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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

ただ神の恵みによって生きる――魂の贖いしろは高価で、人には払いきれない――

ほむべきかな。日々、私たちのために、
重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神。

神は私たちにとって救いの神。
死を免れるのは、私の主、神による。
            (詩篇68:19)

どうして私は、わざわいの日に、
恐れなければならないのか。

私を取り囲んで中傷する者の悪意を。
おのれの財産に信頼する者どもや、
豊かな富を誇る者どもを。

人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。
自分の身のしろ金を神に払うことはできない。
――たましいの贖いしろは、高価であり、
永久にあきらめなくてはならない。――
人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。
墓を見ないであろうか。
            (詩編49:5-9)

一つ前の記事において、信者がアダム来の古き性質を自己のアイデンティティだと思わず、キリストにある「新しい人」を実際として信仰によって掴むべきだということを書いた。

キリストにある新しい人を単なる「道徳的な人間」ととらえているだけの人間には、筆者が書いているようなことは、トリックか、机上の空論のようにしか感じられないだろう。

「現実の私はこんなに罪深いままなのに、どうしてそれをキリストのご人格と同一視するようなことができるでしょう。そんなことは、あまりにも畏れ多いことです」

と言う人もあるかも知れない。

だが、聖餐式の時に差し出されるパンと葡萄酒を、信者は自分がそれに値するから手に取るわけではない、ということを思い出していただきたい。信者がこれを手に取ることができるのは、世人と違って、その信者には、キリストの十字架における死と復活を、自分自身のものとして受け取る信仰があるためである。キリストへの信仰こそ、信者が神の御業を受けとるに必要なものであって、信仰がない人が、それを受けとるにふさわしくないのである。

キリストの贖いの御業に値する人間は、そもそも、この地上に誰一人いない。誰も信仰によらなければ、神の贖いを自分自身のものとして受け取ることはできない。

だとすれば、キリストにある新しい人格に値すると言えるだけの人間は、地上には誰一人おらず、ただそれを信仰によって受けとる道が与えられているだけだということである。だから、信者の目にたとえ自分がどれほど罪深く、キリストからほど遠い人間に見えたとしても、キリストの御業は、信者がそれに値するから与えられたものではなく、ただ信じることによって信者に適用されることを思うべきなのである。

そもそも、人間の地上にいるすべての人間は例外なく罪人であって、神の御業には誰も値しない。だからこそ、人は自己の努力によって救われることはできず、神の御言葉を信じて受け入れる者だけが救われるのである。

そうである以上、いや、そうであればこそ、キリストにある「新しい人」は、ただ恵みによって、御言葉に基づき、信じる者に与えられる。その恵みを受けとることこそ、信者に必要とされる。

さて、神の恵みによって生きるとは、地上の事柄に責任を負わない人生を意味する。

聖書には、神が私たち信ずる者のために、日々、重荷を担われる、と書いてある。神が私たちのために心配して下さるのだから、神に重荷を預けて、生活のことなどであれやこれやと思い煩うことをやめなさい、とも書いてある。

神の国とその義をまず第一に求めなさい、そうすれば、必要のすべては添えて与えられます、と書いてある(マタイ6:33)。

だから、私たちは自分の背負っている地上的な重荷を一つ一つ、自分の手から放して行くのである。それは無責任になることや、罪に対して開き直ることとは異なる。そもそも自分に責任の取れないことに対して責任を負わない、という当然の姿勢である。

この地上には、自分の人格改善に対して責任が取れる人間は一人もおらず、自らの生存に対して責任を取れる人間も誰もいない。そのような自分の能力や責任範囲をはるかに超えた事柄に対して、あくまで自分の力で何とかしようと拘泥し、懸命に努力し、あるべき状態を作り出そうと試行錯誤を繰り返しながら、重荷を抱える人生と訣別することである。

たとえば、筆者は、つい先ごろまでは、世人と同じように、地上の職業に就いて働き、地上において何者かになることを目指して生きていたが、そのようにして自分で自分を養う生き方ではなく、自分の全てを神に明け渡し、神の国の働き人として生きるために、神によって直接、養われる生き方へ移行すべきだという結論に達した。

多くの人は、それを聞けば、「あなたは浮浪者にでもなるつもりですか? 何と無責任な」と言うかも知れない。だが、そのようなことにはならない。それどころか、キリストの命の豊かさ、健全さを筆者が生きて知ることができるようにと、実際、すべての局面において、神は、筆者が誰の助けにもよらずに生きられる健全な自立の方法を備えて下さったのである。

これまで、多くの信者たちが、筆者には色々な能力や知識や経験があるのだから、それを活かしてこの世で働くべきだと助言したし、筆者自身も、聖書に「手ずから働きなさい」と書いてあるのだから、働くことは良いことだと考えてそうして来たのであり、なおかつ、常に筆者自身が自らの望みに応じて、仕事を選ぶことができるように、神ご自身が助けて下さった。

こうして筆者は世の情勢にも関わらず、常に仕事に困るとか、生きるに困るということを経験しなかったが(ただし信仰による訓練はあった)、それにも関わらず、どうにも最近、筆者の目には、この世の仕事と呼ばれるすべてが異常となり、破壊され、歪んでおり、ただ人間を苦しめるだけの苦役と化しており、この国では、まるで社会主義国における労働のように、労働の意味が歪められており、それはただ人間が自分で自分の罪を贖うための終わりなき苦役のようにしか見えてなかった。

そもそも労働ということの意味がおかしいのである。年々、それはますます歪んで、人を生かすことも、救うこともできない、人間性を貶めるだけのむなしい苦役に近づいていることが感じられてならないのである。

たとえば、我が国には、新卒採用という異常かつ不合理なシステムがあって、その不合理なシステムのせいで、何かの理由で新卒採用の道を外れた人間には、一生涯に渡る不合理なディスカウントが待ち受けている。たとえより良い条件を求めて転職したとしても、その人の努力では、決してディスカウントの仕組みから抜け出すことはできない。

だが、それならば、新卒で採用された人は「勝ち組」なのかと言えば、決してそうではない。この労働システムの中に勝ち組なるものは存在しない。新卒採用というのは、要するに、不都合な事実を決して人に見せず、聞かせないために、学生が自分で物を考え、疑う能力が芽生える前に、企業に奴隷として取り込んでしまえというシステムに他ならない。

新卒採用という制度は、もしたとえるならば、18歳や19歳の世間を知らない未婚の娘が、いきなり60歳や70歳の離婚歴のおびただしい老人に嫁がされるようなものであって、今でも開発途上国などでは、女性に不平等を耐え忍ばせるために、若いうちに女性を結婚させる仕組みが残っているところがあるが、新卒採用というのは、まさにそれを企業と社員の関係に置き換えたものに過ぎない。

世の中の不条理に気づかせないために、また、無知の中に留め置いて徹底的に搾取するために、できるだけ人が若く、未熟なうちに、物事を深く考え、自主的に自分の人生を決めたりする力が生まれるよりも前に、さっさと企業との「結婚」の関係に追いやって、そこから逃げ出せないように拘束してしまおうというわけなのである。

そのような不平等を強いる存在に誠意があることは決してなく、その関係が両者にとって真に有益なものとなることもない。学生の方では、仮にやる気に溢れた初々しい「初婚」だとしても、企業の方は、それまで数知れない社員をリストラし、太り続けて続けて生き残った「老人」である。そういう意味で、企業(むろん、ここには民間企業だけでなく、官公庁などあらゆる組織や団体が含まれる)は、おびただしい数の「離婚歴」を抱えた老人同然であり、もっと言えば、結婚詐欺師のような存在と言える。

何しろ、「初婚」で企業と結婚した社員のほとんどは、何年か後に、ただ失望と幻滅だけを抱いて、悲しみのうちに「家を出される」ことになるかも知れないからだ。しかもその際、その社員には「子供が産めない(=思ったほどの業績が出ない)」などと言った理不尽かつ不面目な理由がつけられて・・・。

こうしたシステムは、いわば、確信犯的に慣習として行われているのであって、60歳、70歳、80歳、90歳の老人同然の組織や団体が、10代の後半、20代の初めの初々しい人間を思い通りに娶って己が欲を満たすために作られた、あまりにも不合理で不平等な差別のシステムである。

だから、仮にめでたくそこで「結婚」(=新卒採用)が成立した人がいたとしても、喜ぶのは早すぎる。少しでも人間としての心があれば、娶られた側の若者にも、その関係が実は騙されたも同然のものであり、自分の仕えている主人が、自分の若さにも誠意にも値しない存在であり、おびただしい数の「妻」を犠牲にしつつ、私腹を肥やすことしか眼中にない我利我利亡者だということがすぐに分かるであろうし、それでも、あえてその関係の中にとどまり続けようとするならば、自分もやがて良心を売って、彼らと同じような詐欺師の仲間入りをするしかないのである。

かつては、この国ではそういうやり方で、若者の特攻への選抜が行われ、有力な大人たち(老人たち)、国家の面子を保つために、青年が戦争で無益な死に追いやられていたが、そのような歪み切った精神性は、今になってもこの国に変わらず受け継がれているのである。

だからこそ、この国では未だ若者への搾取と収奪が終わらず、どちらを見ても、弱い者から収奪する以上の考えが生まれて来ないのである。そんな中で、新卒採用されれば幸福だと思うのは大きな間違いで、それはただ騙しと搾取のシステムを気取られないように美しくコーティングしたものに過ぎず、新卒採用された者も不幸であれば、新卒採用から「ドロップアウト」した者たちも不幸で、我が国の不合理な労働市場の競争システムは、結局、どこまで行っても、決して誰をも幸福にしないのである。

こうしたシステムは、我が国のグノーシス主義的世界観から発生している。戦後を経ても、このような価値観に終止符が打たれなかったのは、その背後に、独特の宗教的世界観が横たわっているためである。グノーシス主義思想は、終わりなきヒエラルキーを上昇して行くことを至高の価値とする世界であり、そこでは個人の普遍的な価値というものは、ヒエラルキーの序列の中で定義される相対的なものであって、実際はないに等しい。個人はヒエラルキーの階段を上ってこそ価値が認められるのであり、そのヒエラルキーを温存する場所が、組織や団体である。そこでは、組織や団体の価値観が個人の価値を定義するのであって、組織や団体の生き残りは、個人の生き残りよりも優先される。ヒエラルキーを上った個人は助かるかも知れないが、それ以外の個人は、全体のために犠牲になるのが使命だと考えられているのである。

これは一種の優生思想である。このように、個人の命よりも、組織の面子と生き残りを重視し、そのためならば個人は犠牲にされて構わないとする悪意ある歪んだシステムの中に居続けている限り、たとえ望んでいなくとも、誰もがこの不合理なシステムを助長する駒とされるのは避けられない。

だとすれば、残る道は、そこから脱出することだけである。聖書には、地上の経済がやがて反キリストの王国に集約されることが記されているが、このような悪しきグノーシス主義的世界観に支えられた地上の経済に仕えて生きる生き様そのものから、脱出せねばならない時が迫っているのである。

かくして、筆者は、労働によって人が己の生存を支え、自分で自分を贖うという終わらない苦役をやめて、ただ神の恵みによって生かされる単純な道へ移行することに決めた。

かつて社会主義国ソ連で、詩人ブロツキーが労働に従事しなかったために、当局に呼び出され、「徒食者だ」と非難された(詩人であることは、社会主義国では職業とはみなされなかった)。その国では数多くの人々が無実の罪で投獄され、奴隷的囚人労働に従事させられていた。

我が国の有様は、実のところ、これとほとんど変わらない。我が国が資本主義国であるというのはほんのうわべだけのことで、実質的には、社会主義国とほとんど変わらない現状が広がっている。すでに新卒採用について触れた通り、我が国における労働システムは、ただ単に人が働いて生きる糧を得るための場所ではなく、それ以上のより深い意味を帯びており、結局、それは組織や団体にとって都合の良い人材を育成・確保するための方法論に他ならない。

つまり、社会主義国において行われていた愚かしい「労働による再教育」と同じように、我が国における労働システムも、生涯、プロレタリアートとなって資本家にとって都合の良い労働力の提供者となる者を育成・確保するために、労働による絶え間ない人間性の変革(=再教育)が行われているのである。これはすでに一種の歪んだイデオロギーであり、労働を通じてこのシステムに参加することは、自ら再教育に志願することと同じなのである。

そんな「労働」に寸分たりとも人間性を変える力があると思うのは誤りである。そのような意味においての「労働」には、人間性を貶める以外に何の効果もありはしない。それは人間が自己の力によって自己を変革しようとする偽りの救済システムの一環である。

だから、筆者は「労働によって人が己の罪を贖い、人類が自己浄化をはかる」という、呪われたシステムの体系の外に出ることを決意したのである。

振り返れば、筆者だけでなく、信仰の先人たちはみなほぼ例外なく、この道を辿って来たようである。彼らは世の経済の繁栄のために働いて生きることをやめ、神の国の権益のためにのみ働いた。そして、どんな時にも、彼らは世に助けを求めず、自分たちの窮状や欠乏を信者に巧みにアピールして助けを乞うこともなく、すべての必要を、神が彼らのために信仰に応じて備えて下さるに任せたのである。

筆者の人生にも、そういうことが幾度も起きて来た。筆者自身が働いて自分を養っていると思っていた間も、幾度もそういう不思議が起きて、主が筆者のために必要を天に備えて下さっているのを見せられて来たのである。だから、地上の経済から、天の経済への移行は、筆者がはっきりとその道を自覚する前から、徐々に行われて来たのだという気がしてならない。

このようにして、筆者は、聖書が教えている健全な自立のために信者が手ずから働くことと、信者がこの世の歪んだ市場経済の犠牲となることは、全く意味が違うのだという結論に至りついた。

蒔くことも刈ることもしない野の花も、空の鳥も、神は養って下さっているのだから、人が自分の生活のことで思い煩って、明日の心配をするのをやめなさい、と聖書は言う。主イエスは、人間は鳥よりも優れた者なのだから、どうして神が養って下さらない理由があろうか、だから、人は自分の命の心配を第一として生きるのではなく、神の国とその義を第一として生きなさい、と語られたのである(マタイ6:25-34)。

これこそ、人の生存の基本であると、筆者は考えている。人の生存を保障して下さるのは、天におられる神である。神が心配しなくて良いと言っていることについて、なぜ信者がくよくよと考え、己の力で何とかしようと奮闘する必要があろうか? それよりももっと考えるべきこと、見るべき課題が他にあるではないか。それが神の国の権益である。

おそらく、企業や団体に雇われて働いている人たちには、「こんなにも自分は一生懸命にやっている」という自負があると思われる。彼らには、雇われていない人、働いていない人、働けない人たちに比べて、自分は社会に貢献しており、優位に立っているという自負もあるだろう。だが、それは裏を返せば、それだけ彼らが理不尽を耐え忍んで不満がたまっているということに他ならない。

しかしながら、たとえそのように理不尽を耐え忍んでも、悪事に加担し、己が労働を誇るその生き方からは、何も生まれて来るものはない。この世には、そんなにも一生懸命に「主人」に尽くしていながら、それに見合った対価を受け取っている人はほとんどおらず、多分、あと少しすれば、彼らの努力は本当に全く報われないものになろう。

私たちは、自己の努力によってではなく、神の恵みによって生かされている。世という悪い「主人」によって養われているのではなく、聖書のまことの神というただ一人の「主人」に養われているのである。信ずる者は、世の栄光のためではなく、神の栄光のために生きている。その基本を忘れ、この世を「主人」として栄光を帰する人間は、悪魔に騙され行くだけであろう。

この世の経済はますます追い詰められて滅びに向かっている。人が自分で自分を養っているという自負は、偽りであって、その仕組みは決して成り立たないことだけが間もなくはっきりするであろう。聖書にある通り、魂の贖いしろは高くて、人には払いきれない。

こうした自明の理が明らかになる前に、筆者は滅びゆくバビロンから逃れ、神の恵みによって生きるために、天の経済に移行し、野の花や、空の鳥のように、自由に、さりげなく、生き生きと、被造物としての美しさ、健全さを現して、神に栄光を帰して生きたいと考えている。神はその御言葉の確かさを様々な知恵を通して信じる者にこれからも証明して下さるであろう。

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私の宣教は、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく

現在、ブログやホームページのリニューアルのための準備をしています。新しい媒体を使うことも考えていますが、まずはひとこと欄の短縮のために、記事を書いておきましょう。

このブログについては、さわやか読者賞にも挙げているように、日夜、このブログを蹴落とすために工作している人々がいます。このブログが更新されない時間帯を見計らって、彼らは工作をしかけて来ますが、他方、私は自分のブログを上位にランキングさせるために今まで人為的な操作をしたことが一度もありません。

私はこれまでに自分のブログをヒットさせたり、上位にランキングさせたり、読者を増やしたり、ライバルを蹴落とすための人為的な工作をしたことがありません。

これはネットに限らず、すべてに通用することですが、上位にランキングするための確たる方法は、日夜ライバルを蹴落とす工作にいそしむことではなく、嘘のない誠実で質の良い記事を書き続け、有益な情報を提供し続けることにあります。

つまり、ここでは人間の質が問われます。一位を獲得することが目的なのか、それとも、類まれな高い品質を確保し、それによって高評価を得ることが目的なのか。どちらを目指しているのか、人の態度からすぐに明らかになります。ただ一位だけが欲しい、俺様だけが一番なのだ、という考えの人であれば、あらゆる不当な方法で政敵を貶め、モラルに反する反則行為を使ってでも、ただ自分が一番になれればそれで満足でしょう。しかし、品質が伴わないのに一番になっても何の意味もなく、それはむしろ悪魔のやり方です。

ですから、私は自分を人々に印象づけるためにしきりに宣伝したり、呼びかけたり、あるいは何か工作をするつもりはありません。そういうことを何もせずとも、有益な情報を提供していれば、必ず、人々がこれを自ら調べて糧として行くことを知っているからです。

つまり、命の泉が本当に湧き出てさえいれば、何もしなくとも、人の存在はいずれ世に知られることになるのです。その命の泉とは、人に媚びて、人間の耳に都合の良いことだけを言い続けることではなく、真実を訴えることであり、そのために必要な代償を絶えず払い続けることです。それが本当の意味で世の光となり、地の塩となることの意味です。

しかし、そのためには代価が必要です。どのような嘘の圧迫にも屈することなく、真実を擁護するために、必要な代価を自ら払い続けることが必要となります。

このブログを書き始めた当初、私よりももっと優れて洗練された信仰の証を発表していた人たちが数多くいました。その人たちは、私のブログを読んで、色々と酷評していました。彼らは自分たちの信仰のあり方が、私よりはるかに優れて立派だと考えていたので、私の前で、その本音を隠そうともしなかったのです。まあ、人生においては、十年も二十年も先輩の人々でしたので、当時、私は彼らの忠告や意見にあえて異議を唱えようとはしませんでした。

しかし、私を未熟なクリスチャンとみなしていた彼らは、書き続けるということをしなかったのです。特に、議論が盛んになり、反対者が現れ、自分の証が泥靴で踏みにじられたり、誤解され、嘲笑されたりするかも知れない恐れが生じたときに、彼らは色々な理由をつけて、さっさとブログを閉鎖し、蜘蛛の子を散らすようにネットから去って行ったのです。

「どうしてやめたのですか、あんなに素晴らしい証を書いていたのに。私は励まされていましたよ」と語りかけても、「いやあ、変な人たちに絡まれたくないからねえ」という一言で済まされてしまうのでした。
 
それまで、彼らは私にはまるで信仰の大先輩のように見えていましたし、彼らは日々いかにして迫害や苦難を耐え抜いてキリストに従い抜くかといった実に高邁なテーマを語ってもいたのですが、実際には、ほんのちょっとした嵐がやって来るのを見ただけで、自らの証を捨てて逃げ出してしまいました。

それを見ると、彼らはただ自分は安全な場所で美しい証を発表し、さももっともらしい信仰生活を送っているかのように人から賞賛され、肯定されたいという願いが動機となって信仰の証を書いていたのであり、暗闇の勢力による圧迫のすべてを耐え忍んで、それらに立ち向かって勝利する秘訣を学ぶために、激しい戦いの中に踏みとどまり、神の御言葉の正しさを生きて証明したいというほどの決意はなかったのだと分かり、非常に残念に思いました。

彼らは、通常のクリスチャンよりも、自分は真理を知っていると考えていましたが、いかなる戦いにも勝利する前に、自ら戦場から退いてしまいました。その戦いは、自分に対する戦いではなく、キリストに対する挑戦であることが、分からなかったのです。

ですから、こうした人々にふさわしいのは、「みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」(マタイ13:21)という御言葉でしょう。自分の利益のために証を書いている人たちは、その利益がなくなるや否や、たちまち、その活動をやめてしまいます。

そのようなスタンスを取ってはいけないのだということに、私自身、長い時間をかけて気づきました。みっともない思いをしたくない、名誉を傷つけられたくない、という思いが、もし人の願いのすべてであったならば、キリストはそのすべてを耐え忍ばれ、なおかつ、今日も、クリスチャンに自分の十字架を負って彼に従うように命じておられることの意味が、どうしてその人に分かるでしょうか。
 
たとえ迫害が起こらなかったとしても、自分の美が損なわれないことだけを第一に活動すると、いずれ、内実が伴わないのに、自分が一番でなくては気が済まないという悪魔の思いに取り込まれて行くことになります。キリストはすべてにおいて第一位の方です。しかし、首位になるために、彼は最も重い代償を支払ったのです。

ピリピにあるように、キリストは、神が神ご自身の栄光ある形を捨てて、むなしい人となられたというだけの点で、へりくだったのではなく、そのむなしい人の姿の中においても、最も低くされるという代償を支払ったのです。そして、死に至るまで御父に従順であったがゆえに、神は彼にすべてにまさる栄誉をお与えになったのです。

ですから、話を戻しますと、ちょっとした誤解や嘲笑にも耐えられないほどひ弱でありながら、どうして「死に至るまでの従順」など口にすることができるでしょうか。自分は神のために殉教したいなどと語る人が、ほんのちょっとした迫害にも耐えられなくて、どうしてその望みがかなうでしょうか。パウロが信仰の戦いを試合になぞらえたように、本当に信仰生活において戦いを立派に戦いぬいて、賞与を勝ち取りたいと願うならば、内実の伴う生活を送らなければならず、その内実を生み出すためには、代償が必ず必要となるのです。
 
逆に、必要な代価を払っていれば、その支払われた代償の重さと、これと引き換えに発表された真実の価値に気づく人々も必ず現れます。それが分からない人たちの理解は必要ないと言えます。そして仮に人の理解がなくとも、神が評価して下さるならば、それにまさる栄誉があるでしょうか。
 
これはネットを問わず、人生そのものの変わらない原則ですが、敵の攻撃はほんの一時的な効果しか持ちません。ひきかえ、質の高い人生を送ることは、根気と忍耐を要する地道な作業であり、その成果は一瞬にして現れませんが、長期的に見ると、「やみはこれ(光)に打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)ように、「虚偽は真実には勝てない」のです。
  
さて、もう何年も前のことになりますが、関東に来る前後の記事を読み返しますと、あの頃の私はまだ自分をとても未熟だと思っており、色々な不安が心にあり、自分の能力や、手練手管の不足を思い、心細さや不安に苛まれながら出発していたことがよく分かります。

その当時、こちらの「兄弟姉妹」に会うと、私が最も主の御前で真摯に祈ることができた頃の苦しい状態から抜けたのは良かったとか、安定した信仰生活を送ることだけが目標であるかのような言葉を聞かされて、違和感を覚えたり、あるいは、気後れを感じたり、俺様主義的な信者(後にやはり偽物のクリスチャンだと分かるのですが)に圧迫されて、隅に追いやられ、悩んだり、様々な出来事が起きました。

しかし、今振り返ってみると、その当時に感じていた不安や心細さは、みな自然な心境であり、それで良かったのであり、正しかったのだと分かります。つまり、全てをただ神に持って行くために、私が自信を持って人前で誇り、自分によりすがって俺様主義に陥ることが可能なほどの手練手管(肉なる力)を有していなかったことは、本当に幸運かつ良いことであったのだと思うわけです。

パウロは書いています、「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊の御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」(Ⅰコリント2:4-5)

パウロには優れた知性、教養、雄弁さ、知恵の言葉などが備わっていたでしょう。それがなかったために、彼はこのように語っているわけでは決してないのです。むしろ、パウロはどんな人々の間においても引け目を感じずに済むだけの立派な出自を持っていました。その上、彼は兄弟姉妹と呼ばれる人たちの中にいたのです。敵の只中にいたのではなく、仲間と呼ばれる人々の中にいたのです。にも関わらず、パウロは「弱く、恐れおののいていた」と書いています。

御霊の御力の現れを受けるために、必要なのは、この恐れ、つまり、悪い意味での恐怖ではなく、自分は無力であるがゆえに、神に頼る必要があるという自覚ではないかと思います。

自分が力に溢れていると考え、十分な支持者や味方の数が確保できていると考え、自信を持っている人に、神の助けは必要ありません。むしろ、神の助けは、神の御前で常に自分がよるべない存在であり、寄留者であり、旅人であるという自覚がある人にこそ必要なのです。

ですから、私は自分を振り返って、もし初めから自分により頼むことのできる誇りや自信などが溢れていた場合、おそらく私は神の助けを全く必要とせず、信仰をも必要としていなかったであろうし、その結果、どうなっていたか分からないと考えるわけです。

すでに書いた通り、私の前で、立派な信仰を持っていたかのように振る舞っていた「兄弟姉妹」は、迫害が起きると、ただちに信仰の戦いから退き、安全地帯に逃れ、そこから同胞に石を投げて、むしろ迫害者の加勢に回ったのです。

初めはあまりのことに呆然としましたが、その後、彼らがどうなるのかを時間をかけて見ていると、かなり悲惨な状態に落ち込んで行くことになりました。最初は大勢いたかのように見えた彼らの仲間はどんどん少なくなっていき、家を手放したり、色々な生活の変化が降りかかり、集まることも難しくなり、会うこともできない遠方に遠のいてしまった人もおり、少なくとも、彼らは人数を誇ることは極めて難しい状態となりました。以前のような自由で隠し立てのないあけっぴろげな交わりはもう二度と持てなくなってしまったのです。

私がここへ来た当時、あたかも見た目には、彼らの生活は順風満帆で、何も問題を抱えておらず、これからも穏やかであるように見えたでしょう。交わりは始まったばかりで、これから成長して行くように見え、憂慮すべきは、彼らではなく常に私であると見えていたのではないかと思います。

しかし、事実はそうではないことが判明しました。肉の力の衰えは非常に早いもので、キリストを土台としていなければ、嵐が来れば建物は悲惨な倒壊を遂げます。くすぶる燈心のような私自身も、何度も信仰の火を吹き消されそうにはなりましたが、それでも、なぜか常に初心に引き戻され、戦いに戻って来るよう促されます。そして、その度ごとに、強められ、勝利の秘訣とは何かということが分かって来るのです。

戦いの方法を初めから知っている人はいません。勝利の秘訣は何度も試行錯誤してようやく分かって来るものなのです。いずれにしても、神は教えて下さいます。ただキリストのみに頼って、切り抜ける方法があること、それだけが勝利の秘訣であることを教えて下さいます。だから、ダビデは書いています。

「神、その道は完全。
 のみことばは純粋。
 主はすべて彼に身を避ける者の盾。
 まことに、のほかにだれが神であろうか
 私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。
 この神こそ、私に力を帯びさせて
 私の道を完全にされる。
 彼は私の足を雌鹿のよにし、
 私を高い所に立たせてくださる。
 戦いのために私の手を鍛え、
 私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。」(詩編18:30-34)

神の訓練においては、初めは一兵卒のようであった信仰者も、いずれは熟練した戦士になるのです。神がそれを可能とします。このことが分かってくると、この世の手練手管に頼ろうという思いはなくなっていきます。

たとえば、人前で社交的な人間を演じたり、正義感溢れる弱者の味方のように振る舞ったり、自分の能力を誇示し、偉業を成し遂げたり、誇るべき財産や地位や持ち物によって、人の歓心を買おうとか、そんなことは微塵も思わなくなって来るわけです。

従って、そのようなこの世的な手管はないに越したことはないし、あってもなくても引け目を感じなくなって行くのです。たとえ目の前で盛んに自分にはない力や人間関係を誇示する人が現れたとしても、焦燥感を覚えたり、気後れを感じたり、悲しんだり、あるいは自分もそれと同じものを獲得しなければならないと、心を動かされることがなくなって行くのです。

むろん、これにはちょっとばかり年の功もあります。それは、今までどんな局面においても、私の能力に関わらず、神が私を豊かに助けて下さり、必要の全てを供給して下さったことを、私は生きて十分に知って来たからです。仕事であれ、生活の糧であれ、必要な品であれ、娯楽であれ、人間関係であれ、兄弟姉妹であれ、全ては天から供給されるのです。

地上の人々は何よりお金は自分の努力の賜物と思っていますが、生活の糧さえ人の努力によって与えられるのでなく、神が直接、天から供給できるのです。

このように、人の肉なる腕によって支えられ動かされる地上の経済や人間関係とは全く違った法則によって支えられ動かされる、天の経済や天の人間関係といったものが確かに存在するのです。そして、そこに入るために必要なのは、繰り返しますが、自分の十字架を負うという代償なのです。針の穴を通ること、つまり、十字架における己の死を通ることです。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(自分の)いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのために(自分の)命を失う者はそれを見いだすのです。」(マタイ16:24-25)

自己の究極の弱さを知り、もはや自分の生まれながらの力により頼まないという態度を保持し、神の真実により頼んでいないと、キリストの命を見いだし、これによって生きる方法を知り、天に生き続けるのは無理なのです。

こうした経験をもとに、人が生きるに必要なのは、己の生来の能力や手練手管ではなく、信仰なのだと分かるのです。 しかし、このことを、生まれつき力のある人や、血気盛んで正義感溢れる有能な人間がすぐに理解することはできません。彼らは自分の生まれながらの力により頼んで生きており、それこそが力の根源だと考えているので、その肉的な力が、天的な生活には全く役に立たないどころか、障害になることが分からないのです。

この世で強い力を持って優位にあればあるほど、その人が、自己の優位性の腐敗していること、それが神の御前で全く無価値であることを悟るのは難しいのです。自分の無力を認め、告白するのは、人としてみっともないと彼らは思っていますので、どんなに無力であっても、その事実はひたすら隠し通さなければならないものであると思い込み、神に対してもそうしているのです。

こうした人々は、自分自身が強がって生きるだけでなく、自分の家庭をも、信仰的な観点から立派に見せて誇ろうとする傾向があります。肉によって築いた家庭をまるで信仰の手柄のように思っていることも問題ですが、さらにその家庭を、クリスチャンとして自分が高い評価を得るための手段として利用するのです。

しかし、聖書は、主に従う道には、肉的な家族関係を持ち込めないことを明確に教えています。キリストに従う道は「神の御前での単独者」の道であり、自分の父母娘息子よりも神を愛する態度が求められています。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることができません。」(ルカ14:26-27)

主に従う道は、極めて個人的な呼びかけであると言えるでしょう。ここに自分の大切な人々をみな連れて来て、魂の愛情に基づく人間関係を持ち込んで、みなで一緒に手を取り合って進んで行くことは不可能なのです。むろん、神は信仰者の家族を救って下さいます。しかし、いずれにせよ、魂の愛は十字架に渡されなければならないのです。

神の国の法則は一度たりとも変わったことはなく、人が生きるために最も必要なのは、己の生来の力や持ち物や人間関係から来る自信ではなく、自分がこの世では寄留者であって、神の御前で無力であるという自覚と、神の助けなしには生きられないという心細さ、それゆえに、神だけを信頼する子供のように単純な心です。

その単純な神への信頼がある時、神はその人の天然の弱さを不思議な強さによって満たされるので、人は自己の力の無であるに関わらず、いかなる欠乏もなく生きられるのです。それが聖書のパラドックスです。神は、自分は選民であり、選ばれて救われているから大丈夫と自己安堵する人々を常に退けて、孤独に見捨てられたような不安の中に置かれながらも、真実、神だけに頼る人々をみもとに招かれるのです。

「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、
愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。
『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、
わたしが言ったその場所で、彼らは、
 生ける神の子どもと呼ばれる。」(ローマ9:25-26)

次回、なぜ神はあえて弱い女性にたとえられる教会の意志にご計画の実現を委ねておられるのか、そのことを書きましょう。よく目を開いて聖書を読むならば、神は決して男性だけを力強く用いるということはなさらず、むしろ女性に、しかも、女性の中でも特に最も寄る辺のない女性に、最大の期待をかけて来られ、彼女たちを不思議な形でご自身の御業のために活用された様子が分かります。エバは堕落しましたが、それにしても、当時、彼女の意志にすべてが委ねられていたことを思うと、彼女の担っていたものははかりしれず大きいのです。しかし、それはエバが教会の型であったということを見れば、理解できます。今日、教会が担っているものは、エバよりももっと大きな使命です。

そして、教会に求められている使命とは、堕落した人類の生まれながらの力によらず、キリストによって、御霊によって、実を結ぶことなのです。このことを理解する時、初めて、「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」(イザヤ54:1)というあの聖書のパラドックスの謎が解けるのです。

十字架、教会、王国 ~天的な使命を果たすための教会の霊的資源~②

この課題は霊的な民によって果たされる

さて、この課題はすべて霊的な問題であって、霊の領域で戦い抜くべきものであることを、私たちは繰り返し指摘しました。その結果として、神の働きはまず霊の領域でなされなければならないことがわかります。一時的な状況を対処して、それに打ち勝つのは、その後のことです。

ここで私たちは直ちに状況の核心に導かれます。私たちは前の黙想でクリスチャンの一団について述べました。彼らはある種の人々であり、ある特別な地位にあり、ある特別な働きをしています。これはどういう意味でしょう?言葉だけで述べても、必ずしも助けになるとは限りません。私たちは自分の言葉を説明しなければなりません。私たちは霊的な民について話していますが、この霊的な民は霊的な関係の中にあり、霊的な地位を占めていて、霊の軍勢を対処して打ち倒す卓越した働きを行っています。しかし、この「霊的」という言葉の意味は、すぐにはわかりにくいです。「霊的」であるとは、実際の働きではどういうことなのでしょう?

霊的な民の特徴

(a)生まれながらの命によってではなく、神の命によって生きている

さて第一に、「霊的」という言葉が意味するのは、そのような民の命は霊の命でなければならないということです。神の働きにおいて、生まれながらの命が大量に放出されるおそれがあり、しばしば実際にそうなっています。あなたはそれを別の言葉――熱心、熱狂、動力、力、その他あなたが全力を尽くして打ち込む様子を描写する言葉――で呼ぶこともできます。この熱意、この熱烈さ、この力で、あなたは神の働きを果たします。

さて、これは私が「霊的」と言っているものではありません。もし物事を霊の領域で行おうとするなら、ただ霊の命によって行わなければなりません。そして、霊の命は生まれながらの命とは何かまったく異なるものです

私たちがすべてを十字架の基礎の上に据えて、十字架が私たちの基礎、私たちの解釈となることを許す時、まさにそこでこの大いなる断絶がなされ、この大きな違いが認識され、この大転換が起きます。

十字架で、霊的な事柄に関する限り、生まれながらの命はすべて終わります。霊的な効果を生じうる生まれながらの力は、十字架ですべて終わらされ、無効にされます。
実質的に霊的なものを生み出しうる、生まれながらの体の命、エネルギー、力でさえも、まったく価値がなくなります。霊的な軍勢と接触するようになる時、物理的な天然の領域にある筋肉や体格の力が一体なんの役に立つでしょう?最強の肉体といえども、霊的な軍勢がただ触れるだけで損なわれてしまいます。ですから新約聖書を見ると、生まれながらの命のエネルギー、能力、力に頼る人々はみな退けられているのがわかります。

そして、当時者たちは生まれながらの命の終焉に導かれ、自分たちの霊的働きや自分たちの霊的責任は神の命から発することを知るようにされます。体のための命でさえ、神の命から発します。ですから、彼らは神の御手の下で、神の命が自分の体にも供給されない限り――たとえ以前は肉体的にも体格的にも強かったとしても――前進することができず、おしまいであるという地点に達したのです。<中略>

ですから、この民が経験的に学ぶべき大いなる学課の一つは、神の命によって生きる方法を知ることです。私たちがこの基礎に辿り着くとき、どの結果も自然な成り行きの結果ではなくなります。<中略>

ですから、キリストにある権威は、まず第一に命によります。この神の権威の衝撃力を悪と死の王国の上に及ぼすには、この衝撃力を及ぼす経路となる民はこの基礎の上に到達しなければなりません。この基礎の上で、彼らは神の命を経験し、神から命を引き出す方法を学び、霊的な神の命を互いに供給しあう方法を学ばなければなりません。自分たちの体の命のためにも、そうする必要があります。

神の命は途方もありません。もし私たちが神の命によって生きるなら、年を取ったからといって死ぬことはありません。自然の理がそうだから、また医者がそう言ったからといって死ぬこともありません!私たちが死ぬのは、主がそう言われた時だけです!主が私たちを通して御業を遂行するのにもはや神聖な命は必要ないと判断される時、私たちはさらに豊かな命の中に入ります。これは死ではありません。これが、死が主要な抵抗勢力であるこの宇宙における、キリストの権威です。霊的な民はこれを知らなければなりません。

この境地に導かれることはたんなる教えではありません。これは厳しい死にもの狂いの仕事です。これは反対を受けます。まさにサタンの階級組織全体から反対を受けます。この反対に応じるには、私たちは霊と魂と体のために神の命を経験しなければなりません。


この命に対する課題には団体的に応じなければならない

そして、これは何と団体的な問題であることか!私は人々のことを述べています。そうです、これは個人の問題です。個人的な実行と経験が必要であり、個人的な知識と適用と獲得が必要です。しかし、これは何か個人を超えた問題なのです。この戦いでは、すべての個人が協力する必要があり、教会全体を巻き込む必要があります。聖徒たちと協力せずに、この霊の戦いの領域の中に入って行く哀れな人の上には、その人が誰であろうと災いが降りかかります!

ですから、この霊の領域で勝利を得る問題は教会の問題です。私が「教会の問題」と言う時、それは団体的問題を意味します。教会は主の御名の中に集まる二人または三人を指す場合もありますが、少なくとも互いに供給し合うものでなければなりません。ああ、教会の大部分がこれについて知り、ただちにこの中に入り込んでこの上に立っていたなら、現在起きている悲劇の多くは決して起きていなかったでしょう!

いま神の働きから退いている多くの人がいますが、その中のどれほど多くの人が神の働きのために用いられていたことでしょう!どれほど多くの人が働きから引退しなかったことでしょう!彼らは敵の勝利を示しているのでしょうか?神の命の不足のゆえに諦めなければならない人はみな――敵の勝利を表しているのでしょうか?霊的軍勢を対処する霊的立場に着いている霊的な人々とは、次のような意味です――第一に、内なる人である霊のために霊の命(つまり神の命)を経験している人々であり、魂と知性のために経験している人であり、実に体のためにも経験している人のことです。


十字架、教会、王国 ~天的な使命を果たすための教会の霊的資源~➀

「十字架・教会・王国」
第2章 天的な使命を果たすための教会の霊的資源

T. オースチン-スパークス

「しかし、一一人の弟子たちはガリラヤへ行き、イエスが彼らに行くよう命じられた山に登った。弟子たちはイエスに会った時、彼を礼拝した。しかし、疑う者もいた。イエスは彼らのところに来て言われた、『私は天と地のすべての権威を与えられました。それゆえ、あなたたちは行って、すべての国民を弟子としなさい』。」(マタイ二八・一六~一九)

霊的課題に応じる必要性

今日、一つの課題があります。この課題はおそらく、この世界の歴史の他のいかなる時にもまして、厳しい重大なものかもしれません。疑いもなく、教会の初期の時代、この課題はとても厳しいものでした。しかし当時、福音が勝ち取った地表の面積は今日と比べるなら微々たるものであり、他の多くの点においても、当時の状況は今日の状況に遠く及びませんでした。

何世紀にも及ぶ発展の結果、この世界に関して暗闇の王国は膨大な立場や手段を得ました。今日、この悪の王国の攻撃はとても深刻であり強烈です多くの面で、神の教会はこれに気づいています――おそらく、その原因や理由について完全に理解しているわけではないかもしれませんが、自分が攻撃や抵抗を受けており、かなり無力化されている事実に気づいています。教会は自分の無能さや無力さ、激しさを増しつつある霊的状況に対処する権威と力の無さに気づかざるをえなくなっています。これは今日の課題であり、教会を脅かしています。

この脅威により、教会はどちらかというとあまり重視されないおそれがあります。この世は教会を通り過ぎて無視することができます。また、あちこちで教会には対処できない状況、その前では教会は無能で無力な状況が生じるおそれがあります――教会はこれを知っているのです。

この課題は一つの必要を示します。私たちは「自分たちならこの必要を満たすことができる」と思うほどうぬぼれてはいませんが、それでも、この課題に直面してこの必要について考えることは私たちの義務です。

もし神が弱い者や小さな者を選んで、彼らが生来なしうることを遙かに超えて彼らを用いることができるとするなら、その時、私たちにも新たな可能性が拓かれることになります。ただし、私たちは神の御前でこの問題に本当に真剣に向き合う必要があります。

私たちは、ある霊的状況について述べてきました。この一時的状況は神の働きにとってますます困難なものになりつつあることを、私たちは大いに感じています。他方、こうしたあらゆる外面的困難の背後には、ある霊的な支配があります。これはあなたたちに告げるまでもないことだと思います。

目に見える物事は、結局のところ、背後にある遙かに大いなる何かの前景、舞台にすぎません。「この暗闇の世の支配者たち」という句は無意味な句ではありません。ここに問題があるのです。キリストの権威をもってそこの状況に触れうるものが存在するようにならない限り、教会にとって状況はお手上げです

「私は天と地のすべての権威を与えられました。それゆえ、あなたたちは行って、すべての国民を弟子としなさい」と私たちは容易に引用することができますし、これはあらゆる宣教の働きのスローガンでもあります。いずれにせよ、この御言葉を実行に移すとき、「あなたちは全世界に出て行って、福音を宣べ伝えなさい」がもっぱら強調されており、「私は天と地のすべての権威を与えられました」はあまり強調されていないように思います。

それゆえ、あなたたちは行って……」。この「それゆえ」という言葉の実際の意味に十分な注意が払われてきませんでしたし、今もそうです。この「それゆえ」という言葉は、宣教の働きと主イエスに与えられた「すべての権威」とを結ぶ鎖です。<略>


御国のための働き人 ー収穫は多いが働き手が少ない―

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方とすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときに勝利を得るため。」
 と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

ここ数日、私はジョージ・ミュラーの信仰にならい、信者が本当に天の経済に生きることが可能かどうか実験していた。

つまり、神が真実を愛されるように、私たちも真実を愛し、神が正義を愛されるように、正義を愛し、御言葉に従って、御言葉の正しさを証明するために、つまり、神の正しさを証明するために生きるなら、その信者の生存は、必ず、神ご自身が支えて下さるはずだという確信を生きて証明するための実験である。

実験結果はまことに良好なものであった。むしろ、この実験に入るのが遅すぎるくらいであった。もっと勇気をもって立ち向かうべきことが数多くあり、神の真実をもっと早くに高く掲げるべきであった。だが、それを悔やむことは必要ない。訓練は始まったのだから――。天の富を地上に引き下ろすことができれば、我が家の愛する子供たちのためにしてあげようと思っていたことが、ただちに可能となった。

これも多分、エクソダスなのであろう。頃合いが来たのだ。ノアと動物たちが地上を離れ、箱舟に乗り込んだように、私も少しずつ地上の経済を離れ、天の経済へと自分の荷物を移し始めている最中である。

理解者は少ない。だから、その作業は基本的に神と私との共同作業である。しかも、まだ踏み出したことのない道だから、確固たるレールがあるわけでもない。すべて信仰により、手探りのように進んで行く。だが、内側では分かるのだ、頃合いが来たのだと。主が共におられる平安がある。

箱舟の外では、空が曇り、遠くから雷鳴が聞こえ、集中豪雨が迫っている。今までさんざん大雨など来るはずもないと、箱舟建設をあざ笑って来た人々も、次第に青ざめ、表情をかたくし始めたところだ。

高待遇が経営圧迫!朝日新聞ついに給与削減を提案」(Diamond online 2月1日)
マイナス金利の影響 ほぼすべてのMMF受け付け停止」( NHK Newsweb 2月5日)

こんなニュースが紙面に踊る。地上経済は恐るべき混乱の中に投げ入れられようとしている。メディアは、安倍政権によって情報統制が進んでいると危機が叫ばれて久しいが、毒入りまんじゅうを食べた挙句がこの結果だ。マモンの神に仕えたところで、生き永らえるはずもなかろう。この先、彼らにはどんな報いが待っていることか。そして、地上の預金口座は、ついに預けても利息さえたまらない場所へと変わろうとしているのだ。

もう頃合いだと気づかない方がおかしいと思うのだが。仕えても、仕えても、振り返ってもくれず、報いてもくれず、数々の難癖をつけては途方もない努力を強いて、果ては良心をさえ売り渡すように当然のごとく求め、そのあなたの悲痛な努力に対して、ただあなたを路頭に放り出すことだけを唯一の回答としているような貧乏神を主人として生きるのをやめるべき頃合いではないのか。

この横暴な地上の神、貧乏神、厄病神の代わりに、真にあなたを愛し、あなたのために命を投げ出して下さり、すべての必要を供給して下さる生けるキリスト、まことの父なる神に仕えて生きるべき時ではないだろうか。

さらに、預けても預けても目減りして行くだけの地上の預金口座ではなく、天の口座に資産を移すべき時でないだろうか。

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19-21)
 
もし誰かが自分の働いている会社が間もなく倒産するという情報を得たとして、賢い社員ならどうするだろうか。真っ先に自分の身の処し方を考えて、安全な会社を探し、転職するだろう。同じように、今、滅びゆく地上に自分の財産を蓄えることの絶望性がこれほど明らかになったのだから、喜んで天に資産を移し、天に就職先を変えるべき時が来ているのではないか――。

そう、一億総活躍などといったスローガンにこれ以上、踊らされるべきではない。また別の機会に述べると思うが、これは全プロレタリア―トから持てるすべてのものを巻き上げるための強制集団化の始まりであるのだから。 (もしプロレタリアートなどと呼ばれて喜ぶ人がいるならば、なおさらのこと、地上ではなく、天のため、御国のための労働者になるべきである――というのが今日の論題である。)

ああ、またもやヴィオロンの荒唐無稽な作り話が始まったと、笑いたい人は笑って構わないが、その結論を得るのが遅くなれば遅くなるほど、きっと損失も拡大することだろう。

「不信者と、つりあわぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(Ⅱコリント6:14)

この御言葉の意味するところは、神を信じている者はすべての罪を赦されているのだから、神を信じていない者といっしょになって再び罪の奴隷となって罪の連帯責任を負わされてはいけません、ということである。

今、我が国は、途方もない天文学的で返済不可能な罪の負債の共同返済のための連帯責任という方向へ向かって坂を転落している。これまで、我が国は金銭だけを至高の価値とし、すべての人間を金を生み出すための優秀な道具とするために国家を運営して来た。いや、国家だけではなく、教会も含め、宗教団体もみな同じであった。おそらく世界で最も成功しているプロレタリアートの国に見えたかも知れない。
 
この国は資本主義国の形をとった社会主義国であったと言って過言ではない。だからこそ、そのイデオロギーのもたらす必然的な結果として、社会主義国の末期状態へと突入しようとしているのだ。いずれにせよ、国を動かすイデオロギーが間違っていたことは明白である。そこでは、人間が個人として生きることが許されず、人が常に誰か偉い人や組織のために道具となって身を捧げ、その利益のために自分を差し出し、犠牲して生きることが至高の価値のように奨励されて来た。そのような思想教育は、長い間、この国の教育制度や、就職戦線などの形で個人に高いハードルをつきつけ来たし、その中であたかも勝ち組やら負け組やらが存在しているかのような幻想が保たれて来た。
 
しかし、ついにここに来てそのイデオロギーの誤り、凶暴性がとことん明らかとなり、その仕組みそのものが破綻しようとしているのだ。

もはやヒエラルキーもなく、エリートもなければ、勝ち組もない。今後は、国を挙げて天文学的負債という罪を返済するための総力戦へと落ちて行くだけである。他国からの攻撃や、戦争で疲弊するならまだ理解できるが、これは罪の結果として内側から起きている自壊現象である。いわば、誤ったイデオロギーを信じた結果の自滅と言えるだろう。

ちょうど、野心満々で巨大な礼拝堂を立てたは良いが、信徒は増えず、借金だけが残ったという教会の姿にも似ている。そこに所属している限り、あなたも共同返済義務を負わされるのである。(これは霊的な所属のことである。国籍を捨てよという話ではない。)

残念なのは、人類がいかに罪を犯し、いかに負債が多く、滅びが間近に迫っているかを唱える人々は数多くいるのに、では、その滅びからどうやって救い出されるかという問いに、人々は決して真剣に答えようとしないことだ。

多くのクリスチャンは聖書を読み、キリストを信じて主としているかのように口では言う。だが、依然として、あの指導者、この指導者に助けを求め、政治的変革や、組織の刷新などに希望をつなぎ、また新しい潮流を作り、計画を練り直すばかりで、一向に神のみもとへ駆けつけようとしない。

見えない神をおざなりにしてきたがゆえに、この結果に至ったにも関わらず、今になってもまだ見えない神ご自身が解決であるということに全く思いをはせない。そして神を求めると言いながら、またもや人間の指導者に栄光を帰すために飛びついて行く。

そのようなことを繰り返していたのでは、問題をどんなに鋭く分析し、どれだけ多くの政治指導者やムーブメントを努力して渡り歩いたところで、罪の負債という世界から一歩たりとも外へ出られず、さらに負債だけが膨らんで終わるであろう。そのような生き方を脱すべき頃合いが来ているのである。

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 」(コロサイ1:13)

聖書は、このような恐るべき理不尽なこの世に対してこそ、信じる者はすでに十字架で死んだ、と教えてくれているのである。キリストと共なる十字架を経て、御子と共なる死と復活を通して、いかに信仰者がこのような理不尽な罪の連帯責任から救われているか、どれほど豊かな天の富の中に引き入れられているか、目を皿のようにしてでも良いから、次の御言葉をきちんと読み、約束された祝福を受けとるべきではないだろうか。目に見える人間の指導者は何も与えてくれないが、目に見えないキリストのうちにはすべてが満ちている。

御子はすべての支配と権威のかしらであり、当然ながら、マモンの神を含め、どんな偶像もはるか足の下にしており、地上のどんなものも御子には及びもつかない。なぜ最高の権威である方を知っているのに、その下僕にさえならないようなむなしいものを神として拝む必要があるのか?

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。」(Ⅰコリント7:23)
 
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。

キリストはすべての支配と権威のかしらです。

キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。

あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であってのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。

それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ2:9-15)

そこで、ひとたび、この曲がった時代にあって、私たちが御言葉の事実を確固として握りしめ、再び私たちを罪の奴隷に貶めようとするいかなる偽りをも拒絶して、神が喜ばれる生き方とは何であるか、御言葉の与えてくれる自由とは何か、まことの神の国とその義を第一に求め、模索しながら、御言葉に従って生きるならば、――もし自分のためでなく、神ご自身の栄光を生きて証するために生きるならば――、地上の情勢がどうあれ、神はご自分を真実に愛する者をひそかな場所にかくまい、すべての苦難から救い出し、必ず、平安のうちに保って下さるはずである。神は生きておられ、人の心を探り極められ、一人一人の働きに応じて報いられるのである。

詩編にはこうある、

正しい者の悩みは多い。
 しかし、はそのすべてから彼を救いだされる。
 主は、彼の骨をことごとく守り、
 その一つさえ、砕かれることはない。
 悪は悪者を殺し、
 正しい者を憎む者は罪に定められる。
 はそのしもべのたましいを贖い出される。
 主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。」(詩編34:19-22)

恐れることはない。キリスト者として生きたいなら、必ず殉教しなければならないとか、非業の死を遂げねばならないとか、そんなことは聖書に書いていない。神は必ず信じて従う者を御翼の陰にかくまい、守って下さる。

神の栄光のために生きるとは、立派な礼服を着て壇上に上がり、この世から拍手喝采され、多くの信者たちにほめそやされながら、メッセージを語り、より多くの著作を書いては、自己の名声をこの世に高く築き上げることことを意味しない。それは多くの献金をもらって、地上で名を馳せ、人々の弱みを利用して心を支配して従わせる生き方ではなく、隠れたところで、隠れた神に仕えて生きる道である。自己宣伝など不要、人に認められることを求めるのではなく、たとえ誰も知らなくとも、神が知っていて下さればそれで良い、神が直接、動機を調べ、報いて下されば良い、という生き方である。

さて、天の経済と共に、天の働き人というテーマが迫って来る。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のための働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37-38)

以下の記事で、まことの神を信じている信仰者は、自分の労働によって己を養っているのではなく、自分の働きによらず、神が養って下さるということを書いた。だが、そこから一歩進んで、御国のための働きというものがある、ということを見てみたい。

この世には劣悪かつ詐欺的な求人が溢れており、自己の名声につながる実入りの良い仕事を得たいと願えば、遅かれ早かれ、どこかで良心を売り渡すしかない仕組みになっている。だが、天の仕事は良心を売り渡さず、真実と正義に基づいて実行できるものであり、年功序列もなく、後からやって来た働き人にも平等に豊かな報いが与えられる。なおかつ、天の御国では、本当に働き手が少ないため、常に仕事を募集しているのである。

神が働き手を募集しておられる!ということを考えてみなければならない。どんなものにも不足のない、果てしなく富んでおられる方が、あえてご自身の思いを体現する人間の働き人を募集しておられる。その天の仕事とは、神の憐れみの深さ、愛の深さ、その無尽蔵の富を信仰によって地上に引き下ろす仕事である。

これは不思議なことである。神は全能であり、人間の助けなどなくとも永遠に生きて存在しておられる方なのに、人の信仰を通してご自分の御心を世に表したいと願っておられる。そして、その働き人が少ないのだというのである。

人間が神の働きのために、神と共に共同統治者とされていることの意味を考えてみたい。人間は神のしもべであるだけでなく、それ以上に、御心を表すためのパートナーとして存在している。地上を治めるという仕事は、創造されたその時から、人に任せられた仕事であった。たとえ地が堕落し、この世全体が回復不可能になって破滅へ向かっているのだとしても、神は信仰者を通してそこに御旨を実現し、キリストの復活の命に基づく新たな霊的秩序を打ち立て、新しい天と新しい地の予表をもたらしたいのである。

信仰者は、この壮大な計画に従って召された御国の働き人である。それはキリストにあって新しい人でなければできない仕事である。信仰者は、神の意志を受けて、この天と地とを信仰によってつなぐ天地の人であり、キリストをかしらとしてその体を形成する者である。身体は頭の意を受けて動くが、キリストのからだなる教会は、自分の意志を持たない従属機関ではなく、きちんと自分の意志を持ち、自立して、自由でありながら、その意志によってキリストに従うしもべである。さらにそれだけでなく、キリストの高貴な花嫁である。使徒たちは、自分をキリストの囚人、キリストの奴隷、キリストのしもべと呼ぶことを全く恥としなかったが、同時に、神は教会をそれ以上に、しもべとしてではなく、友として、さらには花婿なるキリストの栄光を表す高貴な花嫁として喜んでおられるのである。

御国のために働くとは、より多くの改宗者を得ようと、他人の救いや他人の必要を満たすため奔走することを意味するのではない。信仰者自身が、キリストにあって新しい人として歩むこと、内なる人を刷新され、強められ、キリストの身丈に従って彼の高さまで、彼の愛の深さと命の豊かさに至るまで、花婿なるキリストにふさわしい花嫁にまでに生長すること・・・、この働きは、外面的なものではなく、深く深く信仰者自身の内側に根差した内面的な働きであり、常に十字架と連動して起こる内的な変化でもある。信仰者の外側で起きる事柄は、御国が信仰者自身の内側により深くもたらされることと密接に連動しているのである。


人の歩みは主によって確かにされる。主はその道を喜ばれる。

(―閑話休題―)

「ああ、あなたのその告白を聞いて私はとても安心しましたよ…」
ある兄弟がそう言ったのは、昨年の新年、私が帰国して後のことだった。

その少し前、暗雲垂れ込めるような国内情勢を避けるようにして、私は久方ぶりにモスクワに飛んだ。離陸までの間、飛行機の窓から青空の只中にくっきりと富士山が見え、それを見ながら、かつて私が自分の専門職に戻ったことをとても喜んでくれたある姉妹のことを思い出した。

とても活発で大胆にものを言う姉妹だった。よく知り合うまでは、彼女がどれほど繊細に心を込めて人を愛し、人に仕えることのできる姉妹であるか想像することさえできなかった。彼女を通して、私はどれほどはかり知れない恩恵を受けたか言い尽くせない。彼女は、本当に私を愛してくれた。私の場合、不思議なことに、新たなクリスチャンの交わりが生まれると、大抵、気前の良い誰かが現れて、その交わりの最も愛に満ちた部分を見せてくれて、その交わりにある最上の宝を惜しみなく分かち与えてくれるのだった。

彼女は、母のように年長だったのに、心を込めて私のような者に仕えてくれた。本当にそれは、仕えてくれたとしか言いようのないほど、へりくだった奉仕であった。彼女を通して、キリスト者の奉仕の精神とはいかなるものかを私は知った。彼女は目の前にいる人がどんな風貌をしているか、とか、権威ある人か、無名の若者か、などといったことには全く注意を払わず、いと小さき主の民に対しても、仕える姿勢を取り続けることによって、見えない神を喜ばせようとしていたのであり、天で得られる報酬だけをまっすぐに見つめていたように思う。

今、彼女は地上の労苦を解かれ、主にまみえる日まで、大好きな富士山の見える麓に眠っている。飛行機の窓から富士山を見ながら、彼女が背中を押してくれているように感じ、心強かった。

出発の少し前に、クレムリンで新年に開かれるヨールカ祭の記事を読んで、子供向けの祭りにも関わらず、私はこれを見られるだろうとの期待感を持った。かの地では友人が迎えてくれ、観劇したり、教会めぐりをしたり、美味しいものを食べたり、退屈する暇はなかった。

ロシア人は、長年、権力に虐げられて来た歴史を持つためか、人の心の感情の機微によく通じていて、合わせる術をよく知っている。ビジネスライクな関係では、それは打算的な立ち回りのうまさとなって発揮される場合もよくあるが、一旦、プライベートで仲良くなってしまうと、とても居心地の良い関係ができる。こちらが触れてほしくないと思っている話題には決して触れてこない。人の心に土足で踏み込んで来ることをしない。そして、全く異なる見解を持っている話題にも、口論にならずにうまく思いやりを持って臨む術を心得ている…。(むろん、これはインテリの場合である。)

新年のモスクワはどこへ行っても大行列だった。トレチャコフ美術館も、クレムリンの内覧もすべて…。国際機関に勤めていた友人は、「こんな行列は今まで見たことがない」と目をしばたたいていたが、「ちょっとここで待ってて」と即座に列をすりぬけると、窓口まで行って何かを交渉し、たちまち切符を手にして戻って来た。

「さあ、行こう」
「一体、どんな方法を使ったの?」
眼差しでそう問うた私に、友人も答えずに笑っている。
 
前から分かっていたことだが、その友人は無神論者だった。彼によると、ソ連崩壊はあるべきではなく、ソ連時代がずっと続いていた方が幸せだった、ということらしい。

そんな無神論者の友人と真面目なクリスチャンの私が、本来、話が合うはずがないのだが、上記した通り、合わせ上手のロシア人の一人として、会話でも文通でも、彼は一度たりとも私に議論をしかけて来るようなことがなかった。
しかも、彼とその仲間には、日本にいる時から、仕事で助けを求めたり、推薦状を書いてもらったり、かなり長い間、色々と世話になっていた。

友人たちは私にロシアに来るよう、再三に渡り、説得して来た。私のその気になって、現地の仕事に応募したりもしていた。メールでのこんなやり取りもあった。
「あの応募はどうなった?」
「うん、丁重にお断りされたわ」
「そりゃ、良かった。あそこは田舎過ぎる。実はぼくらも、きみにはあそこでの暮らしは絶対に無理だと思っていたんだよ・・・」

とにもかくにも、モスクワっ子の彼らはあらゆる機会をとらえてモスクワを宣伝し、いかにして私をモスクワに誘い出すかを常に念頭に置いていたようであった。
そんな考えが、私の中でひっくり返ったのが、新年の旅だった。

それは楽しい旅行であり、ハプニングはなかった。かつて学んでいた頃から街は変わっていないように見えた。あたかも十年の別れの歳月などなかったかのように、私をアウトサイダーとしてでなく、身内のように受け入れてくれた。しかも、日本の都会に負けず劣らず、きれいになっていた。

それにも関わらず、行きと帰りでは、私の心境は全く変わっていた。日が経つにつれて、なぜそうなったのか、うまく言葉で説明することはできないのだが、私はロシアに救いを求めようとしていた自分の心の弱さを反省させられた。そして、これからは自分の外にあるいかなるものにも助けを求めずに、ただ神と私との力だけですべてを切り抜けなければならない、という確信へと導かれていった。

「もしほんとにきみがここに来て暮らしたいのなら、何か手立てを真剣に考えなくちゃね…」
滞在の最終日に至っても、友人は相変わらず、まるでそれが揺るぎない唯一の正解ででもあるかのように、確信をもって、モスクワ移住計画について私を説得するのだった。
むろん、帰国後も、親切な彼らはあれやこれやと手を尽くしてくれて、すんでのとこで、私は国を出る一歩手前まで来ていた・・・。

しかしながら、心の奥深いところでは、この新年の時点で、私はすでに彼らの提案にはもはや応じられないことを分かっていたのだ。懐かしい地下鉄の車両の中で、私は友人に言った。

「前にも言った通り、偶然なんてどこにもないのよ。すべては神様のはからいなの。今、私がどこに住んでいると思う? 日本で唯一、『神』が名前に入っている都道府県よ」
「なるほど」
「しかもね。その地区の名前は、『神の国から流れる生ける水の川々』という意味なの」
「ふーん、”речка из божественной страны" か…」
「でも、私はまだその川が流れるところを一度もはっきりとこの目で見ていないの・・・」

そう、唯一、全国で神の名をいただく県。ここへ来た時こそ、心躍らせたものだが、今となっては、我が家はそろそろ逃げ出したいと思うほどの古びた家屋に過ぎないし、心躍らせる何の要素が私を取り囲んでいるわけでもない。兄弟姉妹の中には「まだそこに住んでるの」と、蔑むように笑う心無い人たちさえもいた。生ける水の川どころか、荒れ地のようなこんな現在地をさっさと捨てて、新境地へ旅立つべきと考えたことは幾度あったか知れない。生活が豊かになったら、海と富士山の見える巨大ルーフバルコニーつきの高級マンションの最上階にでも移って、優雅な生活を満喫したい・・・。だが、私が諦めきれないのは、まだ主の御業を見てはいない、という思いがあったからだ。

主は確かに私を諸々の苦境から逃れさせ、新たな地境へと移して下さった。そうして、私はここへやって来たのだ。だが、私はまだ神の祝福に満ちた御業、その愛の深さ、高さ、広さをほとんど知らない。まだ何一つこの目ではっきりと見てはいないし、御業は始まってさえいないように思う・・・、なのに、今ここですべてを断念すれば、一体何のために私はここへ来たことになるのか・・・。

神はどんな状況からでも、新しいわざを成し遂げて下さることができる。足りないのはいつも人間の側の信仰だけだ。だから、住む場所を変えたり、仕事を変えたり、他国へ移住しさえすれば何か新しいことが起きるだろうという思いは、単なる現実逃避に過ぎないのだと心では分かっていた。それは選択肢がある、ということを自分に言い聞かせるためだけの無駄なチャレンジなのかも知れない。むしろ、それを実行すると、失うものがはかりしれず大きくなるだろうし、もうこの国には帰って来ないかも知れない。そんなことが果たして正解だと言えるだろうか。

もしその可能性が濃厚ならば、いっそ事を何重にもややこしくして、神の御心を求めてみようと私は思い立った。逃げ出すのは簡単だ、だが、最も困難に満ちた状況の中にあえてとどまり、そこで神がどう応答されるのか、切実な信仰を通して実験してみようと。

それから後、帰国後に友人たちが親切にも整えてくれた留学計画(許可もすべて取ってあった)を完全に放棄し、彼らの助言や助力を求めることを一切やめて、ただ主と私だけで歩みを始めた。それが昨年の歩みであった。
 
そんなわけで、昨年は、新年早々、私は半ば意気消沈しつつ帰国することになった。つつがなく楽しい旅だったにも関わらず、答えが見つからなかったという、悲しさとも悔しさとも表現しがたい思いが心にあった。
 
このような話を聞いて、ある兄弟は意外な共感を示した。
「よく分かりますよ。それを聞いて安心しましたよ…」

聞けば、その兄弟も、熱心なクリスチャンの交わりを求めて、はるばる外国まで出かけて行ったことがあったという。素晴らしい交わりと、目覚ましい主の御業があると期待して、神の民に出会うために出かけて行ったのだ。ところが、行ってみると、事前の受け入れの連絡にも関わらず、彼の居場所はそこになかった。失意のうちに帰国する飛行機の中で、「あなたは日本で主の民に仕えなさい」という主の御声を聞いたように思ったと、彼は言った。

私がここに来たときも同様であった。多くの人たちは未だ勘違いしている。私は意気揚々と以前の居住地を捨てて、活発で楽しいクリスチャンの交わりに参加するために、この地へ移住して来たのだと。だが、実際はそんな単純なものではなかった。

この地へ来る少し前、ネット越しに展開されていたクリスチャンの楽しい交わりのイベントは、そこへ加わりたいと言う思いよりも、心を刺し貫かれるような痛みと虚しさを私に感じさせた。それゆえ、彼らの近くへ来ても、会うことに大きなためらいを感じ、なかなかその交わりへ出向こうとはしなかった。実際に、後に彼らと会っても、結局、帰って来たのは拒絶以外にはなかったのだが。

「ここの礼拝は盛り上がりはすごくて、まるで美味しい食事のように口当たりは良いけれど、いざ、礼拝を終えて帰宅すると、まるでお腹の中が砂利でいっぱいになったような言い知れない虚しさを覚えるんですよね」

そんな言葉を、臆面もなくリーダーに向かって告げた私は、さぞかし彼を内心では怒らせたことだろう。そのクリスチャンたちは、自分たちの礼拝に誇りを持ち、それを神との神聖な交流の場だと信じていたからだ。私から見ると、交霊術の現場のように情緒的で混乱しすぎる「聖なる」礼拝をけなした(穢した?)という「罪」により、彼らからかえってきた仕打ちはまるでひどいものであった。
 
いずれにせよ、人が何を言おうと、それは私が求めていたものとは確かに違うことが判明した。その結論を得るためだけに、傷つこうと、失望しようと、私はどうしても確かめずにいられなかったのである。きっと兄弟も同じような思いで外国まで出向いたのであろう。たとえ拒絶されるためだけであっても。それを通してしか、真に自分が求めているものが何であるか、人には知る術がない場合もあるのだ。
 
モスクワ滞在も何かしら似たような印象を私に呼び起こした。だが、私は親切にしてくれた友人の心中を傷つけることを良しとせず、詳細は告げずに笑顔で手を振って別れた。

そのようなことがあって、ようやく、神は他でもないこの私といつも共にいて下さるのだから、どこの地に足を置いていようと関係なく、これ以上、人の目に魅力的に映るものを追いかけるのは一切やめようと私は決意した。何があろうと、ただ一人で黙って主に向かうのだ、誰にも助けを求めることなく―。

友人たちは残念そうではあったが、決して本当には諦めていない様子で言った。
「なんだかんだ言っても、きみは必ず、遅かれ早かれ、モスクワに来ることになる、ぼくらはそう信じているよ。」

多分、彼らは今もそう信じていることだろう。彼らはソ連時代に幼少期を過ごし、今もソ連時代を生きている人々である。資本主義下のロシアであっても、彼らは二重の国を生きているのだ・・・。だから、その招きの中には、単なるお国自慢や同情の枠組みを超えた、何かしらイデオロギー的な呼び声が含まれているのだという予感を私は禁じ得ない。多分、それには応えてはいけないし、深くも知らない方がいいのだろう、私の神はただお一人だから・・・。

その後、ある仕事に応募するために、ロシア語の課題を出さねばならなくなったが、私はそれまでのように彼らに応援を頼まず、チェックなしで提出することに決めた。あえて実験してみることにした。神がおられるなら、必ず、神ご自身が私を助けて下さるはずだと。肉なる人の助けを求める必要はもうこれ以上ない・・・。「あなたのロシア語にはいつも感嘆を禁じ得ません」と、作家の友人がお世辞でなく言ってくれたことを思い出し、勇気を奮い起こした。
 
かつて大学入試の面接で、私はこんなことを言っていたのを覚えている。「私は言語というものの本質を知りたいんです。特に、神の言葉とは何なのか、それを知りたいと思っているんです。」
教官たちが、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてそれを聞いていたのを思い出す。よくそんな志望動機を、面接官が理解して入学を許したものだ。

だが、多分、その頃から今に至るまで、私の探求は変わらないのだ。それは、偽りでなく、見せかけでもない、正真正銘の、真実な言葉に至りつきたいという私の心の消せない願望である。真実だけを知りたいと切に求める心の探求を通して、私は他ならぬ神ご自身のみもとへ招かれ、御言葉なる方の真実の中に招き入れられた。今や世人からの理解が伴わなくとも、その御言葉なる方を深く知りたいという願いが、すべてにまさる願いなのである。

「人の歩みは主によって確かにされる。
主はその道を喜ばれる。」(詩編37:23)


神のエコノミー(2) ―豊かに蒔く者が豊かに刈り取る―

「悪しき者のはかりごとに歩まず、
 罪びとの道に立たず、
 あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
 このような人は主のおきてをよろこび、
 昼も夜もそのおきてを思う。
 このような人は流れのほとりに植えられた木の
 時が来ると実を結び、
 その葉もしぼまないように、
 そのなすところは皆栄える。」(詩篇1:1-5)

「『神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる』。」(マタイ4:30-32)

「種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。」(Ⅱコリント9:10-12)

「涙をもって種まく者は、
 喜びの声をもって刈り取る。
 種を携え、涙を流して出て行く者は、
 束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」(詩篇126:5-6)


 私たちキリスト者は、それぞれが一粒のからし種としての信仰を持った神の宮なるエクレシアである。このエクレシアは、神の国にふさわしい耕された土壌(人の砕かれた心)に種蒔かれ、御国の法則に基づいてすくすくと成長し、やがて、キリストのご性質を豊かに表し、イエスにならって、何一つ欠けたところのない完全な者となることが求められている。ちょうど、目に見えないほどの大きさだったからし種が、大樹にまで成長し、数え切れない実を結ぶように、ここには著しい信仰の成長ぶりが必要とされている。

 また、これは個人としてのエクレシアを指しているだけでなく、集合体としてのエクレシアの成長をも表す。私たちは一人ひとりが信仰の種であるが、同時に、自らも、他の土壌に種を蒔き続けることによって、人々の信仰を養い、育て上げ、それによって、エクレシア全体に大きな収穫をもたらすのである。

 前回、述べたように、キリストに従う道とは、私たちが負いきれない借金を抱えて四苦八苦しながら、貧困からさらなる貧困へと向かうような道ではない。それは、神によって借金を全額返済していただいた後で、キリストのまことの命の豊かさを自分も楽しみ、他の人々にも分かち与え、キリストの命の豊かさを存分に表しながら生きていく道である。

 かつて、アダムにあって死んでいたが、キリストにあってよみがえった私たち(Ⅰコリント15:22)は、ただ自分だけがまことの命を得て終わるのではなく、エクレシア全体に豊かさを増し加えるために、神の財産を的確に運用することが求められている。つまり、神の羊たちがさらに増し加わり、彼らの信仰がさらに養われるように、主の栄光がさらに地に表されるように、絶えず種を蒔き続けること、それが神の財産を適切に管理するということの意味である。

 エクレシアの豊かな成長は、主の僕たちが、神の財産を適切に管理することなくしては成り立たない。マタイ25章でイエスが述べているたとえの中には、御国の財産を適切に運用して増加させた僕と、そうでない僕が登場する。御国の財産を全く運用しなかった僕は、役立たずとして叱責され、外の暗闇に追い出される。
 ここから分かるのは、神の御心は、御国の財産が増し加わること、エクレシアが成長することであり、そのためには、御霊であり、イエスのまことの命である生ける水の川々が、一人ひとりのエクレシア、全体としてのエクレシアから、溢れるほど豊かに、周囲に向かって流れ出すことが必要だということである。
 (これは組織としての教会の人員増加や繁栄とは全く関係ない話である)。キリストが地上の生涯において、ご自分を介して、神のまことの命を豊かに人々に届けられたように、キリストを内にいただく私たちも、宮である自分を介して、生ける水の川々を奔流のように流れさせ、周りを潤すことが使命なのである。

 だが、その豊かな収穫はいかにして達成可能なのだろうか? 第一の条件は、すでに書いた。一粒の麦は地に落ちて死ななければ、実を結ぶことはない。すなわち、命の水の流れを押しとどめている自己という殻が、十字架によって打ち砕かれて死に、御霊によってその人が復活することを経なければ、私たちの内側から、御霊の命の水が溢れだすことはあり得ない。だが、それでは、自己に死ねば、早速、生ける水の川々が怒涛のように私たちの内から溢れ出すのかと言えば、きっと、そんなことはないだろうと私は思う。

 初めは、その川は小さなせせらぎのように始まるだろう。それがやがて奔流のような流れになるまでには、第二の条件として、私たちが神の財産を絶えず適切に管理、運用し続けること、すなわち、収穫をもたらすために、種を蒔き続けることが必要不可欠となると私は考えている。

 考えて見ると、神の御国の資産運用には、必ず、ある逆説的な法則が伴うようである。結論を言えば、それは、パウロが述べたように、「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる」(Ⅱコリント9:6)という法則性である。そこでは、豊かに与える者だけが、神から豊かに報いられるのである。
 (このことを、神を介さずに、人が人に対して直接、施しをすることや、何らかの団体や組織の求めに応じて奉仕・献金をすることだと誤解しないように注意したい。私たちが捧げる対象は、人ではなく、神であり、何をするにしても、御霊の導きに従って、すなわち、神のご計画に従って、それをなさなければ、一切の奉仕が無意味となる)。

 私たちは神の御国の土壌に、これから、種を蒔こうとしている。そこでは、豊かに蒔く者だけが、神から豊かな報いを受けるという法則がある。自分が豊かに恵まれていないのに、神(または)人のために、豊かに与える者となることは誰にもできない相談だ。だから、キリストの命の豊かさに真にあずかろうと思うなら、私たちはまず自分が持っている小さな種を蒔くこと――今持っているものを主のために手放すこと――から始めなければならない。

 しかし、この御国の法則は、この世の法則には逆行しているので、世の人々には理解し難い。この世では、私たちが人に与えたものは、基本的に、返って来ない。人に施せば、自分の財産は減り、与えれば与えるほど、自分は貧しくなくなる。たまに感謝が返って来ることもあるが、それさえもあてにならず、過度な施しは自分の身を滅ぼす。地上の法則では、与えすぎることは、常に、貧しさを招くのである。
 特に、カルト化教会など、神から遠く離れた命のない教会においては、神のために、と言いながら、信徒が巨額の献金を払ったり、重い奉仕を担わされて、自分は恐ろしい窮乏生活を送っている例がある。それは、彼らが神のためと自分では思い込みながら、実際には、御霊の導きに従わず、御国にふさわしい土壌ではない、いばらとあざみしか生えていないこの世的な土壌に、聖書から逸れた誤った福音の種(偽りのパン種を含んだ福音)を蒔き続けているから、収穫がないのである。

 しかし、まことの神の国(エクレシア)に働く法則は、この世の法則とはまるで反対である。御国にふさわしい土壌に蒔かれた種は、収穫をもたらさないことは絶対にない。そして豊かに蒔いた者には、豊かな収穫が伴うのである。

 では、どこに何を蒔けば良いのか、それは御霊によって教えてもらわなければならない。ちょうど、復活されたイエスが、一晩中収穫のなかったペテロたちに「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」(ヨハネ20:6)と言われたように、御霊の導きのある場所へ網を下ろすことが、収穫を得る秘訣であり、自分の判断で、闇雲に、見当外れな方向に網を下ろしても、収穫はないのである。

 私たちは神の御国に働く法則性を、真に御霊によって、理解する必要がある。これを理性や、人知によって実行しようとすれば、極度の貧困に落ち込むだけであろう。(「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。」Ⅱコリント13:8)主イエスが地上において絶えず聖霊に従って歩まれたように、私たちも聖霊によってしか、真理をわきまえることはできない。

 いずれにせよ、蒔くということは、自分が持っているものを一旦、手放すことである。だから、外から見れば、そこには、一見、冒険や、貧しさや、弱さがあるように見えるだろう。
 地上におけるキリストは、弱い存在であった。キリストはまず、神としての栄光に満ちたご性質を手放して、弱く、貧しい人となって、この地上に来られた。地上の全生涯において、キリストは、御心に従って、貧しい人たちのために、持っているものを手放し、種を蒔き続けた(Ⅱコリント9:9)、そして、与えつくして、ついには命までも手放されたのである。そうした、地上におけるキリストの弱さ、貧しさが、今、天にあっての彼の栄光、「無尽蔵の富」(エペソ3:8)となっているのである。弱さが強さとなり、貧しさが豊かさとなり、死が復活となり、苦しみが全き人の完成となっているのである。ここに、人知では理解不可能なパラドックスがある。

「彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである。」(ヘブル5:9)「キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。」(Ⅱコリント13:4)。

 宗教の中に現世利益だけを求め、イエスを信じることで、この世的な富や、名声や、強さを得たいと思っている人は、キリストが地上にあって弱かったことを知れば、失望するだろう。キリスト者の歩む道は、イエスにならう道であるから、今日、私たちも、強くされるどころか、むしろ、日々、弱くなっているのである。そして、その弱さの中にこそ、神の強さが表れ、神の栄光が表されるのである。

 使徒パウロも、書簡の中で、ためらうことなく、自分の弱さや、恐れ、迫害、危機、患難、窮乏などに触れている。パウロを取り巻く追い詰められた状況は、彼を英雄に見せかけるどころか、むしろ、彼を世間の前に、威厳なく、取るに足りない者のように見せた。コリントの教会も同様に、やはり弱かった。パウロはこのようにまで言っている、「実際、あなたがたは奴隷にされても、食い倒されても、略奪されても、いばられても、顔をたたかれても、それを忍んでいる。言うのも恥ずかしいことだが、わたしたちは弱すぎたのだ。」(Ⅱコリント11:20-21)
 弱さや迫害のゆえに絶えず追い詰められていたパウロは、「わたしは日日死んでいる」(Ⅰコリント15:31)とさえ言い切っている。しかし、パウロはこの弱さを否定的に見ていたのではない、むしろ、極めて肯定的に評価していたのである、「もし誇らねばならないなのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう」(Ⅱコリント11:20-21,30)と。

 なぜ彼は弱さをそんなにまで誇れたのだろうか? これは通常人には理解できないことである。もし、御言葉の文字面だけに注目するならば、私たちは一体、どうやって、ここにキリストの命の豊かさを感じ取ることができるだろう? 豊かさよりも、欠乏があるではないか。自由よりも、束縛があるではないか。平安、喜びよりも、苦しみ、恐れ、絶体絶命があるではないか? 一体、どこに神の栄光があるというのだろうか?

 …信仰を持たない人にとっては、これは理解不可能だろう。しかし、世に言う弱さや欠乏と、主にあっての弱さや欠乏の間には、はっきりとした違いが存在する。主にあっての弱さや欠乏は、神の栄光が現れる前触れでしかない。すなわち、「…わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」(Ⅱコリント4:7)。
 人の栄光ではなく、神の栄光が表されるために、徹底的に弱くされるのがキリスト者の道なのである。

 キリスト者は御霊に教えられて、自分の弱さが、ただの敗北に終わらないことを知っている。パウロが困難や迫害や病などを通して、神のために支払った犠牲は、この世の人々から見れば、ただ損失であっただろうが、御霊の法則にあっては、主の財産が増し加わるために必要な投資であった。パウロは御霊によって、そのことをはっきりと知っていたのである。だからこそ、彼は自分の弱さを嘆くどころか、大胆に、神の強さとして誇ったのである。
 御国の経済においては、常にこうである。主のために世の富を失うことは、主にあって豊かに得る第一歩なのである。それはちょうど、確かに上がることが分かっている株に、私たちが全財産を投げ打って、投資するようなものである(マタイ13:45 高価な真珠を買うために全財産を投げ打った商人の例がまさにそれ)。全額投資すると、一時的には無一文になるが、時が来れば、自分の財産が何倍にもなって返って来ることが予め分かっているので、私たちはこの投資が絶対に誤らないものであることを確信しながら、信仰によって、手にしているものを捧げ、後は何の不安もなく落ち着いて休んでいられるのである。

 全財産であるにせよ、そうでないにせよ、一時的に何かを失わないことには、投資はできない。持っているものを手放さなければ、種蒔きはできない。そこで時には、それが窮乏となって現れることがあるかも知れない。精神的・肉体的に追い詰められて、涙のうちに、種を蒔くことがあるかも知れない。だが、パウロは、収穫があるかどうかも分からないような、行き当たりばったりの投資(空を打つような拳闘)をしないと断言した(Ⅰコリント9:26)。つまり、パウロは神の御国のための株式投資のプロだったと言える。御霊によって知識を得ていたので、彼の読みは決して外れず、たとえ一時的窮乏の中を通るように見えることがあっても、彼はそれが確実な投資として豊かな収穫をもたらし、勝利に終わることを知っていた。

 こうして、今日のキリスト者も、御霊によって、どのように種蒔けば、そこにキリストの命が豊かに働いて、大きな収穫をもたらすことができるのかを教えられているので、霊のうちに喜びと平安を持って、持っているものを手放すことができる。この道に歩む時、キリスト者の直面する困難は、決して、人間側からのむなしい自己犠牲に終わらない。それは、神の財産に豊かな収穫をもたらす第一歩となるのである。

 しかし、注意しなければならないのは、今日、神のための投資、という名目で、その実、神ではないもの(偶像)への捧げ物が教会内に紛れ込み、至るところで、クリスチャンに強要されていることである。それはエクレシアに収穫をもたらすための投資ではなく、この世という不毛の土壌に種まく行為であり、その投資は実を結ぶことなく、人間に貧困をもたらす。私たちはこのような偽物の投資を見抜かなければならない。神のため、という名目で、人が勧めることに全て聞き従っているようではいけない、そんなことをしていれば、恐ろしい貧困や破滅に陥ってしまうだろう。

 何が本当に神のための投資であり、何が神の名を騙った偽物であるか、本当に知っているのは御霊だけである。だからこそ、私たちは自分の内にはっきりと聖霊の証印を持っていなければ、物事を正しく判断できない。うわべだけを見て、私たちが本物と偽物とを区別するのは無理だろう。御霊による証印とは、「墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたもの」であるから(Ⅱコリント3:3)、あれやこれやの物的証拠で、外面的に裏づけが取れるような種類のものではない。キリスト者は、自分の内に御霊の導きを確かにいただいていなければ、決して、何が真実であるか見極めることはできず、容易に人の言うことに騙されて、大切なものを無駄な投資に失ってしまいかねない。真に聖霊だけが、人に何が御心であるか教えるのである(「…神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない」Ⅰコリント2:11)。

 さて、神の国に働く経済の法則は、以上のように逆説的なものである。地上での窮乏が、御国の豊かさとなり、地上での弱さが、神の強さとなり、地上での絶体絶命が、御国に勝利をもたらす、といったパラドックスが、キリスト者の人生には極めてよく起こるのである。
 この逆説的な法則性を、御霊によって理解しながら、進んで行くことが、私たちが神の財産の良き管理人となる秘訣であると私は思う。

 第二コリント人への手紙から、御国の法則の不思議な逆説の例を一つ見てみよう。

「兄弟たちよ。わたしたちはここで、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせよう。すなわち、彼らは患難のために激しい試練を受けたが、その満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て惜しみなく施す富となったのである。わたしはあかしするが、彼らは力に応じて、否、力以上に施しをした。すなわち、自ら進んで、聖徒たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、わたしたちに熱心に願い出て、わたしたちの希望どおりにしたばかりか、自分自身をまず、神のみこころにしたがって、主にささげ、また、わたしたちにもささげたのである。」(Ⅱコリント8:1-5)

 これは大いなるパラドックスである。「極度の貧しさ」の中にあったマケドニヤの諸教会が、一体、どうやって、「あふれ出て惜しみなく施す富」を生み出すに至ったのだろうか。具体的な方法は何も書かれていないが、おおよそ想像できることは、エクレシアの成員たちが、まず、自分が持っているものをほとんど、惜しみなく主に捧げるところから、その豊かさは始まったのだろう、ということである。

 さて、ここから私の話に移りたい。私は御霊に感じるところがあって、これからある計画に出ようとしている。私には今、財産はまるでなく、主のために捧げられるものは無に等しい。だが、神の国の法則に従って、主の財産を豊かに増し加えるために、私はまず自分が持っている小さな財産を祭壇に差し出すことが求められていると思う。
 だが、このようなことを言えば、疑問を抱く人は多いだろう。人間的な観点から見るならば、今私がやろうとしていることは、大変、愚かで、危険な博打であり、綱渡り的人生以外の何物でもない。クリスチャンの中にさえ、こう言う人があるだろう、「あの人はカルトでさんざん騙された上に、性懲りもなく、今また、いかがわしい超自然的な『霊の導き』などというものを信じて、それに寄りすがって、さらに多くのものを失おうとしているのだ。馬鹿らしいことだ、いつになったら学習するのだろう」。
 だが、福音は滅び行く者には愚かなものであるから、そういう疑いを抱く人には存分に笑っていただければ結構である。

 今、次の聖句が私に迫ってくる。

「不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。<…>
 わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、
『わたしは彼らの間に住み、
 かつ出入りするであろう。
 そして、わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となるであろう』。
だから、『彼らの間から出て行き、
 彼らと分離せよ、と主は言われる。
 そして、汚れたものに触れてはならない。
 触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
 そしてわたしは、あなたがたの父となり、
 あなたがたは、
 わたしのむすこ、むすめとなるであろう。
 全能の主が、こう言われる』。」(Ⅱコリント6:17-18)

 ちょうどエデンの園で神と人とがそうであったように、これから、私が全能者の娘となり、主が私を豊かに恵んで下さるようになるためには、私には今、この地を出ることが求められている。

 今の私にとっては、これが主のために、すなわち、御国の収穫のために種まく行為である。種を蒔くとは、何も、他人に向かって福音を語ったり、献金をしたり、集会に出席することといった月並みな形式に縛られはしない。イエスは「御霊によって」荒野に導かれた(マタイ4:1)し、パウロらは、アジヤで御言葉を語ることを「聖霊に禁じられた」(使徒16:6)。何が種蒔く行為であるかは、その時、その時で、違いがあり、それは御霊だけが知っている。

 パウロは言った、「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」(ガラテヤ5:16)。もしも御霊の導きというものを全く信じないなら、その人には、クリスチャンとしての人生はないであろうし、さらに、その人はクリスチャンと呼ぶにも値しない、と言って過言ではないと私は信じている。

 小さな種しか持っていない人は、御霊が導かれる通りに、その種をまず地に蒔くことが求められる。それが、豊かな実りをもたらす第一歩である。世から見れば、持っている少ない財産を投げ出したり、保証のないところに一歩を踏み出すのは、あまりにも無謀な行為と映るだろうが、真に御霊の導きを受けてそうするならば、あなたの心にはいつも平安があり、落ち着いた喜びがあるはずである。御国の法則に従えば、そのような投資が無駄になることは決してない。いや、このような投資を根気強く、積み重ねて行かなければ、私たちはキリストの命の真の豊かさにあずかる者には決してなれないのである。

 主は誠実なお方なので、私たちが主のために捨てたものを、何一つ、忘れられることはない。「良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。」(マタイ13:23)「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29)

 御国においては、私たちが主に捧げたものが、私たちの財産として返って来る。しかも、何倍にも祝福されて…。だから、1年後、2年後に私の状況はどうなっているだろうか、我ながら楽しみである。これは理屈を越えているので、理解できない人には愚かな話にしか聞こえないだろうが、私にとっては、ある意味、極めてゲンキンな話である。この地上において、人々は見返りがあると分かっているものにしか投資しないが、キリスト者も、主からの見返りがあると分かっているものにしか投資しないのである。主から褒賞がもらえるように走るので、キリスト者の競争は楽しいのである。

 キリスト者にとっての見返りとは、神の御国における豊かな相続財産であり、それは地上において、主の羊たちが増し加わり、エクレシアの信仰が成長していくことである。それと同時に、神は個人としてのエクレシアなる者たちの人生に、豊かないつくしみと憐れみを注いで下さるので、主により頼む私たちは、地上において、決して、絶望に落ち込むことはない。
 私自身は極めて弱い者であり、窮乏の中を通らされることが、この先、何度かあるだろうが、主は決して、そんな時にも、私をお見捨てにはならない。弱い者の人生を通して、主は、ご自分の強さを表されたいと願っておられ、人の弱さや窮乏のうちにこそ、神は働いて、強さと豊かさを表して下さる、それが神の国のエコノミーの逆説的な法則である、だから、私たちは自分たちが直面している当面の弱さや欠乏を大いに喜び、誇って構わないのである。その弱さの中にありながら、主のために種を蒔き続けていれば、必ず、豊かな収穫がもたらされ、そこに神の無尽蔵の富が現れて来るからだ。
 そんなわけで、主のために大胆に一歩を踏み出そう。

「試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」(ヤコブ1:12)