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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

壁に対する卵の勝利の歌

以下は村上春樹氏のエルサレム賞受賞のスピーチに登場する「壁と卵」についてであるが、過去の記事は「我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的夢想家」でなければならない」をご参照いただきたい。



壁よ、

おまえの存続のために奉仕すべく私は生まれて来たのではない。 

私の痛みや苦しみよりも、私の願いや希望よりも、壁よ、おまえの利益が優先されてしかるべきだとは私は思わない。

おまえがいつまでも壊されることなく秩序正しく存続するために、私はどんなに自分を犠牲にされても、諦めるより仕方がないというおまえの傲慢な屁理屈を、私は認めない。

壁よ、おまえだけが永遠に確かなもので、私はおまえの前に無に等しく、砕け散る卵であり、消えてゆくあぶくであり、散って行く桜であらねばならないという、おまえの傲慢な思想を私は否定する。

壁よ、私はおまえの目を楽しませるためのはかない見世物として散って行くつもりはない。

おまえの秩序を永続させるために、いつまでも犠牲になって我慢し続けるつもりはない。

私の生命は私のものであって、おまえのものではないからだ。
✳︎  ✳︎  ✳︎


壁よ、なぜ世迷いごとを口にするのをやめて分をわきまえないのか。

この世に造られたもので、意味を持たないものは何もない。

たとえそれがはかなく脆い卵であっても、一瞬で消えていくあぶくであってもだ。
私たちの命と生活にはおまえの知らない意味や価値がある。

壁よ、思い出さないか、
おまえは何のために建設され、誰がおまえを作ったのか。

おまえははかなく脆い卵たちの命を守るために、
我々の手によって建造された。

おまえを建設したのは私たちであり、
私たちはおまえの主人である。

卵を守ること、それがおまえの使命だったはずだ。

おまえは我々を守るために日々、盾となり、傘となり、我々に奉仕せねばならなかった。

それがおまえの使命だったはずだ。
✳︎  ✳︎  ✳︎
 

ところが、おまえはどうして反乱を起こしたのか。

おまえは我々に建造された恩を忘れ、我々がおまえの主人であることを忘れ、自らの使命を忘れ、自分こそが主人であると思い上がった。

そこでおまえは、自然の理を曲げて、おまえの存続のために我々が命を差し出すべきだというさかさまの理論を思いつき、我々をおまえの道具として押しつぶそうとした。

壁よ、そんなにまでも劣化し、反逆的になったおまえに私たちは用がない。
そんなにも存在意義を失った壁のために、これ以上、私たちがしてやれることは何もない。

壁よ、老朽化したおまえの存続のために、私たちが犠牲になるなど、とんでもない話である。

おまえは自分が永遠だと思っているのかも知れないが、卵を守れずない壁など誰が必要とするものか。

そんな壁は危険なので一刻も早く撤去するだけだ。

卵を守れなくなった壁は解体されるべきである。卵を危険にさらしながらこれ以上、存続することは許されない。
だから、壁よ、聞いておけ、

おまえは自分を神のように永遠だと思っているのだろうが、おまえの終わりはもうすぐそこまで来ている。

たとえおまえが認めなくとも、我々はすでに決めたのだ、

老朽化したおまえを解体することを。

 
✳︎  ✳︎  ✳︎
 

壁よ、聞いておけ、ここは我々の国、

この国は我々のものであって、未来を決めるのは我々である。

壁よ、おまえは我々に造られたものに過ぎず、そのおまえに我々の運命を決める権利はない。

だから、壁よ、おまえはその傲慢な思想を悔やむ日が来るだろう。

我々は用済みとなったおまえを必ず解体する。

おまえが我々を押しつぶす前に、
おまえの反乱は鎮圧される。

聞いておけ、おまえの天下は長くは続かない。

お前が倒された後に卵たちの時代がやって来る。
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村上春樹氏のエルサレム賞受賞のスピーチ原稿から


 皆様の熱いご要望にお応えして、村上春樹氏のスピーチを再掲します。
余計ながら、以前に私が書いた文章も繰り返しますが、ご了承ください。
 

* * *

イマーゴ氏の「精神分析じゃない日々」に掲載されていた、エルサレム賞受賞の際の村上春樹氏のスピーチ原稿です。あまりにも見事なスピーチのため、部分的ですが、記事からぜひにも引用させていただきました。(記事には全文翻訳が掲載されています。)

私は必ずしも村上春樹の全作品が好きなわけではなかった。というより、どちらかと言えば、彼の作品は苦手だった。けれども、今回の村上春樹氏のスピーチは、私が言いたいことを、そっくりそのまま代弁してくれるような、胸のすくような文章だった。
ただ、とても心を打たれた。

私はこれまで、日本のキリスト教会における問題についてひたすら語って来た。けれども、ひょっとすると、中には、私の文章を読んで、次のように非難する人があるかも知れない。
「どうしてきみはいつもふざけた『言葉遊び』のような方法ばかり使って信仰を語ろうとするのか? どうしてフィクションの物語まで登場させるのか? 信仰とは真面目な事柄なのに、きみの文章を読むと、いつもきみが本気なのか、冗談半分なのか、分からなくなってしまう。しかも、いつもセンセーショナルな題名ばかり並べて、まるでワイドショーきどりだね。そういうやり方はぼくは好かない。いい加減、言葉遊びはやめて、きみもクリスチャンなら、もっと真面目に、純粋に、ストレートに信仰を語りたまえ。きみの心の純粋さが、きみのふざけた文章からは見えないよ。」

けれど、そうではないのだ。冗談半分で、私はフィクションの話など登場させているわけではないし、受け狙いで、センセーショナルな話題に焦点を絞っているわけではない。
学術論文、創作、記念文集…、これまで色々な文章を書いてきたが、私もやはり、村上春樹氏と同じように「プロの嘘つき」なのだとつくづく思う。そして「プロの嘘つき」として、これからも文章を綴り続けたいのだ。
それは「言葉遊び」を目的としてのことじゃない。
ただ、「システム」という巨大な壁に立ち向かい、そこにぶつかって割れ続ける、幾千、幾万の「個人の尊厳」という卵、この小さな小さな命の光に焦点を当て、彼らの苦しみを代弁し、この不条理を訴えるためだ。

私は、マシュマロのように甘い砂糖まぶしの、自分の幸福のことばかりに焦点を当てた文章を読むことを好まない。たとえ、それがどんなにその人にとって嬉しい、幸せな話であったとしても。
世界中の数え切れない人たちが、今も不幸に呻き続けている中で、そのようにして、壁に押しつぶされて消えてゆく人々を、無いがごとくに無視して、ただ自分の幸福だけに酔いしれているだけの文章を見ると、私はどうしても、目をつぶり、耳を塞ぎながら、そういう言葉たちを足早に通り過ぎたくなってしまう。

私は、たとえ自分の書く物語がどんなに極端な構造になったとしても、それがどんなに非現実的なまでに、ただ一点にだけ焦点を当ててそれを押し広げるものになったとしても、今後も、壁につぶされる弱い者の側に立って、文章を書いていきたいと思っている。それはシステムという巨悪を大きく浮かび上がらせるための闘いだ。

だが、巨悪と闘うための政治運動ではない。壁を倒すことが目的なのではない。(そんなことが無理であるのは分かっている。)ただ、壁に押しつぶされる人々の命かけた悲鳴を、より多くの人々の耳に届け、壁というものの不条理性を訴えることによって、一人でも、その壁にぶち当たって、血まみれになる人が減るように、叫ぶためなのだ。

…それは、すでに壁にぶつかって無惨に壊れ、砕け散った、私のような無数の「卵」たちへの弔いの詩でもある。

教会というところが、システムという壁になることの残酷さ。
教会というところで、人間を道具化し、押しつぶすプログラムが実行されていくことの恐さ。

人間をコントロールし、支配しようとする全てのシステムやプログラムという壁の理不尽さを訴え続けること、そのシステムがすでにキリスト教界にも導入されている現実の恐ろしさを訴え続けること、それが恐らく、これからも私の命かけた闘いとなるだろう。

闘いの武器として与えられているのは、ただ、ペン一本、今はキーボードだけ。
それでも、真実、神に従って生きるのなら、そのクリスチャンの言葉には、霊と肉を切り分ける鋭い刃のような力が与えられることを私は信じる。(そして、その人はもはや「嘘つき」ではなくなり、真実の証人となる。)
真実の言葉には力がある。真実の言葉は、鋭利な刃物のように、光と闇とを切り分け、人の思いと信仰とを切り分け、何がほんとうであって、何が嘘であるのか、全ての人々の前で、白日の下にさらけ出すだろう。

村上春樹氏が、今もまだ紛争が続くイスラエルの、他ならぬエルサレムで次のスピーチを語ったことの意味は大きいと思う。

 

――― 村上春樹氏のスピーチ―――

今日私はエルサレムに小説家、つまりプロの嘘つき(spinner of lies)としてやってきました。
もちろん、小説家だけが嘘をつく訳ではありません。すでに周知のように政治家も嘘をつきます。
外交官や軍人は時と場合によって独自の嘘を口にします。
車のセールスマンや肉屋、建築屋さんもそうですね。
小説家とその他の人たちとの違いですけど、小説家は嘘をついても
不道徳だと咎められることはありません。実際、大きい嘘ほど良いものとされます。
巧みな嘘は皆さんや評論家たちに賞賛されるというわけです。

どうしてこんな事がまかり通っているかって?

答えを述べさせていただきます。すなわちこういうことです。
創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。
小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。
ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、
正確に描写する事も困難です。
ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。
ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。
で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか
明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。

しかし今日は、嘘をつくつもりはありません。なるだけ正直でいようと思います。
1年のうちに嘘をつかないのは数日しかありませんが、今日がその1日なのです。

そういうわけで、ほんとうの事を話していいでしょう。
結構な数の人々がエルサレム賞受賞のためにここに来るのを止めるようアドバイスをくれました。
もし行くなら、著作の不買運動を起こすと警告する人までいました。

もちろんこれには理由があります。ガザを怒りでみたした激しい戦いです。
国連によると1000人以上の方たちが封鎖されたガザで命を落としました。
その多くは非武装の市民であり子供でありお年寄りであります。

受賞の報せから何回自問した事でしょうか。
こんな時にイスラエルを訪問し、文学賞を受け取る事が適切なのかと、
紛争当事者の一方につく印象を与えるのではないかと、
圧倒的な軍事力を解き放つ事を選んだ国の政策を是認する事になるのではと。
もちろんそんな印象は与えたくありません。
私はどんな戦争にも賛成しませんし、どんな国も支援しません。
もちろん自分の本がボイコットされるのも見たくはないですが。

でも慎重に考えて、とうとう来る事にしました。
あまりにも多くの人々から行かないようアドバイスされたのが理由のひとつです。
たぶん他の小説家多数と同じように、私は言われたのときっちり反対の事をやる癖があります。
「そこに行くな」「それをするな」などと誰かに言われたら、ましてや警告されたなら、
「そこに行って」「それをする」のが私の癖です。
そういうのが小説家としての根っこにあるのかもしれません。小説家は特殊な種族です。
その目で見てない物、その手で触れていない物を純粋に信じる事ができないのです。

そういうわけでここにいます。ここに近寄らないよりは、来る事にしました。
自分で見ないよりは見る事にしました。何も言わないよりは何か話す事にしました。

政治的メッセージを届けるためにここにいるわけではありません。
正しい事、誤っている事の判断はもちろん、小説家の一番大切な任務のひとつです。

しかしながら、こうした判断をどのように他の人に届けるかを決めるのは
それぞれの書き手にまかされています。
私自身は、超現実的なものになりがちですが、物語の形に移し替えるのを好みます。
今日みなさんに直接的な政治メッセージをお届けするつもりがないのはこうした事情があるからです。

にもかかわらず、非常に個人的なメッセージをお届けするのをお許し下さい。
これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。
メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。
どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。

「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」

ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。
何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。
いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、
そんな仕事に何の価値があるのでしょう?

この暗喩の意味とは?ある場合には、まったく単純で明快すぎます。
爆撃機と戦車とロケット弾と白リン弾は高い壁です。
卵とは、押しつぶされ焼かれ撃たれる非武装の市民です。
これが暗喩の意味するところのひとつです。

しかしながら、常にそうではありません。より深い意味をもたらします。こう考えて下さい。
私たちはそれぞれ、多かれ少なかれ、卵です。
私たちそれぞれが壊れやすい殻に包まれた唯一無二のかけがえのない存在(soul)です。
私にとってほんとうの事であり、あなたにとってもほんとうの事です。
そして私たちそれぞれが、多少の違いはあれど、高く固い壁に直面しています。
壁には名前があります。それはシステム(The System)です。
システムはもともと、私たちを護るべきものですが、ときにはそれ自身がいのちを帯びて、
私たちを殺したり殺し合うようしむけます。冷たく、効率的に、システマティックに。

私が小説を書く理由はひとつだけです。
個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。
物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です

私は完全に信じています。
つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が
小説家の仕事だとかたく信じています。
それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり
悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。
生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、
体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。
だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。
<…>

今日みなさんにお知らせしたかった事はただひとつだけです。
私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。
私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。
どうみても勝算はなさそうです。壁は高く、強く、あまりにも冷たい。
もし勝ち目があるのなら、自分自身と他者の生が唯一無二であり、
かけがえのないものであることを信じ、存在をつなぎ合わせる事によって得られた暖かみによってもたらされなければなりません。

ちょっと考えてみて下さい。私たちはそれぞれ、実体ある生きる存在です。
システムにはそんなものはありません。
システムが私たちを食い物にするのを許してはいけません。
システムがひとり歩きするのを許してはいけません。
システムが私たちを作ったのではないです。
私たちがシステムを作ったのです。

私が言いたいのは以上です。
エルサレム賞をいただき、感謝しています。
世界の多くの地域で私の本が読まれた事にも感謝しています。
今日みなさんにお話できる機会を頂いて、うれしく思います。