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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

死人を葬ることは死人に任せなさい―肉による情愛や、弱者救済を口実に、エクレシアにこの世を公然と持ち込むプロテスタントの偽牧師たち ―

・肉の情や、弱者救済を口実に、エクレシアにおける天的な秩序と地的な秩序を逆転させて、教会の主人をキリストからこの世(悪魔)へと変えようとするプロテスタントの偽りの牧師たち
 
一つ前の記事では、プロテスタントのキリスト教界が、牧師制度という人間崇拝の罪なる制度のゆえに、取り返しのつかない腐敗に陥っており、聖書に基づく正常な信仰生活を送りたい信者は、牧師制度と訣別し、キリスト教界を出るしかないという確信を述べた。

この確信は、当ブログ始まって以来、一貫して述べて来たものであるが、筆者がキリスト教界を出るべきと述べる最大の根拠の一つが、今日、教会の名で呼ばれるプロテスタントの教会組織では、「エクレシア(教会)とは、何を目的とする、誰のための、誰から構成される共同体なのか」という問題が、全く滅茶苦茶に扱われており、多くの牧師たちが、エクレシアの存在目的を完全にはき違え、これを神のために贖われた人々による構成体から、贖われない人々の利益に仕える共同体へと変えようとしている点にある。

聖書におけるエクレシアとは、「清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげ」られた(Ⅱコリント11:2)信者たちから成るものであって、教会は、キリスト以外のものに仕えるべきではない。だが、プロテスタントの牧師制度は、この時点で、すでに教会をキリストだけに捧げられたものではなく、牧師という人間に捧げられ、牧師の利益に奉仕する団体へと変えてしまうことによって、教会から貞潔を失わせ、教会を堕落させるのである。

こうした堕落によって、牧師たちは第一にキリストだけに捧げられたはずの花嫁なる教会を強奪し、己の利益のために私物化する。そして、さらなる段階として、強奪したエクレシアを、神の栄光のために仕える共同体から、人間の地的な欲望を満たすために、世人の利益に仕える共同体へと堕落させるべく、「この世の虐げられた弱者」や「マイノリティ」の存在を口実に、教会を拠点に、信仰を持たないこの世の人々を対象とする社会奉仕活動や、マイノリティ救済のための慈善事業を繰り広げるのである。

今日、プロテスタントの諸教会においては、マイノリティへの支援のための社会奉仕活動は、今やペンテコステ系の教団だけの専売特許ではなくなり、プロテスタント全体のトレンドのようにさえなっている。カルト被害者救済活動、ホームレス伝道、ヤクザや、病者、障害者などの社会的弱者を対象とする各種のお涙頂戴の支援活動が行われ、その上にさらに、フェミニズム運動、反原発運動、反安倍政権デモ、沖縄問題なども加わり、弱者救済のための社会活動、政治運動を、今や公然と教会の中心に据える牧師もいる。

カトリックが世俗化した結果、慈善事業に力を入れて、世の方を向いて行ったように、プロテスタントも、すっかり塩気を失った教会として、世に優しく、世のために奉仕する、世人のための、世俗的な宗教に成り果てているのである。

こうして、プロテスタントにおいては、世から召し出された人々から成るはずのエクレシアの天的な秩序が、地的な秩序に取って代わられ、社会活動に従事する牧師たちの教会では、贖われた信徒が教会から追い払われる一方、贖われない罪人が公然と教会に出入りし、教会からキリストの義と聖と贖いが消え去り、この世の他宗教と何ら変わりない、世俗化した世人の組織だけが残って行くのである。
 
* * *

以上のようなプロテスタントに蔓延するマイノリティの救済を口実とした教会世俗化の傾向は、たとえば、当ブログですでに批判的文脈で引用した「苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳」の執筆者である水草牧師の主張の中にも如実に表れている。
 
水草牧師が前掲の記事の中で、教会が不信者の葬儀に関わることに賛同していることについて、筆者は、それは聖書的見解ではないとして反対する趣旨を、記事「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。死人を葬るのは死人に任せなさい。」に記した。水草牧師は、筆者がこの記事で示した見解に対する反論として、前掲の記事に追記を記し、その中で、まず筆者を「匿名氏」と呼んで、筆者のペンネームを意図的に無視した上で、筆者がまるで得体の知れない不審人物であるかのように強調することで、筆者の提示した議論の信憑性を読者に見失わせようとすることから話を始めている。

水草牧師のこの発言は、明らかに、かつて杉本徳久が筆者を「匿名に隠れている」と言って、いわれなく非難して、筆者に名を明かせと強引に迫り、筆者がもしその要求に応じなければ、筆者の個人情報を無断で公開することで制裁を加えるなどと脅迫したことを念頭に置いており、要するに、この牧師は、そうした杉本の行為に暗に賛同の意を示して、筆者を非難する側に回っているのである。

だが、牧師が実名でブログを書くのは、自分の職業の一環として、報酬をもらって、公人の立場から行っていることであり、これを報酬も受けず、世で栄光を受けないために、あえてペンネームで信者が述べている信仰告白と、一緒にして論じること自体が、土台、ナンセンスな注文なのだが、そのことは、この人々には言っても分からないであろう。

公人に等しい牧師と、私人としての信徒の立場は異なるものであり、公開する情報に差が出るのは当然で、信徒が牧師と同じように個人情報を公開しないからと言って、信徒を責めるのは筋違いである。ましてそれに制裁を加えるために個人情報を探り出し、情報共有し、無断公開するなどは犯罪でしかない。

しかし、水草牧師は、筆者を「匿名氏」呼ばわりすることで、暗黙のうちに、筆者を脅した杉本の言い分に同調し、自分は、実名を明かしてブログを書いているので、自分の言い分には信憑性があり、筆者のような得体の知れない信徒の信憑性の疑わしい議論とは格が違うと、自分を誇っているのである。

こうして、自分への批判者が現れた際に、まずは論敵を侮辱したり、未熟者扱い、不審者扱い、果ては狂人扱いまでして、論敵の人格と印象を貶めることで、議論の本質を巧妙にごまかしながら、自分を高く掲げ、自分の結論だけが正しいかのように主張する手法は、村上密牧師やその支持者たちに不思議なほど共通する。

水草牧師の追記が書かれたのが、昨年の12月末であることを見ても、この時点では、杉本はまだ筆者を刑事告訴できると信じていた可能性があり、 筆者は、筆者を何が何でも有罪に追い込みたいと狙っていた同氏の計画と行動が、杉本という一人の人間だけによって行なわれて来たことだとは思っておらず、その背後に、キリスト教界の牧師制度を温存させたい勢力の思惑があったことを全く疑わない。

要するに、杉本のような思想が、一般的な牧師の精神なのである。そこから、いかに牧師という人種が、信徒を自分と対等の存在とみなさず、常に自分は信徒の一段上に立つ者と考えて、信徒を見下しながら、自分にはものが見えているかのように誇り、かつ、自分の活動に反対する信徒は、徹底的に正体を暴露し、あわよくば、制裁を加えても良いといった恐るべき考えの持ち主であるかが分かり、水草牧師の短い言葉を通しても、それは十分に伺い知ることができる。

だから、水草牧師がどんなに丁寧な語調を使っていても、それだけにより一層、「匿名氏」という一言で、この牧師が筆者に対して込めた皮肉と敵意、またその言葉に込められた高慢さが、はっきりと理解できるのである。

だから、筆者は、このような精神の持ち主ばかりが溢れる牧師たちに向かって、信徒が自分の個人情報を誰彼構わず無防備に開示することは、絶対にやめた方が良い危険行為として、全くお勧めしない。彼らが何のために信徒の情報を使うか分からないからである。この人々がどんなに信徒に向かって名を明かせ、個人情報を明かせと叫んだとしても、個人情報をどの程度まで公にするかは、あくまで本人の判断によるものであって、他人に指示されて行うべき事柄ではない。安易な情報開示は、自分や関係者を危険にさらすだけであるから、絶対にやめた方が良い。
 
さて、杉本の筆者に対する非難は、「匿名に隠れている」という非難も含め、ことごとく根拠なきものとして退けられ、告訴の材料にもならなかった。それによって、逆に、杉本が自分の実名、住所、電話番号を自らネットに公開していたことが、どんなに危険で推奨できない行為であるかが判明したと言っても良い。自分が個人情報を開示しているからと言って、他人にまで同じ行為を強要したり、個人情報を公開していないから他者の言い分に信憑性がないと主張するなどナンセンスでしかない。

さて、水草牧師のブログ内容は、反原発運動なども含め、福音伝道という教会の本来的な使命からは逸れた、社会活動家のような内容も多く、要するに、それらは、村上密や杉本徳久がこれまでそうして来たように、世の悪事に敏感で、不正を見逃せない人間が、「正義の味方」のように弱者を虐げる巨悪を糾弾するといった勧善懲悪の理屈に基づいている。

しかしながら、筆者がこれまで一貫して述べて来たのは、こうして自分があたかも世の虐げられた弱者の味方であって、世の悪事を正す正義の味方であるかのように振る舞いたがる人間、特に、教会を利用して、そのような世直し的な活動に乗り出し、それを自分の名と結びつけたがる人間ほど、その内心は、危険な思い込みに満ちており、その活動は、真に隣人への愛からでなく、彼ら自身の利益や名誉のために行われている可能性が高いということである。

この点で、水草牧師の活動にも、筆者は、これまで記事の中で幾度となく取り上げて来た、プロテスタントの数多くの教会で行われる、信仰に基づかない弱者支援の社会活動、たとえば、ホームレス支援を行う奥田知志牧師や、十字架行進を行うアーサー・ホーランド牧師、カルト被害者救済を唱える村上密牧師などの活動と根本的に共通する問題を見るのである。

記事の冒頭で述べた通り、こうした牧師たちの活動の危険は、彼らが「エクレシアの本質は何か」という問題を、完全にはき違えている点にこそある。

水草牧師は、反原発運動に関わっている事実からも分かるように、世の虐げられた弱者を支援するために、教会はその弱者に信仰があるかないかを問わず、積極的に彼らのために声をあげ、彼らに助けの手を差し伸べるべきという考えの持ち主であるらしいと推測される。そして、おそらくは、その文脈でこそ、教会が不信者の葬儀を行うことも、教会から世への奉仕の一環として認めているのだと考えられる。

つまり、水草牧師は、マイノリティへの社会的支援を教会活動の主軸に据える他のプロテスタントの牧師たちと同様に、教会は信者の利益だけでなく、この世の弱者を支援して、非信者である世人の利益にも仕えるべきとの見解を持ち、その考えの延長線上で、反原発運動を推進したり、不信者の葬儀を行うことを教会は拒むべきでないと考えたりしているものと思われる。

水草牧師が、世人に対する神の憐れみを強調して、クリスチャンがそれにならう行為として、教会が不信者の葬儀を執り行うことに賛同している様子は、同氏の記事内容から明白である。もう一度、同牧師の文章を引用する。

「聖書を啓示された神は、天地万物の創造主であり、宗教を問わず私たちすべての人間に生命を与えてくださったお方です。父なる神は御子キリストにあって万物を創造し、人間にいのちを与えました(ヨハネ福音書1:1-3、コロサイ1:15-17)。その意味で、真の神は、キリスト者の神であるだけでなく非キリスト者の神でもあります。 「 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。」(ローマ3:29,30)

 また、聖書によれば、人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっていて、人はみな「キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いをうけることになる」(2コリント5:10)のです。キリスト教徒はキリストのさばきを受け、仏教徒は閻魔大王のさばきを受け、イスラム教徒はアッラーのさばきを受け、無神論者はさばきを受けず無に帰するなどと聖書は教えていません。すべての人がキリストのさばきを受けます。

 このように、聖書によれば、非キリスト者も、真の神からいのちを受けてその地上の生涯を送り、死後はキリストのさばきを受けるのです。だとすれば、非キリスト者の葬にもキリスト教会がかかわるのは、当然ありうることであって、否定すべき筋のことではないでしょう。」

この文章のどこに問題があり、このような考え方の何が異常であって、なぜ反聖書的なのかを、以下で、丹念にさらって見て行くことにしたい。

まず、水草牧師は引用の冒頭部分で言う、「聖書を啓示された神は、天地万物の創造主であり、宗教を問わず私たちすべての人間に生命を与えてくださったお方です。父なる神は御子キリストにあって万物を創造し、人間にいのちを与えました(ヨハネ福音書1:1-3、コロサイ1:15-17)。その意味で、真の神は、キリスト者の神であるだけでなく非キリスト者の神でもあります

ここで同牧師は、神が「すべての人間に生命を与えてくださった」という事実を持ち出し、すべての命は、聖書の神に創造されたものであり、不信者の命も、元を辿れば、聖書の神に創造されたものであるから、その意味で、聖書の神は、非信者の神でもある、と結論づける。

だが、これは、牧師が自ら認めているように、すべて一般恩恵に関わる話でしかない。

一般恩恵とは、キリスト教用語で、聖書の神を信じず、救われていない罪人であっても、誰しも信仰の有無に関わらず、受けられる神の恵みを指す。たとえば、神の創造されたこの地球上で、人々がまことの神への信仰がなくとも、自然界から様々な恩恵を被って生きていることも、それに該当し、あるいは、この牧師が以上で述べているように、死ねば誰しも信仰の有無に関わらず、神の前でさばきを受けることも、(さばきが恩恵という言葉にふさわしいかどうかは別として)、広義で一般恩恵の概念に含まれると言えるかも知れない。

これに対して、特別恩恵とは、キリストの十字架の贖いを個人的に信じて受け入れた信者しか、受けることのできない神の恵みを指す。信者がキリストを自らの救い主と告白して、罪の赦しを得、魂が贖われ、永遠の命を受けて、神の国の相続人となり、その信者に聖霊を通してキリストが内住され、キリストが信者のために義と聖と贖いとなられること等々は、決して非キリスト者には与えられない恵みである。

問題の核心は、この点にある。要するに、水草牧師は、一般恩恵と特別恩恵の二つを同列に論じることで、「教会とは誰の権益に仕えるものであり、誰によって構成されるものか」という問いへの答えを巧妙にごまかし、すり替えているのである。

つまり、この世は、キリストの救いを信じず、贖われていない罪人のための場所でもあるため、世では罪人も恩恵を享受できる。だが、エクレシア(教会)は、キリストの救いを信じて贖われ、この世から召し出された、特別恩恵を受ける者たちだけから成る構成体であり、神の国の統治が及んでいる復活の領域であって、不信者のための場所ではない。教会は贖われていないこの世の不信者のための場所ではないのである。

主イエスは言われた、人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によて生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが知ったことを不思議に思ってはなりません。」(ヨハネ3:5-7)

「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:22-23)


このように、聖書におけるエクレシアなる教会は、ただキリストの贖いを受け入れ、水と霊によって新しく生まれ、キリストの戒めを守って御言葉にとどまり、キリストの頭首権に服し、神の国の相続人とされている、「キリストの花嫁」たる信者のみから構成される。

むろん、キリスト者は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)という使命を与えられている以上、不信者のもとをも訪れるべきなのである。だが、その目的は、福音を宣べ伝えることにこそあり、不信者の日常生活のニーズに応えたり、マイノリティを支援することによって、世人の地上的な欲望を満たす助けとなることにはない。慈善事業、社会活動が目的ではないのである。

また、いわゆる大宣教命令と呼ばれる以上の御言葉のすぐ後で、主イエスが「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:16)と続けられたように、たとえキリスト者が福音を宣べ伝えても、聞いた者がそれを信じないなら、その者は、救われず、神の教会の構成員ともならない。信じてバプテスマを受けた者だけが、神の教会に加えられるのである。

だから、聖書における教会の概念の中には、明らかに、一般恩恵しか受けておらず、朽ちゆくアダムの命しか持っていない、水と御霊により新しく生まれていない、永遠の命を持たない非キリスト者は含まれない。

ところが、水草牧師は、この重大な事実には言及せず、むしろ、一般恩恵が非キリスト者にも及んでいるという点だけを強調することによって、教会は、御霊を受けていない、アダムの朽ちゆく命しか持っていない、特別恩恵にあずからない、この世の不信者とは、本来的に何の関わりもないという聖書の動かせない事実を覆い隠すのである。

そして、教会は、信者だけでなく、不信者をも憐れみ深く扱って、不信者にも門戸を開き、不信者の利益のために仕えることを拒むできではないとの見解を述べるのである。

ここには、一般恩恵と特別恩恵との巧妙な混同による、ある種の作為的な、悪魔的とすら言える概念のすり替えが存在する。

つまり、天的なものと地的なものが意図的に混同されて、教会の本質がすり替えられているのである。非信者を生かしている動物的な生命(アダムの命)と、キリスト者を生かしている永遠の命とが、決定的に種類の異なるものであり、人間が誰しも持っている堕落した命だけでは、神の御国に入れず、教会の構成員ともならないという点が、巧妙に覆い隠されているのである。こうして、神の国に入るための境界線が曖昧にされることにより、永遠の命を持つエクレシアに、本来、入れるはずのない罪人が招かれ、信者が不信者に歩み寄って、不信者の利益に仕える必要が説かれるのである。

このような転倒した理屈を用いて、こうした牧師たちは、エクレシアが、特別恩恵を受けていない、この世の不信者とは全く無縁の共同体であるという聖書の事実を人々の目から覆い隠す。その当然の結果として、起きるのが、教会の堕落、世俗化である。

水草牧師は、自らの考えに批判があることを承知でこの記事を書いている。その証拠に、あえて次のような文章を初めから記事に入れている。

ある人たちは、キリスト教会が非キリスト者の葬にかかわることは世との妥協であると考え、それについて否定的でしょう。悔い改めてキリストを信じた者のみが、キリストにあって神の前における罪のゆるしと永遠のいのちに与るのであるから、キリスト教会が非キリスト者の葬儀に携わることはありえない、と考えるのであろうと思います。

従来のキリスト教界の教会は、水草牧師が書いている通り、不信者の葬儀を行うことに否定的であった。同牧師が述べているような見解は、その伝統の中では、当然ながら、世との妥協、さらにもっと進んで、教会の堕落として非難された。

そのような行為は、何が神の目に聖なるものであって、何がそうでないか、聖書における明確な区別を信者が廃して、キリストの十字架における罪人と贖われた者との分離を、巧妙に人の目から覆い隠し、教会の存在意義を失わせ、教会が自らの聖を失って、世(悪魔)に迎合することを助長するものであり、必ず、教会が堕落するきっかけとなる。

だが、水草牧師は、そうした批判を意に介さず、非信者も一般恩恵を受けているということだけを理由に、「真の神は、キリスト者の神であるだけでなく非キリスト者の神でもあります。 」と述べて、それを根拠に、教会は不信者の葬儀をも拒むべきではないと言って、教会が不信者の利益に仕えることを正当化するのである。

しかしながら、聖書ははっきりと、真理はその反対であることを告げている。不信者と、つりあわぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう」(Ⅱコリント6:14-15)

彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主は言われる。」(Ⅱコリント6:17-18)

このように、十字架は常にこの世と贖われた者たちとを分離する。世から召し出されたキリスト者の第一の使命は、神に聖別されたものと、そうでないものとを明確に区別し、自らの聖別の根拠を守ることにこそある。御言葉は、信者と不信者とを明白に切り分け、両者の間に、何の関わりもないことを、はっきり告げている。だが、それは信者が世から出て行くべきという意味ではなく、教会に世を持ち込まないことによって、教会の聖を守るべきと言う意味である。
 
非信者は、ただキリスト者と同じ神を信じていない、救われていない人々であるだけではない。彼らにはれっきとした「ほかの神々」が存在する。信じているものが、神と呼ばれていなかったとしても、非信者は例外なく、聖書のまことの神を敬わず、それ以外の何らかの他の対象を拝んでいる偶像崇拝者だと言って良い。

だから、この点を無視して、水草牧師のように、一般恩恵を受けているというだけの理由で、「真の神は、キリスト者の神であるだけでなく非キリスト者の神でもあります。 」と述べて、聖書の神を拒んで偶像を拝んでいる非キリスト者も、最終的にはキリスト者の神の支配下にあるかのように主張し、それを根拠に、「信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう」という聖書の御言葉を否定して、不信者の葬儀にも積極的に関わり、それを機に、教会に不信者のために門戸を開かせ、不信者の利益に仕えることを正当化することはナンセンスであり、聖書の教えに決して合致しない。

この世は非キリスト者の葬儀を行っても何の問題もないが、教会がこの世の不信者の葬儀に自ら関わることで、不信者の利益に仕えることは、教会がその不信者を通して、彼らの拝んでいる別な神に奉仕することと同じであって、それは聖書が認めている事柄ではない。
   
はっきり言っておくが、神の権益に仕えることと、世の権益に仕えることは、決して両立しない。貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」(ヤコブ4:4-5)
 
キリスト者の神は、唯一の神であり、あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。<…>それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、妬む神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(申命記5:7-10)と言われる神である。

だから、教会が世の不信者の利益に仕えることは、その不信者を通して教会がこの世の神(サタン)の利益に仕えることと同義なのである。人助けをしたいという人情に駆られて、あるいは弱者への憐れみから、それを許すなら、その信者はやがて必ず悪魔に魂を売ることになる。

水草牧師は、追記の中で、不信者の葬儀を執り行うことの必要性を「キリスト者の家族が未信者のまま亡くなり、そのキリスト者が他宗教式葬儀の喪主の立場にならざるをえない状況にある場合を念頭においてのことのことです。」という状況に限定し、宗教ビジネスとは関係ないと弁明する。

だが、ここにも、論理の大きなすり替えが二つほどある。

第一に、教会で行われるすべての葬儀(冠婚葬祭)には、事実上の謝礼金が支払われる以上、それがビジネスとしての要素を含むものであることは、どんなに牧師が否定したとしても、客観的には誰も否定できない事実が無視されている。

第二に、水草牧師は、「非キリスト者一般に教会で葬儀をするほど暇な牧師はいないでしょうね。偽牧師以外は。しかし、匿名氏がいうように、今後は、ブライダルのように、セレモニーホールのイミテーション牧師・司祭が出現する可能性はなくはないかもしれません。」と皮肉を込めた調子で、不信者の葬儀をブライダルのようにセレモニーとして行う牧師こそ、偽牧者であって、自分は、信者からの要請に基づき、極めて限定された機会に、限定された形で不信者の葬儀を教会で執り行うことを認めているだけだから、葬儀を売り物にする偽牧者には該当しないと、争点をずらして答えている。

だが、筆者が指摘した点は、そういうことではない。教会で非信者を対象とする葬儀が(ブライダルのように)どれほど大々的に、かつ、頻繁に行われるかどうかが問題なのではなく、そもそも不信者の葬儀を教会が行うこと自体が、聖書に根本的に反しており、そのような活動に謝礼金が支払われることも問題であり、こうしたことは、聖書の教えに反する、教会の堕落へとつながる深刻な行為だという点である。

葬儀がどれくらいセレモニー化して、どれくらい大量に教会で行われるかといった、数や規模の問題ではないのである。

この世の多くの葬儀屋は、他宗教式の葬儀だけでなく、キリスト教式の葬儀も受けつけているため、信者がこの世の葬儀屋に身内の葬儀を依頼したからと言って、それは必ずしも、信者が他宗教の葬儀の喪主になることを避けられないという状況には結びつかない。そうした状況自体が、極めて稀なケースであると言えるが、どのような事情があるにせよ、キリスト者が、信仰によらない肉に過ぎない家族関係を、公然と教会の中に持ち込むことで、肉の家族関係を御霊による家族関係と同列に置き、教会が不信者の利益に仕えることで、神の国を宣べ伝える使命から逸れて行くことの危険は、絶対に無視できないものである。

すでに述べたように、教会とは、贖われた者たちからなる構成体であり、信者がキリストに従うことや、御霊による神の家族の絆は、肉なる家族関係よりも優先される。その意味でこそ、主イエスは、弟子たちの前で、ご自分の母や兄弟たちを退けて、次のように言われたのである。

「イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。

しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」

それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(マタイ12:46-50)

この箇所は、エクレシアにおいて、肉の家族の絆が、決して、御霊によって結ばれた神の家族の絆よりも優先されないことを、主イエスご自身が自らを手本として示されたものである。
 
肉の家族の絆にこだわり、これを御霊による家族よりも優先することが、主イエスに従う妨げとなりうることを、主は別の個所で、次のように示された。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:37-39)

この箇所は、一般恩恵に過ぎない、朽ちゆく魂の命によって結ばれただけの、肉的・地上的な家族の絆が、永遠の命なる御霊によって結ばれた家族関係に決して優らないこと、前者を後者より優先する者は神の国にふさわしくないことを述べたものである。

このテーマについては、水草牧師自身が、別の記事「平和でなく剣を」の中で触れており、そこで、「まずは主イエスを愛することです。まずは、自分自身がイエス様を信じて、永遠のいのちを与えられることを最優先にすべきです。」と述べて、親孝行も大切だが、それが決してキリスト者として神に従うことよりも優先されてはならないと述べている。

ところが、この牧師は、一方ではこのように言いながら、他方では、不信者の肉親の葬儀を教会で行うことが、信者が御霊による家族の絆を差し置いて、肉による家族の絆を優先することを意味し、その信者は、自分の肉の家族関係を教会に公然と持ち込むことによって、朽ちゆく魂の命を神の永遠の命よりも高く掲げ、教会を不信者の肉親の利益に仕えさせる場とすることにより、教会をこの世に仕えさせ、神の国のための働き人という使命を妨げているのだという認識を全く持たないのである。

さらに、水草牧師は、筆者が引用した、死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」(ルカ10:60)というくだりをも、「葬儀を中心とするテーマでなく、献身を中心としたテーマだ」と強調することで、論理をすりかえ、争点をごまかす。

まず、福音書から、該当の箇所をもう一度、引用してみよう。

「イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」

しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」

すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」」(ルカ10:59-60)


水草牧師は、この聖書箇所について、次のように追記している。

「→この「父を葬るまで」の箇所の意味は、伝道者として召された者が、献身を延期にする口実として「父を葬るまで」と言っていることに対して、神の国の宣教の緊急性を述べている箇所です。当時ユダヤ教では「父を葬る」ことは他の宗教的義務に最優先したので、こういう口実を設けたのです。葬儀を主題としている文脈ではありません。」
  
これは極めて理解しにくい難解な説明である。あえてこのような表現で、自分が何を言わんとしているか、はっきり結論を示さないこと自体が、巧妙なごまかしのトリックであると言える。

水草牧師が以上の説明を通して、言わんとしていることをあえて意訳するなら、次のようになろう。

この聖書箇所では、当時のユダヤ教の慣習においては、父を葬ることは、最も重んじられている義務的行事の一つであるという背景があり、この信者は、その慣習を持ち出して、身内としての義務を自分が全て果たすまで、主イエスへの献身は延期させてほしいと願い出たわけですが、主イエスは、それに対し、神の国を宣べ伝えることの緊急性はそれに優先することを示され、主イエスに従うことを願う伝道者が、この世の慣習や不信者の身内への義務を果たすことを口実に、献身を後回しにして延期すべきではなく、まずは信者が献身し、主に従ってから、その後、家族を葬れば良いという優先順位を示されたものです。

水草牧師の主張全体から察するに、この牧師は、明らかに、信者が献身した後でならば、不信者の葬儀に携わっても良い、と考えていることが推察される。もしそうでなければ、不信者の葬儀を教会で執り行うこと自体、許可するはずがないからである。

しかしながら、水草牧師は、「これは葬儀を主題としている文脈ではない」という口実の下、あえて下線を引いた後半部分を述べないことによって、自分の主張を曖昧にごまかしている。つまり、信者の献身は、神の国の宣教の緊急性に関わる事柄であるから、身内の葬儀などの全ての地上的な事柄よりも優先されるという前半部分だけを述べて、それでは、信者が献身した後でなら、不信者の身内を葬るために家族のもとへ戻ることを、主イエスはお許しになったのか? という後半部分の争点を覆い隠してしまうのである。
 
果たして、主イエスは、この聖書箇所を通して、この点について何を示されたのか?

ここに登場する信者が、実際に、父が死んで間もなく、早急に父を葬る必要性に迫られていたのか、それとも、父はあくまで健在であり、葬儀を早急に行う必要はなかったのに、身内としての義務を果たすことを口実に、主イエスに従うことを延期したいと申し出ただけなのか、詳しい事情は、聖書に書かれていないのでよく分からない。

だが、少なくとも、主イエスの台詞が、信者に肉親への愛情と、主イエスに従うことのどちらを優先すべきか、判断を迫るものであったことは、誰しも理解できる。そのことは、上記の御言葉のすぐ後に、別なたとえとして、「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」と申し出た別の信者が、「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」と、主イエスにいさめられたくだりを見ても分かる(ルカ9:61-62)
 
注意しなければならないのは、主イエスが、「まずわたしについて来なさい。その後でなら、不信者の家族を葬ってもよろしい。」などとは決して言われなかったことである。

むしろ、主イエスは「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」と言われたことにより、信者が不信者の家族の葬儀に携わりたいという願いそのものを無期限に延期し、事実上、却下された。これは、いとまごいに帰りたいと申し出た信者に対しても同様である。

つまり、信者はいつまで神の国を言い広めたら、不信者の家族のもとへ戻り、身内への義務を果たしても良いのか、その点について、主イエスは一言も言及されなかった。それどろこか、信者が肉親の情にとらわれ、家族への義務を優先することは、召し出されて去って来たはずの世界を未練がましく振り返り、「うしろを見る」行為だから、神の国にふさわしくないと言われたのである。

つまり、主イエスは、信者が肉親への情や義理人情を優先して家族のもとに帰ることと、主イエスに従うことは両立せず、信者はどちらか一方しか選択できず、どちらかを永久に捨てるしかないと選択を迫られたのである。

だからこそ、主イエスは、神の国や、御霊によって生まれた神の家族である兄弟姉妹の前に、ご自分の肉による家族の絆を無いも同然のごとく扱われ、「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」と言われ、また、「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」と言われたのである。

ここで言う「死人」とは、要するに、一般恩恵としての朽ちゆくアダムの命しか持たず、特別恩恵としての神の永遠の命を持たない不信者を指している。

救われておらず、永遠の命を持たない不信者は、神の目に真に生きていると言えず、エクレシアとも何の関係もない。だからこそ、主イエスは彼らを指して「死人」と呼ばれたのである。

そして、「死人」に過ぎない不信者たちの必要をかなえることは、教会の使命ではなく、神の国の到来を宣べ伝える宣教の緊急性に比べ、はるかに取るに足りない無益な事柄であるから、世から召し出されたクリスチャンが、そのような地上的・肉的な事柄にとらわれて時間を浪費し、宣教を後回しにするのはやめて、地上のことは地上の人たちに任せなさい、と忠告されたのである。

だから、この聖書箇所で主イエスの述べられた内容は、水草牧師が暗に述べているように、ただ信者の献身の緊急性だけを強調して、信者が献身した後でなら、不信者の身内の葬儀を教会で行っても構わない、ということではない。

むしろ、この箇所は、主イエスが、信者が主イエスに従い、神の国を宣べ伝え、天的な秩序をこの地上にもたらすために働くことは、常に第一優先すべき変わらない召しであって、神の国の秩序は、永遠にこの世的な秩序よりも優先されるべきで、この永遠に揺るぎない法則性を、信者の身内の葬儀という些細な出来事をきっかけに変えてはいけないと、示されたものに過ぎない。

召し出された者は、朽ちゆくもののためでなく、朽ちないもののために働くべきであり、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」(マタイ22:32) とあるように、この世の事柄は、信者が心を砕くべき問題でなく、放っておいても、この世が適切に処理する。だから、信者は肉の家族や、地上的な事柄への思い煩いを一切手放し、ただ主イエスに従うことだけを念頭に置いて、それにのみ心を砕いて生きなさい、と示されたのである。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)とは、そういう意味である。

この箇所に限らず、聖書の御言葉は、朽ちないものが、朽ちるものに優先し、見えないものが、見えるものに優先し、御霊に属する命が、肉なる命に優先し、天的な秩序が、地的な秩序に優先するという秩序が、永遠に動かしがたいものであることを随所で示している。

つまり、御言葉によるもの、御言葉への信仰によるもの、十字架を基礎とするものだけが、信者にとって、永遠に続く真のリアリティであって、それ以外の、この世の滅びゆく事象は、たとえ肉親への情や義務であっても、すべて無きに等しい影のようなものに過ぎないのである。

だから、世から召し出され、特別恩恵にあずかる、水と霊によって新しく生まれた、神に聖別された信者からなる、キリストの花嫁たる教会は、キリストに服し、その御言葉に忠実に従うキリストの御身体として、また、ただ一人の花婿キリストだけに仕える貞淑な花嫁として、救いを受け入れず、贖われていない罪人とは一線を画し、この世の不信者の利益に仕える道具とならず、また、牧師という人間に過ぎない者に栄光を帰してキリストを裏切ることなく、ただキリストにのみ栄光を帰するために生きるべきなのである。

もしキリスト者が自らこの線引きを曖昧にして、召し出された者と、そうでない者との区別を曖昧にし、不信者をも積極的に教会に招き入れ、彼らに憐れみをかけ、彼らの利益に仕えるならば、その行為は、教会が自らの聖別の根拠を否定して、世の軍門に下ることを意味し、教会はその行為によってキリストへの貞潔を自ら捨てて、この世の人々の拝んでいる別な神に仕えるのである。その結果、その教会は堕落し、キリストの花嫁というより、大淫婦バビロンと呼ぶべきものへと変わって行くのである。
 
そのことの恐ろしさが、上記牧師を含め、多くのプロテスタントの牧師には、分からないのである。

そういうことが起きるのは、これらの牧師たちが、キリストを知らないからである。彼らは自分が救われておらず、贖われてもいないからこそ、常に救われていない世人に傾倒し、一般恩恵しか受けていない人々に寄り添い、彼らに同化して行くのである。

水草牧師の主張の危うさは、同牧師が、不信者の故人は救われていないのだから、葬儀の際、信者の故人とは明確に区別されなければならないと述べながらも、両者を区別する台詞として、次の点しか示していない点にもよく表れている。

「「故人は、心と言葉と手をもって行なった善悪のすべてをご承知の聖なる神の公正無比のさばきのもとにあります。」と伝えねばなりません。


神が故人に賜った一般恩恵を感謝し、死後に公正な神のさばきがあることを伝える、これば要点ということになるでしょう。」。

筆者は、教会で不信者の葬儀を取り扱う際には、不信者の故人の魂が救われておらず、それゆえ、故人を待ち受けるのは、神の裁きと、地獄における永遠の刑罰であるという事実を、どんなに残酷に感じられても、牧師は遺族や列席者の前ではっきりと伝えるべきであり、それができないならば、葬儀を執り行うべきでないと述べた。
 
これに対して、水草牧師は、信者の故人と、不信者の故人を区別することはあくまで必要としながらも、その区別を示すために、「死後に神の公正なさばきがあり、故人の行った善悪は、神が公平にさばいて下さいます」といった、聞いた人の思惑次第で、どのようにでも解釈可能な、極めて耳障りの良い言葉だけしか使わない。

罪や、地獄や、滅びや、永遠の刑罰と言った言葉は一切、使わず、ただマシュマロのように甘く響く、耳障りの良い、不信者にも優しい言葉だけを並べるのである。

一体、これでは、どうして牧師が信者と不信者の故人の区別を、人前で明白に行ったと言えるだろう。こんなことでは、どうして教会が、世から贖われた者として、天地の前で、何が神に受け入れられる聖なるものであり、何が神が忌み嫌われ、罪に定められるものであるか、その違いを明確に世人の前に区別して証言したと言えようか。

筆者は、不信者の葬儀を教会が引き受ける限り、必ず、こういうことになるとの見解を述べた。つまり、故人の尊厳を傷つけないために、教会は、聖なるものと、俗なるものとの区別について自ら沈黙し、言葉を濁し、神の愛や憐れみの概念を悪用して、救いに関する重要な線引きをごまかしながら、世人の利益に寄り添うことになるしかないと述べたが、まさにその通りである。

そのような教会の姿勢を見れば、悪魔と暗闇の軍勢は、天地の前で大いに教会を侮るだろう。神も、そのように自分が聖別された根拠を否定して、世人の利益にり添う教会を、もはやご自分の貞淑な花嫁たる教会とは全くみなされず、「地の塩」たる役目を失った、無用なゴミとして、口から吐き出され、枯れ枝のように焼かれるであろう。

だが、こうしたごまかし、曖昧化、トリックは、プロテスタントの数多くの牧師がごく普通に使っている詭弁であり、神の愛や憐れみを悪用した世への歩み寄りは、決して、水草牧師だけではなく、プロテスタント全体に広まる現象なのである。

こうして、天と地の秩序をひっくり返し、教会を世に仕えさせようとする牧師たちは、神の国の何たるか、教会の何たるかが分かっていないだけでなく、献身の意味すらも、理解していない。

牧師たちの考える「献身」の定義は、キリスト教界における一般的な献身の概念に基づいており、それは一般に、信者が、伝道者としての職に就くことと同一視される。

しかしながら、聖書における真の意味での献身は、信者が、伝道者を自称して、信徒たちからの奉仕と献金によって己を支える教職に就くこととは何の関係もない。

牧師や伝道師といった職業に就くことは、信者がキリストに従うこととは根本的に何の関係もない、地上的な、表面的な事柄に過ぎない。

水草牧師は、信徒が献身して牧師になりさえすれば、それで「神の国の宣教の緊急性」に応じたことになるから、その後であれば、教会で不信者の葬儀を執り行っても問題はないと考えるのであろう。

しかし、上記した通り、真の献身とは、信者が神の国の到来を宣べ伝えるキリストの僕となるために、文字通り、生涯、自分自身とこの世に対して死んで、主イエスに従うことを意味する。

だから、信者は、ある日、献身したからと言って、その後でなら、不信者の身内の葬儀のために心を砕いても良くなり、しかも、それを教会行事として行って良いということには、絶対にならないのである。

これは、信者がクリスチャンになると、肉親への思いやりを全て捨てねばならないと言っているのではない。信者が一旦、捨て去ったはずの地上的なしがらみを、後になって振り向き、これを取り戻して、まるでそれが教会の欠かせない使命の一つであるかのように、教会に公然と持ち込むべきでないと言っているだけである。

以上の事柄から結論として導き出されるのば、水草牧師や、その他の数多くのプロテスタントの牧師たちのように、この世の不信者の利益に仕えるための社会活動、支援活動を、教会活動の主軸に積極的に据える人々は、どんなにキリスト者を名乗っていても、罪赦されて救われた、神の国の住人にふさわしい人間ではない、ということである。

水草牧師が自ら書いているように、父を葬ることを至上の義務として重んじたユダヤ教の習慣は、主イエスが地上に来られて、それ以上にはるかに大切な事柄があることを示された時に、事実上、終わった。

それにも関わらず、水草牧師は、すでに終止符が打たれたはずのユダヤ教の慣習を、再び、取り戻す。信者は献身を優先して、主イエスに従うことを選ぶべきだ、と言いながら、その後でなら、捨て去ったはずの人間関係を取り戻しても良いと、こっそり後ろを振り返る。
 
肉親の情に基づく不信者の葬儀に加えて、反原発運動などの、この世の社会運動をも教会の中に公然と持ち込み、この世の虐げられた弱者の地上的な利益を確保するための支援活動を、公然と教会の活動に据え、これを神の国を宣べ伝える教会の本来的使命と取り替えて行くのである。

こういうことは、神の目に生きている神の国の住人でないからこそ、できることである。彼らは、自分自身が永遠の命によって生かされない「死者」であればこそ、この世の「死者」を重んじ、「死者を葬る」ことを優先し、「死者」の尊厳に配慮を示す一方で、悔い改めない罪人に対する神の裁きや、地獄における永遠の刑罰などといった、この世の人々の聞きたくもない、耳障りの悪い聖書の事実については、言葉を濁すか、沈黙し、キリストの十字架における救いの定義を、ますます曖昧にし、骨抜きにして行くのである。

そのような「死者」への思慕と寄り添いの果てに、キリスト教界には、サンダー・シングのような、霊界における死者の霊との交流などといった極めて怪しい話が、まことしやかにキリスト教の仮面をつけて登場して来る。そして、信者たちが、神は愛だから、罪人への刑罰はない、とか、永遠の滅びもない、などと公然と言うようになり、ついには、一般恩恵を口実に、「神はキリスト者の神であるだけでなく、非キリスト者の神でもあるから、統一教会の信者の神でもある。教会は彼らを拒むべきでない。」などと言うようになる。

こういう教師たちのもとへ群がっていたのでは、信者は真理から空想話へと逸れて、罪に罪を増し加え、神の御怒りの対象となるだけである。だから、救いを失いたくなければ、キリスト教界を出るしかないのである。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集めて、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」(Ⅱテモテ4:2-4)

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私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。

オリーブ園の新着ブログに、オースチン-スパークスの「主の御腕」が掲載されている。

誰もが知っているイザヤ53章、キリストに関するあの有名な詩編は、次のように始まる。

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
 の御腕は、だれに現れたのか。」(イザヤ53:1)

これは矛盾に満ちた始まりである。オースチン-スパークスは記事全体を通して問いかける。「主の御腕は誰に向かって伸ばされたのか?」と。つまり、「神は誰を擁護されたのか?」、「神が満足される人の姿とは、どのようなもので、どのような条件を備えた人を、神はご自分の僕として力強く弁護されるのか?」

この問いかけが極めて重要なのは、それが次のようなくだりとも呼応しているからだ。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天の御国にはいるのではなく、ただ、天におられるわたしの父みこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)。

「主よ、主よ」と日々熱心に祈る人々は、いかにも外見は敬虔そうで、天の御国にふさわしい信者に見えるかも知れない。多くの証を語り、ひざまずいて涙して祈り、たくさんの奇跡を経験し、人々をキリストのもとへ導いているように見える信者たちがあるかも知れない。

だが、神は、あくまで人の外見や行動ではなく、心をご覧になられる。その人が何をしゃべり、行なっているかではなく、その人が「父のみこころを行なっているかどうか」を基準にすべてを判断されるのである。

そして、一体、「父のみこころ」とは何であるのか。イザヤ書の上記のくだりを読んで行くと、神が満足される条件を備えていたただひとりの人であるキリストは、何ら人の目から見て賞賛されるべき特徴を持たなかったこと、世間で敬虔な信者として認められるために今日多くの人々が熱心に求めているすべての条件において、むしろ完全に規格から外れていたことが分かる。

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
 輝きもなく、
 私たちが慕うような見ばえもない。
 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:2-3)

このような人は、今日の教会からも「のけ者にされ」相手にはされるまいと思う。

だが、今日、信者は、イエスに従い、日々自分の十字架を負って彼に従おうと決意するとき、果たして、自分も主が通られたこの道を通り、父なる神の御心を真に満足させる人となりたいと願うだろうか?

たとえ自分の願望が否定され、自分のプライド、名誉欲が傷つけられ、人に賞賛されることなく、疎んじられ、裏切られ、蔑まれることになっても、本当に、古き自己のものが十字架につけられ、自分が主の御前に恥を受け、低められることに甘んじることができるだろうか? そのようなことを人は決して自ら願わないが、もし主の御心ならば、自分がキリスト共に十字架につけられることに信者は同意することができるだろうか?

聖書にはこんなくだりもある、

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論できず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21:10-19)

そろそろ、この終わりの記述が少しずつ近づいて来たようである。殉教者以外は「髪の毛一筋も失われることはない」と言われている。それが復活の体のことなのか、それとも、地上における体を指しているのか、筆者には分からない。

主がご自分に忠実に従う者を守って下さることがよく分かる記述である。おそらく、もし殉教しなければならない者がいるとすれば、そのことも主は事前に知らせて下さるだろうと筆者は確信している。

だが、それにしても、とにかく、すさまじい記述である。「両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られる」。誰がそのようなことを願うであろうか。

しかし、筆者はこれをあらかた実際に経験して来たのでよく意味が分かる。特に今日、クリスチャンを名乗る者がクリスチャンを裏切り、売り渡すということがどれほど現実味を帯びているか、よく理解できる。十字架に敵対する者、十字架を通らずに神に至ろうとする者があまりにも多いからである。

そこで、もし自分の十字架を真に負って主イエスに従おうとする者が現れるなら、この世全体が(特に、クリスチャンを名乗っている者たちが)立ち上がって反対する、「そのようなことは正気の沙汰ではないのでどうかやめてくれ、あなた一人に本当に十字架に赴かれたら、我々全員の嘘がバレるので迷惑だ、どうか我々の商売を妨害しないでくれ」と言って引き留めようとする。その説得もかなわないと、ついに「狂信者」というレッテルを貼って排斥するのである。人を喜ばせる偽りの砂糖菓子のような「十字架」を拒み、この世と調子を合わせたご都合主義的な福音と訣別し、真に聖書の御言葉に立脚して生きるような信者は「悪魔の使い」とされて排斥される、今日の情けない似非信仰者たちの実態である。

そういう者たちからの裏切りが起きたときには、人は混乱したり、原因を色々考えたりしない方が良い。原因を探す必要などない。それは聖書が予告していることだからである。

だが、それにしても、筆者の経験も、まだ聖書の記述の深さにまでは達していない。似たようなところは常に通ってはきたが、いつもどこかに祈ってくれる者や、励ましてくれる者たちも主が備えて下さり、「わたしの名のために、みなの者に憎まれます。」言葉という言葉の深さにまでは達していない。次第に、しかし、時が縮まっていることは感じられる。

主イエスは最も身近な弟子たちにも裏切られ、見捨てられ、一人で十字架に向かわれた。確かに、そのためにこそ、私たちは死から救われ、贖われ、命を与えられた。まず、神が愛する独り子の命を、不従順な我々の贖いの代価として差し出して下さったのである。

だが、だからと言って、神は、この苦しみを御子だけに押しつけておいて、あたかも自分だけは一切、何の苦しみも悲しみも味わわずに、十字架の死など絶対に通らず、ハッピーな人生を送りたい、愛する人々と常に手を携えて、孤独を知らずに共に歩み、仲間に裏切られたり、憎まれるなどまっぴらだ、そのように自分は決して傷つくことも蔑まれることもない安楽な人生のために神を利用し、御言葉を利用して、自分を立派な信仰者として飾り立てたい、と願う似非信者によって、侮られ、利用されるようなお方ではない。

だから、信じる者は、そのようにならないために、常に自分の命を拒んで十字架を取り、主イエスに自ら従う決意が求められているのである。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたし仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:24-26)

私たちは人生においてしばしば激しい戦いを通過する。その時、信者は自分は神に守られていると思っているかも知れない。だが、神の側には、私たちを擁護するにあたり、外せない条件があるのだ。それが、信者がカルバリに留まり続けるという条件である。

だから、もし信者の側がその条件を満たしていなければ、誰であろうと、最も重要な決戦の時に、自分から力が失せていたことを知らないまま、敵にやすやすと捕らえられたサムソンのようになる可能性がないとは言えない。デリラを愛しすぎたことが、サムソンの弱点だったと言って、これを他人事のように笑う人々は多い、しかし、デリラとは、人のセルフなのである。それが分かれば、サムソンを笑える人は誰もいないであろう。

主の御腕は誰に向かって現されたのか、神はどのような人をご自分の民としてお認めになり、どのような人を力強く弁護し、守って下さるのか。

主の御腕は誰に現れたのか。

十字架は、決して人にとって心地よく、優しいものではなく、人の五感にとって甘く、麗しいものでもない。カルバリには人が慕い求めるどんな見ばえの良い姿も、輝きもない。カルバリには何の栄光もなく、人からの賞賛や理解もない。そこにはただ十字架につけられたキリストがおられるだけである。それでも、その栄光の消え失せた十字架に主と共にとどまり、これを自分自身の死として受け取り、全焼の生贄として静かに祭壇に身を横たえ、御言葉が実際になることに同意するだろうか。

十字架を回避して、己を神と宣言する人々が身近に増えて行くに連れて、筆者は厳粛にそのことを思わされる。一体、どれだけ大勢の人々がこの先、惑わされるのであろうか。そして、誰が十字架にとどまり続けるのであろうか。

人にはできない、しかし、神にはできる。駱駝に針の穴を通過させるのは、神の仕事である。お言葉通りになりますようにと応答するのが信者の側の仕事である。

その時に、主は御腕を力強く伸ばされ、山々を割いて降りて来られ、山上の垂訓のあの完全な統治を信者は生きて知るであろう。しかし、今、ダイナミックな復活の命の統治だけに注目するよりも前に、人に注目されることのないこの霊的死の意義にあえて心を向けたいのだ。たとえ主が御腕を力強く伸ばされ、ご自分の民を人知を超えた力によって擁護して下さるその光景を見ても見なくとも、主の御腕の守りの中にとどまり、人に承認されるのでなく、神に承認される者として生きたいのである。

神のこの奇妙な道はなぜか?

 さて、このような反応をすべてまとめると、神が御腕を現す方向に向かって動かれる時の、神の深遠な道を目の当たりにすることになります。神の道は何と深遠なのでしょう!何と神秘的なのでしょう!何と見出しがたいのでしょう!そして、ああ、神の道が分かり始める時、それは何と驚くべきものなのでしょう!私たちはこの御方が神の御子であり、人の贖い主であることを知っていますが、この御方に対して人の思いが下すこの解釈や判断について考える時、このような道は神の深遠な道であることを認めないわけにはいきません。神は動いておられます――常に動いておられ、堅い決意をもって、毅然として動いておられます――御腕を現す地点に向かって動いておられるのです。これが神の道であるとは、凄いことではないでしょうか?

 さて、ここで二つの疑問が生じます。一つは、「なぜ世の人はこのエホバの僕に対して、このような普遍的反応を示すのだろう?」という疑問です。クリスチャンとしての私たちの観点からすると、人が普遍的にこのような判断や反応をすることができるとは驚くべきことです。しかし、事実、人々はそのような判断や反応をしたのです。さらに、これは依然としてそうであることを、私たちは知っています。この世の人々の思いからすると、この十字架に付けられた御方には慕うべき点は何も見あたりません。

 第二に――おそらく、この疑問はこの問題全体の核心・根幹にさらに迫るものですらあります――「なぜ神は、人からのこのような反応を避けられない、このような道をわざわざ取られたのでしょう?」。この道は本当に奇妙です。まるで人からこのような反応を引き出すために、神はこの道を行かれたように思われます。なぜ神は誰からも認められる「まったく愛らしい」御方、一目見ただけで誰からも受け入れられる立場にある御方を遣わされなかったのでしょう?なぜ神は御子を遣わすとき、威厳、光輝、栄光の中で遣わされなかったのでしょう?なぜ彼は最初に天からのあらゆるしるしを示して、すべての人が見るようにされなかったのでしょう?なぜ神は、このような反応を生じさせる道をわざわざ取られたのでしょう?神はわざとそうされたように思われます。そのような反応は必然的でした。イザヤが描いたように、この絵を描いて下さい、「彼の顔立ちは損なわれて人と異なり」――その姿は「人の子と異なっていた」。他にも詳しく記されています――次に、この絵を持ち上げて、「これがあなたの贖い主です!」と言ってみて下さい。神は人を驚かせて憤慨させる道を、わざわざ取られたように思われるでしょう。

 そして、神はそうされたのです!しかしなぜでしょう?

人の間違った価値観のため

 今や、この現実的問題にかなり迫っています。人の価値観はまったく間違っており、神はそれをご存じなのです。人の価値観はまったく完全に間違っています――なぜなら、それは人の自尊心の所産だからです。次のような言葉は自尊心が傷つけられたからではないでしょうか。「こんな水準まで降りなければならないだって!自分の救いのために、そんなことを受け入れなければならないだって!こんな水準まで身を低くしなければならないだって!絶対嫌です!そんなことは人の性質に反します!」。そうです、これは人の性質には人の高ぶりによって生み出された全く間違った価値観が備わっているためなのです。ですから、この受難の僕という思想は人の自尊心にとって侮辱であり、つまづきであり、人の価値観に対する挑戦なのです。まさにこの理由により、ユダヤ人も異邦人もこの知らせを受け入れようとしませんでした――自尊心がそれを許さなかったのです。私たちは次のように歌います。

 「素晴らしい十字架を見渡す時
 私は自分の自尊心をまったく蔑みます。」

 これが十字架の及ぼす影響であるべきです。しかし、そうではありませんでした。人はこのような者なので、人の自尊心はそれを受け入れようとしません。ですから、「彼はさげすまれ、拒絶された」のです。「彼には私たちが慕うべき美しさは何もありません」。

 私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。十字架は人の自尊心や尊大さのまさに根本を打ちます。十字架は人自身の威信や価値観に基づく生活の根本を打ちます。たとえ、この世の観点やこの世の価値観からすると、人はひとかどの者になって、それなりのものを得ることができたとしても、また、先天的あるいは後天的に、自分の頭脳や賢さによって、熱心に働いたり学んだりすることにより、人は何らかの地位、栄光、成功、威信を得ることができたとしても、もしあなたや私が神の御前でそのようなものに基づいて生活するなら、私たちもまた神の価値観に完全に反している人々と同類と見なされるでしょう。


わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。

「イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マルコ10:29-31)

さて、我が家の成員が急遽増えたので、しばらくそちらにかかりきりになっていた。
鳥の雛が我が家にやって来たのだ!

毎朝、毎夕、我が家のベランダには可愛い雀たちが群れて挨拶にやって来て、つい先日は、手の届くほどの距離で物干しさおにちょこんと止まっていたが、鳥好きの私としては、雀を眺めているだけでは物足りない。

むろん、我が家のメンバーはすでに存在しているのだが、もう少し成員を増やしたいと願った。

以前の記事にかつて起きた小鳥の落鳥のことを書いた後、言葉が足りなかったなと思うことがあった。「主が与え、主が取りたもう」・・・、このストーリーには確かに続きがあるが、まだそれを書いていないからだ。

は与え、は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21) これはヨブの言葉であるが、主は取られることもあれば、必ず、その後、以前よりも豊かにお与え下さる方なのである。

それが証拠に、ヨブはサタンの試みにあって家族を失い、一時は一家全滅の寸前まで追いやられたのに、物語の最後では、前よりも豊かになっている。

このように、むろんヨブほどの試練ではないにせよ、何かが我々の生活から取り去られる時、いつも主にあってそれを小さな十字架として受け止めるならば、しばらくの悲しみの後に、前よりももっと豊かな祝福が与えられる。

それがどんなきっかけで生じた損失であれ、法則は同じなのである。自分の過失であれ、誰かの裏切りであれ、偶発的な事件であれ、何が原因で生じたものであれ、すべての痛みと損失を主に持って行き、主にあって、これを日々の十字架として受け取り、「主が与え、主が取りたもう、主の御名は誉むべきかな」と宣言するのである。

すると、そこに死と復活の法則が働く。そして、不思議と受けた損失を補って余りある祝福が天から与えられるのである。

私はこのことをよく経験して来た。

だから、きっと小鳥もそうに違いないと確信していた。案の定、探すと不思議な幸運で、大した苦労もなしに、ちょうど雛のシーズンが終わる前に、実によく人馴れした愛らしい鳥たちに出会うことが出来た。

それは願った以上のものが向こうからやって来るほどで、頼んでもいないのに珍しい鳥が集まって来るのである。

しかし、これは鳥に限った話ではない。以前に、あるキリスト者に向かって、ロシア語の練習の機会が欲しいのだと話した時に、こう言われた、「ヴィオロン、それはね、ロシア人よ、私のもとに集まれ!と命じるんだよ」と。その時にも、実際に不思議とそうなって行ったのだが、今度は鳥である。(鳥と同列に論じられるとロシア人は怒るかも知れないが。)

キリスト者は自らの言葉によってさまざまな出来事を主と共に創造している。だから、どのようなことであれ、主の栄光になるように語ることが大切である。「主は与え、主は取りたもう。しかし、主の御名はほむべきかな、主は我々のすべての必要と心の動きをご存知で、私たちの地上の人生は、痛み苦しみだけでは終わらないのだ…」

むろん、誰しも、大きな別離を経験したすぐ後に、立ち上がって再び出会いを探そうというのは無理な話である。そんな不自然なことをする必要はない。悲しみたい時には悲しみ、涙を流すべき時には思い切り泣き、目いっぱい、人として自然な生活を送り、そして、立ち上がり、望む気力が出て来たときに、新たな出会いを模索するのである。それはペットであれ、仕事であれ、人との出会いであれ、みな同じである。主は絶対に人の心の自然な動きに反するようなことを求められない。

だが、信仰者が信仰によって望みを抱いて立ち上がるなら、そこから、常に新しい展望が開けて来る。それは信者の歩みが主との二人三脚だからである。

十字架の死と復活の法則は、すべてのことを信仰によって主の御手から受け取る時に確かに生きて働く。良いことも、悪いことも、喜ばしいことも、悲しいことも、何もかもすべてを主の御手から受けとるのである。

そして、主こそ、それらすべての現象をご自身の栄光に変えることのできる方であることを信じるのである。

それは日々起きるすべての出来事の中での信仰による一瞬の手続きである。何も考えずにただ現象に振り回され、左右されるのでなく、すべての出来事の只中にあって、主を見上げ、すべてのことを主の御手から受けとることを、あえて信仰によって宣言するのである。

そうすると、悲しみや苦しみでさえ、まもなく新たな喜びへと変えられて行く。何かが失われたように見えても、しばらくの後に、溢れるほどの祝福が返って来る。その不思議ないきさつを見ていると、おそらくは、そこに日々の十字架の働きが――死と復活の命の働きが確かにあるのだろうと想像するしかない。

私は十字架の恵みに満ちた喜ばしい側面だけを強調しようとは思わない。主に従う上で、苦しみは確かに避けて通ることができないと知っているからだ。セルフがキリストと共に十字架の死に同形化されることに、痛みが全く伴わないはずがない。

しかし、それでも、キリスト者の人生とは、苦しみの連続には終わらない。ダビデが謳ったように、慈しみと恵みとが生きている限り、キリスト者を追って来るのである。

そして、当ブログに書いて来た通り、これまで筆者が出会ったクリスチャンを名乗る人々の間では(むろん、彼らはとても信者を名乗るに値する人々ではなかったのだが)、裏切りや離反や密告や誹謗や讒言や、誰も目にしたくもないさまざまな偽りの光景が目の前で起きて来たが、同時に、これらの損失(?)を補って余りある祝福もまた上から与えられるのだと信じている。

人の人生を食い荒らすことしかできないバッタやイナゴのような無価値な一群とは別に、人に喜びを与え、そのさえずりによって安らぎをもたらす美しい鳥たちの群れも飛んで来ることであろうと確信している。

私は何もこの手に握らない。これだけは私のものだ、これだけは取らないでくれ、としがみつくものはない。
それでも、聖書には書いてある、信仰者は主の御名のために失ったものの百倍を受けるのだと。今の世でも、来るべき世でも、豊かな報いを受けるのである。(来るべき世には家というものがないので、永遠の命を報いとして受ける)。回復されるものの中には、兄弟姉妹も含まれている。これには信仰による兄弟姉妹も含まれると私は確信している。

だから、ヨブが失った家や娘息子たちを再び主の御手を通して得たように、失われたクリスチャンの兄弟姉妹たちも再び得られる時が来るだろうと確信している。ちょうど、海の向こうから贈り物を携えてやって来る外国人たちを信仰によって呼び出したように、すべての生活の必要と、兄弟姉妹を、呼び出すのである、御言葉に基づき、信仰によって――。


自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至る



遅ればせながらニュース動画を記念に挙げておきます。
【報道ステーション】2016年3月18日放送 
ワイマール憲法の”教訓” なぜ独裁がうまれたのか? 


 
罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか。」を再掲しましたが、この記事は未完のため、まだまだ多くのことを書き足さなければなりません。

この記事を掲載した当時、記事は大きな反響を呼び、杉本氏サイドからも巨大な反発がありましたが、それはクリスチャンを決して「命の御霊の路線」に至らせず、再び「善悪の路線」へと引きずりおろそうとする彼らの目的が暴かれては困るためであったと私は見ています。

KFCとドクター・ルークの活動とは私は現在、無関係ですし、KFCの理念の誤りについても、詳細な分析をせねばなりませんが、それにしても、当時、ルーク氏の述べていた主張の中には、今日も見落とすことのできない極めて重要な内容がありました。それは主に次の二つの原則に集約されます。
 
➀キリスト教界をエクソダスせよ
②善悪の路線ではなく、命の御霊の路線に生きよ
 

➀については、約20年ほど前から、村上密氏のように、キリスト教界の諸教会のカルト化という問題にしきりに訴えては警鐘を鳴らす人々が現れました。こうした人々は、カルト化した教会やその牧師などを告発・非難することにより、キリスト教界のカルト化問題を解決したり、被害を食い止めることができるとしていたのです。

しかしながら、こうした人々の活動が恐ろしい方向へ暴走していくだろうとの予想を私が述べ、実際に、そうなったことについてはすでに何度も述べてきた通りです。当時、キリスト教界のカルト化という問題について、これとは全く別の見解が存在していました。それは、キリスト教界全体に救いがないこと、この教界は存立の時点からすでに聖書に反しており、フェイクであり、改善の見込みがないため、エクソダス(脱出)するしか信者が正しい信仰を保つ道はない、ということが提唱されていたのです。

実は、カルト被害者なる人々の出現は、この点で、非常に画期的な意味を持っていたのではないかと私は見ています。
 
カルト被害者については、これまで良い印象がほとんど語られてきませんでした。村上密氏や杉本徳久氏の率いるカルト被害者救済活動の異常な暴走がそれに追い打ちをかけ、カルト被害者という言葉すら、最近は、あまり聞かれなくなったようです。

おそらく、当のカルト被害者も、自分たちの存在に何か重要な意義があるとは思っていないでしょう。むしろ、自分たちは弱く無知であったために犠牲にされ、人生の敗者になったのだと考えて自分を恥じ、二度と犠牲者にならなくて済むように、弱さと無知の克服に取り組んでいるかも知れません。

しかし、私はこうしたこの世の観点とは全く別に、カルト被害者の存在には、極めて重要な霊的意義があったと考えているのです。それはまず、彼らがキリスト教界から離脱した点にあります。

人が悪事の被害を受け、犠牲になることは、この世では、何ら良いこととはみなされませんが、カルト被害者の存在について、それを単なるマイナスの出来事と決めつけることができないのは、キリスト教界につまずくという出来事があったために、彼らはキリスト教界の偽りに気づくきっかけを得た点です。そして、何より、その出来事があったおかげで、そこを出て純粋な信仰生活を探求しようとする人々が現れた点です。

もし何らかの出来事をきっかけに従来の組織に絶望するということがなければ、信者がキリスト教界を離れることはありません。

何かの被害が発生して初めて、信者は自分の属していた教会に対する根本的な疑いを持つ可能性が出て来るわけであり、その組織の中では本当の信仰を持てないことを知り、これを離れ、まことの神を探求する可能性が生まれるのです。その際、多くの信者が、たまたま自分の属している教会にだけ重大な問題があったのではなく、キリスト教界そのものに根本的な矛盾があることに気づく可能性があるのです。

神の御前で極めて重要なのは、神を求める人々の心の真剣さ、純粋さではないかと私は思います。そこで、キリスト教界につまずいたことをきっかけに、キリスト教界を告発して報復を果たそうとするのではなく、まことの神ご自身を純粋に知りたいと心から願う人々が出現したことに、はかりしれない価値があったものと私は考えています。   
 
こうして、キリスト教界の虚偽性から離れ去り、聖書のまことの神を真実に知りたいと願う信者の一群が現れたことにより、初めて、組織としてのキリスト教界とは関係のない、これとは全く異なる、聖書だけに立脚した信仰生活が生まれる可能性が生じたのです。

この点で、カルト被害者なる人々の存在は重大な意義を持っていましたが、それゆえ、その後、彼らがどこへ向かって行くのか、彼らが従来の教会生活を離れて、どのような形で信仰生活を維持し、まことの神に仕えるのかという問題もまた、ある意味、全宇宙的と言っても差し支えないほどに、測り知れない重要性を持っていたのではないかと私は考えています。

だからこそ、カルト被害者を含め、キリスト教界を離れた信者らの行方を巡って、実に激しい争奪戦が今日に至るまで繰り広げられて来たのです。それはひとことで言えば、「組織から脱出した人々を、絶対に組織から逃がさず、再び人間の奴隷とすること」を至上命題とする暗闇の勢力が、モーセとイスラエルの民の脱出を妨げようと、彼らを追ったエジプト軍のように、全力を挙げて激しい欺きと妨害によって、キリスト教界を脱出した信者らの前進を妨げて来たためです。

もし信者がキリスト教界にとどまっていたならば、こうした妨害はなかったでしょう。キリスト教界にいる限り、信者は、人間の教えや言い伝えにがんじがらめにされて、自由がなく、まことの神に出会う可能性もほとんどありません。

キリスト教界には、牧師や教職者といった目に見える人間の指導者に信者を従わせるべく、何重ものヒエラルキーや規則が定められており、その伝統的なしきたりや序列を守り、偉い指導者の言うことに聞き従い、彼らの面子を傷つけないことが、あたかも正しい信仰生活であるかのように説かれています。

しかし、これらはすべて人間の言い伝えであり、人を神ではなく人間に従わせる教えであって、このキリスト教界を出ない限り、信者はこの偶像崇拝の体系から、つまり、人間の作り出したこの世の思想に基づいて地上の目に見えるヒエラルキーに人間を従わせようとする偽りの体系から、一歩たりとも外に出ることはできません。

信者が人間の作り出した地上の組織の囲いに閉じ込められて、人間の指導者の顔色を第一に伺って生きている限り、彼は決して真にキリストだけを主と仰いで生きることはなく、キリストの命に基づいて天的な生活を送る可能性もありません。ですから、信者がキリスト教界に所属している限り、悪魔にとって、彼は何ら脅威とはならないのです。

しかし、もしも信者がこの壮大なフェイクであるキリスト教界を離れ、人間の指導者に帰依することを拒み、見えないキリストだけに頼ることを宣言して新たに出発すれば、その信者の行動は、暗闇の軍勢には大変な脅威と映ります。

こうした信者の一人でも、真にキリストと共なる十字架の死を経て、キリストの復活の命に到達すると、そこから、全宇宙を左右するほどの測り知れない天的な歩みが始まります。

そこには、復活、自由、真理が生まれ、悪魔の獄屋が打ち破られて、その虚偽がことごとく明るみだされ、とりこにされていた人々が解放されるきっかけにもつながりかねません。

そこで、信者たちがキリストにあって真に自由で正常な信仰生活を送ろうとしてキリスト教界をエクソダスして、人間の作った組織の囲いから出て行くことは、暗闇の勢力にとっては、極めて重大な脅威なのです。

ですから、こうした人々を組織から逃さず、再び、人間の前に跪かせ、人間を恐れさせ、人間の奴隷とするために、暗闇の勢力は全力を挙げて彼らの妨害に回ったのです。

その目的を遂げるために、彼らは、一方では、カルト被害者を優しくかばい、助けてやる「救済者」を装う偽善的な指導者を立て、彼らの甘言により、被害者を欺いて、彼らが自主的に人間の指導者に従うよう仕向けました。それがかなわないと、今度は、暴民のような自称「信徒ら」を送っては恫喝し、恐怖によって、信者らを再び人間に従わせようとしました。

この点では、KFCも、カルト被害者救済活も、どちらも人間の作った組織の囲いの一つであり、キリスト教界を脱出した信者らが、決してキリストだけに頼る真実で自立した信仰生活に到達しないように、神と信者との中間に立ちはだかる障壁、目くらましとしての機能を果たしたと言えるでしょう。

しかし、それでも、ドクター・ルークの主張の中には、若干、カルト被害者救済活動の指導者らよりも前進していた点がありました。それが、上に述べた二つの原則なのです。

二つの原則のうち、後者の「命の御霊の路線」について考えてみましょう。

「善悪の路線」とは何か、ひとことで言えば、それはクリスチャンが罪の自覚と決して手を切ることのできない生活です。

キリスト教界に所属していると、信者は自分がいかに罪人であるかという自覚だけが深まっていき、決してその罪意識から解放されることができません。キリスト教界でよく見られる風景は、信者が、神を知る前の自分がどれほどひどい生活を送っている罪人であったかという懺悔のような赤裸々な告白の証を、繰り返し、繰り返し、語らせられている風景です。

このような「かつての悪い自分」についての告白を続けることで、信者は余計にその負の記憶から抜け出られなくなり、罪の意識から解放されるどころか、教会を離れるとかつてと同じような罪人に戻ってしまうという恐怖にがんじがらめにされていくことになります。

こうした罪意識は、信者は神を信じているつもりでも、根本的に自分は全く変わっておらず、教会の助けがなければ、更生不可能であるという自覚から生じています。つまり、信者の「救い」が、宗教組織に質に取られていることによるのです。

信者は自分ではあたかも自主的に神を信じて生きているつもりでいても、実際には、彼は地上の宗教組織に属さずには、信仰生活は送れないのだと思い込まされています。

このような思い込みに陥っている限り、信者は、地上の宗教組織を離れることに恐怖を抱き、その組織の人間の指導者から見放されたり、良い評価を得られなくなることが、「不信仰」であると考え、人間の指導者の顔色を第一に伺う生き方から抜け出られません。

ですから、そのような場合、信者は神を信じているつもりでも、実際には、地上の組織、目に見える人間の指導者に従い、人の思惑に基づいて生きていることになります。そして、組織を離れると、救いが失われるかのように思い込まされているのです。

このように、信者にとっての「救い」が組織の所有である限り、組織から承認を得られなくなり、追放されれば、自分は救いを失うのだという恐怖や罪意識から、信者が自由になることはできません。

つまり、信者にとっての「救い」が、本当に自分に属するものではなく、組織から貸与されるものに過ぎない限り、彼には完全な救いの自覚が生まれないのです。キリストの血潮が永遠に自分を救うことができることの意味を知らず、根本的に自分は罪人だが、教会のおかげで何とか普通に生きられているだけだと思い込んでおり、教会からの承認という「応急処置」がなくなれば、自分は恐ろしい罪人に逆戻りするだけなのだという罪悪感から決して抜け出すことができないのです。このような考え方では、真の救いも、罪からの解放も、自由も、決して信者は味わうことができません。

さらに、信仰を持たずとも、複雑怪奇なこの世の仕組みに適合し、そこで人々の評価を十分に得て成功して生きるのは、誰にとっても、かなり難しいことですが、宗教団体に入ると、信者はさらに厳しい道徳的基準を守るよう求められるようになるため、まさにがんじがらめの生活が始まります。

この世においても、社会にうまく適合する術を知らない人々が宗教組織に入ると、そこで救いを得られるどころか、今度は宗教組織の中で、この世よりももっと厳しい基準に適合するよう求められ、それができない信者は、罪の自覚が恐ろしく増し加わり、下手をすると、その重圧のために精神まで破壊されるということが起きます。

このように組織や指導者の意向や都合にがんじがらめにされて、罪意識から一歩も抜け出せない生活こそ、人が自分で自分を義としようとする「善悪路線」に基づく生活であって、これはキリストの血潮に悪質に逆らう偽りなのですが、そこから出て、信者がただ聖書だけに基づいて、見えない神を仰いで生きるようになる時、信者はようやくキリストが十字架において流された血潮が、無条件に信じる者を義としてくれることの意味が分かるようになります。

そして、自分の救いは「組織」にあるのではなく、信仰を通して、他ならぬ自分自身に与えられているのであり、他人の思惑によって奪われたり、取り上げられたりするような不確かなものではないことが分かります。

キリストの流された血潮によって、神の目に自分が永遠に義とされていることが分かった信者は、ようやく従来の罪意識から解放されて、世からの評価を失うことを恐れて汲々とし、絶えず自分を責めながら生きる必要がなくなります。

こうして信者は、罪に定められることへの恐怖からあれやこれやの規則を厳格に守って生きようとする恐れに満ちた生活から抜け出て、その代わりに、自分の心からの願いに従って生きることが可能となります。自らの願いをキリストと分かち合い、信仰によって、それを実現しながら生きるという別の生活が開けるのです。

こうして、キリスト教界を出たことにより、信者の人生の目的は完全に変わるのです。以前は、人の目に罪に定められたくないという恐れから、自分を何とか人の目に正しく落ち度なく見せようと、各種の「べき論」にがんじがらめにされて生きていた信者が、今や、絶え間ない罪の意識から解放され、そういう応急処置のようなやり方で自己改善を目指すことがなくなり、キリストの内なる義に従って、自分が何をしたいのかという願いに基づいて良くなるわけです。

罪意識は常に恐怖と、強迫観念を生み、信者から自由を奪いますが、罪意識から解き放たれたところでは、人は何を「せねばならないか」ではなく、何を「したいか」を中心に人生を生きることができるようになります。これは放縦な生活を意味するのではなく、人が神に自分の願いを知っていただき、神と共同で自らの人生を治める生き方を意味します。

さて、話を戻せば、カルト被害者救済活動の支持者サイドからの攻撃は、このように、キリスト教界の罪定めから自由となって、「いのちの御霊の路線」に生き始めたクリスチャンを、再び「善悪の路線」に引きずりおろすことで、罪意識の奴隷にすることを目的としてなされたものでした。

今はっきり言えることは、一旦、キリストだけを頼りに、神だけに従って生きると決めたのならば、信者は、二度と人間の顔色を伺う生活に戻ってはいけないということです。

人間の歓心を失わないことを第一に生きる(つまり、世間の評価を気にしながら、世間と調子を合わせて、世と折り合いをつけて生きる)ことを目指し始めると、信者はたちまち「善悪の路線」に落ちて、キリストにある自由を失ってしまいます。

なぜ聖書に次のような御言葉があるのか、その意味を考えてみましょう。

たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方とすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときに勝利を得るため。」
 と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

つまり、この世(と世に属する人々)の評価を失うことを恐れながら、同時に、神だけの評価を求め、神だけに従って生きるというのは、不可能であり、世の評価を絶え間なく気にする生き方と訣別しなければ、信者はキリストにある良心の潔白と、自由を保つことはできないのです。

これは、ある人々にとっては、極めて理解しがたいことに映るでしょう。なぜなら、多くの信者は、この世の常識やら、伝統やら、世間体やら、しきたりやら、空気やらを、極めて重要なものとみなしており、こうした世の考え方を気にせず生きるなど、あまりにも大胆不敵で傲岸不遜な、人としてあるまじき放縦な生活だと誤解しているからです。

多くの信者は、道徳的で品行方正な生き方を目指すあまり、それこそが、信仰生活だと誤解しています。あるいは、弱者救済などの慈善事業を評価するあまり、それこそが、信仰生活だと誤解しています。

しかし、ぞれらはいずれも、人間の目に道徳的と見える生き方に過ぎず、こういった生き方を「信仰生活」だと誤解している人々は、この世の最も優れた道徳でさえ、神の義には遠く及ばないどころか、神の義に悪質に対抗するものであることが分かりません。人の目に善と見えるものが、必ずしも、神の目にも善ではないということが分からないのです。

むしろ、神の義とは、恵みとして与えられるものであり、人間が自らの努力によって達成しようと目指す義とは全く無関係なところにあるのです。だからこそ、キリストにある命の御霊の法則は、この世の善悪の法則とは全く異なるものなのです。

私は何度もマザー・テレサのことを書いて来ましたが、彼女のように、この世において立派で優れた生き方をしているように賞賛されている人が、必ずしも、神を親しく知っているわけでないどころか、むしろ、神から見放されたという絶望的な思いに苛まれているがゆえに、この世において立派な生き方を続けないわけにいかないという逆説(強迫観念)に陥っている場合が往々にしてあります。

生涯、弱者救済にいそしむ慈善家のような人々にはこのようなタイプが非常に多いのです。つまり、彼らは、自分が神によって完全に救われているという確信がないがゆえに、絶え間なく外面的に立派な行動をすることによって自己を取り繕わないわけにはいかず、その慈善は真実な愛から出て来たものではなく、むしろ、内心の絶望や恐怖に裏付けられた善行だということです。
 
この世の顔色をどんなに伺って、どんなにこの世に対する義務を果たし、人から賞賛されたとしても、それによっては、人は永久に義とされることはありません。ただ苦労と内心の絶望だけが果てしなく増し加わって行くだけです。

この世は人がどんなに努力しても、人を義とすることができないからです。しかし、御言葉に基づいて、キリストの血潮によって義とされる道を選び、人の思惑に従うのではなく、神のみに従って生きるならば、信者は自分の一切の行ないによらず、いつでもただちにイエスの血潮によって義とされることができるのです。

しかし、信者自身にとっても、このキリストの新しい命に基づく道を歩むことは、極めて大きな発想の転換を意味します。

真にキリストの復活の命に生き始めた時、初めて、信者は、自分がこの目に見える世界全体、生まれながらの人類全体と、その道徳体系にとって、大変な脅威、敵とみなされるようになったことを知ります。

信者は、この世の霊的体系を脱して、キリストの霊的体系を生きるようになって初めて、自分がもはやこの世の所属でなくなり、キリストがこの世から受けられたのと同じ理由なき憎しみを自分も向けられていることが分かります。

それは、彼がこの世ではなく、キリストだけの所有となったことによるのですが、信者は、今まで慣れ親しんで生きて来たこの世全体が、もはや自分の仲間ではなくなり、敵となったことに、しばらくは当惑するでしょう。

さらに、この世の法則は、信者がキリストと共なる十字架で世に対して死んだ後も、全力で彼を再び世の奴隷として取り戻すべく、あとを追って来るでしょう。

こうして、信者は、キリストの命にある自由を失わず、復活の領域を歩み続けるためには、この世とそれを支配する暗闇の軍勢から来るあらゆる敵意と妨害を潜り抜けて戦わなくてはならないことが分かります。

その戦いの過程で、信者はどんな妨害があっても、この世と世に属する人々の圧迫を恐れてはいけないという事実と、たとえ世からどんな妨害があろうと、キリストの命にある力がそのすべての圧迫に勝る勝利を与える、という事実を理解するようになります。

この世が信者に向けて来る憎しみは、人の予想をはるかに超えて、悪質であるにも関わらず、信者はそれにたじろいではならず、圧迫されて後退してもならず、これに対していかなる時にも勝利する秘訣が、キリストの命の中にあり、その命なる方が信仰を通して自分自身の中に宿って下さっていることを理解するのです。

もし信者が、暗闇の勢力からの圧迫を恐れるゆえに、人の言い分に耳を傾け、人に憎まれないことを第一目的として生き始めるならば、彼は再びこの世の奴隷となって敗北するしかなくなり、キリストの天的な命に基づく生活は維持できなくなります。

ですから、たとえ突然、何万人の反対者が現れようと、どんなに親しい兄弟姉妹に裏切られようと、どんな予想を超える出来事が起きようとも、信者は、世と世に属する人々を恐れずに、ただ聖書の御言葉に立脚して、神の義に頼り、これを証し続け、キリストの命だけによってすべてを切り抜ける秘訣を学んで行かねばならないのです。

そうこうしているうちに、こうした戦いの過程で、どんなに心細さを覚える瞬間にも、神以外のいかなるものにも頼らないこと、神の中に全ての問題の解決の秘訣が実際にあることを信者は学ばされて行くのです。

自分を見るならば、信者は自分には何もなく、外からの助けなしには、到底、あらゆる困難を切り抜ける力がないように感じられるかも知れませんが、その天然の無力さにも関わらず、内なるキリストの命が全てを供給するのです。

文字通り、キリストがすべてを供給するのです。救いはすでに一生分、いや、永遠に至る分まで、信者に与えられています。ですから、信者は世にあれやこれやの助けを求める必要がないのです。ただ神だけに頼って前進するならば、信者は信仰によって実際にあらゆる困難が打ち破られること知らされるのです。困難が打ち破られるのみならず、神が願いを成し遂げて下さるのです。ですから、これは途方もない道です。

生まれながらの人類は、この終わりの時代、自己の「道徳」を掲げては、自分たちの存在を美化し、生まれながらの人間の威信を築き上げるために、独自のしきたりを作り、これに一人でも多くの人を取り込むために、あらゆる規則を掲げ、強大な組織を作るでしょう。そして、それにそぐわない人間を容赦なく罪に定めるでしょう。

終わりの時代、生まれながらの人類の全精力が、人間の威信を強化するために注ぎ込まれるでしょう。宗教とは、神の名を用いながら、その実、神によらずに、人間が己のプライドや威信を建て上げるために作りだす壮大な嘘の体系に過ぎません。

キリスト教界の教えは、全体として、信者が神ではなく、目に見える人間に従うべきというもので、そこには、牧師を筆頭として、信者が従うべき無数の重層的ヒエラルキーがあり、人間の序列に反することが、「罪」とされているのです。

神に従わないことが罪なのではなく、人間の定めた教えに従わず、人間の威信を傷つけることが、「罪」とみなされているのです。早い話、そこでは人間が神となっているのです。

いかに人間の目に麗しく、人間に優しく、上品で、道徳的に見え、そつなく、あたりさわりないものであっても、こうして、聖書の基本から逸れて、神への愛と従順を失い、むしろ、神を退けて、生まれながらの人間を義とするために作られた体系には、何の価値もありません。

だからこそ、このような偽りの体系からはエクソダスが必要なのです。

人間の作り上げた偽りの体系は、どこまでも信者を奴隷にしようと、後を追って来るでしょう。しかし、信者が第一に心を砕き、従うべきは神の御心であって、人間の思惑ではありません。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方とすべきです。」との言葉は決して誇張ではなく、行き過ぎでもないのです。神を愛することと、この世を愛することは決して両立しません。

神に従うとは、場合によっては、この世の全ての人々の思惑の全てに反してでも、ただ神の御言葉のみに従うという決断と行動を意味します。これには代償が伴います。

以前にも挙げましたが、旧約聖書の列王記Ⅰ第13章には、人間の言葉を優先して、神の戒めを破った預言者が、野の獣に食い殺された場面があります。この結末を残酷すぎると私たちは異議を申し立てることができるでしょうか?

この世的な見栄えの良さを保とうとする生き方と、真理に従う道は、ほとんどの場合、両立しません。もし信者が、世の評価や人の歓心を失わないことを第一に生きるならば、遅かれ早かれ、彼は真実を売り払って、無難な善人を装いながら、沈黙を守って生きるしかなくなります。それは偽善者の道です。

もし信者がこの世に配慮し、世の人々に同調して生きるならば、同胞が見殺しにされることに沈黙するくらいのことでは飽き足らず、かつてキリストが十字架につけられた時と同じように、今日も、罪なき神の御子を見捨て、裏切り、代わりに人類の代表である罪人のバラバを赦して、キリストを再び十字架につけよと叫ぶ羽目になるでしょう。

世を愛する道は、いつも変わりない結論に至りつきます。それは、罪なき神の御子を再び十字架につけて罪に定めてでも、生まれながらの人類を義とし、名誉回復したいという願望なのです。

そして、逆説的に、神を抜きにした人類の名誉回復という偽りの願望は、決して人類を解放に導くことなく、今まで以上の恐ろしい裁きと罪定めの中に人類を落ち込ませるだけなのです。

主に従う道は、人類が己の義とプライドを強引に押し通す道ではありません。主に従う道は、人が神を退けてでも、己の命を保とうとする道ではなく、むしろ、キリストのために人が自分の命を憎む道であり、キリストのために自分の命を捨てる者がそれを得ると聖書にあります。

戦いは戦いぬけば、必ず、勝敗がつきます。たとえ、この世から憎しみや妨害がやって来たとしても、恐れるには足りません、信者には「世に勝った」方が共におられるからです。

信者が自分の命を惜しまずに、死に至るまで真理を証し、神の義に徹底して立ち続けるならば、悪者は恥をこうむって逃げ去り、代価を払った者が神の御前に良しとされるでしょう。

黙示録によると、臆病者は罪に定められ、火の池に投げ込まれることになっています。ですから、主にあって、臆することなく、勇敢でありましょう。悪魔の罪定めは、その言い分を真に受けて、恐れを感じた人にとってだけ効力を持ちます。イエスの血潮に立脚する信者に対しては、悪魔の言い分は効力を持たないのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたし仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:24-26)

「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」(黙示12:10-12)


主が神であればそれに従い、バアルが神であればそれに従え

世界(我が国を含む)が反キリストの王国の確立に向けて動いているということはネット上ではすでに常識のようになりつつあるが、あたかもこれに反対し、国の腐敗を憂えているように見える人々の中にも、明確に現人神信仰と、キリスト教への憎悪が形成されつつある。

特に、政府や政治家の腐敗を糾弾しながら、同時に、聖書やキリスト教に激しい憎悪や侮蔑、敵意を示す人々の出現には注意が必要である。なぜなら、「宗教全般及びキリスト教への憎しみ」というものは、反キリストの明確な特徴であるからだ。

「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。

彼は、すべて神と呼ばれるものまた礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」(Ⅱテサロニケ2:3-4)
 
つまり、反キリストの霊の特徴としては、あからさまに自分がキリストだと偽って名乗るものもあれば、同時に、宗教などすべて信じないと宣言し、あたかもどんな神も信じず、信仰そのものを持っていないかのように振る舞いながら、同時に、自分が神であると考え、自分を何者よりも高く掲げるタイプもあるということだ。

これまで述べて来たように、この世には人間の救済に関してたった二つの答えしかない。一つ目は、神の側からの介入によってしか人は救われないという道(これは十字架で身代わりに死なれたキリストを信じて救われる道であり)、もう一つは、生まれながらの人間は内に神聖を宿しており(覚醒することにより)自力で神に至ることができるというグノーシス主義である。

反キリストは例外なくグノーシス主義者である。あからさまに現人神への信仰を持っている人々だけが危険なのではなく、あらゆる宗教への侮蔑の感情を持っている人々も、すべての宗教を否定した上で、自分が生まれながらに神である(神的要素を持っている)と考えるグノーシス主義者であり、その点で反キリストの霊の持ち主である危険性が大いにある。
 
宗教全般への憎悪(とりわけキリスト教への憎悪)は、まだそれほどはっきり(政治や社会の)表舞台に出て来ておらず、水面下でくすぶっているような状態ではあるが、聖書と唯一の神、キリスト教とクリスチャンへの尽きせぬ憎悪と敵意こそ、反キリストの最大の特徴であるから、まもなくそれは公式な運動として表に出て来るであろうと考えられる。

このキリスト教への憎悪は、内側からの破壊型(乗っ取り型)と、外側からの攻撃型と2種類に分けられるだろう。内側からの破壊型とは、ペンテコステ運動やカルト被害者救済活動のように、疑似キリスト教的異端がキリスト教を装いながら、キリスト教界の内部に侵入することによる。こうしたイデオロギーを信じた人々は、あたかも純粋なキリスト教徒であるかのように装いつつ、キリスト教界の内側から、既存のキリスト教界を激しく批判して断罪し、自分たちこそ「まことのキリスト教」だと主張して、改革を唱えながら、キリスト教を乗っ取って破壊して行くという特徴がある。

(ペンテコステ系のAG教団に属する信徒らがどのように他教会に潜入し、またはネット上でどのような弾圧を繰り広げ、異端的思想を拡大し、反対者をせん滅することで、キリスト教界の内側からの瓦解を助長して来たか、その実例はすでに記事で挙げて来た通りであるため繰り返さない。)

これに対し、外側からの攻撃型とは、明らかに既存のキリスト教の外側から、キリスト教そのものへのあからさまな敵意と侮蔑を持って激しい攻撃や弾圧として臨んで来る力である。(これはまだ公然と表面化はしていない。)

いずれにしても、キリスト教はすでに内側から激しい攻撃を受けて弱体化を迫られているが、この先、外側からも攻撃されて、ますますこれを自壊へと追い込もうとする力が強まると予想される。もしもこの先、改憲が成就し、政府が公に天皇崇拝と結びついて行くようなことがあれば、その時こそ、キリスト教に対しては、あからさまに外側からの弾圧(現人神信仰の強要とそれを拒否した結果の排斥)が行われるであろうと考えられるので、このような結果に至りたくなければ、改憲派にチャンスを与えるべきではない。まして緊急事態宣言など論外である。

さて、この先、偽りの現人神である反キリストによる地上の王国の樹立を後押しする一群の中には、以下のようなものが含まれると私は考えているので列挙しておきたい。(その中には、表向き、反キリストの到来に反対しているように見える集団もある。)

これらは一見、バラバラの異なる潮流のように見えるが、最終的には、どれもこれも現人神信仰(生まれながらの人間を神とするグノーシス主義)へ合流し、いずれキリスト教に敵対して来ると思われるため、以下に分類しておく。

➀ 政府を支持し、天皇崇拝を支持しながら、そのまま「神国日本」を唱えて行くであろう一群
② 政府や政治家の腐敗を糾弾しつつも、天皇を支持し、最終的には天皇を頂点とする「神国」建設へと合流して行く一群
③ 政府や政治家の腐敗を糾弾し、天皇崇拝を否定しながらも、日ユ同祖論を提唱し、最終的には「神国日本」建設へ合流するであろう一群
④ 政府や政治家の腐敗を糾弾し、天皇崇拝を否定しながらも、キリスト教(宗教全般)への憎悪と軽蔑を表明し、最終的にはキリスト教徒への憎悪から政府の弾圧に与し、「神国」建設へ合流するであろう一群
⑤ 政府や政治家の腐敗を糾弾し、天皇崇拝を表向き否定しながらも、牧師制度を肯定する偽りのキリスト教に所属し、政府の施策への草の根的な反対運動に見せかけた人工芝社会活動を通じて、国民を改憲へ誘導し、最終的には天皇崇拝へと道を開き、「神国」建設へ助力するだろう一群
 ⑥ 日本民族を「神国」として高く掲げながらも、ロシア賛美、ロシア大統領賛美を通じて、他国のカリスマ指導者に国を統治してもらうことを期待し、国家としての主権を自ら放棄し、かつての捕虜同然に労働力としてシベリアへ移住することを自ら望む一群   
etc.

これらすべての潮流は、表向きの思想的違いに関わらず、必ず、天皇崇拝という現人神信仰と「神国日本」の建設へと道を開いて行くであろうと予想される人々である。さらに、今、政治社会の情勢不安をネタとして様々な反対運動が起きているが、それが支持者による募金活動によって支えられているならば、それはビジネスであるということを断っておきたい。

どんなに宗教を軽蔑しているかのように口で唱え、自分は宗教と無縁であると標榜していたとしても、やっていることが牧師と同じであれば(献金で自分を養っていれば)、本質的には彼らは仲間同士なのである。

そんなこともあって、私はまことの信仰者の財源はこの世の支持者でなく、ただ天におられる見えない神ご自身でなければならないと考えている。これは一つの厳しいバロメータであり、実験でもあるが、もしもある人の活動が本当にまことの神によって支持され喜ばれている真実なものであれば、必ず、人知によらず、神ご自身が不思議な方法でその人を保って下さるはずであり、人からの支援を乞うて人に依存する必要はないのだと確信している。

さて、断っておきたいのだが、改憲派の目的は、キリスト教徒の弾圧にある。何度でも繰り返したいのだが、改憲が成し遂げられて、天皇を国家元首とし、緊急事態条項が制定されれば、その先に待っているのは、天皇を現人神として拝むことが万人に強要される生活であり、その結果として、必ず、キリスト教徒への弾圧が起きる。というよりも、まず、彼らは改憲によって、天皇を国家元首として天皇崇拝を復活させる道を開き、やがてその先、宗教全般、および、特にキリスト教を弾圧して、反キリストを拝ませることを、その本来的な目的としているのである。

緊急事態条項なるものは、国の存亡の危機を口実として、政府にとって好ましくない人々、特に、反キリストを拝まない人々を「始末する」ことを隠れた目的とする法整備である。

緊急事態を宣言する必要性を国民に納得させるために、政府は北朝鮮のミサイルだの、中国の脅威だの、イスラム国だの、あまたの脅威をその時々に作り上げては危機感を煽っているだけである。これからもまた新しい「様々な危機」が作り出されて行くであろう。

しかし、その本当の狙いはキリスト教徒の弾圧にある。これが荒唐無稽な作り話でないことは、カルト被害者救済活動の暴走を振り返れば分かるだろう。

カルト監視機構は、「キリスト教界の危機」を唱えて、一見、異端の流入やカルト化の取り締まりという名目のために提唱されたが、実際に、これを支持した人々がキリスト教界に導入したものは、テロルだった。

カルト化の取り締まりを口実に、疑わしいクリスチャン、気に入らないクリスチャンや教会への弾圧、無差別的な私刑が行われたのである。

すでに述べて来たように、これは「キリスト教界の危機」を口実とした、教界内のクーデター、権力奪取の試みであった。そしてこの聖書にも法にも常識にも教会内手続きにさえ基づかずに行われた違法なクーデターには、牧師や、教会でそれなりの要職にある信徒のみならず、何の肩書も資格も持たない、何者かさえ分からない自称クリスチャンが数多く参加し、無法者たちによる全く常軌を逸したリンチへと発展して行ったのである。

私はそもそもの初めから、これがまことのクリスチャンを迫害し、キリスト教界そのものを弱体化させることを隠れた目的とした聖書に基づかない正義の欠落した運動であることを幾度も訴えて来た。

だが、このカルト被害者救済活動の暴走なるものは、単なる予表に過ぎない。

カルト被害者救済活動の暴走はネットを主体として起きた事件であるが、これから定められようとしている国家存亡の危機を口実とした緊急事態条項なるものは、全国民生活に直接、影響を及ぼそうとするものである。

だから、国民は、そして、特にクリスチャンは、改憲が一体、何を真の目的としているのかを見抜くべきである。すなわち、緊急事態を隠れ蓑にして、実際に行われるのは集会の禁止、国民の自由の制限、逮捕、抑圧等々の恐怖政治であることを理解しなければならない。

一旦、緊急事態宣言が出されれば、いつまで続くかも分からない戒厳令下の冬の時代が到来し、国民は権力の思うがままに抑圧され、再教育を受けさせられる状態となるだろう。その時には、名目だけの実質のないクリスチャンが何より大切にしている日曜礼拝さえも、禁止されることになるかも知れない。

何度でも繰り返すが、緊急事態(戒厳令)の導入の目的はクリスチャンの弾圧にある。そこにあるのは皇帝ネロの精神である。だから、このような人殺しの思想の支持者にならないためには、キリスト教界を非難することや、宗教を拒むことと、聖書や神そのものを拒み、クリスチャンを憎悪することを絶対に混同してはならない。

教会やクリスチャンの腐敗や堕落という問題と、聖書そのもの、引いてはまことの神ご自身がどういう方であるかという問題は全く別なのである。すでにカルト被害者救済活動において見て来たように、教会とクリスチャンにつまずいたことをきっかけに、神への畏れさえ失い、神と全クリスチャンへの尽きせぬ憎悪に至るケースは多々見られたが、そのような人々の人生の行く末に待っているのは破滅だけである。

私たちはこのようないわれなき敵意と憎悪の感情を拒否しなければならない。
 
さらに、宗教を軽蔑することは簡単だが、聖書が分からなければ世界的に起きていることの背後にある構造を理解することはできない。戦前の国家神道だけを取っても、それがどれほど深いキリスト教への対抗意識から形成されたか、共産主義思想はどこから生まれたのか、これらは全て聖書が土台であり、従って、聖書が何を言っているのかを理解しないままに、どんなにその対極にある思想だけを取り上げて糾弾しても、あるいは、目先の現象だけを論じ糾弾しても、深く本質的なレベルで物事を解明することはできないのである。

にも関わらず、ペンテコステ運動や、カルト被害者救済活動においてもそうであるが、きちんと背後にある思想的背景を理解した上で物事を深く考えることそのものを厭い、軽蔑するような軽薄で愚かな風潮が至るところで生まれており、それが浅はかな義憤に基づく反対運動へと人を駆り立てている。これは知恵に逆らう盲目と愚かさへの道であり、危険な兆候である。

さて、自民党の緊急事態条項案の恐ろしさについては、いくつも論評がなされているが、たとえば、下記のような記事を引用しておくだけでも十分であろう。

フランスの非常事態宣言よりはるかに危険な自民の緊急事態条項案


mimiの日々是好日 より 2016/1/5(火) 午前 7:18
 フランスは目下非常事態宣言の3ヶ月間延長の最中です。
 弁護士が運営しているブログ「Everyone says I love you !」が、その実態をレポートしました。
 同ブログにはフランスの実態を写した豊富な写真が掲示されているので、現地の緊迫した雰囲気が伝わってきます(記載のタイトルをクリックすれば元の記事にジャンプします)。
 
 そしていずれ提出されるであろう自民党の「緊急事態条項案」は、フランスの現下の非常事態宣言よりもはるかに危険なものであることを具体的に述べています。
 以下に紹介します。
 
  註.文中の茶色部分はクリックすると元の記事にジャンプします。
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人権停止がエンドレスの自民党改憲草案「緊急事態条項」
Everyone says I love you ! 2016年01月04日
 喉元過ぎれば熱さ忘れる、と言いますが、日本ではめったに報道されることのなくなった2015年11月13日に発生し、130名もの尊い犠牲が生じたパリ同時多発テロ。
 この同時多発テロを受けて、オランド大統領により発令された非常事態宣言は法律の規定で12日間だけのはずのところ、11月20日に3か月の延長が決まり、現在、非常事態宣言は継続中です。
 
 
 さらに、フランス政府は12月23日の閣議で、非常事態の発動要件緩和など大統領権限を強化する憲法改正案を国会に上程することを決めたのですが、その改正案に、テロに関与した二重国籍者からのフランス国籍剥奪、テロ容疑者らの移動制限強化などを盛り込む方針を決定しました。
 これを受けて、ヴァルス首相は記者会見して「テロの脅威はかつてなく高まっている」と述べ、過激派組織「イスラム国」(IS)との戦いに全力を挙げる必要性を強調し、2016年2月3日に憲法改正案を国民議会(下院)に上程すると述べました。
 
 
 実は、今発令されているフランスの非常事態宣言は、フランスの憲法に規定のあるものではなく、一法律によるものです。
 フランスには、日本で議論されている緊急事態条項に類するものとして、
1 憲法上の戒厳令 秩序維持の権限が行政府から軍隊に移される
2 憲法上の非常措置大権 大統領に基本的人権を制限するなどの大権が与えられる
3 緊急状態法による非常事態宣言で警察権が強化される
の3つがあり、今回はこの3による措置が取られているのです。
 
 ちなみに、日本の自民党が憲法改正草案に規定しているのは2ですからね。今から、フランスの3を見ていきますから、これが2になったらどれだけ恐ろしいか、よく想像してみてください。
 
 フランス全土に非常事態宣言が出されてから一か月半。
 テロのあったパリを中心に、美術館や図書館が閉鎖され、集会やデモの許可が取り消されました(集会結社の自由の制限)住民には不急の外出を控えるように通達されています(移動の自由の制限)
 警察権の強化により、内務大臣が「公の秩序と安全に対し危険な活動をしている人々」を自宅軟禁することができる権限を持ったため、テロからたった一週間で164人を自宅軟禁状態としました(移動の自由の制限
 また、裁判所の令状なしに、昼夜問わずに家宅捜索したり、武器を押収したりすることも可能となるそうなのですが、ヴァルス首相によると、これまで令状なしに793件の家宅捜索がなされ、174件の武器押収がありました(刑事手続きにおける適正手続きの修正)。
 その後、一か月で、令状なしの家宅捜索の件数は3000件に及んでいます。
 さらに、命令のあった場所・時間における人や車の交通が禁止されたり、安全地帯が設定されたりすることで、移動の自由が制限されています。また、コンサートホールなどの興業場、酒類の小売店閉鎖命令など、行動の自由も制限されているのです。
 軍隊も警察活動に従事する。
 
 これらのフランスの非常事態措置は法律に基づくものなので、これから憲法違反であるという裁判が起こされることも考えられ、だからこそフランスは憲法改正によって、これらの措置に憲法上の根拠を与え、違憲主張を封じようとしています。
 
 ところが、日本の緊急事態条項はいきなり憲法に規定を設けるので、それに基づいてあとから作る法律は、憲法上の根拠に基づくものということで憲法違反という主張を全くできないことになりかねません。
 さらに、困ったことには、自民党の憲法草案の規定では、緊急事態条項が発令できる場合が、戦争、災害、秩序の混乱その他となっていて、総花的ですから、パリのような警察権の強化だけでなく、国民の財産権や表現の自由・知る権利・通信の自由の制限まで考えられます。
 たとえば、自衛隊が出動して勝手に庭が使われてしまうとか、食料などが徴収されるとか(財産権の制限)、混乱防止のために携帯・スマホやネットの利用が制限されるとか(通信の自由の制限)、報道が規制されるとかです(表現の自由、知る権利の制限)。
 しかも、内閣総理大臣は国会が作る法律と同じ効力を持つ緊急政令を出せることになっているので、緊急事態前に法律がなくても、バンバン政令を発布して人権を制限することができます。
 
 そして、フランスの非常事態宣言よりもっともっと恐ろしいのは、日本の自民党の緊急事態条項がもっともっと恐ろしいのは、いつ終わるか期限がなくてエンドレスなところです。
 フランスでは、12日間の期限を延長するために法改正をして3か月に期限を延長しているわけですが、これをさらに延長しようと思うとまた新法を制定しないといけません。
 ところが、自民党の改憲草案ではこうなっています。
 
第99条第4項
緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。
 
 期間制限は法律に委ねられていて、憲法上は白紙です(100日を超えるたびに国会承認が必要とだけ規定されている)。
 おまけに、議員の任期を特例で延長を伸ばすことができて、さらに緊急事態宣言が出されていると衆議院は解散がない、つまり総選挙がないので、緊急事態宣言を承認した国会議員を選挙で落とすことができませんし、緊急事態にした内閣も変えられないのです。
 これ、酷くないですか?政府はやりたい放題ですよね。これが日本の緊急事態条項が世界に誇る?恐怖の制度の実態です。
 
 
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こんな危険な緊急事態条項が、野党の中でも国民の中でも、改憲の中で一番評判が良くて、安倍政権も突破口と見ているだなんて信じがたいです。
みんな、信じがたいバカだ(ごめん!)

一体、こうした抑圧が正当化され、破壊行為が行われるのは何のためなのか。旧体制に属する不都合な人々を駆逐して、新しい秩序を打ち立てるために他ならない。すでに解釈改憲等によって国の乗っ取りは行われているが、緊急事態は、これまでの体制を完全に転覆させるためのクーデターの総仕上げであり、革命成就なのである。

TPPの奥にあるもの
兵頭に訊こう」から抜粋 2016年2月8日

「TPPは、ワン・ワールドに向けての大きなステップになる。一度入ったら、もはや抜けることはできないだろう。

第三次世界大戦の後に、国際銀行家たちは最後の社会変革(破壊)を実施する。その社会変革(破壊)は、「イルミナティ」を実質的に創設したアダム・ヴァイスハウプトによって、次の6点として構想されている。以前にも紹介したが、新しく読者になった人もいるので、再録することをお許し願いたい。

1 秩序ある国家政府すべての廃止

2 財産権の廃止

3 私有財産の廃止

4 愛国主義の廃止

5 あらゆる文明基盤としての個人家庭の廃止

6 既存宗教すべての廃止(結果として全体主義というサタンのイデオロギーが人類に課されることになる)」


私はここでイルミナティや世界統一政府について書くつもりはないが、ただ、上記のような項目に反キリストのイデオロギーの特徴が表れていることは確かである。また、この国がすでに共産主義に向かっているという点は、何度、強調してもしたりない事実である。

我が国では、これまで、個人の財産、個人の願望、個人の家庭、個人の生き様というものが、多少ではあったが許されて来た。人が努力して働き、自分の夢に向かっていれば、あたかもそれがかなうかのような幻想があった。サラリーマンには一生の保証があり、中流階級の謳歌する平均的な幸福のモデルがあった。しかし、今はもうそうではない。

その当時からこの国は、実際には経済成長だけを至上の価値とする間違ったイデオロギーに基づいて突き進んで来たのであり、中流階級の夢も幻想のようなものでしかなかったが、ここに来て、その幻想さえ弾け飛び、マモンの神の経済とそのイデオロギーがついにマイナスの正体をはっきり現して来たのである。

個人が個人のために生きられる時代はすでに過ぎ去り、今や個人の持てるものはすべて国家のため、組織のため、全体のために共有財産として差し出されるべきという時代が到来している。一生懸命勉強して知識を蓄えても、その知識はあなたのためにならず、皆のための共有財産として無償で差し出さねばならない。地上の口座に蓄えた自分のための預金は、国家のものとして横領され、私有財産さえも悪であるかのようにみなされて蓄えることもできない。国家や組織の承認がなければ、結婚することも子供を持つこともできず、さらには生まれた子供さえお国のものとして取り上げられるであろう。

これが共産主義の正体である。共産主義とは、横領の精神、盗人と人殺しの精神に基づいたものに他ならない。それは、あなたの持てるすべての能力と可能性と財産を誰かが勝手に取り上げ、縦横無尽に利用することを是とするイデオロギーである。あなたの能力や財産だけでなく、あなた自身が万人(国家、社会)の共有財産とされるのである。

今更言うまでもないが、教会を思い浮かべてもらえばすぐに分かるだろう。そこでは、あなたの持っているすべての優れた能力は、「神への奉仕」と称して教会がいくらでも利用できる共有財産、労働力とみなされている。むろん、その労働に報酬などない。その「ありがたい」奉仕の提案を拒否し続けるような不届きな信徒は、そもそも教会に所属してもらっては困る。たとえば、教会が巨大な礼拝堂の借金で苦しんでいる時に、あなた一人、教会債を買わず、そんな債務を自分が負担する義務はないと言い張るならば、他の信徒たちから白眼視され、村八分にされることだろう。それでもあなたがあくまでそこに残り続けようとするならば、いずれあなたは不都合な信徒として断罪され、異端者、悪魔の手下とされて魔女狩りの対象となり、追放されるだろう。

つまり、教会では、偽りの神の国という共産主義社会を打ち立てるために、(罪の)負債を集まった信徒らが連帯責任として負うことが求められているのであり、これに従わない信徒が異端者とされて駆逐されているのである。共産主義社会とは、罪の連帯責任の社会だと今までずっと主張して来たのはそのためである。そこでは、その連帯責任から逃れて自由になろうとすることが「罪」とされるのである。

カルト監視機構なるものは、望ましくない信徒や教会をいつでも(誰かが恣意的に)弾圧することを可能とする異端審問の制度を公式にキリスト教界に打ち立てようとする発想であったが、緊急事態宣言なるものも、共産主義社会へ向けて、不都合な人間を駆逐するための異端審問、これに基づく恐怖政治を暗黙の裡に行うための状況作りに過ぎない。そして、この異端審問は秘密裏に行われるのである。だから、いざ、戒厳令下の社会となれば、そこでどれだけの人々が、どんな罪で、どんな風に抑圧されたのかは、決して発表されず、統計も出ない。たとえおびただしい数の人々がよく分からない理由で突然、姿を消したとしても、誰にも分からない。

そんなことがこの現代社会に通用するだろうか? いや、フランスではすでに実行されている。初めは12日間と言われていたものが、3か月になろうとしている。だから、今、言えることは、このような盗人と殺人者の体系は許してはならないし、そこからは早急にエクソダスせよ、ということだけである。

キリストの十字架を介さずに、人類の力で共産主義ユートピアを打ち立てようとする実験に巻き込まれれば、あなたは途方もない負債を負わされることになる。

ソ連は、社会主義革命後、すぐに泥沼の国内戦に突入し、国力が疲弊したので、レーニンがしばらくの間NEPを導入し、一時的に資本主義のような経済活動が許された。それにより、束の間、国力が回復へ向かったが、スターリンはこれも廃止した。

世界革命を当てにしていたのに、資本主義国の敵意に囲まれながら、一国社会主義路線をとるしかなくなり、世界から孤立したまま、ロシアは自力で共産主義ユートピアを打ち立てるという実験を一国だけで続行しなくてはならくなった。戦争で国土が疲弊したマイナスからの出発、ただそれを回復するだけでも負担ははかりしれないほど重い。それなのに、世界に先駆けてユートピアを樹立するという(どこかの「輝ける国」によく似ていないか。)その財源を一体、どこから捻出するのか? 国民から取り立てる以外にはあるまい。

20年代の終わりに、スターリンによって強制集団化の路線が取られると、全国で一斉に国民に対する納税額が引き上げられ、突如、貧しい農民に払いきれない高額な税金の納付書が届いた。穀物挑発が行われ、農家が隠れてたくわえていた農産物はことごとく摘発された。富農を敵視する風潮が作り上げられ、自分のために財産を蓄えることは罪とされた。こうして、疲弊した国力を回復し、ユートピア社会を樹立するための総力戦は、国民にとって負いきれない重荷としてのしかかった。

国家が課した義務に応じられない国民は容赦なく罪に問われた。家畜に対する税が払えないので家畜を殺しても罪に問われる(なぜなら家畜も国家財産だから)。飢えてコルホーズのジャガイモを一個盗んでも国家財産の窃盗として死刑に処される。さらには、国を脱出しようとしても、祖国への裏切りの罪として死刑にされる。労働条件は極めて厳しく、たとえば、ある職場では、労働者が職場に三回遅刻すれば即クビだ。労働者が妊娠していようと子供がいようと一切酌量はない。肥大した官僚という一部の特権階級を除き、一般の国民は居住移転職業選択の自由もなく、貧しく緊縛されたまま、とことん労働力として重い義務を課せられ、消耗品として使い果たされるのみ。

同時に、思想的な弾圧も進行する。1930年に至るまでの間に、大学関係者など知識人の間では自由にものが言えない空気が作り上げられていた。反体制的な人々は革命後から亡命するか、国外追放されるかなどしていなくなり、それでも残った人々は、厳しい弾圧にさらされることになる。

国民同士が反体制的な疑いのある人間を互いに密告し合うことが奨励される。そして、疑心暗鬼が広まり、やがて、反体制であろうがなかろうが、深夜に秘密警察がやって来て、国民が無差別に逮捕され、容赦なくテロリストの嫌疑をかけられて銃殺されるか、強制収容所に送られて労働力として使い果たされる大粛清の時代へと向かって行く。数えきれない人々が証拠もなく「人民の敵」とされて社会から姿を消して行った。

こうして、人類を労働によって浄化しようとした社会主義国は、恐るべき異端審問、魔女狩りを生んだ。初めは一部のブルジョアジーだけを弾圧すれば済むと言っていたその魔女狩りは無差別的に拡大し、巨大な秘密警察組織を生み、ついにほとんどの国民がテロリストや国家反逆罪の汚名を着せられてターゲットとなるまでに至り、高級官僚さえも粛清におびえながら暮らさなくてはならなくなる。そして、彼らが賛美していた労働なるものも、ついには強制労働収容所という恐るべき人間改造の装置まで生み出した。むろん、そんな方法で人間を改造できるはずもない。だから、労働は人間を改造するどころか、とことん抑圧し、その尊厳を貶める装置と化したのである。

だが、ソ連に限らず、キリストの十字架によらずに、人類を罪や悪から浄化して理想社会を打ち立てようとすれば、例外なくこのような結果となる。カルト被害者救済活動も、必ず同じ結末に至ると警告して来たし、事実その通りになった。それは、まことのただお一人の神によらずして、人類はいかなる形でも自己救済できないということは、歴史上、変わらない霊的法則性だからである。

我が国は、これまで市場原理主義という歪んだイデオロギーに基づいて、人間を組織や国家のための労働力(道具)として来たが、その結果、やはり今、同じ結果に至りつこうとしている。

もはや労働の意味が変質してしまっていることに気づくべきである。同じように、国家の意味も変質している。ちょうど教会で「神へのご奉仕」として課せられる様々な義務が、決してまことの神への奉仕につながらないように、労働もいつの間にか、偽りの神に仕える「ご奉仕」へと意味がすり変わっているのである。そして国家も、偽りの神のために生贄となる人材を逃がさずに蓄えておくための囲いと化してしまっている。日本の若者は恋愛をしなくなったのはなく、個人家庭が事実上、暗黙のうちに禁止されているだけである。家畜がいつ繁殖するかを決めるのは、家畜自身ではなく、家畜の持ち主だというわけである。

何度も繰り返すが、エクソダスの時が来ている。このような人間に恐怖をもたらすだけの「ないないづくし」の世界からは早く出て、まことの神のいのちの豊かさに至るべきである。どんなに神を詐称していても、目も見えず耳も聞こえない偶像は何も生み出すことはできない。偽りの神は、せいぜい、あなたから取り立てることができるだけである。しかし、まことの神は「私はある」と言われる方であり、無から有を生み出すことのできる方である。あなたから盗んだり、あなたを殺し、滅ぼしたりするためでなく、あなたに命を与えるために来られたのである。

己を神とし、人間を神として拝んで生きるのか、それとも、まことの見えないただお一人の神のみを主として生きるのか。誰に栄光を帰するのか。人間か、それとも、見えない神か。どちらに仕えて生きるのか、それはあなた自身の選択である。

神はご自分に仕える者が誰であるか知っておられる。ご自分に頼る者を決して見捨てることはない。過越しの中に、御子の血潮の中に隠れるべきである。
 
「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」(Ⅰ列王記17:21)

「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。<…>」(創世記1:28)

「<…>私は門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:9-10)


この道から一歩逸れるだけで…

この道は、人から嘲られ、罵られ、誤解される道。
この道は、私が人から賞賛されて、高く上げられ、有名になる道ではない。
むしろ、人からは罵られ、誤解され、裏切られ…、私の栄光が最も徹底的に奪われる道である。そこでは、私が徹底的に低くされなければならない。

主イエスの歩まれた道を歩む者は皆、主イエスがそうであられたように、
誤解され、嘲笑され、痛めつけられ、排斥され、呪われ、時には、殺されさえするだろう。
しかし、わが主がそのように蔑まれ、栄光を奪われたのに、
どうして私が主を差し置いて、人からの栄誉をこの身に受けることができようか。

恐らく、私を最も過酷に扱うのは、私の兄弟姉妹を名乗ってやって来る人だろうと思っている。私たちクリスチャンも、くちづけをもって裏切られることになるのかも知れない。
しかし、それが何だろう。
「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し
偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」(マタイ5:11-12)

以下は、シュガーさんの記事から、ウォッチマン・ニーの詩を転載します。

「私が進むべき行程」から
少し横道にそれるだけで、唯それだけで、
私の命運は とても容易なものとなるだろう。
しかし、私は確かに知っている、
わが主は 何と過酷な行程を進まれたかを。

それ故 私はこの世を全く捨て去り 
その結びつきを 総て断ち切る。

私の行く道は なお狭きものとなり
世は総て 私に敵対して立ち上るであろう。

人々は 顔をしかめ、軽蔑してあざ笑うとしても
私は 主の笑顔のみを慕う、
ひとえに 彼の「よくやった」を願う、
地上のこの つかの間の時間の中でこそ。

偉大さを追い求めまい、
地上の栄光を追い求めまい。
ただ身を低くし 主にのみ仕えたい、
かの日、彼の誉め言葉を得んがために。

私は今 
「あの裁きの座」から来るその光を見つめる。
総ての私の生き方と働きが、
「かの火のテスト」に耐え得るために。

人々は総てをかけ
自分の成功を求め、栄光と富と名声を追求し、
自己の偉大さや 自分の追従者、
そして自身の栄誉を獲得しようとするだろう。

しかし私は
魂の中の繁栄ではなく、
ひどい孤独と貧困の中でさえ 
彼に忠信に従うことを求める、
あのゴールに到達するに至るまで。

私は知っている、地上におられた時 
主の歩まれた道は唯一つ 
あの十字架に向かう道であった
ことを。
それ故、私も彼と共に 
ただ損失をこうむることを願う。

総ての私の光栄は「かの前方」に備えられている。
それ故 ここで 私は総てを耐え忍ぶ。
主の御前において、主を差し置き、
今 自分の栄誉を求めることなど出来ようか。

しかし、来たるべきかの時、私は栄誉を賜るだろう、
主御自身 総て私の涙をぬぐい取って下さるという。
それ故 今この時代 忠信に 私はただひたすら前に進む、
私の主が出現される かの日に至るまで。


ハドソン・テイラーの信仰(2)

以下の記事に書いたように、私たちは誰もがハドソン・テイラーのように海外宣教に旅立つ使命を与えられているわけではなく、一人ひとりのクリスチャンに対して、神の召しは異なっています。誰もが一様の生き方をすべきだと考えることは間違いです。しかし、それでも、生涯を神に捧げる決意を固めた人々は、テイラーが実践したのと同じく、ある決まった重大原則に忠実に従うべきなのです。

 それは、神が召し出した人々には、神が全ての必要を整えてくださると心から信じきり、あらゆる必要性に関して、ただ神にのみより頼むことです。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。」(マタイ6:33-34)

 私たちが見習うべきは、一大財産を築き上げ、一生食べるに困らないほどの穀物を地上の蔵に貯え、これで人生は安泰だと思った金持ちではありません。私たちはこの世では明日も分からない寄留者であり、貧しいこと、乏しいこともあるかも知れませんが、私たちの望みはただ天にのみ置かれているのです。御国の働き人に対して、天の貯蔵庫は決して空になることはないのです。そのことをただ私たちが信じるかどうかが問題です。もし信じられなければ、私たちの働きも私たちの信仰に見合った矮小なものにとどまってしまうでしょう。

 さて、ハドソン・テイラーの伝記に戻ります。先にあげた引用箇所より、時は少し遡りますが、彼がどのようにして献身の決意を固めたか、どのようにして中国伝道のために召されていることが分かったか、またその召しに対してどう応えたかを示すエピソードを挙げます。

「回心後幾月と経たぬ或日の午後、私は暇を得て自分の室に退き、そこでもつぱら神との交わりに時を過した。その時のことを私はよく記憶している。いかに喜悦の心あふれて霊魂を聖前に注ぎ出したことであろう。私は私のために救を成し就げ給うた彼――私がすべての希望と救の願いをすらすててしまつた時もなお私を救いたもうた彼――に対し、感謝溢るる私の愛をいくたびもいくたびも言いあらわした。

そして私の愛と感謝のはけ口として、何か彼のための仕事、たといそれは何であつても、どんなつらい、どんなつまらない仕事であつてもよい、何か自己否定的な仕事、何か彼を喜ばし奉る仕事、かくまで私のためにつくしたもうた彼のために、私にも出来る何かの仕事を与え給えと祈り求めた。

私はよく記憶している、私が無条件の献身をもつて、私自身を、私の生命を、私の友人を、私の全てを祭壇上に捧げた時、深い深い厳粛感が私をおおつて私の献身は受け入れられた、という確信が上から臨んだことを、私は記憶している。ありありとした神の臨在感と、言いあらわせぬその祝福。私はまだ十六にならぬ少年であつたが、神の聖前のいうに言われぬ荘厳と、いうに言われぬ喜悦とで、ただ音もなく地にひれふしていたことを。

 どういう御用のために受けいれられたのか、私にはわからなかつた。ただ『自分はもはや自分のものではない』という一つの深い意識が私を占領した。そしてその後この意識の消え去つたことはない。それはまことに実際的な働をする意識であつた。

二、三年の後私は私の友であり、また師である或医者から、彼の所に年季奉公をするという条件で大変有利な申し出を受けた。然し私は何かそうした身をしばられる約束を受けいれてはならないと感じた。何故ならば、私はもはや私自身のものではない、自分で自分を自由にすることは出来ない、私は彼だけのものである、そしていつ如何にして御用に召されるかもわからぬ私は、常に彼の聖旨のままに従い得るよう、自由な身になつていなければならぬ、と感じたからである。

 この献身聖別の数ヶ月の間に、主が私が必要としたもうのは、中国においてであることがだんだん示されてきた。当時中国はまだ今のように国を開いていなかつた。さればかくして召された私の仕事は、ほとんど生命がけのものであろう事がぢゆうぶん予想された。中国に働き人を持つている伝道会はまだわずかであつた。中国伝道に関する本で私の手に入れ得るものは少なかつた。

しかし町の組合派の一牧師が、メドハーストの『中国』を持つていると聞いたので、私はその借覧を頼みに彼を訪問した。彼は快く私の願いを聞いてくれた。そして何故その本を読みたがるのかとたずねた。私は神が私を召して中国伝道に生涯を献げしめ給うたことを告げた。

『では如何にして中国へ渡るつもりか?』と彼はたずねる。

私は答えた『私は十二使徒や七十人の弟子達がユダヤでやつたように――財布も袋も持たず――私を召し給うた彼がすべての必要を満し給うと信じて行くべきであると思う』と。

彼はやさしくその手を私の肩において言つた『ああ、君ももう少し年をとれば賢くなるだろう。そんな考はキリスト御在世当時ならとにかく、今の時世では通用しないよ』と。

 私はそれ以来、年もとつたが賢くもならない。私は、もしも私どもが主の命令と、彼がその最初の弟子達に与え給うた約束とを、もつと無条件に受け入れて己が導きとするならば、あの当時と同様、今日にもなお全くあてはまるものである事を、更に一層確信しているのである。」(ハドソン・テイラー著、『回想』、p.23-26)


 クリスチャンの召しの内容や、働き方、それは確かに時代に応じて変わるでしょう。たとえば、今日、中国伝道の意義は、テイラー存命当初のものとは大きく変わっています。けれども、真に重要なのはそんなことではありません。私たちの召しの内容がどんなものであれ、神の国の永遠の原則は、キリストが地上に来られた時から、今に至るまで、何も変わっていないのです。もしも神があなたを本当に何らかの働きのために召されたならば、あなたの全ての必要性を整えるのは神の仕事なのです。神があなたの雇い主なのであり、神があなたの生活を保障して下さる方なのです。

 キリストが地上に来られた時からその原則は不変です。私たちは今日でも、イエスに遣わされるならば、自分の財布を空っぽにして(=神がこの召しを完遂するための全ての必要を整えて下さることを信じ、己や人の力を頼みとせず)出かけていくべきであり、そうしてこそ、天の貯蔵庫は無限であることを味わう幸いを保障されているのです。自分の資金で神の働きを成し遂げられる人は一人もいません。十代の青年であったテイラーは、その若い当時に、ただ神にのみより頼んで召しに従うことを決意し、生涯、その考えを変えることはありませんでした。それは、彼が頼みとした神は、彼を一度も裏切らなかったからです。私たちが今日、彼が信じたのと同様に、イエスの言われたことを無条件に信じるならば、私たちは予想だにしない祝福を受け取ることでしょう。私たちの側の信仰が問われているのです。

 神が始められた仕事は、必ず、神が責任を取って下さいます。そして私たちは地上に宝を貯えるための働き人でなく、天に宝を貯えるための働き人なのです。私たちが地上の事柄にではなく、天の事柄に思いを馳せ、自己の力でもなく、地上の権勢でもなく、ただ天に無尽蔵の富を持っておられる唯一の方により頼んで進んで行くことが、祝福が降り注ぎ、働きが豊かな収穫の実を結ぶ秘訣となるでしょう。

「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町に入るな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。」(マタイ10:5-10)

「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。」(マタイ6:19-21)


ハドソン・テイラーの信仰

このところずっと書きたいと願っていた内容があります。今後の生活をいかに支えるべきかという問題について考えるにつけ、ハドソン・テイラーの伝記から学ばされることは多いのです。誰でも、生活の問題に直面するでしょうが、そのような時、私たちがいかにそれを解決すべきか、テイラーから学ぶことができます。

テイラーは全てにおいて、神に頼りました。特に、彼は中国伝道の召しが与えられてからずっと、経済問題について完全に神に頼ることを学んだのです。神が召しを与えられたのだから、それを全うするための手段も、神が与えてくださるはずだと、彼は信じ続けました。テイラーの自伝的回想を読みますと、彼がいかに神に信頼して、日々を生きていったかがよく分かります。度々、思いがけない困難が起こります。彼は窮乏します。しかし、彼の信仰が間違っていなかったことの証拠として、神は彼の願いに誠実に応えられました。信仰に基づくそのような生活は時に、か細い一本の糸の上で綱渡りするように、恐れと不安と背中合わせになりました。それでも、彼は不信仰と闘いながら、信仰を選び続けました。

テイラーの伝記から学んだ最初のことは、私たちは神のために生涯を捧げる決意を固めた時から、自分の所有物を対処することを学ばなければならないということです。ウォッチマン・ニーの著書からも、このことについては述べました。勝手気ままに暮らしていた頃には、私たちは沢山の所有物を溜め込み、そのことに疑問もありませんでした。その頃、私たちが神の御用に用いるために用意しているものは何一つもありませんでした。しかも、それに加えて、もっと多くを所有できないだろうかと、それだけを願いながら暮らしていたのです。

しかし、自分の生涯を主に捧げるということが起こると、主は少しずつ私たちの所有物に対しても、働きかけます。私たちの持ち物は天幕に置かれたのであって、そこには自分の所有だと言えるものは何もないことを主は示されます。そして生活のあらゆる点で、神に目を向け、不要なものを捨てる、または捧げるように促すのです。「まず神の国とその義とを第一に求めなさい。その他は全て添えて与えられます」ということを、万事につけて思い起こさせるのです。そして、たとえ私たちが貧しくとも、富んでいても、どんな状態にあっても、御心に信頼して安らげるよう、私たちの内面の状態を変えていかれます。

一つ注意しておきましょう。前にも書いたように、テイラーの生きていた時代は、現在とは少し事情が違います。テイラーの時代、キリスト教界において、今日ほどの背教がはびこっていなかったため、キリスト教的団体を通じて働くことは、彼にとってつまずきとはなりませんでした。しかし、残念ながら、今現在、多くの教会では、正統な教義がゆがめられ、献金(十分の一献金等)、礼拝、日曜学校、慈善活動、布教活動のほとんどは、人に見せるため、また特定の組織の勢力を拡大するために行われています。それらは、信徒に重い賦役のように課され、人々のつまずきの源となっています。どれほど多くの献身者が、まるで神に仕えるように牧師に仕え、神を差し置いて、人の栄誉を高めることに貢献しているでしょう。信徒も同じです。そのような場所では、信徒間に競争があり、人々が先を争って、活動すればするほど、ますます神の御心から遠ざかっていくのです。このような状態が、決して、御心にかなうものでないことは一目瞭然です。

そこで、私は、テイラーが実践したことを全ての人が形式的に真似をすることによって、誰もが献身生活を送れるなどと言うつもりはありません。一人ひとりに対して、神の召しは異なっているのです。私たちは人真似をすることによって神に仕えることはできません、自分に与えられた個人的な召しについて知らなければなりません。ですから、神の御心を仰がず、自分の思いで外国伝道に志願したり、耐貧生活に適応すべく、わざと極端に貧しい生活を送ってみたり、体を鍛えるために戸外で一生懸命運動したり、汗水流してトラクトを配ったり、日曜学校の教師になったり、十分の一献金を行ったり、あらゆる教会活動に熱心に参加し…、そういった人間による活動が献身生活の本質であるかのように誤解してはなりませんし、ある一定の形式さえ守っておけば、神の御心を喜ばせることができるなどといった、短絡的なものの見方は避けるべきです。

人に見せるための善行は、決して、神へのささげ物とはなりません。人の真似をすることも、神を喜ばせることにはつながりません。また、誰かの指示に妄信的に従った結果として(いわゆる)「献身生活」を送ることは、自主性を放棄することであって、これもまた御心にかなう行いではありません。神の御用のために収入を捧げるとは、決して、何も考えずにただ教会の献金袋に毎月一定の金額を投げ込むことを意味するのではありません。私たちは、何らかの外面的な形式を模倣することによって、献身を成し遂げられるわけではないことを覚えておかなければなりません。

しかし、そのような問題は別として、ハドソン・テイラーが実行した大まかな原則、すなわち、私たちが神と出会ったならば、まず自分の生涯を何らかの形で神に捧げたいと熱心に願うようになること(これは自然に起こります)、すると次に、自分の所有物を対処することを学ばされること、つまり、自分の時間を有効活用して、神に捧げなければならないと気づかされ(これも自然に起こります)、自分の持ち物をも、自分で握りしめていてはならず、神に捧げなければならないと気づかされること、収入の一定の部分は神の御用のために喜んで用いるべきであること、経済的困難にある時にも、常に神に祈り求めることを学ぶこと(これらは全て自然にそのように促される時がやって来ます)、そういった原則が、神に仕える人たちが、今日も、怠ることなく実行していくべき根本原則であるということは、変わっていません。神に絶対的に献身する決意を固めたならば、何よりも、私たちは、自分の所有物を自分で所有しようとすることをやめ、全ての必要をただ神に委ねるよう促される時がやって来ます。そして私たちは、不満を押し隠し、喘ぎ喘ぎ、歯を食いしばりながらそうするのではなく、喜びと平安を持って、それらを実行していくことができるのです。そうする時に、私たちの働きが真に実を結ぶようになり、豊かな祝福が私たち自身に降り注ぐのです。

このような生活は、誰か偉い人にそうせよと命じられて行う類のものではなく、私たちが神との交わりの中で、自然に気づかされ、促されて、無理なく、自主的に起こることです。以下は、テイラーの伝記からの引用です。

「私の愛する両親は、私の外国伝道志願に奨励も反対もしなかつた。ただ彼らがはつきり私に言つてくれた事は、私が最善の努力をもつて身と魂と精神とを一層強めること、また祈り深く神を待望み、もしも私がまちがつていたとわかつたならば、すなおに彼の導きに従い、又もしも時至つて神が外国伝道への道を開き給うたとあらば、ためらうことなく前進するように、という事であつた。此の勧めがいかに大切なものであつたか、私は其後しばしば知る機会を得た。

私は健康増進のためつとめて戸外で運動するようにした。またもつと困苦欠乏の生活に耐え得るよう鍛錬のつもりで、羽根布団を取去ったり、其ほか家庭的慰楽も出来るだけ省くように努めたりした。私はまた基督教的仕事で、私に出来ることは何でもするようにした。たとえばトラクトの配布、日曜学校の教授、病者貧民の訪問等その機会が与えられる毎に何でもやつた。

 家庭でしばらく準備の時を過ごした後、私は医学と外科とを修業するためにハル市へ行き、其処で或医師の助手になつた。此の人はハル医学校に関係があり、また多くの工場の外科医であつたので、診察室にたくさんの怪我人が来る。それで私は外科の小手術を見たり、実習したりする機会を多く与えられた。

 さて此処で書きもらすことの出来ない事が一つあつた。まだ家にいる頃、私はすべて人はその収入の最初の果と持物の適当な部分とを、主の御用のために別に取置くべきではないか、という問題を考えるようになつた。そしてまだ家を去らぬ今の内に、すなわち周囲の必要や思いわずらいなどのために、その結論がゆがめられるような境遇に入らぬ前に、此の問題を手もとの聖書について十分研究しておいたほうがよいと考えた。このようにして私は、得た金、手に入つた金は、どんな金でも、そのすくなくとも十分の一を主の御用のため別にするという決心をするにいたつた。

私がハルの医術見習生として今いつたころ受けていた給料では、このことを容易に実行することが出来たであろう。しかし親切な友であり雇主でもある医師の家庭のつごうから、私は別なところへ引越さねばならなくなつた。幸いある親戚のところに居心地の良い場所が得られたし、また私の仕事に対する一定の報酬以外に、下宿料としての必要額も与えられることになつた。

 しかしここで私の心に一つの疑問が起つた『この金額もやはり十分の一だけささげるべきではなかろうか?』と。それはたしかに私の収入の一部分である、もしも政府の所得税の場合であつたなら、それは確かに除外されないだろうと考えられた。しかしもしも全部の十分の一が引かれるとすれば、私は他の使い途にどうしても不足するのである。どうしたらよいか、私はしばらくの間非常に当わくした。

十分考えまた祈つた結果、私はいま宿つている居心地の良い場所と幸福な環境とを去つて、郊外の小さな下宿に間借――そこは居間も寝室も一つで、食事は自炊――することにした。このようにして自分の全収入の十分の一を、困難なく献げることが出来るようになつった。此の変化はかなり身にこたえた、しかしそれには少なからぬ祝福がともなつた。

 孤独の間、今までより一層多くの時間が神の言の研究と、貧民訪問と、夏の夜の伝道にささげられた。こうして失意のうちにある多くの人達と接するようになつた私は、やがて一層節約する特権を知るようになり、また私が最初考えていた程度より、更に一層多い割合を与えることも困難でないことがわかつて来た。

 ちょうど此の頃一人の友人は、主イエス・キリストの再臨とその千年王国との問題に私の注意を向けさせ、註も解釈もせず、ただ此の問題に関する聖書の章節の一覧表だけを私に与えて、よく研究するようにすすめてくれた。私は一しようけんめい聖書につき此の問題を研究した。その結果地上を去り給うたイエスが、再び復活の体をもつて来り給うという事、彼の足は橄欖(オリーブ)の山上に立ち、まだ彼の生まれ出でぬ先から約束されてあつた父ダビデの王位につき、此の世を支配し給うであろうという事がわかつた。

私は更に、主の再臨は新約全体を通じ、その民の一大希望になつている事、そして常に清潔と奉仕とに対する最も強力な動機であり、また試練と苦難との中にある者の最大の慰めであることがわかつた。私はまた知つた、彼が再びその民のもとに来り給う時期は明示されていないこと、そして毎日毎時主を待望む者らしく生活することが彼の民の特権であること、さればかかる生活にとつては、彼が何時来るとか来ないとかいうことは決して大事ではなく、たとい何時来り給うとも、悲しみならぬ喜びをもつて善き支配人の報告をすることが出来るよう、不断に待望むことこそ最も重要であると。

 この幸いな希望には全く実際的な効果があつた。その後私は自分の小さな文庫内をよく気をつけてみるようになつた。そしてそこにもしも不要な、又もう役にたたぬ本なぞありはしないか? また私の小さな衣裳だんすの中を調べては、今主が来り給うたとして、此の中に何か説明に困るようなものがありはしないか? よくたしかめるようになつた。その結果私の文庫は或貧しい隣人の幸福のため、また私自身の魂の更に大きな利益のため非常に減つた。

 一生を通じ機会あるごとに、時々そうすることは私にとつてたいへん有益であつた。私はこんな考を抱いて、家中を地下室から屋根裏まで歩きまわつた結果、霊的喜悦と祝福との非常な増加を受けなかつたことは一度もない。私どもにはみな貯蔵の危険があるようである。それは一つには無思慮から、一つには仕事の必要に迫られてであろう。とにかく他の人にこそ有用であれ、今の自分には少しの必要もない物を貯えこむ、そして知らず知らず祝福を失うことになる。

もしも神の教会の全財産がもつとよく利用されたならば、更にどれほど多くの事業が成し遂げられることであろう。如何に多くの貧しき人が食を与えられ、はだかなる者が着せられ、まだ福音の伝えられていない人たちにまで福音が行きわたることであろう。私どもはこうしたことを不断の心がけとし、また事情の許すかぎり常に実行すべき有益な生活態度として、たがいに勧めあうべきではなかろうか?」
(ハドソン・テイラー著、『回想』、岡藤丑彦訳、三一書房、1957年、p.26-31)


神のために生きる

「わたしたちは認識する必要がありますが、神に自分自身をささげる力は神の現われを通して生じます。それは神の啓示から来ます。献身について語る人が必ずしも自分をささげているわけではありません。献身を宣べ伝える者、あるいは献身の教理を理解している者が必ずしも献身している人ではありません。神を見た人だけが献身した人なのです。

神はアブラハムに現れました。すると直ちにアブラハムは神に祭壇を築きました。主イエスがダマスコの途上でパウロに出会われると、パウロは直ちに尋ねました、『主よ、わたしは何をすべきでしょうか?』(使途二二・十)。

わたしたちの霊的生活の転換点は、神のために何かをしようと決心することから来るのではありません。それは神のためにあれこれ行う決心をした結果から来るのではなく、わたしたちが神に出会う時に来るのです。

わたしたちが神に出会う時、わたしたちの生活の中に根本的な変化が起こります。わたしたちはもはや過去に行ったことを行うことができません。わたしたちは神ご自身に出会う時に自分自身を否む力を持ちます。神に出会う時に自己を否まないわけにはいかなくなります。神の現われは、自分ではやっていけなくさせ、もはや自分自身によって生きられないようにするのです。

神の現われは無尽蔵の力をもたらします。そのような現われはあなたの一生の行程を変えてしまいます。クリスチャンが神のために生きる力は、神のビジョンに基づいているのです! 主に仕えることはわたしたちの決定ではありません。わたしたちを神に仕えさせてくださるのは主なのです。祭壇を築くのはわたしたちの意志ではありません。祭壇を築くのは神が人に来られる時なのです。

 主に感謝します。神は現れる時に何かを語る必要がありません。しかし、多くの時、神は現れる時に何か言葉があります。神はアブラハムに現れた時に言われました、『わたしはあなたの子孫に、この地を与える』(創十五・十八)。神の現われはわたしたちを一つの新しい嗣業の中へともたらします。聖霊はわたしたちが将来、完全に獲得する嗣業の一部分として与えられているのです。今日、わたしたちが聖霊の中で受けているものは、将来、完全にわたしたちのものとなるでしょう。神のご計画が成就される時、わたしたちは完全な嗣業の中に入ります。」(ウォッチマン・ニー著、『祭壇と天幕の生活』、p.5-6)

 ニー兄弟が書いているように、献身とは、決して、今日、一般的に考えられているように、クリスチャンが自ら望んで、自力で自分を神に捧げる行為のことを指すのではない。献身は、神の現われに応じて自然に起こるものである。
 神がある日、私たち自身にはっきりと分かる形で、私たちの人生を訪れられる。そのようにして、私たちが自分に死なされる日は、常に向こうからやって来る。神の現われは、私たちを自然と内面的に倒れさせてしまう。ちょうど、ダマスコ途上で強烈な光によって倒されたパウロのように、私たちは、神の現われを見せられる時、自分が罪ある者として死んだように無力にされたことを感じる。

 その死を経て、起き上がった時には、私たちは復活のイエスの新しい命によって生かされており、自分の人生が根本的に変えられてしまったことが分かる。なぜなら、私たちはもはや、かつてのようにエネルギッシュに自分の願いや欲望の達成を目指して生きることができなくなってしまうからだ。あれほど活発であった自己は無力化されて、自己実現、自己満足、そういった類の、己を満たすための活動や、願いが、全て味気なく、魅力を失ってしまう。そういう事柄を思い浮かべるだけでも、むなしく感じられるほどである。

 そしてその代わりに、ただ神のために生きたいという、消えない願いが心に芽生える。主よ、どうかあなたご自身に、私を仕えさせて下さい。あなたと共に生涯を過ごさせて下さい! あなたのために、私はこの地上で何をすれば良いのか、教えて下さい。私の計画などもう要りません! あなたが教えて下さるのでなければ、あなたが許して下さるのでなければ、何事もいたしません。あなたからの答えがあるまで、私は一歩も動きません! 御心を示して下さい、あなたのためならば、私は命を失っても構わないのです! そういう祈りが自然に出て来る。それが、私たちに新しい嗣業が与えられたことの証である。

 新しい嗣業とは何か。アブラハムは目に見える約束の地での祝福を受けたが、今の時代において、私たちが受けるのは、「見えない約束の地」である「神の国」をキリストの御霊によって建設し、やがてキリストとともに支配し、天に朽ちない宝を積むという、はてしなく栄誉ある永遠へと続く仕事である。この約束の中で、最も輝かしい希望は、復活の体を持って再び来られるキリストである。この嗣業を受けた時から、私たちはその達成のために生きるようになる。

 だが、具体的には、一体、私たちが神の国にどのようにして貢献するのだろうか。もちろん、主が与えて下さるのでなければ、私たちは自分から何一つとして活動できないが、御国のための種まきの仕事は、時代によって、少しずつ、その形態と内容が異なるのではないだろうか、と私は思う。今日、そのような重要な話を、私はあるキリスト者とともにしていた。

 今日、一般的に、献身や召命の本質は、依然として、主に、活動内容にあると誤解されているが、実際にはそうではない。多くの人たちが、神に仕えるとは、何か特別な、見える働きをすること、特別な栄えある働きに従事することであると考え、それに参加しようと、積極的に志願している。あらゆる教団教派が、数え切れないくらいの国に、海外宣教師を競うように派遣している。どこの国に行っても、何らかのキリスト教的慈善団体が活動している。しかし、そんな事情のためにこそ、今日ほど、神の召しの本質がゆがめられている時代もないと言えるだろうと思う。

 たとえば、19世紀に献身し、中国伝道に生涯を捧げた英国人、ハドソン・テイラーがいる。彼はある時、神に出会い、そして、中国伝道への召しを与えられた。中国との国交もままならぬ時代、船での渡航、宣教は命の危険を伴うものであった。この時代には、多くの犠牲を払って、彼が中国へ到達することが本当に必要であった。彼はこの召しが心に与えられた時から、自分の生活が、宣教に耐えうるものであるように、訓練を開始した…。

 だが、現在、海外宣教をとりまく状況は、テイラーの当時とはあまりに異なっている。「ユビキタス・ネットワーク」がますます整備され、コミュニケーションの手段がますます時空間に制限されなくなった今の時代、海外宣教でなくとも、福音を宣べ伝えることそのものの意味も変わってしまっている。

 テイラーの当時は、宣教師が目的地へ行って、どれだけその地を実際に歩き回り、どれだけ多くの人々に聖書やトラクトを直接、手渡し、どれほど大勢の人々に向かって、直接、福音を語り聞かせることができるかが、宣教の決め手であった。それは常に命懸けの仕事であり、意義のある仕事であった。
 しかし、今は、便利なツールを通じて、24時間、あらゆる説教が世界中に配信されており、文明から置き去りにされたような非常に貧しい地域などの例外を除いて、ある意味、福音はすでに全世界に宣べ伝えられつつあると言える。さらに、大規模集会、クルセード、リバイバル集会、聖会といったものが各地で開かれ、海外宣教には、多くの惑わしも入り込んでいる。

 このようにして、福音に対する世界的なニーズの変化、聖書的に見た時代の変化、(さらに言うならば、背教の広がりのために起こった伝道の変質という事情)に伴い、今日、私たちが神の国のために種蒔く仕事が、100年以上も前の時代とは、いささか異なる内容になっていたとしても、不思議ではないものと思う。

 このように考えられないだろうか。今日ほど、私たちの「活動」ではなく、私たちの「死」が早急に求められている時代は、他にないのではないだろうか、と。今日ほど、私たちが何らかの外側の栄えある働きや、名誉ある地位に誘惑されずに、つまり、見える形での自己の達成を求めずに、ただ神の中に隠された命として生きること、神のためだけに生き、この世に死んでいくこと、見えるもの全てを拒絶して、見えない神の国をリアリティとして生きることが、御前に求められている時代はないのではないだろうか。

 私たちはとかく活動したがる。それが私たちの自己の本質から来る欲求だからである。私たちは片時もじっとしていられず、何らかの公的な立場や、立派な活動がなくては気が済まない。人が聞いて納得してくれるような仕事がなくては落ちつかない。そして、この世は私たちのそのような欲望を叶える手段には事欠かない。

 だが、実際には、そのような活動のほとんどは、(たとえ神のため、という名目であっても)、私たちの自己を殺すよりも、むしろ、延命させ、より活発化させることに貢献している。そこで結局、活動すればするほど、私たちの魂と肉が強められ、ますます神から遠ざかって行くという結果にならざるを得ない。従って、そのような栄えある数々の活動を求めるよりも前に、私たちはまず、神の御前での静まった生活(この世に死んだ生活)、神のために隠された生活、すなわち、神の御前で自分が全焼のいけにえとして死んでしまう暮らしを、徹底的に求めなければならない。祭壇とは、神のために、祭司が全焼のいけにえを捧げる場所である。そして、今日、全焼のいけにえとは、私たち自身のことである。

「全焼のささげ物が祭壇の上に置かれた目的は何でしょうか? それは完全に焼かれるためでした。わたしたちの多くは、自分を神にささげたのは神のためにあれこれ行うためであると思っていますが、神がわたしたちに求めておられるのは焼かれることです。

神は神のために畑を耕す雄牛を必要とされません。神は祭壇の上で焼かれる雄牛を欲しておられるのです。神はわたしたちの働きではなく、わたしたち自身を求めておられるのです。神はわたしたちが自分自身を神にささげて、神のために焼かれることを望まれます。

祭壇は神のために何事かを行うことを表徴するのでなく、神のために生きることを表徴します。祭壇は多忙な活動を持つことでなく、神のために生活することを意味します。どのような活動や働きも祭壇に置き換わることはできません。祭壇は完全に神のための生活です。

新約のささげ物は、完全に焼かれた旧約のささげ物のようでなく、ローマ人への手紙第十二章で言われているように生きた犠牲として体をささげることです。わたしたちは日々祭壇の上で焼かれますが、日々生きています。わたしたちは生きていますが、焼き尽くされます。これが新約のささげ物です。」(p.7)


 ウォッチマン・ニーは、上記の言葉を偽ることなく、実行して生きた。もしもニー兄弟が、人生の後半を、世界を忙しく飛び回る伝道者、宣教師として過ごしていたならば、極めて有能な人材になっていただろうことを疑う人はない。多くの魂が、彼のメッセージを通して、直接、救われたかもしれない。

 しかし、彼が選んだのは、それとはまるで正反対の道であり、福音を伝えるには、一見、極めて非合理的な方法だった。彼は活動を選ばなかった。彼はただ神のために焼かれ、神のためにこの世から隠されることだけを願った。そして20年間の獄中生活を通して、全焼のいけにえとして自分自身を捧げきった。たった一人の家族からも引き離され、福音を語ることもできず、食事も満足に取れず、所有物も制限され、外界と接触することもできない、極めて不自由な監獄と収容所の囲いの中で、死に際しても、無実の罪のために拘束されたまま、釈放されず、看取ってくれる者もないままで、有望な人生の極めて重要な月日を、外面的にはただむだに過ごしながら、神にだけ捧げきった。彼の地上での天幕の中には、死に際して、所有物はほとんど一つも残らなかっただろう。彼は自分に死んで、徹底的にこの世を否んだが、それによって、見えないリアリティであるキリストを得た。彼は見えない御国の中に、見える自分の宝を全て移し変えたのだとも言える。彼の献身と召しとを完成させているのは、彼の活動ではなく、彼の不断の死である。

 私たちが今日、献身や召命のイメージを思い浮かべる時、それは、きらびやかに注目されて、大々的に活躍する宣教師や、伝道者や、牧者のイメージではなく、まさに獄中に閉じ込められたニー兄弟のイメージであるべきだろう。神のために生きるとは、私たち自身が、神のために全焼のいけにえとして焼かれるために、自分自身を差し出すことに他ならならない。

「主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。」(Ⅰペテロ2:4-5)



「私に従ってきなさい」

「さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。」(マタイ4:18-22)

「イエスは彼に言われた、『もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい』。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。」(マタイ19:21-22)

「そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、『ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか』。イエスは彼らに言われた、『<…>おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。』」(マタイ19:27-29)
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 ペテロやアンデレ、ヤコブとヨハネが、家や仕事、慣れ親しんだ故郷の土地を捨てて、イエスの招きに従った日のことを私は考える。
 彼らがすべてを捨ててイエスに従った日から、約2000年が過ぎた。だが、今日も、キリスト者が召し出される方法は基本的に変わらない。イエスに従うことを求められる時、私たちは、この世と完全に訣別することを求められる。それがこの道の特徴の一つでもあるだろうと思う。

 主イエスが私たちを呼ばれる時、そこには目に見え、耳に聞こえる形での具体的指示が伴うわけではない。誰か指導者が、私たちにどこへ行って何をなすべきか具体的に教えるということはない。この先あれこれの団体に所属して、このような仕事をせよという命令がどこかから下ることもない。(そのように人を介した形で伝えられる召しには要注意である。)個人預言があるわけでなし、未来の具体的ビジョンもない。

 だが、どこからも明確な指示がなくとも、それでも、不思議に、内なる御霊によって、私たちは自分がキリストのために今、すべてを捨てるように求められていること、この世と訣別するよう求められていること、家、父、母、兄弟、姉妹、妻、子、友人といった、肉なる人間関係を捨て置いて、また、田畑、家屋、財産といった地上的な富にもさよならを告げて、自分の命の心配をすることさえやめて、身一つで、御霊の導きだけに従って、新しい地へ旅立つよう求められていることを理解するのである。

 全てが曖昧で、不明瞭のようだが、明確に分かっていることが一つある。それは、私たちの行く先が、見えない教会としてのエクレシアであるということだ。
 そのエクレシアは、まだおぼろげで、生まれたばかりで、形も見えない。決して、それには団体名はついていない。しかし、私たちはとうの前から、自分がそこへ召し出されていることを知っており、そのおぼろげなエクレシアが、よりリアリティを持った現実としてこの地に実在するために、その見えない「一つ」の中に身を投じるために、キリストの御身体の小さな細胞として、すべてを捨てて旅立とうとしているのである。

 私はこの世を後にして、キリストの愛の一致の中に、身を投じようとしている。これから何が始まるのか、さっぱり分からない。ペテロやアンデレ、ヤコブとヨハネも、きっと何が何だかよく分からないままに、イエスについて旅立って行ったことだろう。しかし、そこには平安があった。喜びがあった。イエスへの愛があった。私たちは、キリストがせよと命じられることに、どうしても、逆らうことができない。たとえ理性では理解できないようなことであっても、どうしようもないほどのイエスの魅力に引きこまれ、また、彼の命令が与える絶対的な喜びと平安に満たされて、気づくとすべてを捨てて、すでに従っているのである。その日、キリストは私たちにとって、この世の何にもまして、現実となる。

 私は考える、当初、全財産を捨ててイエスに従うことができなかったあの金持ちの青年でさえ、きっと、後になって、御心を理解し、何らかの方法でこの世と訣別させられ、この道に入ったのではないだろうかと。なぜなら、イエスが発せられた御言葉は、御父の命令なのであり、それがむなしく散じるということはあり得ないからである。イエスご自身が青年を招かれたのに、彼が従わなかったということが、どうして考えられよう。人の魂には受け入れ難いことであっても、神にはできる、イエスはそう示唆された。だから、あの青年は、少し後になって、どうしようもなく御霊にとらえられて、この世を捨てて、身一つで、完成者なるイエスに従う道に、飛び込んで行ったのではあるまいか。

 「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
  わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
  主は言われる。
  天が地よりも高いように、
  わが道は、あなたがたの道よりも高く、
  わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。<…>

  このように、わが口から出る言葉も、
  むなしくわたしに帰らない。
  わたしの喜ぶところのことをなし、
  わたしが命じ送った事を果す。
  あなたがたは喜びをもって出てきて、
  安らかに導かれて行く。」(イザヤ55:8-9,11)

 今私は、本当は、大きすぎる喜びのゆえに、エクレシアに連なる成員に、何もかもを語り告げたくて仕方がない。けれども、あえて静まって、主と二人きりで、一歩一歩、歩みを進めて行くことにしたい。そうすることによって、この道で私を導いておられるのが、本当に、ただ主であることを、よりはっきりと認識できるようになると思うからである。

 今までのような頻度でブログを更新することはできなくなるだろう。けれども、今は私にとって、とても厳粛に、秘めやかに、大切に取り扱われるべき、歴史的瞬間であると思うので、野暮ったい詳細な報告などは後回しにして、御霊にあって生きるということに、喜びをもって、専念することにしたい。
 そんなわけで、皆さんも、どうか主にあって、喜びと平安のうちに日々を送られますように。