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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

肉の思いと御霊の思い

「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者はそれを得るであろう。」(マタイ10:34-39)

 イエスの語られたこの御言葉が、どういうわけか、ここ数年、文字通りの形で、私の人生に成就している。「家の者が、その人の敵となるであろう」ということが、比喩でなく成就することを主がこの御言葉によって示されたのだとしたら、それは恐ろしいことだ。家庭に刺客が潜んでいるような状況で、一体、人は誰を信用し、どこに安息の場を求めれば良いのだろうか。
「兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。」(マタイ10:21-22)との御言葉もあるが、このようなことが私の身の回りに現実として起こっていることに、どんな意味があるのだろうか。思い巡らさないわけにいかない。

 とにかく、血肉にあってのつながりや、血肉にあっての望みが、キリストを信じることのために、ことごとく断ち切られなければならない瞬間が私の人生にやって来た。それは魂の暗闇と呼んでも差し支えないほど、私の心に大きな問題をもたらした。この問題に、精神的に疲労困憊せずに、勝利するためには、地上のもの、肉的なものに惹かれる魂の衝動に対して死に、真に聖霊に導かれる人となることをもっと学ばなければならないことを感じる。

 現実の様々な問題に直面する時、私たちの肉体は苦しめられ、魂は思い煩う。それは生まれながらの人間の自然の心理である。しかし、その思い煩いは、肉と魂との連携から生じるのであり、御霊が人を導く方向とはまるで異なっている。思い煩いは、何とかして肉の身体を生かし、死から救おうとする試みだが、結局、人を死から救うことはできない。それどころか、聖書は肉の思いが結局、死そのものであるとまで言っている。

「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。」(ローマ7:6-7)
「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。<…>あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」(マタイ6:25,27)

 どうすれば、現実の問題が私たちを苛む時にあっても、御霊の思いである「いのちと平安」の中に安らぐことができるのだろうか。自己超越とか、瞑想とか、覚醒とか、そういった異教徒が様々に駆使しているような、キリストの十字架も聖霊をも抜きにした、魂の偽りの方法を通してではなく、聖霊の思いであるいのちと平安に真に安んじることは、どのようにして可能なのだろうか。

 生きることが困難となり、行動が制限され、衣食住も満足に確保されないような状態になると、私たちは強い不快感を覚える。飢えや渇きや孤独や苦痛が身体を現実に苛むようになる。だが、この肉体的苦痛に対しては、十字架にあって、すでに死んでいることを何度でも思い出す必要がある。肉体に対して死んでいる以上、肉体を取り巻く状況に対しても死んでいるはずである。肉を生かそうと試行錯誤する責任から解放されているのである。
「わたしたちは、果たすべき責任を負っているものであるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:12-13)

 キリスト者の肉体は、罰を受けて一度死んでいる以上、サタンはいかなる肉体的苦痛を伴う方法を通しても、私たちをキリストから引き離すことはできない。私たちが目指すべきは、肉を生かそうとして焦ることではなく、霊によってからだの働きを殺すことである。

 だが、そうは言っても、肉体は現実に苦痛を覚え、魂は苦しみから逃れようと、あれやこれやと思い煩い、対策を講じようとする。その時に、私たちは、魂のこの天然の衝動に突き動かされて行動しないように気をつける必要がある。主イエスは、魂の衝動を一切、父なる神に委ねられて、聖霊の導きなしには、自分からは何事もなさなかった。

「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」(ヨハネ6:38)

 主イエスは自分の魂の願いに従って行動することは全くなされなかった。彼は御父の御心だけを行われたのである。しかし、多くのキリスト者は(私を含めてそうなのだが)、困難に見舞われると、御霊に聴くことを放棄して、御父を抜きにして、自己の内なる衝動に身を任せ、現実問題にあれやこれやの対策を講じようとする。人は苦痛を覚える状況の中で、片時もじっとしていることができない。だが、肉を救うために奔走すると、人は神との霊的合一からますます引き離されて、平安から遠ざかっていく。

 オースチン-スパークスは書いている、「サタンが常に力を注ぐ点は、(神と結ばれている)霊か(自己指向的な)魂かの問題です。サタンが聖書を引用する場合、それは神との内なる合一を破壊するためです。」
 
 荒野でサタンが御言葉を使ってイエスを誘惑したのは、イエスを御父の御旨から離れさせて、御霊の導きなしに、自己の内なる衝動に従わせるためであった。今日、私たちが試練に遭う時、同じように、御霊の思いとは反する魂の衝動が内に沸き起こり、私たちを御父のご計画に反する行動にひたすら駆り立てようとすることがあるだろうが、それを警戒しなければならない。

 その衝動に従うことは、一見、外から見れば、合理的な行動に見える。この競争社会では、私たちが自己の命を救おうとして取る行動は、世間からはどれも立派な行動として賞賛される。社会では、自分の命を救うためにどれくらい数多くの保障を得ることができたかということが、人としてのステータスにつながっているからだ。命を救うために、日々、行動し、立派な地位を得よ。命を救うために、自分の老い先について案じよ。命を救うために、着る物、食べる物にこだわれ。命を救うために、子を産み、出世し、趣味を持ち、老後の蓄えを築け。自分の命を危険から救うために行う全てのことは、社会では賞賛される。

「私たちの魂のいのちはなんと自己を守り、救おうとすることか!しかし、私たちの欺きに満ちた心から私たち自身が解放されるために、神に服従してこの罠の性質と暗示に対して敏感であることがどれほど必要でしょう。」

 キリスト者は、自分の命を救おうとする魂の各種の衝動に耳を傾けず、その衝動に対して死ぬ必要がある。そうでなければ、御霊に聴き従うということは不可能なままに終わるだろう。ではいかにして魂の各種の衝動に死ぬのか。

「二つのことが魂に起きなければなりません。第一に、魂は自己の力と支配に関して、キリストの死によって致命的な一撃を受けなければなりません。神がヤコブの腿、腱に触れてから、ヤコブがびっこのまま生涯の最後まで過ごしたように、『魂は何もできないし、何もすべきではない。神が魂の力を滅ぼされた』という事実が永遠に魂の中に刻印されなければなりません。

 次に、神のいっそう高い異なる道のために、魂は僕として『勝ち取られ』、支配され、治められなければなりません。聖書がしばしば述べているように、魂は私たちが獲得すべきものであり、それに対して権威を行使すべきものです。たとえば、
『あなたたちは忍耐することによって、自分の魂を勝ち取ります』(ルカによる福音書21章19節)
『あなたたちは真理に服従することによって自分の魂を清めました』(ペテロ第一の手紙1章22節)
『あなたたちの信仰の結果である魂の救い』(ペテロ第一の手紙1章9節)」

 ここで、魂を勝ち取るとは、魂を抑圧するとか、魂そのものを滅ぼし去ってしまうことでは決してないことに気をつけたい。私たちの魂は、肉にあって深く毒されているとはいえ、魂そのものを滅ぼしてしまえば、もはやまともな人間は成り立たなくなる。必要なのは、魂を肉の支配下から連れ出し、御霊の支配下へと新たに導き入れることである。魂に思い煩いではなく、いのちと平安を得させることである。
 魂の間違った衝動から逃れるために、禁欲主義的な生活を送り、魂のいかなる衝動をも滅却しようと努めることは無意味であり、それは逆に魂の反乱を招くだけに終わるだろう。私たちに必要なのは、魂を肉と連結したままで終わらせないこと、魂を霊の配下に置くことであり、それが魂を勝ち取るという御言葉の意味なのである。

「私たちの人間的本性は、すべて私たちの魂の中にあります。本性は一つの方向で抑圧されるなら、別の方向で逆襲します。これは多くの人が抱えている問題ですが、彼らはそれを知りません。抑圧の生活と奉仕の生活には違いがあります。御父に対するキリストの従順、服従、奉仕は、魂を滅ぼす生活ではなく、安息と喜びの生活でした。」

「霊性は抑圧の生活ではありません。これは消極的です。霊性は積極的です。霊性は新しい特別な生活であり、自分を治めようと奮闘する古い生活ではありません。魂は顧みを受ける必要がありますし、新しい高い知恵を学ぶようにされる必要があります。私たちが神と共に完全に歩もうとするなら、知識、理解、感覚、行いのための魂の力と能力はすべて終わらされ、私たちは――この面で――困惑し、茫然自失し、何もできずに立ちすくむでしょう。<…>
 次に、新しい別の神聖な理解力、拘束、力が私たちを前に進ませ、私たちを前進させ続けます。このような時、私たちは自分の魂に言わなければなりません、『私の魂よ、神の前に静まれ』(詩篇62篇1節)、『私の魂よ(中略)神に望みを置け』(詩篇62篇5節)、『私の魂よ、私と共に来て主に従え』。
 しかし、魂が霊に従うよう拘束され、その証しとして高い知恵と栄光を知覚する時、何という喜びと力があることでしょう。『私の魂は主をあがめます。私の霊は救い主なる神を喜びました』(ルカによる福音書1章46節)。霊に関しては完了形が使われており、魂に関しては現在形が使われています――時制に注意して下さい。

 ですから、満ち満ちた喜びに至るには魂が必要です。魂は暗闇と自分自身の能力の死を通されなければなりません。それは高くて深い現実――霊がそのための第一の器官であり機能です――を学ぶためです。

 あなたの魂を抑圧したり、さげすんだりする生活を送ってはなりません。そうではなく、霊の中で強くありなさい。それはあなたの魂が勝ち取られ、救われ、あなたの満ち満ちた喜びに役立つものとされるためです。主イエスが望んでおられるのは、私たちの魂に安息があることです。これは彼のくびき――合一と奉仕の象徴――によって実現されます。」

 魂の暗闇。恐らく、何年間もかけて私はそこを通過しつつあるように思う。ここでは逆境に対するいかなる抵抗も無意味となる。自分の無力さを思い知らされて、魂は思い煩い、悩み、苦しむが、暗闇から抜け出そうとするあらゆる試みが無駄に終わり、人間的な努力のすべてが打ち砕かれてしまう。平安はなくなり、安息は消え、不安、恐怖、苦痛、悲しみ、悩み、といったものだけが残る。
 文字通り、そこでは人間は虚無に服さなければならなくなる。この暗闇を無事に通過するためには、人知や努力やごまかしによらない、別の方法――従来の魂に導かれた生き方ではなく、御霊に導かれることを第一とする生活に転換すること――が必要である。

 聖書は、滅ぶべき肉のからだを持ちながら、霊に導かれるキリスト者として生きることが、矛盾に満ちた苦しみであり、決して単純な喜びだけに貫かれた生活ではないことを示している。

「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。」(ローマ8:22-25)

 だが、このように矛盾に満ちた状況にあっても、キリスト者がなお望みを抱くことができる秘訣は、どこにあるのだろうか。肉はただ苦痛をもたらす目先の状況から逃れ、一瞬でも肉の命をつなぐことだけを希望としている。しかし、御霊にあっての望みは、具体的状況をはるかに越えて、逆境を忍耐強く忍びつつ、その先にあるまことの解放、まことのいのち、まことの平安、真の自由を思うことを意味する。それは、被造物同様に、人間が滅びのなわめから解放されて、栄光の自由に入る時を待ち望むことである。それは主の再臨を待ち望むことと同義である。

 さらに、驚くべきは、地上的なものに死んで、見えないものへの望みに堅く立つことが、逆説的に、今日に限定された具体的状況の中で、私たちの死ぬべき身体を生かすことにもつながるということだ。
「もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」(ローマ8:10-11)

 ここに、「キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる」と書いてあることに注意しよう。魂の思い煩いが、死ぬべき身体の寿命を一日たりとも延ばすことができない代わりに、神は御霊によってそれが可能となると示されている。これはどういうことだろうか?

 終わりの時代にあって、経済は不安定となり、保険会社も破綻し、地上の生を安楽に暮らすためのあらゆる保障が不確かなものとなり、家庭内暴力の話題が毎日のように新聞に載り、血肉にあってのつながりさえ、頼りがいのない、危険なものへと変わっていく時、聖霊に導かれて生きることこそが、人がその日、その日の人生をつなぐ保険となると言っても、過言ではない。なぜなら、聖書はこう言っているからだ、「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。」(エペソ1:13-14)

 この御言葉を読む時、聖霊が、私たちがただ未来に神の国を継ぐことを漠然と保証してくれているだけで、今日という日については何も語っていないと考えるべきではないと思う。これは神がキリスト者に与えて下さった永遠の約束であり、今日という日から、未来へと絶え間なくつながる力強い保証である。これは人類が未来にかける「切ない望み」などではなく、私たちが神の国をつぐことの保証を受けることによって、あらゆる問題への解決をすでに得ていること、私たちの弱さにも関わらず、私たちがキリストにあってすでに全てを得ていること、今日を生き抜くために必要なものをすでに備えられていることの力強い約束である。

 

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キリストという避難所

 クリスチャンのブログを読む人々は、もしかすると、書き手の文章を通して平安を得ることを期待しているかも知れない。だから、平安が感じられない文章を読むと、怒り出す人さえ、ひょっとすると、いるかも知れない。そのような人たちには残念な知らせかも知れないが、キリストにあっての平安を真に獲得するまでには、きっと、私はこの先、かなり困難な時期を経なければならないだろう。正直に書けば、私には未だ平安に安んじることが時折、困難なことがある。私の魂が、波乱に満ちた現実の問題のためにしょっちゅう思い乱れるからである。

 どうか弁解を許していただきたい。もしもキリスト者として信仰の強められた人が、強制収容所に投獄されるならば、彼はそれを信仰のための試練として受け止めることができるだろう。しかし、もし人が生まれて間もなく、はっきりした信仰も持っていないのに、何のためかも分からないままで、強制収容所に投獄されたとしたら、その人の魂は混乱し、人生の意味は失われ、絶望のあまり、死を願うことが度々起きるようにならないだろうか。

 私の人生は後者に似ていた。何のためなのか、それが何を意味するのか、理解できないうちから、試練が始まっていた。そのため、長い間、ただそれにきりきり舞いさせられ、肉的な反応を返すことしかできないうちに時間が過ぎて行った。当時、キリスト者が平安と呼んでいるものの意味は、私には全く分からなかった。通っていた教会の中にも、平安らしきものは見受けられなかった。そこで、私は平安とは、結局、私には手の届かないものであり、永遠に人が手に入れられないもののように思った。また、それは、人々が見たくない他人の現実問題に蓋をし、懇切丁寧に話を聞いてやったり、涙を流す手間を省くために、手っ取り早く持って来て、あるがごとくに見せかけている嘘に過ぎないもののようにも思った。

 だが、神と差し向かいで向き合うようになると、人生が嵐のように荒れ狂う時に、主にあっての平安にどうやって到達するかということが、抜き差しならない問題となって私に迫ってくるようになった。主はこの問題に関して、私が決して生半可な、言葉だけの上っ面の知識で終わることができないように、私を取り巻く現実が、極度に私を苦しめるものとなることをお許しになった。

 すなわち、肉体的・精神的に死が間近に迫っているような環境にあって、人は決して口先だけの平安によりすがることはできないのだ。それがその人を救うことができないのは明白だからである。文字通り、死に打ち勝つほどの力ある答えを持たなければ、決して、切り抜けることができない苦境がある。キリストの十字架と死と復活と、御座につくこと、それらが文字通り現実の力を持って私の前に現れて来なければ、解決できない問題が、目の前に用意された。だから、今、主が私のために用意された環境は、私が完全な答えを見つけるための学課であると考えて良いと思う。

 そこで、今、私は、魂ではなく、霊に従って歩むことによって、理屈を越えた平安、現実を越えた、キリストに源を発する平安に安んじることを学ばされている。だが、その勉強はまだ初歩の初歩の段階だ。だから、その学課を、あたかも悟ったように、獲得済みのもののように言うことは私にはできない。私の歩みはかなり遅々として見えるだろう。かなりぐらついて見えるだろう。私の歩みには思い煩いだけがあって、平安がない、と感じる人もいるかも知れない。いまだにこんな現実問題で思い乱れているのか、何と信仰が足りないことよ、と言う人もあるだろう。けれども、そう見える時があっても、どうか私の乏しい信仰を馬鹿にしないでいただきたい。そして主にあっての兄弟姉妹にお願いしたい、どうぞ私のために祈り続けて欲しい。

「しかし、見えないもののために見えるものを、永遠のもののために現在のものを、天のもののために地のものを、実際のもののために『成功』を手放すには、なんという価値観の変化が必要でしょう!」

 オースチン-スパークスは「人とは何者なのでしょう?」の中で上記のように述べている。私たちが絶望的に見える現実の状況ばかりを見るのをやめて、見えないもの(神の霊によって構築されている世界)に視点を移すことは、口で言うほど易しいことではないことが分かる。なぜなら、そうするためには、見えるものだけに主眼を置いて暮らしてきた私たちの価値観、習慣そのものが転換せねばならないからである。

 従って、見えるものから見えないものへの視点の変化は、私にも、ゆっくり起こるだろう。さんざん現実問題で思い煩っていた人が、ある日、突然、何かを悟って、完全な平安に安息する霊の人に変身するなどということは決して起きないだろう。

 オースチン-スパークスは、エデンでの人の堕落の本質は、人が「霊における神との合一」から切り離されたことにあると分析している。それこそが、人が平安を失ってしまった理由であるだろうと私は思う。
「人の知識と力は本質的に霊的でなければならず、人生の絶対的な主権と頭首権は神のものであり続けなければなりませんでした。霊の関係、霊の器官と機能がこれを可能にしました。」

 しかし、蛇からの誘惑は「人は自分で決定し、自分で所有する、自分ひとりで十分な独立した者になれる」という提案の形を取ってやって来て、それは人の「理性、願望、意志――魂の諸機能――」に働きかけた。人は神に主権を委ねることをやめて、自分の独立した自己決定権を行使し、その結果、神と人との霊的合一は壊れてしまった。

「人に関する神の絶対的な頭首権と主権が排除されました。そして、耳を傾けるべき相手として、サタンに神の地位が与えられました。このこと、すなわち、『この世の神』となることが、なにものにもましてサタンが欲していたことでした。」

 話が脱線するのを許して欲しい。私自身は大の音楽好きにも関わらず、音楽にさえキリスト者にとっての危険が含まれていると再三に渡り、警告してきたのは、この世のものに「耳を傾ける」ことの危険が、今、音楽を通して世間に広まっていると感じるからである。時を追うごとに、この地上のものは全てサタンによって、よりひどく汚染されつつあるように見受けられる。文化そのものが汚染されつつある。150年以上前のヨーロッパの婦人たちの服装と、今の娘たちの流行の服装を比べてみればよい。TV番組も数十年間のうちにどれほど著しく変質しただろうか。20世紀初頭には、人類を幸福に導くと多くの人によって信じられていた科学技術が、人類を何度も死滅させるほどの威力を持ったのはなぜだろうか。地上的なすべてのものと同様に、音楽も時代と共に変質しつつある。

 私たちは今、バッハやモーツァルトを聞かなくなり、どのような思いで作られたのかも分からない、場合によっては、演奏者も不明、作者すら不明の音楽を、まるでヘビースモーカーが煙草を手放せないように、ひっきりなしに吸収し続けることに慣らされている。一人きりの世界に閉じこもって、音楽を聴くことに対する全社会的な中毒症状、快楽としての音楽に対する中毒症状、これに私はどうしてもまがまがしいものを感じずにいられないのである。
 それは、何かしら自然でない音楽の楽しみ方である。手ずから楽器に向かって根気強く練習し、日が傾くのを感じながら、人と楽しく連弾したり、協奏したりして、平和に毎日を人と共に過ごして楽しむのではなく、一人でイヤホンをかけて、出所不明の音楽の刺激に手っ取り早く、次々と身を任せることによって、ひっきりなしに刺激を得、五感の興奮を煽り、それがなければ、もはや居ても立ってもいられなくなる…、そんな中毒症状が、当世風の時間の過ごし方として、全社会的に奨励されているのである。これは明らかに何かがおかしいのではないだろうか。

 だが、このようなことを言うと、極端な保守主義者、禁欲主義者のレッテルを貼られ、きっとひどい反発を食らうであろうから、今は音楽の問題はこれで終わりにしておこう。そして、先に述べた家庭の問題に戻ろう。このことについて、私はこれまで様々なキリスト者に相談を持ちかけてきたが、役に立つ助言はあまり得られなかった。大概の助言は、赦しなさいとか、平安の中にいなさいとか、問題から離れなさいとかいった漠然としたもので終わっており、具体的に役に立つものではなかった。

 今、改めてこの問題について考えてみよう。たとえば、もしも家庭が恒常的に暴力にさらされる危険な場所となってしまった場合、キリスト者はどこに避難して安らぐ場所を求めるべきなのだろうか。緊急に、現実的な答えがこれに必要となるだろう。DVに対する社会的取り組みについて、ここで議論するつもりはない。キリスト者として、この問題にどう答えるべきかを考えてみよう。
 家庭に問題を抱えた多くの人たちが真っ先に取る反応は、その悩みから逃れるために、世の中に逃げて行こうとすることである。どこかに居場所がないか探しながら外に出て行き、できるだけ、問題のある家へは戻らないようにする。一見、それは合理的な策に見えるだろう。家庭から独立したように見せかけて「静かな家出」を決行する大人たちもあるし、10代や20代の青年達の中には、もっと性急に家出をして、夜の街にたむろし、闇の世界の食い物にされていく者もある。

 だが、私はこの問題に対して、主にあって、きっぱりした答えを得なければならないと思う。その答えとは、地上にはキリスト者の居場所は無いという自覚を心底から得るというものである。そんな残酷な返事が人に希望を与えないのは分かっている。いたいけな子供達に家庭の暴力の犠牲となって人生を終われというのか、居場所はないという答えに甘んじて、どこにも逃げるなと言うつもりかという返事が返って来るだろう。そうではない。 

 私たちが逃げる場所は、この世のどこそこにはなく、ただキリストの御許にのみある。この世の問題から逃れるために、神の御心が何であるのかを探ることなくして、あれやこれやの人知による策を駆使して、あちこちへ逃げ、ひたすら自己決定権を行使するのをやめること、そして、ただキリストの御許に居場所を求めて身を投げることが何より先決である。

 世の中の人々は、私たちが何か深刻な問題を抱えていることが分かると、お節介な助言を始めようとするかも知れない、「あなたはどうしてこの策、あの策を講じないのですか。」「あの方法はもう試してみましたか。これをしないのはなぜですか。」
 これらの助言は、私たちが問題から逃れるために、キリストの頭首権に服し、自らの主権を神の足元に投げ出すのでなく、むしろ、私たちが自分の頭で早急に色々と対策を講じ、自己責任の下で、良質と思われる策を次々、行使することを求める。それらはまことにもっともらしい助言なので、聞いているうちに、問題がいつまでも解決しないのは、私の努力が足りないせいなのだと感じさせられ、何やかやの策を実行すべきだとの焦燥感に駆り立てられ、また、それを実行しないで来たことへの罪悪感さえ感じさせられるだろう。

 これらの助言の中で最も数多く聞かれるのは、「問題ある現場からは逃げなさい。なぜあなたはその場所から離れるために具体的な策を講じないのですか」というものだった。しかし、それらはただ「離れなさい」というばかりで、どこに逃げれば、確実に安全になるのかという問題にはついぞ答えてくれなかった。従って、このような無責任な助言を実行に移しても、その最終的な結果は全て自分の身に負わなくてはならなくなるのは明白だ。安全な逃げ道が分かっていないのに、闇雲に逃亡するのは、さらなる危険である。もしも誤った場所へ逃げていけば、そこで起こる悲劇をさらに背負わなくてはならなくなるからだ。

 このような助言を数多く受けているうちに、私はそれが(少なくとも私の人生にとっては)何の解決にもならない偽りであると分かった。どこへ逃げても、時間稼ぎにしかならない。逃げても、問題は解決しない。逃げれば、問題はただ追って来るだけである。私たちは、自分を神の主権から離れさせ、自己責任という重いくびき(地上的、サタン的くびき)を負わせて、あちらこちらへと彷徨わせるような助言に、耳を傾ける必要はない。「自己決定権を行使して、自分が正しいと思う策を早急に実行に移しなさい。もし対策を講じないならば、あなたが破滅するのは自己責任である」という考え。それは人を神から引き離そうとしてきた悪魔の常套手段である。

 大体、自己責任という言葉はどこから生まれて来たのか。自己決定権を大胆に行使して、その結果起こることすべてを自己責任として従容と受け入れるようにという考え、「欲するものを大胆に何でも取りなさい。その代わり、結果を自己責任として身に負いなさい。あなたが何も対策を講じないから、問題は良くならないのだ」という考え。それこそサタンの誘惑ではないのか。

 キリストは、人に自己責任を問われなかった。神が人に求められたのはただ御心に従うことだけであったが、それすらできなかった人間が負うべき責任も、キリストはご自分が率先して十字架上で負われたのである。その時、人の自己責任という概念、つまり、人が自分の人生に対して最終的な責任を負わなければならないという考えは、キリストと共に死んだ。キリストは、ご自分こそが人にとっての最終的な解決であり、避難所であることを示されたのである。問題に遭う時、あちらこちらへ逃げていくのではなく、あの手この手を講じようとするのでもなく、自分のもとへ来なさい、そこに最終的な解決があるから、と主は言われたのである。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30) 

 これは、苦労している人たちが、教会の門をくぐって、毎週の日曜礼拝に集って涙ながらに祈るべきだとか、牧師や神父のカウンセリングに早急に予約すべきだという意味ではない。文字通り、重荷を背負っている人たちは、キリストのおられる場所へただ行きなさいということを意味している。それは見える教会のことではなく、あれやこれやの地上的な場所のことでもなく、キリストという目に見えない場のことである。目に見える教会に所属していながら、キリストのもとにいない人々も存在するが、それでは本末転倒である。
 家庭内問題で苦しんでいる人たちにも、逃れ場はただ一つしかない。家庭の外に行けば、私たちの逃れ場があると安易に考えるべきではない。(もちろん、私たちが御心によって危険な場所から連れ出される場合はあるのだが。)忘れてはならないのは、対策が私たちを救うのではないということ、私たちにとってのまことの避難所は、ただキリストだけだということである。

 続きは次回にしよう。


 


血肉に対する戦いではなく…

音楽について少し付け足そう。ある時期、音楽は確かに私にとって偶像だった。そして主は驚くべき方法で私の偶像を処分された。
 だから、今、私が持っている音楽は、かつての偶像としての音楽ではない。主によって取り上げられて、そして聖別され、以前とは違う形に変えられて、私の手に返されたものである。

 私の人生でいくつか偶像だったものがある。第一は友人、第二は音楽だ。第一について言うならば、大学時代に出会った友人が、かなり長い間、私の心の偶像となっていた。それは私が家庭内の問題で悩んでいた時期であり、人に頼りたいという甘えが随分、心を支配していた時期だった。その頃、私は孤独と真正面から向き合う術を知らなかったし、そうなることを恐れていた。ちょうど教会に幻滅していた時期であり、苦しみから逃れるために、神ではなく人に頼った。
 だが、その友人はある条件を見れば、主が私に遣わしたのでないことは明らかであった。にも関わらず、この世に対する未練ゆえに、私はその友人を手放さなかった。そして、ついに、友人は劇的な形で私との信頼関係を裏切って去って行った。結果的には、主が彼を私から取り上げられ、私の偶像を打ち砕いて、偶像に信頼していた私に恥をかかせたのである。もし私がもっと早く、御心に従っていれば、すべては違った結果となっていただろう。

 その間にも、第二の偶像として、音楽が私の心を支配していた。私は音楽家ではないが、子供の頃から、音楽に携わり、並大抵でないくらい、音楽に憧れていた。だが、ちょうど第一の偶像が粉砕された直後、第二の偶像も粉砕されることになった。私は教会である音楽家に出会ったが、その出会いは私に何一つ有益なものをもたらさなかった。私が音楽というものに対して持っていた自分勝手な憧れと夢、野望と呼んだ方が良いヴィジョンは、その出来事を通して粉みじんにされた。

 今、私の手に再び戻って来ている音楽は、神によって取り上げられ、聖別されて返されたものである。それは以前と同じように見えるが、もはや以前のものではない。私を喜ばせるためではなく、もっと別のことのために存在している音楽だ。もちろん、私自身もそれによって恵まれているし、大きな喜びを得てはいるのだが、それは以前のような形ではない。以前は自分を感覚的に楽しませてくれる曲だけをひたすら追い求め、自分のために演奏の機会を求めていた。自分を喜ばせるために曲を書き、自分のために音楽が存在しているのだと思っていた。

 しかし、今は、音楽の中にも、主の御心、清さ、そういうものを追い求めるようになった。音楽の中にも、良いものとそうでないものがあり、また演奏の中にも、良いものと、そうでないものがあることが分かる。そして何より、装置としての音楽の危険性を感じるようになった。だから、時々、私の演奏を主に捧げますと、弾く前に祈ることがある。また、私がどれほど練習を積もうと、何を夢見ようと、主が許されない限り、私には今もこれからも、人前で弾くことは絶対にできないということが分かった。

 かつて小さな演奏会程度でよいから、自分の演奏を人前で披露する機会が欲しいと随分、願ったものだった。協奏という形でそれができないかと何度も願った。しかし、明らかに、主は私の野心を押しとどめられた。主は私がそういう場に立つことを一切、お許しにならなかった。これからもお許しにはならないかも知れない。ここには何か隠された意味があるように思う。

 舞台というものは、牧師の講壇もそうだが、そこに立って脚光を浴びる人の心理を狂わせるような魔力を持っている。舞台演奏家や、ショービジネスの世界に生きる人々がどのような私生活を送っているか想像してみればよい。それは舞台人の世界には必ず働く誘惑を示している。ある種の人間は、舞台というものが持つ誘惑に決して打ち勝てないがゆえに、そこには絶対に立つべきではないのかも知れない。

 だから、もし人前で弾かないことが御心ならば、それで良いと思う。私の音楽は、もはや私自身の満足のために存在しているのではないので、脚光を浴びようと浴びなかろうと、評価されようとされなかろうと、評価の水準に達しようと達しまいと、それはもうどうでも良い。何のために弾き続けているのかよく分からないが、日々の練習には平安があるのだから、地道に進んで行けばよいことである。日々の練習の中で出会う様々な楽曲は、私の内面を豊かにしてくれ、私の生活に喜びをもたらしてくれる。ただそれだけである。

 こうして私の生活の中からあらゆる偶像が取り除かれ、粉みじんに粉砕された後、それまでになかった展開が人生に起こるようになった。ああ、明らかに、主は私の音楽を違うものへと変えられようとしているのだな、これはもう私のものではなくなりつつあるのだな、と感じさせられる瞬間があった。

 同様に、このブログもそうだが、今、次第に私の人生が私のものでなくなりつつあるような実感がある。ある人は、私がこのブログを書き続けているのを、実生活を放棄しているがゆえの逃避行動だと嘲笑うかも知れない。ネット上の生活がメインになっており、現実を生きていないのだと。しかし、その非難はあたらないだろう。

 ある時、私がこのブログを信仰告白だと言ったのを読者は覚えておられるだろうか。それ以来、恐ろしいくらいに、私は四方八方から観察されているように感じている。人から、というよりも、主から観察されているのだ。私は本来、創作が大好きで、皮肉や悪ふざけに満ちた文章や、フィクションを書くのが好きなのだが、ここに創作を書いて人の注目を集めることはできない。私はここで真実を語らなければならない。誠実でなければならない。私はここでは創作家になってはならず、どこまでも信徒でなければならない。
 従って、たとえ実生活でどんなに滑稽で惨めな日々を送っていたとしても、見せ物になるのは嫌だと言って、本心を偽ることはできない。どんな時にも、あるがままで主を見上げるようにしなければならない。私はキリストのための愚者とならなければならなかった。

「神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。わたしたちはキリストのゆえに愚かなものとなり<…>わたしたちは卑しめられている。今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。」(Ⅰコリント4:13)

 正直なところ、私も自分を「この世のちり」、「人間のくず」と感じる瞬間が多々あった。そんな時、これ以上、自分を愚者として、見せ物として心傷つけられたくないと心から思った。私は自分の心の痛みをほんの少しだけ打ち明けるといった芸当がもともとできない性質なので、書くときはすべてを書いてしまう。だが、みっともなく、惨めな思いをして、悲しんだり、打ちひしがれているとき、そのことを赤裸々に書くのは嫌なことであった。

 しかし、主は、私が正直に誠実にあるがままのことを書きながら、悩みと苦しみの中にあっても、主を証していくことを選び取る時に、思いもかけない恵みを常に与えて下さった。主は信じる者に惨めな思いをさせて恥をかかせるだけでは絶対に終わらせないということが分かった。そこで、私は自分の心を守ろうとすることよりも、真理を証することの方が大切であることを知った。
「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」(ヨハネ12:25)

 ところで、今、私の最大の懸念事項となっていることが何であるかを、そろそろ書きたいと思う。そのことについて兄弟姉妹たちの祈りが必要だからでもあるし、このことをこれ以上、一般に語らずに、特定の人々だけに助言を求めるのが良くないと感じるからである。どうして私はハンナのような涙に満ちた祈りを捧げねばならないのか。それは、私の信仰が薄いせいだとはどうか思わないで欲しい。私が家人からいわれなく憎まれて、存在の場を奪われているためである。
 家人の名誉のためと思って、このことを告白するのは今まで控えて来た。また、被害者意識から抜け出せないでいるなどと人から責められるのもこりごりだったので、語りたいと思う話題でもなかった。しかし、そろそろ語っても良い時が訪れたように思う。

 キリストがいわれなく憎まれたのと同じく、キリスト者もいわれなく世から憎まれても何の不思議もないことは、聖書に書かれている。我が家で起こったのはまさに聖書が予告している出来事であった。
「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。」(ヨハネ15:18)
「しかし、あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。<…>あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。」(ルカ21:16-19)
「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29) 

 私は幼い日にキリストを信じた瞬間に、父母双方からの愛をほぼ完全に失った。以来、彼ら双方から憎まれ、人生のあらゆる成功を妨害され、蔑まれ、嫌われる存在となってしまった。洗礼を受けることを父に告白したその日は、生涯で忘れられない悲惨な一日となったが、それは同時に、キリスト者を名乗っていた母からも見放された日となった。
 こういうことは、カルト的な宗教にのめりこんでいる家庭では決して珍しい現象ではないことを断っておきたい。宗教は我が家の成員をバラバラに引き裂き、さんざん悲劇を生み出す根源となった。我が家では、私が幼い時分から、まことのキリスト者に対する迫害がずっと続いていた。本当のことを言うならば、はっきりとキリストを信じるより以前から、その迫害は始まっていたのだが…。
 同じ信仰を持っているはずなのに、憎み合うことしかできない。信仰を我が家に持ち込んだ者が、まことの信仰者を迫害するのである。この支離滅裂は説明のしようがない。私の年下のきょうだいたちも教会で信仰を持ったが、今はそこから離れている。あまりにも悲しい出来事がありすぎたから、仕方がないとも言える。だが、それこそが迫害の真の目的だったのだ。つまり、私たちをキリストの愛から引き離して、人生をむなしく失わせることが敵の狙いだったのである。

 両親はそれぞれ異なる宗教観を持ち、観念的には対立しているにも関わらず、どういうわけか、霊的には一致してキリスト者となった子供たちを迫害してきた。今、私が両親、特に父から受けている憎しみにはすさまじいものがある。先日、一触即発の危機的な事態が展開されたが、もう2,3回そのようなことが起これば、誰かが大怪我を負わずには済まないだろうと感じた。本当にこれが私の父だろうかと、表情を見て疑う。それほど、彼には情けというものが感じられなくなってきている。年々、それはひどくなっている。彼が我が子をそれほどまでに憎んでいるとは信じがたいが、それは事実である。今はかろうじて、まだ私であることを認識してくれて手加減しているとはいえ、この感情がそのまま進んで行くと、殺人に至る危険さえある(すでに精神的には数え切れない回数、殺されているのだ)。

 父がこれまで私のピアノはおろか、私の手がけた一切の仕事をずっと快く思っていなかったのはよく知っている。だが、これほど憎まれるに至っては、もはや我が家ではピアノどころではない。父のいるところで食事をすることもできない。そこで、彼を避けて、隠れ、存在していないかのようにして生きていくことしかできない。きょうだいもそうして暮らし、ついに耐え難い気持ちのまま家を去って行った。父は私の存在を今からすでに無いものとして扱っており、そもそも私の生存を願う温かい気持ちが一切、彼の中に存在していないことは明白である。

「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。」(ヨハネ8:44)

 こんな御言葉を自分の親に重ねて見なければならないとは、何ともやりきれないことだが、これが偽りのない事実である。人の同情を乞いたいがゆえにこんなことを言っているのではない。両親の罪を告発するためでもない。私の両親はかの者に恐るべき影響を受けて操られているだけである。今まで、理解できない親の仕打ちにどう対処すべきか分からなかったがゆえに、ただ悲しんだり、苦しんだりしながら、抵抗し、愛されなかったことに深く傷つき、自分の落ち度ゆえにそうなったのではないかと恐れ、悩み、関係を修復するためにあらん限りの知恵を振り絞って努力してきた。そして、安心して生きられる場所をどこにも持たないことに苦しんできた。

 だが、今、これは気持ちの問題ではないということを確かに感じる。あらゆる感傷を越えて、敵に対してきっちり向き合う必要があると感じる。敵は個々の誰それではなく、サタンである。退却するとか、逃げるとか、そういう選択肢をいつまでも取るだけで、対決を避け、敵に打ち勝つということをしなければ、その戦いはいつまでも続くのだ。そのことが徐々にはっきりと分かって来た。
 私は両親を憎んではいないし、両親の変容のことでそれほどまでに悲しんでもいない。憎むべきは人ではなく、その背後にいて人を操っているサタンだ。

 恐らく、サタンの玉座のようなものが、我が家の中に気づかない昔からもうけられていたのだろう。だが、悪鬼に対して、毅然と立ち上がるべき時が来た。彼が私についてあることないことさんざん告発して私を苦しめ続け、私をみなし子にまでおとしめてきたように、私も彼の罪とがをあらん限り、主の御前で告発し、早急に彼が成敗され、敗北し、何重にも呪われて、打ち捨てられることを求めよう。もちろん、どんなことがあっても、最後まで耐え忍ぶことは必要であるが。カルトとの戦いよりも、こちらの戦いの方が、本当は、私にとっては最初からより重要かつ深刻であった。

「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)

 恐らく、戦いはこれから本番を迎えるのだろう。今後、何が起こるのだろうか。
 戦いに臨む上で、次の御言葉も助けになる。主は言われた、「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。」(ヨハネ12:26)
 「わたしのおる所」とはどこか。神がキリストに与えられた絶大な権威を見てみよう。

「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソ1:20-23)

 心から主に従って行こうとする者たちの命は、ただ神のうちに隠されているだけではない。キリストのおられる御座の高みに引き上げられ、キリストの権威と共にあるのである。それは万物を足の下に従わせる権威である。生きた人間が、その前で何の力を持つだろうか。

「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」(ヨハネ11:25-26)

 悪しき日にあって、これ以上、敗北し続けるわけにはいかない。心を新たにして、御霊によって祈り、二度と敵の策略に陥ることがないように、目を覚まして祈っていよう。もし心ある兄弟姉妹がおられるなら、この問題について、私が二度と敗北せずに済むよう、心を合わせて祈って欲しい。

山小屋での交わりを経て

ブログを書くのが久しぶりだからか、それとも、まだ私の心がこの地に戻っていないせいなのか、文章は進まないわ、書いた記事は操作ミスで消えてしまうわ、なかなか調子が元に戻らない。一体、何時間、パソコンに向かっているだろうか。なのに、未だに最初の行を書いているのはなぜだろう?

 Sugarさんの山小屋を訪れて、兄弟姉妹との交わりの場に加わり、無事にこの地に戻って来た。距離にすれば、日本列島を半分くらいは横断しただろうか? 随分、無謀な思いつきのように見える旅だった。しかも、行きがけには、地震による夜行バスの延着というハプニングまであったのだ。横浜で私を車で拾ってくださる予定になっていたLuke兄弟にはそのせいでひどく迷惑をかけてしまった。
 私は携帯電話も持たず、時計も持たずに家を出た。そこで、東名高速道路が不通となり、バスがどことも知れぬ住宅街の一般道を、まるで亀のような遅さで進み始めても、外界と連絡を取る方法をまったく持たなかった。兄弟たちは、バスがいつ到着するか分からず、情報が何も入らないので、もうヴィオロンは到着しないのかもと思いながら、話し合っていたらしい。

 しかし、私の方は暢気なもので、絶対に私は置き去りにされることはないと安心していた。たとえ何時間遅れようとも、夜になろうと、兄弟は必ず現場で待っていてくれるだろうと勝手に確信していた。それくらい相手を信頼して命を預けていたといえば聞こえは良いが、結局、それは私が能天気すぎるということかも知れない。

 主のはからいだったのだろう。バスは終着点だったはずの横浜に、順番を入れ替えて真っ先に到着してくれた。遅れは一時間で済み、そこから兄弟の車で、さらに5時間ほどかけて山小屋まで走ったが、着いた時はまだあたりは明るく、夕方になっていなかった。
 こうして兄弟姉妹たちのはからいのおかげで、途方もない距離を越えることができたのだが、一つ不満だったのは、私を送って下さった兄弟が、あれほど念押ししたにも関わらず、翌日、私を煙に巻いて、交通費を請求せずに帰って行かれたことである。今となっては、そこにも、主が働いておられたと信じ、ただ感謝することにしよう。

これは誰でしょう? さて、山小屋滞在中は、鳩さんの奥様の手料理にあずかった(というよりも、私は料理において戦力外)。
 鳩さんの一家は、まことに微笑ましい、自然で、健全な、キリスト者らしい家庭だった。キリスト者らしい、と言っても、そこには、わざとらしさや、不自然さな押し付けは見受けられない。子供達は両親を心から愛し敬っているのが感じられたし、誰もが何の隠し立てもなく、自然に振舞っていた。
 あまりにも元気いっぱいの子供達は、毎日、小屋の中をドタバタ駆け回り、毎瞬のように喧嘩が起こっていた。それでも、すぐに仲直りし、兄弟仲も極めて良い。私にもよく懐いてくれた。

 後日、山小屋に合流したTさん親子(大学院生の息子さんとその母親)も、やはり健全で自然な親子関係を築いていた。今回、私がこの二つの家庭と間近で接触したことには、何かしらの意味があったのかも知れない。私自身は自然な家庭というものをこれまでに一度も経験したことがなく、しかも、我が家ではこれまで、キリスト教は悲劇の源にしかならなかった。そこで、私には平和で穏やかで健全な家庭というものに対する、悲しい、根深いコンプレックスがあったし、それに、教会での体験を通して、キリスト者の家庭というものに、あまり好感を持っていなかった。
 にも関わらず、今回、お会いした二つの家庭には、もしもこの先私が家庭を築くならば、ぜひともこのようでありたいと思わせる、微笑ましさ、仲むつまじさ、自然さ、健全さがあった。さらに、信仰が少しも不自然でない形で家庭に同居しているのを見るのは興味深いことであった。

山の散策 今回の旅の中で、私にとって、最も嬉しく、かつ、印象深かったのは、最終日に、Sugarさんと駅のホームで電車を待ちながら過ごした束の間の時であった。それは私にとって、それまでの数日間を合わせたよりも、なお、意味深い交わりの時となった。
 その時、始まったばかりのこの交わりが、永遠に続くものであること、そして、私の山小屋訪問が、今回限りでは絶対に終わらないことを確信した。

 エクレシアとは何かについて、これ以上、だらだらと詳しく述べる必要はないだろう。ただ一つ言いたいことは、そこには天的感動とか、情熱的な一致団結、などというものはなかったということだ。エクレシアに集っていたのは、少々地味すぎるほどに、ごくごく普通の人たちであり、そこにあったのは、少々飾り気がなさ過ぎるほどにごくごく普通の日常生活であった。しかも、強調したいのは、集った人たちは、決して、細部にわたるまで意見を同じくしたりしていなかったということだ。そこには、同じ思想、同じイデオロギー、同じ見解などは見られず、代わりに、様々なことについて異なる意見があった。キリスト者としての先人についての理解も異なり、聖句の解釈にさえ、度々、意見の一致が見られなかった。さらに、性格も、年齢も、好みも、生い立ちも、興味ある話題も、人それぞれに異なっていた。

 それほど異なる性格や見解の持ち主が、不思議に、同じ信仰を共有し、兄弟姉妹という自覚で結ばれているのがエクレシアなのだ。
 真のエクレシアには統一的なユニフォームはなく、それぞれに異なる、似ても似つかない人々が、異なる姿のままで、逆説的に「一つ」として用いられている。見解が同じだから、考え方が似ているから、行動様式が似ているから、あるいは同じ名称の組織に属しているから、同じ規律を守っているから、同じ教義の理解をもっているから、同じスローガンを掲げているから、同じヴィジョンを持っているから、だから上手くやっていける仲間同士なのだという感じ方は虚構であり、それは主が働かれる方法ではない。

 神は信じる者たちをそれぞれに異なるままで用いることがおできになる。信者たちが何かの統一的なバッジをつけることを神は喜ばれないどころか、むしろ、許されないだろう。私たちにはどんな目に見えるバッジもなく、共通点は、内におられるキリストだけである。

 私が今回接触したエクレシアは、まだ生まれたての赤ちゃんのような、小さな芽に過ぎないものであったと思う。それはすくすくと育って、この先、もっと確かなものへと成長していく必要があることを感じる。小さな愛に過ぎないものが、確かで力強く揺るぎない愛へと成長し、今現在のあらゆる見解の相違を超えて、兄弟姉妹たちには、この先、キリストを信じる信仰の一致、キリストを知る知識の一致がもたらされる必要があるだろう。そして、互いがキリストの身体としてしっかりと関節に組み合わされて機能するようになる必要があるだろう。そうなる時、初めは小さな芽としての集まりに過ぎなかったものが、目に見えない形であるにせよ、背の高い太い幹へと成長し、空の鳥も憩うほどに葉を生い茂らせ、道行く人々に安らかな木陰を提供するようになるだろう。
 エクレシアが、整えられた主の花嫁として姿を現すには、まだ時間がかかるに違いない。しかし、できるならば、生きているうちにその不思議な御業の完成を目撃したいし、生きてそこに連なることができるならば、何という幸いだろうかと思う。

 今朝、Sugarさんに無事帰還の連絡を入れると、そのまま、電話は交わりになった。不思議なこともあるもので、つい昨日まで、直接話をさせていただいたというのに、今日の交わりは、昨日とは全く打って変わって新しい。ある人は、そんな感じ方は孤独のなせる業だ言って、私を笑うかも知れないが、そうは思わない。キリスト者の交わりは常に新しく、常に人の心身を潤すものとなるだろう。他のキリスト者から溢れ出る生ける命の川々に触れる時に、それが私にとって喜びをもたらし、私の心身を健やかにするものとならないわけがどこにあるだろうか。キリストがおられるからこそ、エクレシアの交わりは人に命をもたらすものとなるだろう。その喜びにあずかれる幸いを思う。

 今、私の故郷では、身近で交わりのできるキリスト者が見つかっていない。けれども、「主が何かを起こされる時には、その単位として、共に行動することのできる二、三人のパートナーを与えられるでしょう。あなたにもそれは与えられるはずですよ」と、Sugarさん。
 きっとそうだろう、この地にも、すでにその二、三人が起こされつつあるのに違いない。私がまだ出会っていないだけで…。そういうエクレシアを、今、至るところで、主は起こしたいと願っておられるのではないだろうか? 主はこの先、どんな方法で私を彼らと出会わせて下さるのだろうか? どうやって、この地にも、交わりが成り立つのだろうか? そうなる時が、待ち遠しくてたまらない。

山小屋の屋上からの見晴らし。見事な晴天!

古き人を脱ぎ捨て、新しい人を着る

 今夜、Sugarさんの山小屋に向けて発つので、しばらくブログは更新できない。この旅はきっと、私が地上のものを後にし、キリストが満ちている高みへ向けて踏み出す確かな一歩となってくれることだろう。それは霊的滋養を私に与えてくれる旅となるだろう…。

 この出発と合わせるようにして、昨日、私の周りでひどい騒動が起こった。それはまるで、地上を離れると宣言した私への、地上からの陰険な引きとめ策とさえ受け取れるものであった。その事件を通して、主が明らかにされようとしたのは、多分、私の中に、まだ地上的なものに心惹かれる魂の欲求が強く残っており、それが触発された時に、自動的に反応を起こしているということであった。私の中で、肉なる人への愛情を求める欲求、未練、執着が死に切れていなかったこと、言い換えるならば、私の行動がそれによって無自覚に支配されていたことが明るみに出たのだ。

 しかし、人を愛し人から愛されているうちは、地上的な愛を求める欲求は、決して、御心に反する罪や、悪として浮き上がって来ることはない。このような魂の欲求の正体が暴かれるのは、「可愛さあまって憎さ百倍」と言われるように、相思相愛が成立せず、愛が得られなくなった時なのだ。その瞬間になって、初めて、魂からの愛は、その悪なる正体を目に見える形で現す。つまり、この世的な愛を求める人は、それが得られなくなると、それに対する激しい執着と未練に駆られ、まるで禁断症状に陥ったように、得られない愛を求めてどこまでもストーカーのように追いすがる。心乱れ、髪振り乱し、もはやキリストの平和のうちにとどまっていないのは一目瞭然だ。ついには、公然と、御心を捨てて、地上的な愛を追いかけるが、満足させられない欲求は、その人の中で、不満、憎しみ、怒り、恨みつらみに変わって荒れ狂う。その嵐のような衝動は、最後には、自己もしくは他人を死(殺人等)へと導くだろう。

 つまり、この世的な愛を得たいとの欲求は、そのものが、神の御心に反するのだと理解することが重要である。だが、そのような肉なる衝動にまだまだ私は知らずに突き動かされていたことが、今回の事件によって判明した。私は霊の衝動と魂の衝動を見分けることを今までやって来なかったのである。キリスト者の交わりを通して、私はこの事件に霊的な意味があったことに気づかされた。私は自己の内なる魂の衝動をきちんと見分け、それを管理し、御心に反する魂の衝動に死んで(私を慕い求める罪をきっぱりと退け)、霊に導かれて生きることが求められているのだ。

「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4:22)

 私たちの心の中には、どれほど改められなければならないものが含まれているだろうか。 「情欲に迷って」、という言葉の中に、たとえば、肉親や兄弟や親戚や友人、知人たちの地上的な愛を求める欲求を含めることができるのではないだろうか?
 人として生まれてきた以上、皆から愛されたい、好意をもたれたい、と願わない人はいないだろう。だが、地上に住む人々の愛や好意や賞賛や注目を少しでも多く勝ち得たいという欲求も、情欲と同じく、滅び行く古き人から発する欲なのである。

 非常に厳しい言葉を使うならば、人は生まれて初めてお目にかかる他人、すなわち、両親からの愛を得たいという欲求にさえ、死ぬ必要があるのではないだろうか。赤ん坊にとっては、両親からの愛を受けられるかどうかは、生死を分けるほどの重大問題だ。きっと、良識ある人々であれば、それを諦めるべきだとか、その欲求に死ぬべきだなどとは言わないだろう。しかし、それほど重大な死活問題であるからこそ、親の愛を求める欲求は、人間の生まれながらの自己(古き人)に由来する、極めて抜き難い、本能的な、魂の奥底から出て来る欲求なのだと言えるのではないか。そして、主の視点から見るならば、親を代表とする地上的な人々の愛が、あなたの幸福決定権を握っているという感じ方は、完全な偽りなのだ。あなたを生かすのは、ただキリストの愛、キリストの命のみなのだから。

 従って、親兄弟、親戚、友人を含め、肉なる人から与えられる愛を求める願いに、私たちは十字架を通して死ぬべきなのであり、そのような諸々の魂の欲求に支配された古い人を完全に脱ぎ捨てて、聖霊によって歩む人へと変えられる必要がある(だが、それは決して、親兄弟との関係を一概に絶つとか、ニヒリズムに陥るとか、あるいは、人に対して薄情になれというような意味ではない)。
 キリスト者が関心を向けるべきは、地上の人々によって与えられる愛ではない。家人、親戚、友人、知人、そういう人々があなたを愛するか否か、それはあなたにとって死活問題でないどころか、何の問題にもならない。彼らには、あなたを唯一の命の源であるキリストから引き離す力が備わっていないのだから。

 地上的なつながりのある人たちの愛は、人間関係が上手く行っている間は、何の問題もなく、あなたを満たしてくれるだろう。それでも、それらに左右されて生きているレベルを、私たちは必ず、後にしなければならない時が来るだろう。それは地上的なものを理性や感情や意識の上で超越するという意味ではない。私たちが本当にキリストの愛のみによって生きるようになる時、おのずから、地上的な愛、魂から来る愛には自分を生かす力がないことが分かって来るのだ。

 以下は、ジェシー・ベン・ルイス、「魂の力」対「霊の力」、から抜粋。

「マーレーは、『『魂』は我々の『自己意識』の座である』と記しています。
『魂は我々の道徳、知的能力、意識、自己決定、精神、意志を含む』
『人は霊によって神と彼の御旨に結合される。アダムの堕落において、『魂』(自己)は霊に従うか、それとも体と目に見えるものの誘惑に従うかを決定しなければならなかったのである』
『堕落において、魂は霊の支配を拒み、体の奴隷となった。・・・こうして、魂は肉の支配に服し、人は『肉になった』と言われている。それゆえ、魂のあらゆる属性は肉に属し、『肉の力の下』にある」

「マーレーの次の厳粛な言葉から、この事実の重要性がわかります。
『教会や個々の信者が恐れなければならない最大の危険は、精神や意志の力によって魂が過度に活動することである。多くの人の中で、魂は長い間支配してきた。そのため、キリストに服する時でさえ、『今こそ服従の働きを成し遂げなければならない』と魂は思い込むのである。この自己(魂)は非常に巧妙で力強いため、魂が神に仕えることを学ぶ時ですら、肉が依然として力をふるって、御霊だけに導かれることを拒むのである。宗教的であろうとする魂の努力もまた、大いなる敵であって、御霊を妨げ、消してしまう。・・・御霊によって始まったことが、非常に速やかに、肉に信頼する結果に終わってしまうのである」

 私は極めて魂的な人間であるから、これまで、魂の衝動のみで生きて来たと言い切っても過言ではないくらいだ。御言葉について語っている時でさえ、途中から、魂の興奮に突き動かされて喋っていることがある。しかし、私の中で魂の活動が活発化する時に、その危険性を見極め、聖霊という消化器でその衝動を吹き消し、御霊に聞くという訓練を行うことが今、求められているのが分かる。それをしないと、私は魂の衝動に無自覚に突き動かされて、結局、道から足を踏み外してしまう。だから、魂に対して勝利する方法を学ぶことは、キリスト者にとって、死活的重要性のある問題なのだ。

「それは、パウロがガラテヤ人への手紙5章17節で描写した昔ながらの戦いです。
『肉の欲は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らいます』。『肉の思いは神に対して反抗します』(ローマ人への手紙8章7節、参照コロサイ人への手紙1章21節)。
『肉』と『霊』は真っ向から対立しますし、今後も常にそうであり続けるでしょう。『肉』が『魂』の形を取って現される時、すなわち『肉』が生まれながらの人に固有の精神や意志などの力を通して現される時も、『肉』と『霊』は真っ向から対立します。これらは『肉の行い』として、次のように列挙されています。『偶像崇拝、魔術(魔法、Conybeare)、憎しみ、不和、騒乱、異端』(ガラテヤ人への手紙5章19~21節)。これらの活動はみな、肉の力の下にある魂の力によります。」

 肉の行い、すなわち魂の働きの結果もたらされるものの中に、「憎しみ、不和、騒乱」が含まれていることを、しっかりと覚えておきたい。家庭内騒動、家庭内不和というものがなぜ起こるのか。そこに魂の欲求が強く働いているからに他ならない。キリスト者はこのような魂の欲求の渦に巻き込まれることを拒否し、肉や魂の衝動に動かされる古き人を脱ぎ捨てて、「心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」。
 新しき人とは、聖霊によって導かれる人である。

 また、アンドリュー・マーレーによれば、私たちの「道徳、知的能力、意識、自己決定、精神、意志」もまた魂の働きによる。ナントカ主義、ナントカ運動、そして宗教などはまさに魂の産物であると言えるし、科学、創作もそれに含まれるだろう。(今日、魂の影響に汚染されていないものを見つけることの方が極めて困難である。)
 今、キリスト教界に広がっている各種の誤った運動や、教えを見るならば、魂の働きがこれらの汚染や堕落の根源となっていることが分かるだろう。聖霊という言葉を巧みに使いながら、その実、肉体的感覚を煽る運動、魂の興奮を煽る運動などが展開されている。それらはまさに警戒すべき偽りである。

『魂の力』対『霊の力』。これが今日の戦場です。キリストのからだは、自らの内にある聖霊の力によって、天に向かって前進しつつあります。この世の雰囲気は、魂的な潮流(その背後には悪霊たちが集結しています)に覆われつつあります。神の子供にとって、危険を逃れる唯一の道は、キリストと結合したいのちを経験的に知ることです。キリストと結合したいのちの中で、神の子供はキリストと共に神の中に住み、有害な空気(その中で、空中の軍勢の君が彼の働きを進めています)を超越します。清めるキリストの血、キリストの死と一体化させる彼の十字架、復活・昇天された主の力―――これらを聖霊によって絶えず宣言し、握りしめ、行使することによってのみ、(キリストの)からだの肢体は勝利して、昇天されたかしらと結びつくでしょう。」

 心の深みまで新たにされて、新しい人を着る方法を、これからもさらに学んでいこう。

 前回と今回、ご紹介したオースチン-スパークス、ペン-ルイスなどの著作は、Olive Gardenをご参照下さい。
 


聖なる都、新エルサレム

 先日、私は家人に言った、「今、ほとんどのクリスチャンたちは、まるで分厚い雲のような偽りにごまかされているように思う。私もずっとその下で暮らしてきた。未だにそれ以外の世界を知らない。でも、今から、この雲を突き抜けて、太陽が輝いている世界を見たいと思わずにいられない。どうしても雲の上の世界に行きたいと思わずにいられない…。」

 それはほとんど愚痴のような言葉だった。けれど、今から、思い出すと、その言葉は、私の魂から出たのではなく、主の導きによって与えられたものだったのかも知れない。主は不思議な方法で、今、私の人生に働いておられるが、それを通じて分かることは、いよいよ、私は本格的に地上を離れなければならないということだ。

 私は今までほとんど強制的に地上のものに対して死ぬことを求められて来た。それはいわゆる運命のいたずらによってだった。驚くような事件に遭遇し、地上の宝を失い、自分がどれほど弱く、不完全であるかを思い知らされた。肉なる愛情で私を愛してくれていたはずの人たちが、敵意をむき出しにし、それまでかろうじてあったはずの信頼さえなくなった。
 これら全ては人知を越えた驚くような事件だったが、そうなっても、まだ、私は人生を何とか元の軌道に乗せたいと、そればかりを願ってきた。けれど、その願いはどうやっても叶えられない。いや、叶えられるはずがなかった。それは、私の居場所は元々この地上にはなく、私の幸福は地上にあるのではないからだ。

 地上には、私を完全にするものは何一つとしてない。完全なるものは全てキリストの中にのみ存在する。自己流の方法で自分の不完全さを補おうとすることは、この世への妥協と、霊的な死を招くだけである。
 以下は、オースチン-スパークスの言葉の引用。

「さて、私はとても強い言葉を述べたいと思います。それを受け入れるのは、あなたにとって困難かもしれません。あなたは、この世が呪いの下にあることを、理解しておられるでしょうか?
神は今のこの世の上に呪いを宣告されました。呪いはどのように表れるでしょう?呪いのあるところには挫折の法則が働きます。あなたはそこそこ進めるだけで、それ以上進むことはできません。人間生活はそこそこ進んで、それでおしまいです。完全と完成に至るまで進み通すことはありません。すべてが不完全であり、死によって挫折させられます。
イエス・キリストが話されたある男は、一生の間に大量のたくわえを積み上げて、ほくそえんで自分に言いました、『魂よ、もう引退することができる。自分のために大量のたくわえを積み上げたのだから、食べて、飲んで、楽しめ』。しかし、神は言われました、『愚か者よ、今夜お前の魂は取り去られる。お前が用意したものは、誰のものになるのか?』(ルカによる福音書12章20節)

 呪いと死は、人のもくろみがすべて挫折することを意味します。人間生活に言えることは、この世にも言えます。ああ、何と多くの人が挫折という堅固な壁を打ち破ろうとしてきたことでしょう!今日、人は何と遠い道のりを進んできたことか!25年前に今日の様子を告げられていたら、あなたはそれを決して信じなかったでしょう。そうです、人はとても長い道のりを進んできました。月に到達しさえしたのです――そして、誰かの指がボタンを押すだけで原子爆弾の投下が始まり、人の業は一瞬のうちにすべて一掃されてしまいます。すべての人がこの可能性を知っていますし、まさにそうなるであろうことを神の言葉はとても明確に告げています。呪いがこの世の上に臨んでいるため、この世は決して完成に至ることはありません。

 私が言っているのはこういうことです。もしあなたと私が霊の中でこの世に束縛されるなら、私たちは霊的死の下に来ることになるでしょう。聖霊に敏感なクリスチャンは誰でも、この世に触れる時、何かが間違っていると感じるでしょう。そして、『私は下って来てしまいました。この呪われた世に触れて、私の霊の中に死が感知されました』と反応するでしょう。

 この地上の霧を超越しない限り、神に属する事柄は決して見えないでしょう。もしあなたが自己の生活に下るなら、それは挫折です。もしあなたがこの世の生活に触れるなら、それは挫折であり、霊の中でこの世を超越しない限り、神に属する事柄は見えないでしょう
『私は御霊の中にいた。また、私は大きな高い山の上にいた。そこで私はあるものを見た』。この言葉はとても単純であり、とても意義深いです。ご覧のように、これらがクリスチャン生活の霊的原則であり、とても現実的です。私たちがこれについて知ることを私は希望します。」

 私がすべきことは地上の事柄に完全に死んで、地上の偽りと欺きとごまかしの霧を抜け出し、霊的な目で、高みに立って、新エルサレムなるエクレシアを見ることだ。実は、そうしようと思うよりも前に、すでにそこに引き入れられている幸いがあるのだが、ただ現象としてのみ、それを感じるのではなく、しっかりと目を開いて、肉眼ではなく、霊的な目で、今目の前に起ころうとしていることが何であるか、理解する必要がある。

クリスチャン生活はキリストが増し加わることです。これが私たちに対する聖霊のすべての取り扱いの理由です。なぜなら彼の唯一の目的は、教会をキリストの豊満にもたらすことだからです。キリストの豊満とは何か知りたければ、聖なる都、新エルサレムというこの象徴的表現を見ればわかります。」

「あなたは自分の人生の中に主イエス・キリストを受け入れたでしょうか?受け入れた後、自分をさらに十分に占有することを彼に許してきたでしょうか?あなたの人生でキリストは絶えず増し加わってきたでしょうか?これが裁きの規準であり、中に入れるか外にとどまるかを決定するものです。」

 私はこの世に死するために、今の状況をくぐらされたのだった、そのことが今日ほどはっきり分かったことはなかった。ただ主だけに従うために、父母、きょうだい、友人…、肉なるもの全てを失った。そうである以上、ここで、失ったものに、未練を感じたり、引け目を感じ、元の生活に戻ろうとしてはいけない。この世ときっぱり訣別し、この世に死んだ以上、新しい目的地を目指すべきである。

 向かうべき先は、キリストが満ち満ちておられる栄光の都。嵐の日に船が積荷を海に投げ捨てるように、私は目的地へ向かうために、無用な荷をまず捨てた。目的地のことを思う時、畏怖の念に近い感動がこみ上げて来る。
 天路暦程の主人公と同様に、私は確かな目的へ向かって旅をしている。新エルサレムという都へ向かって。もちろん、すでに私自身が都の一部としての性質を持ってはいるのだが、同時に、キリストのさらなる豊満を求めて旅は続く。

「都は統治の座であり、命の水の川は御座から流れ出ていることがわかります。ですから、すべてを生み出すのは御座です。この意味はおわかりでしょう!それは神と小羊の御座です。一言で言うと、それはイエス・キリストの絶対的主権を意味します。万物のまさに中心に、イエス・キリストの統治があります。この統治は彼の十字架の効力によるものであり、小羊としてです。他のすべてのものは、イエス・キリストが占められる地位に全くかかっており、私たちがどれだけ彼に自分を委ねるかに全くかかっています。もし私たちが自分を全く主に委ねており、彼が全く主であるなら、命が流れるでしょう。そして、命に関して述べたことが、私たちの間で実現されるでしょう。それはイエス・キリストへの絶対的明け渡しの証しになるでしょう。」

 夕刻に庭を歩くと、涼しい風の中、それぞれに美しい色とりどりの各種の花が、皆一様に、太陽に向かって顔を上げていた。何という不思議だろう。全ての花が太陽に向かっている。それと同じように、永遠なるもの全てが、キリストの御座に向かって顔を上げている。キリストの御座から流れ出る川が、一切の命の源だからである。命なるキリストに向かうところに、一切の信仰の歩みがある。

 私の心は畏怖の念に包まれる。ああ、目指すべきはただキリスト、キリストだけ。他に何もない。今も将来も、向かうべきはただキリストだけ。

「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがた満たされるように、と祈る。
 どうかわたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることのできるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世よ限りなくあるように、アァメン。」(エペソ3:16-20)
 


 


荒野にあっても…

 解放の神学について調べながら、かつてキリスト教の中に非キリスト教としての解放の神学がどうやって入り込み、どのようにして全体を腐食して行ったのか、その歴史を学んでいる。そこには、ちょうど今、繁栄の神学が、キリスト教の内側に仕掛けられた爆薬として、この宗教を内部崩壊させるような活動をしているのと全く同様の構図が見られる。

 しかし、資料を読めば読むほど、このように既存の宗教の弱点を見事についた、既存の宗教の影の部分を訴えるべく登場してきている擬似宗教が、どれほど人間に強く働きかける力を持っているかを感じるため、慄然とする。

 目の欲、肉の欲、持ち物の誇り、という言葉を聞く時、私たちはそれが何か大それた贅沢を願う、途方もない、現実離れした欲求のように感じがちだが、しかし、実際はそうではない。
 それは、今、まさに、社会的・経済的に疎外された状態に暮らす私が、この疎外の状態を解消したいと願う欲求と一致するのだ。

 飢えた子供が、死にたくないので、せめて一切れのパンが欲しいと願うその欲求を、どうして私たちは罪深い肉の欲として退けたりできるだろうか。それは私たちの目に、まことに善良で、純粋な願いのように映るだろう。同様に、社会から疎外された弱者が、せめて生きていくための手段が欲しいと叫ぶその願いを、誰が却下できるだろうか。誰もが餓死せずに適度な労働をして自立して生きていける社会制度を作ることが、今後のわが国の政治課題であると誰もが言うだろう。人として最低限の生きる権利、私たちはこの言葉を聞きなれ、それを保障してくれる民主主義、ヒューマニズムになじんでいる。それらは、決して、人の肉から出て来る切なる哀れな欲求を退けたりしない。

 だが、人間が人間の生存を保障しようとするそのような考えや制度のまさに延長線上から出て来たのが、解放の神学であり、繁栄の神学なのである。それは私たちの肉から出て来る切なる願いであるがゆえに、私たちを惹きつける。それは全ての肉なる欲求の代弁であり、それを神によらずに保障するための保険のようなものである。(どこかの保険会社のために谷川俊太郎が書いた詩をまさに思い出す、「人間の未来への切ない望みがこめられています…」)

 苦しい状況に立たされた時、人が状況の改善を願うのは当然だろう。そんな時に、苦痛を感じるまいと思っても、無理な相談だ。
 イエスが荒野で断食されていた間、当然のことながら、空腹を覚えられたことだろう。石がパンに見えてくるほど、空腹に苦しんだかも知れない。あるいは、ひと思いに崖から身を投げて死んでしまえば楽になれると思うほどの苦痛があったのかも知れない。現実逃避的な夢が頭の中に押し寄せて来て、それに浸りこんでいれば楽になれる気がしたかも知れない。

 きっと、人としてのイエスは、私たちがもしそのような状況に置かれたならば、感じるであろう苦痛を極みまで覚えられたことだろう。だが、イエスは悪魔からの誘惑を退けることによって、現状への不満に根ざした各種の現状改革案をきっぱり退けられた。自殺願望も、虚無主義も、当然、退けられた。イエスは、惨めな状態で、空腹のまま、一人ぼっちで、人里離れた荒野で断食している自分を少しも否定せず、その状態で生きることに不満を訴えず、神の御心として与えられたの苦境を、定められている時までしっかり受け止め、耐え忍ぶことを選ばれた(その試練の最たるものが十字架であった)。

 私は今、ひょっとすると、荒野に導かれているのかも知れない。その間に、自分の内側に起こる全ての肉的欲求、衝動、願いに死ぬことを学ばされているのかも知れない。だとしたら、それはまだまだ終わらないだろう…。この状況への私の無駄な抵抗がまだ死に切れていないから。誘惑は全て目の前を通り過ぎていくだけで、それをつかむことはできない。人生の貴重な時間が、指の間から滑り落ちるように虚しく浪費されていっても、ただ黙って見ていることしかできない。何かを積み上げようと思っても、それが残らないことを目撃させられる。主の憐れみによって、私のために、毎日、目に見えない烏があまり美味とは言えないパンを運んで来てくれるのだが、ケーキをくれとねだることはできない。今という時から得られる収穫を貪欲に、最大限に追い求めるために、荒野を捨てて、下界に降りて行きたいが、それはできない。そこにはソドムの街しかないことは分かっている。

 退却を許されないところにやって来て、十字架の中に閉じ込められて、せめてこれだけはと思うような小さな欲求であっても、それが肉から出たものであるならば、それに従って行動することが、神に対する反逆にしかならないことを思い知らされ、それにさよならを告げるべきだということを学ばされている。

 それらの欲求は、結局、私にこう告げているからだ、「おまえの今の状態について、神に不服を申し立てよ。こんな扱いは不当だ。おまえは何も悪いことはしていない。なのに、神はなぜおまえを捨てたのか。なぜ神はこの状態を改善して下さらないのか。この追い詰められた状況について、神に不服を申し立てよ。そしてそれでも神が答えを下さらないなら、その時は、自分で決起せよ。私が(神に)虐げられた弱者としてのおまえを救済する運動の方法を教えてやる」と。

 現状への欲求不満から生じる願いの全ては、たとえどんなに善良そうな見せかけをしていたとしても、あるいは社会正義のような装いをしていたとしても、結局は、御心に対する反逆である。それは自分の今の状態を否定し、現実の中に働いている御旨を見いだすことを拒否し、自分のアイデンティティを卑しめ、神が成して下さっている全ての事柄を不完全なものとみなす考えである。

 アダムとエバに対して蛇が何と言っただろう、「それを食べるとあなたたちの目が開けて善悪を知るようになることを神は知っておられるのです」と言ったのだ。蛇の誘惑はいつもこれである。今、私たちにない何かを目の前にちらつかせる。今とは違うもっと良い現実があるのではないかとそそのかす。神は私の知らない何かを、不当にも、私から取り上げ、私から隠しておられるのではないか。それゆえに、神は私を今のような惨めで卑しい状態にあえてとどめておられるのではないか。神の愛はその程度のものでしかないのではないか…。だから、神のご計画が成就するのをただ待っていてもだめだ、むしろ神の裏をかいてでも、人知をめぐらし、この惨めさから脱出する方法をぜひとも探し出さなければならない…。そんな風にして、神が私を置かれた状況を不当だと感じさせる疑いがやって来る時、それに耳を貸してはいけない。そして神に禁じられた方法で、今、得られないものを早急に手に入れようと考えてはいけない。

 この荒野がどんなに厳しかろうとも、そこを通ることが御心であるなら、私には欠けているものは何一つないと言える。キリストがうちに住んでいてくださっているがゆえに、私は完全なのだ。私は弱くとも、キリストの強さが私を覆っている。だから、私は誰からも救済される必要がないし、同情されるべき立場にさえない。この世界も堕落していて不完全だが、それすらも主のご計画の内にある。今の世界がどう悲惨であろうと、自分を取り巻く状態がどう理想からかけ離れていようと、神のご計画は十字架を通してすでに成就しており、今また現実として成就しつつある。だから、私はすでにキリストの完全な勝利の中に入れられており、疑わないで、それに安んじることが求められているだけなのである。

 肉的な欲求は当然、生きている限り生じるだろう。それが最大限になって極度の苦痛をもたらすこともあるかも知れない。今、求めても得られない何か、をいつも欲しがろうとする死の法則性からは、肉体がなくならない限り、完全には解放されないだろうと思う。しかし、たとえ苦痛が極みまで達したとしても、そこから逃れたいという欲求は、ただ神にお返しすることにしよう。すると、主が各種の欲求をえり分けて、中から、正しいものを恵みとして返して下さる。だから、「われらにパンを与えよ、しかるのちに善行を求めよ」と叫んだりせずに、ただ全ての問題を御心に信頼して任せることにしよう。御言葉なるイエスこそが、私たちを生かして下さる命の根源なのだから。

 ところで、現状への不満から生じる肉的な欲求とは別に、神が与えて下さる願いがある。それは肉の欲とは異なり、決して、現状を不完全だと感じる感覚から生まれてくるものではない。主が与えて下さる願いは、常に現実から出発している+αである。いや、現実のもっと先に見えている、見えないものと見えるものとの再統合である(見えるものは全て一旦消滅しなければならない)。肉の欲が、目の前にある現実の否定、現実の打倒や、現実の破壊、あるいは現状改革を訴え、現実の影の部分に対して反旗を翻すのに対し、神が与えて下さる願いは、言葉では表しにくいが、現実という土台の上に立って、その向こうに何か見えない建物を建て上げるようなもので、しかも、それがすでに完成していることを霊によってあらかじめ感知することができる。

 神はサタンをさえ用いることができる。どんな逆境も全て主の御手の中にある。私を訴える者も全て御手の中で動かされているだけである。だから、神のご計画のうちではすべてが完全なのである。それを信じる時に、不合理な状況から生じる肉体的感覚、苦痛、そんなものがほとんど効力を失っていく。そして汝の敵を愛せよと言われた御言葉の意味が真に浮かび上がってくる。敵はすでにいないも同然だが、抜け殻のようにまだ存在しているその敵を動かしているのは、主の愛に基づいたご計画である。だから、一切の恐れを払拭する神の揺るぎない愛の確信の中に立って、敵に言葉をかけるならば、まるで子供が誕生日ケーキのろうそくを吹き消す時のように、敵の放つ火矢はことごとく吹き消されていくだろう。

 私の存在が不完全であり、私は完全を模索してまだ何事かを自力で成さねばならないという焦り、もしくは恐れは、悪魔のしかける罠である。キリストが共におられるから、何一つ、私には欠けているものはない。従って、現状改革など一切必要ない。繁栄の神学も、解放の神学も無用。そして今後、何が起こるかは、私は知らなくとも、主がちゃんとご存知だ。その計画が完全であることを知らされている。だから、時には、不意に嵐が来て驚くこともあるかも知れないが、できる限り、安心して信仰の船に乗っていよう。心騒がせず、落ち着いているならば、その旅は、きっとかなり楽しいものとなるはずだ…。


聖霊運動についての補足

 ところで、次の話題に移る前に、私がここで第三の波、ペンテコステ・カリスマ運動をひっくるめて非キリスト教であるとみなしていることが、物議をかもすかもしれないので、それについてお断りを入れておきたい。

 記事を読んで、私を次のように非難する人がいるかもしれない、「あなたは自分も聖霊派で信仰を持ったのに、聖霊派の信仰を一概に否定するつもりなのか」と。けれども、私はそんな主張を展開したいのではない。私は確かに聖霊派の枠組みの中で信仰を持ち、バプテスマを受け、彼らの言う聖霊体験にもあずかった。しかし、それが聖霊派の教会の中で起こった出来事であったからと言って、すべて間違っており、無効であったとは考えないし、聖霊派の牧師から洗礼を受けたために、その洗礼は無効であり、受けなおすべきだとも思わない。

 私がここで取り上げているのは、個々の信者の信仰の真偽ではなく、あくまで聖霊運動が打ち出す一般的教説とプログラムの問題性なのである。聖霊派の中にも真の信仰を持った信者は当然、いるであろう。そのことまで否定するつもりは私にはない。個人がイエス・キリストを信じ、御言葉に従って歩んでいくならば、たとえ彼を取り巻く環境がどうあろうとも、その信者の決断は神の御心にかなったものとして祝福されたものとなるだろう。
 どのような教団教派の中であろうと、あるいは教会の枠組みの外であろうと、主は一人ひとりの信仰に応じて働いて下さる。神にとっては教団教派の枠組みなど全く問題ではない。だから、ペンテコステ・カリスマ運動が仮にこの先、どれほど過激化し、どれほど深刻なカルト化現象を引き起こしたとしても、それはその運動の将来が絶望的であるというだけの話で、個々の信者の中には、立派な信仰を持つ人々も当然存在するであろうし、またこの先、現れるだろう。

 繰り返すが、私は聖書に記された聖霊降臨の出来事が今日も起きうるものであること、聖霊の賜物が存在すること、異言、預言が存在し、御言葉による超自然的な癒しや奇跡などが今日も起きうるものであることを否定するつもりはない。そのような超自然的現象が起きているところがすべて非キリスト教だと決め付けるつもりもないし、聖霊のバプテスマを信じているから、あるいは、「ペンテコステ的現象」が観察されたから、一概に拒絶し、異端だと決め付けることは、それもやはり現象に頼った浅はかな見方であると思う。

 問題なのは、聖霊運動推進者たちが、ただ聖霊のバプテスマを、回心とは別個の体験としてとらえて、十字架にさらに何かを付け加えた段階的な祝福を唱えていることだけではない。問題は、彼らが超自然的な現象や、超自然的な体験を、個々の一過性の祝福や恵みとしてとらえるのではなく、それを一つの類型と考えて、万人にあてはまり、かつ、いつでもどこででも繰り返しうるプログラムとみなして唱道し、集会等において、おびただしい回数、実践していることなのである。そうなると、そのプログラムは私たちを解放するのではなく、むしろ、拘束するものへと変わる。

 カルト被害者救済活動についても同じことが言えるのだが、たとえば、私たちのうちの誰かが、ある日、家に空き巣に入られたとしよう。被害はかなり深刻であった。当然、それ以後、私たちは家のセキュリティを強化する。けれども、一回、空き巣に入られたからと言って、私たちは残る全生涯を空き巣撲滅運動に捧げ、全国各地の空き巣被害のニュースを聞く度に、現地へ飛んで被害者の救済につとめたりするだろうか。そんな人がいたとすれば、その心理は何かしら不自然だと誰でも感じるだろう。
 同様に、一度、カルト被害に遭ったからと言って、残る全生涯をカルト撲滅運動に捧げるという発想にも、同じ異常性(強迫反復的なとらわれ)が見て取れるのである。

 イエスが(旧約時代の預言者が)死人を復活させた、という聖書の記述を私は否定しない。また、今日(からし種一粒ほどの信仰があればの話だが)、キリスト者には、パウロがまむしを腕から払い落としたように、毒物の害を受けず、病人を癒し、あるいは死人をも甦らせる力さえ与えられているだろうことも信じる。それは次の聖句の通りである、「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」(マルコ116:17-18)。
 しかし、私たちは、イエスが死人を復活させ、病人を癒し、その力が今日のキリスト者にも与えられているという記述を文字通り信じていることをただ証明したい、というだけの理由で、毎日、自分も病人を癒し、死人を復活させるべく、病室や霊安室を巡り歩いたりすべきであろうか? イエスが悪霊を追い出された記述が聖書にあるからといって、毎日、自分も悪霊の潜んでいそうな家の片隅やその他の場所に向かって悪霊追い出しの祈りをしたりすべきであろうか?

 私たちは、繰り返せない時空間の中に生きていることを自覚し、今、何が主の御心であるかに耳を澄ますべきであるし、また、今しか味わうことを許されていない恵みを存分に受け取り、楽しんでよいのである。神が起こして下さる奇跡は、本来、繰り返せない一過性の出来事であり、私たちの人生に与えられる固有の恵みであるはずである。しかし、そのような奇跡を常習化して、手っ取り早く、いつでも、どこででも、引き起こそうとするプログラムがあれば、私たちはそれを警戒すべきである。
 人間側のニーズに応じて、イエスの御名を用いて、繰り返し奇跡を引き起こそうとすることは、主の御名をみだりに唱えることを意味し、また、神を試す行為である。そのように、みだりに主の御名を濫用する、パターン化された各種の超自然的体験のプログラム(神癒、預言、奇跡、いやし、各種の超自然現象)を推進しているのが聖霊運動であるのだが、そのようなプログラムにはまってしまうと、私たちは人生の貴重な時間をパターンの繰り返しという退屈な作業に浪費していくことになる。

 ペンテコステ・カリスマ運動、第三の波運動が華々しく打ち出している神癒、預言、悪霊追放の超自然的プログラムを実行している信奉者たちは、それらの事柄が繰り返せない時空間内で一過性のものとして与えられる恵みであることをほとんど考慮していない。この運動に関する書物を読めば、そういう超自然的な出来事は、まるで特定の時間・場所で起こった一度限りの物語のように描写されているが、ところが、実際にそれが現場で推進される際には、運動の推進者・信奉者たちは、まるでテレビゲームの戦闘を繰り返すようにして、神癒、預言、悪霊追放などを日常的に実行し続けているのである。
 たとえば、信者達が集団で、何時間もぶっ通しで患者を拘束して悪霊追い出しの祈祷を続けた挙句、患者が亡くなった。神癒を信じるがゆえに、医学的治療を拒否した患者が、症状が悪化し、後遺症が残った。そのような例は、すべて、奇跡をパターン化して実行しようとするプログラムの中で起こったことである。そこにはもはや奇跡はなく、ただ、奇跡を麻薬のように求め続ける人たちの果てしない欲求、一種の禁断症状のようなものがあるだけである。神から恵みを与えられたという喜びがあるのではなく、奇跡を求めねばならないという強迫観念があるだけである。

 超自然的な体験がプログラム化されると、それは人間を解放するという表向きのスローガンとは裏腹に、人間を拘束するものとなり、それを繰り返し実行せねばならないという恐怖の中に人を陥れていくのである。そういう意味で、私は聖書に記されている奇跡そのものを否定するわけではないが、プログラム化された奇跡や、悪霊追放や、預言などは、愛ではなく、恐れから出て来たものであり、イエスの御名をみだりに唱えている点でも、キリスト教ではありえないと断言して構わないと思っている。

 

* * *

 ひまわりがきれいに咲きました。暑さに弱い私は、昼間はほとんど何も手つかず。私の住んでいるところから、Sugarさんの山小屋まではかなり遠いようです。本当にたどり着けるのでしょうか。無事に帰って来られるのでしょうか。無謀な思いつきをしてしまったのではないか…、関係諸氏に随分と迷惑をかけてしまっているのではないかしら…と、今更ながら、ちょっと心配になりつつも、ただ主がすべてを成して下さるように、恵みを分かち合う良い機会となるように願いつつ、準備を進めています。
 皆様に祝福がありますように!


すべての罪咎を覆われる主

「わが敵よ、わたしについて喜ぶな。
 たといわたしが倒れるとも起き上がる。
 たといわたしが暗やみの中にすわるとも、
 主はわが光となられる。
 主はわが訴えを取りあげ、
 わたしのためにさばきを行われるまで、
 わたしは主の怒りを負わなければならない。
 主に対して罪を犯したからである。
 主はわたしを光に導き出してくださる。
 わたしは主の正義を見るであろう。
 その時『あなたの神、主はどこにいるか』と
 わたしに言ったわが敵は、これを見て恥をこうむり、
 わが目は彼を見てあざ笑う。
 彼は街路の泥のように踏みつけられる。<…>

 だれかあなたのように不義をゆるし、
 その嗣業の残れる者のために
 とがを見過ごされる神があろうか。
 神はいつくしみを喜ばれるので、
 その怒りをながく保たず、
 再びわれわれをあわれみ、
 われわれの不義を足で踏みつけられる。
 あなたはわれわれのもろもろの罪を
 海の深みに投げ入れ、
 昔からわれわれの先祖たちに誓われたように
 真実をヤコブに示し、
 いつくしみをアブラハムに示される。」(ミカ7:8-10,18-20)
 

 最近になって私は、かつて経験した不義なる事件について、神ご自身がこの先、公平な裁きをなして下さり、私の名誉と損害を最後まで回復して下さることを切に願うようになった。私自身も主の懲らしめを身に背負ったが、義に飢え乾く者は幸いである、という御言葉に従い、私自身の義ではなく、神の義が全地に輝き出ることを心から願う。そうなって初めて、この事件は本当に終了したと言えるだろう。

 失われた幸福が取り戻される日が近いだろうという予感がする。以前、悲しみのあまり、味も、匂いも、何も感じられなくなったことがあったが、今は、全ての感覚が新鮮だ。主はこの先、私の人生にどんな不思議な御業を成して下さるのか、期待が膨らんでいるので、どんな些細なことにでも、子供のように喜んでしまう。エクレシアの仲間と会える日が待ち遠しくてたまらない。期待が募るので、心落ち着かせて、記事を書くのが難しい。

 一昨日より、エクレシアと主の結婚について、聖書に書かれている壮大なドラマを思い巡らしていた。そこには一筋縄では行かない出会いと、別れ、また再会がある。聖書に見る神の花嫁たる民は、決して、挫折抜きに歩んできた品行方正な乙女ではなかった。むしろ、夫ある身でありながら、遊女のように偶像に身を売り、神を裏切って歩んで来たのが、花嫁たるイスラエルの民だったのだ…。なのに、神は失われた花嫁を愛され、どこまでも探し、尋ね求められたのだ…。

 過ちを犯し、神から遠く離れた経験のない人もいるだろう。絶体絶命の窮地を経験せず、魂の暗闇を通ったことのない人もいるだろう。もしもつまづきなしに歩めるならば、それが理想かも知れない。
 けれども、罪を犯し、神から遠く離れ、また神の助けを全く失ったように思われるその瞬間があればこそ、私は、己の限界を知り、罪を赦される神のあわれみの深さ、失われた者を尋ね求める主の熱心さを知ることができた。だから、今となっては、私は自分の過去を悔いていないし、すでに罪赦された以上、誰にも引け目を感じる必要がないと思う。

 人のどのような歩みにおいても、ただすべての咎を覆う神の愛があるだけだ。
 放蕩息子にも、その兄にも、同じように神の愛が注がれる。罪人も、義人も、ともに神の祝宴にあずかることができる幸いが与えられている。
 そこに人の運命の不思議がある! 神の知恵のはかりがたさがある!

 天国というところでは、恐らく、人の全ての過去の傷が愛によって覆われているのだろうと想像する。地上において、どんな歩みをして来た人も、互いに誇りあうようなことはなく、誰もが謙遜な自覚を持ち、他人の過去に対して、深い共感を持つことができるだろう。

 人はそれぞれに異なった運命を背負っている。それだからこそ、面白い。それだからこそ、愛しいし、貴い。クリスチャンが歩むべき統一的な生活の型というものを私は考えたくない。特に、品行方正や挫折のなさをクリスチャン生活の模範として振りかざす人々には、私は正直、うんざりしているのだ…。それは、その人たち自身にとっては、恵みかも知れないが、自らの体験を規範化して、他人にまであてはめようとする必要はないだろう。誰もが自分のようでなければならないと考えて、自分の体験談を統一的な物差しとして万人にあてはめようとする行為は、はっきり言って、あまり美しくないと思う…。

 間違いを犯したくなくとも、間違ってしまうのが人間だ。カルトも、人間社会の一つの形態だと私は思っている。それは人間がどれほどの幅と奥行きを持っているかを証明する一つの要素に過ぎない。

 実際に、カルトを経験した人に聞いてみれば分かることだが、カルト社会にはただ悲惨があるだけではないのだ。そこには尽きせぬドラマがあり、興味深い人たちがおり、信じられないような様々な貴重な出来事が隠されている。
 人間学、という観点から見れば、何一つ、参考にならない経験はない。それに、どんな事柄の中にでも働かれるのが私たちの主なのだ。
 私たちの視点から見れば、それは「あってはならない事」にしか映らないかも知れない。だが、神の視点から見れば、人の過去や現在の生き様は、その人の救いとは関係がない。救いはただ神の一方的なあわれみによるのだ。「あってはならない事」の中にも、主の御手は働いている。だから、狭い人間的な思惑に視界を阻まれて、浅はかな善悪の概念を振りかざして、安易に人を断罪しないように気をつけたい。

 人を創られた神は、どんな人生の中にあっても、働かれる。神が創られ、神が負われるのだ。だから、あなたの過去がどんなものであったとしても、一旦、十字架で自分に死んだなら、それをいつまでも恥じる必要は全くない、それを負われるのは神なのである。

「ヤコブの家よ、
 イスラエルの家の残ったすべての者よ、
 生れ出た時から、わたしに負われ、
 胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、
 わたしに聞け。
 わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、
 白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
 わたしは造ったゆえ、必ず負い、
 持ち運び、かつ救う。」(イザヤ46:3-4)

 イエスが下さる十字架は軽く、負いやすい。白髪となるまで持ち運んでくれる神を信頼しよう。
 


先の者が後になり…

家を一歩、外に出ると、緑がギラギラ。水がギラギラ。
 河べりの土手を走ると、中州に生い茂る緑と、河を流れる濁流のような水が、凶暴なほどの生命力となって私の身体を刺し貫く。これが主から来る生命力なのか、被造物そのものが持っている生命力なのか、よく分からないが、照りつける太陽の下で、いかに被造物全体が成長の喜びの雄たけびを上げているかが分かる。木も、森も、水も、河も、まるで音に聞こえない大合唱のように、生命の賛歌を歌っている。

 川沿いの道を走ると、いつも喜びが心に溢れてくる。まるで何ヶ月か分くらいの若返りの力をもらっているような気がする。被造物全体が主の現われを切に待ち望んでいる、という聖書の箇所は、ひょっとして、こんなことにも通じるのだろうか…。被造物の大コーラスの中に入れられて、私は喜びに浸される。彼らと一緒になって、いつまでも歌い続けたい。
 このまま、ガードレールを突っ切って、車ごと河の中に飛び込んでしまえれば、どんなに心地よいだろうか!

 さて、このブログは、真理を覆い隠す偽りの教えについての分析をも課題としているので、この先、その作業を続けていきたいと思っている。多分、かなり深刻な描写も加わるだろうことをお許しいただきたい。

 だが、それとは関係なく、私自身について言えば、今は主によって、不思議なほどの安息の喜びに入れられている。主にあっての兄弟姉妹たちを得たことの喜びがあるだけでなく、これまでに辿って来た様々な苦難のために生じた心の傷や痛みが、完全に過去のものとなりつつあり、回復の最後のステージに自分が立っていることが分かる。

 これまで、私に最も苦痛をもたらした問題は何であったか、誰か想像することができる人がいるだろうか。
 それは、長子であるがゆえのプライドであった。

 ある時点で、私は主の御名のために、どんな災難をこうむっても構わないと覚悟を決めたが、それでも、私の心を苛み続けたのは、私が自分の人生において、年少のきょうだいたちよりも、遅れを取っているという自覚であった。カルト化教会の事件が、私から貴重なものを根こそぎ奪ったためである。その意味で、私は長子でありながら、まるで末のきょうだいよりも劣った者のようにされた。

 さて、先の者が後になり、後の者が先になる、というのは、聖書にはよく見られる光景である。たとえば…。
 アダムは誘惑に屈して死んだが、第二のアダムなるイエスは人を救い、天に昇られた。
 カインは兄であったのに、アベルに勝る者となれなかった。
 エサウは兄であったのに、ヤコブに長子の権と祝福を奪われた。
 ヨセフの兄たちは、年長者であったのに、弟ヨセフに父の愛を奪われた。
 放蕩息子の兄は、間違いを犯さなかったのに、弟の方が盛大な祝宴にあずかった。
 イスラエルは選ばれた民であったのに、異邦人が先に救われることになった。etc.
 
 だが、長子として生まれた私は、そういう話を聞くと、いつも何かしら侮辱のようなものを感じてしまうのだった。どうしても、私は年長者の立場に立って物語を眺めてしまい、彼らの方に同情してしまう。「父よ、あなたの祝福はただ一つだけですか。父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」(創世記27:38)と声をあげて泣いたエサウの気持ちが、私には痛いほど分かる。彼が弟ヤコブを殺そうと思った、その復讐心もよく分かる。

 長子としてのプライドというのは抜き難い、厄介なものだ。年少者に見下されることは、本当に、つらいものがある。そうなっても、怒ったり、仕返ししたりせずに、悠然と顔を上げて、非難や軽蔑をかわせるようになれば、もはや、地上でやり残した仕事はないと言えるほどに、人格ができ上がったと言えるかも知れない。生まれ持った自己のプライドを捨てるということは、人にとって、それくらいに難しい。

 だが、聖書はあくまで、選びによる救いではなく、恵みによる救いを主張する。長子として生まれた、あるいは、自分は神に選ばれた選民である、そのような「選び」の上にあぐらをかいて、その特権に満悦し、そのステータスが自分に義をもたらすと考えて自己安堵しているような人々は、必ず、後から来た者に祝福を奪われ、出し抜かれる羽目になるのだ。

「なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。」(ローマ10:3-4)

 自分の義。それは「私は神によって選ばれた者である。それゆえ、私は神に祝福されて当然である」という高ぶりであり、それは神の恵みを自分の当然の権利であるとみなし、たとえ神に祝福されても、ただ自分に栄光を帰そうとする。
 対して、神の義。それは選びではなく、信仰による義である。「神はご自分があわれもうとする人間をあわれんで下さる。私は神にあわれまれる資格を持たない人間だったにも関わらず、恵みを受けたので、ただ神に感謝を捧げよう」と、祝福されても、自分ではなく、神に栄光を帰する。

 私はかつて誤った信仰を持ち、誤った教会に足を踏み入れ、そこで人生を浪費させられた。そのことで、深い挫折と、失望と、恥の意識を感じてきた。まるで詐欺師の甘言に騙され、自己破産してしまった人のように、肩身が狭かった。肉親の前に顔を上げられない。きょうだいと合わせる顔がない。親族の幸せな人生のニュースをまともに聞けない。長いこと、そういう心境が続いた。それは私が頼みとして来た自分の義、自分のステータス、自分のプライドが、最後の最後まで、完全に打ち砕かれた瞬間であった。

 だが、そのために生じた失意や挫折の意識も、今、主によって取り扱われ、消滅しつつある。すると、以前は失意が占めていた場所を、今度は平安が占めるようになって、新たな喜びが心に増し加わるのである。

 今、私は思う、私の失敗は何のためであったか。それは私でなく、他の人々の命が救われ、他の人々が恵まれるためであった。それは私が神から捨てられたことを意味しない。私は苦しみによって、人格を練られ、信仰が増し加わり、一度は、失われた者となっていたが、今は再び見いだされた。さらに、この先、私の挫折体験は、きっと、今はキリストから離れている、肉にあってのきょうだいたちを、救いに立ち返らせるきっかけともなろう。だから、万事これで良かったのである。

 兄たちに妬まれてエジプトに売られたヨセフは、兄弟に再会した時に言った、「わたしをここに売ったのを嘆くことも悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。」(創世記45:5)
 主は兄弟全員の命を救うために、時に、順番を入れ替えられることがある。

 ローマ人への手紙にもこれと類似した内容が見いだせる。神はイスラエルの民の心をかたくなにして、異邦人を先に救われたが、それは神がイスラエルを無用なものとして捨てたことを意味していなかった。それは選びによる義を打ち砕いた後で、信仰による義という恵みによって、全ての人を救うための神の計画であった。神は、兄たちに先んじて弟ヨセフをエジプトに送ったように、全ての命を救うために、イスラエルの民より先に、異邦人を遣わしたのである。

 選びによる義は信仰による義に勝らないが、それにしても、選びそのものが無意味なのではない。切り捨てられた枝としてのイスラエルについて、パウロは言った、「神には彼らを再びつぐ力がある。なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反してよいオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。」(ローマ11:23-24)

 私はこんなことも考えてみる。ひょっとすると、選びの上に自己安堵していたがゆえに、キリスト教界は今日のような有様となったのではないだろうか。そこでは、名の通った教会に所属し、教会籍を持ち、立派な牧師や信徒と呼ばれ、世間でもクリスチャンとして知られ、自分でも信仰暦何十年との自負を持つ多くの信者が、心頑なにされ、御言葉から遠く離れ、愛から遠く離れ、偽りの信仰と無知の中に落ち込んで行った。そして、逆に、選びから漏れ、教会を追い出され、所属場所も失ったような人々が、神への愛と真実に立ち戻り、熱い信仰に立っている。

 だが、たとえそうだとしても、私たちは決してそのことで誇らないようにしよう。
 「あなたがたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。<…>高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。」(ローマ18,20-21)

 神は不信仰な者をいつでも切って捨てることがおできになる。生きている限り、神の御前で、自分は天国の住人として完全に選び出され、その約束と権利は永遠に変わらない自分固有のものだと言い切って、誇ることができる人は一人もいない。それらの約束はひとえに、神のあわれみと恵みによって私たちに与えられたものであり、私たちが御言葉のうちにとどまらないなら、いずれ取り上げられることは間違いない。

 だから、他人の不従順を見たとしても、自分が恵まれていることを決して、誇らないようにしよう。なぜなら、神のご計画は、人の不従順の中にさえ働いているからである。
 どうして今日のキリスト教界がこのような様相を呈しているのか不明だが、恐らく、もしもそれがなければ、救われなかったであろう人々が、今、救いにあずかっているのであろう。だから、心頑なになった人々を、私たちはあざけることなく、むしろ、全てのことの背後に働いておられる神のご計画に厳かに思いを馳せ、恵みを与えられた喜びをもう一度、心の中で味わうにとどめたい。

 「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。
 ああ、深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」(ローマ11:32-33)

 この御言葉は、私の不従順ゆえの挫折に関しても、深い慰めをもたらす。私自身にとっては失敗であり、遅れでしかなく、恥にしか感じられないような様々な体験も、神の深遠な知恵の中では、必ず、益として用いられることが定まっているのである。私自身に益をもたらさなくとも、それは必ず他の人々に益をもたらすのである。
 そして、「神の賜物と召しとは、変えられることがない」(ローマ11:29)。
 私は神から捨てられたのではない。この私にも、主は何らかの召しと賜物とを確かに与えておられるのである。

 だから、順番にはあまりこだわらないようにしよう。自分の賜物や召しがどんなものであっても、それを人前で、あるいは、主の御前で誇ることがないようにしよう。神は日暮れ前になって後から雇われた人々にも、先に雇われていた人々と同じように、永遠の命という恵みを平等に分け与えて下さる寛大な方なのである。
 先の者も、後の者も、共に救いにあずかることが、主の御心である。救われる人が一人でも増えることが天における喜びである。だから、先であるか、後であるかにこだわる必要がない。今はただ、失われた者であったのに、見いだされ、切り捨てられるべき枝であったのに、幹であるキリストに接木され、キリストを知る絶大な喜びの中に導き入れられ、豊かな命を得ている幸いに思いを馳せよう。


聖霊の第三の波とは何か(2)

 初めに前回の話をもう一度、かいつまんで振り返りたい。

 ピーター・ワグナーが『聖霊の第三の波』において使っている、「第三の波」という用語の意味に注目することは、私たちがこの運動の真に野心的なプロジェクトを理解する助けとなるのではないだろうか。
 ワグナーの著書の内容は、直接的には、トフラーの『第三の波』と何らかの関連を持っているわけではないが、しかし、前述したように、「第三の波」という二つの用語には、言外のつながりがあると考えてよいと思う。なぜなら、ワグナーは、その用語を通して、自らが始めた聖霊運動が、トフラーの言う第三の波と同じように、全世界に伝播し、既存のキリスト教界を塗り替えてしまうほどの革命的な変革をもたらす波であることを告げようとしていると考えられるからである。

 言い換えるなら、ワグナーは自らの始めた運動が、小規模な運動で終わらず、世界征服を目指すものであることをその名前を通じて示しているのだと言えよう。それは聞く耳のある者に分かるメッセージだ。そのように考えることは自然である。なぜなら、聖霊の第三の波は、その世界征服の夢を戦略的に成し遂げる手段として、教会成長論という具体的方法論をも掲げているからである。

 もちろん、この世界征服の野望は、大宣教命令という美名によって覆い隠されている。そのため、それは表向き、キリストの福音を全世界に伝えるための善良な宣教計画であるとされ、特定の組織や、人間的な思惑に基づいた野望なのだと公然と言われることはない。

 しかし、ワグナーがその著作の中ではっきりと述べていなくとも、聖霊の第三の波の隠された目的や特徴を、私たちは文脈から掘り起こさなければならない。聖霊運動の影響を受けた日本の各地の教会で、これほどひどいカルト化現象が起こっているというのに、この著書の内容を文字通り、額面どおりに受け止め、内容を疑わないのは愚かなことである。

 前回提示した一つ目の疑いは、ワグナーは第三の波の運動が、ペンテコステとも、カリスマとも無縁のものであると述べているが、本当にそうなのかどうかというものであった。そのような説明は、ペンテコステ、カリスマ運動のマイナス・イメージから第三の波を切り離すための、表向きの説明に過ぎないのではないか。

 確かに、ペンテコステ、カリスマ運動、そして第三の波には、それぞれ具体的な差異があり、また、教団教派による違いもある。しかしながら、私は、そのような具体的差異を超えて、ペンテコステ、カリスマ運動は本質的に同じものであるとみなしている。そして結果的には、第三の波も、その中に含まれると考える。

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から出ている本ではあるが、『聖霊の神学』((アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー発行、1998年)を参考に、まず、ペンテコステ、カリスマ運動の定義についてざっと振り返ってみよう。

 狭義においては、ペンテコステ、カリスマ運動はそれぞれ別物として区別される。
 まず、ワグナーが示したように、ペンテコステ運動とは、主として20世紀初頭(1901年カンサス州トペカ、1906年アズサ街)で始まったリバイバルに端を発し、後にペンテコステ系の諸教会を形成していった流れであり、一方、カリスマの流れは、1960年代以降に、福音派の教会の中で起こった潮流であるとして、両者は区別される。

 これに加えて、聖霊体験をした信者が、その後、既存の教団や教派から出て、ペンテコステ派に所属するかしないかという点で、ペンテコステ派とカリスマ派を区別する見方がある。この見方は今日、一般に普及しているものである。 「一応大きく見て、いわゆるカリスマ派と言われる人たちは自分たちの教団の中に、教派の中にとどまっていて、その中で聖霊体験を主張し続けている人たちであると言えるのではないかと思います。これがいわゆるカリスマ派の、最大公約数的な定義と言えるでしょう。」(p.21)

 また、ペンテコステ派が異言の伴う聖霊のバプテスマを強調するのに対し、カリスマ派は「異言の伴うしるしという面では、唯一のしるしというよりも多くのしるしのひとつとして、もっと広くとらえ、それよりも聖霊の賜物を強調します。異言の伴う聖霊のバプテスマをあまり強調しないということです。」(p.205)という差異も挙げられる。
 これらの見方は大まかにみるならば、同じ聖霊運動に影響を受けながらも、ペンテコステ系の教団教派に所属するか、それとも、福音派の教会に所属するかという、信者の所属の違いによってペンテコステとカリスマを区別していると見ることもできるだろう。

 だが、広義においては、個々の具体的な差異を超えて、ペンテコステ、カリスマ運動は本質的に同じ運動であるとみなして良いと私は考えている。そのため、次の見解に賛成である。「広い意味では具体的な聖霊の今日的な働きを信じる人たちは、全部カリスマだと言うことができます」(p.20)。
 この広義のカリスマの中には、当然、第三の波も含まれると見てよい。「ピーター・ワグナー自身も言っていますが、第三の波に属する人たちは自分たちのことをペンテコステ派とかカリスマ派だと言われることを好みません。しかし、実際には、神癒、悪霊追放、預言、超自然的な働きなどの聖霊のカリスマティックな現われに心を開く福音派の諸教会が、第三の波に属しています。彼らは自分の教会にとどまって、その教会の神学と伝統に従いながら、聖霊の賜物を広い観点で見て、カリスマを実践していこうとしています。」(p.206)

 さらに、このことは、ワグナーの教説が、ペンテコステ・カリスマ運動に属する教会における教会成長に関するフィールド・ワークから生まれてきたことを見ても分かる事実である。ワグナー自身が第三の波をペンテコステ・カリスマ運動といかに切り離そうとしてみたところで、彼の方法論がペンテコステ・カリスマ運動から取られている以上、第三の波はやはり、ペンテコステ・カリスマ運動の直系の子孫なのだと言えよう。

 さて、では、ペンテコステ、カリスマ、第三の波(とりあえず「聖霊運動」としよう)が、本質的に同一の運動であるならば、それらに共通する特徴は何か、という疑問が生じるだろう。そのことについても述べておきたい。結論から言えば、それはこの運動が「キリスト者の段階的な祝福の体験」特に、「セカンド・ブレッシングとしての聖霊の満たしの体験」を主張していることである。

 まず、正統なクリスチャンであれば誰しも、キリストの十字架を信じて回心したと同時に、キリスト者のうちに聖霊が住まわれることを否定しないだろう。しかし、問題となるのは、その後、聖霊のバプテスマ、聖霊の満たし、聖霊の油塗り、など様々な用語で呼ばれている現象が、回心とは別個に、もしくは段階的に、いわゆる「セカンド・ブレッシング」として存在するのかどうか、という点である。

 この問題は、ウェスレー・ホーリネス系の教会などが主張している聖化という体験が、回心とは別個に起こるものであるのかどうかという議論にもつながるところであるが、大別すれば、これについての教説は、キリスト者体験の統一型(セカンド・ブレッシングなどというものはないとする説)と、段階型(段階的な祝福の体験を主張する説)の二つに分かれる。

 まず、キリスト者体験の統一型を主張する教説は、次のようなものであり、従来の福音派に最も多く見られるものである。「クリスチャン体験は全体として一つである。言い換えてみるならば、それは新生ということ、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる信仰によって新しく生まれ変わる回心の体験、新生の体験というものが基本であって、あとのものはこれに含まれるという考え方です。従いまして、聖霊のバプテスマなどという第二の体験はない、もしそれがあるとしたならば、キリストを信じたそのとき、新生の時にあずかっているのであり、新生がイコール聖霊に満たされる、聖霊のバプテスマであるという考え方です。従って聖めという体験も、新生の後に特別にあるものではない。新生の時に罪が赦され、そして聖められているのであり、キリストの救いは十全である、それ自体において完全である、その後何かつけ加えていくものではないという考え方です。これは主として伝統的な教会やまた福音派の中で、ペンテコステ運動に理解をもたない多くの人たちが持っている考え方なのです。」(p.9-10)

 このキリスト者体験の統一型の中には、そもそもキリスト者の回心や新生などを「体験的なもの」としてとらえること自体を拒否し、それらは個人が主体的に自覚するかどうかに関わらず、御言葉に立って行われるものだという考えが含まれている。

 これに対して、回心とは別に、セカンド・ブレッシングの存在を主張する、キリスト者体験の二段階型という教説がある。そこには、従来、「聖め」を主張するウェスレー・ホーリネス系、そしてケズィックの潮流が含まれると言えよう。なぜなら、それらは、キリスト者には回心の後で、聖化の体験が(完全にあるいは漸次的に)起こるとしているからである。

 さて、ペンテコステ系、カリスマの流れ、第三の波は、回心、新生、聖めなどの後に、さらに聖霊のバプテスマという体験が伴うと主張している点で、第二(あるいは第三の)段階的な祝福の存在を主張していると言える。
 ロサンゼルスのアズサ街で1906年から三年間起こったリバイバル運動の参加者の多くはホーリネス系の信者であったが、彼らには従来、回心、新生の次に、聖めがあるという教説に立っていたその上に、聖霊体験をしたことになるわけであるから、それは三段階の祝福体験であったとみなすこともできよう。バプテスト系ペンテコステ教会は、回心とは別に、聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし)という体験があると考えており、その点は、カリスマの流れにも共通する。

 すなわち、十字架を信じての回心、新生とは別に、キリスト者には聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし、聖霊の力強い働き)という新たな体験的な恵みが伴い得るとし、キリスト者体験の統一型を退けて、段階的な恵みを主張している点で、ペンテコステ、カリスマ、第三の波は全て同じ系列に属する。

 しかしながら、ここで、私自身の立場を述べるなら、私はこのような段階的な祝福を主張する立場には立たない。キリストの救いはそれだけで十全であり、私たちは十字架が人間の贖いとして完全な効力を持っていることを信じるべきであると考える。だから、救われた後に何らかの体験を付け加えなければならないとか、回心後に聖めが必要であるとか、聖霊のバプテスマが必要であるとか、異言を語ることが必要であるとか、聖霊の賜物の現われがなければならないとか、そのようなことを教説として信じる必要はないと思う。私たちは十字架を信じて新生したその時に、それら全ての恵みをすでに与えられていると考えてよい。
 回心後に別個の体験を主張する教説は、今のところ、どんなにそれらを「祝福」として強調し、「救いの条件ではない」としていたとしても、結果的には、必ず、十字架による救いの完全性を否定する教説を生み出さずにはおかないだろうと私は考えている。

 聖霊の油注ぎや、異言や、各種の聖霊の賜物を私は否定するわけではない。キリスト者として歩んでいるうちに、それらのものを体験することもあるだろうし、さらなる聖めや癒しを体験することもあるだろうと思う。しかし、問題なのは、それらの体験をキリスト者の歩みの中で、回心とは別個に伴うはずの段階的な祝福として教義化し、それを万人に当てはめうるべき公式として行くことなのである。
 聖霊のバプテスマに関しての教説を教義化することは、結局は、誰もがそのような体験をすべきものと主張していることに等しい。神学とは一旦、出来上がった体系を絶対的なものとせずにはおれない種類のものであり、セカンド・ブレッシングとしての聖霊体験の存在を主張する教義は、遠からず、十字架だけでは救われない、聖霊体験がなければ救われないという結論を必ずやもたらすだろうと私は思う。それは回心の体験に何かを付け加えようとしている時点で、すでに、初めからイエスの十字架による救いの完全性を損なっているのである。

 さて、話を戻そう。こうしてみてみると、聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし、聖霊の油注ぎ等)を、回心とは別個の祝福として捉えている点で、ペンテコステ、カリスマ、第三の波は、本質的に同じものだということになる。だが、そのように考えると、これらの「波」には実際には何の差異もなく、同一の波であったという結論になるではないか? それでは第一も、第二も、第三もなくなるではないか? という疑問が起こるだろう。

 ここで、そもそも、ワグナーの説明を額面どおりに受け取って、第一の波、第二の波をペンテコステ、カリスマ運動として捉えること自体に無理があるのではないかと疑ってみたい。もしも、ワグナーの言う「第三の波」をトフラーの「第三の波」と同じ規模のものであると考えるならば、必然的に、私たちはワグナーの言う第一、第二の波の内容をも見直さなければなくなるのではないだろうか。
 もしも第一の波を20世紀初頭のペンテコステ運動、第二の波を1960年代以降に起こったカリスマ運動とみなすならば、それらはたかだか一世紀ちょっとの間に起こった変化にしかならない。しかも、第一、第二の波は世界中のプロテスタントのキリスト教界を抜本的に塗り替えるまでの影響力には至らず、むしろ、プロテスタントの諸教会から排斥され、その波は世界に伝播することなく終わったのである。

 これに比べて、トフラーの述べている「波」の規模ははるかに大きい。第一の波(農耕文明)、第二の波(産業文明)は、ただ世界中の人々の生活様式を変化させたのみならず、人類史の長いタイムスパンの間に起こったものである。従って、その歴史的・地理的規模に注目するならば、ワグナーとトフラーの言う「波」はそもそも比較にならないものであることが分かる。両者を並べて論じようとすることが無理に思えてくるほどである。

 だが、もしも私たちが、ペンテコステ、カリスマ、第三の波が、実は、本質的に同じ第三の波に属するものだったのであり、ワグナーの説明は、ただその事実を読者の目から覆い隠す虚偽でしかなかったと理解するならば、そこには違った解釈が生まれるだろう。
 随分前に、私たちは手束正昭氏の『キリスト教の第三の波』という著書について論じた。手束氏はペンテコステ運動に影響を受けてはいるものの、厳密にはカリスマの流れに分類されると言えるだろう。そこで、自らをカリスマとは無縁とみなしているワグナーの説明を額面どおりに受け取るならば、手束氏の言う「第三の波」は、ワグナーの「第三の波」とは全く関係ないという結論に至る。しかし、これも表面的な理解に過ぎず、(教説における様々な差異はあれど)それらが大まかには同じ聖霊運動としての枠組みの中に存在していることは明白である。

 そこで、私たちはワグナー自身の説明を額面どおりに受け取るのをやめて、むしろ、彼の説明に反して、色々なことを疑ってみなければならない。そうするならば、ペンテコステ、カリスマ、第三の波は、広義においては、本質的に同じ聖霊運動に属する、一世紀近くの間に起こった同一の波であることが言えるだろう。だとすれば、第一、第二の波は、ペンテコステ、カリスマ運動ではなかったことになる。とすれば、キリスト教世界を席巻した第一、第二の波とは何だったのか? 農業文明、産業文明の波に匹敵するほどの歴史的な二大変革とは何だったのか?

 答えは一つしかないだろう。
 第一の波はカトリック、第二の波はプロテスタントである。

 これは著者の意向をあまりにも無視した仮説なので、私の創作として一笑に付されるかも知れないし、そうなっても構わない。だが、この見解に立つならば、ワグナーが著書の中で隠そうとしている事実があることを私たちは感じ取ることができるのではないだろうか。つまり、ワグナーが述べている第三の波とは、カトリック、プロテスタントに匹敵するほどに、キリスト教そのものに大変革をもたらす、全く新しい何らかの宗派の将来的な成立を暗示しているのではないか? ただその意図が、決して表立って言われることなく、文脈の中に隠されているだけなのだと考えられないだろうか? 
 第三の波は、ワグナーの考えでは、プロテスタントの福音派の中で醸造されなければならないものであった。そこで、それはどうしてもプロテスタントと同一の信仰を装い、プロテスタントに寄生して成長する必要があったのだ。ペンテコステ、カリスマ運動のように、プロテスタントの中で起こりながら、結果として、プロテスタントから排斥されたり、異端のレッテルを貼られるようではいけなかったのである。

 だが、本質的にはプロテスタントと異なるものであるからこそ、それらの波は排斥されてきたのである。にも関わらず、やがてこの聖霊運動はいつか津波のように巨大化し、第三の波として、必ずや、プロテスタントの既存の枠組みを打ち壊して、聖霊に関する新しい教義を持つ新しいキリスト教として世界を席巻する日が来るだろう、いや、ぜひともそうならなければならないのだ、そのことをワグナーは「第三の波」という言葉によって、暗に示そうとしているのではないだろうか。

 つまり、ペンテコステ・カリスマ運動を含む第三の波は、ともに、プロテスタントに寄生する非キリスト教だったのではないかと私は考えている。それはプロテスタントの既存の教会で、福音派と同一の信仰を装って生まれ、福音派を宿主として活動しながらも、自らこそが「まことのキリスト教」を知っていると考え、「力の伝道」を実践することによって、いずれ宿主を破壊し、既存の福音派を凌駕することを目指している危険な運動なのではないだろうか。
 いつか聖霊運動が、カトリック、プロテスタントに並ぶ、キリスト教の第三の新しいかたちとして、世界に頭角を現すことになるかも知れない、いや、それこそが、大世界命令の美名の下に隠されている聖霊運動推進者たちの見果てぬ夢なのではないだろうかと私は思う。

 次回から、具体的に「聖霊の第三の波」の運動の特徴について考えていきたい。

<つづく>


聖霊の第三の波とは何か

 さて、今まで長いこと、内容の薄い記事ばかりを書き続けてきたが、そろそろ、クリスチャンとしての地の塩の役目に戻らなければならない。
 山小屋を訪れる日が近づくにつれて、厳粛な気持ちが高まってくる。私は夏休みの予定表を消化するためにエクレシアに駆けつけようとしているのではないのだから、今、できることは少ないながらも、気持ちを新たにして、キリスト者としての本分に立ち戻りたい。

 今回は、ピーター・ワグナーの『聖霊の第三の波』(辻潤訳、暁書房、1992年)を取り上げよう。きっと、反論があるだろうと予想しているが、一つの仮説を提示したい。

 私はこれまで、全体主義体制下で書かれた虚偽のプロパガンダ文書をいくつか読んで来た。嘘で塗り固められた歴史や政治事件を、国民にほんとうだと信じ込ませる目的で書かれた文書だ。新聞雑誌の記事もあれば、文学作品もあった。嘘を本当だと見せかけるには、メディア報道で十分ではないか、との疑問の声もあるかも知れないが、実は、大衆に偽りを普及するには、文学の果たす役割がまことに大きいのだ。なぜなら、文学は、新聞雑誌の記事以上に、大衆の感覚や感情に訴えかける力を持っているからだ。たとえば、詩の一行が持っている力など、普通は、些細で取るに足りないものにしか思われないかも知れないが、人間が真実をかぎつける嗅覚の鋭さは驚くほどものものである。言論統制の時代には、公表を許されるはずのないたった一行の反体制的な詩であっても、驚くほどの素早さで人々はその存在を察知し、規制の網の目をかいくぐって、それを語り継いで行ったのだ。

 だから、全体主義国は必ず、言論統制のために、メディアの報道だけでなく、文学を押さえようとする。しかも、ただ表現の自由を抑圧するのではなく、まことしやかに虚偽を普及させるために、文学を積極的に利用してきたのだ。政府御用達の作家たちが生まれ、彼らに創作内容が注文され、その出来栄えは検閲によって厳しくチェックされる(注文に応じない作家は作品の発表の場をなくした)。そのようにして、表向きには自由に書かれたように見せかけながらも、実際には、何らかの政治的な意図を隠し持って書かれた文学作品というものが、随分、沢山、生み出されてきた。それらは、時代が変われば、文学としての価値を失い、歴史資料として参考にされる以外には、誰にも見向きもされなくなる、遊女のように卑しい作品群であったが…。

 そのようなことについて調べるようになって以来、私は、この世には、無邪気な内容を装いながら、その実、大衆を惑わすために書かれた偽りの作品というものがれっきとして存在することが分かった。そこで、『聖霊の第三の波』とは何か、という問題に取り組む際にも、このような警戒心を持つことが大切であると気づいた。つまり、中卒程度の国語力があれば誰でも理解できるように平易に書かれたこの本は、初めからある政治的な意図を持って、それを広めるために書かれた宣伝文書ではないのか。書いてあることの表面的な文字面だけを追っているのでは、その奥にある真の意図(それが一般大衆をどこへ導こうとしているのか)は見えないのではないか。真の意図を暴き出すためには、表向きの文章を疑い、言外の文脈をも推察することが必要になってくるのではないかということである。

 そこで、あくまで推理の域を出ないとはいえ、今日、すでに多くのクリスチャンから絶大な疑いをかけられているこの本を、一度、懐疑のメスで徹底的に解剖してみようと思う。

 さて、『聖霊の第三の波』という名前を聞いて、まず、多くの人々が疑問に思うのは、「第三の波」という用語の意味だろう。当然、この言葉は、ベストセラーになったアルヴィン・トフラーの有名な著作『第三の波』(ここでは、徳岡孝夫監訳、中公文庫、1982年から引用)を連想させる。
 表向き、ワグナーの『聖霊の第三の波』と、トフラーの『第三の波』には直接的な関係はないとされている。だが、これほどまでに有名な用語を用いながら、関係ないなどということがあるだろうか。何かの比喩がこめられているのではないだろうか。そんな素朴な疑問も含めて、考えてみよう。

 まず、ピーター・ワグナー自身は、第一の波、第二の波をどう定義しているのだろうか。注目すべきことは、ワグナーは、自らの運動をペンテコステ・カリスマ運動の枠組みの中にあるものと全くみなしておらず、それらとは異なる新しい運動であると定義していることだ。
 ワグナーは書いている、「第一の波はペンテコステ運動として知られている。これは今世紀の初頭、アメリカにおいて始まり、すぐに世界中のいたるところに広まった。ペンテコステ運動の主要な特徴は、聖霊の力ある働きである。特に奇跡の分野でそれが現されたので、当時、多くのクリスチャンがこの運動を異常だと感じた。」(p.16)

 ワグナーによれば、聖霊の第一の波とは、ペンテコステ運動であった。彼によれば、プロテスタントの福音派の諸教会は、ペンテコステ運動における聖霊の大胆な働きを理解する神学的基礎を持っていなかったために、この運動にただ拒否反応を示し、異端であると決めつけた。それから、約半世紀が経過して、事情は変わり、ペンテコステのグループは教派を超えて、プロテスタントの諸教会に浸透し、承認されつつある。とはいえ、ペンテコステ運動には、福音派からの疎外という苦い挫折経験があったことは変わらない事実だ。つまり、第一の波としてのペンテコステ運動は、全世界の諸教会を塗りかえる世界的な波とはならなかった。

 さらに、ワグナーは言う、「二〇世紀における聖霊の第二の大きな波、それは今世紀半ばに現れたカリスマ運動である。初期のペンテコステの指導者たちが抱いた夢――聖霊の奇跡的な力の現われがキリスト教界の主流をなす諸教会にも流れていくという夢は、実現への一歩を踏み出した。カリスマ運動は、監督教会、ルター派、長老派、米国メソジストなどとともに、カトリック教会でも顕著に現れた。<…>
 それでもやはり、大部分の福音派はこの運動を受け入れることができなかった。彼らの保守的な神学では、奇跡が現代のクリスチャンの歩みの中で価値があると認めることができなかったのである。福音派の教会で教会員の何人かがカリスマ体験を受けた場合、しばしば、それらの人々は教会から追い出されるか、教会の分裂という事態を引き起こした。」(p.18)

 ワグナーは、聖霊の第二の波が、カリスマ運動であったと定義する。しかし、このようにして、時期的にペンテコステ運動とカリスマ運動を区別する説は、今日ではあまり主流になっていないように私には感じられる。しかも、これはあくまで福音派の教会を中心としてそれらの運動を見た場合に限られる。ペンテコステ運動は始まってこの方、聖霊派の中で中断することなく続いているし、ペンテコステ運動の枠組みの中に入っていなくとも、それに影響を受けた福音派の教会をカリスマと呼ぶ説もかなり定着してきている。ペンテコステ、カリスマ、聖霊派などの呼び名をめぐっては、今でも明確な定義は得られていないため、各種の異論もあるだろう。
 いずれにせよ、ワグナーによれば、カリスマ運動という第二の波は、第一の波と同様に、苦い挫折に遭い、全世界の諸教会に伝播することなく、志半ばにして終わった、ということになる。

 そして、第一、第二の波が引き潮になった後で、ついに第三の波が登場した。「第三の波とは、福音派の中で起こってきた新しい聖霊の働きである。それら福音派の教会は、何らかの理由でそれまでペンテコステ、カリスマの流れに入って来なかった教会である。第三の波の始まりということになると少しさかのぼる必要があるが、その動きが本格化し始めたのは一九八〇年代に入ってからで、二〇世紀の終わりに向かって、現在はその勢いを増しているところである。」(p.18)

 こうして、ワグナーは、自らの運動を、ペンテコステ・カリスマ運動という、挫折に終わった第一、第二の波と、何とかして区別しようと、その点を特に強調する。
 その理由として、彼は何やら具体的に理由を挙げてはいるものの、それはあまり説得力を持たない。
「聖霊が奇跡的な方法で働かれるという点では、第三の波も前の二つの波と同じであるが、その働き方がやや趣を異にしている。第一第二の波と非常に似通っているのではあるが、この第三の波はそれらとはやはり区別されるものであると私は見ている。<…>では、何が第三の波を特徴づけるかと言えば、それは聖霊のバプテスマについての理解と、異言が聖霊のバプテスマを受けたことの証明であるかどうかについての見解である。それで、私は人から自分がカリスマだと呼ばれることを好まないし、私自身自分がカリスマだとは思っていない。私は福音派の会衆派に属する一人のクリスチャンで、そして私を通して、また教会を通してご自由に働かれる聖霊の働きに心を開いているだけなのである。」(p.19)

 この説明はひどく胡散臭く感じられるので、あまり重大にとらえないようにしよう。(なぜならば、ペンテコステ運動やカリスマ運動の中でも、聖霊のバプテスマの理解や、異言の理解については、諸説が入り乱れており、統一的見解が見いだせないためである。)いずれにせよ、この文章によって、ワグナーがしきりに強調しようとしているのは、とにかく、自分が福音派に分裂・敵対するような新しい運動を起こしているのではないこと、彼自身は福音派に対立しない、福音派の教会に属するごく普通のプロテスタントの信者であるという点なのである。

 聖霊の第三の波は、第一や第二の波のように、プロテスタントの諸教会からの分裂や疎外という苦い経験とは無縁のものであり、福音派教会にとって決して危険なものではないということを訴えようとする狙いが、ここには当然、含まれている。つまり、ワグナーがしきりに強調したがっているのは、聖霊の第三の波の良いイメージであり、それを保つために、ペンテコステとカリスマの過去の失敗体験と袂を分かとうとしているのである。彼は聖霊の第三の波が、プロテスタントの伝統的な諸教会と異なるところに存在するのでなく、福音派の諸教会の只中から生まれて来て、福音派の諸教会の中に広まっていくものだという点を強調しようとしているのである。

 さて、ピーター・ワグナーとは関係がないとみなされているアルヴィン・トフラーの著作についてちょっと触れたい。トフラーは著作『第三の波』において、「波」という単語によって、世界中の国や民族の伝統的な生活様式の枠組みを越えて(壊して)、人々の経済体制・社会体制・生活様式に圧倒的な変革をもたらすような世界的な文明の変化を言い表した。
 トフラーの著作を初めて読んだ時、私は、その楽観性に心惹かれたものだが、今、読み返すと、これはあらゆるユートピア主義的な作品と同様に、批判的に読まなければならない、とても危険な作品であったことを感じる。これはマルクスの弁証法的歴史観を髣髴とさせるほどに、神なき世界の弁証法的な時代の交替と、人類の未来社会にやがて起こるであろうユートピア社会(実質的にはアンチ・ユートピア、バビロン)の到来を描いた青写真のように見えるからである。少し長いが、トフラーの著作の冒頭の文章を引用させていただきたい。

「人類は、これまでに二度、巨大な変化の波を知った。二度とも先行の文化と文明を拭い去り、それまでの人間には想像もできない新しい生活の戸を開いた。第一の波、つまり農業革命は、完成するのに数千年かかった。第二の波、産業文明の興隆は、わずか三百年で済んだ。今日、歴史はさらに加速した。第三の波が歴史を洗い、波が消え去るのには数十年もかからないかもしれない。いずれにしても、この衝撃的な瞬間に地球に住みあわせたわれわれは、死ぬまでに第三の波を頭からかぶることになるはずである。

 第三の波は、あらゆる人の足元をすくう。家族を引き裂き、経済を揺り動かし、政治制度を麻痺させ、われわれの価値体系をめちゃめちゃにするだろう。それは古くさい権力機構にぶち当たり、今日すでに揺らぎつつあるエリートの特権と特典を危うくし、あすの権力闘争のための舞台をしつらえる。
 新文明には、これまでの産業文明と矛盾するものが無数にある。高度に科学技術的であると同時に反産業的である。
 第三の波は、完全に一新された生活様式をつくる。その基礎になるのは多様かつ再生可能なエネルギー源であり、現代の流れ作業産業のほとんどを不用にする生産手段であり、新しい非核化や企業である。この新文明はわれわれのために新しい行動規範をつくり、標準化、同時化、中央集権化などを越え、エネルギーと富と権力の集中を過去のものにしてしまう。

 古い文明は挑戦を受け、官僚機構は転覆し、民族国家はもはや主役ではなくなり、脱帝国主義の世界に半自立的な経済を勃興させる。行政機構は簡素に、効果的に、今日よりはるかに民主的にならざるをえない。新しい文明は、独自の世界観と時間、空間、論理を持ち、また因果関係について独自の対応法を備えている。
 それだけではない。後述するように、第三の波は、生産者と消費者の対立を宥和し、新しい『生産=消費者(プロシューマー)』経済への道をひらく。そのほかにも理由はあるが、新しい文明は、こうしてわれわれの知的な協力により、世界史の中ではじめて真に人間的な文明になりうるのである。」(p.27-28)

 この最後の一行を読んだだけで、トフラーが事実上、世界を塗り替える第三の波を、人間を真に人間たらしめるユートピア社会の到来に通じるものとして考えていたことが分かる。
 今はこの著作に深入りするつもりはないが、しかし、そこに明るい未来社会の様子として描かれているものの中に、すでにいくつか今、実現しているものがあるので、それを通して、この著作の楽観的な描写と、現実との間に横たわる深淵について、私たちは感じることができるだろう。
 たとえば、児童労働や、フレックス・タイム制が、第三の波の脱規格化の現れとして提示されており、児童労働は青少年の社会からの乖離を防ぐ手段として、パート・タイム制は、職場への遅刻を過去のものにするとして、楽観的に謳われているが、私たちは児童労働が今、過酷な搾取の形態として広がりつつあることや、また、パート・タイム制が、これまた過酷な搾取の形態であり、決して自由で解放的な意味合いから生まれてきたものでないことをすでに知っている。だが、そういう事柄は、この著書では全く触れられていない。
 さらに、ユートピア的未来社会図につきものの「新しい人間像」、「新しい家族像」もそこでは提示されているが、エレクトロニクス住宅における、既存の家族制度の枠組みにとらわれない大家族なるものは、まるでカンパネッラの著作を思い出させる。そのようなものがどんな時代が来ようと、決して正常に機能するとは私には考えられない。だが、トフラーの著作については今はこのくらいにしておこう。

 ワグナーによる『聖霊の第三の波』が、トフラーの著作と同様に、ある種の未来予測的な側面を持っていることは否めないだろう。また、ここで使われている「聖霊の第三の波」という用語が、トフラーの使った「波」と同じように、全世界に伝播し、既存のキリスト教界の体制、礼拝様式、キリスト者の生活様式などを抜本的に塗り替えてしまう世界的変革を想定して使われていることは、言わずもがなである。したがって、たとえワグナー自身がトフラーの著作との関連性について全く言及していなくとも、この「第三の波」という用語には、明確な比喩がこめられているとみなして構わないと私は考えている。

 この比喩から暗に読み取れることは、「聖霊の第三の波」とは、これからプロテスタントのキリスト教界を席巻しようとしている世界的変革の波について告げている本だということである。この本が真に述べたいのは、聖霊の第三の波を受ける時、古くさく、力を失った既存のプロテスタントのキリスト教界の権威や体制は、必ず、大いなる挑戦を受けて、打ち壊されるであろうこと、そして、聖霊の第三の波は、プロテスタントのキリスト教界の中から始まりながらも、プロテスタントを止揚し、教界の体制を塗り替え、今までのキリスト教とは異なる、誰も予想しなかったような新しいキリスト教の未来を開くだろうということである。

 そして、そうなって初めて、キリスト者は真にキリスト者らしい生活を送り、真に教会らしい教会が生れるのであり、我々クリスチャンはそこに到達しなくてはならない、それがこの著書が言外に主張したい点なのである。(もちろんその最も過激な部分は決して文字にされることなく文脈の中に隠されている。)この世界的変革の波を何とかして現実に起こすべく、宣伝のために書かれた本が、『聖霊の第三の波』なのであり、その結構づくめの文章の向こうに隠された真意を紐解いていくならば、それは(あまりにも大雑把なたとえなので、ひんしゅくを買うかもしれないが)、『キリスト教界版共産党宣言』と呼びかえても差し支えない内容であると言えるだろう(つまり、プロテスタントの中から生まれ、プロテスタントと対立するものでない点をしきりに強調しながらも、その実、プロテスタントを凌駕し、覆し、止揚する波を起こそうとしているのがこの運動なのである。このことについては後述)。

 注目すべきことは、「聖霊の第三の波」の運動が、そもそもの初めから、その運動を世界的に拡大するための戦略的プログラムである教会成長論と、まるで車の両輪のように結びついて始まったことである。ワグナーによれば、1960年代に、彼は、フラー神学校世界宣教学部の初代学部長であり、「教会成長」という用語を創り出したドナルド・マクギャブランのもとで、教会成長論を学び始めた。そして驚異的な教会成長を遂げているラテン・アメリカ、チリのペンテコステ教会を調査対象として学び、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団での奉仕、驚異的な教会成長を成し遂げたジョン・ウィンバーとの協同の奉仕などをするうちに、しるしと不思議と奇跡が、教会に驚異的な成長をもたらしていることを知るようになる。

 やがて、ジョン・ウィンバーとピーター・ワグナーはフラー神学校でMC510という番号の講義を開いた。当初、「しるしと不思議と教会成長」と呼ばれていたが、後に「奇跡と教会成長」と呼ばれるようになった講義である。(p.26)
「一九八一年のこと、ジョンは私に、博士課程の学生を対象として、しるしおよび不思議と教会成長の関係について、講義を行う準備があるのだがと申し出た。私はそれに同意した。話はとんとん拍子に進み、一九八二年、フラー神学校の世界宣教学部はジョンを招き、しるしと不思議と教会成長に関する実験的なコース(MC510)を持たせることにした。この講義は五回開講され、教室に溢れるばかりの受講生があった。」(p.30)
 こうしてワグナーは、しるしと不思議と奇跡こそが、今日、力をなくして衰えつつある諸教会に圧倒的なパワーと人員増加をもたらす秘訣であると解釈し、それを公然と教え始めたのである。

 MC510は神学校全体の中では小さな講義であったが、その内容のために、フラーはカリスマになった、という批判が寄せられた。しかし、ワグナー自身はあくまで、自分が福音派であることを強調してやまなかった。「フラー神学校は決してカリスマの神学校ではないということを、私は言っておきたい。フラーは純粋に福音派であり、また超教派なのである。バプテストでもなく、長老派でもない。カルビニストでもなくウェスレアンでもない。艱難前掲挙説と艱難後携挙説のどちらか一方に固執しない。カリスマでもなければノンカリスマでもない。これらの教義上の理解が異なるさまざまな方々がフラー神学校で教え、また学んでいる。この神学校の意図は、『一つの考え方に極端に傾くことなく、あらゆる方面の考え方を拒まないことによって、聖書的なバランスを確立していく』というものである。神学校校長のデイビッド・アラン・ハバードが『フラー神学校は、御霊の望まれる歩みに近づくためには、ある種の危険を伴うこうしたやり方をもいとわない』と言っているとおりである。」(p.28-29)

 このような、一見、中立を装った、もっともらしい説明に煙に巻かれるわけにはいかない。これでは「フラー神学校は何も選ばない代わりにすべてを選ぶ」と言っているのと同じである。聖書的バランス、というものがもしあるとすれば、それはクリスチャンが「一つの考え方に極端に傾くことなく」して得られるものではなく、むしろ、パン種のない教えという、聖書が教えている「ただ一つの極端な教え」を死守することによってのみ得られるものだ。だが、フラー神学校は、「聖霊の望まれる歩みに近づく」という名目で、「ある種の危険を伴う」ことが分かっている道に自ら踏み込んで行ったのである。

 大審問官の台詞が思い出される。「われわれはお前(=イエス)の偉業を修正し、奇跡と神秘と権威の上にそれを築きなおした。」

<つづく>

 


救いはただ神から来る

兄弟たちよ。あなたが召された時のことを考えてみるがよい。
人間的には、知恵のある者が多くはなく、
権力のある者も多くはなく、
身分の高い者も多くはいない。

それだのに神は、知者をはずかしめるために、
この世の愚かな者を選び、
強い者をはずかしめるために、
この世の弱い者を選び、
有力な者を無力な者にするために、
この世で身分の低い者や軽んじられている者、
すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。

それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。
キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、
義と聖とあがないとになられたのである。
それは、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりである。(Ⅰコリント1:26-29)
 

* * *

 これは私の好きな聖句の一つだ。
 私は弱い者として生まれた。その立場の弱さゆえに、これまで、様々な苦悩を経験せねばならなかった。人から蔑まれ、惨めな思いをせねばならなかったことも何度もあった。だが、神はあえてそのような弱い者を救いの対象として選ばれたのだとまさに聖書は告げている。それは、その人間が救われたのが、その人の力によらず、ただ神の力によることが証明されるためである。

 ああ、だから、私はこれからも、ずっと弱いままでいよう! そしてその弱さの中に、キリストの力が輝くことを、ただ目撃し、キリストの強さをのみ楽しもう! 
 時折、私は強くなりたいと願うことがある。人々から愛され、誇れるものをより多く身に付けたいと切に願うことがある。確かに、貧しさや苦しさ、孤独は、これまで耐え難いほど私を苛んだ。そこで、二度と、そのような目に遭いたくないと、人の気持ちとしては、強く願わずにいられない。
 だから、時として、聖書の約束に私は身勝手な形ですがりつく。キリスト教が、貧しさを抜け出し、孤独を抜け出し、幸せな生活を手に入れるための手段のようにさえ、映ることがある。

 だが、そのような思いにはさよならを告げて、やはり、私は、これからも弱いままでいようと思う! それは、私が弱いからこそ、そこにキリストの強さを見ることができるからだ。財産が、学歴が、強靭な体力や、健康が、何を私に保証してくれる(た)だろうか。それらが頼れるものであったなら、なぜ今までのような生活が私にあり得ただろうか。仮にこれから先、誰もかなわないほどの力ある、魅力的な友人を持ったところで、その人が私に何を保証してくれるというのだろう。その人が私に永遠の命を保障できるというのだろうか。

「神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれた」

 この聖句の中には、どんな革命も及ばないほどの大転換がこめられている。この世で知者だと自惚れている人たち、権勢があると自負している人たち、高貴な生れの人たち、すべての強者に勝って、神はこの世の愚者、貧者、軽蔑されている者、取るに足りない者を、御前に高く掲げられたのである! 神はこの弱い人たちを愛されたのである!

 だから、私は愚者でよかった。
 軽蔑されてよかった。
 取るに足りない者でよかった。

 私の救いは、ただ神だけから来る! そのことが、私を通して今後も証明されますように、と願わずにいられなかった。不思議な静けさが心に戻った朝であった。


和解の尊さ

 昨日、大学病院に両親とともに祖父を見舞いに行った。祖父は緑内障の進行を食い止めるために手術を行っている。今のところ、それほど悪化していないため、見舞いに行くのも気が楽であった。

 それにしても、私が時代遅れな人間であるせいかも知れないが、最近の大学病院内の設備の充実ぶりには驚かされた。病院内にスターバックス・コーヒーがある! すずらん通りと名付けられた通りがある! 寿司屋があり、美容院がある! シャワー室、トイレなどの設備の充実もさることながら、くつろぎのための施設の何と多いことかと、私はまるで観光客のようにもの珍しげに病院内を眺めて歩いた。まるで病院全体が一個の街のようだった。

 だが、奥まった通路に向かうに連れて、次第に、病院ならではの薬の臭いが鼻につき、だんだん閉じ込められるような閉塞感に襲われるのは、毎度同じであったが…。

 祖父は快適な病室で、携帯メールを打ちながら、ゆうゆうと過ごしていた。沢山の人からお見舞いのメールをもらって実に嬉しそうであった。(私などは生まれてこの方一度も携帯電話を持ったことがないというのに)。

 本当のことを言えば、眼の手術を受けるべきは祖父ではなく、私なのかも知れない。私は生まれつきの斜視(両眼視の不可)ゆえに、ものがそもそも二重に見えていることに加えて、右眼にかかっている軽い乱視が、近視の進行につれて、ますますはっきり感じられるようになりつつある。つまり、私にはものが四重に見えるようになってきているということだ。これは冗談ではなく、ひどい現実であり、そのために、眼精疲労が蓄積し、今は15分と本を読めなくなってきている。

 子供の頃には遠視のせいで、眼鏡が手放せなかったという経験もあって、今は眼鏡やら、コンタクト・レンズといった、人工的なアイテムは、できる限り、ご免こうむりたいと思っている。だが、そんな悠長なことを言っていられなくなってきた。私の左眼の視力は0.01以下、右眼も0.5を切っている。この両眼の視力の大差のためだけでも、脳内にかかる負担は膨大なものであり、本格的に視力を矯正すべき時が来ているのは明白だ。もしも両眼視不可の状態が手術によって治るなら、喜んでその手術を受けたいと思うのだが…。

 さて、祖父のいる病室で、両親と祖父との会話を、私はただ遠くから黙って聞いていた。元気に暮らしているきょうだいの消息などが耳に飛び込んで来ると、どうしても、私は今でもカルト化教会の残酷な事件がどれほど私の人生にとってロスになったかを思い出して、心に痛みを覚えずにいられなくなるのだ。

 けれども、その日、私はただそこにいるだけで十分であった。
 私は祖父を赦しており、和解の気持ちを表すために、そこへ赴いたからだ。何一つ言葉を交わさなくとも、祖父にはそのことが伝わっていた。

 一度は祖父から、「あんたは一生不幸だ!」という言葉までかけられた私であった。しかし、いつまでも人の暴言を記憶して、それを反芻しては恨み続ける苦さに比べて、和解がもたらす甘やかさは、いかほどのものだろうか。
 人を赦すということが、とてつもなく大きな特権であることを、私はその時、身を持って感じた。受けるより、与える方が幸いであるという御言葉の意味を感じた。赦されるよりも、赦すことの方が、幸せである。それを考えれば、人から非難されたことさえ、人を非難することに比べれば、幸せであった。

 私は赦すという権利を行使し、それによって絶大な心の安らぎを得た。赦しによって、相手が満足したのではなく、この私こそが深い満足を得たのだ。事件は解決した。もう犯人はいないし、被害もない。誰も不幸にならなくて良い。私にかけられた呪いの言葉は、私の内におられるキリストが受け取って無効にした。相手が投げつけた怒りと悲しみも、キリストが引き取って消化したのだ。

 ああ、非難されたのが他のきょうだいでなく、私で良かったなと、今はつくづく思う。なぜなら、キリストの十字架を信じているがゆえに、私はきょうだいの誰よりも強いからだ。私には人のいかなる悪意をも無効化する力が与えられている。キリストが私に代わってすべてを引き受けて下さるから、私にとっては、悪意も、中傷も、もはや恐ろしいものではなくなったのだ。

 もう少ししたら、カルト化教会での大失敗の経験も、痛みなしに思い出せる日が来るかも知れない。何気ない世間話を聞いて心に痛みを覚えることもなくなるかも知れない。非難だけでなく、無視や、無関心にも、動じなくなるかも知れない。私を取り巻く状況がたとえ変わらなくとも、主が共におられるゆえに、私こそは地上で最も幸せな人間なのだと、安らかに確信していられるようになるかも知れない。

 昔から人が好く、義理堅い性格であった祖父は、病室の外に出て、帰って行く私たちの姿をいつまでもいつまでも見送っていた。彼に福音の話をする機会が、この先、できるだけ早く与えられるようにと、私は祈らずにいられなかった。
 


港町の風景

KFCから届いたワーシップソングを聴いていると、どんなに悩みが山積していても、心のもつれがほどけていくようだ。中でも、私が一番好きなのは、"Jesus you are beautiful." 最も美しく感じられるメロディーだ。
 
 つい先ほどまで、人間関係において、道を踏み誤ることへの恐れがひどく私の心を苛んでいた。今まで、弱さゆえに、何度、同じ過ちを繰り返しては、人間関係を損なってきただろう。そのことを思うと、自分の弱さが二度と、以前のような形で大失敗となって現れることがないよう、泣きながら神に祈らずにいられなかった。

 考えているうちに、自信がなくなってしまった。私は本当に、主によって与えられた兄弟姉妹を心から愛していると言えるのか? ひょっとして、利己的な感情に基づいて、相手を利用しようとしているだけではないのか? 私が愛と呼んでいるものは、正真正銘、主の御心にかなう偽りのない感情なのか? それとも、利己心を都合よく言い換えただけではないのか?
 せっかく主によって与えられた兄弟姉妹との関係を有害なものに変えてしまうくらいなら、今のうちに、全ての人間関係を断ち切ってしまった方が良いのではないか。そんな恐れをさえ感じた。

 だが、賛美を聴きながら、心を鎮めた。そして、麗しいキリストの御業を思いながら、すべての人とのつながりが、ただ主によって一方的に与えられたものであったことを思い出した。私が主の御名を賛美することを始めてから形成されてきた人間関係の中には、私が自力で掴んだものなど、何一つない。それが分かった時、恐れは消え、はっきりと、今後、どうすべきかが分かった。
 これ以上の自己批判は一切、無用である。これ以上、自分の心に起こるあらゆる感情を、良いものも悪いものも含めて、一つ一つをまるで顕微鏡で調べるようにして、丹念に吟味し、不要なものがないか探し、自分の持っているあらゆる財産をズタボロに切り刻んでは、一片一片を丹念に日に透かして吟味しようとするような作業は必要ない。

 私は、仮に弱さが残っているにせよ、確信を持って、兄弟姉妹への愛に立って生きていけば良いのだと分かった。与えられた兄弟姉妹との関係を(正しいものにしようとして)コントロールしようとすることさえ無用なのだ。すべては主が成して下さること。だから、未来に起こるどんな出来事をも、もはや恐れまいと決意した。自分が間違うことさえ、恐れない。どんな背教も、汚れたものも、キリストがうちにおられる限り、私には触れることができない、ただそう信じることができるだけだ。
 もしも私の心の中で起こっている様々な感情について、外から介入しようとする試みがあれば、一切、退けることを決意した。いわれのない非難だけでなく、人の杞憂に対しても、耳を塞ぐ必要がある。本人の自主性を侵してまで、他者の心を切り刻もうとするあらゆる力を排さなければならない。

 サタンの非難の声にいちいち親切に耳を貸していれば、義人になれない地上の人間は、誰一人、正気を保てなくなってしまうことだろう。すでに十字架によって罪赦されている以上、私たちには、善悪のものさしに立って生きる必要はもうない。たとえ色々な弱点は消えないにせよ、それを糾弾する声に耳を傾けてはいけないのだ。罪はキリストの十字架によってすでに処理されているはずであるし、弱いところにこそ、キリストの強さが現れるのだから。もしも未処理の罪があるならば、キリストの十字架へ持って行くだけでよい。自分で自分を裁いたり、吟味し続ける作業は必要ない。

 近いうちにもう一度、横浜を訪れることができればと思う。
 以下は、懐かしい神戸の海。横浜の夜景はまだ一度も見たことがないが、きっとこれに似ているのではないかと思う。


どうなるか、夏祭り?

 昨日は、地元の夏祭りの予定日であったが、朝からあいにくの雨のため、一日延期。
 だが、今日も天気予報によれば、雨なのだ。しかも、朝から土砂降りの雨…。 

 

 いまだにアナウンスがない。ということは、役場で協議が続いているのだろう。果たして、祭りはどうなるのか…。私としてはぜひ開催して欲しい。田舎にも関わらず、川原でかなり壮大で豪華な打ち上げ花火が見られる機会はこれを除いてないのだから。

 今、10時半を回ったところだが、蝉が鳴き始め、鳥の声が聞こえ始めた。これなら希望がありそうだ。主よ、どうか私たちに楽しみの機会をお与え下さい!(左は何年も前の祭の写真。)

 朝から、エクレシアのことについて色々と思い巡らしていたが、主からの平安が心にやって来る。やはり、幾度、考えても、私の心は兄弟姉妹への温かい愛に戻って行く(その中にはまだ見ぬ人々も含まれている)。それでも、かつてのような失敗を二度と繰り返したくない、偶像礼拝や、間違った感情に陥りたくないと思ったため、自分の心の最終吟味のつもりで、私は以下の記事を書いた。

 だが、これ以上、何も思い煩う必要はないと分かった。この愛は、主が、互いに愛するようにと私に上から与えて下さったもの。主を愛する愛の中から生まれて来たもの。誰に対しても、何一つ、恥じるところはないし、それを無理やり吹き消そうとする必要もない。きっとこれから、交わりの輪はますます広がっていくことだろう。

 何もかも、平安のうちに、主におまかせだ! もちろん、今日の天気のことも含めて!

(追記:) なんと、記事を書いた時点ですでに祭りは中止されていたことが判明。川の増水のせいでもある。残念だが、「主が与え、主が取りたもう」と、主に感謝を捧げよう。
 信仰の仲間も、全て、主が与え、主が取られるもの。神に信頼して、これから起こることに期待しよう。

バビロンの包囲の中で

昨日、エクレシアのことを書いたが、重大な注意点を補足せねばならない。それは、キリスト者が集まって神を礼拝することの喜びが、たとえどれほど大きかったとしても、私たちは、その喜びを求めるために集まるようになってはならないという点だ。キリスト者は、人生最後の瞬間まで、ただ神ご自身のみに目を向け、神ご自身だけを切に求めるようにしなければならない。それが礼拝の目的である。

 ドストエフスキーが警告しているように、集団的な跪拝の対象を求める人類の欲望には、果てしない深みがある。私たちは人知によっては、何がバビロンであり、何がエルサレムであるのかをきっと見分けることができないだろう。それほどまでに、かの者の誘惑は深い。サタンの荒野の第三の誘惑である地上の王国の中には、必ず、繁栄ばかりでなく、統一的な地上の宗教が含まれている。私たちは、自分が神のみに目を注ぎ、神に栄光を帰するためにある場所へ赴こうとしているのか、それとも、集団的な跪拝が生み出すあの興奮を求めて出かけようとしているだけなのか、それを常に、吟味し続ける用心深さを忘れてはならない。

 たとえキリスト者の集まりがどれほどの深い感奮をもたらすものであったとしても、私たちは、それを得ることを目的にして礼拝を行おうとしてはならないのだ。仮に、隣にいるキリスト者の中に、どれほど感動的な主の臨在を感じたとしても、私たちはただ天に目をむけ、天にまします私のお一人なる神だけを見上げることを忘れてはならない。隣の人の中にこそキリストがおられると考えて、その人の内側に目を向けようとすべきではない。(確かにキリスト者それぞれうちにはキリストが住まわれているのだが。)

 なぜなら、もしもそのように注意していなければ、私たちはあまりにもあっけなく、隣人の中の「現人神」に目を奪われ、そのきらびやかさに魅せられてしまうだろうからだ。元来、神のかたちに似て創造された人間の中には、人の目を惹きつけてやまないある種の誘惑が潜んでいる。それを用いて、人が神に仮装することはまことに簡単なのだ。たとえ、その人が「私は神だ!」とあからさまに叫んでいなかったとしても。

 だから、人に惑わされないよう常に気をつけていなければならない。キリスト者はいつでも、ただ主ご自身だけを一心に見つめるようにしなければならない。そのことだけが、あらゆる惑わしからクリスチャンを救ってくれるだろう。

 考えれば、考えるほど、現代のキリスト者は、いずれも深いバビロンの中にとらわれており、バビロンによって全面的に包囲されているのではないかと思われてならない。このバビロンの誘惑は極めて深い。

 一つには、それはバビロン化したニッポンキリスト教のことであると言えるだろう。だが、しかし、これ以上、その名称を使い続けることがためらわれるのは、ニッポンキリスト教という枠組みの中だけで、背教を論じようとすることに、そもそも意味がないからだ。むしろ、ニッポンキリスト教界という名を多用することによって、私たちは、背教が、そこに限定されて働くものでなく、もっともっと深い危険性を持っているものであることを忘れ去ってしまうかも知れない。

 バビロンとはまず、私たちキリスト者を完全に包囲している空中に働く霊的影響力であり、地理的な境界や、あらゆる組織の枠組みを超えて働く、諸霊の力であると認識すべきだろう。それは決して、キリスト教界内のみに限定して働くことはない。バビロンとは、まさに私の周りに広がっている世界全体のことだ。

「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のように輝いている。」(ピリピ2:15)

 この世はまさに曲がった邪悪な霊の支配に覆われている。キリスト者はその暗闇に囚われながら、御言葉の灯火を輝かせている小さな星だ。
 預言者エレミヤはバビロンにとらわれたエルサレムの民に、主が命じられていることを告げた。「わたしがあなたがたを捕らえ移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである」(エレミヤ29:7)。

 この言葉は、偶像礼拝の支配する土地の只中に住んで、異なる宗教的価値観にさらされて生きねばならない私のような者にとって、一種の安らぎとなる。私はこの土地の安全なしには、生きていけない。だから、この土地の実りと安全を願わずにいられないが、それは神の御心に反することではないと理解することができる。バビロンの中に住んでいるイスラエルの民は、とらわれている町の中で、安らかに暮らすために、町の平安を願っても良いとされた。

 だが、注意せねばならないことは、異教の町の安全を願うことは良くとも、エルサレムの民は、決して、その異教の町から霊的影響を受けてはならないと主から命じられたことだ。

「あなたがたのうちにいる預言者と占い師に惑わされてはならない。また彼らの見る夢に聞き従ってはならない。それは、彼らがわたしの名によってあなたがたに偽りを預言しているからである。わたしが彼らをつかわしたのではないと主は言われる」(エレミヤ29:8-9)

 注意せねばならないのは、「わたしの名によって偽りを預言している」と、神はエレミヤを通して、はっきりと警告されたことである。異教の神の名によってなされる預言ではなく、まさに唯一の神の名においてなされる預言の中に、信じてはならないものがあると警告がなされたことである。
 現代における背教もこれと同じである。私たちが警戒せねばならないのは、非キリスト教の教えではなく、キリスト教の名でやってくるあらゆる背教である。だが、その背教が、明らかな異端と分かっている腐敗した教えや、カルトと名指しされている集団や、ニッポンキリスト教界の名だけでやって来ると思っていたら、大間違いだ。背教はまさに主の御名を通して(偽のキリスト者から、もしくは堕落しつつあるキリスト者から)やって来るのである! 主の御名をかたりながら、偽りを広める人間は、どこにでも存在しうるのだ。(明日にでも、私がそうならないという保証はどこにもない! 主が私を守ってくださり、御言葉のうちを歩めますように!)

 背教に囲まれている今の時代にあって、神の名を用いながら、神が語られたのではない教えに影響を受けた誰しもが、疫病のように、背教を持ち運ぶ器となりうることに、私たちは注意せねばならない。さて、とらわれた民に向けられたエレミヤの預言は、次の有名なくだりにさしかかる。

 「主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果たし、あなたがたをこの所に導き帰る。
主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。
あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。
わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導きかえろうと主は言われる。」(エレミヤ29:10-14)

 バビロンでの捕囚には70年という月日が定められていた。この捕囚の終わりは、私の人生においては、キリスト教界を抜け出た事件とも重なって見える。だが、考えてみよう。キリスト教界を抜け出れば、それがすなわち、バビロンを抜け出たことになるのか? それが、私が背教の影響にさらされる時代の終わりとなるのだろうか? 違う。断じて、そうではない。

 この曲がった時代にあって、一体、どんなキリスト者が、バビロンの包囲から完全に抜け出たなどと豪語できるだろうか。いや、今なお、私は捕囚の状態にあると言った方がふさわしいだろう。もちろん、主はそのとらわれの苦しみの中でも、私に平安と、将来の希望を約束して下さっている。だから、主に信頼して、揺るぎない平安の中に立っていれば良いのである。だが、真実の解放は、主の定められたその時(サタンの完全な敗北と主の再臨の時)でなければやって来ないことを忘れるわけにはいかない。

 確かに、私にはかつて奪われたものが少しずつ主の恵みによって回復されつつあり、追いやられた土地から、主の御名のもとに集まる人々のもとに引き戻された。だが、それで万事が回復し、警戒の必要はなくなったのかと言えば、そうではない。もはや背教は後ろに過ぎ去り、私とは無縁になったと言えるかと言えば、そうではない。油断は禁物である。戦いはまだまだこれから始まるかも知れないからだ。(いや、恐らく、今からが本番なのであろう。)

「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。」

 エクレシアとは、一人ひとりの信者が神だけを一心に尋ね求めて、神に出会う場所のことだ。それはどこか限定された一区画の土地である必要はまったくないし、集まる人々の種類にもよらない。
 私たちがただ主のみに心を向け、ただ主ご自身の臨在のみを求める時に、神自らが私たちに会ってくださるのだ。仮にそれが一人ぼっちの礼拝であったとしても、神が臨在されるならば、それは十分に礼拝であると言えるだろう。だから、恐れることはない。私たちは信者に会うために常にどこかに出かけようとする必要はないし、集うことに過度なこだわりを抱く必要もない。ただ、神にお会いすることだけを切に求めていれば、全ては兼ねて与えられるのだ。
 
 集団的な跪拝というものが作り出す情熱と興奮を求めて各地を行き来することがないよう注意しなければならない。そのような情熱の中に、背教が大きな原動力を見いだしていることは確かだからだ。だが、それでも、もしも許されるならば、私は心から共に主を礼拝する仲間と出会い、喜びを分かち合いたいと願わずにいられない。そして、共にキリストの御身体なる兄弟姉妹として、欠けた部分を補い合い、互いに助け合い、支え合って生きていきたいと思わずにいられない。(もちろん、神の御前での単独者としての立場を忘れるわけではないが、これ以上、一人きりで信仰生活は、沢山である。)
 私は心の底から、兄弟姉妹と集える日が来ることを願い、また、そのことを切に主に求める。

 主よ、あなたのいつくしみ深さ、恵み深さをどうかもっと私に教えてください。
 あなたの私への愛の広さ、深さを、どうかもっと知らせて下さい。
 あなたこそがすべての恵みの源。私はあなたの愛を求めてやみません。
 花婿なる主よ、私はあなたにお会いしたいのです。
 あなたが私のうちにおられるだけでなく、主を愛される人々の只中に、
 臨在されることを知りたくてたまらないのです。
 主よ、あなたの訪れをただ待ち望みます。

 

これがエクレシアだ!

 昨日は、映画「精神」の最終上映日だった。危うく忘れるところだったが、ぎりぎり滑り込んだ。地元で撮影された映画とあって、結構な人数が観に来ていた。終わった時、観客の中には泣いていた人もいたようだ。だが、私にとっては重すぎたこの映画の内容については、今は何も語れそうにない…。

 当初、残る時間で買い物をする予定であった。こちらに来てから、はや1年が経とうとしているのに、私は未だ岡山の地理についてほとんど知らない。今日、初めて、路面電車に乗った。100円でわずか三駅ほど走っただけだが、懐かしい感じがした。大阪には路面電車はない。モスクワでは路面電車を使わずにはどこにも移動できなかった…。

 楽器店で、何ヶ月も前から気になっていた楽譜を買う。それでも、まだ沢山時間が残っている。だが、地下街や商店街を買い物して歩く気にはなれなかった。それは、ある荘厳な出来事が私の心を捉えて離さなかったからだ…。

 「エクレシアとは何か。」
 その実体が、これほどに胸に迫って来た日はなかった。エクレシアのことを思うだけで、涙せずにいられないほどの感動を覚え、神に召し出された花嫁としての教会が、あまりにも強く私の心を捉えたので、他に何一つ考えることができなくなった。私は待合室の静かなベンチを探し、そこでただ呆然と主の御業を思った…。

 山谷少佐が「続・目カラ片鱗ノ剥落スル事」の中で、その時に、私が考えていたのと全く同じ事を書いておられるのが、重ねて驚きである。私の駄文をご引用下さっているようだが、山谷少佐のコメントだけをご参照いただきたい。以下、引用。

「私は主のもの。あの人も主のもの。そこにあるのは、ただ、主の至高の愛である。
この愛の下に置かれているのが、本然のエクレシアなのだ。
それは、伝統とか機構とか制度とかには、よらないものである。
もちろん、そういうシステムが、この『中間の時』には必要とされているけれども、本然のエクレシアの『本質』は、そういうことどもの中には、ない。『本質』は、ただ、主の至高の愛の中にあるのだ。

ある兄弟たちは、人為的に伝統や機構や制度を『合一』のものにしようとして、苦心惨憺したが、どうも上手く行かなかった。本然のエクレシアの立場からすれば、その努力は徒労だったということであろう。
なぜなら、主の至高の愛において、兄弟姉妹はそもそも最初から『一』であり、また、永遠に『一』なのであって、決して分割されることが出来ないのだから。
というのは、主の至高の愛が、分割され得ないものだからである。」

 読者はご存知かと思うが、私は近々、これまで一度もお会いしたことのない信仰の兄弟たちのもとに出かけようとしていた。しかし、今の今まで、私には自分のしようとしていることの意味が、何も分かっていなかった。
 告白すべきことは、私は今日に至るまで、エクレシアとは何であるかを、ただ文字の上でしか知らなかったということだ!

 私の知っていた教会とは、あまりにも、薄っぺらでお粗末なものであった。それは多分、教会と呼ばれるべきでさえなかったろう。たとえば、日曜日の午前10時半に、眠い目をこすりながら、礼拝堂へ駆けつける。かなりの期待を持って、説教に耳を傾けてはみるものの、ナニカガチガウ、と、心は満たされない。気を取り直して、午後の部会に出席し、信徒との交わりに期待をかけるが、さらに、コンナノハマヤカシダ、との苛立ちが心に去来する。それでも、何とか気を取り直し、仲の良い信仰仲間とお茶を飲みに出かけ、率直に語り合うが、そこでも、ナニカガココニハケッテイテキニカケテイル、との虚しさが心を襲う。ついに、時間切れとなって、帰宅の途につきながら、キョウモナニモエラレナカッタ、コンナキモチノママ、アトイッシュウカンモ、スゴスノカ…と、より一層ひどくなった飢え渇きを抱えて日曜日の夜を迎える。それが私にとっての教会だった。

 そのようなことがあまりにも普通になってしまったので、私は信徒の交わりというものに、もはや多大な希望を寄せることがなくなっていた。会って、励ましあい、祈りあい、それなりに、傷つけあうことなく、有意義な時間を過ごせれば、それ以上、何を求めることがあろう。

 だが、それは本当の教会というものを知らないがゆえの、あまりに大きな誤解であった。主の視点に立って人を愛する、ということを理解した時に、私は教会の持つ重大な意味に圧倒されてしまった。
 
「私は主のもの。あの人も主のもの。そこにあるのは、ただ、主の至高の愛である。この愛の下に置かれているのが、本然のエクレシアなのだ。」

 私が出かけようとしていたのは、主が心から愛されている人のもとであった。神によって聖なる宮とされた人々のもとであった! それを理解した時、私は畏怖の念に打たれ、何メートルも後ろに後ずさりして、ひれ伏したい思いに駆られた。私の目の前にあるのは燃える柴だった!

ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」(出エジプト3:5) 

 主が臨在される聖なる地、そこがエクレシアなのだ! 私はその地を目の前にして立っていたのに、それと気づいていなかった! 自分の汚れ切った靴(セルフ)を脱ぎ捨てなければ、そこに近づくことは誰にもできない。もしも私が靴を脱ぎ捨てなければ、私は兄弟たちに利己的な感情を持って近づくことになり、それは私が神の宮に対して害意を抱くことに等しい。神は私を滅ぼされるだろう!

「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。」(Ⅰコリント3:16-17)

 一人ひとりが神の宮とされている兄弟姉妹たちの作り出すエクレシアの神聖の前に、私は深く頭を垂れずにはいられなかった。主は何と一人ひとりを深く愛されていることだろうかと、改めて思わずにいられなかった。彼らは、私にとっても、まさに命であり、希望であり、貴い宝である。会ってもいない人々に、いつの間にか、どれほどの愛情を抱くようになったことか。こんな不思議なことが起こりうるだろうか。だが、それでもまだ、神の宮としての兄弟姉妹に私は十分な敬意を払っていなかったのだ。
 不思議なことに、そう自覚したことによって、私は自分がエクレシアに近づく資格がないと感じたかと言えば、そうではなかった。むしろ、抑えがたいほどの思いで、私はかえってそこに行きたくてたまらなくなってしまったのである!

 それは、まるで遠方にいる恋人との邂逅を、指折り数えて待ち焦がれるような、居ても立ってもいられない気持ちだった。彼らのいるところに、私も行きたい。私はそこに行きたい。いや、何としても、行かなければならない。幾山河越えようとも、海を渡ろうとも、陸を徒歩で越えようとも、どんな距離があろうと、どんなに時間がかかろうとも、何としても、そこに辿りつかずには置かないというほどの強い思いだった。
 一体、私はどうなってしまったのか。人への執着心はもうとうに振り払ったはずなのだが、この恋慕の情に似た思いは何なのか。どうしてこれほどまでに、彼らに会いたくて仕方がないのか。この居ても立ってもいられない焦燥感のようなものは何なのか。これは本当に良い感情なのだろうか? 何がこれほどまでに私をそこへ呼び、惹きつけるのか。

「天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである」(マタイ13:45)
「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)

 主が呼んでおられるのだ。それ以外には、どう考えても、答えがなかった。神が召し出された花嫁を一人ひとり呼び出し、集めようとされておられるのだ。主がご自分の愛される人々に、教会として、御前に立つように、求めておられるのだ。
 その時、主が花嫁たる教会をどれほど愛され、一目でもよいからその姿を見たいとどんなに願っておられるかを、私は胸苦しいほどの思いで理解した。主は、たとえ二、三人でも、主の御名のために集まる人々を見たくて仕方がないのだ。そこに臨在されたくて仕方がないのだ。そのためにこそ、神はご自分を愛する人々を常に地上のどこかで召し出されているのだ。

 私の心の中には、信徒として主を慕う気持ちと、花婿なるキリストが花嫁を呼ばれる気持ちと、その両方がせめぎあい、抑えがたい感動が起こった。キリストとエクレシアとの結婚という、壮大な歴史を超えた物語に、ちっぽけな人間に過ぎない私の心は圧倒されてしまった。

 歴史上、いくつかの全体主義体制の下で、過酷な弾圧を受けながら、人々が命の危険を冒してまで、教会に集うことをやめなかったその理由を、私は生まれて初めて理解した。共産党政権下の中国で、なぜ集会が法律で禁止されているにも関わらず、人々は命の危険に晒されながら、地下教会を作って、集まり続けたのか。ただ励ましあうためだけに、そのようなことができるだろうか? なぜ皇帝ネロの時代に、『クオ ヴァディス』のマルクス・ウィニキウスとリギアの二人のように、競技場で火あぶりにされることをもいとわず、人々はクリスチャンとして集い続けたのか。ただ神を礼拝するだけならば、一人でもできることではないか。
 彼らは集まらずにいられなかったのだ! なぜなら、主の花嫁であることをやめることができなかったからだ!

 それは、主が彼らを花嫁として召し出されたからに他ならない。主が切に、主を愛する人々の集まる姿を見たいと望まれたのだ。そして人々はそれに応えずにいられなかったのだ。
 私は、信仰者たちが集まろうとするその理由を、今日ほどはっきり理解したことはなかった。ちょうど親指と人差し指が同じ手の平に属しているのと同じくらい確かに、私は自分がキリストの御身体の一部であることを感じる。たとえ私がそこで髪の毛一本、あるいは目に見えない細胞一つのように小さな存在に過ぎなかったとしても、そんなことには一切、関係なく、私はキリストの身体である以上、その永遠の一致の中に身を投じるために、兄弟たちのもとに出かけて行かずにいられないのだ。私は呼び出されており、その招きに応えて、その「場所」に馳せ参じずにいられない。これは何者によっても押しとどめることはできない。主がそうされているのだから!

なぜなら、主の至高の愛において、兄弟姉妹はそもそも最初から『一』であり、また、永遠に『一』なのであって、決して分割されることが出来ないのだから。

 そして、このことを思う時、あの堕落した天使は、やることなすこと全てが神の働きの亜流であり、出来損ないの模倣であるということを私は思わざるを得なかった。システムによる一致とは何か。それはエクレシアの出来損ないの模倣である。もしも共産主義が神の国の出来損ないの模倣であるとすれば、あの、冷たい、血の通わない教会、無機質で、強制的で、死んだ、機械的なシステムとしての教会は、生きて、自主性に貫かれた、何によっても消すことのできない、燃え盛る火のような愛を持ったエクレシアの、似ても似つかないコピーだとしか言えない。

 だが、死んだシステムにも、時には、生きた聖なる愛と極めてよく似た感情が宿ることがある。それは人の知性によっては、偽物と見極められないほどに、エクレシアの精巧な模型となることがあるかも知れない。バベルの塔建設には、「何事によっても押しとどめることができない」(創世記11:6)ほどの歓喜があり、誇りと、感動による一致があった。それは恐らく過酷な強制労働などによっては建設されなかったことだろう。

 バビロンとエルサレム。永遠に対立する二つの都。人為的な興奮による一致と、主が永遠の昔から定められた愛による一致。一方の人々はバビロンを求めてその興奮に群がり、私たちは聖なる都を目指して、消すことのできない主への愛と、兄弟姉妹への愛を胸に、万難を排して旅を続ける。この身を主の御前に投じるその日が、焦がれるほど待ち遠しく、心を一つにして人々と共に主の御前に集う日が、焦がれるほど待ち切れない。これだったのだ、エクレシアの正体とは。私は今日まで、そのことをただの一度も理解せずに来たのだ。

 いつかずっと前、Sugarさんが書いておられたことを覚えている。

「キリスト者のあつまりは実に単純なものです。(複雑なものには要注意)
先ず、集まる理由はただ『会いたいから』です。私達はただ兄弟姉妹に会いたいから万難を排して会いに行くのです。更に言葉を加えるとするならば、それは『私の中のキリストが他のキリスト者の中のキリストに触れたいから』なのでであり、そこには、キリストの人への愛の力が作用しているから、と言う事になるのでしょう。私達はただその理由の故に『どうしようもなく』集まってしまうのです。
そこに存在するとても自然でしかも不思議なある種の吸引力、この『単純な衝動』がキリスト者が『集まってしまう』と言う生命現象の説明です。」

 あの日曜の朝10時半から始まる、砂をかむように味気ない礼拝の記憶など、ゴミ箱に捨ててしまえば良い。焦がれるほど、そこに身を置きたくてたまらず、泣き出したいほど、愛しくてたまらず、命かけてでも、そこに集わずにいられない、愛によって結ばれた兄弟姉妹のいる聖なる場所、それがエクレシアなのだ。たとえ投獄されようとも、死の危険が待っていようと、それが何だろうと思わせるほどに、会いたくて仕方がない、集わずにいられない、召し出された者たちのために用意された命と愛に満たされた場所、それがエクレシアなのだ。不思議な愛の感動の中に、私は言葉を失って佇んでいる。
 


初めの愛

日が昇って、辺りが明るくなりつつある。昨日より、神に捧げる愛が、私の中に、まるで潮騒のように優しい音楽となって鳴り響いている。旋律も和音もないのに、不思議なほど感動的な調べなのだ…。
 「初めの愛」に引き戻された。今はどんな斬新な話題も要らないし、緻密な分析も要らない。時事的な話題で人目を集める必要もないし、人の語る言葉の刺激によって自分を満たす必要もない。こうしてブログを書くことさえ億劫なほどに、主との語らいが、大きな安らぎとして身に迫ってくる…。

 静かなところへ身を避けて、主との一致の中で、安らかに、半生を振り返る。これまでの人生に起きた喜びと悲しみと、壮絶な苦悶の跡も含めて、すべての事柄をもう一度、主の視点で見ながら、語り合う。
 ああ、あの場面でも、主は私と共におられたのだな。この場所へ来た時も、やっぱり、一緒におられたんだろうか? 旅の道連れと心が通じず、破れた心を抱えて、自分は一人ぼっちで、見捨てられていると思っていたあの時でさえ、私は一人ではなかった…?
 全ての心の打ち傷について、主に率直に申し上げる。すると主は私の祈りに応えて、それを御言葉によって温かく包んで下さる。

 神は聖書の中で、キリスト者の夫になったり、親になったりと、結構、忙しい。やはり、私の中で一番、近しく感じられるのは夫から妻への呼びかけだが、戒めを語る時には、「わが子よ」という表現が多く用いられる。

 「わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、
 わたしの語るところに耳を傾けよ。
 それを、あなたの目から離さず、
 あなたの心のうちに守れ。
 それは、これを得る者の命であり、
 あまたその全身を健やかにするからである。
 油断することなく、あなたの心を守れ、
 命の泉は、これから流れ出るからである。
 曲った言葉をあなたから捨てさり、
 よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。<…>
 あなたの足の道に気をつけよ、
 そうすれば、あなたのすべての道は安全である。
 右にも左にも迷い出てはならない。
 あなたの足を悪から離れさせよ。」(箴言4:20-27)

 私の心はまるで海の色のように刻々と変化する。海のように荒れ、または穏やかに波打つ。その心を守れと主は語られる。自分の心を見張れ、と。この世の事象によって心騒がせるのではなく、御言葉によって心が導かれるようにせよ、と主はおっしゃる。それが私の健全さと、命の泉を保つための秘訣なのだと。その通りに従おう。

 近々、主は私が知らず、考えたこともないような新たな恵みへと導いて下さるのではないだろうかと思いを馳せる。世はますます混乱へ向かうかも知れないが、それに反して、キリスト者はますます主にあっての喜びと平安に満たされるだろう。

 格差とは、経済的なものではないのだ。このことに、どれほどの人々が今、真に気づいているだろうか。この先、神の御言葉に立つ者の豊かさと、御言葉に立たない者の貧困という、霊的格差はますます広がっていくだろう。御言葉に立たない者の貧困はあまりにも著しくなり、求めても、求めても、安らぎが得られなくなるかも知れない。御言葉を聞くことへの飢餓が始まるだろう。そして、よく言われるように、その飢饉はすでに始まっているのだ…。

 花嫁は婚礼へ向けて、身支度を始めなければならない。灯りと油を用意せねばならない。救いの確信に立ち、御言葉の光を保ち、霊によって導かれて生きなければならない。人生の時間はいつまでも永遠に与えられているわけではないのだから、限られた生の中で、神に召し出された花嫁としての身支度をクリスチャンは完全に整えなければならない。この峻厳なたとえ話を思い出し、愚かな花嫁になってはいけないと自分に言い聞かせる。

「私にできるでしょうか、主よ?」
 不安に駆られてそう尋ねるならば、主はきっとこうお答えになるだろう。
「あなたがするのではない、私がするのだ」

 聖書に出て来る花嫁の身支度の場面は、私にとって特別な意味を持っている。いつかまた語ることがあるかも知れないが…。主に召し出された花嫁の晴れ姿はいかばかりに美しいものだろうか? だが、そのきらびやかさ、美しさばかりに思いを馳せるのでなく、今、もう一度、心を厳かにして、私がいずれ臨もうとしている婚礼の厳粛な意味を考えてみる。何度、考えても、私はそれにふさわしい人間ではない。主が私を聖めて下さらなければ、どうしてその日に私は主の御前に恥ずかしい思いをせずに立ちおおせようか。

 主よ、どうして私のようなものをお選びになって下さったのですか?
 一瞬にしてこの地上を過ぎ去り、気づけばもう消えている道端の草のようなこの命の短い者を、永遠の存在であるあなたがお選びになることなど、どうして起こり得たのでしょうか?
 どうしてあなたが私を愛されるなどという奇跡が起こり得たのでしょうか?
 さらに、あなたがこの私のために命を捨てられたとは、何という信じられないほどの不思議でしょうか。
 人とは何者なのでしょうか。
 人が何者だから、あなたはこれほどまでに人に目を留めれるのでしょうか。

 神は、限りある命の、脆く弱い人間のために、小羊なる御子イエスの命を与えられた。その血によって人を罪から洗い清め、神にふさわしい聖なる花嫁となるようにされる。

 

自分発の愛から神発の愛へ

人の道は自分の目にことごとく潔しと見える。
しかし主は人の魂をはかられる。
あなたのなすべき事を主にゆだねよ。
そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」(箴言16:2-3)

 山谷少佐が記事「目カラ片鱗ノ剥落スル事」の中で、Sugarさんの「山暮らしのキリスト」の記事を読んで、目からうろこが落ちるような感銘を受けたことを書いておられた。それを読んで驚いた。実は、私もSugarさんの記事を読んで、驚きと感銘を受けていたからである。

 高校生の頃、私は教会に所属していた。教会で何か行事がある度に、参加者を増やすために、学校で友人や先生にチケットやパンフレットを配り歩いていた(今から思えばはた迷惑な信徒であっただろう)。そんないきさつがあって、学校では私がクリスチャンであることを数人の先生方が知っておられ、職員室で、たまたま信仰の話が出たことがあった。
 ある時、世界史の先生が、私に聞いた。
「ねえ、きみ、神様を信じてるらしいけれど、好きな人が出来たら、きみは神様と、その人と、どっちを取るつもり?(好きな人をあきらめてでも、神様に従うことができる?)」

 私はそれを聞いて、心の中で、何という愚問だろうと思ったことを覚えている。人は皆、神が創造されたのだ。神は互いに愛し合いなさいと人に言われたのだ。だから、神を愛することと、人を愛することは対立しない。
 …それが当時、生真面目な信徒だった私の思い描いた生真面目な答えだった。
 もっとも、先生はその会話を冗談にして終わらせてしまったので、せっかくの模範解答には、答える暇も与えられなかったのだが…。

 今から思うと、その教師が投げかけた質問は、私が当時、思い描いたよりも、はるかに深い意味を持っていたことが分かる。時に、クリスチャンでない人の言葉を通してさえ、主は私に来るべき試練を告げ知らせ、私を試されることがあるのかも知れない。人から試される時、私たちは、自分の心をもう一度、奥底までかえりみる用心深さを持つ必要があるだろう。間違っても、自分は誰からも試される必要のない、全てを悟った人間であるなどという自己過信に陥ってはいけない…。

 「心にはかることは人に属し、舌の答えは主から出る。」(箴言16:1)
 私が今、心に持っている答えは、人の思いに過ぎないものだろうか? それとも、主から与えられた答えなのだろうか? 時に、それは試されてみなければ分からない場合がある。人の心を探り極める方が、私の心を底の底まで探り極め、あらゆる不純物を取り除いて下さることを願う。

 さて、高校時代が過ぎ去ってだいぶ経った頃、クリスチャンでなかった友人や、クリスチャンを名のっていたにも関わらず、実は偽クリスチャンであった牧師や信者らの手によって、私の人生は滅茶苦茶に壊された。それは、神への愛と、人への愛が、私の中で、両立しなかった結果であった。
 もちろん、そこにあったのは、様々な人間関係であった。師弟関係あり、先輩後輩あり、信徒の交わりや、近所づきあいなども含まれていた。愛という名前でひとくくりにするには、あまりにも複雑な人間関係だったかも知れない。
 だが、人への愛(人への執着や、義理人情)は、いずれにせよ、私の人生を足元からひっくり返し、私を引き倒し、神の御前で取り返しのつかない大きな失敗を犯させた。その体験の最たるものが、カルト化教会での事件だった。

 そんなことがあったおかげで、以後、私は人を愛することに対して、極度に慎重になった。というよりも、人に対して徹底的に絶望させられたため、愛という感情そのものが、しばらくの間、私の中で、完全に死に絶えていたと言っても過言ではなかった。全ての人間関係を断ち切り、あらゆる人への未練を追い払い、ただ一人きりになり、神の愛と真実だけを求めるところから、挫折した私の信仰生活は再開した。

 その後、私のために色々な励ましをして下さる方も現れたが、それでも、人を愛することについて、未だ大きなためらいを私は持ち続けていた。キリスト者の人への愛のあり方はどうあるべきなのか? どうすれば、人への愛と、神への愛は対立しなくなるのか? 
 人に徹底的に絶望させられた私の中で、もう一度、人への優しい感情が甦ろうとするにつれて、これ以上、人の思惑に振り回されたり、人に欺かれるという失敗を繰り返してはならないという強い自戒の念がこみあげた。そこで、わずか二日ほど前、私を支援して下さったある方に、心からの好意と感謝を表しつつも、私は次のような内容を書き送った。

「全ての感情にまして、私は私を贖い出された主のものです。
私の夫は万軍の主なのです。世界中の夫族の中でも、とりわけ、嫉妬深い夫なのです。
私の愛を独占しなければ、気がすまないお方なのです。
私がどんなに愛しても、決して、満足することがなく、さらに私に愛と忠誠を求められるお方なのです。この方が、『おまえは私の聖なる妻(エクレシア)となったのだ、その立場を二度と忘れるな』と言われます。
ですから、私は夫の怒りが怖いので、今後、何があっても、誰とも『浮気』はいたしません。
生きるのも死ぬのも、ただ主のためです。 」

 二度と、神よりも人への感情を優先することはすまい。たとえ主の御名によって遣わされる兄弟姉妹であっても、神以上にその人を優先することはすまい、そう宣言したつもりであったが、それだけでも、神への愛を表すには、まだ不十分であった。そのことが、数日後、Sugarさんの記事「愛は分割されてはならない」を通して判明した。

主は私達が自分の愛する者や物を、完全に手放すように求めて
おられます。
神の要求は正に絶対的です。神はご自身の子供達の
愛情を、他の人やものが獲得することを少しも許すことが出来ません。

更に主は 私が『私流のやり方で』主を愛そうとすることを
願われません。神は私達が『神ご自身に従って』ただ神を愛すること
のみを願われます。こと愛については、主は私達が絶対的であることを
願われます。神はあなたの愛を独占したいのです!
主は本当に『ねたむ神』です。(出エジプト20の5)

非常に残念なことに、あるキリスト者達は『彼らが愛するものを
自由に愛し、また同時に主を愛することが出来る』と思っています。
彼らは、自分の愛するものを愛するのなら、同時に主を愛することは
不可能であると言う事実をまだ認識しておりません。

 これを読んだ時、主は私の心の弱さを隅々まで見透かしておられるのだろうか、と驚いた。人への愛を神への愛よりも優先しません、などという中途半端な言葉でお茶を濁している場合ではない。まずは、人へのあらゆる未練と執着を徹底的に断ち切り、自分の感情の全てを神へ捧げきるところから、キリスト者の歩みは始まるのだ。最初に、まず、それをしておかなければならない。

 私が愛するのは、主よ、あなただけです。地上のどんな人間も、天のどんな存在も、私の心を動かすことはできません。私の愛は人生最後の瞬間まで、ただあなただけのものです。
 主よ、私はあなたの他には誰一人、愛していません!! 私の愛はただあなただけのものなのです!!
 まずは、主の御前でそう告白する必要がある。

 だが、それでは、神お一人だけに全ての愛を捧げ切ってしまうなら、私たちはもう誰をも愛せなくなるのか? まるで修道院に入ったように、人を離れ、世俗を捨てて、余生を神だけに捧げる孤独な生活を送ることしか残されていないのか?という疑問が生じるかも知れない。
 そうではない。ここで逆説的な事件が起こる。一旦、私たちが自分の愛を完全に神に捧げてしまうと、神は私たちを神との一致の中に引きいれて下さり、そこで、聖別された愛を与えて下さり、神を出発点とする聖い愛によって、私たちが他人を愛することを改めて可能にして下さるのだ。そのことは、一つ前のSugarさんの記事「主に愛を捧げること」に記されている。

「私の手元に持っている愛が、神にだけ100パーセント献げられるので
あれば、私の元に 愛はもう1パーセントも残っていないことになります。
その時、神以外に献げる私の手持ちの愛は全くゼロです。ですから
私の愛の対象は全部神です。私は完全に神しか愛しません:
神は先ずこのことをキリスト者に求められます。

しかし、不思議なことですが、その時になって初めてキリスト者は
『他人を自分と同じように愛する』ことが出来る筈です。何故なら
その時あなたは自分自身を完全に離れ、ひたすら純粋に『神のために、
神の中で、神の愛によって』人を愛するようになるからです。」

 自分自身として人を愛そうと苦心している時には、人の愛には制限が生じる。好感の持てる人しか愛することはできない。自分にとって益となる人しか愛することができない。さらに、愛情の源となり、刺激の源となる自他の関係を何とかしてつなぎとめておきたいとの思いから、相手の存在への強い執着が生じる。別離が怖くなり、死などによって愛する相手を失うことへの恐れが生じる。

 しかし、愛情が、自分発のものから、神発のものへと変えられる時、私たちの愛情のあり方そのものが変わってくる。手に入れる⇔失う、出会う⇔別れる、という区別が消えて、私たちの愛はどんな出来事によっても、決して失われることのない永遠の絆へと変わっていく。

 目に見えないものが永遠に続くという聖書の言葉は、愛のことを指しているのではないかと私は思う。(何しろ、神は愛だからだ。)私たちが肉的な愛を捨てて、主の視点に立って被造物を愛するようになるとき、自分が永遠に主から愛されているように、他の人たちも主に愛されていることを知るようになる。すると、それまでのように、失うことを恐れ、誤解されることを恐れ、突き放されることを恐れ、嫌われることを恐れ、関係性が変化して失われることを恐れ、いつか別離によって相手を見ることができなくなることを恐れながら、その恐れと臆病さの中で、何とかして人を愛そうとしていた、その愛の臆病な制限が消えて、主にあって、大胆に、恐れなく、創造の不思議な御業を心から楽しみ、与えられた恵みを分かち合い、与えられた仲間と共に、永遠に、主を喜び、賛美するという愛のあり方が生まれてくるのではないだろうか。
「全き愛は恐れをなくす」ということは、そういうことを指しているのではないだろうかと思う。

 今ならば、私はこう言っても差し支えないだろう。神を愛することと、人を愛することは、もはや私の中で対立しないと。なぜならば、人を愛する愛は、私を出発点とするのでなく、神が与えて下さるものとなっているからだ。主がご自身の被造物をご覧になられ、それを愛され、祝福されるように、私が主にあるクリスチャンを見る時、そこには、ただ主の愛にならう愛があるだけなのだ。期限付きの地上の生の中に、自他との関係を何とかして永遠につなぎとめようとする時の、あの強烈な焦りや執着、未練はもはや生じない。

 そして、今はまだ難しいことであるが、神は敵への愛をも、きっと与えて下さることを信じる。肉なる私にとっては、ただ嫌悪することしかできないような相手にさえ、不思議な形で、愛することを可能として下さるのが、主であると信じる。
 神は愛なのだ。神にできないことはない。そして愛はすべてのとがを覆うのだから。


どんなに欺かれても…

KENTさんが記事に書いておられるので紹介します。

私たちはイエスキリストを最優先にしなければなりません。神を畏れない連中に騙され、欺かれたとしても、どうかガッカリせず嘆かないでください。希望を失わないでください。
たとえこの世の信仰に伴う環境がどんなに荒んでいたとしても私たちの希望と国籍は天国にあるのです。信仰の対象はイエスキリストただひとりであることを忘れないでほしい・・・、

また、カルト教会の膿の部分(堕落・腐敗)はまだ少ないと私は思うので、これ以上悪事がキリスト教界全体に行き渡ることが無いように、思慮のある健全な教会の牧師の皆さま方も注意を促していただきたいと思います。まちがっても彼らのような悪事を繰り返す牧師たちの集まりに交わることがないように・・・、

牧師やクリスチャンの皆様、あなたがたが真のキリストの柱であるなら何が重い罪で、何がいけないことであるのかわかるはずです。
最後に聖書の御言葉を二つ

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠とまた人を滅びと破滅に投げ入れる。愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することがあらゆる悪の根である。」(テモテⅠ6:9~10)
「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい」(ヘブル13:6)

金、名誉、地位、権力、快楽がこの世の幸福の条件とされるものであるが、これが得られたからといって幸福にはならない。金はこの中で最も魅力あるものだが、これを追い求めると、人生を狂わせ転落してしまう。」

 これは、牧師たちだけでなく、何よりも、カルト被害者に向けられた言葉です。キリスト教界で受け入れられなかった私のような人たちにも向けられている言葉です。どんなに周りに広がっている信仰の世界が殺伐としていても、どんなに人に欺かれても、どんなに人から冷たくあしらわれても、どんなに多くのものを失って、どんなに涙の日々を送ったとしても、どんなに孤独であったとしても、希望を失わず、私たちはイエス・キリストだけを見上げて、何度でも、立ち上がって進んで行きましょう。

「どんなに淋しい時でも どんなに悲しい時でも
イエスさまがいちばん イエスさまがいちばん

たとえそれが どんなばあいでも
イエスさまが いちばん
イエスさまが いちばん
だってイエスさまは 神さまだもの
だってイエスさまは 神さまだもの

どんなに泣きたい時でも どんなに叫びたくても
イエスさまがいちばん イエスさまがいちばん

どんなにいじわるされても
どんなに苦しめられても
イエスさまがいちばん イエスさまがいちばん…」

 子供の頃に覚えたこの賛美を思い出します。悲しんでいる方には、次の音楽の流れるページがきっと慰めになるのではないでしょうか…。

 人を狂わせるもの、それは自己愛です。
 目の欲、肉の欲、持ち物の誇り、金銭欲、権力欲…、これらはキリストにあって、すでに死に渡されているはずのものですが、クリスチャンの自己が死に切れなくなった時に、復活してくる欲望なのです。

 私たちはいつも思い出しましょう。私たちの自我そのものが、すでにキリストにあって死んだはずのものであることを。忘れないでおきましょう、私たちは全ての感情と、この世のものへのあらゆる執着に死んで、すでにキリストの花嫁として全身全霊を聖別され、召し出されていることを。

 たとえ貧しくて孤独な時に、心が寂しく、肉体が苦痛を覚えることがあったとしても、バプテスマを受け、召し出された以上、私たちは滅びに至る各種の欲望だけでなく、人への未練にも、愛情にも、憎悪にも、もはやとらわれていないのです。

 過去のどんな悲惨な事件にも、どんな失敗にもとらわれていません、孤独にも、悲しみにもとらわれていません、その代わりに、自分の正義にももはや死んでいるのです。自分で自分を裁くことさえ、必要ありません。全力で正義を実現しようと目指し、真実を訴えようと声を大に叫ぶことさえ、必要ありません。
 私たちに残されているのは、ただ、キリストを通して聖別されて、主と、そして、信仰の友なる者たちへ向けられる清い愛情なのです。憎しみはもうありません。恨みもありません。その清い愛をもって、互いに愛し合うことが、イエスが私たちにせよと命じられたことなのです。

 自ら傷つけた人と和解できる人は幸いです。しかし、たとえ和解できなくても、二度と会うこともない遠方にいる人であっても、キリストが私たちを愛されたその大いなる愛のゆえに、つらい過去を手放し、赦しましょう、愛しましょう。そうする力を主は望む者に必ず上から与えて下さると信じます。 


村上密師の提唱する「カルト監視機構」の底知れぬ危険性について②

村上氏から当ブログに行なわれた「誤報」という根拠なき非難についての反論の補足

(2016年補記: この記事は「東洋からの風の便り」の同タイトルの記事からの転載である。
 この記事の書かれたいきさつは次の通りである。

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が提唱したカルト監視機構という構想の持つ重大な危険性について、筆者は2009年6月3日に「カルト監視機構という名の秘密警察」という記事にて指摘した。

 村上密氏は、これに対する反論として、筆者の記事タイトル全文を剽窃する形で、「『カルト監視機構』という名の秘密警察」の誤報」という表題の記事を書き自身のブログに投稿した。

 このようなタイトルのつけ方自体、初めから検索結果の意図的操作を狙ったものであり、ネット工作員を思わせるようなセミプロ的な手法で、とてもではないが、通常の牧師の書く通常のブログのタイトルとは思えない。それだけでなく、同記事においてさらに村上氏は、筆者の著した警告記事の趣旨を曲げて、論点を逸らす形で、本題をすり替えて反論しているため、その姑息かつ卑劣な答弁の論法を以下で指摘したものである。

 なお、村上氏は筆者の当ブログにおける指摘があたかも根拠のない「創作」であるかのように主張しているが、その村上氏自身が、たとえば鳴尾教会で自身が義理の父と一緒になって引き起きた事件に関して、自らの責任を巧みに他人に転嫁し、他者に濡れ衣を着せる「創作物語」を、約14年以上にも渡り、主としてインターネットを中心に流布して来た張本人であることを書き添えておく。

 また、同氏はカルト監視機構の設立に失敗したが、その後、インターネットを中心に、自身の活動の支持者らを手先のように使って、自らの活動に賛意を示さない信者を迫害・中傷し続けて来た張本人である。
 
 この事件については、以下の記事を参照されたい。

――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~


罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか
――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による
多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――

 村上氏の活動はこのように絶えず他人を中傷しては濡れ衣を着せる形で、自分の責任を他者に転嫁して、保身をはかって来た人物であり、また、自分の活動への反対者には工作員信者などを送り込んで、徹底的に信頼関係を破壊して分断するという手法で、反対者を抑圧して来た。


 果たして、このような人物が正義の味方をつけて「カルト被害者救済活動」を率いるにふさわしい人物であるのかどうか、また、このような信用ならない人物が本当にカルト監視機構を設立し、プロテスタントの諸教会の覇権を握った暁にはどのような異常事態が持ち上がることになるか、クリスチャンは上記の記事を参照の上、改めてその危険性を再考されたい。)




 村上師が「誤報」という言葉を再三に渡って使っておられることについて思いをめぐらしながら、師が一体、何をおっしゃろうとされていたのかが、ようやく私なりに今日、理解できたように思いますので、今回はそのことについて、説明させていただきます。

 村上師のお言葉は、禅者のごとく、あまりにも短く、かつ深淵ですから、十分な説明を補わなければ一般人には理解できません。そこで、僭越ながら、ここで私が師の文章を改めて、通訳させていただくことをお許しください。

 「誤報」という言葉によって、村上師のおっしゃっておられることの真意はこうです、「真理のみことば伝道協会のホームページに掲載されている『カルト監視機構 設立へ』という記事は、2009年現在の情報ではなく、(恐らくは)数年前にアップロードされた記事なのである。にも関わらず、ヴィオロンはこの記事の掲載年月日をよく確認もせずに、この情報を2009年現在のものであると勝手に取り違え、その誤解を世間に広めることに貢献したのだ」ということなのです。これはあくまで私の想像なのですが。

 「あなたは年月日を確認しないで飛び付き、『再び稼働した』と思い込んだのです。」

 村上師の書かれたこの短い文章は、上記の意味で用いられていると私は解釈しました。そうすることによって、村上師のおっしゃりたいことが、ようやく今、私には理解できたと言えるでしょう。

 残念なことです、村上師のおっしゃっておられるお言葉にそれほどまでの深い意味があると、私がもう少し早く気づくことができなかったことは…。しかしながら、弁明させていただければ、当該記事が、正確にいつの時点で発信された情報であるのか、それを私が知り得る方法はございませんでした。
 その理由は、真理のみことば伝道協会のカルト関連ニュースの当該記事には、その記事が執筆された「年月日」そのものが記載されていないためです。従って、真理のみことば伝道協会のホームページを何年間にも渡って詳細に観察し続けてきたような人を除いては、あの記事が執筆された「年月日」を正確に把握することは無理なのです。「確認」せよと求められても、記載されていない「年月日」をどうやって把握できるのでしょうか。

 年月日が書かれていない以上、私がそれを確認しなかったのではなく、正確な年月日の確認そのものが不可能だったのだと言う他はありません。
 確かに、ニュースのバックナンバーに詳細に目を通すならば、当該記事(41号)は最終号から時間を過去にさかのぼるものだと推測することは可能でしょう。しかしながら、一人ひとりの読者が、バックナンバーの詳細に全て目を通してからでなければ、一つの記事も論じるべきでないとまで求めるのは無理ではないでしょうか。しかも、たとえバックナンバーの詳細に全て目を通したとしても、そこから、当該記事の書かれた正確な年月日が判明するわけではなく、また、カルト監視機構設立の計画が中止されたことが他の記事を通して分かるわけでもないのです。

 さらに、私が「カルト監視機構、設立へ」という記事の情報をいかにして知ったかをもう一度、説明したいと思います。私が記事を書いた当時、アッセンブリー京都教会の関連HP(宗教トラブル相談センター)のリンク集から、「カルト監視機構、設立へ」という短い文章と共に、当該記事へのリンクが直接貼られていました。(現時点ではこのリンクは削除されています。)

 こうして、京都教会宗教トラブル相談センター側は、前後関係の説明を一切、抜きにして、ただ「カルト監視機構、設立へ」という記事だけを一方的に紹介していたのです。記事の中には、すでに述べたように、その情報がいつのものなのか正確な記載がありませんし、まして、その計画は現時点では中止されている、または実現せずに終わった旨の補足説明もありません。ですから、その説明を読んだ読者が、京都教会宗教トラブル相談センター発の情報を全面的に信用するがゆえに、真理のみことば伝道協会の記事を、現時点での生きた情報であると「誤解」し、まさかそれがとうに過ぎ去った計画であり、しかも現時点では中止されている計画なのだとは夢にも思わず、「監視機構がいよいよ設立されようとしているのだな、だからこそ、京都教会はこうして報道しているのだな」という印象を抱いたとしても、それはまさに当然の結果なのです。

 このように、誤解をあらかじめ防止する手段を何もとらないままで、一方的な形で情報を発信しておきながら、それに基づいて、カルト監視機構の計画が今尚、生きている(中止されたが、再び設立に向けて動き出した)と理解した読者を非難するのは間違っています。

 さらに、読者の誤解を招きかねない状況は他にもありましたので、申し上げておきます。それは村上師自身が、カルト監視機構の設立を決して断念しておられないこと、設立が早急に求められていることを、最近の記事の中で、再三に渡って書いておられることです。

 2008年7月28日の記事「カルト予防対策」の中で師はこう書いておられます、「ウィリアム・ウッド師と「カルト監視機構」の設立のため、各方面に働きかけたことがあります。人員が集まらず実現しませんでした。1つのカルト団体を相手にするのではなく、全てのカルトを相手にするのですから、生命を危険にさらします。前方だけでなく、四方八方から攻撃を受けます。資金豊富なカルト団体から、名誉毀損で訴訟を起こされるでしょう。それでも私たちは必要だと思い行動を起こしました。本当に必要な働きですから、将来実現するでしょう。」

 さらに、本年2009年度に入ってからも、師は2月12日に「教会の緊急事態」の中で再び書いておられます、「キリスト教界のモラル・ハザード(倫理の欠如)は「キリスト教会のカルト化」と関連しています。「カルト監視機構」のような機関を設置し、倫理委員会、調査委員会、資料コーナー、相談コーナー、予防啓発活動等に取り組む時が来ているように思います。

 こうして、村上師は昨年から、早急にカルト監視機構を設立する必要性を幾度も訴えて来られましたし、またその実現が成就することを強く確信しておられることを明言なさっています。ですから、その文面を読めば、再び計画が稼動する日が近々、来るだろうと読者が予想するのは当然ですね。そのような文脈の中で、年月日が不確かなまま発信されている情報があれば、計画が今まさに再稼動したものとして理解する「軽率な」人間が現れても、仕方がないのではないでしょうか。

 アッセンブリー京都教会宗教トラブル相談センターの側に、今回、カルト監視機構をめぐる報道において、読者の誤解を招かないだけの十分な配慮があったとは私には思えません。確認するための明確な方法が与えられていなかったものを、確認する責任が私にあったと申し上げることはできません。

 しかしながら、全ての情報を疑うことを教えられてきた者として、文字に記されていない言外の情報をも探り出すのが私の義務であったとおっしゃられるならば、その非難には耳を貸し、今後、言外の情報を汲み取るべくより慎重に情報を吟味することにいたしましょう。
 しかしながら、文字によって明確に記されてもいない文脈をたった一つの短い記事から汲み取るような離れ技を一般の読者に求められても、それは無理というものですから、今回は、一般の読者の誤解を招くような形で、記事を案内した側に、大きな責任があったことは明白でしょう。

 もしも村上師が、カルト監視機構が今、設立へ向けて動きつつあるという「誤解」をこれ以上、招きたくないとおっしゃるのであれば、私は、早急に当該記事を削除するか、もしくは設立計画がすでに中止されている旨の補足的訂正を入れること、そして、カルト監視機構の設立を断念された旨を、村上師自身が、はっきりとお書きになることをお勧めいたします。

 村上師自身が、もしもカルト監視機構の設立を断念されるおつもりがないのであれば、やはり、計画は近いうちに再び実現に向けて動き出すだろうと読者は予測し、その計画の進行を注意深く見守り、関連する情報があれば、論じ合い、様々な議論が今後も、生まれることでしょう。その中には、賛成だけでなく、反対意見も当然ながら、含まれていることでしょう。

 そして、どうぞお考え下さい。まだ設立もされていないカルト監視機構について、平和的手段を用いて批判しただけの私が、こうしてネット上で、村上師から人格を貶める表現を用いて、非難されねばならないのであれば、今後、村上師とカルト監視機構に反対する者は、みな、私と同様の命運を辿るのだと、どうして人は思わずにいられるでしょうか。

 村上師が今、行っておられる私への非難は、世間では、反対者を黙らせるための、一種の見せしめだと理解されていることでしょう。そして、実際に、それだけの効果を持っています。
 Dr.Lukeのように実名を公開されている勇気ある人はクリスチャンの中には少ないですし、私のように、教団の負の側面を見てきたがゆえに、村上師から公然と非難されても構わないとまで覚悟を決めている人も少ないでしょう。ですから、名指しで非難されたくない他の人々は、村上師の文章を読めば、皆、どんなに反対意見があったとしても、黙らざるを得なくなるのです。そのようにして、村上師は、カルト監視機構を批判する人間を、全員、私と同じように、今後、一人ひとり、名指しで非難していき、そのことによって、クリスチャンの世論を恐怖によって封じ込めることがねらいなのでしょうか? そのような懸念が生じても仕方がありません。

 特に、私は牧師でもなく説教者でもなく、すでにアッセンブリーとも関わりのない、教界に所属してすらいない一信徒です。にも関わらず、教団の枠組を超えて、たとえ無所属の平信徒であっても、こうして計画に反対する者がいれば、誰でも、幼稚な人間として、非難や断罪の対象とされるのだとすれば、人々はやはりその計画そのものに恐怖を抱かずにはいられないでしょう。現時点で、村上師がご自分の計画に反対する者の意見に冷静に耳を貸したり、その批判を許しておくことがおできにならないのであれば、師が率先してカルト監視機構を設立なさったあかつきには、どれだけの人数の反対者に対して、どれほど恐ろしい処置が取られるのだろうかと、私のみならず、多くの人が心配したとしても不思議ではありません。今とは比較にならない大規模で、ネットやその他の場所で、公然と人格を傷つけるような表現を用いて、反対者がつるし上げを食らうことになるのではないのか。そのような危惧あればこそ、私はこれまでに、カルト監視機構という計画そのものに大きな危険性があることを訴えて来たのです。

 今、起こっていることを通して、私たちは未来を予測します。今、起こっていることを見れば、私がこれまで申し上げてきたカルト監視機構の危険性が、決して、大袈裟な表現でも、杞憂でもなかったことが、世間にはすでに明らかになっているものと思います。

 どうぞもう少し心を鎮められて、今後の展望をよくお考え下さいますように。村上師が望んでおられるのは、カルトを防止するために役立つ活動であり、カルト監視機構や、ご自分の計画に反対する者を非難によってつるし上げることではなかったはずです。師の計画がもしも平和的なものであるならば、憤りを捨てて、異なる意見の者とも、粘り強い平和的な対話の道を開かれるようにと願います。

 恐らく、私がここで申し上げていることは、村上師から見れば、どれも、私が責任を逃れるために考え出した稚拙な言い訳、もしくは、見苦しい強弁としか理解されない可能性があると想像します。しかしながら、もしも十分な前後関係の説明が全くなされておらず、正確な判断に必要な材料も与えられていない情報をそのまま受け取って理解した者が、その「誤解」ゆえに非難されなければならないのだとすれば、村上師の方でも、どれほど今までに多くの誤った情報を発信したことについて、もしくは正しい情報を発信しなかったことについて、重大な訂正や反省を求められてしかるべきでしょうか。

 私がずっと証拠を挙げて書いてきた一連の疑惑に対して、師はどれ一つを取っても、明確な説明をなさっておられません。師が理事として密室で行われたN教会での伝道師たちへの不当な処遇について、そしてそれを本質的原因として生じたN教会の騒動についての信徒への説明責任の欠如について、アッセンブリー教団内での師による十分な情報公開抜きの異端の取り締まり方法の問題性について、また、私がご相談申し上げたカルト被害の問題が何一つ、京都教会で解決されなかった問題について、私の京都教会への転会希望が最終的に受け入れられなかった問題について、カルト被害者の面目を辱めるような形で、京都教会が偽預言者をゲストに招いたことについて…、これら一連の疑惑は、全て私の「創作」であるとお考えであるがゆえに、全く取り合っておられないのでしょうか?

 もしもそれらが私の誤解の上に成り立つ事実誤認に過ぎないのであれば、事実関係を明確にすることによって、村上師は一連の疑惑を容易に晴らし、私の「創作」をきっぱり退けることがおできになると思います。

 さらに、村上師は、今でも事実確認の努力をせずに、ただ誤解の上に立って、私やLuke氏のイメージを歪め、人格や名誉を貶める表現を多用して、誤った情報を世間に広めておられます。そのことについて、私はすでにいくつかの反駁を申し上げましたが、師の側では何の訂正も謝罪もなさっておられません。そのような事柄は、「誤報」には該当しないとお考えなのでしょうか?

 命懸けで悪人を成敗する正義の味方として自己演出することよりも、私たちにとって大切なのは、キリストの僕として、自らが率先して、謙り、人に仕える姿勢をとり、傷つけた人間と和解する努力を惜しまないことです。その姿勢がなければ、キリスト者は、その信仰によって、世間の人々の心を動かすことは決してできません。特に、牧者は、人を非難し、断罪し、排除するのではなく、人とキリストの身体としての関係性を養い、育て上げることをその職務としています。私たちの神は人に平和と和解をもたらす神であるはずです。

 これまでのいきさつを考えると、アッセンブリー教団と私との間には、歴史的に、超えがたい溝が出来ているように思いますが、それでも、神にできないことはありません。もしも村上師が私との和解を希望されるならば、喜んで、和解いたしましょう。しかし、和解とは、自己のみを正義とし、一方的に他者だけを断罪する関係においてなされるものではありません。キリストの前で、クリスチャンは全て己の正義に死んだはずの者ですから、その道に生きている者にとっては、自己の正義を捨てることは難しくないでしょう。師がそのように和解の貴さを理解しておられる真の牧者であられ、私たちが神の御前に、互いを訴えあうのでない健やかな関係において立てる日が来ることを願います。

 では、主にあって、どうか村上師が早く魂の平安を得られますようにと祈りつつ。


我が街倉敷に寄せて


  正確に言うと、今、私が住んでいるのは倉敷市ではない。だが、かつて幼い頃、私はこの街で暮らしたことがあった。この街の見所は、よく知られているように、美観地区に立ち並ぶ倉(蔵)屋敷であり、有名な観光スポットにもなっている。

 十数年以上前、この倉敷市にチボリ公園を建設する計画が持ち上がった。当時、それを聞いて私は心の中で首をかしげたものだ。すでに全国に誇れる歴史的名所があるというのに、どうしてそれを差し置いてまで、何の文化的ルーツも持たない、ただの外国のモノ真似のようなハコモノ建設計画を進めるのか。
 その頃、私は関西に住んでいたが、幼い頃に、記憶に刻み付けられた街の思い出を壊されるようで、不快だったのを覚えている。

 だが、建設は進められ、テーマパークは駅からすぐに見えるところに建設された。JR倉敷駅のプラットホームには、倉屋敷の模様がデザインされているが、その和の趣と、おとぎ話から抜け出たような洋風の城の尖塔が、まことにちぐはぐな印象を醸し出している。

 案の定、チボリ公園はたった11年で採算が取れなくなり、閉鎖された。建設に使われた莫大な費用は、ただ借金となって県の財政に残ったのだろうか。もちろん、チボリ公園で散策を楽しんで、それが記念になったという人も沢山いただろうが、それにしても、風に吹きさらわれるもみがらのように、はかなく消えていった愚かな計画であった。他方、歴史ある倉屋敷の方は、今でも夕涼みに人々が楽しく散歩し、静かな観光名所として続いている。

 今、私はこの街を歩きながら、幼い頃に見た風景を一つ一つ、思い出している。アイビーガーデンの壁は、私にクレムリンの城壁を思い出させる。もう10年近くも前になるが、モスクワの赤の広場から、川にそって、どこまでも続く長い城壁の下をよく歩いたものだ。その時、どこかで見た風景だと思ったのは、この壁を思い出していたのだろうか。煉瓦の壁は、キエフの大門をも髣髴とさせる。

 かつて、この街に住んでいた頃、私の記憶にはまだ何の悲しみもなかった。それが私の人生で、最も純粋無垢で、楽しかった時代かも知れない。キリスト教界のドグマティズムも、まだ私の生活に入り込んでいなかった。近所の子供たちと、広い田畑を駆け回り、喧嘩をし、毎日、疲れ切るまで、夢いっぱいに遊んで過ごした。

 今、街を歩きながら、私は人生の敗残者かも知れないなあと、思い巡らすことがある。「故郷に錦の御旗を飾る」どころか、まさか、こんな風にして、手ぶらで街に戻って来ようとは、考えたこともなかった。田舎にはいつも世間の動向の波が遅れて届く。この土地に多く暮らす裕福なお年寄りたちは、失業や不況にあえいだことがないので、若者の苦労を知らない。そこで、時に、思い切り残酷な言葉を投げかけられることもある。

 先行きが見えない時代になった。私が最近、どのようにして死を迎えるかということばかり考え続けているのも、きっとそんな状況が影響してのことだろう。人間らしく生きるために必要な希望が手に入らないので、自分の手でコントロールできる、残されたただ一つのものが、死なのだ。
 キリスト者として、尊厳に満ちた死に方ができれば良い、そのことで、少しでも主をお喜ばせできれば良いということが、心の支えになっているのだ。我ながら、不健全であると思う…。

 マイホームを築き、子供を育て、希望ある未来を思い描いて、懸命に働くべき世代が、こうして、社会から外側にはじき出されてしまった。正規雇用の道から一旦はずれた人々が、二度とそこへは戻れなくなるような社会の仕組みの中で、それまで人々を守るために作られてきたはずの様々な制度が、逆に、人々を疎外するものへと変わった。
 システムが、人を守るためのものから、人を食らい、排除するためのものに変わった。このシステムの下で、あまりにも多くの人々が押しつぶされ、呻吟している。そこで、やがてこのシステムそのものを破壊しようとして立ち上がる人々が現れるのは避けられないだろう。革命的な混乱の時代がやって来る足音が聞こえるような気がする。

 伝統的に続いてきた文化をこそ守らなければならない。昔ながらの暮しを守らなければならない。なのに、一攫千金の夢を見る者たちが、砂上の楼閣を打ち立てるために、湯水のように金を使い、伝統を破壊してしまった。そのために、社会の様々な組織が、鬼のように人を食らっては、バブルのようにはじけ飛ぶものとなり、人を成長させるための基盤が根こそぎ消えてしまった。キリスト教界も然りである。

 打ち捨てられた世代はどこへ行けば良いのか。今、私の属する世代は、社会の中で食い物にされる以外、ほとんど行き場を失いつつある。ある者は派遣の地獄の中ですり減らされ、ある者は引きこもりとなり、ある者は私のように死に様を思い巡らしながら、街を歩き、最後の生命の糸をつないでいる。運良く家庭を築き、安定した生活を送っている人でも、将来の事を考えると、きっと不安が絶えないだろう。はっきり言って、この社会はもう、私のような人々にとって、生きていたいと思える魅力を失っている。未来が今よりも良くなるという見込みを私はほとんど抱けない。

 「時が良くても、悪くても、しっかりやりなさい。」
 弱気になる時、聖書の言葉が私を励ます。もしも、主によって注がれる愛がなければ、生きてはいられないだろう。こうして、多くの人に支えられ、励ましを受けている恵まれたキリスト者の私にさえ、他者の幸福な人生のニュースが、時折、鋭い矢のように胸に突き刺さることがあるのだ。いつまでこんな時代が続くのか…。そして、出口が見えないまま、さらなる混乱の中へと社会は突入してくのか…。私たちは最後まで、置き去りにされたままなのか…。殺伐とした暮しの中で、人間性を失う人々が続出するのは全く理解できないことではない。

 だが、主は一人ひとりの悩み苦しみを確かに知っておられる。そして人の弱さを覚えておられる。耐えられないような試練を主は人に与えられない。システムには頼れないことが分かった今だからこそ、悔しい時、泣きたい時は、人のもとへ行くのではなく、キリストの懐に駆け込むことができる。
 主よ、あなたの花嫁を迎えに来て下さい、混乱の中に置き去りにしないで下さい、主よ、私はここにおります。あなたが頼りなのです、主よ、来たりませ。そう祈りたい。

 「わたしに喜びと楽しみとを満たし、
 あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
 み顔をわたしの罪から隠し、
 わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
 神よ、わたしのために清い心をつくり、
 わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
 わたしをみ前から捨てないでください。
 あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
 あなたの救の喜びをわたしに返し、
 自由の霊をもって、わたしをささえてください。
 そうすればわたしは、とがを犯した者に、
 あなたの道を教え、
 罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。<…>
 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
 神よ、あなたは砕けた悔いた心を
 かろしめられません。」(詩篇51:8-13,17) 

 故郷の馴染み深い風景が、主の愛と共に、私の傷ついた心を黙って優しく包んでいる。


恐れからの解放

 退屈になると、バイクを飛ばして道を走る。
 川べりの土手を走ると、山からの冷たい空気が降りて来て、心地よい。
 冬は恐ろしく寒いが、今の季節は快い。
 飛ぶように、滑るように走るバイクが、私はとても好きだ。

 今日は、走りながら、ヘルメットの中で叫んだ。
「主イエス・キリストの御名によって、私を束縛する全ての枷を打ち砕きます! 
 私を閉じ込める『水槽』からの完全な解放を宣言します! 私は完全にあがなわれ、健やかさの中に入れられたことを信じます!」と。

 さて、「水槽」とは何なのか。
 少し前まで、我が家では魚を飼っていた。小さな水槽に、初めは5匹の稚魚がいたのだが、日が経つにつれて、一匹減り、二匹減り、ついに最後の一匹だけ残った。
 だが、最後の一匹もついにある日、死んでしまった。(餌はちゃんとやっていた。)

「孤独死したんでしょう」、と母が言った。それを聞いて、私はぎょっとした。
 魚が、孤独死することなんてあるのか!?と思ったからだ。

 私は今でも、読むとどうしても笑わずにいられない聖書の箇所がある。
 ホセア書第4章の冒頭だ。

「イスラエルの人々よ、
 主の言葉を聞け。
 主はこの地に住む者と争われる。
 この地には真実がなく、愛情がなく、
 また神を知ることもないからである。
 ただのろいと、偽りと、人殺しと、
 盗みと、姦淫することのみで、
 人々は皆荒れ狂い、
 殺害に殺害が続いている。
 それゆえ、この地は嘆き、これに住む者はみな、
 野の獣も空の鳥も共に衰え、
 海の魚さえも絶え果てる
。」

 これは少しも笑い事ではない、実に深刻な聖句なのだが、私にとっては可笑しく思われる。人類の罪のために、空を飛ぶ鳥さえもやせ衰え、海の魚さえ死に絶えるというこの聖句は、比喩なのだろうか、それとも、事実なのだろうか?

 人類の身勝手で放埓な生活ゆえに生じた環境汚染の挙句、鳥や魚が死ぬというのなら、まだ話は分かる。だが、ホセア書の書かれた時代に、そのような問題はなかったのではないだろうか。

 すると、どういう因果関係があって、獣と鳥と魚が人類の罪の被害をこうむって弱り果てねばならないのか、考えると不明なのだ。

 きっと、鳥も魚も、言葉を使わず、人間のような知性を持たないが、どこかでちゃんと、この世の中がどうなっているか理解しているのだろう。そして、あまりにも人々が乱れきったひどい生活をするようになると、とても見るに忍びず、愛想を尽かし、嘆き、苦悶し、絶望して、自ら世を去っていくのではあるまいか…。

 年間の自殺者約三万人、という今の日本。国民さえも愛想を尽かして世を去って行くこの国に、果たして、魚と鳥が住みたいと願うだろうか。
 
   刺激のない小さな水槽に閉じ込められた魚が長生きしないように、人が健全に生きるためには、それなりの環境が必要となる。

 だが、私にとって、物心ついた時から、周りに広がっている環境は、あまりにも生きづらいものであった。 
 そのほとんどの責任は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にある。
 私は当時、この教団と教会で教えられている内容を偽りだと知らず、その中で希望のない信仰生活を送らされていたのである。

 さらに、世の情勢の悪化がそれに追い打ちをかけた。

 かつてこの国には、一生懸命、勉強し、働けば、人並みの人生をきっと生きられるというビジョンがあった。だが、私が社会に出る頃には、そのビジョンは崩れており、今現在は、もうこの国ではかつてのような生活は成り立たず、どれだけ多くの人々が追い詰められ、夢を奪われているであろうか?

 宗教の欺瞞。世の欺瞞。
 私は、そうした環境の腐敗のために、自分が弱り果てて行くように感じていた時期があった。
 かろうじて命をつないでいたあの小さな水槽の魚と同じように。
 
 だが、その中で、一体、まことの神はどこにおられ、この現状をどう見ておられるのかと、叫び求めるようにして、神からの応答を待った。

 私たち一家がかつて通っていたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を含めたキリスト教界全体は、世の絶望に向かう環境の中で信者がどう生きるべきか、全く希望を与えなかった。
 それどころか、背教がはびこり、多くの信者が願いを打ち砕かれ、迷いの中に投げ出された。
 牧師に信者を依存させるだけのキリスト教界の中にいては、真理は決して得られないのだと分かったのは、少し後のことである。

 だが、ようやくそれが分かってキリスト教界を出た後でさえ、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師とその支持者たちは、この教団に長きに渡り、少なからぬ奉仕をして貢献してきたはずの私や、私の家族に敵対した。
 彼らは何とかして信者を本物の信仰に至らせまいと、私たちに対しても盛んに妨害工作をしかけ、悪魔に加勢する側に回った。
 
 村上密牧師は、その他にも、多数のキリスト教会に裁判を仕かける側に回り、無実のキリスト教徒に濡れ衣を着せて教団から追放し、ただでさえ背教がはびこり、多くの信者が苦しんでいたキリスト教界に、光を与えるどころか、徹底的な打撃を加えた。
 
 まさに悪魔の所業としか言いようがない、キリストの似姿からはほど遠い、人間の心さえも失った、無慈悲な連中である。長年、教団に奉仕した人間にさえ、礼節を忘れ、容赦なく戦いを挑む、もはや信者と呼ぶに値しない、堕落した生まれながらの獣のような人間の姿そのものである。

 こうした人々に率いられる、世に打ち勝つ力を全く持たない偽りの教会の中にいて、そこで自分を神のように見せかけている指導者たちを本物の信仰者だと思い込み、彼らの身勝手な言い分に従おうと無駄な努力しているうちは、信者はそこに絶望しか見いだすことはできないであろう。

 このような腐敗した「水槽」を早く脱出して、信者はまことの神を探し求めねばならないのである。

 今日、「健やかさの追求」というメッセージを、再生と停止を繰り返しながら聞いているうちに、私はだんだん無性に腹が立ってきた。
 
 こんな「水槽」のために何年間、無駄な我慢を強いられて来たことであろうか。
 こんなもののために弱り果てねばならないと、聖書のどこに書いてあるのか。
 そんなことは聖書のどこにも書いていない!!

 むしろ、聖書はイエスの十字架によって、私が完全に罪と呪いから解放されたことを告げているではないか。

 私はどうしようもない憤りを感じた。
 私を長年に渡って縛り続けて来たこの虚偽に対して。
  
 そこで、イエスの御名によって、水槽に死を宣言することにした。
 私の信仰が本物ならば、いちじくの木が立ち枯れたように、この水槽も粉々に砕け散るだろう。

 水槽が壊れ、水がなくなったら、魚はどうやって生きていくのだろう?
 いや、そんな人工的な装置はもう要らないのだ。
  
 私自身が、いや、私のうちにおられる主こそ、豊かな水の源なのだから。
 バプテスマに浸され、死んだ私は、神の命の中に隠されて生きている。

 体中管だらけにされて、延命治療を受けさせられるかのように、キリストご自身に直結せず、偽物に信者を縛りつけるだけの偽物の生命装置としての水槽には、もう用はない。

 キリスト教界を脱出しなさい!
 牧師やリーダーや教師たちから離れなさい! 
 救済者や、助言者を名乗って、あなたに近づいて来る、優しそうな人々に、
 これ以上騙され、束縛され、栄光を奪われてはいけません。
 
 彼らの正体を見抜き、これを糾弾し、離れなさい。
 神の御言葉を売り物にして商売している人々に決して近づいてはいけません。

 キリストとエクレシアの偽物でしかない人工装置としての「水槽」によって生かされるのをやめて、まことの神ご自身にしっかりとつながって、キリストご自身から命と、栄養をいただいて生かされなさい!

 神はすべての損害から人々を立ち上がらせて下さることができる。
 
 たとえ現在の日本に、野の鳥も衰え、川の魚も死ぬほどに、ひどい環境が広がっているように見えたとしても、たとえキリスト教界がどれほどの暗闇に覆われており、背教が広がり、バクテリアさえ死を願うだろうほどに厭わしい環境がこの国を覆っているのだとしても、キリスト者の望みは尽きることがない。それを変えてくださる力は、主にある。

 人にはできないことでも、神にはできるのだ。
 
「『主は言われる。この地のすべての民よ、勇気を出せ。働け。
 わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。
 これはあなたがたがエジプトから出た時、わたしがあなたがたに約束した言葉である。
 わたしの霊が、あなたがたのうちに宿っている。恐れるな。
 万軍の主はこう言われる、しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、
 かわいた地とを震う。
 わたしはまた万国民を震う。
 万国民の財宝は、はいって来て、わたしは栄光をこの家に満たすと、万軍の主は言われる。
 銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。
 主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。
 わたしはこの所に繁栄を与えると、万軍の主は言われる』」(ハガイ2:4-9)

 荒れ果てた主の家を再建した人々に与えられたこの御言葉は、私に与えられたものでもある。たとえキリスト教界を偽りが覆い、多くの信者たちが迷い、疲れ果てているとしても、荒れ果てた神の宮を再興する使命が、私に与えられたのだ。

 私はギデオンのように、最も困難に直面して途方に暮れているかのように思われる瞬間に、「勇者よ」と呼びかけられて、立ち上がったのである。

 「私に従って来なさい」
 主は繰り返される。

 「私に従って来なさい。あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」

 神学校などに行って献身するからではない。
 神ご自身が、御霊によって見えない証印を押して、私の背中を押して、言われるのだ。

 「全世界に出て行って、全ての造られた者に福音を伝えなさい。キリストの勝利と、悪魔の敗北を、神の国の到来を告げ知らせなさい・・・」
 
 もうこれ以上、偽りにごまかされるのはやめよう。
 牧師などというものは要らないのだ。
 どんなに救済者然と登場して来る指導者も要らない。
  
 キリストが私の内に住んで下さり、神が我が味方なのである。我が避けどころであられる主が、私をあがなわれ、祝福しておられ、すべての弱さを強さで覆い、恥を名誉に変え、悲しみを喜びに変えると言われているのだ。

 貧困や、破滅や、死に絶え間なく脅かされ、世の思惑、人間の指導者の思惑に縛られ、脅かされるような人生はもう終わりである。
 乳と蜜の流れる土地、キリストの命溢れるまことのエルサレムに、神の国の秩序の只中に、信者は入れられているのだ。 

 主は言われる、神の国はあなた方の只中に来ている、と。
 だから、全ての恐れと不安に、さよならを宣言し、神が信ずる者のために天に蓄えて下さった豊かな命の中を生きよう。

 弱って衰えたひざをまっすぐにして立ち上がり、喜びと感謝の歌を歌いながら、歩いて行くのである。天の都へ向かって。
 
「シオンの娘よ、喜び歌え。
 イスラエルよ、喜び呼ばわれ、
 エルサレムの娘よ、心のかぎり喜び楽しめ。
 主はあなたを訴える者を取り去り、
 あなたの敵を追い払われた。
 イスラエルの王なる主はあなたのうちにいます。 
 あなたはもはや災いを恐れることはない。<…>

『シオンよ、恐れるな。
 あなたの手を弱々しくたれるな。
 あなたの神、主はあなたのうちにいまし、
 勇士であって、勝利を与えられる。
 彼はあなたのために喜び楽しみ、
 その愛によってあなたを新にし、
 祭りの日のようにあなたのために喜び呼ばわられる』。

『わたしはあなたから悩みを取り去る。
 あなたは恥を受けることはない。
 見よ、その時あなたをしえたげる者を
 わたしはことごとく処分し、
 足なえを救い、追いやられた者を集め、
 彼らの恥を誉れにかえ、
 全地にほめられるようにする。<…>
 わたしがあなたがたの目の前に、
 あなたがたの幸福を回復するとき、
 地のすべての民の中で、
 あなたがたに名を得させ、誉を得させる』と
 主は言われる。」(ゼパニヤ3:14-20)

 何と素晴らしく勇気づけられる御言葉だろう! 何ととてつもなく大きな勝利だろうか!

 主よ、私はあなたの御約束を信じます。あなたの私へのとこしえに変わらない愛を信じます。私をあがない出して下さり、御国へと導いて下さるあなたが、この世においても、私を良きもので飽き足らせて下さることを信じます。

 私は災いを恐れず、二度と孤独になることもありません。どんな状況にあっても、あなたが共にいて下さり、すべての必要を満たして下さるからです。
 主イエスよ、我が神よ、あなたに感謝を捧げ、あなたの偉大な御名を誉めたたえます。


谷川の流れを慕う鹿のように

神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、
 わが魂もあなたを慕いあえぐ。
 わが魂はかわいているように神を慕い、
 いける神を慕う。

 いつ、わたしは行って神のみ顔を
 見ることができるだろうか。
 人々がひねもすわたしにむかって
 『おまえの神はどこにいるのか』と言いつづける間は
 わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。

 わたしはかつて祭を守る多くの人と共に
 群れをなして行き、
 喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。
 今これらの事を思い起して、
 わが魂をそそぎ出すのである。

 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。
 何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。
 神を待ち望め。
 わたしはなおわが助け、
 わが神なる主をほめたたえるであろう。(詩篇42:1-5)

* * *
 
 「谷川の流れを慕う鹿のように…」、この賛美をよく友人と歌った。友人が外国にいた時、私が彼がギターで演奏できるようにと、この曲のコード表を作って、メールで送ったこともあった。共にこの賛美を人々の前で歌った。友人は声のきれいな人で、「永遠の都エルサレム」も、人前でよく歌ったものだ。
 だが、この友人は、あまりにも悲しい事件のために、もう私のそばにはいない。彼から送られた何百という手紙が、私の手元に残っているが、生きて二度と声を聞くことはないであろう。

 主は、孤独になった私のために、別の友人たちを備えて下さった。初めのうちは分からなかったが、それは、友人よりももっと深い絆で結ばれた兄弟姉妹であった。「互いに愛し合いなさい」と言われた主は、私が孤独のうちに暮らすことをお望みにならなかった。まだ直接、会ったことのない人々の中にも、私の兄弟姉妹がおられることが分かっている。この方々にお会いできる日を、私は待ち望んでいる。

 考えたこともなかった。たとえ一度も、会ったことがなくとも、あるいは、一度しか会ったことがなくとも、まさかこれほどの愛情を抱くことができるとは。想像もしていなかった。こんなにも遠く離れた地に住み、言葉を交わす機会さえ奪われていながら、これほどまでの愛と慈しみの絆によって、人と人とが結ばれることができるとは。

 こんなことができるのは、主よ、あなただけです。主が私のために、決して失われることのない心の友を与えて下さったことに、私はどれほど感謝しているでしょう。けれども、こうして与えられた宝である生きた友人のすべてにまさって、私の心は、恵みの源であるあなたに向けられ、あなたを愛し、あなたを慕ってやみません。

 厭世的な世界観はとうに捨てました。絶望の日々は過ぎ去りました。私は日々与えられる恵みと祝福を喜んで受け取っています。それでも、あなたの御許へ行き、あなたの御顔を拝することができるその日を、私の心は求めてやまないのです…。

 主よ、人とは何者なのでしょうか。完全であられるあなたが、このように低く惨めな者をお求めになるとは。何と不思議なことでしょうか、この私が、あなたに求められているとは。どんな光栄を賜って、私があなたの御用に携わることができるのでしょうか。
 主よ、人とは何者なのでしょうか。あなたがこれに目を留められるとは…。