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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

霊の人が直面する危険

霊の人が直面する危険 を再掲します。

「神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
心の思いと意図を素早く識別します。」(ヘブル4:12、改訂訳)

 今までの流れから見ると、急に話が飛躍してしまうが、ある必要性から、この記事をぜひとも書かせていただきたい。

 すでに幾度も書いてきたように、多くのクリスチャンは、御子イエスを救い主として信じた時から、内側に聖霊をいただいているが、依然として、自己が強く働いているため、御霊の働きを妨げ、実を結ぶことができないでいる。そこで、私たちは御霊によって訓練を受け、また啓示を受けることにより、自己を否み、自己に死ぬということを経験し、外なる人の固い殻から解放され、外なる人と内なる人が真に一体化した霊的な人へと変わらなければならない。

 しかし、ここに第二、第三の重大な危険性が潜んでいることについて述べたい。私たちはどのようにして自己を否むのだろうか? どのようにして自己から脱却するのだろうか? 自分の努力で? 環境を変え、心機一転することによって? 催眠療法によって? カウンセリングによって? 旅行に出ることによって? …そんなことはまず不可能である。外的影響力によって、私たちは少しも自己から抜け出ることはできない。それどころか、私たちが外的影響力に自己を解放し、誤った方法で自己から脱却しようとする時、それはかえって、私たち自身を悪霊の影響下へと導き出すものとなるだろう。

 人の魂と霊を切り分け、何が人の自己であって、何が神の霊であるのかをはっきりと指し示すことができるのは、生きて働く神の御言葉だけである。
 私たちは、聖霊の照らしを抜きにしては、何が自分の自己の魂に由来する衝動であり、何が悪霊から来る影響であり、何が神の御霊から来るものであるか、決して識別することはできない。私たちにそれを教えてくれるのは御言葉だけである。他の方法によって、自己を否もうとすることは、私たちを破滅へと導く。

 私たちは御霊に導かれる「霊の人」となる必要があるが、同時に、御霊以外の霊から影響を受けてしまうことに警戒しなければならない。全ての霊が神から来たわけではなく、サタンに支配されるこの世には、諸霊と呼ばれる邪霊や悪鬼がおびただしく働いている。そのようなものに影響される危険性にさらされているのは、スピリチュアル・カウンセリングや、ニューエイジや、占いや、オカルトにのめりこんでいる人々だけではない。また、巨大集会や、クルセード、個人預言集会などに駆けつけて、やたらと超自然的な現象の現わればかりを追い求めている聖霊派の熱狂的な信者だけが、悪霊の攻撃対象となっていると思うのは間違いである。

 私たちは、自らを「霊的な人」であると自称し、「私は自己を否んでいる」と自称する、随分と経験を積んだ、高度な段階にいるように見えるクリスチャンでさえも、キリストを証する霊ではない霊によって欺かれてしまう危険性があることによくよく注意する必要がある。

 もしも私たちが、生きて働く御言葉を通して、霊を識別する力をいただかなければ、私たちは自称「霊的な」人々にすぐにも欺かれてしまうだろう。誰でもちょっと観察すれば、すぐにでも、御霊に導かれているのではないと見抜けるような、キリスト教界でスキャンダルを起こし続けている有名指導者たちは、さほど大きな問題ではない。それよりも、私たちが本当に注意し、警戒すべきなのは、外なる人が一旦、砕かれ、御霊に従って生きる人になったクリスチャンでさえも、その後で、警戒を怠るならば、知らず知らずのうちに、各種の欺きや誘惑にさらされて、神の霊を封じ込め、神から来たのではない霊の影響下に陥ってしまう危険性があるということである。いや、一旦、霊的な人になった信者であるからこそ、全く霊的な方面に関して閉ざされている信者よりも、より一層、偽りの霊からの攻撃を受けやすくなっているのだということを知らなければならない。

 以下は、ジェシー・ペン=ルイス夫人著「魂と霊」第五章「霊的なクリスチャン」の中から、「霊の人が直面する危険」の抜粋。
 

* * *

 真に「霊的」になった信者、すなわち霊によって魂と体を治めている信者は、その時、戦いの領域から出たわけではありません。むしろ、エペソ人への手紙6章10~18節に記されているように、いっそう微妙な戦いの段階に入ったのです。エペソ人への手紙2章6節では、その人は「キリストと共に天上に座らされて」いると言われています。しかし後の方では、彼が「高きところ」にいる悪霊の軍勢と「格闘」している様子が描かれています。彼は特に、悪魔の「策略」に立ち向かわなければなりません。

 これからわかるように、戦いの中にある霊的な信者は、おもに霊の敵の巧妙な霊的策略に対して警戒しなければならないのです。敵は彼を、ガラテヤ人への手紙5章17節で描写されている肉と霊の戦いよりも、霊の領域に関する事柄に巻き込もうとしています。

 戦いのこの局面における暗闇の軍勢の策略は、霊の人を霊にしたがってではなく、ある程度魂にしたがって歩ませること、すなわち、神の聖霊と協力している霊によってではなく、感覚領域の中にある事柄によって歩ませることに、おもに向けられています。

 サタンの欺く霊どもは、人の霊の偽物を魂の領域に造り上げることができます霊的な信者はこのことを理解しなければなりません。これは重要です。欺く霊どもは、策略を用いて外なる人に接触することにより、次に霊からではない動きをその人の中に生じさせることにより、これを行います。このような動きは霊的に見えるかもしれませんが、いったん主導権を握ると、真の霊の動きを封じ、圧倒するほど強くなります。もし信者がこのような敵の戦略を知らないなら、たやすく真の霊の動きを棄ててしまうでしょう。彼は、「霊にしたがって歩んでいる」つもりなのですが、霊的な感覚の偽物にしたがっているのです

 真の霊の動きがやむ時、「神は今、新しくされた思いを通して導いています」と悪霊どもはほのめかすかもしれません。これは、彼らの偽りの働きと、人が霊を用いていないことを隠すためのたくらみです。それと同時に偽りの光が思いを照らし、続いて偽りの推論や判断などが生じます。その人は、「自分は神からの光を持っている」と思います。なぜなら彼は、自分が「霊にしたがって歩く」ことをやめてしまったこと、そして今、天然的な思いにしたがって歩んでいることに、気づいていないからです。

 霊の人が直面するもう一つの危険は、彼を肉(体)にしたがって歩ませようとする、サタンの欺く霊どもの巧妙なたくらみにあります。欺く霊どもは、人が「霊的」だと思う感覚を体の中に生じさせることにより、「自分はなおも霊にしたがって歩んでいる」という確信の下で、人を肉にしたがって歩ませようとします

これらの策略を打ち破るには、超自然的事柄を知覚するすべての肉体感覚だけでなく、通常の事柄を知覚する過度の肉体感覚をも拒まなければならないことを、信者は理解しなければなりません。なぜなら両方とも、思いを「霊にしたがって歩むこと」から逸らし、肉体的な感覚に向かわせるからです。

過度の肉体感覚は、絶えず精神を集中する妨げでもあります。敵は、霊的な信者の「肉体感覚」を「攻撃」することによって、精神の集中を乱し、霊を覆おうとします。ですから、体は平静に保たれなければなりませんし、完全な統制の下に置かれなければなりません。この理由により、過度の笑いや、精神と霊を支配するまでに肉体のいのちを高揚させるすべての「衝動的行動」は、避けなければなりません。「霊的」になって、神のいのちの中で「成熟」することを願う信者は、万事について、行き過ぎ、無節制、極端を避けなければなりません。(コリント人への第一の手紙9章25~27節参照)

 人の肉体的部分が支配し、体に感じる超自然的経験を誤解することから、体は霊の働きをさせられ、真の霊の動きを抑圧する最高の地位に無理矢理着かせられます。このような状況の下、は圧迫を感じ、葛藤を感じます。こうして、精神と霊のかわりに、体が「感覚」になります。信者は、真の霊の感覚を識別することを学ばなければなりませんし、それを見分ける方法を知らなければなりません。霊の感覚は、感情的(魂的)な感覚や肉体的な感覚ではありません。(マルコによる福音書8章12節、ヨハネによる福音書13章21節、使徒の働き18章5節などを参照)*

(筆者コメント:
 敵は信者の中に、偽物の「霊的感覚」を作り出します。それは御霊から来たのでなく、信者自身の魂から来るさまよう思いと、感覚(五感)に頼った刺激なのですが、信者はそれが「偽物の霊的感覚」であることに気づかず、それらが神から来たものであると思ってしまう場合があります。
 また、敵は信者に、五感に頼った外的刺激を霊的感覚であると取り違えさせることがあります。あまりにも五感から来る刺激が素晴らしく、快楽的である場合、信者の魂は、それに病み付きになり、自分が外的刺激のとりこにされていることにも気づかずに、むしろ、それが神の恵みであり、自然な生き方であると取り違えさえするのです。このようにして、自分を楽しませる刺激に過度に(もしくはひっきりなしに)身を委ねることを、私たちは警戒しなければなりません。)

 無知のゆえに、信者の多くは、「霊にしたがって歩んでいる」と感じながら、「魂にしたがって」、すなわち思いや感情にしたがって歩んでいます。信者は活気に満ちた霊の力を奪われています。悪魔の軍勢は、あらゆる策略を用いて信者をおびき寄せ、魂や体によって生きさせようとします。悪魔の軍勢は、閃く幻を心に見せたり、祈りの間思いに出現したり、強烈な喜びや生命の躍動感を体に与えます

(筆者コメント:
キリスト教界で頻繁に、神の名を語って与えられる幻や、祈りの時に信者に与えられる思いや、個人預言などが偽りである危険性がまことに高いことについては、再三、このブログでも触れてきました。それらは全て直ちに信ずるに値するものではなく、御言葉を通して吟味、識別しなければならないものであることには何度も触れました。しかし、ここで注意が必要なのは、別のことです。たとえば、強烈な喜びや、生命の躍動感などといった、一見、宗教とは何の関係もないところで起こる、極めて自然に思われるような感覚でさえ、敵からの欺きの感覚として信者に与えられる場合があることに、改めて注意してください。敵の狙いは、物質界から来る刺激を、私たちに唯一のリアリティとして信じ込ませて、真のリアリティである神の霊の領域から目を逸らさせることです、物質に目を向けさせて、御霊を見失わせることなのです。)


 外から与えられる超自然的事柄や、感覚領域の経験に頼ることは、内側の霊のいのちを妨げます感覚による「経験」というエサによって、霊の真の領域に生きるかわりに、体の外側の領域に生きるよう、その信者はおびき寄せられますその時彼は、自分の中心から行動することをやめ、自分の周辺領域で外側の超自然的働きに捕らえられ、無意識のうちに内側で神と協力することをやめます。そして、霊の敵と戦う聖霊の器官である彼の霊は、機能停止に陥り、黙殺されてしまいます。なぜなら、その信者は感覚的な経験で満たされているからです。その結果、霊は事実上、導く働きをやめ、奉仕や戦いの力を与える働きをやめます。

 聖霊と協力せずに働く人の霊から、深刻な危険が生じます。霊が魂から「切り離され」、支配的になる時、それは全く違った方法で欺く霊どもの影響を受けるようになります。前に示したどれかの方法により、あるいは他の方法により、(無意識のうちに)聖霊と協力することをやめてしまった人を考えましょう。

彼はなおも自分の霊によって導かれています。彼は、「自分の力強い霊は神の力の証拠である」と考えます。なぜなら、他の方面で聖霊が自分を用いて魂を勝ち取られるのを、彼は見るからです。このような幻想の下、彼の霊の中に怒りが込み上げてくるかもしれません。彼は、その怒りはまったく神からのものであると考えて、怒りをぶちまけます。しかし、真の識別力を持つ他の人々は、明らかに神からではない荒々しい調子に気づきます。

(筆者のコメント:
 欺く霊からの影響が、怒りの爆発や、過度な落ち込み、悲嘆など、あからさまにネガティヴな感情となって現れる場合は、周囲にいる人々は、その人が神の霊でないものに影響され、異常事態に陥ったことに比較的簡単に気づくでしょう。しかし、それが、普段より少しばかり大目の陽気さ、かなりの活発さ、多大な喜び、子供のような無邪気さ、歓喜や興奮、楽観、有頂天、自己愛、御霊に基づかない予知能力や、各種の霊的な洞察力となって現れた場合、そのようなものが、悪魔的起源を持つものだと、すぐに人々が見抜くことは困難です。なぜなら、それはすぐにその人や周囲に破滅的影響を及ぼすわけではないからです。しかし、このような影響は必ず、その本人を徐々に、そして最終的に破滅へと導いていきます。)


祈る人が警戒していなければ、語る時だけでなく、戦いの時にも、このようなことがすぐに起きるでしょう。悪魔的な力は、直接的に、または魂的な感情を通して、霊に影響を及ぼします。

 悪霊は人自身の中の神の働きを真似します人が聖霊と協力していない時、彼の霊は悪霊の影響を受けます。神と共に歩むことを求める信者は、この影響を理解し、見抜く必要があります。彼は霊的だからこそ、彼の「霊」は霊の領域の二つの力に対して開かれているのです。彼はこのことを知る必要があります。

もし「聖霊だけが霊の領域の中で自分に影響を及ぼすことができる」と考えるなら、彼は確実に誤りに導かれるでしょう。もしそうだとしたら、彼は絶対に間違いを犯さなくなるはずです。しかし彼は、目をさまして祈り、神の真の働きを偽物から区別するために、理解力の照らしを求める必要があります

(筆者のコメント:
キリストはカルバリーで勝利を取られ、天に昇り、御座につかれましたが、私たちはまだこの時空間に残されて、神とこの世の両方の陣営から引っ張られ、両方の影響を受けながら、神のために戦うことを要求されています。私たちはおびただしい敵に包囲されています。そこで真に勝利するためには、私たちは霊的に目を覚ましていなければなりません。それがなければ、私たちは敗北するでしょう。目を覚ましているとは、敵の働きが深く強力であり、自分では太刀打ちできないことを知り、決して、自惚れや、増長や、霊的怠慢、平和ボケに陥ることなく、絶え間なく、イエスの十字架の死と復活と昇天の力を自分のものとして受け取り、神の武具によって武装し、敵の欺きを看破し、来るべき試みに対して警戒していなければならないということです。)

 「霊的」な信者は、エペソ人への手紙第6章に記されている天的戦いの啓示を、深く熟慮しなければなりません。そして、「神のすべての武具」の経験的な意味を完全に知るよう努めなければなりません。敵の猛攻の「邪悪な日」に際して、彼は神のすべての武具を「取り」、用いなければなりません。

 この現在の時における神の霊の負担は、キリストの体の肢体を完成させること、完全に成熟させることです。それは、彼の再来が速やかに起こり、キリストとその共同の相続人たちの千年間の統治がもたらされるためです。こうして、世界は平和になり、サタンは敗北します。サタンは穴に投げ込まれ、この世の王国は主とそのキリストの王国になります。

 「主イエスよ、速やかに来てください。アーメン」

(筆者のコメント:
 言葉を変えるならば、千年王国が来るまで、戦いは少しも終わってはいないのです。それにも関わらず、キリストの勝利だけを指して、戦いはすでに終わっているので、クリスチャンは警戒する必要もないと思ったり、敵を何らかの団体や組織だけに限定して、それに近づきさえしなければ、自分は守られていると浅はかに考えようとすることは、私たちを敗北へと導くでしょう。
 私たちはこの世の影響に絶えずさらされており、この世は私たちを絶えず魂と肉に従って歩ませようとします。この世から来る全ての影響が、私たちの注意を御霊から逸らせます。しかし、私たちはキリストの身体をさらなる完成、成熟へともたらすために、絶え間なくこの世を拒み、私たちを滅びゆくこの世の影響力、外的刺激、魂の衝動に服従させようとする、敵のあらゆる策略を打ち砕き、それに勝利し、暗闇を駆逐しながら、御霊の照らしを受けて、まことの命である復活のキリストだけを選択し、前進していかなければならないのです。すべての命と勝利は(サタンの敗北でさえ)キリストの中に含まれており、キリストは完全な勝利を取られたのですが、しかし、この時代にあって、この時空間の中で、私たちが真実、それを受け取るためには、私たち自身がキリストの勝利をこの地に現実にもたらし、暗闇に支配される世に光をもたらす必要があるのです。それには、私たちが目を覚まして、敵の策略に一つ一つ打ち勝つことが不可欠なのです。


 どうか御霊の光によって、私たちが、神の霊ではないものを識別し、それらを看破して退け、私たちを、魂と、肉へと引き戻し、感覚に従って歩ませようとする全ての偽りの影響から抜け出すことができますように!)

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神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえ刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
私たちは、さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち破り、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を制する用意ができているのです。」(Ⅱコリント10:3-6)
 
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえ刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル5:12)


さて、魂と霊を混同する危険については、記事でも少し触れたが、魂と霊の切り分けについてもう少し考えてみたい。
いかにして信者は「魂的」なものを拒んで、「霊的」になることができるのであろうか?

おそらくそれは瞬時になしうることではないものと思われる。なぜなら、十字架の死の働きは、信者に一生を通じて影響を及ぼすものであり、徐々により深くなって行くからである。生まれたての信者が「肉的」であったとしても、それは当然のことであり、信者はそれを悔いる必要もないし、反省させられたり、懺悔させられたりする必要もない。

従って、信者は自ら「早く霊的にならなければならない」と思って苦心惨憺する必要はなく、御霊の啓示によって知らされていないことについてまで、あれこれ自分自身を吟味して、進歩のなさを嘆いたり、悔いたりする必要もない。ただ平安のうちに神を信じて御霊の照らしを願うのみである。そして、信者はただ御言葉に従って、自分の肉が(古き自己が)キリストと共に十字架につけられて死んだ、という立場に立ち続けるのである。

仮にある信者が、堕落した肉の力によって宣教しようともがいていたとしても、その信者自身が、何が霊に属するものなのかを知らないうちは、おそらく、主がその人を罪に問われることはないものと思う。ただし、肉から出たその働きは無益であり、実を結ばない。

たとえば、懸命にトラクトを配り、拡声器を持って声を張り上げてメッセージを宣べ伝え、人を説得し…。そのような熱心な活動が、今日、多々、クリスチャンの間で伝道だと思われているが、これは魂の影響力を用いているにすぎず、しかも、すべては人に向かっており、神に向かっておらず、無益である。

なぜなら、外側からの影響力は、人を本質的に変える力を持たないからである。様々な熱心な説得や、働きかけを通して、外から懸命にその人をある方向へ引っ張っているうちは、人はついて来るかも知れないが、引っ張る力がなくなれば、糸の切れた凧のように彼方へ飛んで行くだけである。

たとえこの世の最も厳しい強制力(たとえば刑罰)を用いても、人がそれによって根本的に変化することはない。

人を本質的に変えることができるのは、霊的な力であり、その人の内側に直接、変化をもたらすことのできる力としての御言葉である。御言葉が、真に霊的な信者と結びついて、信者によって行使されるとき、初めて、御言葉が衝撃力となってこの地にもたらされるのである。

しかし、そうした御言葉の使い方を、信者が一瞬にして知ることはできない。

そして、あまりにも多くの偽物の「霊的活動」が今日、キリスト教界を覆っている。霊的な事柄を何も知らない信者は、常に人の頑張りの領域で、熱心に宣教しているが、それは暗闇の勢力にとっては何の脅威にもならない。人の生まれながらの力により頼んだ努力は、どんなに一生懸命に取り組んでも、効果が知れているからである。

だが、御霊によって生き始めた信者が、堕落した肉の力に誘われて、肉の領域にとどまって、魂的な力により頼んで活動を続けると、これよりもさらに深い危険が生じる。そうすると、霊的な力と、魂的な力が混合されて、超自然的な影響力を及ぼすことになるからである。
 
当ブログにおいて異端の教えの構造を調べているうちに、筆者は、ペンテコステ運動というものは、途中から偽りの運動へと変質したのではなく、どうにも最初から誤った霊的運動だった可能性が高いと考えるに至った。

筆者は、当ブログにおいて再三、ペンテコステ運動に一度でも関わったことのある信者の内側には、危険な霊的影響が残ることを指摘して来た。それはただ彼らが魂的な力と霊的な力を混同しているためだけではない。もっと深い何かしらの霊的悪影響が存在するのである。
 
ペンテコステ運動は、もともと聖書の御言葉を教義として理解するだけの知識や教養を持たず、教会に通って献金を払う余裕もないような社会的弱者の救済運動として始まった。

もともとこの活動は、教会から打ち捨てられ、学問的な素養も持たない社会的弱者に手っ取り早く手を差し伸べるべく、超自然的な癒し等の奇跡体験を強調して始まったのであるが、今日も、この運動が、既存の教会からは見捨てられた社会的弱者を盛んに引きつけている点は変わらない。

そして、こうして教会や社会から見捨てられた社会的弱者を対象としていればこそ、この運動に関わる人々には最初から最後まで「被害者意識」がつきものなのである。そしてこの被害者意識は、信者が家庭や社会において「自分はいたわられるべき弱者である」と考える受け身の意識を生むだけでなく、最終的には、自分は「キリスト教の被害者である」という意識へと結びついて行くのである。

今日、ペンテコステ運動に関わったことのある信者にはある共通した「弱者の意識」、「被害者意識」が見られる。これは男女を問わず共通しており、女性の場合は、人生全体を受け身にしてしまうほどの圧倒的な無力感をもたらす。多くの場合、彼女たちは、家庭においても、自分が(夫や家族の)被害者であり、いたわられるべき弱者であるという思いを捨てられないでいる。男性であれば、この被害者意識が義憤と結びついて、生涯を何らかの無益な改革・救済活動に費やさせるというパターンが多い。

さらに、この運動に関わったことのある信者には、筆者のこれまでの経験から見ると、ほとんど例外なく、何かしらの悪霊に由来する超自然的な活動を行う力が備わっていた。むろん、御霊の働きに比べれば、極めて限定されており、相当に愚かで盲目的な力ではあるが、彼らには一定の霊的な透視能力、もしくは人に暗示をかけたり、あるいは呪いを及ぼす力などが備わっているのである。

こうした堕落した霊的な力は、強力な霊的な力を持つリーダーのみならず、それと知らずに彼らに操られている信者たちを通しても働く。彼らには一定の支配領域がある。

たとえば、カルト被害者救済活動を支持する杉本徳久氏の危険な活動については、当ブログで再三に渡り、述べて来た通りであり、同氏がいかに支持者を自らの悪しき活動に巻き込むことができたかも、一連の記事で示してきた。このようにして、一度でもペンテコステ運動に関わった人々は、霊的に悪霊の「要塞化」してしまう現象が度々起きるのである。
 
Br.Taka氏のみならず、杉本徳久氏もアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の出身であることは、Dr.Lukeが記事で指摘している。同記事によると、杉本氏はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信仰生活につまづいて他宗派に去ったようである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が正体不明かつ行き過ぎた様々な霊的なムーブメントの温床となっていることは、当ブログでも警告している通りであり、この教団に関与することは全くお勧めできない。

しかしながら、杉本徳久氏の場合、依然として同氏がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師の活動を支持している様子を見ても分かることは、すでにそこから離脱しているにも関わらず、本人の心の内側深くに、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(ペンテコステ運動)との断ち切ることのできない霊的なつながりが残っており、霊的な影響においては、未だにこれと一体であるという事実である。

つまり、自らおかしいと気づいて関わりを断ち切ったはずのものを、依然、自らの活動を通して擁護する形になっているという自己矛盾が見て取れるのである。(だが、こうした点は、キリスト教界の偽りを叫びながら、KFCで自らアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒をメッセンジャーに据えたDr.Lukeも全く同じである。)
  
これらの人々に共通する点は、キリスト教界に対する尽きせぬ告発、敵意、憤り、被害者意識、復讐心、そして信者に対する「呪い」であろう。 すでに述べたように、筆者は、上記の三者がみな一様に「呪いの言葉」を口にするところに立ち会っている(杉本氏からの呪いはブログやメールによる)。

むろん、筆者には悪霊の言い分を信じる筋合いは全くないので、そのような事実無根の言葉は、ただ御言葉と小羊の血潮に照らし合わせて退けるのみである。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)
  
そもそも、キリストは十字架においてすべての呪いを背負って下さったのであり、もはや信者が自分で背負わなくてはならない呪いは存在しない。小羊の血潮に立っている限り、信者が罪に定められることはないのである。他の兄弟姉妹も、そのような話を聞いても、悪霊どもの嘘を退け、笑うのみであった。
 
だが、なぜ彼らがそうした呪いの言葉を盛んに他の信者へ向かって述べ立てずにいられないのかを見るときに、やはり、彼ら自身が、キリスト教界で味わった深い孤立感、疎外感、絶望感、彼ら自身が他の信者から受けた呪いの言葉などが土台となって、その魂の傷に悪霊がつけこみ、自ら受けた呪いを他者に転嫁すべく、餌食となりそうな人々を求めてあちこちさまよっている様子が見えて来るのである。

たとえば、キリスト教界との訣別の必要性を明らかにしていた点で、Dr.Lukeの言説にはかなりの正当性があった。しかしながら、同氏がそのテーマを繰り返し述べては、キリスト教界の「病理」を強調せざるを得なかったところに、やはり同氏自身が、キリスト教界で受けた仕打ちに対する拭い去れない深い心の痛みがあったのではないかと推測される。それがキリスト教界全体に対する罪の宣告となり、裁きの宣告となり、次には呪いとなって現れたのである。

その点は、プロテスタントのキリスト教界の不祥事を告発することを生業としている杉本徳久氏も同じであり、また、同氏の支持する村上密氏も同じだと言えるのではないだろうか。村上氏はあたかもアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団で順調に牧師としてのキャリアを積んで来ており、同教団に対して恨みを持つ立場にもないように見えるが、しかしながら、村上氏が行って来た実際の活動は、鳴尾教会への仕打ちにも見られるように、かなり早い段階から、プロテスタントの諸教会だけでなく、同氏自身が属する教団の教会に対しても、破壊的な影響を及ぼすものであった。今日に至っては、杉本・村上両氏の活動は、キリスト教界全体に対する復讐としか見えないようなものとなっている。この点で、キリスト教界を声高に非難し続けたDr.Lukeとも、かなりの共通性があるように見受けられる。
 
筆者は、村上氏が統一教会を脱会するきっかけとなった二つの出来事についてメッセージを聞いた記憶がある。一つ目の出来事は、「密、密、なぜ私を迫害するのか」という神の声を聞いて、己の罪を自覚して、滂沱の涙と共に誤った信仰を悔い改めたという体験であったが、こうした奇跡物語は誰一人としてその客観性を証明できないため、脇に置いておきたい。もう一つの出来事は、父親の厳しい叱責を受けてほとんど無理やり連れ戻されたという体験だったと記憶している。

もしかすると、そのあたりに、同氏の回心の不自然さや、本人も意識しない挫折感や孤独感の始まりとなるものがあったのかも知れない。どんなに誤った教えを信じたにせよ、本人の自主性を無視して、力づくでこれを放棄させられるという体験は、人にとって大変な屈辱とはなっても、決してプラスに働かない。

そこでこれを機に、表面的にはあたかもキリスト教を受け入れたように見えても、心の奥底では、正しい宗教という仮面をつけて自分のかつての信仰を打ち砕いたキリスト教への敵意や恨みが生まれたとしても不思議ではない。そうしたものも含めて、何かの体験がきっかけとなって、キリスト教そのものに対する無意識の敵意や復讐心が生まれ、生涯かけてキリスト教界全体を敵視するかのような破壊的な活動を生み出した、という推測も可能である。(しかし、原体験となるものはもっと前に形成されていたはずだと筆者は考える。)

いずれにしても、上記の人たちに共通しているのは、既存のキリスト教界につまずいた経験と、それゆえに、キリスト教界に対する捨てられない激しい憤りと復讐心である。こうした魂の傷が侵入口となって、悪霊の活動を受け入れるきっかけとなって行ったのである。

彼らはみなキリスト教界につまずいたり、そこを追い出されたりした人々であり、ある程度、偽りが見えていたという意味においては、半分は正しかったと言えるかも知れない。だが、彼らは、決して自分自身の心の真実と向き合うことをせず、自らの心の傷の存在を認め、その癒しを求めるのではなく、これを他者に転嫁・投影し、他者の救済者になることで、己の傷を癒そうと試みたのである。

そのため、彼らは決して求めている解決に到達することはできなかった。そればかりか、教界の偽りに気づいて抜け出そうとしていたはずの彼らが、今度は、そこから抜け出そうとする信者たちに向かって、「おまえだけを決して自由にはさせないぞ!!」とでも言うかのように、全身全霊で離脱を妨げ、迫害と中傷と呪いの言葉を浴びせることにより、自ら告発しているキリスト教界から決して信者を逃がさず、その悪影響から立ち上がれないように信者を束縛するという奇妙極まりない自己矛盾に陥ったのである。

それによって、彼らは自ら訣別したはずのものを無意識に擁護しているのであり、彼ら自身、気づいて抜け出したはずの偽りを未だ後生大事にしっかりと握りしめて守っているのである。自分が虚偽と気づいたものからは、自由になるべきであり、他の人々も自由にすべきなのだが、その行動が全く逆になってしまっているのである。そして、被害者を助けると見せかけて、永久に自分と同じ心の傷の中に束縛しようとするのである。

ここに何かしら、傷ついた感情の癒着――加害者と被害者との深い堕落した霊的癒着――キリスト教界とそれを告発する人々の癒着――のようなものが見られる。そして、その癒着が深まれば深まるほど、当初は一方的に傷つけられた被害者だと主張していたはずの人が、残酷な加害者へと変貌を遂げて行くのである。そして、最終的には、自ら闘っていたはずの魔物と一体化することになってしまう。

この悪循環を立ち切らない限り、どんなにカルトを糾弾し、キリスト教界の偽りを糾弾しても、結果的には、彼らはそれと同一化する道を避けられない。同一化するくらいであればまだ良いが、敵とみなしたものよりも一層悪くなっていく危険性を否定できないのである。



さて、当ブログを再開してから、信仰生活において様々な苦労を経験したらしき人々が再び訪れて来るようになった。最近は特に、嫌がらせ目的の読者だけでなく、熱心に道を探求しているらしい人々も訪れている。

だが、こうした人々に言えることは、すべての出来事に意味があることを考えて、決して自分のこれまで辿って来た道を恥じないように、被害者意識を持たないように、ということだけである。

筆者は、幼い頃に教会に通い始め、そこで信仰を持ったが、その当時は、自ら教会を比較し、選ぶ自由は筆者になかった。それゆえ、自分が望んだわけでもないのに、望ましくない様々な出来事にも遭遇したし、そこを離脱する際にも、大変な苦労を味わったものである。その後、自分自身で聖書に基づく本当の福音を探し求め、神ご自身を知ることを求め始めてからも、波乱がなくなったわけではなく、こうしたことは、もし筆者が幼い時にキリストの福音に触れていなければ、全く起こらなかったことのように思われる。

だが、だからと言って、幼い頃にキリストの福音に触れたことが、無駄だったと考えることは全くないのである。これは決して、当時の教会の有様を弁護するために言うのでなく、その当時受けた教えが正しかったことの証明でもない。だが、たとえその当時、筆者のいた環境がどれほど不完全で、誤りに満ちていたとしても、そんな目に見える組織の有様のために、神を求める人の心の真実までが否定されることは決してないのである。

信仰がなければ、人は神を見いだすことはできない。逆に言えば、信者を神に導いたのは、指導者の説教やら、礼拝の雰囲気などではなく、その人自身の信仰であり、信者の願いに喜んで応えて下さる神の側からの働きかけがあったためである。そうして起きた神と人との出会いが無となることは未来永劫、決してないものと筆者は確信している。
 
神を求める人の探求は長い道のりであり、初めからすべてがうまく行き、真理の何もかもが最初から見えるということはない。必ず、何度も偽りに遭遇し、騙されそうになったり、危険な場所を脱け出したり、様々な紆余曲折を経ながら、純粋に御言葉だけに立ち続けることの意味が分かって来るのである。もし仮に何事も起きず、最初から最後まですべてが順調であったなら、おそらく、人はすっかり自己満足して、神を求める願いすら、失ってしまうのではないかと思う。

だから、たとえ信者が神を求める過程で、知らずに誤った教えに触れ、そのために時間を無駄に費やしたように思われることがあったとしても、こうした「余計な苦労」の全ても、神に至りつくためには必要かつ有益な道のりなのであり、たとえそれが信者の目に無益な失敗にしか見えなかったとしても、その苦労は、神が信者に約束して下さっている天の栄光に比べれば、取るに足りないはずである。(むろん、偽りの教えからは離れる必要があることは言うまでもない。)
 
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:16-18)
 
神は、ご自分の御名のために、主の民が地上で味わった苦労をすべて覚えて下さっており、信者の一つ一つの痛み苦しみから決して目を背けることなく、その苦労を豊かにねぎらうことのできる方である。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」(詩編126:5 )と書いてある通り、主の御名のために私たちが地上で味わった苦労は(たとえそれが自分の愚かな間違いのゆえに起きたことで、いかなる実も結ばないもののように見えたとしても、もし誤りが分かってそこから離れてさえいるならば、それさえ)無駄にはならないのである。

だから、信者が地上で失ったもののために嘆く必要は全くない。天での最終的な勘定は、信者に圧倒的に有利になるはずだからである。信者に必要なのは、失ったものを振り返って嘆くことではなく、与えられた時間の全てを神に注ぎ続けることで、見えない種をまき続けることだけである。
  
長いが、最後にペンルイスの警告を引用しておきたい。ここには、今日のキリスト教界に見られる礼拝と、ペンテコステ運動に見られるような危険な堕落した霊的・魂的な活動への両方の警告を見ることができる。また、心理学の危険についても触れられている。この文章を利用した詳細な分析はまた後日に譲る。



「魂の力」対「霊の力」
 第四章 「子は自分からは何もすることができない」

ジェシー・ペン-ルイス著

"SOUL-FORCE" VERSUS "SPIRIT-FORCE"
 Chapter4: "The Son can do nothing of Himself"
 by Jessie Penn-Lewis


「魂の力」の意味は、「その源が魂にある力」として簡単に定義することができます。そして、「霊の力」は「その源が霊にある力」として定義することができます。魂は両者が働くための媒体です。魂の力は魂の機能を通して現され、同様に霊の力も魂の機能を通して現されますこれを大ざっぱに次のように説明しましょう。上から下に並んでいる三つの区分を描いて下さい。そして、上の区分に「霊」、真ん中の区分に「魂」、一番下の区分に「体」という印をつけて下さい。それから、「霊」から魂に下って外に出て行く矢印を描いて下さい。この矢印は、人の霊の中に住んでおられる聖霊を表します。聖霊は霊から魂に下り、魂の機能を通して働かれます。次に、「体」の区分から魂に上がり、魂の機能を通して外に出ていく矢印を描いて下さい。一番目の矢印は、神から来る霊の力です。それは魂を強めます。二番目の矢印は「魂の力」、肉から生じて魂に流れ込み、外に出て行く力です。「魂」は中央の区画であり、「霊」の力と「魂」の力両方の媒体です。どちらの力が働いているか知るには、その実を見るしかありません。(参照マタイによる福音書七章一六、一七節)

「魂の力」の源は魂にあります。もっと正確に言うと、それは聖書が「肉」と呼んでいる体のいのち、動物的ないのちから生じます。今日、私たちの先祖が夢想だにしなかった、大いなる「魂」の力が発見されつつあります。これらの力の源は「肉」にあり、「霊」にはありません。たとえそう見えない場合でも、これは真実です。なぜなら、内住する聖霊の力によって再生された霊が治めるようにならない限り、「魂」は肉の力の下にあるからです。聖霊は、魂の機能を治めて用いることを願っておられます。たとえば、魂の機能の一つである精神は、魂の力によって強められ、生かされるか、聖霊によって新しくされ、強められるかのいずれかです。

霊の領域の中にあるものを真似て、魂の領域の中に造り出された偽物―――これが今日の危険です。多くの人は無知のゆえに、魂の力を霊的だと思い、それを発達させて、行使しています。しかし、キリストが語られた御言葉が試金石です。彼は「人を生かすのは霊である」と語られました。あなたの霊を通して聖霊から来るものだけが、神に由来するのです魂の中にある潜在的な力を神聖だと思っている人々もいますが、そうではありません。たとえば、「『癒しの賜物』はの内にあり、それを持つ人はその賜物を発達させる必要がある」と言う人々がいます。ある牧者は、「この力は『魂の力』と呼ばれることがある。……この力は、神にささげられる時、『聖霊の賜物』になる。……」と記しました。しかし、実際のところ、聖霊の真の賜物は霊なる神から人の霊を通して来るのであって、「魂」から来るのではありません。

また、「聖霊のバプテスマ」を受けた証拠としての「聖霊の現れ」を求めることに関しても、催眠術と同じような手法が導入され、こうして偽物がキリスト教会の中に入り込みました。他にも、自分の霊の中に聖霊の注入を受けているにもかかわらず、無知のせいで魂の潜在的な力を発達させてしまい、自分の生活や神のための奉仕の中に混ざりものを生じさせてしまった信者の例があります。たとえば、歌を何度も繰り返し歌うことは、集会を一種の催眠状態にもたらすことができます。このような状態にある人は、知的に判断したり、意志を用いて決断することができなくなります。

このように今日、魂の力の潮流が世界に押し寄せています。そして、悪鬼どもは自分たちの計画やたくらみを遂行しつつあります。「人を生かすのは霊であって、肉は何の役にも立ちません」。福音の宣べ伝え、教え、働きなどの奉仕に携わっている神の子供はみな、聖霊によって支配されているか、魂の力によって支配されているかのいずれかです。再生されたのは霊です―――「私はあなたがたに新しい霊を与える」。フォウセットは、「人の霊は聖霊が住まわれる宮であり、聖霊は人の霊を通して働かれる」と言いました。聖霊が人の霊の中に到来し、それを新しくして、そこに住まわれる時、聖霊は精神をも新しくして、魂の諸機能を治めて下さいます。霊によって歩んで、聖霊の働かれる条件を満たすなら、私たちはあらゆる行いにおいて「霊的」になることができます。聖霊が触れたものはすべて霊の証印を押され、すべての機能は変えられ、生かされ、高く上げられます。信者は「新しい人」になるだけでなく、自分の霊の中に神のいのちを持ちます。精神を新しくされることを通して、混乱した思いは過ぎ去り、精神は明瞭になります。

肉は何の役にも立ちません」。これは霊的な働きにおいて、なんと真実でしょう!もし、働きが魂の肉のいのちによってなされるなら、何の実も得られません。どんなに労苦しても、実はまったく得られません!なぜなら、働いているのは、天然のいのちによって強められた「魂」だからです。それゆえ、「何の役にも立ちません」。さんざん苦労しても、まったく成果はありません!「肉」が何の役にも立たない以上、魂の力もまた何の役にも立ちません。こう述べることは、聖書釈義的にまったく正しいことです。

ヨハネによる福音書から、主の模範を見ることにしましょう。主は、ご自分とご自分の力――主の場合、それは罪のない力でした――に対してどのような態度を取られたのでしょうか?私たちの主は、「私の肉を食べ」「私の血を飲むこと」について語られました(ヨハネによる福音書六章五三~五八節)。弟子たちはこれを聞いて、「これはひどい言葉だ」と言いました。この主の御言葉は、「肉は何の役にも立たない」という霊的真理を理解することと関係していました。肉にとって、そして霊の事柄を受け入れることのできない生まれながらの人にとって、主の御言葉は「ひどい言葉」に聞こえます。

主イエス・キリストは「子は自分からは何もすることができません」と言われました。これは何と驚くべき御言葉でしょう!主は決して自分自身の活動をされませんでした。主は御父のなさるわざを見て、その通りに行われたのです――「私の中に住んでおられる御父が、ご自分の御業をしておられるのです」。私たちは、何が主からのものであり、何が自分自身からのものなのかを見極め、言葉や行いをもって神と共に働くことを学ぶまで、一歩一歩絶えず主を待ち望む必要があります。

また、主イエスは言われました、「私は聞くとおりに裁くのです」、「私は人からの栄光を受けません」、「私が来たのは、自分の意志を行うためではありません」、「私は自分の栄光を求めません」。神へのまったき信頼―――これが主の取られた立場であり、私たちが取るべき立場です。主はまた、「誰も御父が引き寄せて下さらない限り、私のもとに来ることはできません」と言われました(ヨハネによる福音書六章四四節)。

神の真の子供たちが今日直面している危険は、魂の力の存在を知らずに、それを発達させてしまうことです。また、広く普及している心理学の教えから来る危険もあります。心理学は、「あなた方は認罪、回心、再生によってではなく、精神療法によって、自分の『弱さ』から救われることができます」と教えます。神の子供といえども注意する必要があります。決して心理学的な自己像を抱いてはなりません。また、霊・魂・体の「諸法則」に気を取られるあまり、聖霊ご自身に信頼することを忘れてはなりません。聖霊はキリストから受けたものを、私たちに啓示して下さいます。今日の大いなる超自然的運動の中には、膨大な量の魂の力があります。私はたった今、ある大きな癒しの運動に関する手紙を受け取ったばかりです。手紙の差出人は次のように記しています、「この運動はまったく間違っています。数千もの人が続々とやって来ますが、それでも間違っています。人々に『手を置く』指導者がタバコを吸い、ウイスキーを飲んでいる有様です。こんな状態でいったい何を期待できるというのでしょう!」。

クリスチャン生活における「魂の力」の危険性について、もう少し述べることにします。意志と関係する「魂の力」も存在します。主は意志を解放して、それを強めて下さいます。しかし、意志は肉によってではなく、御霊によって強められなければなりません。魂の力の危険性の一つは、意志による祈りです。魂の力によって強められた意志を用いて祈るなら、その意志の力を他の人に及ぼしてしまうかもしれません。この危険性を知らない信者の中には、「××さんは、これをするべきです」とか、「これをするべきではありません」と言って、自分の思いを祈りの対象に投影する人がいます。魂の力によって祈る危険性を避けるには、神に向かって祈るよう常に注意する必要があります。すべての祈りを神に向けなさい。また、誰かのために何かをするよう神に指図してはいけません。「××さんを導いて下さい」と神に願う分には結構です。しかし、「××さんはこれこれのことを『するべきです』」とか、「これこれのことを『するべきではありません』」と言ってはなりません。他の人々のために祈る時、神の御旨に関する自分の見解や、悪に関する自分の判断を祈ってはいけません。私たちは一つからだの肢体ですが、各々はただ神に対してのみ責任を負っています。私たちが立つにしても、倒れるにしても、それは主の御前でのことなのです。

それから、礼拝において魂の力を引き出してしまう危険性があります。主は、「神は霊ですから、神を礼拝する者はと真理の中で礼拝しなければなりません」と言われました。それでは、教会の中で感覚的なものが奨励されている事実は何を意味するのでしょう?どうして、月曜から土曜までこの世的な生活をしている人でも、日曜日に教会に行って幸せな気分になれるのでしょう?彼らが幸福で心地よい気分になったのは、音楽などの影響によるのではないでしょうか?彼らは満足を与えられました。しかし問題は、彼らが本当に罪を認めて、再生されたかどうかです。音楽を演奏することはいけないのでしょうか?そんなことはありません。歌には神への賛美が込められています。しかし、ローマ・カトリック教会の礼拝の中に見られる、魂的な要素の数々を考えてみて下さい!アンドリュー・マーレーは、「魂の月並みな働きが礼拝の中に侵入している」と指摘しました。彼はさらに付け加えて、「人々が罪に打ち勝つことができない理由の一つは、彼らが自分の宗教生活の中に魂のいのちを持ち込んでいることである。しかし、彼らはこれをほとんど考えもしない」と述べました。彼らは礼拝の中に自己(肉)を持ち込み、こうして肉的な罪を生かし、活動させています。彼らは「自分は『肉』を始末したはずなのに、どうしてまだ肉が残っているのだろう?」と疑問に思います。「罪」の力は、神への礼拝の中にある魂の働きにあります。それは、宗教生活の覆いの下に隠されている「肉」です。私たちはまず第一に、神に近づく必要があります。次に、私たちは霊と真理の中で神を礼拝しなければなりません。「なぜなら、神はこのような礼拝者を求めておられるからです」。

今日、霊的な信者が直面している危険は、魂の力の危険です。思いを四方に押し流す潮流がいくつもあります。多くの人がそれらの潮流に捕らえられており、無防備です。キリストの死の中に立って、それが自分と空中の軍勢とを隔てるよう求めるなら、あなたはそれらの潮流を完全に自分から断ち切ることができます。

私たちの思いは本当に新しくされたでしょうか?それは神の霊によって力づけられているでしょうか?それとも、私たちは生まれながらの人の思いしか持っていないのでしょうか?今日の合理主義は、知的な議論によってではなく、霊の力と祈りによって対処することができるでしょう。霊にしたがって生活し、霊に従って歩む方法を、主が私たちに教えて下さいますように。新しくされた思いによって、魂と霊の違いを識別することができますように。「神の言葉は生きていて、力があり、魂と霊を分けます」。魂のいのちは十字架上で死に渡されます。そして、私たちは「霊的」になります。




魂の命を否む(1)

魂の命を否む

「信者が十字架上での主イエスの身代わりの死という恵みを受ける時、神はその命を彼の中に置き、彼の霊を復活させます。この新しい命はそれと共に新しい性質をもたらします。その時以来、その信者の中には二つの命、霊と魂の命とがあるようになります。彼の中にはまた二つの性質、神の性質と肉とがあるようになります。」(ウォッチマン・ニー、『クリスチャン生活と戦い』、日本福音書房、p.98-99)

キリストを信じ受け入れた時から、私たちの中には、肉、魂だけでく、神の霊が宿ります。信じる以前には私たちの霊はただ死んだ状態にありました。しかし、神の霊の命が私たちの内に宿るとき、私たちの霊も、御霊の命によって再生され、新しく生かされるようになります。信仰生活において、私たちがきよめられるためには、私たちは肉から脱却し、魂的なものからも脱却し、ただ御霊によって生きることを学ばなければなりません。

しかし、今日、多くのクリスチャンは、キリストを信じたとはいえ、依然として「肉的なクリスチャン」の段階にとどまっています。彼らの霊の命は肉に閉じ込められ、まるで再生されていないかのようなみじめな状態にあります。彼らの日々は、肉の欲との絶えざる格闘です。どんなに聖書を読み、御言葉に従いたいと願っても、罪の誘惑が強い力で彼らを後ろへ引っ張るので、それと格闘するだけで日々が過ぎていきます。罪を犯すのをやめようと思っても、やめることができません。この肉的な段階は、アクセルを踏みながら同時にブレーキを踏むようなもので、クリスチャンは勝利と敗北の間を行ったり来りするだけで、前進していくことはほとんどできません。彼はまことの命を実際に生きるということを知りません、依然として、悪い思いの数々の影響下にあり、罪のとりこにされています。サタンにとっても、このような罪の捕われの状態にあるクリスチャンはほとんど何の脅威にもならないでしょう。

次の段階として、「魂的なクリスチャン」がいます。彼らは「肉的なクリスチャン」よりは、少し前進した存在だと言えるでしょう。なぜならば、彼らは十字架上でのイエスの死を自分のものとして受け取ることによって、自分の肉が十字架につけられるということを実際に経験したからです。まだ肉体を持って生きているとはいえ、十字架で、自分の肉に対して死ぬことを学ばされたので、もはや以前のように、汚れた肉の欲のままに引きずりまわされることはありません。彼らに対して、肉は十字架を通して一定の効力を失い、弱められました。彼らは肉の思いではなく、御霊の思いによって、新しくされ、新しい命に生きることをある程度、学んでいます。

この段階のクリスチャンは、神の聖なる霊が自分の内に宿っていることを文字としてでなく、徐々に、実際に経験として知っているでしょう。彼の思いはきよめられ、彼の自己は大きく対処されました。御霊に導かれるようになった彼は、もうあからさまな罪を犯すことはできなくなりました。しかし、多くのクリスチャンは、この段階へ来ると、あたかも自分が高度な成長を遂げたかのように誤解し、そこで自己満足してしまいます。肉的なものにある程度、死ぬことを学んだだけで、それがキリストにあって得られる勝利の全てであるかのように誤解してしまうのです。肉に引きずられさえしなければ、自分が勝利しているのだと思い込んでしまうのです。

しかし、本当の闘いはまさにここから始まると言えます。肉的なものが十字架で対処されなければならないと同様、魂的なものも、同じように、十字架で対処されなければならないのです。しかし、そのことを今日、ほとんどのクリスチャンは知らされてもいません。私たちは肉の罪深さについては知っていますが、魂の堕落した性質についてはほとんど知らないのです。人間の魂というものが、いかに自己を愛するものであり、自己のためだけに企画・提案を行うものであり、呪われた旧創造に属する性質を多く含んでいるか、私たちは知りません。私たちの心がいかに欺くものであり、神の御前に汚れているものであるかということを、上から示されることなくして、私たちは自分では思いもかけないのです。


魂のクリスチャン

なぜ彼は魂のクリスチャンなのでしょうか? わたしたちは、いかにして十字架が働き、いかにして信者たちの肉、罪深い性質がそこで十字架につけられたかを見てきました。しかしながら、魂の命は依然として残っています。すべての罪は肉からやってくるのであり、魂はただそれによって導かれ、その操り人形として行動するだけですが、魂はアダムから受け継がれたものであり、完全に汚されているわけではありませんが、アダムの堕落によって影響を受けていることは避けられません。

天然の存在と神の命との間に違いがあることは、真実です。信者の中にある汚れた肉は死にましたが、彼の魂は彼の生活の背後で力を持ち続けます。罪の性質は死にましたが、自己の命は残っています。ですから、必然的に、人は依然として魂からのものです。

今や、罪深い性質、肉は死にましたが、魂は人の振る舞いの背後で力を持ち続けています。神の性質が肉に置き換わったのであるからには、自然に、すべての好み、願望、提案は義しく(ただしく)なり、もはやかつてそうであったように汚れたものではありません。しかしながら、この新しい性質の提案と願望を遂行しているのは、依然として、以前の魂の命なのです。<…>

 わたしたちは、必ずしもすべての魂の経験が邪悪で、汚れているわけではないことを、認識する必要があります。肉というのは、罪深い性質がある限り、汚れた、罪深い事柄を産出しますが、魂は必ずしもそうではありません。魂の命とは、わたしたちの本来の命、すなわち、わたしたちを生きた被造物とする命にすぎません。この命は、いったん罪深い性質、肉から切り離されれば、必ずしもその思うことが常に邪悪であるわけではありません。多くの人は、最初から生まれつきの善、忍耐、愛、優しさを持っています。これらの徳は、誕生によります。」(p.100-101)

 それぞれの魂には、個性があり、長所や美徳もまた備わっています。私たちが神を愛するのは、魂を経由して愛するのであり、私たちが心から主を讃美する時、私たちの魂も霊と共に喜び歌います。私たちは自分の魂を注ぎ出して、主に祈り、仕えることが求められています。ですから、クリスチャンは、決して、魂のあらゆる機能がすべてが悪いものであると決めつけ、魂そのものを敵対視して、魂そのものを滅却しようとする必要はありません。しかしながら、たくさんの長所を帯びているように見えても、私たちの魂は、深くアダムの堕落によって汚染されており、この堕落した部分について、私たちは神の対処を受ける必要があるのです。このことを知らないまま通り過ぎてしまうと、自分では御霊によって生きていると思いながら、実は、魂の堕落した性質によって御霊を閉じ込め、御心から遠く離れた生活を送ってしまう危険性があります。

 「クリスチャンは自分の肉を十字架につけた後、一つの危険性の中にあります。それは、神の性質からの新しい提案を、魂の命の力によって遂行することです簡単に言えば、これはわたしたち自身の力によって善を行うことです。このような人は、部分的には成功するかもしれません。これは正確にはそれています。信者たちが、『自分の自己を活用する』と効果があると見いだす時、自分は霊的な成長に到達したと考えます。彼らは、魂の力によって善を行っていることに、気がついていません。彼らは善を行っているかもしれませんが、依然として魂的です。<…>

霊の命それ自身は、とても強いものではありますが、魂の命の深く根ざした働きは、わたしたちの全存在を支配します。人が進んで自分の魂の命を捨て、霊の命が生き、働くようにしなければ、霊の命が発展する可能性はほとんどありません。

 霊的なクリスチャンとは、聖霊に自分の霊の中で働いてもらう人です。かれは 聖霊を自分自身の霊の中に住まわれるかたとして受け入れ、聖霊によって与えられた命に、自分の歩みのために必要となるすべての力を供給してもらう人です。彼の生活の原則すべては、もはや思いや感情によって導かれたり、影響されたりはしません。むしろ、彼は霊の中で冷静に生きています。

 魂のクリスチャンは、まさにその反対です。彼は霊の命を持っていますが、自分の霊の命から活力を引き出しません。むしろ、彼の日常生活は、依然として魂をその命としており、続けて思いや感覚によって導かれ、影響されています。」(p.102-103)

 魂的なクリスチャンの問題点は、彼が神の霊を受け、御霊の導きを受けながらも、同時に、依然として、自分の思いや感情、感覚を中心としてそれをエネルギー源としながら生きていることです。この段階にあるクリスチャンは、自分の力で神に従って生きようとして、活動に励むことが多いかも知れません。熱心に聖書を読み、熱心に伝道するかも知れません。人から善いと勧められることをみな実行しようと頑張っているかも知れません。しかし、彼はただ自分の心の提案に従っているだけであり、御霊によって生きているのではないことを知りません、自分の心を中心にすえて神の御心を成し遂げようとすることがもともと不可能であることを知らないのです。

 彼の思い、感覚、感情は、ある程度、きよめられて、以前のように肉に影響されたあからさまに罪なるものではなくなったでしょう。とはいえ、やはり、それらは彼の天然の人から出て来るものであって、自己を中心として活動し、自分を立て、自己を守り、自己の好みを遂行し、自己を義としようとつとめるのです。それは自己保存の法則に支配されたものであり、自己の好みに限定されており、神に栄光を帰する御霊の思いとは決定的に異なります。魂の命は、根本的に、御霊の命とは対立します。しかし、彼はしばしば、自己の魂から来る思いが、御霊からのものであると勘違いします。
 彼は魂と霊との区別を知りません。自分の心の思いや好みに従って歩む人生は、御霊に導かれる人生ではないということを知りません。その結果、彼は甚だしく汚れた罪を犯すわけではないかも知れませんが、御霊を自分の魂の中に閉じ込めようとし、御心からは逸れた生活を送ることになるのです。彼は絶えず自分の心を中心にして活動しているため、その活動は彼の自己を強化し、彼に栄光を帰し、神の栄光のためにはほとんど実を結びません。彼は自分の心、感情、感覚、すなわち魂の命そのものを、十字架に置かなければならないことを知りません。

 さらに、ニー兄弟によれば、魂的なクリスチャンの中には、これより少し進んで、霊と魂が混合されている信者もいます。彼らは多くの御霊の賜物を持ち、貴重な霊的な経験をさえ持っているかも知れません。そのような点から見れば、彼らには霊的な要素の現れが見られるので、彼らこそまさに「霊的なクリスチャン」であるように見えるかも知れません。しかし、彼らは自分が非常に霊的になったと勘違いしているだけで、まだ魂に導かれて生きていることを知らないのです。

「霊と魂とが混同されているこれらの信者たちは、その実際において魂的です。しかしながら、その知識においては、彼らは霊的であるように見えます。この種の信者については、霊と魂とが一つに合わされています。彼の魂は肉(罪深い性質)から分離されていますが、彼の霊はまだ魂から分離されていません。以前は、彼が肉的であったとき、彼の魂は肉に密接に結びついていました。一方は彼の命であり、他方は彼の命の性質でした。今や、同じように、彼の霊は魂に結びついています。一方は提案し、他方はその力となります。

体は魂の外側の殻であり、魂は霊の外側の殻です。わたしたちはこれを覚えておくべきです。すなわち、魂は霊の殻であるということです。こういうわけで、霊は魂によって囲まれており、魂によって絶えず影響を受けます。魂は、思い、感情、感覚、意志などを含みます。霊は魂によって囲まれているのですから、魂の中に埋没されているようです。こういうわけで、それは思いと感覚とによってしばしば影響を受けます。」(p.106-107)

 以前は、肉がクリスチャンのまことの命を暗闇に閉じ込め、振り回しました。肉が彼を導き、彼に罪を犯させ、御心から遠く引き離しました。今は、魂がクリスチャンを振り回しています。彼はあからさまな罪からは離れましたが、彼の信仰生活には依然として安定がありません。

 人の肉体が食物を採らなければ維持されないのと同じように、魂も供給を受けなければ生きられません。人の魂の機能は、刺激というガソリンが供給されなければ、活動が止まってしまう小さなエンジンのようなものです。そのようにして活動停止に陥らないために、魂は、本能的に、自分のための供給を絶えず必要とします。魂的なクリスチャンは、神のために生きていると自分では思いながら、実際には、自分の好みに応じて、自分の魂を喜ばせてくれるものをひっきりなしに追い求めています。神に従っている、と自分では思いながら、実は自分の思いや感情や感覚にコントロールされ、それらの囲いによって御霊を圧迫して生きていることを知りません。

 魂と霊の混合したクリスチャンは、神についての知識を得ることを追い求めますし、主にあっての喜びや、平安や、素晴らしい「霊的な」体験を追い求めます。彼らは自分の興味あるテーマに関してならば、非常に熱心に勉強を積んでおり、御言葉に関する知識が豊富かも知れません。様々な活動の経験があり、また、特異な霊的経験をさえ持っているかも知れません。しかし、彼らは、自分がそれらの知識や経験を、ただ魂を喜ばせ、魂を生かすために追い求めているだけであることを知りません。それがなければ、彼らの心は塞ぎこみ、活動は止まってしまうのです。

 ですから、そのような信者には、安定性と首尾一貫性がありません。ある時は御霊の平安に満たされていたかと思えば、何かのきっかけで、不安のどん底に突き落とされたようになるかも知れません。あるいは、自分の好みに合うものに囲まれている時は、非常に喜びに満ちていますが、自分の好みに合わないものに対しては、冷淡で、そっけなく、無関心な態度を取るかも知れません。彼は自分が依然として感覚や感情に導かれているだけであることを知りません。このような、魂に従って生きるクリスチャンの人生は不安定で偏ったものとなり、自分の望むものが供給されなかった場合、すぐにでも活動停止に陥るでしょう。

「この段階における信者は、おもに彼ら自身の思いによって管理されています。彼らは知識を愛し、真理を追い求めることを愛します。彼らは、何かを思いの中で完全に理解するまでは、満足することができません。彼らは、興味をそそる思想を好みます。彼らはさらに多くを知ることを好みます。なぜなら彼らは、自分が知っていることが、自分の所有しているものであると考えるからです。

彼らはまた、自分の感情によって管理されています。彼らは、主の臨在を感じることを求め、喜びの感覚を持つことを求めます。彼らは心の中に燃え上がる火を感じる時、百マイルでも歩くことができ、霊的行程において飛び跳ねながら進んでいくことができます(もちろん、外面的に言ってですが)。もしこのような感覚がなく、あるいは憂うつであると感じるなら、彼らは怠惰になり、全く前進しなくなります。彼らは良い感覚を求めます。彼らの心の中の感覚の善し悪しが、彼らの外面的な霊的状態の高低を決定します。

彼らはまた、彼らの意志によっても管理されています。彼らは、ピリピ人への手紙第二章十三節の約束を彼らの中にあって成就する聖霊の力を、まだ受けていません。彼らは、決定がすべての働きの始まりと終わりであると考えます。彼らは多くの決心をし、多くの規則と規定を定めますが、さらに多くのなわめへともたらされるだけです。これらのうちのどれも、彼らが霊的命における真の前進を持つことを助けません。」(p.108-109)

 霊と魂の混合したクリスチャンは、ひたすら自分の魂を喜ばせる計画や活動を追い求めます。しかしそのような魂の活動にいそしむことが、まさに彼らに霊的な貧困をもたらしている原因であることをほとんど自覚しようとしません。彼らは自分の魂が活動停止状態に陥ることを極めて恐れています。また、少しばかりの霊的な経験を持っているだけに、自分が通常のクリスチャンよりも高められていると勘違いし、それによって、ますます、その状態が御霊の真の豊かさからはほど遠いものであることを自覚しようとしなくなるのです。

「最もあわれなことは、この段階における信者たちが、たいてい自己満足しており、とても頑固に彼らの経験に固執するということです。彼らは、自分の認識がすべて霊的な認識であると思っています。彼らは、『頭脳の銀行』の中にある豊富さを誇ります。彼らは、ときどき起こる『第三の天』の経験が霊的な経験であると考えます。彼らは感覚や、燃えるような感動、喜び、主の臨在にふけります。彼らは、これをほかにしては、もっと高い霊的な生活などないと考えます。それにもかかわらず、彼らは、外側の事柄が依然として自分の心を迷わせ、平安を妨げていることを、謙虚に認めようとしません。彼らの振る舞いは外側の演技であり、それは多くの企てと計画から来るものであり、彼らの内側の状態と一致しません。」(p.106)

 私たちの魂は、絶えず外から供給され、絶えず動いていなければバランスをとって生きていることができず、何物にも左右されずに、真に自立的に働くことができません。最も活発に活動しているときでさえ、それらの命は、外側の何かに依存し、大きな限界と制約の中で活動しているのであり、最も素晴らしく神のために有益な活動をしているように見えるときでさえ、これらのものは本能的に、自己保存という目的のために働いているのです。

 肉も魂も、基本的には、死というものを受け入れることができず、それに徹底的に逆らう性質を持っています。そこで、人の魂もまた、死を避けるため、自己の目的をかなえ、自己を延命し、自己保存のために働き続けようとするのです。しかし、この自己保存という目的は、御霊の性質と相反しています。そこで、私たちは肉だけでなく、魂の機能に対しても死ぬ必要があるのです。私たちが、絶えず外的刺激というガソリンを注入されなければ活動することもできない魂という小さないれものを通して、神の御心を実現しようとしている限り、それは外側の演技のようにしかなりません。私たちが魂を中心として生きる限り、魂は霊を圧迫し、霊を閉じ込め、霊を間違った方向へ引きずって行こうとし、真に自由で独立的で無制限な御霊の現われを阻んでしまうのです。

 御霊の命の性質は自己保存を追い求める魂の性質とは全く異なっています。それは人の自己を満たすためでなく、神の栄光のために生きます。また、御霊は、刺激や物質の供給といった、外側の何物かに依存しなければ働けなくなるということは全くありません。ですから、真に御霊に導かれて生きる人には、外的刺激をひっきりなしに受けなければ、進んで行けなくなるとか、楽しい活動がなければ、憂うつに落ち込むということはないのです。強力な迫害にさえ、耐えうる力をクリスチャンに与えるのは、私たちの魂ではなく、御霊です。ですから、御霊によって生きる人は、外側で何が起ころうと、内には平安があり、力があるでしょう。疲れることがないのも、御霊の特徴の一つなのです。

 クリスチャンは、この倦むことも疲れることも休むこともなく、神の栄光のために絶えず働かれる無制限のキリストの命の霊をすでに内にいただいているのです。しかし、私たちの内に住まわれる霊は、何と実際にはみじめな状態にとどめおかれていることでしょう。私たちの肉体と魂の殻が、絶えず、御霊を閉じ込め、御霊の現われを妨げ、逆に、御霊を私たちの自己に従わせ、自己のために利用しようとしています。

 こうした自己の魂の厭らしい性質を、たとえ気づいたからといって、私たちが自力で取り除くことは容易ではないばかりか、不可能です。霊と魂を切り離すその「手術」は、御言葉によって、十字架上によってのみ可能だからです。私たちが魂の命を否むことは、自分の力でなすべきことではなく、十字架上で、神ご自身によって行われなければなりません。ですから、私たちは自分を絶えず十字架に持って行く必要があるのです。

 次回は、十字架上で魂の命を否むとはどういうことなのかを具体的に見ていきたいと思います。どうか主が私たちにあれあみをかけて下さり、魂の命の本質が何であるかを見せて下さり、私たちの魂と霊とを切り離して、御霊によって生きることを教えて下さいますように!