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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画/"MISHIMA"から(終)

・東洋思想の無常観と美の密接な関係 ~命をディスカウントして成立する東洋的な美の概念~
 
さて、かなり駆け足で重要なテーマを見て来た。前回までに記した三島由紀夫に関する一連の分析記事は、これまで書いた記事の中でも、苦労の多い分析であった。

当ブログでは何年も前から、東洋思想が本質的にグノーシス主義と同一であることや、いろは歌や般若心経に流れる無常観がグノーシス主義と同じであることを、記事で指摘しようと試みて来た。それがなかなか形にならなかったのは、グノーシス主義の分析にはかなりの厄介さが伴うせいでもある。

この種の思想は、通常の文章とは異なり、シンボルで出来上がっているため、一つのシンボルの中に幾通りもの解釈が込められ、言葉の後ろにある方程式を読み解かねばならない。その上、詭弁とダブルスピークによって成り立っているこの思想を丹念に解体して聖書と対比しながらその詐術を論理的に証明して行くのはかなり厄介で骨の折れる作業である。
 
そして、そのテーマに関心を払う人も、その作業を遂行できる人も、地上にそう数多くいるとは思えないが、だからこそ、それははかりしれない重要性を帯びた仕事である。この仕事に取り組もうとすると、各方面から激しい妨害が起きて来ること自体、どんなにこのテーマが喫緊の課題であるかをよくよく物語っていると言えよう。

記事は形にまとめることを最優先したため、文章の推敲、修正が必要な箇所は多く、さらなる考察が必要であることは否定しない。だが、そこで触れている一つ一つの事項は、それだけで独立した論文のテーマに値するようなものだ。特に、グノーシス主義における美の概念などについては、それ自体が長大な紙面を割いた考察に値する。だが、今は長大な分析をしている余裕はないため、今回は最後の補足として手短に結論だけを述べたい。

東洋思想は、すべての命がディスカウントされ、死によって脅かされているという危機感の上に成立している。東洋的な美の観念や、「もののあはれ」といった概念も、すべては滅びゆく被造物の無常観によって呼び起こされる情感であり、それは突き詰めて行くと、有限なる被造物の無念(被害者意識)に通じる。

東洋的な「美」の概念は、あらゆる命が死によって脅かされる儚いものであることを前提として生まれる。その意味で、東洋的な美の概念は、死や滅びと密接に結びついており、死と無縁の、死によって脅かされることのない完全な美というものは、この思想の世界観の中には存在しない。仮にそのようなものが出現すると、たちまち、三島の金閣寺のようなことになって、その完全性が憎むべきものとされて排除されるのである。

鈴木大拙は、東洋思想の根底には「母を守る」ことがあると述べたが、そこで言われている「母」とは、脅かされている人類を指す。東洋思想とは、言い換えれば「人類が脅かされている」という被害者意識、また、人類が脅かされねばならないほどか弱い存在であることへの無念を出発点に発生している思想なのである。

だが、この思想では、一体、何によって人類は脅かされているのか? なぜ「母を守る」必要があるのか? 直接的には、「母」を脅かしているのは、死の脅威であるが、さらに突き詰めれば、「聖書の父なる神の脅威によって脅かされている「母=人類」を守らなければならない」というのが、この思想の至上命題ということになろう。

グノーシス主義は、ディスカウントの教えであると言っても良い。ここでのディスカウントとは「本来の価値を値引くこと、尊厳を辱めて貶めること」といった意味である。

グノーシス主義の起源が、聖書の創世記に登場する蛇の教えにあることは幾度も指摘した。創世記で、蛇の形を取った悪魔が、人類に向かって、「神が人類を神よりも劣った存在として創造したことは、神の側から人類に対する不当なディスカウントだった」と嘘を吹き込んだのである。

悪魔のその嘘を信じてしまった瞬間に、人類の価値は値引きされ、その尊厳が傷つけられ、被害者意識が入り込んだ。それまでは神は人類の創造主であり、庇護者であり、まことの主人であったが、悪魔の嘘を信じた瞬間に、神は人類の抑圧者ということになってしまったのである。

ここに、東洋思想の「母を守る」という発想の起源があると言える。その後、人類が悪魔の勧めに従って神の掟を破って堕落したことにより、人類は実際に死という現実的な脅威に脅かされるこようになったのだが、堕落以前から、本当の意味での「ディスカウント」は、人類が悪魔の嘘を真に受けて、神を抑圧者であると考えるようになった瞬間に始まっていた。

悪魔は人類に向かって、人類は創造の初めから、神のもうけた不当な制約のために、いたずらに貶められた存在であり、それに気づいて神のもうけた不当な制約の抑圧の下から抜け出すことなしに自由になれないという偽りの知恵を吹き込んだのである。

いわば、グノーシス主義は、人類が神の形に似せて、神より劣ったものとして創造されたこと自体が、人類にとっての不幸の源であり、人類の誕生そのものが悲劇だと言っているに等しい。実際には、神は人間を創造して、これを見て「甚だ良い」と言われたのであって、その誕生は祝福であったのに、これを抑圧された悲劇に変えてしまったのである。

そのような思想的大転換が起きた後で、人類の思いの中で生じたディスカウントは現実となり、人類は堕落により神から遠く切り離され、創造当初の輝きを完全に失って、神に遠く及ばない存在になり、神のようになるどころか、人間性さえも喪失した。だが、実際に堕落が起きる前に、人類がすでに思いの中で悪魔のディスカウントを受け入れてしまったことに注意しなければならない。

こうして、グノーシス主義においては、まず人類の創造自体が神によるディスカウントであったと事実を塗り替えるところから始まり、その後、すべてのものが「死や滅びによって脅かされている」という危機感や被害者意識を終わりなく生み出していく。

無常観とは、「ディスカウントされている」という被害者意識、無念を基礎として生まれるのであり、そこでは、美意識も含め、すべての価値が、傷つけられ、不完全で、死の響きを帯びている。だが、「すべては有限であり、本質的には無であるが、滅びゆくものだからこそ美しい(=愛(かな)しい)」といった哀惜の情が生まれ、それが美的概念として受け止められるのである。

東洋的世界観では、儚く脆い実体のないものの有限性に対する同情や被害者意識が、美意識や愛情を生んで行く。死に脅かされている被造物同士だからこそ、同情や共感を持ち合い、互いに寄り添いましょうという被害者意識による連帯が、あたかも愛であるかのように錯覚されるのである。

だが、実際には、そこには、真の同情も愛情も存在しない。人間同士が愛情によって結びついたり、同情によって連帯していると見えるのは、ある種の錯覚に近く、この世の滅びゆく存在である限り、人間は自らの欠乏を満たすために他者を利用することをやめられないため、自分の必要を離れて純粋に他者と関わることができないのである。人は最も純粋な愛情が自分にあると思っている時でさえ、その関わりの中には必ず、他者の存在によって自己を満たそう(自分を喜ばそう)とする欲望が含まれている。

人は他者を見ることによって、また、手で触れたり、声を聞いたり、会話したりすることで感覚的な満足を得て、自分が満たされたいと願い、そうした欠乏と関係なく、自分の欲望を一切交えずに、他者と関わりを持つことができない。さらにもっと低い次元では、人は食べたり飲んだりして、外界から物質的な栄養を絶えず摂取しなければ、自分の命を保てない。

このように、人は己が欲望によって外界と関わり、外界から必要を満たされることによらなければ、決して自己存在を保つことができず、満たされても、満たされても、再び飢え渇くだけで、決して飽くことがない存在であるがゆえに、物質的世界の奴隷であり、自己の欲望の奴隷なのである。

本当は、人はキリストと共なる十字架の死と復活を経て、アダムの命に対して死ぬことによって、このようなしがらみに対して死ぬ道が備わっているのだが、神が不在で、被造物だけしか存在しないグノーシス主義には、十字架も、救いもなく、どこまで行っても、その思想の中で、滅びゆく被造物に、物質世界の有限性から脱する道はない。それゆえ、そのような世界観では、人間は自己存在に対して尽きせぬ悲哀を感じないわけに行かないのである。

さらに、グノーシス主義はその悲哀も、間違った方法で克服しようと試みて、さらなる悲劇に陥る。すなわち、人は神より劣った存在として創造されたという「コンプレックス」を自力で解消しようと、アダムの命のままで、自力で自己を高めて「神のように」なろうとし、神に反逆して自分を滅ぼすのである。

本当は、そうなる前に、人が神よりも劣った存在として造られたことが人間の悲劇だという考え方を捨てるべきであり、神の創造を不当なものとみなして、自分の「かたち」を憎み、自分が置かれているすべての状況を神のせいだと考えて創造主と他者だけを責め続ける不毛な堂々巡りから抜け出なければならない。神が人類をディスカウントしているのではなく、人類が自分自身をディスカウントしていることにこそ、真の問題があるのだ。

だが、グノーシス主義者は、どうしても自分を「可哀想」だと考えることをやめられない。彼らは人類を「哀れむべき存在」とみなすことが、人類へのディスカウントであることにさえ気づかず、同情や自己憐憫を美しいものだと考えており、そのことがこの人々が絶えず自己存在をディスカウントされ続ける最大の原因となっているのである。

神の創造そのものに意義を唱えている彼らは、弱い自己を哀れみ、あらゆるものをその被害者意識に染め上げながら観察し、被害者意識と無関係のものを見つければ、早速、それを傷つけることで自分と同じように不完全なものにしようとし、さらに何とかして自分を「神のように」見せかけることで、己の無念を自力で解消しようとする。彼らがしようとしているのは、自分が創造された形そのものに対して意義を唱えること、それを何とかして自分の力で変えることによって神に達することである。

あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。 」(イザヤ29:16)

グノーシス主義化された疑似キリスト教であるペンテコステ・カリスマ運動にも、同様のことが当てはまる。一方では、この運動は、偽物の「聖霊のバプテスマ」を造り出し、その霊を受けることによって、人が霊的に高められ、神のような偉大な存在となれるかのように教える。ところが、もう一方では、この運動の中から、カルト被害者救済活動のような、嫉妬と怨念に基づく破壊的な運動が生まれて来る。

実は、そのどちらもが根底には被害者意識を抱えているのである。カルト被害者救済運動は、表向きはカルト化教会の牧師に立ち向かうとしているが、その本当の敵は、聖書の神であり、正常なクリスチャンであり、神を毀損し、クリスチャンをディスカウントすることに真の目的がある。教会生活の中で心傷つけられて、正常な信仰を見失い、被害者意識を抱える元信者たちが、神に従って生きている正常なクリスチャンを妬み、これを中傷して傷つけることで、自分たちと同じレベルへ引きずり降ろそうとしているのである。

このように、ペンテコステ・カリスマ運動と、そこから生まれて来たカルト被害者救済活動は、見かけは全く異なるように見えても、本質的には同一の運動である。そして、以下に記す通り、そこにはバベルの塔の精神が脈々と流れている。それは自己を神のように高めようとするナルシシズムと、嫉妬と怨念に狂って神とクリスチャンから聖なる性質を奪い取ろうとする二つの側面から成る本質的に同一の運動であり、その運動の根底にあるものはどちらも神に対する嫉妬と怨念と被害者意識に基づく神の簒奪なのである。

こうした運動に関わる人々の心の根底に流れるものは、東洋的無常観と同じく「人間が可哀想だ」という自己憐憫と被害者意識の叫びである。なぜ人間が可哀想なのか? その理由を突き詰めれば、結局、神がそもそも人間を自分よりも劣った有限なる存在として創造されたことが間違っていたという結論になる。いずれにしても、聖書の神が悪いのであって自分たちは悪くないという話になる。彼らは自分たちの罪や弱さをそのままで、何らそれを悔い改めることも反省することもないままに、彼らの存在を哀れみ、被害者意識を慰め、優しく包んでくれそうな東洋的な「慈悲」や「慈愛」や「同情」や「もののあはれ」などの感情に、見境もなく飛びつく。そして、真綿の中でがんじがらめにされて身動き取れなくなるように、同情に見せかけた歪んだ支配の中でますます弱くされて自己を失って行くのである。
 
だが、実際には、そうした偽りの「同情」や「慈悲」といった感情の根底にこそ、人間存在を残酷にディスカウントし、弱さの中に閉じ込める悪魔的な思いが隠されていることに気づかなければいけない。偽りの美辞麗句を弄して人を弱さに閉じ込め、立ち上がれなくさせてしまうこの思想の世界観の異常さに気づき、これを拒否せねばならないのである。
 
同情という感情は、人が自分以外の誰かの弱さや苦しみに直面して初めて生まれる感情であり、逆に言えば、他者が傷つけられるのを見なければ、生まれることもない感情であるため、そこには言外に、苦しんでいるのが自分ではなく他人で良かったという安堵が含まれている。

聖書の神は、人の弱さに同情することのできない神ではないが、神の同情は、単なる言葉や感情にとどまらず、人の抱えるすべての問題に対して、その痛み苦しみを共に担い、分かち合いながら、なおかつ、現実的な解決策を与えてくれる。キリストは、まずはご自分が人の形を取って地上に来られ、人間のすべての痛み苦しみを味わわれ、弱さを体験され、人類のための刑罰を身に背負われた。その過程を経ていればこそ、キリストは人間の苦しみに心から同情する根拠を持っておられるのであり、しかも、死を打ち破られた復活の命によって、悲しむ人には慰めを、病める人には癒しを、罪には贖いとしての十字架を、死には復活を提供することがおできになる。

何よりも、死からよみがえられたキリストの復活の命は、人間を自分自身とこの世の欠乏の奴隷状態から解放する力を持っている。神の同情はただの言葉や感情だけの内実のない同情ではないのである。

だが、それに引き換え、人間が人間に与える同情は、何も生み出さず、何の救済も与えないばかりか、人間を悪質にディスカウントする。人はただ他者の苦しみを前に、自分も同じように脅かされている人間として、他者の苦しみに自分の苦しみを重ねながら、自分の被害者意識のために憐憫の涙を流すことができるだけである。苦しむ他者にどんなに寄り添い、救済を与えたいと願っても、人間が与えられるものは、せいぜい口先だけの言葉や、束の間の寄り添いや、すぐに尽きる物質的支援くらいで、それは一瞬の慰めの後で、さらに相手を卑しめ、ディスカウントし、依存関係を生み出すことはあっても、解放には結びつかない。

同情する者とされる者とは、共に抱き合い、涙を流すことによって、一時的に一つになったかのような共感を抱くかも知れないが、そこにはれっきとして、同情を施す側と、施される側の立場の差があり、優劣がある。その共感からは何も生まれず、さらに悪いことに、そこでは、同情する者が、同情される者を利用して優位性を誇り、栄光を受けることが常態化し、支配関係が生まれることさえある。

そうなると、同情を受ける人は、弱さを抱えた時点ですでに命をディスカウントされている上に、他者から同情を受けることによって、自己の尊厳をより一層ひどく傷つけられ、ディスカウントされて行くことになる。それにも気づかず、うわべだけの感情がもたらす満足により、自分の立場が何一つ変わっていないのに、あたかも救いの手を差し伸べられたかのように錯覚しながら、まるで麻薬を求めるように、すぐに消えてえしまう仮初の感情的な満たしを求めて、泥沼に足を取られるようにして果てしないディスカウントの中に落ち込んで行くのである。
 
そうした偽りの同情が、偽りの救済論として体系化されると、「救う者」と「救われる者」との間の差別的支配関係が固定化される。「救われる者(弱者)」は「救う者」の満足の手段として、永久に弱さの中に閉じ込められたまま、徹底的に利用されることになる。人間同士が互いの弱さに寄り添い、同情しているつもりが、ますます互いをディスカウントしながら、弱く、卑しく、惨めな境遇に閉じ込め合うことになるのである。カルト被害者救済活動のようなものには、まさに偽りの同情がもたらす悪しき支配関係が最も典型的な形で表れていると言えよう。

このように、被害者意識による負の「絆」で結ばれることによって、人類が互いを守り合うことは決してできない。それは助け合いでもなく、解放でもないため、その絆はかえって人をますます罪や弱さの中に閉じ込めるだけで、何の自由を与えないのである。
 
だが、東洋思想の中には、「死によって脅かされない命」が存在しないため、被害者意識によらない連帯という発想が全く生まれる余地がない。そのようなディスカウントとは無縁の、自由に基づく関係が生まれるためには、まずは人間が罪の奴隷、欠乏の奴隷状態から解放されていなければならないが、そのような人間自体がこの世界観の中には存在しないからである。

聖書においては、この物質世界の外におられる霊なる永遠の存在である神が、人類の救済のために、その独り子を地上に送られたことにより、今や御子を信じる者たちが、神の子供たちとされて、「人となられたイエス」の死と復活に同形化され、有限なる被造物でありながら、同時に、永遠の命を持つことができる。

しかし、東洋思想には、神と人との仲保者なるイエス・キリストが存在しないため、この思想の中には、永遠という概念自体がない。霊的世界と物質世界との接点もなく、完全という概念もなく、この思想は、最初から最後まで、物質世界の外に一歩も出ることがないので、永遠という概念が生じようがないのである。(物質界にあるものはすべて一時的だからである。)

東洋思想における生成と消滅の背後にある無限の循環という概念は、永遠の偽物である。なぜなら、真に永遠を考えるためには、まずはこの世の時空間という概念の外に出なければならないが、この「輪」は、無窮とも言える果てしない時間軸の上に成立する歴史的概念であって、決して物質世界の外にある時間と無関係の概念ではないからである。

そこで、結局のところ、東洋思想には、永遠の偽物があるだけで、永遠が存在しない以上、完全もないのである。無限の循環は、この世の諸現象によって作り出される偽りの概念でしかない。

このように、東洋思想は、一方では永遠に憧れ、被造物の有限性という制約を覆すことを目指しながらも、他方では、滅びゆく物質的世界を一歩たりとも外に出ることができず、死によって脅かされることのない、ディスカウントとは無縁の、完全性に到達する道をどこにも見いだせないのである。

そうなるのは、もともとこの思想が、被造物を神とする「神不在」の思想であって、被造物としての物質世界だけで成り立っているからである。創造主に属する霊の秩序ではなく、被造物に属する物質世界が真のリアリティとされる転倒した唯物論的思想なので、このような思想の中では、「わたしはある」という確固たるリアリティである聖書の神や、神の完全という概念が受容されない。そればかりか、このような世界観には何一つ絶対的な価値が存在せず、欠けるところのない完全性、ディスカウントされない命というものが存在し得ないのである。

グノーシス主義には「永遠の女性美」といった概念が存在しているように見えるかも知れないが、それさえも究極的には「脅かされている母」であり、永遠ではなく、死や滅びと無縁の存在でもない。

このように、すべてが死を帯びて、不完全であり、有限なる滅びゆく世界に、いざ永遠に絶対的な価値が出現すると、どうなるだろうか、大変な問題が持ち上がる――なぜなら、両者は完全に異質だからである。

三島作品における金閣寺への放火には、神殿破壊、すなわち、エクレシア殺しという隠れた意味が込められていることを説明した。むろん、三島はそのような隠れたプロットを想定していなかったであろうが、真の意味での「永遠の女性美」とは、神の復活の命によって生かされるエクレシアにしか存在せず、それゆえ、宮を破壊するという行為は、ただ単に人が神の神殿である自分自身を破壊することばかりか、それに加えて、永遠に揺るがされることのない完成した女性美であるキリストの花嫁たる教会を破壊するという隠れた意味合いを持つ。それは人が自分の完全な救いであるキリストを退け、自分自身が神の花嫁となる可能性を根こそぎ否定することを意味する。

ここに、二つの全く異なる存在がある。一方には、東洋思想の死によって脅かされる脆く弱い「母」(エバ、人類)があり、もう一方に、キリストの復活の命によって生かされる神の教会たるエクレシア(キリストの花嫁、新しい人)がある。

三島作品における金閣寺への放火は、東洋的世界観の中には、永遠に揺るがされることのない美、もしくは、キリストにあって完全とされた新しい人という概念が決して存在し得ないこと、つまり、被造物の贖いや、完成というものが決してないことをよく表している。この思想の中では、死を帯びていない何物にも脅かされることのない傷のない完全なものは、決して存在してはならないのである。

『金閣寺』の主人公は、コンプレックスや惨めさや無念を心に抱え、まさに滅びゆく被造物としての不完全性の象徴のようである。そして彼は、東洋思想の原則にのっとって、完成された女性美を、この世界や自分とは全く無縁・異質なものとして憎み、これをディスカウントし、毀損して、自分のレベルまで引きずりおろすことにより、抹殺しようと試みる。

その行為には、すでに述べたように、無意識のうちにも、エクレシアに対する悪魔の憎しみ、死を打ち破ったキリストの復活の命に対する悪魔の憎しみが込められている。このプロットから読み取れるのは、いかに悪魔が、被造物の贖いが完成して、被造物が完全な美を取り戻すことを心から憎んでいるかということである。

悪魔は被造物を永遠にディスカウントしておきたいのである。間違っても、被造物が被害者意識を帯びた「もののあはれ」や無常観とは関係のない、傷つけられたり、脅かされることのない完全な美を取り戻すことを望まないのである。

キリストの復活の命は、死を打ち破る力を持っているが、悪魔は人を攻撃し、ディスカウントしては、信仰を弱め、人が傷ついて、弱く、脆い存在になるよう引きずりおろそうとする。その悪影響は、しばしば、贖われたキリスト者にさえ到達する。

使徒パウロはコリント人への手紙で言う、「あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。」(Ⅰコリント11:30)これはキリストの復活の命によって生かされる信者であっても、不信仰ゆえに、滅びゆく世界の不完全性に逆戻りさせられ、弱さのゆえに死んだ者が数多くいることを示す。

弱さ、傷、病、死などは、決して聖書によれば、美化されるべき概念ではなく、キリストの命の本質とは無縁である。有限なる被造物の、死によって脅かされる脆く儚い、過ぎ行く有様に「もののあわれ」を見いだすような情緒は、聖書とは一切無縁である。それは悪魔のディスカウントした世界を抵抗もせずに受容し、すべてが不完全で弱く傷ついている転倒した有様に喜びを見いだすことであるから、まさに倒錯した嗜好と言って良い。

悪魔は完全なもの、傷のないもの、死によって脅かされないものを憎み、人間を偽りの「慈愛」や「慈悲」や「同情」などの美的概念で騙しつつ、何とかしてキリストの復活の命に達しないよう、滅びゆくアダムの有限な命の世界から逃がすまいとしている。

東洋思想の世界観は、悪魔が人類を騙し、ディスカウントしておくための格好のツールであり、相手が信者であっても、悪魔は信者が被害者意識に陥れて自らの弱さを甘んじて受け入れ、抵抗をやめるか、アダムの命を改良して、自ら神に至ろうとのむなしい努力をするかのどちらかに誘導しようとする。間違っても、アダムの命に対する霊的な十字架の死が適用されて、復活の命が現れることがないよう、細心の注意を払い、もしそれが現れたなら、早速、あらゆる攻撃を加え、ディスカウントし、引きずりおろそうと準備しているのである。


・「和の精神」とはバベルの塔建設における人類の一致の悲願を指す

さて、前回の記事では言及できなかったが、「和の精神」についても補足しておきたい。「和の精神」とは、バベルの塔における人類の一致という、罪人たちの悲願を表す。そう考えれば、実に多くの事柄に納得がいく。

グノーシス主義の偽りの霊性は、常に目に見える人間集団を建て上げることによって、人類の圧倒的な威信を全世界に見せつけ、自己を誇り、人類の一致という悲願を達成しようとする。
今一度、バベルの塔建設のくだりを聖書から引用しよう。

「 全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。

こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。

時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。

こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。 」(創世記11:1-9)

以上のバベルの塔建設における人類の連帯の中には、「和の精神」が見られたのではないだろうか。何しろ、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。」と言われたくらいなので、そこにはどんなことによっても妨げられないほどに統制された瞠目すべき人類の一致、協力、連帯が見られたのではないかと思う。

さて、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」という言葉は、まさに以下のような精神を彷彿とさせる。
 

国体の本義
第一 大日本国体、一、肇国から抜粋

大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(てうこく)の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。」

現御神にまします天皇の大御心・大御業の中には皇祖皇宗の御心が拝せられ、又この中に我が国の無限の将来が生きてゐる。我が皇位が天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。



「万世一系の天皇皇后」というフィクションの神話に基づき、全世界を一つの家とみなして「一大家族国家」を形成し、これを歴史を貫いて輝かせ、永遠に到達しようという思想は、事実上、「町と塔(国家)を建てて、その頂を天に届かせよう」という発想と同じである。

そこでは確かに「我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展する」という、永遠にまで到達しようという果てしない欲望が述べられている。このような思想に基づき、八紘一宇というスローガンのもと、全世界の国民が、一つ屋根の下に集まるように、同じシンボルのもとに集結すべきとしたのであるから、まさにバベルの塔の精神に他ならないではないか。

ここでは繰り返さないが、『国体の本義』が西欧文明の個人主義に対して激しい批判を展開し、西欧文明の長所と東洋思想との合体の末に新日本文化の創設なるものを唱えていたことを思い出したい。なぜ彼らがこのような塔=国家の建設にこだわったかという動機の根底には、「母が脅かされている」(西洋キリスト教文明の個人主義によって東洋文化が脅かされている)、すなわち、言い換えれば「聖書の父なる神によって人類が脅かされている」という被害者意識が存在したことが読み取れるのである。

そう考えると、「和の精神」とは、人類が聖書の神に対する被害者意識から、己が欲望によって自己を高ぶらせて、自力で神の領域にまで達しようとする悪魔的な一致・協力を指すことになる。一つ前の記事で、個人の意思決定権を認めず、集団だけにそれがあるかのようにみなす「和の精神」とは、まるで「かしら」を失った「首のない体」、つまり、精神に統御されない体と同じだと述べたが、首がない体だからこそ、自力で天に到達し、何とかして自分の力でかしらである神につながろうとしているのだと言えるかも知れない。

国家神道が「日輪(太陽=天照大神=天皇)」を神としていたということの中にも、首のない体(人類)が自力で天に到達しようとしていた願望を見ることができるのではないだろうか。そして、このような悪しき塔建設の試みは、必ず、個人単位ではなく、集団で行われるのである。

このような人類の神に対する反逆の試みに対する裁きがとりわけ厳しいものであることは言うまでもない。バベルの塔建設作業には、神の鉄槌が下されて分裂と混乱で終わり、塔も未完に終わったが、今日、そのような悪しき思想を信じる者には、個人単位でも、滅びが降りかかる。

前回、三島がいかに人類の果てしない欲望に対する神の霊的な刑罰を象徴するような最期を遂げたかを見て来たが、それと共に思い出されるのは、使徒行伝でペテロが語ったイスカリオテのユダの最期である。

「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり『血の土地』と呼ばれるようになりました。

詩編にはこう書いてあります。
『その住まいは荒れ果てよ。
 そこに住む者はいなくなれ。』
また、
『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』」(使徒1:17-20)

ユダも自殺して体が真っ二つに裂けてはらわたがみな飛び出したというから凄まじい最期である。ちなみに、マタイの福音書では、ユダはイエスを銀貨三十枚で売ったことを後悔して、祭司長や長老に金を返そうとして断られ、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、その後に首をつって死んだとある。

「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。」(マタイ27:3-8)

この記述が使徒行伝の記述と食い違うと主張する者もあるが、高所で首をつった後、体が地面に転落して裂けたなどのことも考えられるため、表面的な描写だけを取って、死に様が食い違うと考えるのは早いものと思う。

いずれにしても、首を吊った上に腹が裂けたというのだから、あまりにも凄絶な見せしめ的な最期であり、それは三島と同様に、キリストの十字架に敵対する者の最期を思わせるものである。キリストの十字架に敵対してい歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)

ユダの体が真っ二つに裂けたことは、ユダが神と悪魔の両方に心を売ろうとして、最後までどっちつかずの生き方をしたことに対する厳しい報いと受け止められないこともない。そこには、バベルの塔同様に、分裂という要素も見られるし、自力で自分を高めて神以上の存在になろうとする人類が、最後には自分の正常な形までとことん失う様子を見て取れる。また、ユダがイエスを売った血の代価で買われたのが「陶器職人の畑」だったことにも、意味がなかったわけではないだろう。なぜなら、旧約聖書において、陶器師は何度も創造主なる神にたとえられているからだ。そして、そのたとえの中では、神が人の身も心も思うがままに、救おうと思う者を救われ、滅ぼそうと思われる者を滅ぼすことがおできになることが示されている。「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」(ローマ9:18)

エレミヤ書第18章にも、神がご自分を陶器師にたとえる記述が登場する。そして、造られた者でありながら、創造主に逆らう民を、神が滅びに引き渡され、その宣告を告げさせるために預言者を民に向かわせるが、その預言者にも、民は耳を傾けず、かえってその宣告を憎み、彼を殺そうとする。これはまさに今日起きていることではないだろうか?
 
「主からエレミヤに臨んだ言葉。 「立って、陶器師の家に下って行きなさい。その所でわたしはあなたにわたしの言葉を聞かせよう」。
わたしは陶器師の家へ下って行った。見ると彼は、ろくろで仕事をしていたが、 粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。

その時、主の言葉がわたしに臨んだ、 「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。 ある時には、わたしが民または国を抜く、破る、滅ぼすということがあるが、もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、わたしはこれに災を下そうとしたことを思いかえす。
またある時には、わたしが民または国を建てる、植えるということがあるが、もしその国がわたしの目に悪と見えることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとしたことを思いかえす。

それゆえ、ユダの人々とエルサレムに住む者に言いなさい、『主はこう仰せられる、見よ、わたしはあなたがたに災を下そうと工夫し、あなたがたを攻める計りごとを立てている。あなたがたはおのおのその悪しき道を離れ、その道と行いを改めなさい』と。

しかし彼らは言う、『それはむだです。われわれは自分の図るところに従い、おのおのその悪い強情な心にしたがって行動します』と。
それゆえ主はこう言われる、異邦の民のうちのある者に尋ねてみよ、このような事を聞いた者があろうか。おとめイスラエルは恐ろしい事をした。レバノンの雪が、どうしてシリオンの岩を離れようか。山の水、冷たい川の流れが、どうしてかわいてしまおうか。
それなのにわが民はわたしを忘れて、偽りの神々に香をたいている。彼らはその道、古い道につまずき、また小道に入り、大路からはなれた。 自分の地を荒れすたれさせて、いつまでも人に舌打ちされるものとした。そこを通る人はみな身震いして、首を振る。わたしは東風のように、彼らをその敵の前に散らす。その滅びの日には、わたしは彼らに背を向け、顔を向けない」。

彼らは言った、「さあ、計略をめぐらして、エレミヤを倒そう。祭司には律法があり、知恵ある者には計りごとがあり、預言者には言葉があって、これらのものが滅びてしまうことはない。さあ、われわれは舌をもって彼を撃とう。彼のすべての言葉に、心を留めないことにしよう」。」

バベルの塔の精神は、まさに人類が被害者意識によって連帯して、創造主なる神に逆らい、立ち向かいながら、神が自分の主人であることを否定して、神に代わって自分が自分の人生の主人となり、欲望に従って思うがままに生きられるかのような、人類の集団的な思い上がりを示している。彼らがれんがとアスファルトで塔を建てたというのも、神の霊に属する性質ではなく、肉の性質を使って、神に到達しようとしたことを表している。

「和の精神」もその本質はこれと同じで、それは創造主に逆らって己を神とする人類の集団的な思い上がりと反逆、肉の思いによる高ぶりを示している。彼らは飽くことのない繁栄を望むが、首を失った体に対する裁きは厳しいものであり、分裂と、滅亡と、荒廃とが待ち受けている。

キリスト者の道は、このようなものとは全く異なる。筆者は、三島やユダの最期を思うにつけても、やはり、グノーシス主義者の滅びには、一切、キリスト者は手を貸さない方が良いと考えざるを得ない。

筆者は、周りで起きている激しい妨害を知らないわけではなく、それに当然の権利を持って立ち向かい、言葉を返し力を行使しようと思えば容易なことであるのも知っているが、グノーシス主義者には、まずは彼らの心のうちを隅々まで吐露させ、その悪しき思いが誰も否定できないほどにはっきり形を取って現れるまで、好きにさせておけば良いのではないかと考えている。なぜなら、彼らには、必ず、彼らの悪しき思想が形となって結実し、滅びとして身の上に降りかかる時が来ると分かっているからだ。
 
人は自分で自分の生き方を選択していると思っているかも知れないが、自覚せずとも、必ず、何らかの思想に導かれて生きている。その人の思想こそが、その人の生き様を形作っているのである。その思想とは、大きく分けて、この世には二種類しかない。聖書の神に従うのか、従わないのか、そのどちらかしか人間に選択はないのである。

文学作品は、現実から乖離したフィクションに過ぎないと言う人がいるが、実はそうではない。たとえ小説であっても、そこには、著者の世界観、思想がよく表れており、むしろ、小説であるからこそ、現実の何倍もの凝縮された形で端的に著者の思想が込められている場合が少なくない。

著者が作品の中でほとんど無意識に行った告白が、やがて著者の身の上に極めて教訓的な形で結実することはよくある。そのことは三島作品を読めば分かることだ。もし三島の書いた作品が単なる「フィクション」でしかなかったのならば、三島には作品中の主人公と同じような最期を遂げる必要は全くなかったであろう。しかし、実際には、作品中で行われたのはみな三島の死のリハーサルだったのである。

そこで、筆者は、グノーシス主義者らの行く末については、放っておいても、彼らの誤った思想それ自体が、彼らを当然の滅びに引き渡すであろうと考える。そこで、あえて二、三歩、退いて、その生き様を傍から観察し、彼らにふさわしい最期がやって来ることを見届けようと思う。

このように言うのは、「ディアボロス」すなわち「中傷する者=悪魔」に味方する人々に降りかかる裁きが、格別に厳しいものとなることが、予め分かっているためである。筆者はその結末に微塵も責任を負うつもりはなく、それは彼ら自身が選んだ結末としてはっきり身の上に現れなければならない。それがあまりにも悲惨な末路となることが明白であればこそ、キリスト者はその結末に手を貸さず、屠られる羊のように黙しつつ、この世の手段を用いず、ただ小羊の血潮と証の言葉のみに立って、すべての虚偽に立ち向かうことに意味があると考える。肝要なのは、血肉の戦いに精魂を費やすことではなく、まずは偽りの思想という要塞そのものを暴き出し、粉砕することである。

さて、話を戻せば、キリストの復活の命に至りつくためには、個人的な信仰がなくてはならず、それは集団的な連帯によって獲得することは決してできない。その個人的な信仰の歩みは、バベルの塔の連帯とは真逆の方向性である。だからこそ、グノーシス主義者らは必死になって、「集団を離れての個人は存在しない」とか「孤立は死だ」とか言いながら、人が個人としての真実な信仰の探求を行うことを何とかして妨げようと努力しているのであろう。

しかし、「和の精神」は、人類の悪魔的な一致の願望であるから、このような偽りのスローガンのもとで、有限なる被造物を神として崇め奉る組織や集団に帰属している限り、人は永久に復活の命にはたどり着けない。そうした組織の中には、牧師という目に見える人間を神の代理人とする集会も含まれている。

できるなら、これまで何度も引き合いに出して来たオースチン-スパークスの論説私たちのいのちなるキリストが現される時……を、もう一度参照されたいが、そこでは、はっきりと、終末に向けて、反キリストに属する「人造のキリスト教」が大規模に発展すること、それはキリストや、キリストの命に見せかけた「キリストご自身の代替物」を用意して、「自らの勢いで生成発展する偽りのいのち」によって膨らんで行くことが指摘されている。

今日、ペンテコステ・カリスマ運動のように、また、牧師制度を有するすべての組織に見るように、キリストを礼拝すると言いながら、被造物を拝み、被造物の命を偽りの霊性に見せかけて発展させようとするグノーシス主義と合体した虚偽のキリスト教が、キリスト教界を席巻している。彼らは「事物、人、運動、制度、組織」などを中心に据えて、目に見える指導者のもとに、目に見える集団を建て上げ、「大衆を引きつけ、群衆をとらえる」要素をちりばめた、見せかけの礼拝を行うことに心を砕いている。

そうした人々は、主日礼拝を守るとか、安息日を守るとか、祝祭日を守るとかいった表面的な儀式を守ることを敬虔と勘違いし、うわべを飾ることに腐心している。だが、聖書はこれらの人々についてはっきりと言う、

「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。

偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」(コロサイ2:16-19)

ここに、「頭であるキリストにしっかり付いていない」すなわち、「首のない体」が登場していることに注意したい。こういう体に属する人々は、いたずらに思い上がり、自分たちの努力で天にまで到達しようと様々な儀式を守り、偽りの従順を演じ、自らの努力をうず高く積み上げ、そうしていればいつか「頭」が得られるかのように思い込んでいる。

だが、どんなに努力を重ねても、彼らはずっと「首のない体」のままである。どんなに偉大な宗教指導者を組織の頂点に据えても、被造物はすべて体に過ぎないので、頭にはなれない。首のないその体に、どんなに「和」が働いても、そこにあるのは、神をわきまえる知性を捨てた「肉の思い」すなわち堕落した欲望でしかない。

もしもこの先、信者が少しでも「事物、人、運動、制度、組織」に気を取られ、このような価値観を受け入れるならば、欺かれて終わるだろう。「影」に過ぎず「本体」ではない本質的なものでないものに気を取られれば取られるほど、命の制限が生じるだけである。

被造物を神とするあらゆる制度から離れねばならないが、残念ながら、今やこの時代のキリスト者には、現人神のように人間を崇め奉る牧師制度のような偽りの教職者制度を離れ去るだけでなく、己を神として生きる全ての個々の人間からも離れ去ることが要求されている。

以下の御言葉は当ブログでは幾度も引用して来たが、今や隅から隅まで成就したことに慄然とする思いである。

「しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。」(二テモテ3:1-5)

悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(二テモテ3:13-16)


以前にも書いたが、今やこの世、宗教界を問わず、至る所で終末のバビロン化が大規模に進行し、目に見えない洪水がひたひたと押し寄せて来るように、周囲にいるすべてが水の中に飲み込まれて行く様を、筆者は箱舟の中にいながら、静かに見る思いがする。信者を名乗る人々が創造主なる神と神の民に反逆し、国は虚偽と不正と腐敗と搾取にまみれて機能停止し、すべてのものが支離滅裂な思想に汚染され、その中に飲み込まれつつある。悪いものは極端に悪くなり、およそ秩序という秩序が転倒させられている。

だが、ノアの時代、洪水から救われたのは、たった8人であった。イエスは言われた、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いて下さる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:7-8)
 
我々の脱出の道は常にキリストを通して備えられている。それは決して多くの人が見いだすことのない狭き門ではあるが、確かな救いであり、ディスカウントされることのない、まことの命である。オースチン-スパークスの以上の論説も警告している、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることであると。神の霊の実際の働きは、すべてのものをキリストに帰することであるから、我々はその命だけに頼って生きる方法を学ばねばならないのだと。

キリストだけが我々の内なる人の命となるときに初めて、私たちは、被造物の限界に脅かされることなく、彼の中で強くあることができる。もしも私たちが、この方だけに頼ることをやめ、自分自身や、他の人々や、物事に頼ろうとするなら、たちまち弱くされてしまうであろう。我々は、すべての「影」に過ぎないものを退け、「本体」であるキリストの力だけで、すべての逆境を切り抜ける秘訣を学ぶ必要がある。そして、そのために必要なすべての備えが、この命なる方の中には存在するのである。

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神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画/"MISHIMA"から⑦

・般若心経に現れるグノーシス主義的世界観 ~永遠に循環を続ける「無=空」~

多くの仏教の宗派の中で共通の経典として用いられていることを見ても、般若心経の中に、いかに「無=空」の思想が、最も凝縮された端的な形で込められているかが分かる。

多くの日本人は、自分はどんな宗教も信じていないと考えている人間でさえ、葬儀の際には、儀礼的に般若心経を唱えたりする。そうした読経によって、彼らは自覚なしに「いろは歌」と同じように、グノーシス主義の世界観を呼び起こす呪文(マントラ)を唱えているのである。

般若心経についてはいくつもの現代語訳があるため、それらを参考にしながら以下に私訳してみた。これを読めば、般若心経には「いろは歌」よりももっとはるかに鮮明に世界の本質が「空=無」であるという思想が表れていることが分かる。

むろん、仏教は、宗教と呼ぶより哲学であると言った方が良いため、そこには神もなければ神話もなく、一般的なグノーシス主義の物語に見られるようなプロットは存在しない。従って、「空=無」が擬人化されて登場するようなこともない。しかし、そのような差異を脇においても、当ブログでは、仏教の無常観も、世界の本質を「無」であると定義している点で、グノーシス主義と本質的に同一の思想であるとみなしている。

グノーシス主義における至高神にも、すでに見て来たように、およそ人格らしきものは存在しない。グノーシス主義の至高神は、自らの意志で行動して世界に関与することはなく、それはひたすら物言わぬ「鏡」や「虚無の深淵」である。それは結局、グノーシス主義が、人格を持った神の存在を認めておらず、グノーシス主義における至高神が、仏教の「空」や「無」と同一であることを意味する。

つまり、世界の創造者(と言っても人格を有さない神)が虚無の深淵と同一であって、すべての目に見えるものは根源的に「無」に集約されるというで、仏教もグノーシス主義も根本的に同じ思想だと言えるのである。そのことが以下の訳文の内容からも十分に見えて来よう。
  
かんじざいぼさつ
観自在菩薩               (観音菩薩は)
ぎょうじんはんにゃはらみったじ
行深般若波羅蜜多時     (深遠な智慧により彼岸に到るための修業をしている時)
しょうけんごうんかいくう
照見五蘊皆空    (人間存在のすべてが本質的に実体のないものであることを見極め)
どいっさいくやく
度一切苦厄             (物事が思い通りにならない苦しみと災いをすべて彼岸に渡した)
しゃりし
舎利子                 (そしてシャーリプトラに向かって次のように述べた)
しきふいくう
色不異空               (すべて形あるものは、実体のない一時的なものでしかなく)
くうふいしき
空不異色               (実体がないものが一時的に形を取って現れているだけである)
しきそくぜくう
色即是空               (それゆえ形あるものはすなわち実体のない永遠でないものであり)
くうそくぜしき
空即是色               (実体のがなく永遠でないものが一時的に形あるものとして現れているに過ぎない)
じゅそうぎょうしき
受想行識               (人間の心の働きについても、)
やくぶにょぜ
亦復如是               (同じことが当てはまる。)
しゃりし
舎利子                 (シャーリプトラよ、)
ぜしょほうくうそう
是諸法空想             (この世の中のすべての存在や現象は、もともと実体がなく一時的で永遠でないからこそ、)
ふしょうふめつ
不生不滅               (それには本当は生成も消滅もなく、)
ふくふじょう
不垢不浄               (汚れも清さもなく、)
ふぞうふげん
不増不減               (増えることも減ることもないのだ。)
ぜこくうちゅう
是故空中          (すべてのものは常に変化して同じ形をとどめず実体がないからこそ)
むしきむじゅそうぎょうしき
無色無受想行識             (人の体も存在せず、心もまた存在しない。)
むげんにびぜつしんに
無限耳鼻舌身意         (むろん、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心などの感覚器官もなければ)
むしきしょうこうみそくほう
無色声香味触法         (目に見える形や、耳に聞こえる音や、嗅いだ臭い、食べた味わい、触った感触、抱く思いなども存在しない。)
むげんかいないしむいしきかい
無限界乃至無意識界     (物事を目で見て把握したり、心で意識したりしている感覚自体が存在しないのであるから)
むむみょう
無無明                 (当然、悟りに対する無知もければ、)
やくむむみょうじん
亦無無明尽             (悟りに対する無知の克服もない、)
ないしむろうし
乃至無老死             (そこから始まって、老いも死もなく)
やくむろうしじん
亦無老死尽             (老いや死の克服もない。)
むくしゅうめつどう
無苦集滅道             (苦しみやその原因となる迷いを克服して楽になる方法もなければ、)
むちやくむとく
無知亦無得             (真実を知り悟りを得るということもない。)
いむしょとくこ
以無所得故             (従って、悟りを獲得することがないのだから、)
ぼだいさった
菩提薩垂               (悟りを求めている者は、)
えはんにゃはらみった
依般若波羅蜜多         (彼岸に到る本質的な智慧のおかげで)
こしんむけいげ
故心無圭礙             (心を覆う疑いの雲は晴れ)
むけいげこむうくふ
無圭礙故無有恐怖       (心を覆う疑いがないから恐れもなく、)
おんりいっさいてんどうむそう
遠離一切転倒夢想       (あらゆる転倒して誤った幻想から遠く離れて、)
くきょうねはん
究境涅槃               (平安(涅槃)の境地に達することができる。)
さんぜしょぶつ
三世諸仏               (過去・現在・未来において、目覚めたものたちは)
えはんにゃはらみつたこ
依般若波羅蜜多故       (彼岸に到る智慧のおかげで、)
とくあのくたらさんみゃくさんぼだい
得阿耨多羅三藐三菩提   (最高の悟りを得ることができる。)
こち
故知                   (知るがよい、)
はんにゃはらみった
般若波羅蜜多           (彼岸に到る智慧は)
ぜだいじんしゅ
是大神呪               (偉大な神(仏)の呪文であり、)
ぜだいみょうしゅ
是大明呪               (悟りを得るための偉大な呪文、)
ぜむじょうしゅ
是無上呪               (この上ない呪文、)
ぜむとうどうしゅ
是無等等呪             (並ぶもののない呪文である。)
のうじょいっさいく
能除一切苦             (これはあらゆる苦しみを取り除くことができ、)
しんじつふこ
真実不虚               (真実であって虚偽ではない。)
こせつはんにゃはらみつたしゅ
故説般若波羅蜜多呪     (ゆえに、彼岸に到る智慧の呪文を唱えよう。)
そくせつしゅわつ
即説呪曰               (次のように呪文を唱えよう。)
ぎゃていぎゃていはらぎゃてい
羯帝羯帝波羅羯帝         (彼岸へ行く者よ、彼岸に行く者よ)
はらそうぎゃてい
波羅僧羯帝             (彼岸に行きて到達する者が、)
ぼうじ
菩提                   (悟りを得て)
そわか
僧莎訶                 (幸いがあるように。)
はんにゃしんぎょう
般若心経               (悟りを得る智慧の最も重要な経典。)


 
般若心経においても、グノーシス主義に特徴的な「対極にある概念の統合」が見られる。すなわち、すべての物質界の現象は本質的に「空=無」である(実体がない)ため、悟りもないとしながらも、同時に、すべての物事が実体のない無であるという本質を理解することによって、人は「深淵なる智慧」を得て彼岸に到達し、苦しみから解かれて平安を得られるとしている。

このような説は、一見すると著しい自己矛盾でしかなく、そのような理屈は「対極性の統合」の果てに出現して来るものである。般若心経の言う「彼岸」(涅槃の境地)とは、ウロボロスの輪と同じように、生成と消滅を超越したところにある「永遠=無」を指しているのであり、涅槃の境地に達することは、要するに、人が個人としての生成と消滅にとらわれず、個人の枠組みを超越して、すべてのものを包含する「空=無」と一体化することによってのみ可能だと言っているに等しい。

そこで、結局、般若心経における智慧(=般若)は、グノーシス主義における叡智(=グノーシス)と同じであり、それはサタンがエデンの園で、人類をそそのかして吹き込んだ偽りの知恵と同義であり、そこにあるのは、人類と神とが本質的に同一だという思想である。

「でも、仏教にはそもそも神という概念が存在しません。なのに、なぜあなたは仏教の思想までが、人類と神とが本質的に同一だという神秘主義の思想と同じだと言うのですか」と再び尋ねないでもらいたい。

これまで見て来たように、グノーシス主義の神は、物言わぬ「虚無の深淵」である。そして、この「虚無の深淵」と人間とを同一視することによって、グノーシス主義は、人と神とが本来的に同一であるとみなしているのであり、これと比較すれば、すべてのものが人間存在も含めて根本的には「無」であると教える仏教の思想は、グノーシス主義とほとんど変わらないことになる。

聖書の創世記で、サタンは人類が自ら神の掟を破ることで、「神のようになれる」(=神になれる)と教え、人の側から神の性質を盗み取って神になりすますようそそのかした。しかし、その嘘を受け入れて堕落した瞬間から、人類は神を知る知識を失って、神のいない、被造物(自分)しか存在しない、独りよがりな世界に投げ出されたのである。神を喪失した人類の中では、神の席が空席となり、そこに実体のある神の代わりに、虚無の深淵が横たわった。そのため、人が自力で神に到達するために残された道は、虚無の深淵と自己を同一視して、無の中に飲み込まれることしかなくなったのである。


・個人の概念が幻想として消え「永遠の無という循環」だけがリアリティとして残る思想

虚無の深淵が「神」になり、「永遠の無」がリアリティとなって、個人がその中に埋没して消えると、一体、どういう恐ろしいことが起きるのかを、『方丈記』の有名な冒頭の文章を通してよりはっきり理解したい。
 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。  たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。

朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。」


  
『方丈記』では、人間が誕生しては死にゆく有様が「ゆく河の流れ」と「淀みに浮かぶうたかた」にたとえられる。個人の生や死は、水面に束の間現れては消える「うたかた」のような無意味でむなしいものに過ぎず、そこに何一つ確かなリアリティはない。確かなのは、うたかたではなく、うたかたを水面に登場させる絶えることのない「河」の方である。

こうして『方丈記』の冒頭では、「河」という概念が、グノーシス主義の「鏡」や「虚無の深淵」と同じものとして登場する。その「河」は、もちろん、「永遠の循環である無」(ウロボロスの輪)と同じである。

現実には、現れては消える「うたかた」の一つ一つには何の同一性もなければ、連続性もなく、それはただバラバラの一過性の現象に過ぎないのだが、一つ一つのうたかたの生成と消滅を「河」という視点から見ることで、あたかもそこに「うたかたが現れては消える」という繰り返しが発生しているような幻想が生まれる。そこから、その繰り返しが発展して、「先祖」から「子孫」へと、何らかの価値が受け継がれているかのような虚構の連続性が生まれ、循環する永遠の無という概念が作り出されるのである。

この虚構の連続性は、具体的には、万世一系の天皇家といった国家的神話や、先祖代々から受け継がれる神聖な家制度というフィクションや、創設以来永遠の発展を目指し続けている企業やその他の団体などの神話が生まれ、人類の連続性を謳う何らかの組織や集団のフィクションとなる。

そして、「うたかた」である個々の人間の生が幻に過ぎないような無意味なものとされる代わりに、この「人類の連続性」というフィクションが、確固たる永遠の真実であるかのようにみなされるのである。

『方丈記』の無常観を見ても、そこでは、人間存在は「神の似像」という呼び名にさえ値しないような、水面に束の間、現れては消えるだけの「あぶく」として、あるかなきかの些末な存在でしかないため、個人が、このように儚く脆いあぶくとしての存在を抜け出て、自己存在を神のような永遠に高めたいと思えば、自ら「あぶく」であることを捨てて、「河」と一体化するしかない、という結論が自然に出て来る。

従って、ここにも、グノーシス主義が常に導き出す究極の答えが見られる。人が有限なる被造物としての限界を脱したければ、人が自ら自己存在を捨てて、自己の隔ての壁を取り除き、人類の連続性という永遠のフィクションの中に身を投げて、虚無の深淵と一体化するしかないのである。そうしない限り、人間はどこまで行っても、あるかなきかの「あぶく」に過ぎないのである。

つまり、グノーシス主義を信じると、三島由紀夫がそうしたように、人は自分であるという区分を自ら取り払い、自分を抹消することで、「無=永遠」と一体化する以外には、解放に至り着く手段がないことになる。

すなわち、こうした思想では、人間が、目に見える世界の万象はおろか、自分自身の存在さえ究極的には「無である」とみなすことによって、虚無の深淵である「鏡=輪=永遠=無」の中に自ら飛び込み、無である世界と一体化して、自らの苦楽そのものも滅却するしか手立てがないのである。

それゆえ、グノーシス主義は、「無=永遠」と人が一体化するための手段として、肉体からの離脱(自死)という方法を提供する。

だが、多くの場合、グノーシス主義的な「無」との一体化による自己からの「解放」は、三島由紀夫のような凄絶な自死という形を取らず、人々が無意識的に集団の中へ埋没し、個の意識を放棄するという形で成し遂げられる。

般若心経のように、すべてのものが本質的に「無=空」であるとみなす思想を信じると、個人という概念が消え失せてしまい、全体(無)だけが残ることは、禅の視点から般若心経を読み解いた次のサイトの記述を読んでもよく理解できる。
 

『般若心経』を現代語訳するとこうなる - 存在が存在することの意味を説くお経 -

 あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。
 私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。
あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。
 私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。
 「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議は「はたらき」なのである。
「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。
それが、命だ。

だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。
この、「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。
 存在=空=自性がない=無常=変化を繰り返す=常なるものは存在しない
 これらはすべてイコールでつながるものなのだ。
 存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。
ただ、変化を続けるだけである。

<略>
ただ、存在の本質が「空」であり、私という概念が取り払われ、世界と自分とを隔てる虚構が崩された認識というのは、すがすがしいものである
わだかまりを抱くことが何もない。
わだかまりを抱く私が存在せず、わだかまりという心もまた、本当には存在しないから当然といえば当然か。
心に何の恐れも生じないのだ。

<略>
人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。
だが、本当にそうだろうか。
たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か?
この体を作ったのは、自分か?
熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか?
自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか

それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。
存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからだ
このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。


以上の解釈では、まず、人の体の機能について、あたかも、体が人間の意思とは関係のないところで自動的に働いていることが重要であるかのように述べることで、鈴木大拙と同じように、人間の本質は「知」にはなく「行」にあるという発想が述べられていることに注意したい。

つまり、ここでは、意志(精神)が理性によって体全体を統御することが重要なのではなく、体はそれ自体、意志(精神)とは無関係のところで働いているところに重要性があって、その自然な働きに人は身を委ねるべきだと言われているのである。

こうした考えの中に、前回見て来たような「精神と肉体の支配関係の逆転」、「肉体および肉欲の復権」というグノーシス主義の逆転の発想が見られることは言うまでもない。

そうして「精神」を軽視して、肉体の本能的な働きだけを重んじる考えに立って、以上の記述は続ける、人間一人一人の悩み苦しみなど全く本質的な問題ではなく、そのようなものは本質的に「空=無」でしかなく、人間存在は、個別に悩み苦しむバラバラの個人としては全く意味をなさず、人類全体もしくは全宇宙(あるいは社会や国家や家族)という大きなひとまとまりの「体」としてつながって初めて意味が生じるのだと。

裏を返せば、人類は個人単位では全く意味をなさず、個人には「命」も「働き」もなく、むろん、精神もなければ、悩み苦しみもなく、集合体となって初めて人類には「働き」や「命」が生まれるのであって、バラバラの個人という概念自体が虚妄であると言っているに等しい。

そうして、この種の思想では、「自分」というものが虚妄の概念とする以上、「自分」に生じる苦しみも当然、虚妄ということになり、いっそそのような個人の隔ての壁を完全に取り払って、自分と世界とを融合させて一体化すれば、人は自分自身の限界からも解放され、「自分に固有の苦しみ」もなくなり、精神が生じさせるすべての葛藤から解放されて、楽になれると言うのである。

これも「うたかた」を幻とみなす代わりに、「河」を確かなものとみなすフィクションと全く同一の思想である。この思想は、多くの人々の誕生や死は、実体のない「空=無」でしかなく、個人のレベルでは、生成も消滅もないが、それらが集まって集合体をなすとき、「空=無」でしかないはずのうたかたの生成と消滅に、何らかの連続性や均一性といった虚構の概念が付与され、そこに先祖代々から伝わる家制度だとか国家だとかいった神話が生まれ、集合体としての社会に「和」という幻想に基づくフィクションが生まれ、そうなって初めて、その集団に真の「命」が吹き込まれ、「体」としての機能が始まると言っているわけなのである。

このような考え方は、まさに『国体の本義』における「和の大精神」にも通じる。『国体の本義』が、西欧文明における個人主義を徹底して非難し、排除しようとしていることはすでに見て来たが、この書は、「和の精神」の名のもとに、個人という概念を退け、一人一人の人間が「個人」であることを自ら放棄して「生み生まれる親子の立体関係」という(本来、連続性のないうたかたの生成と消滅に連続性を持たせようとするのと同種の)神話的フィクションによって統御される国や家族といった集団に帰属することで、初めて人としての真価が発揮されると主張する。

『国体の本義』では、国家や家族という「生み生まれる親子の関係」という虚構の歴史から切り離された個人は、「所詮本源を失った抽象論」として無意味・無価値な存在として一蹴される。その根底にあるのは、結局、人類は集合体となって初めて「命」や「働き」が生まれるのであって、バラバラの個人という概念はもとより存在しないとする般若心経と同じ無常観である。
 

『国体の本義』、第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」


ここまで見て来ると、個人をフィクションとして集団の中に埋没させ、集団をリアリティとするこの種の思想は、日本の敗戦後も決してなくなるどころか、むしろ、現在に至るまで、日本社会に連綿と受け継がれ、強力かつ無意識的に社会に根を張り、社会全体を隠れたところから支配する原動力となっていることが分かるのではないだろうか。

今日、三島由紀夫のように、死によって永遠と一体化しようとする者はそうないであろう。しかし、その数歩手前で、日本国民の大半が、個人としての自分の存在を自ら滅却し、自己を集団の中へ埋没させ、集団と一体化することが、自分の使命であるかのように思い込み、自己放棄という「緩慢な自殺」を遂げている。彼らは「バラバラの個人」というものは存在しない虚妄の概念であるとみなし、集団に帰属して初めて自己の価値が生じると思い込み、「孤立は死である」などと言って、集団から切り離されることを病的なまでに恐れながら、SNSでのやり取りにやみつきになったり、官庁や、会社や、学校などの集団の中で、自己を放棄しようとむなしい努力を重ねている。そのようにして自己を滅却して集団の中に溶け合うことこそ、麗しい「協調性」であり「和」の精神の美徳であるかのように信じ込み、集団から追放されないことだけを是として生きている。同時に、集団の側からも、「麗しい美徳」としての集団との一体化を拒むような個人が出て来ると、徹底的に攻撃し、その存在を無化しようとする。

このように見ると、なぜ日本には民主主義が真に根付かないのか、その理由もおのずと見えて来よう。最近では、安倍政権の腐敗に絡めて、外国人記者から次のような警鐘が鳴らされたことも記憶に新しい。
外国人からみて日本の民主主義は絶滅寸前だ  森友スキャンダルが映す日本の本当の闇」(東洋経済オンライン 、レジス・アルノー:『フランス・ジャポン・エコー」編集長、仏フィガロ東京特派員2018/03/23 16:35)
外国人特派員が森友「公文書改ざん」に見た日本の深刻な病──この国みんなが“民主主義のお芝居”を演じているだけ?」週プレNews2018年04月05日、仏紙「ル・モンド」東京特派員、フィリップ・メスメール記者へのインタビュー)
 
民主主義とは、そもそも国家などの組織や集団の重要な意思決定を、その組織の構成員(人民、民衆、大衆、国民)が行い、構成員が最終決定権(主権)を持つという制度である。それゆえ、民主主義が成立し、正しく機能するための前提として、まずは個人の意思決定権というものがれっきとして存在しなければならない。

ところが、以上のような日本社会に古来から蔓延するグノーシス主義的無常観は、個人という存在さえ認めないため、個人には決して意思決定権を与えず、個人が自己存在を集団に明け渡すことにより、自らの意思決定権までも集団に委ねてしまうことを要求する。

日本社会にあるのは、依然、個人を出発点とせず、全体を離れた個人という概念を「単なる抽象論」として退け、個人が細胞のように集まってできる「全体」としての「体」の「和」だけをリアリティであるかのようにみなす思想である。個人の意思決定よりも全体の「和」の方がはるかに重視されるのである。その意味で、日本の民主主義は、まさに見せかけだけの概念でしかない。


・「和の精神」とは、頭(精神)による統御を失って自己目的化した「体」に同じ

しかし、このように個人を否定して出来上がる集団に働く「和」の正体とは、一体何なのだろうか。

以上の般若心経の解説では、体は理性とは無関係に、無意識的に動き、人間の意志決定とは無関係に自己防衛的に条件反射して生きており、そこに重要性があるとされる。精神の働きなど、厄介なだけで、自然に身を任せて本能的に生きた方が楽になれると言いたげである。それが人間にとってあたかも正常な状態であるかのように述べ、その考えを集団にまで高めようとする。

だが、そんな考えが正しい結論とはならないだろう。これまでの記事で再三、見て来たように、人間の体は、精神によってコントロールされて初めて正常に機能する。あまりにも強い精神的ショックを受けた人が、自動的に心臓が止まって即死してしまうこともあり得るように、心臓の鼓動も、精神の統御に服していないわけではない。人間存在は、意識していようといなかろうと、必ず、意志のもとに統御されている。

精神のコントロールに服さなくなった体は、ちょうど脳死状態になった植物人間の体と同じである。司令塔としての「頭」を失ったも同然であり、もはや人としての正常なあるべき姿とは到底、言えない。

そこで、個人の存在を「あぶく」のようなものとみなして個人の意志決定権も認めず、個人には生成も消滅もないとしながら、個人が寄り集まって出来る組織や集団にだけは、「命」や「働き」が生まれ、「和」が生み出されるとする思想は、まるで脳死状態にある人の体と同じである。

なぜなら、そこでは、個人の存在もその精神の働きも幻想であるとみなされているため、体全体を統御する意思決定権を持つブレーンが事実上存在しないからだ。そのような集団は、脳が死んで、精神が抜け殻となって生き続けている体と同じである。

体は、脳が死んだからと言って、バラバラに分解することはなく、未だ何らかの「和」を保って生きているように見えるかも知れない。だが、精神のコントロールがなくなった体は、ただ自己保存のためだけに、本能に従って生き続けるだけである。精神が生きているうちは、人間の体は、決して体のためだけに生きることはない。体は主人である人間の意志に従い、自己や他者の必要を満たすために行動する手段でしかない。人間は体を使って他者と関わり、他者に影響を与え、他者に奉仕し、他者との関わりの中で生きる。しかし、精神が死ねば、人は植物状態も同然となり、体は自己保存だけを目的に生きるようになる。もはや他者との関わりはなく、自己表現もなく、すべての活動が、ただ体を生き永らえさせるという目的のためだけに続けられる。体は体としての本来の役割を失い、自己目的化して、ただ己の欲求を満たすためだけに生き続けることになる。

個人の意思決定権を認めない組織は、このように脳が死に植物人間となった体と同じであり、そこに働く「和」とは、結局、体に働く肉欲と同じ、人類の本能的な欲望の総体なのである。「和」と言えば聞こえは良いが、それは結局、知性によるコントロールを退けて、精神の統御が効かなくなった集団の本能的欲望の総体なのである。

グノーシス主義が、個人の内側で精神と肉体との関係を覆し、肉欲を無制限に解放することを目指す危険な教えであることはすでに見て来たが、それが集団に適用されると、集団のレベルでも同様のことが起き、集団における意思決定の方法や所在がどんどん曖昧となる代わりに、歯止めのない集団的な欲望の暴走が起きる。
 
日本の政体における「誰も責任を取らない」摩訶不思議なシステムは、まさに以上のような思想を土台に生まれて来るのだと言える。個人が責任を取るためには、まずは個人が組織の中で重要な意思決定権を持ち、自らの決定に対して責任を負うという発想がなければならないが、グノーシス主義的無常観に貫かれる日本の社会には、個人という概念が存在せず、個人の意思決定権もほとんど認められておらず、結果的に個人ではなく集団が最終的な意思決定権を持ち、集団が最終責任者となる。

最も下っ端の部下から上長まで果てしない人数の人間が承認印を押さねばなならない役所の決裁文書などは、それを表す格好の事例で、そのように多数の人間が承認印を押すことで、結果的に誰が意志決定したのか、責任の所在が無限に分散されて、最後にはすべてが「組織全体の決定」ということになってうやむやにされて終わってしまう。責任を追及しようにも、責任者が事実上いないも同然の仕組みが出来上がるのである。

そのような意思決定権の所在が不明かつ不在の組織は、脳のない体と同様、いざその「体」としての組織があらぬ方向へ向かって暴走し始めたときに、これを制御できるブレーキとしての司令塔が全く存在しない。だからこそ、我が国においては、このような無常観に基づき、かつて軍部の独走やら軍国主義化やら無謀な戦争への突入などといった事件が起きて来たのである。

それは我が国という「体」が、個人を個人として認めず、個人の意思決定権を奪い去り、それを集団に明け渡させて、脳の機能を破壊・放棄して、体の自己保存だけを目的に、果てしない欲望に従って生きた結果として起きたことである。

しかしながら、その教訓もむなしく、今日もかつてとほとんど同じ出来事が進行中である。我が国では、政・官・民・財界すべてが協力して、金儲けだけを第一として危険な原発推進に突き進んだ結果、取り返しのつかない事故が起きてもまだ引き返すことができない。総理夫人は権限もないのに国政に口出しし、首相は国会で虚偽答弁を繰り返し、政治家の汚職と腐敗が官庁に及び、官僚も汚職に手を染め、公文書を改ざんし、経済界は労働者を奴隷的に使役・搾取してその富を内部留保するか国家に貢ぐだけとなり、戦争放棄の憲法を食い破る形で、武器は海外へ輸出され、国内では安保法制や秘密保護法が敷かれ、共謀罪が制定され、カジノが解禁され、自衛隊は海外の紛争地域へ派遣され、国会議員が自衛隊員に脅しつけられ、シビリアン・コントロールは脅かされ、あらゆる場所で秩序の転倒が起きている。
 
今日も見えない「和の精神」の名のもとに追求されているのは、集団に働く人類の欲望の無制限な解放であり、それに歯止めをかけるブレーキの役割を担う知性はとことん軽視され、排除されている。我が国では、あらゆる組織や集団から、政権に逆らう個人が追放され、社会的に抹殺されており、そうなった結果、再び国全体で、良心のブレーキが全く効かなくなり、歯止めのない欲望の暴走が起き、国が再び丸ごと「虚無の深淵」に今しも飲み込まれようとしている最中である。

確かに、外国人記者の言う通り、我が国の民主主義はもはや完全に死に体なのであり、これが精神によって統御されることがなくなり、脳の機能を失って体の欲望だけが無制限に解放された「美しい国」の辿る当然の末路なのである。むろん、「美しい国」という概念における「美」が、見せかけだけの内実のない悪魔的な美であることは言うまでもない。

今や我が国では、国会も今や半ば機能停止し、国家レベルで、脳死状態が進行しつつある。それにも関わらず、「体」という集団だけは、己が欲望に突き動かされて未だゾンビのように歩き回り、ただ自分が今を生き永らえるだけでなく、永遠にまで到達しようと、果てしない欲望を募らせている。

三島由紀夫は戦後の日本社会を侮蔑しており、我が国は戦後、天皇という「かしら」を失ったために、正常な目的意識を失い、自己目的化して生きるようになったとみなして憂慮していた。「などてすめろぎはひととなりたまひし」という三島作品に登場する怨霊たちの叫びも、脳を失った体の漂流に対する危機感から来る叫びであると言えなくもない。

だが、集合体としての人類という「体」に対する真の頭首権は、三島が考えたように天皇にはなく、真の頭首権を有しておられるのは、「ひととなられたイエス」である。

聖書の神は、「わたしはある」と言われる方で、人類のためには一言も発しないグノーシス主義の虚無の深淵とは何の接点もなく正反対の存在である。聖書の神は、虚無の深淵ではなく、まごうかたなきリアリティであり、しかも、人格を持ったお方であるから、人間の弱さに同情できない方ではなく、人類の救済のために、独り子なるイエスを人として地上に送られ、現実的な解決策を自ら打ち出された。神ご自身が、神であるという姿を捨てて、卑しい人間となって地上に来られ、しかも、「肉において罰せられ」、人類の刑罰を身代わりに受けられたのである。
 
グノーシス主義は人間が自ら永遠と一体化するという「下からの解放」を唱えるが、キリスト教は徹底して神の側からの「上からの救済」を唱える。すなわち、イエスが人間となって地上に来られたがゆえに、これを信じる一人一人の信者は、地上にあるままで、罪のゆえに悪魔によって支配される滅びゆくアダムの奴隷状態から抜け出て、自分の人生に対する自己決定権を取り戻して自由にされるのである。

この神を信じるために、人は肉体を破壊して虚無の深淵と一体化する必要はなく、むしろ、キリストの十字架を信じるだけで、神の方から人の内に自ら住んで下さり、人と共に人自身とその周りの世界を治めて下さる。

こうして、滅びゆくだけであった人間は、キリストと共に死んでよみがえらされ、有限なる「あぶく」に過ぎない人間の中から、真のリアリティが生まれる。人の悩みも苦しみも、もはや存在しないと言われることはなく、全体から切り離された個人が虚妄であると言われるどころか、取るに足りない存在であるその土の器の中で、はかりしれない神の命の力が働き、人の内でも転倒していた秩序が回復され、霊が魂を治め、魂が肉体を治めるようになる。
 
ところが、グノーシス主義は、被造物が神になり代わっているために、「神」の概念が骨抜きとなり、神不在となって、その空席に、虚無の深淵が横たわっている。その虚無の深淵に、人間を救う力はなく、そこに映し出される「神の似像」としての人類の姿は、見れば見るほど、むなしく、惨めで、無きに等しいあぶくのような姿である。

グノーシス主義は、被造物が神になりすましたために、神がもとより不在であればこそ、人の苦しみに対して、何の救済策も提示することができず、そこにいる「神」は、人の苦しみをどこまでも傲然と上から目線で見下ろすだけのもの言わぬ深淵であり、それ自体がフィクションである。

グノーシス主義は、神と人との断絶を認めないがゆえに、どこまで行っても、人間にとって「自分しかいない独りよがりな物語」である。そうであるがゆえに、この思想には永遠の堂々巡りという悪循環からの出口がなく、それを終わらせるには、自己存在を滅却する以外に手立てがないのである。
 
グノーシス主義は、人間が聖書における神の側からの救済を退け、自力で救済に至ろうとすると、どういう結末が待ち受けているかという残酷な事実を如実に表す思想である。結局、神をどのようにとらえるかが、人の生を決定するのであって、神をフィクションや虚無とみなせば、結局、人間自身も虚無となって消えるしかない。

我が国をかつて破滅の淵まで至らせたのは、まさに個を認めないグノーシス主義的世界観であり、「和の精神」などといったものが、徹底して個人への蔑視、人間存在への軽視の上に成り立っていることに気づいて、個人を出発点としてすべての物事を考え直さない限り、我が国では何度でも同じ破滅が繰り返されるものと思われてならない。


・グノーシス主義における「智慧」(グノーシス)の本質は、人類と悪魔による神に対する嫉妬と怨念である

ところで 、平安(涅槃)の境地に至るための悟りの智慧を表す訳語であるはずの「般若」は、今日、嫉妬と怨念に狂って鬼と化した女性の顔を表す能面の呼び名になっているが、それも以上のことを考えると、不思議ではないように思われてならない。


(般若の面「面友会」のページから転載)


  
 「般若の面」という呼称が定着したいきさつは、一説では、般若坊という能面師が作った鬼の面の評判が高かったことによるとされるが、その真偽のほどは定かではない。
 
また、能楽の謡曲『葵上』の中には、『源氏物語』の登場人物である六条の御息所が、嫉妬に狂った怨霊となって、源氏の寵愛を受ける葵上の前に現れるシーンがあり、そこで六条の御息所の怨霊が般若経の読経によって成仏させられることから、それにちなんで能面自体が般若と呼ばれるようになったという説もある。

ちなみに、『源氏物語』も、グノーシス主義的な無常観を表すものであって、文字通りにとらえるべき物語ではないと筆者は考えている。そこでは、光源氏という人物が「ゆく河」にたとえられ、登場する女たちは、現れては消える「うたかた」の役目を果たしている。光源氏は、無常観である虚無の深淵が擬人化された存在であって、源氏が美男子として描かれていることも、被造物を神とするグノーシス主義的世界観に一致する。

源氏を取り巻く女たちにとって、彼はあたかも「神」のような存在であるが、その「神」は、人間がどんなに手を伸ばしても、手に入れることのできない、実体のない虚無の深淵のような「鏡」であり、偶像でしかない。その「神」は人間を救済することができないため、人がどんなに神を見いだそうと、「鏡」を覗き込んでも、そこに映る自分の姿を見つめれば見つめるほど、ますます弱く惨めな存在である自分自身を発見し、満足を得られず、自分には手の届かない存在への嫉妬と怨念を募らせるだけである。

六条の御息所が怨霊と化すという筋書きも、本質的には、被造物を神とする人々が、「神」を独占してこれと一体化したいと願い、それによって、むなしい「あぶく」の立場を抜け出ようと願いながらも、思いを遂げられないで滅びゆく無念を表していると言える。

このように、当ブログでは、仏教における「般若」も、グノーシス主義における「グノーシス(叡智)」と本質的に同じで、その起源は、悪魔が人類に吹き込んだ、人類を神と同一視する悪魔的な知恵であるとみなしている。その知恵は偽りであるから、彼らの言う平安の境地も存在しないフィクションである。

そのように考えると、「般若の面」が「嫉妬と怨念に狂った鬼女」の顔をしていることは、全く不思議でない。そこに描かれている「鬼女」とは、脆く儚い「うたかた」であることに我慢ができなくなり、悪魔にそそのかされて、神に対する嫉妬と怨念を燃やし、自ら神になり代わろうとして「神を簒奪する」ことを悟りの境地であるかのように偽る人類そのものの姿だと言えるのである。

鈴木大拙は、東洋思想には「母を守る」ことがその根本にあると述べたが、東洋思想が目指している究極の目的は、グノーシス主義と同じく、「ソフィアの過失を修正する」ことである。つまり、「被造物が神になる」ことによって、被造物の罪を覆い隠し、正当化をはかることなのである。

そこで、東洋思想における「母」とは、神に逆らったために楽園を追われた人類全体を指すと同時に、あらゆる制限から自分自身を解放しようとする人類の欲望それ自体も表す。それは「子」らを自分の欲望をかなえる道具として支配し、集団からの自立を決して許さない「イゼベルの霊」(怨念)とも同一である。
 
三島作品の真の主人公が「怨念」であることはすでに述べたが、永遠を目指しながら永遠に到達できない滅びゆく人類という「母なる存在」が、自らの限界を前に発する無念の叫びは、主人公らの中でどんどん膨張して行く。三島作品の中で、怨念は主人公らを内側から食い破って、死に至らしめた挙句、ついに体も失った怨霊という形で作品の中をさまよわせる。

その怨念は、登場人物ばかりか、ついに三島自身をも内側から食い破って破滅させる。三島は、一方では自己存在を永遠にしたいと望みながら、他方では、自ら考え出した刑罰のような死によって、自分で自分の肉体を破壊し、それによって、「色即是空 空即是色」「是故空中 無色無受想行識」を自ら体現して、「彼岸」に到達しようと試みたのである。
 
むろん、私たちは、そのような方法で、人の魂が解放されることなどあり得ないことをよく知っている。それは、神風特攻隊として死んだからと言って、人が天皇と同化することもなく、まして「神になる」など不可能であるのと同じであり、人が自らの肉体を滅ぼしたところで、それで霊を解放して永遠の存在となれるはずもない。

そこにあるのは、ただ自分のためだけに、永遠の美と知識と満足を追求した結果、その高慢さによって、滅びの刑罰に定められた悪魔と同じ破滅の運命であって、グノーシス主義者がどんなに自らの死を解放に見せかけたとしても、その死は、実質的に刑罰も同然なのである。

こうして、人類の罪を認めず、神と人との断絶を認めず、人類が罰せられることなく自ら神に回帰することを正当化する教えを信じると、人はまるで脳を失った体のように、欲望に引きずられて地上をむなしくさまようだけとなり、神の概念が消えるばかりか、ついに人間も消えてすべてが無となり消失する。

三島が自らの最期に際して、自衛隊に向かってクーデターを呼びかけてそれに失敗し、割腹という手段を取ったのみならず、弟子に自分の首を切り落とさせたことも象徴的である。このような最期は、どこからどう見ても、罪人に対する最も残酷な刑罰以外の何物でもなく、三島が自分で自分を処刑したことを意味するだけではない。

聖書は、すでに述べたように、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者たちが、自らの「腹」を神としていると非難している。そこで言う「腹」とは、人類の欲望の象徴であり、さらに、三島が切り落とした「首」も、キリストの頭首権の象徴である。従って、首のない体とは、神の頭首権に服さなくなった集合体としての人類を意味し、裂かれた腹も、堕落した人類の体に働く罪深い欲望に対する神の裁きを物語ると言えよう。

三島は単なる小説家ではなく、グノーシス主義という反聖書的な偽りの福音を宣べ伝える宣教師であったからこそ、自ら宣べ伝えた恐るべき「福音」がもたらす当然の結末に従い、このような破滅的な最期を遂げたのだと言える。 


神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から⑥

・被造物を神とする思想が過剰なまでの美意識とナルシシズムを生む

さて、そろそろ映画"MISHIMA; A Life in Four Chapters"の分析を抜け出たいと考えているが、今回は、これまでの分析の総まとめとして、グノーシス主義における「美」とは何かという疑問について、さらに、グノーシス主義がなぜ個人の概念を認めず、集団からの離脱を許さないのかという問題について考えてみたい。
 
これまで、グノーシス主義は、被造物を神とする被造物崇拝(人類の自己崇拝)の教えであり、この教えは、「父なる神」を事実上のフィクションとしてしまうため、この教えを信じると、人は神を探し求める過程で、自己の像を見つめるしかなくなり、それゆえ、歪んだナルシシズムに陥って滅びるということを再三に渡り、述べて来た。

グノーシス主義は、人間は神の「似像」として創造されたとするが、グノーシス主義における至高神とは、それ自体が「鏡」であり「虚無の深淵」であって、本体を持たないため、結局、グノーシス主義では、「似像」として造り出された被造物の方が真のリアリティだということになってしまう。

それゆえ、この教えを信じる人々は、神を探し求めると言いながら、自分自身を見つめ、己を神とするしか手段がないが、どんなに鏡の中を覗き込んで、そこに映る自分の像を見つめて、神を見いだそうとしても、そこに神はおられないため、彼らはナルキッソスのように自分を映し出す虚無の深淵に吸い込まれて破滅のうちに消えて行くしかないのである。

しかも、ただナルシシズムのうちに絶望して滅びるだけではない。彼らは神を探し求めているうちに、「虚無の深淵」である「鏡」に自分の像を質に取られ、自分をどんどん乗っ取られながら喪失して行くのである。

グノーシス主義とは、弱い者が強い者を乗っ取るというヒエラルキーの転覆を果てしなく正当化する教えである。そこで、このような秩序転覆の教えを信じると、神と人との関係が逆転するだけでなく、男女の秩序も逆転する。そして強い存在であるはずの男性が弱い女性に飲み込まれて自己を喪失するということが起きる。神の助け手となるべく創造された人類と神との関係が壊れることにより、男女の正常な秩序も崩れるのである。

詩編には次のような箇所がある。

「人の子は何ものなのでしょう
 あなたが顧みてくださるとは。
 神に僅かに劣るものとして人を造り
 なお、栄光と威光を冠としていただかせ
 御手によって造られたものすべてを治めるように
 その足元に置かれました。
 羊も、牛も、野の獣も
 空の鳥、生みの魚、海路を渡るものも。」(詩編8:5-9)

ここに、人は「神に僅かに劣るものとして」創造されたとある。確かに、聖書において、人は神の形に似せて創造されたとはいえ、人類は堕落していなかったときから、神と同一の存在では決してあり得ず、人は神よりも弱く劣った存在として造られたのである。そこには明らかに序列があり、優劣があった。

しかし、この優劣はただ単に神と人との主従関係として理解されるだけでなく、人間に任された役割を示すものと理解できる。すなわち、神は霊であるが、人間を霊的な世界と物質的な世界の両方に接点を持つ者として創造され、神の代理人として、神が造られた目に見える万物を正しく治めるために創造されたのである。

いわば、人間は神が造られたこの世という庭の園丁のような存在でもあったと言えるかも知れない。被造物は被造物でしかなく、どこまで行っても、創造主にはなれないとはいえ、人は神と交流を持ちながらも、物質界の主人だったのであり、一つの世界を治めるべき存在として、神は人間に絶大な権限を与えておられたのである。

ここで神と人とは男女になぞらえられる。つまり、神はご自分の創造された物質的な世界を治めるための助け手として人を創造し、この世界を人の監督下に置かれた。何度も言うが、人類は、神に対して霊的に女性として創造されたのである。

ところが、グノーシス主義は、人類が神よりも劣った弱い存在であることを認めず、聖書の創世記において、蛇の姿をした悪魔が人類のもとにやって来て、神は人類を神より劣った存在に貶めるために、人類の知識と力をいたずらに制限しようと「善悪の知識の木の実」を食べることを禁じていると嘘を吹き込んだ。それがグノーシス主義の始まりである。

人類はこの時、悪魔の嘘を信じて神の掟を捨てて悪魔側に寝返ってしまったので、人類の堕落と共に、この世全体の統治権が悪魔の手に渡り、悪魔が人間を奴隷として従えつつ、「この世の君」となったのである。

グノーシス主義は、今日も、その時から少しも変わらず、神と人とがあたかも本来的に対等(同一)な存在であって、そこに優劣はなく、序列もなく、主従関係もなく、知識や力の差もないのが当然であるかのように主張している。

結局、この思想は、人類が神よりも劣った存在として創造されたこと、人類が被造物であって創造主ではないという事実自体に逆らって、人類を神と同一視しているのであり、それと同時に、人類が神の被造物として有限なる存在として創造されたこと自体に被害者意識を持っていると言って良い。

グノーシス主義は、もともと人類が神より劣った存在であることを認めていなかったが、その上、人類が神に逆らって罪を犯したために死に行く存在となって、永遠性から切り離されたので、罪に対する刑罰への恨みも、もともとあった神への被害者意識の上に増し加えた。

おそらく、そのような不当な被害者意識に基づき、神を悪者とする転倒した思想は、サタン自身がもともと神に対して持っていた思想を、そのまま人類に転嫁するために吹き込んだものと考えられる。

グノーシス主義は、別な言葉で言いかえれば、人類(被造物)の側からの、神への怨念に基づく神への反逆としての、神の乗っ取り(なりすまし)の思想ということになる。事実、人類は神ではないにも関わらず、その人類が自己を神と同一視することは、人類の側からの神の存在の乗っ取りやなりすまし以外の何物でもない。

このような転倒した教えを引き延ばして行くと、当然ながら、神と人との関係だけでなく、男女の秩序も破壊される。男性の側からは、女性は自分の「似像」(同一)であると主張して女性を支配しようとするが、他方、女性の側からも同じように自分は男性の「似像」であって、両者は本質的に「同一」であり、「対等」だと主張する。

その結果、神から神であることを奪った人類(男性)は、自分も弱い者(女性)から存在を奪われ、弱い者(女性)に同化させられ、飲み込まれて消え失せる。聖書の創世記において、エバがまず最初に「善悪知識の木の実」を食べ、次に夫であるアダムをそそのかして自分と同じ違反を犯させた様子を見ても、この時点で、すでに男女の秩序が転覆していることが分かる。男が自分よりも弱い女の言いなりになって誘惑されて独自の判断を失い、死に赴かされているのである。

むろん、こうした秩序の転覆は、男女の間だけでなく、人間社会における強者と弱者との間で果てしなく繰り返される。こうして、人類が神から神であることを奪い取って、自分が神になり代わることを正当化すると、人類同士の間でも、果てしなく弱い者からの強い者への乗っ取りが起きるのである。いわば、弁証法的唯物論の原型がグノーシス主義の中にあるのだと言えよう。

さて、話を戻せば、歪んだナルシシズムと並行して、グノーシス主義者の見落とせない特徴として挙げられるのは、過剰なまでの美意識である。

三島由紀夫が自分の美意識にこだわり、その美意識があるために、自分の肉体に対するコンプレックスを常に抱え、それを払拭するために、肉体を鍛えるなどして、何とかして自分の外見を自分の目にかなう「美しいもの」に変えようとしていたことは前回までの記事で確認した。

しかも、三島の場合は、ただ単に外見を美しくしようとするというありふれた努力で終わらず、自らを「永遠の美」の領域にまで高めようとしていたことを私たちは見て来た。自らの存在を永遠にするためにこそ、三島は自分が「美しいもの」になったと考えた次の瞬間、自分の美をそのまま永久に保存するために、死に赴いたのである。

むろん、死は残酷に彼の美を破壊して奪い去っただけで、何一つ保存などしなかったが、当の三島は、死を解放であると思い込み、それが滅びであるとみなしていなかった。我々から見ると、三島の死はまさに自ら造り出した刑罰に他ならず、凶悪な罪人に対する十字架刑のような残酷な死であって、およそ解放などと呼べる類のものでは決してない。

しかしながら、グノーシス主義者は肉体からの解放を、自己存在が永遠と一つに融け合うことだと考えているため、そのような霊的刑罰としての最も残酷な死でさえも、あたかも自己存在を高めるための儀式であるかのように錯覚しつつ、それに陶酔して行くのである。

このように、「宇宙全体と一つになる」という名目で個人を消失させることが、グノーシス主義の最大の破壊的マインドコントロールの効果である。グノーシス主義は、ウロボロスの輪のシンボルにも見られるように、創造と破壊という対極のものを一つに結び合わせるという錬金術的な詐術のもとで、永遠の循環という概念を信じているため、この思想において、死は終わりとはみなされていない。死は新たなる生の始まりのようなものでしかないとみなされているため、そこに個人の死という概念は存在しないのである。

もちろん、当ブログはそういう考えを完全に荒唐無稽とみなしているが、東洋思想の基盤には、すべての生命が滅びることなく永遠に循環するという偽りの概念が脈々と流れている。そのことは、サンダー・シングの教えの偽りについて分析した際にも見て来た。

このような循環あればこそ、美という概念が、彼らにとって極めて重要性を帯びるのだと言えよう。


・被造物が堕落したために、美はその本来的な目的を失って欺きの源となった

ところで、私たちは、女性が自分の美にこだわるならまだ分かるとしても、三島のような男性が、青年期を通り過ぎ、「いい年をしたおじさん」になってから、自分の外見的な美にそれほどまでにこだわり続けたことに、かなり奇異な印象を受けるかも知れない。

だが、そのようにして自分の美にこだわることは、グノーシス主義者には男女を問わず、共通して見られる現象であって、何ら三島に固有の現象ではないのである。当ブログでは、ペンテコステ・カリスマ運動の信者が常に、人前で、弱者の救済者のように振る舞ったり、同情心溢れる純真で貞潔な信徒を演じたりしながら、自分の美的イメージを作り上げることに腐心し、その美しい外観が傷つけられることに強い抵抗感を示すことを見て来た。

彼らは自分で作り上げた美しい自己像にあまりにも耽溺しているせいで、それが現実の自分からは遠くかけ離れた虚構のイメージでしかない事実さえ、もはや自分では分からなくなっており、認められないのである。

さて、クリスチャンが、聖書の中で、自分の美に固執し続けたのは誰かと尋ねられ、真っ先に連想するのは、サタンの存在ではないだろうか。なぜなら、悪魔こそ、自分の美に対して異常なまでの自信と執着を示し、自らの美と知識と繁栄のゆえにおごり高ぶって神に反逆した張本人だからである。

聖書の中では、悪魔の起源は明らかではないが、一般にキリスト教の教理では、悪魔は神に反逆して堕落した天使の一人であるとみなされており、しかも、天使の中でおそらく最高位の神に最も近い位にあったものと考えられている。

聖書では、サタンの神への反逆と堕落がいつ起きたのかは記されていない。それが天地創造以前の段階ですでに起きていたのか、それとも、天地創造以後のことであるのかも、聖書の記述の中からは明らかでない。しかし、エデンの園で悪魔が蛇の姿を取って人類をそそのかしにやって来たところを見ると、この時点ですでに悪魔が堕落していたことは明白である。

一般的に、クリスチャンの間では、エゼキエル書28章は、悪魔の神に対する反逆と堕落の一端を明らかにするものだと考えられている。むろん、この記述が悪魔に関するものだという証拠はなく、異論も存在するが、ここでは「ツロの君」に対する宣告に重ねて、悪魔に対する神の宣告が重ねて込められているという解釈が一般的である。その記述によれば、悪魔の堕落は、悪魔が自らの美しさと知識と、不正な貿易によって増し加えた富のゆえに慢心し、自分を神以上の存在であると考えたために起きたことが分かる。

「人の子よ、ツロの君に言え、主なる神はこう言われる、あなたは心に高ぶって言う、『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。 」(2節)

「それゆえ、主なる神はこう言われる、あなたは自分を神のように賢いと思っているゆえ、 見よ、わたしは、もろもろの国民の最も恐れている異邦人をあなたに攻めこさせる。彼らはつるぎを抜いて、あなたが知恵をもって得た麗しいものに向かい、あなたの輝きを汚し、 あなたを穴に投げ入れる。あなたは海の中で殺された者のような死を遂げる。

それでもなおあなたは、『自分は神である』と、あなたを殺す人々の前で言うことができるか。あなたは自分を傷つける者の手にかかっては、人であって、神ではないではないか。
あなたは異邦人の手によって割礼を受けない者の死を遂げる。これはわたしが言うのであると、主なる神は言われる」。 」(6-10節)

「人の子よ、ツロの王のために悲しみの歌をのべて、これに言え。主なる神はこう言われる、あなたは知恵に満ち、美のきわみである完全な印である。 あなたは神の園エデンにあって、もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。すなわち赤めのう、黄玉、青玉、貴かんらん石、緑柱石、縞めのう、サファイヤ、ざくろ石、エメラルド。そしてあなたの象眼も彫刻も金でなされた。これらはあなたの造られた日に、あなたのために備えられた。

わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブと一緒に置いた。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いた。 あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった。

あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した。

あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。

あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によってあなたの聖所を汚したゆえ、わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前であなたを地の上の灰とした。
もろもろの民のうちであなたを知る者は皆あなたについて驚く。あなたは恐るべき終りを遂げ、永遠にうせはてる」。(12-19節)
 
エゼキエル書の以上の宣告の中には、「ツロの君」に対する宣告と、堕落した人類に対する宣告と、悪魔に対する宣告の三つの意味が重ねられているのではないかと想像されるため、それらをすべて別々に切り離して、どこからどこまでが悪魔に対する宣告なのかを明白にすることは難しい。

しかも、この記述は、悪魔のみならず、神に背いてエデンの園を追放された人類にも、随分、重なる部分があるように感じられる。

たとえば、創世記において、人がエデンを追放された場面にはこうある。

主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。 」(創世記3:22-24)

この楽園追放の場面の記述は、「守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した。 」というエゼキエル書の記述に重なる。

さらに、「わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前であなたを地の上の灰とした。」というエゼキエル書の記述も、「 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:19)というアダムへの宣告に部分的に重なる。アダムが死んで火葬されたという話は聖書にないが、塵に帰るという表現は、灰になることとも似通っているからである。
 
以上の記述の中では、悪魔がかつてアダムのように肉体を持っていたのにそれを失って霊だけの存在になったのか、それとも、悪魔は最初から霊だけの存在であり、体を持っていなかったのかも明白ではない。

ただ悪魔が蛇の姿を取って人間のもとにやって来たという記述から、悪魔は霊的な存在であり、地上の被造物の中に住処を得て入り込み、人知を超えた方法で人間に語りかけることができるという事実が分かるだけである。
 
もしサタンが体を持たなかったのであれば、この目で見ることのできない霊的存在であるサタンに、どのような美が備わっていたのか、我々は想像することもできないが、いずれにせよ、以上の記述から分かるのは、サタンは己が美と知識と繁栄のゆえにおごり高ぶって神に対して逆らったために、特別厳しい裁きと滅びに定められたという事実だけである。

こうしたことを考えれば、聖書の神に対する反逆の教えであるグノーシス主義においても、美意識や美という概念が極めて重要性を帯びて来るのは不思議ではない。

ここで私たちは「美とは一体、何なのか」という根本問題について考えてみたい。そもそも、美というものは、それだけで成立するものではなく、これを見る者、愛でる者、鑑賞し、評価する者があって、初めてその真価を認められるものである。

そういう意味で、美とは、それを有する自己のためにあるというよりも、これを鑑賞する他者の満足のために備えられたものであると言うことができるかも知れない。

花は花自身のために美しく装うわけではない。深海の驚くべき生物たちも、空を飛ぶ鳥たちも、その瞠目すべき彼らの美は、明らかに彼ら自身の命のためだけに用意されたものではない。同様に、フェミニストたちは憤りを表明するかも知れないが、女性の美も、女性自身のためにあるわけではなく、これを見てその美しさを評価する他者のために存在している。その真価を最も評価できるのは男性であろう。

そうしたことから考えると、人間の美、そして、被造物の美とは、最終的には、これを創造した神の満足のために備えられたのであり、被造物自身の満足のためにあるのではないということが言える。

そして、神は決して人を外見だけで偏り見て評価せず、人の心を見られることも聖書には記されている。神が求めておられるのは、外見だけの美ではなく、外見と内面とが一致した、神への従順を通して自然に生まれて来る美しさだと言えよう。

そこで、もしサタンに美が備わっていたというならば、その美も、本来はサタン自身を満足させるために備えられたものではなく、神の満足に奉仕する目的で付与された性質だったはずであると言える。

しかし、サタンはその美を自分自身のために悪用し、まるで自分の手柄のように誇ったため、その瞬間に、サタンの外見的な美が、内面的な美と乖離した。サタンは神に背いて内面的な美を失っていたにも関わらず、外見的な美しさを誇り続けた結果、その美は、表面的でうわべだけの見せかけのものとなり、さらに、サタンに滅びの宣告が下されたことにより、その美は完全に実質とは正反対の欺きの性質となってしまった。

こうして見て行くと、美とは、被造物全般に共通する特徴であることが分かる。神に愛でられ、神の満足のために創造された被造物であるがゆえに、あらゆる被造物は、滅びゆく存在でありながらも、みな束の間の美を付与されていると言えるのである。

ところが、被造物全体が堕落したがために、サタンはおろか、被造物の美は、本来の正常な働きを失って、不幸の源となってしまった。被造物は、サタンと同じように、他の被造物と自らの美を競い合い、手柄のように誇りながら、自分の満足のために、自分の美に固執しつつも、一瞬でその輝きを失って滅んで行くしかない存在になった。人間の持つ美醜の概念は、それ自体が欺きとなり、偽りとなり、形容しがたい醜い争いを生む根源となった。


・グノーシス主義の美意識は、無常観と密接な関係がある

ここで、話が唐突に変わるように思われるかも知れないが、ここでグノーシス主義的な世界観と美の関係性について述べるために、「いろは歌」について触れておきたい。

日本人が誰でも知っている「いろは歌」は、中世から存在しており、平安時代にはすでに存在が確認されているが、誰がどういう目的で作ったのかは明らかでない。

この「いろは歌」には、単なる文字の学習という域をはるかに超えた深淵な無常観を表す思想が込められており、それ自体が、般若心経などと同じような「誦文(ずもん)=呪文」である。もちろん、当ブログの読者であれば、あえて説明せずともお分かりかと思うが、「いろは歌」に込められている思想も、やはりグノーシス主義である。そのことを確認するために、まずは「いろは歌」の解釈を確認したい。

 


(この達筆の書は「極楽浄土~浄土宗~仏教用語集」から借用)


色はにほへど 散りぬるを
(どんなに美しく芳しい香りを放って咲いている花も、すぐに散って枯れて行くように、すべての存在は束の間にしか存在せず、永遠性を持たない滅びゆくものである。[=諸行無常])

我が世たれぞ 常ならむ
(それと同様、人間がこの世の春を謳歌して生きていられるのも、ほんの束の間だけのことであり、人間存在も滅びゆくものであって、永遠ではない。[=是世滅法])

有為の奥山  今日越えて
(目に見えるものも、見えない心の有様も、何もかも束の間に現れては消える儚い幻想に過ぎないが、そのことが分かれば、この世の無常を乗り越えることができるため、 [=消滅滅己])

浅き夢見じ  酔ひもせず
(もはや儚い夢に浮かれたり、この世の苦楽に溺れたりもせず、この世の過ぎ行く有様を超えた平安な心の境地に至ることができる。 [=寂滅為楽] )



「いろは歌」が示しているのは、要するに、目に見える被造物の美しさも含めて、この世の有様のすべては幻のように仮初であり、すべての目に見えるものが、生成から滅亡への過程を辿っているように見えても、その本質は「空=無」であるという思想である。

さらに言えば、すべてのものが一時的でしかなくその本質は「空=無」であることを悟るとき、人々は心の中にあるすべての苦しみを超越して、自己と永遠を一体化させて無我の境地に至り着いて平安を得るという思想である。

この「いろは歌」は仏教思想の本質を表しているとよく言われるが、当ブログでは、仏教を含め、世界の本質が「無」であるというこの種の思想はみな根本的にグノーシス主義であるとみなしている。

つまり、「いろは歌」の中に込められているのは、万物の生成と消滅を一つの循環のようにとらえ、この輪の背後に巨大な永遠(=無)が存在するという思想なのであって、それはウロボロスの輪が意味するものと同じであり、さらに、『国体の本義』が説く「和の大精神」とも本質的に同じである。

すでに見て来たように、『国体の本義』が説くのは、我が国において、「天照大神」を始祖とする神話を継承する天皇家に始まり、先祖代々から人々が誕生と死を繰り返しながら全体として受け継いで来た「和の精神」によって、日本人は「天壌無窮」すなわち永遠に到達し、生成と消滅の「和=輪」の中で、「永遠の今を生きる」という思想である。

ウロボロスの輪がグノーシス主義の思想を表すシンボルであるのと同じように、「和の精神」という言葉や、「いろは歌」という呪文も、それ自体がグノーシス主義と本質的に同じ思想を表すシンボルなのだと言えよう。

(ちなみに、余談であるが、この「いろは歌」には暗号が隠されているといった話があり、その暗号を読み解くと「咎なくして死す」というメッセージが読み取れるという解釈がある。そのような説は江戸時代からあったらしいと思われ、それゆえ、いろは歌は、赤穂浪士の切腹を描いた人形浄瑠璃の題名に使われたり、柿本人麻呂の遺言や、菅原道真の無念が込められていると言った諸説が登場している。さらに、今日では、そこからもっと進んで、「咎(罪)無くして死んだ」者とは、イエス・キリストを示しているといった奇抜な解釈まで見られる有様である。
 



しかしながら、当ブログではこうした暗号の問題に立ち入るつもりはない。また、仮にいろは歌の中に、「咎なくして死す」という暗号が込められているとしても、この歌自体が、無常観という反聖書的な概念のもとに成り立っている以上、その暗号が決してイエス・キリストを指しているはずがないことは明らかであるものと確信する。

仮にこの「いろは歌」を暗号として理解したとしても、そこから読み取れる通低音は、やはり、「などてすめろぎはひととなりたまひし」という三島作品の叫びと同様に、「人類に罪はない! なのに神が人間を滅びに定めたのは不当だ!」というグノーシス主義に常なる滅びゆく人間の無念(被害者意識、怨念)の叫びだけである。)

「いろは歌」の中には「美」という概念がはっきり登場しているわけではないにせよ、そこでは「色」すなわち、この世の物質界の現象が一時的な形を取って現れる有様を「美」と同一視することもできよう。そう考えれば、美とはまさに永遠性を持たない一時的なもの、脆く儚いものの別名、代表格も同然となる。

そのように物質世界の諸現象が、脆く儚い有限な一時的存在として形を取って現れること自体が、グノーシス主義的な美の概念であるとも言えるかも知れない。言い換えれば、グノーシス主義における「美」には、確固たる存在の裏づけがないのである。

さらに、グノーシス主義の神話的プロットにおいて、唯一「醜い存在」として非難されているのが、ヤルダバオートおよび堕落したカインとアベルの種族であることを見ても、我々は、グノーシス主義における美醜の判断の基準が、「自分よりも上位の被造物の思惑を無視して自分にこだわること」と密接な関係を持っていることが分かる。

グノーシス主義が、被造物の間に貴賎を設け、カースト制のようなヒエラルキーを造り出すことを正当化する教えだということはこれまで度々述べて来たが、そのようなヒエラルキーは、グノーシス主義の神話においては被造物がどれほど至高者である神に近い存在であるかに応じて序列が定められていることに由来する。大田俊寛氏は、『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』の中で次のように述べる。
 

これまでに述べてきたように、プレーローマ界に住まうアイオーンの神々は、すべて「深淵」である至高神から流出する。しかしながら、それゆえにすべてのアイオーンが平等の立場にあるかと言えば、実はそうではない。「(原)父」である至高神を見ることができるか、またそれによって自分自身を知ることができるかということに応じて、アイオーンたちのあいだには、暗黙の裡にヒエラルキーが設定されているのである。(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』、春秋社、p.126)


注目すべきは、このヒエラルキーは神と被造物の関係を指すというより、被造物同士の序列を指すことである。悪とは、このヒエラルキーを覆すことである。しかし、グノーシス主義における至高神は、物言わぬ深淵であるから、自分にたてついた者を罰するために出てくることもない。従って、そのヒエラルキーは、至高者の目から見たヒエラルキーではなく、被造物同士の序列だということができる。

グノーシス主義における美醜の概念や、善悪の概念は、このような被造物同士の序列と密接な関係があり、被造物の社会の序列の中で、「空気を読み、自分の分をわきまえて行動すること」こそ美(善)であり、「被造物同士の間で、自分の分をわきまえないで行動すること」が醜(悪
)なる性質であるかのようにみなされる。

ソフィアはヒエラルキーを犯したがそれを後悔して、自分の分をわきまえようとしたのでとがめられることなく、また、ソフィアの行為は、自分も至高神を知りたいと願っていた他の被造物全体の思いを代弁していたため、同情されることはあっても、罰せられることはなかったが、ソフィアの過失の結果として生まれたヤルダバオートは、周りも憚らず、「私は妬む神である。私の他に創造主はいない」と宣言し、自分だけが神であると述べて、自分よりも上位の他のすべての被造物に恥をかかせ、面目を失わせたために「醜悪な存在」として侮蔑と嫌悪の対象とされているのである(もっと言えば、ヤルダバオートは出生の段階から母であるソフィアに恥をかかせていた)。さらに、カインとアベルの種族も、己が欲望だけに邁進して流血と殺人を繰り返す種族であるから醜悪な種族なのだという。

早い話が、グノーシス主義では、神との間で被造物がヒエラルキーを犯すことは無罪放免される一方で、被造物の間のヒエラルキーを犯して自分の存在を絶対化しようとすることは、非常に醜悪な行為とみなされ、侮蔑の対象となるのである。つまり、被造物自身が創造主を差し置いて、善悪や美醜の判定者になってしまっているのだと言える。

そこから考えると、グノーシス主義における美とは、「被造物同士の序列の中で、個々が自分の分をわきまえて、自分を手放すこと」と深い関係があることが見えて来よう。端的に言えば、グノーシス主義は、被造物が「全体のために自分を捨てる」状態にあることこそ「美」(善)であるとみなし、序列を無視して自分に固執する状態を「醜」(悪)とみなしていると言っても良い。それだからこそ、この思想における美は、自己存在の裏づけを持たない、脆さ儚さと切り離せないものとなのである。

このような考え方は、次回でも触れるように、『国体の本義』に現れる「和の大精神」にも通じる。『国体の本義』は、個人の平等を認めず、社会の中に身分制度としての差別的ヒエラルキーをもうけ、その中で、人が「分をわきまえて行動する」ことで、全体の秩序(和)が保たれるかのように教えた。そして、個人はそのような差別的な序列に従ってこそ、その真価が発揮できるかのように説き、決して個人がそのヒエラルキーから離脱することを許さず、集団を離れた個人という概念自体を認めなかった。

グノーシス主義における「美」の概念は、このように差別的なヒエラルキーを守り抜くためにもうけられる「和」の概念と無関係ではない。それは被造物が創造主なる神に従うことによって保たれる美ではなく、むしろ、被造物自身が、神から盗み取って得た美であり、被造物同士が互いのヒエラルキーを保たせ、威信を保つための美である。

その「美」は、弱い者が自分よりも強い者のために自分を捨てながら、個であることを放棄して被造物全体と一体化することによって、初めて成し遂げられる「和」の一部である。

そうした思想の究極の形が、自分が無であること悟ることで世界と一体化するという仏教的な無常観、および、肉体からの霊の解放を救済とみなすグノーシス主義の思想の中に表れている。このような思想は、人が自己存在にこだわることをやめ、自分が生成し消滅する個としての命であることさえ否定し、自己存在が移ろいゆく不確かなものであるばかりか、本質的に無であることをわきまえ、自己存在をまるごと放棄して、永遠=無の中に身を投げる時に、初めて人と世界が一体化して全体の中の調和が取り戻され、被造物があるべき美を取り戻すのだと述べているに等しく、極言するならば、それは滅びと死の中に「美」を見いだそうとする倒錯した思想なのである。

別な言葉で言えば、その「美」は「哀れ」という感情とつながっており、命がヒエラルキーに従ってディスカウントされて完全性を失って行くことによって初めて得られるものである。こうした世界観では、あらゆる生命が死や滅びによって脅かされる儚く脆い存在であることを前提として初めてそれらの生命の「美」が成立するのであり、「美」とは本質的に「可哀想」という感情と一体化しているとも言える。別な言い方で言えば、滅びゆく被造物の無念とそれに対する同情という被害者意識に基づく感情自体が、美という形で表現されていると言えるのである。

日本人は「いろは歌」を通して、知らないうちに、世界の本質が無であるという思想に触れて、その世界観を無意識的に呪文として唱え、呼び出しているのであり、「いろは歌」に込められている無常観は、次回で説明するように、般若心経の中で、もっとはっきりと鮮明で凝縮された形を取って表れている。

<続く>


神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から⑤

・ウロボロスの輪と「和の大精神」に見る「二度目の林檎を食べる」という嘘
   
映画"MISHIMA"の終わりで三島は言う、「知性などをはるかに超えたもっと本質的に大切なものが、どこかにあるはずだ。芸術と行動を調和させる何かが。」

この言葉を通しても、私たちは三島が鈴木大拙とほぼ同一の見解に立って、人間の本質とは「知性」をはるかに超えたところにあるものと考え、「行」が「知」によって排除されることのない、全一的な世界を求めていたことを知ることができる。

三島は、「知と行」、「芸術と行動」、「精神と肉体」、「男と女」、「自己と他者」といった、あらゆるの隔ての壁をなくすことで、自分が何者によっても疎外・排除されることのない、完全性、永遠性を身に着けられるかのように考え、自分なりに、最初のエデンの「一段の進出」である「入不二法門の世界」へ入ろうとしたのである。

三島にとって、第二のエデンである全一的な世界は、日輪というシンボルで表される。日輪は、三島の美意識が無限大に拡大して行きついた最後の姿であり、かつて三島を外界に誘い出し、彼が肉体の衝動に従って生きることで、自ら肉体を縛っている制約を取り払い、自己疎外を終わらせられるかのように教えたギリシアやハワイで見た太陽と同じである。

三島はこの「日輪=太陽」というシンボルの中に、「すべての疎外が解消された隔てのない世界」を見、その「母なる神」の懐に飛び込むことで、自己存在を永遠と溶け合わせることができるかのように考えた。
 
その日輪が、天皇家の神話上の始祖とされる天照大神と同一であることは言うまでもない。それは慈悲によってすべてを包容する、決して人間を排除することなく、人間を罪に定めたり、楽園から追放したり、滅ぼしたりすることのない、東洋的な慈悲の神のシンボルであり、東洋思想の「神秘なる母性」の象徴である。

さらに、日輪は「輪」であるから「和」の精神をも指す。「和」とは、かつて『国体の本義』を通して確認したように、「神と人との隔てがなくなった状態」、あらゆる区分が取り払われ、すべてが一体となった全一的な世界を指す。

三島は、自分と世界との区別を取り払うことにより、自分が永遠の存在となるかのように考え、自ら日輪の懐に飛び込むことで、「肉体の牢獄から霊を解放する」という、グノーシス主義の最後の錬金術を達成しようとしたのである。


  

 


知性などをはるかに超えたもっと本質的に大切なものが、どこかにあるはずだ。芸術と行動を調和させる何かが。私はそれが死であると考えた。

地球は死に包まれている。上空には空気がない。
極めて純粋で単純な死がひしめいている。4万5千フィートの上空では、銀色の弾痕は裸になった光の中に見事な平衡を保って浮かんだ。

私の心はのびやかで、生き生きと思考していた。何一つ動きもなく、音も、記憶もない。機体の閉ざされた部屋と、外の開かれた世界とは、一人の人間の精神と肉体のようなものであった。

究極の行為の果てに、私が見るであろう光景が、今私の目の前にあった。雲も海も太陽も、すべてが私の一部であった。もう矛盾は一つもなかった。

精神と肉体も、芸術と行動も、男と女も、

あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪は、ゆっくりと地球の周りをまわった。それは死よりも大きな輪、これこそ、私の求めてやまぬ地点であった。
 

 

 
さて、私たちはここで、日輪という「輪」が、グノーシス主義のシンボルとしてのウロボロスの輪にもぴったり重なることを見いだす。

すでに見て来た通り、日輪は、対極にあるものの統合であり、それは被造物の究極の美を表すと同時に、被造物の限界としての死をも意味する。

ウロボロスの輪も、これと同様に、死と再生、破壊と創造のように、相反するもの、対極にあるものの統合の象徴であり、世界が本来的に一つであるという思想を表す。

つまり、「和の大精神」なるものも、ウロボロスの輪も、本質的に同一の概念を指しているのであり、それは三島が言った通り、「あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪」であり、永遠でありながら、同時に死の象徴なのである。
 
「あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪は、ゆっくりと地球の周りをまわった。それは死よりも大きな輪、これこそ、私の求めてやまぬ地点であった。」

 

このように解釈すると、『国体の本義』で説かれている、「すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる。ここに我が国の大精神がある。」という記述内容は、まさにウロボロスの輪をそっくり体現したものであり、まさしくグノーシス主義の悲願としての「破壊」と「創造」の一体化による永遠性を指していることが分かる。

もう一度、『国体の本義』の中で、日輪(天照大神)がどのように永遠のシンボルとして描かれているかを見てみよう。
  

国体の本義
第一 大日本国体、一、肇国から抜粋


大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(てうこく)の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。

我が肇国は、皇祖天照大神(あまてらすおほみかみ)が神勅を皇孫瓊瓊杵(ににぎ)ノ尊に授け給うて、豊葦原の瑞穂(みづほ)の国に降臨せしめ給うたときに存する。<略>

天照大神は日神又は大日孁貴とも申し上げ、「光華明彩しくして六合の内に照徹らせり」とある如く、その御稜威は宏大無辺であつて、万物を化育せられる。

 天照大紳は、この大御心・大御業を天壌と共に窮りなく弥栄えに発展せしめられるために、皇孫を降臨せしめられ、神勅を下し給うて君臣の大義を定め、我が国の祭祀と政治と教育との根本を確立し給うたのであつて、こゝに肇固の大業が成つたのである。我が国は、かゝる悠久深遠な肇国の事実に始つて、天壌と共に窮りなく生成発展するのであつて、まことに万邦に類を見ない一大盛事を現前してゐる。
<略>

 天壌無窮とは天地と共に窮りないことである。惟ふに、無窮といふことを単に時間的連続に於てのみ考へるのは、未だその意味を尽くしたものではない。普通、永遠とか無限とかいふ言葉は、単なる時間的連続に於ける永久性を意味してゐるのであるが、所謂天壌無窮は、更に一層深い意義をもつてゐる。即ち永遠を表すと同時に現在を意味してゐる。

現御神にまします天皇の大御心・大御業の中には皇祖皇宗の御心が拝せられ、又この中に我が国の無限の将来が生きてゐる。我が皇位が天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。

 
 こうした記述から、私たちは『国体の本義』で述べられている思想は、ただ単に天照大神を始祖とする「万世一系」の天皇家の神話に基づく建国神話といったレベルをはるかに超えた、もっと恐ろしい思想であることが分かる。

ここにおいて、日輪=天照大神とは、はっきりと「天壌無窮」すなわち永遠性のシンボルであると表明されており、そのシンボルのもとに統合される一大家族国家である日本の使命とは、「過去も未来も現在もすべてが一つとなって、永遠の生命を有し、『永遠の今』を生きる」ことにあるとされる。

つまり、「和の大精神」の目指すところは、一言で言えば、人間が自力で永遠の生命にたどり着き、「入不二不問の世界」「一段の進出」としての第二のエデン、神と人との一体化した究極の状態へとたどり着くことであり、それを実現することが、大日本帝国という(虚構の)「国体」の使命(本義)とされていたことが分かるのである。

国体の本義
四、和と「まこと」、
神と人との和 より抜粋

「更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。このことは我が国の祭祀・祝詞等の中にも明らかに見えてゐるところであつて、我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である

  又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。我が国は海に囲まれ、山秀で水清く、春夏秋冬の季節の変化もあつて、他国には見られない美しい自然をなしてゐる。この美しい自然は、神々と共に天ッ神の生み給うたところのものであつて、親しむべきものでこそあれ、恐るべきものではない。そこに自然を愛する国民性が生まれ、人と自然との和が成り立つ。
<略>かゝる自然と人との親しい一体の関係も、亦人と自然とが同胞として相親しむ我が国本来の思想から生まれたのである。

  この和の精神は、広く国民生活の上にも実現せられる。我が国に於ては、特有の家族制度の下に親子・夫婦が相倚り相扶けて生活を共にしてゐる。「教育ニ関スル勅語」には「夫婦相和シ」と仰せられてある。而してこの夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ。即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。

  更に進んで、この和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。

  このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。

  要するに我が国に於ては、夫々の立場による意見の対立、利害の相違も、大本を同じうするところより出づる特有の大和によつてよく一となる。すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる。ここに我が国の大精神がある。而して我が国に現れるすべての進歩発展は、皆かくして成される。聖徳太子が憲法十七条に、
  和を以て貴しとなし、忤ふることなきを宗と為す。人皆党有り、亦達れる者少し。是を以て或は君父に順はずして、乍隣里に違ふ。然れども上和ぎ下睦びて、事を論はむに諧ひぬるときには、則ち事理自らに通ず。何等か成らざらむ。
と示し給うたのも、我が国のこの和の大精神を説かせられたものである。」


   
「和の大精神」がウロボロスの輪に重なるだけでなく、そこで描かれる社会のヒエラルキーもグノーシス主義に固有の概念であることについては、今は細かい説明はしないが、結論だけを述べるなら、一方では「すべてのものが一つに融合している」と言いながら、他方では、人間に貴賎をもうけ、差別的な身分制度を作り出し、「各々が分を守る」などという名目で、固定化された身分制度の中に人を閉じ込め、離脱を許さないのもグノーシス主義の特徴である。
 
 私たちは今日、この壮大な「和の精神」に基づく国家的神話が、我が国にどんな悲惨をもたらしたのかを知っており、三島がどういう形で生涯を閉じたのかも知っている。

『国体の本義』は、初めから「天皇の御ために身命を捧げることは<略>、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。として、すべての「臣民」が、日輪の化身たる天皇のために命を捨てることこそ、「真生命の発揚」であると厚かましく要求していた。このようにして「死をもって永遠性に到達する」というグノーシス主義の究極目的が、狂信的な個人の中だけの願望にとどまらず、国家レベルですべての国民に要求されたのが、軍国主義時代の日本の歴史なのである。
 

第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。


 
三島は、敗戦という過去の歴史を通して、以上のような思想が、実現不可能な虚偽でしかないことがすでに証明されたにも関わらず、それでも、時代に遅れて登場した人間として、過去に失敗に終わった思想を再び個人的な人生で再現しようと、同じ実験に着手し、第二のエデンの出現を目指して、当然の破滅に至ったのである。

三島が目指した「永遠の美」は、すでに述べたように、対極性のある二つの概念を一体化したものであり、美の極致、永遠の完成でありながら、同時に、死と、抑圧と、限界のシンボルでもある。いわば、それは虚無の深淵そのものである。

日輪は、被造物全体の究極の美を象徴すると同時に、被造物が持つ有限性や滅びそのものの象徴なのである。彼はそれが「死よりも大きな輪」であると言うが、そのようなものは現実には存在しない虚構の概念でしかない。

そうであるがゆえに、この日輪は、被造物の限界を表すだけでなく、永遠を目指しながら、決して自力でそれに到達することができず、永遠から疎外され、決して満たされることのない渇望を抱える被造物の呻き、怨念と呪詛をも意味するのである。

日輪は、いわば、滅びゆく被造物全体の無念の象徴であり、それゆえ、「母なるもの」すなわち被造物の怨念と呪詛による支配を象徴するのである。

三島作品には、人間存在を縛っている怨念や呪縛による支配が、常に影のようにつきまとう。そして、その怨念もまた、他のシンボルと同様に、晩年になるに連れて、個人的なスケールから国家的スケールへと昇華される。

たとえば、『鏡子』の家では、高利貸しの女の怨念が、主人公の俳優の人生を乗っ取り、俳優に憑依して心中へ追いやるが、『憂国』の主人公は、二・二六事件で銃殺された将校らの無念(怨念)に憑依されて、彼らの道連れとなるために、自ら死へと赴く。

さらに、『英霊の声』になると、その怨念は、二・二六事件で天皇を守ろうとして銃殺された青年将校らの無念に加えて、神風特攻隊として死んだ兵士らの怨念という形に「昇華」されている。

『英霊の声』では、霊媒師の川崎君が、「鏡」の役割を果たしている。川崎君は、非業の死を遂げて怨霊と化した死者の霊の発する声に一身に耳を傾け、これを代弁して言う、戦後の日本が我欲に邁進し、すっかり自堕落になり駄目になってしまったのは、天皇が人間宣言をしたからだと。それゆえ人々は心のよすがをなくし、自己の尊厳を失い、見当外れな欲望に邁進し、戦死者らの非業の死は全く浮かばれず、彼らは怨霊と化してさまよっているのだと。

川崎君は、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」(=なぜ天皇は人間などになってしまわれたのか)という怨霊たちの呪詛の大合唱を浴びせられた結果、自ら天皇の身代わりとして怨霊たちの集中攻撃を浴びて呪い殺される。死んだとき、彼は自分の顔を失って、神とも人間ともつかぬ、何者か分からない曖昧な顔になっていたという。

これもまさにウロボロスの輪である。神であると同時に人間であるという相反する状態が、川崎君の死において実現したのである。結局、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」という怨霊の叫びは、天皇についてのみ言われたのではなく、永遠に達したいと望みながら、永遠に到達することができず、どっちつかずの状態をさまよいながら、滅びへ向かう被造物全体の無念を象徴しているのである。

つまり、『英霊の声」においては、神になりたいと願いながら、神から切り離されて、永遠から疎外され、滅びに定められている人間全般の抱える無念が、怨霊の声という形で表されたのである。

ここまで来ると、三島作品の登場人物は、偽りの神話によって個性を失っただけでなく、体さえ失って、ついに霊だけになっている。

三島作品の主人公らは、『憂国』においてすでに肉体を脱ぎ捨てていたが、その結果、ついに肉体を失った霊だけの登場人物が現れるという、とんでもない展開が実現しているのである。

そして、このことを通して、私たちは、三島作品の真の主人公は、本当はあれやこれやの人物ではなく、疎外された者たちの怨念であったという事実が分かるのである。

グノーシス主義が、神に疎外された人間による復讐の哲学だと書いた理由はここにある。グノーシス主義はもともと宗教でもなく、独自の神話もないため、どのような宗教や思想の中にでも入り込み、それを換骨奪胎して自分に都合よく作り変えることができる。

ちょうど肉体を失った怨霊が別人に憑依するように、自らの母体を持たないグノーシス主義は、既存の宗教や思想にいくらでも寄生して、そこで自らを増殖・発展させる思想なのである。

三島作品は、ほとんどすべてが無意識のうちに、グノーシス主義的テーマを体現することだけを目的として書かれたものであると言って良く、さらに三島自身が、この思想を自ら体現するために生きたのだと言える。

そこで、三島が晩年に近づくに連れて、グノーシス主義という思想それ自体が、無限大に膨らんで、作品の登場人物や三島の人生を押しつぶし、彼らの人格の内側で、巨大なパン種のように膨らんで、本体を食い破ってしまうのである。

グノーシス主義は、被造物が自力で己が過ちを修正して神に疎外された状態を解消することを目指す思想であるため、これは、どこまで行っても、真実な神が登場しない、人間が自分に都合よく作り出した独りよがりな物語であると言える。
 
この思想における神のイメージは、被造物自身と言って良いほどに、被造物と瓜二つの被造物の似像であり、それゆえ、グノーシス主義の神は、被造物に都合よく作り変えられ、事実上、被造物に乗っ取られて、不在となっていると言えるのである。

そのためにこそ、この思想はどこまで行っても、人間にとって、「自分しかいない」独りよがりな物語であり、そうであるがゆえに、全くどこにも出口を見い出せない堂々巡りの思想なのである。
 
すでに見て来たように、人間が堕落したのは、エデンの園において、人が神の掟に背き、「知」を捨てて「行」を優先した結果であり、その堕落のゆえに、「行」はその美しさを失って、醜悪な恥ずべきものへと転落し、人間の中で精神と肉体が乖離し、肉体の疎外が起こった。

だとすれば、人間がその異常な状態を解消するためにできることがあるとすれば、それは人間がもう一度、神の言葉という「知」を見いだして、それに「行」を一致させることにしかない。

にも関わらず、グノーシス主義者は、人間が「知」の制約を嫌って、肉欲をほしいがままにしたことが、失楽園の原因となったという事実を全く認めようとはず、詭弁を弄することで、そのように転倒した状態のままで、人があたかも再び「知」と「行」を統合して、全一的な美しい自己の姿を取り戻し、永遠の存在となれるかのように教える。

このような錬金術・イカサマによって、堕落した肉に過ぎないものを、神聖な神の霊に属するもののように見せかけようとする結果、グノーシス主義者らは、自力で被造物としての限界を打ち破って、自らを永遠の存在に高め、神と融合するために、悲惨な自己破壊に赴くという悲劇に至るしかないのである。

こうして、これらの錬金術師たちの身の上に、肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。」(ローマ8:13)という聖書の御言葉の正しさが証明されるのである。

しかも、彼らに降りかかる死は、ただの死ではない。まるで偽りの思想に従って生きると、どのように救いようのない報いが降りかかるかを、全世界に教訓として見せつけるかのように、彼らは解放という名目で、死の中でも最も酷たらしい非業の死を自ら選択して行くのである。
 
私たちは、三島の死の介錯をした盾の会の会員や、『憂国』に登場する陸軍中尉の妻などが、ちょうど『ユダの福音書』におけるイスカリオテのユダと同じように、師の霊を肉体から解放する手助けをする弟子の役割を果たしていることに気づかないわけにいかない。

グノーシス主義とは、聖書の神の福音から疎外された人々が、キリストの十字架によらずに、自己の罪を自力で「修正」し、自力で神に到達しようとする偽りの福音であるため、これを信じた人々は、キリストの贖いの十字架を拒否する代わりに、自力で罪を贖うために、最も残酷で悲惨な十字架を再び地上に作り出し、自分自身を磔にすることを余儀なくされるのである。

(*以下の場面では、窓枠がグノーシス主義の歪曲された十字架を象徴していることに注意したい。)

 


 
 
 
 
 


『奔馬』の主人公は、社会正義のために人殺しを達成し、自殺を遂げる際に言う、「まさに、刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪はまぶたの裏に赫奕と上った。」と。

このようなものは、テロリストの思想としか言えないであろう。三島や三島作品の主人公らが自己破壊に至るのには、『奔馬』の主人公が、殺人によって社会を悪から浄化しようと考えるのと同じ原理に基づいている。

彼らは、罪を贖う内なる十字架を持たない代わりに、外なる十字架を作り出し、暴力によって己が理想を実現しようとするのである。それが他者の破壊を正当化するテロリズムの思想になると同時に、やがては自己の破壊という結果となって跳ね返るのである。

聖書によれば、このような教えに従って歩む人々は、まさにキリストの十字架の敵である。

彼らは、自分たちは、被造物が脅かされることのない、弱者に優しい美しい世界を目指しているのだと言うかも知れないが、聖書は、グノーシス主義の「神」とは、彼らの「腹」すなわち、人間の欲望であるとはっきり告げている。

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、
キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです、彼らの行き着くところは滅びです。彼らは 腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に造り変えてくださるのです。」(フィリピ3:17-21)

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。」(ローマ8:13-14)

グノーシス主義者らが、自らの肉体を「美しいもの」として永遠の完成に導くことを目指しながらも、彼らが自分を神の神殿として建て上げるどころか、むしろ自己破壊によって自ら生命を絶つことで、神殿破壊という結果に至っていることは、極めて教訓的である。

聖書は、信仰のある者たちには、地上の卑しい体が贖われ、やがて復活の栄光の体で、本国である天に帰る日が来ることを示している。だが、その実現の方法は、グノーシス主義とは全く異なる。

キリスト教においては、神と人、男と女、精神と肉体、霊と肉は、決して「対」として混じり合うことのない概念であり、それらのものの間にある敵意を解消することも、キリストの十字架によってのみ可能である。

十字架なしに、人間が自力でこれらの概念に橋渡しをして、敵意を解消して、両者を統合することはできない。しかし、グノーシス主義者らは、十字架なしに、あらゆる対極性のあるものを統合し、あらゆる疎外を解消できると言いつつ、自己存在を、死によって全世界から疎外するという、究極の自己破壊・自己疎外に至るのである。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス後自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:14-22)

聖書の真理によれば、肉のものと霊のものは決して混じり合うことがないため、人がどんなに「鏡」を覗き込んでも、そこに彼らが探し求めている神の姿は見いだせない。映るのは、有限なる被造物自身の姿だけである。だが、グノーシス主義者らは、鏡に映る弱い被造物の姿を見て、そこに神の似像を見いだし、ひたすら自分自身の弱い像を抱きしめてこれに同情の涙を注ぎながら、自らの弱さを神聖な性質であるかのように誉めたたえ、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と叫ぶことによって、自分が滅びゆく被造物に過ぎない事実そのものに逆らい、自分で自分を救済しようとするのである。

このようなものは、神がキリストの十字架で廃棄を決定された旧創造に対する無用な自己憐憫と救済の物語であるから、その中をどんなに探し回っても、永遠が見出されることは決してない。そして、このようなイカサマ錬金術を用いて、人間が自己存在を永遠に高めようとすれば、人は持っていたものまで失い、永遠を生きるどころか、「今」さえ失って、最も悲惨な自己破壊で生涯を終えるだけである。

聖書においては、救済は徹頭徹尾、ただ神の側から、キリストによってのみ達成されるものであり、人間には神の言葉という真の「知性」に従おうとすることはできても、自力で救済を勝ち取ることはできない。

しかし、グノーシス主義は、「神の側からの介入」を認めず、ひたすら人間の側から、人が自力で神に至り、救済を手に入れることが可能であるかのように見せかける。しかも、人間が真の知性である神の言葉に逆らい、己が欲望に従って生きながら、それと同時に、自らの救済を成し遂げられるかのように教えるがゆえに、それはどこまで行っても、神不在の、人間の独りよがりな自己愛と自己憐憫に基づく虚偽の救済であり、人間に都合の良い「創作物語」でしかないのである。

ペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教を換骨奪胎したグノーシス主義であることは、当ブログでは幾度も述べて来た通りであるが、グノーシス主義にとりつかれた人々は、この運動の信奉者にとどまらず、みな知性に逆らい、肉欲をほしいがままにして、自分を甘やかして生きるために、そのうちに、すっかり理性を失って、精神的に退行・幼児化して行く。

彼らは美を追求し、自分自身を高めると言いながら、滅びへ向かって行く。彼らが最後まで大切に握りしめている自己愛さえも、ついに自己破壊という最も醜悪な形でかき消されるのである。

こうして、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:39)という聖書の御言葉が実現し、アダムの命を惜しみ、これを愛でて、この滅びゆく命を永遠にしたいと望む者は、ことごとくその命を失って行くことになる。

私たちは、三島由紀夫という一人の人物が、滅びゆく被造物を永遠の存在に高めたいというグノーシス主義のフィクションの目的の実現に全生涯を傾けた結果、ついに自分自身の存在を激しい苦しみの果てに、フィクションに飲み込まれて喪失したことを見て来た。

グノーシス主義というフィクションの教えを信じると、初めはあったように見えた実体さえも、このように幻となって消え失せるのである。なぜなら、そこにある美は、初めから幻想でしかなく、そこには完成も永遠も存在しないからである。

三島が作家であり、『鏡子の家』の主人公の一人も俳優であり、『憂国』の主人公にも、特にモデルがあるわけでもないと三島が述べていたことは興味深い。なぜなら、作家や俳優という職業は、どこかしら架空の登場人物や、肉体を失った怨霊たちや、死者の声を代弁しようとする霊媒師にも似ていて、その存在が初めから芝居がかっており、「何者か分からない曖昧な顔」をしているからである。
 
ところで、筆者は、牧師という職業も、基本的には、作家や俳優と変わらないものと考えている。当ブログでは、牧師制度の起源も、グノーシス主義にあることを述べて来た。グノーシス主義は、人間の間に貴賎の差別を設け、階層を設け、身分制度を固定化する思想であり、牧師制度は、グノーシス主義的な階層制という発想にならって、キリスト教界に作り出された身分制度である。そこで、牧師たちも、その本質は、霊媒師や巫女とほとんど同じく、実体のない架空の存在なのである。

牧師たちは、今日、問題を抱えた哀れな信徒のために涙を流し、彼らの問題に手を差し伸べ、人々の欲望と悲哀を一身に引き受けながら、人々の理想を代弁するために奔走る。彼らは会衆の心の慰めと満足のために講壇から福音を語り、「あなたがたはみな神の子供たちです。私たちはみな救われています」と語るかも知れない。人々の心の慰めのために、「貧しい人々のうちにキリストがおられる」と言い、そこからもっと進んで、「あなたがたは神だ!」(Dr.Luke)とさえ言うかもしれない。

だが、そうして人々の心の弱さを一身に引き受けて、被造物の有限性に熱い同情の涙を注ぎながら、救済者然と振る舞うこの人々は、一人の人間としての個性を失った、「何者か分からない曖昧な顔」をしている人々である。

そして、彼らは表向きには「神を知っている」かのように振る舞いながら、同時に、心の中では、「神はどこだ。どこにおられるのだ。」(奥田知志牧師、マザー・テレサ)と叫んでいる。

このように、今日、牧師たちの作り出す信仰告白は、どこまで行っても、グノーシス主義と同じように、神不在の、人間の側から作り出された自作自演劇でしかなく、彼らの信仰告白は、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と叫んだ怨霊たちと同じように、神に疎外されて、神を見いだせなくなった被造物たちの無念の叫びと同じなのである。

それだからこそ、このようなグノーシス主義的現人神の教えである牧師制度に貫かれるキリスト教界では、片方では「母なる聖霊」を受ければ、人が神のように高次の存在になれると教えるペンテコステ・カリスマ運動が登場して来て、各地の教会に悲劇的混乱を引き起こすかと思えば、もう一方では、カルト被害者救済活動のような恐るべき運動が出現し、教会に対する怨念を持つ人々を、教会に受け入れよと迫り、教会に争いをしかけることで、聖書の御言葉を忠実に守り、神に従って生きている兄弟姉妹を教会から追い出し、中傷しながら、「エクレシア殺し」にいそしみ、教会のメンバーを、キリストの復活の命に従って生きている兄弟姉妹から、被造物の有限性に対する怨念や被害者を抱える人々にすっかり取り替えようとしているのである。

そういう恐るべき倒錯現象は、今日のキリスト教界が、牧師制度という被造物崇拝を取り入れることにより、グノーシス主義に汚染され、これと合体したために起きたことである。当ブログでは、大淫婦バビロンとは、東洋思想とキリスト教との合体の結果、生まれるものであることを繰り返し説明して来た。今日のキリスト教界は、この混合の教えにすっかり占拠されているため、信者には、憎むべきバビロンの倒壊に巻き込まれないためには、このような恐るべき教えの偽りを見抜き、それに近寄らないことが求められる。


神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から④

・金閣寺は果てしなく巨大化する ~すべてのものを押しつぶす被造物崇拝の恐ろしさ~
  
 三島は、死へロマンチックに憧れるような青年期を過ぎ、美しく死ねる年齢も過ぎてから、自分の死を壮大な自己完成の事業とすべく、創作の世界だけでなく、現実世界でも、周りを巻き込んで巨大な装置を作り出した。

彼は自分の死をありふれた死と同一のものとは全くとらえず、解放という特別な意味をもたせ、自らの死を自己完成であると同時に、国家的な宗教行事の域にまで高めようとした。

『金閣寺』の主人公が述べた言葉の通り、晩年に近づくに連れ、三島の人生と創作において、すべてのシンボルは、まるで綿菓子でも膨らますようにどんどん拡大し、概念的に昇華されて行く様子を見ることができる。

幼少期に三島の心を縛っていた祖母の言葉や、彼の肉体を疎外していた美意識は、三島の人生の中で、無限大な「母なるもの」の支配として拡大・発展して行き、東洋的な永遠の女性美の象徴となり、ついに天照大神や、「和の大精神」といった国家的神話にまで拡大・発展する。

「永遠(とわ)の美しさっちゅうもんは、怖いもんやで。どんどんどんどん大きなって、何もかも押しつぶしてしまうんや。」
「美しさはぼくの怨敵(おんてき)なんや。金閣寺が滅びん限り、とてもやないが、耐えられへん」
  

 三島の幼少期には、祖母という一人の女性による精神的呪縛に過ぎなかった「母なるものの支配」は、晩年には国家的神話のレベルまで拡大している。

それと同時に、かつて三島が、自分の肉体の弱さを個人的に克服しようとした過程も、今や個人の問題ではなくなり、敗戦によってプライドを傷つけられ、尊厳を失い、コンプレックスを抱えた日本が、どのように国としての自信を回復するかという国家的問題へと高められている。
 
また、三島が自らの個人的な弱さを克服するためだけの手段だったボディビルも、今や天皇を守ることを名目とする私営の軍隊「盾の会」に昇格している。

「盾の会」の目的は、「ますらおの心」と「みやびの伝統」を融合させることにあるとされるが、これも「男女の融合」、「精神と肉体の融合」という、三島が追求して来たテーマを概念的に昇華させたものである。むろん、そのテーマの根底にあるものが、神と人との一体化であることは言うまでもない。
 

 
「我々のことをおもちゃの軍隊と、そう呼ぶ人々もいます。しかし、我々のゴールは、我々の心の奥底に潜む、ますらおの心をよみがえらせることなのです。また、作家としての私個人が支持するのは、みやびの伝統であります。私が求めてやまないのは、この二つの伝統を一体化することなのであります。

 
 
こうして、すべてのシンボルが無限に拡大するに伴い、三島の創作の登場人物たちも、概念的に昇華される。

『金閣寺』では、金閣への放火は、主人公の異常心理のゆえの犯罪行為でしかなく、『鏡子の家』における俳優と高利貸しの女の心中も、自虐的な狂気の沙汰の行為でしかなかった。そうした主人公らの自滅が、『憂国』では、殉死というレベルにまで引き上げられる。

『金閣寺』や『鏡子の家』では、コンプレックスに苛まれ、自滅的な死を選んだだけであった主人公が、『憂国』では、国家的神話としての天皇に身を捧げる陸軍中尉に変身し、『鏡子の家』では、俳優を残酷に死の道連れにしただけの醜い高利貸しの女も、『憂国』では、夫の思想に忠実に従って、後追い自殺を遂げる美しく従順な妻に変身している。

つまり、三島の創作の中で、登場人物の思想的レベルが引き上げられ、彼らが、神聖かつ崇高な思想に身を捧げるジハーディストのような存在へと昇華され、美化されているのである。

『金閣寺』、『鏡子の家』で行われた神殿破壊のリハーサルは、『憂国』では、さらに概念的に昇華された形で、三島の現実的な死の予行演習となる。

『憂国』の主人公は、二・二六事件で追及を処刑を免れて一人取り残されて、自死することを選んだ陸軍中尉の青年である。この青年は、ちょうど天皇のために「散華する」という理想を抱きながらも、それを実現する機会のないまま戦後を迎え、理想的な生き様・死に様から取り残された三島自身にも重なる。

だが、三島の晩年になると、こうして登場人物の思想的レベルが引き上げられる代わりに、これらの男女はすっかり個性を失って、非常に退屈な人物になってしまう。 『憂国』の陸軍中尉は、国家神道に心を奪われて個性を失っており、その妻も、ほとんど夫のコピーのような存在でしかなく、この二人にはおよそ人格と言えるものは何もない。

 「母なるものの支配」があまりにも巨大化しているがゆえに、それが主人公らの個性をほぼ完全に奪い取り、押しつぶしてしまっているのである。

こうして、最初から「母なるものの支配」に個性を飲みつくされている主人公たちを待ち受けるのは、ついに命までもこの思想に捧げ切るという最後の段階だけである。ほぼそれだけが、小説の中心的テーマであると言っても過言ではない。

とはいえ、『憂国』では、陸軍中尉とその妻が殉死を決めてから最後に持つ肉体的交わりが、極めて重大な出来事であるかのように、長々と紙面を割いて描写される。

小説では、この夫婦が肉欲にふけることには、何の後ろ暗さも後ろめたさもない出来事として描かれる。仲間がすでに非業の死を遂げた後で、自分たち夫婦が彼らの後を追うことも、すでに決定している。にも関わらず、彼らには、そのような「火急の時」に、自分たちが重大なミッションを差し置いて、卑しく自己中心な欲望にふけっているという感覚は微塵もない。

むしろ、二人の肉体的結合は、「御真影」として祀られる天皇皇后の承認のもと、また、彼ら自身の死を目前にして、いささかの後ろめたさもなく、あたかも聖なる儀式であるかのように、概念的に昇華されるのである。

そのようなことが起きている理由は、この「儀式」の中に、三島が「ますらおの心」と「みやびの伝統」の一体化が具現化しようとしているためであると考えれば理解できよう。

つまり、この夫婦の交わりの中には、「男女の区別を取り払うことにより、完全な自己を取り戻そうとする」グノーシス主義の悲願が込められているのである。

ヴァレンティノス派のグノーシス主義には「新婦の部屋」という概念が存在した。それは、人が「真実の伴侶」を得て、これと「対」を形成し、結婚の儀式を通して、完全な自己存在を取り戻すという儀式であったようである。

教父エイレナイオスが、異端反駁の中で、グノーシス主義者がこの「新婦の部屋」という概念を利用して、性的放埓に耽っていると激しく非難していた事実(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』大田俊寛、春秋社、2009年、p.166)からも推測されるのは、実際に当時のグノーシス主義者たちは、「新婦の部屋」という概念を使って、「対となるべき男女の結合によって真の自己(原初的統合)を取り戻す」ことを儀式化していたのではないかということである。

このようなグノーシス主義的概念に照らし合わると、なお一層、陸軍中尉とその妻との最後の結合は、まさに「人が男と女の区別を取り払うことで自己を完全なものとする」という、グノーシス主義的路線に沿って描かれた「神聖な儀式」という意味を持つものと理解される。

つまり、それは隠された思想的な意義を持つ「秘儀」であるからこそ、三島はこの「儀式」を、作品の極めて重要なプロットとして、自死の場面と同じほどの重きを置いているのだと考えられる。

 『憂国』では、このように主人公らが、男女の区別のない「原初的な自己」を取り戻した後、さらに自分を縛っているすべての制約から自分を解放し、自らが理想とする思想と一体化するために、有限なる肉体を脱ぎ捨てて手に手を取り合って死に至る。

ただし、どんなに作品中で、この夫婦の死が美化されて、神聖な儀式のように描かれているとは言え、結局、その本質は『鏡子の家』で描かれた俳優と高利貸しの女の心中と何ら変わらず、ただそれが思想的に引き上げられ、スケールが拡大されただけであることが読者には分かる。

すでに見て来たように、グノーシス主義の「統合」の本質は、「弱い者が強い者を乗っ取る」ことにあるため、男女の区別を取り払うと、男が女に飲み込まれて消えるという結末になるだけである。

それゆえ、『憂国』でも、『鏡子の家』と同じように、男が先に死に、女がその死を見届けてから、その後を追うという展開になっている。

本来、夫よりも弱い存在であるはずの妻が、夫への従順さを装いながらも、最後には夫よりも強い存在として、物語の中に君臨するのである。この妻がちょうど「鏡」や「虚無の深淵」と同じく、死の象徴として、夫を飲み込んで滅ぼす役割を果たしていることが分かる。

だが、その妻も、自ら死に化粧を施して夫の後を追うため、この夫婦はともに「永遠の美」のシンボルの中にまるごと飲み込まれて消失する。

物語に最後まで残って勝ち誇るものは、人間を抑圧し、その命を残酷に奪い尽くす「永遠の女性美」だけである。これは東洋的な慈悲の神であり、被造物の美の化身であり、国家的神話にまで昇格された天照大神=日輪である。

結局、人が自らの美を永遠のものとして完成するためには、人は自己存在を抹殺するしか手段がないという結論だけが明らかにされるのである。


・グノーシス主義の隠れた目的は「肉欲および肉体を精神の抑圧から解放する」ことにある

ここで少し補足しておきたいことがある。今日、グノーシス主義については、この思想が人間の肉体を、悪神ヤルダバオートが創造した「出来そこないの世界」に属するものと考え、その世界を憎むがゆえに、「肉体は魂(霊)の牢獄である」と考えて、肉体からの解放を目指していたということが強調されるあまり、リューサーが述べたように、「グノーシス主義とは、人間の肉体に対する憎悪・蔑視の教えである」という見解がまるで定説のように広まっている。
 
しかし、当ブログでは、グノーシス主義における人間の肉体のとらえ方は、それほどまでに単純ではなかったものと考える。

むしろ、グノーシス主義においては、二段階の解放が存在したのであり、その第一段階では、「肉体の復権」、すなわち、肉体および肉欲をあらゆる制限から「救い出し」、肉体を自己疎外の状態から解放するという問題に、非常に重要なウェイトが置かれていたことを、私たちは見る必要がある。
 
もしも今日一般に広まっている定説の通り、グノーシス主義者が、人間の肉体を初めから霊を閉じ込める「牢獄」としかみなさず、一方的に嫌悪し、無用の長物のようにみなしていたというのであれば、グノーシス主義者は、彼らの言う、「真理の知識の啓示」を得た後で、すぐに「肉体からの解放」へ向かうだけで良く、肉体の中にとどまって禁欲主義的な修行や、その他の儀式を行うことで、自己修練する必要は一切なかったはずである。

しかし、グノーシス主義の様々な流派では、ある場合は、禁欲主義的な修行によって、ある場合には、性的放縦という、まるで対極にあるように見える手段を用いながら、人が肉体の中にあるうちに、自己完成に到達しようと、様々な儀式や訓練が重ねられていたのである。

このようなことは、グノーシス主義者が、肉体の中に生きているうちから、精神と肉体との融合によって、自己疎外を解消し、自らの存在を「全一的」なものに高め、さらに、男女の区別を廃し、自己と自他の区別を取り払うことで、完全な自己を得ることができると考えていたことを示している。

そのように、あらゆる区分を取り払って全的自己を取り戻そうとする試みの究極の形が、「新婦の部屋」における「真の伴侶との結合」といった、自他の融合(男女未分化の原初的自己の回復)という「儀式」になって現れていたと考えられるのである。

そう考えると、グノーシス主義の第一段階において、肉体および肉欲は、人が原初的統合を実現し、彼らの考える「完全な自己存在」を得るためには必要不可欠な要素とみなされていたと言えるのであり、グノーシス主義者が、最初から、人間の肉体を一方的な嫌悪・蔑視の対象と考え、これを人間にとって用のないものとみなしていたという見解は成立しなくなる。

繰り返すが、グノーシス主義の「解放」には大きく分けて二段階のステージが存在したと言え、第一段階は、グノーシス主義者の内側で、精神と肉体との隔てが取り払われ、肉体の自己疎外が終わり、彼らの言う「全一的な自己」が取り戻されるという過程であった。

それが達成された後で、彼らは自己存在を完全かつ永遠にするために、自分と世界とを隔てる壁となる自らの肉体を脱ぎ捨て、死によって自分を「解放」しようと考えたのである。

グノーシス主義とは、弱い者(抑圧される者・疎外される者)が、強い者(抑圧する者・疎外する者)との区分を自ら廃することで、それまで自分を疎外して来た強い者になり代わって、これを支配することを正当化する教えである。

それはあらゆるヒエラルキーを覆すことにより、人間が自分を縛っているすべての制約から自分を解放しようとする思想であから、その原則は、男女の区別や、自他の区別だけでなく、グノーシス主義者自身の内側における、精神と肉体の区別にも当てはまる。

グノーシス主義の思想の中には、リューサーが述べたように、また、三島が自分自身を実験台として行ったように、「精神(言葉)によって(不当に)抑圧されている肉体を、精神の束縛から救い出す」というテーマが含まれており、「肉体の精神からの解放」は、グノーシス主義において極めて重要なテーマだったと考えられるのである。

このように見て行くと、我々は、グノーシス主義者が「霊を肉体の牢獄から解放する」という、最後の結末に行き着くまでのプロセスは、決して今日、一般的にそうであると信じられているほどに単純ではなく、この思想がただ単純に肉体に対する一方的な嫌悪や蔑視に基づいていたわけでないことを確認できる。

グノーシス主義者の考える「解放」は、すでに述べた通り、大まかに二段階あり、彼らがまずは自分のうちで「全一的な自己」を達成しようと試みた後、世界の融合を目指すことは、三島自身の人生を振り返っても理解できる。

これまでの記事で確認したように、三島の心の中に、自分の肉体への嫌悪が生まれた最初のきっかけは、祖母が彼の幼少期に誤った考えを植えつけたことにあった。幼少期に三島が本当に病弱であったかどうかは不明であるが、彼を手元に置いておきたかった祖母が、彼は体が弱いという嘘を信じ込ませたのである。

だが、いずれにしても、祖母の言葉をきっかけに、三島は自らの弱すぎる肉体が、外界との隔ての壁となっているという制約に気づいた。三島の残る全生涯は、祖母の言葉をきっかけに気づいた自分の肉体の制約を、どうやって克服して、自己を永遠の存在に高めるかという問題に費やされたと言っても過言ではない。

三島は、リューサーが宣言したように、自分で自分の肉体を縛っている「言葉」の制約を取り払い、肉体に沸き起こる自然な衝動に身を任せて生きることで、「言葉が健康な肉体から自分を切り離している」状態を解消しようとした。

彼は、ハワイや、ギリシアで、頭上に明るく降り注ぎ、心を陽気にしてくれる太陽の光に誘われるがままに、自分の肉体の自然な衝動に従って生き、それによって、あたかも今まで自分と外界とを切り離していた壁がなくなり、「太陽と握手したような衝動を覚え」た。

この時、太陽は三島には解放のシンボルのように映り、彼は「太陽が自分を解き放ってくれた」と感じる。

「私はいつも、自分の中にある化け物のような感受性に苦しめられて来た。言葉の世界が、私を健康な肉体から切り離していた。その私を太陽が解き放ってくれた。ギリシアは私の自己嫌悪を癒し、健康への意志を呼び覚ました。」
 
三島は、リューサーが唱えたのと同じように、自分自身の肉体および肉欲を、言葉による制約から解放することで、自己の内で肉体が嫌悪すべきものとして疎外されている状態を解消しようと試みた。さらに、彼は自分の肉体を鍛え、これを自分の目に適う「美しいもの」に引き上げることで、それまで精神によって肉体が恥ずべきもの、醜悪なものとして疎外されていた状態を完全に解消しようとして、肉体の「復権」を試みるのである。

「私は美しい作品を作ることも、自分が美しいものになることも、その道理は同じなのだと見つけた。

こうして、三島の中で、グノーシス主義的な第一段階の「解放」が達成されて、彼は自分の中で、肉体が精神と並ぶものとなり、肉体に対する精神による「不当な抑圧」は終わったと考えた。

ところが、奇妙な逆説現象が起きる。幼少期に聞いた祖母の言葉は、三島が自分の体の弱さを克服した後も、依然として消えることなく、ますます大きくなって、三島の耳にこだまする。「ぼうやは体が弱い」という祖母の声は、いつしか「人間は誰しも老いて死ぬ」という被造物全体の限界を唱える大合唱となって、三島の作り上げた「美しい」肉体を脅かしていた。

三島は、肉体を「美しいもの」にすることによって、ようやく精神と肉体の乖離状態を終わらせたと思ったのに、今度は、死という現実を眼前に突きつけられ、自分が造り出した「美しい肉体」に対する「製造物責任」を問われる。

歯を食いしばって、汗を流して、その生きた芸術作品が出来たとしますね。しかし、それが老いさらばえることはどうするんですか。その美しさはどうなるわけ。作ったあなたが、それをどうにかしなきゃならないんだから。」

三島がこの問題に対して出した回答は、我々にとっては驚くべきものである。

だから、一番美しい時に、死んでしまえばいいんですよ。

私たちは、三島が本気でこのような結論を出していると知って、それをあまりにも馬鹿馬鹿しい考えだと笑うだろう。こんな方法で、どうやって死を克服したことになるのか。そんな死は、老いに直面したくない人間の身勝手な現実逃避であって、無駄死であり、敗北以外の何物でもないと。

ところが、グノーシス主義者はそうは考えない。グノーシス主義者の目から見れば、その死には全く違った意味が込められているのである。

すでに述べたように、三島の中で、グノーシス主義的な第一段階の解放は成し遂げられた。そこで、「美しい肉体」を手に入れ、精神と肉体の乖離状態を解消し、自己存在を「全一的」に高めたと考える彼に残された課題は、その達成を永遠のレベルへ引き上げることだけである。

つまり、自らの肉体の有限性という壁を打ち破って、自分と全世界とを隔てている最後の壁を取り払い、世界と一体化し、神と人とが、創造主と被造物とが区別なく一つの永遠の中に溶け合う世界へ向かって、最後の一歩を踏み出し、永遠と同化することだけである。

そのために、有限なる肉体からの脱出、すなわち、死によって自分自身の限界から解き放たれることが、ぜひとも彼には必要なのである。なぜなら、肉体がある限り、自分と外界との隔ての壁はなくならないからである。

かつて当ブログでは、聖書を甚だしく歪曲するグノーシス主義文献『ユダの福音書』を取り上げて、そこでは、イエス・キリストを銀貨30枚でユダヤ人たちに売り渡した恥ずべき弟子であるイスカリオテのユダが、他のどんな弟子にもまさって、イエスの使命を忠実に理解する優秀な弟子だったとされ、ユダは師匠が「肉体の牢獄から脱出する」ことを手助けするために、率先してイエスを十字架につけたとみなされていることを見て来た。

『ユダの福音書』では、イスカリオテのユダの裏切りは、決してイエスに対する憎悪や蔑視からなされた行為でなく、まさにイエスの霊を肉体から解放するという師匠の悲願の手助けとして行われたことであり、「必要悪」だったとされ、イエスもそれを理解した上で、ユダの行為を評価していたとされる。
 

「今回発見された『ユダの福音書』が注目を浴びたのは、それまで知られていたのとはまったく違うユダがそこに描かれていたからだ。この福音書に描かれるユダは、悪者でもなければ、不正直者でもなく、イエスを裏切り敵に引き渡した弟子でもない。

むしろユダは、誰よりもイエスのことを理解していた最も親しい友で、イエスの「依頼」で、彼を官憲に引き渡したのである。イエスを引き渡したことで、ユダは最大の奉仕をしたのだ。
この『ユダの福音書』によると、イエスは神に反逆するこの世界を逃れて、天にある自分の家へ帰りたかったのだ。」(『原典ユダの福音書』、ロドルフ・カッセル、マービン・マイヤー他著、日経ナショナル・ジオグラフィック社、2006年、p.103)


グノーシス主義の書によれば、<略>、最終的で完全なる神聖さは人々が死すべき運命の肉体と離別して初めて実現するという。『ユダの福音書』のイエスは、セツ(グノーシス主義者)のあの世代の人々が亡くなるとき、肉体は死んでもその魂は死なず、解き放たれた魂は天にある彼らの家へ戻ると告げる(チャコス写本四三ページ)。死ぬと肉体に付随するものすべて、この死を免れえない世界の家にあるものすべてを手放すことになる。知識を獲得した人々の死すべき肉体が放棄されることで「彼らの魂が天上にある永遠の御国へと昇っていく」と、イエスはユダに告げている(同四四ページ)。(同上、p.173)


 
このように、グノーシス主義では、神聖なる霊を宿す人々にあっては、肉体は死んでも、霊は永遠であるため、肉体の死は敗北ではなく、むしろ「霊を天界という家へ帰す」ための解放の手段だと考えられていたのである。
 
だが、私たちは、グノーシス主義者が考えるように、肉体の死によって「霊を天界へ帰す」ことなど不可能であり、そのようなものは、偽りの解放でしかない事実を知っている。

そこで、私たちは、なぜ三島のようなグノーシス主義者が、一方では、自分の肉体に対する極端なまでの美意識に駆り立てられ、肉体を善なるもののようにみなし、愛し、永遠の存在に高めようとしながら、もう一方では、肉体の破壊という自殺行為に至るのか、一体、彼らが肉体の破壊によって到達しようとしている真の目的とは何なのか、という問題について考えたい。

そして、この問題を解くために、もう一度、聖書の創世記の記述を通して、グノーシス主義とは、人間の内部における秩序転覆の教えであるという事実を確認しようと思う。


・グノーシス主義の隠れた目的は「肉欲および肉体を精神の抑圧から解放する」ことにある
 
グノーシス主義の原型は、エデンの園で、蛇が人類に吹き込んだ偽りの知恵にあり、その目指す目的は、とどのつまり、「肉のものを霊のものに見せかける」こと、つまり、人が己が欲望に従って生きることで、あたかも偽りの霊性を身に着け、神に等しい存在になるかのように錯覚させることにより、人間を破滅へと至らせることにあった。

そこで、グノーシス主義においては、その当時だけでなく、今日も、「霊の解放」に見せかけた「肉欲の解放」が極めて重要なテーマとなる。この点を見逃して、グノーシス主義が一方的な肉体嫌悪の教えだと考えているうちは、この思想の本質的な危険性は見えて来ないであろう。

グノーシス主義とは、人間の欲望をあらゆる制約から解放し、欲望を無限大に解き放つことで、人間を解放できるとみなす偽りの思想であり、彼らは「欲望の解放」を、人間を永遠の存在にまで高めるために必要な「霊の解放」と同一視して、美化し、奨励して来たのである。

前回も確認した通り、聖書において、人間は「霊」と「魂」と「体」という三部位から成ると定義される。これらの部位には、それぞれ正しい支配関係(秩序)があり、人間の内でその正しい秩序が成立していることこそ、人間のあるべき正常な状態である。

その正しい秩序とは、霊が魂を治め、魂が肉体を治めるという順位が守られることである。この支配関係はそのまま、この三部位の序列を示している。
 
人の中で神と交わることができ、最も貴い機能を備えている器官は、霊のみである。魂は神の霊との交流とは関係なく、ただ霊の中にあるものを受けて、これを解釈し、自ら思考・判断して、体に意志を伝達して、命令を実行させる機能を持つ。
 
体は、魂から受けた命令を遂行する器官であって、人の中で最も卑俗で、神聖からは最も遠く離れた部位である。

聖書において、人間の三部位は、旧約時代の神殿の原型としての幕屋に当てはめられるが、そのたとえからも、肉体が人間の中で最も卑俗な部位であることが分かる。

霊は、大祭司が年に一回のみ入り、民の罪の贖いのために、いけにえの血を捧げた「至聖所」にたとえられ、魂は「聖所」、体は「外庭」に当たる。外庭とは、犠牲となるべき動物が持ち込まれて殺され、解体され、その血が犠牲として注ぎ出された作業場であり、幕屋の中で、最もこの世に近く、神聖な至聖所から遠い場所である。
 
キリスト教の信仰の全くない人であっても、人間の内で、精神によって肉体が治められている状態が正常であり、その逆に肉体が人間の中で精神を凌駕して主人となるべきではないことは否定しないものと思う。

人間の魂(精神)には、良心の機能があり、どんな人であれ、何が正しく、何が間違っているかを、自らの精神によって判断する。肉体は、精神の判断に従って動くのが当然である。もしもその順序が逆になり、肉体の衝動によって精神が動かされるようになれば、それは動物的生存であって、理性的な生き方ではない。

しかし、グノーシス主義は、人間の内側で、この三部位の秩序を転覆し、聖書とは真逆の秩序を打ち立てようとするのである。
 
もう一度、聖書の創世記の記述を振り返ろう。

「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
 
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 」(創世記3:1-7)

グノーシス主義とは、この創世記の場面で、蛇が人間を神に背かせて堕落させるために吹き込んだ悪魔の知恵と本質的に同じものであり、その今日的な延長であると言える。

そこで、その思想の骨子は創世記の時代から変わらず、それは人間が肉欲に従って生きるようそそのかし、かつ、そのように欲望に従って生きる結果、「偽りの霊性」を身に着け、自己存在を神に等しい高次の存在へと引き上げられるかのように錯覚させる欺きの教えだと言える。

それゆえ、グノーシス主義において、人間の肉体および肉欲が果たす役割は、はかりしれないほど大きいのである。

以上の創世記の記述を見ると、私たちは、エデンの園において、人間の中で理想的な秩序が実現していたこと、人は己が知性によって肉体を治めるという秩序が成り立っていた様子を確認できる。

人間は、園にある木の実を食べることが許されていたが、「善悪を知る木の実」だけからは、取って食べるなという制約が神によって課されていた。その制約は、神の言葉を通してもうけられた。

人間は、楽園にいた当初、自らの知性によって神の掟をわきまえ、神の言葉に従って生きることで、知性によって自分の肉体を治め、人間の「知性」と「行動」との間には、いかなる乖離もなかった。その時、人間の肉欲はまだ罪とはなっておらず、人には自分の肉体を恥じる意識もなかった。

つまり、人が神の掟(神の御言葉)を知るという知性によって肉体を治めていた間は、人間は「全一的存在」であり、肉体の知性からの乖離も、肉体の疎外も起きていなかったのである。

しかし、そこへ悪魔がやって来て、人間に、神がもうけた制約は、人間の知識と力をいたずらに制限するための不当な制約であるかのように思い込ませた。そして、「善悪の知識の木の実」を取って食べれば、人間は、神が定めた不当な制約から解放されて、死ぬどころか、むしろ、「神のような高次元の存在になれる」と嘘を吹き込んだ。

つまり、悪魔は、人間が神の言葉に縛られる必要は初めからなく、己が欲望のままに行動して、タブーを破ることで、逆に神のように高次元の存在となれるのだと教え、「言葉によって健康な肉体から自分自身を切り離す」のをやめるようそそのかしたのである。

人が「善悪の知識の木の実」を見ると、それは「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」ものと見えたため、人は、悪魔の勧めに従って、自分の肉体の衝動(肉欲)に思うがままに身を任せ、その実を取って食べるという行動に及んだ結果、罪を犯し、堕落した。

こうして、人間が肉欲に従って知性を捨てた瞬間、人間の中で、秩序転覆が起こったのである。それまであった知性と行動の一致は壊され、精神が肉体を統御するという秩序も転覆された。そして、最も卑しむべき肉体および肉欲が、人間の中で主人となり、肉体が精神を屈服させたのである。

だが、その瞬間に、奇妙なことに、人間の心に自分の肉体に対する羞恥心が生じた。

おそらく、その羞恥心は、人の霊および魂の中に、まだかすかに残っていた正常な良心の機能がもたらしたものだったと推測される。人間の魂は、神の御言葉を知る知性に従わず、魂の命令を聞こうともせず、自分勝手に行動して罪に堕落した肉体を、恥ずべきものとして自ら嫌悪したのである。それゆえ、この時から、人間の内側で、自らの肉体に対する恥の意識が生じ、肉体の疎外という状態が生まれたのである。

しかし、人間が「善悪を知る木の実」を食べたことにより、人間の魂の知性の中にも、悪が入り込み、魂も全く当てにならなくなった。人間の霊は死に、魂も正常な機能を失い、そのせいで、それ以後、人間の歩みにおいては、「知性」も「行動」も両方とも当てにならないデタラメなものとなり、両者はますます乖離を深め、混乱や矛盾を生じさせるばかりとなった。

それにも関わらず、グノーシス主義者は、人が正しい知性を捨てて肉欲に従い、霊および魂が肉体を統御するという当然の秩序を覆したことこそ、堕落の原因となったのだという事実を認めず、かえって、人が肉欲に従って生きることは、悪いことではないと正当化する。そして、人間は、より一層、肉体および肉欲を様々な制約から取り払うことで、自由になれるかのように教え、そのように転覆された秩序を引きずったまま、人間は再び「知」と「行」を一致させて、第二のエデンに帰れると教えるのである。

鈴木大拙の言葉には、そのようなグノーシス主義者のイカサマ的な願望が非常に端的に表れているため、もう一度引用しておきたい。

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、pp.195-196)



鈴木大拙がここで言わんとしている内容は、リューサーや三島と全く同じである。しかし、それだからこそ、この記述には、多くのトリックが含まれているので、よくよく注意して読まなければならない。

まず、鈴木大拙は、「アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。」と言うが、この記述が、大きな誤りであることに気づかれたい。
 
なぜなら、すでに見たように、エデンにおいて、人間は神から教えられた掟を知って、これに従って生きていたわけであるから、そこにはれっきとして「知」が存在しており、鈴木の言うように「行」のみが存在したわけではないのである。

エデンでの生活では、人間の中で、神の言葉を知るという「知」と「行」とが完全に一致しており、人間は精神によって肉体を治めていた。それこそが人間のあるべき本来的な姿なのである。

ところが、鈴木は、エデンにおいては、あたかも「知」が存在せず、「行」だけが存在したかのように主張することにより、「行」がすべてをほしいままにしている状態こそ、人間にとって理想状態であるかのように主張する。

こうして、鈴木は、暗黙のうちに、「人間にとっての楽園とは、人が己が肉欲を、いかなる制限も受けることなく、ほしいままに解放した状態である」と言っているに等しい。要するに、彼は「行」のみが存在する世界こそ「楽園」であるとして、人間がいかなる欲望でも叶えることのできる唯物論的ユートピアを至上の価値としたマルクス主義者と大差のない楽園観を唱えているのである。

さらに、鈴木の言う「一旦、知が出ると、失楽園となった」という言葉にも、トリックがしかけられている。そこで、鈴木が「知」と呼んでいるものは、悪魔が人間をそそのかして、神に逆らわせるために吹き込んだ「悪知恵」であって、偽りの知恵であるから、そのようなものは、正常な「知」とは呼べない。

しかも、私たちは、これまでのいくつもの記事において、鈴木大拙が聖書の御言葉の二分性に激しい抵抗感や嫌悪を示して来たことを確認して来た。そこで、ここで鈴木大拙が、失楽園の原因となった「知」という言葉で非難しているものは、悪魔のもたらした悪知恵ではなく、聖書の御言葉であることも理解できよう。

つまり、鈴木大拙は、ここでも看過できないトリックを用いて、失楽園をもたらした原因が、あたかも悪魔の悪知恵にはなく、神の御言葉が、人間を楽園から追放した諸悪の根源であるかのようにみなして、そのような論旨のすり替えに立って、「一旦、知が出ると、失楽園となった」「知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。」と述べているのである。

つまり、鈴木は、神の言葉を知るという「知性」を、誤った、薄っぺらなものとみなし、それは人間の行動をいたずらに制限し、罪に定めて排除するだけの、表面的なものでしかないため、そんな「知性」は人間の本質たりえないと言うのである。

そして、彼はエデンには「行」だけがあって「知」がなかったのだから、その状態こそ人間にとっての理想状態であるとして、「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。」と決めつけるのである。

このような理屈は、この世には法があるから、罪人や悪人が生まれるのであって、法をなくせば、罪人や悪人もいなくなると言っているのと変わらない甚だしい詭弁である。
 
要するに、鈴木は、何が善であり、何が悪であるかを判断する「知性」そのものを取り払えば、人間の「行」は無制限に解放されて、それが悪とみなされて排除されることもなくなるため、人間の中で全一的な自己が成立する、と言うのである。

このような理屈は、まさに悪魔的な詭弁であり、「裏返しのキリスト教」であるとしか言えない。

そもそも、「知性が二分性を根本に帯びている」と言えるのは、「行」が「知」に従わない場合のみである。
 
法律を守っている人間にとって、法律は自分を排除したり、罰する脅威とはならないのと同じように、聖書の御言葉をわきまえるという「知性」は、御言葉に従って生きている人々にとって、何ら自分を排除したり、疎外する二分性の脅威とはならないのである。

肉体が知性の統御に従っている限り、知性は何も分割する必要がなく、肉体の疎外という問題も生じない。

そこで、聖書の御言葉の二分性によって、「不当な疎外が生じている」かのように感じるのは、御言葉に従わず、それに逆らっているがゆえに、初めから御言葉から疎外されている者たちだけである。

だが、法に逆らった人たちの側から、自分たちを罰したり排除したりする法が悪いと言われたからと言って、なぜすべての人々が、そんな主張を真に受けて、法を撤廃する必要などあろうか。

「行」が「知」に従わないからこそ、「知」が「行」を恥ずべきものとして除外したのだとすれば、そこで悪者にされるべきは、「知」ではなく、「行」ではないだろうか。

ところが、グノーシス主義は、常に「抑圧された者」の側に立ってこれを一方的に擁護するため、「知」が「行」を排除したのが悪いと決めつけ、「肉体および肉欲が、人の中で精神によって抑圧され、疎外されているのは不当である」と言って、肉欲と肉体の復権を唱えるのである。

このような転倒した理屈で、グノーシス主義者らは、「行」を「知」よりも上位に置き、「行」を排除する「知」を屈服した上で、「知」を撤廃し、さらに「新たな判断」として、「行」を排除したり、罪に定めることのない、「新しい知」の概念を導入しようとする。

それが鈴木大拙の次の言葉の意味するところである。

「人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。」

つまり、彼は、人間が「行為を優先にして、それから反省が出る」生き物であることを十分に理解して、そのような状態を決して罪に定めたりしない、新しい「知性」が必要だと言うわけである。そのような知性を得ることは、「二度目の林檎を食べる」ことを意味し、それによって、新たな「知」と「行」とが調和する「入不二法門の世界」に至る道が開けるというのである。

「入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。」

こうして、グノーシス主義は、人間が神の言葉を捨てて、「知」よりも「行」を優先して、肉欲に生きたために起きた失楽園という過失を全く人間の罪として認めることなく、人間は自らの生き方を少しも変えることなく、依然として肉欲に従って生きているままで、自ら失楽園という過ちを修正して(=ソフィアの過ちを修正し)、自力で第二のエデンに帰れると言うのである。

果たして、そんな都合の良さすぎる「うまい話」が本当にあるだろうか。その答えを、私たちは次章で三島の最期を通じて見て行きたい。

<続く>


神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から③

・あらゆる制約からの解放を目指すグノーシス主義は、肉体を制約から解放しようとして肉体からの解放を目指すというパラドックス

さて、三島は自分の美意識が己が肉体を疎外しているという事実を解消するために、肉体を鍛えることで、自分の肉体を、美意識が求める水準まで引き上げ、それによって、自己嫌悪、自己疎外から解放されて、「言葉」と「体」の両方を永遠の完成の域にまで高めることができるかのように考えた。

ところが、結局、その方法では、決して彼は自分自身を統合することはできないどころか、望んでいるのとは正反対の結論だけが出ることになる。

『金閣寺』において、すでにその予表が表れていることを私たちは見て来た。主人公が破壊した金閣寺は、「永遠の女性美」の象徴であると同時に、三島の美意識のシンボルでもある。いわば、それは三島にとっての「神」である。

主人公にこの「永遠の女性美」を破壊させることによって、三島は、自分を無意識に縛って来た祖母の言葉を否定し、「母なるもの」の呪縛から自分を解放しようとしたのだとも言える。

だが、三島が自らの美意識を否定することは、自分自身を否定することを意味するがゆえに、その試みは決して成功に終わらず、「母殺し(=神殺し)」は、結局、「自分殺し」を暗示するだけである。

三島は、美意識によって悪とみなされていた自分の体を救い出すために、美意識の中から、究極の美を奪い取って、それを自分の体に分与し、それによって、自分の中で美意識(言葉)と肉体を対等な地位につけようとしたのである。

「言葉と肉体を融合させる」と言えば聞こえは良いが、その本質は、「簒奪」である。それは、堕落した「肉体」が、「言葉」からその美しい本質を奪い取り、あたかも「言葉」と対等な存在であるかのようになりすまし、己が堕落した本質を、聖なるものであるかのように見せかけ、有限なものを、無限なものであるかのように見せかけようとするトリックなのである。

三島は言う、「私は美しい作品を作ることも、自分が美しいものになることも、その道理は同じなのだと見つけた。

だが、彼が主張していることは、不可能事であって、このようなグノーシス主義的錬金術によって、人が自らの肉体を永遠の存在に高めたり、自己を神と並ぶ存在としようとすることはできない。

そこで、そのような試みは、かえって目指していた目的と全く逆の悲劇を招くだけであり、その原則が、『鏡子の家』で、よりはっきりした形で表れる。

『金閣寺』では宮という形を取っていた「永遠の女性美」は、『鏡子の家』では、「鏡」という、まさにグノーシス主義の象徴となって登場する。しかも、その「鏡」は、幾人もの女性たちの姿に擬人化されて、主人公に群がり、彼の像を簒奪する。

『鏡子の家』の主人公の一人である俳優は、顔には自信があっても、体には自信のない男である。そこで、彼は役欲しさに、他者の目に映る自分の姿をもっと立派にしようと、ボディビルを通して体を鍛えて自信を取り戻そうとする。
 


男:「ちくしょう。顔だけじゃダメなんだよ。体なんだ。もっと筋肉がついてればな。闘牛士みたいに。そしたら、体中、顔にしちまえるのにな。」
女:「何馬鹿なこと言ってんのよ(笑う)。」
男:「俺、ボディビル始めるんだ。」
女:「あはは」
男:「ほんとだよ(手鏡を開いて自分の顔を見つめる)」
女:「ダメよ、ダメダメ。これ以上モテたら許さない。昨日の夜だって何よ。ケイコなの?マサコ?白状しなさいよ。また新しい子でしょ?ほら、弱虫、男が泣くわよ。」
男:「いい加減にしろよ。(女に手鏡を奪われる)何?」
女:「いいの。あたしが見てあげる。(手鏡を逆向きにして自分を映しながら)これがあなたの髪。これがあなたの顔。これがあなたの胸。ね、鏡見るよりずっとよく見えたでしょう?

 

ここでも「鏡」が、主人公を客体化して、その弱さを残酷に映し出すことで、主人公を世界から疎外する役割を担っている。主人公は「鏡」を見つめ、そこに映し出された自分の弱々しい肉体を見てため息をつく。

そうして主人公は、「鏡」に映し出された自己の弱点を、現実であると認めて受け入れたことをきっかけに、その後、「鏡」を見る度に、さらに次々と自分の弱さを見せつけられ、弱さを質に取られ、「鏡」の奴隷とされて支配されて行くのである。

しかも、彼がまだ「鏡」に映る自分の弱さを克服することが可能だと思っていた頃から、彼の気づかぬところで、「鏡」を通して、彼の存在の乗っ取りが起きていた。

主人公は、「鏡」に映る自分の弱さを見つめながらも、この先、ボディビルを通して理想的な自己を手に入れるのだから、この弱点を克服した後で、もっと良い自分の像が手に入ると考えて喜んでいる。

ところが、主人公のそばにいる女は、彼が手鏡を持ち出したのを幸いに、その手鏡をくるりと反転し、そこに彼の見たかった理想的な自己像ではなく、彼女自身の像を映し出す。

それは彼より美しいかも知れないが、彼よりも弱く、抑圧されており、行き場を失った怨念を抱える彼女の像である。女は男の自由を妬み、男を独り占めしたいと思いながらも、それができないゆえに、嫉妬と怨念を抱え、男を束縛するために、彼が持っている「鏡」を反転して、そこに自分の姿を映し出し、「それがあなただ」と言う。

ここに、霊的な文脈で、グノーシス主義的な「存在の簒奪と転換」が起きており、彼と彼女が入れ替わっている。より強くなってより自由になり、自己の尊厳を取り戻そうと願う男を、そばにいる女は、嫉妬の眼差しで見つめ、復讐心から、男が取り戻そうとしている完全な自己像を、こっそりと、不完全で抑圧された弱い女自身の像に取り替える。そして、それを機に、抑圧された自分の怨念と弱さを、その像を通して彼の中に注ぎ込み、転嫁する。

その時、すでに弱い者(女)が強い者(男)の存在を乗っ取り、否定し、弱い者(女)が強い者(男)と入れ替わって支配するというグノーシス主義の原則が成立している。

こうして、「母なるもの」の呪縛から逃れるために強くなろうと思っていた主人公は、「鏡」を見つめる度に、どういうわけか、ますます深く「母なるもの」の呪縛に自分を乗っ取られ、弱くなって行く。

主人公は体を鍛え、弱点を克服して勝利をおさめたと思い、母親に立派な体を自慢する。ところ、その直後に、さらなる「存在の乗っ取り」が起きる。

「鏡」を通して女に自分の像を乗っ取られた彼は、今度は、自堕落な母親がこしらえた借金という罪を、身代わりに背負わされていた。取り立て屋の前には、鍛えた体も全く通用しない。惨めに床に打ち倒された彼は、鏡を呆然と見つめるが、そこには、望んでいた立派な自己像とはかけ離れた、さらに弱く、惨めになった自分自身が映っていた。

 

 

こうして、彼は鏡を見つめる度に、望んでいた強さとは正反対の、ますます弱く、醜く、恥ずべき、厭うべき存在となった自分自身を見いだすのである。

それでも、彼が鏡の中に発見された自己の弱さを何とか克服しようともがくうちに、ついにそれまで彼の像を次々と簒奪して来た「鏡」が、女性の姿をして擬人化して現れる。

「鏡」は、高利貸しの女という人格になって現われ、借金という彼の弱みを足がかりに、ついに彼の全人格を支配した上、彼の存在をまるごとのみ込んで消し去る。

 


「ねえぼく、今分かったんだけど。長年、探し求めていた人が、やっと見つかったんだ。もう鏡なんか見なくたっていいんだ。今、ここに自分がいるんだって、はっきりと感じるんだよ。
「じゃあ、とことんまでつきあってくれる?死ぬのもよ。血の中でのたうち回って、動かなくなるまで、ちゃあんと見届けてあげるから。まあ、その後であたしは、毒なんか飲んで」
「いいけど。まかり間違っても、キスなんかしないでよ。ちゃんと死ぬまではね」

 

むろん、ここで母親の借金を理由に、主人公に奴隷契約を結ばせて、命まで差し出すことを要求する高利貸しの女は、グノーシス主義的な「虚無の深淵」である。

主人公は、この女に出会うまでの間にも、周囲の女たちや世間の眼差しという「鏡」の中に、次々と自己の弱さを質に取られて来たのだが、ついに虚無の深淵それ自体が現れて、借金を棒引きにして彼を弱さから「救済」するという名目で、彼自身の存在をまるごと対価として要求し、滅ぼした。

グノーシス主義の「鏡」とは、至高者が自らの似像を被造物として生み出すためのツールであるだけでなく、被造物の側から、妬みによって至高者の像を盗み取り、弱い者が強い者の像を奪い取り、強い者になりすまし、支配するためのツールだということを述べて来た。

そこで、この教えを信じる人間は、ちょうどグノーシス主義の真の至高者が、自分よりも下位の被造物から存在を盗まれ、流出させられたと同様、自分も「鏡」を通して、自分よりも弱い者から、無限に存在を盗み取られることを避けられない。

「女」たちは、主人公に群がり、「愛」や「慈悲」や「同情」の名のもとに、主人公の弱みを握り、それをもとに、さんざん主人公の像を奪い取り、主人公が望んでいた理想像の代わりに、自分たちの弱い像を彼に押しつけ、主人公の心の空洞に、自分たちの弱さや怨念を注ぎ込む。

そのため、主人公は強くなろうと願っているのに、「鏡」を介して、強い者と弱い者、抑圧する者とされる者、疎外する者とされる者、加害者と被害者が転換し、強くなるどころか、自分よりも抑圧されて疎外された者たちの怨念が、一斉に主人公の心に注ぎ込まれ、主人公はいけにえとして支配される。

グノーシス主義の「父なる神」はフィクションであって、実質的には存在していないと言って良い。「鏡」とは、真の至高者(原父)と同一視されるものの、その「鏡」は虚無の深淵であるから、そこに真の至高者の姿はなく、あるのは被造物の像だけである。そこで、グノーシス主義における真の至高者としての「神」は、「女の姿」をしている。

要するに、グノーシス主義の教えの中に「父なる神」は存在せず、ただ神の似像として「鏡」に映し出された被造物だけが存在する。被造物が「神」になりすまし、「神」のように振る舞っているのである。

ソフィアが「父なる神」の像を簒奪することを正当化した瞬間から、グノーシス主義における「父なる神」は、被造物に存在を乗っ取られ、事実上、消え失せた。その後は、被造物が神になりすましているだけなので、グノーシス主義の至高神は、女の姿になるのである。

このように、グノーシス主義は、被造物を神とする「母性崇拝」(イゼベルの霊)の教えであり、簒奪を正当化する教えである。弱い者たちが強い者たちの存在を怨念によって奪い取り、強い者を乗っ取ることを正当化する教えと呼ぶこともできよう。

このように、グノーシス主義の至高神は、被造物崇拝の「イゼベルの霊」であり、それは嫉妬と怨念を抱える霊である。この霊は、コンプレックスや弱さや被害者意識を抱える人間を探し求め、見つけると「愛」や「同情」や「救済」の名の下に、彼らの心を支配する。この霊は、人を解放するように見せかけながら、極端なまでに彼らの傷を押し広げ、二度と立ち上がれないように、自分の支配の中に閉じ込められてボロボロにする。そして、最後にはこれをいけにえとして、存在を乗っ取る。

結局、「父なる神」の像を、被造物が妬みによって奪い取り、自ら「父なる神」になりすますというグノーシス主義の教えを信じてしまうと、それを信じた人間も、自己の像を自分よりも弱い者に果てしなく奪い取られながら、最後には、自分よりも弱い者の怨念に飲み込まれて自己を喪失して終わるしかないのである。

さて、グノーシス主義では、表向きのヒエラルキーと影のヒエラルキーというダブルスタンダードがある。表向きには、「父なる神が家を統御している」かのようなフィクションが作り出され、「男性中心の秩序と支配」が成立しているように見える。だが、それは見せかけだけの秩序である。

グノーシス主義における「父が社会を統御する」というストーリーはフィクションであり、これは実質的に、「母の側からの乗っ取り」によって破壊され、現実には「無限大の権威を持つ母なる存在による支配」だけが正当化されるからである。

従って、グノーシス主義が男尊女卑の教えであるように見えることがあるとすれば、それはヒエラルキーの末端で起きている出来事であるか、見せかけの秩序でしかない。グノーシス主義のヒエラルキーの頂点には、常に「母なる存在」があり、これはヒエラルキー転覆の教えなので、延々と簒奪と秩序の転覆が繰り返される。

たとえば、最近、相撲協会が女性の土俵入りを禁止していることが、男女差別として話題になっているが、ほとんどの閣僚を、戦前回帰を唱える日本会議に占められている現在の我が国政府には、グノーシス主義的世界観が蔓延している。

そこで、このような国で、男尊女卑が支配しているように見えるのは、ほんの表面的な出来事でしかない。 その証拠に、トップを見れば、何の権限もないはずの「私人」である総理夫人が、首相以上の権限を行使して、国を陰から支配している。さらに、首相夫人のみならず、首相の母も「ゴッドマザー」などと呼ばれて影の実権として国を支配している。

それらの女性たちの国政への関与は、表向きにはいかなる法秩序にも基づいておらず、完全に公の秩序の枠外で行われているため、一体、その女性たちが、どれほど国政に絶大かつ重大な関与を及ぼしているのかは、誰にも分からない「ブラックボックス」となってしまっている。

こうして、表向きには戦前回帰だの男尊女卑だの、古めかしい秩序に支配されているようにみえるかも知れないが、我が国いおいて、男たちが作り出す表向きの秩序は、すでに「マザー・コンプレックス」によってすっかり形骸化・骨抜きにされており、結局、「母なるものによる支配」がいかなる法にも決定にもよらず、実質的に国を陰から動かすことがまかり通るという、とても民主主義国家とは思えない、まるで古代社会への逆行のような現象が起きているのである。

こうして、表向きの秩序は男たちによって占められているように見えても、その公の秩序が、実質的に、陰の秩序によって乗っ取られ、骨抜きにされ、もはや全く正常な機能を失ってしまっているのが現状である。

『鏡子の家』では、「鏡」を通して、女が男に置き換えられ、男が女に飲み込まれて消えるという、「男女の秩序の逆転」が起こっている。そこには、当然ながら、「被造物に過ぎない人類(霊的女性)が、父なる神(創造主)の像を簒奪し、自ら神になり代わる」という、グノーシス主義のお決まりの反逆の筋書きが表れている。

だが、そのプロットの中には、一人の人間における「霊」と「肉」の秩序の逆転も暗示される。

体を鍛えることで、コンプレックスから解放されて、肉体を永遠の理想状態にまで高めようとした主人公は、三島の分身でもある。だが、三島が、理想的肉体を手に入れることで、自己嫌悪から逃れることができたかのように考えられたのは、ほんの束の間でしかなかった。

祖母の言葉の呪縛からようやく逃れられたと思った途端、彼を縛っていた祖母の呪縛は消えるどころか、ますます巨大化し、三島が抗うことがほとんど不可能なまでの限界となって目の前に立ち現れた。

体の弱さを克服した先には、「老いと死」という、彼がどうやっても自力では克服することのできない、さらに大きな壁が立ちはだかっている。

焼き払ったはずの「金閣寺」は、消えていなかったどころか、より巨大化してよみがえり、相変わらず、彼に被造物としての惨めな限界を突きつけ、答えを迫る。

 



「夏雄ちゃん」
「いらっしゃい」
「やあ、どうしてたんだよ」
「いや、ボディビル始めたんだよ」

「へえ?」
「夏雄ちゃんの方はどう?相変わらず、描いてるの?」
「やってるよ」
「夏雄って、山形夏雄さん?日本画の?」
「ええ」
「この前拝見しましたよ」
「ああ、そうですか、どうも」
「まあ、人間の体描かないだけ、まだ許せるけど?」
「別に悪気ないんだよ。今ちょっと武井さん、彫刻の話してたからさ」
「ふーん、どんな話?」
「いやだからね、たとえミケランジェロでも、ロダンでも、結局は人間の体を石か何かで彫るわけだ。現に生きた人間の体ってもんがあるってのに。要するに、芸術家なんて要らないんだよ。」
「それじゃあ、武井さんが正しいとしましょうか。歯を食いしばって、汗を流して、その生きた芸術作品が出来たとしますね。しかし、それが老いさらばえることはどうするんですか。その美しさはどうなるわけ。作ったあなたが、それをどうにかしなきゃならないんだから。だから、一番美しい時に、死んでしまえばいいんですよ。

 

こうして、三島の思想の中に、ついにグノーシス主義者が決まってたどり着く「肉体の牢獄から霊を解放する」という究極的結末が、はっきりと形を取って浮かび上がる。

肉体の悪なることを否定して、自分自身を自己嫌悪から救うには、ただ体の弱さを克服し、健康的な衝動に従って生きるだけでは全く不十分であり、結局、死という肉体の限界そのものから解かれることによってしか、自己の弱さから逃れる道はなかったのである。

そのためには、自分の肉体そのものを滅ぼすしかないというパラドックスが明らかになる。

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。」(ローマ8:13-14)

キリスト者ならば、「霊によって体の仕業を絶つ」ことを知っているため、自己の弱さから逃れるために、肉体を滅ぼす必要など全くないことが分かっている。だが、信仰のない三島には、死を超越して生きることは不可能であり、それが可能であるかのように見せかけるためには、さらなる錬金術が必要となる。

彼に選択できるのは、自ら死に方を選択することで、死を支配しているかのような体裁を装うことだけである。自分の望み通りの死を演出することによって、肉体という限界そのものから、自己を解き放つ儀式を完了することだけである。

せめて無様に老いさらばえて、自己の弱さに飲み込まれるという、ありふれた当然の結末だけは避けたい。だが、青年期を過ぎている以上、「一番美しい時に死ぬ」という選択肢も、彼にはもはや残っていなかった。

三島に出来ることは、自分の死を、単なる老いや病の不可避的な結果としてではなく、自主的な決断・選択と見せかけた上で、なおかつ、その死の中に、「言葉による理想を究極的に実現し、言葉と肉体の区別を取り払う」という大義を持たせることで、自らの死を単なるありふれた死でなく、永遠性を持つ非日常的な宗教行事のレベルにまで高めることにしかなかった。

そのために、天皇のための「殉死」という概念が作り出されるのである。

<続く>


神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から②

・霊肉二元論の悲観的な世界観―「イゼベルの霊」(東洋的母性崇拝)がもたらす心の呪縛

さて、先に述べたように、Paul Shrader監督の映画に描かれる三島由紀夫の人物像には、グノーシス主義がもたらす精神的病の一つである歪んだ自己愛、ナルシシズムがよく表れている。
 
このような歪んだナルシシズムは、グノーシス主義がもたらす「マザー・コンプレックス」と密接な関係があって生まれて来るものである。

グノーシス主義とは、「母なる神」(被造物)が「父なる神」(創造主)を妬み、これを否定して、神としての性質を奪って、自ら神となる物語だということは幾度も述べて来た。グノーシス主義の究極的な目的は、そのような「妬む母」(怨念を持つ母)の子孫として生まれた人類が、自ら「父なる神」の子孫であると宣言して神に回帰することで、「母の過ちを修正する」ことにあるということもすでに述べた。

言い換えれば、「尽きせぬ怨念に支配される母」とその母の怨念を一身に背負わされて運命共同体となった「子」が、一体化して自ら神になろうとする思想が、グノーシス主義なのである。

そこで、グノーシス主義思想の担い手となる者たちは、幼少期から、自らの家庭において「イゼベルの霊」から怨念を注ぎ込まれ、「母なるもの」の支配を受けて、深刻な「マザー・コンプレックス」に陥っていることが少なくない。

そのような者たちは、すでに幼少期から、「母なるもの」との間で、何らかの心の傷を介した悲劇的な心の絆(癒着)が出来上がり、まるで運命共同体のように「母」と互いを束縛し合う関係が成立していることが多く、それが彼らの生涯に渡る「母なるもの」の支配の原型となって行くのである。

映画"MISHIMA"では、三島由紀夫が生まれて数ヶ月で母のもとから取り上げられ、その後、祖母の精神的支配を受けて育った様子が描かれている。

 

「幼少の頃、私は絶えず窓辺にたたずみ、外で思いがけないことが起こる日を、しきりに待ちわびていた。自分の力では決して変えようのない世界を、じっと見つめながら、世界が向こうから変わってくれるのを熱望していた。生まれて50日目に祖母は私を母の手から奪い取った。」

「病が悪化する祖母を看護する私に、祖母は様々な歌舞伎の話をして聞かせた。遊び相手も外出先も、祖母によって厳しく限定されていた。」



この映画を観る限り、三島の幼少期は、母からではないが、祖母という女性による精神的統制と支配を受けたゆえに、まるで牢獄や隔離病棟に閉じ込められたかのように、息苦しいものであった様子が分かる。

祖母は、三島を母のもとへ返さず、自分に満足をもたらす道具として、片時も離さずそばへ置こうとした。そのため、彼女は、うわべだけは同情を装いながら、「ぼうやはなでしこのように体が弱い」と言い聞かせ、三島をマインドコントロールすることで、三島が、自分は病弱な人間であって、外界との接触になど耐えられないという嘘を信じるよう吹き込むのである。

子供ゆえに祖母の言うことを疑えなかった三島は、祖母の言葉を真に受けて、自分の体には病弱という大きな欠点があるのだと思い込んでしまう。だが、外出の予定も、友達選びも、すべてが祖母によって干渉され、支配される日々は、三島にとって耐えがたく、彼はいつか外界で何かが起きて、自分を閉じ込めているカプセルのような世界が打ち破られることを熱望する。

ただ一つ、祖母が許してくれた娯楽である歌舞伎だけが、幼少の三島が自力で閉塞した世界から逃避する手段であった。歌舞伎の舞台は、言葉を通じて現実を塗り替えることのできる芸術の世界が存在することを彼に教え、芸術の世界に彼の心を誘い出す。

「子供の頃、すでに私は、世界が二つの相反するもので出来ているのだと感じていた。一つは、世界を塗り替えることのできる言葉、もう一つは、言葉とは全く関係のない現実の世界。世の常の人は、体が先に出来て、そして言葉を覚えるのであろうに、私の場合は、言葉が先に来た。」

「舞台はあらゆるものを美しく塗り替えた。男を女に変え、世界中を塗り替えることができるのだった。」

三島は、早くから目の前に広がる現実を悲観的に見て、その現実が自分を疎外しているととらえ、これを「言葉によって塗り替える」ことを切望していた。

三島にとって、現実世界は、憎むべき混乱と矛盾に満ち、理想からはほど遠く、何の意味も見いだせない、牢獄のように彼を閉じ込めるものである。

彼は、なぜ自分が、他の子供たちと同じように何も考えずに思うがままに現実に生きることができないのか、なぜ現実から疎外されていると感じるのか、なぜ思索によって現実世界から隔てられ、自分自身をも嫌悪しているのか、理解できない。

そして、彼にとっては、自分の貧弱な体も、憎むべき現実世界の一部である。
 
三島は、祖母の精神的支配が、自分から自分らしい生き様を奪い、自分を世界から隔離し、他の人々からも疎外される原因を作り出しているとは気づかないまま、どうすれば自分と他の人々を隔てている壁を取り払うことができるのかと考える。
 
そこで、彼は世界を眺め、男が男であること、女が女であること、自分が自分であることを憎むべきことと考え、男女の区別、自他の区別、言葉と体の区別など、多くの区別が人間を疎外しているのだと考える。

そして、いつかはそうした隔ての壁がことごとく打ち破られて、すべての区分が取り払われ、対極にあるものが一つになって、自分が世界と一つとなって、自分を疎外している牢獄から解放される時を待ち望むようになる。
 
三島はそうした多重の疎外から成る憎むべき世界を、「言葉」によって、芸術を通して塗り替え、統合できると考えた。

彼にとっては、「言葉」の中にこそ、永遠の理想的な世界へ通じる扉があり、創作を通して、閉塞した世界からの逃げ道を見つけることが可能であると感じられる。

彼は文体を磨き、これを改造し、自分の作り出す芸術の世界を絶えずより洗練されたものにすることで、そこで作り出された美しい世界を、逆に現実に適用しようと考える。

こうした三島の世界観は、全世界が悪しき神(ヤルダバオート)のもとにあって悲惨に満ちており、天界へ復帰することがだけが救いであるかのようにみなすグノーシス主義の霊肉二元論の世界観ともおおむね一致する。

グノーシス主義は天的なプレーローマ界にこそ真のリアリティがあるとみなし、そこへ回帰することを終局的な目的とするのだが、三島の生涯も、人生を通じて、「言葉」と「現実世界」とのギャップを取り払い、両者を融合させることで、天界と現実世界とを融合させようとするものであったと言える。

だが、キリスト者ならば誰しも知っているように、十字架を介さずに天を地に引き下ろすことは不可能であり、それゆえ、グノーシス主義者に降りかかるのと同じ悲劇が彼を見舞うのである。
 
 
・疎外された者が疎外する者を否定的に乗り越える―悲観的な世界観の転換

太宰治のような作家が、厭世的な世界観を持ちながら、同時に、人間の奥深くに潜む罪の問題に気づき、罪悪感に苦しめられていたのに対し、三島は、祖母の心の中にも、自分の心の中にも、悪や罪の存在を認めなかった。

三島は、疎外されている人間自身に罪があるとは決して考えない。また、罪ゆえの疎外といった考えを持たない。そうなると、諸悪の原因は、人間自身の中にはなく、むしろ、人間を疎外している何らかの壁(区分)の側にあることになる。

三島は、自分を苦しめている諸問題の原因を、決して己の内にある罪に見い出すことがない代わりに、「自分を疎外している区分こそが悪である」とみなし、その区分を抹消することで、世界と自分とを再統合できると考える。
 
このようにして「自分を疎外する者の存在を否定的に乗り越えることで、自己疎外を解消しようとする」という発想こそ、グノーシス主義に典型的な発想なのである。

三島は、自分が病弱な人間であるという考えが、祖母によって吹き込まれた嘘であるとは長い間、気づかず、ただ鏡をのぞき込んでは、そこに映る自分の貧弱な体を見て、深刻なコンプレックスと自己嫌悪に苛まれていた。

彼はどうすればそのような自己嫌悪から逃れられるのかを考える過程で、「自分の美意識が自分の体を疎外している」と考えるようになり、自己の意識が自分の体を疎外しているという状態を取り払い、変えるための実験に着手する。むろん、それは実験というより、錬金術なのだが、ここに最初の目に見えるグノーシス主義的な転換が起こった。

美意識によって「見られる対象」であったはずの彼の肉体が、「見る者」である美意識から、その美なる性質を奪い取って我が物とし、「見られる者」が「見る者」と同化し、対等な地位を得ようとするのである。
 



「きみもぼくも美意識というものを持っている。きみが鏡の前へ立つと、その美しいものが見えて来る。それがぼくだと、もう目も当てられないんだ。だからもうからかうのはよしてくれ。」

「ハワイも近づいたある日、私はついに暗い洞窟から出て、太陽と握手したような衝動を覚えた。私はいつも、自分の中にある化け物のような感受性に苦しめられて来た。言葉の世界が、私を健康な肉体から切り離していた。その私を太陽が解き放ってくれた。ギリシアは私の自己嫌悪を癒し、健康への意志を呼び覚ました。私は美しい作品を作ることも、自分が美しいものになることも、その道理は同じなのだと見つけた。


三島にとって、彼の「美意識」(言葉)は「鏡」のように、肉体を「見られる対象」として客体化する役割を果たす。ここで言う「鏡」とは、まさにグノーシス主義のシンボルとしての「鏡」であって、次々と自分の似像を投影することによって数々の被造物を生み出す至高神を象徴する。
 
三島の美意識は、芸術の世界においては、思うがままの像を自在に作り出し、美しい世界を作り上げる。まさにグノーシス主義の神のような創造行為を行う。だが、その美意識は、同時に、現実世界の三島自身を、対象化して映し出す際、三島が望むような自己の像を映し出さず、むしろ、彼の弱々しい肉体を容赦なく映し出し、彼自身の弱さを暴露しては、彼を自己嫌悪させる。

三島は、自分の中にある「言葉の世界」つまり、自分の美意識が、自分自身を疎外しているという事実に耐えられなくなって言う、「私はいつも、自分の中にある化け物のような感受性に苦しめられて来た。言葉の世界が、私を健康な肉体から切り離していた。」と。

彼は、自分で自分の肉体を醜悪なものとみなして嫌悪するという、自己疎外の呪縛から逃れるために、自分の中で、何とかして言葉と肉体の二つを矛盾のないものとして融合させられないかと考え、「鏡」に映る自分自身の像を改良することによって、「美意識」が要求するのと同じ水準まで肉体を引き上げれば、美意識と肉体とが同一のものになり、言葉と映像(体)との間にある溝が埋まるのではないかと考えた。

そこで、三島は、自分の「体」を「言葉」と同じ芸術の水準まで引き上げるべく、健康を追求し、体を鍛え上げ、自己存在そのものを、芸術と同じ、理想的な存在にまで高めようとしたのである。

三島は、肉体改造に成功したことで、言葉を通して「美しい作品」を作り出すのと同じように、現実の自分自身を「美しいもの」に塗り替えることができたと錯覚する。

「私は美しい作品を作ることも、自分が美しいものになることも、その道理は同じなのだと見つけた。

こうして、グノーシス主義的な錬金術が行われ、「体」が「言葉」と対等な、美しい、善なる、永遠性を持つ存在にまで引き上げられる。

三島は、青年期を過ぎてようやく、自力で体の弱さを克服し、自分は弱すぎて外界の刺激に耐えられないという祖母の言葉の呪縛を振り切った。彼は感覚的な刺激に誘われるがままに、ためらいなく外界に飛び出し、「健康な衝動」に身を任せることで、「ついに暗い洞窟から出て、太陽と握手したような衝動を覚え」る。肉体の衝動を解放することで、それまで自分を縛って来た自己疎外の呪縛からようやく解放され、あるべき自分自身を取り戻したように感じたのである。

だが、こうした三島の行動には、ただ単に自分の弱さを克服するという目的を超えた、決して我々が無視することのできない、重大な危険をはらむ恐るべき目的が込められていた。それは、彼が、理想的な肉体美を追求することで、かつては目も当てられないほど厭わしく感じられ、「悪」でしかなかった自分の肉体を、あたかも「善なるもの」「聖なるもの」「永遠のもの」であるかのように、完成の極致へ導き、それによって、「体」の堕落を否定し、かつ、「言葉」と「体」とが対等な地位にあって、あたかも両者が融合可能であるかのように主張し、「霊」(言葉)と「肉」(体)の区別を否定し、「言葉が体を支配し、統御する」という、聖書的な動かせない主従関係や秩序を否定し、覆そうとしたことである。


三島のこのような発想は、当ブログでかつて取り上げた女性解放神学者リューサーの考えにも通じる。当ブログでは、解放神学が、キリスト教を換骨奪胎して作られたグノーシス主義であることはすでに述べたが、リューサーが伝統的なキリスト教の「二分性」に、激しい憎悪と非難の言葉を浴びせながら、キリスト教が人間の肉体および肉欲を堕落したものとみなしていることに、とりわけ強い抵抗感を示したことも説明した通りである。
  
(伝統的キリスト教における)「救いとは、肉的なものを抑えることによってくるものであると解釈される。肉欲と感情の抑制、そして内的・超越的・霊的自己への逃避。食べること、眠ること、入浴さえもが、また、視覚的・聴覚的楽しみ、そして何にもまし て、一番強烈な肉体感覚である性の喜びなどが真の『悪魔の住処』とされた。文字通り、死の倫理を形成したのである。救いは死を目指しつつ生涯かけて『苦行』を実践することによって与えられる『魂の肉体からの分離』である。創造を堕落と見るグノーシス主義的思考を訂正しようとして苦心したにもかかわらず、 キリスト教はその同じグノーシス的精神性の多くをそのまま保存するにとどまった」(『解放神学 虚と実』、勝田吉太郎他著、(大石昭夫著、「解放神学の基本構造」)、荒竹出版、昭和61年、p.61-62)。

 

ここで、リューサーが、肉欲を堕落して罪深いものとみなす伝統的なキリスト教の考えを、あたかもグノーシス主義的精神から来る誤謬であるかのようにみなして非難していることには、特別な注意が必要である。

なぜなら、「肉欲および肉体を罪深いものとして嫌悪し、軽んじることは、グノーシス主義的な霊肉二元論の発想である」という彼女の主張は、根拠を持たない決めつけだからである。

こうした言説は、今日でもクリスチャンの間でまことしやかに広まっている。グノーシス主義が、人間の肉体を、神聖な霊を閉じ込める牢獄とみなし、肉体からの解放を究極目的としていたという認識を利用して、肉体を堕落したものと考えること自体を、グノーシス主義的な概念だと決めつけて、「体の復権」を求めようとする人々がいる。そうした中には、「肉体は中立である」(Dr.Luke)という考えもある。

だが、聖書は、はっきりと人間の魂および肉体を堕落したものとみなしているため、肉体の堕落を認めず、肉体を「中立」とみなすような考えは、聖書に反している。
 
そこで、肉体を堕落したものとみなす考えは、決してリューサーの言うように、グノーシス主義的な考えではなく、むしろ、肉体の堕落を認めない考えこそ、以下に記すように、真理に背く虚偽であって、グノーシス主義的発想であるため、注意しなければならない。
 
グノーシス主義は、人間を「霊」と「肉体」の二つの部分から成ると定義しているのに対し、キリスト教は、人間を「霊」「魂」「肉体」の三つの部分から成ると定義する。

こうして、キリスト教は霊肉二元論を取っていないという違いはあるが、しかし、聖書においても、大きく分ければ、被造物は「霊」と「肉」の二つに分類される(「肉」の中には、人間の「魂」と「肉体」の両方が含まれる)。

ここにおいて「肉」とは堕落の象徴である。「肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:8)

クリスチャンが知っている通り、人はキリストを信じても、贖われるのは、ただ霊だけであり、信者の「魂」と「肉体」は、信者が救われた後も、依然として堕落した「肉」に属するままである。

信者の魂と肉体が贖われ、信者が完全に新創造とされるのは、復活の時である、そうなるまで、信者はこの地上にいる限り、贖われた「霊」と、贖われない「肉」の二つの部分を合わせ持つ。

聖書において「肉」は徹底的に堕落したもの、贖われていないものの総称であり、サタンの作業上にしかならないため、もし人間が「肉」を通して、堕落した肉欲に支配されるならば、人は罪を犯し、死ぬしかない。

そこで、聖書は、信者にはキリストと共なる十字架において「肉に対して死ぬ」ことが必要であると言う。「霊によって体のはたらきを殺す」ことなくして、信者は堕落した肉の罪深い衝動に支配されずに、霊によって歩むことはできないのである。

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。」(ローマ8:13-14)

以上のことを考えれば、人間の魂と肉体を堕落した「肉」に分類し、「肉的なもの」が、罪深いものであるとみなすことは、何ら聖書に反せず、グノーシス主義的な概念でもないことが分かるだろう。

従って、リューサーが、「伝統的なキリスト教が、肉的なものを罪深いものとみなして否定し、肉体および肉欲を嫌悪していることは、グノーシス主義的な誤りである」と決めつけていることは、極めて重大な誤謬なのである。

彼女がそれによって、聖書における「霊的なもの」と「肉的なもの」の区別を否定し、肉の堕落という動かせない事実を否定して、両者を融合させようとしていることに気づかなければならず、そのような考えこそ、グノーシス主義的発想なのである。
 
(このように、リューサーの論は、グノーシス主義者にありがちな「さかさまの理論」になっているため、注意しなければならない。)
 
私たちは、これまで、聖書において、霊的な世界と肉的な世界は、決して交わらず、その両者を仲介することができる存在も、キリストを置いて他にないことを見て来た。

従って、グノーシス主義の神話のプロットが、創造主を「鏡」のような存在とみなし、創造主が「鏡」に自分の姿を映し出すことによって、被造物の創造が行われたかのように主張して、霊的な存在である神と、物質的存在である被造物との間に、「鏡」という架け橋を設定し、この架け橋を通した交流が成り立つかのように主張していることが、完全に荒唐無稽であることを見て来た。
 
グノーシス主義の神話のプロットに見るように、もしも創造主が自分の姿を何らかの「鏡」に映し出すことによって、被造物を生み出せると仮定するならば、この「鏡」さえあれば、被造物の側でも、いくらでも霊的世界から物質世界にリアリティを流出させることが可能となり、霊的な世界と物質的な世界の隔ては事実上、なくなり、両者はまるで一続きの世界のようになってしまうだろう。むろん、そこには、創造主に背いたがゆえの被造物全体の疎外(堕落)もなく、肉の堕落もない。そもそも「肉」と「霊」の区別そのものが消え失せる。

リューサーは、このようなグノーシス主義的神話のプロットに従うかのように、聖書における「霊」と「肉」の絶対的な区別に反対し、堕落した人間の肉体を、まるで罪のないもののように、神聖な霊の領域に潜り込ませようとするのである。

そのことによって、彼女が「肉」という滅びゆく旧創造を、こっそり十字架の罪定めと滅びから救い出そうとしていることが分かる。

後述するが、グノーシス主義とは、決して今日考えられているように、ただ単純に肉体に対する悲観的な嫌悪や侮蔑に基づいて「霊を肉体の牢獄から解放する」ことを最終目的とする教えではない。
 
グノーシス主義は、「疎外される者と疎外する者との区別を廃することによって、疎外された者が、疎外した者を否定的に乗り越える」という思想であり、この思想は、神と人との区別、男女の区別、霊と肉の区別といったすべての区分を廃し、対極にあるものを融合させることによって、多重疎外の状態を解消し、原初的統合を回復することを目的としているのである。

それゆえ、グノーシス主義の思想の中には、「肉を堕落したものとみなし、肉体および肉欲を罪深いものとみなして嫌悪することによって、人間が自分自身の中から不当に肉体だけを疎外するという状態を解消する」という発想も込められており、 リューサーが目指したのは、まさにそれであった。

彼女は、霊と肉の区別を廃止することによって、人間が自分の中から自己の肉体だけを罪深いものとみなして疎外するという「自己疎外の解消」を唱えたのであり、その点で、三島とリューサーの見解は、本質的に全く同じなのである。
  
この二人は、「体」を「言葉」と対等なレベルまで引き上げ、両者の区別を取り払うことにより、「肉」が排除されているという状態を終わらせ、「肉」を「霊」と同じように、善良で、罪のない存在とみなし、共に聖なる領域まで引き上げようとしているのである。

もちろん、クリスチャンはそんなことは絶対に不可能であることを知っている。二人が目指していたのは、結局、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:3)という聖書の秩序を否定して、あたかも「見えるもの」(被造物)と「見えないもの」(神の言葉)が本質的に同一の性質を持つ、融合可能なものであるかのように主張して、堕落した物質世界の「被造物」とを、霊である「創造主」と同一であると主張することにあった。

このように、グノーシス主義の思想は、決して混じり合うことのないものを一つに「統合」することで、弱い者(疎外された者)が、強い者(疎外した者)の性質を簒奪し、これを乗っ取り、なりすますというものであるため、この思想の中には、「罪深いものとして排除された肉欲および肉体が、自分は霊と同じ性質を持っていると主張する」ということも含まれていた。
 
リューサーは、女性解放神学者として、女は男から造られたという聖書の記述に猛反対する。だが、何度も見て来たように、グノーシス主義者が、女が男から造られたという聖書の記述を否定するとき、彼らは暗に、被造物は創造主から作られたという聖書の秩序を否定して、人と神とは同一だと主張しているのである。

こうして、グノーシス主義者が、聖書の御言葉の持つあらゆる「二分性」を嫌悪・否定して、それが悪しき自己疎外をもたらしているので、その区分自体を廃止しなければならないと主張する真の目的は、結局、人間が、己を疎外した神を「否定的に乗り越える」ことにある。

つまり、そこには、人間が、自分を疎外した神に対して、怨念と嫉妬に基づく復讐を企て、自分は神と同一であるから、神が自分を疎外しているのはおかしいと主張して、神の性質を奪い取り、神を乗っ取り、自ら神になり代わるという簒奪と破壊の願望があるのである。

肉体を言葉のレベルに引き上げるというのは、そのための第一歩である。
 
<続く>


神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から➀

さて、二つほど前の記事、神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」の中で触れた、Paul Shrader監督の"MISHIMA: A Life in Four Chapters"について、もう一度、補足しておきたい。
  
残念なことに、以前に記事で紹介した動画はすでに削除されているため引用できないが、この映画を改めて見直してみると、三島作品の中には、至るところにグノーシス主義のシンボルがちりばめられていることが非常によく分かる内容である。
  
三島由紀夫が自分をグノーシス主義者だととらえていなかったとしても、三島作品にグノーシス主義のシンボルがふんだんにちりばめられ、かつ、三島自身の生き様の中に、グノーシス主義の思想がまざまざと体現されているのは全く不思議なことではない。

なぜなら、グノーシス主義は、厭世的で悲観的な哲学であり、政治や社会の情勢が不安定となり、人々の心のよりどころが失われるような状況があれば、いつの時代にも、どこの場所でも、発生しうるものだからだ。

今回、私たちは、この映画を中心に据えて、三島と三島の作品に流れるグノーシス主義的なナルシシズムの忌まわしさ、恐ろしさというテーマに踏み込んで行きたい。

そのことを通して、同時に、これまで見て来たような、グノーシス主義によって骨抜きにされた疑似キリスト教である、ペンテコステ・カリスマ運動を支持する信者たちの異常なほどの幼児性、自己愛などの数々の精神病理的な退行現象(セルフ病)の発生原因にも迫って行くことができるだろう。

私たちは、すでにペンテコステ・カリスマ運動の支持者らには、あらゆる場面で、実年齢にふさわしくない極端に自己中心でナルシシズムに溺れた幼稚な行動を取るという特徴があることを見て来た。

カルト被害者救済活動を支持している村上密、杉本徳久の行動、Dr.Lukeや坂井能大の行動について、ここで詳細に繰り返す必要はないであろう。現実の自分の失敗や欠点を直視することができず、自分をありもしないヒーローや救済者に見せかけて、人前に演技することをやめられなくなり、自分にとって不都合な事実はすべて無視し、批判に耳を塞ぎながら、フィクションの中に逃げ込んでいつまでも自画自賛を重ねているこの人々の行動が、実年齢に照らし合わせて、あまりにも幼稚で、自己中心であることは今更、わざわざ繰り返す必要がない。

だが、ペンテコステ・カリスマ運動に影響を受ければ、指導者であるか信者であるかを問わず、男女を問わず、誰でもこのように、とても大人とは思えない幼稚な行動を繰り返し、感情過多となって眉唾物の自画自賛やお涙頂戴の物語に年がら年中、明け暮れるようになることもすでに述べた通りである。
 
この映画を通して、私たちはそうしたペンテコステ・カリスマ運動の信者らの精神的幼児性はどこから来るのか、という問題だけでなく、日本人全般が抱える精神文化的な成熟度の遅れという問題を解く鍵をも、ある程度、見いだせるのではないかと考えている。

マッカーサーが日本人全体の精神年齢について次のように述べたことは知られている。

「もしアングロ・サクソンが、科学、芸術、神学、文化などの分野において45歳だとすると、ドイツ人は我々同様十分成熟している。しかし、日本人は歴史の長さにも拘らず、まだまだ勉強中の状態だ。近代文明の尺度で計ると、我々が45歳であるのに対し、日本人は12歳の子供のようなものだ。」

これは技術革新の話ではなく、日本の精神文化的な成熟度について行われた言及である。そして、状況が悲劇的なのは、以上の発言がなされた時点から今に至るまで、多くの月日が流れたにも関わらず、おそらく日本人はその間に、わずかに1歳たりとも成熟度を増し加えていないと感じられることである。

このように、日本人の精神的成熟を著しく妨げ、停止させている最たる原因は、グノーシス主義的文化的土壌にあるものと筆者は確信している。

つまり、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らに見られる実年齢に全くふさわしくない精神の幼児性や自己中心性と、日本人全般の抱える精神文化的成熟度の低さは、根は同じところに存在しており、その根本原因は、神と人との分離を否定する東洋的・グノーシス主義的な思想の病理に存在すると筆者はみている。

さて、Paul Shraderの映画の長所は、三島の人生を非常に美しく描写しながらも、同時に、三島とその思想を客観的に突き放して分析することで、その人生の悲劇を浮かび上がらせることに成功している点である。

おそらく、この映画を観て、ハッピーエンドだと思う人はほとんどおらず、また、これを観て三島に追随したいと願う者も出て来るまい。

そこがこの映画の長所なのであり、この映画は、三島の思想を十分に深く理解しながらも、三島自身や、三島作品の主人公たちの抱える心の弱点、彼らの陥った人生の悲劇を、はっきりと描き出しているために、観るものに一定の感銘と衝撃を与えるが、決して、三島や三島作品の主人公たちの人生美学を賛美したり理想化する材料とはならないのである。
 
やはり、キリスト教文化圏のフィルターを介して三島をとらえたことの意義は非常に大きかったのではないかと思う。それも精神文化の優位性のなせるわざかも知れない。45歳の大人の目から、12歳の子供を見れば、その人となりを分析することは、レントゲン写真でも撮るように容易なはずだからだ。

筆者が、日本人の精神年齢の低さが、グノーシス主義的文化的土壌に起因すると言うのは、グノーシス主義とは、神と人との断絶を認めず、「母と子の分離」を認めないことによって、人を永久に「嬰児」のままに留め置く思想だからである。

東洋思想は、神と人とは調和しており、いかなる分離もなく、自然を通して万物のうちに神は満ちており、人は自然の一部としてその中に調和していると言う。しかし、そのようにして、神と人との(罪による)断絶・分離を認めないという発想が、逆に、人を「母のへその緒」に永久に「嬰児」のままに縛り付け、自立させない束縛の枷となり、精神的な成熟と自立を妨げるのである。

キリスト教のように「父なる神」と「人」との分離を認めず、人間を含めすべての被造物が「神と一つであり、母のような慈愛の中で包容されている」という、東洋思想の「母性崇拝」を基調とする思想が、日本人が、自分を冷静に客体化して観察・分析することを妨げ、「自分しか存在しないナルシシズムの世界」を作り出しているのである。

日本人はしばしば自国の政策の誤りを、外圧という形で諸外国から突きつけられなければ、決して軌道修正できないと評されるが、そのように自己の過ちを自分で認識して修正できないという傾向も、そもそも自己を客観視できないという「自分病」のもたらす当然の結果であると言えよう。

このようなことを言えば、三島の信奉者からは早速、非難が来るかも知れないが、映画に見られる芸術としての美化された側面をすべて取り払って、むきだしの結論だけを語るならば、三島の人生は、「いい年をしたおっさんが、鏡を見つめて究極なまでの自己愛にふけり、理想的な自己を追求し続けた結果、ついに鏡に映った自分の映像に命を奪われ、飲み込まれて消失するという、どこまでも独りよがりなナルシシズムの破滅の物語」にたとえられ、しかも、彼がその破滅を、何かしら非常に神聖で崇高な宗教行事のように見せかけて、観客に拍手喝采や同意を求めるという、どこまでも誇大妄想的なおまけがついた物語だとも言える。

三島の人間像の中には、東大卒の人間が陥る典型的な病としてのナルシシズム、東洋思想につきものの「イゼベルの霊による支配」、また、母なるものの支配が生み出す深刻なコンプレックスと自信喪失、そのコンプレックスを覆い隠すためのむなしい肉体改造の試み、などなどの非常に興味深い精神病理的な特徴をすべて見ることができる。

詳しくは次章以降で論ずるが、これを観れば、なぜかつての我が国では、「いい年をしたおっさん」たちが、自己愛に溺れ、理性を失って幼児化し、自らの欠点や失敗を全く直視できなくなって、皇国史観などといった馬鹿げた神話にとりつかれ、天皇と己を神として破滅に突き進んで行ったのかという疑問が、おのずから解けるだけでなく、そういう精神性が、戦後も変わらず、「いい年をしたおっさん」たちの心の中に脈々と流れ、残っている理由が、何となく分かって来るのである。

現在の安倍政権なども、こうした「おっさんナルシシズム」が究極の形で現れたものだと言えよう。つい最近になるまで、盛んに安倍政権をヨイショして、政権批判的なコメントを貶めるために日夜ネットを監視しているネトウヨや、自民党ネットサポーターズクラブのメンバーは、盲目的に安倍を信奉する若者世代だと考えられていたが、自民党ネトサポの決起大会のような写真が流出することにより、実は彼らの大半が「いい年をしたおっさん世代」であったことが判明し、人々に衝撃が走った。

こうした自己愛に溺れる「おっさん」たちの出現は、彼らをいつまでも自立させない「母なる存在の支配」と密接な関係がある。

グノーシス主義とは、「父なる神を妬み、父なる神から神であることを奪い取って自ら神となった、母なる神による支配」を指す。この「母なるものの支配」が、常に「父なるものの支配」を凌駕し、否定し、簒奪し、骨抜きにするせいで、グノーシス主義の思想的影響下に生きる男たちには、健全な自意識、健全な自尊心が育まれる余地が喪失し、彼らは自信が持てず、コンプレックスに苛まれ、健全な自己を養えないのである。

本来、健全な人間であれば、幼少期から青年期にかけて「母からの自立」が始まるだろう。出生直後にへその緒が切られ、乳離れがあり、幼少期から青年期には反抗期が繰り返され、慕うべき存在であった母が、次第に、厭わしい分離すべき存在に変わる。そして、最終的には、母から完全に分離・独立し、母とは別の女性を自ら選び、新たな家庭を築くのである。

ところが、「イゼベルの霊」による支配は、怨念による支配であるから、グノーシス主義的母性崇拝の思想は、決して人を自由にしないのである。そこで、この霊の支配によって、マザー・コンプレックスに苛まれている男たちは、青年期を過ぎて、「おっさん」の年齢になっても、まだ「母の支配」から抜け出せない。

彼らの心の中にある「母の呪縛」は、あまりに強すぎるため、彼らは心の一方では「母なるもの」を憎み、そこからの解放を願いながらも、決して怨念によって結ばれた母との悪しき運命共同体の絆を断ち切ることができず、母を憎みながらも、最後には、嬰児として母の胎内に回帰することを自ら目指すかのように、「母なるもの」の中に飲み込まれて自分を消失して行くのである。

Paul Shraderの映画に描かれる三島の人間像には、グノーシス主義者を陥る避けがたい破滅が、極めて興味深くシンボリックに表れている。

<続く>


 
「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
 
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 」(創世記3:1-7)

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。」(ローマ8:13-14)

神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」

・「イゼベルの霊」(被造物崇拝)による歪んだ支配がグノーシス主義者の心にもたらす尽きせぬ怨念と復讐心

さて、ようやく本題に戻ろう。当ブログでは、東洋的な「母なるもの」を神とする母性崇拝の思想は、グノーシス主義的被造物崇拝に起源があることを論証して来た。 

グノーシス主義とは、唯物論の教えでもある。なぜなら、この教えは聖書とは反対に、見えるものが、見えないものではなく、見えるものから出来たとしているためである。

聖書の秩序は、次のように言う、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:3)

グノーシス主義は聖書の唱えるこの秩序をさかさまにする。グノーシス主義は、まず第一に、世界の創造を、「神の言葉」によるものではなく、神が自分自身の像を水面に映し出すようにして、自らの「似像」を造ることによって始まったとしている時点で、「目に見えるものが見えるものからできた」かのように聖書の秩序を壊している。

グノーシス主義とは、父なる神がすべてを創造し、支配する方であるという原則を逆転させて、被造物に過ぎない者が、父なる神の神聖を盗み取ることで、被造物自身が神となって、父なる神を被造物の欲望に従わせようとすることを正当化する教えだということを見て来た。

そこで、我々は、鈴木大拙がしきりに説いていたように、「母を守る」ことを至高の価値とする東洋思想の考えの根本にあるのも、グノーシス主義であり、そこで言われている「母」とは、被造物全体を指しており、要するに、人類を指しているのだと理解することができる。

結局、東洋思想における「母を守る」という思想は、グノーシス主義の言う「ソフィアの過失を修正する」ことと同義なのである。つまり、それは神ご自身から、神のご性質を不当に盗もうとした悪魔と、その悪魔につき従って堕落した人類の欲望を正当化することに、人類は全生涯を捧げて生きよ、という悪しき思想なのである。

キリスト教を知らず、東洋思想の中だけで育てられた人間は、無意識のうちに「母を守る」ことを至高の概念のように考えて生きているため、このような考えが罪であることを知らない。

だが、クリスチャンとなっても、未だそうした思想から抜け出せない大勢の人々が存在する。彼らは無意識のうちに、人類を至高者のように考える被造物中心の思想に従っているため、クリスチャンを名乗っていても、実際には、神を人間の欲望を叶える道具とし、人間の栄誉を保ち、人間が恥をかかなくて済むことだけを第一として行動する。

そして、聖書の御言葉に基づき、人間の悪なる本質を明らかにするような言説を見つけると、憤激して立ち向かって来ることもある。

このような人々は、父なる神の目に、唯一正しいと認められる存在が、キリストだけであるという事実を認めようとせず、キリストだけに従うと言いながらも、同時に、キリストに匹敵する「誰か」を担ぎ上げ、その人間を宗教指導者とし、神のように栄光を帰しながら、その人物を拝み、誉めたたえる。

最後には、その人物を栄光化するだけでなく、その人物に従っている自分自身をも、神だと宣言して誉め讃えるまでに至るのである。

そういうことは、教祖を再臨のキリストと同一視する異端の宗教団体だけで起きることだと考えるのは浅はかである。目に見える人間を神の代理人のようにみなし、信徒にまさる階級であるとして、ほとんど絶対化している牧師制度は、教祖を再臨のキリストとして拝む宗教と実質的に何も変わらない。

だからこそ、異端の宗教団体で起きているのとほぼ変わらない腐敗した現象が、キリスト教界でも起き続けているのである。それはプロテスタントに限った話ではなく、カトリックも同様である。

そういう問題はすべて、彼らが根本的に人間の本性を偽り、人類について美化されたフィクションを作り出してこれを教会に持ち込み、その幻想のフィクションの象徴として、現人神のような宗教リーダーを作り出し、その人物を拝み、褒めたたえることにより、人類の欲望を賛美しているために起きているのである。

私たちは、先の記事で、大田俊寛氏がグノーシス主義における「父なる神」の概念はフィクションであるが、「父とはフィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である」と述べ、「フィクションとしての父」が、家制度の基礎となり、共同体社会の基礎となり、都市国家の基礎となって行ったと説明していることを見て来た。

聖書を参照する限り、私たちは、人類には神と悪魔という二種類の「父」が存在することを見て取れる。イエスは偽善的なユダヤ人たちに向かい、彼らは悪魔を父として生まれた種族であるとはっきり指摘された。

「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。<略>神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」(ヨハネ18:43-47)

だが、ここで、悪魔を父として生まれたと指摘されたユダヤ人たちは、地上的な自分の生まれに大いなる誇りを持つ人々であった。彼らはアブラハムを父祖に持つ選ばれた民であり、それぞれ立派な出自を持っており、自分の家系図について大いに誇るところがあっただろう。他方、それに比べ、異邦人たちは、選民でないため、初めから救いに縁のない人々として蔑まれていた。

ところが、イエスは、生まれながらの出自がどれほど由緒あるものであれ、さらに行いの上でも、律法を落ち度なく守っていたとしても、信仰がないユダヤ人たちは、悪魔を父とする民であり、悪魔の欲望を満たすためにしか生きていないと宣告し、ユダヤ人たちが最もよりどころにしている地上の由緒ある生まれを根こそぎ否定されたのである。

こうした記述からも、我々は、グノーシス主義が言う「フィクションとしての父」とは、本質的に悪魔を指しているとみなせる。イエスが述べた通り、悪魔は「偽り者」であって、「彼の内には真理がな」く、「悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている」ためである。まさに「フィクションとしての父」という呼び名がふさわしい。

しかし、聖書の父なる神は、「わたしはある」と言われる方であり、フィクションとしての父ではない。すでに述べたように、聖書の父なる神は、ご自分の子供たちが誰であるかをちゃんと見分け、ご自分の子として受け入れた者に、父として「宣誓」をされる。イエスがバプテスマを受けられた時に、神はイエスがご自分の心にかなう子供であることをはっきりと他の者にも分かるように示されたのである。

しかし、グノーシス主義の「父」はもともとフィクションであって、お飾り的な存在でしかないため、決して我が子が誰であるのかを、人前ではっきりと宣言することなく、それを良いことに、「子」の側でも、好き勝手に「父」の権威を濫用して、詐称に詐称を繰り返す。

「万世一系」などとされる天皇家に関する神話も同様で、神武天皇などと言う存在は、学術的にも実在性が認められていないようだが、こうした神話を継承しようとする勢力から見れば、重要なのは、実在性が認められるかどうかという議論や、生物学的な血統が証明されうるかといった問題ではない。

ただ「神聖なる始祖」の威光を代々継承するために「家」制度が続いて来たのだという「神話」が維持されることにより、その「家」のルーツが正当化され、権威づけられ、栄光を失わなければそれで良いのである。

当ブログでは、かつて「国体の本義」を通して、国家神道においては、「生み生まれるという親子の立体関係」がほとんど絶対視されており、その「生み生まれる親子関係」に基づいて、臣民と天皇との関係が定義されていたことを述べた。

このような親子関係は、地上における「生み生まれる親子関係」を指しているとは言っても、文字通りの生物学的な絆を指すのではない。そこには大いなるフィクションが混じり込んでいるのであって、そこで重要なのは、生物学的な血統が証明されるかどうかではなく、たとえその「親子関係」が虚構のものであろうと、「神聖な始祖」から「神聖な火花」を受け継ぐ「家制度」が存続して来たという「フィクション」が維持されることが肝心なのである。

さらにそのような神話に基づく家制度が、「一大家族國家」として、国家レベルにまで高められたのが戦前の国家神道である。

こうして、国家レベルで「万世一系の天皇家」というフィクションが作り出され、それと並行して、国民レベルでは「ご先祖様」を「神聖な始祖」として崇拝する「家制度」が存続した。

しかしながら、こうした神話が社会に何をもたらしたかは明らかである。グノーシス主義が「父とは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者」と主張するのとは裏腹に、そのような壮大なフィクションによって、人間社会が統御されたり、秩序が保たれることはない。逆に、国家レベルにまで膨らんだ虚構の神話は、大勢の人々を破滅に巻き込みながら、最後には風船のように弾け飛んで消えてなくなったのである。

こうしたグノーシス主義的な神話は、国家神道や、先祖崇拝に基づく家制度のみならず、王権神授説や、国民全員の負託によって国家権力が出来たという現代社会の国家観などにも、共通して流れていることであろう。

要するに、この世には、時代を超えて常に人間存在に意義を与え、社会のヒエラルキーを成り立たせるための何らかの「神話」が存在しており、要するに、現実がどうあれ、この世全体が、悪しき者の支配下にあって、偽りの父である悪魔が作り出す「壮大なフィクション」によって、様々な権威づけがなされ、それによってあたかも社会が「統御されている」かのように、見せかけの秩序と幻想が保たれているという事実は、時代を超えて変わらないのである。

「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」(Ⅰヨハネ5:19)

だが、そのようにしてフィクションに過ぎない神話の守り手となった人々には、虚偽を真実であるかのように告白し、先祖の罪をかばい立てするために辻褄合わせの嘘をつき続けて生きるという大いなる苦悩が降りかかる。

そのような「フィクション」に閉じ込められた人々は、一方では、家族の絆や、天皇と臣民の関係や、国家的なレベルで作り出された神話や、宗教指導者との関係や、独裁者から信任を得ていることなどを誇りとし、その関係を神聖なもののように誉め讃えながらも、もう一方では、「父なる神」を骨抜きにして自分を支配する「母」なる被造物に対する尽きせぬ憎悪と復讐心を無意識のうちに心に募らせて行くことになる。

もちろん、彼らには、自分が本当は「母」を憎んでいるのだという意識はない。自分が身を委ねているヒエラルキーや、それを成り立たせている価値観が幻想だという認識もなく、それに反逆する意図もない。だが、これまで書いて来たように、人類のアイデンティティは「喪失した父」を真に回復することによってしか見いだせないため、「父」を名目だけの存在として、その存在を骨抜きにし、「フィクション」にしてしまう「母」の存在は、決して「子」にとってためにならず、「母」の呪縛(被造物崇拝の呪縛)はかえって「子」を破滅に追い込むだけなのである。

すでに述べて来たように、目に見えるものを神とする「イゼベルの霊」(被造物崇拝)は、「子」を永遠に自立させず、自分の罪をかばうための道具として支配する。そこで、人類の罪をかばい立てするという無理な仕事を負わされて、その神話のために犠牲になって生きるしかなくなった人々には、自分は神に拒まれ続けて、「父」を喪失したまま生きねばならないという鬱屈した怨念がたまりにたまって行くのである。

何しろ、彼らが敬愛する「母」は、どんなに思いを寄せて仕えても、彼を「嬰児」のように扱い、道具として支配し、利用するだけで、決して自由を与えず、一人の人間としてのプライドをも認めない。

そうであるがゆえに、人類はそういう「母」を敬愛しているつもりでありながらも、その支配を受ければ受けるほど、「母への歪んだ愛」が、やがて本人の中で、憎しみと怨念と復讐心に変わっていくのである。
 
彼らは「母」と運命共同体として結ばれているため、その関係から抜け出ることができず、「母」に直接反逆することができない。そのため、彼らの憎しみと怒りは、本来、向かうべき「母」へは向かわず、「母よりも弱い女性」に向けられるという屈折した形を取ることになる。

一言で言えば、彼らの怨念は、自分自身を疎外し、「母」を脅かす「父」の存在へと向かい、ここに、グノーシス主義者による「神殺し」というプロットが生じるのであるが、目に見えない「父なる神」を殺すことは、人間には不可能なため、グノーシス主義者に残された手段は、「父なる神」の似姿が投影されている神の教会を破壊し、神の神殿である自分自身を破壊することだけとなる。

「イゼベルの霊」による支配に耐え切れなくなった人々の怨念は、まずは神に愛される神の子供たちへ向かう。すなわち、キリストの花嫁である「エクレシア」へと向かい、教会の破壊という形になって現れ、最後に、神の神殿として創造された自分自身へ向かい、「自分殺し」となって終わるのである。

ここで、当ブログでは、なぜ村上密や唐沢治や杉本徳久のようなカルト被害者救済活動の支持者が、キリスト教そのものを告発することをライフワークにして来たのかを思い出したい。しかも、彼らがとりわけ女性指導者や女性信者などを標的に攻撃をしかけて来たことを思い出されたい。

「イゼベルの霊」による支配は、東洋的な「情」による支配であるが、これはマザー・コンプレックスとも密接な関係があることは幾度か記した。なぜなら、「父」(男性)という存在が、知性に基づいてすべての物事に善悪の区別をつけ、秩序や規則によって支配する象徴であるとすれば、「母」(女性)は、すべてを善悪の区別なく慈愛によって包容する情意的な存在だからである。

一人のグノーシス主義者が誕生する背景には、このような「母性的な情愛による支配」が、「父性的な知性や規則による支配」に比べ、圧倒的に優位にある環境で育ったという事情があることは珍しくない。もう一度、鈴木大拙の言葉を通して、どれほど「母性的な要素」が東洋民族の心理の根本となっているかを振り返ろう。
 
 

「万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」
(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、pp.13-14、太字、下線は筆者による)


このような「女性的な情愛による支配」は、母だけでなく、祖母からの支配という形で現れることもある。たとえば、杉本がブログで祖母から溺愛にも近い愛情を注がれて育った事実を記したり、長い間、親しい人々の間で「ちゃん付け」で呼ばれるなどして、ある種の子どもを喜んでいた事実を自ら記していることは興味深い。

杉本はこうしたことが、自分の心を圧迫し、束縛する枷となったという事実を認めていないのであろう。しかし、実際には、その記事が書き記された時、杉本は自ら三十代であったことを告白しているわけだから、その年齢になっても、まだ「ちゃん付け」で呼んでくれる人が少なくなったと寂しがったり、祖母に溺愛されて育った親族関係を強調するなどの行為は、大人の社会人である男性としては、相当に年齢不相応な子供っぽさを感じさせる行動である。だが、ペンテコステ・カリスマ運動の信者の告白には、これよりももっと年配の信者であっても、年齢相応の落ち着きが全く感じられない例が少なくないことはすでに述べて来た通りである。
 
このように、子供時代から「父性的な要素」よりも「母性的な要素」を重んじる環境の中で、無意識のうちに、「女性的なるものの」に心を絡めとられ、その代弁者として行動することを求められながら生きて人々の心の中には、本来であれば、父親をモデルとして作られるはずの、健全な自己像、揺るぎない自信、確固たるアイデンティティが喪失しており、「自分が何なのか分からない」という、不確かでコンプレックスに満ちた自己が形成されることが多い。

しかしながら、本来であれば、聖書に「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 」(創世記2:24)とあるように、人間はまず、生み生まれるという、肉による家族関係を離れて、初めて一人前となるのであるから、父からも母からも離れねばならない。

この地上の人間社会においては、肉による自分の両親に心から満足している人はほとんどいないであろう。ある人々は、両親が優れた知性や美貌の持ち主でなく、億万長者でなかったがゆえに、自分が子供として受けられる恵みが不足していたと考えるであろう。いずれにしても、肉による親子関係は、いつも子供にとって不公平であり、それゆえ、大変に不完全なものでしかない。

聖書は、そのような肉による地上の親子関係に対して、信仰者は十字架を通して死ぬ必要性を説いている。そして、そのことは一般的に考えても、常識にかなっていると言えるだろう。人が一人前になるためには、父からも離れねばならないが、まず最初に離れねばならない存在が「母」である。まずは、母のへその緒から分離され、次に乳離れし、精神的にも、「母」を離れて新たな家庭へと旅立って行かねばならない。

ところが、この分離が上手くいかず、いつまでも「母」なる被造物とへその緒で結ばれ、「母」の子宮に閉じ込められるがごとく、嬰児扱いが続き、「生み生まれる関係」から脱することができなくなると、人は精神的に大人になることができなくなり、著しい幼児化が起きるなど、精神が歪められてしまう。

それは個人の家庭のレベルだけでなく、国家レベルでも起きうる。たとえば、臣民は天皇の「赤子」であると教えられたり、牧師夫妻を「霊の父・母」として、信徒はその「子」であるなどと教えを受けた人々は、目に見える被造物を「母」として、これとへその緒でつながれたまま、いつまでも分離することができなくなり、健全なアイデンティティを失ってしまうのである。

こういった形で、「母なるもの」に心を絡め取り、被造物崇拝から離れられなくなってしまった人々は、自分を優しく包み込み、すべてを許容してくれる慈愛に満ちた「母」こそが、自分の心を不当に抑圧し、正常な「父なる神」のモデルを失わせて、自分から健全な模範を奪い去ったなどとは疑うこともできないため、彼らの心の内に無意識に蓄積された憎しみや怨念は、「弱い女性たち」に向けられることになる。

その結果として、この種の自立できず、自信を喪失して、コンプレックスを抱える人々の多くは、常に弱みを持った女性を探し出しては、その女性たちを助けてやる風を装いながら、彼女の心を支配して、彼女たちから誉めそやされることで、自分の傷ついた自尊心を埋め合わせようとしたり、もしくは、自分たちから見て「格下」の存在のように見える女性たちを虐め抜いて抑圧することで、自分のコンプレックスや自信喪失を覆い隠そうとする。

このような形で、彼らは自分の心を抑圧し、支配して来た「母なるもの」に対する復讐を果たそうとしているのである。

だが、そこに、我々は「自分よりも弱い女性を抑圧し、罵倒・嘲笑することでしか、男性としてのプライドを保てない」という惨めな人格を見るだけでなく、より深い文脈において、そこには、以下に記すように、被造物の理想であるキリストの花嫁たる「エクレシア」を冒涜し、蹂躙することでしか、神の御前での自分の罪深さ、愚かさ、弱さ、醜さから目を背けることのできない人間の心理を見るのである。
 
 
・神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」
 
グノーシス主義の「母性崇拝」は、被造物自身を高める教えであるから、それを受け入れた人間に、当初は、陶酔感や、解放感にも似た心地よい満足をもたらすかも知れない。東洋的な「母なるもの」は、人にとって、初めの頃は、自分を優しく包み込み、生かし、守り、養ってくれる生命の源のように見え、かつ、慈愛に満ちた理想像であり、憧憬の的と映る。

彼らは、その「母なるもの」の延長上に、自分が慕う女性美があり、自分の自立もあるのだと考えようとする。「母なるもの」を慕い、追い求めることが、そのまま、未来に理想的な「妻」を得ようとする願望へとつながり、自分が完全な存在になることへとつながるのだと考えようとする。だが、時が経つうちに、そのようなことは不可能であると分かって来る。

「母なるもの」に心を捧げるグノーシス主義者にとって、「母なるもの」の支配は、次第に重荷になって来る。彼は自分では「母」を敬愛し、そこに「最高の女性美」を見ているつもりでおり、憧憬の念を抱いているのであって、憎んでいるのではないと思うかも知れない。

ところが、どんなにその「母なるもの」を守って、離れずに生きても、実際には、いつまでも嬰児として扱われているという屈辱感が募るばかりで、「母なるもの」を追えば追うほど、ますます悔しさと惨めさを味わうことになる。

グノーシス主義における「母」は、一見、慈愛に満ちた存在であるかのように見えても、人の心を拘束し、支配するだけで、決して自分自身を彼に与えようとはせず、人を一人前の存在とも認めないため、グノーシス主義者の心の内側では、「母なるものへの憧憬」が、次第に「憎しみ」や「怨念」へと変化して行くことになる。

その変化の過程を、以前も引用した映画" Mishima A Life In Four Chapters The Criterion Collection] [1985] Paul Schrader "の中から、三島由紀夫の小説の『金閣寺』の主人公の言葉を引用して見てみよう。

 

「永遠(とわ)の美しさっちゅうもんは、怖いもんやで。どんどんどんどん大きなって、何もかも押しつぶしてしまうんや。」 「美しさはぼくの怨敵(おんてき)なんや。金閣寺が滅びん限り、とてもやないが、耐えられへん」


ここで主人公の言う「永遠の美」とは、鈴木大拙の言う東洋思想の「母なるもの」や、ゲーテの言う「永遠の女性」、老子の言う「玄牝」などと本質的に同じであるとみなせる。『金閣寺』の主人公は、金閣寺を「永遠の女性美」として崇め、金閣寺を守り、これを離れず、絶えず追い求めることで、自らの憧憬の対象との一体化を目指そうとしている点で、まさに「神秘なる母性」を至高の存在と崇める東洋思想の担い手であり、根本的にはグノーシス主義者であると言える。

ところが、三島の『金閣寺』の主人公は、吃音という障害ゆえに、自己に深刻なコンプレックスを抱えている。そのコンプレックスゆえに、主人公は、金閣寺という心の理想にはおろか、地上のどんな女性にも近付けない。

(*ここで言う吃音という問題は、より深く象徴的な意味では、人類の罪を示している。人類が罪ゆえに感じる恥の意識や、コンプレックス全般が、吃音の中に象徴されているのである。)

こうしてコンプレックスゆえに、どんな女性からも一人前とみなされることがなく、一人の男性として完全な自信を持てない主人公の苦悩は、金閣寺と関係において、究極的な形にまでクローズアップされ、凝縮される。金閣寺は彼にとって、最高の美の化身であり、女性美の究極的完成であり、彼はこれと一体化し、我が物とすることさえできれば、すべてのコンプレックスから逃れて、完全な存在になれるはずである。

いわば、金閣寺は、この主人公にとって、待ち望んだ花嫁のような存在であり、彼を一人前にしてくれる「妻」のような存在なのである。金閣寺が得られさえすれば、彼は不足だらけの卑俗で惨めな自己から脱して、真のあるべき男性となり、欠けたところのない、非の打ちどころのない一人前の完全な人間となれるだろうという予感を持っている。

戦中には、金閣寺が戦火にさらされ、破壊されたり、消失するかも知れない危険に直面していると考えることによって、この主人公は、自分が憧れている金閣寺も、自分と同じように、弱い存在として、共に受難を受けているのだと考えて心を慰め、金閣と一体になれずとも、騎士のように金閣を守ることによって、自分は金閣から必要とされているのだという誇りを持つことができた。

ところが、金閣の美は、戦火によっても少しも動かされることなく、この「永遠の美」は、地上の何物によっても影響を受けず、不動の美をたたえているだけで、戦争も含め、地上の一切の醜く、歪んで、不自然で、不完全なものを寄せつけない。

主人公が金閣寺を守ってやることによって、金閣寺に少しでも近づけるかのような幻想は、むなしく砕け散った。金閣寺はそれ自体が完全であり、独立しており、永遠に誰の助けも必要としておらず、まして、コンプレックスだらけで醜い主人公の存在など全く寄せつけず、初めから必要としていなかった。

そのことが分かり、主人公は打ちのめされる。金閣寺は常に完璧で、弱さのかけらも見せず、とりつく島がない。どんなに憧れ、熱心に追い求め、守ってやろとしても、主人公の手を冷たく振り払うだけで、彼にとっての「永遠の美」は、どこまで行っても、不完全な人間とは交わることがない。それはまさに人間を寄せつけない「サンクチュアリ」である。

金閣寺は、主人公の心を一方的に捕えることはしても、彼の側からの接近を許さず、金閣寺から彼に突きつけられる回答は、いつも「(あなたはあまりにも惨めで低い存在でありすぎるがゆえに、永遠の美には)値しない」という結論だけであった。

主人公は、自分が理想として拝んでいるものから絶えず「値しない」という宣告だけを突きつけられるという繰り返しに絶望する。金閣寺と一体化することによってしか、完全な存在になれないにも関わらず、金閣寺が自分を拒んでいることにより、その目的は永遠に達成不可能となっているのだ。

そうなっても彼は金閣という偶像を心の中から捨てることができず、そのせいで、ただでさえ、人前でもコンプレックスを覚えずにいられない上に、金閣寺のように完璧な美と絶えず比較されて、絶えず途方もない屈辱と惨めさを味わわねばならない。

ついに主人公は、自分にそれほどまでの耐え難い惨めさしか味わわせることのない金閣寺を憎しみの対象とみなし、「殺そう」と考える。自分の心を一方的に支配し、翻弄するだけで、決して、その存在を自分には与えず、常に自分とは比較にもならない崇高な存在として、高みにいて勝ち誇り、自分に疎外される惨めさと屈辱だけを味わわせる金閣寺を焼き払うことによって、彼は自分を拒み、惨めにさせるだけの「永遠の女性美」に対して復讐を成し遂げ、これを否定し、美醜の概念そのものを葬り去ることによって、それを乗り越えることができると考えようとするのである。

主人公は、寺という有限なる物質を焼き払うことによって、目に見えない「永遠の女性美」という、それまで自ら信奉して来た理想自体に復讐を果たそうとしたのであった。

彼は、言わば、「神殺し」のような作業に着手したわけであるが、正確に言えば、彼が破壊したのは神ではなく、神を入れるための「器」であり、「神の宮」である。

「宮」を冒涜し、破壊することによって、彼は、自分自身がそれまで「神」として拝んできた理想を否定し、それを否定的に乗り越えることで、自分自身が「神聖」となり、誰にも支配されることのない絶対的な主人になろうとしたのである。



三島由紀夫は、小説『金閣寺』の原文において、主人公による金閣寺へのこの放火という犯罪行為を、決して悪なる所業として断罪してはいない。小説は、主人公に厳しい報いの足音が近づいていることを知らせながらも、主人公の心に生じた何かしらの清々しい解放感を描くところで終わっている。

このことは、三島自身が、グノーシス主義者であって、この放火をどちらかと言えば、「解放」という側面からとらえていたことを意味する。そのような立場は、三島自身の最期にもよく表れている。

しかしながら、上記の映画は、ある意味では、小説よりも進んで、三島の描こうとした内面的な葛藤を、決して主人公の立場に一方的に肩入れすることなく、より客観的にとらえている。

この映画を観れば、それが決して主人公の放火をすがすがしい「解放」として描いたり、その行為に賛同することはしておらず、かええって三島自身の生きていた世界観の歪みをもそれなりに理解した上で、三島の人生に重ねて、この主人公の心に起きた悲劇と絶望を描き出そうとつとめていることが分かる。

この主人公は、金閣寺を葬り去ることによって、自分を苦しめている「被造物の理想像」から解放されようと考えたのだと言える。だが、逆説的に、彼が自分を疎外しているとして憎み、否定しようとした「金閣寺」は、彼自身の存在でもあった。

それは「神の宮」であるがゆえに、主人公が自分を殺すことと同義だったのである。むろん、物語は、主人公が金閣寺を焼き払ったところで終わっているため、その後、主人公が逮捕されて刑罰を受けねばならないとか、それによって主人公の人生は破滅し、金閣に身を捧げることだけが唯一の人生目標だった彼は、残る人生において、抜け殻同然となるといった事実は描写しない。

しかしながら、我々は、小説の枠組みを超えて、ここに不思議なパラドックスが存在しているのを見ることができる。つまり、金閣寺を焼き払うことにより、自ら神を「簒奪」し、「神」になろうと、「神の宮」の強奪と破壊行為に及び、「神殺し」を試みた人間は、結局、自分で自分の首を絞め、滅ぼすことになったというパラドックスである。

筆者は、三島由紀夫は無意識かも知れないが、この物語を書いた時点で、自分の最期を予告していたも同然だと考える。

聖書によれば、人はみな神の宮とされるために創造されたとあり、神の神殿を壊す者は、自分を破壊しているのと同じで、やがて自滅へ至るのである。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなた方に宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」(Ⅰコリント3:15-16)

むろん、聖書がここで「神殿」という言葉で指しているのは、直接的には、キリストへの信仰を有し、神の霊を内側に持っているクリスチャンを指すのであって、信仰のない人々を「神の神殿」であると呼んでいるわけではない。また、仏教の寺を、キリスト教における神の宮と同一視することもできない。

とはいえ、深い霊的な意味においては、人はみな神の宮となるべく創造されたのであって、どれほど堕落して、神から遠く離れて生きており、聖書の御言葉を信じてもいないにせよ、それでも、人に備わっている宮としての機能がすべて否定されるわけではないのである。

むろん、「神不在」の宮は、宮として機能しておらず、荒れ果てて死んだ器も同然であるが、それでも、あらゆる「宮」には、神の霊を入れる器という意味が込められているのであって、そこで、人が神の宮を破壊するという行為に及ぶことは、同時に、神の霊を入れるための器であり、神の宮となるべく創造された自分自身を破壊するという行為を象徴的に意味するのである。

だからこそ、『金閣寺』の主人公は、金閣寺を焼失させることによって、自分を苦しめていたコンプレックスの呪縛から解放されることはなく、かえって金閣寺と共に自分の人生を失うことになるのである。

彼は金閣寺の理想だけを否定して、その理想から神聖な要素を奪い、自分はこの「神」を否定的に乗り越えて生き残ったつもりだったかも知れないが、実際には、彼の人生は、金閣寺の焼失と共に終わったのである。

これと同様に、天皇を神として「生み生まれる関係」の中に、人間社会の理想を追求しようした三島も、彼自身の「金閣寺」に拒まれた結果、その理想を入れる宮であった自分自身を破壊するという行為に出ざるを得なくなる。天皇も、自衛隊も、三島の語る「理想」には耳を貸さず、彼は自分自身の理想から置いてきぼりにされたのであるが、その時、彼が選んだのは、自分は、自分の信じる理想に「値しない」という事実を直視することではなく、自分自身の存在を抹殺することで、その理想がもともと自分には達成不可能であって、自分はそこから疎外されているという現実から目を背けることであった。

三島が否定しようとした現実とは、彼がどんなに肉体を鍛え、研鑽を積み、崇高な理想を語っても、罪にまみれた人間の一人にすぎない彼には、決して自力では完全に至り着くことができず、どんな理想をも打ち立てることができないという事実である。むろん、三島だけでなく、三島が期待をかけたすべての人間がそれと同様なのである。彼らが望んでいる理想に「値しない」というのがあらゆる人間の出発点である。

しかし、『金閣寺』には、「永遠の女性美」との対比の中で自分が味わう惨めさやコンプレックスを受け入れることを拒み、かえって「永遠の女性美」を滅ぼすことで、自分の罪や弱さから逃れ、自分を義として、罪から解放されようとした主人公の姿が描かれている。

その主人公の姿は、かなりの程度、三島自身に重なる。彼は弱さ、罪、歪んだもの、醜いもの、不完全なものが本質的に悪であることを知り、その克服につとめながら、それを自力で自分から切り離すことができないと分かった時、自ら目指して来た「完全なもの」を否定することで、自己存在の不完全さを否定し去ろうとしたのである。

グノーシス主義がそれを信じた人間にもたらす結論とは、常にこのようなものである。

聖書が教える事実とは、人には生まれながらの自己のまま、キリストの十字架の死を介さずに、神に受け入れられることは決してないというものである。

人には創造された時点で、宮となるべき機能はあるかも知れないが、神がそこへ入って来られない限り、その宮は、単なる死んだ器でしかない。

人の生まれながらの自己がもたらす自覚は、自分は神から遠く離れ、神に拒絶されているという罪の意識だけであって、肉体を改造しようと、精神を改しようと、どんな方法を使っても、人がその罪威意識を自力で払拭して神に至り着くことはできない。

キリストと共なる十字架の霊的死を通って、初めて、人は「新しく造られた者」として神に受け入れられる神の子供とされる。

だが、それが達成されるためには、人がまず己が罪を認めて神の御前に悔い改めねばならない。自己の不完全さ、醜さ、愚かさ、弱さ、欠点、恥といったものを、自分に思い知らせる存在をことごとく退けることで、自分の不完全さから目を背けようとするのではなく、まずはそういうものが究極的には、すべて自己の罪に由来する当然の結果であるとして理解せねばならないい。

もちろん、吃音者を馬鹿にしたり、障害者を嘲ったりする人々の心が陰険であり、力の強弱によって人間の価値がおしはかられるこの世の社会の価値基準そのものが歪んでいるのであるが、だが、だからと言って、自分が暴力を行使して破壊活動に及ぶことによって「強者」の側に立てば、自己の不完全さから逃れられるかと言えば、そうではない。彼はその行為の報いとしてさらに大きな暴力に飲み込まれるだけであり、それでは終わりなき力の争いしか生まれるものはないのである。

人間の不完全さは、すべて究極的には人間自身の罪から来るものであって、神の御前に悔い改めて贖われることなくして、どんなにそれを不当な差別だと叫んでも、人ガ自分でそこから逃れることはできない。

「自分は差別された被害者だ!」などと叫んだり、自分の弱さをダシにして同情を乞うことで、自己正当化をはかることも、自己欺瞞でしかない。

ところが、自分の弱さが罪から来るものであることを認めず、自分に恥の意識をもたらすという理由で、完全なものを否定し、蹂躙、冒涜することによって、自分自身の罪から目を背け、あたかも自分が聖なる正しい存在になったかのように思い込もうとしているのが、カルト被害者救済活動の支持者のような人々なのである。

以上の映画では、三島とおぼしき人物が、幼少期から祖母の精神的な支配を強く受けて成長したために、祖母によって自分が体の弱い人間であると思い込まされ、それゆえ、人前で自信が持てなくなり、大人になっても、絶えず自分の弱さについて恥とコンプレックスを持たずにいられなくなった様子が描かれている。

そこで成長してからの彼は、体を鍛えるなど、様々な方法を通して、自己のコンプレックスから逃れる道を模索し続けたのだが、自分を一人の人間として認めず、永遠に道具として支配する「母なるもの」の支配こそが、そうしたコンプレックスをもたらした元凶であると思い至らなかったために、自分のコンプレックスの真の原因を見いだすこともなく、見当外れな方法でその克服を試みては挫折し続けるのである。

そうこうしているうちに、当初は、「祖母」や「母」という存在に限定されていたはずの、彼の心を支配する「母なる存在」は、やがて彼の中で無限大とも言える巨大なスケールにまで拡大して行き、「神話」となり、「天皇崇拝」といった国家レベルの思想にまでなって行き、耐えられないほどの重圧として、彼自身を押しつぶし、粉々に打ち砕くのである。

「永遠の女性美」なるものが、無限に拡大して、人間の心を打ち砕き、押しつぶしたのである。なぜそのようなことが起きたのかと言えば、彼が誉め讃えていた「永遠の女性美」はリアリティではなく、真のリアリティは、目に見える被造物の側にはなく、目に見えない父なる神の側にあったためである。それにも関わらず、影に過ぎない被造物を「本体」としたことによって、そのフィクションの鏡を見つめるうちに、フィクションが現実とされ、それに合致しない(値しない)彼の自己は奪い去られて消失したのである。

結局、東洋思想は、聖書が言うように、神と人との間に、罪による超え難い断絶があることを認めず、神と人とは本来的に一つであるとして、「神と人との融和」を唱える。そして、「すべてを慈愛によって包含する母」の存在を高く掲げる。

ところが、おかしなことに、そのような思想を実践に移そうとすると、その「慈愛に満ちた母」であるはずのものが、逆説的に、人類をことごく残酷に疎外し、自分の子供たちを「慈愛によって包み込む」はずが、ことごとく「値しない」という宣告を突きつけるのである。

「金閣寺」から疎外されたのは、主人公だけではない。天皇崇拝の思想を信じる三島も含め、は、どれほど多くの人々をこうした被造物崇拝の思想のために弾圧され、疎外されて、殺されたか数知れない。天皇崇拝は、すべての「臣民」を自分から疎外したとも言える。

このように、キリスト教の神が人間を疎外しているのではなく、神と人との断絶を認めず、地上の「生み生まれる関係」こそ、人間生活の根本であるかのように教えるグノーシス主義こそ、絶えず人間を残酷に疎外し続けているのであり、こうした思想を信じると、人は結果的に「父を喪失」するだけでなく、「母」をも喪失して終わることになる。「父なし子」であるだけでなく、「みなし子」にまでなってしまうのである。

彼らは自分たちのルーツを正当化し、自己を取り戻そうとして、かえってすべてのルーツを失い、自己をも失ってしまうという結果に至るのである。

繰り返すが、被造物は、本来は、キリストの花嫁たる教会となるために創造されたため、被造物それ自体では完全となることはできず、被造物は本体の影に過ぎず、そこにリアリティはないのである。

にも関わらず、被造物がリアリティであるかのように誉め讃え、人が己を神として、自力で理想状態へ至り着こうとすると、自己の尊厳、自己肯定感、健全な自己愛が持てなくなるだけでなく、最後には彼らの自己も消えてなくなる。

『金閣寺』の主人公が、寺を焼き払った行為の中には、自分の理想の否定だけでなく、神の宮を破壊する行為を通して、自分自身を否定し、さらに、そこには象徴的な意味で、贖われた被造物の総体である「エクレシア」殺しという悪魔の欲望も込められていると言える。

なぜなら、真の意味での「女性美」は、キリストの花嫁たるエクレシアにしか見いだせないからである。(東洋思想における被造物崇拝は、エクレシアの歪んだ摸造としてのバビロン崇拝と同一である。)

カルト被害者救済活動の支持者は、神の宮である教会を冒涜、破壊し、蹂躙すれば、キリストの花嫁から、神聖な花嫁たる性質を強奪して、我が物とでき、かつ、自分自身の罪や弱さからも目を背けられると考えようとした。

ところが、その試みは成らず、結果として、彼らの恥だけが残り、アベルの流された血が天に向かって叫ぶように、彼らが犯した行為自体が、彼らが最も人前で隠したかった自己の罪、恥、弱さの証拠となる。

彼らがどんなに自分を苦しめる「永遠の女性美」を否定しようとして神の教会に害を加えたとしても、それによって、彼らの罪がいささかも取り去られることはなく、ますます罪が増し加わるだけである。

アベルを殺し、エクレシアを破壊して、自分の罪の証人を目の前から消し去っても、それでも、自分の罪から逃れられないことが分かると、彼らはその事実から目を背けるために、次なる行動に出るしかなくなる。すなわち、神の神殿として作られた自分自身の破壊である。

エクレシアの破壊という行為に手を染めた人間には、例外なく、自分が目指していた究極の目的から疎外されて、自分を滅ぼすという結果が降りかかる。今、現実の物語のプロットは、この最後のステージにさしかかろうとしている最中である。


人間の指導者崇拝という偶像崇拝の罪と手を切ることこそ我が国の主権回復の道――安倍による宮中クーデターとトランプ・プーチン賛美者を待つ暗い未来――

・安倍政権が宮中で繰り広げるクーデターと、2017年も終わらないであろう米ロの対立
 
2017年が始まった。今年に予想されるいくつかの問題について述べておきたい。

まず、安倍政権による天皇の政治利用の問題と、米国におけるオバマからトランプへの政権の引継ぎが本当に順調に行われるのか、それによって米ロ関係に緊張緩和が訪れる可能性があるかどうかという疑問から入ろう。

筆者はオバマ氏がこのまま政界から引退することがあるのかどうかに疑問を持っている。すでに他所でも指摘されているように、大統領選前、ヒラリー・クリントン、トランプの両氏が候補者として様々なスキャンダルの疑惑と非難にさらされる中、オバマには不思議なほどスキャンダルがなく、安倍に真珠湾詣でをさせたことなどにも見るように、最後の最後まで、政治家として一定の功績を挙げた。

むろん、筆者はオバマの政治手法を評価しているわけではない。広島訪問の際のオバマ氏の空虚な演説内容によく表れているように、それは単に政治家としての表面的なパフォーマンスに過ぎず、同氏の人間的な資質や誠意や良心などといった事柄とは全くかけ離れた次元の話である。

それでも、国内で大きな反乱を経験せず、最後まで比較的クリーンに見える功績を積み上げたことは一つの成功と言えるであろう。それが、ただ任期が終わったというだけで、政治の舞台から退場して消え去るとは、筆者には思いがたいものがある。

他方、トランプは選挙中から人種差別的・性差別的な偏見に満ちた様々な発言が取りざたされて、相当に偏った狭量な思想を持つ人間であることが明らかになっており、最近も、ツイッターで新年のあいさつと称して爆弾発言をして非難を浴びていることなどにも見るように、その思想的狭量さは本人の人格の深い所に根差すものであって、単なる選挙中の受け狙いのパフォーマンスではないと考えられる。

このような人間が大統領に就くことは、米国国民にとって決してプラスとはならないと筆者は確信するが、とりわけ、この人間に黙って道を譲ることは、オバマにとって、自分の在任中の功績を全て無にするにも等しいだろうと思われる。

オバマ自身が、もし自分が今回の大統領選に出馬していれば、ヒラリー・クリントンとトランプの両候補を凌ぐ功績を残せただろうと語った事実にも見るように(「オバマ氏「私なら勝てた」 クリントン氏批判」毎日新聞2016年12月27日 10時50分(最終更新 12月27日 12時55分)参照)、ひょっとすると同氏にはこの先も何か仕事してやろうという思いがある可能性が否定できない。そういう意味においても、米国の今後は予想不可能な要素に満ちている。

さて、安倍はプーチン訪日の際に、経済協力と称してロシアに無償で国富を提供する約束をしたことにより、領土問題の解決をさらに遠のかせただけでなく、真珠湾訪問では、日本やアジア諸国の戦死者をよそにして、米国の戦没者だけを讃え、慰霊することによって、太平洋戦争を正当化したいという自分の思想を脇に置いても、オバマの引退のための花道を整えるという属国首相ぶりを発揮した。

安倍はその際、パールハーバーで犯した罪の前に頭を垂れるという「屈辱感」から目を背けるためであろう、自分の卑屈さを、天皇に転嫁して話をすりかえたのであった。すなわち、安倍は、今上天皇が、被災者を含め、日本人の苦しみの前に膝をついて耳を傾ける姿を「卑屈」なものとして揶揄することによって、自分は、天皇のように日本人のために跪いたりせず、むしろ、米国人の前に膝をつくのだから、天皇以上の存在である、と、暗黙のうちに、安倍以外の人間には誰も納得できないような、ねじ曲がった理屈によって、パールハーバーを訪れねばならない内心の屈辱感から目を背けようとした。天皇に対して上から目線で接することにより、自分は天皇に「模範を示した」と考えていたものと思われる。

(「生前退位で天皇の意向無視した安倍首相が親しい政治家の前で天皇を茶化す発言! 天皇は誕生日会見で何を語るか」LITERA 2016.12.18.参照)

実際に、安倍は自分をすでに天皇を超える存在とみなしているものと思われる。それが証拠に、自分の息のかかった人物ばかりを集めた有識者会議で、今上天皇が表明した生前退位に関する希望を、一代限りに限定し、皇室典範の改正を拒むことで、事実上、退けてしまった。それも憲法改正という自身の野望の実現に向けてスケジュールを乱されないための策であり、同時に、国家神道の復活にとって障害となりうるような皇室典範の改正を拒むためであったと見られる。

それに加えて、今年は、天皇の新年のあいさつもとりやめになった(「天皇陛下、新年の感想取りやめ=年末年始の負担軽減で-宮内庁」JIJI.COM 2016/12/26-15:32等参照)。

巷では、これについて「天皇の負担軽減のため」という公式説明をほぼ誰も信じていない。今上天皇の新年のあいさつとりやめの事実は、生前退位に関する天皇の意向をNHKが突如スクープした時と同じように、国民の間では、内閣による陰謀として受け止められている。そこでは、➀安倍が自らの政治思想とははるかに隔たりのある今上天皇から発言の機会を奪うために口を封じ、この先も、天皇からは徹底的に出番を奪う気だ、という説と、②天皇自らが安倍に対する無言の抵抗として、自らあいさつを控えたのだ、という二つの観点が論じられている。

だが、今回は、ネットを見る限りでは、➀の観点を支持する人々が圧倒的に多いように見受けられる。LITERAの以下の記事などは明らかにその立場に立っていると言えよう。(「天皇が「主権回復の日」に「沖縄の主権は回復されてない」と異議を唱えていた! 安倍政権に奪われる天皇の発言機会」LITERA 2017.01.01.)

いずれにしても、安倍と天皇との間でバトルが繰り広げられていることは今やほとんど誰も否定しない周知の事実となっている。そして、安倍が着々と今上天皇の意向を退けながら、自分自身が天皇以上の存在であるかのように傲慢に振る舞い、宮中をも自らの勢力下に置きつつあることは、あらゆる事実から察することができる。

当ブログでは前々から予測して来たことであるが、安倍政権の目論見は、巧妙に今上天皇と現皇太子(徳仁)から力を奪って、いずれ秋篠宮家を担ぎ上げて将来的には悠仁を天皇の座につけることにあるだろうと予測する。なぜなら、それによって、安倍政権は今上天皇にしたたかに報復できる共に、最も操りやすい天皇を手に入れることができるからである。仮に現在の皇太子徳仁が天皇に即位したとしても、安倍政権は、その在位を短期間に終わらせるか、実質的な権力を初めから秋篠宮に与えようとしていることが予想される。そのための「皇太子待遇」である。

秋篠宮さまを「皇太子」待遇…「退位」特例法案」(YOMIURI ONLINE 2017年01月01日 12時02分)

上記記事は、タイトルを見ただけでも、安倍政権が今上天皇の「生前退位」の意向を利用して、「退位」と「皇太子待遇」を引き換え条件のようにして、自らに有利な形で皇室に介入を試みている様子が理解できる。

筆者は以前から、佳子様ブームなるものも、秋篠宮家に注目を集めるために意図的に作り出された現象であって、安倍政権の目論見は、今はほんの子供に過ぎない人間(悠仁)を将来的に天皇の座につけることで、天皇を完全に内閣の奴隷、政権の操り人形とすることにあるものと語って来た。
 
そうした懸念は、現在、至るところで表明されており、何ら珍しいものではない。たとえば以下の記事の中には、読売の記事で発表された特例法案に対する分析と批判が詳しく書かれており、今回、内閣が行おうとしていることの恐ろしさが見て取れる。詳細は記事を読んでいただきたいが、要点は、今回の変更は天皇家の三代にまで及ぶものであるにも関わらず、これを憲法と皇室典範の改正という正式な手続きを経ずに、政府が「一括」の特例法案で済まそうとする目論見の恐ろしさ、そこに隠されたやましさである。
  

生前退位特例法案(「一括」という罠)自民党憲法改正草案を読む/番外62(情報の読み方)」詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)2017-01-01 10:42:19 から抜粋
   
 安倍は「ていねい」に審議することを嫌い、すべて「一括」ですまそうとする。そこに多くの「隠し事」がある。
 秋篠宮の経済負担を軽くする(皇族費を値上げする)といえば「聞こえ」はいいが、その背後にどんな思惑が動いているか、見過ごしてはいけない。
 さらに「18年中の退位を視野」というのは、天皇を18年中に退位させ(邪魔を取り除き)、19年には憲法改正を推し進めるというスケジュールを安倍が組んでいることを語っている。安倍の暴走はますます加速している。


安倍の押し通した解釈改憲の時もそうであったが、このように、常に規則破りな形で、自分が超法的な存在ででもあるかのように、法を骨抜きにして、あるいはないがしろにして、己が意向を無理やり押し通そうとするのは、異端・グノーシス主義者の常なる行動である。グノーシス主義は「秩序転覆の霊」だから、そのような思想を持つ人間は、必ず、何事においても、秩序を破壊して行動する。まだ現在の皇太子が即位もしていない今から、秋篠宮をあたかも皇太子と対等であるかのように扱うニュースを発表させるなどのことも、まさに秩序転覆の思想がなければ出て来ない発想である。

しかしながら、ロシアのSputnikなどは、安倍政権のこの卑しい目論見に便乗し、勝ち馬に乗ろうとして、今上天皇の新年のあいさつがとりやめになっただけでなく、来年からは一般参賀もなくなるであろうと、すでに今上天皇を完全に過去の人のように扱う記事を出している。「今日、天皇陛下の最後の新年一般参賀であろう?」(Sputnik 2017年01月02日 07:59)一応、疑問符はついているものの、実際には、もはや今上天皇は安倍の言いなりになるしか道はないと見透かして、今から今上天皇にさよならを告げているのである。常に強い方へばかり簡単に寝返るロシア人の精神性が見事に表れている記事と言える。

しかしながら、こうしたことがあっても、筆者は長期的な展望に立てば、このようにまで安倍政権が暴走して、天皇を再び、内閣の奴隷として政治利用しようとしていることは、将来的には、マイナスにならないと考えている。なぜなら、このようなことをすれば、安倍政権の倒壊と共に、必ずや、天皇制自体の廃止が訪れるからである。ここまで極端な天皇の政治利用が行われなければ、天皇制は今後も平和裡に我が国に存続した可能性が高いが、安倍政権の暴走が決定的な負の事件として歴史に刻まれることにより、やがては天皇制にも終止符が打たれるのである。

本当は、今上天皇により「生前退位」の意向が表明された時点で、この国の天皇崇拝者にとっては「太陽がお隠れになった」のであり、天皇制についてはすでにパンドラの箱が開かれたのである。国民は天皇の苦悩を理解しており、天皇制は国民の前に意義を失っている。この国の「神」(むろん、天皇崇拝者にとっての神)は、この国を精神的な象徴として統治する仕事を自ら放棄したいと望んだのであるから、この国は偶像にさえ見捨てられ、末法のような闇の世界となったのである。

従って、天皇自身がこうして「お隠れになった」以上、今上天皇の退いた後の空席を誰に譲り渡し、誰を後の天皇や摂政に据えてみたところで、この見捨てられた国には日は再び昇らず、この国を統治することは、その人間にとって栄光となるどころか、むしろ、とてつもない重荷となるであろう。末法と化した世を収束させるためには、天皇制を廃止し、安倍政権を終わらせるしかないが、多少、先走って言えば、安倍は必ず最後には、祖父の負うべきであった罪を自ら負って果てるであろうと筆者は予測している。ちょうどヒトラーの最後のようなものだ。全ての事柄について常に規則違反を繰り返すヤクザ・博打・軍国主義政権の指導者には決してまともな最期は来ない。
 
さて、安倍の真珠湾訪問に話を戻せば、オバマに花を持たせることで、属国の卑屈さをこれでもかと見せて、安倍が拙速なトランプ詣でのお詫びをしたにも関わらず、真珠湾での安倍の表情は写真で見ると、どれもこれもプーチンと共にいた時とは比べものにならないほど暗くさえない。顔は悲愴感に歪み、やつれている。それはただ単に慰霊のための演技とは思えず、この真珠湾への訪問が、安倍にとっておよそ報いのないものであったことをよく物語っていただろう。
 
安倍が真珠湾で見せたこのやつれ具合は、何よりも、オバマから受けた精神的苦痛のためと思われる。おそらく、オバマには安倍のお追従が全く通用せず、憎悪にも近い嫌悪感をあからさまに向けられていたのであろうと推測せざるを得ない。そう思っても不思議ではないほど苦り切って困り果てた表情である。
 
死を前にした病人のようなこのひどい表情は、安倍が一方では米国との同盟関係を強調しながら、他方では、トランプとプーチンに拙速に媚を売ったという、理念と礼節の欠如した安倍の八方美人外交に対して、オバマから非常に手厳しい「お仕置き」をされたことの証明であるように思われてならない。

オバマは、安倍が拙速なトランプ詣でをしただけでなく、米国に先んじて、プーチンとの「仲良しごっこ」を世界に見せつけて自慢し、制裁を受けている最中のロシアの大統領に手柄を与えたことを、決して内心では許さなかったものと思われる。そこには、もしかすると、初の黒人大統領としてのプライドもあったかも知れない。
 
ABE OBAMA

写真は以下から転載。「安倍首相の前に現職首相3人が真珠湾を訪問していた、外務省が確認
 The Huffington Post    |  執筆者: ハフィントンポスト編
投稿日: 2016年12月26日 18時51分 JST   更新: 2016年12月26日 18時51分 JST

「真珠湾、安倍」の画像検索結果

写真は以下から転載。「安倍首相を敬語で讃えるワイドショーキャスター、真珠湾訪問報道の違和感-「ポスト真実」支えるメディア」志葉玲  | フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和) YAHOO!JAPANニュース 2016/12/28(水) 20:49 
 
何しろ、口にするにも値しないほど愚劣極まる発言のため、我が国でさえ、すでに人々には忘れられている可能性が高いが、自民党のさる議員が、昨年に次のような発言をしたことも、当然ながら、オバマの耳に入っていたに違いないと思われる。安倍の軽はずみな行動は、まさに以下のような人種差別的な思想が、安倍の心の中にも存在している可能性を、改めてオバマに想起させた可能性があるだろう。
 

丸山和也議員、オバマ大統領についての「黒人奴隷」発言を謝罪

CNN.co.jp 2016.02.19 Fri posted at 13:52 JST から抜粋

丸山議員は17日の参院憲法審査会で、「いまアメリカは黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ」と発言した。

この発言は日本の憲法改正を巡る論議の中で飛び出した。丸山議員は米国の「ダイナミックな変革」を引き合いに出し、「アメリカの建国、あるいは当初の時代に、黒人、奴隷がアメリカの大統領になるなんてことは考えもしない」と力説していた。

<中略>

オバマ氏は初のアフリカ系米国人の大統領だが、奴隷の子孫ではない。父はケニア人、母はカンザス州出身の白人だ。

丸山議員の発言は人種差別的と見なされ、審査会後の記者会見で同議員は「誤解を与えるようなところがあった」として謝罪した。<後略>


オバマはトランプのように表立って相手を罵り、踏みつけにして勝ち誇ったりはしないが、自分が「歴史の舞台から消えゆく人間」として存在を軽んじられたことに黙ってはおらず、静かに怒りを表明し、大統領として残された時間を使って、対ロ制裁強化という「最後っ屁」を放ち、自分をないがしろにした安倍やプーチンやトランプへの置き土産とした。(「オバマ政権、対ロシア制裁発表へ 米大統領選への介入めぐり」CNN.co.jp 2016.12.29 Thu posted at 12:46 JST等参照)。

そこで、2017年の米ロ関係は緊張関係で幕を開けることになるが、それでも、世には未だトランプ大統領の出現によって米ロ関係は緊張が緩和されるという楽観的なムードが漂っている。だが、筆者にはそのように単純に物事が運ぶとはどうしても思えないのである。
 
米ロの二国は、この先、どんなに歴史が進んだとしても、仮想敵国同士の立場から解放される道はないであろう。その点で、天木氏の以下の見解に、筆者はかなり同感する。それはロシアという国が持つイデオロギー本質がもたらす当然の結果である。

そして、その対立は必ず、日本にも波及する。つまり、ロシアが日本にとって真に友好国となることは、多分、この先も決してないと筆者は見ている。だから、安倍が勇み足でトランプとプーチンの二人に媚を売ったことは、全く愚かしい徒労にしかならず、この先も頭痛の種をさらに増やすだけに終わるのではないかと思う。
 

最後に凄みを見せたオバマとひとたまりもないプーチン
2016年12月31日 (天木直人氏のブログから抜粋。)

(前略)
 そして、米国にとって、ロシアは今も昔も、価値観が最も異なる潜在敵国なのである。

 今度の対ロ報復制裁措置は、弱腰大統領と言われ続けてきたオバマ大統領が最後の最後に見せた、プーチン大統領に対する必殺のカウンターパンチだ。

 そして、それはまた同時に、オバマ大統領のレーガシィを全否定しようとするトランプ氏に対する、これ以上ない重い置き土産だ。

 トランプ大統領は、みずから繰り返す米国の国益ファーストと、プーチン大統領のロシアとの関係構築の間で、また裂き状態で出発することになる。

 そして、わが日本の安倍首相は、トランプの米国とプーチンのロシアの間で、また裂き状態となる。

 最後まで、オバマ大統領は安倍首相にとって相性の悪い米国大統領だったということである。


ロシアはしたたかで、プーチンはこの程度のことでは動じない。だが、筆者は、もしかすると、オバマと安倍との因縁は、今回限りで終わらないという気がしている。この先、安倍政権の暴走にどのような形で終止符が打たれるかは分からず、誰にも未来のことは断言できないが、安倍に引導を渡す役割が、政界に返り咲いたオバマになる可能性も、完全には捨てきれないような気がするのだ。いずれにしても、ロシアとの融和を唱えてトランプとプーチンを浅はかに支持した者たちは、間もなく馬鹿を見させられることになるであろう。

さて、ロシアという国のイデオロギー的本質の問題に関してであるが、筆者は以下の一連の記事において、ロシアは共産党政権が崩壊しても、未だ共産主義思想のままなのであり、それはこの先も決して変わらないという見解を述べて来た。そうである限り、ロシアはいつまで経っても、思想的に危険をはらむ国のままであり続けるのであって、我が国がそのような国を信頼することは不可能である。
 
これとほぼ同じ見解を、筑波大学名誉教授の中川八洋氏がブログに記している。同氏のブログはつい最近拝見したばかりだが、その論調は檄文かと思うほどの激しい非難に貫かれていたため、筆者はこれを最初に読んだ際には、学者の見解だとは思わなかったほどである。

しかしながら、よく読んでみると、その内容は、国際政治学、政治哲学の観点から書かれたものであり、相当にロシアという国の歴史や文化に迫って、この国の本質を解明しようとしていることが見えて来る。ロシア人とロシアという国を実際に知っている人間には、痒い所に手が届くように、うなずけるロシア批判なのである。

中川八洋氏は上記のブログで、この度の安倍・プーチン会談の合意を、日本の国益を著しく損なう売国行為として厳しく非難しているが、筆者にとって、何より興味深いのは、同氏がそこで、ロシアという国において、共産主義思想は、ただソ連時代だけに限定して一時的に国家イデオロギーとされただけのものではなく、この国と本質的に一体不可分の精神的基盤をなすとみなし、それゆえ、ソ連崩壊後の新生ロシアも、事実上の共産主義ソ連の延長であるとみなしている点である。こうして、ロシアは今でも思想的に共産主義のままであるゆえに、ロシアと日本との間には、いかなる友好・信頼関係も、決して発生し得ないと結論づける点には、筆者は同感する。

このような説を学者が唱えているとは予想しておらず、それゆえこれが学説としては批判を受けるであろうことも理解できるが、このような見解は、以前に筆者が当ブログで他所の引用をしながら述べたのとかなりの部分で一致しており、国際政治学者でさえ、現在のロシアを共産主義時代の延長とみなしているというのは、大変興味深い。

筆者の見解では、すでに述べたように、ロシアにおける共産主義思想は、1917年革命によって初めてロシアに公に取り入れられたものでは全くなく、それはナロードニチェストヴォなどにも見るような、ロシアの初期の社会主義思想から受け継がれて、その思想が変化したものに過ぎず、そうした思想の起源はさらに古くは、正教の宗教的メシアニズム、より古くはキリスト教導入以前の異教信仰(グノーシス主義)に求められる。要するに、社会主義思想もまた、ロシアにもとからあった異教的精神を土台として移植されたものなのである。

筆者は、「母なるロシア」を神格化する母性崇拝の思想こそ、ロシアの精神性の核となる土着の異教的信仰であり、これが歴史を通じて、ロシアの真の宗教、真の政治思想を形成していたものと見ている。キリスト教や、共産主義といったものは、みなロシアのこの土着の異教的信仰の上にコーティングされた表層に過ぎない。この国の根底に流れるものは、昔も今も変わらず「母なるロシア」への信仰なのである。これは、本質的にはグノーシス主義の変種であり、母性崇拝(=人類の自己崇拝)の思想なのであるが、ロシアのこの異教的本質は、強制的なキリスト教の移植によっては変わらなかった。革命と同時に、表層に過ぎなかったキリスト教の仮面はあっさり脱ぎ捨てられ、代わりに共産主義が表層に移植されたが、それもまた表層だけのことであり、ロシアの本質はずっと異教的精神性のままであったが、ソ連崩壊後に、共産主義の表層が取り去られた時に、内側にあるこの異教的本質が「強いロシアの復活」というスローガンになって表に出て来たのである。

だから、筆者が、ロシアは今でも共産主義国だと言うのは、何もマルクス主義に限定した話ではなく、もっと深い意味で、ロシアの本質が、国家(及び指導者たる人間)を賛美・神聖視する母性崇拝の思想にあり、この国が国家を神聖な世界救済の母体とするメシアニズムの思想に貫かれていることを広義で言い表したものに過ぎない。ロシアのマルクス主義においては、世界初の社会主義国家であるソビエトが、全世界に共産主義ユートピアをもたらす母体として事実上神聖視されたのであるが(しかし、その母体は、望まれた子を生むことなく、むしろ子を食い殺して自分が永遠に存続しようとした)、「母なるロシア」の思想に流れるのも、ロシアが世界を破滅から救う神聖な母体だという思想である。そうした思想は、決して宗教や政治思想の形をとってはいないが、これまでのロシアの国家イデオロギーは全てこの「母なるロシア」を神聖視する異教的信仰が、キリスト教や共産主義を含む多くの異なる思想と合体•混合して生まれたものである。現在のプーチンの「強いロシア」に源流として流れるのも、ロシアそのものを神聖視する異教的信仰なのである。こうした思想があるゆえに、ロシアでは国家指導者が、事実上「母なるロシア」と神聖な結婚の関係にあるものとみなされ、その人物の意向が、国家の意向と同一視され、神格化されるのである。
 
そして、このロシア賛美という母性崇拝の思想の本質は当然ながら、人間を神とするグノーシス主義である。もともとグノーシス主義は、様々な宗教や哲学の中にもぐりこみ、そこに寄生することで知られている。ロシアでは、それがキリスト教や共産主義の中にもぐりこみ、息づいて来たと共に、ソ連崩壊後にもこの国の精神的基盤をなし続けているのである。

だから、ロシアという国が、思想的に大いなる脅威だと筆者が言うのは、この国が本質的にずっと「母なるロシア」こそが世界を救うというメシアニズム信仰に立ち続けているためである。これは統一教会や国家神道やペンテコステ運動と同じく、世界救済の思想であり、言い換えれば、世界征服の野望を示すものでしかない。

ところが、我が国の世論の一部も、このようなロシア美化、ロシア賛美を疑うこともなく取り込んで、すでにかなりの割合、ロシアのメシアニズムに毒されている。たとえば、ネット上では、プーチンを「米国という巨悪と対立して、NWOと勇敢に戦う善人」のように描こうとする意見があるかと思えば、プーチンが日本の国家主権を危ういものとして、「あなた方はどの程度自分で物事を決められるのですか」と問うた台詞を、我が国が対米隷属から脱し得ていないことを見ぬいてこれを鋭く糾弾する慧眼だともてはやし、ロシアこそ、我が国を自立に導く助け手だとする説まである。

こうしたロシア賛美者は、全く愚かなことに、我が国がただロシアに欠点をあげつらわれて、足元を見られ、余計なお節介を受けているだけだという事実がまるで見えていないのである。そもそも、自国の外交の欠点や弱みについて、他国の指導者からお説教され、それを疑問にも思わず、善意と受け止めて喜んでいる時点で、そのような人々はとてつもなくおめでたい愚者としか言えないだろう。
 
実のところ、プーチンは日本人の心に揺さぶりをかけ、分裂を促すために以上のように言ったのであるが、こうしたやり方で、接近した相手の尊厳を貶め、現在、その相手が享受している大いなる特権を自ら捨てさせ、何らかの短絡的なアクションを取るよう促す方法は、まるで聖書の創世記において、悪魔が人類をそそのかすために吐いた言葉にそっくりである。

「それを食べると、あなた方の目が開け、あなた方が神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:5)

プーチンの言説のポイントは次の通りである。「米国は本当にあなた方にとって『友』なのでしょうか? もしそうなのだとしたら、どうして米国の許可なしに、あなた方は自分では何も決められない惨めな状態に留め置かれているのですか。あなた方が誰の許可もなしに自分で物事を決められるだけの知恵と力を得ることこそ、あなた方の自立であり、完全な主権ではありませんか。その自立を奪うことによって、米国はあなた方の主権を侵害しており、そうすればあなた方を無力化できると知っていて、わざとそうしているのです。あなた方にそのような状態を強いて、あなた方の主権を侵害している存在が、果たしてあなた方の『友』なのでしょうか。それは友というよりも、敵と言った方がふさわしいのではないでしょうか…」。

これは米国に対する暗黙の反乱の勧めである。国家主権や対米隷属からの脱却や「自立」という甘い言葉を餌にして、同盟国でもないロシアが、我が国に向かって同盟国への裏切りを勧めているのである。それは、ただ我が国を貶める発言であるばかりか、我が国をいずれ米国と分裂させて弱体化させる目的あってこその発言であり、その先には、我が国を侵略し、米国の代わりに属国化したい目的あってのことである。それをなぜ見抜けない人々が多いのであろうか。

筆者は、日本は確かに米国に対して多くのことを物申さなければならず、日米の関係性は変化し、属国状態は解消されなければならないものと思う。沖縄にも、自由が与えられるべきであって、我が国の現在の自立の程度が完全でないことは認めるべきであるものと思う。だが、その自立や、米国からの分離は、これから先、日本人が文化的・精神的成熟によって自ら勝ち取って行くべきものであり、ロシアには関係ない事柄である。我が国の自立の問題は、我が国固有の問題であって、ロシアに指図されるべきものでなく、また、ロシアに接近することによって解決が与えられるような種類の問題でもない。

それにも関わらず、プーチンの言説は、話が途中ですり替えられている。日本が主権を完全に取り戻すという問題が、我が国がロシアへ接近することによって、ロシアから承認されるべきだという内容に話がすり替えられているのである。
 
こうした論理のすり替え、ごまかし、トリックはソ連時代からのロシア人の常套手段であり、プーチンは、同じような論理のすりかえにより、四島返還はナンセンスであるという話題を持ち出し、二島返還の可能性をもはぐらかし、帳消しにした。

「ロシアとは決して交渉してはならない」という中川八洋氏の主張がまことに正しいと言えるのは、こうした事情があるためである。上記で、聖書の創世記で悪魔が人類をそそのかした誘惑の言葉を筆者が引用したのは故なきことではない。こうして、相手の弱点を巧みに突いて、その弱みを最大限に利用して、不当な交渉を行って自分にとってのみ有利な解決を引き出し、相手の弱みを利用して相手の心の内側に侵入し、精神的に揺さぶりをかけ、分裂させて、支配するというやり方は、一連の記事で述べて来たグノーシス主義者のマインドコントロールの手法に共通する。こうした人々が、弱みを抱えた人たちの前にぶらさげる餌も、約束も、決して果たされることのない嘘の「夢」である。

ロシアは、我が国の弱みを盾に取って、我が国を脅し、ゆすっているだけである。つまり、日本が「完全なる主権」を回復し、「自立した外交」を打ち立てるためには、米国から距離を置くだけでなく、むしろ、ロシアに接近し、ロシアとの「友好関係」をロシアに承認してもらえるよう努力すべきだと言っているのである。米国に従っている限り、日本には、ロシアとの友好はなく、領土問題の解決もないのだとささやくことで、「主権」や「自立」や「平和条約の締結」や「領土問題の解決」などを餌に、ロシアに接近すれば、米国との関係からは生まれ得ない利益が我が国に飛躍的に生じるかのように思わせて、その絶対に実現しない期待を担保に、我が国から融資を無限にむしりとり、領土返還についての話もはぐらかして帳消しとし、さらには、あわよくば日米同盟にもヒビを入れて、日本を孤立化させて、ロシアが日本を思い通りに操ることがより容易になるように仕向けようとしているのである。

このように、ロシアと交渉することの危険性は、ロシアが相手の弱みや、利益となりそうな餌をちらつかせることによって、征服したい相手の心に揺さぶりをかけて、思う存分気を持たせて利用し、あわよくば分裂を引き起こし、弱体化したところで、支配して来る点にある。

筆者は、以前に、キリスト教が社会的弱者に対して冷たい宗教であると断罪することによって、クリスチャンに罪悪感を持たせ、キリスト教徒を思い通りに変革しようという悪しき試みがあることに言及したが、ロシアがやっていることはそれに非常に似ており、「日本には完全な主権がない」と暗に示唆することにより、プーチンは日本人に自らの状態が不完全であるかのような自覚を与え、その問題の解消のために、ロシアの指南に従うよう仕向けようとしているのである。
 
プーチンは、安倍や、日本人の心に眠る米国への心理的恨み、対米隷属から脱していないという屈辱感やコンプレックスを存分に利用しながら、以上のようなトリックを用いたのであり、それによって、ロシアこそ、日本のパートナーにふさわしく、世界の未来の覇者にふさわしいかのように見せかけて、日本を自分にひきつけようとしたのである。だが、ロシアが我が国にそのように思わせる目的は、決して我が国の誠意あるパートナーになるためではなく、日本の完全な主権の回復のためでもなく、ただ日本の弱みを盾に取って、脅し、ゆすり、騙すためである。もし、我が国がそれを理解せずに、ロシアに弱点を逆手に取られ、ロシアから承認されたいばかりに、ロシアへの接近を続ければ、どこまでもロシアに思い通りにゆすられる運命が待っているだけである。
 
我が国は、どの国の指導者にも、国家としての主権の不完全性などを指摘されてはならないのであり、まして弱みを利用して足元を見られ、嘘に満ちた不誠実な誘惑の台詞を語らせるような隙を与えてはならない。我が国が完全な主権を回復し、これを発展させ、真の自立と尊厳をぜひとも身につけたいと願うなら、米国に支配の口実を与えてはいけないのと同様、ロシアにも、内政干渉される隙を決して作ってはならないのである。そのような初歩的な事柄も理解できないで、他国から完全な主権がないと言われてそれに反駁するどころか、その説教に喜んで耳を傾けているような愚かさでは、外交などおよそ無理であって、どの国に接近しても、属国化される以外の運命はないであろう。

ロシアが善意から我が国の「主権」や「自立」の問題に言及するなどあり得ないことを理解すべきである。それはただ「分割して統治せよ」の法則に乗っ取り、相手をより操りやすくするために、疑いを吹き込んで分裂を促しているだけである。こうして近づいた相手をまず分裂させて弱体化させることこそ、侵略しようとの意図を隠し持つ国の使う古典的な外交手段なのだと、いい加減に早く理解した方が良い。

すでに述べた通り、ロシアという国の国家イデオロギーは、いつの時代も、ロシアが世界の覇者となることにこそあり、そのためにこの国は膨張・拡大を続けて来た。ロシアはその精神性において、今でも世界征服を国家の最終目的とみなしているのである。そうである以上、必ず、同じように世界の覇者を目指す米国とも対立関係になる運命にあり、米国だけでなく、ロシアに接近する全ての国は、この国に飲み込まれないために対策を講じなければならないのである。

オバマにはおそらくプーチン率いるロシアの戦略がよく理解できており、安倍が心理的な弱みを握られてすっかりプーチンの手玉に取られていることも分かっていたであろうし、それが分かっていればこそ、対ロ制裁の強化という形で抗議を残して行ったのであろうが、残念ながら、安倍の方では、自分がプーチンに何をされているのかさえ、見抜く力はなかったと思われる。

安倍のみならず、我が国の世論の一部は、あまりにも未熟で、お人好しすぎるために、ロシアという国が持つ潜在的な悪意を見抜くことができないで、70年間、関係が膠着状態にあった国と、望みさえすれば、速やかに友好や信頼が成立するように思い込んでいる。プーチンに「私を信頼してほしい」と言われれば、疑うこともなく「はい」と頷いて着いて行くのでは、まるでショッピングモールで迷子になった子供が、知らない大人に声をかけられて、そのまま疑うこともなく誘拐されるのと同じような愚かさである。

インターネット上では、プーチンとトランプがタグを組むことで、この二人があたかも現在の悲壮感溢れる諸問題から世界を救ってくれる救済者になるかのような楽観的な期待さえ漂っているが、こういう安易な期待に身を任せる人々は、何度、騙されれば、自ら愚かな為政者(しかも他国の!)の野望の道具とされる馬鹿さ加減から、目覚める時が来るのであろうか。
 
このような人々の心理は、いかがわしい宗教指導者の言い分を真に受けてカルト団体に入信する信者たちによく似ており、自分を誰かから完全な存在と認めてもらいたい、自分を承認し、受け入れてもらい、自分が今抱えている問題に一足飛びに解決を与えて欲しいという願いがあだとなり、自分に都合の良いことを言ってくれる宗教指導者に群がり、子供のようにその後を追って誘拐されて行くのである。彼らは連れ去られ、戻って来ないであろう。

そのように、自分の抱える問題を、自分の手で解決しようとする忍耐強い努力を常に怠って、誰か強そうな他者にすり寄り、手っ取り早い助言や解決を求めて彼らにすがり続ける幼児的な欲求があだとなって、彼らは自分に優しくしてくれる者を簡単に善人だと思い込み、他人の悪意や、下心を見抜けず、その不誠実な発言に何度でも騙され、振り回され、人生の宝を奪われるのである。
 
そして、そのように自ら騙されて行く愚かな人々は脇に置いたとしても、詐欺師と詐欺師との間にも、友情と信頼が成立するはずがないのは言うまでもなく、この先、トランプとプーチンとの間に、決して信頼関係が生まれることはないと筆者は確信している。そこにあるのはただ、どちらが先に食われるかという問題だけである。

イスラエルが孤立化へ向かっているのと同じように、どの時点で、どこの国が、ロシアに対して実力行使に立ち上がるのか、ということが問題なのである。そうなるまで、ロシアは自分には敵を作ったり、世界と戦ったり、世界を征服する野望など全くなく、目指しているのはあくまで友好と信頼関係だと言い続けるであろうが、いつまでそのように気を持たせて時間を稼ぐことができるだろうか。
 
プーチン訪日前には、ソフトバンクの孫正義氏が、海底パイプラインを使ったロシアの電力会社との取引に乗り気だというニュースが流れたりもした。(「プーチン氏とも会談 北方領土の鍵握る「孫正義ペーパー」」(NEWS ポストセブン 2016.11.21 07:00)参照。)だが、もしも我が国がこの先、ロシアのエネルギーに依存して、ライフラインをロシアにあずけたりすれば、有事の際には、早速、我が国も現在のウクライナのような運命を辿るだけである。IT事業や人工知能の分野でロシアと協力すれば、すべての情報がロシアに渡り、もはや国防どころではなかろう。

トランプ、プーチン、安倍、孫正義などの面々に共通するのは、彼らが本質的に理念の欠如した商売人だということである。彼らは常に儲け話を追い、自らの権勢の拡大と栄光を飽くことなく追い求め、常に勝ち馬に乗って、自分を素晴らしく偉大に見せかけてくれる環境を求め、そのためには、人を欺いたり、約束を翻すなどの不誠実な行動も平気で取り、自分が騙して凋落させた敗残者を容赦なく踏みしだいて勝ち誇ることを、己の人生のよすがとしている。このような商売人が政治の世界に足を踏み入れ、為政者になると、国民はひどく不幸になる。

孫正義氏は、以下の記事等にも見るように、以前には60歳を迎えれば引退するかのように表明していたが、これを撤回することにより、グーグルから自らの後継者と目して引き抜いたニケシュ・アローラ氏をわずかな期間で退任させた。「アローラ退任、孫社長「変心」までの22カ月 「欲が出てきてわがままで続投」は本当か?」(東洋経済ONLINE 2016年06月27日)

複数の情報によると、関係者は、孫氏がアローラ氏に事業を譲るなどの計画は初めから信じていなかったように見受けられる。だが、もし後継者として道を譲るという期待を持たせておかなければ、アローラ氏は孫氏のもとへやって来たであろうか。

ビジネスの世界では、他人を騙すがごとくに出世を約束し、存在しない偽りの期待を持たせることで、その人の人生を自分に都合よく利用して、短期間で使い捨てるなどのことは、ありふれた現象に過ぎず、ブラック企業では毎日のように起きている。まさに生き馬の目を抜く世界である。

上記のような出来事を通して、孫氏が個人的にどういう人柄であるか、我々は伺い知ることが出来る。勝つためには、手段を選ばず、他人を踏み台にしてでも、勝ち残るというタイプである。こういう人間であれば、トランプやプーチンとはウマが合うであろう。

だが、孫氏がアローラ氏に対して行ったことは、違法ではなくとも、必ず何かの報いを伴うであろう。なぜなら、人にいたずらな期待をもたせて失望に追い込む人間は、自分が他人にしたことの報いとして、もっと大きな罠にかけられる危険があるからだ。おそらく、このような理念の欠如した商売人のタイプの人々は、何人集まっても、意気投合するのは一瞬だけで、互いに利用し合い、最後には裏切り合って終わり、彼らの間に真の友情や連帯が生まれることは決してないであろうと予測する。誰が最初に食われるのか、問題はそれだけなのである。

さらに、日本国では急速に国民の貧困化が進んでいるため、高額な携帯料金を払えないで解約する人々も続出している。ただでさえスマートフォンが盗聴や監視の手段として利用されている事実が世間に広まっているため、人工知能も警戒されており人気がない。携帯業界はこの先、急速に斜陽になる可能性があるものと筆者は思う。

さて、ロシアに話を戻そう。以上に挙げた国際政治学者の中川氏は、Wikipediaには、「政治哲学に関しては、1980年代はマルクス・レーニン主義に対する批判的研究をしていたが、1992年から英米系政治哲学に研究の軸足を移した。2000年に入り、フランクフルト学派社会学を含め、ポスト・モダン思想、フェミニズム、ポストコロニアリズムにまで研究対象を広げ、これらの思想の危険性を訴えている。」とあり、詳しい研究内容はまだ知らないのだが、おそらく共産主義思想とフェミニズムなどの思想に、共通の土台がある事実を見ていたであろうと思われることが極めて興味深い。

こうして、学者の世界においても、共産主義や、フェミニズムの思想に、本質的な共通性があって、それは古くはグノーシス主義にまでさかのぼることを、「正統と異端」という概念に照らし合わせて研究していた人々の存在があることは興味深く、このような視点は、『解放神学 虚と実』(荒竹出版)を著した勝田吉太郎氏らと重なる部分を感じさせる。

筆者の考えでは、現代政治のあらゆる問題は、その本質を辿って行くと、最終的にはみな「正統と異端」という対立構図に行き着く。世界のおよそ全ての政治的・思想的対立の背後には、未だに「キリスト教対グノーシス主義」という構造が潜んでいると言っても過言ではない。

むろん、ここで筆者の言う「キリスト教」とは決して、決してプロテスタントやカトリックや正教といった今日的なキリスト教界の宗教組織を指すのではなく、聖書の記述が現す見えない思想的(霊的)本質を指す。

そして、グノーシス主義の危険とは、今までずっと当ブログで述べて来たように、ロシアの国家イデオロギーだけにつきものなのではなく、欧州・米国・我が国などのキリスト教界にも公然と入り込んでおり、統一教会と深い関わりのある安倍政権や、日本会議に支配された日本政府を通して、我が国の政界に深く浸透している。政府与党が暗黙のうちに目指している国家神道に基づく戦前回帰のイデオロギーなども、まさにグノーシス主義を起源としている。その意味で、現在の日本の政府と政治は全体がグノーシス主義に汚染されてしまっている。

だが、だからと言って、もともとすでにある危険の上に、さらなる危険として、ロシアにおける共産主義までも取り込んで、国を消滅の危険にさらす必要はないであろう。


・人間に過ぎない宗教・政治指導者を美化・神格化して崇拝する偶像崇拝の罪と訣別しなければ、沖縄を含め、我が国には自由も解放もない

信仰者の目から見れば、この世の事象と霊的世界は合わせ鏡であり、この世の問題の根底には「正統と異端」の対立があることが見て取れる。

2009年、自民党から民主党への政権交代が起きたのは、日本のクリスチャンの間で、グノーシス主義に汚染されたキリスト教界への批判がかつてなく高まっていた時期であった。ペンテコステ運動のような米国発の非聖書的な偽りのキリスト教への疑念と批判が信者の間で噴出し、さらに、人間に過ぎない宗教指導者を絶対的な存在として崇め、奉る牧師制度がキリストへの信仰に反する人間崇拝の罪であるとの批判が噴出し、この罪と手を切って、キリスト教界からエクソダスしようとする信者が続出していた。

これは、キリスト者が人間を美化・賛美する偶像崇拝から脱し、聖書に基づく正しい信仰に立ち戻ろうとする正しい運動であったと筆者は見ている。

しかし、この運動がその後、辿った経緯は非常に教訓に満ちたものであった。この時に生まれたキリスト教界への批判者たちが、その後、どうなったかというと、彼らは自分が批判していた教会からエクソダスして、聖書に基づくまことの信仰に立ち戻るどころか、再びどこかの宗教指導者や、組織や団体に帰依して、前よりも深く巧妙な偶像崇拝に落ちて行き、その結果、キリスト教界における偶像崇拝の罪を批判する者たちや、教界をエクソダスした者を同士討ちに陥れて口を封じ、自ら改革を潰すという愚行に及んだのである。

当初、見えない神にのみ従うことを誓って、人間に過ぎない指導者への隷従からの自由と解放を目指して、組織や団体を出ようとしていたはずのクリスチャンたちの、この180度の転向と愚かしい同士討ちという、腐敗と堕落の過程は、民主党の瓦解の経過にも似ており、筆者がそれらの出来事の分析から得た教訓は計り知れないほど大きい。

この草の根的な運動を堕落させて潰すために、とりわけ信者たちに巧妙な分裂の罠をしかけたのが、キリスト教界の宗教指導者であり、その中に、信者を泥沼の裁判に引きずり込んで疲弊させる村上密やDr.Lukeのような人々がいた。

この人々は、キリスト教界に対する信者たちの怨念を巧みに吸い上げる形で、人々の弱みを利用して自らの運動を作り上げた。彼らは、不誠実で信頼ならない指導者であったが、彼らを非難したり、告発する人間たちが、彼らよりもずっと不器用でみっともなく見えたため、人々は立ち回りが上手く声の大きいこの指導者の方を支持し、すすんでその手先となって利用されて行ったのである。

人前で救済者を演じる詐欺師のような宗教指導者たちは、人々の心の中にある勝ち馬に乗りたい願望、人前で見栄を張り、自分が攻撃されて恥をかきたくない願望などを大いに利用して、反対者を徹底的に嘲笑して、見世物にすることで、自分を勝者に見せかけて、支持を拡大したのである。

しかし、彼らの虚勢は見せかけに過ぎなかったので、以上のような宗教指導者に信頼を託した人々の希望は、すぐに風船のように弾け飛び、解放や自由の代わりに、隷属と恐怖だけが残った。

トランプとプーチンの手法は、以上のような宗教指導者らの手法に非常によく似ている。彼らは反対者を貶めることと、自分が勝利者であるかのような「ムード」を醸し出すのは得意だ。だが、彼らの主張には内実がないため、「まことしやかな雰囲気」に欺かれて、彼らを支持した人々は、悲惨な結果に至るだろうと筆者は見ている。この人々の連帯は、気の持たせ合い、騙し合いの連帯なので、長く続くことはないからだ。

筆者が、沖縄は米軍基地問題を巡る政府との闘いで敗北するであろうと言っているのにも、以上と同様の理由がある。沖縄の解放という問題の根っこには、偶像崇拝が深く絡んでおり、筆者は、沖縄クリスチャンがカルト被害者運動と公然と訣別しない限り、彼らには政治的にも勝利はないと考えている。

なぜなら、人間の利益は神の利益に勝らないからだ。自分の生活の安寧や自分の名誉を、信仰よりも優先して、人間に過ぎない指導者につき従っている限り、その信者にはいかなる自由も解放もない。まことの神は全てをお造りになった方であり、この方のみを崇め、従うことは、辺野古の海を守るよりもはるかに重要事項である。そのことをクリスチャンが理解して、自分を解放してくれそうな人間への浅はかで愚かな期待を捨てない限り、沖縄が騙され続けることは変わらないであろう。しかし、それは沖縄だけでなく、日本全体に共通する問題なのである。

改革者や解放者を名乗って現れる人間の指導者に安易な期待を託して欺かれる人々の心の根底には、いつも自己美化の願望がある。自分を美化しているから、宗教・政治指導者などを美化して、期待を寄せるのである。しかし、聖書は人間の本質について何と言っているか。クリスチャンが聖書の事実に立ち戻り、真に頼るべき存在は誰かという問いに正しく答えを出さない限り、我が国にはただ人の奴隷となる道だけが延々と続くのである。だが、かつて起きた出来事は、信者が人間崇拝という罪と完全に手を切って、まことの神への貞潔を回復するならば、速やかな解決があることを示している。


欧米諸国を裏切ってまでロシアにすり寄る安倍政権を待ち受ける国際的孤立と、極東シベリア共同開発に名を借りた日本政府の大陸侵略の野望

・米国とEU諸国との協調を裏切って、ロシアと「同衾」した日本政府の二股外交が必然的に招く国際的な孤立

カジノ法案の衆院での強行採決以来、我が国の多少なりとも見識ある全ての人間の目には、安倍政権が詐欺の温床であり、危険極まりない地獄への暴走列車であることがはっきりと見えてしまった。

安倍政権には、もはやインテリ知識人層からも、カルト内閣、広域暴力団安倍組、博打政権の博打外交など、歯に衣着せない容赦のない呼び名が向けられ、人々が侮蔑と憎しみを隠さないようになっている。

反原発、反TPP、北方領土返還、アベノミクス…、これまでに安倍政権が打ち出したすべての施策が、国民を欺くための詐欺の仕かけでしかなく、それは国民に嘘をついて存在しない偽りの甘い夢を見させておいて騙し、その間に、可能な限り、国富を収奪して、外国に貢ぎ、我が国を破滅へ導くために打ち出される詐欺と売国のスローガンであることが未だかつてないほどに明白になったのである。

そもそも「この道しかない」などと言い始めた時点で、すでにそれはカルトなのである。「この道」という言葉は、宗教の信者がよく使うものであるが、クリスチャンにとっての道とは元来、一つしかなく、どこかの目に見える人間が、「私が道だ、私が唯一の道を指し示す」などと言い始めた時点で、その人間は反キリストの霊の持ち主であることが確定していると言って良い。

キリスト教徒でなくとも、おそらく、宗教家はいち早く安倍政権の恐ろしさ、特に、安倍が現人神となって国民に強要しようとしている自分への崇拝が極めて危険な似非宗教であることにすぐに気づくはずだ。このような政権を支持する者には、どんな宗教を信じていようと、信仰者としての矜持はない。都議会における自民党と公明党との分裂が取沙汰されているが、いずれ国会でも両者は分裂し、現役官僚からも離反者が出ることであろう。この先、みなが安倍に騙されていただけであることが、もっとあからさまに分かって来る。どんなに控えめに言っても、安倍はもはや正気ではないのだと、誰もが思うようになろう。

だが、目下、正気を失った博打政権が、自分が倒される前に、もっと壊せるだけ徹底的に日本を壊そうと、ロシアからマフィアの親分を連れて来て、二人で一晩以上をかけて懇ろに仲むつまじく語り合ったというのだから、このニュースには背筋がぞっとするとしか言えない。

領土問題に何の進展もないことが前もって分かっていたので、筆者はプーチン訪日という出来事には何の期待も寄せず、冷ややかに見つめるのみであったが、プーチン氏の到着から一夜明けて、当初感じていた不快感は、安倍の犯した売国の罪によって、取り返しのつかない事態が起きたのだという、さらに不気味な予感へと変わった。

領土が返還されないのに、安倍がロシアに3000億円もの経済支援を申し出たという狂気じみた外交的敗北から始まり、タイ人のウォン・ウティナン君には強制国外退去処分を言い渡しておきながら、ロシア人の入国のためにはビザ要件を緩和するという。平和条約も締結されていないうちから、北方領土やシベリアの共同開発という無謀な計画に前のめりになり、さらに平和条約をダシにして、「信頼関係の構築のために、双方の国民感情を傷つけないよう配慮する」などといった無茶な約束まで口にする。

やはり、安倍は空恐ろしいことをやってしまったという印象である。天木直人氏が12月16日の記事「歴史に残る安倍首相の対プーチン屈辱外交」に書いているように、この「屈辱外交」が我が国にもたらす弊害ははかりしれない大きさになると思われる。最悪の影響は、今後、日米同盟関係が急速に悪化しかねないことだ。

筆者は、日本は対米隷属から脱しなければならないと考えるため、日米同盟は必ず見直され、最終的には、日本は米国の傘下を出なければならないと思う。だが、その方法が、日本政府が米国の意向を無視してロシアに寝返ることによって、日米関係を急速に悪化させるというあまりにも拙速かつ愚かな方法であるべきでないのは明白である。

しかしながら、この度の安倍・プーチン会談は、EU諸国、そして米国との関係においても、日本の外交の決定的かつ明白な分岐点となるであろうと筆者は予測する。70年間続いて来た戦後体制は、プーチン訪日という日に終わったのである。だが、それは実際、安倍の望むような美しい形ではなく、また、我が国の自立という形でもなく、ただ米露への二股外交というあまりにも恐るべき裏切りに満ちた不誠実なドロドロの関係で終わった。

これまでの事実から、筆者には、日本政府は、国民をイジメ抜くための悪意を込めた政策を、大抵、週末に向けて発表することが分かっている。

いかがわしいカルト宗教は、信者を徹底的に疲労困憊状態に追い込むことで、信者が片時も落ち着いて物事を考えることができず、カルトの偽りに気づくチャンスがないようにすることが知られているが、カルト化した安倍政権が国民に対して絶え間なく行っていることも、それと同様の精神的な攻撃である。

つまり、勤労者の国民の大半は、月曜から金曜までの平日は、サービス残業や、過重労働でへとへとにさせられた上、週末に向かっても、心を締めつけられる不穏なニュースばかりを聞かされて、休日にも精神的な苦痛の中に置かれることになるが、これは、国民を決して精神的にリラックスさせないために、政府が故意に行っていることである。
 
これまでのあらゆる出来事から判断して、この国の政府高官及び官僚たちは、休日を迎える前に、特に念入りに、自分たちの権力が永久に安泰だと信じて高枕で眠れるように、国民に向かって精神的な圧迫と恐怖を増し加えるような残酷な政策を発表することを悦楽にしているものと見られる。
 
だから今回、安倍が国民を愚弄するがごとく、北方領土返還という存在しない偽りの夢をちらつかせながら、あろうことか、その存在しない夢と引き換えに、日本の国富を早々とロシアに売り渡すと決めたことを、週末に向けて発表したのは何ら不思議ではない。
 
もしも今回、そんなことよりももっと驚くべき事実があったとすれば、それはちょうどプーチンが日本に来たのと同じタイミングで、EU首脳会議で対ロ制裁の延長が決定されたというニュースが流れたことである。

以下に引用したニュースでは、NHKが懸命に、EU諸国のロシアへの強硬路線と、米国および日本のロシアへの立場は違うのだと強調しようとしているが、今のタイミングで、EU諸国がこれほど強烈にロシアへの対決姿勢を明白に示したのには、明らかに、ロシアに対する恫喝と警告だけでなく、ロシアに協力関係を申し出る日本政府に対する牽制と恫喝の狙いが暗黙のうちに含まれているように感じられてならない。

今回のEU首脳会談と、プーチン訪日という出来事が、どこまで互いに影響を与え合っているのかは分からないが、EU首脳は一致して、彼らの敵意をよそに二国首脳だけで懇ろな関係を強調するプーチンと安倍の両者に対して、厳しい警告と弾劾と受け取れるメッセージを発したのである。

そこで、今回のEU諸国の対ロ制裁の延長の発表のタイミングは、今回の日ロ首脳会談が、これからの日本の外交にはかりしれないほどに暗い影を落とすことを暗示するものであると筆者は見ている。つまり、今回、日本は欧米の対ロ制裁の足並みから完全に外れたのであり、そうなった時点で、ロシアと共に国際的に孤立の悪影響に巻き込まれる道はすでに定まったのである。
 

EU首脳会議 ロシアへの経済制裁延長で一致NHK 12月16日 10時21分

EU=ヨーロッパ連合は首脳会議を開き、ウクライナ情勢を受けて続けてきたロシアへの経済制裁を、来年7月末まで延長することで一致し、日本やアメリカがロシアとの関係強化に向けて動き出す中、ヨーロッパは引き続き、厳しい姿勢で臨む方針を打ち出しました。

EU各国は15日、ベルギーのブリュッセルで、ことし最後の首脳会議を開き、対外政策を中心に話し合いました。

この中で、おととし、ウクライナ東部で、政府軍と親ロシア派の戦闘が起きて以降、EUが親ロシア派の後ろ盾となっているロシアに対して続けている経済制裁について、来年7月末まで延長することで各国が一致しました。

この制裁は、ロシアの政府系の金融機関や、エネルギー関連企業がEU域内で資金調達を行うことや、ロシアとの武器の取り引きを禁止するものです。

EUは制裁を延長する理由として、去年、ウクライナ政府と親ロシア派が合意した停戦が、完全には履行されておらず、ロシアが役割を果たしていないことを挙げています。

ロシアに対しては、日本がプーチン大統領の訪日をきっかけに関係強化に乗り出しているほか、アメリカのトランプ次期大統領もオバマ政権とは一転して関係改善に意欲を示しています。

しかし、EUでは、ロシアがウクライナの主権を侵害しているとの非難が根強く、ロシアと国境を接し、警戒を強めている国も多いことから、引き続き厳しい姿勢で臨む方針を打ち出したかたちです。


果たして、この先、米ロの関係が本当に改善されて、日米ロ間に緊張緩和の蜜月が訪れるなどといった保証はない。トランプはまだ大統領になっておらず、米国がロシアへの態度を軟化させるだろうという予測は、トランプの意向だけに基づく期待値込みの楽観に過ぎない。

いずれにしても、米ロの関係改善がまだ実現していないにも関わらず、安倍が米国に先んじてロシアを味方につけて関係改善を誇ろうとしたことは、米国に対する挑発行為のように受け止められて仕方がなく、安倍が各国首脳に先駆けて、一人トランプ詣でをして得意になった時と同じように、そこからは、米国を出し抜いて世界をリードする立場に立ちたいという野望を誇示する浅はかな狙いが透けて見えるだけである。このような行為に厳しい報いが伴わないとは、到底、考えられない。
 
それにしても、ヨーロッパ諸国は、地理的にロシアとの距離が近いことから、ロシアに占領される恐怖がよほど根強いものと思われる。我々はEU諸国の「ロシアに占領される」という恐怖に鈍感であるべきではないと思う。

むろん、ウクライナのユーロマイダンの政変は、親EUを旗印に掲げる人々を使った陰謀によるところが大きく、この政変によって引き起こされた同国の混乱を一方的にロシアの非とするのは適当でないと筆者は考える。クリミアも自らロシアへの帰属を望んだのであり、これをロシアが軍事力で侵略したと述べるには無理がある。

だが、そういう事情をさて置いても、ウクライナにおける親EU派と新ロ派の対立は政変が起きるずっと以前から続いて来たものであり、両者の間には水面下での激しい駆け引きがあった。
 
これまで幾度となく繰り返して来たことだが、米国も深い闇であるが、ロシアも米国と同じほど(あるいはもっと)深い闇である。

プーチン政権は、ブッシュ政権がそうであったように、偽のテロ事件を引き起こすことによって、国家権力を強化し続けて来たと言われる。いわば、敵を自ら生産することによって、国内の団結を作り上げるという、米国と同じ手法を取ってこの政権は成長して来たのである。

チェチェン戦争が、米国にとっての9.11と同じような、ロシア政府による偽旗事件であったことや、プーチンが権力を握り続けた代償が、ロシアの議会制民主主義の死であったことなどは、アンナ・ポリトコフスカヤのようなジャーナリストによってすでに幾度も指摘されている。

そのポリトコフスカヤを含む、プーチン政権に手厳しい批判を向けたジャーナリストの数多くが暗殺と思われる不審死を遂げている事実や、そもそも、これほど長い間、ロシアでプーチン氏の政権が続いているという事実だけを見ても、それ自体がおよそ民主主義からはほど遠い尋常でない状況と言わざるを得ない。そして、ロシアという国は、体制がどれほど変わっても、歴史的にはずっと絶え間ない国家権力の増強、領土拡張政策を取って来たのであり、現在、起きている出来事も、その延長上にあるとみなされる。

特に、ソ連時代のロシアは実際に軍事力による侵略・制圧を繰り返して来ており、ヨーロッパではそのことはまだ記憶に新しい。だから、武力による制圧であれ、どんな方法であれ、ロシアが領土を拡張して影響力を増し加えようとすること自体が、EU諸国からは「脅威」とみなされるのは不思議ではない。

そのような事情を加味すると、EU諸国の「ロシア恐怖症」は、ただ単に米国に一方的に肩入れしているがために生まれたというよりも、もっと深い意味を持つものであり、何よりも、それは自国がロシアに占領され、侵略されることへの本能的な恐怖から来るのだと言えよう。

もしそうだとすれば、我が国は、こうしたロシアの隣国による直観を決して軽視すべきではない。人間であっても、国家であっても、原則は同じであるが、遠くにいる他人だけから好意的な評価を受けていても、近くの隣人との間で絶えまなくトラブルを起こし続けて、隣人からの評価がことごとくマイナスだという人物は、要注意である。そうなるには、必ずそれだけの理由が存在する。ロシアには、いつも次々に敵が現れ、しかもロシアがその敵を利用して、自分が不当に攻撃されている被害者であるかのように装いつつ、着々と力を蓄え、味方を増やして来たこと自体が、政治的に巧妙な作戦であると見なければならない。

米国が世界各地で絶えず戦争やクーデターを人工的に引き起こしては金儲けの手段として来た事実が全くいただけないものであると同様に、ロシアという国に、次から次へと敵対する国々が登場して、戦いが起きているのも、決して良い特長とは言えない。ある意味では、その敵意と反目自体が、ロシアが自ら引き起こしている現象だという可能性がある。

だから、あえてそのようなトラブルの渦中にある国に、同盟国の出方もまだ決まっていないうちに、日本がわざわざ自分から先んじて接近して行くメリットなどどこにもないのは明白である。特に、日本のこれまでの米国追従に貫かれた戦後史全体を振り返っても、日本の首相が米国大統領に先んじて、そのような行動を取ることは異例であり、それ自体が、同盟国へのとてつもない裏切り行為、挑発行為と受け止められて、したたかに報いられる危険は否めない。

折しもちょうど沖縄でオスプレイが落ちて、日本国内で反米感情が高まっている時である。それを好機とばかりに、巧妙に米国に悪役を押しつけて、日本の首相が他国に媚を売ったのだから、そうした事実は、米国から見れば、「同盟の意味が全く分かっておらず、守ってやる価値もない国」と見られ、蔑まれるだけに終わりかねない。

もっとはっきり言えば、米国のポチに過ぎないはずの属国が、恐れ知らずにも、親分を悪者に見せかけながら、親分を裏切って、他国と密通し、不義を重ねたという話なのだ。

安倍がどうしてもロシアに接近したいのであれば、米国との関係を清算して、我が国が自立した外交を打ち立て、対ロ制裁の行方に対しても、国際社会において態度を明白にしてから、そうすべきであった。一方では米国の庇護を求め、対ロ制裁に加わっておきながら、もう一方では、制裁中の国に自らすり寄り、信頼関係を強調し、経済支援を申し出るなどの無節操な二股外交は、全く筋が通らず、国際的に何の信頼にも結びつかないのは当然である。

むろん、今のところは、オバマも含めて、公然と安倍の恥ずべき振る舞いを非難する者は各国首脳の中にはないであろうと思う。なぜなら、安倍の振る舞いは、あまりにも幼稚すぎて、知識人が言葉に出して取り沙汰する価値すらもないからだ。だが、彼らが名指しで非難しないことと、報復して来ないこととは訳が違う。愚か者には、愚か者にふさわしい返答の仕方がある。安倍の卑しい野望は、すでにトランプからTPP離脱で梯子を外されたことにも見る通り、諸国に見透かされており、この先、国際社会から黙ってのけ者とされ、一斉に梯子を外されることで、報復を受ける可能性がある。そういうしっぺ返しがなくとも、このまま安倍の二股外交が続くと、その結果として、日米同盟は揺るがされ、米国の代わりに日本がロシアへ追随するという事態さえ考えられないことではない。

そうなった場合に最も恐ろしいのは、日本がロシアに代わって世界的な孤立をその身に背負わされることである。

今までにも述べたように、日本が今ロシアに接近しても、損害以外に受けるものは何もない。ロシアは、日本が対ロ制裁に加わっている間に、中国をアジアの経済的なパートナーとして選んだため、日本が今から極東開発にどれだけ協力してみたところで、しょせん、ロシアから中国以上の経済的なパートナーとみなされることはない。

中国とロシアは安倍の望んでいる「中国包囲網」を知った上で、決してこれに手を貸すことはなく、むしろ、この二国は、安倍の心の内を完全に見透かした上で、いずれそれを裏返しにする形で、逆に日本を包囲して孤立化させて来る可能性が高いと思う。仮にもしそういうことが行われるとすれば、それは、ロシアがさらに親密さをアピールして、何かの餌をぶら下げて、より懐深く日本を自らに引きつけることにより、また、その誘いに乗って、安倍政権が一見、自立を装った米国との訣別を持ち出すことにより、日米関係に本格的にヒビが入り、日本が最も無防備になった瞬間に行われるであろう。

筆者の考えでは、ロシアは必ず、したたかに日本の期待を裏切って、いつかこの国に攻め入って来るはずだ。その裏切りは、すでに領土返還なしにロシアが経済協力だけを日本からむしり取った時点で始まっていると言える。ロシアとはいかなる信頼関係の構築も土台、無理であり、この国は他国を利用することしかできない。思想的にも、KGB出身のプーチン氏を頂点に頂いている事実にはっきりと見ることができるように、この国ではソ連時代の歴史と教育の影響は未だ根強く、ロシアは今でも共産主義のままなのである。

だから、ロシアと共産党政権下の中国との間には、もともと安倍の思想など全く及ばないほどに、より強力な結びつきと、親和性があると考えられ、仮に対ロ制裁に日本が全く加わらなかったとしても、日本が両者の間に割って入ることはもともとできない相談であったと思う。

そして、そのことは日本にとって幸運だったのである。共産主義という思想は、我が国が決して内に取り入れるべきではない危険な思想であり、また、「強いロシアの復活」を目指すプーチン型の国家主義的な統治も、非常に危険な性質を持つものである。ロシアには歴史上、強大な国家権力が圧倒的大多数の民衆を抑圧し、虐げるという以外の国家形態が存在したことがない。だから、これまで日本が米国に阻まれ、中国に出遅れてロシアへの接近の機会を失って来たことは、何ら問題ではなく、ロシアとは距離を保っておくに越したことはないのだが、安倍は自ら米国をよそにしてロシアにすり寄り、他国がロシアに厳しい態度で接し、距離を置いている時に、抜け駆けしてロシアと懇ろに「同衾」したことによって、ロシアという国家に歴史を貫いて流れて来た負の思想を、完全に内に取り込み、輸入してしまった。山口でのプーチンへのもてなしという安倍の行動は、プーチンこそ安倍の本命であったことをよく物語っている。なぜなら、安倍は日本を裁いて軍国主義政権を終わらせ、祖父をA級戦犯とし、日本を属国化した米国を憎んでいるからである。プーチンへの思慕は米国への当てつけであり、まさに、裏切りであると言える。だが、当てつけであり、裏切りであればこそ、プーチンへの接近は決してどの国にも何の信頼関係ももたらさず、ただ裏切りによって終止符が打たれのである。

米国は、そんな愚かで節操のない安倍の振る舞いに内心で呆れ果てながらも、ロシアと同じように、何らかの形で手ひどく報復することで利益を奪い返すチャンスを伺って、あえてこの問題に言及することなく、安倍政権を泳がせる可能性がある。何しろ、米国は、かつて日本軍による真珠湾攻撃を知っていながら、あえてこれを阻止せず、日本軍の愚かな暴走を許して意図的に泥沼の戦争に引きずり込み、広島と長崎に原爆を二つも実験的に投下し、日本が一億玉砕の手前になってやっと敗戦を受け入れるまで導き、今もこの国を事実上の占領状態に置いている国であるから、精神的に未熟でお子様のままのこの国と、決して国民を大切にしようとしない日本政府の精神的弱点をどのように利用し尽くして利益を得るかなど十分に研究済みのはずである。

だから、筆者の見立てによる最悪のシナリオは、日本という国が、今後、安倍の野望を見透かされた上で、米ロの両国から可能な限りゆすられ、たかられるだけでなく、やがては米ロが犯した似たような悪事の尻拭い役として、それ以上の悪事を犯すようにそそのかされて、国際的に悪魔役を演じさせられ、その結果として再び権威失墜して、かつての敗戦のごとき破滅に至り、自国をまともに統治する能力のない国として、第二の占領状態に置かれ、様々な国に領土を分割されて他国に統治されて終わるという悲劇である。

今のままでは、そうした結末も、あながち幻想だとは言い切れない。安倍はまさに外患誘致に等しい形で、最も危険な国と自ら懇ろに通じ、国のトップとして公に国を売り、危険を誘致しているのである。そのようなことの結果としてやがて起きるのは侵略である。我が国が侵略するのでなく、侵略されるのである。これを止める方法は、安倍政権を退陣に追い込み、安倍の唱える地獄へ直通する「この道」を封鎖し、なおかつ、米国ともロシアとも距離を置いて、平和的な方法で自存する道を探すことだけしかない。

 
・かつての満蒙開拓団とシベリア抑留の悪夢をよみがえらせる北方領土やシベリアにおける日ロ経済協力と共同開発

国家の病とは厄介なもので、国家権力による民衆弾圧の歴史がずっと繰り返されているロシアの例を見ても分かるように、この亡霊のような歴史的負の遺産を払いのけ、これと訣別するのはそう簡単でないと思われる。そこで、仮に安倍政権が早期に打倒されなかった場合、今後、善良な国民は、日本政府の唱える欺瞞に満ちた抑圧政策からどのようにして身を守るかということだけが、焦眉の課題となるだろうと思う。

日ロの首脳会談に合わせるように、EU首脳陣が対ロ制裁の延長を表明したことには、上記した以上の意味があって、筆者は、今回のプーチン訪日は、安倍の本心を試すために、日本に対してあえて仕掛けられた一種の罠なのだという気がしてならない。

なぜなら、この度、安倍首相がロシアにすり寄った背景には、日本政府も、あわよくば大陸へ進出して、ロシアと同じように領土を拡張するという利益にあやかりたいという野望が透けて見えてならないからだ。

つまり、安倍が北方領土を取り返すという「夢」を国民の前にぶら下げて、シベリアや北方領土の共同開発に積極的に乗り出そうとしているのは、その実、日本政府の領土拡張政策という悲願の一端を示しているに過ぎず、この政府が真に目指しているのは、かつてと同じように、大陸にまで国土を広げること(要するに侵略)なのだと筆者は考えざるを得ない。

安倍の目が今見ているのは、現実の日本ではなく、かつての「大日本帝国」の抱いていた幻想なのであり、同氏にとっては、現実の北方領土が今どこの国の帰属であるかなど、全く大した問題でなく、大陸へ進出する機会を掴むことによって、かつての軍国主義政権の偽りの夢であった「大東亜共栄圏」の再生へとつながるきっかけをつかむことこそ重要のだと思われてならない。

だから、実のところ、安倍がロシアに肩入れすることによって、擁護しようとしているのは、自分自身の侵略の野望であり、ロシアへの制裁を緩和することによって、解き放ちたいと思っているのは、かつての軍国主義時代の侵略と世界征服の夢なのである。安倍はできれば、ロシアからも北方領土を奪い返したいと思っているが、それがならずとも、まずは北方領土やシベリア共同開発という名目で、大陸進出のきかっけを与えてくれそうなプーチン政権に、味方のようにすり寄り、跪いてでもその機会を頼み込みたいわけである。足がかりさえ作ってしまえば、あとはどうにでもなる、活動しているうちに、いつかその地を我が物として奪い取ってしまえば良いという算段なのであろう。

むろん、ロシアはロシアで、安倍の魂胆は十分すぎるほどに見抜いた上で、したたかに日本を利用するためにやって来たに過ぎない。当然ながら、ロシアは日本に1ミリたりとも領土を割譲してやる気などなく、ただ安倍政権の野望を思う存分に利用して、日本企業を自国の領土開発の都合の良い使い捨て材料として徹底的に利用し尽くすことを考えているだけである。

この両国首脳は腹黒さという点では同じであり、お互いに「友好」、「信頼」、「協力」などの甘い言葉をちらつかせながら、自らの本心を隠して、相手をどうやって騙そうかと虎視眈々と互いに目配せし合っているだけである。

安倍が今回、プーチンを山口に招いてもてなし、経済協力を約束したことを通して、言わんとしているのは、「どのような方法であれ、己が領土を先に拡大した者が勝ちなのですよ、ねえ、ウラジーミル(ちなみに、ウラジーミルという名前は、「世界征服」を意味する象徴的な名である)。ロシアはウクライナとクリミアでは実によくやりましたね。我々はあなたの手腕を高く評価していますよ。だって、あなたのなさったことは、全ての国が自分もやりたいと望んでいることじゃありませんか。それにも関わらず、制裁でそれに答えるというのは、我々も本心では納得できないところです。しかし、これまでにはアメリカの力が強すぎて、我々としても、勇気を持って物申せない部分があったのですが、これからは少しずつこの煩わしい関係を見直して行くことにしますので、もう少しだけ待っていていただけませんか。ここは一つ、提案ですが、本格的に我が国が米国から自立し、貴国と平和条約を結べるまでに成熟する前に、まずはあなた方に支援を約束しますので、その見返りに、我が国にもぜひ新たな出番を与えていただけないでしょうか。あなたの国の豊富な天然資源、広大なシベリアの領土の開発などは、我が国にとっては前々から実に魅力的な投資材料と映っているのです…」

いつまで経っても、歴史に学ぶことなく、自ら墓穴を掘り続ける愚かな政府である。

かつて日本が大陸に侵略を企てたときにも、今と同じように「経済」が謳い文句であった。それは領土の拡張という国家的な野望のためだけでなく、まずは財閥をぼろ儲けさせることをこそ主たる目的に行われたのである。大陸での「開拓」は、要するに、大企業にとっての新たなフロンティアであり、カジノと同じような一獲千金の夢であった。

従って、筆者の目には、現在の安倍政権にとって、北方領土とシベリアに眠る利権を狙ってロシアと経済協力を行うことは、かつてこの国が目指した「大東亜共栄圏」という悪夢を再びよみがえらせるための侵略戦争に向けての初めの第一歩なのだと感じられてならない。

つまり、安倍のプーチン政権への憧れにも似た思慕には、国家主義の復活という夢だけでなく、何よりも領土拡張の夢が込められているものと考えられる。北方領土問題を持ち出したのは、そのきっかけに過ぎないのである。

だから、これから先、日本政府が打ち出すであろうシベリアの共同開発や、日ロ経済協力などといった美辞麗句は、そういう文脈でこそ、とらえなければならない。要するに、それは開発(開拓)に名を借りた侵略の野望の言い換えに過ぎないのであり、日本政府は、ロシアと同じように、無限な膨張拡大を夢見ているのであり、北方領土についても、本心ではロシアの主権を全く認めておらず、今後も認めるつもりがなく、ロシアもこれと同様に、4島を日本に返還する気などさらさらなく、日本の活動拠点とするつもりもないにも関わらず、二つの政府が互いに本心を隠しながら、互いを欺き合って、どうやって利権を餌にちらつかせることで、相手を最大限に利用し、巻き上げられるかを考えながら、「互いの主権を尊重する」といったむなしい絵空事のような空文句を弄して騙しあっているという恐ろしい現実があるに過ぎない。

そこには「友好」もなければ、「信頼」もなく、ただ互いに相手を騙し、食い尽くそうという悪意が存在するだけである。他国の領土に意欲的に開発に出かけて行くことは、いつの時代であれ、侵略の野望を隠し持ってこそ行なわれる行為であり、警戒される。かつての日本軍による「満州開拓」がそうであったように、そういう政策にすすんで巻き込まれた人間を待つものは、破滅以外にはない。

そもそも国家としてこれまで長期に渡る交流の積み重ねも実績もなかったロシアと日本の二国の首脳が、突然、まるで夏休みのキャンプ中に仲良くなった中学生のように、首脳同士の相性だけで、「友情」や「信頼」を言い始めるのは、とてつもなく不気味で、信用ならない事態であり、こういう形での親密さのアピールは、すべて国民を欺くための偽りの舞台演出であって、詐欺のしかけでしかない。このような信頼だの友情だのに見せかけた目くらましの魔法は、必ず、裏切り、騙し討ちの侵略となって本質を現わすだろう。

安倍晋三のような人間は、これまでどの場面においても、誰との関係においても、嘘ばかりを並べて、不誠実な言動を繰り返して来た。ついに米国にさえ不忠実な行動を取り始めたのである。このような人間が、親しさを演出して誰かに近づくのは、ただその相手を食い物にする目的のためだけでしかない。ロシアはそんな安倍には似合いの相手で、安倍がロシアに近づいたのは、ロシアから奪い取りたいという目的あってのことで、プーチンもそれはよく分かっていながら、自分の方が上手であると自負していればこそ、あえてその誘いに応じたのである。こうして、二国の首脳が互いを騙し合い、互いから奪い取るためにこそ、「友情」を演出して、互いを懐に引きつけあっているのである。こういう恐ろしい関係には、決して関わらず、巻き込まれないのが一番である。

これから先、どういう形で日本政府が日ロの経済協力や、極東や北方領土の共同開発を宣伝するのかは分からないが、「行きは良い良い、帰りは怖い」で、政府の打ち出す一獲千金の夢にたぶらかされて、目をくらまされ、その政策に浅はかに踊らされれば、その人間には、以下のごとき愚かしい悲劇が繰り返されるだけだと筆者は予想する。

画像は「満蒙開拓団の集団自決」(季節の変化、2015-08-30)から引用。



右は長野県が作成した「満蒙開拓青少年義勇軍募集」のポスターだが、見るからに知性の感じられない若者の姿を故意に描いたとしか思えない悪趣味な絵である。(シベリアと北方領土の開発利権に内心で涎を垂らす今の安倍の心境はまさにこのようなものではないかと推測される。)

満蒙開拓団とは、かつて日本政府が行った大々的な開拓キャンペーンにより、大陸に移住すれば豊かになれると言われ、一獲千金の夢で心を釣り上げられた日本の農村の貧しい人々が、騙されるも同然に、日本政府が作った傀儡国家としての満州へ国策として移住させられた挙句、第二次世界大戦中、ソ連軍の参戦により同地が戦禍に見舞われると、日本軍によってたちまち容赦なく見捨てられ、地獄の逃避行へ追い込まれ、集団自決などの悲劇へ追いやられたものである。

戦禍の中、かろうじて生き残った人々も、ソ連軍によって強制収容所へ送られたり、家族と生き別れになって、中国人の間で売られたり、働かされたり、現地人と結婚させられたりして、つらい生活を余儀なくされた。山崎豊子が『大地の子』で描いたような中国残留邦人も、そのような中を生きた人々である。

大陸に置き去りにされて、帰国がかなわなくなった中国残留邦人や、ソ連の強制収容所に送られた抑留者の存在があることは、戦後すぐに分かっていたが、中国残留邦人については、1972年9月の日中共同声明による日中国交正常化が起きるまで、中国領内で起きていることの事情は我が国では容易に知り得ず、調査もかなわなかった。日中国交正常化後も、日本政府は、かつて自らが積極的に推進した開拓キャンペーンの悲惨な結果と責任を直視したがらず、政府が中国残留邦人の肉親調査に乗り出したのは、ようやく80年代になってからのことであった。

さらに日本政府に残留邦人と認められて帰国や帰国後の支援を受けるには条件があり、必要な証言がそろわず、残留邦人と認定されず帰国もかなわなかった人々もおり、認定を巡って長期に渡り、日本政府と訴訟となり、裁判によってようやく認められたケースもある。日本政府から残留邦人と認められて日本に帰国しても、あまりにも長い年月、大陸で暮らしていた人々には、日本人としての記憶は薄く、言葉の壁や就労の壁が立ちはだかり、日本人としての暮らしは困難であった。また、中国残留邦人に比べれば数は少ないとはいえ、ロシア領内に取り残され、ロシア人と同化して暮らした人々も存在し、中には、本当にロシア人となって日本人のアイデンティティを捨てて生きた人もいた。

ソ連兵から帰国させると言われて騙されてソ連の強制収容所に送られた日本人は、そこで想像を絶する悲惨な生活を強いられ、実に数多くが飢えと過酷な労働で死に絶え、ようやく帰国しても、世間からアカになったなどと言われて後ろ指を指され、過酷な差別を受けた。

中国残留邦人の存在が80年代には日本の世間の注目を浴びてメディアに盛んに取り上げられたこととは対照的に、シベリア抑留者に対する戦後の補償は、あまりにも長い間、日本政府からも、ロシア政府からも見向きもされず、シベリア抑留者への補償という問題自体が、戦前戦中に「非国民」扱いされて特高警察によって拷問されて死に至らしめられた国民への補償と同様に、長年、差別感情などの中で、タブー視され、深く覆いがかけられ、隠されて来た。

仮に過酷な収容所生活のせいで発生した深刻なPTSDの影響などがあったとしても、彼らが肉体的にも精神的にも受けた苦痛に対する公のケアは全く行われず、抑留生活のために生じた苦しみは、長年、個人が心の内に抱えて耐え続けるしかなかった。そのようなことになった背景には、かつて敵軍の捕虜とされるくらいならば、自ら命を絶つべしと教えて一億玉砕を唱えた日本政府の洗脳の結果、他国の捕虜となって抑留されたこと自体を、国への一種の裏切り行為のようにみなして暗黙のうちに個人の責めに帰そうとする政府の暗黙の考えと、そういう考えに迎合して抑留者の存在をタブー視し、抹殺し、擁護しようとしなかった世間の風潮の影響が根強くあったのではないかと考えられる。

戦後強制抑留者法に基づき、シベリア戦後強制抑留者に対する政府の特別給付金の請求受付が始まったのは、ようやく2010年(平成22年)、民主党政権下のことである。しかも、すでにあまりにも多くの抑留者が亡くなった後のことで、政府の施策としては遅すぎるものであった。おそらく、民主党への政権交代が起きていなければ、未だに抑留者への補償は皆無だった可能性があると思われてならない。

だが、それよりもっと恐ろしいのは、こうして他国の領土で起きた外国絡みの事件で、対外的にも存在が否定できない人々については、まだしも真相解明の努力が行われ、補償の話が持ち上がったものの、たとえば、日本国内で特高警察によって「非国民」の罪を着せられ、拷問を受けて獄死した人々や、隣組の密告に基づき、そのような嫌疑をかけられて殺された人々の遺族などには、今ももって政府からの謝罪や名誉回復はおろか、何らの補償も行なわれておらず、真相究明の努力が一切なされていない事実である。これは非常に恐るべきことであり、日本史の深い闇であるとしか言いようがない。

話を戻せば、侵略戦争はまさに博打のような賭けであり、政府の美辞麗句と甘い儲け話に踊らされて、実現できもしない夢を思い描いて、大陸に赴いた人々は、日ソ中立条約を破ったソ連の侵攻と、都合が悪くなると国民を置き去りにさっさと逃亡した日本軍によって、騙し討ちにされるようにして二重に裏切られ、生き地獄のような環境をさまよわねばならなかった。以下は、Wikipediaの「中国残留邦人」から抜粋しただけの短い文章だが、ここに日本政府の無謀な大陸進出という無責任な夢に巻き込まれた人々が、どんな悲劇に見舞われたのか、その一端を伺い知ることができる。
 

1931年9月18日以降の満州事変後、直ちに日本は清の最後の皇帝である溥儀を担ぎ出し、旧満州(現中国東北部)で満州国をつくった。建国と同時に満州事変以前より提唱されていた日本の内地から満州への移住(満蒙開拓移民)が実行され、日本は1936年の廣田内閣の計画では500万人、実数では32万人以上の開拓民を送り込んだ。

移民が大規模になった背景には、アメリカ合衆国発の世界恐慌の影響を受けて発生した昭和恐慌によって、当時の日本の地方の農村地域は疲弊と困窮をきわめていた事にある。娘を身売りさせる家が続出し、窮乏生活を送らざるを得ない農業従事者は強い移民志向を持っていた。

第二次世界大戦末期の1945年8月に日本と中立条約を結んでいたソ連が同条約の一方的破棄を宣言し、8月9日、ただちに中国東北部(満州国)への侵攻を開始した。これを既に予測していた関東軍は民間人よりトラックや車の徴用を済ませ、列車も確保した。軍人家族らはその夜のうちに列車で満州東部へ避難できたが、翌日以降に侵攻の事実を知った多くの一般人や、遅れをとった民間人らは移動手段もなく徒歩で避難するしかなかった。国境付近の在留邦人のうち、成人男性は関東軍の命令により「国境警備軍」を結成しソ連軍に対峙した。避難民はおのずと老人や婦人、子供が多数となった。

ソ連侵攻と関東軍の撤退によって満州における日本の支配権と、それに基づく社会秩序は崩壊した。内陸部へ入植した開拓民らの帰国は困難を極め、避難の混乱の中で家族と離れ離れになったり、命を落とした開拓民も少なくなかった。遼東半島にソ連軍が到達するまでに大連港からの出国に間に合わなかった多くの人々は日本人収容所で数年間にわたり収容、帰国が足止めされた。収容所での越冬中に寒波や栄養失調や病気で命を落とす者が続出した。1946年(昭和21年)春までその帰国をソ連が許さなかった為、家族離散や死別の悲劇がここにも生まれた。この避難のさなかで身寄りのなくなった日本人の幼児は縁故または人身売買により現地の中国人の養子(残留孤児)に、日本人女性は同様に中国人の妻となって生き延びることになった(残留婦人)。


かつて日本政府が抱いた侵略の野望は、大陸諸国の人々に深い苦痛と悲劇をもたらしたのみならず、日本人にも、数えきれない悲劇をもたらした。だが、安倍晋三の主張を通して、まるでその悲劇が、何の反省もないまま、現代によみがえろうとしているかのようである。かつての歴史の反省も不十分なままに、今度は「行け、北方領土!! 目指せ、シベリア開発、日ロ経済交流の発展の夢!!」といった軽はずみなスローガンを唱えて、またもや政府が企業の尻を叩いて金儲けを目的にシベリア開発に参入させるつもりなのであろうか。

これまで政府が後押しするまでもなく、日ロ経済交流を目指した企業はいくつもあったが、結局、そういう業界が栄え、ロシア企業との密接な信頼関係を構築することはほとんどと言って良いほどなかった。それは、ロシア独特の様々な制度的弊害がビジネスの障害となって立ちはだかって来たことの結果でもある。さらに、ロシア人には歴史的に約束を守らない国民性があり、これまでプーチン大統領が会談の約束を守らなかったことも、一度や二度ではないと言われる。このような国民性は、日本人の常識から見ると、全く考えられないものであり、ロシア人の常態化したルール違反と、法外に煩雑化された法律上の手続きは、日本人の想像を超えており、日ロのビジネスの発展にとって極めて有害な阻害要因となって来た。

そうしたことに加えて、ロシアが以上に述べた通り、ソ連崩壊後も、日本人のシベリア抑留者に対して何の補償も行なっておらず、中立条約を破っての参戦という歴史の総括も行なわず、ソ連時代に抑圧した自国民や他国民への補償問題を棚上げしたまま今日に至っていることが、日本人のロシアという国に対する負の感情を醸造する大いなる原因となり、信頼関係の構築を妨げて来た。自国にとって都合の悪いことは歴史的過去であっても認めようとはせず、決してこれを謝罪することも責任を負うことも補償することもしない、このような体質の国と友情や信頼は育めないと考えるのは、日本人の自然な国民感情である。

だから、このような政治状況では、今後も、日ロ関係が活発化するとは思えず、大企業であっても、中小零細企業がこれまで幾度となく阻まれて来た壁を超えるのは困難であろうと筆者は予想する。たとえこの先、北方領土で、あるいはシベリアで、日本人とロシア人の自由な行き来が出来るようになり、共同経済開発が行われたとしても、それだけでは、ロシア人を日本人が信頼するには早すぎるのであって、それだけでこれまで培われなかった信頼関係が突如として生まれるようなことは、決して今後も起きないであろうと言える。

今回、ロシアとの信頼関係が長い時間をかけて構築されるよりも前に、北方領土や極東シベリアにおける経済協力を日本政府が自らロシアに申し出たことは、北方領土に対してロシアの統治権を認めることに等しい敗北であるばかりか、それはさらに日本人をロシアの国益のために、自国の法の及ばない領土に向けて差し出すことを認めたも同然である。自国の法の保護外に出た人間は、単なる外国人であり、いざ政変が起きれば即、難民にしかならない。

そういうあいまいなゾーンで、これら二つの国がこれからやろうとしていることは、どこからどう見ても、シベリア抑留の時代とさほど変わらない日本人に対する無責任な騙しと搾取でしかないように筆者には見受けられる。

とにかく、国際社会におけるロシアへの扱いが今後どのようなものになるのかさえ、まだ分かっておらず、ロシアへの不安材料が山積みになっている今のような時に、やれロシアとの信頼関係の構築だの、経済協力を申し出るだの、安倍の主張していることはまるで正気の沙汰ではない、と言わざるを得ない。経済協力は、領土問題に決着がつき、平和条約が締結されてから、その後、考えてみても良いことであって、それが領土返還や、平和条約締結のための前提条件のように差し出されるのは異常である。

そのようなことをやっていれば、平和条約の締結という言葉で、今後も無限にゆすられ、たかられることになるだけである。そもそも、平和条約の締結の対象外である国と、どんな協力関係があり得るのか、それ自体が笑止千万であり、平和条約の締結がなされて来なかったのには、それだけの理由があることを考慮せねばならない。にも関わらず、平和条約締結がないことを「異常」とみなして、これを日本側からの積極的な歩み寄りの努力によってのみ解決しようと主張すること自体が、すでに常軌を逸した発想であり、狂気の沙汰としか言いようがない。

そういう転倒した理屈になるのは、結局、安倍政権の本当の狙いが、ロシアとの信頼関係の構築などにはなく、要するに、カネと利権に目がくらまされて、大陸進出という悪夢に再びうなされて飛びつこうとしているだけだからである。開発、協力といった美名の裏で、領土拡張の野心を燃やし、再び、一獲千金の夢で人の心を釣り上げて、安全の保障のない危険な地域に国民を送り出し、一山築こうと考えているから、そうなるのであって、他国との友情や信頼などは騙しの口実に過ぎない。政府のそうした騙しの手口は、戦前から今に至るまで何ら変わっていないと言えよう。

繰り返すが、本当は北方領土も奪い取ってでも取り戻したいという本心を隠したままで、口先だけ友好や協力を申し出ることで、他国に味方のように近づいて行く、そんな不誠実で下心の見え透いた政策が功を奏することは絶対にない。そんな提案を受け入れる方も、提案した側にまさる悪魔なのである。はっきり警告しておくが、このような政策はしたたかに裏切られて終わるだけで、善良な国民はこの手の未来も希望もない儲け話に決して巻き込まれるべきではない。

実のところ、ロシアとの経済協力もまた、アベノミクスの失敗を糊塗するためににわかに作り出された新たな幻想に過ぎない。失敗の上塗りに過ぎないので、すぐに成果なしに行きづまるであろう。我々は、満蒙開拓団が集団自決させられた事実や、ソ連軍が日本人を強制収容所に送ってただ働きさせたという恐るべき歴史的事実に学ぶべきである。そういう過去から目を背け、新たに領土を開発するなどといった夢のような儲け話に乗った人々は、命を脅かされ、殺されて死ぬだけである。

だから、今、北方領土を材料にして、目の前に新たなフロンティアという餌をぶら下げられて、国民が見せられているのは、かつて大日本帝国の抱いた野望と同じ、大陸侵略の悪夢であることに気づくべきである。友情だとか、協力だとか言ったきれい事の甘言はみなその野望を隠すためのカモフラージュである。

シベリア抑留という歴史の清算さえできない国と、共同経済開発など絶対にあり得ないことであるが、そのあり得ない事柄を日本政府がやるというのだから、それは第二の抑留にしかつながらないのは明白である。日本政府とロシア政府の両者によって、日本国民が再び騙され、見捨てられ、シベリアで命を落とし、あるいは戦禍に巻き込まれ、命を脅かされる悪夢が再び近づいているのである。

安倍は南スーダンだけでなく、世界各国で自国民を紛争に巻き込み、殺したいのであろう。だからこそ、わざと危険な国にばかり国民を差し向けて、自ら人の命を売ろうとするのである。数えきれない人々が、このような政府の唱える偽りの夢に欺かれて命を落としたという過去の歴史の苦い教訓を、善良な国民は決して忘れるべきではない。歴史を直視せず、都合の悪い過去には蓋をして、全て無かったことにする現在の日ロ両政府が唱えていることは、共に甚だしい虚偽でしかない。彼らの語る夢は、どれもこれもむなしい偽りの幻ばかりでしかなく、彼らの行く道は、詐欺師や盗人や殺人者と同じ道であり、彼らが口先で弄する美辞麗句に欺かれて、その背中につき従った人々を待ち受けるのは破滅だけである。

悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。
しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。
(Ⅱテモテ3:13~14)


わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。
 彼らがあなたに向かって、
 「一緒に来なさい。われわれは待ち伏せして、人の血を流し、
 罪のない者を、ゆえなく伏してねらい、

 陰府のように、彼らを生きたままで、のみ尽し、健やかな者を、墓に下る者のようにしよう。
 われわれは、さまざまの尊い貨財を得、奪い取った物で、われわれの家を満たそう。
 あなたもわれわれの仲間に加わりなさい、われわれは共に一つの金袋を持とう」
 と言っても、
わが子よ、彼らの仲間になってはならない、
 あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。

 彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ。
 すべて鳥の目の前で
 網を張るのは、むだである。

 彼らは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらうのだ。
 すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。
 これはその持ち主の命を取り去るのだ。
」(箴言1:10~19)


カルト化する安倍政権――霊媒師・安倍晋三率いるオカルト政府による、国民への「呪い」と目くらましの「魔法」としての「まつりごと(祭祀)」と、偽りの人工芝・反対運動――

・ソ連の末期状態との類似性――いよいよカルト化・反社会化して、凶悪さをむき出しにする安倍政権――

安倍政権はいよいよ断末魔の状態にさしかかっているように見受けられる。この政権のやることなすことすべてが支離滅裂・あからさまな反社会的・国民蔑視・愚弄の抑圧政策になっている。

憲法改正や、緊急事態宣言など、この政権が実行を目論む凶悪な政策は、これからが本番とはいえ、あまりにも政治の劣化が激しいので、いよいよ体制の崩壊が近いのかも知れないと感じられる。まさに国家のメルトダウンが起きている。

戦後、本来ならば、もっと早くに倒されていなければならなかった体制が、そのまま温存された弊害がいよいよ誰にも無視できないほどに明らかになって、真の意味での体制転換の日が迫っていると見られる。

ソ連はチェルノブイリ原発事故後、そう長くは持ちこたえられなかった。ゴルバチョフが推し進めたペレストロイカ、グラースノスチによって世に出たスターリン時代を含むソビエト体制の暗黒時代の政府の機密資料の存在が、ソ連の体制の信頼失墜の決定打となり、崩壊を導いたことは疑いがないが、それに加えて、チェルノブイリ原発事故の悪影響をソ連政府が隠蔽し続けた悪影響も、相当に大きかったことであろう。

ソ連に限らず、理念を失った国家は滅亡する以外に道はない。戦前の財閥と天皇家の血縁と肥大化した官僚機構に支えられる現在の日本の国家体制が辿りつつある道は、古代ローマ帝国の崩壊や、ソ連崩壊を彷彿とさせる、内側からの道徳的腐敗・腐食による国家のメルトダウンである。

この政府の終わりは存外に早く来るかも知れない。今、国会を蹂躙している政権与党は、力が尽きるまでやりたい放題のことをするであろうが、彼らの拙速すぎる愚かな行動が、報われる日は来ないと思う。

景気が回復しないのに、国家公務員の給与やボーナスだけを政府がずっと引き上げ続けて、官僚のご機嫌を取っている近視眼的な策も、政府の寿命をさらに縮めるだけであろう。

福島原発事故にかかるコスト、さらにオリンピックによって生じる多額のコストも、急速な人口減少とあいまって、国家財政の赤字化に急速に拍車をかけるであろう。

ここに一つの予測を述べておくと、2020年を境に、この国の人口バランスと財政状態は目に見えて急速に悪化するものと思う。従って、公務員の給与引き上げなどは、あと二、三年もしないうちに、タブーとなるものと思う。そして、この国の行政府は、全体が、間もなく夕張市のような縮小の末路を辿ることになる。

だから、国民は、劣化する政府のまやかしの言辞に全く希望を託すことなく、今から自存できる方法を探しておくに越したことはない。遠からず、今のような政府の形態は終焉を迎えることになるだろう。そうなれば、組織や団体にすがってしか生きられない人々が、真っ先に難民化することになる。

国内の足元の土台が崩れ始めている時に、防衛費を拡大し、戦争に前のめりになっても、労働力と食糧さえまともに自給できないこの国に戦争の遂行が無理であるのは、すでに70年以上前に立証済みである。我が国には戦争に長期に渡り持ちこたえられるだけの体力も知恵もない。経済活動においても原則は同じであり、国内で需要を満たせない分、野心を抱いて海外に進出すれば、情勢の悪化に伴い、撤退を迫られたり、社員が現地に取り残されて帰国できなくなるだけである。


・リゾート法の二の舞となるであろうカジノ法案――20年と経たずに次々と破綻したテーマパークの前例――
 
さて、カジノ法(案)については、政府与党は、参議院での採決を延期するか、省略するかして、国民の目を欺き、国民感情が冷めてから実行に移せば何とかなると考えていると思われるが、現実はそれほど甘くない。

国会で拙速に法案を通したとしても、その後、カジノ法には、予想もしなかった様々な障害が持ち上がり、結果として、近道をしたはずが、最も遠回りになるだけであろう。

そもそもカジノなど、原発と同じで、いざ立地となれば、強硬な住民反対運動が起きることは目に見えている。
 
自分の住む街を、一攫千金の夢に騙されて賭けに負けた、人生のうらぶれた敗残者たちが、夜な夜な当てもなくうろつくような、恐ろしい界隈にしたいと願う住人は一人もいない。

どんなにIRに建設されるのはカジノだけではないと役人が念を押しても、住民は「今のままで十分」、「怪しげな大人たちにウロウロされたんじゃ、子供を連れて散歩もできなくなる」、「治安が悪くなり、地価が下がる」などと言って反対することだろう。

カジノ建設を巡っても、原発建設の場合と同じような、建設反対派と賛成派とによる住民同士の分断や、長期に渡る反目が助長されかねないことだけでも、すでに今から大いなる負の懸念材料である。

さて、「「巨大カジノ」で日本経済は本当に良くなるのか?」(静岡大学人文社会科学部教授 鳥畑与一 YOMIURI ONLINE 2016年11月07日 11時43分)などの論稿を参照しても、改めて、カジノを誘致して栄えた都市は基本的に世界にはないのだ、と思わざるを得ない。

カジノ大国の米国でさえ、
  


カジノによる繁栄の象徴であったアトランティックシティ(ニュージャージー州)が、カジノ収益の半減により、12あったカジノのうち、5つが閉鎖し、市経済が破綻に瀕している。ミシシッピ州の貧しい街がカジノで再生し、「チュニカの奇跡」と称賛されたカジノ街・チュニカも同様である


という状況であり、世界では希少なカジノ誘致の成功例のように言われるシンガポールでも、国内客のカジノ利用は厳しく規制されている。つまり、シンガポールのカジノは主として外国客向けで、国内客が集まらないおかげで、ようやく治安と依存症対策が保たれている様子である。

だから、もともと観光を主産業としているわけでない日本にカジノを建設してみたところで、外国客だけを最初からターゲットに絞るのは極めて困難と思われる。複合型施設というのであれば、なおさらのことである。従って、日本にIRを建設し、これを日本人客向けに経営すれば、結局、日本人の利用客を対象として見込むことになるが、この娯楽は日本人の従来の生活観・道徳観になじまないので、客足が遠のいて米国の二の舞となり、カジノは早期に破綻し、街の活性化にはつながらず、ただ治安が悪くなるだけに終わることは目に見えている。

カジノ法案は、かつてのリゾート法を彷彿とさせるが、カジノも、経営戦略においては、他の娯楽施設とそう大きな違いはないはずである。

かつてバブル期の87年に「総合保養地域整備法(通称リゾート法」が成立した。これに基づき、全国に無数のテーマパークの建設ラッシュが相次いだが、そのほとんどが、わずか20年も経たずに経営破綻したという事実に、大型娯楽施設の経営の難しさがよく証明されている。

次のサイトに掲載されているだけでも、リゾート法成立後に建設され、破綻(閉園)となった有名どころのテーマパークはこれほど数多く存在する。(紫字はすでに閉園済)。

倉敷チボリ公園の閉園や、ハウステンボスの経営破綻などは有名な例だが、リゾート法に後押しされて、国内客を当て込んで建設されたテーマパークは、その9割近くがすでに閉園となり、しかも、カジノの場合は、対象客が絞り込まれておらず、需要が明白でない上に、他の娯楽施設にはない弊害が「負のおまけ」として着いて来る。
 

長崎オランダ村(開園1983年、閉園2001年)
ハウステンポス(開園1992年、2003年破綻)
グリュック王国(帯広市 開園1989年、閉園2003年)
カナディアンワールド公園(芦別市 開園1990年、閉園97年)
志摩スペイン村(三重 開園1994年、2006年経営再建)
レオマワールド(丸亀市 開園1991年、2000年閉園)
呉ポートピアランド(呉市 92年開園、98年閉園)
柏崎トルコ文化村(柏崎市 96年開園、2001年閉園)
ナムコ・ワンダー・エッグ(1992年開園、2000年閉園)
シーガイア(宮崎 開園1994年、2001年破綻)
ワイルド・ブルー・ヨコハマ(開園1992年、2001年廃園)
鎌倉シネマワールド(95年開園、98年閉園)
富士ガリバー王国(上九一色村 97年開園、2001年閉園)
アジアパーク(熊本県荒尾市  93年開園、2000年閉園) 
チボリ公園(倉敷市 97年開園、2001年経営建直し、2008年閉園)
スペースワールド(北九州市 90年開園、2005年破綻)
新潟ロシア村(1993年開園、2003年閉園)
フェスティバル・ゲート(97年開業、2004年閉業)
ネイブルランド(大牟田市 95年開園、98年閉園)
伊豆長岡スポーツWワ-ルド(伊豆の国市、88年開園、96年倒産 )


かつてのリゾート法の反省もないままに、またぞろ過去と同じような政策を打ち出して来るのだから、よくよく過去の総括ができない愚かな政府である。

リゾート法とカジノ法案の抱える問題の類似性は、どちらもが、地元の歴史や伝統に根差した独自性のある産業の育成に力を入れず、外国からの借り物に過ぎないノウハウを使った娯楽施設を一朝一夕で建設し、短期間で一獲千金を狙うという安易な発想と、地域産業の活性化を国が主導・管理しようとする越権行為である。

早い話が、地域の活性化に名を借りて、国が大規模な建設需要を作り出して、手っ取り早く土建業者に利益を渡すための癒着の仕組みである。地元を犠牲にした利権にまみれた儲け話だから暴走しているのである。

安倍首相はカジノで雇用が創出できるなどと吹聴しているようだが、カジノを使わなければ創出できない雇用など、なくて結構である。売春宿に雇用されていることが、人にとって何の誇りともならないのと同じように、人様の不幸を踏み台にしてまで、自分だけが雇用にありつくことを、人に平気で願わせるような仕組みはこの国に必要ない。そんな「就職」がカタギの人間の人生にとって誇りとなり幸いをもたらすと思っている人間はすでに気が狂っている。

それにしても、市場原理主義もここまで行き着くいたのかと思う末期状態である。もともと金儲けが全てという価値観を教育現場にまで持ち込み、学校時代から、級友を出し抜いて、自分だけがテストで良い点数を取り、受験競争を勝ち抜いて、良い学校へ進学し、エリート官僚になり、エリート企業に就職して、上級国民の仲間入りすることだけを隠れた「国是」とするような、歪んだ教育システムを普及させ、国民の間に無駄に競争を煽った結果がこれである。

国民同士が互いを騙し合い、踏みつけ合い、食い合ってでも、人の弱みを利用して、他者を最大限不幸に追いやりながら、自分一人だけ、利益を得て甘い汁を吸い、勝ち残りさえすれば、人生の「勝者」だというわけであろう。

こんな悪魔的な競争からは、早期にリタイアするに限る。

カジノ法のようなものを放置していれば、次なる儲け話として、今度は国際的な大規模売春施設のビジネス展開やら、福島原発における廃炉作業や、自衛隊のかけつけ警護などを含めた、「現代の特攻・人材派遣ビジネス(実質的な人身売買)」などといった話も出て来よう。

戦前・戦中もそうであったが、人々の経済難・就職難という不幸を悪用して、人間を死出の旅路に赴かせる「人材派遣業(人身売買)」が隆盛を極めるのであろう。

我が国政府は、戦前・戦中も、国民の犠牲の山を作り出し、これを踏み台として、蓄財の根拠とすることにしか関心がなかったのである。その体質は今日に至るまで変わらない。

地方は、これ以上、地元の活性化という自分たちの大切な仕事を、この悪魔的な日本政府に奪われるべきではないだろう。地方の成長には、中央集権化された政府のマニュアルは必要ない。何百年間とそこに暮らす人々の間に受け継がれて来た地の利に関する知識や、伝統産業の技法や、地元の人々の自主的な暮らしの中で得られた知恵と工夫によって、生き延びる策は見つかるはずだ。それは外国から輸入することによって補いうるような紛い物のにわか知識ではないはずである。

大体、人間が自分の頭を使ってきちんと物事を考えなくなり、安易なマニュアルに頼って一獲千金の夢を目指し、それによって経済成長を成し遂げることができると考えるようになれば、そんな人間はもうおしまいであり、そういう考えの地域は真っ先に衰退して滅びるだけであろう。ギャンブルに手を出す人間も、そんな「ビジネス」に頼って産業を活性化できると考える面々も、どうかしており、共に気が狂っている。結局は両者共に同じ穴の狢で、悪魔的破滅へ落ちて行くだけである。関わらないのが一番である。


・各種の目くらましの反政府運動――SEALDsの人工芝・ネームロンダリング・政治資金規正法違反疑惑――

さて、少し遅くなったが、色んな場所で以下のビデオが拡散されていたので、ここにも貼り付けておきたい。

御用メディアと新聞がもはや人々に飽きられて見向きもされなくなってしまった中、アーティストによるこのような「抵抗運動」は、今後ももっと増えて来るものと思われる。もともと芸術には真の犠牲に裏打ちされた迫真性がなければ、決して人々に支持されることはない。

長渕剛について筆者は今は何とも言えないが、各人の抵抗がどれだけ本気であるかは、その生き様によって裏付けられるだろう。中島みゆきのように、ある程度までは、はみだし者・反骨精神のアーティストとしてかなり良い線を行きながらも、団塊の世代の代弁者として高度経済成長などの国策に沿った歌を作り、最終的には国策及びメディアと合体してしまうのか、それとも最後まで反骨精神のアーティストとして残るのか、興味深いところである。


【長渕剛】FNS歌謡祭 初出演!『魂の叫び〜乾杯』(2016/12/07... 投稿者 happy274

ただし、LITERAの解説「長渕剛がFNS歌謡祭でワイドショーや歌番組を真っ向批判! 凍りつくフジ、『とくダネ!』は長渕映像を封印」(2016.12.08.)を読むと、長渕剛は反安倍政権デモの学生団体SEALDsを支持していたようであり、この点はいただけない。

SEALDsについては、すでに色々なところで疑惑が表明されており、その中でも最も有力な説はこれが草の根反対運動に見せかけだけの「人工芝運動」であるということである。以前から当ブログでも、この学生運動は、体制側によって巧妙に仕組まれた偽りの運動に過ぎないという見解を示して来た。

特に、信仰者の立場からあえて言わねばならないことは、聖書に基づくキリスト教信仰と、組織としてのキリスト教界は全く別物であり、キリスト教界(関係者含む)は偽善にまみれて腐敗した組織となっているため、キリスト教界とその関係者から出て来る「善良そうに見える弱者救済運動」は、特に内容を疑ってみる必要があるということだ。

SEALDs代表者の奥田愛基氏の父奥田知志氏は、すでに述べた通り、ホームレス伝道という弱者救済事業に従事する牧師であるが、奥田牧師の弱者救済思想の理念をつぶさに見て行けば、それが極めて聖書から離れた、牧師にふさわしくない異端的な思想であることは、すでに記事の中で明らかにした。

そもそもキリスト教は、聖書の神の御言葉に基づく信仰による救いという、目に見えないパンを人々に紹介することを第一義的課題としており、これは経済困窮者に地上のパンを与えることを主たる目的とする弱者救済の思想や社会活動ではない。にも関わらず、目に見えないパンと、目に見える地上のパンの優先順位を逆にしたとき、それはたとえどんなに人間の目や耳に優しく心地よく響いても、もはやキリスト教ではない悪魔的な思想へと変わって行くのである。

こうした見地に立てば、奥田牧師は真の信仰者でなく、キリスト教徒に見せかけた非キリスト教思想の持主であり、愛基氏は幼い頃からホームレス伝道にのめりこむ父親の悪影響を受けて、自身が深い孤独や絶望を経験したにも関わらず、父親の活動の欺瞞を批判することなく、むしろ、これを継承し、同じ手法によって、弱者の弱みにつけ込み、救済者のような役を演じることによって、世間の注目を浴びて有名人となった。愛基氏の活動は、キリスト教のホームレス(路上生活者)伝道の手法から宗教色を除き去り、対象者を路上デモ者に置き変えただけのものである。

SEALDsはこれまで幾度も名前をころころと変えては活動を行い、現在は、Re:DEMOSと改称している。奥田氏が2011年の震災後に主宰した政治団体だけでも、TAZ、SASPL、SEALDsといくつも名称が変わっている。

これほど短期間で頻繁に名称を変えねばならない理由は不明であり、特に、SEALDsが何の目的達成もされていないのに、昨年8月15日という時期に解散した意味も全く不明であり、その解散前に、この団体に対する政治資金規正法違反の疑惑が浮上していた事実は見逃せない。

SEALDs、政治資金規正法違反の疑惑浮上…違法な手段で寄付募集や政治活動か」(BUSINESS JOURNAL 2016.06.27)などを参照。

結局、SEALDsの解散は、政治資金規正法違反の疑惑から世間の目をそらすための目くらましであった可能性があり、その意味で奥田氏の度重なる政治団体の改称は「ネームロンダリング」とも揶揄される。

筆者は当ブログにおいて、ペンテコステ運動に属する似非キリスト教の教団である日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の(牧師でもない)信者の鵜川貴範氏が、幾度も幾度も名前を変えて、経歴を詐称しながら、自分のミニストリーを開いて来た過去があることを指摘した。

鵜川貴範氏に限らず、そのような方法は、ペンテコステ運動の偽指導者の使う常套手段である。この似非キリスト教運動は、短期間で、次々と新たな「自称預言者」を生産しては、社会的弱者などを旗印に使って、お涙頂戴の物語を提示し、指導者に派手なパフォーマンスを伴う新種のミニストリーを打ち出させることで、信者から金を巻き上げるプロの宗教詐欺である。

ペンテコステ運動の指導者らは突然、どこからともなく現れて、人目を引く派手なパフォーマンスを行い、弱者救済の理念を打ち出して、人々の同情や共感を巧みに引き出しながら、その間に集金活動にいそしみ、短期間で大量の献金を募って姿をくらますのである。しかも、鵜川氏に見るように、指導者としての訓練さえ受けていないたった一人の信徒が、生涯に渡り手を変え品を変え、このような詐欺的な活動を繰り返す例もある。

奥田愛基氏の行動は、こういう偽りのキリスト教徒の用いる方法を彷彿とさせるものである。

しかも、ペンテコステ運動の詐欺師と呼ばれて差し支えない宗教指導者の多くは、社会的マイノリティの出身であったり、元ヤクザや、病者や、自殺志願者であったり、過去に何かしら不幸な体験や生い立ちを抱える「いわくつきの人間」であることが多い。

そうした人々が自分の負の体験や生い立ちを売り物にして、自らを「社会的弱者の代表者」のように見せかけ、人々の被害者意識と一体化し、同情票を得ながら、集金活動を行う。奥田氏の活動はその点もよく似ている。

多くの日本人は、弱者救済に見せかけた偽りのお涙頂戴物語を疑うことができないので、これが詐欺の仕掛けであることをも見抜けず、自分の代わりに抗議の声を上げてくれそうな誰かに安易に期待しては、資金を託そうとする。

だが、こうして自分自身は声を上げずに、今まで通りの生活を送りながら、自分の代わりに疑問を代弁してくれそうな誰かに期待を託した時点で、裏切られることはすでに決定済だと言えよう。

そのことは、川内原発の再稼働反対を訴えて当選したはずの鹿児島県知事三田園氏の「変節ぶり」からも見えて来る。同氏の変節は選挙当選直後から始まっていたようである。

【三反園ショック(上)】「原発ばっかり、答えようがない」 当選後、報道陣振り切る三反園氏…九電「元の木阿弥」募る懸念」(産経WEST 2016.7.12 07:36更新)

三反園鹿児島県知事の正体(上) 」(ニュースサイト ハンター 2016年10月11日 11:10 この他にも一連の記事あり)などを参照されたい。

同じことが、翁長知事にも当てはまる。翁長知事は「辺野古に基地を作らせない」ことを公約に掲げながらも、その行動を見れば、結局、基地建設を容認する側に回るであろうという予測を、植草一秀氏が何度も訴えている。

筆者は、これまで幾度か、沖縄の基地問題について、記事を書こうとしたが、その度ごとに思い起こされるのが、沖縄のキリスト教界におけるカルト被害者問題であった。

筆者にはどうしても沖縄の人々を一方的な被害者として描くことはできない。筆者は当ブログにおいて、上記した通り、似非キリスト教であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団において、キリスト教界において被害を受けたとする「カルト被害者らの救済活動」を主導する村上密牧師が、どれほど危険で信用ならない人物であるか、再三に渡り、書いて来た。

だが、沖縄のカルト被害者の一部は、同牧師の信用できない人柄を筆者以上によく知っていながら、それでも公然と反対の声を上げないのである。沖縄には村上氏の統制が本土以上に行き届いており、反対者は即座に報復を受けるというのが理由であった。

これを知った時、筆者は何と臆病なことかと思うと同時に、直観的に翁長知事のことが頭をよぎった。沖縄の人々は、自分たちの問題を手っ取り早く解決してくれそうな政治的リーダーに安直な期待を寄せるという受け身の生き方を未だやめられないのかと思ったのである。

リーダーに欠点があることを知っていても、それでもまだ自分ではない誰かに自分たちの「被害」を代弁してもらおうというナイーブで依存的なものの考え方をしている限り、きっとこれからも騙され続けるだろうという気がしたのである。

 これはあながち厳しすぎる書き方とは言えない。それは筆者自身が、キリスト教界において「神の代弁者」をきどる牧師やパスタ―などといった人種がどれほど不誠実で信頼ならない私利私欲にまみれた偽善者であるかを軒並み見続けて来たことから来る直観的な確信である。

政治家も宗教家も、騙しのテクニックはみな同じで、人が自分に関する極めて深刻重要な問題の解決を、自分ではない誰かに全権委任し、その人間が善意によって自分の要望に都合良く応えてくれるだろうと期待し始めた時点で、敗北はすでに始まっているのだと言えよう。

沖縄の独立という問題は、日本全体の独立とも深くつながる精神的には一つづきの問題だと筆者は考えるが、この問題が長引いている背景には、人々の弱みを利用し、依存心につけこむ悪なる権力者たちの存在があるだけでなく、そうした欲深い権力者の正体を見抜けず、彼らに自ら期待を託そうとする人々の愚かさという問題がある。

人間の真の自立は、目に見える人間のリーダーへの安易な依存や期待を捨てて、まず、自分の抱える問題を、誰にも明け渡さず、ただ自らの力だけで解決してみせるという意気込みを持たない限り、決してやって来ることはない。自分の抱える問題を他者に解決してもらおうとしている限り、その人間は自立のスタートラインにさえ立てないと思われてならない。

SEALDsにも全く同じことが言える。人々がこの団体に希望を託そうとするのは、自分にはできないことを彼らが自分に代わって成し遂げてくれるという期待からである。この団体を支援する人々の心理は、慈善事業への支持とほぼ同じで、要は特権階級による一種の罪滅ぼしである。
 
若者だから、話が巧みだから、勢いがあって、純粋で善良そうだから・・・、そんなうわべは、彼らが信用できる人間だという何の根拠ともならない。いつの時代も詐欺師ほどパフォーマンスは巧みなのである。

奥田愛基氏のように、2015年以前にはほとんど注目されていなかった若者が、何のバックアップなしに独力でメディアで注目される活動を行うことは、まず無理なのだという事実に気づかなければならない。メディアに好意的に取り上げられていること自体が、すでに十分な疑いの根拠になりうる。以下の画像は、「元SEALDS政治資金規正法違反、カンパの使途不明、収支報告非公開、資金源についての調査1」M.x.file (2016/9/21(水) )から転載したものだが、このような広告を朝日新聞の前5段に載せるには、定価ベースで1500万円の資金が必要となるという。

この不況下で、求人広告さえ有償で出せない中小企業も多い中、学生団体に過ぎないものが、このような高額な広告を出し、それが社会に容認されていること自体、随分、おかしな話であると、多くの人々はなぜ疑わないのか。こんな広告が出せるなら、SEALDsがカンパを募らなければならない必然性はもとよりないと言えよう。にも関わらず、「学生の善意と借金で運営されている」などとアピールして、しきりにカンパを募り、しかも、そのカンパさえ、政治資金規正法違反の疑いが濃厚というのだから、こんな団体のどこに透明性・信頼性があるだろうか。

よくよくダブルメッセージが大好きな連中であると思う。美しい謳い文句だけを掲げて、この国が民主主義国家であるかのように見せかけて、人々を酔わせておいて、本質的に重要なアクションが何であるかを人々に見失わせ、人の目を欺いて、正反対の結果を導くのである。

「断固、ブレない、TPP反対」などと言っていた連中と全く同じ手法である。目下、我が国の民主主義は立ち止まり、機能停止の上、死に瀕している。SEALDsが民主主義の前進の何の役に立ったというのか。言っておくが、歴代首相のすべてが天皇家の血縁だという事実だけを見ても、我が国はもとより民主主義国家ではないことは誰の目にも明白である


イメージ 1
 (この新聞広告が出せる団体は大企業に匹敵する。カンパの必要はない。)



・死者が大好きなオカルト政府とオカルト信者の安倍晋三による
真珠湾の死霊詣で

さて、この度、突然に発表された安倍晋三の真珠湾訪問について、これをサプライズ外交だなどともてはやすメディアはともかく、なぜ、今、真珠湾なのか。日本人の多くは突如、発表されたこの訪問について非常に不気味な印象を覚えている。

安倍のパールハーバー訪問は、まずは拙速なトランプ詣でに対して抗議を申し入れたというオバマ政権からのお仕置きのためのお詫び行脚の要求であった可能性が高いが、そうでなくとも、政治的に過去の出来事が引き合いに出される時には、いつでも現在の出来事と同時進行するものとして、二重のコンテクストを持つ。

安倍の他ならぬこの時期のパールハーバーへの訪問は、南スーダンへ自衛隊の派遣が行われたことなどともおそらく無関係ではあるまい。

つまり、この訪問は、これから先、自衛隊を軍隊に昇格させて「お国のために」命を捧げる人間たちを英雄化したいという安倍の野望に、米国の側からしっかり釘を刺す機会として利用されるものと思われる。もしも日本がこの先、軍国主義の復活を目指して、米国の指示に一歩でも先んじて暴走しようとするならば、何度でも同じことが起きるぞ、という警告である。

だから、安倍の今回の真珠湾訪問は、自衛隊の任務が着々と拡張されつつあることに対する米国からの牽制の意図があると受け止められる。70年以上前の日本軍の”罪過”を今再び蒸し返すことで、安倍の国家主義の暴走に釘を刺しているのである。

だが、それだけではない。兵頭正俊氏は、この訪問は、オバマの広島訪問と対を成すものであり、原爆投下に対する国際的な非難や、米国内での罪意識が高まる中で、要するに、原爆投下は日本軍の暴走を止めるためにやむを得ない措置だったというストーリーを強化し、今日の日米軍事同盟が、日米両国の双方からの合意に基づく欠かせないものであるものと見せかけるための儀礼的なパフォーマンスであるとみなす。
 

ポピュリズムとファシズム」(2016年12月8日)から引用 

「太平洋戦争における、軍事的には不必要だった広島・長崎への原爆投下は、インディアンや黒人への原罪意識と同様に、時間とともに米国の贖罪意識に深化しつつある。また、米国の若い世代では、原爆投下は不必要だったという認識が増えてきている。それを解消するために、米国の1%はオバマを広島に遣わしたのである。

その意味は、太平洋戦争は、日本の宣戦布告なしのパールハーバー急襲から始まり、広島・長崎への原爆投下によって終わった。原爆投下は、戦争を終わらせるためにやむを得ないものであった。オバマの広島見物はこのストーリー強化の第一幕なのである。

(中略)

このストーリーを完成させるためには、第二幕として日本の首相にパールハーバーを訪問させ、謝罪させなければならない。そこで初めて米国は太平洋戦争の贖罪意識を払拭できるのだ。

米国にとってはパールハーバーがあくまでも中心であり、パールハーバーによって広島・長崎を相対化したいのである。

(中略)

広島とパールハーバーを両国の首脳が相互訪問する戦略は、

1 米国の広島・長崎への贖罪意識の払拭

2 米日軍事同盟の強化

の2点から成っている。

(中略)

行き着く果ては米日軍事同盟の強化なのだ。

第一幕はすでに上がった。オバマの広島見物で日本が失ったものは大きい。いずれオバマによって拡大強化された小型核兵器を、米軍支配下の自衛隊が使う時代がくるかもしれない


こうして、「真珠湾攻撃があったから、原爆投下もやむを得なかったのだ」というストーリーが強化され、到底、つり合わない二つの出来事を「相殺」することによって、原爆投下の罪悪が「帳消し」にされるだけでなく、結局、米国の助けなしには、日本は永久に自立などできない半人前の国家なのだというストーリー立てが日米の両政治家によって流布されるのである。

つまり、日本という国は、今も昔も、己自身の力だけによって自分を正しく治めることのできない半人前の未熟な国家であり、米国の庇護なしには一瞬たりとも自存できず、それは日本政府自らが認めている事実なのだから、日本の自衛隊も、日本国民も、米国の絶えざる監視と制約の下で行動するのは当然であるという見解を、日米両国の合意事項として既成事実化し、事実上の占領状態を半永久的に長引かせる狙いがあると考えられる。

安倍自身の思想に照らし合わせても、今回の真珠湾への慰霊訪問は、おそらく本意ではなかったに違いないと思われるが、そのようなストーリー立てにチャンスを与える隙を、拙速なトランプ詣でにより、安倍が自ら作ったのである。

日本という国は、70年以上も前の「罪過」をもとに未だに精神的に脅され、ゆすられ、半人前扱いされているのであるが、ある意味では、そのためにこそ、日本の政府高官や国会が、日本会議メンバーで占められているという事実や、安倍が首相であるという事実があるのではないだろうか。

岸信介がCIAに身売りしたことと引き換えに、A級戦犯としての処刑を免れ、首相の座にまで上り詰められたのだという話はよく広まっているが、米国は安倍晋三の危険な政治思想をよく知っているはずである。

こうした事実は、日本という国をあえて「自立できない危険な国」に見せかけ、思い通りに操り、弱体化しようと考える国が絶えず行っている見えないクーデターであると考えられないだろうか。

だが、安倍晋三は、我が国政治家が、単に政治的に米国に身売りしているだけでなく、霊的・魂的なレベルでも、悪魔に身売りしているのだという事実をよく示しているものと思う。

これまで当ブログでは、米国から持ち込まれたキリスト教の異端としてのペンテコステ運動が、いかに日本のキリスト教界を堕落させたかという危険な特徴について分析して来たが、安倍晋三は、この運動の危険な霊媒師と非常に共通する特徴を持っている。

ペンテコステ運動は一応表向きにはキリスト教を装っているが、実質的には、統一教会と変わらないただの異端であり、彼らを動かしているのは悪魔に由来する偽りの霊であって、彼らはその偽りの霊を受けて語る霊媒師なのである。

聖書のたとえでは、悪霊は、人間の中に大量に住むことができることが示されている。以下に挙げる安倍首相夫人の言を通しても、安倍が関わって来た「宗教」は統一教会だけではないこと、従って、安倍晋三はもはや一つや二つだけでないあらゆる正体不明の汚れた霊どもの住処になっている可能性が高いように思われてならない。

以下の記事がどこかの新興宗教のパンフレットであれば、誰も相手にせず笑って通り過ぎるだけであろうが、首相夫人の発言だというから呆れる。
 

 「「日本の精神性が世界をリードしていかないと地球が終わる」 安倍昭恵氏インタビュー BLOGOS 2016年11月09日 11:14 以下、昭恵夫人の発言

深く考えないで」というか。何をするか考える時にも、「じゃぁ、これ!」みたいな感じで生きているので。

「そうですね。でも今はごちゃごちゃで、自分でも何してるのか、よくわかっていなくて。でも「神様に動かされてる」と思っているので(以下略)」 

「キリスト教の学校で育ったんですけど、今は別にキリスト教というわけじゃなくて、どちらかというと神道です。」   

私は、大きな自然の一部であって、“動かされてる感”がすごくあるんですよね。主人もよく言うのですが、総理大臣は努力でなれるものではなくて。」  

「そこで総理大臣になるっていうのは、“何か持ってる”“何か別の力”だと思うんですよ。「神」という言い方をしなくてもいいんだけど、なんかこう、“大いなる力”が働いていると私は思っていて。その力にある意味流されてるというか、乗っかっているのかなと、私は感じます。  」 

主人自身も特別な宗教があるわけじゃないんですけど、毎晩声を上げて、祈る言葉を唱えているような人なんですね。 」


こういう人々が「神」と呼んでいるものは、間違いなく、悪魔に由来する霊であって、この夫婦は正体不明のオカルトの「霊」に操られていればこそ、自分では主体的・能動的に物事を考えられなくなって、印象と感覚が命じるままに、受け身に流されて生きているのである。

ペンテコステ運動のようなキリスト教の異端の最たる特徴は、人間が知的・論理的に深く物事を考察することをやめて、ただ印象と直感を重視して、考えもなしに愚直な体験主義に走るようになる反知性主義にあって、その危険は、人間に理性を失わせる麻薬と同じである。だが、そのようにして理性を失っているにも関わらず、この運動の信者たちは、愚直な自分たちこそ最も賢く正しいと思い込むのであって、こうした頑なさ、高慢さは、悪魔に由来する「偽りの知恵」から来るものであることを再三に渡り、述べて来た。

その意味で、安倍首相夫妻の思想的高慢さは、まさにペンテコステ運動の信者たちと全く同じ病理的様相を呈している。物事をきちんと吟味・考察する力を失い、フワフワとした印象と感覚だけに流されて直情的・衝動的・受動的に、愚直な思いつきで生きているにも関わらず、そんな自分たちが世界で最も賢い知恵ある人間であるかのように思い込み、自分たちの指南がなければ「地球が終わる」とまで思い込んでいるのである。ほとほと呆れるとしか言いようがない。

どんな宗教を信じていようとも、こういう高慢さが、日本人の精神性のうちには含まれていないということだけははっきり言える。日本人はもともと謙遜を重んじ、決して自分自身を人前で高く評価したり、自ら勝ち誇ることを美徳としない国民性の持ち主である。

だから、上記の安倍首相夫人が述べているような思想は、明らかに、日本人の伝統的な精神性から出て来るものではなく、何か「外来の異質な思想」がそこに加わった結果である。

そして、こうした根拠のない思い上がりは、元を辿れば、大抵、悪魔が人間に吹き込んで生まれる異端思想へと行き着く。人間が自分自身できちんと物事を考えず、オカルト的な霊の言いなりになって受動的に動いていればこそ、「何か大きな力に突き動かされている」という自覚が生まれるのであり、悪魔に操られているにも関わらず、自分たちは「神に従っている」と思い込んでいるのである。

上記のインタビューの中で、首相夫人が、安倍総理が、総理にふさわしい実力もないのに、何か得体の知れない力が働いた結果、首相の座に返り咲いたと語っていることは重要である。

これは、安倍が首相の座に再び返り咲いたのが、(米国からの政治的なバックアップのみならず、)まぎれもなく悪魔的な力、オカルト的な力との闇取引の結果であることを物語っている。おそらくは、安倍はその正体不明の”霊力”を受けるためにこそ、毎晩、得体の知れない相手に向かって祈祷を続けているのであろう。そして、安倍の政治は、このオカルト的な呪いに満ちた霊力を我が国のみならず、全世界に波及させるための「祭祀」であり「儀式」なのである。

宗教に全く理解のない人々は、こうした話を笑って受け流すかも知れないが、悪魔と契約を結んだ結果、人が地上で偽りの栄光を受けることは、ハリウッドスターなどの芸能人や芸術家やマジシャンなどには極めてありがちな話である。

すでに述べた通り、悪魔に魅入られる人間には、幼少期からの暗い特殊な生い立ちがあることが多いが、安倍晋三にはその意味でも絶好の材料を持っている。これに加えて、人生のどこかの時点で、安倍自身がオカルト的な力に自分の魂を完全に売り渡し、それと引き換えに現在の立場を得ているのであろう。

悪霊から来る力を受けていればこそ、同氏の思想は反知性主義、人権抑圧の悪魔的思想に貫かれているのであって、同氏の用いる論法は、ことごとく嘘、詭弁、ごまかし、論理のすり替え、脅しなどの暗闇の手法に満ちているのである。

首相夫人の言葉によると、彼ら夫妻は、日本のみならず、全世界をも自らの悪魔的思想によって統治することを目指しているオカルト政治家ということになる。要するに、世界征服の野望に憑りつかれているのであって、彼らの言う「地球儀俯瞰外交」なるものはその野望の言い換えなのであろう。

そして、以前から書いている通り、悪魔的な思想は、常に死者の世界に非常な関心を抱いており、多くの霊媒師たちは、死者の霊と好んで交流する。

だから、安倍晋三が真珠湾に赴くのは、同氏による死者の霊への追っかけとみなせる。”英霊”に対する愛着もそうなのだが、そこには基本的に死者の霊への愛着が表れているだけでなく、もっと言えば、「自ら殺害した犠牲者の霊への尽きせぬ思慕」という、まさに犯罪者の精神性としか言いようのない異常嗜好が込められている。

以前、筆者は、安倍晋三の内心は、いや、安倍晋三だけでなく、日本政府の異常な精神性は、童話の『青ひげ』とまるで同じだと述べたことがある。『青ひげ』の童話においては、青ひげの家の秘密の部屋には、青ひげが自ら殺した数多くの妻の亡骸がうずたかく積まれていることになっている。だが、現実に、これを地で行っているのが我が国政府であり、我が国の厚労省の建物内部には、未だ70年近く前の戦没者の白骨がうずたかく積まれている。これはオカルトや創作ではなく、現実の話であり、どこにも引き取り手がなく、他に行き場がない戦没者たちの遺骨が当局に何十年間とため込まれているのである。

政府当局が、70年近く前に死んだ国民の身元も知れない白骨化した遺骸を、何十年間も公の官舎に大量にため込んでいるなどという話が、世界のどこか別の国で聞かれるであろうか?

この政府は、そういう異常なことをしておきながら、もう一方では、戦没者たちの亡骸の前に立って、さめざめと頭を垂れて空涙を流し、「二度と過ちは繰り返しませんから」などと述べて、反省したふりをしながら、犠牲者を上から見下し、人々の犠牲を利用して偽善者ぶりを最大限に発揮して、脚光を浴び、自己満足しているのである。

このようなものが真の反省とどうして言えるであろうか。我が国では、かつての軍国主義政府に逆らって特高警察に殺された人々の名誉回復さえまともになされていない。約70年前に政府が自ら殺したも同然の国民の亡骸さえも十分に弔っておらず、遺族のもとに返されてもいない。にもかかわらず、この国の政治家は、もう国内の犠牲者や、自国の戦没者はさて置いて、他国の戦没者を「追悼」するという華々しい役割を引き受けて、全国民に頭を下げさせ、自らを栄光化しようと言うのであろうか。どこまで浅ましい人たちなのか。

こうして、このオカルト政府は、自分たちが踏みにじり、愚弄し、犠牲とした人々を、死後までも半永久的に愚弄し、己が栄光の手段に変えることに、手放せない快楽を見いだし、そのためにこそ、彼らは好んでもの言えない死者を訪問するのである。生者からも生き血を吸うが、死者の栄光までも盗むのである。

こうして、一方では、口先だけで過去の「戦争の罪過」を反省したかのように装いながら、もう一方では、着々と防衛費を拡大し、自衛隊の任務を押し広げ、近々新たな戦争を起こして、どうやって自国民を犠牲にするか、機会を伺って話し合い、戦争が起こらないまでも、国民を紛争地へ送り込んで、どうやって国民の白骨をまた増やそうかという考えに胸躍らせているのである。

一体、これが青髭の異常な精神性とどう違うというのか。我が国はまさにかつてのソ連やナチスや北朝鮮とそっくりになって来ているとしか言えない。


・「風が吹けば桶屋が儲かる」――他者の弱みを食い物にして利益に変えるカルト宗教と偽善者政府とのマッチポンプ――

さて、このカルト化した政府は、死者から栄光を盗むだけでは飽き足らず、自らが国にもたらした恐るべき人心荒廃、国土の荒廃、国民に強いた犠牲に対する「処方箋」として、自分たちの偽りの「宗教」をマッチポンプとして提示する。

医者が人の病気なしには儲からないのと同様、詐欺師の政治家にとって最も困るのは、人々が自立して、彼らの助けを必要としなくなることである。だから、詐欺師の政治家にとっては、雇用情勢の悪化や、経済の貧困化など、国民の問題は山積しておいた方が良い。

だから、彼らは必ず人の弱みや、他者の犠牲を自分たちのパフォーマンスの材料として利用する。人の弱みにつけこんで、救済者のように登場し、脚光を浴び、栄光を受けようとする。彼らの政策はもともとすべてマッチポンプである。

もし他者に弱みがなければ、あえて問題を作り出してでも、彼らはターゲットとなる人間を弱体化させる。弱体化させた上で、自分たちの助けなしには生きられないと言って人を自分に依存させ、栄光を盗むのである。

安倍晋三の政治家としての手法は、人々の弱みを利用することで成り立って来た。だが、北朝鮮拉致被害者の問題もそうであるように、安倍晋三が着手して成果らしきものがわずかでも出た問題が一つでもあったか。

彼らにあずけた問題には解決がないのは当然で、こうした連中にとっては、いつまでも人を脅しつける材料として、人の弱みは永久になくならない方が有利なのだ。

こうして国民の弱みに寄生し、それを食い物とする政治家たちのマッチポンプが最後に行き着くのが宗教である。

この度、衆院でのカジノ法案の審議中、国会で般若心経を読み上げて批判を浴びたという自民党の谷川弥一衆院議員が、無駄な長広舌の中で語ったのが、カジノ法案がもたらす「負の部分」としての人心の荒廃に対する「処方箋」として宗教の必要性であった。

(「カジノ法案質問で般若心経 「採決前」6時間審議の中身」(J-Castニュース 2016/12/ 5 21:00等を参照。)
 
つまり、カジノ法などを通して徹底的に国民生活を荒廃させれば、人心荒廃現象に対する「救い」として、自ら宗教に走る人々が増えるから、宗教が儲かる、そこで政府は宗教の必要をぜひとも見直して、宗教ともっと緊密に連携していただきたい、というのが、この議員の主張であった。

自ら人心を荒廃させるような政策を推進しておきながら、「(野党のように対案もなくただ一方的に)批判するだけでは芸がない」、「我々には宗教というれっきとした『対案』がある」と言うわけである。

何ともおぞましいまでの偽善者ぶり、典型的なマッチポンプ型思考ではないか。

こういう偽善者の宗教家らにとっては、原発事故の被害を含め、国土の荒廃、人心の荒廃、国民の不幸、犠牲、弱みこそ、まさにビジネスチャンスなのである。徹底的に人を苦しめ、不幸に追いやり、犠牲にしておいて、自分たちは混乱の最中に、犠牲になった人々に優しく「救いの手」を差し伸べるヒーローを演じ、それをきっかけに人々をまた新たな抑圧の中へと閉じ込めて行くのである。

こうして、前回の"On your mark"に関する記事でも述べたように、放射能汚染などの恐怖によって人々を脅すことで、国民を自由なき牢獄に閉じ込めて支配するカルト宗教と、この宗教と一体化した政府が出来上がる。

谷川弥一衆院議員の主張の趣旨は、「カジノ法案その他その他で、この国が暗黒国家へと転落し、人心が荒廃した分は、我々宗教が受け皿になりますよ。こんな美味しい話はないじゃないですか。ですから、政府もぜひともここは一つ宗教と手を組んでですね、利益を山分けしましょう」ということに尽きる。

こんな話が国会で聞かれるということは、悪魔的宗教と政府が公然と手を結んで、祭政一致に至ろうとしている事実を示すものでしかない。我が国は、まるでヨーロッパ中世を彷彿とさせるような、暗黒国家への転落にさしかかっているのである。

この国の国民はそろそろ、この国のトップや要職の座についているのは、シャーマンと同様のいかがわしい霊媒師・詐欺師であって、彼らは次から次へと国民に目くらましの魔法(呪い)をかけては国民を抑圧し、国民が弱体化したところに偽りの助けの手を差し伸べることによって、救済者を演じながら、自らの魔術師としての仕事の需要を作り出しているだけだということに、いい加減、気づく必要がある。

彼らは、ペンテコステ運動の指導者と同じく、詐欺師であり、霊媒師なのである。彼らにとっての政治とは、自分たちのオカルト的な霊力を全国に押し広げ、波及させるための魔法としての「まつりごと(祭祀)」である。

彼らが次々と打ち出す政策は、霊媒師のお告げと同じく、決して的中することのない嘘の予言であり、彼らの繰り広げるパフォーマンスは、国民を欺くための「魔法」であると同時に、「呪い」である。これ以上、彼らに嘘と呪いの言葉を言わせないためには、彼らに口を開く機会を与えるべきではない。

安倍政権はそもそもが違憲内閣であり、この政権が実行することは、ことごとく規則破りであり、彼らの権威は、現実に立脚しない幻の上に築き上げられたものに過ぎない。安倍政権とそれに追従する人々は、害ばかりもたらす凶悪な政策を次々実行し、国を徹底的に破壊し尽くす前に、憲法違反の罪に問われ、公職から追放されなければならない。

だが、偽りの指導者とそれにつき従う従者たちは、自分たちが詐欺師であることをよくよく分かっていればこそ、その正体が告発される前に、先手を打って、憲法を改正し、人権を抑圧し、自分たちを告発する可能性を持つ人間(国民)を根こそぎ抑圧し、滅ぼそうとしているのである。

王妃エステルが大臣ハマンに立ち向かったように、自分の全ての利益と引き換えにしてでも、これらの連中を弾劾する人々が出て来なければならない。


イゼベルの霊がもたらす男女の秩序転覆――男性化した女性たちと、非男性化された男性たち

・「偽りの期待を持たせて人を欺きながら、梯子を外し、騙された相手を嘲笑する」(ダブルバインド)イゼベルの霊の典型的な心理操作のテクニック

さて、話題は少し変わるようだが、以前の記事の末尾で紹介したEden Mediaの警告動画では、興味深い事実が告げられている。それは「イゼベルの霊」が、女性の男性化と、男性の非男性化という転倒した現象を人々にもたらすという指摘である。

本稿では、ペンテコステ運動に関わった信者たちと接して来た筆者自身の実体験を通して、この問題について、より踏み込んで考察していきたい。
 


 
 
筆者は、ペンテコステ運動とはイゼベルの霊に率いられる弱者救済を装った秩序転覆(キリスト教破壊)運動であると見ており、イゼベルの霊とは、端的に言えば、グノーシス主義の秩序転覆の霊を意味する。

なぜイゼベルという女性の名がついているかと言えば、この霊は神に対する人類(霊的女性)の側からの反逆の霊であり、より低い次元では、男女の秩序を覆すフェミニズムの思想を指しているからである。ペンテコステ運動にも、その思想的な基盤に、フェミニズム神学なるものが存在することはすでに確認した。
 
このように、イゼベルの霊とは、男女の秩序を覆す霊、もっと言えば、神と人類との立場を置き換えて、被造物に過ぎない人間が、己を神として自分自身を拝み、栄光化する人類の自己崇拝とナルシシズムの霊であり、他者の心の傷をきっかけに人の心に侵入し、ターゲットを抑圧的に支配する。当然ながら、この霊は、ターゲットが自分よりも強い男性であっても、弱みを握ることで、思い通りに支配して行く。

さて、「男性の非男性化、女性の男性化」という本題に入る前に、まずは最初にイゼベルの霊の心理的支配のテクニックについて述べておきたい。

以下の図は、以上の動画の画像に筆者が注釈を書き加えたものであるが、これはイゼベルの霊がターゲットとする人間を、自分に都合の良い「箱(マトリックス)」に閉じ込めた上で、様々な心理的な駆け引きを行うことによってターゲットを自分の支配下に束縛し、搾取・抑圧する手法を構造的に表している。
 
 
  
イゼベルの霊とターゲットとは、何らかの心の傷(コンプレックスや負の記憶のトラウマ)を通じて強固なソウル・タイによって結ばれている。この霊は一見、人の心の傷に優しく寄り添い、これを癒してやるように見せかけながら、ターゲットに近づいて行く。その偽りを見抜けず、心を開いたターゲットは、彼女の偽りの優しさに依存するようになる。だが、イゼベルの霊は、ターゲットの心の傷を癒すどころか、より押し広げ、ますます重症化して行くことで、ターゲットの弱みを半永久的に握って、自分から離れられないように仕向ける。「傷」を頼りに結ばれるこの「絆」が絶ち切れない限り、ターゲットはイゼベルの霊によって永久に搾取され、人格がどんどん弱体化して行くことになる。

イゼベルの霊は、愛や同情や優しさに見せかけて、自分がターゲットを搾取し、不当に抑圧していることを気取られないように、ターゲットを自分の用意した「マトリックス」(=イゼベルの霊の管理と統制が行き届いている閉鎖的な組織や宗教団体やサークル等)に閉じ込め、ターゲットが得られる情報が非常に偏った一方的な内容に制限されるように操作する。

情報こそ、人間が物を考え、自由を希求する上で最も有力となる手掛かりなのであり、人間へのマインドコントロールは、まずはターゲットとなる人間から自由な情報源を奪い、ターゲットを社会的に孤立化させて、得られる情報を制限することから始まる。ターゲットとなる人が客観的な情報を自由に幅広く入手した上で、自分自身の頭で、何が正しくて何が間違っているのかを自主的に吟味し、物事を疑いながら批判的に考察しながら判断を下す自由と考察能力を失った時点で、マインドコントロールの基礎はほぼ完成している。

イゼベルの用意する「箱(マトリックス、子宮)」はそのためにこそ存在する。つまり、この霊は、ターゲットがまるで子宮の中にいる赤ん坊のように、彼女からの栄養補給がなければ、自分では何もできないような、依存的で手足を縛られた状態にするのである。この霊は、ターゲットを何かの閉鎖的な組織や団体に閉じ込めることで、ターゲットが誰とでも自由に交流でき、様々な情報を自分の意志で広く入手できるような環境を奪う。経済的な自立を奪うことで、行動を制限することも少なくない。そして、この霊は、自分の気に入った一方的で都合の良い偏った情報だけを、ターゲットに「正しい情報」として与え、それ以外の情報を一切、「間違ったもの」として受けつけなくなるように教え込むことで、ターゲットが不都合な情報に接するのを禁じ、マインドコントロールを施す。

多くの場合、宗教団体がターゲットを閉じ込める「マトリックス」の役割を果たすことになる。イゼベルの霊は、「神」の概念を悪用することによって、自分にとって都合の良い情報にしかターゲットが接触しなくなるように仕向ける。彼女は、世話好きで、慈愛に満ちた優しい助力者、敬虔な信者や、宗教指導者の姿に仮装し、自分こそが人生の正しい指南役であるかのように、ターゲットの前に現れてその心を掴み、「神」や「宗教」に名を借りて、ターゲットが自分の与える情報や助言だけに依存して生き、彼女の思う通りの人間になるよう操作して行く。こうして、イゼベルの霊が、ターゲットを閉じ込めるための「子宮(マトリックス)」が完成する。

もしこの霊の閉じ込めがあまりにも乱暴で性急であれば、誰でも自分が操作されている危険に気づくであろう。そこで、イゼベルの霊は、ターゲットが自分は騙され、搾取されているだけなのだとは気づかないように、様々な偽りの「餌」を与えることで、ターゲットを懐柔しながら、アメとムチによって心理的駆け引きを繰り広げる。ある時は、ターゲットをおだてあげ、立派な指導者的な立場などを用意してやることにより虚栄心をくすぐり、ある時は、か弱いふりをして、泣き落としや、同情を引き出す作戦に出、ある時は、性的な魅力をアピールし、思わせぶりな態度を取ることで、恋人の代わりを演じ、ある時は、何か偉大な奇跡のような事柄を約束し、心を揺さぶる。そのようにして、ターゲットを様々な「餌」を使って自分に引きつけておきながら、いざターゲットがそれに騙されて近づいてくると、冷たく突き放して混乱させる。そして、その混乱した姿を見て、ターゲットを侮蔑し、恥をかかせ、それはターゲットが悪かったからそうなったのだと言っては、罪悪感を持たせ、態度の改善を求めて、自分から離れられないようにして行くのである。
 
このように相矛盾するメッセージを同時に投げかける心理作戦(ダブルバインド)に陥れられたターゲットは、イゼベルの霊の絶えず豹変する矛盾に満ちた行動にどう反応すべきか分からず、立ちすくんでしまい、彼女への同情心や、自分が慰めてもらいたい願望から、彼女を憎み切ることもできず、離れられないまま、対処に悩み続けることになる。そのように悩みながらこの霊と関わりを続けること自体が、すでにしかけられた罠にはまっていることを意味するのである。

さて、このようなマインドコントロールのテクニックを用いて人を思うがままに支配するイゼベルの霊の持ち主が、必ずしも、女性であるとは限らない。なぜなら、男性であっても、イゼベルの霊とソウル・タイを結べば、その人の人格は、やがてイゼベルの霊そっくりになって行くからである。

たとえば、筆者は以前の記事で、Kingdom Fellowship ChucrhのDr.Lukeによる信者への心理的駆け引きの手法についてすでに触れた。同氏には、青春時代において、将来の結婚を前提とする交際をしていた女性から結婚を求められた際に、曖昧な態度で身をかわし、返答を先延ばしにしたことがきっかけとなって、交際が破局したという事件が起きたことを、同氏自身が、自らのメッセージにおいて明らかにしていたことにも触れた。

Dr.Lukeはそれがきっかけで神を求めて回心に至ったと証するのだが、その後の人生でも、全くこれと同じパターンの行動を繰り返し、今度は、KFCという宗教団体を舞台として、そこへ集まって来る信者に対して、以上の女性に対して行ったのと同じ心理的駆け引きを繰り広げているのである。すなわち、同氏は、ブログやインターネットや動画や様々なツールを使って、いかに自分が霊的に高邁で魅力的な存在であるか(そこには性的な意味合いも当然ながら含まれる)をしきにりアピールしながら、人望を集め、その心理的トリックを見破れずに、同氏を魅力的な宗教指導者のように思って期待して近づいて来る信者らに対して、ことごとく「梯子を外す」ような行動に出て、彼らを失望させ、恥をかかせ、その信者らの混乱した様子を見て、「自分は何も約束していないのに、彼らは勝手に期待してぶら下がって来た。そういう依存的な心に問題があるのだ」などと言って彼らを侮蔑し、嘲笑するということの繰り返しであった。それでも、KFCに残り続けているのは、Dr.Lukeのそういう残酷な性格をよくよく理解した上で、殴られても殴られても夫のもとを去らない妻のように、何かの弱みがきっかけとなって、不当な扱いに完全に抵抗する力を失ってしまった信者たちだけである。

このように、何かの約束を口にしておきながら、それを守らず、あるいは思わせぶりな態度を取って人の心をひきつけておきながら、相手を突き放すことによって、ターゲットを混乱させ、その心を傷つけ、侮辱するという不誠実な行為は、典型的なイジメのテクニックである。こうした行動は、たとえば、Dr.Lukeが一方的に杉本徳久氏を提訴すると語った行動にも、よく表れていただろう。同氏は杉本徳久氏からの非難に遭遇した時、これに対してきちんと反論しようとはせず、誰も依頼していないにも関わらず、自ら勝手に筆者の名前を持ち出して、同氏に提訴の予告を行った。ところが、多くの関係者に絶大な影響を及ぼしたにも関わらず、同氏は、全く理由不明なまま、長期間に渡り、その宣言を実行に移そうとせず、ただ巻き込まれた関係者だけが大変な迷惑をこうむるという事態が起きた。Dr.Lukeがこの不誠実な行動に対して弁明らしき言葉を公に発したのはずっと何年も後になってからのことである。当時、筆者が同氏の行動の不誠実さを責め、どんなに対立している相手に対しても、そのような行動を取るべきでないと指摘し、回答を迫った時のDr.Lukeの反応は、まさに返答を先延ばしにすることで梯子を外し、自分の発言の影響に巻き込まれた全ての人間に恥をかかせ、追い詰めるものでしかなかった。しかも、KFC外の人間に対してはこのように曖昧な態度を取っておきながら、Dr.Lukeは元KFCの信者でありながら自分を批判する人間に対しては速やかな告訴に及んだのである。当時、同氏の行動の意味を正確に理解できる者はなかったであろう。

このようなことはすべてイゼベルの霊が行う心理的な駆け引きをよく物語っている。Dr.Lukeの行動は、自分の潔白を証明するために行われたものではなく、ただKFCという団体を通じて自分に接触して来た信者たちが、偽りの期待や、もしくは、何かのこじれた事件を通して自分自身につながり、半永久的に離れなれなくなることで、苦しめることを目的とするものであった。同氏は常日頃から特に何も事件が起きないまでも、他人にいたずらに期待を持たせておいて、約束したものを決して与えないことによって、いつまでも信者たちが自分から離れられなくなるように仕向けていたのである。

若い時分に、Dr.Lukeのこうした行動の背後にある不誠実さを見抜いた上で、同氏に対する希望を完全に捨てて、同氏の元を早々に去った女性は、その意味で、慧眼であったと言えよう。その女性に信仰があったのかどうかは知らないが、それに引き換え、これまで何十年間もDr.Lukeの人柄を観察して来たにも関わらず、今日になってもまだ、心理的なトリックを見抜けず、Dr.Lukeの信奉者となってKFCに束縛されている信者たち以上に愚かな存在はいない。むろん、彼らは何かの弱みを担保に取られていればこそ、不誠実な指導者といつまでも癒着を続けねばならない状況に陥っているのである。

このようなことは、村上密牧師のカルト被害者救済活動の場合にも、同じように当てはまる。村上牧師の人柄が、その外見とは裏腹に、全く信頼できない不誠実なものであることは、約14年前に鳴尾教会で同氏が引き起こした事件によって証明されている。村上牧師は、Dr.Lukeが公然とキリスト教界に反旗を翻すことで"ワル"をきどり、その挑戦的な態度で人気と注目を集めたのと同じように、キリスト教界に恨みを持つカルト被害者を集めて、裁判を通じてキリスト教界に戦いを挑むことで、自分自身を正義の味方のように見せかけたのである。

だが、その正義の味方としての立ち振る舞いも仮面に過ぎず、この牧師のもとに身を寄せた信者の中でも、裁判による解決に至るのはごくわずかでしかなく、裁判にも至らないケースが水面下に数多く存在し、真に解決を得られる信者は稀であった。さらに、鳴尾教会に対する訴訟に見るように、村上牧師自身が、スラップ訴訟としか言いようのない勝ち目のない裁判を自ら教会にしかけて、敗訴する側に回っている。そのように、問題解決の見込みがほとんどないにも関わらず、偽りの期待を持たせることによって信者たちを自分のもとに引きつけ、かつ、反対者をひどく中傷することで、自分自身の不誠実な行為の犠牲者となった人間を愚弄し、笑い者にするというのは、Dr.Lukeの行動とほとんど変わらない狭量さである。このような指導者が自らの配下にある者たちを守ることができないのは一目瞭然であろう。

だが、そうした特徴は、Dr.Lukeや村上密牧師といった個人に限ったものではなく、ペンテコステ運動全体の特徴でもある。天声教会のケースでも、KFCと全く同じように、教会という団体そのものが、指導者層が自分にとって都合の良い情報だけを一方的に信徒に信じ込ませるための「マトリックス」となっている。指導者自身も、社会から隔絶されたこの閉鎖的な環境に束縛されて、偏った物の見方しかできなくなっているが、信者たちもそこに束縛されている。

KFCや、天声教会や、カルト被害者救済活動のすべての例に共通するのは、彼らが指導者を中心に自分たちにとっての安全地帯である何かの「マトリックス」を作り、そこに閉じ込められている者だけが、正しい信仰の持ち主であって、自分たちの活動に反対する人間は皆、悪魔の手下であるかのような虚偽を流布している点である。さらに、既存のキリスト教界に対して挑発的に振る舞い、自分たちには従来のクリスチャンにはない正しさがあるかのように主張して、自分自身を正義の味方に見せかけ、常に反対者を侮辱したり嘲笑するようなメッセージを投げかけることで、批判を封じ込め、自分たちの優越性を主張しようとしている点も同じである。

彼らのメッセージ内容はほとんど全てが自分たちの正しさと優越性を誇示するためのものとなっている。それは彼らの「マトリックス」がいかに優れて正しいものであるかを、関係する信者たちに信じ込ませ、他の教会は堕落しているので決して行かない方が良いと思わせて、接触を禁じ、情報を統制した上で、自分たちのもとに永遠に束縛するために使われるマインドコントロールの手段である。

こうした指導者たちが、本当は、自分自身がまるで牢獄のような環境に閉じ込められて、自由を失っているにも関わらず、牢獄の外にはもっとひどい世界が広がっていると思わせることで、また、自分たちの活動に与しない反対者を徹底的に吊し上げ、公衆の面前で侮辱・嘲笑することによって、彼らの「マトリックス」の異常性に人々が気づいて脱走するのを阻止するという手法は、かつてソ連が取っていた政策にそっくりである。ソビエト・ロシアは、一国社会主義路線を取っていた間、世界から孤立していたが、戦争や計画経済の失敗によって国が荒廃し飢餓状態に陥ってもなお、自分たちの政策が世界に先駆けて優れたものであるという思い込みを捨てることなく、「西側の資本主義国では地獄絵図のような風景が広がっているが、それに比べれば、我が国はまるでユートピアだ」などと偽りの宣伝を行うことによって、国民の逃亡を阻止し、国外への亡命者に対しては「人民の敵」として大々的なバッシングを行うことで見せしめとし、国外逃亡に対してはこれを「罪」として死刑に相当する厳罰を科していた。共産主義という絶対にやって来ない幻を「餌」としてぶら下げることで、無いものを担保に、徹底的に国民を騙し、搾取し、支配していたのである。
 
なぜ以上に挙げたようなペンテコステ運動の指導者たちは、自己の教会を「マトリックス」化して、自由なき牢獄に自ら閉じ込められた上、他の者たちをも同じ牢獄に閉じ込めようとするのだろうか。そこにどんな目的があるのだろうか。

第一には、指導者が信者たちを食い物にして栄光を受け、金もうけをしたいという欲望があるだろう。イゼベルの霊は名誉欲の塊である。だが、彼女の内心は非常に空虚なので、自分一人だけでは何事も果たせず、常に手下となってくれる信奉者を必要とする。支持者や信奉者たちを搾取し、彼らから盗むことによってのみ、彼女は栄光を受けるのである。

この霊は偽りの希望を信者たちに持たせて彼らを欺いている間、信者たちから栄光を盗むだけでなく、金銭(献金)や労働(奉仕)をも搾取する。すでに述べた通り、ペンテコステ運動の指導者たちは、その出身を調べて行くと、その大半が、単なる「自称牧師」や「自称カウンセラー」などの、まともな教育訓練をほとんど受けていない、ただ勝手に指導者として名乗り出ただけの、ほとんど成り上がり者と言っても良いようなにわか牧者たちである。中には、明らかに問題のある環境に育ち、非行(場合によっては殺人さえ)などの眉をひそめる行為を繰り返していたり、回心してクリスチャンになった後でも、成熟した社会生活を送った経験がないに等しいような場合も珍しくない。このように、詐欺師と言っても過言ではないような不誠実かつ不適格な人間が、「聖霊のバプテスマ」を口実にして、何かの超自然的な霊力を誇たというだけで、無から一足飛びに宗教指導者として栄光の座に就き、短期間で、自分のミニストリーを開き、信者たちを集めて大金を巻き上げるのである。

こうした指導者は、(詐欺師はみなそうであるが)大胆で厚かましくパフォーマンスが巧みで、人の心の弱点を見抜いてそれを利用する技に長けているので、最初のうちは、弱者救済などを口実にして、既存のキリスト教界を勇敢に非難してその問題点をあぶり出し、悪代官をやっつける正義の味方のように振る舞い、人々の抱える問題に寄り添うことで、救済者のように振る舞い、注目を集め、感謝され、信頼され、期待されるかも知れない。

詐欺師は、無いところから幻に過ぎない栄光を引き出すために、他人の持っている栄光を盗むしかなく、その第一歩は、既存の秩序を引きずりおろして転覆させて、権力の空白地帯を作り出すことから始まる。彼らは従来の体制の不備を突き、それを転覆させる改革者のように装って現れ、その斬新で奇抜で挑戦的なパフォーマンスに圧倒された愚かな人々が、歓呼して彼らを支持し、そうした信者たちからさらに搾取して、自分の勝手気ままに支配できる団体(ミニストリー)を作り上げるのである。

だが、以上のようなペンテコステ運動の指導者たちは、突如としてどこからから現れ来て、一瞬、人々の注目をさらうものの、人間関係の結び方、行動があまりにも未熟で幼稚であり、不誠実かつ挑戦的なために、そのうち多くの人たちから相手にされなくなり、仲間内でも分裂し、孤立化して行くことになる。そうなると、何かしら一国社会主義路線のようなものが出来て、反対者も増えて来るので、信者の離散を食い止めるために、ますます彼らは疑心暗鬼に陥り、他の団体に対する敵意をむき出しにしながら、より厳しく情報を統制して引き締めをはかり、自己の優位性をしきりに強調して、信者を引き留めるしかなくなる。最後の一人が離脱するまで、自分の縄張りの外にいる信者たちを敵視・非難・断罪しながら、「自分たち(だけ)が正しい信仰の持ち主である」と言い張り続けるのであろう。指導者の不誠実な正体が早々に見抜かれてメンバー全員が離脱すればまだ良いが、そうならないうちに、指導者がいよいよ自分の正体が気づかれそうな段階になると、自らが責任追及されることを恐れて、人民寺院事件や、戦中の日本がまさにそうであったように、信者たちを道連れに集団的な心中ような悲劇的最期に向かうこともあり得る。そうなると、まさに「盗み・殺し・滅ぼす」という悪魔の意図が達成されることになる。
 
 
男性の「非男性化」と女性の「男性化」――イゼベルの霊が生み出す卑怯で軟弱化した男たちと尊大で厚かましい女性たち

さて、話を戻せば、筆者自身の目から見ても、ペンテコステ運動に関わる信者たちには、「女性の男性化」、「男性の女性化」という現象が顕著に見られた。
 
もっと卑近な言葉で説明するならば、この運動を特徴づけるのは、「男性の上に立ち、男性を思うがままに操ろうとする傲岸で不遜な女性たち」と、「そうした女性たちの尻に喜んで敷かれ、彼女たちの助けなくては何もできないほどまでに軟弱化した女々しい男性たち」であった。
 
ペンテコステ運動に関わる女性信者たちは、外見的には、非常に女性らしく、たおやかに、敬虔そうに、純粋そうに見えるかも知れない。以前、筆者は学生時代に遭遇した(後には著しいトラブルメーカーとなった)ペンテコステ信者について記事に記したことがあるが、彼女の場合も、その外見には、いずれそういう厄介な事態が持ち上がると予想させるものはなく、かえってある種の純粋な美しさのようなものさえ見て取れたものだ。その後、ペンテコステ信者たちとの関わりにおいて、筆者はこうした純粋そうに見える外見的な美が、この運動に関わる信者たちの多くに共通する特徴の一つであると分かった。

ペンテコステ運動に関わる女性信者たちは、一見、率直で、信仰熱心で、全てのことをあけっぴろげに語り、人の弱さに対しても敏感で、困っている他人にはかいがいしく寄り添う術を心得ており、その同情心溢れる行動や、親切心は、女性らしさや、内心の謙虚さの証のように見えるかも知れない。信仰生活においても、彼女たちは人助けに熱心で、自分が直面している問題や、様々な事柄についての印象を隠し立てなく語るので、それを信頼の証であるように誤解してしまう人もあるかも知れない。

だが、もう少し深く関わりを続けて行くと、そのぱっと見のたおやかさ、愛らしさ、優しさ、柔軟さとは裏腹に、彼女たちは内心では非常に頑固で、融通が利かず、しかも、一度、何かを思い込んだらどんなに周囲が止めても自制がきかないほどまでに猪突猛進で、その判断は、非常に偏っており、直情的で、非論理的で、一言で言えば、暗愚であり、何事も深く考察せず思いつきや印象だけで判断し、周囲の理解やサポートを度外視して、自分勝手に進んでいき、それにも関わらず、自分の判断に絶対的なまでの信頼を置いていることが分かるだろう。

彼女たちに何かを思いとどまるように説得するのは非常に困難である。なぜなら、彼女たちは、自分は他者よりも物事がよく分かっており、霊的に目が見えているのに、他者には自分ほど霊的視力がないから、自分の考えていることを理解できないのであって、そんな可哀想な彼らには、自分が逆に物事を教えてあげなければいけない、と考えているからだ。こうして彼女たちは、他者からの忠告を軽んじ、思い込んだ方向へまっしぐらに突き進んで行く。その勢いは止めようもないほど強引で、呆れながら見守っているしかない。すると、最後になって、やはり、彼女たちの確信は誤りだったのだということが事実として判明する。だが、それに巻き込まれた人たちは大変な迷惑をこうむるのである。

一言で言えば、ペンテコステ運動の支持者たちは、男女を問わず、大変なトラブルメーカーである。しかし、彼・彼女たちは、霊的な慢心に陥っているため、内心では自分を他者よりも賢いと思っており、自分がトラブルを引き起こしているとの自覚はない。彼らの自分は霊的に目が見えているという思い込みは、内心のコンプレックスの裏返しとして生まれる反知性主義から来る。

すでに述べたように、ペンテコステ運動の信者たちの中には、高学歴の信者は少なく、どちらかと言えば、マイノリティや、社会的に冷遇されて来た立場の信者が多く、女性信者たちの多くも、ごくごく平凡な主婦であったり、普通の人々であり、立派な学歴や、専門知識や、エリート的な職業を誇示して、自分は賢いとか、一般大衆に抜きんでた存在であるなどと言えるような人々はこの運動にはあまりいない。

だから、彼らは一見、自分たちは平凡な人間で、とりたてて賢いわけでもなく、特技があるわけでもないと振る舞っているが、その謙虚さも、真の謙遜ではなく、謙遜に見せかけた傲慢であり、彼らは謙虚そうな外見とは裏腹に、内心では、ひそかにあらゆる「知」を嫌悪し、憎みながら、無知である自分が最も賢いと考えているのである。

そのような考えが生まれる理由は、この運動の支持者らが、偽りの「霊」を受けていることにある。すでに述べた通り、ペンテコステ運動を率いる霊は、グノーシス主義的な秩序転覆の霊、人類の自己崇拝・自己栄化・ナルシシズムの霊である。この霊の特色は、まず反知性主義である。なぜなら、この霊の起源は、サタンが人類に吹き込んだ偽りの知恵に由来するからである。ペンテコステ運動が反知性主義的(別の言葉で言えば、体験主義)である理由は、まさにここにある。

なぜペンテコステ運動が体験重視なのかと言えば、それはこの運動が、もともとあらゆる知性(による考察と検証)を憎んでいるからである。この運動においては、何の論理的な裏付けも検証もなしに、信者たちが見せかけ倒しの奇跡や、安易な受け狙いのパフォーマンスに欺かれているが、そうなるのは、この運動に関わる信者たちがもともと深く物事を自らの頭で考察し、自分自身の知性によって検証することを馬鹿にし、嫌悪しているからである。こうした現象はペンテコステ運動を率いる反知性主義的な霊が引き起こしている霊的盲目である。

ペンテコステ運動の体験主義は、悪魔から来る偽りの知恵
であって、その起源は創世記において、エバが悪魔にそそのかされて、何が正しく、何が間違っているのかを自らの頭で考察・検証することをやめて、ただ感覚と印象だけに身を任せて、自分にとって美しく、好ましいと感じられる禁断の実を手に取って罪に堕落した時に、彼女に吹き込まれた偽りと同じトリックである。

悪魔は、決して信者たちに何事もきちんと考察・検証させず、ただ感覚と印象だけに従って、自分にとって好ましいものを選び取るようそそのかす。その上、そうした愚かで自己中心な行動によって、「神のようになれる」と吹き込むのである。今日も、ペンテコステ運動の信者たちは、何も考えずに自分にとって好ましいと思われる体験に安易に身を任せることで、自分が「神のように賢くなった」と偽りの高慢を吹き込まれているのだが、そんな思い上がりが、キリストの御霊から生まれて来ることは決してあり得ない。


ペンテコステ運動の信者たちは、内心では反知性主義的で、知性そのものを憎んでいる。彼らは、知性があるから、自分は賢いと考えているのではなく、「霊」を受け、何かの神秘体験を味わったから、自分には霊的視力が与えられたと思い込んでいるのである。彼らが「知性」だと考えているものは、その実、自らの欲にそそのかされる「愚かさ」であって、「霊的盲目」に他ならない。だが、その霊は、反知性主義的な高ぶりの霊であるがゆえに、それが愚かさに過ぎないことを気づかせず、むしろ、一番愚かな者に、「自分は一番賢く偉い」などと思い込ませるのである。


この反知性主義は、コンプレックスの裏返しでもある。もう一度、創世記で、悪魔がアダムとエバを堕落させるために欺いた時に用いた心理的トリックを振り返ると、悪魔は人類に向かって、「神は不当にあなた方(人類)の目から知性を隠して、知性を自分だけの専売特許として独占することによって、偉く賢い存在となっているのだ」などと思わせたことが分かる。悪魔は人類に対して、「あなた方は不当に教育(知)を受けられなかったがゆえに、未だ愚かさの中にとどめおかれているのであって、神のあなた方に対する扱いは不当である」という(神に対する)コンプレックスを植えつけたのである。

ペンテコステ運動の信者たちは、低い社会層の出身であることが多いと書いたが、彼らの中には、幼少期から満足な家庭環境がなかったために、心傷つき、あるいは低い社会層の出身であるがゆえに冷遇され、差別されたり、回心前には、少年時代からの不良であっていたり、非行に走っていたり、果てはヤクザになったりした者もある。こうした社会層の出身者には、たとえ無意識であっても、自分の生い立ちへの引け目があり、特に、「自分たちは貧しかったがゆえに不利な立場に置かれ、無学な状態に留め置かれ、十分な教育を受けられなかったために、こんなに愚かになってしまったのだ」というコンプレックスと恨みが心に存在していることが多い。そういう恨みは、特に、高い教育を独占することによって、有利な就職をし、高給にあずかり、「貴族」のごとく支配層となっている知的エリートに対する恨みとして心に潜んでいる。

その無意識の恨みと、被差別感情があるゆえに、彼らは常に自分よりも弱く、問題を抱えた人たちを周りに集めて、人々の救済者のように振る舞いたがるのであり、男性信者、男性指導者であれば、自分よりも知的な女性が目の前に現れた時に、コンプレックスゆえに彼女らを自分に対する大いなる脅威と感じ、敵愾心をむき出しにしたりするのである。

ペンテコステ運動の信者たちは、たとえ無意識であったとしても、いつまでも社会の底辺の敗残者とみなされたままでいることには我慢がならないという怒りと復讐心と、それでも、社会的弱者が知性において勝負しても知的エリートに決して勝つことはできないという確信から、自分たちを見下し、踏みつけにして来た知的エリートを出し抜くために、知性によらず、神秘体験を高く掲げることによって、エリートを凌駕し、復讐を果たそうと試みているのである。それは、彼らを導く霊がさせていることである。このようなことを全て認識した上で、この運動に入信する信者はいないであろうが、たとえ信者たちが認識していなくとも、この運動の根底に流れるものは、反知性主義を掲げることによる知的エリート(最終的には人類、神)に対する復讐である。

だから、こうした運動に関わる信者たちが、愚かな者こそ一番賢いと思って、一切の知的考察を退け、ただ感情と印象だけですべての物事をおしはかるような暗愚な行動を、「知」として誇っている背景には、自分は十分な教育の機会を不当に奪われて社会において冷遇されて来たがために、愚かさの中に閉じ込められて生きるしかなかったのだという恨みの念と、その劣等感ゆえに知性を軽んじ、嫌悪することで、あらゆる知的なものに対して優位に立ち、勝ち誇りたいという復讐心が潜んでいるのである。

筆者はむろん、この国の(あるいは世界の)知的エリートと呼ばれる人々の誇る知性が、必ずしも正しいものだとは思っていないし、彼らが高い教育を財力によって独占している状況もあるべきとは考えない。多くの国々では教育は無償化の方向へ進んでおり、それが世界的な流れであって、我が国もそうならなければならないと考えている。だが、たとえ、すべての人々が高い教育を受け、今とは比較にならないほどの知性を手に入れたとしても、まことの知恵はただ神にのみあり、人類にはどちらを向いても、正しい知恵はないのである。人間の知性にはいたずらに人を高ぶらせる効果がある。今日の知的エリートもまた歪み、病んでいる。だが、それでも、ペンテコステ運動の信者たちの知的エリート主義に対する反発から生まれる反知性主義がいただけないのは、たとえそれがどんなに表面的には、社会構造の歪みから生まれるやむを得ない反発であるように見受けられたとしても、その根底には、神に対する恨みに起因する、人類と神への挑戦という恐るべき性質が隠されているからである。特に、ペンテコステ運動の信者たちは、自らの無知や愚かさを「知」として誇ることで、内心では、悪魔の知恵を振りかざして神の知恵に挑戦しているのである。

こうした特徴のために、ペンテコステ運動に関わる信者たちは、うわべは柔軟で謙虚そうに振る舞っていても、内心では頑固で融通が利かず、一旦何かを思い込むと、周囲のどんな説得にも耳を貸さず、誰に対しても、自分の方が物事がよく見えていると思い込み、その思い込みに基づいて、他者を思い通りにコントロールしようとするのである。

だから、この運動に関わる女性信者たちは、外見がどんなに女性らしく見えたとしても、男性的なまでに猛烈なパワーを発揮してリーダーシップを握り、旋風のごとく周りを巻き込みながら、あらゆる物事を自分の思い通りに進めようとする。

そして、これと引き換えに、この運動に関わる男性信者たちは、軟弱で、意志薄弱で、女性たちからの助けがなければ何もできないほどまでに臆病で無責任な卑怯者となって、上記のような信者たちの言いなりになって、その掌で転がされ、彼女たちの命令に引きずられて行くのである。

このように「男性化した女性」と「非男性化された男性」との転倒した秩序は、たとえば、KFCで隠れてメッセージを語っていたBr.Takaこと鵜川貴範氏とその妻直子氏の関係性にも顕著に見られた。二人の内で主導権を握っていたのは、明らかに妻の方であった。直子氏の高圧的で恫喝的な物言いの前には、Br.Takaのみならず、Dr.Lukeもまるで忠犬のごとく従っていたのであった。

ペンテコステ運動に関わる男性たちが、このように大胆不敵な女性たちに屈従するのは、彼らの内面が空虚で、劣等感に苛まれ、自己が傷ついているためであって、彼らには真のリーダーシップを取れるだけの自信と力がないのである。こうした男性たちには、支持者に誉めそやされ、他者を押しのけて優越感に浸る以外には、自信の源となるものがない。そして、他者から何かを盗むことだけを生き甲斐としている。

筆者は、ペンテコステ運動(だけに限らないが)の信者たちが、勝手に人のメールを転送したり、他人のブログ記事を自分が思いついたもののようにメッセージで利用したり、聖書や先人たちの著書を無断印刷して大量に配布したり、これを自分の作品のように自分のブログで著作権表示もなしに縦横無尽に引用したり、改造する場面を幾度となく見て来た。その結果、こうした剽窃は、盗みなのだという結論に筆者は至っている。

彼らは、自分に近づいて来る信者から栄光を盗むだけでなく、手柄を盗み、思想を盗み、夢を盗む。特に、人の望みを奪って、他者を失望させ、隅に追いやっておきながら、自分だけが脚光を浴びて、すべての栄光を独占することで、気に入らない他者に対する圧倒的な優位性を誇示することが、彼らの最大の生き甲斐であり、よすがである。

この人々は内心が空虚なので、人から盗む以外には、自己の自信と力の源となるものが存在しない。彼らが力強く、大胆に、目を輝かせて、立派そうな態度を取り、雄弁なメッセージを語るのは、イエスマンの支持者に囲まれて誉めそやされ、持ち上げられている時か、教師然と人を上から教えている時か、他者を批判して引きずりおろしている時か、自分よりも弱そうな誰かに支援者のように寄り添い、人の弱みを巧みに聞き出しては内心で自分の優位性を確認して満足している時か、あるいは、自分の偉大な超自然的な力を誇っているような時だけである。

彼らは、人に正体を見破られ、おべっかを受けられなくなり、捧げてもらうものもなくなり、盗むものがなくなり、自己の優越性が失われると、完全に心弱くなって力を失ってしまう。彼らは自分が栄光を受けることのできる舞台には、好んで出かけて行くが、いざ自分が不利な立場に置かれ、人に非難されたりすると、途端に臆病になり、まともな反論一つもできずに、仲間を見捨ててさっさと逃亡し、自己弁護や反論の仕事を支持者たちに任せきりにしながら、自分は影に隠れて陰湿な復讐計画にいそしむことも珍しくない。

多くの場合、ペンテコステ運動のリーダーたちは、あまりにも自尊心が傷つきやすく、臆病で、ナイーブなので、普通の人々であれば、公然と反論できるような些細な疑問や批判にさえ、まともに立ち向かう力がない。それはただ自尊心が傷つきやすすぎるためではなく、内心では、自分が詐欺師だという自覚があるので、反論できないということもあるだろう。

こんなリーダーだから、男性であっても、自分や、配下にある人間を、各種の脅威から力強く守ることもできず、仲間が傷つけられても、我が身可愛さに、自分だけ難を逃れることを最優先して逃亡することしかできない。要するに、彼らは聖書のたとえにある通り、群れを守らない雇われ羊飼いなのであり、羊を食い物にして栄光を受けることだけが目的で、敵の襲来を受ければ、真っ先に羊を見捨てて逃亡するような、勇気と潔さのかけらもない、男らしさを失った、見栄と自己保身だけが全ての、卑怯で臆病な牧者なのである。

だから、そういう臆病で見栄っ張りで自己中心なリーダーの周りには、自然と、同じような取り巻きだけが残ることになる。そのように臆病でずるくて身勝手な人々が、自分たちの弱さ、欠点、醜さには目をつぶって、互いを誉めそやし、自分たちを高く掲げて、神に等しい存在とみなして自画自賛し、自分たちに逆らう者は「悪魔の手下」とみなして中傷し、追い払い、気に入らない他者を呪い、裁きや、破滅の宣告を下すのであるから、目も当てられない有様となる。もうこうなっては、男性らしさ、女性らしさ云々というレベルの話ではなく、人格が荒廃して狂犬のようになって人間らしささえ失っていると言った方が良いだろう。

ペンテコステ運動とは、現実の人生において、社会的に低い立場に置かれ、冷遇され、様々な弱さや屈辱感や劣等感を抱える人々が、地道な努力によって自己の弱さを克服することなく、また、真に神により頼み、信仰によって強められることによってその弱さを克服しながら歩んで行くのでもなく、自分自身の弱さからは目を背け、手っ取り早く、悪魔的な力を手にすることによって、栄光の高みに上り、自分を踏みつけにした人々を見返すための、霊的ドーピングのようなものである。

この運動に関わる信者たちは、自己の真の状態から目を背けて、偽りの神秘体験によって自分が飛躍的に偉大になったかのように錯覚している。そして、リバイバルなどと言った偽りの夢と、自分は神に油注がれた偉大な預言者であって他の信者たちとは別格の存在であるという思い込みに基づいて虚栄に生きているので、そのような目くらましの現実逃避に生きている期間が長くなればなるほど、人格が弱まり、現実の様々な問題に勇気を持って自ら直面しながら生きる力がなくなって行く。

彼らは常日頃から、宗教の世界に逃げ込み、誰もが立ち向かわなければならないような現実の諸問題との接触を避け、自分がいつでも人から賞賛を受け、決して憎まれ役や悪役になって名誉を傷つけられたり、対立に巻き込まれることもなく、ヒーローとなって活躍できるような、安全で夢のような幻想の舞台を、弱すぎる自己のための延命集中治療室として用意している。彼らはその「マトリックス」にあまりにも長期間引きこもっているため、精神的には手足をもがれたも同然の状態であり、その救命室から一歩でも外に出ると、もう自分では生きられないほどに弱くなっている。

現実世界においては、そんな彼らの弱さのために、多くの場合、こうした指導者らの家庭は深刻な危機にさらされている。夫婦仲が悪かったり、配偶者をよそにして信者との霊的姦淫にふけっていたり、子供たちが病に倒れ、自殺に追い込まれていたりするが、それにも関わらず、こうした指導者たちは、自らの崩壊しかかった家庭や、孤独に悩み苦しんでいる(あるいは死にかかっている)家族をかえりみようともせず、自分一人だけ脚光を浴びる舞台に立って、立派な教師然とメッセージを語り、人々の注目と拍手喝采を浴びて満足していたりする。最悪のケースでは、子供たちが自殺に至っても、その事件を「神が信者としての私に与えたもうた信仰の試練」などと言って美化・正当化し、自分の宗教活動の異常さに気づくこともなくさらに突き進んで行く有様である。

筆者は、異端の宗教はみな弱肉強食であり最終的には子殺しへと結びつくと述べて来たが、このような域まで達すると、信者が支払った代償も大きすぎるので、偽りに気づいて後戻りすることもほぼ不可能であろうと思う。ペンテコステ運動が信者に与える影響とは、このようなものなのである。どうしてそんなものが正常な信仰と呼べようか。

ところで、筆者の考えでは、真の男性らしさというものは、自分を傷つけられたり、脅かされたりする時にも、忍耐強く耐えしのびつつ、苦難に力強く抵抗し、言うべきことはしっかり言って反論もしながら、自分を守り、同時に仲間を励まし、希望を持ち続ける力にこそある。

真の男性らしさとは、人からいわれなく誤解されたり、非難されたり、評判を傷つけられたり、反抗されたり、あるいは突如、襲来する敵と戦いになって傷を受けても、自分と自分の配下にあるものを最後まで力強く勇敢に守り抜くことができる強さにこそある。この強さは、ただ単に肉体的な強さを意味するのではなく、何よりも精神的な強さを意味する。だが、その強さは、己のためにあるのではなく、自分よりも弱いものをかばい、声なき者の声を代弁するための強さである。だから、真に男らしい人間は、自分が憎まれ役になって泥をかぶることを厭わず、誤解されること厭わず、自分の栄光を愛さず、傷つけられても力づくで報復しない。このような強さと忍耐こそ、真の男気につながる賞賛に値する美徳ではないかと筆者は考えている。

真に完成された「男らしさ」は、人間にはなく、人類の救いのために、あらぬ嫌疑をかけられ、いわれなく誤解され、憎まれて、十字架において死に渡されることによって、人類の反抗を耐え忍ばれたキリストにこそ、最もよく表れているのではないかと思う。キリストにこそ、神は男性に本来的に与えられた理想的な忍耐力を余すところなく表されたのではないかと筆者は考えている。その忍耐力とは、自己の名誉や、自己の評判や、自己の安全を守るために、自己の圧倒的な強さを他者に見せつけ、他者を力づくで排除してでも、自分の正当性を主張するというものではなかった。むしろ、自分を理解しない者、自分を誤解する者、自分を非難し、自分に石を投げ、嘲笑する者のために忍耐し、また、自分の愛する者、自分の信じる者のために、自分自身を完全に投げ出して犠牲にし、愛する者が真に自分を理解して振り返ってくれる時まで、誰にも何事も押しつけることなく待つことのできる力であった。

むろん、このような完全な忍耐と自己犠牲は、キリストにしか提供することのできないものであり、神がついておられればこそ、御子の正しさが証明されるのであって、人間が神に代わって自己犠牲することで他者を救うことはできないし、それによって自分の正しさを証明することもできないであろう。だが、我々は、キリストを模範として、そこから学ぶことはできる。キリストは聖霊を受け、神の力を持っておられたにも関わらず、それを自己の強さや優位性を他者に見せつけて、他者を圧倒して排除する目的では用いられなかった。キリストの力は、自己の正当性を主張するためではなく、神の栄光を証するために、他者を生かすために用いられ、ご自身はその力によって武装することなく、自分自身を誇示することもなく、むしろ、徹底的な弱さの中を通らされることによって、ご自身ではなく、神に栄光を帰されたのである。

その行動を見れば、ペンテコステ運動の信者たちの目指している目的が、どれほどキリストの示された模範からほど遠いものであるかが分かるであろう。この運動は、神に栄光を帰さず、キリストを証しない。むしろ、神を口実として、人類が己を神以上に高く掲げ、自己を栄光化し、自分自身を「神」として崇拝することを正当化する。この運動は、キリスト教に名を借りていても、その本質は全くキリスト教ではない異質な思想であり、そこでは、劣等感や心の傷や怨念によって癒着した人々が、キリスト教界を仮想敵として団結しながら、聖書の御言葉に基づく真の知恵ではない、体験主義という偽りの知恵を掲げて、キリスト教に戦いをしかけ、怨念と反知性主義によって、クリスチャンを引きずりおろして、その代わりに自分自身を高く掲げるのである。

彼らは常に仮想敵を作っては、自分たちは敵に囲まれ、不当に攻撃されていると言って騒いでいる。その仮想敵は、主にキリスト教界を指しているのだが、一体、それほどまでにキリスト教界を非難し、攻撃し、侮蔑せずにいられない彼らの恐怖と疑心暗鬼はどこから来るのであろうか。それは、彼らの内心の拭い難い恐怖と劣等感――根源的には悪魔の恐怖と屈辱感――に由来する。自分たちの卑怯さを重々内心では分かっており、自分たちはいつか罪のゆえに必ず裁かれ、その裁きはすでに決定済であるという確信あればこそ、彼らは絶えず恐怖に怯え、自己正当化のために、キリスト教とクリスチャンに有罪宣告せずにいられないのである。彼らに裁きを宣告するのが、聖書の神であり、キリストの十字架であり、クリスチャンの証であればこそ、彼らは自分たちを訴える者を早々に取り除き、消し去ろうと、今日もキリスト教界を敵とし、キリストの十字架を敵とし、クリスチャンを敵として非難しながら、「バラバを赦せ!キリストを殺せ!」と叫んでいるのである。どうしてこんな運動がキリスト教の一派のわけがあろうか。


韓国キリスト教(ペンテコステ運動)のシャーマニズム化の危険―霊媒師と相違ない偽りの牧者と信徒たち

・韓国キリスト教(ペンテコステ運動)のシャーマニズム化の危険

ところで、以前に天声教会のことに触れたので、ここで少しばかり、韓国のキリスト教、中でも韓国キリスト教の中で特に勢力を伸ばしている韓国のペンテコステ運動の独特の特徴について補足しておきたい。韓国のペンテコステ運動には、日本とは異なる独特の歴史と形態がある。それは韓国という国が辿って来た歴史とも無関係ではないと思うが、韓国キリスト教(以下、主として全てペンテコステ運動を指す)には、必ずしも日本のクリスチャンにとって(世界のクリスチャンにとって)決して好ましいものではない異教からの影響が強く見られると筆者はみなしている。

ペンテコステ運動については、日本、韓国を問わず、異端であると筆者はみなしていることはすでに述べたが、中でもとりわけ、韓国におけるペンテコステ運動には、シャーマニズムの強い影響を受けていることが様々な指摘から読み取れる。

掲載元のPDFを見つけることができなかったので、別サイトに転載された内容を引用するが、たとえば、渕上恭子著「韓国のペンテコスタリズムにおける『祈禱院運動』の展開―キリスト教土着化論の考察―」(南山大学南山宗教文化研究所懇話会、2010年10月)という興味深い考察においては、韓国のキリスト教におけるリバイバルの発生時期と異端の発生との関連性、また、韓国キリスト教の興味深い成り立ちが説明されている。
 

韓国・朝鮮のキリスト教史において、1907 年の大復興會運動に始まって、国家が危機に瀕し大きな社会変動に直面する時、熱烈なリバイバルが沸き起こってきたが、これらのリバイバル運動と連動しながら、キリスト教史の節目節目で種々の「祈禱院運動」が現出してきた。民族の危機にあって、宣教奇蹟と謳われる韓国キリスト教の急成長を牽引してきた大復興會運動と、「祈禱院運動」を担った異端キリスト教や新興宗教、さらにはシャーマニズム化したキリスト教が、各々の信仰形態を流入させ合って、今日の韓国キリスト教の基本的性格を形作ってきたと考えられる。


引用は最小限にとどめるので、詳しくはご自分で本文を読んでいただきたいのだが、この考察から分かるのは、韓国キリスト教界においては複数回の「リバイバル」が起きた時期があること、そのリバイバル発生時期は、大体、国家が存亡の危機に脅かされた時期に重なっていたこと、また、そうした「リバイバル」の発生の陰には、初期の異端である「祈祷院運動」などのような疑似キリスト教的な神秘主義的な異端の発生が常につきまとっていたという事実である。

何より興味深いのは、「国が存亡の危機にある」という危機感が、韓国の「リバイバル」の発生の土台となったという指摘である。なぜなら、「自己が脅かされている」という危機感は、これまで当ブログで述べて来たように、グノーシス主義の発生にはうってつけの土壌だからである。

おそらくは全世界で「リバイバル」の発生時期と神秘主義的な異端の発生は常に並行しており、両者の境界は極めて見分けがたいのではないかと思う。上記の考察からも分かるのは、韓国でも、リバイバルが起きると同時に、神秘主義異端の様々な潮流も隆盛を極めたという事実であり、さらに、韓国におけるペンテコステ運動は、初めから正統な教義と異端の二つが見分けがたく混合し、さらにそこにシャーマニズムなどの土着の民間信仰の影響も合わさって、キリスト教と非キリスト教的な要素が混合して生まれたものであり、韓国キリスト教はこの独特の成立過程のために混合の性質を否定することができないものとなっているということである。

なお、上記の考察以外にも、今日の韓国キリスト教の基本的性格が、シャーマニズムに大きく影響を受けており、非キリスト教的民間信仰と切り離せない関係にあることは、他の場所でも指摘されている。

韓国キリスト教には、早天祈祷などの「祈祷」を特別に重んじる習慣がある。彼らの「祈祷」への熱中は、日本人の常識を超えるものであり、特に、韓国人のペンテコステ運動の信者は、祈りを通して聖霊と交わることにより、自分に超自然的な能力が付与されるとみなし、熱心さの表れとして、文字通り、朝から晩まで祈祷に没頭し、現実生活が送れなくなっているほどである。

しかしながら、こうした異常とも見える熱烈すぎる「祈祷」の習慣も、もとを辿れば、特に早天祈祷などは、非キリスト教的な他宗教の習慣に由来するものであるという。

以上の考察によると、韓国キリスト教の早天祈祷の習慣は、韓国最初のリバイバルの立役者である吉善宙牧師(Kil,Sun-Ju:1869~1935)が、キリスト教徒になる前に入信していた朝鮮民族伝来の神仙思想である仙教の習慣を取り入れて始まったものだという。
 

その際、吉善宙が仙教に帰依していた時分に、仙門では降神の時間とされている夜明けに祈禱をしていた習慣が、キリスト教徒となった後までも引き継がれたことにより、朝鮮のキリスト教で早天祈禱が行われるようになったのである。このようにして、古代朝鮮の仙教で降神の方法として行われていた早天祈禱が、吉善宙牧師の宗教遍歴を介して、韓国キリスト教に入り込んでくることとなった。


このように、今日の韓国キリスト教のあり方には、儀式的な側面においても、他宗教の影響が見られ、さらに、韓国キリスト教の根本には、シャーマニズムが欠かせない要素として存在することが様々な場所で指摘されている。たとえば、<随筆>◇韓国文化のシャーマニズムパワー◇ 広島大学 崔 吉城 名誉教授(東洋経済日報 2009/11/13)から抜粋する。
 

私は学校で教育を受けるにつれてシャーマニズムを遠く避けるようになり、批判的になった。そしてクリスチャンになった。多くのキリスト教会はシャーマニズムを迷信として扱った。しかし、シャーマニズムは消滅するものではなく、キリスト教会の核心部分において信仰として生き残っていることが分かった。多くのキリスト教会が土着化する中でシャーマニズム化する現象が起きているのである。教会の中で病気治療のための祈りなどはシャーマニズムと変わりがない。


この著者は幼い頃からシャーマニズムに接し、その後、シャーマニズムを離れてクリスチャンになったが、韓国のキリスト教を振り返ると、まさに韓国キリスト教のシャーマニズム化が起きているとしか言えないと結論づけるのである。

さらに、「キリスト教受容における韓日の比較 (A comparative Viewon the Reception of Christianity in Japan and Korea)」(朴 正義(Park Jung-Wei) 圓光大学校 師範大学 日本教育学科副教授 日本語教育学科長)では、韓国の土着の信仰であるシャーマニズムの世界観が、韓国人のキリスト教の受容と理解にある程度、役立ったことを肯定的に評価しつつも、シャーマニズムは韓国キリスト教の信仰生活のあり方に必ずしも良いとは言えない大きな影響を及ぼしている事実を指摘する。
 

四、韓国におけるキリスト教とシャーマニズム

 キリスト教、特に改新教の韓国伝来期において、衰退した仏教・儒教はキリスト教に対抗する力はなく、唯一対抗する力をもっていたのは巫俗信仰シャーマニズムだけです。すでにお話いたしましたように、巫俗信仰は、韓国民衆の中に深く根を下ろした民衆の現世利益をかなえる唯一の宗教といえます。しかし、この巫俗信仰が意外にも、韓国民衆のキリスト教理解に大きな役割を果たしたのです。<中略>

 シャーマニズムは本来汎神論ではありますが、しかし全体の霊界を支配する最高神が存在するという観念をもっています。韓国において古くから〔ハン〕という語がありますが、これは天を意味する語で、また唯一とか偉大という意味も含んでいます。このハンに韓国語の人格的な尊称であるニム(様)を付け、つまりハンニムとなりますが、これは天の神様とか唯一神または偉大な神の意味です。さらに、このハンニムの音を分けハヌニム・ハナニムと呼んでいます。いずれにせよ宇宙を支配する最高神で、この神が雨を降らし収穫を左右する神と信じられており。祈雨祭を捧げる対象の神となっています。韓国において、儒教と仏教がともにこの神の存在を認めております。

  そして、これは全知全能でこの宇宙の支配者であるキリスト教の唯一神を容易に理解させる助けとなっており、さらに、キリスト教は天主の意味としてこの名称(ハナニム)を使用することによって、キリスト教の神に対する民衆の違和感を取り除いています。最近ではハナニムがハヌニムと区別され、キリスト教の独占物のように使われていますが、元来は韓国シャーマニズムの最高神の名称です。また、シャーマニズムがもっていた雑霊邪鬼とこれとは区別されるハナニムの存在は、キリスト教の神と天使・サタンの世界の理解を早めるのにも役立っています。


このように、シャーマニズムの世界観が土台となって、韓国民衆のキリスト教への理解と受容が促進されて来たのは事実であろう。だが、以下の引用にあるように、韓国教会とシャーマニズムとの接近はそれだけにとどまらず、教会は自ら積極的にシャーマニズムを取り入れることによって韓国人の共感を呼びおこし発展してきた事実があるという。著者はシャーマニズムとの接近の結果として、「韓国キリスト教のシャーマニズム化」が起きたこと、つまり、現在の韓国のキリスト教自体がシャーマニズムに大きな影響を受けて成立していることを認めている。

見ようによっては、こうした事実はクリスチャンにとって極めて危険なものである。なぜなら、たとえ世界観が似ていたとしても、シャーマニズムを導く「霊」は、聖書における神の聖霊とは全く別の霊に由来することが明らかだからである。そこで、キリスト教とシャーマニズムの混合が、キリスト教に良い影響を及ぼすことはまずありえない。韓国キリスト教には何かの異変が起きていると考えるのが妥当であろう。

しかしながら、以下に見るように、ここで「シャーマニズム化」と呼ばれている現象は、具体的には、信者が自己の魂の平静さを失って、一種の「神がかり状態」のような熱狂と狂乱に陥った状態で祈祷を捧げるなど、今日の世界各国におけるペンテコステ運動が異常だと非難されている点とさほど変わらない。特に、そのような祈祷を現世利益を求めて行うことが、韓国シャーマニズムの特徴であるのだと著者は言う。
 

 また、韓国教会の祈祷会に、特に世界で初めて韓国で聞かれたとされている早朝祈祷会に参加すれば、信者たちが一種の陶酔状態の中で個人個人が大声で自己の救いを求めている光景にでくわします。そして、祈りの言葉のほとんどが、現世利益を追求するものです。これは、日本の教会で見られるような静かな祈りの光景とは全く異質のもので、同じ宗教とは思いがたいものがあります。韓国キリスト教は、自らのシャーマニズム性を否定しますが、「韓国のキリスト教は、厳密な意味においてシャーマニズムと対決し精算しなければならない問題点が多い」と、キリスト教者自らが言わざるを得ないように、韓国キリスト教のシャーマニズム化は否定できないでしょう。
  以上のように、韓国人の原宗教的要素であるシャーマニズムは、韓国人がキリスト教を受け入れるにおいて、障害とならずむしろキリスト教理解の助けとなっており、そして、キリスト教はシャーマニズムを取り入れることによって韓国人の共感を呼びおこし発展してきたと言えます。

今日、日本に存在する韓国系の教会でも、このような「信者たちが一種の陶酔状態の中で個人個人が大声で自己の救いを求めている光景」は見られる。むろん、それは必ずしも韓国キリスト教だけの特徴とは言えず、ペンテコステ運動自体に共通する特徴だと言えるのだが、それでも、韓国のペンテコステ運動には、世界のペンテコステ運動と比べても、とりわけ現実逃避的な性格が強い様子が見受けられると筆者は考えている。

なぜなら、キリスト教における常識的な見解においては、信者はすでに聖書の信仰に立って自己の救いを得ているわけだから、改めて自分の救いのために祈る必要はない。信者が様々な困難に直面する時などを含め、日々、信者は神に具体的な助けを求め、信仰生活において祈りることが必要であるとはいえ、その祈りは、必ずしも、教会の礼拝堂や、祈祷院にこもってしかなされ得ないものではなく、日常生活の様々な場面で、信者は様々な用事をこなしながら、心の内で自ら神に祈ることはできる。さらに、祈りと同じほど重要なのは、信者が家庭や、社会において、信仰を態度で表しながら具代的に行動して生きることである。

ところが、信者が自分がすでに得た信仰的事実に基づいて実際に行動することよりも、「大声で自己の救いを求めて」教会や祈祷院にこもって祈り続けることを優先する韓国クリスチャンの姿には、信仰に基づいた現実的な行動よりも、ただ祈りを通して、すべてを神に解決してもらいたいという受け身の姿勢、あるいは、祈っているうちに何か超自然的な現象が起きて、自分が直面していた問題が劇的に消失してほしいとでも言うかのような、他力本願で現実逃避的な願望が非常に強く表れているように筆者には見受けられる。

このような韓国ペンテコステ・キリスト教徒のあまりにも熱心かつ長時間に渡る祈祷への没頭には、韓国人信者たちを現実生活から引き離そうとする何かしらの良くない願望が表れているように筆者には思われてならない。このような祈祷に没頭し続けている限り、信者は家庭や社会から引き離され、クリスチャン以外の人々の間で信仰を表明する機会を失い、現実の諸問題に自ら向き合いながら、現実を力強く生きて行くことはできなくなるであろう。しかも、その祈りの内容が、現世利益を求めるものであれば、なおさらのこと、自己中心な内容のために、祈祷は社会との広い接点を失い、ますます内向きになる結果になりかねない。

日本における韓国系のキリスト教会では、実際に、早天祈祷会から、夜の断食祈祷会などまで、朝から晩まで祈祷が行われているわけであるが、そのように信者が家庭や社会で現実生活を送ることを妨げるほどまでに祈祷に熱中することは、果たして正常と言えるのであろうか、現実逃避でないと言えるのかどうか、筆者は深く疑問に思う。さらに、その祈祷が、「キリスト教のシャーマニズム化」と評されるのであれば、そもそも何の霊と交信しているのか分からない祈祷の効果は薄いというよりも危険ではないかと思われる。
 
このように、韓国キリスト教は、その成立過程で、シャーマニズムや他宗教や異端思想の影響を強く受けているという複雑な事情を持ち、そうした歴史ゆえに韓国キリスト教と異教との境界線は極めて分かりにくいものとなっている。

だから、このような韓国ペンテコステ運動を導く霊が何であるのか、それについては警戒が十分に必要であると思う。これまで筆者は、ペンテコステ運動がグノーシス主義的・東洋思想における母性崇拝の霊を基調とする疑似キリスト教であることを指摘して来たが、この異教的な基礎は、原始宗教であるシャーマニズムにも通じるところがあるかも知れない。

特に、シャーマニズムには、巫女(女性だけでなく男性も)のように、霊媒のような存在が必要とされる。人々は特別な力を持つシャーマンを通してお告げを聞いたり、厄除けをしてもらう。そのような「霊を受ける器」としての霊媒の存在は、ペンテコステ運動におけるカリスマ指導者の役割にも非常によく似ていることを思わせる。

「牧師」という名で呼ばれるために疑いが生じにくくなっているだけで、特別に神の霊を受けたとして超自然的な力を誇示したり、神がかり状態となって理解できない言語を話し続けたり、預言と称して正体不明の霊のお告げを語るペンテコステ運動の指導者は、本質的にはシャーマニズムと同じ霊媒師なのだと考えるのが適切ではないかと筆者は考える。
 
韓国キリスト教に限らず、ペンテコステ運動の基礎は、原始宗教を含めた異教的な信仰にあり、ペンテコステ運動そのものがキリスト教に仮装したシャーマニズムだとさえ言えるかも知れない。

少なくとも、韓国キリスト教が明らかにシャーマニズム化しているという危険な特徴や指摘を見落として、信徒が教会行事を全て正しいものと考えて没頭していれば、おそらく、その信者は現実における家庭や社会での生活からますます遠く引き離され、ありもしない夢のようなお告げや祈祷に熱中し、現実感覚を見失って行くだけであろう。

ペンテコステ運動は、それ自体が、悪い意味での宗教的「阿片」であり、目くらましのための、まやかしの信仰である、と筆者は考えている。この運動に接触した信者は、現実生活に起きる諸問題に勇気を持って直面しながら、これを解決して行く力を失い、むしろ、自分を哀れんで現実のあらゆる問題から逃げ出し、神に他力本願でな期待を託すという受け身の生き方に転じる。このような現実逃避運動にどれほど没入してみたところで、その信者は、人生の貴重な時間を失って、ますます人格が弱くなるだけで、現実の諸問題に立ち上かう知恵と勇気を得ることはないであろう。
 

・女性を男性の「被害者」とみなすことで、男女の秩序を覆そうとするペンテコステ運動の異常性――天声教会のメッセージから

さて、このような韓国キリスト教の独特の成り立ちと性質を踏まえれば、こうした教会のどこに警戒すべき危険があるのかも理解できるだろう。筆者がKFCの姉妹教会である天声教会のあり方について深刻な危惧を覚え、いくつかの記事を記したのも、こうした事情があるためである。

天声教会においては、教育訓練の欠如したパスタ―が講壇に立って信徒を教え、教会を拠点に信徒の結婚生活を侵害するようなあるまじき生活を送っているという問題があることを指摘したが、それに加えて、同教会には、祈祷への現実逃避的な熱中を含め、韓国ペンテコステ運動につきものの、およそ正常とは考えられない様々な危険な特徴が見受けられる。

天声教会のメッセージの主題を見ただけでも、同教会のメッセージ内容はペンテコステ運動のすべての危険な特徴を踏襲していることがよく分かる、すなわち、➀地上的な豊かさを求めるご利益信仰に信者の関心を引きつける手法、②悪霊との目に見えない戦いを極度に強調することで、信徒の心に恐怖と疑心暗鬼を植えつけ、教会指導者への忠誠を要求する手法、さらに、KFCにも共通して見られたように③荒廃と破滅の預言によって、教会の外の世界は荒廃と衰退の一途を辿り、教会しか安全地帯はないと信徒に思わせることで、教会に囲い込んで行く手法、④信徒の心に罪悪感と被害者意識を植えつけることで支配の手がかりとする手法、などがある。いくつか目についたタイトルを挙げておく。

大地が喜んで実りを結ばせるために(創世記1:24-31) 主日礼拝2部 2016年11月20日(Sun)
ダビデに仕えた勇士たち - 登録された三十勇士と除外されたヨアブ(2サムエル記23:18-39) 2サムエル記講解説教 2015年11月19日
悪しき者に占拠された都の中で働く御国のスパイ達(2サムエル記15:24-37) 2015年9月21日
「サタン 偽りの言葉巧みな二等兵(ルカ10章17-20節)」 主日礼拝2部 2015年10月18日
イゼベルを為すがままにするなかれ(黙示録2:18-29) 金曜徹夜祈祷会 2016年9月2日(Fri)
世界の荒廃の預言 - 全ての人は等しくなり格差は破壊される(イザヤ24:1-13) 이사야 강 해설교 イザヤ書講解説教 2015年11月18日

➀は繰り返される年中行事のようであるが、「大地が実りを結ばせる」という用語そのものに、キリスト教ではない異教的な要素を強く感じざるを得ない。なぜなら、キリスト教においては、実りをもたらす方は神しかおられないが、世界各国の様々な国では、大地を「母なるもの」として賛美し、大地そのものが豊穣をもたらす源であるという異教的な考えが強く残っており、豊穣を祈願して「母なる神」に様々な供物が捧げられるためである。

②では、神と悪魔との戦い、悪霊との戦いなどが強調されているが、ペンテコステ運動が常にそうであるように、こうした「霊の戦い」は終始、拡大解釈がいくらでも可能なほのめかしによって語られ、具体的に説明されない。指導者が「悪霊」や「サタン」という言葉を用いて一体、何を糾弾しようとしているのか、現実的にどのような危険を指して信徒に警告しているのか、聖書の例話が比喩として語られるだけで、具体的に説明がされない。そこで、こうした漠然とした形で霊の戦いについて聞かされた信徒の間では、恐怖が募り、疑心暗鬼が蔓延し、結果として、教会指導者に従わない信徒を互いに悪霊扱いし始めたり、自分自身が「悪霊」として非難されないために、より一層、教会指導者に尽くそうなどと考えるのである。

このように、すでに救われて教会を訪れたはずの信徒を改めて「敵・味方」に分類し、仲間を疑わせ、神への愛からではなく、敵とみなされて排斥されたくない恐怖心から、信徒がより一層指導部への忠誠を誓うよう仕向ける方法は、カルトの常套手段である。かつては我が国で「非国民」という言葉を使うことによって、国民を「敵・味方」に二分し、国の指導に従わない国民を事実上、悪魔扱いして排除していたのである。

彼らがこうしてしきりに「スパイ」や「悪霊」などを引き合いに出し、敵に脅かされているかのような印象や、疑心暗鬼を信徒に植えつけるのは、指導者自身を疑わせないためである。実際には、このように、人々の心に恐怖を煽る二項対立を持ち出して、信徒を敵味方に分類し、信徒を見えない神ではなく、目に見える人間の指導者の判断に従わせて行こうとする方法こそ、悪霊に由来するものである。すでに述べた通り、天声教会が追放しなければならない「イゼベルの霊」も、既婚者でありながら教会指導者と教会を拠点に共同生活を送り、教会全体を思うがままに操るような信徒を指すのであって、そのような信徒に牛耳られている教会のあり方に危機感を覚え、外から異議を唱える信徒たちを指すのではない。

にも関わらず、こうしたメッセージでは、すべてがさかさまにされ、自分たち教会は「聖なる者」とされて絶対化される一方、自分たちの信仰生活のあり方を疑ったり、批判する者はみな「悪魔」扱いされる。このような極度に単純化された図式に逃げ込むことで、自分たちへのいかなる批判にも耳を塞いで、ただ教会だけを安全地帯としてそこへ引きこもることで現実逃避をはかるという完全な錯誤が成立しているのである。

さらに注目すべきことは、天声教会が、聞く者(特に男性)の心に罪悪感や、自己嫌悪感を呼び起こすようなメッセージを語り、聖書において神に従った人物のイメージを極度に歪め、女性の被害者意識を煽るようなセンセーショナルなタイトルをメッセージに使っている点である。

一度に強姦加害者の親、強姦被害者の親となってしまったダビデ(2サムエル記13:7-19) 2サムエル記講解説教  2015年9月3日

通常のキリスト教会では、どんな牧師も自分のメッセージにこんな題名をつけることはしない。そんなことをすれば良識を疑われるだけである。通常の教会においては、ダビデの罪が語られる時には、必ず、それと並行して神の赦しが語られる。ダビデは大きな罪を犯したが、その罪は、神の御前にはすでに赦されている。ダビデはこの失敗のために、人生において厳しい刈り取りをし、苦しみを受け、神はそのことをご存知で、もはやダビデを責めてはおられない。

だから、ダビデの失敗を通して、今日、クリスチャンの目に明らかになっているのは、人間の罪の深さと、それに対する神の憐れみの深さであり、人はたとえ思わぬ罪を犯しても、ダビデのように悔いることさえできれば、神に立ち返る道は常に開かれているという事実である。

イエス・キリストが、ダビデとバテシェバの子孫から生まれたという系図を見るだけでも、二人の関係が、最終的には、神に受け入れられたことが分かる。ダビデはバテシェバを愛し、二人の子孫の系譜はキリストの誕生へと続く。それを考えると、バテシェバの人生は単なる不幸な被害者や、悲劇の主人公として終わらなかったことが分かる。人間が罪を犯すことは、あるべきでないとはいえ、この出来事にも神の深い配材があり、ダビデの過ちも、最終的には神のご計画を妨げるものとはならなかったのである。

しかしながら、上記のメッセージはあまりにも歪曲に満ちており、こうした深い文脈で物事をとらえようとせず、父なる神がすでに赦された罪に対して、ダビデの失敗をとげとげしく非難し、彼の落ち度を針小棒大にあげつらい、ダビデの犯した悪事を標本のように見立ててさらし者とし、他方で、バテシェバは「強姦被害者」であるとして二人を貶める。こんな天声教会のメッセージの何といやらしく意地悪く、高慢なことであろうか。

だが、このような物の見方は決して偶然に生まれて来るものではない。彼らがバテシェバを一方的な被害者と見なしているところにも、ペンテコステ運動に流れるグノーシス主義的な特徴が見ごとに表れている。結局、このメッセージが言わんとしているのは、「女性は男性の被害者だ」ということに尽きるのである。

天声教会の指導者は、バテシェバをダビデの被害者と見ることを通して、男性とは欲望に満ちて、暴力的で、わがままで、女性を常に虐げ、踏みにじる悪しき存在であるかのように描いている。なおかつ、こうした歪んだ物の見方に基づいて、男女の関わりそのものまでも否定的に、汚れた、悲劇的で、歪んだ、嫌悪すべきもののように描き出すことで、神が定められた男女の本来的にあるべき健全な秩序や関わりそのものまでも歪めてしまっている。

こうしたメッセージの根底に隠れているのは、女性の心に男性への対する嫌悪を植えつけ、被害者意識を煽ろうとするフェミニズムの思想であり、このメッセージは、ただ歪んだ男女の関係を極度に誇張し、男性を断罪するだけで、人間の罪の悔い改めに与えられる神の赦しの完全性や、キリストがご自分の花嫁なる教会を愛されたような夫婦の健全なあり方への視点が欠落している。また、ダビデの生涯に渡るバテシェバへの愛情も全く否定されている。ここに見られるのは、ただ男女の関わりそのものに対する徹底的な嫌悪感、拒否感だけである。

すでに説明したように、女性を男性の「被害者」とみなし、男性への憎悪を煽るフェミニズムの思想は、もとを辿ればグノーシス主義から出たものであり、ペンテコステ運動も、グノーシス主義に起源があると筆者は考えている。

グノーシス主義に起源があればこそ、ペンテコステ運動はマイノリティを美化し、女性を美化し、女性を男性の「被害者」であるかのように描き、男性には罪悪感や自己嫌悪を植えつけ、女性には被害者意識と男性への憎しみを植えつけることで、女性と男性を闘争関係に起き、男女の秩序を転覆しようと狙うのである。フェミニズムとは、結局、神と人類との秩序を覆そうとする試みであるから、この運動は人類の側から神に対して挑まれた闘争なのである。

グノーシス主義は、被害者意識を軸として、力の弱い者が、力の強い者との支配関係を覆そうとする秩序転覆の思想であり、フェミニズムの思想が男性を女性への加害者として描く目的は、男性に罪悪感を持たせることによって、男性の力を封じ込め、女性を男性よりも上位に置いて、男女の秩序を覆し、女性が男性を支配することで、男性に対して復讐を果たすことにある。

この手法はペンテコステ運動においては、人類を神の被害者とすることによって、人類が神を訴え、神を乗り越え、自ら神となるという構図となる。だが、一応、ペンテコステ運動はキリスト教に偽装しているので、あからさまに神を加害者とすることはせず、隠れたプロットの中でそれを持ち出すのである。

天声教会の上記のメッセージは、ダビデを罪深い加害者、バテシェバを罪なき被害者として描くことで、男性を罪深い加害者とみなして、女性をその被害者とみなすフェミニズム的思考パターンをよく表している。

だが、このメッセージは、より深い意味では、グノーシス主義的な秩序転覆の構図を示すものであることは、ダビデとバテシェバの関係を、神と人類との関係に置き換えると理解できる。

彼らが「加害者」として糾弾しているのは、ダビデだけではなく、その背後に存在し、ダビデを義と認められた父なる神である。そして、彼らが「被害者」としてかばっているのは、バテシェバとその死んだ子だけでなく、堕落した人類という「母子」なのである。

このメッセージの本質がグノーシス主義にあることは、グノーシス主義神話を通して理解できる。すでに述べた通り、グノーシス主義神話においては、幾通りかのパターンで筋書きに多少の差異はあるものの、その中には、自ら神のようになろうとして、単独で子を生むという過失によって天界から転落しかかったソフィアが、自分の過失によって生まれた醜い悪神にさらに凌辱されて、その子孫として人類が誕生するという筋書きもある。

このようなグノーシス主義神話では、人類の直接の父は、この世を支配している暗愚で暴力的な悪神だということになり、この悪なる父を否定的に乗り越え、その上に自らの本当の父があるという事実を見いだすことによって、人は神に回帰するというのがこうした思想の基本的な考え方である。

そこで、このような神話に照らし合わせれば、人類とはまさに「父による母への凌辱」の結果として生まれた悲劇の子供ということになるため、「父」は悪者である。天声教会のメッセージには、このような意味で、グノーシス主義神話の構図を、ただ聖書におけるダビデとバテシェバの関係に置き換えただけとしか言いようのない隠れたプロットが存在することが分かる。彼らがダビデの行為を「強姦」として糾弾しているのは、実は、グノーシス主義的な文脈における人類の誕生のことで神を非難しているのである。

むろん、このような思想を人間に語らせるのは霊である。(その意味でも、ペンテコステ運動の指導者は霊媒師であると筆者は言うのである。)彼らの語るメッセージは、彼ら自身が自分の知性で思いついたものではなく、彼らを支配する霊が、自らの思想として語るものである。それが聖書に由来するものでなく、悪霊の思想に他ならないことは、聖書の御言葉との対比と、いつの時代も変わらない悪霊の思想共通の特徴がある事実によって見分けられる。

このことが分かれば、以上の天声教会のメッセージが、隠れた霊的暗示の効果を持っており、そこにおいては、ダビデが象徴的に「悪神」になぞらえられていること、その「悪神」による暴力の結果、侮辱され、愚弄された「母」(バテシェバ)と、さらに「父」の暴力の結果生まれて来た悲劇の「子」が、被害者として美化されていることが分かる。

このように「父」の横暴の犠牲となった「悲劇の母子」にスポットライトを当てて、これに同情し、彼らを無罪放免し、このような「神の不当な暴力の被害者」を救済しようとするのが、グノーシス主義の目的であり、このメッセージは、そうした意味で、グノーシス主義の基本理念にまさに合致している様子が見えて来る。

結局、このメッセージが暗に言わんとしているところは、「人類は(神の)被害者である」ということに尽きる。ダビデを「加害者」の立場に置くことによって、このメッセージは暗黙のうちに、男性全体だけでなく、聖徒らをも罪に定め、ひいては神までも「加害者」の立場に起きつつ、他方、自分たちは、その被害者だということにしてしまうのである。

こうした考えは、聖書の象徴的な意味を無視している。ダビデの罪の結果として生まれて間もなく死んでしまった子供は、最初の人間アダムをも暗示していると見ることができる。そして、ダビデとバテシェバから生まれ、父の王国を受け継ぐ子供となったソロモンは、第二のアダムであるキリストを暗示する。第一のアダムは、罪に堕落したゆえ命へ至る道を見つけられずに死んだが、第二のアダムは、神への従順ゆえに義とされて命と安息に至る。こうして「後の者が先になる」――というのは、聖書の至るところに共通する型である。

しかしながら、以上の天声教会のメッセージは、死んでしまった子供のために同情し、これを父の罪の結果であるとして糾弾する。そこから見えて来るのは、バテシェバと死んだ子供という「母子」を「弱者」としてかばうことで、神に創造されながらも、罪に堕落したために神から切り離された人類をかばい、人類を父なる神よりも高く掲げ、無罪放免しようというグノーシス主義的な思惑である。

彼らの考え方には大きな錯誤がある。それは、バテシェバも、その子も、ダビデと同じような罪を犯さなかったかもしれないが、罪人の一人に過ぎず、決して罪なき聖なる存在ではないということである。人間を義とすることができるのは、神であって、人ではない。ダビデを義とされたのは神であって、バテシェバが彼を赦したから彼の罪が消えたわけではないのである。

だが、ペンテコステ運動の支持者たちは、すべての人間関係をただ「加害者・被害者」という二項対立のフィルターを通してしか見ようとせず、「被害者」を神聖なまでに美化し、祀り上げる一方で、「加害者」を罪人として断罪する。そして、ただ被害者によって無罪放免されることだけが、人間の罪が赦される唯一の道であるかのように主張して、ひたすら、人を罪意識や被害者意識に閉じ込め、人間の罪を赦す権威は、神にこそあって、人間にはないという聖書の事実を忘れさせるのである。そして、被害者を名乗る人たちが、気のすむまで「加害者」を断罪し続け、償いを要求することを「救済」に置き換えて行くのである。

ペンテコステ運動を導くイゼベルの霊は、被害者意識の霊であると筆者は述べて来たが、この霊の手口は、他人に不当な因縁をつけて恐喝するヤクザの手法と同じである。ヤクザに脅され、ゆすられ、たかられている人は、恐怖のあまり、ヤクザから解放されるためには、ヤクザに赦しを乞うしかないと思い込む。だが、どんなにヤクザに赦しを乞うても、赦されるどころか、ますます弱みを握られ、責められ、思うがままに操られるだけである。人が悪魔に罪の赦しを乞うても無駄なのである。

しかし、ペンテコステ運動を含め、グノーシス主義は、人間の罪というものを、神に対して犯されたものではなく、人に対して犯されたものとしてのみ理解することによって、罪を指摘したり、罪を赦す権威が、あたかも被害者である人間にあって、被害者意識を持つ人間は、自分の被害者意識を盾に取って、他者を永久に脅し、断罪し続けることが正当化されるかのように考えている。

天声教会のメッセージ内容には、男性にしきりに罪悪感や嫌悪感をもたせることで、思うがままに支配しようとする「イゼベルの霊」の精神構造がよく表れていると言えよう。

すでに述べたように、統一教会における「エバ国家」の概念に見るように、他者の心に罪悪感を植えつけることで、その人間を脅し、思い通りに支配して行こうとするのは、悪霊の常套手段である。村上密牧師が、統一教会を脱会して後も、自らの心に植えつけられた加害者意識を捨てられず、キリスト教に入信後も、自分自身を依然、「加害者」の立場に置いて、キリスト教会で傷つけられたカルト被害者の救済活動にいそしんでいることについて書いたが、天声教会の指導者も、これと同様に、自ら男性でありながら、自分自身をダビデに重ねて「加害者」の立場に起き、「被害女性」の心境に寄り添うかのようなメッセージを語ることで、「被害者」の心を慰撫し、彼女たちに暗黙の懺悔を果たそうとしているのである。

だが、このようなフェミニズム的な思考の影響を受け、自己嫌悪、負い目の意識を背負わされた男性たちは、自分への健全な自信を失って行くことになる。ダビデの罪を責めている彼らは、彼を責めることによって、自分自身を罪に定めているのだとは気づかないのである。

しかし、自分自身をこのようにしか見られなくなった人間は、どんなに自己批判を続けても、その負い目の意識は払拭できないであろう。こんなメッセージは、語っている本人ばかりか、聞いている人の心にも、男性への嫌悪と、男女の関わりへの嫌悪を植えつける。

人間の罪に対する神の憐れみの深さと、人間の罪を超えて働く神の計画よりも、ただ人間の罪に対する負い目と、嫌悪感だけが募って行くことになる。早い話が、男性であれ、女性であれ、そのようにまで自分の性についてこれほど悲観的な考えを持つに至った人々が、健全で幸福な結婚生活を送り、伴侶を愛して、共に手を携えて生きることは、まず無理な相談ではないかと考えられる。

以上に挙げたような天声教会の極端に誇張された男性嫌悪のメッセージは、KFCがそうであったように、自分を夫の被害者であると考える女性信徒たちの思いが強く投影・代弁され出来上がっているものだと言えよう。日ごろから、家庭において、社会において、何かの被害者意識を持つ女性たちが、自分たちの被害者意識を、真の加害者に向けられないので、他の誰かに吹き込み、代弁させるのである。心傷ついた、子供のような誰かをターゲットとして捕まえて来て、自分好みのメッセ―ジを語らせ、自分を虐げる男性たちの代わりにその人間を懺悔させることで、自己を慰めるのである。ターゲットとされる人々にも、母親に愛されないで育ったなどの何らかの弱みがあって、その弱点と、自分を認めて欲しいという願望を担保に取られ、彼女たちに利用される結果となるのである。

こういう関係こそ、その本質は、霊的姦淫に他ならず、糾弾されてしかるべきものである。真に問題なのは、姦淫の罪を犯したが、それを神と人の前で真摯に悔いることができたために罪赦されたダビデではなく、自ら霊的姦淫の罪を犯していながら、その罪を隠し、認めようともせず、誰の前にも悔いようともしない教会指導者と信徒たちの方にこそある。

神が罪とみなしておられるのは、男女関係そのものではなく、結婚の枠組みを侵害するような男女の関わりであり、姦淫の罪とは、何も肉体的な関わりだけを指すのではなく、霊的姦淫という罪もある。ある信徒が、他の信徒を家庭から引き離し、日常生活から引き離し、配偶者から引き離し、教会生活や宗教行事に過度に没頭させ、その心を神や配偶者や家族から奪って自分に向けさせるなどのことも、霊的姦淫の罪である。

教会指導者自身が、誰よりも誤解を呼ぶような、他者の結婚生活をないがしろにする生活を教会を拠点に送り、他の信徒の心を盗んでいる状態で、他の信徒に向かって、姦淫の罪について警告するのは、まさに笑止としか言えない。この指導者は、姦淫の罪の本質を、男女の肉体的な関係だけに限定することによって、霊的姦淫という、それよりもさらに恐ろしい罪の本質から目を背けているのである。

他のメッセージのタイトルや内容からも判断できるように、この教会で語られているメッセージは、KFCと同じように、常に自分たちを他の信者たちと引き比べて、他の信者の失敗や欠点をあげつらいながら、自分たちだけは、彼らの誤りを踏襲せずに、神に受け入れられる優秀な信徒であり続けられるかのような内容となっている。こうして他者の誤りを引き合いに出すことで、自分自身を高く掲げるのである。先人たちの失敗を意地悪くあげつらい、彼らの信仰の薄さと罪深さを心の内で断罪しながら、自分たちだけは決してそんな愚かな誤りは犯さず、神に見捨てられることのない、正しい道を進んでいけると豪語しているのである。

そういう目線に立っていればこそ、この教会の指導者は、自分たちはまるで被害者であるかのような立場に立って、自分自身が現実に犯している罪には一言たりとも言及しないまま、自分たちは心美しい、罪なき人間であり、残酷で暴力的で自己中心な連中や、堕落した「スパイ」どもとはわけが違うと主張するのである。

こうした人々の思考においては、すべてがさかさまに見えている。彼らは悔い改めて罪赦されたクリスチャンを断罪し、加害者呼ばわりする一方で、自分たちは悔い改めることもなく罪赦されるはずもないのに、「被害者」であると主張することによって、自分自身を一方的にて無罪放免しながら、改めて、聖徒らを訴えようとしているのである。

だが、このようにひたすら他者の罪をあげつらいながら、自分自身を義とする高慢な人間にこそ、「私たちは見える」と言い張った罪が残り続けることであろう。

最後に、ダビデの失敗は、ただ単に姦淫の罪の恐ろしさと共に、人間のナルシシズムの罪を示しているように思われてならない。ダビデは、若い時分には、大変美しく、活発であり、バテシェバに出会うまでは、自らの美しさ、若さ、力といった、天然の生命の力や美を疑うことはなかったに違いない。バテシェバも大変美しく、ダビデは彼女を見たとき、自分にふさわしい人間を見つけたと思ったに違いない。そして、おそらくは、バテシェバの方でも、ダビデがあまりにも魅力に溢れていたので、その行動を疑うことができない心境にあったのではないかと考える。平凡な人間であったウリヤに比べ、ダビデは彼女の心を圧倒する様々な術を持っていたのではないだろうか。ダビデはそれまで、望むものを何でも手にすることができた。女性の心も思いのままであり、何を望んでも罪になることがなかった。だが、彼が自分の力に慢心し、自己の美や力を当然のものと考えた時、失敗が訪れたのである。この出来事があって初めて、ダビデは自己の存在の根本に潜む罪なる性質に気づいたのではないかと思われる。

人間の判断は極めて身勝手で、人間は自分の感覚にとって心地よく、美しいものだけを好む。自分にとって美しく映るものを義ととらえ、醜く映るものを悪ととらえ、新鮮で、若々しく、命の力に溢れた、自分の目を楽しませてくれる美に価値を見いだす。しかし、人間の目にどう映るかとは別に、美というものの中には、根本的に悪に傾きやすい危険が潜んでいること、その危険性が自分自身のうちに潜んでいることに、ダビデは気づいたのではないだろうか。サタンは、自己の美しさに慢心して神への反逆に至った。もしもサタンが美と無縁であったなら、高慢に陥ることは決してなかったであろう。

ダビデの息子の一人であるアブシャロムは、父よりも美しかったと思われる。その美しさのゆえにも、ダビデは彼を愛したのであろう。だが、この息子が自らの美しさに慢心し、ダビデへの反逆を企てることになる。その姿を見て、ダビデは、自分の外見の美の力を疑うこともなかった若い当時の自分自身を思わなかったであろうか。人間の美というものがいかに人々を眩惑して物事の本質を簡単に見失わせる欺きに満ちたものであり、その美の持ち主自身をも狂わせるものであるかを考えなかっただろうか。

このようなことから見ても、人間の罪というものは非常に巧妙で見えにくく、ダビデは罪を犯したがバテシェバは一方的な被害者であって罪がないなどと簡単に言えるような図式は存在しないことが分かる。ダビデの犯した罪は、女性も含め、人間そのものに根本的に流れる罪なのである。

なのに、こうした事実を見ずして、人が自分の目と耳を喜ばせてくれるうわべだけの綺麗事に熱中し、この綺麗事を握りしめて、それによって自分自身の存在を美化し、正当化し始める時、その人間は真実から逸れて、罪なる本質の中に陥って行くのではないだろうか。

ダビデがバテシェバを何が何でも手に入れようとしたように、今日、多くの宗教指導者は、エクレシアの強奪に余念がない。キリストの花嫁たるエクレシアは、神にとっての宝である。だが、この花嫁たる教会をめぐって、人はどれほどの争いと罪を繰り広げて来ただろうか。

ペンテコステ運動の指導者たちは、ダビデがウリヤを殺してでもその妻を奪ったように、心ある信者たちを追放してでも、教会を私物化し、残る信者たちの心を神や配偶者から盗んで自分に向けさせている。こうして教会を自分の栄光、手柄の手段へと変えている。

ダビデと違って、彼らはこれを恥ずかしいと思わず、霊的姦淫の罪とも考えない。彼らはあまりにも自己の力に慢心しているので、教会が自分の前に跪くのは当然だとさえ思っている。ペンテコステ運動が支持者にもたらすのは、このような不遜なまでの、あるいは痛ましいまでの、自己の力へ慢心、自己の美への賛美である。こうした指導者たちはあまりにも己惚れすぎているために、誰から指摘されても、その状態が罪であるということに気づけない。本当は、こういう指導者こそ、霊的姦淫の罪により糾弾されるべきである。

こうした指導者は、片方では、信徒の耳に都合の良いことを約束しながら、もう一方では、公然と「世界の荒廃」などを予告して、破滅や呪いの予言を語り、信者を恐怖と疑心暗鬼に陥れることで、自分の教会に束縛し、思惑通りに行動させようと促す。(その点でも、KFCと天声教会は似ている。)そういうことになるのは、この人々が神から遣わされた預言者ではなく、ただ自分自身の心の欲望と荒廃を信徒に向かって語っているだけだからである。こうした指導者に着いて行けば、羊には正常な未来はまず望めないであろう。

傷ついたアイデンティティと被害者意識を原動力として生まれる偽りの世界救済の思想の危険

・「自己を脅かされている」という被害者意識が生む危険な人格障害

ひとつ前の記事では、文学上の主人公であるエフゲニー・オネーギンの人格を例に、ロシアという国家の歴史的に傷ついたアイデンティティという問題について見て来た。

筆者の見解では、オネーギンという人物像には、ただ単に帝政ロシアの時代のロシア知識人の内心の問題が反映されているだけでなく、そこには、今日までロシアという国家、また、ロシア人が自己のアイデンティティにおいて抱えて来た傷、さらに、その傷のために生じる病理現象が、端的かつ象徴的に凝縮してこめられている。

ところで、オネーギンに代表されるような「傷ついた人格」は、現代の日本人とも決して無縁ではない。かつて我が国の文学においては、ロシア文学の「余計者」とよく似た「高等遊民」などと呼ばれる憂愁を抱える知識人のタイプが登場したが、現代社会においても、オネーギン的な人格は、知的エリートのみならず、幅広い社会層に広がっている。

我が国には、敗戦、占領、属国化政策などの歴史的な負の過去があることに加えて、戦後の偏差値を重んじる受験競争や、高度経済成長期の就職戦線、その後も現在にまで受け継がれる企業への絶対服従の風土などが、国民の間に健全な自尊心が育つことを妨げている。

こうした状況の中で、健全な自尊心を養うことのできなかった人間は、傷ついて、病んだ、オネーギン的な(あるいはそれをさらに上回るもっと深刻な)歪んだ人格障害の特徴を抱えながら、良心を失った知的エリートとして生活しており、官僚や、聖職者などの中にも、こうしたタイプの人間が見受けられる。

その他にも、たとえば、ネトウヨや、植松容疑者といった知的エリートと呼べない、比較的社会の下層に位置する人々の中にも、同様の人格障害の持ち主は広がっている。彼らはオネーギンのような高い教養、巧みなパフォーマンスを持たないが、自己の内面に抱える鬱屈した被害者意識、社会で適切な居場所を見いだせないための絶望感、絶えず自分の心の空洞を転嫁できそうな相手を獲物のように探し求めているなどの点で、上記の人々と共通していると言えよう。

現代という時代は、被害者意識が急激に社会に蔓延した結果、人々のアイデンティティが侵食されており、傷ついて病んだ人格の特徴を持たない人間を探す方が極めて困難な時代であると言える。

そして、ロシアと同様に、我が国においても、健全なアイデンティティを養うことのできなかった人々の被害者意識は、個人のレベルで人格障害を生んでいるだけでなく、国家のレベルでも、集団的に危険なナショナリズムを生んでいる。

先の記事で述べた通り、ナショナリズムとは、「自分(自国)が脅かされている」という恐怖感、被害者意識、劣等感などからこそ生まれて来るものである。

被害者意識というものの厄介な点は、個人には(あるいは、国家にも)プライドがあるため、自己を脅かされているという恐怖感や、被害者意識を感じていればいるほど、人はかえって自己の弱さや恐怖を必死になって覆い隠し、否定しようとすることである。

そして、自分の弱さ、内心の恐怖から目を背けるために、自分を鍛えたり、優れた思想を学んでそれを取り入れようとしたり、熱心な宗教家を装ったりして、むしろ、自分をあるがまま以上に強く、美しく、優秀で、完全無欠な正義の味方のように見せかけようとするのである。

そうした自己欺瞞の行き着く最高の形態がメシアニズムの思想である。

「自分を脅かされている」と感じている存在が、プライドのゆえに、自分の抱える弱さや恐怖心から目を背け、その弱さを他者に転嫁し、助けを必要としているのは、自分ではなくむしろ他者なのだと考えて、他者の救済者を名乗り出て他者よりも優位に立つことによって、自尊心を満たし、そのような方法で、自分に劣等感を味わわせた存在を見返すと同時に、他者の救済に便乗して自己救済を成し遂げようとするのがこのメシアニズムの思想の特徴である。

メシアニズムの思想とは、いわば、被害者意識を覆い隠すためのトリックとしての自己救済の思想なのである。


・怨念や、劣等感や、被害者意識を原動力として発生するメシアニズムの思想の危険

ロシアにおけるメシアニズムの思想の中には、たとえば、すでに述べたように、「モスクワは第三の(最後の)ローマである(第四のローマはない)」などとする、「ロシア正教こそが唯一正しいキリスト教の担い手であり、ロシアには世界を救う資格がある」といった救済思想がある。

この「モスクワ=第三ローマ説」は、ロシア(16世紀頃のモスクワ公国)がモンゴルの支配を跳ね返し、ロシアのキリスト教の本家であったビザンチン帝国が滅亡し、ヨーロッパのカトリックの腐敗が明らかになった頃に生まれた概念であり、ようやく滅亡の危機を脱して国力を回復したばかりのロシアのキリスト教が、ヨーロッパのキリスト教の危機的な状況を利用して、あたかも「ロシア正教こそが世界で唯一正しいキリスト教であり、ロシアはその担い手であるから、世界を救済する資格がある」かのように提唱する思想であった。

これは修道僧によって提示された思想であり、国家権力の側から公式に流布されたものではなく、実際に、当時のロシア正教全体の中にこのような思想がどの程度、広まっていたのか、それがロシア民衆の間にどの程度、定着して、国の団結に役立ったのかも不明であるが、いわば、これはロシアのメシアニズムの思想の先駆けであり、宗教に名を借りて、国の団結や威信を強化し、国家を神聖視する思想の土台を形作る思想の早い段階での明確な現れの一つであったと見ることができるだろう。

このようなロシアのメシアニズムの思想の基本構造は、その後も、宗教とは異なる形態において現れる。20世紀に、世界初の社会主義国であるソ連が、全世界を資本主義の弊害から救い、世界をプロレタリアートの天国である共産主義社会へと塗り変える拠点となるなどといった思想の中にも、以上に挙げた宗教メシアニズムとそれほど変わらない、メシアニズムの思想の基本構造が継承されていると見ることができる。

以下でも説明するように、「(母なる)ロシアを世界の諸国の脅威から守る」という被害者意識から生まれて来たプーチン政権が、「強いロシア」を提唱していることの中にも、以上のような「ロシアによる世界救済」の思想が受け継がれているという見方も可能である。

さて、メシアニズムの思想は、戦前の日本においても、「八紘一宇」などというスローガンの下、「天皇を「神」として頂く「神の国」である日本こそ、キリスト教の弊害・ヨーロッパ的な植民地主義の弊害から、アジアを含めた世界の諸国を解放する資格があるのだ」などとする国家神道の形で登場して来た。

一体、国境を超えて、宗教や、政治を問わず、様々な形態で現れ出て来るこれらの世界救済の思想の共通点は何であろうか? 端的に、二つの共通点が挙げられる。一つ目は、こうした思想が、真に世界をリードするにふさわしい先進国から出て来ることは決してなく、どちらかと言えば、歴史的な進歩から大きく後れを取っている後進的な国々から登場して来ること、第二に、こうした思想は、国が存亡の危機にあって「自己を脅かされている」という集団的な危機意識・被害者意識を持つ国々から、そうした弱さから目を背けるためのトリックとして生まれて来るという点である。

結論から言えば、メシアニズムの思想とは、被害者意識を抱える弱者救済の思想であり、それは自己を脅かす敵を根絶して、自己を世界一とすることで、自己救済を成し遂げようとする思想である。こうした思想は、健全なアイデンティティを持つ者から生まれることはなく、必ず、傷ついたアイデンティティを持つ存在からのみ生まれて来る。すなわち、こうした思想の根本にあるのは、被害者意識を持つ者が、脅かされ、傷ついた自分を「神聖な存在」とみなし、その「神聖な核(=被害者意識)」を全世界に押し広げ、全世界を自己に同化することによって、自分を脅かす存在を駆逐して、世界征服を成し遂げ、偽りの平和を築こうとする願望である。

こうした考えの根本には、「脅かされ、虐げられている弱者にこそ、世界を理想的に変革し、救済する資格がある」とみなす考え方がある。だから、こうした思想は、人々の内にある被害者意識、脅かされているという恐怖を「神聖なもの」にまで美化し、それを世界救済のための「神聖な核」にまで高めて行くのである。

ロシアの初期の社会主義の思想においても、虐げられているがゆえにロシア民衆を「神聖な存在」として美化する思想が至るところに見られた。虐げられているゆえに、民衆には、ロシアばかりか、世界の救済の担い手となるような優れた要素が宿っているというわけである。そうした考え(民衆の美化)は、当時のロシア文学には至る所に見られ、ゲルツェンなどの初期の社会主義者も、同じ路線に立って、ロシアの農村における農村共同体に、世界を理想的に変革する核となる要素があるとみなしていた。

「虐げられた者」を美化し、被害者意識によって団結を迫る思想は、社会主義時代においてはプロレタリアートの美化、「万国の労働者よ団結せよ」などのスローガンとなり、虐げられているがゆえに、プロレタリアートを世界を理想的な変革の担い手とする思想へと結びついた。

このように、メシアニズムの思想において、中核的な役割を果たすのは、決まって何らかの脅かされている社会的弱者の存在である。さらにもっと言えば、そうした弱者の内に見出される「被害者意識」こそ、「神聖な核」とみなされるのだと言える。被害者意識を軸に、自国ばかりか、全世界の人々が団結・連帯することによって、それまでの支配関係を覆し、理想的な世界を打ち立てることができるというのが、そうした思想の基本構造である。

このような思想は、むろん、偽りである。そこで被害者意識が「神聖」な要素にまで高められているのは、恐るべきことである。被害者意識に脅かされる者たちが、怨念と復讐心によって団結・連帯したからと言って、それが世界救済になどつながるはずもないのは明らかであるが、いずれにしても、その思想は「自己存在を脅かされている」と感じる者たちが、その被害者意識を軸に集結・決起することによって、自己救済を成し遂げようという思想であるから、そうした思想の担い手にとっては、その被害者意識に加わらない者たちは、「神聖」ではなく、世界の変革にふさわしくもなく、そのような存在がどうなろうとも全く構わないのである。

少し先走って言えば、これまでにも再三、述べて来たように、ペンテコステ運動も、基本的に上記のような思想と同種のメシアニズムの思想であると言える。

これまで述べて来たように、ペンテコステ運動の拠点となった教会は、ほぼ例外なく、全世界を自分たちと同じ信仰に塗り変え、同じ「霊の家」に帰依させることを目的に掲げる「リバイバル」を提唱している。だが、貧しく、無学なゆえに、既存のキリスト教からは伝道の対象ともみなされずに、打ち捨てられて来た社会的弱者を主な伝道対象として始まったこの運動が今も盛んに提唱している「リバイバル」とは、その概念をつぶさに見て行けば、「八紘一宇」(国家神道)、「全人類一家族理想」(統一教会)、プロレタリアートの天国としての共産主義などと全く変わらない、弱者のユートピアに他ならず、これもまた虐げられた弱者による被害者意識に基づく偽りの世界救済の思想であることが見えて来る。

次回以降の記事でも詳述するように、ペンテコステ運動はキリスト教ではなく、疑似キリスト教的な異端であり、ペンテコステ運動の原動力となっているものは、(既存の)キリスト教に対する被害者意識である。

この事実さえ見れば、なぜキリスト教を名乗っているはずのペンテコステ運動の只中から、既存のキリスト教界の「カルト化」を糾弾しつつ、キリスト教会に次々と裁判をしかけて、教会を取り潰すようなカルト被害者救済活動といった異常な運動が生まれて来るのか、なぜそれにも関わらず、カルトとみなされる教会の数多くがまさにペンテコステ運動に属しているといった矛盾が存在するのか、といったことの謎が解けるであろう。このようなことが起きるのは、ペンテコステ運動が本質的にキリスト教を仮想敵とする疑似キリスト教であるために他ならない。

ちなみに、聖書によれば、終わりの時代になればなるほど、公の会堂(教会)は偽の信者たちで占拠され、信者たちは迫害を受け、散らされることが記されており、古代ローマ帝国時代のように、クリスチャンの爆発的増加によって全世界がキリスト教に塗り替えられるといったことは、聖書には記述されていない。それにも関わらず、ペンテコステ運動の支持者たちが、自分たちと同じ信仰を持つ教会を全世界に押し広げるための「リバイバル」を唱え続けるのは、この思想が本質的に自己増殖を目的とする異端であり、最終的には、キリスト教の駆逐を真の目的としているためである。

興味深いのは、「モスクワ=第三ローマ説」も、社会主義思想も、国家神道も、統一教会も、ペンテコステ運動も、みなその本質においては、キリスト教を仮想敵としていると見られることである。

「モスクワ=第三ローマ説」は、ロシア正教から生まれたのだから、キリスト教を仮想敵としているとは言えないのではないか、といった反論もあるだろう。しかし、以下に見るように、ペンテコステ運動がその本質においては疑似キリスト教であると筆者が指摘するのと同様に、ロシアのキリスト教も、ヨーロッパのキリスト教とは根本的に受容の過程が異なっており、その意味で、大きな弱点を抱えており、そのために、ロシアという国には、その本質において真にキリスト教信仰が浸透することなく、むしろ、文化的な土壌においては、常に異教的な世界観に立ったままであったと筆者は見ている。

それだからこそ、ヨーロッパにおけるキリスト教全体に対する敵視に基づく「モスクワ=第三ローマ説」が登場したり、あるいは、長年のキリスト教国でありながら、ロシアが20世紀にはあっさりとキリスト教を捨てて、社会主義化の道を辿るなどの出来事が起きたのである。

次の記事でも詳述するが、こうしたすべてのメシアニズムの思想の背後にあるのは、キリスト教に敵対するグノーシス主義的・東洋思想的・異教的世界観である。これまでに見て来たように、グノーシス主義とは、基本的に、「神秘なる母性」を崇める母性崇拝の思想である。

なお、ロシアにおいては、今日でも、「母なるロシア」(Матушка Россия, Россия-матушка, Мать-Россия, Матушка Русь)といった表現が、愛国心を込めた表現として広く使われている。ソ連時代には「母なる祖国」(Родина-мать)と言った呼び名も頻繁に使われ、このように国そのものを母なる女性人格として誉め讃える思想が今も伝統として受け継がれているのである。

だが、このような用語は、決してキリスト教的なものではなく、明らかに、異教的な発想を土台として成立したものである。それは単なる愛国心の表れではなく、グノーシス主義における「神秘なる母性」崇拝を国家に当てはめ、国家そのものを「神聖なる母性」として崇拝する一種の信仰であると言った方が良いと筆者は考えている。

Wikipediaの説明によると、「母なるロシア」というシンボルは、政治的にも利用されて来た。つまり、ロシアの統治者は、自分は「母なるロシア(が内外の敵に脅かされないための)守り手である」と名乗り出て、「母なるロシア」と「神聖な結婚の関係にある」という概念を用いて、自らの政治権力を正当化する根拠として来たのだという。

こうして、国そのものを「聖なる母」として神格化し、至高の価値として崇め奉り、「ロシアとの結婚」を何より重んじていればこそ、プーチン氏のような為政者は、自らの夫人との生活にも訣別し、ただ国の統治者としての公の人生だけに全存在を投じようとしているのだと見ることもできよう。そうした観点から見るならば、「母なるロシア」とは、ただ単に愛国的な表現であるのではなく、文字通り、全身全霊を母国のために捧げて祖国防衛に努めよという、一種のカルト的とも言えるほどの信仰を土台としている用語であると言うこともできよう。

このように、ロシアの政治的な統治の背景には、常に「母なるロシアを様々な脅威から守らねばならない」という発想があったが、この「母を守る」という発想は、明らかに、当ブログで指摘して来た、グノーシス主義的・東洋的な世界観の根本に横たわる「母を守る」という発想に通じる。

そこにあるのは、「神聖な母が脅かされている」もしくは「脅かされる危険がある」から、「子らが立ち上がって、家全体で、母を防衛しなければならない」という危機意識、もっと言えば、母子ともに、家が脅かされているという被害者意識である。

現代のような時代では、確かに、ロシアという国は様々な危機に囲まれていると言えようが、このような被害者意識は、必ずしも、現実的な根拠があって生まれるものではない。「母なるロシアが脅かされている」という被害者意識は、表面的な政治的対立よりももっと深いところから生まれて来る世界観である。先の記事でも述べたように、「ロシアを脅かす脅威」とは、文字通り、ロシア以外のすべての国々を指すのであるが、中でもとりわけ、真の脅威となっているものが、実はキリスト教であることを、以下で詳しく見て行きたい。


・メシアニズムの思想は、怨念と復讐心から生まれるものであって、真に優れて先駆的な文化の只中から出て来ることは決してない

ところで、メシアニズムの思想は、決して真に優れた国や、優れた文化の只中から登場して来ることはない。このような思想は、早い話が、劣等感と、遅れの意識、屈辱感の裏返しとして生まれるものであって、決まって、どちらかと言えば、文化的に後進的な国々の中から発生して来る。

先に述べたように、ロシアのキリスト教には、世界を救済できるような要素は全くなかった。それどころか、ロシアのキリスト教は、その受容の過程からして、ヨーロッパのキリスト教とは大きく異なっており、最初から大きな弱点を抱えていたのである。ロシアには、ローマ帝国時代のキリスト教のように、迫害の只中で、信徒の信仰の自発的な増加によって、やむにやまれず国教にまで拡大したといった歴史はなかった。ロシアのキリスト教は、民衆の只中から自発的に広まった信仰ではなく、ただ単に国家の威信強化のために、外側から移植され、半強制的に民衆に押しつけられたものに過ぎず、そのため、内心の伴わない、うわべだけの偽装のような改宗であった。

このような半強制的な改宗によって、キリスト教の精神の本髄が、国民の間に浸透・定着するはずもなく、それだからこそ、うわべだけの改宗後も、ロシアには依然として、異教的な民間信仰の要素が色濃く残り続けたのである。そのような意味で、ロシアという国の本質は、その深部においては、たとえ表面的にはキリスト教国となった歴史があったとはいえ、ずっと変わらず異教的な信仰にとどまっていたのだと言って過言ではない。

帝政時代、ロシアはキリスト教国であったが、その間の歩みも、ロシアを本質的に変えることがなかった。だからこそ、20世紀になると、ロシアはキリスト教の仮面を投げ捨てて、社会主義的無神論に転身し、共産主義思想によってキリスト教国に敵対する道を選んだのである。そして、ソ連崩壊後の現在に至るまでも、ロシアでは未だオウム真理教が圧倒的な増加を誇って政府の規制の対象となっているなどの事実からも分かるように、異教的な土壌が大きくものを言っている。新興宗教はロシアに積極的な活動の場を見いだしているが、それは非キリスト教的な異教的世界観が、この国の土壌に今も深く根差しているためであり、共産主義思想も、まさにこの異教的な土壌の中でこそ培養されたのである。

このように、ロシアという国は、歴史上、決して表層のみでしか、キリスト教を受容したことはなく、ロシアにおけるキリスト教は決して真の自発的な信仰として、国民の間に深く浸透して行くことがなかった。だから、その意味で、ロシアのキリスト教には、決してヨーロッパと比べて、これを優れたものとして誇れる要素はなかったのである。

ヨーロッパのキリスト教は、確かに、国教化されて以後、著しい世俗化の道を歩み、その意味において、この世と妥協して堕落したと言えるかも知れないが、それゆえ、宗教改革が起こりもし、絶えず、聖書の本質に立ち戻ろうとの試みが生まれて来た。それに引き換え、ロシアにおけるキリスト教には、ヨーロッパのキリスト教に匹敵する意味での宗教改革がなかった。ロシアにはルネサンスがなく、ニーコンの改革とそれに反対する古儀式派との対立も、儀式のあり方を巡って生じた争いに過ぎず、教義面における深い討論には全く結びつかなかった。

ロシア正教は、もともと荘厳な宗教絵画などの装飾や儀式などの印象を感覚的に受容することや、瞑想に近い祈りなどに重きを置いており、プロテスタントのように信徒自身が主体的に聖書を理解する過程を重んじない。もともと一人一人の信者が聖書を知的・論理的に解釈し、理解するという主体的な側面が薄いことから、教義面における討論が高まって、聖書に立ち戻るべきとの訴えがなされて、大々的な宗教改革に結びつくといった現象が起きなかったのも不思議ではない。

このように、ロシアのキリスト教が、ヨーロッパのキリスト教と比較して、当初から抱えていた大きな「弱点」を全て無視して、ただカトリックの腐敗や、ビザンチン帝国の崩壊などを口実に、「ロシアこそが正しいキリスト教の最後の担い手であり、世界に正しい信仰のあり方を教え、世界を救済することのできる国である」と自負するという思想は、まさに現実を無視した幻想であり、根拠なき自惚れであるとしか言えない。

こうした発想は、ロシアのキリスト教が、ヨーロッパのキリスト教に比べて、もともと大きく遅れを取っており、また、ロシアという国そのものが、モンゴルの占領によって存亡の危機に脅かされ、長く発展を阻害されたという悲劇的な歴史があればこそ、その反発として生まれて来たものであったと言えよう。つまり、ヨーロッパに対する遅れの自覚がそれほど深く、無意識のうちにも、ヨーロッパのキリスト教に対する激しい敵愾心・復讐心を生んでいたからこそ、いつかこれを見返し、凌駕することで、その遅れを取り戻し、世界一に名乗り出て雪辱を果たしてやろうとの復讐心が、以上のような思想の形となって現れたのだと考えられる。

もっと言うならば、ロシアのキリスト教は、決して土着の信仰として根づかない「借り物」のようなものであればこそ、ヨーロッパのキリスト教からは遅れた信仰、あるいは「フェイク」のようなものとみなされ、断罪されたり、侮蔑される危険があった。あるいは、ロシアの文化が、本質的には、キリスト教に染まらず、異教的な世界観のままであればこそ、そうした異教的世界観が、キリスト教の側から暴かれ、断罪され、駆逐される危険があった。「モスクワ=第三ローマ説」は、こうした意味で、ロシアがその本質において持ち続けて来た異教的世界観の側からの、自己防衛を目的としたキリスト教に対する敵対宣言であった可能性も考えられる。

こうした思想的傾向は、ロシアにその後も変わらず持ち続けられる。帝政時代には、封建的な権力による民衆への抑圧のために、ロシア社会の進歩がヨーロッパに比べて著しく停滞し、そのために、ヨーロッパにおける資本主義の目覚ましい発展からロシアは遅れを取っているという危機意識がロシア知識人に広まった。こうした遅れを取り戻して、世界に先駆ける存在とならねばならないという危機意識が、その後、社会主義化によってロシアが世界をリードするといった発想へと結びついたものと見られる。ソ連崩壊後は、資本主義国の見舞われなかった経済的混乱の只中から、「強いロシアを取り戻す」ことをスローガンに掲げるプーチン政権が登場して来た。これらのことはすべて、ロシアという国が内面で抱えていた「国が脅かされて滅亡の危機にあり、このままでは世界から取り残されてしまう」という強い危機感と、遅れの意識や、劣等感を克服して、自国よりも進歩的な全ての国々を凌駕したいという無意識の敵愾心・競争意識・復讐心が生み出した現象であったと言えるのではないかと思う。


・ヨーロッパ文化の急激な受容により東洋的な世界観が圧迫されたことへの反発として生まれた日本の国家神道というメシアニズム

翻って、戦前・戦中の日本の国家神道を見てみると、以上に挙げたような、ロシアとさほど変わらない現象が起きていたように見受けられる。日本は、歴史上、一度もキリスト教国になったことはないが、それでも、開国以降、ヨーロッパ産業文明の目覚ましい進歩に圧倒され、急激にヨーロッパを模倣して近代化をはからねばならなくなった過程で、自国はヨーロッパに著しく遅れを取っているという危機感やコンプレックスが生まれたものと見られる。

我が国の場合は、ロシアの場合とは多少、事情が異なるとはいえ、宗教的にも、キリスト教を土台として成立したヨーロッパ文化と、日本がもともと伝統的に継承していた東洋的・異教的な世界観との間にはあまりにも大きなずれがあり、それらは互いに異質であり、なじまないものであったため、外側でヨーロッパ文化を模倣すればするほど、日本が内側で持ち続けて来た東洋的な世界観との乖離状態が無視できないギャップとなって表れ、このギャップを克服するために、何かの心理的トリックが必要となったものと見られる。

そこで、表面的には西洋文化を受け入れた風を装いながらも、内側では、東洋思想を保存して、西洋的な思想(特にキリスト教)の侵食を決して許さないために、人工的に作り出されたものが、国家神道を土台とするメシアニズムの思想であったと考えることができる。

日本は事実上のメシアニズムの思想である国家神道の理念を打ち出すことにより、日本こそ、西洋文明の二元論的行き詰まりから全世界を救うことのできる特別な使命を持つ国であると自認した。

日本は、キリストに代わり、「天皇」を神聖な存在として掲げ、かつ、日本という国家自体を、「天皇を中心とする神聖な一大家族国家」とみなすことによって、国全体をキリスト教に対する防波堤としようとしたが、その理念の最大の目的は、全世界をキリスト教の侵食から「保護し」、異教的(東洋思想的な)世界観を保存することにあったと見られる。

このような「全世界をキリスト教の弊害から救う」という理念を正当化するために、国家神道は、西洋文化と東洋文化の合体によって、新たな文化を創造できるという折衷案的な解決方法を編み出した。キリスト教の神の概念はあくまで受け入れられないものとして、それに代わるものとして天皇崇拝を提唱しながらも、西洋文明の長所だけは取り入れ、これを日本がそれまで伝統的に持ち続けて来た東洋思想、東洋文化と合体させて、新たな混合文化を創り出し、それによって、「キリスト教と西洋文明の欠点から来る世界の行き詰まりを打破・是正できる」と主張したのである。

だが、むろん、こうした思想も甚だしい偽りであって、天皇崇拝や、東洋文化や、国家神道が、キリスト教に優る、世界に先駆けて優れたものだから、世界を行き詰まりから救うなどといった思想には、お世辞にも肯定することはできないし、それが根拠なき自惚れに過ぎなかったことは、歴史が証明済みである。むろん、それぞれの文化には、独自の長所が存在し、東洋文化にも、文化的な長所というものは存在するであろうが、だからと言って、その長所を持って「世界の救済者」を自認するといった厚かましい思想は、文化的な長所とは全く関係ない話である。

そのような思想は、日本が開国以降、ヨーロッパ産業文明に対して感じていた著しい遅れの意識と、劣等感、何よりもヨーロッパにおけるキリスト教に対する無意識の敵愾心が生み出したものであるとしか言えない。


・異教的・東洋的世界観の持つ被害者意識はキリスト教への敵意から来る

幾度も述べて来たことだが、東洋思想の根底には、キリスト教に対する根強い恐怖感と被害者意識が存在する。東洋思想の根底に流れる「母を守らなければならない」という発想は、要するに、「西洋的なキリスト教の父性原理の脅威から、東洋的・異教的な母性崇拝を守らなければならない」ということに尽きる。

だから、そこで言う「母」とは、異教的世界観の総体なのである。戦前の日本や、ロシアにおいて、国そのものを神聖な存在のようにみなし、国民全体が団結して立ち上がって、この「母なる国」を内外の脅威から防衛することにより、自国のみならず、世界を行き詰まりから救済できるかのような思想が度々、生まれて来たのは、こうした思想の背景に、まさに異教的・グノーシス主義的な世界観が存在しているからに他ならない。

つまり、ここで言う「国」とは、単なる国家ではなく、異教的な世界観、とりわけ、グノーシス主義的な「神秘なる母性」崇拝を保存するための「神聖な母体」としての入れ物(宮)なのである。だから、その「母」を脅かす存在とは、ただ国を脅かす内外のあれやこれやの政治勢力を指すだけでなく、本質的には、キリスト教(の父性原理)の脅威を意味するのである。

結局、こうした思想が最終目的に掲げているのは、異教的世界観(異教的な母性崇拝)をナンバーワンに据えることによって、全世界をキリスト教の(父性原理の)「脅威」から守り、聖書とは異なる異教的な「神」を世界の中心に据えようという思惑である。

「モスクワ=第三ローマ説」も、ロシアのキリスト教こそが世界で唯一正統であるという、一見、あたかもキリスト教という宗教の中での対立のように見受けられる主張の陰で、その実、真の目的は、ロシアという国家そのものを「神聖なる母」として、全世界の上に掲げることにあるものと考えられる。こうした思想の根底に流れるものは、決してキリスト教的な理念ではなく、単に政治的な争いを宗教的な装いのもとに表現しているに過ぎない。ロシア正教がビザンチンから伝来したと言っても、ローマはもともとキリスト教の聖地ではないので、ローマを継承したからと言って、本来、それは正統なキリスト教のシンボルにはならないはずである。それでも、あえてそのような表現が用いられたのは、明らかに、そこにカトリックに対する敵意が込められているからであり、モスクワ(公国)が、ビザンチンを継承して、バチカンに代わる新たなローマを名乗ることによって、ロシアにカトリックに優る宗教権力を打ち立てようとの願望が表れていたに過ぎない。

ただし、その後、ロシア正教はソ連時代に受けた弾圧などによって、かつての勢力を失い、今日のロシア正教に以上のような宗教的なメシアニズムの思想が残っているかと言えば、その可能性はかなり薄いであろう。むしろ、そうした思惑は宗教の舞台を離れて、政治の世界にこそ色濃く受け継がれている。

筆者は、それぞれの国の抱える文化的な土壌というものは、地層のようなもので、よほどのことがない限り、覆されることも、変化することもないと考えている。だから、ロシアも我が国も、文化の深層において抱える異教的な土壌というものがある限り、おそらく、以上に挙げたような忌むべき世界救済の思想は、今後も、繰り返し、繰り返し、何度でも形を変えながら、これらの国々から現れて来るであろうと思う。それらの思想は、現れる度ごとに、キリスト教への敵意をより一層、明白にしながら、最終的には、キリスト教を完全に乗っ取って、「我こそは正しい宗教である」と宣言することを目的にして行くのであろう。

結論として言えるのは、以上のようなメシアニズムの思想は、すべて怨念と被害者意識を基に生まれる復讐の思想である、ということである。こうした思想を育む土壌となる被害者意識は、ただ単に歴史的な負の事件だけをきっかけに生まれるものではなく、その根本には、キリスト教(の神)に対する、異教的・グノーシス主義的世界観の側からの怨念と被害者意識が存在する。だから、こうした被害者意識に満ちた思想が、真の復讐のターゲットとして定めているのは、内外のあれやこれやの脅威ではなく、まさにキリスト教そのものであり、聖書における唯一の神であることを知らなければならない。

次回以降の記事では、グノーシス主義的・異教的世界観がいかに被害者意識と切り離せないものであるか、また、グノーシス主義的・東洋的な母性崇拝の総称としての「イゼベルの霊」がいかに被害者意識に満ちているか、また、「イゼベルの霊」の支配に導かれる疑似キリスト教としてのペンテコステ運動に関わることが人にとってどれほど危険であるか、具体例を挙げながら考察して行く。


ロシアという国の危険な本質と、北方領土返還の完全な実現の前にロシアと平和条約を結ぶことの愚かさ、無益さ、有害性について

・日ロ両国の接近が我が国に将来的にもたらすであろう悲劇について

・ロシアビジネスの不幸な現場から


かつてロシア人の友人が、筆者に面と向かって言った。

「プーチン政権に逆らうと社会的に抹殺される」

比較的リベラルで、特に体制反対派とも言えないロシアの知識人が口にしたその言葉は、筆者にとってもそれなりに重く響いた。その言葉の重さは、徐々に増し加わり、様々な実体験と共に、筆者のロシアという国への淡い期待を打ち砕き、我が国とロシアとの平和条約締結を無意味なものととらえさせるに十分なきっかけへと発展した。
 
母国をいたく愛するそのロシアの友人には残念なことかも知れないが、ロシア人が一般にどんなに信用ならない、したたかで、ずるい国民性を持っているか、ロシアと我が国との誠実な取引がいかに成立困難であり、またこのような国と取引すること自体が危険な行為であるか、これから具体的に記して行く予定である。

一言だけ先に書いておくと、ロシアビジネスを営む多くの企業を知っている者として筆者が言えることは、この業界は根本的に不幸である、ということだけだ。レールモントフの詩に表現された「奴隷の国(ロシア)」という響きは、当時だけに限ったことではない。ロシアビジネスに携わるほぼすべての企業で敷かれているのは、レールモントフが詩に書いた通りの、細部に渡るまでの行き過ぎた管理と統制、相互監視・密告体制である。そして人命の軽視、人権の軽視、不法と虐げの恒常化…。

むろん、日本にもブラック企業と呼ばれるビジネスが溢れ、テレマーケティングなど業界そのものがブラックと言われている分野もある。状況は似たり寄ったりだと言われるかも知れない。確かにそうとも言えるだろう。今や我々はビジネスそのもの意味が全く異なり、労働そのものが非人間的な苦役と化そうとしている時代にさしかかっているからだ。

だが、ロシアビジネスの場合は、さらにそれに輪をかけて別種の危険が増し加わることになる。まず第一に、ロシア人は一般的に約束を守らないことで有名である。たとえば、仮に日ロ政府間で正式に合意が交わされ、シベリアに何かのモニュメントの建立が決められたとしよう。それでも、ロシア企業は、必要な資材の納期を一年間先延ばしにしても平気である。契約違反と言われようが、全く意に介さず、どうせ自分たちの他に頼る相手などいないだろうと言わんばかりに、追及されてもダラダラと言い訳を並べ、あるいは情に訴えて真相をごまかそうとする。そのくせ、自分に有利な条件を引き出すための交渉には余念がなく、平気で取引相手を出し抜き、利用する。

したたかで、狡猾で、平気で約束を反故にし、常に勝ち馬に乗ろうと、それまでの仲間を捨ててでも強い者に寝返る。こうした手法について、ロシア人に恥を知れと言っても無駄なことである。ロシア人にはこうした方法が、モラルに反しているという認識はない。取引や交渉の進め方について、同じ土台に立てないのであるから、お人好しの日本人には、彼らのしたたかさに太刀打ちする術はないと言って差し支えない。もしどうしても太刀打ちしたいならば、相手にまさるヤクザ的手法を身につけて恫喝するしかない。

だから、こうしたことの自然の成り行きとして、ロシアビジネスに長年、関わっている日本人は、次第に性格がロシア化して行く。見栄と出世だけが全てだとでも言うかのように、とてつもなく厚かましく、尊大で、利己的で、傲慢になり、かつて持っていたはずの礼儀正しさやつつましやかな謙虚さや誠実さを失って、態度からもはっきりと分かるヤクザ者となり、他者の功績を平然と盗んだり、横取りし、あるいは嘘をついて、ルールを破り、同僚を出し抜き、貶めても平気な人間と化してしまう。そして、たとえ自分の非を突かれ、失敗を突きつけられても、頑なに認めず、謝ろうとしない。どこまでも言い訳を並べて居直るか、同情を引き出して言いぬけようとする。

むろん、以上のようなロシアの実情に心を痛めているロシア人もいないわけではないであろうが、それはあくまで例外に過ぎないことが問題だ。ドストエフスキーも、レフ・トルストイも、すべて例外的なロシア人であり、彼らの文学は当時のロシアの現状に対する深い絶望感から生まれて来たものと言っても過言ではない。我々は、ロシア文化のうわずみのような良いところだけを見て、これがロシアだと断定し、国全体を美化することはすべきではない。

筆者は以上のような現状を見つつ、ロシアとのビジネスを発展させても、我が国にさして利益があるわけではない、と結論づけている。これほど長い間、この分野に発展がなかったこと自体、理由のないことではなく、誠実に約束を履行できない相手と取引することは無謀な行為でしかない。これまで我が国にかの国と平和条約の締結がなかったのはむしろ当然で、幸運なことだったのではないか。ロシア人が誠実に物事に対処することを学ぶまで、ロシアとの友好など我が国には要らないのである。


・ロシアの抱える「被害者意識」と歪んだメシアニズム――他文化の絶え間ない「借用」と侵略によって、国力を強化し、傷ついた自己イメージを救おうと試みて来たロシア

ロシアという国は飽くことのない権力闘争に生きる不幸な国である。すでに書いたことであるが、ロシアにアルコール中毒患者が多いのも、あまりにも過酷な権力闘争の中で打ち負かされて、心破れたロシア人男性が多いためであり、ロシア人女性は美しく心優しいと言われるが、その優しさとて、以上のような自国の厳しい現状の只中から生まれて来た一種の諦念と結びついた同情でしかなく、自分よりも弱い者に対しては同情的かも知れないが、決して真の独立や自立を目指す心意気を生まない。

これまでの記事の中で、筆者は、ロシアという国は、文化も借り物ならば、宗教も借り物、およそすべてが借り物で成り立っている、存在そのものがフェイクに近いような幻の国だという、ある種の極論めいた結論を述べた。そのフェイクに近い国が歴史上、ずっと絶え間なく拡大・膨張政策を取り続けて来たことに、ある種の不気味さがある。今回、なぜそのようなことが起きているのか、ロシアという国が自己意識の深層で抱える問題について詳しく考えてみたい。

まず、ロシアという国は、自国にとって有利で、国家の威信を強めてくれそうなものであれば、どんなものでも、他から平然と「借用」する国である。その例は枚挙に暇がない。ロシアの大都市圏で誉め讃えられるヨーロッパ的町並みは、ロシアの近代化のためにピョートル大帝時代に輸入されたものであり、キリスト教も、ロシアを周辺国に一流の国と認めさせるために、国家の威信強化を目的にビザンチンから借用されたものである。ウラジーミル大公の命令によって、それまで民間の異教信仰に頼って生きていた多くの農村の民衆までもが、教義さえ分からないまま、無理やり洗礼を受けさせられ、キリスト教徒に改宗させられた。こんな強制的な集団改宗の有様を見るだけで、それがロシアがうわべだけ「キリスト教国」を偽装するための儀式に過ぎなかったことは明らかである。さらに、ソ連時代にロシアが取り入れた共産主義思想も、ヨーロッパからの輸入である。マルクスは、社会主義は資本主義の発展の結果として起きるものだと考えていたので、自らの思想の最初の実験場が、当時、ヨーロッパには経済的にも文化的にもかなり遅れを取っていたロシアに定められようとは、想像してもいなかった。

マルクス主義思想も含め、このようにロシアが、自国を飛躍的に「世界一」へと高めてくれそうなアイテムであれば、他国に先駆けてでも、それを導入した理由は、ロシアがそれまでずっと自己意識の深層で持ち続けて来た傷ついた国家のイメージ被害者意識の裏返しであったと言える。自国のアイデンティティの根幹で、傷ついた自己意識、被害者意識を持ち続けていたがゆえに、他を凌駕して世界一の存在に躍り出ることで、世界を救済し、劣等感を払拭し、雪辱を果たそうとする歪んだメシアニズムの思想が生まれたのである。

マルクス主義などは、ロシアという国がこのようにもともと深層で持っていたメシアニズムの思想が表面化するときに取った形態の一つに過ぎない。プーチン氏の目指す「強いロシア(の復興)」にも同じ思想が表れており、おそらくは、こうした思想は今後も二度、三度と、現れて来るものと思われる。

さて、以上で見た通り、ロシアが他国の優れた文化や思想や宗教を、自国に「借用」しようとするのは、それらの優れた価値に本気で学ぶためではなく、むしろ、それらの価値を表面的に取り入れることで、一流国の仲間入りを果たしたかのように見せかけ、自国の威信を強化する目的でしかなかった。だから、こうして行われる改革や変化はいずれも、対外的に見栄を張る必要のためだけに行われるものであって、ロシアという国の歴史や文化の只中から必要に迫られて生まれて来たものでない以上、ロシアという国に本質的に根差すことなく、根本的な変化をもたらすものとはならなかった。それでも、一流国であるために、昨日までの民衆の生き様を根底から覆し、自国のそれまでの歴史や文化の価値を根こそぎ否定してでも、急激で極端な改革を実行しようとすることが、ロシアの歴史には度々あった。このように、ロシアにとって、自国が他国に比べて引けを取らず、周辺国と対等に肩を並べ、これらを凌駕する存在となることこそ、いつでも第一義的な課題であり、その目的の達成のためならば、他国の持っている優れた価値を強引に剽窃したり、自国の歴史や文化の連続性を無視してまでも、他文化の物真似に走ることも辞さないのである。すべての価値が、民衆には還元されることなく、ただただ国力の強化、国家の威信の増強へと吸い尽くされて行くところに、この国の不幸が存在する。

このような現象は、国家的なアイデンティティをいたく傷つけられ、ひどいコンプレックスを抱えている国にしか起き得ない事柄である。自尊心を失い、心傷つけられ、本当は自分は一流国でないという劣等感に苛まれていればこそ、借り物の衣装を身にまとってでも、自分を一流国であると認めさせたいのである。軍備の増強と、国家の拡大・膨張政策(マッチョイズム)に走ることで、真の自分自身から目をそらさざるを得ないのである。

うわべだけ他者の真似事に走っても、決して本質では一致することはできないが、かりそめにも自分はエリートの一員となったと思うことで、傷ついた自己を慰めることはできる。こうして、他者のやり方を真似ることで、他者にあたかも自分が仲間であるかのように見せかけて油断させておいて、本心では、自分にひどい惨めさとコンプレックスを味わわせた他者を打ち倒そうと考えながら、その内心を隠して、友好を装ってその相手に近づき、やがて相手をぱっくりと飲み込んでしまう。何しろ、本家本元が消滅していなくなってくれれば、自分をフェイクだと主張する者もなくなる。それが他国とのロシアの絶え間ない争いの歴史であると言えるのではないか。キリスト教の中においてさえ、ロシアには、カトリシズムを堕落したものとみなすあまり、ヨーロッパのキリスト教全体を侮蔑し、自国のキリスト教こそが世界で唯一正しいと自負する思想が存在した。このような優越意識は、劣等感の裏返しとしてしか決して生まれて来ないものである。

筆者は歴史家ではないので、モンゴルによる統治時代に、ロシアに対してひどく残酷な所業が行われたという言い伝えの中に、果たして誇張はないのかといった点についてここで争う気はない。だが、重要に思われるのは、仮にロシアの傷ついた自己意識が、それ以前から持ち続けられたものであったとしても、異民族の占領・統治下に置かれ、国が消滅に近い状態となったタタールのくびき時代の歴史的な記憶が、今日までも、ロシア人の心に大きな屈辱感・劣等感、被害者意識を生む一因となっているのではないかという疑いである。さらにもっと重要なのは、このタタールのくびきを跳ね返すために、ロシアは精神的に敵(モンゴル)と同化し、モンゴル的統治方法を己が内に取り込んだのではないかということである。

ロシア人の多くは、屈辱的なこととして決して認めたがらないであろうが、以上のような指摘はすでになされているものであり、モンゴルによる制圧時代に、事実上、モンゴル人とロシア人との混血が進んだだけでなく、両者の文化が混合し、異質なものが混ざり合い、ロシアにとって、モンゴルとの一体化という後戻りできない変化が起きたのである。

何よりも、ロシアという国を今日まで特徴づける、強大な中央集権的な国家権力による圧倒的な民衆支配の原型は、まさにこのモンゴル統治時代にこそ生まれたのではないかと想像せざるを得ない。なぜなら、このような統一的な政権は、絶えず諸公が分裂していたキエフ・ルーシ時代にはまだ見られなかったものであり、こうした中央集権的な政権そのものが、モンゴルの統治方法の借用であると見受けられるためである。ロシアはモンゴルの抑圧から脱するために、モンゴル以上の強力な国家権力を打ち立てねばならない必要に迫られており、そのために、モンゴルの統治手法を己が内に取り込むことで、これを跳ね返す必要があった。ロシアはモンゴル貴族との婚姻によってモンゴル支配に微笑みながら友好的に協力の手を差し伸べ、これと協力し同化する風を装いながら、これを飲み込んで、相手を打倒して立ち上がった。以後、ロシアの歴史は、モンゴル的な占領・拡大政策と、それ以前からずっと続けて来た絶え間ない「借用」の連続である。

こうして、タタールのくびきは終了し、敵は弱体化し、駆逐されたが、それでも自分たちは踏みにじられ、痛めつけられ、今も絶えず脅かされている弱者だという被害者意識はなくならなかった。その弱者性と屈辱感と恥の意識を覆い隠すために、より一層、国家権力の強化に励み、他国を凌駕しようとの強迫観念から抜け出せなくなったのが、それ以後のロシアなのではあるまいかという気がしてならない。

とにかく、ロシアという国の国家観の根底には、自国の発展と威信強化のためならば、自国民や他国や果ては世界全体がどうなろうとも構わないといった発想があるように思われてならない。なぜ彼らはそこまで「国」というものの強化にこだわるのか? 強迫観念のようなこの思想は、タタールのくびきをきっかけに生まれたものではないとしても、かつて異民族の統治下に置かれて、自国が占領され、抑圧され、消滅同然となった時代に、より強化され、こうして傷つけられて失われた国家の自己イメージを今も引きずり、絶え間ない恐怖と屈辱感に脅かされているために、その傷ついた自己を救うために、永遠に自分を脅かす敵がいなくなるまで、世界征服を模索し続けねばらないという思い込みが生まれているのではないだろうか。

このような批評を「あまりにもひどい一方的で根拠なき感情的な決めつけだ」と考える人がいるならば、ロシア人がかつてシベリアの強制収容所でどのような生活を送ったのか、その記録を読んでみれば良い。同胞同士がどれほど憎み合い、殺し合い、貶め合ったかが分かるであろう。何よりも国力強化のために、このように憎悪すべき強制収容所群島を国中に作り上げ、自国民を徹底的に虐げ、収奪するシステムを完成させたこと自体、ロシアにおける「国」の概念が、どれほど恐ろしく歪んでいるかをよく物語っていると言えよう。

そして、大変、残念なことに、ロシアという国の持っているこのように傷ついた自己イメージ、被害者意識、それを跳ね返すために生まれて来る歪んだ世界征服の夢(メシアニズムの思想)は、かなりの部分がほとんどそっくり、今日の我が国の国家像にも当てはまるのである。

* * *

・安倍氏とプーチン氏に共通する「被害者意識」と、これを跳ね返すためのマッチョイズムとしてのナショナリズム

ソ連が行ったシベリア抑留や、北方領土の占領、またロシアの社会主義化などの出来事のために、我が国では、相当長い間、ロシアに対する不信感が国民に根付いていた。また、プーチン政権に対する我が国世論の批判や不信感も、つい最近まで相当に根強いものがあった。それが激変するのは、明らかに、安倍政権になってからのことである。安倍氏がプーチン氏との個人的な親密さを積極的にアピールしながら、領土問題の解決を自分の手柄にしようと動き出してから、それまで暗黙の了解となっていたロシアへの不信感が、世間で語られなくなって行ったのである。

何度か書いて来たことであるが、安倍政権の思想的特徴は、プーチン政権と本質的に同じである。また、人間としての両者の人格的な欠点も非常に酷似している。彼らには、一部では、サイコパスや、自己愛性人格障害といった評価も向けられているが、それも当然であろう。飽くことのない権力欲、人前で栄光を受けることを愛してやまない名誉欲、困っている人間には同情的なそぶりを見せながらも、人の弱みをとことん利用して出世の手段として行き、その陰で反対者は容赦なく力で抑圧し、駆逐して行く。非情さ、冷酷さ、猜疑心、復讐心の強さ、などは互いに似通っている。
   

安倍政権によるメディア懐柔・統制はすでに批判を浴びて久しいが、プーチン政権に逆らって殺害されたり、不明な死を遂げたジャーナリストの噂も絶えない。

日曜未明、あるジャーナリストの不審死と、先を行く205人のジャーナリストの死 (2016年8月29日)(HKennedyの見た世界から)

「ヴラジミール・プーチンが大統領に就任してからのロシア、及びロシア連邦で暗殺されたり、不審死を遂げたジャーナリストの数は205人に上ります。」

プーチン政権下、暗殺されるジャーナリスト達 
 

  
安倍氏がしきりにプーチン氏を評価するのは、ただ単に同氏が領土問題をきっかけに脚光を浴びたいだけではない。その接近には、何よりも、両者の持つ思想的な親和性が影響しており、安倍氏の目指す理想的な統治像が、プーチン政権にこそあることが影響している。

安倍氏の目指す「美しい日本」像は、プーチンの掲げる「強いロシア」と本質的に同じなのであり、それは我が国においてかつて否定され、退けられた軍国主義・国家主義の再来を意味する。

両者の思想的な親和性がどこから生まれているのか、その理由は、安倍氏と密接な関わりのある統一教会の思想を考慮しても、理解できることである。すでに述べたように、統一教会はかつて「共産主義の脅威」に対抗することを目的に掲げながら、共産主義との闘いの過程で、政敵からすべての忌むべき手法を自分自身の内に取り込んで行った。統一教会が共産主義と一体化した過程は、統一教会の組織である国際勝共連合の掲げる「核武装」や「憲法改正」、「スパイ防止法」などのスローガンが、すべてもとを辿れば共産主義国が実施した人民統制の手段と重なることからも理解できる。これはモンゴル統治を廃するために、ロシアがモンゴル統治と一体化して行った過程とよく似ている。統一教会は、表向きには共産主義と闘っているように喧伝しながらも、実際には、共産主義を手本として、その手段を己が内に取り込むことで、自己の権力拡大の手段としたのである。

そこで、このような全体主義・宗教カルトに関わる全ての人に、今日も、親ロ的な思想が伝統のように受け継がれているのは不思議ではない。KGB出身のプーチン氏の統治方法がソ連時代に極めて酷似していることが示すように、また、日本にいるロシア研究者の数多くが今日も思想的には共産主義に親近感を抱き続けているように、たとえ時代が変わっても、彼らは本質的には今も変わらず共産主義者のままなのだと言って差し支えない。筆者は、共産主義思想ももとを辿ればグノーシス主義思想に行き着くものと考えているが、グノーシス主義とは、元来、被害者意識から生まれるものであって、何よりも「神に対する人類の被害者意識」から発生する思想である。聖書の神によって罪に定められた人類が、被害者意識によって神に敵対して団結し、神の下した判決を覆して自力で自分を無罪とし、名誉回復を遂げようとする思想がグノーシス主義である。

安倍氏には同氏が国家観として持ち続けている「被害者意識」に加えて、個人的なルーツとして持ち続けている「被害者意識」もあり、この二つは安倍氏という個人の人格の中で密接に結びつき、同氏は双方の「名誉回復」を目指している。安倍氏の政策がどれほど対米隷属的だと批判されようとも、同氏のルーツを辿れば、安倍氏が心からの親米派であるとはおよそ考えられないのもそのためである。同氏が望んでいるのは、一時はA級戦犯とされ死刑に処されるかという恐怖を味わった祖父の「名誉回復」であり、それによって自分自身のルーツを「浄化する」ことであろう。だが、そのようにして祖父を名誉回復するためには、どこかで「米国のくびき」を跳ね返すことがぜひとも必要であり、戦勝国によって下された審判を覆して汚名を返上せねばならない。その意味も込めて、ロシアへの接近をはかっているのではないかと考えられる。(だが、以下に書く通り、こうした行為はすべて祖国への裏切りとして、したたかに報いられるであろう。ロシアに接近しても、北方領土の返還にはつながらないどころか、安倍のこうもりのような振る舞いの陰で、同氏は最終的には米ロの両国に裏切られ、敗戦時と同じように、米ロによる新たな日本の領土の占領・分割という悲劇を招くことにもつながりかねないと懸念する。)

さらに、上記したようなロシアが国家像として抱えている「傷ついた自国のイメージ」と、それを跳ね返すために「強い国を取り戻そう」とするスローガンは、敗戦によって「屈辱を受けた」ゆえに、これを「跳ね返さなければならない」と考える、安倍氏を含む日本会議メンバーのような人々の心境にも重なる部分が大きい。

内心では、自国の占領、抑圧、消滅の恐怖を今も持ち続け、歴史的事実のために屈辱感、劣等感に苛まれているという共通点があればこそ、彼らは一人のリーダーのもとで団結する「強いロシア」の国家主義にも親近感と憧れを抱くのである。

ロシア国家が国民性として抱える「傷ついた自己」の本質については、次のような指摘もある。
  

ロシア、アメリカ、日本のナショナリストの抱える危険(HKennedyの見た世界 2016年8月30日、太字、赤字は筆者による)

現在のロシアにあるのは、共産主義というイデオロギーではなく、プーチン大統領を筆頭にしたマフィア集団に政権を牛耳られたロシア・ナショナリズムです。これを要約すれば「すべて周りの国々は我々に対抗している。我々は敵によって周りを囲まれている。我々は強く在らなければならず、プーチンを必要としている。プーチンのみが我々を救う事が出来る」という考えです。

但し、言ってみればこのような主張は、ロシアのナショナリストだけではなく、日本のナショナリストやアメリカのナショナリスト(多くのナショナリストはトランプ支持者です)の間にも広まる『被害者意識』に繋がります。

外国や周辺国が危害を与えようと自分たちの国に敵対しているという『陰謀説』から来る『被害者意識』の蔓延るナショナリズムには、他者(他国)との共存や協力は全て『売国奴』『国の敵』と映ります。ここから考えても、国中にプロパガンダを流してナショナリズムを鼓舞しているプーチン大統領が、外国との連携や協調路線や柔軟路線をとることは無く、又対日外交で言えば、北方領土を返還する意思が微塵も無い事はあまりにも明らかであり、強権を振るうプーチン大統領なら「解決するかもしれない」のではなく、プーチンだからこそ「解決にならない」ことを見極めるべきです。

  
以上の記事では、ロシアの国家の本質は、「すべての国がロシアに敵対している」という「被害者意識」にあるとされる。今日、状況はまさにそれに近いものとなっているので、こうした思い込みは全く根拠がない単なる被害妄想とも言い切れない有様だが、しかし、こうした敵対状況すらも、場合によっては、より深い次元では、ロシアが抱える「被害者意識」が現実に投影されて起きて来たものと見ることもできる。(あるいは、ロシアが己が利益のために、「米国という世界的巨悪に対し、孤立状態に陥ってでも、決然と立ち向かう勇敢な一国」の姿を好んで演出しているという見方もできる。)

だが、このように「周辺国から敵対されている」という被害者意識・危機意識は、「中国の脅威」などをしきりに煽る安倍晋三の「被害者意識」とも共通するものがある。両者ともに、「自分は脅かされている」という危機感から抜け出すことができず、他国に対する不信感・敵意・不安を煽ることによって、それを自己の政治権力強化の手段として行く点は同じである。仮想敵を作り、対立や被害者意識を煽ることによって、「強い統一的なリーダーのもとに国民が一致団結し、国家を強力な防衛の砦としていくこと以外に、我が国民が身を守る術はない」などと訴え、国と自分自身を同一視し、自分という政治的なリーダーの下に国民を集結させようとする政治手法は極めてよく似ている。

こうした人々にとっては、平和が訪れるよりも、敵が存在し、国が危機に晒されているという恐怖感が絶えず国民の間に存在する方が好都合なのである。

かなり古い記事ではあるが、以下のような記事も、プーチン氏個人の世界観をも読み解く鍵となるであろうと思う。「荒海でクジラ撃ちのプーチン首相、「人生は危険なもの」とうそぶく」(2010年8月27日)AFPBB News

全世界が自分に敵対しているという被害者意識を持ち続けていればこそ、こうした人間たちは、人生を絶え間ない権力闘争に置き換え、周囲の人間を「敵か味方か」に二分し、飽くことなく闘争や、スリルに生きることが人生であると捉える。彼らにとっての人生とは、最初から安息の場ではなく、絶え間ない闘争でしかない。このような人間には、他者を信頼するとか、愛することはできない。だからこそ、その証拠に、長年連れ添った伴侶をも離縁してしまうか、家庭内離婚状態となり、家庭に決して平和が訪れないのである。それは彼らが人生の目的としているものが、最初から、家庭の安らぎとは程遠いものだからである。

だが、そのようにして対外的な危機ばかりを煽り、疑心暗鬼から武装を強化し続けていれば、いずれ叫んでいた対立が本当になる日が来ないとも限らない。だから、このような心理的傾向を持つ二つの国の接近は、大変、危険なものであると言える。何よりも、共に被害者意識と疑心暗鬼に苛まれるだけの二つの国の間に、決して真の友情と連帯などあり得ない。あるのは、どちらが先に食うか、食われるか、という問題だけである。


・ロシアはソ連時代と本質的に変わらない――決して北方領土を返還しないばかりか、さらなる領土侵略に及ぶ危険性を考えなければならない
  

侵略国家ロシアは「北方領土」を返さないばかりか北海道の侵略占領を狙う

 「平和条約の締結」は、ロシアが違法に侵略して占領し続けている日本の北方領土を日本に返還し、謝罪と賠償をして、結ばれるものだ。つまり、ロシアが国際法を守り、侵略を否定する「平和愛好国家」に転換したときに結ばれるものだ。だが、そんなことはありえない。ロシアは2008年8月にはグルジアを軍事侵略したのだ。これを、安倍首相のブレーンであり、反米の思想工作を巧みに展開する中西輝政京大名誉教授は強く支持した(私の2013年11月21日脱の文の2節参照)。中西氏は安倍首相の私的諮問機関「安全保障と防衛力に関する懇談会」(2013年9月10日)の委員である。ロシアは、シリアのアサド独裁政権を支援し、化学兵器の原料を提供してきた国だ。

 つまり、 2月8日の日露首脳会談での、<戦後68年間にわたって平和条約がないという異常な状態を終わらせなければいけない>というプーチンの「認識」は、日本国民を騙すための嘘である。同じく安倍首相の「同認識」も、国民を騙すための嘘である。

<略>

 新ロシア帝国は、マルクス・レーニン主義は棄てたが(共産主義では経済を発展させることができないこと、西側自由主義国を騙すため)、ソ連時代のKGBによる国内弾圧体制と、ソ連時代の対外政策=侵略主義を断固として継承したから、国家の本質はソ連時代と同じである。

 ソ連時代の対外政策の侵略主義は、帝政ロシアの対外政策の継承であった。沿海州のウラジオストクは、「東方(日本)征服」の意味である。新ロシアの国章は、帝政ロシアの「双頭の鷲」である。新ロシアの国歌のメロディーは、スターリン作のソ連のものであるし、レーニン廟もソ連時代のままである(中川八洋氏『地政学の論理』17,18頁参照。2009年5月刊)。このように「新ロシア」と称しているが、本質はソ連時代の継承であり、悪の帝国なのだ。

 なによりも、新ロシアの支配者はソ連時代と同じだ。 旧東欧諸国のように、弾圧されていた側が政権を取ったのではない。ソ連共産党の代わりをKGBが担うようになっただけであり、「ソ連崩壊」は、「国家の偽装倒壊」なのである。西側は騙されたのである。

  
「悪の帝国」などという半ば陳腐化してしまった台詞にも見られるように、以上のような記事に、学術的な検証としての価値を見いだすのは困難かも知れないが、しかし、言わんとしていることの趣旨はそれなりに理解はできる。

プーチン氏が、いかに表向きはソ連時代への反省と共産主義と訣別したと宣言し、ロシアが新しい国家として出発したように見えたとしても、実際には、それは見せかけに過ぎず、国家の本質は変わっていないというのである。そのことが、現在のロシア国歌にも表れており、KGB出身のプーチン氏が長期政権を維持している事実にも表れており、レーニン廟が一度も取り払われたことがない事実にも表れているのだという。

そして、ソ連の本質とは、絶え間ない拡大・膨張(侵略)政策であった。それは今も変わらないロシアの国家政策である。別の指摘では、ソ連時代、東欧も含め、ロシアと「平和・友好条約」などといった美しい名前の条約を結んだ国は、ほとんど約束を裏切られて侵略の対象となった。たとえば、アフガニスタンは、1978年にソ連と結んだ善隣友好条約が口実となって、翌年、ソ連に侵攻された。日本はかつて日ソ中立条約に違反して、ソ連からの対日参戦を受けた。こうしたことからも、ロシアにとっては、「中立」や「平和」や「友好」といった名のつく約束は、ただ相手方の行動の自由だけを縛っておいて、自分は約束など無いがごとくに好き勝手に振る舞い、自分にとってのみ有利に事を進めるための裏切りと侵略の第一歩でしかないと見る向きもある。

いずれにしても、ソ連に形式的な終止符が打たれたからと言って、それだけを持って、ロシアという国の、こうした信頼のできない不誠実で裏切りに満ちた歴史的な習慣、ずるくて抜け目のない国民性がなくなったと考えるのは早すぎるであろう。まだソ連時代に学校教育を受けた人々がこの国では若者層を支えている。そうしたことだけを取っても、共産主義のイデオロギーが、体制の変革と共にただちに消え失せたと考えることはできない。

だが、共産主義にこだわらずとも、ロシアという国は、歴史上、強大な国家権力が絶え間なく拡大を続けながら、自国の民衆を容赦なく抑圧するという道を外れたことが一度もない国である。赤の広場はかつてイヴァン雷帝によって人民の公開処刑が行われた場所でもあった。このような悲劇的な過去を持つ国家としてのロシアの本質は、今後も決して変わらないであろうと筆者は考えている。

何よりも、歴史的事実によって傷つけられた自己イメージを、軍備の増強や、国家の威信強化といった表面的な手段(マッチョイズム)で補うとすること自体に無理があるのだ。そのようにして、自己の内面と向き合って、真の健全さ、高貴さを身に着けるために、何が必要なのかを考える代わりに、ただ手っ取り早く他者の持っている優れた価値を強奪したり、仮想敵を作り出すことによって、諸悪の根源が自分以外の何者かにあるように見せかけ、これを口実に軍備を増強し、周囲を屈従させることによって、仮に世界一の座を手に入れたとしても、そんなことで一流国としての気品が身に着くことはない。そうしたことによっては、より一層深い疑心暗鬼と対立関係が生まれるだけで、傷ついた自己イメージが回復されることもなければ、決して本当の安らぎと満足もやって来ない。真の尊厳は、人間の場合も、国家の場合も、等しく内側から始まるのであって、外側から身に着けることはできないのである。

そして、我が国は、敗戦を経て、軍国主義や国家主義とは訣別したはずであるが、「お上」を至高の価値とする以上の価値観を未だ持てず、何事も個人から出発せず、「お上」から出発してしか考えられないない点で、ロシアと同じような精神的遅れを抱えて今日に至っている。そして、かつて大国になろうとして失敗したという汚名を返上するために、より一層、強い国作りに励まなければならないという強迫観念に駆られている点でも、ロシアと似ている。国家としての自信、品格、プライド、尊厳などを、内側から支えるための真の心の支柱を未だに持てず、それを外側からの「借り物」によって補強しながら、「国家」だけをハリボテのように増強し、今またいつかきた道を逆戻って行こうとしている点で、我が国はロシアと非常によく似た病理現象に陥っているのだと言えよう。

このように欠点を同じくする者同士が、己が欠点には目をつぶりながら、互いを誉めそやし、美化し合って、手を結んだ日には、今まで以上の悲劇が起きるであろうと予測するのは当然である。このような光景に対して、筆者がかけられる言葉は次の一言だけである。

「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。」(テモテ3:13)

だから、筆者は、我が国がロシアに接近することは、我が国にとって何のメリットもなく、それどころか、有害な結果をもたらすだけに終わるだろうと確信している。安倍政権がこれまで推進した政策のうち、どれ一つとして、我が国の国益にかなったものはなかったが、とりわけ、ロシアには北方領土を返すつもりなど微塵もない。北方領土を餌にして、我が国はロシアの国益のために仕えさせられ、シベリア・極東開発に存分に利用されるだけで、したたかに欺かれて終わるであろう。それくらいであればまだ良いが、米ロの間に本当の対立が起きた日には、我が国はどちらからも裏切られ、国土が真っ二つに分割されるなどという悲劇にも巻き込まれかねない。そうなった日には、シベリア・極東開発という名目で現地に送り出された我が国民は、シベリアに取り残され、帰国もかなわなくなって、またも第二のシベリア抑留のようなことが起きるだけである。

* * *

・文学的主人公に擬人化されるロシアの傷ついた自己イメージ

エフゲニー・オネーギンの人物像には、ロシアという国の一般的な国民性、また国家観が象徴的に込められていると筆者は見ている。むろん、これは文学的な創作の主人公であり、同種のアンチヒーローとしての「余計者」の系譜は、オネーギン一人では終わらないのだが、オネーギンの人物像は、「傷ついたロシア」の自己イメージを非常に簡潔に象徴的に体現していると言えるのではないかと思う。

オネーギンは、上流階級の出身であるから、うわべは立派で、紳士的で、教養や知識もある前途有望な青年である。ヨーロッパの水準に比べても劣らない立派な教養人であり知識人の紳士であるように、人目には映ることであろう。何よりも、彼は世渡り上手で、空気を読むことに長けており、社交の場では自分を上品に、賢く、魅力的な人間と見せかける術を持っている。彼は人の心を上手に掴むことができる。だが、それは計算づくの行動で、当世風の流儀の上手な模倣に過ぎず、彼の内心は深く心傷ついており、病んで、自信を喪失している。そのため、彼には社会において決して自分のあるべき居場所を見いだすことができず、他者を本気で愛したり、信頼することもできず、人間関係においては、ただ自己の利益のために、相手を期待させて利用しておきながら、したたかに裏切り、傷つけることしかできない。外見は知識人だが、知識人として当然、持っていなければならない倫理や道徳が、彼には決定的に欠けているのだ。

オネーギンにはまだサイコパスとまでは言い切れない、良心の呵責や、ためらいや、後悔も含めた人間らしい感情が備わっているが、それでも、彼の人格は、深い所ですでに致命的な根腐れを引き起こしており、どんな反省も後悔も彼を変えることはできない。彼の傷ついた人格は、決して彼の人生において、あるべき決断をさせず、軽薄でうわべだけの利益になびいて、本質的に重要なものを常に見誤らせ、他者との長続きしない不誠実な関係を結ぶよう仕向けるだけで、彼をどんどん不幸においやってしまう。そのため、オネーギンの人生に巻き込まれた人々は、みな結果的に不幸になる。タチヤーナは一見、優しく誠実な女性のようであるが、彼女の生涯を通じての振る舞いも、オネーギンには何の薬ともならず、彼女はただオネーギンの犠牲者としての立場を抜け出ることはできない・・・。オネーギンに対する処方箋はロシアにはないのである。

オネーギンというのは、単なる創作上の主人公ではなく、「傷ついたロシア」そのものを擬人化した人格だと言えるのではないかと筆者は考えている。同種の人格は、他の文学的創作にもおおむね受け継がれているが、こうしたアンチヒーローは、ただ単に創作上の存在であるだけでなく、ロシア人が国民性として歴史的に常に抱えて来た根深い心理的なコンプレックスと、歪んだ被害者意識と自己憐憫、その心の傷ゆえに、彼らが正しくあるべき関係をどんな他者ともきちんと構築できず、常に嘘や騙しや利用や裏切りといった、他者ばかりか、自分自身にとってもいずれ手痛いツケとなって跳ね返って来るような有害な関係しか結べないという重大な精神的・人格的な欠点を象徴的に示しているように思われてならない。

むろん、すべてのロシア人が同じ人格的欠点を持っていると言うつもりはないが、それでも、こうした人格には、創作の域を超えて、何かしらこの国全体に共通するような深い意味が込められており、ロシアという国の未来が抱える絶望が象徴的に暗示・投影されているように感じられてならない。どんなに個々のロシア人が誠実であっても、国家としての運命全体が不幸であるならば、個人がそれに巻き込まれることを避けるのは難しいであろう。

歴史的に、ロシアの良心的な知識人は、国全体が抱えるこの心理的な傷をどのように克服するかという課題を常に切実なものとして受け止め、ロシアという国から何とかこの不幸の源を切り離して、誠実で温かな心を取り戻して、平和と安息に満ちた国を作ろうと模索した。だが、彼らはその解決方法を見いださなかった。そして、ロシアは国全体として、常に誤った道を選び取ることによって、この問題と向き合うことから目を背けて来たのである。

すなわち、国力のさらなる強化というマッチョイムズへの傾倒によって、己が内面の空虚さ、傷、腐敗を覆い隠し、自己の抱える恐れや劣等感や屈辱感を、うわべだけの模倣や、力によって補強し、他国を制圧することで憂さを晴らそうとする間違った方法を取った。武装することによってしか、人格的欠点を覆い隠せないほどに危険なことはない。傷ついた人格に強力な武器をもたせるのは、周囲にとっては重大な脅威以外の何物でもない。

オネーギンは傷ついた国家、傷ついた国民性の象徴であり、我が国の国民性とも決して無縁とは言えない欠点を持っているのだが、オネーギンと我が国の国民性の違いがあるとすれば、それは我が国にはオネーギンほどの狡猾さ、したたかさがないという点であろうか。もしそうだとすれば、なおさらのこと、我が国は、到底、ロシアのような国を相手にしてはならないと言えよう。もし人生を幸福に送りたいならば、これは決して出会わない方が良く、決して関わるべきでない危険なタイプの人格である。

現在は、米国のやりたい放題の陰で、ロシアが多くのことでいわれなく非難され、国際的に追い詰められているがゆえに、ロシアを被害者のように見て、「可哀想」と考えたり、逆に反米感情からロシアに拍手を送るむきも世間には存在するものと思う。筆者は米国を擁護したいたがために、ロシアのイメージを貶めようとしてこう述べているわけでは決してない。だが、ロシアについては、決してこの国の言い分をいかなる点についても信用しないことが得策であるというのは、歴史があらゆる場面で物語っていることではないかと思う。だから、現状の政治的孤立状態を利用して、この国が自分をあたかも「可哀想な存在」であるかのように見せかけて、被害者のように同情票を得ることもまた彼らの戦略の一環であるから、それに加担しない方が良いと言えるだけである。ロシアはそもそも他国から同情を受けなければならないようなか弱い存在ではない。国家の沽券にかかわる問題については、恐るべき強固なプライドを持って、どれほどのすさまじい犠牲を肯定してでも、面子を守り通そうとする。まさにその途方もないプライドと力こそが、被害者意識と表裏一体をなしているのであって、そのような強さは、本質的には悪であって、決して同情に値するものではない。そのことを見抜けなければ、他国に同情しているつもりが、したたかに利用され、気づいた時には犠牲者にされるだけに終わるであろう。


異端思想に共通する地上天国建設のための家族モデル―グノーシス主義の基本構造⑤

ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」(マタイ24:38)

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師は、ただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、すなわち、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。
」(マタイ20:25-28)

不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」(黙示22:11)

 



10.宗教指導者を「霊の父母」とし、これに絶対的に帰依する信者の家庭を増加させることで、地上天国を成就させることを目指す思想は異端である


さて、この論稿は、前の記事の続きとして、信者の家庭をエクレシア建設の単位とみなし、地上でクリスチャン家庭を増やすことにより、神の国が招致されるとする思想が根本的に誤っていることを、各種の異端思想と比較して明らかにすることを目的としている。

だが、同時にこのテーマは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師にとっての家族モデルとは何なのかを明らかにする目的で筆者が追究し始めたものでもあるため、まずはそこから話題を開始して行きたい。


・「霊の父母」を作ることにより、縦の関係を絶対化する偽りの教え

 
カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師は、約十四前、同教団に属していた鳴尾教会において、当時の鳴尾教会の主監者であり、自らの義理の父であった津村昭二郎牧師と協力して、津村氏の後継者と目されていた伝道師夫妻を教会から追放した。(この事件については記事「村上密牧師による鳴尾教会への不当な介入問題 まとめ」を参照。)

伝道師夫妻の異動は、一見、彼らが自主的に異動届を出した結果であるかのように見せかけられていたが、実際には、その裏に村上氏と津村氏からの伝道師に対する圧力があったことが、後に教団が公にした伝道師らの書簡によって判明した。そのため、鳴尾信徒らの間には、教団と津村氏・村上氏に対する根強い不信感と疑惑が生まれ、これが、鳴尾教会に長く続く混乱をもたらす原因となった。

しかし、教団は津村氏と村上氏をかばってこの不正な事件をもみ消すために、教会の混乱の原因を後に鳴尾教会に赴任した山田牧師夫妻に転嫁しようと試み、かつて伝道師らを追放した時と全く同様に、山田牧師夫妻に対する異端の疑惑をでっちあげようとした。(村上密氏のブログ記事参照)。
 
鳴尾教会はこのデマを信じず、信徒らの総意により、かえってこの腐敗した教団から離脱する道を選んだため、教団側の目論見は頓挫した。教団は裁判にまで及んで鳴尾教会の教団離脱を阻止し、これを手中に取り戻そうとしたが、それもことごとく敗北に終わった。


村上密氏は、今年になってもまだ、鳴尾教会がやがてアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団とは別の教団に属することになるだろうことを見越して、これを何とか阻止しようと、負け犬の遠吠えのごとく、懸命に山田牧師夫妻の印象を貶めようと叫んでいるが、みっともないことである(村上密氏のブログ記事参照)。

こうして、自分に対する離反者には長年に渡り、容赦なく制裁を加え、教団を去る者には呪いのような非難の言葉しかかけることのできない、この牧師の自己本位で執念深い性格は、同氏の記事において十分に明らかになっている。これを読めば、
信仰を持たない一派市民でも、この教団には疑問と恐怖を感じて近寄らなくなるであろう。

村上氏率いるカルト被害者救済活動は、教会に恨みを持つ(元)信者ばかりを集めては決起させることによって、信者を懺悔させることを目的に、教会や信者を裁判に引きずり出しては懲罰を加え、諸教会の平和な信仰生活を妨害して来た。その上、教団離脱した教会に対しても、将来に渡ってまで悪影響を与えるような制裁を今も公に加え続けているわけだから、これでは教団の評判も落ちようというものである。

このようにキリストの福音を平和的に伝道するという牧師の第一義的な使命から著しく逸脱し、他の牧師の伝道を妨害することしかできなくなった牧師にこそ、しかるべき厳しい処分を下すのが、教団の本来の組織としてのあるべき姿である。

しかし、そのようなことはこの教団には言っても無駄であろう。何しろ、村上密氏のカルト被害者救済活動は、村上氏個人が率いているものとはいえ、教団そのものの理念とも、密接な結びつきがある。もともとこの教団が推進するペンテコステ運動は、聖書に基づかない弱者救済活動として始まったものであり、なおかつ、リバイバル招致による地上天国という異端的な偽りの神の国を目指している。このように、神に反逆する人類の一致を唱えている以上、その裏面として、キリスト教を内側から破壊する理念を持つ運動が現れて来ることは避けられないのである。そのことは以下で明らかにする。

 
さて、本題に戻ると、今回のテーマの一つは、なぜ十四年前から現在に至るまで、村上氏が鳴尾教会に関して、義理の父である津村氏と一心同体のようになって行動を共にしたのか、という疑問を、同氏がかつて深く関わっていた異端思想に照らし合わせて検証することにある。

つまり、村上氏にとって「父」とは何か、という問題にスポットライトを当てることによって、なぜ津村氏・村上両氏が、なぜ長年に渡り、鳴尾教会にいわれなき制裁を加え続けたのか、その理由も幾分、明らかになると考えるのである。
 
村上氏は、義理の父とはいえ津村氏とは互いに別の人間であるから、たとえ津村氏が大先輩の牧師であっても、同氏の判断に絶対服従せねばならない理由はない。まして、村上氏には自らの牧会する教会が別にあるのだから、直接の関わりのない鳴尾教会に対して、わざわざ教団や教会内規則を踏み越えてまで、内政干渉しなければならない理由もない。

にも関わらず、鳴尾文書を読んでも分かるように、村上氏は十四年前の当時から現在に至るまで、常に義理の父である津村氏の意向を忠実に体現し、津村氏と一体となって、自分ではなく津村氏の願いを実現させるべく、鳴尾教会の内政に不当に介入して来たのである。

その有様を見ると、なぜここまで父子が一つになって行動しているのだろうかという疑念が生じないわけにはいかない。


この疑問に対する答えとして挙げられるのは、統一教会を脱会して、キリスト教の牧師になった後でも、村上密氏はかつての統一教会流の、指導者を絶対化するカルト的思考を捨てられずに今日に至っているのではないかという疑惑である。

特に、統一教会には指導者夫妻を「真の父母」とする独特の「霊の家族」モデルが存在する。そして、次の論稿で示す通り、プロテスタントには、ペンテコステ・カリスマ運動の枠組みの中から登場しながら、この運動の枠組みを超えて、福音派を含む諸教会に「バイブル」のように受け入れられた「教会成長論」という異端的な家族モデルが存在する。

統一教会は、文鮮明を再臨のキリストとみなし、この宗教指導者夫妻を「真の父母様」として褒めたたえ、その教えに帰依し、合同結婚式を通して、彼らの家族モデルに加わることによって、信者は「聖なる血統」にあずかり、罪から救われて清められ、聖家族に加えられると教えている。

このような統一教会が理想とする家族モデルを、村上氏はこのカルト団体を脱会した後も、心に持ち続け、さらにそれが上記のペンテコステ・カリスマ運動において提唱されている「教会成長論」の異端的家族モデルとも合わさって、ますます補強されて行ったのではないかということが言える。


つまり、村上氏は合同結婚式にまで至ることなく統一教会を脱会したものの、その後、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中でも相当の権威とみなされていた教職者・指導者である津村昭二郎夫妻のクリスチャン家庭の一員に加わることによって、また、津村氏夫妻を師のように仰いで、その意向に忠実に従うことによって、あたかも「聖家族」に連なったかのように、理想的なクリスチャン生活を体現でき、「聖化」が成し遂げられるかのように考えていたのではないかと推測される。
 
村上氏にとって、津村氏は単なる「義理の父」ではなく、その教えに背くことが決して許されないような宗教指導者であり、自身の「霊の父」なのである――そういう事情でもない限り、村上氏・津村氏らがそこまで長年に渡り、思想的に一致して鳴尾教会への迫害という行動を共にして来た理由が見当たらないのである。
 



・「子」が「親」を守り、「家」を守ることを要求する転倒した家族モデル

これから見て行くように、統一教会であれ、カリスマ運動であれ、国家神道であれ、異端的な家族モデルにおける「縦の関係」は、「子」に「親」への絶対的な従順を要求するという共通点がある。

本来、「家」とは、強い大人たちが弱い子供たちを守るのでなければ立ち行かない。赤ん坊や、未成年や、子供たちが自分で自分を守れるはずもなく、彼らには大人たちの保護が必要である。このような非力な子どもたちが、親を守る防波堤になどなれるはずもないし、家を守るために立ち上がって戦う戦士にもなるわけがない。家を守るのは大人たちの仕事である。

また、当然のことであるが、子供たちはいつまでも子供のままでいることが望ましいのではない。やがて親から自立し、一人の人間として独立し、生まれ落ちた家を離れて、自らの人生を切り開いていくことが求められる。

しかしながら、異端的な家族モデルは、「子」を「家」(親)を守り、支えるための道具とみなし、なおかつ、「子」の「家」(親)からの自立を決して認めない。そこでは、アジアの貧しい農村の家庭で、朝早くから子供たちが学校にも行かず、労働力として働きながら、家計を支えているのと同様に、「弱い者」である「子」が「強い者」である「親」に仕え、「子」が「親」を守り、「子」が「家」に名誉と繁栄をもたらすために生きることが義務とされ、親子の縦の関係から「子」が離脱することが許されないのである。

このようなものを筆者はアジア的な家族モデルとみなしているのだが、これを教会生活にあてはめ、指導者夫妻を「霊の父母」、信徒を「子」の立場に置いて、親子の縦の関係を絶対化するのが、異端的家族モデルである。

こうして指導者(親)が信徒(子)を守るのではなく、信徒(子)が指導者(親)を守り、指導者(親)に仕えて生きるという、転倒した家族モデルを教会の基礎とみなし、同じ家族モデルに連なる信者の家庭を地上で増やしていくことによって「リバイバル」を引き起こし、全人類を「一つの霊の家族」に帰依させて、地上天国を実現できる、とするのが、あらゆる異端の教えに共通する基礎的な型である。

村上氏は、こうした異端的な家族モデルにのっとって、義理の父である津村氏を絶対視し、宗教指導者と信者との縦の関係を絶対視すればこそ、鳴尾教会もまた指導者である津村氏に絶対服従すべきであると考えていたのではないか。そこで、鳴尾教会が、主監者であった津村牧師の不祥事を追求して告発したり、津村氏の不祥事を明るみに出すことによって、同氏を辞任に追い込んだり、村上氏と津村氏による伝道師らの理不尽な追放という事件についてもためらうことなく真相を追究し、教団と村上氏・津村氏の対応に不信感を突きつけ、こうして「弱者」であるはずの教会が、「強者」である教団や指導者に責任を追及し、物申して事態を明らかにしようとしたこと自体が、「(霊の親たる教団と指導者に対する)あるまじき反逆である」、とみなしているのではないだろうかと考えられる。
 


・全人類を「一つの霊的家族」に結びつけようとする教えは神への反逆である
  
村上氏は、一方では、「教会のカルト化の危機」を叫んで、教会から被害を受けたとする信者らを積極的に集めては、「疑わしい」牧師や教会に裁判をしかけ、教会の破壊活動にいそしみながらも、他方では、統一教会や教会成長論に見られるような異端的家族モデルに基づいて、信徒は自らの宗教指導者に絶対服従すべきという教えを振りかざし、自分たち(身内)に対する離反や告発は決して許さず、離反者に対しては長年に渡り厳しい報復行為に及んで来た。
 
この二つの運動――身内の指導者や教団の権威の絶対化――と、自分たちの集団に属さない指導者や教会の権威を容赦のない制裁によって引きずりおろすこと――は、一見、相矛盾する行動に見えるかも知れないが、ともに聖書の御言葉に基づかず、人をキリストではなく人間に従わせる異端的家族モデルから生まれて来る活動なのである。
 
端的に言えば、それらはともにキリストの霊に属さない、人の生まれながらの古き「自己」が行う果てしない「自己保存」と「自己増殖」の試みでしかない。

たとえば、村上密氏が率先して行って来た裁判による他教会の取り潰しや併合は、「他家」を容赦なく取り潰して「我が家」に併合することで、果てしなく「我が家」の拡大(自己増殖)を目指し、やがて全人類を「我が家(自己)」に同化させて、同じ「霊的血統」に属する一つの家族に帰依させることにより、地上にユートピアが到来すると教える異端的家族モデルの現実的な運用なのである。村上氏が提唱している「カルト監視機構」も同じであり、これは宗教界全体を己の支配下に治めるための試みに過ぎない。

こうした思想はすべて、異端思想が一様に提唱する「全人類一家族理想」のモデルーー宗教指導者夫妻を「霊の父母」として崇め、それに「子」として連なる信者を増やすことにより、人類全体を自己に同化させて「一つの家族」としようとする試み――から来るものであり、そのようなものは断じて、聖書の神が望んでおられるキリストの花嫁たるエクレシアの建設ではなく、それはずっと古くからある神に反逆するための建物の建設の試みである。

「さて、全地は一つのことば、一つの話ことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。

そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

そのときは人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。

こうしては人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」(創世記11:1-9)

結局、全人類をともに「一つの霊の家族」につなげることにより、地上で「リバイバル」を呼び起こせるとしている「教会成長論」は、神に反逆するバベルの塔建設の試みに他ならない。それはどんなにキリスト教の中から生まれて来た運動のように見えても、実際には、神に対する人類の思い上がりの必然的な結果として、キリスト教界に分裂と、混乱しかもたらさないのである。

そこで、地上天国としての「リバイバル」を唱えているペンテコステ・カリスマ運動の只中から、教会に裁判をしかけては破壊と混乱をもたらしているカルト被害者救済活動が出て来たのは、偶然ではない。それらは共にコインの表と裏のように、同じ性質を持つものであり、表向きに掲げている「全世界の一致」と、それに完全に相反するように見える「分裂と混乱」――これら二つの側面は、全人類が一致して神に反逆しようとする試みに必ずや伴う両面を示しているに過ぎない。
 
このように、聖書の神に逆らう悪魔的な発想としての全人類の一致・地上天国建設の計画は、何度頓挫しても飽きたらずに、繰り返し、繰り返し、キリスト教の中に、聖書の教えを装って現れて来た。聖書を見ると、そうした教えは、失敗続きの中でも次第に肥え太り、最初は単なる小さなバベルに過ぎなかった町が、最後には「地上の王たちを支配する大きな都」(黙示17:18)バビロンにまで成長しているのを見ることができる。ちょうど創世記では小さな蛇だった悪魔が「巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」(黙示12:9)になったのと同様である。

このバビロンこそ「大淫婦」、すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」(黙示17:5)である。

最初は「町」だったものが「都」になっただけでなく、それは今や性別と人格が与えられ、「母」や「女」と呼ばれている。なぜ大淫婦なのか? その理由はクリスチャンならば誰でも知っていよう。聖書の御言葉に反するあらゆる虚偽の教えを喜んで奉じ、キリストだけに従う真実と貞潔を捨てたからである。

しかし、ここでバビロンが女性の名で呼ばれていることに注意が必要である。なぜ「母」なのかは、この論稿を読み進めて行けば分かるはずである。

それは東洋思想と密接な関係がある。結論から提示するならば、これは東洋思想の誉め讃える女性原理・母性原理を人格化したものだからである。

大淫婦バビロンとは、聖書の御言葉の「二分性」を否定して、御言葉の持つ「分割」や「切り分け」という父性原理を否定して、御言葉に基づいて善悪を識別することをやめ、何でも愛して受容する東洋的な「母性原理」を高く掲げる東洋的(オリエント的・ヘレニズム的・アジア的)な思想の総称なのである。いや、堕落したキリスト教が東洋思想と相通じた結果として生まれて来た混合物を意味するのである。
 
こうした東洋思想とキリスト教とを混合させることで、キリスト教を堕落させる試みは、キリスト教の中から、あたかもキリスト教のような仮面をつけては、度々、登場して来た。以下で見て行くペンテコステ・カリスマ運動もまたその混合物の一つであることがよく分かるであろう。

ペンテコステ・カリスマ運動はキリスト教ではない。それはキリスト教と、聖書が最も憎むべきものとみなしているものとの混合である。そこで、このような運動には決して関わらないことを勧める。これに深く関わり、その教えを信じた人々は、必ずや、聖書の御言葉に対する真実性と貞潔さを失う。そして、御言葉の切り分けを曖昧にし、神と人との断絶を否定した上で、最終的には、まことの神を押しのけて、自らを神とする異端的告白へと行きつくのである。
 
<続く>


わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。

「さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。

 
すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。

 
して、自分の周りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マルコ3:31-35)

「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。

 さらに、家族の者がその人の敵となります。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-39)

 



 1.神の家族とは、信者の肉による家族のことではない。にも関わらず、信者の肉による家庭をエクレシアの基礎単位とみなす考えは誤りである。

さて、エクレシアと神の家族のテーマについて補足しておきたい。

 
それは、信者の家庭(集会)を信仰生活の基礎とみなす考えは、根本的に異端であり、間違っているという見解を述べるためである。

当ブログを始めたばかりの頃、このブログには熱心なコメント者も相当おり、キリスト教界を脱出した数多くの信者たちとの生きた接触があったため、あたかもこれからエクレシアの建設に向けて、純粋に神を求める信者たちが集まって、地上で大きなうねりができるのかも知れないという印象を筆者も受けなかったわけではない。

その頃、ある兄弟が言った、「初代教会の教会は単純素朴で、立派な礼拝堂などなかったはずです。大規模な集会もなく、組織化された団体というものはなく、指導者もおらず、信者が日々の生活の中で、互いの家庭を訪ね合って、単純素朴に交わりを持つというのが、エクレシアの姿だったわけです。だから、今日の教会も、そのように『家々の教会』であるべきなんですよ」。そして、「家々の教会が増え、広がって行くことが、主の再臨を呼び寄せるのです」と言うのである。
 
「家々の教会」、言い換えれば、家庭集会である。そこまで組織化された集会でないとしても、素朴な家庭の集まりが、エクレシアの最小単位であり、地上において信者の家庭集会が増え広がって行くことが、エクレシアの拡大であり、主の再臨の秘訣だというのであった。

この兄弟はその信念に基づいて、それ以後も、ずっと大規模な組織を離れたところで、家庭集会の増加に努めているようである。その後も、筆者は、この兄弟とは別なところで、家庭集会こそが、地方教会の基礎であり、家庭集会の増加が、エクレシアの拡大を意味し、主の再臨を引き寄せる秘訣だと考えている集団に出会った。

だが、筆者の見解は、この人々の見解とは全く逆のものである。地上における「家々の教会」が増えることにより、人数が集まってエクレシアが拡大して行き、やがて主の来臨を引き寄せるなどという考えはれっきとした異端である、というのが、筆者の動かせない見解である。

上記の兄弟もそうであったが、彼らは「エクレシアとは組織ではない」と言って、既存の教団教派を離れ、組織や団体を作ることには反対していた。だが、筆者から見れば、地上における家庭という単位も、やはり、れっきとしたミニ組織なのである。

何しろ、家庭とは、個人ではなく、すでに集団である。個人の信仰ではなく、集団をエクレシアの基礎単位とし、地上における家庭集会という「拠点」を増加させるために活動することは、次回の記事で述べる通り、聖霊派の唱えているリバイバルとほとんど変わらない、地上天国への招きなのである。

そんな風に家庭の数を増加させることにより、人数を増やし、地上での権勢を誇るよりも、一人一人の信者(誰よりも自分自身!)の中で神への信仰が増し加わることの方がはるかに重要であることに筆者は気づいたため、他者への期待と関心は、年々、薄れて行った。そればかりか、目に見える他の信者に心を向けることが、重大な危険であることが分かったので、そのような関心を自ら否む必要があることが分かったのである。

このような筆者の見解をはっきりと裏付けるいくつかの事件があったので書き記しておきたい。


 
➀元アッセンブリー信者の青年の例から
  
2009年頃、上記の「家々の教会」を主張していた兄弟たちとの交わりに、熱心にエクレシアを求めているかのように装って現れた一人の青年があった。

その青年は、筆者のブログを読んで、何としても筆者に会いたいと願ったのだと言って、コンタクトを取って来た。だが、交わりに加わるや否や、早速、その青年は、自分の家庭のために連綿と祈りのリクエストを出すようになった。

そのリクエストは、最初は「我が家のリビングルームに主をお迎えしたいのです。妻子に主を受け入れて欲しいので祈って下さい」といった比較的無難な内容であったが、すでにこの時点で、筆者の心には、深刻な疑問が生じていた。
 
青年は大の愛妻家であり、子だくさんの家庭と、素敵なリビングルームのある家を所有していた。青年のリクエストは、家庭こそ、エクレシアの拠点であるべきという兄弟の心の願いに火をつけたので、そういったものを持たない信者を取るに足らない存在として退ける効果をももたらした。

だが、筆者には疑問であった。果たして、主をお迎えする場所は、立派な家庭の整えられた素敵なリビングルームであるべきで、そこには信者が愛してやまない妻子がいるべきなのだろうか? 
  
筆者の念頭には、これは何かがおかしいぞという直観が初めからあった。なぜなら、主との交わりは、極めて排他的かつ厳粛なものだという動かせない現実があるためだ。

私たちの神は、「あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。」(出エジプト34:14)と言われる神である。

信者が最も愛してやまない対象は、ただお一人の神であるべきであって、見えない神をこそ第一とするのが信者の信仰生活である。神以外の全ての目に見える地上のものは、どんなに信者が愛していても、神との交わりに持ち込むことはできず、神以上に心を留めるべきでもない。

神との関係は、あくまで個人を基礎として、他の追随を許さない排他的関係であって、信者が集まって心を一つにして祈り合うことは可能ではあるが、それは地上の家族とは無関係の話である。たとえ愛する自分の家族であっても、人が自分の都合でそれを神との関係の中に持ち込むことはできない。

むしろ、肉によって生まれた地上の家族への愛は、神への愛の前で退けられる。

主イエスははっきりと言われた、わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:37-39)

だが、その当時、筆者の疑問をよそに、「家々の教会」を目指していた兄弟は、飛びつくように、その青年の素敵なリビングルームを訪問し、早速、第一回目の家庭集会を持ったようであった。

その後、観察していると、前述の青年は、自ら愛し、誇っていた立派なリビングルームのために、巨額の借金を負っていることが判明した。リビングルームだけではない。立派な外車も借金による購入であったし、青年が誰よりも愛していた自慢の妻は、かつて上司と婚約していたのを横恋慕して、他人から奪うようにして手に入れた人であった(おそらくは未信者だった時代に犯した過ちとして告白していたように記憶している)。

そして、その青年のリクエストも、「家族が救われて我が家のリビングルームに主をお迎えしたいので祈ってもらいたい」というものから、「借金返済のデッドラインが迫っているので、〇月〇日までにお金が与えられるように祈って欲しい」という緊迫した内容へと変わって行った。

筆者は、仕事や生活の必要性は、主が必ず満たして下さるはずだという確信があったので、だんだん強迫的な内容となって行く青年のリクエスト内容に違和感を覚えた。しかも、その青年は就職活動を全くしないまま、ただ祈りによって金銭と就職口を願い求めている様子であったため、筆者の目には、それは非常に危険な行為であると映ったが、青年の家庭の「危機」を聞いて涙を流し、祈り、支援を申し出た人たちも、信者の中にはいたようである。

筆者はその交わりを離れたが、何年か後に、再び彼らと再会した。その頃、その青年は、筆者がこの交わりを離れていた間も、「家々の教会」を主張する兄弟に着いて回りながら、その間に、就職のために兄弟姉妹に幾度も憐れみを乞うては、信者たちの世話を受けていたことが分かった。なおかつ、彼らの支援を反故にし、その信頼を裏切っていたため、多くの兄弟姉妹から恨みを買っていたのである。

一時は、悲劇の主人公のように交わりの中心に立ち、同情を受けていたこの青年であったが、その頃には、すっかり周囲の信者たちに動機を見透かされていた様子で、かつて自分が利用した信者たちの怒りを避けて、彼らから逃げていた。

その後、またしても、借金のデッドラインと祈りの支援を求める便りが筆者にも送られてきたが、筆者が、神こそ信者の全ての必要を叶えられる方なので、自分の悲劇を他人に向かって声高に主張して他人の同情を求めることをやめ、沈黙のうちに、主だけに自分の必要を打ち明けて祈ってはどうかと提案したところ、その青年は、初めてそれまで被って来た善良で温厚な信者の仮面を脱ぎ捨てて、信者らに対する憎しみを口にした。

そして、「クリスチャンは冷たく、愛がなく、哀れみがない。自分を助けてくれたのはいつも不信者だった」という捨て台詞を残して、交わりを去ったのである。(だが、実際には信者らは彼に手厚い支援を行い、就職口の世話もし、祈り、助けて来たのであった。不信者の親戚も含めると、この青年が人の憐れみにすがってこしらえた借金は何百万円にものぼる。)

その後、この人がどうなったのか筆者は全く知らないが、こうして、「我が家のリビングルームに主をお迎えしたい」という願望から始まって、自分を喜ばせるための一連の願い事に、エクレシアを役立てようとした青年は、自分の願いがかなわないことを知るや否や、エクレシアを踏みつけにして去って行ったのであった。

この人の望んでいたのは、最初から、自分が神の御言葉に服することではなく、神の御言葉を自分に服させること、すなわち、エクレシアを自分の願望の道具とすることだったのであろうと、筆者は思わずにいられない。ちなみに、この青年もまた統一教会を脱会した元アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者であった。

この青年に起きた出来事は、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(マタイ19:24)という聖書の事実を筆者に思い出させた。筆者が当初から予想していた通り、エクレシアとは、この青年が思い描いていたような軽薄かつ安楽なものではないことが明らかになったのである。

神との礼拝の中に、自分の生まれながらの家族、自分が選んだ愛する伴侶、自分が生んだ愛する子供たち、自分の家庭などを持ち込み、お気に入りの仲間たちと素敵なマイホームでみんなで手をつなぎ、楽しく快適に居心地よく一緒に天国の門をくぐれます、という教えは、どう見ても、聖書には全くない。

むしろ、自分の父母娘息子よりも主を愛さなければ、神に従い抜くことができないと聖書ははっきりと警告している。
 
上記で引用した主イエスの語られた御言葉では、父母娘息子という、親子の生まれながらの縦の関係だげが言及されており、伴侶についての言及はないが、だからと言って、伴侶についても、やはり聖書の言及は一貫して厳しいのである。

使徒パウロは、信者の結婚について、禁止まではしないものの、気乗りのしない言葉を記している。「現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。」(Ⅰコリント7:26)

この表現は面白い。現在は「危急の時」だから、信者は結婚しない方がいいと言うのである。

他の場所でもパウロは言う、「時は縮まっています。今からは、妻のある者は妻のない者のようにしていなさい。」(Ⅰコリ7:30)

そこでも、やはり「時は縮まっている」と、同じように緊急性が告げられている。緊急事態だから、信者はできれば妻を持たない方が良いという見解が繰り返されているのである。つまり、この大変な時に結婚などすると、あなたの信仰にとって、のちのちそれがひどい障害になりかねないので、できれば信者は結婚せずに、神にのみ心を向けて暮らした方が良い、また、たとえ家庭があっても、ゆめこれに気を取られず、あくまで神だけに望みを置くべきで、地上の宝に欺かれてはいけない、という警告のニュアンスが含まれていると感じられる。

だが、使徒は、なぜ「現在の危急の時」と言ったのであろうか? この言葉と明らかに呼応しているのは、主イエスが述べられた次の言葉である。

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:37-39)

つまり、ノアの洪水にも勝るような、世の終わりが迫っている時に、人が自分を喜ばせる活動だけに没頭していれば、神の御心など全くおざなりとなり、自分にどんな危険が迫っているのかも分からないまま、突如、滅びに巻き込まれかねないので、自己本位で自分を喜ばせる活動に心を奪われるのはやめなさい、という警告なのである。

主イエスが「めっとたり、とついだり」する行為に否定的に言及されたように、伴侶を持つことさえ、本質的に重要な事柄から人の目をそらせ、人に地上のものを愛させる効果を十分に持つことをパウロも知っていたのである。

ちなみに、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり…」といった行為は、教会行事で盛んに行なわれているだけではなく、たとえば、吉祥寺キリスト集会などのように、家庭集会をエクレシアの中心に据えているところでも、不思議にすべておさえられているポイントである。

主イエスは、こうしたことは、神の御前で本質的に重要な事柄ではないので、決してそれらに気を取られるなと教えたのである。

聖書を振り返ると、アダムの堕落はエバによってもたらされたのであり、ヨブの妻もヨブの信仰にとって大いなる障害となった。異邦の女デリラを愛しすぎたことが、サムソンの悲劇のきっかけとなった。
 
従って、信者が結婚しないでいられるならば、その方が良いと述べたパウロの言葉も、背教のはびこる今の時代、たった一人だけでも信仰を貫き通すことが、どれほど困難であるかをよく示しているように感じられる。
 
パウロは、信者の離婚を基本的に認めないが、ただし、不信者の伴侶が自ら離れて行く場合は別だと言う。「しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのようなばあいには、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。」(Ⅰコリント7:15-16)

つまり、パウロは地上における信者の結婚や夫婦愛を、キリストへの愛以上に重んじることがなかった。

それは、聖書における真の「男女」とは、何よりも、キリストとエクレシアのことを指しており、地上における人間の夫婦はその型に過ぎないためである。そのことは以下のパウロの言葉からも明確に分かる。

私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。」(Ⅱコリント11:2-3)

通常、この御言葉は、聖書に基づくキリストへの信仰以外の誤った異端の教えに気を取られて、信仰者としての貞潔を失ってはいけませんよ、という警告として受け止められている。

だが、この言葉にはより深い警告が込められているものと筆者は考えている。上記の言葉を字義通り受けとるならば、ただ「ひとりの人(男子)」とは、キリストのことであり、「ただ一人の男子キリストのみに捧げられた貞潔な花嫁」というのが、エクレシアの本意なのである。

すなわち、ここから、人にとって真の「男子」とは、人間ではなく、キリストであることが分かる。神と人とがパートナーであるというのは、衝撃的な事実であるが、霊的には真理であり、それこそ、聖書が述べていることであり、キリストが求めておられる花嫁の姿なのである。

キリストは、地上での生涯の間、妻を持つことなく、人としての地上的幸福の何一つ、ご自分のものとして所有されなかった。ご自分を低くされ、すべての地上的な富と栄光をすすんで十字架に渡され、その命までお与えになられたのである。だが、そうであるがゆえに、神はキリストにすべてのものにまさる栄誉をお与えになり、教会をキリストの花嫁として召し出された。我々は、やがてキリストとエクレシアの婚礼という、宇宙的に壮大な出来事へと向かっているのである。

信者はみなエクレシアとして、ただ一人の人であるキリストのためだけに備えられた花嫁である。だからこそ、たとえ信者に家庭があっても、そのような中で、信者がキリストをさしおいて自分だけ早々と地上の幸福を誇り、神よりも地上のものに心を奪われ、キリストへの真実と貞潔を失い、背教に落ちるようなことがあってはいけないと警告されているのである。

だが、おそらく、筆者がこのようなことを述べ始めた時点で、ほとんどの信者は立ち去って行くであろうと思う。ちょうど主イエスに出会って、全財産を捨てて従いなさいと言われ、悲しみながら立ち去ったあの金持ちの青年のように…。 
 
さらに、「家々の教会」を主張していた兄弟にも、別の問題があった。この兄弟は、長い間、異端の団体にいたために、子供が心を病んで自殺を遂げ、他の子供も重い病を患っていた。この兄弟は、病は異端団体とは全く関連性がないと幾度も述べており、それが御言葉から逸れたことに対する厳しい報いであるとは認めていなかったが、筆者はそれには同意できなかった。なぜなら、多くの異端団体で、これとほぼ全く同じような家庭の崩壊や子供の自殺などの共通する不幸が数多く見られたためである。

仮に異端団体への入信と家庭の悲劇に関連性がなかったとしても、家庭の危機と我が子の窮状、および、夫婦の断絶をよそにしてまで、エクレシアの建設という「大義」を口実に、自分の家庭を置いて他の信者の家庭を一人で訪れるのでは意味がない。そのような行状に、筆者は全く賛同することができないし、神がそのような方法でエクレシアの建設を信者に命じられることは決してない、と確信している。



②現役のアッセンブリー信者の女性の例から 
 
さて、上記の元アッセンブリー信者の青年と類似した現象が、Br.Taka氏に筆者を売り渡したアッセンブリー現役信者の「姉妹」にも起きた。

この「姉妹」は、知り合った当初から、筆者の信仰生活が孤独すぎるように見えると憂慮して、何とかして、筆者を集団の交わりの場に引き出す必要があると考えていたようである。しかしながら、そうした考えも、やはり、地上の家族を重んじる考えから来たある種の高慢さであった。
 
この人物とまだ交わりがあったある猛暑の夏、筆者の家でペットの小鳥が死んだことがあった(記事参照)。その事件を、この「姉妹」は、筆者の貧しさゆえだと陰で嘲笑していたことを、その信者の闘病生活の仲間から筆者は知らされた。

当時、筆者は、人の前に虚勢を張ろうという考えがなかったので、他者の愚かで尊大な心の内を見せられたとは感じたが、別段、見返そうなどとも思わなかった。ちなみに、その年の夏は、風が何日間も止まるという異常なもので、筆者の家ばかりか、それまで風通しの良い環境で問題なく過ごして来た動物たちが至るところで死んだというニュースを後になって幾例も聞かされたのであった。

さて、その闘病生活の仲間というのも、やはりアッセンブリー信者の重度の障害者で、この「姉妹」が伝道して信仰に導いた人であった。が、この「姉妹」は、彼女の洗礼式の際にも、彼女の書いた信仰の証をすべて自分好みに書き変え、本人が自ら話せるにも関わらず、これを代読し、代読の途中で泣き崩れ、自分を主役に据えて注目を浴びることで、他人のための式をすべて自分の手柄と変えてしまったようで、闘病生活の仲間は、このことを嘆いていた。

そういったことが分かるまでは、筆者はこのアッセンブリー信者を「姉妹」だと信じ、親しく交わっていたが、前述の「デッドライン」の青年と同じく、この頃から、だんだんこの人の信仰は何かが極めておかしい、ということに気づき始めたのである。

だが、思い返せば、それよりも前に、すでに異常を告げ知らせる事件は起きていたのであった。筆者はかつてこのアッセンブリー信者の「姉妹」と共に、KFCに長らく属していた闘病生活を送る別な姉妹のもとを訪ねたことがあった。

その時、KFCに長らく通っていた姉妹は死の床について、すでに話すことができなくなっていたが、意識は確かであった。このアッセンブリー信者は見舞いの場で、手際よく自ら用意していた讃美歌のコピーを筆者にも渡し、それを二人で歌うよう指示した。だが、声の出ない病人の前で歌を歌うことは、筆者にはひどく気が進まなかった。しかも、歌っている途中で、そのアッセンブリー信者は一人で泣き崩れたのである。

何かひどく自作自演的な芝居じみたものを感じたのは事実であった。声が出ない病人の前で、一方的に歌を歌い、病人がまだ生きているにも関わらず、まるで葬式のように泣き崩れて悲しみにくれることが、果たして、そのような見舞いを受ける病人の側から見て、本当に心からの同情と励ましと受け止められるであろうか?

ちなみに、そのようにして、場の雰囲気を巧みにかっさらい、自分だけを主役に据える「泣き芸」のパフォーマンスは、ルーク氏のお得意の手段であり、ルーク氏はその姉妹の葬儀の場で泣き崩れることによって、あたかもこの姉妹を深く愛していたかのように装い、この姉妹をそれまでさんざん振り回し、苦しめて来た自らの罪を帳消しにしようとしたのであった。

だが、後に聞き取りによって分かった事実は、すでにこの姉妹は死の床で、KFCとルーク氏と訣別していたのであり、それがゆえに、姉妹の葬儀も、姉妹がもともと属していた教会によって執り行われたのであった。こういったすべてのいきさつをルーク氏の泣き芸は巧みに隠したのである。

ちなみに、その死の床についていた姉妹とは、筆者が関東に来る前に、挨拶状を突然、送って来た姉妹である。その手紙を読んで、KFCには行くべきではないという確信が筆者の心に生じたのであり、従って、本来は、姉妹を見舞うべきでもなかったのかも知れない。だが、生涯の終わりには、この姉妹は、ルーク氏の言説の誤りを理解して、明確にこれと距離を置いていたと思われることはまだしも幸いである。そしておそらく、その当時、姉妹の方が、KFCに関与して筆者がどうなるかを憂慮していたのではないかと思われる。

さて、上記のアッセンブリー信者も、闘病生活を送っていたため、筆者は幾度も、この人のために一連の記事を書き、病と訣別して、信仰によってキリストの復活の命を受け取り、立ち上がるよう促し、励ましたが、彼女は健康になるべきとは考えていないようであった。

さらに、このアッセンブリー信者は、上記のKFCにいた姉妹の死後、寂しさから、死後の世界を求めて、サンダー・シングに関心を持ち、この異端の教えを奉じたので、筆者はこれが危険であることを告げ、捨てるよう促したが、彼女がそれを異端であるという事実を認めることはなかった。そのような教えを信じれば、救いを失って死に至るので、明確に訣別した方が良いと警告したが、それも無用な警告と恨みにしか思われなかったようである。

この信者は、筆者から病と訣別すべきだと言われたり、異端の教えのことで警告を受けたことへの「報復」として、後にBr.Takaに筆者について讒言し、筆者を売り渡したのであるが、そうしたことが判明した際、つくづくアッセンブリー信者の偽善とは恐ろしく、この教団の信者とは、関わっても百害あって一利なしという確信を筆者は強めた。

筆者のこれまでの経験に立って言えば、アッセンブリー信者は、男女を問わず、ほぼ例外なく、深く考えることのできない、軽率で人騒がせなトラブルメーカーで、次から次へと事件を引き起こして行くのであるが、決して自分がそれらを引き起こしているのだとは認めない。そして、誰かから注意や叱責を受ければ被害者を決め込み、どこまでも、自分は弱いふりをしながら、自分に忠告した人に恨みを抱くのである。

その当時、Br.Taka夫妻、ルーク氏、このアッセンブリー信者の女性は、自分たちが異端の教えを信じ、御言葉から逸れている事実を隠すために、みなで連帯して、自分たちの地上における幸福な家庭を誇り、それを持たない筆者を嘲笑して踏みつけ、濡れ衣まで着せて、KFCから追放したのであった。

だが、それだけに終わらず、このアッセンブリー信者の女性は、自分が信仰に導いた闘病生活の仲間に向かっても、「私はもっと設備の良い病院で治療を受けるから」と言い残して上から目線でさよならを告げていたことを知らされた。

その後、この「姉妹」は自ら豪語した通り、ルーク氏らと共に豊かになったのかと言えば、逆に家計が苦しくなり、家を手放して実家に引っ越さざるを得なくなったことを知らされた。その頃には、とうに関わりもなくなっていたが、それでも不思議な形で、その事実を聞かされた時、主は生きておられると筆者は思った。

神は、自分には家があり、家庭もあって、たくさんの味方がおり、属している宗教団体もあるから、一人寂しく信仰を守っている孤独な信者とは別格の存在であると言って、自分以外の他の信者を見下して、勝ち誇っていた人の愚かで高慢なつぶやきを、決して見過ごされることはなかったのである。

「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」(マタイ18:10)

さて、このアッセンブリー信者らが誇っていた家庭とは、そんなにも素晴らしいものであったのかと言えば、それはやはり元アッセンブリー信者の上記の青年と似たり寄ったりの状況であった。

まず、上記のアッセンブリー信者については、彼女の闘病生活が家庭にとっては大きな負担となっており、それゆえ、子供もまた危険な重労働を強いられている様子がブログに記されていた。そして彼女のブログ記事を追って行くと、絶え間なく、家人の誰かに、事故や、怪我や、発病や、手術といった出来事が降りかかっている様子が見え、非常にいぶかしく思われるのである。

さらに、この「信者」は、未信者の夫の突然の怒りの暴発に自分が脅かされているという話をもよくしていた(自ら記事にもその愚痴を記しているため、こうした話題は秘密ではなかろう。)障害者であり、病人であることに加えて、家庭においても「弱者」だというのであった。

だが、このように、家庭における「被害者意識」も、アッセンブリー信者には非常によく見られる特徴なのである。

多くの場合、アッセンブリー教団を含め、異端の団体に入信する妻たちは、家庭における孤独や悩みが原因となって、宗教団体に誘われて行く。そして、入信しても、自分たちは家庭や社会において不当に脅かされている弱者だという意識を捨てられぬまま、様々な問題に自ら勇敢に立ち向かって行く気力を、かえって宗教団体によって奪われるのである。

そうした妻たちの多くが、宗教団体に入信することによって、いずれ夫を回心させることができ、それが起きさえすれば、家庭におけるすべての問題と、自分たちの立場が、劇的に改善するだろうという予想に望みをつないでいる。家庭のすべての問題に真正面から向き合うことなく、それを、夫がいずれ回心して、キリストのために大胆に用いられる器となることによって変えられるという思いを持つことで、むしろ、諸問題から逃避してしまうのである。

そのようにして、ほとんど夢物語のような幻想にすべての望みをかけている妻たちに、筆者はこれまで幾度も出会った。問題は自分にあるのではない、神を信じない夫や子供たちのような家族にこそある、そう思うことで、彼女たちは、自分は夫よりも正しく、家族よりも正しく、彼らには信仰がないから、自分の言い分を理解できないだけなのだ、というところに逃げ込んで、自分を慰め、被害者意識に甘んじているのである。

むろん、口論しても勝てず、力によっても打ち負かされるだけで、仕事も、社会における栄光も、すべてを独占しており、この世の方法論においては、どうやっても勝つことのできない家庭の「強者」としての夫に対する妻たちの不満が、筆者に分からないわけではない。

だが、「自分は神を信じているから、信じていない夫に比べ、本当は何もかも分かっている、だが夫や子供たちは…」という、ひそかな見下しの気持ちを含んだ思いは、本当は、決して神への信仰ではなく、家人への愛でもなく、復讐心の裏返しに過ぎないのだということは、いくら説明しても、余計な恨みを買いこそすれ、本人たちにはおそらく分からないであろう。

家族の救いや、家庭の回復という問題について、誰かが神に期待すること自体は、誰にも非難できない。だが、彼女たちが望みを託しているのが、異端の団体である以上、絶対に彼女たちの願いはかなえられることのない、幻のような現実逃避でしかない。

さらに、上記のアッセンブリー信者については、筆者がどうしても首をかしげざるを得ない、もう一つの問題があった。それは彼女が、信仰を持たない夫を通して、神が語られるのを聞いたという体験をブログ記事に記していたことである。

これは正常な信者としては絶対にあり得ない体験であると考えるため、この記事だけは、誤解のないように引用しておきたい。

主と一つ (ブログ「十字架の恵みが溢れて」)
 2010.11.18 Thursday  から抜粋

 サウロは主の弟子たちを脅迫し、迫害し、男も女も縛り上げ、エルサレムに引いてくるためにダマスコに向かっていた。
 その途中の出来事だった。
 このときはすでにイエスご自身はこの地上にはおられなかった。でも主がサウロに現れておっしゃったことは、
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と語られた
「なぜわたしを信じる者たちを迫害するのか」とは言われなかった。
「なぜわ・た・し・を迫害するのか」と仰せられたのです。

 この箇所を読むたびに、思い出すことがある。
 それは主人の闘病中に語ってくださった主の言葉を忘れることができない。
 初めて外来での抗がん剤を投与する日、主人を送ったあと、病院の駐車場に向かっているその時だった。

 主の御名を呼び求めながら歩いていると
 「私のために祈っていただけませんか」
 という御声を感じた。
 
 私はその御声を聞くと同時に、それが主人のことであることがわかった。主は、主人のことを祈るように言われたのではなく、
 私のために祈って欲しい・・と語られたのだ。

 私は・・・胸がいっぱいになって言葉を失い、驚きと共に涙がどっと溢れ出た。
 それほどに、主はご自身と、信じる者とを一つとしてくださっている。主の中で区別などないほどに
 ひとつとしてくださっているのだ。
 あなたがたはキリストのからだであって、
 ひとりひとりは各器官なのです。
 第一コリント12:27
 
主の深い愛を褒め称えます。
詩篇の歌を持って褒め称えます


分かりにくい文章であるが、これはそのアッセンブリー信者が、信仰を持たない目に見える人間に過ぎない自分の夫を、キリストと事実上、同一視していることを示す文面である。

つまり、彼女は、「病の中にある夫のためにあなたが祈りさない」という促しを神から受けたというのではなく、彼女の夫を指して、「わたしのために祈ってくれませんか」と、キリストが懇願されたと言うのである。

彼女はそのように「主が語られた」と主張しているのである。

だが、筆者から見れば、真の信仰を持つ者として、このような状況は絶対にあり得ないことである。

第一に、この時点で、彼女の夫は不信者であり、エクレシアの一員ではなかった。キリストは不信者の内には住んでおられない。そこで、キリストが不信者を指して「わたし」と名乗られることは決してあり得ないことである。さらに、彼女の夫は、信仰ゆえに迫害されている信者でもないため、パウロの回心の場面はあてはまらない。

また、仮にたとえ彼女の夫がこの時点で、信者であったとしても、パウロの回心のくだりで、イエスがパウロに現れて、「なぜわたしを迫害するのか」と言われたのは、特定の信者を指して言われたのではなく、パウロが迫害している教会全体を指して言われたのである。だから、一人の目に見える信者の誰かを指して、キリストが「わたし」と名乗られることは絶対にないと言える。従って、これは聖書の文脈の歪曲である。
 
エクレシア全体に向けられた呼びかけを特定の人間に置き換え、さらに信者に関する記述を、不信者に対するものに置き換えて解釈するのは、聖書の歪曲である。
 
その上、このアッセンブリー信者は、キリストが彼女に現れて、「わたしのために祈っていただけませんか」と、彼女に懇願したというのである。「あの人のために祈りなさい」と言われたのでもなく、「こうしなさい」と命じられたのでもなく、「祈っていただけませんか」と言ったというのである。

聖書のどこを見ても、主イエスは常に権威を持って他者に向かって語られたのであり、主イエスが他人に向かってそのようにご自分の必要を訴えて懇願したところは見当たらない。もしあえて似たような表現を挙げるとすれば、「わたしに水を飲ませてください。」(ヨハネ4:7)と、サマリヤの女に向かって言われた下りくらいではないかと思うが、それにしても、これは一つのパラドックスであり、主イエスは、決してご自分の必要のためにこの女に話しかけられたのではないのである。

主イエスはこの会話を皮切りに、ご自分が無限に尽きない、いのちに至る水を与えることのできる方であることをお示しになられ、かえってサマリヤの女の方が、その水を得るためにはどうすれば良いのかを主イエスに尋ねる結果となった。
 
キリストは、無限に富んでおられ、すべてのすべてであられ、人間に過ぎない誰かに何かを懇願する必要の全くない方である。さらに、ご自分が天の無尽蔵の富によって富んでおられ、父なる神に直接、願い求めることのできるお方である主イエスが、ご自分ではなく、誰か他人の必要をかなえるために、人間に過ぎない者に向かって懇願する必要はない。

従って、このアッセンブリー信者の記述は、神が自分の必要をかなえるために、人間に過ぎない彼女に膝をついてへりくだって懇願されたと言っているのであり、神と信者との関係を完全に逆転させて、神を自分よりも下に置こうとするものである。
 
このアッセンブリー信者は、信者が神に向かって自分の必要を願い求めるのではなく、神が信者に向かって必要を願い求めたのだと言っているのであり、 なおかつ、自分の夫に仕えることを「キリストに仕える」ことと混同しているのである。
 
結局、上記のアッセンブリー信者は、目に見える人間をキリストと同一視するという、聖書の御言葉からは絶対に出て来ることのない思想を述べているのである。しかし、こうした思想は、「(信仰を持たない)貧しい人々の中にキリストがおられる」としたマザー・テレサの主張と本質的に同じであり、困難に見舞われている社会的弱者の中に主がおられるなどと主張することによって、目に見える人間をキリストと同一視し、信仰がなくとも人は救われており、すべての人は生まれながらにキリストと一体であるという異端思想を示すものに他ならない。

聖書に照らし合わせて、そのようなことを神が語られることは決してあり得ないと筆者は考えている。だとすれば、この信者が聞いたとする「神の声」は、どこから来たものなのであろうか?
 
このアッセンブリー信者がサンダー・シングに傾倒していた時、筆者はかなり厳しい忠告を発したために恨みを買ったのだが、危険なのは、サンダー・シングだけではない。そもそもサンダー・シングへの傾倒も、この信者の心の深いところで、福音を最初から聖書とは違うものとしてとらえるということがなければ、決して、起き得ない出来事だったと筆者は理解している。

その「違う福音」とは、結局、生まれながらの人を神(キリスト)と同一視する思想である。

筆者自身もよくは知らないが、おそらくは、この信者がアッセンブリー教団以前に入信していた何らかの異端団体や思想があるものと思う。アッセンブリー教団も、相当に問題のある場所で、ほとんど異端団体と言って差し支えないが、こうした異端的な信念は、おそらくはアッセンブリー教団で初めて生まれたものではなく、そこに入信する以前、聖書に触れる以前から、本人の内に基礎が築かれていたものと考えられる。

さて、上記ブログの最後の方の記事で、このアッセンブリー信者は、「日本人脳科学者・ドクター愛子 科学を用いて聖書の奇跡を語る」というクリスチャン・トゥディの記事を引用しており、人間の脳に神に至る要素が本来的に含まれているとするルーク氏の言説と同種の霊的影響を受けている様子も伺える。

こうしたものは、心理学や科学を巧みに聖書に織り交ぜて、御霊による啓示を通してではなく、人知によって、神の御言葉を理解しようとする異端的試みの一つである。

聖書に記されている一連の奇跡は、人知では解明できない、神の霊的な力によるものであるからこそ、奇跡なのである。そもそも、奇跡に限らず、聖書全体が、神の御霊の啓示によって理解すべきものであり、人知によって、人の脳によって理解する事柄ではない。だが、もしそれが科学や、人間の脳によって解明できるものならば、奇跡を起こすメカニズムさえ解明できれば、人間の力によって何度でも同じ現象を引き起こすことが可能となろう。早い話が、キリストの誕生さえも、人間の力によって繰り返せるということになるのである。

おそらくはそれこそが、こうした異端の真の目的なのである。こうして、科学や心理学を用いて、人間の脳には生まれながらに神を理解することができ、神に至ることのできる要素(神的自己)が含まれており、脳の進化によって、人は誰でも「聖化」に至り、キリストに到達できるとする主張が、おそらくは今後、グノーシス主義的異端思想の主流になって行くのではないかと思われる。
 
このような時代、キリスト者は、目を覚まして、いかにある人が聖書の御言葉をもっともらしく引用して語っていても、果たして、その人の言う「神」や「キリスト」とは一体、何を指しているのか、その概念をきちんと確かめずに、浅はかに御言葉の引用文だけを見て、信者だと思い込み、信用するのは極めて重大な危険となろう。

他のブログにも、この点で全く同様の記述が認められたので引用しておきたい。

「真さんのブログ」
神を窮地に訪ね求める人には神の言葉が魂に教えてくれます。」から抜粋

我々、すべての人類の脳には神の御霊が肉体の中の魂に宿っています。



標題も、冒頭の一文も、かなり錯綜した文章であり、これ以上引用する必要もないだろう。こうして、すべての人類の脳には神の御霊が本来的に宿っているとする思想は、生まれながらの人間に神に至る要素(神的自己)が本来的に含まれているとするグノーシス主義以外の何物でもない。上記ブログにも、聖書の御言葉がたくさん引用されているが、この一文を読むだけで、この人がキリスト者ではなく、キリストの御霊によって発言しているのでもない、ということが分かるのである。
 
さて、話を戻せば、上記のアッセンブリー信者も含め、真にキリストの花嫁たらんとして神への真実と貞潔を守り抜く信者らの前で、肉による家庭を誇り、地上的豊かさを誇り、被造物に過ぎない生まれながらの人間との地上での束の間に過ぎない結びつきを、あたかも神聖な絆であるかのように誇り、生まれながらの不信者にキリストを見いだし、十字架抜きに、生まれながらの肉による家族愛を聖なるもののように高く掲げた人々は、ことごとく、聖書の御言葉から逸脱して、「異なる福音」に逸れて行った。

そのように、肉によって生まれた家族愛を高く掲げる思想は、すべて「広き門」であり、異端思想から来るものだと断言して構わないと筆者は考えている。
 
幾度も示して来た通り、キリストが再臨される前に、キリスト以外のものによって富んでしまい、地上での自分の贅沢な暮らしを誇り、キリストだけを待ち望むつつましい花嫁であるエクレシアの真実と貞潔を見下して嘲笑することこそ、バビロンの罪深い姿だからである。

「彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。
それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち、死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。」(黙示18:7-8)
 



他にも、類似の例はある。以前の記事に書いたように、「なぜ、聖書66巻だけが、神の霊感を受けた御言葉なんですか!」と、筆者を問い詰めた別の女性は、夫婦愛を誇っていたが、伴侶を差し置いて、若年の信者と毎日のように交わりを持つようになり、聖書外伝に没頭し、ついには上記のような問いを発して、明確に御言葉を否定するにまで至った。

このように、家族愛が、信仰生活の基礎であると説く人々の実態をよく観察してみれば、彼らの誇る家庭生活がいかに異常であるかが良く分かるであろう。そしてそこには大抵、霊的姦淫の問題がつきまとい、家庭や伴侶を高らかに誇っている割には、ただ一人の定められた伴侶以外の人々と不適切な心の結びつきがあったり、あるいは、大切なはずの子供たちを犠牲にしている様子が見えて来るのである。

こうして、自らの目に見える娘息子配偶者やらを誇り、「家々の教会」がエクレシアの基礎だと言い張る人々に限って、ほぼ例外なく、その家庭が崩壊に瀕しているという不思議な逆説的現象があるのだが、それはちょうど文鮮明の合同結婚式でできた家庭が不幸だらけなのとよく似ている。
 
弱肉強食の論理によって支配され、子供への搾取、子供の自殺など、弱い者が苦しめられ、病や、度重なる不幸な事故などが絶えず、配偶者との争いや、対立や、被害者意識から抜け出られない・・・そうした忌むべきものが溢れているのに、そのようなものが、信仰の基礎たりえるはずもないのは明らかである。

だから、惑わされてはいけない。いわゆる「クリスチャン・ホーム」なるものは、幻想に過ぎないのである。信者は、確かに自分の家庭を治めなければならず、家庭人の義務をきちんと果たすべきであるが、聖書は、信者の家庭こそが教会と信仰生活の基礎であるとは教えていないのである。

むしろ、聖書が教えているのは、信者が自ら築いた家庭も含め、神以外の地上の目に見えるものに心を寄せ、神以上に地上の宝を愛することは危険であるという事実である。
 
次回の記事では、さらに詳細に記す予定であるが、異端の教えとは、例外なく、神の国を目に見えるものとしてとらえ、地上天国を築こうとするものであるが、そうした異端の教えのほぼ全てが、地上天国を築くための土台が、家庭にあると説いているのである。

それは、国家神道しかり、統一教会しかり、ペンテコステ運動しかりである。

次回の記事では、国家神道がどれほど家族というものを重んじたかを振り返りたい。それは、この思想が、一大家族理想国家という地上天国を築くために、家庭が基礎単位となるとみなしていたからである。

統一教会もこれと同じように、合同結婚式を行ない、地上で信者の「聖家族」を増やすことにより、地上天国が到来すると教えた。聖霊派は、信者がクリスチャン・ホームを増やすことが、教会成長の勘所であり、それによってリバイバルが到来すると教える。

これらは全て信者の地上における肉なる家族の絆を「聖」として祭り上げ、信者の家庭を理想社会(地上天国)の基礎単位とみなす点で、根本的に同一の思想なのだと言える。さらに、そこに、ウォッチマン・ニーの教えを奉じる吉祥寺キリスト集会や、ローカルチャーチの「地方召会」の理念など、「家々の教会」をエクレシアの基礎とみなす人々の考えも加えられる。

しかし、どれだけこうした教えが、信者の家庭生活を聖なるもののように高らかに謳い上げても、聖書は、信者の肉なる家族がそのまま神の家族になるのではないとはっきり教えている。神の家族とは、御心を行う兄弟姉妹のことであり、信者の肉の家族を意味しない。家庭集会の増加によって主の再臨がもたらされるという考えも、聖書には見つけられない。

それにも関わらず、信者の肉なる絆に基づく家族がそのまま神の家族であるかのように教え、信者の家庭を教会・信仰生活の基礎単位とみなす思想はすべて異端思想に該当する。それは必ず、地上における信者の家々の教会を拠点とし、この拠点の増加がリバイバルに結びつくと教え、結局、地上天国を目指す点でみな基本構造は同じなのである。

<次回へ続く>


日本人の集団性(2) ~東洋的世界観とグノーシス主義~

多くの日本人は、属している集団における自分の位置づけが、自分の価値そのものであると考えており、集団から見放されることは、自分を失うことであると考えて、心の底では村八分になることを極めて恐れているように見える。

その考え方の根底には、「村八分になったら、もはや人間ではなくなる」という恐怖があるのではないだろうか。逆に言えば、それは多くの日本人が、どこかの集団に属し、誰かからの承認を得ていることで初めて自分を人間として認識できるのであり、もし他者からの承認を失えば、自分が人間であるという自己価値を確認する基準そのものを失ってしまうという恐れを無意識に持っていることを意味する。

では、集団と無関係では、人は人であり得ないのだろうか?
人が人であるとは、一体、どういうことなのだろうか?

そのような問いが発する。
しかし、人としての価値はどこにあるのか考えるとき、日本人のものの考え方は、どこまで行っても、個人を集団と切り離したところでとらえることができず、個人の価値にどこまでも集団が追いかけ、食い込み、侵入してくるようなものの考え方になっているように思うのだ。

結論から言うならば、それは相当に異常な、歪んだものの考え方であるのだが、しかし、このような考え方を疑うどころか、むしろ積極的に身につけるよう、日本人は幼少期から徹底して訓練されているのではないかと思う。

たとえば、集団とは、家族であったり、学校であったり、企業であったり、色々だ。
集団の中にいる限り、人はその中で常に何らかの役割を担う。

日本人は、集団の中での役割=自己価値と、無意識に考えている場合が多いのではないだろうか。

役割とは、つまり、他者への貢献度である。
役割を自己価値と同一視するということは、誰かにとってどのくらい役に立っているかを基準として、自分の価値をはかろうとすることだ。

だが、それでは、役割のない人間はどうなるのだろうか。
他者にとって役に立たない人間は、人間としての価値がないのだろうか。
あるいは、他者とつながっておらず、他者からの評価を受けられないような状態のときにはどうなるのだろうか。
他人との人間関係を持たない状態での自分の価値は、どうなるのだろうか。

そうなると、大勢の人は、そこで突然、思考が停止してしまうのだ。



ちなみに、これは個人を出発点とする西欧的な考え方とは対照的である。

ヨーロッパでは、上流階級の子弟は幼い頃から寄宿学校に放り込まれるなどして、家庭から(母親から)引き離されるという。それは母子密着を避け、子供に家庭の所有物としてではない、個人としての独立心を早くから養うためであるとも言われている。

これとは対照的に、日本の子供たちは、大人になるまで家庭のかなり強い影響下に置かれるケースが多い。そこで子供は必然的に、父親、母親の思惑の強い影響を受け、大人たちの顔色を伺いながら、強い者たちの便宜をはかるべく生きることになる。

家父長制の強く残っているアジアの貧しい開発途上国などでは、子供は早くから家庭において家計を維持するための労働力たらんとすることが期待されている。
日本では経済発展の結果、子供が労働力として使役されるという事態はほとんどなくなっているとしても、精神的・心理的には、親や家庭の見栄やエゴのために使役されて(家庭の栄誉を達成するための道具となって)生きているという例は無数にあるだろう。

つまりそれは、子供が精神的に家庭から自立することが許されておらず、いつまでも家庭の付属物のように思いながら生きている状態である。

そのような関係は、家庭のみならず、形を変えて、色々な集団で生涯、続いていく。
学校に入ると、学校の強い影響下に置かれ、先生の顔色を伺いながら、学校の栄誉のために成績を上げ、優秀な企業等の優良な職場を得ることを第一目的として生活する。
優良な企業等に就職したら、今度は社長の顔色を絶えず伺いながら、企業の利益向上を第一目的として生きることになる。

つまり、ゆりかごから墓場まで、日本人は絶えず集団の中で、自分よりも強い者の顔色を伺い、その者の目線に立って、彼らの利益になるように、自分を誰か強い者の利益達成の道具として差し出して生きるべく、徹底して訓練されているのである。

もしそのことを変だ意識することがなければ、一生、その人は何かの集団のために(その集団と自分自身を一体化・同一視して)生きることになり、自分自身のために生きられないことになる。
それは一生、心理的に独立できないという状態を言う。

だが、そのような生き方は、かなり苦しいものではないだろうか。
そもそも他者への貢献度を基準に自分をおしはかるということ自体、かなり無理がある。
どんなに素晴らしい人でも、他人はしょせん他人であり、自分を本当には理解できないし、正しく評価することもできない。
さらに他者はわがままなので、自分勝手な利益追求のために、平気で他者を手段としようとするし、移り気なので、その希望する内容さえもころころと変わる。

それなのに、自分の価値をはかる大切なものさしを、そういう理解できない他者にあずけてしまうことは、理解できない者に自分自身を質に取られているのと同じような状態になる。
だから、それは本当は極めて危険である。

そういう考えで生きると、自分を失わないために、他者からの評価にいつもおびえていなくてはならない。見放されることが怖く、役割を失うことが怖く、村八分にされることが怖い。つながっている他者がいなくなると、たちまち、自分の価値がなくなるかのように恐れる。

だから、そうならないために、一生懸命に周りの顔色を伺いながら、人を喜ばせようとして、「協調性」があるように行動する。

自分は何者なのか、何がしたいのか、それを考えるよりも前に、まず他人を念頭において、他人を喜ばせるために、必死に努力することになる。しかし、やればやるほど疲れていき、ますます自分が何者か分からなくなっていく。



このような「村八分の恐怖」から逃れることを第一目的とした生き方は、日本人の学歴偏重・職歴偏重などの風潮・伝統にもよく表れている。日本人が高く評価したがる「空白のない履歴書」とは、途切れることなく何らかの組織に所属してきた履歴書のことである。

どこの組織にも所属していなかった空白期間があると、内容がどんなものであれ、「ふらふらしていた」、「宙ぶらりん」の期間として、疑いの眼差しを向けられる。

つまり、絶え間なく組織と一体化することが「望ましいまっとうな生き方」として求められ、組織を離れて自由な個人に戻ることが否定的に評価されたり、許されないこととして扱われるような、そのような意識が存在する。不況も手伝って、これほど転職や失業がありふれた事態となった今でさえ、そのような風潮は一方でますます強くなっているようにさえ見える。なぜなのだろうか。

ソビエト体制の下で、詩人ブロツキーは当局に呼び出されて、当局が考えるような「全うな仕事」に就かないで「フラフラしている」ことを責められ、「徒食者」として有罪判決を受け、強制労働を言い渡された。

どこかの国営企業で掃除夫のような貧しいアルバイトでもしていれば、「全うな職業」とみなされたのだろう。しかし、詩人であることは、当局から見れば、「全うな職業」には当たらなかったのだ!

昨今の日本は、それにかなり近い状況となってきているのではないだろうか。

日本人はもともと真面目なので、職に就けば、自然とそれに費やす時間も労力も多くなる。それにも関わらず、一日8時間労働ではまだ足りないといわんばかりに、24時間365日働くことを奨励するような風潮も登場してきている。

労働時間でなく、成果で評価するのだという。
成果? またまた、曖昧極まりない魔法のような言葉だ。

この言葉を使えば、果てしない成果を求めて、人を自主的に躍らせることができる。
真面目な人ほど、さらに成果を出そうとして、さらに多くの時間、働こうとするだろう。

こんな風潮の下では、一日8時間しか働かないような人間は、やがて「徒食者」とみなされて排斥されていくことになりかねない。

一体、労基法はどうなったのであろうか。憲法さえ平気で無視されるくらいだから、労基法を無視するのはもっとたやすいのかも知れない。

いぜにせよ、この風潮が示しているのは、「組織に所属したくらいではまだ少ない、身も心も、骨の髄まで組織に捧げて働け!」という思惑だ。

休日だろうと、時間外だろうと、自由な個人に戻ることなど許さないという風潮である。

その最後に行き着く先が、靖国である。
企業のために身体を捧げて過労死するのも、もしくは国家のために、すすんで骨になることも、そんなに大きく変わらない。その両者の根底には同じ精神が流れている。
殉死するほどまでに組織と一体化せよということである。

それほどまで、精神的自立を、個人として生きることを妨げようとする風潮があるのだ。
恐ろしいことである。



今になって、人々は一体、こういう危険な考えがどこから生まれてきたのかを議論している。グローバリズム、新市場自由主義、戦後、日本が経済成長しか目指してこなかったから、こんなことになってしまったのだという反省の声も多々、聞かれる。

しかし、こういった考え方のおおもとを作っているのは、東洋的世界観であると私は見ている。

つまり、「個人の価値は、所属する組織や集団による承認があって初めて成立するものであって、組織や集団を離れたところでの個人の絶対的な価値は存在しない」という発想、これが東洋的世界観であるが、それこそが、新自由主義や、グローバリズムを含め、今の過酷な競争社会を生み出す根底に流れている思想なのではないだろうか。

つまり、「集団あっての個人」であり、「集団を離れての個人はない」という考え方、それこそが、このような価値観の根底に流れているのである。
それは言い換えれば、「個人は、集団を形成するためのディテールに過ぎない」という考えである。

ディテール。
部品のようなものと言っても差し支えないかも知れない。

ディテールだからこそ、生涯、全体を構成する一部なのであり、全体から離脱することはできないし、ディテールとしてどれくらい全体に役立ち、奉仕するかが、その価値を決めることになる。

役に立たないディテールは要らない?

これは優生学などに通じる非常に恐ろしい思想である。

だが、東洋世界には、もともとそのような思想的土壌がある。それは人間は自分を取り巻く集団や、宇宙のような包括的な環境の一部であって、宇宙全体の細部に過ぎないという世界観である。

そして、そのような思想的土壌があって初めて、現在のブラック企業やら、福島原発での過酷な使い捨てのような労働環境も出現を許されたり、正当化されたりするのである。

たとえば、福島原発で事故が起きた後、なぜ危険な原発の管理を最も不安定な雇用・生活状態にある派遣社員などが行なうのかと、不思議でならなかった。派遣社員を過酷な環境で使い捨てのように働かせるのには限りがある。過酷に使役すればするほど、すぐに交替要員が必要になるが、人数に限りがある。そんな人使いの荒いことでは、すぐに深刻な人手不足に見舞われるときが来る。そのとき、原発はどうなるのだろうか。

チェルノブイリでは、そんなことにならないように、原発の技術者は厚遇されている。技術者としての高い地位と信用、経済的に困らないだけの収入が確保され、健康に支障がない程度の限られた勤務日数、そして勤務していないときに落ち着いて家族と生活できるように、原発周辺に家族と暮らせる村も作られて、色々な面で権利が保障されている。まず原発を守る技術者たちの生活が安定していなければ、どうやって人が原発を安全に管理することなどできるだろう。

それなのに、なぜ日本ではこうも全てがあべこべなのだろうか。

繰り返すが、こういったことさえも、単に人権軽視というような風潮から生まれてきたのではなく、そもそも個人を全体のディテールとしてしか認識できない東洋的世界観を背景に初めて成立する状況なのである。

結論から言えば、東洋的世界観では、個人の絶対的な価値や尊厳というものは存在しない。東洋的世界観の中では、どこまで行っても、個人は独立した存在ではなく、何か大きな全体の一部、何か包括的なものの片鱗としてしか認識されないからだ。

しかも永遠に移り変わるはかない片鱗である。

もし個人の尊厳というものがあるとしても、それは集団によって付与されるものでしかない。集団に属しているという条件のもとで束の間貸し与えられた自己価値に過ぎない。

だから、集団のために役立っていることが、個人の価値である。
そして、個人は移り変わる。個人は集団のディテールであり、束の間、現れては消えていくうたかたのように、絶え間なく移り変わるのである。

ディテールはもともと流転するものなので、どんなに短い間で消え去って行ったとしても、それは損失ではなく、それこそが当然の姿なのである。

そして集団だけが永遠に残るのである。

それが東洋的世界観である。

だから、東洋的世界観においては、人間の絶対的な尊厳というものは存在しない。



ちょっと待ってくれ、と言われるだろう。

待ってくれ、個人は、それでは、何なのか、うたかた程度のものでしかないのかと。

その通りである。東洋的世界観においては、個人は水泡か、散っていく花のようなものでしかない。

そういう価値観のもとでは、花やあぶくはそれを観察する者にとって気持ちのよいものでありさえすれば、どんなにはかなく消えて行っても問題ないのである。
むしろ、はかなく消えて行くところにこそ、美しさがある、というとらえ方もある。

実のところ、そういう世界観で人間をとらえると、人間をどんなに使い捨てても、罪にならないのである。

はかなく消えていくディテールにどれだけの叫びや苦しみがあったとて、それは重要でなく、そのはかないディテールが、観察者にどんな満足や利益をもたらしたのかだけが重要なのである。

話を戻せば、それが東洋的世界観であり、その世界観に基づくと、日本には、個人の絶対的尊厳という考え方はないに等しいことになる。
その基盤となる文化的・精神的土壌がないからだ。

この点で、東洋的世界観は西欧的世界観と決定的に異なる。
だから、どんなに西欧から取り入れた思想に基づき、法規で個人の人権や尊厳を絶対的なものとして定めても、必ず、東洋世界には、それを骨抜きにするような価値観や思想が現れ、はびこってしまうのである。

東洋世界には、と言ったが、東洋だけであればまだ良い。
もしかしたら、そのような価値観が、全世界を席巻することだって考えうる。

ここに恐ろしい危険性があるのではないかと思う。
実はそのような思想の起源こそ、グノーシス主義なのである。

異端グノーシス主義における反宇宙的二元論

1.はじめに

 さて、少し前に、反キリストを告発するビデオを記事にて掲載させていただいた。私自身は、そのビデオの掲載元となっている「目に塗る軟膏」というサイトを、かなり信頼性の高いものとしてとらえているため、そのビデオの情報にもかなりの信頼を置けるのではないかと考えている。サイト管理者はすでに何年も前から、そのような仕事に携わっておられる方であり、しかも、名前も連絡先も明示しておられる。

 だが、私たちは、もたらされる情報の真偽を常に自分自身で(うちにおられる聖霊を通して)吟味することをやめてはならないし、そういう意味で、反キリストを告発する側からもたらされる情報をも、決して鵜呑みにしてはならないと、武州乃鳩さんが警告しておられることはまことに正しい。
 読者には、私の掲載している情報を批判的に読むことをやめないで欲しいと願う。

 しかし、物事を漠然と疑うだけならば誰にでも簡単にできるが、一つの事柄の真偽を最後まできっちり証明しようと思えば、綿密な検証作業と、膨大な証拠の裏づけとが必要となる。そのような作業を根気強く行うことができるクリスチャンが今、求められていることは間違いないだろう。
 一人ひとりにできることは限られているが、こうして、クリスチャンが互いに役割を補い合いながら、キリストの身体を立て上げていく作業に共に加われるなら、それに増して嬉しいことはない。より多くの人たちが検証作業に加わって下さることを願う。

 ところで話題は変わるが、私は初め、キリスト教界のカルト化という問題を現象面から追っていたが、そのうちにやがて、カルト化現象の背景には、異端化した教義の存在があるという結論に至った。議論を進めていくうちに、その考えは事実によって裏付けられた。なぜならば、教会の組織構成に大きな変革をもたらす教会成長論そのものが異端性を持っている事実が明らかになったからである。

 さらに、私は以前から、ある推測をしていた。それは、聖霊派のうちに存在する異端化した教義と、グノーシス主義との間に、どこかで(たとえかすかであったとしても)何かの関連性、または類似点があるのではないか、という推測である。以前にもブログで、グノーシス主義を一度取り上げようとしたことがあったのだが、その時は、理解が不十分であり、その内容を目にした時、正直、とても私の手には負えないと思った。

 だが、今回、聖霊派に関するビデオの分析を行っているうちに、再び、深く考えさせられるところがあった。「反キリストたちは、聖書を曲げて、神と悪魔の位置を入れ替え、正統な教義から逸脱する独自の異端的教義体系を、かなり明確に作り上げているのではないか? そしてそれは決して、新しい構造を持った理論ではなく、たとえばグノーシス主義がそうであったように、古くから存在していた異端と、何らかの類似した構造を持つものではないか?」との疑問が生じたのである。

 聖霊派(もしくはペンテコステ・カリスマ運動)における異端とグノーシス主義の間にはっきりした関連があるという証拠は今のところ何一つとしてない。だが、前ブログにおいて、教会成長論を分析した際、私たちはすでに、カルケドン信条を拒否し、三位一体の正統な解釈を破壊し、聖霊を母なるものとしてとらえ、正統なキリスト論から外れる養子論的キリスト論を教え、牧師を神として崇めることを信徒に求めるような異端化した教義が、体系的に作り上げられ、それがキリスト教界の他教会にも、見習うべき手本として普及されていることを確認した。この教えの中にはすでにグノーシス主義を思い起こさせるものが部分的に含まれている。

 さらに、このような教えが、他の教会との連携や影響とは全く別に、たった一つの教会や、一人の牧師の発想を基にして、単独に生まれたとは全く考えられない。それがもし単独に生まれたものであるならば、他の教会から非難を浴びることなく、あたかも正統な教義であるかのように、他教会から認められることはほとんどあり得ない。
 そこで、教会成長論に関するこのような異端的著書が世に登場するに至った背景には、同様の教義が、他の場所でもすでに信奉されている事実があり、この著書は単にすでに多くの場所で信じられていたことを体系化してまとめたものに過ぎないのではないかという推測が可能となる。何よりも、一つの異端的教義が生まれるに当たって、それに先行する何かもっと深い根源があったのではないかと考えることは、極めて自然である。

 つまり、以前に分析した教会成長論の誤りは、氷山の一角に過ぎない。そのように考えられる理由の一つとして、まず、日本の聖霊派(もしくはペンテコステ・カリスマ運動に影響を受けた教会)が、伝統的に、アメリカ(その他、韓国)などから強い影響を受けて来た事実が挙げられる。特に、プログラム伝道ということにおいては、日本独自のプログラムなど、存在しなかったと言っても過言ではないほどに(日本発のオリジナル・プログラムは、日本列島十字架行進くらいだろうか?)、日本の聖霊派は、各種のプログラムの形成において、諸外国からの影響を強く受けてきたのである。
 従って、教会成長論という路線において、日本の教会に現れた異端化した教義は、日本発のオリジナルではなく、恐らくは、ピーター・ワグナー、チョー=ヨンギなどの世界的に著名な指導者によって、世界的に普及された教会成長論の教義の忠実な副産物として、生まれて来たと見るのが妥当であろう。(ただしこのことはきちんとした手順を踏んで、証明されなければならない。)
 
 従って、教会成長論、プログラム伝道につきものの問題性を考える時、今や日本という一国の枠組みを超えて、まず、世界的に普及された教会成長論の模範的な教義的な型を詳しく検討する作業が今後、不可欠となることは間違いがない。私自身も、可能な限り、それに取り組んでいきたいと思うが、同種の作業に着手する人がいれば、積極的に取り組んでいただきたい思いでいっぱいである。

 さて、今回は、世界に普及された教会成長論の教義を検討する作業は、ひとまず脇に置いて、まずはグノーシス主義の世界観の話に戻りたい。私は先に挙げたビデオを見ているうちに、グノーシス主義の世界観が、聖霊派に現れた異端的な教えの世界観と何かしら一致した部分を含んでいるのではないかという危惧を抱かずにいられなかった。

 だが、これはひょっとすると、私の杞憂、あるいは行き過ぎた予想なのかも知れない。証拠を発見することはできずじまいに終わるかも知れない。だが、仮に不確実な予想のまま終わってしまったとしても、この作業もまた、背教に光を当てるための一つの実験として、お見逃しいただきたいと思う。
 ここから先は、かなりこみいった複雑な話になるため、興味がない方は飛ばしていただいて結構です。

2.現代に甦る異端 グノーシス主義の世界観

①ナグ・ハマディ文書 グノーシス主義文献の再発見

 さて、ここから先は、荒井献氏によるグノーシス主義に関する著作、『トマスによる福音書』(講談社学術文庫、2007年)を参考にしながら、異端グノーシス主義の教義と世界観の概略を読者に紹介したい。

 「トマスによる福音書」とは何なのか?という疑問が真っ先にあがるかも知れない。もちろん、これは今日の聖書には含まれていない。「ピリポの福音書」とか「マグダラのマリアの福音書」、「ヤコブの黙示録」などと同じく、クリスチャンにとってなじみのない名前だろう。これらは、二ー四世紀の古代ローマ帝国に存在していた異端グノーシス派が、聖典としてとらえていた文書の一つであり、後述するように、教会が正統な文書として認めた正典から排除されて、人々の記憶からは長い間、抹殺されていた。

 長い間、これらのグノーシス文献は、異端反駁の文書の中でわずかに確認できるだけであり、その存在すらも本当にあったのかどうか定かでなかったが、比較的、最近になって、考古学的な発見(ナグ・ハマディ文書の発見)によって、これらの文書の存在が世に提示され、その驚くべき内容が明らかにされた。グノーシス文献は、その内容を見れば、いずれも、今日、キリスト教の正統な教義と認められている教えからはあまりにもかけ離れた内容であることは明らかである。

 さて、これらのグノーシス文献の研究者として著名な荒井献氏の著書だが、氏の見解の中には、正統なクリスチャンから見て、疑問に思われる部分もあるかと思う。私個人は、グノーシス主義が異端であることは火を見るより明らかだと考えているので、それが異端として排除されたのは当然の結果であると考えており、その文献を聖典として復権させる意味もないと考えている。

 しかしながら、グノーシス主義の是非について争うことをやめて、氏の著書をグノーシス主義の体系を明らかにした歴史研究として捉えるならば、時代の隙間に隠され、忘れられた教会史を掘り起こす意味でも、荒井氏の著作や、その他のグノーシス研究書からは多くの学ぶところがあると思う。

 さて、今日、正統的な教会で「正典」として認められている聖書は、旧約聖書に収録されている39文書、新約聖書に収録されている27文書のみを指している。他方、正典から除外された諸文書が今日も「外典」という形でかなりの数、存在しており、中には、これらの一部を異端視せずに取り上げている教会が存在することも確かである。
 考古学的に発見されたグノーシス文献もこれらの外典の中に含まれる。荒井氏が紹介するように、今日数えられている合計74の外典のうち、グノーシス主義外典はなんと半数以上の42を占める。そのことだけを見ても、いかに二-四世紀当時、グノーシス主義の教えがローマ帝国内で勢力を誇っていたかが伺えよう。

 正統的教会の反異端論者たちは、あらゆる異端の中でも、とりわけグノーシス派を危険視した。司教エイレナイオス、司祭ヒッポリュトス、司教エピファニオスの記した文書には、彼らがどれほど異端との取り組みで苦労させられたかが記されている。グノーシス派は、異様なまでに「聖典」の数を増やしていただけでなく、教義面から見ても、正統な教会にとって恐るべき脅威となっていたのである。


② 正統と異端 正統な教義と正典の確立

 ところで、「正典」とか、「正統な教会」といった概念は、いつ、どういう根拠で出来上がったのだろうか。それについて、荒井氏がかなり分かり易い説明をされているのでざっと振り返っておこう。

キリスト教史上『正統』が教会法的に(この『教会法』は、四世紀末テオドシウス帝によってキリスト教がローマ帝国の国教とされた後は、『国法』と部分的に重なる)確立するのは五世紀に入っていわゆる『カルケドン信条』が採択(四五一年)された時点以後のことである。

 カルケドン信条は、教義の『キリスト論』に関わる教義で、キリストにおける両性(神性と人性)を同時に承認し、その際、両性の区別が『融合によって失われず、各性固有の性質が一つの人格と一つの位格に併存する』ことを認め、他方においてマリアを『神の生母』と告白するものである。

 これ以後、カルケドン信条と共に、すでに採択されていた『ニカイア・コンスタンチノポリス信条』(三八一年。これは、父・子・聖霊を『同質(ホモウーシオス)』と告白する、いわゆる『三位一体論』が正統の基準とされ、これに反する告白を掲げる教会を『異端』として排除した。

たとえば、キリストの人性を強調し、その神性を危うくすると正統の側から判定されたシリアのネストリウス派、逆に人性を神性に統合して『単性』を主張すると判定されたエジプトのいわゆるコプト教会は、いずれも『異端』として排斥されることになる(ただし、ネストリウス派、コプト教会共にこの判定には意義を唱えている。)

 <…>ただ、ニカイア・コンスタンチノポリス信条とカルケドン信条によって正統的教会が直接『呪詛』の対象としたのは、アリウス派やネストリウス派であって、グノーシス派ではない。グノーシス派を正統的教会が排除するためによって『真理の基準』あるいは『信仰の基準』は、むしろ『使徒信条』であった。

 この信条は、右の二つの信条と共に、『世界教会信条』と呼ばれ、現代に至るまで、カトリック教会、プロテスタント教会などキリスト教主要教派によって広く採用されているものである。もっとも、使徒信条の標準本文が確定されたのは、中世に入ってから(八世紀)のことである。しかし、使徒信条の原型は、その内容にきわめて近い形で、二世紀の後半には成立していた。われわれはこれを『古ローマ信条』(Romanum)と呼ぶ。」(p.88-90)

 つまり、今日言われる「正統な教会」や「正統な教義」の概念が確立したのは、三位一体の正統な教義を確立したニカイア・コンスタンチノポリス信条、キリスト論についての正統な教義を確立したカルケドン信条、そして現在もキリスト教の主要な教派が共通して認めている使徒信条の三つが事実上、成立した五世紀以降のことである。

 「以上のように、キリスト教の『正統』は右の三基本信条(筆者注:ニカイア・コンスタンチノポリス信条+カルケドン信条+使徒信条)を教義(ドグマ)として成り立ち、これに違反する部分を『異端』としたのであるから、『正統』確立以前の時代(一世紀後半―四世紀)におけるキリスト教の歴史に『正統』『異端』の概念を適用するに際しては、当然のことながら慎重でなければならない。<…>

 しかしながら、五世紀以後の『正統』に連なる『正統的』教会の伝統は、遅くとも一世紀末以後の時代に確実に存在した。これをわれわれは、『プロテスタンティズム』の反対概念としての『カトリシズム』と区別をして、『古カトリシズム』(あるいは『初期カトリシズム』)と呼ぶ。そして、この古カトリシズムの果たした重要な役割の中に、右に言及した『ニカイア・コンスタンチノポリス信条』の確立と共に、『古ローマ信条』あるいはこれに近い信仰告白文を『真理の基準』ないしは『信仰の基準』として達成した『正典』の結集がある。」(p.90-91)

 荒井氏の言う「古カトリシズム」とは、教皇を中心とする権力の独占を認める聖職者位階制が出来上がり、女性が聖職から占め出されるよりも前の時代(一世紀末―四世紀末)の教会のことを指しているものと考えられる。その「古カトリシズム」の間に、キリスト教の正典が結集されたのである(氏によると、最終的に新約が27文書に限定されたのは、カトリック側では反対宗教改革の綱領を採択したトリエントの司教会議(1546年)、プロテスタント側ではウェストミンスター信仰告白文の制定(1643年)である。だが、新約正典27文書の大勢はすでに4世紀末、正統の確立とほぼ同時に始まった)。

 「他方、このような正典結集への動きは、遅くとも二世紀後半にははじまっていた。従って、新約正典の内容が現行の二十七文書にほぼ限定されたのは、二―四世紀にかけてであると見てよいであろう。とすれば、これはちょうどグノーシス派がその興隆を誇った時期と重なる。

この時期に、成立途上にあった正統教会は、彼らに固有な教会政治的・神学的立場(『古カトリシズム』)から、それに反すると判定したキリスト教内『分派』を、構成のいわゆる『異端』として排斥し、異端的聖書解釈に反駁を加えると共に、分派のもとに流布していた聖文書を彼らのいわゆる『正典』から排除していった。後世『外典』と呼ばれる諸文書の大半は、この異端的分派の出自である<…>。」(p.92-93)

 荒井氏は、古カトリシズムは、事実上、神学上異端とみなした教義だけでなく、自らの提唱する教会政治のあり方にそぐわない教義にも「異端」のレッテルを貼って排斥して行ったとみなす。だが、このような見方をすることは、私たちが以前に見たように、手束氏が、ネストリウス派が異端として呪詛されたのは、ネストリウスがキュリロスとの政治闘争に敗れた結果であり、不当な判断であったと述べていたのと同じように、グノーシス派が異端として排斥されたのも、主として教会政治の結果であったという理解を生みかねない。

 私は、当時、グノーシス派が異端とみなされたのが、不当な判断であったとはみなしていないし、ネストリウス派や、グノーシス派を現代キリスト教に復帰させるべきだという主張に立つこともできない。ヨーロッパ中世の異端審問などは別として、今日、正統な教会がいずれも認めている一致した教義に属さない一派が、異端とみなされたことには正当性があったと、クリスチャンは考えるべきであると思う。

 グノーシス派の文献の中には、キリスト教とは全く関係ない独自の教えも存在する。それを考慮に入れれば、グノーシスの教えは、キリスト教の教義から分離して後から生まれたものでなく、恐らくは、キリスト教の成立以前に起源をさかのぼるであろうこと(何か別の起源を持つ宗教が、キリスト教が成立した後になって、キリスト教を自らの中に取り込み、キリスト教的グノーシス派に変質させた可能性があること)は、荒井氏も指摘している。だが、問題なのは、キリスト教的グノーシス派が、自らをキリスト教とは別個の宗教であると主張せずに、あくまでキリスト教の一派であると自称していた点である。いや、むしろ正統なキリスト教を超える「まことのキリスト教」であると主張し、既存のキリスト教を止揚することを目的にしてさえいた点なのである。

 荒井氏は述べている、「正統的教会がグノーシス派に直面して最も困惑したのは、グノーシス派が正統的教会をアプリオリに拒否したからではなく、それ――とりわけヴァレンティノス派――が自派を『まことのキリスト教』と主張し、正統的教会を自派の下位に、しかもなお真実の救済にいたる可能性を有する存在として位置づけたからである。」(p.108)


③反宇宙的二元論 グノーシス主義の世界観

 グノーシス派は最古最大の異端である。だが、グノーシス派の文献の中には、同じ体系の中に一つくくりにするが困難なほどに、異なる教えが多数、存在していることを研究者は異口同音に述べている。

「さて、これら異端的分派の最古最大のものがグノーシス派である。ただ、同じ『グノーシス派』といっても、それ自体の中に多数の分派があり、それぞれの立場やそれに基づく神話論にはかなりの相違がある。」(p.93-94)

 それぞれの文書によって、教えの詳細が異なり、互いに矛盾する部分も少なくない。だが、それでも、一応、グノーシス主義の名前の下で、諸々の相違を超えて共通する基本的な教えがまとめられている。まずは荒井氏の文章を紹介しよう。

「それでは、グノーシス主義とは何か。それは、端的にいえば、人間の本来的自己と、宇宙を否定的に超えた究極的存在(至高者)とが、本質的に同一であるという『認識』(ギリシア語の『グノーシス』)を救済とみなす宗教思想のことである。
 従ってこれには、人間の『現存在』――身体→この世→宇宙→宇宙の支配者たち(星辰)→宇宙の形成者(デーミウールゴス)――に対する拒否的な姿勢が前提されている。」(p.103)

 恐らく、この難解な文章を一読して、グノーシス主義の本質が何かを的確に理解できる人は一人もいない気がするので、もう少し易しく解説してくれている文章を探すことにしたい。

 「叡智の光――グノーシス主義」(注意!音楽が鳴ります)における「グノーシス主義概論」から説明を抜粋させていただこう。
 (注: このサイトにおけるキリスト教の教義の解釈は、グノーシス主義のプリズムを通して解釈されているため、多くの点で正統な解釈から逸脱している。だが、少なくとも、グノーシス主義を理解する上ではかなり参考となるサイトであると言えるだろう。)

「一般に、『グノーシス主義 Gnosticism』と呼ばれている思想乃至信仰は、その原義からは、紀元一世紀より、三世紀乃至四世紀頃まで、ヘレニク世界・地中海世界において流布した、独特の世界観と神観・人間観を持つ『教え』です。
 『グノーシス主義』と云う名称は、一つに、この教えを説き、信奉していた複数の様々な派の人々が、自分たちを『知識ある者=グノースティコイ γνωστικοι (gnoostikoi)』と自称していたからですが、この名称が定着したのは、当時、擡頭しつつあった原始キリスト教会が、グノーシス主義運動を、キリスト教にとっての重大な『敵・障碍』であると見做し、『グノーシス主義異端』として、排斥しようとしたためです。(その理由には、キリスト教的グノーシス主義者たちが、自分たちこそ、『キリストの啓示』の真実の意味を知る、『真のキリスト教徒だ』とも称していたことがあります)。<…>

グノーシス主義は、その『思想原理・世界観・人間観』等からすれば、キリスト教の『異端』ではなく、『異教』と云うべきであり、事実、キリスト教とは全く無縁なタイプのものも存在します。また、グノーシス主義一般が、キリスト教の『異端』ではないことは、多くの研究者のあいだで、今日、同意を得ています。とはいえ、この文書では、紀元の数世紀、地中海世界領域にあって繁栄し、原始キリスト教会より、異端とされたグノーシス主義の考えについて、主に説明し論じます。

わたしたちは、このような意味のグノーシス主義を、取りあえず、『ヘレニク・グノーシス主義』と呼びます。それに対し、思想原理よりして、明らかに、キリスト教とは独立していることが明らかな、『グノーシス主義の原型的』形態については、これを(ヘレニク・グノーシス主義も含め)、『普遍グノーシス主義』とも呼びます。普遍グノーシス主義は、ヘレニク・グノーシス主義よりも広義な意味内包を持ち、また、地理的歴史的にも一般性を具備する思想・信仰の概念です。」

 つまり、このサイトでは、グノーシス文献の中で、キリスト教の要素を取り込んでいるキリスト教的グノーシス主義を「ヘレニク・グノーシス主義」と呼び、そして、キリスト教とは無関係の教えを「普遍グノーシス主義」と名付けている。両者はタイプは違うが、基本的には同じ思想で貫かれており、グノーシス主義という一つの教えの中に含むことができる。

「原始キリスト教は、その思想原理や信仰原理が、古典ヘレニク思想(筆者注:古典ギリシア哲学やローマ哲学)とは異質ですが、しかし、宇宙創造者=神=ヤハウェを『善の神』と考え、神の創造になる、この『被造世界』もまた、『本来的に善』であり『光の世界』と考えたことで、古典ヘレニク思想・哲学と、神観・宇宙観において共通しているとも云えます。原始キリスト教の諸派も、宇宙を『秩序宇宙』と考えていたと云うことであり、また『秩序』は『善』であることより、この宇宙・世界は、『善の宇宙』であると見做していました。」

 簡単にまとめよう。キリスト教においては、天地創造の神(ヤーウェ)は、全知全能の唯一絶対の神であり、愛であり、正義であられる、聖なる神である。その神は、創世記第一章を見るならば、被造物を創られ、それを見て良しとされた。また、人を創造されて、祝福された。創造主は悪意からこの世を創られたのではなかった。神の創られたこの宇宙(被造物)は、初めは調和の中にあり、神は善良な意図を持って人間を創られ、全ての被造物は、神に祝福される、甚だ良い出来栄えであり、調和の中に存在していた。

 「しかし、グノーシス主義は、ヘレニク思想の『秩序宇宙』概念を反転させ否定する思想であり、それは、『この世=宇宙』に、秩序よりも寧ろ『混沌』や『暗黒』を見るのであり、この世の『無秩序性・反理性性・非本来性』を主張します。古典ヘレニク哲学も原始キリスト教も、或いはその他のヘレニズム時代の諸宗教(例えば、ミトラ教、ユダヤ教、ゾロアスター教等)も、宇宙の『善なる秩序性』を認めていたのですが、ヘレニク・グノーシス主義は、上述の通り、『宇宙の無秩序性』『混沌と悪の宇宙・暗黒の宇宙』の現前性を主張し、また、そのような世界把握を、信仰・思想の前提としていました。

 (ゾロアスター教は、光と闇の二元論宇宙観を展開しますが、その世界観は、『この宇宙』を舞台にして、『光の秩序勢力』と『闇の混沌勢力』が争っていると云うもので、[最終的には、『光の秩序』が勝利することが前提とされています]、それに対しグノーシス主義の宇宙観は、『この宇宙』は、アルコーンたちの絶対的な支配下にある『悪の宇宙』であって、『光明の世界』は、『叡智=グノーシス』なしでは到達できない、遙かな彼方にあると云う展望で、光と闇の二元論と云う点で似ていても、根本的に異なる世界観なのです)。」

 つまり、キリスト教徒が、創造主である神は正しい神であり、神によって創造されたこの宇宙全体(被造物)それ自体は、神の御言葉と愛を通して生まれた、まことに良い調和的産物であった(もちろん、アダムの堕落以前はという意味であるが)ととらえているのに対し、グノーシス主義は、世界を正反対の観点から、極めて否定的に見るのである。つまり、はっきり言ってしまえば、グノーシス主義によれば、この宇宙全体は、初めからできそこないの失敗作だったのであり、初めから、絶望的に調和の欠ける暗黒世界なのであり、それを創った神(創造主)もやはり、できそこないの神、善ではなく、悪なる存在であったということになる。

「ヘレニク・グノーシス主義の教師たちは、伝統的な『秩序宇宙・秩序の善なる神』を否定し、この世界は『悪の宇宙』であり、この世界を創造した者も『悪の神・不完全なる神』であると見做し、多くの派では、この悪の宇宙の創造者を、プラトーンの『ティマイオス』に描かれている、下級の世界造形者である『デーミウルゴス=造物主』と同一視しました。
プラトーンのこの著作においては、当然、デーミウルゴスの上位に、高次の『真の神』が前提されているのですが、グノーシス主義の教えにおいても、『この闇の宇宙』の上位に『真にして隠された・知られざる光の超世界』があり、また、デーミウルゴスの遙か上位に、『真にして隠された、または忘却された、至高神』が存在すると主張します(この『隠された、知られざる真の至高神』は、認識や理解を超えた存在であり、名を付けることもできないとされますが、幾つかのグノーシス主義のシステムでは、この『知られざる至高神』を、『ビュトス(深淵)』とか『プロパテール(原父・先在の父)』と呼びます)。」

 キリスト教では唯一絶対の神であり、創造主であるヤーウェに当たるものが、グノーシス主義においては、造物主デーミウールゴス(またはヤルダバオト)に置き換えられ、この造物主は、善ではなく、悪なる存在であり、唯一無二の神ではなく、下級の神であったのだとされる。
 そして、不完全かつ悪神であるがゆえに、デーミウールゴスは混乱に満ちた世界しか生み出せなかったのであり、彼の上には、もっと高次な神として、「隠された至高神」があるとする。聖書の世界における善悪の概念(さらに進んで言うならば、神と悪魔の概念)を、グノーシス主義はこうして完全に覆してしまう。

 では、グノーシス主義において、神は一つ以上あるということになるが、デーミウールゴスは「至高神」からどのようにして生み出されたのだろうか。また、人間はどのようにして出来たのか。もう一度、荒井氏の説明に戻ろう。

「――はじめに上界に、至高者(『原父(プロパテール)』『父(パテール』または『霊(プネウマ)』)があった。彼は女性的属性(『思い(エンノイア』『知恵(ソフィア)』または『魂(プシューケー)』と対をなし、彼らの『子』と、いわば『三位一体』を形成していた<…>。

 女性的属性は至高者<…>を離れて、上界から中間界へと脱落し、ここで『諸権威(エクスウーシアイ)』あるいは『支配者たち(アルコンテス)』を産む。彼ら――とりわけその長なるデーミウールゴス――は、至高者の存在を知らずに、『母』を陵辱し、下(地)界と人間を形成する。こうしてデーミウールゴスは『万物の主』たることを誇示し、中間界と下界をその支配下におく。しかし至高者は、女性的属性を通じて人間にその本質(霊)を確保しておく。

デーミウールゴスの支配下にある人間は、自己の本質を知らずに、あるいはそれを忘却し、『無知』の虜となっている。人間は自力でこの本質を認識することができない。そこで至高者は、下界にその『子』を啓示者として遣わし、人間にその本質を啓示する。それによって人間は自己にめざめ、自己を認識して、『子』と共に上界へと帰昇する。中間界と下界(宇宙全体)は買いたいされ、万物は上界の本質(霊)に帰一し、こうして『万物の更新』が成就する。――」(p.103-104)

 かなり分かりづらいと感じられる人がいるかも知れないため、前述のサイトの説明を通して、この世界観をもう一度、咀嚼したい。

「ユダヤ神秘主義思想のカッバラーが説くように、或いは新プラトン主義の哲人プロティーノスの『一者 To Hen』よりの存在者の下降・流出の説にあるのと同様に、グノーシス主義においても、『真の至高神=知られざる神』からの『存在の流出』と云うものを考えます。
この『流出』は、最初、グノーシス主義者たちの立場より云っても、『秩序的』に行われていたのですが、『或る事件』を契機として、グノーシス主義の『真の秩序宇宙』(これを、プレーローマ とか、オグドアス・アイオーン世界などと呼びます)に、無秩序と混沌・暗黒の萌芽が生じ、この萌芽より、『この悪の宇宙』を創造した、アルコーン(ギリシア語で『支配者』の意味)と呼ばれる、(或る意味で無知蒙昧で傲慢な)複数の超霊的存在が生み出されます。彼ら、または彼らの第一人者である『第一のアルコーン』(これが、上に述べた『デーミウルゴス』であり、デーミウルゴスはまた、ヤルダバオートの固有名を持ち、『旧約聖書』の至高神ヤハウェと同一視されます)が存在を始めます。

 こうして、ヤルダバオート或いはアルコーンたちが、自己の『不完全な知識や能力』において、それと意識してか無意識でか、上位の光の高次世界(すなわち、プレーローマ超世界)等を模倣して、『この世界』を創造乃至造形しますが、それは、彼ら低次アイオーンであるアルコーンたちの不完全さ故に、不完全な世界となります。そして、このようにして生み出された『不完全な世界』が、実は、わたしたち人間が生きる『この世界=宇宙』であり、そこには、悪と闇が満ちている云うのが、グノーシス主義の主張です。」

 簡単に言い換えよう。グノーシス主義においては、初め、世界は「真の至高神」によって、調和と秩序によって治められる秩序宇宙(プレーローマ)であったのに、どういうわけか知らないが、何かしらの偶発的事故により、この至高神から存在が一部流出し、できそこないの悪意ある神デーミウールゴスとアルコーンたちが生まれてしまった。そしておごり高ぶったデーミルウールゴス(またはヤルダバオト)は、至高神に対して反抗し、自らを唯一の神だと宣言し、至高神の力を模倣して、悪意に満ちた宇宙を「創造した」ということになる。デーミウールゴスのせいで、この悪意ある闇の宇宙にとらわれている人間は、従って、「知識」(グノーシス)を得ない限り、デーミウールゴスの気まぐれにもてあそばれ、苦悶しながら生きるだけの存在だということである。

 私たちは、時々、「神があるならなぜこの地球にこんな不条理がまかり通るのか?私は神なんて信じない!」とか、「こんな無秩序で悲惨な世界を創られた神が、愛の神だなんて嘘だ!」などの台詞を耳にすることがあるが、グノーシス主義はまさにこのような否定的神観、否定的世界観に立って形成されていると言えよう。グノーシス主義においては、この全宇宙はできそこないの悪意ある神によって創られている以上、そこには混沌と暗闇しかなく、この世を創った神は、全く信じるに値しない神だった、ということになるのである。

 こうしてキリスト教グノーシス主義は、創造主ヤーウェを、たたえられ、あがめられるべき存在ではなく、憎むべき悪神へと引き下げてしまう。唯一絶対の神をデーミウールゴス(ヤルダバオト)と呼んで、悪なる神へと引き下げる、このような教えが、「まことのキリスト教」の装いをして、キリスト教の中に持ち込まれると、どのように恐ろしい事態が持ち上がるか、誰でも想像できよう。異端反駁者が頭を抱えたのは当然である。

「このように、『悪の暗黒宇宙』と『真の本来的光明永遠世界』を対比させ、『この悪の宇宙』を否定する思想を、『グノーシス主義』の『反宇宙的二元論』と称し、これは、或る思想・信仰が、グノーシス主義であるかどうかの一つの判定『規準』です。そして、このような世界全体について云える『反宇宙的二元論』構造が、実は、人間の存在においても、構造として備わっていることが分かります。つまり、『悪の宇宙』に属する闇の『肉』と、『プレーローマ』に属する『光の霊』の二元対立構造がそれです。」

 この世を創った神は悪意ある下級神だったのであり、その神が創った世界もまた絶望的に悪なる産物であった。そしてそれらを超えて、どこかに光であり善なる永遠世界が存在するはずである。人間は救われるためにはそこへ帰らなければならない。それがグノーシス主義の言う反宇宙的二元論である。


④ グノーシス主義における人間の魂の救済とは?

 グノーシス主義においては、キリスト教と同じく、人間は、『霊(プネウマ Pneuma)』 『心魂(プシュケー Psykhee)』 『肉(サルクス Sarks)』の三つから構成されていると考えられている。

「グノーシス主義の教えでは、この裡、『心魂』と『肉』は、デーミウルゴスやアルコーンたちの創造になるもので、この不完全な宇宙と同じ性質を持っており、即ち、不完全で、悪であり、また永遠的でなく、可壊で、地上に腐敗し滅び消滅する定めにあるとされます。

では、『霊(プネウマ)』はどこから起源したのかと云う疑問が起こります。これは、グノーシス主義の諸派によって説が色々とありますが、基本的に共通するのは、『霊(光の霊)』は、プレーローマに起源があり、霊を創造したのは、デーミウルゴスや諸アルコーンではなく、それは、光明に満ちる『プレーローマ永遠界』と、この『悪の宇宙』の中間にある『境界世界』を介在として、プレーローマの『知られざる至高神』が創造したものである、或いは、プレーローマの真実の高次アイオーンたちと同質なものであり、これこそ、『人間の本来的本質』であり、不滅であり永遠世界に属し、『悪よりの解放』の原理を裡に含むものであるとされます。」

 キリスト教においては、人間の霊そのものは、仮にどんなに自分だけで覚醒を目指したとしても、それ自体では全く救済の可能性を持たない。人間を救済する力を持っているのはイエスの十字架だけであり、それを信じることによって人は救われる。
 しかし、グノーシス主義においては、人間の霊そのものが、至高神のいるプレーローマから出たものであり、本来的に光(元来、プレーローマから来た光明ソフィア)が宿っているとされる。その知識に目覚めること、つまり、自己が本来的に、より高次の世界に属している存在であることを認識することによって、デーミウルゴスの創った堕落した世界に閉じ込められている人間の霊は、上界への帰還(霊の救済)が成し遂げられるとする。
 つまり、信仰によって、救済されるのではなく、知識による覚醒によって救済されるのがグノーシス主義だと言える。

「いずれにせよ、ヤハウェの啓示宗教である、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教にあっては、『神への帰依・従順』つまり、言葉を換えて云えば、神への『信仰(ピスティス Pistis)』が、救済の条件になっているとも云えます。それに対し、グノーシス主義における『救済の要件』は、プレーローマの『知り難い至高神(プロパテール=プロパトール,ビュトス)』への信仰(ピスティス)の度合いで決まるのではない、と云う点が異なります。
グノーシス主義は、まさに『グノーシス』の主義と云うその名が語る通り、『グノーシス(Gnoosis)=叡智・認識・知識』を人(の魂)が熟知しているか、真の神と偽の神(デーミウルゴス)の対立になる、この全世界の『反宇宙的二元論』構造を覚知し認識しているかと云うことが、救済の与件となると云っても過言ではありません。

 グノーシス主義のこの『救済観』は、仏教の救済或いは解脱に似ているとも云えます。少なくとも原始仏教においては、『正しい言動』を行い、『戒律(正しい言動とは何かを定めた規則とも云えます)』を遵守し、そして何よりも、自己が『無明』つまり『無知』であり、『世界の真理』を知っていないことを自覚し、世界の真理とは何かを覚知し認識し、無明より脱することで、『覚りの境位』 『救いの状態』に入れると教えます。
グノーシス主義の『救済論』は、或る意味で、この仏教の、『無明』よりの『真理の覚知』にも似ています。仏教とグノーシス主義の救済論が異なるのは、仏教は、『迷妄』を脱し、真実の現実の認識に到達することを目標としたのに対し、グノーシス主義の『覚知・認識』は、一見、荒唐無稽とも云える『創造神話』などを認識して受け入れ、宇宙と人間の運命についての『神話的構造』を自覚すると云う点でしょう。」

 この覚知、認識、覚りなどの言葉で表されるもの(私は「覚醒」という言葉をあてはめたい)は、至高者と三位一体の関係の中にあるソフィヤ(叡智)と深い関わりがある。荒井氏によれば、デーミウールゴスがソフィアを陵辱したことにより、人間が形成されたそうだが、それがために、人間には本来的にソフィアを認識する霊(光)が宿っているということになる。また、言い換えるならば、存在の流出により、光の破片が被造物である人間の中に閉じ込められた。

「ソピアーは、至高アイオーンに連なる者であったのですが、いわば、アダムとヘーヴァが楽園を追放されたように、自己の行為の責任であるとしても、『中間世界』に落下します。神話は更に、ソピアーが地上世界にまで落下したとも語っていますが、ソピアーは、多数の分身のごときものに分かれ、その一部が地上に落下して、惨めな存在となるのですが、同時に、中間世界に、ソピアーの分身が存在しており、更に、至高アイオーン世界、つまりプレーローマにも、ソピアーの分身が、残存していることが示唆されています。

このソピアーの『落下』と、その分身の運命は、実は、人間の地上への落下と、救済、プレーローマへの帰還の象徴神話になっています。何故なら、まさに、グノーシス神話は、ソピアーの救済とプレーローマへの帰還の物語を語るからです。
ソピアーを人間に置き換える時、人間の持つ『霊』は、まさにプレーローマに属するもので、他方、『肉』は地上に属するものでしょう。そして『心魂』は中間世界に属し、そこで、『無知』のまま、肉と共に滅びるか、『霊』の導きにより、『叡智=知識』を得て、永遠の光の世界へと救済されて行くかが決められると云うことになるでしょう。プレーローマより、その至高霊の部分である、『光の破片』 『霊の破片』が、ソピアーの過失事件により、中間世界、地上世界にばらまかれた時、『光明の霊の破片』は、人間の肉の衣を纏ったのです(或いは、『肉の牢獄』に閉じこめられた、とも幾つかの派では表現します)。

やがて、宇宙的運命において、ヤルダバオートの世界が完全にプレーローマより切り離される時、『光明の霊の破片』は、肉の衣を離れ、プレーローマへと上昇し、帰って行くでしょう。この時(或いは、それ以前にか)、肉の衣と霊の分離が起こる時、地上に残された肉の衣と共に、ソピアーの過失により生成されたと云える中間世界に属する『心魂』の運命が決まるとも云えるでしょう。それは、肉の衣と共に地上に残され、そこで滅び消えるか、または、霊と共に、プレーローマよりの救済者と共に、中間的世界より、至高世界=プレーローマに帰還するかのどちらかであると云うことになります。」

正統なクリスチャンから見れば、不思議なことに、グノーシスの教義は、徹頭徹尾、創造主たるヤーウェを貶めることによって、聖書の世界観を逆転させて成り立っているように見えるのである。聖書によれば唯一正しい神であるはずのヤーウェは、造物主デーミウルゴス(またはヤルダバオト)とされ、この世を悲惨な場所に変えてしまう悪意ある神であり、いずれ、至高神によって切り離される敗北の運命が定まっているとされる。この世の悲惨は全て造物主のために生じたのであり、造物主の権威失墜によって、ようやく、暗黒の世界の統治が終わるとされるのである。それだけでなく、「過失」により中間界、下界へ転落して惨めな存在となったソフィアが、上界へ帰還し、救済されるというのである。

また、造物主デーミウルゴスは、悪意ゆえに、人間の霊を救済する叡智(グノーシス)を人から隠し、救済の発見をさえぎっていると言う。この神話の筋書きは、アダムとエバに「善悪を知る」木の実を食べるよう、誘惑した蛇の台詞を思い出させる(「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」創世記3:5)。

「かくして、『霊魂の浄化』には何が必要であるのか、と云うことがグノーシス主義の救済論の根本条件になるでしょう。そしてそれは、上述の通り、『秘密の知識=グノーシス』であると云うのが、まさにグノーシス主義の答えであり、また、これが、グノーシス主義が、『グノーシス叡智・認識・知識Γνωσις)』の名で呼ばれる所以でしょう。しかし、人間は、『秘密の知識=叡智』について、『無知(アグノイア Agnoia)』な状態にあるのであり、その理由は、光明の世界の真実が、『光の破片=霊』を存在の裡に秘める人間たちに知られのを怖れた、或いは嫉妬した、造物主=デーミウルゴスが、この知識を人間から隠蔽した為であるとも、或いは、人間の霊が地上に落下した時、その『本来的故郷』についての記憶や知識を、人間自身が忘却してしまった為であるともされます。」

そして、グノーシス主義は、この玄妙な叡智である知識を認識することが、人間の霊の救済であるとする。だが、その知識に到達できる人間は限られており、特定の人間だけが、「救済者」として、その知識の偉大なる開示にあずかるのである。

「これらの『知識=グノーシス』は玄妙な叡智であり、それを正しく認識し覚知できる者は、優れた人間においても稀であり、それ故、至高世界プレーローマにあって、アイオーン・ソピアーの救済を計画している高次アイオーンたち、或いは榮光の『知られざる神=ビュトス』が、『真実の知識=叡智』の開示者を、『救済者 Sooteer』として、人間の存在する地上に派遣し、それによって、グノーシスの教師たち・その信徒たちに、『叡智』を開示し、救済への道を示したと云うのが、グノーシス主義の『グノーシス=叡智』の覚知・自覚・認識による救済論の構造です。」

キリスト教的グノーシス主義においては、イエス・キリストもまた、このデーミウルゴスを超える至高神によって「真実の知識」を開示された者であり、救済者であったことにされてしまう。特に、次の文章を注意してご覧になられたい。

「救済を可能とする『グノーシス=知識・叡智』の開示者は、同時に『救済者』でもあり、それはヘレニク・グノーシス主義、特にキリスト教的グノーシス主義では、イエズス・キリストがそれであるとされます。しかし、ヘレニク・グノーシス主義の起源問題において、救済者は、最初、女性的原理或いは霊であったとする見解があります
ソピアーは、救済されるべき『人間の運命』の象徴原型でもあり、『救済される者』ですが、実は、ソピアー自身が、人類の救済者であるとも解釈できます(『救済する者』が、実は同時に『救済される者』であると云う逆説的事態が、グノーシス主義にあっては、救済論における原理として前提されています)。

 また、救済者は、一般に、プレーローマより派遣される高次アイオーンの超霊と考えるべきでしょう。しかし、無論、マニ教では、まさにマニ自身が『真実開示者』で、また、彼に先行する覚者である仏陀、ゾロアスター、イエズスなどの『人間』が救済者であるとされています。
しかし、マニにしても、『パラクレートス(取りなしの聖霊)』の啓示を受けて、『真実』を覚知し、真実の伝道を始めたのです。このことは、人間イエズスの場合にも同様で、イエズスは、ヨルダン川で、バプティスマのヨハネより洗礼を受けた時、天から訪れる、鳩の形の聖霊(ハギオス・パラクレートス)の言葉を聞き、自分が救済者であることを自覚したのです。」

 むろん、正統なクリスチャンから見れば、聖書における聖霊の働きをこのような形で理解するのは荒唐無稽である。イエスがヨルダン川で洗礼を受けた時に、初めて、聖霊によって自分が救済者であるとの自覚が与えられたという記述は聖書にない。しかしながら、このような形での、聖霊の働きの解釈、つまり、人間を真実に覚醒させ、人間をより高次の次元へと導き、本来的な自己の高みへと引き上げる役割を聖霊が持っているという解釈は、どこかで聞いたような話だと思わずにいられない。少なくとも、私は、それが教会成長論において見てきた、十字架なしの「聖霊による人間の新創造」ととてもよく似た話であると感じずにいられないのである。

 グノーシス主義の言う「聖霊」が人間に啓示する「知識」とは何なのか。天から過失によって堕落し、デーミウルゴスの敗北の後で、やがて天に帰還して自ら救済されようと願っているソフィアとは何者なのか。
 グノーシス主義の言う「知識」とは、まさにエデンの園でアダムが手に取った「知識の実」と出所が同じものなのではないのか?との想像を、どうしても私はせずにいられないのである。かなり先を急ぐならば、それはグノーシス主義者が言うような、「無明」からの脱却、「光明化」としての「覚醒」ではなく、光の天使に偽装した者からの誘惑を受け取って、人が神人化する(小さな神になる)ことではないのか?と言わずにいられなくなるのである。
 いずれにせよ、グノーシス主義における知識による覚醒が、十字架なしの救済であることだけは確かである。このことについて詳しい分析は、稿を改めて行うことにしよう。
 

<つづく>