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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は罪に定められることがない。

「どのようなときも、わたしは主をたたえ
 わたしの口は絶えることなく賛美を謳う。
 わたしの魂は主を賛美する。
 
 貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
 わたしと共に主をたたえよ。
 ひとつになって御名をあがめよう。

 わたしは主に求め
 主は答えてくださった。
 脅かすものから常に救い出してくださった。
 主を仰ぎ見る人は光と輝き
 辱めに顔を伏せることはない。
 
 この貧しい人が呼び求める声を主は聞き
 苦難から常に救ってくださった。
 主の使いはその周りに陣を敷き
 主を畏れる人を守り助けてくださった。

 味わい、見よ、主の恵み深さを。
 いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。
 主を畏れる人には何も欠けることがない。

 若獅子は獲物がなく飢えても
 主に求める人には良いものの欠けることがない。
 
 子らよ、わたしに聞き従え。
 主を畏れることを教えよう。

 喜びをもって生き
 長生きして幸いを見ようと望む者は
 舌を悪から
 唇を偽りの言葉から遠ざけ
 悪を避け、善を行い
 平和を尋ね求め、追い求めよ。

 主は、従う人に目を注ぎ
 助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
 主は悪を行う者に御顔を向け
 その名の記念を地上から経たれる。

 主は助けを求める人の叫びを聞き
 苦難から常に彼らを助け出される。
 
 主は打ち砕かれた心に近くいまし
 悔いる霊を救ってくださる。

 主に従う人には災いが重なるが
 主はそのすべてから救い出し
 骨の一本も損なわれることのないように
 彼を待追っ手くださる。

 主に逆らう者は災いに遭えば命を失い
 主に従う人を憎む者は罪に定められる。
 
 主はその僕の魂を贖ってくださる。
 主を避けどころとする人は
 罪に定められることがない。」(詩編第34編)

前回も同じ個所を引用したが、共同訳の方がどことなくしっくり感じられる箇所である。

命を永らえることを望む者は、何をなすべきであろうか。まずは偽りから遠ざかり、悪を離れ、善を行い、平和を追求すべきである。

嘘偽りが洪水のように溢れるこの時代、偽りを避けるというだけでも、人の目には狭き門であろう。人々は自分の見栄えが少しでも良くなるよう世間に気を使い、SNSで自分を粉飾し、企業も嘘の広告を出し、偽の期待を人々に持たせ、役所は文書を改ざんし、誰もが息を吐くように嘘をついている。

そんなこの時代に、世間に迎合することなく、偽りのない生き方を見つけることは、非常に困難なように思われる。自分を粉飾して、過大な実力があるように見せかけ、人々の関心を引くことができるなら、その方が楽に生きられるように感じられるだろう。

しかし、その道を行けば、命を失うと御言葉は言う。

どんなに狭き門に見えても、確実に勝利へと続く道を行くのが一番、近道なのだ。そのためには、偽りや、悪から遠ざかることは、決して外してはならない条件である。

さて、少し本題から逸れるようだが、インターネット上では、数年前から、「聖書信仰」やら「福音主義」への攻撃が盛んに行われている。これはカルト被害者救済活動のことだけを指すわけではない。

むしろ、カルト被害者救済活動は、以上の大きな流れの一端として現れて来たものである。そして、この流れが真に正体を現すのもこれからである。

「カルトを告発する」と言いながら、カルトとそうでないものをごちゃ混ぜにし、無実のクリスチャン、しかも、聖書に忠実に歩もうとするクリスチャンを攻撃するというのは、暗闇の勢力が用いるいつものやり方である。

聖書を敵視する運動は、今のところはまだ「聖書信仰」やら「福音主義」だけを攻撃する形を取っているように見えるが、やがて彼らの主張は、必ずや「聖書そのもの」を否定し、排除する流れへと変わって行くだろうと筆者は予想している。

共産党政権下の中国のように、国民の誰かが聖書を所持し、開いているだけでも、犯罪者扱いされるような国を作りたい、聖書を所持し、真面目にその内容を知ろうとしている人間は、みなカルト信者ということにして葬り去ってしまいたい、そういう悪しき思惑が渦巻いていることが感じられる。

そうした思惑は、時を追うごとに、国家神道やら共産主義やら日ユ同祖論やら先祖崇拝やらを一緒くたに混ぜ込んだ新たな異端思想(これこそまさに新手の新興宗教!)の形となって勃興しようとしている。

これもやがては、愛国主義、軍国主義、天皇崇拝などの一連の流れの一環として、戦前回帰という本流へ合流して行くだろう。

たとえば、ネット上には、プーチン政権下ロシアを極端なまでに美化したり、さらにマルクス主義を礼賛したり、日ユ同祖論を唱えたり、国家神道に近い考えを提唱するなど、様々な思想の持主を寄せ集めたような勢力がある。

その勢力は、大きく見れば、陰謀論と呼ばれる流れの中に位置するが、一見、安倍政権に反旗を翻すアウトサイダーのような立場から政権批判を繰り返しつつ、同時にEden Mediaが告発しているような悪魔的思想(グノーシス主義)を告発し、悪魔崇拝を告発すると言いながら、実際には「聖書信仰」を目の敵として、キリスト教を仮想的とする非難を開始している。

グノーシス主義を批判しながら、自らがグノーシス主義に陥っているという点で、この勢力は、まさにカルト被害者救済活動と同じ道を辿っていると言える。

しかし、マルクス主義であれ、国家神道であれ、日ユ同祖論であれ、もともとこうした思想の持主らが掲げている思想が、いずれも明らかに人類の生まれながらのルーツを神聖視するというグノーシス主義の系譜に属する思想ばかりであることを見れば、こうした勢力のものの考え方が、結局、グノーシス主義を批判しているように見えても、グノーシス主義から一歩も外に出られず、かえって正しい思想を攻撃するだけに終わるのは、初めから当然予想できる結果である。

当ブログでは、以前から、「プーチン率いるロシアが日本や世界を救ってくれる」などという考えが、どれほど愚かなものであり、国家としての主権の放棄に等しいか、また、極端なまでのロシア美化・賛美が、どのような背景で生まれて来るのかということを書いて来た。

天皇を賛美し、日本の文化やルーツを礼賛すると言っている連中が、それとは全く相矛盾することに、「プーチン政権下ロシアが日本を救う」などと言っているのだから、呆れることしきりである。最近は、日ロの経済協力も領土問題も全く膠着状態に陥ったので、かつてほどそうした声は聞かれなくなったが、そんなことからも、要するにその声は、表向きには安倍政権を非難しながら、背後では政権とぴったり歩調を合わせていることが分かる。

また、そうした異常なほどのロシア美化の背景には、マルクス主義が存在していることが多い。

マルクス主義の影響を甚大に受けている人ほど、ロシアを非現実的なまでに美化することが多い。今日、ロシアという国を極端なまでに美化してこれをまるで救世主か何かのように信奉している人々の歩みを追って行けば、若い頃に学生運動に参加していた、などのマルクス主義との接点が出て来ることが稀ではない。

すると結局、彼らは若い頃から今に至るまでずっと変わらず、思想的にはマルクス主義者のままだったことが分かるのである。だが、彼らは現実のロシアのことはほとんど知らない。ゆえに、自分の心の中で思い描いたユートピアをロシアに重ねているだけで、ソ連時代の暗黒の歴史がどんなものであったかも、彼らは真正面からは決して見ようとはしない。

マルクス主義は、宗教の形を取っていないが、とどのつまり、人間がキリストの十字架を介することなく地上にユートピアを建設できる(=救いに達することができる)と見なす点では、アダムを神としているグノーシス主義に分類されて差し支えない思想である。

そこで、マルクス主義と、国家神道、日ユ同祖論、先祖崇拝、天皇崇拝などといった思想は、一見、何の共通点も類似点もないように見えても、みな根底では、アダム(生まれながらの人間)を神とし、人類の生まれながらのルーツを神聖視するという、人間崇拝へとつながる点で、ベースが全く同じなのである。

だから、これらの思想がごった煮のように集まって来て「結婚(重婚)」に至ったとしても、不思議ではない。繰り返すが、これらの思想はもともと根本が同一であり、異なるのは表層部分だけだからである。

ロシアには歴史上、「ロシアが世界を救う」と言ったメシアニズムの思想が存在しており、なぜこうした思想が登場して来たのか、その分析はここでは行わないが、ロシア正教の中にもそうした思想が存在したことがあり、マルクス主義はそうしたロシアの文化的・思想的な土壌を背景に、その歴史的延長として、ロシアに移植されたと見てもおかしくないことは以前にも述べた。

さらに、『国体の本義』などを読んでも分かることは、かつての日本が唱えていた「八紘一宇」だとか、「大東亜共栄圏」などのスローガンも、みなメシアニズムの思想から出ているということである。戦前・戦中の国家神道は、天皇を救世主になぞらえ、皇国日本が世界を救うというメシアニズムの思想である。

そこで、これらの各種のメシアニズムの思想が、類は友を呼ぶ式に集まって来て結合し、それらの思想をことごとく闇鍋のように内包している勢力が、今や「聖書信仰」を新興宗教力ルト扱いして攻撃し、否定しにかかっているのも、何ら不思議なことではない。

もともとそういう似非救済思想が、聖書と相性が良いはずもない。彼らも聖書を利用したり、キリストの名を語ることがないわけではないにせよ、その目的は必ず、彼らが「自分たちは、先祖代々から伝わる神聖なルーツを受け継いでいる」と主張するためであり、日ユ同祖論者などは、自分のルーツを美化(神聖視)する道具として、イエス・キリストの名を利用しているに過ぎない。要するに、自分たちはメシアの末裔だから、世界を救う活動に参加する資格があると言いたいのである。

こういう思想を持つ人々が、歴史的に、はた迷惑な世界救済事業に乗り出して来たのであり、それらの思想にとって、聖書などはもとより自分を美化するための添え物に過ぎない。

キリストの名を都合よく騙って自分のルーツを美化・神聖視したいだけの人々にとって、本気で聖書などを読み、真剣にその教えを実践・探求する信者は駆逐したい邪魔者と映るのは当然に予想できる。

だが、もしも「聖書信仰」を攻撃するなら、プロテスタントのほぼすべての教会は「聖書信仰」に立っているため、これらのすべての教会が「カルト」ということにされて終わってしまう。そういう暴論は、ネット上でしか成立し得ないものである。

今日、「カルト」という呼び名は、あからさまな蔑称とみなされ、使用を避けられつつあるため、以上のような人々はやたらと「新興宗教」という言葉を使いたがる。新興宗教という呼び名には、何ら罵倒や侮蔑の意味は含まれていないのだが、こうした言葉をやたら振り回す人々は、「新興宗教と言えば、要するに、キリスト教系のカルトのことだ」という暗黙の了解を前提としているようである。

「新興宗教」などという曖昧模糊とした呼び名は、あらゆる宗教を十把ひとからげに疑わしいものとして攻撃するには、もってこいなのである。

だが、こうしてネット上で、気に入らない思想にのべつまくなしに「新興宗教」のレッテルを貼り、かつ「聖書信仰」を目の敵にして非難している人々のほとんどが、実のところ、統一教会とキリスト教界の区別もつかない人々である。統一教会とはキリスト教なのだと思っている人々が大半という有様で、もちろん、エホバの証人や、ローカルチャーチが使っている聖書と、プロテスタントの教会で使われている聖書の区別もつくはずがない。

彼らはそもそも聖書などほとんど読んだこともなく、キリスト教の基本的な言い回しも知らない人々であるから、彼らの糾弾している「聖書」が、一体、どの「聖書」を指しているのかも定かではない。

彼らはただ、「聖書を真面目に信じるのは狂信者だけのすることである」という先入観・固定概念を作り上げ、人々を聖書から遠ざけたいがために、攻撃的な言葉を振り回しているだけなのである。

しかし、彼らが聖書をあらゆる攻撃対象の中でも、とりわけ攻略せねばならない本丸とみなしていることだけは確かである。「新興宗教批判」は、手始めに創価学会、統一教会などから始まるが、ほとんど間をおかずに、キリスト教への攻撃に転じる。本当の目的は、キリスト教の中でも、「聖書信仰」を攻撃することにある。

こうした動きは、カルト被害者救済活動が辿って来たのと同じように、最初は「危険な新興宗教について警告を発する」という口実を用いながら、様々な宗教への攻撃を正当化して行き、そのうちに、自分たちに属さないすべての思想を攻撃するようになり、独麦と一緒に本物まで一緒に抜くために、もっぱらキリスト教徒に敵意を向けるようになる。

彼らの「本命」は、最初から、創価学会でも統一教会でもなく、キリスト教にあると言って差し支えない。だから、キリスト教徒はこれらの人々の出現に警戒せねばならない。

彼らが聖書を敵視するのは、聖書が彼らの思想の誤りを明白に証明するためである。特に、日ユ同祖論者などは、聖書の御言葉が本物であっては困る人々である。

それはなぜか?

聖書こそ、彼らの血統が偽物であることを証明しているからである。

誰かがチャンピオン犬の直子を買えば、きっと血統書がついて来るだろうが、聖書は、一体、誰がキリストの子孫でありうるのかをはっきりと証明している。

日ユ同祖論者にとって重要なのは、「日本人はユダヤ人の末裔だ!だから、俺もメシアの末裔なのだ!」と主張することである。天皇崇拝者にとっても、天皇の血統を神聖視し、日本国のルーツを高めるためならば、何でもありで、日本人がユダヤ人の末裔だという実に荒唐無稽な説も、天皇崇拝を肯定し、日本人を美化するエッセンスになりうるなら、ウェルカムというところだろう。

だが、聖書は言う、
「愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。」(テトス3:9)

新約聖書を開けば、まずマタイによる福音書における
「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」が目に飛び込んでくる。しかし、このようにして最初の福音書の冒頭に、キリストの系図が登場することの最も重要な意義は、「この素晴らしい選ばれたメシアの血統」を誉めたたえることにはない。

むしろ、メシアの系図という最も選りすぐりの系図も含め、人類の生まれながらの系図の意義は、ことごとくイエス・キリストと共に価値がなくなり、終わった、ということが示されている。

人類の生まれながらの系図は、ただキリストと共に無価値とされただけでなく、キリストと共に「呪われたものとして木にかけられて罰せられた」のである。

そこで、今日、キリストの子孫とは、こうした系図によって、キリストに連なると主張している人々を指すのではない。信仰によって水と霊によって生まれ、キリストに連なる兄弟姉妹となり、神の家族となった人々のことを指すのであって、「日本人のルーツはユダヤ人だ!」などと主張して、自らの血統を誇る人々は、キリストに属する人々には含まれない。生まれながらの血統は、キリストとは何の関係もなく、木にかけられて、罰せられる根拠にしかならなかったのである。

だが、悪貨が良貨を駆逐するように、偽物は本物を駆逐しようと活動しており、そこで、信仰もないのにただ日ユ同祖論のような荒唐無稽な思想を根拠に、「自分はキリストの子孫だ!」と誇り、そのために聖書を飾りとして利用したい人々の目には、聖書など真面目に読んで信じている人々は邪魔な存在としか映らないのである。

一言で言えば、日ユ同祖論であれ、国家神道であれ、天皇崇拝、先祖崇拝であれ、マルクス主義であれ、あらゆるグノーシス主義の流れを汲む思想は、みな今日では「日本スゲー系」などと呼ばれている自画自賛の潮流と何ら変わらないものであって、

セルフの美化 セルフの神化

を究極目的としている。キリストの十字架によらず、自己の死を経ることなく、生まれながらの自己がそのまま神となるという究極目的を彼らは追い求めているのである。

最終的には、天皇を頂点とする軍国主義日本の再来、戦前回帰の流れの中に合流し、一致団結して向かって行くことであろう。このようなものは、キリストの名とは本来的に全く関係がない。

もちろん、「天皇を頂点とする」と言っても、彼らにとっては、天皇も、キリストと同じように、自己のルーツを美化するための道具でしかないため、しょせんは飾り物である。

彼らにとっては、何であれ、すべてが自己を高めるためのツールなのである。そこで、そのような勢力がこの国を占拠するようなことがあれば、この国は「俺様スゲー!」と自己を賛美する人々で溢れかえることになるだろう(考えたくもないが)。

今日、安倍政権に反対しているように見えるほとんどの潮流は、このように、実質的には安倍政権と同一であり、間もなくその本質を表すであろうことに注意が必要である。

たとえば、そこには、護憲を唱えながらも、実質的に、天皇崇拝に陥っている政党も含まれる。

さらに、キリスト教徒を名乗りながらも、天皇に宗教的意義を見いだし、天皇制を強調している者も含まれる。

さらに、キリスト教を装いながら、ニッポンキリスト教を盛んに攻撃している「俺様スゲー系似非キリスト教」もそこに含まれる。

これらはすべて、表向きには日ユ同祖論やマルクス主義とは手を結んでおらずとも、最終的には、一つの勢力として結集して行くであろう思想たちである。

これらは「俺様スゲー!」という自己愛(セルフへの執着)を基軸として、国民が再び一致団結して立ち上がるという究極目的へと続いて行く道である。一体、何に対して集団的に団結して立ち上がるのか? 死の恐怖に対し、侵略の恐怖に対し、自己を喪失する恐怖に対してである。

要するに、自分の内側にある恐怖をごまかすために、「日本はスゴイ!天皇はスゴイ!だから俺達もスゴイ!」などと吹聴して集団的な自画自賛に明け暮れ、自分の罪を見なくて良いように、絶えず自分の外に仮想敵を作り出しては、それに自分の罪を転嫁して集団的に攻撃を繰り返し、さらに、その攻撃を「世界の救済のため」などと言い換えながら、破滅へ向かって進んで行くのである。

こうした思想に欠かせない特徴は、「絶え間のない自画自賛」と「己の欠点から目を背け、自分が他者より優れていることを誇示するために、絶え間なく仮想的を必要とすること」だと言えよう。

たとえば、「ニッポンキリスト教」などという呼び名を使い、キリスト教への絶え間のない攻撃を行っている勢力も、これに含まれる。我々は、そのような勢力が、本質的にキリスト教とは無縁の勢力であることを心しておく必要がある。(現に彼らはキリスト教を否定し、自分たちは宗教とは一切関係がないと公言している。)

本当はキリスト教を攻撃し、駆逐することを目的としている勢力が、表面的には、自分たちがあたかもキリスト教徒の一部であるかのように装いながら、聖書を用いて、偽物の福音を語るということは昔から行われて来た。

エホバの証人やモルモン教徒がキリスト教を名乗っているのと原則は同じである。

もちろん、筆者は日本のキリスト教の宗教組織としての教会のあり方が正しいと言うわけではない。筆者のような人間は、牧師制度も必要ないものとみなしている。だが、そうした地上的な組織の有様に関する議論と、聖書の根底に流れる思想そのものを否定・攻撃することはわけが違う。

聖書66巻を神の霊感を受けて書かれた書物だと認めている人々の間には、いかに教団教派が違えど、宗教組織を超えた連帯が存在する。

しかし、ニッポンキリスト教を絶え間なく批判している勢力は、自分たちがキリスト教よりも優れた勢力であることを誇示したいだけである。彼らは聖書を利用はするが、決してその教えに従わない。十字架を語っても、自己の死を認めない。信仰のゆえの苦難を厭い、自己を高く掲げて栄光化し、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りに邁進し、己を低くして日々の十字架を負うこともない。このようなものがキリスト教と一切、関わりのない自画自賛の思想であることは明白である。ニューエイジの思想も取り込み、アセンションを経て、すでに自己を神とする領域へ達している。

どんなに自己を栄光化し、高く掲げても、彼らがのべつまくなしにあらゆる牧師をひっきりなしに批判し続けねばならないことが、彼らの内心の空虚さを何より物語っている。他者を否定したところで、寸分たりとも自分が進歩し、神聖な存在に近付けるわけではないのに、そのようにして絶えず、自分の処刑場に誰かを引っ張り出して来ては、自分には関係もなく、自分に害を加えたこともない赤の他人をひっきりなしに貶め、辱め、非難し、嘲笑し、否定せずにいられないことが、彼らの内心にある絶えざる恐怖、払拭できない空虚さを何よりもよく証明している。

そのようにして彼らが勝ち誇り、凌駕したい相手とは、最終的には、まさにキリストご自身なのである。キリスト教界に対して勝ち誇ることは、神に対してマウンティングをしていることとほとんど同じである。今日のキリスト教界はあまりにも弱体化しすぎており、牧師という人々が神聖を表すのではないとはいえ、そこにはやはり教会の名残がある。神の教会を貶める行為は、神ご自身を敵に回すのとほとんど同じである。

創価学会や統一教会がカルトと非難されて仕方がないものであるにせよ、あらゆる宗教には、神への畏敬の念が投影されていることは確かであるから、すべての宗教をのべつまくなしにカルト扱いしたり、十把一からげに「新興宗教攻撃」に走る人々は、要するに、あらゆる宗教を攻撃することによって、神ご自身を否定し去ろうとしているのだと言える。

そして、神を否定する代わりに、自分を神として高く掲げるのである。

ニッポンキリスト教を攻撃している勢力の所業は、まさにキリストの名を存分に利用しながら、キリストご自身を否定して、自己をそれに置き換え、自己を神とすることである。

そうして神と自己を置き換えることが、異端思想の特徴である。だから、このように、絶え間なくキリスト教を悪罵しては、「自分だけは本物だ!」と豪語している勢力こそ、まさに偽物のキリスト教なのである。(繰り返すが、彼らは自分たちをキリスト教徒だとみなしていない。すべての宗教とは無縁であり、キリスト教とも別格の存在だと主張している。だが、それならば、いっそ誤解のないように、聖書を使うこともやめれば良かろう。)

筆者はあくまで聖書の御言葉に固く立って歩みを進めるつもりである。それを時代遅れや偏ったものの見方のように吹聴する人々がどれほど現れようとも、事実は逆である。人の目を恐れるのか、それとも神の目を畏れるのか。私たちは常に選択を迫られている。世相になびいて神の御言葉を捨てる者は愚かである。

「「人は皆、草のようで、
その華やかさはすべて、草の花のようだ。

草は枯れ、
花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(Ⅰペトロ1:24-25)

さて、この話題はここまでにしておこう。脱線が長くなってしまったので、手短に本題に入りたい。

「かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えない。」これは筆者がよく思い出す、好きな箇所の一つである。預言者エリヤがケリテ川のほとりで、主のはからいにより、カラスを通してパンと肉を運んでもらって過ごしたというあの有名な箇所の後で、彼は今度は貧しいやもめ女のもとへ身を寄せる。

やもめにはエリヤを養う余裕など全くない。むしろ、彼女は最後の食糧や水を使い切って死のうとしているところであった。そこへ預言者がやって来て、その最後の食べ物を要求する。やもめはこれを断らず、エリヤの命に従った。それによって、預言者も彼女も双方生き永らえるのである。

「しかし国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。
「その時、主の言葉が彼に臨んで言った、「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。

そこで彼は立ってザレパテへ行ったが、町の門に着いたとき、ひとりのやもめ女が、その所でたきぎを拾っていた。彼はその女に声をかけて言った、「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」。

彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持ってきてください」。 彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。

エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。 『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。

彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。 」(列王記上17:7-16)

筆者はあらゆるところでこの話を思い出す。今日、目に見える形で預言者エリヤが私たちのもとを訪れることはない。私たちと共におられるのは、目に見えないキリストである。

そして、キリストは、私たちに地上のものを預けておられる。それを使って神を証しなさいと言われる。しかし、時折、主は私たちが持っているごくわずかばかりのものを指して、「それを私のために使いなさい」と言われることがある。

その命令は、声なき声のようであるから、無視することも簡単にできるだろう。だが、私たちはあらゆる限界、欠乏、死の恐怖を打ち破って、自らの限界ある命を神に差し出し、神に使用してもらおうとする。その時、私の限界、欠乏、死の恐怖が去り、洪水のようにとは言わずとも、日照りで焼け付く地にオアシスが生まれるように、私たちに信仰によって与えられた永遠の命を通して生ける水の川が流れ、荒野に食卓が整えられる。

エリヤとやもめが共有したパンと水とは、まさにキリストの体を象徴していることだろう。

やもめの家に絶えなかった粉、油は、地上でキリストの体を養い、キリストの証しを維持するために与えられたのである。

まことにダビデが歌った通り、敵前でも、主は僕のために食卓をもうけて下さり、杯に注ぎ入れ、頭に油を注いで下さる。それは、人の目には瞠目するような豪勢な食卓には見えないかも知れないが、それにあずかる者には、確かに主が共におられることが分かる、他のどんなものにもかえがたい食卓である。

現代は御言葉の飢饉の時代であり、命の水の川は国中で絶え果てたように見える。嘘偽りがはびこり、どこにも真実など見いだせず、誠実な人々は、このやもめ女のように、恐ろしい危機的時代の様相に倦み疲れ、生きる道など見いだせまいと考えているかも知れない。

だが、その中で、主に従って生きる望みを捨てさえしなければ、私たちは常に一抹のごくわずかな真実を土台に生きて行くことができる。国中が暗黒に包まれたような恐るべき時代に、人の目から見れば、存在しているかどうかも分からないほど貧しく取るに足りないエリヤとやもめの限界の中に、主は確かに共におられ、生きて力強く働かれたのである。

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十字架における死と復活の原則―神の御前での単独者としての厳粛かつ孤独な歩みを決して忘れるな―

前回、キリストにある新しい人(栄光から栄光へ主の似姿に変えられて行くこと、復活の命による統治、命の御霊の法則)というテーマについて語る際、法則性はない、と書いたが、この点について改めて訂正もしくは補足をしておきたい。これまで繰り返し書いて来たことだが、「主と共に十字架の死と復活にとどまる以外には法則性はない」と。
 
なぜなら、ゴルゴタを離れること、キリストと共なる十字架の死の重要性から少しでも目を背け、これを過小評価したり、言及せずに通り過ぎることは、たちまち、クリスチャンを別な道へ逸らせる大きな危険性であることを、改めて思わされるからだ。

筆者にも、クリスチャンが低められること、主と共に苦しみを負うことについて、長々と語りたくないという衝動が生じることがある。そのようなネガティブな話題からは、いい加減、目を背けてもいい頃合いではないかと。しかしながら、そうした衝動や願望にははかりしれない危険がある。

主と共なる死からクリスチャンが卒業できる日など来ることは決してなく、キリストの十字架は、来るべき世においても永遠の偉業として打ち立てられている。だから、クリスチャンが、主と共なる栄光は欲しいが、死は負いたくないという衝動に安易に身を任せて、十字架の死について沈黙し、復活という側面だけを語ろうとすることは、極めて重大な危険としての背教に陥る最初の一歩なのである。

主と共に栄光を受けたいならば、主と共に苦難をも受けるべきである。高められたいならば、低められることにも甘んじねばならない。キリストと共なる復活の側面だけを重視して、死の必要性を少しでも過小評価することは、たちまち、我々キリスト者を違った教えへと逸らせる要因にしかならない。

実際に、幾度も書いて来たように、筆者の知っている多くのキリスト者たちが道を誤ったのは、彼らがキリストと共なる死の中にとどまることをやめて、ゴルゴタの装甲の外に飛び出し、主と共なる輝かしい復活の要素だけにあずかろうと願ったためである。そのために、彼らは自画自賛、自己顕示、自己宣伝、セルフを建て上げる道へと逸れて行ったのである。その結果、ついにはセルフを神とし、自分への恵みを受けるためだけにキリストを利用し、主イエス・キリストを否定するまでに至っている。

そのような誤りに陥らないために、たとえ生活の何もかもが順風満帆で、思わぬ苦しみや不幸のように見える出来事に全く遭遇することなく、自分の名誉が望まずして傷つけられたり、恥を負わされたりすることがなかったとしても、あえてゴルゴタの死の中にとどまろうとする姿勢がどれほど重要であるかを思う。

特に、人に誉めそやされたり、ありがたがられたり、重宝されるようなことがあれば、特別な用心が必要であり、そうしたどこから来たのかも分からない流れに持ち上げられ、流されることなく、主と共なる死の中に自らとどまろうとする姿勢は非常に重要である。

ゴルゴタは我々にとって最も堅固な要塞であり、装甲のようなものである。そこから一歩でも外へ出ることは、神の守りの外へ自ら出ることを意味し、その結果として、自分を守ることができなくなる。人前に、キリスト者ゆえの苦難を受けることを厭い、他人からのお世辞やお追従を好み、自画自賛や、自慢話に明け暮れ、自分を喜ばせる快楽(目の欲、肉の欲、持ち物の誇り)を好んだ人の中に、正常な信仰を維持しえた人間は、これまで一人もいない。そういう人間は、信仰を持たない世でも忌み嫌われるが、まして信仰者としては完全な失格者となる他ない。だから、我々はどんなに神の恵みが雨のように降り注がれたとしても、決してそのような道を行かないことを宣言する。

さて、筆者の家人や親族への義務はあらかた終わったことを思う。筆者は、束の間、地上の故郷に帰って来たが、それは地上の肉の絆を確かめ合うことが目的ではなかった。

キリストは公生涯の間、家を持たず、地上における職業を持たず、御霊の導きのままに歩まれた。だから、主がそうであれらたのだから、筆者は、地上の故郷を故郷と呼ぶことはもうないだろう。ここは伝道のために立ち寄った地の一つに過ぎず、そこが筆者にとっての真の故郷ではないからだ。
  
『ギルバート・グレイブ』という映画を知っている人は覚えていると思うがが、そこに、地上の家を離れることができないまま生涯を終えた主人公の母親が登場する。彼女の悲劇は、家から一歩も外出ができないほどまでに太ってしまった点にあるのか、それとも家から離れられなかった結果そうなったのか、どちらが先かを論じても仕方がないが、少なくとも家がもたらす精神的束縛(もしくは現実逃避)こそ、そのような結果を招いたことは間違いない。

地上の家というものは、多かれ少なかれ、そういうものだ。肉親の情愛はどんなに美しく飾られていたとしても、最終的には、人間を縛りつけ、また、現実逃避のための砦や繭となってしまう。

地上の故郷や、肉の絆にしがみつく人々は、家族や親子の情愛という麗しいヴェールで、生まれながらの自分自身の弱さを覆い隠そうとしているに過ぎない。それは、堕落した人間の自己欺瞞の手段であり、さかのぼれば、創世記において、罪を犯したがゆえのアダムとエバが、自分が裸であることを知って、己の恥を隠そうとして編んだイチヂクの葉に由来する(それがイチヂクだったのかどうかは定かではないが、筆者はこれを便宜上「イチヂクの葉」と呼んでいる。)また、弟アベルを嫉妬ゆえに殺して神から逃避するに至ったカインが、自分や一族を復讐の脅威から守るために築き上げた都市(要塞、城壁)に由来する。
 
筆者は、地上における家というものは、霊的には、このイチヂクの葉、カインの城壁と密接につながっており、それはすなわち、人間の滅びゆく命の防衛の砦としての地上の肉体の幕屋そのものを象徴しているように思えてならない。
 
人間の肉体は、その人自身の一部であると同時に、その人の脆くはかないアダムの命を持ち運び、これを守るための砦(幕屋、宮)である。

この宮は命を守るために存在する。しかしながら、人間の肉体は、朽ちゆくものであるから、宮を守る使命とは裏腹に、命を守るにはあまりにも不十分であり、脆く、弱い砦でしかなくい。宮だけでなく、肉体という宮によって守られている命そのものも、有限で儚いものである。そのような人間の命の弱さ、脆さ、限界は、罪から来るものであり、最終的には、罪の報酬である死が命全体を滅ぼし、奪い去ってしまう。

だが、そのように人間の命が脆く有限であるにも関わらず、生まれながらの人間は、己の罪を認めず、己の罪のもたらす当然の結果である己の有限性、弱さ、脆さを認めず、最終的には、死をも認めようとしない。
 
たとえば、三島由紀夫は、自らの肉体を鍛え上げることで、己の精神的弱さやコンプレックスを隠し、そこから目を背けようと試みた。三島由紀夫の人生においては、マッチョイズムによる自己からの逃避は、私営の軍隊の創設、盾の会といったより高度な形へと発展して行く。そして、最後には、自己を守るための「殉死」(結局は自己破壊)という、パラドックスに満ちた究極の結末へと至りつく。そこには、天皇を守るためという大義名分がついていたが、その根底にあるのは、生まれながらの人間の有限なる命への絶望感と、己の罪を否定して、己を永遠の存在に高めようとする願望であった。
 
天皇を現人神とみなすことで、三島が何とかして信じようとしていたのは、生まれながらの自己の命の永遠性である。天皇を神とみなし、それに殉ずることで、三島が永遠の存在へと高めようとしていたのは、他ならぬ自分自身であった。

三島は、生まれながらの人間とその美を愛するあまり、生まれながらの人間が朽ちゆくもろく儚い、滅びゆく存在に過ぎないという事実が認められなかった。彼は朽ちゆく人間の命を惜しみ、己の肉体を鍛えることや、目に見える人間を賛美することで、人間の命が滅びゆくものであるという事実そのものを、人類への冒涜とみなして否定し、アダムの命とそれを守るための砦としての人間を永遠とみなそうとした。肉体を鍛え、軍隊を創ることは、人間の有限性という事実を否定する手段であり、最終的には、自分自身を理想化し、これを永遠の存在として保存するために、自死という最期を遂げたのである。

さて、地上における肉による絆だけによって築き上げられる「家」というものも、筆者には、上記と全く同じ文脈で、人が地上の朽ちゆく有限な命と、その幕屋としての肉体を永遠とみなそうとする自己欺瞞の思想の象徴であるように感じられてならない。
 
すでに別な記事で幾度も論じたように、万世一系という神話を作り出し、天皇と臣民を一つの家になぞらえ、「家」を守るために、個人が自己の命を捧げることが、人の最高の使命であるかのように教え、親のために子が命を捨て、指導者のために部下が命を捨て、天皇のために臣民が命を捨てて、こうして、「家」を存続させることによって、人類が己の「神聖な」命を存続できるかのように教える考えは、結局、人が生まれながらのアダムの命の有限性を否定して、自らを永遠とみなそうとする偽りの思想から出て来たものに他ならない。

そうした文脈における「家」とは、通常の文脈におけるただの家を指すのではなく、偽りの神話に基づいて、生まれながらの人間の家系(=アダムに属する人類の血統)を神聖視・絶対視するために作り出された要塞であり、かつ神話である。人間には明らかな寿命があるため、人間の命が永遠でないことは、誰の目にも明白な事実であるにも関わらず、子孫が先祖に仕え、代々、家を守ることが人間の使命であるかのように説くことによって、この思想は、人間の命を血統になぞらえて不滅のもののようにみなし、アダムの命の有限性から目を背けて、人類という堕落した血統を神聖で永遠のものであるかのように讃えようとしているのである。

そのような考えで、もし個人を「家」を守るための手段とするならば、その時、その個人はもはや個人ではなくなり、実際には存在しない「神聖な家」の附属物か、もっと言えば、家の象徴のようなものへと変えられて行く。
 
そのようにして「家」と一体化した個人は、自らの意志を奪われた、偽りの神話の象徴となり、束縛された奴隷も同然になってしまう。万世一系などといった神話でどんなに飾りたて、どんなに不滅のもののように見せかけ、誉め讃えても、この偽りの思想は、その虜となった人間を滅ぼしてしまうだけなのだ。

『ギルバート・グレイプ』に存在する母親のように、人が自らの弱さ、脆さを隠すために築き上げる要塞としての家に束縛されてしまうと、その人間は、その偽りの安全から外に出て、現実に直面する勇気を失って、家と一体化してその象徴と化してしまう。その家は、人間の弱さや脆さと直面することを拒否する、同情や優しさに見せかけた様々な偽りの情に塗り固められて美化されてはいるが、実際には、人を縛りつける場所にしかならず、誰をも自由にはせず、幸せにもしない。

筆者は、今、我が国は曲がり角に来ており、大きな過渡期にあるものと思う。すなわち、敗戦後、我が国は、天皇を現人神とみなすことをやめ、象徴天皇制に移行した。官吏は天皇に仕える僕ではなくなり、公務員は国民の公僕とされた。しかしながら、この改革は非常に中途半端なもので、数多くの矛盾を抱え、数多くの点で、ミイラのような過去の残存物を内に抱えている。

すでに書いたように、憲法上の真の公務員の定義は、官僚を指すものではなく、選挙で選ばれた政治家を指すものであって、現在の官僚は、本当の意味での公務員ではなく、戦前の官吏の影のような残存物であって、勝手に公務員を詐称しているに過ぎない。さらに、天皇が国民の象徴として存続し続けることの矛盾は、天皇自身が退位を望んだという事実に何よりも明白に表れている。

筆者は、神と人とがつながるために、キリスト以外のどんな仲介者もあってはならず、牧師という役職は不要であると再三に渡り、述べて来たが、それと全く同様に、国民の象徴としての天皇という存在も必要ないと考えている。

すでに説明したように、カトリックのような、法王を中心とする聖職者階級を否定して、聖書の真理をすべての人々に解放すべく行われたプロテスタントの宗教改革は、結局、牧師を中心とする教職者制度を残したことによって、非常に中途半端で、かつ、矛盾だらけの改革に終わった。そして、当然のごとく、このように中途半端に教職者制度を肯定したことは、悪魔に口実を与えるきっかけとなり、その結果、牧師夫妻を「霊の父・霊の母」として崇めるような、全く聖書に反する異端の思想が、公然とプロテスタントに侵入して来る契機を作ったのである。

日本国憲法も、結局はプロテスタントに起きた現象と同じような、中途半端な過渡的改革を示している。敗戦後、天皇を神として崇める思想は否定されたものの、天皇制そのものは廃止されず、これが国民の「象徴」として残されたことによって、依然として、主権在民が完全に実現しないまま、改革は中途半端に終わったのだ。国民一人一人が完全に個人としての自覚や責任を持つには大きな妨げが残ったのである。

そして、天皇が「象徴」として残されたことによって、ただ未来への前進が中途半端に妨げられただけでなく、さらに、過去に立ち戻ろうとする動きにも口実を与えることとなり、戦前回帰などという愚かな潮流の出現も手助けされているのである。

そこで、以前も述べた通り、次なる時代が到来するためには、筆者は、プロテスタントもそうであるが、我が国の体制そのものも、この中途半端な「象徴」を取り除き、一人一人が完全な主権を取り戻し、個人が個人として生きられるような形式を整えるしかないと考えている。今はそのための過渡期・移行期であって、歴史を逆行して、天皇を再び現人神とすることによって、後退することが必要とされているのではなく、むしろ、天皇制を廃して、完全なる国民主権を実現することで、未来へ前進することこそ必要なのであり、もしも憲法を改正するならば、そのような前進の文脈でこそ、初めて意義が生まれるのである。

皇族や、国民の象徴という言葉は、いかにも偉大な響きを帯びてはいるが、実際には、天皇の任務は、考えられているほど尊いものでもなければ、美しいものでもない。そのことが、天皇の退位という問題をきっかけに、今になってようやく多くの人々に広く認識されるようになった。

象徴天皇制は、天皇自身に人権すら与えずに、一生、生まれながらに選択の自由もなく、象徴としての義務に縛りつけるような、残酷な束縛の枷にしかなっていない。

天皇自身がその矛盾に気づいており、象徴であり続けることに疑問を感じているにも関わらず、そんな制度をありがたがり、天皇の気遣いを受けることで、自分が満たされ、高められるかのように錯覚している国民がいるとすれば、その国民の方も、(まるで牧師の気遣いに依存する信徒同様に)全くどうかしていると言わざるを得ない。

他人に犠牲を強いることによってしか、自己の価s値を十全に感じられないというならば、その充足感は偽りである。たとえ高齢の天皇が退き、若い世代に道を譲る事で、新たな天皇を立てたとしても、生きた人間を「象徴」的存在に閉じ込め、自由な意志選択や自己決定権を奪うことの忌まわしさは何一つ変わるものではない。

それなのに、なぜ人間は、まるで金の子牛像を拝むようにして、常に自分の偉大さを証明してくれる、目に見える象徴を求め、目に見える自分以外の人間からの賞賛や支援や同情や激励の言葉を求めずにいられないのか。

そういう浅はか弱々しく自己本位な願望と訣別すべき時が来ているのである。にも関わらず、もしこれから先も、我が国の国民が、他者からの賞賛や激励や同情といったものを求め続けるならば、その美しい言葉を口実に、どんどん自らの自由と権利をかすめ取られて行くだけであろう。

そのような文脈での「象徴」としての任務が、光栄な務めであって、偉大な使命であると考えるのは間違っている。それは人間の依存心を助長し、自立を妨げ、無用な束縛を増し加えるだけである。

さて、話を戻せば、偽りの思想における「家」というものの欺瞞性に、筆者が言及したのも、以上と同じ文脈である。家系を代々、絶やさないことによって、家を守ることを人の最高の使命とし、それによって、人類の血統を永遠のものに高めようとする思想は、非常に忌まわしいものでしかなく、そのような文脈によって生まれる「家」というものも、何ら美しい存在ではない。
 
また、『ギルバート・グレイプ』の映画に登場する母親のように、分厚いたるんだ脂肪に包まれているだけの人間も、三島由紀夫のように、自らの肉体を鍛え上げることで、肉体美・筋肉美を誇る人間も、外見はまるで正反対のように見えたとしても、本質的には全く同じであり、両者ともに、生まれながらの人間の自己を神格化し、その考えに基づいて、人類という「家」を守るためのカインの城壁にしがみつき、束縛されているだけなのだ、という事実に気づく人は少ないだろう。

結局、この両者は、己の肉体にしがみつくことで、どちらもが地上の故郷である「家」へしがみつき、執着しているのである。象徴としての「家」を絶対視・神聖視し、それに自ら束縛されることで、己の有限性、弱さ、罪を否定して、現実から目を背けて、堕落した人類には存在しないはずの永遠に思いをはせているのである。その偽りの思想は、個人に個人として生きることを許さず、秩序を転倒させ、最終的には、個人を滅ぼしてしまう。
 
その結果、本来、家というものは、家族の成員を守るための屋根のようなものに過ぎないのに、この屋根を守るために、家族が命を捨てるという本末転倒な結果が生まれるのである。あるいは、肉体は、命を守るための砦に過ぎないのに、その砦を不滅のものとするために、人が自己の命そのものを滅ぼすという結果になる。こうした考え方を延長して行くと、牧師のために、あるいは教会組織のために、信徒が命を捧げ、企業を守るために社員が命を捨て、象徴天皇制を守るために、国民が犠牲を払い、あるいは天皇のために、もしくは国のために、再び国民は命を捨てよという思想が生まれる。

このような思想においては、何もかもがさかさまである。人間のために家があるのに、家のために人間が存在することにされ、人間のために肉体があるのに、肉体のために人間が存在することにされ、人間のために組織があるのに、組織ために人間があることにされ、国民のために国があり、天皇が存在するのに、天皇のために、国のために国民が存在することにされてしまう。
 
最終的には、そのようなさかさまの思想は、神と人との秩序を転覆させる。聖書によれば、本来、人間は、神に仕える宮であるのに、その宮に過ぎない者、被造物に過ぎない者が、主人である神を超えて、自らを永遠の存在として誇るという秩序転倒に至る。宮が主を超えてしまうのである。

その結果、パラドックスに満ちた現象が起きる。自らが神聖でないのに、神聖の領域に不法侵入した者が、打ち滅ぼされる。 自らが永遠でないのに、自らを永遠と宣言した者が、己を滅ぼし、それによって、自らが永遠でないことを逆説的に立証するのである。天皇のために「殉死」した三島もそうであったし、滅んだ「皇軍」もそうであり、家と一体化したまま死んだ母親もそうだが、結局は自殺としか言えない結末に至るのである。

こうして、腐敗した朽ちゆくアダムの命を神聖視し、滅びゆく不完全な地上の幕屋としての肉体にしがみつき、人間を滅びに導くだけの肉欲にしがみつき、朽ちるものに執着し、それに同情の涙を注ぐことによって、滅びゆく自分の堕落や弱さから目を背けて、自己を保存しようとする人間の自己防衛の試みは、究極的に、自己破壊という結果に至りつくだけなのである。

だから、家を自分の弱さから逃避するための手段として用いる人々もまた、自己の罪を隠すためのイチヂクの葉により頼んで生きているだけなのだと言える。地上の組織の強化や拡大にこだわる人間もすべてこれと同じである。

家にしがみつく人間も、企業の繁栄や、宗教団体の繁栄や拡大にこだわり、あるいは国家の強化や、軍備の増強を唱える人間は、すべて同一線上に立っている。それは決して十字架の死を経ることのない、アダムに属する人間の、生まれながらの自己(セルフ)を建て上げ、永遠に肯定したいという欲望の言い換えに過ぎないのである。
 
生まれながらのセルフの腐敗・堕落を隠すために、彼らはその覆いとしての宮(肉体、家、組織、国家)を賛美し、そうすることで、神に背いた人類の堕落した本質を隠しながら、被造物に過ぎない自分自身を、造物主以上に掲げて、神と宣言しているのである。

このように、神を口実にしながら、結局、神の地位をのっとることで、己を高め、神格化しようとするこの思想の傲慢さ、忌まわしさは、三島の「殉死」が、彼が最も崇めたはずの他でもない天皇の意志を無視して単独で行われたことにもよく表れている。どんなに天皇を口実に掲げていても、三島の最期は、現実の天皇の意志をまるで無視して行われた独りよがりなパフォーマンスに過ぎず、結局、三島が望んだのは、天皇を口実に持ち出すことで、自らを神格化することだけだったのである。

今、戦前回帰を持ち出して天皇を担ぎ上げ、讃えている人々がしていることも、全く同じである。天皇をありがたがる人々ほど、実際には、天皇自身の意志や人格などまるで尊重してはおらず、単に自己を高める口実として、他者を利用しているに過ぎない。

そして、プロテスタントの信者が牧師や教会組織にこだわる理由もこれと同じである。彼らは、自分たちの属する教会やリーダーを絶対視し、誉めそやすことで、結局、自分を偉大な存在に祀り上げようとしているだけなのである。家や家系を絶対視する人々もそれと同じであり、その根底にあるのは、常に自己を偉大な存在とする口実が欲しいという「セルフの神格化」の願望だけである。
 
真のキリスト者の願いや、目指す目的は、決して、以上のような人々と同じものではない。キリスト者の目的は、地上的な様々な象徴によって自己を強化し、武装し、己を高めて、神聖視し、それによって、自己の抱える本当の弱さ、愚かさ、罪深さから目を背けて、自分を偉大に美しく見せかけることにはない。我々にとって、真により頼むべきものは、そうした地上的なものではない。

だから、冒頭のテーマへ話を戻すと、もしもクリスチャンが、主と共なる十字架の死にとどまることの重大な意味を忘れ、主と共なる復活、栄光だけを願い始めるなら、その人はたちまち、自分では神に従っていると錯覚しながら、実際には、生まれながらの己を神として祀り上げる誤った方向へ逸れて行くであろう。
 
また、少しでも、神との直接的な交わりではなく、地上の人間たちとの横のつながり、人間との絆や連帯を賞賛し、もしくは自分の帰属集団などに価値を見いだし、栄光を帰そうとするなら、たちまち以上のような誤った思想へ逸れて行くであろう。

多くのクリスチャン(と称する人々)が実際にそうなったのであり、筆者はまさにそれゆえに、地上における家にこだわり、地上的な情愛にとらわれることへの重大な危険を思い、また、それを警戒している。
 
もしもこうした要素を信仰生活に少しでも混ぜ込むならば、たちまち、神への純粋な従順も失われてしまうであろう。

確かに、「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という御言葉には重大な意義があるが、それは、決して、我々が肉の情愛を神聖視し、それにしがみつき、埋没するための口実ではないのだ。
 
人は、地上における自分の家や、勤め先の企業や団体、もしくは宗教団体や、国家といった組織を隠れ蓑のように利用して、その中に埋没することで、己の罪や弱さや限界から目を背けるのではなく、常に個人として、一人分の重荷を負って生きねばならない。その生き様は、集団の中に自分の居場所を求め、地上への帰属を誇ることで、個人としての孤独や自分独自の使命を忘れ、自己の本質から目をそらそうとする衝動や生き様とは正反対である。

集団に埋没することの中には、自己忘却の誘惑としての安楽が常にあるが、それはキリスト者の道ではない。

人はもともと集団を維持するための道具として生まれているのではなく、個人として生きており、それゆえ、個人としての意志や、独立性を生まれ持っている。他の誰のコピーや附属物でもない、オリジナルな、他から独立した、個人として生きており、それゆえ、個人としての尊厳や、諸権利が生じるのであり、個人の尊厳は、決して、帰属集団によって担保されたり、定義されるものではない。誰のコピーでもないオリジナルであるがゆえ、その使命も人と同じではなく、独自の重荷を負わねばならない。ましてキリスト者はそうであり、キリスト者は、「日々の十字架」として、一人分の重荷、一人分の孤独、一人分の十字架を常に負う任務があることを筆者は疑わない。地上では寄留者として、どこにも最終的に定住することなく、つつましく歩み、常に神の御前の単独者としての孤独を負い続けねばならない。
 
だが、多くのクリスチャンを名乗る信者たちが、まさにつまずき、脱落して行ったのは、この点であった。

彼らを堕落させたのは、自分は絶対に一人になりたくない、孤独を負いたくない、人間の絆から切り離されたくない、人間の絆から生じる温もりや、連帯を失いたくないという願望であった。その思いが、彼らが十字架の死を経ない、アダムの命によって生じる生温かい情に身を委ね、集団の中に安易に埋没して、神の御前での単独者として、自分独自の重荷、自分独自の孤独、自分独自の十字架を負うことを拒ませるきっかけとなり、その孤独な歩みを忘れさせたのである。そのような信者たちは、その後、まるで営利企業や、軍事力の強化に走る国家も同然に、自分たちの連帯を神聖視し、賛美しながら、自分たちの属する宗教団体の権威や威光を誇示し、これを強化・拡大することを至高の目的として、完全に誤った道へと逸れて行った。
 
筆者は、彼らと同じ道を決して行くまいと決意している。だが、そのためには、神の御前で、どんな時も、キリスト者が自分一人分の孤独を自ら背負い続ける姿勢が、極めて重要なのだと思わずにいられない。その任務は、人の目には、孤独で悩み多きもののように見えても、地上における人間たちのどんな種類の連帯にもまさる意義を持つと確信している。

つまり、神に満たしていただくためには、神が来られる前に、信者である人間が、すでに満たされてしまっていては駄目なのだ。神の御許にだけ、我々が携えて行かねばならない一人分の孤独、弱さ、限界、飢え渇きがどうしても必要なのである。神の御前で、人間が、すでに満たされてしまっておらず、孤独で、飢え渇いていることが必要なのである。

ところが、人間が、自分自身の弱さを恥として否定すべく、自分で自分を強め、孤独を忘れるために、自分を慰め、励ましてくれる象徴を自ら作り出し、人間の温もりと連帯の中に安易に身を埋めると、本来は、神に向けるべき、一人分の飢え渇きが、あまりにも簡単にあっけなく失われてしまう。そして、もはや以前のように、悩みや苦しみの中でも、心の底から神を求め、信じて見上げるだけの純粋な信仰、純粋な叫び、祈り、求めが曇らされ、なくなってしまう。最終的には、そのような人間にとっては、ただ神にのみ自分のすべてを委ねて生きることよりも、悩みや苦しみから手っ取り早く目を背けて、自己の弱さを忘れることおの方が、はるかに重要課となり、まるで中毒患者のように、現実の自分自の弱さから目を背けるために、自己に慰めをもたらすものに依存し、それを手放せなくなる。それが家であったり、家族であったり、偉大に見える指導者であったり、企業や宗教団体であったり、または国家になったりするのである。
 
そのような状態こそ、筆者は恐れるのだ。人間的な観点からは、まことに幸福そうで、問題がなく、強そうで、理想的で、満たされているように見えたとしても、神を語りながら、実際には、まるで神を必要としないという、人間側の独りよがりな状態以上に、忌むべき状態があろうか。しかも、キリストが来られるよりも前に、信者の側がすでに満たされてしまい、自己陶酔、自己満悦、自画自賛に陥っていることほど、神の目に忌むべきことはないと思われてならない。我々にそのような錯覚としての偽りの満足をもたらすものは何であれ、早々に手放し、ゴルゴタの死へ戻るのが最善である。


生きることはキリスト――私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。

「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(Ⅱコリント5:13-16)


ここで、パウロは「人」という言葉を、キリストにある新しい種族だけを指すものとして使っている。キリストにあって生まれておらず、キリストを信じてもいない滅びゆく古き人は、ここで言う「人」の概念には含まれていない。

そこでは、キリストにあって生まれておらず、信仰によってキリストの死と復活に同形化されてもいない、地上の出自しか持たない滅びゆく罪人は、あたかも「人」の範疇には全く含まれていないばかりか、存在すらもしていないも同然である。

それは、ここでパウロが使っている「人」とは、誰よりもキリストご自身を指すからである。つまり、真の人間、神がかくあれかしと造られた人間、神の御心を完全に満足させる、真に人間らしい人間は、キリストただお一人だけであり、そのキリストから生まれ、キリストに結びついている者だけが、「人」と呼ばれるに値する、というわけなのである。

「人間的な標準で人を知ろうとはしません」という表現は、信者のことを指しているのかと思いきや、すぐにキリストのことであると示される。

その後には、「だれでも キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」というあの有名な言葉が続く。

この文脈は、キリストのうちにある人は、誰もがキリストに属する新創造であり、真に人間らしい人間なのであるから、もはや誰も古き人の性質(人間的な標準)に従ってその人を知る必要はない、ということを意味する。

もっと言うならば、新創造とされた信者は、キリストに限りなく近しい人間であり、キリストご自身と全く同一ではないにせよ、キリストが内に住まわれ、キリストという「型」を内にいただいて生きているので、たとえキリストとは別個に、自分の人格を持っていても、キリストと分かちがたく一体となって、キリストの性質を帯びて生きているのである。

だから、その信者が地上の旧創造であるアダムの生まれとして、いかなる性質を持っているか、聖別は、国籍は、肌の色は、外見は、性格は、経歴は・・・などと言った事柄は、もはや知る必要もないほどまでに些末なことだ、というのである。信者が知る必要があるのは、その人の人間的な特徴ではなく、キリストに属する性質だけだ、と言うのである。

ところで、筆者は、罪と義認についてのあの長い説明をそろそろ離れたいと思っている。キリスト教は、いつまで経っても、悔い改めと、罪の赦しと、血潮の話を繰り返しており、その堂々巡りから先に、ほとんど歩みを進めていない。

今日キリスト教と思われている教えの中には、あまりにも多くの誤謬があるように思われてならない。そして、その誤謬は、人をいつまでも弱さと罪の中に閉じ込め、永久にその弱みから自由にさせない束縛の枷として機能している。

たとえば、キリスト教にはあまりにも多くの聖書と無縁の地上的な運動が入り込み、その結果、あたかも慈善事業の場のようになった。人の貧しさや病や弱さを美徳のように考え、虐げられた人々や、犠牲の死を美化する思想などがキリスト教に入りこんでいる。

しかし、このようなものはキリスト教ではなく、共産主義思想を含む、偽りの弱者救済の思想から来たものでしかない。そのように人間の弱さや、苦しみや、犠牲を美化する思想を信じている限り、信者はずっと「人間的な標準」の中に閉じ込められ、神がキリストの十字架を通して信者に約束して下さっている自由と解放には決して達することがない。

病や虐げや貧しさや死は、みなこの世における罪や、悪魔の働きの結果もたらされるものであり、これ美化し、これを後生大事に握りしめながら、同時に、キリストの復活の命を知って自由になろうとするのは、エンジンとアクセルを同時に踏んで前へ走ろうとするのと同じくらい不可能なことである。

そこで信者は、もし心から信仰生活において前進したいという願うならば、貧しさや病や虐げと手を切り、これらを憎むべきものとして退けて、御言葉によって否み、神が天に用意して下さった命の豊かさにあずかることを目指して、前へ向かって進む必要がある。

なのに、なぜ多くの人たちにはそれができず、前進をためらっているのか? それは、その人たちが自分の弱みを捨てることをためらう何かの理由があって、あるいは、弱者であることから来る特権に心奪われ、あるいは、自己憐憫に溺れ、あるいは、人からの同情を受ける心地よさに安住し、さらには、弱者が弱者を支配して虐げるという構図があって、その中で義理や人情によってがんじがらめにされており、あるいは、人が人の弱みにつけこんで、助けてやるふりを装いながら、他人を精神的に支配し、搾取するという偽りの「救済システム」に取り込まれ、あるいは、信者が信者を「弟子化する」という序列と支配のシステムの中でがんじがらめにされているために他ならない。地上には、あたかも弱者に優しく手を差し伸べてやるように装いながら、決して弱者を弱者であることから逃がさないようにする幾多のシステムが存在する。

だがもし信者が本当にキリストの命にある自由を知りたいと思うのであれば、そういった人が互いの弱さをかばい合うという名目で、その実、弱さを手がかりに他人を支配するために作られた、アダムの命に基づく腐敗した支配と搾取の自己防衛の共同体(「イチヂクの葉同盟」)を脱出しなければならない。

そのために、信者はまずは自分自身の人間的な弱さと手を切る必要がある。それはただキリストにあってのみ可能である。アダムの命にあってアダムの命の弱さを否むことは誰にもできないことであるが、神の強さにすがり、これに覆われることによって、人は、誰からも同情されたり、助けの手を差し伸べられたり、哀れまれたり、教えられたりする必要のない、真に自立した自由な人であることができる。神に贖われた信者は自由であり、彼を巡る「負債」はもはや存在しないのである。

このことは、信者のアイデンティティが、限界と不足ばかりの、罪に堕落したアダムの命にある自分自身から、キリストの満ち足りて不足のない永遠に聖なる命に移行することを意味する。キリストにある時にのみ、信者はどんな状況にあっても、自分には何の不足もなく、弱さもないと言うことができる。

だが、人間的な標準によって自分をとらえ、それによって自分の限界を自ら規定している限り、信者はキリストの満ち満ちた性質を真に知ることはできないだろう。なぜなら、アダムの命が主張することは、常に不足、不足、弱さ、弱さばかりであって、この命は信者に何も自由を与えないからだ。他方、キリストの命にあるのは、満ち足りた豊かさ、そして自由である。一体、どちらの命に立脚して生きるのか、それは、信者自身が実際に決めることである。

あまりにも多くの人たちが、誰からも同情される必要のない自立した自由な人間になることよりも、人に同情され、注目される心地よさを失わないために、弱さから抜け出られない人生を自ら選び取るのはまことに奇妙で愚かなことに思われてならない。

あまりにも多くの人たちが、人前にか弱い人間のように振るまった方が、自分が愛らしく映ると思い込み、世から憎まれたり攻撃されないために、積極的に弱いふりをさえ装う。しかし、そうこうしているうちに、その弱さが、演技ではなく事実となって、あっという間に、病や死や貧しさとなって信者の人生を飲み込み、食い尽くしてしまうのだ。

ある意味で、罪の告白もこれとほぼ同じ作用を信者にもたらす。一部の信者たちは、自分が救われる前にどんなに罪深い人間であったか、自分の古き自己がどんなに汚れた罪深い性質を持つものであるか、絶えず人前に告白して、神と人に赦しを求めることが、信仰生活に必要であるかのように思っている。

しかし、そのような告白は、あまりにも多くの場合、現実の信者を全く改善しないばかりか、より深く過去に目を向けさせ、過去の罪と手を切れないようにし、自責の念からいつまでも抜け出せないようにしてしまう。

信仰のない世の人々の場合であっても、同じ過ちを延々と繰り返し続けては、判で押したように同じ謝罪を続けるのは、進歩のない証拠であり、開き直りと思われるだけである。その謝罪の言葉が誠実さの表れと受け取られることはまずない。

神に対しても同じである。だから、信者はいつまでも同じ罪の告白ばかりを繰り返すのはやめて、自分自身の思いを変えるべきなのである。アダムの腐敗した命を自己のアイデンティティと思うことをやめ、それが十字架において死に渡されたことを宣告し、キリストにある新しい命、新しい人格を、自ら選び取るべきである。

「人間的な標準」で自分を推しはかり、いかに自分が罪深いかという性質にばかり目を留めて、懺悔に明け暮れるのでは、前に進んでいくことは決してできないし、自分で過去を引き戻しているのと同じである。

たとえば、贖われた信者の救われる前の罪深い過去なるものは、神の目の前に死んだも同然で、意味をなさない。にも関わらず、神にとって存在しないものを、なぜ信者がいつまでも引っ張り出して来ては、延々と繰り返す必要があるのか? こうして、いつまでも罪深い過去ばかり振り返って、懺悔を続けていれば、誰にも新たな出発など出来はしない。どちらかの自分と手を切って、一歩を踏み出さねばならないのだ。 キリストの復活の命によって生かされた新たな自己と、新たな生き様を、信者は自らの信仰によって選択せねばならないのである。
   
筆者は決して、ここで信者にとって罪の悔い改めや赦しが全く必要なくなると言っているわけではなく、また、救われたと同時に、信者が聖人君子になるわけでもないことは承知している。キリストの命にあっての信者の心や行動の変化は、一朝一夕に起きるものではなく、徐々に続行して行く。むろん、地上にいる限り、人間から単数形の罪の性質が消えることはなく、従って、信者が血潮による清めを必要としなくなることはない。

だが、たとえそうであっても、信者はこれ以上、アダムに属する人類の罪なる性質がいかに恐ろしく堕落しているか、いかにそれが信者にとって逃れ難い悪質な罠のようなものであって、自分はそれに苦しめられているか…といった敗北的な話ばかりを延々と続けるのはやめた方が良いと考えずにいられない。

そのようなことは、もはや言うまでもなく、信者であれば誰でも知っていることであるが、我々はそろそろ、アダムの地表を離れて、キリストの地表に立たなければならないのである。アダムの性質という希望のない地表からいい加減に目をそらし、神が喜ばれ、神の御心にかなうキリストのご性質とはいかなるものなのか、キリストの持っておられるすべての豊かさと美徳を、信者は自分自身にも確かに付与されたものとして理解し、その命の領域に生きることが必要だからである。

「生きることはキリスト」という確信が、信者に必要なのである。

信者には、これ以上、人間的な標準で自分自身を知ろうとしないことが必要である。なぜなら、贖われた者は、もはや自分自身のために生きているのでなく、神のために生きているのであって、信者自身、もはや信者のものではないからである。

にも関わらず、信者が自分をあたかも依然として自分のものであるかのように見つめ、これを握りしめ、自分勝手に評価したり、定義することは許されない。神が贖われた者をどのようにご自分の御心に従って造り替えられるかは、神が決められることであり、信者は、それにとやかく言わず、贖われた自分が、もはやかつての自分ではないことを認めて、自分が神の永遠のご計画の一部として、キリストの新しい命によって生かされていることを認め、受け入れるべきである。

こうして、大胆な確信に立って「生きることはキリスト」と言える信者が、ほんの100人ほど現れただけでも、我が国は、いや、世界は全く違った有様になることであろう。

そのためにも、信者には、パウロが「人間的な標準で知ろうとしない」と述べたように、もはや「余計なものを見ない」という姿勢が信者にとって重要である。これは信者が罪深い性質に開き直ることを意味しない。信者はその古き性質を憎むべきものとして理解し、全力でこれを否定しようとしている。だが、たとえ御言葉による古き人との訣別の方法がまだ具体的に分からず、信者の目には罪と失敗と無益な思考錯誤の繰り返ししかないように見える時でさえ、信者はそれらの古き性質を自分自身のアイデンティティとして受け止めるのではなく、キリストにあって贖われた自分自身の新たなアイデンティティを見つめ、これを信仰によって掴むのである。

地上にある限り、信者はこの地上の生まれから完全に解き放たれることはない。だが、それにも関わらず、もはやその古き性質に従って、キリストをも自分自身をも知ろうとしないのある。

イミテーションの宝石は、どんなに数が多くても、本物にはならない。十字架において死んだ古き人の性質に目を向けて、どんなにそれを批判してみても、そこから本物の性質が理解できるわけではない。本物を理解するためには、ただ本物だけをまっすぐに見つめなければならない。

そういう意味において、信者は自分自身を含めた「人」や「人類」という言葉を、アダムに属する罪深い絶望的な種族としてのみとらえるのをやめて、キリストにある「新しい人」こそ、本当の意味での「人」であり、それこそが、神の目にリアリティであることを見る必要がある。そして、自分はすでに古き人類の一員ではなく、この新しい「人」の中に加えられたことを見る必要がある。

すでに新しい世界が出現しているのに、ずっと古い世界にこだわり続けて、価値ある重要なものを見失うほど愚かなことはない。

神は贖われた信者を、もはやアダムの命にある古き人としては見ておられない。生まれたての未熟な信者であってさえ、神の目にはキリストと同じく完全なのである。それはキリストの贖いの御業のゆえであって、信者が霊的に進歩したからではない。だが、信者は、それでも、神がご覧になるように、自分を見、そして、神がキリストにあってその信者のために備えて下さった新しい完全なる人格という霊的事実を、実際として地に引き下ろすべきなのである。その時こそ、「生きることはキリスト」という事実が、自然と信者の中において実際に成就するであろう。


御霊に導かれて歩む(1) 御霊によって肉の働きを識別し、これを否んで霊に服従させる

全てのクリスチャンは、キリストと共なる十字架のより深い働きを知る必要がある

 さて、今回のテーマは、クリスチャンがどのようにして御霊の導きに従うのか、ということです。

 クリスチャンは、救われたにも関わらず、いつまで経っても、世の罪人と同じように、各種の罪の誘惑、不義なる思いにからみつかれたまま、それに打ち勝つこともできずに、同じところを行ったり来たりして、前進のない敗北的な信仰生活を送る必要など全くありません。

 実のところ、クリスチャンがそんな歩みをずっと続ける必要は全くなく、それは神の御心でもないのです。しかし、肉の力によって罪の力に打ち勝つことは誰にもできませんから、ここに、この世の法則や、人の堕落した肉の力をはるかに超えたキリストと共なる十字架の霊的死の働きが必要となります。
 
 アダムは創造された時(まだ堕落していなかった時)、神と交わることのできる霊を与えられていました。それは神の霊(聖霊)ではなく、人の霊であったけれども、アダムはその霊によって神に従い、神と交わることができ、彼の魂と肉体は、彼の霊に服従していました。

 神と交わることのできる霊を与えられていること、それが、あらゆる被造物と人間とのはっきりした区別です。

 堕落する以前の当時、アダムの中では、崇高な霊が最も高い地位を占め、それに魂と肉体が従うという優先順位が守られていました(霊→魂→肉体)。

 しかし、アダムが堕落した後、人の霊の機能は死んでしまい(もしくは機能不全に陥った)ため、魂と肉体を統率することができなくなりました。

 それ以後、生まれながらの人の霊は、神に対して閉ざされた状態となり、むしろ一部の人々にあっては、悪霊に対して開かれているような機能不全の状態となり、さらに、人の霊と魂と肉体の優先順位が覆されてしまいました。

 人の中では、堕落した肉が王座についたため、人は罪の奴隷となり、人を導くものは、霊ではなく、肉となったのです。
 
 また、神のいましめに逆らって善悪を知る木の実を選んだことにより、人の魂も、神によらない偽りの知識によって高ぶりました。人の魂は、御言葉を退けて、自分勝手な基準で、自ら善悪を判断するようになりました。

 今日、文明が発達した結果として、人間はあらゆる知識を蓄え、己が知性を誇ってはいますが、それでも、人間の魂の知識は人をただ不幸な暗闇へと導くだけで、何の救いももたらしてはいません。

 こうして、堕落した肉(魂+肉体)が人の中で最高位を占めるようになり、真理を知らない魂が、霊に代わって人を治めるようになって、肉→魂→霊、と優先順位が転倒しました。

 その結果、人は霊によって自分自身を治めることができなくなり、誤った偽りの知識と、肉の欲望の奴隷となったため、人の人生にはあらゆる悲惨や混乱がつきものとなりました。人は生まれてもただ暗闇の中をさまよい、罪と死に至るだけです。再生されていない人は、どんな努力によっても、その状態を変えることはできません。

 しかし、人が罪を悔い改めて、御子イエスの十字架の救いを信じて神に立ち返ると、血潮によってあらゆる罪から贖われます。そして、聖霊がその人のうちに住まわれることによって、人の霊も生かされます。

 しかし、多くのクリスチャンは、その時点では、罪が赦されたことと、御霊が我がうちに住まわれたことをただ信仰によって信じているだけで、聖霊の導きをまだはっきりと内に感じることはありません。

 彼は霊によって導かれる人にはまだなっていません。また、肉の誘惑に打ち勝つことができる力もほとんどありません。自分を覆っている無気力や、挫折感、罪深い各種の誘惑や、失意の念がどこからもたらされているのかも知らず、これに打ち勝つべきであることも知りません。

 そのような時点でのクリスチャンは、まだ生まれたばかりの肉的なクリスチャンで、思いを識別することもできませんし、罪に勝利する力もほとんどありません。ある日、涙ながらに、罪と訣別する決意をしても、翌日には、また罪に戻っているような有様です。しばらくの間は、救われる前に耽溺していた罪との格闘、そしてそれに打ち勝つ力がないための敗北が続くでしょう。

 そのような時点でのクリスチャンの中には、一生懸命に聖書を読み、御言葉を知識として蓄積し、主のために多くの活動をする人たちがいますが、依然として、彼の活動の内には、聖霊の命が働いていません。そのため、彼の働きはその熱心さにも関わらず、実を結ばず、ただ余計なおせっかいのようになるだけか、もしくは死んだように力がありません。

 この時点でのクリスチャンは、まだ、肉→魂→霊という転倒した優先順位の中で生きています。神のための奉仕ですら、肉の力によって決行しています。

 このような信者が、御霊に導かれる人となるためには、まずは上記の順位を覆し、肉体と魂を霊に服従させ、御霊の導きの下、人が自分自身の内側で、霊を真の主人とならせることがどうしても必要なのです。

 そのために、信者は、肉体と魂に働く古い性質を、御子の十字架を通して死に渡す必要があります。


十字架には肉の働きに対する霊的死の効果がある
 
 多くのクリスチャンは、御子が達成された十字架を、ただ罪からの贖いとして受け取るだけですが、実際には、御子の達成された十字架にはより深い働き――肉の働きに霊的な死をもたらす効果――があります。

 なぜなら、キリストの十字架は、彼を信じる全人類の罪深い肉そのものに対する死の刑罰だったからです。
 
 このようにして、キリストの十字架における霊的な死が、信者の肉に適用された時に、初めて、信者は、自分の肉体や魂に働く、古き悪しき性質が、キリストと共に十字架で死に渡されたことが事実であること、そして、キリストの復活の命にある新しい法則が、自分のうちで実際により深く、より力強く働くようになるのを知るでしょう。
 
   私たちは肉が罪なる性質を持っていることを知っています。御言葉はこう述べます。
「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、享楽、および、そのたぐいである。」(ガラテヤ5:19-21)

 これらの肉の働きが邪悪なものであることはあえて説明する必要もありません。しかし、ここに、うっかり見落としてしまいがちな点があります。それは、肉は不義をなすことができるだけでなく、善を成し遂げることもできるということです!
 
 一般的なクリスチャンの多くは、一生懸命に日曜礼拝を守り、早天・徹夜・断食・祈祷などに参加し、献金を捧げ、トラクトを配り、救いを知らない魂をキリストに導くために、考えうる限りの「良い活動」に真面目に従事しようとしています。

 あるいは熱心に祈りと賛美を捧げ、自他を楽しませる各種の奉仕活動に従事しています。
 
 彼らは外面から見れば、まっとうな、とても立派なクリスチャンのように見えるかも知れませんし、自らそう信じ込んでいる人々も多く存在することでしょう。

 確かに、彼らは自分たちは世の罪人よりははるかにましな生活を送っており、自分達は肉的でないとさえ思っています。しかしながら、多くの場合、彼らには、表面的な正しさはあっても、神の命の現われがありません。むしろ、実際に、信仰生活の前進のなさに悩んでいることさえ多いのです。

 なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

 それは、その人が依然として、肉に頼って善行を行っているからであり、肉により頼んで、聖霊に従おうとし、肉により頼んで、神を喜ばせようとして、むなしい努力を続けているからなのです。

 彼らは肉そのものが神の目に忌むべきものであることを知らず、また、自分たちの伝道や祈りや奉仕が、肉によって持続されていることを知らず、自らの肉が御子の十字架ですでに死に渡されたという事実にも立っていません。

 私たちは、肉には邪悪な働きがあるだけでなく、一見、善のように見える働きもあるということを、よく覚えておく必要があります。しかし、善のように見えようと、悪のように見えようと、依然として、「肉から生まれる者は肉」(ヨハネ3:6)であり、「肉にある者は、神を喜ばせることができない」(ローマ8:8)のであり、「肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反する」(ガラテヤ5:17)のです。

 残念ながら、クリスチャンは、肉において礼拝を捧げ、肉において祈り、肉において賛美をし、肉において奉仕をし、肉において献金をしたりするということが、実際にあり得る(むしろ、大いにあり得る!)ということに注意せねばなりません。

 いかにそれが人の目に敬虔な礼拝のように見えようと、もしその礼拝が肉によって捧げられているならば、それは神の目に忌むべき礼拝なのです。

 このように言うと、「もはや何が正しいのか、私には全く分からなくなりました」と言う人が出て来るかも知れません。「自分では良いと思っていた奉仕さえ、肉によって成し遂げられていたかも知れないというなら、私はもうどうしたら良いか分かりません。」と。

 私は思うのですが、そのような場合は、今まで「神のために」行って来た活動をいったん脇に降ろすことをお勧めします。そして、改めて主が、あなたに一体、何を望んでおられるのか、それが明確に見えて来るまで、性急に動くことなく、神に直談判して熱心に問いかけつつ、神と深く交わりながら、御心を探ることをお勧めします。神の御心にのみ、心を傾け、人の忠告には耳を傾けないのが良いでしょう。
  
 さて、肉による善は、肉による不義ほどまでに、汚れたものに見えないかも知れませんが、実際には、神から見て、肉による悪と同じように、滅ぼされるべき、呪われた「肉」なのです。そのことを知らないで、依然として、肉による善行に頼って生きていることが、多くのクリスチャンが信仰生活において敗北する原因となっています。それがどれほど熱心に奉仕しても、それがいかなる実をも結ばないどころか、いずれその礼拝が、神の御心に反する効果を生む最たる原因なのです。
 
 また、ここではあまり深く触れませんが、悪魔は、信者の魂と肉体の領域に、霊の感覚の偽物を作り出すことができます。素晴らしい賛美や、祈りや、各種の大会など、感覚的に喜ばしい体験を通じて、信者の心を虜にして、「こんなに心地よく素晴らしい体験が起きるのだから、自分は聖霊に従っているのに違いない」と思わせながら、偽りの霊的体験の中を歩ませることができるのです。

 このような感覚的な欺きにとらわれないためにも、信者は、何が「良い」ものであり、何が「悪い」ものなのか、自分の感覚によって判断するのではなく、御霊の導きによる識別力が必要です。また、自分の肉に働く感覚的誘惑に対して、十字架における霊的死を経る必要があります。

 信者が肉の邪悪な働きに対して死ぬためには、キリストと共なる十字架の霊的な死のより深い理解、より深い適用が必要です。それを実際としてくれるのが、御言葉です。
 
 
キリスト・イエスにつく者は自分の肉を十字架につけてしまった
 
 さて、十字架のより深い理解と適用とは何でしょうか。それは、信者の肉は、すでにキリストと共に十字架につけられて死んだ、という事実を信じ、それを信仰によって、信者が自分自身に適用することです。
 
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)
 

 信者は、御言葉に基づいて、神の事実を堅く信じ、キリストと共なる十字架における肉の死が、信仰を通して自分自身にも適用されたことを信じて受けとる必要があります。

 神の事実とは、御子イエスが十字架にかかられ、肉体に死なれた時、御子を信じる全ての信者の肉も、彼と共にはりつけにされて死んだ、という事実です。信者の肉も、主と共なる十字架においてはりつけにされ、死刑宣告を受け、裁きを受けて死んだのです。

 私たちが自分の肉を十字架につけるために、新たな十字架を作り出す必要は全くありません。それはすでに御子が達成されたのです! 御子イエスが十字架において、その肉体に死なれた時、彼はご自分の肉の中に、信じる者全ての肉を含められました。

 彼はご自分の肉の中に、滅ぼされるべき全ての肉を含まれたのであり、そこには私たち信者の肉も含まれている、という事実を信者は信じ、そこに立脚しなければなりません。

 その事実は、信者の現在の状態とは全く関係ありませんし、信者にそのような「実感」があるかどうかとも関係ありません。信者が今現在、敗北的な生活を送っているのか、それとも勝利の生活を送っているのか、そのどちらなのか、といった感覚的・現象面の問題や、あるいは、信者が生きている時代が、御子の歩まれた時代とどれほど遠かろうとも、関係ありません。

 御子イエスの十字架は、時空間に関係なく永遠に達成された神の事実なのです。ですから、信者は、時空間を超えて、自分の個人としての特徴や限界をも超えて、永遠において信仰によって(!)、その事実の中に入りこみます。

 こうして、信者は信仰によって、主イエスと共なる十字架に入りこみ、これと一体化し、その事実を永遠から、今の自分の存在する時空間に、信仰によって引っ張ってきて、自分自身に適用するのです。

 信者はただ自分の現在の限界あるみじめな状態だけを見つめて、それを基準として、御言葉を信じられるかどうか判断すべきではありません。御子イエスが、すでに私たちの肉を十字架上ではりつけにし、死に渡された、という神の事実を信じ、神の永遠の事実を現在の自分に適用すべきなのです。
 
 信者がキリストと共に十字架上で自分の肉が死んだことを信じ、その事実を経験として知るためには、言葉において、声に出して、御言葉を宣言し、自分に適用することも有効であると私は思っています。

 そのようにして、確信をもって事実の中にとどまるならば、信者はある時、本当に、自分の肉の働きが十字架につけられて死んでいることを実際に経験するでしょう。

 
肉の各種の働き(心の思い、計画、提案)の出所を御霊によって見分ける

 信者は、御子イエスの十字架の、このようなより深い理解と適用によって、それまでどうしても打ち勝つことができなかった自分の肉の罪深い欲が、死んだように鎮まり、肉の罪なる性質から解放されたという経験を持つかも知れません。

長年、悪いと分かっていながらやめられず、どうしても打ち勝つことのできなかった罪深い習慣が、主と共なる十字架の死が実際になった時、打ち砕かれた、という体験をするかも知れません。
 
しかし、このようなことは、肉に対する十字架の霊的死の適用の最初の第一歩に過ぎません。
 
悪習慣が打ち破られたことは、肉に対する霊的な死が適用されたことの現れではありますが、そのような経験があったからと言って、そこで、信者はあたかも自分が全く聖なる者とされ、肉から完全に解放され、もはや肉を死に渡す必要が一切なくなったかのように思うべきではありません。
 
なぜなら、それは肉の働きに打ち勝つためのほんの最初の一歩に過ぎないからです。信者が常に目を覚まして、御霊によって導かれ、「霊によって体の働きを殺す」(ローマ8:13)ことを続けないならば、肉はまた別な方法で信者を虜にし、罪の中へ落ち込ませるだけでしょう。
 
そこで、信者にはさらなる前進が必要です。あれやこれやの悪習慣が取り払われたといったところで満足して終わるべきではありません。

ですが、前進と言っても、「一体、何が肉の働きであり、何が御霊の働きなのか」、信者自身が、明確に識別できるようにならなければ、何に打ち勝つべきなのかすらも分かりません。

罪深い各種の欲望は、誰にでもすぐに肉の働きであることが分かりますので、キリストと共なる十字架の霊的な死の意義を知っているならば、信者が、自分の魂にそのような悪しき思いが去来した時、その虜にされずに、その欲望を十字架において否むことは、比較的容易です。

しかしながら、肉の働きは、すでに述べた通り、誰にでもすぐに「悪いもの」と分かるような形ばかりを取ってやって来るわけではありません。御霊によらない悪魔的な知恵が、あたかも「善良な」知恵のように、信者の心に思い浮かぶこともありますし、人からの「良さそうな提案」の形でやって来ることもあります。

ですから、信者は、自分の中に思い浮かぶ(もしくは人から提案される)さまざまな計画、思い、願い、知恵などが、一体、どこから来たものなのか、それが本当に神の御心にかなうものなのか、その出所を識別する力を養わなければならないのです。

そして、神から来た提案であれば、それを採択し、神の御心に反するものであれば、十字架においてこれをきっぱり退ける、ということをせねばならないのです。

神から来たのでない提案であっても、「良さそうだから」という理由でどんどん受け入れていると、信者の人生が破滅することになりかねません。しかし、人自身の知恵によっては、何が正しく、御心にかなう知恵で、何がそうでない悪魔的な知恵なのかを、自分の力だけで、完全に識別することはできないのです。

ですから、それを見分ける力を与えてくれるものは、御霊です。御霊による識別力というものが、信者が神の御心に従う上で、極めて重要になって来るのです。


御霊によって物事の限度や節度をわきまえる

さらに、信者は、何がどの程度、自分に許されたことであるのか、その限界をも、御霊によって識別することを学ばねばなりません。

たとえば、信者は、地上での肉体を持つ人間ですから、毎日、食べたり、飲んだりして、自分を養わなければなりません。信者が食べたり飲んだりすること自体が、「肉欲に従う罪深い行為」であるわけではありません。もしそうならば、信者は絶食の果てに死ぬことしかできませんが、そのようなことは神の御心ではありません。

しかし、もしも信者が「飲んだり、食べたりすることは罪ではない」からと言って、過度に食べたり、飲んだりしていれば、当然ながら、それは不健康の源になって行きます。

働くことも同じです。健全な自立を保つために働くことは有益ですが、あまりにも働きすぎていれば、当然ながら、体を壊しますし、生活も秩序を失っていきます。

ですから、信者は自分に許されている罪でない事柄が数多くあったとしても、一体、どの程度であれば、それが自分に有益なのか、適切な限界や、節度といったものも、御霊によって識別する必要があるのです。
 
どんなことでも、一定の限度を超えて、むさぼるようになると、それは神の御前に罪となって行きます。それは音楽を聴くことや、交わりを楽しむことや、あらゆる「無害」に見える行為に同じようにあてはまるのです。何事も、信者は自分を失うまでに没入すべきではありませんが、信者に健全な自制心や、我を忘れさせるような限界点が来る前に、「これ以上は危険ですよ」というシグナルを、御霊は的確に与えてくれるのです。その時に、御霊の警告を無視して突き進むと、信者の人生に何らかの害が及ぶことになります。

しかしながら、御霊の導きを最初から信者が完全に識別することは難しい、と私は思います。信者の歩みは一足飛びにはいきません。まずは罪深い悪習慣の虜から解放されなければならなかったように、学習は少しずつ進みます。何が御霊の導きであるのか、信者がそれを非常に繊細な感性を持って細部に渡るまで敏感に受け取り、見分け、従うようになるまでには、時間がかかるのです。
 
しかし、たとえその学習の過程で、明らかに御霊の導きと分かっていたものに、信者が従いそこなって、何らかの害を受けたり、罪の中に逆戻りするようなことがあったとしても、信者はそこで落胆すべきではありません。

そのようなことは、確かに、失敗に見えるかも知れませんが、同じ失敗でも、以前のように、何も理解していなかったがゆえに、ただ状況に翻弄され、罪の虜になっていただけではありません。それは、一定の気づきを伴った失敗です。信者はどうすれば、そのテストに合格できたのか、今や自分で知っています。
 
ですから、次に似たようなことが起きる時、以前のような行動を繰り返してはなりません。そのようにして取り組んでいくうちに、信者は、罪に対する勝利の力が自分の内にあること、内におられる御霊が、必要な知恵を供給して下さることを徐々にはっきりと知るようになるでしょう。

信者は、たとえ最初からすべてがうまく行かなかったとしても、あくまで御霊から来たのではない肉の働きを十字架において否む、ということを続けて行かねばなりません。その試みをずっと続けているうちに、やがて、たとえ肉の誘惑は依然として存在しているようであっても、罪にはもはや信者を奴隷として支配する力がない、ということを見いだすでしょう。
   
人間は地上にある限り、肉体という幕屋から逃れることはできません。それは、信者が生きている限り、肉の誘惑と100%無縁の人生を送ることはできず、また、霊によって体の働きを殺す必要性から完全に解放されることもできないことを示しています。

しかし、だからと言って、悲観したり、絶望したりする必要はありません。

キリストという完全な模範がおられます、そして、この方が信者の内に住んでおられるからです。キリストは私たちと同じように、弱く限界ある肉体を持って、地上で生活を送られました。しかし、それにも関わらず、肉の誘惑に従って罪を犯すということがなかったのです。サタンと、罪と、この世にすでに打ち勝ったキリストが内におられる限り、信者には、霊によって肉を治めることが可能なのです。信じて下さい。それはキリストによって可能なことなのです。


御霊によって肉を治め、神への従順を成し遂げる新しい人

もう一度言います。信者が地上にある限り、肉そのものが消え去るわけではありませんが、信者がこれを治めることは可能なのです。

信者は、死に至るまでの従順によって、神の御心を完全に満足させたキリストのゆえに、自分自身の肉を治めることができますし、またそうすべき立場にあるのです。にも関わらず、信者が肉によって治められ、翻弄されている状態こそ、あるべきではないのです。
 
かつてカインがアベルに嫉妬し、弟を殺そうと企てたとき、神はカインに向かって「罪が戸口であなたを慕って待ち伏せている。あなたは罪を治めなければならない」と語られました。

今日、神を信じている信者が、嫉妬ゆえに誰かを殺そうと考えることはまずないと思いますので、ここで、どうやって「殺意に打ち勝つか」という方法について語る必要はないものと思います。しかし、それでも、信者は、各種の罪深い思い(御霊から出たのでない思い)の誘惑に取り巻かれて生きていることは否定しないものと思います。その中には、まことしやかに善良な知恵を装って近づいて来る悪しき思いもあります。

こうした、御霊から出たのでない思いが、自分に忍び寄って来る時、信者はその出所を巧みに見分けて、神に喜ばれない思いを「治める」(=十字架において否む、勝利する)術を学ばなければなりません。

誰が見てもそうと分かる罪深い悪習慣に打ち勝つ以上に、これは重大で困難な学課です。なぜなら、もしそれができてさえいたならば、アダムもエバも、蛇の提案に耳を貸すことはなかったはずだからです。アダムもエバも、カインのように低級で俗悪な罪の誘惑に負けたのではありません。彼らは一見「良さそうに」見える提案の出所をきちんと識別できずに、欲に誘われて行動してしまったゆえに堕落したのです。

ですから、今日、信者にとって極めて重要なのは、すべての知恵が神から出たものではなく、たとえ良さそうに見えても、悪魔から来る知恵、悪魔から来る提案、というものが確かに存在しており、それらが信者を慕い求め、信者を堕落させようと、絡みついて来ていることに気づき、そうした思いや計画の出所を御霊によって見分け、神から来たのでないものを退ける秘訣を学ぶことなのです。

このように、信者が神から出たのでない知恵をすべて見分けた上で、これを否み、治め、無効とすることが求められているのです。

それが、パウロの書いた、「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に 逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに 服従させ、 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意が できているのです。」(Ⅱコリント10:4-6)ということの意味なのです。

人は、神によって地を治めるべく創造されたわけですから、人はその思い、行動によって、神の権益を代表して立たなければならない存在です。そのために人は造られたのです。
 
第二のアダムであるキリストが神への従順を成し遂げたにも関わらず、今日の信者が、最初の人アダムと同じように、悪魔の権益の代表者となって肉によって治められて生き、堕落していてはいけないのです。

今日、信者に必要なのは、あたかも神から来たように装いながら、人を堕落させるだけであるサタンの高ぶりに基づく偽りの「知恵」をことごとく見抜いて、これを否み、撃退し、その誘惑に勝利して、自分自身の思い、行動、すべてをキリストに服従させて、霊によって治め、神への従順を成し遂げることです。

キリストが成し遂げられた御父への従順を、信者もまた地上において成し遂げるよう期待されているのです。キリストがおられるがゆえに、信者にはその可能性が開かれました。

そのようにして、御霊の導きに従い、神の御心に従って「地を治める」ことが、信者の使命です。アダムが失敗して成し遂げられなくなった使命を、キリストにあって成就するのです。そうなった時にのみ、人は神にかくあれかしと造られた被造物本来の健全さ、美しさ、尊厳、輝き、を取り戻すことができるでしょう。

また、その時こそ、人の支配が、地に実りと調和をもたらすようにもなるでしょう。信者がキリストに似た者となるので、信者による霊の支配も、神の栄光を如実に反映させるものとなるのです。