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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

相模原で起きた障害者の大量殺人事件は、安倍政権の歪んだエリート主義が生んだ実である(1)―偽りのエリート主義としての優生思想とは訣別せよ

・相模原の障害者殺害事件を通して、安倍政権の推進する弱肉強食の社会の理念と、偽りのエリート主義が社会にもたらす恐ろしい弊害を考える

安倍政権が参院選後、沖縄で凶暴な牙をむき出しにしている――。
ポケモンGOなどに浮かれ、操り人形として踊らされている場合ではない。

この記事では当初、高江のヘリパッド建設にまつわる政府による弾圧について書く準備をしていたが、それをアップロードしない間に、相模原での障害者殺害事件が起きた。双方の事件に、安倍政権の残酷さがよく反映している。まずは相模原の件から書いていきたい。
 
相模原の事件は、どこかしら神戸の児童連続殺傷事件を思い起こさせる。容疑者の幼稚さのために、神戸の事件ほどの衝撃的なストーリー性を伴わないが、殺害された人数は、神戸の事件をはるかに上回り、戦後最悪の殺人事件となった。

これが神戸の事件を思い起こさせる第一の要素は、まず容疑者の名前である。スプートニク記事では、相模原の殺人事件の容疑者の名前が「聖(サトシ)」であるとわざわざ読み仮名つきで報じられていた。サトシとは、言わずと知れたポケモンの主人公の名前であり、さらに、「聖」という、凶悪な反抗には似つかわしくない、皮肉のように逆説的な名前の漢字から思い起こされるのは、酒鬼薔薇聖斗の名である。

ちなみに、神戸の事件については、筆者は今でも、酒鬼薔薇聖斗は当時の少年Aとは別人であり、これは国家による捏造された犯罪であり、警察の内部犯行であったとの見解に立っている。すでに書いた一連の記事の中で、酒鬼薔薇聖斗の持っていたような思想は、14歳の少年からは決して生まれ得ないものであること、また、犯行の特徴も少年のものではあり得ず、この事件は、少年法改正(厳罰化)という目的に向けて世論を誘導するために、国家権力によって仕組まれた犯罪であったという見解を示した。

(ちなみに、同様の見解を示している人々は他にもおり、筆者が幾たびか引用した「神戸事件の真相を究明する会編 神戸小学生惨殺事件の真相 」だけでなく、「「酒鬼薔薇事件」18年目のミステリー…別人犯行説を追う(前編)」、「「酒鬼薔薇事件」18年目の真相…犯行声明文は警察が作成!?(後編) 」などにも同様の主張が見られる。)

今、筆者は、相模原の事件について、これが神戸の事件と同様に、国家権力によって予め計画された殺人事件であったと指摘しようとしているわけではない。

だが、植松容疑者は今年2月に衆議院議長に犯行声明文を渡してこの計画に同意を得ようと試み、その手紙の中で、わざわざ安倍晋三へのコネクションを依頼していたという事実からも分かるように、植松容疑者は自らの犯行に対して、国家権力からの同意を予め得ようとしていたのである。そして、国家はそれを知りつつ、これを防ぎ得なかったことを考えれば、不作為の罪によって犯行に加担したも同然だとのそしりは免れられないであろう。

さらに、植松容疑者がわざわざ国家当局者に宛ててそのような手紙を書いた理由は、この相模原の事件にもまた、その根底に、国家権力、特に、自民党政権が歴代に渡って推進して来た偽りのエリート主義と重なる思想が流れているからである。

つまり、相模原の事件も、神戸の事件と同じく、思想的には、これまで我が国が国策として推進して来た誤った弱肉強食のエリート主義的政策の延長上に存在するのである。

そこで今回の記事では改めて、酒鬼薔薇聖斗の事件と、植松容疑者の事件には共通して、国家権力によって作り上げられた偽りのエリート主義思想の深い影響が見られること、その意味で、これらの事件を生んだ本当の責任は、国の弱者切り捨て政策にあり、これを改めない限り、同様の事件は今後も続く可能性があることを考えて行きたい。

さて、相模原の事件が、神戸の事件を彷彿とさせる第二の点は、神戸の事件でも、犠牲者の中には障害者が含まれていた点である。

第三に、酒鬼薔薇聖斗は、神戸新聞社に宛てて手書きの犯行声明文を送ったが、今回の容疑者も、衆議院議長に宛てて、手書きの犯行予告の文面を書いていた。(「逮捕の男 衆議院議長宛てに手紙 入所者の殺害を示唆」NHK NEWS WEB 7月26日 12時06分)


 
画像の出典:「植松容疑者の衆議院議長公邸宛て手紙の全文 障害者抹殺作戦を犯行予告」(ニュース速報Japan 2016/7/26)


酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文。画像の出典:「「酒鬼薔薇事件」18年目の真相…犯行声明文は警察が作成!?(後編) 」)


相模原の事件を引き起こした植松容疑者の犯行声明の文面は、酒鬼薔薇聖斗の文章のように高度に知的かつ衝撃的な印象を与えるものではなく、はるかに単純で幼稚なものであった。両者の表面的な最も大きな相違点は、酒鬼薔薇聖斗は自らの犯行声明文を、学校と社会と警察に対する「挑戦状」として突きつけ、そこで自らの犯行を、社会を震撼させるための「復讐」であるとして、初めから社会の理解や同意を度外していたのに対し、植松容疑者は、その声明文の中で、自分の犯行が、社会に復讐を果たすためではなく、むしろ、「全社会の利益の為に」行われるものであり、自分が社会の利益の代弁者として行動しているのだという自負をしきりに強調し、自分の犯行に対して前もって国家の理解と同意を得ようとしていた点である。
 
この二つの特徴は一見、大きな相違点のように見えるが、実のところ、本質的には全く類似する思想である。

酒鬼薔薇聖斗と植松容疑者の思想の大きな共通点は、彼らが共に自らの犯行に、明らかに、個人的思惑を超えたある種の誇大妄想的な思想に基づく「大義」を付与しようとし、自らの殺人が遠大な計画の一環であることを示す記述を残している点である。

酒鬼薔薇聖斗は、自らの犯行を「透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐」と呼んで、第1、第2犯行声明文では次のように述べた。
 

汚い野菜共には死の制裁を
積年の大怨に流血の裁きを
学校殺死の酒鬼薔薇」
「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れてはいない」 


酒鬼薔薇は自分は単なる殺人鬼なのではなく、自らの犯行は、空想の中だけにしか存在しない自分の本当の姿を人々の記憶に焼きつける自己顕示のための手段であり、自分自身が「日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る」ために行なわれる自己救済の手段であり、なおかつ、「義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐」の意味があると認識していた。
 

しかし今となっても何故ボクが殺しが好きなのかは分からない。持って生まれた自然の性としか言いようがないのである。 殺しをしている時だけは日頃の憎悪から解放され、安らぎを得る事ができる。人の痛みのみが、ボクの痛みを和らげる事ができるのである。

 
 酒鬼薔薇聖斗は、人前に公然と姿を現して犯行に及ぶことはせず、あたかも自分が人々の「空想の中だけ」にしか「実在」しない、架空の人間であるかのように、自分は今もこれからも「透明な存在」であり続けると述べた。何よりも、酒鬼薔薇聖斗という実在しない名が、犯人が演出した自己像が「ヴァーチャル」なものであることをよく物語っている。犯人は、現実の自分自身ではなく、このヴァーチャルな自己像こそ本物の自分自身であると宣言したのである。

これに対して、植松容疑者は、堂々と自分の名を記して犯行予告の手紙を書き、自分で衆議院議長に渡そうと試みた。かつ、深夜とはいえ、自分の姿を複数の目撃者の前にさらして犯行に及んだ。この点で、一見、酒鬼薔薇聖斗とは対照的に見える。しかし、これもまた両者の事件のほんの表面的な相違点を示すに過ぎない。

結論から述べると、酒鬼薔薇の犯行の動機と、植松容疑者の犯行の動機には、両者ともに、歪んだエリート主義があり、そして、酒鬼薔薇聖斗の時代にあっては、まだ公には正体を隠していた「魔物」は、植松容疑者にあっては、現実の人間と一体化し、これを乗っ取って、公然と現実世界に姿を現したのである。
 
だが、両者ともに、この「魔物」は、我が国の政権与党の理念、自民党政権が国策として推し進めて来た数々の政策と根本的に一致する思想を持って、これと合わせ鏡のように登場して来たものである。

我々は想像力を働かせなければいけない。酒鬼薔薇聖斗のように、自分の殺人に、社会・学校・警察など、国や社会の組織や機関そのものへの挑戦・復讐の意味合いを込めるという思想は、かなりの知的な成熟がないと生まれて来ない。

その意味で、こうした思想は、社会や世の中に対するものの見方が固まっていない中学生からは到底、生まれ得ないと考えられるだけでなく、さらに、これほど根深い義務教育への復讐心は、おそらく義務教育以上の高等教育を受けた人間にしか持ちえない感情だと考えられるのである。

酒鬼薔薇の文面は、その知的さ、思想的深みから判断して、このような文章を書く犯人は、決して義務教育において「落ちこぼれ」の立場に立つ劣等生ではなかっただろうという推測を生む。このような文章を書く人間は、劣等生どころか、むしろ、義務教育では「エリート」として成功をおさめる優等生の側に立っていただろうと推測される。

つまり、酒鬼薔薇聖斗の持つ人物像とは、学校の成績も悪く、家庭にも色々な問題があって、いつも問題行動ばかりを起こしては、教師や他の生徒から睨まれ、要注意人物のようにみなされているような、あからさまな「義務教育の失敗作」と見えるような問題児ではあり得ないということである。

むしろ、学校では良い成績を収めて、良い大学に進学し、人前では常に自分を抑えて模範的に行動し、周囲の人々から立派だと褒めそやされて、外見からは、とても残忍な犯行に及ぶことができるとは想像もつかない、立派な人物と映っていたのではないかと思われてならない。
 
酒鬼薔薇聖斗ほどの深い義務教育への怨念と復讐心は、義務教育で「落ちこぼれ」とみなされ、恥をかかされ、失望したというような表面的な動機から生まれるものではなく、むしろ、義務教育において優等生とみなされ、成功例とみなされたがゆえに、その成功体験から抜け出られなくなり、一生、さらなる高みを目指すために階段を上り続けねばならないという、エリート教育のシステムから永遠に抜け出せなくなり、自由と個性を圧殺された人間の怨念と復讐心を示すものであるように思われてならない。

つまり、酒鬼薔薇聖斗の本当の人物像は、義務教育の落ちこぼれではなく、むしろエリートなのである――その確信は、「懲役13年」の以下の部分を読むとより一層深まる。
  

 大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、事実は全くそれに反している。通常、現実の魔物は、本当に普通な彼の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際そのように振る舞う。彼は徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう… ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみやプラスチックでできた桃の方が、実物が不完全な形であったのに、俺たちの目にはより完璧に見え、バラのつぼみや桃はこういう風でなければならないと俺たちが思い込んでしまうように。


この文章が示しているのは、他でもなく酒鬼薔薇自身が、現実の生活においては、「徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう」ような、外見から判断するに、残忍な犯行には到底、似つかわしくない人物だったのではないかということである。

以上のような事柄から察するに、やはり、筆者には、酒鬼薔薇聖斗の本当の人物像とは、家庭でも学校でもぱっとしない平凡な14歳の少年などでは決してなく、義務教育において着々と成功をおさめ、周囲からは実に優秀な人間だとみなされながら、エリートコースを上って行った人間、エリートコースから失敗して脱落することができなかったからこそ、永遠にそのシステムの奴隷とされながら、自分を奴隷とした国家と社会に無言のうちに尽きせぬ復讐心を抱いていた人間なのではないかと思われてならない。
 
劣等生であれば、早々に自分の能力の限界を表明して、過酷な競争の舞台から降り、別の世界に生きることが出来ただろうが、下手に高度な知能を持っていたがために、いつまでもエリートコースから外れることができず、周囲の期待に応え、優秀な外見を取り繕うために、一生、優等生の仮面を外すことができなくなって、競争の舞台から降りられなくなったのである。

彼はまさに「お国のために優秀な人間を生み出す」ことを最高の目的とする歪んだ教育システムの犠牲者となった人物であり、そのような歪んだエリート主義が結集している場所は、国家権力(国家公務員制度)を置いて他にはない。

戦前、官僚が天皇の直属の機関とされ、国民に君臨するエリートとみなされたのと同様に、敗戦後も、日本の教育システムは、国家公務員試験を上位で突破できるような、偏差値優秀な人間を育て、「お国のために」役立つ優秀な人材を育てる以外の目標を何ら打ち出すことができなかった。そのようなものが「エリートコース」なのだという幻想が、この国では愚かにも未だに信じられている。

この偽りの歪んだエリート主義教育の弊害は、このシステムで落伍者となった人間よりも、むしろ、比較的成功者となった人間にこそ、強く現れるものではないだろうか。すなわち、虚栄のために果てしない競争の中で踊らされ、試験の点数などの全く無意味なうわべだけの評価に基づいて作られた人間関係の序列の中に一生、自分自身を絡め取られ、閉じ込められ、自分本来の自由な人格や個性を見失ってしまった人々にこそ、そのような教育システムや、それを生んだ社会に対する誰よりも強い憎悪と復讐心が生まれるのではないかと考えられる。

だが、こうした偽りのエリート主義に汚染された人々の怨念と復讐願望は、決してあるべき方向へ向かわない。つまり、彼らの恨みは、決して本当の責任者には向かわずに、常に彼らよりも弱い者たちに向かって吐き出される。

仮に義務教育が間違っているというのであれば、文部科学省に抗議文書を出せば良かったであろう。デモにでも参加すれば良かったであろう。だが、偽りのエリート主義者は、決してそんな方法を取らない。彼らは自分を支配しているものが偽りであることを知りながらも、自分よりも強い者(国家)には決して復讐せず、ひたすら自分よりも弱い者に憎しみを向けるのである。

偽りのエリート主義とは、すでに述べた通り、差別の制度であり、常に自分より下位にいて嘲笑したり、踏みつけにできる相手がいないと成立しない。そのような価値観によりすがって生きて来た人間は、どんなにそれが誤っていると頭では分かっていても、他者に対する自己の優位性以外に、己の価値を認識する術を持たないので、ヒエラルキーが否定されると、自分の価値が全く見失われ、自分が完全に空っぽになったような恐怖に陥る。

だから、彼らはどんなに内心では自らの生き方を嫌悪していたとしても、あるいは、自分自身もまたより強い者に踏みしだかれ、嘲笑され、愚弄され、苦しんでいたとしても、ヒエラルキーを手放せないがゆえに、その生き方を脱することができず、従って、その鬱憤の全てを、自分よりも弱い者に向けるしかないのである。

子供や、障害者は、弱者の中でもとりわけ弱者であり、ほとんどの場合、攻撃されても、抵抗する力も、抗議する力も持たない。このような、自分に立ち向かう力を全く持たない人間を相手に攻撃するのは、あまりにも卑劣で不当な所業であり、それによって「義務教育への復讐」が成し遂げられることなど絶対にあり得ないことは、多少なりとも知性があれば誰にでも分かることであり、まして酒鬼薔薇聖斗に分からなかったはずはない。

にも関わらず、酒鬼薔薇が、義務教育に復讐を果たすという身勝手な「大義」を口実に、子供や、障害者を痛めつけたのは、彼がとことん精神を病んだ者だからこそできる仕業であり、彼が偽りのエリート主義と、それに由来する優生思想を誤りと分かりながら訣別できなかったために、その魔物に飲み込まれた様子をよく表している。

つまり、酒鬼薔薇は、自分自身が、義務教育が目的とする「偏差値による淘汰」という残酷な優生思想の犠牲者となっていること、またそのようなシステムが非人間的で間違っていることを十分に知りながら、そのシステムに対する鬱憤と怨念を、自分よりも弱い者に向けることで、「淘汰されているのは、自分ではなく、これらの人々である」とみなし、自分のコンプレックスと怨念を彼らに転嫁して、自分の苦しみから目をそらそうとしたのである。

その上で、きっと彼は、自分の犯行をさえ他者に転嫁したのであろう。「現実の魔物は、本当に普通な彼の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際そのように振る舞う。」と自ら述べている通り、彼は、そんな犯行には到底、及びもつかない高潔で立派な人物を装いながら、今も社会のどこかで生き続けているのではないかと筆者は思う。

<続く>

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官僚制度の闇 〜なぜ日本政府は憲法と国民を敵視するのか〜①

以下の記事で、私は神戸連続児童殺傷事件の真犯人は少年Aではなく、これは少年法を改正して厳罰化を行う目的で、政府がしかけた自作自演の犯罪であり、公権力による捏造された殺人事件である可能性があると書いた。

少年Aは国民の中から選ばれて都合よく犯人に仕立て上げられただけであり、加害者とされた少年も被害者も、本当はともに公権力の被害者の可能性がある。選挙権が18歳まで広がった今、突如、長い沈黙を破ってタイミング良く出版された元少年Aの手記に後押しされるように、与党において早くも少年法改正の議論が起きているのを見ても、これは今に至るまで国民を欺くためにずっと続けられている政府主導の見えない「ゲーム」なのであり、公権力が正体を隠して国民へのステルス支配を行うために作られた自作自演劇の一環ではないかという疑いをどうしても拭い去れない。

まさか政府がそんな凶悪なことをするはずがないと、あなたはお思いだろうか。政府は国民を守るもの、役人は国民を助けるためにいるとあなたは思っているかも知れない。まさか政府が率先して無実の、しかも弱い立場にある子供を殺し、それを他の少年の仕業に見せかけて、それを契機に都合よく少年法を改正して厳罰化したりするはずがないと、あなたは思うだろうか。そんなのは異常者の仕業であって、知的エリートたる官僚がそんなことを考えるはずがないと。

もしあなたが本気でそう考えているならば、失礼ながら、政府というものについてのあなたの考えを改める必要があるかも知れない。まず、太平洋戦争中に政府の行為によってどれほど大勢の国民が死に追いやられたかを思い出してみる必要がある。次に、今、国会で審議されている「戦争法案」はどこから来たのか。違憲の疑いが極めて濃厚にも関わらず、それを押して、若者たちから将来を奪い、日本国民を再び戦場に送りこみ、残忍な死を遂げさせることを是とするような、この法案を作り上げたのは、内閣法制局、外務省、防衛省など、政府のすべての官僚組織にいる職員たちではなかったろうか。また、派遣社員に限らず、残業代もなしにすべての労働者をとことん働かせて疲弊させる「派遣法改正案」の作成に深く関わったのは厚労省ではなかったろうか。

なぜ国家役人たちはこうした一連の国民を締め上げるような、国民の誰も望まない恐ろしいサディスティックな法案を次々考案し続けているのであろうか。しかも彼らは法が施行される前から、すでに自分たちの「裁量権」がより大きくなるように、法律の文言を曖昧に骨抜きにし、彼らの「さじ加減」でいくらでも都合よく決めていけるように、抜け穴探しに余念がない。むろん、そこには安倍首相という人間のカラーも相当に影響を与えているに違いないが、首相の判断を背後で支えているのは、役人集団であり、政財界などの支配者たちである。国民の圧倒的大多数の反対をものともせず、国民を徹底的に苦しめ、疲弊させる恐ろしい法案の数々を、ほとんど国会を無視して審議すらせず、ただ審議したという見せかけのポーズのもとに、次々閣議決定し、強行採決し、委員会議長判断で緊急上程し、勝手に決めているのは官僚たちである。その法案の向こうに透けて見えるのは国民への憎しみと殺意であって、こんな人々が本当に国民に仕えているはずがないことは明白である。

官僚組織がこうして国の一部の支配者層の手足となり、国政の権利を国民から奪って、日夜、国民を欺いて、国民を苦しめることを主たる目的とするような、恐ろしい抑圧的な政策を次々考案し続けているのでは、まるで凶悪なサディストや、詐欺師や殺人マニアの精神性と変わらないではないかと思うかも知れない。これはどうしたことなのか。あなたは官僚組織がまさか詐欺師や凶悪犯罪者と何ら変わらないような犯罪者集団だという考えを拒むかも知れない。 だが、よく考えてみて欲しい。なぜ首相の周りにはあれほど厳重な警備が敷かれているのか。なぜ毎年日本武道館で行われる全国戦没者追悼式にはあれほど大量のSPが導入されるのか。なぜ辺野古の海上保安庁職員は市民を痛めつけるのか。この警護は、国民を守るために導入されているのではなく、政府を守るために導入されているのだ。誰から守るのか?国民の手からである。もう一度言う、国民の「暴挙」から政府を守るためにこうした警備があるのだ。真実に鋭く気づいて政府を糾弾してその殺人的な施策を止めるために勇気を持って立ち向かう「反逆的な」国民のあらゆる非難や攻撃から、政府が身をかばうために敷かれた厳重な警備なのである。従って、この警戒の厳重さだけを見ても、裏切り者の政府が、内心ではどれほど国民の反乱を恐れているかが伺えよう。自分たちが何をやっているのか、真実が明らかになった日には、決して許されるはずがないほど罪深い犯罪行為に手を染めていることを、彼らは内心ではよくよく分かっているので、警戒し、恐れずにいられないのである。

あなたはそれでもまだ抵抗するかも知れない。まさか我が国の政府がそんなとんでもない犯罪行為をするとは思えないと。でも、考えてみて欲しい、袴田事件のような冤罪は今も起きている。少年を犯人にしたて上げることは警察にはたやすい。真に罪を非難され、罰せられるべきは、本当にどこにでもいるありふれた14歳の中学生の少年だったのだろうか。親や社会や学校が悪かったので、そのような怪物を生んでしまったのか?それは国民の罪として私たちが反省すべきことなのだろうか? いや、むしろ、本当に悪いのは、エリートを自称して、いかにも上品そうに情け深く国や国民のためを思っているふりをしながら、その裏では徹底的に国民を欺いて、自分は見えないように姿を隠しながら、日本全体をステルス支配し、国民を影から操って互いに分断対立させ、国民には何も知らせず考える暇さえ与えずに、ひたすら官僚の思うがままの道具として圧迫され、なぜ苦しまなければならないか理由さえも分からないまま消耗して死んで行き、最後の血の一滴まで国家のために捧げ尽くす道具となるようにと、サディスティックな方策を日夜練り続けている公権力なのではないだろうか。

* * *

それでもまだそんなはずがないと主張する人がいれば、次の記事で紹介する動画をよく見て欲しい。

官僚制度というものにどういう起源があるのか、それをよく表す二つの動画だ。

これを見れば、国家公務員という「エリート」にどんな正当な根拠があるのかないのか、分かるはずだ。実のところ、この「エリート」には何の法的根拠もないばかりか、これは最初から憲法に違反して作られた詐欺的制度なのである。そのことを官僚が指摘され、うろたえている様子がおさめられている。

日本人はいい加減に目を覚ますべき時に来ているのではないか。自分たちを虐げ、踏みにじって君臨し、国民を殺すための鞭を構えて振り下ろそうとしている人々をエリートだと賞賛してもてはやしている場合ではない。自分は愚かだから考えることもできないし、彼らに叶うはずがないというコンプレックスなど持つべきではない。そうやって彼らは自分たちがあたかもあなたの及びもつかない選ばれた少数のエリートで、雲上人であるかのように見せかけることで、あなたの心を打ちのめし、抵抗する気力を奪うことを目的にしている。官僚は内心、あなた方の気づきを恐れている。彼らは本当には思っているほど頭の良い人々ではない。もし本当に賢かったなら、嘘と抑圧と犯罪に頼って、自分を守ろうとはしなかったろう。嘘はいつか必ずバレるからだ。 だから、何となくエリートという空気に騙されることなく、あなた方を苦しめ、虐げている彼らは一体、何者なのか、その地位にどんな根拠があるのか、ちゃんと確かめることが必要である。日本人の多くが優秀なエリートの選抜方法だと思い込んでいる官僚制度が、実は憲法に違反して、政治家の地位を奪い取って成り立っているに過ぎない詐欺集団であることが分かれば、今政府内で起きている国民への抑圧の意味も分かるはずである。 官僚は戦前から何も変化しておらず、変化することを拒んで古い制度にしがみついている。役人らは内心では今も大日本帝国憲法下を生きており、敗戦も受け入れていなければ、日本国憲法の主権在民を認めるつもりがなく、今の憲法を遵守するつもりなどあるはずがないのである。

さて、役人たちの裏切りと反乱はいつ始まったのか。それは敗戦の直後から、日本国憲法が制定された翌年にはすでに始まっていた。一般国民は、戦後、敗戦を受け入れて戦争中の過ちを深く認めて反省し、戦争を永久に放棄することにより、戦前とは全く異なる新しい平和な一歩を踏み出して今日があるのだと思っている。国際的にもそのような建前になっている。ところが、政府は例外である。官僚たちは戦後から今に至るまで70年の長きに渡り、国民を欺いて、すでに敗戦直後から、戦前と変わらない体制を合法に見せかけてひそかに国政に滑り込ませるべく画策した。それは自分たちから特権が失われ、もはや国民に君臨することができなくなって、単なる下僕にされてしまうことが我慢ならなかったからである。こうして本来、裁きを受けて解体されるべきものが、一度も裁かれたことがなかったかのように、罰を受けることも、権利を制限されることもなく、自らを温存しおおせた。彼らは敗戦という自らが犯した罪を率直に認めるにはプライドが高すぎたのだ。従って、官僚組織の中は戦前のまま時が止まっている。

敗戦前で時計が止まったままの政府は、今も戦前の人殺しの思想を何の反省もなく受け継いでいる。彼らにとって嘘と収奪と殺人は忌むべきことどころか、一億玉砕というスローガンを唱えていた頃から、目指すべき崇高な目標でさえあったのだ。この犯罪的な政府の思いは、今も国民への憎しみと殺意に貫かれており、自らの犯罪行為の真実な証人である国民を厭い、この望ましくない証人が全滅するまで、ずっと苦しめ、支配し続けるつもりなのである。生きている限り奴隷にし、ついには根絶やしにすることが目標なのである。

そう考えると、今日の官僚がますます新たな殺人的法案を作り出し、棄民政策に血道をあげていることも、全く不思議ではない。それでも、そんなはずはないとあなたは反論されるだろうか? よろしい、そこまで疑いの心がないのなら、犯してもいない罪のために刑場へ引かれて行って初めて考えればよろしい。


少年法改正と憲法改正 〜少年A君のために④〜

太田出版は『絶歌の出版について』とする声明の中で、遺族の反対を押し切ってまで出版を続ける意義について、次のように述べた。


「本書に書かれた事件にいたる彼の記述を読むと、そこには大人の犯罪とは明らかに異なる、少年期特有の、性的衝動、心の揺れなどがあったことがわかりますそしてそれだけの内面的な乱れを抱えながらも、事件が起きるまで彼はどこにでもいる普通の少年でした彼が抱えていた衝動は、彼だけのものではなく、むしろ少年期に普遍的なものだと思います。彼は紙一重の選択をことごとく誤り、前例のない猟奇的殺人者となってしまいました。彼の起こした事件は前例のない残虐な猟奇的事件でしたが、それがいかに突出したものであろうと、その根底には社会が抱える共通する問題点が潜んでいるはずです。社会は、彼のような犯罪を起こさないため、起こさせないため、そこで何があったのか、たとえそれが醜悪なものであったとしても見つめ考える必要があると思います。


 本書の後半は主に、彼の更生、社会復帰にいたる関係者の協力、本人の心境の変化が赤裸々に描かれています。何をもって更生が成ったかを判断するのは難しいことですが、彼は国のシステムの中で更生したとされ社会に復帰しました


 彼が類例のない猟奇的犯罪を犯しながら、比較的早い時期に社会復帰を果たしたのは、少年法が存在したからです。法により生きることになり、社会復帰を果たした彼は、社会が少年犯罪を考えるために自らの体験を社会に提出する義務もあると思います。


 彼の手記には今にいたるも彼自身が抱える幼さや考えの甘さもあります。しかしそれをも含めて、加害者の考えをさらけ出すことには深刻な少年犯罪を考える上で大きな社会的意味があると考え、最終的に出版に踏み切りました。」

 

* * *



この文章をよく読んでみよう。太田出版は、この手記を示すことにより、犯人は「どこにでもいる普通の少年」であり、彼の抱えていた(抑えがたい犯罪的な)衝動は、決して彼だけのものでなく、あらゆる少年にいつ起きてもおかしくないものであるかのように描いている。つまり、思春期特有の心の動きと、犯人の心の犯罪的衝動を直接、結びつけることにより、犯人の犯罪的な欲望までも、「少年期に普遍的なもの」、すなわち、少年にありふれた心の動きであるかのように論理をすりかえているのである。

 

このような視点は、子供や少年全般を無差別に疑いの眼差しで見ることを促す。子供や少年そのものへの適視を煽っていると言っても過言ではない。

なぜなら、このような論理に立つと、「どこにでもいる普通の少年」が、いつでも凶悪な犯罪者「酒鬼薔薇聖斗」に早変わりしてもおかしくない危険性を秘めているということになってしまう。そうなると我々が住んでいる社会はどんなにか恐ろしい場所ということになるだろう。

しかし、どう考えても、そのような論理は極論であり、そのように、あらゆる子供や少年を犯罪を犯す前からすでに犯罪者であるかのような一方的な疑いの眼差しで見るように仕向けるのはどうかと思う。そのような考えは、子供たちに非難の眼差し向けさせ、威圧的に接し、あわよくば罰しようとするような傲慢な態度を生むだろうが、それは根本的に間違っている。むしろ、子供は大人よりもはるかに純粋で、良心的な側面も持っているのである。

太田出版はしかし、あらゆる少年の中には酒鬼薔薇聖斗のような犯罪性があるとしているだけでなく、次のように続ける。この事件の根底には、社会の抱える共通する問題点が潜んでいる」と。つまり、太田出版は言外に、犯人の持っていた犯罪的衝動は、単に「どこにでもいる普通の少年」に共通のものであるばかりか、それを生んだ母体としての「社会」にも共通するものであると示唆しているのである。

このようにこの出版社は、全社会、つまり、私たちに犯罪者の母体としての疑いの眼差しを向けている。

太田出版は、犯人の中に「社会の抱える共通する問題点が潜んでいる」と述べることにより、「社会」はこのような犯罪少年(魔物)を生んだ責任を自覚して、「社会は、(二度と)彼のような犯罪を起こさないため、…たとえそれが醜悪なものであったとしても、見つめ考える必要がある(責任がある)」と主張する。

結局、太田出版は、こう言っているのだ、この魔物を生む根本原因を作ったのは社会(我々読者?国民?)なのだから、あなた方一般国民はその責任を取って、この醜悪な事件を見つめ、考える責任があると。要するに、歪んだ社会によって歪んだ心の少年を造り出したことの責任を取って、一般国民はもっと少年犯罪について勉強し直すために、この本を買って読みなさいと言っているのである。

太田出版はこのようにして全ての思春期にある少年だけでなく、魔物を生んだ歪んだ社会も犯罪性を帯びていると案に糾弾する一方、魔物であった犯罪者が、「国のシステムの中で更正され、社会に復帰した」と、「国のシステム」を持ち上げ、賛美する。

ここで言う「国のシステム」とは何か。それは国民の犯罪を取り締まるために政府が作り上げた数々の罰則規定のことである。太田出版は「国のシステム」の一環としての「少年法」を賛美して言う、「彼が類例のない猟奇的犯罪を犯しながら、彼が比較的早期に社会復帰を果たしたのは、少年法が存在したからです。」

つまり、太田出版によると、手に負えない魔物であったこの少年を立ち直らせたのは、国が用意したありがたい少年法なのであり、社会(国民)はこのような国のありがたい更正システムが存在していること、少年法のありがたさをもっと認識して学ぶ必要があるということになる。

こうして少年法によって罰せられ、国によって更正させられたからこそ、魔物は真人間に立ち直ったのであり、あのまま社会にいれば、到底、立ち直り不可能であったろうとほのめかしているのである。

犯罪者の元少年は、社会にいればただ死んでいるだけの有害な存在であったが、「法によって生きる」者となったのであり、このように彼を生き返らせた「国のシステム」たる「少年法」の素晴らしさをこれからもいつまでも誉め称え、ずっと社会に証明し続けるために、元犯罪者の少年は自らの更正体験を社会に提供して社会を啓発する義務があるというのである。

* * *

何と言う上から目線の押し付けがましいお説教だろうか。

それに何と倒錯したものの考え方だろうか。

太田出版の言うように、果たして「社会=悪、犯罪を生み出す母体」、「国のシステム=善、人を犯罪から更正させる正義の力」という極端な二項対立が成り立つものであろうか。

このような主張は、「国(政府)を善」、「国民を悪」とする前提で物事を見させ、あらゆる国民の中には犯罪の芽が潜んでいる(ので犯罪を防止する方法を考える)必要があるとした上で、「法」というものを、「国民が権力者を縛るもの」でなく、「権力者が国民を縛るもの」にすりかえてしまう効果を持っているのである。

このような「法」についての倒錯の理論が、今、安保法制、憲法改正においても全く同じ構図で適用されようとしていることに考えを馳せたい。つまり、法によって制限され、抑圧を受けるべきは、国家ではなく国民だという発想がそこに流れているのである。そしてなぜそうなるかと言えば、国家は正しいが、国民には犯罪性の芽が潜んでいるからだというのである。

***

もう一度、記事で引用した2001年の論考を抜粋したい。 

「少年法「改正」とは何だったのか」 小野田桃子著 (検察官関与に反対し少年法を考える市民の会/シンガーソングライター)、初出「教職課程」2001年2月号

  少年法「改正」の動きについて、あるテレビのニュースキャスターが「子どものことを理解できなくなった大人が、まるでモンスターのような子どもから大人社会を守ろうとしているかのようだ」と言っていた。また、ある作家は「子どもへの怒り、報復の心理さえ働いている」と述べた。

 

  それは子どものせいなのか。

 子どもを悪者にして、子どもをコントロールしようとすれば済む問題なのか。
<…>

 子ども本来の遊びを、子どもが子どもでいられる時間を、子どもの居場所たる安心できる関係を、自然を、労働をはじめとしたさまざまな体験を奪ったのは一体誰なのか。従軍慰安婦も南京大虐殺もなかったなどというでまかせで歴史を奪おうとするのは誰なのか。核廃棄物を積み上げて未来を奪うのは誰なのか。子どもが逃げ込める闇を奪ったのは誰なのか。

教育基本法を「改正」しようと息巻いている人々は言う。子どもを自由にさせすぎた。そのせいでわがまま勝手な子ども若者ばかりになってしまった。子どもに規範意識を持たせ、個人よりも公=国家を重んじるようにさせよう

 少年法と教育基本法の「改正」問題は地続きなのである

 そしてそれは、憲法改正にまで進むことになるだろう戦前回帰かどうかは別として、日本がどんどん危険な方向に動いていることはどうやら疑う余地がなさそうだ。

 子どもたちから奪ったものは、私たち大人も失ったものだ。

  そして、子どもの目の輝きが失われた社会は、本当に未来を失ってしまうだろう。
 子どもはおとなにとって、過去であり、未来である。
 

少年法改正と憲法改正 〜少年A君のために③〜

暗闇の力が迫っている。

私がこのブログを試験的に書き始め、神戸連続児童殺傷事件のことを取り上げてから、まだほんの十数日ほどしか経っていないというのに、何十年の沈黙を破って、「元少年A」が手記を発表した。『絶歌』である。

神戸の事件によって息子を殺害された遺族は、この手記の出版には事前に何の承諾も得ておらず、この手記によって深刻な2次被害を受けたとして、弁護士を通じて出版差し止めに向けて抗議文を出した。(少年Aの手記「今すぐ出版中止を」遺族が訴える 神戸連続児童殺傷事件ハフィントンポスト)

にも関わらず、太田出版社は出版を強行、出版からわずか数日で手記はベストセラー入りし、早速、少年法改正の議論さえ出てきているというのだ。

何かおかしくないだろうか。この急速な流れ。

神戸連続殺人事件を人々の脳裏に思い起こさせることにより、またもや少年法改正、厳罰化を是認しようとしているこの流れを疑問に思わない方がおかしい。これはどう考えても、自然発生的な現象ではなく、「上から作られた流れ」ではないだろうか。手記は計算されたタイミングで上からの承認を得て発表されたのではないかと推測される。


***

まず、最もおかしいのは、こんなにも何十年間も沈黙していたはずの元少年Aが、なぜいきなりこのタイミングで手記を発表したのかということだ。

私はこの少年Aは神戸連続殺人事件の真犯人ではないと見ており、これは少年法を改正して厳罰化することを可能とする世論誘導のために、そもそも権力側によって捏造された自作自演事件であったと推測している。少年Aは権力側によって都合よく犯人に仕立て上げられたに過ぎない可能性が高く、その疑いを裏づける数々の主張が、知識人らによって指摘されていることについて、すでに記事に記した。

今、起きていることは、前回の繰り返しではないだろうか。

仮に百歩譲って、元少年A君が真犯人だと仮定してみたとしても、犯人がどんなに文才巧みな人間であれ、重罪を犯している以上、そんなにも簡単に手記の出版に漕ぎ着けられるはずがない。何の前科もない市民にとっても初出版は大変な作業であり、売れ行きが確実でないと、出版社も応じない。当然、細々と自費出版を行うことになるのである。

そんな状況で、一度も書物を公刊した経験がなく、恐らくは名前も変えて、世間から隠れるようにして生きている人間、しかもあまりにも反社会的な犯罪を犯したという過去を負っている「元犯罪者」がどうして簡単に出版ができようか。どうして自分の身元が割れるかもしれない危険を自ら背負おうと望むだろうか。出版社が炎上商法を狙うにしても、あまりにも常軌を逸している。

そこで、これには必ず出版を影で支え、可能とした上からの大きな力があり、ゴーストライターもいると見るのが適切であろう。その見えない力の後押しがあってこそ、わずかな間で、これだけ短期間で売り上げを伸ばすという「不自然な実績」もできたのである。

ネットではこの手記については否定的な意見が大半で、不買を呼びかける人も多く、世間はこの邪悪な事件を脳裏に思い浮かべることを拒否しており、誰かがそれを読んだとしても、感想を述べるのさえためらわれる空気がある。世間はこの事件を決して典型的な少年犯罪事件とは考えておらず、極めて特異で稀な事例であると認識している。この書物に今、大勢が多大な関心を持っているとは私にはどうしても思えないのだ。

ネットの意見が国民の大半の意見を反映しているとすれば、この異常な売り上げは、自然なものでなく、事実なのかどうかさえ分からない。再び、少年法を改正して、厳罰化を可能とする下地として、あたかも世論がこの手記に関心を示しているかのような空気を作り上げ、少年犯罪への人々への関心を再び盛り立てるために、『絶歌』の架空の売り上げ実績を作ろうとして、書籍を大量に買い上げた影の存在があるかも知れない。

今、その推理を裏付けるような様々な法改正が国会で進行中である。

まず、期を同じくして、選挙権の引き下げがあった。今までは成人とみなされていなかった18歳に選挙権が認められるようになった。こうして、今まで子供とみなされていた者たちが選挙権を付与されたと同時に、大人としての責任も一緒に負ってもらべく、少年法も改正し厳罰化を導こうとする議論がすでに起きている。
(少年法改正に折衷案、適用年齢下げても一部保護 自民)

さらに、今、文部省が国立大学から文系の学部をなくそうという動きをしていることも思い起こしたい。(その学部、本当に必要? 全国立大に見直し通知、文科省(朝日))

かつて、「酒鬼薔薇聖斗」は犯行声明文の中で、義務教育への深い恨みを述べていたことを思い出そう。

「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として、認めていただきたいのである。それと同時に、透明な存在であるボクを造り出した義務教育と、義務教育を生み出した社会への復讐も忘れていはいない。」

犯人は、この殺人が単なる個人の異常な趣味の領域を超えた、義務教育と社会そのものへの「復讐」の理念に貫かれていると述べているのである。

そこから見ても、これはすでに極めて特異な性癖を持った人間の猟奇的な殺人事件というよりも、むしろ社会へのテロ、義務教育へのテロ、社会への宣戦布告のような意味合いを持つ事件であったと見ることができる。これは単なる猟奇的な殺人事件や、異常な性癖を持った少年による犯罪という枠組みにもともとおさまらず、もっと広大で深遠な理念のもとに計画的に行われたテロリズムの思想に基づいた犯行だったのである。そこで、こうした犯罪を少年犯罪の枠組みの中でひとまとめにして扱い、このような深いテロリズムの思想を持った特異な事件をきっかけに少年法そのものを改正して厳罰化しようとするのにはあまりに無理がある。

今、義務教育への復讐としか受け取れないような、「教育へのテロ」を行っているのは誰だろうか。それは生徒らや国民の側から行われているのではなく、政府の側から、権力者の側から行われているのである。教育現場での国家斉唱、国旗掲揚の義務化、歴史修正的な記述のある教科書の採択の押し付けから始まり、補助金を盾に取った国公立大学潰し、大学への支配、大学での自民党サークルの結成、等々に至るまで、義務教育から大学教育に至るまでの一貫したこれら教育の破壊としか受け取れないような教育現場への介入は、公権力の側から行われているのである。

酒鬼薔薇聖斗は犯行声明の中で、この犯罪は「ゲーム」であるとして、「ボクはこのゲームに命をかけている。捕まればおそらく吊るされるであろう。」と述べた。

もし元少年Aが犯人であったなら、彼は少年ゆえに捕まっても「吊るされない」ことを認識していたはずである。しかし、犯人は「本命」がバレれば、自分は必ず「吊るされる」とはっきり書いているのである。それを見ても、真犯人が当時未成年の中学生であったとは到底、考えがたいのである。

***


神戸連続殺傷事件は今も続いている。それは公権力が仕掛けた見えない「ゲーム」として、国民へのステルス支配として今も続いている。謎がきちんと説かれない限り、私たちは何から攻撃されているのか分からず、この目に見えない悪意を込めたゲームはずっと続くのである。加害者も、被害者も、ともに国民の中からスケープゴートとして選ばれた人間に過ぎず、真の犯人でない可能性が高い以上、どんなに国民が「加害者」なる人間を非難し、また、罰則を強化することによって、こうした事件の再発を防ごうとしても、犯人はその捕獲の網の間を笑いながらすり抜けて行き、結局、国民が自分で自分の首を絞める効果しか生まれないのだ。

だからこそ、「復讐」なのである。自分が誰であるか見えないように正体を隠し、ステルス支配を続けながら、真犯人は世論の後ろに隠れて世論を操り、国民を支配し、誰が本当の犯人であるか分からない暗中模索の混乱を引き起こし、その中で、国民同士が互いに憎み合い、裁き合い、戦い合うように仕向けている。

それが、「今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるだろう」と言って、国民の後ろに正体を隠し続けながら、国民を嘲笑い、踏みにじっている公権力なのである。この事件については、そう考えるのが最も自然であり、その流れは今後ますます明確になって来るだろう。

「隠されているもので、明るみに出されないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。」(ルカ8:17)

「本命」はいつか必ず明らかになり、吊るされる」日が来る。しかも、それはそんなにも遠い日のことではないかも知れない。私はそう考えている。


少年法改正と憲法改正 〜少年A君のために②〜

神戸児童連続殺傷事件については、以前にも一度、記事で記したことがある。その際には通りすがりに触れた程度であったが、この事件については、すでに紹介した通り、少年Aは犯人ではないとする有力な説がかなり以前からあって、権力の恐るべき犯罪 神戸小学生惨殺事件の真相というサイトをご覧になれば、このA君冤罪説は、非常に綿密で信憑性のある数多くの根拠に裏付けられていることが分かる。細部まできちんと目を通せば、この冤罪説が安易な憶測に基づくものではないと誰もが認めざるを得ない内容になっている。この事件には、未だに犯人とみなされているA君の犯行を裏付けるための物的証拠がほとんど存在しないのである。

だが、もし仮にこれが本当にA君の冤罪事件であったとして、一体、誰が、A君を犯人に仕立て上げてまで、このような大がかりな犯罪を計画せねばならなかったのか。考えられることは、警察による密室での性急な取調べの過程で発生した不幸な冤罪事件の可能性だけではない。恐ろしいのは、そのようなレベルをさらに越えて、この事件そのものが、少年法を改正して厳罰化へと導くための大がかりな世論誘導のためのきっかけとなるべく企図された国家権力によるでっちあげの事件だったのではないかという疑いが生じることである。

事件が起きたのは1997年、少年A君の逮捕後、被害者が実名で報道されたのに対し、加害者とされた少年が凶悪犯罪にも関わらず匿名で報道されるなどしたことなどもあって、「被害者の権利がないがしろにされているのに引き換え、加害者少年が少年法によって保護され過ぎているのではないか」という議論が社会に起こり、少年法に対する批判が高まった。実際に、この事件と世論による批判の後押しを受けて、2000年に少年犯罪の厳罰化を促す少年法改正が成立し、2001年より施行された。

・・・・・・・・・ 

「さあゲームの始まりです 愚鈍な警察諸君 ボクを止めてみたまえ」  という文章で始まる、犯人が書いたとされる二通の犯行声明文は、ダンテの『神曲』や、映画『プレデター2』や、その他、さまざまな作品の引用だけから成り立っており、その他、犯人が書いたものとされる「懲役13年」にしても、論理的にも思想・哲学的にも、非常に高度な内容で、巧みな文才と技巧を表しており、およそ中学生の書ける文章ではないとの指摘がこれまで幾人もの識者によってなされて来た。

犯行声明の中で、「愚鈍な警察諸君」と、特別に警察に対して敵意ある嘲笑的な呼びかけが向けられていることや、「吊るされる」、「本命」などの警察用語が声明文に使われていることを見ても、これは警察の内部犯行なのではないかとの憶測が当時より存在して来た。犯行声明文をくわえるようにして校門に置かれた被害者の小学生の淳君の頭部は、衝撃的な演出効果を狙って計算され尽くした角度で切断されており、そのようなことはプロでなければできない高度な技術を要することが指摘されている。

犯人が書いたとされる巧みな犯行声明文は、A君自身が取り調べ中に書いた作文とは思想的に似ても似つかない。さらに筆跡も、A君のものとは異なることが指摘されている。犯人の筆跡について、すぐに気づく簡単なことは、平仮名の「そ」を一画ではなく、二画に分けて書いていることであり、これは比較的上の世代の特徴であり、A君が学校教育を受けた時代には、学校ではもうすでに教えられていなかった書き方であるはずだ。従って、「そ」という字の筆跡から見ても、犯行声明文を書いた人間は、A君よりももっと前の世代に属する者なのではないかと私は想像せざるを得ない。

画像の出典:「権力の恐るべき犯罪 神戸小学生惨殺事件の真相」



しかし、仮に冤罪だとするならば、最大の気がかりは、一体、真犯人は誰かということだ。A君の無罪を推定可能とするような状況証拠はいくつも挙げられるが、真犯人につながるもっと有力な手がかりはないのか。私は、犯人の名前に含まれる暗号こそ最有力の手がかりではないかと考える。酒鬼薔薇聖斗という名前が現実にはあり得ない当て字であることは誰にでもすぐに分かるが、なぜ犯人は他でもないこのようなペンネームを使ったのか。

二回目の犯行声明文にはこう書かれていた。

「神戸新聞社へ この前ボクが出ている時にたまたまテレビがついており、それを見ていたところ、報道人がボクの名を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた。人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は、 暗号でも謎かけでも当て字でもない、嘘偽りないボクの本命である。ボクが存在した瞬間からその名がついており、やりたいこともちゃんと決まっていた。…」

この声明文は、犯人の自己顕示欲の強さを表しているだけでなく、犯人はそこで自分の名前は「オニバラ」ではなく「サカキバラ」と読まなければならないと、「読み」が重要な意味を持つことを示唆している。ここから推測できることは、やはり、真犯人は酒鬼薔薇聖斗という名前の中に、自分自身を特定できる何らかのヒントをこめたのではないかということである。そもそも、犯人は犯行声明の中で、自分を探し当てられるかどうかは、「愚鈍な警察」に対する「ゲーム」であると挑戦を突きつけており、自分の名前が、「暗号でも謎かけでも当て字でもない、嘘偽りないボクの本命である」と述べており、従って、この名が真犯人の特定につながる決定的な何らかの手がかりとなるものと考えることは何ら不思議ではない(本命とは、本名の意味でもあり、同時に、真犯人の名であることを示す警察用語だ。)

そこで、私に思い思い出されるのは、子供時代に文通していたクラスメートが、自分の姓名をアルファベットに置き換え、それを分解して、新たに別な名前に組み立ててそれをペンネームに作っていたことであった。酒鬼薔薇聖斗という名前は、同じように、本名をもとに組み立てられたペンネームなのではないだろうか。なぜだか分からないが、子供でも考えつきそうなこの推論は、どの資料においても行われていなかった。これはあくまで推論に過ぎないとはいえ、考える余地はあることだろう。

酒鬼薔薇聖斗の名を、SAKAKIBARA SEITO とアルファベット表記し、このアルファベットをバラバラに分解して組み立て直したとき、どのような名前が出てくるかを試してみてほしい。

何通りもの名前に組み立て可能であるが、その中から日本人の名前として自然に聞こえる候補を出してみるとどうなるだろうか。たとえば、SIBASAKA KEITARO といった全く別の名前が割り出されるのだ。

ちなみに、インターネットの負の側面として、A君の実名が公にされてしまっているが、その名は、酒鬼薔薇聖斗のアルファベット表記とは何の関連性もなかった。そんなこともあって、やはりあらゆる角度から見て、私には酒鬼薔薇聖斗はA君とは全く別人であるのではないかという疑いがさらに強まってならない。この事件はきちんと再考されなければならないのではないだろうか。

<アルファベットから導き出される名前のサンプル>

シバサカ ケイタロー

イシカベ カサタロー(サカタロー)

サカキバラ トシエ

カバサキ セイタロー

カサカベ カイチロー

ササカベ カイチロー

 


少年法改正と憲法改正 〜少年A君のために①〜

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仮に国家権力の中枢にいる誰かが、少年法を改正して厳罰化したいと願っていたとしよう。

それを実現するために、何が必要であろうか。ただ少年犯罪への厳罰化に向けて、その必要を訴えるだけでは、世論は必ず反対するだろう。そこで、既存の少年法ではあまりにも不十分だから、改正して厳罰化を促す必要性がどうしてもあることを社会全体に認めて後押ししてもらえるような、何らかのきっかけがなければならない。つまり、厳罰に相応するような重罪犯罪が先立つ必要がある。しかも、通常の方法では拭い去ることのできない社会の根強い反発を払拭するためには、たった一つの事件で大きく世間を揺るがし、世論を根本から変えてしまうような、極めて重い、衝撃的で例外的な事件が起こるのが望ましい――。

そこである犯罪的な企図がなされ、効果的な方法が編み出される。まず少年による何らかの凶悪犯罪が行われたことにする。しかも、社会を震撼させ、非常に多くの知識人やマスコミ人たちの注目を一瞬で集めるような、ドラマチックで猟奇的な犯罪事件が良い。そのような少年犯罪なら、社会は騒ぎたち、大人たちはショックを受けて憤り、子供にも罰が必要だと考えるようになるだろう。少年法の改正(厳罰化)を是とする方向へ世論を簡単に誘導して行くことができるだろう。(ついでにその際、愚かな世論はやがて自分で自分の首を絞める法を制定する方向へと誘導されていることも分からず、我が子にも等しい少年だけを目の前の「敵」としてやっつけ、非難するだろう――。)

私たちは、もし少年法の厳罰化をどうしても目指したい人々が国家権力の内部に根強く存在したとしたら、その人々が違反行為を捏造してでもその契機を作り出さない、と断言することができるだろうか。

以前に取り上げた論考は、少年法改正の背後に、このような権力による大がかりなでっちあげ犯罪があった可能性までも示唆してはいないものの、少なくとも、この少年法改正の背景に、権力によって作り出されようとするある空気のような流れが、すなわち、「公」の秩序だけを是とし、ここからはみだしたり、それにそぐわない弱い「個人」の意思を違反として厳しく取り締まり、罰することで、個人や個性を悪として描き、それを萎縮させようとする空気を社会の中に巧みに醸造しようとする危険な動きがあることを指摘している。

私も基本的にそれに同感である。従って、この個人の犯罪への厳罰化という流れは、少年法改正にとどまらず、やがてはもっと大がかりな法体系へと発展し、大人も子供も年齢を問わず、「公」の秩序にそぐわないあらゆる「個人」を取締りの対象とし、個人による「公」の秩序への違反を厳しく罰するような、残酷な風潮を社会に作り上げずにはおかないだろうと見ている。少年法改正はこうした流れの中で意図的に踏み出された一歩に過ぎない可能性がある。

・・・・・・



個人よりも、公を重視する風潮。それは長年かけて我が国に醸造されてきた。この社会において、公よりも個人を尊重して生きる人々は、「協調性がない」とか、「わがままだ」とか、「社会規範を知らない」といった数々の非難の言葉の攻撃を受けるのが通常である。やさしく言えば「空気読めない」という言葉になろうし、堅く言えば「公共の秩序を乱す存在」ということになるのであろう。

こうした誰が言い始めたとも知れない個性に対する攻撃の言葉は、今や社会の至るところにヘイトスピーチのごとくはびこっており、これを受けて人々は、自分だけは攻撃されないように、より息を押し殺し、目立たぬようにしながら、浮いた存在と呼ばれず、秩序を乱しているとの非難を受けないように、自己の意思を押し殺すことに慣れている。

周囲の「空気」に迎合しているように見せかけるためには、隣にいる誰かが攻撃されていても、巻き込まれぬように、手を差し伸べることも、同情することもなく、異議を唱えることもやめて、そ知らぬ顔をしているのが一番良い。そうこうしているうちに、この国民にはいつの間にか個性もなくなり、ついには心まで麻痺し、弱い者が傷つけられているのを見ても、同情心がわくことさえ、もはやなくなってしまった。

だが、そのようにして醸造される「空気」が、もしも悪だった場合、それに同調し、反対しなかった者にその先、待っている運命は何だろう? たとえば、社員全員が無賃残業を強いられている会社で、一人だけ残業代を払って下さいと言い出す社員がいたとしよう、彼は早速、みんなから悪者扱いされて袋叩きにならないだろうか。職員全員が規律違反を当然視している団体で、一人だけ規律を守りましょうと言う人があったら、白眼視されないだろうか。

みなが同じ事をしているからと言って、それがいつも正しいとは限らない。むしろ、「赤信号みんなで渡れば」の精神で、みなが足並みそろえて同じ悪事に手を染めていることだってある。そのようなときに、その「公の空気」にたった一人であっても反対することは、果たして罪なのであろうか。それ対して「協調性がない」という非難は当たっているのであろうか。

戦前がそうであったように、「公」の概念などというものは、実に間違いやすく不確かなもので、ともすれば、非常に残酷な集団的盲目性へと人々を誘導して行きかねない恐ろしさを秘めている。自己の意思を放棄して、集団の空気に流され、染まってしまったが最後、いずれ後になって意識を取り戻したときには、とんでもないファシズムに加担した恐るべき共犯者として、重い責任を問われることにもなりかねない。その時に、私は知りませんでした、これはみんながやっていたことです、と、どんなに叫んでも、弁明にはならないし、情状酌量もされないだろう

そのような罠に落ちないためには、いついかなるときにも、人は自分で考え、自分で判断することをやめないでいる他はない。

空気とは大抵、「強い者」たちが何らかの目的を持って意図的に作り出した得体の知れない同調圧力のことで、日本人はあまりにも集団性を重んじ、「公」を尊重することを美徳と思い込まされた結果、たった70年前にあんなにも愚かな失敗をしでかしておきながら、今になっても、「空気」そのものを疑ってみることをしない。自分たちが正しいと考えている集団の「空気」そのものが、自分たちを操り、誰かに都合よく、予定通りの結果を導き出すために、計算づくで作られたものなのかも知れないとは疑ってみない。あまりにも長い間、「空気」に身を委ねることを自己の意思よりも優先して生きてきたため、すでに自分に固有の意思があることすら自覚できない、愚かで盲目な無抵抗の羊になってしまった。

「空中の権を持つ君」(エペソ2:2)とは、誰のことであったか。

・・・・・・



この「空気」を私は「壁」と呼びたい。「壁」とは、この世のならわしや、公の秩序や、制度を指す。思考停止の壁でもある。

自ら考え自ら判断する個人は、この「壁」にぶつかって割れる小さな「卵」だ。

この国では今日も毎日、多くの「卵」たちが「壁」にぶつかっては割れ、死んで行っている

壁は日々、着々と卵に向かって落ちかかり、卵たちを圧殺し、押しつぶしている

だが、よく考えてみよう。確かなものは、どちらなのか。

壁なのか、それとも、卵なのか。

公共の秩序の安寧のため、社会全体のため、という「壁」の前に、それになじまない個人の都合や利益は、わがままや、秩序を乱す悪として、簡単に非難され、切り捨てられていって良いのか。

そもそも卵は壁のために存在しているのであろうか。仮に(あり得ないことだが)一度でも壁が卵の悲鳴をかえりみて、自らを反省することがあったとしても、ただ壁の残酷さを証明するために、壁にぶつかって割れ、はかなく砕け散っていくことが卵の使命なのだろうか。

分厚く高くそびえる壁の前に、卵の存在は弱く、脆い。散って行く桜や、水面に消えていくうたかたと同じように、卵たちははかなく、弱く、脆い。だが、そんな夢のごときはかない存在であり続けること、常に「壁」との関係で打ちのめされることにしか、「卵」の存在意味はないのか

しかも、それだけではない。「壁」は最近こういうことを言い始めた。「壁」の前に「卵」は、はかなく壊れやすい存在であるばかりでなく、卵の使命とは、卵のむなしさと、壁の永遠性を証明するために、「壁」を守る目的で、すなわち、公共の秩序を守るため、国を守るためという名目で、自らの権利を自主的に捨て去り、命までも犠牲にして、壁の存続のために、壁にぶつかって死んでいくことにあるというのだ。

そんな愚かでたわけた思想がどこから出てきたのであろうか。それが卵の使命なのだろうか。

断じて、そんなはずはない。

卵は壁の存続のために存在しているわけではない。卵は、壁にぶつかって割れることを使命としているわけでもないし、まして、壁の永遠性を保証するための道具ではないのだ

本当は壁こそが、卵を守るために卵によって造られたものである。

卵を守る限りにおいて、壁は存在の意味を持っている。

卵を守れなくなった壁など要らない。

ところが、いつからそれが逆転し、壁の卵に対する反乱が始まったのか。

少年法改正から憲法改正への道

たまたま見つけた15年前の論考であるが、非常に的を射た秀逸な議論であると感じたので、ここに引用したい。

この論考の最後の部分のみを読んでも、今日の危機的な政治状況がいかに長い時間をかけて意図的に作り出されて来たものであるかが分かる。

 

「少年法「改正」とは何だったのか」 
小野田桃子著 (検察官関与に反対し少年法を考える市民の会/シンガーソングライター)、初出「教職課程」2001年2月


 少年法「改正」の動きについて、あるテレビのニュースキャスターが子どものことを理解できなくなった大人が、まるでモンスターのような子どもから大人社会を守ろうとしているかのようだと言っていた。また、ある作家は子どもへの怒り、報復の心理さえ働いていると述べた。

 

それは子どものせいなのか。

子どもを悪者にして、子どもをコントロールしようとすれば済む問題なのか。


学校にいかなければいけないという思い込みが、いい子でなければ愛されないという脅迫が、消費と長時間労働をよしとした価値観が、子どもを消費文化のターゲットにした商品社会が、人間関係を希薄にした大人社会が、子どもたちをここまで追いやっているのではないのか。

子ども本来の遊びを、子どもが子どもでいられる時間を、子どもの居場所たる安心できる関係を、自然を、労働をはじめとしたさまざまな体験を奪ったのは一体誰なのか。従軍慰安婦も南京大虐殺もなかったなどというでまかせで歴史を奪おうとするのは誰なのか。核廃棄物を積み上げて未来を奪うのは誰なのか。子どもが逃げ込める闇を奪ったのは誰なのか。

 

教育基本法を「改正」しようと息巻いている人々は言う。「子どもを自由にさせすぎた。そのせいでわがまま勝手な子ども若者ばかりになってしまった。子どもに規範意識を持たせ、個人よりも公=国家を重んじるようにさせよう
 少年法と教育基本法の「改正」問題は地続きなのである
 そしてそれは、憲法改正にまで進むことになるだろう。戦前回帰かどうかは別として、日本がどんどん危険な方向に動いていることはどうやら疑う余地がなさそうだ。

 子どもたちから奪ったものは、私たち大人も失ったものだ。
 そして、子どもの目の輝きが失われた社会は、本当に未来を失ってしまうだろう。
 子どもはおとなにとって、過去であり、未来である。

 

この論考はすでに15年前に「少年法と教育基本法の「改正」問題は地続き」であり、「それは、憲法改正にまで進むことになる」と予想していた。まさにその通りの動きが今日起きている。
 
著者はそのような流れの背後に「個人よりも公=国家を重んじるようにさせよう」と、個人(個)よりも公共性(公)を重視させようとする思想があることを見抜いていた。


日本人には集団性を重んじる国民性がある。だが、日本人が美徳と考えている集団性は、一歩間違えば、「公」の名の下に個性を圧殺し、踏みにじる凶器ともなる。この「公」の概念こそ、戦前には国家主義として多くの国民の命や安全を奪ったのであり、その反省に立って、我々は一体「公」とは何なのかということをいつも立ち止まって考えてみる必要がある。
 

「公」とは「個」と対立する概念なのであろうか。「公」は間違うことのない概念なのであろうか。
 
そもそも一体、「公」とは何なのか。
 

この曖昧な空気のような概念を明確に説明できる人はいない。今日も「公」という言葉で表現されるのは、社会全体の秩序、多数派の都合、国家や権力者の意思、大人たちがその時々に作った様々な不完全な制度そのものの総称といった、非常に曖昧模糊としたものではないかと思う。

そんな漠然とした「公」の正しさ、美しさをさかんに述べ立てて、大人たちの作った制度を何が何でも守るよう子供たちに強制するよりも前に、まずはそんな制度がいかに不完全で、問題に満ちているかについて考え、その不完全さを改める努力を行わないことには始まらないのではないか。

15年前の当時から、義務教育の弊害、格差社会の弊害、市場原理主義の弊害、国家主義の弊害などは明かであった。そういう大人たちが作り出した様々な制度の歪みが指摘されているときに、その制度の悪を見ずして、ただ制度に適応できなかった弱い個人=子供のみを糾弾して厳罰を科すようなやり方で、私たちはより良い社会を築いていくことができるのであろうか。

規律違反そのものはあるべきでないとしても、だからといって過剰な取り締まりや、強制力により、人間の本質までも変えることはできない。むしろ、取締りを強化すればするほど、犯罪もいたちごっこのように深刻化していくだけである。人間の本質は外からの強制力によっては変えられず、どんなに厳しい罰則を作っても、それ自体が人を根本的に変化させるわけではない。人が変わるためには、どうしても自主的な内的な変化の過程が不可欠であり、そのためには自由に考えるための時間が必要なのである。

だが、自分たちの作った制度のあり方が間違っているとはどうしても認めたくない大人たちは、自らも内省の機会を持とうとはしない。それは、自分たちの間違いなど見たくもないと思っているからだ。そこで、大人たちは一向に変化しないまま、頑なに自己の正当性を主張して制度を守ろうとし、それに違反する者への罰則だけを一方的に強化する。そうして違反者を社会から切り捨ててしまう。 違反者を隔離し、切り捨てることにより、存在そのものをタブーとし、考えることをやめる。いわば、隔離によって問題そのものを圧殺するのである。このように一方的な力づくの措置によって社会から切り離された「違反者」の少年たちは、社会との対話の外に置かれ、自ら問うことをやめてしまう。

少年犯罪は、そもそも既存の社会制度の歪みや腐敗を、鑑に映したように表す警告であり、大人たちの社会の危険信号であることを、まず第一に考えてみなければならない。

ただ罰則を強化して強制力を行使することにより、違反を取り締まったり、未然に防ごうとすることを考えるよりも、むしろ、なぜそのような違反が生まれるのか、現存の社会や秩序制度の中にすでに違反を生み出す根源が潜んでいるのではないか、大人たちの態度の中にこそそれを生み出す原因があったのではないかという点について、私たちは反省しなければならない。それが、制度を作った大人たちの責任であり、大人たちがそのように自らを反省することがあって初めて、子供たちもそれにならって考え始めるだろう。 こうした内省の作業なくして、ただ規律を破った子供や若者に厳罰を科すことにより問題を葬ろうとする態度では、厳罰主義が横行し、大人も子供も共にますます自ら考えることをやめて、「見つかって罰せられさえしなければ良い」と野放図になり、社会は荒れていくことになるのではないか。

今の時代はこのような警告とは真逆の方向へ向かって、すなわち、内省により人に自主的な変化を促すのでなく、厳罰化によって外側から取り締まる方向へますます向かって進んでいる。

この方法では、人間性は決して変えられない。そのことが皮肉な逆説によって立証されるだけであろう。

 

私はここでどうしても神戸の「少年A」の事件を思い出さずにいられない。

これは私の一つの推論であり、荒唐無稽と言われるかも知れないが、あの事件は少年法に厳罰化をもたらすための国家による自作自演の犯罪であり、少年Aの事件は冤罪であるという疑いは今も消えないのだ。

この疑問は私にかねてから付きまとってきたものであり、どうしても常識を破って考えてみなければならないと思わされる。そのきっかけを与えてくれたのが、少年A君のためにというサイトであった。