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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

疎外されし者たちの復讐の哲学~抑圧された社会的弱者が弱さと傷によって絆(連帯)を結ぶ危険④~滅びに至る広き門マジョリティのための偽りの福音~

ウクライナ:議会前で爆発、死傷者多数 憲法改正審理中
毎日新聞 2015年08月31日 21時04分(最終更新 09月01日 01時02分)

【モスクワ杉尾直哉】ウクライナ最高会議(1院制議会、定数450)は31日、親ロシア派が支配するドネツク、ルガンスクの東部2州により大きな自治権を付与するための憲法改正案を審理し、第1回の採決を行った。法案の審理継続に必要な226票を上回る265議員が賛成し、審理継続が決まった。

現地からの報道によると、憲法改正に反対する民族主義者ら数百人が最高会議ビル周辺で警官隊と衝突した。現場でデモ参加者が投げた手投げ弾が爆発し、アバコフ内相によると、破片で警官1人が死亡。また、警察、デモ隊双方で計120人以上が負傷したという。

 当局は手投げ弾を投げた男を含め、約30人のデモ参加者を拘束した。現場は爆発や催涙弾の煙に包まれ、大混乱となった。ヤツェニュク首相は騒乱の背景を徹底捜査し、厳しく刑事責任を追及する考えを表明した。

 憲法改正は、ウクライナ紛争を巡る今年2月の停戦合意(ミンスク合意)に盛り込まれ、ポロシェンコ大統領が7月に憲法改正案を最高会議に提出していた。法案は2回目の採決で最終的に成否が決まるが、最低300の賛成票が必要で、成立は微妙な情勢だ。

 
8月30日の国会前のデモからほとんど日も経たず、上記はあたかも我が国の未来を暗示するような事件である。ただし、日本の場合と異なるのは、今回ウクライナで審議されている改憲は、内戦終結を目指そうと、親ロシア的なドニエツク、ルガンスクに大きな自治権を付与することを目的としている点で、日本の自民党による憲法改正案のような、抑圧政策のための改悪ではない点である。

こうした改憲の動きが出て来たことだけを見ても、ウクライナの親ロシア的な地域を壊滅へ追い込もうとした勢力の作戦は失敗に終わりつつあることが分かる。クーデターによって成立したヤツェニューク政権(+現ポロシェンコ大統領)そのものが急激な支持率低下に見舞われているとの報道も飛び交っており、この異常な政権が終了するのも時間の問題だと思われる。しかし、相変わらず、ロシア憎しという立場に立つ民族主義者は、何とか内戦終結を阻止しようと、この自治権付与の提案にも反対して騒動を起こしている。

こうして改憲の意味が真逆である点を除けば、ウクライナがこれまでかなり日本と似た経過を辿って来たことはすでに述べた通りである。自分たちが「ロシアに長年抑圧された被害者である」という被害者意識を煽られて、脱ロシア化を成し遂げさえすれば諸問題が解決すると思わされ、ナショナリズムに突き進んだ結果、民主化という大義名分の下、ウクライナは兄弟国であるロシアに敵対することになり内戦状態に陥ったことはすでに説明して来た。もしも日本国民が同様に外国への敵対感情を煽られれば、同じように内戦もしくは他国での戦争に駆り出される結果になる恐れがある。

だが、憎しみを煽られることが危険なのは、他国に対してだけではない。もし国民が安倍政権への憎しみを煽りたてられても、やはり同じように内戦という結果に至りかねないことを上記の記事は示唆している。

私が危惧するのは、デモを賞賛している知識人らの論調が日に日に過激化して来ていることである。フランス革命に言及した坂本龍一氏だけではない。怒りの論調は他に数えきれないほど存在するが、もともと過激な用語を好んで用いる反対派の常連ではない人々も、このデモをきっかけに普段と比べかなり似合わない言葉を使い始めている。いくつかの事例をピックアップしてみる。

「新入社員を自衛隊派遣」する「現代版徴兵制」が検討されていたらしい。こんな不埒な輩を叩きのめすためにも、今日は国会へ行こう。 くろねこの短語 2015年8月30日 (日)


< 怒りの12万人国会包囲で安倍暴政は最終章へ

植草一秀氏のブログから抜粋 2015年8月31日 (月)

マスゴミに指令を出して、情報封印しているにもかかわらず、草の根の情報を広がりは、もはや抑えることができない。
それでも安倍政権は強行採決に突入するだろう。
しかし、それが致命傷になる。

主権者多数が強硬に反対しているのだ。
もはや、この主権者は
サイレント・マジョリティー
ではない。

怒りのマジョリティー
なのだ。

潮目は変わり、安倍政権の「バカの壁」が崩壊する日は目前に迫っている。


過激発言に加え、さらに問題なのは、この大規模デモが本当に「草の根運動」なのかどうかという点である。(草の根運動を装った人工芝運動が存在することについては、他所で詳しく解説されているので、ここでは言及しない。)

さらに、怒りのマジョリティという言葉も、どこかしらボリシェヴィズムを彷彿とさせる(ボリシェヴィキとは多数派すなわちマジョリティのことである。)

SEALDsについては、このブログで大本営発表を思わせる政治キャンペーンの典型例として幾度も挙げて来たハフィントンポストの記事が、リーダーの奥田愛基氏を取り上げて、大々的に賞賛していることからも、非常に疑問を覚える。今回の12万人とも、30万人とも、様々な数字が飛び交う大規模デモには、無数の市民団体が参加しているにも関わらず、主要メディアの多くが、これをすべてSEALDsの功績にしてしまっているところに、深い疑念が生じざるを得ない。これは決して理由なきことではあるまい。

一部の人々は、早くからこうした動きを察知して、SEALDsは草の根運動ではないと警告して来た。ほとんどの市民デモが、メディアに取り上げられることなく無視される中で、なぜこの学生団体だけが、読売などで大々的に報道されているのだろうか?
 
【安保法案】SEALDs・奥田愛基さん「民主主義って何だ?問い続ける」(インタビュー)

ハフィントンポスト  投稿日: 2015年08月31日 11時38分 JST

また、民主主義とは何かというSEALDsの問いかけも、安保法制や改憲を論じるのには的が外れている。むしろ、安保法制と改憲草案の本質的な疑問を覆い隠すためのある種のスピン的な役割を果たしているのではないかと見られる。安保法制や自民党の憲法改正草案の恐ろしさについては、これを承認させようと政権側が取った手続きの強引さの問題もさることながら、案そのものが持つイデオロギーの危険以上に、論ずべき重大問題はない。ところが、SEALDsは、人々の関心を法案の内容それ自体から、これを承認させるための手続きの方へと巧みにそらそうとする。その結果、手続きさえ強引なものでなければ、安保法案も承認可能、改憲も可能という結論が出かねないのだ。そこには、人々を巧みに国民投票へと導くことによって、民主主義的手続きを踏んだという形式さえ整えれば、安保法制や改憲であろうと、どんな危険な法案であろうと、承認してしまいかねない恐ろしさがある。
 
今回のデモが海外メディアでも取り上げられたのを機に、「若者たちが立ち上がった!」などとデモをもてはやす国内記事もあるが、政権側からの過小評価の分を割り引いたとしても、実際のところ、これは決して若者たちを中心とするデモではなかったのである。「ぶっ壊せ!」の緊急集会もそうであるように、デモや集会参加者の年齢層はかなり高く(人口から考えれば当然であるが)、ほとんどが40代以上の年配者、学生運動世代の高齢者もかなり多い。いわば、若者は美しい広告として利用するためにデモの前面に押し出されているだけである。

若者たち自身にもそうしたことはよく分かっているのか、彼ら自身にもそれなりの狙いがあって、年寄りを存分に利用しているのだと言える。若者だから無私で純粋などということは決して考えるべきではない。むしろ、大人たちにさんざん馬鹿にされたり、軽んじられたりして来た「ゆとり世代」には、大人たちに対する特に根強い不信感や不満がくすぶっていることは、彼らの様々な発言を通して見ることが出来る。

しかし、もともと大人に対しては敵意にも近い、強い不信感と警戒心を持っているのが本来の若者の自然な姿でもある。それはかつての学生運動世代が、大学当局に対してどれほどの不信感を持っていたかを思い出すだけで良かろう。

だから、若者たちは若者たちで、決して大人たちに利用されまいと考えて、大人たちの野心を警戒しながらも、あくまで自己の利益のために、大人たちを利用して、運動を進めようとしている。(SEALDsが特定の政党にこだわらないのも、できるだけ多く支持者を増やすためである。)そのことは以上のハフィントンポストの記事で、SEALDsの奥田愛基氏自身が明言している。

――既存の政党や学生運動団体と距離を置くのはなぜですか?

「どこかの政党」となった瞬間に、その政党の支持者しか来られなくなるので、特定政党は応援しない。けど、野党に協力して安保法制に反対してほしいので、反対している野党はどこでも応援します。自民党の議員でも反対するんであれば応援しますよ。

――共産党が顕著ですけど、逆に政党の側がSEALDsにすり寄ってきているという印象があります。

それはあるんじゃないですか。こないだも街宣許可を取っている街宣車が必要になって、そんなの持ってるのは政党しかないから、民主、社民、共産にお願いしました。最終的に共産党系の全労連がでかい車をタダで貸してくれたので、ありがたくお借りしましたけど、政治家に利用されてるというより「利用してる」という感じです。

この若者たちが、自分たちをもてはやし、近づいて来る大人たちを決して無条件に信用してはいない様子が、この発言からも、手に取るように理解できる。彼らはその若者らしい熱意溢れる美しい姿で、色々な思惑を持った政治家たちの関心を多分にひきつけながらも、むしろ、自己の利益のために、どうやって彼らを逆に利用してやれるかを考えているのである。

同様の考えを、SEALDsを賞賛する人があからさまに述べている。大人たちを存分に利用して行けるところまでのし上がれ、目指すは政界、ということである。

新党プラン…SEALDs新党 から抜粋

生活の党には小沢一郎氏がいます。ド素人でも当選させてくれますよ。新人でも当選させる力量なら、日本にこれ以上の人がいません。
<中略>

SEALDsと同様に、自民党ブログのデマ被害を浴びたのが小沢氏と山本氏です。
<中略>あの自民党が皆で叩いたのだから、3者とも愛国者です。

山本氏と小沢氏、この両者は共同代表なので、もし意見が食い違って二択の場面が来たなら、山本太郎議員に皆でついて行くこと。
(当選するまでは)小沢氏にコビ売っておこう(笑)。 
小沢&山本太郎&SEALDsなら、来年一気に最大議席数が狙えますよ。


このSEALDsへの応援者は、要するに、すでに悪役が定着してしまっている政権与党と闘う正義の味方、不当に迫害されて蔑視されて来た犠牲者に見える小沢氏や山本氏を存分に利用して、若者たちに、政界への階段を駆け上がれ、と言っているのである。自民党政権の支配が悪のように見えれば見えるほど、それと闘っている人々は、正義の味方のように輝く。その正義のオーラを十分に利用して、自分たちも政界へ進出する道筋をつけよというのである。結局、この主張からはこうした人々のすべての目的は政界に、権力奪取にある様子が見えて来る。
 
今回のデモでは、あたかも学者と弁護士と学生や主婦やら、世代や職業を超えてすべての人々が連帯しているかのように語られているが、それも単なる見せかけであり、幻想に過ぎないものと見るべきであろう。労使の連帯があり得ないのと同様、学者と学生、若者と大人の連帯なども、本当のところ、あり得ない幻想だと考えた方が良い。

にも関わらず、どうしてそれほど様々な社会層の人々が集まったのかと言えば、それは弱さや問題を抱える人たち同士が、怒りと不信感と憎しみで一時的に手を結び、社会の解放、弱者の解放の旗印の下に、互いを利用し合いながら、自分たちの身の安全と立場を確保し、同時に出世のチャンスを狙っているだけだと見られる。むろん、私心なくデモに参加し利用されている人たちもいるのだが、その人たちには、このデモを指揮する人々が何を目的にしているのか、そんなことまでは分からない。

つまり、デモを指揮している人たちは何のためにこの運動を盛り上げているのか? 市民の解放のため? いや、安倍政権を打倒して、権力の空白を作るため。その空白に入り込むためである。

確かに、これほどまでに多くの社会層の人々を敵に回して怒らせた事実には、自民党政権の著しい劣化現象が表れているため、ポロシェンコ•ヤツェニューク政権と同様、この政権には確かに終わりの日が近づいている様子が感じられる。

だが、政権が倒れるのに乗じて権力奪取を狙っている人々は一体、何なのだろうか。しかも、長年かけて権力と闘って迫害されて来た歴史があるわけでもないのに、そのような古参の闘士を逆に利用して、政界への階段を駆け上がろうとしているこの人々は何なのか。

こうした観点からも、弱者救済を旗印に掲げれば、どんな人間も簡単に自分を正義の味方に見せかけて権力を手にできる恐ろしさを見ることが出来る。

奥田氏の理念に多大な影響を与えているであろう同氏の父であるバプテスト教会牧師の理念の間違いについては、すでに記事で述べた。その記事において私は、インドのコルカタ(カルカッタ)が生涯の活動の場となったマザー・テレサや、釜ヶ崎が生涯を決定的に左右する原風景となった奥田知志牧師の例を同時に取り上げて、彼らの唱える「弱者救済の思想」は、うわべはヒューマニズムの観点から美しいものに見えたとしても、その本質は反聖書的なものであり、神によらない人間の自己救済であり、福音に反していることを述べた。

キリスト教界で繰り広げられたカルト被害者救済活動も、再三に渡り、指摘して来た通り、これと同種の偽りの弱者救済活動である。

一言で言えば、カルト被害者救済活動の支持者にとっては、カルト問題が深刻化して、「カルトの親玉」がたくさん登場してくれればくれるほど、商売がもうかるのである。彼らは一見、弱者を救済することを掲げているように見えても、実際には、問題解決などに本気で着手するはずもない。彼らが立ち向かっている相手が、極悪人のように見えれば見えるほど、彼ら自身は正義の味方のように光輝いて見え、それが彼らの手柄になり、栄光になるためである。極悪人がいなくなってしまえば、商売の必要がなくなる。いわば、敵を作り続けること、絶え間なく正義の戦いを演じて見せること、自分たちを「悪人をやっつける正義の味方」、「弱者の救済者」に見せかけて、そこから利益を得ることが、この人々の生業であり、商売なのである。政界はもっとそういう場所であると言える。

被害者意識を持つ人々は、その被害者意識ある限り、こうした人々に簡単に弱みを利用されてしまう。だからこそ、怒りと憎しみを捨てて被害者意識と手を切ることこそ、自立への不可欠な一歩だと述べて来たのである。
 
弱さを抱えた人々が互いを利用し合い、食い物にし合いながら繰り広げる偽りの救済運動は、その利用のし合いの中で、常に泥沼化して来た。確かに、現政権にはそう遠くない日に終わりが来る可能性があるが、資本主義の打倒を目指して成立した社会主義国が、次々と資本主義国よりも先に終焉を迎えたように、怨念と被害者意識に基づく反対運動は、場合によっては、打倒を目指している政敵よりも、もっと早くに暗黒状態に落ち込み、瓦解する可能性がある。
 
「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。」(Ⅱテモテ3:13)

・・・

聖書は、救済者を装って現れる反キリストに惑わされるなと警告している。終わりの時代には、世が荒れて行くに連れて、キリストのような救済者、正義の味方を装って、様々な人物があちらこちらに乱立する時代になることが、聖書では警告されている。反キリストの特徴とは、人々の関心を「内住のキリスト」への内なる信仰から引き離し、自分の外側にいる目に見える特定の人物へ引きつけ、その人物を中心に「あの場所」、「この場所」といった特定の時空間に人々を動員することにある。あの集会、この集会、あの先生、この指導者のもとへ…、常に自分の外側にあるものに信仰者の関心を引きつけ、内なるキリストから逸らそうとするのである。そういう人物について行くな、と聖書は警告している。(以下の御言葉に照らし合わせてみると、奥田愛基氏の名前はこの点でかなり象徴的ではないだろうか。)

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24:4-5)

「そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」(マタイ24:23-24)

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものであはりません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。
イエスは弟子たちに言われた。「人のこの日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。」(ルカ17:20-23)

イエスの教えはあくまで「わたしについて来なさい」(マタイ4:19)というものあり、「イエスの名を語るあの有名で偉い人、あなたをいかにも救済してくれそうなこの親切で私心のない人について行きなさい」というものではない。
  
キリストは信仰者の外側にいる誰か偉そうな人の中にいるのではなく、あるいは社会的弱者の内側に偏在しているわけでもなく、信仰を通じて、信じる者自身の内側に住んで下さるのである。

「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)
 
しかし、今日のキリスト教においては、これが全て逆さまになっており、信仰者は自分の内におられるキリストのことは信じようともせずに、目に見えるあの指導者、この指導者、あの集会、この集会にキリストを求めて馳せ参じている。社会の様相もこれと同じである。人々の弱みを巧みに握って、それを解決してやるかのように見せかけている人々が、支配者となって君臨し、また権力を握るチャンスを狙っているのである。
   
これまで、「狭き門と広き門」というテーマで、異端の教えの特徴に関する記事にも書いて来た通り、異端の教えは必ず、キリストへのまことの信仰を持たない圧倒的大多数(マジョリティ)を、神への信仰抜きに、この世的・人間的な方法で救済‭しようとする。

キリストの十字架を介さなければ誰も救われないという、聖書に基づく神の救いは、確かに、ある意味では人にとって「狭き門」である。ドストエフスキーの描いた大審問官は、人類の圧倒的大多数は、信仰だけに頼って生きられるほど強くないため、キリストの救いでは救われず、このようにキリストの狭い救いでは見捨てられる可哀想な人類の圧倒的大多数(マジョリティ)を救済してやるために、自分が偽りの教義を作り出し、広い救いを提唱してやるのだと述べる。

反キリストの特徴は、こうして常にマジョリティのためのお手軽な福音、お手軽な救済を提唱することにある。マザー・テレサも、サンダー・シングもそうであったように、何らかのきっかけで、既存のキリスト教界の「排他性」や「冷酷さ・狭量さ」に絶望し、キリスト教に躓いた人々が、従来のキリスト教からは打ち捨てられ、見捨てられるしかないマジョリティのための「福音」として、キリストの十字架によらない、直接無媒介の救済に従事するのである。

ドストエフスキーの大審問官は、人類はキリストの高すぎる要求に耐えられないので、信仰によって生きることはできず、代わりに自分がお手軽な福音を作って、石をパンに変えて民衆に与えてやることにより、民衆を支配するのだと述べる。パンを求める民衆は、弱みを握られているので、言いなりになるしかなく、パンをくれる支配者こそ自分たちの解放者だと考えて、喜んで畜群となって支配者の後をついて行くだろうと言う。それが偽の救済であることを重々承知で、大審問官はそれでも、神の方法では、この愚かで哀れな圧倒的大多数は救われる見込みがないのだから、自分はこの哀れな人々に対して良いことをしてやっているのだと反論する。

この圧倒的大多数の救済に見せかけた偽りのヒューマニズムは、どんなにうわべは人間に優しく見えても、本質的には、人間蔑視に基づく人間抑圧の思想である。このような偽りの救済は、人を目に見える指導者、支配者に依存させて家畜のように支配するだけで、決して自由にはしない。弱みを抱えた人を救済するように見せかけて、いつまでも救済する側の人間との支配関係の中に閉じ込めてしまうだけである。ドストエフスキーの小説は、来るべき時代を予見していたのではないかとよく言われるが、そこには反キリストの民衆支配の思想が非常に端的に記されている。

ボリシェヴィズムも、多数派の支配と言いながら、結局のところ、レーニン含む指導者は、初めから、少数精鋭による党の指導を提唱しており、決して民衆(多数者)に支配権を委ねるつもりはなかった。むしろ、大多数の民衆は愚かで無知な人々であり、少数のエリートによって指導されるにふさわしいと考えていた。だから、マジョリティの怒りは、革命によって少数者が政権奪取を成し遂げるために都合よく利用されただけであり、本当のところは、このマジョリティは理想的な人間になるためにはまだまだ指導や再教育が必要な半人前の人々だとみなされていたのである。

このようにマジョリティの怒りを都合よく利用して、あたかも圧倒的大多数を救済するかのように見せかけて、その実、彼らを新たな指導者に依存させて行き、支配するお手軽な「福音」としての弱者救済の思想は、必ず、地上的な衣食住の問題解決を最優先課題とし、信仰よりも優先あする。人が生きるために最も肝心なものは何かという問いに対し、こうした偽りの救済思想は必ず衣食住を含めた物質的、精神的、この世的な生活条件を挙げる。 「まずわれらにパンを与えよ、その後に善行を求めよ」というわけで、食が不足して生存の恐怖に陥れば、人が理性を失って憤怒のあまり野獣のように凶暴になり、打ちこわしや暴力に走る弱さや愚かさも、優しく認めてやる。全ての混乱は生活苦から来るものであって、人間の罪深さから生まれているのではないというわけである。

しかし、聖書の教える順序はそれとは逆である。「イエスは答えて言われた、『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:4) 聖書は、目に見える地上のパンが人を生かすのではなく、見えない霊的なパンである神の御言葉が人を生かすのだと教える。この世の物質的な支配体系を決定するのは、霊的な支配体系なのである。
 

そこで、弱者救済を掲げる色とりどりの旗がどれほど乱立してはためいていたとしても、これらはみな広き門であり、目的は同じであると分かる。神ではなく、人間の掲げる解放の旗の下にいる限り、決して人は弱さを脱することができない。そればかりか、民衆の弱みを巧みに利用して支配者になろうとする人々にまたも食い物にされる危険から離れられないのである。

だから、弱みを抱えた人々を飢えた畜群のように都合よく管理して支配権を争奪しようとする人々の戦いに利用されたり、巻き込まれないためには、目に見える救済者・指導者の後をついて行って地上のパンを彼らに乞うという生き方をやめるべきであると言える。朽ちてゆく、しかも、食後に腹の中で毒か石に変わるような有害なパンを目に見える人間に与えてもらう代わりに、天に無尽蔵の富を有しておられ、朽ちないパンをいつまでも永遠に供給することのできるまことの神にすべてを求め、この方をまことの支配者としてより頼んで生きることこそ最善である。神こそ揺るぎない救いの岩であり、人にとっての最良の安全地帯である。
 
どちらの門から入るのが望ましいか、マジョリティの福音というものが何を意味するのか、聖書に照らし合わせてよく考えてみるべきである。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)

「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには、自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけれられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:16-18)

 

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疎外されし者たちの復讐の哲学~抑圧された社会的弱者が弱さと傷によって絆(連帯)を結ぶ危険③~安倍政権と反安倍政権運動は同一化する~

これからここに述べる予測は、多くの人にとって聞きたくもなければ、支持もしがたい内容となるだろう。私自身が書きたい内容でもない。しかし、それでも警告のために書いておかねばならない。

それは、反安倍政権デモが間もなく安倍政権と同一化するだろうという予測である。人々が被害者意識と、傷と弱さによって連帯することには大きな危険性がつきもので、政権側と反政権側は一見正反対の陣営にいるように見えて、その怨念と怒りは親和性があるもので、容易に一つに結びつくだろうという予測をこれまでにも幾度か述べて来た。が、今、これから書くことはさらに踏み込んだ内容となる。
   
反政権デモの主張と私の考えとは多くの点で重なる部分があったので、8月30日が終わるまで、釈然としない気分で断言することを避けた。実際、この疑念を確かめるために、「緊急集会 『ぶっ壊せ!アベ安保法制』」なる集会の内容を自分で聞いてみたほどである。

しかしながら、この「ぶっ壊せ」という緊急集会のタイトルだけをとっても、何かしらただならぬ気配を感じていたことは確かである。むろん、集会の内容には物騒なものを感じさせる部分はほとんどなかったのだが。しかし、この集会を周知していた植草一秀氏の呼びかけが、次第にいつになく激しいものに変わっている点も注目された。以下は同氏のブログから。

安倍政権の経済政策と日経平均株価暴落
2015年8月25日 (火) から部分的に抜粋

金融情勢の分析は『金利・為替・株価特報』に譲ることとして、金融市場の環境変化で、安倍政権を取り巻く情勢が急変する点を見落とせない。

安倍晋三政権は9月中旬にも、戦争法案の参院強行採決を目論んでいると思われる。
日本の主権者の圧倒的多数が、戦争法案にに反対している。
そして、圧倒的多数の憲法学者が、戦争法案が憲法違反であると指摘している。
法治国家、立憲国家、民主主義を基本とするなら、安倍政権は戦争法案を取り下げるべきである。

これ以上の暴走を続けるなら、日本の主権者がいよいよ立ち上がり、体を張って、安倍政権を打倒する必要がある。
日本を暴政によって滅亡させてはならないのである。

株価は上昇したが、圧倒的多数の主権者の生活はまったく好転していない。
主権者が連帯して安倍政権を一気に退場させるべき時機(とき)が到来している。

「これ以上の暴走を続けるなら、日本の主権者がいよいよ立ち上がり、体を張って、安倍政権を打倒する必要がある」、「主権者が連帯して安倍政権を一気に退場させるべき」などと、いつになく行動的な文面が並んでいる。

植草氏の記事には過激なタイトルがつけられることも珍しくなく、政権批判も元来、鋭かったが、しかし、だからと言って、具体的に政権打倒の行動をここまで同氏が明確に是認することはなかったように記憶しているので驚いた。このような文面が現れた背後には、必ずや、この緊急集会を支える市民デモの影響があるだろうと考えられた。

「ぶっ壊せ!」のタイトルにも、その考えはよく表れている。もし違憲の法案を無理やり通そうとするなら、市民は力づくでも良いから、体を張ってこの体制を潰せと。むろん、過激なのはタイトルだけで、まだまだ集会は穏やかな雰囲気である。しかし、デモ翌日の報道のされ方を見て、この流れがどこへ向かっているのかがさらに明確になった気がする。

「フランス革命に近いことが起ころうとしている」安保反対の市民が国会前を埋め尽くす 弁護士ドットコムNEWS 2015年08月30日 16時07分 から抜粋

音楽家の坂本龍一さんは「政治状況ががけっぷちになって、日本人に憲法精神が根付いていることを示していただいた。フランス革命に近いことが今まさに起ころうとしている」と語っていた。


さすがにこの「フランス革命」という言葉はデモ賛成者側の多くの人々にさえ血なまぐさ過ぎると拒否感を呼び起こしたようである。しかしながら、翌日の報道記事にも、同じ趣旨のことが書かれている。

以下の朝日DIGITALの記事の題名にある「いつか教科書に載る景色」という言葉によっても、彼らが何を目指しているのか明確に理解できる。

「いつか教科書に載る景色」 国会前デモ、なぜ広がった
朝日新聞DIGITAL 後藤遼太 2015年8月31日05時10分

安全保障関連法案を審議している国会議事堂は30日、法案反対の声に包まれた。安倍政権の政策すべてに反対というわけではないという人もおり、デモ参加者は立場を超えて法案反対で足並みをそろえた。今後はデモが一過性に終わらず、投票を通じた政治参加につながるかも焦点になる。

小雨の国会前。色とりどりの雨傘の間から学生団体の声が響き、労働組合や宗教団体ののぼり旗が林立した。老若男女が声を上げた。

 喧噪(けんそう)の中心に、学生団体「SEALDs(シールズ)」がいた。正式名称は「Students Emergency Action for Liberal Democracy-s」(自由と民主主義のための学生緊急行動)。憲法記念日の5月3日に、都内の大学生十数人が中心になって立ち上げた。彼らの声は、ツイッターなどを通じて拡散。毎週金曜日の抗議活動は、回が重なると人数が増えた。

 早稲田大1年の広内恒河(こうが)さん(19)は「いつか教科書に載る景色ですね」と漏らした。安保法案は「解釈改憲というプロセスが違憲」と思う。アベノミクスは「必要な施策」と肯定的だが、地元の岩手で総選挙前に街頭演説をした安倍晋三首相が、安保法制にあまり触れなかったのが疑問だった。「安保法案が後で出てきた。だますつもりだったんだ」と思い、7月から国会前に足を運んでいる。

 都内の弁護士の男性(77)は、「山積みの仕事」を放り出して、国会前に足を運んだ。「これだけの声を反映できない安保法案は、国民主権をないがしろにするものだ」と話す。

 60年安保闘争の光景が浮かぶ。学生仲間と腕を組み国会前を歩いた。「動員が多かったからね。今日は市民が自発的に集まっている。いい光景じゃないか。民主主義が定着したんだね」と目を細めた。


教科書に載るとはどういうことか? 歴史を塗り替えることのできる政治的勝者の立場に立つことを意味する。

1917年十月革命で臨時政府を打倒して成立したボリシェヴィキ政権は当時、ほとんど貴族からも知識人からも、長くは続かないだろうとみなされ、まともな政権としてはかえりみられていなかった。一般人は伝統的な生活が今日も明日も続くと思っており、何が始まったのかほとんど理解していなかった。ボリシェヴィキがクーデターを通して政権を奪取した後も、彼らが国会の片隅で引き起こしていたことが、まさか後の国家体制の歴史の中心的な出来事として、70年間もソビエト共産党史の中心に記載されるなど、当時をまさに生きていた人々でさえほとんど予想できなかった。さらに言うならば、レーニンの功績をスターリンがネコババし、その勝者の歴史でさえ時の権力者に都合よく書き換えられていくなど…。
 
「いつか教科書に載る」とは、それがいずれ新しい政権の成立の根拠として、公式な歴史となり、国家の歴史として刻まれるという意味を含んでいる。安倍政権が続く限り、30日のデモが教科書に載ることは決してないだろう。今回も、警察発表によれば、たかだか3万人規模の反対デモとして軽く受け流されただけであり、安倍政権は安倍政権で自分たちの好みの歴史教科書をすでに何とか国民に強制しようと様々な画策を行なっている最中である。

だから、「いつか教科書に載る」という言葉は、この安倍政権が消えて、新しく教科書を制定する勢力として、今回の反政権デモを組織した人々が名乗りを上げること、なかでもその中心的な役割を果たしたSEALDsがそれを成し遂げる意欲があることを意味している。そして、この人々が自分たちの歴史を中心に新しい教科書を制定するというのである。
 
しかし、記事をよく読んでみれば、このSEALDsメンバーは、安保法制そのものに反対なのではなく、単に「解釈改憲というプロセスが違憲」と考えているだけであることが分かる。アベノミクスにも相当な理解を示している。こうした考え方は多くの国民とはかなりの温度差があることだろう。だが、単なるデモ参加者にはそこまでのことは分からない。デモに出て反対を叫んでいれば、安保法制そのものに根本的に反対なのだろうと理解するだろう。

だが、必ずしもそうではないことが記事を読んで分かる。だからこそ、記事の冒頭にあるように、SEALDsは「投票を通じた政治参加」を促しているのである。それが国民投票なのか、それとも、選挙によるものなのか明示はされていないが、要するに、「制定のプロセスさえ違憲でなければ、安保法制そのものも違憲とはならない。正しい政治的手続きによってであれば、改憲も可能である」という主張だと理解できるのである。

これでは真の意味での自民党のイデオロギーへの反対には到底ならない。むしろ、プロセスには反対しながらも、根本的な理念には賛成しているのだとさえ言える。このようなSEALDsの主張を以前から知っている人々が、SEALDsは安保法制と憲法改正のために国民投票へ誘導しようとしていると警告して来たのである。これに「ぶっ壊せ!」的な気運が加わると、場合によると、「非民主主義的な手続きへの怒り」をバネに、安倍政権の打倒(=革命)が成就してしまい、SEALDsを含む反政権デモ側に権力が委譲してしまう可能性さえある。

どうやってまだ立候補の可能性もない彼らが「歴史教科書を塗り替える」のか? それが可能となるのは、安保法制が強行採決された後のことである。強行採決されれば、人々の怒りは沸点に達する。その時が政権打倒の最高のチャンスである。

だが、仮に革命成就となったとしても、怖いのは、その後である。仮に安倍政権が打倒されたとしても、日本を属国化している勢力が、この国を警察国家に変えようとしているその筋書きは何ら変わらない事実を見るべきである。そして、SEALDsメンバーも、民主主義的な手続きに則りさえすれば、(自民党草案に沿った)憲法改正も可能と考えているのであれば、安倍政権が打倒されてみたところで、今度は、国民投票等々の”民主主義的”手続きを通して、やはり同じ結論へ向かって事が進むだろう可能性は大いに考えられるのである。さらに、仮に国民投票が行われてみたところで、その結果がどうあれ、その国民の意思も裏切られる可能性が十分にあることはギリシアの例ですでに証明済である。そうなると、安倍政権の打倒も、これに代わる政権の成立も、投票も、すべてが同じ結論へ至りつくための壮大なフェイクということになる。

ちなみに、「緊急(非常)」という言葉も、革命政党が好んで使用する用語である。

この「緊急」という言葉は、悪名高いソビエト政権の秘密警察の母体である反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会(Всероссийская чрезвычайная комиссия по борьбе с контрреволюцией и саботажем)に使われた「非常」と同じ単語である。(英訳すれば、"The All-Russian Emergency Commission for Combating Counter-Revolution and Sabotage"となる。)

いわゆる「チェーカー」と呼ばれるこの非常委員会は、反革命とサボタージュと闘うという緊急行動のために1917年12月に設立されたことになっているが、その発想はすでに革命以前からレーニンによって『国家と革命』の中に明確に記されていた。

それは、革命成就の暁には、反革命的な非労働者階級(ブルジョアジー)を抑圧するために、臨時的な抑圧機関が必要になるという発想であった。それは国家の一部として機能しなければならない。だが、やがて反革命者もサボタージュ者も抑圧されていなくなり、ブルジョアジーが根絶され、勤労一般大衆だけが残り、その民衆も理想的な人々に変身を遂げた暁には、もはや緊急行動も必要ないので、この抑圧機関は無用のものとなり、廃止される予定とされていた。だからこそ、これは常設の委員会ではなく、臨時的な「非常委員会」なのである。

しかし、決して現実の歴史はそのような予想のもとに進まなかった。反革命とサボタージュとの闘いというアクションは決して「緊急」の必要性では終わらなかったのである。

レーニンはブルジョアジーの抑圧は少数者の抑圧であるから、流血も最小限に抑えられるだろうと予想していた。従って、この抑圧機関は必要最小限度の抑圧を行うだけであり、その役目を終えれば速やかに廃止される最小限度の必要悪であると。だが、そんなわけには終わらなかったのである。ブルジョアジーの抑圧と言いながら、結局、その抑圧の斧は一般勤労大衆に無差別に降りかかった。

人間を外的強制力によって変えようとする試みの最も恐ろしい危険性がここにある。圧倒的大多数の人々(99%)を抑圧から解放するという美名を掲げて、1%を抑圧・排斥することを肯定する思想は、なぜだか一種の動かしがたい歴史の法則性、もしくは霊的法則性とでも呼ぶべき絶対的な原則が働いて、必ず途中で、99%の抑圧・排斥へと転じるのである。つまり、1%の血を流すことを肯定する思想は、必ず99%の血を流すことへと結びつくのである。こうして「緊急」が「通常」となり抑圧が「常態化」し、血の川は当初考えていたように最小限度ではおさまらず、海のように流れることになってしまうのである。

つまり、安倍政権を力によって打倒することを肯定する思想は、必ずや、残りの99%を抑圧する思想に結びつくのである。そこに力による政権打倒の思想のすべての恐怖と忌まわしさの根源がある。

そして、このような革命思想の根底にグノーシス主義という決まった型があることについて、なぜそれが人間抑圧へと結びつくのか、次回以降に具体例を検討しつつ述べて行く予定である。
 
 


疎外されし者たちの復讐の哲学~抑圧された社会的弱者が弱さと傷によって絆(連帯)を結ぶ危険②~

昨日、今日あたりには、本当はもっと大々的な議論に踏み込みたかったのだが、まだ必要な書籍が揃っていないので、少し予定と違うことを書こうと思う。

以下の記事で、私は同性愛が聖書に反していることを説明し、同性愛者を性的マイノリティ、「差別を受けて来た存在」として、被害者であるかのように描き出すこおとによって、同性愛者と非同性愛者を対立させようとする考えがいかに誤っており、危険であるかを述べた。

そうこうしているうちに、ついに同性愛者の非同性愛者への逆恨みが実際的なトラブルに、しかも、殺人事件となって持ち上がったのだという。

朝日新聞の報道によると、米バージニア州で取材中のメディアで起きた殺人事件は、同性愛者の抱える怨恨が動機となって起こったもののようである。

「黒人で同性愛、差別受けた」銃撃後自殺の元テレビ局員
朝日新聞DIGITAL ロサンゼルス=中井大助 
2015年8月27日20時26分

米バージニア州モネタで26日朝、テレビの生中継中に記者とカメラマンが銃で撃たれ殺害される事件が起きた。地元警察は、中継していたテレビ局の元社員、ベスター・リー・フラナガン容疑者(41)が銃撃したと発表。フラナガン容疑者は現場から車で逃走し、自分を銃で撃った後に警察に身柄を確保されたが、病院で死亡したという。

TV中継中に射殺、元同僚の容疑者自殺 銃撃動画投稿か

 事件は午前6時45分ごろ、ショッピングモールから中継しているさなかに起きた。WDBJテレビのカメラマンのアダム・ワードさん(27)と記者のアリソン・パーカーさん(24)が殺され、パーカーさんがインタビューをしていた地元商工会議所の女性も重傷を負った。

 インターネットに投稿された動画では、パーカーさんのインタビュー中、突然、銃声のような音がし、カメラの向きが変わる。銃のようなものを手にした男の姿が一瞬映っている。

 WDBJテレビの社長は米メディアに対し、フラナガン容疑者が、一緒に働くことが難しく、怒りが前面に出ることが何度もあったため、2年前に解雇したと説明した。

 ABCテレビによると、事件の約2時間後にフラナガン容疑者から計23枚のファクスが届いた。ファクスには、「6月にサウスカロライナ州の教会で9人の黒人が射殺れたことがきっかけで事件を起こした」という趣旨や、自分が黒人の同性愛者として差別を感じてきたこと、過去の乱射事件の実行犯への敬意[ママ:訂正:経緯]などが書かれていたという。(ロサンゼルス=中井大助)


ここで注目されるのは、黒人の同性愛者の男性の逆恨みが、白人の女性へと向けられたことである(むろん、ともに射殺されたカメラマンや巻き込まれた市民を含めると、逆恨みによる無差別殺人と言えなくもない)。

話が飛ぶようであるが、同性愛を巡るこの極めて否定的な事件から連想されるのは、武藤貴也議員の疑惑を巡る最近のスキャンダル報道である。これまでずっと同性愛者を積極的に擁護するキャンペーンを繰り広げて来たハフィントンポストは、この事件についても相変わらず、他者のブログの引用という形で、武藤議員を「被害者」であるかのように報道し、同性愛者を擁護するキャンペーンを繰り広げている。

武藤貴也議員の未成年男性買春。一番の被害者は武藤議員本人だ
投稿日: 2015年0月27日 21時03分 JST   更新: 1時間前 Letibee LIFE LGBT LIFE MEDIA

以上は引用する気にもならないほど無内容の記事であるので、興味のある方は事件の経緯と共に自分で読んで確認していただきたい。いつものことであるが、ネット上には、この議員に対する同種の同情的な声がほとんど存在しない。だから、上記のような記事は、極めて例外的な、権力側から見た偏った意見だと言えるであろう。

今までもずっとそうであったように、ハフィントンポストはこうして「例外的な」意見を一般的な意見と同列に並べて報道することにより、議員を擁護するのみならず、同性愛者に甘い点数をつけて、同性愛者擁護キャンペーンに貢献しようと試みているのである。これもキャンペーンの一環である。

だが、偏向した報道がどんなに上記議員を被害者として描こうとしても、米国の事件と同様に、日本の国会議員の引き起こしたこの事件によって、社会の同性愛者に対するイメージがひどく低下したであろうことは間違いない。

そもそも政治家は厳しい批判にさらされなければならない職業である。気骨のある政治家が気を付けていてもハニートラップにかけられて失脚するような例は、世界では絶え間なく噂として語られる。だから、政治家は誰しも身辺には気を遣うものだし、それは同性愛者であろうと異性愛者であろうと変わらない。だから、議員という立場にありながら、政治家として承知していなければならない最低限度のモラルを持っていなかった時点で、アウトという他ない。
 
それにも関わらず、同性愛というレッテルを持ち出しさえすれば、あたかも被害者であるかのように同情を乞うたり、その行いを正当化したりする理由になりうると考えている人がいるとすれば、その認識の甘さはかなり失笑ものであると言える。

いずれにせよ、ここで提起したい問題は、東京(政界)のソドム化という事実とは別に、同性愛とは結局のところ、自己と同質の者しか愛せないという病理なのではないかという素朴な疑問である。

私は以下の記事で、病者や障害者やカルト被害者を名乗る人々が、自分たちと異質な者たちとの接触によって傷つかなくても良いように、自己と同質の集団を作ってその中に引きこもることで、自分たちを守り合う傾向が強いことを書いた。

別に病者や障害者やカルト被害者に限らず、どんなものであれ、弱さを抱える人々にそれは起こりがちな現象なのである。自己の弱さを異常と決めつけられて非難されたり、揶揄されたり、傷つけられることを恐れるあまり、弱さを抱える人々が自分たちと同質の弱さを抱える者たちだけで集まり、連帯することによって、同質性の「囲い」を作り、その自己防衛のために築かれた「城壁」の中だけに生きようとし、その外に生きている自分とは異質な他者を警戒したり、または「異常者」と決めつけてこれを攻撃したり、排斥しながら、自己を防衛し、自らの弱さの正当化をはかって行くということは、頻繁に起きる現象であることを述べた。

今盛んに行なわれている不可解な同性愛擁護キャンペーンも、根底にこれと同じ流れがあると考えると分かりやすい。つまり、これも生まれながらの人類が自らの弱さ(自己)を守ろうとする心理的な防衛手段の一端ではないかということである。つまり、心理的な自己防衛の手段としての同性愛というものが存在しうるのではないかと考えられるのだ。

異性との関わりは、自分とは異質の他者との接触や関係性であるため、常に未知の領域である。自分とは異質であるがゆえに、相手を理解できなかったり、理解できないゆえに誤解し合ったり、拒絶されたり、傷つけられたりするリスクが伴う。特に、好感を持っている相手に拒絶されることは、自己を否定されるほどの痛みが伴うかも知れない。

しかしそうした体験もかつては、特に若者の場合は、よくある青春の一ページ程度の他愛もない出来事として受け流せるものであった。傷つくこともまた人を愛することの一部であると認められるくらいに、以前の社会にはおおらかさが残っていた。魅力的な人々は一人ならず存在し、一つの出会いが過ぎ去っても、新たな別の出会いを楽しんで生きれば良い。

ところが、社会がますます閉塞するにつれて、異質な他者との接触によって自己を否定されたり傷つけられる体験が、どんなきっかけで起こったものであれ、多くの人にとって、全く耐えがたい死ぬほどの苦痛に変わりつつあるのではないかと感じられる。もっと言えば、人類の自己に対する意識が極めて鋭敏になっているために傷つくことの痛みもそれに伴って倍加し、自己防衛の心理もひどく強化されてきているためなのか、自己を否定されるという体験そのものに対する人々(人類)の耐性が著しく下がっているのではないかと思われる。

もはやかつてのように、異質な者同士が互いに理解しあえない結果、摩擦や誤解やすれ違いが生じ、自己の尊厳を傷つけられるという出来事が、決してありふれた日常の軽い事件では済まされなくなった。自尊心を傷つけられることを、人は自分への許しがたい「冒涜」と感じ、他人に理解されなかったり、拒絶されることを、自分自身の存在の根幹を極度に脅かされたり、否定される体験と同一視するようになった。こうして、人(種族としての人類)が傷つくことに全く耐えられないほどに弱くなってしまったので、人は自己を守るために、より一層、異質な他者との接触を避けて、自分と同質の者だけを相手にして生きようとするという自己防衛をはかるようになったのではないかと思われる。

繰り返すが、それは病者であれ障害者であれカルト被害者であれ、男女であれ、みんな同じではないかと思われるのだ。自分と異質な者と接触することは、それだけで相互理解が成り立たずに傷つけられるリスクをはらんでいる。だから、異質な他者との接触そのものをひどく恐れ、警戒し、疎んじるようになったのである。

だが、そのようにして社会の中で、人々が自己を傷けられるリスクを減らそうと、自分と似た人間だけを接触の相手に選ぶようになれば、ますます傷つくことに対する人の耐性は落ちて行き、人の人格は弱体化し、異質な者との対話の可能性やスキルも失われていく。

話を戻せば、ある人々にとっては、自己と同質な者だけを対象とする偏った愛着が、同性愛という結果になって表れているのではないかと推測する。つまり、ある一部の人々にとっての同性愛とは、決して生れついた嗜癖ではなく、むしろ、異質なものとの接触を避けて自己防衛をはかるために後天的に獲得した心理的な防衛手段ではないかと推測されるのだ。自己と同質であるがゆえに、多分、自分を理解してもらえるだろう、プライドも受け止めてもらえるだろう、裏切られはしないだろうという安心感が先立っているのではないだろうか?

もっと言えば、その根底には、自分を無条件に認めてほしいという甘えと同時に、自己と同質のものしか認めないというナルシシズムが潜んでいるように感じられる。

さらにそれが、上記議員の場合のような、金銭を介しての関係ということになると、もっと関わりが複雑に歪んで来てしまう。対等な関係の場合にまさって、金による関係は、金を持っている側が圧倒的に優位に立つことができるからだ。だから、それは対等な人間関係ではなく、単なる性的な嗜好の問題でもなく、支配関係であるととらえなければならない。

だから、この事件から私が想像することは、上記議員のみならず、政界そのものが特に、そのような支配関係の中でしか人間関係を築くことができず、人を愛することも、信頼することもできず、常に自分が支配する側に(優位に)立っていることを確認できないと、どんな他者とも接触できないほどまでに、疑心暗鬼になり、自分が傷つけられなり、否定されることに絶対に耐えられないという恐怖症、あるいは自己の絶対化、人格の脆弱化に陥っているのではないかということである。

そもそも対等な人間関係であれば、同性であれ異性であれ、相手からあれこれ注文をつけられることはよくあり、異なる意見で衝突することもあれば、批判されることもあり、互いに色々気遣っていなければ、関わりそのものを維持できないだろう。だが、金で買った人間関係であれば、金を持っている側が支配者であり、自分に都合よく優位に振る舞うことができる。思いやりなど示さず、一切気遣わなくとも、裏切られる心配はないし、刃向われ、傷つけられることもない。

つまり、こうした事件そのものが、単なる同性愛という枠組みにとどまらない出来事であり、異質なものとの接触によって自分が傷つけられるリスクに人(コミュニティ)が全く耐えられないほどまでに脆弱化した結果起きた末期的な症状の一端ではないかと推測されるのだ。

全体としてみれば、この議員を被害者として描こうとする報道もそうであるし、佐野研二郎氏への疑惑についての五輪組織委員会の対応も同様であるが、その背後には、被害者意識と自己憐憫と自己愛で癒着したコミュニティが存在することを浮かび上がらせるのである。

ただトラブルを起こした当該人物だけが問題なのではない。その人々を取り巻くコミュニティそのものにも、それと同じくらいに根深い問題が隠されている。このコミュニティは、彼らに決して自分の負うべき責任の重さを直視するように教えず、そうするように促さず、責任を追及しない。むしろ、この人々の背後に存在するコミュニティは、彼らがまるで無実にも関わらず攻撃対象とされた可哀想な被害者であるかのように描き出すことで、彼らを弁護し、免責し、世間の方がむしろ彼らの事情に配慮するようにと一方的な同情や理解を求めるのだ。

だから、私はこうした人々の背後には、被害者意識によって連帯した一大コミュニティがあることを感じずにいられない。これは個々の人物の特徴というより、コミュニティ全体の体質である。彼らの属しているコミュニティそのものが、どんな事件が起きても、都合よく自分たちが被害者になってしまうことによって、自分たちの無責任な行為を覆い隠し、そによってどれほど大勢の人々に迷惑をかけ、信頼を失墜させても、決してその事実を直視せず、責任も取らないとする姿勢を貫き通してきた歴史があるものと思う。

このように、今、ある特定の議員や、特定のデザイナーの行動だけが問題となっているのではなく、彼らを取り巻くコミュニティそのものが、自己の弱さを直視せず、過ちや欠点から目を背け、批判され、傷つけられることを防ごうと、被害者意識の中に閉じこもり、自分たちと同質の集団だけで互いをかばい合ってきたという体質や、歴史が、著しい問題として浮上してきているのではないかと思われるのだ。

裏を返せば、そうなった背景には、もともと何らかの根深いコンプレックスや、被害者意識が存在している可能性がある。たとえば、「田布施システム」のような・・・。ひょっとすれば、そのコミュニティには、もともと異質な他者との接触によって、自分の弱点を探り出され、自己を傷つけられることを恐れなければならないような、何らかの特別な事情を持つ人々が集合しており、それゆえに、初めから他者との接触を嫌って、あるいは他者に対する何かしらの怨念、自分たちは不当に追い詰められているという被害者意識の中で連帯し、他者から攻撃され、弱さを見抜かれることから互いをかばいあおうとしてきた歴史があるのではないかと推測される。

いずれにせよ、心の根底に何か歪んだコンプレックスがあって、もともと自分が人から対等に愛され、受け入れられるに値しないと思っているために、異質な他者を警戒し、敵愾心を抱いて排除する、もしくは過剰に自己を防衛しようとする、他者を決して信じられず、金で買った支配関係しか築けない、もしくは、軍隊のように厳しく統制された上下関係か、イエスマンだけで固めた人間関係の中でしか生きられなくなる。これは人間関係というものを、決して信頼関係としてではなく、支配関係によってしかとらえることができないという病的な猜疑心(もしくは被害者意識)の結果、起きていることではないかと思われる。

もともとコミュニティ全体にそういった何かしらの歪んだコンプレックスと被害者意識があるゆえに、自己と同質の弱みを持った人間だけを「愛着・慰撫・尊敬の対象」としていくということが起きるのではないだろうか? こうして、コミュニティ全体が被害者意識で連帯し、それが集団的自己愛、集団的無責任、集団的自己陶酔、集団的被害者意識、集団的自己正当化とでも言うしかないような異様な状態を生んでいくのだ。それはそもそも個人の嗜癖の問題ではなく、コミュニティそのものの抱える深い病理から生まれる問題ではないかと感じられてならない。

そして、この問題を押し広げていくと、やがて人類の罪という問題に行き着かざるを得ないのである。
 
以上で私は、人が自己の尊厳を傷つけられることに対してますます耐性がなくなっているのではないかということを書いたが、この傾向は、いずれ最終的に、人類が己が罪から目を背け、己が罪を否定するという行為へと結びつく。(すでにお分かりの通り、人類が自己の罪を否定するということは、早い話が、己を無謬の存在とし、神だと宣言するということに等しい。)
 
なぜなら、自己の罪を認めるということには痛みが伴うからだ。自己の弱点・欠点を他者から見抜かれ、指摘され、批判や注文をつけられることは決して快い体験ではない。自分を傷つけられたと不快に感じられるだろう。だが、だからと言って、それをすべて否定し、そうした体験を受けないように異質な他者との接触そのものを嫌っていては、いつまでも自分の弱点がどこにあるのか、人は分からないままであるし、克服もできない。むろん、過ちに対する責任も取れるはずがない。

だが、傷つくことへの怖さゆえに、自己の過ちや欠点を決して直視したくないし、また、それを他者に批判されるのも嫌だという人々は、己が弱さや過ちに対する責任を負わされることから逃げようと、自分たちを守りあうための同質性の「壁」を作り、その陰に隠れて、自分たちは正しく、罪はないと、おかしいのは自分たちを批判している他者であると、互いに言い聞かせあって、自己正当化のための何かしらの恐ろしい盲信的な(現実逃避的な)連帯と運動を築き上げて行っているのではないかと思われてならない。

それが、たとえば、今回の議員やデザイナーを被害者に見せかけようとする報道を生んでいるのであり、さらに、日本の過去の国家的過ちそのものを否定しようとするような、軍国主義の復活や、歴史修正主義のような動きになって現れているのである。むろん、カルト被害者救済活動も同じである。それらはすべて裏を返せば、「私には罪がない!私は潔白である!おかしいのは私たちの罪を指摘する人々の方だ!」という、己が罪そのものを認めまいとする人類の叫びだと言えるのである。

だが、いつかその自己防衛の「壁」は壊れる時が来るだろう。そして、彼らは責任を問われることになる。ずっと互いをかばい合って、責任を問われないように守りあって生きてきた人々には、自分たちは一方的な被害者だと考えて主張する以外に責任を取る方法さえも分からない。それでも、いつか責任を問われる日は来るのである。

結論として、被害者意識と自己憐憫に基づいた自己愛こそ、人を盲目にし、己が罪を直視させない最大原因ではないかと思われる。これが取り去られない限り、自分は被害者だと言いながら、無責任な行為を続け、他者を傷つけ続けている人々には、自分のしていることの異常さ、残酷さ、欠点が一向に直視できない。破滅に至るまで自分たちが何をしているのかが見えないのである。

・・・
 
カルト被害者救済活動の支援者たちの心理にも、上記に述べた通りのことがあてはまる。この活動の支援者らの行動は、あらゆる面から見て、自分たちは一方的な被害者であり、悪いのは全て自分以外の誰かだという被害者意識に基づいており、筋の通らない自己弁明を繰り返すだけで、自分は何事にも責任を負おうとしない姑息なものである。それはかつて旧日本軍が「自分たちには罪がない(皇軍ゆえに無敵・無謬である)」とか、「私たちは負け知らずだ」などと主張しながら、破滅に突入して行った様子にとてもよく似ている。

彼らが戦争に負けながら「私たちは勝っている」と嘘を主張し続けたのと同じように、カルト被害者救済活動の支援者らは、負け続けの裁判の中で虚勢を張り続け、勝っているように見せかけている。ないものをあるように見せかけているわけだから、そこにはどうしてもあらゆる嘘や、ごまかしや、姑息な手段が不可欠となる。

恫喝裁判もその見せかけだけの虚勢の一つである。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の牧師は、教団を離脱しようとした教会に徹底的に争いをしかけたが、この裁判に負けることは彼ら自身にも最初から分かっていたらしいことが支援者の記事に書かれている。

だが、彼らにとって問題なのは勝ち負けではなかった。裁判が長引いている間、あたかも自分たちが正しい主張をしているかのように見せかけて時間を稼げさえすればそれで良かったのである。また、恫喝裁判をしかけることによって、政敵に濡れ衣を着せ、心理的打撃を与えることさえできればそれで良かったのである。つまり、勝つことを目的とした裁判ではなく、それ自体が、復讐なのである。

また、この活動の支援者らは、大手検索サイトでの順位を非常に気にしているらしく、自分たちのライバルのサイトが上位にランキングされることがどうしても許せないらしい。(もはやこの活動の支援者はほんの数えるほどになっているというのに、まだそんな下らないことに精を出しているのである。)

だから、私のブログ「東洋からの風の便り」や「ヴィオロン」のキーワードで、私の記事が決して上位に出てこないように、彼らは自分たち好みの誹謗記事を上位にランキングさせようと必死に工作を繰り返している。私のブログが正常に検索結果に表示されるようになると、彼らが押し寄せて来ては気の済むまで工作を繰り返す様子が何年間にも渡って、ログに毎回、おさめられている。

「随想 吉祥寺の森から」が特にそうであるが、彼らは自分たちがバッシングの標的に定めた教会や、ブログの題名、個人名を使って誹謗記事を書き、文章を無断転載し、大量に無駄なリンクを貼ったりすることにより、ネット上でライバルの足を引っ張り、順位を下げるための工作を長年に渡り続けているのである。ネトウヨなどが悪意を持って人を中傷しようとする時に使用するよく知られた方法である。
 
だが、愚かなことである。ご苦労様と毎回、微笑ましく拝見している。順位は短期間で実に何度も変化することを私は見て来たし、決して多くの人々が信じているように、大手検索サイトが決定的な役割を果たしているわけでもない(世界は西側だけから出来ているわけでもないのだ)。そもそもネット上のランキングなどといった些細な事柄を絶えず神経質に気にしてライバルの足を引っ張ることに腐心しているようでは、その時点ですでに負けが確定していると言って過言ではない。だが、彼らにとって何より肝心なのは、本当の勝ち負けよりも、自分たちが勝っているように見せかけることなのである。(これも他者と自分との関係を優劣や競争を通してしか理解できない病理を示している。)
   
さらに、何度も言うようだが、これまで実社会を生きる上で、私はインターネットに書かれた情報を鵜呑みにする知識人がどれくらいいるかを実際に聞き取りをして確かめて来た。結果、書かれた文章の質が悪ければ悪いほど、それを鵜呑みにする人間もいないことだけが分かった。昨今では大手の新聞でさえ、大本営発表として退けられている有様である。それほど人々の嗅覚は鋭い。

だから、逆に言うと、いくら誹謗中傷の記事をたくさん書いて上位にランキングさせたとしても、その程度の記事を信用するような人々と関わることにはもとより意味がないので、誹謗記事が逆に良いフィルターとなって関わるべき価値のある人々が誰であるかを教えてくれる。

話を戻せば、カルト被害者救済活動の支援者らは、自分たちは「被害者だ」と主張しているが、彼らは被害者を都合よく隠れ蓑に利用しているだけで、いったい、彼ら自身がどういう点で被害者なのかは全く定かでない。それにも関わらず、この活動の支援者らは、当の被害者の何倍もの被害者意識に凝り固まり、自分たちの主張が正しいものであるかのように見せかけるために、至るところから、自分と同じような被害者意識に固まった人々を呼び寄せ、連れて来るのである。

まさに類は友を呼ぶという具合に、怨念と被害者意識を持つ人々が次々と集まっては連帯し、膨れ上がっていく様子は、私が何も書かない前から、多くの人々に不気味な印象を与えて来た。彼らは必ず何らかの「仮想敵」を作り上げては、自分たちの不幸の原因を一身に転嫁できる「極悪人」として糾弾するのである。私のような一般人さえもそのような極悪人の一人にされている様子である。

だが、私はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団というところをかなり身近に長い間、見てよく知っているので、このような被害者意識が、聖霊派のこの教団に現役で深く関わっている信徒らにはきわめて特徴的な感情であることが分かっている。
 
すでにフランスでは準カルト認定されている教団である。カルト宗教は大抵、家庭で問題を抱えていたり、人生で不幸を背負っている人々を好んで勧誘して来ることで知られている。人生の問題解決に相談に乗ってやることをきっかけにできるので、弱みを抱えている人々の方が勧誘しやすいからだ。しかし、カルト宗教はその人たちにとって現実逃避の場にしかならず、決して人生の諸問題の解決にはならない。その宗教にいる限り、ただ自分は可哀想だと考える被害者意識に基づいた無意味な現実逃避が延々と続くだけなのである。こうして、もともと人生に苦しんでいた人が、宗教に入って二重の苦しみを抱えることになり、さらに、その宗教で受けた仕打ちを解決してやるように見せかけて信徒をカモにする被害者救済活動に食い物にされるという果てしない負の連鎖に落ち込む。

被害者意識ある限り、その負の連鎖から抜け出すことは出来ない。自分を哀れんで問題から逃げることをやめて、自分の責任として人生の諸問題に直面しない限り、無責任な現実逃避だけが続いていくのである。だから、このような教団に関わって決して同じような被害者意識に感染しないことが肝心である。被害者意識に感染すると、人は自分の人生の主体性を失ってしまうからだ。ずっと自分は被害者だと考え続けて、仮想敵を作り上げては糾弾しているだけで、自分自身の責任は何ら直視せず、自分自身で問題解決するために能動的に立ち上がる勇気もないのでは、周りにとってもどれほど迷惑なだけであるか分からない。そんな状態では、どんなに仮想敵とした相手の問題だけを分析し糾弾しようとも、決して自分の人生の諸々の問題から逃れる方法は分からない。何よりも、キリスト教を装い、聖書を用いているように見せかけながら、まことの解決であられる神により頼まず、聖書に反して、神の解決を退けてでも裁判等を優先して政敵をやっつけて復讐することを呼びかけているアッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団や同教団の主催するカルト被害者救済活動には、全く希望がないから決して関わるべきではない。

たとえ恫喝裁判を起こされようとも、どんな虚偽の非難をされようとも、この教団からはエクソダスしてしまえばひとまず勝利である。そう言って良いほどに、この教団の危険性は深く、そのことは、カルト被害者たちでさえすでに知っているほどなので、もはや周知の事実と言えるレベルに近づいていると言えよう。

だが、現役でこの教団に関わっていたり、あるいはカルト被害者救済活動を賛美している人々は、彼らの被害者意識こそが、徹底した自己正当化、無責任、自己愛を育む土壌となって、自らの人生を滅ぼしていることにまったく気づかない。

人生の主体性を失うということはどういうことかを見るために、少しだけ聖書を振り返ってみたい。パウロが劇的な回心を遂げた後、かつての仲間であったユダヤ教徒、律法学者やパリサイ人からことさらに憎まれ、命を狙われるようになったくだりが使徒の働きに記されている。パウロがどこへ行っても騒動が持ち上がり、彼は常に理由なき憎悪、殺意に至るまでの敵意に囲まれていたことが分かる。町の外で袋叩きにされたこともひとかたならずあった。

だが、パウロはこれに対して一度たりとも「被害」を主張せず、常に起き上がって、次の目的を目指して進み続けた。もし一度でも彼が被害を主張し、何かを取り返そうとしたなら、彼はその現場にとどまらなければならなくなり、もはや前進することはできなくなっただろうと確信する。

被害を訴えるということは、加害者に向かって損失の補てんを求めることを意味する。加害者がもしその訴えを振り返ってくれるならば、それにも意味があろう。だが、ほとんどの場合、加害者は己が非を認めない。だから、被害を主張するという形でこの人々と関わり続けることは、ずっと彼らから負の心理的影響を受け続け、その被害者意識の中に閉じ込められて、立ち上がれないという点で、有害かつ無意味なのである。
  
また、自分は一方的な被害者だという意識に凝り固まってしまったカルト被害者運動の支援者らには、自分の犯した罪を微塵も認めないために、これを他者に投影する傾向が著しい。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、すでに述べた通り、自分たちの教団の信徒が他教会を乗っ取っていたにも関わらず、教団を離れようとしていた他教会に乗っ取りの濡れ衣を着せることで、自らの悪事をカモフラージュしようとした。また、Dr.Lukeとアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒は、自分こそが他者に呪いと破滅の宣告を下したにも関わらず、他人にその罪をまるごと転嫁しようとしている。

この人々はイエス時代の偽善者と同じで、他人の罪を厳しく責め立てながら、自分たちが非難している相手と全く同じか、それよりもさらに悪い悪事を行っていることに気づこうともしないし、その事実については沈黙している。嘘の上に嘘を塗り重ねることによって、自分たちは正しいことをしていると偽りを主張し続け、自分たちの罪を否定するために、自ら行った悪事を立場の弱い信徒に濡れ衣として着せて排斥することが彼らの常套手段と化している。

だが、ここには、KFCやカルト被害者救済活動といった枠組みを超えたもっと大がかりな腐敗が存在しているように思うのだ。つまり、そこには、生まれながらの人が何としても自分自身の罪を認めたくないという、生まれながらの人類そのものの自己正当化の願いが象徴的に表れているように見受けられるのだ。自分の罪や欠点や悪は見たくない、自分の美だけを見つめて、自分を正義の味方のように考えて、自分に酔っていたいので、自分自身の悪を指摘するような人々はみな異常者、愚か者、極悪人ということにして退け、自分自身の悪はすべて自分よりも弱い他人に転嫁することでなかったことに帳消しにし、自分の醜さ、愚かさ、卑劣さから目をそらし、自分は美しい誤りのない存在だと考えて心地よい思いにだけ浸っていたいという心理的なトリックが働いているように見受けられる。

多くのキリスト教指導者らは、自分は正しいことをしていると思い込むあまり、いつの間にか、自分自身を神と同一視するまでになっていった。自分自身については、美しく、良い側面しか見ようとせず、他者から指摘された自分の欠点や過ちについては、ことごとく自分ではない誰かに投影し、転嫁していき、挙句の果てには、そのような指摘を行う人間は「サタンの手下だ」ということにしてしまった。そうこうしているうちに、そのような心理的トリックを、嘘やごまかしであると認識するだけの良心の痛みさえも麻痺して、ついには自分に逆らう人間は全て悪魔ということにして、そのような耳の痛いことを忠告して来る人間には、どのような方法を用いてでも復讐し、排斥することを何とも思わないまでになった。それこそが自己愛性人格障害と呼ばれておかしくない特徴である。こうして、カルトを非難していたはずのキリスト教カルト被害者救済活動の支援者らも、悪人を非難しながら自ら悪人と全く同じ特徴の中に落ちて行ったのである。
 
サタンは常に自己の美を愛するものであり、自分の美しさ、自己の尊厳が傷つけられ、損なわれることに耐えられない。だから、サタンは自分にはいかなる罪もないことを示そうと、自己の無謬性を主張し、自分は神によって不等に罪に定められた被害者だと主張し、自分への悪評、そしり、誤解、非難を退けるために、必ず何かの形で自己を傷つけた相手に力による復讐をしようと企てる。徹底した被害者意識と、自己愛、自分の罪を暴かれないための逆恨みによる復讐、これが悪魔の特徴である。むろん、その復讐の際には、必ず、嘘や陰謀やごまかしに頼り、また不当な実力行使を行って力づくで相手を排斥する。むろん、恫喝裁判などもその方法の一つであろう。だが、最終的にはその主張の不当さは完膚なきまでに明らかになるのである。

だから、歴代のクリスチャンの霊的先人たちは、みな高慢にならないために、自分に対する悪評や誤解やそしりが、自分への重要な試金石の一つであり、同時に、自分を守る盾であることを知っていた。つまり、イエスの御名のために悪評をこうむり、自分を傷つけられながら進んでいくことを良しとできるだけの潔さを彼らは持っていたのである。

クリスチャンの道は、自分に罪がないことを立証するために、もしくは、自分に濡れ衣を着せてきた人間を力づくで排斥するために、裁判に訴え出ることにはない。自分を誤解したり、誹謗したり、中傷したりして、自己の尊厳を傷つけた誰かに対して、実力行使をもって立ち上がり、彼らを痛めつけることで復讐を果たすことにはない。その方法を選んでしまった時点で、もはや神を退けて私刑を執行しているのであり、「なぜ不義を受けないのか」と言ったパウロの忠告の外に踏み出すことになる。

私の人生にも、裁判に関わるかも知れないような場面は、何度かあったが、不思議な形で、その一線は超えることなく、ここには神の介在があったと思うほかはない。濡れ衣を着せられた人が、反対者を打ち負かすことができなければ、口惜しさも感じるかもしれないし、偏見の目で見られることに引け目も感じるかもしれない。だが、実のところ、誤解や非難は、そのものが非常に大きな恵みであって、善悪の泥沼の戦いに深入りしないように守られたことを私は神に感謝している。

今までの歩みの中で、神がどういう方であるかは時を追うごとによく分かってきた。何らかの痛手を受ける時にも己を低くする者には、神はその損失を上回るに十分な恵みを必ず与えて下さる。だから、何ら過去を振り返って悔しさや、不当さを感じることもないのだ。むしろ、今度、何かの理不尽な打撃が起きるようなことがあれば、その時には一体、どのような予想外の恵みが天に用意されているのかと心躍らせるくらいでちょうど良い。艱難には必ずそれに見合うだけの祝福や恵みが伴うのである。これは本当のことである。

悪魔はヨブに神を恨ませようと考えて大災害をもたらし、その上、友人にも彼を裏切らせたが、ヨブの信仰はそれでなくなることはなかった。彼は艱難の後で以前に持っていたものの倍の恵みを受け取ったのである。だから、見るべきものは、天の都である。ダビデが書いたように、奴隷が主人の手を見つめるように、あるいは忠犬が主人の指示を待つように、ただまっすぐに神の正しい采配、神の用意されている祝福と恵みを見つめるのである。栄光から栄光へと、主の似姿へ変えられるために。
  
さて、もう一度話を戻すと、上記のように被害者意識に凝り固まってしまったカルト被害者救済活動の支援者らの態度は、今現在、日本政府があらゆる厄災を中国の罪に着せようとしている態度にも重なる。今の日本は(政府は、という意味であるが)、自分の美に酔いしれるだけで、自分の過去の過ちや欠点や愚かさや足りなさを直視する勇気を完全に失ってしまったように見受けられる。だから、自国の現状を反省すべき場面に来てさえ、盛んに他国を嘲笑し非難することによって、自国の欠点を他国に転嫁し、それを己が罪への目くらましにすることを繰り返している。

だが、繰り返すが、自分の美に酔いしれ、自己の欠点を全く見ようとしないことこそ、悪魔的な特徴なのである。そのような心は必ず、自分の美が傷つけられることに耐えられないあまり、自分の罪を指摘するすべての人々に濡れ衣を着せて排斥するという行動を生む。

なぜKFCが誤った道を辿ったのかを考えるとき、私には、やはりそこには「神と人とが混ざり合う」と教えていたローカルチャーチの教えが影響していたのではないかと考えられてならない。生まれながらの人と神とは決して混じり合うことはない。滅びを定められた肉なるものと神の霊から出たものは決してどこまで行っても一致しない。人はどんなに信仰深く生きても、生きている限り、原罪を抱え、過ちも犯し、完全に聖化されることのない存在である。だから、神と人とが混ざり合うという教えは異端なのである。

だが、私が覚えている限り、KFCでは悔い改めという言葉を一度も聞いたことがなかった。一度だけ、KFCの礼拝中に、私はKFCの罪を悔い改めようとして祈り始めたことがあったが、ただちに制止された。そういう「湿っぽい」雰囲気はこの集会には一度たりとも伴ったことがない。だが、明るいか暗いかという以前の問題として、一度も罪の悔い改めがなかったという事実そのものが、大きな問題であろうと思う。

だから、一方では、この集会には復活の命の働きを大胆に教えるという魅力が伴っていたが、もう一方では、肉なるものが絶えず十字架につけられ、信仰者が絶えず十字架の死の立場にとどまるべきであるという教えから離れていた、そこに高慢さに至る大きな罠があったのではないかと感じられる。

しかし、どんなに他者を非難して、己が罪を人に転嫁してみたところで、人は自己の弱さや罪からは決して逃れられない。だから、どんなに責任転嫁を続け、自分を批判する他者に攻撃を加えたとしても、いずれ積み重なった自分の罪の重みに押しつぶされて倒れる時が来るのである。私はもう一度ここに書きたいが、自分が火をつけた火事を他人の罪に帰するとは古典的な手段であり、皇帝ネロがキリスト教徒を処刑した罪の中には、人類に対する侮辱というものもあったように記憶している。

つまり、キリスト教徒が人類の罪を厳しく指摘して神に対する悔い改めを主張したゆえに、ネロは彼らは傲慢であり、人の尊厳を傷つける人類の危険な敵なのだという理屈をつけて、キリスト教徒を迫害したのである。言い換えれば、自分の罪を見たがなかったからこそ、人類の罪を指摘するクリスチャン全体を排斥したのだと言えるだろう。

今日もクリスチャンは同じように「地の塩」である。それはある意味、クリスチャンが己の罪を決して直視したくない人々、自分たちは正しい、何の罪も犯していないと言って、自己陶酔にひたりたい人々にとって、耳の痛い、疎ましい、厄介な存在だということを意味する。かつて回心前にはパウロの仲間であったユダヤ教徒が、回心後には彼を絶えず迫害したように、自分を正しいと考えて決して己の罪を見ようとしないクリスチャンも、地の塩としてのクリスチャンを迫害する側に回るのである。
 
現在、カルト被害者運動を含め、至る所で、己の罪を認めまいとする人類の一大連帯が起きている。自己の罪(弱さや欠点や過ちも含む)を暴かれたくない人々は、自分たちは一方的な被害者だと主張することで、すべての責任から逃れようとしている。ネロと同じような理屈をつけては、己の欠点を指摘したり、自分に不都合な真実をつきつけるすべての人間を「敵」として陥れては排斥していく。

一見、それは人間の弱さや欠点や過ちに寛大な行為として、あたかも人を思いやった運動のように見えるかも知れないし、一時的には支持者も集まるかも知れない。だが、人類が己の罪を否定する行為は、必ず、最終的には己を神として神に反逆し、自分の負うべき全ての責任を放棄して自己本位な行動を繰り返し、破滅に落ち込んで行くことにつながるのである。

この先、この似非ヒューマニズムの運動がどんな構造を持ち、結果として人類にどんなひどい損害をもたらすかについて具体例を用いながら詳述したい。


疎外されし者たちの復讐の哲学~罪穢れなき自己のアイデンティティを取り戻す(原初回帰)という自らの欲望をかなえるために社会的弱者を悪用する人々~(追記)

・安倍の談話パフォーマンスに国民は騙されていない

「日本は勝っている」との大本営発表の下、「一億玉砕」を唱え、国が壊滅するまで戦争に突き進もうとした過去を繰り返すように、今、日本政府は事実と異なる嘘をつき続け、虚飾の栄光を追い求めて自画自賛を繰り返すことにより、国民を破滅の淵まで道連れにしようとしている。

だが、どんなに嘘を繰り返し唱えても、事実は曲げることができない。だから、あらゆるところから自己矛盾が噴出する。安倍談話の発表後、あたかも支持率がアップしたかのような報道がなされたが、実際のところ、それを真に受ける根拠はほとんど存在しない。

この国は反安倍政権デモがこれほど高まっても、真実はまだありのまま報道されないという末期的な状態から抜け出せないらしい。

しかし、そんな真実性に乏しいメディアの公式見解の中でさえ、安倍談話には、発表当初から国際的には否定的な評価が集中していた。先の記事で引用したソースに加えて、談話に懐疑的な国際評価を追加しておく。
   
国連事務総長「真の和解必要」 安倍談話に遺憾表明 
(Chosun online  2015/08/15 10:04)
【戦後70年談話】韓国・朴槿恵大統領、安倍首相に「残念な点が少なくない」 中国も反応
( The Huffington Post    |  執筆者:  吉野太一郎    2015年08月15日 12時20分 JST)
安倍談話:「問題にするのが難しい巧妙な表現を駆使」
(2015年8月15日 8時23分 朝鮮日報 )
首相談話で「中台を並列」…中国紙社説が不快感
(読売ONLINE 2015年08月16日 03時12分)
 
国内のネット上でも、やはり圧倒的に懐疑的・否定的な受け止め方が多い。

大山鳴動鼠零匹安倍談話と戦争法案の矛盾 植草一秀氏 2015年8月15日 (土)
空虚の一言に尽きる70年談話 「そりゃおかしいゼ 第三章」2015年8月14日
【悲報】 安倍首相、自分の70周年談話を自画自賛!「良かったでしょ」「真実を探すブログ」 2015年8月15日
歴史修正主義の持論テンコモリよりは、このくらいインパクトのない談話に落ち着いたのは皮肉をこめて評価したい。でも、だったら緊張感煽るような大騒ぎしなけりゃいいのに。やっぱり、この男の存在自体が「存立危機事態」ってことです。「くろねこの短語」2015年8月15日
等々。枚挙に暇がない。


さらに、内閣支持率については8月15日時点でこんな驚きのインターネット世論調査結果もネットを駆け巡った。現実の支持率はなんと一桁台にまで落ちているというのだ。

Questant!
――安倍内閣を支持する 6.5%
安倍内閣を支持しない 93.1%
回答数 8711
 
元統一教会出身の牧師に率いられるカルト救済活動の支援者らが、度重なる裁判に負けながらも、あくまで自分たちの正義にこだわり、敗北しているのに勝利しているかのように見せかけて虚勢を張っていたことを思い出す。この活動の支持者のブログでは、訪問者数を改ざんして過大に見せかけることも行なわれ、さらに、著作権違反の無断転用も繰り返されていた。何だか不思議なほどそっくりな現象である。


・オリンピックは開催できない

東京オリンピックは、「原発事故はコントロールされている」との首相の嘘により開催権を勝ち取ったものであるから、もとより返上すべきである。こんな愚かしい浮かれ騒ぎに巨額の税金をつぎ込む前に、原発事故処理など、国が真に全精力を傾注して向かうべき課題は山積している。

さらに、今回の東京オリンピックは、かつて皇国史観に基づいて国家的行事として開催しようとして返上に終わったかつての幻の東京オリンピックに様相が酷似していることもすでに述べた。

このオリンピックに関しては、日に日に、もう開催できないだろうとの確信が強まる。あまりにも幸先が悪く、どんな手続き一つを取っても、嘘と疑惑が噴出している。

そもそもなぜ真夏なのか。猛暑の真夏に開催されるオリンピックが、選手の身体にとって重い負担となる点も批判の対象となっている。(画像の出典は下記ツイッター


今夏、猛暑によりスポーツ選手が試合中に熱中症にかかったとのニュースは枚挙に暇がなかった。7月、新潟で開かれた『国際ユースサッカーin新潟』で、セルビアのチームは二人の選手を熱中症で失い、監督は「この大会のオーガニゼーションはどうかしている」と、大会運営を批判した。(熱中症で2選手が救急搬送…夏場の大会運営見直しが必要か/国際ユースサッカー新潟 SoccerKING 2015.07.20. 20:09参照。)

新潟でさえこうであるから、真夏に東京でオリンピックを開催すれば、熱中症の問題はさらに深刻になる。特に、日本の気候に慣れない外国選手は重い負担にさらされることになろう。それが「スポーツの祭典」に相応しい計画と言えるのかどうか。

また、エンブレムの盗作疑惑の問題では、まさに嘘の大噴出とでも言うしかない状況が起きている。 
盗作疑惑が次々と持ち上がり、海外からは提訴まで受け、パクリの常習犯という悪名さえ定着しつつある佐野研二郎氏。

(盗作疑惑については以下のような情報が次々と出ている。五輪エンブレム差し止め、劇場とデザイナーが提訴  (TBS News  8月14日22:46)、佐野研二郎氏のトートバッグ、発送中止に 無断使用疑惑も(画像)(The Huffington Post   2015年08月13日 18時32分 JST)、佐野氏デザイン取り下げ 米国のデザイナー「法的手段も検討」(FNN 8/15 12:52))

さらに、佐野研二郎氏がオリンピックのエンブレムデザインに携わることができたのは、親族のコネであったとの疑惑までも浮上している。ネットに出ている情報によると、同氏は経済産業省 商務情報政策局 情報経済課長 佐野究一郎氏の弟であり、日本スポーツ振興センター佐野総一郎氏とも親戚関係にあるのだという。

国はあくまでこのエンブレムの使用を固持しているが、このエンブレムは何より弔旗にそっくりだとの指摘も出ており、あまりにも不吉である。あたかも、原発事故の汚染のせいで多くの人が亡くなり、オリンピックどころか、国そのものが滅ぶことを予兆して、目に見えない悪意により作られたとでも言うべき、あまりにも幸先が悪すぎるシンボルである。

インターネットのニュースまとめサイトでは次のように指摘されている。

【盗作?】東京オリンピックエンブレム問題まとめ【佐野研二郎】 
2015/08/01   から抜粋

弔旗?ただデザインをパクったから問題があるのも1つですが、それと同時にデザインがあまり優れていないと言う部分も色々文句を言われている一つかもしれません。

特にデザインは国旗に黒い紐をつけた弔旗にも見えるデザインであると指摘されています。

さらに、佐野研二郎氏には、在日韓国人であるとの疑惑まで浮上している。ソースが明確に提示されていないため、まだ現時点では断定的に言及できないにせよ、「兵頭に訊こう」には次のような情報が掲載されている。

日韓和解がない理由 2015年8月15日

東京オリンピックのエンブレム。そのパクリ制作疑惑の佐野研二郎が、大いに名前を売り出している。本名は朴尊簸の在日韓国人らしい。これに関して、こんなツイートがあった。(中略 注:ツイートは省略するので、記事本文を参照のこと。)

在日の怨念を、日本民族は知らないのである。ネトウヨを中心に、ヘイトスピーチがかしましい。しかし、親分の安倍晋三が、日本破壊の田布施ビジネスをやっているのだから、ネトウヨなど意味はないのである。

だいたい、対米隷属の右翼というのは、言葉自体の矛盾である。「安倍マンセー」といわせるメディア支配で成立する独裁政権、岸・佐藤・安倍の田布施血脈で戦争を起こした、あるいは仕掛ける一族の、反日の意味もわからないのだ。


前述の記事の中で引用したように、兵頭氏は、日本を属国統治したい勢力が日本人に怨念を持つ「田布施人脈」、「長州人脈」に注目し、わざとこのような人々を選んで政権の座につけることにより、国民に対する抑圧的な政策を推し進めることを可能としてきたと指摘している。佐野研二郎氏もその延長上にいる人物なのか・・・。もしそうだとしたら、弔旗のようなエンブレムも、決して偶然ではあり得ず、日本国民に対する怨念と復讐という暗黙のメッセージが込められているのだと考えられよう。

また、パクリ疑惑は別の方面にも広がっている。五輪の「おもてなし制服」が朝鮮王朝の武官の服のデザインに酷似しているというのだ。
 

東京五輪の「おもてなし制服」、朝鮮王朝の武官の服デザインを盗用?=韓国ネット「日本人はどこまで墜落するのか」「盗用されるのは誇らしいこと」

RecordChina 配信日時:2015年8月12日(水) 11時53分
 
2015年8月12日、韓国・国民日報は、東京五輪で外国人観光客を案内するボランティアの制服について、日本のネットユーザーの間で「朝鮮王宮の武官の服装と似ている」と話題になっていると伝えた。

似ているとされているのは、朝鮮王朝時代に宮殿などを守った「守門将」の服装で、現在も韓国の古宮の行事などで目にすることができる。鮮やかな青色を基調とした服に、黒色に白と赤をあしらった帽子の配色などが似ているとされ、盗作疑惑が持ち上がった。日本のネット上では、「韓国のを盗作したのでは?」、「偶然一致しただけ」などの意見が飛び交い、とうとう「韓国が日本のオリンピックをつぶすために裏で操っている」との説まで出ている。(以下略)

もともとダサすぎてあまりにも独創性が欠如していると、発表当初から批判しか浴びなかったこの制服であるが、それさえもパクリだったとあっては、もはや述べる言葉はない。
(以下、写真の出典:ダサすぎ? 東京五輪「おもてなし制服」、ネットで酷評 朝日新聞DIGITAL 2015年7月14日05時10分より)
 

何がどうパクリなのかは以下のサイトで詳述されているので、そちらで確認されたい。(三枚の写真はすべて同サイトから転載した。)

パクリ再確認!東京五輪おもてなし制服!李氏朝鮮の王宮守衛の衣装の丸パクリ・支那韓国の笑い者  2015/8/1(土) 午前 6:35

 




ここまで酷似していると、もはや弁明は難しいように思われる。仮に法的措置に及ばれるような危険の伴う「盗作」でないにせよ、国家的行事と宣伝するならばなおのこと、甚だしい独創性の欠如、発想の貧困との批判は免れられないだろう。

ここまですべてにおいてケチがつき、人々に歓迎されない祭典も珍しい。国が体面を重んじるならば、これ以上の恥の上塗りにならないうちに、エンブレムも撤回してリエージュ劇場に謝罪し、オリンピックそのものもさっさと返上しておくのが得策であろう。


・最後に追記
エージェントを思わせるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の不審な信徒

ところで、在日朝鮮人の問題と言われると、すぐに思い出されるのは、ヘイトスピーチや極右的な発言でなどで悪名高い「在特会」である。私は記事の中で、Br.Takaとのペンネームで母教会に隠れて他の教会に潜入し、メッセンジャーになって他教会を乗っ取ったアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒について触れたが、クリスチャン・トゥデイの記事には、この信徒が「一発逆転人生塾」というサイトを運営していたことが記されている。

このサイトにはミラーサイトが数多くあり、アドレスも複数存在することもすでに記したが、「クリスチャン企業・教会サイト レホボト」には、同名サイトの会員登録データとして次の情報が掲載されている。

「一発逆転」人生塾
メール 119j@csc.jp
郵便番号 140-0013
都道府県 東京都
住所1 東京都品川区南大井3-23-3
住所2 PMR1059
電話番号 0909954-1095
FAX番号 020-4622-1604
分類 伝道・宣教
ホームページ http://gyakuten.go2.jp/

だが、上記の住所は、実在の会員団体の所在地ではなく、有料の私書箱転送サービス(MyLetterJP)の住所である。このような転送サービスを使用しているのは、一般に、実在の住所を公表しづらいか、または何らかの公表できない理由のある団体である。そこで、単なる個人のクリスチャンの信徒が、伝道を目的に私的に開いたサイトを会員登録するために、わざわざこのような有料の私書箱転送サービスの住所を用いるのは極めて不自然である。そもそもの初めからプロ市民的なものを感じさせる行動であると言われて仕方ない。

さらに、この私書箱転送サービスの住所を公式の団体住所として使用している団体に「在特会」がある。そのことは以下の在特会自身の開いているサイトによって確かめられる。

【重要】 在特会宛てに郵便物を送られる方へ

AG教団本部はこの事実を知らされた際、次のような見解を述べた。「この信徒はそもそもクリスチャンじゃないかも知れませんね。統一教会から送り込まれたエージェントか、在特会か、別の団体から偽装して送り込まれた信者かも知れませんね・・・」

一応、名目上は、統一教会をカルト団体とみなし、そこから信徒を救う「闘い」を繰り広げて来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団である。カルト団体やその他の反社会的な団体が、敵対的な団体を潰すために身元を隠して会員をエージェントとして潜入させるなどの危険性がフィクションで終わらないことくらいは承知しているはずである。

だが、灯台下暗しとはこのことである。「カルトを取り締まる」ことを旗印に掲げて、危険とみなした教会に裁判をしかけ、キリスト教界のカルト化問題の番人のように振る舞っている他でもないアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒が最も怪しい活動を繰り広げているのである。繰り返すが、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、あたかも自教団こそ正義の味方であるかのように、「カルトとの闘い」を掲げて、教団を離脱した教会や、教団に反対する信徒や、教団外部の教会を「カルト」とみなして裁判に訴え、戦いを挑んできた。だが、そのようにして他教会やその信徒に戦いを挑む前に、自家製の「カルト」、すなわち、自教団内部の「カルト」を厳しく取り締まり、他の教会に迷惑をかけないことの方がはるかに優先課題であろう。自教団内の信徒もきちんと管理できていないのに、教団から離脱しようとした他教会に「教会の乗っ取り」の濡れ衣の疑惑を着せて裁判をしかけ、離脱を阻止しようと試みるなど笑止千万である。

それにしても、怪しさ満載である。そもそも、他教会を乗っ取ったり、他教会サイトを乗っ取ったりし、神学校を卒業していないのに卒業生を名乗っていたところにも、上記信徒の「パクリの精神」が満ち溢れているが、在特会と同じ住所を用いていることにはさらなる疑惑の闇を感じる。いずれにせよ、同信徒の活動がどこからどう見ても、神を信じ、穏やかな教会生活を送りながら、福音を宣べ伝えることを目的とする通常のクリスチャンの活動でないことだけは誰の目にも明白である。

疎外されし者たちの復讐の哲学~罪穢れなき自己のアイデンティティを取り戻す(原初回帰)という自らの欲望をかなえるために社会的弱者を悪用する人々~

今回は「弱者に同情し、弱者を哀れむように見せかけて弱者を利用する偽りの救済思想」というテーマで書きたい。

安倍談話が発表された。問題点はすでにいくつも指摘されているが、大きく分けて二つある。

①あたかも過去の談話を継承して、先の大戦への反省や謝罪を示しているように見せかけて、それは他者の言葉の引用の中での言及であって安倍の本心ではない(安倍自身の言葉がなかったため、安倍氏本心からの謝罪の意と受け取れない)。

②過去については謝罪や反省を示しているように見せかけながら、「未来の世代に謝罪の責任を負わせることはできない」として、弱者である若者を盾にとって、今から先、未来に向けて先の大戦の国家的謝罪の責任を負うことを拒否した。

(この談話に関する国際的批判、過去の首相からの批判は、「村山元首相、安倍談話を批判 「引き継がれた印象ない」朝日新聞DIGITAL 2015年8月14日21時30分 安倍談話「歴史認識の後退」=誠意欠如と批判強める-中国国営メディア 時事ドットコム(2015/08/15-09:12)韓国市民団体 安倍談話を批判=「謝罪とは言えない」 2015/08/14 20:32 ソウル聯合ニュース などを参照)

今回の安倍氏の談話は、あたかも私の書いた「キリストの罪の贖いにより、私たちは永久に赦されているので、過去の罪をいつまでも思い出す必要はない」という発言を悪用したかのようなものである。

つまり、うわべだけ謝っているように見せかけて、「これでお詫びしたでしょ、だからもうこれ以上ボクを責めないでね。いつまでも罪悪感に苛まれ、傷ついたアイデンティティを引きずり続けることは心理的に不健全だって、あなたも認めてるんでしょ。だから、ボクもこれ以上、謝罪を繰り返す気はないよ」と開き直っているのである。

だが、最初にはっきり言っておこう。罪が赦されるためには、それなりの罰を受け、償いが果たされなければならない。罪に対する完全な罰を受け切って、償いを終えてからでなければ、自分は赦されたとは誰も主張できないのである。

むろん、国家が戦争で犯した罪がどれほど深く大きなものであるかは言うまでもない。そのことは、戦後、70年経った今日も、未だ戦後処理さえ終わっていないことによく表れている。関係諸国の人々に対する補償もさることながら、日本人に対する戦後処理も終わっていないのである。謝罪をやめるというならば、せめて、戦争で亡くなった人々が全て発見されて補償も完了し、戦後処理が完全に終わってから言えばいいだろう。

私が述べて来たのは、人が罪を贖う方法はたった一つしかなく、それは神による救済に頼ることしかないということである。聖書によれば、人の罪はあまりにも深く大きくて、自分自身で贖うことのできる限界をはるかに超えている。この罪の重荷から逃れるためには、自らの罪を告白し、キリストの身代わりの刑罰としての十字架の贖いを信じるしかない。この信仰を持っておらず、心から罪の告白もしておらず、血潮の保護を受けていない者が、自分は口先だけで謝罪をしたのでもう罪が赦された、とか、だから過去の罪深い歴史を思い返して罪悪感に苛まれる必要はなくなった、と、どんなに説明しても、それは詭弁であり、その効果は無である。

しかし、あらゆるグノーシス主義者の願いは、そもそも原罪を持たない、罪を犯して堕落する前の穢れない状態に戻ることにある(=原初回帰)ことを、私は以下の記事で繰り返し述べて来た。グノーシス主義思想とは、人が自ら犯した罪を自分で否定して、自分を罪に定めた神を否定して、自己救済をはかる思想である。それは、いわば、悪魔の名誉回復の思想と言って良い。つまり、そこでは、悪魔が自ら犯した罪を神になすりつけることによって、自分には罪がないと主張し、神に対する反逆を是としようとする思想的背景がある。この構図に乗っ取って、その思想に影響を受けてまことの神に反逆する人間たちが、原罪を否定し、己には罪がなく、従って、人間を罪に定めた神の方が間違っているのだと主張するのである。そして、彼らはこうしてまことの神を否定した上で、最終的に、自分たちこそ神々である(無謬の存在である)と主張し始めるのである。

安倍氏を筆頭として、国家主義や軍国主義の復活を願っている人々も、結局は、かつての天皇を神とする皇国史観に基づいている点では、グノーシス主義と根底を同じくする思想を持っていると言える。そして、彼らの悲願も、何よりも、自らの罪深い歴史を払拭し、穢れないアイデンティティを取り戻すことにある。

侵略戦争という負の歴史を払拭し、その罪の負い目から解放され、穢れない真っ白な日本史を取り戻すということに、彼らは自らのアイデンティティをかけている。それは結局、彼らが国(民族)の歴史と自己のアイデンティティを同一視していることを意味する。

そのことは、高市氏の次の発言からも読み取れる。

首相談話「民族責任論から子孫を解放」 高市総務相
朝日新聞DIGITAL 2015年8月15日12時18分

■高市早苗総務相

 昨日の(戦後70年の)首相談話は、自民党、公明党、そして内閣として、一体的な統一した見解を皆さまに責任をもってお示しできる内容のものだった。そしてなによりも、日本人に生まれただけで、それが罪であり、未来永劫(みらいえいごう)謝罪を続けなければいけないといった「民族責任論」から子孫の代を解放していく(内容のものだった)。

 戦争によって、日本人であれ、対戦国の方であれ、戦場となった場所の方であれ、多くの方の命が失われる。もう武力をもって紛争解決するというようなことが起きないように、そういう決意を新たにしながら、そのことは次の世代に「戦争の悲惨さ」としてちゃんと伝えなければならないが、少なくとも「民族責任論」というものとは一線を画し、未来志向型の談話となった。(靖国神社で参拝後、戦後70年の安倍談話について問われ)


ここから分かるのは、安倍氏のような思想を持つ人々が最も問題視しているのは、先の大戦によって国家的に生じた「罪意識」であると言える。「民族責任論」などという聞きなれない言葉がまるで当たり前のように公式に登場しているが、これを聞いて、私がまず真っ先に連想するのは、日本は大陸の諸国に侵略戦争を犯したゆえに国家的に堕落しており、韓国は(正しい)アダム国家だが、日本は(堕落した)エバ国家だとしている統一教会の教えである。統一教会では、戦争の罪のために日本は国家的(民族的に)に堕落していると教えられ、こうして罪悪感を植えつけられた日本人が、韓国人に対して罪滅ぼしを行うために合同結婚式などを通じて韓国に渡ったのである。

だが、ここで高市氏は、日本の歴史問題と、日本人は日本人として生まれただけで堕落しており、罪深いのだという「民族責任論」ををごっちゃにして論じることにより、若い世代に先の大戦への謝罪の責任を負わせることが、「民族責任論」を押し付けることと同義であるかのように論理をすりかえている。

戦争責任の問題を「民族責任論」と同一視することにより、後者を否定することで、前者までも否定しようとしているのである。

こうして、あたかも、若い世代を罪悪感から解放すると見せかけて、その実、彼らは国家の犯した罪を否定し、自分自身の罪悪感を解消しようとしているのである。これは国民や民族を都合よく盾に取った自己救済の思想であると言える。

話を戻せば、あらゆるグノーシス主義者が目指して来たように、安倍氏の目指しているものも、「原罪の否定」、すなわち、「罪意識からの解放」である。

安倍氏は特にA級戦犯の孫であるという出自において、先の大戦については、とりわけ大きな負い目を持っていると言える。だから、安倍氏は本心では、先の大戦を侵略戦争として謝罪するということ自体をやりたくない。それが罪であったこと自体が認めがたい。彼は出自から来る負い目を解消するために、自らの父祖が罪を犯したという事実そのものを認めたくないので、できるならば、先の大戦は罪ではなかったという認識に立って歴史を修正し、再び歴史を繰り返すかのような戦争法案を推進し、軍国主義的な時代を復活させたいのである。

だが、今の社会情勢においては、先の大戦を負の歴史として反省や謝罪を一切述べないということは、あまりにも世論や国際社会の反発が大きくてできそうにもないので、安倍氏は歴代首相の談話を口先だけで踏襲したかのように見せかけて、自らの悲願を「未来の世代」に託そうとした。これはトリックである。

おそらく、安倍氏は、最近の反安倍政権デモの中で、年配の世代がしきりに若者の世代を心配し、国の不安に満ちた状況を憂い、こうした状況を作り出したことで、若者に対して負い目の意識を持っていることに着目し、これを悪用したのであろう。そして、若者のためであるかのように装って、今後、先の大戦の罪を国家が負の歴史として背負い続け、謝罪を続ける義務を都合よく放棄しようとしたのである。

繰り返すが、彼が謝罪の責任から放免しようとしているのは、若者ではなく、国家である。

このように安倍氏は「若者」を盾にとって、歴史を浄化するという自らの願いをかなえようとした。若者を口実にして、若者の負担を軽減してやることが目的であるかのように見せかければ、他の年代の人々も異議を唱えられないだろうと踏んだのである。

だが、同氏はこれまでにも常に同様にして「社会的弱者」を口実に自分の思いを成し遂げようとして来たことを思い返す必要がある。女性差別の問題を利用した「女性が輝く社会」も然りであるし、「拉致被害者」の問題もそうである。

元拉致被害者家族会の蓮池透氏もこう述べた、「安倍政権の解釈改憲に代表されるあまりにも強引な手法を見ていると、安保法制を進めるために拉致問題を政治的に利用したのではないか、との思いが日に日に増している。」と。(安保法制・私はこう考える:拉致問題、政治に利用か 元拉致被害者家族連絡会副代表・蓮池透さん(60) 毎日新聞 2015年06月21日 東京朝刊 より)

安倍氏はこうして今まで絶え間なく「社会的弱者」を自分の出世の手段とし、自分の願う政策の実現の手段として利用して来た。社会的弱者を解放すると見せかけて、自らの望む抑圧的な政策を次々推し進めて来たのである。だから、そうした弱者解放の政策のどれ一つとして、今まで満足に成果をあげていない。それどころか、問題は年々悪化しており、社会的弱者の解放や保護は、弱者をより痛めつける政策を次々と実施するための目くらましに過ぎなかったことが、よりはっきりして来ている。

「女性の社会進出」などもその格好の事例であろう。「女性が輝く社会」といった美名の下に登場して来た政策は、単に女性差別問題を悪用して作られただけの、女性をさらなる抑圧と搾取に導く政策であると批判を浴びた。女性を低賃金で、長時間労働に従事させることにより、家庭や育児から引き離し、子育ても結婚もできないようにさせることを肯定する内容を含んでいる政策が、どうして女性の解放へつながるはずがあろう。これも女性差別の克服のように見せかけて、むしろ、その問題を逆手に取った抑圧政策である。

このようにして、安倍氏は「社会的弱者」を利用しては、己が欲望を実現するための手段として利用して来たのである。そして、そのやり方では決して弱者は解放されなかった。

さらに、このような「社会的弱者の美名の悪用」こそ、統一教会出身の指導者らが絶えず利己的な栄誉を勝ち取るために用いて来た常套手段であることも、幾度も述べて来た通りである。

だからこそ、談話の発表の翌日の戦没者追悼式では、安倍氏は今年を含めて三年連続で「アジアへの侵略戦争」の責任を認めなかったのである。安倍氏の本心はこちらの方にある。

安倍首相、アジアへの加害責任に触れず 戦没者追悼式
朝日新聞DIGITAL 2015年8月15日12時30分 から抜粋 

 戦後70年の終戦の日となった15日、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館(東京都千代田区)で開かれ、約310万人の戦没者を悼んだ。安倍晋三首相は式辞で「戦争の惨禍を決して繰り返さない」とする一方、アジア諸国への加害責任には今年も触れなかった。正午の黙禱(もくとう)に続き、天皇陛下は「おことば」で「さきの大戦に対する深い反省」と、追悼式では初めての表現を使った。

 安倍首相は式辞で「平和と繁栄を享受しているのは、皆様の尊い犠牲の上にのみあり得たものだということを片時も忘れません」と、哀悼の意を表明。その上で「歴史を直視して、常に謙抑を忘れません」とする歴史認識を示した。

 首相の式辞では1993年の細川護熙氏以降、アジア諸国への「深い反省」と「哀悼の意」などを表明し、加害責任に言及することを踏襲してきた。だが、安倍首相は3年続けて加害責任への言及を避けた歴代首相が使った「不戦の誓い」にも触れなかったものの、「戦後70年にあたり、戦争の惨禍を決して繰り返さない、そのことをお誓いいたします」と語った。

 天皇陛下は「深い反省」に加え、「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました」などと、これまでにない表現を用い、「今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願う」と述べた。

 遺族の参列予定者数はピークの85年(7056人)から減少傾向にあるが、今年は5525人で昨年の4765人より約16%増加。「戦後生まれ」は前年より4・8ポイント増の20・1%(1109人)で、初めて2割を超えた。一方、戦没者の「妻」は14人で、「父母」は5年連続でいなかった。

 厚生労働省は国費負担で参列する遺族の都道府県枠をこれまでの各50人から各55人に拡大。今回から18歳未満の「青少年代表」による献花が行われ、9~17歳の6人が選ばれた。

追悼式には全国の遺族5327人らが参列した。(以下略)


戦没者追悼式における安倍氏のメッセージは、「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました」と強調した今上天皇のメッセージと対照的な内容となっている。どんなに「戦争の災禍を繰り返さない」と述べたとしても、危険な戦争法案を推し進めているのではその言葉は空文句にしかならない。さらに一方では皇国史観に基づき、軍国主義の復活を目指しながら、他方では自らのメッセージにより、天皇さえも牽制し、無視して、自らの政策を推し進めているところに、安倍氏の思想的暴走の恐ろしさが見て取れる。

繰り返し述べたように、安倍氏はすでに神になってしまっているという印象である。「談話により謝罪は済んだ」として、先の大戦という「民族的原罪」も否定したので、今後は、一切の罪穢れのない、神のように無謬の存在として、誰からの統制も受けず、今後ますます自らの信念を明らかに公言して行こうとするのではないかと思われる。

こういった思想が決まって最後に行き着くのはパラノイド、また、その結果として、誤ったメシアニズムに基づく世界征服(人類救済)の思想である。抑圧されていた者が、自己を抑圧した者を打倒してその関係を覆して「強者」に対して復讐を遂げただけでなく、なおかつ、抑圧された「弱者性」を核として世界までも変革し救済するという愚かしい(さしでがましい)救済思想が生まれて来るのである。歴史上、抑圧されていた民衆やプロレタリアートが世界革命の担い手になり、19世紀にはまだどちらかと言えば後進的な国であったロシアがかえって世界の先駆的な解放者になるといったメシアニズムの思想が生まれて来たことはすでに述べた。

それを今日の日本に当てはめるならば、(安倍総理になじみの深い統一教会の教えによれば)「エバ国家」とまで断罪され、民族的に戦争の「原罪」を負わされた日本が、罪悪感に閉じ込められ、押さえつけられて来た卑屈な過去をはねのけて、自らのアイデンティティを罪穢れないものとして正当化し、己を罪に定めた諸国との関係を覆して再出発を遂げるだけでなく、できるならば、その思想によって、やがて世界の覇者となろうとするところまで行き着こうとしているのではないかと感じられる。まるでその野心を暗示するように、安倍氏は今年の年頭所感として、「日本を、再び、世界の中心で輝く国としていく。」という言葉を述べている。(安倍内閣総理大臣 平成27年 年頭所感 首相官邸 平成27年1月1日)
 
原発事故の収拾の目途もつかず、世界に迷惑をまき散らしている国が、どうして世界の中心で輝くことができようか。それどころの話ではない。オリンピックの栄光に自己陶酔する前に、見るべき課題を直視すべきである。先の大戦への謝罪を中止することによっては、決してその責任から逃れることができないのと同様に、国家が引き起こした現実の諸問題を次々と否定し、過去の栄光に酔いしれることによっては、決して国家として現実の責任を果たすことはできない。

だが、この人々はあたかも幻想の世界に住んでいるかのように、ひたすら自画自賛の思想に酔いしれて、見たくない問題はすべてなかったことに帳消しにしていくだけで、決して目の前で起きている問題を認めず、それに対する責任を負うこともしない。そして、現在の問題も否定し、過去の問題も否定した上で、見当はずれな浮かれ騒ぎに精力を費やし、ひたすら、自分たちは罪を問われることのない、一切の罪を持たない神のように穢れない存在であると主張し続けるのである。それを主張するために、社会的弱者を利用し、国を利用し、(皇国史観も利用し、英霊も利用し)、民族を利用しているのである。

この政権はいよいよ危険水域にさしかかっているのだと言えよう。自らの罪を否定し、一切の罪穢れと関係のない浄化されたアイデンティティを取り戻し、神々になっていく過程で、安倍氏とその支持者らにとって、国民の反発のみならず、今上天皇のメッセージすらも、邪魔になる日が来るであろうことが懸念される。


疎外されし者たちの復讐の哲学~抑圧された社会的弱者や被害者の内に神を見いだす危険②~

さて、今回は偽りの弱者救済の思想は人間を滅ぼすというテーマで記事の続きを書きたい。

私は以前、重度の障碍者と遠距離で文通していたことがあった。病の中にある人との関わりは他にもあったが、これは特に象徴的な出来事であったので記しておきたい。

その人は、天涯孤独に近いつらい生い立ちを耐えて成長し、若い時分にたった一度、薬を飲み忘れたことがきっかけとなって病に倒れ、青春真っ盛りの時代に、重度の麻痺に陥ってしまった。集中治療室での身動きできない絶対安静の状態、全身の筋力が落ちていき、看病してくれる看護師にまで嘲笑されるような過酷な闘病生活。その後、信仰は持ったが、キリスト教界で遭遇した冷たい仕打ち等々、苦難の連続の人生であった。

幸薄い生い立ちと、若い身空での不幸は、聞く人の同情を催すものであったが、その人自身は、むしろひょうひょうとして、暗さを感じさせなかった。私はその人の悩みのないあっけらかんとした様子を、信仰を持っているがゆえの明るさなのだろうと、ある時期までは単純に考えていた。

だが、ある時、その人が私に連載小説を書いたので読んでほしいと依頼して来たことがあった。それは腫物に関するグロテスクな空想小説で、主人公は、自分の身体にできた真っ赤なデキモノが、毎日、ズキズキと痛みながら腫れ上がり、拡大し続けるのに打つ手がなく、その苦痛を黙って耐えるしかないという絶望的なストーリーであった。

「傷」が主役になるという、一見、ゴーゴリのようなテーマであるが、私はそれ以上、その不気味な小説を読みたい気がせず、丁重にお断りした。それはまるでこの小説を通して、その人の人格そのものが「傷」に飲み込まれて行く様子を見せつけられているように感じたからだ。

その人が当時、かなりの意気込みを持って小説を執筆し、「この小説は私自身なの!」とまで言い切り、私が読者になることを断ったことに不満を感じているらしい様子も、より一層、不気味さを感じさせた。

最大の謎は、どうして人間ではなく、傷が主人公になっているのか、という疑問であった。どうして本来、主人公であるべき人間が、ただ傷に飲み込まれるしかないという、消極的で絶望的な展開になっているのだろうか。なぜ主人公はその「傷」に立ち向かおうとせず、これを拒否することもできないでいるのか。
 
私にはあたかもこの小説を通して、「傷」が一種の人格を持った存在として人に立ち向かって来ているかのように感じられた。

「どうだ、俺様の名は「傷」だ! 俺様は今まで数えきれないほどの人間を苦しみと病のどん底に投げ入れて来た! 俺様は別名を「被害者意識」や「自己憐憫」とも言う。悲惨な生い立ちや、人生の度重なる不運に悩んでいる人間は、俺様にとっては格好のターゲットなんだ! そういう人間は俺様とは別れられない運命にあるんだ! もともと過酷な扱いに慣れていて、簡単に俺様を受け入れる素地があるから、ずっと居心地のいい住処になってくれるだろう。小さな傷口から入り込んで、それをうんと押し広げ、最後にはその人間を丸ごと飲み込んでやるのが俺様の使命だ! 

どうだ、俺様にとりつかれた人間は、怨念に支配されて一生を送ることになるんだ。一生、自分は見捨てられた被害者だ、大切に扱われなかった病人だ、社会的弱者だと主張して、自分よりも強い者を責め、他人から憐れんでもらうことを目的にし、自由な人間を貶めて生きるようになる。その果てに、本当に弱さに飲み込まれて立ち上がることもできなくなるのだ。どうだ、おまえに何ができるか!? おまえにできるのはせいぜい手をこまねいて同情の涙を流すくらいだろう! おまえには助けることはできない。いいか、おれはこいつを捕えた。手放さないぞ! おまえにできるものならさっさとこいつを俺様から解放してみろ!」

そんな出来事も手伝って、 私は、病、弱さ、被害者性といったものが、決して美しいものではなく、憎むべきもの、断固拒否し、訣別すべきものであるという認識を深めた。闘病生活を美しいものとして描く物語は多数、存在するが、それでも、病は決して美徳ではなく、人が安易に戯れるべきものでもない。にも関わらず、人の「弱者性」を美化する思想は、とても危険なものなのである。弱さと訣別する覚悟を持たないと、やがて弱さを抱える人は、「傷」にまるごと人格全体を乗っ取られてしまうということになりかねない。

これは障碍についてのみならず、人の抱えるあらゆる弱さにあてはまることだ。カルト被害者についても、もちろん、同じである。あるいは、死についても同じである。もしクリスチャンが死を憎まず、死者の霊や死後の世界と親しげに交わるような思想を受け入れれば、簡単に死に飲み込まれてしまうだろう。

被害者性、弱者性を拒否するかどうかは、人生で極めて決定的な選択なのである。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です、古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

キリストの復活の命は人に新しいアイデンティティを与えてくれる。地上の生い立ちや、これまでの人生がどうあれ、それとは違う、上から信仰によって与えられる新しいアイデンティティが存在する。

だから、もし人が、それまでの人生がどうあれ、キリストの贖いを信じ、心の傷と手を切り、あらゆる弱さから脱却することを願って、キリストにあって自立した健全な人として立ち上がる決意を固めるならば、人間的な観点から見てどんなに絶望的な状況がその人を取り巻いていたとしても、神はその人を助け、立ち上がらせることができるだろう。神はその信仰に応えて下さるだろう・・・。

だが、すでに書いたように、弱さと手を切ることは、ある人たちにとっては、とても難しい選択なのだ。問題は二つある。一つは、そのような弱さがあまりにも人の同情を誘うために、弱さを抱えた人間を美化し、弱さを何か特権的なものとして保護し、弱さの中にいる人々にいつまでも同情の涙を注ぎ続けることを「支援」だと勘違いしている人々がいること。また、弱さを抱える人も、あまりにも同情される居心地の良さに慣れてしまい、弱さがもたらす特権に安住してしまうために、弱さを大切なものとして握りしめ、決して手放そうとしないという問題である。

そういうことが起きると、助けようとする側と、助けられる側に共依存関係ができてしまい、「傷」や「弱さ」や「被害者性」を軸にして人間同士が互いに結びつき、いつまでも弱さによる負の絆を後生大事に握りしめるということが起きる。そうなってくると、傍目には弱者を救済することを目的に支援が行われているように見えても、決して、その弱みは取り除かれることがなく、負の関係がずっと続いて行くことになる。
 
多少、先走って話を進めるならば、人類の弱さを「神聖」なものにまで祭り上げ、抑圧され、虐げられた社会的弱者を高く掲げる誤った人類救済活動は、これまで歴史上、再三に渡り登場して来た。そしてそれらは決まって、罪の癒着とでも言うしかない状況を作り出し、抑圧されたマイノリティによるマジョリティの否定(と復讐)を生んで来たのである。

たとえば、19世紀初頭の帝政ロシアには、圧倒的な不平等な格差社会があったが、その中で、貴族の子弟たちは社会の不平等に悩むあまり、抑圧された民衆を助け、貧しい人々と同化することを「理想」だと考えて、恵まれた自分の家や、学業や、約束された将来の職を捨てて、積極的に農村に分け入っていくという運動が起きた。また、20世紀には、虐げられた農民やプロレタリアートを美化するあまり、農民とプロレタリアートの天国を目指してブルジョアジーを抑圧すべきだとするソビエト政権が成立した。

こうしたものはあたかも「人間の弱さ」に対する深い同情に基づいているようでありながら、その実、絶対に弱者を解放することのない危険な思想である。なぜなら、そこでは、「弱さ」そのものが美徳のように、神聖なもののように高く掲げられており、万人が同じように虐げられた者となり、「傷」を共有することが理想とされているので、抑圧された弱者の状態がスタンダードとなり、理想的なアインデンティティとされ、その弱者性から人を解放することができないのである。

考えればすぐに分かることだが、貧しさや、抑圧された状態は克服すべき課題であって、決して美化すべき要素ではない。それが人のあるべき理想状態や、人生の最終目的になり得ないのは言うまでもない。格差を憎むことは必要かもしれないが、だからと言って、社会的弱者を理想的な存在にまで祭り上げ、国民全員が虐げられた人々に同化することによって、社会がより良くなることが決してないのは明白である。

だから、病や、あらゆる弱さや、被害についても同じことが言える。抑圧されたマイノリティが、マイノリティであること自体によって美化されるべきではなく、理想化されるべきでもない。抑圧された人々が、その弱さゆえに正義の担い手や、理想的な人間であるかのようにみなされるべきでもない。虐げられた弱者も、虐げる側に立っている強者も、同じ人間であり、同じように間違いやすい罪深い存在に過ぎない。

にも関わらず、抑圧された弱者を美化し、彼らに正義と神聖を見い出す誤った人類救済思想が登場して来ると、抑圧された状態が理想とされる一方で、抑圧を経験しない、「傷」を持たない人間が、かえって非人間的な悪者ということにされてしまう。「傷」や「弱さ」が理想化されることにより、何が人の健全なあり方なのかという基準が転倒してしまうのである。その結果、「被害者性」、「弱者性」、「傷」を軸に連帯(癒着)する人々が、「傷」を持たない人々を冷酷無慈悲な悪者のように描いて排斥し、被害者でなかった人々までを被害者に変えて行き、より一層、社会を「傷だらけ」にして行くという悲劇的な結果が起きる。カルト被害者救済活動がこうした暴走に至ったことはすでに幾度も述べた。

私は以下の記事で、SEALDsの代表的な設立者の学生の一人である奥田愛基氏の父である奥田知志牧師の著書『もう、ひとりにさせない』(いのちのことば社、2011年)を取り上げて、この牧師が神を見いだせないから牧師になり、内住のキリストを通して信仰に生きようとするのでなく、むしろ、ホームレスなどの社会的弱者の中に神を見いだそうとして社会的弱者の救済活動を繰り広げて来たことに触れた。

そして、私はこうした弱者救済運動が、決して聖書の理念に基づくものではないことを説明して来た。そこには、弱者救済の美名のもとで、人の内にある罪という問題を巧みに覆い隠して、イエスを「罪人らの神」とし、罪人らの内に「神」を見いだすことにより、人類の罪の贖いのためのキリストの十字架の意味を無にしてしまう思想があることを説明した。

すなわち、虐げられた弱者を無条件に美化し、彼らのうちに「神」を見い出そうとする思想は、人は誰でも罪人であり、悔い改めなくしては救われないという聖書の根幹を否定するのである。社会から打ち捨てられた罪人は、虐げられ、見捨てられているがゆえに、最も神に近い「神聖な」人々であり、それゆえ、彼らは信仰なくして、神を内に宿しているということになると、極言するならば、社会的弱者は神そのものであるということになり、キリストの十字架を信じる必要は全くなくなってしまう。

そうすると、聖書の説く神による救済は全く否定される。その結果、社会的弱者が人生に悩み救いを求めて牧師のもとへ来るのでなく、むしろ、神を見いだせず、救いを見いだせない牧師が、社会的弱者の内に神を見いだすために社会的弱者のもとを訪れるという本末転倒な状況が生まれる。

ここには、すでに述べたように、19世紀に恵まれた貴族の青年子女であったナロードニキが、自分たちの特権的な生活を捨てて貧しい農村に趣き、農民と同化することを目的に農民の救済事業に励んだのと同じ構図がある。その根底にあるのは決して人助けではなく、むしろ、罪の意識から来る贖罪行為であった。

私は決して人助けそのものの価値を否定するわけではないが、ある人の人生において、人助けがプログラム化し、システム化し、延々と同じような活動が繰り返されて行くときに、何かしら普通ではない背景がそこにあるように思われてならない。

以下の記事で私は、カルト被害者救済活動のような人類救済事業に生涯を捧げる人々には、決まって、幼い頃かもしくは青年期に、自分自身かもしくは親しい誰かが理不尽に巨悪の犠牲となる現場を目撃し、これを防ぎ得なかったという無念が原体験となって、その人の生涯を決定的に支配しているのではないかという推測を記した。

私が覚えている限り、カルト被害者救済活動に従事するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師も、学校時代に、いじめを受けていた知り合いの女子生徒が井戸に身を投げて自殺したという痛ましいニュースに遭遇した体験を語っていたように記憶している。

むろん、何が「原体験」となっているのか、それは人によってさまざまであろうが、いずれにしても、多感な時期に、自分自身か、もしくは自分の親しい誰かが、何かしらの理不尽な事件に遭遇し、弱さのゆえに犠牲になり、その犠牲に自分は何ら打つ手がなく、被害を防ぎようがなかったという無念が、心の深いところでその人の心の傷となり、罪悪感、もしくは深刻な無力感、絶望感を生じさせており、同じような悲劇が繰り返されることへの恐れや拒否感から、その人は自分の努力によって犠牲となる人々を救わなければならないという使命感(強迫観念)に生涯を支配されるに至っているのではないかと推測する。

そのような深いトラウマがあるからこそ、彼らの人助けは一過性のもので終わらず、生涯を人助けに捧げねば、いてもたってもいられないような心境を生んでいるのではないか。だが、もしそうだとすれば、それは人助けではなく、自己救済の試みであって、もしくは罪悪感から自分を救うために行われている贖罪行為ということになる。

ナロードニキについても、自分たちが弱者を抑圧する立場にあるという罪悪感が、彼らの心の中に、抑圧された社会的弱者と同化せねばならないという強迫観念を生み、恵まれた境遇を捨てさせて、弱者のもとへ追いやることになった。

自分の内に罪悪感があればあればこそ、彼らは虐げられた人々をまるで罪のない人々のように考えて美化した。負い目があったからこそ、虐げられた人々を神聖な人々にまで祭り上げることによって、彼らに仕える自分自身の生きざまを正当化し、罪悪感を解消しようとしたのだと考えられる。

だが、そのような救済事業は本当の救済には決して至らない。人にはそれぞれの置かれている固有の状況があり、自分独自の立場があって初めて、人は他者との有益な関わりが可能となる。貧しい人々に一体化することが、人助けなのではなく、助ける方も助けられる方も共に同じように貧しいのであれば、できることも限られ、人助けも不可能になってしまう。

さらに、その救済事業がもしその人自身の心の傷や罪悪感を癒すために行われているならば、どんなに罪滅ぼしを続けても、その人が自分自身の本当の心の状態に気づき、向きあわない限り、罪悪感は解消されず、むしろ、その人は自分の罪悪感から目を背けるために、ずっと他人を利用しながら生きることになる。

実のところ、「弱者を救済する人々」の心の中に、「救済される弱者」よりももっと深い絶望や、心の闇が横たわっている場合は往々にしてある。通常、私たちは、弱者を救済する人々は、さぞかし愛に溢れ、希望に溢れ、自分の心の喜びを他者に分かち合いたくてたまらないので、人助けにいそしんでいるのだろうと推測するが、そのような予想とは完全に逆の現実が往々にして存在する。

つまり、「救済する側」に立っている人間が、自分の心に癒しがたい絶望や、罪の意識を持っており、これを解消するために、見捨てられた弱者を利用している場合がある。つまり、それは救済事業ではなく、その人自身の心の負い目を解消するための終わりなき罪滅ぼしである可能性があるのだ。

以下の記事で引用したように、奥田知志牧師は、20歳の頃に釜ヶ崎でホームレスの人々の置かれた限界状況を目にしたという体験がきっかけとなって、生涯、ホームレスの救済事業に赴くことになった。そうさせたのは、ホームレスの生き様を目にしたことにより、彼の心の中に生じた強烈な罪悪感、つまり、ずっと弱者を見殺しにして安逸をむさぼって来た自分自身と社会そのものに対する罪の意識ではなかったろうか?

奥田牧師の体験は、インドで貧しい人々のために生涯を捧げたマザー・テレサにとてもよく似ているように思われる。

今でこそよく知られていることだが、マザー・テレサは、その慈愛に満ちた外見とは裏腹に、内心では、神の存在を信じられなかったばかりか、自分は神に見捨てられているのだという絶望感や「心の闇」に苦しんでいたことが晩年の出版物や同時代人の証言を通して明らかになっている。
 
「マザー=テレサの闇 : 神の不在とイエスの遍在」、中里巧著、宗教研究 84(4), 996-997, 2011-03-30 、日本宗教学会という小論から引用してみたい。

「マザー=テレサは、一九四八年暮れにコルカタ(旧称カルカッタ)における路上奉仕活動を始めた。マザー=テレサによれば、「貧しい人のなかでももっとも貧しい人」the poorest of the poor のためのこの奉仕活動を始めた直後から、神に対する疑念が心のなかに生じたのであったが 、こ の疑念を真に受け止めてくれる者を教会のなかで見いだすことができずにいたのであった。

 一九六一年四月ノイナー Neuner 神父が、マザー=テレサの主催するコルカタにある Missionaries of Charity で黙想会を指導するために招かれた。このときノイナー神父は、マザー= テレサから悩みを打ち明ける私信を受け取った。そこには 、信仰上の深い不安や極端な闇神に見捨てられていると感じていることなどが吐露されていた。マザー=テレサは 、神の不在・神から見捨てられていること ・孤独や空虚や寂寥といった心情に日々さいなまれる極度の苦痛が、イエス=キリストもまたかつてこの世界において人々の救済にさいして同様に体験したものであったと理解した。

 マザー=テレサのこうした信仰は 、徹頭徹尾イエスの十字架にまつわる信仰である。限られた制約のなかでできるかぎり多くの様々な資料に眼を通してみたが 、マザー=テレサの闇 、すなわち、 激しい苦痛を伴う霊的欠乏の心情は、 一九四九年頃から死去するまで、程度の差こそあれ継続していたように思われる。 

 また、 教会にいるときにどれほど空しくとも、路上で貧しい人々と出会うとき、そこに必ずイ エス=キリストの臨在をマザー=テレサは、実感してやまなかったイエス=キリストは路上で 生活する貧しい人々に遍在しているというのが、マザー=テレサの実感であり続けた。十字架のイエスを愛するということは、十字架をとおしてイエスがおこなった贖罪を、自分もおこなうと いうことである。贖罪とは 、他人の罪を身代わりとして背負うということである。

 読めば読むほど、奥田牧師の事例と酷似していることが分かる。釜ヶ崎のホームレスの悲惨な生活を目撃した時から、奥田牧師の心には、「神はどこにおられるのか?(神がいるなら、なぜこんな恐ろしい現実が放置されているのか? こんな現実があるなら、神などいるはずがないではないか)」という疑念が生じた。それは神への怒り、恨みと言っても良いかも知れない。それがこの牧師の生きざまを変えて行くことになる。

 同じように、マザー・テレサも、カルカッタで貧しい人々が路上で悲惨な死を遂げていく現実に直面した時から、「神に対する疑念」が心に生じたのだという。

 限界状況が二人の心のそれまでの安心感を完膚なきまでに打ち砕いた。「こんな悲惨な現実があるのに、神はどこで何をしておられるのか。一体、神はどこにいるのか。神など本当に存在しているのか。もし神がいるなら、神が本当に愛であるなら、こんな悲惨な現実が許されるはずがない」という神への疑念、怒り、不満が心に生じ、それは「神不在」という深い絶望感を二人の心に植えつけていく。

 だが、同時に、その過酷な現実は彼ら自身の心にも、社会的弱者への拭い去れない罪悪感を生じさせた。それは、これらの打ち捨てられた人々を、自分は助けることができなかったという無念、罪悪感である。彼らは社会から見捨てられている貧しい人々に感情移入するあまり、自分自身もこの人たちと同様に遺棄され、神に見捨てられているのだという深い絶望感を味わったのかも知れない。

 こうして目撃した限界状況の衝撃がトラウマとなって、そこから二人は生涯、抜け出せなくなる。そして、彼らは、このような悲惨な状況を放置している神への絶望を告白すると同時に、むしろ、神はこれらの貧しい打ち捨てられた人々の中におられるのではないかという考えに傾倒して行く。

 マザー・テレサはインドの路上生活者にキリスト教へ改宗させることを目的として関わったわけではなかった。彼女は信仰の問題を抜きに、悲惨な状況下で死にゆく人々を助けたことは知られている。このことは、マザーが人々をキリストへの信仰へ導くことを最大の目的としていたわけではないことをよく示している。さらに、上記の文章などによれば、彼女は十字架の贖いを信じずとも、ただ貧しく打ち捨てられているというだけで、社会的弱者の中に「神(キリスト)」を見いだしていたことが理解できる。これも奥田牧師の考えと全く同じである。つまり、キリストへの信仰なくして、十字架の贖いを信じて受け入れずとも、ただ社会的弱者であるというだけで、こうした人々が「神」を内に宿しているのだと二人は主張するのである。

 だが、それは従来のキリスト教の教義からは全く認められない考え方である。信仰なくしてイエス=キリストは路上で 生活する貧しい人々に遍在している」という考え方は、キリスト教の教義には存在しない。存在しないどころか、それは、人を救うことができるのはただ神のみであり、キリストへの信仰なくして救いはないという聖書の原則そのものの否定を意味する。
 
   奥田牧師は社会的弱者への憐れみのない社会を糾弾してこう書いている、「自己責任社会は、自分たちの「安心・安全」を最優先することで、リスクを回避した。そのために「自己責任」という言葉を巧妙に用い、他者との関わりを回避し続けた。そして、私たちは安全になったが、だれかのために傷つくことをしなくなり、そして無縁化した。

 長年支援の現場で確認し続けたことは、絆には「傷」が含まれているという事実だ。<略>
 傷つくことなしにだれかと出会い、絆を結ぶことはできない。出会ったら「出会った責任」が発生する。だれかが自分のために傷ついてくれる時、私たちは自分は生きていてよいのだと確認する。同様に、自分が 傷つくことによってだれかがいやされるなら、自分が生きる意味を見いだせる。自己有用感や自己尊重意識にとって、他者性と「傷」は欠くべからざるものなのだ。<略>
 絆とは傷つくという恵みである」(『もう、ひとりにさせない』、pp.209-212)

 この文章も、マザー・テレサの場合と同じように、奥田牧師がホームレスの人々に対する贖罪意識から、ホームレス救済事業を続けていたことを示しているように思われる。

 「絆」とは「傷」を分かち合うことである、と牧師は述べている。つまり、ホームレスの人々と「傷」を分かち合うために、奥田牧師は限界状況の中に残ったのである。

 ナロードニキが農民への贖罪のために特権的な生活を捨てて農民救済事業に人生を費やしたのと同様に、マザー・テレサも奥田牧師も、人を破滅させる巨悪の前に自分が全く無力であることを感じながら、それでも大海からスプーンで水をすくって捨てるように、巨悪から貧しい人々を救い出すために、自分の人生を捨てて、限界状況の中に残った。それは彼らがこれらの打ち捨てられた人々に対して深い負い目を感じていたためであったのではないか。彼らは自分の活動が人を救うには無力過ぎることを知りつつも、社会的弱者と痛みを分かち合うことにより、自らの負い目を解消しようとしたのだと考えられる。

 だが、贖罪と救済とは全く別物である。贖罪とは、罪ある者が己の罪を償うために行う行為であって、人助けではない。どんなに贖罪を積み重ねても、それは決して他者への救済には達しない。それは、借金の返済をどんなに行っても、負債がゼロになるまでの間は、貸しにならないのと同じである。
 
 聖書には、「たましいの贖いしろは高価であり、永久にあきらめなくてはならない。」(詩編49:8) とあるように、罪ある人間が自分の罪の負債を完全に帳消しにすることはどんな努力をもってしても不可能である。だから、聖書によれば、人の贖罪行為が人を救うことはあり得ず、人類による人類の自己救済は不可能で、神によらなければ人間の救いはないのである。

 キリストが十字架にかかられたのは、マザーが主張しているように、罪ある人と同じような贖罪のためではなかった。神の御子キリストには罪がなかったので、贖罪の必要性がなかったが、罪なき神の御子が罪人の身代わりとして罰せられたことにより、信じる者たちは罪を赦され、罪の負債が帳消しにされ、信仰者に対する罪を理由とした悪魔の支配が打ち破られたのである。それは罪のない御子でなければ決して成し遂げることのできない贖いであった。

 イエス以前には、大祭司が民の罪の贖いのために、年に一度、至聖所で動物の犠牲を捧げねばならなかったが、イエスが永遠にほふられた神の子羊として、神に対して罪の贖いを完成したので、それを信じる者たちは自分で自分の罪を贖う必要がなくなった。むしろ、もしイエスの十字架の贖いを信じるなら、人が自ら贖罪することはやってはいけない行為である。それは人が自分で自分を救おうとする不可能な試みであるばかりでなく、イエスの贖いを否定することにつながるからである。

 さらに、もしキリストの十字架を信じるならば、信仰を通して、神はその人の内に住んで下さるので、信仰者は神を自分の外に求めてあちらこちらをさまよう必要はない。

 ところが、マザー・テレサも奥田牧師も「内住のキリスト」を認めず、自分の内には「神不在」の絶望しか見いだせないことを告白しており、むしろ、自分の外に、信仰を持たない社会的弱者のうちに、神が偏在していると主張して、神を求めて社会的弱者のもとを絶え間なく訪れる。彼らは自分の心の内に神を見いだせず、自分は神に見捨てられていると絶望しながら、終わりなき贖罪のために、社会的弱者を「救済」し続けているのである。

 実のところ、このような考え方はキリスト教からは完全に外れている。信仰を持たない社会的弱者の内に「神」を見いだせるという考えは、キリストの十字架の贖いを否定することであり、完全に聖書に反している。

 だから、これは見かけはとても美しく憐れみに満ちた活動に見えるのだが、実際には決して真の救済に至ることのない、神なきヒューマニズムとしての誤った弱者救済の思想である。一言で言えば、神に見捨てられ、疎外された人々の怨念に基づく自己救済の試みであると言って差し支えない。このような思想は、あたかも社会的弱者に深く同情し、その救済を目指しているようでありながら、実際には、決して弱者を解放することのない、希望なき活動である。それは人類による人類の罪のための終わりなき贖罪行為であり、助ける側についても、助けられる側についても、決して人を真の意味で解放せず、ただ果てしない罪の連帯責任を生むだけである。

 罪というものは、本来、より多くの人々で分かち合ったからと言って、軽減されたり、希釈されるような性質のものではない。罪の結果としての「傷」も然りである。他人が傷ついてくれたからと言って、ある人の傷が解消されるわけではない。むしろ、傷つく人が増えて行くことによって、ますます社会は不自由•不安定になり、傷から抜け出せなくなっていく。にも関わらず、「絆」には「傷」が含まれているとして、「傷」による「絆」を拡大して行くことを主張する奥田牧師の発言には、どこかしら「食べて応援」によく似た、不正常な状態を万人の中で常態化し、終わりなき罪の連帯責任を積極的に社会に広めて行こうとする危険な姿勢があることを感じずにいられない。


大いなるバビロンへの邁進~神なきヒューマニズムとしての弱者救済の思想の危険性~

以下の記事で私が聖書は同性愛を否定しているということを書くと、さっそく次のような「お返事」があった。

同性婚は聖書の教えに反するの? そう思う人に読んでほしい。」ハフィントンポスト2015年07月27日
 
予想通りの論外な内容である。まず一番、論外だと思う点は、この記事が、自らの問いに全く答えられていない点だ。記事では、同性婚を肯定する根拠となる聖書の言葉が一つたりとも引用されていない。だから、この記事は自らタイトルで示している「同性婚は聖書の教えに反するのか」という問いへの答えを何ら提示できておらず、聖書に基づいて同性愛を否定するクリスチャンへの反論にもなっていない。そこでは、いかに同性婚を否定するクリスチャンが残酷で恐ろしい人々であるかという印象が一方的に述べられているだけである。

だが、そうなるのも当然である。何しろ、聖書には同性婚を肯定する御言葉は一文たりともないからだ。だから、同性婚の良さや無害さをアピールするためには、どうしても話を聖書外へ持ち出さざるを得ない。同性愛を肯定するための根拠を聖書の中に見つけることは不可能だからである。
 
さらに、上記の記事では、以下に述べて来たように、巧みに「同性愛者」と「非同性愛者」を対立させて、同性愛者を「不当に抑圧されてきた社会的弱者=善人」、非同性愛者を「不当に抑圧した側の社会的強者=悪人」として描こうとする構図が見えてくる。そこには、非同性愛者の同性愛者への無理解を罪定めして、罪悪感を抱かせようとする狙いがある。
 
同性愛者は不当に迫害された可哀想な「社会的弱者」、「善人」として、同情や理解を受けるのが当然とされる一方、聖書に基づいて同性愛を否定する従来のキリスト教徒は、「無理解な悪人」、「同性愛者をいわれなく差別し、攻撃する恐ろしい「敵」」のように描かれている。

このような記事を読めば、最近、至極積極的に行われている同性愛者の人権擁護キャンペーンには、同性愛者と非同性愛者を対立させて両者を分断した上で、同性愛に理解を示さない非同性愛者(最終的には聖書に忠実なクリスチャン)を迫害・駆逐して行く最終的な狙いがあると予想するのも当然であろう。

しかも、これをクリスチャンを名乗る同性愛者の手によって成し遂げようという試みが行われているところが巧妙である。つまり、同性愛という聖書に基づかない新しい価値観を宣伝するに当たり、クリスチャンという「身内」を装ってその宣伝役となる人々をキリスト教界に投入し、これらの「自称クリスチャン」の手によって、同性愛を無害なものとして宣伝するキャンペーンを行い、これまでのキリスト教界の常識を塗り替え、この考えに同意しない伝統的な価値観に立つクリスチャンを迫害して駆逐し、あるいは、クリスチャン同士の内ゲバのような同士討ちの争いへと誘導して行くのである。
 
こういう浅はかな二項対立、勧善懲悪的なキャンペーンがいかに危険であるかは幾度も述べて来た。カルト被害者救済活動も、これと全く同じ歴史を辿ったことに注意を払いたい。この運動は、当初、悪徳カルト牧師に虐げられた弱者・被害者のクリスチャンの信徒を救済するという名目で登場して来たが、結局のところ、被害者自身も含めてごく普通の信徒同士を分断して争いを助長し、信徒同士を泥沼の闘争の中に引きずり込んで行ったのである。

この運動は、当初主張していたように、カルト牧師の悪を糾弾するのではなく、むしろその大義名分に隠れて、聖書に基づいてこの運動の危険性を訴え、反対するごく普通の信徒を「悪人」として罪定めし、激烈な攻撃を加えるに至った。結局のところ、この運動は、カルトを糾弾するということを建前に、聖書の伝統的な教えに従って被害者救済活動に理解を示さない信徒を攻撃することを真の目的としていたと言っても良い。

つまり、この運動の真の狙いは、カルトを取り締まることよりも、「被害者性」を高く掲げることにより、「被害者」こそ正統なクリスチャンであるかのように見せかけ、被害を主張せずに健全な生き方を目指しているクリスチャンを隅に追いやり、クリスチャン同士を同士討ちの闘争に引き込んで、被害者でなかった人々にまで余計な被害を与え、聖書の掲げる健全な生き方の基準を転倒させてしまうことであったと言って差し支えない。

だからこそ、私はあらゆる弱者救済運動に同じように危険な思想的基盤が潜んでいる可能性を危惧せずにいられないのだ。こうした弱者の人権救済運動は、当初はあたかも、虐げや差別や搾取を糾弾して、悪のくびきから「弱者」を解放することが目的であるかのように、正義の運動の仮面をつけて登場して来る。しかし、必ずと言って良いほど、途中から方向性が逆転し、変質して行くのだ。そして、彼らは当初、あれほど非難していたはずの真の責任者ではなく、「身内」に非難の矛先を向け、自分たちの生き様や主張に理解を示さないごく普通の人々を次々と「悪人」のレッテルを貼って攻撃し、排除するようになっていくのである。

結局のところ、これは巧みな大衆分断作戦、もしくはクリスチャンの分断作戦の一環であって、さらには、聖書のみことばを曲げて、聖書に照らし合わせて健全でもなければ普遍的でもない特殊な生き方を、あたかも普遍的なもの、推奨されるべきものであるかのように宣伝し、歪められた価値観を広く世の中に普及させるために登場して来ている人工的な運動であると考えられる。従って、決してこのような運動の果てに「弱者」の人権が救済されることはなく、彼らが解放されることもない。「弱者」はこのキャンペーンに正当性を与えるために、名目上、都合よく利用されているだけである。
 
そこで、以上のような歴史を踏まえた時、SEALDsの運動がどこへ向かうのかも注目される。虐げられた弱者に寄り添い、弱者の人権を擁護するというスローガンの美名にではなく、その運動がどういう結果へ結びつくのか、それをこそ最も肝心な争点として見据えなければならない。ある人々は、SEALDsが唱えているのは国民投票であるから油断がならないと警告する。

国民投票については、マスコミに載らない海外記事に裏切られたギリシア国民の悲惨な実例が示されている。

ギリシャ議会はNO投票を覆すことはできない。債権者達との合意は違法
Prof Michel Chossudovsky Global Research 2015年7月21日

国民投票は、あからさまな“民主主義の儀式”だった。ギリシャ国民は裏切られたのだ。7月6日、月曜朝、国民投票の翌日、ツィプラス首相は、債権者達の要求の大半をもりこんだ13ページの提案草稿を提出した。債権者達と綿密に打ち合わせた上で、国民投票の前にまとめられたこの提案は、本質的に、債権者達の要求を受け入れたもの、つまり、7月5日の国民投票で敗北したYES投票支持へと導くことを意図したものだった。

この180度の方向転換は入念に画策されたものだ。ギリシャ国民は振り回され、騙されたのだ。ツィプラス首相は、ノー・キャンペーンを率いながら“債権者達と結託していた”。彼は債権者達と取引をしていて、債権者達の要求受け入れにずっと賛成だった。ギリシャ国民によるNOという付託は、始めから無視するつもりだった。しかも、NO投票の結果を実施しないことは、国民投票前に決定されていた。(以下省略)



 何ということか、これほどの大群衆の熱狂的な怒りの決断をさえ計画的に欺くために、周到な準備が行われたというのだ。国民投票そのものがフェイクであった。

(写真の出典:「ギリシャ国民投票」という名の悲劇( ハフィントンポスト2015年07月05日 )、ギリシャ、国民投票を控え 賛否両派が大規模集会(LINE NEWS 07.04 11:03))
 

こういう事例が存在しているからこそ、私は翁長知事率いる沖縄県民の辺野古への基地建設反対運動についても同じことを懸念している。つまり、「怒れる大衆」という「観客」をある特定の人物のもとへ、特定の一点へと総動員する大規模集会そのものが、フェイクである可能性があると。

(写真の出典:もうすぐ北風が強くなる 戦後70年、沖縄の意思は辺野古新基地阻止、普天間撤去
2015-05-18)


 
より多くの聴衆に訴えをアピールして感動を呼ぶための効果的な舞台としての国連の演説よりも、基地移転を阻止するための現実的な決定を下すことの方がはるかに優先課題ではないかと私は思う。「私たちは裏切られることはない。8月になれば、必ず決断は行われる」と沖縄問題に詳しい人は言った。だが、本当にそうだろうか。工事が進んでしまえば、既成事実だけが積み重ねられて行く。
 
SEALDsや、急速に拡大しつつある反安倍政権デモについても同じような危惧があてはまる。安倍政権に対峙するためには、政権を奪還するしか方法がない。ただ怒りにまかせて叫ぶだけでは、何ら現実的な対策にはならないのだ。さらに、短期間で動員されたにしては、あまりに規模が大きすぎる、洗練されすぎている、現実にどこを着地点としているのか目的が今一つ分からない、などの疑念が生じる。これは本当に自然発生的な運動なのか?






(写真の出典:安保関連法案:「安倍政権NO!」国会前で集会(毎日新聞 2015年07月24日)「アベ政治を…」あの筆文字プラカード、コンビニで拡散(朝日新聞デジタル 2015年7月19日)秘密法施行、やまぬ反対 うねる群衆「民主主義って何」(朝日新聞デジタル 2014年12月11日)「安倍政権NO!」首相官邸、国会周辺で7万人が大抗議 警察の過剰規制に立ち往生する参加者も 2015/07/24 )


 上記のような大規模デモの光景は、私から見ると、どこかしら宗教性を帯びており、プロテスタントのキリスト教界の集会を知っている人にとっては極めて懐かしく、まるでどこかで見た風景だ。マイクを持って汗を流し、涙したり、怒りにまかせて叫んだりしながら、熱演する説教者。足りないのはその後ろでムードを盛り立てる音楽バンドくらいだろう。

 SEALDs主催者がプロテスタント教会と関わりがあることはすでに述べたが、日本のプロテスタントの大規模集会の走りとなったのは、やはり1993年全日本リバイバル甲子園ミッションだろう。(写真の出典:All Japan Revival Mission

 


 
この愚かしい集会と、「リバイバル」を巡る聖霊派の空騒ぎについては話を繰り返すまい。1993年からかれこれ二十年以上が過ぎたが、今もってリバイバルなどどこにも影も形も見えはしない。こうしたリバイバル集会は、甲子園ミッションの後も、規模は異なるものの各地で繰り返されたが、決して彼らの期待しているような日本全国のキリスト教の覚醒運動にはつながらなかった。要するに、クリスチャンの自己満足的な情熱、一過性の感奮、何の結果にも結びつかない「お祭り騒ぎ」、もしくは現実の諸問題からの目くらましとして終わって行ったのである。

そしてそもそも聖書は神の国を大規模な地上的な王国とはみなしていないこともすでに述べた。こうしたリバイバル運動は、キリスト教の装束を身にまとっているだけで、実際には聖書の指示しているベクトルと全く逆なのである。

このリバイバル集会のような大規模集会の基礎を作ったのは、ペンテコステ運動であろう。歴史をさかのぼり、20世紀のペンテコステ運動の最大の功労者と言われたのはキャサリン・クールマン(悪評高いベニー・ヒンの師)である。ペンテコステ運動は、20世紀初頭に異言や聖霊のバプテスマや奇跡的癒しなどを強調して、社会から打ち捨てられ、虐げられた弱者の解放運動の性質を持って始まった。クールマン女史も高校中退者であるなど、この運動の指導者も支持者も共に早急な助けを必要としているような、貧しく無学な労働者階級が多かった。高度な知性や教育を受けていなければ理解できないような、難解な教理に基づくメッセージよりも、超自然的な癒しや奇跡といった「地上的なパン」、集会から得られる感動がある種の売り物となって、貧しい人々や病める人々、困窮している社会的弱者を惹きつけたのである。

 

プロテスタントにおける大規模大衆伝道の形態は20世紀にマスメディアと共に発展を遂げた。以下は、オリーブ園古典ライブラリーに掲載されている、1923年にカナダのアルバータ州エドモントンで開催されたチャールス・プライスの集会。約12,000人が出席したという。超自然的な癒しを強調する聖霊派のリバイバルと同じ流れにあることが分かる。


 
以上の写真は、最近の大規模デモが全てどこかしら宗教性を帯びているように見受けられ、計画的に行われているように見えることを示すために、また、ひょっとすると、これらはすべて現実には決して存在しない希望をあたかも存在しているかのように見せかけ、大衆を欺くための壮大な舞台装置、フェイクである可能性があることを示すために引用した。むろん、参加している人々はそんなことには気付いておらず、利用されている可能性がある。

ついでにもう一度。

以下はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒でありながら、身元を隠してKFCでメッセージをしていたBr.Taka。これもまた聴衆を欺くフェイクであった。クリスチャン・トゥデイの記事では、同信徒が以前からプロテスタントお決まりのホームレス伝道・路傍伝道などの弱者救済運動に熱心であったことが示されている。
 

さらに、「救済者になりたい人々」の記事で紹介した、統一教会の機関紙を飾る安倍首相。あたかも国を救う救世主のごとく登場している。首相のスピーチも牧師のメッセージによく似ていると感じるのは私だけだろうか。


こうしたことは、主義主張や宗教や思想の枠組みを超えて、すべて背後で一つである可能性がある。人の抱える弱みや問題や、虐げられている弱者をうまく利用すれば、野心を持った人間は簡単に自分を救済者と見せかけることが可能である。そのようにして、自分の悩みや怒りを受け止めてくれ、助けの手を差し伸べてくれそうな誰かのもとに、人々は蟻のように殺到し、集まっていく。そこでは、問題を分かち合うことが出来るので、「自分は一人ではない」と感じることができ、弱者同士の連帯は心地良いだろう。

だが、それは現実を忘れさせ、今、本当に何が必要なのかを考えさせないための目くらましであり、偽の希望、一種のお祭り騒ぎではないだろうか。ひとときの熱狂の末に、期待していたような成果は何一つ残らずに、人々は失望させられて、時間と労力だけが浪費されて終わって行くのではないだろうかと思われてならない…。

弱者救済という美しいスローガンを掲げ、弱者同士の連帯を呼びかける大規模集会に流されることなく、今、何が必要なのか、一人一人が冷静に静まって考え、現実的に準備しなければならない時ではないだろうかと思う。

"人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し 
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします。

即ち人にある宗教性には ある時間と場所を定め 
そこに「立派な礼拝」を構築したいとする強い願望があるのです。


更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で 
この地上に自分達を根付かせ自分達の名を高く掲げたいと言う 
人本来の宗教本能
が働いている
のです。

その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、
私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると


<中略>

これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。

そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう。

そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する
「地に住む」(原文では「地に座る」)と言う
人の奥底に居座る根深い 願望なのです。

それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。


教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて
出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。

教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。
私達は単に 寄る辺無き 何も持たない「やもめ」でなければならないのです。

わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22) "

疎外されし者たちの復讐の哲学~抑圧された社会的弱者や被害者の内に神を見いだす危険~

「抑圧された弱者のクーデター」の構造は、ちなみに、ウクライナの政変にもあてはまる。むろん、ロシアとウクライナとの間では様々な抗争が行われて来たので、一概に、ロシアだけを弁護するつもりは私にはない。

だが、明らかに、現在のキエフ政権は正当なものではなく、その未来も決して明るいものとは言えない。ウクライナは言語的にも文化的にもロシアとルーツを同じくしており、そもそもロシアとは切っても切れない関係にある。ロシアと戦ってもウクライナは何ら利益を得ることがない。

にも関わらず、ウクライナは「ロシア=強者=悪者」、「ウクライナ=抑圧された弱者=善」とする作為的で浅はかな二項対立の図式に陥れられてしまい、選挙で選ばれた大統領を追放して、自ら兄弟国であるロシアに敵対するに至った。その結果、ウクライナの主要な産業は破壊されて今日に至っている。

この争いの伏線は何年間もかけて用意されたものであり、初めはウクライナの輝かしい自治、民主化運動に見せかけてのナショナリズムの動きとして始まった。

ウクライナの人々がオレンジ革命に沸いていた頃、まさかその結果が現在のようなものになるとは人々は考えてもいなかったろう。だが、ナショナリズムの形をした被害者意識が、現在の闘争へと結びついたのである。

それは、ウクライナを「長年、ロシアに抑圧されてきた被害者、弱者」とし、ロシアを「抑圧した強者=悪者」にすることで、脱ロシア化を成し遂げさえすれば、自分たちは解放されるという政治的な「弱者救済の思想(?)」がウクライナに広がった結果である。

しかし、これに先立って、ペンテコステ運動がウクライナに侵入していたことを私はすでに述べた。論理的には決して証明することはできない相関関係であるが、私はこの政治的な流れと宗教的な流れに何かしらの類似性もしくは共通点が見出せるのではないかと考えている。

それは、日本に目を移せば、このペンテコステ運動というものはどうにも、被害者意識を人に感染させるという効果があるような気がしてならないからだ。この運動は、関わった人々を「悲劇のヒーロー(ヒロイン)としての社会的弱者」や「被害者」に変えてしまう効果がもともとあるように思われてならない。

それは、キリスト教界に蔓延するカルト被害者運動を私が批判し始めてから、あまりにも多くの被害者意識に固まった信徒たちから壮絶な攻撃を受けたことによって生じた気づきでもあった。

むろん、カルト被害者の中にはそんな風に攻撃的でない人々の方がどちらかと言えば多い。だが、そういう人々でさえ、自らの傷ついた被害体験を否定されるようなことが起きると、反応が全く変わってしまうのである。

ある意味、被害者性や弱者性というものが、被害体験を通して人格の中核にまで入り込み、アイデンティティに深く浸透してしまっていることの危険性を感じる。仮に人生で短い期間、キリスト教界に関わっただけであっても、そこで受けた影響が、人格の中核にまで入り込み、生涯、「弱者性」、「被害者性」から抜けられず、これを売り物にしたり、自分を守るための隠れ蓑にしてそこに居直るという結果を生んでいくのである。

いわば、そのような「被害者性」を主張し続けている限り、人は自分で最も憎んでいるはずのカルト牧師と生涯、離れられない縁を結んでしまうことになるのだとも言える。「被害者性」という弱みと手を切らない限り、身体はキリスト教界を出ても、心はいつまでもそこから抜けられないのである。

私はこのような「弱者性」や「被害者性」なるものが、大変厄介な曲者であることをすでに幾度も述べて来た。結論から言えば、大きな被害体験を受けた人に私も同情しないわけではないが、人はいつか「被害者」であることをやめて、健全な自立した人格を取り戻さなければならない。それこそが目指すべき目標である。
 
だが、「被害者性」や「弱者性」を主張しながら、同時に「自立」を目指すということは不可能事だ。自分を一方的な被害者とみなし、加害者のみを責めながら、もしくは自分の被害体験のゆえに、人から同情を乞うという生き方を続けながら、真に自分の言動に完全な責任を負うことはできない。むしろ、そこには他人だけを悪者として責め、自分は責任を放棄するという非常に心地よい誘惑がある。

(たとえば、「ロシアが悪い、ウクライナは正しい」とか、「悪徳カルト牧師が悪い、被害者である私は可哀想だ」と叫んでさえいれば、国や自分の生活が良くなるかと言えば、そんなことは絶対にない。にも関わらず、そう叫ぶことによって、正しいことを主張している気になり、自分が人生で直面する問題に自分自身の意思で直面する力がますますなくなっていくのである。)

さらに、「被害者」を自称している限り、結局のところ、人は新たな「偽の救済者」につけこまれる隙を自ら作っているにも等しい。「私は被害者です」と主張している時点で、すでに救済を待っているのだとさえ言える。もちろん、神は救うことができる。癒すこともできる。だが、見えない神ご自身ではなく、目に見える人間に弱みを告白し、助けを求めると、容易に依存関係に陥ったり、利用される隙を与えてしまうのである。

同様に、私は病の中にある人々にも、信仰によって病と決別し、真の健康を神に求める必要性を語ったことがあったが、時にはそのために猛反撃にあったこともあった。病人への同情心がないからこそ、そのような「残酷な発言」ができるのだというわけである。そのような体験から、私は被害者や病人の中には、同情を得られなくなるくらいならば、いっそ健康も自立も要らないと考えている人々がいることを知った。

「弱者」や「被害者」を自称する人々の中には、自らの弱みが未来永劫、絶対に克服されてほしくないと願っている人々も一部存在するのだ。なぜなら、その弱みがあればこそ、彼らは自分を正義の担い手で、とても健気で美しい人々のように見せかけることができる。弱みがなくなってしまうと、同情票が集まらなくなるし、弱者同士の連帯の中に逃げ込むこともできなくなって、一切のハンディキャップなしに、他の人たちと同じ一般人として、一人前の責任を負わなくてはならなくなるからである。

真の自立に至るためには、人に助けを乞うたり、哀れみを乞うような弱みを持たずに、他人の助けに依存せずに、自分の言動のすべてに自分で責任を負うというハードルを越えなければならない。それは依存や、同情されることに慣れている人にとってはかなり厳しいことである。「弱者性」や「被害者性」と決別し、これらの都合の良いアイテムを手放すことは、ある人々にとっては非常に難しい選択なのである。だから、そのような人々は、たとえ口では自立を目指しているように述べても、弱みを自分の長所や美徳のように握りしめ、抑圧された過去を美化し、自分の全ての無責任行為を覆い隠す免罪符のように弱者性や被害者性を利用して、自分を守る正義の盾として振りかざすことの快適さを手放せない。そのようにして、本人がその弱みを美しいものとして握りしめ、歓迎していればこそ、「被害者性」や「弱者性」がアイデンティティの中核まで浸透して、その人の人格と結合してしまうという出来事が起きるのだと考えられる。

さて、話を戻そう。

最近、沖縄の問題に詳しい人と語り合う機会があったが、その人は沖縄県民がようやく自ら声を上げるようになったことを前向きに評価しており、翁長知事に大きな期待をかけていた。

確かに、沖縄県民が自ら声を上げ始めたことは評価に値すると言える。だが、私は残念ながら、決して現在の沖縄県民の展望に楽観的な未来を見出していない。それは、カルト被害者救済活動の最大の激戦区が沖縄なのだが、そこにいるクリスチャンたちが、未だに被害者運動から完全には脱却できていない現実からも推測できる。

カルト被害者らは、被害者を都合よく利用して自らの名声を築き上げようとしている偽りの指導者たちの悪質さをよく知っている。沖縄の被害者こそ、こうした指導者らによって、最も激しい争奪戦に巻き込まれて分断されて来たのである。にも関わらず、多くの人々がこうした偽りの指導者を公然と糾弾し、訣別することができないでいるのは、被害者同士が分断されて争わされることを避けたいと願っているためである。だから、多くの被害者は、カルト牧師を非難しても、被害者を利用して名声を築き上げている偽りのアンチカルト似非救済者を非難することがない。

だが、私は思う、カルトもアンチカルトも同一であることを真に理解し、この双方と決別し、誰にも頼らずに自ら立ち上がるという真の自立に至らないことには、沖縄県民のクリスチャンにも(むろん本土のクリスチャンにも)、決して本当の意味での解放はやって来ないだろうと。

そのことは政治的な局面にもあてはまるような気がする。沖縄県民から圧倒的な支持を受けている翁長知事に関して、植草一秀氏がかねてより記事において疑念を投げかけている。だが、抑圧された沖縄県民への同情が大きければ大きいほど、彼らに支持されている翁長知事に疑いを投げかける行為は、批判の対象となりかねない。「あなたは翁長知事を疑うことにより、沖縄県民をさらに分断することを狙っているのか」と。

しかし、そこには、カルト被害者救済活動と同じ構図があるように見えてならない。虐げられている社会的弱者を利用して、弱者の圧倒的な支持をとりつけさえすれば、弱者を救出するという美しい名目で、支援者は自分を正義の味方のように見せかけ、絶大な権力と名声を手にすることができる。その上、「被害者救済」の美名を盾に、自分に対する異論を封じ込め、反対者を排除することも可能なのだ。

翁長知事がどのような人物であるかという前に、すでにそのような合理的な疑いを排除し、異論を唱えさせない空気そのものが大変危険なものであると言える。少なくとも、地方政府のトップという要職にある以上、知事のすべての行動は市民から厳しく監視されて当然である。権力を持つ者であるがゆえに、常に合理的な疑いと批判にさらされなければならない。にも関わらず、「被害者救済」、「弱者救済」の美名のために、その合理的な疑いまでが排除されるようになる時、現時点では、まだ何も起こっていないように見えても、すでに十分に危険な状況が出来上がっているのだと言える。

繰り返すが、政治問題も被害者運動も同じであり、誰か優れた大衆指導者が現れて自分たちの問題を率先して身に引き受け、解決してくれるだろうという期待を完全に捨てない限り、そして、そういう大規模運動に頼らずに、自分たちの問題は自分たちで解決するという新たな方法を取らない限り、以前と同じ裏切り行為が繰り返されるのではないかと懸念されてならない。

最近、突然、安倍政権批判運動として浮上して来たSEALDsに関しても同様のことが言える。ホームページを見る限りでは、これはもともと大学の小さな集まりに過ぎないものであったように見えるし、その前身である特定秘密保護法に反対する有志の会(SASPL)であった頃にはまだそれほど多くの人々に知られてもいなかった。にも関わらず、短期間でのこの圧倒的な動員力は何だろう。多くの大人たちが、若者が反骨精神によって立ち上がったことに感動し、彼らのデモの「カッコよさ」に心打たれ、ひきつけられるようにして国会前に詰めかけている。

だが、どう考えても、この急速な流れには何かしら作為的なものを感じざるを得ない。そして、この運動の設立者の学生の一人である奥田愛基(あき)氏はバプテスト教会牧師の息子であるという。プロテスタントのキリスト教界は効果的な大衆伝道の技術を持っていることはすでに述べたので、おそらく、同氏は子供のころから教会でそれを学んで来たものと思われる。それを学生運動に転用することは難しいことではない。

だが、何度も述べて来たように、聖書のベクトルは決してそのような運動とは一致しないのだ。聖書の目指すベクトルは、ある特定の限定された時空間や、特定の人物のもとに大衆を「観客」として動員するという方向に向いていないからである。むしろ、そのような動きはにせ預言者、にせキリストの働きとして、バビロンに通じるものとして危険視されている。

「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24:4-5)
「そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」(マタイ24:23-24)
 
さらに、大規模伝道の在り方だけでなく、権力の横暴に立ち向かうデモの精神そのものも、奥田氏は父親の牧師から学んだに違いないと思われる。そこで、SEALDs主催者の父親である日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会の奥田知志牧師について調べていたところ、ふと、本棚に目をやると、家人がいつぞや私に送って来た同牧師の書物が偶然のように目に入った。

「もう、ひとりにさせない」、奥田知志著、いのちのことば社、2011年
 
見事なまでにタイムリーにこの牧師の本が手元にあったので開いてみた。未だキリスト教界に深い関わりのある家人の勧めてくる本はこれまでどれもこれも私の疑惑の対象となって来たが、この本も実に怪しげなタイトルである。

なぜかと言えば、これもまた聖書のベクトルとは真逆の意味を持つタイトルだからである。

ザミャーチンのアンチユートピア小説に『われら』というものがあるが、この著書のタイトルもそれに通じるものがある。「もう一人にはさせない(=もうあなたは一人ではなく、我々は一つである。私たちはみな連帯しており、孤独ではない)」と、タイトルは著者が「わたし」(単数)ではなく「我々」(複数)であることを告げている。

つまり、自分は孤独ではなく、一人ぼっちではない、我々は皆一緒なのだ、ということを宣言し、それをまるで悪夢に寝つかれない子供をあやす子守歌のように、自分を安心させる自己暗示の呪文のように言い聞かせているタイトルなのだ。
 
それは一見、同情に満ちているようでありながら、結局、聖書の目指す方向性とは真逆なのである。聖書を見れば、歴代預言者も、信仰者も、常に一人で旅立って行った。誰からも理解されず、嘲笑や蔑みしか受けられない中で、神だけを信じて、人からの理解や同情をあてにせず、まだ見ぬ都へ向かって孤独に旅立って行ったのである。
 
それに引き換え、神に最も憎まれる堕落・腐敗した一大教会であるバビロンは言う、「私は女王の座についている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない」(黙示18:7)と。つまり、真の教会であるエクレシアが象徴的な意味では、常にやもめのように孤独で、理解を得られず、一人であるのに対し、バビロンは常に複数であって、孤独を知らないのである。

(そして、私はこの「孤独ではない」というバビロンのつぶやきを、被害者性や弱者性を軸にした弱者同士の連帯の中にも見いだすのである。)
 
さて、上記の著書を開くと、奥田氏が青年期に、釜ヶ崎のホームレスの人々の限界状況を目撃したことにより、キリスト教の牧師になることを決意したくだりが目に入る。
 
関西学院大学の神学部に在学していたかつての二十歳の奥田青年は、未来の年越し派遣村よりもさらに悲惨な釜ヶ崎の現状に心を刺し貫かれる。そして、それが彼の生涯を左右する「原体験」になっていく。

「一九八五年、労働者派遣法が成立する。当時釜ヶ崎では、この法案に反対の声があがっていた。法律は、専門職に限って派遣を認めるという内容だったので、建築現場の日雇労働者には直接関係ないように思われた。しかし釜ヶ崎のおやじさんたちには、いわば「認識論的特権」のようなものがあって、敏感にその法律の危険性を察知していた。当時の日雇労働組合が配布していたチラシに、「全国寄せ場化」という言葉があったことを覚えている。残念ながらこの直観は的中し、一九九九年派遣法は自由化され、非正規雇用問題は全国を席巻した。「景気の安全弁」は、現在では派遣労働者に対して使われている言葉だが、八〇年代以前から寄せ場の労働者は、まさに景気の安全弁として利用されていた。

「日雇殺すにゃ刃物はいらぬ。雨の三日も降ればよい。」重層的下請け構造が生み出す、無責任で不安定な雇用は、釜ヶ崎の労働者を常に危険と死にさらしていた。実際、多くの人々が路上でいのちを落としていた。当時市内の行路死者数は、二〇〇人を超えていたと思う。

冬場、越年越冬の闘いが始まる。年末年始の最も寒い時期、仕事にあぶれた多くの労働者が路上に投げ出される。極寒の公園の片隅で野宿する人々は、常に死と隣り合わせの状態に置かれていた。センターに一夜の寝場所を求めて数百人が並ぶ。当時は、地区内にシェルターはなく、センターの軒下にふたり一組となって布団に入る。小さな布団を分け合い眠る。靴もジャンパーも着たまま。

 翌早朝、私は皆を起こして回り、起きた人から仕事を探して動き出す。
 ある日のこと、起きてこない人がいるので様子を見に行った。すでに相方は起きて、どこかに行ってしまっていた。「おじさん、もう朝ですよ」と声をかけるが応答がない。慌てて布団を剥ぐ。すでに亡くなっていた。それが現実だった。

 冬の雨は大敵だ。雪なら払い落とせもするが、雨は全身に染み込み体温を奪う。寒さをしのぐために酒を飲み眠る。そこへ容赦なく雨が降り続く。ある晩、公園で人が倒れていると聞き、リヤカーを持って雨のなか出かけた。水溜りのようになった公園の片隅、倒れ込むように眠っているおやじさんに、「大丈夫ですか」と声をかける。応答なし、数人がかりでリヤカーに乗せる。寒さのため、体が固まった格好のまま持ち上げられたおやじさん。その全身から雨が滴となってしたたり落ちる。その滴が公園の薄暗い水銀灯に照らされ、不気味に光っていた。

 二十歳の私には、大きな衝撃であった。「この現実は何なんだ。」それまでの「常識」の一切が、崩れ落ちていった。「平和で平等な社会」はそこにはなく、人間が労働力として使い捨てにされていく、歪んだ社会の現実があった。ただ、それは釜ヶ崎だけの問題ではなく、まさしく日本社会そのものの問題だった。大学生である自分が問われたことを思い出す。」(同上、pp.20-22)

 私はこれまで、カルトや異端の教会に入信したり、その後、脱会後にも、カルト被害者救済活動に生涯を捧げたりする人々、または、牧師になって他の人々を救済することを生涯の職業とすような人々には、何かしらの共通する「原体験」があるのではないかという推測を以下で述べてきた。

 それはつまり、幼い頃、もしくは青年期に、その人自身が巨悪の犠牲とされるか、もしくはそのような痛ましい現場を目撃させられたことにより、自分は巨悪による犠牲を食い止めることができなかったという無念、無力感が心に焼き付けられ、それが強烈な原体験となって、巨悪の犠牲にされる人間を救わなければならないという使命感や、救済の思想へと結びついていくのではないかという推論である。

 そのような精神的土壌を持った人は、世直しや人類救済を唱えているカルトに極めて惹かれやすい心を持っており、また、脱会後も、キリスト教の牧師になるなどして、依然として、同じような発想に基づいて救済活動を延々と続けていく傾向が見られる。

 だが、そのような救済は、本当は過去の原体験によって傷ついた自分の痛みを癒すために行われているものであり、真の意味で他者の救済ではない可能性がある。傷ついた自分の心を過去にさかのぼって癒せないので、その代償行為として、絶え間なく他者を救済し続けなければ落ち着かないという強迫反復に駆り立てられているだけである可能性がある。もしそうだとすれば、それは自己救済の試みであって、他者の救済ではない。そして、そのような強迫反復に支配される親に育てられた子供も、同様の思いに支配されて、カルトに入信したり、もしくは何らかの世直し的な救済事業に飛び込んでいく傾向があることもすでに述べた。

 奥田牧師の場合、彼が釜ヶ崎で目撃した悲惨な光景は、同氏の「原体験」として生涯を左右することになる。その限界状況は、一体、神が存在しているならば、なぜこのような理不尽や悲惨がありうるのかという、神への疑問、神への怒り、不満へと結びついていく。

「何人もの人々が路上でいのちを落としていく。生きている人も、人間としての尊厳を剥ぎ取られ続けている現実。そんな彼らの前で祈ることは、むなしく思えた

「神がおられるのなら、なぜこんなひどい現実を放置されるのか?」「そもそも神などおられるのか?」「神は、どこにおられるのか?」それが二十歳の私の正直な問いであった。絶望的な現実は、「神不在」を証明しているかのように私には思えた。信仰が揺らぎ、希望も愛も揺らいでいった。その私の底なしのむなしさは、怒りに転化されていった。人民パトロール(労働者と一緒になってデモをする)に参加し、襲いかかる機動隊に怒りをぶつける。しかし、満たされることはなかった。「信仰」に空いた穴は、さらに大きく深くなっていった。」(pp.22-23)

 釜ヶ崎の現実は、将来の牧師の心に「神はどこにおられるのか。どうしてこの現状を放置しておられるのか」という巨大な疑問を生じさせた。これに対し、奥田氏はどのような形で答えを得たのだろうか。同氏は大学の授業でユダヤ人作家エリ・ヴィーゼルの『夜』を紹介されて読む。

「ヴィーゼル自身は、ユダヤ教の信仰に立ってこの小説を描いている。しかし当時の私にとっては、十字架の神、イエス・キリストを理解するうえで、しかも釜ヶ崎に象徴される現実の世界のなかで神を理解するうえで、大きな示唆を与えてくれた本だった。」(pp.23-24)


 そして、同氏はヴィーゼルの著書の中から、アウシュヴィッツ強制収容所で発電所を破壊した罪のゆえに三人のユダヤ人が大勢の見物人の前で見せしめに処刑されるくだりを紹介する。三人のうち一人はまだ子供で、絞首刑にされてから息絶えるまで三十分以上もの時間が経過せねばならなかった。その残酷な場面を目撃していたヴィーゼルの後ろで、「神様はどこだ、どこにおられるのだ?」と幾度も問う人がいる。ヴィーゼルは心の中でその問いに答える声を聞く、「神はここにおられる、ここにいて、絞首台に吊るされておられるのだ」と。

 私はこのような思想は、キリスト教の教えに反することを再三にわたって述べて来た。解放神学や、サンダー・シングを分析した時にも、これと同様の見解がそこにあることを述べて、それはキリストの十字架の正しい理解ではないことを示してきた。

 つまり、そこには、キリストを「抑圧された罪人らの神」として描き、キリストの十字架を罪人らの破滅に同化させることによって、神を人間の方に引き寄せ、聖である方を我々人間と同じ罪人のレベルにまで引きずりおろし、神を罪人に同化させてしまおうとする巧妙な試みが行われていることを示した。

 すなわち、罪がないにも関わらず、罪人の身代わりとして十字架にかかられたところに、キリストの叫びがある。だが、それは罪ある人間の叫びとは種類が異なるものなのである。どんなに無垢に見える子供であっても、人はみな罪を負っており、それゆえ、悪魔の支配するこの世で翻弄されており、罪の結果としての滅びは免れられない。神の前にはそれを理不尽だと主張することはできない。滅びから脱するためには、十字架の贖いが必要なのであり、神の救いなくして、人がどんなに理不尽を主張しても、破滅の運命を変えることはできないし、滅びゆく人間が残酷な死を遂げたからと言って、その死をもって他人の罪を贖うこともできない。

 しかし、キリストは罪ある人間とは異なり、罪なくして人類の身代わりとして十字架にかかられた。そこにキリストの叫びがある。従って、キリストの十字架上の叫びは、この世において、自らの罪のゆえに混乱や破滅に直面している人間の叫びとは種類が異なり、両者を一緒くたにすることは決してできないのである。まして、罪人らの死を何か尊い犠牲や、贖いであるかのように主張することはできない。

 だが、サンダー・シングや解放神学のような思想では、人はみな生まれながらに罪人であるという点を無視して、罪人の破滅にキリストの十字架を重ね合わせることによって、生まれながらの罪人に憐れみを施し、人の破滅は罪の結果であるという聖書の事実を覆い隠してしまう。そして、神は罪人を憐れむがゆえに、十字架を通して自ら罪人に同化したのだと主張して、神を罪人のレベルにまで引き下げ、逆に罪人をキリストのレベルに引き上げる。そして最終的に、理不尽に苦しめられているように見える社会的弱者の中に神を見ることができるのだという結論に至りつくのである。

 このようにして、キリストの十字架を罪人の悲惨な死に重ね合わせると、キリストの十字架からは人類の罪の贖いのための身代わりの死、悪魔を打ち破った神の正義の判決という意味が消えてしまう。むしろ、キリストの十字架は、罪人の当然の死や破滅と何ら変わりなかったことになり、それは神の不当判決であり、理不尽の極みだったということになる。

 そうすると、必然的に、罪なきキリストを罪人と同じように罰した神は理不尽だったという結論に至り、十字架から罪の贖いや、救いとしての意味が消え去ってしまう。残るのは、ただ神の不当判決、絶望であり、十字架は罪人への同情にはなり得ても、悪魔に対する勝利ではなくなってしまう。そして、信仰を持たない罪人の死をキリストの十字架上の死と重ね合わせ、生まれながらの罪人の中に「神」を見いだすことにより、結局、人は十字架の贖いを経なくても生まれながらに神を宿しているのだという結論(グノーシス主義)に至るのである。

 ヴィーゼルは奥田氏自身が述べているようにユダヤ教徒であるから、神の御子としてのキリストを認めておらず、十字架の贖いも信じてはいない。そこで、ヴィーゼル氏の見解を、キリスト教徒が取り入れるのは極めて問題があるし、危険である。にも関わらず、キリストへの信仰を持たないユダヤ教徒の神の概念を、そのまま自分の見解に取り入れていることを見ても、奥田氏はあたかもキリストの十字架を語っているようでありながら、実際には、聖書とは全く異質かつ正反対の思想を述べていることが分かる。だが、このことについては後でもっと詳しく述べることにして、今は奥田氏の著書に戻りたい。

「「神様は、どこだ。どこにおられるのだ」は、まさに当時の私の問いであった。ヴィーゼルは、アウシュビッツという地獄でそう問うたのだ。そして、最後の最後でヴィーゼルは、それでも神の存在を宣言したと私には思えた。「神はあの子と共に絞首台に吊るされておられる。」―神の場所が示されていた。「地獄としか言いようのない収容所の絞首台に、なお神がおられると言うことができるなら、まだ希望はあるのかもしれない。」私にはそう思えたのだ。

ヴィーゼルのこの告白は、何らかの客観的事実を示すものではないだろう。現実は地獄のままだったろう。救いはなかったのだ。しかし……。そうであるがゆえに、ヴィーゼルは神の存在をそのロープの先に告白したのだと思う。いや、彼は告白せざるを得なかったのだろう。


 十字架の主イエス・キリストを思う。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」。この絶叫は、神の居場所を私たちに告げている。キリストは十字架において、神なき絶望のただ中におられたと聖書は告白する。到底、神とは結びつかない現実。栄光もない、豊かさもない、平和もない。そのような十字架のキリストを告白する。そもそも聖書の信仰とは、このようなものだ。

 「信じよう。」そうとしか言いようがなかった。「神様がおられる」という確信を得たのでも、その証拠をつかんだのでもない。私にとって現実は混迷を極めていた。神々しい神の姿を思わせる現実はなかった。神を見いだせない私には、「神などいない」と言うことのほうが、よほど「自然で人間的」だった。

 しかし信仰とは、自然でもなければ、人間的でもない営みなのだ。まさに、キリスト信仰とは、断念と服従によって担保される。「神はいない」、「希望はない」――そういういわば、「自然な結論、納得できる結論」はあきらめた。いや、それを認め生きていく勇気が、私にはなかったのかもしれない。

 神が愛であり、希望であり、和解であり、平和であるとするならば、もしその神がおられないなら、愛も、希望も、赦しも、和解も、平和もこの世にはなくなってしまう。正直私には、それが耐えられなかった。はなはだ不遜な言い方ではあるが、「それでは困る」と思った。「そんな現実だからこそ、神はいてもらわないと困る。」当時の私の正直な思いはそうだった。釜ヶ崎の現実は、二十歳すぎの私にとって、そう言わざるを得ないほど厳しいものであったのだ。

 私は、大学三年で牧師になろうと決めた。現実が好転したわけでも、何かそう思わせる「神がかりな事態」が起きたのでもない。現実は一切変わらず、「神はどこにおられるのか」との私の問いは、すでに日常化していた。

 「神はどこだ。どこにおられるのだ。」こんなことを考えている人間が、牧師になることなどできるのか。しかし結局のところ、私が牧師になったのは、生涯を通じてこの問いの答えを探すためである、としか言いようがない。それが、牧師になった理由なのだ。答えは今もはっきりはしない。しかし、混迷がさらに深まる今日の社会において、「神はおられる。いてもらわないと困る」という思いはますます深まり、「神を探す」日々はより忙しくなっている。

 牧師というものは、何かを悟った人ではないだろう。もちろん、すでに神を見いだしている人でもない。信徒も牧師も厳しい現実のなかでもがいており、ただ聖書を頼りに神を探しているのだろう。「神はどこにおられる。」それは、私たちの人生そのものの問いであり叫びなのだ。生きている限りこの問いを、問い続けなければならない。<略>
 
 私にとって牧師とは、この問いを問い続け、神を探し続ける仕事なのだと思っている。また所詮、そんな仕事なのだろうとあきらめてもいる。牧師だから神がわかるとか、見えているなどあり得ない。だから平穏でもない。そもそも世界が平穏でないのに、牧師やキリスト者だけが平穏であること自体あり得ないことだ。「神不在と思われる絶望的な現実であるゆえに、神はいなければならない。」そう告白しつつ、私はきょうも探し回っているのだ。」(pp.26-29)

 読めば読むほどに驚きを隠せない告白である。つまり、奥田氏は、神を見いだしたから牧師になったのではなく、神を見いだせないから牧師になったのだと述べているのである。牧師という職業は、彼にとって、神を探すという哲学的探究を生涯にわたって続けるための試みだというのである。

 この無常感はまるで仏教の修行僧のようではないか。仏陀は死後もまだ修行中なのだというが、この牧師も、生きているうちに神を見いだすことはきっとないものと思われる。(時折、あちらこちらに神を見いだすことがあると述べてはいるが。)

 そもそも、聖書における神とはそのようなものではない。パウロは書いている、

「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖とたちに現された奥義なのです。神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。

 この奥義とは、あなた方の中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:25-27)

「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。」(Ⅰヨハネ4:15)

 キリスト教界の用語では、これを「内住のキリスト」と呼ぶ。どんなに無垢に見える人々でも、どんなに理不尽に苦しめられている社会的弱者であっても、御子の十字架の贖いを信じていない生まれながらの罪人の内に神はおられない。聖なる方は罪と同居することはできないからだ。だが、自分の罪の身代わりとしてのキリストの十字架の贖いを信じ、受け入れた者は、もはや罪赦されて神のものとなり、生まれながらの罪人である自分自身に死に、神に対して生きるようになるので、内に聖霊を通してキリストが住まわれる。

 これをパウロは指し示して、「信仰者の中に住まわれるキリストこそ、私たちにとっての栄光の望みである」と説明している。また、内に住まわれるキリストを通して、「自分のうちに力強く働くキリストの力」(コロサイ1:29)があることも示している。

 ところが、キリスト教界でさえ認めている「内住のキリスト」について、奥田氏の著書には、記述がない。この著書には、神は信仰を通して信じる者一人一人の内に力強く住まわれ、信仰を通して共に働かれるのだという記述が全くと言っていいほどない。それどころか、奥田牧師は神を絶えず自分の「内側」ではなく「外側」に探し続け、そして、未だ見いだせないと告白している。何ということであろうか。教会まで牧会している奥田氏が神を見つけるとしたら、それは自分の霊のうちに聖霊を通して住まわれるキリストではなく、自分の外にいて虐げられて理不尽に破滅に瀕している社会的弱者のうちに見出すというのである。

 また、奥田氏は「…信仰とは、自然でもなければ、人間的でもない営みなのだ。まさに、キリスト信仰とは、断念と服従によって担保される。」と、これまた極めて消極的で絶望的な、反聖書的な言葉を述べている。なんとキリストへの信仰は「断念と服従」によって担保されるという。

 だが、信仰とは何かということは、へブル人への手紙の中に明確に書いてある。

 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

 どこにも「断念」とか「服従」とかいう言葉は出てこない。むしろ、信仰は未来に向かっての希望であり、今現在、望んでいる事柄を未来に向かって力強く「保証する」ものである。従って、信仰とは、同牧師が言うような「断念」とは真逆のものである。

 また、同牧師の言う「服従」とは一体何なのだろうか。

 次の文章を読めば、同牧師が服従させられているのは、釜ヶ崎という限界状況で遭遇した「神はどこにおられるのか」という理不尽な状況下における人類の究極の悲痛な叫びであると分かる。 

「私の釜ヶ崎での活動は、大学院卒業まで続いた。西南学院神学部を経て、一九九〇年、現在の日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会牧師に就任した。今、私は初任地で二十二年目の春を迎えている。釜ヶ崎での出会いから与えられた問いに、今も「服従」させられ続けている。結果、ホームレス支援活動から抜けられない。そして、牧師として教会に集う人々と共に、また路上に生きる人々と共に、「ご自身を隠す神」を探し続けている。「わが神、何ゆえ私を捨てたか」との叫び絶えぬ現場のただなかにこそ、十字架の神がおられることを信じて。」p.34)

 これはものすごい逆説である。カルバリーチャペルに関する記事でも、同様のパラドックスについて書いたが、それ以上のパラドックスがあるように思う。竹井牧師も、幸薄い幼少期を過ごし、世の中や大人を信じられなくなり、その絶望から死後の世界のユートピアとしての「ひょうたん島」を制作し、やがて聖霊派の牧師になって、セカンド・チャンスという死後の世界に宣べ伝えられる福音や、(おそらく絶対にやって来ることはないであろう地上天国としての)リバイバルを提唱していることを述べた。

 奥田氏も同様に、神を信じて救われているからこそ、また、神を近くに知って、希望に溢れているからこそ、牧師になったのではなく、実際には、その逆なのだという。誰よりも神を見いだせず、誰よりも神に受け入れられておらず、救われた平安もなく、むしろ、「わが神、何ゆえ私を捨てたのですか」と、神に見捨てられた究極の絶望の叫びを魂から捨てることができないために、この悲痛な叫びを通して、今も神を模索しているというのである。そして、この叫びを共有するために、打ち捨てられた社会的弱者のもとを訪れ続けているというのである。そして、内住のキリストではなく、むしろ、社会的弱者の中に神を見いだそうとしているのである。

 これは神に救われた平安とは真逆のものであり、その根底に流れるのは、自分を見捨てた神に対する不満であり、怒りであり、恨みであると言える。だからこそ、弱者救済の思想は危険なのだ。一見、それは同情や憐れみに満ちた活動のように見えるが、その根底には、「疎外された者たちの復讐の哲学」としてのグノーシス主義が潜んでおり、真の信仰なくして、神の介入なくして、神なきヒューマニズムを掲げて、生まれながらの人類が生まれながらの人類を救済しようとする思想が横たわっている場合がある。そのような思想は必ず、罪の贖いとしてのキリストの十字架の意義を否定し、むしろ、生まれながらの罪人の中に積極的に「神」を見いだすという結論に至るのである。

<つづく>


カインの城壁~弱者救済の旗の下、セルフ教という一大バビロンへ向かって集約されるキリスト教界~

キリスト教界の憂慮すべき事態について書き始めると、必ず「プロテスタントだから駄目なんですよ」と言い始める人々が出現する。 
プロテスタントに絶望してカトリックに去って行ったクリスチャンに出会ったこともある。「プロテスタントは牧師がみんな未熟なのに一国一城の主になる。だから駄目なのよ。カトリックにはそういうことはないわよ」とその人は言っていた。

だが、カトリックにはプロテスタント以上の厳格なヒエラルキーがあり、プロテスタントに起きているような聖職者の腐敗の噂がないかといえば全くそのようなことはない。さらに、以下に記すように、カトリックはすでに同性愛者の結婚まで認めるに至っている。

私がここでキリスト教界という言葉で指しているのは、プロテスタントに限らず、組織としてのキリスト教全般である。
組織としてのキリスト教そのものが、信仰の本質とは何ら関わりのない、人を自由ではなく依存へ、隷従へと導く体系であるということを、これまでずっと述べて来た。

だから、プロテスタントに絶望して他の宗派に去るのは個人的な自由だが、私は宗派替えに解決を見出してはいない。カトリックが良いのか、プロテスタントが良いのか、はたまたギリシア正教ならば大丈夫なのか、といったレベルで物事を考えていても仕方がないものと思う。
 
今や、エキュメニズムも含めて、キリスト教そのものを統一して管理しようという動きも出てきている以上、宗派同士の抗争という観点からではなく、キリスト教全体がどこへ向かっているのかという視点で考えることが必要になる。(結論から言えば、一大バビロンへ向かっているのであるが。)

ただし、キリスト教界の歴史の中で、最新の運動が出てくるとすれば、それはプロテスタントからであるという意味で、プロテスタントも、評判の悪いペンテコステ運動も、分析材料としては注目に値する。特に、20世紀に大きな成功をおさめた大規模大衆伝道のスタイルとして、ペンテコステ運動は先駆的な役割を果たした(これは決して肯定的な評価として述べているのではなく、キリスト教の新しいマーケティング手法を開発する上で、大衆へ効果的に訴えかける大規模伝道の形態を生み出したのはプロテスタントであり、とりわけペンテコステ運動であるということを述べているのである。おそらくは今後も、何かしら新しい大衆伝道の方法が開発されるとすれば、それはプロテスタントから発生するであろう。)
 
プロテスタント教会の不祥事をきっかけに、キリスト教そのものを敵視し、これに対抗する宗教を構築する必要を訴える人々もいると思うが、それにも意味がないと私は考える。戦前の我が国は、キリスト教に対抗する強力なイデオロギー作りの必要性から、国家神道という宗教を作為的に作り上げたが、その結果は周知の通りであった。あるいは、八百万の神を持ち出して、唯一神に対抗させようと試みる人々もいるが、その行き着く先は、後述するように、グノーシス主義である。

だが、もし聖書の真理が誤りでないとすれば、なぜ、キリスト教からこれほど残酷で狂気じみた分裂騒ぎが絶え間なく生まれてきているのかという問題に戻ろう。ここでは、信仰そのものと、組織としてのキリスト教界、人を狂気に導く教義とを区別する必要がある。

私の考えでは、そもそも信仰と神学とは全く相いれないものであり、神学とは有限な人が全能の神を解釈しようとするものであるから、そもそも不可能な試みである。信仰を神学的に解釈しようとすることにも同じように無理がある。

だが、そういう前置きを抜きにして結論から述べるならば、私が最も危険視しているのは、キリスト教の教義から容易に取り出せるメシアニズムの思想である。

メシアニズムの思想とは、一種の歪んだ選民思想に似た誤ったイデオロギーであり、それに感染した人々を、自分は救済者だと信じ込ませ、他の人々を指導する資格があると思わせる傲慢な考え方に変えてしまう。「自分たちは他の人々と違って正しい真理を知っているので、真理を知らずに無知の中をさまよっている人々を悪から救出する資格がある」と思い込ませる効果を持っている。

この思想に感染してしまうと、人は自分たちこそ世界を変える改革者だと本気で思い込み、正義を実行しているのだと確信しながら、他人の内面を強制的に変革する働きに着手するようになる。押しつけがましい説教や、上から目線の伝道、礼拝出席や献金の義務化、改宗者を増やすことを目的に、人の弱みにつけこんで行われる各種の救済活動等…。こうしたことはすべて「自分は真理を知っているのだから、知らないで滅びゆく哀れな罪人を破滅から救ってやらねばならない」という強迫観念にも似た驕りに満ちた義務感に基づいている。

だが、本当はこうなってしまった時点で、これはすでにキリスト教ではない。本来、聖書の原則は、人を救うのは人間ではなく神のみだというものである。にも関わらず、実際には、人が人を救うために必死に奔走している。その上、「救ってやる側(伝道する側)」と「救われる側(伝道される側)」に何かしら格差のようなものも生まれており、それは牧師制度という階級制度の中に結実していると言える。あくまで「教えてやる側」と「教わる側」が教師と生徒のように立場が別れており、上下関係が作られているのである。

人が人を教え導き、救うことができるという誤った救済思想としてのメシアニズムは、キリスト教の教義を都合よく利用すれば、いくらでも作りだすことができる。

たとえば、『カラマーゾフの兄弟』の中で、あれほど見事にキリストと反キリストとの対話を描いたドストエフスキーでさえ、作家の日記の中では、ロシア正教こそが唯一正しいキリスト教であるから、正教のロシアには世界を救う資格があるという考えを熱中して述べているくだりがある。遠い島国に住んでいる我々は、その発想に思わず笑ってしまうが、書いている本人は本気である。

当時のロシア正教では、伝統的にカトリックを堕落したキリスト教とみなしており、その上、本家本元のギリシア正教が異教徒の襲来により倒れたので、今やロシア正教だけが世界で唯一最後に残った正統なキリスト教である(モスクワ=第三ローマ説)という考えが生まれていた。

実のところ、このような「自分たちこそ正統な信仰の持ち主であるから、世界を変革する資格がある」というメシアニズムこそ、危険視されるべきものであると私は考える。

(実際、ロシア正教は他のキリスト教の宗派に比べて、それほど先駆的であったのかと言えば、そのようなことは決して主張できないものと思う。歴史上、ルネッサンスや宗教改革から切り離されたところで保たれてきた宗教である。極言するならば、歴史の発展から取り残されていたとさえ主張できないこともない。にも関わらず、自分たちこそが正統な信仰の持ち主であり、他を改革する資格があるという考えに至るところに、一種の逆転の発想があると言えるだろう。)

そこには、後に(宗教的な装いこそなくなったものの)、ロシアを世界同時革命の発信地としてソビエト政権を成立させる社会主義革命の思想にも通じる思想的基盤があったと私は思う。経済学や社会科学という形を取った救済思想が生まれる前にも、ゲルツェンなどが繰り返し、資本主義の堕落を経験していないからこそ、ロシアには原初的なユートピア的共同体が温存されており、ロシアの農村共同体こそこうした世界の理想的な変革の鍵となりうるといったことを主張していた。

こういった救済思想が、キリスト教よりも、むしろグノーシス主義に極めて近い、逆転の構造(もしくは転覆の構造)を持っていることはすでに指摘して来た。グノーシス主義においては、人であれ、国であれ、原則は同じであるのだが、原罪を帯びた人間は自分で自分を救済することはできないという聖書の原則が否定されているので、グノーシス主義思想では、人間が自分自身の生まれながらのルーツの中に何かしら「神聖な核」を見出すことにより、その一点をもって全体を覆し、全体を聖とし、神に到達することができるという考え方に立つ。(だからこそ、繰り返し述べて来たように、グノーシス主義とはクーデータの発想なのである)

この構造は、時代を超えて様々な思想の中に見ることができる。たとえば、ロシアの農村共同体を核とした革命思想においては、貧しい農村共同体を神聖な核として、これをモデルに社会全体、国家全体、果ては世界全体の構造を変革すれば、世界的なユートピア的共同体を樹立できる、という発想となる。あるいは、貧しい労働者階級に属する社会的弱者(プロレタリアートあるいはナロード)は私利私欲がなく、虐げられた人々は純粋な心の持ち主なので、この人々を未来のユートピア社会の住人にふさわしいモデルとして、現在の体制を打倒してプロレタリアートの国を作るべきという思想が生まれる。

あるいは、カトリックは腐敗し、プロテスタントも腐敗に陥っている今、世界で唯一正統なキリスト教であるロシア正教を核として世界的な宗教改革を起こし、ロシアが世界を救う旗手になるという救済思想が生まれる。他にも、社会的弱者こそ神の国に最も近く救われるにふさわしい人々であると主張した解放神学、ペンテコステ系の教会が中心となりいずれ日本全体にリバイバルが起きるという発想などである。

これらは、時代も発生場所も思想的な枠組みも全て異なるにも関わらず、根底に全く同じ構造を持っていると言える。

こうした思想には、虐げられている弱者、もしくはマイノリティを軸に据えた世界の変革を唱え、マイノリティをマジョリティに押し上げようとする特徴があり、その際、抑圧されている弱者の中に「神聖」を見出すことによって、この転覆行為が正当化される。すなわち、虐げられている社会的弱者、社会で理解を得られず排斥されたり蔑まれたりしているマイノリティを、その弱者性ゆえに、正義の担い手、神聖な人々として担ぎ上げ、このような弱者への同情や、弱者救済の思想をうまく利用して、弱者と強者との関係を覆し、これまで弱者を抑圧して来た強者を罪に定めて抑圧し、弱者によるクーデターを成し遂げようというのである。

話が少し脱線するが、こうしたことは現在、同性愛者の人権擁護なるテーマに関するキャンペーンの中でも盛んに行われている。以下に示すように、昨年から現在に至るまでだけの短い期間を取っても、同性愛者への偏見や差別をなくそうとする極めて積極的なキャンペーンが行われて来た。報道内容はひたすら情緒的・感傷的で、同性愛者がいかにこれまで不当に「長い間、差別されて来た可哀想なマイノリティ」であるか、いかにその偏見と差別が根拠のないものであり、彼らが本当は善良な美しい人々であるかをアピールし、そうであるがゆえに、彼らの人権は保護されなければならず、同性愛者の結婚も堂々と認められるべきだという結論を世間に認めさせようとする作為的なキャンペーンが行われているのである。

だが、ここにはひそかに、これまでの社会のタブーを打ち破って、同性愛者をマイノリティではなく、ありふれたごく普通の人々、いや、積極的に推奨されるべき先駆的な生き方をする人々であるとさえみなし、同性愛という生き方をごく普通のものとして社会に普及させるだけでなく、「例外的な事象」を「普遍的な事象」であるかのように概念を置き換え、「差別されてきたマイノリティ」を「善」とする一方で、「マジョリティ=差別する側」を「悪」とする印象を形作り、同性愛者ではないマジョリティを巧みに悪者にしようとする印象操作が行われている。

つまり、そこで言外に述べられているのは、同性愛者がこれまで差別を受け抑圧されて来たのは、同性愛者でない人々の偏見や無理解のせいだということである。これまで非同性愛者は自分たちの生き方だけが正しいと誇り、同性愛者を不当に追い詰めて来た、だからこそ、同性愛者でない人々はかつての差別的なものの見方を改めて、同性愛者に理解と敬意を示し、彼らの「人権」の擁護に積極的に協力すべきだという趣旨で行われている、いわばマジョリティに罪悪感と贖罪意識を持たせるためのキャンペーンなのである。

(ちなみに、同性愛者の結婚を「先駆的なもの」として讃える趣旨のプロパガンダ記事はいくらでも列挙できるが、たとえば、最近のハフィントンポストだけでも次の通りだ。法王フランシスコ「神は新しいことを恐れていない」 同性愛者の許容案が保守派の反対で立ち消えた翌日に(2014年10月20日 )、「同性愛者はカトリック社会に恩恵」 ローマ法王庁の姿勢に変化(2014年10月14日)、同性愛者軍人への差別禁じる、アメリカ国防省が表明 残る課題はトランスジェンダーの入隊( 2015年06月10日)、同性愛カップルの結婚、京都の寺院が後押し「信条や性的指向は関係ありません」( 2015年06月10日)、ゲイのカップルの愛情あふれる子育て「子供たちは、私たちの結婚を受け入れる」(画像)( 2015年01月19日 )、同性愛者へのヘイトスピーチを叫び続ける男を、群衆が取り押さえた(動画)(2014年10月30日)、男性2人が東京・青山で「自分たちらしい」ウェディング 進化する同性カップルの結婚式 【LGBT】(2014年07月31日 )、「同性婚は合憲」アメリカ、全ての州で合法に ホワイトハウスもレインボーに染まる(2015年06月27日 )、アイルランド、同性婚の合法化に「YES!」 国民投票の結果に歓喜する人々(画像集)(2015年05月24日 )、みんな幸せな気持ちになる。世界の同性結婚式(画像集)(2015年06月17日 ))
 
ローマ法王まですでに同性愛者を許容しているのだという。だが、聖書は明らかに同性愛を認めてはいない。最も顕著にそれが分かる箇所は、パウロが異教徒の性的放埓を恥ずべきものとして戒めている次の箇所であろう。

「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」(ローマ1:26-27)
 
従来のキリスト教界においても、同性愛は長い間、聖書の教えに反する生き方としてタブーとされて来た。にも関わらず、なぜ近年、全キリスト教界が同性愛を許容する方向へ向かっているのであろうか。それはキリスト教界がもとより聖書に基づいていない、聖書とは関係のない偽りの組織(フェイク)だということを考えれば、何の不思議もないことであるが、それを除いても、ここにはクリスチャンたちがより一層、聖書から逸れていくようにと、キリスト教界の総力を挙げて行われている巧妙な「社会的弱者によるクーデター」の構造が仕組まれているのである。

つまり、「社会的弱者への寛容」を説くことによって、これまでのタブーを塗り替え、聖書の常識を逆に悪質なものとして罪定めし、忠実に聖書に基づいて生きようとする人々の考え方を「偏狭で差別的なもの」という印象に変えて、駆逐してしまおうという試みがなされているのである。

同性愛者の権利を高く掲げることにより、聖書に基づいて同性愛を否定する人々に「マイノリティを抑圧する強者」、「悪者」という印象を与え、それによって同性愛に理解のない人々を罪定めし、彼らを逆に「差別と偏見に満ちたマイノリティ」にしてしまおうとする願望が働いている。

そのようにして、「特殊と普遍」、「弱者と強者」、「マイノリティとマジョリティ」の関係を覆してしまうことによって、結果的には、聖書の教えも「特殊な偏見」として駆逐し、パウロが糾弾したソドムの世界を当たり前の世の中に逆戻そうとする、そこに真の目的がある。恐ろしいのは、これをキリスト教界がキリストの名を使って行っていることである。

このような流れの果てには、いずれ、聖書の言葉を引用して同性愛者の結婚に反対しようものなら、「宗教的偏見だ!差別だ!時代遅れな考え方だ!」と非難される時代が来るであろう。非難されるだけならばまだ良い。同性愛に異議を唱えると、「同性愛者を冒涜した!人権侵害だ!」と、告発される時代さえ到来するかもしれない。

同性愛者自身がこのような攻撃的な言動に及ぶことはなくとも、彼らを都合よく利用して、そのような流れを作りたい者たちがいるのだ。

そこにあるのは、カルト被害者運動と同じ構図である。カルト被害者自身が、被害者でない他者に攻撃的な言動を行うことはない。ところが、カルト被害者の「支援者」を自称する人たちが、巧みに被害者を利用して、「社会的弱者を擁護する」ことを口実に、彼らの活動に異議を唱える反対者を次々、弾圧して行くのである。しかもその際、異論を唱えた者は、「被害者を冒涜した」ということで、次々と制裁を加えられ、排除されて行く。
 
だが、「冒涜」とは、神聖なものが冒された時に用いられる言葉である。従って、カルト被害者の支援者を名乗り出ている人々が、反対者を弾圧する際に「被害者が冒涜された」という言葉を用いているのは決して偶然ではない。彼らは「被害者性」や「弱者性」といった要素を「神聖なもの」とみなしているからこそ、この言葉を用いたのである。

さらに話を進めれば、同性愛者を「特殊」ではなく「普遍」のものとして普及させようとするプロパガンダと同様に、犯罪者をも「特殊」ではなく「普遍」のものとして普及させようとするプロパガンダが行われている。この問題を同列に論じるのはためらわれるが、同じように、マイノリティをマジョリティにして行こうとする構図がそこにあるので、述べておきたい。
 
神戸児童連続殺傷事件について、私はこれが少年法を改正して厳罰化を導き出すための国家権力による捏造された犯罪であり、元少年Aの冤罪事件であった可能性について詳しく記事を書いて来た。そして、『絶歌』の出版に関しても、これは国家犯罪の続きであり、見えない「ゲーム」であるという見解を述べて来た。『絶歌』の出版の背景には、「国家を善」、「社会を悪」とみなして、一般大衆に罪悪感を植えつけようとする狙いがあることを述べて来た。そして、世間の多くの人々は理由が明確に分からずとも、この忌まわしい書籍を敬遠していることにも触れた。

だが、次の記事「神戸少年連続児童殺傷事件の加害元少年の手記を受け止められない現代日本社会の闇 by 藤原敏史・監督」の中では、元少年Aの手記とされる『絶歌』に未だ拒否反応を示している日本の世論が激しく攻撃されている。

これを読むと、ひょっとすると本当は、巷で宣伝されているほどに『絶歌』の売れ行きは良くなく、未だ世間も拒否反応を示しており、この書物への関心はそれほど高くないのではないかと思われる。だからこそ、反応の鈍い大衆へのこうした非難記事が登場して来るのではないかと推測される。さらに、この論説では、有名な「A君冤罪説」は全く登場しておらず、考慮もされていない。ただひたすら、この元犯罪者の手記を受け入れようとしない日本社会の一般大衆の偏狭さが攻撃の的にされているだけである。
  
この記事の中で述べられている見解は、私が以前の記事において分析した太田出版と同じ考え方である。太田出版は、このような犯罪者の少年を生み出したのは一般社会であるから、社会(つまり大衆)は自ら生んだ犯罪者の心理に直接、向き合う責任があるとしていた。上記の記事も、これと同じ立場に立って、元少年Aという犯罪者の心理に真正面から向き合おうとしない社会を非難する。そして、この記事は、タイトルにも表れているように、「心の闇」は、もはや犯罪を犯した元少年にではなく、今や、元犯罪者の心理を理解しようとしない「現代日本社会」にあるという結論にまで行き着いている。(=罪の転嫁が行われている。)
 
だが、考えてみればすぐに分かることだが、そもそも、書店に並ぶ本を買って読むか読まないかは、個人の選択の自由である。ある人がある本を読まなかったからと言って、それが読者の「狭量さ」や「偏狭さ」として非難されなければならない理由はない。仮にある作家が「シャーロット・ホームズの冒険」という推理小説を出版して、その本が全く売れず、酷評されたとしても、作家が自らの自信作が売れなかったことを世間一般の意識の低さにかこつけるのは難しいし、見苦しいことである。思うように売れなかったなら、その結果を謙虚に受け止めて反省材料とし、次回はもっと売れる作品を書けば良いだけのことである。もともと推理小説というのも数多くのジャンルの中の一つでしかないので、読者数も限られている。それと同じように、元少年Aの手記も、書店に並ぶ数多くの書物の一つに過ぎず、限定されたテーマに属する読み物でしかない。関心を示すも示さないも読者の勝手であり、そういう犯罪的なテーマにお金を払ってまで時間を取りたくない読者も数多く存在するだろう。従って、この作品に社会があまり注意を払わなかったとしても、だからと言って、「心の闇」という言葉まで持ち出して社会全体を糾弾するのは的外れだし、行き過ぎである。
 
問題は、それにも関わらず、元少年Aの手記を何かしら万人が目を通すべき啓蒙書や教科書のように普及させようとする力が出版の背後で働いていることである。(だからこそ、私は『絶歌』の出版も、国家権力による世論操作の一環であると考えている。)そこには結局、カルト被害者救済活動や、同性愛者のプロパガンダとそっくり同じ構図があるのだ。

つまり、そこには「抑圧されたマイノリティの、自らを抑圧したマジョリティへの挑戦」、もしくは転覆と復讐の構図が意図的に込められているように見受けられる。同性愛者の人権を盛んに擁護することにより、同性愛という「特殊な」生き方を万人が理解を示すべき「普遍的な事例」にまで高めて行こうとするように、元犯罪者という「特殊事例」としての人間の心理を、万人が理解すべき「普遍的事例」のように押しつけようというのである。そのようにすることによって、元犯罪者への偏見を払拭し、彼らをスタンダードにまで押し上げようとする。元犯罪者の少年は今や国家のありがたい法によって人格を矯正されたので、「法によって生きる者」となり、もはや異常者ではなくなった。今となっては、真に異常なのは、犯罪心理を元少年だけのものとして押しつけて彼だけを罪に定めることによって、自らの罪の問題から目を背けようとしている社会の方だ、というわけである。

こうして、罰せられた者、抑圧された者たちが、逆に自分たちは選ばれた者であり、世間一般よりも優れた人間であるかのように主張して、一種の歪んだ「選民思想」を振りかざすことによって、自分を罰した者、抑圧した者に復讐を加えようとする願望がそこには潜んでいるように思われてならない。そのような意図を持った人々が、弱者やマイノリティ、もしくは元犯罪者を巧みに利用して、「特殊」を「普遍」にすり替えるためのプロパガンダを繰り広げているのだと見られる。

だが、そこで作為的に作られた「マイノリティ」と「マジョリティ」の二項対立はそもそも間違っていることに気付く必要がある。たとえば、私は元少年Aは冤罪であり、この事件そのものが少年法を改正して厳罰化を導き出すための国家犯罪であったと考えているが、その仮説をさて置いたとしても、酒鬼薔薇聖斗は犯行声明の中で、義務教育が自分を怪物に育て上げたのだということに言及している。そうであるならば、彼という犯罪者を生んだのは「社会」ではなく、義務教育を普及させた「国家」だという結論になる。そうであれば、犯罪者の心理に向き合うべきも、社会ではなく、当然、国家である。元少年Aの手記を買って読まない世間の「心の闇」を断罪するよりも前に、この手記を霞が関が教訓として買い上げ、教本として学べば良いのではないか。つまり、あたかもこの手記に理解を示さない現代社会に罪があるかのような主張がなされ、社会が悪者に仕立て上げられているのは、本当の責任者がすりかえられているのであって、真の悪者を覆い隠すための全くの責任転嫁なのである。

同様に、同性愛者の生き方に賛同するかどうかも、個人の選択でしかない。同性愛者が差別されてきた原因を非同性愛者にあるとして、両者を対立させることは望ましくない。そして、仮に同性愛者の生き方に同意できない人々がいても、それは個人の信念であるから、偏見や差別、偏狭さとして非難されるべきことではない。にも関わらず、早くも、同性愛者に異議を唱える人々を悪者にするような空気作りが行われているのではないか。

カルト被害者救済活動についても同じである。「被害者」という点をことさらに強調することによって、異論を唱えるすべての人を悪者扱いするような空気を作り上げるのである。すでに述べたように、カルト被害者自身が、被害者でない人を非難したり、攻撃することはない。ところが、彼らの「支援者」を名乗る人々が、「社会的弱者の保護や救済」を口実に、反対者を排除し、異論を述べられない空気を作って行くのである。つまり、同性愛者や、カルト被害者やらといった社会的弱者やマイノリティを都合よく利用して、彼らを支援することが「善」であり、彼らに理解を示さないことは悪であり、罪であるかのような空気を作り、それによって、大衆を分断し、マジョリティに罪意識を抱かせ、異論を封じ込め、反対者を罰することさえ可能にしていく。

このようにして「弱者性」や「抑圧されたマイノリティ」であることを強調し、「弱者性」を美化することによって、彼らの生き様に万人が理解と敬意を示すのが当然であるという論調をまことしやかに作り上げて行き、それに賛同しないすべての人間を排除して行こうとするところに、グノーシス主義的な転覆の思想の真の狙いがある。

実際のところ、そうした「弱者」がこれまで抑圧されたり、虐げられて来た原因については、様々な複合的な問題が絡み合っており、一概に「マジョリティ=抑圧者=悪」という構図を作り出したところで、本当は何の解決にもならない。それはマジョリティにのみ責任がある事柄ではなく、そういう浅はかな二項対立を作り出して誰かを悪者とし既存の価値観を覆したところで始まらない。本当の原因がどこにあるのかについては、もっと深く考えるべき問題である。

しかし、こうした偽りの弱者救済の思想が現れると、本当の責任者は一体、誰なのかという問題はうやむやにされたまま、結局、一般大衆が罪を着せられて分断され、大衆同士が分断されて争うという結果に至らせるのである。
 
そのような目的を見抜けずに、この弱者救済の思想を積極的に受け入れて推し進めて行けば、社会の健全さはことごとく失われるであろう。いずれ、同性愛が普遍的な生き方とされ、酒鬼薔薇聖斗がバランスの取れた標準的な人物だというところまで行き着くであろう。そのようにしたいからこそ、元少年Aの手記を一生懸命宣伝している人々がいるのではないか。文部科学省はいっそ美しい国作りのために森鴎外や芥川龍之介などは除外して『絶歌』を中学校の教科書に掲載してはどうだろうか。

繰り返すが、こうしたことは、人間自身から真の健全さを失わせ、「特殊」なものを「普遍」に置き換え、「異常」なものを「標準的なもの」として人々に受け入れさせるために行われているキャンペーンである。いや、そもそも何が健全であるかという価値判断そのものを、個人ではなく国家や支配層が決めるというわけだ。間違っても、聖書などを判断材料として何が健全な生き方であるかを判断するなということであろう。人権の概念にしても然りで、憲法を基準として何が人権なのかを判断するのではなく、憲法に記載されている基本的人権をないがしろにしてでも、同性愛者の人権を確保することの方が急務だというわけだ。

こうしたことの行き着く先は、バビロンである。

さて、随分、長い脱線であった。話を戻せば、キリスト教界だけに限って周りを見回してみれば、実質的なクーデターには至っておらずとも、その萌芽となりうる同様の思考パターンは至るところに見られる。

ロシア正教が世界を救う唯一正統なキリスト教であるという自負を持っていたことについてはすでに述べた。だが、カトリックも当初、自分たちのみが唯一正しい信仰の担い手であると考えて異教徒の弾圧や異端弾圧のための魔女狩りに乗り出していたし、カトリックから分裂して成立したプロテスタントも、カトリックを敵視し、自らこそが正統な信仰の持ち主であると主張した。プロテスタントは特にその成立当初から分裂で始まっていたので、その後も内部で多重分裂を繰り返し、今や、各教会ごとに独自の教義を掲げて、自分たちこそ正しい真理の担い手であると主張している有様である。

こうした歪んだ救済思想は、いかにキリスト教を装っていたとしても、聖書の理念とは本来、何の関係もないものであり、構造から判断するに、グノーシス主義そのものだと思われる。

だが、こうした思想は、今やキリスト教の枠組みを超えて、世界的な流れへと拡大しつつあるように感じられてならない。一言でいえば、様々な場所で、抑圧された人々が怨念を起爆剤として、「俺様万歳!」、「人間万歳!」、「俺たちにこそ悪を駆逐し、世界を変える改革の旗手としての資格がある!」と叫ぶような発想を生みだしているように思われてならない。場合によっては、それは「日本万歳!」という叫びにもなるであろうし(=ネトウヨ)、何かしら統一的な象徴を持ち出して来て、その下に万人が団結するという未来の新たな宗教の形をとるかもしれない。

いずれにせよ、そこにあるのは、今まで抑圧され、悪とされていた人々が復讐心に目覚めて立ち上がり、強者に抑圧を加え、復讐を果たすという構図である(そこで「強者」とされている人々は真の責任者ではない)。人間の罪や堕落を認めず、自分たちのルーツを神聖なものとみなしたい人々が、今までの抑圧を打ち破って、抑圧された「弱者性」や、自分のルーツ(人の自己)を高く掲げ、神によらずに自分たちの力で自分自身を救済し(自分を抑圧から解放し)、自分たちの手で世の中を望ましく変えて行く力があるという誤った思い込みである。

そのような思想に感染した人々は、自分たちのルーツ(大抵は虐げられて来た負の過去)を美化し「神聖なもの」にまで祭り上げることによって、同じ思想や弱みを抱えた者たち同士で連帯して、一種の集団的陶酔状態に陥る。やがては自己の無謬性を主張して、自分に逆らうすべての者たちを排除するところまで行き着いてしまう。たとえ宗教の形を取っておらずとも、そういう人々はすでに自分自身を「神々」とみなしていると言って差し支えない。
 
彼らは他の人たちの同意なしに、すべてのことを「弱者救済」の理念の下に、社会正義だと言って一方的に成し遂げてしまう。聖書によれば、裁きと復讐は神の領域である。ところが、この人々は常に神に代わって自分たちの手で人を罰し、復讐を成し遂げ、裁きを(私刑を)行う。世界を改革すると言いながら、結局のところ、反対者を次々と粛清し、弱者のユートピアを目指しながら、弱者でさえ生き残れないようなディストピアを築き上げる。

こうした流れの果てに、彼らの願望の集大成として反キリストが登場するのであろう。

最後に、今はもう読むことができないが、以前、救世軍の山谷少佐がブログに興味深い見解を記していたのを記憶している。それは、国家というものは「カインの城壁」であるという説であった。創世記によれば、カインはアベルを嫉妬によって殺し、それゆえ、地をさまよう者になった。自分の罪を人々に見抜かれて殺されないために、カインは自分に危害を加える者に対して何倍もの復讐を誓う。その復讐の思想(自己防衛の理論)が後に発展して、要塞となり、市民を守るための街の城壁となり、武装した国家となっていったのだという。それゆえ、国家のルーツは元来、神に由来するものではなく、悪鬼的なものであるという説であった。

カインはアベルという選民を殺すことによって、自ら選民を詐称し、その嘘が見抜かれた際には自分に危害を加える人間に復讐を成し遂げることによって相手の口を封じるという道を選んだ。私には、こうした悪鬼的な起源を持つ自己防衛と復讐の論理が、およそすべての地上の組織の根拠となっているように思われてならない。それがキリスト教界の組織になったり、カルト監視機構という発想になったり、集団的自衛権の発想にも行き着いているように思われてならない。なぜなら、それらはすべて人類が自己防衛のために築いた砦であり、根底にあるのは復讐の論理だからである。

地上天国を信じている統一教会の信者に率いられる現政権も、それを支持するネトウヨも、結局のところ、同じ思想に導かれている。その背後にあるのは、今まで述べて来た人々同様に、抑圧された自己のルーツに対する不満と、怨念に基づく復讐の論理である。従って、集団的自衛権の発想の背後にも、歪んだ選民思想があることを見落としてはならない。戦後レジームによって抑圧され、誇りを奪われた日本人の世界に対する復讐の思想がその根底に流れている。大日本帝国の誇りを、皇国の誇りをもう一度取り戻したい、そのためにこそ、軍事力が、彼らを罪に定めた世界に復讐するにふさわしい強大な力が必要だというのである。皇国日本が「神聖」だと考えていればこそ、彼らはその欲望を正当化し、日本が自ら神聖な核となって世界の構造を覆すことができるとさえ考える一種のメシアニズムの思想が生まれているのだと言えよう(世界的に戦後レジームを変えてしまおうとする革命思想に等しく、目的は世界制覇である)。

しかし、目を移せば、キリスト教界のペンテコステ系の信徒が唱えているリバイバルにも、同じ構造が見られる。ペンテコステ運動は、伝統的なキリスト教界の中では長い間、疑いのまなざしで見られ、差別され、異端視されて来た。また、ペンテコステ運動そのものも、社会からも教会からも打ち捨てられた貧しい労働者大衆に支持されて始まったものである。この運動の指導者たちも当初から無学な人々が多かった。だから、この運動は初めから、弱者による弱者救済の色合いの濃いものであった。
 
その後、既存のキリスト教界が魅力を失って衰退するのと並行して、大規模伝道の技術を持っているペンテコステ運動はかえって規模を大きくすることができた。彼らの最終目的はリバイバルという世界征服である。それが実現すれば、ペンテコステ運動は、自分たちを差別して来たキリスト教界そのものを飲み込んで、自らを最も繁栄している正統なキリスト教を自称することができるだろう。リバイバルとは、まさにどの異端の宗教も同じように目指している最終目標としての世界征服のアイディアである。ちなみに、八紘一宇もその一つであった。聖書はそのようなものをすべてバビロンと名付けており、神の国は目に見える形で来るものではない(地上的なものではない)とはっきり述べている。

従って、キリスト教の名で目の前に広がっている壮大な光景はすべてフェイクであり、彼らの目指している「救済」もすべて偽りの救済としか言えないのだが、上記したような歪んだ選民思想・グノーシス主義的な偽りの救済思想ではなく、真の信仰も確かに存在するということを弁護するために、見分けるポイントを述べておきたい。

聖書に基づく真の信仰は、決して自分自身や自分のルーツを宣伝することはない。真の信仰者は自分ではなくキリストを証するので、「俺様万歳!」、「弱者万歳!」(あるいは、「自分たちの教会万歳!」、「我が国万歳!」)というスローガンには決して至らない。さらに、弱者性や、被害者性を美化することもしない。まして、自ら裁きを行ったり、復讐したり、私刑を加えることはない。また、自分たちの作り上げた組織だけが正しいとして、そこへできるだけ大勢の人を集め、そこに属さない人々には救いがないと教え、みなを同じ考え方に染めようとすることもない。

信仰とは、そもそも人が人に強制したり、教えたり、押し付けたりできるものではなく、社会から打ち捨てられた可哀想な人々の弱みにつけこんで上から訓戒する「ありがたい教え」でもない。

<つづく>

「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。

――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い物から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31:31-34)