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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

反キリストを告発するビデオ(前編)

「偽キリスト」(前編)




(ビデオの所在地が変わったため、Youtubeへリンクを貼っています。)

注意!!

 これはクリスチャンにとって、大変、衝撃的かつ忌まわしい内容を含んでいますので、ご視聴の際は、ご気分が悪くなる危険があります。十分にご注意下さい。

 ここには、ベニー・ヒン、ケネス・ヘーゲン、ケネス・コープランド、シンディ・ジェイコブズなど、日本の聖霊派の諸教会が大きく影響を受けたペンテコステ運動の並み居る指導者たちが、近年、あからさまに偽キリストとしての正体を現している衝撃的な映像が、発言とともに、証拠としておさめられています。

 これは"「目に塗る目薬」というサイトから引用させていただいたものです。従って、字幕は全てロシア語ですが、英語の台詞が多いので、聞くだけでも理解できる部分があるかと思います。
 恐らく、英語ヴァージョンが存在するはずだと思いますが、現時点では、発見できていません。所在をご存知の方はどうぞ教えて下さい。

 ロシア語への翻訳者は不明です(主のための御用として名前を伏せたと思われますが、感謝します。)
 内容の60%ほどを翻訳し、ホームページに掲載ました。テキストはこちらをご参照下さい。



* * *

 この映像を見れば、現代における背教とは、その形態の如何を問わず、人が神になるという思想に貫かれていることがお分かりいただけるだろう。
 この「人が神になる」という異端の教えは、今日、様々な形でキリスト教界に入り込んで来ているため、警戒が必要である。
 
 Dr.Lukeがウィットネス・リーの地方召会(教会)に関する分析記事の中で、「カルトの本質とは、人が神になること」と指摘しており、また、ウィットネス・リー語録の中で、リー氏の唱える聖書の奥義は、「人が神になる」という異端の教えであることを指摘している。
 こうして、「人が神になる」という教えを奉じたローカル・チャーチについては、すでにカルト化を表す事実がいくつも指摘されているが(Luke氏の記事参照)、今後、問題がより一層、深刻化することが予想される。

 これまで、このブログをお読みくださった方は、ウィットネス・リーの教えの異端性が、ペンテコステ・カリスマ運動に影響を受けた諸教会で唱えられている教会成長論の教えの異端性と、極めて類似した構造を持っていることを、私たちが幾度も論じ合って来たのを、覚えておられることだろう。

 今回、ご紹介させていただくビデオは、それが予想のレベルを超えて、まさに否定できない現実であったことを、無数の証拠によって裏付けている。今日、教団、教派、宗派を問わず、キリスト教界に、「人が神になる」という反キリストの教えが様々な形で入り込んでいることが、このビデオをご覧になれば、また、テキストを詳細にお読みいただければ、どなたにでもお分かりいただけるだろう。

 今日、教会のカルト化のニュース、聖職者の腐敗・堕落のニュースが、クリスチャンを衝撃に陥れているが、そうした堕落の根本原因として、「人が神になる」という思想があることは想像に難くない。
 
 「人が神になる」という思想は、創世記に記された初めの時代から、今に至るまで、変わることのないサタンの誘惑である。だが、とりわけ、終わりの時代に属している今日のキリスト教界は、嵐のようにこの誘惑にさらされている。背教に染まってしまう教会が多数、出現しているので、クリスチャンは堅く聖書に立って、警戒を怠らないようにしなければならない。 

 私自身が、かつてベニー・ヒンの集会に参加した経験を持っていたため、このビデオを見て、本当に背筋の寒くなるような思いであった。これらの人々の登場を、クリスチャンとして、主の御前に、心から嘆かなければならない。

 読者の皆さんに警告します。このビデオに登場する人たちの教えに耳を貸してはなりません! 彼らに従ってはいけません! 彼らから離れなければなりません!

 一人でも多くのクリスチャンが、彼らの誤りに気づいてくれることを願いつつ。
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主は豊かに雨を降らせる


 昨日は昼から雨が降り始め、曇り空の中に緑が美しかった。

「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、
 主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、
 主の戒めはまじりなくて、眼をあきらかにする」(詩篇19:7-8)

 主にあっての健全さ、というテーマについて思い巡らしているうちに、主にあっての完全さ、というテーマについても、考えさせられるようになった。聖書を読んでいると、父なる神は、御子イエスがそうであられたように、私たちクリスチャンにも、一人ひとりが完全さに到達することを望んでおられるということを随所で感じさせられる。

 だが、完全さとは、あまり聞きたくないような言葉だ。人間はあまりにも不完全な存在であり、生きているうちに完全さに達することなど、ほとんどあり得ないように思われるからだ。人はいつも心のどこかで、自分の不完全さを(神に)大目に見てもらいたいという臆病な気持ちを抱えている。

 キリスト教においては、人は霊、魂、肉の三つの要素から成り立っているとされている。
 肉は、欲望に支配され、神のおきてに従えず、神に反逆する堕落した性質を帯びている。
 魂は、肉の法則に強く支配されており、神のことを思うより、自分のことを思い、変化する人生において、絶えず感情的に翻弄されている。
 霊は、人にキリストのことを思わせ、平安の中で主のご計画を人に知らせ、神のみ教えを守るよう導く。

 聖書を読んでいると、しばしば、肉体と魂とは、まったく絶望的な性質を帯びており、信仰生活を送る上で、ただ余計な障害物でしかないように感じられる。なぜなら、人間の肉体と魂とは、何によっても支配されない気ままな自由を求め、聖霊の指揮下に入ることを嫌がり、主のおきてに絶えず反抗しようと試みるからだ。

 さらに、肉体と魂は、それほどまでにわがまま勝手でありながら、同時に、ひどく弱い。逆境にあって、自分の肉と魂が大いに苦しめられる時、人はこの弱さを否応なく思い知らされる。きっとどんなクリスチャンでも、つぶやかずにいられない時があることだろう。

 神はなぜこのような弱い、しがらみに満ちた複雑な性質を人にお与えになったのだろうか。どうして人を霊だけで創造されず、神に反逆する肉体などお与えになったのか。いっそ、肉体も魂も消失し、一足飛びに、苦しみと悩みのない世界へ引き上げてくれればよいのに…。主よ、いつまで、私はこの弱い肉体と、翻弄されやすい魂を引きずって生きなければならないのですか…。

 正直なことを言えば、かつて私は数え切れない日数、そのような愚痴の祈りを捧げてきた一人であった。私はこの反逆的な肉体と魂を抱えて、とても信仰を守り通せるように思われなかったので、この矛盾から解放されるために死を望んだほどだった。だが、そのように祈っていたのは、私がまだまだ、主にあっての恵みの豊かさを知らなかったためだった。

 人が十字架を信じて救われ、聖霊に従って、落ち着いて、健やかに、人生の歩みを進めていく時、それまではただ信仰に敵対するものであり、厄介な重荷のように感じられるだけであった肉と魂が、驚くべきことに、健全なものへと変えられ、限りなく、あるべき姿へと近づいて行くということが起こる。

 それは、人の肉体の弱さや、心の悩み苦しみが全くなくなるという意味ではない。たとえ悩み苦しみが終わらなかったとしても、主に従って歩む時、人の肉体と魂は、それまでのような病や死の法則性から解放されて(完全にというわけではないが)、限りなく、あるべき健全な姿へと近づいていくのだ。

 すなわち、魂は悩み苦しみにきりきり舞いさせられる状態から解放されて、安らぎを得、心は悲嘆にくれるのでなく、喜びを得、身体にも、日々、新たな命がもたらされるようになる。
 確かに、人が寿命を超えて生き延びることはできないので、肉体が病と死そのものから全く解放されるわけではないが、人が御言葉に従い、聖霊に導かれて歩む時、地上にあって与えられている日数を、限りなく健やかに生きることが可能となるのだ。教養のあるなしに関わらず、知識が増し加わり、物事に対する適切な洞察が与えられる。それまでのように、出来事に翻弄されることが少なくなり、身も心も、平安の中に落ち着いて、健やかな暮しを営むことが可能になっていく。

 その時、私たちはただ霊だけで神を礼拝するのでなく、全身全霊で、神を礼拝することが可能となる。つまり、魂も、心も、感情も、知識も、手足も、肉体も、自分の全てによって、神を礼拝することが可能となる。人を構成する全ての部分が、聖霊の指揮の下で、神に賛美を捧げるために特別編成された、優秀なオーケストラのようになっていくのだ。
 こうして、霊の指揮下に入った時、以前には呪われた障害物のようにしか思われなかった肉と魂さえ、はるかに生き生きと、健康に、あるべき姿で生かされるようになることを私たちは知る。こうして、その人の全存在から喜びが溢れ、ほとばしり出るようになる。その人の存在そのものが全体として、何一つ欠けることのなく、神の栄光を表わすモデルとなっていくのだ。

 それが、人が神の神殿となるということの意味だと私は思う。このように生きているクリスチャンを見た時、信仰を持たない世間の人々でさえ、そこに命の豊かさがあることを感じ、その人がいかに神から愛されているかを感じずにいられないだろう。

「わが魂よ、おまえの平安に帰るがよい。
 主は豊かにおまえをあしらわれたからである。
 あなたはわたしの魂を死から、わたしの目を涙から、
 わたしの足をつまずきから助け出されました。
 わたしは生ける者の地で、主のみ前に歩みます。」(詩篇116:7-9)

 主のおきてに背くことによって、魂の暗闇と、涙の川を経験することがもしなかったならば、私はこのような聖句の意味を一生、理解できなかったかも知れない。神への反逆は人を命の法則から引き出し、死をもたらすが、神への従順は、人を命の法則の中へと引き戻し、豊かな命溢れる生活を与えるのだ。その命とは、肉体と魂を新生させる命でもあるのだ。

 「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、
 彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、
 彼と共に葬られたのである。
 それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、
 わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。<…>
 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。」
 (ローマ6:3-8)

 私たちは信仰を守りぬくために、障害物となりかねない肉や、感情を、次々、自分から排除していかなければならないのだろうか? 日々、自分の肉体と魂を十字架につけて、再び死ななければならないのだろうか? いや、そうではない。私たちはバプテスマを受けた時、すでに全体として、死んだのである。その時、私たちの肉と魂も、十字架につけられてキリスト共に死んだのである。

 そうである以上、私たちが日々、しなければならないことは、私たちはすでに死んだのであり、今はキリスト共に生きているということを思い出すことである。

 すでに神の幕屋となっているものを再び滅ぼすことはできない。だから、私たちは目を皿のようにして自分の中に信仰にそぐわない性質を探し出しては、悪なる性質を最後まで根絶しようと躍起にならなくても良いのだ。自分がすでにキリストによって新生しており、キリストにあって命の豊かさを約束されていることにただ思いを馳せれば良いのである。

 ただし、そうは言っても、もちろんのこと、キリストの指揮の下で、聖霊の指揮下で、生きていくことは忘れないようにしなければならない。指揮者の指示に従わず、楽譜を無視し、各成員が思うがままに滅茶苦茶な演奏を繰り広げるようなオーケストラには、混乱があるだけであり、そのような形で人生を送るならば、私たちは罪の状態に逆戻りしてしまうだろう。だが、指揮者としてのイエスに常に目を向け、その御言葉を守るならば、私たちは自分の肉や魂も含めて、自分の全存在によって、素晴らしいオーケストラを奏でることができるようになると信じて良いのだ。

 もしも現時点で、完成に達していないパーツを一つひとつ放り出して行ったならば、神の幕屋としての私たちの中には何も残らなくなるだろう。だから、たとえ信仰生活を歩む上で、色々な失敗が積み重なったとしても、私たちは神の幕屋としての自分自身を幾度も罪に定めて、不完全なもの一切を除去しようとして、自分を切り刻んだりすべきではない。間違えたり、調子はずれな音を出してしまった時は、ただ、誤りを率直に認め、御言葉に戻り、指揮者を見上げ、イエスのタクトにもう一度、自分を任せるだけで良いのである。

「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」(ローマ6:11)

 私たちはすでに罪に対して死んでおり、神に生きている。何と嬉しい、勇気づけられる言葉ではないだろうか。私たちは、罪を除去するために、自分のあら探しをもうしなくて良いのだ。神の神殿としての私たちは、イエスの指揮下で、調和の取れた、美しい音楽を奏でられるようになり、それによって、神に栄光を帰することができるようになると信じて良いのだ。私たちは主にあっての喜びと命の豊かさを存分に受け取り、味わうことができるようになるのだ。

 昨日は雨であったので、次の御言葉でしめくくろう。

「シオンの子らよ、
 あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。
 主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、
 またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、
 前のように、秋の雨と春の雨とを降らせられる。」(ヨエル2:23)

 雨は旱魃を防ぎ、豊かな収穫をもたらすために不可欠なものである。主が雨を降らせるとは、神がご自身の犠牲によって義とされた私たちのために、人生に実りをもたらすに必要な全てを備えて下さるということである。
 主が私たちのために豊かに雨を降らせて下さる。だから、私たちは自分の人生を大いに喜び、楽しんで良いのだ。

高梁川にかかる橋

義務感からの解放

「人を愛さなければならない」、「弱者を救済せねばならない」という強迫観念にとりつかれると、私たちの人生は大変な混乱に陥る危険性がある。

隣人愛が、強迫観念に変わるとは、何とも予想しがたいことだが、クリスチャンの中には案外、そういう転倒に陥る人が多い。
ジョン・ウェスレーが名だたる悪妻と結婚してしまったのも、隣人愛を、依存関係と取り違えたからなのではないだろうかと私は想像している。

なぜそのように思うかと言えば、かく言う私も弱者救済という強迫反復の心理に支配されて生きていた人間の一人なので、きっとそうに違いないと直感するだけの理由があるのだ。

また、私の研究領域だったロシアには、そういう事例が満ち溢れていた。私が最後の論文の中で強調して書いたことなのだが、特に19世紀のロシアでは、「弱者を救済せねばならない」という強迫観念に、ほとんど一人の例外もなく、知識人全体が追い立てられていたのだった。

虐げられた民衆を救済するために「何をなすべきか」("Что делать?")という問いかけが、宗教人、学者、政治家、革命家を問わず、インテリゲンツィヤ(知識人)の間でこだまのように鳴り響いていたのが19世紀-20世紀初頭のロシアであった。そのことは当時の書物を読めば、誰でも感じ取れる。民衆の救済、民衆の解放というテーマが、知識人の共通課題となり、弱者たる民衆を何とかして解放せねばならないという、強迫的な心理に、知識人がこぞって追い立てられていたからこそ、ロシアは革命運動の温床となっていったのである。

だが、隣人を愛するとは、隣人を自力で救済しようとすることではない。
それなのに、弱者に対する思い入れが強すぎる人は、弱さを抱えている人を見ると、放っておけず、自分が助けてやらねばならないと思って、自分の力で相手を解放しようと試みて、かえって相手を自分に依存させる不健全な関係に落ち込んでいくことが多い。

「弱者を見捨てるのは人間としてあるまじき行為だ」という義務感、もしくは、不正への憤り、何らかの心の負い目が、弱者に過度な支援を差し伸べる理由となり、それが「救済」という名目での不健全な相互依存関係を生んでいくのだ。

愛は自発的な感情であり、義務感からは生まれようがない。さらに、終りまでサタンの支配下にあって、あらゆる不条理がはびこることを運命づけられているこの世では、人間には人間をくびきから解放する力はもともと備わっていない。

なのに、隣人愛、弱者救済を旗印に掲げ、弱者の解放を義務として遂行しようとする人たちがいるが、そのような人たちの救済活動の裏には、それによって、自分の心の負い目を解消しようとする、達成不可能な願望が潜んでいる。

私は心理学の専門家ではないのに、なぜこのような話をするのかと言えば、それは、かく言う私も、この種の不健全な心理によって、相当、人生を狂わされてきたためなのだ。私の中には、長い間、何が健全で、何が不健全か、という判断の物差しはなく、「何をなすべきか」という課題だけがあった。キリスト教界に所属したために、隣人愛への義務感はより一層強まり、私もまるでロシアのインテリゲンツィヤのように、「弱者を助けねばならない」という義務感に突き動かされ、人生の大切な時期をむなしい救済運動に費やすはめになってしまったのである。

そこで、過去の大失敗に鑑みて、今、意識的に、不健全なものを捨てる訓練を開始することに決めた。人との関係を築く時、あえて自分にこのように問うことにしたのだ。

「私たちのこの関係は、人から見て、健康で、微笑ましく、できるなら自分もそこに加わりたいと、自然に思えるような、自由で、魅力的なものだろうか? それとも、不自然で、無理が多く、普通の人にはとても真似できないような犠牲を伴う、困難で、悲劇的な関係に見えるだろうか?」

先ず真っ先に、思い浮かんだのは、キリスト教界で深刻な被害を受けられたある方との関わりであった。その方が、長年に渡り、教会でひどい被害を受けられたお話を、私は直接、本人の口から聞いていた。それがあまりに痛ましい体験であり、私たちの間には多くの共通点があったので、できる限り、信仰の同志として、問題の解決に助力したいと考えてきた。

だが、その方との関係は、いつも何かが変であった。どうにも、私が一方的に支援するだけのように感じられることが多かった。私が本当に苦しんでいた時、その方が私のために、何か具体的な犠牲を払おうとしてくれただろうか? 私たちの間に、隠し立てのない、信頼できる交わりがあっただろうか? 答えは否だった。

そこで、この方のことは、一切、主にお任せして、私は関わりから、身を引くべきだと分かった。たとえどんなに切羽詰った窮状に置かれている人を目の前にしたとしても、主によって与えられた自由を、依存関係と取り替えることはできない。

こうして、今まで自分を苦しめてきた「(弱者のために)何をなすべきか」という強迫的な問いかけを、私は人生から一切、投げ捨てることにした。「人を愛さねばならない」とか、「弱者を助けねばならない」というスローガンは、一見、聖書的で、もっともらしく聞こえるが、自主性に基づかないのでは、まるで意味がない。義務や強制によって愛を生み出すことは、不可能である。

愛とは、具体的な助けを差し伸べることだけを意味しない。愛を表わすには様々な形がある。そしてクリスチャンが隣人に示せる、愛に基づいた最高の支援の形は、次の通りだと私は思っている。

「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」(使徒3:6)

ペテロとヨハネのこの言葉は、生まれつき足のきかなかった男の足腰を強め、彼を躍り上がるようにして、立ち上がらせた。

これは、ただ、ある男の足腰が癒されたという奇跡の物語であるだけでなく、象徴的な意味で解釈が可能だ。

すなわち、自分の足で歩くとは、自立することを指す。

イエスは、38年間、寝たきり同然だった人の病を癒して言った、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」(ヨハネ5:8)。イエスの言葉によって、病人は立ち上がった、すなわち、御言葉を聞いて、彼はただちに「自立した」のだ。

また、イエスは盲人の目をいやされることによって、盲人に光を与え、彼を自立させた。
「わたしは、この世にいる間は、世の光である」(ヨハネ9:4)と言われたイエスは、その言葉をただ象徴として発したのでなく、盲人にとっての正真正銘の光となられたのである。

イエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」(ヨハネ9:39)。

自分が病んでおり、自立できておらず、他人に依存せねば生活できない弱さを抱え、悪循環にとらわれたむなしい人生を送っていることを自覚して、その病や弱さ、不健全さ、悪循環を主の御許に携えてやって来た人たちを、イエスは、瞬時に解放し、彼らを自立させた。

他方で、自分が病んでいることを決して認めようとせず、いつも自分の力に頼って自分を解放しようと試みている人たちに対して、主は、「見える人たちが見えないようになる」と厳しい未来を宣告された。

今日、「日本斬り捨て協会」というような名前を持つおかしな集団社会に目を向ければ、そこでは、「私は誰よりも正しく物事が見える」と豪語している人たちが、まるで盲目のように、くもの巣のごとく癒着した人間関係に足を取られ、互いに足を引っ張り合いながら、暗闇に沈んで行く様を誰でも観察できるだろう。

聖書には、弱者救済の方法がきちんと書いてあるのに、なぜそれとは異なる方法論を試そうとする人がクリスチャンの中にこれほどまでに多いのだろうか。大宣教命令を口実にして、毎年のように、全人類の救済のために、新たに打ち出される各種のプログラム、新しいイベント、終わりなき興行の不気味さ…。収穫どころか、犠牲ばかりをもたらし続けているリバイバル運動の不可解さ…。

まるで知識人の誰も彼もが、「ナロート(民衆)」を解放せねばならないと、口角泡を飛ばして議論を重ねた19世紀-20世紀初頭のロシアさながらの風景がそこに広がっているのではあるまいか。全人類の救済という強迫観念にとりつかれた前途ある青年たちが、人類救済のためのプログラムとしての革命運動に人生を飲み込まれ、地下活動のために率先して命を失ったり、あるいは貴重な人生を逮捕と流刑のうちに失って行った、約1世紀以上前のかの国と同じ風景を私はそこに見出さずにいられないのである。

彼らを突き動かしているのは、隣人愛ではなく、全人類を救済せねばならないという強迫観念である。

私たちが自分の弱さに対してなすべきことは、弱さを自力で解決しようと試行錯誤を重ねることでなく、弱さを主の御許に携えていくことだ。同様に、私たちが他の弱者に対してなすべきことは、弱者の人生を解放しようとして、力を振り絞って活動することではない。革命運動やら、市民運動やら、裁判やら、霊の戦いやら、トランスフォーメーションやら、あらゆる種類の救済活動を起こすことによって、自分の力で弱者を解放しようと、闘争を繰り広げ、解放運動に身を捧げることが必要なのではない。

本当に、弱者を解放したいならば、主に働いていただくために、私たちは自分の力を使わず、謙虚に後ろに引き下がるべきなのだ。そして、「ナザレ人、イエス・キリスト」の名によって、弱者が真に解放されて、自分の足で立ち上がり、喜びに飛び跳ねて、主を賛美する時を待つべきなのだ。

人は人を解放できない。御言葉なるイエスが生きて働かれる時にこそ、人はあらゆる不健全な依存から解放され、自立することができるのだ。


創造主のみわざを誉めたたえる


 私の住んでいる地域は、田舎ゆえに、季節の移り変わりがまことに美しい。
花好きの家人のおかげで、庭には私の名も知らない、数え切れないほどの花々が日々、咲き乱れている。

元々、農業のための土地だったところに住んでいるため、周りには住宅が少なく、田園が広がっている。

自然に恵まれた環境に住んでいながら、今まで、写真を一枚も載せなかったのは、このように調和の取れた美しい映像を目にした読者は、私の迷いや、紆余曲折の多い文章など、読みたくなくなってしまうような気がしたからだ…。

これまで、話題の深刻さ、不親切な長文ゆえに、きっと悪評高かっただろう私のブログだが(笑)、残念ながら、このブログでは、さらに一層、深刻な話題を扱うことになるかも知れないので、どうぞご覚悟下さい。

けれども、主にあっての健全さ、魂の調和を保つために、今後、話題が深刻なものに偏りすぎないよう、身近な風景を少しずつ紹介していくことにしたい。また、できるならば、音楽を紹介することができればベストだと思っている(試行錯誤中ですが)。

 「人はみな草だ。
 その麗しさは、すべて野の花のようだ。
 主の息がその上に吹けば、
 草は枯れ、花はしぼむ。<…>
 しかし、われわれの神の言葉は
 とこしえに変ることはない。」
 (イザヤ40:6-8)

 逆境にある時、私は人間の命の脆さ、はかなさを思い知った。若さが花のようにあっけなく散ること、悲しみが人の生命力を急激に衰えさせることを知った。その時の体験を通じて、人を生かしているものが、その人の肉体だけではあり得ないことを痛感させられた。


「目を高くあげて、
 だれが、これらのものを創造したかを見よ。」
(イザヤ40:26)

まことに、命の源であるただ一人の方を失ってしまえば、たとえ健全な肉体を持ち、優れた頭脳を持っていたとしても、それが何になるだろう、滅びは一瞬にしてその人を襲うだろう。

だが、今、たとえ苦しみの中にある方がいたとしても、その人が神により頼んでいるなら、幸いだ。主を待ち望む者の人生は、決して失望に終わることがない、聖書はそう約束してくれている。

主に信頼するクリスチャンは、必ず、一人ひとりが、この美しい野の花に全く劣ることなく、主の栄光を表わすために、それぞれに不思議な形で用いられるだろう。

「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の花でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」(マタイ6:30)

私たちクリスチャンは一人ひとりが主のくすしきみわざによって造られた聖なる神殿である。神を誉めたたえよう。

「カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について

1.「カルト監視機構」の危険性について

 初めに、「カルト監視機構」が設立へ向けて動き出したというニュースを紹介させていただこう。
 ウィリアム・ウッド氏の主催する真理のみことば伝道協会の記事は、かつて一度、挫折に終わった村上密氏とウィリアム・ウッド氏の協力による「カルト監視機構」設立の計画が再び稼動したことを伝えている。

「■ 『カルト監視機構』、設立へ
 村上密(アッセンブリー京都教会牧師)とウィリアム・ウッドは、『カルト監視機構』の設立に向けて、具体的に動き始めました。この機構の目的は、カルトと疑問視されている団体を調査し、適正な判定を下し、発表することです。
構成は、カルト問題に精通している宗教家、臨床心理士、弁護士、法律家など、6人から12人ほどです。先日、プロテスタント教会、聖公会、日蓮宗、及び天理教の教職者で、カルト問題に取り組んでいる方々への協力要請の手紙を出し、六月中に最初の会合を持つことを予定しています。
また、『集団のカルト度に関するアンケート調査』も作成しています。その内容は六つの項目(組織、指導者、信者の実生活、組織活動、家庭生活、被害)に分かれており、百以上の質問からなっています。一つの団体に関する、正確でかつ公正な判断を下すのに不可欠な資料になると思われます。自分の属している団体の『カルト度』を計りたい方に、『集団のカルト度に関するアンケート調査』をお送りします。」

 短い文章であるが、どうか目を凝らして、熟読していただきたい。これは大きな危険性を秘めた計画だからである。

 このような計画は、ずっと以前から存在し、今まで実現を見なかったが、着々と実現に向けて動いてきた。その間にも、村上密氏はカルト対策活動を続けてきた。沖縄リバイバル・チャーチその他の裁判を見ても分かるように、被害者からの通告に基づいて、村上密氏は、カルトの疑いのある教会の実情を調査し、被害者代表として、裁判を支援することによって、カルトの疑いのある教会へメスを入れることに積極的に関わって来た。

 今回の「カルト監視機構」の設立は、まだ萌芽の段階に過ぎないとはいえ、このような村上密氏のこれまでの活動が、一牧師の信念に基づいた試みという枠組みを超えて、理解者を呼び、超教派的広がりを持つようになり、さらには、プロテスタントの枠組みさえも超えて、異なる宗教も含めて、日本の宗教に広がり、宗教全般に対する統一的な、いわゆる統一の異端審問所が生れようとしていることを思わせる。

 どうか次の文章を見逃さないでいただきたい、
「構成は、カルト問題に精通している宗教家、臨床心理士、弁護士、法律家など、6人から12人ほどです。先日、プロテスタント教会、聖公会、日蓮宗、及び天理教の教職者で、カルト問題に取り組んでいる方々への協力要請の手紙を出し、六月中に最初の会合を持つことを予定しています。」

 この文章を読めば、この「カルト監視機構」が、決して、プロテスタントのキリスト教界内だけの浄化作用をはかることを目指して生れたわけではないことが分かるだろう。ここには、クリスチャンであると明言されていない宗教家、臨床心理士、弁護士、法律家などの有識者が含まれているだけでなく、カルト問題に取り組んでいる「日蓮宗、および天理教の教職者」が含まれる可能性があるという、驚くべき記述がある。

 村上密氏、ウィリアム・ウッド氏などがこれまで行ってきたカルト対策に、プロテスタントの各教会、聖公会が本腰を入れて協力することを決めただけならば、話は理解しやすいが、しかし、一体、なぜ、村上密氏が主導で行ってきた「カルト対策」の延長線上にある「カルト監視機構」に、日蓮宗や天理教の教職者までが協力を求められる事態となっているのだろうか。
 クリスチャンと、日蓮宗や天理教の教職者との間に、カルト問題をめぐって、どのような協力と一致が可能なのであろうか。

 いずれにせよ、この機構が、キリスト教の枠組みを超えての活動を始めようとしているという思惑を、ここに汲み取ることができるのではないかと思う。ここには、将来的に、この機構の活動範囲が、いずれ、あらゆる宗教に及ぶものとなることが初めから想定されているように思われてならない。いずれ、どの宗教の教職者たちも、「カルト監視機構」の監視と無縁では活動できなくなる日が来るかも知れない、という私の予測が行き過ぎたものかどうか、考えていただきたいのである。

 私は昨年に書いた記事の中で、フィクションの物語に話を託しながら、「カルト監視機構」というものは決して設立されてはならない、ということを申し上げた。それは、「カルト監視機構は一旦、出来上がれば、やがて必ずキリスト教界内の統一的な異端審問所となり、秘密警察としての機能を発揮するようになり、教界を恐怖政治に陥れ、教界を破壊するだろう」との予測があったためである。

 確かに、プロテスタントの教界において、カルト対策、そして異端の排除を何らかの形で早急に行う必要があることは誰しも否定できない事実だ。異端の排除が適切に行われなかったがゆえに、今日の教界では、イエス・キリストが神であることを否定するような教えすらも、誰からも非難忠告を受けることなく、公然と講壇から教えられているという嘆かわしい現状がある。このような状況が放置されてはならないことは明らかである。

 だが、だからと言って、「異端審問」が、決して、誰か特定の、あるいは複数の少数者の思惑によって利用され、宗教的な権力闘争の手段として利用されたりすることは、あってはならない。プロテスタントのキリスト教界が、合同してカルト化対策を行い、カルト監視のための機構、すなわち、異端審問所のようなものを設けることを決めるのであれば、必ずその際に、何があっても、前もって絶対に考慮しなければならないのは、その異端審問所が、もしも誤った考えを持つ宗教指導者の手に握られ、その人物の悪しき考えによって動かされるようになれば、各教会にとってどれほど恐ろしい結果をもたらすか分からないという危険性である。

 もしも異端審問所が、教界内の権力闘争の手段として悪用されてしまった場合、各教会はそれによって破滅的な影響をこうむることになるだろう。そこで、カルト監視機構のようなものを設立するならば、その組織が人間の思惑によって悪用される危険性があるということを十分に理解した上で、それに対する予防策を十分に講じてからでなければならない。

 ところが、今、プロテスタントの教界において設立されようとしている「カルト監視機構」には、この機構が悪用される危険性をあらかじめ警戒する要素は少しも見受けられないどころか、参加者はいずれも自分が「カルト専門家」であるとの自信を持っている方々ばかりである。初めから、カルトの疑いのある教会を悪と想定し、それに対し、制裁を加えるこの「カルト監視機構」の活動を是とする、単純な勧善懲悪的な前提があるように感じられてならない。だが、一体、どんな基準に基づいて、この機構は善悪を判断するのか? プロテスタントの教界を超えた有識者、他宗教の専門家を含むことを初めから予定しているこの組織が、聖書的な根拠にのみ基づいて、善悪を判断する組織にはならないだろうことは明白である。

 村上密氏にしても、彼はこれまで、異端に関する神学的議論、つまり平和裏な議論を中心にしてカルト対策に取り組んできたのではなく、主として、裁判による解決を推進して来た活動家である。このような人物の考案を基に作られている機関なのだから、カルト監視機構は、設立の初めから、そもそも平和的な議論ではなく、司法の場での闘い等の活動を考慮して作られているように思われてならない。従って、聖書の理念に基づいたのでないこのような機構の設立は、キリスト教界を重大な過ちに導くだろうという予感がしてならない。

 私の考えでは、プロテスタントのキリスト教界における異端の排除は、まず、何よりも、複数の権威ある神学者たちによる、テーブルでの平和な議論、キリスト教界の専門家による開かれた話し合いから始まらなければならない。教界内の問題を扱うのだから、そこには、他宗教の専門家は交じっているべきではないし、非クリスチャンの有識者も必要ない。
 何が異端であるかを見極めるためには、神学的な専門知識が必要である。そこで、そのような知識を持つ牧師たちが、疑わしいと通告のあった牧師の礼拝説教、および著書などを調査し、明らかに異端と分かるメッセージが語られていた場合、当該人物に勧告を行い、再教育を受けてもらい、それでもその人物とそれに従う信徒たちが誤った考えをどうしても改めない場合は、最終的には教団の決定により、教会ごと除籍すれば良いのではないだろうかと思う。

 聖書は、異端を警戒するよう幾度も呼びかけているが、異端となった教会に対して、他の教会の指導者が裁判を起こしたり、教会を取り潰すべく活動するようには教えていない。むしろ、異端に染まって分派を起こし、去るものは去るに任せるように聖書は教えていると私は思う。

「もしこの手紙にしるしたわたしたちの言葉に聞き従わない人があれば、そのような人には注意をして、交際をしないがよい。彼が自ら恥じるようになるためである。しかし、彼を敵のように思わないで、兄弟として訓戒しなさい」(テサロニケⅡ3:14-15)

「異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい」(テトス3:10)

「あなたがたはかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時代であることを知る。彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。」(ヨハネⅠ2:18-19)

 だが、今現在、プロテスタントの教界において、カルト対策という名で行われていることは、教義面から異端を審議し、教義面で袂を分かった団体を静かに排除するための平和的な運動ではない。たとえば、もし教義面から異端を取り締まるならば、カルトの疑いのある教会の牧師の礼拝説教を公開して、その異端性がどこにあるかを公にし、世間の誰もが理解できるように、警戒を呼びかけた上で、教会が教えを改めなければ、除籍するということができるはずだが、教義に関する穏やかで粘り強い議論と、適切な訓戒という、教義面からのカルト(異端)対策はほとんど行われず、むしろ政治的な争いだけが続いているように見受けられる。

 今日、行われているのは、異端を教義としてとらえて、誤った教義を批判することではなく、異端を「カルト化」という現象面からとらえ、異端との闘争を、神学的議論ではなく、司法の場に持ち出すことによって、解決しようとする試みである。これは異端との闘いを、事実上、この世の政治的闘争に変えてしまい、聖書の教義ではない、別の面から決着をつけようとする試みである。

 従って、カルトについて、司法の場で議論することが、クリスチャンの目から見れば、聖書的な解決の仕方であるようには全く思えないのは当然である。このことについては、コリント人への第一の手紙、5章、6章に基づいて記事ですでに述べた。

 従って、このような世俗的な形でのカルト対策を推進してきた者は、決して、牧師としての信仰に基づいて、聖書の御言葉に基づいて、異端を排除しているのではないということが言えるのではないだろうか。しかし、もし信仰に基づいて異端を排除しているのでないのだとすれば、では、一体、どういう目的を持って、異端の排除に取り組んでいるのであろうか。その答えは各自の判断に委ねたい。


2.村上密氏の活動に対してORCを守る有志の会から提起された疑義について

 私は沖縄リバイバル・チャーチの活動を支援しておらず、この教会によって甚大な被害を受けた原告の訴えが裁判で退けられたことを残念に思う。私は教会のカルト化問題の解決に、司法が有効であるとは考えていないが、判決の如何に関わらず、原告の主張には正当性があったと信じる一人である。
 信徒を搾取し、苦しめた沖縄リバイバル・チャーチの体制を、私は擁護するつもりは今もこれからも微塵もないし、ORCを守る有志の会を支援する目的で、彼らの記事を引用したいわけでもない。このことを初めにはっきり申し上げておきたい。

 しかしながら、2009年3月2日にORCを守る有志の会によって書かれた村上密氏への疑念「本当に専門家なのだろうか?」の中には、私達クリスチャン全員が十分に考慮しなければならない訴えが含まれていると感じざるを得ないため、以下、引用する。(ここでA教団のM牧師とされている人物が、村上密氏を指していることは、村上氏自身が記事の中で認めているので、疑問の余地はないであろう。)

「今回の問題で原告支援者となっているカルト問題専門家と称する、A教団K教会のM牧師について、私たちは多くの疑問を持ちます。(略) 
このM牧師は、キリスト教界に別の問題を生み出している気がしてなりません。すなわち、キリストの体として霊的にも組織的にも多様性のある教会について、自身の論理と経験だけでカルト化を判断し活動を進めているなら、かなり問題ではないかということです。明らかに犯罪性が確認されるケースは別として、とても慎重に扱わなければならない事柄のはずです。

 素朴な疑問・・・

・教会カルト化の判断基準がおかしくないか?
・広くキリスト教界のコンセンサスを得た判断基準なのか?
・本当のカルト被害者と自称カルト被害者を識別することをしているのか?そもそもその気はあるのか?
・相談があれば教会カルト化を前提に対応しているのではないか?
・自身の思想信条、教会観、牧会観を核とした偏ったものの見方をしているのではないか?
・専門家というには、情報収集の偏り、思い込みや決めつけが強いのではないか?
・問題解決手法がかなり粗雑ではないか?
・聖書的手順を踏んでいると言っているようだが、裁判権やマスコミ活用の強調等から、聖書的解決よりも裁判による解決に性急になっているのではないか?
・M牧師自身のもとに集まってくる相談者を、牧師として本当に信仰的に正しく導いているのか?
・原告や原告支援者と思われる者たちのネット上での低俗な書き込み、一部ORC教会員への嫌がらせ行為や 営業 妨害を黙認しているのはなぜか?(まさか知らないとは言わないでしょう?)
・A教団の牧師を名乗って相談センター等の活動をしているが、A教団も彼の活動を支持あるいは容認しているのか?
・A教団本部には、地域牧師会の声明文通知も含めて、M牧師の活動、手法について問題提起をしているが、何か対応をしてくれたのか?
等など、あげればきりがありません。

 いわゆる破壊的カルト団体は実在し、真の被害者の方々もいらっしゃいます。それに対して、反カルト活動を行い、被害者救済を行うことは大切なことだと思います。
 しかし、もしその活動が暴走し、『相談者』をよく識別もせずに『カルト被害者』として受け入れ、『偏った基準』で次々とキリストの教会に『カルト化のレッテル貼り』をして、裁判を起こしていくとすれば・・・牧師先生方、信徒の方々は、どう思われますか?」
(引用、終わり 太字は筆者による)

 もちろん、村上密氏の活動に疑念があるからと言って、カルト化した教会がそれを隠れ蓑にして、自分達が聖書を曲げて、誤った牧会活動を行って、信徒を不当に苦しめたことの責任から逃れることはできない。それは明白である。その意味で、ORCには原告を非難する資格がない。

 しかしながら、これまで何度も訴えてきたように、カルト化教会も大きな問題であるが、誤ったカルト対策も、それと同じ程度、あるいは、カルトよりさらに見逃せない大きな危険性をはらんでいる。その点で、村上密氏の活動に警戒を呼びかけている上記の記事は、今一度、考察に値すると私は考えている。


3.N教会が村上密氏から異端の嫌疑を受けているという問題が提起されたことについて

 私がアッセンブリーに籍を置いていた当時、属していたN教会は、村上密氏の親族にあたるT師が長年、牧会していたが、T師に関してはいくつかの疑惑が浮上したために、教会の分裂的騒動が起きた(この件については後述する。)
 T師はその責任を取ってN教会を辞職した。村上密氏はこの件を仲裁し、T師を村上氏のいるアッセンブリー京都教会へ移らせた。そして、一旦、教職を引退したT師に教職活動を続けさせた。このような、T師の責任をうやむやにするような、村上氏の処置が不適切であると私が考えていることについては、すでに記事に書いたので、繰り返す必要はないだろう。

 当ブログへの読者からの次のコメントはその後のN教会に起こったことを示している。

「後任の牧師夫妻は、教会の建て直しに奮闘するも、村上氏とアッセンブリー教団から異端とのレッテルをはられ、数年前から攻撃を受けていたようです。
今春、その事実が明らかになり、教会を守るため教団からの離脱を決定しました(略)。
昨日、教団理事会から信者に直接、手紙が届きました。(略)教団離脱が正当なものか、信者を集めて事情聴取をするそうです。牧師夫妻、役員さんには届いていないそうです。手紙を読むと、信者よりも財産が気になっているように感じました。
私達の教会は、潰されてしまうかもしれませんが、同じようなことがおこらないよう、祈るばかりです。」

 私には、N教会の現在の牧師夫妻に対する異端の疑いについて、詳細が分からないため、この件の真偽と、異端の疑いの妥当性について判断することはできない。だが、いずれにせよ、コメント内容を信じるならば、村上密氏がN教会牧師夫妻の教えを異端であると判断し、アッセンブリー教団全体がその考えにならっているということになろう。

 アッセンブリー教団においては、村上密氏がカルト問題に関する代表的なスポークスマンであるため、この教団内の異端を主導的に取り締まっている牧師は、村上密氏を置いて他に考えられない。前述のORCの疑義では、「A教団の牧師を名乗って相談センター等の活動をしているが、A教団も彼の活動を支持あるいは容認しているのか」という問題が提起されているが、恐らく、今や、アッセンブリー教団全体が、村上密氏の活動の支持母体となっているだけでなく、教団全体が、氏の異端の判断基準にならって、異端の判断を下しているというのが現実ではないかと想像される。

 N教会と村上密氏との間には、T師が主任牧師であった時代からの因縁のような縁がある。

 もし仮にN教会の教えと活動に何らかの異端性があるのだと仮定しよう。だが、それでも、上記のコメントが事実ならば、現在、進められているような形での「異端審問」は、非常に大きな問題を含んでいると言わざるを得ない。まず、情報が公開されないまま、つまり、信徒が置き去りにされたまま、「異端審問」が密室で進められていくことに恐ろしさがある。もしこのコメントの通り、村上密氏が数年前からN教会の教えの異端性を指摘していたのだとすれば、氏は、N教会の教えが異端であるという根拠を、どうして(ブログ等で)公にしないのであろうか。

 村上密氏は、記事「内輪の論理」において、カルト化教会の問題を、司法の場に持ち出すことによって、教団理事会などの密室で決定される「内輪の論理」による事実の隠蔽を防ぎ、問題を広く明るみに出すことができると述べている。

「キリスト教の諸団体の理事会が、問題を解決する機関を設けることは、団体の自浄作用として重要です。しかし、しばしば客観性と平等性、透明性が確保できず問題が生じます。内輪の論理が働き、隠蔽する傾向にあります。それは、様々な宗教団体で不祥事が相次ぎ、社会的批判を浴びることで証明されています。
 このような内輪の論理防ぐために裁判に訴えることは重要です。必ずしも裁判が社会的正義を実現しなくても、宗教という密室の出来事を公の場に出すことは問題の予防に役立つからです。」

 確かに、教団外で、自らが積極的に関わって来たカルト化教会の腐敗状況については、村上氏は裁判を通してだけでなく、具体的に踏み込んだ内容を記事に書いて、不祥事を公にすることに貢献してきた。それは事実である。

 しかし、不明な点は、そのようにして内輪の論理に対抗することの必要性を唱えながらも、同時に、村上密氏が、アッセンブリー教団内でこれまで行ってきた紛争の解決について、「内輪の論理」以上のものを提示せず、自らの判断の根拠を決して明るみに出そうとしていないことである。

  もしも、キリスト教会のある指導者が、他の教会指導者の教えが異端であると批判するならば、その人はその根拠を明確に述べる必要があるだろう。そして、何よりも、異端の教えにさらされている信徒たちに、早急にその説明を行い、信徒を誤った教えから救う必要がある。しかし、村上密氏はN教会信徒に対して、そのような説明を行っているように見受けられない。
 もしも氏が本当にN教会の牧師夫妻の教えを危険な異端であると考えて数年前から活動してきた事実が存在するのであれば、自らの考えの神学的根拠を、氏はN教会の信徒たちに対しても、分かりやすく説明することができるだろう。そして、それを行わなければ、信徒を正しい教えに導くことはできない。
 しかし、今のところ、全ては「内輪の論理」の中で片付けられており、異端問題に関して、信徒は数年間も、完全に蚊帳の外に置かれたようであるから、実際に教会の存続問題が持ち上がるまで、信徒は異端問題に関して置き去りにされてきたという風にしか見受けられない。

 もしもこのような件が進行中であることが事実ならば、村上密氏には今後、N教会での事件について、誰にでも分かる明確な説明が求められることになるだろう。氏の今後の言動が注目される。


4.N教会にかつて起こった紛争への村上密氏の介入について

 さらに、ここから先は、N教会に関するかなり込み入った要件になるため、興味のない方は結びまで飛ばしていただいて結構である。
 今、私の手元には、2001年、N教会がT師に関する騒動の真っ只中にあった時、N教会に勤務していた伝道師夫妻によって書かれた手紙の写しがある(この伝道師夫妻は、現在のN教会牧師夫妻とは別人である)。

 この手紙の写しは、N教会の信徒がこの事件の内容を理解する目的で、当時、一般に配布され、公表された資料の一つである。詳細は個人のプライバシーに関わることであるがゆえに、伏せておき、N教会教職者の間で当時、起こった紛争の内容の中で、今、改めて私が注目に値すると考える部分だけを引用させていただく。

 N教会では、当時、この大規模な騒動の原因は、T師の伝道師夫妻に対する抑圧的な言動と、両者の間の行き違いにあると考えられていたが、この手紙の内容を改めてよく吟味するならば、そこには、両者の間を不適切かつ不明瞭な形で取り持った村上氏が関与していたこと、村上氏が両者に与えた影響が見逃せないほど大きかったことが浮かび上がって来る、そこで村上氏にも、この件に関して重大な責任があったのではないかという疑いが生じるのである。
 以下では、この騒動ゆえに、信徒からの篤い期待にも関わらず、N教会を去る決意をした伝道師夫妻(名前は○○とする)の手紙から、村上氏に関わる部分だけを引用する。

 「実はAPTSを卒業する前に七条教会で村上師と卒業後のことについて話し合う機会がありました。××××年の冬だったと記憶しています。
村上師の話では、『T師は二年後に引退する意志がある』 『引退はN教会の役員会も承知のことである』 『その上で○○をN教会の後継として招聘したい』 『礼拝説教も少なくとも月に一度は○○に任せる。二年目からは月に二度は依頼する』との事でした。

私達は当然、村上師個人の見解というよりもむしろ一理事の発言として理解しました。(略)理事の見解がそうであるならと祈りつつ備えました。(略)×月×日に正式にN教会の伝道師として就任しました。

 しばらくして気付いたのは、村上師の認識とT師や役員会の認識との間に相当のズレがあるという事でした。先ず、T師が二年後の引退を毛頭考えておられないこと、役員会は何一つ知らされていないこと、T師は主管を退く意志はあっても、その後もN教会で奉職したい希望を持っておられること等でした。

また礼拝説教に関しましても私が××××年度に奉仕させていただいた回数は合計5回でした。因みに××××年度は×月×日現在で10回です。実際、私達は派遣されて二年近くになりますが、未だに教会の経済状態がわかりません。過去の教会資料に関しても牧師館にしまわれていて全く分からない状態です。
 この時点で我々の立場は何なのだろうかと戸惑いましたが、とにかく理事会に任命された以上、務めを果たそうと努力してまいりました。

 そして、××××年の×月×日、理事会が終わった翌日の朝、突然村上師より電話を頂きました。話があるので午後、訪ねていってもいいかとの事でした。我々としては理事会の翌日のことでしたので、人事のことかもしれないと推測しました。
 村上師の話の内容を正確に伝えますと『T師は××××年に引退なさる意志はなく、少なくとも教会50周年を迎える77歳までは現役でいたい』ということと『○○を後継者とみなすには疑問を感じる』との事でした。但し、これはあくまでも村上師から伺った話であり、T師本人からはこの旨を一度も伺ったことはありません

 村上師は後継として疑問を感じる点については次の二点を理由に挙げておられました。(中略)
 村上師は以上の二つの理由を挙げられた後、『今後、先生方はどうなさいますか』と尋ねられました。誤解にならないように申し上げますが、直接、移動届けを出せという促しは一度もありませんでした。但し、我々としては移動させたいというニュアンスを感じたのは事実です

私としては『もし、移動を我々が希望するならT師の許可を得ないで黙って理事会に提出してもいいのですか』と尋ねました。これに対して村上師は『T師には私から伝えるから構わない』との事でした。(略)

 三時間ほど話したでしょうか。私は人事の手続きに明るくありませんし、どうも筋の上で釈然としないものを感じました(略)。
 もし、村上師がT師の本音を我々に隠しておられたなら、事態はここまでこじれなかったかもしれません。しかし、間接的にではあれ、T師の気持ちを聞かされた以上、今までどおりの気持ちで奉仕するのは困難です」

 この文章は、村上氏が当時、T師の後継者になることを前提としてN教会に派遣されていた伝道師夫妻を、N教会からよそへ異動させるために具体的に働きかけを行ったことを示している。
 若かった伝道師夫妻は当時、N教会の信徒たちからは慕われており、T師の後継者になるものと信じられ、期待が寄せられていた。伝道師夫妻はN教会の信徒になじんできており、伝道師と信徒との間には、何の問題もなかった。そして、T師自身も、この手紙に対する反論の中で、「⑤両師の正教師任命後、私は来年、主管者になって欲しいという希望を両師に対して個人的に述べた」と、夫妻に後継としての期待を寄せていたことを隠していない。

 その後、T師と伝道師夫妻の間に、信徒には見えないところで、たとえ何らかのトラブルがあったにせよ、少なくとも、N教会の信徒たちは、伝道師夫妻にT師の後任として不適切な要素があるとは少しも考えていなかったし、信徒自身が伝道師の異動を望んだ事実はなかった。

 仮に、説教および教会奉仕に関して、信徒の知らないところで、主管と伝道師との間に、何か込み入った問題が生じ、それが後継者問題に発展したのだとしても、その解決は、あくまでN教会の教職者の間でまず行われるべきことであった。T師と伝道師の間で、腹を割った話し合いすら実現していないうちに、他教会の牧師である村上氏が率先して介入すべき事柄ではなかったと言えるだろう。

 特に、N教会の後継問題は、N教会にとって大問題であったため、T師と伝道師夫妻、そしてN教会の役員会を通して公に解決されるべき事柄であったと言える。にも関わらず、T師の親族であるという立場を用いてか、あるいは、理事であるという立場を用いてか、村上氏は他教会の教職者と役員、信徒の間で公に決められるべき事柄に直接介入し、N教会の役員会と信徒の判断を無視して、信徒の頭越しに、はっきりした証拠を何も残さない密室の話し合いの中で、N教会の命運を分けるような、重要な決定を伝道師夫妻に促してしまったのだということがこの手紙の文面から理解できる。

 村上氏は、本来、T師自らがはっきりと伝道師に伝えるべきであった内容(後継に関する具体的な約束と、伝道師を教会の後継として認められなくなった理由の説明)を、自分がT師の代理として伝道師に伝えることによって、T師が伝道師夫妻に対して直接、果たすべき説明責任を奪ってしまった。
 さらに、それだけでなく、手紙の文面から判断するならば、村上氏がT師の見解であるとして伝道師に伝えた内容にも、随分と現実との食い違いがあったため、村上氏がT師の代理としてT師の意見を伝えたことで、結果的には、より大きな誤解が生まれてしまったことが分かる。

 さらに、もしも伝道師夫妻に異動届を出すことを求めることが、教団にとって適切かつ不可欠な解決であると判断して、村上氏が伝道師との対談を行ったのであれば、村上氏は自らの責任において、異動届の提出をはっきりと伝道師に勧告すべきであった。だが、村上氏はそのような、責任の伴う明確な発言を何もせずにおいて、ただ阿吽の呼吸で、異動届を提出するのが最善の策であるという微妙なニュアンスを汲み取るよう、伝道師に促しただけであったことが文面から伺える。

 そして、伝道師たちは、このような話し合いの結果、実際にN教会から異動してしまった。こうして、村上氏が証拠を残さぬ、曖昧な形で介入したことにより、当時、N教会の後継に関する問題は、信徒を一切蚊帳の外に置いた密室の話し合いの中で、信徒には何も分からないまま、決定されてしまった。このことが、N教会にその後、何年間も続く紛争を起こさせる最大の要因となっただろうことを私は確信している。

 なぜT師の後継として期待を寄せていた伝道師を、訳の分からない形で、教団から奪われなければならないのか、その理由が明確にされなかったために、N教会の信徒たちは当惑し、教団への不信感すらわき起こった。その後、信徒の間では、T師の行状や、伝道師の行状どちらに原因があったのか、何がこの問題の根本原因だったのか、といった議論が延々と繰り返されたが、責任の所在がどこにあるのかは、結局、不明のまま、ただ月日だけが過ぎ去った。

 しかし、今、改めて、資料を読み返し、この事件のことを考えると、村上密氏の介入がこの事態にさらなる混乱を招き、T師と伝道師との直接対話の機会を奪っていたこと、密室での話し合いが、信徒の前での公の議論を妨げたことがはっきりと感じられる。これはかなり昔の事件であるとはいえ、村上密氏の仲裁者としての能力に疑いを呼び起こす一件である。

 今となっては、ただ想像で語ることしかできないが、もしも村上氏が、N教会内でこの問題を十分に話し合うことの必要性を認識して、自らは脇に退き、この問題の解決を、T師と伝道師の直接対話、および、N教会役員会、臨時信徒総会に任せていたなら、つまり、信徒を置き去りにする形で、自らの手によって問題を解決しようと介入することがなかったならば、この事件はN教会にこれほど長年の禍根をもたらすほどの大問題に発展することなく、もう少し、平和裏に解決していたかも知れない。

 そして、今また、N教会の牧師に、教団と村上氏から異端の嫌疑がかけられているという情報が真実ならば、過去同様の同じ過ちが、N教会で二度も繰り返されることは、何としても、防がなければならない。異端の疑いに正当性があるにせよ、ないにせよ、教会の存続に関わるような重大な問題が、密室での会議、すなわち、「内輪の論理」で解決されてはならないことは明白だ。

 これまで、「内輪の論理」に反対し、裁判という公の場での紛争解決を積極的に後押しして来た村上密氏であるのだから、N教会の件にも、もし氏が深く関与しているのであれば、今後、早急な情報公開の作業が求められるだろう。他教団に関する紛争は表に出し、日本全国の世間の前で、その教会の恥を赤裸々に暴露しておきながら、自教団内で起こっている事柄は、「内輪の論理」によって表ざたにせずに、闇のうちに解決するという矛盾した態度を維持する人があるならば、そのような不透明な態度を取る者を、カルト対策の専門家として信頼することは、誰にもできない相談であろう。

 結び
 N教会に起こった事件の詳細については、興味がないから聞きたくないという方も多いかも知れないし、また、カルト問題など、自分には一切、関係ないと考えている信徒も多いかも知れない。
 しかし、私は、今回、村上密氏とウィリアム・ウッド氏の協力によってまさに設立されようとしている「カルト監視機構」には、全てのクリスチャンにとって、看過できない重大な危険性が含まれていると感じざるを得ない。

 プロテスタントの教界にとどまらない、全日本的な広がりを見せようとしているこの機構が、今後、宗教の枠組みを超えた異端審問所として実力を発揮していくことが憂慮される。そこで、この問題についてどうか考えていただきたい。その意味で、前述のORC有志の会の訴えを、私達はただ荒唐無稽なものとして退けるのでなく、もう一度、考慮してみる必要があるのではないだろうか。

反カルト活動を行い、被害者救済を行うことは大切なことだと思います。
 しかし、もしその活動が暴走し、『相談者』をよく識別もせずに『カルト被害者』として受け入れ、『偏った基準』で次々とキリストの教会に『カルト化のレッテル貼り』をして、裁判を起こしていくとすれば
・・・」

 カルト化教会が危険であるのと同じように、カルト監視機構の活動も危険である、そう私は感じざるを得ない。 まず、何よりも、真っ先に懸念されるのは、この監視機構が、「キリストの体として多様性を持つはずの教会」の自主性を押しつぶし、奪い去り、教界全体を一元化する組織となるのではないかということである。

 しかも、この問題は今や、キリスト教界だけでなく、全ての宗教者にとって他人事ではなくなろうとしているのだ。
「カルト監視機構」の設立目的をもう一度、読み返そう。

「この機構の目的は、カルトと疑問視されている団体を調査し、適正な判定を下し、発表することです。」

 たった一人の信徒の証言であっても、その団体をカルトと疑問視する根拠としては十分になるのだろう。カルトと疑問視された全ての教会が、この「監視機構」の調査対象となると言われているのだ。つまり、この「カルト監視機構」は、事実上、キリスト教界に属する全ての教会のお目付け役を買って出ようとしているのだ(どれくらいの教会がそんなことに同意したのだろうか?)。

 だが、この機構が行う調査が、具体的にどのようなものなのかは分からないところに、空恐ろしさを感じずにいられないのである。どんな調査も、秘密裏に行わなければ、本当の意味での実態調査とはならない。従って、カルト化の疑いのある教会側に、それとは気づかれないような方法で、監視機構が調査を行うであろうことが予想される。
(つまり、教会の指導者には見えないところで、信徒へ直接、調査が行われることが予想される。)

 さらに、極めて疑問に思われるのは、クリスチャンでない、聖書を知らない有識者(日蓮宗、天理教の教職者も含まれるかも知れない!!)によって、どうやってキリスト教のカルト化教会に、異端としての「適正な判断」を下せるのかという点である。

 その上、カルトの解決方法としては、この機構は、調査結果を「発表すること」としているが、本当にそれで終わりになるものだろうかという疑いが生じる。すでに幾度も裁判を支援してきた村上氏が、今後も、裁判という手段を行使することなく、穏やかに話し合いのテーブルの席上で、調査結果を報告するだけで、カルト問題の解決と考えるとはまず想像できないのだが…。
 いや、弁護士、法律家が「カルト監視機構」のメンバーに加わっているのを見れば、この機構が、そもそもの初めから、自分達が法律のプロ集団であることを誇示し、いつでも自分達の判断次第で、司法の場に問題を持ち出せることを示して、教界ににらみをきかせながら、各教会に対して秘密裏に様々な調査を行っていく組織となるだろうことが明らかに予想できる。
 つまり、カルト監視機構はいずれ、自らが敵とみなした教会に現実的な制裁を加える機関となることが予想されるのである。

 この機構はやがて教界内の秘密警察になり、あらゆる教会がその取り締まりの対象となっていくかも知れない、さらにはキリスト教の枠組みにとどまらない宗教的異端狩りが始まるかも知れないという憂慮を改めてここに述べて、記事の結びとしたい。

 皆さんは、このようなことをどう思われますか?