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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

花婿なるキリストのために整えられるエクレシアの隠れた内なる人の品性

エクレシア(教会)とは、召し出された者のことである。誰のために? むろん、キリストのためにである。教会は花婿キリストのために召し出された花嫁である。信仰者は性別の如何に関わらず、キリストの花嫁という点では、霊的に女性としての役割を担っているのだと言えよう。

さて、召し出された以上、エクレシアには花嫁支度というものが存在していることを考えたことがあるだろうか。また、キリスト者の花嫁支度とはいかにあるべきかという問題について考えたことがあるだろうか。

一つの参考として、エステル記にこんな記述があるので見てみよう。王命に背いた王妃ワシュティの代わりに、ペルシアの王アハシュエロスは新しい王妃を立てようと思い、全国から美しい娘たちを集めた。そこで招かれたおとめたちは、「婦人の規則に従って、十二か月の期間が終わって後、ひとりずつ順番にアハシュエロス王のところに、はいって行くことになっていた。これは、準備の期間が、六か月は没薬の油で、次の六か月は香料と婦人の化粧に必要な品々で化粧することで終わることになっていたからである。」(エステル記2:12)

これは古代ペルシャの慣習であり、その記述をここでことさらに引き延ばすことはしないが、いずれにしても、おとめたちが王に接見する準備のために、なんと1年もの歳月を要したことが分かる。

地上の王でさえ、満足の行く王妃を探し出すためにこれだけの用意を相手方に求めたのであるから、王の王であるキリストが花嫁を迎えるにあたって、花嫁に準備が必要とならない方がおかしい。しかし、一体、キリスト者の花嫁支度とは、いかなるものなのだろうか。

キリスト者は、一体、神が自分に何を求め、期待されているのか、考えてみたことがあるだろうか。

「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものなのです。」(Ⅰペテロ3:3-4)

全聖書を通じて、神は人に外見的な美や、装飾、優美で強壮な肉体、等々の要素を全く求めておられないことが分かる。神が人に求めておられるのは、外面的な美ではなく、内面的な美なのである。

仮に、上記の古代ペルシャの婦人の準備期間というものを、聖書の見えないコンテクストに置き換えて読み取ってみるとする。聖書では没薬は死(十字架)を象徴することで知られ、香料は祈りの象徴、また、以下にあるような「キリストの香り」に結びつき、化粧とは、内なる隠れた人柄を飾る様々な美しさだとも言えなくもない。

「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」(Ⅱコリント2:15)

人は、外なる人と、内なる人と、二つの要素を合わせ持つ。外なる人は、外見的なものであり、肉体を持つこの世の人である。外なる人を通して、私たちは他の人間と接触をはかる。外なる人は目に見えるので、非常に分かりやすく、人は自分の外なる人を通して他者の好意や、自分の満足を得るために、自分の外なる人を魅力的にしようと心を砕く。着る物に注意を払い、肉体を鍛えたり、より美しくしようと努める。

他方、内なる人は、――神に接触するために不可欠なのだが――、肉眼で見えないので、人はそれが自分の内に確かに存在していることすら、多くの場合、認めようともしない。外なる人には心を砕くのに、内なる人については完全に無視してしまい、その結果、内なる人はいつまでも未熟で、弱いまま忘れられるということも往々にして起きる。

外なる人が強くて立派であることと、内なる人が強くて立派であることには、ほとんどと言って良いほど関連性はない。たとえば、私たちは、普段は社交的で誰とでもよく付き合って朗らかに振る舞い、健康で美しく強い体を持ち、社会的にも高名な地位を得ている立派な人々が、しばしば、驚くほどプレッシャーに弱く、自分を非難されることに全く耐えられなかったり、些細なことで癇癪を起して人に当たったり、ちょっとした試練に見舞われただけで絶望的なほど沈み込んでいるのを見ることがある。

このように、外なる人の強さが、その人の内なる弱さを覆い隠す鎧のようになっている場合もよくある。その人の内なる人は、本当は病んでいたり、傷ついていたり、助けが必要なほど弱り切っているのに、自らの弱さを認めたくないがために、そこから目を背けて、外なる人をより一層、鍛えることで、自分を強く見せかけようとするという防衛的な心理が働いていることもある。

だが、神にはそのようなごまかしは一切通用しない。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル4:13)

神の御前で、人は自分を偽ることはできない。人の弱点で、神に知られていないものは何一つない。外なる人も、内なる人も、すべてが神には裸のようにはっきりと見えている。

それでは、人に何が残されているのだろうか? エデンの園で、自分が裸であることに気づいて、神のまなざしを避けて逃げたアダムとエバのように、これ以上、自分の恥が明らかにならないように、神の目を避けて逃げることだろうか?

そんな結論では、この記事の問題提起は初めから成立しないだろう。そうではなくて、外なる人を鍛え、発達させるのと同じように、人は自分の内なる人をも発達させることが可能であり、それこそ、神の目に尊いエクレシアの花嫁支度なのだということが、聖書から読み取れるのである。

では 、どのようにして、「柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がら」を身に着けることができるのだろうか。

これは身に着けようと苦心して身に着くようなものでなく、人が神に対して生きることを始めたときに、自然に実現されていくものなのではないかと私は考えている。

信仰者は大抵、自分は神のために、神に対して生きていると思っているが、実際のところ、その心のほとんどは日々、自分の生活のため、自分自身のため、そばにいる人々のために割かれており、神のために割かれている領域は無にも等しい。毎日、生活の心配、仕事の心配、自分の外見の心配、人付き合いの心配…などが心を占めており、これらの思い煩い(恐怖)からほとんど解放されることがない。

だが、召し出された者たちに、神はそのような状態を願っておられない。信仰者は、このような世の思い煩いと死の恐怖の奴隷状態から解放されたのであり、何のために解放されたのかと言えば、主イエスの満足のために解放されたのである。だから、信仰者は死の恐怖から救い出され、解放されたその心の領域を、今度は、神に捧げて生きるべきなのである。

このことは安息と密接な関係がある。一切の思い煩いを離れて神への愛の中で安息し、神の御前で神に対して生きることが、信仰者の内なる人を強くすることと密接に関係しているのである。

神は信仰者の心をすべてご自分のために得たいと思っておられる。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』<…>」(マタイ22:36)との命令は、神が人の心を残らずご自分のために得たいと思っておられることを示している。エクレシアはこの命令に応答するために召された。

「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。」(ガラテヤ2:19)

「このように、あなたがたも、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:11)


「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)


一つの場面を思い浮かべてみよう。愛し合っている花婿と花嫁がいるとする。ある時、一人で日常の用事をこなしていた花嫁が、愛する花婿が向こうから姿を現し、ゆっくりと歩いて近づいて来るのを見たら、どうするだろうか。彼女の心は喜びと幸せに満たされ、一瞬にして、彼女の関心は日常から離れて、一心に花婿に注がれるだろう。もし花婿がそばに来て、彼女の横に腰かけて話し始めたなら、彼女はどうするだろうか。彼女もそばに座って、その声に聞きほれるように耳を傾けるだろう。花嫁のまなざしは、ただ一心に、花婿の姿を追う。他の何も彼女の目には映らない。花嫁には、自分のまなざしの中に花婿が映っている限り、安心である。主人がそばにいるので、無法者は近づかない。花嫁はリラックスし、安心して座して、花婿が話しやむまで、そばに寄り添って耳を傾ける。今や自分のための心配は過ぎ去り、ただ花婿が何を考え、何を感じ、何を理解してほしいと彼女に願っているか、それだけが彼女の最大の関心事である…。

このように、花嫁が花婿を待ち望むように、人が神を愛し、安息の中で、神に対して生きることこそ、神が願っておられることであり、エクレシアの果たすべき使命である。信仰者にとって、この世の試練は決して終わることはないが、あらゆる恐怖や思い煩いにまさって、神の御前で生きることがリアリティとなるとき、その人の心を人知でははかりしれない平安が覆う。そして、神への愛がその人の内なる尊厳と強さを回復し、すべての試練に対して立ち向かう勇気を与えてくれる。人への愛が人を強くすることができるなら、なおのこと、神への愛は、人の尊厳を真の意味で回復することができるのである。

「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがた、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:16-19)

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(Ⅱテモテ1:7)

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)


「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」(Ⅱコリント5:13-14)

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