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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

クリスチャンに社会的弱者に対する負い目の意識を植えつけることで、神ではなく世に奉仕させる偽りのキリスト教としてのペンテコステ運動

・クリスチャンに社会的弱者への負い目の意識を植えつけることで、キリスト教を世人の利益に都合よく改造し、神ではなく人類に仕えさせようとする偽りのキリスト教としてのペンテコステ運動の危険
 
さて、これまでの記事において、イゼベルの霊というテーマを用いて、クリスチャンが怨念と被害者意識に支配されて、すべての物事を「加害者・被害者」の対立というフィルターを通して見るようになり、自分自身を被害者とみなすか、もしくは自分を加害者の立場に置いて、罪の意識から絶えざる懺悔と自己批判を繰り広げ、他者への償いを使命として生きるようになることの危険性を見て来た。

すでに見た通り、こうしたトリックは、異端の宗教では普通に用いられており、統一教会においては、信者に罪の意識を植えつけることで、償いとして奉仕活動や献金を促そうとする手法が使われている。しかし、今日、統一教会の脱会者である村上密牧師の主導で、ペンテコステ運動において繰り広げられている、キリスト教会で傷つけられた被害者を「救済する」ためのカルト被害者救済活動も、以上に書いたのと同じ心理的カラクリに基づくものであり、これはキリスト教の中にいながら、キリスト教への加害者意識を捨てられない者が、自らの拭い去れない罪の意識から繰り広げるキリスト教への自己批判であると同時に、罪の償いとしての社会的弱者への懺悔の活動であることを書いた。

だが、これに類似する現象は、ペンテコステ運動の枠組みを超えて、キリスト教界に広く普及しており、ホームレス伝道などの中にも同じ性質を見て取れる。ホームレス伝道に関しては別途、稿を改めて書きたいと考えているが、すでに過去の記事でも触れた通り、解散した学生団体SEALDsの代表者であった奥田愛基氏の父である奥田知志牧師や、マザー・テレサのケースに見るように、生涯を弱者救済活動に捧げる人間には、幼少期もしくは青春時代に何かの事件を通して決定的な罪の意識が心に植えつけられている場合が多く、(奥田牧師は釜ヶ崎で、マザー・テレサはインドのコルカタで、そのような体験をしたものと思われる)、こうした人々はその時に植えつけられた自らの罪の意識を払拭せんがために、残りの生涯を弱者救済事業に捧げざるを得なくなるのである。

このような文脈における弱者救済活動は、弱者救済という美しい響きとは裏腹に、実際には、たとえクリスチャンを名乗っていても、心傷つき、罪悪感に苛まれ、神の救いを見いだせない信者が、自らの心の傷を慰め、自分自身を罪から贖うために行う偽りの自己救済の試みであって、そのようなものは、真の意味での他者への愛や支援にはならない、ということをこれまで書いて来た。奥田牧師の場合にも、同牧師が自分の家庭を半ば置き去りにするような形で、ホームレス伝道にのめりこんでいた影響なども手伝って、息子の愛基氏が幼少期に絶望に至り、学校でのいじめなどを苦にして自殺未遂にまで至っていることが、息子の手記から明らかになっているという。このように、まるでかつての学生運動時代の共産主義の革命家を、キリスト教の社会活動家に置き変えただけのような、家庭をも自分をもかえりみない、痛ましいまでに自己犠牲的で熱血で悲壮な救済事業への取り組みは、決して健全な心理から生まれるものではなく、隣人愛に基づくものでもなく、ただ人間の罪の意識から出て来るものであって、決して誰に対しても正常な結果をももたらさないであろうと言える。

奥田家の場合は、同牧師は家庭に異変が起きても、ホームレス伝道への自らの熱意の裏にある動機の根本的な危険性に気づくことなく、同氏のホームレス救済事業は成功談のように美化され、息子もまた父の事業の根本的な歪みを疑うことなく、父の持っていた罪意識から来る使命感を受け継ぎ、路上デモ支援に身を捧げるなど、親子二代に渡って、類似する道を歩むことになっている。

本当は、このように人の家庭を歪め、子供たちを犠牲にしてまで行われる弱者救済事業は根本的に何かがおかしいのだと気づいて、これを美談として扱うことなく、息子は、この事業に働く怨念と罪の意識の呪縛を見抜いた上で、これと訣別し、いつまでも罪の償いのために生き続ける人生を拒否すべきであったろう。しかし、現実はそうはならず、親子二代に渡って、罪の意識による弱者への自己懺悔の活動が継承された。路上デモ者の苦難に寄り添い、彼らの苦難に自分の苦難を重ね、彼らに手を差し伸べることで自らに手を差し伸べ、路上に人生の活動の場を積極的に見いだす愛基氏の行動は、もともとキリスト教会の信者が繰り広げるホームレス伝道や路傍伝道から福音伝道の要素を抜き去っただけのものであり、そのスタイルはもともとキリスト教会の社会事業、もっと言えば同氏の父の活動に由来する。

本来、牧師という職業は、イエス・キリストが十字架において信じる者の一切の罪を贖われたので、これを信じるなら、もはやその信者が罪の意識に苦しめられて、自分で己が罪の償いを続ける必要はないという聖書の普遍的事実に立って、世の罪を指摘し、世に悔い改めを迫り、世に救いの道を指し示すべき立場にあるはずなのだが、今日のキリスト教は、神の福音だけではどうしても飽き足らなくなって、キリスト教は独善的で冷たいという世からの批判をかわすために、世に譲歩し、世からの承認と賛同を求めずにはいられなくなっている様子である。その歩み寄りが、社会的弱者の救済事業となって表れるのである。

近年、キリスト教においては、『キリスト教の自己批判:明日の福音のために』(上村静著、新教出版社、2013年)などといった著書にも見られるように、社会的弱者への憐れみの欠如した伝統的なキリスト教のあり方を厳しく批判し、これをキリスト教の「独善性」や「排他性」とみなして断罪(クリスチャンの側から自己批判)しながら、キリスト教徒はこれまで自ら無関心に見捨てて来た社会的弱者に対して罪の償いを果たすために行動すべきであると唱える理論がしきりに登場している。社会的弱者のために、という美化された口実があるために、こうした理論の本質的な危険性に気づいて声を上げる人間はほとんど皆無と言って良い状況にある。だが、「明日の福音のために」という、以上に挙げた著書のタイトルにもよく表れているように、こうした理論は、社会的弱者の利益に仕えようとしない排他的で独善的な宗教に未来はないとして、信者自身の告白という形を取りながらも、暗にキリスト教そのものを仮想敵のごとく非難し、変革を迫っているのである。

これまでにも幾度も述べて来たことであるが、このように、キリスト教の内側から出て来る自己批判を装いながら提示される偽りの弱者救済の理論には非常な注意と警戒が必要である。当ブログでは解放神学の危険性を考察することで、こうした偽りの弱者救済理論の持つ危険性を指摘して来たが、このような理論には、「キリスト教は社会的弱者の利益に奉仕するものでなければならない」という大義名分を振りかざして、従来のキリスト教を社会的弱者を排除する「残酷で独善的で排他的な宗教」であったと糾弾し、キリスト教に有罪を宣告し、キリスト教はもっと社会に貢献する寛容で慈愛に満ちた宗教に変革されねばならないと唱え、キリスト教の福音の本質を、巧妙に何か別のもの(すなわち、神の利益に奉仕するものから、人間の利益に奉仕するものへと)すり替えようとする意図がその根底に隠されている。

以上に挙げた『キリスト教の自己批判』においても、解放神学とほぼ同じように、キリスト教の使命を、人間の魂を救うことではなく、信仰を持たない社会的弱者の利益を確保するための社会奉仕活動へとすり替えてしまうよう効果が見て取れる。

こうした理論は、社会的弱者の存在を口実にしつつ、信者が目に見えないパンよりも、目に見える地上のパンを優先して生きるよう促し、キリスト教が人間の魂の救いよりもこの世の物質的な利益を優先して、神ではなく人類の利益に奉仕するものとなるよう、「救済」の概念を巧妙にすり替え、キリスト教の福音を人間の地上的な利益にかなうものへと変質させる効果を持っている。

このように神とこの世の地位を逆転させ、目に見えない霊的な糧とこの世の物質的な糧との優先順位を置き換える転倒した思想を普及させるために、偽りの弱者救済の理論は、「キリスト教はこれまで社会的弱者を十分にかえりみて来なかった」と言ってはクリスチャンを責め、クリスチャンに罪悪感を植えつけることで、世から贖い出された信者たちを、再び、この世の奴隷とし、人類の利益に奉仕する存在へと変えようとするのである。

一旦、このトリックにはまって、罪の意識を持ってしまえば、その信者は良心を汚されてしまい、もはや神の目に清められた者として自信を持って立つことはできなくなる。たとえかつてはキリストの十字架の贖いを信じて罪赦されたという自覚を持っていたとしても、再び、罪の意識の奴隷となれば、その負い目ある限り、その信者はずっと罪の奴隷、この世の奴隷として束縛された状態に置かれ、自ら「被害者」を名乗る人間(世)の意のままに動かされることになる。

聖書には、人間の罪を表すものとして「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書」(コロサイ2:14)という言葉が用いられているが、罪悪感とは、霊的な文脈における貸し借りの関係であり、もしもある人が罪のために負い目の意識を持つならば、その人は霊的な負債を負っているのであり、たとえその負い目を発生させる源となった出来事がどんなに遠い過去であって、仮に当事者がすでに亡くなっているなどして、誰一人それを記憶している者がなかったとしても、本人さえもその出来事を忘れていたとしても、その霊的な負債が完済されて、貸し借りの関係が一切解消されていない限り、その人はいつまでも罪による束縛の下に置かれ続けることになる。

罪意識は、それがキリストの贖いによって解消されない限り、人が悪魔に脅され、この世の支配下に屈する最大の根拠とされるものである。これは悪魔が人を脅し、ゆすり、支配するための格好の材料である。統一教会を含む、いかがわしい各種の宗教では、不幸な事件に遭遇した人に対して、「あなたは十分に先祖供養しなかったために、先祖の祟りとしてこのような災いがふりかかったのだ」などと言って、人を脅し、その「罪」を解消するために高価な壺などを買わせようとする手法が知られているが、そこでは、人に罪悪感を植えつけることで、これを植えつけた人間がその相手を思い通りに支配するという心理的トリックが利用されているのである。

そこで、「キリスト教は社会的弱者を容赦なく見捨てて、自分たちだけで神の救いを独占して来た排他的で独善的な宗教であるから、キリスト教は自らの排他性を罪として悔いて、もっと世に役立つ寛容で慈愛に満ちた福音となって、社会的弱者の利益にも積極的に貢献するようつとめるべきだ」などといった主張も、実のところ、上記の「先祖の祟り」による脅しとさほど変わらない心理的トリックに貫かれていることを見抜かなければならない。

そこではただ「被害者」の仮面をつけて登場しているのが「先祖」なのか、それとも「社会的弱者」なのか、という違いがあるだけで、その他の事項はほとんど基本的に変わらない。結局、そこでは、クリスチャンに対して、何かの行動が不足していたと言っては、真の被害者とは到底言いがたい第三者が巧妙に「被害者」の仮面をつけて登場し、クリスチャンを罪に定め、罪悪感を持たせることで、信者が己が罪を償うためには、「自称被害者」の希望に従って、彼らの注文通りに行動することで、自らの行動を改めるしかないのだと思い込ませるのである。

こうした考えの偽りを見抜けず、そこでしかけられた心理的な罠にはまってしまうと、クリスチャンはとがめのない良心を失って、自分を「加害者」とみなすようになり、「キリスト教や教会やクリスチャンに見捨てられた被害者」を名乗り出る人々に全く頭が上がらなくなり、彼らに対して終わりなき罪の償いを果たさなくてはならなくなる。実際には、ただあらぬ罪の意識を植えつけられ、世から言いがかりをつけられ、その因縁のために脅され、ゆすられ、たかられ、自分の人生を自由に生きられなくなっているだけにも関わらず、「弱者救済」の美名がついているがために、懺悔活動にいそしんでいる人々は、自分は社会に役立つとても良い事業を行っているのであって、まさか信仰を持たない人の背後に働く悪霊に都合よく脅されて彼らの利益の操り人形になっているのではないと思い込んでいるのである。

だが、本来ならば、世から罪定めを受けるどころか、世に罪を告げ知らせ、世に悔い改めを迫り、世の利益のためでなく、神と御国の利益のために働くべき牧師や信者たちが、このようなトリックにまんまとはまって、神を知らない不信者に自分の罪意識を解消してもらおうと、彼らのもとを訪れてはその注文を聞き、こうして世人への罪の償いに努力している様子は、まさに皮肉としか言いようがない。

筆者は、ホームレス伝道にいそしむ奥田牧師や、カルト被害者救済活動に携わる村上密牧師は、以上のように、隣人愛ではなく、罪悪感から弱者救済に突き動かされている人々であると考えている。こうした人々は、自分自身の抱える心の闇(罪の意識や、絶望や、空虚感)を埋めるために、自分と同じような、あるいは自分よりももっと「可哀想な人々」を見つけて来ては、彼らを支援することで、自己の空虚な心を慰め、かつ、自分自身の心の抱える怒りのはけ口を、何らかの救済事業(という名目での抵抗運動)に求めずにいられないのである。

筆者は、クリスチャンが社会的弱者に対して憐れみのない行動を取るべきだと言いたいわけではなく、また、真に困っている人に対して物質的支援が一切、無駄だと言うわけでもない。だが、ここで提起しているのはそれよりももっと深い問題なのである。 

ここで問題となっているのは、「加害者・被害者」という対立構造を持ち出して、クリスチャンであるにも関わらず、罪悪感から、見捨てられた弱者・被害者の救済にいそしむ人々は、人間の罪を指摘し、また人間の罪を赦すことができる存在とは誰かという問いへの答えを、巧妙に捻じ曲げ、はき違えており、そうした人々の思考においては、信仰を持たない者が、社会的弱者という立場に名を借りて(もしくは社会的弱者の存在を巧妙に口実として利用して)、キリスト教とクリスチャンに対して「神」のごとく君臨してこの宗教全体を罪に定め、信者であるはずの人々が、それに反論するどころか、信仰を持たない彼らの言い分を全面的に認めて、自ら言いなりになってその要求に従うことを肯定している異常さである。

そのようにして、信仰を持たないこの世の不信者が、自らの利害に基づいてキリスト教を断罪し、この宗教の足りないところを数え上げて、罪に定めるなど全く恐ろしいことであり、さらに、そのような理不尽な言い分を大真面目に聞いて心に罪悪感を植えつけられた一部のクリスチャン(?)たちが、自分は神に贖われたという清い良心と御子の贖いの完全性を信じる信仰を失って、世人の言いなりとなって、自ら加害者の立場に立って、世の不信者に懺悔し、彼らの利益に仕える道具となって、キリスト教の第一義的使命が、神に仕えることでなく、世に対する奉仕活動にあるかのようにみなしていることは、大変、恐ろしい事実である。

もしもこのような転倒した理屈が成立するならば、クリスチャンは、キリスト教に何らかの被害者意識を持つ者たちが現れれば、簡単にその言いなりになって、彼らの気のすむまで脅され、ゆすられ、たかられ、賠償を要求されるであろう。こうして、キリスト教全体が不信者の利益のために都合よく書き変えられ、全く別の宗教に変質することであろう。このような理屈は、「見捨てられた社会的弱者」を口実にして、キリスト教を脅して思うがままに従わせたい人々の欲望を正当化しているだけである。こうした理論は、キリスト教に恨みを持つ者たちにとってはまさに好都合であり、そこから皇帝ネロの犯したキリスト教徒への迫害と殺戮の罪までの距離はわずかに数歩程度でしかない。

世人はいつの時代も、ネロのような大規模迫害を用いなくとも、常に自ら神となってキリスト教に君臨したいと願っており、そのためにキリスト教の福音を骨抜きにして、この宗教全体を世の利益に仕える道具へ変えて行こうと狙っている。このような不信者の思惑にクリスチャンが自ら迎合し、この世の人間の非難に屈して、地上的・物質的支援(目に見えるパン)を神の福音(見えないパン)と対等かそれ以上の位置に掲げる時、キリスト教の福音は完全に骨抜きにされ、存在意義を失うのである。そうなると、これはもはや塩気を失った塩として捨てられ、踏みつけられるだけである。

さて、ペンテコステ運動に話を戻せば、自ら抱える拭い難い罪の意識の償いとして弱者救済事業にいそしむ牧師たちの活動の一環として、アーサー・ホーランドや元ヤクザの牧師(ミッション・バラバ)による世界各国での十字架行進なども挙げられるだろう。この十字架行進は、公式ページの記載によると、1992年に始まり、ごく最近まで、長年に渡り、世界各国で続けられて来たようであるが、イエス・キリストがすでに負われたはずの十字架を、人間に過ぎない者が再び背負って歩こうとするこの活動は、福音伝道の観点からは全く意味をなさない二番煎じであるばかりか、霊的には有害でさえあると筆者はみなしている。

確かに、奇抜な格好をした牧師が、十字架を背負って各国を巡り歩く姿は、人目を引くであろうし、そのパフォーマンスを見て、これをクリスチャンの巡礼の一種ととらえ、信者の謙遜さや世に対する愛の表れであるかのように誤解して、感動し、涙を流すような人間も、ひょっとすると、いるにはいるのかも知れない。しかし、たとえそうであったとしても、人が十字架を背負って歩くという行為は、クリスチャンならば誰もが知っているように、霊的には罪を負った人間が世のさらし者となりながら己が罪を悔いつつ死へ向かって行進することを意味するだけであるから、信者にふさわしい行動とは言えない。それは罪人が自ら犯した罪のゆえに、恥辱を負って、衆目に晒され、罵倒されながら、自らの罪にふさわしい罰を受けるために刑場へ引かれて行く惨めな姿そのものである。

一体、なぜキリストの贖いを信じて受け入れ、罪赦されたはずの人間が、このような行為をせねばならないのか? それが意味するところは何なのであろうか? 十字架が価値ある貴いものとなるのは、罪を犯したことのない聖なる神の御子キリストが、人類の身代わりに罪無くして十字架において罰せられることによって人類のために贖いとなられたという霊的な文脈においてのみであり、それ以外のケースで、罪ある人間が自ら十字架を背負って歩くことには、ただ単に人類の自業自得の罪を表す以外の意味はない。もっと言うならば、キリストの十字架の贖いを受け入れたはずのクリスチャンが、キリストがされたのと同じように、自ら十字架を背負って歩くことは、その信者がキリストの贖いを内心では否定しており、これを退けて、再び、自分で自分の罪を贖うために終わりなき苦行に励んでいるのと同じ無益で無謀な行為を象徴的に意味する。信者にそのような行動をさせるのは、キリストの御霊ではなく、反キリストの霊だと言われてもおかしくない。

聖書には、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:38)という主イエスの御言葉があるが、これは信者が信仰ゆえに自らの生活において負わなければならない目に見えない様々な代償(自己の死、霊的な試練等々)を意味するのであって、信者が文字通り、目に見える十字架を肩に担いで世界各国を巡礼せよという命令を意味するのではない。さらに、信者が十字架を負って従うべき対象も、目に見えない主イエス・キリストのみであって、世人の目に認められるためのパフォーマンスとして十字架を負えという意味ではない。

アーサー・ホーランドの十字架行進は、この牧師自身がキリストの贖いを自ら退けていることを物語っているにも等しい。こうした活動は、世に対するパフォーマンス以上の効果はなく、その必然性がどこにあるのかも不明であるが、これをクリスチャンになっても罪の意識を捨てられない牧師や信者たちが、自らの負い目の意識から繰り広げる世に対する自主的な罪の告白と償いという文脈でとらえるならば、初めてその意味が明白になる。

アーサー・ホーランドが、牧師になった後でも、根本的に罪赦されたという実感を持てないでいるであろうことは、同氏が創設した元ヤクザの牧師の伝道団体である「ミッション・バラバ」の命名にもよく表れている。

一般に、クリスチャンが、聖書において自分自身をどの人物に同形化するのかは、極めて重要な問題であるが、ミッション・バラバのメンバーの牧師たちは、ゴルゴタに立てられた三本の十字架のどれにも自分を同形化せず、むしろ、キリストの代わりに無罪放免されて十字架刑を完全に免れた殺人者バラバに自分を同形化したのである。

筆者が覚えている限り、ミッション・バラバの命名の根拠については「十字架を免れたバラバも結局は、その後、自分の代わりに十字架に処せられたキリストの死に衝撃を受け、自らの罪を悔い改めてクリスチャンになったのではないか」などという楽観的な推測が用いられていたような気がするが、いずれにしても、そんな話は聖書にはない。

だから、バラバは決して悔い改めた罪人の代名詞ではないのである。この命名には、ひょっとすると「バラバが赦されたことは、キリストに対して申し訳ないことであった」という思いが込められていたのかも知れない。バラバに代表されるような、「恥辱と死の苦痛を免れたいばかりに、罪なきキリストを身がわりに十字架につけてまで、自分自身を無罪放免した卑怯で身勝手で頑なな加害者」としての人類の側から、「人類の横暴のために罪なくして殺された被害者であるキリストへの懺悔」としての意味合いが込められていたのかも知れない。

だが、もしそのような考えが根本にあるとすれば、それは一見、神に対する罪の悔い改めのように見えるかも知れないが、実際には、そこにあるのは、甚だ不遜な考えである。なぜなら、人類が神を人類の「被害者」であるかのように考えて、神に対して同情するほどまでに不遜な考えはないからである。人間に過ぎない者が、神を自分たちの悪行の「犠牲者」とみなして、自ら神に同情することによって、神の霊をなだめ、慰めようとするのは、傲慢以外の何物でもない。聖書をきちんと読めば、キリストは人類の罪の「被害者」として十字架にかかられたわけでなく、人類の凶暴さという意味では、そのような側面が確かに一面では見受けられはするものの、同時に、この十字架にはそれよりも深遠な神のご計画があり、キリストの十字架は、人類の贖いのために神の側から愛によって自主的に差し出された犠牲であり、人類はそれを自分自身の罪の贖いとして感謝して受けとるべきであって、自分とは無関係のものとして涙を流して同情すべき対象ではないことが分かる。

にも関わらず、もし誰かがキリストに「同情する」ならば、その人は、御子の十字架を自分のものとして受け取っていないのである。なぜなら、自分は運よく罰を免れたが、他人は不器用のせいかあるいは不運のせいでそれを免れられなかったと考えている人だけが、自分と違っていわれなく重い刑罰に処せられた誰かに同情することができるからである。もし信者が本当に自分自身の罪を認め、キリストの十字架を自分の罪に対する身代わりの刑罰として受け取っているならば、キリストの受けられた刑罰は、信者が当然受けるべき罰であるから、信者はこれを「不当なもの」として受け止めることはできない。彼はキリストを通して贖いが達成されたことを喜び、感謝し、御子の犠牲を賛美しこそすれ、キリストを人類の罪の被害者のようにみなして「同情」することは決してないであろう。たとえ約二千年前にゴルゴタの丘で死んだのが信者の肉体でなく、信者自身はキリストと同じ苦痛を寸分たりとも味わっていないとしても、信仰を通じて、霊的にその信者は確かにキリストと一体となって、永遠に十字架において罰せられたのである。キリストの受けた刑罰は、信者自身に下された刑罰であり、そこでは信者の信仰を通して、キリストが信者と一つになっていればこそ、キリストの贖いがその信者に対して生きて効力を発し、キリストと共に霊的に死んだ信者は、キリストと共に復活し、贖われた者として新しく生きるのである。

だが、ミッション・バラバという名を見る限り、アーサー・ホーランドを始めとして、そのメンバーは、キリストの十字架の贖いを自分自身の罪に対する贖いとして受け取っていなかった可能性が極めて高いように見受けられる。彼らは、ゴルゴタに立てられた三本の十字架のうち、ただキリストの十字架に自分を同形化しなかったのみならず、死の直前でキリストに向かって罪を悔い改めて、彼をメシアと認め、救われて御国に受け入れられた罪人にも自分をなぞらえなかった。むしろ、十字架刑を完全に免れて、ゴルゴタに立つこともなかったバラバに自分をなぞらえることで、キリストの十字架と自分自身を無縁としたのである。これは極めて暗示的である。

どんなに表向きクリスチャンを名乗っていても、内心ではキリストの十字架の贖いの霊的意義を自分自身に適用していないからこそ、彼らはバラバと同じ立場に立って、不当に十字架を免れた罪により、未だに神(と人類)に赦免を求めて懺悔と償いを続けねばならなくなっているのではあるまいか。そのようにして、自分自身を神の贖いと無縁の者として切り離しているからこそ、彼らは元ヤクザとか、元不良といった過去の負のレッテルを捨てることもできず、この恥ずべきレッテルを貴重なものであるかのように、社会的弱者の証としてかえって売り文句にしながら、神の贖いを退けた人間が、自分自身で背負わねばならない負いきれない刑罰の象徴としての十字架行進などといった活動にいそしんでいるのではないか。それは牧師でありながら、彼らの内心では罪の意識が全く内側で払拭されていないことの証拠である。

アーサー・ホーランドは十字架行進の開始以前から、元不良や元ヤクザの信者仲間と共に、路傍伝道にも精力的に乗り出していたが、このように、世人に対して、特に、世人の中でもとりわけ社会的弱者を対象に、神の愛と憐れみを積極的に説きながらも、同時に、自分自身には罪赦された自覚がなく、内心で深い絶望感を抱えながら、弱者救済という名目で、自らの罪の償いに従事する様子は、奥田牧師や、マザー・テレサ等と共通しているように見受けられる。

マザー・テレサの場合もそうであるが、信仰を持たない世の方を向いて、打ち捨てられた不信者に寄り添い、愛を示すことで、世に愛想を示そうとする活動から見えて来るのは、彼らがその不信者に自分自身を同形化し、彼らの苦しみの中に、自分自身の内心の苦悩を重ね、彼らの中に、自分自身の絶望感を投影することで、自分自身を救おうとし、彼らを「神」とすることで、自分自身を「神」として拝んでいるという事実である。

結局、そこでは、信者の信仰生活を評価するのが、見えない神ではなく、世の人々であるかのように置き換えられ、「社会的弱者」や「被害者」などといった世の人々が、クリスチャンに対して「神」になってしまっており、牧師や信者が、聖書の御言葉に基づき、世を罪に定め、悔い改めを迫るどころか、世に向かって「あなたは神に愛されている」などと語って世の罪を積極的に覆い隠し、世に媚びて、世の利益の代弁者となり、そうしてキリスト教の使命を、人間に奉仕し、人間の欲望をかなえるための社会活動へとすり変えているのである。

このように世に迎合した行動を取るのは、決まって、何かの罪悪感を心に抱え、自分の魂を世に質に取られ、神の救いを拒んでいる人間だけである。「犯罪者は(繰り返し)現場に戻る」という言い回しに表れているように、彼らは自らの心に負い目があり、罪によって自分の魂を世につながれ、担保に取られていればこそ、世という現場に縛りつけられ、繰り返し、そこへ戻らざるを得ないのである。彼らは神を見失っていればこそ、信仰を持たない世人を肯定することで、自分自身を肯定し、世の不信者を美化することで、自分自身を美化し、不信者を「神」のごとく高く掲げることによって、自分自身を崇拝しているのである。

しかし、クリスチャンとは、世から贖い出された者であり、信者はもはや自分自身や、世の栄光のために生きているのではなく、神の栄光のために生きている人々である。信者は罪のゆえに悪魔の奴隷として死の恐怖に脅かされながら、この世の支配下に置かれている者ではないので、世人の利益に媚びて、彼らの言いなりになる必要もない。クリスチャンを無罪放免するのは、世人ではなく、世の社会的弱者でもなく、神お一人だけである。

「義人は信仰によって生きる」と聖書にある通り、信者がどんなに立派な人間性を誇り、熱心な社会奉仕活動を誇ってみたところで、それはマルチン・ルターが登るのをあきらめたピラトの階段を信者が自らの膝で這い上ることと同じであり、それらの行為によって、信者が己が罪を自ら贖い、神の目に義とされることは永久にない。そうした行為によって、人が自らを義としようとすることは、みな人類による自己懺悔、終わりなきむなしい自己救済の試みでしかなく、どんなに社会的弱者に罪の償いを続けても、彼らは罪を告白すべき相手を完全に間違えている以上、人がその行為によって罪赦される日は永久に来ないのである。

聖書の神が、昨日も今日も、永遠に変わらないお方であるように、聖書の福音は時代を通じて一つであり、福音の本質は、過去も未来も永遠に変わらない。キリスト教の福音の本質は、時代のニーズの変化や、人間の思惑によって左右されるものではない。だから、欺かれてはならない、昨日や今日とは全く異なる「明日の福音」なるものは決して存在しない。もしそのようなものがあるとすれば、それは偽りの福音だけである。

福音が一つである以上、人間が罪から解放されて、自由になりたければ、そのために通るべき道もただ一つしかない。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」(Ⅰコリント7:23)聖書にこのようにある通り、キリストの贖いを通して、世から贖い出された信者が、その自由を失わないでいるためには、信者がただ神にのみ従い、再び世の(人の)思惑に屈して、世の(人の)奴隷とならないことが必要である。

世に真理はなく、正義も、真実もない。加害者であろうと、被害者であろうと、弱者であろうと、マイノリティであろうと、御子の贖いの下にいない者は、全て罪人でしかなく、人間の罪を赦す権限は世にはなく、神にしかない。それにも関わらず、信者が、世のために、弱者のためにという美名に欺かれて、世の顔色を伺い、世の軍門に下るならば、世は自らの前に跪き、その支配に下る人間を徹底的に騙し、盗み、滅ぼすだけであろう。「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:3)

このように、
信仰を持たず、神を敬わず、神に従うこともない世に媚びて、世の悔い改めない不信者に対して「あなたは神に愛されている」などと言っては世の罪を無罪放免し、すすんで世の利益の代弁者になろうとする人々は、今日も自分自身を神の敵として、「この人を除け。バラバを釈放しろ。」(ルカ23:18)と叫んでいるのである。だからこそ、そのような人々は決して世を罪に定めようとはしない代わりに、キリスト教を「独善的で排他的な宗教」だと言って罪に定め、クリスチャンに有罪を宣告し、罪の償いを求める。それは結局、彼らが神を罪に定め、敵に回しているのと同じことである。そういうことをしておきながら、同時に「キリストが無罪であるにも関わらず十字架にかけられたのは申し訳ないことであった」などと言って、神のために同情の涙を流し、神を犠牲者に見立てて見当外れな懺悔の活動にいそしむのである。

バラバとは、「都に起こった暴動と人殺しのかどで牢にはいっていた者」(ルカ23:19)であり、一説によれば、革命家だったとも言われる。虐げられた民衆の不満を手っ取り早く解消するために、都の秩序転覆を企てて暴動を起こし、悪代官のように見える役人を何人も殺害したりしていたのかも知れない。そんな荒くれ者の男の方が、キリストに比べ、民衆には親しみやすく、身近に思えたのである。それは、バラバが民衆の利益、つまり、弱者の救済を口実にこれらの犯罪を行ったからであろう。バラバの名前の由来も、息子を意味する「バル」と父を意味する「アバス」から成っているというが、それも偶然ではなかろう。問題は、彼の父は誰なのかということである。ピラトの前には二人の男が立っている。一人は聖なる神の独り子なるキリストであり、もう一人は罪深い人類から生まれたバラバである。当然ながら、キリストを罪に定めることによって無罪とされたバラバは人類を代表しているのであり、その父については、次の御言葉が当てはまる。

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときには、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)

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「イゼベルの霊」が生み出すマザコンと、父なる神に反逆する母子が神の家の後継者を詐称して、家の乗っ取りをたくらむペンテコステ運動の危険

・安倍晋三に見る「イゼベルの霊」による支配の危険――母が子に怨念と被害者意識を吹き込むことで生まれる歪んだマザー・コンプレックス
 
さて、ペンテコステ運動の弊害については、以下でも話をつづけるが、この項目では、「抑圧的に支配する異常な母の霊」であるイゼベルの霊が、人の人格をどれほど異常に歪め、人生を狂わせるものであるか、その破壊的影響について、安倍晋三という人物を例に取って考えてみたい。

我が国の現在の首相である安倍晋三が、統一教会と密接な関係にあることは、インターネットでは常識である。さらに、それだけでなく、同氏が相当に深刻な「マザー・コンプレックス」であることも、一般によく知られている。

ちなみに、マザー・コンプレックスという言葉は、心理学用語ではなく、学術的に病理現象として定義されているわけではないようだが、それでも、この語が一般に広く使用されて定着している様子にも見るように、これは日本社会にあまりにも広く蔓延している心の病の一種であると筆者は考えている。

マザー・コンプレックスとは、母親の抱える不安や、孤独、心の傷、被害者意識などが、子に強く投影された結果、それが子供の心の傷となって引き起こされる現象であると筆者はみなしている。

欧米社会では、比較的裕福な家庭の子供などは特に、早くから学校の寄宿舎へ入れられるなどして、親元を離れ、親とは別個の自立した人格としての自覚と責任感を持つよう促される。いつまでも親にべったりな状態が良いものとはみなされておらず、親に依存的な子供は、一人前でないとみなされ、他の子供たちからも嘲笑や侮蔑の対象になることもある。

こうして早くから子供の親離れと自立を促す習慣は、個人を重視するキリスト教的世界観とも無縁ではないであろう。なぜなら、聖書に「その父母を離れ」(創世記2:24)とあるように、キリスト教的世界観においては、人の人生の歩みは、生まれ落ちた家庭から自立して、親の意志とは独立した一個の人格として、自主的に自己決定を下せる状態になることを一人前とみなしているからである。

しかし、東洋諸国においては、集団と個人との概念の切り分けがなく、子をいつまでも親の付属物のように考えたり、社員を企業の所有物のようにみなし、個人をその帰属する団体の所有のごとく考える風潮が根強い。我が国では、家庭においても、子供を健全に成長させるためには、親からの適度な分離が必要であり、子は親だけでなく社会全体で育てるものだという意識が普及していない。

このような社会では、子供は親とは別個の自立した人格であるという意識が非常に薄く、子供を健全に成長させる全責任が、ひたすら親にあるかのようにみなされ、子が成人後に犯罪を犯しても、その責任が親にあるかのようにみなされ、親がバッシングされたりすることも珍しくない。あるいは、親の方でも、子が成人してもなお、子供を自分の付属物のようにみなし、子供の人生を思い通りに支配しようとすることもある。

こうしたことは、まさに東洋的世界観が反映して起きて来る現象であると考えられる。なぜなら、東洋的世界観にはそもそも神と人との断絶という概念がなく、目に見える宇宙と個人とは一体で切り離せないものとみなされ、それが転じて、組織や集団と個人との切り分けも否定され、全世界が一体であるかのようにみなされているためである。

さて、子供への過剰で歪んだ支配は、父親も、母親同様に行う可能性があるが、母から子への抑圧的な支配は、父親の場合と比べて、非常に巧妙で分かりにくい性質を持っている。

父親の子供へのコントロールは、一方的な命令という形で表れることが多い。そこで、もし父親が子供の意志を無視して、一方的な命令を下せば、それは子供の側からの大きな反発を呼び起こし、家庭において、激しい衝突や軋轢を生む可能性がある。それに引き換え、母から子への過剰なコントロールは、父のように強権的で抑圧的な命令という形を取らず、むしろ、一見、子供への「同情」や「愛情」、「思いやり」、「優しさ」といった形をを装って行われることが多い。そこで、それが過剰な支配であり、抑圧であることが、はた目には分かりにくく、当の子供自身にとっても、それが母による自分の人格への侵入であり、人生への不当な介入であることが分かりづらい。

しかも、子供を自分の欲望の道具として支配する母親は、子供が母の本当の動機を決して疑うことができないように、それを子供への同情や愛情という形でカモフラージュするだけでなく、しばしば、自分を夫の被害者と見せかけることで、子供の心に父に対する嫌悪感を植えつけ、自分への同情を呼び起こし、母子の距離を縮めて行くことが多い。

こうした異常な母親は、家庭において自分が抱える孤独や、不安、被害者意識を巧みに子供に吹き込み、父を巧妙に悪者にすることによって、自分には悪意がないかのように装い、子供が自分だけの味方となって、自分に同情するよう仕向ける。「まず母に元気になってもらわないことには、自分の幸せもないのだ」と子供に思わせることで、子供を母親である自分と運命共同体にしてしまい、同じ被害者意識によって結ばれるよう仕向けるのである。

早い話が、それは母親による子供へのマインドコントロールなのであるが、「自分たちは脅かされている被害者だ」という同じ意識を共有することで、母子の境界線が失われる。子は、母の不安を自分自身の思いのように継承しながら、母の利益の代弁者となって、母の観点に立ってのみ全ての物事を見、母の不安を解消することだけを人生の第一義的な使命として生きるようになる。
 
こうして、母と子が被害者意識によって精神的に癒着し、一体となって離れられなくなり、子が母の重荷を自分の重荷として背負い、成人してもなお、母から承認を受け、母を守る盾となって、母を喜ばせ、母の抱える不安や孤独や被害者意識を解消するために生き、独立した一人の人格としてのプライドと境界線を失った状態が、いわゆるマザー・コンプレックスである。このような異常な母親による支配は、被害者意識による連帯があるだけに、子供にとって見抜き難く、抵抗しがたい性質を持つ。

さて、安倍晋三に話題を戻せば、安倍氏の母親(洋子)は、「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介の長女として生まれた。現在ではゴッド・マザーなどとも呼ばれる彼女は、未だに息子である安倍氏の精神に絶大な影響を及ぼしており、内閣改造にまで介入しているとも言われる。安倍氏が官邸になかなか住もうとしないのも、母親から離れられないためなのだと世間では囁かれていた。

この洋子という女性は、あらゆる事実に鑑みて、父親である岸信介の思いを誰よりも強く受け継いで育ったものと思われる。父がA級戦犯としての「汚名」を着せられ、死刑に処されるかという瀬戸際まで追い込まれ、そのために家名が汚されたことへの「無念」や「屈辱感」や「被害者意識」を、この女性は強く我が事として感じ、それゆえ、岸信介に下された歴史の「不当な」審判を覆して、父を「名誉回復」することで、家の名誉を回復し、一家を復興したいという願いを誰よりも強く持って生きて来たものと考えられる。つまり、彼女は「家が脅かされている」という被害者意識を人一倍持って成長して来たのである。

LITERA掲載の記事「母親に弟より愛されたい! 安倍首相の岸信介、改憲への拘りは「マザコン」の現れ!?」(2015.04.01.)によると、洋子氏は「岸家の復興」という悲願を、まず最初に、岸家に養子に出した自分の三男に託そうとしたようである。だが、すでに岸家の人間ではなくなっていた彼女が、家を飛び越えて子供の将来を操るという計画は周囲からも不評を買い、結局、彼女はその悲願を、晋三に託さざるを得なくなった。

こうしたことから、この洋子という女性は、自分の父がこうむった恥から来る怨念と被害者意識を、息子を通して解消しようと考えていたことが分かる。彼女はすでに岸家を出ていたにも関わらず、岸家の人間としての意識を捨てられず、息子が彼女に代わって、先祖の無念を晴らし、家の潔白を主張して、彼女の生家の名誉を回復する道具となってくれることを望み、そのようにして息子を自分の欲望をかなえる道具としようとしたのである。

上記の記事などから判断するに、安倍晋三は、母のマインド・コントロールをまともに受けて成長し、母に認められたいという願望のゆえに、母の怨念と被害者意識と一体化し、それゆえ、A級戦犯とされた岸信介を誰よりも尊敬し、亡き祖父と母の思いを代弁して、先祖の「名誉回復」をはかることを悲願として生き、そのために、祖父が持っていたイデオロギーに自分も身を投じた。

こうして、安倍晋三は首相の座にあるうちに、何とかして「自虐史観」を廃して、自分たちにとって不名誉な歴史はすべて修正し、憲法を改正し、かつての「皇国」として大日本帝国が持っていた「栄光」(むろん、そんなものは存在しないのだが)を「復活」させることにより、自分たちのルーツを正当化し、栄光の高みに押し上げることを、生涯の目的のようにみなすようになったものと見られる(それが「日本を取り戻す」という同氏のスローガンの意味である)。

こうして、安倍氏は、怨念と被害者意識というへその緒で母と強固に結ばれたまま、成人してもなお、母とは別の人間である自分自身の人生を生きることができず、先祖と母の思いを代弁して無念を晴らすことだけが全生涯の目的となってしまったのである。

本来ならば、安倍氏は岸家の人間ではないので、岸信介の「無念」を継承しなければならない理由もないはずであるが、母の存在を通して、彼の負い目の意識、被害者意識を強烈に心に植えつけられ、その呪縛から抜け出ることができなくなってしまったのである。

祖先が下された審判のゆえに、負い目が心に深く刻まれていればこそ、その怨念と屈辱を跳ね返すために、自分たちは無実であると主張しないわけにいかないのである。つまり、自分たちの家に下された歴史の審判は、ただ戦勝国という強者によって押しつけられただけの不当判決であると主張して、これを覆すことによって、先祖の無念を晴らし、負のくびきを払い落として、栄光を取り戻したいと願わずにいられないのである。それはすべて罪の意識を払拭したいという願望から来ていることである。

そのように、安倍氏が母から受け継いで個人的に抱える怨念、被害者意識、復讐心が、我が国において、敗戦を未だに受け入れられない歴史修正主義者やナショナリストやネトウヨのような人々の負の感情と響き合って、我が国に集団的な被害者意識に基づくナショナリズムを生んでいるのである。

このように、安倍晋三という人間は、母(先祖)の被害者意識に人生を乗っ取られ、これを払いのけることだけを目的に生きているも同然であり、その姿はまさに、当ブログで述べて来たグノーシス主義・東洋思想における「脅かされている母を守る子」の姿に重なる。

そこには、ただ「脅かされている母を守る」という姿勢があるだけでなく、「聖書の神が人類に下した罪と死の(不当)判決から逃れたい」という願望が透けて見える。

幾度も述べたように、悪魔は、神によって自分に下された罪定めと永遠の滅びの判決から何とかして逃れて自分を無罪放免したいと願っており、そこで、自分を「神の被害者」であると考え、自分ではなく神を「有罪」として告発することで、神の判決に逆らい続けて生きている。そして、神を知らず、悪魔の支配下にある生まれながらの人類(罪人)を手下とし、自分と同様の負い目の意識を負わせ、自分への有罪宣告から逃れるために神に敵対するよう仕向けているのである。

岸信介を「名誉回復」して、「大日本帝国の栄光」を取り戻すことで、歴史を修正し、自分たちにかけられた汚名を返上して、再び、栄光の高みに上ろうという、以上のような安倍家の人々の考え方は、その魂の深い次元では、まさに悪魔の抱える神に対する怨念と被害者意識と、秩序転覆の願望へと重なって行く。

だから、以上に挙げた例は、決して、先祖がA級戦犯にされたという特殊な事情を抱える一家に限定された話ではなく、その背後には、聖書の父なる神に反逆するグノーシス主義的な母性による「神を押しのけて自分を神としたい」という普遍的な対立が見えるのである。

この母子が逆らっているのは、東京裁判を含めたあれやこれやの不都合な歴史的事実ではない。彼らは歴史的判決を受け入れないことによって、より深い次元では、結局、神がキリストの十字架において人類に下された有罪宣告そのものに逆らって、人間の生まれながらの自己を無罪放免し、自らを神としようと狙っているのである。


・「父」に歯向かう「母」と、「母」の過失をかばう「父なし子」が、勝手に神の家の後継者を詐称して、神の家を乗っ取ろうとする詐欺としてのグノーシス主義

グノーシス主義とは「家が脅かされている」という「母」の被害者意識を土台に成立する「母子家庭の母と父なし子の悲劇の物語」である。なぜ悲劇なのかと言えば、彼らの「脅かされている」という被害者意識は、彼ら自身が犯した罪から来るものであって、ゆえなきことではなく、にも関わらず、己が罪を認めようとしないこの「母子」が「父の家」へ平和に復帰することは絶対にあり得ないからである。

ここで「父なし子」と筆者は述べたが、それが何を意味するのかを、グノーシス主義の構造に照らし合わせて、もう一度振り返っておきたい。

グノーシス主義神話においては、自ら神の創造の秘訣を盗み、神のようになりたいと願った最下位の女性人格(ソフィア)が、どのような方法でかは分からないが、神に反逆して単独で子を生むに至った。そして、この「母」が、自分が生んだ子や子孫(人類)と一緒になって、自分たちこそ神の正統な後継者であると主張し、そうして「子」が「母」の犯した過ちを修正することが、この思想においては、人類の生きる最高の目的とされている。

ここで、単独で子を生むに至った女性人格が、「ソフィア(知恵)」という名で呼ばれているのも偶然ではない。聖書的観点から見れば、この「知恵」は、神に逆らう偽りの知恵を指す。その「知恵」とは、聖書の創世記において、堕落した悪魔が、自分と同じように神に反逆するよう人類をそそのかす際に使った「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)という端的に言葉に表れている。つまり、「知恵を受ければ、誰もが神のようになれる。それによって神を乗り越え、神以上の存在となりなさい」という悪魔の誘惑を指す。

グノーシス主義においては、「神のようになるために知恵を手にしたい」と願ったソフィアの欲望が罰せられることなく、それどころか、この「母」の欲望を正当化し、「母の過ちを修正する」ことこそが、「子」たる人類の使命とされる。

母の過ちを修正するとは、子が母の過ちをかばい、その過ちによって生まれた自分自身のルーツをも正当化し、自分たちは神の後継者として、神の家に正式に迎え入れる資格があると名乗り出て、神の家の一員となり、自ら神となることを意味し、そうして自力で神に回帰することが、人類の最終的なゴールだというわけである。

だが、ここに極めて大きな問題が横たわっている。それは、人類は神の側からの承認を抜きに、一方的に名乗り出ただけで、自力で神に回帰する道があるのか、という問題である。

むろん、そんな道が存在しないことは、聖書によれば明らかだが、グノーシス主義神話を見ても、この点については、神話自体に大きな欠陥があると言えよう。グノーシス主義は、ソフィアの生んだ子の子孫である人類は、「神聖な霊の欠片」を受け継ぐ神の子孫であると主張する。だが、そのことを裏づける客観的な証拠は、この神話の中には存在しない。なぜなら、どうやってソフィアが単独で子を生むに至ったのか、その経緯が明らかにならない以上、彼女の「過ち」の結果として生まれた人類が、神の子孫であると証明する手立ては何もないからである。

ソフィアの違反がどのように成し遂げられたのか、グノーシス主義神話においては詳細が何も語られていないことから、自らの欲望を叶えるために、ソフィアが記述することもはばかられるような、何かしらの禁じ手を使ったのであろうことは明白である。

こうして、彼女は違反に違反を重ね、その結果として生まれた「子」が、本当に「神聖な霊の欠片」を持つ神の正統な後継者であると言える証拠は、グノーシス主義神話の中にはどこにも見つからない。普通に考えても、そのような類の話は、全く胡散臭く疑わしいものとしか言えない。

グノーシス主義が、人類が神のものである「神聖な霊の欠片」を持ち、本来的に神と同一であると主張しているのは、単に人類の側からの「自称」に過ぎない。つまり、ある日、自分は神と同一であるという「知識」に「覚醒」しさえすれば、その日から、人類は神の子孫として、神への回帰の道が開かれるというのである。

このような「神話」の中には、「父からの認可」という発想そのものがない。「父の意向」は、この思想においては、徹頭徹尾、無視されている。ただ「母子」が勝手に自称しさえすれば、彼らは「父の認可」を抜きに、勝手に神の家の子孫・後継者となり、神そのものにもなれるというのである。

正直に言って、こんなにも一方的で虫のよさすぎる話に、誰も信憑性を見いだすことはできないであろう。何よりも、ここまで徹底的に存在を無視され、その意向を踏みにじられ、愚弄されている「父」が、このような「母子」の主張に耳を傾け、これを正しいと認めて、彼らを自分の家族として、自らの後継者として家に迎え入れるようなことは全く考えられない。

もしそんなことが起きれば、もはやそれは「家」ではなくなる。一家の大黒柱、最高の権威である「父」が認めないのに、何者とも知れない者たちがその家の主となることが許されるなら、それは家の乗っ取り事件であり、家の破壊である。そして、ここにこそ、グノーシス主義の狙いが存在する。

グノーシス主義とは、結局、「神の家の乗っ取り」の思想である。だからこそ、最初から最後まですべてが「自称」なのである。人類がただ知識に覚醒して自分から名乗り出さえすれば、神にまでなれるという考えは、神を愚弄している。もともと神を愚弄していればこそ、神の承認など抜きにして、勝手に物事を進めようとするのである。

このようなグノーシス主義の特徴は、誰でも手を挙げれば明日からでも牧師やメッセンジャーになって人を教えられるという、ペンテコステ運動の安っぽくお手軽な特徴にもぴったり重なる。

聖書のテモテ書には、教会の監督や執事の選出の際の審査基準についてこうある。

「「ひとが もし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です。

ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。

――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。


また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。

執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。」(Ⅰテモテ3:1-10)

監督や執事になるための条件は、ここに挙げた記述にとどまらず、さらに続くのだが、いずれにしても、そこでは、教会の要職に信徒が何の審査もなしに就くべきでないことがはっきりと示されている。

以上のような条件は、監督や執事のみならず、当然、牧師やメッセンジャーの選出の際にも当てはまるであろう。牧師やメッセンジャーには、もっと厳しい審査基準が要求されて当然である。

以上に挙げられている条件は、かなり厳しいものであり、それに照らし合わせれば、自分や他人の結婚生活をないがしろにして、他の信者との霊的姦淫にふけっているような信徒は、初めから教会の要職には不適格者として問題外にされているのは言うまでもない。

このような記述が聖書にあるにも関わらず、それを無視して、誰でも神秘体験を受けて「神の霊の器」となったと自称しさえすれば、監督や執事どころか、牧師やメッセンジャーにまでなれるペンテコステ運動が、どれほどいかがわしい信用ならないものであるかは、改めて強調するまでもない。

なぜこの運動においては、牧師やメッセンジャーになるための審査基準がないに等しいほどまでに甘いのか? なぜ客観的な証拠が何もないまま、「自称預言者」が横行するのをいつまでも許しているのか?

それはこの運動が、もともと詐欺師に活躍の場を与えることを目的としているために他ならない。詐欺師のために用意された舞台だからこそ、そこでは詐欺師にとって不利な審査基準が撤廃されているのである。つまり、ペンテコステ運動の指導者は、キリストの名を使ってキリスト教徒を名乗ってはいても、それは完全な偽りであって、彼らは本当はクリスチャンではないということである。

同じことが、統一教会にも当てはまる。「再臨のキリストである」と勝手に自称しさえすれば、その人間がその日から偉大な宗教指導者とみなされ、神にまでなれるというわけだから、何とお手軽な宗教であろうか。ペンテコステ運動との違いは、ただ「神に油注がれた預言者」を名乗るか、「再臨のキリスト」を名乗るかという違いだけである。どちらもキリスト教に名を借りただけの絶望的なまでに信用ならない偽りの宗教である。

キリスト教は、父なる神への従順を信仰生活の基礎としている。人が神に受け入れられるためのすべての条件は、父の御旨に従うことにあり、父の御旨に従うとは、父が遣わされた御子を受け入れ、その御言葉に従うことにある。

それにも関わらず、グノーシス主義は、父の戒めを無視し、父の遣わされた御子を無視し、父の意向を徹底的にないがしろにして、「母の御旨」を全てとしている。

「母の御旨」とは、人類の身勝手な欲望のことである。

統一教会もペンテコステ運動も、共にキリスト教の異端であり、こういう思想の持ち主にとって、大切なのはただ自分の欲望だけである。彼らの「信仰」は、自分自身への信仰、つまり、自己崇拝である。彼らにとって、他人はみな彼らの欲望を満たす手段でしかない。
 
安倍家の例では、母洋子は、自分がすでに岸家の人間ではなくなっているにも関わらず、家を飛び越えて他家の事情に介入し、自分が嫁いだ夫の家を尊重せずに、夫の意向を無視して、自分の生家にこだわり、自分は生家の人間であるかのように振る舞い、自己のルーツの正当化に固執する。そして、彼女は、自分では叶えることのできない夢を、岸家の人間ではない息子に託す。

こうしたことはすべてルール違反であり、彼女は、社会常識を破り、夫の意志を飛び越え、家の枠組みをも飛び越えて、ただひたすら自分の欲望だけを叶えようとしている。歴史的事実もないがしろにし、自分の主人をもないがしろにし、自分の属する家もないがしろにし、他人の家もないがしろにしながら、ただただ自分の祖先の罪をかばって自己正当化をはかることだけを目的に生きているのである。

このような非常識で規則破りの常習犯としての自己中心で厚かましい行動は、ペンテコステ運動の信者たちにも共通して見られることである。何度も繰り返して来たことであるが、ペンテコステ運動に関わる多くの信者たちは、信者が妻である場合には、自分自身を夫の被害者と考えて、夫を心の中で侮蔑しているケースも珍しくない。彼女たちは、自分の主人である夫の意志を決して尊重しようとはせず、家庭を無視して宗教行事に入れ込むなどのことは日常茶飯事で、夫の被害者であることを至る所で触れ回り、夫の面子を潰している例もある。さらには、この運動の信者たちは、自分の所属している教会があっても、牧師や指導者の意志に従わず、彼らに隠れて、平気で他教会に出かけて行き、母教会をよそにして他教会の信徒や指導者と親しく交わるなどのことも日常茶飯事である。こうして、信仰生活においても、平気で二重生活を送り、家族のしがらみや、組織の枠組みなどないがごとくに、どこにでも入り込み、規則を無視して他教会の事情に首を突っ込み、そこにもとからいる信者を追い払ってでも、自分の縄張りを広げて行く。このように、規則も常識もないがしろにし、他人の意志も無視し、自分の意志を妨げるものなど何もないかのように、アメーバのように形を変えてどこにでも浸透し、無限に膨張・拡大しながら、関わるすべての者たちを自分の色に染め上げて行こうとするのが、ペンテコステ運動の信者の特徴である。彼らにはその厚かましく自己中心で非常識な行動に対する罪や恥の意識は全くと言って良いほどない。

ペンテコステ運動の信者たちをそこまで尊大かつ非常識にさせている原因は、彼らの心の被害者意識にある。彼らは、自分たちは家庭においても、教会においても、社会においても、一方的な被害者であると考えることで、自分の行動を正当化していることが多い。もし自分たちの行動に疑いを投げかけられるようなことがあれば、彼らは弱々しい外見や、社会的弱者としての立場などを存分に用いて、情に訴え、自分たちは哀れな被害者であって、多くの過失を情状酌量されるべき存在であるから、自分たちを責めるのは無情で残酷な行為だと主張する。そのような泣き落としも功を奏さなければ、自分と同じように被害者意識を抱える厚かましく自己中心な人間を仲間として呼び寄せ、被害者意識によって結託することで、自分たちに耳の痛い言葉を投げかける人間を「悪魔」扱いし、恫喝し、嘲笑し、呪いの言葉を浴びせることによって、集団的に排斥するのである。

敬虔なクリスチャンの仮面を被りながら、そのようなネットワークを、自分の教会の枠組みを超えて、既存のキリスト教界の中にどこまでも張り巡らそうとする。そのようにして、結果として自分たちの所属していない教会にまでも勢力を広げ、これを乗っ取ることが、彼らの隠れた目的なのである。断じて、教会にこのような破壊的影響を及ぼす運動が、聖書に基づくものであることはあり得ない。

グノーシス主義は、反逆と秩序転覆の思想である。そこでは、神に反逆した「母」と、反逆によって生まれた「子」が一体となって、自らの罪をかばい、「父」に無理やり自分たちを認知させることによって、自己のルーツを自力で浄化し、神の家に回帰して「母子家庭」の汚名を返上しようとたくらんでいる。

このように、グノーシス主義が、聖書の神に敵対する徹底した反逆の思想であるからこそ、初代教会の時代に登場したグノーシス主義の様々な流派の中には、アダム、カイン、ニムロデ、ソドムとゴモラの住人、エサウ、イシマエル、イスカリオテのユダのような、神に反逆した聖書の登場人物たちをまるで聖人のように誉めたたえ、彼らこそキリストの真の弟子であったとして、堕落した罪人らを「名誉回復」しようとする思想も生まれたのである。

このようなグノーシス主義の支離滅裂な反逆の精神は今も健在であり、今日のキリスト教の数多くの異端のみならず、ペンテコステ運動にも脈々と受け継がれている。だから、もしこの運動の支持者をキリスト教徒だと信じて疑わずに関わると、大変な目に遭わされることになろう。

鈴木大拙が、「東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。」と述べているのは、まさにグノーシス主義的世界観に基づいた考えなのである。「母を守る」という言葉は、「母の過ちを修復する」ということと同義である。過ちを犯した母だからこそ、存在を脅かされているのだが、その母をかばうことによって、子までも母と同じ過ちを身に背負おうとする思想である。

そして、このような東洋的・グノーシス主義的世界観における「母を守る」という概念を、キリスト教に公然と持ち込むことによって、キリスト教を骨抜きにしようとしているのがペンテコステ運動である。
 
カリスマ運動の指導者である手束正昭氏は、キリスト教における「母性の欠如」を非難する。同氏は、鈴木大拙と同じように、カトリックがマリア崇拝によって母性原理を補われたのは良いことであるとしながらも、他方、「プロテスタント教会は“聖書のみ”の立場から、聖書からは導き出し得ない『マリヤ崇拝』を廃棄せざるを得」なくなり、その結果、父性原理と母性原理のバランスを失い、「極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまった」と嘆く。そして、このようなプロテスタントに、「人間性の安定や健全さを求めることは難しく、従って、プロテスタント国においては精神的な病を患う人々がより多く排出されることになったのである。父性というのは、上と下、善と悪を峻別して、秩序立てていこうとするので、どうしても心理的葛藤が起こりやすいからである」と言って、まるでキリスト教の父性原理こそが諸悪の根源であるかのように非難する。
 
クリスチャンがこんな主張に簡単に欺かれているようでは話にならないであろう。ここに、グノーシス主義的な「母性」による神の家の乗っ取りの精神があることを見抜かなくてはならない。

こうした主張の本質は、決して「母性原理を補うことによってキリスト教にバランスを回復する」などという美化されたところにあるのではない。そこにあるのは、「父」と「母」を同等に並べ、次に「母」が「父」を凌駕することによって、「父なる神」から主導権を奪おうという試みなのである。そして、「母」とは人類を指す。

だから、そこにあるのは、神の家の主人は誰なのかという問題なのである。

心理的葛藤が起こらないため」などと称して、そこには、同情や愛情や優しさや善意に見せかけて、巧妙に「父」を悪者とし、御父への従順から信者を引き離そうとする思惑が働いていることにクリスチャンは気づかなければならない。

その「母」は優しげに言う、「キリスト教の父なる神様は、全くひどい横暴な独裁者で、考えることもなすことも、みな一方的で偏っているから、そんな残酷で独りよがりな神様の言うことは、あなたは聞かなくても良いわ」。こうして、父の決定をことごとく骨抜きにし、ないがしろにし、その権威を否定し、その戒めを無にして行こうというのが、この「母」の目的なのである。

 「父」の役目とは、まさに手束氏が述べているように、「上と下、善と悪を峻別して、秩序立てて行く」ことにこそある。もしそれが否定されるならば、そんな家庭に「父」はいないも同然である。上下もなければ、善悪もなく、秩序もない。そんなものは家と呼ぶことさえできない。単なる混沌(カオス)である。

グノーシス主義的な「母」が、父性原理の二分性を嫌い、これを残酷なものとして非難するのは、彼女が「父」の意向に服していないからである。自分の罪が暴かれないためにこそ、自分を罪に問うことのできる権威を持つ存在を否定し、告発し、消し去りたいのである。

だから、こんな「母」が「父」と並んで上手くやって行くことは絶対に無理である。彼女は偽り者であって、「父」のふさわしい助け手ではない。この「母」の優しさや寛容さは、偽りであって、真の愛情から来るものではない。彼女は自分の過ちを隠ぺいしているからこそ、他人の過ちにも寛容なのである。

だから、このような罪深い「母」と一体化させられると、「子」は神への従順、貞潔さ、清い良心を失って、魂を汚され、自己を喪失する。母の罪意識を一体となって抱えさせられ、一生、負い目の意識から抜け出られなくなり、父なる神に純粋に向かうことはできなくなる。

そして、その「子」は「母」と一体となって自分の抱える罪の意識を正当化するために、絶えず「父」を否定し憎みながら生きることになる。それは「子」の自尊心をむしばみ、屈辱感、劣等感、被害者意識と、憎しみでいっぱいにしてしまう。「母をかばう」ことによって、「子」は真実を直視できなくなっているので、己が罪をも認められず、悔い改めて、罪赦される機会も失われる。こうして、「子」には「父」に回帰する道が永遠に閉ざされることになる。

挙句の果ては、そのように残酷に支配されている「子」の心では、やがて「母」への憎しみが高じて、それが神と全人類への憎しみになり、特に、エクレシア(教会)への憎しみへと発展するであろう。

人が神の家に正式に迎えられるための手段は、このように怨念と被害者意識の塊である「異常な母」としての「イゼベルの霊」と手を切ることにしかない。人類が無意識に追い求めているのは「父からの承認」であるが、罪深く異常な「母」に結ばれている限り、人は決して「父の本当の子供」にはなれない。

人が神の家に迎え入れられるための条件は、父なる神に対する従順であり、その従順は、御子が十字架において死に至るまでの従順として達成された。この御子の十字架の贖いの御業を通してしか、人間が神に迎え入れられる手段はない。

「イゼベルの霊」と訣別するとは、人間が自己崇拝・自己栄化の偽りの霊と手を切り、神がキリストの十字架において人類の生まれながらの自己に対して下された罪と死の判決を余すところなく自分のものとして受け入れ、神の御手の下に己を低くすることを意味する。それは、キリストが十字架で耐え忍ばれたすべての恥辱と苦痛を、人が自分自身のものとして受け入れ、神が御子に下された裁きを自分自身に対する裁きとして受け入れ、彼の死を自分の死として認めることである。

ところが、ペンテコステ運動は、羊のための唯一の門であるキリストを介さず、人類が一方的に神秘体験によって神と結ばれ、神の子供とされたと主張する。キリストの十字架を抜きにして、神秘体験を誇ることで、信者が自分は「神属人類」となったと主張して、自分を神に等しい存在として高く掲げるのである。

彼らは、神だけを聖なる方とせず、被造物に過ぎない自分を神として誇り、神から神の地位を奪って自分に栄光を帰し、信者の心をも神から奪って、自分自身を崇めさせている。

このように、御父の戒めに従順でなく、キリストの十字架の贖いも否定して、自己の死を経ておらず、本当は、神の家の後継者を名乗る資格を何一つ持っていないのに、ただその身分を詐称しているからこそ、ペンテコステ運動の支持者らが自分を「神の器」だとするその主張には、それを裏づける客観的な証拠が何一つ見つからないのである。

神の家の後継者を詐称しているだけだから、彼らの主張には、主観的な体験以外に何も根拠が存在しないのである。

「イゼベルの霊」とそれに操られる「子」という、詐欺師のような「母子」のペアは、厚かましくしたたかに振る舞うので、しばらくの間は、人を惑わすことはできるかも知れないが、最終的には、必ず、御国の後継者を詐称した罪と、神の家の不法な乗っ取りの罪によって裁かれ、神の家から永久追放される。この「母子」に対する判決はすでに下されている。

「しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」」(ガラテヤ4:30)

父に従わず、父をないがしろにする母と、その母が生んだ誰の子とも分からない子が神の家に家族として迎え入れられることは決してない。この母子による神の家の乗っ取り計画は成功しない。彼らに待ち受けているのは滅びだけである。だからこそ、グノーシス主義とは「母子家庭と父なし子の悲劇の物語」であると筆者は言うのである。


「イゼベルの霊」によるキリスト教の乗っ取り運動としてのペンテコステ運動

・ペンテコステ運動は「イゼベルの霊」によるキリスト教の乗っ取り運動である

これまでの当ブログにおける一連の記事を通して、「イゼベルの霊」の特徴を分析することで、筆者が一体、何を示そうとしているのか、その内容は、ある程度、読者に伝わっているのではないかと思う。

だが、もし伝わっているとしても、あえて踏み込んで説明を続けなければならない。「イゼベルの霊」とは、すでに述べた通り、人の罪悪感や、負い目の意識を足がかかりにして、他者の心に入り込み、他者の人格を乗っ取って支配しようとする「異常な母の霊」である。

悪魔が光の天使を装うように、この忌むべき「母の霊」は、愛情深く、献身的で、敬虔な慈母のような姿をして近づいて来る。だが、彼女の目的は、心傷ついて被害者意識を持つ人間を、真の自由と解放へ導くことにはなく、うわべでは優しく同情的なそぶりを見せながら、傷ついた人の心の弱点に取り入って、彼らを自分の欲望をかなえる道具として支配することにある。

だから、イゼベルの霊に捕まった人々は、彼女の霊の支配下にいる限り、怨念や被害者意識から永久に解放されることはない。心の傷を癒されるどころか、ますます傷が深まって、健全な自尊心を失って行くことになる。そのようにして、被害者意識から立ち上がれなくなり、最後には、何をするにも、彼女からの偽りの慰めと励ましがなければ行動できないほどまでに、自尊心を失って行くことが、彼女の支配の狙いなのである。

イゼベルの霊は、グノーシス主義を起源として生まれており、この霊そのものが被害者意識の塊である。彼女は、外見的には、ただ一人のまことの神を信じている敬虔な信者のように振る舞うかも知れないが、その実、神以外に多くの愛人を抱え、神への貞潔さはなく、彼女は夫を裏切る人妻であるバビロンと同質である。

彼女は、「子ら」を自分の欲望の道具として支配することで、神への反逆へと駆り立てる。この霊の最終目的は、神への反逆と裏切りによって生んだ自分の「子ら」と一体となって、「自分たちこそが神の家の正統な後継者である」と名乗り、父なる神を押しのけて、自分たちこそが神であるとして、神の家を占領し、自分たちを一家の主人に据えることにある。

要するに、イゼベルの霊は、キリスト教に偽装する偽りの霊による、キリスト教の乗っ取りを目的としているのである。

これまで見て来たように、ペンテコステ運動はまさにイゼベルの霊に率いられる疑似キリスト教に他ならない。そうである以上、この運動は、キリスト教を敵視し、最終的には、キリスト教を凌駕し、駆逐し、神の家を乗っ取ることを目的にしているのである。

さて、このような異常な運動を端的に表す特徴としては、「無秩序と混乱」、「被害者意識」、「霊的姦淫」などの用語が挙げられるであろう。以下で分析するように、ペンテコステ運動につきもののこうした悪しき特徴は、この運動が神の正しい聖霊に導かれていないことの何よりの明白な証拠である。


・ペンテコステ運動を導く「イゼベルの霊」が信者たちと結ぶ「被害者意識によるソウル・タイ」

ペンテコステ運動の信者たちは、他のプロテスタントのキリスト教界とはやや異なる独特の社会層の出身であることが多い。一言で言えば、ペンテコステ運動は、もともと無学で貧しく、社会や教会からも見放されて行き場を失ったような人々を、「聖霊による超自然的な癒しや回復」などの超常現象や、異言などの神秘体験によって引きつけ、社会的弱者を主な伝道対象として始まった歴史を持つ。そこで、今日でも、この運動の信者の中には、社会的弱者が極めて多く、現在は、元カルト団体の信者や、元ヤクザ、元ホームレス、元麻薬中毒患者、病者、障害者、社会的マイノリティ、キリスト教界につまずいた過去を持つ信者など、社会から疎外されたり、冷遇された背景を持つ信者が多数在籍している。

このように、もともとキリスト教界からも伝道対象とみなされず、社会でも冷遇されて、行き場を失ったような信者たちを数多く集めていることから、ペンテコステ運動に関わる人々は、極めて被害者意識の生じやすい環境にあると言える。

この運動においては、信者や指導者が講壇に立って、信仰の証として、既存の教会で信仰生活につまずいた体験や、病に苦しんだり、人生における様々な挫折体験に苦しんだ記憶などの、過去の負の体験を積極的にアピールし、そうした体験によって人々の注意を引きつけるような伝道方法を行っているケースも多い。

こうした告白の内容は、表向きには、神を証する内容の形を取っているかも知れないが、実際には、同性愛者などの「カミングアウト」と極めてよく似ている。

そうした告白は、問題を抱えた信者が、自分と同じような問題を抱える信者たちのコミュニティに所属し、問題を互いに確認し合うことによって、その問題を「無害化」し、自分たちが持っていた恥の意識や、負い目や、劣等感を払拭し、負のアイデンティティから解放されようとするものである。

自分たちが過去に受けた心の傷や、挫折体験や、社会で疎外された記憶や、追い詰められた状況などを積極的に人前でアピールし、他者と問題を共有し、連帯することで、それが問題であるという意識を捨て去り、集団的に自己肯定感や、慰めを得るのである。

筆者は、こうした「カミングアウト」のような告白から生じる同情や共感や連帯感を、正常なものとは全くみなしておらず、そうした告白が、神の栄光を証するものであるとも思っていない。

むしろ、そういう告白は、彼らの抱えている問題や、疎外感、負い目の意識、劣等感をより強固にし、キリストの十字架に渡すことなく、自己のアイデンティティの一部にまで高めて行くものであり、そういう告白は、イゼベルの霊がしのびよって来てその信者と強固なソウル・タイ(魂の結びつき)を結ぶには極めて好都合である。

悪霊は、人の魂に傷口がない限り、侵入することができない。他者に対する怨念や、赦せない心や、被害者意識などの負の記憶がなければ、悪霊は侵入口を得られない。そして、悪霊は、人の心にそういった負の記憶がない場合には、新たにそれを作り出すことによって、罪悪感を植えつけ、それを手掛かりに人をコントロールして行こうとする。

「被害者意識」による連帯(ソウル・タイ)が、悪霊によるいかに強力なマインドコントロールの手段となるかは、統一教会などの団体を見ればよく分かる。

統一教会は、アダム(夫)とエバ(妻)との関係になぞらえて、韓国を「アダム国家」、日本を「エバ国家」と呼び、日本は「加害国」であるから堕落した悪魔の国とした上で、「被害国」である韓国に謝罪し償いを果たさねばならないと教える。そうした理屈を用いて、この偽りの宗教は、日本人妻たちが集団で韓国の貧しい農村に嫁ぎ、強制に近い結婚を通して、韓国人の夫に仕え、あるいは日本にいる信者たちが多額の献金を韓国の教会に送ることで、「被害国」に償いを果たすべきであると教える。このように歪められた概念としての「アダム」と「エバ」の関係は、統一教会においては、国家だけでなく、信者間にも、主従関係に等しいものとして適用されるようである。

このように、社会におけるすべての関係を「加害者・被害者」の二項対立を通してしか理解せず、特定の人々の「被害者意識」を事実上「神聖視」することで、他者の心に罪悪感や負い目の意識を植えつけ、その人間を思い通りに支配して行く手がかりにしようというのが、この団体の狙いである。だから、この団体に入信した日本人は、自らを「罪深い加害国」の人間であるとみなし、懺悔と自己批判を繰り返しながらも、同時に、「被害国」の立場に立って全ての物事を見、他者の「被害者意識」に自分を乗っ取られてしまうのである。

ペンテコステ運動は、その思想的構造をつぶさに観察してみれば、まさに統一教会とほとんど変わらない構造を持っていることが見えて来る。

特に、ペンテコステ運動に属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の繰り広げるカルト被害者救済活動などには、以上に挙げたような「加害者・被害者」という単純化された図式が極めて特徴的に表れていると言えよう。

しかも、この被害者運動を率いる村上密牧師は、統一教会の出身である。筆者の見立てでは、村上密牧師は、統一教会を脱会した後でも、統一教会流の「加害者・被害者」の二項対立に基づくものの見方を脱することができず、脱会後も、自分が「加害者」サイドに立っているという負い目から、「被害者」に償いをせねばならないという切迫した強迫観念に駆られて、カルト被害者救済活動にいそしむことによって、統一教会時代と同じように、被害者に対する償いを果たそうとしているのである。

現在の村上氏にとって、「加害者」とは、多くの信者をつまずかせて教会から外に追いやったり、神社に油をまくような非常識な牧師を登場させる「キリスト教」そのものである。つまり、自身もプロテスタントの牧師でありながら、同氏は自らの属するキリスト教そのものを「加害宗教」とみなし、加害者側に立って、罪の意識から、被害者に対する償いを続けているのである。

フェミニズム神学者は、キリスト教を「父性原理の二分性によって多くの信者たちをつまづかせ、精神病理に追い込む偏った欠陥宗教」とみなして、キリスト教に「有罪」を宣告したが、以上のような被害者救済活動に携わる人々も、聖書の二元論に罪があるかのように訴えて、キリスト教を悪者とし、牧師を悪者とし、教会を悪者とし、そして、キリスト教によって傷つけられた被害者は正しい、とみなしているのである。そして、自分ばかりか、他のクリスチャンたちもみな同じように、加害宗教の信者としての負い目を持って、教会につまずいた哀れな「被害者」たちの「救済」に助力すべきだと主張しているのである。

だが、聖書に照らし合わせれば、このような考えがいかに本末転倒であるか分かろう。キリストの十字架は、人間の罪の赦しのために与えられたのであって、その贖いを信じて受け入れた信者が、もはや罪悪感に悩まされる必要はない。可哀想な人々の救済にどんなにいそしんでも、それによって人が自分自身の罪を贖うことは不可能であり、また、それによって他者の魂が救済されることもない。

しかしながら、上記のような人々は、キリストの救いを受け入れたように見えても、魂の深いところで結ばれた「被害者とのソウル・タイ」は消えないのである。だから、一つのカルト団体を脱会し、キリストの贖いを信じて受け入れても、罪悪感から解放されず、未だに自分を加害者の一部のようにみなし、自分の入信した宗教をさえ悪者としながら、弱者に対する罪の意識ゆえに、贖罪行為にいそしむことをやめられないのである。

筆者は、カルトを脱会した人が、真に神に出会って正常な信仰生活に至ることは無理なのだとまでは決して言うつもりはない。だが、カルトを脱会した人には、非常に深刻な心理的な課題があって、脱会したからと言ってそれで問題は終わらず、また、その問題は、カルトによるマインドコントロールの悪影響などと言った表面的な事実よりも、もっと深いところから生まれているものであることを見なければ、その人の生涯に根本的な変化が訪れることはないと考えている。

カルトのイデオロギーに心を惹かれて入信する人には、それに親近感を抱くだけの思想的な土台が、入信前から、すでに心に形成されている。その人の培った世界観そのものが、カルトと似たような思想的特徴を持っているのである。だからこそ、その人はカルトに勧誘された時に、そこに自分と同種のものを見いだし、その思想が偽りであることを見抜けなかったのである。

そうした事実を本人がきちんと見据え、自らの成育歴にまでさかのぼって、自分の心理的な弱点が発生した根本原因を探り出し、これを取り除くことをしなければ、その人は同じ心の弱点を抱えたまま、二度でも、三度でも、同様の過ちを犯し続ける可能性が高い。

以前にも書いたが、「被害者意識(イゼベルの霊)との強力なソウル・タイ」の土台となるものは、カルト団体への入信などよりももっと前から、すでに本人の魂の中に築かれていることが多い。幼い頃や多感な時代に目撃した何かの決定的な痛ましい事件によって発生した心の傷が、最初の明白な「被害者意識によるソウル・タイ」の現われとなることが多いのである。

たとえば、幼い頃に身近な誰かの自殺などの事件に遭遇すると、その出来事を目撃した人の心には、自分はその人を救いなかったという無力感、罪悪感が発生することがありうる。そうした人たちは、大人になっても、負い目の意識を拭い去れず、無意識のうちに、自分の過去を修正するために、過去に遭遇した事件と似たような理不尽の犠牲になっている人たちを探し出し、彼らに助けの手を差し伸べることで、自分自身を罪の意識から救済しようとつとめることがある。

そのような人たちの繰り広げる弱者救済活動は、傍目には、愛情や思いやりに基づくように見えるので、その真の動機が、彼ら自身の罪悪感にあるのだということが見抜かれる可能性は低いであろう。だが、それがもし他者の怨念や被害意識に憑依された人が、自らの罪悪感の重荷から逃れるために行っている活動であれば、それは本質的には、全く不毛な自己救済に終わる。

しかし、人生のある時点で、何らかの痛ましい出来事の記憶を通して、人々の怨念と被害者意識に憑りつかれ、負い目の意識から抜け出せなくなった人々は、魂の内側で、「被害者意識との強力なソウル・タイ」を結び、それがあるために、どこへ行っても、無意識のうちに弱者救済の活動を繰り広げる結果になる可能性がある。早い話が、彼らは他者の被害者意識に呪縛されているのである。

だから、そのようなケースでは、その人は「被害者意識とのソウル・タイ」が発生した根本原因にまでさかのぼって、キリストの十字架においてこの出来事と訣別し、自分の抱える罪の意識を神に解決してもらう必要がある。それをせずに、どんなに自分で罪の意識を払拭しようと償いを繰り返しても、ますます罪の意識にがんじがらめになって行くだけで、その贖罪行為に終わりが来ることはない。そして、そのようなことを続けていれば、最後には、結局、その人は自分自身も被害者意識と一体化して、犠牲者となって終わることになる。そのようにして、ターゲットと定めた人間を自分と同じ破滅へ引きずり込んで滅ぼすことが、イゼベルの霊の目的でもある。

さて、カルト被害者救済活動に関わらず、ペンテコステ運動は、たとえ公然とそのように主張しているわけではないにしても、すでに他の記事で指摘した通り、その理念の構造を調べるならば、初めから、既存のキリスト教界を「加害者」の立場において糾弾し、キリスト教を(その厳しすぎる父性原理の二分性のゆえに、精神病を生み出す)「欠陥宗教」として「有罪」を宣告することで、クリスチャンに罪の懺悔と償いを迫ろうとする性質を持つものであることは明らかである。

そのようなキリスト教に対する被害者意識の霊に導かれていればこそ、この運動は、キリスト教界からも見捨てられ、社会でも疎外されて悩みを抱える人々を主な伝道のターゲットとして定めるのである。

キリスト教界でつまづいた「被害者」を対象とするカルト被害者救済活動などは、決して偶然に生まれたものではなく、この運動がもともと持っていたキリスト教への敵意と憎悪と被害者意識が結晶化しただけであり、この運動がその実、キリスト教それ自体を仮想敵としていることを如実に物語っているに過ぎない。

こうした運動は、早い話が、「キリスト教の被害者」を集団的に組織し、裁判を起こすことによって、他教会の運営に強制介入して、教会の秩序を破壊し、そのような方法で、やがてはキリスト教界全体に有罪を宣告することで、これを乗っ取って行こうとする野望を表すものに過ぎない。

カルト被害者救済活動は、それ自体が、疑似キリスト教としてのペンテコステ運動によるキリスト教界の「乗っ取り」のための巧妙な隠れ蓑なのである。さらに言えば、キリスト教への被害者意識に貫かれるペンテコステ運動自体が、異端思想によるキリスト教界の乗っ取りのために生まれたものであると言って過言ではない。
 

・「混乱と無秩序の霊」としてのペンテコステ運動

聖書は言う、「預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。」(Ⅰコリント14:32-33)と。

ところが、ペンテコステ運動を導く霊は、まさに「混乱と無秩序の霊」である。

ペンテコステ運動には、その集会の形態においても、およそ秩序というものが全く見られないが、教職者の任命方法においても、秩序を無視している。こうした現象は、この運動に「秩序転覆の精神」が満ちているために起きていることである。

この運動においては、信仰生活において十分な成熟が見られず、信徒を教えるために何らの専門的な教育も訓練も受けていない信者が、いきなり教職者の立場に立って説教を語るなどのこともしょっちゅう行われている。

この運動に属する教職者の数多くは、聖職者としての十分な訓練や教育をほとんど受けていない自称牧師、自称メッセンジャー、自称カウンセラーなどである。その中には、元ヤクザ出身の牧師もいれば、カルト団体を脱会して間もなく、カルトのマインドコントロールの影響さえも十分に解けていないのに、牧師やカウンセラーとなって人を教えている例も見られる。

心の傷を抱えたままの人間が、同じように心の傷を抱える人間を導くのでは、まさに盲人による盲人の手引きにしかならず、人を教える立場に立つためにはよほどの訓練と成熟が必要とされることは言うまでもないが、ペンテコステ運動はこうした常識をもあざ笑うかのように、教職者に最もふさわしくない、問題のある過去を抱えた訓練も受けていない人間を、大した功績もないうちに、あっという間に聖職者の高みにまで押し上げてしまうのである。

このように、ペンテコステ系の団体では、通常のプロテスタントのキリスト教界に比べて、教職者となるためのハードルが著しく低いが、こうしたことは、この運動がもともと聖書の深い理解や、信仰生活における実地の訓練などよりも、ただ「聖霊を受けた」などの、第三者には全く確認できない、主観的で個人的な幻のような神秘体験を重視しているためである。

ペンテコステ運動は最初から主観的な体験重視の運動であり、しかも、その体験の内容が、論理的にも客観的にも証明不可能な「超常現象」であり、「神秘体験」である。

だから、客観的に証明可能な実績をよそにしても、このように主観的で個人体験を重視する伝統のもとでは、当然ながら、偽の奇跡体験を売り物とする詐欺師まがいの連中が横行し、そうした人々が指導者となって信徒を欺くという結果になるのは避けられない。

正体不明の「霊界との交信」によって、「神のお告げ(預言)」を受けたと自称し、誰にも理解できない戯言(異言)をしゃべるなどの現象は、キリスト教とは何の関係もないスピリチュアリズムの世界でも普通に広まっていることだからである。そのような現象だけを指して、それが神の霊であると言うことは誰にもできないであろう。

にも関わらず、そうした超常現象や神秘体験を通して、「神と交わった」、「神の霊を受けた」、「指導者として神に召された」などと自称しさえすれば、誰でもその日から一人前の信者とみなされ、教職者にもなれるのがペンテコステ運動であり、そういう運動は、大した努力も実績もないのに、手っ取り早く人の注目される高い地位に立って、人々に褒めそやされ、自分を疎外した社会を見返したいと願っている詐欺師のような人々には、まさにうってつけである。まさにそんなおいしい話はないと映ることであろう。

このように、信仰者としても確かな身元を保証できない、にわか牧師を多数生み出すペンテコステ運動の負の特徴は、たとえば、Dr.Luke率いるKFC(Kingdom Fellowship church)とその姉妹教会である横浜の天声キリスト教会にも、明白に表れている。

Dr.Lukeも、天声教会の現パスターとされる林和也氏も、キリスト教の牧師となるための正式な教育と訓練を何ら実地で受けないまま、自ら「パスタ―」を名乗り、牧会者の立場に立つようになった。Dr.Lukeは、経歴だけから見れば、ペンテコステ運動には稀な高学歴の持ち主であるが、その専門はキリスト教の教職者とは何の関係もなく、聖職者としての訓練を示すものではない。

このように、教会において牧会者としての訓練を受けて指導され、任命されたわけでもない人々が、いきなり牧会者となって講壇に立つことが許されるのが、ペンテコステ運動である。

この運動においては、自称「神の霊の器」であるカリスマ的な指導者が、自分たちこそ神に特別に祝福された選ばれた信者であると誇って、神秘体験を売り物にして信者を集めるなどのことは日常茶飯事である。そういう事例においては、いずれ様々なスキャンダルが明らかになって、その指導者は結局、神の器ではなかったということが判明するのがお決まりのパターンなのだが、「リバイバル」などを目的に掲げて行われた彼らの集金に投じられた献金は戻って来ることはない。

このようなことは、通常のキリスト教界では考えられないほどまでにずさんな信用ならない仕組みであり、まさに真似事のような「自称」に過ぎない世界であり、もっと言えば、振り込め詐欺の変種のようなものである。

筆者は決して神学校というものに存在意義を見いだしておらず、牧師制度にも賛意を示すつもりはないが、誰でも自称しさえすれば、明日からでも、牧者となって人を教えられるという、ペンテコステ運動のあまりにも軽薄でお手軽な慣習は、組織全体を危機にさらすだけであることは否定できない事実であると考えている。実地で何の訓練を受けていない指導者が、いきなり「神の器」や「預言者」を自称して、自ら「聖なる者」を名乗って教会のトップとなるなど、会衆にとってはまさに悲劇である。組織としての最低限度の形態さえ整っていない「教会」が正常に機能するはずもなく、でたらめな運営がまかり通り、悪霊の牙城となって終わるだけなのは目に見えている。

だからこそ、そのような教会には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者であった鵜川貴範氏のように、自分の母教会を裏切ってまで、「自称メッセンジャー」となって他教会に首を突っ込み、他教会の乗っ取りを企むような、まさに詐欺師の見本としか言えないような人物も活躍の場を見いだすことになるのである。

従って、これほどまでにでたらめな特徴を持つペンテコステ運動に属する教団が、カルト監視機構を提唱して、全キリスト教界のカルト化の監視を訴えたり、カルト被害者救済活動を繰り広げて、他教会の運営に介入したりしているのは、もはや笑い話であるとしか言えない。

そういうことが起きるのも、結局、ペンテコステ運動を率いる霊が、「秩序転覆の霊」だからであり、この運動が目的としているのが、キリスト教界の破壊と乗っ取りだからである。

もともとキリスト教界を混乱させることだけを目的としていればこそ、この運動においては、本来は資格がない不適格な者ばかりがリーダーとなって、「我こそは神に選ばれた聖なる器である」などと誇り、でたらめな教会運営を行い、本物の信者を断罪・駆逐して行くのである。

ペンテコステ運動は、イゼベルの霊によるキリスト教の偽装運動であり、「異なる霊」によるキリスト教界の乗っ取りの試みである。ペンテコステ運動の提唱する「リバイバル」の本質は、まさらにバビロン(バベルの塔)の構築という世界征服の野望である。

聖書における「バベル」とはもともと「混乱」を意味する。人類が天まで届く塔を建てて自らを神に等しい者として、まことの神を凌駕し、押しのけようと試みたので、神がその計画を打ち砕くために、人類の言語をバラバラにして意思疎通ができないよう混乱させたことがその語の由来である。

今日、ペンテコステ運動の信者たちが、互いに全く理解し合えない、意味不明の戯言としか言えないような「異言」を、「神の言葉」と称して、てんでんばらばらにしゃべりながら自己陶酔に浸っている様子は、まさに「混乱」と「無秩序」を体現するものとしか言えない。

こうしたことは、彼らを導く霊の本質が「混乱と無秩序の霊」であることをよく物語っており、それだからこそ、こうした信者たちは、互いの意思疎通や承認など初めからお構いなしに、「自称」に過ぎない形で、めいめいバラバラな自己主張に明け暮れているのである。


・ペンテコステ運動の特徴としての「霊的姦淫」―指導者崇拝の教え

さらに、イゼベルの霊とは、唯一の神以外に多くの愛人を持つ「霊的姦淫」の霊である。

グノーシス主義の掲げる「神秘なる母性」は、何が聖であり、何が汚れたものであるかを明確に峻別する聖書の父なる神とは異なり、人の過ちを非難せず、何でも優しく受容し、受け入れる母性であるから、それは偶像崇拝、多神教、汎神論なども優しく受け入れる。その結果として、この霊に導かれる信者たちは、神でないものを神として拝むことになる。

イゼベルの霊が信者たちに犯させる罪の中でも最大の罪は、人類の自己崇拝という罪である。だから、この霊に影響された人々は、ほとんど例外なく、歪んだナルシストとなって、自らを神格化し、最終的には自己を神と同一の存在として高く掲げることになる。

彼らの経歴をつぶさに振り返るなら、こうした人々は、一見、他者に優しく、親切で、敬虔な信者のようにも見えるかも知れないが、内心んでは、被害者意識に貫かれ、傷ついた自己を抱えて、過去の問題をずっと引きずっていることが分かるであろう。だから、彼らが神に等しいものとして神聖視しているのは、彼ら自身であるというより、彼らの抱える被害者意識なのである。

このように歪んだナルシシズムとしての被害者意識や、(傷ついた)自己の神格化という特徴は、以上に挙げた村上密牧師、KFCのDr.Luke、天声教会の林和也氏など、ペンテコステ運動に関わる指導者のほぼすべてに共通して観察される。

すでに述べたように、ペンテコステ運動の支持者たちには、大抵、幼少期からの家庭生活において抱える心の傷が存在する。また、青年時代に異性との関わりにおいて大きな心の傷を受けていたり、大人になってからも、配偶者との間に溝を抱えている例も多数見受けられる。

たとえば、Dr.Lukeは自身の述べていた信仰のあかしによると、若い頃に結婚を前提として交際していた女性に、結婚してほしいと促された際、(進学などを理由に)曖昧に答えをはぐらかしたために、信頼を失って交際が破局し、女性は別の男性と結婚してしまったと述べていたことがある。同氏は、その時に味わった絶望感をきっかけに、心から神を求めるようになり、聖霊による深い慰めを得たと、この体験を信仰の証として語っているのだが、それにしては、その当時、同氏が抱えていた問題は、その後も、解決したようには一向に見えないのである。

Dr.Lukeはその後、新たなパートナーを見つけ、平和で幸福な家庭生活を送っているかのように主張しているが、それにしては、同氏の行動のすべての側面から見えて来るのは、かつての別離によって傷つけられた同氏のおさまらない心の傷と復讐心である。

その心の傷と復讐心あってこそ、Dr.Lukeはいかに自分が女性にとって(女性のみならず全ての人々にとって)魅力的な存在であるかを誇示する自己美化、行き過ぎたナルシシズム、自画自賛を繰り返さずにいられなくなったのである。

村上密牧師の「被害者救済活動」とよく似ていて、過去に起きた問題は、繰り返し、繰り返し、その人の人生において形を変えながら現われ、その度ごとに、Dr.Lukeはこの問題に間違った答えを出し続けているようにしか見えないのである。

さて、目に見える人間との関係は、目に見えない神との関係の影のようなものであり、自分の愛する唯一のパートナーである異性に対して、誠実で貞潔で忠実な態度をとれない人間は、ただ単に人間関係に問題を抱えているだけでなく、神に対する霊的な貞操をも持っていない可能性が高い。

Dr.Lukeの自画自賛はおよそクリスチャンの既婚者にはふさわしくないものである。同氏は自分のブログにおいて、勤め先の大学で自分がいかに女子学生の注目の的になっているかをひたすら自慢せずにいられず、さらに、六本木での夜遊びも止められず、クレジットカードの明細は妻にも決して見せないのだと礼拝メッセージで豪語していた(ちなみに、Dr.Lukeの妻は夫の集会を全くと言って良いほど訪れておらず、信仰生活における夫婦の協調は見られなかった。)

KFCという団体の中においても、Dr.Lukeのナルシシズムは、同氏の信奉者となった他の信者たち(必ずしも女性信者とは限らない)との絶え間ない霊的姦淫と、そのために引き起こされる信者たちの不断の地位争いという形で反映していた。

Dr.Lukeは、そのような争いは自分には全く責任のないことであり、勝手に人々が彼を信奉し、一方的に期待を裏切られて失望しているだけであるかのように主張していたが、事実はそうでなかったものと筆者は確信している。そうした不毛な関係には、明らかに、同氏の青春時代における人間関係の破局と全く同種の構図が繰り返されていた。すなわち、Dr.Luke自身が、「自分がいかに魅力的な存在であるか」を周囲にしきりにアピールすることで、周囲の人々に暗示をかけ、人々の心を自分に惹きつけておきながら、いざ人々から期待に応えるよう要求されると、彼らを冷たく突き放し、その心を傷つける、ということの連続だったのである。そのように他者の心を弄び、傷つけるために用いられる心理的な駆け引きは、まさにイゼベルの霊がターゲットを思い通りに操り、支配し、傷つけるための手法そのものである。

そのような歪んだ方法を通してでも、絶えず自分が他者の注目の的となって、他者からの愛情や関心を独占し、また同時に自分を慕ってやって来る人々を侮蔑し、愚弄して退けていなければ気が済まないDr.Lukeの歪んだナルシシズムは、まさに傷ついたアイデンティティや、劣等感、復讐心の裏返しとして発生したものであったと筆者は見ている。おそらくはそうした心の傷は、同氏の青春時代の人間関係の破局の時点で初めて生じたものではなく、それよりもはるか前から、おそらくは幼少期から、すでに発生していたのではないかと想像される。察するに、生い立ちと親(特に母親)との関係に起因するものなのであろう。

このような深い心の傷を抱える人間は、本人が自分自身の心の傷を直視し、その元凶となる負の記憶を十字架において処理し、それによって生じた罪意識を自分自身から取り除き、その傷が生み出した行為の罪深さを見ない限り、半永久的に誤った行動となって悪影響を放ち続ける。このような傷を抱えたままの人間は、たとえ表面的にはどんなに満ち足りた生活を送っているように見えたとしても、無意識のうちに人を傷つけ、やがては自己愛性人格障害の様相を呈して行くことになるのである。だから、KFCに通う信徒は常に入れ替わっている。一時、Dr.Lukeと親しく交わっていた信徒も、多くが途中で離反し、長年に渡ってこの団体に居続けているのはほんの少数でしかなく、追い出された信徒たちも数多く存在している。そのようなことは、同氏が長期に渡り人々と誠実で信頼できる人間関係を築けないことから発生している。

ある信者は、Dr.LukeとKFCの危険性について次のように述べた。「KFCそのものが、彼が傷ついた自己を慰めるための牙城になっているわけです。彼には人格的な魅力がある。情に厚いことや、恩義を忘れないことや、人の心をほろりとされるような様々な魅力がある。ダメなところだけでなく、そういう魅力もあるので、彼のそばにいる人々は、彼の行動にどんなに問題があって、あるいは、不誠実な振る舞いをされても、ただちに離れようという気にはならないわけです。もう少し、期待して待っていれば、もしかしたら、彼も変わるかもしれない、神が問題を示されて、態度が改善するかも知れない、などと情状酌量し、望みをつなごうとするのです。でも、結局は、そうして人情に訴えることもまた、彼を支配する悪霊の作戦の一つのようなもので、その人情があだとなって、結局、人々は騙され、裏切られ、傷つけられるのです。だから、彼の魅惑的な力は、聖霊から来るものではなく、悪霊に由来するものであって、その魅力にほだされて関わりを続けること自体が危険であることを理解しなければならないのです。」

現在、KFCにいる信者たちは、心の傷を抱えて、他に行き場のなくなった人々である。特に、キリスト教界にはもう戻れないが、居場所を失いたくないという信者たちが古参信徒として残っている。彼らの多くは、配偶者を持つ妻たちであるが、家庭からの逃避の場を求めて、KFCに通っている。あるいは、キリスト教界にいながら、所属教会の牧師を裏切り、仲間の信徒を裏切って、KFCのメッセージを聴き続けている者もいる。こうしたことはすべて、神を裏切って、自分たちの群れを裏切って、家庭を裏切って、人間に過ぎない者を神の栄光の高みに押し上げ、自分を傷つけた者に復讐を果たすためにこそ行われている。

Dr.Lukeのナルシシズムは、同氏の傷つけられた心の被害者意識と復讐心の裏返しとして発生して来たものである。それが生じた最初のきっかけが何であったのかまでは、誰にも分からない。だが、根本原因が何であれ、そのような被害者意識は、長年に渡って持ち続けると、当初、起きた出来事の影響をはるかに超えて果てしなく膨張して行き、やがては人類全体と、キリスト教界と、神に対する敵意にまで発展して行くのである。

他者への根本的な恨みや憎しみを捨てられない人々が、真にキリストの僕となることはできない。そうした人々は、自らの劣等感を優越感で覆い隠すために、宗教に入信するのであって、その信仰生活は本当のものではない。たとえば、夫を恨み続ける妻たちが、夫に対する優位を手に入れるために、信仰にすがるといったこともよく起きる。カルト団体へ入信する妻たちの動機の多くはそうしたところにある。家庭において、社会において、居場所を見いだせず、自分は強い者たちによって踏みにじられた被害者だと感じている妻や子供たちが、夫や親を凌駕する最後の砦として、宗教にすがり、自分を虐げた強者たちを、神を知らない罪人・未信者だと見下げることで、そこに自己の優位を見いだし、心のうちでひそかに復讐を果たすということも往々にしてある。そういう場合は、信仰生活そのものがいわば家庭生活からの現実逃避と復讐の場になっているのである。

このように、神を信じていると自称している人の動機が、真に純粋でなく、彼らの信仰生活が、別の何かの問題からの逃避の手段であり、彼らの惨めな自己を覆い隠すまやかしの手段となっていることは往々にしてある。ある人々は、神不在の心の空洞を覆い隠すために、敬虔な信仰者を装うのである。

そして、ペンテコステ運動のように、そのようにして社会や、家庭や、キリスト教や、果ては神に対しても被害者意識を抱える人々が、集まって団結することで、「自分たちこそまことのキリスト教徒である」と名乗り、キリスト教界を見返そうとする例も珍しくない。

だが、そのような復讐心に基づく人々の「信仰生活」が正常な結果を出すことは絶対にない。そうした人々の信仰生活は、当然の成り行きとして、キリスト教界に戦いを挑み、正常なクリスチャンを罪人として告発し、仲間を絶えず傷つけては排斥するという結果にしか結びつかない。

そうこうしているうちに、自己正当化と被害者意識で凝り固まった人々は、自分たちに反対する者はみな「悪魔の手下」といった考え方に憑りつかれ、人を疑うばかりで誰とも誠実な関係を結べなくなり、やがては聖書の福音からも完全に逸れて、神から神であることさえ盗んで、自分自身を神と自称し、自己崇拝、自己栄光の罪へと陥って行く。KFCはすでにその段階へ入り、異端であることを自ら暴露したも同然である。

残念なことに、KFCの姉妹教会である天声教会も、この点で例外ではなく、この教会では、2009年に、何の正式な手続きもなしに、それまで教会員でさえなく、牧師としての教育も訓練も全く受けていない人物(林和也氏)がいきなり「パスタ―」にされるといった異常な出来事が起きた。

しかも、これを手助けしたのが、天声教会にいる元KFCの信徒の韓国人女性であった。この女性は、以前に、Dr.Lukeの補佐的な役割を果たしたいと願いながらも、KFCの信徒らによって団体を追放されたという過去を持っおり、おそらくはその当時に果たせなかった願望を、子供のような年齢の信者を使って果たそうと願ったものと見られる。

この女性は既婚者であるにも関わらず、教会を拠点としてこのパスタ―と密接な共同生活を送るようになった。恋人のように連れ立って頻繁に外出を共にし、離れていても親子のように密に電話で連絡を取り合い、早天祈祷会や断食祈祷を含め、朝から晩まで教会行事のために林氏を拘束し、同氏はやがて自らの住居も引き払って教会に住み込むようになった。だが、教会には、人が生活するためのスペースがないため、プライバシーも保てず、生活においても何から何まで信徒の世話を受けるしかない。

このようにして信者が自活の手段を奪われて宗教行事だけにのめり込むことは、まさに悪しき団体が信者にマインドコントロールを行うための典型的な手法であることが一目瞭然であった。しかも、素人がメッセンジャーになるなど、あり得ない話であり、本来ならば、神学校に通わせたりして、訓練を受けた後に、牧師として任命するのが当然である。

だが、カルトが人を取り込むのは、真に優れた指導者として福音を宣べ伝えさせるためではなく、傷ついた自尊心を足がかりに団体に取り込み、支配するためでしかない。そこで、講壇でメッセージを語らせるということは、しばしば、カルト団体が心傷ついた人々の自尊心をくすぐり、団体から離れられないようにするための「餌」として利用される。

さらに、上記の韓国人女性は、配偶者をよそにして教会行事と「パスタ―」の世話にのめり込んでいる他にも、水商売用の衣装を販売するブティックを教会の近くに経営するなど、およそ信仰者にふさわしくない生活を送っていた。

筆者はこれらのことを目にして、この「パスタ―」に対して、この教会は危険であり、他者の結婚の関係を侵害するような共同生活が主の御心にかなわず、主の栄光にもふさわしくなく、教会の名を汚す罪深いものであるから、終止符を打つべきであること、そのように信徒に相応しくない生活はただちにやめて、教会を離れて自活した方が良いと告げた。

しかし、同氏はあまりにも教会生活に深く心を支配されていたため、自分の「聖職者」としての任務に反する言動を行うような人間は、みな「イゼベルの霊」に違いないと断定し、こうした忠告に聞く耳を全く持たなかった。自分にとって耳の痛い言葉を告げる者は、悪魔の使いに違いないという考えに至っていたのである。

そのようなことになったのも、林氏がそれまでの人生において抱えていた被害者意識が原因となっているものと筆者は見ている。それはDr.Lukeのケースと極めてよく似ている。

天声教会にメッセンジャーとして取り込まれる前、同氏はちょうど仕事の切れ目にあって、それまでのエンジニアとしての生業を失い、なおかつ、将来を期待していた交際女性とも別れを経験したばかりであった。その痛手を同情的に優しく介抱してやるように見せかけて、その状況を利用して同氏を自分好みの「パスタ―」にしたて上げたのが、上記の韓国人女性である。彼女がそのようなことをしたのも、結局は、それによって彼女を追放したKFCを見返し、なおかつ、彼女が自らの家庭や伴侶に対して抱いていた何らかの被害者意識ゆえに、家庭生活から現実逃避し、伴侶に復讐を果たすことが目的であったとしか考えられない。その欲望のために、彼女は他者の心の傷につけ込み、自分とは何の関係もないはるかに年下の人間を自分の願望をかなえる道具として利用したのである。

その当時の林氏について、Dr.Lukeはある懸念を持っていたようであった。林氏がクリスチャンホームに育ち、閉鎖的な宗教教育を受けたことによって、幼少期から自由な人生を送れず、幅広いものの見方を養うことができなかったことを憂慮して、Dr.Lukeは彼を宗教教育の弊害から解放する必要があると考えていたようであった。そして、筆者はその発想自体は間違っていないものと考えている。だが、信者が解放されなければならない危険は、幼少期に受けた宗教教育のみならず、ペンテコステ運動そのものである。

そうした意味で、自分自身がペンテコステ運動の枠組みを出られず、「パスター」としての栄光も捨てられなかったDr.Lukeの計画が極めて中途半端に終わったのは不思議ではない。

林氏は、不況ゆえに仕事を失って社会での居場所を失い、人生のプランを共有するパートナーをも失って行き場がなくなった心の空白と痛手を利用されて、キリスト教界から出るどころか、再び、ペンテコステ運動のような疑似キリスト教に戻って行くことになった。

ペンテコステ運動に関わる人々は、おそらく筆者のこのような主張を聞いても受けつけず、これを「リバイバルを妨害しようとする悪魔の霊」だとか、「嫉妬のゆえに指導者をひきずりおろそうと企むイゼベルの霊」だなどと断定し、とんでもない決めつけだと考えて、一笑に付そうとすることであろう。(林和也氏が、人間の指導者に従うことを「神に従うこと」と同一視し、指導者に逆らう者をみな「イゼベルの霊」扱いする白か黒かの思考パターンに陥っている様子は同氏のメッセージによく表れている)。

しかしながら、上記のようなペンテコステ運動の指導者がどんなに「自分は神に選ばれた霊の器であり、預言者であるから、自分に逆らったり、自分を批判する者は悪魔の霊に憑りつかれているのだ」などと主張したとしても、実際には、彼らは何の正式な任命手続きをも受けておらず、十分な職業訓練も受けていないまま、講壇に立った自称メッセンジャーでしかない。その上、他者の家庭生活を侵害して、霊的姦淫と呼ばれて仕方のない生活を送り、信徒の心を神から奪い、家庭から奪って、自分自身に向けさせて、自分を神の使いのように崇めさせているのだから、そのような生活のどこに「聖職者」にふさわしい神への従順があると言えようか。

親が子を助けるように、信徒を助けるのではなく、むしろ、信徒から助けられ、仕えられている指導者を、誰が正統な牧者として「神に油注がれた者」と認めるのか。そういうことが通用するのは、ペンテコステ運動の中だけである。

さて、ペンテコステ運動において、このような「自称牧師」が次々と担ぎ上げられる背景には、彼ら自身の意志だけでなく、彼らをおだて上げ、自分好みの指導者に仕立て上げることで、自分の欲望をかなえようとする信者たちの悪影響が必ず存在する。

KFCもそうなのであるが、家庭生活において満足が得られず、夫を心の内で憎み、自分を被害者だと考えている妻たちが、夫に対する復讐の手段として、未熟で心傷ついた男性たちを見つけて来ては、その心の傷を癒してやるように見せかけ、彼らの魂を子供のように手の中で操りながら、彼らをおだてあげ、担ぎ上げ、自分好みの指導者として、人形のように操り、支配して行くのである。そのようにして人の心の弱点につけ入る彼らのしたたかで巧妙な手練手管は、およそ若い独身の男女が考え付いたり真似のできるようなものではない。若くて警戒心がなく、真にキリストへの忠誠心のない人々は、このような人々からの「支援」や「同情」をあっけなく本当の愛情と勘違いして操られて行くことになる。

筆者がイゼベルの霊は「人妻」であり、「母の霊」であると述べるのは、こうした事情があるためだ。ヒトラーでさえ、彼を担ぎ上げた女性信奉者たちの助力なしに、独裁者の地位にまでは昇り詰められなかったのである。担ぎ上げられた人間と、担ぎ上げる人間たちの被害者意識と復讐心が互いに響き合って、悪しき指導者と信者たちとが、切っても切れないソウル・タイを結んで、復讐心の牙城のような団体を築き上げて行く。だが、このようなものは正しい信仰のあり方ではなく、指導者崇拝という霊的姦淫の罪、ひいては、人類の自己崇拝の罪でしかない。

筆者は、この社会において様々な挫折体験を味わい、疎外感を覚える人々の心の弱さに決して同情しないわけではない。だが、それでも、人の被害者意識につけこんで、これに同情的に寄り添い、優しく介抱してやるように見せかけながら、安直な慰めを与え、その心の傷を足がかりに、相手を自分の欲望の通りに思いのまま支配する「母の霊」とは、まことに恐ろしいものだと思わずにいられない。そんな霊に支配されて、安直な慰めを受けて、自分を神に等しい者だと思い上がりに陥るよりは、一人で助けなくもがき苦しんでいた方がまだましなのではないかとさえ思うほどである。

エレミヤ書には、神が忌み嫌われる偽預言者の特徴として、「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ。平安だ。』と言っている。」(エレミヤ6:14)と、偽預言者たちが信者に与える安っぽい同情や慰めが非難されている。

本当は、人の苦しみには、人間の安易な理解を超えるほどの深い意味があって、神の民の傷は、決して手軽に癒されるべきものではないのである。神はご自分の愛しておられる子供たちを様々な方法で訓練される。時には、深い苦難を通過させることで、魂を練られることもある。その苦しみが自己の失敗によって生じた苦難であろうと、そうでなかろうと、そのようなところを通過することによってしか、人は十字架の深い意味を知ることができず、神がその人に知らせようとした重大な教訓を学ぶことができないのである。

人間はただ自分が傷つかないこと、心理的な葛藤やストレスを受けないこと、自分自身が安全であることだけを第一に求め、信仰生活においても、それが理想であるように思い描き、できるだけ苦しみが少なくなるように、自分の身勝手な欲望をかなえてくれそうな人々のもとだけを行き来し、不快なことが起これば、自分を被害者とみなして同情の涙を注いでくれる人々の安直な慰めに飛びつく。

だが、実際には、信仰生活とは彼らが理想として思い描くようなものでは全くない。そのことは、神に愛されたダビデでさえ、己が罪を知らされ、深い苦悩の中で生涯を過ごしたことを見ても分かることである。

聖書に登場する預言者や、信仰の偉人たちのうち、誰一人として苦難を通過しなかった者はいない。彼らは必ずしもダビデのような失敗は犯さなかったかも知れないが、誤解され、いわれなく非難され、中傷され、離反され、憎まれ、迫害され、命を狙われ、時には殺された。民の注目の的となって誉めそやされながら、安全と栄光のうちに生涯を歩んだ者など一人もいない。

信仰生活に限定せずとも、人には、一人で乗り越えなければならない多数の課題が存在する。人間の力だけでは乗り越えられないからこそ、神の助けがあるのだが、人間の理解や支援を度外視して、ただ神とだけ向き合いながら、自分自身で問題を乗り越える力を養わなければ、その人にはどんな人格的成長もない。

自己の欠点を直視することは、人にとっては困難であろうが、人が苦難を通して真に自分の弱点と向き合い、自分の心を吟味することがなければ、その人にはどんな成長も気づきもない。他者ばかりを責めて、自分を被害者だと考えていれば、一歩たりとも、前進して行くことができない。

ところが、今日、キリスト教、特にペンテコステ運動の指導者を名乗っている人々は、全くそれとは異なる道を進んでいる。彼らは心傷ついた人々を積極的に勧誘しては、「あなたは悪くない」という安直な慰めと自己正当化の思いを吹き込み、手軽に信者たちの傷を癒し、その人が真に己の弱点と向き合い、自己の罪を悔い改めて神に立ち返る前に、偽りの慰めと癒しを与えることによって、かえって神から遠ざけ、被害者意識から立ち上がれないようにし、決して問題を乗り越えられないようにしてしまっている。

こうして、安直な慰めを与えることで、手軽に信者たちの傷を癒し、現実逃避によって偽りの平和を唱える者たちは、神から民の心を盗む、呪われるべき偽預言者である。

聖書において、ダビデ王の息子アブシャロムは、ダビデが犯した罪の報いとして、父に反逆する道を選んだが、その末路は悲しい破滅で終わった。アブシャロムが父を出し抜こうと考え出した方法は、以下の通りであった。彼は、美しく立派な容姿をしていたので、その自分の長所を存分に利用して、老いてゆく父をさしおいて、民の人気を集め、自分こそが王であるかのように振る舞い、人々の愛情と尊敬を集めたのである。彼は民の抱える様々な問題を狡猾に利用して、民の陳情に思いやり深く耳を傾けてやるように装いながら、民の被害者意識に巧みに訴えかけて、彼らの心を掴んだ。彼は、王は彼らの抱える悩みには関心がなく、民の陳情には耳を傾けて下さらないのだと思わせて、王を差し置いて民に同情の涙を注ぐことで、民の心を王から引き離し、自分自身に向けさせ、自分こそが憐れみ深い真の指導者であるかのように民衆に思わせたのである。サムエル記には、「こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。」(サムエル記Ⅱ15:6)と書いてある。

今日、ペンテコステ運動に関わる多くの指導者が、安易な慰め主となることによって、信者たちの心を神から奪い、盗んでいる。彼らはまことの神の代わりに、人々の心の問題を解決してやるように見せかけ、信者たちが深い苦しみの只中で、己が罪と弱さを自覚しつつ心から神を呼び求めることを妨げている。そのような指導者にそそのかされて被害者意識に凝り固まってしまった信者たちもまた、自分と同じような心の傷を抱える人々を次々とスカウトしては、被害者意識によるソウル・タイを拡大し、自分たちが神に逆らっているのだとは知らずに、集団的に神の敵と化している。ペンテコステ運動は、そのものが被害者意識の牙城である。

「イゼベルの霊」とは、グノーシス主義的な母性崇拝に由来する「抑圧的に支配する異常な母の霊」である

・グノーシス主義・東洋思想とは、聖書の父なる神を差し置いて、人類を神以上に高く掲げる母性崇拝の思想である。

前回、かなり急いで説明したので、もう一度、ここでグノーシス主義の基本構造をおさらいしておきたい。

グノーシス主義・東洋思想とは、根本的にキリスト教に敵対する秩序転覆の思想であり、同時に、厭世的で悲観的な哲学・世界観でもある。(すでに書いたように、筆者は東洋思想もその構造から見ればグノーシス主義の一種に分類されるととらえている。)

この思想が秩序転覆の思想であるという理由ば、グノーシス主義・東洋思想の根本には、(各神話の細かい差異はさて置き)、万物の生命の源を「神秘なる母性」に求め、この「母なる神(=神秘なる母性)」を聖書における「父なる神」以上に高く掲げる信仰が横たわっているからである。

万物の生命の源を「母なるもの」に求め、「母なるもの」をすべてを包容する慈愛に満ちた存在として崇める思想は、非キリスト教的・異教的な世界、特に東洋諸国においては、明確な宗教や信仰として認知されておらずとも、漠然と、空気のように広く普及している。東洋的世界観は、まさにこの「母なるもの」と切り離すことのできないものである。

しかし、グノーシス主義的な世界観における、「母なる神」という概念は、ただ単に万物の生命の源の象徴としての「母」を指すだけではない(ただし、筆者は、聖書によれば、万物の生命の源は、「母」にはなく、むしろ「父」にこそあると考えているので、生命の源が「母」にあるという考えそのものに同意できない)。ここで言う「母」とは、何よりも、神に造られた被造物としての人類そのものを指す。

聖書の記述によれば、人類最初の女性であるエバは、人類最初の男性であるアダムのあばら骨から、アダムの助け手となるべくして造られたとされる。この男女の秩序は、聖書において、変えられないものであり、また多くのことを象徴している。だが、この男女の秩序は、決して、フェミニズム神学者が言うように、聖書が女を男に比べて劣った、不完全な存在であるとみなして、聖書が男尊女卑の思想に貫かれているなどといった皮相な事柄を意味するのではない。

聖書において、アダムとエバの関係は、二人の罪による堕落ゆえに正しく機能しなかったが、この二人の秩序は、「最後のアダム」であるキリスト(霊的にはただ一人の男子)と、キリストのわき腹から生まれる花嫁たる教会(エクレシア)との結婚を予表するものであった。そうした意味において、人類とは、キリストの花嫁、神の助け手となるべく造られた、霊的な「女性」なのである。

ここで言う「霊的な女性」という概念の中には、人類は本来的に、神を礼拝するために造られた被造物であり、「神から命を受ける器」であり、「神の宮」であるという意味が込められている。だが、そのことは、「神の宮」としての人類の神聖を意味するものでは決してない。宮が貴いのは、神が住まわれるからであって、神を抜きにして、宮が自分だけで聖なる存在となることはない。もしキリストとの結合がなければ、人類は堕落した存在に過ぎず、もし神が住まわれないなら、宮は宮としての貴い価値を失う。宮は、神が住まわれることによって初めて清められ、貴くなるが、神をよそにして、宮が一人だけで神聖を主張するのはナンセンスである。このような意味においても、聖書における神と人類との(霊的な男女の)秩序は覆せないものである。

しかしながら、グノーシス主義は、このような神と人類との秩序を覆してしまう。グノーシス主義は「父なる神」以上に「母なる神」を高く掲げるが、そこから、フェミニズムのように、母性を神格化することで、男女の秩序を転覆しようとする発想も生まれて来る。フェミニズムの思想は、決して単独で産まれたものではなく、その背景にはグノーシス主義がある。こうした思想は、女性をまるで男性の被害者であるかのように主張することで、男性を憎悪すべき罪深い加害者とみなし、かつ、被害者性によって女性を美化することで、女性を男性よりも高く掲げ、あわよくば、男性を無用な存在として退けつつ、この世における男女の秩序を転覆しようとする。だが、こうした思想は、より深い次元では、人類を神の被害者とし、神ではなく人類を崇拝の対象として掲げることによって、神と人類との秩序を覆そうとする欲望が潜んでいる。男女の秩序を覆す思想とは、結局、根本的には、神と人類との秩序を覆すことと同じなのである。

だから、グノーシス主義・東洋思想における「神秘なる母性」への崇拝とは、結局のところ、人類が聖書におけるまことの神を退けて、神の被造物に過ぎない自分自身を神よりも高く掲げ、自己を賛美しようとする自画自賛・自己崇拝の思想であると言える。だから、そこで崇拝されている「神秘なる母」とは、要するに、人類自身のことなのである。

おそらくは、神を知らない堕落した罪深い人類の欲望は、今後、テクノロジーによって、生命それ自体をコントロールする秘訣を見いだし、自らの力で老いや死を克服して、永遠の命を手に入れる方法を開発しようというところへ向かって行くであろう。テクノロジーは、すでに多くの病を克服することで、長寿を可能としたが、やがては死の克服と、永遠の命の獲得を目的に据えるようになるだろう。人類は自らの力で死を克服し、生命を操る秘訣を手にすることによって、神によらずに人類の力だけで、永遠の命を生む「母」になりたいという欲望を抱えているのである。

このように、グノーシス主義的「母性崇拝」の思想には、人類が神を抜きにして単独で神の叡智に到達し、永遠の命を得たいとする欲望が流れているのだが、それはナルシシズムに満ちた、人類の自己崇拝の思想であると同時に、まことの神に対する被害者意識に満ちた思想でもある。

すでに見て来たように、鈴木大拙は、東洋的な世界観の根本には、「母が脅かされている(から母を守らなければならない)」という考えがあると述べたが、そのような発想は、言い換えれば、「聖書の父なる神によって、母(人類)脅かされているから、父なる神の脅威から母(人類)を守らなければならない」という被害者意識を土台としているのだと言える。母(人類)を脅かしている存在とは、聖書の神を指すのである。

グノーシス主義は、このように、聖書の神に対する敵意、被害者意識に基づく思想である。聖書の神が、人類が罪によって堕落したため、全人類に対して、十字架において死の判決を下され、人類が自力で神に回帰する道は永久に途絶えたことを、この思想は、どうしても認めたくないのである。人類は、当初は神によって、神に似せて造られたが、被造物に過ぎず、かつ堕落してしまったので、神の神聖からほど遠いものとなり、神ご自身のように聖ではないということを、この思想は、どうしても認められないのである。

そこで、この思想は、人類がこのように堕落し、その美と栄光を失ったのは、人類が悪いのではなく、神が悪いせいだと考える。この思想は、人類の罪を決して認めないので、人類に罪と死の判決を下した神を悪者とし、人類を神の被害者とする。そして、人類が神を否定することで、自らに死の判決を下した神を否定的に乗り越え、自ら神になり代わって、神に復讐を果たすべきとそそのかすのである。ちょうどフェミニズムの思想が、女性は男性によって劣った存在として規定され、愚弄されていると考えて、男性を嫌悪し、男性を乗り越えることによって、男性を抜きにして、女性が単独で「完全な存在」となることを目指しているのと同じように、グノーシス主義は、創造神を、無知で、劣った悪神として、侮蔑と愚弄の対象とし、被造物に過ぎない人類を、神よりも高く掲げることで、神と人との秩序を覆し、神に対して復讐を遂げようとするのである。聖書の神に対する敵意と被害者意識が、この思想には徹頭徹尾、流れている。

グノーシス主義は、悲観的・厭世的な世界観であればこそ、ハンス・ヨナス教授が述べているように、世の中が混乱し、人々が希望を失い、社会に絶望と被害者意識が満ち溢れるような時代には、いつでもどのような場所にでも、生まれうるものである。

ただし、筆者は、グノーシス主義のような世界観は、異教的な文化的土壌とも密接な関わりがあるものと考えている。

病原菌が、人の肉体的な弱さや傷につけ込まない限り、人の中で増殖して害をなすことができないように、グノーシス主義も、それを受け入れ、培養するにふさわしい土壌が人の心にない限り、決して発生しない。

そして、グノーシス主義が発生するためには、怨念、被害者意識、厭世観、無常観などといった背景が、人の心に必要なのである。こうしたものの溢れる社会には、グノーシス主義は極めて集団的に発生しやすいと言える。

だが、東洋思想に流れる無常観は、まさにグノーシス主義にとっては、最適な寝床であったのではないかと筆者は考えている。インド哲学や仏教などの根底に流れる無常観は、まさにグノーシス主義の悲観的・厭世的な世界観に通じるものと考えられる。

グノーシス主義の発生は、原則として、時代や場所を問わないが、それでも、キリスト教対グノーシス主義の戦いの構図の中では、西洋対東洋といった図式が盛んに見え隠れするのも、そのせいである。西洋世界においては、キリスト教が普及したために、グノーシス主義は弾圧・駆逐されたが、その後、東洋世界こそ、グノーシス主義を保存する母体となって来た歴史があるためである。

ちなみに、筆者が一連の記事で用いている異教的世界観という用語は、かなり荒っぽく大雑把なため、誤解を呼ぶ恐れがあるかも知れない。そこで断っておくと、この概念には、時代を問わず、場所を問わず、聖書のまことの神を受け入れず、聖書の父なる神以上に、異なる神(々)を高く掲げるすべての思想や文化が含まれる。たとえば、国家神道や、共産主義思想のように、宗教という形態を取っていない思想も、広義においては、異教的世界観に含まれると筆者はみなしている。

国家神道もそうであるが、共産主義思想なども、その基本構造から判断するに、宗教に匹敵するものであり、その土台は、まさにグノーシス主義に他ならない。共産主義思想は、決して宗教のように「神聖」という概念を用いず、「弱者の神聖」を謳っているわけでもないが、その基本構造において、事実上、虐げられて自己存在を脅かされた弱者を「聖なるもの」として掲げ、抑圧された者たち(の怨念と被害者意識)を神格化し、それを核として世界の変革を目指していることは否定できない。

つまり、たとえあからさまに「神聖」という概念を用いておらずとも、事実上、「社会的弱者を神聖視し、弱者が怨念と被害者意識によって団結することによって、弱者と強者との秩序を転覆して、弱者が強者を抑圧して復讐を成し遂げようとする思想」は、みな根本ではグノーシス主義に属するのであり、こうした神によらない人類の自己救済の思想はみな、当ブログでは、異教的な世界観の中に分類される。


・「イゼベルの霊」とは、キリスト教とグノーシス主義・東洋思想を合体させて混合宗教を作ろうとする母性崇拝の霊である

さて、長い前置きを終えて、ようやく本題に入るが、今回の記事のテーマは、異教的な世界観を総称するものとして、聖書にも警告されている「イゼベルの霊」というものの危険性について考えることにある。

結論から述べれば、「イゼベルの霊」とは、「霊的な女性である人類が、自己を神以上に高く掲げ、神に逆らって己が罪を否定して、神を乗り越えて自らを神格化しようとする思想」であり、言い換えれば、グノーシス主義的・東洋思想的な母性崇拝(人類の自己崇拝)そのもののことである。

聖書になじみのない人は、「イゼベルの霊」という言葉を聞いても理解できず、突然、どこへ話が飛んだのかという印象しか持たないかも知れない。そこで、まず「イゼベルの霊」という用語が、クリスチャンにとって何を意味するのか、この反キリストの霊に対して込められた糾弾の意味について、予め説明しておくことが必要であると思う。

「イゼベル」という名自体は、旧約聖書と新約聖書の両方に登場する。旧約聖書に登場するイゼベルの人物像は、夫であるアハブ王をそそのかして背教に陥れ、国全体を背教によって堕落させて神に背かせ、神が遣わした預言者をも殺意を持って迫害し、まことの神への信仰を駆逐しようとする悪女として描かれる。他方、新約聖書においては、この同名の女性の名は、特定の人物を指すものというよりも、聖書に反する堕落した教えを言い広める悪霊そのものか、もしくは、その悪霊にとりつかれ、誤った教えを広める要塞となった信者たちを象徴的に指す。

早い話が、「イゼベルの霊」という呼称は、聖書の信仰に立つ信仰者から見れば、到底、容認できない、背教や、誤った異端の教えを流布する偽りの霊(またはその霊に操られる信者)を象徴的に指す。

新約においてイゼベルの霊に該当する聖書箇所は以下の通りである。聖書によれば、正しい信仰から逸れてしまった「イゼベル」と、その霊の影響を受けた信者たちには厳しい裁きが待ち受けている。

「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。」(黙示2:20-23)

ところで、当ブログにおいてはこれまで、聖書の黙示録に登場するバビロンとは、異教的な信仰と、キリスト教とを混ぜ合わせて(両者の霊的姦淫によって)出来上がる混合宗教、すなわち、疑似(似非)キリスト教を指すものであると書いて来た。

「イゼベルの霊」も、以上に見るように、偶像崇拝を指していることから、その本質は、バビロンと同じ疑似キリスト教であると考えられる。つまり、イゼベルの霊もまた、うわべは敬虔なキリスト教徒を装いながら、内面では聖書の唯一の神に対する貞潔さを失って、異教の神々と結合して出来上がった堕落した宗教としての疑似キリスト教を指すものとみなせる。

旧約聖書におけるイゼベルが、正しい信仰に偶像崇拝を混ぜ込むことによって、国を堕落させたように、今日においても、「イゼベルの霊」は、キリスト教に聖書にはない異教的な要素を「つけ加える」ことによって、キリスト教を堕落させようと狙っているのである。

ところで、「イゼベルの霊」が生み出す混合宗教の最たるものとして、ここで挙げたいのが、ペンテコステ運動である。すでに述べた通り、この運動は、あたかもプロテスタントの一派のようにみなされているが、その本質は、異教的な母性崇拝にあることを、これまで一連の記事において見て来た。その事実は、広義においてペンテコステ運動と同種の運動であるカリスマ運動の指導者である手束正昭牧師が、自らの著書において、フェミニズム神学に基づき、聖霊を「母なる霊」と呼んでいる事実に明白に表れている。フェミニズム神学とは、「キリスト教には父性原理の二分性ばかりが強すぎて、母性的要素が足りないので、キリスト教は厳格で偏った宗教になってしまった。母性的要素を補うことによって、キリスト教は欠点を是正され、バランスの取れた宗教になる」などと主張して、キリスト教の中に、聖書にはない母性崇拝をひそかに持ち込むことによって、東洋的な母性崇拝とキリスト教とを合体させた混合宗教を作り上げようとするものである。

だが、今日、ペンテコステ運動に限らず、異教的な母性崇拝の要素は、キリスト教の中に様々な形態を取って公然と入りこんでいる。プロテスタントからは偶像崇拝として非難されているカトリックにおける聖母マリア崇拝などもその一つであり、こうしたものも、「イゼベルの霊」と呼ばれてしかるべき教えである。

結局、「イゼベルの霊」とは、グノーシス主義的・東洋思想的な世界観そのもののことであり、東洋思想的な母性崇拝の霊であると言える。だが、母性崇拝と言っても、結局は、それは人類の自己崇拝の思想を指すのである。

それだからこそ、イゼベルの霊に影響された信者たちは、ほぼ例外なく、歪んだナルシストになって行くのである。カトリックの聖職者による性的不祥事などを例にあげるまでもなく、得体の知れない「母なる霊」に導かれるペンテコステ運動の信者たちにも、以下に述べるように、極度の自己陶酔・ナルシシズム・自己崇拝が観察される。

ペンテコステ運動に関わる信者たちは、ほとんど例外なく、自らの非凡な神秘体験をあからさまに人前で誇り、聖書の記述に反して、誰にも理解できない「異言」を公然と語り、見せびらかし、そうした超常現象を通して、自らが「神の偉大な霊の器」であることを自己顕示し、神ではなく、自分を高く掲げる。

この運動に関わる信者たちの「信仰の証」なるものを聞けば、その内容が、徹頭徹尾、自己の差別化と、自画自賛に溢れていることがすぐに分かる。そうした信者たちのブログ記事、メッセージなどは、隅から隅まで自画自賛に貫かれ、その行き過ぎた自己陶酔、ナルシシズム、自己顕示によって、自分自身を絶対化していることが理解できる。さらに、そこに、誰が見ても不自然で胡散臭いとしか思われないような、非日常的な神秘体験と、極度に情緒的で不自然な感動体験がちりばめられ、それらの体験によって、いかに彼らが他の凡庸な信者たちとは別格の、神に近い特別に祝福された存在であるかが強調されている。

また、この運動においては、牧師として専門教育を受けたわけでもなく、何の資格もなく、訓練も受けていない信者が、ただ「神の霊を受けた」と自称しただけで、突然、メッセンジャーとなって、セミナーや集会で預言者のごとく語り出すということも日常茶飯事で、「自称牧師」、「自称預言者」、「自称メッセンジャー」が至る所で縦横無尽に活動していることでも知られる。こうした無秩序の行き着く先は、大抵、偽りの霊に導かれる彼らの誤った「預言」によって、多くの信者たちが人生の道を踏み誤り、混乱の中に投げ出されるという悲しい結末で終わる。

ペンテコステ運動は、神ご自身を退けて、宮に過ぎない人間が自分自身を誇り、そのような厚かましく愚かで自画自賛的な霊的運動を、特定の教会ばかりか、全世界にまで拡大し、全世界を一つの霊の配下におさめようと、「リバイバル」を提唱する。だが、問題は、この運動を率いる霊とは、一体、何なのかということである。彼らは、自分たちを導く霊は、「聖霊である」と主張するが、彼らの行いは、あらゆる面から見て、ことごとく聖書に反しているため、そうした「実」から判断しても、この運動を支配する霊が、到底、神の聖霊ではないことは明白であり、なおかつ、聖霊を「母なる霊」とする手束氏の主張なども合わせるならば、ペンテコステ運動はそれ自体が、明らかに聖霊に偽装する偽りの霊に導かれる偽りの運動なのである。

そこで、敬虔な信者の目から見れば、このように無秩序かつ盲目的で非聖書的な「俺様主義的な」厚かましい運動を、全世界にまで拡大されるほどにはた迷惑なことはない。だが、この運動の当事者は、自己陶酔のあまり、それが神の御旨であると信じ込み、他者の迷惑などお構いなしに、大真面目に「リバイバル」を目指し、そのために必死で活動し、日夜、祈祷を繰り広げている。そして、彼らの信じる「リバイバル」に反対したり、彼らの自己陶酔的な集会に疑問を投げかけたり、もしくは、「偉大な霊の器」である彼らの欠点を指摘したり、その集会を批判し、この運動の威光を曇らせるような人間は、みな「悪魔の手下」であり、「イゼベルの霊」に違いないと決めつけられ、こうして、彼らは自分たちに歯向かう者に悪魔との罵声を浴びせ、自己に対するいかなる批判も受けつけないまでに頑なになっている。

だが、残念ながら、筆者の目から見れば、「イゼベルの霊」という非難は、目に見える人間の指導者を神以上に絶対化・神格化し、母性崇拝に陥っているペンテコステ運動そのものと、また、この運動に関わって自己陶酔と自己の神格化に至った信者たち自身にこそ向けられなければならない。ペンテコステ運動の提唱する「リバイバル」も、単に彼ら自身のナルシシズムから生まれて来た自己増殖を目的とする歪んだ欲望以外の何物でもない。

このような人間の神格化及び自己陶酔の運動は、まさに人類の自己崇拝の思想である「イゼベルの霊」からしか生まれ得ないものである。

だが、ペンテコステ運動に限らず、もしもキリスト者が、神ご自身以上に自分自身を高く掲げ、神ではなく自分自身に栄光を帰するならば、その人も「イゼベルの霊」の影響下にあるのだと言えよう。だから、ここで非難されるべきは、ペンテコステ運動だけではないのである。

筆者は再三に渡り、プロテスタントの牧師制度自体が誤ったものであると指摘して来たが、それは牧師制度というものが、信者を目に見えないキリストではなく、目に見える人間の指導者に従わせ、人間である指導者に栄光を帰し、指導者を拝ませる偶像崇拝(人類の自己崇拝)だからである。

カトリックにおける法王の神格化や、聖職者のヒエラルキーなどが誤っているとすれば、プロテスタントにおける牧師制度も、それと同じほど誤っているのだと言える。どちらも人間に過ぎない存在を神と同等もしくは神以上に高く掲げ、神の神聖を横取りしている。だが、中でも、とりわけ、ペンテコステ運動は、超常現象を操るカリスマ的な「偉大な霊の器」を誉めそやし、こうした指導者への集団的な陶酔、服従などを要求している点で、通常の牧師制度に輪をかけて、なお一層、深い人間崇拝の罪に落ちていると言えよう。


・「イゼベルの霊」とは、主人を裏切る人妻の霊であり、「子らを抑圧的に支配する異常な母の霊」である

さて、この記事の末尾に、Eden Mediaの警告動画を二つ掲載しておくが、この動画の説明だけでは、「イゼベルの霊」の本質について、不十分で誤解を招きかねない部分があると思うため、ここでもう少し、説明を補っておきたい。

まず記しておかねばならないのは、「イゼベルの霊」とは、聖書における「大淫婦バビロン」と同じように、その根源は、グノーシス主義的な母性崇拝にあるため、それはただ単に「女性の霊」であるばかりでなく、「母の霊」だということである。

「イゼベルの霊」とは、夫(唯一の神)を裏切り、我が子(信者たち)を抑圧的に支配する「異常な母の霊」である。「異常な母」であると言うのは、もし正常な「母」であれば、自分が生んだ子を養い、子が成長すれば、やがて自分を離れて独立するよう促すであろうが、イゼベルは、自分の子らを一生、自分の欲望をかなえる道具として、自分の支配下に閉じ込めてしまうからである。

イゼベルの霊とは、人妻であり、母の霊である。だから、もし聖書における「イゼベルの霊」の持ち主が、若くて美しく魅惑的な独身女性や、あるいは、いかがわしい商売に従事する美麗な女性たちだけに限定されると考えている人があるならば、その人は早めに考えを改めた方が良い。

聖書の箴言にはこうある。

「命令はともしびであり、おしえは光であり、
 訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。

 これはあなたを悪い女から守り、
 見知らぬ女のなめらかな舌から守る。

 そのまぶたに捕えられるな。

 遊女はひとかたまりのパンで買えるが、
 人妻は尊いいのちをあさるからだ。」(箴言6:23-26)

以上の聖句において、「人妻」が、「遊女」よりもさらに恐ろしい危険な誘惑の源として警告の対象にされていることに注意したい。こうした警告がなされる理由は、「遊女」(娼婦)はただ金銭のために一時的に身を売るだけであり、はっきりとそれと分かる身なりをしており、限定された場所にしか存在しておらず、彼女たちは世間から軽蔑される職業に従事しており、到底、誰からも真実な愛情の対象とはみなされないが、堕落した「人妻」は、敬虔かつ貞淑そうな装いをしながら、どこにでも出かけて行き、真実な愛情に見せかけて、数多くの人々を誘惑し、隠れて主人を裏切り、他者の人生を滅ぼすからである。

上記に挙げた新約聖書のイゼベルに関する記述においても、彼女には多くの「愛人」がいるだけでなく、「子供たち」がいることが言及されている。

聖書においては、大淫婦バビロンも、「母」と呼ばれていることに注目したい。

「その額にには、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。」(黙示録17:5)

このように、バビロン、イゼベルの霊は、基本的に、「人妻」であり、「母」である。彼女たちは、唯一の主人に結ばれていながらも、主人を裏切って、多くの愛人を持つ堕落した「人妻」であり、なおかつ、自分の「子供たち」を抑圧的に支配して自立を妨げる異常な「母」である。

彼女たちは「異常な母」でありながら、同時に、自分を慈愛に満ちた聖母のように見せかけ、偽りの美しさによって多くの人々を魅惑する。イゼベルの美しさは、彼女の母性本能から来るものである。

だが、うわべは慈愛に満ちているように見えても、「イゼベルの霊」は決して人を慰めることも、癒すことも、解放することもしない。ただ閉じ込め、道具として支配するだけである。

この「異常な母の霊」は、被害者意識に満ちており、あたかも子供たちを養ってやるように見せかけながら、子供たちに自分と同じ被害者意識を植えつけ、子らが被害者意識という見えないへその緒で彼女と結ばれて、永遠に「マザー・コンプレックス」となって、彼女の支配を離れられず、生きている限り、「母を守る」ことを使命として、彼女の自己防衛や、欲望をかなえる道具となって生きるように、巧妙な形で自分の「マトリックス(子宮)」に閉じ込めてしまう。

イゼベルの霊とは、グノーシス主義や、東洋思想において神格化されている「母なる神」であるが、この「母なる神」とは、聖書の父なる神に対抗して、自己を脅かされている異教的な神(々)である(同時に、それは人類のことでもある)。

東洋思想に流れる「子が母を守るべき」という考えは、「母が脅かされている」という被害者意識からこそ発生している。「母なる霊」であるイゼベルの霊は、絶えず自分を脅かされていると感じていればこそ、「母子ともに家が脅かされている」という恐怖感、危機意識を子供たちに植えつけ、被害者意識を共有することで、子供たちと運命共同体となり、子供たちが彼女を守る防波堤となって、彼女の支配から一生、抜け出せないようにしてしまうのである。彼女が子供たちを閉じ込める「マトリックス」は、「脅かされている家」であると言える。

この霊の支配がどれほど恐ろしいものであるかは、「母を守る」という異教的な考え方が、どれほど多くの人を犠牲にして来たかを見ることによって理解できる。

一つ前の記事において、筆者は「母なるロシアを守る」という考え方が、キリスト教から生まれたものではなく、異教的世界観を土台として生まれたものであること、この概念は、ロシアという国を、国民にとって絶対的なまでに神格化し、国家を守るために国民はすべてを捧げるべきという、国家への絶対的なまでの忠誠・服従を要求する「信仰」にも近いものとなっていることを述べた。そして、そのように「母なるロシア」という概念を用いて、「国」を神聖視・絶対化していればこそ、ロシアの為政者たちは、「神聖な母なるロシアとの結婚」を盾に、自らの権力を強化して来たのであり、その結果、この国の歴史は、異常なまでに肥大化した国家権力が、国民を抑圧的に支配するということの連続となったのである。

ちなみに、ここでは、「母なるロシア」と、神聖な母性と同一視されている国家そのものが、国民を閉じ込める「マトリックス」となっている。

異教的母性崇拝としての「イゼベルの霊」は、このように、国家レベルにまで高められることがある。ロシアと同様の現象が、かつて我が国では、国家神道(国体思想)において見られた。国体思想においては、「子が親を守るべき」という考えに基づき、「臣民は天皇の赤子であるから、天皇のために命を捨てるべき」と説かれ、国民は、天皇制維持(国体の護持)のための防波堤となって、天皇のためにすすんで死ぬことが奨励(ほとんど強制)されたのである。

かつて『国体の本義』において、確認したように、国家神道(国体思想)においても、「マトリックス」の役割を国家が果たした。そこでは、国家は、天皇を中心とする「一大家族国家」とみなされ、臣民は生まれ落ちたその瞬間から、国家と切り離せない関係にあり、その関係は、個人による選択の余地のない、離脱の許されないものとみなされた。国家を離れての個人という概念は、無きに等しい抽象概念であるとされたのである。

さらに、今日、ペンテコステ運動においては、目に見える人間の指導者が「霊の父母」として神格化され、「霊の子」である信者たちは、「霊の親」への事実上の絶対的なまでの従順(崇拝と言って差し支えない)を求められる。そして、そのような歪んだ家族モデルに基づく「霊の家」を全世界に押し広げることが、「リバイバル」であるとみなされる。

この運動においては、教会や、教団などが、信者を閉じ込める「マトリックス」の役割を果たしている。それだからこそ、ペンテコステ運動に属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、自らの教団から信者や教会が離脱することを決して許そうとしないのである。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団京都教会の村上密牧師は、自らの教団を自主的に離脱した鳴尾教会のような小さな教会に向かって、徹底的なまでに悪罵の言葉を浴びせ、離脱を許すまじと非難しているが、そうした自由なき恐るべき主張は、ペンテコステ運動が、母性崇拝という「イゼベルの霊」の歪んだ信仰の入れ物となり、この霊の支配に基づき、自教団という彼女の「マトリックス」に信者を閉じ込め、そこから決して逃がすまじとしている姿勢をよく示すものである。こうして、信者から自由と自己決定権を奪い、信者を「子」として教団というマトリックスに閉じ込めることによって、残酷な「母なる霊」の支配から決して抜け出られないように拘束しているのである。

このような側面から見ても、ペンテコステ運動は、キリスト教ではなく、異常な母である「イゼベルの霊」に導かれている悪しき偽りの運動であると言える。異常な母の霊の支配する運動だからこそ、子らが自立して、自らの意志によって自分自身の人生を選び取り、母を離れて自由に生きて行くことを許さないのである。

さらに、「子孫は先祖のために尽くし、年少者は年長者のために仕え、子は親のために命を捨てるべき」といった東洋的な世界観は、W.ニーの著書『権威と服従』などに見られる「年長者の兄弟姉妹の指示に年少者の兄弟姉妹は無条件に従うべき」といった考え方の中にも受け継がれていると言えよう。

このように、「子は親に仕え、子が親を守るために命を捨てるべき」という考えは、偽りの思想につきものの転倒した思想である。すでに他の記事でも述べた通り、本来は、子こそ、親によって守られなければならない存在であり、子が自分よりも強い者である親を守るために命を投げ出すべきなどといった異常な思想の下では、子は親の付属物とみなされて、独立した人格を否定され、成長するために必要な助けを親から得られないばかりか、下手をすれば、親の利益のために自分の命までも失ってしまうことになる。そのような転倒した価値観の下では、子は親の見栄や欲望をかなえる道具として搾取され、犠牲とされるばかりで、正常な生活を送ることは決してできない。早い話が、グノーシス主義・東洋思想における母性崇拝としての「イゼベルの霊」のもたらすものは、親子関係というよりも、搾取と人殺しの思想であると言えるであろう。


・「イゼベルの霊」とは、聖書の神によって自己存在を脅かされていると感じる生まれながらの人類(罪人)の被害者意識のことでもある

イゼベルの霊とは、被害者意識の塊である。なぜなら、この霊の根本には、「聖書の神とキリスト教によって、人類が不当に存在を脅かされている」という恐怖があるためである。

イゼベルの霊は、悪魔に由来するものであり、悪魔は自分が神を裏切っており、まもなく神に裁かれ、永遠の滅びと恥辱に投げ込まれることを本能的に理解している。だが、悪魔とそれに導かれる諸霊は、決してその判決を受け入れることができないので、そこで、「神の下された判決は不当だ」という被害者意識を持っている。そして、この被害者意識に基づき、神に反逆するために、自分と同じような恐怖感や、被害者意識を持つ人間をたくさん集めて来て、被害者意識によって連帯することで、自己防衛の砦を作り上げ、聖書のまことの神という「脅威」に対抗するための霊的要塞を作り上げているのである。

だから、イゼベルの霊は、傷ついた心や、被害者意識を持つ人々を好んで探し出し、犠牲者にふさわしい人間を見つけると、母性本能を最大限に発揮して、聖女のように、慈愛に満ちた優しい母のように振る舞いながら、問題を抱えた人々に寄り添い、かいがいしく世話を焼いてやることによって、警戒心を緩め、そうして彼らの心の弱点を巧みに探り出し、その人間の心を操って行く。

彼女は、初めから悪鬼としての正体を表したりはせず、ターゲットとした人間を優しくかばってやうに見せかけながら、その人間が、自己憐憫と、自己正当化の思いと、被害者意識から抜け出られないようにして行き、その弱みを担保に、自分の繭のようなマトリックスの中に取り込み、偽りの安全、偽りの慰めを与え、彼女のもとを永久に離れられないように拘束して行くのである。

だが、彼女の優しさは、偽りである。だから、イゼベルの霊の支配に落ちた人間は、「自分は悪くない」という思いに凝り固まって行き、他者を責めるばかりで、傷ついた自尊心が回復することもなく、やがて被害者意識から立ち上がれなくなる。そして、その被害者意識によって、「脅かされる母」であるイゼベルと見えないへその緒で結ばれて、イゼベルの自己防衛の手段として使い尽くされて行くことになる。

ペンテコステ運動に関わる信者たちに接触して、彼らの人生についてつぶさに耳を傾ければ、ほとんど例外なく、彼らが何らかの根強い被害者意識を持っていることが分かるであろう。概してこの運動の支持者に共通しているのは、既存のキリスト教界において信仰生活につまづいた過去を持ち、それゆえ、キリスト教界に対して根強い不信感や恨みを持っていること、また、その恨みの裏返しとして、自分たちがキリスト教界の知らない高邁な霊的真理を知っており、神と親しく交わることのできる特別に選ばれた存在であると考えることで、既存のキリスト教界を見返そうとしていることである。

ペンテコステ運動を支持する指導者のメッセージを聞いてみると、その内容は既存のキリスト教界に対する根強い敵意と反感に貫かれ、他の堕落した教会とは異なり、自分たちこそが「神に受け入れられる正しいキリスト教である」という自惚れ、自己の差別化の意識が随所に見られることであろう。

こうした運動の支持者の多くは、幼少期に家庭生活において大きな心の傷を受けており、親に対する恨みを心に持ち続けていたり、あるいは、若い時分に異性との関わりにおいて何か決定的な心の傷を受け、異性に対する不信感や恨みを抱えていたりする。また、社会的弱者である場合が多いため、社会生活において色々と不利な立場に立たされ、この世に対する敵意、被害者意識などを持ち続けている例も往々にして見られる。

そうした被害者意識が、大人になってからは、配偶者に対する恨みに発展し、特に女性の場合は、信者たちは、自分は配偶者から不当に抑圧されている被害者だと考えている場合も少なくない。

だが、真に夫から抑圧されている不幸な妻たちと、以上のような人々との決定的な違いは、ペンテコステ運動の信者たちは、仮に自分を夫の被害者だと考えて自己を哀れみ、夫を加害者のように主張したとしても、決してその不幸な状態に終止符を打つための現実的な努力をしないことである。彼女たちは、愚痴は言うが、決して勇気を持って夫のもとを去ることをせず、夫と真正面からぶつかってでも、自分が望む生活を打ち立てるための努力をしない。むしろ、「夫が改心してキリストの僕になってくれたら、すべては見違えるように変わるだろう・・・」などといった他力本願な解決に漠然と希望を託すことで、現実から目をそらし、考えることをやめ、自らの行動の責任を放棄して、打つべき対策を講じず、状況に翻弄されてなすがままになるのである。だから、彼女たちの愚痴を聞いていれば、結局、あらゆる試行錯誤を行って、真に自由になることを願っているのではなく、ただ何もしないまま、「自分は被害者である」という立場に居直り、すべてを人のせいにして、かつ、自分の努力によらずに、奇跡的な解決が訪れることに期待して生きているだけなのだということが次第に分かって来る。そのような諦めに満ちた生き方は、無責任を助長するだけで、前進を生まない。

カルト被害者にしても同じなのである。仮に裁判によって自分を傷つけた教会や悪徳牧師に一矢報いることができたとして、その先に何が待っているのであろうか? 真実な信仰はどのようにして養われるのか? 多くの場合、カルト的な団体に接近する人には、そうなる以前から、自分の心に、異常な世界観を呼び寄せる土壌が存在する。病原菌が人に害をなすためには、人に何かの弱さがなければならないように、悪霊が人につけ込むためには、ターゲットとなる人の心に何らかの傷が存在しなければならないのである。

だから、信者は、悪しき霊につけ込まれる隙となった自己の弱さを見ずして、自分はただ騙されただけの被害者だと一方的に主張していれば、なぜ自分がそのような場所へ引きつけられたのか、どのような弱点を持っていたためにそうなったのか、その事実を知ることもできず、聖書に反する道を歩んだことを反省する余地も失われてしまう。こうして、きちんと過去の総括の作業をしないまま、自分を一方的な被害者と考えることで、自分を慰めていれば、いつまでも心の弱点はなくならず、一つの悪しき団体を脱会しても、その次にはまた同様のカルトに自ら捕まってしまうだけであろう。

「あなたは被害者である」という偽りの慰めは、人に自己肯定、自己正当化、自己憐憫の思いを吹き込み、被害者意識の中で、真摯な自己反省、自己吟味の機会を奪ってしまう。この偽りの優しさと慰めは、あらゆる事件を通して、人が神の力強い御手の下にへりくだり、自分で思ってもいなかった深みまで、自分の心が探られ、明るみに出されることを妨げる。

何かの事件によって、心傷つけられた人は、当初は、自分は絶対に悪くないと思い込み、ただ耐え難い出来事が身に降りかかったとしか思わないであろうが、なぜ神がそのような出来事が起きるのを許されたのか、それが自分にとってどんな教訓を意味するのかは、何年も、何年も、経つうちに、ようやく分かって来る。一体、自分に何が足りなかったために、そのような事件が起き、自分の弱点がどこにあったのか、自分の側にも完璧に落ち度がなかったとは到底、言いきれないことを、一定の時が経過して、初めて人は理解するのである。

だが、安直な偽りの慰めは、人に「自分は悪くない」という思いをもたらすだけで、人が苦難に真正面から向き合って、自分の心を探る勇気と試みを妨げ、人格的な成長の機会を奪ってしまう。何よりも、自己憐憫の感情と、人間から得られる安っぽい慰めが、問題の只中で、深く、真摯に神に向き合い、信仰によって、ただ神の慰めと神の解決だけを求め続けることを妨げるのである。

結局、イゼベルの霊がターゲットとする人に与える表面的な慰めや、優しさや、同情は、すべて人を真の慰め主である神に至らせず、かえって被害者意識によって、その人を神の敵へと変えて行くための欺きであり、偽りなのである。だから、このような偽りの助けにすがった人間は、ことごとく、歪んだナルシストとなり、やがては自己を絶対化して、自分を神以上の存在として掲げることになる。

イゼベルの魅惑的な美しさは、彼女の優れた母性本能と、あたかもキリストに結ばれた貞淑な花嫁のような偽りの外見から来るものである。この霊は、自分を慈悲深い母、聖女のように崇高な存在に見せかけることができる。母であり、人妻の霊だからこそ、巧妙な誘惑の手練手管に長けており、その罠は、見えにくく、巧妙で、したたかなのである。





(イゼベルの霊と、彼女の霊に支配される「子ら」としてのナルシストたちは、車の両輪のように一体である。それを考えれば、常に指導者の神格化や、信徒の自己陶酔を生んでいるペンテコステ運動が、どのような偽りの霊に導かれているのかも理解できる。)


ペンテコステ・カリスマ運動のグノーシス主義的三位一体論―グノーシス主義の基本構造⑧

② (続き 2) 
 
・キリストによって生まれていない「私生児」を「神の子供」と偽るカリスマ運動

さて、以前に記事「クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(終)」でも確認したように、手束正昭氏は、異端ネストリウス派の主張を擁護して、養子論的キリスト論を展開する。

同氏は、「ナザレのイエスにおいて無比なる仕方において働いていた聖霊の豊かさこそが、彼をしてキリストたらしめたと言える。」と述べて、イエスは生来は神性を持たない人間に過ぎなかったが、聖霊が吹き込まれたことによって「キリスト」としての性質が付与されたのだとする。だが、同氏の主張によれば、聖霊とは「母なる霊」なのである。

こうして、神の独り子であるイエス・キリストを、神性を持たない単なる人間に貶め、聖書に基づかない「母なる霊」という正体不明の「霊」を高く掲げる手束氏の荒唐無稽な主張がどこから来たものかは、グノーシス主義神話を考慮すれば分かる。

グノーシス主義において、悪神ヤルダバオートから創造された人間は、本来は創造神を父としているため、創造神を超えられない堕落した存在であるはずなのだが、サイト『ヨハネのアポクリュフォン』においても説明されているように、真の父の同意なしに単独でヤルダバオートを生んだ母ソフィアが、愚かな我が子を欺いて、天からの光を「息」として人間に吹き込ませたため、人間にはヤルダバオートにはない神聖な光が宿ったとされている。また、ヤルダバオートは自分の似姿だと勘違いして天上の完全な人間の姿を模して人間を造ったのだという。

こうして、グノーシス主義神話は創造神をひたすら愚弄しながら、創造神によって造られた人間を創造神より優れた存在として高く掲げ、反逆を正当化する。そして、天からの「息」が吹き込まれたことにより、人間の本来的な「父」は創造神ではなく、創造神を超える真の至高者であるとする。

聖書は、キリストの十字架の贖いを信じ、キリスト共に十字架の死と復活にあずかることによって、人は新創造とされると教えるが、聖書を否定して、聖霊を「母なる霊」とみなし、この「母なる霊」を受けることによって、人類は「新創造」に達すると主張する手束氏の見解は、以上のようなグノーシス神話に起源を持つとみなせるのである。

筆者はかつて手束氏の教えを、信者に神の子供としての地位を失わせる「私生児の教え」として非難したが、今また同じ確信を繰り返すのみである。

キリストが神の御子であるという聖書の真理を否定し、キリストと共なる十字架を経由することなく、正体不明の「母なる霊」を受けることによって、「新創造とされる」などという偽りを信じた者が、父なる神の子供として受け入れられることは決してないことは、聖書に照らし合わせて明白である。
 
グノーシス主義神話においてさえ、その「母」とは「原父」の意志を無視して単独で子を生むという「過失」に及んだのだから、その「母」によって生まれた「子」は、父を持たない子ということになる。そんな「母」の「霊」を受けたからと言って、なぜ子が「父」の承認もなしに、「父」から正統な子として認められる理由があるだろうか。そんな主張はあまりにも愚かで身勝手である。

さらに手束氏は、次のようにも述べる、
 

「信仰というものは、外に居給う神に私達が懸命に従おうというものではない。<略>いまや、私達は聖霊をいただくことによって、内に居給う神の促しに従って、その神と一つとなって生きていくことができるのである。<略>そこにあるのは、外なる神から内なる神への転換であり、服従としての神から交わりとしての神への転換である。更にこれは旧約から新約への転換なのである。

 多くの学者達は不十分なままでいる。旧約聖書は預言であって、新約聖書はその成就であると解釈し主張している。この解釈は確かにまちがいではないが、しかし重要なことは、旧約というものは外なる神であり、新約というものは内なる神であるということである。更に旧約というのは律法であり、新約というのは聖霊なのである。

ルターは宗教改革の合言葉として『信仰によって義とされる』と言った。<略>今、私は『律法によらず聖霊による』と言いたい。『信仰によって義とされる』というのでなく、『聖霊によって新創造される』と言いたい。」 (『聖霊の新しい時代の到来』、手束正昭著、マルコーシュ・パブリケーション、2005年、p.33-34、下線は筆者による)


服従としての神から交わりとしての神への転換」、この言葉に特に注意したい。

手束氏はこうして、「父なる神」に服従する必要をひたすら否定して行くのである。同氏は、旧約聖書は律法という父性原理に基づいて服従を求める厳格な宗教であったが、新約は「愛と赦しによる母性的な福音」であり、新約から旧約への移行は、「外なる神から内なる神への転換」であると述べて、新約の時代を生きる信者たちには、神の御言葉への従順がもはや必要なくなったかのように説く。しかし、これは全くの偽りである。

キリストの贖いを信じることにより、信者の内にはキリストが住んで下さるが、だからと言って、律法自体が無効になったわけではなく、信者が御言葉に従う必要性が消えたわけでもない。信者は律法を完全に全うされたキリストの贖いを信じ、キリストの御言葉にとどまることを通して、神の御前に律法を完全に守ったとみなされるのである。

そこで、新約になっても、信者は依然として、自ら神の御言葉を選び取り、これを守って生きることにより、神への従順を成し遂げる必要がある。律法を守るのではなく、キリストの御言葉を守り、そのうちにとどまるのである。しかし、それは信者が自らの意志によって成し遂げるべきことであり、キリストが内に住んで下さるからと言って、信者の意志を抜きにして、神への従順が自動的に成し遂げられるわけではない。

信者には御言葉に従う自由も、背く自由も存在し、もし信者が御言葉に従わず、キリストのうちにとどまらないならば、その信者は律法によって裁かれ、罪に定められる。

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
<略>だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(ヨハネ15:4-6)

「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

イエスも言われた、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天の御国にはいるのではなく、ただ、天におられるわたしの父みこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)。

従って、新約の時代も、クリスチャンにとって最も肝心なのは、聖書の御言葉を守ることによって、キリストの内にとどまって生きることであって、そうして初めて、キリストとの交わりがその信者の内で保たれるのである。

ところが、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らは、「外なる神から内なる神への転換」、「服従としての神から交わりとしての神への転換」などと主張して、信者自身が自らの意志で「御言葉を守る」ことによって、「父なる神の御心を行う」必要性、信者が神の御言葉に「服従」する必要性を否定して、あたかも、信者が御言葉に従わなくとも、「霊の父母・子の交わり」に加わってさえいれば、これを通して神に至れるかのように説く。

結局、父なる神の意志、御言葉の切り分けを全くないがしろにして、御言葉への従順なしに、人が神に至れると教えるのである。
 
だが、聖書においては、はっきりと二組の対照的な「母子」の姿が示されている。一つ目は己の肉の欲望に基づいて、父なる神の御心に背いて生きる「母子」の姿、もう一つは、己の肉の欲望を十字架の死に渡すことに同意し、父なる神の御心を行って生きる「母子」の姿である。

イサクとイシマエルは、共に同じアブラハムを父として生まれた。しかし、イシマエルは父なる神の約束の成就を待たずに、奴隷の女であるハガルを母として肉によって生まれた子であるため、アブラハムから正統な後継者とは認められず、「奴隷の女の子」として退けられた。

他方、己の肉の力に死んですでに「不妊の女」となっていたサラから、ただ神の約束に基づいて、御霊によって生まれたイサクは「自由の女の子」として、アブラハムの家の正統な後継者として受け入れられた。 

パウロは言う、

「律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生れ、自由の女の子は約束によって生れたのです。このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。
しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。
すなわち、こう書いてあります。

喜べ。子を産まない不妊の女よ。
声をあげて呼ばわれ。
産みの苦しみを知らない女よ。
夫に捨てられた女の産む子どもは、
夫のある女の産む子どもよりも多い。

兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。

しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。

こういうわけで、兄弟たちよ。
私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」(ガラテヤ4:21-31)

これら二組の「母子」の違いは、聖書の御言葉への従順によって父なる神の御旨を行って生きているかどうか、という点である。

グノーシス主義神話におけるソフィアの転落は、まさに聖書におけるハガルの姿に重なる。両者に共通するのは、父なる神の約束の成就を待たずに、己の「肉欲」に基づいて「時期尚早な出産」に及んだことにある。

聖書が全体を通して人間に求めているのは、人が己の肉の欲望により頼んで自らの願いを成し遂げることではなく、神の御言葉に基づき、信仰によって、神の約束の成就を待ち望むことである。しかし、ハガルもソフィアも、神の約束の成就を待たず、父なる神の意志を無視して、己の欲望に突き進んだ結果、時期尚早に子を生んだ。彼女たちはその子が神の家族だと主張するが、聖書はそのような「奴隷の母子」は神の国の相続者になれないと教える。

しかし、グノーシス主義のような転倒した教えは、聖書の御言葉に従わず、神の家から追い出されるべき「奴隷の母子」を逆に擁護する。だからこそ、それは「私生児の教え」なのである。

今日も、ペンテコステ・カリスマ運動運動の支持者らが、己の肉を誇っては高慢に振る舞い、延々と肉の欲を自慢しながら、至る所で真の信者を踏みつけにして迫害している様子は枚挙に暇がない。

 


 

・「分割」を「死」ととらえ、時間を逆にすることによって、「原初的統合」への回帰を主張するグノーシス主義

さて、聖書における「罪」とは、神の戒めに背くことであり、聖書において「死」は「罪」の結果としてもたらされる。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23) しかし、グノーシス主義は「罪」というものを一切、認めず、「分割」こそ「死」をもたらした原因であるかのように話をすり替える。

多くのグノーシス主義文献では、至高者である神のみならず、人間の男女もまた対であることが完全であるとみなされているため、人間は創造された当初は両性具有的存在であったが、その後、女が男から「分割」したときに「死」が入り込んだ、とされている。こうして、人類が神の戒めに背いたため、死に定められたという聖書の記述は無視され、人間が「原初的な男女未分化の状態に回帰する」ことが、人が本来的自己に回帰すること(救済)と同一視される。
 

「――デーミウルゴスはアルコンテスと共に、自分のかたちに人を、男と女とにつくった(創世記一・二七)。この場合、「人」は単数であるから、人は元来両性具有であった、と解釈されることになる女(イブ)が男(アダム)とから離れたとき(三・二二)、死が生じた。彼女が再び入りこみ、彼が彼女を受けいれれば、死はないであろう(『ピリポ福音書』七一。――七八をも参照。)」(『トマスによる福音書』、荒井献著、p.110)


 

「実際多くのグノーシス文書において、「神は自分のかたちに人をつくられた。すなわち、神のかたちにつくり、男と女とにつくられた」(創世記一・二七)の「人」が単数形になっているところから、「原人」は男女両性具有であった、そして地上の人間(男と女)は原人から「女」が分離された時点(創世記二・二一―二二)から生じた、と解釈されている。例えば、『ピリポ福音書』には次のような言葉がある。――「イブがアダムの中にあったとき、死は無かった。彼女が〔彼から〕離れたとき、死が生じた。彼女が(アダムに)再び入りこみ、彼が彼女を受けいれれば、死は無いであろう」(七一)。「もし女が男から離れなかったら、男と共に死ななかったであろう。女の分離が死のはじめとなったのである」(七八)。」(同上、p.159)


むろん、「男女未分化の原初的統合」などと言っても、半ば言葉遊びのようなもので、実際にそのような「原初的」状態に回帰できる人間はいない。だが、グノーシス主義は以上のような確信に基づき、人間に「叡智」を告げる「真の開示者」は、単に人間に、出生を巡る「真実」を告げる役割のみならず、人間を「男女未分化の原初的状態」に回帰させる「統合者」としての役割も担うものとみなす。
 

「<略>イエスは「父のもの」(本来的自己)の具現者として分裂に統合をもたらす者であり、それを「分ける者」「分割者」ではないというグノーシス的意味をも含ませている可能性がある(六一参照)。――「分離が死のはじめとなったのである。それ故に、はじめからあった分離を再び取り除くために、彼ら両人を統合するために、そして分離の中に死んだ人々に命を与え、彼らを統合するために、彼が来たのである」(『ピリポ福音書』七八)。」(同上、p.235)


ここまで来ると、なぜ手束氏や、フェミニズム神学者、鈴木大拙氏のような人々が、聖書の「二分性」に激しい反発を示し、キリスト教に「母性原理が回復される必要がある」と主張したのか、もう十分に理解できよう。

彼らは「分割」が「死」をもたらしたとみなすグノーシス主義の考えに立てばこそ、あらゆる「分割」を廃して「原初的統合を回復」することが「救済」だとみなしているのである。

彼らの嫌う「分割」とは、男女の区別にとどまらず、聖書におけるあらゆる「二分性」に及ぶ。鈴木大拙氏が「神ががまだ「光あれ」といわれなかったときのこと」、「明暗未分化以前」、(善悪を峻別する)「知性発生以前」などと呼んでいるのがまさにそれであり、これらはすべてグノーシス主義的な「二分性が生まれる前の原初統合の状態」を指す言葉である。

こうして、彼らは歴史を逆行させ、時間軸を逆にして、分割が発生する以前の状態に人類が自ら回帰することによって、原初的統合が成し遂げられ、人類は神に至る、と主張しているのである。

これは聖書の時間の流れとは逆である。

聖書においても、男女の「二分性」が廃される道が備えられている。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)とある通り、聖書によれば、時間を逆行することなく、「子」が成長して自らを生んだ「父母」を離れ、新しい伴侶を見つけることによって、男女の「一体化」が成し遂げられる。
 
この男女の統合は、キリストの十字架の死と復活による新しい人の誕生、すなわち、キリストとエクレシア(教会)との結婚を予表している。

聖書は言う、

「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(コロサイ2:16)

ここで言う「影」とは直接的には、律法や、人間を縛る様々な古い規定を指しているのだが、同時に、目に見えるすべての被造物も「影」に含まれると言えよう。聖書によれば、罪によって堕落して、信仰を持たず、神に受け入れられることなく滅びゆく人類(旧創造)は、神の御前にすでにないも同然の「影」であり、真のリアリティはキリストのみなのである。

神の目には、真の「男子」、真の「人間」はただ一人しかおらず、それが「ひとりの人」(Ⅱコリント11:2)キリストである。キリストの内にこそ、すべての二分性の敵意を廃したところに存在する新しい完全な人の姿がある。

この新しい人であるキリストは、地上に来られたとき、神としての性質を持ちながら、同時に、罪の他は、何ら我々と変わることのない、人としての性質もすべて備えておられた。そして、神でありながら、ご自分を低くして人となられ、十字架の死と復活を成就して、人類のために贖いを達成されたのである。

このキリストこそ、神の御心を真に満足させることのできる真の人間なのであり、人は、神が十字架でキリストに下された裁きを自分自身に対する裁きとして受けとり、キリストの贖いを信じて受け入れ、キリストと共に十字架において自らの肉の出自に死んで(=その父母を離れ)、キリストの復活の命によって新たな人として生かされることにより、キリストの御霊によって上から生まれ、神の家族として、新創造に加えられる。そして、キリストの花嫁たる教会を形成する。

主イエスは、「次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。」(ルカ10:35)と言われ、来るべき世には「男女の二元論」はもはや存在しないことを示されたのである。

だから、キリストにある新しい人には、もはや男女の区別も、国籍の区別もない。新創造には、「ただひとりの男子」(Ⅱコリント11:2)キリストがいるだけであり、キリストにあって召された男女はすべて花嫁たる教会である。

「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(ガラテヤ3:27-28)

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁をうちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に作り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14-16)

そして、聖書は、キリストこそ、万物をご自分に服従させることで、すべての被造物の二分性を廃し、万物を一つにされる方であると述べている。神は被造物全体が堕落して神への反逆のうちに滅びることを望んでおられない。しかし、堕落した被造物が神に回帰する方法はただ一つ、キリストの十字架によって贖われることにしかない。こうして、万物をご自分に従わせることで、キリストは万物を神の御手にお返ししようとしているのである。

「それは、神が御子においておあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついてに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者となったのです。」(エペソ1:9-11)

「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」(Ⅰコリント15:24-28)

こうして、すべてのものがキリストを通して、神に帰せられることが聖書の目的であり、これはただ死に至るまで神の御心に従順であったキリストを通してのみなされうることである。

被造物が神に立ち返る道は、ただキリストの十字架の死と復活の贖いを経由することにしかない。神の用意されたこの救済としての十字架を通らず、堕落して廃棄されるべき被造物が、自らの力で神に立ち帰る術はない。

しかし、グノーシス主義者は、このように、キリストこそ、十字架において「二分性の敵意を廃棄した」唯一の方である事実を認めず、時を逆行して原初的な未分化の状態に回帰することによって、神と人との統合が成し遂げられるとし、キリストも「原初的な統合者」に変えてしまう。

グノーシス主義者らは、徹底して、御言葉への従順なくして、神への回帰が成し遂げられるかのように主張する。こうして、彼らが聖書の「二分性」に反対する背景には、鈴木氏の言う「主客未分以前」へ回帰したい願望、すなわち、「創造神と被造物との区別」をなくしたいという欲望がある。

彼らの言う「男女未分化の原初的統合」も、結局は、この「主客未分以前」という欲望を意味する。ここにこそ、神によって造られた被造物でありながら、人間が「神の御心に反して、神の性質を盗み取り、単独で神になりたい」とする欲望が込められている。

フェミニズム神学者リューサーは言う、「男だけが神の像に似せられて造られ、女は男から造られたために、男性を抜きにしては、単独では完全な神の像をもたないとする聖書の教えは、女性を男性より劣った存在に貶める女性蔑視の思想である」と(『解放神学 虚と実』、pp.62-64参照)。

すでに述べた通り、この主張を推し進めて行くと、必然的に、「神だけが神であり、人類は神によって神に似せて造られたが、神との結合を抜きにしては、完全な神の像を持たないとする聖書の教えは、人類を神より劣った存在に貶める人類蔑視の思想である」という主張が出て来る。

そこで、聖書における男女の二元論に反対する人々は、結局のところ、神が唯一であり、人類は神の被造物に過ぎず、神の介在と承認を抜きに完全な存在になれず、神に属する者とみなされることはない、という聖書の真理に反対しているのである。そして、人間が神に創造されたことにより、神から分離されたという事実そのものに反対しているのである。(人類は神によって造られた被造物であるという点で、霊的には「女性」である。)

そして、グノーシス主義者は「神ががまだ「光あれ」といわれなかったとき」にまで時をさかのぼることによって、人類が神から分かたれる前の合一に回帰できるはずだと主張するのである。

しかし、そんな時間の逆行は無理な相談であり、現実を否定しているとしか言えない。そんな方法で、被造物が神と一体化しようとするのは、「小なる者」が「大なる者」と自らを同一視する高慢であり、被造物の分を超えているとしか言えない。

しかも、そこには、人類が自ら神に背いたために堕落して、自力で神に回帰する道が永久に閉ざされたという聖書の真理の否定がある。

もし新しい人であるキリストに目を向けさえすれば、上記のフェミニズム神学者やグノーシス主義者らが主張しているように、「神は自分だけを神として、人間を劣った被造物として創造した」という非難は全くあたらないことがすぐに分かろう。

グノーシス主義者らが考えているように、もし創造主である父なる神が、人間を自分よりも劣った存在にとどめておきたかったのだとすれば、独り子なるイエスを人として地上に遣わす必要がどこにあったろうか。なぜ愛する御子に人類のための贖いとして十字架の死を通らせる必要があったろうか。これらはすべて人類に対する神の果てしない愛のゆえになされたことなのである。

しかし、解放神学者や手束氏、鈴木大拙氏などは、決してキリストの十字架によって二分性の敵意がすでに廃棄されたのだという事実を見ようとはしない。彼らが最も反対しているのは、神によってしか、人間は救済され得ないという聖書の事実であり、彼らはどこまでも神の意志を抜きにして、人類が自らの力で神に至る道があるかのように主張する。

その過程で、彼らは神と人との区別、旧創造と新創造との区別を否定して、神の側からの救済としてのキリストの十字架の死を介さずに、神と人との区別を一方的に無効化することによって、神から神としての性質を盗み、神の地位を奪い、自らを神と宣言しようとしているのである。

従って、これらの人々がキリスト教の「二分性」によって不当に「抑圧されている」と訴えて、しきりに復権・擁護・救済しようとしているものは、神がキリストの十字架において完全な死の判決を下された旧創造全体としての人類なのである。

そこで、彼らの主張する「善悪を問わずにすべてを受容する母性原理の回復」というのは、結局、キリスト教は、神が滅びに定められた朽ちゆく旧創造と、堕落した旧創造が抱くすべての悪しき欲望をを罪に定めるのをやめて、これを正当化し、神の聖なる性質として認め、受け入れよ、ということなのである。

むろん、これは聖書の神に対する反逆の思想である。すでに見て来たように、グノーシス主義神話では、父なる神の同意によらずに、神の「血統」に属する命をわがものとしたいと願った「女性的属性」の欲望に基づき、父なる神を抜きにして生まれた「私生児」が、人類なのであり、人類はこの母の「過失」を修復することで、自らの出自を正当化することを、全生涯の目的として生きていることにされる。

しかし、それはどこまでも「父」の意志というものを抜きにした、人間側の身勝手な主張でしかない。仮に「母」が「父」を欺いて生んだ「子」が、「母」と一緒になって、「我々こそは神の血統に属する正統な後継者であるから、我々を神の家族として認め、家族の交わりを回復せよ」と主張したからと言って、「父」がそれを聞き入れ、この「母子」を家庭に迎え入れることがあろうか?

そんな行為は「母子」の側から「父」への反乱、神の家の乗っ取り計画、神の家族の詐称でしかない。たとえ血を分けた親子として長年同じ家に暮らしたとしても、親子の絆は絶対的なものではなく、もし子が父の訓戒や戒めに絶えず背き続けるならば、勘当されることもありえようし、子が自ら家出して親と絶縁することもありうる。

いずれにしても、父の承認なしに、家族としてとどまりつづけられる子はいないのである。そこで、もし神の家族としてとどまり続けたいならば、御言葉に服従するということが、信者の側にどうしても必要となる。

にも関わらず、グノーシス主義者はひたすら「(御言葉に)服従する」ことを拒みながら、それでも、「自分は神の正統な子だ」と主張するのである。そして、自分たちを神の家から排除した聖書の御言葉の二分性を、許しがたい傲慢かつ狭量な排他性として非難し、父なる神はこのような父性原理の残酷な「排他性」を克服して、もっとすべてを優しく受け入れる受容性を補うべきだと、神に向かって上から「説教」するのである。

そんな企ては、人間の物語としても破綻しているが、まして聖書に照らし合わせて、絶対に受け入れられることはない。このような「母子」は罰せられ、排除されるのが当然である。


 
「神秘なる母性」を褒めたたえることにより、肉欲を賛美する危険な思想

以上のように、聖書は明確に「肉によって女奴隷から生まれた子供」と「御霊によって自由の女から生まれた子供」の二種類があることを教えている。

御国の相続者は、父なる神の約束に基づいて、御霊によって生まれた子だけである。しかし、「肉によって生まれた者」は、自らの堕落した肉欲の罪が暴かれることを嫌うため、「キリスト教の御言葉の二分性」を己に対する脅威とみなし、「抑圧されている母性原理の回復」を唱えることで、己の欲望を正当化し、無罪放免しようとする。
 
解放神学者リューサーは、伝統的なキリスト教の「二分性」に対して、激しい憎悪と非難の言葉を浴びせるが、彼女がとりわけ強く反発しているのは、キリスト教が人間の肉欲を堕落したものとみなしていることである。
  

(伝統的キリスト教における)「救いとは、肉的なものを抑えることによってくるものであると解釈される。肉欲と感情の抑制、そして内的・超越的・霊的自己への逃避。食べること、眠ること、入浴さえもが、また、視覚的・聴覚的楽しみ、そして何にもまし て、一番強烈な肉体感覚である性の喜びなどが真の『悪魔の住処』とされた。文字通り、死の倫理を形成したのである。救いは死を目指しつつ生涯かけて『苦行』を実践することによって与えられる『魂の肉体からの分離』である。創造を堕落と見るグノーシス主義的思考を訂正しようとして苦心したにもかかわらず、 キリスト教はその同じグノーシス的精神性の多くをそのまま保存するにとどまった」(『解放神学 虚と実』、勝田吉太郎他著、(大石昭夫著、「解放神学の基本構造」)、荒竹出版、昭和61年、p.61-62)。


リューサーは、キリスト教は肉欲を堕落して罪深いものとみなしたがゆえに「文字通り、死の倫理を形成し」、一生かけて「魂の肉体という牢獄からの解放」を目指すしかないという、グノーシス主義と同じ罠に落ちたのだと言って、キリスト教を非難する。

彼女は「食べること、眠ること、入浴さえも<…>一番強烈な肉体感覚である性の喜びなどが真の『悪魔の住処』とされた」と嘆き、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」(マタイ24:38)といった行為に加え、「視覚的・聴覚的楽しみ」がキリスト教で罪に定められていることに異議を申し立て、巧みに「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(Ⅰヨハネ2:16)を復権させようと試みる。

しかし、聖書ははっきりと、こうした人間の一連の肉欲が、この世(悪魔)に由来するものであると告げている。

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(Ⅰヨハネ2:15-16)
 
さらに、キリスト教の救いとは、リューサーが述べているような、「肉的なものを抑えることによってくる」ものではない。キリストの救いは人間側の自己努力によって達成されるものではなく、神の恵みとして神の側から与えられるのであり、キリストの十字架の霊的死にこそ、堕落した肉に対する問題解決がある。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)
 
しかし、リューサーはキリストの十字架を見ない。そして、神の側から人類に与えられた完全な解決を退けて、キリスト教には肉欲を制する方法がないのに、肉欲を罪に定めているのはおかしいと言って、神が十字架において旧創造に下された有罪宣告そのものを不当であると主張し、この理不尽な有罪宣告のせいで、人間は自らの肉体を嫌悪し、自分の肉欲を厭いながら、もがき苦しむ状態から抜け出られなくなったのであり、キリスト教のこの不当な罪定めから人類は解放されなければならない、と主張する。

こうして彼女は、神が救済として人類に与えられたキリストの十字架の死の判決から、人類の堕落した肉を救い出そうとするのである。

従って、こうした人々が「キリスト教において不当に抑圧されている」と非難している「母性原理」とは、結局、人間の欲望そのものであり、神が十字架で死に定められた人類の古き自己と、古き人に付随するもろもろの情と欲なのである。

彼らの言う「解放」とは、「キリスト教の二分性の抑圧からの人類の欲望の解放」を意味するのであり、こうした教えを奉ずる人々は、みな己の「欲望の解禁」を主張しているのである。

だからこそ、ペンテコステ・カリスマ運動の教えの影響を受けたクリスチャンたちはみな「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」に走り、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」という話ばかりを延々と繰り返し、地上的幸福の自慢話を「信仰の証」にすり替え、己の欲望に突き進むことが神の国の到来を招致する手段であるとはき違えるのである。

こうした人々は、神がキリストの十字架で死の宣告を下された己の欲望を「神聖」とみなし、欲望を通して神に至れるという誤謬に本気で落ち込み、欲望の解禁を主張することによって、絶えず神に反逆を企てているのである。

彼らがとりわけ十字架の死の判決から解放したいと願っているのは、リューサーも書いている通り、「一番強烈な肉体感覚である性の喜び」である。

手束氏はこう述べた、
 

「しかし聖霊を示すヘブル語のルァハは女性形であるばかりか、『人間のダイナミックな生命力が表現される特別な呼吸の出来事』を意味した。これは具体的には性的興奮分娩を指しているという。」


胸が悪くなるような記述だが、こうして彼らは「奴隷の女」の抑えがたい欲望を賛美することで、自らが「奴隷の女の子」であると告白しているのである。

一つ前の記事で筆者は、手束氏の言うように、聖霊を「母なる霊」とみなせば、乙女マリアが聖霊によってイエスをみごもったのは、女性が女性の霊によってみごもったことになるが、そんな理屈が成り立つだろうかと書いた。その疑問は、グノーシス主義神話を考慮すれば解ける。

こうした人々の主張の背後には、神に対して霊的に女性である人類が、徹頭徹尾、神を抜きにして、己の力だけで神と同等になりたい、神を愚弄する形で神の創造の力を盗み取り、自分も神のようになりたい、という願望がある。

そこで、彼らが正当化し、誉めたたえているのは、結局、人類が己の肉欲のうちに自己陶酔に浸り、神を抜きに自分の力だけで神に属する子を単独で生みたいとする欲望なのである。

このような教えを奉じた人々は、物事を深く考える力を失い、自分を満たしてくれそうなあらゆる「良さそうなもの」に無分別に飛びいては、これと霊的姦淫を繰り返すようになり、己の肉欲を賛美しながら、軽薄で愚かな感覚的・情緒的な享楽に陶酔し、あらゆる汚れた行いに手を染めながら、やがて善悪の感覚そのものを完全に失って、神への反逆に至る。まさに無分別で見境のない「八方開き」の状態に陥るのである。

こうした人々の異様な自己陶酔の様子は、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが「聖霊のバプテスマ」と称して、理性を失った恍惚状態に陥っている様子を見ても分かるであろう。彼らの中にはすでにその自己陶酔の結果、己を神と宣言し、神属人類を自称する者たちもいる。

主イエスは言われた、

「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪をも赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:28-29)

聖書の「二分性」に逆らって、己の肉欲を誇り、「神秘なる母性」を崇拝し、神の戒めを守らないのに、父なる神の子供を名乗って、十字架を否定してまことの神への反逆を正当化しているペンテコステ・カリスマ運動が、聖霊を冒涜する教えに該当しない理由があるはずもない。
 
この運動に限らず、「キリスト教に母性原理を回復せよ」と主張する教えは、すべてキリスト教と東洋的・グノーシス主義的異端との混合であり、人類が聖書の御言葉の「二分性」であるキリストの十字架を退けて、己の欲望を誇り、自らの欲望を通して神に到達しようという偽りの教えである。

聖書の御言葉は完全であり、これにつけ加えようとする者も、取り除く者も、災いを受ける(黙示22:18-19)。聖書の御言葉の二分性を否定すれば、待っているのは破滅だけである。
 
このように反逆的で汚れた秩序転覆と肉欲を賛美する教えには、絶対に関わるべきではなく、このような教えを信奉した結果、自らを神と宣言するに至った人々に、悔い改めの余地は残されていないであろう。
 
そこで、このような異端とそれを奉ずる人々からは、全力で遠ざかり、永遠に訣別するだけである。

わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。」(黙示17:4-5)

<続く>


ペンテコステ・カリスマ運動のグノーシス主義的三位一体論―グノーシス主義の基本構造⑦

② (続き) 

・カリスマ運動の異端的な「父・母・子」の三位一体の家族モデルのグノーシス主義的起源

さて、前稿では、プロテスタントの牧師であり、カリスマ運動の指導者である手束正昭氏の主張を取り上げて、同氏が牧師夫妻を「霊の父母」とし、信者をその「子」とする家族モデルが、統一教会において指導者夫妻を「真の父母」と崇め、信者を彼らの「子」とみなす家族モデルにそっくりであること、また、手束氏の述べている家族モデルは、フェミニズム神学に基づいて同氏が聖霊を「母なる霊」とみなす「父・母・子」という異端的な三位一体論から導き出されたものであることを確認した。
 
聖書の従来の解釈において、万物を創造したのは「父なる神」であり、聖霊が「母なる霊」とみなされて生命の根源とされることはない。しかし、東洋思想においては、万物の生命の源は、母性原理にあるとされ、母性原理の象徴である「神秘なる母性(母なる混沌)」が賛美される。

そこで、統一教会であれ、ペンテコステ・カリスマ運動のようなキリスト教を自称する内部の異端であれ、「キリスト教に母性原理を回復せよ」という主張は、すべて東洋思想とキリスト教との合体を目指しているとみなせる。それは次回に述べるように、国家神道の目的でもあった。

このように、キリスト教と東洋思想との合体によって生まれる混合物こそ、悪魔の悲願としての聖書における終末のバビロンの姿なのである。
 
終末における世界規模での背教の象徴として聖書の黙示録に登場する大淫婦バビロンは、「混ぜ合わせた杯」(黙示18:6)を持っていることからも分かるように、混合の教えを意味する。大淫婦バビロンとは、キリスト教と非キリスト教的思想との混合体であり、ドストエフスキーの描いた大審問官のように、一見、キリスト教に偽装しつつも、本質的にはキリスト教に敵対する思想を内に秘めており、キリスト教を内側から転倒させ、食い破り、瓦解させていく効果を持つものである。
 
東洋思想は、太古から存在するグノーシス主義と密接な関係がある。グノーシス主義という名称自体は、初期キリスト教の異端として名付けられたものであるが、グノーシス主義的な思想はキリスト教の登場以前から存在していた。

グノーシス主義は旧約聖書の否定の上に成り立っており、この教えにおいては、聖書の創造神である「父なる神」は、悪神(デーミウルゴス、ヤルダバオート)として侮蔑の対象とされる。そこでは、聖書の創造神は愚かな悪神であるがゆえに、他の「神」を否定して自らを「唯一の神」と称するようになったとされて、この「偽りの神」よりも上位に「真の神」(真の至高者)が存在し、その至高者に回帰することが人間の「救済」であるとみなされる。

グノーシス主義とは、このように聖書の秩序を完全に転覆させて、「唯一の神」の概念を否定し、聖書の神に対する反逆を正当化する教えである。
  
そこで、グノーシス主義とは、聖書に照らし合わせると、その起源は蛇(サタン)によって人類に吹き込まれた悪魔的な思想にあると考えられ、その秩序転覆の教えが、古代バビロニアなどのオリエント文化において発展し、東洋思想や文化の中に保存されて、今日に至っているものとみなせる。

グノーシス主義それ自体は宗教ではなく、厭世的・悲観的な世界観であり、時代や社会や宗教の枠組み超えていつでも生じうるものであり、さまざまな宗教に形を変えて入り込み、その宗教を内側から乗っ取り、変質させてしまう効果をも持つ。
 
ペンテコステ・カリスマ運動は、このグノーシス主義的思想がキリスト教に入り込んでできた混合物の一つである。

その証拠の一つとして、手束氏のようなカリスマ運動指導者が提唱している「父・母・子」の異端的三位一体論は、グノーシス主義に原型が見いだせるのである。

以下で引用する荒井献氏によるグノーシス主義神話論では、グノーシス主義的な三位一体論が解説されているが、そこでは、グノーシス主義において「真の神」とされる至高者「原父(プロパテール)」(または「霊(プネウマ)」)は、原初、女性的属性(「思い(エンノイア)」や「知恵(ソフィア)」や「魂(プシュケ)」といったギリシア語の女性名詞で表される)と対をなし彼らの「子」と共に「三位一体」をなしていたという。

ちなみに、「男女が対をなす」という考え方は、グノーシス主義に特徴的であり、この考えに従って、グノーシス主義においては「真の神」も男女の対をなすとみなされる。それが「子」と共に原初は「父・母・子」の「三位一体」を形成していたというのである。

ところが、グノーシス主義神話においては、ある「事件」が発生する。女性的属性の中でも最下位である「ソフィア(知恵)」が、単独で子を生みたいと願い、至高者の命令なくして、また自らの「伴侶」である男性人格を抜きに、自ら至高者を「知ろう」とした。その過ちの結果として、彼女は上界から転落しかかり、中間界に醜い悪神であるデーミウルゴスと諸々の権威と支配を産んだ。さらにそのデーミウルゴスによって、下界に狂ったこの世と堕落した肉体を持つ人間が生まれたという。これはグノーシス主義において一般に「ソフィアの転落」と呼ばれている出来事である。

つまり、グノーシス主義においても、男女のペアが存在しないことには子が生まれないという前提があったようで、女性的属性であるソフィアが、自分だけで子を生もうと願ったことは、「過失」とされている。しかし、グノーシス主義では、ソフィアは同情されても、罰せられることはない。そして、人間の内にはこの「母」を通して、「真の神」である「霊の欠片」が宿っているので、人間は本来的に、創造神よりも優れた存在であり、創造神はその「真実」を人間の目から不当に隠しているがゆえに、人間は無知の中に閉じ込められて悪神の道具となって支配されているだけで、人間は真の神についての「叡智」を告げる「真実の開示者」に出会うことによって、自らの出生をめぐる「真実」を悟り、堕落したこの世と悪神である創造神を否定的に越えて、魂の本来の故郷である上界に戻って行く、それがグノーシス主義的な「救済」だとされるのである。

キリスト教における「救済」とは神の側からの恵みであり、神の介在なくして成り立たないものであるが、グノーシス主義における「救済」とはすべて人間が自ら「叡智」に目覚めることにより自己の出自を悟り、本来的自己に回帰することが「救済」とされるのである。
  

「グノーシスの神話論
 <略>
 ――はじめに上界に、至高者(「原父(プロパテール)」「父(パテール)」または「霊(プネウマ)」があった。彼は女性的属性(「思い(エンノイア)」(「知恵(ソフィア)」または「魂(プシュケ)」)と対をなし、彼らの「子」と、いわば「三位一体」を形成していた(この三体は<略>「父」と男女二体の「子」から成り立っている場合もある)。

 女性的属性は至高者(または男性の「子」)を離れて、上界から中間界へと脱落し、ここで「諸権威(エクスウーシアイ)」あるいは「支配者たち(アルコンテス)」を産む。彼ら――とりわけその長なるデーミウールゴスーーは、至高者の存在を知らずに、「母」を凌辱し、下(地)界と人間を形成する。こうしてデーミウールゴスは「万物の主」たることを誇示し、中間界と下界をその支配下におく。しかし至高者は、女性的属性を通じて人間にその本質(霊)を確保しておく。

デーミウールゴスの支配下にある人間は、自己の本質を知らずに、あるいはそれを忘却し、「無知」の虜となっている。人間は自力でこの本質を認識することができない。そこで至高者は、下界にその「子」を啓示者として遣わし、人間にその本質を啓示する。それによって人間は自己にめざめ、自己を認識して、「子」と共に上界へと帰昇する。中間界と下界(宇宙全体)は解体され、万物は上界の本質(霊)に帰一し、こうして「万物の更新」が成就する。」

(『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社、1994年、p.103-104。
改行・ふりがな等は読み見やすさを考慮して筆者が変更を加えた。)


 



・自ら神のようになり創造の力を得たいと願った「女性的属性」の欲望を正当化するために作られたグノーシス主義神話


しかしながら、以上のような神話を読めば、グノーシス神話における女性的属性「ソフィア(知恵)」は、大した悪者の反逆者だったのではないかという疑問が生じざるを得ない。以下の記述を読んでも、彼女を「過失」へと突き動かしたのは、「原父」の力によらず、自分だけが単独で「原父」と同じように、自分に似た生命を創造する力を得て、神のようになりたいという願望であったことが分かる。

セツ派のグノーシス文書である『ヨハネのアポクリュフォン』には、ソフィアの「過失」の動機が次のように描かれている。

「今度は、『見識の知恵』でありアイオーンでもあるソフィアが、『見えざる霊』と『先住の知識』を思い抱きながら、自らの内に一つの考えを宿した。自分と似た姿のものを生み出したいと思ったのだだが、それまでも賛同することのなかった『霊』の同意もなければ、斟酌してくれる伴侶もいなかった。ソフィアの男性格は賛成しなかった。ソフィアは伴侶を見いだしておらず、『霊』の同意もなければ、伴侶の知識もなしにこの考えを抱いた。そして、子を産んだ。不屈の力を内に秘めたソフィアの思い付きは無益には終わらなかったのだ。だが、伴侶なしに彼女が生み出したものは不完全で彼女に似ていなかった。母に似ていないだけでなく醜かった。(Ⅱ・9-10) 『原典、ユダの福音書』、ロドルフ・カッセル、マービン・マイヤー他著、日経ナショナル ジオグラフィック社、2006年、p.171から引用、下線は筆者による)


 
ソフィアがどうやって単独で子を産むに至ったのか、ここには具体的な記述がないが、考えられることはただ一つ、ソフィアが「原父」の子を生むために、彼の創造の力を何らかの方法で盗んだということである。そうして産まれたのが醜い悪神ヤルダバオートであり、彼女はその自分に似ても似つかぬ醜い子を見ると、上界の外へ投げ捨てたという。

こうして、グノーシス主義ではソフィアの過失がすべての悲劇の原因となって、あらゆる出来事に秩序転覆と反逆の思想が満ち溢れるようになるのだが、その転覆行為に一切、責任が追及されることがない。上記の「過ち」ゆえに、「ソフィア」は上界から転落しそうになるが、彼女は激しい後悔のゆえに同情を受けて上界からの追放を免れる。

グノーシス主義神話においては、霊的存在には序列があるため、本来、最下位の女性的属性が、最上位の「真の神」に対して越権行為に及んだことは「反逆」であるはずだが、それも後悔すれば罰せられずに赦されてしまう。さらに、グノーシス主義神話においては、男女の対が完全であると主張されているにも関わらず、女性的属性であるソフィアが自分一人だけで子を生んだわけだから、それ自体が神話そのものを崩壊させるような矛盾である。

しかし、グノーシス主義では、こうして秩序を揺るがしたソフィアとその産んだ子らが罰せられ、退けられることによってこの問題が片づけられる、ということにはならない。

むしろ彼女の「過ち」によって、人間には逆に「神聖な霊の欠片」が伝わることになったので、人間がその「神聖な自己」に目覚めて本来的故郷に帰ることによって、ソフィアの過ちが「修復される」のだとされ、彼女の過ちは正当化される。
  

「神聖なる世界とその下に位置するこの世界の欠乏はすべて『知恵』が犯した過ちに始まったものであり、人々の内に宿る光が再び神聖さを取り戻せば、ソフィアの過ちは修復され、完全なる神聖さが実現されるのである。」(同上、p.173)


こうして、グノーシス主義神話においては、人間とは自らの出生の「真実」を知ることによって「母の過ちを修復する」ためにこそ存在しているのだと言って過言ではない。それによると、人類は、本来は彼らが悪神とみなされている創造神と同様に、真の父の同意なしに、母の過失によって、「望まれない子」として「母子家庭」に生まれて来たことになるが、その人類が自分の出自を正当化して、自分は創造神ではなく「真の父としての至高者の子供である」と自称して、「真の父」に回帰することによって、「母の過ちが結果的に修復される」のだという。

こうして「子」が「母」の過失を正当化し、母の願いを正当化するための道具となって生きることを最大の目的として作り出された物語が、グノーシス主義だと言えるであろう。



・「母」を守るのが「子」の使命とする転倒した東洋思想

以上のようなグノーシス主義神話の特徴を踏まえた上で、改めて東洋思想の思想家である鈴木大拙氏が、東洋思想においては「母」を守ることが根源にある、と述べていることを考えてみると興味深い。

鈴木氏は述べる、
  

「万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」
(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、p.13-14、太字、下線は筆者による)


鈴木氏の言葉から考えられることは、もし「母」が「子」によって守られねばならないほどに弱い存在でなければ、あるいは「母」が絶えず何者かに脅かされているという前提がなければ、「母を守る」という言葉は、決して生まれて来ないという事実である。

むろん、「守る」という言葉の中には、保存するとか、継承するとか、崇め、奉るという意味もあろうが、それだけではない。たとえば、「母を守る」とは言っても、「父を守る」とは言わないからだ。

特に、聖書の「父なる神」は全知全能であり、人間によって守られなければならないような弱い存在ではない。むしろ、「父なる神」の方が、信ずる者を日々「子」として力強く守って下さるのである。聖書の秩序は一貫して「強い者である親が弱い子供たちを守る」というものである。

ところが、東洋思想はそれとは逆で、弱い立場にある「子」が、自らよりも強い者である「母」を守ることを求めるのである。

手束氏は、心理学者河合隼雄氏の言葉を引用して、こう述べている。
 

「河合隼雄氏は日本社会の様々な病理的現象の背後には、父性が欠如し、母性が過剰になっているとことにあると分析している。さらに遡って河合氏は、このような日本の母性文化の発生の理由を、日本の宗教の母性的性格に見ている。日本人は『父なる宗教を知らぬ国民』なのである。」(『教会成長の勘所』、p.74-75)


もし河合隼雄氏の言うように、「日本人は父なる宗教を知らぬ国民』」であるならば、鈴木氏が述べる「母を守る」という言葉も、東洋思想の心理的特徴が本質的に父を持たない「母子家庭」であるか、もしくは、「母」が「父」に比べて圧倒的に弱く、「母が父によって不当に脅かされている」という被害者意識を前提に成立しているものと考えられてならない。

手束氏が『教会成長の勘所』でこう述べていることを思い出そう。
 

今日の『フェミニズム神学』の評価すべきところは幾つかあるが、そのうちの一つはこれまで父性的男性的な傾向の強かったプロテスタント的キリスト教のあり方に批判を加え、長い間隠され抑圧されていた母性的女性的な要素を回復しようとしたことにある。」(同上、p.77-78)


鈴木大拙氏の言う「母を守る」という言葉もこれと同じで、「キリスト教の父なる神の二分性の脅威から東洋的な母性を守らなければならない」という前提あってこその言葉のように思われる。

むろん、鈴木氏はキリスト教社会に生きておらず、リューサーのようにキリスト教がもたらす女性蔑視により被害を受けたと主張するわけでもなく、また、日本において東洋思想が抑圧されたマイノリティに追いやられている現実もないため、鈴木氏が一体、「母を守る」という言葉によって、何を具体的に指していたのか、文脈は明らかでない。

しかし、鈴木氏自身の主張全体を振り返っても、東洋思想における「母」を脅しうる存在とは、キリスト教の父性原理の二分性を置いて他にないものと考えられる。

そして、キリスト教の父性原理とはすなわち聖書の御言葉なのである。

鈴木氏の言う「母を守る」とは、以上に挙げたような、「原父」に逆らった母ソフィアの過失を「修復」することがその「子」である人類の使命だ、とみなすグノーシス主義の主張を考慮すると、より理解しやすい。

鈴木氏が「善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。」と主張しているのも偶然ではない。

彼らが目指しているのは、「父」だけが最高の権威者で、他の者はみな「父」に従わなければならないという制約の存在しない、「母」が「父」に等しい力と権威を持ち、「父」の御言葉に縛られる必要がなく、これに背いたからと言って罪に定められることもなく、「善悪」の判断自体が存在せず、どんなものでも受け入れ、どこからでも入って来られる世界であり、言い換えれば、「母」の欲望が無制限に肯定され、正当化される世界なのである。

つまり、こうした人々が否定しようとしているのは、人は聖書の御言葉に基づいて、父なる神の意志に従わなければならないという聖書の事実、それに背けば、罪に定められるという事実なのであり、彼らの言う「キリスト教の二分性の抑圧から母性原理を回復せよ」という主張は、結局、神に背いたために、神の家族から疎外された母子(=人類そのもの)を、神の意志に反して、神の家族に加えようという企てを指していると言えよう。

いずれにしても、鈴木大拙氏、手束正昭氏、リューサーなどの面々が、全く異なる立場から、キリスト教に対する同様の批判を提起していることは興味深い。そこで、こう言えるのではないだろうか。キリスト教徒を名乗っているかどうかに関わらず、また性別の如何や暮らしている国や社会の形態に関わらず、ある人々にとっては、キリスト教の父性原理の二分性それ自体が重大な脅威と映り、彼らはどうしても、キリスト教の「二分性」を、この宗教の「欠点」として告発し、これを乗り越えるために、キリスト教に母性原理を回復せよ、と訴えずにいられないのである。

しかし、彼らが「キリスト教の父性原理の二分性が母性原理を抑圧している」と述べる時、それは結局「聖書の御言葉の二分性が人類全体を脅かしている」と言っているに等しいのである。

こうした人々は、聖書の「二分性」につまづいているのだが、つまづいた自分自身を反省して自己吟味するのではなく、むしろ、自らをつまづかせたキリスト教の側に「重大な欠点」があって、キリスト教がそれを克服せねばならないと述べることで、キリスト教に「有罪」を宣告する。

そうした告発が、キリスト教界の内側から出てくるときには、それは解放神学や、ペンテコステ・カリスマ運動や、あるいはカルト被害者救済活動のように、うわべはキリスト教の装いをまとって、キリスト教の中から始まった自己批判や、改革運動のような形を取る。

しかし、彼らの主張は「聖書の御言葉のみ」に基づく信仰を否定して、本来、キリスト教に異質な思想(異端)を持ち込むことであるから、必然的に、それはキリスト教を内側から変質させて、キリスト教を内側から食い破って、破壊しようとするキリスト教への敵対運動になる。

他方、キリスト教の「二分性」への告発が、キリスト教の外側から発せられる時には、それは鈴木大拙氏の主張や、次に述べる国家神道の理念のように、明らかにキリスト教とは異なる(東洋)思想を公然とキリスト教と合体させよ、という主張になる。

だが、これらのキリスト教批判は、外側からの批判であれ、内側からの批判であれ、本来的には同一の起源を持つのであり、それは以下に述べるように、キリスト教を変質させてグノーシス主義的原初統合を実現しようという試みに他ならない。

彼らが最も激しく逆らっているのは、「わたしの他に神はない」とする聖書の唯一の神という概念である。彼らは、父なる神が単独で神であるという事実に我慢がならず、何とかして、唯一の神から神としての性質を盗み取りたいのである。それを、キリスト教における父性原理の「二分性」への批判と、「母性原理の回復」を主張することによって成し遂げようとしているのである。

つまり、聖書の御言葉を否定して、神の意志を抜きに、人類が単独で己の欲望を成し遂げて、神に至ることを正当化したいという欲望こそ、
おそらく、鈴木大拙氏の言う「母を守る」ことの意味ではないかと考えられる。

「唯一の父の意志に縛られず、従わないで良い世界、御言葉の切り分けを否定して、どんなものでも主人として受け入れることが可能な世界」、だからこそ、「八方開き」なのである。

だとすれば、そのような無分別な「母」から生まれて来た「子」とは、まさに父不明の「父なし子」、「私生児」ということにしかならないであろう。
  
だが、彼らには己が罪に定められることが我慢できない。「母の過ち」を擁護することによって、何とかして自らの出生を正当化したい。そのためにこそ、彼らは「キリスト教には母性原理の回復が必要である」と唱え、自分たちが「父なる神」の正統な家族であるかのように訴えて、神の家の乗っ取りを企むのである。

そのような理屈を正当化するために、彼らは「キリスト教にグノーシス主義的な「男女の原初的統合」を「回復」することが必要である」と主張するのである。

こうして結局、東洋思想もその根底にはキリスト教の唯一の神への敵意、聖書の御言葉へ敵意と否定を宿していることになる。これは決してキリスト教と別個に発生し、発展して来た思想ではなく、その起源は、グノーシス主義なのである。

<続く>


異端思想に共通する地上天国建設のための家庭モデルーグノーシス主義の基本構造⑥

➀ 文鮮明夫妻を「真の父母」とし、信者が「子」となって「神の家族」を形成することで地上天国が実現すると述べる統一教会の「全人類一家族理想」

統一教会は、2015年に「世界基督教統一神霊協会(統一教会)」というかつての名称から、「世界平和統一家庭連合」と改称された。この名称だけを見ても、いかにこの宗教が自らメシアと崇めている「真の父母様」である文鮮明を中心とする家族モデルを、信者全体の信仰生活の極めて重要な拠点として思い描いているかがよく伝わって来る。

さて、統一教会が理想と思い描いている信者の家族モデルとはどのようなものかは、以下の統一教会信者とおぼしき人物のブログの抜粋を通してもよく理解できる。
 

ブログ「原理に帰りましょう」
記事
「全てを許してやりたいのが親の心情」から抜粋

「神様の創造理想は、実体を持った人間を創造し、人間に責任分担を与え、愛を完成すること、そして人間と共に地上天国、天上天国を完成することでした。しかし人間始祖アダムとエバが堕落することにより、神様の理想とは似ても似つかない地上地獄、天上地獄を形成してしまいました。

 真の愛による真の生命の創造で神様の真の血統が繁殖するはずでしたが、偽りの愛による偽りの生命が誕生し、サタンの血統を繁殖してしまったのです。

 その血統を転換するために、メシヤすなわち 真の父母 を神様は送って下さいました。
 
私たちは真の父母を迎え、同じ神様の血統を共有する全人類一家族理想を成就しなければならないのです(以下、引用中の太字は全て筆者による)



統一教会では、宗教指導者の執り行う合同結婚式を通じて信者が自らの家庭を築くことにより、現実には全く血のつながりのない宗教指導者の「聖なる血統」を霊的に継承することができ、それによって信者は罪から清められて「神の家族」の一員に加えられると教えられている。

その教えによれば、文鮮明は人類を罪の堕落から救うメシアであり、信者たちは、この宗教指導者の夫妻を「聖なる父母」(「真の父母様」)として崇め、文鮮明の「子供」となって、「お父様」の願いを実現するために生きることこそ、信仰生活の基礎であると信じている。

おそらくは、信者自身の家庭にも同様の構図があって、信者が「真の父」である文鮮明の願いを体現して生きるのと同じように、信者の子供も、親に服従し、親の願いを体現して生きることが求められているのであろう。

このように「真の父母」によって結ばれる「神の家族」である信者の家庭を地上で増やしていくことで、「全人類一家族理想」が成し遂げられ、地上天国が成就すると、彼らは言うのである。「全人類一家族理想」という用語からも分かるように、全人類を統一教会の信者として、「真の父母」を中心とする「一つの家族」に結びつけることそ、彼らのミッションとなのである。

このように、信者が宗教指導者の夫妻を「聖なる両親」と仰ぎ、その「子供」となって彼らの教えに帰依することで、この世の堕落から救われて、聖なる神の家族の一員に加えられ、それによって「神の家族」が拡大して行くという考えは、異端思想のほとんどに共通して見られる特徴である。

そのような教えは、宗教指導者の教えに従うことで、信者の家庭が清められ、「聖家族」が地上で増え広がって行くことにより、やがて全人類がこの一つの神の家族に連なり、地上天国が成し遂げられると教える。

「全人類一家族理想」――すなわち、聖書によれば目に見えないものである神の国を、目に見える地上の王国に置き換え、地上天国を成し遂げるために、全人類を一つの教え、一組の
「真の父母」に帰依させて、「一つの家族」に結びつけること――それこそ、異端思想の時代を超えて変わらない普遍的な目標であり、悪魔が夢見るまことの神の国の模倣としての「地上天国」の「理想」なのである。



② 牧師夫妻を「霊の父母」とし、信者が「子」として牧師夫妻を崇めて「一つの霊的家族」として交わることが「教会成長の勘所」だとするプロテスタントにおける異端思想

驚くべきことに、そのような異端的な教えは、プロテスタントにも入り込んでいる。かつて記事「クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(1)」で記したように、カリスマ運動の指導者である日本基督教団高砂教会の手束正昭牧師は、著書『教会成長の勘所』において、クリスチャンは、自分の属する教会の牧師夫妻を「礼典的・象徴的存在」として崇め、牧師夫妻を「霊の父、霊の母」として、これに「子」として従うべきであるという、統一教会とほとんど変わらない家族モデルを提唱している。

「クリスチャンには三人の父がいると言われる。まず第一には、言うまでもなく、『肉親としての父』である。次に、信仰の対象としての『天の父』、そして第三には、『霊の父』である牧師である
(『教会成長の勘所』、手束正昭著、マルコーシュ・パブリケーション、2003年、
p.74)



むろん、記事でも記して来たことであるが、聖書には牧師を「霊の父」として崇めることを奨励する記述は全くないどころか、それは聖書が逆に明確に禁じている行為である。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師は、ただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、すなわち、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

しかしながら、手束氏は聖書の記述などお構いなしに、
牧師夫妻を「霊の父母」とする家族に信者が属して交わることこそ教会成長論の勘所だと説き、統一教会とほとんど変わらない「リバイバル」という地上天国の夢、一家族理想に邁進して行くのである。


・異端的な「父・母・子」の三位一体論に基づくプロテスタントにおける「母性原理回復」の試み

手束氏がこのような「霊の父母子」という家族モデルの提唱に至ったその背景にあるのは、同氏による異端的三位一体論である。

手束氏はフェミニズム神学者らの主張に基づいて、聖霊を「母なる霊」とみなすことで、父なる神・聖霊・子なるイエスの交わりを、「父なる神・母なる聖霊・子なるイエスの交わり」としてとらえる異端的な三位一体の解釈に至った。(このことは記事クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(2)でも触れた。)

つまり、手束氏は、三位一体を「父・母・子」とみなす異端的な解釈にならって、信者らも、「霊の父母」である牧師夫妻を頂点に、「一つの霊の家族」となるべきであり、その交わりが成し遂げられることによって、教会が成長して行く、と述べるのである。そのようにして成長する教会が数多く現れることが、リバイバルの秘訣であると言うわけである。
  

三位一体の神ご自身が『父性的存在』と『母性的存在』と『子的存在』の交わりとしてあられるならば、当然教会においても、このような交わりが必要であり、そのような交わりが成就するときに、教会は健全となり、安定性を持ち、従って成長していくことになるのではなかろうか。

 パウロはテモテを『愛する子』(第二テモテ一・二)と呼んでいる。牧師や牧師夫人にとって、信徒は『愛する子』であり、『霊の子』である。信徒にとって、牧師は『霊の父』であり、牧師夫人は『霊の母』である。ここにおいて、『神の家族』(エペソニ・十九)であり、『霊の家族』である教会は成立する。

だとするならば、牧師は父性原理の体現者として信徒を教え導いて秩序付け訓練することに秀でなくてはならないし、牧師夫人は母性原理の具現者として、信徒を受容し、慈しむことのできる人でなくてはならない。このとき、教会は落ち着いた安定性を得、また信仰において成熟していくことになるのである。このような雰囲気を持つ教会には、必然的に多くの人々が集まってくるのである。」
(『教会成長の勘所』、p.79)


  
それだけでなく、手束氏がこのような「父・母・子」という異端的三位一体の解釈に基づき、牧師夫妻を「霊の父母」、信徒を「霊の子」とする家族モデルを提唱しているのは、それによって、「キリスト教に母性原理を回復するため」という目的があることも見逃せない。

プロテスタントがカトリックの堕落と腐敗に抗議して、これと訣別すべく生まれたことは知られているが、手束氏はまるで歴史を逆行させるように、カトリックには聖母マリア崇拝がもたらされたことによって、多少なりとも母性原理が回復されたが、聖書の御言葉だけを中心として、マリア崇拝を退けているプロテスタントには、御言葉に基づいて、善・悪を峻別する「分割」、「切断」、「二分」という父性原理ばかりに重きが置かれ、母性的な受容性がなくなり、その結果、プロテスタントは安定や健全さの欠ける、人間を精神病理に追い込むような、「極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまった」と嘆く。

「著名な心理学者河合隼雄氏によると、父性とは『切断する』ことにその特性を持っている。物事を上と下に、善と悪に、主体と客体に分類して、秩序付けや成長を促していく。他方、母性とは『包含する』ことにその特性があり、すべてのものを良きにつけ悪しきにつけ受容していくのである。

人間が精神的に健全に成長し成熟していくためには、どうしてもこの父性原理と母性原理のバランスが必要なのであり、どちらかに偏重すると、いろいろな点で不健全さ、不安定さを免れ得ない。河合隼雄氏は日本社会の様々な病理的現象の背後には、父性が欠如し、母性が過剰になっているとことにあると分析している。さらに遡って河合氏は、このような日本の母性文化の発生の理由を、日本の宗教の母性的性格に見ている。日本人は『父なる宗教を知らぬ国民』なのである」(同上、p.74-75)


 

「ところで、<略>その後のキリスト教の歴史においては、どちらかと言うと、母性的要素がことさら抑えられてきたように思える。特に我らプロテスタント教会はその感が強い。

カトリック教会の場合は『マリヤ崇拝』を導入することによって、何とか父性の偏重にバランスをとろうとした努力がうかがえるのであるが、プロテスタント教会は“聖書のみ”の立場から、聖書からは導き出し得ない『マリヤ崇拝』を廃棄せざるを得なかったのである。その結果、プロテスタントは、<略>極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまったのである。

しかしそこには人間性の安定や健全さを求めることは難しく、従って、プロテスタント国においては精神的な病を患う人々がより多く排出されることになったのである。父性というのは、上と下、善と悪を峻別して、秩序立てていこうとするので、どうしても心理的葛藤が起こりやすいからである」(同上、p.76-77)



このような手束氏の主張は、これまでも何度か言及して来たように、聖書の御言葉の「二分性」をキリスト教の「短所」として非難する仏教学者・禅の指導者鈴木大拙氏の主張にそっくり重なっている。手束氏は自身がキリスト教徒を名乗っており、プロテスタントの牧師であるにも関わらず、仏教学者の主張に歩調を合わせるかのように、プロテスタントの聖書の御言葉中心主義を否定的なものとしてとらえ、善悪を峻別する御言葉の「二分性」を、人間にとって不都合なもの、人間を狂わせる、精神病理に追い込む不健全なものとみなし、この「病理的な弱点」を克服するために、プロテスタントには、善悪を問わずすべてを受容するような(東洋的な)母性原理の回復がぜひとも必要であるとして、そのために「母なる聖霊」や「霊の母」としての牧師夫人論を持ち出すのである。



・「創造」や「生命を与える」力の源を「父なる神」ではなく「女性原理」にあるとするフェミニズム神学の誤り
  
ところで、一体、フェミニズム神学とは何なのであろうか。
手束氏の以下の文章からは、聖霊を「母なる霊」とみなす異端的三位一体の解釈が、解放の神学の一派であるフェミニズム神学の強い影響を受けて生まれたものであることがよく分かる。
そして同氏が、フェミニズム神学がキリスト教が父性原理のうちに長い間、抑圧して来た母性的・女性的な要素を回復すべきと主張したことを、高く評価している様子も伺える。
 

「『父なる神』と『母なる聖霊』

 今日の『フェミニズム神学』の評価すべきところは幾つかあるが、そのうちの一つはこれまで父性的男性的な傾向の強かったプロテスタント的キリスト教のあり方に批判を加え、長い間隠され抑圧されていた母性的女性的な要素を回復しようとしたことにある。<略>

フェミニズム神学の論者たちは言う、『聖霊は女性ではないのか』と。従来、三位一体の一位格である聖霊もまた『父なる神』『子なるキリスト』に続いて、男性的人格として見なされてきた。
しかし聖霊を示すヘブル語のルァハは女性形であるばかりか、『人間のダイナミックな生命力が表現される特別な呼吸の出来事』を意味した。これは具体的には性的興奮と分娩を指しているという。

しかも創世記の冒頭の天地創造の物語において、創造を直接的にもたらした神の言葉の前には、『神の霊』(ルァハ)が働いていたのである。さらに、『新しい存在』(新しい被造物)であるナザレのイエスの誕生に際しては、聖霊が介入している。『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう』(ルカ1:35)。

つまり、聖霊の中心的な働きは創造や生命を与えるということにあるのであり、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。このように見てくると、三位一体の教義も、新しい視点の下に解釈していくことが可能となる。すなわち、『父なる神』と『母なる聖霊』によって生み出されたのが『子なるキリスト』であり、三位一体は神の家族的象徴性を担っているということになる」(同上、p.77-78)

 

しかし、すでに書いたことであるが、従来の神学においては、聖霊はギリシア語では“pneuma”(中性名詞) 、「性を持たない人格」として扱われて来た。また、ラテン語では“Spiritus Sanctus”(男性名詞)、他の言語においても、男性か中性のどちらかの人格とみなされ(たとえば、露語 Святой Дух 男性名詞)、少なくとも、フェミニズム神学を除き、従来の神学上、女性人格とみなされることはなかった。

聖書を見ると、「聖霊」は確かに「息」と密接な関係にあり、命を与えるという役割を担っていることが分かる。創世記において、神が人を創造された時、神は人に息を吹き込まれることにより、人に命(霊)を与えられた。

「その後、神であるは、土地のちりで人を形作り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)

しかし、アダムに吹き込まれた命は永遠性がなく、アダムは罪によって堕落したため、死が人類に入り込んだ。しかし、キリストが人となられ、十字架の死と復活を通られたことにより、「最後のアダム」であるキリストを信じる者は、永遠に滅びることのない、神の非受造の命としてのキリストの御霊を受けることができる。

キリストの御霊は、命を与える源であるだけではなく、キリストご自身の人格と一つに結びついている霊である。主イエスは弟子たちに息を吹きかけて、この永遠に命なる御霊を受けるように、と言われた。これは信じる者に新しい命がもたらされたことを意味する。


「聖書に、「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」(Ⅰコリント15:45)

「イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけられて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:21-22)


このように、確かに、聖霊には「命を与える霊」としての役割がある。しかしながら、だからと言って、果たして、手束氏の言うように、聖霊を女性人格とみなすことが可能なのか。手束氏は聖霊を女性人格とみなす根拠としてこう述べる、「聖霊の中心的な働きは創造や生命を与えるということにあるのであり、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。」と。

多くの原始宗教において、女性は、生命、創造、多産、豊穣などの象徴として扱われて来た。しかしながら、我々は、原始宗教の固定概念に立脚して物事を考えているわけではないので、先入観にとらわれることなく、よくよく冷静になってこの問題を考えてみたい。

果たして、フェミニズム神学の言うように、「創造や生命を与える」行為は、「勝れて女性的特徴」なのであろうか?

筆者の観点から見ると、解放神学というものは、聖書を裏返しにして、神と御言葉に反逆する秩序転覆の思想である。解放神学については、記事「偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(10)」を含む、いくつもの記事を書いて来たので、そちらも参照されたいが、フェミニズム神学も、解放神学の一派である。

フェミニズム神学に限らず、フェミニズムという思想そのものが、男性(父性原理)に対する強い嫌悪感に基づいて、これに対する反発から、母性・女性原理を高く掲げるという構造になっている。これは聖書の説く男女の秩序を転覆させる思想であり、東洋思想(グノーシス主義)とも密接な関係があると筆者はとらえている。

だから、先入観に惑わされずに、この問題をよく考えてみる必要がある。聖霊に性を見いだすかどうか、という問題を脇に置いても、筆者の目から見ると、命を与える役目は、あくまで男性にあるように思えてならないのである。女性は、これを受ける器である。女性は、分与された命を受け取り、これを自らの命と結びつけて新しい生命として養い、世に送り出すことはできても、女性だけがひとりでに命を生み出す能力はない。従って、命を分け与えることは、男性の本来的な使命であると思われてならないのである。

聖書においても、エバはアダムから生み出されたのであり、女性が先に生まれて、女性から男性が生み出されたわけではなかった。イエスを産んだマリヤも、聖霊の働きがなければ、一人では何も生み出せなかったであろう。もし手束氏の言うように、聖霊を「母なる霊」とするならば、キリストの誕生は、女性が女性の霊によってみごもったことになるが、そんな説明が成立するであろうか?

(さらに、手束氏の考えに基づくと、「父なる神」と「母なる聖霊」の交わりの結果、「子なるイエス」が生まれたことになるが、そうであれば、イエスの本当の「母」は聖霊ということになるから、マリヤはカルケドン信条に定義されているように「神の母」ではなく、代理母でしかないということになろう。この点でも、完全に手束氏の主張は異端である。)


聖書の秩序は常に、男性が命を与える側に立つというものである。父なる神がアダムを創造され(創造された側のアダム――人類――は、神の命なる霊を受ける器という意味では、霊的に女性。これも教会の型)、アダムの肋骨からエバが作り出された(アダムとエバとの関係も、キリストと教会を予表する)、聖霊が乙女マリアのうちに働き、キリストの誕生に至らせた(これもまたキリストと教会の型)、ただひとりの男子キリストが十字架にかかられて死なれたそのわき腹から、水と血と霊によって生まれたのが教会であり、キリストは、十字架の死と復活を経験されたがゆえに、永遠に朽ちない命を与える御霊を、信じる者たちに分け与えることができる。

こうして詳細に見て行くと、聖書的な観点からは特に、創造や、生命を与える」行為は、母性原理ではなく、むしろ、父性原理(父なる神)の特質であると言って差し支えないことが分かる。むろん、フェミニズム神学にとっては、このような考えこそが憎悪の対象なのである。フェミニズム神学は、父性原理に対する嫌悪感から、「創造」と「生命を与える」という栄誉ある役割は父性原理にあるのではなく、女性原理にあると主張して、「創造」という役目を、父なる神から母性原理の役目へと奪おうとしているのである。

そのように、命を与えることが、あたかも母性原理であり、女性の専売特許であるかのような誤解は世に広く普及しているが、少なくとも聖書においては、「創造」と「生命を与える」力の根源は、創造主である父なる神にこそある。そこで、いみじくもキリスト教「神学」を名乗っているにも関わらず、父なる神による創造という聖書的事実を退けて、女性こそ創造者であるかのように、母性・女性原理を高く掲げるこの教え(フェミニズム神学)は完全に、聖書の定める男性と女性との秩序の転覆をはかるものだと言えよう。

従って、男性である牧師たちが、自らこのような理念を信奉するならば、必ずや、彼らは男性としてのプライドと名誉を失うことになるであろうと筆者は確信する。なぜなら、この思想の中には、根本的に男性(父性原理)そのものに対する激しい嫌悪と蔑視が含まれているからである。



・解放神学(フェミニズム神学)とそれに基づく(ペンテコステ・)カリスマ運動は、キリスト教ではなくキリスト教に敵対する東洋思想(グノーシス主義)の一種である

フェミニズム神学を含め、解放神学もそうなのだが、手束氏の主張も含め、キリスト教においては「父性原理に基づく二分性ばかりが強すぎるので、母性原理の受容性を補うことによって、その欠点を克服しなければならない」という主張は、根本的には、みな異端であると言って良い。

なぜなら、これは聖書の御言葉を毀損することによって、キリスト教そのものを歪曲する試みであり、キリスト教とは全く相容れない思想がその根底にあるからである。その思想こそ、東洋思想である。

そのことは、こうした思想がすべて、仏教学者・東洋思想家・禅の指導者である鈴木大拙氏の主張とぴったり一致することからも分かることである。結局、「キリスト教における母性原理の回復」を唱える教えは、すべて東洋思想を基盤としているのだと言って過言ではない。従って、それはどんなにキリスト教の仮面をつけて、キリスト教のように装っていても、本質的にキリスト教ではないものから出てきているのである。

記事「偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(11)」でも記したことであるが、女性解放の神学の代表者、ローズマリー・リューサーは、解放神学は、魂と肉体、主体と客体の二元論が、古典的キリスト教の「欠点」であるとして、これを克服せねばならないと述べた。彼女は、古典的キリスト教は、男性だけが神の像に似て造られた「人間性」の真髄を備えた存在であり、女性は完全な神の像を持たず、頭である男性と共にあって初めて真の人間性を持つことができるとしている点で、キリスト教は女性を男性の客体、「対象物」におとしめているとして非難した。

リューサーは欧米諸国のようなキリスト教社会においては、このような聖書的男女二元論が原型となって、社会の全ての抑圧形態に作用しており、この二元論の断絶があらゆるものに応用されて、人類社会に無限の断絶をもたらしており、それゆえ、社会には「もろもろの権威と支配」が乱立し、疎外が満ち溢れたのだと言って、伝統的なキリスト教に「有罪」の宣告を下す。そして、キリスト教の二元論から来る断絶・疎外を解消し、人間を「客体性」から解放することが、人間の救済である、と主張するのである。
 
記事「カルト被害者救済活動の反聖書性について―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動④ー」でも見て来たように、フェミニズム神学者が非難しているようなキリスト教の「二元論」は、創造主と被造物との二分性、すなわち、「知る者」である神と「知られる者」である人との主客の区別を根源として発生して来るものである。

男女の二元論から始まり、「主客の区別」そのものに反対し、人間の「客体性」からの解放を唱えるリューサーの主張は、全くもって鈴木大拙氏の主張にそっくりであることに驚かされる。
再び、鈴木大拙氏の文章を引用しよう。
 

分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。

 それから
分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、p.10-11)

 

「西洋文化といえば、ギリシャ、ローマ、ユダヤ的文化の伝統ということになる。その不完全さは、宗教の上に最も強くあらわれる。自分はキリスト教をみだりに非難するのでなく、また悪口するのでもない。これはいうまでもないところだが、キ教には、二分性から来る短所が著しく見え、それが今後の人間生活の上に何らかの意味で欠点を生じ、世界文化の形成に、面白からぬ影響を及ぼすものと信じる。キ教はこれを自覚して、包容性を涵養しなくてはならぬ。

 二分性から生ずる排他性・主我性などは、はなはだ好ましからざる性格である。二分性を調節して、しかもそれを包含することになれば話はわかるが、これがないと、喧嘩が絶えない。」(同上、p.169-170)



鈴木氏は、西洋思想における「分割する知性」、すなわち、「主客の区別」の根源となっているものは、キリスト教における創造主と被造物との区別であると見る。そして、この「主客の区別」から生じる「二分性」、「排他性」、「主我性」を極めて否定的なものとみなす。

もしそこにリューサーの言葉をあてはめるなら、聖書によれば、創造主は「知る者」であるが、被造物としての人間は神によって「知られる者」(客体)であるから、神によって造られた人間は、男女を問わず、みな神の満足の「対象物に貶められている」ということになろう。

以上からも分かるように、東洋思想が最も激しく反発しているのは、人間は神によって造られた「客体」に過ぎず、どこまで行っても、神(主)ご自身にはなれない、という点なのであるそして、その点はフェミニズム神学者の主張とも根本的に一致する。
 
造られた者であるがゆえに、人は神ご自身ではなく、神から切り離されて、神性から疎外されている、どんなに信仰が増し加わっても、人自身は完全な聖に達し得ず、造られた被造物ではあっても、創造主たる神にはなれない――この点こそ、東洋思想の学者や、フェミニズム神学者らが、最も激しく反発する点である。

「男性だけが神の像に似せて創造され、男性からできた女性は、男性に比べ、完全な神の像を持たない、という聖書の見解は、女性を貶めている」というリューサーの主張は、結局のところ、「神だけが神であって、人間は神のかたちに似せて創造された被造物に過ぎないので、完全な神のかたちを持たない、という聖書の理屈は、人類全体を貶めている」と言っているのと同じなのである。そのような考えには根本に、人間が完全な神のかたちを持たない(人は神になれない)という聖書の事実に対する嫌悪・反発・抵抗がある。

従って、こうした思想の持主が、キリスト教は、聖書の御言葉の「二分性から生じる排他性・主我性」という「短所」を克服することこそ、必要である、と述べているのは、結局のところ、「神と人との区別を廃止して、人を被造物という客体性から解放せよ」と言っているのと同じなのである。

お分かりと思うが、このような思想は、結局、聖書の「唯一の神」という概念そのものに逆らっているのである。グノーシス主義が、自らを唯一の神であるとする創造主の宣言を「悪神の傲慢」として嘲笑・否定するのと全く同じ構図がそこにある。(記事「キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動④ー」参照。)

従って、彼らの述べる、「人間を(被造物の)「客体性」から解放せよ」という主張は、「わたしのほかに神はいない」とする聖書の唯一の神を退けて、人が神の地位を乗っ取り、自ら神になろうとする反逆に他ならないのである。

わたしより先に造られた神はなく、
 わたしより後にもない。
 わたし、このわたしが、であって、
 わたしのほかに救い主はいない。」(イザヤ43:10-11)

わたしがである。ほかにはいない。
わたしは光を作り出し、やみを創造し、
平和をつくり、わざわいを創造する。
わたしは、これらすべてを作る者。」(イザヤ45:6-7)

「ああ。
陶器が投機を作る者に抗議するように
自分を造った者に抗議する者。
粘土は、形造る者に、
「何を造るのか。」とか、
「あなたの作った物には、手がついていない。」
などと言うであろうか。」(イザヤ45:9)

「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている
 陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。
  造られた者が、それを造った者に、
 「彼は私を造らなかった。」と言い、
  陶器が陶器師に、
「彼はわからずやだ。」と言えようか。」(イザヤ29:16)



・キリスト教の「父なる神」に対抗して東洋思想が賛美する「神秘なる母性(母なる混沌)」

さて、それでは、一体、以上のように「唯一の神」を否定して、人間を「客体性」から解放することを主張する思想の持ち主は、一体、どのような方法で、キリスト教の「二分性」を克服することを目指すのであろうか?

それは、キリスト教に「母性・女性原理を回復する」ことによってである。彼らはキリスト教において「父性原理」と「母性原理」を新たに融合することによって、未だかつてない新しい境地に至ることができるかのように主張しているのである。キリスト教と東洋思想とを合体させて混合態を造ることを使命としていると言っても良い。

鈴木大拙氏は、すでに記事で述べた通り、キリスト教の「二分性」から来る「排他性」の問題を解消する方法として、キリスト教に母性原理を補い、「主客(善悪)未分以前の母なる混沌」への「嬰児的回帰」を提唱する。

鈴木氏は、それを「神が光あれ、と言われる以前の状態」と表現する。結局、それは光と闇が分かたれる前の状態、サタンが堕落して神から切り離される前の状態、人間が神によって創造されて、堕落によって楽園を追放されて、神から切り離される前の状態に回帰しようとする試みである。

つまり、事の善悪に拘泥せず、万物をあるがままに受け止め、知性が先走る状態を克服して「知」と「行」とを一つにすることで、知性による分割発生以前の「未分的」で「全一的」状態を取り戻すこと(いうなれば、「真如」に回帰することであろうか)、そのようにして、、「二度目の林檎を食べる」ことが必要であり、それが禅の悟りの本質であるかのように鈴木氏は述べているのである。

相当に長い引用であるが、母性原理・女性原理の回復という言葉が、何を意味するのかを理解するのには役立つと思うので、以前の記事でも度々挙げたが、同氏の言葉を再び引用しておく。
 

「なぜ、西洋的に見たり考えたり行動したりしてゆくと、行き詰まりを見なくてはならぬかというと、人間の生きている世界は、五官で縛られたり、分別識で規定せられる外に、いま一つ別の世界があるのである。これを明らかにしておかぬと、人間は生きてゆけぬのである。生きていると思っていてもそれは自己欺瞞で、虚偽の生涯である。『今一つ別の世界』などいうと、また数の概念に収めこんで、そんなものが、この可視的、可把握性の世界の外にあるかのごとく、思惟せられるのであろう。これが言葉なるものの短所で、禅者はことにこの点に気を配る。」(『東洋的な見方』、p.22)

 

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を再先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、p.195-196)

 

「東洋民族の間では、分割的知性、したがって、それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。われわれ東洋人の真理は、知性発生以前、論理万能主義以前の所に向かって、その根を下ろし、その幹を培うところになった。<略>

 主客未分以前というのは、神がまだ「光あれ」といわれなかったときのことである。あるいは、そういわんとする刹那である。この刹那の機を捕えるところに、東洋真理の「玄之又玄」(『老子』第一章)なるものがある。<略>

 「光あれ」という心が、神の胸に動き出さんとする、その刹那に触れんとするのが、東洋民族の心理であるのに対して、欧米的心理は、「光」が現れてからの事象に没頭するのである。主客あるいは明暗未分化以前の光景を、東洋思想の思想家である老子の言葉を借りると、「恍惚」である。荘子はこれを「混沌」といっている。また「無状の状。無象の象」(『老子』第十四章)ともいう。何だか形相があるようで何もない。<略>またこれを「玄牝(げんぴん)」ともいう。母の義、または、雌の義である。ゲーテの「永遠の女性」である。これを守って離れず惑わざるところに、「嬰児(えいじ)」に復帰し、「無極(むきょく)」に復帰し、「樸(はく)」に復帰するのである。ここに未だ発言せざる神がいる。神が何かをいうときが、樸の散ずるところ、無象の象に名のつけられるところで、これから万物が生まれ出る母性が成立する。分割が行ぜられる。万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」(同上、p.13-14)


 こうして、鈴木氏は、「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである」とした上で、キリスト教の「知性による分割」、「二分性」を否定的なものととらえ、同氏が「人間の本質」であるとする、「情性的なもの、意欲的なもの」に回帰するために、神人とが分かたれる前の「主客未分以前」、「明暗未分化以前」、「知性発生以前」、「善悪未分以前」の状態に回帰することが必要であると述べる。

そして、このような神と人との主客の区別が発生する以前の原初的な状態のことを、鈴木大拙氏は「恍惚」とか、「混沌」とかいう言葉で呼ぶ(まさにペンテコステ運動にふさわしい言葉ではないだろうか?)

そして、この原初的な混沌を「母なる混沌」として(玄牝(げんぴん)と呼ぶ。

ここでなぜ「母」なのか。なぜ女性なのか、という疑問が生じよう。

なぜなら、もし聖書の父なる神が「光あれ」と言われる前の状態に回帰するというならば、そこには、父なる神お一人だけしか存在する方はいないはずだからである。

ここで、いつの間にか、聖書の「父なる神」が、東洋の「母なる混沌(神秘なる母性)」にすり替わっていることに気づくのである。鈴木氏は言う、「万物が生まれ出る母性」と。つまり、東洋思想においては、万物を生み出す源は「父なる神」ではなく「神秘なる母性」でなければならないのである。従って、東洋思想の「神」とは、母なる神なのだと言っても差し支えない。

それは、カリスマ運動の指導者・手束正昭氏が、「創造や生命を与えるということ<…>、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。」と述べているのと同じである。

このような考えは、東洋思想において古くから存在して来た。鈴木氏は老荘思想を根拠に挙げる。老子の思想においては、この「神秘なる母性」は「玄牝」と呼ばれる。
 

河瀬直美監督 映画『玄牝』公式サイトから抜粋

玄牝とは?
『谷神不死。是謂玄牝』――谷神(こくしん)は死せず。これを玄牝という。
タイトルの「玄牝」とは、老子の『道徳経』第6章にあることば。大河の源流にある谷神は、とめどなく生命を生み出しながらも絶えることはない。谷神同様、女性(器)もまた、万物を生み出す源であり、その働きは尽きることがない。
 老子はこれを玄牝――“神秘なる母性”と呼んでいる。


このように、東洋思想の基本には、生命の源は「永遠に女性的なるもの、神秘なる母性」にあるという考えがあり、生命を生み出し、創造する力を「母性」に求める。そして、人は知性によって自他の区別が生じる前の、赤子のような無意識の状態に戻り、「神秘なる母性」に身を委ねてこれと一つとされることが、人間にとっての究極の解決であると言うのである。

むろん、これはキリスト教における「父なる神」の否定であり、「父なる神」による天地創造という聖書の事実そのもの否定と言って良い。聖書をどう歪曲しようとも、聖書の神は父なる神であって、母なる神ではない。初めからないものに回帰せよと言われても、荒唐無稽な話である。

しかしながら、それでも聖書を巧妙に曲げるために、手束氏のようなカリスマ運動の指導者は、「父・母・子」の異端的三位一体論を唱えることにより、キリスト教に「母性原理の回復」がなされねばならないと主張して、「母なる聖霊」論を持ち出すのである。

そこで、この「母なる聖霊」論は、本質的にキリスト教とは無縁の(むろん異端という意味で、絶対にキリスト教ではあり得ないのだが)、もともとは東洋思想に由来する発想なのだと言うことができよう。すなわち、手束氏の言う「母なる聖霊」とは、東洋思想における「神秘なる母性」、「母なる混沌」の言い換えなのである。

つまり、ペンテコステ・カリスマ運動(筆者はこれらの運動を一つにまとめて問題ないと考えている。日本基督教団の手束氏の著書は、聖霊派の枠組みをはるかに超えて、プロテスタント全体に行き渡っている)は、うわべだけはキリスト教の装束をまとってはいても、実際には東洋的な「神秘なる母性」を崇拝する別の教えなのだと言って差し支えないであろう。

全く恐ろしいことである。こうなってもまだペンテコステ・カリスマ運動をキリスト教だと考えて信奉している信者は哀れとしか言いようがない。そして、この東洋的な「神秘なる母性」への崇拝こそが、聖書が全体を挙げて告発する「大淫婦バビロン」の本質なのである。マリア崇拝、フェミニズム神学も含め、キリスト教に「母性原理を回復せよ」という主張は、すべてここから出てきていると見て良い。

<続く>


ペンテコステ運動はなぜ誤っているのか(1)―カリスマ指導者に栄光を帰し、五感を信仰よりも優先する教え―

ペンテコステ運動の誤りについては、今更、多くの紙面を割いて書く必要もないかも知れない。なぜならこの運動の世間での評判はすこぶる悪いと言っても良いからだ。また、今までにもかなりの数の批判分析記事が書かれて来た。それでもまだこの運動を支持している人が本当にいるのか、いるとしても、よほど珍しい人たちではないかと言えるほどまでに、否定的な情報は枚挙に暇がない。

だが、そうした情報をきちんと総括して、この運動の危険な特徴が何であるか、改めて明確に整理して提示する必要があると思う。そこで、ペンテコステ運動に時代を超えて共通して来た危険な特徴をかいつまんで挙げておきたい。

1.常に超自然的な力を持つカリスマ的指導者を立てて英雄のように誉め讃える

…これは近年に始まった特徴ではない。たとえば、私がオースチン・スパークスやジェシー・ペンルイスなどの霊的先人の著作を読むにあたり大いに参考にして来た「オリーブ園 クリスチャン古典ライブラリー」というサイトがある。このサイトには残念なことに、最近、ペンテコステ系の指導者らの記事が数多く掲載されるようになった。(これはちょうど「キリスト教界からエクソダスせよ」と提唱していたKFCがAG教団の信徒に乗っ取られた時期にも重なる。)

 察するに、このオリーブ園の管理者はペンテコステ運動に関わりのある教会の信徒なのであろう。そして、その立場から、上記のような霊的先人と、ペンテコステ運動は同種の霊的運動であるのだとみなしているのだと思われる。

 しかし、私の考えは異なる。確かに、オースチン・スパークス、ペンルイス、アンドリュー・マーレーのような人々は、キリストの御霊による内なる啓示を知っていた人々であった。特に、彼らは聖霊によって十字架の深い働きを知らされた人々であり、彼らはキリストご自身に根差し御霊によって歩むまことの信仰生活は、既存の教会組織に所属することとは全く違うものであることを理解していた。聖霊の深い内なる啓示を知っていたという点では、既存のキリスト教界のクリスチャンに比べ、彼らは御霊の働きを重んじており、「霊的」と言える特徴を持っていた。
 
 しかし、彼らが御霊を通して見ていた事柄と、ペンテコステ運動においてしきりに強調される「聖霊の働き」は、全く異なるものであり、決して同一のものとして混同されるべきではないと私は考えている。

 「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(Ⅰヨハネ4:1)

 問題は「聖霊」と同じ名がつけられていても、本質的には全く異なる霊である危険性が常にあることだ。特に、ペンテコステ運動に関しては、慎重な吟味が必要である。見分けのポイントの一つとなるのは、その霊が誰について証し、誰に最も栄光を帰しているかだ。何度も書いて来たように、聖霊は以下の御言葉の指し示す通り、キリストを証する霊であるから、「キリストのみを証し、キリストのみに栄光を帰しているか」、それとも、「キリストを証しているように見せかけながら、その実、人間を高く掲げ、人間の指導者に栄光を帰しているのか」という点が重要な見分けのポイントである。

 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来る時、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26)。


 この点で、ペンテコステ運動は常に表向きは「聖霊」の働きを重んじているように見せかけながら、実際には、奇跡を行なう「偉大な霊の器」であるカリスマ指導者を常に前面に押し出し、いかにこの指導者が非凡な霊的力を持つ人間であるかを強調することによって、この人物に大衆の関心を引きつけ、人間を神以上に高く掲げて来た歴史がある。

 オリーブ園には、19世紀のペンテコステ指導者であったセス・クック・リースについての著作が納められている。あまり入念に読みたくないし、読むことを勧めもしないが、前書きの数行をわずかでも読むならば、そこでどれほどリースが誉めたたえられていたかが分かる。

 「しばしば「地を揺るがす者」と宣伝されることもあった。彼が説教すると、野外集会の木立が揺らいだ。彼の息子のパウロ・リースは「戦う聖徒」という題名でセス・C・リースの伝記を書いた。」セス・リース論説集

 この数行を読んだだけで本質が分かり、もう結構ですと言いたくならない方がおかしい。神ではなく、人を讃えるための情緒的な文章。「彼が説教すると、野外集会の木立が揺らいだ」。これは「スターリンは砲弾が雨と降り注ぐ中をも、臆することなくしっかりした足取りで歩いて行った」とか、「陛下がお通りになると、群衆はみな感涙してその場に跪いた」といったような表現と何ら変わるところがない。
 しかも「木立が揺らいだ」から「地を揺るがす者」なのか? 神の憐れみの深さや、恵みの大きさを証してイエスの御名に栄光を帰する代わりに、こんな風に、指導者の持つ超自然的な力を巧みにアピールして注目を集めようとするのが、ペンテコステ運動の特徴だ。だが、大げさすぎる嘘をついて読者を騙したことにはならないだろう。そよ風が吹いても木立はそれなりに揺らぐものなのだから。

 この論説集に捧げられている序文「亡くなった我らの大監督について」の中では、「キリストの勇敢な兵士たちの中でも、故人は最も勇敢で英雄的な兵士の一人であり、…」「われわれはこの偉大な人物をあらゆる種類の状況下で見てきた。また、彼が卓越した高い水準に達するのを見た。彼は人の子らの中でも極めて非凡な者として際立っている。」などと歯の浮くような賞賛の言葉が連ねてある。
 だが、使徒たちをさえ差し置いて「最も勇敢で英雄的な兵士」などとよくも臆面もなく書けるものだと読んでいて可笑しい。彼よりも勇敢で英雄的な信仰の兵士はそれまでに一人もいなかったというのか。この一文を読んだだけで、それが嘘であることが見抜けない方が奇妙なのだ。パウロでさえ自分のことを「私はその罪人のかしらなのです。」(Ⅰテモテ1:15)「すべての聖徒たちの中で一番小さな私」(エペソ3:8)と呼んだのだから。

 もしセス・リースが生前、使徒たちと同じような謙虚さを持っていたなら、故人となった後も、残された人々は彼の意志を忠実に汲んで、指導者をいたずらに担ぎ上げて賞賛を浴びせるような真似は決してなかっただろう。だから、このような賞賛の言葉が後世に残されている時点で、セス・リースがどれほど名誉欲に満ちた指導者であったか、こうした献辞を書いている人々もどれほど確信犯的詐欺師であるかが自ずから分かってしまう。

 ペンテコステ運動はとにかく英雄譚が好きである。非凡な出来事の描写と情緒的な表現に頼りながら、力強い論調で偉大な人物とその働きを描き出そうとする。サンダー・シングの伝記も似たような論調である。ただの物語としてならば、よく書けている部類に入るだろう。だが、その物語が、読者の興味を誰に対して向けようとしているのかを考えれば、それが決してキリストの御霊によって書かれたものではないことが分かる。結局、そこでは人間が賛美され、人間に関心が集められており、神やキリストはそのための材料として引き合いに出されているに過ぎない。



2.五感で感じられる非凡な奇跡体験や、感覚的な喜び、陶酔感を霊的体験と取り違え、信仰よりも五感を優先・強調する
 
 セス・リースは「理想的なペンテコステの教会」の中で、クリスチャンの再生について以下のように書いているが、それを読めば、彼が再生というものを全く理解していなかったことがよく分かる。

「人が聖書的に再生されることは、尋常でない畏怖すべきことを伴い、通常考えられている以上のことを意味する。新約聖書が示す霊的誕生は、たんに手を挙げたり、紙に署名したり、記章をつけたり、儀式に参加したり、いわゆる「教会」なる団体に参加したりすることによって生じるのではない。

聖書が示す再生は、深く強烈な認罪と、躊躇せず「世と肉と悪魔」を拒否する悔い改めの後に生じる。これにより、外側の生活の諸問題はすべて正される。」
  
 ここでは、罪を悔い改めるということはとりあえず触れられているが、不思議なことに、「キリストの十字架における人類の罪の贖い」という言葉が一度も登場しない。「キリストの十字架」や「贖い」さえも登場していない。そうであれば、一体、人が罪を悔いたところで、何によって罪赦されたことになるのか。根拠は全く明らかでない。罪を赦す権限を持っているのは誰なのか、一切、書かれておらず、御子の十字架における死に至るまでの従順について全く触れられておらず、キリストの役割が無視され、神に栄光が帰されていないのだ。そして、再生とは、人が単に以前の罪深い行いを悔い改めて、「世と肉と悪魔を拒否する」という人間の側の決意ということに話がすり替えられている。これでは誰でも自分で決意しさえすれば、再生することになり、キリストの十字架も不要であるし、信仰も必要ないであろう。

 そして、このように悔い改めさえすれば、「これにより、外側の生活の諸問題はすべて正される。」などとお手軽な軽い調子で書いてあるが、再生した次の瞬間からすべての生活の問題が一切合切正解決したなどという経験をしたクリスチャンは一人もいないであろう。むしろ、まことの神を信じてから後、クリスチャンは、それまでに意識しなかった罪と手を切るための戦いや、生活の諸問題を信仰を通して解決する方法をようやく少しずつ学び始めるのである。

 さらに、セス・リースは続ける。

「再生は知覚可能な経験である。再生された人にはそれがわかる。自分が再生されたことに確信がないなら、それが事実かどうか誰にもわからないし、神ご自身ですらわからない。」
「再生は、喜び、あたたかな宗教的感情、霊の真の情熱に満ちている。」

 
こうして、彼によれば、再生には必ず知覚や感覚的喜びが伴うとされているが、それもまた嘘である。信仰は五感で感じて確かめられるようなものではない。キリストの十字架の贖いを自分のものとして信じて受け入れるなら、その人は救われているのであり、それはその人が救われた事実を五感で確かめたかどうか、感覚的な喜びが伴ったかどうかなどには全く関係ない。たとえ人がそれを五感で感じなくとも、信仰によって受け取った事実は、神の御前で変わらない永遠の事実なのである。

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

 信仰は、目に見えない(五感では感じることのできない)神の側の霊的事実を自分の事実として信じ受け取ることによるのであり、すでに見たり、聞いたり、感じたりしている出来事をその感覚ゆえに受け入れることとはわけが違う。

 特別な喜びや感動が全く伴わなくとも、信じる者は御言葉を根拠として神の事実を受けとるのである。

 このように、正しいクリスチャンの信仰の歩みは、すべてのことが霊から始まる。まず霊的事実があって、次に魂や体で知覚することのできる感覚世界がこれに従属する。聖霊が働くのは、人の霊に対してであって、魂や体の感覚世界の中ではない。感覚世界はこの世の物質世界、人の堕落した肉に属するものであって、これは神と接触するための媒体ではない。神と交わることのできるのは、人の感覚ではなく霊である。

 ところが、ペンテコステ運動は、霊→魂→肉体という聖書的な秩序を覆してしまい、人の魂や肉体に巧妙に働きかける感覚的なものを霊的なものと呼び変え、すり替え、混同し、結果として、信仰よりも感覚を重んじるのである。そこで、ペンテコステ運動は、再生も、聖霊のバプテスマも、説教も、単に「喜びの伴う感覚体験」に変えてしまう。そしてついにはその「喜びの伴う感覚体験」が欠落していれば信仰ではないとまで言い切るのである。

 そこで、セス・リースの論説集もそうだが、ペンテコステ系の指導者のメッセージは、共通して極めて情緒的で、非凡な言葉を述べては人の感情を強く揺さぶり、感動を呼び起こそうとする手法に満ちている。だが、少しでも冷静に吟味すれば、常に感動しっぱなしということは、人にとって極めて不自然な状態であることが分かる。音楽の楽曲でもそうだが、初めから最後までずっとクライマックスということは絶対にない。しかし、ペンテコステの指導者の説教は最初から上り調子一辺倒で、テンションが全く下がらず、常なる感動を目指している点で、極めて不自然で人工的な作為を感じるものなのである。

 こうしたことが分からないまま、ペンテコステ運動に一度でも深く関わったことのある信者には、霊的な事実よりも感覚を重視するという危険な傾向――しかも、深く物事を吟味することを嫌い、自分の感覚にとって好ましいものだけを「信仰的・霊的なもの」だと勘違いする危険な傾向――が深く根付いている。それは一種の麻薬のような陶酔感に似ていて、人を盲目にさせて、繰り返し、繰り返し、聖書の御言葉に基づく冷静で穏やかな信仰よりも、自分を感動させ、手っ取り早く喜びや興奮をもたらし、感覚を喜ばせてくれるような偉大で非凡な体験へ飛びつかせようとその人を誘導するのである。

ペンテコステ運動につきものである、偉大な英雄の物語や、奇跡や感動体験の描写、あるいは感動的な礼拝音楽などといった偽の信仰物語は、人の耳を喜ばせることで、聞く人の心を釣りげるためのしかけである。このしかけに慣らされた人は、その感動体験を疑うことなく、条件反射のようにあっけなく飛びついては欺かれてしまう。そうなるのは、その信者の考えの根本に、セス・リースの書いたような、「信仰とは五感によって知覚できるものだ」という誤った思い込みが消えずに残っているためであり、霊の事柄と感覚的な事柄を混同しているからである。

 だが、信仰を五感によってとらえようとするこの試みこそ、聖書が最も人に警告している危険なのである。

「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:6)
 
 AG信徒のある姉妹の影響によって、KFCの中にサンダー・シングの教えが持ち込まれた時(ここでもこの災難を発生させたのはAG信徒である)、私はこの教えの具体的な誤りと危険性を提示してこれを批判し、教える立場にありながらなぜルーク氏はこの虚偽を見抜けなかったのかと指摘したが、彼らはこの警告に耳を傾けず、かえって自分たちの面子が傷つけられたとして、私を排斥することで自分たちの過ちを覆い隠し、報復を果たそうとした。

 なぜそのようなことが起きたのかを考えてみると、そこにはKFCの土壌というものが大きく関与していたように思う。KFCにはもともと聖霊派やAG教団の信者が多く集まっており、当時、Br.Takaという現役のAG信徒までが匿名でメッセンジャーとなっている有様であった。そして、当のルーク氏自身も、キリスト教界を批判しながらも、聖霊派の指導者たちの活動や著作から大きな影響を受けていた。

 最大の問題点は、彼らがAG教団牧師の率いるカルト被害者救済活動や、キリスト教界の誤りを非難しながらも、自らがそれを手を切ることをせず、ペンテコステ運動そのものの中に潜む大きな問題を何ら認識しないまま、その影響を深く引きずっていたことにある。

 ムードたっぷりの礼拝音楽、礼拝での冗長な異言の披露は言うまでもなく、ひれ伏したり、跪いたり、涙や叫びを伴う情緒的な祈りといった彼らの礼拝スタイルも、まさに聖霊派の典型的なスタイルを換骨奪胎しただけのものである。

 問題は、これらが信者に思考停止を促し、物事を自分なりに深く考えて吟味したり、聖書に照らし合わせて検証したりする代わりに、その場の雰囲気に身を委ね、良さそうに見えるものを何でも無批判に受け取り、より大きな喜びや感動や陶酔感を得られるように、感覚に任せて生きることを促す点にある。

 しかし、これはKFCに限った話ではない。たとえペンテコステ系の教団の中にいなくとも、このように御言葉に基づいた信仰ではなく、自己の感覚に盲目的に身を委ねさせようとする運動の誤りを自覚し、その影響と自覚的に手を切ることをしなければ、どの教団に転籍しようと、あるいは無所属になろうと、この運動の影響から脱することはできない。このことは、ペンテコステ系の教団を出て後、カトリックや他の教団に転籍した後も、カルト被害者救済活動を支持している者たちによくあてはまる。(ペンテコステ運動と被害者運動にある本質的な共通点については後述する。)

 別途、詳述するが、こうして、口ではペンテコステ運動を批判しているようでありながら、実際には被害者運動を支持するという矛盾した行動に至る信徒が出現するのも、結局のところ、心の中でこの運動への親和性を捨てることができないためなのである。

 ペンテコステ系の信徒たちは、クリスチャンの間でも、福音派の信徒に比べて知性のレベルがあまりにも低いと酷評されることが多々ある。私は個人的に、彼らは他のクリスチャンに比べても、圧倒的に愚かであるという印象を受けているが、なぜそのような印象が生じるのかと言えば、ペンテコステ系の信徒たちが、常に自分の感覚に従って歩み、自分にとって好ましいものに考えもなく浅はかに飛びつき、きちんと物事を深く検証することを厭う習慣を持っているために生じるのではないかと考えられる。
 
 確かに霊的な啓示は信仰生活に必要である。しかし、信仰は五感によって知覚できるものではなく、霊的な事実と、五感を喜ばせる体験を取り違えることははかりしれない危険を信者にもたらす。だが、この事実を、たとえ言い聞かせたとしても、ペンテコステ運動に関わった信者が、以前の感覚優先の誤解に気づくのは容易ではない。なぜなら、彼らの味わった感覚的な喜びや陶酔感は、それほど忘れがたく、麻薬の陶酔感のようにその人の記憶に残っているからであり、そのために、五感を喜ばせるためでない静かで穏やかな信仰生活は、その人にとって物足りない、味気なく、嘘っぽいものにさえ思われるからだ。

 こうして、信仰生活とは何かということを根本的に誤解しているために、彼らは飽くことなく「非凡な感動体験」や「喜び体験」を求め続け、自分たちの祈りをより多くの人たちに聞いてもらって感動を分かち合うために声を張り上げ、メッセージを配信したり、著作を配ることには熱心だが、戸を閉じて、隠れたところで神に向き合い祈る(マタイ6:6)ことは嫌いである。まるで子供のように好き嫌いが激しく、自分にとって喜びの感覚や興奮の伴わないことに対しては、まるで冷淡で無関心なのである。

 そればかりか、彼らにとってはそのような喜びや陶酔感や感動体験こそが、信仰生活の核をなしているように見えているために、この体験を否定されると、彼らは自らの信仰、果ては自分の存在そのものを否定されたかのように憤り、癇癪を起こし、大変な剣幕で立ち向かって来ることがある。だが、そのような反応も、客観的に見ると、中毒患者の症状に極めてよく似た異常な状態で、その信者が、信仰に見せかけて感覚的にやって来る陶酔感をもはや手放せないところまで深くとらえられてしまっているという重度の霊的依存状態を表す危機的症状なのである。そうなって来ると、この運動と手を切るのは非常に難しい段階にあると思われる。だが、AG信徒にはこの重度の依存状態の人々が極めて多いことに驚かされる。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ3:3-4)


ペンテコステ運動はなぜ誤っているのか(序)


さて、今年から優良さわやか読者特別賞(改定)なる発表の場を設けることにした。

このブログの読者であれば、この賞が何を意味しているか、改めて説明の必要もないかと思う。だが、それでもあえて断っておくと、今回、初めてこのような場を設けた理由には、もう5年以上もの長きに渡り、私がキリスト教界に混入している誤った異端的思想や活動――たとえば、ペンテコステ系の教会で繰り広げられるカルト被害者救済活動や、ペンテコステ運動そのものもその中に含まれる――などについて、長編の分析記事を書くことを予告すると、決まって上記の受賞者らのようにまことにさわやかな読者らがどっと大量に押し寄せて来ては、異常行動を繰り広げて来たことが挙げられる。

このような活動は一般の目には触れないので、こうした活動に日夜いそしんでいる一群が存在していることは人に分からない。そこで、今回、全体のほんの一部ではあるものの、証拠を明るみに出すことによって、妨害者らがどの筋から来ている者であるのかを明らかにした。

このさわやかなる読者諸君は、ほぼ例外なく、キリスト教界関係者、すなわち、教団教派に属するプロテスタント(もしくはカトリック)の信者である。そして、その中には私の知人・友人であった者たちも含まれている。彼らは私との交友関係にありながら、裏でこのような活動に手を染めていた。私には分かるまいと高をくくっていたのだと思うが、まさかそこまで単純ではない。

この人々は外見上はまことにさわやかで品行方正なクリスチャンであり、多くは、ネット上にさわやかな信仰の証を発表してさえいる。とてもではないが、表向き、兄弟を密告したり、売り渡したりするような卑劣な人間には見えない。しかし、外見上の品行方正さが、その人の心の真実性の何の保証にもならないことは言うまでもない。特にキリスト教界とはそういう偽善的な人々を大量に生んでいる母体なのだ。

それでも、かつては彼ら自身も、キリスト教界の欺瞞に悩み、一時は、真実な信仰を求めて、そこから脱出しようと本気で機会をはかっていたことを私は知っている。義理人情や、組織の中で得られる栄光や地位がその妨げとなって、この人々はエクソダスを断念したのである。

もし「キリスト教界からエクソダスせよ」と呼びかけられているうちに、組織の枠組みを出てさえいれば、このような二重性を帯びた不誠実な生き方にまで転落することはなかったろうと思うと、彼らの人生がまことに惜しまれてならない。

だが、そのことは振り返るまい。主は言われるだろう、「<…>それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、私に従いなさい」(ヨハネ21:22)と。だから、私は彼らの人生を変えるために介入しないし、その生き方の先に何が待っているかについても関心がない。私はキリストにあっていただいた確信を捨てることなく、まっすぐに進まなければならない。
 
話を戻せば、このさわやか読者らは、このブログやホームページを検索結果から抹殺し、彼らに都合の悪い情報を意図的に排除するために悪質リンクを大量に貼ったり、もしくは、そのような行動によって、私を意気阻喪させ、創作意欲を失わせる方向で行動して来た。究極的には、彼らの目的は、自分たちの活動にとって都合の悪いすべての反対者の口を封じ、ネット空間から駆逐することにある。今もそうである。

しかし、こうしたことの背後には、人間的な思惑を超えた暗闇の勢力の活動があることに注意が必要である。これは人間的な対立ではなく、神の御言葉をどのように理解し、解釈するかという違いから出て来る霊的な対立なのである。一言で言えば、ここで問題になっているのは、聖書の御言葉と、それを曲げようとする活動(ペンテコステ運動を含む)の背後に隠れたグノーシス主義である。

だが、細かい議論はさて置いて、「実を見て判断した」人たちは多かった。2009年当時、私が初めてカルト被害者救済活動の危険性を指摘した時分には、まだこの活動は隆盛を誇っており、私の警告を信じる者も限られていたが、それからほどなくしてこの活動の支援者ら自身が、自分たちの心の中にある異常な憎しみを余すところなく反対者に向かってぶちまけたので、事情をよく知らない人たちでさえ、この活動がおかしいということに気づいて遠ざかった。

具体的には、負け続けているのに、なお継続される裁判。自分の活動を批判する者に対する手段を選ばない容赦のない制裁・・・。クリスチャンの行動にあるまじき同胞への異常な憎しみが、その人々がまことの神を信じる信仰者ではあり得ないことを如実に物語っていた。

私ははからずも自分がリトマス試験紙のような役割を果たしたのではないかと思っている。真のリトマス試験紙はむろん聖書の御言葉であり、その他にはない。が、多分、御言葉という宝を土の器の中に運んでいる信仰者も、少なからず、リトマス試験紙の役割を担っているのだろうと思う。だからこそ、地の塩であり、世の光である信仰者との接触によって、人々は自分たちが何者であるのかを試され、告白せざるを得なくなるのである。

信仰の歩みに戦いがあるのは、悲しむべきことではなく、光栄なことである。なぜなら、キリスト者は暗闇の世界に衝撃をもたらす存在であるべきであり、世の中からもろ手を挙げて歓迎されるような、毒にも薬にもならない霊的綿菓子作りのような活動だけで終わっていたのでは、その存在に意味が全くないからだ。

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。」(マタイ5:13-14)

キリスト者は、キリストの十字架の死と復活の証人である。この証人とは、命をかけて自分が目撃した事実を語り伝え、証明し続ける者のことをいう。もし激しい戦いが起きて来たからと言って、確信を捨て、主の御名を否むなら、神も私たちを否まれるだろう。

「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10:32-33)

「次のことばは信頼すべきことばです。
 「もし私たちが、彼とともに死んだなら、彼とともに生きるようになる。

  もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。
  もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。」(Ⅱテモテ2:11-12)


ある姉妹が私に向かって言ったのを思い出す、「私たちはね、この世において有名になることじゃなくて、霊界においては有名人になることを目指すべきなのよ! ほら、イエス様が地上を歩まれたとき、悪霊たちは、遠くからでも彼の姿を見て、恐れおののいて命乞いをしたでしょう? 私たちもそういう存在になるべきなのよ」
 
霊界の有名人になることを私は第一目標に掲げる気はないし、このテーマを引き延ばして語る気もない。なぜなら、「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)とあるからだ。

私たちの喜びは、キリストの贖いを信じた私たちの名が天に記されていることにある。だが、同時に、信仰のゆえの激しい戦いは、クリスチャン生活には避けては通れない道であることも確かだ。だから、必然的に、信仰者は幾多の訓練を受け、結果として、非常に強い恐れられるほどの衝撃力を持つ戦士にまで生長するのである。

そして、戦いには必ず報いが伴うことを忘れるわけにはいかない。それは決して単なる徒労には終わらない。臆病ゆえに確信を投げ捨て、戦いを中途で放棄する者を神が喜ばれることはないが、この戦いを最後まで耐え忍び、戦い抜いて勝利を得るならば、神は大きな報奨を下さるだろう。

だから、もし神が喜ばれる真実が何であるか知っているならば、恐れて退くべきではないのである。
次回からは、理論的にも、ペンテコステ運動の深部に迫っていく。

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ6:10-13)

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
「もうしばらくすれば、
 来るべき方が来られる。おそくなることはない。
 わたしの義人は信仰によって生きる。
 もし、恐れ退くなら、
 わたしのこころは彼を喜ばない。」
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」
(ヘブル10:35-39)

繁栄の神学の危険性

<聖霊の第三の波とは何か(2)からの続き>

 さて、少し時間が空いたので、前回の話をざっと振り返るところから始めたい。
 以前に書いたように、現時点で、私は聖霊運動(ペンテコステ、カリスマ、第三の波を含む運動)とは、キリスト教に偽装した非キリスト教であるという理解に立っている。その理由は、これから詳しく説明していかなければならない(もしきちんと説明しなければ、ただの誹謗中傷だとのそしりを免れないだろう)。
 初めにお断りしておけば、私はこれを「食わず嫌い」として主張しているのではなく、あくまでかつて聖霊派に属していた経験に立って主張しているのである。

 なぜ聖霊運動が非キリスト教であるとまで言えるのか。
 その第一の理由は、すでに述べたように、聖霊派が、キリストの十字架による贖いの完全性を損なうような教説を唱え、キリスト者の祝福の根源として、「十字架以外の何か」である、聖霊のバプテスマ(満たし)を付け加えようとしているからである。

 もう一度引用しよう、従来のプロテスタントの福音派が伝統的に取って来た立場はこうであった、「クリスチャン体験は全体として一つである。言い換えてみるならば、それは新生ということ、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる信仰によって新しく生まれ変わる回心の体験、新生の体験というものが基本であって、あとのものはこれに含まれるという考え方です。従いまして、聖霊のバプテスマなどという第二の体験はない、もしそれがあるとしたならば、キリストを信じたそのとき、新生の時にあずかっているのであり、新生がイコール聖霊に満たされる、聖霊のバプテスマであるという考え方です。従って聖めという体験も、新生の後に特別にあるものではない。新生の時に罪が赦され、そして聖められているのであり、キリストの救いは十全である、それ自体において完全である、その後何かつけ加えていくものではないという考え方です。これは主として伝統的な教会やまた福音派の中で、ペンテコステ運動に理解をもたない多くの人たちが持っている考え方なのです。」

 この伝統的な考え方は、回心とは別個の祝福としての聖霊の満たしという体験を否定するだけでなく、ペンテコステ・カリスマ運動に顕著に見られる「体験重視の信仰観」をも否定する。従来の福音派は、キリスト者の救いや祝福は、必ずしも、五感で感じられる体験によってはかれるものではないにも関わらず、それを体験という観点のみからとらえようとすることに、危険を見いだすのである。
 たとえば、回心の時にどれだけ後悔の涙を流したかによって、救いの完全性をはかることができないのと同様に、聖霊の満たしを受けてどんな不思議な出来事が身に起きたか、どうやって神の御声を聴いたか、霊の戦いにおいてどんな悪霊と対決しとか…など、目に見え、五感で感じられるような事柄、特に、私たちの感覚に高揚感をもたらすような非日常的な奇跡的体験を通して、信仰の成長をはかろうとすることに、重大な危険を感じ取って来たのである。

 かつて聖霊派に属していた私も、今では、上に書いたような従来の福音派の立場に賛同している(私は福音派に属しているわけではないし、福音派の政治形態については多くの異論があるがそれはさて置き)。体験としての聖霊の満たしが、信仰の成長をはかる現実的なものさしであるとは、私は全く考えられないし、さらに、もっと進んで言うならば、ペンテコステ・カリスマ・第三の波の人々の主張する聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし)における「霊」とは、イエスとは関わりのない、何かしら、聖書外の「霊」ではないかと私は結論づけている。

 その「霊」が神から来たのかどうかを見分ける有効な方法の一つは、霊を受けた人にへりくだりがもたらされたか、それとも、高ぶりがもたらされたかに注目することだろう。イエスが遣わす霊は、決して、人に高ぶりをもたらすようなものではない。また、それはイエスを証することはあっても、自分自身を証することはない。聖霊は「臆する霊ではなく、力と愛と慎みの霊」(Ⅱテモテ1:7)である。だが、この聖句の中から、大胆さと力だけを抜き取って、「愛と慎み」を捨て去ってしまったのが、今日の聖霊派に見られる「霊」であると私は考えている。愛と慎みがないのに、ひたすらパワーを主張し、恐れ知らずに突き進んで行く霊が、聖書に示されている聖霊でないことは明らかだろう。

 私が接触した聖霊派の多くの熱心な人たちに共通する特徴は、彼らが自分に与えられた「使命」や「力」に慢心し、酔いしれていることであった。自分たちが「リバイバル」を起こすために「特別に選ばれた器」であると信じ、あるいは、特別な召命として神から「献身」するよう求められたと信じ、その召しや献身に、異常なほどの誇りを持っていることであった。そして、こうした献身者たちは、反対者、助言者の意見などものともせずに、自分の特別なプロジェクトに向かって、いかなる障害をもかえりみずに突き進んで行った。彼らは非常に競争心が強く、自分と異なる考えを持つ者には、蔑視的態度を取ることも多かった。そこで、いつも対立や分裂、競争、疎外が起こっていた。このような影響を人々にもたらす霊が、「力と愛と慎みの霊」であるとは、私には全く考えられないのである。

 さて、では、聖霊派の言う、聖霊の満たしによるエクスタシーのような恍惚体験(天国体験などとも言われている)は一体、何だったのであろうか。私はそれを体験した一人である。それは子供の頃のキャンプでの出来事であったが、不思議な魂の浄化作用を伴うように感じられた。その効果が続いていた間、私はかつてない心の平安を覚え、悪意、競争心、憎しみ、トラウマ…、いかなる罪深い考えも持てなくなったことを覚えている。その点では、聖霊運動に関わる人々が、この体験について異口同音に記しているあの天国体験の描写は、まさに正確な描写であると私は考えている。確かに、そこには何かの恍惚体験があったのである。

 だが、私は以前に、音楽にはカタルシスの作用があり、音楽が人の心に子供のような退行現象を引き起こすこともあるということを書いた。同様に、恍惚体験は、御言葉(キリスト)以外の手段によっても、簡単に引き起こすことができる。Dr.Lukeも薬物体験との類似性を挙げながら、聖霊派の主張する恍惚体験の由来に疑問を投げかけている。その他、たとえば、マントラと呼ばれるお経のような言葉を長時間、唱え続けることによって、人の魂を日常から離脱させることが可能であることも指摘されている。いくつかの人工的装置を組み合わせれば、そのような感覚を人に引き起こすことは簡単にできるだろう。

 従って、何らかの非日常的体験があったからといって、それがただちに神から来たものだと信じ込むのは極めて危険である。特に、聖書には、サタンにも奇跡を起こすことができることが、はっきりと記されているのだから。たとえ聖霊という名前が冠されているにせよ、全ての恍惚体験が神から来るのではないことを私たちは覚えておかなければならない。
 そして、私自身の体験について言うならば、恍惚体験は一日半ほど続いて元に戻り、それによって信仰が深まったという実感はなく、そのために後の人生の歩みが聖められ、より主に近いものになったということもなかった。むしろ、その反対に、将来には信仰的挫折が待っていたのである。

 さらに、第三の波に限って言うならば、ピーター・ワグナーが著書の中で、聖霊の力強い働きが聖書的なものであると主張しようとして、聖書外の記述に頼っていることも見逃せない事実である。彼は、力強い聖霊の働きの有効性を示すために、新約外典『使徒ペテロの働き』、偽典『使徒ヨハネの働き』など、聖書に含まれていない記述を、あたかも正統な根拠であるかのように挙げている(p.94)。さらに、彼が次のような呆れる内容を述べていることに注目したい。
「私が神学校の学生であったとき、使徒時代の話で聖書にないものをあまり信用してはいけないと教えられた。マクマレンはそれに反対している。歴史家として彼は、そのような話も信頼に足る記述であり、歴史的な有効性を持ちうると語っている。さらに、そういった書物によって、実際多くの人々がキリスト教に改宗してきたことをマクマレンは発見した。」(p.95)

 エール大学の歴史学者ラムゼイ・マクマレンの著書からワグナーは大きな影響を受けたことを記している。こうして、マクマレンの意見を取り込みながら、ワグナーは、第三の波運動の方法論の中に、聖書外の事実を混ぜものとして混入し、公然と組み込んで行くのである。

 さらに彼は書いている、
「この本(『ローマ帝国のキリスト教化』―筆者)の最初でマクマレンは彼がもっとも重要だと考える質問を提示している。『キリスト教は大衆に対して何を与えたのか。簡単に言ってしまえば、何があれだけの回心をもたらしたのかということである』。その答えはばかばかしいほど単純である。キリスト教は言葉と行いによって伝えられたが、伝道に果たした役割からすれば、行いが言葉よりもはるかにまさっていたのである。」(p.92)

 ここに問題のすりかえがあることに読者は気づかなければならない。聖書ははっきりと言っている、「信仰は聞くことによるのであり、聞くとはキリストの言葉から来るのである」(ローマ10:17)と。にも関わらず、ワグナーは、マクマレンの著書を引用しながら、ローマ帝国内にキリスト教が爆発的に広がりを見せたのは、「行いが言葉よりもはるかにまさっていた」からだと断言し、その「行い」による宣伝方法論を現代にも適用すべきだとするのである。これは、キリストの御言葉を聞くことから始まるはずの信仰の否定であり、聖書にない考え方を、彼が自分の伝道方法に持ちこんだことの明らかな証明である。ワグナーの言う聖霊による「力の伝道」や「力の対決」は、御言葉によらない「行い」(つまり、宣伝、マーケティング論)として登場してきているのである。

 さて、これから先、第三の波運動(ペンテコステ・カリスマ運動を含む)を「繁栄の神学」と呼び換えよう。第三の波がペンテコステ・カリスマ運動と本質的に同一であることはすでに述べたので、繰り返す必要はないと思うが、ペンテコステ・カリスマ運動の主要な柱は以下の通りである。

1)信徒が回心後に、聖霊のバプテスマ(満たし)を受ける必要性を強調
2)カリスマ的指導者を頂点に頂くミニストリーのスタイル
3)神は貧困を喜ばず、豊かになることは罪ではないとする繁栄の神学
4)人の心身や、地域、国から悪霊を追い出さなくてはならないという霊の戦いの神学
5)キリスト教シオニズム
6)大宣教命令に基づき、運動を全世界に普及させるべく打ち出される教会成長論

 第一の柱である「聖霊のバプテスマ」についての疑いはすでに述べた。
 次に、「繁栄の神学」について見ていこう。

 少し前に、「解放の神学」というものがキリスト教の中に存在していた時期があるのをどれくらいの人がご存知だろうか。これについては次回以降の記事で詳しく述べるつもりだが、「繁栄の神学」は、「解放の神学」と非常に似通っている部分がある。
 かつて「解放の神学」がそうであったように、今日、ペンテコステ・カリスマ運動や第三の波運動が打ち出す「繁栄の神学」は、第三世界を中心にして、貧しく、あまり教養の高くない、一般大衆をターゲットとして布教され、第三世界に流行しつつある。最もよく知られているのは、アルゼンチンやチリのリバイバルであろう。また、ペンテコステ運動と名乗らず、カリスマ派として従来の福音派の教会に浸透しつつある。

 この新しい神学は、既存のキリスト教界、特にカトリックにとって大きな脅威となった。かつて引用したことのあるアンドレ・コルタン氏の『ペンテコステ派という繁栄の神学』にもこうある、「カトリック教会が恐れているのは、『アジアとアフリカにおけるイスラム急進派の拡大』だけでなく、『第三世界の大都市における、福音諸派や様々な新興宗教、それにとどまるところを知らない『ペンテコステ派』との熾烈な競争(4)』である。他方、あるプロテスタント系の神学者(5)はこう問いかける。『ペンテコステ派こそ第三世界におけるキリスト教の未来なのではないか』と。ともあれ、アフリカやラテンアメリカでは、改宗者があとを絶たない。様々な名前を冠した教団が次々に現れる。アッセンブリー・オブ・ゴッドやチャーチ・オブ・ゴッドなど知名度の高いものもあるが、その他にも『神は愛なり』『生ける教会』『シオンの聖堂』『勝利の教会』などそれほど知られていないものもある。これらの教団は『ペンテコステ派』を名乗ることはめったになく、むしろ『福音派』と呼ばれている(6)。」

 この聖霊運動が第三世界にそれほどまでの広がりを見せた理由が、まさにワグナーが指摘した「行い」、つまり、その巧みな宣伝方法にあった。ヨーロッパ文明から半ば置き去りにされかかった第三世界には、今でも、呪術や、シャーマニズムや、アニミズムや、民間信仰が生きている。ペンテコステ、第三の波運動は、従来のカトリックやプロテスタントが見向きもしなかった民衆の伝統的な土着の信仰に目をつけ、その精神性を巧みに利用したのである。

 ワグナーは、欧米文化人の意識には欠けているが、第三世界の人々の意識の中にははっきりと存在している意識の層を、「中間層」と呼ぶ。この中間層に働きかけることが、第三世界への効果的な伝道方法なのだと彼は言う、
「欧米以外のほとんどの人たちの物の見方は三階層になっている。いちばん上の層は、広大な宇宙にただよう人格者あるいは勢力に基づいた高級な宗教心。それは非常に遠く離れた部分である。
もっとも下の層は毎日の生活。たとえば、結婚、子育て、農作業、雨と日照り、病気と健康、あるいは持ち物。
そして真ん中の層は、こういった日常の出来事と、超自然、超人間的なものが普通に交錯する部分である。毎日の生活の中で、さまざまな霊、悪霊、祖先、悪鬼、幽霊、魔術、呪術、魔女、霊媒、魔法など、自分以外の力の影響を心に受けることは、彼らにとってあたりまえなのである。」(p.35)

 シャーマンや、霊媒師、巫女、魔術、先祖崇拝、先祖の祟り…、そういったものが文化の中に組み込まれ、巫女や霊媒に頼る民間療法がれっきとした生活の知恵とみなされているような土地では、この「中間層」に巧みに訴えかける方法論がなければ、布教は成功しないとワグナーは考えた。日本では恐らく、沖縄がこのような地域に当たるのだろう(だからこそ、沖縄は「霊の戦い」の浸透率が全国で最も高いのであろう)。
 病気になれば、病院ではなく、シャーマンのもとに通う生活に慣れきった第三世界の貧しい人たちを取り込むには、キリスト教もシャーマニズムに匹敵するだけの何かを持たなければならない、従来のように、魂の救いを語るだけで、現実問題には何ら答えを出さないようなキリスト教では効き目がないと、ワグナーはみなしたわけである。そこで、第三世界への効果的な伝道方法として、「超自然的ないやし」が打ち出された。さらに、ワグナーがしばしば引き合いに出しているチョー・ヨンギは、病からの超自然的解放を唱えるだけでなく、福音は貧しい者に現実の経済的な豊かさをも約束するものでなければならないと考えて伝道しているため、彼らが唱えているものを総合すれば、それは実質的に、第三世界や比較的貧しい国々の社会的弱者を貧困と病から解放する弱者解放の神学であると言えよう。

 つまり、「繁栄の神学」は、弱者解放の神学として登場してきたのである。それはかつての「解放の神学」のように、公然と既存のキリスト教との対決(暴力革命等)を主張したり、宗教改革や、クーデタの構図をあからさまに示して、既存のキリスト教界の打倒を旗印に掲げることはないにせよ、実質的には、「繁栄の神学」の存在自体が、欧米式教会をモデルとする従来のプロテスタントのキリスト教に対する強烈なアンチ・テーゼになっていることは否めないだろう。「繁栄の神学」は、これまでのように、教養もあり、社会的地位もあり、礼拝堂の席を何不自由なく占めて安楽な信仰を維持することができた「富める者たち」のための福音ではなく、場合によっては、病院での治療費もなく、献金を払うことさえできないような、第三世界のうち捨てられた「貧しい者たち」をターゲットとした福音として始まった点で、まさに黒人や女性や虐げられた弱者を解放しようとした「解放の神学」の焼き増しであると言える。だからこそ、「繁栄の神学」は、「解放の神学」と全く同じ危険性を内に含んでいるのである。

 さて、今日はここまでにして、次回、解放の神学とは何かを見てみよう。
 ちなみに、この蝶は何度目かにやっと撮ることができた♪