、諸霊の力であると認識すべきだろう。それは決して、キリスト教界内のみに限定して働くことはない。バビロンとは、まさに私の周りに広がっている世界全体のことだ。

「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のように輝いている。」(ピリピ2:15)

 この世はまさに曲がった邪悪な霊の支配に覆われている。キリスト者はその暗闇に囚われながら、御言葉の灯火を輝かせている小さな星だ。
 預言者エレミヤはバビロンにとらわれたエルサレムの民に、主が命じられていることを告げた。「わたしがあなたがたを捕らえ移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである」(エレミヤ29:7)。

 この言葉は、偶像礼拝の支配する土地の只中に住んで、異なる宗教的価値観にさらされて生きねばならない私のような者にとって、一種の安らぎとなる。私はこの土地の安全なしには、生きていけない。だから、この土地の実りと安全を願わずにいられないが、それは神の御心に反することではないと理解することができる。バビロンの中に住んでいるイスラエルの民は、とらわれている町の中で、安らかに暮らすために、町の平安を願っても良いとされた。

 だが、注意せねばならないことは、異教の町の安全を願うことは良くとも、エルサレムの民は、決して、その異教の町から霊的影響を受けてはならないと主から命じられたことだ。

「あなたがたのうちにいる預言者と占い師に惑わされてはならない。また彼らの見る夢に聞き従ってはならない。それは、彼らがわたしの名によってあなたがたに偽りを預言しているからである。わたしが彼らをつかわしたのではないと主は言われる」(エレミヤ29:8-9)

 注意せねばならないのは、「わたしの名によって偽りを預言している」と、神はエレミヤを通して、はっきりと警告されたことである。異教の神の名によってなされる預言ではなく、まさに唯一の神の名においてなされる預言の中に、信じてはならないものがあると警告がなされたことである。
 現代における背教もこれと同じである。私たちが警戒せねばならないのは、非キリスト教の教えではなく、キリスト教の名でやってくるあらゆる背教である。だが、その背教が、明らかな異端と分かっている腐敗した教えや、カルトと名指しされている集団や、ニッポンキリスト教界の名だけでやって来ると思っていたら、大間違いだ。背教はまさに主の御名を通して(偽のキリスト者から、もしくは堕落しつつあるキリスト者から)やって来るのである! 主の御名をかたりながら、偽りを広める人間は、どこにでも存在しうるのだ。(明日にでも、私がそうならないという保証はどこにもない! 主が私を守ってくださり、御言葉のうちを歩めますように!)

 背教に囲まれている今の時代にあって、神の名を用いながら、神が語られたのではない教えに影響を受けた誰しもが、疫病のように、背教を持ち運ぶ器となりうることに、私たちは注意せねばならない。さて、とらわれた民に向けられたエレミヤの預言は、次の有名なくだりにさしかかる。

 「主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果たし、あなたがたをこの所に導き帰る。
主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。
あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。
わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導きかえろうと主は言われる。」(エレミヤ29:10-14)

 バビロンでの捕囚には70年という月日が定められていた。この捕囚の終わりは、私の人生においては、キリスト教界を抜け出た事件とも重なって見える。だが、考えてみよう。キリスト教界を抜け出れば、それがすなわち、バビロンを抜け出たことになるのか? それが、私が背教の影響にさらされる時代の終わりとなるのだろうか? 違う。断じて、そうではない。

 この曲がった時代にあって、一体、どんなキリスト者が、バビロンの包囲から完全に抜け出たなどと豪語できるだろうか。いや、今なお、私は捕囚の状態にあると言った方がふさわしいだろう。もちろん、主はそのとらわれの苦しみの中でも、私に平安と、将来の希望を約束して下さっている。だから、主に信頼して、揺るぎない平安の中に立っていれば良いのである。だが、真実の解放は、主の定められたその時(サタンの完全な敗北と主の再臨の時)でなければやって来ないことを忘れるわけにはいかない。

 確かに、私にはかつて奪われたものが少しずつ主の恵みによって回復されつつあり、追いやられた土地から、主の御名のもとに集まる人々のもとに引き戻された。だが、それで万事が回復し、警戒の必要はなくなったのかと言えば、そうではない。もはや背教は後ろに過ぎ去り、私とは無縁になったと言えるかと言えば、そうではない。油断は禁物である。戦いはまだまだこれから始まるかも知れないからだ。(いや、恐らく、今からが本番なのであろう。)

「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。」

 エクレシアとは、一人ひとりの信者が神だけを一心に尋ね求めて、神に出会う場所のことだ。それはどこか限定された一区画の土地である必要はまったくないし、集まる人々の種類にもよらない。
 私たちがただ主のみに心を向け、ただ主ご自身の臨在のみを求める時に、神自らが私たちに会ってくださるのだ。仮にそれが一人ぼっちの礼拝であったとしても、神が臨在されるならば、それは十分に礼拝であると言えるだろう。だから、恐れることはない。私たちは信者に会うために常にどこかに出かけようとする必要はないし、集うことに過度なこだわりを抱く必要もない。ただ、神にお会いすることだけを切に求めていれば、全ては兼ねて与えられるのだ。
 
 集団的な跪拝というものが作り出す情熱と興奮を求めて各地を行き来することがないよう注意しなければならない。そのような情熱の中に、背教が大きな原動力を見いだしていることは確かだからだ。だが、それでも、もしも許されるならば、私は心から共に主を礼拝する仲間と出会い、喜びを分かち合いたいと願わずにいられない。そして、共にキリストの御身体なる兄弟姉妹として、欠けた部分を補い合い、互いに助け合い、支え合って生きていきたいと思わずにいられない。(もちろん、神の御前での単独者としての立場を忘れるわけではないが、これ以上、一人きりで信仰生活は、沢山である。)
 私は心の底から、兄弟姉妹と集える日が来ることを願い、また、そのことを切に主に求める。

 主よ、あなたのいつくしみ深さ、恵み深さをどうかもっと私に教えてください。
 あなたの私への愛の広さ、深さを、どうかもっと知らせて下さい。
 あなたこそがすべての恵みの源。私はあなたの愛を求めてやみません。
 花婿なる主よ、私はあなたにお会いしたいのです。
 あなたが私のうちにおられるだけでなく、主を愛される人々の只中に、
 臨在されることを知りたくてたまらないのです。
 主よ、あなたの訪れをただ待ち望みます。

 

これがエクレシアだ!

 昨日は、映画「精神」の最終上映日だった。危うく忘れるところだったが、ぎりぎり滑り込んだ。地元で撮影された映画とあって、結構な人数が観に来ていた。終わった時、観客の中には泣いていた人もいたようだ。だが、私にとっては重すぎたこの映画の内容については、今は何も語れそうにない…。

 当初、残る時間で買い物をする予定であった。こちらに来てから、はや1年が経とうとしているのに、私は未だ岡山の地理についてほとんど知らない。今日、初めて、路面電車に乗った。100円でわずか三駅ほど走っただけだが、懐かしい感じがした。大阪には路面電車はない。モスクワでは路面電車を使わずにはどこにも移動できなかった…。

 楽器店で、何ヶ月も前から気になっていた楽譜を買う。それでも、まだ沢山時間が残っている。だが、地下街や商店街を買い物して歩く気にはなれなかった。それは、ある荘厳な出来事が私の心を捉えて離さなかったからだ…。

 「エクレシアとは何か。」
 その実体が、これほどに胸に迫って来た日はなかった。エクレシアのことを思うだけで、涙せずにいられないほどの感動を覚え、神に召し出された花嫁としての教会が、あまりにも強く私の心を捉えたので、他に何一つ考えることができなくなった。私は待合室の静かなベンチを探し、そこでただ呆然と主の御業を思った…。

 山谷少佐が「続・目カラ片鱗ノ剥落スル事」の中で、その時に、私が考えていたのと全く同じ事を書いておられるのが、重ねて驚きである。私の駄文をご引用下さっているようだが、山谷少佐のコメントだけをご参照いただきたい。以下、引用。

「私は主のもの。あの人も主のもの。そこにあるのは、ただ、主の至高の愛である。
この愛の下に置かれているのが、本然のエクレシアなのだ。
それは、伝統とか機構とか制度とかには、よらないものである。
もちろん、そういうシステムが、この『中間の時』には必要とされているけれども、本然のエクレシアの『本質』は、そういうことどもの中には、ない。『本質』は、ただ、主の至高の愛の中にあるのだ。

ある兄弟たちは、人為的に伝統や機構や制度を『合一』のものにしようとして、苦心惨憺したが、どうも上手く行かなかった。本然のエクレシアの立場からすれば、その努力は徒労だったということであろう。
なぜなら、主の至高の愛において、兄弟姉妹はそもそも最初から『一』であり、また、永遠に『一』なのであって、決して分割されることが出来ないのだから。
というのは、主の至高の愛が、分割され得ないものだからである。」

 読者はご存知かと思うが、私は近々、これまで一度もお会いしたことのない信仰の兄弟たちのもとに出かけようとしていた。しかし、今の今まで、私には自分のしようとしていることの意味が、何も分かっていなかった。
 告白すべきことは、私は今日に至るまで、エクレシアとは何であるかを、ただ文字の上でしか知らなかったということだ!

 私の知っていた教会とは、あまりにも、薄っぺらでお粗末なものであった。それは多分、教会と呼ばれるべきでさえなかったろう。たとえば、日曜日の午前10時半に、眠い目をこすりながら、礼拝堂へ駆けつける。かなりの期待を持って、説教に耳を傾けてはみるものの、ナニカガチガウ、と、心は満たされない。気を取り直して、午後の部会に出席し、信徒との交わりに期待をかけるが、さらに、コンナノハマヤカシダ、との苛立ちが心に去来する。それでも、何とか気を取り直し、仲の良い信仰仲間とお茶を飲みに出かけ、率直に語り合うが、そこでも、ナニカガココニハケッテイテキニカケテイル、との虚しさが心を襲う。ついに、時間切れとなって、帰宅の途につきながら、キョウモナニモエラレナカッタ、コンナキモチノママ、アトイッシュウカンモ、スゴスノカ…と、より一層ひどくなった飢え渇きを抱えて日曜日の夜を迎える。それが私にとっての教会だった。

 そのようなことがあまりにも普通になってしまったので、私は信徒の交わりというものに、もはや多大な希望を寄せることがなくなっていた。会って、励ましあい、祈りあい、それなりに、傷つけあうことなく、有意義な時間を過ごせれば、それ以上、何を求めることがあろう。

 だが、それは本当の教会というものを知らないがゆえの、あまりに大きな誤解であった。主の視点に立って人を愛する、ということを理解した時に、私は教会の持つ重大な意味に圧倒されてしまった。
 
「私は主のもの。あの人も主のもの。そこにあるのは、ただ、主の至高の愛である。この愛の下に置かれているのが、本然のエクレシアなのだ。」

 私が出かけようとしていたのは、主が心から愛されている人のもとであった。神によって聖なる宮とされた人々のもとであった! それを理解した時、私は畏怖の念に打たれ、何メートルも後ろに後ずさりして、ひれ伏したい思いに駆られた。私の目の前にあるのは燃える柴だった!

ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」(出エジプト3:5) 

 主が臨在される聖なる地、そこがエクレシアなのだ! 私はその地を目の前にして立っていたのに、それと気づいていなかった! 自分の汚れ切った靴(セルフ)を脱ぎ捨てなければ、そこに近づくことは誰にもできない。もしも私が靴を脱ぎ捨てなければ、私は兄弟たちに利己的な感情を持って近づくことになり、それは私が神の宮に対して害意を抱くことに等しい。神は私を滅ぼされるだろう!

「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。」(Ⅰコリント3:16-17)

 一人ひとりが神の宮とされている兄弟姉妹たちの作り出すエクレシアの神聖の前に、私は深く頭を垂れずにはいられなかった。主は何と一人ひとりを深く愛されていることだろうかと、改めて思わずにいられなかった。彼らは、私にとっても、まさに命であり、希望であり、貴い宝である。会ってもいない人々に、いつの間にか、どれほどの愛情を抱くようになったことか。こんな不思議なことが起こりうるだろうか。だが、それでもまだ、神の宮としての兄弟姉妹に私は十分な敬意を払っていなかったのだ。
 不思議なことに、そう自覚したことによって、私は自分がエクレシアに近づく資格がないと感じたかと言えば、そうではなかった。むしろ、抑えがたいほどの思いで、私はかえってそこに行きたくてたまらなくなってしまったのである!

 それは、まるで遠方にいる恋人との邂逅を、指折り数えて待ち焦がれるような、居ても立ってもいられない気持ちだった。彼らのいるところに、私も行きたい。私はそこに行きたい。いや、何としても、行かなければならない。幾山河越えようとも、海を渡ろうとも、陸を徒歩で越えようとも、どんな距離があろうと、どんなに時間がかかろうとも、何としても、そこに辿りつかずには置かないというほどの強い思いだった。
 一体、私はどうなってしまったのか。人への執着心はもうとうに振り払ったはずなのだが、この恋慕の情に似た思いは何なのか。どうしてこれほどまでに、彼らに会いたくて仕方がないのか。この居ても立ってもいられない焦燥感のようなものは何なのか。これは本当に良い感情なのだろうか? 何がこれほどまでに私をそこへ呼び、惹きつけるのか。

「天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである」(マタイ13:45)
「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)

 主が呼んでおられるのだ。それ以外には、どう考えても、答えがなかった。神が召し出された花嫁を一人ひとり呼び出し、集めようとされておられるのだ。主がご自分の愛される人々に、教会として、御前に立つように、求めておられるのだ。
 その時、主が花嫁たる教会をどれほど愛され、一目でもよいからその姿を見たいとどんなに願っておられるかを、私は胸苦しいほどの思いで理解した。主は、たとえ二、三人でも、主の御名のために集まる人々を見たくて仕方がないのだ。そこに臨在されたくて仕方がないのだ。そのためにこそ、神はご自分を愛する人々を常に地上のどこかで召し出されているのだ。

 私の心の中には、信徒として主を慕う気持ちと、花婿なるキリストが花嫁を呼ばれる気持ちと、その両方がせめぎあい、抑えがたい感動が起こった。キリストとエクレシアとの結婚という、壮大な歴史を超えた物語に、ちっぽけな人間に過ぎない私の心は圧倒されてしまった。

 歴史上、いくつかの全体主義体制の下で、過酷な弾圧を受けながら、人々が命の危険を冒してまで、教会に集うことをやめなかったその理由を、私は生まれて初めて理解した。共産党政権下の中国で、なぜ集会が法律で禁止されているにも関わらず、人々は命の危険に晒されながら、地下教会を作って、集まり続けたのか。ただ励ましあうためだけに、そのようなことができるだろうか? なぜ皇帝ネロの時代に、『クオ ヴァディス』のマルクス・ウィニキウスとリギアの二人のように、競技場で火あぶりにされることをもいとわず、人々はクリスチャンとして集い続けたのか。ただ神を礼拝するだけならば、一人でもできることではないか。
 彼らは集まらずにいられなかったのだ! なぜなら、主の花嫁であることをやめることができなかったからだ!

 それは、主が彼らを花嫁として召し出されたからに他ならない。主が切に、主を愛する人々の集まる姿を見たいと望まれたのだ。そして人々はそれに応えずにいられなかったのだ。
 私は、信仰者たちが集まろうとするその理由を、今日ほどはっきり理解したことはなかった。ちょうど親指と人差し指が同じ手の平に属しているのと同じくらい確かに、私は自分がキリストの御身体の一部であることを感じる。たとえ私がそこで髪の毛一本、あるいは目に見えない細胞一つのように小さな存在に過ぎなかったとしても、そんなことには一切、関係なく、私はキリストの身体である以上、その永遠の一致の中に身を投じるために、兄弟たちのもとに出かけて行かずにいられないのだ。私は呼び出されており、その招きに応えて、その「場所」に馳せ参じずにいられない。これは何者によっても押しとどめることはできない。主がそうされているのだから!

なぜなら、主の至高の愛において、兄弟姉妹はそもそも最初から『一』であり、また、永遠に『一』なのであって、決して分割されることが出来ないのだから。

 そして、このことを思う時、あの堕落した天使は、やることなすこと全てが神の働きの亜流であり、出来損ないの模倣であるということを私は思わざるを得なかった。システムによる一致とは何か。それはエクレシアの出来損ないの模倣である。もしも共産主義が神の国の出来損ないの模倣であるとすれば、あの、冷たい、血の通わない教会、無機質で、強制的で、死んだ、機械的なシステムとしての教会は、生きて、自主性に貫かれた、何によっても消すことのできない、燃え盛る火のような愛を持ったエクレシアの、似ても似つかないコピーだとしか言えない。

 だが、死んだシステムにも、時には、生きた聖なる愛と極めてよく似た感情が宿ることがある。それは人の知性によっては、偽物と見極められないほどに、エクレシアの精巧な模型となることがあるかも知れない。バベルの塔建設には、「何事によっても押しとどめることができない」(創世記11:6)ほどの歓喜があり、誇りと、感動による一致があった。それは恐らく過酷な強制労働などによっては建設されなかったことだろう。

 バビロンとエルサレム。永遠に対立する二つの都。人為的な興奮による一致と、主が永遠の昔から定められた愛による一致。一方の人々はバビロンを求めてその興奮に群がり、私たちは聖なる都を目指して、消すことのできない主への愛と、兄弟姉妹への愛を胸に、万難を排して旅を続ける。この身を主の御前に投じるその日が、焦がれるほど待ち遠しく、心を一つにして人々と共に主の御前に集う日が、焦がれるほど待ち切れない。これだったのだ、エクレシアの正体とは。私は今日まで、そのことをただの一度も理解せずに来たのだ。

 いつかずっと前、Sugarさんが書いておられたことを覚えている。

「キリスト者のあつまりは実に単純なものです。(複雑なものには要注意)
先ず、集まる理由はただ『会いたいから』です。私達はただ兄弟姉妹に会いたいから万難を排して会いに行くのです。更に言葉を加えるとするならば、それは『私の中のキリストが他のキリスト者の中のキリストに触れたいから』なのでであり、そこには、キリストの人への愛の力が作用しているから、と言う事になるのでしょう。私達はただその理由の故に『どうしようもなく』集まってしまうのです。
そこに存在するとても自然でしかも不思議なある種の吸引力、この『単純な衝動』がキリスト者が『集まってしまう』と言う生命現象の説明です。」

 あの日曜の朝10時半から始まる、砂をかむように味気ない礼拝の記憶など、ゴミ箱に捨ててしまえば良い。焦がれるほど、そこに身を置きたくてたまらず、泣き出したいほど、愛しくてたまらず、命かけてでも、そこに集わずにいられない、愛によって結ばれた兄弟姉妹のいる聖なる場所、それがエクレシアなのだ。たとえ投獄されようとも、死の危険が待っていようと、それが何だろうと思わせるほどに、会いたくて仕方がない、集わずにいられない、召し出された者たちのために用意された命と愛に満たされた場所、それがエクレシアなのだ。不思議な愛の感動の中に、私は言葉を失って佇んでいる。
 


初めの愛

日が昇って、辺りが明るくなりつつある。昨日より、神に捧げる愛が、私の中に、まるで潮騒のように優しい音楽となって鳴り響いている。旋律も和音もないのに、不思議なほど感動的な調べなのだ…。
 「初めの愛」に引き戻された。今はどんな斬新な話題も要らないし、緻密な分析も要らない。時事的な話題で人目を集める必要もないし、人の語る言葉の刺激によって自分を満たす必要もない。こうしてブログを書くことさえ億劫なほどに、主との語らいが、大きな安らぎとして身に迫ってくる…。

 静かなところへ身を避けて、主との一致の中で、安らかに、半生を振り返る。これまでの人生に起きた喜びと悲しみと、壮絶な苦悶の跡も含めて、すべての事柄をもう一度、主の視点で見ながら、語り合う。
 ああ、あの場面でも、主は私と共におられたのだな。この場所へ来た時も、やっぱり、一緒におられたんだろうか? 旅の道連れと心が通じず、破れた心を抱えて、自分は一人ぼっちで、見捨てられていると思っていたあの時でさえ、私は一人ではなかった…?
 全ての心の打ち傷について、主に率直に申し上げる。すると主は私の祈りに応えて、それを御言葉によって温かく包んで下さる。

 神は聖書の中で、キリスト者の夫になったり、親になったりと、結構、忙しい。やはり、私の中で一番、近しく感じられるのは夫から妻への呼びかけだが、戒めを語る時には、「わが子よ」という表現が多く用いられる。

 「わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、
 わたしの語るところに耳を傾けよ。
 それを、あなたの目から離さず、
 あなたの心のうちに守れ。
 それは、これを得る者の命であり、
 あまたその全身を健やかにするからである。
 油断することなく、あなたの心を守れ、
 命の泉は、これから流れ出るからである。
 曲った言葉をあなたから捨てさり、
 よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。<…>
 あなたの足の道に気をつけよ、
 そうすれば、あなたのすべての道は安全である。
 右にも左にも迷い出てはならない。
 あなたの足を悪から離れさせよ。」(箴言4:20-27)

 私の心はまるで海の色のように刻々と変化する。海のように荒れ、または穏やかに波打つ。その心を守れと主は語られる。自分の心を見張れ、と。この世の事象によって心騒がせるのではなく、御言葉によって心が導かれるようにせよ、と主はおっしゃる。それが私の健全さと、命の泉を保つための秘訣なのだと。その通りに従おう。

 近々、主は私が知らず、考えたこともないような新たな恵みへと導いて下さるのではないだろうかと思いを馳せる。世はますます混乱へ向かうかも知れないが、それに反して、キリスト者はますます主にあっての喜びと平安に満たされるだろう。

 格差とは、経済的なものではないのだ。このことに、どれほどの人々が今、真に気づいているだろうか。この先、神の御言葉に立つ者の豊かさと、御言葉に立たない者の貧困という、霊的格差はますます広がっていくだろう。御言葉に立たない者の貧困はあまりにも著しくなり、求めても、求めても、安らぎが得られなくなるかも知れない。御言葉を聞くことへの飢餓が始まるだろう。そして、よく言われるように、その飢饉はすでに始まっているのだ…。

 花嫁は婚礼へ向けて、身支度を始めなければならない。灯りと油を用意せねばならない。救いの確信に立ち、御言葉の光を保ち、霊によって導かれて生きなければならない。人生の時間はいつまでも永遠に与えられているわけではないのだから、限られた生の中で、神に召し出された花嫁としての身支度をクリスチャンは完全に整えなければならない。この峻厳なたとえ話を思い出し、愚かな花嫁になってはいけないと自分に言い聞かせる。

「私にできるでしょうか、主よ?」
 不安に駆られてそう尋ねるならば、主はきっとこうお答えになるだろう。
「あなたがするのではない、私がするのだ」

 聖書に出て来る花嫁の身支度の場面は、私にとって特別な意味を持っている。いつかまた語ることがあるかも知れないが…。主に召し出された花嫁の晴れ姿はいかばかりに美しいものだろうか? だが、そのきらびやかさ、美しさばかりに思いを馳せるのでなく、今、もう一度、心を厳かにして、私がいずれ臨もうとしている婚礼の厳粛な意味を考えてみる。何度、考えても、私はそれにふさわしい人間ではない。主が私を聖めて下さらなければ、どうしてその日に私は主の御前に恥ずかしい思いをせずに立ちおおせようか。

 主よ、どうして私のようなものをお選びになって下さったのですか?
 一瞬にしてこの地上を過ぎ去り、気づけばもう消えている道端の草のようなこの命の短い者を、永遠の存在であるあなたがお選びになることなど、どうして起こり得たのでしょうか?
 どうしてあなたが私を愛されるなどという奇跡が起こり得たのでしょうか?
 さらに、あなたがこの私のために命を捨てられたとは、何という信じられないほどの不思議でしょうか。
 人とは何者なのでしょうか。
 人が何者だから、あなたはこれほどまでに人に目を留めれるのでしょうか。

 神は、限りある命の、脆く弱い人間のために、小羊なる御子イエスの命を与えられた。その血によって人を罪から洗い清め、神にふさわしい聖なる花嫁となるようにされる。

 

自分発の愛から神発の愛へ

人の道は自分の目にことごとく潔しと見える。
しかし主は人の魂をはかられる。
あなたのなすべき事を主にゆだねよ。
そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」(箴言16:2-3)

 山谷少佐が記事「目カラ片鱗ノ剥落スル事」の中で、Sugarさんの「山暮らしのキリスト」の記事を読んで、目からうろこが落ちるような感銘を受けたことを書いておられた。それを読んで驚いた。実は、私もSugarさんの記事を読んで、驚きと感銘を受けていたからである。

 高校生の頃、私は教会に所属していた。教会で何か行事がある度に、参加者を増やすために、学校で友人や先生にチケットやパンフレットを配り歩いていた(今から思えばはた迷惑な信徒であっただろう)。そんないきさつがあって、学校では私がクリスチャンであることを数人の先生方が知っておられ、職員室で、たまたま信仰の話が出たことがあった。
 ある時、世界史の先生が、私に聞いた。
「ねえ、きみ、神様を信じてるらしいけれど、好きな人が出来たら、きみは神様と、その人と、どっちを取るつもり?(好きな人をあきらめてでも、神様に従うことができる?)」

 私はそれを聞いて、心の中で、何という愚問だろうと思ったことを覚えている。人は皆、神が創造されたのだ。神は互いに愛し合いなさいと人に言われたのだ。だから、神を愛することと、人を愛することは対立しない。
 …それが当時、生真面目な信徒だった私の思い描いた生真面目な答えだった。
 もっとも、先生はその会話を冗談にして終わらせてしまったので、せっかくの模範解答には、答える暇も与えられなかったのだが…。

 今から思うと、その教師が投げかけた質問は、私が当時、思い描いたよりも、はるかに深い意味を持っていたことが分かる。時に、クリスチャンでない人の言葉を通してさえ、主は私に来るべき試練を告げ知らせ、私を試されることがあるのかも知れない。人から試される時、私たちは、自分の心をもう一度、奥底までかえりみる用心深さを持つ必要があるだろう。間違っても、自分は誰からも試される必要のない、全てを悟った人間であるなどという自己過信に陥ってはいけない…。

 「心にはかることは人に属し、舌の答えは主から出る。」(箴言16:1)
 私が今、心に持っている答えは、人の思いに過ぎないものだろうか? それとも、主から与えられた答えなのだろうか? 時に、それは試されてみなければ分からない場合がある。人の心を探り極める方が、私の心を底の底まで探り極め、あらゆる不純物を取り除いて下さることを願う。

 さて、高校時代が過ぎ去ってだいぶ経った頃、クリスチャンでなかった友人や、クリスチャンを名のっていたにも関わらず、実は偽クリスチャンであった牧師や信者らの手によって、私の人生は滅茶苦茶に壊された。それは、神への愛と、人への愛が、私の中で、両立しなかった結果であった。
 もちろん、そこにあったのは、様々な人間関係であった。師弟関係あり、先輩後輩あり、信徒の交わりや、近所づきあいなども含まれていた。愛という名前でひとくくりにするには、あまりにも複雑な人間関係だったかも知れない。
 だが、人への愛(人への執着や、義理人情)は、いずれにせよ、私の人生を足元からひっくり返し、私を引き倒し、神の御前で取り返しのつかない大きな失敗を犯させた。その体験の最たるものが、カルト化教会での事件だった。

 そんなことがあったおかげで、以後、私は人を愛することに対して、極度に慎重になった。というよりも、人に対して徹底的に絶望させられたため、愛という感情そのものが、しばらくの間、私の中で、完全に死に絶えていたと言っても過言ではなかった。全ての人間関係を断ち切り、あらゆる人への未練を追い払い、ただ一人きりになり、神の愛と真実だけを求めるところから、挫折した私の信仰生活は再開した。

 その後、私のために色々な励ましをして下さる方も現れたが、それでも、人を愛することについて、未だ大きなためらいを私は持ち続けていた。キリスト者の人への愛のあり方はどうあるべきなのか? どうすれば、人への愛と、神への愛は対立しなくなるのか? 
 人に徹底的に絶望させられた私の中で、もう一度、人への優しい感情が甦ろうとするにつれて、これ以上、人の思惑に振り回されたり、人に欺かれるという失敗を繰り返してはならないという強い自戒の念がこみあげた。そこで、わずか二日ほど前、私を支援して下さったある方に、心からの好意と感謝を表しつつも、私は次のような内容を書き送った。

「全ての感情にまして、私は私を贖い出された主のものです。
私の夫は万軍の主なのです。世界中の夫族の中でも、とりわけ、嫉妬深い夫なのです。
私の愛を独占しなければ、気がすまないお方なのです。
私がどんなに愛しても、決して、満足することがなく、さらに私に愛と忠誠を求められるお方なのです。この方が、『おまえは私の聖なる妻(エクレシア)となったのだ、その立場を二度と忘れるな』と言われます。
ですから、私は夫の怒りが怖いので、今後、何があっても、誰とも『浮気』はいたしません。
生きるのも死ぬのも、ただ主のためです。 」

 二度と、神よりも人への感情を優先することはすまい。たとえ主の御名によって遣わされる兄弟姉妹であっても、神以上にその人を優先することはすまい、そう宣言したつもりであったが、それだけでも、神への愛を表すには、まだ不十分であった。そのことが、数日後、Sugarさんの記事「愛は分割されてはならない」を通して判明した。

主は私達が自分の愛する者や物を、完全に手放すように求めて
おられます。
神の要求は正に絶対的です。神はご自身の子供達の
愛情を、他の人やものが獲得することを少しも許すことが出来ません。

更に主は 私が『私流のやり方で』主を愛そうとすることを
願われません。神は私達が『神ご自身に従って』ただ神を愛すること
のみを願われます。こと愛については、主は私達が絶対的であることを
願われます。神はあなたの愛を独占したいのです!
主は本当に『ねたむ神』です。(出エジプト20の5)

非常に残念なことに、あるキリスト者達は『彼らが愛するものを
自由に愛し、また同時に主を愛することが出来る』と思っています。
彼らは、自分の愛するものを愛するのなら、同時に主を愛することは
不可能であると言う事実をまだ認識しておりません。

 これを読んだ時、主は私の心の弱さを隅々まで見透かしておられるのだろうか、と驚いた。人への愛を神への愛よりも優先しません、などという中途半端な言葉でお茶を濁している場合ではない。まずは、人へのあらゆる未練と執着を徹底的に断ち切り、自分の感情の全てを神へ捧げきるところから、キリスト者の歩みは始まるのだ。最初に、まず、それをしておかなければならない。

 私が愛するのは、主よ、あなただけです。地上のどんな人間も、天のどんな存在も、私の心を動かすことはできません。私の愛は人生最後の瞬間まで、ただあなただけのものです。
 主よ、私はあなたの他には誰一人、愛していません!! 私の愛はただあなただけのものなのです!!
 まずは、主の御前でそう告白する必要がある。

 だが、それでは、神お一人だけに全ての愛を捧げ切ってしまうなら、私たちはもう誰をも愛せなくなるのか? まるで修道院に入ったように、人を離れ、世俗を捨てて、余生を神だけに捧げる孤独な生活を送ることしか残されていないのか?という疑問が生じるかも知れない。
 そうではない。ここで逆説的な事件が起こる。一旦、私たちが自分の愛を完全に神に捧げてしまうと、神は私たちを神との一致の中に引きいれて下さり、そこで、聖別された愛を与えて下さり、神を出発点とする聖い愛によって、私たちが他人を愛することを改めて可能にして下さるのだ。そのことは、一つ前のSugarさんの記事「主に愛を捧げること」に記されている。

「私の手元に持っている愛が、神にだけ100パーセント献げられるので
あれば、私の元に 愛はもう1パーセントも残っていないことになります。
その時、神以外に献げる私の手持ちの愛は全くゼロです。ですから
私の愛の対象は全部神です。私は完全に神しか愛しません:
神は先ずこのことをキリスト者に求められます。

しかし、不思議なことですが、その時になって初めてキリスト者は
『他人を自分と同じように愛する』ことが出来る筈です。何故なら
その時あなたは自分自身を完全に離れ、ひたすら純粋に『神のために、
神の中で、神の愛によって』人を愛するようになるからです。」

 自分自身として人を愛そうと苦心している時には、人の愛には制限が生じる。好感の持てる人しか愛することはできない。自分にとって益となる人しか愛することができない。さらに、愛情の源となり、刺激の源となる自他の関係を何とかしてつなぎとめておきたいとの思いから、相手の存在への強い執着が生じる。別離が怖くなり、死などによって愛する相手を失うことへの恐れが生じる。

 しかし、愛情が、自分発のものから、神発のものへと変えられる時、私たちの愛情のあり方そのものが変わってくる。手に入れる⇔失う、出会う⇔別れる、という区別が消えて、私たちの愛はどんな出来事によっても、決して失われることのない永遠の絆へと変わっていく。

 目に見えないものが永遠に続くという聖書の言葉は、愛のことを指しているのではないかと私は思う。(何しろ、神は愛だからだ。)私たちが肉的な愛を捨てて、主の視点に立って被造物を愛するようになるとき、自分が永遠に主から愛されているように、他の人たちも主に愛されていることを知るようになる。すると、それまでのように、失うことを恐れ、誤解されることを恐れ、突き放されることを恐れ、嫌われることを恐れ、関係性が変化して失われることを恐れ、いつか別離によって相手を見ることができなくなることを恐れながら、その恐れと臆病さの中で、何とかして人を愛そうとしていた、その愛の臆病な制限が消えて、主にあって、大胆に、恐れなく、創造の不思議な御業を心から楽しみ、与えられた恵みを分かち合い、与えられた仲間と共に、永遠に、主を喜び、賛美するという愛のあり方が生まれてくるのではないだろうか。
「全き愛は恐れをなくす」ということは、そういうことを指しているのではないだろうかと思う。

 今ならば、私はこう言っても差し支えないだろう。神を愛することと、人を愛することは、もはや私の中で対立しないと。なぜならば、人を愛する愛は、私を出発点とするのでなく、神が与えて下さるものとなっているからだ。主がご自身の被造物をご覧になられ、それを愛され、祝福されるように、私が主にあるクリスチャンを見る時、そこには、ただ主の愛にならう愛があるだけなのだ。期限付きの地上の生の中に、自他との関係を何とかして永遠につなぎとめようとする時の、あの強烈な焦りや執着、未練はもはや生じない。

 そして、今はまだ難しいことであるが、神は敵への愛をも、きっと与えて下さることを信じる。肉なる私にとっては、ただ嫌悪することしかできないような相手にさえ、不思議な形で、愛することを可能として下さるのが、主であると信じる。
 神は愛なのだ。神にできないことはない。そして愛はすべてのとがを覆うのだから。


どんなに欺かれても…

KENTさんが記事に書いておられるので紹介します。

私たちはイエスキリストを最優先にしなければなりません。神を畏れない連中に騙され、欺かれたとしても、どうかガッカリせず嘆かないでください。希望を失わないでください。
たとえこの世の信仰に伴う環境がどんなに荒んでいたとしても私たちの希望と国籍は天国にあるのです。信仰の対象はイエスキリストただひとりであることを忘れないでほしい・・・、

また、カルト教会の膿の部分(堕落・腐敗)はまだ少ないと私は思うので、これ以上悪事がキリスト教界全体に行き渡ることが無いように、思慮のある健全な教会の牧師の皆さま方も注意を促していただきたいと思います。まちがっても彼らのような悪事を繰り返す牧師たちの集まりに交わることがないように・・・、

牧師やクリスチャンの皆様、あなたがたが真のキリストの柱であるなら何が重い罪で、何がいけないことであるのかわかるはずです。
最後に聖書の御言葉を二つ

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠とまた人を滅びと破滅に投げ入れる。愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することがあらゆる悪の根である。」(テモテⅠ6:9~10)
「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい」(ヘブル13:6)

金、名誉、地位、権力、快楽がこの世の幸福の条件とされるものであるが、これが得られたからといって幸福にはならない。金はこの中で最も魅力あるものだが、これを追い求めると、人生を狂わせ転落してしまう。」

 これは、牧師たちだけでなく、何よりも、カルト被害者に向けられた言葉です。キリスト教界で受け入れられなかった私のような人たちにも向けられている言葉です。どんなに周りに広がっている信仰の世界が殺伐としていても、どんなに人に欺かれても、どんなに人から冷たくあしらわれても、どんなに多くのものを失って、どんなに涙の日々を送ったとしても、どんなに孤独であったとしても、希望を失わず、私たちはイエス・キリストだけを見上げて、何度でも、立ち上がって進んで行きましょう。

「どんなに淋しい時でも どんなに悲しい時でも
イエスさまがいちばん イエスさまがいちばん

たとえそれが どんなばあいでも
イエスさまが いちばん
イエスさまが いちばん
だってイエスさまは 神さまだもの
だってイエスさまは 神さまだもの

どんなに泣きたい時でも どんなに叫びたくても
イエスさまがいちばん イエスさまがいちばん

どんなにいじわるされても
どんなに苦しめられても
イエスさまがいちばん イエスさまがいちばん…」

 子供の頃に覚えたこの賛美を思い出します。悲しんでいる方には、次の音楽の流れるページがきっと慰めになるのではないでしょうか…。

 人を狂わせるもの、それは自己愛です。
 目の欲、肉の欲、持ち物の誇り、金銭欲、権力欲…、これらはキリストにあって、すでに死に渡されているはずのものですが、クリスチャンの自己が死に切れなくなった時に、復活してくる欲望なのです。

 私たちはいつも思い出しましょう。私たちの自我そのものが、すでにキリストにあって死んだはずのものであることを。忘れないでおきましょう、私たちは全ての感情と、この世のものへのあらゆる執着に死んで、すでにキリストの花嫁として全身全霊を聖別され、召し出されていることを。

 たとえ貧しくて孤独な時に、心が寂しく、肉体が苦痛を覚えることがあったとしても、バプテスマを受け、召し出された以上、私たちは滅びに至る各種の欲望だけでなく、人への未練にも、愛情にも、憎悪にも、もはやとらわれていないのです。

 過去のどんな悲惨な事件にも、どんな失敗にもとらわれていません、孤独にも、悲しみにもとらわれていません、その代わりに、自分の正義にももはや死んでいるのです。自分で自分を裁くことさえ、必要ありません。全力で正義を実現しようと目指し、真実を訴えようと声を大に叫ぶことさえ、必要ありません。
 私たちに残されているのは、ただ、キリストを通して聖別されて、主と、そして、信仰の友なる者たちへ向けられる清い愛情なのです。憎しみはもうありません。恨みもありません。その清い愛をもって、互いに愛し合うことが、イエスが私たちにせよと命じられたことなのです。

 自ら傷つけた人と和解できる人は幸いです。しかし、たとえ和解できなくても、二度と会うこともない遠方にいる人であっても、キリストが私たちを愛されたその大いなる愛のゆえに、つらい過去を手放し、赦しましょう、愛しましょう。そうする力を主は望む者に必ず上から与えて下さると信じます。 


村上密師の提唱する「カルト監視機構」の底知れぬ危険性について②

村上氏から当ブログに行なわれた「誤報」という根拠なき非難についての反論の補足

(2016年補記: この記事は「東洋からの風の便り」の同タイトルの記事からの転載である。
 この記事の書かれたいきさつは次の通りである。

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が提唱したカルト監視機構という構想の持つ重大な危険性について、筆者は2009年6月3日に「カルト監視機構という名の秘密警察」という記事にて指摘した。

 村上密氏は、これに対する反論として、筆者の記事タイトル全文を剽窃する形で、「『カルト監視機構』という名の秘密警察」の誤報」という表題の記事を書き自身のブログに投稿した。

 このようなタイトルのつけ方自体、初めから検索結果の意図的操作を狙ったものであり、ネット工作員を思わせるようなセミプロ的な手法で、とてもではないが、通常の牧師の書く通常のブログのタイトルとは思えない。それだけでなく、同記事においてさらに村上氏は、筆者の著した警告記事の趣旨を曲げて、論点を逸らす形で、本題をすり替えて反論しているため、その姑息かつ卑劣な答弁の論法を以下で指摘したものである。

 なお、村上氏は筆者の当ブログにおける指摘があたかも根拠のない「創作」であるかのように主張しているが、その村上氏自身が、たとえば鳴尾教会で自身が義理の父と一緒になって引き起きた事件に関して、自らの責任を巧みに他人に転嫁し、他者に濡れ衣を着せる「創作物語」を、約14年以上にも渡り、主としてインターネットを中心に流布して来た張本人であることを書き添えておく。

 また、同氏はカルト監視機構の設立に失敗したが、その後、インターネットを中心に、自身の活動の支持者らを手先のように使って、自らの活動に賛意を示さない信者を迫害・中傷し続けて来た張本人である。
 
 この事件については、以下の記事を参照されたい。

――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~


罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか
――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による
多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――

 村上氏の活動はこのように絶えず他人を中傷しては濡れ衣を着せる形で、自分の責任を他者に転嫁して、保身をはかって来た人物であり、また、自分の活動への反対者には工作員信者などを送り込んで、徹底的に信頼関係を破壊して分断するという手法で、反対者を抑圧して来た。


 果たして、このような人物が正義の味方をつけて「カルト被害者救済活動」を率いるにふさわしい人物であるのかどうか、また、このような信用ならない人物が本当にカルト監視機構を設立し、プロテスタントの諸教会の覇権を握った暁にはどのような異常事態が持ち上がることになるか、クリスチャンは上記の記事を参照の上、改めてその危険性を再考されたい。)




 村上師が「誤報」という言葉を再三に渡って使っておられることについて思いをめぐらしながら、師が一体、何をおっしゃろうとされていたのかが、ようやく私なりに今日、理解できたように思いますので、今回はそのことについて、説明させていただきます。

 村上師のお言葉は、禅者のごとく、あまりにも短く、かつ深淵ですから、十分な説明を補わなければ一般人には理解できません。そこで、僭越ながら、ここで私が師の文章を改めて、通訳させていただくことをお許しください。

 「誤報」という言葉によって、村上師のおっしゃっておられることの真意はこうです、「真理のみことば伝道協会のホームページに掲載されている『カルト監視機構 設立へ』という記事は、2009年現在の情報ではなく、(恐らくは)数年前にアップロードされた記事なのである。にも関わらず、ヴィオロンはこの記事の掲載年月日をよく確認もせずに、この情報を2009年現在のものであると勝手に取り違え、その誤解を世間に広めることに貢献したのだ」ということなのです。これはあくまで私の想像なのですが。

 「あなたは年月日を確認しないで飛び付き、『再び稼働した』と思い込んだのです。」

 村上師の書かれたこの短い文章は、上記の意味で用いられていると私は解釈しました。そうすることによって、村上師のおっしゃりたいことが、ようやく今、私には理解できたと言えるでしょう。

 残念なことです、村上師のおっしゃっておられるお言葉にそれほどまでの深い意味があると、私がもう少し早く気づくことができなかったことは…。しかしながら、弁明させていただければ、当該記事が、正確にいつの時点で発信された情報であるのか、それを私が知り得る方法はございませんでした。
 その理由は、真理のみことば伝道協会のカルト関連ニュースの当該記事には、その記事が執筆された「年月日」そのものが記載されていないためです。従って、真理のみことば伝道協会のホームページを何年間にも渡って詳細に観察し続けてきたような人を除いては、あの記事が執筆された「年月日」を正確に把握することは無理なのです。「確認」せよと求められても、記載されていない「年月日」をどうやって把握できるのでしょうか。

 年月日が書かれていない以上、私がそれを確認しなかったのではなく、正確な年月日の確認そのものが不可能だったのだと言う他はありません。
 確かに、ニュースのバックナンバーに詳細に目を通すならば、当該記事(41号)は最終号から時間を過去にさかのぼるものだと推測することは可能でしょう。しかしながら、一人ひとりの読者が、バックナンバーの詳細に全て目を通してからでなければ、一つの記事も論じるべきでないとまで求めるのは無理ではないでしょうか。しかも、たとえバックナンバーの詳細に全て目を通したとしても、そこから、当該記事の書かれた正確な年月日が判明するわけではなく、また、カルト監視機構設立の計画が中止されたことが他の記事を通して分かるわけでもないのです。

 さらに、私が「カルト監視機構、設立へ」という記事の情報をいかにして知ったかをもう一度、説明したいと思います。私が記事を書いた当時、アッセンブリー京都教会の関連HP(宗教トラブル相談センター)のリンク集から、「カルト監視機構、設立へ」という短い文章と共に、当該記事へのリンクが直接貼られていました。(現時点ではこのリンクは削除されています。)

 こうして、京都教会宗教トラブル相談センター側は、前後関係の説明を一切、抜きにして、ただ「カルト監視機構、設立へ」という記事だけを一方的に紹介していたのです。記事の中には、すでに述べたように、その情報がいつのものなのか正確な記載がありませんし、まして、その計画は現時点では中止されている、または実現せずに終わった旨の補足説明もありません。ですから、その説明を読んだ読者が、京都教会宗教トラブル相談センター発の情報を全面的に信用するがゆえに、真理のみことば伝道協会の記事を、現時点での生きた情報であると「誤解」し、まさかそれがとうに過ぎ去った計画であり、しかも現時点では中止されている計画なのだとは夢にも思わず、「監視機構がいよいよ設立されようとしているのだな、だからこそ、京都教会はこうして報道しているのだな」という印象を抱いたとしても、それはまさに当然の結果なのです。

 このように、誤解をあらかじめ防止する手段を何もとらないままで、一方的な形で情報を発信しておきながら、それに基づいて、カルト監視機構の計画が今尚、生きている(中止されたが、再び設立に向けて動き出した)と理解した読者を非難するのは間違っています。

 さらに、読者の誤解を招きかねない状況は他にもありましたので、申し上げておきます。それは村上師自身が、カルト監視機構の設立を決して断念しておられないこと、設立が早急に求められていることを、最近の記事の中で、再三に渡って書いておられることです。

 2008年7月28日の記事「カルト予防対策」の中で師はこう書いておられます、「ウィリアム・ウッド師と「カルト監視機構」の設立のため、各方面に働きかけたことがあります。人員が集まらず実現しませんでした。1つのカルト団体を相手にするのではなく、全てのカルトを相手にするのですから、生命を危険にさらします。前方だけでなく、四方八方から攻撃を受けます。資金豊富なカルト団体から、名誉毀損で訴訟を起こされるでしょう。それでも私たちは必要だと思い行動を起こしました。本当に必要な働きですから、将来実現するでしょう。」

 さらに、本年2009年度に入ってからも、師は2月12日に「教会の緊急事態」の中で再び書いておられます、「キリスト教界のモラル・ハザード(倫理の欠如)は「キリスト教会のカルト化」と関連しています。「カルト監視機構」のような機関を設置し、倫理委員会、調査委員会、資料コーナー、相談コーナー、予防啓発活動等に取り組む時が来ているように思います。

 こうして、村上師は昨年から、早急にカルト監視機構を設立する必要性を幾度も訴えて来られましたし、またその実現が成就することを強く確信しておられることを明言なさっています。ですから、その文面を読めば、再び計画が稼動する日が近々、来るだろうと読者が予想するのは当然ですね。そのような文脈の中で、年月日が不確かなまま発信されている情報があれば、計画が今まさに再稼動したものとして理解する「軽率な」人間が現れても、仕方がないのではないでしょうか。

 アッセンブリー京都教会宗教トラブル相談センターの側に、今回、カルト監視機構をめぐる報道において、読者の誤解を招かないだけの十分な配慮があったとは私には思えません。確認するための明確な方法が与えられていなかったものを、確認する責任が私にあったと申し上げることはできません。

 しかしながら、全ての情報を疑うことを教えられてきた者として、文字に記されていない言外の情報をも探り出すのが私の義務であったとおっしゃられるならば、その非難には耳を貸し、今後、言外の情報を汲み取るべくより慎重に情報を吟味することにいたしましょう。
 しかしながら、文字によって明確に記されてもいない文脈をたった一つの短い記事から汲み取るような離れ技を一般の読者に求められても、それは無理というものですから、今回は、一般の読者の誤解を招くような形で、記事を案内した側に、大きな責任があったことは明白でしょう。

 もしも村上師が、カルト監視機構が今、設立へ向けて動きつつあるという「誤解」をこれ以上、招きたくないとおっしゃるのであれば、私は、早急に当該記事を削除するか、もしくは設立計画がすでに中止されている旨の補足的訂正を入れること、そして、カルト監視機構の設立を断念された旨を、村上師自身が、はっきりとお書きになることをお勧めいたします。

 村上師自身が、もしもカルト監視機構の設立を断念されるおつもりがないのであれば、やはり、計画は近いうちに再び実現に向けて動き出すだろうと読者は予測し、その計画の進行を注意深く見守り、関連する情報があれば、論じ合い、様々な議論が今後も、生まれることでしょう。その中には、賛成だけでなく、反対意見も当然ながら、含まれていることでしょう。

 そして、どうぞお考え下さい。まだ設立もされていないカルト監視機構について、平和的手段を用いて批判しただけの私が、こうしてネット上で、村上師から人格を貶める表現を用いて、非難されねばならないのであれば、今後、村上師とカルト監視機構に反対する者は、みな、私と同様の命運を辿るのだと、どうして人は思わずにいられるでしょうか。

 村上師が今、行っておられる私への非難は、世間では、反対者を黙らせるための、一種の見せしめだと理解されていることでしょう。そして、実際に、それだけの効果を持っています。
 Dr.Lukeのように実名を公開されている勇気ある人はクリスチャンの中には少ないですし、私のように、教団の負の側面を見てきたがゆえに、村上師から公然と非難されても構わないとまで覚悟を決めている人も少ないでしょう。ですから、名指しで非難されたくない他の人々は、村上師の文章を読めば、皆、どんなに反対意見があったとしても、黙らざるを得なくなるのです。そのようにして、村上師は、カルト監視機構を批判する人間を、全員、私と同じように、今後、一人ひとり、名指しで非難していき、そのことによって、クリスチャンの世論を恐怖によって封じ込めることがねらいなのでしょうか? そのような懸念が生じても仕方がありません。

 特に、私は牧師でもなく説教者でもなく、すでにアッセンブリーとも関わりのない、教界に所属してすらいない一信徒です。にも関わらず、教団の枠組を超えて、たとえ無所属の平信徒であっても、こうして計画に反対する者がいれば、誰でも、幼稚な人間として、非難や断罪の対象とされるのだとすれば、人々はやはりその計画そのものに恐怖を抱かずにはいられないでしょう。現時点で、村上師がご自分の計画に反対する者の意見に冷静に耳を貸したり、その批判を許しておくことがおできにならないのであれば、師が率先してカルト監視機構を設立なさったあかつきには、どれだけの人数の反対者に対して、どれほど恐ろしい処置が取られるのだろうかと、私のみならず、多くの人が心配したとしても不思議ではありません。今とは比較にならない大規模で、ネットやその他の場所で、公然と人格を傷つけるような表現を用いて、反対者がつるし上げを食らうことになるのではないのか。そのような危惧あればこそ、私はこれまでに、カルト監視機構という計画そのものに大きな危険性があることを訴えて来たのです。

 今、起こっていることを通して、私たちは未来を予測します。今、起こっていることを見れば、私がこれまで申し上げてきたカルト監視機構の危険性が、決して、大袈裟な表現でも、杞憂でもなかったことが、世間にはすでに明らかになっているものと思います。

 どうぞもう少し心を鎮められて、今後の展望をよくお考え下さいますように。村上師が望んでおられるのは、カルトを防止するために役立つ活動であり、カルト監視機構や、ご自分の計画に反対する者を非難によってつるし上げることではなかったはずです。師の計画がもしも平和的なものであるならば、憤りを捨てて、異なる意見の者とも、粘り強い平和的な対話の道を開かれるようにと願います。

 恐らく、私がここで申し上げていることは、村上師から見れば、どれも、私が責任を逃れるために考え出した稚拙な言い訳、もしくは、見苦しい強弁としか理解されない可能性があると想像します。しかしながら、もしも十分な前後関係の説明が全くなされておらず、正確な判断に必要な材料も与えられていない情報をそのまま受け取って理解した者が、その「誤解」ゆえに非難されなければならないのだとすれば、村上師の方でも、どれほど今までに多くの誤った情報を発信したことについて、もしくは正しい情報を発信しなかったことについて、重大な訂正や反省を求められてしかるべきでしょうか。

 私がずっと証拠を挙げて書いてきた一連の疑惑に対して、師はどれ一つを取っても、明確な説明をなさっておられません。師が理事として密室で行われたN教会での伝道師たちへの不当な処遇について、そしてそれを本質的原因として生じたN教会の騒動についての信徒への説明責任の欠如について、アッセンブリー教団内での師による十分な情報公開抜きの異端の取り締まり方法の問題性について、また、私がご相談申し上げたカルト被害の問題が何一つ、京都教会で解決されなかった問題について、私の京都教会への転会希望が最終的に受け入れられなかった問題について、カルト被害者の面目を辱めるような形で、京都教会が偽預言者をゲストに招いたことについて…、これら一連の疑惑は、全て私の「創作」であるとお考えであるがゆえに、全く取り合っておられないのでしょうか?

 もしもそれらが私の誤解の上に成り立つ事実誤認に過ぎないのであれば、事実関係を明確にすることによって、村上師は一連の疑惑を容易に晴らし、私の「創作」をきっぱり退けることがおできになると思います。

 さらに、村上師は、今でも事実確認の努力をせずに、ただ誤解の上に立って、私やLuke氏のイメージを歪め、人格や名誉を貶める表現を多用して、誤った情報を世間に広めておられます。そのことについて、私はすでにいくつかの反駁を申し上げましたが、師の側では何の訂正も謝罪もなさっておられません。そのような事柄は、「誤報」には該当しないとお考えなのでしょうか?

 命懸けで悪人を成敗する正義の味方として自己演出することよりも、私たちにとって大切なのは、キリストの僕として、自らが率先して、謙り、人に仕える姿勢をとり、傷つけた人間と和解する努力を惜しまないことです。その姿勢がなければ、キリスト者は、その信仰によって、世間の人々の心を動かすことは決してできません。特に、牧者は、人を非難し、断罪し、排除するのではなく、人とキリストの身体としての関係性を養い、育て上げることをその職務としています。私たちの神は人に平和と和解をもたらす神であるはずです。

 これまでのいきさつを考えると、アッセンブリー教団と私との間には、歴史的に、超えがたい溝が出来ているように思いますが、それでも、神にできないことはありません。もしも村上師が私との和解を希望されるならば、喜んで、和解いたしましょう。しかし、和解とは、自己のみを正義とし、一方的に他者だけを断罪する関係においてなされるものではありません。キリストの前で、クリスチャンは全て己の正義に死んだはずの者ですから、その道に生きている者にとっては、自己の正義を捨てることは難しくないでしょう。師がそのように和解の貴さを理解しておられる真の牧者であられ、私たちが神の御前に、互いを訴えあうのでない健やかな関係において立てる日が来ることを願います。

 では、主にあって、どうか村上師が早く魂の平安を得られますようにと祈りつつ。


我が街倉敷に寄せて


  正確に言うと、今、私が住んでいるのは倉敷市ではない。だが、かつて幼い頃、私はこの街で暮らしたことがあった。この街の見所は、よく知られているように、美観地区に立ち並ぶ倉(蔵)屋敷であり、有名な観光スポットにもなっている。

 十数年以上前、この倉敷市にチボリ公園を建設する計画が持ち上がった。当時、それを聞いて私は心の中で首をかしげたものだ。すでに全国に誇れる歴史的名所があるというのに、どうしてそれを差し置いてまで、何の文化的ルーツも持たない、ただの外国のモノ真似のようなハコモノ建設計画を進めるのか。
 その頃、私は関西に住んでいたが、幼い頃に、記憶に刻み付けられた街の思い出を壊されるようで、不快だったのを覚えている。

 だが、建設は進められ、テーマパークは駅からすぐに見えるところに建設された。JR倉敷駅のプラットホームには、倉屋敷の模様がデザインされているが、その和の趣と、おとぎ話から抜け出たような洋風の城の尖塔が、まことにちぐはぐな印象を醸し出している。

 案の定、チボリ公園はたった11年で採算が取れなくなり、閉鎖された。建設に使われた莫大な費用は、ただ借金となって県の財政に残ったのだろうか。もちろん、チボリ公園で散策を楽しんで、それが記念になったという人も沢山いただろうが、それにしても、風に吹きさらわれるもみがらのように、はかなく消えていった愚かな計画であった。他方、歴史ある倉屋敷の方は、今でも夕涼みに人々が楽しく散歩し、静かな観光名所として続いている。

 今、私はこの街を歩きながら、幼い頃に見た風景を一つ一つ、思い出している。アイビーガーデンの壁は、私にクレムリンの城壁を思い出させる。もう10年近くも前になるが、モスクワの赤の広場から、川にそって、どこまでも続く長い城壁の下をよく歩いたものだ。その時、どこかで見た風景だと思ったのは、この壁を思い出していたのだろうか。煉瓦の壁は、キエフの大門をも髣髴とさせる。

 かつて、この街に住んでいた頃、私の記憶にはまだ何の悲しみもなかった。それが私の人生で、最も純粋無垢で、楽しかった時代かも知れない。キリスト教界のドグマティズムも、まだ私の生活に入り込んでいなかった。近所の子供たちと、広い田畑を駆け回り、喧嘩をし、毎日、疲れ切るまで、夢いっぱいに遊んで過ごした。

 今、街を歩きながら、私は人生の敗残者かも知れないなあと、思い巡らすことがある。「故郷に錦の御旗を飾る」どころか、まさか、こんな風にして、手ぶらで街に戻って来ようとは、考えたこともなかった。田舎にはいつも世間の動向の波が遅れて届く。この土地に多く暮らす裕福なお年寄りたちは、失業や不況にあえいだことがないので、若者の苦労を知らない。そこで、時に、思い切り残酷な言葉を投げかけられることもある。

 先行きが見えない時代になった。私が最近、どのようにして死を迎えるかということばかり考え続けているのも、きっとそんな状況が影響してのことだろう。人間らしく生きるために必要な希望が手に入らないので、自分の手でコントロールできる、残されたただ一つのものが、死なのだ。
 キリスト者として、尊厳に満ちた死に方ができれば良い、そのことで、少しでも主をお喜ばせできれば良いということが、心の支えになっているのだ。我ながら、不健全であると思う…。

 マイホームを築き、子供を育て、希望ある未来を思い描いて、懸命に働くべき世代が、こうして、社会から外側にはじき出されてしまった。正規雇用の道から一旦はずれた人々が、二度とそこへは戻れなくなるような社会の仕組みの中で、それまで人々を守るために作られてきたはずの様々な制度が、逆に、人々を疎外するものへと変わった。
 システムが、人を守るためのものから、人を食らい、排除するためのものに変わった。このシステムの下で、あまりにも多くの人々が押しつぶされ、呻吟している。そこで、やがてこのシステムそのものを破壊しようとして立ち上がる人々が現れるのは避けられないだろう。革命的な混乱の時代がやって来る足音が聞こえるような気がする。

 伝統的に続いてきた文化をこそ守らなければならない。昔ながらの暮しを守らなければならない。なのに、一攫千金の夢を見る者たちが、砂上の楼閣を打ち立てるために、湯水のように金を使い、伝統を破壊してしまった。そのために、社会の様々な組織が、鬼のように人を食らっては、バブルのようにはじけ飛ぶものとなり、人を成長させるための基盤が根こそぎ消えてしまった。キリスト教界も然りである。

 打ち捨てられた世代はどこへ行けば良いのか。今、私の属する世代は、社会の中で食い物にされる以外、ほとんど行き場を失いつつある。ある者は派遣の地獄の中ですり減らされ、ある者は引きこもりとなり、ある者は私のように死に様を思い巡らしながら、街を歩き、最後の生命の糸をつないでいる。運良く家庭を築き、安定した生活を送っている人でも、将来の事を考えると、きっと不安が絶えないだろう。はっきり言って、この社会はもう、私のような人々にとって、生きていたいと思える魅力を失っている。未来が今よりも良くなるという見込みを私はほとんど抱けない。

 「時が良くても、悪くても、しっかりやりなさい。」
 弱気になる時、聖書の言葉が私を励ます。もしも、主によって注がれる愛がなければ、生きてはいられないだろう。こうして、多くの人に支えられ、励ましを受けている恵まれたキリスト者の私にさえ、他者の幸福な人生のニュースが、時折、鋭い矢のように胸に突き刺さることがあるのだ。いつまでこんな時代が続くのか…。そして、出口が見えないまま、さらなる混乱の中へと社会は突入してくのか…。私たちは最後まで、置き去りにされたままなのか…。殺伐とした暮しの中で、人間性を失う人々が続出するのは全く理解できないことではない。

 だが、主は一人ひとりの悩み苦しみを確かに知っておられる。そして人の弱さを覚えておられる。耐えられないような試練を主は人に与えられない。システムには頼れないことが分かった今だからこそ、悔しい時、泣きたい時は、人のもとへ行くのではなく、キリストの懐に駆け込むことができる。
 主よ、あなたの花嫁を迎えに来て下さい、混乱の中に置き去りにしないで下さい、主よ、私はここにおります。あなたが頼りなのです、主よ、来たりませ。そう祈りたい。

 「わたしに喜びと楽しみとを満たし、
 あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
 み顔をわたしの罪から隠し、
 わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
 神よ、わたしのために清い心をつくり、
 わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
 わたしをみ前から捨てないでください。
 あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
 あなたの救の喜びをわたしに返し、
 自由の霊をもって、わたしをささえてください。
 そうすればわたしは、とがを犯した者に、
 あなたの道を教え、
 罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。<…>
 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
 神よ、あなたは砕けた悔いた心を
 かろしめられません。」(詩篇51:8-13,17) 

 故郷の馴染み深い風景が、主の愛と共に、私の傷ついた心を黙って優しく包んでいる。


恐れからの解放

 退屈になると、バイクを飛ばして道を走る。
 川べりの土手を走ると、山からの冷たい空気が降りて来て、心地よい。
 冬は恐ろしく寒いが、今の季節は快い。
 飛ぶように、滑るように走るバイクが、私はとても好きだ。

 今日は、走りながら、ヘルメットの中で叫んだ。
「主イエス・キリストの御名によって、私を束縛する全ての枷を打ち砕きます! 
 私を閉じ込める『水槽』からの完全な解放を宣言します! 私は完全にあがなわれ、健やかさの中に入れられたことを信じます!」と。

 さて、「水槽」とは何なのか。
 少し前まで、我が家では魚を飼っていた。小さな水槽に、初めは5匹の稚魚がいたのだが、日が経つにつれて、一匹減り、二匹減り、ついに最後の一匹だけ残った。
 だが、最後の一匹もついにある日、死んでしまった。(餌はちゃんとやっていた。)

「孤独死したんでしょう」、と母が言った。それを聞いて、私はぎょっとした。
 魚が、孤独死することなんてあるのか!?と思ったからだ。

 私は今でも、読むとどうしても笑わずにいられない聖書の箇所がある。
 ホセア書第4章の冒頭だ。

「イスラエルの人々よ、
 主の言葉を聞け。
 主はこの地に住む者と争われる。
 この地には真実がなく、愛情がなく、
 また神を知ることもないからである。
 ただのろいと、偽りと、人殺しと、
 盗みと、姦淫することのみで、
 人々は皆荒れ狂い、
 殺害に殺害が続いている。
 それゆえ、この地は嘆き、これに住む者はみな、
 野の獣も空の鳥も共に衰え、
 海の魚さえも絶え果てる
。」

 これは少しも笑い事ではない、実に深刻な聖句なのだが、私にとっては可笑しく思われる。人類の罪のために、空を飛ぶ鳥さえもやせ衰え、海の魚さえ死に絶えるというこの聖句は、比喩なのだろうか、それとも、事実なのだろうか?

 人類の身勝手で放埓な生活ゆえに生じた環境汚染の挙句、鳥や魚が死ぬというのなら、まだ話は分かる。だが、ホセア書の書かれた時代に、そのような問題はなかったのではないだろうか。

 すると、どういう因果関係があって、獣と鳥と魚が人類の罪の被害をこうむって弱り果てねばならないのか、考えると不明なのだ。

 きっと、鳥も魚も、言葉を使わず、人間のような知性を持たないが、どこかでちゃんと、この世の中がどうなっているか理解しているのだろう。そして、あまりにも人々が乱れきったひどい生活をするようになると、とても見るに忍びず、愛想を尽かし、嘆き、苦悶し、絶望して、自ら世を去っていくのではあるまいか…。

 年間の自殺者約三万人、という今の日本。国民さえも愛想を尽かして世を去って行くこの国に、果たして、魚と鳥が住みたいと願うだろうか。
 
   刺激のない小さな水槽に閉じ込められた魚が長生きしないように、人が健全に生きるためには、それなりの環境が必要となる。

 だが、私にとって、物心ついた時から、周りに広がっている環境は、あまりにも生きづらいものであった。 
 そのほとんどの責任は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にある。
 私は当時、この教団と教会で教えられている内容を偽りだと知らず、その中で希望のない信仰生活を送らされていたのである。

 さらに、世の情勢の悪化がそれに追い打ちをかけた。

 かつてこの国には、一生懸命、勉強し、働けば、人並みの人生をきっと生きられるというビジョンがあった。だが、私が社会に出る頃には、そのビジョンは崩れており、今現在は、もうこの国ではかつてのような生活は成り立たず、どれだけ多くの人々が追い詰められ、夢を奪われているであろうか?

 宗教の欺瞞。世の欺瞞。
 私は、そうした環境の腐敗のために、自分が弱り果てて行くように感じていた時期があった。
 かろうじて命をつないでいたあの小さな水槽の魚と同じように。
 
 だが、その中で、一体、まことの神はどこにおられ、この現状をどう見ておられるのかと、叫び求めるようにして、神からの応答を待った。

 私たち一家がかつて通っていたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を含めたキリスト教界全体は、世の絶望に向かう環境の中で信者がどう生きるべきか、全く希望を与えなかった。
 それどころか、背教がはびこり、多くの信者が願いを打ち砕かれ、迷いの中に投げ出された。
 牧師に信者を依存させるだけのキリスト教界の中にいては、真理は決して得られないのだと分かったのは、少し後のことである。

 だが、ようやくそれが分かってキリスト教界を出た後でさえ、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師とその支持者たちは、この教団に長きに渡り、少なからぬ奉仕をして貢献してきたはずの私や、私の家族に敵対した。
 彼らは何とかして信者を本物の信仰に至らせまいと、私たちに対しても盛んに妨害工作をしかけ、悪魔に加勢する側に回った。
 
 村上密牧師は、その他にも、多数のキリスト教会に裁判を仕かける側に回り、無実のキリスト教徒に濡れ衣を着せて教団から追放し、ただでさえ背教がはびこり、多くの信者が苦しんでいたキリスト教界に、光を与えるどころか、徹底的な打撃を加えた。
 
 まさに悪魔の所業としか言いようがない、キリストの似姿からはほど遠い、人間の心さえも失った、無慈悲な連中である。長年、教団に奉仕した人間にさえ、礼節を忘れ、容赦なく戦いを挑む、もはや信者と呼ぶに値しない、堕落した生まれながらの獣のような人間の姿そのものである。

 こうした人々に率いられる、世に打ち勝つ力を全く持たない偽りの教会の中にいて、そこで自分を神のように見せかけている指導者たちを本物の信仰者だと思い込み、彼らの身勝手な言い分に従おうと無駄な努力しているうちは、信者はそこに絶望しか見いだすことはできないであろう。

 このような腐敗した「水槽」を早く脱出して、信者はまことの神を探し求めねばならないのである。

 今日、「健やかさの追求」というメッセージを、再生と停止を繰り返しながら聞いているうちに、私はだんだん無性に腹が立ってきた。
 
 こんな「水槽」のために何年間、無駄な我慢を強いられて来たことであろうか。
 こんなもののために弱り果てねばならないと、聖書のどこに書いてあるのか。
 そんなことは聖書のどこにも書いていない!!

 むしろ、聖書はイエスの十字架によって、私が完全に罪と呪いから解放されたことを告げているではないか。

 私はどうしようもない憤りを感じた。
 私を長年に渡って縛り続けて来たこの虚偽に対して。
  
 そこで、イエスの御名によって、水槽に死を宣言することにした。
 私の信仰が本物ならば、いちじくの木が立ち枯れたように、この水槽も粉々に砕け散るだろう。

 水槽が壊れ、水がなくなったら、魚はどうやって生きていくのだろう?
 いや、そんな人工的な装置はもう要らないのだ。
  
 私自身が、いや、私のうちにおられる主こそ、豊かな水の源なのだから。
 バプテスマに浸され、死んだ私は、神の命の中に隠されて生きている。

 体中管だらけにされて、延命治療を受けさせられるかのように、キリストご自身に直結せず、偽物に信者を縛りつけるだけの偽物の生命装置としての水槽には、もう用はない。

 キリスト教界を脱出しなさい!
 牧師やリーダーや教師たちから離れなさい! 
 救済者や、助言者を名乗って、あなたに近づいて来る、優しそうな人々に、
 これ以上騙され、束縛され、栄光を奪われてはいけません。
 
 彼らの正体を見抜き、これを糾弾し、離れなさい。
 神の御言葉を売り物にして商売している人々に決して近づいてはいけません。

 キリストとエクレシアの偽物でしかない人工装置としての「水槽」によって生かされるのをやめて、まことの神ご自身にしっかりとつながって、キリストご自身から命と、栄養をいただいて生かされなさい!

 神はすべての損害から人々を立ち上がらせて下さることができる。
 
 たとえ現在の日本に、野の鳥も衰え、川の魚も死ぬほどに、ひどい環境が広がっているように見えたとしても、たとえキリスト教界がどれほどの暗闇に覆われており、背教が広がり、バクテリアさえ死を願うだろうほどに厭わしい環境がこの国を覆っているのだとしても、キリスト者の望みは尽きることがない。それを変えてくださる力は、主にある。

 人にはできないことでも、神にはできるのだ。
 
「『主は言われる。この地のすべての民よ、勇気を出せ。働け。
 わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。
 これはあなたがたがエジプトから出た時、わたしがあなたがたに約束した言葉である。
 わたしの霊が、あなたがたのうちに宿っている。恐れるな。
 万軍の主はこう言われる、しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、
 かわいた地とを震う。
 わたしはまた万国民を震う。
 万国民の財宝は、はいって来て、わたしは栄光をこの家に満たすと、万軍の主は言われる。
 銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。
 主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。
 わたしはこの所に繁栄を与えると、万軍の主は言われる』」(ハガイ2:4-9)

 荒れ果てた主の家を再建した人々に与えられたこの御言葉は、私に与えられたものでもある。たとえキリスト教界を偽りが覆い、多くの信者たちが迷い、疲れ果てているとしても、荒れ果てた神の宮を再興する使命が、私に与えられたのだ。

 私はギデオンのように、最も困難に直面して途方に暮れているかのように思われる瞬間に、「勇者よ」と呼びかけられて、立ち上がったのである。

 「私に従って来なさい」
 主は繰り返される。

 「私に従って来なさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」

 神学校などに行って献身するからではない。
 神ご自身が、御霊によって見えない証印を押して、私の背中を押して、言われるのだ。

 「全世界に出て行って、全ての造られた者に福音を伝えなさい。キリストの勝利と、悪魔の敗北を、神の国の到来を告げ知らせなさい・・・」
 
 もうこれ以上、偽りにごまかされるのはやめよう。
 牧師などというものは要らないのだ。
 どんなに救済者然と登場して来る指導者も要らない。
  
 キリストが私の内に住んで下さり、神が我が味方なのである。我が避けどころであられる主が、私をあがなわれ、祝福しておられ、すべての弱さを強さで覆い、恥を名誉に変え、悲しみを喜びに変えると言われているのだ。

 貧困や、破滅や、死に絶え間なく脅かされ、世の思惑、人間の指導者の思惑に縛られ、脅かされるような人生はもう終わりである。
 乳と蜜の流れる土地、キリストの命溢れるまことのエルサレムに、神の国の秩序の只中に、信者は入れられているのだ。 

 主は言われる、神の国はあなた方の只中に来ている、と。
 だから、全ての恐れと不安に、さよならを宣言し、神が信ずる者のために天に蓄えて下さった豊かな命の中を生きよう。

 弱って衰えたひざをまっすぐにして立ち上がり、喜びと感謝の歌を歌いながら、歩いて行くのである。天の都へ向かって。
 
「シオンの娘よ、喜び歌え。
 イスラエルよ、喜び呼ばわれ、
 エルサレムの娘よ、心のかぎり喜び楽しめ。
 主はあなたを訴える者を取り去り、
 あなたの敵を追い払われた。
 イスラエルの王なる主はあなたのうちにいます。 
 あなたはもはや災いを恐れることはない。<…>

『シオンよ、恐れるな。
 あなたの手を弱々しくたれるな。
 あなたの神、主はあなたのうちにいまし、
 勇士であって、勝利を与えられる。
 彼はあなたのために喜び楽しみ、
 その愛によってあなたを新にし、
 祭りの日のようにあなたのために喜び呼ばわられる』。

『わたしはあなたから悩みを取り去る。
 あなたは恥を受けることはない。
 見よ、その時あなたをしえたげる者を
 わたしはことごとく処分し、
 足なえを救い、追いやられた者を集め、
 彼らの恥を誉れにかえ、
 全地にほめられるようにする。<…>
 わたしがあなたがたの目の前に、
 あなたがたの幸福を回復するとき、
 地のすべての民の中で、
 あなたがたに名を得させ、誉を得させる』と
 主は言われる。」(ゼパニヤ3:14-20)

 何と素晴らしく勇気づけられる御言葉だろう! 何ととてつもなく大きな勝利だろうか!

 主よ、私はあなたの御約束を信じます。あなたの私へのとこしえに変わらない愛を信じます。私をあがない出して下さり、御国へと導いて下さるあなたが、この世においても、私を良きもので飽き足らせて下さることを信じます。

 私は災いを恐れず、二度と孤独になることもありません。どんな状況にあっても、あなたが共にいて下さり、すべての必要を満たして下さるからです。
 主イエスよ、我が神よ、あなたに感謝を捧げ、あなたの偉大な御名を誉めたたえます。


谷川の流れを慕う鹿のように

神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、
 わが魂もあなたを慕いあえぐ。
 わが魂はかわいているように神を慕い、
 いける神を慕う。

 いつ、わたしは行って神のみ顔を
 見ることができるだろうか。
 人々がひねもすわたしにむかって
 『おまえの神はどこにいるのか』と言いつづける間は
 わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。

 わたしはかつて祭を守る多くの人と共に
 群れをなして行き、
 喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。
 今これらの事を思い起して、
 わが魂をそそぎ出すのである。

 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。
 何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。
 神を待ち望め。
 わたしはなおわが助け、
 わが神なる主をほめたたえるであろう。(詩篇42:1-5)

* * *
 
 「谷川の流れを慕う鹿のように…」、この賛美をよく友人と歌った。友人が外国にいた時、私が彼がギターで演奏できるようにと、この曲のコード表を作って、メールで送ったこともあった。共にこの賛美を人々の前で歌った。友人は声のきれいな人で、「永遠の都エルサレム」も、人前でよく歌ったものだ。
 だが、この友人は、あまりにも悲しい事件のために、もう私のそばにはいない。彼から送られた何百という手紙が、私の手元に残っているが、生きて二度と声を聞くことはないであろう。

 主は、孤独になった私のために、別の友人たちを備えて下さった。初めのうちは分からなかったが、それは、友人よりももっと深い絆で結ばれた兄弟姉妹であった。「互いに愛し合いなさい」と言われた主は、私が孤独のうちに暮らすことをお望みにならなかった。まだ直接、会ったことのない人々の中にも、私の兄弟姉妹がおられることが分かっている。この方々にお会いできる日を、私は待ち望んでいる。

 考えたこともなかった。たとえ一度も、会ったことがなくとも、あるいは、一度しか会ったことがなくとも、まさかこれほどの愛情を抱くことができるとは。想像もしていなかった。こんなにも遠く離れた地に住み、言葉を交わす機会さえ奪われていながら、これほどまでの愛と慈しみの絆によって、人と人とが結ばれることができるとは。

 こんなことができるのは、主よ、あなただけです。主が私のために、決して失われることのない心の友を与えて下さったことに、私はどれほど感謝しているでしょう。けれども、こうして与えられた宝である生きた友人のすべてにまさって、私の心は、恵みの源であるあなたに向けられ、あなたを愛し、あなたを慕ってやみません。

 厭世的な世界観はとうに捨てました。絶望の日々は過ぎ去りました。私は日々与えられる恵みと祝福を喜んで受け取っています。それでも、あなたの御許へ行き、あなたの御顔を拝することができるその日を、私の心は求めてやまないのです…。

 主よ、人とは何者なのでしょうか。完全であられるあなたが、このように低く惨めな者をお求めになるとは。何と不思議なことでしょうか、この私が、あなたに求められているとは。どんな光栄を賜って、私があなたの御用に携わることができるのでしょうか。
 主よ、人とは何者なのでしょうか。あなたがこれに目を留められるとは…。


神への冒涜に対するとりなしの祈り

今日は我が家の書棚から、『祈りの石垣を築け』という本を取り出します。著者はバジレア・シュリンク(カナン出版、1995年)。この著書にはとりなしの祈りがおさめられています。
 そこから、今日は「神への冒涜に対するとりなしの祈り」を紹介したいと思います。

 アメリカを含め、世界の聖霊派の名だたる指導者たちの幾人もが、あからさまに「私は神だ!」と宣言しているビデオを見られて、空恐ろしく感じられた人も多いかも知れません。私たちは肉なる人間に過ぎない者であるのに、その私たちのうちから誰かがこのような言葉を叫ぶ時、クリスチャンは、それを他人事としてただ傍観したり、嘲笑したりするのでなく、肉に過ぎない者の犯したその大いなる罪を、主の御前にひれ伏して嘆かなければなりません。

 旧約聖書時代の預言者がしたように、衣服を引き裂き、荒布をかぶり、断食して、灰の中に座ることまでは、私たちにはできないかも知れません。しかし、主を悲しませ、傷つけ、冒涜する言葉や行為をし続けている人の罪に対して、とりなしの祈りを捧げることは重要です。


2016年6月5日:追記
筆者は、長年に渡り、己を神とする異端の教えの偽りを追及して来ましたが、その結果、今、言えることは、「この種類の冒涜は決して赦されない罪である」、従って、とりなしてはいけないし、とりなしても無効だ、ということです。

主イエスは言われました。


「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪をも赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:28-29)

むろん、聖書の神を知らない人が、聖書の神を罵倒したり、否定したりする罪にはまだとりなしの余地がありまし、クリスチャンが過ちを犯して神を軽んじ、罵倒してしまったり、悲しませるようなことをした罪にもと、まだとりなしの余地があります。

しかしながら、クリスチャンの指導者を名乗り、聖書の御言葉を十分に知りながら、神と人との境界線を踏み越えて、「私は神だ!」と宣言する人々には、とりなしの余地はなく、もはや後戻りの道はありません。従って、このような人々の罪を赦すようとりなしによって要求することは、悪魔の思想に加担することと同じです。

神が唯一であるという事実は、聖書の根幹であり、動かすことのできない事実です。ところが、クリスチャンでありながら、神と人との境界を故意に踏み超え、汚れたものを神聖と宣言し、自ら神と宣言する者は、神の地位を奪う悪魔的な思想を信じているのであり、そのような教えを信奉した結果、己を神と宣言した者は、必ず、裁かれ、彼らに後戻りの余地はありません。

一連の記事で示しているように、ペンテコステ・カリスマ運動は、必ず、信じた人に己を神とさせるという特徴がありますが、そこには「聖霊を冒涜する教え」があります。この運動の背景には、聖霊を「母なる霊」とし、「神秘なる母性」を崇拝する偽りの信仰があります。これは東洋思想とキリスト教とが合体してできた混合物であり、意図的に作り出された背教なのです。

聖書は、大淫婦バビロンが「混ぜ合わせた杯」(黙示18:6)を持っていることを示していますが、これは混合の教えを意味します。キリスト教そのものを否定するのではなく、聖書の御言葉と別のものと合体させて、混合物を作り出し、これをキリスト教のように見せかけて人々に信じさせようとするのです。


むろん、知らずにペンテコステ・カリスマ運動に欺かれていた信者にはまだ後戻りの道があります。しかし、故意に御言葉に反してこのような混合の教えを作り出し、これを広めることに加担した結果、ついには自らを神と宣言するに至った者には、決して後戻りの道はありません。それが「聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」という意味である、と筆者はみなしています。当然ながら、そこには「母なる聖霊」論を唱える人々も含まれます。

従って、このような教えを信じている人々にとりなしの祈りなどしても意味がありませんし、彼らをかばうことで、同じ罪にあずかってもなりません。このような汚れた教えとそれを信奉している人々からは、全力で早急に遠ざかり、永遠に訣別することです。


わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。」(黙示17:4-5)

* * *

 

 主なる神よ、あなたは天地と全人類の創造主で、永遠かつ不滅の神であられます。にもかかわらず、今日あなたは御自分がお造りになった人間によって冒涜を受け、拒絶され、死んだ神と宣告されています。あなたの戒めは、クリスチャンからでさえ軽んじられ、踏みにじられています。

 私たちはなんということをしてしまったのでしょう。
 どうして、私たちの裁き主である生ける神をあえて攻撃することなどができたのでしょうか。

 私たちの罪を赦してください。
 主イエス・キリストよ、あなたの尊い血潮のゆえに私たちを憐れんでください。

 主イエス・キリストよ、あなたこそ神の独り子、高くいまし威厳に満ちた方です。あなたは、神の右の座に着いておられる私たちの主であり、贖い主です。にもかかわらず、今日、あなたはおびただしい出版物や興行で冒涜され、さげすまれるばかりか、キリスト教会内でさえも道化役にまでおとしめられています。

 国家として、教会として、私たちはあなたに対してなんと嘆かわしい罪を犯したことでしょう。あなたは私たちの罪のために死んでくださったというのに、私たちはあなたに再びいばらの冠をかぶせ、侮辱と冒涜をもってそれにこたえました。
 私たちの罪を赦してください。主イエス・キリストよ、あなたの尊い血潮のゆえに私たちを憐れんでください。

 あなたを私たちの救い主として告白する私たちは、自分たちの罪、教会と国の罪のゆえに恥じ入って自らを低くします。
 自分達の過ちを真剣に受け止めなかったことを赦してください。あなたが嘲笑され、さげすまれた時の私たちの無関心と鈍感をお赦しください。

 私たちはあなたに対してどれほど罪を犯したことでしょう。私たちは、今日のあなたの苦しみの中に、あなたを見捨て、そればかりかあなたの悲しみを増し加えさえしています。
 私たちは個人として、また国家として、私たちの罪について祈り、嘆願することを怠りました。私たちは過ちのことごとくを悔い改めないばかりか、それを大目に見ました。

 私たちの罪を赦してください。主イエス・キリストよ、あなたの尊い血潮のゆえに私たちを憐れんでください。

 眠りから目覚め、祈り戦い始めようではありませんか。

 現代に蔓延している神に対する冒涜を目の当たりにして、イエスよ、贖い主であるあなたを、また聖なる方であり、裁き主である神を証しすることができますように。私たちは、たとえそれがどんなに大きな犠牲や苦しみであっても、喜んですべてを捧げます。

 聖霊よ、あなたの助けによってそうすることができますように。
私たちの心を燃え立たせてください。罪を嘆き、悔い改めに満ちて熱心に祈ることができますように。
 侮られている主イエスのために犠牲を献げ、苦しみを耐え忍びたいという願いで私たちの心を駆り立ててください。

 主イエスよ、私たちは今日憎まれているあなたを愛することを切に願わずにはいられません。
 
 主イエスよ、私たちは立ち上がり、あなたの役に立てることを願っています。
 どうか私たちが冒涜に対して抗議するあらゆる機会を逃さないように助けてください。

 映画や出版物、とりわけキリスト教会内においてあなたが受けておられる中傷に対して立ち上がることができるように助けてください。

 神の小羊よ、あなたの血潮の力によって悪の勢力の前進を押しとどめてください。魂を罪深い生き方と神に対する冒涜から救ってください。

 祈りと悔い改めを通して、私たちが備えられますように。あなたの大いなる裁きが地上に臨む時、あなたが私たちを救うことができますように。 
 アーメン。


 わがイエスは今日涙し嘆かれたもう
 あざ笑われ さげすまれ その御姿は恥をまとう
 その心ほど我らを慈しんだ愛はなし
 されどかかる傷を受け 苦しみを負われた君

 我らは過去にまさり汝を高く上げん
 ああ 愛する主よ 我らの耳を開いて聞かしめたまえ
 汝の嘆き 心の痛みを
 この日 我らに汝への慰めをささげさせたまえ

 我ら今汝を愛し 汝のために生かしめたまえ
 我ら今心を尽くし
 汝の御苦しみにあずからせたまえ
 我ら声高らかに汝はわがすべてと告げ知らせん
 諸人汝 主イエス・キリストを知るべし



村上密牧師の提唱する「カルト監視機構」の底知れぬ危険性について➀

村上密師から当ブログ記事と筆者に向けられたいわれなき非難について

(2016年補記: この記事は「東洋からの風の便り」の同タイトルの記事からの転載である。
   この記事の書かれたいきさつは次の通りである。

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が提唱したカルト監視機構という構想の持つ重大な危険性について、筆者は2009年6月3日に「カルト監視機構という名の秘密警察」という記事にて指摘した。

 村上密氏は、これに対する反論として、筆者の記事タイトル全文を剽窃する形で、「『カルト監視機構』という名の秘密警察」の誤報」という表題の記事を書き自身のブログに投稿した。

 このようなタイトルのつけ方自体、初めから検索結果の意図的操作を狙ったものであり、ネット工作員を思わせるようなセミプロ的な手法で、とてもではないが、通常の牧師の書く通常のブログのタイトルとは思えない。それだけでなく、同記事においてさらに村上氏は、筆者の著した警告記事の趣旨を曲げて、論点を逸らす形で、本題をすり替えて反論しているため、その姑息かつ卑劣な答弁の論法を以下で指摘したものである。

 なお、村上氏は筆者の当ブログにおける指摘があたかも根拠のない「創作」であるかのように主張しているが、その村上氏自身が、たとえば鳴尾教会で自身が義理の父と一緒になって引き起きた事件に関して、自らの責任を巧みに他人に転嫁し、他者に濡れ衣を着せる「創作物語」を、約14年以上にも渡り、主としてインターネットを中心に流布して来た張本人であることを書き添えておく。

 また、同氏はカルト監視機構の設立に失敗したが、その後、インターネットを中心に、自身の活動の支持者らを手先のように使って、自らの活動に賛意を示さない信者を迫害・中傷し続けて来た張本人である。
 
 この事件については、以下の記事を参照されたい。

――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~


罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか
――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による
多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――

 村上氏の活動はこのように絶えず他人を中傷しては濡れ衣を着せる形で、自分の責任を他者に転嫁して、保身をはかって来た人物であり、また、自分の活動への反対者には工作員信者などを送り込んで、徹底的に信頼関係を破壊して分断するという手法で、反対者を抑圧して来た。


 果たして、このような人物が正義の味方をつけて「カルト被害者救済活動」を率いるにふさわしい人物であるのかどうか、また、このような信用ならない人物が本当にカルト監視機構を設立し、プロテスタントの諸教会の覇権を握った暁にはどのような異常事態が持ち上がることになるか、クリスチャンは上記の記事を参照の上、改めてその危険性を再考されたい。)



1.村上密師から当ブログ記事と筆者に向けられた非難について


 カルト監視機構について、私が過去に書いた記事に関して、ブログ記事「『カルト監視機構』という名の秘密警察」の誤報」の中で、村上密師が次のように非難しておられますので全文、紹介いたします。
 
 「『カルト監視機構』が設立へ向けて動き出した」というニュースは誤報です。この誤報の発信元はヴィオロンさんです。この誤報に多くの人々が確認もせず飛び付き、おもしろおかしく書き立てています人に迷惑をかけておきながら、次の話題作りに励んでおられるようですが、反省や謝罪はないのでしょうか

 ヴィオロンさんへ。あなたが見ている村上密はあなたが創作した村上密ですあなたはブログに書いているように、交流の少ない所で生活しておられます情報はインターネットが頼りのようです。そして、それをもとにあなたの世界を形成しておられます。

 Dr.Lukeさんへ。あなたは無責任な同調者です。あなたもヴィオロンさんの創作話に悪乗りして、批評をしておられます。会ったこともないブログの主に対して、なれあいのコメントを書き続ける「専門家」はあなただけでしょう。あなたは牧師だそうですが、誤報への同調の後始末をどのようにとられるつもりですか。はっきりと文章に書いてください。

 お二人の共通点は、「カルト監視機構」を針小棒大に書き立てていることです。「秘密警察」にまで発展する発想にあきれました。牧師がそのような組織を作ると思うあなたがたの思考は非常識です。このような非常識に踊らされる人々も思慮の足りない人々です。

 誤報の発信者のヴィオロンさん、そして同調者のDr.Lukeさん、明確な誤りは削除をお願いします。ヴィオロンさんのブログを読み確認のために電話をくださったのはおひとりです。多くの人々が確認作業をしないで記事を書いておられることに不愉快な寒さを感じます。」

(太字および下線、フォントサイズによる強調は筆者)


2.村上密師に対する筆者からの反論

 たとえ誰からいわれない非難を向けられたとしても、私は主イエス・キリストにあって、非難を甘んじて耐え忍ぶことを喜びとしています。ですから不当な非難を恐れません。私は今、良心にやましいところがなく、また、主イエス・キリストご自身が私を弁護して下さることを確信しておりますので、根拠のない非難に対して、黙っていることは、少しも苦痛ではありません。ですが、他の信徒が惑わされることのないために、私の反論をここに記しておきます。

 村上師、あなたが書いておられることには、残念ながら、十分かつ明確な根拠がありません。そのことはここに記さなくても、誰にでも容易に理解できると思います。

1)「誤報」問題について

 「『カルト監視機構』が設立へ向けて動き出した」というニュースは誤報です」と村上師は書いておられますが、カルト監視機構が設立へ向けて動き出したことが、私による誤報とはどういう意味なのでしょうか!?

 私が当該記事を投稿した時点において、アッセンブリー京都教会の関連ホームページから、ウィリアム・ウッド氏の真理のみことば伝道協会のホームページの「■ 『カルト監視機構』、設立へと題する記事へリンクが貼られていました。このことについては、複数の証人が存在するでしょう。

 さらに、今日の時点でも、真理のみことば伝道協会の記事は削除されておりません。こちらをご参照ください。そこからもう一度、全文を引用します。

■ 「カルト監視機構」、設立へ
 村上密(アッセンブリー京都教会牧師)とウィリアム・ウッドは、「カルト監視機構」の設立に向けて、具体的に動き始めました。この機構の目的は、カルトと疑問視されている団体を調査し、適正な判定を下し、発表することです。構成は、カルト問題に精通している宗教家、臨床心理士、弁護士、法律家など、6人から12人ほどです。先日、プロテスタント教会、聖公会、日蓮宗、及び天理教の教職者で、カルト問題に取り組んでいる方々への協力要請の手紙を出し、六月中に最初の会合を持つことを予定しています。また、「集団のカルト度に関するアンケート調査」も作成しています。その内容は六つの項目(組織、指導者、信者の実生活、組織活動、家庭生活、被害)に分かれており、百以上の質問からなっています。一つの団体に関する、正確でかつ公正な判断を下すのに不可欠な資料になると思われます。自分の属している団体の「カルト度」を計りたい方に、「集団のカルト度に関するアンケート調査」をお送りします」

 この文章が、カルト監視機構の設立計画が確かに存在していたことを何よりもはっきりと証拠立てています。なのに、どうしてそれが私による「誤報」になり得るのでしょうか。 

 たとえ今は計画が中止されているにせよ、私の記事掲載当時、村上密師とウィリアム・ウッド氏が協力して、カルト監視機構の設立へと向けて活動を予定していたことは紛れもない事実です。すでにネット上に公に報じられていた情報を、私がブログに転載したことが、私個人による誤報(事実の捏造)となることはあり得ません。そのように主張することは、事実を曲げて嘘をつくことになります。
 キリストを宣べ伝える者として、牧師であられる方がそのような行為を平然と行われることを深く憂慮します。

 存在しない事実を原因として、実害が生じることはあり得ません。村上師は「人に迷惑をかけておきながら」、と書いておられますが、誤報の事実が存在しない以上、それによって引き起こされる「迷惑」など、存在するはずがありません。
 さらに、一体、どのような迷惑がかかったとおっしゃりたいのか、文章では何も具体的に明らかにされていませんが、もしも、あくまで、迷惑が存在したとおっしゃるのであれば、村上師に対して、誰が、いつ、どのような行為に及んだのか、その証拠を提示し、また、私の記事とその人の行為との間にどのような明確な因果関係があるのか、その証拠をはっきりと提示された上で、さらに、それによって村上師に生じたとされる実害の具体的内容を明らかにして下さい。

 内容も不明であり、因果関係も証明されておらず、証拠もなく、存在もしなかった事実に基づいて生じたとされる「迷惑」なるものについて、謝罪や反省を求めるなどナンセンスですし、それに応じるような人は一人もいないでしょう。


2)「創作」問題について

 
 村上師は私に向けて書いておられます、
「あなたが見ている村上密はあなたが創作した村上密です。あなたはブログに書いているように、交流の少ない所で生活しておられます。情報はインターネットが頼りのようです。そして、それをもとにあなたの世界を形成しておられます。」

 こうして、私が交流の少ない所に住み、インターネットの情報(だけ)を便りに、自分の世界を築き、村上密師のイメージを「創作」してネットに記述しているので、私の主張には根拠がないとおっしゃりたいわけですね。
 しかし、まず、どのような点が、私による「創作」なのでしょうか。どうぞ具体的にお示し下さい。

 さらに、残念ながら、人はどんなに親しい間柄にある相手であっても、他人のことを生きているうちに完全に正確に理解することはできません。どこかで必ずバイアスが入ってしまうことは避けられないのです。けれども、そのバイアスによる「創作」が深刻に懸念されるのは、私よりもまず、村上師の方であるようにお見受けします。

 まず、私が「交流の少ない所で生活して」いると書いておられますが、一体、何を根拠にそのように思われるのでしょうか、不可解です。実際には、私共は自営業を営んでおりますので、大勢の人たちが、日々、この地を訪れて来ては、互いに言葉を交わしております。
 私個人といたしましては、かつて教会で出会った人と今も連絡を取り合っていますし、地域のNPO法人にも度々、出かけておりますし、度々、人と旅行し、また地域に対する理解を深めるべく、各地をめぐり歩いて人と接しております。それでも、これが「交流の少ない所で生活」することを意味するのでしょうか?

 恐らく、村上師のこのようなご意見は、私の住んでいるところが都会ではなく、過疎化しつつある田舎だということから、こんな片田舎には、交流すべき住人も恐らくいないはずだという一方的な思い込みに基づいているように受け取れます。しかしながら、そのような考えは、あまりにも、田舎住民を馬鹿にした、都会中心主義的発言だと、世間からもひんしゅくを買いかねません。
 京都ほどではございませんが、田舎にも、人はいっぱい住んでおりますよ。近所には幼稚園があり、小学校があり、子供だけでなく、若い父母さんたちが毎日、沢山、来られて、役場があり、いくらでも交流できる世界が広がっています。

 毎日、どの人と会って、何を話したかまで詳しくネット上に書きませんが、だからと言って、私が「交流の少ない所に生活して」いると決め付けるのでは、それこそが、「情報はインターネットが頼り」だと言われても、仕方がないと思いますが…。

 そして、以下をお読み下されば分かるように、私が村上師について持っている見解は、私が頭の中で「創作」したものではなく、現場で実際に人々と接触することによって収集した確かな事実に基づいています。

 ① N教会で起こった事件について、私が記事に掲載した文書、および情報は、村上密師の活動に関わるものでありますが、インターネットから入手した情報ではございません。

 ② 私は村上師と直接の面識があります。これもまた、当然ながら、インターネットから入手したのではありません。昨年、私はカルト化教会で起こった事件の解決を求めて、アッセンブリー京都教会に、約半年間、電車で片道2時間をかけて通い続けました。往復4時間です。毎週、休まず日曜礼拝に通い、日曜礼拝に出席するために、自分に合っていた職場を辞めて、転職さえしたほどです(そのために、経済的に苦労を背負っただけでなく、職場の皆さんにも、お詫びせねばなりませんでした)。

 こうして礼拝に出席した他、私は村上師のカウンセリングを受けて、個人的に一対一で長い時間をかけてお話しましたし、その後の教会諸行事でも師とざっくばらんに接し、師について、他の信徒がどのように考えているのかについても、率直な意見を複数人から聞きました。

 その当時、私が京都教会への転会を望み、それを村上牧師に申し出ていたことは、村上師ご自身が誰よりもご存知です。ですから、私は決して、初めから、否定的で批判的な先入観や、決め付けに立って、村上師やアッセンブリー京都教会の活動を観察していたわけではございません。にも関わらず、その後、残念なことに、そのような期待や好感をもはや捨てねばならない結果となったのです。そのいきさつはすでに幾度も詳しく書いてきたので、ここでは繰り返しません。

 私の村上密師についての見解は、このようにして、現場で人とじかに接することから得た情報を基に構築されています。しかも、私個人の見解だけから成り立っているわけではありません。

 ③ さらに、そのようにしてアッセンブリー京都教会を訪れる以前にも、私は10~15年近く、アッセンブリー教団に属する他教会に、最初は非正規の信徒として、次に、正会員として所属して、実際に通っておりました。村上師の義理の父であられるT師の教会に属していたのですから、村上師に関する話を、その教会で、幾度も、耳にしていたのは当然です。さらに、村上師がN教会に来られたこともあり、その際、私は師の開かれたセミナーに参加しましたし、幼い頃にも、CAキャンプで直接、お会いしています。

 村上師に関する私の知識はこうして、20年以上の歳月をかけて、直接、村上師自身と彼に深い関わりのある人々と接することによって得られたものであり、その事実認識に基づいて私は判断を下しました。にも関わらず、それが私の「創作」であり、「情報はインターネットが頼り」だとおっしゃるのであれば、事実認識が歪んでいるのは、私の方ではないということは、誰でも容易に判断できるでしょう。
 

3) ネットから得た知識には信憑性がないのか?

 さらに、ネット上で入手した知識は、果たして、現場から得た知識に比べて、信憑性がないのでしょうか? 村上師ご自身がネット上でブログを公開されているのですから、ネット上の情報にはまるで現実性がないかのようにほのめかされる理由が、どこにあるのか、私は理解に苦しむのです。

 以下のビデオにて紹介しましたように、今、日本のみならず、世界各国で、ネットを通して、偽キリスト、偽教師、偽預言者などを告発する活動が盛んになっています。教会のカルト化問題についても、英語、その他の外国語で多くの議論が展開されているのを誰でも見ることができます。
 そういった意味では、ネット上の情報は、まさに最先端を行っており、日本のキリスト教の世論はそれに比べるとまだ遅れを取っている部分があると言えるでしょう。ですから、クリスチャンがそれぞれ、自分のできる範囲で、最新の情報を広めることに貢献していきたいと考えるのは当然です。

 私はこのブログを自らの信仰告白の場であると申し上げましたことを、すでに読者の皆さんはご存知です。私は村上師のおっしゃるように、ブログで「話題作りに励んで」いるのではなく、また自分の「創作」活動を行っているのでもなく、また学術論文を書いているわけでもなく、キリスト者として、主イエス・キリストへの愛と信仰から、主イエス・キリストの溢れる恵みが私の人生にいかに豊かに注がれたかを証し、また、聖書を冒涜する者たちの危険な活動について警告し、危険な活動からは早急に離れるようにクリスチャンに平和的に呼びかけているだけです。

 私は政治運動や、暴力的な活動を展開、組織し、指示したことはこれまで一度もありません。むしろ読者が私の主張を基にして、どんな組織的な運動をも起こすことがないように幾度もブログで呼びかけて来ました。悪に対しては、ただ「非暴力、不服従」が私のモットーであるからです。暴力を用いず、平和的に警戒を呼びかけることは、聖書が禁止していることではありません。

 ネットには光と闇の両面がありますが、聖霊の導きによって、上からの知恵を与えられ、情報を取捨選択する能力を与えられたクリスチャンにとっては、ネットの情報はもはや危険ではなく、現場から得た情報と同様に、頼りになる部分が大いにあります。
 そして安易に情報を鵜呑みにしないために、私がこれまで常にディベートの方法論に基づいて議論を展開して来たことも、読者はご存知です。

 しかしながら、もしも、ネット上の情報に基づいて事実認識を深めることが誤りであるか、もしくは、稚拙な行為であるとご判断されるのであれば、どうぞその根拠を明確にお示し下さい。


4)「針小棒大」問題


 カルト監視機構のことを私が「針小棒大に書きたてている」とのことですが…。
 
 ① 私には、カルト監視機構が秘密警察であると主張するだけのはっきりした根拠がございます。ですから、この意見を「明確な誤り」として削除する必要を感じません。

 繰り返しますが、カルト監視機構とは、教会がカルト化していないかどうかを調査するという名目で、信徒の告発に基づいて、諸教会に内政干渉を行い、カルト化していると判断された教会を現実に抑圧し非難するための、実力行使を伴う機関となる可能性が初めから予想されていたのです(そのために法律家がメンバーに加えられているのだと世間の人々が考えるのは当然です)。

 しかも、すでに述べたように、本格的な調査を行うためには、調査を(指導者連には悟られないよう)秘密裏に行わなければ、誰一人、決して正確な情報を得ることはできません。秘密裏な調査を行う以上、調査方法を明かすことはできません。ですから、カルト監視機構には、人々の目につかないところで、悪事についての情報を収集し、それに現実的な制裁を加える秘密警察と呼ばれるだけの十分な根拠が実際にあったのです。さらに、ドストエフスキーなどに関する研究を根拠にして、これに新たな根拠を付け加えることも可能ですが、今はあえてしません。今後の記事をご参照下さい。

 ② それでも、もしも、私のこのような意見が少数派であり、一方的な決めつけであったならば、私の意見が、多くの人たちに理解されることはなかったでしょう。読者は決して愚かではありません。たとえ私のような一個人がブログにどのような反対意見を書いたところで、それがもしも根拠薄弱、事実無根の主張であれば、読者は賢明にその意見を無視したことでしょう。

 ですから、今回、村上師が書いておられるように、一人の書いた記事が引き金となって、多くの人がカルト監視機構の設立計画について騒ぎ始め、それが計画を中止させるまでの反響に至ったのだとすれば(そのような事実があったのかどうか私は詳しく知りませんし、そのようなことが起こった証拠もありませんし、仮にそのような事実があったとしても、それはあくまで個々人の選択であり、そこに私の指示など一切ないことは明白ですが)、それは、クリスチャン世論がそもそもの初めから、この機構の設立を望んでいなかったという事実を示しているに過ぎません。

 このことは、カルト監視機構の設立計画に関するニュースを聞いて、私と同様の危惧や、戦慄を覚えた人たちが多数存在したことを、何よりも明確に証拠立てています。つまり、私の書いた記事が、ただ私一人の意見にとどまらず、クリスチャン世論の一般的思惑に合致していたからこそ、この話題に関して、多くの人が真剣に考え、「多くの人々が…書き立て」るという反応が起こったと考えるのがふさわしいのです。

 村上師は書いておられます、「確認のために電話をくださったのはおひとりだけだったと。
 なぜたった一人しかじかに確認しなかったのでしょうか? どうしてカルト監視機構を擁護し、あなた方の活動を弁護するために立ち上がった人が他にいなかったのでしょうか? どうか、その理由についてご自身で深くお考え下さいますように。私の記事以前にも、もしも、監視機構設立という活動を賛同の意をこめて見守っていた人が多かったならば、果たして、そのような結果が起こったでしょうか。

 ですから、なぜ反対の声が起こったのか、その原因がどこにあったのか、深く探ることなく、その原因をただ私のブログだけに求めようとすることは、ナンセンスです。クリスチャン世論が何を望んでいるのか知ろうとすることなしに、人々の声を無視して、一方的に行動することは誰にもできません。

 ③ 私の考えるところによれば、カルト監視機構に対して反対が起こった最大の理由は、カルト監視機構を設立しようとした方々が、何よりも、カルト監視機構の設立の意義を、あらかじめ諸教会とクリスチャン世論に十分に周知せず、彼らの同意を得ないままで、いわば、彼らの頭越しに、教会の内政干渉を行うような活動を前提とした組織の設立へ向けての話し合いに移ろうとした点にあります。

 第一に、「今、なぜ、カルト監視機構なのか」という説明を十分に行わないままで、機構の設立について一方的に検討しようとしたことに対して、非難の声が上がったのです。それは当然すぎるほど当然の結果だったと言えるでしょう。

 第二に、日本脱カルト協会がすでに存在していたにも関わらず、それに加えて、カルト監視機構を新たに設立せねばならない理由が、多くの人にとって不明だったことも、反対の原因となっています。

 第三に、カルト監視機構の活動が、必然的に、教会の内政に干渉するものとなることは、私の指摘を待たずとも、誰の目にも明らかですが、それが、牧師の自主独立性を尊重し、牧師が他の牧師によって干渉されずに自立した牧会活動を行うことを前提としていた、これまでのプロテスタントの伝統となじまなかったこと、つまり、多くの牧師たちが(役員、信徒たちもそうですが)、教会に外部の者たちからの調査のメスが入れられることに同意できず、それを教会の自立を損なう内政干渉であると受け止め、深い懸念を示したことが、反対の根本原因だったものと私は考えています。

 まとめるならば、「なぜ、今、カルト監視機構なのか」という理由を、ほとんどのクリスチャンが理解できず、また脱カルト協会に加えて新たな機構を設立する必要性が理解されず、諸教会が、自主性を損なう内政干渉的な調査を受けることに拒否反応を示したことが、反対の声が上がった最大原因なのです。

 カルト監視機構のみならず、他の形であれ、諸教会への根回しや、クリスチャンへの周知活動(宣伝キャンペーン)を十分に行わずに、教会の独立性を犯し、内政干渉を行うような組織の設立を計画する人々がいたとすれば、それが反感を呼ぶのは当然のこととして予想できます。

 これまで牧師の自主独立性を大目に見すぎるほど認めてきた(それゆえにカルト化が放置されてきた)プロテスタントのキリスト教界において、牧師の独立性を犯しうる権威を持った組織の設立が、そんなに容易に認められるはずがないことは、誰が見ても、すぐに理解できます。

 ですから、これは一個人に過ぎない私の記事が作り出しうる影響力の範囲を超えた出来事です。カルト監視機構設立の計画に対する世間の反応は、私の記事を原因として生まれたものではなく、これまでのプロテスタントの伝統になじまない活動を繰り広げようとした人たちに対する、クリスチャン世論からの当然の拒否反応だったと考えるべきなのです。
 そういった歴史的・伝統的背景をどうぞ深く考慮に入れた上で、今回の事件の真の原因がどこにあったのか、ご理解下さいますように。今回のことは、キリスト教界に大きな変革を促すような構想を持った計画を作ったにも関わらず、発案者がそれについて、あらかじめ、十分な周知活動を行わなかったことに対する手痛い結果であったのです。その事実を見据え、カルト監視機構に関する反対の声が上がったことの責任を私のブログに転嫁しようとすることをお控えいただきたいと存じます。

 このように、キリスト教界が全体として、恐らく、設立を望んでいないだろうと思われるカルト監視機構ですが、もしも今後、どうしてもカルト監視機構を平和裏に設立されたいと望む方がいらっしゃるのであれば、前もって宣伝キャンペーンを行い、その意義と必要性をクリスチャン全員に周知し、全国津々浦々の諸教会に対してもれなく、内政干渉としての調査を行うことについて、あらかじめ同意を得た上で、日本脱カルト協会にも設立について同意していただき、私が述べたような反論も含め、これから起こるであろうあらゆる反論をあらかじめ封じ込めてしまうほどに、説得力のある強力な根拠を提示して、この機構の透明性、安全性、有効性を万人に示し、その活動内容を詳細に定義して分かりやすく公開して説明し、いかにカルト監視機構がキリスト教界の平和に貢献する善良で安全な機関かということを、教養のあるなしに関わらず、どんな人にでも分かるように、徹底的に世間に周知した上で、設立計画を平和に推し進めていくべきでしょう。そうすれば、いつか反対なしに機構を設立することが可能となる日が来るかも知れません。

 ですが、私のような一信徒がブログで批判した程度で、このような非難が返って来るのであれば、村上師の活動は、初めから反対者の意見を汲み上げない、異論を考慮に入れない、一方的で独善的な正義なのだと、世間から受け取られても仕方がありません。広く深い見識を持ち、深い人間洞察力を持ち、何よりもキリスト者としての愛と謙遜に満ち、自分と異なる多様な意見にも、冷静に客観的に耳を貸す心の余裕を持つ指導者が、監視機構を設立するのであれば、まだ良いかもしれませんが、もしもそうでない人が、カルト監視機構を作り、それを実際に動かすようになると、どのような危険な事態が持ち上がるでしょうか? 独善的で視野の狭い正義を振りかざし、明確な根拠もないのに、次々と反対者を攻撃・非難し、気に入らない信徒を排除するばかりの非人間的な機構が出来上がらないとも限らないと、世間が憂慮するのは当然ではないでしょうか。

 カルト化した教会で神のようにふるまっている牧師の腐敗のニュースを沢山、耳にして来たクリスチャンは、今や、反対者の意見であっても、穏やかに耳を貸すことができ、自己への批判にも冷静に耳を傾ける余裕がある指導者の登場を心から待ち望んでいるのです。村上師がそのような方であるかどうか、世間は注目しているのです。


5)牧師だから過ちを犯すことがないのか?

 村上師は書いておられます、「牧師がそのような組織を作ると思うあなたがたの思考は非常識です。このような非常識に踊らされる人々も思慮の足りない人々です」と。

 「牧師が誤った組織を作るはずがない」、そうおっしゃりたいことが伺えます。
 ですが、このような台詞をまさに村上師から聞くことになるとは皮肉です。なぜならば、今日、牧師という職業についている多数の人たちが、牧師にあるまじき、非道な行為を平然と行っていることを、誰よりも、カルト防止活動に関わって来た村上師はご存知のはずだからです。

 「牧師だから誤った計画を作るはずがない」というのは、それこそが、誤った先入観です。このような先入観に基づいて、牧師を無条件に信頼してしまったことこそが、カルト化教会の信徒たちが人生の破滅へと導かれた原因だったのです。
 どんな牧師も人に過ぎません。ですから、どんな牧師をも、信徒は無条件に信じるべきでなく、「牧師だから間違うはずがない」と考えることをやめて、「牧師でも、間違うことはある」と考え方を転じるように心がけなければならないのです。そしてもしも牧師に誤りがあるならば、率直に指摘するようにしなければならないのです。そして牧師はそれに冷静に耳を貸さなければなりません。この「良心のブレーキ」が有効に効くことこそ、牧師の独裁者化や、教会のカルト化を防ぐのです。そのことを村上師はご存知のはずです。

 にも関わらず、どうしてこの「良心のブレーキ」を師はご自分に適用されないのでしょうか。牧師としてご自身もまた信徒の批判に注意深く耳を貸さなければならない誤りやすい存在であるということをなぜ冷静にお認めになれないのでしょうか。
 村上師は、「牧師がそのような組織を作ると思」った私たちが、「非常識」な人間であった決め付けておられます。こうして、世間の意向を無視して、私とDr.Lukeに一方的に非難を向けられるだけならばまだしも、あまつさえ、私たちと意見を同じくして、カルト監視機構に反対した人たちにまで、「非常識に踊らされる…思慮の足りない人々」だと、蔑みと怒りの言葉を向けておられます。

 これは、村上師が現時点で、すでにご自分の活動への反対意見に冷静に耳を貸す余裕を失っておられ、反対者をまとめて「思慮の足りない人々」だと決め付けて、彼らの意見に耳を傾けることを拒否しておられることを示す、憂慮すべき事態です。
 考えても見て下さい、どうして、そんなにも多くの人たちが、カルト監視機構の設立に反対したのでしょうか。その人たちの意見は、本当にナンセンスで、非常識で、思慮の足りない意見に過ぎなかったのでしょうか。その人たちは思慮が足りず、愚かだったがゆえに、反対したのでしょうか。多くの人たちが反対したのに、その意見には全く耳を貸す必要はなかったとおっしゃるのでしょうか。

 「非常識に踊らされる…思慮の足りない人々」
 
このような言葉は、信徒を侮辱しています。この言葉が発せられる背景には、「私の活動は絶対に誤るはずがない、私の活動の意義を理解できない人たちは、愚かであるがゆえに理解できないのだ」という思い込みがあるように私には思えてなりません。けれども、誰よりも、村上師自身がご存知のように、「私は絶対に間違わない」という思い込み(高ぶり)に陥った教会指導者こそが、これまで、反対者を残酷な方法で次々に攻撃し、非難し、教会から排除していき、独善的な教会運営を繰り広げて、教会をカルト化させて来たのです。自己の無謬性を信じ、人の批判に対して完全に耳を塞いでしまった瞬間から、牧師はもはや神に忠実に仕える僕ではなく、現人神になってしまうのです。


6)Dr.Lukeへの非難に対して


 村上師は書いておられます、「会ったこともないブログの主に対して、なれあいのコメントを書き続ける「専門家」はあなただけでしょう」と。
 ここで言われている「会ったこともないブログの主」とは誰のことなのでしょう。私のことでしょうか?
 もしもこれが私のことを指しているのであれば、Luke氏と私との間には直接の面識があることを、私はブログに随分前に書いておりますが、記事をお読みになっていらっしゃらないのでしょうか。もしそうだとすれば、徹底的な情報収集の必要性を日頃から説いておられる方にしては、随分、軽率な理解だと言わざるを得ません。
 
 「専門家」と括弧つきで書いておられることから、Dr.Lukeを専門家として認めておられないことが伺えます。しかし、博士号を持っている人が専門家と呼ばれるに値しないのであれば、一体、誰が専門家と呼ばれるに値するのでしょうか。お伺いしたいと思います。

 「お二人の共通点は、「カルト監視機構」を針小棒大に書き立てていることです。」

 私たちの共通点とは、まず、まことの主イエス・キリストを信じているところから始まり、そこに終わります。Lukeさんが当ブログにコメントを書いて下さったのは、私たちが同じ主を信じている信仰による同胞であることを霊のうちに確信して下さったからです。

 ブログをお読み下されば分かるでしょうが、私がカルト化教会の事件による心痛から立ち上がれずに苦しんでいた頃、Lukeさんはコメントを通して、私をずっと励まし、支え続けてくれました。お伺いしたいのですが、私がひどい事件に遭遇したことをご存知であられた村上師は、私の事件の解決のために、具体的に何を尽力して下さったのでしょうか? 私は多大な犠牲を払って京都教会に通ったのに、事件の進展はまるでなく、私が絶望的な気持ちで教会を去って以後も、村上師は、私に励ましのコメント一つ、手紙一通、電話一本、下さいませんでしたね。

 しかし、村上師がなさらなかったことを、Lukeさんはキリストの名において、この小さき者のためにして下さったのです! Lukeさんはキリストの愛にならって、仕える姿勢を取り、傷ついた羊を憐れみ、助けの手を差し伸べてくれました。その貴い行為がどうして、「なれあいのコメント」などという言葉で卑しめられねばならないのでしょうか。
 しかし、Lukeさんは、私を助けてはくれましたが、決して自分に依存させることなく、牧師崇拝に陥らせることなく、ただキリストにあっての完全な自立へと導いてくれたのです。ですから、私は今やカルト化教会の人々を赦しています。心に悲しみはなく、いつまでも被害者という名札に寄りすがって、一方的に人の憐れみと同情ばかりを乞う必要がもうなくなったのです。私は、もはや傷ついてさまよう羊ではなく、主にあって、健康で喜びに満ちた信徒へと戻ることができたのです。どうか主の祝福がLukeさんにありますように!

 さらに言えば、私自身も博士号を持っていますので、その点で、Lukeさんとは、もう一つ、共通点があります。日本の大学は欧米に比べて水準が低いなどと揶揄されることもありますが、私自身は決してそうは考えておりません。若い人たちが、日本の大学で博士号を取得することが、経済的にも、人間関係の上でも、どれほど困難か、身を持って知っているからです。ドクター論文を放棄して大学を去って行く研究者も後を絶ちません。特に、人文科学系の分野においては、博士論文の執筆には6年以上の月日を要することが当然視されています。

 私自身は、主イエス・キリストを知る知識の前に、学歴など何とも思っておりませんが(キリストに栄光を帰すためにこれまで立場を明かしませんでした)、ただ世間の一般常識として、このように多大な犠牲を払って、学問に身を捧げて来た人たちの専門性を冒涜するかのような発言を軽々しく行い、学問の価値を軽んじられるのはあまりよろしくない行為であると思います。

 村上師が「カルト専門家」として認められているのが、どういった承認によるのかは存じませんが、博士は自称できません。厳しい審査を経て、公に学者として認められている人たちを「非常識」扱いすることは、その人を学者たらしめてくれた先生方全員を馬鹿にすることになり、ひいては、学問そのものに石を投げつける行為となります。

 キリスト教界の先生方の中にも、恐らく、血のにじむような努力をして博士号を取得された方がいらっしゃることでしょう。なのに、そのような努力をして専門家として立った人たちを簡単に「非常識」扱いされる発言は、私個人には赦せたとしても、一連の学者たち全員を敵に回す発言だと受け取られかねません。世間は、常識に欠けるのはどちらだと思うでしょうか。
 さらには、そのような発言は、世間で認められてきた伝統的な権威へのいたずらな反発に基づいている(革命的発言だ)と受け取られかねません。それでは、村上師がこれまで行って来られた活動すらも、ひょっとして権威への反発という動機に基づいていたのではないかという憶測を呼ぶことにつながりかねません。以後、その旨を考慮され、ご発言に慎重になられた方がよろしいかと存じます。

 何事に関しても、多様な意見が存在を許されているのが民主主義社会の決まり事です。ですから、ご自分の活動に対しても、様々な角度からの意見が存在し得ることを、もっと冷静にお認めになられ、異論にも耳を貸せるだけのおおらかな心の余裕を持っていただけるように、主にあって切にお祈りいたします。

 以上


反キリストを告発するビデオ(前編)

「偽キリスト」(前編)




(ビデオの所在地が変わったため、Youtubeへリンクを貼っています。)

注意!!

 これはクリスチャンにとって、大変、衝撃的かつ忌まわしい内容を含んでいますので、ご視聴の際は、ご気分が悪くなる危険があります。十分にご注意下さい。

 ここには、ベニー・ヒン、ケネス・ヘーゲン、ケネス・コープランド、シンディ・ジェイコブズなど、日本の聖霊派の諸教会が大きく影響を受けたペンテコステ運動の並み居る指導者たちが、近年、あからさまに偽キリストとしての正体を現している衝撃的な映像が、発言とともに、証拠としておさめられています。

 これは"「目に塗る目薬」というサイトから引用させていただいたものです。従って、字幕は全てロシア語ですが、英語の台詞が多いので、聞くだけでも理解できる部分があるかと思います。
 恐らく、英語ヴァージョンが存在するはずだと思いますが、現時点では、発見できていません。所在をご存知の方はどうぞ教えて下さい。

 ロシア語への翻訳者は不明です(主のための御用として名前を伏せたと思われますが、感謝します。)
 内容の60%ほどを翻訳し、ホームページに掲載ました。テキストはこちらをご参照下さい。



* * *

 この映像を見れば、現代における背教とは、その形態の如何を問わず、人が神になるという思想に貫かれていることがお分かりいただけるだろう。
 この「人が神になる」という異端の教えは、今日、様々な形でキリスト教界に入り込んで来ているため、警戒が必要である。
 
 Dr.Lukeがウィットネス・リーの地方召会(教会)に関する分析記事の中で、「カルトの本質とは、人が神になること」と指摘しており、また、ウィットネス・リー語録の中で、リー氏の唱える聖書の奥義は、「人が神になる」という異端の教えであることを指摘している。
 こうして、「人が神になる」という教えを奉じたローカル・チャーチについては、すでにカルト化を表す事実がいくつも指摘されているが(Luke氏の記事参照)、今後、問題がより一層、深刻化することが予想される。

 これまで、このブログをお読みくださった方は、ウィットネス・リーの教えの異端性が、ペンテコステ・カリスマ運動に影響を受けた諸教会で唱えられている教会成長論の教えの異端性と、極めて類似した構造を持っていることを、私たちが幾度も論じ合って来たのを、覚えておられることだろう。

 今回、ご紹介させていただくビデオは、それが予想のレベルを超えて、まさに否定できない現実であったことを、無数の証拠によって裏付けている。今日、教団、教派、宗派を問わず、キリスト教界に、「人が神になる」という反キリストの教えが様々な形で入り込んでいることが、このビデオをご覧になれば、また、テキストを詳細にお読みいただければ、どなたにでもお分かりいただけるだろう。

 今日、教会のカルト化のニュース、聖職者の腐敗・堕落のニュースが、クリスチャンを衝撃に陥れているが、そうした堕落の根本原因として、「人が神になる」という思想があることは想像に難くない。
 
 「人が神になる」という思想は、創世記に記された初めの時代から、今に至るまで、変わることのないサタンの誘惑である。だが、とりわけ、終わりの時代に属している今日のキリスト教界は、嵐のようにこの誘惑にさらされている。背教に染まってしまう教会が多数、出現しているので、クリスチャンは堅く聖書に立って、警戒を怠らないようにしなければならない。 

 私自身が、かつてベニー・ヒンの集会に参加した経験を持っていたため、このビデオを見て、本当に背筋の寒くなるような思いであった。これらの人々の登場を、クリスチャンとして、主の御前に、心から嘆かなければならない。

 読者の皆さんに警告します。このビデオに登場する人たちの教えに耳を貸してはなりません! 彼らに従ってはいけません! 彼らから離れなければなりません!

 一人でも多くのクリスチャンが、彼らの誤りに気づいてくれることを願いつつ。


主は豊かに雨を降らせる


 昨日は昼から雨が降り始め、曇り空の中に緑が美しかった。

「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、
 主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、
 主の戒めはまじりなくて、眼をあきらかにする」(詩篇19:7-8)

 主にあっての健全さ、というテーマについて思い巡らしているうちに、主にあっての完全さ、というテーマについても、考えさせられるようになった。聖書を読んでいると、父なる神は、御子イエスがそうであられたように、私たちクリスチャンにも、一人ひとりが完全さに到達することを望んでおられるということを随所で感じさせられる。

 だが、完全さとは、あまり聞きたくないような言葉だ。人間はあまりにも不完全な存在であり、生きているうちに完全さに達することなど、ほとんどあり得ないように思われるからだ。人はいつも心のどこかで、自分の不完全さを(神に)大目に見てもらいたいという臆病な気持ちを抱えている。

 キリスト教においては、人は霊、魂、肉の三つの要素から成り立っているとされている。
 肉は、欲望に支配され、神のおきてに従えず、神に反逆する堕落した性質を帯びている。
 魂は、肉の法則に強く支配されており、神のことを思うより、自分のことを思い、変化する人生において、絶えず感情的に翻弄されている。
 霊は、人にキリストのことを思わせ、平安の中で主のご計画を人に知らせ、神のみ教えを守るよう導く。

 聖書を読んでいると、しばしば、肉体と魂とは、まったく絶望的な性質を帯びており、信仰生活を送る上で、ただ余計な障害物でしかないように感じられる。なぜなら、人間の肉体と魂とは、何によっても支配されない気ままな自由を求め、聖霊の指揮下に入ることを嫌がり、主のおきてに絶えず反抗しようと試みるからだ。

 さらに、肉体と魂は、それほどまでにわがまま勝手でありながら、同時に、ひどく弱い。逆境にあって、自分の肉と魂が大いに苦しめられる時、人はこの弱さを否応なく思い知らされる。きっとどんなクリスチャンでも、つぶやかずにいられない時があることだろう。

 神はなぜこのような弱い、しがらみに満ちた複雑な性質を人にお与えになったのだろうか。どうして人を霊だけで創造されず、神に反逆する肉体などお与えになったのか。いっそ、肉体も魂も消失し、一足飛びに、苦しみと悩みのない世界へ引き上げてくれればよいのに…。主よ、いつまで、私はこの弱い肉体と、翻弄されやすい魂を引きずって生きなければならないのですか…。

 正直なことを言えば、かつて私は数え切れない日数、そのような愚痴の祈りを捧げてきた一人であった。私はこの反逆的な肉体と魂を抱えて、とても信仰を守り通せるように思われなかったので、この矛盾から解放されるために死を望んだほどだった。だが、そのように祈っていたのは、私がまだまだ、主にあっての恵みの豊かさを知らなかったためだった。

 人が十字架を信じて救われ、聖霊に従って、落ち着いて、健やかに、人生の歩みを進めていく時、それまではただ信仰に敵対するものであり、厄介な重荷のように感じられるだけであった肉と魂が、驚くべきことに、健全なものへと変えられ、限りなく、あるべき姿へと近づいて行くということが起こる。

 それは、人の肉体の弱さや、心の悩み苦しみが全くなくなるという意味ではない。たとえ悩み苦しみが終わらなかったとしても、主に従って歩む時、人の肉体と魂は、それまでのような病や死の法則性から解放されて(完全にというわけではないが)、限りなく、あるべき健全な姿へと近づいていくのだ。

 すなわち、魂は悩み苦しみにきりきり舞いさせられる状態から解放されて、安らぎを得、心は悲嘆にくれるのでなく、喜びを得、身体にも、日々、新たな命がもたらされるようになる。
 確かに、人が寿命を超えて生き延びることはできないので、肉体が病と死そのものから全く解放されるわけではないが、人が御言葉に従い、聖霊に導かれて歩む時、地上にあって与えられている日数を、限りなく健やかに生きることが可能となるのだ。教養のあるなしに関わらず、知識が増し加わり、物事に対する適切な洞察が与えられる。それまでのように、出来事に翻弄されることが少なくなり、身も心も、平安の中に落ち着いて、健やかな暮しを営むことが可能になっていく。

 その時、私たちはただ霊だけで神を礼拝するのでなく、全身全霊で、神を礼拝することが可能となる。つまり、魂も、心も、感情も、知識も、手足も、肉体も、自分の全てによって、神を礼拝することが可能となる。人を構成する全ての部分が、聖霊の指揮の下で、神に賛美を捧げるために特別編成された、優秀なオーケストラのようになっていくのだ。
 こうして、霊の指揮下に入った時、以前には呪われた障害物のようにしか思われなかった肉と魂さえ、はるかに生き生きと、健康に、あるべき姿で生かされるようになることを私たちは知る。こうして、その人の全存在から喜びが溢れ、ほとばしり出るようになる。その人の存在そのものが全体として、何一つ欠けることのなく、神の栄光を表わすモデルとなっていくのだ。

 それが、人が神の神殿となるということの意味だと私は思う。このように生きているクリスチャンを見た時、信仰を持たない世間の人々でさえ、そこに命の豊かさがあることを感じ、その人がいかに神から愛されているかを感じずにいられないだろう。

「わが魂よ、おまえの平安に帰るがよい。
 主は豊かにおまえをあしらわれたからである。
 あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、
 わたしの足をつまずきから助け出されました。
 わたしは生ける者の地で、主のみ前に歩みます。」(詩篇116:7-9)

 主のおきてに背くことによって、魂の暗闇と、涙の川を経験することがもしなかったならば、私はこのような聖句の意味を一生、理解できなかったかも知れない。神への反逆は人を命の法則から引き出し、死をもたらすが、神への従順は、人を命の法則の中へと引き戻し、豊かな命溢れる生活を与えるのだ。その命とは、肉体と魂を新生させる命でもあるのだ。

 「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、
 彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、
 彼と共に葬られたのである。
 それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、
 わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。<…>
 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」
 (ローマ6:3-8)

 私たちは信仰を守りぬくために、障害物となりかねない肉や、感情を、次々、自分から排除していかなければならないのだろうか? 日々、自分の肉体と魂を十字架につけて、再び死ななければならないのだろうか? いや、そうではない。私たちはバプテスマを受けた時、すでに全体として、死んだのである。その時、私たちの肉と魂も、十字架につけられてキリスト共に死んだのである。

 そうである以上、私たちが日々、しなければならないことは、私たちはすでに死んだのであり、今はキリスト共に生きているということを思い出すことである。

 すでに神の幕屋となっているものを再び滅ぼすことはできない。だから、私たちは目を皿のようにして自分の中に信仰にそぐわない性質を探し出しては、悪なる性質を最後まで根絶しようと躍起にならなくても良いのだ。自分がすでにキリストによって新生しており、キリストにあって命の豊かさを約束されていることにただ思いを馳せれば良いのである。

 ただし、そうは言っても、もちろんのこと、キリストの指揮の下で、聖霊の指揮下で、生きていくことは忘れないようにしなければならない。指揮者の指示に従わず、楽譜を無視し、各成員が思うがままに滅茶苦茶な演奏を繰り広げるようなオーケストラには、混乱があるだけであり、そのような形で人生を送るならば、私たちは罪の状態に逆戻りしてしまうだろう。だが、指揮者としてのイエスに常に目を向け、その御言葉を守るならば、私たちは自分の肉や魂も含めて、自分の全存在によって、素晴らしいオーケストラを奏でることができるようになると信じて良いのだ。

 もしも現時点で、完成に達していないパーツを一つひとつ放り出して行ったならば、神の幕屋としての私たちの中には何も残らなくなるだろう。だから、たとえ信仰生活を歩む上で、色々な失敗が積み重なったとしても、私たちは神の幕屋としての自分自身を幾度も罪に定めて、不完全なもの一切を除去しようとして、自分を切り刻んだりすべきではない。間違えたり、調子はずれな音を出してしまった時は、ただ、誤りを率直に認め、御言葉に戻り、指揮者を見上げ、イエスのタクトにもう一度、自分を任せるだけで良いのである。

「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」(ローマ6:11)

 私たちはすでに罪に対して死んでおり、神に生きている。何と嬉しい、勇気づけられる言葉ではないだろうか。私たちは、罪を除去するために、自分のあら探しをもうしなくて良いのだ。神の神殿としての私たちは、イエスの指揮下で、調和の取れた、美しい音楽を奏でられるようになり、それによって、神に栄光を帰することができるようになると信じて良いのだ。私たちは主にあっての喜びと命の豊かさを存分に受け取り、味わうことができるようになるのだ。

 昨日は雨であったので、次の御言葉でしめくくろう。

「シオンの子らよ、
 あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。
 主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、
 またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、
 前のように、秋の雨と春の雨とを降らせられる。」(ヨエル2:23)

 雨は旱魃を防ぎ、豊かな収穫をもたらすために不可欠なものである。主が雨を降らせるとは、神がご自身の犠牲によって義とされた私たちのために、人生に実りをもたらすに必要な全てを備えて下さるということである。
 主が私たちのために豊かに雨を降らせて下さる。だから、私たちは自分の人生を大いに喜び、楽しんで良いのだ。

高梁川にかかる橋

義務感からの解放

「人を愛さなければならない」、「弱者を救済せねばならない」という強迫観念にとりつかれると、私たちの人生は大変な混乱に陥る危険性がある。

隣人愛が、強迫観念に変わるとは、何とも予想しがたいことだが、クリスチャンの中には案外、そういう転倒に陥る人が多い。
ジョン・ウェスレーが名だたる悪妻と結婚してしまったのも、隣人愛を、依存関係と取り違えたからなのではないだろうかと私は想像している。

なぜそのように思うかと言えば、かく言う私も弱者救済という強迫反復の心理に支配されて生きていた人間の一人なので、きっとそうに違いないと直感するだけの理由があるのだ。

また、私の研究領域だったロシアには、そういう事例が満ち溢れていた。私が最後の論文の中で強調して書いたことなのだが、特に19世紀のロシアでは、「弱者を救済せねばならない」という強迫観念に、ほとんど一人の例外もなく、知識人全体が追い立てられていたのだった。

虐げられた民衆を救済するために「何をなすべきか」("Что делать?")という問いかけが、宗教人、学者、政治家、革命家を問わず、インテリゲンツィヤ(知識人)の間でこだまのように鳴り響いていたのが19世紀-20世紀初頭のロシアであった。そのことは当時の書物を読めば、誰でも感じ取れる。民衆の救済、民衆の解放というテーマが、知識人の共通課題となり、弱者たる民衆を何とかして解放せねばならないという、強迫的な心理に、知識人がこぞって追い立てられていたからこそ、ロシアは革命運動の温床となっていったのである。

だが、隣人を愛するとは、隣人を自力で救済しようとすることではない。
それなのに、弱者に対する思い入れが強すぎる人は、弱さを抱えている人を見ると、放っておけず、自分が助けてやらねばならないと思って、自分の力で相手を解放しようと試みて、かえって相手を自分に依存させる不健全な関係に落ち込んでいくことが多い。

「弱者を見捨てるのは人間としてあるまじき行為だ」という義務感、もしくは、不正への憤り、何らかの心の負い目が、弱者に過度な支援を差し伸べる理由となり、それが「救済」という名目での不健全な相互依存関係を生んでいくのだ。

愛は自発的な感情であり、義務感からは生まれようがない。さらに、終りまでサタンの支配下にあって、あらゆる不条理がはびこることを運命づけられているこの世では、人間には人間をくびきから解放する力はもともと備わっていない。

なのに、隣人愛、弱者救済を旗印に掲げ、弱者の解放を義務として遂行しようとする人たちがいるが、そのような人たちの救済活動の裏には、それによって、自分の心の負い目を解消しようとする、達成不可能な願望が潜んでいる。

私は心理学の専門家ではないのに、なぜこのような話をするのかと言えば、それは、かく言う私も、この種の不健全な心理によって、相当、人生を狂わされてきたためなのだ。私の中には、長い間、何が健全で、何が不健全か、という判断の物差しはなく、「何をなすべきか」という課題だけがあった。キリスト教界に所属したために、隣人愛への義務感はより一層強まり、私もまるでロシアのインテリゲンツィヤのように、「弱者を助けねばならない」という義務感に突き動かされ、人生の大切な時期をむなしい救済運動に費やすはめになってしまったのである。

そこで、過去の大失敗に鑑みて、今、意識的に、不健全なものを捨てる訓練を開始することに決めた。人との関係を築く時、あえて自分にこのように問うことにしたのだ。

「私たちのこの関係は、人から見て、健康で、微笑ましく、できるなら自分もそこに加わりたいと、自然に思えるような、自由で、魅力的なものだろうか? それとも、不自然で、無理が多く、普通の人にはとても真似できないような犠牲を伴う、困難で、悲劇的な関係に見えるだろうか?」

先ず真っ先に、思い浮かんだのは、キリスト教界で深刻な被害を受けられたある方との関わりであった。その方が、長年に渡り、教会でひどい被害を受けられたお話を、私は直接、本人の口から聞いていた。それがあまりに痛ましい体験であり、私たちの間には多くの共通点があったので、できる限り、信仰の同志として、問題の解決に助力したいと考えてきた。

だが、その方との関係は、いつも何かが変であった。どうにも、私が一方的に支援するだけのように感じられることが多かった。私が本当に苦しんでいた時、その方が私のために、何か具体的な犠牲を払おうとしてくれただろうか? 私たちの間に、隠し立てのない、信頼できる交わりがあっただろうか? 答えは否だった。

そこで、この方のことは、一切、主にお任せして、私は関わりから、身を引くべきだと分かった。たとえどんなに切羽詰った窮状に置かれている人を目の前にしたとしても、主によって与えられた自由を、依存関係と取り替えることはできない。

こうして、今まで自分を苦しめてきた「(弱者のために)何をなすべきか」という強迫的な問いかけを、私は人生から一切、投げ捨てることにした。「人を愛さねばならない」とか、「弱者を助けねばならない」というスローガンは、一見、聖書的で、もっともらしく聞こえるが、自主性に基づかないのでは、まるで意味がない。義務や強制によって愛を生み出すことは、不可能である。

愛とは、具体的な助けを差し伸べることだけを意味しない。愛を表わすには様々な形がある。そしてクリスチャンが隣人に示せる、愛に基づいた最高の支援の形は、次の通りだと私は思っている。

「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」(使徒3:6)

ペテロとヨハネのこの言葉は、生まれつき足のきかなかった男の足腰を強め、彼を躍り上がるようにして、立ち上がらせた。

これは、ただ、ある男の足腰が癒されたという奇跡の物語であるだけでなく、象徴的な意味で解釈が可能だ。

すなわち、自分の足で歩くとは、自立することを指す。

イエスは、38年間、寝たきり同然だった人の病を癒して言った、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」(ヨハネ5:8)。イエスの言葉によって、病人は立ち上がった、すなわち、御言葉を聞いて、彼はただちに「自立した」のだ。

また、イエスは盲人の目をいやされることによって、盲人に光を与え、彼を自立させた。
「わたしは、この世にいる間は、世の光である」(ヨハネ9:4)と言われたイエスは、その言葉をただ象徴として発したのでなく、盲人にとっての正真正銘の光となられたのである。

イエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」(ヨハネ9:39)。

自分が病んでおり、自立できておらず、他人に依存せねば生活できない弱さを抱え、悪循環にとらわれたむなしい人生を送っていることを自覚して、その病や弱さ、不健全さ、悪循環を主の御許に携えてやって来た人たちを、イエスは、瞬時に解放し、彼らを自立させた。

他方で、自分が病んでいることを決して認めようとせず、いつも自分の力に頼って自分を解放しようと試みている人たちに対して、主は、「見える人たちが見えないようになる」と厳しい未来を宣告された。

今日、「日本斬り捨て協会」というような名前を持つおかしな集団社会に目を向ければ、そこでは、「私は誰よりも正しく物事が見える」と豪語している人たちが、まるで盲目のように、くもの巣のごとく癒着した人間関係に足を取られ、互いに足を引っ張り合いながら、暗闇に沈んで行く様を誰でも観察できるだろう。

聖書には、弱者救済の方法がきちんと書いてあるのに、なぜそれとは異なる方法論を試そうとする人がクリスチャンの中にこれほどまでに多いのだろうか。大宣教命令を口実にして、毎年のように、全人類の救済のために、新たに打ち出される各種のプログラム、新しいイベント、終わりなき興行の不気味さ…。収穫どころか、犠牲ばかりをもたらし続けているリバイバル運動の不可解さ…。

まるで知識人の誰も彼もが、「ナロート(民衆)」を解放せねばならないと、口角泡を飛ばして議論を重ねた19世紀-20世紀初頭のロシアさながらの風景がそこに広がっているのではあるまいか。全人類の救済という強迫観念にとりつかれた前途ある青年たちが、人類救済のためのプログラムとしての革命運動に人生を飲み込まれ、地下活動のために率先して命を失ったり、あるいは貴重な人生を逮捕と流刑のうちに失って行った、約1世紀以上前のかの国と同じ風景を私はそこに見出さずにいられないのである。

彼らを突き動かしているのは、隣人愛ではなく、全人類を救済せねばならないという強迫観念である。

私たちが自分の弱さに対してなすべきことは、弱さを自力で解決しようと試行錯誤を重ねることでなく、弱さを主の御許に携えていくことだ。同様に、私たちが他の弱者に対してなすべきことは、弱者の人生を解放しようとして、力を振り絞って活動することではない。革命運動やら、市民運動やら、裁判やら、霊の戦いやら、トランスフォーメーションやら、あらゆる種類の救済活動を起こすことによって、自分の力で弱者を解放しようと、闘争を繰り広げ、解放運動に身を捧げることが必要なのではない。

本当に、弱者を解放したいならば、主に働いていただくために、私たちは自分の力を使わず、謙虚に後ろに引き下がるべきなのだ。そして、「ナザレ人、イエス・キリスト」の名によって、弱者が真に解放されて、自分の足で立ち上がり、喜びに飛び跳ねて、主を賛美する時を待つべきなのだ。

人は人を解放できない。御言葉なるイエスが生きて働かれる時にこそ、人はあらゆる不健全な依存から解放され、自立することができるのだ。


創造主のみわざを誉めたたえる


 私の住んでいる地域は、田舎ゆえに、季節の移り変わりがまことに美しい。
花好きの家人のおかげで、庭には私の名も知らない、数え切れないほどの花々が日々、咲き乱れている。

元々、農業のための土地だったところに住んでいるため、周りには住宅が少なく、田園が広がっている。

自然に恵まれた環境に住んでいながら、今まで、写真を一枚も載せなかったのは、このように調和の取れた美しい映像を目にした読者は、私の迷いや、紆余曲折の多い文章など、読みたくなくなってしまうような気がしたからだ…。

これまで、話題の深刻さ、不親切な長文ゆえに、きっと悪評高かっただろう私のブログだが(笑)、残念ながら、このブログでは、さらに一層、深刻な話題を扱うことになるかも知れないので、どうぞご覚悟下さい。

けれども、主にあっての健全さ、魂の調和を保つために、今後、話題が深刻なものに偏りすぎないよう、身近な風景を少しずつ紹介していくことにしたい。また、できるならば、音楽を紹介することができればベストだと思っている(試行錯誤中ですが)。

 「人はみな草だ。
 その麗しさは、すべて野の花のようだ。
 主の息がその上に吹けば、
 草は枯れ、花はしぼむ。<…>
 しかし、われわれの神の言葉は
 とこしえに変ることはない。」
 (イザヤ40:6-8)

 逆境にある時、私は人間の命の脆さ、はかなさを思い知った。若さが花のようにあっけなく散ること、悲しみが人の生命力を急激に衰えさせることを知った。その時の体験を通じて、人を生かしているものが、その人の肉体だけではあり得ないことを痛感させられた。


「目を高くあげて、
 だれが、これらのものを創造したかを見よ。」
(イザヤ40:26)

まことに、命の源であるただ一人の方を失ってしまえば、たとえ健全な肉体を持ち、優れた頭脳を持っていたとしても、それが何になるだろう、滅びは一瞬にしてその人を襲うだろう。

だが、今、たとえ苦しみの中にある方がいたとしても、その人が神により頼んでいるなら、幸いだ。主を待ち望む者の人生は、決して失望に終わることがない、聖書はそう約束してくれている。

主に信頼するクリスチャンは、必ず、一人ひとりが、この美しい野の花に全く劣ることなく、主の栄光を表わすために、それぞれに不思議な形で用いられるだろう。

「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の花でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」(マタイ6:30)

私たちクリスチャンは一人ひとりが主のくすしきみわざによって造られた聖なる神殿である。神を誉めたたえよう。

「カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について

1.「カルト監視機構」の危険性について

 初めに、「カルト監視機構」が設立へ向けて動き出したというニュースを紹介させていただこう。
 ウィリアム・ウッド氏の主催する真理のみことば伝道協会の記事は、かつて一度、挫折に終わった村上密氏とウィリアム・ウッド氏の協力による「カルト監視機構」設立の計画が再び稼動したことを伝えている。

「■ 『カルト監視機構』、設立へ
 村上密(アッセンブリー京都教会牧師)とウィリアム・ウッドは、『カルト監視機構』の設立に向けて、具体的に動き始めました。この機構の目的は、カルトと疑問視されている団体を調査し、適正な判定を下し、発表することです。
構成は、カルト問題に精通している宗教家、臨床心理士、弁護士、法律家など、6人から12人ほどです。先日、プロテスタント教会、聖公会、日蓮宗、及び天理教の教職者で、カルト問題に取り組んでいる方々への協力要請の手紙を出し、六月中に最初の会合を持つことを予定しています。
また、『集団のカルト度に関するアンケート調査』も作成しています。その内容は六つの項目(組織、指導者、信者の実生活、組織活動、家庭生活、被害)に分かれており、百以上の質問からなっています。一つの団体に関する、正確でかつ公正な判断を下すのに不可欠な資料になると思われます。自分の属している団体の『カルト度』を計りたい方に、『集団のカルト度に関するアンケート調査』をお送りします。」

 短い文章であるが、どうか目を凝らして、熟読していただきたい。これは大きな危険性を秘めた計画だからである。

 このような計画は、ずっと以前から存在し、今まで実現を見なかったが、着々と実現に向けて動いてきた。その間にも、村上密氏はカルト対策活動を続けてきた。沖縄リバイバル・チャーチその他の裁判を見ても分かるように、被害者からの通告に基づいて、村上密氏は、カルトの疑いのある教会の実情を調査し、被害者代表として、裁判を支援することによって、カルトの疑いのある教会へメスを入れることに積極的に関わって来た。

 今回の「カルト監視機構」の設立は、まだ萌芽の段階に過ぎないとはいえ、このような村上密氏のこれまでの活動が、一牧師の信念に基づいた試みという枠組みを超えて、理解者を呼び、超教派的広がりを持つようになり、さらには、プロテスタントの枠組みさえも超えて、異なる宗教も含めて、日本の宗教に広がり、宗教全般に対する統一的な、いわゆる統一の異端審問所が生れようとしていることを思わせる。

 どうか次の文章を見逃さないでいただきたい、
「構成は、カルト問題に精通している宗教家、臨床心理士、弁護士、法律家など、6人から12人ほどです。先日、プロテスタント教会、聖公会、日蓮宗、及び天理教の教職者で、カルト問題に取り組んでいる方々への協力要請の手紙を出し、六月中に最初の会合を持つことを予定しています。」

 この文章を読めば、この「カルト監視機構」が、決して、プロテスタントのキリスト教界内だけの浄化作用をはかることを目指して生れたわけではないことが分かるだろう。ここには、クリスチャンであると明言されていない宗教家、臨床心理士、弁護士、法律家などの有識者が含まれているだけでなく、カルト問題に取り組んでいる「日蓮宗、および天理教の教職者」が含まれる可能性があるという、驚くべき記述がある。

 村上密氏、ウィリアム・ウッド氏などがこれまで行ってきたカルト対策に、プロテスタントの各教会、聖公会が本腰を入れて協力することを決めただけならば、話は理解しやすいが、しかし、一体、なぜ、村上密氏が主導で行ってきた「カルト対策」の延長線上にある「カルト監視機構」に、日蓮宗や天理教の教職者までが協力を求められる事態となっているのだろうか。
 クリスチャンと、日蓮宗や天理教の教職者との間に、カルト問題をめぐって、どのような協力と一致が可能なのであろうか。

 いずれにせよ、この機構が、キリスト教の枠組みを超えての活動を始めようとしているという思惑を、ここに汲み取ることができるのではないかと思う。ここには、将来的に、この機構の活動範囲が、いずれ、あらゆる宗教に及ぶものとなることが初めから想定されているように思われてならない。いずれ、どの宗教の教職者たちも、「カルト監視機構」の監視と無縁では活動できなくなる日が来るかも知れない、という私の予測が行き過ぎたものかどうか、考えていただきたいのである。

 私は昨年に書いた記事の中で、フィクションの物語に話を託しながら、「カルト監視機構」というものは決して設立されてはならない、ということを申し上げた。それは、「カルト監視機構は一旦、出来上がれば、やがて必ずキリスト教界内の統一的な異端審問所となり、秘密警察としての機能を発揮するようになり、教界を恐怖政治に陥れ、教界を破壊するだろう」との予測があったためである。

 確かに、プロテスタントの教界において、カルト対策、そして異端の排除を何らかの形で早急に行う必要があることは誰しも否定できない事実だ。異端の排除が適切に行われなかったがゆえに、今日の教界では、イエス・キリストが神であることを否定するような教えすらも、誰からも非難忠告を受けることなく、公然と講壇から教えられているという嘆かわしい現状がある。このような状況が放置されてはならないことは明らかである。

 だが、だからと言って、「異端審問」が、決して、誰か特定の、あるいは複数の少数者の思惑によって利用され、宗教的な権力闘争の手段として利用されたりすることは、あってはならない。プロテスタントのキリスト教界が、合同してカルト化対策を行い、カルト監視のための機構、すなわち、異端審問所のようなものを設けることを決めるのであれば、必ずその際に、何があっても、前もって絶対に考慮しなければならないのは、その異端審問所が、もしも誤った考えを持つ宗教指導者の手に握られ、その人物の悪しき考えによって動かされるようになれば、各教会にとってどれほど恐ろしい結果をもたらすか分からないという危険性である。

 もしも異端審問所が、教界内の権力闘争の手段として悪用されてしまった場合、各教会はそれによって破滅的な影響をこうむることになるだろう。そこで、カルト監視機構のようなものを設立するならば、その組織が人間の思惑によって悪用される危険性があるということを十分に理解した上で、それに対する予防策を十分に講じてからでなければならない。

 ところが、今、プロテスタントの教界において設立されようとしている「カルト監視機構」には、この機構が悪用される危険性をあらかじめ警戒する要素は少しも見受けられないどころか、参加者はいずれも自分が「カルト専門家」であるとの自信を持っている方々ばかりである。初めから、カルトの疑いのある教会を悪と想定し、それに対し、制裁を加えるこの「カルト監視機構」の活動を是とする、単純な勧善懲悪的な前提があるように感じられてならない。だが、一体、どんな基準に基づいて、この機構は善悪を判断するのか? プロテスタントの教界を超えた有識者、他宗教の専門家を含むことを初めから予定しているこの組織が、聖書的な根拠にのみ基づいて、善悪を判断する組織にはならないだろうことは明白である。

 村上密氏にしても、彼はこれまで、異端に関する神学的議論、つまり平和裏な議論を中心にしてカルト対策に取り組んできたのではなく、主として、裁判による解決を推進して来た活動家である。このような人物の考案を基に作られている機関なのだから、カルト監視機構は、設立の初めから、そもそも平和的な議論ではなく、司法の場での闘い等の活動を考慮して作られているように思われてならない。従って、聖書の理念に基づいたのでないこのような機構の設立は、キリスト教界を重大な過ちに導くだろうという予感がしてならない。

 私の考えでは、プロテスタントのキリスト教界における異端の排除は、まず、何よりも、複数の権威ある神学者たちによる、テーブルでの平和な議論、キリスト教界の専門家による開かれた話し合いから始まらなければならない。教界内の問題を扱うのだから、そこには、他宗教の専門家は交じっているべきではないし、非クリスチャンの有識者も必要ない。
 何が異端であるかを見極めるためには、神学的な専門知識が必要である。そこで、そのような知識を持つ牧師たちが、疑わしいと通告のあった牧師の礼拝説教、および著書などを調査し、明らかに異端と分かるメッセージが語られていた場合、当該人物に勧告を行い、再教育を受けてもらい、それでもその人物とそれに従う信徒たちが誤った考えをどうしても改めない場合は、最終的には教団の決定により、教会ごと除籍すれば良いのではないだろうかと思う。

 聖書は、異端を警戒するよう幾度も呼びかけているが、異端となった教会に対して、他の教会の指導者が裁判を起こしたり、教会を取り潰すべく活動するようには教えていない。むしろ、異端に染まって分派を起こし、去るものは去るに任せるように聖書は教えていると私は思う。

「もしこの手紙にしるしたわたしたちの言葉に聞き従わない人があれば、そのような人には注意をして、交際をしないがよい。彼が自ら恥じるようになるためである。しかし、彼を敵のように思わないで、兄弟として訓戒しなさい」(テサロニケⅡ3:14-15)

「異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい」(テトス3:10)

「あなたがたはかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時代であることを知る。彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。」(ヨハネⅠ2:18-19)

 だが、今現在、プロテスタントの教界において、カルト対策という名で行われていることは、教義面から異端を審議し、教義面で袂を分かった団体を静かに排除するための平和的な運動ではない。たとえば、もし教義面から異端を取り締まるならば、カルトの疑いのある教会の牧師の礼拝説教を公開して、その異端性がどこにあるかを公にし、世間の誰もが理解できるように、警戒を呼びかけた上で、教会が教えを改めなければ、除籍するということができるはずだが、教義に関する穏やかで粘り強い議論と、適切な訓戒という、教義面からのカルト(異端)対策はほとんど行われず、むしろ政治的な争いだけが続いているように見受けられる。

 今日、行われているのは、異端を教義としてとらえて、誤った教義を批判することではなく、異端を「カルト化」という現象面からとらえ、異端との闘争を、神学的議論ではなく、司法の場に持ち出すことによって、解決しようとする試みである。これは異端との闘いを、事実上、この世の政治的闘争に変えてしまい、聖書の教義ではない、別の面から決着をつけようとする試みである。

 従って、カルトについて、司法の場で議論することが、クリスチャンの目から見れば、聖書的な解決の仕方であるようには全く思えないのは当然である。このことについては、コリント人への第一の手紙、5章、6章に基づいて記事ですでに述べた。

 従って、このような世俗的な形でのカルト対策を推進してきた者は、決して、牧師としての信仰に基づいて、聖書の御言葉に基づいて、異端を排除しているのではないということが言えるのではないだろうか。しかし、もし信仰に基づいて異端を排除しているのでないのだとすれば、では、一体、どういう目的を持って、異端の排除に取り組んでいるのであろうか。その答えは各自の判断に委ねたい。


2.村上密氏の活動に対してORCを守る有志の会から提起された疑義について

 私は沖縄リバイバル・チャーチの活動を支援しておらず、この教会によって甚大な被害を受けた原告の訴えが裁判で退けられたことを残念に思う。私は教会のカルト化問題の解決に、司法が有効であるとは考えていないが、判決の如何に関わらず、原告の主張には正当性があったと信じる一人である。
 信徒を搾取し、苦しめた沖縄リバイバル・チャーチの体制を、私は擁護するつもりは今もこれからも微塵もないし、ORCを守る有志の会を支援する目的で、彼らの記事を引用したいわけでもない。このことを初めにはっきり申し上げておきたい。

 しかしながら、2009年3月2日にORCを守る有志の会によって書かれた村上密氏への疑念「本当に専門家なのだろうか?」の中には、私達クリスチャン全員が十分に考慮しなければならない訴えが含まれていると感じざるを得ないため、以下、引用する。(ここでA教団のM牧師とされている人物が、村上密氏を指していることは、村上氏自身が記事の中で認めているので、疑問の余地はないであろう。)

「今回の問題で原告支援者となっているカルト問題専門家と称する、A教団K教会のM牧師について、私たちは多くの疑問を持ちます。(略) 
このM牧師は、キリスト教界に別の問題を生み出している気がしてなりません。すなわち、キリストの体として霊的にも組織的にも多様性のある教会について、自身の論理と経験だけでカルト化を判断し活動を進めているなら、かなり問題ではないかということです。明らかに犯罪性が確認されるケースは別として、とても慎重に扱わなければならない事柄のはずです。

 素朴な疑問・・・

・教会カルト化の判断基準がおかしくないか?
・広くキリスト教界のコンセンサスを得た判断基準なのか?
・本当のカルト被害者と自称カルト被害者を識別することをしているのか?そもそもその気はあるのか?
・相談があれば教会カルト化を前提に対応しているのではないか?
・自身の思想信条、教会観、牧会観を核とした偏ったものの見方をしているのではないか?
・専門家というには、情報収集の偏り、思い込みや決めつけが強いのではないか?
・問題解決手法がかなり粗雑ではないか?
・聖書的手順を踏んでいると言っているようだが、裁判権やマスコミ活用の強調等から、聖書的解決よりも裁判による解決に性急になっているのではないか?
・M牧師自身のもとに集まってくる相談者を、牧師として本当に信仰的に正しく導いているのか?
・原告や原告支援者と思われる者たちのネット上での低俗な書き込み、一部ORC教会員への嫌がらせ行為や 営業 妨害を黙認しているのはなぜか?(まさか知らないとは言わないでしょう?)
・A教団の牧師を名乗って相談センター等の活動をしているが、A教団も彼の活動を支持あるいは容認しているのか?
・A教団本部には、地域牧師会の声明文通知も含めて、M牧師の活動、手法について問題提起をしているが、何か対応をしてくれたのか?
等など、あげればきりがありません。

 いわゆる破壊的カルト団体は実在し、真の被害者の方々もいらっしゃいます。それに対して、反カルト活動を行い、被害者救済を行うことは大切なことだと思います。
 しかし、もしその活動が暴走し、『相談者』をよく識別もせずに『カルト被害者』として受け入れ、『偏った基準』で次々とキリストの教会に『カルト化のレッテル貼り』をして、裁判を起こしていくとすれば・・・牧師先生方、信徒の方々は、どう思われますか?」
(引用、終わり 太字は筆者による)

 もちろん、村上密氏の活動に疑念があるからと言って、カルト化した教会がそれを隠れ蓑にして、自分達が聖書を曲げて、誤った牧会活動を行って、信徒を不当に苦しめたことの責任から逃れることはできない。それは明白である。その意味で、ORCには原告を非難する資格がない。

 しかしながら、これまで何度も訴えてきたように、カルト化教会も大きな問題であるが、誤ったカルト対策も、それと同じ程度、あるいは、カルトよりさらに見逃せない大きな危険性をはらんでいる。その点で、村上密氏の活動に警戒を呼びかけている上記の記事は、今一度、考察に値すると私は考えている。


3.N教会が村上密氏から異端の嫌疑を受けているという問題が提起されたことについて

 私がアッセンブリーに籍を置いていた当時、属していたN教会は、村上密氏の親族にあたるT師が長年、牧会していたが、T師に関してはいくつかの疑惑が浮上したために、教会の分裂的騒動が起きた(この件については後述する。)
 T師はその責任を取ってN教会を辞職した。村上密氏はこの件を仲裁し、T師を村上氏のいるアッセンブリー京都教会へ移らせた。そして、一旦、教職を引退したT師に教職活動を続けさせた。このような、T師の責任をうやむやにするような、村上氏の処置が不適切であると私が考えていることについては、すでに記事に書いたので、繰り返す必要はないだろう。

 当ブログへの読者からの次のコメントはその後のN教会に起こったことを示している。

「後任の牧師夫妻は、教会の建て直しに奮闘するも、村上氏とアッセンブリー教団から異端とのレッテルをはられ、数年前から攻撃を受けていたようです。
今春、その事実が明らかになり、教会を守るため教団からの離脱を決定しました(略)。
昨日、教団理事会から信者に直接、手紙が届きました。(略)教団離脱が正当なものか、信者を集めて事情聴取をするそうです。牧師夫妻、役員さんには届いていないそうです。手紙を読むと、信者よりも財産が気になっているように感じました。
私達の教会は、潰されてしまうかもしれませんが、同じようなことがおこらないよう、祈るばかりです。」

 私には、N教会の現在の牧師夫妻に対する異端の疑いについて、詳細が分からないため、この件の真偽と、異端の疑いの妥当性について判断することはできない。だが、いずれにせよ、コメント内容を信じるならば、村上密氏がN教会牧師夫妻の教えを異端であると判断し、アッセンブリー教団全体がその考えにならっているということになろう。

 アッセンブリー教団においては、村上密氏がカルト問題に関する代表的なスポークスマンであるため、この教団内の異端を主導的に取り締まっている牧師は、村上密氏を置いて他に考えられない。前述のORCの疑義では、「A教団の牧師を名乗って相談センター等の活動をしているが、A教団も彼の活動を支持あるいは容認しているのか」という問題が提起されているが、恐らく、今や、アッセンブリー教団全体が、村上密氏の活動の支持母体となっているだけでなく、教団全体が、氏の異端の判断基準にならって、異端の判断を下しているというのが現実ではないかと想像される。

 N教会と村上密氏との間には、T師が主任牧師であった時代からの因縁のような縁がある。

 もし仮にN教会の教えと活動に何らかの異端性があるのだと仮定しよう。だが、それでも、上記のコメントが事実ならば、現在、進められているような形での「異端審問」は、非常に大きな問題を含んでいると言わざるを得ない。まず、情報が公開されないまま、つまり、信徒が置き去りにされたまま、「異端審問」が密室で進められていくことに恐ろしさがある。もしこのコメントの通り、村上密氏が数年前からN教会の教えの異端性を指摘していたのだとすれば、氏は、N教会の教えが異端であるという根拠を、どうして(ブログ等で)公にしないのであろうか。

 村上密氏は、記事「内輪の論理」において、カルト化教会の問題を、司法の場に持ち出すことによって、教団理事会などの密室で決定される「内輪の論理」による事実の隠蔽を防ぎ、問題を広く明るみに出すことができると述べている。

「キリスト教の諸団体の理事会が、問題を解決する機関を設けることは、団体の自浄作用として重要です。しかし、しばしば客観性と平等性、透明性が確保できず問題が生じます。内輪の論理が働き、隠蔽する傾向にあります。それは、様々な宗教団体で不祥事が相次ぎ、社会的批判を浴びることで証明されています。
 このような内輪の論理防ぐために裁判に訴えることは重要です。必ずしも裁判が社会的正義を実現しなくても、宗教という密室の出来事を公の場に出すことは問題の予防に役立つからです。」

 確かに、教団外で、自らが積極的に関わって来たカルト化教会の腐敗状況については、村上氏は裁判を通してだけでなく、具体的に踏み込んだ内容を記事に書いて、不祥事を公にすることに貢献してきた。それは事実である。

 しかし、不明な点は、そのようにして内輪の論理に対抗することの必要性を唱えながらも、同時に、村上密氏が、アッセンブリー教団内でこれまで行ってきた紛争の解決について、「内輪の論理」以上のものを提示せず、自らの判断の根拠を決して明るみに出そうとしていないことである。

  もしも、キリスト教会のある指導者が、他の教会指導者の教えが異端であると批判するならば、その人はその根拠を明確に述べる必要があるだろう。そして、何よりも、異端の教えにさらされている信徒たちに、早急にその説明を行い、信徒を誤った教えから救う必要がある。しかし、村上密氏はN教会信徒に対して、そのような説明を行っているように見受けられない。
 もしも氏が本当にN教会の牧師夫妻の教えを危険な異端であると考えて数年前から活動してきた事実が存在するのであれば、自らの考えの神学的根拠を、氏はN教会の信徒たちに対しても、分かりやすく説明することができるだろう。そして、それを行わなければ、信徒を正しい教えに導くことはできない。
 しかし、今のところ、全ては「内輪の論理」の中で片付けられており、異端問題に関して、信徒は数年間も、完全に蚊帳の外に置かれたようであるから、実際に教会の存続問題が持ち上がるまで、信徒は異端問題に関して置き去りにされてきたという風にしか見受けられない。

 もしもこのような件が進行中であることが事実ならば、村上密氏には今後、N教会での事件について、誰にでも分かる明確な説明が求められることになるだろう。氏の今後の言動が注目される。


4.N教会にかつて起こった紛争への村上密氏の介入について

 さらに、ここから先は、N教会に関するかなり込み入った要件になるため、興味のない方は結びまで飛ばしていただいて結構である。
 今、私の手元には、2001年、N教会がT師に関する騒動の真っ只中にあった時、N教会に勤務していた伝道師夫妻によって書かれた手紙の写しがある(この伝道師夫妻は、現在のN教会牧師夫妻とは別人である)。

 この手紙の写しは、N教会の信徒がこの事件の内容を理解する目的で、当時、一般に配布され、公表された資料の一つである。詳細は個人のプライバシーに関わることであるがゆえに、伏せておき、N教会教職者の間で当時、起こった紛争の内容の中で、今、改めて私が注目に値すると考える部分だけを引用させていただく。

 N教会では、当時、この大規模な騒動の原因は、T師の伝道師夫妻に対する抑圧的な言動と、両者の間の行き違いにあると考えられていたが、この手紙の内容を改めてよく吟味するならば、そこには、両者の間を不適切かつ不明瞭な形で取り持った村上氏が関与していたこと、村上氏が両者に与えた影響が見逃せないほど大きかったことが浮かび上がって来る、そこで村上氏にも、この件に関して重大な責任があったのではないかという疑いが生じるのである。
 以下では、この騒動ゆえに、信徒からの篤い期待にも関わらず、N教会を去る決意をした伝道師夫妻(名前は○○とする)の手紙から、村上氏に関わる部分だけを引用する。

 「実はAPTSを卒業する前に七条教会で村上師と卒業後のことについて話し合う機会がありました。××××年の冬だったと記憶しています。
村上師の話では、『T師は二年後に引退する意志がある』 『引退はN教会の役員会も承知のことである』 『その上で○○をN教会の後継として招聘したい』 『礼拝説教も少なくとも月に一度は○○に任せる。二年目からは月に二度は依頼する』との事でした。

私達は当然、村上師個人の見解というよりもむしろ一理事の発言として理解しました。(略)理事の見解がそうであるならと祈りつつ備えました。(略)×月×日に正式にN教会の伝道師として就任しました。

 しばらくして気付いたのは、村上師の認識とT師や役員会の認識との間に相当のズレがあるという事でした。先ず、T師が二年後の引退を毛頭考えておられないこと、役員会は何一つ知らされていないこと、T師は主管を退く意志はあっても、その後もN教会で奉職したい希望を持っておられること等でした。

また礼拝説教に関しましても私が××××年度に奉仕させていただいた回数は合計5回でした。因みに××××年度は×月×日現在で10回です。実際、私達は派遣されて二年近くになりますが、未だに教会の経済状態がわかりません。過去の教会資料に関しても牧師館にしまわれていて全く分からない状態です。
 この時点で我々の立場は何なのだろうかと戸惑いましたが、とにかく理事会に任命された以上、務めを果たそうと努力してまいりました。

 そして、××××年の×月×日、理事会が終わった翌日の朝、突然村上師より電話を頂きました。話があるので午後、訪ねていってもいいかとの事でした。我々としては理事会の翌日のことでしたので、人事のことかもしれないと推測しました。
 村上師の話の内容を正確に伝えますと『T師は××××年に引退なさる意志はなく、少なくとも教会50周年を迎える77歳までは現役でいたい』ということと『○○を後継者とみなすには疑問を感じる』との事でした。但し、これはあくまでも村上師から伺った話であり、T師本人からはこの旨を一度も伺ったことはありません

 村上師は後継として疑問を感じる点については次の二点を理由に挙げておられました。(中略)
 村上師は以上の二つの理由を挙げられた後、『今後、先生方はどうなさいますか』と尋ねられました。誤解にならないように申し上げますが、直接、移動届けを出せという促しは一度もありませんでした。但し、我々としては移動させたいというニュアンスを感じたのは事実です

私としては『もし、移動を我々が希望するならT師の許可を得ないで黙って理事会に提出してもいいのですか』と尋ねました。これに対して村上師は『T師には私から伝えるから構わない』との事でした。(略)

 三時間ほど話したでしょうか。私は人事の手続きに明るくありませんし、どうも筋の上で釈然としないものを感じました(略)。
 もし、村上師がT師の本音を我々に隠しておられたなら、事態はここまでこじれなかったかもしれません。しかし、間接的にではあれ、T師の気持ちを聞かされた以上、今までどおりの気持ちで奉仕するのは困難です」

 この文章は、村上氏が当時、T師の後継者になることを前提としてN教会に派遣されていた伝道師夫妻を、N教会からよそへ異動させるために具体的に働きかけを行ったことを示している。
 若かった伝道師夫妻は当時、N教会の信徒たちからは慕われており、T師の後継者になるものと信じられ、期待が寄せられていた。伝道師夫妻はN教会の信徒になじんできており、伝道師と信徒との間には、何の問題もなかった。そして、T師自身も、この手紙に対する反論の中で、「⑤両師の正教師任命後、私は来年、主管者になって欲しいという希望を両師に対して個人的に述べた」と、夫妻に後継としての期待を寄せていたことを隠していない。

 その後、T師と伝道師夫妻の間に、信徒には見えないところで、たとえ何らかのトラブルがあったにせよ、少なくとも、N教会の信徒たちは、伝道師夫妻にT師の後任として不適切な要素があるとは少しも考えていなかったし、信徒自身が伝道師の異動を望んだ事実はなかった。

 仮に、説教および教会奉仕に関して、信徒の知らないところで、主管と伝道師との間に、何か込み入った問題が生じ、それが後継者問題に発展したのだとしても、その解決は、あくまでN教会の教職者の間でまず行われるべきことであった。T師と伝道師の間で、腹を割った話し合いすら実現していないうちに、他教会の牧師である村上氏が率先して介入すべき事柄ではなかったと言えるだろう。

 特に、N教会の後継問題は、N教会にとって大問題であったため、T師と伝道師夫妻、そしてN教会の役員会を通して公に解決されるべき事柄であったと言える。にも関わらず、T師の親族であるという立場を用いてか、あるいは、理事であるという立場を用いてか、村上氏は他教会の教職者と役員、信徒の間で公に決められるべき事柄に直接介入し、N教会の役員会と信徒の判断を無視して、信徒の頭越しに、はっきりした証拠を何も残さない密室の話し合いの中で、N教会の命運を分けるような、重要な決定を伝道師夫妻に促してしまったのだということがこの手紙の文面から理解できる。

 村上氏は、本来、T師自らがはっきりと伝道師に伝えるべきであった内容(後継に関する具体的な約束と、伝道師を教会の後継として認められなくなった理由の説明)を、自分がT師の代理として伝道師に伝えることによって、T師が伝道師夫妻に対して直接、果たすべき説明責任を奪ってしまった。
 さらに、それだけでなく、手紙の文面から判断するならば、村上氏がT師の見解であるとして伝道師に伝えた内容にも、随分と現実との食い違いがあったため、村上氏がT師の代理としてT師の意見を伝えたことで、結果的には、より大きな誤解が生まれてしまったことが分かる。

 さらに、もしも伝道師夫妻に異動届を出すことを求めることが、教団にとって適切かつ不可欠な解決であると判断して、村上氏が伝道師との対談を行ったのであれば、村上氏は自らの責任において、異動届の提出をはっきりと伝道師に勧告すべきであった。だが、村上氏はそのような、責任の伴う明確な発言を何もせずにおいて、ただ阿吽の呼吸で、異動届を提出するのが最善の策であるという微妙なニュアンスを汲み取るよう、伝道師に促しただけであったことが文面から伺える。

 そして、伝道師たちは、このような話し合いの結果、実際にN教会から異動してしまった。こうして、村上氏が証拠を残さぬ、曖昧な形で介入したことにより、当時、N教会の後継に関する問題は、信徒を一切蚊帳の外に置いた密室の話し合いの中で、信徒には何も分からないまま、決定されてしまった。このことが、N教会にその後、何年間も続く紛争を起こさせる最大の要因となっただろうことを私は確信している。

 なぜT師の後継として期待を寄せていた伝道師を、訳の分からない形で、教団から奪われなければならないのか、その理由が明確にされなかったために、N教会の信徒たちは当惑し、教団への不信感すらわき起こった。その後、信徒の間では、T師の行状や、伝道師の行状どちらに原因があったのか、何がこの問題の根本原因だったのか、といった議論が延々と繰り返されたが、責任の所在がどこにあるのかは、結局、不明のまま、ただ月日だけが過ぎ去った。

 しかし、今、改めて、資料を読み返し、この事件のことを考えると、村上密氏の介入がこの事態にさらなる混乱を招き、T師と伝道師との直接対話の機会を奪っていたこと、密室での話し合いが、信徒の前での公の議論を妨げたことがはっきりと感じられる。これはかなり昔の事件であるとはいえ、村上密氏の仲裁者としての能力に疑いを呼び起こす一件である。

 今となっては、ただ想像で語ることしかできないが、もしも村上氏が、N教会内でこの問題を十分に話し合うことの必要性を認識して、自らは脇に退き、この問題の解決を、T師と伝道師の直接対話、および、N教会役員会、臨時信徒総会に任せていたなら、つまり、信徒を置き去りにする形で、自らの手によって問題を解決しようと介入することがなかったならば、この事件はN教会にこれほど長年の禍根をもたらすほどの大問題に発展することなく、もう少し、平和裏に解決していたかも知れない。

 そして、今また、N教会の牧師に、教団と村上氏から異端の嫌疑がかけられているという情報が真実ならば、過去同様の同じ過ちが、N教会で二度も繰り返されることは、何としても、防がなければならない。異端の疑いに正当性があるにせよ、ないにせよ、教会の存続に関わるような重大な問題が、密室での会議、すなわち、「内輪の論理」で解決されてはならないことは明白だ。

 これまで、「内輪の論理」に反対し、裁判という公の場での紛争解決を積極的に後押しして来た村上密氏であるのだから、N教会の件にも、もし氏が深く関与しているのであれば、今後、早急な情報公開の作業が求められるだろう。他教団に関する紛争は表に出し、日本全国の世間の前で、その教会の恥を赤裸々に暴露しておきながら、自教団内で起こっている事柄は、「内輪の論理」によって表ざたにせずに、闇のうちに解決するという矛盾した態度を維持する人があるならば、そのような不透明な態度を取る者を、カルト対策の専門家として信頼することは、誰にもできない相談であろう。

 結び
 N教会に起こった事件の詳細については、興味がないから聞きたくないという方も多いかも知れないし、また、カルト問題など、自分には一切、関係ないと考えている信徒も多いかも知れない。
 しかし、私は、今回、村上密氏とウィリアム・ウッド氏の協力によってまさに設立されようとしている「カルト監視機構」には、全てのクリスチャンにとって、看過できない重大な危険性が含まれていると感じざるを得ない。

 プロテスタントの教界にとどまらない、全日本的な広がりを見せようとしているこの機構が、今後、宗教の枠組みを超えた異端審問所として実力を発揮していくことが憂慮される。そこで、この問題についてどうか考えていただきたい。その意味で、前述のORC有志の会の訴えを、私達はただ荒唐無稽なものとして退けるのでなく、もう一度、考慮してみる必要があるのではないだろうか。

反カルト活動を行い、被害者救済を行うことは大切なことだと思います。
 しかし、もしその活動が暴走し、『相談者』をよく識別もせずに『カルト被害者』として受け入れ、『偏った基準』で次々とキリストの教会に『カルト化のレッテル貼り』をして、裁判を起こしていくとすれば
・・・」

 カルト化教会が危険であるのと同じように、カルト監視機構の活動も危険である、そう私は感じざるを得ない。 まず、何よりも、真っ先に懸念されるのは、この監視機構が、「キリストの体として多様性を持つはずの教会」の自主性を押しつぶし、奪い去り、教界全体を一元化する組織となるのではないかということである。

 しかも、この問題は今や、キリスト教界だけでなく、全ての宗教者にとって他人事ではなくなろうとしているのだ。
「カルト監視機構」の設立目的をもう一度、読み返そう。

「この機構の目的は、カルトと疑問視されている団体を調査し、適正な判定を下し、発表することです。」

 たった一人の信徒の証言であっても、その団体をカルトと疑問視する根拠としては十分になるのだろう。カルトと疑問視された全ての教会が、この「監視機構」の調査対象となると言われているのだ。つまり、この「カルト監視機構」は、事実上、キリスト教界に属する全ての教会のお目付け役を買って出ようとしているのだ(どれくらいの教会がそんなことに同意したのだろうか?)。

 だが、この機構が行う調査が、具体的にどのようなものなのかは分からないところに、空恐ろしさを感じずにいられないのである。どんな調査も、秘密裏に行わなければ、本当の意味での実態調査とはならない。従って、カルト化の疑いのある教会側に、それとは気づかれないような方法で、監視機構が調査を行うであろうことが予想される。
(つまり、教会の指導者には見えないところで、信徒へ直接、調査が行われることが予想される。)

 さらに、極めて疑問に思われるのは、クリスチャンでない、聖書を知らない有識者(日蓮宗、天理教の教職者も含まれるかも知れない!!)によって、どうやってキリスト教のカルト化教会に、異端としての「適正な判断」を下せるのかという点である。

 その上、カルトの解決方法としては、この機構は、調査結果を「発表すること」としているが、本当にそれで終わりになるものだろうかという疑いが生じる。すでに幾度も裁判を支援してきた村上氏が、今後も、裁判という手段を行使することなく、穏やかに話し合いのテーブルの席上で、調査結果を報告するだけで、カルト問題の解決と考えるとはまず想像できないのだが…。
 いや、弁護士、法律家が「カルト監視機構」のメンバーに加わっているのを見れば、この機構が、そもそもの初めから、自分達が法律のプロ集団であることを誇示し、いつでも自分達の判断次第で、司法の場に問題を持ち出せることを示して、教界ににらみをきかせながら、各教会に対して秘密裏に様々な調査を行っていく組織となるだろうことが明らかに予想できる。
 つまり、カルト監視機構はいずれ、自らが敵とみなした教会に現実的な制裁を加える機関となることが予想されるのである。

 この機構はやがて教界内の秘密警察になり、あらゆる教会がその取り締まりの対象となっていくかも知れない、さらにはキリスト教の枠組みにとどまらない宗教的異端狩りが始まるかも知れないという憂慮を改めてここに述べて、記事の結びとしたい。

 皆さんは、このようなことをどう思われますか?