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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

わたしの栄光を他のものに与えはしない―キリストは信じる者のすべてのすべて

「わたし、は、
 義をもってあなたを召し、
 あなたの手を握り、
 あなたを見守り、
 あなたを民の契約とし、国々の光とする。
 こうして、盲人の芽を開き、
 囚人を牢獄から連れ出す。
 わたしは、これがわたしの名。
 わたしの栄光を他のものに、
 私の栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。」
(イザヤ42:6-8)

三つ子の魂百まで、と言われるように、まだ二十歳になる前に夢や憧れとして思い描いていたイメージは、年齢を重ねても、人間からはなかなか抜けないものである。

筆者は幼い頃、ロシアという国に漠然とした憧れを託し、その国の言葉や文化を学びたいと思った。

専門家として行った研究は、決してロシア賛美の観点から行われたものではなく、むしろ、かの国の社会主義時代の残酷な歴史を掘り起こすものであったが、それにも関わらず、この国に対するほのかな憧れは、心の中に持ち続けられた。

だが、かの国に関しては、関われば関わるほど、幻滅が募って行くばかりであった。

もっとも、筆者の心に幻滅をもたらさなかった被造物など何一つない。そのことは、地上には何一つ確かな価値はなく、確かな方は、天におられる神お一人だけであることを物語っている。

我が国も含め、地上のどこかの国を理想のように美化して思い描いたとしても、返って来るものは、幻滅以外にはない。
 
だが、そういった一般論とはまた別のところで、ロシアという国は油断のならない国なのである。我が国でも、対米隷属から脱したい人たちは、今もってロシアに希望を託しがちであるが、どこの国であれ、一方的に美化するのはやめておいた方が良い。
 
今から何年か前に、ある職場で、上司たちがかの国についてこんな悪口を言っていたのが聞こえて来たことがあった。筆者はその頃、まだロシアに親近感を持っていたため、それを悲しく思った。

「あいつら、俺たちが苦労して積み上げたものを、最後の最後の段階になって、まるで自分の手柄のように全部持って行くんだからな。あのズルさは治らない国民病だよな・・・。」

しかし、当初は悪口や偏見に過ぎないように感じられたこの言葉が、案外、全く根拠がないとは言えないものであることを、筆者は知ることになった。

たとえば、極言するならば、ロシアの文化そのものが、西と東の両方からの借り物である、と言えるかも知れない。ロシアのキリスト教はビザンチンから継承されたものであるし、ヨーロッパを模倣した町並みは、ピョートル大帝時代の輸入だ。ロシアの文化そのものが、かなりの部分、他の文化からの借用で作り上げられたものと言えるかも知れない。

むろん、文化とは、そもそも借用から始まるのであって、その何がいけないのかという理屈もあろう。しかし、ロシアの場合は、借用がかなり得意である。そういうところから始まって、ロシアに関係すると、日本人であっても、借用の天才のようになってしまう様子を、何度か見せられて来た。

そもそも、ロシアと日本という国は、互いに悪いところがよく似ており、どちらも精神的には後進国と言って差し支えない未熟な部分を持っている。まずは、両国ともに、集団主義的な精神性が強く残っており、個人の概念が十分に確立されていない。日本も、ロシアも、国家主義的な精神風土の面影を今日に至るまで色濃く引きずっており、肥大化した政府や官僚を基礎とする「お上主導」の政治体制から歴史的に一度も脱したことがない。そういう国民がどれほど「自由」という言葉を口にしても、それはあたかも水槽から出たことのない魚が、鳥の生態を論じるようなものである。

これはルネサンスをも、宗教改革をも、下からの革命をも、本当の意味で経ていないことから来る文化的な未熟さではないかと思う。(1917年革命も、下からの革命とは言えないであろう。)

そのため、権威に従順で(権威に弱く)、序列を絶対的に肯定しながら、その中を巧みに泳ぎ渡って保身を図りながら生き伸びる官僚主義的な生き方を至上の価値とするような愚かな精神が、至るところではびこり、腐敗を生む根源となる。権威の前にはヒラメのように媚びへつらい、弱い者は徹底的に軽蔑し踏みしだく残酷な人々が現れるのもそのためである。こうした精神性の中からは、現存する体制を打ち破る発想は決して生まれて来ず、改革の芽はことごとく潰されてしまう・・・。
 
しかし、精神的に後進性を持ち続けている国が、同じように精神的に後進性を持ち続けている国を批判するのは、たやすいことではない。

そもそも日本のロシア専門家の大半は、隠れ共産主義者であるか、ロシア美化に走る非現実的夢想家であるか、あるいは、ロシア人との婚姻によって半ばロシア化してしまったような人たちから成っているので、こうした人々に、ロシアという国への歯に衣着せない容赦のない分析や批判を期待するのは無理というものであろう。

外国語や外国文化で飯を食っている人たちに、その国を批判せよということ自体が、無理な要求なのかも知れない。ロシアについては、さらに事情が複雑で、特に、ソビエト体制時代に、かの国に関わる研究者はことごとく、社会主義思想に理解がなければ、かの国に旅行することもできず、論文も発表できなくなり、研究者から排除される、などといった一連の制限を受けたので、そうした時代に、この国の研究者は、徹底的に骨抜きにされてしまった。

今日、日ロの外交・ビジネス・文化交流に関して、純粋に我が国の国益のために、かの国としたたかに向き合い、対等に張り合えるような人は、ほとんどいまいと危惧する。

対米隷属からも抜け出せない国に、ロシアと対等に向き合えというのも、相当に高いハードルであろう。ロシア人は日本人より一枚も二枚も上手で、ある意味、厚顔なところがあるため、島国ゆえに国土が占領されたこともなく、外面は良いが徹底的に人を疑うことのできないお人好しの我が国民には、彼らの策謀を見抜き、立ち向かうだけの力はないだろう。

特に、日本人の弱点は、絶えず仲間内で分裂しており、同士討ちに明け暮れ、弱い者を虐げ、団結できないところにある。ロシア人もよく国外では分裂していると言われるが、彼らは「よそ者」に立ち向かわねばならない時には、少なくとも、日本人以上には、団結する能力がある、と筆者は見ている。

我が国がこんな体たらくでは、かの国と対峙しても、したたかに丸め込まれ、利用されるだけで、外交的勝利など望めないであろう。もっとひどい場合には、かつてのシベリア抑留とほぼ同じように、日ロ両国が共同して(結託して)、日本国民をより一層、虐げる立場に立つであろう。この二つの国は、未だそういう精神性を克服できていない油断のならない国家なのである。だから、安倍政権がロシアに接近すればするほど、筆者にはロシアと組んで何をするつもりなのかと、期待ではなく、警戒心が生まれる。

だが、それでも、いつの日か、我が国の国民も、精神的に大人となって、どの国に対しても、したたかに図太く(しかし目先の利益のためだけでなく、真に自国に利益がもたらされるような)外交を繰り広げるだけの力を持たねばならないであろう。その日が一体、いつになれば来るのかは知らないが、ただこのまま時が過ぎるとは思えない。いつかは目を覚まし、大人にならなければならない時が来るはずである。

ところで、ロシア人には、身内のように仲良くなった人間との間では、困った時に、命がけで助け合うという情の強い結びつきがあって、筆者はこれを日本人のうわべだけの礼儀正しさの内側に隠された冷淡さ、無責任さと比べて、かつては高く評価していた。

だが、ロシア人に限らず、最近、筆者は、あらゆる同情というものが、決して見かけほど良いものではないどころか、現実には非常にマイナスの側面を持った、悪魔的と言っても差し支えないほどに、悪しき感情であることに気づいた。そして、人の弱みや問題を前提として、内なる恐怖によって作り上げられる連帯には、いかなる希望も見いだせなくなったのである。

もし筆者がキリストを生涯で個人的に知らなければ、同情と真の優しさの区別、人間的な頼りない支援にすがることと真の自立がどれほどかけ離れたものであるかという区別が、きっとつかなかったのではないかと思う。

同情というのは極めて厄介かつ危険な感情で、同情に基づく支援や連帯は、どこまで行っても、真の連帯とはならない。なぜなら、それは他者への尊敬に裏打ちされた連帯ではないからだ。

同情という感情は、基本的に、恐怖に基づく人間の本能的な自己防衛の願望から出てくるものであって、「もし自分もあの人と同じ目に遭ったら・・・」という思いを前提として、他者の不幸に共感して、手を差し伸べようとしているに過ぎない。そして、自分は同じような目に遭わずに済んだことに、内心、ほっとしながら、他者を哀れみ、それでも、「もし私があなたと同じ目に遭った時には、弱い人間同士、あなたも私を助けてくれるでしょうね?」という打算を心に秘めつつ、相手の窮状に手を差し伸べるという偽物の寄り添いなのである。

だから、そのような関係においては、もし誰かが真に自立して、一切の恐れと弱みがなくなると、それが縁の切れ目になって、今まであれほど強固に思われた連帯が、一瞬で終わってしまう、ということもあり得る。それはちょうど同じ病で長年、闘病生活を送り、励まし合っていた二人の病人のうち、一方が病気が治って完全に健康になって病院と縁がなくなると、依然として闘病生活を送り続けるもう一人の病人に、非常に声をかけづらくなるのにも似ている。

弱さによって作られた連帯は、真の連帯ではないのだ。励まし合えるのは、共に同じ自己憐憫の感情を持っているからであって、哀れむべき共通の弱さがなくなると、そのような関係は、一日と続かなくなるのである。

以前に書いた記事の中で、筆者は、ハンセン病者の絶対隔離政策を助長するために、天皇の慰めの言葉が利用されていた、という事実に触れた。

ハンセン病者の絶対隔離政策は、それ自体、あまりにもひどすぎる人権侵害で、直ちに終わらせられるべきものであった。一旦、病名の診断が下れば、病者は強制的に療養所に隔離され、病が治癒された後でさえ、生涯に渡り、そこから出る道を絶たれたのである。そして、療養所では、強制的に働かされ、非人間的な暮らしを強いられ、断種政策によって、子孫を残すこともできず、果ては人体実験の材料とさえされた。一旦、ハンセン病と診断された者は社会のお荷物として黙って隔離政策に甘んじ、やがて死に絶えることこそ、国や社会の益に貢献することだと教えられていたのである。

優生思想に基づくこうした卑劣で非人間的な政策が平成に至るまで長引いた背景には、この政策の忌まわしさを覆い隠すための様々なトリックが駆使されていたことが影響していた。そのうちの一つに(特に戦前戦中は)、隔離された者たちの怒りをなだめ、このひどい人権侵害に対して声を上げさせないために、天皇からの慰めの「お言葉」が利用されていたということがあった。

つまり、「やんごとなきお方(天皇)が、可哀想なあなた方(ハンセン病者)を気にかけて、同情して下さっているのだから、あなた方(ハンセン病者)は、この状況に憤りを感じて反乱を起こしたり、暴れたり、脱走しようなどという不届きな考えは捨てて、この制限(絶対隔離政策)は、抜け出せない運命なのだと諦めて、おとなしく療養所の秩序に従って、隔離の中で人間らしく生きる道を考えなさい・・・」というわけなのである。

隔離こそ、非人間性の源であって、隔離の中で人間らしく生きる道などあるはずはないのだが、そこで天皇からの「同情」の言葉が巧みに、隔離政策の非人間性を覆い隠すための心理効果として利用されたのである。実際には、全く人間らしく扱われていないのに、天皇の哀れみの言葉が、あたかも、ハンセン病者が人間らしく、尊厳を持って取り扱われているかのようなカモフラージュのために利用され、「自分たちは見捨てられているわけでもなく、粗末に扱われているわけでもないのだ」という錯覚を彼らに抱かせる材料になった。
 
天皇からの同情の「お言葉」が、絶対隔離政策に対する人々の憤りをやわらげ、自由になりたいという彼らの希求を打ち砕いて、体制に対する反乱を阻止するために利用されたのである。
 
こうして、天皇の「同情」に慰めを見いだした人々は、何が何でもこのような非人間的な政策には反対して、自由を勝ち取らねばならないという心の願いを打ち砕かれた。その「お言葉」があったがために、自分たちは隔離政策の犠牲者なのだという現実に覆いがかけられて、非人間的な政策が、あたかも憎むべきものでも、立ち向かうべきでもなく、それをおとなしく受け入れることこそ、彼らの「天命」であるかのような錯覚が生まれたのである。体制はそのような心理的効果があることを十分に見抜いた上で、隔離された者たちの憤りを静めるために、天皇の「お言葉」を利用したのである。

だが、問題は、ハンセン病の絶対隔離政策だけではない。たとえ天皇から発せられるものでなくとも、生まれながらの人間から出て来る同情には、ほぼ例外なく、以上のような悪しき効果がある。つまり、同情とは、世間で考えられているほど、美しい感情では決してないのである。それは心密かに「可哀想な人々」に対するディスカウントを正当化し、「可哀想な人々」が、永久に「可哀想な境遇」から抜け出せないようにするためのカモフラージュでしかないのである。

同情する人々は、あたかも不憫な人々に寄り添って、助けの手を差し伸べようとしているように見えるかも知れないが、その実、その優しい言葉は、自分は決して「不憫な人々」の仲間ではないし、そうなりたくない、という思いからこそ、述べられるものである。

同情の本質とは、結局、次のようなものでしかない。

「人間には誰しも同じような弱さがあって、もしかすると、場合によっては、私があなたの立場に立っていたかも知れません。あなた方は私の身代わりとして、そのような不憫な状況に置かれたのです。ですから、私はあなたに同情いたします。同じ弱さを持っている人間として、あなたのために涙を流します。でも、あなたは、決して自由にならないで下さい。私は、あなたに同情しますし、必要な支援もします。でも、決してあなたに自由になって欲しくないのです。私の身代わりに、あなたはずっとそこに閉じ込められて、苦しんでいて欲しいのです。あなたの苦しみを見ることによって、私は自分の自由の価値を確かめることができ、自分の幸福を確かめることができるのです。なおかつ、あなたの想像を絶する苦しみに、私が寄り添うことによって、私は自分が送っている利己的で卑俗な生活から浄化されて、あなたと共に、汚れなく慈愛に満ちた神々しい存在へと飛躍的に高められるのです。あなたの苦しみは、多くの人々の魂の浄化のために必要なのです。あなたの存在によって、我々は栄光を受け、高められるのです。ですから、どうかその苦しみから、抜け出そうなどとは思わないで下さい。あなたのその苦しみは、人類の浄化のために必要なのです・・・」というわけなのである。

断じて、そんな感情は、他者に対する真の尊敬に基づくものではない。それは寄り添いではなく、同情に見せかけた蔑みでしかない。犠牲の肯定でしかない。だが、この心理的なカラクリは、非常に見えにくく、また、巧妙で、気づきにくいものである。そして、そのカラクリは日常の至るところに存在しており、巧妙に人を弱さの中に閉じ込めようと待ち構えている。

かつて、ロシアにいるロシア人の知り合いが、日本に台風が接近して来ると、よく筆者に心配のメールをくれた。しかし、それを読むとき、いつも奇妙な実感に襲われたものである。ロシア人は心配することを当然だと考えて、大丈夫かと前もって聞いて来る。だが、筆者は、「神様が着いているから、何も心配は要らない」と答えながら、いつも心に思うのだった、仮にもし大丈夫でなかったとしても、あなたに何が出来るのかと。

遠くにいて、何も自分が手助けができないことについて、なぜあえて聞き手の不安を呼び起こす質問を尋ねて来るのだろうか? それに対しては予定調和的に「大丈夫だ」と答えるのが、筆者の役目なのだろうか? そのようなものが、本当の心配であり、本当の親切と言えるであろうか?  

いや、それはあたかも同情や心配を装いながら、その実、他人事だからこそ、尋ねられる質問であって、それは信者の心の不安を煽るために、神でない霊が言わせた言葉に他ならないのではないかと、筆者はよく思わずにいられなかった。 (その人は共産主義者であったので、もちろん、神の霊によって生かされている信者ではなかった。)

そんな時、身近にいる信者の答えの方が、はるかに筆者を満足させるのだった。信者はこう言うのである、「私は最近、日本直撃と予報されていた二つの台風を、主の御名によって、撃退したよ!  御名によって命じるんだよ。そうしたら、台風は弱体化して、進路も変わって、横浜は全く被害を受けなかったんだよ! あれほどニュースでは直撃と騒いでいたのにね・・・」

そうなのだ、信者には、主の御名の権威によって、台風のごときものは、当然ながら、撃退する権威が与えられている。台風ばかりでない。雨も止むし、風も止む。豪雨が、必要な瞬間にはぴたりと止まるのを、筆者は幾度も見せられて来た。

万事がこんな調子で、こういうわけだから、信者には人からの同情や心配など全く要らないのである。キリスト者には、人から「大変だね」とか、「可哀想だね」、とか、「助けが必要なんじゃないの?」などと、同情されるべき弱さや欠点などは、存在しないのである。

だが、それは、我々が強くて完全だからではない。神が信じる者の助けであり、神が完全だからである。

おそらく、ロシア人の同情好きは、長年、国家権力によって虐げられながら、国民同士、草の根的に助け合って生きてきた経験から生まれたものなのであろうと筆者は想像する。彼らは、筆者から見ると、日本人よりも感受性豊かで、世話好きで、他者の痛みに敏感で、人の心を読む術に長けているため、人の心に自然に寄り添う術を日本人以上に豊かに持ち合わせており、うっかりすると、その情け深さにほろりとされられる瞬間がある。

もし神を知らなければ、筆者はそういう巧みな寄り添いと、同情や共感を、真の優しさだと理解していたことであろう。

だが、ロシア人に限らず、人間の同情のごとき代物を真の優しさや共感だと勘違いして、これによりかかっていれば、いつまで経っても、人は真の自立には至らないのである。

同情が優しさを見せかけて巧みに人をディスカウントするカラクリは、結局、ハンセン病者の絶対隔離政策と同じである。自由になる権利は、誰しも持っているのだが、とりわけ、聖書の神を信じる者は、悪魔のすべての圧迫と脅しから解放される権利を持っている。

神が信者にとって完全な助けであり、キリストの十字架の御業のゆえに、信者は死の恐怖による悪魔の奴隷的拘束に甘んじねばならない理由はなく、キリストを内にいただいていることにより、真の自由と解放を内に持っているのである。

聖書のまことの神を呼び求めるならば、誰も失望に終わることはない、と聖書にある。神は信じる者の全てを知っておられ、信者のどんな必要にも間に合う方である。神には決して遅すぎるとか、策が足りないとか、間に合わないということがない。

ところが、このまことの神を呼び求めずに、神の助けを有限なる人間からの同情や支援に取り替えた途端に、信者は、天の高度に生きる術を失って、地に転落し、弱さという絶対隔離政策の檻の中に閉じ込められ、そこから自由になることができなくなってしまうのである。

そこで、筆者にとっては、人間に過ぎない者から注目され、寄り添ってもらったり、同情を受けることよりも、神にあって、真に解放されて、自由であって、自立していることの方がはるかに大切である。だから、キリスト者が、主にあって、真に自由であるためには、人からの同情を受けてはいけないし、その隙を作ってもいけない、ということが、年々、よりはっきりと理解できるようになったのである。

自分の世話好きな性格を「善意」だと勘違いして、自分の気前の良さを世間にアピールするために、人助けできそうな、自分よりも弱い対象を常に探し求めている人たちには気の毒な話であるが、筆者には、彼らが栄光を受ける材料とされるために、偽りの同情による連帯の中に取り込まれたい願いは皆無なのである。

神が味方として共におられるキリスト者を、哀れで不憫な人間とみなして、同情を注ぎ、神から栄光を奪おうなどという恐れ知らずな人間は、よくよくどうしようもない愚か者の詐欺師の類か、反キリストの仲間だと言って差し支えない。

聖書は、あなたがた(信者)は自由とされたのだから、再び、人の奴隷となってはいけません、と教えている。だから、そういう悪しき人間の策略にはまって、人間を再びがんじがらめにして弱さの中に拘束する檻の中に入れられるのは、ごめん被りたい。
 
日本人の多くも、同情を装った義理人情で、互いをがんじがらめに縛り合って、立ち上がれないように仕向けている。その癒着の中で、助けてやった人間が、助けられた側の人間から栄光を掠め取り、教師然と、弱い人間たちの心を支配して、共依存関係が出来上がっている。

それはちょうど「天皇のお言葉」が、隔離政策の犠牲にされていたハンセン病者の怒りをなだめるために利用されたのと同じカラクリである。本来、立ち上がって、反対しなければならない非人間的な制約があるのに、そこから解放されることを求めるべきなのに、さらには、解放される権利もあるはずなのに、誰か偉い宗教指導者や、信者の仲間を装った人間から同情の涙を注がれ、手厚い支援を受けたというだけで、もうその人は、束縛に甘んじる気になってしまい、これを憎むべきものとして退けて、自由になるために立ち上がる気力を半永久的に奪われるのである。

そのような悪しき関係にとどまっている限り、同情を受ける側の人間が、克服したいと思っている弱さから抜け出すことは絶対にない。同情は、彼を永久に弱さの中に閉じ込め、自由にさせず、彼をダシにして他の人間が栄光を受けて自己満足するための巧妙な罠なのである。だが、あまりにも多くの人間が、同情によるネットワークを美化し、それが真の人間的な交わりや連帯だと勘違いして、互いに束縛し合っている。その結果、たとえキリスト者であっても、多くが、罪や、病や、困難や、貧しさや、心の傷や、各種の弱さと手を切ることができなくなって、「罪の絶対隔離政策」に自ら同意して、永久に出られない療養所に自ら入院して行くのである。こうした人々には何を言っても無駄であろう。

筆者は、キリスト者が同情という美名の下で、弱さの中に人を閉じ込めるだけの支配関係のネットワークに拘束されるべきではないと考えている。キリスト者がキリスト以外の目に見える人間に「弟子化」されたり、支援者や助言者を名乗るうわべだけ親切そうな人間に自ら助けを乞うて、神以外の物に手柄や栄誉を与えてはいけないと考えている。

キリスト者は、神以外のどんな存在にも、「おまえを助けてやった」などと誇らせてはならないのである。人間を真に助けることのできるお方は神だけだけであり、それ以外のすべてのものには、人を救う力がない。

神だけが、信者によって栄光を帰されるべきお方であり、それ以外のものに栄光を帰する結果は、非常に忌まわしいものである。

それにも関わらず、人に同情されたり、助けられることに心地よさを見いだし、そこに安住を試みているような信者は、弱さの中に永久に閉じ込められ、抜け出せなくなるだけであろう。サムソンが愛するデリラにこっそりと裏切られて髪の毛を剃られたように、彼は自分の味方だと思っている人間たちに、神の助けをこっそり奪い取られ、甘く心地よい夢から目覚めた時には、奴隷の枷をはめられ、これを振るい落とす力が、自分にはもうなくなっていることに気づくだろう。

勇者だったサムソンが囚人とされ、無残に両目をえぐり取られて、重い臼を引かされていた光景を、キリスト者ならば誰しも聖書を読んで思い浮かべることができよう。これは、人間の情けを神の助けと取り替えた信者の霊的視力が失われたことを象徴しており、その結果、信者が一度は逃れたはずのサタンのくびきを再びはめられて、この世の人々が自分で自分を贖うために生涯に渡る負いきれない苦役に従事させられているのと同様に、死の恐怖の囚とされて、奴隷的な労働に従事させられることを象徴している。

もし信者がキリストを捨てて、人間の支配下に入るならば、必ず、サムソンと同じ光景がその信者を待ち受けているであろう。

だから、信者は、どんなことがあっても、神以外のものに、決して栄光を与えてはならないのである。信者を助けることができるのは、天にも地にも、ただ神のみである。

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私たちの命なるキリストが現れる時まで

オースチンスパークス著、「私たちのいのちなるキリスト」から。

「私たちのいのちなるキリストが現される時・・・」
(コロサイ人への手紙3章4節)


聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、彼の復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

こうしたことには三つの要素があるでしょう。第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです。

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることです。

私たちは、神の霊の実際の働きはすべてをキリストご自身に帰することであることを学ばなければなりません。彼、キリストが「内なる人」である私たちの霊のいのちでなければなりません。それは、私たちが主の中で強くあるためです。自分自身や、他の人々や、物事によってではありません。私たちは、彼の内なる力だけで、逆境を切り抜けなければなりません。

キリストは私たちの知性のいのちでなければなりません。説明する力や理解する力がないために、私たちは困惑するかもしれません。しかし、御霊は教え導いて下さいます。

キリストは私たちの体のいのちである必要があります。肉体のための神聖ないのち、というものがあるのです。主は常に体を癒されるわけではありません。しかし、御旨を成就するために、主は体のいのちとなることをいつも願っておられます。苦難の中でもです。

いのちは主ご自身です。そして、主ご自身がいのちとなるために、いのちはしばしば天然の無力さという背景と対峙(たいじ)させられなければなりません。彼の復活の力は、最初から最後まで、キリストとの合一の法則です。主の民は恐ろしい圧迫の時代にあります。彼らの敵はほとんど休みを取りません。私たちのいのちなる主ご自身にのみ、十分な備えがあります

バルナバは最初、「心を堅く保って主にとどまるように」(使徒の働き11章23節)と信者たちを励ましました。この言葉には断固たる響きがあり、「私たちのいのちであるキリストが現される時」まで私たちに押し迫るでしょう。

キリストの至高性

「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。」(コロサイ2:3-4)

 主がご自分に忠実な民の生活と安全を必ず守って下さることを私は信じているが、それにしても、この先の時代は、まことのクリスチャンにとっては、困難な時代となるだろうことを思わずにいられない。特に、クリスチャンたちの間にあってキリストがこれほど否定されているのを見ながら、そう感じずにいられる人は少ないのではないだろうか。

 今日、どのような分野にも、人間の作り出した各種の方法論が溢れ返っている。非凡な知恵と知識を得るために、人間はいく通りもの方法を編み出した。人間の肉と魂が作り出したおびただしい種類の老廃物のようなプログラムは、教会の中にも入り込み、ず高く積まれている。何と多くのクリスチャンがそのような人為的方法論に魅了され、その流行こそが知識の源であると思ってそれを追いかけ、イエス以外の道に引き入れられて行ったことだろう…。

 人は、知恵を得て、真理の高みに到達するために、常に、キリスト以外のはしごを自分の力で作り出そうとする。キリストの中に、一切が満ちているということが、理解できず、そうして自ら一生懸命に作り出したはしごに必死になって栄光を帰そうとするのが人間なのだ。だが、聖書は言う、

 「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。」
(コロサイ2:9-11)

 この御言葉の絶大な意味を、誰も人知によっては理解することができないだろう。人知というものは、常に人間の作った遺産を擁護し、私たちの足りない部分を指摘し、幸せな人生を送るためには、それを補う必要があり、私たちにはもっともっと努力することが必要であり、そのために、段階的なはしごを進歩と訓練によって徐々に登っていくことが必要だと、訴えかけて来る。

 しかし、御言葉は、それと全く逆のことを教えている! キリストを得たことによって、私たちは全てを得ているのだと! キリストにあって、私たちはあらゆる束縛からすでに解放され、もうすべての闘いは終わっているのだと! つまり、キリストと共に御座についたことにより、私たちははしごの頂点にすでに登りつめているのであり、これから四苦八苦して、はしごを登っていく必要はないのだと!

 だが、それを理解することは、あまりに畏れ多く、一歩間違えば、はかりしれない傲慢のようにさえ疑われる。本当に、こんなにも、弱く、空しい器である私が、そんな大それた勝利を得て良いものだろうか? こんな私が、責められるところのない者とされて良いのだろうか? こんな私が、キリストと共に御座につくなど、そんなことがあって良いものだろうか? だが、少し考えてみると、それが傲慢でないことが分かってくる、なぜならば、そこでは一切の栄光が、私たち人間にではなく、ただキリストにのみ還元されているからだ。それは私たちが自力でなしたことではなく、ただイエス・キリストだけが成し遂げられたことなのだ。

 御言葉は言う、キリストをいただいている私たちは、神の満ち満ちている一切の徳を内にいただいているのであると。万物の支配と権威の頭であるキリストと共に、私たちは十字架上で死に、まことの命によってよみがえらされた。そうである以上、私たちはキリストの十字架によって、もろもろの支配と権威の武装からすでに解放され、凱旋の行進の中を進んでいるのだと。

 この「もろもろの支配と権威の武装」(コロ2:15)とは、コロサイ人への手紙第2章の他の表現では、「巧みな言葉」(コロ2:4)、「むなしいだましごとの哲学」(コロ2:8)、「世のもろもろの霊力に従う人間の言伝え」(コロ2:8)、「わざとらしい謙遜」、「天使礼拝」(コロ2:18)、「ひとりよがりの礼拝」(コロ2:23)などと表されている。

 この言葉の前に、あえて慎重に立ちどまってみたい。それは、この御言葉が、当時、コロサイ人の教会の中に、一見、謙遜で、神を心から礼拝しているようでありながら、その実、偽りの、邪悪な礼拝が紛れ込んでいた事実を示しているからである。

 今日にも同じことが言えるだろう。神に捧げられているように見える敬虔な礼拝の中の、すべてが本当に神の御心にかなっているわけではなく、中には敬虔を装った邪悪な礼拝というものが確かに存在する。オースチン-スパークスは、「主イエス・キリストの中心性と至高性」の第四章の中で、コロサイ人たちの一部の礼拝がなぜここで糾弾されているのかを明らかにしている。

 その礼拝を作り出した者たちは、御子イエスを礼拝しているようでありながら、その実、イエスの万物の頭としての権威を否定していた。彼らは上位から下位までの超自然的な存在者(天使等)の権威を探り出し、諸々の霊の階級を明らかにし、キリストを、その天使的ヒエラルキーの中の一員に引き下げてしまったのである。

「彼は天使の軍勢、天使の階級の単なる上官のひとりとされました。おそらく、上位に立つ唯一のかしらとされていたでしょう。そして、これらのものが礼拝の対象として示されました。使徒はそれを「わざとらしい謙遜や天使礼拝」とここで言っています。つまり、人々はとても謙遜なふりをして天使たちを礼拝し、霊の領域の上位者たちを崇拝していたのです。<…>ふたたび読むとわかるように、使徒はこれを地的なもの、人から出たもの、有害で邪悪なもの、徹底的に除かれるべきものとして、すべて拒んでいます。なぜなら、非常に真剣で熱心な宗教心の覆いの下で、それはこの一事を巧妙に攻撃していたからです。それは神である主イエスの絶対的至高性を攻撃していました。」

 これは私の想像に過ぎないが、恐らく、そのような天使的ヒエラルキーは、神秘のベールにくるまれて、末端の信者たちには隠されていたため、その偽りの礼拝に通っていたクリスチャンたちの多くが、自分が本当は何に向かって礼拝しているのか、よく知らなかったのではないだろうか。
 聖書は言う、このような礼拝に溺れていた人々は、「幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇」っていた(コロサイ2:18)と。彼らの教えは神秘性のあるもので、一見、イエスを心から崇拝しているように見え、超自然的な力も、伴っていただろう。しかし、彼らは「キリストなるかしらに、しっかり着くことをしな」かった(コロサイ2:19)。つまり、彼らは諸霊から力を得ており、自分たちの権威と力の源が、キリスト以外にはありえないことを認めなかったのである。

「それはキリストを高く上げ、キリストを礼拝するよう導き、受け入れた人の中に霊的に見える恭しい謙遜な態度を生み出しました。また、彼らに道徳的影響を及ぼして、彼らをとても恭しい民、とても謙遜で熱心な民にしました。彼らはキリストへの大いなる信心を持っており、霊的なものは何でも大いに敬っていました。しかしそのせいで、彼らはその深い所に潜んでいる狡猾な悪魔的要素に対して盲目にされたのです。

キリストへの一種の信心を生じさせることや、道徳的向上という要素を伴う神秘的な魂的『キリスト教』(?)を促進することに、サタンは何と成功していることでしょう。しかしサタンはその中に、自分から出たもの、自分の存在、天から投げ出された時より彼の中にある味わい、主イエスから神格における彼の地位の絶対性を差し引くものを隠しています。
 これがこの手紙の背景にあるものです。この手紙が書かれたのは、このグノーシス哲学、この偽りの霊性、この主イエスへの悪魔的信心を暴露するためです。」


 敬虔な日曜礼拝のように見えて、その実、邪悪な内容を持つ礼拝は、今日にも、きっと存在するだろう。その神秘に包まれた教えの実情は、一部の人々以外には知らされず、多くの人々は、自分がイエス以外のものをを礼拝していることにさえ、気づいていないかも知れない。

 オースチン-スパークスも述べている、「愛する人たち、いま述べたことから、終末の時代にいる私たちへの導きを得なければなりません。あなたは私が述べたことを取り上げて、まさにこのような性格を帯びているものに対して適用することができます。また、将来地上で大いに流行することになるけれども、この本質を欠いているものに対して適用することができます。」

 何によって、私たちはこの「本質を欠いた礼拝」を見分けることができるだろうか。それは、もちろん、その礼拝が、人となって地上に来られた神の御子イエス・キリストの中心性と至高性を認めているかどうか、という点によってである。

彼はすべての支配と権威のかしらです。キリストは絶対的に至高であり、唯一至高です。あの階級に属する者としてではありませんし、あの階級の頂点にある者としてでもありません。彼の階級は他のすべての階級を遙かに超越しています。彼の至高性は彼のような者が他にはいないことによります。彼は天使の階級には属しません。彼は被造物ではありません。彼は永遠に神と一つです。
もちろん、あなたにとってこれは新しいことではなく、あなたをあまり熱狂させることでもありません。なぜなら、私たちはみな真心からこれを信じているからです。」


 天使礼拝や、天使の階級表が作られていなくとも、今日、キリストの位置づけがあいまいな教会は多数存在する。あいまいだということは、キリストが至高の存在として認められていないということである。そこでは、天使が崇められているわけではないにせよ、人間がキリストよりも上位に置かれ、人間が礼拝において最も高く掲げられる存在となり、信徒から敬われる対象となっている。人間を見るために、信者が礼拝に通い、人間の能力によって満たされるために、信徒たちが決まった時間に、決まった場所に集うのである。

 神を礼拝しているようでありながら、その実、人を頭とし、人に栄光を帰し、人によって満たされるための形式としての日曜礼拝が作り上げられている。日曜礼拝そのものが、教会という単語と同じく、あまりにも人間の魂の手垢にまみれて、汚されてしまっている。それは、もはや後戻りできないほどに、キリストの至高性を否定し、キリストにある全てに勝る権威を人々の目から覆い隠し、キリストをただの物語に変えてしまい、かえって、何の力も持たない人間に注意を向けさせるためのブラック・ボックスになり果ててしまっているのではないだろうか…。

 だが、私たちの力の源は、誰のメッセージでもなく、誰の発言でもなく、どんな権威ある人々の最新の教えでもなく、ただキリストご自身である。だから、勇気を持って、信じよう、四隅を持った人工的な建物の囲いの中に通い続けることによって、私たちが生きられるようになるのではない、と。御霊ご自身が私たちに命の息吹を吹き入れてくれているのに、人の作った霊的な人工呼吸器に、もはやこれ以上、支配されるようであってはいけないと。

「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。」(コロサイ2:12-15)

 何という恐るべき解放と達成がキリストお一人のうちに成し遂げられていることだろう。私たちは、キリストの十字架を通して、自分たちの罪と不完全性に死んだ。自分を縛るあらゆるむなしい慣習と、自分が不完全であるがゆえに、あれやこれやの努力をして、段階的に階段を登っていかねばならないという、絶え間ない恐れと、それにつけこむ支配に対して、もはや死んだのである。
 私たちを罪に定めるサタン、そして私たちの恐れにつけこんでは、自由を奪い、組織や人間の奴隷にしようとする諸々の支配と権威は、キリストの十字架にあって、すでに私たちに対して何の効力も持たなくなっているのだ! かなり長いが、オースチン-スパークスの文章を再び引用したい。

私たちは十分な結果に至るまでキリストの御業を貫き通す必要があります。そしてその十分な結果は、支配と権威の領域の中に、暗闇の権威、暗闇の支配の領域の中にあります。これは単なる罪(複数)の赦しや罪(単数)からの救いの問題ではないことを、罪人が知ることが重要です。

罪人は知らなければなりません。救いにより、敵であるサタンの権威、支配と権威の権限は、すべて破壊され、打破されました。そして、サタンのあの権利、あの権威、あの合法的支配から、彼らは救い出されました――なぜなら、ここの御言葉がそう述べているからです――キリストにより、彼の十字架によって、救い出されたのです。これは、サタンはもはや何の権利も持っていないので何の権威もないことを意味します。

彼の権威は彼の権利にかかっており、彼の権利は私たちの心の状態に基づきます。十字架はこの状態を取り扱い、彼の権利の根拠を破壊除去し、彼の権威を打ち破ります。これを最後まで貫き通しなさい。

今や、キリストの中にあるものはすべて私たちのためです。キリストご自身が敵に対して彼の至高性を体現しておられます。なぜなら、彼の中には敵の足がかりとなる根拠――敵がその上で野営し、合法的権威を築き上げ、束縛するための土台――が何もないからです。キリストの中にはそのような根拠はまったくありません。私たちが信じる時、キリストは私たちの内におられます。

すでに指摘したように、信仰によってこれを理解するなら、サタンの権威は打ち破られます。なぜなら、私たちの内にはキリストがおられるからです。私たちの内にはキリストがおられ、彼の中にはサタンの権利の根拠はまったくありません。罪から解放されるだけでなく(ふたたび言わせて下さい)、サタンの権威からも解放されること、これは途方もないことです

『神が選ばれた者たちを、だれが訴えるのですか?』 『キリストは死んで、さらに復活させられました』。この意義は何でしょう?訴える者が来て、私たちを訴えようとします。私たちの返答の根拠は何でしょう?おお、私たちの返答の根拠はこれです、『キリストは死んで、さらに復活させられました』。罪に対して、またサタンの権威のあらゆる根拠に対して勝利したキリスト、これが敵の訴えに答える道です

あなたや私は決して自分で敵に当たることはできません。毎回、敵は最高の論陣を張るでしょう。しかし、私たちが彼にキリストを示すことができれば、彼に何ができるでしょう?
『……この世の君が来ます。彼は私の中に何も持っていません』。これは主イエスの御言葉です。彼に何の権威があるのでしょう?キリストの死と復活により、彼の権威はすべて破壊されました。『神が選ばれた者たちを、だれが訴えるのですか?』『あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み』。あなたはこれを理解しておられるでしょうか?これが神が設けて下さった備えです。」

 我がうちにおられるキリスト、栄光の望み! 私はこれを信仰によって理解する。そして神の備えを信じて歩き出す。しかし、カルバリの御業を人生に適用することは、この先もずっと続くだろう、そして、その度ごとに、私は自分が不十分な理解をしか持っていなかったことに気づくだろう。

「人々の背後にいる霊の軍勢に対して、キリストのカルバリの御業の衝撃力を打ち込んだ時、自分が完全な解放を成し遂げていなかったことにあなたは気がつくでしょう。敵は私たちをふたたび恐怖の虜にしようとしていますが、それがどういうことか私たち信者は知っています。暗闇の権威は私たちにとって非常に現実的です。私たちには経験があります。もし彼らに降伏するなら、私たちはおしまいです。敵は暗闇の権威で私たちを侵害しようとします。もしそれに屈服し、降参し、それを受け入れるなら、私たちは打ち負かされます。

私たちが主のものであるなら、キリストは内におられ、キリストは至高です。それをまったく感じていなくても、あるいはとてもひどい気分でも、私たちは前進しなければなりません。自分には到底言えそうになくても、私たちはそれを言います。なぜなら、それは神の事実だからです。そして、神の事実を証言し始める時、私たちは勝ち進みます。敵は信者たちに暗闇の権威を受け入れさせようとしますが、それがどういうことか信者たちは知っています。神の真理の上に立ちなさい。神は私たちの感覚と共に変わることはありません。

神は私たちの意識と共に変わることはありません。私たちのこの人生全体は移ろいゆくものであり、天候の変化より速く移り変わります。しかし神は、移ろうことなく、変わることなく、治めておられます。彼は『昨日も今日も永遠に同じ』です。もし彼が内におられるなら、彼はとどまるために来ておられます。そして、勝利は信仰の中にあります。これを信じ、この上に立ち、これをつかみなさい。彼は万物の主であり、『すべての支配と権威のかしら』です。この最後の完全な結果に至るまで、私たちはこれを貫き通さなければなりません。サタンは時々、『自分は卓越した地位にあり、至高の地位にある』と私たちに信じさせようとします。しかしカルバリ以降、彼はそうではありません。私たちはそこに立ちます。

 主は、すべての領域で至高である、愛する御子の中で、私たちに新たな喜びを与えて下さいます。」

 神の変わることのないご計画、そして、神のまことと誠実さに感謝しよう。何と大きな勝利の約束が予め私たちに与えられていることだろう。これがイエスと共に御座につくことの意味である。御座とはキリストの至高性を象徴している。私たちは万物の頭なるキリストの主権に服することによって、キリストと共に、万物のはるか上にある御座について安息し、敵をはるか足の下に踏みしだいているのである。サタンはすでに捕虜となって、私たちの凱旋の行列の中でさらしものにされている。

 キリストの至高性を認めることが、クリスチャンの勝利の秘訣である。それを認めなければ、私たちには、暗闇の支配と権威に対するどんな勝利もないだろう。あらゆる支配と権威に勝る、キリストの絶大な権威が、実際に諸々の問題を貫いて適用される時に、私たちの人生に、今まで知らなかった勝利がもたらされ、大いなる喜びが増し加わるだろう。