忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。死人を葬るのは死人に任せなさい

「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」(マルコ12:27)

仏教の寺院では、一人の信者の葬儀が予約されれば、それは寺にとって非常に大きなビジネスチャンスとなる。それは、葬儀だけでなく、その故人のために何年間も行なわれる法事のすべてがその寺に依頼される可能性が高いからである。

残念ながら、そういう事象は仏教の寺だけに限ったことではない。今日、キリスト教界の多くの教会も、単なる冠婚葬祭ビジネスのための場所と化している現状がある。

苫小牧福音教会水草牧師が「非キリスト者の葬に教会が携わることについて」(9月26日)という題名の記事をブログに書いており、そこで同氏は、キリスト教会が非キリスト教徒の葬儀を行うことを肯定して、次のように記している。

 ある人たちは、キリスト教会が非キリスト者の葬にかかわることは世との妥協であると考え、それについて否定的でしょう。悔い改めてキリストを信じた者のみが、キリストにあって神の前における罪のゆるしと永遠のいのちに与るのであるから、キリスト教会が非キリスト者の葬儀に携わることはありえない、と考えるのであろうと思います。しかし、これはほんとうに聖書に教えられていることでしょうか。(以下略)」



こうして、同牧師は、非キリスト教徒の葬儀を教会が執り行うことにあたかも聖書的根拠があるかのように、巧みに聖書を引用して説明を試みている。しかしながら、この考えは筆者から見て、まことにいただけないものである。ただ「いただけない」などというだけではない。聖書的な根拠に完全に反している。同牧師の記事では、非キリスト教徒の葬儀について、クリスチャンが真っ先に挙げるはずの次の聖書的根拠は全く触れられていない。

クリスチャンが、教会と葬儀の関係に関して言及するときに、真っ先に思い起こすのは、主イエスが述べられた次の御言葉であろう。

「イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」

 しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」


 すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。
 
 別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」

 するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9:59-62)


筆者がキリスト教界に深刻な疑念を持つに至った事件の一つに、筆者の不信者の親族が、ある牧師によって、キリスト教徒にでっちあげられて葬儀が執り行われたという出来事があった。

その故人は、筆者自身とはつながりのない義理の関係にあったが、高齢でふとしたことから町医者にかかり、肺炎と診断されて入院したのを機に、深刻かつ手遅れな病気が発覚し、約二週間という短さで亡くなったのであった。

その人の病気が治癒不可能であることが判明した際、無神論者であったこの人を、親族は当然ながら神の救いへ導くために、説得に当たった。クリスチャンとして、人間の罪や、神の救い、天国についてなど語ったのであるが、死の床においても、その人は半ば嘲笑気味に「神などいるはずがない」という信念を繰り返すばかりで、救いに導かれることなく、まことの神への信仰を否定して亡くなった。

その当時、我が親族はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師の義理の父である津村昭二郎牧師の牧会する教会に通っていたため、親族が故人の葬儀をこの牧師に依頼したのであった。

ところが、その後、全く受け入れがたい事件が起きた。まず、故人は、生前、神を信じないことから、教会に通うことを非常に嫌がっていたので、教会の信者に知り合いもほとんどなく、健康であった頃にも、親族の説得によって半ば無理やりに教会のイベントに参加させられたことが、一、二度くらいあったきりである。交流らしき交流はほとんどなく、故人は信者の名前さえ、憶えていなかったと思われる。

ところが、葬儀になるや否や、教会の古参信徒たちがたくさん動員されて来て、盛んに故人との「親しい交わり」について語ったのである。いかに故人が、柔和で、親切で、皆に気を遣う、優しく穏やかな性格であったか、いかに教会員がこの故人との交わりのおかげで、色々な感謝に満ちたひとときに浴したか・・・

筆者はこの甘く麗しい砂糖菓子のような「創作物語」を聞いて愕然とした。筆者が覚えている限り、故人は、家人の強引な誘いを断り切れず、嫌々教会に連れられて行ったことがほんの数えるほどあっただけであったので、交わりを喜ぶ気持ちなど皆無であり、信者でもなかったのに、そんな「麗しい交わり」が生じ得たはずがなかった。

さらに、あろうことか、牧師までがこのようなことを証した。

「我々が夫婦で病院を尋ねたとき、死の床で彼女は『イエス様、イエス様』と神にすがっており、我々はその必死の信仰に心打たれました」と。

筆者が知っている限り、そのようなこともまたあり得ない「創作物語」だった。故人は死の床についてから、急速に容体が悪化し、牧師夫妻が見舞いに訪れた際には、もうすでに話すことも出来なくなっていたはずである。

筆者は彼らの見舞いには立ち会わなかったが、夜になると病院に行って、故人の最後の時を見守った。しかしながら、その最後の時に、故人の口からかろうじて聞けた言葉は、「はよう、はよう・・・」という言葉だけであった。

「はよう(早う)・・・」とは、岡山弁で「早く」を意味し、筆者が理解するに、「早く逝かせてくれ」という意味である。ただ早くひと思いに自分の命を取って、この苦しみを終わらせてくれ、という懇願の意味であり、苦しみから脱すること以外に、この人の願いはなかったのである。

むろん、神について、主イエスについて、一言も証の言葉はなかった。上記の懇願は、どちらかと言えば、「死にたい」という願望を意味し、神の救いにすがる言葉ではなかった。健康であった時分にも、筆者はこの人の口から「イエス様」などという言葉を聞いたことは、一度たりともない。

にも関わらず、牧師夫妻は、家人の立ち合いもない時に、病院に見舞いに訪れ、それまで誰も耳にしたことのなかった言葉を故人から聞いたとし、それを境に、故人は「クリスチャン」にでっちあげられてしまったのであった。

その後、教会では信者同様に葬儀が挙げられ、教会員でもなかったこの故人に果たして信仰があったのかという点については誰もが沈黙したまま、この出来事は忘れられた。

しかし、筆者にはこのような出来事は全く腑に落ちず、耐えられない欺瞞のようにしか感じられなかったので、その後一度だけ、牧師にこの出来事について問うたことがある。

葬儀からはまだ5年とは経っていなかったものと思うが、筆者は平日の夕方に教会の牧師館を訪ねた。来客中であったのか、牧師は迷惑そうな様子であったが、それでも筆者の問いに応じた。

筆者は尋ねた、教会員でもなく、クリスチャンとしての信仰告白を人前で一度も明らかに行っていない人間を、死の床についてから、信者に仕立て上げ、あたかも信者であるかのように葬ることは、聖書に反しているのではないですかと。

もしそのようなことが許されるなら、それは、セカンド・チャンス論と同じように、人は生きているうちにしか主イエス・キリストを信じて救われるチャンスはないからこそ、クリスチャンが世人にキリストの福音を宣べ伝える意味があるという教会の伝道の根幹を否定するに等しいのではないですか。もしクリスチャンとノン・クリスチャンの境界があいまいにされるなら、そもそも、信者の集まりとしての教会の意味すらもなくなってしまいますと。

牧師は、筆者の前ですべての答えを曖昧にしたまま、ただこう言うだけであった。
「神はすべての人が救われることを願っておられると私は思いますよ・・・」

それ以上、問うても無駄だとはっきり分かる答えであった。

以上の出来事は、今からはるか昔のことであるが、筆者が水草牧師の記事を読んで感じられるのは、津村牧師と全く同じ見解である。

「誰であっても、その人の命は、もとを辿れば神から生まれたのであって、その意味では、たとえキリスト教信仰がなくても、キリスト教のまことの神は、みんなの神なのです。人は誰でも死んでまことの神のさばきを受けるのだから、その意味でも、キリスト教の神は、信仰を持たない人の神でもあるのです。その意味で、神はみんなの神なのに、教会が非キリスト教徒だけの葬儀を拒むのはおかしいでしょう・・・」

水草牧師は、一応、非クリスチャンの葬儀について、(津村牧師の見解とは異なり)、これをクリスチャンの葬儀と明確に区別すべきであって、両者を一緒くたにしてはならないと、次のように注釈をつける。
 

 もちろん、その故人はキリストにある罪の赦し、永遠のいのちを受けたわけではありませんから、そこを曖昧にしてはなりません。非キリスト者の葬儀においては、故人に地上の人生を与え導かれた神と御子キリストに感謝し、その全知の公正なさばき主の御手に、故人をゆだねるということがその趣旨となります。故人は無に帰したのではなく、得体の知れない闇に吞み込まれたのでもなく、万物の創造主にしてさばき主であるお方の御手にくだったのです。したがって、キリスト者の葬のばあいとは適切に区別しつつ、これを執り行うのが正しい道であるといえると思います。


しかしながら、筆者が以上に挙げたような自分自身の経験を通して理解するにあたっても、水草牧師が述べているような「区別」は事実上、実行不可能なのである。

聖書的な観点から、非キリスト教徒の葬儀を、キリスト教徒と明確に区別するとは、何よりも、非キリスト教徒の魂は(キリスト教徒と違って)、救われておらず、神に受け入れられておらず、永遠の命を受けていないどころか、永遠の滅びの刑罰に定められている、という事実を明言することを意味する。

むろん、クリスチャンも非クリスチャンも、死ねば両者ともに神のさばきの前に立たされるのである。しかし、そこで信仰者と非信仰者を明確に区別する決定的な違いがあることを、牧師は公然と語らねばならない。それは、非信仰者は、主イエスの罪の贖いを信じていないので、彼らは神のさばきの際に罪に問われ、永遠の滅びの刑罰を逃れる術はない、ということである。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)

「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」(Ⅱテサロニケ1:8-9)

「非キリスト教徒も、死んで、裁き主である神の御手に自分を委ねた」、と言うことはできるであろう。しかし、非キリスト教徒は、主イエス・キリストの贖いの血潮を信じていないので、その人の魂は罪の贖いを知らず、その結果、彼を待っているのは、永遠の滅びの刑罰だけである。

たとえ故人が善良な人間で、生前に罪と言える罪を犯した形跡が全くなかったとしても、この世における罪の概念と、聖書の罪の概念は異なる。聖書の言う罪は、まことの神を認めず、信じず、これを受け入れず、自分が神を知らなかった間に、神に対して罪を犯した事実を認めないことである。

しかし、おそらく、もしも牧師がそのような言葉を、非キリスト教徒の葬儀の場で発言すれば、それは故人およびその遺族の尊厳をいたく傷つける発言として響くであろう。非キリスト教徒の魂はクリスチャンと違って救われておらず、神のさばきの際に罪に問われ、永遠の刑罰に定められる、という事実を、葬儀の場で誰が公に発言することができるであろうか。それは列席者の感情を害し、礼節にも反する発言のようにしか受け止められないであろう。

だから、水草牧師の言うような、(非キリスト教徒の葬儀を)「キリスト者の葬のばあいとは適切に区別しつつ、これを執り行う」ということは、事実上、不可能なのである。儀式上、クリスチャンと何らかの区別をもうけることは可能であろうが、以上に記したような聖書的な明確な立場の区別、特に非信者に対する永遠の罪定めと滅びの刑罰について、はっきりと公言することは極めて困難であろう。

最も取り扱いが難しいのは遺族の感情である。故人が非クリスチャンであっても、遺族がクリスチャンであった場合、遺族は故人の救いを願うあまり、故人が神を信じず死んだという事実を認めがたい場合もあろうし、遺族だけではなく、故人を取り巻く知人らも、教会に葬儀を依頼するくらいだから、故人の信仰の有無に関して明確な区別をつけることを嫌うかも知れない。そこで、非クリスチャンの葬儀を引き受ければ、教会も牧師も、遺族や列席者の感情に引きずられて、死者の信仰的立場について正しく言及することは難しくなる。

そのようなことの結果、教会は一旦、非キリスト教徒の葬儀を引き受けたが最後、とことん、世の不信者の利益の代弁者として、世の思惑の中に引きずり込まれて行くのは必至であると筆者は確信する。クリスチャンと非クリスチャンの区別は曖昧化され、ついに最後には、教会は、非信者に調子を合わせて、こう言うのであろう、「たとえ非クリスチャンのまま亡くなっても、その人も神に受け入れられており、天国に入る。たとえ自殺者であっても、天国に入る。罪の贖いもなければ、地獄の刑罰もない。そういう区別を唱えるのは、一部のクリスチャンの驕りだ」と。

だから、「ある人たちは、キリスト教会が非キリスト者の葬にかかわることは世との妥協であると考え、それについて否定的」という見解が存在するのはもっともなことである。筆者の目から見ても、教会は非キリスト教徒の葬儀に関わるべきではなく、それに関われば、教会は必ずや、この世との境界線を見失って、この世の側に引き込まれて行くのは避けられない。
 
しかしながら、教会に関して言えば、事態はもう手遅れである。なぜなら、こうした問題は、地上の組織や団体としての教会の世俗化という、巨大な氷山のほんの一角として浮かび上がって来たに過ぎないからだ。

教会は、片方では「兄弟姉妹の交わり」などを強調して、世と自分たちの区別をしきりに主張し、あたかも自分たちは聖なる存在であって、世人よりも圧倒的に優位にあるかのように主張する。ところが、もう一方では、非信者の葬儀を執り行ったり、自殺者も天国へ行けるなどと主張して、積極的にこの世との境界線を曖昧にして行こうとしている。これは大した矛盾である。

そのような問題が持ち上がるのは、この地上の組織や団体としての教会が、キリストの花嫁としてのエクレシアの本質からはあまりにも遠くかけ離れ、単に神を口実にしてて自己の優位性を主張するだけの場になり果てており、あるいは、地上の冠婚葬祭ビジネスの場と化しているためである。

だが、もしも信者が本当のエクレシアとは何なのかを模索するならば、すでに引用した御言葉に見るように、主イエスは、ご自分に従って来る者が、まずは自分の父を葬らせてくれと言ったその要望さえも、断られたことを思い出す必要がある。

死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。

主イエスのこの言葉は、世人から見れば、あまりにも無慈悲なものに受け取られる可能性があろう。何しろ、神の国を告げ知らせることは、信者が自分の父を葬ることよりも、優先されるべき事項だというのである。それはただ厳しいだけではなく、世人には侮辱と受け取られる可能性すらある。なぜなら、ここでイエスは、死者だけでなく、生きている世人をも「死人」と呼んでいるからである。

つまり、主イエスは、神を知らず、神の命によって生かされていない人々は、この世ではたとえ生きているように見えても、神の目に「死人」であり、信者は「死人」の利益や思惑に頓着して、「死人」の利益に巻き込まれるべきではない、と言われたのである。

救われた者、贖われた者、神のまことの命によって生かされた者は、神を受け入れず、神の命によって生かされてもいない「死人」の要望に従って、死人の利益や尊厳を擁護するために生きるのではなく、神の利益のために仕え、神の国の権益を拡大するために、神の国を宣べ伝えなさい、と示されたのである。

従って、この聖書の記述からも、水草牧師が以上で述べているような内容が、いかに御言葉に反しているかがよく分かる。

水草牧師は言う、「聖書によれば、非キリスト者も、父なる神とキリストからいのちを受けてその地上の生涯を送り、死後はキリストのさばきを受けるのです。だとすれば、非キリスト者の葬にもキリスト教会がかかわるのは、当然ありうることであって、否定すべき筋のことではないでしょう。

しかしながら、人はただアダムの命を与えられてこの世に生まれた、というだけでは、神の目に生きていることにはならないのである。神の目に生きていない人々は、キリストの御身体なる教会とは無縁であり、神のまことの命によって生かされる人々の霊的共同体であるエクレシアの仲間ではない。

従って、たとえ世人からどんなに厳しいと不評をこうむったとしても、筆者がこの問題について言えるのは、次の結論だけである。

「教会は、目に見える世の利益のためではなく、目に見えない神の国の権益のために存在しています。神の御前に生きているのは、神を受け入れていない信仰を持たない人たちではなく、神を受け入れて、贖われた人たちです。だから、死者(不信者)を葬ることは死者(不信者)に任せておきなさい。贖われた者たちは、何よりも、神の国のために、神の目に生きている者のために働くべきです。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だからです。」

PR

キリスト教界からエクソダスした人々~沖縄リバイバルチャーチの詐欺事件~



 ちなみに、「被害者救済ビジネス利権」が存在するのは、何もキリスト教界に限った話ではない。見渡せば、3.11以降の被災地の復興や、戦後補償も含め、実に様々な社会問題について同じ構造が横たわっていることが分かる。「被害者救済利権」というものがれっきとしたビジネスチャンスとして存在しているという認識に立たなければ、私たちは目の前で何が起きているのか、どんな風に被害者が食い物にされているか、永久に理解できないだろう。

 こうした利権を漁る人々は、大きな被害が発生した時、あたかも被害者に同情し、寄り添うふりをしながら、災害に便乗し、危機感を煽るようにして登場して来る。彼らは「問題の大きさから社会が目を背けないよう警告し、再発を防止し、被害者に手を差し伸べる」というもっともらしい題目を並べて、あたかも人々を思いやる救済者のように登場する。

 だが、実際には、こうした問題をビジネスチャンスや出世の手段に変えて行くことが彼らの真の目的なので、彼らは人々を自分に依存させることはしても、決して解放することはない。むしろ、救済や手助けという口実がなくなると、己の利権の拡大をはかることができないので、人々の問題が本当に解決されてしまうと彼らはかえって困るのである。また、問題が大きければ大きいほど、悲惨であればあるほど、世間の注目を集めやすいので彼らにとっては好都合である。いわば、人の不幸を食い扶持にし、職業にしている連中である。
 
 こうして、人々の受けた何らかの被害や、被害の恐れというものを巧みに利用して、危機感を煽ることで自らの利権を得ようとする人々が存在する。実のところ、それはキリスト教界のカルト化然り、集団的自衛権然り、放射能による被害についても然りである。こうした問題すべてについて、それを「利権」に変えようとする人々が同じように群がっている構図がある。

 彼らの真の目的は何なのか、それを明確に見抜き、拒否しない限り、被害者は何度でも容易に利用されてしまう。だから、これを避ける秘訣は一つ、自立することであると私は考えている。どんなに巨大な問題を抱えているように見えたとしても、キリストにあって自立すること、よもや指導者や救済者を名乗り出る人々に頼らないことである・・・。

 これは個人であれ、国単位であれ、原則は同じである。自分のすべての弱みと不足を主が解決してくださるという信仰の立場に立つことによって、人は容易に利用される弱点を排除することができ、また、誰にも依存せずに自由でいられる。それはただキリストご自身だけが成し遂げることのできる救いである。

 さて、話が脱線したので戻りたい。

 最初のブログを書いている頃に、幾度か沖縄の教会問題に触れた。私は裁判によって問題を解決できるという立場には立っていないが、いかに詐欺的な指導者が正しい信徒に濡れ衣を着せて教会から追放するかという点では、どこの教会も話が全くそっくりであることに驚く。

 以下は上江洌尚子さんのブログからの引用である。(なお、改行等の見かけは変更させていただいた。不思議なことに、上江洌氏のブログも突然、削除の憂き目に遭った模様である。)

沖縄リバイバルチャーチ 被害体験ブログ
2012年8月30日木曜日
消えたブログから・・

私は被害体験を公表するブログを2007年より始めていました。

カルト教会沖縄リバイバルチャーチの実態を詳細に五年間書き続けてきた私のブログが、昨年突然、何の前ぶれも無く消されてしまいました。

今回からときおり昨年消された私の過去ブログを一つ一つ、掘り起こしふたたび公表して行きます。

今回はその第一弾として、2009年4月26日に掲載した「一憶円詐欺事件の食い違い発言!」記事を掲載します。


***************

削除された過去ブログの再現 第一弾として

一憶円詐欺事件・新聞記事と決定的に食い違う儀間盛夫の言動

1997年3月~1998年1月までの間に、儀間盛夫牧師は長一夫詐欺グループに一憶二百万円をだまし取られたと新聞に掲載されています。実際に被害額はもっと高額であるはずだが隠蔽されている。

裁判資料「甲C大3号証の2」沖縄タイムス2004年7月16日(金)の記事によると、1997年4月第一回目 三千万円の金銭授受があったと書かれています。

その後、1998年1月までの9ヶ月の間に7回に分けて七千二百万円を長一夫グループに儀間は現金を渡したとされています。

新聞には合計8回の金銭授受が行われ一億二百万円を詐欺グループに渡したとある。
※最後の金銭授受は1998年1月と新聞には書かれている。

沖縄リバイバルチャーチ主任牧師儀間盛夫は金銭授受は1998年1月が最後だと刑事事件裁判の中で証言したのです。

しかし儀間盛夫は新聞記事に書かれている最後の金銭授受とされる1998年1月から、更に5か月たった、同年6月22日(月)沖縄リバイバル教会において新聞記事と全く異なる行動をとっていたのです。
それは6月22日、その日「会堂建築説明会・祈り会」と称して特別集会を開いていたのです。

あの当時何も知らない信徒に向かって、そこで初めて儀間盛夫は「会堂建築の手付金三百万円を支払います。」と私達信徒に向かって発表したのです。

驚くことに「会堂献金を引き続き行う」といい、「新会堂建築用地2600坪の土地購入のための手付金三百万円である」と悪びれることなく嘘をついたのです。
既に一億円以上もの途方も無い多額の献金を既に騙し取れていながら、「初めての支払いをします。」とぬけぬけと言い放ったのです。

一憶円以上も払って後に支払うお金を、「手付金」というのですか?
手付金というのですから、一番最初に支払うお金のことだということは、私にもわかります。
当時何も知らない無知で未熟な私達は「いよいよ、教会堂建築が始まるんだな!!」と皆で喜びました。

※付記
土地を教会で用意できれば、長一夫が無償で教会堂を建ててあげる。要するに長一夫が会堂を献品する約束だと儀間も言っていたし、信徒の前で長一夫もそう言っていた。

私達教会員は「土地代」の「手付金」を支払うんだと信じた。
儀間牧師の発表を聞いて、いよいよ、私たちが捧げてきた献金が動くんだと身の引き締まる思いがしたことを鮮明に記憶している。
その日、1998年6月22日「会堂説明会」の中で新会堂の大きくて立派な模型も展示された。
私達教会員は皆一列に並びドキドキしながら新会堂の模型を眺めた。

又、儀間盛夫は「教会堂視察」と称してアメリカ・韓国・ハワイ旅行に頻繁に行っていた。
儀間夫婦、長一夫・勝子夫婦、事務の屋比久宏、設計士と言われる大谷も一緒だ。
彼らは韓国で撮った写真を披露し、チョー・ヨンギと写した写真を自慢げに見せていた。
それからというもの、更に会堂献金に拍車がかかった。

しかし、それから5カ月後の1998年11月、突然、緊急集会があるとして教会から招集がかかる。
その緊急集会の中で儀間盛夫は言った。

「本物のプロの詐欺師に騙された。」
「長一夫はプロの詐欺師だった。」
「会堂建築資金一憶数千万円をだまし取られすべてを失った。」
と教会員に初めて明かしたのであった。

儀間盛夫は、この詐欺事件を発表する直前の一ヶ月間、アメリカ~南米~ハワイを回る長期旅行から戻ったばかりだった。
儀間盛夫は教会員の前で「私は自殺も考えた。」
「自殺してお前の生命保険で教会に一憶円をもどせ!!と耳元で悪魔のささやきも聞こえた。」
といって、泣き崩れんばかり、憔悴しきった様子を信徒に見せていた。
ほとんどの信徒は儀間に同情的であった。

しかし、一人だけ異議を唱えた信徒がいた。
儀間盛夫はある日の木曜日祈祷会の中で突然、公然と悪びれる様子も一切無く集まった信徒に向かって言い放った。
「私は一人の信徒から攻撃を受けている。
その信徒は今まで長年神様に捧げてきた十一献金を全部返せ!!と要求してきている。その人にはサタンが入った!」といった。
教会内は騒然とした。
皆、恐怖に震えた。

牧師を攻撃した信徒が誰なのか、すぐに一人の熱心な信
徒の名前が取りざたされた。
皆、その人に距離を置いた。
誰も彼に近づかなくなり、彼と彼の家族は無視され孤立させられた。
儀間盛夫はその人と一度も話し合うことも無く、その人とのそ家族は除名処分になった。
とても酷い扱いだったことを覚えています。

あの頃の私は、何が何やらわからず混乱していた。
「何かがおかしい」と感じていた。
しかし、怖くて真相を聞けなかった。
私はひどい扱いをされた信徒も良く知っている。
しかし、聖書を語る牧師が「嘘」をつく??
これも私には考えられないのであった。

ひどい扱いを受けたSさんの元へ何度か行ってみた。
しかし、Sさんは家族同様に付き合っていた信徒達に裏切られた。結果、私の事も教会のスパイだと思い警戒したようだ。
Sさんは教会で何があったのか一切語らなかった。
私自身も切りだす勇気がなかった。

Sさんが教会から離れたのが1998年。
それから7年後、2005年Sさんと同じことが私の身の上に起こったのです。
後悔してもはじまらない、今ならSさんの痛みがわかる

先日たまたま教会で記録していたノートを調べていたら、1998年6月22日会堂建築の「手付金3百万円」が目に飛び込んできた。
2004年4月26日の新聞に書かれている記事の内容と、儀間のやっていたことが全く違う「偽証」であることがわかりました。

教会記録ノートには・・・
「1998年6月22日付けで、手付金3百万円を支払うことを儀間盛夫が語った」ことがハッキリ書かれています。
刑事事件の裁判でも儀間盛夫は堂々と嘘をつき通したのです。
結果、儀間盛夫は被害者となり長一夫は4年間服役することになるのです。
長一夫は儀間盛夫を騙し、儀間盛夫は信徒と裁判官検察官を騙し、世の中を騙し被害者になりすましたのです。
どちらが本物の詐欺師なのでしょうか??

あの当時、「長一夫は詐欺師だ」と儀間牧師に知らせた信徒がいました。
しかし、儀間盛夫は他教会から移って来た女性信徒の言葉を無視し握りつぶしたのです。
その挙句儀間盛夫はその女性信徒の事を「霊的におかしな人」だと言いふらし彼女の発言を皆が無視するように仕向けたのです。
儀間盛夫は初めから長一夫が詐欺師であることを知っていたのです。
要するに儀間盛夫は長一夫と手を組み何か(金儲け)をしようとしたが、長一夫に裏切られたというのが真相ではないでしょうか。

詐欺にあって失ったとされる一億二百万円は、未だ戻っていません。
儀間盛夫は私たちの裁判で、尋問の際「被害額の10%戻った」と証言していたが、あの証言は嘘です。
儀間盛夫は刑事事件の裁判の中では、違う金額を証言しているからです。
その証拠資料も私は持っています。
沖縄リバイバルチャーチ主任牧師・儀間盛夫という男は平気で人を騙す嘘つき牧師です。
儀間盛夫の語ったメッセージ記録ノートにハッキリと1998年6月22日「手付金3百万円」とあります。
人はだませても神様は騙せません。
いつか必ず真実は明らかになります。

 読めば読むほどに、すでに記したKFCのDr.LukeとAG信徒の騙し合いによく似ているという気がしてならない。(ただし被害額が桁外れだが。)
 まさに聖書に書かれている通り、「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。」(Ⅱテモテ3:13)という格好の事例である。

 詐欺的な指導者は、洞察力のある信徒に正体が暴露されそうになると、決まって自分は悪魔から攻撃を受けていると言って、信徒を悪魔扱いして追い払い、ちゃっかりと被害者になりすまし、信徒同士を分断する点が共通している。(指導者であるにも関わらず、「悪魔的な信徒」を見抜くこともできずに自ら招き寄せた無能さについてはどう弁明するのだろうか?)

 その際、気に入らない信徒へのレッテル貼りとして指導者が好んで使う言葉が「霊的におかしな人だ(霊が違う、サタンにやられている、etc.)」である。

 理屈では信徒の言っていることの方が正しく、まともに反論できないので、「霊的」という目に見えない話に問題をすりかえ、人々を思考停止させ、道理をうやむやにしようとするのである。その際、指導者は自分には他の人には見えない霊的な有様が見えているのだと言って、ありもしない自分の霊的洞察力を誇ったりもする。
  
 初めてこうした出来事に遭遇した信徒は恐れを抱くであろうし、自分が悪魔扱いされたり、敵対的な扱いをされれば、ショックも受けるであろう。場合によっては、呪いや破滅の宣告と共に追放されるわけであるから、素直な人であれば受ける衝撃も大きいだろう。

 だが、このような形で、牧師に逆らった信徒が悪魔扱いされて追放されるというのは、キリスト教界お決まりのパターンなので、本当は全く驚くに値しない。むしろ、そのからくりが分かってしまえば、魔女狩りの中世から今日に至るまで何ら変わらないあまりにお粗末で使い古された古典的なワンパターンな手法に思わず笑い出したくなる。悪魔にはその点で全く知恵がない、と私は思う。
 
 しかも、こうした教会は少し調べてみれば、過去に幾人も指導者の意に沿わない信徒を追放して来た負の歴史があることがすぐに分かる。粛清は常に過激化する傾向があるので、そうこうしているうちに、最後には残る人よりも、追放される人の方が多くなって、組織が機能不全をきたすことも少なくない。

 私はこうしたことはすべて牧師制度、メッセンジャー制度という、あってはならない信徒間の階級制度が生み出した必然的な結果だと考えている。上記のような笑止千万な事件も、特定の異常な教会だけに起きる例外的な事件ではなく、そもそも牧師制度が生み出す避けられない結果なのである。

 すなわち、「神のみことばを取りつぐ神の代理人」という地位は、人の立ってはならない場所であり、人の意識を狂わせてしまう。この特別な地位についた人々は、自分は他の信徒とは別格の存在であると考えるようになり、いつしか自分を現人神のように思い込んでしまう。 自分の述べた言葉はみな正しいと思うようになり、罪という概念が捻じ曲げられてしまう。

 つまり、聖書のみことばに従わないことが罪なのではなく、指導者の言葉に従わないことが罪とみなされるようになるのである。人間である指導者が神の地位を奪って、自ら神となって信徒の心を支配し、信徒を裁くという構図が生まれる。

 繰り返すが、カルト化は道を踏み外した少数の教会の専売特許ではなく、マインドコントロールも一部の詐欺的牧師の専売特許ではない。これらは牧師制度が必然的に生み出す結果であると私は考えている。だからこそ、被害者救済活動は無意味なのである。同じ牧師制度を取り入れているキリスト教界の教会が、同じキリスト教界に属している他の教会を批判したところで何の意味もない。しかも、目的は信徒を依存状態から解放し、真に自立した信仰に生きる方法を知らせることであるのに、聖書に立ち戻ろうともせず、ただカルトの取り締まりに主眼を置いて裁判に頼るのでは、その時点ですでに目的を見失っているに等しい。

 真の解決のためには、目に見える指導者に向かうことをやめ、目に見えない神に向かうことがどうしても必要である。多くの人々が踏み固めて来た広い道と決別してでも、隠れたところにおられる神を求めて狭い道を行く覚悟が必要である。

 その点で、上江洌氏のブログは、決して詐欺的な牧師を告発するだけには終わっていない。
 2009年当時、教会での自らのつまずきを見据えながら、決して悪人に対する愚痴と非難で終わることなく、真の信仰を模索していたクリスチャンがネット上に相当数、存在していた。その多くが今は声を聞けないが、それでも、神を見上げて信仰の道を歩み続ける人たちが確かに存在していることは私にとって朗報である。散らされてしまった人々の声を再び聞けるようになる時を願ってやまない。

キリスト教界と官僚制度の闇 ~誤った選民思想 良心を持たない知的エリートの人格的特徴~

これまで官僚制度の闇と牧師制度の闇と二本立てで同時に記事を進行して来ました。私がこのように実社会の構造の問題点とキリスト教界における問題点を並行して論じるのは、そのどちらもに非常に類似した構造――偽りのヒエラルキーの構造、偽りの選民思想――が見て取れるからです。

結論から言えば、キリスト教界も日本社会もともに聖書および憲法の定めたあるべき理念からは全くかけ離れた、むしろそれとは正反対の思想的勢力によって乗っ取られています。
 
今や「統一教会」や「日本会議」の存在を持ち出すまでもなく、日本政府が何かしら恐ろしいカルト的な非人間的イデオロギーに支配され、乗っ取られてしまっていることは、すでに多くの人々の認めるところとなっています。


(たとえば、沖縄タイムス(2014年7月2日付)では、昨年7月1日の安倍首相による集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈変更の閣議決定に関して、作家池澤夏樹氏が次のように述べています

「閣議決定は、安倍晋三首相による一種の乗っ取りであり、クーデターだ。まるで違う国になってしまうのではないか、とんでもない一線を越えてしまうのではないかと恐怖を覚えている。7月1日は日本が盗まれた日になった。」
画像の出典:Twiscy


ᅢᆭᅡᄇ¬タモᅢ다ᄌ¬ダᅢᆪ¬タレᅡ﾿ᅢᆪ¬タレᅡ낷ᅥメᅡᅠᅢᆪ¬タレᅡ짻ᅡチᅡᆴᅢᆭᅡ마ᅠᅢᆭᅡ하낹ᅡ나マᅢᆭᅡ따짾ᅡᄚᅡマᅢᆪᅡチᅡᆴᅢᆬᅡᆵ¬ダᅢ다따﾿ᅢᆪ¬ツᆲ¬タレ
ᅢᆪ¬ツᆲᅤメ7ᅢᆭᅤモᅨニ1ᅢᆭ¬タヤᅡᆬᅢᆪᅡチᅡᆵᅢᆭ¬タヤᅡᆬᅢᆭᅤモᅡᆲᅢᆪᅡチᅤメᅢᄃ¬タᄎ¬タヤᅢᆪᅡチᅡ핷¬タレᅤメᅢᆪᅡチᅤ잲¬タヤᅡᆬᅢᆪᅡチᅡᆱᅢᆪᅡチᅡᆰᅢᆪᅡチᅡᆪᅢᆪᅡチᅤᄌ  ᅢ나잜ᅢᄃ¬タ깑  ᅢᆪᅡチ¬タワᅢᆪᅡチᅡᆴᅢᆬ¬タᆭᅨニᅢᆪ¬タレ¬タレ


 「これまで、僕たちはその時々の動きに対して、きちんと論理を通して反論してきた。憲法は国の権力から国民を守るためのものであって、その逆ではありません。基本的な認識が間違っています、と。安倍政権の知的なものへの敬意のなさにあきれてもいた。

 国の力があり過ぎるかために国民がひどい目に遭う例が多々あったから、西欧人が英知を結集し、憲法で国を縛るシステムを作った。現行憲法を「押し付け」と言う人はいるが、国民は「もう戦争にならない」と喜んだ。

 9条があったから、他の国に出掛けていって人を殺さず、殺されずやってきた。それが間違いだったと言うなら憲法改正を国民に問うてくださいと訴えてきたが、安倍政権は憲法解釈変更という脇をすり抜ける手を使った。そして、あいつが悪いと中国をさす。ヒトラーのやり方と同じだ。

 安倍政権がひっくり返ったとしても、この日のことは黒い染みとなって、平和をきちんと選ぼうとするときに足を引っ張り続けるだろう。この先も、何とか元の路線に戻るよう言うべき事を言い続けよう。安倍首相から日本を取り戻すために。」

 同様の記事は同年7月2日付の南日本新聞(30面 社会面)にも掲載されています。キャッシュ  



しかしながら、こうして日本政府を乗っ取っている勢力はごく少数であり、彼らの思想もマイノリティの思想でしかありません。彼らは決して圧倒的大多数の人々に支持されているわけでなく、また大多数の人々の承認のもとに手続きを進めているわけでもありません。マイノリティであって大多数の支持を得ていないにも関わらず、マジョリティを騙すことによってマジョリティを支配する、そこに不法な乗っ取りの構造があるわけです。
 
私は最初のブログを開設した当初から、キリスト教界にも同様の問題が発生しており、非聖書的なさまざまな疑わしい思想・勢力がすでに混入していること、また、キリスト教界における牧師制度は、そもそもの初めから聖書に逆らっており、本来、平等であるべき信徒間に誤った差別を生み出す階級制度であることを訴えて来ました。

これまで、異端思想にはピラミッド型の身分制度がつきものであることを指摘してきましたが、そこでは一握りの選ばれた「エリート」とされる少数の牧師だけが、その他圧倒的多数の信徒の信仰生活を指導する一方で、信徒は教会を去ることも自由にできない身分に留め置かれ、ひたすら自らの信仰生活のすべてを教団の拡大や、牧師の権威の拡大のために捧げることになります。プロテスタントにおいても、このような牧師中心・教団中心の信仰生活が「伝統的」とみなされているわけですが、それは根本から誤ったものであり、信徒から信仰生活の自主性を奪い、信徒を道具化する搾取・収奪の構造であることを指摘して来ました。これは信仰者が神に仕える道ではなく、人に仕え、人に栄光を帰する道であり、聖書が最も禁じている偶像崇拝に他なりません。

しかし、見渡せばそれと全く同じ誤った構造が、この日本社会全体に普及していることが分かるのです。キリスト教界も実社会も、ともに同じ重層的な支配構造、身分制度に貫かれており、さらに重要なことには、キリスト教界に異端思想が蔓延する危険性を訴えて、カルト化を防ぐという名目で登場して来ている人々も、その実、異端思想の取り締まりを口実にしてキリスト教界全体を乗っ取って実効支配しようとしている点で、本質的にこの世と同じ現象が起きていることを述べて来ました。統一教会出身の牧師が提唱しているカルト監視機構の設立などはその最たる例であると言えます。
  
この点で、キリスト教界はまさに世と合わせ鏡であり、同じ起源と性質をもっていると言うことができましょう。記事に書いて来たように、教会のカルト化という現象は、聖書から逸脱したキリスト教界の誤ったイデオロギーの副産物であり、その根本原因がキリスト教界の誤った身分制度と聖書からの逸脱にあることを見落として、ただ教会のカルト化という事実だけを糾弾しても、それは単なる結果論に過ぎないため、決して問題は解決することがないのです。それどころか、このようにカルトとの闘いを推進することにより、教会同士、信徒同士の争いが助長され、教界はもっとひどい混乱に陥っていくことになるのです。
  
このため、私はカルト被害者救済活動は、キリスト教界のマッチポンプ運動であり、しかも、キリスト教界の腐敗の取り締まりや弱者救済の美名を口実に、都合よくキリスト教界全体を乗っ取って実効支配するための仕組みを作ることを真の目的としている大変、危険な運動であり、その偽りに気付かない限り、被害者は永久に利用されることになると警告して来ました。つまり、カルト化しつつあって信者を徹底的に搾取するキリスト教界の腐敗も、それを「救済する」という名目で被害者に手を差し伸べる運動をビジネス化している勢力も、ともにコインの表と裏に過ぎず、どちらも本質的に同じ支配と搾取の構図であることに気づく必要があり、そうでない限り、信者はずっと犠牲にされ、利用され続ける立場から逃れられないと警告して来たのです。



2009年8月の終わり、私は「キリスト教界からエクソダスせよ」という呼びかけに共感し、このような腐敗したキリスト教界の重層的な差別・支配構造から脱出して、真に自由な信仰と交わりに生きるべく、関東へやってきました。当時は政治的無関心から、その出発が戦後初めての自民党政権の終わりと民主党政権の誕生と重なっていたことには注意を払いませんでした。

ところが、私が関東へやって来て遭遇したのは、自由で理想的な信徒の交わりなどではなく、むしろすさまじいまでの二重性を帯びた生き方を続ける「既得権益」の陰謀との闘い、それから、決して信徒を自由にすまいとするすでに脱出して来たキリスト教界の側からの攻撃でした。第一回戦は、ほぼ私の完敗に終わったと言えますが、それは私が「キリスト教界からエクソダスせよ」と語っている人々こそ、まさにキリスト教界の補完勢力であるという事実を見抜けなかったために起きた出来事でした。

しかし、この闘いのおかげで学んだことも多くあります。特に、Dr.Lukeという人物の人となりをよく観察した結果、私には彼を通してキリスト教界の問題のみならず、自民党の伝統的な体質、ひいては日本の伝統的な「エリート」を自負している人々の体質がよく見えるようになりました。なぜ民主党の政権交代があのような悲劇的結末に至ったのかも理解できるようになりました。不思議なことに、宗教と政治の問題は全く分野が異なるにも関わらず、本質的に同じなのです。

再び結論から申しますと、本当に闘い抜いて、目指しているものを獲得するためには、味方を装って近づいてくる偽善者の裏切りと陰謀に騙されないように注意を払う必要があります。蛇のようにさとく、鳩のように純真でなければなりません。一見、相反するように見える二つのものが、裏では一つにつながっているということは、実によくあることであり、それを見抜き、敵の仕込む偽りを完全に見抜き、退けるだけの賢明さが必要となります。

たとえば、当時、多くの人々の目に、杉本徳久氏の「随想 吉祥寺の森から」や、Dr.Lukeのブログは、一見、キリスト教界の罪を告発し、その腐敗を糾弾しているように見えたことでしょう。また、二人は互いに対立しており、その働きは全く相いれない別ものであるように見えました。しかしながら、この両者の歩みはうわべの目的とは全く裏腹に、キリスト教界に反対する個人を次々と排除しながら、キリスト教界の支配をより強化し、補完する点では完全に一致しているのです。

杉本氏のブログはあたかもキリスト教界の腐敗を叩いていたようでありながら、今やアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の繰り広げるカルト被害者救済活動を宣伝・補完し、キリスト教界の支配をより強固なものにすることにしか役立っていません。そして、「キリスト教界からエクソダスせよ」と唱え、当初は杉本氏からも非難をこうむっていたDr.Lukeも、キリスト教界や杉本氏に反対して立ち向かっている個人を一見、支援するように見せかけて、彼らを次々と争いの中で敗北に追い込んではインターネットから追放することに貢献し、結果としてネット空間からキリスト教界に属さない個人を駆逐し、キリスト教界の勢力を補完する働きを果たしました。

こうしたことは、両者が本質的に同一であるからこそ起きたことであり、あれほどキリスト教界とは違う存在であると自分を誇っていたKFCが後に完全にAG信徒に乗っ取られ、好きなようにかき回されるという出来事が起きたのも、両者がもともと本質的に同根であったためであると言えます。

杉本氏とDr.Lukeとが表面的にキリスト教界と対立し、全く異なる主張をしているように見えるのはうわべだけのことであり、両者はその働きをきちんと見れば、本質的に同一の目的に寄与していることが分かるのです。それはキリスト教界の支配をより助長し、強化するという目的です。このことを見抜くためには、彼らの表面的な言葉に注目せずに、彼らの実際の働きがどのようなものであるかに注目しなければなりません。

Dr.Lukeは信徒間の分断と争いを助長して来た点においても、村上密牧師と何ら変わる点はありません。この人々の共通点は、自ら手を下すことなく、信徒同士を上から巧みに操って互いに対立させ、その争いや対立によって彼らを疲弊させて、自分の利益を得ることにあります。村上密氏が教会のカルト化という問題を糧にして生きているのと同様、Dr.Lukeもキリスト教界の争いを糧に生きているのだと言えるでしょう。分断は、支配のためのツールです。

Dr.Lukeがどのようにして信徒同士を欺いて対立させることに成功して来たかについては後述します。今はそれをさて置き、彼がキリスト教界をどれほど激しく非難して来たかを思い起こしても、自ら忌み嫌っていたキリスト教界と本質的に同化したことは非常に罪深い堕落だと言えます。

このようしてまさに「カルトとアンチカルトは同一である」、「キリスト教界と反キリスト教界は同一である」というパラドックスが実現しているのです。




イエスが地上に生きておられた時から、神が最も忌み嫌われる偽善者の姿とは、聖書を用いて正しいことを語り、人々を罪に定めながら、自分自身はその戒めを実行せず、平気で罪を犯している聖書学者たちの姿にありました。彼らは当時、いわゆる「エリート」であると自負しており、民からもそのようにみなされて賞賛されていました。しかし、イエスは彼らの正しさはうわべだのけのものであり、彼らの内側は腐敗で満ちていることを指摘されました。

今日、キリスト教界における「牧師制度」や、兄弟姉妹の上に立ってメッセージを語る人々にも同じことがあてはまります。それは彼らが一見、聖書に立っているようでありながら、その実、聖書の言葉を守らず、二重性のある生活を送っていることによく表れています。
 
こうして、口では一つのことを唱えながら、他方では全くそれと矛盾する行動をするという二重性のある生き方をしている人々を避けなければなりません。「キリスト教界からエクソダスせよ」と言いながら、キリスト教界と仲良くお付き合いを続けているような人々に関わっている場合ではないのです。仲間の兄弟姉妹だからと言って油断していれば、必ず自分も同じ生き方に染まっていくことになります。本当に助かりたいと、自由になりたいと願うならば、彼らの道を変えようとか、立ち直らせようなどと考えて交渉してはいけないのです。

「たとい、すべての人を 偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ3:4)

これは信仰者であってもなくても、原則的には同じだと思いますが、聖書を信じ、唯一の神を信じるならば、二重性を帯びた生き方をする人々といたずらに群れることをやめ、たとえ一人になったとしても、決して自分の信念を曲げず、義理人情よりも、真実、偽りのない生き方をしているかどうかという点を重視して人々と関わらなければなりません。

Dr.Lukeの言動はこの点で完全に自己矛盾に満ちていました。実際のところ、私は幾度もDr.Lukeと口論し、納得できない点を正そうと試みましたが、彼はのらりくらりと時間を稼ぐばかりで、決して言動を統一することがありませんでした。そうこうしているうちに、彼に関わっているすべての人たちがその影響に巻き込まれておかしくなっていくのです。彼と議論することそのものが無駄でしかないことを理解しました。

最近も、ある姉妹と話しましたが、彼女は私に言いました、「わかってるわよ、彼がずるくて嘘つきだってことは」。私よりも長い年月、KFCに関わって来た兄弟姉妹は、誰から指摘されるまでもなく、指導者の欠点を十分に理解していました。それだけでなく、いかにこの指導者が巧みに人心を操作して来たかについてもよく語りました。それにも関わらず、離れられないのです。

Dr.Lukeの二重性とは、彼が信徒の交わりがいかにあるべきか知っていながら、そして大抵のクリスチャンよりも多くの知識を持っていながら、それを実行しないことにありました。彼はキリスト教界の牧師を非難して、兄弟姉妹の対等な交わりを主張しながらも、自分は特別に優れた存在として講壇からメッセージを語り、兄弟姉妹の注目を浴び、指導的な立場に立つ誘惑を捨てることができませんでした。その誘惑が最終的には彼を最も嫌っていた牧師階級と完全に同化させ、自分を神の代理人であるかのように主張して、自分に逆らう者は神に逆らっているのだと言わせるところまで行き着いたのです。

Dr.Lukeは「真理はあなたを自由にする」と主張しながらも、自らの特権的な地位を保つために、真の意味で兄弟姉妹の自由を願って集会から手を引くことができませんでした。彼はKFCを軽蔑し、常にこう吹聴していました、「KFCなんてものはお荷物だから、できるなら、いつでも早く畳んで去りたいと思っているんだ」と。ところが、多くの人たちがそれはポーズに過ぎないと私に向かって言いました。片方ではいつでも捨てられるかのように蔑みながら、KFCに誰よりも依存していたのは彼自身でした。実のところ、多くの兄弟姉妹が何度も彼に引退を勧めており、そのチャンスも訪れていたのですが、その度ごとに、彼は機会を逸し、そうするごとにKFCは悪化して行ったのです。そうまでして彼を担ぎ上げた周囲の人々にも重い責任が残ることでしょう。

また、Dr.Lukeは民主党政権が続いている間、しきりに講壇からこの政権を非難しては叫んでいました、「ぼくは民主党が政権をとったら、必ず同士討ちで崩壊すると予見してきた」と。それが彼の持論であり、そういう結果になることを彼は強く望んでいるようでした。小沢一郎だけは別であると言いながらも、彼は民主党に対して何かしらの尽きせぬ憎しみを燃やしているようで、攻撃の言葉をふんだんに向けていました。他方、自民党政権の腐敗を糾弾する言葉は一度たりとも聞いたことがありません。

今、このことだけをとっても、Dr.Lukeという人がいかに自分をエリートであるとみなして既得権益の側に立って改革を拒む人間であったかがよく分かります。もちろん、歴代のすべての偽善者がそうであったように、一方では、大変、先駆的で、学ぶべき言葉も語っていたのですが。
 
今、私は多くの点で、Dr.Lukeという人物の人柄に、単に彼の個人的な人柄のみならず、自民党の伝統的な体質、ひいては、良心を持たない日本の知的エリートの典型的な人格の歪んだ特徴を見ることができます。たとえば・・・

1) 二枚舌である(約束を守らない、平気で嘘をつく、ごまかす、理想を述べながら、平気でそれを踏みにじる、自分だけは他の人々と異なり、どんなに二重性のある行動をしても罪に問われないと考えている)
2) 人前で自分が栄光を受けるのが大好きである(自分は特別に他人よりも優れた人間であると考えてさかんに自慢話を吹聴する)
3) ねたみ深い、他人の栄光を奪わずには気が済まない、交わりや人の主張内容など人のものを平気で盗む
4) 常にいいとこどりをする、自分に不利な事実は隠ぺいする
5) 目の欲・肉の欲・持ち物の誇りを語らずにいられない(自分がいかに特権的な地位にあるかを絶えず自慢して、他人の心を打ちのめしていなければ落ち着かない)
6) 人を平気で陥れる(自分の身代わりに絶えず誰かを苦しめていなければ心が落ち着かない)
7) 他人に依存してしか物事を解決できず、絶えず自分が傷を受けないために自分よりも弱い他人を盾にしようとする
8) 自分に対する非難に自力で正当に勇気をもって立ち向かうことができないので、人を騙し、虚偽の信頼を勝ち得て、陰謀に頼って物事を解決しようとする
9) 自分が支配した相手を逃がさず、離反者には徹底的に報復せずには気が済まない
10) 助けてやると見せかけて人の弱みを利用して都合よく支配し、周りをイエスマンだけで固め、常に自分よりも弱い者だけを取り巻きにする
 等々。
 
まさに今「自民感じ悪いよね」と言われている日本のエリート官僚の持つ傲慢な体質のすべてを凝縮したような有様ですが、これは残念ながら、特定の人間の個人的な人柄というよりも、この日本において一定の社会層に属する(自称)「エリート」集団全体に共通するカラーであると言うことができます。

それが要するに、東大を頂点とする学閥に基づく日本の「支配層」のカラーであり、竹原氏の言うところの「良心を持たないエリート」、絶えず陰謀と奸計に頼ってしか人の心と生活を支配できない人格障害の知的エリートの人柄なのです。

しかしながら、これは場所を変えれば、キリスト教界における牧師たちの姿と何ら変わることろがありません。すべての誤った「エリート思想」の根源は、宗教指導者たちの(その元祖はイエス存命当時のユダヤ教指導者の姿に見られる)誤った選民思想にあります。

選民のプライドや優越感は、選民でない民がいてくれて初めて保たれます。彼らの自信の源は、自分自身のあれやこれやの長所にはなく、彼らが優れて別格な存在であって、他の劣った人たちとは違うという確信にあります。彼らの自信はヒエラルキーに依拠しています。ヒエラルキーがなければ彼らのプライドは決して保たれません。自分を「エリート」であると自負している人たちの誇りは、彼らよりも下の階級がいて初めて成り立つのです。
 
ですから、キリスト教界を問わず、あらゆる宗教指導者の元来、目指すところは共通して「支配」であり、彼らは道具として支配できる信者を絶対に逃しません。口ではどんなに自由や解放を語っていたとしても、本音では決して信徒を自立させず、自由にもさせません。信徒が真に自由になろうとすると、周り中の手先を使って徹底的に妨害します。たとえ人助けにいそしんでいる救済者然とした指導者に見えても、その究極的な目的は同じように「支配」なのです。

宗教指導者は己の栄光を築き上げるために信者を道具として支配します。この世においてならば、まだそういった虐げもありふれたこととして許されるかもしれませんが、神の名を用いて信徒を道具として支配・搾取することは、神に対して罪を犯すことであり、そのような偽りの支配構造にはまりこんでしまい、神に仕えるべき人生を人の奴隷となり犠牲者となって過ごすことも、神が願っておられる信仰生活では決してありません。

ですから、もし本当に自由を目指すならば、こういう風に、人が人を奴隷として支配することを究極目的に行われる妨害や陰謀をすべて退けて進んでいかなければなりません。宗教指導者になりたがる人々の野心の道具として利用される道を避け、正真正銘、「神のみ前の単独者」として歩まなければなりません。

しかしながら、この「エリート」には最大の弱点があります。それはそのエリート性が虚偽であり、根拠のない脆弱な見せかけでしかないことです。このような良心を持たない知的「エリート」は宗教界を問わず、至るところで、一見、強大な支配を誇っているように見えるかもしれませんが、彼らの嘘と傲慢と抑圧は世間にもよく知られているので、実際のところ、彼らは忌み嫌われており、あまり多くの人たちから支持されていません。そして、彼らは自分たちが犯してきた罪が明るみに出されることと、彼らが本当は大衆から支持されていないマイノリティに過ぎないという真実が明るみに出されることをひたすら恐れています。彼らのプライドはすべて不利な事実や敗北を隠すという見せかけによって保たれています。

だからこそ、カルト被害者救済活動にいそしむ村上牧師が裁判に敗北してもそれをきちんと総括しないのと同様に、Dr.Lukeも彼が「支援」して来た人々が敗北したり、自分に不利な出来事が起きてもその事実をきちんと見据えようとはせず口をつぐんでいるのです。彼らにとって大切なのは真実ではなく、指導者としての己の見栄とプライドに過ぎません。この人々はもうとうに大衆からの支持も失っており、幾度も敗北を重ね、虚偽も露呈しているのに、未だ人々が自分を支援してくれているかのように装うことにより、存在しない権威に頼って自分を偉大に見せかけているにすぎません。

ですから、彼らを打ち倒そうとして力をもって立ち向かう必要は全くありません。嘘はそれを信じる人がいて初めて効力を持つのですから、虚偽は虚偽であることが明るみに出た時点で信頼を失います。虚偽に対抗する術は、力によって立ち向かうことではなく、ただ真実を明らかにすることにあります。

「だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。からだを殺しても、たましいを殺せない人たちを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:26-28)

神の代理人を詐称する牧師制度と公務員を詐称する官僚制度の闇

長らくブログを書いていませんでしたが、昨今の危機的状況を見ているうちに、どうしてもこれ以上黙っているわけには行かないと決意して、再び書き始めました。私のブログは、聖書に基づき神を信じる一人のクリスチャンとして、なぜ一体、キリスト教界はこんなにまでも堕落したのか、 その背後にどういう誤った思想があるのか、どうすれば本当の信仰に立ち戻れるかという疑問から始まりました。


私は今でも聖書の神を信じるクリスチャンであり、聖書に基づく信仰を否定しません。しかし、キリスト教界はこれとは別物と考えており、従って、無所属であり、教団教派に所属するつもりはありません。キリスト教界はすでに多くのクリスチャンが指摘して来た通り、その起源からして聖書的でなく、いまや異端の流入を抑える術もなく、被害者救済活動や異端・カルト撲滅運動さえも、キリスト教界から発生した一種のマッチポンプ的な運動であり、本質的な解決には何らつながることはないと考えます。聖書から離れたことがそもそも堕落の原因であるならば、聖書に立ち帰ることなく異端撲滅運動に熱中しても、事態はより深刻化して行く一方でしょう。


キリスト教界は、その起源からして聖書に反していますが、それは後述するとして、キリスト教界の堕落の原因の一つである異端の教えについて考察していると、私はそれが大昔の異端グノーシス主義に通じていることに気づきました。
「日の下には新しいものは一つもない。」(伝道者の所1:9)と聖書は言いますが、異端も同様で、昨日や今日初めて生まれたものでなく、そもそもアダムとエバを堕落させた蛇の教えにその起源を求められます。ですから、異端の教えを研究すると、その構造は、昔から今に至るまでほとんど変わらないことが分かるのです。


異端グノーシス主義の構造を一言で言い表すならば、それは嘘と横領の精神に貫かれた思想で、聖書をねじ曲げること、みことばを否定すること、それによって神を否定し、人間を神以上に高く掲げるという、聖書に対する秩序転覆、聖書に対するクーデタの思想です。聖書は、人は神によってしか救済されないと教え、人が自力で(自己努力で)救済されて神に至る可能性を完全に否定しています。

また、神を信じた人は、内側に住む聖霊によって真理を直接、教えられるので、人間の仲介者によって救われる必要もなければ、真理を学ぶために人間の指導者に依存する必要もないとしています。


ところが、グノーシス主義は人間の中に何らかの「生まれながらに神に至る聖なる要素がある」として、原罪を否定します。そして、人間の中にある善良さや賢さなど、何かしらの美点を強調することにより、人間がその「聖なる要素」を高めさえすれば、神に等しい者になれるとして、キリストの十字架の必要性を否定します。たとえ表向き、キリストを認めているようであっても、巧妙にキリストを神の位置から引き下し、キリストが神の子ではなく、人間の指導者であったかのように説きます。そして、人が神によらず、御子キリストの十字架によらず、自力で神に到達できるとして、人間による人間の救済を行おうとするのです。


さらに、グノーシス主義は人間を救済するために、こうして人間の仲介者(グルのような存在)を肯定するばかりでなく、聖書に反して、真理を教えるためには指導者に聞く必要があるとして、教える者と教えられる側の区別を作り、信徒の間にヒエラルキーを作り出します。


聖書はもともと
「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」(マタイ23:8)と、神のみ前に兄弟姉妹が平等であることを説き、教師や指導者を名乗る信徒が、他の兄弟姉妹の信徒を指導し、支配するという階層制を認めていません。

しかしながら、グノーシス主義は徹底したピラミッド構造を持っており、少数のエリートの指導者層による大多数の信徒への「教育」や「指導」(=「支配」)を肯定します。一握りの「悟りを開いた」エリート集団が、その他大多数の「愚かな」平信徒を指導するというピラミッド型の差別構造が、異端の教えには必ず伴います。ですから、グノーシス主義を取り込んでしまった宗教団体は、ネズミ講のような上意下達式の組織を持つことになり、それが支配と収奪のシステムとして機能し、指導者は偉くなって君臨する一方、末端の信徒は虐げられるということになります。


こうして、異端の教えは、巧みに神の名や、人の救いを口実として利用しながらも、神への服従ではなく、「神の代理人」や「みことばを取り継ぐ人」を名乗る人間の指導者の権威への服従を説くことにより、平信徒が少数のエリートに依存し、服従するようなシステムを作り出します。これに反すれば、指導者に逆らうことは神に逆らうことと同一視され、「地獄へ落ちる」、「悪魔に心を奪われた」、「悪霊に取りつかれた」などと批判して、追放します。

しかし、このように人間が人間の上に立ち、人間を支配するシステムは聖書の真理に全く反しており、そのようなシステムは奴隷化をもたらすだけで、決して本物の救いをもたらさず、人を解放することも、幸福にすることもありません。最も虐げられるのは、子供や、社会的弱者です。しかし、ヒエラルキーの中で上位を占める人々は優遇されている旨みのゆえに、その偽りに気づくことはないでしょう。


また、グノーシス主義には常に出来合いの宗教組織をのっとるという特徴があります。グノーシス主義そのものが「のっとり」(横領、盗み)の思想だと言って差し支えありません。グノーシス主義はもともと宗教ではなく、神話を持たない哲学的な思想体系なので、様々な既存の宗教に仮装して、宗教思想を装って組織の内側に入り込み、自分の寄生した宿主としての宗教を内側から破壊して行くことにより、転覆させる(組織ごとのっとる)働きをします。ですから、グノーシス主義はあらゆる革命思想、クーデタの思想の始まりだと言っても過言ではありません。

 
 
* * *

私はこうしてグノーシス主義を追及しているうちに、実はこの日本においても全く同じ構造を持つ不幸で恐ろしい現象が起きていることに気づきました。欧米などからすでに指摘されている通り、今、日本政府は、「日本会議」という特殊な宗教的思想を持つ団体にのっとられている状態にあり、その異常な宗教思想に日本全体が左右されていますが、それだけではありません。「日本会議」の存在が明らかになるより前から、日本を支配するエリート集団としての官僚組織そのものが、政治家と一体になって、憲法を無視して全く国民のためにならない政治を推し進めて来たのです。


一体、官僚組織とは何なのでしょう。なぜこのようなことが起きているのかを考えていくと、まず、日本の労働市場、ひいては社会そのものが、徹底したピラミッド型の身分制度のようなものに貫かれていることが分かります。企業もそうですが、官僚組織には企業よりもさらに徹底した年功序列のピラミッド構造があります。そして、そのカースト制度の頂点に立つのが、若くして国家公務員試験を通った高級キャリア官僚や、司法試験に合格して法曹界に入った人々などです。受験戦争も就職戦線も、こうしたピラミッド構造を作り上げるためにあるシステムに他なりません。

ですから、このように日本では、子供が義務教育に入り、まだ若く将来も決まっていないうちから、気づかなくとも、すでにこのピラミッド構造の中に組み込まれて生きることを余儀なくされているのです。そして、このピラミッドはますます強化され、もし一旦、ドロップアウトしてしまうと、二度と元に戻り、這い上がるチャンスがないような、固定化した身分制度になりつつあります。もし若者が新卒で採用されなかったとか、正規雇用だった人がリストラされて非正規雇用になるなどして、一度、不利な立場に落とされてしまうと、一生、負い目を負い続けなければならないような仕組みがますます完成されています。これは生まれによってのみ差別されているわけではないにせよ、カースト制度にも似た差別制度であり、能力や、性差や、色々な要素から構成されている、人がほとんど自力では克服不可能な差別構造であり、身分制度にも近いものであり、もちろん、日本国憲法はそのような身分制度を認めていません。


「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」(日本国憲法第14条1項)

それなのに、一握りのエリート集団だけに絶大な権限と経済的可能性を与え、圧倒的大多数の人々を虐げられた状態に打ちのめし、絶望に陥れているようなこの不幸なカースト・ピラミッド制度がなぜ、どんな根拠で出来、まかり通っているのでしょうか。実は、そのようなカースト制度は違法に出来上がっているものであって、何らの正当な根拠も持たないものなのです。でも、多くの人たちは、若い頃に一生懸命、勉強して良い成績をおさめて難しい試験に通った人たちが、政府や大企業などで要職について出世して、人よりも多くの給与をもらい、多くの人たちの運命を決定するような重要な政策に携わり、他の大多数とは全く違った待遇で、人生を送っていることに、何の疑問を持たないでしょう。彼らは「偉い」人たちであり、自分たちとは違うのだから、支配され、虐げられても我慢するしかないと思い込んでいる人たちは多いでしょう。しかし、それは本当ではありません。


日本国の最高法規である憲法は、頭脳の優秀さや、貧富の差や、社会的な立場や、生まれや、いわゆる五体満足で健康であるかなど、何であれそういった属性によって人が差別されることを認めていません。一生懸命勉強して、優秀な成績を試験でおさめたから、だから人よりも多くの権利を得、他の人々の権利を制限することができるかというと、決してそんなことを憲法は認めていないのです。


にも関わらず、若くして国家公務員試験なるものに通った人のみがエリートとみなされて高級官僚となり、後の人々はそれに比べるとあたかも敗残者のごとく適当な人生しか送れないかのような、ほとんど固定化した厳格なピラミッド制度がこれほど公然とまかり通っているのは、憲法に対するクーデタが長年、行われてきたからに他なりません。実のところ、官僚制度そのものが、憲法に違反しており、この憲法違反の集団によって、日本が密かに破壊されてきたからに他ならないという現実が次第に見えてくるのです。

 

* * *

これは、異端に侵されつつあるキリスト教界に見られる風景と非常に酷似しているように思われます。聖書は、牧師制度を認めていないにも関わらず、(プロテスタントの)キリスト教界は牧師制度を基本原則として成立しています。つまり、牧師制度は聖書に違反して成立しているのです。また、聖書には、教会籍や、神学校という概念が全くありません。にも関わらず、教会には教会籍があって、信徒は牧師の許可なく離脱の自由がままなりません。また、神学校が存在し、そこで良い成績を収めた牧師たちが教会に派遣されて信徒を教え、多くの信徒数を獲得して教会の権勢を伸ばした者が牧師界の中でも出世して行くのです。また、牧師家庭出身の子弟たちが神学校などで見合い婚姻するので、牧師という支配階級はすでに世襲制の世界となっています。聖書は人が努力によって救われる可能性など全く認めていないのに、教会に行くと、信徒は献金、ご奉仕を熱心にしないと、信仰が保てないかのように教えられ、絶えず高いハードルをクリアするよう努力し続けなければなりません。


キリスト教界のこのような制度や伝統は、少数のエリートを生み出すための日本の教育制度や産業界の有様に非常によく似ていますが、根本的かつ完全に、聖書に反しているものであり、神に仕えるために救われたクリスチャンを、牧師や教団という人間組織のために仕える道具や召使のように貶めています。聖書がそもそも牧師という存在(支配階級)の存在を許していない以上、牧師を頂点とする教会内のピラミッド構造は全く反聖書的な支配と搾取の構造ということになります。


こんなことが起きるのは、本物のふりをして偽物が大手を振って偉そうに支配しているからであり、純粋に神を求めていたはずの多くのクリスチャンが、まんまとその罠にはまって、彼らの嘘に騙されて、ねずみ講のようなピラミッド型の搾取のシステムに取り込まれ、はまり込んでしまっているからに他なりません。多くの異端の思想の流入も問題ですが、それ以前に、キリスト教界は構造そのものが聖書に反しているのです。初めから堕落しているのに、どうして途中から改善することができるでしょうか。



しかし、実に同じことが、日本の官僚制度にもあてはまるのです。憲法は、国家公務員を普通選挙で選ばれた人々としており、官吏とは別物であることを示しています。


日本国憲法第15条1項~3項
「1.公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2.すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
3.公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。」



ここで公務員は国民の選挙によって選ばれた人々を指していることが分かります。ですから、官僚は、国家公務員試験という訳のわからない難解な試験を突破したいかにも頭脳優秀な人々かも知れませんが、選挙を受けていない以上、国家公務員と呼ばれるべきではないのです。選挙を受けて選ばれているのは政治家であり、政治家こそ本来は国民の代表であり、国家公務員と呼ばれるにふさわしいのです。



憲法上、官僚は「官吏」と記されており、これについて書かれているのは第7条5項、第73条第4項の二項です。「官吏」という言葉は、明治時代に官僚制度が出来た頃から使われていたものですから、明らかに、「公務員」と「官吏」とは別物であることが憲法の文言から明確に分かります。明治時代に大日本帝国憲法のもとで始まった官僚制度でも、難解な試験が義務付けられていましたが、そこでは主権者は国民ではなく、天皇ということになっていたので、官僚は天皇の直属機関であり、その任命や人事などについては議会も関与できない仕組みとなり、天皇の聖域のようになっていました。


それにも関わらず、なぜ明らかに選挙を受けていない「官吏」が「公務員」ということにされているのでしょうか。今日、官僚のために国家公務員法という法が制定されており、そこで「官吏」が「公務員」読み替えられていますが、これは明らかに官僚が憲法に違反して国家公務員を詐称していることになります。つまり、大日本帝国憲法の廃止と日本国憲法の制定により、天皇は主権者ではなくなり、国民の象徴とされ、真の主権者は国民であるとされました。それに伴い、官僚も主権者たる国民に仕えるために存在するものとなったにも関わらず、こうして憲法を勝手に読み替えることにより、官僚は、本来、真の主権者たる国民によって選ばれた政治家のためにこそ備えられていたはずの地位を奪ってしまったのです。しかも、選挙を受けておらず、国民によって任命も罷免もされていないのですから、自分たちの不利益になる部分は勝手に除外して、美味しいところだけを盗んだのです。こうして大日本帝国憲法はすでに廃止されたにも関わらず、官僚はその頃に持っていた地位と権限を温存しようとして、議員などの政治家よりも上に立つことによって議会からの干渉を排除し、真の主権者たる国民に仕えることを拒否したのです。これは横領であり、憲法そのものへの密かなクーデタです。


こうして、もともとその立場が横領によって始まり、密かに国民を裏切って、廃止されたはずの大日本帝国憲法の精神をそっくり温存しようとして密かに滑り込ませた以上、そのように始まった官僚制度が、国民のために機能するはずがないことは火を見るよりも明らかなのです。官僚は、新しい憲法の精神を受け入れることを拒むことによって、敗戦によって起きた変化を拒み、果ては敗戦そのものも拒んで、戦前の風土を今日に至るまで密かに温存しており、今も主権者が国民だとは全く思っていません。また、選挙で選ばれた政治家の政策に従わなくてはならないとも思っていません。では、今日の官僚は一体、誰に仕えているのでしょうか。もはや天皇が政治に関与しておらず、大臣の任命も名目上でしかないとすれば、官僚は、まさに主人がいなくなって自己目的化したのであり、己の他には誰にも仕えていないことになります。


ですから、そのような風にして国民の目を盗み、国民を裏切って始まった官僚が、日々、いかにして国民を苦しめ、騙し、国民の血税を少しでも多く巻き上げて私腹を肥やすかということにのみ気を遣ったとしても、何ら不思議ではありません。主権者たる国民に仕えているというのは、単なる見せかけでしかなく、彼らは心の中では、仕えるべき主人など誰もいないと思っているのです。敗戦によって起きた変化を何も受け入れておらず、戦争中に犯した失敗や犯罪など、認めているわけがないのです。天皇にも仕える必要がなくなったので、もはや自分自身が神であり、誰にも裁かれる必要がないと思っているとしても不思議ではないのです。

* * *

ですから、こうして憲法に違反して、戦前の風土を今日に持ち込み、選挙で選ばれた政治家からその地位を奪って、国家公務員を詐称している官僚集団が、いまや憲法そのものも自分たちに都合よく変えようとしているのは不思議ではありません。彼らは自分たちの違憲状態が見抜かれないために、今日の日本国憲法など、できるだけ早く消し去ってしまいたくて仕方がないのです。そして、大日本帝国憲法によく似た、自分たちが決して罪に定められることなく好き放題に振る舞えて、議会を含め、誰にも干渉されず縛られることなく、間違っても、愚かな国民になど仕える存在に貶められないように、逆に国民の方が官僚によって支配され、多大なる制限を受け、場合によっては官僚が国民を罰することさえできるような、彼ら好みの違った憲法を制定したくてたまらないのです。


それはちょうどグノーシス主義者が最初は聖書を敬い、神を敬っているように見せかけながら、その実、どんどん聖書のみことばを変えていき、聖書とは「異なるイエス」、「異なる霊」、「異なる福音」(第2コリント11:4)を宣べ伝え、やがては、公然とみことばを否定して、神に逆らうようになるのと同じです。官僚たちはこのクーデタを時間をかけて着々と行って来たのです。彼らは敗戦によって罪を暴かれ、罰せられ、新しい法に従うように求められたのに、それを受け入れずに、罰せられる以前の過去を復元して、以前の地位を取り戻そうと、密かに国民を騙し、裏切って今日まで来たのです。


これは大変、恐ろしいことです。官僚のクーデタは今も完成に向かって時を刻んでいます。彼らが目指しているのは、官僚が国民の生殺与奪の権を握っていた戦前への逆戻りです。「神の代理人」や「神のみことばを取り継ぐ教師」を勝手に名乗る牧師たちが、あたかも聖書を信じ、信徒を助けるように装いながら、その実、聖書のみことばそのものに反して、教会を私物化し、信徒を支配し、搾取し、信徒の富を横領して虐げているのと同じように、官僚集団は、あたかも憲法を敬い、国のためを思い、国民に仕えているように見せかけながら、その実、国そのものを横領して私物化し、国民を支配と搾取の対象とし、いずれは彼らの犯罪行為を証明する憲法そのものも廃止しようと企んでいるのです。つまり、彼らは、何者にも縛られず、自らが法になろうとしているのです。神になろうとしていると言っても、差し支えありません。

* * *

こうしたことを皆さんはどう考えるでしょうか。聖書に反した「一握りの指導者層」、憲法に反する一部の「エリート集団」が、いつまでもネズミ講のような横領のシステムの中であなたを虐げ、不可蝕賎民のように蔑み続けることが皆さんの望みでしょうか。そのような人たちが本当に「偉い」人たちだと思いますか。


こうした不法な少数者による国ののっとり、密かなクーデタ、目に見えない革命が進行し、彼らの悪い企みを見抜いて反抗した人々が、逆に罪を着せられて追放されていくような、正義も真実もない無法集団による恐怖政治が始まることが、あなたの望みでしょうか。


本当の罪人は誰でしょう。それを早く明らかにしなければなりません。


王妃エステルが、悪い大臣ハマンが王の心をたぶらかし、全権を握って民族絶滅のお触れを出した時、たとえ自分が殺されてでも良いから、それに立ち向かうことを決意した聖書のエピソードを思います。結果、何が起きたかというと、モルデカイを殺すために自分が用意した処刑台に、逆にハマンが吊るされることになりました。


「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。」(ルカ8:17)


 諦めるにはまだ早すぎます。悪は大手を振って勝ち誇り、至るところを跋扈しているように見えるかも知れませんが、神はすべてを見ておられ、それぞれの行いに応じて報いられます。人はどんなに高い地位についても、神にはなれません。それは神に対する反逆行為です。私たちが自分に都合が悪いからと勝手に聖書を書き換えることはできず、私たち自身が聖書に従わなければならないのと同様に、官僚にも、勝手に憲法や法律を書き換える権利はなく、彼ら自身が憲法や法律に従わなくてはならないのです。最高法規である憲法に違反するような法律は、いくら定めても無効です。憲法に違反する議論は、どんなに国会で積み重ねても無効です。


牧師制度は間違っています。聖書に反するような制度は、どんなに長年かけて巨大に作り上げても、腐敗していくばかりで何の意味も持たないのです。キリストは、神を独占して自分たちだけの専売特許として売り物にしていた偽善者のエリート集団から、信じるすべての人々を解放して下さいました。敗戦によって、すべての日本人は間違ったイデオロギーに突き動かされる天皇とその手先となった官僚集団によって、彼らの利益のために戦争の道具として使い果たされる奴隷になることから解放されたのです。


私たちは自由になったのですから、再び奴隷に落とされることを断固、拒否せねばなりません。神を詐称して、空き放題に振る舞い、民を再び奴隷に貶めるような計画を黙って放置しているわけにはいきません。


「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放して下さいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)


真理は私たちを自由にします。真に子羊の血潮によって罪赦されて、自由にされたことを信じるならば、私たちは再び、私たちを奴隷に貶めようとするあらゆる圧迫に対して、断固、立ち向かい、そのくびきを拒否することができるはずです。


「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)