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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

「どころで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。
 造られた者が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。

神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。

神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。

「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
『あなたたちは、わたしの民ではない』
と言われたその場所で、
彼らは生ける神の子と呼ばれる。」

また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。
たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。

それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。
万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、
わたしたちはソドムのようになり、
ゴモラのようにされたであろう。」」(ローマ9:19-29)

* * *

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:14-17)

* * *

 
本当は別の記事を書く予定だったのだが、非常に重要な話だと思われるものを先にまとめておきたい。

聖書の神は、愛されなかった者を愛される者と呼び、見捨てられた民を選ばれた民とされ、人の目から見て、最も無価値で、使い物にならないと判断されたものを大胆に用いられる。

モアブ人だったルツは、ユダヤ人からは祝福とは無縁の呪われた民とみなされていたが、キリストの系譜に加えられており、ダビデに夫を殺された上で、ダビデの妻とされたバテシェバもそこに加えられている。

キリストご自身が、「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。」(詩編118:22)と言われる通り、人に捨てられた石であった。御子の誕生は、誰もが知る通り、ベツレヘムの馬小屋、つまり、生まれた時から、主イエスはこの地上に居場所がなく、人間として数えられていなかったのである。そして、地上での生涯においては、神の独り子であったにも関わらず、十字架の死に至るまで、己をむなしくして、父なる神に従順に従われた。

このように、私たちの神は、人の目から見て、蔑まれ、全く価値のないように見える器を用いられる。むしろ、人の目から見て、有用性があると思われ、自分により頼んでいるうちは、神の目には全く使い物にならないのだと言えよう。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。


それは、だれ一人、神の前で誇ることが無いようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:26-31)

さて、筆者がキリストのみに身を捧げて生きたいと書く時、そこには、人間的な一切の力により頼みたくないという意味が込められている。

筆者にも、人間的に誇ろうと思えば、何がしかのものがあったであろうし、今もあるであろうが、キリストがそうであられたように、筆者は、世の前に一切栄誉を受けない生き方を願うのである。

ところが、このように書くと、ことさらに嘲り、怒り出す人々がいる。このような考えは、人類を拒むものだとか、男性の価値を認めないものだと言って、まるで自分が否定されているかのように、怒り出すのである。(一体なぜ彼らは自分とキリストを同列に比べようなどと考えるのであろうか?)

こうした人々は、おそらく、女性の価値は、男性に仕え、男性を満足させることにのみあると思いたいのであろう。特に、宗教指導者はそうである。彼らは信徒から仕えられることによってしか、自己価値を確認できない哀れな人々である。

自分が誰かからかしずかれ、敬われ、仕えられていないと、片時も、自分の価値を感じられない心貧しい人々は、自分の周りにいる信者がただキリストだけに従うなどと言い始めた日には、まるで妻に離縁されようとしている夫のように、半狂乱となり、何とかして、人間の指導者から去って行かないようにと、あの手この手で引き留めようとする。

この世の男性の中には、自分は女性よりも優れていると思い込み、ただそれだけを、自己のステータスと考える者たちが存在する。だが、それはちょうど、江戸時代の人々が、えた・非人を見下すことで、自分がつらく貧しい生活の中で、誰からも十分にかえりみられることもなく、抑圧されている不満を忘れようと、自分の思うがままに痛めつけられる下の階級を求めたのと同じことである。

だが、女性は、男性に属することで初めて価値が生まれるものではない。男であれ、女であれ、誰かよりも強く、優れているから、その人間に価値が生まれるわけではない。

キリストに属していなければ、みな人類は罪深い堕落した人間でしかなく、無価値なのである。

従って、私たちが、堕落した被造物としての限界から贖われる道は、自分よりも強い者に帰属することで、自分の弱く蔑まれたルーツを否定することにはない。

むしろ、主は、この世で無力で見下されている人々を常に積極的に選んで、憐れみの器として、ご自分の栄光を表そうとなさったのであるから、私たちは、そうして神の強さが現れる契機となった自らの弱さを蔑むどころか、むしろ、これを誇るべきなのである。

話が突然、変わるように思われるかも知れないが、かつてある女子フィギュアスケーターがオリンピックで困難なジャンプに挑んで派手に失敗し、それがトラウマになって、オリンピック恐怖症になった。

そのスケーターは、世界的な実力の持ち主であったが、多感な少女時代に自分の失敗を週刊誌で書き立てられて、無責任なオジサンたちに笑いものにされたことで、深い心の傷を負った。結局、それがトラウマとなって、二度とオリンピックに真正面から挑戦できず、その挑戦から逃げるように、未婚の母となった。

こうした事例は、心弱い女性が、自分よりも強そうなオジサンたちの無責任な冷やかしに負けてしまった典型例と言えよう。彼女が未婚の母になることを決断したのは、自分を笑いものにしたオジサンたちの眼差しを逆に征服することで、自分が受けた心のトラウマを否定的に乗り越えようとしたものと見られる。

しかし、このような方法では、トラウマを乗り越えるどころか、かえってオジサンたちの好奇な眼差しに負けて、自分の貴重な可能性をみすみす手放したことにしかならない。

確かに、十代の多感な少女を週刊誌でバッシングした連中は、極めて罪深い所業に手を染めたと言えるとはいえ、それでも、オジサンたちの眼差しには、本当に彼女を打ち負かすほどの力があったのだろうか? 答えは否である。

彼女にはその当時、ジャンプが決まりさえすれば、世界一になれる可能性があった。それはオジサンたちには逆立ちしてもできないわざであり、彼女は、それによってしがない連中の噂話など完全にものともせずに、足の下に踏みつけることができたのであって、オジサンたちの無責任な思惑などに振り回されず、自分の道を行くべきだったのである。

そして、目に見える遺産ではなく、目に見えない遺産を打ち立てることに心を集中すべきであった。それができていれば、一人の女性としての限界を超えるほどに大きな栄光を手にすることが出来ていたであろうし、ふさわしい人々との出会いもその先に待ち受けていたものと思われる。

さて、以上の話はもちろん比喩である。筆者がここで語ろうとしていることは、人類は、霊的に女性であるということである。その意味で、女性のみならず、男性も、女性と同じような弱さ、脆さ、不完全さを背負っているのである。

ここで言う、人類が霊的に女性であるとは、人類が神の宮であることを意味する。人類は神を迎えるための神殿であり、神の助け手として造られたという意味で、霊的に女性である。

こうした文脈で、人類は、男であれ、女であれ、みな自分一人だけでは決して完全にはなれない「女性性」を抱えている。すなわち、自己の不安定さ、不完全さ、弱さ、脆さ、有限性などの哀しみを抱え、絶えず自己の不完全性に脅かされて生きている。

そういう意味で、女性的な弱さは、何も女性だけの専売特許ではない。それは言い換えれば、人類全体の弱さ、有限性、不完全さそのものに通じるのである。

そこで、このような自己の不安定さ、孤独、弱さのゆえに、人類は絶えず何かにすがろうとする。特に、自分に弱さや不完全さや恥を感じさせた相手を憎みながらも、何とかして、自らの弱さを否定し、そこから目を背けるために、何とかしてこれ以上批判を受けまいと、その相手にすがりつく。だが、ほとんどの場合、そうして人類が抱き着く相手は、人類を辱めた悪魔なのである・・・。

この地上においては、弱い者が、強い者にすがりつき、その者の庇護を受けたからと言って、決してそれによって、自己の弱い本質を克服することはできない。

女性が一人でいるのは心細いと考えて、自分よりも強い男性の庇護を受けたとしても、その女性はそのことによって、いささかも強い者に変化するわけではない。

この地上における、男女の支え合いは、ほんの束の間でしかなく、必ず別離が来て、誰かが一人で取り残される。その時が来るまで、もしも弱い者が、強い者に全面的によりかかって生きていたならば、支えがなくなった時点で、倒れるだけである。そのようなものは強さではない。

人類も同じで、自分が霊的に女性であり、一人では立てない不完全な存在であるという弱さを、何とかして打ち消そうと、自分に弱さや惨めさを思い知らせた強い者にすり寄り、その者の強さに威を借りようとしたとしても、そんな手段によって、自己の弱さを克服することも、完全な存在になることもできない。

要するに、人類が、自ら宮であることを捨てて、単独で神のようになろうとしたところで、それは何ら人類が自己の弱い本質を克服する手立てとはならず、人類が霊的な「女性性」を克服して、自ら男性のように強くなる手段とはならない。

むしろ、神が願っておられるのは、人類がそのような方法で、自分で自分を何とか補強して別人のように強くなろうとすることではなく、弱いままで、信仰によって、その弱さの中に神の強さが注ぎ込まれ、本当の意味で、神と人との同労が行われることなのである。

ここに、なぜ今の「恵みの時代」に、人類は、神との完全な合一なしに地上に取り残されており、エクレシアは、花婿キリストを待つつつましい花嫁なのかという秘密がある。

人類は花婿を待つ花嫁のごとく、地上をつつましく生きており、花婿を待っている花嫁だからこそ、そこに孤独があり、弱さと、不安と、不完全さがある。

しかし、それは決して、悲劇的で絶望的な要素でない。なぜなら、「彼女」には、すでに花婿との婚礼という輝かしい栄誉が約束されており、信仰によれば、すでに花婿と結ばれており、彼女の孤独と不安は、いつまでも続くものではないからである。

それはちょうど愛くるしい若いスケーターが、自分の娘らしい楽しみを全て捨てて、ただひたすら試合で勝つために、わざを磨き練習に励むのと同じで、霊的な女性である人類には、まずは達成しなければならない困難なミッションがある。彼女の栄光と安息は、その達成の後にやって来るものなのである。

すなわち、自分の心の恐怖に打ち勝って、幾多の試練を乗り越えて、賞を勝ち取れば、その先に、ふさわしい栄光が待ち受けている。

そういう意味で、今日、エクレシアの美は、未完成の状態にあり、彼女はまだ大きな成果を勝ち取る試練の最中にある。それにも関わらず、彼女が自分が未完成であることを、まるで恥ずべきことのように思い、自分を完全であるかのように見せかけるために、他者から賞賛を受け、愛でられ、慰めを受けて、自己の人生に満足して立ち止まってしまってはいけないのである。

この聖なる花嫁なる娘が、栄誉を受けて満たされるのは、次の時代のことであって、そうなるまでに、通過しなければならない試練が幾多も残っている。

その栄誉を勝ち取る前に、聖なる花嫁が、不安に駆られて、一人ではいられないと、花婿たる資格を持たない、無数の無責任なオジサンたち(暗闇の勢力に率いられる堕落した被造物)に身を委ね、その賞賛を受けて満足してしまえば、「彼女」は、もはや前進して、定められた褒賞を勝ち取ることができなくなる。

しかも、そのようにして己が恐怖心に負ければ、彼女は勝負にも失敗した上、おそらくは、未婚の母になるしか選択肢はないであろう。なぜなら、その無責任なオジサンたちは、彼女の不安につけこんで、ますます彼女を辱めることしかできず、彼女のために、真にふさわしい庇護者となって、しかるべき家庭を与え、母子を庇護するだけの力が初めから全くないからである。

聖書に登場するバビロンは未婚の母である。なぜなら、バビロンには愛人はたくさんいるが、夫は一人もいないからである。

かくて、妻子を養う力もない無責任な愛人たちの甘言に耳を貸さず、彼らの庇護という名の辱めを拒んで、しかるべき花婿からの賞賛だけを待ち望むためには、花嫁なる女性の側にも、それなりの勇気と覚悟が必要となる。

その覚悟とは、自分が待ち望んでいる崇高な目標以下のどんなものでも、決して満足しないという強い決意である。そして、その目標へたどり着くまでの間に、どれほどの弱さや、恐怖や、心細さや、不安を感じなければならないとしても、自分は崇高な目的に値する人間であるから、必ずすべての試練をくぐりぬけて、目標に達することができると信じ、片時も、そこから目を逸らさないで、真っすぐに進むことである。

このように、望みうる最高の目標を心に抱き、それに達して賞を勝ち取るまであきらめない決意と、ただ一人なる聖なる花婿を待ち望むことの間には、密接な関係がある。

聖書を読み解くならば、花婿なるキリストが再び来られるまでに、教会(エクレシア)は非常に激しい試練を潜り抜け、これに打ち勝っていなければならないことが分かるだろう。

つまり、キリストは、信者がただぼんやり受け身に待ってさえいれば、再臨するということはなく、キリストの再臨は、教会の激しい努力と忍耐と苦難の末に、教会による暗闇の勢力に対する目覚ましい勝利の結果として初めて訪れるものなのである。

いわば、教会が信仰によってすべての苦難と試練を耐え抜き、信仰を立派に守り通したことへの褒賞のごとく、聖なる花婿はやって来るのである。

こういうわけで、人類史にはシンデレラ・ストーリーなるものはなく、霊的女性である人類は、自分が一体、誰を待っているのか、自分で決めなければならない。

「彼女」が獲得したいのは、誰の眼差しなのか。自分に真の栄光をもたらすことのできる神なのか、それとも、弱さと恥と貧しさしか与えられない悪魔なのか。

それは人類が自分自身で選び取る決断である。もしも人類が、一刻も早く安楽な生活が送りたいだけならば、これ以上、無責任で堕落した無数の連中に、好奇の目で見られることのないように、目指している高い目標をあきらめ、本気の勝負を捨てて、オジサンたち(世)に愛想を振りまいて、彼らを黙らせればよい。

しかし、それでは満足できず、本物の栄光にたどり着きたいと願うならば、世人の思惑は一切、気にせず、ただ自分が真に待ち望み、心から価値あると確信でき、自分に栄光をもたらすと信じられる目標だけを、ひたすら追い求め、まことの主人と呼ぶに値するただ一人の花婿が現れるまで、それ以外の誰にも心を傾けずに生きるべきなのである。

途中で目標をあきらめてバビロンとして堕落しないためには、エクレシアは、自分に栄誉を与えることのできない悪魔と暗闇の勢力の好奇な眼差しの前に、いささかもたじろがず、揺るがされることなく、ただ真実なる花婿なるキリストが、必ず、ふさわしい時にやって来て、彼女に賞賛と栄光をもたらしてくれることを心から信じて、ただ一人からの賞賛の言葉だけを求めて、信仰によって力の限り、戦い抜いて、勝利をおさめるべきなのである。

その戦いを乗り越えたとき、真に花婿が姿を現すのであって、教会はその時が来るまでに、すべての恐怖に打ち勝って、死の力を打ち破り、花婿に栄光を帰し、かつ共に栄光を受ける準備が整っていなければならない。花婿はそれまで遠く離れているわけではなく、信仰によって、すでに花嫁と一つとされており、神は人と同労して、十字架で打ち立てられた解放の御業を地上で実際として下さるのである。

従って、キリストの再臨は、人が受け身に待っていればやって来るようなものではなく、教会が自らの信仰によって勝ち取り、引き寄せるものであると言えよう。

神はエデンの園に人類を置かれたその時から、地上で起こる事柄を人類の意志に任せておられ、人の地上での生活は、人自身が自ら選び取って行くものとして与えられている。すなわち、教会史は、人類(教会)が自分を何者と考え、自分がどれほど高い目的に値すると考え、それに向かって必要な犠牲を具体的に払うかによって、結果が変わり得るものなのである。

そして、教会史においては、弱く、蔑まれ、見捨てられて、希望がないと思われた者たちが、かえって信仰によって大胆に強められて立ち上がり、自分よりもはるかに強いと思われる者たちを打ち負かし、悪魔のわざを打ち壊し、すべての恐怖に打ち勝って、主と共に、目覚ましい勝利を打ち立てる。そのように、この世で寄る辺なく貧しく弱い者たちが、信仰によって、主と共に、力ある富む者となり、大胆な勝利をおさめ、父なる神に栄光を帰することは、神の御心にかなうことなのである。
 
とはいえ、神は私たち人間が、非常に脆く弱い土の器に過ぎないことも知っておられ、私たちが耐えられないほどの試練に遭わせることはなく、ご自分を待ち望んでいる者たちを助けるために、速やかにやって来られ、遅れることはない。

そこで、当ブログに対して行われている陰険な嫌がらせに対しても、神は速やかに助けの手を伸べられるであろう。そして、聖なる花嫁エクレシアの使命をせせら笑ったバビロンとその愛人たるオジサンたちは、みな恥辱のどん底に突き落とされて終わる。

神の聖なる花嫁なるエクレシアをあざ笑い、神の教会に払拭しがたい汚点があるかのようにささやく者は、聖なる花婿ではなく、間違いなく悪魔である。従って、そのような者のささやきには、断じて耳を貸してはならず、彼らから好意を受けようなどとは、断じて考えてはいけない。

私たちは、数回転のジャンプで世界一を勝ち取ることはなく、むしろ、主と共に天に携え挙げられることを望んでいる。その日、聖なる花嫁は、「夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来る」(黙示21:2)。そして、花婿花嫁が共に再び地を踏みしめるとき、そこは新しい天と地となっているであろう。

それ以後は、神と人とが引き離されることはない。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に隅、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示21:3-4)
 
だが、今の時代はまだそのような安息の時ではない。私たちは、信仰によって、心の内では安息を得ているかも知れないが、実際に教会が花婿を得て安息すべき時にはまだ至っていない。エクレシアのためには、未来に言い尽くせない栄光が用意されているが、その日が来るまで、教会にはまだ労苦して果たさねばならない仕事が数多く残っている。そして、その労苦の実も、私たちが現に見ている成果ではなく、見えない天的な成果なのである。

現在、被造物が産みの苦しみを味わっているのは、目に見える成果を生むためではなく、死と滅びから完全に贖われ、朽ちない人であるキリストを上から着るためである。私たちの地上での労苦はすべて、手にすればすぐに消えてしまう目に見える束の間の地上的利益のためではなく、いつまでも永遠に残る天的な利益のためであり、要するに、すべては見えないキリストを生むための苦労なのである。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。

見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:18-25)
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二つの出来事 主が与え主がとりたもう(2)

私は関東に来てから、自分の職業を今後、どう定めるべきか、
ずっと祈り求めて来ましたが、その中で、
常に心に迫って来るように感じられたことが二つあります。

その一つは、ハドソン・テイラーが中国伝道に出発する前にしていたと同様に、
私は将来を拘束されるような契約に縛られて働いてはならないということ。
二つ目は、経済において、今後、ただ主にのみより頼む覚悟を決めなければならないということでした。

歴代のクリスチャンたちがそうしてきたように、
今、ただ信仰のみを頼りに生きる決意を固める誠実な働き人であるクリスチャンたちが、
主によって求められている、という感じがあるのです。
しかし、多くの人は、私がこのように言えば、仰天するだけでしょう。
テイラーが言われたのと同様に、そんな大冒険は、今の世には通用しないから、
やめた方がいいよと言われるでしょう。
にも関わらず、その考えは、日に日に強くなっていくのです。

それでも、つい最近まで、私の心には邪心とも言えるような一つの願いがありました。
それは、かつて私が自分の職業であると考えていた研究者に
何とかして戻ることはできないだろうかという願いでした。

研究者になるということは、24時間、研究のために心を捧げることを意味します。
霊によってわきまえるべき御言葉を糧として、主のためにのみ心を捧げて生きるということと、
人が魂によって描いた文学の研究者になることは、両立しません。
それでも、未だ日々の糧を得る手段が確保されていないという不安も手伝って、
せっかく新しい生活の展望が開けたのだから、それと同時に、
何か奇跡的なめぐり合わせによってでも、かつての道に復帰できないだろうかという願いが、
私の心の中に残っていたのです。

最近、私はある兄弟にこのように愚痴を言いました。
「私はこれまで一度たりとも、定職というものに就いたことがありません。
世間で認められるまともな仕事に就いて、満足できるお給料をもらったことがないのです。
それは、不幸なめぐり合わせによって、私が不況に直面してしまったせいです。
私が経験した仕事は、ことごとく、まともな俸給のもらえない仕事ばかりで、
さらに、私が持っている唯一の誇れる専門知識が生かされる仕事には、
まだ一度も就くチャンスが与えられていません。

主は、一度でいいから、私に専門知識を生かして生きる道を与えて下さらないでしょうか。
一度でいいから、私は故郷の人々に認めてもらえるようなまっとうな職業について、
安定した生活を送ってみたいのです。
一度でいいから、家族に安心してもらいたいし、自分も幸せを享受したいのです」

そんな話と前後して、つい最近、海外の本屋さんから、ある報せが届きました。
それは私がずっと前に注文していた資料が入荷したという報せです。
それは私が博士論文を書いていた頃に探していた資料の一つで、
当時には、事情があって、見ることのできなかった資料でした。

このテーマで論文を執筆するために必要な資料の全体のうち、
すでに90%以上を私は集めています。
その多くは苦労を伴って手に入れたものです。
ですから、できるならば、今後、すでに書いた論文をより発展させて、
もっと大きな論文を仕上げたい、という願いが私の心の中に残っていました。
まだその研究をやり終えていない、という心残りがあったのです。

そんなわけで、書籍の入荷の報せが届くや否や、私は早速、支払を済ませました。
ところが、待てど暮らせど、本が発送されたという通知がありません。

一体、どうしたのだろうか、といぶかっているうちに、どうやらこれは、
主の御心を問うてみるべき出来事だということが、次第に分かって来ました。

一冊の本くらい、御心をあえて問わずとも、簡単に購入できるだろう…
と高をくくっていましたが、実はそんな簡単な問題ではなかったのです。
その一冊の本を購入するかどうかに、実に、主の御心に対する
私の誠実さ全体がかかっていたのです。

資料は待てど暮らせどやって来ません。
日が経つに連れて、私は研究者に戻るべきではない、という感じが募りました。
見えない神の御国のために働くという仕事と、己の功績をこの世で打ち立てることを最終目的とし、人としのぎを削りながら、見える世界で、魂の領域に没頭して働くということが、両立しうるはずもありません。
主イエスに従い、御国のための働き人となると宣言した人が、どうやって御言葉を捨てて、人の言葉を研究する立場に戻れるのでしょうか。
その矛盾はますます明らかになっていくばかりでした。

そこで、私はついにこう祈らざるを得ませんでした。
「主よ、私の心の中に、研究者になることへの未練がありましたことをお許しください。
けれども、どうか分かって下さい、私の職業といえるものは、それだけだったのです。
私はこれまで膨大な時間と資金を費やしてその専門を学んできたのです。
にも関わらず、本領を発揮するチャンスさえ、一度も与えられませんでした。
そして、今、私には日々の糧を得る手段が明確に与えられていません。

今、ここで、改めて、私はあなたの御心を問います。
私はあなたのために生涯を捧げる決意を固めた者です。
あなたの御旨を第一として生きるべき者です。
もし、私が文学研究に二度と戻るべきではないと、あなたが思っていらっしゃるのであれば、
今、発送が遅れているこの本が、決して私の手元には届かないようにして下さい。
それによって、私はあなたの御心を知るでしょう。
そして、私はあなたの御心に従います。」

それ以後、どういうわけか、私の中での文学研究への熱意は薄れていくばかりでした。
いつしか、私はその資料が絶対に手元に届かなければ良いとさえ思うほどになっていたのです。

そして今日、素晴らしい兄弟たちとの交わりにおいて、私ははっきりとこう宣言しました。
私の職業は、御国のための働き人であって、御国に収穫をもたらさない仕事に従事することはもうできそうにもないし、したいとも思わないと。見えないもののために働くという絶大な価値ある人生を前にして、見えるものだけをゴールに働く人生に何の意味が見出せようかと。

そして家に帰ってみると、海外の本屋さんから、通知が届いていました。
私の注文していた資料は、品切れにより注文が取り消されたという報せでした。

まさに快哉を叫びたい心境でした。
ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブ…、彼らが自分の仕事を捨てて主に従ったように、
主は今日、私に、まさに同じことを要求しておられるのです。
このような光栄にどうして応えないでいられましょうか。

ある人々はこのような話を聞いても、決して信じないだろうことは分かっています。
私の考えはおとぎ話のように非現実的かつ極端すぎて危険であるから、
早急に考え直した方が良いと説得されるのが落ちでしょう。
しかし、私には分かるのです、今日、主はこのような働き人を召しておられるのだと。
心底から、自分の栄光を捨てて主にお仕えする働き人が求められているのだと。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことは思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)

「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。(マタイ9:37-38)

「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。<…>働き人がその食物を得るのは当然である。」(マタイ10:8-9)

「それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」(マタイ10:31)

「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29)

「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:39)

二つの出来事、主が与え主がとりたもう(1)

最近、エクレシアには巨大な祝福がありました。
その内容は、またいずれお分かちしましょう。

ところで、最近、私の身の回りに起こった二つの事件について述べたいと思います。
一つは、私の盗まれたバイクはあれからどうなったかということについて…。

私のバイクはあちこち壊されて、大々的に修理が必要な状態となっていました。
さらに、バイクを引き取った交番では、このようなことを言われました。
「最近は修理費用も高くて、鍵一個を取り替えるだけで1万円くらいしたりするからねー、
修理した方がいいのか、買い換えた方がいいのか、考えた方がいいですよ」

そこで、私は主の御前にこの問題を提示しました。
主の御前に、私は何一つ所有はしません、と宣言した以上、
今となっては、バイクも、もはや、私の所有物ではあり得ません。

このバイクを関東まで運ぶのには、かなりの高い運賃がかかったことだけが
惜しまれるとはいえ、もしも主が今これを私からお取りになりたいならば、
私はそれに従わなければなりません。

しかし、その時、主が私に何を願っておられるのか、分かりませんでした。
これを所有し続けてよいのか、それとも、放棄すべきなのか。
そこで、財政状況に鑑み、修理費がある一定を越えるなら、
バイクはもはや私には必要ないと判断し、修理をあきらめて廃車とする、と決意したのです。

私は心の中で、逃げたい思いを隠しつつ、その祈りを祈りました。
「主よ、修理費がかれこれの金額を越えるなら、私は、
このバイクを私がこれ以上所有することをあなたが願っておられないと判断して、
この車を放棄します」

しかし、祈りながら、心の中で、思いました、
「修理費がそんな安い金額におさまることはないだろうから、
きっと私はこのバイクを手放さなければならなくなるのに違いない」
そして、長年連れ添った愛車との名残を惜しんでいました。

さて、バイク修理を見積もりをしてもらう店を決める際、
面白いことが一つありました。

夕闇が迫る中、破壊されたバイクを押して交番を出た時、
私にはどこへ向かうべきか案がありませんでした。
「主よ、私はこの町を知りません。どこにこの車を預けるべきか教えて下さい」と祈りました。

交番のすぐ目の前にバイク屋さんが一つあることは、来る時から分かっていました。
私のバイクはガソリンが抜き取られ、エンジンをかけることができません。
道幅も狭く、ひっきりなしに車が通る道路を、ずっと押して歩くのは危険です。
できるだけ近いバイク屋さんに預けた方が良いのは明らかでした。

しかし、「オートショップ」と書いた古びた看板のかかった、交番から最も近い
その店の前まで来た時、店のあまりの怪しさに、私はひるみました。
どう考えても、売り物とは思えないみすぼらしいバイクが、店の前にずらりと並べてあります。
入り口のまん前まで並べてあるので、店の扉(もちろん自動ではない)に近づくこともできません。

店の看板は、どこかしら薄汚れてぱっとせず、
ガラス越しに見える店内は、昭和時代のような蛍光灯で照らされているきり、
薄暗く、煤にまみれたようにそこら中真っ黒で、
うず高くつまれた工具のせいで、足の踏み場もないのが外から見て取れました。

一人のお兄さんの姿がガラスの向こうにありますが、彼はテレビに熱中しているのか、
外の様子に全く注意を払っていません。
オートショップ、と書いてあるこの店の、どこに売り物のバイクがあるのでしょう?
修理をする場所はあるのでしょうか?
そもそも、これは本当に店なのでしょうか?

私はその店を通り過ごしたい思いに駆られました。
そこで、バイクを押してさらに歩き続けました。

ところが、そこから15歩も行かないうちの出来事です。
荷物が邪魔なので、とりあえず、荷物をバイクの座席の下に入れようとした、その時です。
いつものように私は座席のシートをバタンと閉めてしまい、そのはずみで、鍵がかかってしまいました。

しまった!!
バイクの鍵も家の鍵も、全て荷物の中に入れたまま、
私は自分の荷物をバイクの中に閉じ込めてしまいました。

バイクの鍵は、壊れていますので、マイナスドライバーか何かがあれば
きっと簡単に開けられるのでしょうが、
工具の代わりになるものが何もありません。
その時、運よく、そばにある家から一人のおばさんが出てきました。
玄関の扉に鍵をかけようとしていたおばさんに、とっさに私は尋ねました、
「すみませんが、その鍵をかしてもらえませんか?」

他人の家の玄関の鍵を借りるという、思えば、あまりにも突飛なこの申し出を、
おばさんが不審に思わなかったことが幸いです。
事情を説明して鍵を借りましたが、
「えー?本当にこの鍵で開けられるの?」
と、おばさんはいぶかっていました。

果たせるかな、おばさんの家の鍵では、私のバイクの鍵は開けられませんでした。

そうなると、唯一の策はあの薄暗く埃まみれの「オートショップ」へ引き返すことだけ。
とにかく、何でもいいから、あのお兄さんに鍵だけでも開けてもらおう。
腹を決めて、そこへ向かいました。
そして出て来たお兄さんが意外に良心的な人に思われたので、
そこで修理の見積もりを出してもらおうと覚悟を決めました。

その際、私が長年放置していた前後のタイヤの取替えや、
ベルトやブレーキパッドの交換なども、
一緒に合わせてやってもらうとどうなるかという話になりました。
私は、心の中で、その修理金額は、きっと恐ろしく高くなるに違いないと考えて、
早くも失意落胆していました。

家に帰って、私はこのバイクを修理すべきか廃車にすべきかについて、主に直接、尋ねました。
そしてすでに述べたように、心の中でかなり低い修理費の限界を定めました。
その金額を越えるなら、5年間乗り続けた愛車とさよならすると覚悟を決めたのです。

これはきっと愛車とさよならせよという主の御心なのだろうと私は思って、
バイクが盗まれた時と同じように、再び、バイクをあきらめました。
しかし、この一連の出来事がどうやら主の采配だったのです。

後日、その「オートショップ」から電話がかかってきました。
そして告げられた金額は、私が祈りの中で、修理費の限界として想定していた金額より、
なんと一万円も低い金額でした。

どう考えても、通常のバイク屋さんでは、そのような金額で修理してくれるとは思えません。
その店が、良心的な提案をしてくれたことは明らかでした。
店を外見から判断してはならない、と、私は改めて知らされたことでした。

私は早速、兄弟にこの話を告げて、共に喜びました。
「きっと主がそのアクシデントを起こしてあなたをそのバイク屋さんへ導き、
その車の所有を許してくださったんだね」

盗まれたヘルメットとリアボックスも、ネットを通じて破格の値段で購入することができました。

これは主が私に取り去られた物品を再び与えて下さり、それを使うことを許して下さった事件でした。
せっかく与えられたのですから、今後は、必要最低限のメンテナンス費用をけちったり、
防犯対策を怠ることはすまいと決意したことでした。

天幕と祭壇

「神はアブラハムに現れました。それでアブラハムは祭壇を築きました。
この祭壇は罪のためのささげ物のためではなく、全焼のささげ物のためでした。罪のためのささげ物は贖いのためですが、全焼のささげ物は神に自分自身をささげ物とします。

この祭壇は、わたしたちの身代わりになられた主イエスの死を指していません。それは神に自分自身をささげ物とすることを指しています。それはローマ人への手紙第十二章一節で語られた祭壇でした」
          ウォッチマン・ニー、『祭壇と天幕の生活』、JGW日本福音書房、p.6

 「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」ローマ12:1

(JGWの翻訳では回復訳が使われているようでしたので、口語訳聖書から改めて聖句を引用し直しました。)


* * *

 今日、どれほど多くの人が、自分のからだを神に喜ばれる生きた聖なる供え物として捧げる、ということの意味を本当に知っているでしょうか。聖書は、それが、私たちがなすべき霊的な礼拝であると告げており、言い換えるならば、それ以外の礼拝は、霊的な礼拝と呼ぶには値せず、私たちが神の御前に行うべき礼拝ではない、ということを教えているのです。

 「全焼のささげ物が祭壇の上に置かれた目的は何でしょうか? それは完全に焼かれるためでした。わたしたちの多くは、自分を神にささげたのは神のためにあれこれ行うためであると思っていますが、神がわたしたちに求めておられるのは焼かれることです。神は神のために畑を耕す雄牛を必要とされません。神は祭壇の上で焼かれる雄牛を欲しておられるのです。神はわたしたちの働きではなく、わたしたち自身を求めておられるのです

神はわたしたちが自分自身を神にささげて、神のために焼かれることを望まれます。祭壇は神のために何事かを行うことを表徴するのでなく、神のために生きることを表徴します。祭壇は多忙な活動を持つことでなく、神のために生活することを意味します。どのような活動や働きも祭壇に置き換わることはできません。祭壇は完全に神のための生活です。

新約のささげ物は、完全に焼かれた旧約のささげ物のようでなく、ローマ人への手紙第十二章で言われているように生きた犠牲として体をささげることです。わたしたちは日々祭壇の上で焼かれますが、日々生きています。わたしたちは生きていますが、焼き尽くされます。これが新約のささげ物です。」(p.7 太字は筆者)

 今日、自分は神のために奉仕している、と思っている人々のほとんどが、祭壇で神のために焼かれる、ということの意味を少しも知りません。残念ながら、実に多くのクリスチャンが、あれやこれやの活動にいそしむことこそが、祭司として神に仕えることであると誤解し、その活動内容が多ければ多いほど、それが徹底的な献身であると思い込んでいます。実は、そんな活動は、全て祭壇と天幕の外で行われるむなしい人間的な活動に過ぎず、そんな活動によっては、彼らは自分自身の魂のほんのわずか一部さえも、神に捧げることはできないし、それによって聖別されるわけでもない、ということを知らないのです。

 神に仕えるとは、私たちがひっきりなしに、自分が正しいと思い込んだ宗教活動にいそしむことではありません。神に仕えるとは、まず、私たちが全身全霊をいけにえとして、まるごと神の御前に置くこと、自分を神の御前にまるごと、祭壇の上のいけにえとして投げ出すことを意味します。私たち自らが、自分が神の御前に焼き尽くされることを望んで、自分自身を祭壇に横たえることを意味します。それは静止であって、活動ではありません! 私たちは自分の意志、自分の計画、自分の願い、自分自身そのものを祭壇に横たえ、天から下る聖なる火によってそれらが焼き尽くされるのを待ち、自分が死ぬのを待つのです。
 まことの礼拝はその死の後にのみ、可能になります。

 神によって焼かれるというこの経験、聖なる光に照らされて起きる自己の死という経験を待たずして、私たちは神に喜ばれる礼拝を捧げることはできません、また、自分自身を真に聖別された生きた供え物として神に捧げることもできません。つまり、神によって自分自身が焼かれなければ、私たちは祭司として神に仕えることができないのです。

 さて、焼かれるとはどういうことでしょうか。本当に死んでしまうまでに焼かれなければならないのでしょうか。けれども、もし私たちが死んでしまえば、もはや神に礼拝を捧げることもできません。
 ですから、神によって焼かれるということは、死には違いありませんけれども、その死には、場合によって、多少の違いが伴うでしょう。再び、W.ニーの引用です。

「祭壇でアブラハムは彼のすべてを神にささげました。それ以後、アブラハムは衣服や持ち物、すべての物をはぎ取られたでしょうか? いいえ! アブラハムは依然として牛や羊、その他の多くの物を所有していました。しかし、アブラハムは天幕に住む者となりました。祭壇の上で焼き尽くされなかった物だけが天幕の中に置かれました。

ここに一つの原則を見ます。わたしたちが持っているすべては祭壇の上に置かれるべきです。しかし、それでも残されるものがあります。これらの物はわたしたちが使うためです。しかしながら、それらはわたしたちのものではなく、天幕の中に残されているのです。
わたしたちは覚えていなければなりませんが、祭壇を経過していないものは天幕の中に置くことができません。しかし、祭壇を経過した物はすべて焼き尽くされるわけでもありません。多くは火によって焼かれ、何もなくなります。わたしたちが多くの物を神にささげるとき、神はそれらを受け取って何も残されません。しかし、神は祭壇にささげた物のうちいくらかをわたしたち自身のために残されます。祭壇を経過した物で天幕の中に残されている物だけ、わたしたちは使うことができます。」(p.9)

 私には個人的な体験から、このことがよく分かるように思います。以前、私は多くの所有物を持っており、この世の人々と同じ生活をしていました。物だけではなく、行きたい場所へ行き、なりたいものになる望みも、私の所有でした。当時、私は自分が将来、研究者になるものと思っていましたし、行楽的な行事があれば、大勢の人たちと一緒に、退屈をまぎらすためにそこへ駆けつけていました。そして、そんな生活が永遠に続くものと思い込んでいました。覚えていますが、ある年のクリスマスには、神戸のルミナリエに向かう長蛇の列の中に、私は友人と妹と一緒に並んでいました。ありふれた無邪気な楽しい生活でした。その友人が将来、自分の伴侶になるものと私は思っていたのです。

 しかし、ある時、神は私の生活をまるごと焼き尽くされました。何よりも大事にしていたペットの痛ましい死がありました。次に、友人は取り上げられ、家族の中にも剣が投げ込まれました。信頼していた人に裏切られ、親子・姉妹関係は極度に悪化し、将来の夢も微塵に壊されました。
 魂による愛は全て焼き尽くされて、失われていきました。私が憧れていたものも、忌まわしい偶像であったことが暴かれました。私が宗教心だと思っていたものにさえ、卑しい自己顕示欲が含まれていたことが判明しました。通っていた教会は、私をさんざん愚弄した挙句、私を追い出しました。助けを求めた教会もまた私を拒絶し、私の教会籍は悪徳牧師によって地上から消滅させられました。私が敬虔な信仰心だと思っていたものが、どれほど深い虚偽にまみれていたかを、その事件があってようやく、私は知ったのです。

 災いに災いが重なり、ついに、お気に入りの家からも、退去せざるを得なくなりました。高い値段を出して買って、大事に使ってきた家具が、リサイクル業者によって解体されて回収されていきました。私は何事にも抗う力がなく、ただ運命に翻弄されるしかありませんでした。

 そうなってもまだしばらくの間、私はただ自分の願いが砕け散ったことを悲しむばかりで、神が私の生活を聖別するために、私の生活の中に剣をもたらし、私の魂が執着していたものすべてを私から切り分け、不要なものを完全に焼き尽くされようとしているとは知りませんでした。私はさらなる死へと向かっていました。私はまだ人並みの生活に復帰することを願っていましたが、そういう願いそのものが、徹底的に焼かれなければなりませんでした。そして、その死が頂点に達し、自己が殺され、奪い去られるものがもうなくなったという地点にまで達した時、私は、御霊によって、はっきりと悟ったのです。それらのものはすべて、私の自己満足によってかき集めた無用な装飾物でしかなく、私が祭司として神に仕えるに当たり、忌まわしい障害物にしかなりえなかったことを。私が神の御前にどれほど多くのものを所有し、神以外のどれほど多くのものに心を向けて、それらを魂の愛で愛し、それらがどれほど、まことの礼拝の妨げとなっていたかを。ペットや友人や家族への愛でさえ、神を愛することの妨げとなっていたことを。ああ、家族への愛ですら、神への愛の前には、捨てねばならない障害物となる、聖書にははっきりと書かれているその言葉の意味を、今日、どれほど多くのクリスチャンが真に知っているでしょうか!

 今は分かるのです。次の御言葉の意味が。

「わたしをあなたの心に置いて印のようにし、
 あなたの腕に置いて印のようにしてください。
 愛は死のように強く、
 ねたみは墓のように残酷だからです。
 そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
 愛は大水も消すことができない。
 洪水もおぼれさせることができない。
 もし人がその家の財産をことごとく与えて、
 愛に換えようとするならば、
 いたくいやしめられるでしょう。」(雅歌8:6-7)

 私たちの心の中には、神への愛と並び立つもの、神への排他的な愛の妨げとなるものは、何一つあってはなりません。カナンの地に至るまでの荒野で、モーセに導かれながら、どれほど多くの民が、神への愛を裏切ったために、剣や、疫病や、災いによって命を落としたでしょうか! どれほどの悲劇が彼らを見舞ったでしょうか。神の愛はねたむ愛です!

 イエスがこう言われたことを、私たちは思い出すべきです、
「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。」(マタイ10:34-35)

 まことに神の愛は排他的な愛です。それは魂の愛と、霊の愛とを切り分け、人が常に賛美しようとする魂の愛(家族愛、夫婦愛、親子愛、友愛、自己犠牲、等)を、神への愛の障害物として退けるのです! まことの光が来る時、私たちは、自分が魂の愛で愛していたものが、神の御前に呪わしい偶像であることを知るのです! そうして、魂の愛と、霊の愛とが対立するのです。
 神の愛は、あらゆる偶像に対して、洪水や、焼き尽くす炎となって残酷に燃え上がります。ノアの時代の堕落した人々に対して、神の愛は洪水となって押し寄せました。神よりも世を愛する者に対して、神の愛はどれほど残酷な結果をもたらすでしょうか! 神の御前に、不純物は全て、朽ちない炎によって、永遠に焼かれなければなりません。ですから、私たちは、二度と神の愛から離れてさまようことのないよう、御霊によって、自分の心の中に、御心を印のように押される必要があります、私たちの心が、神の掌の中に彫り刻まれて、両者は二度と別れることのないよう、堅く結びつけられなければならないのです。

 まことに、神と私たちとの愛の中には、他のものは何一つ入り込む余地がありません。神の私たちへの愛は、すべてを焼き尽くすほどに残酷で、恐ろしいまでに排他的な愛なのです。神以上に何かを愛したために、それらのものを奪い去られる苦悩を、私たちのうちどれくらいが、経験したことがあるでしょうか。神が私たちの愛の真実性を試すために、私たちからすべてを奪い去られる試練を、どれくらいの人々が真に経験したでしょうか。
 神は私たち愛する者をヨブのような究極的な試練の中に投げ入れます、そして、ご覧になるのです、私たちが本当に、心の底から、ただ神だけを愛し、求めているのか、それとも、あれやこれやの財産、家族、平和、豊かさがあったからこそ、一時的に、神を賛美していただけなのかを。

 神の歓心をお金で買うことはできませんし、活動によって買うこともできません。私たちは「神のために」自分が盛んに奉仕している時、それによって神を喜ばせていると思うかもしれません。しかし、私たちは知らないのです、自分が、財産や活動によって、神の歓心を買おうとしているだけの卑しい商売人であることを! 神は私たちのあれやこれやの部分的な捧げ物や、活動によって、喜ばれるような方ではありません。まるで道端のお地蔵さんに供え物をするようにして、私たちが自分の活動と供え物をちょっとだけ捧げて、それが神を喜ばせるだろうと考えるべきではありません。

 神はあなたのすべてが欲しいのです! あなたのすべてを要求されるのです! あなたの心のすべてがただ神にだけ注がれることを神は願われるのです。他のものにあなたが一瞬でも目を向けることを、神は望まれないのです。あなたのすべてをまるごといけにえとして神に捧げることだけが、神を満足させる供え物となり得るのです。そこにあなたの家族はいるべきではありません。あなたの財産もあってはなりません。あなたの将来の夢もありません。ただあなた一人だけが、裸一貫で神の御前に立ち、あなたの最大の捧げ物であるあなた自身も、御前に完全に焼き尽くされるのです。あなたの捧げ物は、何一つ、この世にあなたの手柄として残りません。むしろ、そうして自分を捧げる毎に、あなたという人は、まるでこの世から消えていくかのようです。あなたはますます世から遠ざかり、世のことを気にも留めなくなり、あなたの捧げ物は、この世ではその痕跡さえ残らないほどに、徹底的に焼き尽くされ、ただ見えない永遠へと移されて行くのです。

 しかしながら、捧げられてなお、残されるものがあります。今、私の天幕の中に、神は多くのものを残しておられます。なくなったものもありますが、再び与えられたものもあります。まず、絶体絶命にあった私自身が生き残りました。次に、家族関係が良好になって、再び上から与えられました。私の家具もいくらか残りました。一年の間、全く誰にも使われることなく、ガレージに雨ざらしになり、くもの巣が張っていたガスコンロが、再び私の家で使われています。電源を入れられることもなかった冷蔵庫も、再稼動しました。愛していた小鳥の一羽は残っています。その他、いくらか、私の持ち物は残され、いくらかのお金も与えられました。偽教会の虚偽の交わりの代わりに、新たな兄弟姉妹との交わりが与えられました。

 けれども、私は知っています、それらが決して私の所有物にはなり得ないことを。それらは祭壇を経過して、天幕に残されたもの、あるいは後に主によって与えられたものです。それらの物は私が自由にできるものではなく、私の財産でもありません。ただ神にお仕えする生活の中で、必要最低限、使用するために、私に与えられたものであり、私は二度とそれらのものに心惹かれ、しがみついてはならないのです。
 ですから、家族関係が良好になっても、やはり、私は神の御前に家族を捨てて、旅立つのです。ペットにも未練を持ちません。将来の夢も捨てました。著書を発行して、名を馳せようとか、立派な研究者になりたいとかいった夢はもうありません。私の職業は祭司(神に仕えること)であって、その他の職業を持ちたいとも思わないのです。私は何ものをも所有しておらず、それらに執着することは二度とありません。そんな私は、世間には、冷たい人、変人と思われるかも知れませんが、私は全焼のいけにえとなって御前に捧げられたのです。私の心には、もはや神以外のものは、何もあってはならないのです。

「祭壇がある時、もはやわたしたちの物は何もありません。祭壇を経過して残った物はすべて天幕の中に置かれました。もはやわたしたちの心を支配する物は何もありません。
わたしたちの良心には神の御前で平安があります。そしてわたしたちは大胆に神に言うことができます、『わたしはあなたに対して保留しているものは何一つありません』。

こうして天幕は祭壇に導き戻します。もしわたしたちの持ち物が根づいて、それらを落とすことができず、もはや動かせないなら、わたしたちはこれらの物によって縛られ、決して第二の祭壇は存在することがないでしょう。」(p.11-12)

 どうか主の御前に、私たちが何かを所有しようとすることがありませんように! 私たちの持ち物が、地に根を張り、それによって私たちが再び縛られ、この地に根づいてしまうようなことがありませんように!

 「天幕とは何でしょうか? 天幕は移動できるものです。それはどこにも根を張らない生活です。」(p.7)

 ある兄弟が遊牧民になりたいと言いました。しかし、私たちクリスチャンはまさに遊牧民も同然です。私たちは、この世では寄留者なのです。地での生活が、私たちが根を張る場所となることは決してないし、また、あってはならないのです。

荒野を生きる

命が測られるのは、得ることによるのではなく、失うことによる;
どれだけぶどう酒を飲んだかによるのではなく、どれだけぶどう酒を注ぎ出したかによる;
なぜなら愛の最大の力は、愛の中で犠牲にすることであり、
最も深く苦しみを受けた人が、最も多く与えるものを持っているからである。
           
自らを最も苛酷に取り扱う人が、最も神のために選択することが容易であり;
自らを最も傷つける者が、人の涙を最も拭うことができ;
損失と剥奪に慣れていない人は、鳴り響く鐘や騒がしいシンバルであるにすぎない;
自らを救うことのできる人は、すべてに勝る喜びを持つことがない。
                              ウォッチマン・ニー


 (上記の文章はウィットネス・リーに関する記述を含むサイト「今の時代における神聖な啓示の先見者ウォッチマン・ニー」からの引用です。著作権の関係上、このサイトを記述しましたが、私とこのサイトを記述した団体との間につながりはありません。)

 上記のニー兄弟の言葉は、クリスチャンに対する自虐の勧めではありません。今日、クリスチャンでなくとも、自分のために自分を傷つけ、自分のために自分を過酷に取り扱い、あるいは、誰か親しい人や、指導者や、特定の組織や団体のために自分を進んで苦しめ、進んで損失と剥奪に耐えようとする人たちは沢山います。

 ある人はトラウマのために、自傷行為にふけり、ある人は「正義」のためにカルト団体の圧制に耐えます。しかし、それらの苦しみと損失は、すべて、滅びゆく肉のために、朽ちゆく魂のために支払われた代償であり、朽ちゆく地上の富のために支払われた損失であるために、永遠の朽ちない宝に還元されることは決してありません。
 上記の文章は、そのようにして、肉なる者が、肉なる者のために進んで苦しみに耐えるという、人間の自虐的、または自己犠牲的な生き方を奨励するために書かれたものではありません。

 私たちが自分の命を失い、損失と剥奪に耐える価値があるとすれば、それはただ一つの場合だけです、つまり、それが自分や誰かという生まれながらの人間を救うために支払われる代価ではなく、ただ見えない世界に永遠に存在する神への愛のために支払われる代償である場合です。

 私たちは朽ちる世界に富を積み上げるのでなく、朽ちない世界に富を蓄えるために召し出されています。地上ではなく、天に宝を積むように召し出された者がクリスチャンです。しかし、私たちは何と多くの捨てられない宝を地上に持っていることでしょう。何と多くの地上的な富が私たちの視界をさえぎり、この地上とは別に永遠の世界があることを見えなくさせていることでしょう。

 人間の魂が朽ちゆくものであり、腐敗した旧創造、肉なるものに属していることを一度も知らされたことのないクリスチャンたちは、それとは別に、キリストの復活の命に属する霊的な世界があることを知らないがために、魂から発する愛情を賛美します。人間の魂の世界においては、肉親への愛情は、恐らく、最高の価値を持つ愛情としてたたえられていることでしょう。あらゆる詩が、文学が、人間の人間への愛や犠牲を誉めたたえます。しかし、聖書は、それよりもはるかに高い愛、いや、魂と肉の愛には対立する、それとは次元の異なる愛があることを教えています。それが、神の愛です。

 神の愛は、肉なるもののあらゆるつながりを越えて、上位(至高)に存在するものであり、魂から来る愛を完全に焼き尽くしてなお永遠に残る最高の価値です。神の愛の前には、人間の魂と肉から発する愛情、すなわち、この世的な愛情は、不純物にしかならず、忌まわしいものとして拒絶され、価値あるものとして残ることは決してありません。

 このことを言うと、きっと多くの反対があるでしょう。禁欲主義だと誤解する人々も現れるでしょう。私が世的な愛と楽しみを酷評する度に、どれほど多くの反対がやって来るでしょうか。確かに、神は大いなる憐れみを施して、クリスチャンのために、日々の糧を備えてくださいます。私たちは主にあって、この世に生きることを楽しんでいますし、恵みを享受しています。人間である私たちはこの世で命を存続させることなくして、地上で生きていけません。毎日与えられる食べ物は私たちにとって欠かせない満足であり、家族の愛は慰めであり、この世界の美は、あらゆる場面で私たちを楽しませます。

 しかし、クリスチャンは知っているのです、それらの地上的な愛と満足と楽しみが、根本的には、神の愛と対立するものであり、決して永久に続くことのない、一時的なものでしかなく、滅びゆく性質を帯びたものであることを。

 御霊によって生まれた者は、そのような満足をどこかで厭わしく思っています、決して、呪われた死の身体が毎日のように貪欲に要求する活動によって、本当に満足させられることはありません。クリスチャンは、朽ちることのない、揺るぎない価値によって生きることを真剣に追い求めています、目には見えないが、目に見えるもの以上のリアリティを持ったお方の中で生かされることを求めています、私はありてある、と言われる方の命につらなって生きることを求めています、そして、それはただ、人となって地上に来られたキリストの復活の命を受けることによって、私たちが永遠に導きいれられることを通してのみ、成り立つものであることを知っています。

 金持ちが天国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいと、イエスは言われました。キリストの復活の命に至る小さな狭い門を私たちがくぐりぬけようとする時、私たちの肥大した自己がつっかえ棒になります。私たちが両手に抱えきれないほどぶらさげている財産(世の楽しみへの執着)が邪魔になります。肉親への愛が障害になります。

 ここで、私たちが人知を振り絞って企画した各種の宗教活動さえも邪魔になると言えば、多くの人たちが首をかしげるでしょう。しかし、言わねばなりません、私たちが心から神を愛し、賛美していると自分で思っている時でさえ、私たちのほとんどは、ただ自分の魂の善意を働かせ、自分の肉と魂を喜ばせることをひたすら追い求めているだけであることをもっと知るべきであると。

 多くの人々は、自分が信仰心だと思っているものが、実は魂のエネルギーから出た活動であり、人間の所有欲、自己顕示欲など、各種の欲望と密接に結びついて生まれたものであることを知りません。
 神のため、という名目で、今日、あらゆる教会で終わりなく行われる興行的なイベントは、一体、誰のために催されているのでしょう。美しい賛美歌は、誰のために歌われているのでしょう。私たちは根本的に勘違いしているのです、霊的な礼拝の本質が、人間の魂の活動の中にはない、ということを知らないのです、そして、自分たちが、肉体に鞭打って、魂の力を極限まで働かせて、宗教的な名前を冠したイベント活動にひっきりなしにいそしみ、絶え間なく刺激を受けて、何らかの活動を成功に導き、自分と人々を喜ばせることが、同時に、神を喜ばせることにつながり、霊的な礼拝になりうると勘違いしているのです。

 私たちは「主のために」、知恵を振り絞って、善良な計画表を練ります、今まで以上の素晴らしいメッセージや賛美歌をもひねり出します、今日の成功で満足せず、明日は神のためにどんなに内容の充実した催しを企画しようかと、終わりのないスケジュールを思い巡らし、兄弟姉妹たちを集会に招いてどう助けるべきか考え、彼らに教えています。集会が大きくても小さくても、私たちは自分をとても信仰的だと思って満足し、自分の善良な計画表にうっとりしています。とんでもありません! そんなものはもう沢山です! 

 それは片時も鳴り止まない、迷惑でうるさい鐘、騒がしいシンバルと全く同じです。私たちは自分の出番を決して失いたくないがために、指揮者も、楽譜も、音楽全体を無視してまでも、自分のシンバルをひっきりなしに叩き続けている迷惑な奏者と同じなのです。
 
 今日、神が私たちに望んでおられるのは、そんなむなしい活動ではありません。むしろ、私たちが自分のシンバルをさっさと捨て去ることを、恐らく、神は望んでおられるのではないでしょうか。私たちが自分の血と汗と涙(または魂から来る衝動と喜びと満足)によって練り上げたその愚かしい自己満足的な計画表を捨て去って、自分自身の力で神を喜ばせようとすることに絶望して、肉と魂にとって、まさに無一文の状態に戻り、御霊だけがすべてを始められるように、ただ制止して待つことを、神は願っておられるのではないでしょうか。私たちが自分の出番を作りたいと願う心さえ放棄し、肉と魂によって捧げるカインの礼拝を捨て去り、霊によって捧げられるまことの礼拝とは何かを、真に見ることこそ、神は私たちに願っておられるのではないでしょうか。

 人間がひっきりなしに人知によって考え出す礼拝は、人間の善意と活動意欲を満たすことはあったとしても、神と喜ばせる礼拝にはなり得ません。霊とまこととによって捧げられる礼拝とは一体何なのかを、私たちはもっと知る必要があるでしょう。

 朽ちない霊の世界には、霊なるものしか持っていくことはできません。それなのに、私たちはそこに至るまでに、当然のごとく焼き尽くされていなければならないあれやこれやの財産を、どうしても手放したくなくて、手を鋤にかけてから、後ろを振り向いているのです。そんな私たちにとっては、天国に至ることは、まさに針の穴をくぐるように困難であることでしょう!

 神は今日、御子イエスがそうされたのと同じように、見えない神の御心のために、見える世界を犠牲として喜んで捧げ、手放すことを知っているクリスチャンを求めておられるのではないかと私は思います。自分を喜ばせ、楽しませる手段に事欠かない、物質界のオアシスのような時代にあって、神が私たちに求めておられるのは、荒野を生きること、オアシスを荒野のように生きること、すなわち、肉と魂に果てしなく絶望し、その腐敗した活動を放棄して、自分を喜ばせるために生きることをやめて、自己に死んで、ただ朽ちないまことの命だけによって生かされることを学んだクリスチャン、キリストの十字架を通して、肉と魂に死に、日々それを拒否して、御霊によってのみ生かされることを学んだクリスチャンこそが求められているのではないでしょうか。

 人生が荒野のようにつらく厳しい時には、私たちは否応なしに神の懲らしめの学課を学びますが、人生がオアシスのように豊かな時に、その学課を自ら学べる人はほとんどいないのです。願わくば、神が私たちに知恵を与えて下さり、私たちが、物質世界の豊かさが、霊的世界の豊かさからどれほどかけ離れているかをはっきりと知ることができ、魂の活動に絶望して、ただ御霊だけによって、真のリアリティであるまことの命を生きるために、必要な学課を学び取ることができますように。