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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

十字架の死と復活の原則―死よ、おまえの棘はどこにあるのか。死を打ち破り、よみがえられたキリストの御業―

さて、記事では、これからずっと、キリストにある新しい人(栄光から栄光へ主の似姿に変えられて行くこと、復活の命による統治、命の御霊の法則)というテーマを追って行きたいと考えているが、このテーマについて、何かしら方法論めいたものを記すのは土台、無理であるばかりか、避けるべきことだと考えている。

なぜなら、こうした問題には決まった方法論というものは存在しないと思うからだ。筆者が考えているのは、信者が何かしら偉大な宣教者や、偉大な人格者となったり、超人的な力を発揮して生きるための方法論を見つけることではない。

もちろん、筆者は、キリストの復活の命が、父なる神の御心にかなった天的な統治そのものであり、そうである以上、この命によって生かされるキリスト者には、様々な不思議が起きることを否定しない。だが、それでも、キリストにある新しい人とは、決して超人めいた存在を意味するのではなく、むしろ、ごくごく自然で素朴な人間なのである。それは、信者がキリストにあって、神が本来かくあれかしと意図してその人を創造された通りの、のびのびとして誰にも似ていない自然な個性を生きることであり、主ご自身がそうであられたように、調和の取れたあるべき人間として、地上を生きることであると考えている。

だが、調和の取れたあるべき人間と言っても、それは決して、どんな苦難や挫折や失敗とも無縁の、何かしら偉大で理想的な人間の標準や鋳型を意味するのではない。そもそも、信者になったとたんに、信者の人格が突如として高められ、すべての心の葛藤がなくなって、どんな困難や苦しみにも直面せずに生きられるようになると考えるのは、大きな間違いである。

むしろ、信者になればこそ、起きて来る葛藤もある。ジョージ・ミュラーやハドソン・テイラーなどの信仰者の伝記を読んでもすぐに分かることだが、信者になって改めて生じる罪との闘い、聖潔への願いなど、キリスト者にならなければ起きない葛藤というものも存在する。また、信仰ゆえの苦難や迫害なども起きて来る。

だが、そのような戦いから来る葛藤をさて置いても、筆者は、キリストにある信者の内的刷新とは、一直線に高みへと昇って行くというような、非常に分かりやすい単純な変化の過程を辿るとは思わない。ワインにも熟成期間があるように、信者の人生には、ただがむしゃらに前進するだけではなく、一見、何のためにあるのかも分からないような「遅延」や「停滞」の時期も必要なのではないかと思う。

これは筆者の自己弁護のために作り出した詭弁ではない。もしそうでなければ、何のために、アブラハムとサラは、待望の息子イサクの誕生をあれほど長い間、待ち望まねばならなかったのか? なぜヤコブはラケルを得る前にレアを娶らねばならなかったのか? なぜヨセフは兄弟に裏切られ、エジプトへ売られねばならなかったのか?そもそも、なぜキリストは十字架にかけれられ、死を経ねばならなかったのか?

信者が意識していなくとも、神は、天然の命から来る衝動が死に絶えるまで、信者の人生に「停滞」や「遅延」のように見える期間を許される。それは神ご自身が用意されるものであって、信者が自ら望んで獲得するものではないが、ある意味、十字架の死の象徴であり、霊的な葬りの期間である。

さて、前回の続きとなるが、筆者はある商人からヴァイオリンを買った。それはそれほどまでに大した楽器ではないので、帰郷の際に、子供の頃から練習していたヴァイオリンを家人に借りてみると、そちらの方が良い音がするように思われた上、体にもよくなじんでいた。むろん、どちらの楽器にも良さはあるのだが、弾き続けた楽器以上のものはない。そして、このなじみ深い楽器を手に取って数週間が過ぎると、子供の頃に練習していた曲がいくつも自然と思い起こされるのだった。

世間では、楽器をマスターするには、15歳頃から、どんなに遅くとも20歳を迎える頃までに、技術的に完成の域に達していないと、一流の水準に達するには遅すぎるものと考えられている。つまり、成人するまでの間に、完全なテクニックをものにできなければ、その後は、どんなにやっても、しょせんプロの水準とはならず、生涯、アマチュアの域を出ないと考えられている。そういうわけで、当然ながら、プロの音楽家を目指す人々は、物心ついたその時からずっと楽器を弾き続ける。10代後半で技術的完成の域に達し、その後、60歳、70歳を迎え、死ぬまでずっと楽器を弾き続けるのである。

しかしながら、以上に記した通り、十代ですでに完成の域に達していなければ、その後はどんなにやっても、しょせん、お楽しみ程度にしかならないという考えは、多くの人々が音楽に取り組むにあたって、あまりにも深い、無意味な絶望感と無力感を与える障壁となっているように筆者は思う。筆者には、果たして、このような考えは本当に正しいのだろうかと首をかしげざるを得ない部分がある。

筆者は、ピアノを弾くにあたって、幾度も、何年間ものブランクを経験したが、不思議なことに、かなり長い間、ピアノの鍵盤に触れずにいても、ある時、ふと練習を再開してみると、最後に弾き辞めた時から、まるでほとんど歳月が経っていないかのように、最後に弾いた時の曲のイメージがそっくり鮮やかに眼前に出現するということが多々起きた。もちろん、忘却や、運動能力の低下が全く起きないわけではないが、それでも、一旦、ある程度の水準に達したものは、そうそう簡単に忘れ去られたりするものではない。むしろ、黙って「寝かせていた」期間に、さらなる熟成を遂げていたと判明することもある(これはブランクなしに弾き続けている時でさえ起きる。三日、四日ほど、取り組んでいる曲をあえて「寝かせておく」と、もう一度弾いた時に、最後に弾いたときよりも圧倒的に曲の完成度があがっていることはよくある。)

このように、音楽には、寝かせておいても、演奏家の人格の成長と共に、沈黙のうちに熟成する可能性があるのだ、と筆者は確信している。その熟成期間が、一日、二日程度でなく、なんと十年以上に渡ることもありうるものと思う。日々、楽器や鍵盤に触れて、がむしゃらに練習し続けることだけが全てではない。演奏家が自分の人生を通して得たすべての経験が総合的に作用して、曲のイメージが完成するのである。その意味では、人が生きれば生きるほど、演奏に深みが増して来るのは当然であり、十代前半の子供たちをまるで神童のごとくもてはやし、若い時期を過ぎてしまえば、すでに演奏家としてのデビューの時期も通り過ぎ、演奏の価値もその後は落ちていくだけであるかのように思い込む風潮は、完全に間違っていると言わざるを得ない。

確かに、語学と同じように、音楽にも、若いうちに基礎を習得してしまわねば、後からのつけ足しが極めて困難な部分が存在することは否めないとはいえ、単に基礎を習得しただけでは、どんなに優れた技術があろうとも、機械仕掛けの人形とほとんど変わらない。さらに、演奏は漬物のように、時間をかけて弾きこまなければ、決してその人のものにはならず、良い味は出て来ない。

筆者は楽譜を読むのは遅い方ではないが、それでも、一つの曲を本当に自分のものにしたいと願うなら、どんなに少なくとも、一カ月以上の時間をかけて、弾きこむことがどうしても必要となる。楽譜通りに弾くだけが目標であれば、場合によっては初見か、数日もあれば十分という曲もたくさんあろう。しかし、それでは、間違いなく弾いたとしても、しょせん「楽譜通り」でしかない。曲に込められた情感、イメージ、思想、芸術性といったものを読み込んで、自分なりの形を完成し、それを思うように表現できるようになるためには、どうしても、一定の時間が必要である。その期間が、一カ月では、あまりに短すぎると言えるだろう。

この「熟成期間」には、必ずしも自分でその曲を弾きこむだけでなく、優れた演奏家の演奏を聴いたり、楽譜を読み直しながら、新たなインスピレーションを受けて、頭の中で曲のイメージを練り直したりすることが有益である。散歩中に思索を巡らしているうちに、それまで何度も聴き、弾いて来た曲のイメージが、突如として「分かった」ということもよくある。

こうして、セールスマンが足しげく営業に通いながら、自分のセールストークを磨いて行くように、曲想を練り上げ、それを完全に自分のものとし、自分自身の言葉として表現するためには、一定の期間がどうしても必要なのである。それはただ間違いなく指を動かして楽器を正しく演奏するために必要な期間ではなく、自分が何を表現しようとしているのか、その全体像を掴むための期間である。

話を戻すと、筆者は、信者の人生にも、このような時期があるかも知れないと思う。人から見れば、一体、何のために必要なのかも分からない、成果からはほど遠いように見える、「無駄な時間」である。同じパッセージをうんざりするほど繰り返しているだけのような時もあれば、まるで演奏など放棄したかのように、楽器から遠ざかり、黙って思索を巡らしているだけの時もあろう。全く何もしていない、という時さえ多く存在するかも知れない。だが、たとえそうであっても、その人の心の内側に深い探求があり、どれだけ多くの困難、どれだけ多くの障害、どれだけ長い遅延や停滞があったとしても、あるいは、生きているうちに達成不可能であるとか、手遅れであると宣告されても、なお諦めきれないほどの切なる希求が存在するのであれば、それは「何もしていない期間」ではないのだ。

その希求とは、ただ優れた楽曲を譜面通りに弾けるようになりたいという程度の浅薄な願いではない。曲の向こう側にあるもの、曲を作り出す源となる壮大な深みに手を伸ばし、何とかしてそこに至りつき、一つになりたいという願いなのである。

このように、筆者は、音楽の場合と同じように、キリストにある新しい人をも、信者が自らの努力によって獲得するのは不可能であると考えている。探求する努力は必要であるとはいえ、それは努力だけによって到達できるものではない。信者の側には、追い求めたいとの切なる希求があるきりで、それを達成させて下さるのはあくまで神である。そして、それは決して、若ければ若いほど良いといったような安直な歩みではなく、人の目には実に不思議な、しばしば逆説的な形で達成されるような気がしてならない。

さて、筆者がこの度、地上のふるさとに戻って来たのは、郷里にある親族を見舞うためであったが、この親族はすでに90歳を超えており、病床にあるため、この年齢から察するに、そろそろ生涯の終わりに来ているのではないかと見られる。しかし、長年、他宗教の信者であったので、帰郷の際、筆者はどちらかと言えば、気が重かった。もっと前に、この親族が健康な時期に、信仰について長く話し合ったが、共通理解に達しなかった記憶も残っている。

そこで、帰省前、筆者は、自分で書いた「死人のことは死人に任せなさい」という記事を思い出し、まるでその記事が不吉な予言となって、今回、別な親族のための思わぬ帰郷を招いたかのように感じたりもした。またもや、筆者は、キリストを受け入れないまま、親族を見送らねばならないのだろうか? そのために帰郷することにどんな意味があるのだろうか?という、敗北感のような感情にも襲われた。

しかしながら、筆者は、その無力感や敗北感にも似た悪しき感情を撃退し、悪魔に恥をかかせ、神に栄光を帰することだけに集中しようと決めたのであった。このところ、筆者はずっと、そういった「いかにもそれらしく感じられる」、「現実はすでに決定済みで、悪しき結末は動かせないものであるかのような感覚」、しかも、「その悪い出来事が、まるでキリスト者のせいで起きたものであるかのように、信者に罪悪感を呼び起こそうとする感覚」に、徹底的に抗って、願いを獲得するまでしぶとく諦めないで神に懇願し続ける姿勢が、信者にとっていかに重要なものであるかを学習させられていた。

そこで、筆者は、長年、他宗教の信者であったからと言って、この親族が聖書の神による救いを拒んだまま亡くなるかも知れない、という予想に、徹底的に抗うことに決めたのであった。筆者が見舞った時、この親族は、まだそれなりに元気ではあるが、他宗教の説教の録音テープを握りしめるようにして聞いており、それを心の安定剤にしようとしているように見えた。そして、残された元気を、食べることや、飲むことや、体の調子を向上させることだけに費やしており、周囲もそれを手助けしており、そこに伝道の余地など微塵も残されているように見えなかった。また、そのチャンスもめぐって来なかった。それゆえ、筆者の心は絶望感に覆われかけた。

が、しかし、数日経って、病床にある親族の様子が少し変わって来た。このまま話すチャンスもないままに別れが来るのであろうかと予想されるほど、コンディションに浮き沈みが見られたとき、筆者は、伝道のチャンスを、改めて神に願い求めた。すると、その機会が少しずつ巡って来たのである。

筆者は、この親族が、出会い頭に、筆者に向かって、「苦しまなくていいように、キリストさんに祈ってもらえるか」と尋ねて来たことをとりあげて、筆者だけが代わりに祈っても、本人に信仰がなければ、神に聞き届けられず、ほとんど意味がないことを話した。そして、自分でキリストを信じるように勧めた。そして、多神教の誤りを指摘し、夫と妻が一対一であるように、人間を救うことのできる神は唯一であり、キリストの十字架以外に救いはなく、他の神々を捨ててでも、この唯一の神だけを信じて祈るべきことを、親族に語った。罪の赦しと、死とよみがえり、永遠の命について話した。すると、かつては信仰を巡って論争めいたやり取りもあったこの親族は抵抗感を示さず、「分かる?」、「信じられる?」との筆者の問いに、素直に頷くのである。

調子の悪い時には、話しかけても反応すらも返さないのが、多神教を否定する筆者の言い分を、抵抗もなく受け入れる姿勢を示したのであった。筆者は、長年、ずっと考えが合わないまま、全く違う世界で生きて来た親族に、まるで火事場泥棒のごとく、残された時間がわずかとなってから駆けつけて伝道している自分自身の無理を思いながらも、それでも、この反応を見たとき、非常に厳粛な気持ちと深い感動に襲われずにいられなかった。こうしなければならない、こうでなければならない、という感じがしたのである。

これとどこかしら似たような現象が、筆者の連れて来た小鳥にも起きた。物音に驚いた小鳥が、鳥かごの金網に自ら足を引っかけて複雑骨折に至り、発見した時には、多量の出血と、足の指に血が通わないことにより、指が紫色になっていたのである。その状態を見た時には、筆者は、正直、足の指が持たないのではないかと恐れを感じた。医者に診てもらうと、解放骨折なので、治るかどうか分からず、もし足の指が壊死すれば、ただ単に足が不自由になるだけでなく、全身に毒素が回って致命的な影響を及ぼすことさえありうると言われた。

筆者はこの状況に対し、心の中で、猛抗議した。何か取り返しのつかない事態が起きて、すでに手遅れとなっているかのような印象と感覚を全身全霊で拒否し、死んだ息子のために預言者エリヤに抗議した女のように、神に願い求めたのであった。すると、医者に連れて行ってから二日ほどで足に再び血色が戻った。骨折が治癒するには時間がかかり、解放骨折となるとさらに治癒に困難が生じると言われているにも関わらず、それから現在に至るまで、小鳥はほぼ完全に近い形で治癒するだろうと思われるほどの驚異的な回復を遂げている。

こうした出来事は筆者に、神の守りが動物一匹に至るまで家族全体に及んでいることと、神には手遅れだとか、不可能はないのだと、改めて感じさせた。いや、どんな状況でも、悪魔のささやきに負けて、御言葉に反する負の結果をたやすく受け入れたりせず、神に心のうちをすべてさらけ出して、しぶとく諦めず、神に直談判するがごとくに懇願し続け、結果を獲得するまでに退かない態度が必要な場合が多々あることを、改めて思い知らされたのであった。
 
むろん、どんなに健康であっても、人間同士には地上でいつか別れが来るとはいえ、人間にとって最も克服しがたい、いや、生まれながらの人間には克服不可能である死をも、キリストは打ち破られて、よみがえられたのだから、我々は一体、何を恐れる必要があろうか?
 
このことを、つまり、十字架の死と復活の原則を、筆者は知っているつもりではあっても、それを自分自身の信仰告白として改めて自分の言葉で表現し、その告白が現実となって、目の前で主のみわざを見せられるとき、それによって、神の御心が何であるかを知らされるとき(神の御心は、人を罪に定めることにはなく、赦すことにあり、人を滅ぼすことにはなく、生かすことにこそある)、自分の信仰のスケールを改めて急速に押し広げられるような、厳粛で感動的な気持ちにさせられる。悪魔のささやきに簡単に耳を貸して敗北を受け入れることの無意味さと、御言葉に反対するものに、最後まで、固く立って抵抗し続けることの重要性、そして、神が我々一人一人の信仰に、どんなに真摯に耳を傾けて下さり、これを喜んで下さる方であるかを思うのである。

他人に向かって信仰の証を語っている時でさえ、筆者自身が、御前に畏れかしこんでひざまずき、「神よ、あなたこそ、我ら人間のただ一人の救い主です」と告白し、瞠目と感動のうちに、神を崇めずにいられないのである。

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十字架の死と復活の原則―燔祭として神に捧げられ、死んでよみがえらされ、神の手から返された新しい人―

このところ、都会のすべての喧騒を離れ、キリストにある自由と平安を満喫している。空気は清浄で、食べ物は美味しく、親族を見舞うという名目ではあるが、人生の中で、久方ぶりに与えられた平穏な休暇である。

さて、生ける水を流し出す秘訣は、キリスト者自身にある。自分の中にある新しい命を解放する秘訣を知れば、信仰による創造はそんなにも難しいことではない、と筆者は確信する。

時には良いことだけでなく、人の目には失敗のように見えることも起きるが、そんな中でさえ、神の同情、慈しみと憐れみが、雨のように筆者に注がれている。人からの同情など要りはしないが、神からの同情や憐れみならば、どんな時でも、あればあるほど嬉しい。もし神が筆者に注意を払って下さるならば、どんなにわずかな瞬間であっても良い、その瞬間を何とかしてもっと増し加え、主との交わりの時を増やしたいと切に思う。

まさにダビデが詩編に書いたように、筆者も言う、主よ、奴隷が主人の命令を待って、主人をまっすぐに見つめるように、私の目は、あなたを見つめるのです、ほんの少しでも、あなたの関心を、あなたの慈しみを、憐れみを、祝福を得たいと思って、神よ、私はずっとあなたを見つめ続けるのです…。私の心はあなたがご存知です、お言葉を、命令を、戒めを、あなたの御思いを、私に教えて下さい…。

以前から書いていることだが、主イエスは地上で公生涯を生きられた間、ご自分の職業を持たず、養ってくれる家族を持たず、スケジュール表を持たず、ただ御霊の促しのままに、誰にも相談することなく、御父の御旨だけに従ってすべての物事を決定して生きられた。

主イエスがどのようにして日々の糧を得、どのようにして助け導くべき人々を見分けられ、ご自分の使命を知られたのか、聖書に具体的には示されていないことが多い。しかし、エルサレム入場のために用意されていた子ろばのように、主イエスの召しに必要なものは、すべて天の父が備えられた。それはすべて人知によらず、御霊によって告げられ、理解され、達成される事柄であった。主イエスは、御父の命じることを御霊によって識別することで、父なる神の御心のままに行動されたのである。

前回、筆者は記事において、自然界の動物に生存のための知恵が本能として備わっているように、命というものには、おのずから生きるための法則性が組み込まれており、神がキリストを通して信じる人々にお与えになった新しい命にも、命の御霊の法則性が組み込まれていると考えていることを書いた。天然の命に法則性があるならば、いわんや、キリストの復活の命には、新しい法則が備わっているはずである。そして、それが、御霊の油塗がすべてを教えるということの意味であると筆者は理解している。つまり、天然の命においては、本能という不完全なナビしか設定されていないが、復活の命においては、御霊自身が真実を教えるナビゲータの役割を果たすのである。

とはいえ、御霊の導きに生きるとは、人が機械的に何かの命令に従って自分の意志を放棄して生きることを意味せず、あるいは、信者が説教者になったり、牧師や伝道者になることを最高の到達点と考えて、いわゆる模範的なクリスチャンの生き方を目指して、何かの型に当てはまろうとすることを意味しない。

御霊の導きに従って生きることに、特定の型はなく、それは人の作り出したどんな固定概念にもおさまるものではないと筆者は確信する。神は人それぞれの個性を尊重されるため、それはあくまで神と人との同労によって作り出される生き様なのである。

キリスト者の人生とは、信じる人の個性と、その人の内に住んで下さるキリストの人格とが、何の矛盾もなく、調和の取れた同労を成し遂げて形作られるものである、と筆者は確信している。神は決して人の個性を無理やり押し潰したり、人の意志を否定して、何かを力づくで押しつけ、強制なさることはない。神が信じる者の内で生きて働かれる時には、むしろ、神はその人の意志を最大限に尊重されて、その人の人格と調和の中で同労を成し遂げられる。そのため、そのような生き様においては、信じる者の個性も、圧迫されるどころか、極めて自然に生かされる。

神は信じる者の個性を尊重して、その人と同労することがおできになるのだ。だから、信者の生き様には、ただ神がどんなに偉大で憐れみに満ちたお方であるかという、神の御言葉の真実、神のご性質が様々な形で証されるだけでなく、キリストと共に死んでよみがえらされた信じる者自身の個性も、生き生きとした形で、表現されるはずである。

このように、キリスト者の人生とは、信者がキリストの生涯を真似て、地上でそのコピーになろうとすることとは全く異なる。あるいは、誰か偉大な説教者や、信仰の偉人などの先人たちを手本に、模範的なクリスチャンになろうとすることをも意味しない。

それは、誰の生き様の模倣でもなく、その人自身の人格と、キリストの人格との同労によって作り出される、誰にも似ていない、新しいオリジナルの人生である。ナビゲータは御霊であるが、御霊が力づくで信者をどこかの方向へ引っ張って行くということもない。信者と御霊とが平和的に共存・同労を成し遂げるのである。

だから、筆者は、御霊に従って生きることに、定義というものはおよそ存在しないのだと思っている。おそらく、その生き様は、人知によって外から定義づけをしたり、何かのものさしで推し量って理解したりすることが極めて難しい事柄であろうと思う。

そして、何よりも、その人生には自由がある。それは、こうせねばならない、ああせねばならないという数々の義務や、人間の作り出した常識や、規則によってがんじがらめにされる人生ではなく、また、己の生存を必死になって自力で支えねばならないという恐怖によるものでもない。

共産主義者の定義とは全く違った意味で、それは必然の王国ではなく、自由の王国の生活である。だが、自由といっても、放縦とは違うので、当然ながら、節度や限度はある。その範囲内であれば、信者は自分自身の個性を存分に生かして生きることが許される。

さて、筆者は何年も前に、今身を置いている地上の故郷から新天地を目指して旅立って行ったのだが、長い間、なぜ神は、筆者が関東へ移住することを許して下さり、その条件を気前よく備えて下さったのだろうかと思いめぐらしていた。

当初、筆者は、この移住は、エクレシアに連なるため、信頼できる信仰の仲間に出会い、彼らの交わりに加わるためであったと解釈していたため、その期待が潰えた後には、一体、この移住に何の意味があったのだろうかとしばらく考えざるを得なかった。

そして、もし信頼できる信者の交わりというものがないとしたら、主は、筆者に一体、どんなミッションをお与えになっておられるがゆえに、この地に筆者を呼び出されたのだろうかと思いめぐらしたものである。

だが、最近になって、筆者が思い至るのは、神はただ筆者が御名により心から願い求めたから、ご自分の愛する子供の一人として、筆者の願いを気前よく叶えて下さっただけだ、ということである。

つまり、この移住は、エクレシアに連なるための手段ではなかったのである。いや、どんなことの手段でもなく、それ自体が、筆者の願いに対する神の応答だったのである。あれやこれやの目的の手段として、移住を促されたのではなく、ただ筆者が信仰により願い求めたものに、神が応えて下さったということである。
 
筆者はこれまで、この移住の他にも、実に沢山のものを、信仰により神に注文し(注文という言葉は、まるでい神を手段とするかのような、いささか不適切な表現のように響くが、これには、願いが成就するまで譲らず懇願し続けるという強い意味合いも含まれる)、信仰によって地上に引き下ろして来た。たとえば、一番多く引き下ろしたものは、仕事であろう。筆者が、目下、従事している仕事にどうしても満足できなくなって、もっと違う仕事をやりたいと切望するようになった時、神は、実に不思議な形で、筆者の願いにかなう新しい仕事を用意して下さったのである。

この他、友人や知人が、祈りを通し与えられたこともあれば、筆者が受けた悲しみに、神が思いもかけない豊かな慰めを用意して下さったこともあった。

しかしながら、一つだけ、筆者がこれまでどんなに願っても、実際に呼び出すことができなかったものがあった。全く不思議なことであるが、それが、信頼できる信仰の仲間との恒常的な交わりなのである。エクレシアに連なり、エクレシアの建設のために、移住までしたはずなのに、なぜそんな結果になるのかと、当初は、まことに不思議でならなかったのだが、筆者が共に教会を建て上げる目的で接近したキリスト者(らしき)人々は、ことごとく、交わりの途中で、信仰の道から逸れて行った。彼らがどのようにおかしくなって、聖書に反する考えへとあからさまに移り変わって行ったかといった過程の詳細は、すでに再三、書いて来た通りなので繰り返さない。

筆者は、ある人々に対しては、その変節を実際に詳細に知る前に、これ以上接触すべきでないと直感的に理解したので、交わりから退いた。そして、それ以外の誠実な信者は、亡くなったりするなどして、早々に別れがやって来たのである。

そんなこんなで、ついに筆者には、関東方面で、心にかなう信仰仲間が一人もいなくなった。そして、今やそのような人間を探そうとも思っていないほどである。ただ一つとても嬉しいことは、それ以外では、家人も含め、親族の誰も、地上の組織としての教会にこだわる人々がいなくなったことである。以前には、宗教団体としての教会に拘泥していた親族も、今や全くそのようなものに未練を持たず、むしろ、組織を離れた信仰を模索するようになった。

筆者は、こうして、かつてはエクレシアの一員と思った人々の中から多くの離反者が出て、もはやエクレシアだと確信を持って呼べる、信頼できる信仰仲間の存在が身近になくなってから、かえって、これは非常に自然で有益な結果だったのではないかと思うようになった。なぜなら、おかしな方向に逸れて行った信者たちは、みな目に見える地上の組織や、仲良しサークルのような目に見える仲間との人間関係やつながりを重視して、仲間を失うまいと、人間の絆に必死にしがみついて、人々からの承認や賛同を求めていたからである。

彼らは依然として、宗教団体としか呼べない地上組織を建て上げることに腐心しており、目に見えるリーダーを崇め、目に見える組織を神聖視しており、目に見える団体に所属していることが、自分の聖を信じる根拠になってしまっており、そのような生き方に、筆者は全く真実な信仰のかけらも見いだすことはできなかった。

こうして、筆者が観察しているうちに、かつてこれこそまことのキリスト教であると豪語して、いかにもクリスチャンの交わりを装っていた、目に見えるつながりがことごとく偽りであると判明し、当初は信頼できると考えていた信者たちの中にも、嘘や不誠実さが見い出され、彼らが信頼に値しなかったことだけが判明し、交わりと思っていたものは離散したのである。
 
こうして、何か目に見えるサークルの一員になることによって、教会を建て上げることができるという発想自体が、ことごとくナンセンスなものと判明し、筆者は、教会を建て上げるという概念を、以前とは全く違ったものとしてとらえざるを得なくなった。

筆者は、何年も前の当時は、信頼できる信仰の仲間と手を携えてエクレシアを建て上げることができると考え、それに関心を寄せていたものであるが、今はひょっとすると、そのような考え方にこそ、以上のような人々の犯した過ちに通じる、目に見えるものの神格化という、危険極まりない要素が含まれていたのではないかと考えるようになった。

つまり、エクレシア賛美、エクレシア崇拝の危険性である。目に見える人間同士の連帯、目に見える人的ネットワーク、五感で確かめ合うことのできるつながりを賛美し、そこに神聖を見いだそうとする考え方の罠や、深い危険性を思うのである。

エクレシアという単語には、信者にとって、何かしらとても耳に心地よい、甘く、理想的な響きがある。だが、その響きの甘さに陶酔することの中には、キリスト以上に信者が自分自身を聖なる存在として掲げたいという誤った欲望、間違った自己崇拝、信者の自己神格化の危険が潜んでいるのではないかと危惧されてならない。

いわゆる教会組織と呼ばれている地上の目に見える宗教団体や組織にこだわる信者ほど、この誤った自己崇拝、自己神格化の度合いが非常に深いように思われてならないのはそのためである。

だから、筆者は今、エクレシアを賛美しようという考えは全くもっておらず、これに憧れ、建て上げることが自分の使命であると言うつもりもない。もしそういうミッションがあるとしても、それは日々、自分自身が主と共に死と復活を経ること、自分の十字架を負ってキリストに従うことだけにしかよらないのだ。仲良しごっこのような交わりを通して達成できることなど何一つありはしない。そもそも、我々が見るべきお方はキリストだけであり、キリスト以上に教会を高く掲げ、これを関心の対象とすること自体が、非常に危険なことではないかと思わずにいられない。
 
今までの経験から言えることは、教会が建て上げられ、発展する方法は、多くの人たちが想像するように大人数がひと所に「集まる」ことよりも、むしろ「散らされる」ことにあり、大勢が集まって自分たちの存在を世間にアピールし、「自分たちの名を地上で高く掲げる」こととは正反対なのだと思わずにいられない。人が成功し、有名になったり、地位を築き上げて、安直な手柄を立て、自分をアピールすることではなく、むしろ、低められ、砕かれ、無化され、苦しみを通過しながら、人格が練られることの方にこそあるのだと思わずにいられない。
 
何よりも、もし我々がただキリストだけに目を注ぎ、この方だけに栄光を帰し、この方だけに従って生きていれば、教会を建て上げることに特別な関心など寄せずとも、エクレシアが何なのかは自然に分かって来るのではないかと思われてならない。

すでに一度は書いたような気がするが、筆者が今でも覚えている体験の中に、筆者が横浜に来る前、当初、筆者がエクレシアだと考えていた人々の、幸福そうな集まりの様子を遠くからネットで眺め、何か分厚いガラスの隔たりでもあるかのように、彼らと自分自身との間に決定的な距離を感じ、心に鈍い悲しみを覚えたということがあった。

その時、感じた悲しみや失望が何だったのか、その理由は、実際に彼らと接触してみて分かった。その集まりは、聖書的な交わりを装ってはいたが、結局のところ、いわゆる内輪の知り合い同士の仲良しサークルの域を一歩たりとも出てはいなかったのである。それは互いに誉めそやし合い、自画自賛し合うための、エクレシアに似て非なる集まり、単なる自己満悦のごっこ遊びのようなものに過ぎなかったのである。そこで、結局、筆者はその仲良しサークルを観察しては見たが、その一員には決してなることなく、その交わり(と呼ばれていた偽物)を通り過ぎただけであった。

今、筆者はそのようなものがエクレシアだとは露ほども考えておらず、彼らのように、自分が心許せると考えた仲間内だけで、徒党を組むことで、キリスト者の交わりを確立できるとも思っていない。そのようにして、仲良しサークルを拡大したり、自分たちの交わりこそ本物であると、世間に誇らしげにアピールしようとする試みを一切無視して、もっと言えば、そもそも人に良く見られ、誤解なしに受け入れられたいという衝動そのものとも訣別し、エクレシアというものを、まるで同時代人のサークルのような、人間の目に見えるネットワークに見いだそうとする考えを完全に捨てて、ただ神の御前の単独者として御言葉に従って真実に歩むことだけを目指す生き方を貫くことに決めたのである。

そうこうしている中でも、筆者のもとには、その時々に、神が率直に語り合うことのできる誠実な信仰者を友として送って下さることがあった。だが、その友情や連携は、固い結びつきになって、同志的な関係が生まれる前に、かなり早い段階で、強化されるどころか、分解されるのが常であった。
 
そんなことからも、筆者は、エクレシアを建て上げるという名目で、人々が寄り集まって自画自賛に明け暮れ、自己陶酔に浸ることは、全く神の御心でないばかりか、むしろ、大きな危険性が伴うだけだと考えるようになり、教会を建て上げるとは、気の合ったクリスチャン者同士が、お手手つないで、みんなで仲良く一緒に天国の門をくぐりましょうといった子供騙しのような願望とは全く異なる事柄で、もっともっと厳しい側面を含んでいる、と思わずにいられなくなった。その厳しさの中では、共に手を携えて歩める仲間が現れることの方が少ないほどである。そして、それゆえ、信仰者の歩みの基本は、やはり、神の御前の単独者としての信仰の歩みにしかないと確信している。
 
たとえ信者であっても、人間と人間との間で結ばれる絆や友情は、決して永久的なものとはならず、人は時と共に変化し、あるいは簡単に道から逸れてしまい、固いように見えた絆も取り去られる。だから、どんな時にも、信者は人を当てにせず、まずは神との間で、確固たる信仰による交わりを維持することに心を砕くべきであって、それ以外のものにほんの少しでも価値を置き、期待をかけ、栄光を帰したい衝動が芽生えると、それはたちまち腐敗したものとしてあっけなく失われるのだと思わずにいられない。
 
キリストだけに変わらない価値を置いて、この方にすべてを委ねて生きようと決意するときにこそ、それ以外のものが、必要に応じて与えられる。生活の様々な必要だけでなく、信仰の仲間でさえ、そうなのである。その意味で、キリストとエクレシアとの優先順位は、絶対に逆にされることがあってはならないのではないかと筆者は考える。

さて、以上の内容から、話が再び変わるようだが、筆者は、最近、とある商人からヴァイオリンを買った。どうにもこうにも、ヴァイオリンを弾くべきだと思えてならない時が来たせいである。一年ほど前から、ピアノの特訓を再開していたが、どうにもピアノだけでは物足りなく思えるようになった。

実は、筆者のペンネームは、ヴァイオリンから取られたものなのだが、筆者自身がヴァイオリンを弾けるのかと言えば、子供の頃、我が家に人から譲り受けた分数ヴァイオリンがあったが、本格的なレッスンを始めるに至らず、学校時代に基礎を習ったが、ヴァイオリニストのように自由に弾けるようになる手前で習い辞め、今、暗譜している曲はほんの二曲ほどしかない。それでも、長年に渡り、ヴァイオリンへの情熱は消えず、身近で他人の演奏を聴き続けたりした記憶の蓄積がついに飽和状態に達し、自分で弾かねばならないと思うに至った。
 
全くの余談に聞こえるかも知れないが、そう思ったきっかけは、ピアノだけに熱心に取り組むことに何かしらの限界を感じたせいでもあった。筆者は一時期、仕事に熱中して、ピアノをうっちゃっていたせいで、ほとんどピアノが弾けなくなってしまった時期があり、そのブランクを挽回しようとしているうちに、どうにもピアノという楽器には、何かしら根本的に、人になじみにくい要素があるのではないかと思い始めたのだった。

これは決して愚痴や泣き言ではなく、真剣に取り組めばこそ、思うことなのである。物心ついてすぐに最初に習い始めた楽器がピアノだったので、今までこのようなことを考えたこともなく、ピアノという楽器の難解さを感じても、常にそれは自分の技量の足りなさのせいだとしか思いもしなかったが、何しろ、ピアノには88鍵ものキイがある。隅から隅までこの楽器を使いこなすには、両手をいっぱいに広げねばならず、それだけでも大変な移動距離である。そして、ピアノ曲は旋律だけのものはほとんど皆無で、旋律も伴奏も一台の楽器で全部やってしまうのが通常であり、それゆえ、一度に奏さねばならない音がとにかく多く、その点で、他の楽器に比べても、極めて楽譜も複雑になりがちである。最も重大な注意点は、楽器が巨大なので、持ち運びが利かず、自分用に調整された楽器を演奏会用に準備することもできないことだ。どこへ行っても、コンディションの異なる備え付けのピアノに、奏者が自分自身をなじませるしかない。さらに、楽器が巨大ゆえ、人との間に拭い難い距離感があって、人が楽器と完全に一体になって共鳴することがやりづらい。

そんな楽器にも関わらず、ピアノ奏者は全世界で他の楽器にくらべてもとりわけ多く、音楽界における競争は他のどんな楽器に比べても一層過酷だ。そのような条件は、演奏家に非常に大きな負担を強いるものではないだろうか。

これと比べると、ヴァイオリンという楽器は、ピアノに比べれば、運指のための移動範囲もそれほどでなく、ピアノのように、鍵盤を押しさえすれば、それらしき音が鳴るということもなく、まずは自分で音を作るところから始めねばならないが、その方が楽器としては、はるかに自然な気がしてならない。ピアノは一音が消えるまでの時間が早いため、音を持続させるために、比較的早く次の音へ移行せねばならないが、ヴァイオリンは、弓を上手に使えば、少なくとも、一音をピアノよりはるかに長く持続させることが可能であり、その間に音の強弱も変えられる。

何よりも、ヴァイオリンという楽器の最も自然なところは、奏でる音質が人間の音声に近いことだろう。だから、ちょうど歌を歌うのにも似た感覚で、楽器を演奏することができる。しかも、楽器が人の腕の中にすっぽり入ってしまうくらいの大きさなので、人との距離感がさほどでなく、接触している部分も多く、楽器の共鳴が人体にそのまま伝わる。人の体と楽器がまさに一体となって音楽を奏でているという感覚を持ちやすい。

それに引き換え、ピアノと人体との直接の接点は、指先と、ペダルを踏む足先くらいであろう。だから、ピアノの音の振動は、人間の体で直接、体感する部分が少なく、基本的には、耳で聴いて音を感知するしかない。しかも、ピアノの音は、人間の声にさほど似ていない。

世の中にはピアノとヴァイオリンの他にも無数の楽器が存在するので、この二つだけを比べて論じることには無理があると思うが、それにしても、ヴァイオリンに比べると、いかにピアノが人工的で不自然な楽器かという気がしてならないのである。ピアノが親しみやすい楽器だと錯覚できるのは、子供に初歩を習わせる時くらいのことではないだろうか。

もともとヴァイオリンは、民衆のための楽器であり、クラシックの世界で、ヴァイオリニストたちが、楽器の値段や価値を競い合い、また難解なテクニックを競い合って、激しい競争が行われるようになって、一流ヴァイオリニストが、スター同然にもてはやされたりするようになったのは、ごく最近のことであろう。

そうなるまでのヴァイオリンは、オーケストラや室内楽だけでなく、民衆の祭りなどでも普通に駆り出されるような、庶民にもごくごく身近な楽器であったはずだと思う。肩当てや、顎当てさえ、比較的最近になって普及したのだと言われるように、もともとは非常に単純な楽器である。そんな楽器に、人間が逆立ちしなければ、達成できないような複雑怪奇な操作は、必要とされていないはずで、もともとこれはそんなアクロバットを当て込んで作られた楽器ではないはずだ。だから、本来のヴァイオリンとは、人を寄せつけないほど難解ではない、単純素朴な楽器のはずだと思うのである(だが、ヴァイオリニストはこれを聞いて、異議を唱えるかも知れない。単純なものが全く複雑化されてしまうところは、宗教もクラシック音楽界もどこか似ている。)

もちろん、ピアノにはピアノの良さがあり、ピアノという楽器を知っているがゆえに得られる喜びや満足は非常に大きいと言える。そもそも音楽の基礎を学ぶのに、この楽器を避けて通ることはできず、ピアノ曲には偉大な作曲家の豊富なレパートリーの取り揃えがあるので、一生を費やしても時間が足りないほどの楽しみが満載であると言うことはできる。だが、そうは言っても、ピアノには備わっていない別な要素を、ヴァイオリンのような別の楽器で学び、これをピアノに応用することで、ピアノの人工的で不自然な部分を補うことができないだろうかと筆者は考えているところだ。その実験の最たる目的は、どうすれば、人間の音声からかなり離れたピアノを、人の歌声のように自然に歌わせ、響かせることができるかというところにある。

一体、この実験と信仰に何の関係があるのか?と問われそうだ。まるでこじつけのようにしか聞こえないかも知れないが、これも筆者が神に願って与えられた機会なのである。

筆者はかつて非常に音楽に熱中していた時期があったが、一旦、これを神にお返しした。筆者の専門もこれと同じことで、かつて自分自身の思いで熱心に探求し、愛でていたすべてのものを、どこかの時点で、筆者はすべて手放し、一旦、神に返却することになった。

それゆえ、筆者は多年に渡り、音楽からも、自分の専門からも離れた時期が存在する。一見、その時期は、全くの無駄な紆余曲折のようにしか見えないことだろう。だが、そうして神にお返ししたものは、まるで燔祭に捧げられたイサクのように、一度、死んでよみがえって生かされたものとして、主の御手からもう一度、受け取ることができる。そうすれば、今度こそ、何のためらいもなく、信仰に反しない、聖別されて、祝福されたわざとして用いることができるのだ。

もし離れていた時期がなく、幼い頃から、両方の楽器を真剣にやっていれば、今、与えられている楽しみが、どんなに大きなものとなっていたろうと、ふと考えることがないわけではないが、幼い頃には、理解しようと思っても、分からないことの方が大きい。そんなわけで、筆者はブランクの時期を振り返って後悔するということはない。
 
その当時、筆者を教えてくれた教師たちは、真面目に練習していないがゆえに、抜けの多い筆者の演奏をも、素質があると誉めてくれ、その道に進めばどうかと助言してくれたこともあったが、それでも、当時、筆者の探求心は違ったことに向いていた。どちらかと言えば、筆者には、言葉の方に関心があったのである。

だが、幾年もの月日を経て、言葉への探求と、音楽への探求が、互いに矛盾しないものとして、一つにつながる時がやって来た。さらに、それらは死を経てよみがえらされたことにより、信仰とも全く矛盾しないものとなったのである。

もっと言うならば、言葉になる前の言葉と、音楽になる前の音が、信仰により、信者と一体になる時が来たのだと言っても良いかも知れない。

地上で音楽を奏でるということには、絶えざる格闘がある。なぜなら、プロの演奏者でさえ、思っているような演奏がなかなかできないからだ。コンディションの悪さが、常に演奏を邪魔し、自分が理想として追い求めるイメージと、現実に発せられる音との間に、絶えず開きを生む。自分がとらえよう、獲得しよう、達成しようと思っているものをどんなに真剣に追いかけても、すでにとらえたから、もう満足だという日は来ない。

だが、それでも、奏者は心の中に理想として持ち続けているイメージといつか自分が一体となり、音楽と自分との距離がなくなることを目指して、ひたすら弾き続ける。そこには、聴衆を含めた世界全体が一体となる時を目指すことも含まれている。

また、詩人は、演奏家とはまた違った形で、自らの言葉を通して世界と一体になろうとしている。いや、もっと正確に言えば、有限な言葉を通して、言葉になる前の無限の世界を追い求めていると言って良い。

詩人にとっては、どんなに素晴らしい詩を書いてみたところで、言葉を通して表現されるものが全てではない。言葉の先にある、言葉を生み出す源となるインスピレーション、霊感そのものをとらえようとして追い求めているのである。音楽家もある意味ではこれと同じである。音を通して表現しようとしているものは、音が生まれる以前の何か、音を生み出す源となるものなのである。

鈴木大拙が「神が光あれと言われる前の世界」への回帰を唱えたことを、筆者は別の記事で触れたが、人間が探求しているのは、まさにその霊感の世界なのであろう。だが、筆者は、禅者ではなく、あくまで聖書の神を信じるキリスト者であるから、「神が光あれと言われる前の世界」への回帰を目指さず、むしろ、「神が光あれと言われた後の世界で、光を造られた神と一つとして生きる」ことを目指している。

音楽家や詩人が、音や言葉の生まれる前の、それらを生み出す源となるものと一体化して、これを表現しようとしているならば、筆者は、信仰によって、この地上に実際の事物が生まれる前の、それらを生み出す源となる命そのものと一つになりたいと願っているのだ。

だが、筆者は、歴史を逆行して、神と人(被造物)とが分かたれる前の世界に回帰することで、その一体性を得ようとは思わない。むしろ、創造主と被造物の両者の間には距離があること、その距離が、我々が地上にいる間には、決して完全には克服できないものであること、それゆえ地上では、人の苦悩があることを分かりつつ、それでも、自分の力によらず、ただ一人、この断絶を乗り越えることのできるキリストの十字架の御業によって、朽ちない命に与り、この方と一つとして生きることを目指しているのである。
 
これは決して人が神を獲得することを意味しない。人が人の分際を超えて、神から神である地位と性質を奪おうとする試みでもない。人間の側からの神の詐称でもない。私たちは、神を心から敬い、この方を慕い求め、かつ崇め、誉め讃え、自分が被造物に過ぎないことを十分にわきまえて、畏れかしこみながら、同時に、この方に愛され、受け入れられて、子とされて、一つとされて生きることを心から願っているのである。

信じる者がキリストとの間で、完全な一致を地上にいるうちに獲得できないことを知りつつも、それでも、この方が信じる者のうちに住んで下さり、生きて働いて下さり、この方と共に共同統治者とされることを信じながら、私たちは神を喜び、神を尊び、神を愛して生きているのである。

聖書に書いてある通り、私たちはキリストをこの目で見たことはなく、実際に生きてお会いしたわけでもない。その声を聞いたこともなく、手で触れたわけでもない。神を五感でとらえることはできない。にも関わらず、この見えない方を見るようにして信じ、かつ、愛してさえいる。敬い、崇め、慕い、賛美するが、その賛美は、何よりも、神への愛から来るものなのである。
 
その愛は、この新しい命、朽ちないまことの命は、我々が自力で獲得したのではなく、神の側から一方的な恵みとして与えられたのだという認識から来る。神がまず私たちを愛して下さり、すべてを与えて下さったがゆえに、私たちも神を愛さずにいられないのである。

こうして、神の方を向くならば、人の心の覆いは取り除かれる。自分自身を完全に神に捧げ、かつては自分で握りしめようとしていたものも、今は神に委ねているからこそ、筆者も、キリストにあって再統合された自分自身を、ためらいなく受け入れ、生きることができるのだと言える。

古きは過ぎ去った以上、信じる者の個性そのものが、今やキリストにあって、神に聖別された新しい人として、神の手から信者の手に返されている。そこにはもはや恥じるべきものは何一つなく、隠すべきものもなく、死の宣告を受けたものを、まるで聖別されないものであるかのように思い返して、恥じたり、修正したり、変えようとする必要はない。信者の過去も、人格も、個性も、すべてがキリストにあって新しく生かされていることを信じれば良いのである。
 
筆者は、前途有望と言われた時期に、自分に与えられた様々な可能性を、自分の人生の成功を掴むためには利用しなかった。今となっては、遅すぎると言う人もあろう。たとえば、筆者は、職業音楽家になるにはいささか遅すぎるし、研究者として功績を残すにもやや遅れ気味であり、その他、遅すぎると言われても不思議ではないチャレンジがいくつもある。

だが、筆者はこの「遅延」を嘆くどころか、むしろ喜び、楽しんでいる。地中に眠っている種が、発芽して根を下ろすまでに、長い時がかかることがあるように、他人にどう見えようとも、筆者にとっては遅いということはなく、今がまさにその時なのである。もしもっと前に、有望と期待されている時に、もっと真剣に取り組んでいれば、今以上の結果が出たであろうか? 決して、そうは思わない。その時には、分かっているようで、何も分かってはいなかったのであり、何事にも今と同じ姿勢を到底、持ちようがなかったであろう。

今、筆者に与えられているすべての可能性は、筆者が自力で自分の名誉、地位、成功を築き上げるための手段として与えられているものではなく、そういうものを獲得せねばならないという焦りや義務感や恐怖とも、筆者は無縁である。そういった無用な気負いがないからこそ、平安のうちに、純粋に喜び、楽しむことができるのだと考えている。

今、筆者に与えられているものは、筆者が人生を喜び、楽しんで生き、神に栄光を帰するために、恵みとして与えられたものであって、それ以上の意味はない。自己顕示のための手段でもなければ、地位を築き上げるためのものでもない。音楽であれ、言語であれ、詩であれ、もはやどんなものも、筆者の心の偶像にはなり得ない。たとえ熱心に取り組んだとしても、自分を見失うまで熱中したり、あるいは憑りつかれているのではないかと言われるような取り組み方は決してしないのである。
 
さて、最後に、再び、話が飛ぶと思われるかも知れないが、多くのプロテスタントのクリスチャンをいたずらに苦しめ、恐怖に追いやっているカルヴァンの予定説の何が間違っているのかについて、筆者の考えを少し書いておきたい。

この説の決定的な誤りは、人類(人間一般)という定義の中に、古い人類と新しい人類とを一緒くたに混同していることにあるのではないかと筆者は考えている。決して一緒にしてはならない二つのものを、無理やり同じ土俵で一緒くたに論じればこそ、クリスチャンとなった後でも、誰が真実救われているのかは、信者が死後、神の御前でさばきの座に立たされる時まで本当には分からないなどといった、全く恐ろしい絶望的で不毛な結論が生じるのではないだろうか。

それはまるでチンパンジーとオランウータンを同じ種族と断定して、どれがチンパンジーであってどれがオランウータンなのかは、DNA鑑定をしてみないことには分からないと言っているのと同じくらいのナンセンスに感じられる。

パウロは、ローマ人への手紙で、一人の人(アダム)によって罪と死が人類に入り込んだように、一人の人(キリスト)によって多くの者が義とされ、命を得ることを述べている。この二つの系列の種族は、決して同列に論じられるべきものではない、全く別の種類である。

外見が同じように「人類」に見えるからと言って、アダムの古き命に生きる者と、キリストの新しい命によって生かされる者とを、「人間一般」という定義でひとくくりにするのは全く望ましくない。いや、望ましくないだけでなく、これは誤った定義であり、事実誤認である。外見だけによって、本来、一緒にしてはならないものを一緒にするから、救われた人間と、そうでない人間を、内的確信によって区別することが不可能だとする荒唐無稽が生じるのである。
 
さて、キリストと共に十字架の死にあずかり、共に復活した者は、自分がすべての面において完全に新しくされ、すべての面において聖別されたことを信ずべきである(ただし、これは決してその信者が地上において、すでに罪なき完全に聖なる存在となったことを意味しない)。我々は地上にあっては、依然として、欠けの多い、誤りやすい、不完全な存在にしか見えず、多くの期待はむなしく潰え、もはや手遅れに思われることも多く、キリストご自身との間には、相当な距離があり、達しようと目指しているものとの間には、はるかに遠大な距離があるかのように感じられることだろう。その距離は、我々を打ちのめして、失意や悲しみをもたらしかねないほどのものであり、それゆえ、我々はこの不完全な地上の幕屋の中で絶えず呻いている。

それにも関わらず、我々はその感覚を否定して、呻きの中から、完全に贖われる日を待ち望み、それを信じ、これに達しようとしている。信仰によってそれが事実であることを先取りして、すでにその贖いと一つであること、キリストと一つとされていることを信じ、宣言する。つまり、飲むにも、食べるにも、移動するにも、学ぶにも、演奏するにも、書くにしても、何をするときも、生きることはキリストだと宣言する。たとえ現実がどれほどそこから遠いように見えても、目指しているものが、生きているうちに到達不可能であるように見えても、それでも、生きることそのものが、我々の存在そのものが、地上での限りある一瞬一瞬が、キリストと一つとして生かされており、そうであるがゆえに、この方に栄光を帰するものとなるようにと願い、信仰によってそれを宣言し、待ち望むのである。

このことは、我々が外見的にどんな風に見え、どれくらいの見込みが残されていると想定されるかには全く関係ない。我々の望みは、目に見えるものにあるのではなく、見えないものにこそ置かれているからだ。我々は御言葉により、自分をすでに死んだものとみなし、死者をよみがえらせ、無から有を引き出し、不可能を可能とすることのできる神の御業を信じて、贖いの完成を待ち望んでいるのである。

だから、状況が見込み薄のように見え、嘆かわしく見える時ほど、信じ、待ち望む甲斐があるのだ。主にあって、一度手放したものを、再び返されて、この手に取り上げる時には、常に死の厳粛さと、よみがえりの喜びを思わずにいられない。筆者がこの手に握っているものは、もはや筆者のものではなく、神の所有なのである。

多くの人々は、若いうちに、つまり、自分にたくさんの可能性があるように見え、たくさんの期待を寄せられているうちに、早々に何かを達成してしまうことこそ、人生の成功であると思い込んでいる。そして、失敗や遅延を無意味なものとして、できる限り避けながら、ただ成功だけを手にして前進したいと考えるのかも知れないが、筆者は決してそうは思わないのだ。

人が若くてエネルギッシュで生命力に溢れ、前途有望と誰からも期待されているうちに、持ち前の生命力によって、何かを成し遂げることには、何の不思議もありはしない。そこにはただ天然の命の生まれ持った本能があるだけで、何の奇跡もなければ、瞠目すべき要素もない。

もし死を経るという過程、死んで葬られるという過程がなければ、筆者のすべてのわざは、非常に皮相で、軽薄な、むなしい価値しか持たなかったであろう。筆者は、軽薄で皮相なものを全く欲していないし、そのようなものが自分の人生の本当の麗しい飾りになるとも思っていない。そのようなもので他人を満足させたり、深い感動を与えることができるとも思わない。

神の目から見て、天然の命に属するものが何一つとして価値を持たないように、人の目にも、長年かけて熟成され、正真正銘、試練や、苦しみや、呻きの中で、練られ、洗練たものでなければ、賞賛に値する価値は見いだせない。神の目はごまかせないが、人間の目なら簡単に欺けると考えるのも間違っている。皮相で軽薄なもので人の関心を引き、人目を欺けるとしても、それはほんの一時しのぎでしかない。真に価値を持たないものは、いずれにせよ、短期間で馬脚を現し、長続きしないと相場は決まっている。そのようなものを追って生きても、全くむなしいだけで、一体、何の甲斐があろうか。


十字架の死と復活の原則―栄光から栄光へ―主と同じかたちに姿を変えられて行く (2)

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


何年ぶりかに、700キロの走行距離を経て、久々に郷里の美味しい空気を味わうことができた。

不思議なことだが、筆者が天に直接、養われる生活を始めてからは、神に向かうために自由な時間が圧迫されるようなことがあると、それから間もなくして、神ご自身が、信じる者のために、暇(いとま)を用意して下さることが頻繁に起きるようになった。

たとえば、このところ、しばらくブログ更新が滞っていたが、このように、日常生活で、神に向かうことが難しくなるほどの多忙状況に陥ったり、何かの出来事で過度に心を煩わされるような時が続くと、必ずと言って良いほど、立ち止まる機会が与えられる。信じる者は、心煩わせる全ての出来事の渦中から高く引き上げられて、安息を取り戻すための平穏な場所に置かれる。しかも、その移行がとても自然な形で、誰にとっても無理のない形で起きるのだ。

このように、神の国とその義とを第一に生きてさえいれば、信者には、ただ生きるためだけの様々な心配は無用である。これは確かな事実であり、法則でもある。だが、筆者は、こう言うことによって、信者が自分の生活に必要な様々な措置を自分で何も講じなくて良いと言っているのではない。やるべきことやらねばならない。ただ、どうやって生きようかとあれやこれやと心を悩ませ、煩わせる必要がなくなるのである。

もし信者が本当に神の国とのその義の何たるかを知っており、あるいは心から探求しており、神にさえ心の照準を合わせているならば、多くの人々が毎日、胃が痛むほどに悩んでいる食べ物、飲み物、着物の心配を含めたあらゆる日常生活の心配事、仕事や生計を立てることに関する心配事は、何もかも完全に神の御手に任せてしまうのが一番良い。神が信者の生活を心配して下さるからだ。

もし信者が仕事で成功したり、立身出世などといったことに少しでも興味があるなら、そうした一切のことがらも、すべて神にお任せすることをお勧めする。

これは信者が「すべてを神に任せる」という口実で、自己放棄し、自分では一切何もしなくなるという意味ではない。また、望みを捨て去るという意味でもない。自分で何かを獲得しようともがき、必死の努力を重ねる代わりに、望みのすべてを正直に神に打ち明け、神にそれを承認していただけるかどうかを尋ね、もし神との間に争いがないならば、神の御手から改めて承認された自分の願いを受けとって、その実現に生きることが一番確かで自然な方法だという意味である。

筆者はこれまでにも幾度か述べて来たように、ある時期から、自分の人生を完全に天に委ねてしまった。つまり、神の恵みにより、天の経済によって生かされるようになり、どう生きるかということについて、あれこれ心配をしなくなったのである。

だが、それは決して、筆者の人生に何一つ心配に値する出来事が起きなくなったという意味ではない。何の波乱も、一つの事件も起きなくなったという意味ではない。そうした事柄に心が触れられなくなり、何が起きても、一切、心を騒がせず、静かに落ち着いて最善の解決を見いだし、そこへ向かう方法が分かって来たという意味である。
 
これは子供が自転車の乗り方を覚えるのにもよく似て、最初は何かしらとてつもない無謀な実験のように、もしくは無責任な考えのようにすら感じられるだろう。普通の人々は、仕事や家族のことで何と心を煩わせていることか! そして、まるで心煩わせることこそ、義務を果たすことであるかのように思い込んでいる。生活環境が変わり、仕事内容が変わったり、勤務地が変わったり、居住地を変えたり、家族に変化が起きたりすれば、その度ごとに、ほとんどの人は、これからの自分の人生は一体、どうなるのだろうかと不安を抱かずにいられないであろう。

この不安定な時代には、多くの人々はただ生計を維持するだけでも大変な苦労を負わされており、さらに、その不安に追い討ちをかけるように、しばしば情勢の不安が生じ、または心根の悪い人たちに遭遇して、裏切られたり、騙される寸前のところに追い込まれたり、あるいは、思わぬ負の事件をもいくつもくぐり抜けねばならない。そうした中でも、その出来事について思い煩わず、圧倒的な平安の中に座し、神の守りを確信し、心を悩ませずに、すべての出来事にふさわしい解決を見いだすというのは、並大抵のわざではない。いや、それは人の努力によってできることではない。

だから、筆者がこの法則を体得するにも、多少の時間はかかった。だが、それを通しても分かるのは、人にとって何よりも時間がかかるのは、自分の生存を自力で支えるためのあれやこれやの手練手管や方策を獲得しようともがくことではなく、どのような状況の中でも平安の中にとどまる秘訣を知ることなのだ。多分、この秘訣を知っている人はほとんどいないだろう。なぜなら、そのような平安は、人の力で獲得できるものではなく、神から来るものだからである。

だが、それでも言えるのは、御言葉への信仰に基づき、一切の思い煩いを捨てて、神に自分自身を委ね切ることは、そんなにも難しいことではなく、慣れてしまうと全く困難ではないということだ。それは天の法則に従って生きることを意味する。

さて、ここで筆者の言う「天の法則に従って生き、どんな状況においても平安に座する秘訣」とは、外見的にいかにもハッピーで、悩みがなさそうで、喜びに満ちて、常に笑顔を絶やさず生きている理想的なクリスチャンの姿、などといった皮相で軽薄な印象の次元の話ではない。これは、外側から判断して、その人が他人にどう見えるかという問題とは全く関係なく、信者が内面において天の法則(命の御霊の法則)を知っており、その確信に基づいて生きているかどうかを指す。

この地上にも、自然界の法則がある。たとえば、野生の動物たちは、一体、どうやって食糧のありかを自分で見つけられるのだろうか。道端にいる猫や犬やカラスや雀たちは、どうやって自分を養っているのか。どうしてかは分からないが、彼らは生きるための法則を自ら知っており、神は彼らに自分の命をつなぐために必要な知恵を、彼らの命の中に組み込む形でお与えになった。それならば、まして人間が、しかも、キリストを信じて、その復活の命によって生かされている人間が、自分を生かす天の法則を知らないはずがない。

多くの信者は、神に向かって、自分が直面している当面の問題を解決するためのふさわしい知恵を下さいと言って、延々と長い祈りを捧げるが、筆者はこう言いたい、天の法則は、キリストが十字架の死を経て信じる者にお与えになった復活の命の中にすでに組み込まれていると。つまり、もしも信者が、真にキリストを知って、アダムの古い命ではなく、キリストの新しい復活の命によって生かされているならば、その信者は、自分を生かす新しい法則を自ら知っているはずであり、その鍵は御言葉の中にある。信者は御言葉を通じて、あらゆる問題解決に必要な知恵を自分で探り出し、体得する秘訣をすでに持っているのだと。

それが、キリストが信者の中に住んで下さることの意味である。つまり、神がキリストを通して信者に与えられた新しい命(命の御霊)が、信者がどう生きるべきかをおのずから信者に教えてくれるのである。

だから、信者は余計な思い煩いを一切捨てて、心静かに御言葉を探り、御言葉に従い、神がお与え下さった新しい法則に従って生きるだけで良いのである。そして、その新しい法則は、人間に苦役ではなく、自由をもたらすものであり、もはや信者はかつてのように、恐れや義務感にとらわれて生きるのではなく、心の本当の願いに従って生きることができる。

キリストの復活の命は、人がただ生存するためだけに、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶように求めるような、残酷な性質のものではなく、御名によって、信者が心に願うことを率直に神に求めることを許してくれる。つまり、絶大な自由を信者に与えてくれる。だから、神との間に争いがなく、良心に咎めがないならば、信者は御名によって、大胆に、自分の心の願いを神に申し上げ、その実現を願い求めれば良いのである! 求めたならば、落ち着いて、その実現を信じ、それに向けて、ごく普通に、必要な新しい一歩を踏み出せば良いだけである。そこには、困難で複雑なことは何もない。

こうして、何重にも重い衣装をまとっていた人が、それを一つ一つ脱ぎ捨てて、軽快な服装に着替えるように、信者はかつて自分を縛っていた様々な心の重荷から解放されて、自由になって行く。かつてのように、地上の残酷な法則に縛られ、翻弄されて生きるよりも、天の新しい法則に従って生きる方が、はるかに自然であることが分かって来る。

信者が、天の新しい法則に従って生きるために、特に必要なことは、後ろを振り返らないこと(過去に未練や執着をもたないこと、自分で自分の過去を裁いて失敗に悩んだり、これを修正しようとして見てくれに拘泥しないこと)、自分の心の願いに正直であること(自分の心を神の御前に偽らないこと)、神の忌み嫌われる汚れたものとは分離することである。
 
最後の項目の中には、明らかに反聖書的な考えや教えを持つ人や団体と訣別することだけでなく、信者が自分自身の心に思い浮かぶ恐怖や、悪しき想像、思念と訣別することも含まれる。この課題は極めて重要である。

筆者はこれまで、信仰による創造というテーマについて幾度か書いたが、信者は、自分で自覚していようといまいと、自分の思念と言葉によって、絶えず信仰的に何かを創造しているのである。だが、その創造は、必ずしも、神の御心に合致せず、むしろ、悪魔のささやきに耳を貸すようなものである場合もある。なぜなら、信者自身が、自分は一体、何を本当だと信じるのか、御言葉に合致する事実を選び取るのか、そうでない事実を選ぶのか、選択を迫られているからである。
 
信者が、もし神の御心に合致した調和の取れた生き様を願うならば、自分の思いを統制し、御言葉にかなわない、自分にふさわしくない、神を喜ばせない、キリストに従わない思念を撃退して自分の外に追い払わなければならない。自分の身に呪いや滅びを招くような悪しき思念とは訣別しなければならない。そして、この課題は、信者の生活が順風満帆であるときにはたやすく達成できると思われるかも知れないが、逆境にある時にも、同じようにせねばならない。
 
信者は、人からの呪いの言葉を聞いたとしても、それを決して自分の中に取り入れるべきではなく、まして信じてはならないし、ネガティブな事件がどれほど身近に起きたとしても、それに注意を払うべきではなく、それを最終的な現実として受け入れるべきでもなく、御言葉に逆らう状況に徹底的に立ち向かいながら、ただ神が定めて下さった目的地(キリストにある新しい人、復活の領域にある自由と解放)だけを求めてまっすぐに見つめ続けねばならない。

信者が何を現実と認めるかによって、信者の歩みは全く変わってしまうのである。道に横たわって進路を妨げる障害物を現実だと思うならば、一歩たりとも前に進んで行くことはできなくなる。だが、悪しき思念は、必ずしも、他人の言動や、不意の望まない出来事を通してやって来るとは限らず、まるで自分の思いであるかのように、信者の心に思い浮かぶこともある。それでも、信者はこれを自分の思いであると錯覚せずに、その出所を識別して、御名によってその思いを拒絶し、これを虚偽として立ち向かわなければならないのである。

筆者はまだ天の法則を十分に知ったとは言わないが、これまでの年月、一日、一日、神がどんな状況においても、信じる者を支え、導いて下さる方であることを確かめて来たため、その一日、一日が、神がどんなに信頼できる方であるかということの確証となって、筆者の確信を補強している。
 
さて、すでに書いた通り、今回も、天の不思議な采配により、久々に郷里の空気を吸う機会を得たが、こうしている間にも、十字架の死と復活の原則は、生きて信じる者の人生に確かに働くことを筆者は経験し続けている。

たとえば、この道中に連れて来た小鳥が、到着後に不意に重大な怪我をするという事件も起きたが、神に助けを求めると、良い獣医を見つけて、早期に適切な治療を施すことができ、そのおかげで、小鳥も順調に回復を遂げるに至った。

場合によっては命に関わるほどのリスクを伴っておかしくない重大事故であったが、今やほとんど元通りに健康を回復しつつあり、これにも、死の中に働く確かな命の法則を見る。

さて、これから先の記事では、十字架の死だけでなく、復活の側面に大きくスポットライトを当てたいと筆者は考えている。前回までの記事では、筆者はキリスト者が低められることの重要性について幾度も触れたが、ここから先は、栄光から栄光へと、キリストの似姿に変えられて行くことに重点を置いて話を続けたいと考えている。

その本題に入る前に断っておきたいのは、筆者が、信者が低められる必要があると述べるのは、決して信者が自分から低い地位を求めるべきという意味ではないことだ。これは自虐の勧めではないからだ。しかし、信者が束の間、意に反して、卑しめられたり、低められたり、注目されず、無化されたかのような立場に置かれるということは、しばしば起きうる。そして、その訓練の間に、信者が呻きや嘆きを通して、神の御前にそこからの解放を願い出るならば、それは間もなく叶えられる。

そのため、もし信者が、束の間、低められることがあれば、その後には、高くされることが続くと思って差し支えない。それは、信仰者には、主にあって御名のゆえに遭遇した束の間の苦しみの後に、常に休息の時がやって来るのと同じである。

たとえば、この時代の状況もあって、筆者はこれまで、個人的に、長い間、自分が並大抵でない苦労の連続の中を生きて来た自覚があり、それは筆者の周囲の人々も共通して認めているところであったが、しかしながら、そうした苦労にも終止符が打たれ、次第に、人生が自由と解放へとシフトして来ているのを感じる。

つまり、筆者自身の歩みが、栄光から栄光へと、キリストの似姿へ変えられて行くという局面に移り変わって来ているのだ。

かつて、アブラハム型、イサク型、ヤコブ型、どの人生に自分が一番近いかを問う質問を聞いたことがあるが、筆者の歩みは、どこかしらヤコブの人生にも似ている。開けた広い場所へ出るまでの間は、ラクダが針の穴を通るように、狭苦しい窮屈な通路を長々と通過せねばならない時期がある。だが、それもいつかは終わり、大路へ達する。あるいは、ヨセフの人生にも少し似ているかも知れない。他の人々が遭遇することがないようなスケールの劇的な苦難にも度々遭遇して来ているからだ。
 
筆者は、これまでの人生に絶えまない格闘があったので、ヤコブのように、自分の「もものつがい」が外されるために、何か特別に劇的な格闘があったのかどうかも分からないが、気づくと、もものつがいも外れ、これまでさんざんそこから脱出しようとして苦しんだり悩んだりする原因になった出来事が、全く古い出来事として過ぎ去り、とうに自分の心に触れなくなっているのを知るのである。

それどころか、そうした出来事が人間の心を翻弄するカラクリが、あまりにもはっきり分かってしまうので、その悪しき装置の仕掛けを見抜いて、これを事前に打ち壊すことさえ可能になる。そのようなことがあらゆる場面で起きて来る。

それはちょうどいじめられっ子が、成長して、いじめっ子の挑発にびくともしなくなるのにもよく似ている。敵はクリスチャンを苦しめる目的で、絶えず悪しき活動を続ける。ところが、クリスチャンの方では、そうした次元の事柄に、全く自分が反応しなくなるのが分かるのである。レベル1の敵と対戦して負けては、悔しい思いをしていたのは大昔の話になり、今立ち向かうべき相手は、レベル10は超えている。仮に取っ組み合って立ち向かい、格闘する対戦が訪れるにしても、その時々にふさわしい相手を見分けられるようになる。レベル1の敵が活発に蠢いているのを見たとしても、脅威にも思わず、全く動じることもなく、相手にもせず、素通りするだけなのである。

一つの例を挙げれば、かつてもブログ記事に書いたことであるが、筆者は何年もかなり前に、大手で有名ではあるが、モラルの欠ける劣悪な人材派遣会社のもとから、同じほどモラルの欠落した劣悪な派遣先に遣わされ、そこでいわれのない理由で、一方的に契約を短縮させられそうになり、交渉の末にようやくその措置を免れるという出来事に遭遇したことがあった。

その当時は、何も理由が分からずに遭遇した出来事だったため、この事件に、筆者は衝撃を受け、愚かしい長々とした交渉に消耗もしたが、その後、人材派遣業そのものがブラックな業界だと言われる中でも、派遣会社にはピンからキリまであって、上記に比べ、はるかにましで良心的な会社も存在しており、良心的な会社は、同じような状況が持ち上がっても、決して以上のような措置を取らないことを知った。

つまり、その時、筆者が関わった会社は、大手にも関わらず、あらゆる派遣会社の中でも、とりわけモラルがなく、レベルが低かったのだと言えるのである。後になって分かったことは、問題となった派遣会社は、当時から、他の派遣会社がさじを投げ、すでに派遣を中止して撤退したような、劣悪な環境の職場に積極的に乗り込んで行っては、ブラック企業を食い漁るようにして、シェアを伸ばしていたということであった。
 
筆者がその当時、派遣された職場も、他の派遣会社が送り込んだ人材への扱いが相当にひどかったため、他社が度重なるクレームをつけたにも関わらず改善がなく、他社がすでに手を引いた職場だったことを、筆者はまさにその当時、職場にいた同僚から聞かされた。他の会社が撤退するほど悪い環境に、積極的に乗り込んで行くのだから、そんな環境で、問題に巻き込まれないことの方がおかしい。

しかし、そうなっても、派遣会社の方は派遣先と連携して、何が起きても、ただ労働者に一方的な責任を負わせる形で幕引きを図ろうとするのが通常だったと見られる。その派遣会社は、近年も、有名企業に正社員を対象とするいわゆる首切りマニュアルなるものを提供してリストラを促し、社員の退職を機に人材派遣のチャンスを増やして、自らの儲けの手段としていたことを、TVでも特集として報道され、世間に問題視されるに至っているほどだ。いわば、他者の不幸を自分の儲け話に変える手法が、社風として定着してしまっているのである。(しかも、その劣悪な派遣会社が、当時、筆者を派遣した先が、政府の事業の下請け企業であった。政府の下請けという立場もまたとりわけ悲哀に満ちた環境が生まれる元凶である。)

さて、当記事は労働環境について論じることを目的としていないので、本題に戻るが、上記のような事件は、筆者には、遭遇した当時は、いきさつを全く知らなかったため、それなりに衝撃的に感じられたものであるが、その後の月日で、すっかりその人材派遣会社のレベルの低さとモラルの欠如が見えてしまい、その事件が起きたカラクリも分かってしまい、なおかつ、比較的良心的でましな会社が他にいくらでも存在していることや、派遣であろうとなかろうと、会社を選ぶ権利は誰にでもあり、起きた出来事も、見る人から見れば、最初から予測できた当然の結果でしかなく、少しも筆者の個人的な責任に帰されるべきものでないことが分かったので、今はこのような出来事にはまるで心を動かすことなく、振り返って憤ることもなく、ただ取り合う価値もない出来事として呆れながら、素通りして行くだけである。

この世の中には、残念ながら、ハイエナやハゲタカのような企業や宗教や人間も存在しており、空中に蠢くウィルスを根絶できないように、それらを駆逐することは誰にもできない相談である。だが、人が健康であればウィルスに感染しないのと同様、そのような低いレベルの対象を見抜くことさえできれば、これを相手にせず、関わらないことによって、害を受けず、関わったとしてもその害を最小限度にとどめることは誰にでも可能なのである。

以上の体験談は、労働問題を論じるためでなく、信仰の生長について語るための一種の比喩として持ち出したものである。つまり、人生で一時的に、耐え難いほど心を悩ませる問題が起きて来ることがあっても、人が生長すれば、その事件を通り過ぎることができる。そして、もっとはるかに高度な問題に取り組むようになる。卑劣な人間や組織ほど、活発に自己主張するため、他者を押しのけて、人の不幸を踏み台にしてでも、貪欲に自己の利益拡大をはかるかも知れないが、そうした人々の厚顔不遜さに影響されることも減って行き、そばで誰がどのような生き様をしていようとも、落ち着いて自分の歩みを進めつつ、卑劣漢にその後、何が起きるのかを、冷静に観察できるようになる。つまり、理不尽な状況や有様を見ても、義憤に駆られて、自分の手で誰かに報復したり、自分の手で正義を実現しようなどと思うこともなく、すべての問題にふさわしい結果が現れることを確信して、穏やかでいることができ、心を悩ませる価値もないような問題や人々のために、人生の貴重な時間を膨大に浪費することはなくなるのだ。

この世に人材派遣会社が数えきれないほどあって、仕事を探している人間の側で、いくらでも選択が可能であるのと同様に、人はどんな対象と付き合う際にも、自分にふさわしレベルの相手を見分けて選ぶことができる。

つまり、誰でも相手をよく観察し、本心を見分ける術を心得て、関わる相手の性質やレベルを自分で見抜いて、これを定め、選びさえすれば、自分を守ることができる。そのための観察眼や洞察力を磨くべきなのである。(何よりも霊的洞察力・識別力を持つべきである。)だが、もし比較材料が全くなければ、学習を積む機会もないであろう。もしある人の人生に苦しみも悩みも全くないならば、その人には、さらなる自由や解放を求める機会自体が訪れないであろう。

人生に起きる出来事はすべてこのようなものである。一時的に卑劣な人間や劣悪な組織に出会ったとしても、全く絶望する必要がないのは、それよりももっと良心的な人間や組織が必ず存在するからである。つまり、人は何があっても、決して諦めることなく、より純粋なもの、より誠実なもの、より良心的なもの、より真実なもの、より完全なものを探し求め続けるべきであって、さらなる望みを持ち続けるべきなのである。最終的には、完全に真実な方は、神ご自身のみであることを忘れず、神にすべての望みをかけているなら、人生において、真実で誠実なものを求め続ける信者の願いを、神は笑われたりはしない。すべてのものについて、より真実で完全なものを求める願いがあって初めて、人は虚偽を脱し、不完全さと訣別し、より完全に近いレベルに到達することができる。地上における人の人生に完全はないが、それでも、信者は完成に向かって、絶えず歩み続ける。神と出会ったと言っているクリスチャンでも、決して信仰によって一足飛びにすべてを得ることはできない。自分の望みに従って一歩ずつ踏み出して行くしかないのである。
 
今となっては、筆者は人材派遣会社などに関わろうとは思わないが、かつてはなぜ派遣会社などを利用するのかとよく聞かれたものだ。それだけではない。なぜこんな条件に黙って応じているのか。なぜこんなに短い契約期間なのか。なぜこんな仕事内容なのか。あなたほどの人が、なぜ…。だが、他者がどんなに忠告しても、本人がそれを心から理不尽だと感じて、その束縛を脱することを全身全霊で望まないことには、脱出の道も現われない。そのことは、筆者が他の人たちを観察して常に感じて来たことだ。残念ながら、何と多くの人たちが、本来は、とうに脱しているべき劣悪な環境に自らとどまろうとすることか。多くの人たちは、束縛を振り払って自由になることよりも、かえって束縛に自分を合わせて自分の願いを切り取ることを願う。

信仰の成長も基本的にはそれと同じである。自分を悩ませたり、苦しめたり、束縛している問題に、一つ一つ、根気強く向き合って、神が約束しておられる自由と解放とは何なのかを思い巡らし、ふさわしい解決、ふさわしい解放、ふさわしい達成を自ら願い求めて、より完全なものへ向かって、一歩、一歩、階段を上るようにして、そこへ到達して行こうとする試みなしには、一足飛びにいきなり何かしら高度な達成へ至りつくことは決してない。自分が不当に束縛されているのに、それを束縛とも思わず、他者の同情を得る手段として利用したり、解放される必要があるのに、自分はすでに自由だなどと豪語して、問題と向き合うことなく、自分を偽っていれば、そこから一歩たりとも成長しないのは当然である。
 
かつて、ある信者が筆者に向かってこう言ったのを思い出す、「ヴィオロンさん、私があなたについて評価するのは、あなたの望みの高さです。現状だけを見て比べれば、今、あなたよりもはるかにましな状態、ましな環境にあり、はるかに成功しているように見える人たちはたくさんいるでしょう。でも、私が、あなたが他の人たちと違うと思うところは、あなたの望みの高さなのです。望みこそ、人の最終的な到達点を決めるものであって、現状がどうあるかは関係ありません。あなたには非常に高い望みがある。誰にも見られないほどの高い望みがある。だから、私はあなたに期待するのです。」

筆者は今、神以外の誰からも「期待している」と言われて喜ぶことはきっとないだろうと思う。人の評価ほど当てにならないものはなく、他人の期待に応えることが筆者の責務でもないからだ。だが、それでも、以上のような意見には、依然として耳を貸すべき部分があって、誰しも望みは高く持つべきだと考えている。特に、信仰者はそうだ。我らの望みは、キリストなのだから、まさに最高の最高の望みである。この最高の方を信じ、その方が共におられるにも関わらず、どうして我々が自分の人生について望みを高く持っていけない理由があるだろうか。そして、神がその願いを喜んで下さると信じない理由があるだろうか。

人は何を望み、何を現実だと思い、何を信じるかによって、その歩みは全く変わってしまう。不誠実な友に満足し、束縛があっても束縛とも思わず、モラルの欠ける状況に自ら甘んじたり、受けた苦難のゆえに、ただ苦々しい思いだけを心に抱いて、憤りや失意や悲しみに暮れて生きるのは容易である。自分は被害者だと主張して、途方に暮れたり、他者を責め続けるのも容易である。しかしながら、どんな出来事であれ、遭遇した出来事を、さらに高い到達点を目指すきっかけとし、より真実なもの、より確かなもの、より完全なものを見いだし、決して失われることのない希望と栄光に達するきっかけとしたいと心から願い、実際に、その栄光に至りつくことも可能なのだと、筆者は信じてやまない。なぜなら、より良い環境、より良い条件、より良い対象に出会いたいという願い、より真実な、決して変わることのない完全なもの、最良のものに出会いたいという人の願いを、神は決して笑うことなく、常に重んじて下さるからだ。神は筆者を常にその願いに従って、実際に願いの実現へと導いて下さったのであり、最善、最良のものを願い続ける人の望みは、最終的には、人を必ず神に向かわせる。神はご自分が完全な方であられるがゆえに、完全を求める人の願いをも重んじて下さるのである。
 
もう一度書いておくと、キリスト者には、しばしば自分を低めることに同意すべき時があるが、それは決して信者が自分で自分を卑しめるべきということではない。むしろ、信者はどんな限界や束縛の中にあっても、御言葉に基づいて、常に大胆に自由を目指すべきであり、神がキリストにあって約束して下さっている絶大な自由の価値を決して忘れるべきではない。謙虚さと卑屈さとは全く異なる別の事柄である。信者は、心の望みは、どんなことがあっても、決して自ら低めてはいけない。現状がどうあれ、信者の人生は、信仰を通して、心の望みに従って、形作られて行くからである。 「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)と聖書に書かれている通りである。


十字架の死のと復活の原則――信者のからだの命でもあるキリスト――ただキリストの復活の命によってすべての必要を満たされて生きる

ですから、私はあなたがたに、食事をとることを勧めます。これであなたがたは助かることになるのです。あなたがたの頭から髪一筋も失われることはありません。」(使徒27:34)

「しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。
それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。
どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。
 しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。
あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます
」(ルカ21:12-18)


かつて巨大なエクソダスが起き、筆者が初めてキリストの十字架の死と復活に同形化されることの意味を知った時の出来事を思い返している。というのは、それとほぼよく似た体験をつい最近もしたばかりだからである。

一つ前の記事において、神から信者への御言葉による光の照らしを筆者はレントゲン写真にたとえたが、これは少しばかり不適切なたとえかも知れないと思う。なぜなら、神による照らしは、レントゲンのように有害な放射線によらず、また、我々が自分を吟味していただくお方も、あくまで神であって、目に見える誰か人間に向かって客観的に自分の状態を確認してもらうことが目的ではないからである。

以前、筆者は、獣医の誤診によってさんざん無益な狂奔をさせられた事件について書いたことがあるが、医者という存在は、どこかしら牧師にもよく似ていて、もしも自分の体のことを自分で管理できない不安を抱く患者が安易に助けを求めるならば、医師たちは、そのような患者をあたかも問題から助けてやるかのように見せかけながら、さらにその問題を悪化させ、よりひどい依存状態へとがんじがらめにして行くということが、全くないわけではない。

だから、キリスト者が頼るべきは、人間の医師ではなく、まことの医師たるキリストであって、キリスト者を生かす命は、人間による外科治療や薬による外的影響力ではなく、内側から働くキリストのまことの命なのである。キリスト者が受けるべき検査は、人体に有害な人工的な光の外側からの照射による検査ではなく、神の無害な御言葉の光の内側からの照射による検査である。
 
前回の記事で、筆者は『キリスト者の標準』を引用しながら、ウォッチマン・ニーが憔悴状態にあった時の体験に触れたが、彼には何かしらの持病があったらしく、それが悪化した際に、一度は重篤な状態に陥り、兄弟姉妹からも命を危ぶまれ、診察した医師からも、余命いくばくもないと宣告されたことがあるそうである。その体験を、筆者は別な著書で読んだ。だが、ニーはその時、息も絶え絶えの病の床で、医師から受けた死の宣告を、信仰によって拒否し、そして、実際に彼は奇跡的な回復を遂げるのだが、それからしばらく経って、たまたま読んだ新聞の死亡欄に、自分を診察した医師の名前を見つけ、神は生きておられると痛感した、というくだりがあったと記憶している。

筆者もそれにかなりの部分で同意する。筆者は、信者が医学的な治療や、薬や、検査を一切拒否すべきとまで言うつもりはないが、極力、そのようなものは受けないに越したことはないと考える。そういったものに頼って自分の健康を維持しようとすることは常に失敗に終わる。

たとえば、誰しも分かるように、薬などによって症状が抑えられるのは、ほんの一時的な間でしかない。たとえどんなに小さな傷であっても、患者の体自身に受けたダメージから根本的に治癒する力がなければ、患者が薬を飲み辞めた時点で、また症状が再発するだけなのだ。そのように外側からの影響力に頼って、人間が自分の状態をごまかそうとすることは、回復というよりも、目くらましに近い。薬のせいで、傷があるという事実が忘れられ、さらに、傷が治らないか、あるいは治る見込みが薄ければ、今度は、外科治療によって体の部位ごと切除しましょうという話になる。医師たちから見れば、それこそ「治療」である。だが、もし患者がそれに同意すれば、患者は最初に受けたダメージよりも、はるかに大きなものを永久に失わなければならなくなる。体に必要な部位を切除すれば、体に必要な器官がなくなるわけだから、その悪影響は、何年後かにまた必ず現れて来る。一つの症状は治まっても、今度は体の部位がなくなったことから来る弊害のための「治療」が必要になるのである。

だから、信者は、このような無限ループのようなごまかしに近い療法で満足するのではなく、根本的な原因は何かというところに目を向けて、目くらましの治療ではごまかせないもっと深いレベルまでで、人間ではなく、神によって根本的な治療をしていただかなければならない。人間は常に外からの影響力に頼って問題の本質をごまかし、なおかつ、人間の肉眼で見える証拠しか採用しないので、しばしば判断を間違うが、神はキリストを通して、人間を内側から生かすことのできるまことの命をお与えになっているのであって、その診断は決して間違うことなく、その命は、患者をいかなる外的影響力にも依存させずに自ら立ち直らせる力のあるものである。
 
キリスト者には、地上で様々な圧迫や苦しみが起きて来ること自体は避けられない。どんなにすべての思い煩いを神に委ねているとしても、色々な出来事に対処を求められる過程で、また特にサタンによって引き起こされる様々な問題に立ち向かう上で、極度の憔悴や、疲労困憊に追い込まれることは実際にないとは言えない。だが、信者がそのような圧迫によって起きた状態を、「取り返しのつかない現実」であると考えて、死や、損失を、避けがたいものとして受け入れるか、もしくはそれに信仰に立って徹底的に抵抗して、信仰によってその損失を拒否し、命を選び取るかどうかは、あくまで本人の選択による。

キリスト者はその生だけでなく、死によっても、神を証すべき存在であり、殉教と、サタンの攻撃や不摂生の結果として起きただけの病死や、もしくは老衰などによる死は、決して同列に論じるべき事柄ではない。アブラハムや、モーセがそうであったように、信者は老いてもますます神の命によって支えられ、輝かされるくらいでなければ普通とは言えない。病についても同じことが言える。信者の歩む道は自然の法則によるものではないのである。

だから、もし抵抗できるなら、信者は最後の瞬間まで、病や、圧迫や、死を拒んで、いのちを選び取るべきなのである。それはただ自分が苦しみたくないとか、死にたくないといった自己中心な利益を求めてなされる抵抗ではなく、もしキリストの御名のためならば、いつでも死を辞さない覚悟はあるが、それでも、キリストの死を打ち破った命が、人間をすべての圧迫から救い出すことができ、神は人に死ではなく命を与えるためにこそ人を創造されたのだと、天地の前で生きて証明するために堅く信仰に立って抵抗し続けるのである。

キリストのまことの命が信者を生かすようになると、信者の内側に未だかつてない新たな確信が生まれると共に、信者の滅びゆく肉体の幕屋にも新たなエネルギーが注がれる。

キリストの十字架の死と復活に信者があずかることは、信者の生涯で決して一度では終わらない体験であり、この原則は、信者の人生に極めてダイナミックな出来事の形を通して適用されることもあれば、そうでないもっと些細な出来事によって適用されることもある。

だが、表面的な見え方がどのように違えど、地上におけるごくごく軽い患難を通して、永遠の重い栄光にあずかることは、信者の生涯に渡る絶え間ない体験である。 文字通り、自分が地上で受けるすべての悩み苦しみについて、信者はこの原則を適用することができるのである。

ごくごく最近も似たような体験をしたばかりなので、改めて書いておくと、筆者が、2009年当時に初めてキリストの復活の新しい命が自分を生かしていることを知った時に、真っ先に感じたことは、このまことの命は、たとえ地球が七回核爆弾で滅んでも、それでも滅びないほどまでにとてつもない力を持つ命だ、ということであった。 つまり、この物質世界で起きるどんな脅威をも打ち破るほどの、何かしらのとてつもないエネルギーをもたらす新たな強力な命が、自分自身の力には全くよらずに、自分の内側に存在することを感じたのである。

次に、理解できたのは、こうして信仰によって新しく与えられた御子の復活の命が、筆者自身の脆く弱く朽ちゆくはかない有限な肉体の幕屋にも、絶えずエネルギーを送り込む主電源となっている、ということであった。

当時を思い返すと、十字架の死が霊的に適用されるまでの間に起きた様々な圧迫のせいで、筆者はかなり憔悴していた。その当時はまだ、十字架の死と復活が信者に適用される直前には、多々そのような予期せぬ圧迫が起こることを知らなかったので、多くの出来事が不意打ちのように感じられ、そのために翻弄され、悲しんだり、悩んだりしたせいで、心身が極度に憔悴していたのである。

ところが、主の死に霊的に同形化され、よみがえりにも同形化されると、キリストの復活の命が、はっきりと自分自身の中で働きを始めたのが分かり、そして、その瞬間を境に、それまで死に向かって処刑台を行進させられる囚人のように憔悴の一途を辿っていた心身が解放され、肉体は強められて健康に回復され、疲弊していた魂は新たなエネルギーを得て生き生きとし、生きた人間として自分がまるごと刷新され、活性化されたのが分かるのである。

サタンの圧迫によって苦しめられたり意気消沈していた魂はたちまち健康を取り戻し、体には食欲の増進が起き、あらゆる食べ物が極めて美味に感じられ、体がそれまでの霊的死のために通らねばならなかった疲労状態から回復するために、急速にエネルギーを回復している様子が分かった。だが、それは決して病的な傾向ではなく、真に健康であるがゆえに、食事を楽しむことができるという幸福なのである。そして、採った食べ物が、どんなストレスにも妨げられることなく、体を生かすための栄養源になるという幸福な状態なのである。

幾度も書いている通り、信者の人生には、しばしば、十字架の死と復活の原則が適用されるために、思いもかけない激しい戦いのような出来事が起きることがある。十字架の死を迎える瞬間までは、信者はまさに死のクライマックスに向かって自分が行進をさせられているかのように感じ、まるでこの世全体が自分にスクラムを組んで敵対しているのではないかとさえ感じるであろう。

しかし、それが、何ら予期せぬ出来事でもなく、思いもかけない不審な事柄でもなく、ただキリストと共なる霊的死にあずかるために、信者が避けて通れない軽い患難、小さな杯であることが分かれば、信者は、そういう事柄に心を煩わせる必要が全くないことを理解するであろう。それは、自分の信仰が試されているだけであり、その苦しみの先には、はかり知れない栄光が待ち受けていることを、まだその苦しみが終わらないうちから、大胆に確信でき、天の褒賞にあずかる喜びを楽しみにさえすることができるようになる。そして、実際に信者が御子の復活に同形化されると、かつての苦しみによって受けたすべての損失が嘘のようにそれを補って余りあるほどの回復、祝福にとって代わる幸いを見ることができる。
 
苦しみによってダメージを受けた心や体が回復されるだけでなく、さらに、失われたこの世の富も、回復されるであろう。信者に与えられた新しい神の命は、すべてを統治・支配する命であるから、信者のために必要な全てを(肉体のエネルギー源のみならず、生活の必要の全て、また信者の心の願いを)自然な形で供給することができると分かるはずである。

キリストは地上におられた時、何も財産を所有しておらず、職業を持っておらず、生計を立てるための具体的手段を持っておられなかった。それにも関わらず、神の国の宣教は、信仰によってのみ支えられたのである。こうして、今日、キリストだけでなく、信者自身も、持って生まれた権勢、自己の力で築き上げた権勢によらず、生まれつきの才覚や、後天的に獲得した優れた能力によらず、職業的な専門技術によらず、親族や知人のコネに頼らず、神への信仰を生きて働かせることだけによって、すべての必要を神に供給していただくのである。
 
キリストはご自分も肉体を持っておられ、人としての弱さを知っておられたにも関わらず、決してご自身の必要のためだけに人々に関わられたり、懇願されることはなく、むしろ、常に人々に豊かに与える側に回っておられた。そのキリストが信者の内側に住んで下さることは、キリストが地上におられた時にすべての必要をただ信仰を通して神によって供給していただいたのと同じ法則性が、信者の内に生きて働くことを意味する。

だから、 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じて、バプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:15)という命令を実行する力と条件を信者に与えるのは、神の側の仕事なのである。信者はただ信仰を働かせ、すべての必要をイエスの御名によって父なる神にかなえていただくのであり、それを実際に可能にするのが、信者の内に住んでおられるキリストの支配する命である。

また、その命は霊であり、その中に神と信者との交わりの中心がある。そこで、信者はキリストの復活の命を知ると、それまでのように、神との交わりを求めて自分の外をさまよい、神を知るためにあれやこれやの指導者を訪ね歩く不安に満ちた生活から、ただ自分自身のうちに住んでおられるキリストへと平安のうちに関心を転換することができる。
 
どんな時にも、信者は自分は心の内側で、聖なる御座へ進み出て、誰をも介さず、神に直接、全てを願い求め、祈り、交わることができる。自分の霊の内側に祭壇があって、そこで、いつでもキリストを通して、どんな問題についても、父なる神に直接、祈り、相談し、求めることが可能になるのである。神はもはやどことも知れない遠くにおられて、自分をいつでも見捨るかも知れないような不確かなお方ではなく、たとえ目で見られず、耳で聞こえず、肌で感知できずとも、生涯の終わりまで、共にいて下さり、信じる者を力強く守って下さり、すべての必要を満たして下さる方であり、信者は、祈る時にはいつでも天に直結してその願いが聞き届けられていることを知る。

だが、このような命が信者に与えられているのは、ただ信者一人だけの満足のためではない。信者は自分自身がキリストの復活の証人として世に出て行く使命を負っているのであり、そのためにこそ、主と共に死からよみがえらされて証人として立たされているのである。

キリスト者が伝道するのは、多くの信者たちが誤解しているように、教会組織の人数や権勢を拡大するために、神を求めていない人の関心をあの手この手で引こうとすることとは断じて関係がない。キリスト者が人々に奉仕する意味も、自己変革によって神に到達するための精進などでは決してない。すでに、全ての全てであられる方を内に得ているのに、何のために自己変革などするのか。信者がもし自己変革などを目指すとすれば、それはただ地上において、軽い患難を耐え忍ぶことを通して、重い天の栄光があることをより深く知り、より深くキリストの十字架の死と復活に同形化されて、内に住んでおられるキリストと深く交わり、この方への愛を深め、御子に似せられて行くことのためだけである。だが、それは信者が何かしら偉大な人格者へと変えられることにより、世から賞賛を受けることとは何の関係もない事柄である。
 
キリスト者が世に出て行くのは、世に自分の欠乏をかなえてもらうためではなく、世の欠乏をかなえるためでもなく、むしろ、惜しみなく与えることを願うキリストの命を注ぎだすことにより、神の召しに応え、神の愛を全うするためなのである。

こうして、信者が自分自身を注ぎだすのは、まず第一に神のためであり、信者がまだ反抗的な罪人であった時に、信者のためにすべてを捨てて下さった方の愛に応えるために、自分自身も彼にならって、この方にすべてを捧げるのである。だが、それが成就した時に、実に不思議な形で、信者自身の地上的な必要も満たされ、また、多くの場合、信者をとりまく人々の必要も満たされるのを信者は知るであろう。その順序は決して逆にはならない。

もし信者が神のために一切のものを留保せずに惜しみなく捧げ切ることができれば、この地上で信者が神を証して生きるために必要なその他の一切は、すべて自然に与えられる。まるでそうしたものは、全く取るに足りない付属物に過ぎないもののように、軽やかに、ごく自然に、悩みなく与えられ、成就するのである。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)


十字架の死と復活の原則―患難が生み出す栄光―後ろのものを忘れ、ひたすら前のものに向かって進み、キリストが上に召して下さる神の栄冠を得るべく、目標を目指して一心に走る

「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ14:11)

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。


 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。


私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:16-18)

巨大なエクソダスが完了して、不思議なほど心が平安に満たされている。

一つ前の記事で、「キリストに従うことに、そんなにも多くの代償が伴うなら、信じることに何の意味がありますか。キリストを信じたゆえに、世からの理解を失い、迫害されるなら、生きることが前より苦しくなるだけで、信じることにどんなメリットがあるのでしょうか」という不信者の問いを取り上げた。

確かにキリストに従うことには代償が伴い、多くの患難がつきものである。不信者のほとんどはそれを聞いただけで、踵を返すことであろう。ちょうどイエスのために全財産を捨てることをためらった金持ちの青年のように。

だが、キリスト者は、イエスに従うことに伴う代償だけに注目して、恐れ、失望したりはしない。なぜなら、地上における患難が、むなしい代償では終わらず、永遠の重い栄光をもたらすことを知っているからである。

今回は、キリスト者にとっての苦しみと栄光との不思議な関係について、つまり、十字架の死と復活の原則について、信じる者が代価を支払ってキリストに従うことに伴う恵みが、どれほどはかりしれないものであるかについて、少しばかり書いておきたいと思う。

さて、冒頭からまたもや突飛な展開だと言われるかも知れないが、今、筆者が思い出すのは、次の聖書箇所である。これは筆者が好んで使っている箇所なので、以前にも幾度か引用したかも知れない。

「ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した
しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。

彼らはその町で、福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った」(使徒14:19-22)

パウロは、かつては熱心なユダヤ教徒であったが、主イエスに出会って、十字架の贖いを知り、福音の使徒とされてから、かつては仲間であったユダヤ人や律法学者から激しく憎まれ、妬まれ、執拗に命をつけ狙われ、迫害されるようになった。

上記は、ユダヤ人たちに扇動された群衆に取り囲まれたパウロが、石打ちに遭い、あわや命を失う寸前まで追い込まれる場面である。当時の石打ちは、死罪を宣告する行為であり、つまり、ユダヤ人たちは、個人的にパウロの働きを妬んでいただけでなく、パウロがユダヤ教の教えに基づく律法による義を捨てたことを深く恨みに思っていたので、何の罪も犯してなかったパウロを、勝手に死刑にしようと狙っていたのである。

その恨みと憎しみの背後には、キリストの十字架によって人類が贖われ、罪赦されるという、律法によらない、信仰による義そのものが、決して認められない、というユダヤ人たちの思いがあった。

それは、人が自分の努力によらず、神の一方的な恵みを信じることによって、信仰によって義とされる道が開かれてしまうと、ユダヤ人たちが日々熱心に律法を守って、落ち度なく立派に行動することによって、自分で自分を善人とし、義としている一切の努力が水泡に帰するからである。そこで、ユダヤ人たちは、パウロの宣教によって、自分たちの教えそのものが危機に晒されていると感じ、自分たちの必死の涙ぐましいまでの努力が無にならないために、パウロの宣べ伝えるキリストの信仰による義を何とかして否定しようと、パウロをつけ狙い、迫害し、神が罪赦された聖徒であるパウロをあわよくば再び罪に定めて、自分たちの手で処刑して死に追いやろうと執拗に試みていたのである。

しかしながら、群衆が獣のごとき暴行に満足して、パウロはすでに死んだものと思い込んで立ち去った後、パウロはまるで何事もなかったかのように起き上がり、自分で歩いて町に入って行った。そして、その後、危篤状態に陥ることもなく、入院することもなく、翌日にはもう別の町に向かって出発し、そこで福音を宣べ伝えて多くの人々を悔い改めに導き、キリストの弟子とした。

パウロの身に起きたことは、多くの信者たちを驚かせたと同時に、勇気づけた。すなわち、パウロは、キリスト者には、地上での生涯を終えて、完全に神の国に入るまでの間に、多くの苦難が残っているが、それだからと言って、決して信者が失望する必要はなく、勇気を出しなさいと勧めたのである。なぜなら、神はキリスト者に、地上で受ける全ての患難を乗り越えるに十分な力をお与えになっているだけでなく、信者が地上で失ったものの代償として、天で栄光に満ちたはかりしれない重い褒賞を用意して下さるからである。だから、たとえ地上で予想外の事柄が起き、人々の思わぬ反対に直面し、物事が順調に行かないように思われる時にも、勇気を失うことなく、むしろ、あらゆる患難には死を打ち破ったキリストの復活の命が働くことによって、信者にはいかなる損失も生じず、天の御国に収穫がもたらされることを知って、勇気を出してしっかりとこの道にとどまり、信仰を捨てないようにと勧めたのである。

聖書の他の箇所を見ても、御霊を通してパウロの内に住んで下さったキリストは、パウロの内なる人を通して、彼の外側の限界ある肉体をも強め、人知では考えられない力を与えていたことが分かる。

キリストと共に十字架の死を経ると、その信者を生かしている命は、滅びゆくアダムの命から、死を打ち破ったキリストの復活の命へと変えられる。その復活の命は、キリスト者が地上で使命を終えるまで、信者のすべての必要を供給し、信者がこの世で受ける全ての圧迫を超えて、神から受けた召しを果たす力を与える。

贖われた人々は、自分を生かす命が、キリストの新たな命となったことを知った瞬間から、神の超自然的な命の力が自分を支えていると同時に、悪魔と地獄の全軍勢の尽きせぬ憎悪の前に、自分がキリストの復活の証人として立たされていることを知る。この人間のものではない、超自然的な、神の非受造の命のゆえに、キリスト者を巡っては、暗闇の勢力からの激しい陰謀や妨害を含む、途方もない規模の霊的対立が起きるのである。

信者が主と共に十字架の死と復活に同形化されると、信者の意志とは関係なく、信者を巡って、常識では考えられないような極めて異常で極端な出来事が起きるようになる。だが、それは信者にとっては当たり前のことで、驚くには値しない。逆に言えば、もし信者に地獄の軍勢の憎しみに直面している自覚がなく、何らの激しい対立や圧迫も起きないならば、その人が本当にキリストのものとされているかどうかは極めて怪しい、と言えよう。

さて、筆者は、偽りの宗教体系を含めて、信者が訣別すべきこの世の教えの体系からエクソダスを果たす際には、多くの圧迫や激変が起きることを書いた。そうした圧迫は、人間の目には、無用な苦しみでしかないように見えるかも知れないが、信じる者にとっては、大きな栄光の前触れである。冒頭で挙げた御言葉の通り、キリスト者が受ける苦難には、すべて後々報いが伴うのである。

人間は生まれつき試されることを喜ばないので、神の手から与えられる患難や試練を忍耐強く乗り越え、これを喜んで受けることを学ぶまでには、少しばかり時間がかかる。だが、聖書の御言葉は真実であり、キリスト者が地上で受ける苦難は、どんな種類のものであっても、すべて「軽い患難」に過ぎない一方、これを耐え忍んだ対価として与えられるのは、天での「測り知れない、重い永遠の栄光」である。

だが、不信者は言うだろう、「いや、ちょっと待って下さい。ユダヤ人に憎まれ、扇動された群衆にあらぬ罪を着せられ、石打ちになって殺されそうになることのどこが、「軽い患難」なのでしょう。しかも、パウロは生涯に渡って、ずっとそういう迫害に直面していたのでしょう。」それでも、筆者は言う、そういうものはみな軽い患難でしかないと。たとえ、信者が殉教に至り、地上の肉体の幕屋を破壊されたとしても、それもすべて軽い患難でしかないと。

重要なのは、そのような一つ一つの患難に対して、神はそれをただ耐え忍ぶのみならず、勝利を持って乗り越える力を信者にお与えになり、多くの場合、信者のこの地上での人生がまだ終わらないうちに、それに対する報いとしての天の栄光を垣間見せて下さり、それによって信者が十字架の死と復活の法則が信じる者の内に生きて力強く働いていることを知ることなのである。

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という御言葉が意味するのも、同じことなのである。もしキリスト者が、地上では苦難しか味わえず、敵意や、辱めや、嘲笑や、迫害にしか遭遇することなく、その報いとして与えられる栄光や喜びは、すべて死後になってしかやって来ない、などと考えるなら、それはあまりにも大きな間違いである。信者が地上で受ける全ての苦しみは、信者が自分を低くするために与えられるものだが、日々の十字架を耐え忍んだ代価として与えられる栄光を、信者は生きているうちにも、日々見ることができる。

多くの場合、信者が地上で受ける苦しみは、神が信じる者を高く上げて下さることの前触れである。信者は、神が大きな解放の御業をなし遂げて下さろうとしている時には、ほとんど決まって、人の目から見ると苦しみとしか思われない事柄が前もって起きて来るのを理解するようになる。だが、その苦しみは栄光の前触れでしかなく、信者が心騒がせずに神を信頼してこれを受けるならば、そこに、天の法則が働いて、人の思いもかけない解放が起こり、神が願っておられる通りに天の栄光がもたらされる。

キリスト者は、この地上にありながら、内にキリストをいただいていることにより、すでに来るべき世の統治の中に入れられているのであり、天の支配下に生きているのである。そこで、死後を待たずとも、キリスト者の内には、絶えず天的法則が働いて、御言葉が実際として成就する。だから、こう書いてある。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」と。

ここで「私たちのうちに働いて」と言われているのは、患難が「私たちキリスト者の内なる人を通過することによって」、重い栄光をもたらすと述べられているのと同じである。

つまり、キリスト者にとって、患難とは、それが自分の内なる人を通過することによって、そこに天の法則が働いて、測り知れない、重い永遠の栄光がもたらすきっかけでしかないのである。その証拠の一つに、石打にされそうになったパウロが、別の町で行った宣教の際に、新たな弟子たちが起こり、天に収穫がもたされたことがある。他にも色々な収穫があったかも知れないが、要するに、パウロが受けた苦難を通して、十字架の死と復活の法則が働いて、人々の魂が神に立ち返り、御国に大きな収穫がもたらされたのである。

このことは、キリスト者が地上で苦しみを受けることによってしか生まれ得ない天の栄光が存在することを教えてくれる。だが、誤解してはならないのは、これは決して信者が自ら苦しみを求めて良いという意味でなく、人が自分で自分を苦しめることとは全く異なる。信者の意志とは関係なく、神が許されて、地上で患難が与えられ、信者がそれを己を低くして信仰によって受け止める時、天で大きな報いが伴うのである。

さて、信者の「内なる人」とは、キリストと言い換えても良いかも知れない。確か、ウォッチマン・ニーがどこかの解説に書いていたように思うが、キリストの御霊が、信者の内側に住んで下さることによって、信者の内側では、御霊と信者の霊とが分かちがたく結びついている。

これはちょうど一人の人の中に二つの人格があるようなものだが、しかしながら、それは病的な二重人格ではなく、あるいは、ローカルチャーチの教えのように、「神と人とが混ざり合う」ことでもない。キリストと信者との結合は、ただ霊においてのみの結合だからである。

信者の内側で、キリストの人格と、信者の人格は、互いに分裂して押しのけ合ったり否定し合ったりすることなく、調和の取れた形で不思議に同居している。それが、キリストの人格が、御霊を通して、信者の内に住んで下さることの意味である。だが、それは自動的に達成される調和ではなく、信者の側からの協力が必要であり、信者にはキリストの人格を無視することもできるし、拒絶し、否定することもできる。もし信者がキリストの御声に聞き従うのをやめれば、キリストの人格は信者の中で働きをやめ、その状態が続けば、御霊はやがてその信者を去るだろう。

正常な状態の信者にあっては、信者の「内なる人」が、キリストの内住によって満たされ、強められているがゆえに、信者は外側ではこの世の滅びゆく肉体を持った有限な存在に過ぎず、魂においては、地上の人としての記憶や意識を持っているが、それでも、信者の内側には「キリストの成分」とでも呼ぶべきものがあって、それが信者の「内なる人」を形成するのである。つまり、信者の「内なる人」は、信者自身の霊と、キリストの御霊との結合から成り、この二つの人格を共に指していると言っても良い。

それゆえ、信者が地上で苦しみを受け、患難が鋭い矢のように信者の内側を通過してその存在を射るとき、その苦しみは、ただ信者という一人の人間を通過するだけでなく、信者の内におられるキリストをも通過するのである。それによって、ただ地上の滅びゆく有限なる存在としての人間が苦しめられただけでは、決して起き得ない現象が起きる。つまり、信者が受けた苦しみが、天ではキリストの受けられた苦しみに加算され、それが天の権益に関わる事柄として受け止められ、そこに天の法則が働いて、栄光に満ちた収穫がもたらされるのである。

パウロが「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と言った言葉の意味はそこにある。キリストが十字架で受けられた苦難は、それ自体、完全であって、人間によって補わなければならない欠点はない。だから、信者が地上で苦しみを受けることで、キリストの御業に何かをつけ加えたりするわけではない。だが、それにも関わらず、神は地上において、あえてキリスト者一人一人が、主イエスに従う過程で苦しみを受けることをお許しになる。神はそれを通して、信者一人一人を練られ、ご自分にならう者として鍛え、その心を吟味されると同時に、さらに、その苦しみを通して、信者に栄光をお与えになり、何よりも教会に栄光をもたらされる。上記の御言葉は、前後を踏まえて引用すると次のようになる。

「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです
私は、あなたがたのために神からゆだねられた努めに従って、教会に仕える者となりました神のことばを余すところなく伝えるためです。」(コロサイ1:24-25)

つまり、パウロが受けたような迫害は、キリストのからだなる教会のためだというのである。パウロは教会に仕える者として患難を受け、そこに天の法則が働いて、神の国に収穫がもたらされるのだというのである。

この死と復活の法則は、ステパノの殉教にも当てはまるだろう。パウロの回心という巨大な事件は、ステパノの殉教なしには起こらなかった出来事であると考えられる。

キリストの弟子とされた後、「ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。」(使徒6:8)。つまり、ステパノは、イエスの力ある弟子であった。これに対し、その当時、パウロ(サウロ)はまだ青年で、キリストを知らず、熱心なユダヤ教徒として、教会を迫害する側に回っていた。サウロは個人的にステパノの石打に大いに賛成しており、群衆によるステパノ殺害の場面にも立ち会っていた。

しかし、当時は何のためらいもなく、確信を持って、ステパノを迫害する側に立っていたパウロが、ダマスコ途上で復活のキリストに出会って、キリストの僕に変えられる。この出来事は、直接的には、ステパノの死とは関係がないように見えるが、それでも、これは信仰者の目から見ると、ステパノが受けた患難なしには決して起き得ない収穫だったものと思われる。

ステパノが殉教した場面で、彼が群衆に向けて語った最後のメッセージの締めくくりと、群衆の反応を、ここに引用しておこう。ステパノは群衆に向かって言った、

かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです
あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか
彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。

人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。
「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

人々は大声で叫びながら耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出し、石で打ち殺した

証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。

こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。

「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。」(使徒7:51-60)

前の記事で引用したイザヤ書の預言の通りである。ユダヤ人たちは、福音を聞いても耳を塞ぎ、神の御言葉を携えてやって来たイエスの弟子たちを見ないために目を覆った。彼らは、自分たちは律法を守り、落ち度なく行動しているという自負のゆえに、信仰による義を認められず、福音を全くの有難迷惑として退けた。彼らは福音をただ受け入れなかっただけでなく、福音を語った神の僕にも、尽きせぬ憎しみを燃やし、迫害し、石で打ち殺すまでに至ったのである。

これは、決してユダヤ教対キリスト教などといった対立構造を示すものではなく、神の義対人類の義の霊的対決を示すものである。すなわち、ステパノが神の恵みとしての信仰による義を語って、人類が自らの力で神の義に達しようとしている必死の努力を否定したために、有史以来、常に自力で神に到達するためにバベルの塔建設に励んでいる人類が、人類の涙ぐましい努力を否定する神の福音を、人類を冒涜するものとして理解し、これを宣教することが、死罪に当たる「罪」であると考え、福音を聞かないために耳を塞いで、神の義を否定しながら、その証人である神の僕を迫害して殺したことを意味する。こうして、世は人類の存在しない「聖」や「尊厳」を守るために、常に神を冒涜し、神の御言葉を退け、神の僕をも退けるのである。

先に引用したパウロの石打ちの場面とは対照的に、ステパノはここで殉教して生涯を閉じる。しかし、これら二つの場面に共通しているのは、パウロが、ユダヤ人たちの憎しみによって内面的に全く影響を受けなかったのと同様、群衆の激しい憤りと殺意に直面したステパノも、その出来事によって全く魂を触れられなかったことである。

ステパノは群衆が福音を拒絶することや、悪意に満ちた反応を返すことを前もって完全に予測していた。彼は霊的に贖われない人々が福音に対してどういう反応を示すか、理解していたのである。だから、彼は群衆の反応に動じることもなければ、彼らの憤りの前に譲歩することもなかった。彼は憎まれることを承知で群衆の前に立ち、拒絶されることを知っていながら福音を語り、殺されることも覚悟の上で、あえて真理を宣べ伝える神の僕として、最後まで世の前に立ち続けたのである。

そして、群衆の激しい憤りに直面しても、ステパノの人格が傷一つ受けず、動揺することも、悲しみに暮れることも、怒りをかきたてられることもなく、彼の心が、群衆の反応とは一切無関係に、最後まで平静を保ち、外側の肉体の幕屋が傷つけられても、内側では全き平安のうちに、揺るぎなく真理の確信に立ち続けることができるように守ったのは、主イエスご自身であった。

このように、全世界から激しい憎しみと悪意を向けられ、ついには命さえ奪われても、それによって全く微動だにしないような、人知では説明のできない、圧倒的な内なる平安が、ステパノの全人格を覆っていた。それは、パウロも全く同様であった。

このように、神の福音は、これを信じて受け入れた人々を、世から完全に切り離し、神だけに全幅の信頼を置いて、神の僕として立たせる。使徒たちは、人に拒絶されても、誤解されても、否定されても、そのような世の反応によっては全く変わらず、揺るがされることのない、圧倒的な平安を伴う内なる満ちた確信を持っていた。それは、決して相手に見返りを求めない、神の無条件の愛から来るものであり、神の愛が、それに捕えられた人々をも、キリストと同じようにあらゆる苦しみに耐えられるよう励まし、力づけ、勇気づけるのである。

このように、人の目から見て苦難が最大になった時にも、信者がその中でなお真理の確信に立ってこれを力強く守り抜く力を与えるのは、神ご自身である。ステパノの殉教の後、回心したパウロも、やがてはキリストご自身や、多くの弟子たちにならって、殉教することになる。使徒行伝にパウロの殉教の場面は描かれていないが、彼は皇帝ネロによるキリスト教徒への大迫害の時代に、ペテロなどと共に殉教したと言われている。おそらくは、描写もはばかられるような形で非業の死を遂げたに違いないと想像するが、最後までキリストの僕として、喜びと確信に満ちて大胆に主を証しつつ、衝撃的でドラマチックな形で生涯を閉じたのであろう。
 
このような殉教の場面を、信者ならば理解することができる。人間の目にどのように見えようとも、どれほど多くの人たちが理解せずとも、もし代価を払って主イエスに従うことができるなら、それは言葉に言い尽くせない栄光だと感じるのである。もちろん、人間の努力によってはそんなことは達成できない。誰も自らの目に損失と見えることを願う者はない。だが、信者が代価を払うことに心から同意し、自分の全ての利益よりもキリストを優先することを願い、神に自分自身を完全に捧げるならば、神がふさわしい時に全ての機会を用意して下さり、何が起きても、最後まで動じず、確信に立ち続ける力を信者に与えて下さると、はっきり言うことができるのである。

だが、不信者はこのような話を聞けば、ますます疑念を深めるだろう、「私はそんな人生を送りたくありません。そんなのは狂信者の道ですよ。あなた方の神は、信じる人々にそんな重い代償を要求なさる神なのですか。苦難を与えた上に、命まで捨てて殉教までせよというのですか。一体、そんな人生のどこに「測り知れない、重い永遠の栄光」があるのですか?」

これを人に分かるように説明するのは難しく、以上のような意見の持ち主を説得するのは不可能であろう。ステパノの殉教と、パウロの回心を直接的に結びつけることができないように、どうやって信者の中で患難が栄光を生むのか、それは理屈によって説明できることではない。だが、それでも、「今の時の軽い患難」「測り知れない重い永遠の栄光」と一つに結びついている、というのは確かな御言葉だと言えるのである。地上での些細な苦しみさえそうなのだから、ましてパウロやステパノが辿った殉教がそうでなかったはずがないのである。

ダマスコ途上でパウロに現れた復活のキリストは、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:5)と名乗られた。このことは前述した通り、キリストのものとされた信者たちの内側には、キリストが住んで下さっており、その意味で、彼らはただの地上の人間ではなく、彼らは「キリストのからだ」を構成しており、それゆえ、信者たちの内面を苦しみが通過する時、それは信者の中におられるキリストの人格をも通過することを意味する。だからこそ、信者たちが受けた苦しみを、神はキリストが受けられた苦しみと同じものと考えられ、イエスは、迫害されている教会が、ご自身であると言われたのである。

ここに、教会を迫害することの恐ろしさがある。今までにも書いて来たように、神に贖われてエクレシアとされたクリスチャンを迫害することは、あれやこれやの地上の人間を苦しめることだけを意味せず、キリストの御身体だを傷つけることを意味し、文字通り、「キリストを迫害する」ことと同義だからである。パウロの場合のように、その人々がまだ福音を知らず、回心する余地が残っていれば良いが、もっと恐ろしいのは、群衆を扇動した首謀者としてのユダヤ人や律法学者や、あるいは、福音を知り、キリストの弟子を名乗りながら、神を裏切ったような人々に、果たして、悔い改めの余地があるかどうか分からず、場合によっては、アナニヤとサッピラに降りかかったような報いが及びかねないことである。

パウロは書いている、「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。」(Ⅰテモテ1:20)

御使いたちをさえさばく権限を持っている教会は、信者を名乗りながらも信仰を捨て、御言葉を否定し、神を裏切った人々を「サタンに引き渡す」権限をも持っている。昔であれば、それは教会から信者を除名することと同義に解釈されたのであろうが、地上の教会がむしろ不信者によって占拠されている今の状況で、筆者は、これをそういう文脈では解釈しない。「サタンに引き渡す」とは、信者が御言葉を否定する者たちに向かって、その者が「神の家族でなく、兄弟姉妹でもなく、神の守りの外にいて、サタンの支配下に追いやられていることを公然と宣告する」といった意味である。もっと簡単に言えば、信者がある人たちに向かって、「この人たちは私たちと同じ神の家族には属していないよそ者であって、私たちは彼らを守りません。この先、悪魔が彼を好き勝手に翻弄して、彼らの魂を占領しても、私たちはそれに対して一切、責任を負いません」と宣言しているのと同じである。

パウロを通して教会からこういう宣告を受けた二人にどういう結末が降りかかったのかは分からない。彼らに悔い改めの余地があったのかなかったのかも分からない。しかしながら、教会が彼らを見捨てると同時に、彼らの魂が悪霊に引き渡されて、サタンの思うがままになり、その人生が尋常ならぬ破滅へと向かって行ったであろうことは予想がつく。

ステパノは自分を殺した群衆を罪には定めなかった。それは、多くの群衆は扇動されていただけであって、自分が何をしているかも理解していないことを知っていたからである。しかし、それはあくまでそれまで福音を聞いたことがなかった人々に対する神の憐れみであって、確信犯的に福音に敵対し、神の御言葉を闇に葬るために、群衆を扇動してでも、陰謀を巡らしていたような人々の中には、おそらく神の憐れみも届かない人々が含まれていたことであろう。ステパノを拒絶した群衆も、その後、どれだけの人々が悔い改めることができたのか分からない。悔い改めなければ、いずれにしても、罪の報いが降りかかるのである。

このように、クリスチャンは世の人々にとって重大な試金石であって、外見がどんなに無力に見えるありふれた地上の人間であっても、内側に、測り知れない神の力である御言葉を携えている以上、信者の存在を通して、御言葉が人々をふるい分けるのである。信者の内におられるキリストが人々をふるいわける。そのため、御言葉を宣べ伝える使者が現れる時、人々の心の内に隠されていた、人が思ってもみなかったような内面が明らかにされる。多くのパラドックスが生じ、人の目に賞賛されていたものの醜さが明るみに出され、人の目に正義と見えていたものが、むしろその逆であることが判明し、ある人々は、御言葉につまずいて、あからさまに福音の敵と化す。ここで、応答の方法を間違えると、その人の人生全体が、取り返しのつかない方向へ向かって転げ落ちて行きかねない怖さが存在する。

だが、クリスチャンはある人々を「サタンに引き渡す」ことまではしても、その人の命運に最後まで手を下すことはしない。それは神の領域だからである。そこで、暗闇の軍勢との激しい闘いの中にある時、信者は、どこまでその闘いに関与して良いかについて、その程度をも、神に教わる。

たとえば、かつては兄弟姉妹と呼ばれた信者の中から、福音を否定し、教会の迫害者となるような者たちが現れ、彼らに勧めても、説得しても、何の効果もない場合、ある時点を境に、信者は彼らを公然と「サタンに引き渡」し、その人間どもから手を引かねばならない。神に逆らう人々をいつまでも相手に語り続けることがキリスト者の使命ではないからである。

そして、「サタンに引き渡」されたその瞬間から、彼らの存在は、聖徒らの全く手の届かない領域に去る。すべてのつながりが断ち切られ、彼らに降りかかる一切の事柄の責任は、聖徒には及ばないものとなる。そうなると、聖徒らはもう二度と彼らの命運を気遣うことも、関わることもない。

最近、筆者は、そのようなことを経験したばかりである。ある出来事を通して、あたかも、神が御使いらと共にこう言われたかのようであった、「ヴィオロンさん、あなたはよくやりました。あなたはやれるところまで十分にやりました。しかし、もうこれ以上、この出来事にあなたが関与する必要はありません。ここから先は、私たちの領域です。心配することなく、私たちにすべてを任せなさい。」こうなると、この世的な観点から見れば、決着がついておらず、まだ打つ手が残っているように見える場合でも、信仰的観点から見て、信者はその出来事から手を引かねばならないのである。あとは神と御使いたちの出番となる。

信者は、天と地の前でキリストの復活を証する使命を負ってはいるが、信者の目的は、人間的な思いで人々を説得することにはなく、人間的な観点から見て、すべての人々と折り合いをつけることにもない。この世は、ちょうどソドムとゴモラの町のようなものであって、その町で、キリスト者と住人とがどんな「折り合い」や「決着」をつけることが可能だろうか。

だから、キリスト者の使命は、福音を拒絶する人々を力づくで説得することで、自分の正しさを論証することにはなく、世に向かって語りはしても、世と交渉もしないし、深入りしない。世の敵意に直面しても、世と交渉するうことで、これをやわらげようとはしない。もしも、世に向かって、信者が自己の正当性をどうしても分からせようと、あるいは、何とかして福音を受け取らせようと、御言葉に逆らう世人を説得したり、論争に熱中したりして、世に深入りして行くと、結局、信者は世人の思惑に翻弄され、信仰による義から逸れて行くことになる。

どんなに神の福音が正しいものであっても、それを受けとるかどうかはあくまで個人の自由な選択に委ねられており、御言葉を聞いても従わない人間の末路は、信者の責任の外にある。世は始まって以来、福音を拒絶し続け、神の僕を迫害し続け、キリストを十字架にかけて殺したのであり、今に至ってもその悪しき性質は寸分たりとも変わらず、これを変えることがキリスト者の使命でもない。

だから、信者は、決して世から受け入れられることを願うべきではなく、むしろ、主イエスが地上でどのような扱いを受けられたかを思い起こし、低められることの中に、十字架の死の原則が働くことを思い起こすべきなのである。ソドムとゴモラの住人と、人間的な観点から折り合いをつけたり、彼らから歓迎されたり、理解されることが可能だと思えば、とんでもない間違いに陥るであろう。むしろ、神の目から見て、有益な結果が結ばれるためには、必ず十字架の死をくぐらなければならないこと、誤解や、拒絶や、否定や、蔑みや、迫害があって初めて復活の原則が働くことを思うべきなのである。何より、人が自分を真に高くしたいならば、低くされることに甘んじねばならないのである。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル12:2-4)

主イエスが罪人たちの反抗を耐え忍ばれ、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれたのは、「ご自分の前に置かれた喜び」を見て、来るべき栄光を確信しておられたからであった。つまり、神はご自分に従う者を決して見捨てられず、辱めが辱めで終わらず、苦難が苦難で終わらず、死が死で終わらないことを、予め知っておられたからである。だから、我々聖徒たちも同じように、自分が低められ、卑しめられる時に、落胆するようなことはなく、むしろ、一つ一つの苦しみに対して、天でどんなに栄光に満ちた報いが待ち受けているかを確信しつつ、この天の褒賞をまっすぐに見つめて、喜ぶ。

信者は、キリストの新しい命が、地上で受けるどんな損失をも補って余りあるものであることを確信しており、地上で起きる苦難には目もくれず、天に備えられた栄冠が、すぐそこに見えており、すぐ手の届くところにあることを知って、それだけを見つめて喜ぶのである。

ある信徒は言った、「悪魔は本当に愚かです。悪魔は、キリストを殺せば、復活という、悪魔が最も恐れる出来事が起きてしまい、悪魔の最大の武器である死が打ち破られて、役に立たなくなることを知っていたのです。それにも関わらず、地獄の軍勢は、抑えがたい殺意によって、キリストを十字架につけて殺害しないことがどうしてもできなかったのです。彼は自分で自分にとって最も不利になることをやってしまったわけですね。」

これは信徒が遭遇するあらゆる患難に同じように当てはまるであろう。信者たちは、至る所で、憎しみや、反目や、敵意や、辱めや、殺意にまで遭遇する。地獄の軍勢は彼らを見て歯ぎしりし、聖徒らの背中を踏みつけて、「自分たちは勝った」と誇るであろう。しかしながら、その次の瞬間、思いもかけないことが起きる。聖徒らの受けた一つ一つの苦難の中に、「十字架の死と復活」の原則が働いて、暗闇の軍勢が駆逐され、天の収穫がもたらされるのである。暗闇の勢力が占拠していた地には、復活の旗が立てられ、すべての名に勝る名を持つ方が高く掲げられて、この方が、すべてのものを足の下に踏みつけられる。サタンは彼のかかとで踏みにじられ、聖徒らもこの方と共に高く上げられて栄光にあずかり、共に喜ぶのである。

もちろん、私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:4)という御言葉が完全な形で成就するのは、キリストがやがて再び地上に来られる時である。だが、その時を待たずして、この地上で彼を待っている間にも、聖徒は様々な患難を通して主と共に栄光にあずかり、常に来るべき時代の栄光の前味を知ることができるのである。

この法則は、自分が低められることを拒み、ひたすら自分の正しさだけを主張して、人前に自分を義と認めさせようとしている世人や暗闇の勢力には決して理解できないものである。

今日、「人造のキリスト教」であるキリスト教界は、パウロやステパノのような弟子たちよりも、むしろ、彼らを迫害したユダヤ人や律法学者に似たものとなっている。そこにいる人々は、あらゆる努力を払って、人前に立派な善人と見られ、敬虔な信徒と認められようと、外見を飾り、熱心に奉仕に励み、自分の正しさを人前で主張することをやめられないでいる。彼らはあまりにも心頑ななので、人前に自分を折ることができず、己が罪を認めることもできず、熱心さの上にも熱心さを増し加え、ひたすら努力によって神に到達することが可能であると考えている。そして、彼らが神に至る手段だと思っている熱心な奉仕を否定する者が現れると、尽きせぬ憎悪をむき出しにし、教会から追い出し、迫害を加える。

だが、見落としてはならないのは、クリスチャンは一体、誰の目に義と認められる必要があるのか、という点である。私たちは、神の目に義と認められたいのか、それとも、神を知らない世間の目に認められたいのか、あるいは、クリスチャンの世間の目に認められたいのか、自分自身の目に正しい存在と認められたいのか。

外見的に自分を正しく見せかける能力に長けていることは、人にとって極めて不幸なことである、と筆者は思う。なぜなら、そのような能力が巧みであればあるほど、その人は十字架の死の意味が分からず、己を低くすることもできず、それゆえ、復活の命に至るチャンスが失われるからである。彼らは、自らの巧みな演技によって他者を欺くだけでなく、自分自身をも欺く。自分でイチヂクの葉で編んだ衣装、自らの手で建設した城壁に夢中になって、自分はこれほどまでに精進したのだから、すでにひとかどの人間になったはずだ、と思い込み、自分と同じように精進に励む仲間と一丸となって、人に対してだけでなく、神に対しても、自分たちを集団的に義と認めさせようと迫るのである。

だが、神はそのようにして人間の振りかざす義を退けられる。神が認められるのはキリストだけだからである。聖書にはこう書かれている、キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:6-11)


ここに、キリストが神の御前に高く上げられたのは、まさに彼がご自分を徹底的に低められ、十字架の死にまで渡されるほど、低められたためであることが分かる。だから、今日、キリストにならって己を低くすることのできない者が、天の栄光にあずかることは絶対にない、と私たちは言える。

こう考えると、自分の義を人前で捨てることができない人間ほど、哀れな存在はない、と言えるだろう。神の御前で己の義を誇って罪に定められたパリサイ人に連なるよりは、そのパリサイ人に罪人と蔑まれ、神の御前で悔い改めて義とされた取税人に連なる方が、人にとっては幸いではないだろうか。自分の中にはいかなる義もないことを認めて、自力で自己を改造して神に達しようとの努力を一切放棄して、自分自身がどうあろうと、ただ恵みとして与えられた神の義にすがることである。キリストの義こそ自分にとっての義であることを信じて、自分自身の努力によらず、これを信仰によって受けとることである、

贖われてキリストのものとされた信者は、もはや決して人の目に自分がどう映るかという基準で、自分を見たり、規定したりしてはいけない。信者がクリスチャンの世間を気にして、人前に敬虔な信者として自分の見てくれを整えようとすることは、極めて大きな誘惑であり、罠である。贖われた人々であっても、その罠に陥ることはありうる。ひとたび、信者が、神が自分をどうご覧になるかという基準でなく、人の目に、世間の目に、自分がどう映るのかという基準で、自分自身を推し量り始めると、その瞬間に、信者は蜘蛛の巣のように錯綜するこの世の人々の思惑に捕えられて自由を失い、信者に与えられた神の完全な義は曇らされ、信者は恐れの念に駆られて、聖書が教える通りに、神の福音を正確に宣べ伝えることが不可能になってしまう。

だから、信者は、バプテスマを通してすでに水に沈んだものを振り返るべきでなく、死んだものの名誉を気遣うべきではないのである。振り返ってはならないものの中に、信者の過去、信者の自己も含まれている。死体のあるところにハゲタカが集まっていたとしても、そんなものは注意に値する現象ではない。死んだ者には名誉も利益も存在しないのである。キリスト者が真に目を注ぐべきは、バプテスマを通して、水から上がった時に、天から注がれた喜び、神から受けた義認、死を経ることによって内側に生まれた、キリストに連なる新しい人、ちょうどノアが洪水を経て初めて足を踏み出した新しい大地に感動し、紅海を渡ったイスラエルの民が感嘆を込めて約束の地を仰ぎ見たように、信仰の人たちが焦がれ、待ち望んだ天の都を、つまり、キリストご自身を、どこまでも追い求めるべきなのである。信者はこの地上における生涯において、肉体の幕屋の中にあって、絶えず呻きつつ、キリストの十字架の死と復活に同形化されて、軽い患難と引き換えに、天の永遠の重い栄光を得る。それを通して、世人には決して分からない不思議な方法で、御心が成就し、天の御国に収穫がもたらされ、信者自身も主と共に栄光と喜びにあずかる。それが、信者がこの地上で信仰によって患難を通過することの意味なのである。
 
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。」(ピリピ1:21-22)

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るため、目標を目指して一心に走っているのです」(ピリピ3:12-14)

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです

 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています

 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのですそれゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)


神の家の建造のために――枯れた骨を立ち上がらせるキリストの復活の命――

高慢とは何であろうか、真の謙遜とは何であろうか。

実は、その実態は、多くのクリスチャンが考えているのとは真逆であると筆者は思う。「私は神の恵みに値しない」という考えほど、うわべは謙遜に見えて、その実、悪質な高慢はない。

筆者は幼い頃からのキリスト教徒であったので、清貧貞潔な生活へのこだわり、社会的弱者への憐れみ、などの感情を物心ついた頃から持っていた。そのため、ある時期が来るまで、貧しいことは悪いことではなく、病に陥ることは悪いことではなく、追い詰められて死を願うことも、悪いことではなく、そのような困難な状況にある人たちに、信者は積極的に手を差し伸べ、大いに同情や共感を持つべきである、と考えていた。

ところが、不思議なことに、信仰生活を送れば送るほど、実際はその逆である、ということが分かって来るのだった。困難の中にある人に同情し、助けの手を差し伸べれば差し伸べるほど、同情する側も、同情される側も、ますます困難の中に居直り、深みにはまり、そこから抜け出せなくなっていくという堂々巡りが起きるのである。

このようなことを言えば、早速、「あなたは社会的弱者を追い詰めるつもりか」という非難がやって来るであろう。ちょうどカルト被害者救済活動の支持者が、この活動の欺瞞性を指摘した筆者を断罪したようにだ。

だが、今、筆者はそんなことを目的にこれを書いているのではない。

筆者が、貧しさや、困難や、病や、死を心から憎むようになったのは、かなり前からのことであり、カルト被害者救済活動と訣別した頃には、すでにその考えの原型が心に固まっていたのだが、その完成となる事件は、KFCで起きた。

その事件も今から振り返ると相当に昔のことであるが、その当時、雇用情勢はますます悪化し、ブラック企業が横行し、正常な仕事を見つけるのが難しくなっていたが、筆者が職を変わる時、兄弟姉妹に祈りの支援を求めていたことが、KFCで災いし、これが嘲笑の材料とされたのである。

KFCにいた信者たちは、筆者よりも20~30歳ほど年上の世代ばかりで、比較的裕福な閑人が多かった。ほとんどが年金生活者か、働いていない者たちであった。だから、月曜から金曜まで真面目に労働に明け暮れ、なお、豊かにならない若者世代の苦しみを、そんな彼らの世代が、理解すること自体が、無理な相談であった。それでも、ある時期までは、信者たちの幾人かは、決して筆者の祈りのリクエストをあざ笑ったりすることなく、共に祈り、それなりに心配もしてくれていたのである。

ところが、KFCがいよいよ異端化していることが明確になる頃、そこにいた兄弟姉妹たちは、あからさまに弱肉強食の原理を信仰生活に持ち込み、そこに世代間格差のエキスも混ぜ合わせて、自分たちが「神によって恵まれた特権的な豊かな信者であって、それ以外の貧しい信者とは違う」と、年少世代の苦境をあからさまに嘲笑するようになったのである。

筆者が彼らに相談事を持ちかけたり、祈りの支援を乞うたりしたことが、悪用された。そうした相談事が、あたかも筆者が「信仰的に自立できておらず、神の恵みを拒んで人に甘え、人に頼っているがゆえに、いつまでも抜け出せない困難の堂々巡り」であるという決めつけの根拠とされ、「ヴィオロンなどには同情する意味もなければ、助ける価値がない」と結論づけられ、筆者の抱えていた窮状は全て「不信仰の産物」として片付けられて、嘲笑され、踏みつけにする材料とされたのである。

むろん、そのような考えの発信源はほかならぬDr.Lukeであって、同氏がいつものように取り巻きをけしかけて不都合な信者に集団イジメをしかけただけであった。KFCでは筆者の他にも、絶え間なくそのような事件が起きて、年少者でなくとも、何かの理由をつけられては、信徒が見下され、仲間から批判されていたのである。

それが、筆者に矛先が向いたのは、筆者が常日頃から、Luke氏が聖書の御言葉から著しく逸脱していることを、面と向かって同氏に忠告し、かつ、Br.Taka夫妻を含め、メッセンジャーたちが信徒の上に立って勝ち誇っていることを強く非難し、指導者と信徒との霊的姦淫の関係が結ばれるべきではないと言ったので、ついに筆者の「生意気さ」に同氏の我慢の限界が来て、報復行為に及ばれたのであった。

その当時、神への霊的純粋さを失い、なおかつ、決して他の信徒を教える立場から離れることができなかったDr.Lukeにできることといえば、高みに立って、己が富を誇り、聖書に立ち返れと叫ぶ信者の貧しさを嘲笑することくらいしか残っていなかったのであろう。

KFCはもともと外側の物質的豊かさを、まるで内側の霊的豊かさのように誇り、自分たちは「天の特権階級だ」と他人を踏みつけにすることを、よすがのようにしていた。そのような方法で、自分たちは他のクリスチャンに比べ、特別に神に恵まれ、覚えられている存在であることを強調することだけが、この団体の特徴になってしまったのである。Dr.Lukeは取り巻きの老人たち(もはや婦人たちという言葉さえ、使うのがもったいない)を巻き込んで、筆者の置かれていた状況を、筆者を見下すために悪用したのだが、それによって、御言葉から逸れている自分たちに対する筆者の非難をかわせると考えていたのであろう。

だが、以上のような事件は、当時はまだ筆者にとってショッキングに感じられはしたが、ある種の「霊的平手打ち」となり、筆者がよりはっきりと目を覚ますきっかけとなった。その頃から、悪魔に対しては、弱みを見せるどころか、とことん見栄を張らなければならない、ということが筆者に分かって来たのである。

以来、筆者は悪魔に魂を売った連中に、「不信仰だ」などと後ろ指を指されて、嘲笑されるような機会を決して作らないように、自分の生活の欠乏を他者に打ち明けて、祈りの支援を乞うことを、やめてしまった。特に、そのような連中に助けを求めるなど言語道断であるから、彼らとの兄弟姉妹の絆を絶ち切り、彼らをキリストの御身体から断ち切って、彼らと完全に訣別し、自分の生活に起きるすべての状況と、すべての思いを、ただ天の父なる神だけに完全に委ねるようになったのである。

世の中の情勢は、その頃から今に至るまで、寸分たりとも改善することなく、刻一刻と悪くなっているだけである。我々の世代を取り巻く状況は、今も悪化を繰り返しているだけで、何の将来の見込みもない。

だが、だからと言って、筆者がその時代の趨勢に従って歩むべきかと言えば、そんなことは全くないのである。こうした状況は、そもそも果たして筆者の負うべき責任であろうか。むしろ、そういった世の悪しき状況は、どちらかと言えば、年長世代の貪欲と怠慢によって引き起こされたものであり、彼ら自身の罪の結果だと言えよう。それなのに、その状況が、なぜ年少世代に自業自得であるかのようになすりつけられなければならないのか。そんな理由はどこにもないのである。

そんなわけで、筆者はこの「刻一刻と悪化して行く世の情勢」なるものを、自分とは無関係なもの、筆者には責任のないもの、さらに、すでにキリストが十字架で終止符を打たれたもの、神の御心に反する悪魔の憎むべき嘘として、自分から切り離したのであった。

そして、今までのように、「世の中がこうだから」という理由で何かをあきらめ、妥協することをせず、自分が何を願っているのかだけを、世の情勢に頓着せずに、率直に神に申し上げ、あきらめずにそれを神に懇願し続けた。その際、人には全く頼らず、相談もせず、どんな細い道を通らされる時にも、ただ天におられる父なる神だけを見上げ、神がすべてのことを良きにはからって下さるという確信だけを胸に抱いて、今日まで歩み続けて来たのである。

その過程で、筆者は度々、ジョージ・ミュラーのように信仰を試されるに至った。むろん、まだまだジョージ・ミュラーほどの経験には及ばないことは知っている。それでも、この世には一切、保証を求めず、人に助けも乞わず、ただ祈りだけによって、すべての必要を神に叶えていただく、その秘訣を、筆者は、確かに学び始めたのであり、ミュラーと同じ道を今も歩き続けているのである。むろん、その道は、ミュラーが開拓したものではなく、イエス・キリストが切り開かれたものである。

そうこうしているうちに、筆者に対して己が富を勝ち誇っていた人々は、時代の趨勢の悪化に伴い、凋落して行ったようであった。もともとそうでなくとも、筆者より年長の世代は、普通に考えれば、筆者よりも早く亡くなるのが当然である。彼らが筆者の貧しさや苦しみを嘲笑していた時、筆者はまだ人生のほんの駆け出しであったが、他方、彼らはすでにとうに頂点を通り過ぎ、あとは次の世代にバトンを預けるのみの状態であった。にも関わらず、そんなことも考えずに、彼らは筆者の前で、自らの栄耀栄華を誇っていたのである。今になっても、彼らは舞台から降りるどころか、「神になり」、自分たちの時代を永遠に謳歌するつもりでいるらしい。

だが、もしそのように主張するならば、彼らは老衰にも、死にも、打ち勝たなければならない。普通の老人たちのようにただ老いて、病に倒れ、生活を縮小し、先細りとなって活動をやめるというのではなく、モーセのように、人生最後の瞬間まで、気力が衰えず、生涯の終わりに近づけば近づくほど、ますます若者のように明るい輝きを放ち、神の命の永遠なることを世に立証せねばならない。それでこそ、自分はただの人間ではなく、神が内に生きておられると、はっきり言えるであろう。

今、彼らの凋落を、彼らの不信仰の産物だと筆者が言うのは、彼らの発言の裏返しである。彼らは、自分たちが時代の幸運に見舞われていた時には、それを信仰の手柄のように誇った。もしそうならば、時代が悪化した時に、なぜ彼らの信仰は役に立たず、彼らの凋落を食い止める手立てとならなかったのであろうか。それは最初から、彼らが誇っていたものが、信仰の産物などではなかったからだ。

時代の趨勢によって手に入れただけのものは、時代の趨勢によって奪い取られる。時代に媚びる人間は、時代に逆らう術を持たない。自分が富んでいる時に、貧しい者の悩みを蔑み、悩んでいる者に助けの手を差し伸べることを拒み、祈りの支援を乞うた仲間と共に祈ることを拒み、その人の願いをあざ笑って、蔑み、呪い、貧しい者を自分たちとは全く無関係な人間として突き放していれば、自分自身が衰えて凋落した時に、人からも同じように冷たい態度を返されるのは仕方ないであろう。

だが、筆者にとっては、以上のような人々の仕打ちでさえ、有益な教訓となったと思うのは、人の心には、神の恵みを受けとることに、常に恐れやためらいを感じる瞬間があり、たとえ信者であっても、神の恵みを素直に十分に受け取れるようになるまでには、時間と訓練が必要だからである。

特に、清貧貞潔、弱者救済、などの理念を掲げて生きて来た人ほど、貧しさを憎み、病を憎み、死を憎んでこれを拒絶し、キリストの命を選び取ることが難しい。

彼らは、貧しくあることが高潔であり、弱者であることが、美徳であるかのように思い込んでいるからだ。

そこで、筆者が貧しい時には、それを不信仰だとあざ笑っていた人たちが、いざ自分たちが貧しさや、病や、老齢や、苦難に見舞われると、一体、どうするのかを見ていると、それらの欠乏をまるで自分を飾る美しい衣のように大切に握りしめるのである。

そして、「苦しみや、困難の中で神に従い、健気に生きている自分」を美化する。そして、そのように苦難に耐えるのが信仰だと言い始める。

彼らは病にしがみつく。貧しさにしがみつく。卑小な自分自身にしがみついて、物乞いのぼろ服を後生大事に抱え込み、いつまでも、これを手放そうとしない。「病に打ち勝つ信仰」などと言いながら、いつまでもずっと病の話ばかりを続けているのである。その話をやめられないこと自体が、そのテーマが、彼らの中で過去になっていないことの何よりの証である。そんな姿は、彼らが筆者をかつてあざ笑っていたのと何の違いがあるのであろうか?

人の人生には、その人自身が作り出したとしか思えないような幾多の困難が存在する。多くの人たちは、不幸は不運な偶然や、事故が原因であると思って、可哀想な人々にいたく同情している。

だが、クリスチャンの人生には偶然というものはなく、すべての出来事が、天の采配であると同時に、本人が信仰によって選び取った結末なのである。信者が神の側に立っているのか、悪魔の側に立っているのか、すべての出来事を通して、信者は自分の信仰を表明しなければならないのだ。

だから、たとえ一時的に困難に見舞われることがあったとしても、それも神の栄光のために用いることができることを信じなければならない。預言者が空の器を次々、油で満たしたように、神は信者の生活の欠けを隅々まで満たすことがおできになり、従って、我々の弱さや欠乏は、神によって満たされ、神が栄光を受けられる材料に過ぎないと思うべきなのである。

聖書における病人たちは、主イエスに会って病を癒された。死んだ者たちはよみがえらされた。主イエスは病人たちに同情の涙を注いで、ただ施しをして終わりにはせず、彼らが本当に自立できるまことの命をお与えになった。主は貧しい人たちを空腹のままで去らせたわけではない、目に見えるパンが、目に見えないパンからできていることを教え、すべてを手に入れるための本当の秘訣であるご自身の命を人々にお与えになられたのである。

ところが、どういうわけか、今日のキリスト教では、困っている人たちにキリストの命によって立ち上がるよう求める代わりに、施しや、同情という網でがんじがらめに捕えて、慈善事業に明け暮れている。こうした慈善事業はどんなに繰り返しても、決してキリストの命にたどり着かない。

だが、そのようにして人間が人間の欠乏を満たし合うという関係を離れ、キリストの御名を通して、天におられるまことの神に向かって自分の欠乏を差し出すならば、それは必ず、不思議な方法で満たされるのである。満たされた欠乏は、すでに欠乏ではない。それは神の栄光である。だから、神に従う人間には、どんな困難があっても、それらはすべて神の最善を証する機会へと変えられる。信者を嘲笑していた人たちが真に恥じ入るのは、そのような瞬間が来た時である。らい病人が癒され、死者が立ち上がり、喪にくれていた人たちが喜びに涙し、悲しむ者が慰めを得、貧しい人が食べ飽き、義に飢え渇いていた人が、義に飽き足りるようになる時である。

その瞬間は、遠い未来のことではなく、今なのである。今、すべての欠乏を抱えたまま、天の父なる神の御前に進み出て、神の限りなく愛なること、神の限りなく善なることを告白し、神は信者が悪魔とその手下どもに嘲弄されるままの状態を、決してお見逃しにならないことを信じるべきである。

「主よ、お聞きください、暗闇の軍勢がこう言っています、信者が貧しいままなのは、あなたの助けが足りないからだと。信者が苦しんでいるままなのは、神に見捨てられているからだと。信者に力がないのは、神など存在しないからだと。私に対する侮りの言葉は、すなわち、あなたに対する侮りの言葉であることを覚えて下さい。

しかし、悪魔とその軍勢がどれほどあなたの御名の偉大さを否定し、あなたの助けを貶め、信じる者には助けがないと言ったとしても、私は断固、そのようなことを事実として信じておりません。私は、私が地上で何者であるかに関わらず、ただあなたの御名において、あなたのものとされた人間として、私に対するあなたの守りと助けの常に完全であることを信じています。

御力を現して下さい。この虐げられて、疲れ切って、弱々しくなっている民に、あなたの御名にふさわしい新しい力を与えて下さい。新たな衣を着せ、足腰を強めて立ち上がらせ、枯れた骨のような人々を、一人の新しい人に、神の軍隊に作り変えて立ち上がらせて下さい。御名がこれ以上侮られ、辱められることのないよう、あなたの名で呼ばれている民を、立ち上がらせて下さい・・・。」


環境を創造する力―「床を取り上げて歩く」―人知を超えたキリストの復活の命―

さて、今回は猛暑日が続いていることもあって、今までの話題から少し離れて始めてみたい。

昨年、ある兄弟が交わりの中で極めて重要な言葉を語った。それは、「環境を創造する力」についてであった。その人はこの言葉をウォッチマン・ニーの著書から取り出してきたようであったが、ここでは出典は重要ではない。

そこで語られたのは、「ぼくらには信仰があっても、環境を創造する力が未熟だ」という言葉であった。それはキリストの復活の命の創造する力を私に改めて思い起こさせた。

現在の社会情勢がいかに絶望的かという問題についてなら、今までにも書いて来たし、我々にはいくらでも主張する分がある。若い世代の置かれている苦しい状況、年長者たちの無理解、搾取によって労働環境がますます悪化していること等々…。

だが、そういった問題は、キリストの復活の命の力を知ることによって乗り越えて行けるのである。何をご冗談をと思われる方は、笑いながら去っていただいても結構である。

いずれにせよ、キリストの復活の命は、統治する命、すべてを支配する命なのである。信仰者はそれをどう活用するかという秘訣を学んでいかなければならない。

だから、昨年、
①「環境を創造する力」、
②「悪魔に立ち向かい、悪魔を糾弾すること」
の二つの重要性を学んだことは、大きな収穫であった。


結論から述べるなら、人は自分自身に与えられた命の力(信仰者について言えば、生まれながらの命ではなく、信仰によって働くキリストの復活の命)によって立ち上がる秘訣を学ばない限り、どんなに優れた指導者、どんなに優しい支援者、どんなに優れた教会のもとに何度、助けを求めて駆けつけても無駄である。むしろ、そういう支援者たちは、あなたをより一層、依存へと導き、彼らがいなければ何一つできない、弱さの中から抜け出せない人間にしてしまうだろう。

それはちょうど些細な病気をきっかけに病院を訪れた結果、藪医者によって薬漬けにされてしまったという状態にも似ている。

病人や貧しい人々にとっては、早急に目の前で奇跡や癒しを強調してくれる大規模な集会、聖会はさぞかし魅力的に見えるかも知れない。人生に悩んでいる人々は、あの優れた牧師、この素晴らしい説教者、この伝道者の礼拝説教を聞きに駆けつけ、彼らに悩みを打ち明けて助けを求めたくなるかも知れない。

だが、私が言えることは、あなた自身が自分の力で自らの弱さと手を切る覚悟を固め、誰にも依存せずに自ら立ち上がるための力を神に求めない限り、どんな礼拝に出席し、どんな優れた支援者のもとへ何度、駆けつけても無駄であるということだ。それは、そういった集会が、何かの解放的に見える目玉イベントを提供することはしても、それをきっかけにあなたをより彼らに依存させていき、決して、あなたが信仰によって自分に与えられた絶大なキリストの命の力を知らず、自分自身の本当の価値も分からず、キリストの復活の命によって立ち上がることもできないように仕向けてしまうためである。

特にペンテコステ系の集会には、集会中に病人が癒されたとか、車いすの人が立ち上がったとか、そういう話が満ち溢れている。だが、そういう「しるし・不思議・奇跡」を強調する集会は、決まって、同時に何らかのひどい悪評をもたらしてきた。初めは華々しく宣伝され、多くの人々の関心を引いても、やがてはそれが偽の奇跡であったことが判明し、幾多のスキャンダルが持ち上がるといったことが通常であった。ほとんどの場合、強調される「奇跡的な癒し」は、困窮している人々を店の奥に連れ込み、より深く虜にして行くためのきっかけにすぎない。

だから、私はマザー・テレサの貧しい人々への支援に関しても、大いなる疑問を抱いている。むろん、彼女はペンテコステ系の指導者とは異なり、超自然的な奇跡によって人々の関心を惹きつけたわけではなかったが、それでも、衣食住という「目先のパン」を貧しい人々に分け与えはしても、貧しい人々が自分自身の力で立ち上がるために最も肝心な「キリストの十字架の救い」を覆い隠してしまった点では実によく似ているのである。 

「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
イエスは応えて言われた。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と書いてある。」(マタイ4:1-4)

聖書の原則は、常に目に見える地上のパン(物質的支援)よりも目に見えないパン(福音)が優先されるというものである。逆に言うと、どんなに一生懸命、地上的なパンをかき集めても、それは一瞬で消えてしまうはかないものに過ぎないので、この世の多少の延命策にはなり得ても、人を生かすための本当の解決にならない。もし真の救いがほしいなら、まず見えないパンである神の御言葉(神の永遠の命)を求めるべきなのである。

たとえば、ここに莫大な借金を抱える人がいるとしよう。その人にあなたが多少の施しをしてあげたとしても、それがその人にとって本質的な助けになるだろうか。確かに貧しい人は一時的に喜んであなたに感謝するだろう。だが、二、三日もすれば、その人はまたもやあなたのところに助けを求めてやって来なければならなくなる。そうやって絶えず貧しい人を物乞いする立場から抜け出せないようにし、自分に感謝させ、依存させることが、あなたの彼に対する「支援」なのだろうか。そんなちっぽけなものが果たして「支援」や「救済」だと言えるだろうか。

そうやってすぐに尽きてしまう「目先のパン」を何度も乞わせる代わりに、あなたはその人に対し、莫大な借金そのものを棒引きにする方法があって、悪魔という取り立て屋の支配からその人が永久に解放される方法が確かに存在していることを教えてあげる方がはるかに良い選択ではないだろうか。

そうすれば、その人はもう誰かのちっぽけで有限な施しなどに頼らず、自立して自由に生きることができる。人にとってそれにまさる自由があるだろうか?

だから、困窮している人たちに衣食住などの目先の助けを与えることは、あたかも美しい行為に見えはするが、もしもその地上的な支援が、本当の霊的な解決としての見えないパン、すなわち、キリストの十字架による罪の贖いという救いを覆い隠してしまうならば、それは最も本質的な救済から遠い、神の救済に敵対する人類による偽りの救済活動ということになる。

このような偽の救済活動は、常に困窮している人々を誰か偉い人間の指導者の方へ引き寄せ、人間の指導者である自称「救済者」の栄光を築き上げる材料にはなっても、困窮している人々が誰からの助けもなしに真に自立して生きていけるようになることを絶えず妨げている。

繰り返すが、偽の救済活動に携わる指導者たちは、救済を口実にしながらも、実際には、貧しい人々がいつまでも問題を抱えて哀れな状態にとどめられ、指導者に助けを乞い求めなければ生きていけない惨めな状態から抜け出せないように問題の中に閉じ込めてしまう。彼らは他人の弱みを巧みに利用して、自分たちが特別に善意ある優れた人間であるように見せかけ、人助けに邁進している素晴らしい指導者であるかのように見せかけることはしても、弱い人々がいつまでも決して自分で立ち上がることができないように弱体化させることで、彼らを自分たちから離れられないようにし、彼らが貧しく自己意識も低いままで、決して自分で立ち上がる気力も持てないような自信喪失状態に貶め、それによって彼らを永久に利用し、搾取し続けるのである。

だから、自立して立ち上がるためには、これが悪魔が用意したマッチポンプ型循環ビジネスであることに気付く必要がある。

悪魔は一方ではあなたに何の落ち度もないのに、通りがかりにやくざのようにあなたを殴りつけて傷を負わせておいて、もう一方では、親切な医者を装ってあなたの前に現れ、救済してほしければ自分のもとに治療に通って金(献金)を払えとのたまう。だが、殴りつけて来た者も、治療してやるから金を払えと言っている者も、双方が、問題をあなた自身に押しつけ、背負わせようとしている点では同じなのである。

悪魔の目的は、本来、あなたのせいで起きたわけではなく、あなたが負うべきでもなかった罪の重荷を、あたかもあなたのものであるかのように背負わせて、その傷のためにあなたに恥や罪の意識を負わせ、その重荷をあなたの責任として一生、背負わせてあなたを苦しめ、あなたがその問題だけに一生を費やして永久に自由にならないように仕向けることにある。

ひとたび、あなたが悪魔が押しつけて来た重荷を騙されて自分のせいだと考えて抱え込むならば、その問題を解決するためにあなたはずっと東奔西走しなければならなくなる。そして、誰かに助けを求めて近づいて行く度に、偽の救済者に騙されるということが繰り返され、損失が膨らんでいく。

だから、真に自由になるためには、あなたは最初に負わされた罪の重荷にさかのぼって、悪魔のせいで生じた罪や恥や傷や弱さすべてを自分のものとして受け入れることを断固、拒否する必要がある。

その根拠となりうるものはただ一つしかない。キリストは十字架において、あなたの罪の債務証書を破り捨て、無効にされた。罪なき神の御子があなたの身代わりに罰せられることにより、あなたに対する悪魔の支配を打ち破られた。だから、その贖いを信じるなら、あなたは悪魔という取り立て屋にこれ以上、告発されたり、弁済を要求されるいわれはなくなるのである。

「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。

あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。

それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました

神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ2:12-15)


たとえば、悪魔が夜道であなたを襲い、殴りつけたとしよう。悪魔とその手先は言うであろう、あなたが夜道を一人で歩いていたのが悪いと。警戒を怠っていたのが悪いと。あなたの歩き方が偉そうで気に食わなかったと。だから、あなたに降りかかった不幸はすべてあなたの自業自得なのだと、悪魔は言うであろう、すべてはあなたの責任であり、悪魔が罪を犯したのではないと。

だが、どうしてあなたがそんな言い訳や責任転嫁を受け入れる必要があるだろう。悪魔がどれほど嘘をつき、何をどう言い逃れようとしても、夜道であなたを殴ったのは悪魔の罪であることに変わりはない。

たとえ、悪魔とその手先どもがすでに現場から逃走して、あなたは一人でそこに残され、傷が腫れ上がり、人目もはばかる恥ずかしいみっともない姿で取り残されていたとしても、それでも、殴られたのはあなたの責任ではなく、暴力を振るった悪魔の責任であるという事実は変わらない。

だから、罰せられるべきは悪魔であり、あなたが恥を負う必要はなく、被害の弁済も当然ながら、悪魔の責任なのである。どうしてその「被害」をあなたが弁済しなければならないのか?

だから、あなたがこの惨事を自分の責任だと考えて負おうとしてはいけないし、そんな必要もないのである。悪魔の計画は、こうして何らかの因縁をつけることにより、本来、あなたの責任ではなく、あなたに落ち度があったわけでもなく、あなたが負わなくてよかった重荷をあなたに転嫁し、あなたがその事件のために罪や恥の意識を背負い、一生、その重荷にひしがれて、その解決のために走り回らなくてはならない不幸な立場に貶めることである。

だから、絶対に、この事件を自分のせいだと思ってはいけないし、結果を身に負う必要も全くない。あなたはこの事件については神に正当性を訴える権利がある。それも、自分の正しさのゆえにではなく、キリストの正しさのゆえに、悪党どもの悪事とその弁済について神に訴え出る権利を有しているのである。

そして、ここから先は世界最強の保険屋である神の出番となる。

仮にあなたが車の事故に巻き込まれたとして、加害者と被害者の両者が保険に入っていれば、補償については保険屋同士の話し合いになる。加害者がどんなに卑劣な人間であったとしても、そのことであなたが心を悩ませ、苦しむ必要はない。仮に加害者が無保険車で、あなたが当て逃げされたとしても、あなたの入っている保険がそれも含めてカバーする内容となっていれば、あなた自身がその事件によって損失を被ることは一切ない。

キリストの十字架はあなたが人生で受けるすべての損失や被害を帳消しにして余りある最強の補償である。たとえあなたが自損事故を起こしても、それすらも補償の対象である。

そればかりではない、キリストの十字架は信じる者に言う、あなたには罪がないと。これは本当に恐るべき事実である。もし車の事故であれば、10対0ということはまずななかな起きないだろう。だが、もし神があなたの味方であるならば、あなたには一切過失なしと判定され、あなたを訴えられる人は誰もいないのである。あなたがどんなに人間的に未熟であって、過ちの多い人間であってさえもそうである。あなたはもう自分の罪を自分で背負わなくて良いのである。

だから、信仰者が罪の意識と手を切ることが、どんなに重要か分かるだろう。それは保険に入っているのに、自分で示談交渉を進める必要がないのと同じである。キリストの血潮があなたを弁護する。それに任せれば良いのである。重荷を自分で負ってはいけない。あなたは依然として自分が失敗を続けているかのように感じるかも知れないが、それを事実として受け入れる必要はない。むろん、誠実に生きる努力は必要であろうが、罪悪感に苦しむ必要はない。あなたは神の救いが完全であり、あなたの限界を覆って余りあるものである事実を信じていれば良いのである。

(念のために追記しておくが、これは罪悪感を負う必要がないと言っているのであって、何らかの事件の解決に必要な当たり前の対処を何もしなくて良いと言っているわけではない。)
 
すでに述べたように、悪魔は告発者である。「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」(黙示12:10)とあるように、悪魔の仕事は私たちを絶え間なく告発することである。だが、子羊の血潮によって罪を赦されているならば、それに応じる必要がないのである。

悪魔の嘘とは、信仰者に絶えず罪と恥の意識を負わせ、自分を誰かの助けがなければ生きていけない弱い人間だと思い込ませて、自分で自分を責め、自分を貶めて生きるよう仕向けることにある。

弱さも、病も、そうなのである。そして、「死体のあるところにはげたかが集まる」ように、「傷」のあるところに偽の支援者たちが群がっては蛭のように取りつき、あなたからさらに貴重な生きる力を奪い取って行くであろう。

時には、教会において、信仰の「証」(あかし)という名目で、これがなされることがある。教会で教えられる死んだ教義の中でも、キリストを信じて救われた人の罪は未来永劫に赦されていることが教えられている。それなのに不思議なことに、多くのクリスチャンは、信仰を持ってから、以前よりももっと強烈な罪悪感に悩まされるようになっている。

というのも、キリスト教界では、信仰の「証」と称して、信者に過去の過ちについて赤裸々に語らせることがよく行われている。信者はそれを通して、かつて救われる前に自分がどんなに悪い罪深い人間であったかという失敗体験を繰り返し、人前で語らせられる。まるでリフォーム業者の宣伝のように、救われる前には自分はこんなにひどい人間であったが、教会のおかげさまでこんなに良く変えられたと主張するのである。

だが、私はこうした証には反対であるし、その効果のほども疑わしく思う。もし本当に主にあって、すべての罪を赦されたと信じているのなら、神があなたをご覧になるように、あなたも自分自身を見るべきであろう。神はあなたの罪を思い出さないと言われる。だから、あなたも自分の罪を思い出すべきではない。自分がかつていかにひどい人間であったかというテーマを繰り返し、自他に言い聞かせ、懺悔し続けることは、自分を貶めることであるから全く必要ない。それは人を永久に罪意識の中から逃がさないための自縄自縛の罠に過ぎず、そんな話を繰り返していれば、あなたは悪魔の思い通りの惨めなアイデンティティをずっと背負って生きることになる。神はそれをもう思い出さないと言われるのだから、あなたも思い返すべきではない。

「わたし、このわたしは、わたし自身のために
あなたのそむきの罪をぬぐい去り、
もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43:25)

「「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。

「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、
雪のように白くなる。
たとい、紅のように赤くても、
羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

人生で過去に何が起きたにせよ、悪魔が通りすがりにあなたに加えた打撃を、いつまでも自分のせいで起きたことのように思い返してはいけない。罪人であったあなたはキリストと共に罰せられて死んだので、もう存在しないのである。その過去に対して自分で責任を取ろうなどと考えてはいけない。それはもはやあなたではなく悪魔の犯した罪の証拠であり、あなたの負うべき重荷ではないのである。

だから、そのような弱さは拒否して、悪魔にお返しすればよかろう。過去の過ちを繰り返し思い返して懺悔したり、あるいは「被害者」として同情してもらい、それによって慰められようという思いからもきっぱり手を引く必要がある。

繰り返すが、あなたがいつまでも自分を恥じて、自分の責任でないことまで自分の責任であるかのように思い込まされて重荷にひしがれ、絶えず弱さと依存状態の中ににとどめられ、ずっと自立できず、他人に依存し、あるいは利用されて犠牲者となって生きることを狙って、悪魔があなたに最初の打撃を加えたのである。

だから、あなたがその最初の打撃が自分のせいではなく、悪魔の言いがかりであったという事実を見抜けず、まるで自分に落ち度があったかのように考えて自分を恥じれば、悪魔は図に乗って、それをきっかけに、二度目、三度目の打撃をあなたに加え、その度ごとに、あなたの状態もより重症になって行くであろう。

悪魔の目的はそうしてあなたを弱体化させ、最終的にあなたを殺すことにある。だから、その悪意と殺意を見抜くならば、早期に弱さと手を切ることがどんなに重要であるかが分かるだろう。

神に訴えよ。そうすれば、神が彼らを罰せられる。神に訴えよ。そうすれば神はあなたを弱さから立ち上がらせて下さる。「良きサマリヤ人のたとえ」のように、神があなたのすべての被害を帳消しにし、代理として必要経費のすべてをまかなって下さる。あなたがその恥や罪の意識や窮乏を負わねばならない理由は何もないのである。多分、神はあなたの知らないところで、その元手を悪魔に請求されるだろう。だから、悪魔があなたになすりつけようとしていた損失は、全部、結果的に悪魔への請求書に変わる。こうして、悪魔は自分で仕掛けた罠に自分で落ち、あなたに対して犯した悪事のために多額の賠償金を支払わされることになるだろう。

しかし、その手続きはすべて神があなたに代わってなさる。だから、あなたは何も心配する必要はないし、助けを求めて走り回る必要もなく、自分で悪魔と交渉してその卑劣さに疲れ果てる必要もないし、まして自分で悪魔に報復する必要もない。(たとえ周りで何が起きていても、心安らかに人として当たり前の人生を普通に生きて行けば良いだけである。)

ただ、悪魔がクリスチャンを日々糾弾し追い詰めて来るその執拗さと同じほどの執拗さを持って、神の御前に悪魔を糾弾することには効果があるだろう。そうすれば、悪魔は後退して行く。「復讐するは我にあり」と言われる神が、ご自身で、悪魔に報復し、子供たちを守って下さるからだ。

悪魔にとって最も脅威となるのは、あなたがキリストにあって、揺るがされることなく固く立ち、悪魔があなたになすりつけようとしてきたすべての罪、弱さ、恥、窮乏、困窮、等々を断固、拒絶し、その「負のプレゼント」をすべて悪魔の不当行為として悪魔自身に押し返し、あなたは神に愛される神の子供として、キリストと同じような「完全な人」として、「完全な健全さ」に生き、立ち上がることである。

周りで何が起ころうと、たとえ人の目には理解できない理不尽な現象を見たとしても、キリストの命の平安の中にとどまり、「悪魔はすでに打ち破られた」という確信に立ち続けることが重要である。

 「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。さて、エルサレムには、羊の門の近くに、へブル後でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。

イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
病人は応えた。「主よ、私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」(ヨハネ5:1-9)

以前にも、私はここで言われている「床を取り上げて歩く」という表現の「床」という言葉には、それまで人がずっと弱くさせられ、伏せって来た原因となるあらゆる弱さが象徴的にこめられており、「床を取り上げて歩く」という言葉の中には、「弱さを拒否して信仰によって立ち上がる」という意味があるのではないかと述べたことがある。

「床」がある限り、人は立ち上がれない。被害者意識や、弱者性にすがっている限り、それはあなたにとって心地よい「床」になるかも知れないが、あなたを立ち上がれなくさせていく原因にもなる。たとえどんなに同情を受けたとしても、床に伏せったままの人生に何の自由があるだろう。弱さを拒否し、床を畳んで、自分の足で立ち上がって歩く、それが自立であるし、自分の足で行きたいところへ歩いて行き、やりたいことに従事できる自由以上に望ましいことがあるだろうか。

キリストの復活の命は、人の力では到底立ち向かうことのできないような苦難、敵対的な状況、欠乏の中からも、すべての必要を供給することができる。だから、ダビデはこう歌うことができた。

「主は私の羊飼い。
 私は、乏しいことがありません。
 主は私を緑の牧場に伏させ、
 いこいの水のほとりに伴われます。
 主はわたしのたましいを生き返らせ、
 御名のために、私を義の道に導かれます。
 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
 私はわざわいを恐れません。
 あなたが私とともにおられますから。
 あなたのむちとあなたの杖、
 それが私の慰めです。
 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
 私の頭に油をそそいでくださいます。
 私の杯は、あふれています。
 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
 恵みとが、私を追って来るでしょう。
 私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩編23篇)

こう書いたダビデの人生に苦難がなかったわけではないことを私たちはよく知っている。むしろ、彼の人生は波乱万丈でひどい事件の連続であった。

信仰者であるとは、どんな災難にも見舞われないということを意味しない。そうではなく、どんな災難に見舞われたとしても、弱さにひしがれたり、被害者になる必要がなく、その只中から死を打ち破られたキリストによって力強く立ち上がり、受けた損失を補って余りある恵みを神に供給してもらえるということである。

「内住のキリスト」は死んだキリスト教用語ではない。信じる者の内側からキリストの力強い復活の命は生きて働く。それはすべての困窮の集大成である死を打ち破った命であり、「すべてを満たす命」、「全てを支配する命」である。それは信じる者に栄誉を与える。誰か偉い指導者があなたに助けの手を差し伸べてくれたからではない。神が直接、あなたを助けられる。外から見れば、あなたは依然として弱そうな一人の人間に過ぎないだろう。だが、敵があなたを追い詰めてあなたに勝ったと喜んでいるその瞬間にも、神は隠れたところであなたを勇気づけ、あなたに勝利を約束して下さる。

キリストの復活の命には、この世の物流や、お金の流れ、天候、人々の心、あらゆる状況を支配する力がある。その命は、「統治する命」、「支配する命」であり、その力はこの世のものでなく、人間の予想を超えている。たとえこの世の現象がどんなに荒れ狂っている瞬間にも、信じる人の心を人知を超えた平安によって守る力を持っている。だから、信仰者もその命の平安の中に自らとどまる秘訣を学んでいく必要がある。

キリストのこの恐るべき命、神の調和のとれた命、不足の一切ない、死を打ち破った復活の命が、弱くてぐらつきやすい過ちの多い有限なる人間である信仰者の中に隠されていることは、信じられないようなパラドックスである。そして、クリスチャンはこの命の力を活用する方法をもっと知らなければならない。

話が最初に戻るが、「環境を創造する力」というテーマについて語り合ったとき、ある兄弟が問題を提起した。それは、「キリストが死を打ち破り、復活されて、ぼくらの中に住んでおられるということをぼくらクリスチャンは信じている。なのに、なぜぼくらはこんなにも弱く、絶えず圧迫されて、絶望の手前でもがいていなければならないのか。これはぼくらが信仰を持っていても、未だこの新しい命に生きておらず、この命によって支配する力があまりにも弱いせいで起こっていることなのではないか」ということであった。

クリスチャンを弱くさせる原因は二つある。一つ目は、すでに何度も書いて来たように、悪魔が押しつけてくるいわれなき「罪悪感」を受け入れて倒れること、二つ目は、「キリストの復活の命にあって環境を創造する力」が弱いか、もしくは、その法則性を十分に知らないことにある。

<つづく>


復活の命を生きる特権

この道を歩んでいて、本当に素晴らしいと思うこと。
それは全ての人の自己が、主の御前に、同じように死ななければならないという事実。

生い立ちが幸せであろうと、不幸であろうと、
金持ちの家に生まれようと、貧乏な家に生まれようと、
立派な教育を受けようと、教育を受ける機会がなかろうと、
健康であろうと、病に苦しんでいようと、
美しかろうと、醜かろうと、
人から認められていようと、蔑まれていようと、
全ての人の肉を、神は一様に憎むべきものとみなし、十字架につけて完全に呪われ、滅ぼしてしまった。

人は神の目から見て、現在置かれている様々な状態によっては評価されない。
主がOKを出されるのは、古き人がキリストの十字架で死に、復活の命をいただいた者だけ。
ああ、もしもその事実を知らなければ、私はきっと自分を不幸とみなしていたでしょう。

世の人々には、例外なく、自己を誇るために拠って立っている「何か」がある。
ある人は、自分の持ち物を誇る。
ある人は、自分が人から愛されていることを誇る。
ある人は、自分に与えられている高度な知識や優れた才能を誇り、
ある人は、自分の容姿や運動能力を誇り、
ある人は、自分の仕事が順調で、社会から認められていることを、
ある人は、子宝や、善良な夫や妻を、家庭的な幸福を誇る。

クリスチャンでさえ、どれほど熱心に聖書を読み、奉仕したかを自慢するものだ。
人々は互いに品定めし合い、人と自分を比べて喜んだり悲しんだりしている。
全ての人に、自己を立てるために拠って立っている「何か」がある。

しかし、主はそうして互いに誇り合っている私たちの肉を、忌まわしいものとして全て十字架で退けられた。
十字架は、幸福な人も、不幸な人も含めて、あらゆる人の肉を、神の目に忌まわしいものとしてはりつけにしてしまった!!
美しい人も、醜い人も、性格の良い人も、悪い人も、賢い人も、愚かな人も、強い人も、弱い人も、すべて十字架上で完全に否定された。
そして、私たちは、今生きている天然の命によって、これからも生き延びようとするのでなく、新創造へとつながるイエスの復活の命によって生きるようにと、招かれている!

私たちは、肉によって、肉に打ち勝つことは出来ない。
どんなに肉を頼みとしても、自分ひとり、救うことは出来ない。
しかし、主イエスは十字架を通して、私たちの古き人の問題を終わらせて下さった。
主と共に、私たちはこの十字架の死に立ち、その死にとどまりつづけよう。

御子イエスの十字架は、どのような問題にも間に合う。
御子イエスの十字架は、どのような問題にも十分である。
御子イエスの十字架は、人の現在の状態に全く左右されない。

十字架は今日も私たちに語りかけている、
自分の義、自分の方法論、自分が頼みとしてきた術策の全てを捨てて、キリストと共に十字架上で己に死んで、神の与える新しい命によってだけ生きなさいと。

神はあの罪なき尊い独り子をさえ、十字架上で、肉において、滅ぼされたのだ。
御子の清さに比べようもない私たちが、どうして肉を頼みとして誇ることなどできようか。
どんなに肉の強さにより頼んだとて、私たちのうち誰が、罪のない御子さえも死ななければならなかった、あの十字架を経ないで生き残れよう?

主イエスの十字架を通して、古き人に死に、自分の力によらず、
ただイエスの復活の命に生かされるようになる時にこそ、
私たちは十字架があらゆる人・問題に対して十分な解決であることを知る。

あれやこれやの術策はもう要らない。
人に誇るためのアイテムも要らない。
優れた才能、社会的地位、成功も、財産も、家族も要らない。
私の古き人は死んだ、御子イエスと共に十字架の上で。
私の過去も、私の願いも、共に死んだのだ。

今、私を生かしめているのは、御子があれほどまでの犠牲を払って、用意して下さった尊い復活の命。
復活の命だけが、私のあらゆる問題の解決である。
クリスチャンに与えられているのは、イエスの復活の命を実際に生きるという絶大な特権。
どうか主が私たちをあわれんで下さり、私たちが、その特権の果てしなく深い意味を、残された人生において十分に知ることができますように。

死よ、おまえのとげはどこにあるのか!

「平 和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの 霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(Ⅱテサロニケ 5:23-24)

キリストの命は私たちの霊、魂のためだけでなく、私たちの身体のためでもあります。神は私たちの霊と魂だけが聖くされるだけでは決して満足されません。も ちろん、肉体の完全な贖いは、来臨の時を待たねばなりませんが、地上に生きている間にも、私たちは主イエス・キリストの贖いが私たちの霊、魂、肉体のすべ てに及ぶものであることを知ることができます。繰り返しますが、主イエスの贖いは私たちの肉体のためでもあります。そのことを知って、私たちは思いと、肉 体を攻撃するあらゆる病、弱さ、圧迫、死を拒絶し、信仰によってこの身体を健全なものとして守り通すべきです。

良きサマリヤ人のたとえを私たちは知っています。道に行き倒れていた旅人の姿は私たち自身です。そして隣人とは主イエスです。ある兄弟が語ってくれた通り、律法に照合するなら、民数記19:11-12に記されている、死人に触れた時の3日目の清めは十字架の型です。私たちはかつては真理を知らず、無分別で、情欲と快楽の奴隷となり、悪意と妬みで日々を過ごすだけの生まれながらに神の怒りの子であり、罪によって神に対して死んでいました。

しかし、主イエスは死んでいた私たちのそばを通りかかり、私たちの苦しみを見過ごしになさらず、私たちを抱き上げて乗り物に乗せて、宿へ連れて行ってくださり、その治療にかかる全ての代金を支払ってくださいました。

これは、主イエスの十字架を信じて、私たちが罪と肉とこの世に対して死に、死から命へと移され、神に対して生きる者とされたことを意味します。しかし、聖 霊の証印を受けて、私たちの知ったこの3日目の贖いは手付金に過ぎません。私たちの治療には本当は「もっと費用がかか」るのです。それは私たちの贖いには まだ続きがあることを意味します。

何ということでしょう、主イエスはこう言われるのです、「もっと費用がかかったら、私が帰りに支払います」(ルカ10:35)と。これは、主イエスが再び戻って来られることと、その時に私たちの完全な贖いをなして下さることを告げています。その時に私たちは7日目の清めを受け、この肉体においても全く聖くされ、復活の身体を受けて、主の栄光の似姿へと変えられるのです。

今、私たちは3日目から7日目の間にいます。7日目は近づいています! この喜びをどうして霊の内に感じずにいられるでしょう? 冒頭に挙げた御言葉はこの観点に立って、私たちが来臨に備えるように呼びかけています、私たちが、霊、魂、肉体のすべてにおいて、来臨の日に「責められるところのないように」、完全に守られるように神に願いなさいと教えているのです。

私たちはこの文脈についてよく考えてみなければなりません。なぜならこの御言葉は、もしも私たちが霊、魂、肉体のすべてにおいて神の完全な守りが備えられ ていることを信じず、その守りの中にとどまらないならば、不信仰のゆえに、来臨の時に責められる者となってしまうかも知れないと警告しているからです。今 回は、特に、私たちの身体が完全に守られることの必要について考えてみましょう。

これは私たちが苦難や病に遭ってはならないと言っているのではありません。ヨブがそうであったように、神は私たちを子として訓練されるために、時に私たち を病にあわせ、肉体を打たれ、苦難にあわせられることがあります。神は苦難を通して私たちの信仰を練られます。しかし、主は決していつまでも怒られ、いつ までも私たちを懲らされる方ではなく、私たちが御手の下にへりくだり、服従を学ぶなら、速やかに私たちにもとの繁栄を、いや、もとの二倍の繁栄をさえ返し て下さり、私たちを自由とし、健やかな者として下さいます。

私たちは忘れてはなりません、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ローマ8:6)  ですから、私たちは決して、自分から苦難を求めたり、まして、死を求めるべきではありません(否、私たちはすでに死んだ者であって、私たちの命はキリストとともに神のうちに隠されているのです)。ダビデが述べたように、私たちは時に「死の陰の谷」を歩くかも知れませんが、それでも私たちは「わざわいを恐れません」、なぜなら、「あなたが私とともにおられますから」(詩篇23:4)

私たちは決して、全ての苦難が神から来ると思うべきではありません。十字架という名目を装う、サタンからやって来るいわれのない圧迫、無用な苦しみ、病、 死は拒絶すべきです! 何が神の与える苦しみで、何が罪やサタンから来るいわれのない苦しみであるか、私たちははっきりと見分けなければなりません。そし て後者を拒絶し、追い返すべきです!

ダビデは言います、「あなたのむちと杖、それが私の慰めです。」(詩篇23:4) これは神から来る苦難が、私たちに結果として慰めを、いつくしみ、恵み、命をもたらすことを示しています。しかし、サタンの与える苦難は、人の霊、魂、肉体をいたずらに傷つけ、人生をただ荒廃させるだけなのです。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリント7:10)。 私たちは苦難には二種類あることを見なければなりません。もしも神の御心によって人が懲らされるなら、その時に生じる悲しみは、へりくだり、悔い改め、救 い、平和といった実を結びますが、サタンの与える無用な苦しみは、人を悔い改めや救いに導くことなく、かえって心頑なにし、ただ無益な苦痛を長引かせた上 で、ついには死へと追いやるのです。

私たちはサタンから来る苦しみを拒絶し、サタンによって人生が盗まれ、荒廃させられ、死へと追いやられることを拒絶すべきです! 私たちは死に立ち向か い、主イエスが与えて下さる命を選び取り、しかも、豊かに命を得るべきです。それが神の御心だからです。主イエスは言われました、「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10) 

主は地上におられた間、信仰によって応答した人々の病を癒され、死の恐怖のとらわれから解放し、自由を得させました。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」と言った病人に向かって、主は言われました、「わたしの心だ。きよくなれ。」(マタイ8:2-3)。このことは、私たちが、霊、魂、肉体の全てに渡って、聖められ、新しくされ、完全とされることが、神の御心であり、私たちの肉体も健やかであるようにと神が願っておられることをはっきりと示しています。

ですから、私たちは生きている限り、神のいつくしみと恵みとが、私たちを追ってくることを求めるべきです! 敵前で主が私たちのために食事を整え、私たち の頭に油を注いでくださることを求めるべきです! 悩みの日に、主が私たちの完全な守りの砦となって下さり、私たちを悪しき者の全ての圧迫から完全に守っ て下さることを信じるべきです! 私たちは無用な圧迫を全て退けるべきであり、苦難を日常的なものとして迎え入れてはなりません。たとえ束の間、主に懲ら されることがあっても、断じて、必要以上に苦難の中にとどまろうとしてはなりません!

注意して下さい、多くの異端の書物は、死後の世界の美しさについてまことしやかに語り、私たちの心を巧みに死へと誘います。病、貧困、死を甘く美化する多 くの書物があります。多くの人たちはそれに欺かれて、病や、死をまるで美しいもののように考えて憧れ、まだ主の定められた時が来ないのに、時期尚早な死を 遂げた人々を美化し、それが、神の御心であるかのように勘違いしています。そうしているうちに、自分も早々と召されることを願うようになり、地上で果たす べき召しを軽視するか、あるいは、あきらめてしまうのです。

しかし、私たちは苦しみや、病や、死を美化する誘惑的な教えを心に受け入れるべきではありません! 生きている今から、病や死と戯れたり、死と協定を結ん だりしてはなりません! 私たちはいわれのない病や、無意味な苦しみ、時期尚早な死を断固、拒否すべきです。そして、信仰によってキリストの命を選び取る べきです! なぜなら、御言葉ははっきりと、私たちが御霊によって生きるべきであること、いや、それが私たちに与えられた権利であることを告げているから です、「もしイエスを死人の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:11)

私たちの目の前には、いつでも、命の道と死の道が置かれています。何を信じ、何を選ぶのか、決めるのは私たち自身であり、私たちは自分で意志を活用して、 積極的に御言葉によって真理を選び取り、虚偽を心から退けねばなりません。私たちの肉体のうちには、常に罪と死の法則が働いており、もしも何も考えずに、 ただ肉に従って生きるなら、私たちは死ぬ他ないでしょう。しかし、キリスト・イエスにある命の御霊の法則は、私たちを罪と死の法則から解放したのであり、 この事実を信じ、選び取り、その事実のうちに堅くとどまり、御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8:13)

思い出しましょう、ラザロが死んだ時、主はマルタにこう言われました、わたしは、よみがえりです。いのちですわたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありませんこのことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)

マルタは信仰によってこのことを信じると告白したことにより、死んだ兄弟をよみがえらせてもらいました。使徒の時代にも、命の御霊の法則により、幾人かの死んだ者が復活にあずかったことを私たちは知っています。しかし、私たちはそこからさらに進んで、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありませんという衝撃的な御言葉の意味を考えてみたいと思います。これは携え上げのことを言っているのではないでしょうか。主はマルタに問うたように、今日、私たちに問うておられるのではないでしょうか、「このことを信じますか」と。

ですから、私たちは死を見ないで生きたまま主にお会いして、携え上げられるかも知れないという望みを持つべきです。いや、それを目指すべきです!

もう一度言いますが、私たちは時ならぬ死を来たらせるだけの世の悲しみや苦難を拒絶して、苦しみを美化したり、苦しみの中で感傷にふけるのをやめて、その ようなものを心から追い出し、命を選び取るべきです。時が来て、もしも主が私たちに殉教を求められるなら、それに従うことも素晴らしいことではあります が、何よりも、携え上げを願うべきではないでしょうか。殉教とは、キリストのよみがえりの証人として立ち続けることと同義ですから、殉教を願うならば、何 よりも、その者自身が、この地上において、死を打ち破ったキリストのまことのよみがえりの命を知って、その命に生きるべきです。復活の命の何であるかを知 ることもないうちに、絡みつく罪と、地上の重荷と、サタンの圧迫にひしがれて打ち倒されることを、私たちは断固、拒否すべきです。私たちは無意味な苦難を きっぱりと拒絶し、死を戸口まで追い返すべきです。ハデスの門を閉ざすべきです!

ラザロの死を目の前にした時、主は「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」(ヨハネ11:33)ら れました。神は罪と死を憎んでおられます。神が最初に人間を造られた時、そこに死はありませんでした。死はサタンを通して人類に罪が入り込んだ結果として もたらされたのであり、死は罪の終局的な実です。主イエス・キリストは、御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を得るために、ご自分の肉体を 裂いて十字架で死なれたのであり、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人人を解放してくださった(ヘブル2:14-15)のです。

パウロはコリントの教会の信徒たちに宛てて、彼らの間に多く見られる肉体の弱さ、病、死は、不信仰の結果であるとして責めています、「そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」(Ⅰコリント11:30) 弱 々しさの中に平然ととどまっていたコリントの信徒たちに、パウロは異議を唱えました。死を打ち破った方のよみがえりの命をいただいているのに、彼らのうち に神の命の強さがほとんど現れていないのはどうしてなのでしょう? なぜ信徒たちは絶え間なく圧迫され、地上のことばかりを思い、互いに争い、食い合って 相身を滅ぼし、自分の命のことばかりで絶え間なく思い煩っているのでしょうか? それは神の御心を退けることを意味するのではないでしょうか?

パウロは肉体に一つのとげを与えられていましたが、その弱さ のうちに、絶えず、神の強さの供給を受けていましたので、決して、自分の弱さについて人の同情を乞う必要はありませんでした。また、何か並外れた障害を抱 えている弱者、受難の人として、自分をアピールしたり、人の助けを求める必要もありませんでした。パウロが「大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:9)と言ったとき、それは「キリストの力が私をおおう」ことを誇っていたのであり、彼は「神の強さ」を誇っていたのです。だからこそ、彼は「私が弱いときにこそ、私は強い」(Ⅱコリント12:10)と大胆に言えたのです。

ですから、キリスト者は、断じて、自分の欠陥、自分の弱々しさを誇りとすべきではありませんし、苦しみが作り出す「受難の人」のイメージを、自分の信仰の美的なシンボルにすべきでもありません。神は私たちがどんなに弱くとも、御言葉のうちにとどまり、御言葉を行うならば、「力ある勇士たちよ」(詩篇103:20)と 呼びかけて下さるのであり、私たちはキリストの強さが自分を覆うことを信じるべきです。欠乏や、弱さや、病や、死と感傷的に戯れ、それらを両手で大事に抱 きかかえ、いつまでも仲良く手を携えて歩けると思ってはなりません。そんなことをすれば、死が私たちを捕えて飲みつくすでしょう。しかし、キリストの命は 統治する命であり、私たちを真に健やかに、自由とします。それは私たちをあらゆる欠乏から解き放ち、死の奴隷的恐怖から解放し、真に健やかに自分自身を治 めることを可能とし、さらには地を治めることさえも可能とします。

「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)、と主は言われました。神の御心は、私たちが非難されるところのない純真な者となり、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝」(ピリピ2:15-16)くことです。

このことは私たちの品性や、行いや、霊や魂の状態について言えるだけでなく、身体についてもあてはまります。律法の時代に、神に捧げられたのは傷のない動 物でしたが、私たちは今日、神に捧げられた生きた供え物です。主が望んでおられるのは、傷のない完全な供え物であることを、私たちは思い出す必要があるの ではないでしょうか。多くの人は、それは自分とは関係ないことだと思っていますが、断じて、そうではありません。主が迎えようとしておられるのは、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」(エペソ5:27)であり、そのために、神は私たちを世界の基が置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1:4) 


神が私たちを聖く、傷のない者にしようと願っておられることに心を留める必要 があります。御心を退けてまで、弱さや、傷や、不完全さにしがみつくことに何の意味があるでしょうか。キリストの統治する命がどのような力と性質を伴うも のであったか、私たちは思い出す必要があります。主イエスは言われました、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:17-18)

私たちは自分自身から目を離し、青銅の蛇――すなわち十字架のキリストを見上げます。主の死 を見つめ、主の死を受け入れ、主の死と一つとなるならば、私たちは蛇の致命的な毒から救われて、主のよみがえりの命によって生きるのです! 今までは蛇が 私たちをつかんでいましたが、今は、私たちが蛇をつかみ、ふるい落とすのです! 私たちは自分がどのような瞬間へ向かって歩いているのか、もう一度、思い 出す必要があります。私たちは7日目の清めに向かって、すなわち、完全な贖いに向かって歩いているのです! その日には、私たちはキリストとともに栄光の うちに顕れます。もはや死も、悲しみも、苦しみもありません。なぜなら、神ご自身が私たちとともにおられるからです。

「私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:4)

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとと もにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったか らである。」(黙示21:3-4)

今、私たちはまだ死の陰の谷の存在するこの地上を歩いています。私たちの肉体はまだ完全に贖われていません。しかし、私たちは聖霊によって、来るべき世の 前味をすでにいただいています。御国はすでに私たちの只中に来ています。そして、この邪悪な時代の只中にあって、私たちはキリストのまことの命を灯火とし て輝かせる純潔の花嫁として召し出され、立たされているのです。ですから、私たちはキリストのよみがえりの命の絶大な力を、生きて味わい知ることをもっと 追い求めるべきではないでしょうか。キリストとともに死んだのですから、もはやこの世は私たちに害を及ぼすことはできないことを信じるべきではないでしょ うか。私たちはキリストの十字架を通して、自分自身に対して死に、神に対して生かされたのですから、豊かに命を与えて下さるよう神に願い求めて良いのでは ないでしょうか。それによって、神ご自身が栄光をお受けになるのです。主こそまことの牧者、命を与える方、生ける者の神だからです。

私たちはキリストと共なる十字架によって、アダムの命に死に、この世に対して死んで、キリストのまことのよみがえりの命によって、神に対して生かされたこ とを信じています。私たちは絶えず主イエスの死をこの身に帯びています。ですから、この世のもの、地上のものが自分に触れて、死が私たちの内側に入り込む ことを、断固、拒否すべきではないでしょうか。弱さ、欠乏、貧困、思い煩い、死を来たらせる悲しみ、病、死を戸口まで追い返し、ハデスの門を閉ざし、次の 御言葉が、今から私たちの大胆な宣言であるべきではないでしょうか。なぜなら、主イエスがすでにご自分の死によって死の力を持つ悪魔を滅ぼし、死は勝利に 飲まれてしまったからです。

「死は勝利に飲まれた。…死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげは、どこにあるのか。」!!(Ⅰコリント15:54,55)

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)



(後日追記) この記事はある闘病生活を送る信者にキリストにある健康と癒しを求めることを促すために書いたものであるが、その信者は癒しを信じず、この記事をも半ば嘲笑ぎみに拒否し、健康を求めることはなかった。(健康を求めることについては、キリストによる超自然的な癒しの他にも、移植を受けるなどの現実的な手段があった。たとえそれが応急処置でしかないと言われたとしても、それでも、ある程度、時間を引き延ばすことは可能だったのである。)

その結果として、以前は温泉に行ったり交わりも可能であった信者は、手術による体の切除、抗がん剤治療などに手を伸ばし、さらには生活環境の悪化による転居により、中心部での生活もできなくなった。自分自身の体さえ含め、次から次へと色々な宝を手放して行かなくてはならなかったのである。もはや二度と以前のように温泉で楽しく交わることなど不可能であろう。

筆者はこのようなことは決してキリスト者の歩むべき道ではないと確信している。信者に一時的な闘病生活はあり得るかも知れないが、長期に渡る、いや生涯抜け出せない不自由な闘病生活とその結果やって来る必然的な弱体化と死ーーこのようなものには断固憎むべきものとして立ち向かい、神に命と解放と自由を懇願することがぜひとも必要であると考える。そうでなければ、ただ死に飲まれてしまうだけである。そこにはただ誰にでも分かるこの世の悪魔的法則が働いているだけで、神の解放のみわざもなければ、キリストの命の完全さもない。聖書には、悪霊によってもたらされる病が確かにあって、信者がそれに縛られ続けることは神の御心ではないと分かる。主イエスが長血の女を解放された時のことを思うべきである。

だが、中には病を自ら選び取る信者もいる。闘病生活を美化し、困難な生活を美化し、悲劇や問題の渦中にあって健気に生きているという自己イメージから生じる周囲の同情や共感を捨てられないためである。それは一種の自作自演劇のようなもので、あるいは自己から逃避するためのイチヂクの葉による擬態のようなもので、病によって隠したい何かがその人の心に存在するのである。こうして、何か別のもっと深刻な問題(多くは自分自身の真の姿)から逃げるために、自ら解放よりも苦しみを選び取る人々が存在し、彼らは苦しみによって自己を美化するために、ひっきりなしに、次から次へと自分で問題を呼び込んで来る。その生活は本人が選び取っているので、これを周囲の説得によって変えるのは難しい。なぜ病を憎むべきものとしてとらえないのか、なぜ解放されることに抵抗し、健康になれと言う人を嘲笑するのか、そこに確かに心理的な(霊的な)問題が存在するのであるが、本人はこの世の常識に目を塞がれているので、目を開く可能性は低い。求められないのに奇跡を行うことは神もなさらない。

こうして、貴重なかけがえのない時間を常に病や問題のために消費し、大切なものを次々に失いながら、ついには当然のごとく死へ至る。筆者は本当にこうした結末を心から憎むべきものと捉えている。

ちなみに、その信者は、キリスト教会からのエクソダスを考えていたこともあったが、夫の病のために教会員が祈ってくれたことに感動し、キリスト教会からのエクソダスを断念したのであった。ここでも、後ろを振り向く原因となったのは、同情である。病が家庭に深く入りこんでいた。そして、病と親しみ、それがもたらす美しいイメージにのめり込みすぎた結果、誰からも同情される必要のない自由を手にすることよりも、不自由な人間として人から同情されて生きる道を選び取ったのである。これは筆者の目から見てあまりにも愚かなことであるが、多くの人は同じようにここでつまづいてしまう。すなわち、人に真の解放を見失わせる同情という感情の悪魔的な厄介さに気づかないのである。同情には人を生かす力も癒す力もなく、心密かに他人を上から目線で哀れみ、蔑みながら、優しさと見せかけて、その人を依存状態に置いて、立ち上がる力を失わせ、不自由な状態に永遠にとどめてしまう。同情によりかかり、これを受け入れることで、不自由な状態に対する憤りと、絶対にそこから立ち上がって自由になってみせるという強い抵抗、自由への希求が失われるのである。多くの人たちが同情の持つ悪魔的な策略にはまり、人に同情され、注目されただけで満足してしまい、この厭わしい呪われた感情を振り切って、誰からも哀れまれたりする必要のない、真に自立したキリストにある完全な命に至り着こうとは思わないのである。人情によってベタベタにされた共同体が、その時 、人を神の約束された命の解放に決して至らせないための束縛の枷として作動する。


律法から解放されて、イエスの命に生きる

驚くべきことに、最近、主は私に大きな恵みを下さった。なんと、我が家で穏やかに信仰を語れるようになってきたのである!

 これまで、我が家では、信仰の話題を持ち出すことは、不毛な口論につながるだけであった。同じキリスト教徒でありながら、残念なことに、家人と信仰を共有できなかったのである。

 ところが、今、ネット上で起きている一連の騒動について、私が家人に話した時、家人は、「あなたにはきっと神様から与えられている仕事があるのでしょう」と私を励ましてくれた。

 かつて、カルト化教会の牧師が、就職難に直面していた私を、仕事の斡旋という嘘の甘言で釣り上げ、教会のために奉仕させ、さんざん私との約束を裏切った。そのことについてどんなに話そうとしても、我が家では、今まで取り合ってもらえなかったのだが、家人は今回、穏やかに私の話を聞いてくれた。

 私は話をこうしめくくった、「この世にある限り、これからも、不安はつきないでしょう。貧乏や失業や孤独がついて回るかも知れない。でも、その不安の中で、真に頼るべきは人ではなく、神様お一人だという信仰に立たないと、どんなクリスチャンでも、私のように、人に惑わされてしまう危険がある。
 私は、人に頼ろうとして、手痛い失敗をしてしまった。でも、そこを通過した今だから言える、私を生かしているのは、人脈でもなければ、私の能力でもなく、人からの約束や、助けでもない。私を生かしているお方は、ただ神様であって、これからの生存を保証してくれるのも、ただ神様だけ。今はそのことを信じている」と。

 家人は穏やかに頷いていた。ああ、私たちの信仰が同じになって来ているなあ…、そう感じさせられた奇跡のように嬉しい瞬間だった。
 この調子だと、まだ救われていない私の家族のメンバーが、キリストを受け入れるようになる日も、そう遠くないかも知れないと、期待が飛躍する。その時、私はどこにいるのだろうか? 一家全員が平和に集って、主を賛美している光景を、私はこの目で見られるだろうか? とにかく、そこに私がいようといまいと、いつか必ず、我が家がキリストにあって、愛と調和に満ちた場所へと変えられることを切に願ってやまない。

 主は、何か一つのものを取られる時に、代わりに新しい恵みを与えて下さるのかも知れない。一人が離れて行っても、別の人がやって来る。一人が唾を吐きかけても、別の人が勇気をくれる。だから、一つの悪いことが起きても、心配することはない。神様の御助けと約束は完全なのだ。

 かつて、私はカルト化教会にて、「主の手から憤りの杯をうけて飲み、よろめかす大杯を、滓までも飲みほした。」(イザヤ51:17) 私はイザヤ書の次の聖句を読む時、それが自分の身に降りかかった災難と重なって見える。

「これら二つの事があなたに臨んだ――
 だれがあなたと共に嘆くだろうか――
 荒廃と滅亡、ききんとつるぎ。
 だれがあなたを慰めるだろうか。
 あなたの子らは息絶え絶えになり、
 網にかかった、かもしかのように、
 すべてのちまたのすみに横たわり、
 主の憤りと、あなたの神の責めとは、
 彼らに満ちている。」(イザヤ51:19-20)

 福音から離れた時、私には災いが臨んだ。私は主の御許に立ち戻ったつもりだったのに、まるで盲目の者が罠にかけられ、捕囚にされるようにして、何も分からずに、カルト化教会へと囚われていった。
 そこでは、貧しさと辱めと苦役とが私を待っていた。やっと気づいて離れた後も、その災難について語っても、信じてもらえず、同情してくれる者がなく、慰めてくれる者もなかった。ヨブが友人から責められたように、私は自己弁護に力尽きるまで、周りにいる全ての人たちから、責められなければならなかった。

 だが、主に栄光あれ! 私が心から主に立ち返った時、神は状況を一変させられたのだ。

「あなたの主、おのが民の訴えを弁護される
 あなたの神、主はこう言われる、
『見よ、わたしはよろめかす杯を
 あなたの手から取り除き、
 わが憤りの大杯を取り除いた。
 あなたは再びこれを飲むことはない。
 わたしはこれをあなたを悩ます者の手におく。
」(イザヤ51:22-23)

 私は二度と、かつてのような苦しみを味わうことはない、主がそう約束されるのだ。

「『恐れてはならない。
  あなたは恥じることがない。
  あわてふためいてはならない。
  あなたは、はずかしめられることがない。

  あなたは若い時の恥を忘れ、
  寡婦であった時のはずかしめを、
  再び思い出すことがない。
  あなたを造られた者はあなたの夫であって、
  その名は万軍の主。
<…>
  捨てられて心悲しむ妻、
  また若い時にとついで出された妻を招くように、
  主はあなたを招かれた』」(イザヤ54:4-6)

 みなし子や寡婦、宿無しのように寄る辺なかった者が、万軍の主を夫とする妻へと変えられ、頼もしい神の家族へと加えられた。イエスによって義とされ、もはや人からの非難に苦しめられる必要がなくなったのである。

 「『義を知る者よ、
  心のうちにわが律法をたもつ者よ、わたしに聞け。
  人のそしりを恐れてはならない。
  彼らのののしりに驚いてはならない。
  彼らは衣のように、しみに食われ、
  羊の毛のように虫に食われるからだ。
  しかし、わが義はとこしえにながらえ、
  わが救はよろず代に及ぶ』。」(イザヤ51:7-8)

 幼い頃、私は「罪を残したまま死ぬと、人は地獄へ堕ちる」と教会で教えられた。以来、子供心に、よく次のように考えたものだ。「もしも私が不意に交通事故で死んだとすれば、そして、それがあまりにも突然で、悔い改めの時間も残されていなかったとしたら、私はひょっとして、地獄へ堕ちてしまうのだろうか!?」と。

 それは愚問だった。なぜならその当時から、私はすでにキリストを信じ、受け入れて、罪赦されていたからである。しかし、それでも、長い間、そんな疑問から抜け出られなかった。
 私は100%罪赦されているのか? 私にはどこかに罪が残っていないだろうか? 私は本当に100%救われているのか?

 それは、まるで、プールサイドの飛び込み台に立って、水に飛び込むのをためらい、恐れている子供のような心境だった。
 信じるということが要求する高さのために、イエスの与える生ける水の川という、心地良い流れに全身で飛び込むのをためらっていたのだ。
 だが、バプテスマによって全身、水に浸された時、肉なる私は確かに死んだ。
 そのことが、実際に理解できたのは、バプテスマよりも、ずっと、後のことだったが…。

 今、私には自分が救われていることに疑問はない。「私は本当に御霊によって歩いているのか? それとも、肉の欲に仕えている罪人ではないのか?」という疑問はもうない。なぜなら、私は信仰を持って、思い切って、主の懐に飛び込んだからである。私は救われ、罪赦され、贖われたという信仰の大海に飛び込み、その確信にずぶ濡れになるまで身を浸した。バプテスマと同時に、肉なる私は死んだ。そして、キリストにあって復活し、今は命の川の中を、安らかに、楽しく泳ぎ回っている。

 主は言われる、
「わたしは海をふるわせ、
 その波をどよめかすあなたの神、主である。
 その名を万軍の主という。」(イザヤ51:15)

 高波がとどろき、砕け散る暗い嵐の海。
 イエスの弟子達が船の中で恐れたように、水は人にとって脅威であった。水は人の肉体を殺す力を持っていた。律法が人を罪に定め、死を宣告する力を持っているように、ノアの洪水は、神に従わなかった人々の命をことごとく水の底に沈め、滅ぼした。
 だが、モーセに導かれる民を、神は水(海)を乾かすことによって、救われた。

「海をかわかし、大いなる淵の水をかわかし、
 また海の深きところを、
 あがなわれた者の過ぎる道とされたのは、
 あなたではなかったか。」(イザヤ51:10)

 モーセに導かれる民は、律法によって義とされる方法を知らなかった。人として律法を完成される御子イエスがまだこの世に来ていなかったからである。そこで神は、イスラエルの民を殺す力を持っている海を真っ二つに分けられ、乾いた道を造られ、民が水に触れないでそこを通り過ぎることができるようにされた。

 今、イエスの十字架の後の時代を生き、バプテスマを受け、イエスを通して律法の完成者とされたクリスチャンにとって、水はもはや、旧約のイスラエルの民にとってそうであったように、人を死に定める脅威とはならない。

 イエスご自身は罪のないお方であったので、水によって死に定められる立場には初めからなかった。主は人と同じようにバプテスマを受けられたけれども、海の上を歩いて渡り(マタイ14:25)、また、風と海とを従わせる権威を持っておられた(マタイ8:26,27)。
 イエスはご自分の罪ゆえでなく、ただ神の御心に従って、人類の罪の身代わりとして、律法によって死に定められた。ゲッセマネの園で、イエスは祈られた、「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ22:42)と。

 この時、イエスでさえも、できれば逃れたいと願った杯は、人類の罪に対する神の憤りの杯、イザヤ書に記された「よろめかす杯」、「わが憤りの大杯」と同じものであった。杯の中にあったものは、何だっただろうかと私は考える。確信を持って言えないが、ひょっとして、それは神の憤りの大水だったのではあるまいか?

 イエスは十字架にかかられて死なれた時に、わき腹から「血と水」(ヨハネ19:34)を流された。この時、次の御言葉が完全に成就した。
「あかしをするものが、三つある。御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。」(Ⅰヨハネ5:7)

 御霊と水と血とが、十字架上のイエスにおいて一致の完成を見た。その後、イエスを信じる者は、バプテスマによって肉に死に、イエスが十字架上で流した血によって義とされ、御霊によって生きるようになった。

 聖書は言う、「古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。」(Ⅱペテロ3:5-6)

 聖書を読むと、一度水で滅んだ大地には、「二度目の洪水」が差し迫っていることを知ることができる。それは水による洪水ではなく、焼き尽くす火による洪水(=大火災)である。ひょっとして、巨大火災地震と呼んでも差し支えないかも知れない、なぜなら聖書はこう告げているからである、「震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している」(ヘブル12:27)と。

 つまり、大地にはもう一度、ノアの洪水に匹敵する規模で、揺さぶられる日が来ることが定められているのだ。しかし、クリスチャンは一度、水によって滅んだ以上、もう二度と滅びる必要はない。キリストによって義とされている以上、焼き尽くす火によって滅ぼされる必要がない。ふるいにかけられて、毒麦として抜かれる対象ともならない。主の日が盗人のように迫ってくることもない。「わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか」(ヘブル12:28)。

 「あなたをあがなわれる主は言われる。
 『このことはわたしにはノアの時のようだ。
  わたしはノアの洪水を
  再び地にあふれさせないと誓ったが、
  そのように、わたしは再びあなたを怒らない。
  再びあなたを責めないと誓った。
  山は移り、丘は動いても、
  わがいつくしみはあなたから移ることなく、
  平安を与えるわが契約は動くことがない』と
  あなたをあわれまれる主は言われる。」(イザヤ54:8-10)

 イエスを信じ、イエスに従う者は、もはや二度と、神の憤りの杯を飲まされることはない。旧約のイスラエルの民は律法による契約によって神と結ばれていたが、私たちはイエスの血による契約を通して神に結ばれている。今や、イエスを信じるクリスチャンにとって、神によって発せられる水はもはや死を意味せず、かえって、命となっているのである。

 「さあ、かわいている者は
  みな水にきたれ。

  金のない者もきたれ。
  来て買い求めて食べよ。
  あなたがたは来て、金を出さずに、
  ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。<…>
  わたしによく聞き従え。
  そうすれば、良い物を食べることができ、
  最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。
  耳を傾け、わたしにきて聞け。
  そうすれば、あなたがたは生きることができる。」(イザヤ55:1-3)

 大地を潤す雨のように、作物を実らせる水路のように、春の優しいせせらぎや、夏の川の流れのように、力強い命の川の流れが、クリスチャンを健やかに養ってくれる。だが、もしも、クリスチャンが地上で健やかに暮らすことだけを願うのでなく、主のための艱難を、勇気を持って忍ぶ覚悟を決めるならば、神は彼になお大きな喜びを約束して下さる。

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。」(ヘブル12:2-3)

わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。」(ヘブル13:13)

 私たちは義とされ、地上で恵みに満ちて平和に生活する権利を与えられている。だが、それにとどまらず、主イエスの背負われたはずかしめをすすんで身に背負うべきなのである。イエスが私たちのためにご自身を低くされて仕えられ、その身を私たちのために捧げられたように、私たちが自分を低くして神に捧げ、主の御名のために、はずかしめや、苦痛や、嘲弄や、誤解や、犠牲をもすすんで耐え忍ぶ時、その献身と従順によって、私たちは神に満足していただくことができるのだ。

 この献身と従順こそが、私たちをあがなうために、はかりしれない犠牲を払って下さった主のために、私たちができるせめてものお返しである。
 
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ローマ12:1)