忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

生きることはキリスト――私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。

「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(Ⅱコリント5:13-16)


ここで、パウロは「人」という言葉を、キリストにある新しい種族だけを指すものとして使っている。キリストにあって生まれておらず、キリストを信じてもいない滅びゆく古き人は、ここで言う「人」の概念には含まれていない。

そこでは、キリストにあって生まれておらず、信仰によってキリストの死と復活に同形化されてもいない、地上の出自しか持たない滅びゆく罪人は、あたかも「人」の範疇には全く含まれていないばかりか、存在すらもしていないも同然である。

それは、ここでパウロが使っている「人」とは、誰よりもキリストご自身を指すからである。つまり、真の人間、神がかくあれかしと造られた人間、神の御心を完全に満足させる、真に人間らしい人間は、キリストただお一人だけであり、そのキリストから生まれ、キリストに結びついている者だけが、「人」と呼ばれるに値する、というわけなのである。

「人間的な標準で人を知ろうとはしません」という表現は、信者のことを指しているのかと思いきや、すぐにキリストのことであると示される。

その後には、「だれでも キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」というあの有名な言葉が続く。

この文脈は、キリストのうちにある人は、誰もがキリストに属する新創造であり、真に人間らしい人間なのであるから、もはや誰も古き人の性質(人間的な標準)に従ってその人を知る必要はない、ということを意味する。

もっと言うならば、新創造とされた信者は、キリストに限りなく近しい人間であり、キリストご自身と全く同一ではないにせよ、キリストが内に住まわれ、キリストという「型」を内にいただいて生きているので、たとえキリストとは別個に、自分の人格を持っていても、キリストと分かちがたく一体となって、キリストの性質を帯びて生きているのである。

だから、その信者が地上の旧創造であるアダムの生まれとして、いかなる性質を持っているか、聖別は、国籍は、肌の色は、外見は、性格は、経歴は・・・などと言った事柄は、もはや知る必要もないほどまでに些末なことだ、というのである。信者が知る必要があるのは、その人の人間的な特徴ではなく、キリストに属する性質だけだ、と言うのである。

ところで、筆者は、罪と義認についてのあの長い説明をそろそろ離れたいと思っている。キリスト教は、いつまで経っても、悔い改めと、罪の赦しと、血潮の話を繰り返しており、その堂々巡りから先に、ほとんど歩みを進めていない。

今日キリスト教と思われている教えの中には、あまりにも多くの誤謬があるように思われてならない。そして、その誤謬は、人をいつまでも弱さと罪の中に閉じ込め、永久にその弱みから自由にさせない束縛の枷として機能している。

たとえば、キリスト教にはあまりにも多くの聖書と無縁の地上的な運動が入り込み、その結果、あたかも慈善事業の場のようになった。人の貧しさや病や弱さを美徳のように考え、虐げられた人々や、犠牲の死を美化する思想などがキリスト教に入りこんでいる。

しかし、このようなものはキリスト教ではなく、共産主義思想を含む、偽りの弱者救済の思想から来たものでしかない。そのように人間の弱さや、苦しみや、犠牲を美化する思想を信じている限り、信者はずっと「人間的な標準」の中に閉じ込められ、神がキリストの十字架を通して信者に約束して下さっている自由と解放には決して達することがない。

病や虐げや貧しさや死は、みなこの世における罪や、悪魔の働きの結果もたらされるものであり、これ美化し、これを後生大事に握りしめながら、同時に、キリストの復活の命を知って自由になろうとするのは、エンジンとアクセルを同時に踏んで前へ走ろうとするのと同じくらい不可能なことである。

そこで信者は、もし心から信仰生活において前進したいという願うならば、貧しさや病や虐げと手を切り、これらを憎むべきものとして退けて、御言葉によって否み、神が天に用意して下さった命の豊かさにあずかることを目指して、前へ向かって進む必要がある。

なのに、なぜ多くの人たちにはそれができず、前進をためらっているのか? それは、その人たちが自分の弱みを捨てることをためらう何かの理由があって、あるいは、弱者であることから来る特権に心奪われ、あるいは、自己憐憫に溺れ、あるいは、人からの同情を受ける心地よさに安住し、さらには、弱者が弱者を支配して虐げるという構図があって、その中で義理や人情によってがんじがらめにされており、あるいは、人が人の弱みにつけこんで、助けてやるふりを装いながら、他人を精神的に支配し、搾取するという偽りの「救済システム」に取り込まれ、あるいは、信者が信者を「弟子化する」という序列と支配のシステムの中でがんじがらめにされているために他ならない。地上には、あたかも弱者に優しく手を差し伸べてやるように装いながら、決して弱者を弱者であることから逃がさないようにする幾多のシステムが存在する。

だがもし信者が本当にキリストの命にある自由を知りたいと思うのであれば、そういった人が互いの弱さをかばい合うという名目で、その実、弱さを手がかりに他人を支配するために作られた、アダムの命に基づく腐敗した支配と搾取の自己防衛の共同体(「イチヂクの葉同盟」)を脱出しなければならない。

そのために、信者はまずは自分自身の人間的な弱さと手を切る必要がある。それはただキリストにあってのみ可能である。アダムの命にあってアダムの命の弱さを否むことは誰にもできないことであるが、神の強さにすがり、これに覆われることによって、人は、誰からも同情されたり、助けの手を差し伸べられたり、哀れまれたり、教えられたりする必要のない、真に自立した自由な人であることができる。神に贖われた信者は自由であり、彼を巡る「負債」はもはや存在しないのである。

このことは、信者のアイデンティティが、限界と不足ばかりの、罪に堕落したアダムの命にある自分自身から、キリストの満ち足りて不足のない永遠に聖なる命に移行することを意味する。キリストにある時にのみ、信者はどんな状況にあっても、自分には何の不足もなく、弱さもないと言うことができる。

だが、人間的な標準によって自分をとらえ、それによって自分の限界を自ら規定している限り、信者はキリストの満ち満ちた性質を真に知ることはできないだろう。なぜなら、アダムの命が主張することは、常に不足、不足、弱さ、弱さばかりであって、この命は信者に何も自由を与えないからだ。他方、キリストの命にあるのは、満ち足りた豊かさ、そして自由である。一体、どちらの命に立脚して生きるのか、それは、信者自身が実際に決めることである。

あまりにも多くの人たちが、誰からも同情される必要のない自立した自由な人間になることよりも、人に同情され、注目される心地よさを失わないために、弱さから抜け出られない人生を自ら選び取るのはまことに奇妙で愚かなことに思われてならない。

あまりにも多くの人たちが、人前にか弱い人間のように振るまった方が、自分が愛らしく映ると思い込み、世から憎まれたり攻撃されないために、積極的に弱いふりをさえ装う。しかし、そうこうしているうちに、その弱さが、演技ではなく事実となって、あっという間に、病や死や貧しさとなって信者の人生を飲み込み、食い尽くしてしまうのだ。

ある意味で、罪の告白もこれとほぼ同じ作用を信者にもたらす。一部の信者たちは、自分が救われる前にどんなに罪深い人間であったか、自分の古き自己がどんなに汚れた罪深い性質を持つものであるか、絶えず人前に告白して、神と人に赦しを求めることが、信仰生活に必要であるかのように思っている。

しかし、そのような告白は、あまりにも多くの場合、現実の信者を全く改善しないばかりか、より深く過去に目を向けさせ、過去の罪と手を切れないようにし、自責の念からいつまでも抜け出せないようにしてしまう。

信仰のない世の人々の場合であっても、同じ過ちを延々と繰り返し続けては、判で押したように同じ謝罪を続けるのは、進歩のない証拠であり、開き直りと思われるだけである。その謝罪の言葉が誠実さの表れと受け取られることはまずない。

神に対しても同じである。だから、信者はいつまでも同じ罪の告白ばかりを繰り返すのはやめて、自分自身の思いを変えるべきなのである。アダムの腐敗した命を自己のアイデンティティと思うことをやめ、それが十字架において死に渡されたことを宣告し、キリストにある新しい命、新しい人格を、自ら選び取るべきである。

「人間的な標準」で自分を推しはかり、いかに自分が罪深いかという性質にばかり目を留めて、懺悔に明け暮れるのでは、前に進んでいくことは決してできないし、自分で過去を引き戻しているのと同じである。

たとえば、贖われた信者の救われる前の罪深い過去なるものは、神の目の前に死んだも同然で、意味をなさない。にも関わらず、神にとって存在しないものを、なぜ信者がいつまでも引っ張り出して来ては、延々と繰り返す必要があるのか? こうして、いつまでも罪深い過去ばかり振り返って、懺悔を続けていれば、誰にも新たな出発など出来はしない。どちらかの自分と手を切って、一歩を踏み出さねばならないのだ。 キリストの復活の命によって生かされた新たな自己と、新たな生き様を、信者は自らの信仰によって選択せねばならないのである。
   
筆者は決して、ここで信者にとって罪の悔い改めや赦しが全く必要なくなると言っているわけではなく、また、救われたと同時に、信者が聖人君子になるわけでもないことは承知している。キリストの命にあっての信者の心や行動の変化は、一朝一夕に起きるものではなく、徐々に続行して行く。むろん、地上にいる限り、人間から単数形の罪の性質が消えることはなく、従って、信者が血潮による清めを必要としなくなることはない。

だが、たとえそうであっても、信者はこれ以上、アダムに属する人類の罪なる性質がいかに恐ろしく堕落しているか、いかにそれが信者にとって逃れ難い悪質な罠のようなものであって、自分はそれに苦しめられているか…といった敗北的な話ばかりを延々と続けるのはやめた方が良いと考えずにいられない。

そのようなことは、もはや言うまでもなく、信者であれば誰でも知っていることであるが、我々はそろそろ、アダムの地表を離れて、キリストの地表に立たなければならないのである。アダムの性質という希望のない地表からいい加減に目をそらし、神が喜ばれ、神の御心にかなうキリストのご性質とはいかなるものなのか、キリストの持っておられるすべての豊かさと美徳を、信者は自分自身にも確かに付与されたものとして理解し、その命の領域に生きることが必要だからである。

「生きることはキリスト」という確信が、信者に必要なのである。

信者には、これ以上、人間的な標準で自分自身を知ろうとしないことが必要である。なぜなら、贖われた者は、もはや自分自身のために生きているのでなく、神のために生きているのであって、信者自身、もはや信者のものではないからである。

にも関わらず、信者が自分をあたかも依然として自分のものであるかのように見つめ、これを握りしめ、自分勝手に評価したり、定義することは許されない。神が贖われた者をどのようにご自分の御心に従って造り替えられるかは、神が決められることであり、信者は、それにとやかく言わず、贖われた自分が、もはやかつての自分ではないことを認めて、自分が神の永遠のご計画の一部として、キリストの新しい命によって生かされていることを認め、受け入れるべきである。

こうして、大胆な確信に立って「生きることはキリスト」と言える信者が、ほんの100人ほど現れただけでも、我が国は、いや、世界は全く違った有様になることであろう。

そのためにも、信者には、パウロが「人間的な標準で知ろうとしない」と述べたように、もはや「余計なものを見ない」という姿勢が信者にとって重要である。これは信者が罪深い性質に開き直ることを意味しない。信者はその古き性質を憎むべきものとして理解し、全力でこれを否定しようとしている。だが、たとえ御言葉による古き人との訣別の方法がまだ具体的に分からず、信者の目には罪と失敗と無益な思考錯誤の繰り返ししかないように見える時でさえ、信者はそれらの古き性質を自分自身のアイデンティティとして受け止めるのではなく、キリストにあって贖われた自分自身の新たなアイデンティティを見つめ、これを信仰によって掴むのである。

地上にある限り、信者はこの地上の生まれから完全に解き放たれることはない。だが、それにも関わらず、もはやその古き性質に従って、キリストをも自分自身をも知ろうとしないのある。

イミテーションの宝石は、どんなに数が多くても、本物にはならない。十字架において死んだ古き人の性質に目を向けて、どんなにそれを批判してみても、そこから本物の性質が理解できるわけではない。本物を理解するためには、ただ本物だけをまっすぐに見つめなければならない。

そういう意味において、信者は自分自身を含めた「人」や「人類」という言葉を、アダムに属する罪深い絶望的な種族としてのみとらえるのをやめて、キリストにある「新しい人」こそ、本当の意味での「人」であり、それこそが、神の目にリアリティであることを見る必要がある。そして、自分はすでに古き人類の一員ではなく、この新しい「人」の中に加えられたことを見る必要がある。

すでに新しい世界が出現しているのに、ずっと古い世界にこだわり続けて、価値ある重要なものを見失うほど愚かなことはない。

神は贖われた信者を、もはやアダムの命にある古き人としては見ておられない。生まれたての未熟な信者であってさえ、神の目にはキリストと同じく完全なのである。それはキリストの贖いの御業のゆえであって、信者が霊的に進歩したからではない。だが、信者は、それでも、神がご覧になるように、自分を見、そして、神がキリストにあってその信者のために備えて下さった新しい完全なる人格という霊的事実を、実際として地に引き下ろすべきなのである。その時こそ、「生きることはキリスト」という事実が、自然と信者の中において実際に成就するであろう。

PR

御霊に導かれて歩む(1) 御霊によって肉の働きを識別し、これを否んで霊に服従させる

全てのクリスチャンは、キリストと共なる十字架のより深い働きを知る必要がある

 さて、今回のテーマは、クリスチャンがどのようにして御霊の導きに従うのか、ということです。

 クリスチャンは、救われたにも関わらず、いつまで経っても、世の罪人と同じように、各種の罪の誘惑、不義なる思いにからみつかれたまま、それに打ち勝つこともできずに、同じところを行ったり来たりして、前進のない敗北的な信仰生活を送る必要など全くありません。

 実のところ、クリスチャンがそんな歩みをずっと続ける必要は全くなく、それは神の御心でもないのです。しかし、肉の力によって罪の力に打ち勝つことは誰にもできませんから、ここに、この世の法則や、人の堕落した肉の力をはるかに超えたキリストと共なる十字架の霊的死の働きが必要となります。
 
 アダムは創造された時(まだ堕落していなかった時)、神と交わることのできる霊を与えられていました。それは神の霊(聖霊)ではなく、人の霊であったけれども、アダムはその霊によって神に従い、神と交わることができ、彼の魂と肉体は、彼の霊に服従していました。

 神と交わることのできる霊を与えられていること、それが、あらゆる被造物と人間とのはっきりした区別です。

 堕落する以前の当時、アダムの中では、崇高な霊が最も高い地位を占め、それに魂と肉体が従うという優先順位が守られていました(霊→魂→肉体)。

 しかし、アダムが堕落した後、人の霊の機能は死んでしまい(もしくは機能不全に陥った)ため、魂と肉体を統率することができなくなりました。

 それ以後、生まれながらの人の霊は、神に対して閉ざされた状態となり、むしろ一部の人々にあっては、悪霊に対して開かれているような機能不全の状態となり、さらに、人の霊と魂と肉体の優先順位が覆されてしまいました。

 人の中では、堕落した肉が王座についたため、人は罪の奴隷となり、人を導くものは、霊ではなく、肉となったのです。
 
 また、神のいましめに逆らって善悪を知る木の実を選んだことにより、人の魂も、神によらない偽りの知識によって高ぶりました。人の魂は、御言葉を退けて、自分勝手な基準で、自ら善悪を判断するようになりました。

 今日、文明が発達した結果として、人間はあらゆる知識を蓄え、己が知性を誇ってはいますが、それでも、人間の魂の知識は人をただ不幸な暗闇へと導くだけで、何の救いももたらしてはいません。

 こうして、堕落した肉(魂+肉体)が人の中で最高位を占めるようになり、真理を知らない魂が、霊に代わって人を治めるようになって、肉→魂→霊、と優先順位が転倒しました。

 その結果、人は霊によって自分自身を治めることができなくなり、誤った偽りの知識と、肉の欲望の奴隷となったため、人の人生にはあらゆる悲惨や混乱がつきものとなりました。人は生まれてもただ暗闇の中をさまよい、罪と死に至るだけです。再生されていない人は、どんな努力によっても、その状態を変えることはできません。

 しかし、人が罪を悔い改めて、御子イエスの十字架の救いを信じて神に立ち返ると、血潮によってあらゆる罪から贖われます。そして、聖霊がその人のうちに住まわれることによって、人の霊も生かされます。

 しかし、多くのクリスチャンは、その時点では、罪が赦されたことと、御霊が我がうちに住まわれたことをただ信仰によって信じているだけで、聖霊の導きをまだはっきりと内に感じることはありません。

 彼は霊によって導かれる人にはまだなっていません。また、肉の誘惑に打ち勝つことができる力もほとんどありません。自分を覆っている無気力や、挫折感、罪深い各種の誘惑や、失意の念がどこからもたらされているのかも知らず、これに打ち勝つべきであることも知りません。

 そのような時点でのクリスチャンは、まだ生まれたばかりの肉的なクリスチャンで、思いを識別することもできませんし、罪に勝利する力もほとんどありません。ある日、涙ながらに、罪と訣別する決意をしても、翌日には、また罪に戻っているような有様です。しばらくの間は、救われる前に耽溺していた罪との格闘、そしてそれに打ち勝つ力がないための敗北が続くでしょう。

 そのような時点でのクリスチャンの中には、一生懸命に聖書を読み、御言葉を知識として蓄積し、主のために多くの活動をする人たちがいますが、依然として、彼の活動の内には、聖霊の命が働いていません。そのため、彼の働きはその熱心さにも関わらず、実を結ばず、ただ余計なおせっかいのようになるだけか、もしくは死んだように力がありません。

 この時点でのクリスチャンは、まだ、肉→魂→霊という転倒した優先順位の中で生きています。神のための奉仕ですら、肉の力によって決行しています。

 このような信者が、御霊に導かれる人となるためには、まずは上記の順位を覆し、肉体と魂を霊に服従させ、御霊の導きの下、人が自分自身の内側で、霊を真の主人とならせることがどうしても必要なのです。

 そのために、信者は、肉体と魂に働く古い性質を、御子の十字架を通して死に渡す必要があります。


十字架には肉の働きに対する霊的死の効果がある
 
 多くのクリスチャンは、御子が達成された十字架を、ただ罪からの贖いとして受け取るだけですが、実際には、御子の達成された十字架にはより深い働き――肉の働きに霊的な死をもたらす効果――があります。

 なぜなら、キリストの十字架は、彼を信じる全人類の罪深い肉そのものに対する死の刑罰だったからです。
 
 このようにして、キリストの十字架における霊的な死が、信者の肉に適用された時に、初めて、信者は、自分の肉体や魂に働く、古き悪しき性質が、キリストと共に十字架で死に渡されたことが事実であること、そして、キリストの復活の命にある新しい法則が、自分のうちで実際により深く、より力強く働くようになるのを知るでしょう。
 
   私たちは肉が罪なる性質を持っていることを知っています。御言葉はこう述べます。
「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、享楽、および、そのたぐいである。」(ガラテヤ5:19-21)

 これらの肉の働きが邪悪なものであることはあえて説明する必要もありません。しかし、ここに、うっかり見落としてしまいがちな点があります。それは、肉は不義をなすことができるだけでなく、善を成し遂げることもできるということです!
 
 一般的なクリスチャンの多くは、一生懸命に日曜礼拝を守り、早天・徹夜・断食・祈祷などに参加し、献金を捧げ、トラクトを配り、救いを知らない魂をキリストに導くために、考えうる限りの「良い活動」に真面目に従事しようとしています。

 あるいは熱心に祈りと賛美を捧げ、自他を楽しませる各種の奉仕活動に従事しています。
 
 彼らは外面から見れば、まっとうな、とても立派なクリスチャンのように見えるかも知れませんし、自らそう信じ込んでいる人々も多く存在することでしょう。

 確かに、彼らは自分たちは世の罪人よりははるかにましな生活を送っており、自分達は肉的でないとさえ思っています。しかしながら、多くの場合、彼らには、表面的な正しさはあっても、神の命の現われがありません。むしろ、実際に、信仰生活の前進のなさに悩んでいることさえ多いのです。

 なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

 それは、その人が依然として、肉に頼って善行を行っているからであり、肉により頼んで、聖霊に従おうとし、肉により頼んで、神を喜ばせようとして、むなしい努力を続けているからなのです。

 彼らは肉そのものが神の目に忌むべきものであることを知らず、また、自分たちの伝道や祈りや奉仕が、肉によって持続されていることを知らず、自らの肉が御子の十字架ですでに死に渡されたという事実にも立っていません。

 私たちは、肉には邪悪な働きがあるだけでなく、一見、善のように見える働きもあるということを、よく覚えておく必要があります。しかし、善のように見えようと、悪のように見えようと、依然として、「肉から生まれる者は肉」(ヨハネ3:6)であり、「肉にある者は、神を喜ばせることができない」(ローマ8:8)のであり、「肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反する」(ガラテヤ5:17)のです。

 残念ながら、クリスチャンは、肉において礼拝を捧げ、肉において祈り、肉において賛美をし、肉において奉仕をし、肉において献金をしたりするということが、実際にあり得る(むしろ、大いにあり得る!)ということに注意せねばなりません。

 いかにそれが人の目に敬虔な礼拝のように見えようと、もしその礼拝が肉によって捧げられているならば、それは神の目に忌むべき礼拝なのです。

 このように言うと、「もはや何が正しいのか、私には全く分からなくなりました」と言う人が出て来るかも知れません。「自分では良いと思っていた奉仕さえ、肉によって成し遂げられていたかも知れないというなら、私はもうどうしたら良いか分かりません。」と。

 私は思うのですが、そのような場合は、今まで「神のために」行って来た活動をいったん脇に降ろすことをお勧めします。そして、改めて主が、あなたに一体、何を望んでおられるのか、それが明確に見えて来るまで、性急に動くことなく、神に直談判して熱心に問いかけつつ、神と深く交わりながら、御心を探ることをお勧めします。神の御心にのみ、心を傾け、人の忠告には耳を傾けないのが良いでしょう。
  
 さて、肉による善は、肉による不義ほどまでに、汚れたものに見えないかも知れませんが、実際には、神から見て、肉による悪と同じように、滅ぼされるべき、呪われた「肉」なのです。そのことを知らないで、依然として、肉による善行に頼って生きていることが、多くのクリスチャンが信仰生活において敗北する原因となっています。それがどれほど熱心に奉仕しても、それがいかなる実をも結ばないどころか、いずれその礼拝が、神の御心に反する効果を生む最たる原因なのです。
 
 また、ここではあまり深く触れませんが、悪魔は、信者の魂と肉体の領域に、霊の感覚の偽物を作り出すことができます。素晴らしい賛美や、祈りや、各種の大会など、感覚的に喜ばしい体験を通じて、信者の心を虜にして、「こんなに心地よく素晴らしい体験が起きるのだから、自分は聖霊に従っているのに違いない」と思わせながら、偽りの霊的体験の中を歩ませることができるのです。

 このような感覚的な欺きにとらわれないためにも、信者は、何が「良い」ものであり、何が「悪い」ものなのか、自分の感覚によって判断するのではなく、御霊の導きによる識別力が必要です。また、自分の肉に働く感覚的誘惑に対して、十字架における霊的死を経る必要があります。

 信者が肉の邪悪な働きに対して死ぬためには、キリストと共なる十字架の霊的な死のより深い理解、より深い適用が必要です。それを実際としてくれるのが、御言葉です。
 
 
キリスト・イエスにつく者は自分の肉を十字架につけてしまった
 
 さて、十字架のより深い理解と適用とは何でしょうか。それは、信者の肉は、すでにキリストと共に十字架につけられて死んだ、という事実を信じ、それを信仰によって、信者が自分自身に適用することです。
 
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)
 

 信者は、御言葉に基づいて、神の事実を堅く信じ、キリストと共なる十字架における肉の死が、信仰を通して自分自身にも適用されたことを信じて受けとる必要があります。

 神の事実とは、御子イエスが十字架にかかられ、肉体に死なれた時、御子を信じる全ての信者の肉も、彼と共にはりつけにされて死んだ、という事実です。信者の肉も、主と共なる十字架においてはりつけにされ、死刑宣告を受け、裁きを受けて死んだのです。

 私たちが自分の肉を十字架につけるために、新たな十字架を作り出す必要は全くありません。それはすでに御子が達成されたのです! 御子イエスが十字架において、その肉体に死なれた時、彼はご自分の肉の中に、信じる者全ての肉を含められました。

 彼はご自分の肉の中に、滅ぼされるべき全ての肉を含まれたのであり、そこには私たち信者の肉も含まれている、という事実を信者は信じ、そこに立脚しなければなりません。

 その事実は、信者の現在の状態とは全く関係ありませんし、信者にそのような「実感」があるかどうかとも関係ありません。信者が今現在、敗北的な生活を送っているのか、それとも勝利の生活を送っているのか、そのどちらなのか、といった感覚的・現象面の問題や、あるいは、信者が生きている時代が、御子の歩まれた時代とどれほど遠かろうとも、関係ありません。

 御子イエスの十字架は、時空間に関係なく永遠に達成された神の事実なのです。ですから、信者は、時空間を超えて、自分の個人としての特徴や限界をも超えて、永遠において信仰によって(!)、その事実の中に入りこみます。

 こうして、信者は信仰によって、主イエスと共なる十字架に入りこみ、これと一体化し、その事実を永遠から、今の自分の存在する時空間に、信仰によって引っ張ってきて、自分自身に適用するのです。

 信者はただ自分の現在の限界あるみじめな状態だけを見つめて、それを基準として、御言葉を信じられるかどうか判断すべきではありません。御子イエスが、すでに私たちの肉を十字架上ではりつけにし、死に渡された、という神の事実を信じ、神の永遠の事実を現在の自分に適用すべきなのです。
 
 信者がキリストと共に十字架上で自分の肉が死んだことを信じ、その事実を経験として知るためには、言葉において、声に出して、御言葉を宣言し、自分に適用することも有効であると私は思っています。

 そのようにして、確信をもって事実の中にとどまるならば、信者はある時、本当に、自分の肉の働きが十字架につけられて死んでいることを実際に経験するでしょう。

 
肉の各種の働き(心の思い、計画、提案)の出所を御霊によって見分ける

 信者は、御子イエスの十字架の、このようなより深い理解と適用によって、それまでどうしても打ち勝つことができなかった自分の肉の罪深い欲が、死んだように鎮まり、肉の罪なる性質から解放されたという経験を持つかも知れません。

長年、悪いと分かっていながらやめられず、どうしても打ち勝つことのできなかった罪深い習慣が、主と共なる十字架の死が実際になった時、打ち砕かれた、という体験をするかも知れません。
 
しかし、このようなことは、肉に対する十字架の霊的死の適用の最初の第一歩に過ぎません。
 
悪習慣が打ち破られたことは、肉に対する霊的な死が適用されたことの現れではありますが、そのような経験があったからと言って、そこで、信者はあたかも自分が全く聖なる者とされ、肉から完全に解放され、もはや肉を死に渡す必要が一切なくなったかのように思うべきではありません。
 
なぜなら、それは肉の働きに打ち勝つためのほんの最初の一歩に過ぎないからです。信者が常に目を覚まして、御霊によって導かれ、「霊によって体の働きを殺す」(ローマ8:13)ことを続けないならば、肉はまた別な方法で信者を虜にし、罪の中へ落ち込ませるだけでしょう。
 
そこで、信者にはさらなる前進が必要です。あれやこれやの悪習慣が取り払われたといったところで満足して終わるべきではありません。

ですが、前進と言っても、「一体、何が肉の働きであり、何が御霊の働きなのか」、信者自身が、明確に識別できるようにならなければ、何に打ち勝つべきなのかすらも分かりません。

罪深い各種の欲望は、誰にでもすぐに肉の働きであることが分かりますので、キリストと共なる十字架の霊的な死の意義を知っているならば、信者が、自分の魂にそのような悪しき思いが去来した時、その虜にされずに、その欲望を十字架において否むことは、比較的容易です。

しかしながら、肉の働きは、すでに述べた通り、誰にでもすぐに「悪いもの」と分かるような形ばかりを取ってやって来るわけではありません。御霊によらない悪魔的な知恵が、あたかも「善良な」知恵のように、信者の心に思い浮かぶこともありますし、人からの「良さそうな提案」の形でやって来ることもあります。

ですから、信者は、自分の中に思い浮かぶ(もしくは人から提案される)さまざまな計画、思い、願い、知恵などが、一体、どこから来たものなのか、それが本当に神の御心にかなうものなのか、その出所を識別する力を養わなければならないのです。

そして、神から来た提案であれば、それを採択し、神の御心に反するものであれば、十字架においてこれをきっぱり退ける、ということをせねばならないのです。

神から来たのでない提案であっても、「良さそうだから」という理由でどんどん受け入れていると、信者の人生が破滅することになりかねません。しかし、人自身の知恵によっては、何が正しく、御心にかなう知恵で、何がそうでない悪魔的な知恵なのかを、自分の力だけで、完全に識別することはできないのです。

ですから、それを見分ける力を与えてくれるものは、御霊です。御霊による識別力というものが、信者が神の御心に従う上で、極めて重要になって来るのです。


御霊によって物事の限度や節度をわきまえる

さらに、信者は、何がどの程度、自分に許されたことであるのか、その限界をも、御霊によって識別することを学ばねばなりません。

たとえば、信者は、地上での肉体を持つ人間ですから、毎日、食べたり、飲んだりして、自分を養わなければなりません。信者が食べたり飲んだりすること自体が、「肉欲に従う罪深い行為」であるわけではありません。もしそうならば、信者は絶食の果てに死ぬことしかできませんが、そのようなことは神の御心ではありません。

しかし、もしも信者が「飲んだり、食べたりすることは罪ではない」からと言って、過度に食べたり、飲んだりしていれば、当然ながら、それは不健康の源になって行きます。

働くことも同じです。健全な自立を保つために働くことは有益ですが、あまりにも働きすぎていれば、当然ながら、体を壊しますし、生活も秩序を失っていきます。

ですから、信者は自分に許されている罪でない事柄が数多くあったとしても、一体、どの程度であれば、それが自分に有益なのか、適切な限界や、節度といったものも、御霊によって識別する必要があるのです。
 
どんなことでも、一定の限度を超えて、むさぼるようになると、それは神の御前に罪となって行きます。それは音楽を聴くことや、交わりを楽しむことや、あらゆる「無害」に見える行為に同じようにあてはまるのです。何事も、信者は自分を失うまでに没入すべきではありませんが、信者に健全な自制心や、我を忘れさせるような限界点が来る前に、「これ以上は危険ですよ」というシグナルを、御霊は的確に与えてくれるのです。その時に、御霊の警告を無視して突き進むと、信者の人生に何らかの害が及ぶことになります。

しかしながら、御霊の導きを最初から信者が完全に識別することは難しい、と私は思います。信者の歩みは一足飛びにはいきません。まずは罪深い悪習慣の虜から解放されなければならなかったように、学習は少しずつ進みます。何が御霊の導きであるのか、信者がそれを非常に繊細な感性を持って細部に渡るまで敏感に受け取り、見分け、従うようになるまでには、時間がかかるのです。
 
しかし、たとえその学習の過程で、明らかに御霊の導きと分かっていたものに、信者が従いそこなって、何らかの害を受けたり、罪の中に逆戻りするようなことがあったとしても、信者はそこで落胆すべきではありません。

そのようなことは、確かに、失敗に見えるかも知れませんが、同じ失敗でも、以前のように、何も理解していなかったがゆえに、ただ状況に翻弄され、罪の虜になっていただけではありません。それは、一定の気づきを伴った失敗です。信者はどうすれば、そのテストに合格できたのか、今や自分で知っています。
 
ですから、次に似たようなことが起きる時、以前のような行動を繰り返してはなりません。そのようにして取り組んでいくうちに、信者は、罪に対する勝利の力が自分の内にあること、内におられる御霊が、必要な知恵を供給して下さることを徐々にはっきりと知るようになるでしょう。

信者は、たとえ最初からすべてがうまく行かなかったとしても、あくまで御霊から来たのではない肉の働きを十字架において否む、ということを続けて行かねばなりません。その試みをずっと続けているうちに、やがて、たとえ肉の誘惑は依然として存在しているようであっても、罪にはもはや信者を奴隷として支配する力がない、ということを見いだすでしょう。
   
人間は地上にある限り、肉体という幕屋から逃れることはできません。それは、信者が生きている限り、肉の誘惑と100%無縁の人生を送ることはできず、また、霊によって体の働きを殺す必要性から完全に解放されることもできないことを示しています。

しかし、だからと言って、悲観したり、絶望したりする必要はありません。

キリストという完全な模範がおられます、そして、この方が信者の内に住んでおられるからです。キリストは私たちと同じように、弱く限界ある肉体を持って、地上で生活を送られました。しかし、それにも関わらず、肉の誘惑に従って罪を犯すということがなかったのです。サタンと、罪と、この世にすでに打ち勝ったキリストが内におられる限り、信者には、霊によって肉を治めることが可能なのです。信じて下さい。それはキリストによって可能なことなのです。


御霊によって肉を治め、神への従順を成し遂げる新しい人

もう一度言います。信者が地上にある限り、肉そのものが消え去るわけではありませんが、信者がこれを治めることは可能なのです。

信者は、死に至るまでの従順によって、神の御心を完全に満足させたキリストのゆえに、自分自身の肉を治めることができますし、またそうすべき立場にあるのです。にも関わらず、信者が肉によって治められ、翻弄されている状態こそ、あるべきではないのです。
 
かつてカインがアベルに嫉妬し、弟を殺そうと企てたとき、神はカインに向かって「罪が戸口であなたを慕って待ち伏せている。あなたは罪を治めなければならない」と語られました。

今日、神を信じている信者が、嫉妬ゆえに誰かを殺そうと考えることはまずないと思いますので、ここで、どうやって「殺意に打ち勝つか」という方法について語る必要はないものと思います。しかし、それでも、信者は、各種の罪深い思い(御霊から出たのでない思い)の誘惑に取り巻かれて生きていることは否定しないものと思います。その中には、まことしやかに善良な知恵を装って近づいて来る悪しき思いもあります。

こうした、御霊から出たのでない思いが、自分に忍び寄って来る時、信者はその出所を巧みに見分けて、神に喜ばれない思いを「治める」(=十字架において否む、勝利する)術を学ばなければなりません。

誰が見てもそうと分かる罪深い悪習慣に打ち勝つ以上に、これは重大で困難な学課です。なぜなら、もしそれができてさえいたならば、アダムもエバも、蛇の提案に耳を貸すことはなかったはずだからです。アダムもエバも、カインのように低級で俗悪な罪の誘惑に負けたのではありません。彼らは一見「良さそうに」見える提案の出所をきちんと識別できずに、欲に誘われて行動してしまったゆえに堕落したのです。

ですから、今日、信者にとって極めて重要なのは、すべての知恵が神から出たものではなく、たとえ良さそうに見えても、悪魔から来る知恵、悪魔から来る提案、というものが確かに存在しており、それらが信者を慕い求め、信者を堕落させようと、絡みついて来ていることに気づき、そうした思いや計画の出所を御霊によって見分け、神から来たのでないものを退ける秘訣を学ぶことなのです。

このように、信者が神から出たのでない知恵をすべて見分けた上で、これを否み、治め、無効とすることが求められているのです。

それが、パウロの書いた、「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に 逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに 服従させ、 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意が できているのです。」(Ⅱコリント10:4-6)ということの意味なのです。

人は、神によって地を治めるべく創造されたわけですから、人はその思い、行動によって、神の権益を代表して立たなければならない存在です。そのために人は造られたのです。
 
第二のアダムであるキリストが神への従順を成し遂げたにも関わらず、今日の信者が、最初の人アダムと同じように、悪魔の権益の代表者となって肉によって治められて生き、堕落していてはいけないのです。

今日、信者に必要なのは、あたかも神から来たように装いながら、人を堕落させるだけであるサタンの高ぶりに基づく偽りの「知恵」をことごとく見抜いて、これを否み、撃退し、その誘惑に勝利して、自分自身の思い、行動、すべてをキリストに服従させて、霊によって治め、神への従順を成し遂げることです。

キリストが成し遂げられた御父への従順を、信者もまた地上において成し遂げるよう期待されているのです。キリストがおられるがゆえに、信者にはその可能性が開かれました。

そのようにして、御霊の導きに従い、神の御心に従って「地を治める」ことが、信者の使命です。アダムが失敗して成し遂げられなくなった使命を、キリストにあって成就するのです。そうなった時にのみ、人は神にかくあれかしと造られた被造物本来の健全さ、美しさ、尊厳、輝き、を取り戻すことができるでしょう。

また、その時こそ、人の支配が、地に実りと調和をもたらすようにもなるでしょう。信者がキリストに似た者となるので、信者による霊の支配も、神の栄光を如実に反映させるものとなるのです。