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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

御霊に導かれて生きる~イエスを公に証しない霊はすべて神から出ていない反キリストの霊である~

「「人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。
 これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(Ⅰペテロ1:24-25)

草は枯れ、花は散る。

以上の御言葉の前半部分は、まさに東洋的世界観にも通じるこの世の物質世界の無常をよく表している。しかし、聖書の御言葉は無常観を表すものでは全くないから、それに続く御言葉は、前半とは全く異なる永遠の世界があることをはっきりと告げる。

「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

この最後の部分を認めるか認めないかによって、人の世界観、人の運命は真逆のものとなる。

さて、悪魔の歪んだディスカウントの鏡に映っている人間の像は、いつも嘘だらけで、信じるに値しない。当ブログについてディスカウントを続けている「鏡」があるが、その人々と彼らの言い分をこれから「彼岸」と呼ぶことにしたい。なぜなら、彼らはグノーシス(=般若)にたどり着いた面々だから、その名称がよく似合っているはずだ。

以前にグノーシス主義とは、母体となる宗教や思想の枠組みを持たない悲観的な哲学・世界観であって、どのような宗教、どのような思想の中にでも入り込み、その宗教の神話などを自在に利用して、自身に都合よく変えてしまうのだと書いた。

それゆえ、「彼岸」のグノーシス主義的世界では、筆者についても、これを一人の登場人物として、一聞しただけで、思わず笑いがこみあげて来るような、完全に妄想に満ちた虚偽の荒唐無稽なストーリーが出来上がっている。たとえば、筆者には甥など一人もいないにも関わらず、存在しないはずの甥が、筆者の家族の成員に加えられ、筆者の家庭は、クリスチャンホームでもなかったにも関わらず、筆者の「両親」は共に教会に通う敬虔な(?)クリスチャンに仕立て上げられ、その他にも、あるはずもない数々の虚偽が作り出されて、笑い出したくなるような非現実的なストーリーが出来上がっている。

そこでは、筆者に数々の栄誉ある称号も色々と取り揃えられており、筆者は極めて優秀な「御霊によって歩む」クリスチャンとなっているばかりか、ドストエフスキーやトルストイの研究者とも呼ばれ、当無料ブログのおかげで、評論家という称号まで受けている。一体、ドストエフスキーとトルストイの両方の研究者を名乗ることの困難さを、彼らは知らないのだろうか。こうなっては、まさにもう何でもありの世界だが、さわやか読者が押しかけて日夜検索結果の操作にいそしんでいるこのブログを理由に、ネット評論家を名乗るなどのことも、筆者自身は考えたこともなかった。

偉大な称号と、呆れるような中傷がミックスされて、大いに結構づくめのディストピアが出来上がっているようだが、そのデタラメぶり、根拠のなさがあまりにも可笑しく、断片を見ただけで、思わずふき出してしまう。足りないのは「ユダヤ人の王」の称号くらいか、いや、欠けているのは、聖書と、真実な信仰である。

聖書の神に忠実に従って生きるクリスチャンは、誰しもリトマス試験紙の役割を担っていると当ブログでは以前に書いた。様々な霊たちが、クリスチャンの周りで論争を繰り広げるが、クリスチャンは自覚していようといまいと、これらの霊の正体を人前ではっきり明らかにする役割を担っている。
 
当ブログにぶつかってきた霊たちは、いよいよはっきりとその正体と本音を明るみに出し始めたようだ。驚くべきことに、彼らはあからさまに聖書を否定し始めたのである。聖書に基づく純粋な信仰に生きることを、カルト扱いして、聖書の真実性を否定し、退け始めたのである。

このことは、彼らが今までうわべだけはクリスチャンを装って来たことから考えると、驚くべき事実であり、彼らが重大な分岐点を通過したことをよく物語っていると言えよう。

カルト被害者救済活動には、以前に説明した通り、当初は統一教会やその他のカルトと名指しされている宗教に入信した信者らを、暴力によって強制的に拉致監禁して、密室で聖書を使って延々と説得工作を行い、元カルト信者らの思想の誤りを暴き、彼らの誤った信仰を打ち砕いて、カルトへの信仰を棄教させた上で、キリスト教に入信させて来たという残酷な過去がある。

そんなにまでして、聖書を聖典として振りかざし、カルト信者に強制的な脱会・説得工作を行って来たカルト被害者救済活動の陣営が、ついに自ら振りかざしていた聖書の真実性を否定し始めたのである。

まさに本音が出たなという印象を受ける。筆者は以前から、拉致監禁までして他宗教から信者を奪うようなことは、決してキリスト教の信仰に基づく正しい行動ではないと指摘して来た。なぜなら、聖書の神は決して人に信仰を強制するようなことはなさらないからだ。
 
この人々は、聖書はすべてがすべて真に受けるべきものでなく、ほどほどの理解で良いなどと言っているようだが、もしそんなことを本気で考えているのなら、彼らが元カルト信者を強制的に脱会させた過去はどのように正当化されるのであろうか。そんなにもいい加減で無責任な認識で良いならば、多くのカルト宗教では、改ざんされているとはいえ、聖書も伝道に利用されているわけだから、多少、クリスチャンと認識がずれているくらいのことで、目くじら立てず、黙って放っておけばよかったのだということにしかならないであろう。身勝手極まりない理屈である。

聖書は、彼らにとってうわべを飾り、他宗教に対して優位を誇り、自己正当化をはかるためだけのどうでも良いツールだったことが、この告白によって明らかになった。彼らは本気で聖書の御言葉を信じ、従うつもりなどさらさらなかったのに、カルト信者に対して己の優位を振りかざすためだけに聖書を都合よく利用したのである。脱会工作は、おそらく、牧師たちが、カルトに入信した信者らの親から、泣く泣く頼み込まれ、しかも親たちから報酬としての謝礼金をもらって実行したことに過ぎないのだろう。それが決して信仰に基づく行動ではなかったことがますます裏づけられているのである。
 
「彼岸」では、日曜礼拝その他の各種の儀式の重要性ばかりが語られているようだが、それらの儀式をどんなに形式的に遵守しても、聖書の御言葉の真実性さえ信じようとしない、信仰のない人々の独りよがりな礼拝などは、罪人カインの礼拝として、神に受け入れられることも、喜ばれることも決してあるまい。

さて、これまで当ブログで大きなテーマを勢力的に扱おうとすると、「彼岸」では必ずこの種のネガティブ・キャンペーンが張り巡らされて来た。いつものパターンの繰り返しである。今や言いたいことがあるならば、裁判所や警察を通して、きちんと公に自分の言い分を主張する道が開かれているのに、こうした卑劣な方法しか使えないのは、よほど自分たちの主張を出るべきところに出て主張することに自信がないせいであり、かつ、よほど当ブログにおける主張が、暗闇の勢力にとって身に堪えているせいであろう。

グノーシス主義の理論の共通の骨子が暴露されることは、悪魔と暗闇の勢力にとって何としても耐えがたいことなのであろう。

彼らは筆者を狂人扱いした挙句、このままでは破滅するなどと言っているが、よくよく自分を振り返って観察してみることだ、一体、破滅の淵に立っているのは誰なのか。
  
この人々には、今までにも、決して自分の所属先の宗教団体を名乗らないという明白な特徴があった。勤務先はもちろんだが、どの宗教団体の人間なのかさえ、全くはっきりしない連中ばかりなのである。このような人々の述べる信仰論は、それだけで、最初から耳を傾けるに値しないことが明白である。他人には身元を明かせと要求し、暴力的に個人情報を暴いて、プライバシーを侵害する行為に出ておきながら、自分自身は所属教会さえ明らかにしないとは、まさに笑止千万な行動である。それでどうやって信仰を語る資格があるというのか。

このように、信仰があると自称しているにも関わらず、自分がどの宗教の信者であるかさえ明らかにしないような人々の言い分に、真面目に耳を傾けるのは愚か者のすることである。彼らは、クリスチャンであるのかどうかという最低限度の事実さえはっきりさせずに、他者の信仰告白の内容について云々できる資格などないのは当然である。

だからこそ、もとより信仰のないこの人々は、週刊誌のように他人の人間模様やスキャンダルを暴くことにばかりに熱中し、それ以外にできることがないのである。それは、彼らにはもともと聖書的な知識も信仰もなく、あるのはこの世的な関心だけかだらである。

だが、ついに彼らが最も好んで来た人間模様の中にさえ、フィクションの登場人物が作り出され、話がどんどん現実離れした方向へ向かっている様子を見ると、彼らがすでに重度の妄想に陥っていることがよく分かり、ただただ可笑しくなるだけである。

このような人々にはまさに「彼岸」という言葉がふさわしい。彼らはすでにこの世をすら去って、自ら「他界」し始めているのである。むろん、以下の御言葉の「悟りの道」がグノーシス主義のグノーシスと同じものでないことは、説明せずとも良いと思うが、死者の霊の集会に出席する者は、例外なく黄泉に誘われて行く。以上の人々はまさに「棺桶に片足を突っ込んでいる」のだと言えよう。

「悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。 」(箴言21:16)
 
さて、以上のような人々の愚劣な行為がこの先、しかるべき罰を受け、そのデタラメな記述が必ず削除されることは変わらない事実だが、ただし、この先、彼らの「彼岸」の世界で、ありもしない創作物語が、どこまで大きく膨らんで行くのか、また、そのような話に騙される人々が、どの程度、この国にいるのか、それは面白い観察材料であるものと思う。

ある意味で、この手の話は、日本人の民度の高さを試す良いバロメーターになると言えよう。何の根拠もない中傷を真に受ける程度の判断能力しか持たない人々には、関わってもろくなことは起きない。良識的な人々は決してそのようなものに惑わされず、振り回されることもない。だから、このようなものは、自動的に良いフィルターの役目を果たしてくれる。

すでに多くの人々が気づき始めているように、この国は、だいぶ前からのグノーシス主義国であり、何もかもがさかさまにされているのである。安倍政権のもとで、以前からあった傾向が極度に強められ、今やこの国で良識的に生きる人々は、みな前回の記事で触れたロストロポーヴィチ夫妻のように、ソヴィエト政権から追放されたり、処罰された人々と同じく、あらぬスキャンダルの疑いをかけられ、「狂人」のレッテルを貼られ、社会から排斥されている現状がある。何しろ、グノーシス主義国だから、真実と虚偽が裏返しにされ、良識的な人々が「狂人」とされ、狂人が「健常者」の仮面をかぶって巷を跋扈しているのである。

それにしても、論拠のない稚拙な決めつけの記事もさることながら、他人のブログに便乗して二、三行の無責任なコメントを投稿するだけで、何か言ったような気分になるとは、信じがたいほどの独りよがりだと言う他ない。

筆者は、できる限り、ツイッターやフェイスブックや掲示板や他者のブログ等へのコメントの投稿を控えるよう心がけている。それは、あのように短い文章の中で、十分な論拠を示して物事を主張することは、決してできない相談であり、そういうツールを使い始めると、人はとことん怠惰になって、決めつけや、思い込みだけで、まことしやかにものを言う癖が身についてしまうと考えるからだ。

断片的な文章しか書かないでいると、思考力と文章力も、当然ながら著しく低下する。しかも、そういったコメント内容のほとんどは、他者の書いた論評に対する印象批評でしかないため、自分自身では何も生み出していないのだ。

論文で最も重要になるのは論拠である。なぜあなたはそのように考えるのかという具体的な証明プロセスのない、結論だけが決めつけのように提示されている文章は、決して誰にも相手にされない。緻密な論証過程を飛ばして、結論だけ提示して、何か言ったような気になるという無精な発言の仕方に慣れてしまうと、いざ何かを論証せねばならなくなった時、全くその要求に対応する力が自分の内に見いだせないとであろう。「彼岸」の著者の一人が、博士論文を書き上げることができなかったのは決してゆえなきことではあるまいと思う。

さらに、論証過程を飛ばしてコメントすることに慣れてしまうと、自分が無精な方法でしか発言していないため、他者が作り上げた作品にも、どれほどの苦労が込められているかが全く分からなくなってしまう。何を見ても、上から目線で傲慢な態度で、一方的な印象批評を書き記すだけの空っぽな人間が出来上がる。痴呆化と高慢さへの最短コースである。

そこで、当ブログの内容について反論がある人々は、一人一人自分でブログを開設して、引用箇所をはっきりさせた上で、ルールを守って、自分の文章を論理的に書いて反証してみれば良いのだ。多分、どんなにそれが恐ろしく手間のかかる作業であるかがすぐに分かり、ほとんどの人々が面倒になって途中で放り出すことであろう。むろん、所属先の宗教団体も当然、明かすべきであろう。その上で、しかるべき諸手続きを最後まできちんと遂行して主張を提示できる人々がいたならば、それは傾聴に値する意見であるため、ネット上で議論をする価値もそれなりに出て来よう。

だが、ブログというものは、そもそも他者への反論だけではどうやっても続かない。自分の信念に基づく確固たる意見が出せなければ、文章を書き続けること自体が無意味である。コピペだとか、ネットのニュースの転載だとか、どこかで起きた事件を、ただ右から左に報道しているだけで、自分が一体、それについて何を訴えたいのか、自分自身はその出来事にどう関与しているのか、それさえ明らかにできないブログは、読者の共感も得られず、決して続かない。

人を貶め、中傷するためだけの「鏡」は、完全に独創性を失っているため、そこまで内容が希薄になれば、この先、放っておいても、長くは持ちこたえられないのは明白である。脅せば誰でも人は言いなりになると考えているのだとすれば、それは完全な誤りである。

主張というものは、内容が勝負所なのであって、主張と主張のぶつかり合いで勝利をおさめたければ、相手の主張を超える強度を持った主張を自ら提示せねばならない。相手の主張がダイヤモンドならば、それを超える強度が必要となる。それができなかった場合、弱い方の主張が粉々にされてしまうだけである。
 
時に、粉砕されなくても、淘汰という現象も起きる。筆者が知っているだけで、ここ5年ほどで匿名掲示板とその投稿が相当な分量、淘汰されて消え去った。当ブログに悪質なコメントを残していた掲示板があったので、その投稿の記録を保存してあったが、ここ数年の間に、掲示板ごと消失しているものが、相当数あったのである。2ちゃんねるなどは一時は広がりを見せ、人目には隆盛を極めていると見えた時期があったかも知れないが、今となっては、あまりにも悪評高いせいで、良識的な読者に見捨てられ、消滅の危機に晒されている。日本年金機構への内部告発に利用された際、消えかけた線香花火のような存在意義を見せたくらいであろうか。

匿名掲示板には訴訟沙汰なども多発しているため、人々が安心感を持てなくなり、関心が薄れつつあるだけでなく、ツイッターやフェイスブックなどで身元を明かして、同じくらいに短いコメントを発信するスタイルが今や主流になったため、そのことが匿名掲示板の衰退に拍車をかけている。

やはり、責任の所在を明らかにしない文章は、影響力を持たないのであり、その上、きちんとした論拠を示さず、とりともないおしゃべりを続けるだけとあれば、内容の希薄さゆえに、淘汰されて行くのは当然である。おそらくあと10年から長くとも15年のうちに、匿名掲示板は消え去るか、今とは全く違った形式に移行する必要に迫られるのではないかと予想する。

花が散り、草が枯れるように、聖書の永遠の御言葉に立脚しないむなしい議論は、一時は盛り上がっているように見えたとしても、時と共にすべて初めから無かったも同然に、胡散霧消して行くのである。

さて、聖書にはこんな文句もある。空中に散じて行くだけの無意味なおしゃべりのせいで、永遠に有罪を宣告される者たちが出て来るというのである。

言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイ12:36)

「彼岸」から他者をディスカウントする発言ばかりに熱中している悪霊に導かれる者たちは、いざ神の御前で申し開きを求められたとき、その言葉のゆえに、どれほど重い罪を負わされるのであろうか。しかも、その幾分かは、この世でもリハーサルがあるのだ。すべての言葉には責任が伴い、必ずそれが追及される日が来るのである。

しかし、きちんとルールや手順を守って価値ある内容の文章を書いていれば、その記事は、三十年、四十年先になっても、いや百年先であっても、必ず、残るだろう。そのことは、ソビエト体制のような厳しい思想的統制下で秘密裏に書かれた文学作品でさえ、あらゆる方法で保存され、何十年もの時を経て、今日まで残されている事実を見ても分かる。それはこの世の文学作品の話であるが、永遠に変わらない神の御言葉に立つ信仰告白が、この世の文学作品よりも早く消え去ることは絶対にない。

悪魔の妄想でしかないフィクションの「鏡」は短期間で消え去るであろうが、真のリアリティである神ご自身という「本体」に属するものは必ず残る。筆者が自信を持って、この先、何が起こるかを見てもらいたいと言うのは、キリストとの霊的な結びつきの中を歩んでいるキリスト者の証が地上から取り去られて、悪魔の「鏡」だけが残るということは絶対にないと分かっているためである。

筆者はまだ信仰の歩みの途上にあるため、パウロと同じように、自分が学ぶべきことを学び終えてすでに完璧なクリスチャンになったなどと自己宣伝するつもりはさらさらないが、それでも、当ブログは、筆者の真実な信仰告白であるから、その内容に対しては、神が責任を負って下さると分かっている。

なぜなら、聖書に書かれていることが真実であることを証明されるのは、神ご自身だからである。だから、たとえ誰かが筆者を狂人扱いしたりしても、それによって、その人が神の御言葉までも消し去り、否定することは絶対にできないのである。

筆者は、この度、「般若=グノーシス」を根こそぎ断罪して、彼岸に投げ捨てた。うわべだけは敬虔な信者を名乗っている多くの人々が、筆者に対して、般若の顔をして、筆者を中傷したり、呪ったり、断罪したりしたが、そのようにして彼らが筆者になすりつけようとしたすべての呪いを、みなキリストの十字架を経て彼岸へと渡し、黄泉の世界に追い返したのである。

興味深いのは、「彼岸」から未だ中傷を続けている人々の言い分が、だんだん筆者個人への非難や中傷の域を超えて、ついに聖書全体への中傷、神ご自身への冒涜にシフトしつつあることだ。

ある意味で、筆者がずっと待っていた回答がやっと提示され始めたのである。いよいよこれからが本番中の本番である。彼らは自分たちはグノーシス主義者ではないと言っているが、彼らの言い分を聞いて、誰が本当にそうだと信じるだろうか? 彼らはこれまで自分たちがあたかもクリスチャンであるかのように振る舞ってきたが、ついにそのかりそめの信仰も自ら捨てつつあるのだ。聖書など初めから全く敬っておらず、御言葉の真実性を信じていなかったことを彼らは自ら告白している。

おそらく、この先、クリスチャンの仮面をかぶり続けて来た彼らの内心が、とことん明るみに出され、その本心に溢れ返っているものは、神への恨み、憎悪、聖書の御言葉への憎しみ、否定であることが、この上なくはっきりする時が来るものと思う。

先に当ブログでは、彼らは必ず警察の忠告を振り切り、この世のすべての秩序を侮るだろうと予告したが、現にそうなっている。このまま見守り続ければ、いずれ彼らは必ず、聖書の神ご自身への憎しみと中傷をまき散らし、憤りを爆発させて、自分たちが神の敵であることをはっきりと万人の前で告白する時が来るであろう。それがまさに彼らの心の本質なのである。

そして、それは必ず多くの人々が目撃する形でなされるであろうから、そうなるまで、しばらくこのまま観察しておきたい。

筆者が殉教などという言葉を口にしたからと言って、まさか自ら死に支度をしているなどと勝手に考えてもらっては困る。今はまだ戦いの初歩の初歩の段階であって、およそ殉教などというレベルの話が具体的に出て来る余地はない。仮にそういう時代が来るとしても、それはまだまだかなり先のことである。

筆者がいかなる人間であろうと、聖書の御言葉で武装し、神の懐に隠れている人間を攻撃することのできる人々はいない。今起きていることは、我々はまずこの地上で、小羊の血潮と証しの言葉によって悪魔に立ち向かうことをきちんと学ばねばならない、ということを示しているだけである。

さらに、「彼岸」にいる人々がブログを失い、人生を失って破滅すれば、自暴自棄な行動に出る可能性があると思い、憂慮する人もあるかも知れないが、しかし、それすらも、全く心配の必要がないと言うのは、彼らの行動はすべて衆人環視の中で行われ、以下の御言葉にもはっきりと示されている通り、彼らが抜いた剣は、彼ら自身の胸を刺し通すだけだからだ。考えても見てもらいたいが、今まで行われた彼らの行動のすべてが、大勢の証人のいるところで行われたのだ。この人々の運命は全世界に対して指示されねばならないので、その終わりも、当然ながら、衆人環視の中となるであろう。

これまでも、彼らはただ脅すだけで、決して何事も筆者に強制することはできなかった。それは、筆者が何を信じるのか、誰からの強制によらずに、自分自身で選択し、告白することを神に求められているためである。神はすべてのことを、信者自身の意志で選ばせたいと考えておられる。強制されて行われた告白は、自由の中で自ら選んだものと言えない。よって本当にその人自身の選択なのかどうかも分からない。神は、筆者が人生における最後の選択の一つに至るまで、すべてを自らの意志で決定することを望んでおられるのである。それが神の御心であるがゆえに、筆者に対して何一つ強制できる人はいないのである。

筆者は「彼岸」のブログに自殺者の遺族のフォーラムの話題が掲載された時点で、それは彼らがすでに死者の集会の中に身を置いていることを明白に示す証拠だと受け止めている。彼らの心は絶えず死とその周辺の黄泉とをさまよっている。今後、どういう形でそれが具体的に彼らの身の上に実現するのか、今はまだ分からないが、すでに述べたように、彼らが神を公然と人前で呪う段階が訪れた後、ヨブの妻がヨブに投げつけた言葉が、おそらく、彼らの身の上に成就するであろうと思う。「神を呪って死になさい!」という彼女の言葉は、神を呪うことと、人が自死することが、分かちがたく一つであることを示している。

これが、神を知る知識を自分で退け、捨てたすべての人に働く霊的法則性なのである。それは決して誰かの意志次第で変えられるような軽い運命ではない。だから、聖書に対してどのような態度を取るか、各人は極めて慎重でなければならない。全世界の人々が見ている前で、聖書の真実性に異議をさしはさむような者は、必ずその次には神を呪ったり、冒涜・否定する段階へと進み、誰もに取って見せしめや教訓となるような最期を遂げることになるであろう。

「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、”霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ12:31-32)

人を罵倒する罪は、悔い改めれば赦されるし、償うこともできよう。しかし、聖霊を冒涜する罪は赦されないと、前々から幾度も述べているように、人はクリスチャンや神の教会を罵倒しているうちに、いつしか取り返しのつかないところまで深く罪を犯してしまうことがありうる。さらに、聖書の真実性を否定することは、御霊によって書かれた書物を虚偽であるとみなすことと同義であり、それは、ひいては神ご自身を偽り者とみなすことを意味する。

そして、人が創造主を偽り者(=フィクション)とみなせば、その人の存在そのものがフィクションとして消えるのである。これは霊的法則性である。自分が創造主に対して吐いた言葉が、自分の運命をそのまま決することになるのである。
 
だが、いかに人を侮辱することが永遠の罪にならないと言っても、彼らはこの先、筆者を攻撃すればするほど、自分で自分の心を傷つけ、人としての尊厳を失い、罪悪感と、後ろめたさと、社会からの蔑みの目線と、孤立により、居たたまれなくなって行くだけである。

さらに、筆者はこの十年間というもの、どうやっていわれのない迫害に立ち向かうべきか、一つ一つ必要な手順を学んできたが、彼らは一度たりとも一人で神に向き合ったことがなく、迫害や圧迫に立ち向かう術をも学んでいない。

だから、彼らが孤立状態に置かれれば、その心は、それがごくごくわずかな期間であっても、大変な打撃を受け、正常には保たれるまい。彼らの言い分の内容の希薄さを見ても、彼らの終焉が近いことはすぐに分かるが、彼らに残された月日自体がそう多くはない。人を馬鹿にすることはまだ償いが可能であるとしても、神を侮り、冒涜し、自ら神になり代わろうとすることはそれとは異なるからだ。
  
肉のものは霊のものより早熟である。それは肉の性急で忍耐できない性質に由来する。それゆえ、肉のものは霊のものよりも先に絶頂に達し、先に繁栄を謳歌する。その繁栄は、ぱっと見には長く続くように見えるかも知れないが、実際には、花が散り、草が枯れるように、たちまちにして消えて行くものである。悪人は気づけばもう跡形もなく、いなくなっている。栄枯盛衰、諸行無常、聖書の御言葉を信じない悪人にあるのは、ただ滅びゆく世界の無常観だけである。その定めに抗う術は彼らにはない。だが、御言葉に立つ者は、悪人が消え去った後も、末永く平和と繁栄を享受する。

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
 「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる。」と書いてある通りです。」(ローマ3:4)

「悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 彼らは草のように瞬く間に枯れる。
 青草のようにすぐにしおれる。

 主に信頼し、善を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ。
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
 あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい、
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。

 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。
 繁栄の道を行く者や
 悪だくみをする者のことでいら立つな。
 怒りを解き、憤りを捨てよ。
 自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはいならない。
 悪事を謀る者は断たれ
 主に望みをおく人は、地を継ぐ。

 しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。
 彼のいたところを調べてみよ、彼は消え去っている。
 貧しい人は地を継ぎ
 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。

 主に従う人に向かって
 主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが
 主は彼を笑われる。
 彼に定めの日が来るのを見ておられるから。
 主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り
 貧しい人、乏しい人を倒そうとし
 まっすぐに歩む人を屠ろうとするが
 その剣はかえって自分の胸を貫き
 弓は折れるであろう。

 主に従う人が持っているものは僅かでも
 主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。
 主はご自分に逆らう者の腕を折り
 従う人を支えてくださる。
 無垢な人の生涯を
 主は知っていてくださる。」(詩編37:1-18)

聖書の御言葉と、フィクションの世界はどこまで行ってもなじまない。筆者はまだ信仰に生きるようになる前、学生時代に長編小説を書こうと試みたことがあるが、完成に至らないまま放棄した。筆者はその当時、架空の世界を舞台として、冒険物語を書こうと思い、構想を練り、登場人物を揃え、プロットがほぼできあがった。だが、いくつかの章ができ、あとは細部を書き上げてつなぎ合わせるだけとなった時点で、別な用事のために、その作品は未完のまま放置された。それから、何年も月日が過ぎて、当ブログを始めた少し後で、改めてその小説を開いてみたところ、聖書とは無関係の架空の世界を舞台にして小説を書き続けることは筆者にはもうできないという結論に至った。

筆者は、キリスト者として生きることが何を意味するのかを理解するようになってから、それ以前とは大いに自分の感覚が変わってしまったと思うことがたくさんある。ここで言う「キリスト者として生きるようになってから」という言葉は、教会に通うようになってからとか、洗礼を受けてからという意味ではない。キリストご自身を実際に生きて知ってから、という意味である。

世にはクリスチャン作家が存在することは知っているが、その人たちの考えがどうあれ、筆者自身は、現実に存在しない架空の舞台で、キリスト教の神について語ることは無理であると考えている。なぜなら、神の御業を生きて知ることは、常にそれに関わる人々に現実的な代価を要求するため、人としての痛み苦しみも実際には味わうことなく、この世の時空間の中にまるで存在しない架空の登場人物に、神の貴い御業を信仰の代価なしに体験させることなど無理だからだ。どうやってそんな設定に説得力を持たせることができようか。
 
もしフィクションの物語で描ける内容があるとすれば、それは神のいない、人間だけの世界で起きる絶望的なストーリー展開だけであろう。その悲しい描写によって、人々の心にこんなにもむなしい世界は嫌だという思いを起こさせ、そのフィクションの世界を抜け出て、真実な神へ向かいたいという願いを呼び起こすことは可能かも知れない。

フィクションの世界では、このように、まことの神ご自身を物語のプロットに介入させることができないため、描けるのはどこまでも人間だけである。だが、キリスト教の神を扱えないからと言って、そこに聖書の神とは異なる別の神を作り出し、フィクションの宗教を作ったりすることは、もっと忌むべき試みであるものと思う。

そのようなわけで、架空の物語には、その物語の世界観の基礎となるべき思想がなく、それゆえ、どんなにプロットに重みを持たせようとしても、中心となる柱が欠けているため、最も主張したい重要な事実に、裏づけがなくなり、主張が消し飛んでしまうと分かり、それ以後、筆者は小説を書くことを放棄した。

この他にも、以前にはそれなりに本を読んでいたが、興味もなくなり、読めなくなってしまったという変化も起きた。感情や感覚をいたずらに刺激する文学的修辞が、物事の本質からいかにかけ離れているかが分かり、受けつけられなくなったのである。

人間の感情や感覚を刺激する描写や表現は、たとえそれが文字で書かれた文章であったとしても、ある種の悪魔的な性質としての肉の働きを含んでおり、それに没入するならば、本人を全く意図していない方向へと導く。文学的修辞は、堕落した魂の世界に属するものであり、それを通して、様々な悪しき思いが人間の心へ入り込むきっかけを作り出す。

聖書には、霊的な文脈はあるが、文学的修辞はない。聖書は人間の使う言語を用いて書かれているとはいえ、文学的修辞のような、魂に働きかける言語によって書かれたものではないのである。

以前に、筆者は、当ブログにも度々引用しているオリーブ園クリスチャン古典ライブラリーに掲載されている記事の中で、クリストフ・ブルームハルトや、セス・リースのような、ペンテコステ系の指導者の記事だけは、どうにもいただけないと疑問符を投げかけたことがあった。その理由は、こうしたペンテコステ・カリスマ運動の指導者らの記事の文章が、霊的文脈でなく、まさに通常の小説などと同じ、文学的手法を用いて書かれているためである。(それゆえ筆者自身はこれらの記事を一部を除いてほとんど読んでいない。)
 
文学的修辞は、人間の感情や感覚を揺さぶる力を持っているが、それはあくまで人間の天然の魂に働きかける力であって、霊的文脈ではない。人間の道徳観も同じである。どんなに正しい主張のように聞こえても、魂から生まれる道徳論は、神の霊的な事実とは一致しない。それゆえ、ペンテコステ・カリスマ運動の指導者の書いた記事は、どんなに霊的内容を装っていても、オースチン-スパークスやペン-ルイスなどの文章とは全く異質な別の動機によって書かれたものであると、筆者は判断せざるを得なかったのである。(このことは、オリーブ園の著者が行っている膨大な手間暇をかけた翻訳作業を筆者が評価しないという意味では全くないため、誤解しないようにしてもらいたい。いかなる人の発表したいかなる内容であれ、読者は自分自身で識別しなければならないことを述べているだけである。)
 
そうした判断に基づき、オースチン-スパークスのような霊的先人たちの主張と、ペンテコステ・カリスマ運動のような「霊的ムーブメント」とが、どのように異なるのかを追っていくと、両者は、全く源流を異にする別の霊的運動だという事実が見えて来る。そして、一体、ペンテコステ・カリスマ運動の起源は何かということを調べて行くと、これは聖書とは全く異なる東洋思想をキリスト教と合体させて出来た異端で、その本質はグノーシス主義だということが分かるのである。

「霊的」と言われているからと言って、すべてが御霊から来たものではなく、グノーシス主義のように、「肉のものを御霊のものに見せかける」トリックが存在するため、この点を見分けることができなければ、熱心なクリスチャンほど欺かれる危険がある。なぜなら、熱心なクリスチャンには、霊的な信者になりたいという真剣な熱意があるので、真理への渇望、探究という点で、怠惰なクリスチャンとは比較にならないからだ。そして、そのような熱心さにつけこんで、「あなたはかれこれの教えを受ければ、もっと霊的になって、神に近付けますよ」という甘い誘い文句で、信者を欺くのがグノーシス主義の特徴であるため、注意しなければならない。その偽りを見分けるためには、霊の偽物が存在することを理解した上で、異端の基礎構造を把握して備えておく必要がある。ちなみに、霊を識別することは、聖書が信者たちにはっきりと信者に呼びかけている事柄である。

「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。」(Ⅰヨハネ4:1-3)

以上の短い御言葉を読んだだけでも、イエス・キリストを証せず、人間を証し、聖書を軽んじるカルト被害者救済活動が、神の霊から来た活動でないことは明白である。だとすれば、その運動はどこから来たのか。悪魔から以外にはあり得ないだろう。ではなぜ彼らは自分たちはグノーシス主義者ではないと言っているのか? ただ嘘をついているだけである。

我々には、ある人の主張の背後に存在する霊の性質を見分けるに当たり、その人の書いた文章以外に手がかりとなるものはない。そこで、ある主張が、本当に神の聖霊から来たものであるかどうかを確かめる有力な手がかりは、聖書の御言葉と対比することである。だが、もっと簡単に見分けるポイントをあげるなら、それは前々から書いているように、「キリストに栄光を帰しているのか、それとも、人間に栄光を帰しているのか」という違いに注目することだ。御霊はイエスを証しし、イエスに栄光を帰する。それをせず、人間を証し、人間に栄光を帰する霊は、キリストの御霊ではない。

イエスは言われた、「もし、わたしが自分自身について証しするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証は真実であることを、わたしは知っている。」(ヨハネ5:31-32)

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。」(ヨハネ16:13-15)


ペンテコステ・カリスマ運動がいかがわしい偽物の霊的運動だとはっきり言えるのも、この点によるのであり、この運動は必ずと言っていいほど、人間の指導者に栄光を帰する。彼らは人間に過ぎない指導者を、偉大な霊の器として誉めたたえ、いかにその指導者が数々の奇跡的な偉業を成し遂げたかという話に夢中になる。この類の話は、イエスを人間が栄光を受けるための手段に変えてしまっており、その「証」の内容も、ほとんどがサンダー・シングと全く変わらない奇跡物語である。それゆえ、どこからの時点で、死者の霊との語らいというテーマも出て来るであろう。なぜなら、悪魔的な思想は、死、黄泉、墓、死者の霊などに異常なほどの愛着を持っているためである。

繰り返すが、キリストから来た御霊は、キリストを証する。そしてキリストに栄光を帰する。しかし、堕落した被造物としての人間(悪魔)から来る霊は、人間自身を証し、人間に栄光を与えようとする。前者がキリスト教の正しいあり方で、後者は被造物を神とするグノーシス主義の特徴である。そこで、以上の御言葉のリトマス試験紙により、9割程度の主張の出所が明らかになる。それでも分からないものがあれば、さらなる検証が必要である。

さて、自分たちはグノーシス主義者ではないと言って、筆者の論に反対しているカルト被害者救済活動の支持者らが、イエス・キリストを証しせず、聖書の完全な真実性を認めず、クリスチャンや神の教会を迫害し、嘘とデタラメを終わりなく並べ、筆者のようなクリスチャンが聖書を捨てるべきだとまで主張していることは、思わず笑ってしまうほどの自己矛盾であり、荒唐無稽かつ愚劣な主張である。こうも支離滅裂な主張になって来ると、もはや精神の異常さえ疑われるレベルに達していると言われるのも当然であろう。

偽りの霊性がその醜い本性を赤裸々に表すのは、彼らの思想の展開が最後の段階になってからのことである。悪魔が光の天使を装うように、般若(グノーシス)は、最初は涅槃の姿をして近づいて来るのであって、その真の顔が、般若の(鬼の)面であることは、最初から示されるわけではない。現に三島もそうであった。三島が肉体を鍛え、明るい太陽の下で、人々と楽しく交流し、人生を謳歌していたように見えた時、彼は人々から見れば、涅槃に生きているようにしか見えず、まさか彼がまっしぐらに死へ向かっているのだとは、皆に思いもかけなかったであろう。彼には妻もあれば、子供たちもいたのである。その上、才能もあった。死ななければならない理由は、彼の思想に着目する以外には、どこにも見いだせなかった。

今日も、同じように、何の問題もなく人生を謳歌して安楽に生きているように見える人々の心に、御言葉という見えない霊的法則性の物差しを当てはめるなら、まるで数学の方程式を解くように、彼らの向かう先がどこであるか、その目的地をほとんど狂いなく正確に導き出すことができる。

ノアが嘲りの只中で箱舟建設の作業を進めていた時、人々は飲んだり、食べたり、娶ったり、嫁いだりして、己の欲望に邁進していた。人々は、ノアがそうした事柄に関わろうとせず、人々の振る舞いに賛同も賞賛もしないのを見て、最初はいぶかしみ、次に忠告し、彼を何とかして世に引き戻そうと試み、それがかなわないと見るや、何という変人かと呆れ、ノアはきっと偏屈なカルト信者に違いないと決めつけて、嘲りと妨害に転じたことであろう。箱舟建設に妨害は起きなかったと思う方が安易すぎる。

ロトの時代もやはりそれと同じであった。ソドムの住人は己の欲のゆえに途方もなく凶暴化しており、ロトの家に滞在した御使いたちの引き渡しを求めて、ロトの家に群衆となって殺到し、押し入ろうとさえした。だが、神はロトの家族を守ることを決めておられ、実際に彼らを守られたのである。ただロトの妻だけが、ソドムの欲に引かれ、脱出の途上で後ろを振り返って帰らぬ人となった。ソドムの凶暴化した住人たちは、当然ながら、一人残らず滅ぼされた。そこには加害者も被害者もなかった。ロトの家族を除いて、全員が滅ぼされたのである。

今、見えない箱舟建設の作業は着々と進んでいる最中であり、これを嘲っている人々は、ただ自分たちに差し迫っている滅びが見えないだけである。彼らは自分が何からエクソダスせねばならないかも分かっておらず、神と聖霊に執拗に言い逆らって、自分たちが二度と後戻りできないように、信仰の道を自ら閉鎖している。まもなく、彼らは、御使いたちを憎悪して引き渡しを求めたソドムの住人たちのように、自らの憎悪を、被造物ではなく、創造主に直接、向けるようになるだろう。通常の常識のあるクリスチャンが、彼らの境遇に置かれれば、自分たちを待ち受けている滅びの運命が、あまりに恐ろしいことに気づき、とうに嘲りとディスカウントの鏡を捨て去って、真心から悔い改めて神に立ち戻っていたことだろう。神が彼らの心をこれほど頑なにされたのである。恐るべき霊的盲目性と言うほかない。それは彼らが悔い改めて神に立ち返る道が閉ざされるためである。神はご自分が憐れもうとする者を憐れみ、心頑なにしようと思う者を頑なにされるからである。

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。<略>自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:26-33)

「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」(マタイ24:36-39)
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牧師や教職者を特権階級とする制度は教会を絶対的に腐敗させる~バアルにひざをかがめない七千人の登場を待つ~

さて、いよいよグノーシス主義に関する最後のテーマに近づいて来たが、そのテーマに入る前に、もう一度、牧師制度が根本から誤っていることについて書いておきたい。

牧師制度の根本的な誤りについて書くと読者が激減する。今は当ブログを訪れる読者の数多くが検索結果の操作のための工作員という有様なので、さわやか読者が減っているならば、良いことである。

不思議なことに、アクセス履歴がどうあれ、ここで論じた話題は電撃のごとく伝わって行く。まるで閉塞した全体主義社会のようなキリスト教界において、はっきりものを言う人は極めて少ないため、影響力は少なからずあると見られる。

さて、ネットにブログを開設したり、コメントの投稿を行っている人々は読者のうちのほんの一部で、残りの8~9割はネット上ではほとんど発言しない人々である。だが、筆者が読者とみなしているのは、もの言わぬ人たちである。

日本のクリスチャン人口は1%を横這いしていると言われるが、それは統計が取られた時点で、どこかの教会に所属している人たちを指し、実際にはその何倍、何十倍もの、教会に属さない”隠れキリシタン”のような人たちが存在すると思われる。1%は入れ替わりの結果だからだ。

選挙では、無党派層が動けば、政権交代など簡単だと言われているのと同じように、以上のように教会から打ち捨てられて、統計にも挙がらず、ひっそりと個人的に信仰を守る”ドロップアウト組”のクリスチャンが動くことがあれば、キリスト教界をめぐる状況はあっさりと変わるだろうと思う。

牧師制度の前に跪拝しない、「バアルにひざをかがめない七千人」が必ず残されていることを筆者は信じる。
 
さて、「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久なる人物の誤りは、プロテスタントの諸教会の誤りを現象面だけで取り沙汰し、教義面で深く考察することをほとんどしなかったがために、ペンテコステ・カリスマ運動の根本的な誤りに気づくことなく、これと訣別もしなかったことである。さらに、それに加えて、数々の牧師を批判しながらも、牧師制度そのものが根本的に誤っていることに気づかず、牧師制度こそ、諸教会に様々なスキャンダルが引き起こされる最たる原因であるということを見失ったまま、教会バッシングに走った点にある。
 
だが、以前にも書いたように、杉本は当初はプロテスタントのあらゆる牧師に対して否定的な態度を取っており、村上密についても「全く信用していない」と断言し、活動を支援しない立場を取っていた。筆者から見れば、そのままの立場を貫けば良かったのである。

ところが、杉本は村上密から、早速、自分が村上について書いた否定的な見解にクレームをつけられた際、おそらく、水面下で、「あなたは思い込みだけで私を非難している。私(村上)は命がけでカルトと戦い、被害者を救済しようとしているのに、あなたは私の働きを否定して、被害者を見殺しにするつもりか」と責められたのだろう(そう考えるのは、村上が当ブログにクレームをつけた際に、まさにそういう理屈を用いているからである)。それを機に、杉本はあっさりと立場を翻し、前言を撤回して、ほとんど謝罪文のような文章をブログに記して、村上陣営に下って行った。

だが、杉本は過去にアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会を見放して、そこを去った経緯があったわけだから、その時に得た自分の個人的な直観を尊重すべきであった。おそらく、それまでの杉本の心の中には、何らかの体験を基に、聖霊派の教団は一切信用できず、そこにいる牧師も信用できないという直観があったのではないかと思われる。

それにも関わらず、杉本は「自分が他人にどう見られているか」という体裁にこだわるあまり、自分が体験を通して得た貴重な教訓を尊重せず、自分がかねてよりプロテスタントの教会(特に聖霊派)に対して持っていた不信感を捨て、世間からの評価を失うことを恐れて、村上のクレームに屈してしまったのである。

杉本は、村上の人物が信用できずとも、とにかくカルト被害者だけは支援しなければならないという義務感に駆られて、村上に降伏宣言をし、それを機に、自分の見解をどんどん失って行ったものと考えられる。
 
そのようなことになったのは、杉本がもともとブログにおいて、自分自身の心の問題と真正面から向き合っていなかったためでもある。杉本は、自分が一体、なぜカルト問題に関心を寄せており、カルト被害者に同情しているのか、自分自身が聖霊派の教会で受けた負の体験や心の傷と、真正面から向き合いながら、その問題を解くことを避け、自分自身の問題はすうかり脇に置いて、他のカルト被害者のことだけを論じており、そのようにして自分自身の問題を軽んじるうちに、以上のように、自分が個人的な人生で体得して来た教訓や直観すらも軽んじるようになったのである。

杉本は、神の御前で、自分が教会に対して持っている恨みや憎しみはどこから来るのか、その負の感情を正直に告白して、自分自身の心の癒しを求め、さらに、神の望まれる真実な教会の姿を求めることで、真理に立ち返る作業をしなかったのである。そうして自分自身が不在のまま、他者の問題にばかり没入して行った結果、村上密のような人間が現れた際、「カルト被害者を見捨てるのか」という問いをきっかけに、自分をあっさりまるごと村上に奪われてしまったのである。
  
ご存知の通り、それ以降の杉本の歩みは、すっかり村上密にマインドコントロールされたものとなり、聖書の御言葉の真実性を追求することや、神が満足される教会の姿を追求することなど二の次となり、ただカルト被害者の面目が傷つけられないことだけを優先するものとなった。

その後の杉本ブログは、牧師制度を批判することもなく、村上の親族である津村牧師の不祥事などは一切、取り上げることもせず、ただ村上サイドに取ってのみ都合の良い、偏った情報を延々と流し続けて、村上の活動を礼賛し、村上の政敵を貶めるための情報を発表してバッシングを加えるだけの、公平性のかけらもないメディアになり下がってしまった。自分自身の主体的考察も失い、事実上、村上密の活動のための宣伝広報係になってしまったのである。

その挙句、今となっては、杉本は村上が吹き込んだ嘘の情報を次々と公に発表し続けて来たことの責任を、一身に押しつけられ、罪にまで問われている。

だが、前々から当ブログで書いている通り、こうして自ら他人の奴隷となって、自分の考察や見解を放棄した杉本の責任は重く、また、彼がいかにクリスチャンを名乗っていても、信仰を持つ神の民でないことも確かであり、杉本ブログが嘘の温床になったことは確かであるとはいえ、だからと言って、杉本の言うことが、何から何まで100%嘘というわけではない。

敵の欺きの方法は常に真実の中に嘘を混ぜ込むというものであるから、我々は、何が真実であり、何が虚偽であるのかを鋭く切り分け、決して枝葉末節に注意を逸らされることなく、真に重要なテーマを見分けねばならない。
 
ここで最も重要なことは、教会関係者へのバッシングや、スキャンダルの細部に関する論争に明け暮れることによって、本質的な敵を見誤らないことである。

すなわち、プロテスタントの牧師制度が根本的に誤っていること、牧師制度は人間の欲望が生み出した反聖書的な制度であり、教会に生じたすべての忌むべきスキャンダルの発生源はこの悪しき制度と密接につながっているという事実を見逃さないことである。

(*筆者はここで、牧師だけが特別に悪い人種だとか、牧師制度を撤廃すれば、教会は天国になるなどと言っているのではない。ただ、牧師制度はグノーシス主義的被造物崇拝の教えであり、要するに、信徒らが自分の欲望を宗教指導者に投影した結果として生まれるものであるから、牧師は信徒らの欲望の化身であり、そのようなものを尊んでいる限り、教会の腐敗は終わらないと述べているのである。

牧師制度という悪しき制度については、牧師と信徒の双方に責任があり、牧師が罪深いだけでなく、牧師を担ぎ上げた信徒の罪も同様に重いの言うまでもない。人間の悪しき欲望がこうした現人神崇拝を作り出しているのであるから、牧師だけを非難して終われるような問題ではないのである。)
 
杉本ブログが出現した時点で、牧師制度はその悪しき本質を露わにし、すでに終焉を迎えつつあったと言えよう。その上、その後、当ブログが出現し、「カルト化教会の牧師をやっつける正義の味方」として活動していた村上密や、キリスト教界を公然と批判していたDr.Lukeの主張の欺瞞性を明らかにしたことにより、「牧師が牧師をやっつけることで、キリスト教界を浄化する」という活動も、プロレスごっこと呼んで差し支えない茶番劇であり、完全な欺瞞であることが明らかとなり、こうして、一部の牧師だけを悪者として排除することによって、牧師制度そのものは温存できるとする見解が誤っていることが明るみに出されたのである。

結局、自らが牧師でありながら、他の牧師の悪事だけを非難している人々は、自分自身が非難している対象と、同じ穴の貉であるか、より一層の深い闇でしかない。もちろん、それは村上密やDr.Lukeについて当てはまるだけでなく、「キリスト教界から出なさい、牧師制度は間違っています」と教えながら、どの牧師よりもさらに強力な「牧師」のような統率者となって集会全体をコントロールしているゴットホルト・ベックという人物にも当てはまる。

ところで、もしも機会があるならば、吉祥寺キリスト集会を見学してみるのは興味深いことである。なぜなら、聖霊派のどの教団も及ばないほどの広がりがこの集会にはあるためだ。しかも、それが組織化されずに全国各地に地方集会として拡散し、機能している様子を見るのは驚くべきことである。

御代田のセンターに行き、どれほどの数の信徒が費用の負担も惜しまず、嬉々として全国から自然に集まって来るか、すべての催しがどれほど自主的な協力のもとに構成され、平和裡に遂行されるか、一度でも見物すれば、驚きにとらわれるであろう。これは聖霊派の牧師などが見れば、さぞかし悔しがるに違いない光景である。そこには一見すると、強制された、人工的な要素がなく、これほどの規模で集会を動かしていたリーダーを、筆者は他に見たことがない。動かされる献金額も全く考えられないほどの規模に達しているはずである。

しかも、この集会では、信徒らの学歴と社会層が高いために、聖霊派の教団で起こるような低レベルの混乱は起きない。もともと平和的な性格で、争いを嫌う団体のため、筆者がここでこの集会に対する批判的な意見を書き記したからと言って、早速、目くじらを立てて、筆者を引きずりおろしてやろうなどと敵愾心を燃やし、検索結果の操作にいそしんだり、2ちゃんねるに投稿を繰り返すような信者は一人もいない。前にも書いた通り、戦後の開拓期を思わせる、純朴な羊のような信徒の群れである。

それは体験としては非常に興味深いものであった。(むろん、当時の話であるが。)だが、だからと言って、そのように一人の強力なリーダーの意志のもとに推進される集会が、正しいものであるとは、筆者は一切考えていない。そして、やはりいかに自主的に運営されているように見えたとしても、その集会には、目に見えないヒエラルキーがれっきとして存在し、年功序列などの、聖書に照らし合わせて、決して正しいと認めることのできない序列があった。

彼らが「権威と服従」として受け入れているそのヒエラルキーが、決して聖書に基づく正しい考えであるとはみなせないことは、すでにこれまでの記事で解説して来た通りである。我々はただ羊のように従順であるだけではいけない。宗教指導者に盲信的に従ってさえいれば安全だということは決してなく、何が正しく何が間違った教えであるかを自分自身で吟味することを、信徒は決してやめてはいけない。

しかし、筆者はその団体で、あたかも兄弟たちと対立して、挫折して去ったかのように虚偽の情報を言いふらされることを嫌ったため、集会を離れる前、最後にわざわざベック氏のもとへ行き、「ベック兄は、毎週、日曜日に必ず礼拝に来なければ、クリスチャン生活を維持できないなどとは決しておっしゃいませんよね?」と質問して、肯定的な返事を得て、いわば指導者本人から、言質を取るようにして、集会を離れ去ることの許可を得たのであった。

ベック氏は、筆者の質問に対し、毎日曜、集会に参加することは決して義務として信徒に強制されるべきことではなく、集会に来なかったからと言って、信仰がなくなることは決してないので安心して良いと返答した(それが証拠に、吉祥寺集会のホームページには「出入り自由」と書いてある)。

ちなみに、筆者はこの集会において一度もベック氏と対立したことはない。ベック氏の本質については、以下に記すように、この集会を離れた後で、大勢の人々から話を聞いたが、筆者自身が相手の正体を暴露するような行動に出てたり、挑戦的な行動を取ったことは一度もない。ベック氏は筆者に対して常に温和であった。確かに「理想的な父」のように振る舞っていた。

だが、だからこそ、その優しい外見が真実であったとは、筆者は少しも考えていないのである。別にわざわざ正体を暴露しようなどと考えて挑戦的に振る舞わなくとも、こうして信徒らの心を支配する数々の美談や「神話」が作り出されている様子を見ただけで、それが嘘であることは十分に分かる。
  
そうした「神話」が本当であったらどれほど良いだろうかという思いが、筆者に全く起きなかったわけではない。特に、その集会において、両親ほどの年齢の兄弟姉妹に厚遇され、彼らが両脇から筆者を挟んで席に着き、筆者を家族の一員のようにもてなし、様々な場所へ案内し、一緒に寝泊りし、祈り、讃美歌を歌ったりしていた瞬間には、もしも筆者がクリスチャンホームに生まれてさえいたならば、こういう体験がきっと幼い頃から日常的にあったに違いないと、感慨深い思いがした。

筆者の家庭は、すでに書いたように、筆者が生まれた時から、父はクリスチャンでなく、教会とも信仰とも無縁であり、それゆえ、筆者の一家は一度たりとも家族が揃って教会に通ったことはなく、両親の間でも、常に宗教観が異なるために思想的対立があり、それゆえ、子供時代から、筆者は、相当な寂しさや孤独を味わって来たものである。
 
神を信じたことと引き換えに、いわば、筆者は両親からの愛を失ってしまったと言っても過言ではない状態に置かれ、信仰をめぐって家庭内で絶えざる対立が引き起こされていたために、苦しい思いをしたものである。(だからこそ、杉本が、筆者の両親が共に教会へ通ったかのように書いている偽りは、特に許し難いと言えるのである。)

だが、どんなにベック集会の兄弟姉妹が、両親を思わせるような人々であって、筆者が子供時代に家庭内で味わった孤独感を埋め合わせるかのように行動したとしても、彼らは決して筆者の実際の両親でないだけに、そのような「理想的クリスチャンホームの像」とでも呼ぶべき関係は、やはり「フィクション」でしかないことが痛感された。そのような「美しい幻」を維持するためには厳しいコストが必要となり、それを現実であるかのように信じれば、苦い結末が待っている。

何よりも、筆者は神を信じることにより、キリストの十字架を通して、肉による絆から解放されたのである。十字架を通して、生まれながらの肉によるすべての関係に対して死に、生まれ落ちた家庭に対しても死んだのであるから、筆者のなすべきことは、自分が召されて出て来た家庭を振り返ることでもなければ、それと類似した「疑似家族」を打ち立てることによって、幼い頃に得られなかった満足を追い求めることでもない。

そして、実際に、肉による家族関係が、そのまま神の家族関係になることは決してない。にも関わらず、その集会が、肉による家族関係を集会に取り込むことで、それがあたかも神の家族となりうるかのように強調していることには、大きな問題があった。

そこで、以下に書くような事件をきっかけに、「麗しい幻想」が壊されたことは、筆者にとって、まことに良いことだったのである。

現在、筆者があたかもゴットホルト・ベック氏の集会で、他の兄弟姉妹と対立したがゆえに、そこを去ったかのように虚偽を言いふらしている情報源は、唐沢治ではあっても、ベック集会の兄弟姉妹ではない。(杉本は唐沢の言い分を真に受けて受け売りしているだけである。)

唐沢治はこの集会について何も知らない。よって初めからこのことについて証言などできる立場になく、ただ身勝手な推測に基づく虚偽を言いふらしているだけである。

さて、筆者がその集会を離れる最大のきっかけとなったのは、筆者がMr.Sugarをその集会に案内したことであった。Mr.Sugarとは、ローカルチャーチ時代からの唐沢治の長年の知己であり、兄貴分と言って良い存在である。

そのMr.Sugarが、ウォッチマン・ニーに造詣の深い上記の集会において、ウォッチマン・ニーの権威であるように振る舞い、ニーに傾倒している他の信者たちの間で信用を得た上、筆者の悪口を広め始め、兄弟姉妹との仲を引き裂いたことが、筆者が集会を離れる直接的な原因となったのであった。

おそらくMr.Sugarは、そのようなつもりは一切なかったと弁明するであろうが、実際には、筆者が知っている限り、Mr.Sugarには、どんな集会に行っても、自分がそこで中心人物として指導的立場に立って、他の兄弟姉妹たちに説教を始めてしまうという欠点があった。

長年、ローカルチャーチで長老的な存在をつとめたことの結果、そうした態度が身に着いたのであろう。Mr.Sugarはどのような集会においても、他の兄弟姉妹と対等な立場に立つことはなく、教職者然と人を教えるリーダーになってしまうのである。これはDr.Lukeと極めてよく似た欠点であると言えよう。

さらに、Mr.Sugarには、温厚で優しいカウンセラーのような役割を演じつつ(むろん、それが演技であるという認識は本人にはない)、様々な信徒の相談に乗って、心の弱みを探り出した挙句、それを簡単に言いふらしてしまうという欠点があった。

Mr.Sugarはおそらく自分は他の信者らの弱点をよく知っており、それを克服するために手助けをしているという文脈で、信徒らの弱点に言及していたのであろうが、いずれにしても、あまりにも簡単に信者らの失敗談や欠点を、他の人々に向かって赤裸々に語ってしまうのである(病的な噂好きと口の軽さという点では、村上密ともよく似ているだろう)。
 
筆者がMr.Sugarを以上の集会に案内したにも関わらず、筆者に関する否定的な見解をMr.Sugarが他の兄弟姉妹に広めていることを、筆者は兄弟姉妹から聞かされ、しかも、兄弟姉妹がSugar氏に心酔するあまり、その言い分を信じ始めていることが分かった際、筆者はそれを機に、その集会をすっかり離れ去る決意を固めた。だが、集会を離れることで誰かから断罪されたりいわれのない誤解を受けることがないよう、ベック氏のもとへ行き、指導者自身から許可と言える言葉をもらった。

筆者はそうしてその集会を去った後、何が起きるのか観察して見ることにした。もしもMr.Sugarが正しいのであれば、彼は集会に残り、他の兄弟姉妹とうまくやって行けるであろう。だが、いつも自分がリーダーにならずにいられないMr.Sugarが、果たして、ベック氏を頂点とする集会に定着できるとはとても思えなかった。そこで、Mr.Sugarは必ず、どこかの時点で、ベック氏を崇拝することの誤りを兄弟たちに向かって説き、兄弟たちをこの集会から引きはがして、自分の影響力の下に置こうとして、それを機に、他の兄弟姉妹から関わりを絶たれるだろうと筆者は考えた。そして事実、そうなったのである。

だが、筆者とMr.Sugarとの縁はそれで終わりにはならなかった。次にしばらく年月が経ってから、コンタクトを取った際、Mr.Sugarは反ベック集会(ベック氏を批判して分裂した群れ)の只中にいた。そして、Mr.Sugarは「ベック集会がどんな風に誤っているか、この人々から詳しく聞いたので、あなたにも確かめてもらいたい」と筆者に向かって述べたので、筆者は今度はMr.Sugarの案内で、反ベック集会を訪れ、ゴットホルト・ベック氏について何が言われているのかを直接、彼らの口から聞いた。

Mr.Sugarは、ベック集会以上の正しい集会を見つけ、筆者をそこに導いたと考えていたのかも知れないが、筆者は、その集会に連続して通おうという気にはならなかった。なぜなら、その集会は、吉祥寺キリスト集会の影のようなものでしかなかったからである。

さらに、Mr.Sugarがその集会でメッセンジャーとなって人前で説教していることを知って、筆者は心の底から呆れた。なぜなら、Mr.Sugarこそ、筆者の前で、メッセンジャー(御言葉を取り継ぐ教師)となって、キリストになり代わって他の兄弟姉妹の心を支配し、人前に栄光を受けることの忌まわしさを、嫌というほど語った本人だったからである。

そこで、筆者はMr.Sugarに向かって、彼のしていることは自己矛盾であると述べ、Mr.Sugarがメッセージを語っている集会に行くつもりもない旨を告げた。だが、筆者はこの集会の人々がベック氏について述べたことは、本当であると考えている。そもそもベック氏について作り上げられている美談は、もはや「神話」と呼んで良い類のものであり、額面通りに信ずべき内容ではなかった。

Mr.Sugarは相変わらず、自分がこの集会に残ってメッセージを語り続ければ、人々の目を開かせることができると考え、そうすることに関心があったようだが、筆者は決して、そのようなことが人助けであるとは考えていない。
 
筆者から見れば、Mr.Sugarのしていることは、ペンテコステ・カリスマ運動の信者と同じなのである。すでに出来上がった土台を有する他の集会に入り込み、もしくはその群れから脱落しかかっている信徒を探し出し、彼らを「さらなる真理に目を開かせる」という口実でスカウトしては、自分自身の支配下・影響下に置こうとしていく。

Mr.Sugarは離散している信徒らの群れに特別な関心があり、彼らが個人的に開いている家庭集会を見つけては、交わりの中で信任を得て、定期的に集会を持つようになる。それだけならば、それは離散している群れなので、信者の強奪にも当たらず、非難されるべきことはないだろう。しかし、一度でも、そうした集会の中で、Mr.Sugarに対して何かしらの批判的な言葉を発すれば、その結果、一斉に集会全体が拒否反応を示すことになるので、それが完全にMr.Sugarの意志でコントロールされていることが分かる。

筆者が言えることは、「あなたが知っているよりも、さらに深い真理を私は知っており、私はそれをあなたに教えることで、あなたを色々な問題から助けてあげたい」と述べて、親切心を装いながら近づいて来て、信徒らの心をキリストから奪い去り、自分自身に向けさせる人々は要注意だということである。

そうしたやり方は、まさに悪魔が人間を「啓蒙」しようとして近づいて来たやり方にそっくりであり、そのささやきに耳を貸せば、真理を追求しているつもりでも、途中から人間に関心を逸らされ、依存して行くことは避けられない。
 
筆者はMr.Sugarから学んだことが数多くあったことは否定しない。KFCを出たときにも、あるいは2009年に横浜に来た時点でも、Dr.Lukeの危険性を、筆者に誰よりも説いて聞かせたのは、Mr.Sugarであった。
 
Mr.Sugarは2009年に筆者が横浜へ来た当初から「KFCはバビロンである」と断言しており、この集会のいかに危険であるかを切々と説き、Dr.Lukeの二重性を帯びた人柄について深く憂慮していた。だが、筆者から見たMr.Sugarの心理的弱点は、人と直接ぶつかることを恐れる余り、決して自分の本心を直接相手に告げて、耳の痛い忠告をしないことであった。喧嘩や対立を恐れるあまり、本人に向かって直接言うべきことを、第三者に語るので、それはただの悪口になってしまうのである。

当時、Mr.SugarもDr.Lukeと同じように「リーダーのいない兄弟姉妹の群れ」を追求していたが、それにも関わらず、自分自身がリーダーになってしまうところに、二人のどうしようもない自己矛盾があったと言える。

Mr.Sugarは牧師を名乗ったことは一度もないが、結局、自分が教師となって他の信徒らの心を自分自身に向けさせ、説教者となって信徒らの心を支配してしまう時点で、牧師も同然の存在であった。また、他の群れから信者をスカウトすることによって、自分の群れを形成しようとするところにも、非常に大きな問題点があったと言えよう。

筆者は、ローカルチャーチを出たこの二人の人物から、聖霊派では決して知ることのできなかった真理についての証言を聞かされ、そこに神の采配があったことを疑わないが、ローカルチャーチを経由しているがゆえに、この二人のふるまいには、決して油断できない二重性があったことも確かであるものと思う。

我々は、ある日、誰かから、これまでに聞いたことのないような、御言葉に関する優れた解釈を聞かされたり、ある交わりの中で、大きな真理が開かれるのを見ることがあるかも知れない。だが、そのような奇跡的な出来事が起きたからと言って、決してその集会を賛美したり、特定の人間を師のように仰いだりすべきではない。

仮にどんなに優れた兄弟姉妹と出会ったと感じることがあったとしても、真理については、ただキリストご自身から学ぶという立場を貫き通すべきであり、人間から教えを受けたかのような態度を取るべきではない。聖書の御言葉について重要な真理を学ぶきっかけを得たというだけの理由で、目に見える人間につき従って行って、彼らの人間的な弱さに巻き込まれたりすべきでもない。

そこで、真理に関する知識を、あたかも自分たちが独占的に握っているかのように振る舞うことで、福音を手段として人の心を支配し、人前に栄光を受けようとしている人たちには、よくよく注意しなければならない。
  
さて、話を戻せば、今や牧師制度が信頼失墜し、新たな時代の到来が待ち望まれているのは明白である。にも関わらず、未だそうした事実を見ずして、牧師を批判する信徒が現れると、その信者だけにすべての問題があってそうなったかのように決めつけ、信徒に対するネガティブ・キャンペーンにいそしんでいる人々がいる。

彼らは牧師制度を維持したいがために、プロパガンダをしているのである。そういうことをしている面々は、決まって宗教指導者であるか、もしくは特定の牧師の手先のように行動している信者だけである。

先の記事で挙げた杉本のメールでは、ベルシープ伝道所の牧師を名乗っている坂井能大とKFCのDr.Lukeについての記述があった。むろん、先に指摘した通り、他人へ宛てたメールの中で、第三者に対する証拠のない悪口を書き記すことは(悪口だけでなく虚偽の情報であっても)、罪に問われてもかしくない違法行為であるから、杉本はそのような行為をやめるべきである。

だが、そこで杉本が言わんとしていることの中には、見逃せない事実もある。なぜなら、そこで示唆されているのは、「坂井は唐沢から事実を知らされておらず、唐沢に騙されて焚き付けられただけだ」とする筆者の見解は甘く、坂井と唐沢は初めから確信犯的なグルであって、坂井は唐沢の正体を十分に知りながら、唐沢の罪にはそしらぬ顔をして、筆者の名を無断で使用することにより、大いに空騒ぎを起こして、筆者に害を及ぼしているだけで、そこにはいかなる善意もありはしないということだからである。

杉本のこうした指摘に対して、坂井が今後、どう反応するかは、一つの試金石になると言えよう。何しろ、唐沢と坂井は筆者のメールを無断で裁判に提出したくらいなので、他人のメールを裁判の証拠にすることにはためらいがないはずだ。当ブログで公開している杉本のメールなどは証拠として使用しても、違法行為にも該当せず、罪にも問われはしない。

そこで、この先、坂井が個人的に杉本の主張に論拠を示して抗議し、杉本を訴えるようなことがあれば、杉本の言うことは嘘だったと公然と立証される。だが、それがなければ、結局、杉本の言い分が結果として残るのである。

しかしながら、我々は、坂井が杉本を訴えるかどうかをわざわざ時間をかけて観察せずとも、坂井の本当の敵が、初めから杉本ではなく、そこには、唐沢の場合と全く同様の、信徒を貶めようとする意図しかなかったであろうことを十分に察知できる。

坂井が杉本に対立しているかのように振る舞って来たのは、唐沢と同様に、全くうわべだけのポーズなのであり、その挑発行為の真の目的は、杉本を焚き付けて、自分たちに不都合な信徒を攻撃させて、信徒を争いの中に引きずり込み、破滅させることにあったのだと十分に推測できるのである。

坂井は、杉本を憤激させて筆者を攻撃させるためにこそ、筆者の名を全面に押し出して、杉本を挑発した可能性が限りなく高い。そもそも、坂井が筆者とは一面識もないのに、筆者がブログを閉じていた間にも、筆者のブログの記述を大いに利用して、杉本に対する挑戦的な騒ぎを拡大していたこと自体が、「簒奪の模倣」に該当する。

つまり、ここにも、ペンテコステ・カリスマ運動に影響を受けた人々が常に、自分以外の信者の意志や許可をよそにして、本人に無断で本人の名を騙ってなりすましたり、まるで自分こそ、その人間の代弁者であるかのように勝手に名乗り出て、ターゲットとする人物の存在をことごとく「流出」させて、信者の弱点を言いふらして印象操作を行ったり、人間関係を分裂させて壊したりして、神に属する民を傷つけ、冒涜し、害を加えることをやめられないという悪しき性癖を見ることが出来るのである。

何のために彼らはそんなことをするのだろうか? それは第一に信徒を辱める目的と、第二に、牧師階級を守る目的のためである。坂井や唐沢は、ただ気に入らない信徒をおもちゃにして害を加えて楽しんでいるだけでなく、牧師制度の罪を告発し、この制度の撤廃を訴え、自分たちが特権階級として属しているヒエラルキーを否定するような信徒に集団で制裁を加え、破滅させて口を封じようとしているだけである。

現在、まさにそうした筋書きが進行中で、坂井は自らの主張の正当性を、裁判でも立証できずに杉本に敗れ、その馬鹿馬鹿しい挑発行為のとばっちりが、無関係な筆者に不当に呼んでいる。

筆者は2ちゃんねるにコメント投稿したこともなく、坂井を焚き付けた過去もなく、坂井とメールの一通すらも交わしたことなく、裁判が行われた事実も知らなかったのであるから、坂井の言動が筆者の差し金によるはずもなく、かえってどれほど筆者の方が、坂井と唐沢の無責任な挑発行為によって迷惑を及ぼされているかはかりしれない。

だが、そうしたことも、彼らには織り込み済みであり、彼らはもともと杉本の思い込みの強さを知っていたために、杉本なら簡単に騙せると考えて、筆者の名を存分に利用して杉本を挑発し続け、自分たちの背後にあたかも筆者が存在しており、すべてが筆者の策略であるかのように思わせようとしたのである。

それに成功しさえすれば、結果として、彼ら自身は悪しき挑発行為の責任を追及されることなく、すべての責任を筆者にかぶせることができ、杉本をして筆者を攻撃させることにより、筆者を苦しめ、葬り去ることができると計算したのであろう。もちろん、それは最終的に、牧師制度を守り、この制度を非難する者の存在をネットから消し去るために行われているのである。

こうして、唐沢と坂井がこれまで一体、何のためにタグを組んで、さんざん杉本を挑発し、むなしい騒ぎを起こし続けて来たのか、その理由は読者に十分に明らかになったと言えよう。

そこで言っておきたい。もしもこの先、唐沢や坂井のような人間が現れて、勝手に「ヴィオロンさんがいじめられている」とか「ヴィオロンさんから応援したいと言われた」などと述べて、筆者の名を使って、杉本や村上のような誰かを非難し、ネット上で「戦争」を始めたとしても、それは筆者とは何の関係もない事柄である。

村上や杉本を含め、筆者が誰かに対立して、論争をしかけたいと考える場合は、可能な限り、オープンな場で、きちんと証拠の残る、合法的なやり方を用いるつもりであり、当ブログとは異なる掲示板などの場所を利用して、責任の所在が分からない発言を行うことはない。

さらに、前々から述べている通り、筆者は誰とも協力しておらず、牧師との協力関係などは、金輪際、お断りである。そこで、杉本の嘘の主張に反駁するためであろうと、他のどんな問題解決のためであろうと、誰にも協力を仰いだりせず、代弁者を立てて行動することもない。

むろん、これまで何度も書いて来たように、唐沢が杉本に民事提訴を予告したことも、唐沢の単独行動であって、そこに筆者の依頼はない。よく考えれば誰にでもすぐに分かるはずだが、仮に筆者が依頼してみたところで、唐沢が筆者に代わって、筆者の受けた「被害」を理由に、杉本を訴えることなど、もとより不可能なのである。グレゴリウスを名誉毀損で訴えた唐沢がそのことを知らなかったはずはなく、大人なら誰でも分かるはずの常識的かつ初歩的な事実である。

そこで、唐沢が、筆者があたかも唐沢に向かって杉本に対して裁判を起こすよう焚き付けたとか、それにも関わらず、筆者の実名が表に出ていないために提訴ができなかったとか、幼稚園児の綴るおとぎ話のような、筋の通らない空想話を用いて、自分にはまるで杉本と対立する意志など毛頭なく、筆者から要求されたので仕方がなくそのような行動を取らざるを得なかったかのように、後になってすべてをごまかそうとしていることは、まさに笑止千万な作り話であり、とてもではないが、立派な学歴もあり、高い職業的地位に就いていた、大の大人の発言とは思えない。そして、そんな馬鹿げた幼稚な筋書きに騙され、振り回される方もどうかしており、両者ともにとてつもなく暗愚であるとしか言いようがない。

ただし、筆者は、唐沢は当時、杉本から実名で名誉毀損を受けていたのであるから、それに抗議するために、自分自身の名において、杉本を提訴することは、十分に可能であり、許される行為だったと考えている。また、民事提訴を取りやめたのであれば、その旨をきちんと周囲に分かるよう、説明すべきであった。にも関わらず、唐沢が筆者から説明を求められたにも関わらず、それをしなかったことは、結局、唐沢という人物の闇を証明するだけである。結局、唐沢は杉本の中傷が真実であると認めているに等しく、いたずらに騒ぎを拡大して筆者に害を及ぼすためだけに事件に関わったと自ら白状しているも同然なのである。

坂井の裁判に関しても、前から書いている通り、もしも筆者が本当にその裁判が起きたことを知っており、これを応援するつもりがあったなら、当然ながら、過去のメールを裁判資料として提出したりせず、その時点で、陳述書を書いて、自らの口で証言していたはずである。なぜなら、それが当事者以外の人々が裁判で証言するための常識的なやり方だからである。

従って、唐沢が、筆者から陳述書を取ろうともせずに、筆者が坂井の裁判を「応援したい」と述べたとか、そのために自分のメールを資料として提出することに「同意した」とか、嘘八百を述べていること自体、常識をわきまえている人間から見れば、理屈に遭わず、筋書きが破綻していることが明白なのである。

結局、こうした事実から見えて来るのは、唐沢や坂井が、常に筆者本人の意志を無視して、許可もなく、筆者の名を騙って、杉本を挑発し、ひたすら騒ぎだけが大きくなるように行動し、そうした自分たちの無責任で幼稚な行動が、あたかも筆者の差し金によるものであるかのように見せかけることで、自分たちはちゃっかりと責任を逃れた上、筆者に不当な形で害を及ぼそうと企んで来たという事実だけである。

そうした彼らの恥知らずな行動を通して、我々は、彼らの本当の目的が、杉本と対立することになど初めからなく、ただ杉本を挑発して、自分たちの気に入らない信徒に害を及ぼすことにあったと知ることができる。繰り返すが、彼らは二人とも牧師であって、筆者よりも年上であり、大の男たちが、これほど幼稚で非常識な行動を取ることは、通常では考えられない。しかし、牧師だからこそ、彼らはこういう行動に及んでいるのであり、牧師階級を批判する人間を葬り去るためならば、どんな卑劣な手段をも厭わないのである。

こうして、我々は、村上密の投げつける非難に屈し、これを受け入れた人々が、結果的には、ことごとく、村上密が描いた通りの人物像になって行った様子を見ることができる。杉本は村上に「思い込みが強い」と非難され、村上のクレームを受け入れたことで、まさにその通りになり、唐沢もまた、「非常識な主張になれあいで悪のりのコメントをしているだけの無責任なコメント投稿者」、「藪の中から石を投げて喜ぶだけの非常識で幼稚な生き方」などと非難され、その村上の非難を反駁もせずに受け入れたことで、まさにその通りの人物像になって行ったのである。

だが、筆者は上記の二人のように、村上密による根拠もない呪詛のような言葉を受け入れることは、断固拒否させていただく。
 
これまでもそうだが、この先も、誰かが筆者の名を勝手に使って、筆者の味方を装い、あるいは筆者の代弁者を装い、筆者の許可もなく、掲示板やブログなどに書き込みをしたり、裁判資料などと称して筆者のメールを流出させたとしても、そのようなことは、その人物が勝手にやっていることであるから、筆者は、その行為に一切責任を負うつもりはないし、筆者が責任を負わされねばならない理由もない。そのような騒ぎを引き起こした責任は、すべてその当人に帰する。場合によっては、関係者全員から訴えられることをも覚悟してもらわねばならない。

読者は、目を開いてよくご覧になりたい。これが、牧師というものの本質なのである。つまり、一旦、牧師となった人間は、二度と信徒の利益のために動くことはなく、彼らが信徒のために動いているように見える時にも、それはすべて自分自身の利益のための行動なのである。

牧師たちには、それぞれの主張の違いがあって、相互に対立しているように見えることもあるかも知れないが、牧師階級を守るという一点においては、彼らは完全に結託して、自分たちに刃向う信徒を敵として行動する。

だが、それにしても笑止なのは、その牧師が、信徒に過ぎない杉本に裁判で敗れたことである。筆者はかねてより、杉本に敗れるなど恥でしかなく、愚の骨頂だと主張している。杉本の主張のレベルがいかなるものであるかは、読者にも2枚の答弁書から明らかになっている通りだが、このような程度の主張も覆せない人間のレベルは、もっとお粗末で、お里が知れようというものだ。およそ論理などと呼べるものは、そこには毛筋ほどもなかったに違いない。神が味方しておられるなら、なぜそんな結末になる理由があろうか。

さらに笑止なのは、敗訴に終わったこの裁判を、かつては立派な大学講師であり、博士号まで取得した人間が支援していたという事実だ。

唐沢はかつて2009-2010年には大学講師という、社会的にもそれなりに尊重される地位にありながら、自分が杉本に実名で名誉毀損をされた際、杉本を訴えることもせず、かえって元KFCの信者を告訴し、杉本ブログの権利侵害の記事を削除させるために必要な具体的な措置を何一つ講じなかった。

そして、今になっても、「杉本と遺恨を残すことは本意ではない」などと述べて、自分は杉本によっていかなる人権侵害も受けていないという立場を貫いている。そうした行動に、唐沢という人物の本心が如実に表れていると言えよう。

唐沢はおそらく当時から、杉本が村上密を支援することを通して、牧師制度の前に跪いており、牧師階級全体を敵に回すつもりがない意図をはっきり見ていればこそ、杉本を敵とみなさず、裁判を起こして徹底的に攻撃し、打ち負かすことを控えたのだと考えられる。

むしろ、牧師の手先となった杉本をうまく利用すれば、かえって自分の地位の安泰をはかることができると考え、不都合な信徒を「消す」ために、杉本の手を存分に借りられると踏んで、わざわざ杉本を「延命」させた上で、気に食わない信徒の名をさんざん騙りながら、杉本への挑発行為に心血を注いで来たのである。

その唐沢とタグを組んでいる坂井が、自分だけ唐沢と違った考え方を持っていることなどはまずありえない。そこで、彼らの真の目的は、杉本を倒すことになど初めからなく、むろん、クリスチャンとして、自分の信仰告白の確かさを、神と人との前で証明することにもなく、ただ杉本を存分に利用して、牧師階級の利益の確保のために、牧師の利益に逆らう信徒を破滅に追い込み、抹殺することだけであったと見るのが適当である。

村上密、坂井能大、唐沢治、鵜川貴範・直子夫妻、等々、筆者を糾弾している人物は、みな牧師やメッセンジャーであるか、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団や村上密を擁護する人々だけである。
 
もちろん、何度も述べて来たように、村上密が「カルト化した」教会の牧師らに対する裁判を助長し、戦いをしかけているように見えるのも、単なるうわべだけのポーズでしかなく、それも牧師階級そのものを存続させるための目くらましのプロレスごっこなのである。

村上が真に攻撃をしかけている相手は、牧師ではなく、牧師の前に跪こうとしない信徒である。(だからこそ、被害者の個人情報を加害者の牧師に転送したり、信徒の相談内容を公開することによって信徒に恥をもたらしている。)

しかし、恐ろしいことに、そのようにして霊的な敵に妥協し続けると、人間は当初、持っていたはずの優れた知性もどんどん失って行き、最終的には敵(悪魔)と一体化してしまう。悪魔は、悪知恵だけはふんだんに持っているように見えても、本性はたとえようもなく愚かであるため、自分の手下となった人間をも、どんどん自分と同じように愚かにしてしまう。

村上、唐沢、坂井、杉本の全員を例に取って、彼らの文章力、思考力が、2009年から現在に至るまで、どれほど著しく衰退したかを目を開いてご覧になりたい。

グノーシス主義の恐ろしさは、「情」という名の思考停止にある。この思想は、その虜となった人間に、すべてのことを「快・不快」という赤ん坊レベルの感情に基づいて決断させ、自分の感情が誘われる、自分にとって心地よく、好ましく感じられるものだけが「善」であると思い込ませるため、そのように盲目とされた人間の中では、感情による決めつけや思い込みだけが肥大化して行き、論理的な思考力が徹底的に破壊されるのである。その結果として、思考力、判断力の著しい衰退が起こり、人格の著しい幼児化という精神的退行現象が起きるのである。
 
グノーシス主義の教えは、このように、まさに人間の正常な脳を破壊する麻薬のごときものなのである。この教えが人々にもたらす致命的な害に不平等はなく、この教えを有害なものと見抜いて退けない限り、博士号があっても、何の助けにもならない。どんなに優れた知性を持つ人間であっても、自らの思考力を全く使わなければ、衰えるだけであるが、思考停止の教えは、思考力そのものを奪い去る。

さらに、信仰の世界で起きる現象は、世間で起きることよりも一層、厳しい結末をもたらす。かつては何百ページもの学術論文を書くことができ、圧倒的な読書量を誇り、記憶した情報を自在に引き出して語る知性を持っていたような人間であっても、一旦、グノーシス主義の怠慢な思考停止にとりつかれれば、幼稚園児並みに思考力が低下し、最後には2ちゃんねるの投稿以下の文章しか書けなくなり、デタラメな答弁書しか書けない人間に敗訴して終わるのである。もちろん、思考力・文章力のみならず、判断力も低下するので、誰一人として騙されるはずがない低レベルの詐欺師の言い分にまんまとひっかかって集会を乗っ取られたり、異端の書への識別力がなくなるのは当然である。
 
さて、話を戻そう。このように、牧師とは、信徒を物質的にも精神的にも金銭的にも搾取の対象としか見ておらず、自分が救済者や助言者をきどって人前に栄光を受けるためならば、信徒の弱みをとことんまで利用し尽くすのであり、そのチャンスを逃すまいと、手ぐすね引いて信者の弱みを握る機会を常日頃から伺い、さらに、自分たちに刃向う不都合な信徒の口を封じ、抹殺するためならば、どんな卑劣な手段でも厭わない連中である。

むろん、牧師は信徒の立てた功績はすべて我がものとして横領するが、同時に、信徒の弱みも利用する。少しでも信徒が心の弱みを打ち明ければ、助けてやるふりを装って、病原菌のように一斉に傷口にたかり、信徒の内側に侵入して食い尽くす。そして、まるごと食い尽くした後で、その悪事がバレないように、信徒に罪を着せて悪魔呼ばわりした上、教会の外にポイ捨てするのである。
 
彼ら牧師たちは、自分たちだけは選民であり、信徒は被差別階級だと考えているため、信徒をとことん利用した上、自分の身代わりに罪を着せて使い捨てることに何のためらいも恥の意識もない。言うなれば、彼らの目に映る信徒とは、どんなに騙して巻き上げても、決して罪にならない「ゴイム」でしかないのだ。

つまり、牧師階級全体が、信徒の弱みを握って恥をかかせることで、自分の優位性を誇示し、信徒を搾取してその上に君臨することで己を養う特権階級でしかなく、ひとかけらの誠実さや真実性や正義も期待できる相手ではないのである。
 
この事実は、司祭であろうと牧師であろうと、教職者制度の中に位置する人間には、宗派を超えて当てはまる。「いや、そんなのは極論ですよ、ヴィオロンさん。あなたはたまたま遭遇した人々が悪すぎただけです。まさかすべての牧師や司祭が、そんなに悪い人々のはずがないでしょう。どこかに良い牧師もきっといるはずです。私はあきらめません」などと、(杉本の言い分のように)安易な考えを抱いて、教会から教会へと渡り歩こうとは決して思わないことだ。この業界では、そのような信徒は「ジプシー・クリスチャン」と陰口を叩かれ、さらに、教会に属さず、信仰を守っている信徒も、「お一人様クリスチャン」などと呼ばれて揶揄されるだけだからだ。

これが、牧師から見る信徒の日常風景なのであり、彼らから見る信徒とは、まさに狼やハイエナから見る羊でしかない。彼らの目には、牧師制度の前に忠実に跪くクリスチャンだけが正しく、それ以外の信徒は、みな「挫折者」や「落伍者」としか見えていないのである。

こうしたことを聞くと、プロテスタントに絶望してカトリックに去れば、そういう残酷な階級闘争とは無縁に生きられると考える人々が現れるが、その考えも、幻想でしかない。かつて筆者の前にやって来て、プロテスタントの牧師たちの幼稚さには辟易したので、カトリックに去ると宣言した信徒がいたが、それも霊的後退でしかない。不祥事はカトリックの方がより深く大規模であり、カトリックにおけるヒエラルキーの束縛はプロテスタントの比ではない。

何より、それは歴史を逆行する行為でしかないため、信徒に霊的前進をもたらさない。プロテスタントは、カトリックの陥った腐敗と訣別し、これを改革することによって生まれた運動であるから、その改革の良い部分を全て捨て去り、カトリックに戻ったからと言って、それでいかなる前進が得られるわけでもない。

むしろ、我々がせねばならないことは、プロテスタントがカトリックから分離して守ろうとした正しい内容を継承し、さらに、プロテスタントの中からも不要なものを投げ捨てて分離した上、さらに先へ進むことである。

万民祭司の原則に基づく、宗教指導者のいない対等な信徒の交わりが必要とされているのである。宗派を問わず、教職者という特権階級制度を一旦、認めてしまえば、その時点で、その教会は必ず腐敗で終わることを運命づけられている。

こう書いても、日曜になれば、多くの信徒らが牧師の説教を聞きに教会へ向かうのであろう。だが、安易に「牧師」と名乗っている連中に関わると、どういう悲惨な結果が起きるかは、以上の警告から読者には明らかである。

はっきり言っておくが、牧師制度は忌むべき人間崇拝、偶像崇拝であるから、これときっぱり手を切らなければ、その信徒は神ご自身を知ることは決してできない。人生を食い尽くされ、悪魔の餌食となるだけである。だが、たとえそうなったとしても、その罪は、信徒自身にある。なぜなら、この世を愛すること(被造物の栄光を愛すること、人間社会で受けられる栄誉を愛すること)と、神を愛することはどこまで行っても決して両立することはないからだ。

目に見えないキリストを退けて、目に見える牧師を信用してつき従い、害を受けた結果、自分はカルト被害者であるから同情に値するなどと、どんなに人前で主張しても、その主張はかえりみられない。自分から判断を誤って人間崇拝の罠に落ち、神を裏切ったことを認めない信徒の言い分は、神の御前ではむなしいだけである。

だが、そうはいえども、牧師という連中が、どれほどまでに狡猾で陰険で卑劣であって、信者を陥れる計画を、四六時中、信者の頭越しに考え続けているかは、以上で述べた通りなので、注意されたい。特に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のような、ペンテコステ・カリスマ運動を支持する盗人の団体とその指導者には決して何があっても近寄らないことである。

信者は、目に見えない神ご自身を最優先するのか、それとも、目に見える被造物を最優先するのか、生涯、常に神の御前で問われて続ける。狭き門から入る者は幸いである。
 
「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときには勝利を得るため。」
と書いてあるからです。」(ローマ2:4)


悪しき支配者は滅びる

カルト化教会で被害を受けた人々に接触するようになってから、一年半以上が過ぎた。
 こうした人々と関わるようになって、人生が本当に豊かになってきたと思う。

 もちろん、ここで言う被害者とは、被害者運動を組織したり、被害者というレッテルに寄りすがって、いつまでも人の同情と支援ばかりを乞い求めて生きるような人々のことではない。むしろ、被害者を自称せず、信仰によって勇敢につらい体験を乗り越え、今は淡々と、普通の生活を送っている人たちだ。

 私自身が教会で深刻な事件に遭遇して以来、私と同様に、既存の教会で想像を絶するような体験を味わった人たちと関わる機会が格段に増えたのは感謝なことであった。自分がそのような体験をする以前ならば、彼らの存在に、私は注意も払わずに通り過ぎたかも知れない。けれども、今は、こうした人々の存在と励ましが、私の心の大きな支えになっている。
 何しろ、私が遭遇したような事件のスケールを、ありのままで理解できるのは、私と同様の体験、もしくはもっと深刻な体験を味わってきた人々の存在を置いて他にないからだ。一時、職も、家も、将来も、何もかもを失い、生存の恐怖の中を、信仰だけを頼りにくぐり抜けた人々が存在する。その人々は、普通の人々に理解できない問題を理解することができ、今、私が直面している問題についても、将来に有益なアドバイスをすることができる。
 これは、不幸な体験抜きにはありえなかった共感だとは言え、このような素晴らしい理解者、助言者、何よりも神にあっての家族を与えて下さったことをただ主に感謝したい。

 先日、ある教会に献身したために、人生の半ばを棒に振らされ、あまりにもひどい被害を受けられた方が、来客中であったにも関わらず、我が家での揉め事について、電話で親身に相談に乗って下さった。その方は言われた、
「あの時は、自分が身を捧げていた教会が間違っていると判断することは、私にはできなかったのです。けれども、主は、事の是非、善悪を超えて、ただ私の神に対する熱心さ、純粋さだけをご覧になったのだと思いますよ。ですから、結果的には、その当時は、間違った献身をしていたのですが、そのために何もかも失った私の人生を、主は後になって、ちゃんと保障してくださいました。
 もちろん、生活の苦労を思い切り味わわされたこともありましたよ。肉体労働に従事していたこともありました。でもね、主は色々な奇跡を起こしてくださり、私が人生を確実に生きられるようにして下さり、今はこうして、やりたいことができているし、夢もかなったし、あなたたちのような、主にあっての家族も与えられ、望む生活を送れるようになったのですよ…。
 主を信頼して自分を主に捧げた者に対しては、主が最後まで全ての責任を取って下さるんです、キリスト者の道とは、そういう道ですよ。だから、あなたも今は、ただキリストだけを信じて、他の全てのものへの信頼を捨てて、新しい一歩を踏み出すべき時ではないでしょうか…。」

 主に対する純粋さ。そうだ。それを忘れないでいたい。どんなに深刻な問題が目前に迫っていようとも、ただキリストと私との関係がいかにあるか、それだけが私の人生を決定する要因なのだ。主の御前で誠実であり、真実であり、神の戒めを守り、主に信頼することだけを考えていれば、後のことは全て主が備えて下さるだろう。

 全く恐ろしい話ではあるが、私は今、全治数週間の怪我を負わされている。外から見て誰にでも分かる怪我だ。先日の旅行前のいさかいもひどかったが、今回の暴力的な事件を通して、家人の私への一方的な憎しみがより深刻化したことを感じさせられた(私は誰にも指一本触れていない)。さらに、昨日、何の断りもなく、私の持ち物の中から、あるものが抜き取られていたが、これも、間違いなく、家人の仕業である。このようなことは今日に始まったのではない。彼らの迫害がより陰湿なものになってきていることを示している。

 一時は、友人を家に招待できるほどに我が家の状態が改善したように見えたこともあったし、家人が随分、態度を和らげてくれたこともあった。だが、本質的に、この人たちとは相互理解が成り立たないことをいつもいつも感じさせられる。事態がここまで悪化した以上、早急なエクソダスが必要であることは明白だ。悪しき人々からは離れ、健全な人々と関わろう。そして家人が救われるかどうか、それは全て主の御手に委ね、一旦、靴の塵まで払い落として、この地を後にすることにしたい。ブログは私がまだ無事に生きていることを世に示す証拠である。

 残念だが、すべては己を義とし、自分の罪から顔を背けるところから始まるのだ。自己の絶対性を確信し、自分は決して間違うはずのない人間であると確信し、己を義としてやまない人々は、自分の罪を認めようとせず、自己の責任を問われるようなことが起こると、必ず、他人に罪を転嫁し、他人を自分の身代わりに罰する。それだけでなく、自分を間近に見て知っている人々に対して、病的なまでの猜疑心を抱く。それは、彼を身近に見ている人々は、必ずや、彼の弱さ、至らなさを知っているだけでなく、その病的で悪魔的な正体に気づかないはずがないからである。だから、彼は人を全く信頼できない。あらゆる友人や知人、家族のメンバーを絶えず疑い続け、その猜疑心ゆえに、必ず、身近な人々の存在そのものを、最後には、都合の悪い生き証人として、排除、粛清することになる。こうした人々は、誰をも信じることができない、誰をも愛することができない、誰をも残酷に支配することしかできない人間であり、彼らの思いは、結局、殺人である。それは、ネロしかり、スターリンしかり、ヒトラーしかり、毛沢東しかり、ポル=ポトしかり…。歴史上、そういう人格破綻者たちが権力を握って、どれほど恐ろしい世の中が築かれたか、その例は枚挙に暇がない。

 自分の罪から目を背けることがいかに恐ろしい結果をもたらすか。その実例はもう十分に証明されてきたと言える。己が罪を否認すること――それは自分を神とすることと同じであり、人格破綻への最短コースだ。主を畏れることこそ、知識の始めである。私たちは神の御前に誠実にへりくだり、自分がただの弱い一人の人間であることを忘れないようにしたい。
 最後に、詩篇94編を私の祈りとして捧げたい。

 あだを報いられる神よ、主よ、
 あだを報いられる神よ、光を放ってください。
 地をさばかれる者よ、立って
 高ぶる者にその受くべき罰をお与えください。
 主よ、悪しき者はいつまで、
 悪しき者はいつまで勝ち誇るでしょうか。
 彼らは高慢な言葉を吐き散らし、
 すべて不義を行う者はみずから高ぶります。
 主よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、
 あなたの嗣業を苦しめます。
 彼らはやもめと旅びとのいのちをうばい、
 みなしごを殺します。
 彼らは言います、「主は見ない、
 ヤコブの神は悟らない」と。
 民のうちの鈍き者よ、悟れ。
 愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
 耳を植えた者は聞くことをしないだろうか、
 目を造った者は見ることをしないだろうか。
 もろもろの国民を懲らす者は
 罰することをしないだろうか、
 人を教える者は知識をもたないだろうか。
 主は人の思いの、むなしいことを知られる。
 主よ、あなたによって懲らされる人、
 あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。
 あなたはその人を災いの日からのがれさせ、
 悪しき者のために穴が掘られるまで
 その人に平安を与えられます。
 主はその民を捨てず、
 その嗣業を見捨てられないからです。
 さばきは正義に帰り、
 すべて心の正しい者はそれに従うでしょう。
 だれがわたしのために立ちあがって、
 悪しき者を責めるだろうか。
 もしも主がわたしを助けられなかったならば、
 わが魂はとくに音なき所に住んだであろう。
 しかし「わたしの足がすべる」と思ったとき、
 主よ、あなたのいつくしみは
 わたしをささえられました。
 わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、
 あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。
 定めをもって危害をたくらむ悪しき支配者は
 あなたと親しむことができるでしょうか。
 彼らは相結んで正しい人の魂を責め、
 罪のない者に死を宣告します。
 しかし主はわが高きやぐらとなり、
 わが神はわが避け所の岩となられました。
 主は彼らの不義を彼らに報い、
 彼らをその悪のゆえに滅ぼされます。
 われわの神、主は彼らを滅ぼされます。