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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

命の御霊の法則に従って支配する―一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(3)

御霊によって統治する、というテーマについて語る際、これまでキリストの復活の命は、あらゆる環境条件や物流をも支配する力を持っている、ということを繰り返し書いて来た。

その文脈で、先日、我が家の小鳥たちも、御霊の導きによって与えられたと書いたが、その矢先、筆者自身が、改めて主に問われるような出来事が起きた。もちろん、愛らしい小鳥たちに何の不満があるわけではない。だが、こんなスケールの出来事よりも、はるかにもっと大きなものを、信仰によって望むべきであることを思わされたのである。

ちょうど主にこう問われたような具合だった、「あなたの満足は、こんな小さなスケールで終わるようなものなのでしょうか。あなたはこれらの小鳥たちにすっかり満足しきっているようですが、あなたの望みは、そして信仰の名に、御霊の名にふさわしい恵みは、この程度だとあなたは考えているのでしょうか。これよりも大きな望みはないのでしょうか」と。

その時、筆者は以前に大きな鳥を飼い、今やその鳥にまさる鳥を手に入れたいと願いつつ、それを素通りして来たことをはっと思い起こされたのだった。
 
それというのも、希少な鳥には、庶民が聞いて呆れるような値がつけられている。一言で言ってしまえば、良いクラスの新車を買うのと同じくらいの値がつく。その値段を見た瞬間、「あ、これは私には関係ないことだな」と思って、願うよりも前に諦めて通り過ぎて来たといったことが何度も起きてきたことを思い出したのだ。

だが、愛らしい小鳥を何羽も与えて下さる主が、大きな鳥だけは無理だとおっしゃるはずがない。
 
むろん、これは比喩である。そんな風に、心の底では、何か望むところがあるのに、あれやこれやの現実のリスクを回避したいがために、本能的に自分には過ぎた贅沢であるかのように考えて素通りして来た恵みがどれほどあっただろうか、と考えさせられたのである。
 
後から考えてみれば、そのような稀有な出会いは、まさに信仰によるプレゼントだったとしか思えず、その時、恐れを捨てて一歩踏み出しさえしていれば、そこから開けていたものがあったに違いないと思われることが多い。

そうやって、真に信仰を要する選択を素通りし、信仰がほぼ必要のないささやかなスケールの恵みだけを手に取り、それがあたかも偉大な信仰によって得られた戦利品ででもあるかのように誇っている場合ではない。

むろん、そこにもちゃんと信仰は働いてはいるのだが、それが可能であるならば、もっと大きな事柄も当然ながら可能であったことを常に思うべきなのである。

私たちが信仰によって何かを得るとき、そこには常にある種の困難、リスクが伴う。目に見える世界にはその選択が正しいと保証してくれるものが何もなく、ただ内なる確信だけに基づいて進んで行かねばならないからだ。

信仰による創造は、たとえるなら、常に目に見えないデポジット(預り金)を担保にした引き出し行為のようなものである。言い換えれば、主に対するつけ払いのような形になる。
 
あなたの預金口座に今現在、うなるほどに自由になる資金があるなら、あなたはどんな壮大な娯楽も、自分には贅沢すぎると思うことなく、あるいは、今あなたが広大な土地の所有者であれば、あなたはその土地を担保に、何の不自由もなく、新しい壮大な事業を開始することができよう。

しかし、 信仰による歩みはそういう目に見える保証によらない。それは常に目に見える担保が存在しない時に、ただ信仰だけによって、無から有を生み出し、創造する行為である。だが、クリスチャンの間でもあまりよく知られていないことは、信仰の世界でも、「信用創造」は存在しており、目に見えない新しい「資金」を天から調達するには、元手となるものが要ることだ。それが、からし種一粒の信仰なのである。

聖書には、もしも人の内にからし種一粒の信仰でもあるならば、山をも動かす原動力になるだろうとの句がある。

「使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。
もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(ルカ17:5)

「弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイ17:19-20)

「イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13:31)

こうしたイエスの言葉は、すべて信仰による無からの創造を指している。ほんのわずかでも人の内に信仰があれば、それを担保に、人は目に見える世界に大きなものを呼び出して来ることができるのである。

最初からいきなり巨大なスケールのものが生まれることも稀にあるとはいえ、ちょうど「わらしべ長者」の物語みたいに(むろん、この話は聖書とは本質的に関係ないが)、信仰によって一つ一つの創造行為を積み重ねているうちに、最後にそれが巨大なスケールにまで達する場合も多い。

いずれにしても、筆者が何羽かの美しい小鳥が手に入ったと喜んでいるようなスケールはごく些細な話であって、むしろ、そうした小鳥たちが無数に宿ることのできる木を育てるのが、信仰の力なのであり、 その木は、今、私たちの目には見えないかも知れないが、すでに信仰によって存在しており、筆者は今、その木に宿る小鳥たちのほんのごく一部を目にしているに過ぎないことを思わされたのである。

その木には、まだまだ筆者が一度も見たことのない魅力的な鳥、まだ知らない美しい稀有な鳥が、たくさん宿っている。そして、その木は、それらの鳥たちを全て養うのに必要かつ十分な条件を備えている。その木を、私たちは信仰によって心の内に持っているのである。

見るべきは小さな枝葉ではなく、その木それ自体であり、その木は当然ながら、キリストご自身であり、彼の命の力なのである。

・・・

霊的に前進して行くためには、ある意味で、非常に貪欲でなければならない。これは決して物欲のことを指して言うのではなく、人が神の御前で、真に自分のために備えられた恵みを理解するためには、自分自身のちっぽけな思考と経験の枠組みを常に打破しながら、飽くことなく先へ進んで行く態度が必要となることを意味する。

神が人間のために備えられた崇高で偉大な使命、恵みの大きさ、完全さを生きて知りたいと願うならば、信者にはある意味、わき目もふらずにその目標だけに向かって突き進む覚悟がいる。そうした中で、自分自身の思いの限界が障壁となるだけでなく、人々の思惑や、人々の理解といったものも、障壁となり、そうしたものに気を取られるならば、先へ進むことができなくなってしまうことが往々にしてある。
 
最近、筆者は、オリンピックを間近に控えた頃に、TV番組である記者が外国のアスリートたちの稽古場を訪ねた風景を目にした。その時、当時、金メダルの最有力候補の一人と見られていた若いアスリートが、TVの記者に気前よく自分たちの稽古場を案内していた。
 
それを見たとき、筆者は、その有名なアスリートの親切でオープンな態度は、きっとカメラ映えし、誰にでも好感を持たれ、取材班は大喜びだろうが、金メダル候補が試合前にそのようなことに時間を費やしていたのでは、その人は勝てないかも知れないと思った。

そして、案の上、その人は自分よりも年若い選手に敗れて二番手におさまり、その上、自分が気前よく記者たちを案内してやった稽古場を去ることになったのである。むろん、それには様々な要因があり、一概に、稽古場を案内したことが原因だなどと決めつけられる問題ではないが、筆者は、この選手が、受付係よろしくTV番組の取材記者を自分たちの稽古場に導き入れた姿を見たとき、そこに、この選手の油断(もしくは慢心)を見た気がした。

稽古場は、表舞台には見せられない、人の目からは隠れた勝負の場所であって、そこでは常に過酷な競争や死闘が繰り広げられている。そもそもアスリートは俳優ではなく、案内係でも、受付係でもない。稽古場でアスリートが果たすべき役割は、観光案内よろしく、記者を親切に案内して取材に協力してやることではなく、稽古場で目に見えない苦労を人知れず負い、積み重ねながら、自分が真に満足できる高い目標だけをわき目もふらずに目指し続けることである。

その役割を忘れた途端、その選手は、後学に追い落とされて、選手としての価値を失ってしまう。そして、その稽古場は、その選手にとって、自分が記者を案内してやった通りの観光地のようなものにはなっても、もはや自分の稽古場ではなくなってしまう。

その原則はすべてのことに共通するのであり、真に一位を取ろうと思ったとき、つまり、他者の追随の及ばないような高みに到達したいと願ったとき、人はその目的以外のすべての目的をみな捨て去り、誰からどう思われようとも、わき目もふらずに、自分を満足させるたった一つの目的のためだけに、自分のすべてを捧げ、先へ進まなくてはならなくなる。

信仰の世界でも、その原則は同じなのである。もし信者が、キリストのみに仕え、神を満足させるという目的を目指すならば、誰にどう思われようと、たった一人で、人の目には全く評価されない、気の遠くなるような地道な試行錯誤の積み重ねの中で、信仰の模索を絶え間なく続けて、他のすべての目的を犠牲にして、ただ一つの目的(神を知ること)だけに仕えねばならなくなる。

往々にして、多くの人々に対して気前よく親切で、社交的であろうと考える人間には、それができない。彼らは、他者の心の満足を基準に得られる自分の満足を捨てきれないために、人の思惑とは一切関係なく、ただ自分だけの満足だけを目指して、貪欲に一つの目的に向かって進むことができないのである。言い換えれば、一つの目的、一人の人(キリスト)だけに仕えるには、あまりにも気が多すぎるのである。
 
だが、他者と自分はそもそも同じ人間ではない以上、人が他者と同じ満足を共有できることはほぼない。ある人が、他者の満足を自分の満足と考え、他者の利益のために仕え始めれば、その途端に、その人は、自分の目的を他者に奪われ、見失ってしまう。
  
キリスト教界というところには、人が自分個人の目的を目指すことを最初からあきらめさせ、捨てさせてでも、無数の鏡のような(抽象的かつ曖昧な)他者の満足のために、自分の人生を初めから差し出して生きるように促す魔力的な悪しき力が働いていると筆者は感じている。

そして、筆者はそれが正しい生き方であるとは全く考えていない。
 
そのようにして「他者の満足のために生きる」という実現不可能な虚構の生き方を手本として目指す筆頭格が、牧師である(牧師という名で呼ばれていないすべての宗教指導者をも含む)。

牧師などの宗教指導者は、絶えず信徒らを養うためと称して講壇からメッセージを語り続けるが、それは、筆者から見れば、自分自身が選手であるにも関わらず、そのことを忘れて、自分の訓練を後回しにして、自分の稽古場を訪れる無数の記者らを絶えず得意げに気前よく稽古場に案内してやっているアスリートとほとんど同じなのである。

牧師とは、自分個人の満足のために生きることができなくなった人々である。彼らは絶えず信徒の満足を自分の満足に置き換えて、他者のために生きようとして努力している。彼らはそれが福音伝道に仕えることだと考えており、そして、多くの信徒らがその牧師の姿にならって、自分自身も同じように他者の利益と満足のために生きようとする。

だが、本当は、そんな生き方は誰にとってももとより不可能な相談なのであり、人は本質的に自分のためにしか生きられないのである。それは献身者の場合も全く同じで、神に身を捧げ、神の満足のために生きることと、自分以外の人間の満足のために生きることは全く話が別である。

神は人にそれぞれ他者とは異なる使命を与えておられる以上、自分の個人的な人生目的を捨ててまで、他者を助け、他者を満足させることに人生を費やすことは、最初から間違っており、自分自身を犠牲にすることであるから、してはならないことである。

人が自由になるのは、外からの物質的・精神的な助けによるのではなく、ただその人の内なる命の力から来る自立による。従って、たとえ人が直接他人を助けようとして、自分のすべてをかけて物質的・精神的支援を与えたとしても、それによって他者を自立へ導くことはできず、かえって相手の自立の力を著しく奪い取ってしまい、その人の尊厳を根こそぎ奪い、傷つけるだけである。そんな方法で人助けを行うことは無理である。

筆者はこのことを以前にホームレス伝道になぞらえて語り、またハンセン病者への絶対隔離政策になぞらえて語った。要するに、他者を助けてあげているという自己満足の中に潜む悪というものがれっきとして存在するのである。

たとえば、ホームレスであるという人々の弱みを利用して、彼らがまるで公園に群がる鳩のように、パンを求めてキリスト教の伝道者たちの集会に毎回依存して生き、そこから抜け出られないように囲い込んで行くことが、支援なのでは決してない。

カルト被害者救済活動も同じであり、人の弱みや挫折体験につけこんで、それを解決することを助けてやるように見せかけて、その人の自立をより一層、損ない、人の弱さを食い物にして自分が脚光を浴びようとすることが、人助けなのでは断じてない。

だが、牧師は、そもそも神に代わって、自分が信徒のために自己を犠牲にすることで、信徒を助けるという不可能事を目指している人々であるから、彼らがそういう「伝道」を次々と考え出しては、弱みを抱えた人々を食い物にしてさらに自立を損なう事業を考え出すのは不思議なことではない。

しかし、信徒たちがこれにならって「福音伝道」という、実体のよく分からない抽象目的のために、自分個人の人生を捨て去ろうとすれば、自分の人生を完全に失って行くことになる。その行き着く先は、エホバの証人とほとんど変わらない生き方である。
 
筆者は、神はそのようなことを決して人間に期待されてはおられないと確信している。また、そのような方法で、人の信仰が成長することも決してないと確信している。

人にはそれぞれ決して他者には理解できない、他者とは異なる生き方が存在するのであり、まず自分自身のオリジナルな生き方を発見しないことには、自分の人生もない。漠然とした抽象的な基準に従い、誰か別人を手本として生きることも人には無理である。

従って、自分を捨てて他者の満足のためだけに生きられる人間はどこにもおらず、そもそも他者の満足とは一体、何なのか、誰一人として、それを明白に定義できる人間もいない以上、それは実体のない漠然とした抽象的な基準でしかなく、そのようなあるかなきかの基準に身を捧げて、人が自分の利益を捨て去ったような風を装い、他者の満足だけを目的に生きるようになれば、その人の人生は破綻・崩壊することになる。

だから、人は、神が人間(自分)に願っておられる真に高い水準の生き方が何であるかを本当に心の底から理解しようと願うならば、わき目もふらずに、ただ自分だけのために、神が天に備えて下さったはかりしれない恵みを見つめ続け、それを引き出して生きることにすべての心血を注ぐというある種の熱心さとそれゆえの犠牲が必要になるのである。

キリストご自身以外の方には目もくれず、地上を生きる他者の思惑などには決して左右されずに、自分が定めた目的を一心に見据えて進み続けるだけの決意が必要になるのである。

そのようにして、真に満足できる高い水準に達しないことには決してあきらめず、一歩も後に退かない覚悟で、自分のために備えられた恵みを一心に目指すことは、決して悪として非難されるべき貪欲さではない。

むしろ、私たちが生きて味わうために主が備えて下さった恵みを知ることなのであるから、まずはそれを十分に開発すべきであって、自分がその道を知りもしないうちに、今現在、自分が持っている乏しい知識だけで他者を助けられると思うべきではない。
 
人を真に助けたいならば、まずは自分自身が尽きることのない泉を発見し、そこから十分に水を汲み出した上で、その泉へたどり着く方法を他者に教えるべきである。しかし、箴言には、以下に示す通り、自分のための泉を他人に与えるなという警告がある。

アスリートは、自分が苦しい思いをしながら猛特訓をして、自己を犠牲にして獲得した技術を、他の人に簡単に伝授するだろうか。引退して教師にでもなれば、そういうこともあるかも知れないが、現役の選手がそれをすることは決してない。そんなことをしていて、どうやって一位を獲得できるだろうか。
 
代価を払って得た教訓が貴重であればあるほど、人はそれをただ自分だけのものとして大切に扱うことであろう。現に、代価を払わない人間に、どんなに方法論だけを教えても、それを他人が獲得することはできない。

だから、他者を助けようなどと思う前に、人はその同じ時間を使って、もっと自分自身の目的と満足のために生きるべきなのである。その満足とは、神が人間に対して願っておられることは何なのか、神が人間を創造された当初の高い目的、完成、尊厳とは何なのか、自分はどうやってそこへ達するのかというテーマを存分に追求することである。

要するに、人は神の恵みと約束の確かさを、生きて十分に味わい知ることを第一に追い求め、どんな満足を得ても、それで満足したなどと考えるべきでなく、それは目的に向かうほんのごくわずかな一歩でしかないということを思うべきであり、それなのに、ほんのごくわずかな恵みを得たからと言って、それを偉大な達成であるかのように満足げに吹聴して回っているようでは、その人にその先はないということなのである。

(むろん、信仰によって神がなされた御業を他の人に伝え聞かせ、証することが決して悪いというわけではないのだが、人には往々にして、ほんのわずかな恵みを得ただけで、それを十分な恵みを勘違いし、しかも、それを自分が獲得した偉大な方法論の獲得であるかのように吹聴して人に教えようとする傾向があり、もしそのような地点で立ち止まるならば、あなたの信仰はそこで終わりになることを思うべきなのである。)
   
以下の箴言第5章における「遊女」が何を意味しているかについては、諸説あるだろうが、筆者は、これはバビロンを指しており、遊女の道とは、自分がキリストになり代わり、教師となって講壇に立って信徒らを教え、信徒らから注目を浴び、感謝され、栄光を受けようとするすべての目に見える宗教指導者に就き従う道に当てはまると考えている。

このような指導者たちは、他人に向かって教訓を語るが、自分自身はそれを実践しない。他人に向かって泉のありかを指し示すが、自分自身はその泉から汲んで飲もうとはしない。

彼らは親切心を装って、絶えず困っている他者のために気前よく奔走し、「神はあなたを愛しておられます。その愛を十分に受け取って下さい」などと説教はするが、自分の心の内では「神が分からない。神はどこにおられるのだ」と叫んでいる。そして、キリストを自分の心の内に確信できず、そこから恵みを引き出す方法も分からないまま、自分が持てるほんのわずかな物質的・精神的なアイテムだけを頼りに、人助けにもならない人助けを行おうとし、他者の眼差しの中に「神」を探し、他者から肯定・承認されることで自己存在を獲得しようと、常に困った人々のもとを駆け回っている。
 
私たちは、どんなに彼らが卓越した指導者のように名を馳せていたとしても、そのような空虚な人間には決してなってはいけないし、彼らにつき従って行ってもいけないのである。

以下の御言葉の中で「会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」という表現から、私たちは、以下の警告が、不信者に向けられたものでないことが分かる。

「遊女」というのは、要するに、地的なもの、悪魔的なもの、すなわち、地上を生きる生まれながらの人間全般の欲望の総体を指すのであり、人間の宗教指導者の栄光を建て上げ、人類の利益に仕えて生きることも、遊女の道に従うことである。

人間の利益に仕えて生きることと、神の利益に仕えて生きることは、決して両立せず、それにも関わらず、人類全般の利益を優先して、人間社会の思惑に従い、人間の満足を目的に生きれば、その信者は、ただ自分自身のためだけに備えられた命の泉を、他者の欲望の犠牲として失ってしまうことになるという教訓なのである。
  
「わが子よ、わたしの知恵に心をとめ、わたしの悟りに耳をかたむけよ。
これは、あなたが慎みを守り、あなたのくちびるに知識を保つためである。
遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。

子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。

あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。
おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。
そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、
教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、
集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。

あなたは自分の水ためから水を飲み、自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。

あなたの泉を、外にまきちらし、水の流れを、ちまたに流してよかろうか。
それを自分だけのものとし、他人を共にあずからせてはならない。

あなたの泉に祝福を受けさせ、あなたの若い時の妻を楽しめ。

彼女は愛らしい雌じか、美しいしかのようだ。いつも、その乳ぶさをもって満足し、その愛をもって常に喜べ。

わが子よ、どうして遊女に迷い、みだらな女の胸をいだくのか。

人の道は主の目の前にあり、主はすべて、その行いを見守られる。
悪しき者は自分のとがに捕えられ、自分の罪のなわにつながれる。
彼は、教訓がないために死に、その愚かさの大きいことによって滅びる。 」(箴言第5章)

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地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表し、絶えずさらに優った天の故郷を熱望する

彼は天然の立場を捨てるというこの偉大な真理をすべて数語の短い言葉の中に詰め込まれました。「誰でも私について来たいのなら、自分自身を否み、日毎に自分の十字架を取り上げて私に従いなさい」「自分自身の十字架を負って私について来ない者は、私の弟子(教わる者)になることはできません」

「自分自身を否む」! この句を握りしめて自己否定について語り、それをあらゆる種類の事柄に適用することもできますが、主イエスがこの御言葉で言わんとされたのは、天然の命の立場全体を拒絶して、それによって全く支配されないことです。キリストはそれを十字架によって断ち切り、それに反対して十字架を据えられました。そして十字架の意味によって、生来の私たち自身であるすべてのものに対して、「ここにあなたの立場はありません。あなたはここでは支配できません」と仰せられました。

これを行う時、あなたは彼の弟子になることができます。つまり、彼から教わる者になることができます。彼の学校に入学して、この立場ではなく彼の立場に基づいて生きることの何たるかを学ぶことができます。新生以前の立場を放棄してキリストの立場にとどまることが、私たちの包括的義務です。

 ここでもまた主イエスは、彼の立場に基づいて生きるというこの偉大な真理を、絵図的形式で述べておられます。「私の中に住んでいなさい」「ぶどうの木の中に住んでいなければ枝は自分では実を結ぶことができないように、あなたたちも私の中に住んでいなければ実を結ぶことはできません」

この絵図は完全に明らかであり単純です。しかし、彼が何について述べておられたのかを示す後の御言葉による、聖霊の全き照らしが必要です。キリストの中に住むとはどういうことでしょう?それはあなた自身の中に住むことではありません。それはあなた自身の外側に出て彼の立場に着くことであり、それは彼がすべてを支配するためです。これはとても単純ですが、必要不可欠です。

オースチンスパークス 「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (5)から


多くの信者たちが、自己を否むことについても、キリストの中に住むことについても、あまりに多くの誤解を抱いている。彼らは、自己を否むとは、自分の生来の利己的でわがままで罪深い性質を拒んで、もっと道徳的で社会に役立つ人間になうと努力することであるなどと勘違いしたり、キリストの中に住むことも、同じように、もっと宗教指導者の教えに従って、敬虔そうで信心深く見える宗教的な生活を送ることだ、などと誤解している。

しかし、自己を否み、キリストの中に住むとは、うわべだけ敬虔そうな生活を送ることや、道徳的な生き方をするといった事柄とは関係がない。これは信者がいかなる命に従って生きるのか、という選択の問題である。

つまり、信者が、再生された後も、生まれながらの堕落したアダムの命に従って生きるのか、それとも、神の贖いによって与えられた内なる永遠の命に従って生きるのか、どちらの命の法則に従って生きるのか、という選択を指すのである。

キリストの復活の命は、神の非受造の命であり、堕落した魂の命とは全く別物であり、この二つの命の性質も、それに働く法則も、全く異なるものである。しかし、人は信仰によって、キリストの復活の命を知るまでの間は、アダムの命しか知らずに生まれ育って生きているため、主を知った後でも、依然として、慣性の法則に従い、それまでのアダムの命に働く法則に従って生きようとする。それは、信者の中で、それが常識となっており、またそうすることが天然の衝動だからである。

しかし、キリストの中に住むことの必要性を知らされた信者は、命の御霊の法則を学び、これに従って生きることを学ばなければならず、その過程で、それまで自分が常識だと考えていたアダムの命の法則に従うことをやめなければならない。

アダムの命に働く法則は、一言で言えば、「限界」である。その限界は、死へとつながる有限性であり、罪の重荷に縛られているがゆえの死の束縛である。

ところで、以前にも説明した通り、多くの人々は、同情という感情をあたかも良いものであるかのようにみなしているが、実は、同情は、人間の腐敗した魂の命の限界と密接な関わりがある。

同情は、人間の限界を抵抗せずに受け入れることと深く関係しており、その感情を受け入れる人間をどんどん弱くさせてしまう効果がある。

筆者はそのことを以前、ハンセン病者に対する絶対隔離政策の忌まわしさになぞらえて論じたことがある。

我が国でハンセン病者に対する絶対隔離政策という非人道的な政策が続いていた間、皇族などの人々がしきりにハンセン病者を哀れみ、慈愛の歌を詠んだり、あるいは、キリスト教の伝道者などが療養所を慰問し、病者を励ましたりもして来た。

しかし、これらの人々の慰問は、本当に元患者らの自由や解放に役に立ったと言えるのかと問えば、本質的にはNOであった。むしろ、彼らを自由にするのとは正反対の側面を強く持っていたと言えよう。

なぜなら、すでに病気も治療されて、患者でもなくなっていた元ハンセン病者らには、療養所に束縛される理由など何一つなく、彼らに必要だったのは、一刻も早く、隔離政策が廃止されて、自由の身とされ、療養所の外に出て行き、働いたり、結婚したり、事業を営んだりしながら、ごく普通の社会生活に復帰することだったからである。

絶対隔離政策さえ廃止されていれば、彼らには、初めから人の慰めや同情を受ける必要もなく、慰問なども全く必要なく、自分らしい生活を送ることができたのである。

ところが、絶対隔離政策は、かつて一度、ハンセン病に罹患したことがあるというだけの理由で、もはや療養所に隔離されなければならない理由が何一つなくなった人たちを、療養所にずっと束縛し続けていた。

そのような差別を前提に、差別された集団に対する同情や慈悲といったものが説かれ、それを利用する人々が現れたのである。

そうした人々の同情や慈悲は、本来は療養所に閉じ込められなければならない必要など全くないはずの人々に向かって、あたかも彼らが一生、閉じ込められて暮らすことが「運命」であるかのように説き、彼らが自由になることを早くあきらめて、隔離政策に抵抗せず、すすんで甘んじながら、療養所の中で幸せを見つけて暮らすよう、抵抗をあきらめさせる効果を持っていた。

つまり、人々が本来、全く受け入れる必要のない「限界」や「制限」に甘んじて、自由を自ら捨てるように促す効果を持っていたのである。
 
このようなものが、真の意味での同情や慈悲の名に値する活動ではないことは明白であろう。

むしろ、同情や、慈悲といった、一見、美しく優しく見える感情は、そこで人々に本当の自由、本当の人権を忘れさせて、彼らをディスカウントされた立場に甘んじさせ、なおかつ、隔離政策を支持する人々が、心ひそかに、彼らをいわれなく見下して犠牲者としながら、うわべだけ慰めや励ましを装って、彼らの存在を利用して、自分が社会的に有益で正当な活動をしているかのようにアピールするために利用されたのである。
 
しかしながら、以上のような例は、何もハンセン病者への絶対隔離政策だけに当てはまるものではない。

罪の束縛に応じるすべての人々は、今日も続いている目に見えない「絶対隔離政策」にすすんで同意し、自らそこに閉じ込められて生活しているのである。

クリスチャンはキリストの贖いによって罪を赦され、自由とされた民であるから、本来は、誰からも同情される理由がないにも関わらず、その事実を知らないまま、自分を哀れに思い、人の支援や同情にすがり続けながら暮らしている人々は多い。

今日、自分をクリスチャンだと考えている多くの人々が、罪のゆえに、日曜ごとに教会という名の囲いの中に参拝し、牧師たちからお祓いを受け、慈悲の歌を詠まれ、慰問を受けている。

牧師たちは、こうした信者たちが、日常的に様々な問題に苦しんでいることを知っており、彼らが助けを求めていることも十分に知りつつも、人間に過ぎない自分には、彼らが求めている100%の助けを決して与えられないので、常にそれ未満の、決して彼らが自由になれない程度のほんのごくわずかな慰めや励ましだけを与えておいて、彼らがいつまでも助けを求めて教会にやって来ざるを得ない状況を作り出している。

牧師だけではなく、信者同士も、教会を保険組合か、互助組織のように考えて、集まるごとに、自分たちの家庭生活の問題、健康の問題、将来の不安、経済問題などのありとあらゆる不安を持ち寄っては、それをテーブルに出して祈り合う。

だが、その祈りは、神が大胆に御業をなして下さることへの確信や感謝の祈りではなく、いつまでもなくならない彼ら自身の不安を言い表したものでしかない。

こうして今日の教会は、あらゆる弱さを抱えた人々が集まる病院のようになり、人々は自分の弱さを教会に持ち寄っては、それを互いにカミングアウトして、自分と同じように弱さから抜け出せない人々と共に肩を寄せ合い、同情し、慰め合う場所となってしまっている。

しかし、そのような慰めに満足を覚えれば覚えるほど、人はますます自己の弱さから自由になる気力を削がれて行くだけなのである。

人間の持つ同情や慈悲といった感情は、それを受ける側の人間を悪質にディスカウントし、彼らから、自由、完全性、独立心や、気概といったものを奪い取り、その人々があたかも不治の病に罹患し、差別され、隔離されている可哀想な民であるかのような立場にまで転落させてしまう。

本当は、キリストにおいてすでに罪赦されて、あらゆる問題に対する解決を与えられているはずの人々を、同情は、弱さや恥の意識でいっぱいにして、彼らが常に助けを求めて方々を走り回らなければならないかのように思わせるのである。

カルト被害者救済活動などは、そうした互助組合のようになってしまった今日の地上組織としての教会の悪しき側面が、最大限に発揮されて生まれて来た運動であると言える。

この運動は、かりそめの互助組合のようになった教会からも見離され、こぼれ落ちた人々を親切にすくいあげるように見せかけながら、彼らに向かって「あなた方は教会から不当に見放された可哀想な被害者なのだ」という思いを吹き込む。

そうして、被害者意識をふき込まれた人々が、自分たちを見捨てた教会への憤りに燃えて、この互助組合に再び自分を受け入れさせようと、いつまでもその組合にすがり続けるよう仕向けるのである。

だが、本当のことを言えば、彼らに必要なのは、自由であって、罪のゆえの互助組合ではない。牧師制度のもとに自由はなく、既存の教団教派の中にエクレシアはないため、教会から打ち捨てられた人々は、むしろ、それを幸運と考えて、いち早く、真理を探究して、聖書に立脚した真実な信仰の道を行けば良いだけであって、互助組合にいる人々から哀れまれたり、同情されたり、誰かからそこから排除されたことで、可哀想に思われたりする必要もなく、その互助組織に属さないことを不遇だと嘆く理由自体が全くないのである。

絶対隔離政策が推進されていた時代、ハンセン病の元患者らの中のある人々は、勇敢に療養所で自由を勝ち取るための戦いを続け、脱走を試みたり、不当な裁判に抵抗したり、様々な活動を行った。

しかし、今日、キリスト教界という療養所では、悪魔が制定した罪による絶対隔離政策がすでに廃止され、人々は罪という不治の病からすでに解放されて、自由になったという事実さえ、いつまでも認めようとせず、自らすすんで隔離政策に同意するばかりか、果ては療養所から追い出されたことが気に入らないと、療養所に再び自分を受け入れさせようとすがり続け、自分に自由を宣告した療養所を非難し続ける人々がいる。

そうした人々は、あちらの療養所はもう少し待遇が良かったとか、こちらの療養所は質が悪いとか、ここでは慰問団のパフォーマンスが良かったとか、こちらでは不十分だとか、それぞれの療養所を比べ合っては、終わりなき批評を行い、中には自分たちを見捨てた療養所へのバッシングで溜飲を下げる者たちもいる。

こうした有様は、まるで釈放された元囚人が、自分には未だ刑務所に収容される権利があるとみなし、刑務所が自分を見捨てたのは不当だと叫び、再び受刑者に戻るために、どの刑務所が一番待遇が良いかなどと、まるでカタログでも見るように刑務所の待遇を比べて論じ合っているようなもので、そんなにまでも自由であることの意味を見失ってしまうと、たとえ釈放されても、一生、心は囚人のまま暮らすことになるのだろうとしか言えない。

この人々の盲点は、自由は、組織としての教会の中にあるのではなく、自分自身の信仰の只中にあるという事実を見失っている点である。隔離病棟や、療養所の中に自由を求め、そこで受け身に暮らしながら、満足できる待遇を要求すること自体がナンセンスだということに全く気づいていないのである。

真に満足できる暮らしを手に入れるためには、まずは療養所を出て行かなければならない。そこにいる人々と弱さを分かち合って連帯して同情し合い、慰め合うことで、いつまでも自分の弱さを握りしめることをやめ、やんごとなき人々のほんのわずかな注目や、慰問団のパフォーマンスに慰めを見いだそうとすることをもやめて、自分はもはや病人ではないから、誰の世話は要らないということを自覚し、キリストの命が、自分のすべての弱さに対する十分な強さとなってくれることを信じて、たとえ慣れていなくとも、一歩一歩、新しい生活へ向かって、自分の足で歩き、自分自身ですべての物事を判断しながら、ごく普通の自立した生活を打ち立てて行くしかない。

ところが、今日、クリスチャンと言われている人々には、驚くほど、この判断力、自立の力が弱い。多くの信者たちが、集会から集会へと渡り歩き、自分の弱さに溺れるばかりの、あるいはそれに対する何の解決にもならない無意味な祈りに没頭し、各教会を批評家然と品定めして、指導者の力量を品定めすることはできても、自分自身で物事を判断し、道を定め、自由へ向かって歩いて行く力がほとんどないのである。

この人々はまるで車いすに座ったまま、自由に歩ける人々のパフォーマンスが不十分だと非難している観客のようなもので、地上組織としての教会の足りないところを数えて後ろ指を指し、もっと自分に祝福を与えよと人に向かって要求することは巧みでも、自由になるためには、そもそも自分自身が自力で立ち上がって、組織によらず、他人の助けにすがらず、自分自身の信仰によって歩みを進めねばならないことが分からないのである。

こうした人々は、たとえるならば、「金銀はないが、私にあるものをあげよう。イエスの御名によって立って歩きなさい」と命じられ、健康な二本の足で立って歩く自由が与えられているのに、いつまでも車椅子にしがみつく人々のようであり、あるいは、一つのおしゃぶりを与えられても、それが気に入らないからと言って泣きわめき、うるさく泣いていれば、いつか母親が近寄って来て、別のおしゃぶりを与えてくれると期待している赤ん坊のようなものである。
 
自由になるためには、まずその哺乳器を離れなければならないのである。車いすを捨てて立ち上がり、療養所から出て行かなければならないのである。

そういうわけで、アダムの命の有限性と訣別して、キリストのよみがえりの命によって生きるための秘訣の第一歩は、「自分にはあらゆるものが足りない」という意識と訣別することである。

確かに、周囲を見渡せば、不満のきっかけとなりそうな材料は、無限に見つかることであろう。社会で毎日のように起きる陰惨な事件、無責任な為政者、腐敗した宗教指導者、冷たい友人、味気ない家庭生活、自分自身の限界・・・失意を呼び起こす原因となるものは無限に列挙できよう。

しかし、そうした地上のものは、もともとあなたを満たす本質的な力を持たないアイテムでしかなかったことに、まずは気づかなければならない。

そこにはもともとあなたを生かすまことの命はなかったのであり、あなたの真実な故郷も存在しないのだから、そういうものに期待を託し、すがり続けている限り、失望しか得るものがないのは当然なのである。

自由になるためには、あなたを生かす力のないこれらの人工的な栄養補給のチューブを引き抜いて、自らの内に神が与えて下さった新たな命だけを動力源として生きる決意を固めねばならないのである。

その時、あなたがその命に従って生きることにどんなに不慣れであっても、その命は、あなたにすべてのことを教え、導き、すべての不足を補って余りある超越的で圧倒的な支配力を持っていることを信じねばならないのである。

それでも、その新たな歩みは、あなたにとって不慣れであるがゆえに、欠乏の感覚は度々襲って来るであろう。肉体の限界、心を圧迫する様々な出来事、行く先をよく知らない不安、波乱に満ちた絶望的な事件などが、あなたを絶えず圧迫し、常にあなたの人間的な限界を突きつけ、こんな無謀な冒険はやめて、元来た道を戻った方が安全だとささやくであろうが、あなたはそこで、自分にはその行程に耐えるだけの力がないとささやく同情の声に負けて、信仰による歩みをやめて、元来た道を戻ってはならない。あなたは毅然とアダムの命の有限性を受け入れることを拒み、十字架の死を打ち破ってよみがえられたキリストが、あなたの人間的なあらゆる弱さに対して、常に十分に解決となって下さるがゆえに、目的地までたどり着く力があることを信じて歩み続けねばならないのである。

復活の命が、周囲の限界にも、あなた自身の限界にも、それを補って余りある力となり、解決となることを、まずは信じて、一歩、一歩、歩みを進めねばならない。

その信仰がなければ、人には慣れ親しんだ療養所の環境を出て行く決意などつかないであろう。なぜなら、人々はあまりにもそこの暮らしに慣れ過ぎているためだ。人々はその生活に満足しておらず、そこに自由も完全性もないことも知っているが、それにも関わらず、あなたは自由になったので、そこを出て行って良いと告げられても、隔離された生活以外のものを全く知らず、未知の世界に自己の責任と判断で新たな一歩を踏み出すこと怖さに、その不自由の囲いの外に出て行こうと願わないのである。

ごく少数の人々だけが、何が何でも束縛された不自由な生活には耐えられないと思い、経験のあるなしに関わらず、人としての自由や完全を求めて、どんな小さなチャンスでも逃さず、療養所を出て行こうと決意している。彼らは人としての完全な自由と尊厳を取り戻すまで、どんな困難にでも耐え抜くことで、誰かが押しつけて来た不当でいわれのない被差別民のレッテルなどは完全に返上しようと固く決意している。
 
あなたがどれほど自由を求めているか、どれほど人としての完全を求めて、それを約束してくれている神の御言葉を信じて、自分の限界を信じずに、これまで見て来たすべてのものの限界を信じずに、見えるものによらず、神の栄光を完全に表す一人の新しいキリストに属する人として、新たな道を信仰によって勇敢に大胆に進んで行くことができるか、その決断と選択にすべてがかかっているのである。

ダビデが、神が敵前で自分の頭に油を注ぎ、食卓を整えて下さると信じることができたのは、彼が目に見える事実をよりどころにしておらず、目に見えるすべてのものの限界をはるかに超えて、それを打ち破る神の御言葉によるはかりしれない恵みの約束を固く心に信じていたからである。

信仰の先人たちが、行く先を知らないで出て行くことができたのも、彼らが自らの知識や経験によらず、彼らの内に働くまことの命の法則に従って、天の完全な故郷に向かって歩んだからである。彼らは目に見えるものの有様を見て、それが自分にふさわしい世界だと考えず、その限界を信じず、自分にはそれよりもはるかにまさった天の自由な故郷が約束されていることを信じ続けて、これを目指して前進したがゆえに、神は彼らの信仰を喜ばれたのである。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:1-3)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが、実際には、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)

あなたがたが地上つなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

「はっきり言っておく。あなたがたが地上つなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:18-20)

今、一つの絆を永遠に解き、一つの絆をつなごうとしている。これは厳粛な瞬間である。主の御前で永遠に断ち切れる絆と、再び結び合わされる絆がある。

断ち切るべきものを断ち切って、初めて回復される交わりがある。今、筆者は命ではなく、死に通じる扉を永久に塞いでしまうとしている。神の祝福が失われた枯れ枝のような交わりを幹から丁寧に取り除き、木を剪定して、死んだ枝を焼却炉に投げ込もうとしているのだ。

しばらく会うことのなかった信徒と久々に交わりを持ったが、困難の最中に回復された絆は、さまざまな嵐を耐え抜いて残ったものなので、頑丈だ。

筆者は日曜礼拝などに全くこだわるつもりはないが、これから素朴な日常生活を送りながら、二、三人の集まりが、徐々に拡大して行くだろうという気がしている。

筆者が専門と関係のない様々な仕事をしていた頃、地獄の一丁目のような職場でさまざまな人と出会った。学歴も高くはなく、社会層としても、そう高くない出身の人々に数多く出会い、彼らと一緒に働いた。

そういうとき、何気ないことで、助言ともつかぬ助言を、筆者がその人たちに向かって発したことがある。

何年も経ってから、その人たちが、筆者から受けた忠告を、別れた後も大切に守り続けていることを教えてくれた。彼らは、「あの時、ヴィオロンさんがこう言ってくれたから…」と言って、ずっと筆者の教えた法則を大切にし続けて生きたというのである。

ただ法則を知らないがゆえに、迷い続けている人が、法則を掴みさえすれば、生き方が安定することがある。筆者が発した何気ない言葉は、彼らにとっては、まさに必要な光だったのだと思う。

その頃、筆者には助言をしているというつもりはなく、ただ自分自身が生きて掴んで来た法則性をよかれと思って彼らに伝えただけである。だが、その後、伝授された法則を守って生きるのか、それを無用な忠告と退け、侮って生きるのかで、人の道は分かれた。

こちらの言い分を重んじて耳を傾けてくれる人たちには、関わる価値がある。華やかな学歴や教養に乏しくも、どんなに貧しく社会の底辺に位置している不安定な人々のように見えたとしても、忠告に耳を傾け、重要な法則に逆らわないで、これを掴んで取り入れる人たちは、時間と共に着実に生き方が進歩して行く。

それに比べ、自分は賢い、誰からも何も教えてもらう必要はないと考えている高慢な人たちは、何年、関わっても、全く進歩がない。彼らは恵まれた境遇にあるため、いい加減な生き方をしていても、それが何となく成り立ってしまい、試練を通して人間性が練られることも、変化することもなく、ただ同じところを堂々巡りし続ける。地位や肩書や財産などがあるので、かしづいてくれる人たちはたくさんいるが、それによりかかって生きているため、人格がいつまでも成長が止まったまま、幼稚で、未熟である。はっきり言って、そういう人との関わりは退屈でしかない。

彼らは貴重な助言も、侮り、罵倒し、逆らい、踏みつけて来るだけなので、助言する価値も、関わる価値も無い。どんなにクリスチャンを名乗っていても、そのような怠惰な人々との関わりは、交わりと呼べるものではないので、枯れた枝のように、木から剪定して行き、みずみずしい葉のついた生きた枝だけを残すべきである。

もちろん、枯れ枝を切り取って焼却することは神のなさるわざなのだが、それでも、時には、私たちが自分で剪定しなければならないこともある。私たち自身の意志表示も、やはり重要になって来るのだ。枯れ枝なのに、自分は生きていると主張して、他の枝の成長を妨げるような枝は、やはり木から取り除かねばならない。

さて、第一の訴えに付随して、何と段ボールひと箱分以上の資料が出来上がった。これも複合的な訴えなので、必要部数をすべてそろえると、当然、それくらいの分量にはなるのだ。ひと箱では運ぶのに分量が多すぎるため、3箱くらいに分けた。

訴えの中のあるものは約180頁、証拠だけで70以上もの番号がふられている。一セットゆうに400頁くらいになるだろうか? 

しかも、これは第一弾に過ぎず、続編が待っている。家庭用印刷機のレベルを超えた仕事だ。我が家の床も、ちょっとした私立探偵の事務所風になっている。

さて、この書類の山をどうやって裁判所へ持ち込むか思案し、台車があればちょうど良いのだが・・・と思いめぐらしていると、夜間、交わりから車で戻って来た際、ちょうど駐車場に車を止めると、すぐ真横のコンクリートの塀に、どうぞ使って下さいと言わんばかりに、使い古したキャリーが立てかけてあった。

まさかそんな都合の良いことが現実にあるだろうかと目を凝らすと、本当だった。駐車場は個別のスペースで区切られているため、間違ってそこにこんなものを置いて行く人がいるとは思えない。しかも、そのキャリーはほどよい古び具合で、持ち主が大急ぎで取りに戻って来るような代物ではない。そこに捨てられた可能性も十分に考えられた。

これはまさに筆者のために特別に用意されたものであるとしか思えなかったが、一体、誰がそんな親切を? 筆者に今これが必要だと知っている人はいるはずないのだが。

その時、「主がお要りようなのです」

という言葉が脳裏をよぎった。

まさにエルサレム入場の際の子ろばのことが思い出された。

これは主だ、としか思えないありがたいタイミング。ありがたく数時間、お借りして、またもとの場所に戻しておくことにした。必要なら、持ち主が取りに来るだろうし、捨てて行ったのなら、取りに来る人はいまい。

似たような具合で、必要のすべてがそろった。細かな道具の一つ一つに至るまで、目指した日にまでの間にすべてが供えられた。

このようにして、このところ、この地上は、まるで筆者のための共産主義社会になったような具合だ。決して他人の所有物の概念を否定する考えを述べるつもりはないが、キリスト者にとっては、誰かが地上に引いた境界線や、誰かが独占的に蓄えた私有財産などといった区分は、事実上、ないようなもので、すべてのものは天地を造られた神の所有なのである。そこで、神の子供たちに必要なものは、すべて天から適宜、供給される。

復活の命を生きて体験した人は、筆者の言わんとしていることを理解してくれるだろう。キリストの復活の命は、神の非受造の命であって、どんなものにも依存しない、死を打ち破った命である。そこで、この命が、持ち主のために、必要のすべてをおのずから供給する。

天の経済は、キリスト者の必要に応じて伸縮し、拡大・縮小する。

筆者は、これは神の喜ばれる正しい仕事なのだということを、あらゆる機会に痛感している。筆者はこの仕事をただ自分の必要、自分の権利を守るためだけにやっているのではない。聖書の神が生きておられ、今日も神の子供たちを十分に守って下さり、すべてのことについて、必要な解決となって下さり、ご自分の栄光を信じる者に存分に表して下さることを、公然と生きて世に証明することが、私たちの責務であり、証なのだと考えているからこそ、それに取り組むのである。

この方を信じて生きることが、人間にとっての喜びであり、最高の満足であり、どんな場合にも、その信仰は決して失望には終わらないことを、生きて証明し続けることが、私たちの責務なのである。そして、神はその期待に十分に応えて下さることがおできになる方である。

敵の要塞はエリコの城壁のように崩壊する。多くのことは書かないが、結果が目に見える形で現れるとき、何が起きているのかを人々は理解するだろう。

筆者が今手がけているのはすべて弁護士が書くような書類ばかりであるが、そういうことも、一般人でも工夫すれば十分に対応できる。バッハの『シャコンヌ』をヴァイオリンで満足の行くように弾くことに比べれば、書類作成などはるかに易しい。

筆者はある会社に勤めていた時、100頁近くもある就業規則を外国語に訳したことがあった。そこにはネイティブスピーカーもいたが、誰一人その仕事に着手する者も、完遂できる者もいなかった。業者に依頼すれば20万円以上に相当する翻訳だと言われた。それを他の仕事と共にやった。まるで頭髪の長さまで規定した校則のように、社員をがんじがらめにする意味のない規則ばかりではあったが、その時、そのように苦労して書類を作るのならば、会社を去った後も、自分の人生に残るもっと価値のある書類を作るべきだと心から思った。

今、やっていることが、それに似ている。誰のためでもない、自分のための権利の主張文である。だが、その書類では、筆者一人だけの権利ではなく、そもそもキリスト者の権利とは何か、天と地において、人とは何者なのか、という問題が提起されている。

たとえば、信教の自由、思想信条の自由という言葉が、私たちが様々な紆余曲折を経ながら、まことの神を探求し、神と共に生きる道を模索し続ける求道者としての魂の遍歴を十分に優しく認めてくれている。人は神と出会うために、また神に従って生きるために、必ずしも平坦ではない様々な試練の道を通らねばならない。だが、その道が平坦でないからと、これを罵倒できる人などどこにもいはしないのだ。

神は、私たちに「求めなさい」と言われる。あなたたちは何も求めないから、手に入らないのだと。多くの人々は、それを聞いても、自分は富んでいて、豊かで、何も乏しいことはなく、神の御前で打ち明けるべき弱さや、問題などない、と考えているため、何も神に求めようとはしない。求めるものは現世利益だけで、それさえも、つつましく分相応に見えるように、自分の規定したスケールの範囲内でしか求めない。常に周りを気にし、人並みの生き方をしてそこから逸脱しないことにしか目標がないのである。

彼らはあまりにも神と人との前で虚勢を張りすぎているため、自分の弱さを認めず、自分の人生の尺度を自分で規定してしまい、神の御前に素直に問題を打ち明けることもできず、自分の人生を打ち破るようなスケールの恵みを求めることもない。自分のために何も要求しないし、自分はその恵みに価しないと考えている。だから、何も与えられないのである。信じないから、何も与えられないのである。

それに引き換え、主張文を書くことは、自分の正当な権利の行使であり、要求である。自分はそれに価すると信じなければ、要求することはできない。地上でさえ、人の訴えを裁判官が取り上げ読み、審議するのだから、天に出すべき訴えというものも、当然ながらある。神は正しい方であり、真実が曲げられるようなことをなさらない。寄る辺ない人々の訴えに喜んで耳を傾けて下さる。

だから、地上で書類の山を作るのも必要だが、まして重要なのは、天に向かって訴えを出し続け、父なる神に向かって子としての権利を要求し続けることだ。

時に、信者が本気で神にぶつかり、扉が開けるまで懇願し続けなければならないことがある。答えが遅いように見える時もあるかも知れない。だが、信じてよい、神は我が子の訴えに喜んで耳を傾け、これを取り上げて下さると。神は信じる者たちの願いを喜んで受けられ、彼らの信仰に応えることを、ご自分の栄光とみなして下さる方である。


神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。


あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができるようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどに着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。

信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられるだから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:25-34)

さて、 今回は、憲法に定められた居住移転職業選択の自由について、また、聖書において信仰者に与えられている自由について、この二つの話題を関連付けながら書きたい。

もっとはっきり言えば、聖書の御言葉を信仰によってこの地上に具現化することが可能であるならば、なおさらのこと、我々信仰者にとっては、憲法に保障された自由を具現化することくらいは、朝飯前だ、という話題について書いておきたいのだ。

ところで、冒頭から物騒な話を書くようだが、筆者は、籠池泰典氏夫妻が逮捕されたのと同じ今年の7月31日に、ブラック企業から突如としてクビを言い渡されそうになり、その是非についてしばらく争うという事件があった。

ちょうど引っ越して間もない頃だったので、筆者には、悪魔がこの出来事を通して企んでいる事柄が手に取るように理解できた(悪の軍勢は前々から筆者をこの土地から追い払いたく思っており、筆者の生活が少しでも豊かになったり、幸福になったりすると許せない思いで、妨害せずにいられないのである。)

もうはるかに昔のことではあるが、過去に筆者は一度だけ、自分で生計を立てることに自信がなくなり、お気に入りの家財をただ同然で売り払い、気に入っていた家をも手放して、よその土地に移ったことがあった。その頃の筆者は、まだ悪魔の策略に一人で敢然と立ち向かうなどということはおよそ考えたこともなく、聖書の御言葉の力なども全く知らない、無自覚で未熟な若いクリスチャンの一人に過ぎなかった。当時の筆者は、信仰者としては精神的に未熟で、いつも自分以外の誰かに心の支えを求めていたし、たくさんの思いがけないネガティブな出来事が、まるで洪水のように不意に積み重なって押し寄せて来る時に、それにどうやって一人で立ち向かうべきかなどと考える知恵もなく、その勇気もなく、立ち向かう前に、さっさと諦めて退却する道を選んでしまっているような臆病な信者であった。そして、それが暗闇の軍勢に対するあまりにも情けない敗北であることにさえ気づいていなかった。

その当時に起こった様々な出来事は、筆者の心にはかりしれない衝撃を与え、トラウマにも近い悲しみを呼んだ。その家を去るよりも前に、まず親族が住み慣れた家を離れて郷里に帰ってしまっていたので、まるで家が二つなくなったかのような衝撃や喪失感をも受けたのであった。

だが、その時の苦い経験を経て、また、その後、聖書の神との力強い本当の出会いを経て、今や、筆者はそういった人間を苦しめ、追い詰め、絶望に至らせようとする数々の出来事が、決して偶然ではないこと、その実に多くが、悪魔に由来する攻撃であり、信者が信仰によって立ち向かわなければならない苦難なのだということをはっきりと理解するようになったのである。

筆者はそうした喪失の後で、神の御言葉に基づき、再びすべての必要を不思議な形で満たされて立ち上がり、移住を遂げた上、今度こそ自分の力によらず、信仰によって、以前にもまさる幸福な生活を打ち立て、徐々にそれを拡張して来たのであった。それと同時に、そのようにして信仰によって上から与えられた生活を、信仰によって今もこれからも自分が守り抜かねばならない責任を負っていることをも知らされたのである。
 
そのような過程を経た現在、筆者は、たとえ悪魔がブラック企業のような団体を通して馬鹿げた宣告を言い渡して来たとしても、そんな内容を真に受けて、神がせっかく与えて下さった自由や解放をみすみすと手放していたのでは、この先、到底、生きていけないことを、とうに理解していた。むろん、筆者も人間なので、理不尽な事件に出会えば憤慨もすれば、嘆きもするが、かといって、自分のせいで起きたわけでもないことを、まるで自分の責任ように負って、不当な苦しみを黙って耐えているようであっては、神の名折れであり、信者の風上にも置けないことくらいは承知していた。

そういう時には、クリスチャンは、悪魔の策略に知恵を駆使して立ち向かい、暗闇の軍勢の当てが外れて、彼らが恥をかかされねばならなくなるように、首尾よく戦うべきなのである。

きちんと立ち向かうと、嘘の霧はさっさと晴れるものだ。抜群のタイミングで問題は解決し、筆者の不敗記録はまたしても更新され、それによって、筆者の信仰および聖書の神の正しさがまたしても暁の光のようにはっきり現れた。

筆者はクビにされず、かといって、労働の義務も免除されたので、結局、「空の鳥のように、野の花のように、蒔くことも刈ることもしないで、神が生活を保障して下さる」という、筆者が今まで唱え続けて来た生き方が、またしても現実になったのである。悪魔が振り上げた斧が、かえって悪魔自身に打撃となって跳ね返るのを見せつけられたような恰好である。

このようなことは、今までにも、幾度も実現して来たが、筆者の目から見て、このようなことは決して偶然に起きることではなかった。筆者はいつもいつもアダムの呪われた苦役としての労働には加担しなくて良いと放免されるのである。

これまで再三、ブログで書いて来たことであるが、筆者の目から見て、この地上における労働とは、罪ある人間が自分で自分の罪を贖おうとする達成不可能な努力のことを指す。

つまり、今や地上における労働とは、人が単に生計を支えるための、もしくは他者の必要に応えるための働きのことではなくなり、本質的に、人類が自分で自分の罪を贖うための自己救済の試み、神に逆らうバベルの塔建設の試みになってしまっているのである。

筆者はこれまで、自分の生活を自己の努力によって拡張したことは今まで一度もない。筆者の人生に劇的な展開(飛翔・拡張)がもたらされたのは、いつも筆者が、信仰によって、聖書の御言葉の実現を求めたときのことであった。それに引き換え、筆者が懸命に働いて、自己の労働によって自分を養い、支えようとし始めると、途端に物事は悪い方へ転がっていくのである。

毎日、すし詰めの満員電車に乗って阿鼻叫喚の地獄のような混乱の中を通勤し、上司の覚えめでたい部下となるために、粉骨砕身して夜遅くまでサービス残業したり、休日を返上までして働き、そうして自分の涙ぐましいまでの努力によって、自分をひとかどの人間として世間に認めてもらおうとする人生は、神の目にはまさに呪われていると言って良い、と筆者は考えている。

そのような努力は、決してまっとうな労働とは呼べず、勤労の義務という概念からも外れており、どんなに繰り返しても、人の幸福にも安定にもつながらないどころか、人をますます追い詰めていくだけである。それは、そのような(今日において当たり前のようにみなされている歪んだ)労働の概念が、本質的に、人類の自己救済の願望から来るものだからであると筆者は考えている。

昨今、この世における人類の労働という概念は、ますます人が自分で自分を義としようとする神に対する反逆を意味するものになりつつあって、今回も、その結論がまた裏づけられる結果となったのだと筆者は考えている。
 
このような経験を幾度も味わった結果として、筆者が今考えることは、もしかすると、旧創造(神によって贖われない、滅びゆくもの)を維持する責任は、旧創造自身にあるのかも知れない、ということである。

冒頭に挙げた御言葉からも分かるように、神は、クリスチャンに対し、神の国と神の義をまず第一として生き、衣食住のことで思い煩うな、と命じている。

信者にも、生きている限り、衣食住の問題はつきまとう。にも関わらず、神は聖書を通して、そのような問題は二義的であるから、クリスチャンは衣食住のことで悩まず、まずは神の国と神の義に注意を向けなさいと教える。

だとすれば、筆者が信者として一義的な問題に心を砕くのは良いとして、筆者の二義的問題を解決する責任は誰が負うのであろうか?

実は、その責任はこの世が負うのではないだろうかと筆者は考えている。

むろん、直接的には、クリスチャンを養うことは、神の仕事である。クリスチャンは「日々の糧を与えて下さい」と神に向かって祈ることができるが、しかし、そのような訴えを延々と繰り返さずとも、神は自然に信者に必要なものを送って下さる。そして、その多くが、この世から不思議な形で提供されるのである。

もっとはっきり言えば、この世にはクリスチャンを支えなければならない義務と責任があるのではないだろうかとさえ、筆者は思うのである。(この世はこれを聞いて憤慨するであろう。だが、実際に、神の国と神の義を第一にして生きるなら、信者は、いつもこの世が自らの富をすすんでクリスチャンに明け渡す結果にならざるを得ないことを痛感するのではないだろうか。)
 
さて、話題を戻すと、本日は、居住移転職業選択の自由、というのがテーマなので、聖書と憲法をからめて語りたい。

筆者の世代は、これまで労働市場において全く有利とは言えない数々のハンディキャップを負わされて来た。だが、それにも関わらず、我らが憲法は、「職業選択の自由」を国民に約束している。

この言葉の意味は絶大である。

なぜなら、それは「雇用主が労働者を選ぶ自由」ではなく、労働者たる「国民が自ら職業を選ぶ自由」を保障するからだ。

筆者はこれまで繰り返し、記事の中で、キリスト教の信仰者として、聖書の御言葉の記述をリアリティとして地上に引き出すことが可能であることについて記してきたが、それに比べれば、人間が造ったことばに過ぎない憲法の文言を具現化するくらいのことは、非常にたやすいことなのだ。

というより、憲法が国民の権利として保障している程度の内容ならば、それは最低限度の条件として、ほとんどすべてが聖書の約束の中に含まれているとも言えるかも知れない。

しかし、残念なことに、今日、多くの国民にとって、憲法の文言は単なる絵空事でしかない。

それは労基法が、多くの雇用主ばかりか、労働者にとっても、絵空事であるのと同様である。

多くの労働者は、残業代を受け取る権利が自分にあっても、雇用主から「それはあんたが勝手に行ったサービス残業だから、残業代を支払うつもりはない」と言われれば、あっさりとあきらめてしまう。

それどころか、雇用主から、ある日、「おまえはクビだ!」と言われれば、それがどんなに不当な理由でも、さっさとあきらめてしまう者も少なくない。

だが、不当な結論を黙って受け入れるのは、悪魔の不当な言いがかりをすべて真に受けて、自分が悪かったと全面的に降伏するのと同じである。自分の側に落ち度がないならば、そんなことをしてはならず、不当な主張とは戦って、身の潔白を主張し、権利を取り返さなければならない。権利は行使しなければ、失われてしまうのは仕方がない。

この時、権利を主張するための正当な根拠となるものが、法である。

憲法は法の中でも最高法規である。

この最高法規に基づいて、日本国民は自分の望みを自分の当然の権利として主張し、「要求する」ことができる。

このようにして、法的根拠に基づいて自らの権利を主張することで、論敵の不当な言い分を退けるという論戦は、基本的に、聖書の神を信じるクリスチャンが、聖書の御言葉を自分に対する神の変わらない約束として受け止め、それを根拠に、神に対してその約束の実現を求め、同時に悪魔の不当な言いがかりに対して立ち向かう論戦と、基本的にルールは同じである。

さて、国民はどのようにして「職業選択の自由」を現実にすることができるのだろうか?

それを考えるに当たり、まず、今日、我々がまるで当たり前であるかのように思い込まされている状況が、どんなに理不尽な嘘であるかを理解しなければならない。

憲法は「職業選択の自由」という、素晴らしい権利を国民に保障するに当たり、国民を「学歴」や「職歴」によって分け隔てしているだろうか?

たとえば、途切れ途切れの短い職歴しかない人間や、転職回数の多い人間は、まっとうな就職はできず、ひどい仕事にしか就ける見込みはない、などと言っているだろうか?

転職回数が5回を超えれば、もう正規雇用の道は閉ざされたも同然だ、とか、前職でクビにされたり、前職を自己都合で退職したら、次にはろくな仕事が待っていないぞ、などと脅したり、勤続年数が少ないから、まともな仕事に就けない、などと言っているだろうか? あるいは、正社員になれるのは、ほんの一握りの人たちだけであり、それ以外の人間は、もういい加減にあきらめるべきだ、などと言っているだろうか?

そんな条件は全くつけられていない。

制限となるのはただ一つ、「公共の福祉に反しない限り」という一言だけである。
日本国憲法第22条第1項

何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する

この権利保障には、職業選択の自由だけでなく、居住移転の自由も含まれている。
 
そして、職業選択の自由の場合と同じように、居住移転の自由を保障するに当たっても、憲法は、「立派な職業がなければ、立派な家に住めませんよ」とは言っておらず、「大家さんのご機嫌を損ねたら、退去させられます」とか、「かれこれの年収がない人には、引っ越し自体が土台無理です」とか、「職歴のない人間には、家は借りられません」とか、「住みたいところに住むためには、まずあなたの年収を上げる努力をしなければ」などの条件をつけていないのである。

このように、居住移転、職業選択の自由は、大家や、雇用主の自由を保障するものではなく、あくまで国民一人一人に与えられた選択の自由である。

もう一度、目を凝らして読んでみよう。

そこには、「雇用主が、自らの都合や好みに従って、労働者を選ぶ自由」ではなく、「国民が、自分の都合や好みに従って、職業を選ぶ自由」がある。

だが、もし選択肢が一つもなければ、そんなものは自由とは呼べないだろう。従って、職業選択の自由の中には、選択肢が豊富にあるということが、前提として含まれているはずである。

それならば、求職者が現実にありったけの求人広告を目を皿のように探しても、何一つ希望する条件に合致するものが見当たらなかったり、どんな仕事に応募しても門前払いを食らわされたりするのは、どういうわけなのだろうか?

憲法が間違っているのか?

いや、そうではない。憲法に矛盾する現実がおかしいのである。

さて、ここからが勝負所である。

ここで、国民一人一人が選択するのである。法の支配を現実として受け取るのか、それとも、法の支配にそぐわない、それに反する現実を「現実」として受け取り、約束された自由をみすみすあきらめるのか。

あきらめたくない人は、どんなに法に反する「現実」がまことしやかに、当たり前のように広がり、人々に常識のごとく受け入れられていたとしても、その「現実」こそが異常なのだという点で譲ってはならない。

分かる人には、筆者の言いたいことはすでに理解できたであろうから、あまり長々と論証することは必要ないと思われる。これは憲法にまつわる話といえども、ほとんど信仰の領域にも等しい内容である。

筆者は、最近、「居住移転の自由」を自らの権利として行使し、約束の保障を具現化するということをやってみたのだが、その際、年収だとか、ローンだとか、頭金の額だとか、いわゆる普通に家を移り住む時に必要となるすべての条件をほとんど筆者は度外視して(そうした条件にほとんどとらわれず)、願いを実現に移したのであった。

筆者はそれまで何年間もの間、「移転」の方法を模索して来たのだが、以上に挙げたような、好条件をすべて持っていたわけではなく、それらがすべてそろう展望があるわけでもなく、それにも関わらず、そうした条件がすべてそろわなければ、「移転」は不可能だとは信じず、しかも、妥協することによって自らの願いの水準を引き下げるのでもなく、自らの願いを実現する方法が必ずあるはずだと信じ続け、そして実際にその通りに、道を開いたのである。

だからこそ、その経験に立って言うが、憲法に保障された居住移転の自由を、絵空事でなしに実現できるなら、職業選択の自由を行使することも、できないはずがない。

このように、法の支配を、それと矛盾するように見える現実を打ち破って実現し、現実を見えない法の支配に従わせることは、信仰を持たない人間の地上生活レベルでも実現可能なのである。多くの人は、それを実行に移すよりも前から、現実を見て、法の支配を行使することをあきらめ、自らに約束された保障をあきらめ、手放してしまうが、それは正しくないのである。
 
このように、人間が造った法規に過ぎない地上の憲法でさえ、これだけの自由を人に保障してくれているのだから、まして、絶対的に正しい聖書の神が、被造物である人間のために悪法を定められるはずがなく、信じる者の望みをいたずらに制限したり、無碍に扱われるはずもない。

聖書の御言葉はどれも神から信者への変わらない約束であり、信仰によって実現することが可能なのである。憲法に書かれた文言が、国民にとって単なる絵空事で終わらないように、聖書の御言葉は、信者にとって、目に見える現実を超越して支配する見えないリアリティなのである。
 
そのことは、この先の時代、ますますはっきりと証明されるだろうと筆者は考えている。

今でも、多くの人々は、働いて収入を増やすことによってのみ、自己の自由の範囲を拡大することができると考えているが、実際には、そのような考えは根本的に間違っていると言える。

実際には、人間の自由と労働との間には、何の関連性もないのである。労働を通して収入を増やすことによってのみ、自由の範囲が拡大するという考えは、憲法にも反しており、聖書の御言葉のリアリティにも反する悪質な虚偽であると言える。

ところが、世間では、今になってもまだ、労働して己を支えて生きることこそ、まっとうな生き方であるとみなされている。そういう人々には、ブラック企業で不当解雇されたり、サービス残業を強制されたり、果ては賃金さえ払われず、長時間残業のために過労死するなどのことは、自分には決して起こるはずのない他人事に見えているのであろう。

だが、筆者は、自己の労働を頼りとする生き方は、この先、ますます絶望に落ち込んで行くだけだと考えている。それは、国民全体に勤労の義務を課すことで、社会全体の負債を国民に分かち合わせるという考え方自体が、本質的に、共産主義思想につながるからである。

話が飛躍していると思われるかも知れないが、前にも書いたように、筆者の目から見ると、現在の日本社会は、ソビエト体制に非常によく似た歴史的経過を辿っており、この国は、表向きの体制や法体系とは別に、本質的に社会主義国なのではないかと考えずにいられない。

1928-29年にソビエトで強制集団化がなされた。

この時、農民・労働者にそれまでの税金の水準に照らし合わせて、思いもかけない高額な税金の納付書が届き、家畜にも重税が課され、家畜のと殺も罪とされた。

そこで、自身の税のみならず、家畜の税が払えず、家畜も没収の上、強制収容所送りになるような人々も出た。払いきれない法外な税金を何とかしてくれとソビエト国民が閣僚に泣きついた数多くの嘆願書が残されている。

さらに、農民を対象として政府による穀物徴発などが行なわれるようになり、農家が屋根裏に隠していた穀物までも国家財産として強制的に取り上げられた。

こうして、レーニン死後、それまでソ連が戦後の荒廃から立ち直るために、比較的自由な経済活動が許されていたネップの時代が終わり、ネップの時代にようやく少しばかりの財産を築いた農民や労働者が「富農」として非難され、彼らからの強制的な取り立てが始まったのである。

赤い貴族とも揶揄された政府要職にある一部の特権階級も同然の裕福な人々を除き、圧倒的多数のソビエト国民が極貧の生活を耐え忍ばねばならない時代が始まったのである。

こうして、文字通り、すべての私有財産が廃止されるという共産主義の理念が実行に移されたわけであるが、しかし、廃止された私有財産は国民のものとはならず、その代わりに、すべての財産が国有化された。国民の勤労の成果も、すべて国の財産として没収されたのである。

こうして、すべての財産が、人類の未来社会に共産主義というユートピアを生み出すための母体である国家のものとされたため、ソビエト国民は、自分が飢えて死なないために、コルホーズからジャガイモ一個盗んでも、国家財産の窃盗として死刑に処されるようになった。それだけではなく、そんな恐ろしい生活から逃げるために国外亡命しようとすることさえ、国家に対する裏切りとして死刑に価する罪とされた。こんな恐ろしい国から逃げる自由さえなくなったのである。

こうして、労働者・農民の天国を作ることを目的としていたはずのソビエト政権が、労働者・農民に対する恐ろしい収奪、抑圧を実行に移し始めた。やがてそれは労働者・農民の財産の没収、労働の収奪(搾取)だけには終わらず、やがて無差別的で大規模な思想弾圧の実行に結びつき、その結果として、特に、大粛清と呼ばれる36-38年の時代には、数えきれないソビエト国民が無実にも関わらず逮捕され、投獄されたり、銃殺されたり、強制収容所で強制労働させられたりすることになった。

強制集団化から大粛清の時期までに、約10年近い時が経過しているが、今、日本は、強制集団化の時点に差しかかっているのだと筆者が考えていることは、別な記事でも書いた。

今、サラリーマンや、自営業者や、その他の、これまで普通に働いて、己を支えて生きて来た国民(立憲民主党の枝野氏の言葉によれば、かつては「分厚い中間層」を形成していたような国民)が、国家によって強制的な収奪の対象とされ、貧困に突き落とされ、やがては死の淵にまで追いやられるような時代が近づいていると、筆者は感じている。

ちなみに、立憲民主党は、「分厚い中間層を取り戻す」ことを公約に掲げているが、筆者の予測では、この先の歴史は決してそのようにはならない。筆者の予感が的中していればの話だが、今、我が国で起きていることは、「雇用情勢の破壊」でもなければ、「中間層の没落」でもなく、「下流老人の増加」でもない。

これは目に見えない形での、一般国民の私有財産の段階的な廃止なのである。

なぜ過労死などといった問題が起きるのか、なぜ労働市場においては残業代が支払われない方向へ向かっているのか。マイナンバーとは何なのか。これらの問題は、この国がすでに実質的な社会主義国であり、徐々に「共産主義」社会へ向かっているという理解なくしては解明できない。

それはとどのつまり、今のこの国では、社会そのものを存続させるために、すべての国民に、平等に負担を負わせようとする政策が推し進められていることを意味する。

すべての国民に平等に(社会を維持するための)負担を負ってもらうために、報われない労働にもどんどん従事してもらい、どんどん財産を没収しましょうという目に見えない政策が進行中なのである。

この国に革命は起きておらず、表向き、資本主義国であることに変化はないが、それでも、見えない革命が起きたも同然に、この国の最上層部は、すでにクーデターによって取り替えられ、社会の仕組みは以前とは全く異なっているのだと言える。
 
今の安倍政権は、第一次の投げ出しに終わった安倍政権とは本質的に全く異なり、今現在、この国が向かっている先にあるものは、「富はすべて国のもの(土地や財産の国有化)」、「すべての負債は国民のもの」(労働の義務及び私有財産の廃止)という、ソビエト体制とほとんど変わらないような負債の連帯責任の社会なのである。

社会主義国では、私有財産制度が廃止されているので、労働者が働いても働いても、その成果が給与に反映されることはなく、店の売り上げがどんなに伸びても、それが労働者の賃金になって跳ね返って来ないので、言ってみれば、そんな社会では、働く意味自体がないに等しい。

怠け者が少ししか働かなくても、勤労者が大きな働きをしても、どちらも同じ報いしか受けないような社会では、労働意欲に溢れている人間ほど、搾り取られるだけに終わるのは目に見えている。

我が国では、名目上、私有財産制は廃止されていないものの、実質的には、それにかなり近い状態が進行している。

労働者の給与は、残業代の固定化、もしくは廃止、あるいは労働時間にとらわれない裁量労働制が広がることにより、個人が働いても働いても、その成果が労働者にますます還元されにくく、かえって一人一人の労働の成果が、会社の共有財産のように分配される時代が近づいている。

安倍政権になってから、貯蓄ゼロ世帯が増えたが、貯蓄がゼロということは、他の財産もほとんど無いに等しい状態を意味する。

若者の車離れも進んでおり、土地もなければ、家もなく、あるとすれば負債だけで、学費すらも、奨学金という負債を抱えなければ捻出できない。そういう世帯が増えているということだ。

このようなことは、目に見えない形で国民の間で私有財産制度の廃止が進んでいることを意味すると言えないだろうか? ほんの一握りの莫大な富を有する富裕層を除き、それ以外の90%以上を占める下層民(そこにはかつて中間層と呼ばれた人々も含む)は、働いても働いてもその成果が何ら給与に反映されず、豊かになれる見込みもなく、貯蓄も減って行く一方で、ほとんど私有財産がなくなるまでに貧困化が進むという事態が、国家の政策レベルで進行中なのだ。

筆者の考えでは、これは目に見えない、段階的な、下層民の間での私有財産制度の廃止そのものであり、この先、ますます、このような傾向は深刻化して行くことになると思われる。
 
政府がサラリーマンからも自営業者からも所得税や年金の取り立て額を引き上げるというニュースがネットを巡っているが、それもこうした流れの中で起きていることであり、いずれその徴収額は考えられないほどにべらぼうな金額にまで引き上げられ、働いてもほぼ意味がないほどまでになって行くものと考えられる。

また、現時点では、共謀罪で死刑とされた人はいないが、これから10年ほどが経つ間に、税の取り立てなどの労働者への収奪がより深刻化すれば、それに伴い、ソビエト政権下で起きたような政府に対する反乱を未然に防ぐための思想弾圧が、この国でも大々的に起きる可能性がないとは言えず、共謀罪はその布石なのだと考えることは十分に可能である。

このようなことは、この国がもはや資本主義国ではなく、社会主義国である、という観点に立たなければ、その意味が本当には理解できないのではないかと筆者は考えている。

この国がどこかの時点で、完全に方向転換して、安倍政権の唱える「この道」(それは安倍晋三自身が考えついて提唱しているだけのものではなく、その背後に存在する勢力と理念がある)を拒否しないならば、必ず、そのような末路にまで行き着くであろう。

さて、共産主義とは、文字通り、すべての人が幸福社会の実現のために平等に働く社会のことである。

概念上では、その幸福社会には何でも豊かにそろっており、商品やサービスをお金で買う必要もないので、私有財産などもとから必要ないのである。

しかし、結論から先に言ってしまえば、そういう社会を理想とする思想の最大の問題点は、そんな社会が到来することが本当にあるのかという一点に尽きる。

むしろ、理想社会の到来を口実にして、人々の財産と労働の成果を不法に収奪することが、その思想を土台に作られる社会の本当の目的となってはしまいかという点にある。

誰もが平等に労働することによって、本当に幸福社会が到来するのならば良いが、もしその幸福社会の実現が、絵に描いた餅でしかなく、人々をタダ働きさせるための口実にしかならないならば、そんな呪われた「幸福社会」の到来を額面通りに信じて、その到来のために真面目に労働する人たちが最も馬鹿を見させられることになる。

「いつか人類の幸福社会が実現して、モノが豊かに溢れ、格差がなくなり、誰も貧しさに苛まれることのない、豊かで幸福な世の中が来ます。そして、その時には、あなたも好きなものをよりどりみどり、何でも自由に取って楽しめるのです。ですから、あなたはそういう社会の到来を信じ、その時が一刻でも早まるよう、粉骨砕身して労働し、今は雀の涙のような少ない給料や、ただ働きにも黙って耐えて我慢しなさい」

などと言われれば、

「えっ、それって、要するに、詐欺ですよね?」とただちに問い返すべきである。

「間もなく日本は戦争に勝利するのですから、その時は、何でも欲しいものが自由に手に入ります。ですから、勝つまでは、欲しがりません、と言って、みんなで貧しさに耐え、お国のためにすべてのものを差し出しましょう」などと言われれば、「いや、それって詐欺ですよね。私たちからすべてのものを身ぐるみ巻き上げた国が戦争に勝つ時なんて、絶対に来ないと思いますよ。そもそも戦争に勝てる力があるなら、こんなことをやる必要もないと思います」と即座に切り返さなければならないのである。

「どうせ約束した共産主義のバラ色の未来なんて、初めから嘘っぱちでやって来ないんでしょう。そのバラ色の未来を口実にして、今、国民からあらゆる権利を、財産を、労働の成果を取り上げることだけが、あなた方の本当の目的なんでしょう? 嘘はいけませんよ、私は信じませんし、応じませんからね」と返答し、そんな不当な契約は悪魔に突き返すべきである。

「未来の幸福社会」などというあるはずもない謳い文句を口実に、実際に、結ばされるのは、ひたすら赤字や負債だけを山分けするという不利な契約だけだからである。

そういうわけで、現在の日本社会においては、今までと同じように、国民一人一人が頑張って働きさえすれば、社会全体が底上げされて、みんなで豊かになれるという前提が、もう幻想も同然に、存在していないのである。そのような時代は過ぎたのであり、今となっては「神話」である。

そもそも日本がかつてのような経済的繁栄を取り戻せるという発想自体が幻想なのだが、その幻想の中には、アベノミクスという「神話」だけでなく、残念ながら、立憲民主党の主張している「分厚い中間層を取り戻す」という「神話」も含まれると筆者は考える。

現実には、国民一人一人が頑張って働けば、社会が底上げされるどころか、少子高齢化及び原発事故等々のツケをその一人一人がみな連帯責任のごとく負わされることになるだけであり、しかも、労働できる世代や人口自体が限られている以上、一人一人がどんなに頑張って働いても、社会全体を今まで通りの水準に維持することはほぼ不可能であり、そのために負わなければならない負担が、天文学的な額にまで上っており、そのような理不尽な状況下では、むしろ、真面目な人々が努力して働けば働くほど、働かない人々がその努力に便乗して利益をむさぼるので、真面目な人々の負担は重くなって行く一方であり、どんな努力を持ってしても、この理不尽な状況を変えることは誰にもできないという時代が来ていることは明白なのである。

この事態の深刻さを直視せず、今まで通りの勤労の概念に踊らされて、従来通りに労働していれば、あたかも社会全体がますます豊かになるかのような幻想を抱いていれば、その人間は、その浅はかさを誰かに都合よく利用され、負いきれない(社会全体の)負債を連帯責任として負わされて、死が待っているだけである。

過労死も、サービス残業も、すべてこの社会が慢性的に負わされている負債を、最も弱い末端の労働者にまで連帯責任のごとく負わせようという考えから起きていることである。

その負債の中には、むろん、デフレや、少子高齢化や、福島原発事故の後始末など、あらん限りのマイナス要素が含まれるであろうが、広義では、その負債は、最終的には、人類の罪そのものを指す。

人類が絶対に自己の力で贖うことのできない罪を、己の力で贖い、何とかしてみんなで己が失敗を償って幸福な社会を自力で打ち立てようという目的で働いていればこそ、どんなに働いても、その労働に終わりが来ることはないばかりか、むしろ、働けば働くほど、要求が過剰なものに引き上げられ、人は永遠の蟻地獄の中でもがき続けるしかないのである。

そのような文脈における労働には希望がない。それは人がどんなに力を尽くして頑張っても、しょせん、返せるはずもない、底なしの負債を、社会のメンバー全員で分け合うことで、あたかも返せるかのように見せかける幻想でしかないからだ。

そこで、そんな試みは決して成功に終わることはないだけでなく、もしそのような仕組みの嘘を見抜けず、その罪の連帯責任に同意してしまったなら、やる気のある人間は、死に至るまでとことん割に合わない条件で働かされるのみである。

そこで、正しい答えは、そのような呪われた労働システムからは、一刻も早く、外に出るべきだ、ということに尽きる。

我々は、義務としての労働ではなく、自由としての労働をどこまでも目指すべきなのである。

国民の勤労の義務を説くにしても、それは「職業選択の自由」があって初めて成り立つのであり、それがないのに、勤労の義務だけを説けば、苦役を課しているのも同然になる。

そして、義務としての労働ではなく、自由としての職業選択の自由を本当に実現するためには、憲法という概念よりも、もっと大きなスケールにおいて、死の恐怖によって人を虜にしている罪の強制収容所の囚人であることをやめるための絶大な効力を持った証書が必要となる。

つまり、社会全体を没落させないという、死の恐怖から逃れるという目的のためではなく、自分自身の望みに従って、完全な自由の中で労働するという新たな文脈が必要なのである。

そのような自由を人に与える効力を持つ証書は、全宇宙にただ一つしかなく、それは死の力を持つ悪魔を十字架において滅ぼしたキリストの贖いだけである。

この十字架における贖いの証書だけが、人を死の恐怖及び罪を贖うための終わりなき苦役としての労働から解き放つことができる。

筆者は、この先、この十字架発の証書を握りしめて進んで行くことだけが、来らんとしている強制集団化と大粛清の中を無傷で生き残る鍵であろうと考えている。読者は、ソビエト時代の社会と現在の日本社会を重ねている筆者の想像を笑うかも知れないが、それでも、筆者の予想は、非常に厳しいものであり、この先、日本にかつてのような平和な時代が取り戻されるというものではない。

そして、聖書の御言葉への信仰に立って、与えられた自由を確固として行使し続けることが、どんな過酷な時代にあっても、無傷で生き残るだけでなく、一回限りの人生で、真に価値ある労苦によって、見えない栄光を掴むための秘訣なのである。

最後に、もう一つのことを書いておきたい。

聖書の神を心から信じるクリスチャンは、神に似た者として振る舞うべきではないかと、最近、筆者は思うのだが、(これは最近はやりの、「人が神になる」というアセンションを意味しない。人間が何かとんでもない神々しい存在になるという種類の自己高揚の話ではない。)果たして、クリスチャンが神に似た者として振る舞うとはどういうことなのかを思うとき、聖書の次なる文句が思い出されてならない。

たとえ飢えることがあろうとも
お前に言いはしない。
世界とそこに満ちているものは
すべてわたしのものだ。」(詩編50:12)

世界とそこに満ちているすべてのものを所有しておられるただお一人の神には、不足というものが全くない。にも関わらず、「たとえ飢えることがあっても」という表現が出て来るのは、一見、パラドックスのようにも思われる。
 
神が飢えるなどということは、想像することもできない。むろん、それは肉体的な飢餓のことを言っているのではなかろう。ここで言われている「飢え」とは、あれやこれやの具体的な話ではなく、欠乏全般を指すものだと考えるのが妥当であろうと筆者は思う。

つまり、この表現が意味するものは、「どんなことについても、神は決して欠乏を口にせず、ご自分以外の者を頼りとされない。なぜなら、神はすべての必要をご自分で満たすことのできる方だから」ということに尽きると思うのだ。

神は全知全能であるから、ご自分以外のものを決して頼りとされる必要がない方である。神は完全であればこそ、不足や欠乏に直面してご自分以外の者に助けを求めることを余儀なくされるという状況自体が、決して起きない方なのである。言い換えれば、どんな欠乏が生じても、それをご自身で満たすことのできる方なのである。

そこで、神がもしそのような方なのであれば、その神に贖われ、神のものとされ、神の子供とされたクリスチャンも、神に似た者として、同じように振る舞うべきではないだろうか?と筆者は考える。

つまり、クリスチャンは、ただ神だけに信頼を置いていればこそ、安易に神以外の者に向かって、欠乏を口にすべきではないし、誰にも助けを乞うべきではないと言えるのではないだろうか? 

筆者はそのことを今回も再び学ばされたように考えている。

我々は生きている限り、多くの苦しみや、時には窮地にも遭遇することがあろう。そのような中で、心弱くなり、ふと誰かに優しい言葉をかけてもらいたいとか、同情してもらいたいと思ったり、あるいは、人に支援を乞いたい不安に駆られることがあるかも知れない。

あともう少しのところで、誰かに心細さや欠乏を打ち明ける寸前だった、というところへ追い込まれることもあるかも知れない。

だが、それでも、クリスチャンであれば、私たちが助けを乞うべき相手は、肉なる人間ではないことを思うべきであり、欠乏に取り囲まれているように感じられる時こそ、あえて以上の原則を思い起こし、神以外の何者にも助けを乞わないという姿勢を貫き通すべきなのである。

そうすれば、万物の造り主なる方、全宇宙をつかさどる方、全知全能の神、死を打ち破られた方が、信者のすべての必要を本当に知っておられ、気遣って下さるので、私たちは、滅びゆくこの世の者に助けを求めないで済むのだということが、実際に分かるであろう。

クリスチャンがこの世に助けを乞うのではなく、むしろ、この世の方が、クリスチャンが持っているはかりしれない権威と力のゆえに、自らクリスチャンを支える義務を負っているのだとさえ言えるのではないかと思う。

クリスチャンは、この世のあらゆる欠乏からすでに十字架における勝利によって解き放たれており、従って、この世のどんな事象にも縛られず、人の思惑に振り回されることなく、むしろ、それらをはるかに超えて、神と共にこの全宇宙を治める側に立つことができる。そのようにこの世を超越した立ち位置にこそ、キリスト者の自由が存在するのである。

これが、憲法という地上のレベルをはるかに超えて、聖書の御言葉が壮大なスケールで信者に与えてくれている自由である。地上の憲法は、場合によっては書き変えられることがあり得るかもい知れないが、聖書の御言葉にはそれはない。
 
聖書の御言葉により、死を打ち破った復活の命によって生かされていればこそ、クリスチャンは地上で様々な困難が持ち上がって来る時にも、右往左往して世に助けを乞うのでなく、むしろ、現実の事象に対して権威を持って命じることができる。

すなわち、現実が御言葉に従うまで、天的な権利の行使を貫徹し、命じ、戦うのである。その時、聖書の御言葉に基づく目に見えない支配が、目に見える事象すべてを上回る圧倒的な支配力であることが実際に証明されて、私たちは自分たちの信じている神が、神と呼ばれるにまさにふさわしいお方であることを痛感することになる。

全信者をプロレタリア化してこの世の堕落したバビロン体系に仕える奴隷とするプロテスタントの誤った理念から、愛する御子キリストの支配の中へのエクソダス

さて、一つ前の記事では、「信者は世俗生活において労働を通じて社会貢献を果たし、自らの天職をまっとうすることで、神に奉仕でき、キリスト者としての召しを全うできる」というプロテスタント独特の考えが誤っていることを書いた。
 
プロテスタントにおける以上のような(天職としての)「労働」という概念は、社会への貢献や奉仕という、表向きの輝かしい名目とは裏腹に、その実、信者の奉仕の対象を、巧妙に神ご自身ではなく、人間社会(この世)にすり替えるものであり、すでに書いた通り、その労働が生み出される動機も、神への愛に基づくのではなく、むしろ、それは自分が神に救われているかどうかが分からないという状態にあるプロテスタントの信者が、自己の抱える不安や恐怖から目をそらそうとして生み出す現実逃避のトリックでしかない。そこで、そうした文脈における労働は、神からの逃避にはなっても、神のための奉仕として実を結ぶことはなく、信者の状態を真に変えて神へ近づけるきっかけともならないのである。
 
つまり、プロテスタントにおける以上のような労働の概念は、何かが決定的に狂っており、おかしいのだと言える。その労働は、信者の神への奉仕としてなされるものでもなければ、隣人愛からなされるものでもない。むしろ、「神が分からず、救いが分からない」という不安に苛まれている信者たちが、死後、神のさばきの座に立たされる瞬間まで、地上生活で感じるあらゆる不安や恐れを少しでも和らげようと、この世における人間社会の生活に埋没し、そこで人々に熱心に奉仕することによって、内心の救いの確信の欠如を、善行などの外側の立派な行動によって補い、神から承認を受けられない分を、この世の目に見える人間からの承認や賛同によって埋め合わせようとして行う、目くらましのような時間稼ぎであり、アリバイ工作のようなものでしかない。

そんなプロテスタントの信者にとっては、世俗生活における労働だけでなく、教会生活における奉仕と献金さえも、「自分は神に救われていないかも知れない恐怖」を紛らすために行われる。

本来、信者の地上の組織としての教会への所属は、外見的な要素に過ぎず、それはその信者が真実、救われて神に受け入れられているかどうか、天のいのちの書に名が記されているかどうかをはかるものさしとはならない。ところが、プロテスタントの多くの信者は、教会に所属し、牧師の説教を熱心に聞き、熱心に献金と奉仕を行なうことでしか、自らの信仰を維持できないと思い込んでおり、教会への所属を失えば、自分は道に迷って信仰を失い、救いから漏れ、神に見捨てられて悪魔の虜とされるだけであるかのように思って怯えている。
 
そのような転倒した考えがなぜ生まれるのかと言えば、プロテスタントの教義上の欠陥のせいで、この宗教の信者たちの大半には、もともと救いの確信が内側に無く、その得られない確信を、手っ取り早く他者(牧師や他の信徒たち)からの承認へと取り替え、一体、神が自分に何を願っておられるのか、神の御心が分からない分だけ、自分たちの熱心な奉仕活動によって、自分が救われた人間であることを、人前にアピールし、客観的に証明することで、埋め合わせようとしているからであり、教会をそのようにして自分の正しさを証明するための場としてとらえ、教会への所属を捨てられないからである。

このような信者たちにあっては、この世における労働も、教会における自己の正当性の主張と基本的に同じ動機で行われる。つまり、全ての奉仕は、信者たちが、自分は贖われた新しい人であることを世間にアピールすることで、自分の内に欠如している内的確信を、外側における自分の立派な行動と、世人からの承認によって補うために行われるのである。

こうした人々の中では、救いの確信について、完全に転倒したさかさまな思考が出来上がっていると言える。彼らは救いの確信を、人が信仰を通じて、個人的に心の内側に神に直接啓示されて得るものではなく、自分の行動や、人からの評価や承認などといった、外的な、地上的な要素によって確認可能なものであるかのように考えているのである。

彼らは、神の救いを、まるで企業が社員に配る社員証のように、教会などの団体に所属していることによって、集団的に保障されるものであるかのように思い込んでいるのである。

こうした信者たちは、教会への所属という外側から目に見えるバッジによって、内的確信の欠如を補うべく、熱心な奉仕活動(労働)を行い、自分に(偽物の)救いのバッジを与えてくれる団体に熱心に仕えようとする。だが、そのバッジは、聖書に記された神の真実な救いのように、信仰に基づいて、信者に一度限り永遠に与えられるものではなく、信者が熱心な奉仕活動を絶え間なく継続することによってしか貸し出されないものである。

そこで、プロテスタントの信者たちは、救いの確信がない不安を、人の目に正しいと認められる活動によって補おうと、教会の内・外に関係なく、どこにいても、自己の本質(不安や恐怖や罪悪感)を紛らすための奉仕活動にいそしまざるを得なくなる。だが、こうした動機からなされる彼らの労働は、自分自身の不安を覆い隠すために行われる自己欺瞞であって、神や人への奉仕ではないのである。
 
マックス・ウェーバーが書いたように、プロテスタント特有の現実逃避願望としての労働を奨励する思想が、本当に資本主義の発展に貢献したのだとすれば、そのような文脈における「発展」は、人間にとって真に望ましいものとは言えず、むしろ、資本主義そのものが、プロテスタントの信者の奉仕と同じように、人類全体が自己の恐怖から逃れ、自己の本質を偽るために生み出された壮大なフェイク、現実逃避のしかけでしかないということになろう。
 
クリスチャンであれば、この世の経済体系が、悪魔の支配下にある堕落したものであり、経済のみならず、文化的にも、この世の全ての体系が、堕落した複合的なバビロン体系であることは否定しないものと思うが、資本主義もその一部であり、それは人類の現実逃避願望から生まれて来た偽りの「マトリックス」であって、信者・非信者を問わず、真理から目を背けたい人々が互いに寄り集まって、神から遠く離れて堕落している自己の罪なる本質を覆い隠し、自己の惨めな姿から目を背け、自分は正しく立派な人間になろうと不断の努力をしている善人であるから、神も人も一目置かざるを得ないはずだと、互いに誇り合い、虚飾の外見を見せ合って、それをあたかも本物であるかのように承認し合い、慰め合うために作り出されたフェイクの体系なのである。

人類が飽くことのない経済発展を目指すのは、そのような偽りの努力の果てに、社会を向上させ、いつかは理想状態にたどり着き、神に至ることができるという驕りがその思いの根底に存在するからである。
 
このように、この世の偽りのバビロン体系は、人類が自らの努力によって社会に理想状態を来らせることができるかのような幻想に基づいて出来上がっており、そこで労働を通じてこの体系に仕える人間は、たとえるならば、フェイスブックのようなSNSに没頭する人間のようなものである。孤独な人間がある日、SNSを開設し、そこにとりわけ良く撮れた自分の写真や、耳障りの良い言葉の数々を並べて、面白い話題をちりばめて記事を作り、たくさんの「いいね!」をもらえば、何かしたような気になって、孤独も紛れる。だが、そのようにして飾り立てた写真は、本人の偏った不真実な姿しか示しておらず、耳障りの良い美しい言葉をどんなに並べても、それは人の内面を1ミリたりとも変える力とはならない。しかも、「いいね!」のほとんどは、義理で押されたお世辞の賞賛に過ぎず、「友達」の大半は、久しく現実生活でコンタクトも取っていない縁遠い人々であり、どこで出会ったかすらも思い出せないような人々も数多く含まれている。

SNSの内容が現実から乖離していることは、本人も重々承知であるが、それでも体裁を保つためには、果てしなく友達承認を続け、記事を書き続けるしかない。こうして、現実とは似ても似つかない、虚飾にまみれた、偏った、偽りの「マトリックス」が出来上がり、そこでは、誰もが自己の正しいイメージを見失って、虚像が独り歩きして行く。当初は人間が自己の満足のために始めたものであっても、途中からは、人前で自己の「有用性」や「幸福で理想的な状態」を絶え間なく証明しなければならないという強迫観念のせいで、やめたくてもやめられなくなり、最後にはすっかりSNSの奴隷状態となり、捏造してでも自慢話を披露して、「あらまほしき人間像」の演出を永遠に続けねばならない羽目に陥るのである。

プロテスタントにおける労働の奨励はこれによく似ている。ここで言う労働とは、ただ単に人が己を養うためだけに働くという単純な概念ではなく、家族を養ったり、自分の適している職業に従事することで幸福を得るというものでもなく、「天職を通じて神の召しを果たす」という、何やらよく分からない概念であり、そのような概念としての労働は、内容が規定されていないだけに、本人にとっても、とてつもない重荷になりかねない。

しかも、「神が分からない。救われているかどうかさえ分からない」という不安を抱える信者たちが、自己の不安を紛らすために、「天職を通じて神の召しを果たす」ことに励むのであるから、一体、そんなことがどうして可能だろうか。それではまるで現実生活の重荷から逃れて空想の中で気を紛らしたい人々が、SNSに集まって繰り広げる果てしない談話と同じく、神が分からず、自分が分からず、自己の本心と直面することを恐れ、自分に対する神の召しが何であるかすらも分からない人々が、ひたすら神を無視して、神を抜きにして、神を納得させるために行う、独りよがりな、自画自賛の、自己欺瞞の活動でしかなくなる。どんなに努力しても、そのような現実逃避的な動機からなされた奉仕や労働が、神の御心にかなう成果をもたらすことはなく、真に人類の幸福に寄与するものになることもないであろう。

筆者は個人的に、プロテスタントにおける労働奨励の理念を、「全信者のプロレタリア化の理想」と呼んで差し支えないのではないかと考えている。

プロテスタントの教義の中には、プロレタリアートという言葉こそ使われていないものの、もともと「労働を通じて社会貢献することで、人間は神の召しに応え、贖われた新しい人間としての生き方を提示できる」という発想があり、この宗教の中には、社会主義思想の登場以前に、「すべての信者をプロレタリアート化することで、神の国を到来させることが可能になる」という、発想がすでに提示されていたのであった。

一般に、プロテスタントの信者は、教会の中においては、聖職者階級を支えるための道具(労働力)として自分を差し出し、教会の外においても、社会を発展させるための道具(労働力)として自分を差し出す。

プロテスタントの信者は、このように、教会の内外を問わず、どこにいても熱心に労働や奉仕に励み、常に自己吟味を重ね、少しでも自分の目に、また、周りの人々の目に、自分をあるべき人間と認めさせるために必要な努力や学習を惜しまない。彼らはそういう努力が、神の召しに応える行為であって、神の国を地上に到来させる秘訣であるかのように思い込んでいる。

そして、このようなプロテスタントにおける「全信者のプロレタリア化」の精神こそ、資本主義の発展の原動力となったのであり、さらには、この精神を受け継いで、社会主義思想も生まれたのである。

共産主義ユートピアという発想は、それ自体、聖書における神の国の悪魔的模倣なのであるが、労働を通じて人間が自己を改造し、理想的な人間に近づけるという共産主義の理念は、もとを辿れば、その土台はプロテスタントの「天職を通じて神の召しを全うできる」という考えにあったのではないかと思われてならない。

ここで注意すべきは、筆者が、共産主義における労働の概念だけが間違っているのではなく、プロテスタントにおける労働の概念も同じほど非聖書的で間違っていると考えている点である。

筆者の見解では、労働を通じて人が自己改造して理想状態に近づくことができるという考えは、思想・宗教の形態を問わず、根本的に全て間違っている。なぜなら、労働を通じて自己改善できるという考えは、肉体改造を通じて人の自己を変革しようとするのと同じく、外側から人間を改造する試みであり、内側からの変革ではないからである。それゆえ、これは聖書の真理のベクトルとは完全に逆なのである。聖書の提示する人間の変革は、常に信仰を通じて、人間の自己の内側(霊)からなされるものであり、人間の外にある影響力を通してでなく、その人の内側で、神との個人的な交わりを通してなされるものだからである。
 
労働を通じて信者が神の召しに応答し、理想的人間に近付けるというプロテスタントの理念が誤っていることの証拠の一つとして、プロテスタントの「全信者のプロレタリア化」の理念は、教会の中においては、牧師制度のような聖職者階級のヒエラルキーをより一層、強化・固定化する材料となり、教会の外においても、バビロン化したこの世の経済体系の差別や格差を助長・固定化するのに大いに役立ったことが言えよう。熱心な奉仕や労働それ自体は、人の目にあたかも良いもののように見え、他者への愛や思いやりに基づいて行われるかのように見えるかも知れないが、それが結局、社会における差別や搾取をより一層、強固に固定化する要因になっているならば、果たして、そのような「労働」や「奉仕」が本当に社会に貢献していると言えるであろうか?

さらに、このような観点から、もしもクリスチャンは社会的弱者に対して冷酷だとか、差別を助長しているなどといった非難が浴びせられようものならば、プロテスタントの信者たちは、早速、今度は、その罪悪感を払拭するために、社会的マイノリティの救済のための各種の事業に乗り出して行く。

だが、こうした他者への奉仕が行われる動機は、全て信者が自己の内側に持っている拭い去れない不安や罪悪感をごまかすためであり、神との関係で救いの確信を持てない信者が、人との関係において自己の正しさを主張するために行われているのである。このような動機では、どんなに他者のための奉仕を装っていても、その労働は神への従順や、隣人愛から出た行動ではなく、すべては結局、自分のためであり、しかも信者が自己の本質から逃避するために生み出された自己欺瞞の活動でしかないのである。

だから、どんなにプロテスタントの信者が「天職」や「社会貢献」といった言葉で美化しようとしたとしても、こうした信者たちの行う奉仕や労働の目的は、本質的に、神からの逃避、自己からの逃避、自己の本質を偽ることにあり、そのような逃避行動に熱中すればするほど、その信者たちは、神に近づくどころか、ますます神から遠ざかり、本当の自分自身が分からなくなっていく。
 
プロテスタントの信者たちの世俗における労働だけではなく、彼らが作り上げる「教会」も、彼らの(贖われていない)魂の状態から来る心の不安や恐れを覆い隠すために作り出される現実逃避であり、巧妙な「マトリックス」の一環なのである。

こうした信者たちは、この世においても教会においても、自ら作り出した「マトリックス」に埋没し、そこで何らかの「役割」を演じることで、自分の真の姿から目を背ける。そして、自分は他者に奉仕しており、他者にとって「有用」な人間であるから、あるべき状態にあって、価値を持つ人間であると考え、これを救いの代替物として、自分は神の御前で単独では何者なのかという恐怖に満ちた問いと直面することを避けるのである。

信者は絶え間なく自己の外側での活動に熱中し、他者との関係に埋没することにより、神が分からないことからくる自己の不安、恐れ、罪悪感などから目を背け、そうした意識のせいで感じられなくなっている自己価値を、自分自身の善行や、他者からの承認や賛同といった外的な要素に置き換えるのである。

信者たちは教会や社会の中で、奉仕や労働を通じて「役割」を果たし、その役割を通して作られた自分のイメージを自分自身(もしくは自分に対する神の召し)にすり替え、自らが果たしている役割に他者からの承認や評価を受けることで、人の目から見た評価を、自己価値とすり替えるのである。こうして、他者との関係性の一切ない、ただ神と差し向かいで、神と自分しかいないところで、自分とは一体何者なのか、自分の価値とは何なのか、自分は本当に贖われているのか、神に受け入れられているのか、罪は赦されているのか、神は一体自分をどうご覧になり、自分に何を求めておられるのかといった一連の疑問と向き合うことを避けるのである。表向きには、神の召しに応じることを口実にしながらも、その実、ひたすら人間社会の生活に埋没することにより、神ご自身と向き合うことを避け続けていると言って良い。
 
こうして、プロテスタントは、信者が差し向かいで神とだけ向き合い、人間を通してではなく、ただ聖書の生けるまことの神ご自身を通して、聖書の御言葉の意味を理解し、キリストを内に啓示され、キリストの義と聖と贖いを、神が自分のために個人的に備えられた確かな恵みとして受け取るのではなく、むしろ、そのような揺るぎない救いの確信は、生きているうちに得られるものではないとして、信者が神と向き合わないために得られない救いの確信を、この世の人々に奉仕し、人から受ける承認や賛同によって埋め合わせることができるかのように教え、神と出会ってさえいない、贖われたかどうかも分からない信者が、熱心な奉仕や労働によって、あたかも神に近づけるかのような、偽りに満ちた教義を提示するのである。

だが、どんなに信者たちが行いによって自分を正そうと努力しても、外側の事柄は決して内側の事柄に取って代わらず、外側の目に見える人間の客観的な評価が、人の内的な自己価値を決めるわけでもない。どんなに人から承認を受け、社会で立派な役割を果たして、自他共に満足したとしても、その満足は麻酔薬のような束の間の効果しか持たず、人が内心で抱える根本的な恐怖や不安を寸分たりとも払拭する効力を持たない。真のリアリティは、信者の外側で起きることにはなく、内側で起きることにある。

しかしながら、プロテスタントの教義には、もともと神の御心をとらえがたいものとみなし、人間の価値を、神との関係性において規定されるものではなく、人間同士の関係性を通して規定されるものであるかのようにみなし、信者が神にとって有用な人間になることではなく、目に見える他者にとって有用な人間になることを、神の召しに応えることと同一視するという著しい概念のすり替えがあった。

その概念のすり替えこそ、プロテスタントの信者たちを誤謬に向かわせた最大原因なのであり、そのような転倒した文脈で信者に奨励される奉仕や労働は、結局、信者を人間の利益のために道具化する効果しか生まず、プロテスタントは、信者が人の目に有用と認められる奉仕を続けることにより、神の召しに応えられるかのような偽りを教えることで、信者の存在を、神の目に絶対的に尊い存在ではなくして、社会において役割を果たし、人間の目に有用性が認められることにより、相対的に信者としての価値が高まるかのようにみなし、こうして信者を人間の利益と欲望を叶えるための道具に貶めてしまったのである。その結果、教会の中にも外にも、神の召しや新しい人間などという言葉からはほど遠い、人間の欲望にまみれた現実逃避のマトリックスとしての一大バビロン体系が築き上げられたのである。

筆者は、このようなものが「信仰生活」であるとは考えていない。この生活の中には、ただ人類の利益だけがあって、神が不在である。

こうした文脈における労働の概念には、神の国とか、神の召しだとか言った高尚な言葉よりも、むしろ、囚人の懲罰労働のイメージの方がよく合っている。

自分が確かに救われて神に受け入れられていると信じることのできる人々は、神のさばきを恐れることなく、救いが失われるのではないかという不安や恐怖に苛まれることもなく、自分が他者に奉仕しているかどうか、他者から承認や賛同があるかないかに関係なく、安息していられる。自らの内心の恐怖から逃れるために、絶え間なく外側の活動に熱中して労働に従事したり、自らの努力によって、自分がいかに素晴らしい人間であるかを社会に言い聞かせる必要もない。

だが、自分が確かに救われているという確信がなく、キリストの贖いの完全性を信じられず、自分が罪赦され、神に受け入れられているという確信のない人間にとって、この世における生活は、自分に対する神の厳しい審判と罪の結果としての刑の執行を待つための恐怖に満ちた時間でしかない。そこで、神の恐るべき審判を待つための待合室でしかない地上での厄介で心苦しい時間をどうやってやり過ごすかということが課題になる。
 
救いの確信の欠如した人々は、この恐れを紛らすために、互いに寄り集まって、慰め合い、自己肯定し合うための各種のもっともらしい奉仕活動を生み出し、これを贖罪行為として、互いに仕え合うことで、自分は罪の償いを果たしたのだと自他に言い聞かせようとする。だが不思議なことに、その罪の意識は、決して真実、人の罪を赦す権限を持っておられる方には向かわず、むしろ、罪を赦す権限のない罪人同士の告白のし合い、傷の舐め合い、慰め合いという形で終わって行くのである。

こうして、互いに内心の恐怖を抱える人間同士が、神から逃避するために集まって慰め合うために行われる奉仕や労働は、神や隣人への奉仕にはならないどころか、それは人が自己の罪なる本質から目を背け、他者との関係性の中で偽りの自己像を作り出すことによって自己を欺き、内的な救いの確信がないのに、自分は贖われた正しい人間であると自己の正当性を主張しようとする「イチヂクの葉同盟」でしかなく、それは人類が神に逆らって、自力で自分を贖おうとする神の最も忌み嫌われる反逆的な「バベルの塔建設の試み」でしかないのである。

問題は、一体、信者は誰のための奉仕者、誰のための労働者なのか、という点にある。プロテスタントの信者が、牧師一家の生計を支えるために、あるいは組織としての教会の拡大のために、熱心に奉仕と献金に励むことと、信者が神の召しに応答し、神に仕えることは完全に別の事柄である。また、信者がこの世の不信者を助け、この世の社会を発展させるために熱心に労働に励むことと、神の召しに応答することは必ずしも同義ではない。何よりも、これらの奉仕の対象は、常に人間であって、神ではない。

パウロは自分自身を「キリストの奴隷」と呼んだが、今日のプロテスタントは、信者を「キリストの奴隷」よりも「教会組織の奴隷」、「聖職者の奴隷」、「社会の奴隷」、「この世の奴隷」に変えようとする各種の運動を生んでいる。

かつてプロテスタントには、ハドソン・テイラーのような宣教師や、ジョージ・ミュラーのような信仰の偉大な先人たちが存在し、そうした信仰者たちは、大衆を対象とする大規模な伝道や、困っている孤児たちを信仰によって養うという、一見、社会奉仕活動にも似た活動を行った。

だが、世が終わりに近づけば近づくほど、そのように大衆の心を動かして社会に変革をもたらす偉大な信仰者の時代は過ぎ去り、むしろ、大衆受けするものの中に潜む「セルフ」の堕落が、この上なく明らかになって、ますます「セルフかキリストか」の厳しい選択を信者一人一人が迫られることになっているように感じられてならない。

今日、一般大衆に大規模に影響力を及ぼそうとする全ての活動は、反聖書的で、堕落したものであり、たとえクリスチャンの活動であっても、大衆の心を掴むことを目的にし始めた時点で、神に向かう純粋な信仰から逸れてしまう。

さらに、目下、世界経済が行き詰まりを迎えていることは、誰も否定しない事実であり、そこで従来通りの考えで、大衆を喜ばせ、「社会を発展させる」ことを目的に労働に従事したとしても、かえってますます矛盾が深まるだけであることは、誰しも気づいていることであろう。現在の我が国において、年金制度は崩壊に向かい、税は正しく運用されず、国富はまるでATMのように米国へ注がれ、吸い取られている。マスコミや、大学や、政府からは、良心的な知識人が次々と排除され、権力を批判する言論は封殺され、人々の良心の声は踏みにじられ、犠牲とされている。この国はすでに社会主義国と何らか変わらない歪んだイデオロギーに基づく偽りの社会となっており、あたかも一般大衆の信任を得たかのように、公の場で繰り広げられる運動は、ことこどく虚偽と化しているという印象を受けざるを得ない。

このような現状で、人がただ社会の発展のために己を労働力として差し出して生きるだけでは、実際には何の社会貢献にもならず、そのようなことが決して人の使命ではなく、正しい生き方でもないということは、多くの人々がすでに理解しているところであろう。

むしろ、この状況下で、人がただ黙って労働に従事することは、バビロン体系とそのイデオロギーを延命させる措置にしかならず、それは「一億総プロレタリア社会を作り、労働を通じて自己改善することで、理想社会を到来させよう」という、神に逆らう人間中心の歪んだイデオロギーを、人が無意識に肯定し、自らをその「マトリックス」の発展の礎として捧げることにしかつながらない。

そんな奉仕や労働を通して、クリスチャンが神の召しに応えることはできないばかりか、それでは人間の幸福に寄与することもできず、社会貢献にもつながらないであろう。むしろ、社会をより不幸な場所とし、自分と他者を道具化して、より一層の不幸に追いやる原因を作るきっかけにしかならない。

キリスト者とは、本来、この世の君の支配する「マトリックス」としての世をエクソダスした人々である。キリスト者は、贖われていない人々の堕落した自己(セルフ)の集大成としてのこの世のバビロン体系を出て、御子の復活の命によって治められる領域に召し出された人々である。

この贖い出された新しい人々の目的は、すでに後にして来たエジプト・バビロンを振り返ってこれに仕えることにはなく、神に対して生き、御国の権益に仕え、神に栄光をもたらすことにこそある。そこで、キリスト者にあっては、人間を喜ばせ、自分自身を喜ばせ、滅びゆく地上の人々の欲望から成るこの世の社会をより一層、発展させるために、自らを奴隷のごとく差し出して仕えるという生き方はすでに終わっていると言って良い。

キリスト者は、人類の栄光のためではなく、神の栄光のために、キリストと共に死を経て、よみがえらされ、キリストの復活の証人として、この新しい命の領域の中で、神の国の統治を地上にもたらすための働き人として召し出されたのである。

だから、キリスト者はあくまで神のための働き人であって、この世や、この世の目に見える人間のための働き人ではないのである。たとえ他者に愛ゆえに奉仕するにしても、それは人間的な動機からなされるべき事柄ではなく、まして、神が分からない自己の不安や恐怖から逃避するために行われるのでは本末転倒である。だが、プロテスタントでは、この点において、極めて重要な争点がごまかされ、すり替えられており、御国のために召し出されたはずの人々を、再び、世の方を振り向かせ、信者が神からの承認を受けるのではなく、人(世)からの承認を受けるために生きるように唆す教えが語られている。そして、この教えは、信者が世人の前で自分自身の価値を自ら証明するよう促す。その手段が労働なのであり、己が労働を通じて、信者は天地の前に、自らの正当性を、自分が贖われた者であることを証明せよ、というわけなのである。

キリスト者がこのような無限ループのような悪魔的罠に、これ以上、はまっていてはならないと筆者は確信する。もしこのような偽りの囁きに耳を傾けるならば、クリスチャンは早速、ユダヤ教の時代に引き戻され、再び、律法の要求にがんじがらめになるだけであろう。社会の発展に貢献するとか、天職に邁進するとかいった、一見、もっともらしく聞こえる、美しい言葉に欺かれるべきでなく、そのようなところに自分の召しを置いてしまうと、その人は結局、見に見える人間や、この世の贖われていない人々の思いや、価値観、評価を通して、自分自身の価値を規定されてしまうことになる。

その結果、贖われた人々が、再び世の支配下に置かれることになるのである。世人は、信者がどんなに労働を通じて社会に貢献しても、「もう十分だ」とは決して言わず、「もっと寄越せ」、「まだまだ足りない」と言ってくるであろう。何しろ、人の魂の身代金は高すぎて、自分では払いきれず、人間が労働を通じて自己の罪を贖う試みは、永久に終わらないからだ。それはいつまで経っても登り切れないピラトの階段、グノーシス主義の果てしない偽りの霊性の梯子であり、信者が自分で自分を人の奴隷とすることと同じなのである。
 
神は、キリストを通して、信じる者のために必要なすべてをすでに備えて下さり、信者のために完全な贖いを提供して下さった。そこで、信者は、神の目に完全になるために、これ以上、自分の努力によって自分に何かをつけ加える必要はないのである。健全な労働は、自己を改造して理想状態に近づくために行われるものではない。絶えず他者との関係性において自分があるべき役割を果たしていることを確認することで、自己の正当性を主張するために行われるものでもない。

そのような文脈で、絶え間なく自己改造の努力にいそしまなくとも、神は信じる者をご覧になって、キリストをご覧になるのと同じように、「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」と言って下さり、また、最初に創造された人類を見て満足されたのと同じように、信者を見て「甚だ良い」と言って下さる。

神が「甚だ良い」と言っておられるものを、何のためにそれ以上、信者が自己改造する必要があるのか。むしろ、キリスト者は、そういう不安を抱かせる世人の偽りの評価を、自分の心から完全に締め出し、絶え間ない奉仕を通して、自己を吟味し、自力で自己を改善することで、世人の批判を交わし、神の召しにも応じて、理想状態に近づけるかのような思い上がりを一切、捨て去るべきである。そして、自分の義と聖と贖いは、目に見えるどんな人間の評価にもよらず、ただキリストだけから来るものであり、自分は信仰を通じてそれをすでに受け取っている以上、自己改善は不要であることを認識し、キリストの贖いの完全性の確信に安んじると共に、絶え間なく社会の思惑を気にするのではなく、神は何を喜ばれ、何を自分に望んでおられるのか、それだけに関心を絞って生きるべきであろう。

信者の古き自己は、あらゆる点で不完全さしか想起させないであろうが、それはすでに水の中に沈んで、主と共に十字架で死んでいるのであり、もはや信者が注意を払うべき対象ではない。信者は、神の目に生きているのは、「もはや私ではない」ことを認識すべきなのである。そう、とてつもないことであるが、神はご自分の愛する子供たちを、キリストと同じ性質にあずかる者として見て下さるのである。だから、信者は自分自身を規定するものさしを、人間の評価や、社会の評価から、聖書の御言葉を通して注がれる神の変わらない眼差し、神の変わらない約束へと変えるべきなのである。そうしてこそ初めて、「私ではなくキリスト」が実現する。他者に仕えるにしても、全てはその次の段階の事柄であり、神との関係があるべき状態へ是正されて初めて、人への奉仕もなしうる。その順序は決して逆になってはならず、それが守られない時には、人間への奉仕が、結局、神への反逆へと結びつくのである。

たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは
あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」(ガラテヤ2:20-21)


小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)


新たに飼い始めた文鳥は、今まで飼った文鳥たちと違って初めから性格がかなり大人びているようだ。人には馴れているが、独立心が旺盛で、体は小さくても一人前のプライドがあるように見受けられる。

かつて文鳥の飼育本で読んだことがあったが、小鳥でも、それなりの年齢になると、子ども扱いされるのを嫌うことがあるという。

老鳥となった文鳥に、「可愛いね~」などと、ほめ言葉のつもりで声をかけていたら、鳥に怒られた、などという読者の便りが本に乗っていたのを思い出す。

それは鳥だけでなく、たとえば、犬なども同じであろう。

犬が年を取るのは早く、あっという間に人間の年齢を追い越してしまう。見かけはどんなに可愛らしく、子犬のように見えても、犬にも年齢相応の気概が生まれる。いつの間にか、人間よりも悟りきったようになり、家の中ですっかり権威となってしまう。

だが、人間は、犬がそこまで精神的に生長したことが分からず、いつまでも子犬のように可愛がろうとするのだが、犬の方からは、人間の精神的な未熟さ、身勝手さ、ご都合主義などがすっかり見抜かれて、半ば呆れられ、適当にあしらわれるということさえ、時には起きる。

犬などの気持ちは、人間には時に全く思いが及ばないほど、デリケートである。
鳥にも、犬とは違うが、そういうところがあるのだ。

いずれにしても、人間の平均寿命に比べれば、はかない命だということを理解して、与えられた時間を精一杯、有効活用してやらねばならない。

さて、我が家の白文鳥はまだ一歳にもならず、ついこの間、雛の毛がようやく抜けたばかりだが、それでも、一人前のプライドはしっかりあるようだ。

鳥の性格も人と同じく、実にさまざまである。

飼い主と鳥とが、適切なパートナーシップを築くまでには、それなりの時間がかかる。互いの性格や好みや気持ちの変化を阿吽の呼吸で読めるようになって、お互いにとって嫌なことはせずに、適度な距離を保ちながら、好ましい愛情表現ができるようになるのは、どんなに短くとも、飼い始めて一年程度の時間はかかる。

特に、幼鳥から飼い始めた鳥は、一年間ほど経たないと性格が安定しない。幼鳥の頃は何事にも興味津々で活発に動き回るが、何が自分にとって得で、何が損なのかも分からないし、飼い主の気持ちの変化も読めない。だが、一年ほど経つ頃には、好奇心がおさまり、性格も大人になって安定して来る。

以上のようなことは、他愛のない話であるが、最近、こうしたことに加えて、生き物が変化する未知数の可能性に驚かされることが増えた。

ペットを買う時には、誰しもペットの容姿や健康に気を配るであろう。
考え得る限りの最高の条件を求めようとするだろう。

だが、飼い始めてからも、命はどんどん変化するのである。

どのように変化するのか、未知数の部分があって、飼い主次第で、ペットもどんどん変わって行く。そして、毎日、毎日、良く変わって行く姿を見ながら、神の御業に歓心させられるのである。

そして、気づけば、自分もまたペットのために随分、変わったことに気づかされる。

たとえば、生き物がいない時には、どんなに仕事に没頭しても平気であったのが、生き物のおかげで、適度な休憩を取るようになった。

生き物がいない時には、悩みごとが起きて来ると、果てしなくそれに埋没していたのが、生き物のおかげで、気持ちをすぐに切り替えることができるようになり、どんなことが起きても、動揺しないでいられるようになった。彼らを守るためには、飼い主の心に安定がなければならないからだ。

理解が及ばないことがどれだけあったとしても、必要なのは、よく観察して、生活を共にしているという実感を確かめ合うことだ。そうこうしているうちに、だんだん互いの気性が分かって来る。

筆者は、命である限り、およそどんなものでも、コミュニケーションを取れると思っている。それは相手が虫であっても、もっと高度な生き物であっても同じだ。

ところで、二、三年前に買って来たデンマークカクタスの小鉢が筆者の家にある。

そんなに栄養があるとは思えない環境だが、毎年、ちゃんと花を咲かせている。

今年の夏、ふと気づくと、この小鉢の片隅に小さな雑草がひょろりと一本顔をのぞかせていた。どこからやって来たのかも分からない、最初からこの鉢に根付いていたとも思えない、全く別の種類だ。窓際だから、外から種が飛んで来たのかも知れない。

そのまま放っておくと、雑草はデンマークカクタスの太い葉を迂回しながら枝を伸ばし、いつの間にか結構しっかりした幹になって、ついに可愛らしい白い花をいくつも咲かせた。

筆者は驚いてしまった。

鉢の中にある土には大した栄養分もなく、水さえ、筆者がようやく切らさないでやっている程度なのだが、その乏しい養分も水もほとんどデンマークカクタスが独占している中で、か細い一本の雑草がこんなに小さな鉢の中で花を咲かせるとは、正直、思っていなかったのである。

どんな環境の中でも、自分の場所を見つけて生きる命があるのだと驚かされた。

今、アハブ三世の統治するこの国で、経済は悪鬼化し、企業も悪鬼化し、国家も悪鬼化し、教会も悪鬼化している。どちらを向いても、人類が自己防衛のために築き上げたカインの城壁しか見えるものはない。

人々は自分を守るために武装し、城壁に立って見張りをし、武器を構え、異質な者を撃退しようと待ち構えている。その城壁の中にこもっている者たちには、外部に対する敵意と、自分たちにとって脅威となり得るすべてに、今しも襲いかからんとする殺気以外に、感じられるものはない。

全くもって厄介な存在であるから、筆者はこれらの城壁には可能な限り、近寄らないようにしながら、彼らと接触を絶って、別の次元で生きている。

ある意味では、筆者は自分をいかついデンマークカクタスしか植わっていない鉢に、突如として生えて来た可愛らしい雑草のように感じることがある。周りにあるほとんどのものが、自分とは異質だと分かるからだ。だが、異質なものがあまりにも勝ち誇っているので、一つ間違うと、生える場所を間違えたのではと感じられる環境だ。

だが、それでも、どういうわけか、この土地も、この世も、この国も、悪魔と暗闇の軍勢のためだけにあるわけではなく、たとえ隅に追いやられているように見えたとしても、神はキリスト者のために、必要な生存条件をすべて整えて下さるのである。

だから、右を見ても左を見ても、デンマークカクタスのためにあるような土地で、それとは全く関係ない「雑草」が、花を咲かせるということも十分にありうるのだ。

神の国とその義をまず第一に求めなさい。

その戒めを、筆者はしっかりと守っている。そうすれば、後の物はすべて添えて与えられる、と聖書は約束している。

御言葉の通りに、確かに、これまですべての必要が与えられて来たし、これからも与えられるであろう。神がそのように約束しておられるのだから、これを覆しうる者はない。だから、生きる環境のことについてあれやこれやと心配し、不満を述べることはしていない。たとえ隣で巨木が勝ち誇るように生い茂っていたとしても、アハブとイゼベルがこの国を統治していたとしても、そんなことは筆者の生存とは全く関係ないことである。

イスラエルの民が、エジプトを出て、初めて乳と蜜の流れる土地を見たとき、そこには巨人が住んでいて、彼らはそれを見て恐れ、到底、巨人を追い払って、この土地を占領することは無理だと考えた。

だが、その恐れは、神の御心にかなうものではなかった。その土地は、彼らのために神が用意されたものだったので、彼らは巨人など無いがごとくに恐れずに前進しなければならなかったのである。

筆者には今、その意味がよく分かる。

車を運転するときに、障害物に注目して運転する者はないはずである。運転者は常に進路を見る。障害物は、除けて通るべきものではあっても、注目すべきものではない。そして、すべての障害物を無事に通過して、無事に目的地に着けるという確信がなければ、誰も出発などしない。本当に目的地に着けるのだろうかと、恐れに駆られている人間に、運転は無理である。そういう人間は免許も取らず、決して車道には出ないのが最善である。

出発する以上は、無事に目的地に着けるという確信が誰しも必要なのであり、そのためには、障害物に払う注意は必要最低限度に抑え、ただどこに進路があるか、どこへ向かって進むべきなのか、それだけを第一に考え、どんな時にも落ち着いて冷静に進路を見分ける能力が必要である。

キリスト者はすでにエジプトを脱出したのである。荒野で罪のゆえに倒されて朽ち果てるための脱出ではなかった。だから、我々は神に全幅の信頼を置いて、御手に自分を委ね、神が導いて下さるままに前進して行くのである。恐れなく、勇敢に、喜びと活気に満ちてである。

「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)


環境を創造する(2)―天の都だけを見つめてまっすぐに歩む―

わが子よ。私のことばを聞け。
私の言うことに耳を傾けよ。
それをあなたの目から離さず、
あなたの心のうちに保て。
見いだす者には、それはいのちとなり、
その全身を健やかにする。
力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。
いのちの泉はこれからわく。
(箴言4:20-23)
 
このところ、様々な予期せぬ圧迫的な出来事に立ち向かって、主の変わらない憐れみ深い采配にとどまることの意味を思います。これはどんな信者にとっても容易なことではありませんが、誰しも、必ず、それに勝利する秘訣を学ぶことになります。ジェシー・ペンルイスが、キリスト者の日常生活に起こる出来事の90%以上は、偶然ではなく、その多くは偶然を装った暗闇の勢力からの攻撃であると述べていたことを思い出します。

実際、暗闇の勢力からの恐るべき妨害は、インターネットに限らず、日常生活にも溢れており、日々、あらゆる不幸なニュースが世間に飛び交い、多くの人々の心を不安に陥れています。信者は、たまたま耳にした凶悪な事件や、戦争や地震のニュースなどだけでなく、自分自身の日常生活に起きる実に些細な出来事や、人からの言葉なども、一つ一つ、決して偶然ではない複合的な暗闇の勢力の圧迫になりうるることを、徐々に知るようになります。
  
そうした出来事の目的が、すべて信者の「心」に対する攻撃であることが分かるとき、キリスト者は、もはやそうした事件を偶然とは思わず、自分の心を悪魔の毒矢からしっかりと守り、これに毅然と立ち向かって、主導権を手放すことなく、まっすぐに望みだけを見つめて歩むことの重要性が分かって来るのです。つまり、信者が天の都だけをまっすぐに目指して、この世の出来事に翻弄されずに歩む必要性です。

しかし、この道は決して容易ではなく、長い訓練が必要となります。そして、人間の予想をはるかに超えた暗闇の勢力の狡知の中で、信者は、どんなに知識があって、経験があるつもりでも、自分の信仰による判断力は、まだまだ極めて未熟で弱いことを知らされるのです。その過程で、信者は、御言葉に基づいて正しい判断を下すために、以前の自分の常識を改めなければならないことを知ります。

特に、信者がそれまで良いものだと考えて来たこの世の常識さえ、信仰による判断の大きな妨げになりかねないことが分かって来るのです。暗闇の勢力は、誰が見てもはっきりと悪いと分かる形だけでなく、この世の常識を利用して、まことしやかに良い影響を装って信者に近づきます。信者は、この世の常識において、まことに良いとされている事柄であるからといって、吟味もせずに安易に受け入れることは、あだになりかねないことを知るのです。

たとえば、この世の常識では、定期的に医者にかかることや、軽い病気で薬を服用するのは、何ら問題ではありません。むしろ、病気の早期発見のために、医者にかかることは有益として勧められています。もしくは、何か心に悩みが生じたときに、教師やカウンセラーのもとに赴くことも何ら問題とはみなされていません。
 
ここで私はいたずらに医師の治療を拒んだり、すべての助言を退けるようにと勧めているわけではありません。そうではなく、信仰による判断力が極めて未熟な信者が、何か悩みが発生したからと言って、安易に他人の助言を求めて走り回ったり、不用意にやって来た他者の助言や忠告に耳を貸すと、やがてとんでもない結果に至ることが実際にありうることを警告しているのです。
 
これは、個人預言の危険について述べた内容と基本的に同じなのですが、もしそれが個人預言や占いのような怪しげなメッセージの形を取ってやって来るならば、誰でも初めから警戒するでしょう。しかし、日常生活において、普通に受け入れられている立派な職業にある人々(教師、カウンセラー、弁護士、医者等)や、身近な親しい人々の言葉の出どころを疑い、さらにその時、環境に起きている出来事を一つ一つ吟味しながら、その言葉が何を目的に発せられ、どこへ自分を導こうとしているのか、源を問いただし、吟味することは容易ではありません。なぜなら、人間は、環境に起きる異変は偶然とみなしやすく、また、身近な親しい人間や、この世の権威とみなされている人々の言い分は疑わずに受け入れる傾向があるからです。

しかし、問題は、どんなに常識的に良い内容に見えたとしても、出来事や、人の言葉を含め、信者の外からやって来るすべての力が本当に良いものとは限らないことです。むしろ、良さそうに見えるあらゆる出来事や提案が、暗闇の勢力の準備した策略であることがしばしばあるため、信者は、まずはその力の出どころを吟味し、識別してから、受け入れるかどうかを判断し、退けるべきものをきっぱり退けるだけの判断力・識別力を持つことががどうしても必要になるのです。

しかも、極度に圧迫された状況であっても、信者はこの判断を冷静に行なわなければなりません。それはまことに容易ではありませんので、訓練が必要となります。
 
アブラハムも、飢饉が起きたとき、エジプトに下って助けを求めるという誤りを犯し、そのゆえに窮地に立たされることになります。むろん、神は信仰の人アブラハムを救って下さいますが、その経験は彼にとって大きな教訓となったでしょう。信者はこのように、極度に圧迫され、不安に陥れられた時、しばしばこの世の常識に従って、頼れる人や環境をあちこち探し求めがちなのですが、本当の助け主は内なるキリストのみであって、キリストに聞くより前に、この世の常識に従って判断すると、常に誤った結果がもたらされることを知るのです。

ただし、一度や二度、助けを求めてエジプトに下って窮地に立たされ、失敗を犯したと分かったとしても、それを悔やむ必要はありません。残念ながら、失敗なくして初めから戦いの秘訣を知っている人は誰もいないのです。しかも、信仰による判断は、その人が神を信じる前から持っていたこの世の常識とは全く相容れないため、信者は信仰によって歩むために、自分自身が持っていた従来のこの世的な思考や判断を、御言葉に合致するように変えて行く必要があるのです。それは長い道のりです。そして、その過程で、自分自身の判断力の弱さと未熟さの克服に取り組むことになります。
 
さて、暗闇の勢力の偽りを知って退けることは、信仰によって歩む人生の秘訣のたった半分でしかありません。極めて重要なもう半分の秘訣は、「主と共に信仰によって環境を創造する」ことです。この二つは大きく見て同じ課題の両面なのです。
 
暗闇の勢力の圧迫は、今、現に起こっていることか、ただちに起ころうとしていることでしかありませんが、信仰は、未来に向かっていくものです。まだ誰も見ておらず、理解もしていない未来に向かって、「望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるもの」(ヘブル11:1)です。ですから、信者は今現在自分を取り巻く状況がどうあろうと、自分自身の状態がどうあろうと、未来への望みを決して現状に応じてあきらめることなく、主にあって、望み続けて行くこそ、信仰によって環境を創造する秘訣であることを知ります。

信仰によって、キリスト者がどれほど多くのものを創造することができるか、それは筆者自身の人生でも確かめられ、裏づけられて来た実験ですが、このようなテーマを語り始めると、まだまだ反対も多く、あたかもキリストを信じているように言いながらも、信者が主に直接、願いを述べるのを妨げるような目くらましの力が働いていることを知ります。

つまり、望むこと自体を信者にあきらめさせることによって、本当ならば、主に願って彼らが手にいられるはずの自由と解放を、みすみす逃すよう仕向けている力があるのです。

もっと言うならば、そのようにして人の信仰を弱めることにより、人々が惨めな境遇から抜け出せないようにし、様々な問題で圧迫されたままの困窮した状態にとどまり、さらにはあたかもその窮地を人間の力によって救済できるかのように唱えて登場する偽の救済者たちに頼り、欺かれるように仕向けるという、何重もの惑わしが働いているのです。

いかに暗闇の勢力が、信者が心身ともにとらわれの状態から解放されることを恐れ、それが起きないように全力を尽くして妨げているかを思います。

しかし、実際、イエスは羊に豊かな命を与えるために来られたと聖書にあるのですから、信者は何がどうあれ、この命の豊かさを生きて実際に体験する必要があります。信仰は単なる机上の空論ではなく、道徳律でもなく、私達にとって命そのものなのです。キリストは私たちの霊においても、肉体においても、精神においても、すべての面における命であり、どんな時にも、十分に命となり、義となって下さることを生きて確かめることができるのです。
 
この信仰に堅く立つために、信者は信仰による判断力を磨くことと、どんな状況にあっても、冷静に判断が下せるように、自分の心の平安を主にあって守る術を学ぶ必要があります。心の冷静さが失われれば、どんなに優れた判断力も効果を発揮できません。自分の心を見張るとは、ただ落ち着いていることや、誤った誘惑に耳を貸さないというだけではなく、何が御言葉に照らし合わせて真実であるのかを、常に人に頼らず自分で吟味できるだけの判断力と冷静さを備えていることを意味します。
  
このように、信者が自分の心を守り、未来へ向かう望みに基づいて主と同労して環境を積極的に創造して行くために、最も必要なのは、「現状の圧迫を現実として受け入れない」ことと「過去を振り返らない」ことです。

信仰によって主に願い、待ち望むことの妨げになるのは、周りを見て、暗闇の勢力による圧迫を現実のものとして受け入れて、望みをあきらめること、もしくは自分が失敗したという失意に影響されて、自ら望みを放棄することです。

ですから、心を不安にさせるような事件のニュースがどんなに周りに溢れていても、信者は自分に与えられた今という時と環境が、主が共におられるがゆえに、完全であることを信じるのです。そして、過去、不信仰ゆえに受け取りそこなったものがあったとしても、あるいは自ら犯した失敗のために生じたネガティヴな要因が残っていたり、あるいは暗闇の勢力のもたらす激しい圧迫が現実に影響を及ぼしていたとしても、信仰に基づいて、それを事実として受け入れず、これを虚偽として退け、御言葉を堅く握り、そこに立ち続けることです。

信者の人生にはどんな些細なことについても、キリストの血潮が及んでいます。どんなに現実に問題が溢れ、希望が遠く見え、自分の現状が誤ったものに感じられることがあったとしても、信者はキリストにあって、自分自身が完全とされているということを事実として信じ、その事実を堅く握り続け、その完全性は、環境にあるのではなく、信者の現在や過去の行ないにあるのでもなく、今共にいて下さるキリストご自身にあることを信じ、これを宣言するのです。そして、その事実に反する状況が虚偽として逃げ去り、消失するまで、主の完全性に立って、あらゆる圧迫を拒んで、未来に望みを託し続け、その願いを御名によって父なる神に懇願し続けるのです。

その試みをずっと続けているうちに、やがて、信者が圧迫に翻弄されてエジプトに下るようなことは少なくなり、天の都への行路がまっすぐになり、無用な奔走や紆余曲折は減少して行くことでしょう。

<この記事は、神は決して正しい者がゆるがされるようにはなさらない。神は志の堅固な者を全き平安のうちに守られる。に続いています。> 


キリストの復活の命にあって天の法則を生きる―彼の命からすべての解決を引き出す

さて、ブログのデザインを更新しました。予告しているペンテコステの教えの問題点、鳴尾問題等々、書かねばならないことが山積なのですが、今はひとこと欄の圧縮のために内容を整理しておきまず。

まず、弱さについて・・・
クリスチャンがいつまでも弱さの中にとどまることが美徳だという誤った考えはもう捨てようではありませんか。

キリストがおられれば、弱さは弱さでなくなる。同じように、キリストがおられれば、孤独は孤独でない。もし人が急に何カ月も独房に入れられれば、通常であれば、気が狂ってもおかしくない。けれども、キリストが内におられることをはっきり知ると、人は、環境がどうあれ、いつも自分はもう一人ではないということが分かるようになるのです。だからこそ、それまでのように孤独を恐れる必要がなくなるのです。

たとえ人がどんなに不完全で無力であっても(我々は地上で生きている限り、自分の未熟さ、無力さ、不完全さを感じないで済むことはないでしょう、けれども)、キリストを得ていることは私たちがすべてを得ていることを意味するわけです。

だから、私たち自身の力には限界があっても、いつもキリストの強さが私たちの弱さを覆うわけです。ですから、クリスチャンはもうそれ以上、自分の姿を見つめてくよくよする必要はないのです。依然としてあなたにはあれやこれやの能力が、スキルが欠けているように見えるかも知れません。一朝一夕でそれを補うのは無理だと、ため息をつきたくなるかも知れません。

けれども、キリストにある人は主にあって完全であり、何も欠けたところがないのです。これはあなたのための言葉です。あなたがどんな環境にいようと、どんな生い立ちであろうと、どんな性格であろうと、若者であろうと、年寄りであろうと、経験がどうあろうと、あなたが主にあることが、あなたの完全なのです。

このことを学ぶと、信者は強くなります。愛が人を強くするように、私たちの神への愛、神への信頼が、私たちの内なる人を強くするのです。神が必ずすべてに責任を負って下さり、私たちのすべての必要をかなえて下さり、最後まで見捨てず、面倒を見て下さるという確信が、喜びのうちに、信者を内側から強くするのです。

ですから、孤独だからカルトに狙われたり、人の犠牲になるという考えは間違っています。これまで見て来た結果、カルトに入信する人の弱点は孤独な環境ではない、と私は思います。

むしろ、カルトに入信する人たちの共通の弱点は、孤独に対処できない心の弱さから来るのです。つまり、人から離れられないという心の弱点にあります。

本当に内なる強さを持っている人は、どんな境遇にあっても、自分自身を見失わない秘訣を知っています。しかし、もし内なる人が弱ければ、逆境を一人で切り抜けて行くことができないために、逆境が来る度に、誰かに頼ろうという依存心が生まれ、それで繰り返し、繰り返し、人を頼っては欺かれることになるのです。

(これは霊的搾取の法則と私が呼ぶものです。人に頼れば頼るほど、キリストの命は制限を受け、その現れは弱くなります。)

ですから、私が言えるのは、すべてをキリストの命だけによって切り抜ける方法を学ぶことこそ、何にもまして重要だということです。それができなければ、一生、人に欺かれ続ける危険がつきものだということです。

キリストは世の終わりまであなた方と共にいると言われ、いなくならない唯一のコーチです。ただ頼るべきコーチであるだけではなく、この方がうちに住んでおられることの意味を、私たちは生きているうちに開発して行かねばならないのです。この方との共同統治です。つまり、エペソ書にある通り、キリストのうちには無限の富が、無限の知識が、私たちの必要と、想像を超えるほどの豊かさが満ち満ちているのです。それは神が私たちに愛を持って与えて下さったものなので、信仰生活において、この命の中にある豊かさを知ることは極めて重要です。

ジョージ•ミュラーは信仰によって孤児を養う過程で、幾度も、明日をも知れない体験をくぐり抜けました。信仰にはこのように恐れや不安や孤独が全くなくなるということはありません。どんなに神が共におられると信じているつもりでも、人の心は常に目の前にある状況に翻弄され、恐れを感じます。自分の無力さ、恐怖、心細さの中で、それでも主を見上げ、あなたを信じますと告白し、神のみを頼りに一歩を踏み出す時、そういう信仰を神は本当に喜び、重んじてくれるのです。

ですから、信仰の歩みとは、常に信仰者自身の圧倒的な弱さとキリストの圧倒的な強さのコントラストです。

信仰生活に不安や孤独や恐れがなくなることは決してありません。信仰者の弱さは決してなくなることはありませんし、環境が理想的に整えられることもきっとないでしょう―ーしかし、それでも、キリストはあなたの弱さや恐れや困難を全てキリストご自身の強さによって覆うことがおできになり、その時、あなたの弱さはちょうど空の器のようなもので、その器の中を新鮮な水がいっぱいに満たすならば、弱さももはや恥ずべきものではなくなるのです。

ですから、天然の無力さと、キリストのはかりしれない強さとのコントラストが、生きている限りずっと続くのです。自分自身の無力さと、周りの荒れ狂う環境の混乱を、すべてキリストの命によって切り抜けて行く方法を学ぶこと、それこそが、キリストとあなたとの生涯に渉る共同統治であり、花婿と花嫁の愛に満ちた語らいであり、キリストにあってあなたが信仰により獲得している卓越した高貴な地位の証です。

すべての問題はキリストにあって解決しています。彼の命から解決を汲みだすだけで良いのです。それはあなたの能力や環境の優位性から来るものでなく、純粋に、ただ御座におられ、あなたのためにすべてをすでに十字架で成し遂げて下さり、御座について、あなたの内におられるキリストの超越的地位から来るものなのです。御座はキリストにあって、あなた自身の内にあります。

ですから、外側で起きることを常に主にあって対処する秘訣を学んで行くと、信仰者の内なる人は強められ、最終的に全ての環境状況を足の下にする強さが養われるのです。
 
ですから、キリスト以外に誇るものはないとは、信仰者が、彼の命以外のものにはーーたとえそれが豊かで孤独とは無縁の環境の優越性であれ、あるいは生い立ちの優越性であれ、友人や支持者の数であれ、自分の優れた能力や生命力であれ、何であれーーキリスト以外には一切、自分を生かす力の源を私は認めないし、それのものにより頼まないという態度の表明なのです。

オースチンスパークスが書いているように、このキリストの絶大な命は、人をあらゆる逆境に対抗して生かし、老齢病気その他のあらゆる厄災からも助け出して生かす力があります。この命に生きている限り、逆境になったから弱くなることもなく、高齢になったから死ぬということもありません。主を待ち望む者は新たに力を得ると聖書にある通り、この命はこの世の全ての法則性を超越して、神の御心を成し遂げるまであなたを生かす力を持つものなのです。(むろん、復活の命に生きていない者はこの世の法則に従って生きているのであり、老齢、病気、死などの自然の法則に逆らう術がありません。)

 ですから、マモンの神(この世の神ーサタン)の支配からエクソダスして、御子の統治下を生きるよう勧めます。この世にある人は、たとえどんなに優位な環境を誇っていても、しょせんこの世で翻弄される立場を抜け出ることはできず、到達点も知れています。どんなに生い立ちや能力や環境の優位性を誇っても、全ては五十歩百歩、死しか待っているものはないのです。ただ少しばかりの延命策の違いがあるに過ぎません。

しかし、キリストの命はこの死の法則そのものを打ち破る力を持ち、これに逆らって信者に命を供給するものです。この世の法則とは全く異なる法則性、復活の命の法則、これを開発し、これを知り、これに頼って生きることだけが、この世のあらゆる悪意に満ちた混乱、理不尽な制限と支配から、信者を自由にしてくれます。

もちろん、私たちは地上にある限り、苦しめられます。制限も受けます。しかし、不思議なことに、あらゆる束縛にも関わらず、それを常に内側から打ち破って生きて働くキリストの復活の命の法則を感じるのです。この命の御霊の法則が、あなたをあらゆる束縛から解き放ち、自由にしてくれるのです。

特にこの時代、信者はただ生きるにあたっても、キリストの命の豊かさを知ってそれにあずかり、天の口座から全ての資源を引き出す方法を知らなければ、先へ進んで行けなくなるかも知れません。次回以降、御座におられるキリストの権威によってすべてを足の下に統治するということを考えていきたいと思います。

キリストと共に統治する(1)――いっさいのものを足の下に従わせるキリスト――

「それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついて満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。
このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者となったのです。」(エペソ1:10-11)

共産主義の思想に「必然の王国から自由の王国へ」という言葉があるが、もし共産主義者が自らのユートピアの豊かさについて、このような言葉を用いて宣伝したならば、なおさらのこと、聖書に基づくまことの神の国には、天の無尽蔵な宝が溢れているはずだと思う。

必然の王国とは、人が乏しい選択肢の中から嫌々自らの願いを妥協してどれかを選ぶしかない制限だらけの受け身の生き方であるが、自由の王国とは豊富な選択肢から自分の願いに応じたものを選ぶことのできる自由で積極的な生き方である。選択肢がなければ、自由もないというわけだ。
 
わずかしかない選択肢の中から無理やり望んでもいない道を選ばされる人生が、人にとって自由とは程遠い窮屈で不幸なものだという点には全く同意できる。そして、私は共産主義者ではないが、共産主義者の描いたユートピア像さえ越えられないような生き方しかできないならば、キリスト者になった意味がないと考えている。私たちの神は、このような偽りの思想の提示する問題解決以上の解決を提示されない神ではない。むしろ、共産主義者の提示する解決こそが、聖書の提示するまことの神の国の模倣なのである。
 
「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)

主イエスは羊に豊かに命を与えることを約束されたのであり、神は必ず信じる者を命の豊かさに導きいれて下さるはずである。もしこの命の豊かさに至らなかったら、たとえ救われていたとしても、神の御心の半分も実現できていないと言って良いだろうと思う。そんなことでは、一体どうやって神の栄光、真実を生きて体現することができるだろうか。
  
これまで御言葉に立ち、キリストに従うことを目的として生きて来て、生きるごとに分かって来るのは、神は決して人が自ら望んでいない人生を送ることを願っておられないということだ。これは職業についても、食べ物についても、何についてもあてはまる。たとえば、不健康だと分かっていながら、お金の節約のために不摂生な生活を送るとか、御言葉にそぐわない良心に背く仕事だと分かっていながら、生活のために妥協するとか。そのようなことは決して神の御心ではない。

真に御心を求めるならば、そのような妥協した生活の代わりに、神と人とが共に満足できる生き方を必ず主は整えて下さるはずだと私は信じている。この世の情勢がどうあるかには関係なく、御心を信仰によってこの地に引き下ろし、実現することによって神の憐れみと恵みの豊かさを証するこそ、キリスト者に求められている生き方なのである。

だから、信仰者はこの世の曲がった体系から足を洗い、真に神を喜ばせる生き方とは何であるか、ただそれだけを念頭に置きながら、模索を続けるうちに、何度も、何度も、エクソダスの瞬間が訪れる。宗教組織からのエクソダスだけではなく、様々な古い生き方からのエクソダスだ。

以前、「囲いの呪縛から出る」という言葉で、このことを説明した。なぜ信仰者は、キリストにあって豊かな命を享受する生き方を望んでいながら、いつまでも貧しいままなのか。なぜ自立して自由な生き方を望んでいながら、隷従から抜け出せないのか。それは彼を従属させているこの世の「囲い」があるからだ。信仰者が神ではなく、人(この世の事物を含む)に栄光を帰し、人に従属する度合いに応じて、キリストの命の現れが減って行く。だから、この囲いの呪縛を出なければ、キリストがその人に用意しておられる本当の命の豊かさは分からないものと私は思う。


だから、そのエクソダスの時には、この世によって準備された従来の敷かれたレールの上を歩くのでなく、ただ信仰だけによって、水の上に足を踏み出すように、新しい一歩を踏み出さなければならないことが多い。もしそんな時に人々に意見を求めれば、不安だ、やめておけと止められるだけだろう。囲いは、あなたを逃がすまいと追って来るだろう。しかし、たとえどれほど大勢の人たちの理解を脇に置いたとしても、それでも、信仰者には、神が喜ばれる道へ進むためには、ただ神を信頼し、信仰によって進んで行かねばならないと分かっている時があるのだ…。
 
私は度々ジョージ・ミュラーの生き様を思い出す。ミュラーのような切迫した状況で祈りだけにより頼んだ経験は多くはないものの、信仰の歩みは、進むに連れて、次第に似たような様相となって来るように感じている。人の理解を求めず、世の常識に従うのでもなく、ただ神ご自身だけに自分のすべてを委ねて、神を喜ばせる生き方へと進んで行くのだ。

「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着けるべきことでした。」(エペソ4:24)
 
また、神と共なる信仰の歩みは、外面的な必要性が満たされるだけでなく、内面的にも刷新される歩みである。昨年から今に至るまで、私の念頭にあるのは、「キリストと共に支配する」ということだ。むろん、誰か人間の指導者によりかかり、人に栄光を帰することに慣れてしまったクリスチャンは、このような言葉を聞くと、「おこがましい」と猛反発することもあるかも知れない。彼らが常に望んでいることは、誰か人間に支配されることであって、キリストの支配に入ることでもなければ、彼と共に治めることでもない。しかし、実際のところ、自ら支配する(統治する)ところにしか、真の自由はなく、これを(共産主義者が主張したように、人が自分の欲望に従って支配するのでなく)キリストにあって彼と共に支配することが可能だと教えてくれているのが聖書なのである。

だから、信仰者は、たとえ自分がどんなに若く、未熟で、弱く、取るに足りない存在に見えたとしても、内に「栄光の望み」である方をいただいているという点では、自分が全世界よりも強く、それだけの責務を負っているということを認識してそれにふさわしく行動する必要がある。その勇敢さを受け取らないと、信仰生活は敗北に満ちた重荷にしかならないかも知れない。


ダビデがゴリアテの前に進み出たとき、彼は単なる少年に過ぎず、他方、ゴリアテは全世界を味方につけているように見えた。モーセとファラオの軍隊、エリヤと450人のバアルの預言者が対決した時にも、やはり同じように見えたであろう。

この世の軍勢は、数に置いても、力においても、キリスト者を常に上回っているように見える。ところが、キリスト者の内に持っているほんのわずかな信仰の中に、すべてを覆すほどの力が宿っているのである。これが人の目には不思議な神のパラドックスである。

だから、信仰者は、自分がどんなに弱い存在のようであっても、進んで行くにつれて、自分の内におられる方の持っている絶大な権威を否が応にも自覚させられることになり、それが分かれば分かるほど、内なる人が強まって行くのである。


「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座につかせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました
  また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
 
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(エペソ1:20-23)

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れな力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(Ⅱコリント6:7)

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。 
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかにされるためです。
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」(Ⅱコリント6:8-11)

信仰者が「生きることはキリスト!」となる時

以下の記事で、ジェシー・ペンルイスを引用したのは、キリストの十字架の死と復活を基礎とした「神と共に生きる生活」とは何であるかに、私たちが心を向けるためである。

すでに何度も書いて来たように、信仰者が、世に対して生きるのではなく、人々に対して生きるのでもなく、神に対して生きるということに主眼を置き始めたとき、彼はキリストの十字架の死に同形化され、復活の領域を生きるために引き上げられる・・・復活の領域がますます彼にとってリアリティとなって来て、彼はあたかもこの世から高く引き上げられて、それまでに知らなかった霊の平安の中に隠されたように感じる。

復活の領域を生きることは、世の生活の中で成功をおさめたり高揚感を伴う出来事をたくさん体験したり、世から必要とされる人物になることや、影響力を及ぼす人になること、などとは全く違う。

主の復活の命の働きは、世に対する勝利という意味では、驚くべき目覚ましい出来事であり、宇宙的に絶大な影響力を持つにも関わらず、この世では絶えず死の性質を帯びて、多くの場合は、人知れず、信仰者の内側でささやかに進行する。それは時に、極度なまでの圧迫を伴って現れるが、それでも、この世の制約がどんなに大きくとも、キリスト者は心の内側で、その圧迫を突き破って働く主の復活の命の確かさを感じている。最終的には、あらゆる局面で、この死の圧迫に対して、主の命が勝利することをあらかじめ知っているのである。

あたかも種の中にある命が、硬い殻を破って外に出ようとするように、キリストの復活の命は、信仰を通して、この世の死の原則を帯びているあらゆる状況の中から、常にそれを打ち破って生き出て来る。

生涯に渡るそのような生き様を通して、信仰者は確信をもって、「生きることはキリスト!」「もはや私が生きているのではない!」と言える領域に達するのである。

信仰者は、この世では、確かに依然として、不完全に見える一人の弱い人間に過ぎず、その歩みも、おぼつかなく始まるように見えるが、それでも、彼が天的領域を生きるなら、その歩みの一つ一つは、主の御前に「生きることはキリスト!」として喜ばれている。あたかも幼児がおぼつかない足取りで父の懐に駆け込み、それを父が喜んで抱き留めるように、神はキリスト者の歩みを一歩一歩喜び、この世の人のように、そこに外面的に立派で完全な行動を要求されることはない。神が常に人に要求されているのは、外面的な完全性ではなく、内面の完全性、内面の忠実さであり、神は人の動機をことごとく調べられるのである。

そこで、信仰者は世において自分がどう見られ、どのように理解されるのかという問題に心煩わされることなく、常に主に対して心を向けて、自分が主に知られているという事実に安らぎ、そこに安心して自分を預けることができる。

私たちは、自分がキリストのゆえに神に愛され、神に喜ばれ、受け入れられている子供であることを確かに知っているので、もはや罪のゆえの恐れや、死の恐怖、不安からは解放されている。だから、主が真実を愛されるように、私たちも真実を愛し、主が不正を憎まれるように、不正を憎み、主がすべての人の救いを願われるように、すべての人に、主の真実と愛を持って接する。それは人間的な観点から見た愛ではなく、神がその人をどう見られ、何を願われるかに基づく愛なのである。
 
キリストの愛が私たちを圧倒し、私たちの心を覆う。神の愛こそ信仰者にとっての最大の防御であり、キリストの愛が彼を常に平安の中へいざなう。

神の御心がどこにあるのかを信仰者は知っているので、彼の生きる目的はもはや一つしかない。神の御思いに心を向け、その実現のために自分を惜しまずに心を砕くことが、信仰者にとっての喜びとなる。そのような生活が進むにつれて、主とその人とはますます強く一つに結ばれて、両者の意志は近づき、もはや分かちがたいまでになっていく。神は彼を喜び、彼との共同生活を愛される。

本当は、神が人に望んでおられるのは、神と人との両者が心を一つとしたこの共同生活なのだと私は感じている。従って、御旨の成就の割合は、人が神のためにどのような働きをどれくらい成し遂げたかという分量によってではなく、その人がどれくらい神と共に生きたのか、という分量によってはかられることになるのではないかと思う。繰り返すが、神と人との心を一つにした共同生活こそ、神が人に何より願っておられることなのであり、その共同生活は、人が自分の心を神に捧げる度合いに応じて深まる。人が神に捧げる愛が深まれば深まるほどに、キリストを土台とした神と人との共同生活も、より親密な、より成熟した、より深い満足をもたらすものとなっていく。神の満足は、人が神に対してどれほど心を向け、心を注ぎだしたのかという事実によって決定される。

天の経済によって生きる

なぜ以下の記事でオースチン・スパークスを引用したかというと、「天の経済に生きる」ことが今年のテーマとなりそうだからだ。
いや、このテーマは、ここへ来たときからずっと模索し続けて来たものである。

「天の経済に生きる」とは、言い換えれば、信じる者がこの世の経済体系に支配されて生きるのではなく、まことの命であるキリストご自身からすべてを引き出し、天の国籍への帰属によって生きることを意味する。

つまり、信者が生活のすべての必要、生きる目的、必要の何もかもを、すべてをただキリストご自身から供給していただき、あらゆる面で彼によって生きることを意味する。もっと言うならば、あらゆるきっかけを通して、信者とキリストとの合一がより深まっていくことにより、信じる者が地上生活を通してキリストにますます近づき、一つとされていく過程である。

このようにして、信者があらゆる面でキリストと直接結ばれ、すべての点においてキリストとの結合によって生きること、これこそ、召し出された者たちの究極的な使命なのである。

さて、十字架においてキリストと自分が一つであることを経験し、神の国がキリストと共に自分の内に確かに到来していることを知った信者は、自分がもはや地上の国籍によって生きているのではなく、天に帰属する者であることが分かる。

その時から、いわば、信者は二重の帰属先を持つことになる。地上と、天と、二つの異なる体系に身を置いて生きることになる。そして、時を追うごとに、どちらが真のリアリティであるかが、明確になって来る。それによって、信者は地上の生活と同じように、天の生活も‪リアリティであり、天的体系は地上的体系を超越し、支配するものであることを知るようになる。

(神の国とは、神の霊に属し、神の霊によって支配される霊的体系であり、聖書の言うように、信じる者の内側に、信仰を通して到来しているものであって、断じて、死後になってようやく人が足を踏み入れる別世界のことではない。また、一部の異端が主張しているような地上天国のような、この地上と同一の世界でもない。)

「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20-21)

暗い洞窟の中では光が差し込むまでは何があるのか全く分からないように、神の国も五感によって知覚できるものではない。信仰を通じて信じる者に到来している神の国は、キリストによって照らされなければ、その存在すら人は誰も知覚することはできない。だが、信じる者がキリストと一つになって生き始める時、暗い洞窟のように未知の世界であった天の霊的体系が、その性質や法則性を少しずつ明らかにして行く…。

たとえば、天の国籍が信者に保証している事柄の数々がある。

地上の国籍も、私たちに何がしかの保護を与えてくれるが、地上の国籍は失われることもあり、また、その保護も絶えず変化する不完全、不十分なものである。

国籍も含めて、地上の居場所はどれも人にとって極めて失われやすいものである。それを維持するために、人はいつも何がしかのものをこの世に納めなければならない。地上で生きる限り、人はどんなに自分の居場所を確保したつもりになっても、常に欠乏や、死の恐怖に脅かされ続ける。食糧危機、生存の危機、様々な危険が絶えず人を見舞う・・・地上に国籍があったからとて、これらの恐怖から逃れられる人は誰もいない。

地上の居場所は常に人に向かって言う、「あなたは地上で生きるのには資格不十分です。あなたがこの世に納めているものは甚だ不十分です!もっと幸せな人生を生きたいのなら、あなたはもっと努力して、我々に納めるものを増やさねばなりません!」

かくて、地上で居場所を安泰にするためには、絶え間ない努力が必要となる。学校で、会社で、家庭で、教会で(たとえキリストの名をかたっていたとしても、組織としての教会は言うまでもなく地上的居場所である)、自分の居場所を確実なものとし、社会に自分をさらに認めてもらうために、人は絶え間なく何者かに奉仕し自分をアピールし続けなければならない。しかし、仕えても、仕えても、これで安泰という時は来ず、まるで終わりなき自転車操業のような人生が待っているだけである。

そのうち人はその理不尽さに気づくようになる。努力しても、努力しても、それに見合った報酬が得られないのがこの世であると。ただ自分の命を維持するためだけに、恐ろしく割に合わない努力を強いられ、なお、解決を見いだせないこの世は全く何かがおかしいと。ここでは全くもって恐ろしく人間を愚弄し嘲笑するような悪意ある理不尽な法則性が働いているとしか言えないと…。

「<…>全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」(Ⅰヨハネ5:18)

しかしながら、キリストにあって、天には、これとは全く違った体系が存在する。そして信じる者は、死を待たずとも、この地上において、信仰を通じて、天の霊的体系を生きることができるのである。できるばかりか、それが神の御心であると言って差し支えない。

天の国籍が私たちに与えてくれる保護は、地上の国籍とは比べものにもならないほど絶大なものである。それはただ生き永らえるためだけに、人が絶え間ない苦労や心痛を強いられる地上的な生とは全く別のものである。

まず、神は人を創造した時、人が地上で豊かな人生を送り、地を治めることを目的としておられた。全地は堕落してしまったものの、この目的は今も変わってはいない。神は人が命の豊かさを享受して生きるようにと今も願っておられる。

「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。<…>」(創世記1:28)

このことは、人が地上で栄耀栄華を極めることとは異なる。自分のために富を築くのではなく、キリストにあって、彼の命によって、信仰者が豊かな命を享受し、地上を治める者となることが神の願いであるということを意味する。今、この世では、格差社会が進み、生むことも、ふえることも、地を従えることもできない不毛な人生が多くの人々を待ち受けているが、天の法則性はこれとは全く逆のものなのである。

「<…>私は門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:9-10)

キリストの中には、安息がある。悪魔に支配される地上の理不尽な体系は、人にただ生きるためだけに割に合わない苦労を強いた挙句、果ては約束の保証を与えず、人を滅ぼしてしまう。しかし、キリストの命に支配される天の体系は、信じる人が豊かに生きることができるためにすべてを保証し、供給する。羊が牧草を見つけるように、信じる者はキリストの命の中に必要のすべてを見いだす。それゆえ、そこに安息がある。キリストの命は信じる者にとって文字通りすべての解決であり、すべての必要を満たすものなのである。

だからこそ、地上の必要のことで思い煩うなという次の御言葉が意味を持つのである。全く驚くべきことに、神の国においては、地上において人が第一に心を砕いている生存のための必要性が、全く二義的なものとして退けられている。

 「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれがものではありませんか。」(マタイ6:25-26)

そればかりか、さらに驚くべきことに、この御言葉を通して、主イエスは、人は労働によって、もしくは自分の努力によって生存が保証されるのではない、と示しているのである。空の鳥も、野の花も、労働を全くせず、自分で自分を養う努力をしていない。だが、神はこれらの命を養って下さっている、まして、こうした生き物にまさる人間を、神が信仰を通して無条件に養って下さらないことがあるはずがない、と言っているのである。

このことは、人は労働によって自分を養わなければ(もしくは、労働や努力によって絶え間なく自分で自分を贖わなければ)生きられないというこの世の生活の原則を完全に否定している。とにかく御言葉は、神の国の法則性は、人が自分の努力によって自分を生かすというものではなく、神がその人を生かすのだから、自分で自分をどう養おうかと絶え間なく自分の命の心配をするのはやめなさい、と幾度も念押ししているのである。


「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:31-34)

そして、自分の命をどうつなぐかという生存の恐怖に目を向ける代わりに、神の国とその義を第一に求めなさい、と言うのである。

このように神が人を生存の恐怖から解き放つことのできる根拠は、キリストが十字架において人を死に定める力を持つ悪魔を滅ぼした、ということにある。これを信じることによって、人は絶え間なく自分を脅かす死の恐怖から解放される根拠を得たのである。

「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:14-15)

そして、単に死に脅かされることから解放されたというだけでは、人の信仰の歩みの半分にも満たない。ここから、神の国とは一体、いかなるものなのか、天の霊的体系とはどういう法則性を持つものなのか、信仰者の探索が始まる。自分を解放することができたキリストの命の豊かさとは、一体、どのようなものなのか、自分に約束されたものはどのようにはかりしれない価値を持つものなのか、天に蓄えられた無尽蔵の富とは何か、という信者の飽くことのない模索が始まる。そしてこの壮大な探求は、最終的には天のエルサレムへとつながって行くのである。


環境を創造する―キリストと共に統治する~主を待ち望み、その道を守る者は高くされて地を受け継ぐ~

 さあ、かわいている者は 
 みな水にきたれ。
 金のない者もきたれ。

 来て買い求めて食べよ。
 あなたがたは来て、金を出さずに、
 ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。

 なぜ、あなたがたは、
 かてにもならぬもののために金を費やし、
 飽きることもできぬもののために労するのか。

 わたしによく聞き従え。
 そうすれば、良いものを食べることができ、
 最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。

 耳を傾け、わたしにきて聞け。
 そうすれば、あなたがたは生きることができる。
 わたしは、あなたがたと、とこしえの契約を立てて、
 ダビデに約束した変らない確かな恵みを与える。

 
見よ、わたしは彼を立てて、
 もろもろの民への証人とし、
 また、もろもろの民の君とし、命令する者とした。
 
 見よ、あなたは知らない国民を招く、
 あなたを知らない国民は
 あなたのもとに走ってくる。
 
 これあなたの神、主、
 イスラエルの聖者のゆえであり、
 主があなたに光栄を与えられたからである。

 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、 
 主を尋ねよ。
 近くおられるうちに呼び求めよ。

 悪しき者はその道を捨て、
 正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。
 そうすれば、主は彼にあわれみを施される。

 われわれの神に帰れ、
 主は豊かにゆるしを与えられる。

 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
 わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
 主は言われる。

 天が地よりも高いように、
 わが道は、あなたがたの道よりも高く、
 わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

 天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、
 地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
 種まくものに種を与え、
 食べる者にかてを与える。

 このように、わが口から出る言葉も、
 むなしくわたしに帰らない。
 わたしの喜ぶところのことをなし、
 わたしが命じ送った事を果たす。

 あなたがたは喜びをもって出てきて、
 安らかに導かれて行く。
 山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、
 野にある木はみな手を打つ。

 いとすぎは、いばらに代って生え、
 ミルトスの木は、おどろに代って生える。
 これは主の記念となり、
 また、とこしえのしるしとなって、
 絶えることはない。

(イザヤ第55章)
 
   

神の憐れみは果てしなく大きく、深い。
人のすべての思いを超えてその恵みは大きい。

人の目に失敗や回り道のように見えることも、神にとっては何の障害にもならない。神は信じる者を栄光から栄光へと導こうと考えておられ、もし私たちがそれを信じさえするなら、それは可能となる。だから、周りでどんな嵐が起きようとも、神が天に準備しておられる祝福の御業を一心に見つめるのみである。

しかも、その恵みは信じる者にとって無償である。もし払わなければならない代価があるとすれば、それはキリストの贖いの十字架を信じることだけだ。

だから、あの集会、この集会、あの指導者、この指導者のもとには行かず、ただ内なるキリストを信じて、そこから神の恵みを引き出す秘訣を知ることである。あなたの周りで吹き荒れる混乱の嵐に心を向けず、ただ神のあなたへの真実、誠実さ、憐れみ、正義に一心に心を向けることだ。
 
全ての栄光をただ神お一人に捧げ、あなたの救いの岩なるお方を、天にも地にもただお一人に絞っておくことだ。自分が何を信じ、誰に頼っているのか態度を明確にし、ただ一人、人間を完全に救うことのできる方からすべての供給を受け、その方と共に、無から有を引き出して生きる秘訣を知ること・・・、多分、それだけが、これからの世を無事に生き抜くために必要な方法であろう。

神の恵みを一心に信じる人々に、神は特別なはからいを常にして下さる。そのことをこれまでの人生で私は幾度、確認して来たか知れない。その結果、生活に必要なすべてのものを私は主に乞うて主と共に入手して来た。
 
すでに記したように、神に願いを実現していただくために、徹夜断食祈祷を繰り返し、自分を痛めつけ、涙ながらに必死に懇願するという無益な方法を取る必要はない。信仰による創造は呼吸のように自然である。そして、それは神の側だけの仕事ではなく、神と人との共同作業なのである。

それほどまでに神は信じる人の願いを重んじ、その求めに快く耳を傾けて下さる。だから、仕事も、生活に必要なものも、すべて、主と人とが同労して、信仰によって呼び起こし、作り出していくことが可能なのである。これが信仰によって主と共に環境を創造することの一環である。
 
私が信仰によって得られたもののリストは果てしがなく、ここには書ききれないほどだ。
 
一年ほど前に、生活の足に新しいバイクが必要だと感じた。以前のものはとても思い出深いものであったが、年季が入りすぎたため、毎年、冬になるとエンジンのかかりが悪くなり、冷え込むとよくバッテリーが切れた。ある秋のよく晴れた日に、年配の女性が素敵なバイクに乗って颯爽と道を通り過ぎるのを見かけた。私には少し大きめかも知れないが、そのバイクの中型らしい大きさと、世代を問わない外観が気に入って心に留めた。
 
その後、色々カタログを見て、それらしいものがなかったので、別の商品を見るためにバイク屋を訪れた。すると、店員が私が偶然見かけたのと同じバイクが別の店にあることを告げて、取り寄せを勧めて来るのである。しかもかなり熱心に・・・。確かに、荷物の収納や、あらゆる点から見て、その選択が最も良さそうであった。こうして、不思議な運びで、まさに最初に心に決めた通りのものを主が送って下ったのである。

十年以上のペーパードライバー歴を破って再び運転を始めたときも、やはり信仰によった。初日の道中は、車屋さんが助けてくれたが、翌日からは主と私のみ。しかも、かなり難しいところに停車しなければならない。ぎこちない、不安を感じる運転再開ではあったが、同時に、大丈夫との確信が心の深いところにあった。しかも、その当時、私は仕事を中断していたのに、生活を縮小するのではなく、逆に拡張すべきであると感じたのである。

ある時点から、私は社会情勢などの先行きの不安から生活を縮小すべきではないという確信を持つようになった。人間的には何の保証があるわけでもない新たな一歩は、すべて信仰によった。そして、信じた通りになった。
  
同じように、仕事も主からいただいて来たので、対ロ制裁も、私の仕事には何ら影響を及ぼさなかった。むしろ、対ロ制裁など始まってもいなかった頃の方が、私は専門と無関係の仕事ばかりしていた。その頃、見かねた兄弟姉妹が、私に専門に戻るように忠告して来た。「あなたの持っている能力は神の許しなしに与えられるものではなく、偶然ではありません。ですから、それを神に捧げなさい。そうすれば、それをどう用いるべきかも、神が道を開いて下さいますよ。」

こうして私は専門に戻ったのだが、それで一件落着というわけにはいかなかった。転職もあり、その際、次の仕事は見つからないだろうと脅されたり、一部の兄弟姉妹から絶縁を言い渡されたこともあった。だが、人の言葉を信じずに、「権勢によらず、能力によらず、神の霊により」すべてが切り開かれることを信じて進んで行くと、実際に不思議なほどその通りになっていくのである。

こうしたことを通して、神は決して人の心の願いに反することを無理やり強制されることはなく、あくまで信じる者の願いを受け止め、それを共に実現へと導いて下さることが分かった。だが、ただ一つ、条件がある。それは願っているものが決して心の偶像にはならないことである。

私は過去に幾度もの剥ぎ取りを経験して来たし、自分の能力や経験により頼むことができないほどに自分を弱くされるという体験をも度々通らされた。それを経て、願っているものにもはやしがみつくことがなくなり、すべてをただ信仰を通して、神がなして下さることが自然に信じられる段階に来て、初めて、様々なものが与えられるのである。
 
私は以下の記事に、内にキリストをいただいている信仰者は、神が共に生きて下さるという意味で、世界の中心であるから、「キリスト者は自分のケーニヒスベルクに世界を集めることができる」ことを書いた。実際、本当にそうなりつつある。現在、社内では公用語が半ばロシア語のようになりかけているが、こうしてわざわざ他国へ出かけて行かずとも、他国の方からまるで人々が集まって来てくれるかのようである。だから、国外に出なかったことを悔やむ必要もない。
 
見よ、あなたは知らない国民を招く、あなたを知らない国民はあなたのもとに走ってくる。」という冒頭で挙げた趣旨の御言葉は、聖書の他の箇所にも見られるが、これは信じる者にあてはまる原則のようである。主は信じる人に必要なすべてを供給するために環境を支配する力を持っておられる。主が共にいて下さるということには、それほどのインパクトが伴うのだ。

ところで、かなり以前に勤めていた会社にも、多くの外国籍の人々が勤務していた。彼らは社員として雇用されていたが、逆に、日本人の方に短期雇用の非正規雇用者が多く、私もそうであった。このことをロシアの友人に告げたところ、「そんなひどい国にこれ以上、とどまっていてはいけない」という返事が返って来た。

だが、私は人間的な考えで国を取り換えることをせず、その代り、信仰による不思議な方法により、主はその環境から私をエクソダスさせて下さったのである。

いつものごとく、そのエクソダスは、もしもその環境にしがみついていたならば、決して実現しなかったものであった。いつもそのような形で、神は制限つきの危険な状況から私を救い出され、広い新たな地峡に導いて下さるのであった。だが、私はいつも去って来た環境のことをあれこれ考えては、そのような結末になったのは失敗なのではないかと思い悩んだりしていた。ある信仰者の姉妹は生前、そういう話を聞くといつも、あっけらかんと「良かったじゃないの! 感謝だわ! 何を後悔することがあるのよ。それは主がそういう状況からあなたを救い出されたのよ!」と喜んでいた。

労働者派遣法改正の両院通過も、私にはもう話が無関係になってからのことであった。日本の労働環境の悪化には、それまでどれほど心を痛めていたか分からない。この夏、労働者派遣法の改正案の衆院での審議を巡って、議員らが議会でもみ合いとなっていたその日、私はこの法案の行く末に暗澹たる気持ちになりながら、私用で永田町を歩いていた。多くの派遣労働者が国会前につめかけ、デモをし、叫んでいるその様子に、自分のことのように共感を覚え、心を痛めていた。

だが、それでも、神の示されるエクソダスの方法は、人の考えるエクソダスの方法とは違うのである。「正義を唱えて、みんな一緒に脱出」という形には絶対にならない。そのことを私はこれまで何度も知らされて来た。これは安保法制にもあてはまることである。

人の考えでは、暴政や悪法は許すべきものでなく、これに断固立ち向かい、ただちに終わらせることにより、苦しんでいる全員を早急に救うことこそ、正義ということになろう。社会的弱者の救済のためにメガホンを持って叫び、誰も傷つかなくて良いように、一人も苦しまなくて良いように、悪人を糾弾し、これと闘って悪政を打倒し・・・、それこそが善意であり、情けであり、正義であり、真実であるように見受けられるだろう。

人の観点から見れば、こうして人の損失や痛みや恥を最小限に抑えることこそ、正義であり、善なのである。もっと言えば、人間が決して死を味わうことなく、痛みや苦しみを免れて、無傷であることだけが、人にとっての正義であり、最善なのである。だが、それは人の考える最善であっても、神の方法ではない。神はあくまでキリストを指示され、「信仰による解決」を示される。

キリストは死や痛み苦しみを避けて傷つかない道を選ばなかった。むしろ、神は御子キリストにすべての罪咎を負わせ、彼を神に対する生きた犠牲の子羊として十字架で死に渡し、引き裂いたのである。今日、人はキリストの犠牲を自分自身で負わなくても良いが、それでも、十字架の死と復活の原則は生きている。復活に至るためには、人が常にキリストと共なる十字架の下で己を低くし、霊的な死を受けるという行程が必要になる。この死の原則が働くときに、同時に復活の命が働きだすのであり、死未満のところでは、神の命が生きてこないのである。

このことを別の言葉で言いかえると、人が自分自身の願いは正当なものであり、何が何でもかなえられるべきだと考えてこれにしがみつき、自分の願望を偶像視し、神をそのために利用しているうちは、それが実現する見込みはほとんどない。自分が傷つかず苦しまないで済む安楽な道だけを願い、その願いのために神を利用しようとしているうちは、祈っても効果がない。むしろ、自分の願望が否定されるように見える時にも、へりくだり、自分の美を傷つけられたり、引き裂かれることにも同意し、信仰によって主を待ち望むという過程が必要になる。己の力で苦しみを避けようと、自分で自分を助けようともがくのでなく、苦しみを通過し、己を低くされることをも甘んじて受ける姿勢を示すときに、必ず、神はその人を早急にその境遇から引き上げて下さる。長く苦しみ続ける必要はない。たとえ束の間であっても良いから、己の安楽と美だけに固執せず、人に誤解されたり、傷つけられたり、非難されたりして、己を引き裂かれるときにも、神を信じて待ち望み、従順である姿勢を見せることが肝心なのである。

だから、キリスト以外には救いはないということを示すために、神は人の正義が微塵に打ち砕かれ、人の方法が全て失敗に終わるまで、あえて人の痛みと損失を許され、事態を傍観されるということがありうるのではないかと私は考えている。

これは峻厳な原則である。国民の反発がこれほど高まっているにも関わらず、安倍政権はすぐには終わらないと私が予測し、また、たとえこの政権が打倒されたからと言って、新たな政権の行き着く先も、ほぼ変わらないと予想するのも、そのためである。

それは、こうした時代の問題から逃れるために、唯一有効な対策は、人間の正義を掲げる反対運動にはなく、デモや政権交代にもなく、被害者救済活動にもなく、信仰によるエクソダスにしかないと確信するからである。神の救いによらなければ、一切の救済がないということが明確になるまで、問題はより深刻化して行く可能性さえあると私は思っている。そのことが分からない人々は、またもや安易な解決に飛びついて、偽の救済者に騙されるという道を辿ることになるのかも知れない・・・。

デモや、カルト被害者救済活動のような、人の目に正義と見える各種の反対運動が、人をどこに導くのか、その結果は、おそらくそれほど経たないうちに明白となるだろう。

カルト被害者救済活動は、当初は絶大な規模を誇り、その支援者たちは、ネトウヨのように大挙して反対者を吊し上げては、自分たちは正義を執行したつもりになって興奮して喜んでいたが、ここ数年間でめっきり支持者は減って、ほんの数えるほどしかいなくなった。その残党も、あと数年のうちに、すっかりいなくなってしまうだろうと予測される。それは、国民生活そのものが急速に地盤沈下して、人々が自分を養うだけで精一杯となり、ネット上で見も知らない他人を貶めるという無益な活動に精魂を費やしていられるような余裕が生活から消滅してしまったためである。もっと厳しい言葉で言うならば、そこまで国民生活が窮乏したのも、こうした精神性が招いた当然の結果であったとさえ言えるかも知れない。

かつて貧しい人を蔑みながら、自分は裕福だと誇っていた人々の生活も、時代の悪化と共にじわじわと地盤沈下して来た。豊かな時代に、富を築き裕福になることは決して難しい相談ではない。人はそれを自分の手柄だと思って誇っているかも知れないが、何の法則によってその人が豊かになったのかも、いずれ明らかになる。時代の法則によって富んだ人は、時代の法則によって凋落する可能性がある。必要なのは、外側の環境に支配されずに、内なる主と共に環境を支配して生きる法則を知ることである。

これから来る時代は、もしかすると、信仰によって生きる秘訣を知らなければ、大いに苦難の時代となる可能性があるように思う。だからこそ、もし同じ時間を費やすならば、永遠に価値ある作業、自分にとって真に益になる作業に従事した方がはるかに良い選択だと思わないだろうか? 

人間による正義と、神の正義と、どちらを選んで生きても、その人の自由だが、洪水が押し寄せて来たときに、どの家が残り、どの家が倒れるか、その結果が誰の目にも歴然たるものであるように、誰が永遠に揺るがない土台の上に自分の人生を築いたのかも、それほど年数が経たないうちに、明白な結果となって現れるだろう。

天の原則によって生きるのか、地の原則によって生きるのか、それが人の人生を決定的に分けるような時代が到来しつつあるのかも知れない。

「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」(マタイ25:29)

「天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」(黙示12:12)
 
さて、話を戻せば、「信仰によるエクソダス」は「ラクダが針の穴を通過する」ような出来事であり、常に霊的な死を帯びて、神とその人以外にはほとんどその意味も分からないような、目立たない形で行われる。

それは決して、メガホンを持って巷で声高に正義を叫び、大勢の人々の注目を集めながら、自分を正義の味方のように見せかけて、悪人を糾弾し、「みんな一緒の一括の救い」を唱えて、人間が傷つかないことだけを最高の目的に掲げるヒューマニズムによる一大連帯運動を築いて進んでいくという形にはならないーー。

信仰によるエクソダスは、他でもないあなたのために、神が用意されるひそやかで個人的な救いであり、ひょっとすると、あなた以外には、誰もその意味を理解する人も、着いて来る人もいないかも知れない。

エクソダスに先立って、あなたの心に抑えがたい心の渇望が起きる。今のままでいてはならないと、神が本当に願っておられる自由と豊かさにたどり着くためには、自由を求めて新たな出発をしなければならないと。

だが、その環境に定着して満足してしまっている他人には、あなたの感じる焦燥感が理解できない。なぜあなたが彼らを置いて出発しなければならないのかも理解できない。たとえ計画を打ち明けたとしても、反発と非難しかかえって来ないかも知れない。だから、あなたはこの人々の理解と賛同を除外して進んで行かなくてはならなくなる。それはある意味で人にとってつらい体験である。

ノアも嘲笑されながら箱舟を築いたであろうし、ロトと家族も嘲笑されながら、ソドムを出て行った。彼らが出て行った後に、崩壊が起こった。滅びが来るまで、人々はなぜ彼らが出て行ったのか分からなかった。信仰によるエクソダスは、ほとんどの場合、大々的な道連れを伴うものではなく、神とあなたしか知らないひそやかな行程である。歴代の偉大な信仰者の先人らはいつもそのようにして住み慣れた土地や故郷を離れ、まだ見ぬ都へ旅立って行った。 たとえ目に見える保証がなかったとしても、心には確信があった。神は必ず信じる者を乳と蜜の流れる豊かな土地へ導いて下さると――。それは最終的には天の都へと続く道である。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち、天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥じとなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(へブル11:15-16)
 
だから、人の観点から、憤慨したくなる悪法は多いかも知れないが、人間的な思いでそれに立ち向かう必要はないし、相手の心を変えようとすることも無益である。神はただ「それはあなたには触れない」と信仰者に向かって語られる。まさに詩編第91篇に書いてあることが実現する。

 「千人が、あなたのかたわらに、
 万人が、あなたの右手に倒れても、
 
それはあなたには、近づかない。
 あなたはただ、それを目にし、
 悪者への報いを見るだけである。
 それはあなたが私の避け所である主を、
 いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。
(詩編91:7-9)


「あなたの道を主にゆだねよ。
 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
 主は、あなたの義を光のように、
 あなたのさばきを真昼のように輝かされる。

 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。
 おのれの道の栄える者に対して、
 悪意を遂げようとする人に対して、
 腹を立てるな。

 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。
 腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
 悪を行なう者は断ち切られる。
 しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。」(詩編37:7-9)
 
 

聖書にある五人の賢い花嫁たちのたとえのことを思い出す。愚かな花嫁たちが油を切らしたときに、貸してほしいと言われても、彼女たちには貸すことができなかった。油は、常に一人分である。可哀想な人をどんなに助けてやりたいと願ったとしても、どんなに人の滅びはあるまじき事だと思ったとしても、信仰を他人に分けてやることや、貸してやることはできない。ここに非常に峻厳な原則がある。信仰は、神と人との間の極めて個人的な関係であり、その人自身の選択なのである。

     
「人の歩みは主によって確かにされる。
主はその人の道を喜ばれる。
その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。
主がその手をささえておられるからだ。

<…>
正しい者の口は知恵を語り、
その舌は公義を告げる。
心に神のみおしえがあり、
彼の歩みはよろけない。

悪者は正しい者を待ち伏せ、
彼を殺そうとする。
主は、彼をその者の手の中に捨ておかず、
彼がさばかれるとき、彼を罪に定めない。

主を待ち望め。その道を守れ。
そうすれば、主はあなたを高く上げて、
地を受け継がせてくださる。
あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。

私は悪者の横暴を見た。
彼は、おい茂る野生の木のようにはびこっていた。
だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない。
私は彼を探し求めたが見つからなかった。

<…>
正しい者の救いは、主から来る。
苦難のときの彼らのとりでは主である。
主は彼らを助け、彼らを解き放たれる。
主は、悪者どもから彼らを解き放ち、
彼らを救われる。
彼らが主に身を避けるからだ。

(詩篇第37編より)


環境を創造する力―信仰によって主と同労する―人知を超えたキリストの復活の命―

さて、脱線ついでにもう一つ違った趣旨の記事を書きたい。

数年ブログを書いていなかった期間に、信仰生活には驚くべき前進があった。それは信仰によって「環境を創造する」方法を具体的に知ったことによる。

それは「天の無尽蔵の富を信仰によって現金化する」ことと同義である。

これは、キリスト者が最も知らなければならないことの一つであると私は考えている。言い換えれば、それは「キリストとともに統治する」ために間違いなく必要なことである。

キリストの死を打ち破った復活の命は、神の命であり、無から有を生み出すことのできる命である。もともと神は無から有を作り出すことのできる方なのだが、さらにキリストが死を打ち破ったことにより、その命の力は決定的なものとなった。

死からは何も生まれはしない。誰もがそのことを知っている。死はすべてのものが無化され、途絶えた状態である。ただ復活だけが、死を打ち破り、すべてを新しく再生することができる。無から有を呼び出し、死んだものを復活させる。どんな錬金術も決して成し遂げ得ないことを、ただ神だけは成し遂げる力を持っているのである。

その復活のキリストをうちにいただいて生きているということが、どれほど絶大な意味を持つものであるか、信仰者は少しずつでも知る必要がある。
 
主イエスは、「もしあなたが私にとどまっており、私があなたにとどまっているならば、なんでもほしいものを求めなさい、そうすればかなえられる」と約束して下さった。この約束の意味は絶大である。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:7-8)

神は打出の小槌ではないのに、どうしてそんなことができるのですかと問われるかもしれない。それは繁栄の福音と何が違うのですかと。

自己のためだけに利己的な思いで求めるのではなく、正しい目的にかなうならば、何でも神に求めれば良いと私は思う。どんな大それた願いも、神にとって大それたものではない。神は信じる者に「私に求めなさい」と言われる。与えることが神の喜びである。そして、与えても、与えつくすということが決してないのも神の特長である。

神は天に無尽蔵の富を有しておられ、信仰者にも神の豊かさを体現させ、喜びのうちを生きさせたいと願っておられる。そのことも、神の目的の一つである。その贈り物によって、必ず神は私たちの思いの限界を打ち破って下さる。だから、ためらいなく神に最善を求めれば良いのである。

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえにまでありますように。」(エペソ3:20-21)

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

信仰とは、へブル書に書いてある通りなのだが、言い換えるならば、望むものを主との同労によって、信仰者自らが創造していくことを意味するのではないかと私は考えている。信仰とは常に目に見えない世界での創造行為のようなものなのである。このような主との同労によって環境を創造する秘訣が分かってくると、悪に対してこの世的な方法で立ち向かうことを次第にしなくなっていく。今ある何かを変えようと力によって立ち向かっていくのではなく、内側から新しいものを創造することの方がはるかにそれに勝って貴重な、そして、必要な体験であると分かるからだ。

神は常に新しいことをなして下さり、今まで知らなかった領域に信仰者を導いてくださる。

できるだけスムーズにこの法則を知るためには、人前で祈らず、ただ神と自分との関係だけで、祈り、求めることを勧める。

なぜならば、集団で祈ると、誰の祈りが聞き届けられてそういう結果に至ったのか、まるで分らないからである。聖書は祈るときには戸を閉じて隠れたところで隠れたところにおられる神に向かって一人で祈りなさいと勧めている。だから、その通りにして、自分の必要を人に知らせず、完全に神と自分との間だけで物事を進めていくときに、神は本当に信じる者に応えて下さり、いや、応えて下さるどころの話ではなく、信仰者と絶えず密接に同労してすべてのことを共に成し遂げて下さるということが分かってくるのである。

たとえば、仕事さえも主と共に創造することが可能なのである。

関東へ来て初めの頃、私は様々な業界のあまりの不安定さに毎回、驚き呆れていた。一つの職場を去ったとき、次の仕事は見つかるのだろうかという不安にもさいなまれた。そんなとき、兄弟姉妹が一生懸命、祈ってくれたりすると、とても嬉しく、それで何かが好転すると、彼らの祈りが聞き届けられたのだろうと考えていた。

ところが、進んでいくうちに分かって来たのは、神は兄弟姉妹の祈りに応えて下さったというよりも、すべてを私のために、私の願いにしたがってなして下さったのだということであった。決して祈る人数が増えたから聞き届けられる可能性も増えるなどという次元の話ではない。主は求めている信仰者その人自身の心をご覧になられるのである。

こうして神は、何度も、何度も、「すべてはあなたのためなのですよ」と、繰り返し、繰り返し、私に教えて下さった。「あの人、この人がこうしたからではなく、あの正しい人があなたのために祈ってくれたからでもありません。これはすべて私からあなたのためなのです。これがあなたの喜びのために私がしてあげたいと願うことなのです。だから、もっと私に願いなさい」と。

最初のうち、私は自分がそんな大それた恵みに値することが信じられず、とにかく様々なことについて必死になって祈ったものである。必死すぎるあまり、結果が出ても、事実を信じられず、受け取れないなどということさえあった。とにかく願いがかなうかどうか、恐る恐るであった。だから、祈っても祈りの結果を受け取れなかったことを悔やんで祈るというような有様であった。

だが、そんなことがあっても、神は「すべてはあなたのためなのですよ」というスタンスを変えられることがなかった。

だから、そうこうしているうちに、ある時を境に分かって来たのである。祈りは呼吸のように自然なものであり、毎瞬、毎瞬、信仰者は主と同労して何かを望むことによって、絶えず何かを創造しているのだと。必死になって祈ったから聞き届けられるというものでもなく、日々、聖書朗読していれば、祈りが天に届きやすくなるという話でもない。より多くの人に困窮を知らせ、連日、祈祷会に参加すれば祈りが聞き届けられるということでもない。

むしろ、キリストがうちに住まわれるならば(そしてその人がキリストのうちにとどまるならば)、人が何かを望んだ時点で、すでにその願いは神に知られ、かなえられていると言っても過言ではないのだ。だが、それは誰にも知られることのない、主とその人との心の中の秘められたやり取りである。願いをあえて口に出すまでもなく、神はすべてを知っておられる、それほどまでに主と信仰者との距離は密接なものなのだと。

だが、タイムラグは依然として存在している。願ってから、それが実現するまでには、人の感覚からすると遅いとも思えるような時間が経過するのが普通である。言い換えれば、信じて待ち望むという過程も必要なのである。

この「信仰による天の富の現金化」の法則には、些細なことをきっかけに気づいた。初めて無から有が生み出されるこの命の力を知ったのは、ブログに書いたように、関東へ来るためのすべての必要が不思議な方法で備えられた時であった。だが、そのあと、そうした力を活用する方法がわからないまま、私は人間的な方法だけに頼って生きていた。
 
ある時、私は観葉植物を探していた。ある品種のとても高価な小さな鉢を買ったが、冬を越すこともできずに、枯れてしまった。しばらくは残念がっていたが、枯れた木をテーブルに置いておくべきでもないので、もっと威勢の良い、元気な、もう少し大きなもの、しかも高価でないものはないだろうかと考えていた。

そうこうしているうちに、行きつけの店をひょいと覗いてみると、まさに考えたようなものが手頃な値段で置いてあった。まったくの偶然にしか思われなかったが、あまりにも想像とぴったりだったのでいぶかしみながらも、神が与えて下さったのだと喜んでいた。ところが、同様のまるで偶然のようなことが絶えず繰り返されるのである。別に、そのために跪いて断食祈祷したわけでもなく、必要をノートに書きだしたわけでもない。誰にも告げず、ただある瞬間、私の心に思い浮かんだだけのもの、しかも、私自身さえも忘れていたりするようなもの、特に祈った記憶すらもないようなものが、ある時に偶然のように目の前に現れるのだ。私がそれを心に思い描いたことを知っているのは、私と神の他にない。
 
どれほど同じようなことがあったか知れない。何かを手に入れそこなったとくよくよ悩んでいると、もっと良いものが目の前に現れるという具合なのである。だから、私の側の不器用さと時間的な制約も、喜んで信仰者の願いを叶えてくださろうとする神にとって何の障害にもならないことが分かった。

不思議なことに、実に仕事についてもそれと同じことが起きるのである。当時はよく兄弟姉妹に色々なことを相談していたので、私が一つの職場を去るとき、時には兄弟姉妹の中からも、非難する声が上がった。とにかく他に仕事はなさそうなご時世だから、嫌でも耐え抜いて、どんな理不尽をも黙って我慢し続けることこそ使命だというのである。だが、それにはどうしても納得できなかった。非難する人々は、次は決してないだろうと脅かすのであった。しかも、私が求めていた仕事はかなり限られた分野でいくつもの条件がついていた。一般人でさえ、「そんなものは見つからないだろう」と言うのであった。

だが、私は主に頼ることを知っていたので、「いや、必ず、ありますよ」と軽く受け流していた。そして、不思議なことに、本当にその通りになっていくのである。だから、「せっかく祈ってくれた兄弟姉妹を失望させてしまった」と落ち込むこともないわけではなかったにせよ、神は決してそのように人の目を基準としてご覧になっておられず、「重要なのは、あなたのために祈ってくれた兄弟姉妹の思惑ではありません。重要なのは、あなた自身の願いであり、幸せなのですよ。」と言われるであろうことがよく分かった。

主は私に絶えず問いかけられる、「重要なのは、あの人が何を考えているか、この人がどう言っているかではありません。あなた自身は何がしたいのですか。何を望んでいるのですか。どうなりたいのですか。私はあなたのためにすべてのことを喜んで成し遂げたいのです」と。

信仰による主との同労は、望む力が弱くなっているときには起きない。そんなときには、神は休む暇を与えて下さる。私に何も望む気力がなくなっている時にはダイナミックなことは起きないし、無理にアクションする必要もない。あるいは恐れて望むことをやめている時にも同様である。だが、再び、何かをやりたいと願い、立ち上がり始めると、それに連動して色々なことが起きてくるのだ。

そのように活発で生き生きした信仰による命の活動が繰り広げられている時には、すべてのことに意味があり、電話一本、偶然のタイミングでかかって来ることがない。私とともにいる兄弟姉妹でさえ、すべてを主がコントロールしておられることを知らずにいられないような展開になるのである。

こうしたことの繰り返しの果てに、これらの現象を創造し、環境をコントロールしているのは、主と私なのだということにようやく気づかざるを得なくなった。むろん、私には分からないことが圧倒的に多い中でそれは起きるのである。私の知らない店に何が置いてあるかや、その商品がいつどこから運ばれて来るのかなど、知るはずもない。私にはわからない様々なことがこれほど多くありながら、そのすべての現象を支配しておられるのは、私と共に生きて下さる神なのである。私の限界がどれほど大きくとも、いずれにせよ、全能なる神と有限なる私との絶え間ない同労によって、すべての事象が調和のとれた形でコントロールされうるのだということ、それを通して、神は確かに私の生活を満たして下さり、私を喜ばせて下さるのだということが分かってきたのである。

問題は、神の側には限界がないが、人間の側には常に限界があって、心の平安が保てないことにある。だが、「何事にも思いわずらわないで…」という御言葉は絶対的なものである。そして、重荷を主が負ってくださることも、聖書に書いてある。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)
 
だから、一切、重荷を負わないで良いのである。むろん、苦難は次々とやって来る。だが、それはすべて外側の嵐である。今、自分の外側で起きている現象を見つめるのではなく、信仰の小舟の中で、来るべき平安をまっすぐ見つめることが、信仰によって歩む秘訣である。

・・・

同時に、信仰者はどんなことを願っても良いのだが、すべてのことが益となるとは限らないことも聖書には書かれている。だから、手に入れられる自由をあえて行使せず、あえて難しい道を行くことも可能である。これは禁欲主義とは全く別の事柄である。

ある時期まで、私は海外に行こうとして準備を進めていたことはすでに述べた。特に、ロシアの友人たちが私に向かって言った、「あなたはいつまでもそんな希望のない環境にとどまっていてはいけません。こちらにいらっしゃい。そのほうがはるかにあなたのためですよ」と。彼らが親切にさまざまな手続きを助けてくれ、あとは書類を提出するのみの段階になっていた。

この国にとどまることのすべてが絶望的に見えた時期であった。

多分、心から願っていたならば、主はその渡航を実現して下さっただろうと今でも疑わない。それはそれで楽しい月日になったのかも知れない。だが、それが真の意味で本当に益になったかどうかは別である。

そして、私はその渡航を自ら諦めたのだった。友人たちが自国を誉めれば誉めるほど、違和感が心に起きてきたためでもあった。確かに、異文化を学ぶことは興味深いことである。だが、私の故国はどこなのか。

こんな現状のまま、日本は絶望だと考えて海外に出ていくことが私にとっての結論になりうるだろうか。・・・あえて難しい状況だからこそ、ここに残ることを選びたい。それによって何が打開されるのか、客観的には何の保証もないように見えるだろう。私がこの国にとどまったからとて、感謝する人間がいるわけでもない。だが、神は私とともにいて下さり、私の目的をわかって下さる。そして、私は信仰によってこの状況を治めることを知らなければならない・・・。信仰によって天をこの地に引き下ろす秘訣を・・・。

そんなことを信仰者と話し合っていたら、「そうなんだよ。クリスチャンはね、世界の中心で、自分からわざわざ出かけて行かなくても、世界を自分のもとに集めることができるんだよ。」とある兄弟は頷いていた。

「彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。・・・」(イザヤ61:4-6)
 
まるでそれを裏付けるかのように、一つのことを諦めても、今度は、外国から様々な人々が不思議な方法で周りに集められてくるのを目にするという具合なのだった。ある日出勤してみると、突然、何の前触れもなく、サンクトペテルブルクからやってきた人々が贈り物を携えて会社に駆けつけて来て、会合に呼び出されるというような具合である。あるいは、スーパー銭湯に行けば、ハバロフスクから来た人と談笑になるというような具合である。これらすべては単なる偶然のようにしか見えない事柄であるが、私にはそれが主がなして下さっていることだと分かるのである。
 
まだ学生だった頃、私が好きな言葉の一つにこういうものがあった。「カントは自分のケーニヒスベルクに世界を集めた」

哲学者カントは海外旅行に出たことが一度もなかったらしい。それどころか、よく覚えてはいないが、ケーニヒスベルクを出たことさえなかったのかも知れない。だが、その哲学によって彼は全世界を自分のもとに集めたのだと。

その言葉は、いたずらに見識を広めなくとも、真に自分自身の生き様を構築するなら、世界をそこに集めるだけのインパクトを持つという意味で、私の関心を引いた。

それから後、「キリストにあって、主とともにすべてを統治する」という意味で私はこの言葉をとらえなおしている。もはや、信仰者がどこにいるかが重要なのではない。どの国にいるのか、どんな地域にいるのか、それは重要ではない。時空間の隔たりは神にとってほとんど意味をなさないのだ。ある信仰者は言った、「何をしているかも重要じゃありません。究極、ただそこにいるだけで、何もしなくとも、主がともに働かれる、それがキリスト者なんですよ」

ただそこにいるだけで、神がその人の願いを通して、その人と同労して働かれる。ここに書くことはないが、私には至りつきたい場所が見えており、そこに達するまで、一歩、一歩、主とともに歩いて行くだろう。生きている限り、望みを諦めることはないし、神が私と共に働いて成し遂げて下さることを知っている。この地上で、まだ成し遂げなければならないことが残っている。だが、最終的には、それは天の都へと続く道である。そして、その道は安らかである。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては、艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

環境を創造する力―義人は信仰によって生きる―すべてを支配するキリストの復活の命

さて、バビロン化した社会の有様がいかに絶望的であろうとも、キリストの復活の命が全てを超越するというテーマの続きを書こう。正直に言うと、これから先、世には、この命の力によらなければ、なかなか乗り越えられない問題も起きて来るだろうと思う。

もし抵抗する力がなければ、ただ流されるだけである。どんな正義感から何を訴えても、どんなに人の命が貴いものであったとしても、死未満のものでは、死を打ち破ることができない。だが、今、私がこれほど平安を保っていられるのは、最後の敵である死を打ち破られたキリストが最後まで共にいて守って下さるという確信があるためである。

キリストの復活の命というものが存在するということは、私が主と共に十字架で死んで、よみがえったことを自覚して後、明確に分かった。

人がキリストを信じて新生すれば、罪から救われて、決して取り除かれることのない神の永遠の命が与えられるという教義はとうに知っていたが、復活の命とは何なのか、それにどういう性質があるのかという問題については、キリスト教界にいた頃には一度も考えることなく、聞いたことさえもなかった。

その後、どのようにして、死と復活について知ることになったのかは記事に記した。以下のような聖書の御言葉が、私にとって現実のものとなったのである。

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを私たちは知っています。
 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きる者だと、思いなさい。」(ローマ6:6-11)

以来、神は私にとって確かに存在しておられ、しかも、私の内側に信仰を通じて住んで下さるということを知った。神に対して生きる、ということを初めて知ったのである。

その時に感じたことは、人知を超えた平安であった。たとえ地球が核爆弾により七回滅んだとしても、この命は滅びない、というほどの安心であった。神が確かに世の終わりまで共におられ、信じる者を守って下さるという平安である。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)

これを理屈によって説明するのは難しい。だが、キリストの命は単に死を打ち破った命であるばかりでなく、すべてを供給する命、すべてを支配する命なのである。だから、それが有限なる人の内側にあるということが、どんなに矛盾した、形容しがたいはかり知れない状態であるか、説明できない。

私が「環境を創造する力」という言葉で表したのは、この死を打ち破ったキリストの命によってすべてを支配する、という意味である。別の言葉では、「主と共に統治する」ということである。

あらゆる命には生きるための法則性が備わっている。たとえば、動物には生存本能があって、自分の命を長らえさせるために何をすれば良いか本能的に知っている。誰から教えられなくとも、いつ餌をとるべきか、いつ眠るべきか、どうやって身を守るべきか、最低限度のことは命自身が教えるのである。

生まれながらの命でさえ、生きるための法則性が備わっているのだから、まして、人がキリストを信じて新生したその瞬間から霊の内に与えられる神の永遠の命にはもっとはっきりとした法則性が備わっているはずなのだ。

それが、御霊が教えるので、誰にも聞く必要がないということでもある。ナビゲーターは真理の御霊、うちにおられるキリストなのである。

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、―その教えは真理であって偽りではありません。―また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)

だが、それでも、しばらくの間、私は今まで通り、助けを求めてあちらこちらの人々のもとを奔走するということをしていたし、問題に気を取られ、信仰の平安にとどまらないこともあった。あるいは、正しいと分かっていて何かをやりそこなったり、何か素晴らしいチャンスを手に入れ損ねたときなどには、せっかく神が与えて下さった恵みを逃したのだと考えて後悔したこともあった。

だが、そのようなことを繰り返しているうちに、神の贖いの完全性が私のすべての限界と失敗を超えるということだけがはっきりして来るのである。そのため、後悔に値することは何もないという事実が判明する。これをすれば違反になるのではないか、あれをすれば恵みを逃すのではないか、このような失敗をしたからもう取り返しがつかないのではないかという内側の小さな恐れは消し飛んで行った。

人は実に様々なことを言う。年齢や、人格の未熟さや、様々な欠点を取り上げて、いかその人がに基準値に満たないか、それだけを語る。そして人自身もそのような要素のために思い悩む。だが、神は私の内に失敗を見ておられず、仮に私が何かを失敗したと思って悩んでいたとしても、そのような事柄を失敗とも思っておられず、何度、何を逃したとしても、その後、再び、私の心に願いを起こさせ、それを共に実現へと導き、叶えて下さることによって、常に私と共に生きておられ、私の人生を喜びで満たそうと考えておられるという事実だけが分かって来るのであった。

そして、願いを神に打ち明けるために、早天祈祷や、断食祈祷に明け暮れる必要もなく、神はすでに口にするよりも前に私の心をすべて知っておられ、私が願いを申し上げるのを喜んで下さり、確信を持って歩き出しなさいと、その願いに証印を押して下さることが分かった。だから、こんな願いを申し上げれば大それたこととして退けられるのではないかと恐れる必要もないのである。そのようにして何かを願うこと自体が、すでに神との同労によって環境を創造することの一環なのだと分かって来た。神は私たちの願いを喜んで下さるのである。

結局、分かるのは、私の人生は、どんな瞬間も常に、神と二人三脚であるということであった。パウロが言っている通り、神が味方であるならば、無敵に等しい。人の失敗と愚かささえ、神の完全を妨げることはできないのである。

これが内住のキリストが私に教えて下さることである。

このキリストと共なる人生をたとえるならば、神とのドライブにも似ているかも知れない。ハンドルを握っているのはあくまで我々人間である。神は人生の操舵をあくまで私たちに委ねておられる。神は私たちの自己決定権を決して脅かされることはない。だから、我々がどんなに未熟であっても、限界を抱えているようであっても、絶大な決定権を神は私たちに委ねておられるのだ。良く生きるにしても、悪く生きるにしても、いずれにせよ、操縦席に座っているのは我々なのである。
 
神は信じる者たちを操縦席に座らせ、そして、ご自分は静かに助手席に座って、助言が必要なときに助言して下さり、危ない時には必ず守って下さり、最後まで見捨てることなく共に旅をして下さる。神が神であるにも関わらず、決して人に一方的に命令することなく、人と同労され、私たちの願いに耳を傾け、私たちに多くのことを任せておられるのは極めて不思議なことである。

その旅は最初はぎこちなく始まるかも知れない。たとえば、十年間のペーパードライバー歴を破って一人で運転し始め時には、さすがに私の運転は最初はぎこちなかったろう。初日は必死にハンドルにしがみついていたかも知れない。だが、しばらくすれば、恐れは去り、ドライブは楽しいものとなる。行きたいところに行って、重い荷物も運べ、翼が生えたように走る心地よさが、恐れにはるかに勝ったからだ。

同じように、主は信仰者のぎこちない出発を見守って下さり、人生の旅路に慣れるまで、根気強く見守って下さる。たとえ目には見えなくとも、確かに同伴しておられ、そして、最後まで目的地を案内し、私の人生を守るために必要な守りと助けを最後まで与えて下さるのである。というより、私たちと共に旅して下さるのである。

キリストの私に対する贖いは完全で、目的地に至るまでのすべての必要を供給する切符である。それは信じる人のすべての過失を覆って余りあるものであり、信仰者が未熟であったとしても、何度、道に迷ったとしても、重要ではない。だから、結果的に、人の間違いによる過失というものが一切、生じないのである。

そんなわけで、私はキリストの贖いの完全さが、私のすべての必要を覆い、欠乏を満たすということの意味を思い知った。逆に言うと、人が失敗すればするほど、神の偉大さがますますそれを満たすという具合になるのだ。

だから、実を言うと、世の中がどんなに悪くなったとしても、それも関係ないのである。こういうことを言うと、「だから宗教はアヘンなんだ」と言われるかも知れないので、「悪魔を糾弾する」という仕事の重要性も強調しておいた。むろん、悪には立ち向かう。だが、やはり、最後は信仰というところに行きつくのである。

以前、私がいつもの例にもれず、聖霊派の某教団の病の中にある姉妹たちに向かって、病と手を切って、床を畳んで立ち上がるように促していた頃、彼らは私を陰であざ笑っていた。こんな貧しい若輩者に説教などされてたまるか、人に説教する前に、自分の貧しさを克服してからにしろ、と思われていたのだろう。

だが、数年も経つうちに、私は天の無尽蔵の富をどんな風に信仰によって地に引き下ろすかという秘訣を学んだので、かえって私をあざ笑っていたクリスチャンたちの生活の方が窮乏してしまった。その上、度重なる手術や治療。そういう噂が、望んだわけでもないのに、なぜか不思議に風の便りに聞こえて来るのであった。

私は憤りを持ってそういう話を聞いた。なぜその結末を拒否しなかったのか、望めば、必ず、その状態から解放されることができるのにと、今でも確信しているからである。

これと全く同じように、「環境を創造する」ことの重要性を語っていた当の兄弟も(この人もまた例にもれず統一教会から某教団へという流れを辿った)、どんなに一生懸命、説得しても、神は生活苦を取り除くことができるという私の言い分が信じられなかった。彼は私に比べればはるかに多くの恵みに溢れた状況にいるように見えた。そして、兄弟姉妹からの支援にも支えられていたのだが、それすらも効き目がなかった。

私はこうした場面を何度も見せられてきた。初めは、もっと別の言葉で説得すれば通じたかも知れないのに、などと考えていたが、やがて、その出来事に責任を負うのをやめた。いつも何かが分岐点となって人々を分けるのである。それは自分の抱える当面の一番深刻な問題を(人ではなく)神が解決して下さることを信じられるかどうか、という分かれ目であった。それが信じられないと、どんなに温かい物質的支援や同情や慰めをどれほど投入しても、最後は神とクリスチャンへの絶望の言葉で会話が締めくくられるのである。

これは決して病や生活苦を知らないがゆえの冷たい言葉ではない。それに匹敵するだけの弱さと苦難と絶望的な状況を信仰によって乗り越えることが確かにできることを、同じ年月かけて確かめて来た結果である。そもそも目に見える何の有力な後ろ盾も持たない人間が、年々悪くなっていく世の状況の中、どうしてただ神だけを頼りに、一切誰にも助けを乞うこともなく、自立して豊かに暮らせるのだろうか? それは奇跡である。

だが、復活の命を知って以来、人に助けを乞い求めなければならないような窮乏を私は経験したことがない。そして、そのようなことは今後も起き得ないと考えている。なぜなら、私たちの救いの岩、助け主は、完全だからである。もし神を信じているにも関わらず、目に見える人間の助けを乞わなければ生きて行けない状態が発生するとしたら、それは神の名折れである。

そればかりか、神が信じる者たちに望んでおられることは、単に窮乏をしのぐなどということをはるかに上回る。異教徒でも誰しも求めている無病息災、家内安全、商売繁盛などをはるかに超えた到達地点である。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:18)

そういうこともあって、神は現在の人の状態をご覧になるのではなく、あくまで信仰を通して人をご覧になるのだということが分かってきた。人が今貧しかろうと、弱かろうと、過去がどうであろうと、今の状態がどうあろうと、ほとんど関係ないのである。神が問われるのは、「あなたはどうなりたいのか」ということである。

前にも書いたように、弱さと手を切ることを拒む人々もいる。「あなたは癒されたいのか」ともし神に尋ねられたとしても、「いいえ、障害者のままでいいです」と答える人も中にはいる。「障害者手帳がなくなれば、同情も受けられなくなるし、割引も受けられませんから。それに私の周りにいる健常者はみなつらそうです。朝から晩まで働いて、自由がありません。この年になっていきなりそんな人たちと一緒にハンディなしで働くなんて、私にはできそうもありません。私はもう障害者として生きることに慣れてしまいました。ですから、健常者になることはお断りします。」

他の問題も同じである。貧しさから脱却したくないという人もいれば、孤独から脱却したくないという人もいるし、さまざまである。苦難にあまりにも慣れてしまったので、そこから抜け出したくないという人もいるのである。

肝心なことは、人が神に対して何を願い、何を信じるかである。今、現実にどれほどの弱さを抱えていたとしても、人のすべての失敗や不完全さを覆うことのできる神の救いは信頼に値する。神は信じる人にとって、全てを満たすことが出来る完全な方である。多少、時間はかかるかも知れないが、必ず、信じて呼び求める者の声に応えて下さる、それを信じることができるか。

神はご自分の聖徒を特別に扱われ、面倒を見て下さる。その愛がどれほど深く、信じる者にどれほど予想を超えた恵みを伴うかということを知るために、人の人生がある。

だが、人々は問うだろう、それでは、一体、今の世の中のこの混乱は何なのでしょうか。なぜ信仰者もこれほど追い詰められたり、苦しめられたりしているのですかと。時には殺されたりまでしているではありませんかと。これに対して、答えは一つ。それは悪魔のために生じている混乱だが、私たち自身も、自分の信仰によって、これを後退させる使命を負っているのですよ。

そして、クリスチャンの殉教という問題は、非常に不思議なテーマである。なぜ目覚ましい奇跡にも見えるキリストの復活の命の大胆な働きの後で、使徒が殉教し、多くのクリスチャンが殉教して行く結果になるのか。なぜ教会が大規模になろうとすると、悪魔の打撃が加えられるのか。もし復活の命が全てを支配するならば、なぜその敗北を避けられなかったのですかと問われることもあろう。いずれにせよ、私はどうにもキリスト者の生き方というのは、多くの改宗者が現れてどこか一つの地点に大勢の人々が集まるようになって大規模教会を建設するという方向には向かっていないように感じる。そういうことが起きると、人々は自己陶酔に陥り、結局、神を忘れてしまう。自分たちがそれを建設したのだと言い始める。だから、そういうことが起きかけると、必ず何かの破壊的な働きが同時に起きて、クリスチャンが散らされるのである。

だが、たとえそうであったとしても、迫害の只中で、やはり瞠目すべき信仰の業も起きて来る。神は時空間を超えて、この世の限界をすべて超えて支配しておられる。神はその支配する命をあくまで人に―我々に託しておられる。だから、我々にはそれを行使する責任がある。ただ天を仰いで待ってさえいれば、神が全てのことを人に代わって成して下さるということは絶対にない。神との同労によってあなた自身が力強くその命を活用し、天を地に引き下ろして望みを成し遂げて行かねばならない。

環境を支配することは、アダムの創造以来、神がずっと人に与えておられる使命である。

「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28)

ここに「地をはうすべての生き物」(=蛇)も支配の対象として含まれていることに注意したい。これは人の使命が本来、悪魔をも打ち負かして配下に治めることを含んでいたことを物語っている。残念ながら、アダムは堕落して失敗したゆえに、その使命に値しなくなってしまい、地もそのゆえに堕落した。だが、神は「第二のアダム」、「命を与える霊」であるキリストによって、罪のゆえに死んだ人々を生かし、人に本来に使命を全うさせようと決められた。しかも、あなたを通して、あなたの内に住まわれるキリストを通してそれを成し遂げようと願っておられるのである。

「聖書に、「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。<…>第一の人は地から出て、土で作られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。」(Ⅰコリント15:45-48)

「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とをゆたかに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」(ローマ5:17)

なぜ神が人を必要とされ、人を用いられ、人と同労されることを願っておられるのか、不思議なことである。神は確かに恐るべき方で、敬われるべき方であり、人の助けがなければ存在できないような方ではない。それにも関わらず、神の計画は、人との同労によって全地(天と地)を治め、信じる者がキリストによってサタンを打ち砕くことにあるのである。

「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:20-23)

「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」(ローマ16:20)

キリストは、すべての支配、権威、権力、主権の上に高く上げられた方であり、その御名には天も地も一切のものを支配し、いっさいを足の下にする権威が与えられている。従って、そのキリストが信仰者の内に住んで下さり、信仰者とすべての歩みをともにし、彼を理解し、助け、面倒をみて下さるということは、信じる者にもキリストと同じ権威が与えられているのに等しい。

キリストとの同労によってこの権威を行使することこそ、人の使命である。その同労の秘訣が分かるとき、おそらく、信仰の歩みそのものが変わるであろうと思う。

だからこそ、ダビデは、神がそれほど人を重んじておられる不思議について述べずにいられなかった。むろん、万物を足の下にしておられる方とは、キリストに他ならないのだが、同時にそれは、キリストと一つとなって生きる信仰者にもあてはまる役割である。

「あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。
 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉の冠をかぶせられました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました
 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
 私たちの主、主よ。
 あなたの御名は全地にわたり、
 なんと力強いことでしょう。」(詩編8:3-9)
 
繰り返すが、信仰者の歩みとは、神と同労して天地を統べ治めることにある。信仰者が、自分自身も、環境も、サタンでさえも、すべてを主と共に支配して生きることにある。それはこの世を超越した天的な支配であり、この世の権威を獲得することが目的ではないにせよ、その霊的支配はこの世にも確かに及ぶ。

この世は、依然、あなたを脅かして言うだろう、人生は恐怖の連続で、恵みは少なく、楽しみはごくわずかで、旅路は常に理不尽であると。何事も一発勝負で、やり損なったらチャンスは二度となく、厳しい試験に合格しなければ落伍者とされ、あらゆる面で不遇の人生を送ることになると。そこから抜け出すチャンスはないと。この世は色々と勝手な物差しを振りかざしては、あなたは不合格だから見込みはないと言って来るだろう。そして、その理不尽はこの世のせいではなく、神のせいなのだとあなたにささやく。

だが、それは悪魔の嘘なのである。悪魔はもともと責任転嫁の達人であり、己が罪のすべてを神に転嫁することを願っている。だから、悪魔に向かって、それは神の罪ではなく、お前の罪だと言い返してやればいいだけのことである。そもそもそういうこの世の物差しはすべてこの世の基準であっても、神の基準ではない。

実際のところ、神の目から見れば、人が自分の力により頼んで勝負することほど愚かしいことはない。第一、人の持てる力は年々衰えて行くので、どんなに注意深い人間も、年齢と共に不注意で軽率にもなろうし、どんなに体力に自信のある人でも、老年には衰える。人がどんなに自分を頼りにし、自分は完璧だと思っていても、その力は年々、減少して行く。そして、環境の恐るべき力に有限なる人間は自分の力で立ち向かうことができない。

だから、それらをすべて支配するためには、神により頼むしかないのである。信仰によって神にすべてをゆだねて神に信頼し、神からすべての力をいただくという方法によって生きるしか、結局のところ、人間には本当に「合格」に達する方法はないのだ。

この世はあなた自身が努力によって築いて来たものを要求するだろう。だが、その要求は果てしなく、どんなに努力しても、いつまでたってもあなたは合格水準に達しない。だが、神はあなたに努力を強いない。神はあなたに、すでにキリストが全てを達成されたので、その達成はあなたのものであり、あなたは落ち着いて静かにそれを利用し、キリストの権威を行使しなさいと言われる。神があなたに願っておられるのは、どんな状況下でも、あなたが神の与える命の平安に安らぎ、神を信頼し、主と同労しながら、主が全てを満たして下さることを信じて、信仰によって、すべてを引き出し、神の御心にかなう、そしてあなた自身の願いにかなう世界を共に築いていくことである。

あなたが恐怖におののくだけの生活を卒業し、主と共に平安の内に統治するすべを知り、キリストを通して与えられた絶大な権威を行使して生きることである。

初めは右も左も分からずに始まった旅路でも、その命が必ず教える。初心者マークで始まっても、旅路が終わるころには、熟練した戦士になっていることだろう。

「この神こそ、私に力を帯びさせて
 私の道を完全にされる。
 彼は私の足を雌鹿のようにし、
 私を高い所に立たせてくださる。
 戦いのために私の手を鍛え、
 私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。」(詩編18:33-34)

登り切れないピラトの階段を苦しんで上る人生を選ぶのか。それとも、キリストの命の平安に安らぐのか。以前にも引用したオースチンスパークス著、「キリストのからだなる教会」第二章からの抜粋で終わりたい。

「ルターは任務を帯びてローマに遣わされました。彼はその都と特別な懺悔の場所を訪問することを熱望していました。それは、その階段を手と膝でのぼることにより、特別な恩恵と罪の赦しなどを得るためでした。

 「この恐ろしい苦行を自分に課せば、義とされて安息を得るだろう」と彼は考えました。彼はのぼり始めました。のぼるのが大変になってきた時、何かが「義人は信仰によって生きる」と言いました。

 彼はふたたび進みました。すると、あの声がふたたび、「義人は信仰によって生きる」と言いました。彼はさらに階段をのぼりました。すると、また声がして、一つの単語を強調しました、「義人は信仰によって生きる」(ハバクク書2章4節、ローマ人への手紙1章17節、ガラテヤ人への手紙3章11節、ヘブル人への手紙10章38節)。これが彼を回心に導き、行いによる義というローマの体系全体を放棄するよう彼を導いたのです。

 「義人は信仰によって生きる」。大事なのは私たちの信仰そのものではなく、私たちの信仰の対象である主イエスの御業です。私たちは自分の信仰の度量をあまりにも重んじますが、大切なのは私たちの信仰の対象です。私たちが安息の中に入るのは、キリストと、私たちのための彼の完全な御業という対象の上に、自分の信仰を据える時です。私たちはもはや、手と膝で石段をのぼりません。

これは主の民の団体生活にとって基本的なことです。不安、発酵、不満足の要素は出て行きます。そして、私たちは神との平和を持ちます。調和を得ます。なぜなら、調和は平和の別の言葉にすぎないからです。これが安息です。聖書の中の平和は、何らかの雰囲気ではなく、完全な調和の内に全ての要素が互いに適切に 調整されていることです。」


神の国の秩序

先日、母と買い物に行った際、以前のようなやり取りが再燃し、危うく口論になりかけた。だが、もつれかけた話の最後に、私がエクレシアの話を始めると、母はそれまでとは打って変わって、とても興味深そうな表情になって、真剣に耳を傾けてくれた。
 そして、今回の私の出発は、私の個人的な人生の再スタートなどではなく、主のご計画の中に、私がすでに組み込まれていることの確かな証拠なのだと私が言うと、そのことを信じてくれた。

 母は当初、こう言っていた、「この不況の中で生きていくんだから、あんたはこの先、わがまま言って仕事を選んだりせずに、どんなことでもやって、人にも取り入って、懸命に努力して、自分に力があることを世の中に証明していかなきゃいけないよね。頑張ってそれをやってね。」 私はそれを聞いて、笑いながら否定した、「いやー、私の努力なんて、もう必要ないんだよ。私の能力なんて、そんなのあるのかどうかも知れないけど、そんなものを世に証明する必要も、なくなったんだよ。要するに、『自己実現』ってものが、全く必要なくなったの。私が懸命に頑張って、この世の中で自分の力を証明するなんてことは、もう要らないんだよ。だって、すべては私の努力でなくて、主がなして下さることなんだから! 私はその導きに乗っていけばいいだけなの!」

 もしもこの会話を人が聞けば、「この人は普通じゃない」と思われるだろう。怪しげなカルト宗教にはまって、きっと思考がおかしくなっているに違いないと…。だが、私は母の前でさらに大見栄を切った、「ねえ、お母さん、この先、私に何が起こるかよく見ていてね。もし主が私と共におられるなら、私は絶対に以前のような貧困には落ちないから。もしもこの先、不況だからって、私が生きるか死ぬかの崖っぷちの人生を、必死に努力して、喘ぎ喘ぎ生きていくんだったら、そこには何の不思議もないよね。そこには、神様の導きも、栄光も、祝福もなくて、誰でも想像できる、ありふれた人生があるだけだよね。
 でも、神様の御心は、私が平安の中で安息することなの。だから、私は今、職もないし、この先の人生のあても、さっぱりあるわけじゃないけど、これだけは、はっきり確信できる、神様はこの先、私が窮乏生活を送るんじゃなくて、豊かに自由に生きられる道を必ず開いてくださる。これは私の努力で達成できることじゃないからこそ、そこに神様の栄光が現れるんだよ」

 これは、世間の耳には、とてつもない楽観か、狂信者のたわごと、大言壮語にしか聞こえない言葉だと思う。何しろ、識者たちは、不況はまだまだこれからが本番になると言っている。この先、雇用情勢がどれほど悪化するかも分からないし、どのような経済危機が発生するかも分からない。そんな中で、20代の若さもなく、空白のない履歴書も持たず、コネもなく、親戚の一人もいない見知らぬ土地に、手ぶら同然で出かける人間が、どうやって、惨めに人様の憐れみを乞わずに生きられるのだろうか。にも関わらず、私が出発前に、不安に悩むどころか、これほどの大見栄を切っているのを世間が聞けば、これはただの阿呆に違いないと、一笑にふされておしまいになるだろう。

 だが、私は今後の生活が守られることを不思議な確かさで信じている。イエスは、弟子たちを町に派遣する前に、手ぶらで行けと言われた(マタイ10:9-10)。主のための働き人が糧を得るのは当然であると。神によって生まれた者は皆、神のための働き人である。備えは私たちの側にあるのではなく、いつも主の側にある。
 そして、私は母に言った、「今回、お父さんお母さんが私のためにしてくれたことは、私にしてくれたんじゃなくて、私を助けることを通して、神様に捧げたんだよ。聖書に書いてあるでしょ、この小さき者にしたのは、わたしにしたのだって。水一杯恵んだだけでも、忘れられることはないって。

 『わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない』(マタイ10:42)。

 だからね、お母さんお父さんの捧げものが、何倍にも祝福されて返って来ることを、私は疑ってない。もしも、我が家が、私を援助したせいで、財政が傾いて、極貧の生活に落ちるんだったら、それこそ、神様の名折れだよね。そんなことは絶対に起こらない。だから、私たちは全員、この先、豊かに与える神様の性質を、これでもかというほど実感しながら生きることになると思うよ。祝福から祝福の中を生きるようになると思う。この先、私も守られるだろうけれど、我が家もきっと守られるでしょう、だから私は何も心配していないの」

 そのことを言うと、母も、すでにこれまでにも、神様の導きとしか思えない不思議な方法で、自分たちの生活が守られて来た実感があると教えてくれた。私と家人とは、まだ同じ信仰を共有しているとは言い難いが、そこにどうやって主が働かれるのか、信頼して、期待しながら、余計なことは何もせずに、御手にお任せしている。

 そんなわけで、主の導きに従って一歩を踏み出す時には、いつも水の上を歩くような感じがある。ある人は、これを人間のガンバリズムと勘違いし、私が危険を冒して、主のために大胆に勇気ある行動に出ようとしている自分の努力を世に誇り、自分のアクロバット的な歩みを見せびらかすために、このようなことを言っていると考えるかも知れない。
 だが、そうではないのだ。それは、自分で同じことをやってみれば、誰にでも、すぐに分かる。水の上に一歩を踏み出して、歩き出そうとしている時に、自分のアクロバット的な努力を世に見せびらかしたり、誇ったりできるような心理的余裕が、果たして、人にあるだろうか?

 そこには、人間の努力なんてものは存在する余地がない。あるとすれば、ただ信仰による応答があるだけだ。誇れるものがもしあるとしたら、自分の弱さにも関わらず、神の強さを信じているその信仰を誇ることができるだけだ。信じるということ以外に、何一つ頼れるものはない。だから、イエスの道に一歩を踏み出すその瞬間は、いつでも、自分の魂にとっては一つの死であるとさえ言える。この先、自分が水に飲まれて死んでしまわないという保証はどこにもないが、それでも、イエスを信じて、一歩を踏み出す。そこに日々の十字架がある。自分の努力によって一歩を踏み出すときには、必ずある程度、将来が予測でき、ある程度、達成が見えているものだが、主を信じて一歩を踏み出す時には、いつも、あてがなく、この先に何が起ころうとしているか不明であり、どんな達成があるのかすら、全く予想がつかない状況で、そこに身を投じることになる。

 にも関わらず、そこには恐れではなく、平安があるのだ。いや、人間の弱い魂には不安がよぎることもあるが、霊においては、絶対的な安心感が伴っており、喜びさえあり、すべてが成就しているということが予め分かるのだ。だから、一歩を踏み出すと言いながらも、休みつつ歩いている感じなのだ。

 それは、イエスの負いやすいくびきを担い、イエスが完成された道に歩んでいるからだ。

 さて、以前の記事の中で、私は神のエコノミーなどという使い慣れない用語を使って、御国の法則について説明しようとした(神のエコノミー(オイコノミヤ)とは、御国の秩序、御国の統治形態、御国の法則全体を指していると私は解釈している。)が、その言葉は私にはかなり不慣れな扱いにくいものなので、ひとまず、ここでは、御国の秩序という簡単な言葉を使うことにしたい。

 「…わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」(マタイ12:28)とイエスは言われた。このことは、御国の秩序が、人となって地上に来られ、バプテスマと聖霊を受けられた御子イエスを通して、地上に実現したことを意味する。

 御国の秩序とはどのようなものか。次の通りである、

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
 天国は彼らのものである。
 悲しんでいる人たちは、さいわいである、
 彼らは慰められるであろう。
 柔和な人たちは、さいわいである、
 彼らは地を受けつぐであろう。
 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
 彼らは飽き足りるようになるであろう。
 あわれみ深い人たちは、さいわいである、
 彼らはあわれみを受けるであろう。
 心の清い人たちは、さいわいである、
 彼らは神を見るであろう。
 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
 彼らは神の子と呼ばれるであろう。
 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
 天国は彼らのものである。」  (マタイ5:3-10)

 イエスは山の頂きに座して、ご自分も安息されながら、弱く打ちひしがれた人々を御元に集めて、彼らにも、安息の時が到来したことを告げられた。すなわち、イエスを通して、御国の秩序が、神を信じる人々のもとにやって来たことを告げられた。その御国の秩序とは、人に安らぎをもたらすものであり、人を罪と死とあらゆる汚れ、捕われから解放するものであり、人に神の無尽蔵の富を豊かに分かち与えるものであることを告げられた。御国の秩序のあるところには、自由があり、汚れたものの一切が追放され、まことの命の豊かさが惜しみなく現れ出る。

 御国の住人として(エクレシアとして)召し出されている人々は、神を抜きにして幸せ一杯に、満ち足りて、悠々自適に暮らしているこの世の人々とは一線を画している。召し出された者たちは、この世においては、絶えず心の飢え渇きを覚えている人たちだ。彼らは、この世においては、悩みが絶えない。病や貧しさや困難に絶え間なく見舞われ、人よりも不幸に見える人生を送っていることも多い。またイエスの名のゆえに迫害されていることも多い。彼らは戦闘的ではなく、心優しい、謙った人々であるがゆえに、この世では軽んじられ、見下され、侮られている。彼らはこの世に正義がないことを知っており、神の義だけを切に求めている。彼らは神に出会って、慰めを得て、解決を得られる時を切に待ち望んでいる。

 こうした人々が主に出会って、心から慰めを得、神の義を見て、満足し、平和を見て、満ち足りるようになることが、御国の秩序が到来することの結果である。その御国は、イエスと共にすでに神を信じる者たちのもとに到来している。聖霊が私たちの内に住まわれることによって、すでに私たちの只中に成就している。神の国とは、私たちが死後になってやっと手に入るようなものではない。

 だが、肉なる人間は、御国とは何であるかを理解できない。そこで、いつも経済的祝福や、病からの癒しなど、この世的な現象、奇跡的な祝福にばかり注目し、尋常でないいくつかの現象だけを取り上げては、それが神のご性質の全てであるかのように騒ぎ立てる。そこに大きな間違いがある。イエスの時代にも、群集の多くが、イエスが病を癒されると、その奇跡だけに注目し、パンと魚を増やされると、その奇跡だけに熱狂し、そして同じような奇跡が再び起こるのを見たいという衝動だけから、イエスに着いて行った。

 だが、神の国とは、そんな個々の現象にとどまらない、一連の秩序体系を指す。人知では理解できない、霊的な、見えない秩序が、御国の秩序なのであり、その秩序に従って、イエスは不思議な御業を行われた。その神の国が、神を信じる者たちのもとにすでにやってきていることをイエスは告げられたのだ。だが、このすでにやってきているということの意味が、またまた、人知では理解できない。そこで、神の国の意味を誤解した人々は、弟子訓練などの各種の方法論を通して、改めて神の国を地上に大規模に「建設」しようとなどと考え始める。そこにも大きな間違いがある。神の国とは、地理的領土のことではなく、この世的な、人間による支配体系のことでもなく、神の御心に沿って作り出される、御霊による、見えない秩序のことである。そして、その御国の秩序に従って、イエスはこの地上での業を成され、イエスが天に昇られた後、御霊によって生まれたクリスチャン一人ひとりが、イエスと基本的に同じ働きを任されているのである。クリスチャンたちの只中に、すでに御国はあるのだ。

 肉なる人は、しるしと不思議と奇跡という、現象や結果ばかりをいつも追い求めているが、私たちクリスチャンがいただいているのは、そのような一切の現象を引き起こす源であるイエスであり、まことの命である聖霊であり、見えない秩序である神の国である。

 神の国の法則に従って起こることが、世の人々には常に奇跡のように見えるのは、御国の秩序と、この世の秩序が決定的に異なっているためである。しかし、神の視点から見れば、転倒しているのはこの世の秩序なのであり、イエスが行われたことは全て、御心にかなったあるべき秩序なのである。

 だから、そのことを思う時、私は、この先、クリスチャンの間にまことのエクレシアが建て上げられていくに連れて、私たち一人ひとりのクリスチャンも、ますますイエスに似た者とされて行き、使徒のように大胆な働きをするようになり、各種の聖霊の賜物が、豊かに現れて来るだろうと思わずにいられない。

 神の国のはかりしれない秩序を、クリスチャンは内側にすでにいただいている。外見的には、みすぼらしく、取るに足りない、いつも危機に晒されて、追いつめられているようにしか見えない、弱く、脆い器である私たちの日々の営みを通して、神の国の圧倒的な秩序が、否応なしに、この世に流れ出て、現実化していくところを、私たちは今後、これでもかと言うほどに、目撃させられることになるだろう。こうして、初めは小さな種であった御国は、大きな木へと成長し、私たちの内側から、光が輝き出て、生ける水の川々が溢れ、流れ出すようになる。エクレシアが建て上げられていく時、神の国の秩序とは何なのか、まことの命の豊かさとは何なのか、神のご性質とは何なのか、その人知でははかり知れない不思議さ、豊かさを、私たちは隅々まで味わい知るだろう。そして、神の義の現れを見て、その中で歓喜し、主をほめたたえるだろう。