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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

一事不再理の原則(2) ~自らを神として法と裁きを否定する人たち―日本のグノーシス主義的原初回帰~

前の論考において、私は日本がグノーシス主義的原初回帰の道を歩もうとしていることの危険性について述べた。これは極めて危険な道で、単に歴史に逆らうだけでなく、いずれ神に逆らう道である。

この点で、今年(注:この記事は2014年に書かれた)2月12日に集団的自衛権の行使容認に関して安倍首相が行なった国会答弁は、明確に越えてはならない一線を越えてしまったと私は認識している。

「最高責任者は私です。私が責任者であって、政府の答弁に対しても、私が責任を持って、その上において、私たちは選挙で国民から審判を受けるんですよ 」

首相がついに最も言ってはならないことを言ってしまった、という印象を受けた瞬間であった。

安倍首相のこの発言は、集団的自衛権の行使容認は、誰から指示されたものでもなく、首相自らの信念・悲願であることを示している。また、その方針に基づいてこれから政府が行なうであろうこと、その結果起こることの全責任は、ただひとり首相にのみあり、彼だけが裁かれることになるのだと、首相自らが認めたことを意味する。

安倍首相はこれにより、自分は国の最高法規である憲法以上の存在であり、この世のあらゆる法規を超えた最高責任者であると宣言してしまったのだ。

この発言は憲法によって時の為政者が受けるべき制限をも認めず、つまり立憲主義そのものの否定する発言として、自らを神とするにも等しい。

何よりも恐ろしいのは、政治的な主張ではなく、その根底に流れる思想である。

私は以下の文化庁の宗教法人審議会議事録に関する記事において、アッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団のカルト撲滅運動に取り組んでいる有名な牧師である村上密氏が、正式な手続きを踏んで同教団を離脱しようとした鳴尾教会に対して恫喝裁判をしかけた結果、裁判で敗北し、文化庁でも訴えを棄却されていることについて触れた。そして、このようにして同教団が、裁判の判決も、この世の規定も、自分に都合の悪い事実は何一つ認めずに、自分はどんな決定にも服する必要がないかのように、ただひたすら自分の主張だけを正しいものとして押し通そうとしている独善的な姿勢に空恐ろしいものを感じると書いた。ちなみに、この教団はフランスではすでに準カルトに認定されている。


(さらに、この牧師と安倍首相はともに統一教会と深い関わりがあり、極めて似た思考パターンを持っており、類似した主張を繰り広げている。このことについては「外側からの変革と内側からの変革の道」の記事に詳しいので参照されたい。)

このように、自分は神でないにも関わらず、何者にも服さず、この世のどんな決定や法規によっても縛られることなく、この世の権力を自在に動かそうとする者とは誰なのか。神でないにも関わらず、神のような地位に立とうとする者とは誰なのか。
そのような願望は人として正しい、適切なものなのだろうか。それはどうしても神になりたかったあの者、神の地位を強奪して自分を神に等しいと宣言しているあの者の姿をほうふつとさせるのではないだろうか。

従って、首相の発言において「審判」という言葉が使われたのも何かしら予言的であった。それは私には選挙という意味合いをこえて、いずれ首相が必ず、自分の一連の言動に対して裁きを受けねばならないことを予感していることを告げる言葉のように聞こえた。

国民の血を流すことの責任を一身に引き受けることや、戦争遂行の全責任を一人で負うことは、誰にも耐えられない重責を意味する…。

東京裁判では28名もの指導者が裁かれ、25名が有罪、7名が死刑となった。

その罪の分をもしひとりで引き受けるならば、万死に値するという言い方が最もふさわしいかも知れない。もし東京裁判に服さず、先の大戦を正当化して進んでいくならば、かつてよりもさらに重い、歴史的に拭い去ることのできない恥辱の判決が、これから先に待っているのでなければよいが。



日本は敗戦したが、情けも施された。天皇制は維持され、官僚たちは抜け穴を作って生き延び、連合国のほとんどは国家賠償請求権を放棄した。確かに敗戦はしたが、戦前の多くのものが温存され、情けが施されたのである。

それが裏取引によるものであったのか、それとも、日本の荒廃があまりに哀れを催したゆえにかけられた情けであったのか、確かなことは分からないが、もしこうした情状酌量さえも退けて、敗戦によって日本が負わされた全てが不当なあるまじき判決だったと言い立てるなら、多分、この国はこの先、前よりももっと重く厳しい裁きをこの先、受けなければならなくなるだろう。

その責任をひとり安倍首相が自分が負うと言っているのだから、負っていただけば良いが、彼は自分が何を言っているのか分かっていない。それは人間に負い切れる責任をはるかに超えているのだから。

この約70年近く、日本の経済的な繁栄は、戦争がなかったことを土台に築かれた。
その間、日本の国際的な評価が高く保たれたのも、日本が他国に戦争をしかけず、平和の使者として行動したからであった。血を流さないことを約束していたからこそ、自衛隊は海外でも受け入れられた。

もし血を流すことを前提に海外に出かけて行くならば、自衛隊もかつてのような好意的な受け入れられ方をもうされなくなるだろう。敵として侵略者として認識され、殺戮の対象となるだけである。

かつて神国日本などというおごりに基づいて出かけて行った侵略戦争が、どんな結末を迎えたのか、あれからまだ一世紀も経っていないのに、この国はもう忘れたというのだろうか。

かつて、自分が信じていたはずの神に裏切られて見捨てられた。現人神であったはずの天皇が玉音放送で敗戦を告げ、嘘ばかりの大本営発表に騙され、苦しめられた。なのに、二度、三度まで、また同じ偽りの神を信じて、破滅をくぐらないと気が済まないのか。

信じていたものが正しかったなら、裏切られはしなかっただろう。天皇が現人神であり、死ぬば自分も神になれる、つまり、己を神だと思い上がっていたからこそ、そういう結果となったのではなかったか?

そこで、「私が最高責任者」という言葉は、どうにも、再び自分が神になろうとしている者が野心を語っているようにしか私には聞こえないのだ。そのような台詞は、決して通常人が口にすることのできない言葉のように聞こえる。

かつて大日本帝国憲法下では、主権者は天皇であるとされたが、安倍首相は、今、国民から主権者である資格を奪って、自分がひとり主権者になりたいのだろうか。そう考えると、首相がしきりに口にする「この道しかない」という言葉も、彼自身が道であり他に選択肢はないと言っているに等しく、これもまた唯一の道であるキリストの否定へとつながる。

念のために断っておくが、安倍首相はキリスト教徒ではない。統一教会はキリスト教から見れば異端であり、文鮮明は救世主としての再臨のキリストを詐称しているだけで、クリスチャンの信じているイエス・キリストとは何の関係もない。統一教会では、指導者にならって、信者も救済者になりたがる傾向があるようで、「救国政権」などと宣伝されて登場してきた安倍首相も然りである。

ところが、今、他でもないキリスト教界でも、やはりこのような恐るべき事態が起きている。すでに述べたように、統一教会出身の牧師がプロテスタントの教会の牧師となってプロテスタントの危機を訴えて救済者然と登場し、カルト撲滅運動という災害便乗型ビジネスにより、プロテスタント教界の覇者になることを目指しているような有様である。

だが、私は、カルト撲滅運動にいそしんでも結果は何も変わらず、そもそも牧師制度に大きな誤りがつきものであり、これを改めて聖書に戻らない限り何の改革もあり得ないだろうことを書いて来た。自分は神の代理人であり、正しい助言によって人々を指導することができ、人々の救済者になれるというおごりが、宗教指導者を盲目にさせてしまうのである。人々を救済してやるという名目で他人の内心に干渉し、相手を支配して自分の欲望を叶えるという誘惑を生み出すのである。 こうしたことは、キリスト教界の堕落であるが、カルトもそれを退治するアンチカルトも、共に同じ腐敗した根を持つ兄弟であり、行き着く先も同じである。

実のところ、このようなことが起きるのは、キリスト教界が異端思想に深く浸食されているからに他ならない。グノーシス主義は秩序転覆の論理であり、神による救済を人間が奪う思想であり、安倍首相の論理にも、あるいは上記のアッセンブリーズ教団の牧師の論理にも、全く同じ秩序転覆の構造が見て取れる。このような思想を信じた人々は、たとえうわべは神を信じているようであっても、決して神に従おうとはしない。むろん、聖書の言葉をも守らない。神を口実にしながら、自分が神を超えてどんなことでもできるかのように振る舞って、神の地位を奪い、神の代わりに救済者になろうとして、やがては賛同者もろともに破滅していく。

グノーシス主義思想には初代教会の頃からの特徴があって、疫病のように一時、大流行するが、長くは続かない。この種の思想を深く信じた人々は、もはや常識や法律や道徳や、自分を縛っている既存のすべての制約を否定して覆し、自分は何にもとらわれることない存在であると自負して、人々の上に君臨し、己の欲望の完全な解放を目指していく特徴があり、彼らは最終的には、自分自身という制約からも解放されるために自己そのものを破壊してしまう。

昔のグノーシス主義者の多くは、肉体からの魂の解放を究極の目的として自殺して行った。彼らにとってその死は破滅ではなくむしろ解放に見えていた。同じことが、天皇という「現人神」を信じて「玉砕」した人々にもあてはまり、彼らはその死を必ずしも破滅とはとらえておらず、神と合一するのだと信じて死んで行ったのである。

このように、自分を縛っている道徳や良心、規則や判決を全て否定して、自分自身が罪人であることを否定して、神のようになれると信じて全能の神の地位を奪うことは、解放や救いという名目で、まことに恐ろしい破滅的結果しか人にもたらさない。

原罪を否定することは、人が己を神とすることと等しく、結局、そのような方法で自分を救おうとした人々は、破滅にしか行き着かないのである。

だから、よく考えてみたいものだ。人は本能的に己の罪を指摘されるのを嫌がるものであり、したがって、人間の罪や過ちをあからさまに指摘することは、とても失礼な行為に思われるかもしれない。だが、本当に罪を犯したのなら、どんなに嫌でも認めねばならず、罪など犯さなかったかのように振る舞うことは、人を欺く行為である。

敗戦という歴史を負うことには、日本人にとって確かに屈辱や苦しさも伴うかも知れない。だが、その痛み苦しみを通して、確かに得たものがあるならば、掟を学んだことは幸いであり、恥じるべきことはないと言える。従って、失敗を通して貴重な教訓を得たのだから、何も学ばなかった以前の時代を無垢なものと考え、そこに逆戻りすることを願う必要などない。歴史が恥となるのは、失敗を犯したからではない。失敗に学ばなかったからこそ初めてその歴史が恥となるのだ。

だから、痛みを通して得た教訓を手放してはならない。間違いを犯したという良心の痛みを忘れてはならない。その痛みを否定しないからこそ、私たちは自由であれるのだ。何一つ失敗することのなかった無垢な時代が良かったと思わせる誘惑とはきっぱり手を切り、痛みを通して得た教訓を大事にしたいと思う。自分はすでに罰せられ、裁きも受け切ったので、今は救いを得て平安であり、罪赦されているので、責められる理由はもうなく、争いや憎しみ合い、殺し合いから永久に解放されているのだという立場に立って、喜びだけでなく痛みも悲しみも含めて、自分の歩んで来た歴史の全てに誇りを持って生きるべきではないかと思う。

これが日本国憲法に立つということだ。憲法は戦争の惨禍からの自由を与えてくれているが、それは全て過去の苦い教訓を受け入れ、反省したからこそ手に入った価値ある自由である。もし教訓を捨てるなら、自由も失われるであろう。私たちを縛っているように見えるあらゆる規則を否定することによって自由が得られるかのような幻想に欺かれてはならない。良心に基づいて、良心の要求する基準を満たし、その制約を守ることにより、私たちは安全でいられる。真理が私たちを自由にすると同様、たとえこの世の法であっても、良い法もそれを守ることにより私たちを自由にしてくれるのである。

だから、私は過越の中にとどまりたい。 ほふられた子羊の血を鴨居に塗った者には、悪魔も手を触れることはできなかった。神の救いを拒んで己を義としたエジプト人たちだけが犠牲になった。
私はすでに裁かれたゆえに自由となったと認めるのと、私には裁かれる理由など何もなく、あれは不当な判決でしかなかったので撤回せよと主張するのとでは、今後、完全に道が別れるだろう。

たとえ政府が無理やり復古主義者の野望を叶える方向へ進んで行ったとしても、それでも、我々一人ひとりに与えられた自主的な選択の余地が全てなくなることはない。再び戦争を起こすという暴挙の責任を負い、裁きを受けるべきは、これに加担した人々であって、反対した人々ではない。

ですから、どちらの道を選ぶのか、今、個人的に判断すべきではないだろうか。己の罪を認めることを頑なに拒み、この世のあらゆる制限を取り払ってでも、自分を義としようとして、裁きを否定して進んで行くのか。そういう人々がその行為の結果、どういう末路を辿るのか、私は見ている。日の下に新しいことは何もない、と聖書は言うので、これらの人々も、歴史のおびただしい例にならって、必ず最後には破滅して終わるのではないかと予想される。それがグノーシス主義者の道だからだ。

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一事不再理の原則(1) ~東京裁判の否定―日本のグノーシス主義的原初回帰~

彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」
(ヨハネ3:18)

一事不再理の原則、これはキリスト者なら誰でも信仰的な意味でよく知っていることだろう。

信仰者は、キリストが我々と共に十字架において罰せられ、その身代わりの裁きが、自分のための裁きであったことを信じるときに、罪を赦され、裁きから解放される。

救いは一度限り永遠で、キリストの受けた裁きを自分のものとして受け取るならば、信者は二度と裁かれることはない。判決はすでに下った。その事実を信じて受け取るか、受け取らないか、それによって個人の命運が永遠に至るまでも分かれる。

自分が罪を犯したことを認め、裁きに値することを受け入れるのには勇気が要るが、 一度裁かれた者は、二度と裁かれることはない。

一事不再理、司法の原則と同じことが信仰にもあてはまる。

しかし、信じない者には、これは当てはまらない。キリストの裁きを自分のものとして受け入れないなら、その者はこれから裁きを受けなければならない。

「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、 」 (ヘブル9:27)



 同様のことを、私は日本の敗戦や、東京裁判についても考えてみる。

日本は第二次世界大戦に負けて無条件降伏し、連合国の設置した極東国際軍事裁判(東京裁判)では、戦争を引き起こした日本の指導者らが有罪の宣告を受けた。

ウィキペディア「極東国際軍事裁判」の冒頭より引用。

「この裁判は連合国によって東京に設置された極東国際軍事法廷により、東條英機元首相を始めとする、日本の指導者28名を、「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」した[1]「侵略戦争」を起こす「共同謀議を「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて[1]行ったとして、平和に対する罪(A級犯罪)、人道に対する罪(C級犯罪)および通常の戦争犯罪(B級犯罪)の容疑で裁いたものである。

「平和に対する罪」で有罪になった被告は23名、通常の戦争犯罪行為で有罪になった被告は7名、人道に対する罪で起訴された被告はいない。裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。

日本政府及び国会は1952年(昭和27年)に発効した日本国との平和条約第11条によりこのthe judgments[2]を受諾し、異議を申し立てる立場にないという見解を示している[3]


このように、日本政府の公式見解が、東京裁判の判決に異議を申し立てないものであることは、上記注[3」のリンクにある通り、外務省のホームページに記されている。

(後日追記:注) 極東軍事裁判に関するこの日本政府の見解を示す外務省ホームページは、2015年8月14日、安倍談話の発表直前に削除された。朝日新聞の記事等を参照。)

問7.極東国際軍事裁判に対して、日本政府はどのように考えていますか。

  1. 極東国際軍事裁判(東京裁判)は、戦後、連合国が日本人の重大戦争犯罪人を裁くために設置された裁判で、28名が平和に対する罪や人道に対する罪等により起訴され、病死または免訴となった者以外の25名が有罪判決を受けたものです。
  2. この裁判については様々な議論があることは承知していますが、我が国は、サンフランシスコ平和条約第11条により、極東国際軍事裁判所の裁判を受諾しており、国と国との関係において、この裁判について異議を述べる立場にはないと考えています。

(参考)サンフランシスコ平和条約第11条

 「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法 廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の 決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、 行使することができない。」


日本政府は、東京裁判の判決を公式に正当なものとして受け入れ、その路線に沿って、約70年近く戦後処理を行なってきた。にも関わらず、ある人々は、まるで歴史をひっくり返そうとするかのように、東京裁判はアメリカから押しつけられた不当な裁判であるため、その判決は受け入れられないと言う。

このような議論は今に始まったものでないが、昨今、再びその論調が高まってきているように感じられる。それはどうにも、東京裁判で下された日本の戦争遂行者に対する有罪判決は、不当な恥辱を我が国に負わせるものであり、これからの日本の穢れなき面目を保つためには、何としても払拭しておかねばならないと考える人たちが、公然と現れて来たためであるように見える。

なぜそんな主張が、今更のように起きているのであろうか。それはもしかすると、日本に新たな戦争を起こしたい人々が、その遂行に大義を与えるために、再び国家主義を復活させる目的で、歴史を改ざんしようとしている可能性がある。

日本政府がかつて起こした戦争が悪とみなされればみなされるほど、これからも、日本の戦争遂行に大義を与えることは非常に困難となる。そこで、戦争遂行したい勢力から見ると、敗戦の事実そのものが認めがたい恥辱であり、敗戦に伴い、かつての政府要人が有罪判決を受けた事実などは、可能な限り速やかに消し去ってしまいたい目の上のタンコブのように見えていたとしてもおかしくない。



しかしながら、それよりももっと深い問題として、私はここにグノーシス主義思想の存在を感じないことはできないのだ。

それは、これからも追って書いて行くように、このような歴史修正主義的な考えの中には、原初回帰と、権威に対する反逆の霊の存在があることを感じずにいられないからだ。

もっとはっきり言うならば、そうした考えの中には、己を罪に定めた権威者に対する恨みと、その権威者によって下された有罪判決を覆すことにより、その権威者に対して復讐を果たし、罪に定められる前の潔白な自分を取り戻したいという願望があるように見える。

だが、このようにして、歴史を逆行してでも、一旦自分に下された有罪判決を覆し、罪に定められる前の穢れない自分の状態を取り戻そうという願望こそ、あらゆるグノーシス主義に特徴的な考えなのである。

つまりは、原初回帰、である。グノーシス主義思想は、人類が神に対して罪を犯して原罪を負ったという事実を認めず、人が神との関係を覆し、己が神となることにより、自力で堕落以前の状態に回帰し、あらゆる問題を解決してユートピアに至るという、決して叶うことのない到達目標を掲げている。
 
上記の政治的な主張においても、これと同様の構図が見られるのである。ここでは、日本を罪に定めた者とはアメリカを始めとする連合国であるから、連合国によって押し付けられた東京裁判の判決や、”押し付け”られた憲法”を廃することにより、敗戦国としての屈辱と制約から抜け出し、「強者」である連合国との関係を覆し、「弱者」のくびきから抜け出し、雪辱を果たしたいという考えがあるように見受けられる。
 
何よりも、その根底にあるのは、自分が有罪であるとは認めがたい、有罪判決を受けることが耐えられないという思いである。自分は罪人などではないから、己に下された罪の判決という不当な恥辱から何としても抜け出し、汚名を返上し、罪を犯す前の無傷で潔白な自己を取り戻したいという願望があるように見える。

すなわち、戦争犯罪という「前科」で汚れた歴史を払拭し、「今まで一度も罪を犯したことのない」、「潔白で」、「穢れのない」、「真っ白な日本史」を取り戻したい 、そのために敗戦という事実は、戦勝国によって不当に押しつけられた屈辱の歴史として排除し、あれは正義の戦争だったということにして過去を正当化し、自分のルーツである歴史を浄化したいというわけだ。

戦争犯罪という罪を負わされる以前の、穢れない潔白な日本のイメージへ回帰したいという願望」、 それが、「日本を取り戻す」という、一般人には半ば意味不明な自民党の短いスローガンに如実に表れているのではないか。つまり、取り戻したいのは、敗戦に至る前の、戦前の日本なのである。

戦争犯罪人を祖父に持つ現在の首相にとって、もしかしたら、それは単に日本史のルーツを浄化することだけでなく、自分自身のルーツを浄化することにも重なり、よって人生をかけた悲願なのかも知れない。そのような首相を代表にいただく日本全体が、今やその病的な復古の流れに巻き込まれつつあるのではないか。

だが、もっと深い意味でとらえるならば、これは首相自身のルーツや、日本のルーツというレベルだけでなく、まさにグノーシス主義の思想が引き起こしている現象であり、人類のルーツそのものへ通じる問題であると言える。この問題は、人類が己の罪の問題に対してどのような態度をとるかという普遍的な問いに通じているのである。

己を罪に定めた強者との関係を覆すことにより、己に下された有罪判決を退け、強者に復讐を果たし、罪によって堕落する以前の自己へ回帰しようという願望は、あらゆる形態のグノーシス主義思想の土台である。己の罪から目を背け、堕落する以前の状態に自力で逆戻りしようとする試みこそ、生まれながらの人間の神に対する根本的な反逆精神を表すものであり、あらゆる異端思想の土台をなすからである。

グノーシス主義思想の根底には、神が人に対して下した有罪判決を、人自身の力によって覆したいという願望がある。そこで、このような思想に立つと、人が己に下された有罪判決を退けるためには、必然的に、その判決は不当だったと主張せざるを得ない。さらに、ただ判決が不当だっただけでなく、その不当判決を下した神も、不当な神(悪神)だったということになる。こうして、神を悪者にして神に反逆するということが、グノーシス主義思想には必要不可欠になる。

 このような原罪の否定と原初回帰の願望というグノーシス主義的な願望は、歴史を振り返ると、何も安倍首相の歴史修正主義に限らず、共産主義を含め、あらゆるユートピア主義者たちの理論に、再三に渡り、登場してきたものであった。

だが、聖書によれば、堕落した人類が、歴史を逆行して罪を犯す以前の状態へ回帰することなど不可能である。

だからこそ、キリストの十字架があるのだ。人が罪から贖われるためには、神による救済を通らなければならない。人自身による自己救済の道は存在しない。 罪なき神の子イエスが十字架において罪人として自分の身代わりに罰せられた刑罰を、人が自分自身の刑罰として受け取るからこそ、キリスト者は再び裁かれないで済むのである。だがもし、自分を罪人でないと主張して、十字架における裁きを退け、神が人類に下した有罪宣告を退けるならば、それは神の判決を否定することを意味し、神の救いが適用される余地はその人にはもうない。だから、キリストの血による贖いを受けることはできず、自分で裁きを受けて、自分で弁明しなくてはならなくなる。だが、どんなことをしても、人が自分の罪を否定することはできないので、その裁きは人にとって大変恐ろしいものとなるだろう。

人類史そのものが、振り返れば、人の拭い去ることのできない罪の絶え間ない証明であると言える。時と共に人類の残酷さはますますエスカレートしており、時計の針を戻すことはできない。仮に百歩譲って、昔の人類が今ほどまでには悪くなかったという説に立ったとしても、どうやって、これほどの悪しき歴史をすべて拭い去って、歴史に逆行して、人類を無罪として名誉挽回することなどできようか。

にも関わらず、己のうちに罪を認めない態度は、あからさまな歴史的事実をさえ否定して、人類の無謬性を主張しようとする恐ろしいイデオロギー思想を歴史上、幾度も生み出して来た。

この人間の無謬性という考え、すなわち、人のうちに罪を全く認めないという考え方以上に、忌まわしく、恐ろしく、罪深い考え方はない。なぜなら、それは人が自分を神とすることに等しいからである。



かつて日本の政治指導者たちは愚かにも自己の無謬性を信じ、国民もまた愚かにもそれを信じで滅びへ突入して行った。

「神国日本」などと言って、自国を神聖なものに祭り上げ、戦争に負けるはずがないと確信していた。

多くの日本人が死ねば神になれると言い聞かされて、死んで神になって靖国に祭られることを望んで戦死して行った。

その結果、何が起こったのだろう?
負けるはずのない「神国」が負けたのだ。

神国のはずが、信じていた神に裏切られ、彼らの神は国を救わなかった。希望通り、靖国に祭られたのは、戦死者のうちごくわずかであり、おびただしい数の戦死者は、未だどこで朽ち果てたのかさえ分からないまま、その遺骨は大陸に埋れている。あるいは運よく見つかって帰還しても、身元も分からず引き取り手もないまま、埋葬さえされずに今日を迎えている。

今、立ち止まって考えてみなければならない。我々は日本国民として、かつて戦争であれほど苦い経験を味わったにも関わらず、自分に下された有罪判決を再び退けて、まるで一度の罪も犯さなかったかのように、過去に学ぶことなく以前の「清潔な歴史」に戻ることを主張して、再び愚かな戦争に突入していきたいのであろうか。

これは私たちが敗戦国としての日本に下された有罪判決とどう向き合うのかという問題に直結しているが、もっと深いところでは、私たちが己の内深くに巣食う罪や悪の問題に、どう向き合うのかという問いに直結する

皮肉なことである。人を罪に定めるという行為は、一見、失礼な行為にも見える。あなたは罪人だと言われて気分が良い人はいないだろう。だが、振り返ってみて、本当に自分は罪人ではないと主張できるほど、我々は潔白なのだろうか。「私たちは罪人ではなく、罪を犯したこともない」という主張は、一見、人にとって耳障りよく、プライドをくすぐるだろう。しかし、その耳障りの良さとは裏腹に、そのような自己反省の欠如した傲慢な思想は、大変に恐ろしい無責任状態へと人々を駆り立てていきかねないのだ。

東京裁判で戦争犯罪人が裁かれたとき、いわばこの国全体が裁かれたのだと言える。たとえ生まれていなかったとしても、我々も一緒に裁かれたのだ。勝てるはずもない愚かな戦いに無謀に挑み、負けるべくして負けた事実を認めるのには確かに苦痛が伴うかも知れない。だが、一度、その判決を受けてしまえば、二度と裁かれることはない。

だから、どちらを選ぶことが得策だろうか。己の罪を認めて一度限り判決に服することか、それとも、罪を拒み続けて以前よりももっと悪い過ちを犯し、もっと重い裁きを受けることか。

自国が罪を犯したことを認め、その有罪判決を受け入れ、戦争を永久に放棄したがゆえに、世界において、日本はこれまで平和の使者として尊敬を集め、平和に活動することが出来た。その信頼と実績を、今全て放棄し、罪など一度も犯したことがなかったかのように主張して、もう一度、裁きを受けたいというのだろうか。

ラスコーリニコフは社会正義のために殺人を犯し、その殺人を正当なものであったかのように見せかけようとするが、ついには己の罪を認めて、流刑へと出発せざるを得なくなった。

正義の殺人などというものは存在しない。日本国憲法も同じように、正義の戦争は存在しないと主張している。勝っても負けても、戦争はいずれにせよ悪である、その理念に立ってこそ、戦争そのものを永久に放棄したのである。

ただ敗戦国であったから、権利を制限された状態で、やむなく戦争を放棄せざるを得なかったという消極的な決断ではなく、勝ち負けという概念をはるかに超えて、人間の冒すべからざる尊厳を擁護する側に立って、戦争とはどんな場合であっても人間性を脅かし破壊する悪であるとみなして、これを永久に放棄したのである

その決断を下すに至るまでに、あれほどおびただしい数の民の犠牲がなくてはならなかったのである。それにも関わらず、その犠牲さえ無視して、今また己の無罪を主張して、過去と同じ暴挙へ進んでいくのでは、何のための犠牲であり、何のための歴史なのか。我が国は過去から一体、何を学んだことになるのだろうか。仮にそんなことを望む人たちがいたとしても、そんなにまでも学習のない愚かな人間として私は生きたくない。

だから、裁きを受け入れるかどうかは自己責任だ。再び裁かれるのは、罪を認めず、裁きを受け入れなかった人たちだけにしてもらいたい。