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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、
 愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
 たとえ、預言する賜物を持ち、
 あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
 たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
 愛がなければ、無に等しい。

 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、
 誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、
 愛がなければ、わたしに何の益もない。

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 愛は決して滅びない。
 預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。
 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、
 幼子のように思い、幼子のように考えていた。
 成人した今、幼子のことを棄てた。

 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
 だがそのときには、顔と顔とを合わせてみることになる。
 わたしは、今は一部しか知らなくとも、
 そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
 その中で最も大いなるものは、愛である。」

(Ⅰコリント13:1-13)
 
世界中で緊急事態が展開する中、我が国だけは、まるで何事もなかったかのように日常に戻りつつある。さすがにあの原発事故をさえ、何事もないかのごとくやり過ごそうとした国だけのことはあると感じる。

筆者の周りでは買い占めも起きていなければ、騒動もない。もちろん、勤務が休みになることもない。当ブログでは、オリンピックは決して開かれないと予想しているが、それ以外の点において、この国の人々が危機に直面しても、まるでないがごとくにそれをやり過ごす力には非常に驚かされる。

筆者は、日常生活を一歩一歩、踏みしめながら、素朴な生活を守り抜いて生きることが、非常事態に対する確かな抵抗であると感じている。

ところで、冒頭に挙げた御言葉は、キリスト者でも、往々にして、耳を塞ぎ、口に上らせることも避けて通りたいと考えるような、最も身につまされる箇所であり、教会でも、結婚式が行われる時などを除いて、滅多に語られることもない箇所だ。

なぜなら、この御言葉を語ると、クリスチャンは自分の愛の卑小さ、非力さ、自分自身の人格の未熟さ、欠点を思い知らされ、神と人との前で、恥じ入らずにいられないからだ。

牧師たちも、往々にして、この御言葉とは正反対の人生を歩んでいる。忍耐はないし、情け深くもなく、妬みと競争心に燃え、自慢話が大好きで、高慢に人に説教をする。その上、復讐心が強く、些細なことでいつまでも相手に恨みを抱いて赦そうとせず、時に平然と嘘をつき、人を侮辱し、黙って理不尽を耐えることなどまっぴらごめんという態度である。

そこで、そんな牧師たちはもちろんのこと、信者たちも、この箇所を語るとき、そそくさと足早に通り過ぎようとする。そして、ほんの少しだけ立ち止まっても、要するに、これはキリストの愛、神の愛のことを言っているのであって、自分たち人間の愛などはそれに遠く及ばない、これに倣おうと思っても、人間は未熟だから、なかなかできないものだ・・・、などと自己弁明の言葉を添えるのが通常である。

とはいえ、筆者には最近、この箇所が思い浮かんで来るようになった。そして、この御言葉は、そんなにも非現実的なことを言っているのではなく、キリスト者の自然な生長段階をよく示しているだけのように感じる。

それは筆者の周りに置かれている人々の質、そして状況が、今までと全く変わって来たためでもある。

最近、筆者は人々に誤解され、根拠のないことで悪しざまに言われ、嘲笑の的とされ、あるいは、自分の努力の成果が正当に評価されなくとも、その理不尽に耐える力が、以前よりも、少しずつ、増し加わって来たように感じる。

地獄の軍勢から来ているとしか思えない集団的な悪意に取り囲まれるときにも、恐怖に立ち向かう力が、前よりはるかに養われて来たように思う。

状況は相変わらず困難に満ちているにも関わらず、筆者が恐怖を感じることが、だんだん少なくなって来ている。それもこれも、天はすべてを見ており、すべての出来事の本当のありようをちゃんと観察している方がおられるという確信のゆえだ。

天においてのみならず、この地上の人間社会においても、多くの人がうわべだけの様相を見て誤解するようなことがあっても、事の真相を見抜いている人は、どこかにいるものだ。ただ一人であってもいいから、筆者が自分の苦労を真に知ってもらい、評価してもらいたいと願う人が、真実を知ってくれれば、それでばいい。その誰かがわざわざ言葉をかけて筆者をねぎらってくれずとも、真実が知られているというだけで十分なのだ。

つまり、筆者の受けた苦しみを知っていてくれる人が、天においてのみならず、この地上においても、どこかに存在している。たとえ声に出して共感を示さずとも、その痛みを分かち合ってくれる人が、どこかに存在している。そのことが分かっていれば、自分の受けた苦しみが、ただちに取り去られずとも、不合理な状況が、ただちに改善せずとも、失ったものに償いが与えられずとも、慰めを受け、心安らいでいられる。

それは不思議な平安である。

これまで長い長い間、筆者の苦悩を受け止めることのできる力を持った人間は、ほとんど現れなかった。そのことが、筆者の人生の悲劇だったと言っても良い。ところが、近年、そういう力を持った人々が、ちらほらと複数、現れ始めた。順調なときだけ、喜んで付き合うのではない。逆境の時にも見捨てず、根気強く向き合うことのできる人。

もちろん、筆者は誰にも依存するつもりはないので、理想的な人物の到来を待つつもりはないし、他者に向かって、長い長い愚痴を吐露し、説明に説明を重ねたりして、理解を乞うようなこともしたくない。苦しみを分かち合うにも、ほんの一瞬の語らいで良い。いや、語らいさえ成立しなくても良い。ただ受け止められている、理解されている、知られている、という確信が、ありさえすれば良い。

それがあるだけで、状況が根本的に解決しておらずとも、あるいは、自分の望みの通りに物事が運んでおらずとも、苦しみの元凶となる出来事が何ら取り去られたわけでなくとも、心が満たされるし、勇気を出してそれに立ち向かって、進んで行く力が与えられる。

そういう意味で、自分を理解できる力を持った誰かに、自分を知ってもらっている、という感覚は、大きな安心感をもたらすし、心を強くする。

だから、神に自分を知っていただいていることが分かれば、人はとても心を強められるはずだ。次の御言葉にもある通りだ。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6-7)

グノーシス主義者は、自分が神によって「知られる」客体であることに反発を示す。彼らは自分たちこそ「主人」になりたいので、客体とされることを侮辱のように考えている。そもそも彼らは、創造主なる神がおられることを認めず、自分たちは造られた者であって、被造物に過ぎないという事実にさえ納得しない。

だが、筆者はそうは考えない。神に知られていることは、人にとってどれほど光栄なことであろうか。人は働くとき、雇い主の満足を考えないだろうか。ペットは、飼い主に喜ばれることに、生きがいを見いださないだろうか。

筆者の飼っているペットたちは、筆者から眼差しを注がれる瞬間を切に待ち望んでいる。筆者の姿を見ると、飛び跳ねて喜ぶし、鳥も筆者の行くところどこへでも後を追って飛んでくる。

彼ら動物たちは、筆者によって知られ、存在を喜ばれ、受け止められていることに、慰めと光栄を見いだしている。筆者が姿を現すこと、筆者が彼らの存在を受け止めることが、彼らの喜びであり、光栄である。その関係の中に、どうして侮辱や、卑下などが存在し得ようか。

それと同じように、筆者も、筆者を愛し、受け止めることのできる者の眼差しによって見つめられ、知られ、受け止められる瞬間を、光栄なものとして待ち望んでいる。

もちろん、神以外に、人の心を隅々まで理解し、人を愛し、受け止めることのできる方はいない。だから、筆者を完全に理解できる存在とは、神に他ならない。

とはいえ、地上においても、神と人との関わりを表す絵図として、人を深く理解することのできる人間たちが時折、現れる。信仰の友の中にも、そうでない人たちの中にも。
 
そういうわけで、筆者の周りに現れる人間の質が、近年、変化して来たのを感じる。もちろん、残念なことに、以前よりも状態が悪くなって、理解が成立しなくなって去っていった人々もいるにはいたが、その反対に、非常に稀有な理解を示す人々も現れて来たのである。

そういう人たちから、ほんのわずかな助けを得るだけでも、筆者は心満たされ、十分に一人で歩いて行ける力をチャージされる。そういう人たちが存在すると分かっているだけでも、心を強くされる。

そうして、他者の強さによって、筆者が自分の心の弱さを覆われるとき、筆者は、自分自身もまた誰かに対しては、とても強い人間であること、筆者の強さも、他人の弱さを覆うために役立つことが分かる。

そのとき、黙って他者の弱さを担うことができるようになる。自分が誰かをかばってやったなどと吹聴して、他人の前で誇る必要はないし、他者の弱さを暴露する必要もない。むしろ、黙って、他者の弱さを身に引き受け、自分のもののように負うだけで良いのだ。

そうして、黙って、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりを負ってご覧なさい! そうすれば、そこにどれほどの栄光が与えられるか、試してみれば良い。弱いはずにも関わらず、そこに神の強さが働き、苦しんでいるはずにも関わらず、慰めが与えられる。窮乏しているはずなのに、満ち足りており、迫害されているにも関わらず、行きづまりに達することなく、何にも不自由のない、十分に恵みを受けた人間として、すべてに毅然と立ち向かい、尊厳と喜びを持って、すべてに勝利をおさめることができるようになる。

「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないようにと、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリント12:7-10)

筆者が地上において何をどれだけ耐え忍んだか、それが誰のためであって、誰がそれによって利益を受けたのか、そんなことを誰にも説明する必要はない。それを知っていて下さる方は、神だけで良い。神が筆者の苦労を知って下さり、ねぎらって下さりさえするならば、筆者はどこまででも人の誤解を恐れずに進んで行くことができる。

主が筆者の労苦をねぎらって下さるのが、いつなのか、筆者は知らない。だが、いつかその出会いが来るときまで、筆者はこの地上において奮闘を続ける。その時がくれば、筆者は、主と顔と顔を合わせるようにして向き合い、筆者は自分の心の労苦が、すべて主に知られていることを、鏡に映すように知らされて、心から安堵を覚えるだろう。また、その時に、はかりしれない忍耐を持って人を愛して下さる神の愛の大きさをも、はっきりと鏡に映すようにして知らされることになろう。
 
今、筆者のこの手には、ただ自分自身以外には、自分の心以外には、捧げるものが何もない。しかも、それは様々な痛みや苦しみや悲しみを通過して、踏みしだかれたり、乱暴に扱われ、擦り切れて、よれよれになって、古びかけている筆者の真心である。しかし、飾らず、気どらず、あるがままの正直な心である。

その気取らない真心を主に捧げる以外には、筆者には差し出せるものがない。だが、そんな古びた心にも、キリストと共に十字架の死を経由するなら、主の復活の命によって、新しい命の力が注ぎ込まれる。

いつの間にか、苦しみは慰めに満たされ、悲しみが喜びに取って代わり、弱さが強さに覆われて、勇気が与えられる。すると状況は何も変わっていないのに、心の中心に立っておられるキリストの命の統治により、すべてが徐々に変えられて行く。

そういうわけで、命の水を注ぎだすためのパイプラインは今も作動中である。筆者が休業の札を置いておきたいと願うときにも、それは休みなく稼働したままであり、筆者はその水を流し出すための生きた通路とされている。

ウォッチマン・ニーが「血の高速道路」と呼んだものが、筆者を切り裂いて作られている最中なのである。つまり、命の水を流し出す作業は、人が割れたビスケットのようにならない限り、決して完遂できないものであって、私たち信じる者の痛み苦しみの只中に働く死なくして、復活の命が流し出されることはない。

だから、筆者は死の立場に甘んじるしかなく、日々、水の下に沈められ、殺されていると言っても差し支えない。その死と引き換えに、命が人々のもとに届けられているのである。それが筆者の役目となり、職業のようになり、筆者が建設しているパイプラインは、まさに筆者自身を切り裂いて作られている通路である。

とはいえ、それは筆者が一人だけで完遂する孤独で苦悩に満ちた悲惨な体験ではないし、無意味な自己犠牲でもない。主が共にいて下さり、筆者の労を知ってねぎらって下さっているので、それは孤独ではなく、耐えられない試練でもない。

むしろ、非常に逆説的なことに、そこには大きな喜びがあり、慰めが伴い、何より、愛がある。神への愛、そして、人々への愛がある。復活の命は、人々のためだけではなく、まさに筆者自身のためにも与えられているものなので、そのパイプラインの恩恵を真っ先に受けて、命の力によって満たされ、強められるのも、筆者自身である。

主は、絶対に筆者を見捨てられない、と言われる。だから、筆者は、自分を取り巻く状況を変えるために、終わりなく弁明したり、奮闘すまいと決意している。主が共にいて下さり、すべてを知っていて下されば、それだけで満足である。その命なる方にこそ、すべての解決があることを筆者は知っているからだ。
 
「ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:27-31)

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花婿なるキリストのために整えられるエクレシアの隠れた内なる人の品性

エクレシア(教会)とは、召し出された者のことである。誰のために? むろん、キリストのためにである。教会は花婿キリストのために召し出された花嫁である。信仰者は性別の如何に関わらず、キリストの花嫁という点では、霊的に女性としての役割を担っているのだと言えよう。

さて、召し出された以上、エクレシアには花嫁支度というものが存在していることを考えたことがあるだろうか。また、キリスト者の花嫁支度とはいかにあるべきかという問題について考えたことがあるだろうか。

一つの参考として、エステル記にこんな記述があるので見てみよう。王命に背いた王妃ワシュティの代わりに、ペルシアの王アハシュエロスは新しい王妃を立てようと思い、全国から美しい娘たちを集めた。そこで招かれたおとめたちは、「婦人の規則に従って、十二か月の期間が終わって後、ひとりずつ順番にアハシュエロス王のところに、はいって行くことになっていた。これは、準備の期間が、六か月は没薬の油で、次の六か月は香料と婦人の化粧に必要な品々で化粧することで終わることになっていたからである。」(エステル記2:12)

これは古代ペルシャの慣習であり、その記述をここでことさらに引き延ばすことはしないが、いずれにしても、おとめたちが王に接見する準備のために、なんと1年もの歳月を要したことが分かる。

地上の王でさえ、満足の行く王妃を探し出すためにこれだけの用意を相手方に求めたのであるから、王の王であるキリストが花嫁を迎えるにあたって、花嫁に準備が必要とならない方がおかしい。しかし、一体、キリスト者の花嫁支度とは、いかなるものなのだろうか。

キリスト者は、一体、神が自分に何を求め、期待されているのか、考えてみたことがあるだろうか。

「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものなのです。」(Ⅰペテロ3:3-4)

全聖書を通じて、神は人に外見的な美や、装飾、優美で強壮な肉体、等々の要素を全く求めておられないことが分かる。神が人に求めておられるのは、外面的な美ではなく、内面的な美なのである。

仮に、上記の古代ペルシャの婦人の準備期間というものを、聖書の見えないコンテクストに置き換えて読み取ってみるとする。聖書では没薬は死(十字架)を象徴することで知られ、香料は祈りの象徴、また、以下にあるような「キリストの香り」に結びつき、化粧とは、内なる隠れた人柄を飾る様々な美しさだとも言えなくもない。

「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」(Ⅱコリント2:15)

人は、外なる人と、内なる人と、二つの要素を合わせ持つ。外なる人は、外見的なものであり、肉体を持つこの世の人である。外なる人を通して、私たちは他の人間と接触をはかる。外なる人は目に見えるので、非常に分かりやすく、人は自分の外なる人を通して他者の好意や、自分の満足を得るために、自分の外なる人を魅力的にしようと心を砕く。着る物に注意を払い、肉体を鍛えたり、より美しくしようと努める。

他方、内なる人は、――神に接触するために不可欠なのだが――、肉眼で見えないので、人はそれが自分の内に確かに存在していることすら、多くの場合、認めようともしない。外なる人には心を砕くのに、内なる人については完全に無視してしまい、その結果、内なる人はいつまでも未熟で、弱いまま忘れられるということも往々にして起きる。

外なる人が強くて立派であることと、内なる人が強くて立派であることには、ほとんどと言って良いほど関連性はない。たとえば、私たちは、普段は社交的で誰とでもよく付き合って朗らかに振る舞い、健康で美しく強い体を持ち、社会的にも高名な地位を得ている立派な人々が、しばしば、驚くほどプレッシャーに弱く、自分を非難されることに全く耐えられなかったり、些細なことで癇癪を起して人に当たったり、ちょっとした試練に見舞われただけで絶望的なほど沈み込んでいるのを見ることがある。

このように、外なる人の強さが、その人の内なる弱さを覆い隠す鎧のようになっている場合もよくある。その人の内なる人は、本当は病んでいたり、傷ついていたり、助けが必要なほど弱り切っているのに、自らの弱さを認めたくないがために、そこから目を背けて、外なる人をより一層、鍛えることで、自分を強く見せかけようとするという防衛的な心理が働いていることもある。

だが、神にはそのようなごまかしは一切通用しない。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル4:13)

神の御前で、人は自分を偽ることはできない。人の弱点で、神に知られていないものは何一つない。外なる人も、内なる人も、すべてが神には裸のようにはっきりと見えている。

それでは、人に何が残されているのだろうか? エデンの園で、自分が裸であることに気づいて、神のまなざしを避けて逃げたアダムとエバのように、これ以上、自分の恥が明らかにならないように、神の目を避けて逃げることだろうか?

そんな結論では、この記事の問題提起は初めから成立しないだろう。そうではなくて、外なる人を鍛え、発達させるのと同じように、人は自分の内なる人をも発達させることが可能であり、それこそ、神の目に尊いエクレシアの花嫁支度なのだということが、聖書から読み取れるのである。

では 、どのようにして、「柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がら」を身に着けることができるのだろうか。

これは身に着けようと苦心して身に着くようなものでなく、人が神に対して生きることを始めたときに、自然に実現されていくものなのではないかと私は考えている。

信仰者は大抵、自分は神のために、神に対して生きていると思っているが、実際のところ、その心のほとんどは日々、自分の生活のため、自分自身のため、そばにいる人々のために割かれており、神のために割かれている領域は無にも等しい。毎日、生活の心配、仕事の心配、自分の外見の心配、人付き合いの心配…などが心を占めており、これらの思い煩い(恐怖)からほとんど解放されることがない。

だが、召し出された者たちに、神はそのような状態を願っておられない。信仰者は、このような世の思い煩いと死の恐怖の奴隷状態から解放されたのであり、何のために解放されたのかと言えば、主イエスの満足のために解放されたのである。だから、信仰者は死の恐怖から救い出され、解放されたその心の領域を、今度は、神に捧げて生きるべきなのである。

このことは安息と密接な関係がある。一切の思い煩いを離れて神への愛の中で安息し、神の御前で神に対して生きることが、信仰者の内なる人を強くすることと密接に関係しているのである。

神は信仰者の心をすべてご自分のために得たいと思っておられる。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』<…>」(マタイ22:36)との命令は、神が人の心を残らずご自分のために得たいと思っておられることを示している。エクレシアはこの命令に応答するために召された。

「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。」(ガラテヤ2:19)

「このように、あなたがたも、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:11)


「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)


一つの場面を思い浮かべてみよう。愛し合っている花婿と花嫁がいるとする。ある時、一人で日常の用事をこなしていた花嫁が、愛する花婿が向こうから姿を現し、ゆっくりと歩いて近づいて来るのを見たら、どうするだろうか。彼女の心は喜びと幸せに満たされ、一瞬にして、彼女の関心は日常から離れて、一心に花婿に注がれるだろう。もし花婿がそばに来て、彼女の横に腰かけて話し始めたなら、彼女はどうするだろうか。彼女もそばに座って、その声に聞きほれるように耳を傾けるだろう。花嫁のまなざしは、ただ一心に、花婿の姿を追う。他の何も彼女の目には映らない。花嫁には、自分のまなざしの中に花婿が映っている限り、安心である。主人がそばにいるので、無法者は近づかない。花嫁はリラックスし、安心して座して、花婿が話しやむまで、そばに寄り添って耳を傾ける。今や自分のための心配は過ぎ去り、ただ花婿が何を考え、何を感じ、何を理解してほしいと彼女に願っているか、それだけが彼女の最大の関心事である…。

このように、花嫁が花婿を待ち望むように、人が神を愛し、安息の中で、神に対して生きることこそ、神が願っておられることであり、エクレシアの果たすべき使命である。信仰者にとって、この世の試練は決して終わることはないが、あらゆる恐怖や思い煩いにまさって、神の御前で生きることがリアリティとなるとき、その人の心を人知でははかりしれない平安が覆う。そして、神への愛がその人の内なる尊厳と強さを回復し、すべての試練に対して立ち向かう勇気を与えてくれる。人への愛が人を強くすることができるなら、なおのこと、神への愛は、人の尊厳を真の意味で回復することができるのである。

「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:16-19)

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(Ⅱテモテ1:7)

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)


「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」(Ⅱコリント5:13-14)