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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

二つの出来事 主が与え主がとりたもう(2)

私は関東に来てから、自分の職業を今後、どう定めるべきか、
ずっと祈り求めて来ましたが、その中で、
常に心に迫って来るように感じられたことが二つあります。

その一つは、ハドソン・テイラーが中国伝道に出発する前にしていたと同様に、
私は将来を拘束されるような契約に縛られて働いてはならないということ。
二つ目は、経済において、今後、ただ主にのみより頼む覚悟を決めなければならないということでした。

歴代のクリスチャンたちがそうしてきたように、
今、ただ信仰のみを頼りに生きる決意を固める誠実な働き人であるクリスチャンたちが、
主によって求められている、という感じがあるのです。
しかし、多くの人は、私がこのように言えば、仰天するだけでしょう。
テイラーが言われたのと同様に、そんな大冒険は、今の世には通用しないから、
やめた方がいいよと言われるでしょう。
にも関わらず、その考えは、日に日に強くなっていくのです。

それでも、つい最近まで、私の心には邪心とも言えるような一つの願いがありました。
それは、かつて私が自分の職業であると考えていた研究者に
何とかして戻ることはできないだろうかという願いでした。

研究者になるということは、24時間、研究のために心を捧げることを意味します。
霊によってわきまえるべき御言葉を糧として、主のためにのみ心を捧げて生きるということと、
人が魂によって描いた文学の研究者になることは、両立しません。
それでも、未だ日々の糧を得る手段が確保されていないという不安も手伝って、
せっかく新しい生活の展望が開けたのだから、それと同時に、
何か奇跡的なめぐり合わせによってでも、かつての道に復帰できないだろうかという願いが、
私の心の中に残っていたのです。

最近、私はある兄弟にこのように愚痴を言いました。
「私はこれまで一度たりとも、定職というものに就いたことがありません。
世間で認められるまともな仕事に就いて、満足できるお給料をもらったことがないのです。
それは、不幸なめぐり合わせによって、私が不況に直面してしまったせいです。
私が経験した仕事は、ことごとく、まともな俸給のもらえない仕事ばかりで、
さらに、私が持っている唯一の誇れる専門知識が生かされる仕事には、
まだ一度も就くチャンスが与えられていません。

主は、一度でいいから、私に専門知識を生かして生きる道を与えて下さらないでしょうか。
一度でいいから、私は故郷の人々に認めてもらえるようなまっとうな職業について、
安定した生活を送ってみたいのです。
一度でいいから、家族に安心してもらいたいし、自分も幸せを享受したいのです」

そんな話と前後して、つい最近、海外の本屋さんから、ある報せが届きました。
それは私がずっと前に注文していた資料が入荷したという報せです。
それは私が博士論文を書いていた頃に探していた資料の一つで、
当時には、事情があって、見ることのできなかった資料でした。

このテーマで論文を執筆するために必要な資料の全体のうち、
すでに90%以上を私は集めています。
その多くは苦労を伴って手に入れたものです。
ですから、できるならば、今後、すでに書いた論文をより発展させて、
もっと大きな論文を仕上げたい、という願いが私の心の中に残っていました。
まだその研究をやり終えていない、という心残りがあったのです。

そんなわけで、書籍の入荷の報せが届くや否や、私は早速、支払を済ませました。
ところが、待てど暮らせど、本が発送されたという通知がありません。

一体、どうしたのだろうか、といぶかっているうちに、どうやらこれは、
主の御心を問うてみるべき出来事だということが、次第に分かって来ました。

一冊の本くらい、御心をあえて問わずとも、簡単に購入できるだろう…
と高をくくっていましたが、実はそんな簡単な問題ではなかったのです。
その一冊の本を購入するかどうかに、実に、主の御心に対する
私の誠実さ全体がかかっていたのです。

資料は待てど暮らせどやって来ません。
日が経つに連れて、私は研究者に戻るべきではない、という感じが募りました。
見えない神の御国のために働くという仕事と、己の功績をこの世で打ち立てることを最終目的とし、人としのぎを削りながら、見える世界で、魂の領域に没頭して働くということが、両立しうるはずもありません。
主イエスに従い、御国のための働き人となると宣言した人が、どうやって御言葉を捨てて、人の言葉を研究する立場に戻れるのでしょうか。
その矛盾はますます明らかになっていくばかりでした。

そこで、私はついにこう祈らざるを得ませんでした。
「主よ、私の心の中に、研究者になることへの未練がありましたことをお許しください。
けれども、どうか分かって下さい、私の職業といえるものは、それだけだったのです。
私はこれまで膨大な時間と資金を費やしてその専門を学んできたのです。
にも関わらず、本領を発揮するチャンスさえ、一度も与えられませんでした。
そして、今、私には日々の糧を得る手段が明確に与えられていません。

今、ここで、改めて、私はあなたの御心を問います。
私はあなたのために生涯を捧げる決意を固めた者です。
あなたの御旨を第一として生きるべき者です。
もし、私が文学研究に二度と戻るべきではないと、あなたが思っていらっしゃるのであれば、
今、発送が遅れているこの本が、決して私の手元には届かないようにして下さい。
それによって、私はあなたの御心を知るでしょう。
そして、私はあなたの御心に従います。」

それ以後、どういうわけか、私の中での文学研究への熱意は薄れていくばかりでした。
いつしか、私はその資料が絶対に手元に届かなければ良いとさえ思うほどになっていたのです。

そして今日、素晴らしい兄弟たちとの交わりにおいて、私ははっきりとこう宣言しました。
私の職業は、御国のための働き人であって、御国に収穫をもたらさない仕事に従事することはもうできそうにもないし、したいとも思わないと。見えないもののために働くという絶大な価値ある人生を前にして、見えるものだけをゴールに働く人生に何の意味が見出せようかと。

そして家に帰ってみると、海外の本屋さんから、通知が届いていました。
私の注文していた資料は、品切れにより注文が取り消されたという報せでした。

まさに快哉を叫びたい心境でした。
ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブ…、彼らが自分の仕事を捨てて主に従ったように、
主は今日、私に、まさに同じことを要求しておられるのです。
このような光栄にどうして応えないでいられましょうか。

ある人々はこのような話を聞いても、決して信じないだろうことは分かっています。
私の考えはおとぎ話のように非現実的かつ極端すぎて危険であるから、
早急に考え直した方が良いと説得されるのが落ちでしょう。
しかし、私には分かるのです、今日、主はこのような働き人を召しておられるのだと。
心底から、自分の栄光を捨てて主にお仕えする働き人が求められているのだと。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
だから、あすのことは思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)

「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。(マタイ9:37-38)

「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。<…>働き人がその食物を得るのは当然である。」(マタイ10:8-9)

「それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」(マタイ10:31)

「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29)

「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:39)
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二つの出来事、主が与え主がとりたもう(1)

最近、エクレシアには巨大な祝福がありました。
その内容は、またいずれお分かちしましょう。

ところで、最近、私の身の回りに起こった二つの事件について述べたいと思います。
一つは、私の盗まれたバイクはあれからどうなったかということについて…。

私のバイクはあちこち壊されて、大々的に修理が必要な状態となっていました。
さらに、バイクを引き取った交番では、このようなことを言われました。
「最近は修理費用も高くて、鍵一個を取り替えるだけで1万円くらいしたりするからねー、
修理した方がいいのか、買い換えた方がいいのか、考えた方がいいですよ」

そこで、私は主の御前にこの問題を提示しました。
主の御前に、私は何一つ所有はしません、と宣言した以上、
今となっては、バイクも、もはや、私の所有物ではあり得ません。

このバイクを関東まで運ぶのには、かなりの高い運賃がかかったことだけが
惜しまれるとはいえ、もしも主が今これを私からお取りになりたいならば、
私はそれに従わなければなりません。

しかし、その時、主が私に何を願っておられるのか、分かりませんでした。
これを所有し続けてよいのか、それとも、放棄すべきなのか。
そこで、財政状況に鑑み、修理費がある一定を越えるなら、
バイクはもはや私には必要ないと判断し、修理をあきらめて廃車とする、と決意したのです。

私は心の中で、逃げたい思いを隠しつつ、その祈りを祈りました。
「主よ、修理費がかれこれの金額を越えるなら、私は、
このバイクを私がこれ以上所有することをあなたが願っておられないと判断して、
この車を放棄します」

しかし、祈りながら、心の中で、思いました、
「修理費がそんな安い金額におさまることはないだろうから、
きっと私はこのバイクを手放さなければならなくなるのに違いない」
そして、長年連れ添った愛車との名残を惜しんでいました。

さて、バイク修理を見積もりをしてもらう店を決める際、
面白いことが一つありました。

夕闇が迫る中、破壊されたバイクを押して交番を出た時、
私にはどこへ向かうべきか案がありませんでした。
「主よ、私はこの町を知りません。どこにこの車を預けるべきか教えて下さい」と祈りました。

交番のすぐ目の前にバイク屋さんが一つあることは、来る時から分かっていました。
私のバイクはガソリンが抜き取られ、エンジンをかけることができません。
道幅も狭く、ひっきりなしに車が通る道路を、ずっと押して歩くのは危険です。
できるだけ近いバイク屋さんに預けた方が良いのは明らかでした。

しかし、「オートショップ」と書いた古びた看板のかかった、交番から最も近い
その店の前まで来た時、店のあまりの怪しさに、私はひるみました。
どう考えても、売り物とは思えないみすぼらしいバイクが、店の前にずらりと並べてあります。
入り口のまん前まで並べてあるので、店の扉(もちろん自動ではない)に近づくこともできません。

店の看板は、どこかしら薄汚れてぱっとせず、
ガラス越しに見える店内は、昭和時代のような蛍光灯で照らされているきり、
薄暗く、煤にまみれたようにそこら中真っ黒で、
うず高くつまれた工具のせいで、足の踏み場もないのが外から見て取れました。

一人のお兄さんの姿がガラスの向こうにありますが、彼はテレビに熱中しているのか、
外の様子に全く注意を払っていません。
オートショップ、と書いてあるこの店の、どこに売り物のバイクがあるのでしょう?
修理をする場所はあるのでしょうか?
そもそも、これは本当に店なのでしょうか?

私はその店を通り過ごしたい思いに駆られました。
そこで、バイクを押してさらに歩き続けました。

ところが、そこから15歩も行かないうちの出来事です。
荷物が邪魔なので、とりあえず、荷物をバイクの座席の下に入れようとした、その時です。
いつものように私は座席のシートをバタンと閉めてしまい、そのはずみで、鍵がかかってしまいました。

しまった!!
バイクの鍵も家の鍵も、全て荷物の中に入れたまま、
私は自分の荷物をバイクの中に閉じ込めてしまいました。

バイクの鍵は、壊れていますので、マイナスドライバーか何かがあれば
きっと簡単に開けられるのでしょうが、
工具の代わりになるものが何もありません。
その時、運よく、そばにある家から一人のおばさんが出てきました。
玄関の扉に鍵をかけようとしていたおばさんに、とっさに私は尋ねました、
「すみませんが、その鍵をかしてもらえませんか?」

他人の家の玄関の鍵を借りるという、思えば、あまりにも突飛なこの申し出を、
おばさんが不審に思わなかったことが幸いです。
事情を説明して鍵を借りましたが、
「えー?本当にこの鍵で開けられるの?」
と、おばさんはいぶかっていました。

果たせるかな、おばさんの家の鍵では、私のバイクの鍵は開けられませんでした。

そうなると、唯一の策はあの薄暗く埃まみれの「オートショップ」へ引き返すことだけ。
とにかく、何でもいいから、あのお兄さんに鍵だけでも開けてもらおう。
腹を決めて、そこへ向かいました。
そして出て来たお兄さんが意外に良心的な人に思われたので、
そこで修理の見積もりを出してもらおうと覚悟を決めました。

その際、私が長年放置していた前後のタイヤの取替えや、
ベルトやブレーキパッドの交換なども、
一緒に合わせてやってもらうとどうなるかという話になりました。
私は、心の中で、その修理金額は、きっと恐ろしく高くなるに違いないと考えて、
早くも失意落胆していました。

家に帰って、私はこのバイクを修理すべきか廃車にすべきかについて、主に直接、尋ねました。
そしてすでに述べたように、心の中でかなり低い修理費の限界を定めました。
その金額を越えるなら、5年間乗り続けた愛車とさよならすると覚悟を決めたのです。

これはきっと愛車とさよならせよという主の御心なのだろうと私は思って、
バイクが盗まれた時と同じように、再び、バイクをあきらめました。
しかし、この一連の出来事がどうやら主の采配だったのです。

後日、その「オートショップ」から電話がかかってきました。
そして告げられた金額は、私が祈りの中で、修理費の限界として想定していた金額より、
なんと一万円も低い金額でした。

どう考えても、通常のバイク屋さんでは、そのような金額で修理してくれるとは思えません。
その店が、良心的な提案をしてくれたことは明らかでした。
店を外見から判断してはならない、と、私は改めて知らされたことでした。

私は早速、兄弟にこの話を告げて、共に喜びました。
「きっと主がそのアクシデントを起こしてあなたをそのバイク屋さんへ導き、
その車の所有を許してくださったんだね」

盗まれたヘルメットとリアボックスも、ネットを通じて破格の値段で購入することができました。

これは主が私に取り去られた物品を再び与えて下さり、それを使うことを許して下さった事件でした。
せっかく与えられたのですから、今後は、必要最低限のメンテナンス費用をけちったり、
防犯対策を怠ることはすまいと決意したことでした。

天幕と祭壇

「神はアブラハムに現れました。それでアブラハムは祭壇を築きました。
この祭壇は罪のためのささげ物のためではなく、全焼のささげ物のためでした。罪のためのささげ物は贖いのためですが、全焼のささげ物は神に自分自身をささげ物とします。

この祭壇は、わたしたちの身代わりになられた主イエスの死を指していません。それは神に自分自身をささげ物とすることを指しています。それはローマ人への手紙第十二章一節で語られた祭壇でした」
          ウォッチマン・ニー、『祭壇と天幕の生活』、JGW日本福音書房、p.6

 「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」ローマ12:1

(JGWの翻訳では回復訳が使われているようでしたので、口語訳聖書から改めて聖句を引用し直しました。)


* * *

 今日、どれほど多くの人が、自分のからだを神に喜ばれる生きた聖なる供え物として捧げる、ということの意味を本当に知っているでしょうか。聖書は、それが、私たちがなすべき霊的な礼拝であると告げており、言い換えるならば、それ以外の礼拝は、霊的な礼拝と呼ぶには値せず、私たちが神の御前に行うべき礼拝ではない、ということを教えているのです。

 「全焼のささげ物が祭壇の上に置かれた目的は何でしょうか? それは完全に焼かれるためでした。わたしたちの多くは、自分を神にささげたのは神のためにあれこれ行うためであると思っていますが、神がわたしたちに求めておられるのは焼かれることです。神は神のために畑を耕す雄牛を必要とされません。神は祭壇の上で焼かれる雄牛を欲しておられるのです。神はわたしたちの働きではなく、わたしたち自身を求めておられるのです

神はわたしたちが自分自身を神にささげて、神のために焼かれることを望まれます。祭壇は神のために何事かを行うことを表徴するのでなく、神のために生きることを表徴します。祭壇は多忙な活動を持つことでなく、神のために生活することを意味します。どのような活動や働きも祭壇に置き換わることはできません。祭壇は完全に神のための生活です。

新約のささげ物は、完全に焼かれた旧約のささげ物のようでなく、ローマ人への手紙第十二章で言われているように生きた犠牲として体をささげることです。わたしたちは日々祭壇の上で焼かれますが、日々生きています。わたしたちは生きていますが、焼き尽くされます。これが新約のささげ物です。」(p.7 太字は筆者)

 今日、自分は神のために奉仕している、と思っている人々のほとんどが、祭壇で神のために焼かれる、ということの意味を少しも知りません。残念ながら、実に多くのクリスチャンが、あれやこれやの活動にいそしむことこそが、祭司として神に仕えることであると誤解し、その活動内容が多ければ多いほど、それが徹底的な献身であると思い込んでいます。実は、そんな活動は、全て祭壇と天幕の外で行われるむなしい人間的な活動に過ぎず、そんな活動によっては、彼らは自分自身の魂のほんのわずか一部さえも、神に捧げることはできないし、それによって聖別されるわけでもない、ということを知らないのです。

 神に仕えるとは、私たちがひっきりなしに、自分が正しいと思い込んだ宗教活動にいそしむことではありません。神に仕えるとは、まず、私たちが全身全霊をいけにえとして、まるごと神の御前に置くこと、自分を神の御前にまるごと、祭壇の上のいけにえとして投げ出すことを意味します。私たち自らが、自分が神の御前に焼き尽くされることを望んで、自分自身を祭壇に横たえることを意味します。それは静止であって、活動ではありません! 私たちは自分の意志、自分の計画、自分の願い、自分自身そのものを祭壇に横たえ、天から下る聖なる火によってそれらが焼き尽くされるのを待ち、自分が死ぬのを待つのです。
 まことの礼拝はその死の後にのみ、可能になります。

 神によって焼かれるというこの経験、聖なる光に照らされて起きる自己の死という経験を待たずして、私たちは神に喜ばれる礼拝を捧げることはできません、また、自分自身を真に聖別された生きた供え物として神に捧げることもできません。つまり、神によって自分自身が焼かれなければ、私たちは祭司として神に仕えることができないのです。

 さて、焼かれるとはどういうことでしょうか。本当に死んでしまうまでに焼かれなければならないのでしょうか。けれども、もし私たちが死んでしまえば、もはや神に礼拝を捧げることもできません。
 ですから、神によって焼かれるということは、死には違いありませんけれども、その死には、場合によって、多少の違いが伴うでしょう。再び、W.ニーの引用です。

「祭壇でアブラハムは彼のすべてを神にささげました。それ以後、アブラハムは衣服や持ち物、すべての物をはぎ取られたでしょうか? いいえ! アブラハムは依然として牛や羊、その他の多くの物を所有していました。しかし、アブラハムは天幕に住む者となりました。祭壇の上で焼き尽くされなかった物だけが天幕の中に置かれました。

ここに一つの原則を見ます。わたしたちが持っているすべては祭壇の上に置かれるべきです。しかし、それでも残されるものがあります。これらの物はわたしたちが使うためです。しかしながら、それらはわたしたちのものではなく、天幕の中に残されているのです。
わたしたちは覚えていなければなりませんが、祭壇を経過していないものは天幕の中に置くことができません。しかし、祭壇を経過した物はすべて焼き尽くされるわけでもありません。多くは火によって焼かれ、何もなくなります。わたしたちが多くの物を神にささげるとき、神はそれらを受け取って何も残されません。しかし、神は祭壇にささげた物のうちいくらかをわたしたち自身のために残されます。祭壇を経過した物で天幕の中に残されている物だけ、わたしたちは使うことができます。」(p.9)

 私には個人的な体験から、このことがよく分かるように思います。以前、私は多くの所有物を持っており、この世の人々と同じ生活をしていました。物だけではなく、行きたい場所へ行き、なりたいものになる望みも、私の所有でした。当時、私は自分が将来、研究者になるものと思っていましたし、行楽的な行事があれば、大勢の人たちと一緒に、退屈をまぎらすためにそこへ駆けつけていました。そして、そんな生活が永遠に続くものと思い込んでいました。覚えていますが、ある年のクリスマスには、神戸のルミナリエに向かう長蛇の列の中に、私は友人と妹と一緒に並んでいました。ありふれた無邪気な楽しい生活でした。その友人が将来、自分の伴侶になるものと私は思っていたのです。

 しかし、ある時、神は私の生活をまるごと焼き尽くされました。何よりも大事にしていたペットの痛ましい死がありました。次に、友人は取り上げられ、家族の中にも剣が投げ込まれました。信頼していた人に裏切られ、親子・姉妹関係は極度に悪化し、将来の夢も微塵に壊されました。
 魂による愛は全て焼き尽くされて、失われていきました。私が憧れていたものも、忌まわしい偶像であったことが暴かれました。私が宗教心だと思っていたものにさえ、卑しい自己顕示欲が含まれていたことが判明しました。通っていた教会は、私をさんざん愚弄した挙句、私を追い出しました。助けを求めた教会もまた私を拒絶し、私の教会籍は悪徳牧師によって地上から消滅させられました。私が敬虔な信仰心だと思っていたものが、どれほど深い虚偽にまみれていたかを、その事件があってようやく、私は知ったのです。

 災いに災いが重なり、ついに、お気に入りの家からも、退去せざるを得なくなりました。高い値段を出して買って、大事に使ってきた家具が、リサイクル業者によって解体されて回収されていきました。私は何事にも抗う力がなく、ただ運命に翻弄されるしかありませんでした。

 そうなってもまだしばらくの間、私はただ自分の願いが砕け散ったことを悲しむばかりで、神が私の生活を聖別するために、私の生活の中に剣をもたらし、私の魂が執着していたものすべてを私から切り分け、不要なものを完全に焼き尽くされようとしているとは知りませんでした。私はさらなる死へと向かっていました。私はまだ人並みの生活に復帰することを願っていましたが、そういう願いそのものが、徹底的に焼かれなければなりませんでした。そして、その死が頂点に達し、自己が殺され、奪い去られるものがもうなくなったという地点にまで達した時、私は、御霊によって、はっきりと悟ったのです。それらのものはすべて、私の自己満足によってかき集めた無用な装飾物でしかなく、私が祭司として神に仕えるに当たり、忌まわしい障害物にしかなりえなかったことを。私が神の御前にどれほど多くのものを所有し、神以外のどれほど多くのものに心を向けて、それらを魂の愛で愛し、それらがどれほど、まことの礼拝の妨げとなっていたかを。ペットや友人や家族への愛でさえ、神を愛することの妨げとなっていたことを。ああ、家族への愛ですら、神への愛の前には、捨てねばならない障害物となる、聖書にははっきりと書かれているその言葉の意味を、今日、どれほど多くのクリスチャンが真に知っているでしょうか!

 今は分かるのです。次の御言葉の意味が。

「わたしをあなたの心に置いて印のようにし、
 あなたの腕に置いて印のようにしてください。
 愛は死のように強く、
 ねたみは墓のように残酷だからです。
 そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
 愛は大水も消すことができない。
 洪水もおぼれさせることができない。
 もし人がその家の財産をことごとく与えて、
 愛に換えようとするならば、
 いたくいやしめられるでしょう。」(雅歌8:6-7)

 私たちの心の中には、神への愛と並び立つもの、神への排他的な愛の妨げとなるものは、何一つあってはなりません。カナンの地に至るまでの荒野で、モーセに導かれながら、どれほど多くの民が、神への愛を裏切ったために、剣や、疫病や、災いによって命を落としたでしょうか! どれほどの悲劇が彼らを見舞ったでしょうか。神の愛はねたむ愛です!

 イエスがこう言われたことを、私たちは思い出すべきです、
「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。」(マタイ10:34-35)

 まことに神の愛は排他的な愛です。それは魂の愛と、霊の愛とを切り分け、人が常に賛美しようとする魂の愛(家族愛、夫婦愛、親子愛、友愛、自己犠牲、等)を、神への愛の障害物として退けるのです! まことの光が来る時、私たちは、自分が魂の愛で愛していたものが、神の御前に呪わしい偶像であることを知るのです! そうして、魂の愛と、霊の愛とが対立するのです。
 神の愛は、あらゆる偶像に対して、洪水や、焼き尽くす炎となって残酷に燃え上がります。ノアの時代の堕落した人々に対して、神の愛は洪水となって押し寄せました。神よりも世を愛する者に対して、神の愛はどれほど残酷な結果をもたらすでしょうか! 神の御前に、不純物は全て、朽ちない炎によって、永遠に焼かれなければなりません。ですから、私たちは、二度と神の愛から離れてさまようことのないよう、御霊によって、自分の心の中に、御心を印のように押される必要があります、私たちの心が、神の掌の中に彫り刻まれて、両者は二度と別れることのないよう、堅く結びつけられなければならないのです。

 まことに、神と私たちとの愛の中には、他のものは何一つ入り込む余地がありません。神の私たちへの愛は、すべてを焼き尽くすほどに残酷で、恐ろしいまでに排他的な愛なのです。神以上に何かを愛したために、それらのものを奪い去られる苦悩を、私たちのうちどれくらいが、経験したことがあるでしょうか。神が私たちの愛の真実性を試すために、私たちからすべてを奪い去られる試練を、どれくらいの人々が真に経験したでしょうか。
 神は私たち愛する者をヨブのような究極的な試練の中に投げ入れます、そして、ご覧になるのです、私たちが本当に、心の底から、ただ神だけを愛し、求めているのか、それとも、あれやこれやの財産、家族、平和、豊かさがあったからこそ、一時的に、神を賛美していただけなのかを。

 神の歓心をお金で買うことはできませんし、活動によって買うこともできません。私たちは「神のために」自分が盛んに奉仕している時、それによって神を喜ばせていると思うかもしれません。しかし、私たちは知らないのです、自分が、財産や活動によって、神の歓心を買おうとしているだけの卑しい商売人であることを! 神は私たちのあれやこれやの部分的な捧げ物や、活動によって、喜ばれるような方ではありません。まるで道端のお地蔵さんに供え物をするようにして、私たちが自分の活動と供え物をちょっとだけ捧げて、それが神を喜ばせるだろうと考えるべきではありません。

 神はあなたのすべてが欲しいのです! あなたのすべてを要求されるのです! あなたの心のすべてがただ神にだけ注がれることを神は願われるのです。他のものにあなたが一瞬でも目を向けることを、神は望まれないのです。あなたのすべてをまるごといけにえとして神に捧げることだけが、神を満足させる供え物となり得るのです。そこにあなたの家族はいるべきではありません。あなたの財産もあってはなりません。あなたの将来の夢もありません。ただあなた一人だけが、裸一貫で神の御前に立ち、あなたの最大の捧げ物であるあなた自身も、御前に完全に焼き尽くされるのです。あなたの捧げ物は、何一つ、この世にあなたの手柄として残りません。むしろ、そうして自分を捧げる毎に、あなたという人は、まるでこの世から消えていくかのようです。あなたはますます世から遠ざかり、世のことを気にも留めなくなり、あなたの捧げ物は、この世ではその痕跡さえ残らないほどに、徹底的に焼き尽くされ、ただ見えない永遠へと移されて行くのです。

 しかしながら、捧げられてなお、残されるものがあります。今、私の天幕の中に、神は多くのものを残しておられます。なくなったものもありますが、再び与えられたものもあります。まず、絶体絶命にあった私自身が生き残りました。次に、家族関係が良好になって、再び上から与えられました。私の家具もいくらか残りました。一年の間、全く誰にも使われることなく、ガレージに雨ざらしになり、くもの巣が張っていたガスコンロが、再び私の家で使われています。電源を入れられることもなかった冷蔵庫も、再稼動しました。愛していた小鳥の一羽は残っています。その他、いくらか、私の持ち物は残され、いくらかのお金も与えられました。偽教会の虚偽の交わりの代わりに、新たな兄弟姉妹との交わりが与えられました。

 けれども、私は知っています、それらが決して私の所有物にはなり得ないことを。それらは祭壇を経過して、天幕に残されたもの、あるいは後に主によって与えられたものです。それらの物は私が自由にできるものではなく、私の財産でもありません。ただ神にお仕えする生活の中で、必要最低限、使用するために、私に与えられたものであり、私は二度とそれらのものに心惹かれ、しがみついてはならないのです。
 ですから、家族関係が良好になっても、やはり、私は神の御前に家族を捨てて、旅立つのです。ペットにも未練を持ちません。将来の夢も捨てました。著書を発行して、名を馳せようとか、立派な研究者になりたいとかいった夢はもうありません。私の職業は祭司(神に仕えること)であって、その他の職業を持ちたいとも思わないのです。私は何ものをも所有しておらず、それらに執着することは二度とありません。そんな私は、世間には、冷たい人、変人と思われるかも知れませんが、私は全焼のいけにえとなって御前に捧げられたのです。私の心には、もはや神以外のものは、何もあってはならないのです。

「祭壇がある時、もはやわたしたちの物は何もありません。祭壇を経過して残った物はすべて天幕の中に置かれました。もはやわたしたちの心を支配する物は何もありません。
わたしたちの良心には神の御前で平安があります。そしてわたしたちは大胆に神に言うことができます、『わたしはあなたに対して保留しているものは何一つありません』。

こうして天幕は祭壇に導き戻します。もしわたしたちの持ち物が根づいて、それらを落とすことができず、もはや動かせないなら、わたしたちはこれらの物によって縛られ、決して第二の祭壇は存在することがないでしょう。」(p.11-12)

 どうか主の御前に、私たちが何かを所有しようとすることがありませんように! 私たちの持ち物が、地に根を張り、それによって私たちが再び縛られ、この地に根づいてしまうようなことがありませんように!

 「天幕とは何でしょうか? 天幕は移動できるものです。それはどこにも根を張らない生活です。」(p.7)

 ある兄弟が遊牧民になりたいと言いました。しかし、私たちクリスチャンはまさに遊牧民も同然です。私たちは、この世では寄留者なのです。地での生活が、私たちが根を張る場所となることは決してないし、また、あってはならないのです。

荒野を生きる

命が測られるのは、得ることによるのではなく、失うことによる;
どれだけぶどう酒を飲んだかによるのではなく、どれだけぶどう酒を注ぎ出したかによる;
なぜなら愛の最大の力は、愛の中で犠牲にすることであり、
最も深く苦しみを受けた人が、最も多く与えるものを持っているからである。
           
自らを最も苛酷に取り扱う人が、最も神のために選択することが容易であり;
自らを最も傷つける者が、人の涙を最も拭うことができ;
損失と剥奪に慣れていない人は、鳴り響く鐘や騒がしいシンバルであるにすぎない;
自らを救うことのできる人は、すべてに勝る喜びを持つことがない。
                              ウォッチマン・ニー


 (上記の文章はウィットネス・リーに関する記述を含むサイト「今の時代における神聖な啓示の先見者ウォッチマン・ニー」からの引用です。著作権の関係上、このサイトを記述しましたが、私とこのサイトを記述した団体との間につながりはありません。)

 上記のニー兄弟の言葉は、クリスチャンに対する自虐の勧めではありません。今日、クリスチャンでなくとも、自分のために自分を傷つけ、自分のために自分を過酷に取り扱い、あるいは、誰か親しい人や、指導者や、特定の組織や団体のために自分を進んで苦しめ、進んで損失と剥奪に耐えようとする人たちは沢山います。

 ある人はトラウマのために、自傷行為にふけり、ある人は「正義」のためにカルト団体の圧制に耐えます。しかし、それらの苦しみと損失は、すべて、滅びゆく肉のために、朽ちゆく魂のために支払われた代償であり、朽ちゆく地上の富のために支払われた損失であるために、永遠の朽ちない宝に還元されることは決してありません。
 上記の文章は、そのようにして、肉なる者が、肉なる者のために進んで苦しみに耐えるという、人間の自虐的、または自己犠牲的な生き方を奨励するために書かれたものではありません。

 私たちが自分の命を失い、損失と剥奪に耐える価値があるとすれば、それはただ一つの場合だけです、つまり、それが自分や誰かという生まれながらの人間を救うために支払われる代価ではなく、ただ見えない世界に永遠に存在する神への愛のために支払われる代償である場合です。

 私たちは朽ちる世界に富を積み上げるのでなく、朽ちない世界に富を蓄えるために召し出されています。地上ではなく、天に宝を積むように召し出された者がクリスチャンです。しかし、私たちは何と多くの捨てられない宝を地上に持っていることでしょう。何と多くの地上的な富が私たちの視界をさえぎり、この地上とは別に永遠の世界があることを見えなくさせていることでしょう。

 人間の魂が朽ちゆくものであり、腐敗した旧創造、肉なるものに属していることを一度も知らされたことのないクリスチャンたちは、それとは別に、キリストの復活の命に属する霊的な世界があることを知らないがために、魂から発する愛情を賛美します。人間の魂の世界においては、肉親への愛情は、恐らく、最高の価値を持つ愛情としてたたえられていることでしょう。あらゆる詩が、文学が、人間の人間への愛や犠牲を誉めたたえます。しかし、聖書は、それよりもはるかに高い愛、いや、魂と肉の愛には対立する、それとは次元の異なる愛があることを教えています。それが、神の愛です。

 神の愛は、肉なるもののあらゆるつながりを越えて、上位(至高)に存在するものであり、魂から来る愛を完全に焼き尽くしてなお永遠に残る最高の価値です。神の愛の前には、人間の魂と肉から発する愛情、すなわち、この世的な愛情は、不純物にしかならず、忌まわしいものとして拒絶され、価値あるものとして残ることは決してありません。

 このことを言うと、きっと多くの反対があるでしょう。禁欲主義だと誤解する人々も現れるでしょう。私が世的な愛と楽しみを酷評する度に、どれほど多くの反対がやって来るでしょうか。確かに、神は大いなる憐れみを施して、クリスチャンのために、日々の糧を備えてくださいます。私たちは主にあって、この世に生きることを楽しんでいますし、恵みを享受しています。人間である私たちはこの世で命を存続させることなくして、地上で生きていけません。毎日与えられる食べ物は私たちにとって欠かせない満足であり、家族の愛は慰めであり、この世界の美は、あらゆる場面で私たちを楽しませます。

 しかし、クリスチャンは知っているのです、それらの地上的な愛と満足と楽しみが、根本的には、神の愛と対立するものであり、決して永久に続くことのない、一時的なものでしかなく、滅びゆく性質を帯びたものであることを。

 御霊によって生まれた者は、そのような満足をどこかで厭わしく思っています、決して、呪われた死の身体が毎日のように貪欲に要求する活動によって、本当に満足させられることはありません。クリスチャンは、朽ちることのない、揺るぎない価値によって生きることを真剣に追い求めています、目には見えないが、目に見えるもの以上のリアリティを持ったお方の中で生かされることを求めています、私はありてある、と言われる方の命につらなって生きることを求めています、そして、それはただ、人となって地上に来られたキリストの復活の命を受けることによって、私たちが永遠に導きいれられることを通してのみ、成り立つものであることを知っています。

 金持ちが天国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいと、イエスは言われました。キリストの復活の命に至る小さな狭い門を私たちがくぐりぬけようとする時、私たちの肥大した自己がつっかえ棒になります。私たちが両手に抱えきれないほどぶらさげている財産(世の楽しみへの執着)が邪魔になります。肉親への愛が障害になります。

 ここで、私たちが人知を振り絞って企画した各種の宗教活動さえも邪魔になると言えば、多くの人たちが首をかしげるでしょう。しかし、言わねばなりません、私たちが心から神を愛し、賛美していると自分で思っている時でさえ、私たちのほとんどは、ただ自分の魂の善意を働かせ、自分の肉と魂を喜ばせることをひたすら追い求めているだけであることをもっと知るべきであると。

 多くの人々は、自分が信仰心だと思っているものが、実は魂のエネルギーから出た活動であり、人間の所有欲、自己顕示欲など、各種の欲望と密接に結びついて生まれたものであることを知りません。
 神のため、という名目で、今日、あらゆる教会で終わりなく行われる興行的なイベントは、一体、誰のために催されているのでしょう。美しい賛美歌は、誰のために歌われているのでしょう。私たちは根本的に勘違いしているのです、霊的な礼拝の本質が、人間の魂の活動の中にはない、ということを知らないのです、そして、自分たちが、肉体に鞭打って、魂の力を極限まで働かせて、宗教的な名前を冠したイベント活動にひっきりなしにいそしみ、絶え間なく刺激を受けて、何らかの活動を成功に導き、自分と人々を喜ばせることが、同時に、神を喜ばせることにつながり、霊的な礼拝になりうると勘違いしているのです。

 私たちは「主のために」、知恵を振り絞って、善良な計画表を練ります、今まで以上の素晴らしいメッセージや賛美歌をもひねり出します、今日の成功で満足せず、明日は神のためにどんなに内容の充実した催しを企画しようかと、終わりのないスケジュールを思い巡らし、兄弟姉妹たちを集会に招いてどう助けるべきか考え、彼らに教えています。集会が大きくても小さくても、私たちは自分をとても信仰的だと思って満足し、自分の善良な計画表にうっとりしています。とんでもありません! そんなものはもう沢山です! 

 それは片時も鳴り止まない、迷惑でうるさい鐘、騒がしいシンバルと全く同じです。私たちは自分の出番を決して失いたくないがために、指揮者も、楽譜も、音楽全体を無視してまでも、自分のシンバルをひっきりなしに叩き続けている迷惑な奏者と同じなのです。
 
 今日、神が私たちに望んでおられるのは、そんなむなしい活動ではありません。むしろ、私たちが自分のシンバルをさっさと捨て去ることを、恐らく、神は望んでおられるのではないでしょうか。私たちが自分の血と汗と涙(または魂から来る衝動と喜びと満足)によって練り上げたその愚かしい自己満足的な計画表を捨て去って、自分自身の力で神を喜ばせようとすることに絶望して、肉と魂にとって、まさに無一文の状態に戻り、御霊だけがすべてを始められるように、ただ制止して待つことを、神は願っておられるのではないでしょうか。私たちが自分の出番を作りたいと願う心さえ放棄し、肉と魂によって捧げるカインの礼拝を捨て去り、霊によって捧げられるまことの礼拝とは何かを、真に見ることこそ、神は私たちに願っておられるのではないでしょうか。

 人間がひっきりなしに人知によって考え出す礼拝は、人間の善意と活動意欲を満たすことはあったとしても、神と喜ばせる礼拝にはなり得ません。霊とまこととによって捧げられる礼拝とは一体何なのかを、私たちはもっと知る必要があるでしょう。

 朽ちない霊の世界には、霊なるものしか持っていくことはできません。それなのに、私たちはそこに至るまでに、当然のごとく焼き尽くされていなければならないあれやこれやの財産を、どうしても手放したくなくて、手を鋤にかけてから、後ろを振り向いているのです。そんな私たちにとっては、天国に至ることは、まさに針の穴をくぐるように困難であることでしょう!

 神は今日、御子イエスがそうされたのと同じように、見えない神の御心のために、見える世界を犠牲として喜んで捧げ、手放すことを知っているクリスチャンを求めておられるのではないかと私は思います。自分を喜ばせ、楽しませる手段に事欠かない、物質界のオアシスのような時代にあって、神が私たちに求めておられるのは、荒野を生きること、オアシスを荒野のように生きること、すなわち、肉と魂に果てしなく絶望し、その腐敗した活動を放棄して、自分を喜ばせるために生きることをやめて、自己に死んで、ただ朽ちないまことの命だけによって生かされることを学んだクリスチャン、キリストの十字架を通して、肉と魂に死に、日々それを拒否して、御霊によってのみ生かされることを学んだクリスチャンこそが求められているのではないでしょうか。

 人生が荒野のようにつらく厳しい時には、私たちは否応なしに神の懲らしめの学課を学びますが、人生がオアシスのように豊かな時に、その学課を自ら学べる人はほとんどいないのです。願わくば、神が私たちに知恵を与えて下さり、私たちが、物質世界の豊かさが、霊的世界の豊かさからどれほどかけ離れているかをはっきりと知ることができ、魂の活動に絶望して、ただ御霊だけによって、真のリアリティであるまことの命を生きるために、必要な学課を学び取ることができますように。