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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

宮中クーデターを狙う安倍政権の危険な思惑が垣間見えるような天皇の生前譲位説というデマ(2)

一つ前の記事で、参院選後に突然、降って湧いたような天皇陛下の生前退位説は、出所が全く不明であり、宮内庁がこの情報を全面的に否定しており、かつ、天皇自身の声明も出されていない以上、まるで信憑性に欠けており、デマと言わざるを得ず、これは天皇のことばを捏造して行われた、官邸主導の改憲に向けた地ならしの一環としての「平成天皇降ろし」である可能性が極めて高い旨を書いた。

報道から一日以上経っても、この件に関して天皇陛下の声明が全く出ていないことが、生前退位の「意向」自体が、捏造された情報操作であるという見方をさらに強める。

おそらく、これは平和主義の象徴である今上天皇を早いうちに退位に追い込み、取り除いてしまえば、国民の現行憲法へのこだわりの求心力が消失し、憲法改正への抵抗感がなくなるだろうとの考えのもとに仕組まれた計画である可能性が高いと筆者は見ている。

ところが、ネットでは、これに対して早くも「生前退位は安倍氏の改憲を阻止するための天皇陛下の最後の抵抗」などという説が盛んに流布されており、これに飛びついている浅はかな人々も見られるが、これもまた今上天皇自身の告白に基づいていない以上、全く情報の出所が定かではない。本当は、こうした情報こそ、反安倍陣営に偽装しつつ、今上天皇の生前退位を既成事実化しようとしている人々が流布した巧妙かつ悪質な印象操作だと言えよう。

当然のことであるが、もし本当に今上天皇に生前退位の意向があれば、それを天皇自身がはっきりと会見によって全国民に知らしめる義務がある。それは国民の象徴たる天皇の義務であり、もし何らかの事情によって、天皇が公務が遂行できない状態に陥るか、象徴としての役目を果たせない危惧が生じた場合には、必ず、天皇自身が国民に対してこれを説明しなければならないし、今上天皇の人柄を考えれば、必ず、そうするはずである。

特に、今上天皇の二面性のない人柄、これまでの偽善性のない誠実な働き方を考えると、この人物が、健康で、いつでもメッセージを発することができ、危篤状態に陥ったわけでもないのに、あえて自らの意向を明言しないことによって、思わせぶりな態度により、周囲に自らの意向を「忖度」させることによって、暗やみのうちに、阿吽の呼吸で自分の願っている方向へ物事を誘導して行こうという態度を取るはずがないことは明白である。

もし生前退位の意向が天皇自身から出たことであるならば、本人が必ず、会見によって自らそれを国民に伝えるであろう。いや、真っ先に国民に伝えねばならない義務がある。

憲法を順守している国民の象徴たる天皇が、これほど重大な問題を、国民をも、宮内庁をも無視し、マスコミに真っ先にリークさせるということはまず考えられず、そのようなことは、象徴天皇のあり方自体をゆるがせにする行為であるから、憲法上も、本人の人柄に照らし合わせても、今上天皇はそのような行為に及ぶことはまず考えられない。

しかも、NHK及び他のマスコミが一体どこから突然、「天皇の意向」を知ったというのか、その情報源は、ただ官邸に、政府筋にあること以外には、全く明らかにされていない。肝心の天皇の意向が全く不明なままなのである。

そこで、これらの全てのことを考え合わせると、やはり天皇の生前譲位説という報道は、政府筋が、しかも官邸に最も近い一部の「側近」が、壊憲に前のめりになった挙句、天皇陛下をないがしろにして、天皇陛下のことばを捏造した結果としての虚偽の誘導報道であり、それは今上天皇をできるだけ早く譲位に追い込むことによって、現行憲法への国民のこだわりの求心力を低下させる目的のために予め仕組まれた出来事であったとしか考えられないのである。

さて、以上は筆者の見解であるが、世間の識者らはこの件について、どのような反応を示しているのであろうか。見回してみると、やはり、筆者と同じように、天皇の生前譲位という報道自体を、非常に懐疑的に受け止めている人が多い。

まず、天木直人氏は「天木直人のブログ」で、この報道のあり方の異様さを強く強調している。天木氏の見解は筆者とほとんど同じである。天皇自身の声明が出されておらず、宮内庁が全く逆の発表を出しているのに、マスコミだけが依然として生前退位説を既成事実のように書き立てる。このちぐはぐさが、まさに異様だというのだ。宮内庁の発表にまで逆らえるほど、よほどの強い圧力がなければ、マスコミにはそのようなことはできない。「この国は危ういかも知れない」という天木氏の見解は、筆者の見解にほぼ重なる。
  

 「生前退位」の報道を全面否定した風岡宮内庁長官記者会見の衝撃
15Jul 2016 から

  天皇陛下が「生前退位」の意向を示されていることがわかったと、きのう7月14日の各紙が一面トップで一斉に大報道したことについて、その日の定例記者会見で風岡典之宮内庁長官がこの報道を全面的にした。

 すなわち「具体的な制度についてお話になられた事実はない」とし、「従来陛下は憲法上のお立場から、制度について具体的な言及は控えてる」と繰り返し、生前退位のお気持ちの有無については「活動の中でいろいろなお考えをお持ちになることは自然なこと」としながらも、「第三者が推測したり解説したりするのは適切ではない」と話したというのだ(7月15日毎日)

 風岡長官はまた、生前退位を前提に宮内庁が官邸と相談や検討を行っている事実もないと説明したという。

 これを要するに7月14日の報道を全面的に否定したのだ。

 これは衝撃的で異例な記者会見における発言だ。

 しかし、宮内庁長官がここまで否定したにもかかわらず、メディアはこの発言を無視するかのように、きょうも天皇陛下が「生前退位」の意向を示された事を前提に、あらゆる論評や特集記事を書いている。

 これもまた異様だ。

 ふつうなら、誤報だったのではないかという声が聞こえて来てもおかしくない。

 ふつうなら、このような情報をメディアに漏らした者は誰だと騒ぎ、その犯人を突き止めて責任を問うことになるのに、一切その動きが無い。

 これも異例で異常だ。

 もし風岡宮内庁長官の否定発言が安倍政権と通じてなされたものなら、マッチポンプだ。

 しかし、私にはそうは思えない。

 風間宮内庁長官は、官邸筋から突如として意図的に流された「生前退位」御意向について、天皇陛下の御心を代弁して不快感を持って抗議したのではないか。

 もしそうだとすれば大事件だ。

 ここまで異例で異様な、突然の天皇陛下「生前退位」意向表明の報道であるのに、おそらく、真相があきらかにされないまま、この問題は沈静化していくに違いない。

 なぜならば皇室典範の改正を含めた皇室制度の作業は慎重を要し、いますごどうこうしなければいけないと言う問題ではないからだ。

 この問題が、このタイミングで、大々的に報道されただけで、その効果は十分に達成されたのだ。

 この国は危ういかもしれない(了)


さらに、植草一秀氏は、自身のブログ「植草一秀の『知られざる真実』」において、この生前譲位説という報道の流布自体が、都知事選における野党の候補が一本化され、野党の共闘が実現したという事実を覆い隠すためのものであったと述べる。宇都宮健児氏が下りて、鳥越俊太郎氏が候補となったことには色々な受け止め方があるが、今はそれは本題でないので脇に置いておく。
 

狼狽する安倍一族の野党統一候補攻撃に御用心
2016年7月15日 (金) から一部抜粋

この都知事選で安倍自公勢力は致命的な失敗を犯した。

自公勢力から2名の候補者が出馬してしまった。

対する反・安倍自公勢力は、ぎりぎりまで候補者の一本化が実現するか、不透明だったが、ぎりぎりのところで、宇都宮健児氏が大英断を下し、見事に候補者一本化に成功した。

NHKが天皇の生前退位報道を行ったのは、反・安倍自公陣営が候補者一本化を決定した直後である。

このニュースのインパクトを弱めるために、このタイミングで表に出したのだと推察される。

NHKの堕落、権力迎合は目に余る。

放送受信契約の任意制への移行が急務である。

それほどまでに、野党の候補者一本化の衝撃は大きいはずである。

インターネットの有力ポータルサイトでは都知事選報道の伝え方が偏っている。

ポータルサイトを運営する大手情報通信業者が政治権力側に位置しているから、ニュースを伝える際に徹底した作為的調整を施している。

偏向しているのはマスメディアだけでなく、インターネット上の情報も強く操作されている。

マスメディアが偏向しているから、ネットから情報を入手すれば良いのではない。

ネットのなかから、良質な情報を選別し、そのパイプから情報を得ることを意識して実行することが重要である。


さらに先日、引用したあいば達也氏もやはり生前退位説の情報の出所を疑っており、これは官邸を中心に周到に練られた陰謀のような計画であったとの見方が強いことを指摘している。以下は「 世相を斬る あいば達也」から抜粋。

●天皇”生前退位”発信源は? 天皇側、官邸側、侃々諤々

 
天皇陛下が日本国憲法で「象徴天皇」である立場を強く意識なさっていることは、我々国民も、十二分に理解し、そして、多く人は、今上天皇を尊敬又は愛している点に異議を申し立てる人は少ないだろう。たしかに、象徴天皇になられてから、長い年月が過ぎたので、天皇に対して、何らの感慨も抱かない国民が散見しているのも、事実の一部だろう。ただ、政府や政権、首相を憎むものが数多いるとしても、「今上天皇」を積極的に憎悪する国民は、まず居ないと理解している。1億分の50人くらいは存在するだろうが、ゼロの範囲だ。

今回の、天皇の“生前退位”に関する情報も、関係者は状況証拠の積み重ねで、そのような空気が皇室にあることは薄々知っていた。しかし、それを公にすると云った行動に出るものはいなかった。週刊誌や月刊誌が、皇室のゴシップ的記事や、今上天皇や皇太子ご夫妻へのバッシング的記事は、あちらこちらで散見していた。概ね、潜在的に、現在の皇太子への誹謗中傷を謹言などと称して、悪口を言いはなっている記事などもあった。今上天皇と現皇太子は、憲法に定められた国事行為のみを行い、政治的発言は禁止されている。天皇陛下は、即位後朝見の儀で「日本国憲法を守り、これに従って責務を果たす」と言及した。当然、その後も一貫して憲法上の立場を貫いているいるわけだ。

当然、天皇の地位を受け継ぐ、皇太子も、日本国憲法を守り、これに従うことも継承するわけだから、軽々な態度はとれない。秋篠宮殿下のように、気軽な皇室の立ち位置ではない。つまり、どれ程、誹謗中傷や根も葉もない情報を流されても、「反駁」出来ない立場にいる。考えてみると、日本国民が辛うじて持っている「個人の権利、人権」それすらも、完璧に持っているとは言い難(い)。つまり、反駁権のない人に対して、批判、誹謗や噂話(ゴシップ)を垂れ流すと云うのは、卑怯奇天烈な行為なのである。後半に、参考引用の形で、NEWSポストセブンの記事を二つばかり掲載するが、天皇や皇太子は、叩かれるのみで、避けることさえ出来ない。

安倍政権においては、定められた国事行為でもないのに、2013年4月には、「主権回復の日」なんちゃって式典を、お得意の“閣議決定で”催し、天皇皇后両陛下の出席を無理強いした。あきらかに、安倍政権の天皇の政治利用をまざまざと見せつけられた記憶がある。この式典においては、自然発生なので止めようがなかった等と白々しい言い訳をしながら「天皇陛下万歳」を三唱したのだ。天皇皇后両陛下は、その万歳の声から逃れるように会場後にした。NHKや政府発信の動画では、この陰謀の象徴である「万歳三唱」は消されていた。

筆者は、安倍日本会議及び経済界が「憲法改正」に、殊のほか“前のめりになっている”と理解している。安倍日本会議は情緒的明治回帰であるし、経済界は、経団連、同友会等々、「国民の権利の制限」は大歓迎だ。今回の、籾井NHKがリーク報道したわけだが、「政府関係者、或いは宮内庁関係者」と曖昧な表現になっている。そして、13日、夜19時にNHKがスクープしたことになっているが、14日の朝刊各紙は、予定稿が完璧に準備されており、「予定調和リーク報道」と断定して良いだろう。でなければ、あそこまでの紙面は作れない。新聞記者が、そこまで有能なら、日本の新聞はもっと上等のものになっている(笑)。

NHKのリーク報道が、我々が知る「天皇生前退位」に関する第一報だが、官邸を中心に、念入りに練られ、仕込まれた経緯が窺える。天皇のご意思優先と云うよりも、政権や既得権益勢力の「憲法改正の垣根を低くする」作業の一環と考える方が理に適っている。NHKを皮切りにして、特に、この「天皇生前退位」報道に血道を上げているのが、産経、読売ではなく、日経新聞と云う点だ。葉山の御用邸で静養されている最中に、“天皇陛下生前退位の意向”の大見出しで、1面2面3面ぶち抜きなのだから凄い。これらの報道経緯を見る限り、政府中枢の意向がなければ、安倍強権官邸相手に挑戦的な報道が出来る筈もない。

以上のように論考してゆくと、やはり、政府、経済界、言論界などの既得権益勢力による、「閣議決定集団的自衛権容認」同様に、またまた、血を見ぬクーデターだと、100年後の歴史の教科書に載っているかもしれない。皇位継承と云うもの、極めて属人的なものだけに、常に、その継承には不確定要素が含まれている。事例は宜しくないが、現在の皇太子が雅子妃と死別乃至は離婚なさったとして、次の婚姻で、男子が誕生すれば、秋篠宮、その子が、皇位を継承する企ては胡散霧消する。このような事態を忌避する、何らかの手立てを、安倍日本会議が考えている可能性がある。現時点の解釈では60%の確度だとしか言えない。 (以下略)


さらに、「くろねこの短語」でもこのニュースに対する世間の疑いの声があけっぴろげに綴られている。さらに、この記事では、はっきりと情報の出どころが官邸であったことが公表されていることが指摘されている。
  
「都民の生活を守るために原発必要」(元東電社外取締役・増田寛也)。さすが原子力村推薦候補だけのことはある&ひょっとして、天皇の生前退位と改憲はリンクしている!?

2016年7月15日 (金) から一部抜粋 

 ところで、天皇の生前退位なんだが、どうやら官邸筋がリークしたんじゃないかと噂がある。でもって、6月には極秘のチーム設置して、政府は検討を始めてたそうだ。しかし、なんで極秘だったんだろう。小泉政権時代に女帝を認めるかどうかで、やっぱり皇室典範改正の動きがあった時には、ハナから公に有識者会議なんか開いて、けっこうオーブンに議論してたのに、今回は極秘のチームって、何それってことだ。

 
しかも、官邸筋からのリークってのが胡散臭い。生前退位は天皇自らのご意向と報道されているけど、妄想しまくれば、ひょっとしてその裏には何らかの圧力がありやなしやってなもんです。そもそも、皇室察典範で生前退位が定められていないのは、時の権力による恣意的な退位を回避するためという理由もあると聞く。であるならぱ、今回の騒動が官邸筋からのリークというのも、なんとなくうなずける。つまり、参議選挙で改憲のための3分の2も握ったことだし、平和主義の天皇ご退位の世論を喚起しようって悪知恵働かせた奴がいるんじゃないのかねえ。

 
ようするに、生前退位と改憲がリンクしているような・・・でなけりゃ、政府高官筋ってのが「そんな簡単な話ではない。戦後の議論がすべてひっくり返ることになる」なんて物騒なことをほのめかすわけないと思うのだが・・・真相やいかに

安倍政権が極秘に皇室典範の改正を準備!首相官邸の皇室典範改正準備室が動き出す!「戦後の議論がすべてひっくり返る」


さて、以上で示されているリンクを辿って、日テレNewsの報道を開いてみると、確かに今回の生前退位説の報道は、政府筋(官邸)が準備した上で、政府筋からリークされたものであろうとの見方がほぼ確定的になる。官邸は、安倍首相を中心として、政府内でさえ秘密裏に、皇室典範改正準備室なるものをすでに作っていたのである。しかも、このタイミングになるまで、準備は極秘に進められていたのだということが、堂々と公言されている。
  

政府 極秘に皇室典範の改正を準備
日テレNews24 2016年7月14日 10:49



天皇陛下が「生前退位」の意向を持たれていることが明らかになった一方で、宮内庁や内閣法制局の皇室典範改正準備室の態勢が強化され、法改正などの準備に入っていたことも明らかになった。政府内でも極秘とされ、限られた人しか知らされていなかったという。


(以下はニュース音声から文字起こし全文)


総理官邸の皇室典範改正準備室が 密に必要な法改正などの準備に入っていることが明らかになりました。

政府関係者によりますと、宮内庁や内閣法制局に勤務経験がある10名ほどの官僚から成る皇室典範改正準備室の態勢が強化され、すでに法改正などの準備に入っていたということです。

一方で、この動きは極秘とされ、政府内でも限られた人しか知らされていなかったということです。

政府高官は、皇室典範の改正について、「そんなに簡単な話ではない。戦後の議論がすべてひっくり返ることになる」と述べて、難しい調整になるとの認識を示しています。


このニュースは、伊勢志摩サミットの際に安倍首相が一方的に公言した「世界経済はリーマンショック前に酷似している」との資料の出所が、官僚にさえも明白でなかったように、安倍氏が自らの権力にものを言わせて、事実上の政府内政府を作っていること、つまり、すでに国会も、官僚の大半でさえも、安倍政権の主要な政策決定の蚊帳の外に置かれており、現政権の政治的に極めて重要なイベントのほとんどが、国会での議論を経ず、官僚にも知らされないまま、安倍氏を取り巻くごく一部のブレーン、安倍氏が秘密裏に組織する少数の指導的集団だけに予め知らされ、彼らによってのみ、密室で決定され、残りの官僚や国民には、すべてが決定後に知らされて、それが既成事実化されていくという秘密体制が作られていることを示している。

これは安倍首相による政府内政府の組織、もっと言えば、政府の乗っ取りを示すものであり、皇室典範改正準備室だけでなく、他の事柄についても同様に、安倍氏が事実上の「影の政府」を作って、すべての物事を不透明に国民の目から隠しながら準備を進めていることを意味する。

今回は、一体、天皇の生前退位説の情報源はどこなのか、疑惑が隠しおおせないところまで来てしまったので、ようやく遅ればせながら、情報のリーク元は政府ですよと、政府が自ら名乗り出たわけであるが、それにしても、「極秘に進められて来た」とニュースが公言していることからも分かるように、もはやこのような秘密結社のような非公認の組織が、国の根幹に関わる重大問題を密室で決めようとしていること、官僚までもほとんどが蚊帳の外に置かれ、政府も国会も、政策決定から置き去りにされていることを、安倍氏が隠すつもりさえないことを意味する。

今や安倍氏を取り巻くほんの一部の人間だけが、最も重大な政策を決めており、国会も政府も国民も完全に置き去りで、安倍氏の作った秘密結社のような組織の密室での決定だけが、この国の命運を左右する決定権を持つものであると、官邸は国民の前に公言するまでに至ったのである。

このように公に認可されていない秘密結社のような組織を作り、国民の99%以上を蚊帳の外に置いて、ほんの一部の少数者のみで、密室で物事を決めて行こうというやり方は、現政権の危険な独裁とクーデターの精神を何よりもよく物語る、あまりにも信用ならない卑劣な手段であって、今や安倍氏と同氏の選ぶほんの少数の不明な人間だけが事実上の政府となって暗闇のうちに動いているというのは、大変に、いや、あまりにも恐ろしいことである。
 
今回の天皇の生前退位説によって、安倍政権の秘密決定の手法が、すでに皇室というレベルにまで及んでいることが明らかになった。他は推して知るべしである。このような恐るべき不遜かつ危険かつ不透明な権力の濫用、大胆不敵かつ姑息で傍若無人な振る舞いが許容されてしかるべきなのか、多くの国民は考えなければならない。政府や官僚も、このことに重大な危機感を覚えなければならない。
  
少数のエリートから成る秘密結社のような集団を用いて国全体を牛耳ろうとする手法は、これまでクーデターを企てた革命家とテロリストとカルト宗教に共通して見られたものであり、レーニンは少数精鋭のエリートによって革命が指導されるべきであると唱え、一般労働者大衆を存分に利用して革命を成し遂げながらも、革命成就後も、ボリシェヴィキという名とは裏腹に、常に少数精鋭の指導集団だけが権力を握って、大衆を組織しなければならないと説いた。

さらに、当ブログでその危険性を幾度も訴えて来た統一教会出身の村上密という牧師も、自らの教団の枠組みを超えて、キリスト教界全体の権力を掌握するために、以上の人々と同じ手法を使ったのである。村上牧師は、密という名前が示している通り、教会内人事を密室で動かし、自らに盾突く人間を秘密裏に追放するなど、重要な物事を公の議論を経ずに密室で決定して来た。さらに、カルト監視機構の設立を訴えて、この監視機構に属する少数の専門家集団が、キリスト教界のみならず全宗教界を監視し、上から取り締まることを提唱し、この構想が実現せずに失敗に終わった後も、支持者を組織して秘密裏に同様の組織を作り、インターネット監視などに乗り出して、クリスチャンを自らの統制下に置こうと試みて今日に及んでいるのである。

このように、常に密室で自分の取り巻きや支持者だけを使って秘密裏に物事を決めることによって、人の目に知られない形で権力を自分に集中させて行き、開かれた議論を避けて反対を予め封じ込め、反対者を暗闇で追放し排除しながら、自らの思い通りに物事を暗闇で進めて行こうとするやり方は、多分、統一教会の常套手段なのであろう。村上密氏はそれをキリスト教界に持ち込んだのであるが、現在も統一教会と関わりのある安倍首相は、ちょうど村上密牧師を規模を大きくして宗教から政治の世界に転身させたような人物であり、どちらも統一教会流の危険な思考パターン、独裁と密室での政策決定という手法を共通して保持している様子が伺える。

むろん、こうした秘密決定の手法は、統一教会の専売特許ではなく、すでに書いた通り、それ以前の昔から、テロリストと革命家が既存の政治秩序を転覆させて、権力を掌握するために使って来た常套手段なのである。安倍氏がこれまでに常に用いて来たのは、このクーデターの精神と手法なのであり、今回、政府高官でさえも、「戦後の議論がすべてひっくり返ることになる」と、腰を抜かしているような、天皇の生前譲位説という極めて重要な政策決定についても、安倍氏はこれを自分だけの一存で国民(と政府)をよそに密室で決めようとして来たわけであるから、これは事実上の国の乗っ取りであると言って過言ではない。

こうした情報を受けると、ますますもって今回の生前退位の報道が、天皇自身の本意であるとは信じられない。もし生前退位が今上天皇の意向なのだとすれば、必ず、天皇自身が自ら会見を行うであろう。だが、現時点で、すべてはその逆の方向を向いており、この報道は、天皇陛下が直接、国民に意向を説明するという開かれた形を取るどころか、これまでずっとそれが国民を欺く形で、官邸によって秘密裏に準備され、決定されていたことを明らかにするものなのである。

にも関わらず、これほど信用ならない報道を未だに「安倍政権による改憲を阻止するための天皇陛下の英断」などと言って喜んで受け止めている人々は、まやかしを信じ、叫んでいるのである。国民は、皇室典範の改正という問題を議論するに当たり、安倍氏によってここまで自分たちが裏切られ、蚊帳の外に置かれていたことに憤慨すべきであり、国民だけでなく、政府も、国会も、この密室での決定に大いなる疑惑と不満と抵抗を示すべきである。

安倍首相は、このように全く信用ならない、自身の権力掌握にしか関心がなく、そのためならば、手段を選ばず、嘘にも無法にも何の良心の呵責も覚えない、野望に満ちた人物であるから、天皇陛下に憲法上の立場からこの問題についての発言権がないのを良いことに、天皇自身をも欺いて蚊帳の外に置く形で、今回の報道を準備して来たのであろうとしか考えられない。

こうして、どこまでも自分以外の全ての人間をよそにして、腰巾着のような御用メディアと一部の取り巻き連中だけを走狗として、すべてを秘密裏に、密室で自らの思い通りに進めて行こうというのが安倍氏のやり方なのであり、その手法はこれまで同氏が行って来た解釈改憲も含めた全ての抜け駆け的・違法な政策決定により、すでに十分に明らかになって来た。

今回のことは、そんな安倍氏の独裁が我が国ですでにかなりの程度、進んでおり、もはや皇室までも、安倍氏に乗っ取られようとしていることをはっきりと物語る事実である。御用メディアにはもう抵抗する力はない。それが天木氏が「この国は危うい」と述べている根拠である。

安倍氏とは、一体どこから来た人間なのか、突き止められる必要がある。ただ岸信介の孫としてA級戦犯とされた祖父と自らの血筋の名誉回復のために、敗戦によって敗れた勢力を復権させることを悲願としているというだけでなく、また、統一教会や日本会議を含めたカルト宗教とのつながりだけでなく、安倍氏を動かすイデオロギーそのものが何であるのか、その正体と今後の計画がさらに徹底的に明るみに出されなければならない。 この人物が暗闇で行っていることは、すべて明るみに出されなければならない。破綻しているアベノミクスを推し進めれば我が国は滅亡するというだけではなく、戦争に突き進めば多くの犠牲が出て国土が荒廃するという危険のためだけでもなく、この人物はもっとさらに深く危険な人間であり、その危険性が徹底的に明るみに出されねばならず、このような人物に国民は決して権力を与えてはならないのである。

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宮中クーデターを狙う安倍政権の危険な思惑が垣間見えるような天皇の生前譲位説というデマ

・現政権は、壊憲クーデターだけでなく、宮中クーデターも狙っている? 天皇の生前譲位説という虚偽報道に見る「男系男性天皇」(のみ)を誕生させたい人々の危険な思惑

天皇の生前譲位という、降って湧いたようなニュースが突然、参院選が終了した直後から各メディアを騒がせているが、以下に示すように、それには本当に根拠があるのかどうか、極めて怪しい。むしろ、安倍政権側の人々が、自らの政治イデオロギーにとって好ましくない今上天皇が、自らの悲願である改憲の妨げになっては不都合だとばかりに、御用メディアに命じて譲位を既成事実であるかのように流布したデマの可能性が否定できないように思う。

それに加えて、あいば達也氏が、以下で引用する通り、このニュースには秋篠宮家と深い関わりがありそうだと推察している。筆者もこの点については同じ違和感を覚えている。

安倍政権を動かしているのはクーデターの精神である。彼らは必ず全ての行動において下剋上・秩序転覆を行うし、実際にそうして来た。まず、彼らは最高法規である憲法を尊重しないことによって、憲法遵守義務違反を犯し、自分たちがどんな規定にも縛られることなく、最上位の存在であるかのように振る舞って来た。そして解釈改憲を行って憲法の意味を骨抜きにし、今や、後付けで憲法の都合の悪い部分は全て排除して、これを自分好みに変えてしまおうと画策している。

解釈改憲は、その時点で、すでにクーデターだと言われて来た。こうして彼らは最高法規の意味を徐々に骨抜きにすることによって、憲法に対する自らの度重なる違反を正当化し、国家神道や軍国主義の復活を目指して来たのである。すでに文民統制を覆し、制服組の優位を確立しようとしている。他にも、彼らの秩序の転覆、法律の文言の毀損、意味や説明の捏造、歪曲、「裏口入学」の手口は枚挙に暇がないが、これらすべては戦前回帰のためになされていることであり、歴史を逆行させて、敗戦によってすでに決定的に敗れたはずの勢力を再び復権させて「名誉回復」させようと狙う動きなのである。

こうして、現政権が常に公の秩序・規定を骨抜きにし、ないがしろにして、黒を白とし、白を黒としながら行動して来たのは、ただ単に戦前の財閥の復興などといった目先の目標を超えて、その背後に、グノーシス主義的な反逆の霊に由来する危険な宗教思想があるためである。

グノーシス主義とは秩序転覆の霊であり、その起源は、聖書の御言葉に反して悪魔が人類に吹き込んだ偽りの思想にあるが、この思想の最終目的は、まことの神を追放して、人間を神の座に据えることにあり、それこそが、神に対する人類の究極のクーデターであり、すべての異端思想が共通して目指す最終目的なのである。

すなわち、人類を一致させて神への反逆に駆り立てることにより、天まで届く塔を建設し、自ら神に至ろうというのが、人類の神に対する反逆の思想の本髄なのであり、KFCの分析でも示したように、今やキリスト教でさえすでにこうした反逆の思想の牙城となってしまっている実態がある。ましてや統一教会のようなキリスト教の異端は何をかいわんやである。

いずれにしても、このグノーシス主義という思想は、有史始まって以来、絶え間ないクーデターを引き起こして来た。もともと独自の神話を持つ宗教ではない哲学的思想なので、どんな宗教にでも形を変えて入りこみ、キリスト教にも公然と入りこんで聖書の御言葉を毀損・歪曲し、骨抜きにしながら、聖書の秩序を転倒させてこれを真逆にする悪魔的な秩序をもたらそうと画策して来た。

安倍政権は、創価学会のみならず、統一教会とも深い関わりがあると言われているが、日本会議の支持団体には、キリストの幕屋などを含む、キリスト教の異端団体も数多く名を連ねている。そうである以上、こうした人々がグノーシス主義のクーデターの霊に憑りつかれているというのは、単なる憶測や、杞憂のレベルだとばかりは言えないだろう。

たとえば、『日本会議の研究』で知られる菅野完氏の記述がある。
  

日本会議に集まる宗教団体の面々――シリーズ【草の根保守の蠢動 第3回】
HARBOR BUSINESS Online
2015年03月11日 から抜粋

日本会議本部の役員に名を連ねる宗教団体関係者たち


 日本会議側も宗教団体との関係を特段否定するわけでもない(※1)。WEBに公開されている日本会議の役員名簿(http://www.nipponkaigi.org/about/yakuin)をみてみよう。表1は、この役員名簿を元に、筆者が作成したものだ。

⇒【画像】はこちら http://hbol.jp/?attachment_id=28321


表1:日本会議役員名簿(宗教関係者を筆者が編みかけした)

 この名簿をみると、顧問から事務局長まで、役員総数62名のうち24名が宗教関係者によって占められていることがわかる。役員の三分の一以上が宗教関係者という計算だ。日本会議は極めて宗教色の強い団体であると言えるだろう。

<中略>

日本会議に集まる宗教団体の多様性


 ここで改めて、どのような宗教団体が日本会議に参加しているかを、団体名ベースで見てみよう。表2は日本会議本部の役員名簿や日本会議の地域組織の役員名簿からよみとれる宗教団体を一覧にしたものだ。

⇒【画像】はこちら http://hbol.jp/?attachment_id=28322


表2:日本会議への参加および日本会議内での活動が確認されている宗教団体一覧


 この表でとりわけ目に付くのは、仏所護念会や霊友会など、明治以降に生まれた、いわゆる「新宗教」とよばれる宗教団体の比率の高さだ(※3)。また、神社神道系 教派神道系 新教神道系 仏教系 諸教系と、実にさまざまな宗派にまたがるという点も特徴的といえるだろう。

(以下略)

菅野完氏は、一見バラバラのように見えるこれらの宗教団体の結びつきの原点が、生長の家原理主義にあることを調べ上げている。生長の家原理主義とは、もともとは「生長の家」の谷口雅春の教えを出発点としながら、70年安保で左翼に対抗した右翼民族派・生長の家学生運動の出身者を指す。
 
上記のリストには統一教会は含まれていないようであるが、安倍首相と深い関わりのある統一教会が日本会議と無縁であるはずがなく、さらに生長の家原理主義の学生運動は、思想的には、統一教会の組織する国際勝共連合とも重なるものがあり、ここにリストアップされていないのは、無関係だからではなく、かえって統一教会がこれらの宗教団体の上に立つ指導的存在だからではないかと思われてならない。

こうした宗教団体は、ただ「共産主義の脅威に対抗する右派」という軸によって結び合わされているだけでなく、キリスト教に対抗するグノーシス主義に由来する(多くが新興の)宗教である。グノーシス主義的特徴とは何かと言えば、生長の家がそうであるように、生まれながらの人間を「神」(神の子)に祀り上げ、人間を神聖な存在、すなわち、現人神であるとみなす思想である。つまり、これらの宗教団体はみな「現人神」を信じる信仰という接点を持っていることが挙げられる。

筆者は菅野氏の著書に目を通していないが、苫小牧福音教会 水草牧師のメモ帳の記事に、日本会議に関わる宗教団体の概略が記されているので、そこから引用する。
 

記事「菅野完『日本会議の研究』・・・生長の家原理主義者たちがその中核
2016-05-17 より抜粋

 日本会議なるものの中核が、生長の家原理主義者たちだという事実を克明に世に示したこの本は出版取りやめになるのでしょうか?微妙なところだと思います。とにかく、この実態が知られることは、日本会議にとってはとても不都合なことのようです。
 本書で紹介される中心人物たちが、こちらに紹介されています。

http://joe3taro.com/?p=1327

2.日本会議の組織力・動員力・・・諸宗教団体

 組織ということでいうと、日本会議の組織力・動員力の源泉として、筆者は、通常教えの違いからまとめにくいはずの、もろもろの宗教団体をまとめていることを指摘していました。日本会議が彼らをまとめるキーワードは、<皇室中心、改憲、靖国参拝、愛国教育、自衛隊海外派遣>といったものです。

 日本会議にかかわっている宗教団体のリストには以下の名があります。

神社本庁、伊勢神宮、熱田神宮、靖国神社、明治神宮、岩津天満宮、黒住教、オイスカインターナショナル、大和教団、天台宗、延暦寺、念法真教、仏所護念会教団、霊友会、国柱会、新生儒教教団、キリストの幕屋、崇教真光、解脱会、モラロジー、倫理研究所。・・・おそらく、これらの諸団体の信者たちは、自分たちがこんなにいろんな宗教といっしょに巻き込まれて運動しているのだということを知らないのではないかと思われます。


さて、本題に戻れば、以上のような宗教思想の信者らで8割以上が占められているという現政権とそれを支える宗教勢力が、皇室についても、必ず、自らの統制下に置くことを目指していないはずがない。何しろ、彼らにとっての皇室とは、彼らの政治・宗教的イデオロギーをまさに体現する最も重要な象徴なのである。

だが、その思想的特徴から察するに、彼らは決して現在の皇太子を尊重しないはずである。

おそらく、現政権、特に安倍首相には、皇太子(徳仁親王)を飛び越して、この先、第二皇子である秋篠宮文仁親王にスポットライトを当てようとするプランがあって、今上天皇から直接、第二皇子に皇位継承権を渡すか、もしくは、ゆくゆくは秋篠宮家の男児悠仁親王を天皇の座に据えるという計画を準備しているのではないかという推測さえも生まれる。

仮にその推測を脇に置いたとしても、少なくとも、今上天皇の憲法擁護の姿勢と、平和主義が国民の心に深く訴えかけるので、このような人物が天皇であり続けることは、現政権にとって好ましくなく、改憲(壊憲)の妨げになる可能性があるため、国民投票までには退いてもらいたいという思惑があるのではないかということが容易に推測できる。

そのような思惑があってこそ、天皇の生前譲位説というものがまるで既成事実のように報道されているのではないか。従って、早合点は禁物である。宮内庁がこの報道を全面否定している様子からは、肝心の今上天皇のことばが、何者かによって捏造されて伝えられている可能性をが高い様子が伺える。

しかも、天皇の生前譲位説を報じた第一報がNHKであったというから、ますますその信憑性は怪しまれる。公共放送でありながら、NHKが今回の参院選でも、ほとんど選挙に関する報道を控えていたことはすでに多くの場所で公に指摘され、非難されている(たとえば、ハフィントンポストの記事「参議院選挙への無関心はテレビのせい!?と言えるワケ」投稿日: 2016年07月11日 16時14分 JST   更新: 2016年07月11日 16時45分 JST を参照。)

こうした報道の自粛が誰を利するのかを考えれば、事の次第は一目瞭然であり、投票率が低くなれば助かるのは政権与党であるから、NHKが政権与党の側に利益となるよう便宜を図らって報道を自粛したという推測は免れることができない。そのようなNHKが第一報であるから、天皇の生前譲位というのは、余計に信用できないニュース、いや、ニュースというよりも、誘導記事ではないのかと受け止められる。

以下、宮内庁は新聞雑誌の報道を全面否定しているという朝日新聞のニュース。
 

宮内庁次長は全面否定「報道の事実一切ない」 生前退位

2016年7月13日21時50分

宮内庁の山本信一郎次長は13日夜、NHKが最初に生前退位について報じた後に宮内庁内で報道陣の取材に応じ、「報道されたような事実は一切ない」と述べた。宮内庁として生前退位の検討をしているかについては「その大前提となる(天皇陛下の)お気持ちがないわけだから、検討していません」と語った。さらに「(天皇陛下は)制度的なことについては憲法上のお立場からお話をこれまで差し控えてこられた」とも話した。

さらに時事ドットコムの以下のニュースは、さらに踏み込んで、天皇自身は憲法上の立場から、自分がいつ公務を退くかと言ったことを自分で決断できる権利を有していないのだから、従って、そのような発言を行う理由が存在しないと述べている。今上天皇はいかなる場合も、憲法を尊重し、その規定を超えるような私的解釈に基づく行動を取ってこなかったわけであるから、これは非常に説得力のある説明である。
「そうした事実一切ない」=宮内庁幹部は報道否定-生前退位
時事ドットコムニュース (2016/07/14-02:26)

天皇陛下が天皇の地位を生前に皇太子さまに譲る意向を宮内庁関係者に伝えられたとの報道を受け、同庁の山本信一郎次長は13日夜、報道各社の取材に応じ、「そうした事実は一切ない。陛下は憲法上のお立場から、皇室典範や皇室の制度に関する発言は差し控えてこられた」と否定した。

天皇陛下が生前退位の意向=数年内、周囲に伝える

 午後8時半ごろ庁内で各社の取材に応じた山本次長は、「陛下が生前退位の意向を宮内庁関係者に示されたという報道があったが、そうした事実は一切ない」と繰り返し強調。「長官や侍従長を含め、宮内庁全体でそのようなお話はこれまでなかった」と話した。
 記者からは皇室典範改正の可能性についても質問が飛んだが、「皇室典範や制度にわたる問題については内閣や国会で対応するものだ」とコメントを避けた。静養のため葉山御用邸(神奈川県葉山町)に滞在中の陛下の体調については「お変わりなくお過ごしだ」と説明した。
 深夜に取材に応じた同庁の風岡典之長官も、同様に報道内容を否定。「(皇室の)制度については国会の判断にゆだねられている。陛下がどうすべきだとおっしゃったことは一度もなく、あり得ない話だ」と述べた。


そこで、今上天皇が語らなかった「ことば」が、あたかも天皇のことばのように公に流布されている背景には、今上天皇をできるだけ早く譲位させたいとする人々の思惑が強く働いていることを感じさせられるため、非常に空恐ろしい物騒なものが感じられてならないのである。

さらに、その人々は、今後、一体、誰に皇位継承権を与えようと願っているのか? 

筆者には、それは皇太子ではないように思われてならない。あいば氏が、報道内容が秋篠宮をクローズアップするものであることに注意を払っているのと、全く同じ危惧を筆者も感じている。

すでに述べた通り、安倍政権を動かしているのはクーデターの霊である。従って、彼らは皇位継承手続きをも都合の良いように乗っ取ってしまい、決してしかるべき秩序に基づいて行う気はないのではないかという予感が筆者にある。

特に、これまで敬宮愛子内親王を無視する形で繰り広げられて来た”佳子さまブーム”なるものの奇怪なども合わせると、その予感は強まる。今回の「誤報」もまた、秋篠宮家にスポットライトを当てるための一環ではないかという予測が生まれるのである。
 
つまり、ある人々が、皇太子一家を無視するか、これを飛び越えて、秋篠宮家に国民の注意を向けようとしているのである。何よりも、そこにある意図は、男系男子の皇位継承しか認めたくない人々が、何が何でも女性天皇の誕生を阻止するために、そのような目的での皇室典範の見直しを退けて、敬宮愛子内親王を退けて、悠仁親王を将来的な天皇に担ぎ出したいという決意を以前から固めており、そのために、皇太子を退けて秋篠宮家に国民の関心を移していこうと徐々に画策しているのではないかと見られてならない。悠仁親王はまだ幼く、思想的な立場が固まっておらず、特定の政治勢力が自分に都合よく傀儡に育てようと考えるなら、格好のタイミングであると言えよう。

筆者の考えでは、現政権に関わる人々は、皇室尊重と言いながら、実際には、全く皇室を尊重などしておらず、天皇をただ自らの政治的野望をかなえる手段としか見ていない。

歴史を振り返っても、都合よく操り人形にできそうな人物や、あるいは子供(少年・青年)を形式上だけ国家元首としての天皇の座につけておいて、あとは政治勢力が好き放題、やりたい放題に国を牛耳ろうという考えは、今に始まったものではない。
 
皇太子と秋篠宮との間には、以前から、それなりの確執があったとの報道もあり、また、雅子妃に対する執拗なバッシング報道がずっと続いて来たことを考えても、そこには、将来的な皇位継承権を、敬宮愛子内親王には渡したくないという思惑が、強く働いているのではないか、できる限り、皇位継承権を皇太子一家から遠ざけたいという思惑が実際に存在するのではないかという推測が成立するのである。

それにしても、もし天皇陛下のことばさえも捏造されて報道されているのだとすれば、もはや我が国は乱世のようなものである。一体、現政権は何なのであろうか。安倍氏の「立法府の長」発言もそうであるが、彼は全能の神になり代わったつもりなのであろうか。選挙前には「参院選の争点はアベノミクス」と言って、すでに世界的に破綻が明白となっているアベノミクスを「道半ば」とうそぶいて掲げ、選挙が終わると、「改憲勢力3分の2を得た」と突然、口調を変えて、改憲に突き進む意欲を見せるというのも、現政権ならではの極めて姑息なやり方である。さらに、ここに来て、突然のように、今上天皇の生前譲位説が飛び出して来たのも、彼らがやがて天皇を「神」として国家神道を復活させることへの並々ならぬ決意を、もはや隠し立てなく表明し、皇室さえも牛耳り、自分たち好みの天皇を立てるつもりだという決意を表明したものでなくて何であろうか。ちなみに、今回の選挙も、おそらくは、ムサシという特定の会社が牛耳る開票マシーンによる不正操作の結果であり、まるで民意を反映していないという推測は、随分前から、ネットではほぼ定説となっている。

選挙結果の操作は時代を超えて権力者の常套手段であり、現代にだけは、それが行われないなどと考えるのは、あまりにも子供じみた楽観的な発想である。
 
こうして、参院選でも勝利を得たことにしてしまい、それに勢いを得て、現政権は、自分好みの「国家元首」立ててそれを「神」に祀り上げ、全国民に跪拝を要求するという「悲願」に向けて、道を整え始め、いや、暴走を始めたように見える。それが安倍首相の言う「この道」の意味するところである。

彼の言う「この道」とは、結局、人間に過ぎない者を現人神に祀り上げて、全人類に跪拝を要求しようとする偽りの宗教に他ならない。経済政策などは、ペンテコステ運動の「繁栄の神学」と同じく、人々の関心を掴むためのきっかけに過ぎず、その思想の本質ではない。現政権のイデオロギーの本質は、「救国」すなわち、人間のあらゆる弱点につけこみ、「救済者」に名を借りた人心の完全な掌握と支配を行うこと、すなわち、独裁を打ち立てることにある。
 
 世相を斬る あいば達也 記事天皇の譲位意向報道 籾井NHKの特ダネ“陰謀”の臭いも?から抜粋

●天皇の譲位意向報道 籾井NHKの特ダネ“陰謀”の臭いも?

今夜も、時間がないと云うのに、NHKのすっぱ抜き“特ダネ”のような形で、天皇が生前退位に関して、ご希望を述べられた云々と云う、情報源を「関係者によると」と曖昧にした状態で、日本中、否、世界中を驚かせた。この天皇の地位継承問題は、様々な問題を含んでいるので、ひと口に理解しきれない。今夜は、時間の都合上、嫌に、天皇の生前退位問題に前向きな報道をしているのが、籾井のNHKと産経新聞、日経新聞だと云う事実と、その報道している内容を羅列するにとどめる。


上述の報道機関が、前のめりで報道していると云う点を、先ずは「重視」すべきだ。このNHK、産経新聞、日本経済新聞の三社が酷く積極だ。このことは、酷く重要であり、警戒すべき点だ。安倍政権及び日本会議勢力に取って極めて親和的報道各社であることを、我々は、大前提として、考えるとか、感じる前に、念頭に置くべきである。改憲勢力が、衆参両院の2/3議席を制し、今後は「憲法審査会での議論だ。叩き台は、自民党の壊憲草案だ」と平然と抜かした安倍首相の「改憲願望」と非常に深くリンクしている。そのメカニズムと云うか、陰謀的手順表は,官邸の誰かの胸の内にあるに違いない。

秋篠宮がクローズアツプされている点も注意が必要だ。“佳子さま報道”含め、どこか臭う。現皇太子が存在しないような書きっぷり、秋篠宮へのズームイン、現皇太子の影薄くと云う印象を与える記事になっている。秋篠宮のイデオロギーがどのようなものか、寡聞にして知らないが、今上天皇と現皇太子が、護憲的発言が多く、安倍日本会議勢力にとって、有り難いとか、親和的だとか、到底言えない。以上の素地が、今回のNHKのフライング報道に臭うわけである。朝日新聞だけが、宮内庁がNHK報道を事実無根と否定している件を明確に報じている。

(以下省略)


これから注意が必要なのは、今上天皇を何としても生前に譲位させようというより一層強制的な動きが出て来ないかという点と、皇位継承権を巡るクーデターが起きないかどうか、という点である。
  
現行憲法では、天皇は国民の象徴であって、政治家が自分の傀儡として動かせる駒ではない。しかし、自民党は憲法改正の草案において、天皇を「国家元首」にしようとたくらんでいるわけであり、それが意味するところは、彼らが天皇を自分たちの手先とし、傀儡として操り人形にすることによって、自分たち政治勢力の意のままに、天皇の命令によって戦争を起こし、戒厳令を敷き、多くの国民の生殺与奪の権を握れるような世界を目指しているということである。

そのようなことを目論む人々が、自分たちのプライドを満たし、なおかつ、思い通りにできる傀儡としての天皇を立てようと考えないはずがない。彼らが願っているのは、天皇崇拝という形式を通して、国民から権利を奪い、自分たちが「神」になって指揮権を握ることであり、欲しいものは絶対的な権力、それだけなのである。

さらに彼らにはその宗教思想に基づいてどうしても、自分たちが「神」になるために、血統を転換させてくれる人物が、すなわち、生まれ持った「万世一系」なる幻想の血統が必要なのである。そのために、できるだけ都合の良い人物を天皇に据えたいと願っているだけなのである。

このような「聖なる血統」という幻想は、すでに述べた通り、統一教会(を含む異端思想)に共通するものである。これまで述べて来たように、異端思想には、堕落した人類の「血統」を「神の血統」に転換し、それによって地上天国を成就するための共通する家族モデルがあり、それが、宗教・政治指導者夫妻を「聖なる真の霊的父母」として崇め奉り、これに人々が「子」として連なることによって、全人類を「一つの神聖な霊の家」に帰属させ、一つの家にまとめようというプランなのである。

そのような、生まれながらの人間を現人神とみなして、全人類を一家族とみなしてこれに統合することを最終目的とする忌むべき異端思想の家族モデルは、国家神道に限らず、キリスト教の異端のほぼすべてに共通する特徴である。

それが統一教会では「全人類一家族理想」と呼ばれ、国家神道では「八紘一宇」または「一大家族国家」の理想などと呼ばれ、ペンテコステ・カリスマ運動では「リバイバル」として提唱されているのである。生長の家も、おそらくはこうした概念と無縁ではあるまい。

従って、こうした宗教思想の持ち主は、天皇をただ単に「国家元首」として担ぎ上げ、最高軍事司令官としたいと願っているだけではなく、何よりも、「神の血統」を有する「現人神」として天皇を担ぎ出し、そこにすべての日本国民及び全人類を「子」として帰依させることによって「八紘一宇」を実現することを願っているのである。自分たちが「神々」になるために、「万世一系」などという虚偽を持ち出して、「神の血統」を利用しようとしているのである。

 このような偽りの地上天国の理想は、時代が悪くなればなるほど、より一層、強力に打ち出される。アベノミクスによって日本の国力が落ち、経済がより一層、疲弊・衰退し、国の未来に何一つ明るい材料が見えなくなればなるほど、そのようなまがまがしい幻想の「ユートピア」の理想によって人々を眩惑して、手っ取り早く権力を拡大しようと目論む独裁的政治指導者が現れるのである。

現実が悲惨になればなるほど、大衆は、悪夢のように閉塞した現実から目をそらさせてくれる偽りの「理想」を求め、そこへ麻薬のように逃避しようとする強力な惑わしの力が働く。すでに我が国は滅亡の淵にまで来ているのであるが、それではまだ飽き足りず、その混乱・衰退・弱体化を利用して、独裁を確立し、国民全体を一掃するところまで導かないと気が済まない勢力が存在するのである。その奈落が、「一大家族国家理想」や「八紘一宇」という偽りの幻想の名前で呼ばれているのであって、この地獄をユートピアのごとく夢見る人々は、この先も、自らの幻想(誇大妄想)を達成するための手段として、天皇という存在を、最大限、利用しようとするであろう。

そのようなことを企んでいる勢力に手段を与えてはならない。聖書によれば、人が神に至るための道はただ一つしかなく、それがキリストの十字架なのであり、この方を介さずに、罪深い人間が自力で神の血統に至れるような道は存在しない。人が救われるための唯一の道を否定すると、残るは行き止まりだけなのであり、生まれながらの人間が自己を神とすると、その先に待っているものは破滅以外にはないのである。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)


東洋思想とは何か。その柱は何を再建しようとしているのか。

前々から東洋思想とグノーシス主義について書かねばならないと思っていたのだが、象徴的なニュースがあったのでちょっと取り上げておきたい。

1.神社の「神様」はなぜ自分の神殿と氏子を守らなかったのか?

諏訪大社
御柱祭 柱から10メートル転落、氏子が死亡
毎日新聞2016年5月5日 21時14分(最終更新 5月6日 00時08分)

5日午後4時半ごろ、長野県諏訪市中洲の諏訪大社上社本宮(かみしゃほんみや)で開かれていた御柱祭(おんばしらさい)で、氏子の諏訪市豊田、自営業、日下部幸寛さん(41)が、柱(高さ約17メートル)を垂直に立てる「建て御柱」の直後、柱から約10メートル下の重機の屋根に落下した。県警茅野署によると、日下部さんは頭などを強打し、同市の病院に運ばれたが約5時間半後に死亡が確認された。

 目撃者などによると、「本宮一」と呼ばれる柱に乗っていた日下部さんは、後片付けをしながら下りる途中だった。一旦は横に張ったロープにぶら下がっていたが、間もなく落下したという。
御柱祭では前回(2010年)も、下社の「春宮一」の建て御柱から2人が落下し死亡する事故があった。氏子の男性は「安全対策を徹底して臨んだだけに残念だ」と話した。【ガン・クリスティーナ、宮坂一則、湯浅聖一】

写真:落下事故があった「本宮一」の御柱=長野県諏訪市中洲神宮寺の諏訪大社上社本宮で2016年5月5日午後6時18分、宮坂一則撮影

ついこの間も、熊本の地震で、阿蘇神社が崩壊したというニュースも報道されたばかりである。

阿蘇神社、楼門も拝殿も倒壊 神職「パニック状態」
朝日新聞デジタル 2016年4月16日11時47分

阿蘇山の北側の熊本県阿蘇市では、国の重要文化財に指定されている阿蘇神社の2階建ての楼門が倒壊した。柱は折れてつぶれ、屋根は大きく傾いた。拝殿や3カ所の神殿も損壊したという。
神職の内村泰彰さんは16日午前1時25分ごろ、境内裏の宿舎で寝ていたところ、いきなり激しい横揺れに襲われた。揺れが収まり、身の危険を感じて外に出ると、目と同じ高さに崩れた拝殿の屋根などがあった。「揺れた時、境内も無事では済まないと直感した。パニック状態です」

 市内ではライフラインが寸断された。高齢者29人が入所する特別養護老人ホーム「ひのおか順心館」では、電気と水道が止まり、部屋からのナースコールができなくなった。ベッドをリビングに持ち込むなどして対応しているという。水はペットボトルが計120リットル分あるほか、小型のタンクもあるが、何日もつか分からないという。職員の山本博子さん(35)は「停電してラジオも聞けず、情報が入らない」と話した。

 阿蘇市永草の永草公民館には1家族5人が避難した。公民館で住民の対応をした高藤拓雄さん(69)によると、一帯では水道と電気が止まったが、公民館に水や食料の備蓄はないという。高藤さんは「市役所に何回か電話したが、つながらない。救援物資を早く頼みたいのに困っている」と話す。

 阿蘇市一の宮町手野にある温泉施設「一の宮温泉センター」の管理人の男性によると、周辺では古い民家などが複数倒壊し、ブロック塀が崩れたという。近くの後藤とも子さん(67)は、激しい横揺れで目を覚ました。揺れは30~40秒続いたように感じた。地域の人たちは公民館前に集まり、朝を待ったという。自宅は瓦が落ち、土壁がはがれ、ブロック塀が倒壊。停電が続き、水道からは泥水が出ているという。「食べ物も飲み物もない。携帯電話の電池ももうすぐ切れそう。どうしたらいいか分からない」

 阿蘇市の阿蘇医療センターには16日午前6時すぎ、家が倒壊した南阿蘇村の現場から、若い男性2人が救急車で搬送されてきた。2人は重傷だが、意識はあるという。



それにしても、不吉な事件である。むろん、私は神道の信者ではないので、神社に神が祀られているとは考えてはいないが、それでもあえて問うならば、なぜ彼らの「神様」は、自分の神殿や、自分に仕える氏子を守らなかったのか。しかも、諏訪大社では前回の御柱祭にも死亡事故が二件も起きていたというから、この祭りも随分、大変な命がけの危険な行事だったようである。


2.「天地の人」 天と地をつなぐ梯子
 
さて、諏訪神社の御柱祭とはどのような起源を持つのか調べてみた。
長い歴史を持つこの祭りについては幾多の解釈が存在し、断定的なことは言えないようであるが、興味深いのは次の説である。

 

信州遠山郷 秘境の旅 から抜粋

天地を支える柱説

 さらに視野を広げてみると、世界各地には「世界は四本の柱によって支えられている」という神話が見られます。

  • ビルマ北部のカチン族の神話では、創造神が天地を鉄のように鍛えて一つの塊にし、それを二つに割って大地を下に置き、四本の柱でその上の天を支えたといいます。
  • インドネシアのセラム島タトゥリ地区の村々には、「聖なる村の石」と呼ばれるモニュメントがあります。平石を四つの石が支える形のもので、これは天が四つの柱で支えられているという世界観を象徴しています。
  • 南アメリカのマヤの神話では、世界の四隅には四本の巨大なバオバブの木が生えているとされています。
  • 中国神話によれば大昔、天を支える四本の柱が倒れてしまったため、女カ(女咼)という女神が亀の足を切ってそれに代えたといいます。
 日本でも、中国のそれによく似た神話が長崎県壱岐地方に伝えられています。神が壱岐の島を作ったとき、潮に流されないよう八本の柱で島を支えました。
  その柱が折れてしまったので今度は縄でつなぎ止めましたが、これもまた切れてしまいました。そのため、壱岐は今でも少しずつ流されているのだといいます
(※注4)

 御柱が世界の四隅を支える柱を象徴しているとすれば、その巨大さも、四本という数の意味も理解できます。
 事実、建立の終わった御柱が倒れたり傾いたりすると、世の中に不吉な出来事がおきる、という言い伝えが諏訪にはあるそうです。その証拠に、第二次世界大戦の時も御柱が少し傾いていたといいますから、御柱を建てる氏子の人達は責任重大です。

壱岐を支える柱の一つといわれる猿岩 (郷ノ浦町)

しめくくり

 折口信夫は、柱(ハシラ)は階(キザハシ)などと語源を同じくし、天と地とを結ぶ橋(ハシ)であり、神は柱を目指して降臨する、と唱えました。
 日本では、神を数えるとき「一柱、二柱」と数えます。国生み神話では、伊邪那岐命と伊邪那美命が天之御柱をめぐって結ばれます。
 伊勢神宮には「心の御柱」、出雲大社には「岩根御柱」という神秘的な柱が、本殿の中央に存在します。
 諏訪の御柱の起源が何であれ、それがこんにちまで続いてきた背景には、こうした柱にまつわる日本人の神観念が横たわっているのでしょう。

 御柱とは何か。この問いは、諏訪信仰を研究する人々にとって永遠のテーマです。おそらくは未来永劫、結論の出ない問題なのかもしれません。
 けれど当の氏子の人達にしてみれば、祭りの起源などたいした問題ではないはずです。大切なのは祭りを受け継ぐ固い意志と、その充実感なのではないでしょうか。
 皆で力を合わせて山から曳いてきた御柱が、天を衝いてそそり立つ。それを見上げたときの達成感なくしては、御柱祭もこれほどまでに大きな行事として発展してこなかったでしょうし、遠山谷の人々も、それを地元に呼ぼうとは考えなかったことでしょう。

 もしかしたら縄文時代の人達も、祭りの後のどんぐり酒(?)が飲みたい一心で、声をそろえてトーテムポールを引っ張っていたのかもしれません。



「地の四隅」という表現は、興味深いことに、聖書にも度々登場する。

「この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押え、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。」(黙示7:1)

「柱」とは神道において神を数える数とされており、亡くなった人は神になるという観点から、戦没者などの亡骸も「柱」と数えられる。

だが、なぜ他でもなく「柱」なのか。上記の記事に記されている折口信夫の解釈によれば、「天地にまたがるハシ」に由来するのだという。

これも非常に興味深い説である。真っ先に、思い出されるのは、私がクリスチャンの兄弟達との交わりの中で、幾度となく、「天地の人」について語り合って来たことだ。
 
そのため、神道の解釈とは全く別に、「天地の人」という表現を聞くだけで、私は心を掻き立てられる。むろん、「天地にまたがる人」とは、我々から見れば、キリストのことなのである。そしてまた、天の御座におられるキリストをかしらとして、地に足をつけてサタンを踏みにじっている信者らの総体としてのキリストの御身体のことであり、エクレシア(教会)を意味するのである。

旧約聖書で、兄エサウを出し抜いて長子の権を奪ったヤコブが、兄の怒りを恐れて逃亡している最中、幻の中で天と地にまたがる梯子を見るくだりがある。

「ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
 

そのうち、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けられて立てられているその頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている 
そして、見よ。が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。

あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、来た、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。 
見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。 
彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。
そして、その場所をベテルと呼んだ。」(創世記28:11-19)

これも象徴的な意味で、神の民を予表している。今日、キリスト者自身が、神の御旨を天から地に引き下ろす存在として、天と地をつなぐ梯子だと言えるのである。だから、キリスト教においては、天と地をつなぐ真の梯子は、キリストご自身であり、また教会のことである。キリストは天地をつなぐただ一人の人であり、その御身体である教会に御霊として住んでおられ、満ちておられるのである。


3.神社本庁が国家神道の復活と改憲へ向けて主導する改憲へ向けての危険な政治運動 

さて、話を戻そう。上記の諏訪大社の御柱祭には、神社のみならず、社会に安定的な柱を据える、という意味がこめられていたようである。そこで、「事実、建立の終わった御柱が倒れたり傾いたりすると、世の中に不吉な出来事がおきる、という言い伝えが諏訪にはあるそうです。その証拠に、第二次世界大戦の時も御柱が少し傾いていたといいますから、御柱を建てる氏子の人達は責任重大です。」という言い伝えさえあったようだ。

それでは、残酷なようだが、柱を立てた氏子が亡くなった場合、それは何を意味するのであろうか。大変、不吉な前兆ではないのだろうか。しかも、二度連続して、複数の氏子が亡くなっているのである。どうにも、その背景には、人の命の安全よりも、祭りのスリルやダイナミックさの演出の方が大切だという考えがあるように思えて仕方がない。「人の目を喜ばせ、神様を楽しませ、世にご奉仕するためには、多少の人的犠牲も不可欠だ」という危険な考えを肯定するような兆候が見られるのではないだろうか。

だが、それにもまして、ここで思い出されるのは、ヨシュア記である。

「ヨシュアは、そのとき、誓って言った。「この町エリコの再建を企てる者は、主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」」(ヨシュア6:26)

人が亡くなったのに何と不謹慎なと言う人もあろうかも知れないが、この事件を警告と読むことはできないであろうか。

目下、神社本庁がすでに単に世俗化した宗教団体ではなくなり、独特の危険な政治的思想を持って、改憲に向けて積極的に宣伝活動を行なっていることは、かなり前から知られていることである。これは時計の針を逆戻し、平和憲法を廃止して、戦前の大日本帝国憲法を復活させて、国家神道を復活させようという思想的な目論見があってなされている運動である。

以下に、この運動を危惧する二人の弁護士の記述を引用するが、これを読んでも、筆者には、諏訪大社で建てられようとしていた「柱」は、単に伝統行事の域を超えて、今や神社全体が再建しようとしている危険なイデオロギーを象徴的に示していると理解しないわけにはいかない。

つまり、今、まさに再建されようとしている「柱」とは、軍国主義の復活であり、人権の否定であり、従って、人柱なのである。従って、それはエリコの再建よりももっとひどい体制の再建を意味する。人命が失われたことは、今後起きるであろう事柄への警告であるように思われてならない。

澤藤統一郎の憲法日記

本日(5月4日)の毎日新聞社会面に、憲法記念日関連報道の一つとして「改憲署名 賛成派700万筆集める 氏子を動員」という記事。

「憲法記念日の3日、…憲法改正を目指す団体『美しい日本の憲法をつくる国民の会』は東京都内でイベントを開き、全国で同日までに700万2501筆の改憲賛同署名を集めたと発表した。署名活動の現場を取材すると、地域に根づく神社と氏子組織が活発に動いていた。」

 「国民の会」がアベ政権の別働隊として1000万筆を目標に改憲推進署名を行っていること、その署名運動の現場の担い手として神社かフル稼働していることが、予てから話題となっている。

記事は、その現場のひとつを次のように報じている。
 「福島県二本松市の隠津島神社は毎年正月、各地区の氏子総代を集めてお札を配る。だが2015年正月は様子が違った。神事の後、安部匡俊宮司がおもむろに憲法の話題を持ち出した。『占領軍に押しつけられた憲法を変えなくてはいけない』。宮司は総代約30人に国民の会の署名用紙を配り、『各戸を回って集めてほしい』と頭を下げたという。」

「安部宮司は今年3月、取材に『福島県神社庁からのお願いで県下の神社がそれぞれ署名を集めている。総代が熱心に回ってくれた集落は集まりが良かった。反対や批判はない』と話した。隠津島神社の氏子は約550戸2000人で世帯主を中心に350筆を集めたという。氏子たちの反応はさまざまだ。

「今年正月には東京都内の神社が境内に署名用紙を置いて話題になった。全国で氏子組織が動いているのかなどについて、全国の神社を統括する宗教法人「神社本庁」(東京都)は取材に『国民の会に協力しているが、詳細は分からない』と説明。

隠津島神社の氏子総代(の一人)は言う。『地元の人が選挙に出ると地縁血縁で後援会に入らざるを得なくなる。署名集めもそれと似ている。ましてや神様からお願いされているようで、断りづらい面があったと思う』」。

この記事には興味が尽きない。神社が改憲運動に大きな役割を果たしているのだ。「神様からお願いされては、改憲署名は断りづらい」という氏子のつぶやきは、まことに言い得て妙。

元来、神社は地縁社会と緊密に結びついてきた。国家神道とは、神社の村落や地縁との結びつきを、意識的に国家権力の統合作用に利用したもの。村の鎮守様を集落共同で崇める精神構造をそのままに、国家の神を国民共同で崇める信仰体系に作り替えたものと言えよう。

いま、国家神道はなくなってはいるが、その基底をなしていた「地縁に支えられた神社組織」は健在である。その神社組織が日本国憲法を敵視して、改憲運動を担って改憲署名運動の中心にある。

見過ごせないのは、次の記事。この神社中心の改憲署名運動は、極めて戦略的に憲法改正の国民投票までを見据えているというのだ。
 「署名活動で神社関係者の動きが目立つが、『国民の会』を主導するのは保守系の任意団体『日本会議』だ。」「長野市内で昨年9月に開かれた日本会議の支部総会。東京から来た事務局員は、1000万人を目標とする改憲賛同署名の狙いを説明した」「会場には、長野県内の神社関係者が目立った」「これは請願署名ではない。国民投票という大空中戦で投票を呼びかける名簿になる」「憲法改正は衆参両院3分の2以上の賛成で発議され、国民投票で決まる。国民の会は国民投票の有効投票数を6000万人と想定。署名した1000万人に2人ずつ声かけをさせれば、改正に必要な過半数の3000万票に届くと計算する」。

以下は、毎日新聞3月18日付の記事。いったい、神社界はなぜかくも改憲に熱心なのか。
全国8万社を傘下に置く宗教法人・神社本庁の主張は「大日本帝国憲法は、民主主義的で誇り得る、堂々たる立派な近代的憲法」「帝国憲法の原点に立ち戻り、わが国の国体にふさわしくない条文や文言は改め、…全文見直しを行うのが本筋の改憲のあり方」(神社本庁の政治団体・神道政治連盟発行誌「意」、14年5月15日号)として、憲法1条を改めて天皇を元首とするほか、戦力不保持を定めた9条2項、国の宗教的活動・教育を禁じた20条3項の削除・改正に主眼を置く」という。

毎日は、「神社本庁の一部には、神社存続のために、国家神道の仕組みに戻りたいという心情があるのでは」という識者の意見を紹介している。

日本国憲法の「政教分離原則」とは、政治権力と宗教団体の癒着を許さないということだが、政治権力の側に対する規範と理解されている。「天皇や閣僚はその公的資格をもって靖国神社を参拝してはならない」「県知事は、護国神社に玉串料を奉納してはならない」「市が、地鎮祭を主催してはならない」という具合に、である。その反面、政教分離原則が宗教団体の側に対する規範という意識は希薄だった。神社が署名活動をすること自体は世俗的な政治活動であって、宗教的行為とは言いがたい。しかし、神社がここまでアベ政権と癒着し右翼勢力の中心にあって改憲に熱心であると、「政と教のどちらから歩み寄るにせよ、両者の癒着は防止しなければならない」と言いたくもなる。

憲法20条3項は、次のような書きぶりである。
 「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」
つまり、「国及びその機関」に対する命令となっている。「国及びその機関」に対して「宗教的活動を禁止する」という形で、宗教との癒着を防止しているのだ。

しかし、20条第1項の第2文は、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と、宗教団体を主語にした書きぶりになっている。

改憲署名運動が、「国から特権を受け、又は政治上の権力を行使」に当たるものとはにわかには言いがたい。しかし、「帝国憲法の原点に立ち戻ろう」とする宗教団体が、時の権力にここまで擦り寄る政治性の高い改憲署名活動は、戦前の神社の特権と政治的権力を恢復しようという、反憲法的な目的と効果を有するものと捉えうるのではないか。

 宗教団体の側からの政教分離違反の問題として考え直してみる必要がありそうではある。
 (2016年5月4日)


次の記事は上記の主張をさらにもっと先鋭化したものである。神社に祀られている「神」が、「死神」だと結論づけているのは言い得て妙である。

弁護士 猪野 亨のブログ

神社の氏子を動員 神社は宗教の仮面を被った死に神だった 軍国主義日本の精神的支柱
2016/05/04  23:23

日本国憲法を目の敵にしている日本の右翼改憲勢力ですが、何と神社の氏子を動員して改憲署名700万筆を集めたそうです。
改憲署名 賛成派700万筆集める 氏子を動員」(毎日新聞2016年5月4日)
「憲法改正を目指す団体「美しい日本の憲法をつくる国民の会」は東京都内でイベントを開き、全国で同日までに700万2501筆の改憲賛同署名を集めたと発表した。署名活動の現場を取材すると、地域に根づく神社と氏子組織が活発に動いていた。
 地元で「弁天さん」と呼ばれ親しまれている福島県二本松市の隠津島(おきつしま)神社は毎年正月、各地区の氏子総代を集めてお札を配る。だが2015年正月は様子が違った。神事の後、安部匡俊(まさとし)宮司(62)がおもむろに憲法の話題を持ち出した。「占領軍に押しつけられた憲法を変えなくてはいけない」。宮司は総代約30人に国民の会の署名用紙を配り、「各戸を回って集めてほしい」と頭を下げたという。」

 2015年正月からこのような活動をしていたのですか。
 今年の正月には、北海道神宮でもこのようなことがツイッターで流されていましたので、今さら驚くという話ではありませんが、2012年12月に安倍政権誕生後、その活動を活発化させていたということです。

北海道神宮が日本会議の署名集めをしていた! 憲法「改正」を推進する宗教団体 お賽銭は御利益どころか、平和が破壊される



 神社といえば、日本軍国主義の精神的支柱であり、神聖にして侵すべからずとされた天皇を仰ぐ存在ですが、戦後は世俗化し、七五三などの儀式や地域で庶民の集う場になっていました。
 しかし、神社に仕える勢力は、天皇を象徴制に貶めた日本国憲法を決して認めることなく、天皇を元首とすべく虎視眈々とその機会を狙っていたということです。

 ここまで時代錯誤な勢力が日本の中にあったかと思うと嘆かわしいというだけでなく、よくよく考えてみると非常に恐ろしいことです。
 靖国神社もそうですが、あのアジア・太平洋戦争によってアジア諸国の人々を殺戮の限りを尽くし、また同時に日本国民に対しても多大な死を強要した日本軍国主義に対する反省など全くありません。

 靖国神社は露骨に聖戦美化する異常な人たちということは共通認識だからよいのですが、身近な神社までがということになると、この問題を放置することは許されません。
 神社は、日本の軍事大国化を目指す右翼勢力と結合し、改憲勢力の最前線に躍り出てきたのですから、世俗の仮面も投げ捨てたのです。

 神社勢力は、平和を敵視し、再び戦争ができる国、天皇を神に祭り上げていた暗黒時代に日本国民を導こうとする死に神以外なにものでもありません。
 神社への賽銭は、平和を破壊する資金源です。


恐ろしい神社の本質 憲法改悪に向けて日本会議と二人三脚

 「私は違う!」という神社関係の方々へ
 それならば、この神社勢力の行動を、名を名乗って批判の声を社会に向けて発して下さい。黙りは卑怯です。





4.神と人との断絶を認めない東洋思想は、「和の精神」という名目の下、個人を全体の所有物とみなし、全体を離れての個人の普遍的な価値を否定する

このような主張を読むとますます諏訪大社の御柱祭で起きたことが象徴的な警告に感じられる。

ただ軍国主義が危険なイデオロギーであり、これを復活させようという邪心が糾弾されるべきだという観点だけから言うのではない。まことの神はただお一人であり、神は生きておられる。侮られる方ではない。

戦前の国家神道には、明らかに、キリスト教に対抗するという思想的目的が込められていた。従って、それはクリスチャンの目には、日本が自ら神に反逆し、敵対する道を選んだ時期であった。そして、信仰を持たない人の目にも、その結果がどれほど悲惨なものであったかは否定できないほどに明白である。

従って、大日本帝国憲法時代に逆戻りを促すことによって、再び、我が国が偽りの神を提示してまことの神に敵対し、偽りの思想によって、多くの人の命を奪うことを正当化するならば、この国には以前よりももっと厳しい裁きが下るだろうと予想しないわけにはいかないのである。むろん、神はご自分に忠実な民を守られるであろうが、偽りのイデオロギーを信じる人々の末路は悲惨なものとなるであろう。

サイバーカルト監視機構とさわやか読者に関する分析でも、追って詳述する予定であるが、以下に示すように、神と人との断絶を認めない東洋思想こそ、キリスト教に敵対するグノーシス主義思想の集大成なのであり、この思想が、個人の尊厳を認めず、個人を全体(社会や国家)の道具とみなして、容赦なく犠牲にしていく精神を生んだのである。

国家神道も、その思想的構造を見るならば、明らかにグノーシス主義の一変種だと言えるのであり、それは徹頭徹尾、キリスト教に対抗する思想に貫かれている。

以下は、戦前の軍国主義時代に旧文部省から出された「国体の本義」の一部であるが、これを読めば、当時、日本人の義務とされ美徳として讃えられていた「和の精神」なり、「忠君愛国」の精神なり、伝統的な家族制度なりが、すべて、人が罪によって堕落したために神と断絶したという聖書に記された事実を否定することによって肯定されている様子がよく分かるであろう。この「和の精神」こそ、キリストの十字架の否定であり、個人を全体に包含されるものとして、全体の所有物として絡め取るものであり、十字架の切り分け、分離の否定なのである。

「我が国においては、神は恐ろしきものではなく…神と人との間は極めて親密である」などという美辞麗句にごまかされてはならない。以下の抜粋では、我が国がいかに他の国に比べて優れた思想を持っているかという愚かしい自慢話が延々と続いているが、そこで述べられているのは、要するに、神と被造物との断絶を一切認めず、神と人とが生まれながらに和合しており、全宇宙は調和によって一つに和合しているという思想である。

だが、それは人の耳に聞こえは良くとも、内実は恐ろしいものであり、このような考え方に立てばこそ、この思想においては、個人は全体(共同体)の所有物とみなされて、そのヒエラルキーの中で「分をわきまえて」自分よりも強い者に奉仕することが義務とみなされ、そのヒエラルキーから離脱することが許されず、全体を離れての個人としての尊厳というものが否定され、個人の意思などまるであってはならないないがごとくに、ただ全体の「空気」に従順であることだけが要求され、個人が異論を提示することも許されない不自由の中に閉じ込めてしまったのである。そのようなものが、理想的な「和」であるとして、全国民に強制されるに至ったのである。

国体の本義 
四、和と「まこと」
神と人との和 より抜粋

「更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。このことは我が国の祭祀・祝詞等の中にも明らかに見えてゐるところであつて、我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である

  又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。我が国は海に囲まれ、山秀で水清く、春夏秋冬の季節の変化もあつて、他国には見られない美しい自然をなしてゐる。この美しい自然は、神々と共に天ッ神の生み給うたところのものであつて、親しむべきものでこそあれ、恐るべきものではない。そこに自然を愛する国民性が生まれ、人と自然との和が成り立つ。印度の如きは自然に威圧せられてをり、西洋に於ては人が自然を征服してゐる観があつて、我が国の如き人と自然との深い和は見られない。これに対して、我が国民は常に自然と相和してゐる。文芸にもこの自然との和の心を謳つた歌が多く、自然への深い愛は我が詩歌の最も主なる題材である。それは独り文芸の世界に限らず、日常生活に於ても、よく自然と人生とが調和してゐる。公事根源等に見える季節々々による年中行事を見ても、古くから人生と自然との微妙な調和が現れてゐる。年の始の行事はいふに及ばず、三月の雛の節供は自然の春にふさはしい行事であり、重陽の菊の節供も秋を迎へるにふさはしいものである。季節の推移の著しい我が国に於ては、この自然と人生との和は殊に美しく生きてゐる。その外、家紋には多く自然の動植物が用ゐられてをり、服装その他建築・庭園等もよく自然の芙を生かしてゐる。かゝる自然と人との親しい一体の関係も、亦人と自然とが同胞として相親しむ我が国本来の思想から生まれたのである。

  この和の精神は、広く国民生活の上にも実現せられる。我が国に於ては、特有の家族制度の下に親子・夫婦が相倚り相扶けて生活を共にしてゐる。「教育ニ関スル勅語」には「夫婦相和シ」と仰せられてある。而してこの夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ。即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。

  更に進んで、この和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。

  このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。

  要するに我が国に於ては、夫々の立場による意見の対立、利害の相違も、大本を同じうするところより出づる特有の大和によつてよく一となる。すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる。ここに我が国の大精神がある。而して我が国に現れるすべての進歩発展は、皆かくして成される。聖徳太子が憲法十七条に、
   和を以て貴しとなし、忤ふることなきを宗と為す。人皆党有り、亦達れる者少し。是を以て或は君父に順はずして、乍隣里に違ふ。然れども上和ぎ下睦びて、事を論はむに諧ひぬるときには、則ち事理自らに通ず。何等か成らざらむ。
と示し給うたのも、我が国のこの和の大精神を説かせられたものである。」

このように、人が罪によって堕落したがために、神と断絶したことを認めない思想は、キリストの十字架の贖いの必要性をも否定する、神に敵対する思想なのであり、それが「神と人との和」という美しいスローガンとは裏腹に、どんな悲惨な結末へ我が国を導いたかは、今更、繰り返す必要もない

「神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であ」
ったはずが、そのように、人にとって脅威とならない、恐ろしくもないはずのその慈悲深い「神」が、数えきれない人々の命を残酷に奪ったのである。一体、どこに「神と人との和」などあったのだろうか。生きて収奪され、死んで神と和合するのが人の理想だとでも言うのだろうか。

もし我が国の「和の大精神」なるものが、ここで賛美されているほどに美しい、真実性を伴うものであったとすれば、それがあれほどおびただしい犠牲者を生み、無責任体制を作り上げ、我が国を亡国の淵まで追いやるということは起きなかったであろう。従って、ここで謳われている「神と人との美しい和合」、「人と自然との美しい調和」、「人と人との美しい和合」なるものが、すべてうわべだけの虚偽であり、それはまことの神を否定し、人間の本質に逆らい、神の事実に敵対する思想であればこそ、悲惨な結末しかもたらさなかったのである。

従って、このような思想を再び建て上げようとする者は、エリコ以上の忌むべき城壁を再建しているのであって、その柱は、神が降臨するどころか、悪魔の降臨(反キリスト)を体現するものとなるだろうことは、クリスチャンの目に明白である。それによってもたらされるものは、人間の序列にがんじがらめにされて、個人の意志や自由が認められず、異論も唱えられない不自由な社会であり、再び、累々たる屍、すなわち、終わりなき人柱だけなのである。

肉によって生まれた者が御霊によって生まれた者を迫害する

今、キリストと共に統治する、とか、この世の体系を出て、御子の支配下に入る、といったテーマで今、一連の記事を書いているのは、反キリストの王国がいよいよ近づいているためでもある。

もし反キリストが地上の王国を統治することを目的としているならば、キリスト者もすでに見えない王国を担っている者である。その王国とは、目に見える地上の王国ではなく、彼の内側に信仰を通して、キリストご自身の支配として到来している見えない神の王国である。

たとえ信者がどれほど人の目に弱々しく忘れられた存在であろうとも、信者を通して神の国が到来しているという事実は、測り知れない意味を持つのであり、信者は自分が王の王なる方と共に共同統治者に指定されている事実をよく考える必要がある。神の国とは何か、その統治とは何か、自分に約束され委ねられた使命について追求して行く必要がある。
 
だが、多くの信仰者がこのようなテーマについてはほとんど考えることさえやめてしまっている時に、反キリストはいよいよ地上に自らの王国を打ち立てようと準備を進めている。以下の記事で、私は天皇をいずれ再び現人神として、つまり、反キリストとして担ぎ出そうとする動きがあることについて書いた。

天皇をその出自に鑑みて反キリストとみなすことについて、Yahoo知恵袋「天皇陛下は神道のイエスで反キリストというのは本当ですか?」に、かなり秀逸な回答が記されていたので、末尾に引用しておきたい。そこでは、国家神道の成り立ちを詳しく解説しながら、国家神道はキリスト教を換骨奪胎して作られたキリスト教の異端でありカルトだということが指摘されている。

確かに、国家神道がキリスト教に対抗することを意識して人為的に作られた宗教であることはよく知られているが、この記述はさらに進んで、根拠を挙げつつ、天皇は「異なる霊」を受けた「異なるイエス」であり、「国家神道はキリスト教の異端」、「キリスト教のカルトである」と言い切っている。(詳細は記事末尾に引用しておくので各自で吟味していただきたい。)

そのように見るのはまことに適切ではないかと思われる。私はペンテコステ運動の指導者らも「異なる霊」を受け「異なるイエス」として「神々」となった人々であると言って良いと考えている。そして今、この世は終わりに向けて、「神々による支配」から統一的な「反キリストによる支配」へと移行しつつある。その結果、再び、現人神として担ぎ出されようとしているのが天皇であり、政府はすでにその従属機関としての役割を果たしているのだと見られる。

なぜ政府がこのように国民を裏切って反キリストに堂々と仕えるほどまでに堕落した存在となったのかという疑問については、官僚組織の成り立ちを考えてみれば全く不思議ではない。

明治憲法下で官僚組織は天皇の直属の機関であったことはすでに述べた。戦後の現在の憲法の下では、公務員は国民の公僕とされているが、その公務員とは憲法上、選挙で選ばれた政治家のことを指しているのであって、官僚のことを指しているのではないということもすでに記事の中で述べた。それでは、官僚という存在は一体何者であり、どのような根拠によって存在を許され、誰に仕えるために存在しているのか。実のところ、官僚組織全体が、憲法に基づかずに、法のトリックによって生まれた実態のないお化けのような存在であり、戦前の遺物として、本来は廃止されるべきものが、適正な法的根拠を持たないまま、今日までトリックによって存続しているだけなのである。

さらに、このようなお化けのような官僚組織と一緒に、官僚となるための国家公務員試験というものも、同じように全く根拠がないまま、戦前の遺物として今日に残っている。これは明治憲法下で存在していた官吏になるための試験制度をそのまま今日に置き換えたに過ぎない。

従って、上級エリート官僚になることを暗黙のうちに最高の到達点とみなすような現在の日本のエリート教育、偏差値偏重の教育制度といった、教育におけるヒエラルキーそのものが、実のところ、すべて旧時代の遺物に過ぎないと言っても差し支えないものと思う。未だにそのような幻想のヒエラルキーが連綿と受け継がれ、それによって人々が踊らされ、苦しめられているのが今の日本なのである。

戦前の祭政一致という観点から見ると、当時の官僚制度は、天皇が宗教的祭事を執り行うための組織の一環だったのだと言って良いだろう。教会にたとえるならば、牧師の下に置かれる役員会のようなものだろうか。そして、天皇に仕えるために有能な部下を選び出すことを最高の目的として作られたのが官吏になるための試験であり、それが法のトリックによって敗戦後も形を変えて生き延びて、国家公務員試験として存続しているのである。

そう見ると、現在のいわゆるエリート教育は、反キリストのために優秀な人間を道具として選び出すために作られた戦前の制度を土台として築かれたものであるため、その理念に鑑みて、これが人間を幸せにしないシステムであったとしても何ら不思議はないだろう。

いずれにせよ、官僚制度はそのものが憲法違反であり、法的根拠を持たない戦前の遺物であり、自らが憲法違反の存在なので、当然ながら、彼らは自ら定めた下位法によって上位法である憲法を覆そうと企てている。いわば、クーデターの霊がそこにあるのだと言える。彼らの目的は、時計の針を逆向きにして、廃止された現人神の制度を復活させること、自分たちが卑しい国民の下僕に転落せずに済み、再び「神(反キリスト=天皇)」に直接仕える「高貴な」機関となることだろうと予想される。

もともと法のトリックによって敗戦を超えて生き延びている犯罪的な集団が、自らの犯罪性を隠し通すために、国民を裏切って、多くの国民を死に追いやった現人神としての天皇を再び担ぎ出し、天皇崇拝をひそかに再び国民に強要しようと画策しているのだとしても、それは全く不思議ではない。すべての官僚がそのような信念の持ち主ではないにせよ、遅かれ早かれ、この考えに賛成しない人々が駆逐されて行くことによって、法改正を待つまでもなく、すでに霊的には、政府そのものがそのような状態になってしまっているのが現在であると見られる。政府は、天皇が再び現人神として戻って来てくれて、彼らの存在を正当化してくれるのを待ち焦がれているだけでなく、すでにそのために道を整えてさえいるようにしか見受けられない。

少し話が脱線するが、クリスチャンを名乗りながら、天皇を反キリストとみなすと同時に、日ユ同祖論を唱えている一群がある。しかし、これもまた現人神へと道を開いて行く流れでしかない。日ユ同祖論なるものは、科学的根拠を一切持たないファンタジーの類であり、仮に百歩譲ってそれを事実として受け入れたとしても、それは聖書に基づく救済理論とは決してならない。なぜなら、聖書の新約の救いとは、人が地上的な血筋によって救われるというものではなく、人はキリストの贖いを受け入れ、「上から生まれる」ことなくしては神の国に入れないからである。

「イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」(ヨハネ3:5-7)

そこで、日ユ同祖論に限らず、「愚かな議論、系図…」(テトス3:9)などを持ち出して、地上のアダム的な出自を高く掲げるようとするいかなる理論も、聖書の真理には対立するものであり、結局のところ、天皇を現人神とする思想と何ら本質的に変わることのない人間崇拝の思想だと言える。だから、日ユ同祖論を唱えている人たちも、表向きには天皇崇拝をどんなに否定していようと、最終的には、「日本人は(ユダヤ人の末裔であり)神に選ばれた選民だから他の民族よりも優れている」などという優生学的思想へ飛びつくだろうと容易に予想できる。それはすでに述べたように、ロシア大統領を誉め讃えながら、同時に天皇を誉めたたえている人々の行き着くであろう結論と変わらないのである。

こうして日本を再び「神国」とみなそうとする危険な潮流が様々なところから起きて来ているのが現在である。天皇を賛美し崇拝する人々は、その思想によって結局、自分のアダム的なものを誉め讃え、己を神としているのに等しいが、自分を神とするグノーシス主義は、人を高く掲げ、人間に栄光を帰するがゆえに人々を魅了し、盲目にさせてしまう。

こうして、今、日本は再び、非科学的な優生学的思想に基づいて、日本民族を高く掲げ、その頂点に天皇を据えて、「神国」として世界に名乗り出ようという愚行の一歩手前まで来てしまっている。このカルト的な妄想が、すでに一部の狂信者の専売特許でなくなり、表の政治の世界で堂々と繰り広げられ、政治が「祭事」とされようとしているのである。

もちろん、だからと言って、このような思想を持つ人々(たとえば日本会議メンバー)が、いきなり天皇を「現人神」であると主張し、「日本民族は神国の民であり、国政は天皇の祭事である」などと主張したとしても、誰もそんな戦前のイデオロギーになびく者はおらず、国民の大反発を買うだけであろう。だから、頭の良い人々は決してそのような方法によって天皇崇拝を復活させようとはしない。むしろ、天皇を国民への情け深い同情者、救済者のように描き出し、大衆の中に天皇を崇め、尊敬するムードを巧みに醸造して行くだろう。

そのような目的のために大いに利用されているのが、「先の大戦で非業の死を遂げた戦没者」の存在である。天皇はこれまでにも常に犠牲者を弔う存在、被害者に情けをかける慈悲深い象徴のように描き出されて来た。天皇は「英霊」を慰める存在であり、また、戦争の犠牲者のみならず、障害者や被災者等の社会的弱者に憐れみをかける存在であり、民草の苦しみに無関心ではいられない情け深い「君主」として演出されて来た。

将来的に、反キリストは実質的に抑圧者、搾取者であるにも関わらず、必ず、表向き、慈悲深い同情者、救済者を名乗って現れるだろう。彼は必ず「可哀想な社会的弱者」を大いに利用して救済者然と登場して来るだろう。それは拉致被害者を利用して政治家として成功した首相や、カルト被害者を利用して教界で名をはせた牧師と同様であるが、天皇を情け深い同情者や救済者にしようとするような流れは今までにも十分に形成されて来た。
 
だが、戦争で犠牲となった戦没者は、本当は天皇の犠牲となって殺された被害者に過ぎないし、原発事故の被災者も、政府の無策によって見捨てられた被害者であると言う観点から見るならば、天皇も政府も、本来はこうした人々の存在の前に責任を追及されるべき立場にあって、彼らを慰める同情者ではないし、まして救済者ではあり得ない。ところが、やんごとなき方々が自分たちを見舞いに来てくれて、励ましてくれたということになると、民の怒りは不思議とおさまってしまい、国民は自分たちが加害者と対峙しているのであって、救済者を見ているのではないということを忘れてしまう。

このようにして、国民を苦しみの中に投げ入れた本質的な原因がどこにあったのかという責任問題をごまかし、束の間の同情を注ぐことで、国民に憤りを忘れさせ、自分たちが置かれている不自由な状態を黙って耐え忍ぶよう仕向け、本質的な解決の道を忘れさせることも、偽の救済者の重要な役割の一つである。

カルト被害者救済活動もそうなのだが、被害者を利用した救済ビジネスの本質は、被害者への「同情」という心地よい感情を大いに利用して「救済者」が自分の栄光を築き上げ、なおかつ、問題の本質を覆い隠してしまうことにある。「救済者」が弱者のために涙を流せば流すほど、救済者は輝き、その名声は高まるが、弱者はそのために利用され続けるだけで、いつまでも問題は解決しない。むしろ、本音を言えば、いつまでも犠牲者がいてくれて初めて「救済者」は名声を汲みだす源を得るのである。

さらに、再三に渡り、述べて来たように、カルト被害なるものが発生するのは、牧師と信徒らが共に聖書の教えから逸れたことが本質的な原因である。従って、被害者らは自分たちが聖書の御言葉を退けてまで、誤ったイデオロギーを信じてしまったがゆえに、大きな失敗へ導きいれられたという点を直視せず、この罪を見ずして、ただカルト組織や指導者だけを一方的に責めていたのでは、決して問題の本質的な構造は見えて来ないし、解決の道も開けない。

ところが、カルト被害者救済活動は、カルトの親玉だけを「悪」とし、被害者を「善」なる存であるかのように描くことで、加害者と被害者には、双方ともにまことの神を捨て、誤ったイデオロギーを奉じたという共通の罪が存在しているという事実をごまかしてしまうのである。

さらにもっと進んで言うならば、キリスト教界と牧師制度そのものが聖書から逸脱しているという事実には決して彼らは触れようとしない。カルト被害者救済活動を指導する者自身も牧師である以上、この者もカルト的な教会の牧師と同じように加害者サイドに立っており、こうした被害を発生させたことについて共通する罪や責任を背負っている側の人間であるという事実には目を向けようとしない。
 
こうして、加害者と被害者とが一体となって、事実を覆い隠し、己の罪から目を背けて自らを義とするという結果が生まれるのである。表向き、加害者を訴えているようでありながら、被害者と加害者が同じ罪で連帯し、共に己をかばいながら一体化して行くのである。

そして、これと全く同じ構図が、天皇が戦没者を慰霊するために「英霊」たちのもとを訪れるという事業の中に見て取れる。

考えてみればすぐに分かるはずだが、仮にもし誰かが交通事故で過って人を死なせてしまった場合、交通事故の加害者は、亡くなった被害者の位牌の前で、顔を上げて立つことはできない。まして、亡くなった被害者のもとを訪れて彼を「慰める」など論外である。加害者ができるのは終わりなき謝罪だけであり、どんなに詫びを重ねたとしても、彼は同情者にはならないし、まして救済者にはなれない。
 
しかし、天皇の戦没者への「慰霊」は、一体、どういう性質のものなのかは定かでない。戦争の惨禍については常に語られるものの、それがなぜ、誰のせいで引き起こされたのか、天皇と戦没者とはどういう関係にあるのか、果たして天皇は加害者としての責任を認めて犠牲者の前に立っているのか、それは決して明確にされることはない。少なくとも、この儀式が、天皇が自ら誤ったイデオロギーによって数えきれない国民を死に追いやった加害者として、被害者の霊に謝罪することを主たる目的としていないことは確かである。
 
さらに、天皇による戦没者への「慰霊」は、本質的に宗教儀式である。名目上は、亡くなった犠牲者を丁重に弔うとか、戦争の悲惨さを忘れずに戦後処理を適切に遂行する政府の責任などといった目的を隠れ蓑にしてはいるものの、実際のところ、公式にも「慰霊」や「慰霊巡拝」などといった名がつけられている通り、これは天皇が戦没者である死者の霊を拝むという、れっきとした宗教儀式としての意味合いを持つ。
 
ここでは、政府や戦没者の遺族にも、複雑な思惑が絡んでいる。表向き、戦没者は戦争の犠牲者であるとの認識は一般にあるものの、それでも、彼らは天皇のために命を捧げた「英霊」であって、これは無駄死にではなかったと思いたい人々が存在することも確かである。むろん、政府も内心は免罪されるためにその感情を利用したい。

そこで、戦没者の慰霊という儀式を厳かに執り行い、天皇が亡くなった人々に同情し、彼らの霊を慰め、弔うという遺族らの感情に訴える儀式を執り行うことによって、本当は加害者も被害者も共に、生まれながらの人を神とする誤ったイデオロギーを信じて人生の道を踏み誤り、大きな悪事に手を染め、自分自身の人生をも無駄にしたのだが、その事実(その大罪)を何となく覆い隠して、情緒的な側面だけに焦点を当てて、それ以上の責任を誰も追及できないようにしてしまうのである。つまり、ここでは加害者と被害者の関係にある者たちが同じ罪を犯しているのだが、双方ともがその事実から目を背けることによって一種の共犯関係を築いているのであり、もっと言えば、被害者と加害者との間で、何か癒着のようなものが成立してしまうのである。

さて、このブログでは度々反面教師として取り上げているハフィントンポストに、今回の天皇のフィリピン訪問を盛んに報道するメディアの隠れた目的が見て取れるような記事があったので、それを抜粋したい。

(ハフィントンポスト 天皇訪比「日本人が忘れてはならないこと」柴田直治 マニラ新聞編集顧問 元朝日新聞論説副主幹 投稿日: 2016年01月29日 18時38分 JST   更新: 2016年01月29日 19時54分 JST  から引用)

この記事においては、日本の敗戦や戦争責任といった不都合な歴史的事実に一向に向き合おうとしない冷淡な安倍首相と、それとは対照的に、不都合な歴史に誠実に対峙し、犠牲者の苦しみに真摯に思いをはせる天皇という図式が描き出されている。

「天皇は旅立ち前の羽田空港で「マニラの市街戦においては,膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました」と述べたが、1945年2月のマニラで10万人もの市民らの命が奪われたことをどれほどの日本人が知っているだろうか。

自国に不都合な歴史的事実を知ろうとしない、認めたがらない風潮が強まるなか、天皇の言葉は重く響いた。さらに言えば「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という昨年8月の安倍首相談話に相対する考え方だと私には思えた。」

だが、このようにわざわざ安倍首相の冷酷さと、天皇の外交的功績を対比して描き出そうとする目的はどこにあるのか。それは次の文章の中に示されているように思う。

憲法上、政治から離れた立場にいる天皇だが、今回の訪比で政治が今後解決すべき課題が浮き彫りになったと感じる。ひとつは戦後フィリピンに残され、差別のなかで困窮を強いられた残留日系人の救済だ。昨年7月、日系人の代表らは、日本政府主導の訪比調査と孤児認定の実施などを安倍首相に直接陳情したが、いまだに政府側の動きはない。2世らの高齢化は進み、残された時間は限られている。

もうひとつは遺骨収集事業再開への条件整備だ。2010年にミンドロ島などの先住民墓地からフィリピン人の遺骨が盗掘され、旧日本兵の遺骨に混入された疑いが浮上したため、事業は中断したままだ。いずれも戦後処理の一環であり、こちらも政府の早急な対応が求められる。」

ここには国民の関心を二つの目的に誘導しようとする意図があるように思われてならない。一つ目は、政治家の無能を強調することによって、天皇の政治への復帰が必要だと思わせることである。これは、天皇を再び国家「元首」としたい人々の意向を受けた、憲法改正への巧みな促しであると見て取れる。

二つ目は、政府の行う戦後処理ビジネスの拡大である。フィリピンでの遺骨収集事業はこれを現地の下請け業者に丸投げした政府のずさんな管理のために巨大な疑惑が生じ、中断したままだが、その是正も行なわれていないうちに、これを再開する必要があるというのだ。だが、すでに述べて来たように、きちんとした調査方法も確立していないのにまた新たな遺骨を引き取る前に、まずは厚労省にため込まれた行き場のない大量の遺骨の行く先を考える方がはるかに優先課題ではないかと思われるのだが。

さらに、記事は戦後フィリピンに残された残留日系人の救済の必要も訴えているが、これは中国残留邦人以上に調査が困難な案件となるであろう。「日系人」と書かれているところを見ると、「残留邦人」でさえない人々も含まれる可能性があるが、そうなると、救済の対象には日本人でない人々も含まれることになりかねない。それは、戦後処理の救済の対象そのものが、果てしなく拡大する危険をもはらんでいる。戦後処理は確かに続行が必要な事業であり、救済を待つ人々もいるのだとはいえ、これも間違いなくビジネスなのであるから、いたずらに拡張されるべきものではないし、もし政府の利益のために拡張されるとすれば、それは論外である。

従って、この記事は、一見、過去を忘れないとか、戦争の犠牲になった人々へ思いをはせるなど、あたかも歴史的過去への道義的な責任の見地から書かれているように見えるものの、その実、天皇の国政への復帰と、戦争の犠牲者の高齢化が進んで救済の対象を失いかけている政府の戦争犠牲者救済ビジネスを存続させるための新たな事業作りの必要性を国民に訴えることが真の狙いだと疑われても仕方がない。
 
今、政府が行うべき課題は他にあるのではないか。年金や不況や被災といった国内問題の解決や貧困にあえぐ自国民への支援も、これと同じほど、あるいはもっと緊迫した重要な課題ではないかと思われてならないのだが。
  
さて最後に、天皇とは何者なのだろうかという疑問について考えてみたい。天皇家には戸籍もなく、果たして天皇とはどこから来た存在であるのか、その出自は何なのか。こういった疑問についても、日本人はよく考えてみる必要があるのではないだろうかと思う。

長くなるが、Yahoo知恵袋の文章を掲載しておきたい。

woderful_councelorさん

2014/3/2914:20:15

天皇陛下は神道のイエスで反キリストというのは本当ですか?


ベストアンサーに選ばれた回答

nobusuke_kishi1896さん

編集あり2014/4/514:49:28

恐れ多くも,天皇陛下は全神道のイエスで反キリストというのは歴史的事実です。明治天皇も,大正天皇も,昭和天皇も,今上天皇も,みな「養子論のイエス」という反キリストです。

1.かいつまんで説明します。
①明治維新は国家神道イデオロギーによって成立した。
②国家神道の中心的ドグマは,平田篤胤の復古神道である。
③平田篤胤は,天主教の教義書を剽窃して復古神道を人造した。
④平田」篤胤は天主教のイエスを天皇で置換し,父神を母神天照大神と,聖霊なる神を天皇霊とそれぞれ置換し,聖書に啓示された無からの創造論を古事記の流失神話と置換したものである。
⑤その後明治14年の祭神論争で出雲派を追放し天照オンリーの国家神道として完成すると共に,全神道の唯一神となり,靖国のドグマが完成した。
⑥天皇の即位式大嘗祭は,キリスト教の聖霊のバプテスマのパクリである。
⑦伊藤博文は自身がキリスト教の洗礼を受けながら,国禁に鑑み,徳川慶喜が捨てた反キリスト教,復古神道に飛びついた。
⑧GHQは,天皇教が反キリスト教であることを知り神道指令で「国家カルト」と名指しした。
⑨外務省は全てを知りながら「国家カルト」と翻訳せず,国民の目を欺いた。
⑩「反キリストを死刑に」がアメリカの大衆の意見だったが「キリスト者になっても良い」という嘘にマッカーサーが騙され昭和天皇は命拾いした。

2.天皇=反キリストの決定的な証拠
・昭和天皇は1人のために310万人の日本人,2,400万人の人間を殺した。
・キリストは万人のために死んで下さったが,反キリストは自分1人のために万人を殺した。
※「ホイットニー文書」を見よ!

3.以下の質問と答えから詳述する。

質問1:外務省が cult を「宮中祭祀及び祭式」と翻訳し今日でも、外務官僚の翻訳を自省のサイトに乗せているという意味は、外務省は天皇の宮中祭祀だけが非宗教的国家カルトであって、神宮、靖国神社、その他の官国幣社、神祇院を指さないという意味なのでしょうか?それとも臣民の目を欺き、GHQが神道を国家カルトに指定した事実を隠蔽するためでしょうか?

回答1:もちろん, GHQが神道を国家カルトに指定した事実を隠蔽し,庶民の目を欺くためです。なぜなら,伊藤博文らにより「官僚が庶民を騙す政治体制」に創作されていたからである。

■根拠:この質問に答えるには、「大日本帝国」が「どういう国家」だったのか,その二重の統治機構を知る必要がある。例えば北朝鮮の憲法にも信教の自由が謳われているが,建前であって実態は異なる。二重の統治機構があり庶民に自由はない。
昭和31年,久野収らは「現代日本の思想」(岩波書店)で見抜いていた。日本帝国は,二重の統治機構,つまり庶民の「顕教」(通俗的)と、エリートの「密教」(高等的)とに創作されていた。「教えられたとおりに」顕教を信じた庶民は,密教の存在に気がつかない。憲法は外国と庶民を騙す仮面だからエリート官僚が護るものではないのである。

この明治憲法の違憲な解釈と運用に気づかない臣民はみな騙されていた。特攻で死んだのは騙された若者たちだった。建前である「顕教」は初等教育や軍隊で教えられた、天皇を無制限の権威と権力をもつ絶対君主とみる解釈のシステムであり、本音である「密教」は大学及び高等文官試験を通って初めて明らかにされる。伊藤博文を指導者とする明治の元老らが「国家の二重構造」を創作した!

質問2:神学的に評価すると国家神道はキリスト教のカルトなのでしょうか?
回答2:そのとおり。キリスト教のカルトである。例えば,「天皇はローマ教皇のごとく,神の権威のこの世における代行者にとどまるのではなく,まさしく神の子であり,現人神とせられた。天皇は,皇帝=教皇であるだけではなく,実に民族信仰における神の子イエスの役割も演じなければならなかった」久野収は「現代日本の思想」128頁で「天皇は国家神道の神の子イエス」であると明らかにしていた。1956年の時点にである。

■国家神道は神学的に評価するとキリスト教のカルトというか反キリスト教である。

1 国家神道の成立過程とドグマ
①平田篤胤は,中国へのイエズス会宣教師の教理書「畸人十編」「三山論学紀」を剽窃し『本教外編』,『霊能真柱』(たま の みはしら)等を著した(復古神道)。父,子,聖霊を天照大神,天皇,天皇霊に置換したグノーシス主義キリスト教という国家カルトを創作した。
②平田国学は津和野藩の藩学となり,伊藤博文に上奏され津和野派主導の国家神道となった。
③明治14年祭神論争で幽冥界の主,大国主と死後の裁きの出雲派を退けた伊勢派は神宮本宗+靖国神社のドグマを確立。
④伊藤の信任厚い井上毅は帝国憲法草案,教育勅語,軍人勅諭を起草。
⑤その後『国体の本義』『臣民の道』がドグマとなる。

2 カルトの定義
神道ドグマが,ⅰ 別のイエス,ⅱ 異なった霊,ⅲ 異なった福音のいずれかに該当すればキリスト教のカルトである。(コリント人への第2の手紙11章4節が根拠):
「というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった①別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない②異なった霊を受けたり、受け入れたことのない③異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」

3 カルト評価
Q1 別のイエスか?
A1 その通り!「養子論のイエス」と「従属論のイエス」である。
①天皇:「養子論のイエス」という別のイエス。皇太子が大嘗祭で天皇霊のバプテスマを受け現人神になるというドグマ。
②統治機構:「従属論のイエス」(アリウス主義)即ち「エホバの証人」。しらす天皇論,国家有機体論というドグマ。

Q2 異なった霊か?
A2 その通り。汎神論の悪神創造神とその分霊である人間霊,様態論の神々である。
③天照大神:グノーシス主義キリスト教のデミウルゴス。ホッブスのリバイアサン。チュートン神話のボータン。
④臣民:霊肉二元論の霊魂。その霊魂は天照大神の分霊(わけみたま)
⑤八百万の神:様態論の神,天照大神

Q3 異なった福音か?
A3 その通り。良心からの自由,愛国無罪
⑥自由:良心からの自由(霊的な自殺・霊的な殺人)
⑦道徳(善悪判断):「お国のため」と言いさえすれば何をしても善(愛国無罪)

■結論:海老沢有道(1910-1992,聖心女子大教授)東京大学文学博士論文『南蛮学統の研究』430頁から追加引用しよう。
「復古神道は自ら密かに摂取したキリスト教の教理を独善的に牽強附会し,(別のイエス,異なった霊,異なった福音に剽窃し),明治維新の指導原理となり,神道国教化政策を推進し,キリスト教を江戸幕府以上の熱意をもって排撃に努めたのであった。」

◎天皇,宮中祭祀,神宮,靖国,官僚,軍隊,臣民,すべてが非宗教的国家カルトだった。

※写真について 『大室寅之祐を探せ』
この中に後の明治天皇が写っている。写真嫌いだった天皇。彼は京都御所ではなく,安倍晋三事務所のある山口県田布施村に住んでいた。宣教師フルベキの写真。

恐れ多くも,天皇陛下は全神道のイエスで反キリストというのは歴史的事実です。明治天皇も,大正天皇も,昭和天皇も,今上...


 さて、上記の質問に対する質問者からの回答がまた振るっていて面白い。

質問した人からのコメント

2014/4/5 16:38:12

やはり天皇陛下は反キリスト教のイエス,養子論のイエスなんだ。カルトだから,キリスト教徒を迫害し殺したんだ。してみると日本人は全員が実は異端のクリスチャンなのかも^^ 


この回答は、私がこの国の人々に感じて来た言い表せない不気味さを見事に表現しているような気がする。現在も戦前とほぼ同じ状況が続いているのだと考えると、その不気味さの正体が解けるのである。
 
上記では、日本のエリート教育なるものの中に、戦前のイデオロギーが隠れた形で受け継がれていることを述べた。官僚制度も戦前の遺物である。このように、この国はあたかも敗戦によって変わったように見えながら、実質的に、戦前と変わらないイデオロギーや、国家体制を隠れた形で引きずっており、それに基づいて情操・思想教育を受けて育って来たのが現在の日本人なのだと言える。

この情操教育、思想教育は、国民に、絶えず誰か偉い人のために自分を道具として捧げ、その人の奴隷のようになって生きることを強いる。たとえ意識せずとも、日本人はこうした教育の結果として、常に自分よりも偉い誰かのために有用な人間となるべく身を捧げて生きることを至高の価値として行動する。最終的にはそれが天皇のために身を捧げるというところまで行き着くのであろう。

こうして、無意識のうちに天皇を崇拝するよう教え込まれた日本人だけではなく、ペンテコステ運動に影響を受けたクリスチャン、キリスト教界にいて牧師制度の下に身を置いているクリスチャンも、みな結局、人間の指導者を崇拝し、人間の指導者のために身を捧げて生きているという点では根本的に同じなのである。これらはすべてキリスト教の異端とみなすことができる。さらにこれに企業戦士も加えると、もはやほとんどの日本人が精神的奴隷状態に貶められて生きているのだと言うことができる。

(束の間、羊がその理不尽な状態に気づいて目覚めかけると、たちまち救済者然とした偉い人々が現れて同情の涙を注いでくれるので、それに満足して羊はまた眠ってしまうのである。さらに、どういうわけか分からないが、人を生まれながらに神とする思想を受け入れた人々は、セカンド・チャンスやサンダー・シングと言ったキリスト教の異端に限らず、決まって必ず、死者の霊の崇拝というところに行きつく。天皇崇拝も結局、先祖の霊や英霊という死者の霊を祀る点で死者の霊への崇拝であり、国家神道はその点でオカルトであると言える。)
 
今日も、こうしたグノーシス主義的カルトに影響を受けた人々が、真実なクリスチャンを迫害し、駆逐を試みているのであり、ネット上の迫害も決して偶然に起きたのではない。ここに日本という国の霊的な土壌がよく表れていると言えるのではないだろうか。
 
このような状況について、聖書は何と言っているだろうか。

心配は必要ない。なぜなら、聖書によれば、「肉によって生まれた者」が「御霊によって生まれた者」を迫害するというのはいつの時代も変わらない構図だが、最終的に駆逐されるのは、御霊によって生まれた「自由の女の子ども」ではなく、彼らを迫害した肉によって生まれた「奴隷の女の子ども」だからだ。

「しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。
しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」(ガラテヤ4:29-31)

共産主義化する日本―「神国日本」を再興し、一億総奴隷化を実現させたい人々

もう一度、オースチンスパークス著、「私たちのいのちなるキリスト」の冒頭を引用しよう。

「私たちのいのちなるキリストが現される時・・・」
(コロサイ人への手紙3章4節)


聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、彼の復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

こうしたことには三つの要素があるでしょう。第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです。

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることです。

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世界には数多くの宗教が存在するが、人の救いについては、正確に言うと、この世にはたった二つの問いしか存在しない。

それは、人は自力で神に到達することができるのか(人は自力で救いに達することが可能なのか)、それとも、神の外側からの介在によらなければ、人は救われ得ないのか、という二つの問いだ。

前者にYESと答えれば、グノーシス主義、すなわち、人が覚醒すれば自力で「神」になれるという思想に至り着き、後者にYESと答えるのが、聖書に基づく、キリストの十字架にしか救いはないという、神の恵みを信仰によって受け取る救いだ。

なぜ冒頭で再びオースチン・スパークスを引用したかというと、これからの時代は、明確に、目に見えないまことの神と、目に見える現人神(最終的には反キリスト)が対立する時代となると予想されるからである。

今、キリスト教界において聖書の根幹が歪められ、牧師や指導者やクリスチャンらがまことの神への正しい信仰から逸れつつあることについては幾度も述べて来た。今後は、キリスト教界に流入したペンテコステ運動の本質とは何か、それがどのように非聖書的であるかについても触れて行くことになろう。

さて、今回の記事のテーマは「現人神(反キリスト)の原則」である。

世はますますキリストの十字架を退けて、自力で神に到達しようとグノーシス主義に深く傾倒しているが、その過程ですでに様々な「神々」が現れて来ている。

むろん、現人神と言っても、自ら神を名乗って登場して来るわけではない。むしろ、拉致問題を利用して政治家として頂点に立ったある国の首相や、カルト被害者救済活動によって注目を集めるキリスト教界の指導者のように、こうした人々は一見、弱者の救済者を名乗り、あたかも苦しんでいる人たちを助ける正義の味方、解放者のように登場して支持を集めようとするだろう。

今はこのような自称「救済者」が乱立してそれぞれの支配を繰り広げている時代であるが、いずれ、これらの人々が、より統一的で象徴的な人物を頂点として、その下に結集する時が来るだろう。

その時、この国で再び神として立られるのが天皇であり、独裁的な政治指導者らも神々のごとくそれに続くと予想される。

自民党の作による、天皇を国家「元首」とする憲法改正の草案が、上記のような危険なイデオロギーをはらむものであることは多くの人々がすでに指摘している。
 
時代は着々と反キリストの現れへと向かっており、この世の経済を含むすべての組織や社会体系は、目に見える象徴的な人物に服従し、すべての権威をこの人物に捧げるために、その到来を待ち受け、道を整えている。

聖書においても、元来、この世の体系は堕落したものであるが、今、世の終わりに登場して来る反キリストのために、この世の再占領が急速に進んでいるかのような状況である。

さらに、断っておきたいが、今、現政権にあたかも反対しているように見える人々の中には、天皇制とロシアの大統領の両方を誉め讃えている一群があるが、これも現人神の到来のために道を整えている人々である。

先にも触れたように、欧米の施策に幻滅した人々の一部は、その幻滅の分だけ、ロシア擁護の方向へ傾いている。しかし、これについては慎重な考慮が必要である。確かに、ロシアに関する米欧の報道姿勢には大いなる偏りがあるものの、だからと言って、ロシアを「米欧の誤った報道により一方的に悪魔化された可哀想な被害者国家」と決めつけ、全面的なロシア支持に向かうのは、前者と同じくらい愚かで誤った盲信である。
 
実のところ、天皇制への支持も、盲信的なロシア大統領賛美も、カリスマ的政治指導者による民衆支配を歓迎する思想という点では、本質的に変わらない。それは結局、彼らが批判している現在の安倍政権にも通じる共通の思想基盤を持っているのであり、(だからこそ安倍氏は親露的な立場を取ろうとするのである)、そうである以上、最終的には、この対立陣営も、現人神への賛美という点で一つにまとまって行くことだろう。

世が混乱するにつれて、人々の間ではカリスマ的指導者の到来への期待が高まり、慈愛に満ちた救済者や、解放者のような指導者が登場してくれて、人々を諸問題から救い出して欲しいとの願いが膨らむ。この期待感が、反キリストの統治を受け入れるための心の素地を人々の心に作り出すのだ。虐げられて、打ち捨てられた可哀想な弱者を救うために、誰かしっかりした指導者が現れてくれなければ困るーー弱者への同情、寄り添いが高く評価されればされるほど、弱者の理解者や解放者を求める期待が高まり、そのようなムードの中で、徐々にあらゆる組織、事物、運動が、弱者の連帯となって反キリストの到来を積極的に求め、待ち望み、その支配に服するために道を整えているのが現状である。

だが、まことの神は見えないただお一人の神であり、目に見える何者にも(どの組織にも運動にも)救いはなく、神を見出すことはできない。誰かに自分の弱さを理解してもらい、慰めてもらうために、目に見える存在に頼ろうとすることには大きな危険がつきものであり、助けてもらうことをきっかけとして、そこから目に見える人物による精神的な支配が始まる。そこで、信仰者は自分を弱者として誰かに哀れんでもらいたいという誘惑と手を切り、どんな問題の渦中にあっても、ただキリストだけにより頼んで全てを解決することを学んで行かなければならない。

もしその重要性が理解できなければ、一つの偽りのグループを拒否し脱出したとしても、また別の偽りの囲いの中に囚われてしまうだけである。暮らしている場所がどの国であり、どんな宗教を信じ、どんな政治グループや、組織の中にいようと関係なく、目に見える人間を頼りその支配に服するならば、待ち受けている結果はどれもほとんど同じなのである。

キリスト者は、神の国は信仰を通してまさに自分の只中に到来しているのであって、どこにも探す必要がないし、これから建設にいそしむ必要もないという事実を、しっかりと握って、すべての必要を内におられるキリストから引き出し、キリストのうちにとどまり、そこから逸らされないようにする必要がある。

「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

<…>人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはないりません。あとを追いかけてはなりません。」(ルカ17:20-23)

 
さて、 反キリストの統治はどのようなものなのだろうか。彼は何を目的に目指すのか。その答えは歴史を振り返れば明白である。彼は解放者のように振る舞うであろう。そして、人々があらゆる争いや苦しみから解放されて、人類の悪が残らず浄化されたユートピア社会のようなものを打ち立てようという目標を掲げるだろう。このユートピアは、別名、八紘一宇とも呼ばれたし、共産主義社会とも呼ばれた。さらに別の名前がつけられたこともあったろう。

勘の良い特赦はすでにこれが全体主義社会に他ならず、ディストピアであることに気づいているはずだが、いずれにせよ、このような偽りの地上天国こそ、人類を実験材料とする悪魔の見果てぬ夢なのである。このような試みが歴史を超えて幾度も繰り返されて来たのは、悪魔がそれほど神の国を模倣することを望んでいるからに他ならない。

(悪魔には、常に神の願いを横取りし、それを神を排除する形で、神に先んじて自力で打ち立てたいとする欲望がある。悪魔は神の願いそのものを盗むのである。まことの神の国に生きる信仰者らが、花婿キリストの望んでおられる花嫁エクレシアだとすれば、悪魔とその一味である反キリストも、自分好みの花嫁を迎えたいと欲しているのかも知れない。彼らもまた何が何でも人類を材料として自分の花嫁なる王国を建設したいのである。)

反キリストの目指すユートピアとは、人々が無欲で、心清く、隣人と愛し合って全てを気前良く分かち合い、争いなく手を携えて平和に生き、弱い者が尊ばれる社会である。そこでは、間違っても人が自分のためだけの我欲に基づいて個人的な利得を蓄えたり、自分の富や長所を他人と分かち合うことを拒んで争うようなことがあってはいけない。つまり、そこではすべてが公であり、共有なのであり、個人や、個人の私生活という概念は存在せず、個人の持てるすべてのものは、社会全体を繁栄させるために捧げられるべきであり、個人は常に社会全体の一部なのであり、もっと言うならば、人間そのものが社会の共有財産のようなものなのである。

それは、個人の区別というものがほとんど認められず、自他の区別を排除して、人の持っているあらゆる良いものを、誰かが勝手に我が物として横領していくことを是認するような、泥棒の思想に貫かれた社会である。または、人類の負いきれない罪とい負債を共同返済するために作られた終わりなき罪の連帯責任の社会だと言い換えられる。

分かりやすい例として、キリスト教界に典型的に見られる誤った神の国建設の風景を、偽りの神の国建設のモデルとして思い浮かべてみよう。そこでは、偽りの教会内ユートピア社会の樹立のために、信徒がまことに重い奉仕義務を負わされている。巨大な礼拝堂建設に伴う借金の返済に充てるための高額な献金の割り当て。毎回の礼拝の準備のための重い労働負担(無償奉仕)。退屈なメッセージにも常に義務付けられている神妙な傾聴と賞賛の言葉を伴う思想教育。役員会、学習会、子供会、各種のイベントの準備・・・。さらに信徒の大きな心労となっているのは、毎回の礼拝で、信仰の証と称して、心にもない作り事めいた美談を引っ張って来て人前で語るように要求されていること、自分がいかに信徒の義務を忠実に履行できていない未熟で中途半端な信徒であるかについて、絶え間なく自己批判を迫られていること、同時に、いかに組織のおかげさまでかつての惨めな状態を脱して更生に向かいつつあるかについて、具体的な進歩の過程を述べて組織に感謝しなければならないような圧迫的な雰囲気があることなどだ。罪赦されて救いにあずかり平安の中を生きるために入信したはずなのに、待っていたのは正反対の生活。神ではなく人間の指導者に仕えるために、終わりなき奉仕と献金という苦役を課せられ、罪悪感は消えるどころかより一層、増し加わり、平安は年々、遠のいていくようにしか見えず、もはや本当にあるかどうかさえ分からなくなった魂の救い・・・。

このような風景を反キリストの統治する「理想社会」に置き換えれば、それが具体的にどういう社会になるかは容易に想像がつく。それは結局、人類の負いきれない罪という天文学的霊的借金返済の連帯責任を、人類が共同で背負いながら、なおかつ、人類自身の力で社会を罪と悪から浄化し、自力で理想状態に到達しようという不可能な試みなのである。

それはもともと人間には到達不可能な試みみであり、それゆえ、その目標は負い切れない重荷にしかならない。教会にとってしばしば礼拝堂の建設が負いきれないほどの負債をもたらすように、このような誤ったイデオロギーの虜になってしまうと、理想社会を建設するという美名の下に、やがて組織の財政が破たんに瀕し、これを支える財源が枯渇し、負債がますます膨らんで破滅を目前にしているような時にも、それをまだ所属メンバーが連帯責任として負わなくてはならず、個人をとことん犠牲にしながらでも、組織を救うことが第一優先されるという残酷な状況が起きてしまう。企業の場合には、倒産してしまえば、社員が借金を背負わされることはまずないが、たとえば国のような巨大組織が、このようなイデオロギーに突き動かされている時には、そのイデオロギーそのものの虚偽が暴かれて、何らかの形で、力づくで組織の存続に終止符が打たれない限り、本当はとうに清算されでしかるべきゾンビ化した組織が、メンバーをとことん食い物にし犠牲にしながら、そのまま存続してしまうということになりかねない。
 
不思議なことに、反キリストの現れを待つまでもなく、以下の記事でも、労働に関するある兄弟の指摘の中で触れたように、教会であれ、企業であれ、その種類を問わず、今、地上のあらゆる組織が、まるで時代を先取りするかのように、反キリストの統治するディストピアのような様相を呈しているように感じられてならない。

たとえば、次のような記事を読むと、すでにこの国は社会主義国と同じような有様となって、人に負いきれない労働の義務を負わせ、それを果たせなかったことで不当に人を処罰する巨大なブラック企業のようになりつつあることの明確な証拠ではないかと思えて来る。

大雪で国会に遅刻、防衛省幹部3人に異例の訓戒
(YOMIURI ONLINE 2016年01月22日 13時21分 本文は引用しないが、大雪で公共交通機関が止まっている時でも、国会に遅刻すると防衛省では罪に問われるのだという。)

まことの神を信じる信仰者は、このような恐るべき圧政、罪の奴隷状態からはすでに救いだされ、安息なるキリストの支配の中に移された。それはキリストのゆえに、信仰者がすべての罪を赦され、もはやこれ以上、罪に問われねばならない理由が全く存在しないからである。

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 」(コロサイ1:13)

だから、御子キリストの支配に移された以上、信仰者は再び、自分を罪の奴隷状態に貶めようとするこの世の体系に服する必要がなく、そのような体系にとどまっているなら、速やかに脱出する必要がある。その脱出は地理的なものではなく、霊的に虚偽のイデオロギーと訣別し、キリストの支配体系に生きることである。

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。」(Ⅰコリント7:23)

「不信者とつり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。
正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。

キリストとべリアルに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。

神はこう言われました。

『わたしは彼らの間に住み、また歩む。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 それゆえ、彼らの間から出て行き、
 彼らと分離せよ、と主は言われる。
 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたは私の息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」
 (Ⅱコリント6:14-18)

 さて、最後に、現人神、反キリストの到来という文脈で、昨年、原盤が公開された玉音放送について振り返ってみたい。これまで全文を読んだことがなかったが、改めて目を通してみると、読めば読むほどに、昭和天皇のこのメッセージは、決して敗戦を認めて受け入れるものではなく、また、天皇を現人神とする誤ったイデオロギーを反省して撤回するものでもなく、むしろ、連合国からの圧力を受けて、やむなく戦争をやめはするが、それは決して本意ではなく、神国である日本民族そのものを絶やさないための臨時的な措置なのであり、神国日本は永遠に不滅であるから、再び、機が熟せば、将来、再び日本は世界を統治するための神の国を建設する夢を実現することが可能なのであり、またそうしなければならない使命を負っている、だから、その重要性を理解できる国民は、天皇の意思を汲んで、今は屈辱のように思える終戦を耐え忍んで受け入れ、じっと耐えて未来の復興の時を待ちなさい、という確信を込めたメッセージだったように受け取れる。

玉音放送をそのように読み解くと、以前、記事の中でも触れたように、「生長の家」のような宗教団体が、なぜ「大東亜戦争(太平洋戦争)に敗れたのは『偽の日本』であって、本当の『天皇國日本』は敗れたのではない」などと主張したのか、その意味も分かるだろう。それはこの宗教団体が独自に考え出した理論ではなく、まさにそれこそ昭和天皇が言外に言わんとしていたメッセージだったのであり、宗教団体はただその意向を汲み取っただけなのである。

今日も改憲派の多くはそのような考えに立って、
「日本国憲法はGHQが日本を弱体化させるために日本に押しつけた無効の憲法」、「日本国憲法の精神を即時に破棄して改正を加えることにより、大日本帝国憲法(明治憲法)を復元しなければならない」と主張しているのであろう。

つまり、表向き、日本は敗戦し、天皇崇拝や軍国主義のイデオロギーは放棄されたかのように見えたが、終戦から今に至るまで、天皇を現人神として「神国日本」なるものを復活させたいとする思想は、おそらく一部の人々の間では、一度も放棄されることなく、水面下で温存されたのであろう。それが今、現在、公に政治運動であるかのように装って姿を現して来ているだけである。

それは政治運動というよりも、人を神とすることを最終目的とするグノーシス主義的思想であり、その主張は、日本は神の国だから日本民族は神聖であって他の民族より優れており、他民族を支配する資格があるという誤った優生学的思想、歪んだメシアニズムに貫かれ、さらには、そこには連合国に対する恨みも込められている。そうである限り、たとえそのような思想に基づいて、「神国」建設が再開されたとしても、二度目の世界制覇の試みが成功するはずもなく、とてつもないディストピアが再び実現するだけだとしか考えられないのだが…。

それでも、オースチン・スパークスの指摘のように、地上のあらゆる組織、国、行政機関、政治団体、あらゆる宗教組織も、最終的には、このような常軌を逸した現人神のイデオロギー(それは天皇崇拝だけであるとは限らない)の傘下に集められて行くのだろう。

以下は、玉音放送の抜粋と、そこから言外に読み取れるメッセージである。
(終戦の詔勅の全文は孫引きになるが、「みんな楽しくHappy♡がいい♪」の記事<玉音放送にある隠れた真実>天皇・永久戦犯の地位を守った「残虐なる爆弾」の利用 樋口健二×アーサービナード(文字起こし)」から抜粋した。青字の部分は後から加筆した。)
  

終戦の詔勅(玉音放送の内容)
(より原文と現代語文をつかわせていただきました)

<原文>
<現代語訳文>
<注:青字は筆者が書き加えた感想及び意訳>


終戦の詔勅

朕(ちん)深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲(ここ)に忠良なる爾(なんぢ)臣民(しんみん)に告ぐ。
私は深く世界の大勢と日本の現状について考え、非常の手段によってこの事態を収拾しようと思い、忠義で善良なあなた方臣民に告げる。

(筆者:「非常の措置」という言葉に注意してほしい。あくまで、この詔勅は時局を収拾するための臨時手段として発せられたのであり、緊急の必要性がなくなれば、すべては元に戻るのだというニュアンスが込められていると受け取れないだろうか。
 また、「忠義で善良な」という敗戦国の国民にふさわしくない形容詞も、天皇が敗戦を本当に認めて受け入れていたとすれば、使われなかったであろうことは言うまでもない。)


朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し、其の共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。
私は帝国政府に米国、英国、中国、ソ連に対してポツダム宣言を受け入れることを通告せしめた。

抑々(そもそも)、帝国臣民の康寧を図り万邦共栄(ばんぽうきょうえい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、皇祖皇宗(こうそそうそう)の遺範(いはん)にして朕の拳々(けんけん)措(お)かざる所、(さき)に米英二国に宣戦せる所以(ゆえん)も、亦(また)実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに出(いで)て他国の主権を排し、領土を侵すが如きは固(もと)より朕が志にあらず。
そもそも日本国民の安全を確保し世界の国々と共に栄えその喜びを共にすることは、私の祖先から行ってきたことであって私もそのように努めてきた。先に、米国・英国二国に宣戦を布告したのも、我が帝国の自立と東亜の安定を願ってのものであって、他国の主権を侵害したり、領土を侵犯したりするようなことは、もちろん私の意志ではない。

(このくだりは、天皇のメッセージが人間を神とし先祖の霊を崇拝することを是とする宗教的見地から書かれていることを示し、しかも神聖なる天皇には善良な意図しかなく、悪意は全くないため、侵略などという事実は、決して意図して行われたわけではないとの釈明が行われている。宣戦布告も、他国の主権侵害も、領土侵犯も、みな世界の国々と共に栄え喜びを共にしようという善良な思いから出て来たものだとされ、天皇が国と一体になって犯した悪事に対する罪の意識は完全に欠落している。)

然るに交戦已(すで)に四歳(しさい)を閲(けみ)し朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚(ひゃくりょう)有司(ゆうし)の励精(れいせい)、朕が一億衆庶(しゅうしょ)の奉公各々(おのおの)最善を尽くせるに拘(かかわ)らず、戦局必ずしも好転せず。
しかしながら、戦闘状態はすでに四年を越え、私の陸海将兵の勇敢な戦闘や、私の官僚・公務員たちの勤勉なはたらき、私の一億国民の努力、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦争における状況はよくならず。

(国とその臣民は自分のものであるから、戦争に道具として投入するのは当然であるという意識に貫かれている)

世界の大勢、亦(また)我に利あらず。
世界の情勢も我々には不利に働いている。

(不利な状況をただ嘆くだけで、なぜ最善を尽くしたにも関わらず、戦況が不利になったのか、どこに誤りがあってこのような結果に至ったのかという真摯な分析が一切ない)

加之(しかのみならず)敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻(しきり)りに無辜(むこ)を殺傷し惨害(さんがい)の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。
それだけではない。敵は、新たに残虐な爆弾を使用して、何の罪もない多くの非戦闘員を殺傷し、その被害はまったく図り知れない。

(日本が自ら他国に戦争をしかけたのだから、報復されるのは当然であり、たとえ民間人が犠牲になったとしても、それも予想できる事態であった。なのに、これを防ぐこともせず、今更、一方的な被害者を装うことは無責任だという自覚がまるでない。)

而(しか)も尚、交戦を継続せむか、終(つい)に我が民族の滅亡を招来(しょうらい)するのみならず、延(のべ)て人類の文明をも破却(はきゃく)すべし。
それでもなお戦争を継続すれば、最終的には日本民族の滅亡を招き、そして人類文明も破壊することになってしまうだろう。


(戦争を継続しないことを、臆病さの表れと受け取られて非難されないために、巧妙な弁明をしている。仮に戦争が続行されて、日本民族の滅亡、ひいては人類文明の破壊がもたらされたとしても、それはすべて敵の仕業であって、自らに責任はないとしている。さらに、仮に日本民族が絶滅したとしても、人類文明までが破滅するとは限らないにも関わらず、ここでは、日本民族は神国の民であるから、その絶滅は世界の滅亡につながるのだという優生学的思想が述べられている。
しかも、すでにおびただしい日本人が犠牲となり死傷しているが、それには触れずに、個人としての命が失われたことよりも、これから全体としての日本民族が絶えることだけが、避けねばならない最悪の事態だというのである。)


斯(かく)の如(ごと)くは、朕何を以てか億兆の赤子(せきし)を保(ほ)し皇祖皇宗(こうそこうそう)の神霊に(しゃ)謝せむや。
そのような事態になったとしたら、私はどうしてわが子とも言える多くの国民を保ち、先祖の霊に謝罪することができようか。

(仮に日本民族が絶滅する事態となったとして、その最悪の事態によってもたらされる損失が、天皇にとって我が子と言える国民がいなくなって国がなくなり、家臣を失った君主として、一人、先祖の霊に謝罪しなければならないということ以外に何も述べられていない不思議に驚く。

また、ここで天皇が国民を「我が子」と呼んでいることにも注意が必要である。以前、牧師を信徒の「霊の父」とするキリスト教の異端の教えについて分析したが、反キリストは必ず、父なる神の代理人になろうとする傾向がある。)


是れ、朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以(ゆえん)なり。
これこそが政府にポツダム宣言に応じるようにさせた理由である。

(優生学的な偽りの根拠に基づいて、万世一系の天皇を頂点にいただく日本民族が断絶しては世界が滅亡するのでそれだけは避けよう、というのが、ポツダム宣言に応じた理由だというのである。)


朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦(しょめいほう)に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。
私は日本とともに終始東亜の植民地解放に協力した友好国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。

(侵略の事実は認めず、あくまで解放者、友好国を装っている。)

帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉し、非命(ひめい)に斃(たお)れたる者、及び其の遺族に想を致(いた)せば五内(ごない)為(ため)に裂く。
帝国臣民にして戦場で没し、職場で殉職し、悲惨な最期を遂げた者、またその遺族のことを考えると体中が引き裂かれる思いがする。

(戦争で亡くなった国民が可哀想だという同情の念はあっても、何より天皇自身のまずい采配と天皇を神とする偽りのイデオロギーの強要のせいで、国民の被害がより拡大し、深刻化していったことに対する加害者としての自覚がない。)

且(かつ)、戦傷を負ひ、災禍(さいか)を蒙(こうむ)り家業を失ひたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)する所なり。
さらに戦場で負傷し、戦禍にあい、家や職場を失った者の厚生については、私が深く心配するところである。

(国民に対しては、あくまで上から同情し「心配してあげる」という立場に終始し、そもそも自分が誤った支配を行なった結果、被害が生じてしまったのだから、国民にお詫びせねばならないという意識は全くない。)

惟(おも)ふに今後、帝国の受くべき苦難は固(もと)より尋常にあらず。
思うに、これから日本の受けるであろうそ苦難は、大変なものになる。

(この言葉は、屈辱的な敗戦を受け入れることで、これから何をされるか分からないという、天皇自身がこの時に感じていた恐怖をよく表しているように思う。終戦は多くの国民にとって悲しくはあっても、死の混乱の終わりという意味では、解放でもあった。それなのに、これから苦難が待ち受けているとただ暗い未来だけを予感するのは、戦争を遂行した責任を問われる側に立つ者だからこその感覚だったのではないだろうか。)

爾(なんじ)臣民の衷情(ちゅうじょう)も、朕(ちん)善(よ)く之(これ)を知る。
国民たちの負けたくないという気持ちも私はよく知っている。

(国民の思いに託して、自分も負けたくないと思っており、負けたなどとは決して認めるつもりはないという意思表示をしているように思う。この終戦を、決して敗戦のしるしとして受け取るなという思いが込められているのてめはないだろうか。)

然れども、朕は時運の趨(おもむ)く所、堪(た)へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ、以て万世(ばんせい)の為に太平を開かむと欲す。
しかし、私はこれから耐え難いことを耐え、忍び難いことを忍んで将来のために平和を実現しようと思う。

(負けたと認めるつもりなど全くないが、日本民族そのものが絶えてしまっては元も子もないので、耐えがたい屈辱ではあるが、一旦、負けたふりをして戦争を終わらせて急場をしのぎ、いずれ神国が復活を遂げる将来のために、国の力を温存し、国を安定させることを優先させよう、ということ。)

朕は茲(ここ)に国体を護持(ごじ)し得て、忠良なる爾(なんじ)臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんき)し、常に爾臣民と共に在り。
私は、ここにこうして国体を守り、忠義で善良なあなた方臣民の真心を信頼し、そして、いつもあなた方臣民とともにある。

(まるで牧師の祝祷のようだが…。
 こうして戦争は終えるが、それは負けたということではなく、勝負は先送りになっただけなので、自分は国体を守るために退位せずにとどまり続けるつもりだが、その心が分かる臣民は、(いつかもう一度、天皇が現人神として戻って来て、神国を復活させるときのために)、決して私の思いを忘れるな。)


若(も)し夫(そ)れ、情の激する所、濫(みだり)に事端(じたん)を滋(しげ)くし、或(あるい)は同胞(どうほう)排擠(はいせい)互に時局を亂(みだ)り爲(ため)に大道を誤り、信義を世界に失ふが如きは、朕最も之を戒(いまし)む。
もし、感情的になって争い事をしたり、同胞同士がいがみあって、国家を混乱におちいらせて世界から信用を失うようなことを私は強く懸念している。 

(やがてもう一度天皇が現人神として戻って来たときに、治める国がないと困るので、間違っても国民が同士討ちなどして、国を亡ぼすようなことはしてくれるな。)

宜(よろ)しく挙國(きょこく)一家(いっか)子孫(しそん)相(あい)傳(つた)え、確(かた)く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念(おも)い、総力を將來(しょうらい)の建設に傾け、道義を篤くし志操(しそう)を鞏(かた)くし誓って国体の精華(せいか)を発揚(はつよう)し、世界の進運(しんうん)に後れさらんことを期すべし。
国を挙げて一つの家族のように団結し、子孫ともども固く神国日本の不滅を信じ、道は遠く責任は重大であることを自覚し、総力を将来の建設のために傾け、道義心と志操を固く持ち、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の動きに遅れないように努めなさい。

(「神州」すなわち神国という言葉がここではっきり述べられているが、その言葉には、戦争をやめても、天皇自身には己を神とするイデオロギーを捨てるつもりが全くなかったことがよく表れている。一旦は、ポツダム宣言を受け入れはするが、神国日本は永遠に不滅なので、いつか未来に必ず、日本がその栄光を再び世界に輝かせ、全世界を統治する神の国の建設を再開する時が来る、日本国民は決してそのことを忘れず準備を怠るな。)

爾(なんじ)臣民其れ克(なんじ)く朕が意を體(たい)せよ。
あなた方臣民は私の気持ちを理解しそのようにしてほしい。

(それが私の気持ちなので、この願いを理解して私と行動を共にして欲しい。)

御名御璽(ぎょめいぎょじ)
天皇の署名と印璽
昭和二十年八月十四日


疎外されし者たちの復讐の哲学~抑圧された社会的弱者が弱さと傷によって絆(連帯)を結ぶ危険~

(この記事は8月18日に書いたものです。)

佐野研二郎氏のデザインしたオリンピックのエンブレムに関しては、同氏がまさに疑惑のデパート状態となったことにより、ますます問題が泥沼化し、弁護の余地がなくなっているようであるが、私が以下の記事で兵頭氏の記事を引用し、佐野氏が在日韓国人であるとの疑惑に触れた途端、「韓国人への差別はやめましょう」という名目で、早くも兵頭氏をバッシングする動きが登場して来たことは注目に値する。

不思議なのは、「田布施システム」については、以前からかなりの人々が言及していたにも関わらず、その頃には全く批判せず、議論そのものを黙認していた人が、この問題がいざ知識人らの口に上り始めた途端、「民族差別主義者」、「レイシスト」、「排外主義者」などという批判を浴びせ始めたことである。「差別はやめましょう」というきれいごとを用いて、この種の社会問題を深く考えることを妨げようとする力が働いていることに危惧を覚える。

「差別反対」を装い、田布施システムそのものに言及させまいとするこの封じ込めの動きは、一見、反政権市民運動の側から登場して来ているようだが、実のところ、どちらの陣営に属しているかはあまり重要な問題ではない。このようなバッシングが現れた時点で、政権側にはよほど触れられたくない急所があるのではないかという印象を受けざるを得ない。

「長州人脈」や「田布施システム」と政府の結びつきは、きちんと考察されなければならない極めて根深い問題である。 五輪組織委員会がここまで疑惑が噴出した佐野研二郎氏をあくまでかばい続けているのも異様であり、何か一般人の知らない深い理由があるのではないかと勘ぐられても仕方がないことであろう。(五輪組織委、提訴のベルギー側を激しく非難「説明に耳傾けようとしない」2015.8.17 17:42更新 産経ニュース、などを参照。)
 
そこで、上記のように一見、「差別反対」を装った形で、批判や問題追及の封じ込めを行おうとする言説は、実のところ、「差別する勢力」と極めて親和性が高く、コインの表と裏のようなものであり、最終的には一つに結びつくだろうと予想される。

こうした構図は、私がずっと考察して来たカルト被害者や、障害者や、病者、同性愛者といった社会的マイノリティの問題と極めてよく似ており、根底で一つにつながっている。

たとえば、私はキリスト教界で行われているカルト被害者救済活動が危険であることを早くから訴えて来た。米国発の異端の教えを取り入れた結果、危険な状態に陥る教会が登場して来ていたのは確かだが、それはただ聖書に立ち戻ることによってしか解決することのできない問題であリ、外的強制力によってこの問題を解決しようとすることがいかに危険であるか、私は再三、訴えて来た。カルトを退治するという美名の下、裁判等による実力行使によって異端化の問題を解決しようと目指す活動は、必ず暴走し、カルトとは無縁の一般信徒に対する攻撃と排斥に転じるだろうと予想されたので、そのように警告し、事実その通りとなった。
 
だが、当時、この活動を批判すると、早速、「あなたはカルト教会で痛めつけられた可哀想な被害者を攻撃して二重の被害を負わせるつもりか」という論調で、弱者の保護を盾にとり、あたかも弱者を哀れみ、保護するかのように見せかけて、自分たちの活動の危険性が指摘されることを妨げようと、この活動の支援者らが反対者に対する大々的なバッシングを行って来たのである。彼らは、自分たちの活動への批判はすべて「弱者への差別」であり、「被害者への冒涜」であるかのように見せかけることにより、自分たちは正義の味方であるかのように装い、反対者の排斥を正当化して行った。当の「弱者」である「被害者」たちも、自分たちが利用されていることが分からず、この活動の本質的な危険性になかなか気づけなかった。

このように、「社会的弱者の保護」を名目に掲げる活動のすべてが正しいものであるとは限らず、むしろ、その美名の下に極めて危険な運動が繰り広げられることもあるため、冷静な吟味が必要である。「弱者の保護」を口実にしさえすれば、すべての活動が正当化され、それに反対する人々がみな悪人であるかのように見せかける浅はかな二項対立に簡単に陥れられないように注意が必要である。


たとえば、上記のような風刺画(出典:工場長(ゴーヤー命) @kohjohcho さんのツイート)を指して、「朝鮮人への差別だから良くない」という批判も出てきているようであるが、それも「弱者の保護」や「差別反対」という口実をもうけさえすれば、そこで完全に思考停止してしまい、正しいことを言った気になって、その実、どんなに偏ったものの見方をしているかに気づけないというよくある不思議な事例の一つである。

少し考えてみれば分かることだが、まず、北朝鮮の国家元首は私人ではなく、公人である。公人が政治的批判や風刺の対象となるのは何ら奇妙なことではない。北朝鮮の国家元首は「権力者」であって「社会的弱者」ではない。北朝鮮の国家体制が人道的な見地から幾多もの批判を浴びているのは周知の事実である。だから、この体制の問題を風刺画によって批判し、これと安倍政権の暴走との類似性を示唆することは何らおかしな行為でない。

ところが、このような政治的な風刺さえも「民族差別」というデリケートな問題にすり替えることで、問題を極めて矮小化し、独裁的な権力者を「差別されて来た朝鮮人=社会的弱者」に重ね合わせることにより、「民族差別はやめよう」という美名を用いて、独裁的な国家体制への批判すらもタブーとして封じ込めようとする論調が簡単に生まれうることに深い懸念を覚える。まして、それが反政権デモの中から行われていることは問題である。結局、その先に待っているのは、安倍政権への批判もタブー視することではないかと思われてならない。

このように、あたかも独裁体制に反対していたはずの人々が、ヒューマニズムの旗の下、途中でくるりと向きを変え、かつては味方であったはずの、危険な体制へ真の批判を繰り広げている知識人を攻撃し、かえって独裁体制を助長し補強して行くという構図は簡単に生まれうるのである。
 
そのような似非ヒューマニズムの暴走の現場を、私はこれまで幾度となく見せられてきたが、こうしたことがすべて「弱者の保護」を名目に行われたことに、ある種の恐ろしさを感じている。

そこで、安倍政権と同時に反安倍政権デモも、本質的に同種の危険をはらんでいるように思われてならない。むろん、デモは法的に何ら禁止されている行為ではなく、国民一人一人が政治に関心を持つことや、おかしいと思うことに公然と反対の発言をして行くことは極めて重要である。だが、同時に危惧されるのは、人々が弱さを軸に集団的に連帯すると、その運動は容易に利用され、暴走しかねない危険性を秘めたものになって行くことである。
 
私自身は、反原発・反TPP・反安保制、そのスローガンのどれ一つとして反対するものではないが、現在、盛り上がっている市民運動が「社会的弱者を保護せよ」という論調で、「弱さ」と「傷」による一大連帯を築く方向へ進んでいるように見受けられるところに、ある種の違和感を感じているのも事実である。むろん、参加している人々の主張には相当のバラつきがあるので、これを一つにまとめるのは難しいと思うが、基本的には、この市民運動の根底には「虐げられた社会的弱者の怒り」という統一性があるように見受けられてならない。

つまり、この運動は単なる政治的な枠組みを超えて、今まで政府から汲み上げられることなく社会の底に渦巻いて来た、誰にも理解されず、受け止められない「弱者」の心の屈折、不満、憤りを吸い上げ、はけ口を提供するという役割を果たしつつあるのではないかと考えられるのだ。だからこそ、このデモは、様々な垣根を越えて、抑圧されて来た社会的弱者を巻き込んだ一大運動に発展しつつあるのではないだろうか?

もしそうだとすれば、なおのこと、当初から述べて来たように、ある重大な危険がそこに存在しうるのである。おそらくは今後、現政権に反対しているように見える人々の中から、「在日外国人を差別するな」とか、「障害者を大切に扱うべきである」とか、「同性愛に反対するべきではない」といったような弱者救済の美名を利用して、必ずや、反対者同士を分裂させ、同士討ちへと誘導しようとする力が働くのではないかと予想される。

今、この市民運動の高まりの中では、すでに社会的弱者という名札を掲げる集団に対する批判はタブーとなりつつあるように感じられる。逆に言えば、「社会的弱者を攻撃する者は俺たちの敵である」という危険かつ短絡的なものの見方がすでに生まれているのではないかと危惧されてならない。

もしそうであれば、そこではあらゆる社会的弱者やマイノリティへの無理解な発言は、どのような裏付けがあろうとも、批判の対象となり、「田布施システム」などについて考え始めると、早速、「思い上がった民族差別主義者だ」という批判をぶつけられてもおかしくないことになろう。そして、お決まりのパターンとして、「社会的弱者を差別するのはやめよう」という壁にぶつかってあらゆる問題が思考停止となり、それ以上、究明できなくなってしまうのだ。「社会的弱者」という言葉を持ち出しさえすれば、金正恩体制さえ批判できないような非論理的でナンセンスな空気作りが簡単に行われかねない。

繰り返すが、私が危機感を持つのは、このように「社会的弱者」を盾に取り、彼らを「正義」に見せかけることにより、あらゆる反対論や、都合の悪い批判をすべて封じ込めてしまおうとする動きが簡単に起きうることだ。このことを、私は障害者や病者やカルト被害者といった「社会的弱者の集団」と接触することによって絶えず感じさせられて来たのである。

これはとても残念なことであるが、長く障害者や病者であり続けた人々には、自分たちと同質な人々だけのコミュニティを築き上げ、そこに定着してしまい、そこから決して出ようとしない傾向が見られるのも事実である。このことは、障害者や病人のみにあてはまるものではない。たとえば、日本生まれの日本育ちの日本人が初めて外国に居住すると、日本人だけのコミュニティを築いてそこに引きこもりがちになることにもよく似ている。そもそも日本人には、異質な人々との接触によって自分が傷つくことや、カルチャーショックを受けることや、批判や偏見を恐れるあまり、自分たちと同質の集団だけで固まり、異質な人々との積極的な交流を避けるきらいがあるように思われる。

それは小魚が群れるのにも似て、弱い者同士が互いに身を寄せてかばい合い、攻撃から身を守るために編み出した方法なのであろう。異質な存在に囲まれていても、その中で、同質な集団だけで固まっていれば、自分たちをスタンダードもしくは普遍的存在であるとみなし、異質な他者との相互理解の手間を省くことができる。そうしておけば、自分たちの「弱点」や「特殊性」について、自分とは異なる立場の相手にも理解できるように説明をする必要がない。逆に言えば、日本人はそれほどまでに、集団を離れて裸の一個の個人として、つまり、誰とも同質でない一個の個人として、異質な者たちで構成される社会に無防備な状態で一人で投げ出されることを恐れているのだと言えるかも知れない。

そのような日本人的な臆病さも手伝ってか、病者や障害者たちも、自分たちの病気や障害について心置きなく語り合え、障害や病気を「異常」としてではなく、正常かつ普遍的な特徴であるかのように共有できるコミュニティを築き上げ、ともすれば、異質な人々との接触を嫌って、そこに引きこもり、全く出てこなくなるということが起きうる。それは病者のみならず、カルト被害者運動についても同じようにあてはまる。マインドコントロールは人の人生に長く禍根を残す。そこで、被害者は、自分たちの人格が破壊され、正常なものの見方ができなくなったという事実を受け止めることのつらさゆえに、被害者同士で連帯し、互いを守り合うのである。そうしておけば、自分たちがどのように異常であっても、異常と感じることなく、苦労を分かち合うことができる。こうしたことは、具体的に人がどんな問題を抱えているかを問わず、「弱者性」を持っているすべての人たちに当てはまることである。同じ問題を抱える者同士でコミュニティを作り、そこに引きこもって群れておけば、自分たちの弱点・欠点を見抜かれて批判されることもなく、異質な人々に自分を分かってもらうための説明を果たす必要がないという気安さから、何らかの弱さを抱える人々が自分たちを守り合うための「城壁」として、同じ弱さを抱える集団を作り、その中に引きこもって生きるということは絶え間なく起きているのである。
 
だが、私はある時期にこうした「弱者性による連帯」を打ち破って、「弱者である」という特徴にすがることなく、それを免罪符のように振りかざして、他者からの理解や同情を当然のごとく求める自己憐憫の思いや態度とも決別し、「弱者の囲い」から勇気を持って出て行くべきであると思い至った。それは、Dr.Lukeとの接触によるところが大きかったことはすでに述べた通りである。Dr.LukeとKFCが、その後、聖霊派の教えに逆戻り、道を踏み誤ったことも事実であるが、彼らから学んだ重要な事柄もあった。最大の収穫は、心の傷と手を切り、限りなく「健全さ」を目指して歩むべきだと知ったことにある。

KFCのことをさて置いても、クリスチャンであれば、レーナ・マリア・クリングヴァルの生き様は多くの人が知っているものと思う。彼女はいわゆる五体満足でなく、生まれた時から重度の障害を抱えていた。だが、家庭の教育のおかげもあって、障害者として同情を受け、人に世話をしてもらう道を選ばず、いかなる引け目も持たずに、普通の人たちと全く同じように、自分でできるすべてのことを自分で行えるように育てられた。歌手としての彼女のコンサートが日本でたけなわだった頃は、それほどインターネットが普及していなかったせいか、今あまりたくさんの記事が見つからないが、彼女の経歴を短く説明しているブログから短い文章を拾って来よう。

「1968年スエーデン中南部のハーボ村出身、生まれつき両腕がなく左右の足の長さも異なる重いハンディキャップを背負っていたにもかかわらず、3歳から水泳を始め、88年のソウルパラリンピックの競泳で入賞、引退後はゴスペルシンガーに転進して成功した。つい最近も来日しており、昨年末の名古屋市内でのコンサートは伝記の影響もあってか、大勢の親子ずれでにぎわった、とある。障害を気にせず、何事にも屈しない態度も子供たちの心に残るようだ。例えば、中学生時代、同級生に「おい、一本足、元気そうじゃないか」とひどいことを言われたときにもマリアさんは「ありがとう、二本足、あなたも元気そうね」と堂々と応えた。」

(写真の出典:左 レーナ・マリア・コンサート2003(ウェルネスグループ)
 右:レーナ・マリア・クリングヴァルを知っていますか )


両腕の代わりに足を手のように器用に使って家事をこなす姿は人々に衝撃を与えた。他に写真を探せば、運転しているところや、様々な日常の風景を当たり前にこなしている姿が見られる。日本的な常識から考えれば、彼女が水泳をするなど、命の危険があるからもってのほかという結論になろうが、それも望みを妨げる障害にはならなかった。彼女には体には障害があったかも知れないが、心には障害がなかったのだと言える。彼女の著書の一つの帯にはこのような言葉が書かれているそうである。

「お前にはそれは無理だ。」といわれたことは一度もありません。全くその逆です。何かがうまくいかなかった時、両親は私に、「もう一度挑戦してごらん。」と励ましてくれました。私には私の限界というものを誰かに最初から決めてもらうのではなく、自分で発見する自由が与えられていたのです。それが私を伸びやかにし、長い目で見て、より自立して生きられる人間にしてくれたのだと思います。・・・」

確かに彼女は「社会的弱者」と言えるだろうが、その生き様を通して目指したのは、「弱者性」を武器に人々の同情を集めるのとは正反対の、限界を打ち破るような、力強い、自立して解放的な生き方であった。彼女は自分の弱さを盾にとって「いいえ、それは私にはできません」と、限界を主張することがいつでもできたのに、それを望まず、可能な限り、自立して自由に生きられるように、果敢に挑戦を続けたのである。2006年に来日してのコンサートでは、このような言葉を残している。

私は、他の人とまったく同じように感じられる育てられ方をしました。腕や足がなくても他の子どもとまったく変わらないと思っていました。私には1歳下の弟がいて、彼には障害はありませんでした。しかし、私も弟もまったく同じように育てられました。

私は7歳のときに、他の子供たちと一緒に普通学校に入学しました。学校で障害を持っているのは私だけでしたが、障害児とは思っていませんでした。友だちと同じような関心を持ち、同じようなことについておしゃべりをし、ユーモアの精神も遊びも同じでした。
ですから、他の子どもたちと自分はまったく同じだと思っていました。

そんなふうに感じられたのは、おそらく両親の私に対する姿勢、育て方によるものだと思います。私は、父と母が愛し合い、子どもを深く愛してくれる家族のもとに生まれたことは、とても幸福なことだったと思います。

少し他の人と違うと思ったからと言って、それで自分に対して否定的になったりする必要はありません。むしろ反対で、他の人と違うところは、自分のユニークさだと考えることができます。それは自分のメリット、得なことと考えることができます。そして、他の人の良いところを見つけることもできると思います。

障害を持っている場合、自分は他の人と違う、とけ込むことができない、阻害されている、他の人と一緒に行動できない、アウトサイダーだ、孤独だ、などと思ってしまうことがあるかもしれません。

しかし、私は違いを、実際に活用して他の人に何かをもたらすことができるもの、良いことをすることに役立てることができるものとして育てられました。子どもの頃からいつも、「あなたはユニークなんだ」「他の人と変わらぬ価値を持っている」「やろうと思えば何でもできる」と言われて育ちました。弟も私も、自分の関心を持っていることをするようにと勧められ、やりたいことに時間を割きなさいと言われました。本当にやりたいことがあれば、うまくなり、成功するだろうと言われていました。

このような生き方は、特に、日本では難いしいものと思うし、家庭教育の貢献が極めて大きいことも感じられる。だがいずれにせよ、こうした実例があることは、「弱者性」を武器に、自分の限界を主張して、絶えず人々に同情を乞い、自分のために人に何かをしてもらおうとする生き方を選ぶ代わりに、逆に、弱さを感じさせないほどに自立して、人々に自分から何かを与えるほどに積極的、解放的に生きることも可能であることを示しているように思われてならない。
 
すでに述べたように、私はある時期に「カルト被害者」と名乗る集団を離れ、限りなく健全さを目指して歩むことを決めたが、むろん、その歩みは単純なものでなかった。まずは、袂を分かったカルト被害者救済活の支援者らが、離脱を試みた者に制裁を加えようと、出エジプトの際のエジプト軍のように追いかけて来ては、猛烈な攻撃をしかけた。彼らは自分たちと同じ弱さの中にとどまらない人間を「精神異常者」扱いして罵り、かつての味方が敵に変わったのである。

さらに、新たに知り合ったクリスチャンの人々からも偏見の目で見られたりと様々なことがあった。当時、私は信仰以外には何も持たない新参者に過ぎなかったし、関わりのあった人々のほとんどは20歳以上も年上だったので、若輩者とみなされても全く不思議ではなかった。

だが、そんな人々の反応に臆することなく、内側に信じるものを頼りに進んで行くと、やはり、限りなく健全さに近づいて行きたいという願いだけが心に残るのである。

それは自由を求める終わりなき渇望に支えられた願いであった。たとえて言えば、仕事において、職歴もなくスキルもない若い人が、最初に就業する時には、誰にでもできる簡単なバイトから始めるかも知れない。誰にでもできるがゆえに、給与は安く、人使いも荒く、長くは続けられず、人からも尊敬もされない。だから、そのうちに、こんなことを続けていてはいけないと分かり、新たな夢を持って次の仕事を探す。たとえ、最初はつたない一歩であっても、絶えず踏み出し続け、望みを模索することによって、階段を一歩、一歩、上っていくことは可能である。しかも、それが信仰によってであれば、決して失望には終わらない。

仕事に限らず、生活のすべてにおいて、私は自分のすべての必要をただ主のみが満たすことができると信じ、主に乞うて来た。今、自分が何者なのか、今、自分に何がないのか、ないものを見つめて弱さを数え、私にはこれ以上のことはできませんと言って、人々に助けを求め、弱さの中にとどまるのは簡単である。自分自身の限界だけでなく、社会の情勢も、限界をもうける口実になりうる。だが、自分の望みはどこにあるのか、一体、自分はどういう人になりたいのか、どこに行き着けば満足なのか、願う自由と解放を見つめて、諦めることなく、そこに至るためのプロセスのすべてにおいて、主に助けを願いながら一歩一歩進んで行けば、一つ一つの限界は見事に打ち破られる。神は必ず願いに応えて下さることを信じるなら、そこにすべての望みを置いて、願ったものを受けるための安定した心の姿勢を自分の内に整えれば良いのである。

だが、このことには勇気もいる。再び、仕事にたとえるならば、劣悪な環境職場で働いている人がいるとして、その人が将来についての高い望みを口にしたところで、誰がそれを実現可能だと信じるだろう。平和な時代に巨大な箱舟を建設し始めたノアと家族のように、嘲りの対象になるかも知れない。おまえには今の状態がふさわしいよ、どうせ失望するだけだから、高望みや愚にもつかない大それたチャレンジはやめておけと言われ、望みをくじかれるかも知れない。

それでも、その人が望みをあきらめずに本気でその状況から脱出しようと試みると、今度は、望みを馬鹿にしていた同僚たちが、本気で敵対して来るかも知れない。彼らがスパイになったり、反対者になったりして、激しい攻撃を行って、脱出を妨げようとするかも知れない。最も激しい攻撃は、こうして、かつて仲間だった人々からやって来ることがほとんどである。つまり、ある人が、自分の置かれている集団の不自由な状態に気づいて、それまで属して来た集団を離脱しようとした時、その行為によって、集団の中にいるすべての人々が、自分たちも同じように劣悪で不自由な隷従の状態に置かれているという事実に無意識にも気づいてしまうのだ。だが、その気づきによって、このまま不自由な状態にとどまってはいけないと感じる人と、かえって侮辱を感じ、自由に対して反発する人々とが分かれる。何かの事情で、その状況から抜け出せないか、抜け出したくない人々は、自分たちがとてつもなく不自由な状態に置かれており、不幸であるという事実を決して認めないために、自分たちの集団から離脱しようとする人を「異常者」と決めつけて排除するか、同じ牢獄から逃がすまいと、徹底的に攻撃をしかけるのである。

カルト被害者救済活動の支持者が行って来たのは、そういうことであった。彼らは「被害者を救済する」ことを旗印に掲げながら、その実、被害者を誰かの支援がなければ生きていけないように、永久に「弱者性」から逃がさないように、自己憐憫や弱さの中に閉じ込めてしまう。逆に言えば、「支援者」たちは、被害者に本当に自立してもらっては、商売が成り立たないのである。だからこそ、こうした「支援者」たちは「弱者性」から人々を解放するように見せかけて、その実、「弱者性」から決して人々を逃がさないために、弱者の連帯という居心地の良い繭の中に人々を閉じ込めてしまう。その集団の中では、弱者が弱者であることを引け目に感じなくて済み、自分たちを「普通」だとみなすことができるので、安心していられるのである。

同じことが病者や障害者にもあてはまる。私は今までに一度も、重篤な病人に向かって、薬を飲まないようにとか、手術を受けないようにと勧めたことはない。そうではなく、すべての異端と手を切り、健康になりたいという願いをはっきり持って、神にそれを願えば、神はきっとそれをかなえて下さることができると述べたのみである。その実現のために、愚かしい徹夜断食連続祈祷などに参加して奇跡的な癒しに頼るべきと述べたことも一度もない。そんな手段に頼らずとも、たとえば、健康になるためには移植手術などの合理的な方法が存在するはずである。

ところが、 驚くべきは、「健康になりたい」という願いを持つよう提案すること自体が、非難の対象とされたことであった。これはブラック企業問題と極めてよく似ているように私には感じられる。前述のたとえのように、あるブラック企業において従業員の一人がその会社の異常さに気づき、「もうおれはこんな安い給与で非人間的にこき使われることには同意できない。この先、結婚もしたいし、子供もほしいし、家も買いたいし、車もほしいし…。まともな人間として生きるために、おれはここを出て行く。」などと言おうものなら、他の従業員たちから猛反対された挙句、「おまえはこの会社全体とおれたちの生き方を侮辱するのか!」と袋叩きにされかねない。この「不埒な従業員」の離脱を阻止するために、早速、他の従業員の誰かが社長に密告し、契約違反の訴訟が準備されるといった制裁も起こるかも知れない。実際、ブラック企業にはそういうカルト的な側面が必ず備わっている。そうやっていつまでも従業員同士が足を引っ張り合ってくれることこそ、まさにブラック企業の経営者の悲願なのであるが・・・。

これと同じように、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は教団の異常さに気づいてそこから離脱しようとした教会を逃がすまいと恫喝裁判をしかけたのであり、カルト被害者救済活動の支援者らも同じように、被害者運動の異常性に気付いてそこから離脱しようとする人間に、徹底的に裏切り者として制裁を加えたのである。同様に、もしも病者の集団の中で「健康になりたいと願わないのですか?」と問うたりする人が現れれば、早速、その人も袋叩きにされかねない。なぜなら、病者の集団の中では、病者であることこそスタンダードであり、健康になろうという願いを口にすることは、そのタブーを打ち破る行為であり、病者に対する侮辱と受け取られかねないからである。そうしたことはすべて、その集団の中にいる人々が自分たちの弱さを認識せず、自分たちの置かれている不自由で依存的な状態に決して気づかないようにするために行われている。

だが、不思議なことに、ほとんど決まって、そういう風にして自分は社会的弱者だから、自分の弱さは同情されるべきだという考えの持ち主が、他人の弱さに対しては極めて理解のない憐れみのない行動をとることはよくあるのだ。たとえば、自分の障害に関する話題については極めて敏感だが、子供のいない夫婦の前で平然と子供の自慢話をしたり、朝から晩まで働いている人たちに向かって、毎日、どんなに楽しい余暇を過ごしたかを平然と自慢したりすることには何の違和感も覚えない、等。つまり、「社会的弱者」というステータスを利用して、自分の弱さだけは公然と認められるべきだと考えて自分への理解や思いやりを当然のごとく周囲に求める一方で、別な側面においては、その自分自身が「社会的強者」となって他者の弱さに極めて鈍感に振る舞い、他人の心情を平然と傷つけていることには一向に気付かないのである。

こうして、「弱者性」に居直ることは、人の人格そのものを極めて自己中心に変えて行く魔法のような効果を持っている。だが、一旦、「社会的弱者」のステータスを獲得してしまった人々が、その考え方の偏りに気付くことは至難の業である。彼らにとって「社会的弱者」であることは、それほどまでに心地よく、絶対的な正義のようにさえ見えている。このように、何らかの弱さを核として(弱さを武器に)連帯する集団が生まれると、その中では、ものの見方そのものが転倒し、弱者であり続けることこそ普遍的な正義となり、これを否定する人間はみな悪人だということにさえなってしまう。そのことに疑問を抱いて指摘するような人間はみな「異常だ」と結論づけられていくところに、弱者による連帯によって築かれた集団のどうしようもない短絡性と怖さがある。

それでも、何度、そのような集団から非難を浴びることがあっても、やはり私は「弱さ」を軸に連帯したり、弱さをスタンダードに高めることで、自分たちに何が足りないのかを直視すまいとする人々の生き方には違和感を覚えずにいられない。だから、彼らからどのような非難を受けようとも、やはり、私の望むことは、限りなく「弱さ」と訣別して、「健全さ」を目指して歩むことだと感じずにいられない。

むろん、「弱者性からのエクソダス」は簡単なものではない。弱さの中にとどまるべきだという声はいくらも聞こえて来るだろう。だが、要は、当の本人が何を望み、何を信じるかなのだ。どの集団に仲間入りしたいと願うか。絶えず弱さを訴え続け、自分への特別扱いを求めることは、絶えず人の助けを借りなければ生きられない不自由で従属した状態を意味する。今、現在、自分がどれほど多くの限界を抱えていたとしても、人としての権利や可能性を十全に取り戻し、限りなく自由に、自立したいと願うかどうか。

思い出すが、ある時、私が自分たちの世代の置かれているとりわけ困難な状況を訴えた時、Dr.Lukeが私に向かってこのような返答をした。「ぼくは人生で何一つ苦労して手に入れたことがない。主にお願いしたら、全部、主がかなえて下さった。仕事も、家も、車も、こういうものを下さいと主に願ったら、全部、自然に手に入ったんですよ。職探しに苦労したことなんか一度もない。」

当時、Dr.Lukeは特段の悪意もなく、苦労知らずのお坊ちゃんのごとく、善意でこう返答したのであった。この返答を聞いた時の私の第一印象は「そんな馬鹿な」であり、次に、怒りがこみあげて来た。それは「もしそれが本当なら、今までの私の苦労は何だったのか」という怒りであった。

だが、私はその怒りをDr.Lukeにぶつけず、主に向かった。そして、主に対してこう述べた、「主よ、人生で苦労をしたことがないという人からこんな助言をされているようでは私ももうおしまいです。私が自分の弱さを人に打ち明けたのが大きな間違いだったのです。もう二度と誰にも憐れまれる隙を作らないために、私は自分の窮乏をこれから人に知らせはしません。主よ、あなたが私の保護者です。あなたは完璧な保護者です。それを疑わせるような発言をすべきでなかったのです。これからは誰にもあなたと私を侮辱させたりはせず、あなたの完全さを信じて進みます。人に助けを求めません。彼に出来たのなら、私にも出来るはずです」

それが反骨精神だったのか、自慢話に対する反発だったのか、あるいは低い信仰しか持てないのではどうしようもないという自省だったのか、定かではないが、いずれにせよ、ある時点から、私は自分の欠乏と弱さを人に打ち明けることを本当にやめて、ただ神にのみすべての必要を打ち明け、神はそれを満たして下さるという確信のもとに生き始めた。

実際のところ、私を快く支援してくれる同情心溢れる人たちは何人も現れたのだった。心づくしの愛情ともてなしを受け、素晴らしいひと時を共に分かち合ったこともあった。だが、それでも最後には、心温まる支援さえも振り切って、神の御前に一人で立つというところにやっぱり行きつくのである。

ある信仰者はそんな私の生き様についてこのような評価を述べた、「あなたに期待できるのは、望みの高さです」と。「あなたよりも良いものをいっぱい持っている人たちは、正直なところ、たくさんいます。でも、その人たちは現状に満足していて、この先の望みがないのです。自分は変わらなければならないとも思っていないし、変わることを願ってもいない。だから、その人たちの人生は、あなたよりもはるかに良く見えるかも知れませんが、今が最高で、決してそれ以上の段階がないのです。自己満足することに比べれば、今、どんなに低いレベルにいたとしても、望みさえあれば、人はいくらでも前に進んで行く可能性があります。」

これは私が信仰者から聞かされた数少ない貴重なほめ言葉の一つであるが、ほめ言葉というよりも、望みを持ち続けて生きなければならないというチャレンジのようでもある。私の人生は、主がどこまで私の願いに応えて下さり、どこまで私を本当に健やかにして下さり、キリストのように、神がかくあれかしと願われた健やかな人間に近づけて下さるのか、それを主ご自身と私との同労によって証明するための実験のようなものである。

だから、Dr.Lukeから聞かされたいくつかの言葉も、印象深く私の心に刻まれている。その中には「わざと事を難しくせよ。物事は困難であればあるほど、主の出番だ」というものもあった。さらに、別の信仰者から聞かされた「思い煩うな」という言葉もそこに加わっている。自分の失敗によって、人生がもつれた糸のように複雑になったとしても、絶望することはない。なぜなら、状況が絶望的に見えれば見えるほど、通常の状態に比べて、ますます信仰の意味が生きて来るからだ。人にはできなくとも、神に解決できない問題はない。人の手に負えない問題であればあるほど、ますます神の介在の余地があるのだ。

キリストは「人の子には枕するところもない」と言われたほどに、地上におられた時、私有財産と言えるものを何一つ持っていなかったが、それでも不思議な方法で、いつも神が必要を満たして下さったので、本当の意味で貧しくはなかった。一度も人に何か助けを求めなければならない窮乏に陥ることはなかった。むしろ、何も持たないようでありながら、全世界を所有しておられたのである。その所有を、主は地上で王として君臨することでご自分のために消費されることはなく、むしろ、私たちに管理するよう預けて行かれた。キリストを通して、信仰者にはすでに何もかもが与えられている。この地上を生きるための必要も、健全さも、来るべき世で与えられる栄誉も、何もかもである。

だから、信仰者はすべてをキリストから、キリストの御名のゆえに、キリストの達成された御業から引き出すのである。それぞれに信仰者たちは様々な言葉でこの法則を説明した。「信仰による逆算」と呼ぶ人もあれば、ウォッチマン・ニーは「信仰によって天の無尽蔵の富を現金化する」という言葉を使ってこの法則性を説明した。

私は今に至るまで、実際にかなりの必要を「信仰によって現金化した」ので、それが生きた法則性であることがますますはっきりと見えて来たのだと言える。
 
「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

人は現状だけを見、今、見ていないものは、この先も存在しないと考える。それをないものねだりとしてあざ笑う。ところが、 神は決してそのように人をご覧にならず、人が限りなく健全に、限りなく人間らしく、豊かに、自立して、自由に、喜んで生きることを願い、そうなりたいと神に乞い求める人の信仰を重んじて下さる。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけだし、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:7-8)


だから、私はやはりデモには参加しないだろう。もしも私が今、学生であったなら、きっと参加して何かを叫んでいたことだろう。それはかつて私が聖霊派の聖会に出席したりしていたのと同じである。だが、それから現在に至るまでに起きたすべての出来事を通して、人というものがどういう性質を持つものであるのか、私には十分に分かった。

人にはそれぞれ個人的に歩むべき道があって、それは決して他者とは同じにならない。人の抱える「傷」や「弱さ」は、人それぞれに異なっており、たとえ同じような弱さを抱えている者同士に見えても、容易に互いを理解できるものではなく、助け合えるものでもない。だから、初めは「弱者性」によって連帯しているように見える人々も、必ず、途中から認識が割れて、互いに理解できない様々な事柄が生まれて来るのである。しかし、自分を一方的な「弱者」であると主張している限り、自分を十分に憐れんでくれない人々に非難の矛先を向けるばかりで、同士討ちに陥る危険もなくならない。そのような自己憐憫に基づいた運動の安直さは、これを弾圧したい人々にとっても、極めて都合の良いものなのだということをも覚えておく必要がある。

だから、私は「被害者意識」を捨てること、自分を「弱者」だと考え、目に見える人間に理解と保護を求める心そのものを捨てることが、人生で極めて重要ではないかと考えている。むろん、糾弾しなければならない悪事は数多く存在するが、自分たちは痛めつけられた弱者であるから、「理解されて当然」、「保護されて当然」という一方的な被害者意識は持つべきではない。そのような考えでは、カルト被害者救済活動が、その暴走の過程でカルトに同化して行ったように、最終的には、自分と異なる考えを持つ人々を排除して、自分たちの正義を一方的に押しつけるという、自ら非難している人々と何ら変わらない独善的なモノローグに至りつくしかないだろう。