忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑥~

「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。

ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。 なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えてのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。」(Ⅱコリント11:2-4)

ウィルソンは、霊的にはただ一人の夫であるキリストと結ばれた花嫁であるはずだったのが、いつの間にか、別な存在と「結婚」させられ、いつの間にか、「違った霊」を受けてその導きのもとに歩み始めていた。そのことをまず真っ先に察知して懸念したのは彼の妻であった。
 
 

ある時は結婚記念日を祝う際、私は妻に武術の用事が
あるから明日にしようと言ったこともあった。
他にも色々と家族行事を武術のために後回しにした。



ある週末の日、妻と私が喋っていた時、
妻は昨夜見た夢について話し始めた。
私は夢に意味など無いと信じていたが、
妻は夢についてとても悩んでいた。

「エリック、これは主から来たものだと思う」



「あなたの学校の上級ランクの人たちが、
手をつないで輪になって立っていたのを見たの」
「その外側には彼らの家族が周りに立っていた。」

内側の輪がどんどん縮まるごとに、
家族はどんどん輪の外へと追いやられていた

妻が夢の話をしたあと、
彼女がその夢にとても悩まされているのを見た。


ウィルソンの妻は、正夢を見たのであり、そこでは、上級ランクの者たちが結ばれている「輪」は、家族との絆よりも強く、家族の絆を排除してしまうような残酷な「輪」だった。これはちょうど「皇国」のために命を捧げると誓い、家族を捨てて死へ赴いた三島由紀夫と盾の会のメンバーを思い出させる。

三島の盾の会と同じように、武士道に命を捧げることを誓ったウィルソンら武術学校の生徒らは、自分自身の生涯をその「道」に捧げるという、誓いによって結び合わされており、その「輪」は家族の絆よりも強い、死による絆だったのである。

 
(映画”MISHIMA"から)
 
先に述べたように、「道」とは永遠の循環を示す「輪」なのである。『龍の正体』の最後においても、この「道」が「輪(和)」であり、日輪(太陽神)であることが明かされている。
 
私たちはこのような「輪(和)」で結ばれているのは、武士道に生きることを誓った一部の人々だけだと考えているかも知れない。そういうものは、極端な宗教カルトのようなもので、今日の我々とは関係がないと。しかし、本当に、そうだろうか。私たちはこれを一部の人々だけの極端な生き様と笑うことができるだろうか? 

たとえば、戦後の日本の企業社会においても、企業戦士と呼ばれたサラリーマンたちは、妻子を置き去りにして、この「輪(和)」の闘いの中に生きる男社会を作ったのではなかったろうか? あるいは、受験のための競争社会となり、いじめによる多数の自殺者を出している学校教育も、子供たちを家庭から引き離して、この「輪(和)」に引き入れるものではないだろうか? 非正規雇用が拡大し、完全なヒエラルキーに基づく固定化された身分社会のようになっている現在の雇用情勢も、残酷な排除の「輪(和)」ではないだろうか? 

こうして、この残酷に人間を犠牲にし、死へ追いやる「輪(和)」は、今日も目には見えない武士道として、多くの日本の集団を貫く過酷な競争と排除の原理となり、人々から平穏な家庭生活から奪い去り、闘いの中で討ち死にさせている。
 
だが、ウィルソンは妻の忠告も退け、さらなる暗闇に足を踏み入れて行くことになる。
私は憤りを感じた。
今思えば、それが何を主にして仕えるかの分かれ目だった。
彼女が私を人生で一番大切に思っている
武術から引き離そうとしているように感じた。
それですごく怒りに満たされた。
彼女は理解していないと思った。

そして私はますます特訓に励んだ。
若い頃の夢の間に
何物をも立ちはだからせないと思ったからだ。

しかし理解していなかったのは
私の方だった。
それは私の自分本位の欲望を
妻と私の間に置いたからだった。

命を与える聖書の言葉は
今日、私たち一人一人に語りかけている。

「わが子よ、あなたの心をわたしに与え、
あなたの目をわたしの道に注げ。」(箴言23:26)

「夫たる者よ。キリストが教会を愛して
そのためにご自身をささげられたように
妻を愛しなさい。」(エペソ5:23)

すべての男性に立ち向かう闘いは
妻と子を自分よりも愛することだ。
苛立ちと反抗で私は
呼んでおられる神から心を遠ざけた。
服従することが勝利と自由へ導くということに気づかずに。」

 
ウィルソンは自分を縛り、幸福から遠ざけて行く偽りの契約の重さを認識していなかった。その「道」は、彼が幼少期に味わったトラウマを無意識に再現する道であり、妻子を捨て、子供にも取り返しのつかない悲劇を味わわせる道であった。
 
 


  

「願っていた夜がついに来た。
闘い相手と私はカンフーの弟子の資格を貰うことになった。
プライベートな儀式で上級ランク者しか
参加できなかった。
武術の訓練をし、教えたりしながら
17年も経ったあと
少し先に黒帯をとったライバルと共に
第五の夜明けのランクが与えられることになった。

私はその時のことを鮮明に覚えている。
師匠が我々二人と共に
弟子の資格式に入って来た。
二人とも同じ日に儀式を行った。
我々二人はこの30年間で初めての
第五の夜明けのランク受領者となった。

儀式の時、師匠が長い杖を持って入ってきた。
杖には馬の毛のようなものがあって、彫刻が刻まれていた。

儀式が終わり、皆がいなくなったあと、
私たちは師匠にそれについて尋ねてみた。
その杖は何処から来たのですか?
今まで何年もこの学校にいて
一度もそのようなものを見たことが無かった。
「この杖は誰かが弟子の資格を取った時のためだけに出すものだ」

後でわかったことは、それはシャーマンの杖だった。
師匠は主を愛していて、キリスト教だと
告白していたが、光と闇とを混ぜていた。

儀式から一週間たったころ、個人授業を
闘った仲間と一緒に受けていた時
忘れられない言葉を師匠が言った。
あなたが今学んでいることは
百年前だと魔術師とみなされていた事柄だ


ウィルソンが「結婚」(重婚)させられた相手が、どういう霊なのかが次第に分かって来た。儀式の度に、新たな異教のシンボルが登場する。師匠が持っていたのは、魔術師の杖であった。師匠はキリスト教徒を装っていたが、裏の顔があり、キリストへの信仰と、異教への信仰と、混ぜ合わせた霊を持っていたのである。
 
 



それからの二年半の特訓は想像以上のものであった。
平均台や梅花は柱の上で騎馬立ちしながら名何時間も毎日瞑想して
「気」と呼ばれる神秘的な力を引き出す訓練をしていた。
瞑想と深呼吸とイメージトレーニングをしながら、
体の温度を変えたり
精神力で環境や戦う相手に影響を及ぼしたりすることを学んだ。

訓練を進めるために、やむをえず私は神の言葉の
はっきりした啓示から妥協していった。
不従順の道を進むにつれ、心は頑なになり、
父なる神の愛する声が聞こえにくくなっていった。

神の言葉が取り去られると、私の人生の基礎が崩れ始めた。
家族と家庭が嵐によって吹き飛ばされていった。
私と神との絆と妻との契約とが壊れていった。

弟子の資格をとったあと、結婚生活が危うくなり始めていた。
そして私は誰にも相談できない悩みと格闘していた。

結婚を維持させ妻子を守るという
使命感と反対方向に私を向かわせる武術。
いまだかつてなかった難問だった。

ウィルソンの武術の特訓が、もはや体を鍛えるためのものではなくなりつつあった。彼は体の温度を変えたり、精神力で環境や対戦相手に影響を及ぼすなど、人体の通常の限界を超えた訓練を行い、自分の体を変容させ、超自然的な力を発揮する術を学んでいたのである。

通常、このようなことは、霊によって行われることであり、キリストの霊は、よみがえりの命であり、すべてを統治する神の非受造の神の命であるから、その命には、物理現象を治め、人の心にも、影響を及ぼす力がある。信者は御霊を受けて、神の言葉に従って生きる時、口では説明できない様々な不思議な現象が、祈りや信仰を通して起きて来ることを知っている。信者はそれを神が祈りに応えて下さったのだと思う。むろん、そうである。だが、同時に、それは信者の内に住んでいるキリストの御霊の働きでもある。御霊は万物を支配されるキリストの霊であるから、そこには統治という原則が存在するのである。

だが、邪悪な悪霊も、御霊の働きを模倣し、肉の力で「永遠の命」の働きを再現しようとする。

内丹術が人体を「気」によって変容させ、最終的には人を「道」と一体化させて、不老不死(永遠)に到達することを目的としていたことを思い出したい。ウィルソンの行っていた訓練はそのような人体の変容の始まりであった。

ウィルソンの家庭生活はこの頃から明らかに破綻し始める。
 
武術で学んできた技術や思想は
罪と闘って自由を得る助けにはならなかった。
武術では、なんであっても適度にとれば害はないと教わった。
絶対的な原則、白黒など無かった。
すべては真ん中の灰色。

神の言葉で明白に「人は二人の主人に
仕えることはできない」と書いてある。

しかし私はこの16年間それをしようとしていた。
家族と一緒に毎週教会に通ったが、
心は神のことと家庭のことから遠ざかっていた。
私は武術と肉の欲を妻との間に置いた。
そして神と妻との契約との間にも。

これはたぶん人生の中で一番激しい戦いだった。
長年武術を学び、古コンタクトで闘ったりして、
自分ではどんな困難にも立ち向かえる自信があった。
でも気づけば師匠の教えも
鍛えてきたものもこの困難には役に立たなかった。

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく
もろもろもの支配と、権威と、やみの世の主権者
また天上にいる悪の霊に対する闘いである。」(エペソ6:12)

教会の中や家庭の中だけに闘いは限らず、
自分自身の中にも激しい戦いが起こる。
向かい合っていた敵は心の中に潜んでいた。

そして自分の欲望や肉欲から自由になる方法が
わからなかった。その声から逃れることも。

その声とは我々が長年聞き従ってきたものであり、
テレビ、映画、音楽や雑誌などを通じて
今日も語りかけている。
そして私にとっては師匠や武術を通しても語ってきた。

「わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、
神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。
わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって
立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いを
とりこにしてキリストに服従させる。」(第二コリント10:4-5)

しかし主なるキリストがただで与えようとしている
勝利に身を任せる者はなんと少ないことだろう。
真のクリスチャン…本当に主の弟子になることは
ただキリストを信じるだけでは足りない。
週に一回教会へ行って、朝に少し聖句を読んで
慌てて世の中に出かける以上のものだ。

主 エホバ ヤーヴェはあなたの人生の
7割を要求しているのではない。
生まれ変わるということは
すべてを捧げるということだ。
人生のすべてだ。

武術界では、キリストを見上げる代わりに、
自分の内面を見つめることを教わった。
神の聖なる御言葉の啓示より
自分の気持ちに従うことが第一だった。
そして闘いがあった。

600年前に天で起こった闘いは今もなお続いている。
目には見えないが、すべての男女、
子供のうちに激しい闘いが存在する。
日々、暗闇の中や内なる敵と
闘っている人たちが我々のまわりにいる。
常に命のパンと水に飢え渇いている魂がいる。

彼らは本当にキリストの言葉を信じ、その救いの業や
愛を知っている弟子を見てみたいと望んでいる。

私は一番主を必要としている時に
はっきりとした識別力が必要な時
私は聖霊の指示に対し盲と聾になっていた。

結婚生活の問題を解決したかったが、
聖書を読んでも昔のように理解することができなかった。
私の中で光が闇となり、悪が善に見えた。
それは聖書では「霊によって霊のことを解釈するのである」
(第一コリント2:13)と書かれているからである。

武術や師匠やメディアを通した龍の声に
長年耳を傾けていた為か、
天の父の御言葉が分からなくなった。

「なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。
すなわち、それは神の律法に従わず、
否、従い得ないのである。」(ローマ8:7)

 
 
ウィルソンは言う、「武術界では、キリストを見上げる代わりに、自分の内面を見つめることを教わった。」グノーシス主義は、神と人とが本来的に同一であるとみなして、神を探求すると言いながら、人に「本来的な自己を取り戻す」という口実で、自分自身を見つめさせる。神を仰がず、自分自身を見させるのである。

パウロはローマ人への手紙の第8章で、人間の内側では、肉の思いと霊の思いとの激しい葛藤があり、肉の思いは神に敵対し、神に従い得ないと書いている。しかし、人間の堕落を認めないグノーシス主義は、肉と霊とを区別しない。そして、堕落した肉を本来的に神と同一の「神聖な要素」の一部とみなすのである。そのため、グノーシス主義とは、「肉の復権」の思想なのだと言える。また、これに基づいて生まれるすべての思想も、人間の邪悪さを聖とみなし、光を闇とし、善を悪とし、すべての物事をさかさまに、あべこべに見るのである。

仏教では、仏(悟りを得た者)に備わる四つの知恵とされるものの一つに、大円鏡智(だいえんきょうち)というものがある。これは万物を鏡に映すようにしてそありのままの姿を真理として把握するという意味である。

だが、 鏡に映すと、すべてのものがさかまさに見えるのは言うまでもない。ここで言う「鏡」とは、聖書の神の側から見た真理ではなく、堕落した被造物が造り出した認識の世界、人間の側から見た事物の有様であり、大円鏡智なるものは、グノーシス主義の「鏡」と同じで、人間の認識が神の認識に取って代わって、普遍の真理、リアリティとなってしまっているのである。

それは「本体」がなくなり、「影」に過ぎない「映像」が自分は本物だと主張している世界であるため、それゆえ、そこで言われる「真理」はすべてがさかさまで、転倒してひっくり返っているのである。創造主の側に真理があるのではなく、被造物の認識の中に真理があるとみなすと、必ず、すべてが裏返しになった偽りの「真理」が出来上がってしまうのである。これが、グノーシス主義の「鏡」が作り出すさかさまの世界観である。

六ヶ月くらい自分の中で闘い悩んでいた。
でもそれは武術の教え通りに闘ったのである。
自分の強い意志と特訓で治めようとした。

しかしどんなに強くても、キリストの力無しでは、
人間はとうていサタンや悪天使たちに打勝つことができない。
何も解決しないことに苛立つあまり、龍の声に耳を傾け、
自己の自由を選び、とうとう離婚届を出した。

家庭が壊れた経過は言葉では言い表せない。
多くの人は、神の言葉を聞くよりも、
自分の肉の声に聞き従うと。
どれだけその選択で取り返し難い影響を
永遠に受けるか気づいていない。

「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。 だれがこれを、よく知ることができようか。」(エレミヤ17:9)
 



田舎の家から引越しトラックで出て行った日を
今でもはっきりと覚えている。

それは家に帰る最後の日で
残りの家具をとりに行くところだった。
砂利を敷いたドライブウェーに駐車する時、
私は妻と小さい息子が玄関で天に向かって
助けを祈り泣き叫んでいたのに気づかなかった。

そしてトラックで出て行く時
六歳の娘が後ろから走ってきて
「パパ、パパ、待って!行かないで!」
と泣き叫んでいたことにも気づかなかった。

何年かしてから私の去ったことが、
どれだけ妻子につらい思いをさせたかを知らされた。
 

 
ウィルソンが肉に従って歩むに連れて、彼の内側で、愛が冷え、無慈悲さ、頑なさ、冷酷さ、自己中心性など、強情で冷たい性格が育って行った。体を変容させる試みは、彼の心までも変容させた。ただし、それは彼が願っていたような変容ではなく、「神のように」なることとは裏腹に、事実は、悪魔の姿に近づいて行った。

ウィルソンが子供たちを無慈悲に捨てた行動の中には、無意識のうちに、彼自身が父に捨てられたという心の傷が影響していただろう。「気」を汲み出す訓練が、激しい苦痛の連続であったように、悪霊は、人間の加害者意識や被害者意識を通じて働く。加害者意識と被害者意識は表裏一体であり、被害者意識を抱えたままの人間は、いつ加害者に転ずるか分からない暴力性を秘めている。肉にある生き方は、憎しみと怨念と暴力の道で、永遠に終わらない心の傷の連鎖を生み出すだけである。
 
 

  

妻のサラは信仰の闘いをし始めた。
彼女は主が約束の言葉を守らないはずはないと固く信じていた。

彼女は毎日神の約束を繰り返し音読した。
「神が合わせたものを人は離してはならない」
(マルコ10:9)

「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して
救われるからである。聖書は、『すべて彼を信じる者は
失望に終わることがない』と言っている。」
(ローマ10:10-11)

妻が聖書朗読、断食や祈りをしていた時に、
私は自分が若い時から夢に見た
武術の深い闇に自らのめり込んで行った。

神が自分の良心に語り掛ける声をずっと打ち消そうとしたが、
良心の声と神の声の問いかけが続き、罪の呵責に苦しんだ。



妻が子供たちを私のアパートに連れてくる時、
妻がとても痩せ細っているのに、
目が喜びに満ちていたのを覚えている。
それがなぜか私には理解できなかった。
私が一生懸命になって得ようとしていたものを
妻は既に持っていた。

しかしどんなに走っても、
どんなに娯楽で気を紛らわせようとしても、
一人で夜ベッドに横たわる時、深い沈黙に包まれた。

「どうか、あなたはわたしの戒めに聞き従うように。
そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は
海の波のようになり」(イザヤ48:18)

「あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、
何ものも彼らをつまずかすことはできません。」
(詩編119:165)


それでも、ウィルソンの探求は終わらず、彼は新たな師匠と出会う。そして、その師匠との出会いが、武術に隠された悪魔的な起源を知らされるきっかけとなった。(写真は前の師匠。陰陽道のシンボルや、武士道などの言葉が道着に記されている。)
 



もっと深い知識と力を学びたいと思い、
中国の内家拳の太極拳、八卦拳や気功などに励んでみた。
ある週末、親しい友達が熟練した武術者が
来るからとトレーニング講座に誘ってくれた。
そこは私の住んでいるところから数時間離れた町にあった。

私はこの武術者に会いに行くのがとても楽しみだった。
なぜなら彼は名声ランクも高かった。
なにより彼は内なる力「気」を実演したり
教えたりすることのできる人だった。
彼は第十の夜明けとして認められていて、
二つの拳法のカンフーと中国の気功を教える資格を持っていた。
気功の目的とは、武術と医学のために、
「気」の力を育てるためのものだ。

講座での訓練が終わったあと、
その師匠が来て数人かの生徒たちと話した。
そして黒帯とその従える生徒たちに
訓練についての指示を与えたのち
彼らはその指示通りに行うために去って行った。

師匠と二人きりになった時、彼は私を個人的に名指した。
私は彼と初めて会うのだが、彼はこの出会いは偶然ではないと言う。
ある中国のことわざで「弟子が準備が出来た時に、師は現れる。』

その日から、私はこの師匠の元で訓練する機会を徹底的に探した。
彼には、私を教える知識があるばかりでなく、
第五の夜明けの上の生徒の進行を見守る権威があったからである。
長年彼と付き合った中で一番記憶に残るものがある。

ある夜、激しい訓練が終わった後、
師匠は「気」を獲得する方法についてのなざを語り始めた。
しかし期待していたのとは違って、
中国の勇士や賢人について語るのではなく、
現代の音楽家ジミ・ヘンドリックスや
エリック・クラフトンなどの才能について語り始めた。



カンフーで使うエネルギーを
有名な音楽家が欲望に満ちたロックミュージックに
注いでいたエネルギーと比べていた。

その時彼が教えてくれたのは
初心者は「気」は「内なる力」と教わり、
中級レベルでは「気」は「息」と教わり、
上級レベルでは「気」を「霊」と教わる。

そしてこの霊的なエネルギーが何千という違う形で現れる。
それは武術者にとっては速度と力い使われ、
ホリスティック治療家は
患者を癒す振動エネルギーとして用い
会社重役や指導者は部下を
巧みに制御し影響することに用い、
役者は観客を虜にさせるような演技をするため、
音楽家はパフォーマンスに活気をつけさせ、
聴衆の感情や心を意のままに動かすために、
霊的なエネルギーは使われる。

 
新しい師匠に出会って、初めてウィルソンはそれまでは「内なる力」や「息」のようなものだと教えらえていた「気」の正体が「霊」であることを明かされる。「気」は「霊」から引き出されるエネルギーなのである。

その霊的なパワーが一種の見えない「波動」となって、音楽の演奏や、気功による治療や、企業活動などの場面で、人間関係に影響を及ぼし、自分の望む効果を相手から引き出すために利用されているのである。

だが、一体、それは何の「霊」から引き出されるエネルギーなのか? ウィルソンは師匠の自宅を訪問した際に、その秘密を知ることになる。
 
数年間この師匠の下で訓練を受け
もし本当にこの人の教えをすべて受け入れるなら
もはや他の主人に仕えることが出来ないと気づいた。

弟子が師匠から離れて別な学校で教師になって
教え始めるというのは珍しいことではない。
私はそうすることにした。

そして忠誠が引き裂かれたと悩む必要がなくなった所で
東洋武術に隠された力を探ろうとし始めた。

その力は見えるものであったが、その力が何処から
来るのかは常にわからないあやふやなままであった。

私はよく師匠の住んで教えている町まで
六時間かけて運転して行った。
ある時、師匠の家を訪問した。
ここで世界中の弟子たちが長年闘って
訓練してきた裏の秘密を知った。



師匠の家に入ると、意外なものを見た。
長年親しんだ少林拳の将軍や伝統的な着物を
着た僧などの絵が貼ってあるのではなく
部屋のすべての壁に飾ってあったのは、
等身大のヒンズー教の神々の壁掛けであった。

 

  
 
自分の頭の中で危険信号が鳴り響いた。
聖句の警告や子供の時教わったもの
今まで押し殺してきたものが、
すべて浮かび上がってきた。

師匠はその日、私に不思議な質問をしてきた。
「もしも、武術がすべて少林拳から始まったのであれば、
なぜこんなにも多く同じ思想で違う表し方が存在するのだろうか?」
私はそれを聞いて驚いたが、しかし興味深いと思った。
この質問の答えは長年探していたものだったが、
どう言葉で表現していいか分からなかったものだった。
危険信号がさらに大きくなった。


師匠の家にはヒンドゥー教の神々の壁掛けが飾られていたが、それによって、武術で見られるあの圧倒的なパワーが、聖書の神ではない、異教の神々すなわち悪魔と悪霊に由来して引き出されるエネルギーであることが徐々に分かって来た。師匠は示唆する、武術は少林拳から始まったのではないと。もっともっと古い起源があると。そして、そのことは、むろん、ただ武術だけに限るのではない。太古からあるものが、武術を含め、あらゆる分野において、様々なバリエーションとなって現れているに過ぎないのだ。

では、その太古からある起源とは何なのか? すべてのバリエーションに共通する型とは何なのか?

何事も徹底的に究明しようとするウィルソンは、ついに自分をそれまで導いてきた武術のパワーの根源がどこにあるかを知ることになる。すなわち、彼がそれまで追って来た「霊」の思想の起源を発見する。
 
その年は2007年であった。
武術では、夢見てきたことを何もかも成し遂げた。
ある夜、八卦掌のクラスを教えていた時のことだった。
八卦掌は太極拳と良く似ていてゆっくりとした正確な動きで
深呼吸や瞑想しながら動きに集中した。
私は生徒たちを円を描くように歩かせながら、
深呼吸や手のしぐさに集中していた。

それをしている間に、生徒の目を見た。
彼らが本当に武術の力を引き出しているか
どうかを確かめるためだった。

すると目を見ていると、生徒全員が催眠状態のような目つきをして
汗でびしょぬれであることに気づいた。
武術の経験のある私は、こんな軽い運動で
汗をかくなど人間的に不可能だと思った。
肉体訓練や柔軟体操などしてなかったはずだ。

その瞬間、私の精神は上に引き上げられて
生徒にフォームを教えている間に、まるで上から見下ろすように、
生徒たちと私が道場の床で作っている形が見えた。
こんなことはかつて経験したことはなかった。
まるでミステリー・サークルみたいだった。
百姓が畑に出るとただの散乱した畑であっても、
上から見下ろして鳥瞰図にしてみれば模様の形が見えてくる。



私が見た形は円で、その中心に点があって
まるで図星のようなものだった。
この形に関して非常に悩んだのは、
同じ形がすべての武術文学、書き物、師匠達の
様々な本などに載ってあるのを見たからだ。

その夜家に帰って自分の本棚をあさってみた。
合気道、日本武術、カンフー、気功、中国武術と
どの本を見ても同じ円の形があった。
そしてその意味もわかった。
それは太陽の神「道」をさすものであった。

生徒たちにどう説明するか迷った。
どうやって百人近くの人に
これまで学校で教えていた武術というものが、
太陽の神の霊を呼び出すものであったと伝えられるのか。

今までにも説明して来たように、「道」(=世界の根源となる混沌)とは、グノーシス主義の「虚無の深淵」や「鏡」、仏教の「空(無)」と本質的に同じ概念であり、日輪すなわち太陽神と一体である。シンボルとしての「道」は、永遠の循環を表す円(輪)である。

それが分かれば、たとえば、禅において、悟りに至る諸段階を、十枚の絵で表してるとされる「十牛図」が、なぜすべて円の中に描かれているのかも分かる。この円は「道」なのである。
 

十牛図

ウィルソンは、それまで人生で最も大切な価値だと信じて来た武術が、反聖書的な悪魔的な教えを起源としていることに気づいた時、その事実から目を背けなかった。彼はただ力が欲しかったのではなく、真実が知りたかったのである。そこで、彼は生徒たちにも、「輪」のシンボルについて調べさせた。すると、「道」(=「輪」=「鏡」=「太陽神)のシンボルは文化の壁を超えて様々なところに見られることが分かる。



そこで次の週、上級クラスに宿題の課題を出した。
家に帰ってこの形の意味を探してくるように
と言ってその円を黒板に描いた。

その次の週、クラスでは深い沈黙があった。
水を打ったような静けさだった。
すべての生徒たちは厳粛な表情をしていた。

私は一人ひとりにクラスの前で何を見つけたか発表させた。
宿題の課題を出す時、どこでその意味を
探しても構わないと前もって伝えてあった。

歴史の本、アステカやマヤ文化、エジプトやローマ、バビロン、
刺青の本やウィッカなど魔術の本からも探していた。







 





  どこで探したにせよ、結論は同じであった。
太陽の神の象徴、中国では「道」や
「陰と陽」などで表されている。
 


(陰と陽 Wikipedia「内丹術」から陰陽道大極図)

そしてある生徒が「これはどういうことですか?」と聞いて来た。
これからどうすればいいのですか?何が変わるのですか?
私は彼らに言った「これからはもう八卦掌を教えない」

しかしまだそれ以外にもありそうだと思い、
夜帰宅してまた本を探り始めた。
太極拳、ヨガ、気功、少林派のものも調べてみた。
調べているうちに想像以上に色々と発見してしまった。


武術の圧倒的なパワーが、反聖書的な、悪魔的な起源を有する悪霊による被造物崇拝から来るものであると分かった以上、もうこのようなものを教えることはできない、とウィルソンは考える。彼はそれが分かったにも関わらず、なお自分をごまかして、武術にすがり続けようとは思わなかった。

だが、武術の思想の誤りが分かると同時に、彼が歩んできた道が、聖書の神に逆らい、悪霊に従う誤った道であり、それによって彼は自分の家族を破滅させてしまったのだという事実がはっきりと見えて来た。幼い頃から親しんできたキリスト教の信仰が、彼の心に呼びかけていた。今、まことの神に立ち戻らなければ、彼の人生も家族の人生も破滅すると。
 

昔、母が不安そうにしていた記憶が蘇った。
そして武術で学んでいた霊的な力で私は家族を
破滅に追いやったのだとはっきりと見えてきた。

主は私を呼んでおられた「子よ、今こそ帰ってきなさい」
彼は私に繋がれていた鎖を解放しようと闘われていた。
そして妻子に変わらない忠誠の約束を示すために。
主は私と私の家族を仲直りさせていたと
同時に私の盲の目を回復させていた。

その週のうちに私は生徒たちに発表をした。
もう内家拳の太極拳や気功も八卦掌も
少林派のカンフーですら教えない。
私は肉体的な武術を霊的な武術から引き離そうとしていた。
しかしこれは非常に難しかった。
六、七カ月挑戦してみたところ、
肉体的特訓を霊的な基のある武術から
引き離すことは不可能であると気づいた。

この発表した時、たぶん生徒の四割は去った。
これは経済的打撃が強かった。
それだけではなく、長年付き添ってくれた
生徒が去っていくのをみるのも精神的に堪えた。
 

ウィルソンはそれでも何とかして武術から悪しき霊的な教えだけを切り離して、肉体的訓練の部分だけは残せないかと試行錯誤してみたが、それは不可能であることが分かった。思想はすべての土台であり、その上に生じる現われの部分だけを、思想と切り離して残すことはできない。だが、肉体的特訓ができないことを表明すると、多くの生徒は去って行った。経済的にも、これ以上、武術を教え続けることはもうできないことが明白であった。

しかし、ウィルソンが儀式を通して結ばれ、長年、心を捧げて来た対象には、ウィルソンが武術の精神と訣別することを決めても、そう簡単にウィルソンを手放すつもりはなかった。武術の精神とは、彼を飲み込もうとし続けて来た死の力である。
 
ある夜、クラスを教え終わったあと帰宅した。
真夜中近かった。
ドアを入ってジムバッグを
玄関近くにおろして台所に歩いて行った。
飲み物を取りに冷蔵庫を開けようとしたその時、
首筋に一気に鳥肌が立った。
なにか得体の知れない大きなものが
後ろに迫っているのを感じた。



それはひどく恐ろしいものだった。
長年武術の特訓をして、怖いものなど
自分にはもうないと思っていたのに、
しかし後ろにいたものは私を恐怖に陥れた。

もうどうしていいかわからなかった。
師匠たちに教わったことや読んで学んだ
知識などが頭の中をよぎった。
ここは闘うべきか? 逃げるべきか?
しかしどれも通用しなかった。
どちらも無意味だった。

何が後ろから見下ろしているのかと
みるのは怖かった。
4メートル近くあるように感じた。
その瞬間だった。
耳の中である名前が聞こえてきた。
「イエス・キリスト」
それを聞いたとたん一筋の希望が見えた。

もしかしたら、こんなに反抗した道を
歩んできた私を救って下さるのでは?
家族や他の人を傷つけてきたのに、私を救ってくださるのか?

使徒行伝2章の21節では
私達に約束が与えられている。
「その時、主の名を呼び求める者は
みな救われるであろう」と。

そんなに簡単なのだろうか?
本当に可能なのだろうか?
本当に私の声を聞き届けてくださるのか?
その時、私はひざまづいて、
上を見上げ、思いっきり叫んだ。
「イエス様、助けてください!
主よ、助けてください!」



どれくらい泣いたかは覚えていない。
頬に涙が伝った。
後ろの気配はまだ消えず、ただひたすら
イエス・キリストの名前を呼んだ。

永遠のように長く感じた時間が過ぎ去ったあと
誰かもうひとり部屋に入ってくる気配がした。
そして入ってきた人は、私の後ろにいた
巨大な悪霊のような人をつかんで、
部屋からぶっ飛ばした。
それは見えなかったが、
でも見えるかのように感じた。

私は涙でぐしょぐしょで、ずっと主に向かって呼んだ。
その時から、主は私の個人的な救い主だと知った。
その時から、主は力強い救い主だと私は知った。

2007年8月、離婚の5年後、南フロリダの静かな浜辺で
妻サラと私は聖なる結婚の契約を結びなおした。


2008年にイザヤ・ミニストリー誕生。
我が家は信仰によって、
「主がどんなに大きなことをしてくださったか。またどんなに
あわれんでくださったか、それを知らせなさい」(マルコ5:19)
というキリストの訓戒に従った。 



むろん、この最後の部分をどう受け止めるかはその人次第であろう。筆者は、ウィルソンを殺そうと迫って来たのは、悪魔的な起源を持つ死の力であったとみなす。それが「道」の正体である。永遠の循環を示す蛇の輪は、人間を死と呪いから決して逃がすまいという悪魔の決意を示している。だが、キリストは死を打ち破った方であり、信じる者をそこから解放する力を持っている。

ウィルソンの中で真理が勝った。徹底的に物事を見極めようとしていた彼の性格、知らされた真理から目を背けなかったことが幸いして、彼は信仰を取り戻したのである。他方、彼の師匠たちのような人々は、武術の起源がキリスト教にないことを知りながら、武術が与えてくれる力、栄誉に魅了されて、これを手放さず、うわべだけはキリスト教徒を演じながら、他の神々に仕え続けたものと思われる。

映画"MISHIMA"や、『龍の正体』は、どちらも東洋的な文化の中からは、決して提起できなかったであろう鋭い問題提起を行ている。

『龍の正体』では、「気」を通して「道」(永遠)との合一を目指す思想が、悪魔的な思想であり、「道」とは死そのものであること、また、「気」を引き出す訓練は、人間のトラウマ、利己主義、敵意、憎悪、怨念、憎しみ、欲望などの肉の思いを通して生まれて来るものであることを見て来た。

東洋思想の「道」とは、死に脅かされる被害者としての人類が、自力で永遠性を身に着けて、死を克服して、神のようになろうと、自分を脅かす者に闘いを挑む道である。だが、武術が敵としているのは、悪魔ではなく、聖書の神である。武術は、人類による単なる自己防御の手段ではなく、人類に死の判決を下した神ご自身に対する、悪魔と暗闇の軍勢による反逆の闘いの一部なのである。

十二神将の像に見られるすまじい形相には、自分に永遠の滅びの判決を下した神に対する悪魔の敵意、憎しみ、憤り、怨念、攻撃性が反映していると言えよう。それゆえ、その「道」を行く者は誰でもやがては悪魔と一体化して、鬼と化すのである。

だが、今や、映画の冒頭の警告にあるように、東洋神秘主義の教えは、キリスト教文化圏にも入り込み、それが欧米を経由して東洋に逆輸入されるようになって来ている。ペンテコステ・カリスマ運動も、東洋神秘主義がキリスト教と混合した上で、それが我が国に逆輸入されて入って来たものである。そのことは、ペンテコステ運動が、武術が誇るのと同じような魔術的な超自然的な力を通して神に近づくことを目指している様子からも分かる。そのペンテコステ運動の只中から、カルト被害者救済活動が生まれて来たことは、偶然ではない。

悪霊は、人間の傷やトラウマを足がかりにして、そこから内に侵入し、怨念や憎しみをパワーに変えて活動する。加害者意識と被害者意識はどちらも、悪霊の働く通路であり、人はこれを神に委ね、癒しを求めて祈る必要がある。

ダビデは祈った。

「神よ、わたしを究め
わたしの心を知ってください。
わたしを試し、悩みを知ってください。
御覧ください
わたしの内に迷いの道があるかどうかを。
どうか、わたしをとこしえの道に導いてください。」(詩編139:23-24)

ここで「迷いの道」と訳されている部分は、別の訳では、「傷ついた道」、「悪しき道」となっている。人が心傷つき、トラウマを心に抱えれば、無意識のうちに、そこから他人にも自分と同じ苦しみを味わわせることで報復を果たそうとする終わりなき罪の連鎖が生まれる。

だが、人は自分で自分の心を見極めることはできない。人の心を深みまで探って下さり、病んだ部分を探し出して、それを癒し、「とこしえの道」へと人を導いて下さる方は、神だけである。そして、その方に従うためには、人は自分を捨てねばならない。自力で武装して、自力で弱さを克服し、自衛することをやめ、弱さのゆえに十字架につけられたキリストと一つとなって、その死に神のよみがえりの命の力が働くことを信じねばならないのである。
PR

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑤~

さて、武術がどのように悪魔的な起源を持つものであるかを知るために、『龍の正体』の解説に戻ろう。ウィルソンはその後、大学に通いつつ、ビルマ拳法の学校に通うようになり、そこで5年間の月日をかけて黒帯を取り、キックボクシングの大会に出場して勝利をおさめる。その成功体験が、彼の虚栄心とプライドをさらに建て上げることになる。
 

「クリーブランドの町にいた頃、
いくつかの武術学校に通った。
最初に通った武術学校は
一心流空手道だった。
大学に通いつつ、二年半訓練を受けた。
それからある武術のクラスが
YMCAで行われていると耳にした。<略>

そこで習ったのがバンドー空手だった。
ビルマの国から来たものだ。
中国や日本、沖縄の武術の影響が強く
色んなものがごちゃまぜになった武術だった。
フルコンタクトが基本でボクシング
徒手格闘、五形拳もあった。
カンフーと少し違った動物が出てきたが、
似ていたのですぐに慣れた。

五年間の訓練でやっと黒帯が貰えた。

その直後、全国キックボクシング大会に
出場することになった。
こんな大きな大会に出たのは初めてで
ものすごく緊張した。
あんな大勢の前で戦ったことが無かった。
スポットライトが当たり、本当に緊張した。
リングに上がった時、大勢の観客を見渡し、
ラウンドガールが水着姿で番号を持って歩くのを見て
これは現実か?と思った。
とにかくリングの反対側の相手を見た。
そして、彼と目が合った瞬間、周りのすべてが消えた。
もう誰も見えず、何も聞こえず、観客は姿を消し、
ただ目の前にある闘いだけが重要だった。

振り返れば、あの闘いはすごく自分を変えた。
試合後、自分と自分の武術チーム仲間について
書かれた新聞記事が出ていた。
非常に優れた成績を獲得したと書いてあった。
自分の中のプライドがまた少し膨らんだ。


ウィルソンは、ある意味で、パウロがそうだったように、何事も徹底的に追求して熱心に極めようとするタイプだったらしく、一つの成功体験だけで満足することなく、自分にはまだ足りないものがあると感じ、なんと最初に学んでいた武術学校へ戻って、緑帯からやり直そうとする。
 

「ビルマ拳法で黒帯を取ってから
師匠たちは他の生徒たちを指導するよう勧めてきた。
だが何か足りないものを感じていた。
まだ獲得していないものがあったからだ。

すぐに私は最初に通っていた武術学校に戻ることにした。
最初に始めたところで自分の能力を試してみたかった。
だがその選択が暗闇への道に導くことになるとは
少しも気づかなかった。

武術学校史上四人目の黒帯獲得者に
出会ったのはこの頃だった。
その儀式は今まで見たことが無いようなもので
畏敬の念を起こさせるようなものだった。

最初の学校に戻って、緑帯からまたやり直し。
六ヶ月のうちに優等緑帯になり、
一年半後には茶帯になった。
師匠は私が黒帯になって教えるようになりたい
と思っていることを知っていた。

その頃に、優等茶帯が黒帯になる儀式が行われた。
ろうそくが並べられ、かなり本格的なものだった。
茶帯の人が黒帯を受けとるところで
師匠の目が私を見つめていたのを覚えている。
自分もいつかこの日が来る。
この学校で黒帯を取る日が来ると悟った。」



最初に通った武術学校で、ウィルソンは、人体の限界を超えた魔法のような驚異的な技を使うためには、「気」というものを引き出す秘訣を学ばねばならないことを知らされる。彼がはっきりと「暗闇への道」に引き込まれて行くのは、彼が「気」を汲み出す訓練を始めてからのことであった。

すでに述べたように、「気」というものの存在は、科学的には全く立証されていない。これは中国の伝統的な思想に由来する、非科学的な、純粋に東洋的な概念である。

中国の伝統的な思想では、「気」とは天地万物を構成する見えない根源的なエネルギーであるとみなされており、すべての物質に「気」が宿っているため、人が自らの体内にある「気」を汲み出し、養うことで、体の状態を変容させる修行法(=内丹術)が歴史を通じて編み出されて来たのである。

今や「気」という概念は世界中に広まり、欧米諸国においても、ヨガや瞑想、あらゆるトレーニングの宣伝広告に使われており、あたかも人間が簡単に「気」を高めることで体の調子を良好にし、人生を好転できるかのように謳われている。

だが、多くの人々は、そのその源流となる思想が、東洋神秘主義にあることや、「気」を引き出すために通らなければならないとされる激しい苦痛に満ちた修行のことを知らない。

ウィルソンが通っていた武術学校は、キリスト教文化圏の学校であるから、その師匠は、「気」が東洋思想に由来する異教的概念であることは明かさず、それはただ「神が人間に植えつけた内なる力」であると説明していた。

「気」こそ、圧倒的で驚異的な技を生み出すエネルギーの源であることに気づいたウィルソンは、自分もその力が欲しいと願う。だが、「気」を技に適用する方法を学ぶことは、黒帯のような選ばれた者だけに許された訓練であり、その訓練は、閉じた扉の向こうで行われる、武術の奥義の世界を意味していた。
 

「1999年私はこの学校で黒帯を取る五人目となった。
30年間での五人目だった。
14年もの特訓を経ての取得だった。
一番激しい内家拳(太極拳・形意拳・八卦掌など)の特訓は
閉じた扉の奥の上級クラスの中で行われた。

その特訓で私たちが教わった思想に
「気」というものがあった。
今日ではテレビなどで
良く使われる言葉だ。
歯医者の待合室にある健康雑誌にすら載っている。
しかし80年や90年代の頃は、誰にでも
通用する言葉ではなかった。

師匠が私たちに説明した「気」とは
神が人間の中に植えつけたもの、内なる力である。
それを自分の中から引き出して
技と一緒に使う必要があるのだと。
サンドバッグを蹴るにしても、
二百回腕立て伏せするにしても、
その「気」を内側から引き出して
一緒に使わなければいけない。

そしてこれこそ必要不可欠な力であり、
茶帯や上級茶帯や黒帯が成す驚異的な技は
すべてこの力に基づいている。

現代の映画やハリウッドや
ドキュメンタリー番組などで見かける
200キロの氷を一撃で打ち砕く技
鉛筆二本折るような話ではなくて
本格的なすごい力。

こういった技はどうしたらできるのかと
上級緑帯の頃に師匠に聞いたことがある。
こういう訓練は黒帯限定だと返された。
そういう訓練のための準備については教えられるが
「気」を汲み出す方法を学ぶのは
黒帯になってからの話だと言われた。」


 
ウィルソンは緑帯の時に、まずは「気」を汲み出す方法を学ぶ訓練を始めるように言われる。だが、その訓練は痛みの連続だった。生徒同士が、渾身の力で平手打ちを加え合う、板で腹を打つ、といった暴力的な訓練を通じて、激しい痛み苦しみが加えられ、それによって引き出される憎悪、敵意、攻撃性の只中から、「気」が引き出されるというのであった。

 


緑帯の頃、この「気」を出す準備訓練

というものは痛みの特訓だった。
この訓練をする数週間前から師匠は私たちに
これから始めることを少しずつ話した。

まず最初に自分と同等の実力の相手を選び、
そしてお互いに平手で顔を打ちあった。
私が相手を引っ叩いたら、交代で向こうも私を引っ叩いた。
最初は普通に叩くのだが、だんだんと一発ごとに強く叩く。
相手が私を強くたたけば、私はそれ以上にもっと強く叩く。<略>

緑帯たちはお互いに緊張していて
控えめに打ち合っていた。
だが茶帯の方は本格的に平手で叩きあっていた。
サメのようにお互いの攻撃性で刺激を増していた。
顔が終わったら、腕、そして足にうつった。

そのうち約3センチの太さの板を持ち出してきた。
この板は頑丈なオークやヒッコリーの木で出来ていた。
そして体を引き締めて、相手に板で腹の方を打たせる。
そして打たれる際に思いっきり息を吐き出す。

師匠は私たちにこれが内なる力を
引き出す第一歩なのだと説明した。

あの夜あったことは、今となれば
あの頃よりも理解できると思う。
特訓が終わったあと、師匠が私たちにその夜は格闘を禁じた。
いつも特訓が終わった後は、互いに格闘をし、
訓練するのが上級クラスの特徴だった。
数年後、師匠にどうしてかを尋ねてみた。
「あまりにもテンションが上がりすぎてお互いを傷つけてしまう。
あの状態だとお互いに手加減はしないだろう」
彼の言葉は私の頭に残った。」 


 
「気」を引き出す訓練の最中には、生徒たちがあまりにも激しい痛みを互いに加え合い、敵意が高まったために、そのまま格闘に入れば、相手を死に至らせてしまう可能性があることを師匠は理解しており、格闘を禁じた。

一体、これほどまでの憎悪、殺意、攻撃性を通じてでなければ、養えない「気」とは何なのだろうか?
 
そこで、「気」を汲み出すことで、人体を変容することを目指す内丹術が、一体、どのような経緯で生まれたのかを見てみたい。これは調べてみると、老荘思想、神仙思想、禅宗、儒家の思想など、数々の思想を合体して出来た思想・修行法であることが分かる。

特に、注目されるのは、これが神仙思想の流れを汲んでいることである。神仙思想では、不老不死の神仙(仙人)が実在するとみなして、人間は生を養い(養生術)、丹(または金丹)という薬を作り服用する(錬丹術)などの修行を行うことで、神仙となり、不老不死(永遠性)を手に入れられるなどとしていた。

この神仙思想がやがて道教に取り入れられて、煉丹術となり、そこでは金などを液体として服用する「外丹」と、体内で気を養う「内丹」の二つの方法が編み出され、金属などを摂取する方法は人体に有害であったため、次第に廃れて行き、不老不死の素となる要素を体内に求める内丹術の方が後まで残った見られる。とはいえ、外丹術は中国の医薬学の発展を促し、火薬の発明の基礎になるなどしている。

このような経緯を見ると、内丹術が「気」を汲み出し、練ることで何を最終的に目指しているのかが見えて来る。この思想では、万物が生まれる前の「混沌とした状態」を「道」と呼び、この「道」こそが物質世界の真の根源であり、「道」が目に見える物質を生み出す際のエネルギーが見えない「気」だとみなす。

内丹術は、人間も「気」によって生み出され、構成されているため、人がいたずらな「気」の消耗を防ぎ、自らの体内で「気」を集め、これを練り、「内丹」という霊薬を生み出す方法を学べば、損なわれた人間の生命エネルギーが回復されて、生み出された当時の人間の自然なありようが回復され、最終的には「道」との一体化が成し遂げられるとする。

だが、端的に構造だけを見つめれば、この思想に表れているのも、やはり、グノーシス主義と同じ「原初回帰」の願望であり、時間軸を逆にすることで、人間が、創造される前の状態に自力で回帰することで、神と一体化し、永遠の命に到達しようという欲望であることが分かる。

つまり、この思想が目指しているのは、 ただ「気」を集めてこれを「内丹」として再生させることで、人体の生命力を回復しようという単なる健康法のレベルの達成ではなく、それをはるかに超えて、人間が自ら「気」を養う修行を通して「本来の自己」に立ち戻り、「道との合一に至る」ことによって、永遠性を身に着けることなのである。
 

内丹術の修煉とは、本来純粋な気を宿して生まれ、生から死への過程で欲望などで損耗しつつある人体の気を「内丹」として再生させ、気としての自己の身心を生成論的過程の逆行、存在論的根源への復帰のコースにのせ、利己たる存在を超えて本来の自己に立ち戻り、天地と同様の永遠性から、ついには道との合一に至るという実践技法である。(Wikipedia 「内丹術」より)



ここで「道」と呼ばれているものは、「神秘なる母性」「虚無の深淵」「空=無」「永遠の循環(輪)」に置き換えることができよう。そう考えれば、そのままグノーシス主義の思想が成立する。結局のところ、内丹術が目指している究極的な目的は、人間が生まれながらの自己のままで、「神」(道)と合一し、永遠存在となることなのである。

中心概念の「道」は、宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指し、道家と儒家で説かれる概念である。『老子』は第一章と第二十五章で、世界の根源である混沌を「道」と呼び、道は天地万物の一切を生みだす霊妙な働きがあるとする。それは「無為自然」で、おのずからそうなるという自然の働きそのものである。第十四章で、道は姿や形はなく目で視ることも聴くこともできないとされる。<略>『荘子』は「知北遊篇」の東郭子で、真実在としての「道」はこの眼前の世界を離れて在るのではなく、万物は道を含み「万物は道のあらわれ」であると説き、道はこの現実世界にこそ在ると示す。「齊物論篇」は、人為による二元的判断を捨て去ってありのままの真実を観れば、人間を含む一切の万物は齊(ひと)しく同じであると「万物齊同」を説き、道は通じて一と為すと「万物の一体」を言う。<略>

『老子』第二十五章は「大なれば曰(ここ)に逝き、逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反(かえ)る」と万物の循環を説き、『易経』は万物を陰陽魚太極図に示される、陰陽の消長する運動体であるとする。仙学では、宇宙の万物にはすべて生成があれば必ず死滅の終わりがあり、一切が止むことがない生死消長の変化の過程とされ、虚無だけが唯一永久不変不滅のものである。虚の中に物はなく、質も象もないから天地が崩壊しても虚空だけは生死を超越し、崩壊することがない。虚無は「道」である。
Wikipedia 「内丹術」より)


 このような概念は、まさに神と人とが本来的に同一であるとするサタンの偽りの「道」である。聖書において、イエスはわたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と言われたように、聖書におけるイエス・キリストという「道」は、不可逆的な一方通行の道である。人間は堕落した存在である自己に、キリストへの信仰によって一度限り永遠に死んで、彼のよみがえりの命にあずかり、新たな自己として父なる神のもとへ召されるのであって、このプロセスを逆行する者は、自分を救いから切り離すことになるだけであり、呪われた存在である。

しかし、東洋思想における「道」は、直線的な概念ではなく、曲線を描いて円(輪)となる。東洋思想の「道」、すなわち、世界の根源である混沌には、形はないとされるが、もしそれをあえて象徴として表すならば、永遠の循環としてのウロボロスの輪と同じものになるだろう。なぜなら、創造された当初の状態に人間が自力で回帰することにより、人が「神」(=混沌)と一体化して永遠の存在になれるとする教えは、時間軸を完全に無視してこれを逆行するものであり、永遠の堂々巡りとして、円を描くからである。このように、サタンの「道」は、直線ではなく、原初回帰の無限ループとしての「輪」なのである。

よって、これはグノーシス主義と同じように、物質世界に存在する人間が、キリストへの信仰を持つことなく、本来的に神と同一の性質を持つとみなす反聖書的な悪魔的思想である。世間一般で宣伝されている「気を養うことで健康を回復する」とか、「運気を高める」などということは、いわば、この思想のほんの前半部分に過ぎない。「不老不死に到達する」「神のような永遠の存在になる」という隠れた後半部分こそこの思想の中核である。

ウィルソンは、「気」という概念の背景に、そのような反聖書的で悪魔的な思想が込められているとは気づかずに、訓練に励むが、後になって、彼は「気」を通じて人間を自己を強化する術の完成である「武士道」は、人間の内に憎しみと怨念をかきたて、人が生涯を戦いに投じる戦士となって神に反逆する道であると結論づける。
 

 

「武術では色んな拳法に分かれていて、

ある拳法では内家拳と外家拳というものがある。
外家拳は肉体を鍛えることに集中するが、
内家拳は内なる力「気」を引き出すことに集中する。

そしてすべての武術はその武士道という言葉に基づいている。
武士の道、武士の心、その道を行けば、
武士になる、いわゆる戦士になる。
しかし、エホバ、神の戦士ではなく、肉の戦士である。

「サタンは戦争を喜ぶ。なぜなら戦争は魂の最悪の激情をかきたて
悪と流血に染まった犠牲者たちを永遠に葬り去ってしまうからである。
なぜなら、そうすることによって人々の心を神の日に立つ備えの働きから
そらすことができるからである」
(各時代の大争闘下巻第36章351ページ)」
 
「その時から、武術とは闘いや自己防御だけに限らず、
武道、生き方の一つであると気づき始めた。
武道は武術の道で「道」がつくものは
すべて生き方を示す。合気道、空手道、柔道…。」


  

(映画”MISHIMA"から)



さて、アメリカ軍には、第二次世界大戦とその後の沖縄駐留などを通して、1950年頃から東洋世界の武術が積極的に取り入れられた。その後、60年代から米国にはヨガやヒッピー・ムーブメントを通して、東洋の文化が流行し出す。カンフー映画なども多数、作り出されて茶の間に流され、東洋神秘主義があたかも「文化」の一部のようになって行く。
 

「キリスト教の集まりの中でも、
多くのクリスチャンが質問をする。
自己防御の何が悪い?
国の軍隊はどうなのか?
法律を守らせる役目のある人はどうなのか?
よく質問されるのは「お巡りさんはどうなの?」
もし彼らが格闘の仕方を知らなければ国はどうなる?
軍隊で訓練したり、弱いものを守ることは、
武術で学ぶ事柄と明らかな違いがある。

アメリカの軍隊で武術を取り入れ始めたのは1950年頃である。<略>
1950年頃、第二次世界大戦後、
軍隊は武術を持ち帰ってきた。
多くの軍隊は戦争の頃、沖縄に配置され、
そこで武術というものを知った。
小柄な東洋人が不可能に思える技や
超人的な力と速さを持っているのを彼らは見た。
そこで、その技を持ち帰り、また東洋の師匠たちの
多くがアメリカに上陸してきた。
始めは日本人や沖縄人が柔道や柔術を教えていた。
そのうち60年代に東洋の文化が流行りだし
ヨガやヒッピー運動と繋がっていった。

こういった武術や神秘的思想、哲学が、
私たちの国に持ち込まれている間、
メディアはそれらを取り上げた。
武術に関する映画が出始めたのはその頃だった。<略>
こういうヒーロー達が次々と
私たちの家族や子供たちの脳裏に埋め込まれていった。
伝統的なキリスト教徒でさえ
今までオカルトと思っていたものに対して、
これは肉体的な運動?
我々がまだ発見していない人間の
エネルギーなのか?と思い始めている。
私にとってこれらの映画は魅力的であった。
私たちにも現実にできるものだったからだ。」


  
沖縄の空手道の師匠である船越義珍は、武術は勝ち負けではなく、人間の品性を養い、建て上げるものだと述べたそうだが、その言葉は、米国で武術の宣伝のために大いに利用された。しかし、ウィルソンは、武術が人に学ばせようとしている本当の品性は、表向きに宣伝されているような美しいものとは全く異なると言う。武術がどんな品性にかたどって人を形造ろうとしているのか、それは船越の書物を見れば分かると。
 

「現代の武術の基を据えた者がいた。
その名は船越義珍である。
彼は現代の空手の父と呼ばれている。
彼の引用が読んだ色んな本に書かれてあり、
道場の壁に良く貼ってあったりする。

両親が子供たちを連れて空手を習いに行く時、
船越の言葉が彼らの心を掴むのである。
船越はこのような言葉を語った。
「武術は勝ち負けではない…競争や敵を打ち負かすことではない。
参加者の品性を完全にするものである。」

その引用を見た親たちは思う。
すばらしい!こういうものを子供に与えたい。
品性を極めさせ、やる気を起こしたい。
自制や自信をつけて欲しい。

しかし殆どの親たちが知らず、師匠すらも
見せないのは、船越の本の表紙だ。
表紙の絵を見れば、どういう品性にかたどっていくのかに気づく。

戦う精神。
数年前、私はこの表紙の絵を見て、
これは何処から来たのだろうかと思った。
こんな怒りに満ちた怖い鬼のようなものを
理由なしに表紙にするはずがない。
調べてみるとそれは
十二支の守り神の一人であった。

この絵がパンチや蹴り、闘いなどの
芸術のたしなみを通して見える真の姿であった。
武術とは武の芸術である。
果たしてこういう品性を自分と自分の子供たちに
受け継いでほしいものであろうか?」

 


船越の本の表紙にあるグロテスクな絵は、武術が形造ろうとしている人間の本当の姿をよく物語っている。怒り、憎しみ、怨念に満ちた鬼のような人間の顔。しかも、その姿はもはや人間の姿からもほど遠く、鬼というより、妖怪のようである。

これは調べて行くと、十二神将、十二夜叉大将などと呼ばれ、大乗仏教で悟りを得た仏の一人とされる「薬師如来」を護衛する「神々」であるとされている。しかし、夜叉(悪鬼)という言葉からも分かるように、これはもとはインドの古代宗教で悪鬼とされていた存在が、仏教に取り入れられたものである。

私たちは、多くの寺院で、知らず知らずのうちに次のような恐ろしい形相をした、甲冑をつけた武将の像が飾られているのを至る所で見て来たはずだ。



   
 


左から順に、新薬師十二神将毘羯羅、奈良興福寺十二神将像波夷羅)、新薬師寺十二神将像、(伐折羅)、浄瑠璃寺伝来・十二神将立像『辰神』、大興寺木造十二神将(巳神将)新薬師寺十二神将伐折羅(CG)(写真の掲載元はリンクで示しています。)


 一体、なぜ悪鬼とされていた存在が、仏教に取り込まれて守り神とされたのか。そのいきさつは明らかではないが、そこには、般若の面と同じ原則が働いていると思われてならない。

つまり、般若(悟り)にはもともと二つの面があり、表向きの顔は、すべての戦いが終わり、涅槃の安らぎに到達した平安な顔であり、裏の顔は、怨念と憎しみに満ちた般若の面である。それと同じように、薬師如来という、悟りに達し、現世で人類にあらゆる幸福を願う幸福の象徴のような「仏」と、永遠に戦いを終えることのない悪鬼の武将たちとは、表裏一体なのである。

一般には、薬師如来とは、「約壺を持つ仏」として、医薬を司る「仏」とみなされ、現世において病気や厄災に苦しむ衆生の治癒を祈願し、安楽を与える現世利益の象徴である。薬師如来と、錬丹術との間には、直接的な関連は見いだせないが、薬師如来への「信仰」の根底にも、深い文脈では、人間が不老不死に自力で辿り着こうとした錬丹術と同じ欲望が流れていることは明らかである。
 
薬師如来は十二の祈願を捧げたというが、その内容を見て行くと、まさに人間のすべての欲望を叶えるユートピアである。そこには、男女同権の基礎のようなことまでも含まれているから驚きで、共産主義思想が生まれるよりもはるかに前に、すでに共産主義のような特徴を備えていたのである。
 

  1. 全ての人を仏にする。(=光明普照)
  2. 全ての人を明るく照らし、善行できるようにする。(=随意成弁)
  3. 全ての人が悟りを得るために必要なものを手に入れられるようにする。(=施無尽物)
  4. 全ての人を大乗仏教の教えに導く。(=安立大乗)
  5. 全ての人に戒律を守れるように援ける。(=具戒清浄)
  6. 全ての人の生まれつきの身体上の障害や苦痛、病気を無くす。(=諸根具足)
  7. 全ての人の病を除き窮乏から救う。(=除病安楽)
  8. 女であることによって起こる修行上の不利な点を取り除く。(=転女得仏)
  9. 全ての精神的な苦痛や煩悩から解かれるように援ける。(=安立正見)
  10. 国法による災いなどの災難や苦痛から解放する。(=苦悩解脱)
  11. 全ての人が飢えや渇きに苦しむことがないようにする。(=飽食安楽)
  12. 全ての人に衣服を与え、寒さや困窮から救済する。(=美衣満)

十二の大願の意味(十二の大願とは) から



だが、大乗仏教は、一方ではこのように人間が現世において悟りに達し、すべての苦しみや欠乏から解かれ、自己存在を永遠にまで高められるかのように説きながら、そこへ至るために、人が通らなければならないもう一つの苦しみの道として、十二神将の恐ろしい姿を突きつける。つまり、人類が地上を幸福の楽園に変えて、現世と彼岸とが一体化したユートピアに至るためには、このように憎しみと怨念に満ちた悪鬼たちによる激しい自己防衛の死闘の道を通らねばならず、彼岸の理想は、悪魔の庇護のもとにしか成立しないことを暗示しているのである。
 
さて、ウィルソンは知らず知らずの間に、武術を通して、このような邪悪な東洋的世界観の中に取り込まれて行くことになる。
 

「黒帯(中国ではブラック・サッシュ)
あるいはカンフーの第一夜明けの獲得に近づいていた頃
私は一番最強の競争相手と闘っていた。
彼は私と同じ上級茶帯であった。
上級茶帯から黒帯になるまで二年半掛かった。
私と競争相手は毎週闘った。
彼は私より50キロ重かった。
彼との闘いによって、どんな困難でも
乗り越えるという自信はお互いについた。

ある夕方、師匠が格闘中の私たちの間に入り、
私の目を見つめて、もう良いだろうと言った。
そして私を引き寄せ、五月はどうだ?と日にちを言ってきた。
私はその意味をすぐに悟り、彼は私に微笑んだ。

その日が来た時、妻と子供たちを連れて私は学校まで運転した。
そこには卒業生、上級ランク、茶帯、上級茶帯、緑帯などが
参加するのが長年の伝統だった。

車から降りると師匠、師父は上級ランクの人たちに
私の妻子を学校に案内させた。
そして彼は私を学校の外にある別の部屋へ連れて行き、座らせて
エリック、話したいことがある。今は理解できなくても
いつか理解できるだろう
今から始まることは昇進する儀式
というよりも結婚式に近い
そして彼は部屋から出て、私を一人で考える時間を与えた。



ウィルソンはこの頃はまだ武術とキリスト教の信仰は両立するものだと考えていたため、自分の晴れの昇進の儀式を妻子に祝ってもらおうと、ためらいなく妻や子供たちを学校へ連れて行った。しかし、師匠は、この時からすでに分かっていた、もしも彼が武術の道を究めようとするならば、必ず、途中で妻子を捨てねばならなくなることを。

師匠がウィルソンに黒帯を取る儀式が「結婚式」と同じであると述べたのは、それによって、ウィルソンが新たな存在と「結婚」することを示唆していた。一体、誰との結婚なのか? 師匠を導いているのと同じ霊との結婚である。つまり、キリストに属さない、キリストの霊とは異なる霊的姦淫の霊としての東洋思想の霊との結婚である。その儀式が持つ邪悪な意味を師匠は知っていたが、ウィルソンは理解していなかった。
 

「儀式の準備が出来た一時間後に私は学校に戻ってきた。
歩く道にはろうそくが備えてあった。
先に師匠が歩いて来て、上級ランク、
茶帯、上級茶帯、緑帯と続き、
茶帯がろうそくを持ち歩いて、
それを一人ずつ置いていった。
まるで炎の道を作るように。
私が最後に来て、ろうそくの道を通って行って前に座った。

学校には何百人もの人がいた。
師匠と一緒い前に座ると、
彼は足を組んで私の前に座った。
そして師匠はスピーチを始めた。
私の今までの業績と克服した困難について。

彼が話している間、そばを見ると
きゅうすと二つのろうそくがあった。
彼はお茶を飲む前にそこのろうそくを
指で消しなさいと言った。
そのあとお茶を酌み交わした。
それで同じ器でお茶を飲んだ。
それは象徴的な行動で、
彼の教えは私の教えとなって、彼の命は私の命、
彼の霊は私の霊となって、私と彼は一つになったのである



クリスチャンはこれが「異なる霊との聖餐式」であることを理解できる。キリストへの信仰に立つ者は、霊においてキリストに花嫁として結ばれており、その信仰の中で、地上における自分の配偶者や家族を愛し、仕える。聖餐は、信じる者がキリストの体の一部とされて、彼の血によって清められ、主の死と一体となっていることを証するものである。この体と血潮にあずかっていればこそ、信者は、潮によって罪を清められ、死を超えて、彼のよみがえりの命にあずかり、信者も家族も、あらゆる呪い、災いから遠ざけられて、神の命の中に隠されている。キリストがすでに呪いとなって木にかかって下さったからである。パンとぶどう酒による聖餐式は、信者がキリストの体の一部であることを確認するものである。

「すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Ⅰコリント11:23-26)
 
 
だが、これとは異なる「別の聖餐式」が存在する。映画"MISHIMA"においても、三島由紀夫と盾の会のメンバーたちが、各自がそれぞれ自分の血を垂らした杯を共に飲み干す場面が登場する。
 

 



血を入れた杯を飲むことは、その血によって、飲んだ者同士が霊的に一つに結ばれる契約を意味する。それゆえ、彼らは肉親や愛する人々を捨てて、団結して最後の決戦としての自決へ赴いたのである。

ウィルソンが出席した儀式は、もう一つの聖餐を意味した。注がれたのはお茶であったが、それは混ぜ合わせた血、混ぜ合わせた霊を象徴していた。炎はおそらく地獄の炎の象徴であろう。キリストの霊ではない、異なる霊との聖餐にあずかれば、人はその霊と一つになる。その時、武術の先人たちにならって、彼も怨念、憎しみ、憤怒によってすべてを焼き尽くす地獄の炎の道に生きることが誓われたのである。ウィルソンは師匠と同じ霊にあずかり、キリストとの結合とは異なる霊との結合の中を歩むことになった。

以下の聖書の御言葉は、ただ単に娼婦との関係を避けるようにという警告ではない。そこには「キリストの霊とは異なる霊と交わることを避けなさい」という警告が含まれている。

「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結びつく者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。

人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか、あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:15-20)

ウィルソンが新たに「結婚」した霊は、キリストの霊とは異なる「高慢の霊」であり、ただちにウィルソンに人々に仕えることをやめさせて、彼に地上的な栄光を受けさせ、人前で自分を偉い人間と見せるよう促した。
 



「儀式の後、食事をし、生徒たちやその家族が

大勢集まっていた。
私は人を助けることを教育されていたので、
上級ランクや緑帯と連なって食事の給仕を手伝おうとした。

すると師匠が私の肩を叩いて引き寄せて、
「あなたはもう彼らと同じではない。
給仕を手伝うな。ここに来て座りなさい」

そこで私はテーブルに行き、黒帯の仲間と共に座り、
師匠も私の隣に座った。
「あなたが給仕されるのですよ」と彼は私に言った。
そこで緑帯達が次々に食事を持ってきた。

その時、何かこれはおかしいという
シグナルを神が送っていたような気がする。
これは神の言葉と相反する行動だからである。

マタイの福音書の20章にイエスは言っている。
「そこで、イエスは彼らを
呼び寄せて言われた、
『あなたがたの知っているとおり、
異邦人の支配者たちはその民を治め、
また偉い人たちは、その民の上に
権力をふるっている。
あなたがたの間では
そうであってはならない。
かえって、あなたがたの間で
偉くなりたいと思う者は
仕える人となり、
あなたがたの間でかしらになりたいと
思う者は僕とならねばならない。』」
(マタイ20:25-27)

考えが頭の中を廻った。私が仕える立場なのに
なぜ仕えられているのだろうか?

しかし、その時14年間育ててきたプライドが
仕えられる立場を気に入っていた。
注目を浴びるのも嫌いではなかった。」

  
黒帯を取るための「結婚」の儀式を境に、ウィルソンは武術にのめり込み、特に、魔術のような技を使えるようになるために「気」を引き出す修行に熱中することになる。その過程は、同時に、彼がどんどん家族から引き離されて行く過程でもあった。
 

「儀式の次の週、学校に戻り
いつもの個人授業を受けた。
もっと武術に進みたいと思い、
個人教授をすることにしていた。

その日、師匠は私に鋭い質問を投げかけた。
儀式の後、師匠と私との間の何かが変わった気がした。
今まで上目線だったのに、まるで生徒を師匠から
遠のかせていた壁が外されたみたいだった。
「エリック、黒帯をとった今
これから何をしたいのか?」
「あなたのもっている能力が欲しいです」
14年間師匠を見ていたが彼の成す技は魔法のようだった。
師匠は私にもう少しほかの武術に励むようにと勧めてくれた。<略>

師匠は「気」を引き出す訓練にのみ
集中することだと言った。
そこで私はどんな武術で訓練するにしても
これらの業がどう「気」と関連するか、
どうやってこの武術を使って
超人的な技をこなせるかを考えた。

少林寺の書き物には「師匠と弟子の絆は血よりも強い」
訓練のために週に五、六回通った。
そして安息日に教会に行くのは週に一日、
他の日は武術の特訓に励んでいた。
友人たちと出かける時もいつも武術関係だった
武術がすべての中心になっていた。
武術の中に深く入り込んでいけばいくほど
家族との関係から少しずつ引き離されていった

 

<続く>


肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険④~

さて、ここで少しだけ、映画『龍の正体』の解説を離れたい。ウィルソン青年が武術を身に着け、次第に自信とプライドを増し加え、キリスト教の信仰を離れて行く様子を見ながら、筆者は、カルト被害者救済活動を率いている村上密牧師のブログ内容を思い出さずにいられない。

カルト被害者救済活動が、当初は拉致監禁という方法を用いて、暴力的にカルト宗教から信者を奪還し、密室で説得工作を行い、強制的に彼らの信仰を打ち砕いていたことは、すでに述べた通りである。

最近では、このような方法で信者の心を無理やり入れ替えることはできない相談であることが常識となりつつある。拉致監禁などという暴力を用いた方法に非難が集まり、それが信教の自由、身体の自由の侵害を含む人権侵害であるとして、カルト宗教の側からも訴訟などが起こされているだけではない。

そのような暴力的な方法で人の心を変えようとする説得工作自体に、大きな問題があり、そのような方法で棄教を強制された人は、心に深い傷を負い、場合によっては、強い洗脳を短期間で一挙に解こうとすることで、人格が崩壊する恐れさえあるとされている。

筆者はこれまで、そのようにして強制的に脱会させられ、クリスチャンとなった人たちと幾度か接触したことがあるが、その際、彼らの内心が根本的に変化して、心底からのクリスチャンになったとは思えない何かの違和感を感じ続けて来た。

むろん、そうした脱会者らは、表面的には穏やかで、敬虔そうに見える。彼らは口では、脱会できて良かった、何某先生のおかげでカルトから足を洗うことができて、自分は本当に幸運であった、などと一様に感謝を述べるが、一旦、彼らの心の琴線に触れるような話をすれば、心の内側に隠されていた憤りと憎しみが噴出する。これらの人々は、本当に解決すべき問題と向き合わないまま、表面的な回心を経て、キリスト教に入信させられた上、自分の精神的支柱を打ち砕かれているため、あまりにも傷ついた自己を抱えており、デリケートな話になると、常に感情的な爆発に直面する恐れがある。

だが、カルトでの洗脳が終わったかと思うと、今度はカルト被害者救済活動によって、新たな洗脳を施され、自我をへし折られたまま、いつまで経っても本当の自分を取り戻すことができずに、力の強い指導者の言いなりになって生きねばならないことは、本当に哀れである。

筆者から見て、本当に注目せねばならない問題とは、この人々がカルトに入ったことが間違っていたという事実ではなく、むしろ、なぜ彼らが、カルトに逃避の場を求めずにいられなかったかという理由である。

人は自分に何も悩みがないのに、いきなりカルトに接近したりはしない。青年期にカルト宗教に接近する人たちのほとんどは、そのきっかけとなる何かの悩み苦しみ、人生や世界に対する疑問を抱えており、そうした悩みのきっかけとなるのは、ほとんどが家庭内問題ではないかと筆者は見ている。

人は幼少期から受けた教育の中に、何かしらカルト的な教えに心惹かれるような土壌がなければ、そのような宗教に抵抗感を覚えずに接近して行くことはなかなか少ない。つまり、常日頃から何かしら「カルトと似たような教育」を家庭で施されているために、抵抗感が薄められている場合が少なくないのである。

そこで、こうした人々が最も考えなければならない問題は、一体、自分が何の問題からの逃避を求めてカルトに接近したのか、という具体的な理由である。それは家庭内の問題であったかも知れないし、親の暴力や暴言、抑圧的な態度、あるいは両親の離婚、学校や職場のいじめであったりと、原因は様々であろう。

だが、いずれにせよ、彼らが、一体、自分は何から逃げるためにカルトへ走ったのか、自分の個人的な人生にスポットライトを当てて、その本当の原因に迫ってこれと向き合って問題解決しようとしない限り、ただカルトの教義の誤りだけを認めただけでは、彼らが心の深いところで抱えている問題は何ら解決しないままなのである。

そのような状況だと、彼らはキリスト教に改宗しても、以前から引きずり続けて来た問題をまた新たな宗教の中に持ち込み、さらなる厄介な問題を引き起こし、それに巻き込まれて行くことになるだけなのである。

そこで、カルト被害者救済活動が、なぜこうした人々がカルトへ走らざるを得なかったのかという本当の原因を考えてこれを解こうとするのではなく、ただ親たちの訴えだけに耳を傾け、子供たちが親に迷惑をかけて、人生を棒に振っているという理由で、子供たちの信仰を強制的に打ち砕いて、誤りを認めさせ、その逃避をやめさせようとして来たことは、非常にまずい悪質なやり方であったと言えよう。

もしもこれらの人々がカルトに助けを求めた最も深い理由が、家庭内問題にあった場合、ただ親たちの言い分だけを鵜呑みにする被害者救済活動では、子供たちがカルトへ走った真の原因を探り出して明るみに出すどころか、それをより深く隠ぺいし、見えにくくして、こじらせる結果にしかならないためである。

その危険性は、村上密自身の人生を見ても分かることだ。村上は、若い時分に統一教会に入信していたわけであるから、本当は、こうした問題点を理解していておかしくなかった。暴力的に信仰を打ち砕かれることが人の心にもたらす傷や、強い者が支配する理不尽な環境の家庭や学校や社会からの逃避の場を求めてカルトに走らざるを得ない者たちの心の痛みを理解していておかしくなかった。

にも関わらず、なぜ村上は、暴力的に他人の意志を打ち砕いてまで棄教させるという活動に関わり、これを「救済」ととらえていたのだろうか。それを考える上で興味深い材料が、村上のブログに記載されているので、今回、その問題について具体的に考えてみたい。

この問題を理解する鍵となるのは、村上と父との関係である。村上はブログにおいて幾度も、幾度も、子供時代に父から暴力を振るわれ、深刻な虐待を受けていたことを示唆する記述を行っている。ただし、村上自身は現在に至っても、これを虐待と認識しておらず、実はそのことこそ、村上の抱える最も深刻な問題なのである。
 
通常、牧師は回心前などに、学校で級友と流血沙汰の喧嘩をしたことがあったとしても、それは信仰を持つ前の神を知らなかった頃の行為であるから、愚かだったと思いこそすれ、そのような話は福音伝道のためにならないと思い、公に告白しないことであろう。

ところが、村上密は今になっても、自信ありげに、子供時代の殴り合いの喧嘩を武勇伝のごとく吹聴している。村上はいくつかの記事で、高校時代に他の生徒ににらまれた際、殴り返して撃退し、それに懲りた相手方の生徒が、自ら転校して行って勝利をおさめたという話を自慢げに繰り返している。

だが、この記述の中で、注目すべきは、そのような喧嘩の仕方を村上に教えたのが、彼の父であったことである。父が息子に喧嘩の仕方を教えていたので、高校時代には、村上はすでに相手を殴るだけでなく、蹴倒して蹴り回すなどの術をも身に着けていたのだという。

村上の父は、言葉で息子を諭すよりも、体で「教える」タイプの人間だったらしいが、そのように喧嘩の仕方を教わったことで、いじめっ子を撃退できたことが、村上の中では誤った「成功体験」となり、村上は牧師になった今でも、それを「父のけんかの教え」と呼んで(あえて「教え」という言葉を使っていることに注意したい)、「父の先見の明に感じ入った」などの賞賛の言葉を記している。未だに「父に忠実な息子」であることを誇りとし、その教えの中に悪しき思いが入り込んでいることに気づかないのである。
 

高校1年生の時のことである。Aが私の机でパンを食べ散らかした。私はごみをかき集めて、Aの机の上に置いた。Aは授業が始まってから、教師の目を盗んで、パンくずを私に投げてきた。授業が終わって教師が退室すると、ぬしゃ~(おまえは)と言い寄り、つかみ合い、殴りかかってきた。椅子や机がなぎ倒され、けんかの場所がべランダになった。私は父の言いつけを守ってきた。1発、2発は殴られてやれ。3発目は油断して殴ってくるのでカウンターで急所を殴り返せ。忠実に相手の鼻を拳骨で殴った。たちどころに鼻から血が流れだし、戦意を喪失した。私は蹴倒して、蹴りまわそうかと、父のけんかの教えを再現しようと思ったが、さずがに同級生たちが束になって止めにかかった。Aは翌日から高校に来なくなった。いつまでも来ないので心配していたら、転校していったとのことだった。高校生の時「わる」に絡まれたのはこの時一度だけだった。以後は争いのない高校生活を終えた。

それでも、私は二度高校をやめようと思った。一度はけんかの後、退学か停学かを受けるのではないかと思い、どうせなら自主退学をしようと覚悟していた。ところが、担任教師がこのことを知っても何も処分について口にしなかった。正当防衛が成立しているからである。ちょっと行き過ぎた正当防衛である。父の先見の明に感じ入った。<略>
拳骨で平和を 2018年 04月 25日 )


この記事の後半で、その当時に村上が禅に心惹かれていたと記述されていることも興味深く、やはり、東洋思想からの思想的な影響を感じさせる。筆者はDr.Lukeを初めて実際に見かけた際にも、どこかしら禅寺の僧侶を思わせるような人物だという印象を記事に記している。(筆者は実際に禅寺がどういうところであるかを知っているので、これは単なる印象批評ではない。)

村上は暴力事件については、さらに、なんと保育園時代から、年長者に兄を相手に、相当な手傷を負わせることで、兄から手を出されることがなくなり、不戦の関係が築かれたと自慢している。
 

私は兄とけんかした記憶がない。これは両親と兄から聞いた話である。私は保育園児の頃に兄とけんかをした。肥後刀の取り合いになって、貸して、貸さんのやり取りになった。兄は怒って、肥後刀を私に投げた。それが私の左目の目じりの端で眼球まで数ミリの骨の部分に当たった。瞬く間に左目は血だらけになり、ポタポタと血が流れ出した。私は近くにあった鎌を手にかけて上段に兄の頭に振り下ろした。兄は頭から血がだらだらと流れた。兄弟とも血まみれになった。急いで病院に連れて行かれたと聞いた。昨年、兄と何かを話しているとき、まだ、あの時の傷が目じりに残っているよと話すと、おる(私)もまだ頭に傷が残とっととたいと頭の傷を指した。互いに大笑いした。私たちは私たちのけんかがどのような結果になるかを経験した。その結果、私たちは互いを恐れ、暗黙のうちに不戦の関係を築いたのではないかと思う。口げんかさえ記憶にない。
血まみれのけんか   2018年 04月 25日)


幼児だから力が足りなかっただけで、もう少し成長していれば、殺人事件になっていてもおかしくなかった。このことから分かるのは、村上は、かっとなると、見境のない行動に出て、身内が相手であっても、とてつもない暴力性を発揮する可能性のある性格の持ち主だということである。

だが、なぜ幼児期から、村上はこのような衝動的な行動に出ていたのであろうか? おそらく、この兄弟喧嘩が発生したこと自体に、親の影響が相当にあったと思われる。村上の父がどのような人間であるかは、以下に挙げる記事からも分かるが、父の影響を受けて、すでにこのような幼児期から、村上は、自分の家庭では、「目には目を、力には力でやり返せ」といった、力の論理で生きるしか、身を守る術はないという考えを会得しており、口で説得したり、言葉を用いて相手をねじ伏せるよりも前に、まず手が先に出て、体でやり返し、本能的な自己防衛の思いから、相手に打撃を与え、痛い思いを味わわせることで、自分を守ろうとする方法論が身に着いていたと思われる。そして、そのような方法論を村上に体得させたのは、他ならぬ父だったのである。
 

子どもの頃、けんかして泣いて帰ると、父からげん骨を食らう。やり返してこい。何かで泣いていると、男が泣くもんじゃない。馬鹿たれ。なんば泣くか、とげん骨である。父の前では涙を見せられない。歯を食いしばって我慢するしかない。おかげで奥歯が擦り切れた。けんかに負けないように、教えてくれと言っていないのに、勝つ方法を教えてくれた。以来、けんかで負けたことはない。負けるかんか(ママ)はしない。父親の方が怖い。

高校の時である。クラスのワルがけんかを仕掛けてきた。二発殴らせてやった。向こうは安心して三発を打ってきた。それで相手の鼻をカウンターで打ち返した。鼻血を流して戦意喪失。クラスメートが間に入って止めた。相手は翌日から学校に来なくなった。転校したのだろう。以来、私はけんかをしなくなった。その代り、論争に負けないように努めた。こうやって、私の性格は父のげん骨で作られた。父の最高傑作品ではない。父の前で泣かないだけだから。クリスチャンになって、天の父の前ではよく涙を流すようになった。私は二人の父親を使い分け、次第に変わってきた。
ところが、自分が父親になって、子どもが泣いたり、めそめそしていると、なんば泣くか。男が泣くもんじゃない、と聞かなくなった父の言葉を今度は自分の子どもに言い、げん骨を食らわしている。父親の血は私の中に流れていたわけである。そのたぎる血も、頭を打つのは止めてください。手でおしりを叩くぐらいにしてくださいとの懇願に転向を余儀なくされた。そして父親と同じように子たちが中学生になる前には手をあげることを止めた。
父とげん骨 2017年 11月 19日)


 
これはまさに武術に励むことで、いじめっ子を撃退し、プライドを立て上げようとしたウィルソン少年の姿を彷彿とさせる。村上ははっきり述べている、「私の性格は父のげん骨で作られたと――。これは非常に恐ろしい告白である。彼はキリストの成分が自分を形作ったのだと言っておらず、父の暴力が自分の性格を形作ったと言うのである。

クリスチャンには、「二人の父親」はいてはならず、まして「二人の父親の使い分け」などあってはならない。だが、村上の告白は、クリスチャンになった後でも、村上の中には、キリストの教えと、もう一つ、それとは異なる肉の父親が教えた「力の論理」がずっと併存して息づいていたことを示している。

村上は少年時代に、たとえ子供のけんかであっても、負けて帰って来ることは恥であると父に責められ、自分で自分の身を守れと言われ、力の論理を体得させられた。すでに保育園時代から、村上は、自分の家庭では、力が弱いがゆえに喧嘩に負けても、誰からも同情などしてもらえず、相手が兄であっても、負けることは恥であり、涙を見せることは心の弱さの証拠でしかなく、馬鹿にされるだけだと学んでいたのではないかと思われる。

以上の喧嘩に関するすさまじい記述は、どれもこれも、村上が少年時代に、親から事実上の虐待を受けていたことをよく物語る。たとえば、子供同士の喧嘩で負けて帰って来た子供を、親が慰めず、子供の心配をするどころか、みっともないと叱りつけたり、「泣いてはならない」と命じたり、「喧嘩の仕方を教えてやる」という口実で、父が子供に取っ組み合いのわざをしかけるなどの行為は、れっきとした虐待である。さらにもっとひどい虐待の様子も、後述するように、村上の記事にはいくつも記されている。
 
親の庇護がなければ、子供はもともと生きていけない存在である。弱い子供に自分で自分の身を守れるはずがない。ところが、親が、子供の弱さをかばうどころか、子供自身が強くなって自衛するのが当然であり、それができないのは恥だと教え、弱い子供を突き放し、泣くことさえ禁じるのは、ただ親が子供への保護責任を放棄しているだけである。

だが、問題は、村上が未だに自分の親のこのような行動が、深刻な虐待であったという意識をまるで持っていないことである。それどころか、村上はキリスト者になっても未だに、そうした父の「教え」が、自分に役に立ったと考えて、それによって得られた「成功体験」を重んじ、継承しているのである。

級友に暴力を振るい、級友が学校に来なくなった時点で、村上は、自分の暴力が、イジメ問題に発展し、自分が学校で罰せられるかも知れないという自覚を持っていたと書いている。正当防衛を主張するには、明らかに分を超えてやり過ぎたのだ。しかも、相手が不登校になってしまえば、何が原因であれ、やはりそれはあるまじき結末だ。きちんと和解して両方が同じ教室で学べるように決着をつけるべきだったのだ。

ところが、学校側は無責任で、和解の努力もせず、村上は罰を受けることもなく、ただ喧嘩の相手となった生徒だけが転校するという重荷を負うことで、事件が済まされてしまった。そのことは、村上にとって悪しき「成功体験」となる。この時、村上の中では、大人たちの世界では、たとえどんな卑劣な方法を使おうと、どんなにやり過ぎようとも、とにかく力の勝負で勝ちさえすれば、それが勝利としてまかり通るのだ、従って、そのような方法で自分が身を守ったのは正しいことだったのだという認識がさらに強化されたと思われる。

それは、喧嘩に負けることを恥であると普段から教えて来た父親の言葉に、学校側も呼応して同じ見解を示したことを意味する。そこで示されたのは、世間は「力の論理」で成り立っている、何が正義であるとか、真実であるとか、何がほどほどの妥協点であるかなどは関係なく、「力の論理」で相手を打ち負かした者が、勝つのだという理屈であった。

こうして、村上はキリスト教に改宗した後も、暴力で弱い者を打ち負かすことを恥とせず、何事をも父から教わった「力の論理」によって解決しようとし、力によって身を守れた者が勝つのであって、それができなかった者は敗北するのが当然だという考え方を持ち続けることになる。そして、キリスト教とは根本的に相容れないこのもう一つの肉的な教えを、キリスト教と同時に使い分けて行くのである。

村上の「力の論理」は、村上自身が親となった際にも、自らの子供への体罰という形で受け継がれる。 

前にも書いたことだが、筆者は村上密の教会に実際に通い、村上の家族を実際に目撃しているが、一番最初に疑問に思ったのは、村上の妻が少しも幸せそうでない、ということであった。

牧師がワンマンでないか、本当に謙虚な人格を持ち、周囲のことを思いやっているかどうかをはかる最も良いバロメーターは、妻との協力がどれくらいうまくいっているか、牧師夫人が本当に生き生きして満たされて行動しているかに注目することである。牧師の行動はいくらでもごまかせるが、牧師夫人が幸せであるかどうかは、人の目にごまかすことができない。
 
村上自身は、筆者の前で、一度も怒鳴り散らしたり、不機嫌なところを見せたり、取り乱した態度を取ることはなかった。むしろ、常に温和で人好きのする態度を見せていたので、筆者は初めの頃、村上の人柄に全く不信感を持たなかった。だが、おかしなことに、まだ若く、幸せいっぱいの家族であるはずの村上ファミリーの様子が筆者にはどうにも変に感じられたのであった。子供たちは比較的、のびのびしているように見えた(弱さを見せることを禁じられていたので、そのように振る舞うようしつけられていたのかも知れない)。だが、夫人は、村上と接触する時でさえ、感情を押し殺したような表情で、伸び伸びした態度も、心の余裕もないことが分かった。
 
これは非常に奇妙なことであった。特に、被害者のケアに当たるという仕事を常日頃から夫婦でやっているのであれば、夫人の側には、夫の手が回らない部分まで、慈愛に満ちた思いやりある行き届いた態度が求められるのが通常であるが、そういうものからはほど遠い夫人の行動を見たあたりから、この家族は何かどこかが変なのではないかという気が筆者にははっきりとし始めたのである。

だが、以上の村上の記事などを読めば、なぜそのようなことになっていたのか、その理由もある程度は理解できよう。村上は、決して信徒らの目には触れない場所で、子供への折檻を行っていたと自ら告白しているのである。しかも、その折檻は、子供が何かあるまじきいたずらに手を染め、あるいは万引きしたり、非行に走ったりと、誰が考えても社会的に容認できない行動に走ったために加えられた体罰ではなく、ただ「子どもが泣いたり、めそめそしていると、なんば泣くか。男が泣くもんじゃない、と聞かなくなった父の言葉を今度は自分の子どもに言い、げん骨を食らわしている」と村上が書いている通り、ただ子供が気落ちして、心弱くなっているところを目撃しただけで、それを「罪」のようにみなして殴っていた、というのであるから驚きである。

その記事からも分かるのは、おそらく、村上は、かっとなれば、突然火がついたように自制心を失い、普段とはまるで違った形相になって、子供を思い切り打ち据えずにいられなかったのだろうということだ。決して人前で弱さを見せるなと、自分が幼少期から父に厳しく叩き込まれたために、子供たちが弱さを見せただけでも、許せない思いになり、見境なく手を出さずにいられなかったのである。
 
しかし、妻を含め、周りで見ていた者たちは、村上の血相を変えた尋常ならぬ様子に怯え、その体罰に命の危険をさえ感じていたのであろう。その記述は、幾度、やめて下さいと、妻も懇願したか分からない様子を伺わせる。だが、村上を止めることは誰にもできない相談であった。

こうしたことは、まさにこれまで書いて来た「般若の面」を思わせる出来事である。明らかに、村上には、表向きの、弱者に対して優しく親切そうな表情とは別の、牧師として第三者に接触している時には、決して見せることのない、もう一つの顔があった。彼は二つの面を使い分けており、隠れたもう一つの面が隠されていたのである。

その「鬼の面」は、カルト被害者に対して親切で、思いやり深く、彼らの心の傷や弱さに寄り添い、それに我が事のように共感を寄せる牧師という表向きの顔とは全く逆の、決して人が自分の弱さを打ち明けることも、そのために涙を流すことも許さず、力の勝負で「負けて帰って来る」こと自体を恥とみなし、負けて帰って来た者にはさらなる罰を加えてこれを恥として責め立てるような、残酷な般若の面だったのである。

その鬼の面は、村上自身にもコントロールできない「父親の血筋」であり、一旦感情に火がつくと、自分の生んだ子供たちという最も身近な愛する者たちにさえ、容赦なく手をあげ、向けられるような憎しみだったのである。

だが、村上は、自分の中にそのような「父親の血」が流れていることを、以上の記事でも、反省すべきあるまじき出来事としてはとらえていない。むしろ、子供が中学生になる前に手をあげることをやめたのだから、それでいいではないか、と言いたげだ。自分は親から教えられた通りのことを忠実にやっているだけで、それで自分も無事に生きて来たのだから、それはしつけであり、処世術であって、何が悪いと言いたげである。

自分の仕打ちが、子供たちの心の中で深い傷となり、それを見ている者にもはかりしれないショックとトラウマを与え、自分が育てた子供たちが、いずれ親になって、自分と同じことを繰り返すかも知れないということには、全く思いが至っていないのである。

さらに、もっと注目すべきは、村上が統一教会から脱会したいきさつである。

筆者はまだ幼い頃に、筆者が所属していた教会に、村上がやって来て、セミナーやら講演やらを開いていたことがあるのを覚えている。そのような集会の一つで、村上は直接、自分の口で、どうやって統一教会を脱会したのかといういきさつを語っていた。

一方では、村上は、統一教会の用事であったのか、それとも他の仕事であったのかは分からないが、トラックか何かを運転中に、「密、密、なぜ私を迫害するのか」というキリストの声を聞いて、滂沱の涙を流して自分の誤った信仰を悔い改めた、などと話していた。

あたかも、パウロのダマスコ途上の回心のような、劇的で自主的な回心があったような話しぶりであったが、この種の話はかなり眉唾物だと思わざるを得ない。

ところが、そのように話した舌の根も乾かないうちに、村上は、統一教会を脱会するに当たり、もう一つの決定的事件が起きたことを自ら告白していたのである。彼は会衆からの質問に答えて、「統一教会を脱会する際、父から半殺しの目に遭わされ、力づくで連れ戻された」と自分で語っていたのであった。

「半殺しの目に遭わされた――」、この非常に穏やかならぬ、牧師にふさわしくない言葉に、筆者は驚き、それが記憶にとどめられた。 今、村上のブログを開いてみると、やはりその言葉は、筆者の思い過ごしでもなく、誇張でもなく、まさしく事実であったことが分かる。村上は脱会のいきさつについて、次のように語っている。

統一教会の研修に参加するため家を出た。その後、家は大騒動。父と兄と叔父が、私が匿われている場所を捜し当てた。父が2階にいる私を見つけ出し、私が死んでも帰らないというので、父が殺して連れて帰ると言って、殴る、蹴る、引き回す。2階から髪の毛をつかんで引きずりおろし、車で連れ帰された。

11月に熊本で兄と母と一緒に食事をしているとき、先の話をしていると、兄が、そるわ~、おとっつあんじゃなか、おったい。用心棒がおっと思ったけん、木刀ば持って殴り込んだたい。わっが、死っでん帰らんていうけん、うちくらわし、けたぐっ、ぞびきまわし、連れち帰ったたい。兄から記憶違いを起こしていることに気づかされた。私の瞼に浮かぶ、手をあげる父は実は兄だったとは。驚きである。そして、兄が、おまえがにぐっといかんけん、3日間、ロープでしばって、座敷にとじこめとったたい。おまえは3日間、めしもくわんでおったたい。この辺の記憶はない。母がそぎゃんだったたい、と言ったので確かだろう。私は兄に、その節は大変お世話になりました、とその場でお礼を言った。その場で私たちは大笑いをした。

兄が、おまえはこまかっとき、おやじに梁からロープで吊るされ、竹ん棒でたたかれたこつば~あったたい。母が、あんたはなきもせんで、歯ばかみしめっ、引きつけばおこして気おとしゃせか~、しんぱいしたとたい。
これも記憶にない。記憶は作り変えられ、消されるものだと分かっているが、自分のことでわかって驚いている。

一部を熊本弁で書いた。迫力ある場面、追憶する話し方、このような話し方はどれもなじみの言葉である。「その場で私たちは大笑いした。」つらい事、悲しい事、大変なことも笑いでくるむ話し方は我が家の話し方である。
記憶は作られ 削られる 2017年 12月 12日)


ここでは、笑いごとではない話が、笑いごとのように済まされている。しかも、この記述は、本当のところは、どうだったのか分からないと思わせる。父と兄と叔父の三人が、村上を連れ戻すために、統一教会のアジトに殴り込んだのだ。そこで行われた乱闘において、誰が村上に手心を加えたのかは、今となっては誰にも分からない。それは兄だったのかも知れないし、父だったのかも知れないし、叔父だったのかも知れない。いずれにせよ、みなの連携プレーがあったのだ。みなが一体となって暴力を振るっていたことはほぼ間違いない。兄が後になって父をかばっているだけの可能性も高く、記憶違いをしているのが誰なのかすらももう分からない。

さらに、この話の中には、村上が小さい時から、父が彼をロープで縛って、梁から吊るし、竹刀のような棒で打ち据えていたなどのことも書かれている。しかも、子供は泣くことも許されなかった。幼い頃から、このようなすさまじい有様だったのだから、この父ならば、何でもやりかねないと思うのは当然である。

いずれにせよ、親族たちの暴力的な連携プレーで、村上青年がカルトから連れ戻されたのは確かであり、そこで誰がどれくらい村上に直接、手を下したのかなどは重要な問題ではない。とにかく村上青年は、父、兄、叔父の三人によって、殴る、蹴る、引き回す、髪の毛をつかんで階段を引きずりおろす、殺してでも連れ戻してやる、などの暴行と暴言を受け、無理やり拉致されて、車に詰め込まれ、その後、家では、逃げないようにロープで縛られた上、座敷に閉じ込められて、三日間、飲まず食わずだった、ということが分かるだけである。

全く恐ろしいほどの暴力沙汰の脱会劇である。しかも、これを身内がみなで一致協力してやったというのだから、恐ろしく、通常であれば、これほどのことをされてしまうと、身内に対する不信感から、完全に周囲に対して心を閉ざしてしまったとしても不思議ではない。村上の場合、そうならなかったのは、おそらく、普段からそのような暴力沙汰が、珍しいことでなかったためであると思われる。
 
こうして、「死んでも帰らない」と豪語していた村上青年の脱走劇は、あえなく暴力によって打ち砕かれて終わった。そもそもなぜ村上が統一教会に心惹かれ始めたのか、その動機はそれほど定かではなく、世界を滅びから救うとか、日本が罪の懺悔を果たすとか、統一教会が表向きに掲げているスローガンはいくらもあって、そのどれに心惹かれたのかも定かではない。

だが、村上自身の記述を読むにつけても、想像されることはただ一つ、そういった統一教会の唱えている表向きのスローガンへの傾倒とはまた別に、村上には、自分の家庭から何とかして逃げたい、もしくは、家庭で味わい続けて来た苦痛の意味を知りたい、という動機があって、その逃避の場を統一教会にしか求められないと考えて、カルトに走ったというのが真の動機ではないかということだ。

「死んでも帰らない」という穏やかならぬ村上青年の言葉が、家や、親に対する悲壮なまでの抵抗の決意を表しているように思われてならない。それがただ統一教会の洗脳だけの結果であったとは思えず、もっと深い動機から出たものであったと考えざるを得ないのである。とにかく、それが本人にとっても命がけの家庭からの逃走劇だったことを思わせる。

だが、不幸なことに、その命がけの試みさえも、中途で打ち砕かれて、再び、彼は以前と同じ牢獄に引き戻されてしまった。ロープで縛られ、身体の自由も奪われ、憔悴の果てに、飲まず食わずで時を過ごし、それによって、「どんな卑劣な手を使ってでも、最終的には、力の強い者が勝つのだ」という、村上家の暗黙の掟が、またもや彼に体で叩き込まれたのである。

肉の父親による暴力的な支配と、家に恥をもたらさないように行動をすることだけを第一とする価値観は、文鮮明の教えよりももっと強かった。肉の父に対する反抗は、どんなことをしても許されず、カルトに走り、父に逆らい、家の恥となる行動をしたことに対する罰は耐え難く重かった。

村上はこうして統一教会に逃げることで、何とか得ようとしていた家庭からの脱出口も失ってしまう。そして、そのまま、一体、自分がどんな問題に悩み、何からの解決を求めてカルトに走ったのか、という根本問題をさえ、自分で封印してしまった。もはや父親に対する抵抗はどんなものであれ、許されないものとなり、父が間違っているかもしれないなど、考えることもできないタブーとなった。
 
村上は実際には、幾度も、幾度も、弱い立場にある子供としての自分からのSOSを無言のうちに発していたのであろう。カルトに走ることも、親に対するSOSだったのだ。ところが、親からも親族からも、その言い分に耳を傾けてもらうことができず、ただ一方的に自分の心の弱さだけが「悪」であると決めつけられ、暴力的に発言の機会を奪われ、口を塞がれ、意志を打ち砕かれて従わされた。彼は、ウィンストン・スミスのように、絶対的な権力によって無理やり自分の意志を打ち砕かれたことにより、暴力事件によって深い心の傷を負ったと考えられる。

そのために、村上は、自分の子供たちが心の弱さを見せることさえ許せなくなり、キリスト教の牧師になった後も、カルト被害者救済活動という名目で、自分以外のカルト信者に対して、自分が受けたのと同様の暴力行為を行うことで、暴力の連鎖を生み始めたのである。つまり、他のカルトへ走った信者らに対しても、拉致監禁という方法で、自分がされたのと同じような暴力に走り、他の信者らの信仰を容赦なく打ち砕いて来たのである。それは信仰がなせるわざではなく、人の心の傷が生み出す連鎖であり、救済ではなく、トラウマの連鎖であった。

いかにカルトから脱会させることを目的に掲げていても、暴力を振りかざす親の理屈が間違っていることを心から理解せず、親から訣別を果たすことができないままであった村上は、傷ついた自分の心と向き合う機会が失われたまま、その傷を、今度は他人に植えつけ始めたのである。

村上の信仰は、いわば、強者の論理によって獲得されたものであると言えるだろう。彼は暴力的に自立の試みを妨げられたため、父を批判することが未だに出来ず、「それで人はその父と母を離れて・・・ 」(創世記2:24)というステップが未だに完了していないのである。しかも、ただ両親から離れられないでいるだけでなく、受け継いではならない「父親の血(肉による力の論理、暴力の連鎖)」に疑問も持たずにこれをそのまま継承してしまっているのである。

それゆえ、牧師であるにも関わらず、このような物騒な暴力事件の話を自慢げにブログに書いているわけだが、しかし、その心の中には、「とにかく勝ったのだから、あれで良かった」という思いと、「なぜ自分があんなことをされなければならなかったのか」という思いが無意識に交差しているように見える。

村上は気づいていないであろうが、彼が救おうとしているのは、カルト被害者ではなく、本当は、痛めつけられた自分自身なのである。弱く、言葉を発することもできず、立ち向かう力もなかったがゆえに、無視され、侮られ、踏みつけにされ、否定され、傷つけられ、それでも立ち上がるよう強制されて来た自分を救いたいという動機が、被害者への共感を生んでいるのである。

だが、彼は、それを父親が自分に教えたのと同じ理屈で成し遂げようとしていることろに誤りがある。すなわち、弱い被害者たちに「裁判」という力を付与し、自分の力で戦わせることによって、彼らに自衛の方法を教え、この世の力を帯びさせて勝利をおさめさせようとしているところに誤りがある。

村上は自浄作用の働かない教会では、被害者の訴えは浮かばれず、そんな教会は教会とは呼べず、「だまされ続けることを聖書の教えと思い込む愚か者の集まり」だと決めつける。

互いが和解できなければ、それは裁判に持っていくべきではなく、教会の中で正しく裁かれるべきである。それをしないで、世の裁判に訴えることは敗北であると言うのである。<略>パウロは教会の中に「兄弟の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。」(1コリント6:5)と語りかけている。赦しなさいは仲裁ではない。正しく判断をしないならば加害者への加担である。教会の中で正義と公平を持って裁く人がいないなら、教会は教会性を失ってしまうことになる。すなわち、もはや教会は教会ではなくなっているわけである。どんなに礼拝会や祈り会に出席者が多くても、賢い者のいない教会、正しい判断をすることにできない教会となる。不正が正されず、不正のはびこる教会、だまされ続けることを聖書の教えと思い込む愚か者の集まりとなる。
誤用される聖句 2018年 04月 19日) 


しかし、このようなものは本当の解決とは言えない。人間の世界で起きる真に残酷な「被害」は、決して人が口に出せるようなものではなく、裁判にも持ち出せるようなものでもない。世の中には、赤ん坊や、子供を含め、自分が受けた不当な仕打ちを、決して論理的に説明することもできず、それを代わりに訴えてくれる味方もいない人々が数多くいる。

村上は言う、教会が教会性を失わないためには(何を持って「教会性」と考えているのかは不明だが)、裁判によって、被害者を救済せねばならないと。外から力を行使して、教会を正さねばならないと。

しかし、そういう理屈だと、人が言葉にもできず、裁判にもできず、誰にも打ち明けられない問題は、どこへ消えて行くのであろうか? 誰に助けを求めることもできない環境に置かれ、訴えを出すこともできない人々の「被害」はどこへ行くのであろうか? 自ら立ち上がり、理屈を駆使して相手を言い負かし、裁判という力を行使して、それによって勝利をおさめて、初めて教会が「教会性」を取り戻すというなら、被害者が名乗り出ず、訴えもしないがゆえに、誰も気づかない不正はどこへ消えるのであろうか? それらは神の御前に悪事でさえなかったことになるのだろうか?
 
村上が述べていることは、どこまでも終わりなき「力の論理」であって、そこには、被害者といえども、ただ力を行使することに成功した者の訴えだけが、最終的に認められるという理屈しか存在せず、すべてのことを公平に裁かれる神が不在なのである。
 
このような考え方は、被害者の中にも、格差を生み出す。裁判で勝ったのか、どれくらいの賠償金を取り返せたのか、相手をどれくらい重い罪に問うことができたのか。どれくらい短い間で訴えを終わらせたか。効果的な裁判を行えたか。弁護士はいたのか。云々。

だが、私たちの聖書の神は、そういうお方ではない。我々の聖書の神は、乳飲み子、みどりご、やもめ、寄る辺ない者全ての庇護者であり、自分で声を上げることができないすべての弱い人々の味方であって、一人一人の思いを知っておられ、自ら立ち上がることのできない人々のために正義を行って下さるのである。

村上の論理の矛盾と破綻は、この世の力を行使しなければ、決して教会に是正はあり得ないと考えている点にある。それでは、教会の主人は人間ということになってしまい、教会は神の支配が及んでいる領域ではないと言っているも同然である。つまり、そこでは、正しい裁きを行う者は、常に人間でなくてはならず、神が裁きを行われるということを信じてもおらず、それに任せるつもりもいないのである。

だが、人間の行う裁きは、そもそも偏っていて、不公平であり、必ずしも正しいものとは限らない。現に、世間では、冤罪事件で有罪とされた人もおり、裁判という枠におさまらない悪しき事件は日々、膨大に起きている。裁判の判決さえ、しばしば公正でなく、まして、裁判に訴えることもできない人々の訴えはどうなるのか。

教会の問題を裁判所に持ち出し、そこで勝利を収められさえすれば、勝ったことになるという村上の理屈は、結局、自分の父がしたのと同じ方法で、弱者に自衛を求めているだけなのであり、弱い者に力の論理を身に着けさせ、それによって武装した者が勝つのだという教えなのである。

村上は、弱者が自分に従順で、自分の「教え」を忠実に学んでいるうちは、助けようとするであろうが、それは離脱を許さない残酷な支配であり、その優しさは本当のものではない。彼は決して自分が許した範囲外に、弱い者たちが出て行くことを許さない。

村上は、彼の活動に反対する一人や二人の人間だけに対して残酷なまでの非難を繰り広げているだけではない。村上の教団の配下から出て行こうとした牧師や信徒たちにも、同じように残忍な非難の刀を振りかざして、彼らを打ちのめそうと、彼らに落伍者の烙印を押し、離脱した教会を再び傘下に連れ戻すべく、裁判にまで及んで敗北している。

こうしたすべての行為は、村上が統一教会に走ることで、家から脱走することを決して許さず、彼の行為を「家の恥」とみなして断罪し、彼を辱めて滅多打ちにして、力づくで座敷牢に閉じ込めてまで、その意志を暴力的に打ち砕き、家庭に連れ戻した父親の行為の二の舞でしかない。

村上が被害者たちに言い募っているのは結局、こういうことである、「おまえら子供たちは家を守るために勇敢に戦いに出ていけ。そして勝って戻って来い。自分を傷つけた者を打ちのめし、そいつに勝利を果たして、我が家に栄光を携えて戻って来い。正義がこの世に存在することを思い知らせてやれ。おまえの存在はこの家のためにあるのだ。おまえは家に栄光をもたらす道具であって、そこから出て行くことは決して許さない。」
 
分かるだろうか、こうした発想の根底にあるのは、「母を守る」という東洋思想の危機感と同じなのである。「家が脅かされているから、家族の成員が皆立ち上がって家を守らなければならない。そのために、一人一人が力を身に着けて、自衛しなければならない」ということである。『国体の本義』が、家の名誉のために、ためらいなく皆が死ぬことを奨励しているように、もし家の名誉を守る戦いの最中で命を落とすのであれば、それは名誉の戦死として扱われるのである。

村上が、自死に対して寛容なのも、おそらくそのためであろう。被害者が脅かされながらも、決して家や両親に逆らって自分を守ろうとすることなく、むしろ、家の犠牲となって、その名誉のために命を落としたのなら、それは名誉の戦死であって責められるべきことではないというわけである。自死した本人を免罪しようとしているというより、家と親たちを守ろうとしているのである。
 
このような世界観に立って、彼は教会というものも「脅かされる家」と見ている。だが、そこで抜け落ちているのは、教会の支配者は人間ではなく神であって、神の正しい裁きが存在し、それに委ねる必要があるという点と、教会を脅かしているのは、あれやこれやの人間ではなく、最終的にはサタンであるから、人間相手の戦いで、教会を脅威から守ることは決してできないという点である。

人間相手の戦いには「目には目を」の法則が働いて、「殺す者は殺される」という結果に至るだけである。

村上のブログからは、当ブログの他にも、村上の行き過ぎた活動を批判し、村上を名誉毀損で訴えようと具体的に動いている勢力があるらしいことが分かる。以下で言う「スピリチュアル系カルト」とはその他の記事を合わせて読めば分かるように、当ブログとは一切無関係である。

最近、スピリチュアル系カルトからのインターネット上での嫌がらせが増えている。それは指導者がヒステリーを起こしているからである。名誉棄損されていると信者に警察に相談に行かせたりしている。事実、警察から注意とも警告とも思われる電話があったが、別に私の意見を述べているだけで、名誉棄損になるような記事ではない。一種の脅しである。自分たちのネット上の攻撃は悪質であることを棚に上げてである。国外からだとどうすることもできないが、国内であれば対処できる。エスカレートしてきているので、こちらも対処しなければならないレベルになってきた。放っておいて罪がまし加わるのを待つのがいいのか。軽いうちに止めさせる方がいいのか。後者の方が相手思いかもしれない。   (スピリチュアル系カルト 2018年 04月 16日)

この記事によると、すでに警察からも警告が入っているらしく、そうなると、事件はかなり深いものと予想される。実際に名誉毀損による告訴が成立している可能性も十分に考えられる。
 
今や村上についてはかなり各方面から物騒な話題が持ち上がり、だんだん抜き差しならない事態になって行っていることが分かる。むろん、カルトと名指しされる団体に自ら首を突っ込み続けると、いずれ手に負えない反撃が来ることはもともと予想されていたことである。村上から被害者を通じて思わぬ干渉を受けた団体は、当然ながら、反撃に出て来るであろう。相手はもともと正常な団体ではないのだから、そのような争いに自ら首を突っ込み続ければ、いずれは命の危険にも遭遇する。そのような戦いが、牧師の正常な活動ではないことは言うまでもない。

しかも、村上は、自分だけは決して誤りを犯すことはないという前提に立って物事を考えているようであるが、彼が他人に振りかざした厳しい基準が、彼自身に適用されるのだ。和解できない場合には、いずれ村上自身が裁判に引き出され、決着を求められることになる。その時、他人に憐れみを示さなかった彼に対する裁きは容赦のないものとなろう。「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)

さらに、村上が次のように書いていることも実に要注意である。

聖書には、殺してはならないとの神の命令があり、時には、殺せとの神の命令がある。殺してはならないが浸透し過ぎて、殺せがないかのように思っている人がいる。聖書には、赦しなさいとの神の命令があり、時には、裁きなさいとの命令もある。赦しなさいが浸透し過ぎて、裁きをしてはならないかのように思っている人がいる。

偏った聖書理解によって、被害者が被る言葉には滑稽なのがある。謝罪もしない加害者に対して、聖書には赦しなさいと教えているから赦しなさい。それでも赦せないでいると、赦しなさいと聖書に書いてあるのに赦さないあなたは神に逆らている。それは罪だと裁かれる。赦しなさいと言っている人が自分の言うことに従わない人を裁くわけである。(偏った理解   2018年 04月 08日)

   
これは非常に恐ろしい記述である。誰一人、村上に殺人について尋ねたわけではないのに、彼は自らこのように「聖書は殺人をも禁じているわけではない」という誰も聞いたことのない自らの奇抜な「信仰告白」を繰り返す。ここで村上が、「殺せ」という命令と「裁きなさい」という命令を一つに結びつけて話していることは注意である。このことは、村上自身の中で、この世の強制力である裁判を用いて教会の問題を解決しようとすることと、殺人とが、同じ力の論理に属するものとして同一線上にあることをよく物語っている。

だが、彼が聖書が殺人を正当化していると述べる根拠として、引き合いに出しているのは旧約聖書の記述である(「クリスチャンの裁判」 参照)。聖書において、神が主の民に神に背いた人々や異教徒を「殺せ」と命じたのは、旧約聖書の時代の話であり、新約になってからは、そのような命令は一切、主の民に下されておらず、むしろ、キリストは弱さのゆえに十字架につけられ、主の民が殺される側に回り、殉教している。村上がなぜ問われてもいないのに、聖書を悪用しつつ、「聖書は必ずしも殺人を禁じているわけではない」と、殺人を正当化しようとしているのか、いぶかしく思われる。

そこには「自死を正当化する」という目的と、もう一つ、「殺して連れ帰る」という父の言葉が暗黙のうちに反映していると思われる。村上は、沖縄の被害者のグループ「カイロスの会」で、自死は罪ではないと語り、大変な物議をかもした。このように、彼は自死を罪とみなすどころか、むしろ、奨励するかのような言葉を発しているが、そこには、子供が自死するまでその思いに気づけず、子供を犠牲としてしまった残された遺族らが、これ以上、罪悪感を感じたくないという自己正当化の思いが代弁されていることに加え、子供が家の恥になる行為に手を染めるくらいならば、親は子供を殺すことも厭わないという父の発言を正当化する思いが暗黙のうちに含まれているものと見られる。

暴力的な手段を講じて強制的に相手の意志を打ち砕いてでも、自分の信念の正しさを相手に押しつけることは、それ自体、精神的殺人であると言えよう。このように、聖書を悪用しながら、「正義のためなら殺人も厭わない」という誤った思いを正当化しようとする村上の姿勢は、暴力による強制的な脱会工作だけでなく、アッセンブリー教団に背いた教会や信徒にとことん誹謗中傷を浴びせ、破滅に追い込むまで手を緩めないという行動にも表れている。

村上は、他の人々を差し置いてでも、傷ついた自分自身の心に目を向け、自分自身が幼い頃から父によって受け続けて来た暴力、虐待を悪しきものとして憎み、これを退け、下からの出自である「父親の血」を断ち切り、「父のげん骨で作られた」性格と訣別し、真に親離れを成し遂げなければ、父親が自分に向けて来た殺意を、自分の心の中に育み続けることになるであろう。そうなれば、たとえ憎き敵に復讐を果たしても、彼自身がいずれ死の中に飲み込まれて終わるだけである。それはカインの道であっても、アベルの道ではない。憎悪は新たな憎悪を生むだけで、鉄拳では平和は作れない。それは血塗られた悪魔の道であって、断じてキリスト者の道ではないのである。

「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。」(ローマ8:6-7)

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険③~

さて、今回から、しばらく以下の映画『龍の正体』などを通して、武士道が「魂の力」を開発して人が神のようになろうとする東洋的神秘主義に由来するものであり、今日、それがキリスト教の中に入り込んでいることの危険性について考察したい。

ペンテコステ運動の指導者などが行使している超自然的な力も、東洋的神秘主義に由来するものと理解できるため、この動画は、この運動の危険性を考える上でも、非常に参考になるものである。

今日、もしも信者が「肉のものと霊のもの」を見分けることができなければ、信者は「魂の力」を開発して超常的なパワーだけを得ることで、あたかも神の聖霊を受けたかのように錯覚したり、キリストの十字架の霊的死を経ないのに、それによって自分が偉大な霊的存在になったかのように錯覚する危険性がある。

また、信者がこうした力に手を伸ばしてしまう背景には、「魂の力」を引き出し、自己を強めることによって、心の内側にある自信喪失や被害者意識や自己憐憫などと言った心の傷を隠したいという動機が隠れていることが多い。

家庭で受けた心の傷や、人生で味わった数々の自信喪失などのトラウマから抜け出したいと願うがゆえに、信者は手っ取り早く自らの心の傷を覆い隠して、自分自身の弱さから目を背け、自分を強めるために、こうした超常的なパワーを手に入れたいと願うことが多いのである。

『龍の正体』では、武術がキリスト教の信仰と両立できるかのように誤解したまま、少年時代から武術の訓練にのめり込んで行ったウィルソンというクリスチャンの男性が登場する。彼の告白を通して、私たちは、武術の起源とその本当の目的がどこにあるのかを理解することができる。

詳細は動画を見てもらえば分かるが、この映画が言わんとしているのは、武士道は決してキリスト教の信仰と両立するものではなく、その起源は悪魔的なものだということである。 また、この映画は、ここ数十年間の間にキリスト教界に積極的に入り込んだ東洋神秘主義の武術に対して警告を呼びかけている。

一見、武術は無害な自己啓発やスポーツや芸術の一部のようにみなされ、巷に広まっているが、その奥に潜むものは何なのか。その起源は、東洋神秘主義思想にあり、決して、キリスト教と両立するものではなく、その道を行けば、悪魔の虜とされてしまうだけである。以下では、要所をピックアップしながら、ペンテコステ運動やカルト被害者救済活動の危険性と会わせて解説して行きたい。
  
  


  
 
  



「今日、武術はスポーツや健康維持または芸術として見なされている。

しかし、武術とは昔からそうだっただろうか?
超人的な技術で観衆を驚かせる彼らは一体何者なのか?
彼らはどうやってこの能力を得たのか?

なぜこの10数年の間に東洋神秘主義思想がキリスト教会の
中に広がっているのか?

それはただ競技の技術に焦点を当てているのだろうか?
それとも千年の平和をもたらす道徳的指導者に準備させる
ためのものなのか?

この東洋神秘的武術は自己啓発のためのものか?
それとも背後に何者かが潜んでいるのか?」


 
さて、ウィルソン少年が武術に心惹かれるようになったきっかけは、物心つかないうちに、テレビで小柄な東洋人が不可能に近いような技を使う場面を見たことであった。
 



「初めて武術のことを知ったのは4歳か5歳のことだった。
 小柄な東洋人が不可能に近い技を使うのを見て驚いた。
 あの日から私の中に小さな種が植え付けられた。
 その種は静かに育って行った。


「テレビで小柄な老人が超自然的な武術を披露するのを見た。
 卵を地面に置いて、その上に片足で立ち、20秒ほど、そのままだった。
 その時の映像がずっと私の脳裏に焼きついた。

 すごい、奇跡だ、と思った。」

「あの日見たものを忘れることはなかった。
 あんな技を使えるようになりたいと夢見るようになった。
 だがその裏に潜む暗闇に気づかなかった。
 そして、その選択によって自分と周りの人々の人生が
 どんな影響を受けるかにも。

 
だが、少年が、東洋人の使う魔法のような武術に心惹かれたのは、ただ神業のような芸が脳裏に焼き付いたためだけではなかった。彼は家庭の問題に見舞われており、12歳の時に、両親が離婚、父親を失った少年は、自分は愛される価値のない子供として見捨てられ、人生が滅茶苦茶になったかのように感じた。

両親の離婚によって生じた心の傷、被害者意識や自己憐憫から抜け出し、失意や、男性として生きる上で必要不可欠な人生のモデルを失ってしまったという空虚感を埋め合わせようと、少年は、自分の力で強くなりたい、自分で自分を守るために強くならねばならない、と意識するようになる。おそらく、そこには、無意識のうちに、残されてすべての苦労を一人で負わされている母を守りたいという気持ちもあっただろう。

人生の嵐に立ち向かう力もない弱い子供でありながら、世間の様々な脅威から自分で自分を守って生きるしかない立場に立たされたことが、彼の中で、無意識のうちに、自己を強めることによって、何者にも脅かされることのない、神のような力強い者になろうとする東洋神秘主義の武術への共感に結びついて行ったのである。
  

 

 
12歳の時、両親は離婚した。人生が滅茶苦茶になった気がした。
親に対する怒りが込み上げてきて反抗するようになった。
傷つけるつもりではないと分かっていたが、
見捨てられ、拒絶され、守られる価値が無いのだと感じた。
この頃から、人生の目的、生きる意味、男としての価値を探し始めた。
そして母に武術の学校に行きたいと言うようになった。」


  
ウィルソン少年は母と共に、街で開かれていた沖縄流の空手道場を尋ねる。だが、ウィルソンの家庭は敬虔なクリスチャンの信仰を持っていたため、彼の母は、訪れた道場に違和感を持つ。キリスト教信仰によって育てられた少年自身も、武術の訓練の風景に心惹かれながらも、同時に、よく分からない違和感を持った。幸い、授業料は高く、母子家庭には負担が大きすぎたために、その道場に通うことはできなかった。
 

「帰り道は魂が抜かれたようだった感じだったことを覚えている。
夢がやっと叶うと思っていた。
しかし授業料は高く、
母と二人で町の中を歩いていると気まずい雰囲気だった。
お金のことというより、
道場自体の何かに違和感を感じている様子だった。
実は私も同じ気持ちだった。
勿論、この習い事をできたらとすごく興奮はしていたが、
何か異質なものを感じた。

キリスト教の家庭で育ち、
安息日にはいつも教会に通っていた私には、
何かがどこかで噛み合わなかった。

道場で見た力、猛威、武の芸術世界の数々を、
自分の中でどう整理したらよいか分からなくて
良い気持ちにはならなかったので、忘れることにした。

それに母にとってはそんなに簡単に無視できる問題ではないと
なんとなく分かっていたから
家に帰ったその夜、母には何も聞けなかった。
でも私には母の考えていることが分かっていた。」


この告白の中では言及されてはいないが、もしかしたら、ウィルソン少年の両親が離婚した原因には、父の暴力などがあったかも知れない。彼の母親が敬虔なクリスチャンであったことを考えると、母親が自ら離婚を望んだと思えず、それにも関わらず、そのような結末が避けられなかったのは、それほどやむを得ない深刻な事情があったためと思われるためである。もしかすると、母親は、道場で行使される「力」の中に、自分自身が受けた深刻な出来事の片鱗のようなものを見いだしたのかも知れない。
 
だが、少年と武術との接近はそれで終わらなかった。キリスト教の信仰と関係ない道場で武術を学ぶことはできないという彼の悩みを解決するかのように、友達からキリスト教的な武術学校があることを知らされたのである。
 

「ある時、親友の兄に食堂で会った。
彼は高校の3年か4年の先輩で、
私は高校に入ったばかりだった。
彼は近くの武術学校でカンフーを習っていると言った。
習い始めて一年か二年ということだった。
私は彼に質問をした。
「どれくらいのお金がかかるの?」
すると彼は「毎晩一ドルだ」
「本当?」「うん本当だよ。」
「どんな学校なの?」と彼に聞いた。
母の心配する顔がよぎった。
「教えている先生はクリスチャンで毎晩聖句を読んでから
訓練したり格闘に励むんだ」
「キリスト教の学校だし、毎回払うのはたったの一ドル。
契約もいらないよ」
私はそれを聞いてとても喜んだ。眠っていた夢と希望が
一斉に蘇ってきたから。
家に帰って母に話すと彼女も喜んでくれた。
次の週、友達と二人で学校を訪問してみた。」



武術学校に行ってみると、訓練生たちは白帯、緑帯、茶帯、黒帯という四つのステージに分けられており、学校始まって25年の歴史の中で、黒帯を取ったのはたった3人だけだった。

ウィルソン少年は、武術の力を身に着けることで、世界の状況をコントロールする力を身に着けたいと願う。彼は自分の人生が、様々な状況に一方的に振り回されているばかりで、自分で人生をコントロールできておらず、自分が本当に人生の主となって、状況をコントロールする力を手に入れねばならないと願う。その背景には、両親の離婚という、自分にはどうすることもできない出来事によって心傷つけられ、運命に翻弄されるだけの弱い自分から逃れたいという思いがあった。
 

「最初の日は男たちがお互いを蹴ったり、
色んな格闘するのをみて圧倒される気持ちだった。
これこそが真の力だと思った。
いや力というよりコントロールだと。
自分の人生はコントロールできていないように見えた。
状況や成り行きに身を任せるだけで、
何も抵抗できずにいた。
だからコントロールできる力が欲しかった。
問題を一人で対処したり自分にもっと自信をつけて
一旦これと決めたら諦めずに
やり遂げるという人間になりたかった。」



さて、これまで当ブログでは、グノーシス主義はヒエラルキーの教えだということを繰り返し述べて来たが、ウィルソンの通った武術の学校にもヒエラルキーがあった。グノーシス主義は、もともと神聖な叡智(グノーシス)は、限られた人数の選ばれた人々にしか知ることのできないものであるとして、真理の知識を少数の人々に限定する教えである。そこで、この教えは、霊性のヒエラルキーを定め、その階段を徐々に上に上って行くことにより、「より高い霊性が身に着く」かのように宣伝して、もっと優れた者になりたいと願う人間の欲望を刺激して、その教えの中に深く引き込んで行くのである。それゆえ、こうした思想に基づくすべての運動には、階層を上に上らない限り伝授されることのない秘儀のような儀式がある。




カンフーの学校では階層制度があり、
白帯は初心者なので緑帯の言うことを聞き、
緑帯は茶帯に脅えていて
茶帯は黒帯となるべく関わらないように避けていた。
いわゆるつつき順だ(強いものが弱いものをつつく)

私が入った頃に気になったことは
緑帯が一週間に一度、皆が帰った夜の十時ごろに、
特別な訓練を師父(先生)から受けていたことだった。
訓練する時ドアを閉め、誰もそこで何が起こっているか、
見ることも話すことも出来なかった。

裏では何をやっているのだろう?
私も訓練にあずかりたいと思った
それほど緑帯の技は優れていた。
あのドアの奥に入れば、特別な技が
手に入るのかと思うと、
早く緑帯になりたかった。


ウィルソンは緑帯になった時に「特別な授業」を受けることになるが、それに当たり、まず新人が受けるべき最初の秘儀を受ける。それは次のように、新人の腹を他の生徒たちが集まって思い切り素手で叩くというものであった。



「緑帯になった後
特別な授業を受けることにした。
最初に新人が入った時の儀式があり、
床の上で仰向けになり、他の生徒たちが、
新人のシャツを上げ、
授業を受ける一人一人が新人の腹を
思いっきり強く平手で叩いた。
だが儀式で誰もけがはしなかった。
ただ私の腹の痣は4、5日くらい
消えなかったのを覚えている。
強い刺激を受け腹の表面に
血が浮かんでくるからだ。
でも、その儀式を経たあと自分が認められた気がした。
まるで努力の結果の報酬であるかのように。」


当ブログでは、前回まで、三島由紀夫の割腹自殺、イスカリオテのユダの自殺時に腹が裂けたことなどを取り上げ、キリストの十字架に敵対して歩むグノーシス主義者にとって「腹」は特別な意味を持つ部位であることを見て来た。

ここで、再び、「腹」が、儀式の中で重要な部位として登場する。そこで、東洋神秘主義において「腹」とはどのような意味を持っているのかを調べてみると、これは古来からの中国思想において極めて重要な役割を担う体の部位だと見なされて来たことが分かる。中国思想においては、「気」こそ、自然界に存在するすべての物質の最も基本的な構成単位であり、エネルギーの根源であると考えられて来た。あらゆる現象や変化は、「気」が動き流動することによって現れ、「気」が無くなると、その物質や生命体は存在できなくなり、消滅するとされたのである。

そこで、「気」の作用によって、人間が自分の体の状態を強化し、人間存在と生命の意味を極める方法を編み出そうという試みがなされ、そのための修行法の一つである内丹術においては、ヘソの下あたりの「丹田(たんでん)」に「気」を集めて煉ることにより、霊薬の内丹を作り出すことができるとされて来た。

おそらく、腹を叩くという儀式は、「丹田」に「気」を集めることと密接な関連があるのだろう。今日でも、「丹田に気を集める」、「気を練る」、などの方法は、禅、神道、仏教、気功、ヨガなど東洋神秘主義の流れを汲むすべての流派で使われている。

ただし、西洋医学において「気」といったものの存在や、「丹田」という体の部位は確認されていない。これは科学的には何ら証明されていない純粋に東洋的な概念である。「気」や「内丹術」がグノーシス主義的世界観とどのような関わりを持つか、さらに詳しい内容については、追って述べることにしたいが、結論から言えば、西洋思想のものの考え方が、デカルトの有名な「われ思うゆえにわれあり」という言葉にも表れているように、「精神=頭」を中心として、あらゆる物事を知性よってわきまえようとするものであるとすれば、東洋思想は、知性や思考とは関係のなく、より情意的に、また本能的で動物的なエネルギーによって、物事をわきまえようとするものであり、その試みは「頭」ではなく「腹」を中心に始まっていると言えるかも知れない。

そういう意味で、「キリストの十字架に敵対してい歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)という聖書の御言葉の警告は、決して故なきことではなく、実際に、東洋思想世界では、「腹を神」とする教義体系のようなものさえ、長年かけて作り上げられて来たと言えるのである。

さて、ウィルソンは父親との関係が全くなくなっていたわけではないらしく、大学進学の際に父と共に住むことが決まった。その時にはウィルソンが成長していたためか、親子の確執はなくなっていたようだが、それも、ウィルソンがキリスト教の信仰から離れて武術にのめり込んだことと無関係ではなかったかも知れない。ウィルソンが母親の世界観から離れ、父親の世界観により近いものを持ったために、温和な関係が築けるようになった可能性も考えられる。

以下の告白からは、彼が武術にのめり込んで行くのと同時に、キリスト教の信仰から遠ざかって行った様子が分かる。力によって人や物事を制圧し、コントロールすることを学ぶに連れて、彼にとって、信仰は何ら現実的解決を与えない味気ない理想論のようにしか見えなくなって行ったのである。

「高校卒業する頃に
父が大学の学資を出すと言ってきた。
チャタヌーガの町から外れた所だが
遺書に住むなら大学資金を出してやろう」
引越しが決まった。
武術学校を去るのは残念だった。
他にも武術学校があるとは知らなかった。
我が校が一番の武術学校だ。
ここのように教える学校は他にない、と教えられていた。
それが果たして本当かを探る良い機会でもあった。

テネシー州のクリーブランドという町に引っ越してから、
武術学校を電話帳で探すことにした。
電話帳をあけると、町が大きいほど
武術学校や道場が多く、
ある広告では、師匠の名前と黒帯何段とか、
第五、第六の夜明けや
どれだけ経験があるかなど
どういった武術を教えているかが書かれていた。

ほとんどの広告は、自分を守ろう、自信を持とう、
自尊心を高めよう、などと書かれており、目を惹きつける。
何が皆に欠けているかを広告は知っている。

改心した後に気づいたことは、すべての欠けたところは、
イエス・キリストによって本当に満たされるということ。
神に対する絶対的信仰の中でのみ見つかるということだった。

しかし、当時の私はまだそれを悟っていなかった。
神と教会から離れたのは14歳の時だった。<略>

少しずつ、私は敵の計画によって、
一つの宗教から別の宗教へと変わっていった。
教会の中で見つからない答えを武術の中で見出そうとした。

あいにく、私の求める答えはそこにあった。
自信がついて自分の生活をコントロールできていた。
もういじめっ子も怖くなくなり、頑固一徹になっていった。
時々口のほうが先走って
自分が出来る以上のことを言ったりもした。
武術で鍛えた技によりプライドが
自分の中で大きくなっていた。



こうして、武術を身に着けたことにより、ウィルソンはいじめっ子にも勝てるようになり、学校生活でもあたかも自分が悩んでいた数々の問題に勝利をおさめる力を得たように思えた。彼はそうして力によって問題を制圧し、勝利をおさめ、人生のコントロール権を得たかのように錯覚する度に、自分が本当は少しも成長したわけでなく、生まれながらの自己中心なプライドが大きく膨らんでいるだけであることに気づかなった。

<続く>


肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険➀~

さて、これまでの記事で、グノーシス主義の本質は「肉のものを霊のものに見せかける」という偽装にあり、人類が堕落した天然の「肉の力」によって自力で神に到達しようと試みであると見て来た。

そこで、今回からは、しばらくの間、御霊によって歩む上で、信者が「肉のもの」と「霊のもの」を見分けることがどんなに重要であるかについて考えるため、キリスト教に入り込んだグノーシス主義が、どのような形で「肉のものを霊のものに見せかけようとする」か、その手法について詳しく見て行きたい。

先に説明したように、グノーシス主義思想は、聖書の「二分性」に強い拒否反応を示す。そして、切り離されたものの統合、対極にあるものの融合を訴えるが、そのような考えは、彼らが神と人との区別を認めないことから始まっている。

人類が神によって被造物として創造され、さらに罪の堕落によって神と分離したことを、この思想は認めない。そして、依然として、人類が創造される前の状態、堕落によって神との交わりを失う前の状態に、自力で回帰することを目指し、あたかもそれが可能であるかのように教える。

そのようにして、物質世界の被造物を霊なる神と同一であるとみなしている意味で、グノーシス主義は、神が霊であることを認めず、霊的世界があることをも認めず、仮に「霊」という言葉を使ったとしても、実際には、すべてを目に見える物質世界に置き換え、物質世界の被造物を神とする被造物崇拝の教えであり、それゆえ、あらゆる唯物論の起源であると言える。

唯物論も、汎神論や、東洋思想のように、「目に見える全宇宙と神とは一体である」とみなす思想も、基本的に、すべてグノーシス主義に含まれる。

要するに、グノーシス主義とは、神と人とが本質的に同一であって、人間がキリストの十字架の死を経ることなく、この物質世界にあるもの(人の生まれながらの天然の自己を含む)を通して、神に到達することができるという神秘主義の思想全体を指すのである。そこで、神という概念を用いておらずとも、物質世界にあるものがすべてであるとする唯物論は大きく見ればグノーシス主義の変種の一つである。また、グノーシス主義それ自体の神話のプロットにも見られるように、神は霊であると言って、至高神という存在があると主張していても、それを「虚無の深淵」と同一視し、事実上、神の概念を骨抜きにしているのでは、結局、被造物を神としているのと同じである。そのような意味で、仏教のように、すべては「空=無」であるとみなす思想も、事実上、グノーシス主義と同じ虚無の深淵を神としているのである。

グノーシス主義の特徴は、「あらゆる分離(区別、二分性)」を否定することにあるため、まず、この思想は神と人との分離を否定することから始まり、清いものと汚れたものの区別、霊なるものと肉のものの区別、男と女の区別を否定するなど、文字通りあらゆる区別を否定する。そして、本来的に相容れず、統合することができるはずもないものの統合を唱える。

ペンテコステ・カリスマ運動の指導者である手束正昭氏は、聖書の父性原理の二分性が人を精神病理に陥れる脅威になっていると主張して、キリスト教に「母性原理」を補う必要があると主張したが、そのような主張も、よく見れば、鈴木大拙のような東洋思想家の主張とまさに瓜二つである。

グノーシス主義と東洋思想は本来的に同じものであるが、そこでは、あらゆる対称性を超えた永遠の輪という概念を作り出すことによって、全世界のすべての造られたものが、終局的にはこの「輪」と同一であると結論づける。その「輪」(和)とは、虚無の深淵であり、死である。

だが、表向きは、この「輪」は、ウロボロスの輪に見るように、対極にあるものの統合の象徴ということになっているので、それは単なる虚無や、死だけを表す単純な概念ではないとされ、むしろ、破壊や死でありながら、創造の始まりであるということにされている。要するに、この「輪」の中に、生成と消滅、聖と俗、神と人類、精神と肉体、男と女などのすべてが含まれているというわけである。

しかしながら、このように、あらゆる区別を廃して対極にあるすべての概念を「統合」するというのは、人間が勝手に作り出した錬金術のような無理筋の詐術に過ぎず、事実、そのようなことは不可能事である。それゆえ、グノーシス主義の用いる「輪」は、実際意には、存在しないフィクションの概念であり、そこから始まり、グノーシス主義の「言語」は、すべてがこの「輪」と同様に、二重の概念を帯びたダブルスピークで出来上がっており、それゆえ、偽善的で、自己矛盾しており、不誠実で、虚偽だと言える。

たとえば、すでに見たように、般若心経も「不生不滅」「不垢不浄」(生成も消滅もなく、清さも汚れもない)など、対極にある概念をひとつにまとめ、その後、「無色無受想行識     無限耳鼻舌身意    無色声香味触法      無限界乃至無意識界    無無明     亦無無明尽      乃至無老死      亦無老死尽   無苦集滅道     無知亦無得」などと、延々とダブルスピークを続ける。 要するに、何もかも正反対のものが究極的には「無=空=輪」に集約されるわけであるから、対極にある概念を区別すること自体が必要なく、そのような区別はもとより存在しないも同然であり、意味をなさないというのである。      

ダブルスピークと言えば、思い出されるのは、「戦争は平和である、自由は隷属である、無知は力である」という、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いたディストピアの世界で人々の洗脳のために使われるスローガンであろう。オーウェルの作品は、ただ単にフィクションの域を超えて、ソビエト体制その他の実際に存在した全体主義体制の特徴を明白に描き出しており、今日も、全体主義を非難する際に手本のように引き合いに出されることが多い。

いわば、このような現実にも存在した全体主義ディストピアを生み出す原型となる思想が、グノーシス主義なのであり、この思想の中には、人を欺くための詐術が満ちていると言えよう。今、改めて『1984年』のあらすじを開いて読んでみると、そこにグノーシス主義が作り出す世界観が広がっており、それが慄然とするほどまでに、現代の我が国の政治状況、および、キリスト教界におけるペンテコステ・カリスマ運動に酷似していることを思わないでいられない。
 

 Wikipediaからのジョージ・オーウェルの『1984年』のあらすじの抜粋

1950年代に発生した核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国によって分割統治されている。さらに、間にある紛争地域をめぐって絶えず戦争が繰り返されている。作品の舞台となるオセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョン、さらには町なかに仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。

オセアニアに内属しているロンドンに住む主人公ウィンストン・スミスは、真理省の役人として日々歴史記録の改竄作業を行っていた。物心ついたころに見た旧体制やオセアニア成立当時の記憶は、記録が絶えず改竄されるため、存在したかどうかすら定かではない。スミスは、古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという、禁止された行為に手を染める。ある日の仕事中、抹殺されたはずの3人の人物が載った過去の新聞記事を偶然に見つけたことで、体制への疑いは確信へと変わる。「憎悪週間」の時間に遭遇した同僚の若い女性、ジューリアから手紙による告白を受け、出会いを重ねて愛し合うようになる。また、古い物の残るチャリントンという老人の店を見つけ、隠れ家としてジューリアと共に過ごした。さらに、ウインストンが話をしたがっていた党内局の高級官僚の1人、オブライエンと出会い、現体制に疑問を持っていることを告白した。エマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる禁書をオブライエンより渡されて読み、体制の裏側を知るようになる。

ころが、こうした行為が思わぬ人物の密告から明るみに出て、ジューリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、愛情省で尋問と拷問を受けることになる。彼は、「愛情省」の101号室で自分の信念を徹底的に打ち砕かれ、党の思想を受け入れ、処刑(銃殺)される日を想いながら“心から”党を愛すようになるのであった。

本編の後に『ニュースピークの諸原理』と題された作者不詳の解説文が附されており、これが標準的英語の過去形で記されていることが、スミスの時代より遠い未来においてこの支配体制が破られることを暗示している。<略>
 




党には中枢の党内局(2009年新訳では党中枢) (inner party) と一般党員の党外局(2009年新訳では党外郭) (outer party) がある。党内局員は黒いオーバーオール(かつての労働者階級の作業着だったとされる)を着用し、貴族制的な支配階級(上層階級)で、世襲でなく能力によって選ばれ、テレスクリーンを消すことができる特権すらある。

党外局員は青いオーバーオールを着る中間層(中層階級)で、党や政府の実務の大半をこなす官僚たちである。党の主要な監視対象は、上層階級に対して立ち上がる可能性のある中層階級である党外局員であり、党内局員も党外局員も反抗の意思を少しでも見せたら密告などに遭い、思想警察(思考警察)に連行され「蒸発」してゆく。「蒸発」した人間は存在の痕跡を全て削除され(例外あり)、その者は初めからこの世に存在していなかった(ニュースピークで言う「非存在」)として扱われる。

党に関わりを持たない人々はプロレ(2009年新訳ではプロール、the proles、プロレタリアの略)と呼ばれ、人口の大半を占める被支配階級(下層階級)の労働者たちであるが、娯楽(酒、ギャンブル、スポーツ、セックス、またその他「プロレフィード(Prolefeed、直訳すると「プロレの餌」)」と呼ばれる、党の制作した人畜無害な小説や映画、音楽、ポルノなど)が提供されている。彼らに対する政治教育は行われておらず、識字率も半分以下である。多くはテレスクリーンさえ持っておらずそれゆえ監視もされていないが、党はプロレ階層を社会を転覆させる能力のある脅威であるとは全く見ておらず、動物を放し飼いにするように接している。彼らは10代から働き、早くに子供を作って60歳までには死んでしまう。重労働が彼らを蝕み、彼らの住む貧民地区にはおびただしい犯罪が横行している。

党外局員およびプロレの生活水準はきわめて低いが、テレスクリーンによる宣伝によれば日用品などの生産は毎年驚くほど伸び続けており、1950年代の革命以前の社会は言語を絶するほどの貧しさだったという。もっとも過去の統計や過去に発表された目標数値は改竄され続けており、今より昔のほうが生活が豊かだったことを証明することは不可能である。

人間の性本能や愛情は抑圧されている。党は神経学的に性本能を抹殺し、性行為から快楽を除去しようと試みており、党や「ビッグ・ブラザー」以外への愛情は必要としない。プロレの性に関しては放置されているが、党員の場合、結婚は党への奉仕のために子供を生むための「儀礼」であり、男女間に肉欲がある場合は結婚を許可されない。若者の間には「青年反セックス連盟」というものがあり、完全な独身主義を提唱し性を汚すキャンペーンを行っている。


     
 
戦前回帰を唱える日本会議勢力によって占められた今日の我が国では、まさに「オセアニア化」が進んでいる。与党が国会の議席の大半を占めたことで、一党独裁化が極端に進み、ビッグ・ブラザーはまだ一応は生きた人間の形を取って国民の前に姿を現してはいるとはいえ、自分が事実上の神であるかのように高慢に振る舞い、ビッグ・ブラザーに逆らった人々は、「蒸発」とまではいかないものの、たとえ高級官僚であっても、捏造されたスキャンダルで職を追われ、社会的に抹殺されつつある。

これらの政権に逆らった人々に対しては、ネットやTVや新聞雑誌という「テレスクリーン」を通して、さまざまなネガティブ・キャンペーンが張られ、国民の憎悪が煽られている。

さらに、賃上げがあったとか、景気は上向いているとかいった虚構の成功談が盛んに宣伝されているが、その恩恵を受けているのは社会のごくわずかな最上層部だけであり、一般大衆労働者の中で、誰一人そのようなことを実感できる者はおらず、この噂話の真偽のほどは全く定かではない。折しも、高級官僚は日々、公文書の改ざんに手を染めていたことが発覚し、それが発覚しても何の悪びれることもなく、まだ自殺するほどの良心が残っていた者がわずかにいたことだけでも奇跡のようである。

国民の大半を占める労働者は精神をむしばむ有害な娯楽をあてがわれ、重労働と貧困によって疲弊させられ、人としての尊厳を奪われたまま、家畜のように搾取され、死へと追いやられている。ピラミッドの最下層に位置する一般大衆労働者への締めつけは年々強化されており、社会保障費は削減され続け、社会的弱者はネットで吊し上られ、今、機能停止している国会では、ちょうど与党だけの独断で「働き方改革」法案が強引に審議入りしたところである。この法案によって、我が国の一般大衆労働者にはより一層、総動員体制が押しつけられ、アウシュヴィッツ行きの列車の発車時間が早まろうとしている。

ビッグ・ブラザーに忠誠を誓う高級官僚や報道関係者の性的不祥事は大目に見られ、セクハラや暴行事件を起こしても処罰もされずに見逃される一方で、庶民のうちである芸能人等は、若さの絶頂を過ぎてもまだ結婚できずに独身のまま過ごすことを余儀なくされた上、彼らの自由恋愛は厳しい統制の対象となる。ちょうど最近でも、独身の芸能人が意中の少女に恋心ゆえにわずかに接近を試みたところ、その肉欲が厳格な処罰に値する悪しき暴力事件であるとして公に懺悔を迫られていることろである。

さらに、漢字も読めない大臣や議員が国政を動かし、ツイッターやフェイスブックや匿名掲示板やブログのコメント欄といった極めて短い文章しか書けないツールが登場したことにより、極端に言語を省略した「ニュースピーク」への国民の言語の切り替えが進行中である。

何よりも、「戦争は平和である、自由は隷属である、無知は力である」のスローガンの通り、国家の安全のためと称して戦争法が推し進められ、自衛隊は海外の戦闘地域へ派遣され、武器が輸出され、共謀罪が制定されて、人々の自由や人権を脅かし、教育現場でも、国家の経済政策に役立つ人間の育成ばかりが重視されて、カネ儲けと直接関わりのない人文科学は隅に追いやられ、知性の破壊が進んでいる。
 
他にも、続ければきりがないほどの類似点が挙げられるであろう。何しろ、日本会議もその源流はグノーシス主義であるから、それが政権を握れば、我が国がディストピアと化すのは当然である。

しかし、当ブログにおいて、主眼となるテーマは、キリスト教界に入り込むグノーシス主義的異端であるから、今はペンテコステ・カリスマ運動に話を移したい。

今日、まるでキリスト教の一派であるかのように、大きな顔をしてこの宗教の中に座を占めているペンテコステ・カリスマ運動は、実は純粋なキリスト教ではなく、東洋思想と合体して出来た異端であることをこれまで見て来た。

グノーシス主義は、「肉的なもの」を「霊的なもの」であるかのように見せかけて、人を騙す詐欺の教えであり、ペンテコステ・カリスマ運動にはこの騙しのテクニックがちりばめられている。片方では、彼らは自分たちが「聖霊のバプテスマ」と呼んでいる偽りの霊を受ければ、信者は神のように高められ、超常的なパワーを発揮し、人間には理解できない言語で話ができるようになるとして、霊的な事柄を追求するクリスチャンの心をひきつけながら欺いている。

他方では、そうした肉的な教えに耳を貸さなかったり、それに関わってひどい目に遭わされて疑問を感じるようになった信者には、私営の秘密警察・思想警察と化した「カルト被害者救済活動」をけしかけて言論統制を行う。この運動は、文字通りすべての教会と信者を監視の対象として7自らの監督下に置こうとしており、その指示に服さない信徒には、盛んにネガティブ・キャンペーンを張って中傷して教会から追い出し、暴力的脅迫により沈黙に追いやっている。

インターネットは、カルト被害者救済活動の支持者らが信者を支配するための双方通行の「テレスクリーン」として用いられている。彼らはこの「鏡」を通して、要注意とみなした信者らを監視し、彼らの思惑に従わない信者らをディスカウント・中傷し、脅し、傷つけて、黙らせようとしている。それによって、彼らの 「ビッグ・ブラザーがあなたを見守っている」(BIG BROTHER IS WATCHING YOU) という標語を実現しようとしているのである。

ここにおける「ビッグ・ブラザー」とは、人格というより、虚無の深淵としての「鏡」そのものであろう。そのような「鏡」の一つがインターネットであり、スマホや携帯電話などのツールであり、それらが人々の思想を監視するための双方通行の「テレスクリーン」の役目を果たしているのであり、神のようになりたいと願う者が、どこにでも偏在して「すべてを見通す目」を持つための手段として用いられているのである。

さて、これまでの記事では、ペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教と東洋思想の合体であることを、主として思想面から分析して来た。ペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教の父性原理に母性原理(ここで言う母とは被造物のこと)をつけ加えよと主張していることなどは、まさにこの運動の東洋思想とのほぼ完全な一致をよく表しているが、これから先、記事では、思想面のみならず、現象面を通しても、この運動の起源が東洋的神秘主義にあることを見て行きたい。
 
実は、ペンテコステ・カリスマ運動は、現象面においても、東洋的神秘主義に起源があることが明白なのである。ペンテコステ運動のミニストリーが、いかに超常現象を強調するものであるかは、今更、説明せずとも、多くの人々の知るところである。この運動は必ずと言って良いほど、彼らが「聖霊」と呼んでいる偽りの霊が引き起こす「しるし・不思議・奇跡」などの超常現象を強調する。
 
彼らの見せる奇跡の多くは偽物であるが、中には、本物の超常現象もある。筆者はかつてアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にいた時代に、この教団の教会がしきりにペンテコステ運動の名だたる「宣教師」たちのセミナーや大会を推奨していたこともあって、そうした偽りの宣教師たちが海外から来日して開いた大会などを見聞きしたことがある。

ある大会で、次のような光景が繰り広げられた。詳細は覚えていないが、南米の国々などからやって来たと思われる白人の宣教師の一人が、講演中に、会衆に向かってステージに上がるよう指示した。ペンテコステ運動の集会では実によくある光景である。人々は何が起きるかと期待しながら、ぞろぞろステージに上がって行った。筆者と同伴者らもステージに上がった。そこで、偽りの宣教師が、ステージで何かを命じた(その言葉は、外国語だったせいか、それとも、異言だったためなのか、当時の筆者には意味が理解できなかった。)会衆の多くは、宣教師が命じれば、自分たちは床に倒れることになると初めから期待していたものと思われ、実際にそうなったのである。

むろん、スーツを決め込んだ白人の宣教師は、マイクの前に立っているだけで、誰にも指一本触れていない。ただ言葉で何かを命じ、わずかに手振りをしただけである。それだけで、ステージのかなり端の方にいた会衆たちにも、何かの衝撃波が到達したらしく、人々はよろめき、中には倒れる者もあった。

だが、筆者はそういう話を色んな場所で聞いて、眉唾ものだと思い、疑っていた。会衆が倒されることばかりに期待を寄せているから、倒れたいという自分の願望によって自ら倒れているだけなのではないかと疑っていたのだ。そこで、筆者は、半信半疑で、目をかっきと開いたまま、冷静に会衆の様子を見ていたが、宣教師はステージの上を歩き回り、まだ床に倒されていないで立ったままでいる人々に、手をかざすなどしてさらに倒し始めた。その時、宣教師のそば近くにたまたまいた筆者の同行者の一人が、宣教師の手の一振りで、吹き飛ばされるようにして完全に床に引き倒されてしまった。

今や大勢の会衆が当たり前のように床に転がるように倒れていたが、人々は催眠状態か恍惚状態にあるようで、そこには何か異常なことが起きたという危機感が全くなかった。倒された人々がパニックになることもなく、けいれんしていた人を世話する係まで用意されており、そうした出来事はすべてまるでありふれた日常的な風景に過ぎないかのような雰囲気があった。
 
だが、筆者は、自分の周りの人々に起きた異常を忘れなかった。引き倒された筆者の知人は、床に頭を打ち付けることもなく、また、倒れた衝撃で何らの不愉快な感覚を味わった様子もなく、瞬間的に気を失って、何か心地よい恍惚状態の中で、眠るように目をつぶっていた。おそらくその大会で自分が倒された事実さえ今となっては全く覚えていないほどであろうと思う。明らかに、その偽りの宣教師が、身振りと手振りだけで知人を地面に引き倒したことは明らかだったが、その倒れ方は、まるで風にあおられて自然に床に落ちた木の葉や、ティッシュペーパーか何かのように、音もなく滑るように瞬間的に仰向けに引き倒されたのであり、よく電車などで見かけるように、気分が悪くなった人が自主的に床に倒れ込む様子とは全く違っていた。数分程度、倒れたまま、目をつぶり、気を失っていたが、呻いたり、苦しんだりしている様子もなく、完全に無意識の状態に置かれていたのである。その後、意識を取り戻して起き上がっても、困った様子もなく、異変を感じている様子もなく、普通に行動し始めた。

その衝撃波は、筆者には何一つ影響を及ぼさなかったが、筆者はその時、目撃した異常を忘れなかった。その出来事を通して、偽りの宣教師たちが強調している「超常現象」が、必ずしも捏造された奇跡や、サクラの演出などによるヤラセばかりではなく(そういうものも多いかも知れないが)、実際に偽りの宣教師たちの中には、明らかに何かの人間離れした超自然的な力を行使できる者がいることを知ったのである。

今から考えると、その力は、仏教やヒンドゥー教の僧侶やシャーマンたちが、修行を通して得られる、魂の力を開発した超常的な能力だったに違いないものと思われる。当時、来日していたペンテコステ運動の「霊の指導者」たちは、ほとんどが白人であったが、彼らは東洋的神秘主義に由来する力を身に着けていたのである。

東洋思想とは、神と人とが本来的に一つであるという神秘主義思想であるが、ただ単に頭の中だけで考え出され、頭脳を通して理解される思想とは異なり、人間が修行を通して自己を鍛え、実際に神と合一したと言えるような神秘体験をし、何かの超自然的な力を行使できるようになるための「秘儀」を含んでいる。そして、それはインドやその他の地域で絶えず開発・利用されて来た能力であるとはいえ、日本にも伝来し、我が国では武士道という最も完成された形を取って現れたのである。

私たちは、三島由紀夫が武士道を通して自分を鍛えようとしていた事実や、有名な武士道の書『葉隠』の中に、「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」という一節があることなどを知っている。

武士道とは、いわば、「虚無の深淵」を神とし、すべての目に見えるものが本質的にこの「虚無の深淵」と一体であるとみなす東洋的思想の神秘主義の完成として作り出された「死の美学」である。武士道の極意は、いかに人間が常日頃から死と一体化し、死を美学として完成させるために生きるかを示す方法論のようなものである。彼らは、生きているうちから死と一体化することにより、死によって脅かされている儚く脆い生命の「美」を極めようとするのである。

だが、武士道を「美学」とみなすことは、この誤った思想のほんの表面的だけを見る偽りである。武士道とは、ただ単に水面に浮かぶうかたかや、散って行く桜を眺めては、その無常に思いを馳せ、情緒的感慨に浸ってため息をつくという種類のものではなく、残酷な力の行使である。儚く脆い命を愛で、自分も儚い命として自分を守り、自己完成を目指すという美しい響きとは裏腹に、その本質は、憎しみと怨念のパワー、堕落した魂の力に由来する暴力の行使なのである。

そのような東洋的神秘主義に由来する力が、キリスト教界に入り込んでいること、まさにその魂の力こそが、ペンテコステ・カリスマ運動の本質であることを、次回以降の記事で、実際に、様々な動画などを例に取り、詳しく見て行きたい。


「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」としてのペンテコステ・カリスマ運動(4)

・神に疎外された者たちによる復讐の哲学としてのグノーシス主義

さて、本題に入る前に、先の記事にいくつか補足しておこう。

先の記事では、グノーシス主義における「父なる神」の概念は、本質的にフィクションであると述べた。グノーシス主義においては、「真の至高者」と呼ばれる最高位の神から、神的存在が流出し、その神的存在がさらに自分自身の似像を創造することで、様々なアイオーン(神々)が生まれるが、「真の至高者」自身は、神的存在を映し出すための物言わぬ「鏡」であって、誰も見ることのできない虚無の深淵であるとされる。

グノーシス主義の神話的プロットにおいては、「真の至高者」が、意志をもった主体として登場したり、被造物の世界に介入することはなく、「真の至高者」による被造物の創造も、主体的な創造行為というより、ただ自分自身の姿を鏡に似像として映したというだけの、かなり消極的で受動的なものである。

前の記事では、結局、「真の至高者」は、リアリティを持った存在ではなく、ただ被造物の存在に意義を与えるためだけに名目だけ作り出された擬制的概念で、本質的には、被造物の欲望を「鏡」のように映し出す偶像であり、「フィクション」なのだと述べた。

ちなみに、虚無の深淵に、水面に光が反射するようにして「神的存在の流出」が起きるというグノーシス主義の神話のくだりは、創世記の次の記述を彷彿とさせる。

はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。」(創世記1:1-4)

しかし、この創世記の記述を、グノーシス主義の神話的プロットと同様のものとみなすことはできない。なぜなら、この記述においては、神の霊があたかも「やみの深淵」に等しい存在であるとか、神の霊が水のおもてに自分自身を映し出すことによって「光」が生まれたなどとは決して書かれていないからだ。

また、創世記には、神が人を創造された際、主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記2:7)という記述がある。

神が人間に息を吹き入れることにより、人は生きた者となったという聖書の記述についても、グノーシス主義のプロットの中に類似したくだりが見られる。だが、聖書のこの記述とグノーシス主義の神話のプロットの間にも、あまりにも多大なる差異があるため、これも同じようにみなすことは決してできない。

グノーシス主義においては、人類は、ヒエラルキーを犯して「真の至高者」を知ろうとしたソフィアの過失によって生まれた悪神ヤルダバオートから生み出されたことになっている。繰り返すが、このヤルダバオートとは、グノーシス主義において、旧約聖書の神と同一視されている。

グノーシス主義文献の一つ、『ヨハネのアポクリュフォン』では、母ソフィアに捨てられて下界に転落したヤルダバオートは、自分のいる下界よりも上位にプレーローマ界があることを知らないまま、下界にさまざまな被造物を生み出し、自分だけが世界の創造主であると自己過信して、「私の他に神はいない。私は妬む神である。」と宣言する。

しかし、それを聞いたプレーローマ界の創造者であるバルベーロー(真の至高者から最初に生み出された女性人格であり、プレーローマ界を創造した神的存在)はその宣言をヤルダバオートの傲慢さの表れであるとみなして憤激し、「人間と人間の子が存在する」と言って、自分の姿を下界に映し出す。それを見たヤルダバオートは、初めて見た神の姿を自分のものにしようと、バルベーローを模して人間(アダム)の体を創造したという。

だが、体が造られただけでは、人間は立ち上がることができなかったので、プレーローマ界の神々は、ヤルダバオートに、アダムの口に「息(プネウマ)」を吹き込むようにそそのかした。「そそのかした」というのは、ヤルダバオートがアダムに吹き込んだ息は、母ソフィアに由来する霊であって、ヤルダバオート自身は、その「息」をアダムに吹き込む代わりに、自分自身はそれを失ってしまったからである。

ところで、このような神話のプロットには、それ自体、相当な無理があると言えよう。グノーシス主義の神話では、それぞれの神的存在の間にヒエラルキーがある。そこで、本来、ヤルダバオートによって創造された人類は、ヤルダバオートの似像となるのが当然であって、吹き込まれた息も、ヤルダバオートの霊であるはずであり、ヤルダバオートを飛び越えて、さらに上位の神の似像として造られるなど考えられない。

ところが、グノーシス主義は、バルベーローがヤルダバオートを出し抜いたことにより、人類は、ヤルダバオートの存在を飛び越えて、プレーローマ界の直接の創造者であるバルベーローの似像として創造されたのであって、その息も、ヤルダバオートを飛び越して、母ソフィアに由来するとしている。これはいかにバルベーローの意志のもとで行われたことになっているにせよ、グノーシス主義が、神的存在の間にヒエラルキーを定めておきながら、そのヒエラルキーを自ら壊すようなプロットを作ったことを意味する。

グノーシス主義においては、このように、自ら定めた秩序やヒエラルキーを自分で破壊するようなプロットが次々と展開される。第一に、ソフィアが、自分の分を超えて「至高者」を知ろうとしたことによりヒエラルキーを覆し、第二に、ソフィアの過失によって生まれたヤルダバオートが、自分こそ至高の存在であると宣言して、ヒエラルキーを犯し、さらに、人類がヤルダバオートを飛び超えて、さらに上位の神の似像として創造されることによって、ヒエラルキーが覆され、さらに、以下に示すように、アダムから最初に生まれた子供たちであるカインとアベルが悪しき種族となる一方で、カインとアベルよりも後に生まれたセツの種族が「生命の霊」を継承する善なる種族となって、ヒエラルキーが覆される。

グノーシス主義においては、「私は妬む神である。私の他に神はいない」というヤルダバオートの宣言だけが、あたかも許し難い傲慢のようにみなされているが、実際には、ソフィアもヒエラルキーを犯し、人類もヤルダバオートより優れた存在として創造されることにより、ヒエラルキーを犯しているのだが、それらのことが悪として非難されたり、罰せられることはない。
 
しかし、そういう不公平でナンセンスな解釈をすべて取り払って、ただ単純に物語のプロットだけに注目するならば、グノーシス主義の物語では、ただ延々と「秩序転覆」(大田氏の言葉によれば、「簒奪の模倣」)が繰り返されているだけであることが分かる。

要するに、自分よりも上位にあるはずの存在から、オリジナリティを盗むことによって、自分自身がその者になり代わり、その者の優れた特性を剽窃して、歪んだ模倣を行うという「秩序転覆」が延々と繰り返されているのがグノーシス主義の物語なのである。
 

「グノーシス主義の造物主であるヤルダバオートは、プレーローマ界の似像として可視的世界を創造しながらも、その原型であるプレーローマ界の存在を認知せず、「私の他に神はない」と、自らの至高者と唯一性を宣言する。彼は、神的な秩序のオリジナリティを、本当の至高者から、そしてプレーローマ界から奪い取ってしまうのである。ヤルダバオートによる創造行為は、ソフィアが不意に踏み出してしまった「簒奪の模倣」という行為を、全面的に展開したものと捕えることができるだろう。
(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』大田俊著、春秋社、2009年、pp.104-105)

 
既述した通り、グノーシス主義においては、ヤルダバオートが創造した人間が、プレーローマ界の創造者であるバルベーローの似像として生み出され、ヤルダバート以上の存在となったことは、全く悪とはみなされない。
 
だが、人類の誕生が、ヤルダバオートが水面に映ったバルベーローの姿を「我が物にしよう(=盗もう)」と欲したことによって起きたことを考えれば、結局は、これも「簒奪の模倣」の結果でしかないのである。さらに、ヤルダバオートがバルベーローの似像を奪い取ろうとして生み出した人類の中にも、二種類の種族が現れ、アダムから先に生まれた「カインとアベル」の種族は、ヤルダバオートが「生命の霊」を真似て造りだした悪しき「模倣の霊」にとりつかれ、互いに憎み合い、殺し合うという「運命の鎖」の中に閉じ込められて生きるしかなくなる一方、アダムからカインとアベルの後に生まれた「セツの種族」が、プレーローマ界に由来する「善なる、憐れみに富む霊」である「生命の霊」を受けて、物質的欲望から解放されて崇高な人生を生きるのだという。
 

創造された人間の肉体には、バルベーローが人間を救済するために派遣した「生命の霊」が、あるいはヤルダバオートがそれに対抗するために、「生命の霊」を真似て造り出した「模倣の霊」が植えつけられる。そして、これらの指導的な霊の種類の違いによって人間たちは、「セツの種族」という祝福されるべき種族と、「カイン・アベルの種族」という呪われるべき種族に分かれ、相互に対立を繰り広げるようになる。」(同上、p.107)


 
ここで、カインとアベルの両方が、堕落した種族の呼び名とされているなどの、あまりにも聖書からかけ離れた荒唐無稽な呼称について非難することは脇において、プロットだけに注目して話を進めることにしよう。こうして、ソフィアから、ヤルダバオートへと受け継がれ、さらに人類にも受け継がれた「簒奪の模倣」という、グノーシス主義に特徴的なヒエラルキーの転覆願望は、人類にも悪しき種族を通じて受け継がれて、呪われた「運命の鎖」として延々と継承されて行く。その「模倣の霊」の悪なる本質は、ヒエラルキーを下へ下がれば下がるほど、争いや殺人といったますます醜い形で現れるようになっていることが分かる。

『ヨハネのアポクリュフォン』は、一方では、悪しき「模倣の霊」とは異なる「生命の霊」なるものがあるとして、その霊によって導かれる善良な「セツの種族」なる人類が存在すると主張し、そこに救済のようなものを見いだそうとするのだが、しかし、そのようなプロットにも、あまりにも無理があると言えよう。なぜなら、セツの種族も含めた人類全体が、ソフィアが至高者の像を盗み取るという「簒奪の模倣」をきっかけに生まれたのであり、ソフィアの過失によって誕生したヤルダバオートが、さらにバルベーローの像を盗むという「簒奪の模倣」を行った結果として誕生していることは明白だからである。そのような呪われた出自を持つ人類全体の中から、どうしてセツの種族だけが、「簒奪の模倣」とは無縁の、プレーローマ界に由来する善なる霊だけを持つ神聖かつ善良な存在であるとみなすことができるのだろうか。
 
我々クリスチャンの目から見れば、グノーシス主義の神話的プロットの中で、唯一、確かなリアリティとして存在しているのは、決して「生命の霊」とか「セツの種族」といった救済めいた概念ではないのである。むしろ、そうしたものは、グノーシス主義の物語のプロットの中で、延々と繰り返されている秩序転覆、ヒエラルキーの破壊、「簒奪の模倣」を正当化するための言い訳として、ソフィアの過ちを「修正」するために作り出された方便でしかないのである。

そのことは、「セツの種族」なる人類が、自分の本当の出自がプレーローマ界にあると気づくことによって、「母ソフィアの過ちを修正する」ことを最大の使命としている点を考えても納得がいく。「セツの種族」が目指しているのは、悪しき模倣の霊と手を切って、それと無縁の人生を送ることではなく、悪しき模倣の霊の生んだ産物の子孫として生まれた自分自身のルーツを、何とかして正当化することで、ソフィアから延々と人類に受け継がれているヒエラルキーの転覆を正当化することなのである。
 
結局、グノーシス主義の物語は、全体が、「簒奪の模倣」を正当化し、それを弁明するために作り出された物語なのだと言える。そこで、グノーシス主義とは何か、ということを一言で言い表すならば、「妬みに基づく剽窃を正当化する教えである」と結論づけることができるものと思う。

グノーシス主義は、旧約聖書の神を指すというヤルダバオートが「私は妬む神である」と宣言していることを、あたかも彼の愚かさや偏狭さや嫉妬深さの証拠であるかのように徹底的に侮蔑・嘲笑・非難するが、ところが、よくよくこの物語を見れば、実際には、妬みに駆られているのは、ヤルダバオートだけでなく、ソフィアの過失にせよ、人類の創造にせよ、グノーシス主義の物語全体が、創造主なる神に対する妬みによる「剽窃」と秩序転覆を延々と繰り返しながら、上位の神からオリジナリティを盗み、奪うことを正当化して出来上がっているとしか言えないのである。

このように、終わりなき秩序転覆が繰り返されていることに見る通り、グノーシス主義の教えは、誰かが自分よりも優れた他者を妬み、その他者からオリジナリティを盗むことで、自分がその者になり代わって、高貴な存在となり、その者の功績を倣して、歪んだ摸造としての「盗作」を生み出すという悪しき行為を言い訳し、助長するために作り出されたものなのである。

それだからこそ、この物語においては、本来であれば、オリジナリティを盗み取られて、最も憤慨して、立ち上がり、無法者の行為を罰せねばならないはずの「真の至高者」が、物言わぬ「鏡」や「虚無の深淵」と同一視されて、被造物の過失の責任を問うこともなく、最初から最後まで沈黙し続けているのである。

このことから、グノーシス主義においては、最高の存在であるはずの「父なる神」は、最初からリアリティを持たない、抜け殻のような存在に過ぎず、単なる名目だけのお飾り的な存在で、もともとオリジナリティが全くないのだと言えよう。

これまでの記事でも、「剽窃」や「贋作」や「盗作」といった概念が成立するのは、確固たるオリジナルが存在する場合だけだと述べて来たが、グノーシス主義における「至高者」は、それ自体が「鏡」であり、誰も見ることのできない深淵であるため、オリジナリティがないだけでなく、逆説的に、この「鏡」を通して、被造物が「至高者」の像を盗み取ることが可能となる。「至高者」であるはずの存在が、「鏡」とされることによって、被写体のように、「見られる対象」となってしまい、そこから「存在の流出」が起きるのである。しかも、その「至高者」は物言わぬ存在で、勝手に自身のオリジナリティを盗まれても、文句も言うことができない。

このような自己矛盾した筋書きは、グノーシス主義が、初めから「至高者の存在を盗み取る」ために生まれた物語であるからこそ、成立するのである。

さて、聖書においても、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18)という記述があるが、この記述の持つ意味は、グノーシス主義の主張とは全く異なる。

確かに、神を見た者はいない、という点では、聖書とグノーシス主義は共通点があるかも知れないが、しかし、聖書においては、神は独り子なるイエス・キリストを通して、ご自分を示されたのであり、クリスチャン一人一人はキリストを通して神を知ることが許されている。

ところが、グノーシス主義においては、神を見ることは誰にもできず、神を知る手段も被造物にはない。あるいは、独り子だけが神を見ることができるとしながらも、他の被造物には、独り子を通して神を知る道が閉ざされている。人類も、神を見ることはできず、神を見るためには、自分自身を見つめるしかない。このように、グノーシス主義の「父なる神」は最初から最後まで、あるかなきか分からない「フィクション」なのである。
 
だからこそ、グノーシス主義の神話のプロットにおいて、このように「神を知る」ことから疎外されている被造物には、神を知るために、結局、神を「盗み見る」しか手立てがないのである。
 
このように、グノーシス主義とは、「父なる神」を知ることから疎外された者たちが、不正な手段で、「父なる神」のオリジナリティを盗もうとすることを正当化するために作り出された教えであると言え、神の救いから除外されてしまった人々が、神から神であることを盗み取ることで自己正当化をはかるために作り出された教えなのである。

そして、そのような悪しき方法で自己正当化をはかったことの責任を問われないために、グノーシス主義は初めから、「父なる神」を物言わぬ鏡にしてしまっているのだとも言える。

とどのつまり、グノーシス主義の言う「父なる神」とは、結局、被造物の欲望を映し出す「鏡」なのであり、被造物の欲望の化身であり、偶像なのである。グノーシス主義者は自己の欲望を「神」とみなし、それを拝むことによって、自分は神と一体化しているかのように考え、実際には、拝んでいる神が、実体のないフィクションでしかなく、自分は神を知ることから疎外されているという事実を覆い隠しているのである。

以上のことを考えれば、真に「妬み」に支配されているのは、決してヤルダバオートだけではなく、グノーシス主義に登場するほぼすべての被造物、グノーシス主義の物語全体が、「父なる神」に対する妬みに基づいて作られたものである事実が見えて来よう。

このように、グノーシス主義の教えは、「神を知る」ことから疎外されている者たちが、自分たちには知ることのできない神を不正な方法で「盗み」、これを「模倣」して、自分自身を「神」とするために、聖書の父なる神に対する「妬み」によって作り出された偽りの教えなのである。


・神に疎外された者たちが、神のものを盗むために延々と繰り返す「簒奪の模倣」としてのペンテコステ・カリスマ運動

さて、以上のように考えると、グノーシス主義は「神に疎外された者たちが神を盗み取り、模倣することで、神に復讐する物語」であると言える。つまり、神を知りたいと願いながらも、神を知る道を閉ざされた者たちが、神から神であることを奪い、神を乗っ取り、自分自身が神になり代わって、復讐を果たすための教えなのだと言えよう。

そのような意味で、グノーシス主義とは、まさに悪魔によって直接息吹かれた思想であると言える。なぜなら、聖書において、悪魔は神によって創造された被造物であるにも関わらず、神に背いて、神のようになろうとしたがゆえに、反逆の罪に定められたからである。

グノーシス主義はソフィアの過失を悪とみなさず、彼女を罰しないことによって、聖書の神に背いて神以上の存在になろうとした悪魔の欲望を肯定しているのである。

以上の事を考えると、なぜペンテコステ・カリスマ運動に影響を受けた信徒らが、様々な教会や集会の中で、異常としか言えない行動に出るのかが理解できるようになる。

それは、ペンテコステ・カリスマ運動が、もともとキリスト教ではなく、グノーシス主義に由来するものであって、その中心にはグノーシス主義と同じ「簒奪の模倣」、すなわち、「乗っ取り」や「模倣」や「剽窃」の霊があるためなのである。
 
ペンテコステ・カリスマ運動の起源がグノーシス主義にあることについてはすでに幾度も論じて来たので、ここでは繰り返さず、今は具体例を見ることにしよう。

以下は、前にも説明した通り、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(神召キリスト教会)の信徒であった鵜川貴範・直子夫妻がDr.Lukeの率いる横浜の集会Kingdom Fellowship Church(KFC)を乗っ取った時に作成したサイトである。

このサイトの更新は、2013年9月で止まっており、さすがに鵜川の肉声を記録した音声メッセージはすでに削除されているようだが、サイト自体は現在も放置されたままである。


https://kingdomfellowship.webnode.jp/
図1 当時、Dr.Lukeを集会から追い出して鵜川夫妻が作成した偽サイト。ウォッチマン・ニーの「荒野に宴をもうけ」が発信されるなど、当時の公式サイトがかなり細部に至るまで模倣されている。だが、Dr.Lukeがこの偽サイトを今日に至るまで放置していることにも、同じほど深い闇がある。

 
鵜川夫妻がこれまでにも様々なコピーサイトを作っては放置して来た事実があることは、記事で説明したが、同夫妻が、他教団の信徒であったにも関わらず、「いずれはエクソダスするつもりである」などとうそぶき、所属を隠してKFCに潜入し、メッセンジャーとなってKFCの集会を乗っ取ったこともすでに述べた。

鵜川夫妻は、それによって「神のものを盗める」と考えたのだと見られる。つまり、同夫妻はDr.Lukeに憧れ、Dr.Lukeのわざを盗み、真似することによって、自分自身が神に近付けると考えたのであろう。

しかしながら、乗っ取られた方も乗っ取られた方であり、同じほど深い虚無の深淵であったと言える。本来ならば、以上のような真似をされれば、オリジナルの所有者が出て来て、偽サイトを駆逐するための措置を取るはずである。それだけでなく、大変な迷惑をこうむったとして、他にも様々な法的措置を取り、無法者への処罰を求めて当然である。しかし、Dr.Lukeはそれを今日まで全く行っていないのである。

つまり、オリジナルの所有者が、オリジナルの所有者たる権利を全く行使しておらず、するつもりもないのである。そもそも「贋作」や「剽窃」を主張できるのは、オリジナルが存在する場合のみであるという理屈に当てはめれば、これは「偽物」であり、「コピー」でありながら、同時に、偽物でもコピーでもないということになろう。

それは、KFCという団体そのものが、実のところ、乗っ取った側と同じ、虚無の深淵からなる実体のないフィクションでしかないからである。

乗っ取られた側も、乗っ取った側と本質的に同じであったからこそ、「オリジナル」の所有者が出て来て権利侵害を訴えることができないのである。

そのことは、Dr.Lukeのミニストリーがフィクションであるだけでなく、Dr.Lukeという人物も、フィクションであることをよく物語っている。これまでの記事で、牧師という存在がみな信徒らの欲望を体現するための偶像であり、フィクションであると述べたが、Dr.Lukeという人物も、それと同じように、信徒らの願望を投影して作りだされた実体のない架空の概念でしかないのである。

Dr.Lukeのミニストリーは、その時、その時で、全く互いに相容れない異なる教えを掲げながら、次々とその看板をすげかえて続いて来た。目玉として打ち出される教えが何であれ、それらはすべてが「借り物」の域を出ないものだったのである。

そのことは、Dr.Lukeが、上記のなりすましサイトにも見られるように、かなり長い間、ウォッチマン・ニーを看板として掲げていたにも関わらず、それも一時的な「借り物」に過ぎず、現在は全く違う教えを看板として中心に据えている様子からも分かる。

KFCのミニストリーは、このように、その時々で、様々な教えをうわべだけの飾りのようにちりばめ、混合しながら出来上がって来たものである。とはいえ、その母体となるものも、明らかに存在しており、それは、鵜川夫妻が属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と同じ、「異言」を伴う「聖霊のバプテスマ」を強調する聖霊派の教えである。

(Dr.LukeがKFCを創設する際にモデルとしたKingdom Feithを率いるColign Urquhartは英国のカリスマ運動に属するリーダーであり、1970年代には"When the Spirit Comes"『聖霊が降臨するとき』などの著書も記しており、そのミニストリーの有様を観察すれば、これが今日の日本のペンテコステ運動などの聖霊派のスタイルとほぼ同じであることが分かる。)
 
すなわち、KFCの土台をなすのは、その他にどれほど様々な教えを掲げていようと、あくまでアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と同じ「異言」を伴う「霊のバプテスマ」を強調する聖霊派の流れなのである。それだからこそ、Dr.Lukeはサンダー・シングなどを読むアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒が現れてこの異端の書を集会の中に持ち込もうとしても、それに反対することもなく、また、鵜川夫妻の本質的危険性を指摘されても気づくことがなかったのである。

それは、これらの聖霊派の信者らを導く「霊」が、Dr.Lukeを導く「霊」と本質的に同質だったためであろう。その他のどんな教本を読んでいるかなどの細かい差異は重要ではなく、彼らにとって重要だったのは、彼らを導く「霊」の共通性・同一性だったのである。

今日、Dr.Lukeが杉本徳久のような人物とも「遺恨を残すことは本意ではない」などと融和を唱え、村上密の活動にも異議を唱えなくなったことも、以上と同じ理由からである。この人々の思想の根底には、共通して聖霊派の教え、聖霊派の「霊」があるためなのである。そして、彼らがこれまで行って来たわざ、また、以下にも記す事柄を考慮すれば、聖霊派が強調する「霊」が、決して聖書における聖霊と同一でなく、キリストの御霊ではないことは明白である。
 
(ちなみに、Dr.Lukeは、筆者がまだカルト被害者救済活動の偽りをはっきりと知らなかった頃、筆者に向かって、杉本徳久を導く霊が、「キリストの御霊ではないと思いますよ」と、忠告して来たことがあった。そこで、筆者は、最初からDr.Lukeを導く霊が、杉本や村上を導く霊(ペンテコステ運動の霊)と完全に同一だったと言うつもりはない。おそらく、それとは異なる信仰のあり方の模索も存在していたのであろう。だが、Dr.Lukeの言動は常に二重性を帯びており、彼のミニストリーには互いに矛盾する様々な基盤が同居していたのであり、時と共に偽善性が深まった結果、最終的には、聖霊派の偽りの霊が、Dr.Lukeとそのミニストリーを占拠したのだと言えよう。)
 
もしも今日、鵜川貴範のメッセージが残っていれば、彼がその中で、単なる真似事や作り事とは思えないほどに「流暢な異言」を語っていた様子が分かるはずである。それほど流暢な「異言」は、実際に、聖霊派を知っている筆者から見ても、極めて特異なものであったと言える。

Dr.Lukeは、鵜川夫妻が登場する以前から、集会の中で異言を語ることに全く反対の態度を取っておらず、「霊の歌」などと称して、集会中に信徒が異言を語り続けることを奨励していたのであるから、聖霊派の唱える「霊のバプテスマ」の信憑性を疑ったり、鵜川の異言の出所に疑いを持つようなことは思ってもみなかったと考えられる。

KFCは、このように聖霊派の教えを土台として、その上に、アンドリュー・マーレー、オースチンスパークス、ジェシー・ペンルイス、ウォッチマン・ニーなどの霊的先人の教えをつけ加え、これらを総合的に混ぜ合わせて集会を作り出していた。

だが、本来、ペンテコステ・カリスマ運動のような聖霊派は、決して以上の霊的先人のメッセージと一致するものではない。両者は一見、キリストの御霊を強調している点で、同じような「霊の流れ」にある「霊的な教え」のように見えるかも知れないが、この二つの潮流の源流は全く異なるものである。

なぜなら、アンドリュー・マーレーにせよ、オースチンスパークスにせよ、ウォッチマン・ニーにせよ、その中心には常にキリストの十字架があるのに対し、ペンテコステ・カリスマ運動の強調する「霊」の教えの中心には、キリストの十字架が欠けているからである。
 
手束正昭氏の著書を通して、当ブログでもすでに見て来たように、聖霊派において常に強調される「聖霊のバプテスマ」とは、キリストを証するものではなく、人間自身をより高次の次元の存在へと引き上げる霊であり、人類の堕落したアダムの命に霊的死をもたらす要素を全く持たない。

そのことは、手束氏の述べている養子論的キリスト論をよく読めば、明らかになる。同氏の言う「聖霊」は、堕落した人間に過ぎないアダムの命によって生きる人類を、アセンションと同じように、何らかの方法で「改良」することにより、より高次の存在へ高めることによって、贖われていない者をあたかも贖われた者のように、さらには「神のように」見せかけ、神ではなく、人間自身に栄光を帰するため偽りの霊なのである。

その「霊」の偽りは、その「霊」が何を証するかという特徴によって顕著に見分けられる。聖霊派の信者が常に「聖霊」として強調する霊は、信者にさかんに自分自身を誇示させることはあっても、キリストご自身に栄光を帰さず、キリストが十字架で死を経られ、復活されたことを証ししない。

ジョン・R・ハイムズ著『異言の正体』には、聖霊派の強調する「異言」を伴う「聖霊のバプテスマ」の非聖書性・危険について詳しく解説されているが、その危険性をいくつか部分的に抜粋しよう。
 

それこそ異言の危険性です。異言を語る人は自分で、あるいは自分の教会だけで異言を語ることに満足しません。他の教会の信者も異言を語るように努力します。(p.4)

異言の魅力はどこにありますか。まず簡単です。異言の信者はこのように言います「異言を語ったら、すばらしい喜びを持つことができます。そして、この祝福を通してあなたのクリスチャン生活が簡単になり、あなたは罪に勝つことができます。
もしそれが本当であるならば、キリスト者は誰でも異言を語りたくなるでしょう。でもこの本で証明するようにそういう約束は聖書のどこにもありません。聖書的ではありません。(p.6)

異言は決してキリスト教のものだけではありません。1世紀にもいろいろな偶像の宗教は異言を語っていました。例えば:デルフィの宮の宗教や当時の「神秘の宗教」やグノーシス教やシリヤの女神ジュノの宗教などです。
現代にもキリスト教以外に異言を語る宗教があります。例えば、イスラム教のダービシュ聖人やヒンズー教のある聖人です。したがって、悪魔が話させる偽物の異言もあると言えます。これから勉強するように、キリスト教にも偽物の異言があります。(p.6)

カリスマの信者の目標は異言を認めない教会が異言を語るようになる、ということです。<略>カリスマ運動は教会を始めることより、他の教会のメンバーを盗むことが多いです。自分の教会を開拓しないで、福音派や根本主義者の教会に異言を伝えることが多い運動です。その態度は今まで続きますから、カリスマ運 動は多くの教会のけんかや分裂をさせてしまったことがあります。その理由だけで霊的にとても危ない運動です。(pp.8-9)

 

この最後の部分、「カリスマ運動は教会を始めることより、他の教会のメンバーを盗むことが多い」という指摘は極めて重要である。もちろん、これはカリスマ派のみならず聖霊派全体に
共通する特徴であるが、彼らには、「自分の教会を開拓しないで、福音派や根本主義者の教会に異言を伝えることが多い」という特徴があるのだという。

つまり、すでに出来上がった土台を有する他の教会に入り込み、そこで異言の重要性を解くことによって、その教会のメンバーを奪い去り、分裂をもたらすという行動が、聖霊派の信徒にはパターン化している様子が分かるのである。

鵜川夫妻がKFCでやろうとしたことも、まさにそれに当てはまる。つまり、この夫妻が行ったことは、まさにペンテコステ・カリスマ運動の信者に典型的な行動だったのである。

彼らは、クリスチャン・トゥデイの記事にも記されているように、早くから、路傍伝道を日常的に行っていたが、そのことからも、彼らが自分の影響力を、所属教会の許可なく、所属教会の枠組みを超えて、可能な限り、外へと押し広げようとしていた様子が見て取れる。

通常、教会が行う路傍伝道は、信徒らがチームを組んで、予め立てた計画に沿って行われるもので、所属教会の許可を得ずに、信徒の独断で行われることはまずない。しかし、彼らの場合は、あたかも自分の中にある抑えがたい情熱を定期的に外へ吐き出さずにいられないとばかりに、時間も場所も計画せずに、自分の心の赴くままに公共の場所へ出かけ、突如として、そこで通行人に向かって語り出すというスタイルであった。
 
その「伝道」が、所属教会の許可のもとに行われていない以上、仮にそうしたメッセージに耳を傾ける者が出て来たとしても、その魂が教会に導かれることはなかっただろうと思われる。

つまり、その「伝道」は、人々の救いのために行われたものでは決してなく、ただ聖霊派の信者が、自分の抑えがたい情熱を外へ吐露し、自分自身の欲望を満たす目的のためだけに行われていたのである。

ジョン・R・ハイムズ氏の記述からも分かるのは、ペンテコステ・カリスマ運動の信徒らには、自分が正しいと信じていることを他者にも押しつけねばならないという身勝手な思い込みのもと、秩序をわきまえず、独断的で専横的な行動を繰り返し、他教会に潜入したり、人々の生活に望まれもしないのに介入・干渉して行って迷惑をかけたり、分裂をもたらすというという特徴が共通して見られるのである。

聖霊派の信者が、「異言を語ったら、すばらしい喜びを持つことができます。そして、この祝福を通してあなたのクリスチャン生活が簡単になり、あなたは罪に勝つことができます。」などと自己宣伝しているように、聖霊派が強調する「異言」や「聖霊のバプテスマ」は、確かにそれを受けた信者に、それに病みつきになるような何らかの恍惚体験を与えたり、その信者が、通常人の域を超えて、周囲の人々に異常な影響力を行使することが可能になるような、何かしらの超自然的パワーを与えているのであろう。

その「霊」を受ければ、「神のように高次元の存在に引き上げられ、質の高い人生を送れる」という謳い文句は、単なる虚偽ではなく、そこには、実際に悪霊に由来する力が働いて、その「霊」を受けた人間が、何らかの異常な超自然的なパワーを得ている可能性は十分に考えられる。

だが、仮にそうしたことがあったとしても、その「霊」の本質が、キリストの御霊では決してない以上、その霊が結ぶ実が良いものとなることも決してない。それは、神から来た霊ではなく、以上で見て来たように、むしろ、神に反逆する悪魔的グノーシス主義に由来する「悪しき模倣の霊」であるからこそ、自分では何も生み出そうとせずに、他者の功績を盗み、他教会を乗っ取って信者を奪い去ったりして、分裂をもたらし、神を崇めると言いながら、自分自身を崇め、自己に陶酔するだけのナルシシズムの霊なのである。
 
その「霊」がクリスチャン生活を単純化し、罪に勝つ力を与えるなどという謳い文句も、偽りであって、錯覚でしかない。 実際には、聖霊派の出所不明の「異言」をもたらす怪しい「霊」を受けた信者は、自分に麻薬のような恍惚体験をもたらしてくれる「異言」にやみつきとなり、自己満足するために、ところかまわず「異言」を語っては、秩序を壊さずにいられなくなったり、その「霊」の悪しき影響によって、善悪の感覚や、良心や、罪悪感が麻痺させられるため、罪を犯しても罪と思わなくなり、それによってあたかもクリスチャン生活が単純化されて、自分が清められて、聖なる者になったかのような錯覚を抱くだけなのである。

それはちょうど重症のけが人や、重篤な患者が、麻酔薬のおかげで自分は健康になったと錯覚するようなもので、そうして痛みを無視して動き回ったことのツケは後になってすべて跳ね返って来るが、ペンテコステ・カリスマ運動の信者の場合、その破天荒な行動によって、本人よりも周囲の者たちが著しい迷惑をこうむるのである。

こうして、聖霊派の信者らが、悪しき「霊」を受けた結果、自分があたかも聖なる存在であって、自分の考えることはすべて正しいかのような思い込みに陥り、他者の人生に不当な干渉を繰り返しては、害を及ぼすという異常行動は、ただ「伝道」という名目だけでなされるのではない。

たとえば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が、被害者を募っては、他教会に裁判をしかけ、他教会の運営に介入するカルト被害者救済活動をライフワークとしているのも、教会に分裂をもたらし、信徒を奪い去り、「神のものを盗む」ために行われる「簒奪の模倣」なのである。

また、杉本徳久を代表として、ペンテコステ運動をすでに出たにも関わらず、依然、村上のカルト被害者救済活動を支持することで、ペンテコステ運動の影響をひきずり続ける「信者」らが、無関係の赤の他人にまで、不当な干渉を延々と繰り返し、自分の考えを押しつけ、従わせようと試みたり、他人のブログの趣旨を歪めるために、ダミー記事を作ったり、他人の文章や写真を剽窃したりしているのも、まさに「簒奪の模倣」の霊による。

むろん、彼らが信徒らの公開されていない情報を入手しては、それを次々と暴露するような行為に及んでいることも、「自分には知ることの許されていない神の像を盗み見ることで奪い取ろうとする」グノーシス主義の「簒奪の模倣」の欲望に基づいてなされていることなのである。

これらのことは、次回以降でも詳しく論じるが、すべて聖書の「父なる神」の教えに従わず、キリストの十字架によらないのに、神に等しい存在となろうとして、真にキリストに従う信者たちから、神に属する性質を盗み取り、それによって、自分自身が「神になり代わろうとする」グノーシス主義の霊が引き起こしている現象なのである。

このように、ペンテコステ・カリスマ運動の起源は、グノーシス主義にあるため、信者はこの運動と訣別しない限り、以上のように人格を破壊されながら、支離滅裂な行動に出て、神と教会とクリスチャンに反逆する者となって行くことを避けられない。

だが、極言すれば、牧師制度そのものがグノーシス主義的起源を持つものであるから、Dr.Lukeであろうと、村上密であろうと、ゴットホルト・ベックであろうと、鵜川貴範であろうと、ベニー・ヒンであろうと、他のリーダーたちであろうと、誰であれ、自分の気に入った教師たちを立てては、そのメッセンジャーに群がろうとする信徒は、結局のところ、自分自身の欲望と霊的姦淫を重ねているだけなのである。

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(Ⅱテモテ4:3-5)


「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」としてのペンテコステ・カリスマ運動(3)

・「父なる神」の概念を、被造物の都合によって生まれる擬制的な存在(フィクション、偶像)に変えてしまうグノーシス主義がもたらす悲劇

さて、旧約聖書の創世記においては、「神は自分のかたちに人を創造された。」(創世記1:27)とあるように、人類は父なる神に似せて創造されたことが記述されている。

だが、人類は罪によって堕落したために、父なる神から切り離され、「父」を喪失してしまった。そのため、人類は「失われた父」を取り戻すために遍歴を重ねており、完全なアイデンティティを回復するためには、キリストの贖いを受け入れて、御子を通して、まことの父を知るしかない。

つまり、堕落した被造物である人類が、いかにして「失われた父」へ回帰するか(逆に言えば、「父なる神」の側からも、いかにして失われた人類を取り戻すか)が、聖書の中心的なテーマなのだが、このテーマは、グノーシス主義においても、ある程度共通する。
 
それぞれのグノーシス主義文献の神話的なプロットに見られる無数の細かい差異の話などは、今はすべて脇に置いておくことにして、大きく見れば、グノーシス主義においても、人類が「父なる神」に似せて創造されたという事実は否定されていない。

さらに、人類が「父なる神」の似姿として創造されたにも関わらず、「父なる神」から切り離されて、「父を喪失」していることが、人類の悲劇の根本原因となっている、という認識も、グノーシス主義と聖書において、大筋では共通していると言えるだろう。

さて、人類が「父なる神」に似せて創造されたというとき、そこで使われる「似せて」という言葉は、何を意味するのかを考えてみよう。

創世記1章26-27節にはこうある。

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」

聖書は、こうして人間が、神の「かたちに」、神に「かたどって」創造されたと述べ、人間が神の「似姿」であるとする。

このことをグノーシス主義では「似像」という言葉を使って表現する。その「似像」とは、ちょうど鏡に映し出された姿や、水に映った姿と同じ「反映」である。
 
グノーシス主義も、「父なる神」(真の至高者)は、物質的な世界ではその姿形を捉えることのできない、目に見えない存在であるとしているが、人間は、その目に見えない至高の神が、自分自身の姿を、あたかも水面や鏡に映し出すようにして、目に見える世界に映像のごとく映し出すことによって出現したものであると言うのである。

このような表現は、たとえとしてはよく出来ている。グノーシス主義は、人類が目に見えない「父なる神」の似姿であり、影のような存在であるという事実を認めている点では、聖書の記述からそれほど遠くないと言える。

なぜなら、聖書においても、被造物全体は、キリストという本体の「影」であるとしているためである(コロサイ2:17)
 
だが、しかし、それでは、グノーシス主義の「似像」のたとえを、聖書にも通じる概念として、聖書に逆輸入できるかと言えば、それは無理である。なぜなら、グノーシス主義においては、霊的な世界と物質的な世界とが、どこまで行っても交差しないものであって、霊的な世界から物質的な存在を造りだすことのできる方は、神以外には誰もおらず、その逆は決してないという点が考慮されていないからだ。

聖書の記述において、「神は霊である」(ヨハネ4:24)一方、人類は、創造された時点においても、堕落した後も、キリストによって再生されない限り、この世の物質的存在の域を出ない、霊的な世界と全く接点を持たない者である。

アダムには創造された時点で、神に由来する「息」が吹き込まれていたが、それは、被造物としての動物的生存のレベルの命ではあっても、神の霊ではなかった。

キリストの贖いを受け入れない限り、人間の霊は死んでいるか、悪霊のとりこになっているかであって、人間は霊的存在としての意味を全く持たない。(悪霊の世界に対して扉を開いていると言うことは言えるかも知れないが、神の霊とはいかなる接点もない。)

そこで、人類が「父なる神」の目に見えない姿を、目に見える世界に映像として映し出すことによって創造されたというグノーシス主義の表現を、そのまま聖書に当てはめようとすれば、いくつものおかしな破綻や矛盾点が生じることになる。

まず、そのように考えるためには、霊的世界の存在を物質的世界の存在に映し出し、変換するための装置として、「鏡」や「水面」のような媒体が存在すると仮定しなくてはならないが、一体、その「鏡」とは何なのかという問いが生じよう。

聖書の記述を読む限り、神の創造は、すべて神ご自身によって完結してなされたものであり、神がご自分の御思いを表すために、ご自分の外に、ご自分の御思いを映し出す鏡のような媒体を必要とされたという記述はない。聖書には、霊的世界と物質的世界の架け橋や、変換装置となるような媒体は一切、存在しない。
 
聖書において、霊的世界と物質的世界の架け橋となる存在があるとすれば、それは人格や意志を持たない「鏡」や「水面」といったような媒体ではなく、神と人との唯一の仲保者であり、人となられたイエス・キリストご自身、さらに今日、キリストと共に霊的に十字架の死と復活を経て神に対して生きるクリスチャンこそ、霊的な世界と物質的な世界の両方に生きる架け橋的な存在(天地の人)だと言えるのである。

さらに、もしもグノーシス主義のように、霊的な世界を物質的な世界に映し出すことのできる、意志を持たない「鏡」のような媒体があると仮定すると、「神は見られる対象なのか」という、厄介な問題が持ち上がることになる。

なぜなら、「鏡」というものは、誰かが自らの意志でそれを用いて自分自身の姿を映し出すことができると同時に、必ずしも本人の意志に関係なく、自動的に対象となる存在を映し出してしまうからだ。

もしも霊的存在である神が、自分自身の姿を「鏡」に投影して、被造物を生み出すことができると仮定するならば、神は「鏡」を通して創造する者であるだけでなく、「鏡」を通して被写体のように「見られる」対象だということになる。

そうなると、「鏡」の持つそのような双方通行性を利用して、物質的世界にいる何者かが、「鏡」を通して、霊的存在である神の似姿を「盗み撮る」ことも可能だということになる。
 
「盗み撮る」などという不届きな意志がなくとも、神の似像が自動的に「鏡」に映し出されることによって、神の意志とは関係なく、どんどん物質的世界に流出して行くという現象が起きうるのである。

ここに、グノーシス主義の神話的プロットに満ち溢れる「神的な存在の流出」という概念の源がある。

グノーシス主義においては、「父なる神」は誰も見ることのできない存在であるという。ところが、同時に、以上のような「鏡」の存在を仮定することによって(グノーシス主義では「父なる神」自身が「鏡」のような深淵であると定義される)、実際には、「見ることのできない」はずの「神」の似像が、神の意志とは別に、どんどん流出し、神的存在(グノーシス主義においてはアイオーンと呼ばれる)がほとんど無限に作り出されるのである。
 

「グノーシス主義の多くの神話によれば、世界の始原においては、絶対的存在者である至高神、すなわち「父なる神」が、ただ一人で存在している。そして至高者は、何らかの仕方で自分自身の「分身」を発出するのである。<略>

キリスト教教父のエイレナイオスによれば、ヴァレンティノス派のプトレマイオスという人物は、その教説を次のように説き始める。

(ヴァレンティノス派は、)不可視で名づけることのできない高みに、潜在した完全なアイオーンなるものがあると言い、これを「原初(プロアルケー)」とも、「原父(プロパトール)」とも、「深淵(ビュトス)」とも呼ぶのである。(エイレナイオス『異端反駁』I.1.1)

このようにヴァレンティノス葉は、至高神のことを「原父」と呼んでいる。それは確かに「父なる神なのだが、しかしただの「父」ではない。それはあらゆる父的存在の原型となるものであり、ゆえに「原父」と呼ばれるのである。

 同時に至高神は、「深淵」とも称される。先に見た『ヨハネのアポクリュフォン』においては、至高神は「霊の泉」のなかに自分自身の姿を見たのであるが、ヴァレンティノス派において至高神は、この「泉」自体と同一視されている。父なる至高神は、森の深部に潜み、その奥底を見通すことができない「深淵」のように、秘められた存在なのである。

 しかしあるとき、その「深淵」に、一条の光が差し込む。そして、水面のきらめく反射によって周囲に光が溢れ出すように、「深淵」から数々のアイオーンたちが流出するのである。同じくヴァレンティノス派に属すると見なされている『三部の教え』というテキストでは、後に触れるように、父なる至高神のことが「水がどれほど溢れ出ても尽きることがない泉」と称されている。このように至高神とは、そこから万物を流出する「泉」であり、同時に万物を映し出す「鏡」そのものなのである。」(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』、大田俊寛著、春秋社、2009年、pp.123-125)


グノーシス主義においては、このように「父なる神」である「至高者」の像が絶え間なく流出して、無限とも言える神々が造りだされるが、そうこうしているうちに、不正な流出事件も起きる。大田氏はこれを「模倣による簒奪」、「模倣による剽窃」と呼ぶ。

グノーシス主義の神話のプロットにおいて、最下位の女性人格であるソフィアが、「至高者」を知りたいという、分不相応な欲望を抱いた結果、単独で神を知ろうとして失敗し、醜いヤルダバオートを生むという事件がそれに当たる。彼女は、「至高者」の像を不正に「盗み見よう」とした結果、歪んだ似像を生み出したのである。

だが、そのようなプロットも、そもそも至高者の存在が、もし誰かが盗み見ようとすれば、あたかもそれが可能であるかのように、「鏡」のような深淵であると定義されることなしには、成立し得ないものであったと言えるかも知れない。
  
このように、グノーシス主義における被造物の創造は、あたかも水面に光が反射するような受動的な「神的存在の流出」によるのであり、時には、創造主の意志を超えて存在が流出することさえあるのに対し、聖書における「父なる神」による被造物の創造は、すべてが神の意志に基づいた、主体的で能動的な命令の結果である。

聖書においては、被造物は決して神の意志の範囲を超えて誕生することはなく、グノーシス主義の言うような、受動的な「存在の流出」はない。

さらに、聖書においては、創造主と被造物との間には絶対的な主従関係があり、被造物には生み出された後も、存在している限り、創造主の意志に従う義務がある。創造主は確固たる人格を持った存在であり、決してグノーシス主義の言うような、意志を持たない沈黙する「鏡」ではない。そして、創造主は被造物の違反を沈黙して見逃したりすることはなく、被造物は絶対者である神に背いたがために、堕落し、滅びに定められたのである。

このように、聖書において、創造主である神の意志は絶対であり、被造物は決して創造主の意志や許しの範囲を超えて自らの存在を主張したり、保つことができない(そのようなことをすれば結果的に破滅するだけである)。

だが、グノーシス主義における「至高者」は、聖書の「父なる神」のような絶対的な意志を持つ存在ではなく、それゆえ、グノーシス主義においては、絶対者の意志に背いた被造物が罪に定められたり、罰せられることはない。人類が父なる神に背いたがために、神と断絶したという事実も全く認められていない。

しかしながら、以上に記したような、看過できない重大な差異をすべて脇に置いて、大筋だけを見るならば、グノーシス主義においても、人類は真の至高者の影のような「似像」であるがゆえに、「本体」である「父」と共にいなければ、存在意味が完全でなく、それにも関わらず、「父を喪失」したことが、人類の悲劇の原因となっているということは、ある程度、認められている。

そうした意味で、グノーシス主義においても、人類は、自己の同一性を、初めから「父なる神」に担保されているのであり、それにも関わらず、本体である「父」を見失い、自分のルーツを喪失していることが、人類の悲劇の原因なのである。

そこで、聖書においても、グノーシス主義においても、人類がいかにして「喪失した父」を取り戻し、「父に回帰する」ことができるか、という問題が焦眉の課題であり、それによらなければ、人類は自分が一体、誰を模して創造されたのか、何のために創造されたのか分からず、自分の存在意義を見失ったまま、意味のない人生を生きるしかないという認識は、大筋では、共通していると言える。
 
しかし、結論から言ってしまえば、グノーシス主義は、「神は不可知である」と定義することによって、人類が自らの創造主を知って「父なる神」に回帰する解決の道を自ら閉ざしてしまう。

人類には、母のルーツと、父のルーツがあり、母のルーツは、常に明白で、人類の「母」は人類である。つまり、人類は、目に見える被造物として、自分と同じ目に見える人類という被造物を「母」として生まれる。肉なる人類は、肉なる人類からしか生まれない。(「母」という言葉自体が、被造物を象徴する。)

しかし、人間の誕生の際、DNA鑑定などの手段のなかった昔には特に、父が誰であるかを証明することは難しかったように、人類にとっても、「母」のルーツは常に議論の余地なく明白であるにも関わらず、「父」のルーツはより精神的で見えないつながりを意味し、それを証明するためには、「母」とは異なる、より複雑な内的証明手段が必要とされるのである。
 
そのように「父」を証明することは単純でないにも関わらず、人類にとってより重要なのは、動物的生存のレベルの「母」のルーツではなく、見えない精神的なルーツとしての「父」である。なぜなら、「父」のルーツは、創造主へと続くものであるから、「母」のルーツに比べて、圧倒的に高貴であり、それを発見するときに初めて、人類は、動物的生存のレベルを超えた完全な在となる可能性を持つことができるためである。

ところが、グノーシス主義は、「父」という存在を「フィクション」にしてしまうことによって、事実上、人類には父に回帰する道がない、という結論に自動的に行き着いてしまうのである。

グノーシス主義における「父なる神」とは、万物を生み出す根源となる「真の至高者」であるが、グノーシス主義において、その「至高者」は、あまりにも崇高な存在であるために、言葉によっても形容できず、感覚によってとらえることもできない、誰も見ることのできない虚無の深淵であり、不可知的存在であるとされる。
 

グノーシス主義によれば、父なる神は「鏡」として存在しており、それ自体を認識することができない。父なる神からは、鏡のなかに束の間に浮かび上がる仮初の像のように、見せかけの姿を呈した数多くの神々が流出し、そして彼らは、可視的世界においてさまざまな交流と相克を展開し続けるのである。こうしてグノーシス主義は、彼らなりの仕方で、この世界にはなぜかくも多くの神々の形象が溢れかえっているのか、そしてその状況のなかで「真の父」の存在が見失われてしまうのかということを、明らかにしようと試みたのだった。」(同上、p.175)

グノーシス主義では、すべての被造物が、根源的には「至高者」によって創造されたことになっているものの、それぞれの被造物がどれくらい至高者に近い存在として創造され、どの程度、至高者を知ることができるかによって、被造物の間にヒエラルキーが定められる。
 

「「深淵」として存在する至高神から、アイオーンの神々が流出することによて成立する世界は、「プレーローマ(充溢)」と呼ばれる。プレーローマ界は、光と美によって満たされた、精神の充溢界なのである。<略>

 それでは、完全無欠の世界として成立したはずのプレーローマ界に、どのような理由で亀裂が発生することになるのであろうか。一言で言えばそれは、神々のあいだに立ち現れる「競合」の関係である。

 これまでに述べてきたように、プレーローマ界に住まうアイオーンの神々は、すべて「深淵」である至高神から流出する。しかしながら、それゆえにすべてのアイオーンが平等の立場にあるかと言えば、実はそうではない。「(原)父」である至高神を見ることができるか、またそれによって自分自身を知ることができるかということに応じて、アイオーンたちのあいだには、暗黙のうちにヒエラルキーが設定されているのである。」(同上、p.126)


 そのため、「至高者」に創造されながらも、「父を知らず」、それゆえ「自己を知ることのない」アイオーンたちが数多くいる。そして、ある神話的プロットでは、「独り子」だけには「至高者」を知ることができる資格が与えられているが、それ以外の者には、人類も含め、一切、「至高者」を知る手立てはないとされる。
 

「このようにヴァレンティノス派の教説によれば、プレーローマ界を構成する数々のアイオーンたちのなかで、父を知り、また自らを知っている者は、「独り子(モノゲネース)(別名は「叡知(ヌース)」と呼ばれるアイオーンのみであった。「父」は「子」のみによって知られ、そして「子」だえけが、父の存在を表すことができるのである。すなわち、「父」と「子」のあいだには、鏡像的かつ想像的な一体性が特権的に確保されており、そしてその他のアイオーンたちは、このような完全な一体性から疎外されている。「他のアイオーンたちは、(子と)同じように自分たちの種子を流出したものを見たい、また初めのない根を観察したいと、密やかに憧れていたのだった」(エイレナイオス『異端反駁』I.2.1)。

アイオーンたちのなかで、このような欲望をもっとも激しく抱くようになったのは、『ヨハネのアポクリュフォン』の物語と同様に、末娘のアイオーンである「知恵(ソフィア)」であった。ソフィアは、自分も至高神から生み出されたアイオーンであるのに、どうして「独り子(ヌース)」と同じように父を知ることができないのかと憤り、彼に対して嫉妬の感情を抱く。」(同上、pp.128-129)


 このように、グノーシス主義の矛盾や悲劇は、「万物の創造の根源となる至高者は確かに存在する」として、その至高者からほとんど無限とも言える神々の流出を認めながらも、同時に、その「至高者」は被造物の側からは不可知であって、ヒエラルキーに応じてしか知ることができず、「独り子」なる存在の他には、ほとんどすべての被造物に見ることができず、知ることもできない存在であるとして、あらゆる被造物を「父なる神を知る」ことから締め出し、疎外していることに起因する。

最下位の女性人格であるソフィアだけが、大胆にもその禁を破って、自ら至高者を知ろうとするのだが、彼女の試みは失敗に終わる。それは当然である。なぜなら、グノーシス主義における至高者とは、誰にも自分を開示することのない虚無の深淵だからである。

以下の大田氏の指摘は、驚くほどに正鵠を射たものではないかと筆者は思う。
 

さて次に、「独り子」以外には知りえないという「父なる神」の姿を、ソフィアは一瞬であるとはいえ垣間見たわけであるが、その姿は果たしてどのようなものだったのだろうか。

 その答えとは、おそらく先に見たように、父とは「深淵」であり、「鏡」である、ということであるように思われる。やや積極的な解釈を試みるとすれば、父が不可視であるということは、鏡そのものが不可視であるということに等しい。いくら鏡をのぞき込んでみても、そこに映っているのは鏡をのぞき込んでいる自分自身にすぎず、「鏡そのもの」を見ることはできないからである。

 ソフィアがそこに見たものを想像してみよう。ソフィアが見たものは、自分自身の姿であると同時に、鏡という「無」であった。ソフィアはナルキッソスと同じように、自分自身の姿の美しさ、その甘美さに酔いしれる一方で、それがいくら手を伸ばしても自分のものにすることができない「虚無の深淵」であり、手に入れようとして深く身を伸ばせば、「死」のなかに飲み込まれてしまうということを知ったのではないだろうか。オウィディウスがナルキッソスの物語で描き出したように、自己愛の甘美さの裏には、死の棘が潜んでいるのである。」(同上、pp.132-133)


 このように、グノーシス主義は、人は神に似せて創造されたとしながらも、「至高者」の存在を「鏡」や「深淵」にたとえ、「至高者」を知ることのできない存在とみなすことによって、被造物が「至高者」を知るためには、自分自身を見つめるしか手段がなくなり、その結果、見えない「至高者」よりも、その影として生まれたに過ぎない「被造物」の方が、あたかも確かなリアリティであるかのように関係が逆転してしまうのである。
 
グノーシス主義においては、こうして見えざる存在である「至高者」と見える存在である被造物との唯物論的な関係の逆転が起こり、人類が「神を知ろう」と思えば、神の似像として造られた自分自身を見つめるしかないため、人類は自己の内に神を探しつつ、歪んだ自己愛に溺れ、結局、神を得られず、絶望の中で苦悶するしかないというトートロジーに陥るのである。そうした支離滅裂なトートロジーの結果として起きたのが、ソフィアの過失であり、ソフィアによって生まれたヤルダバオートが作り出した出来そこないの下界であり、今日も、グノーシス主義的な考えに立脚して神を探求することは、自分自身の内に神を探求することを意味するから、そのようなことを企てる者は誰であれ、結果として、水面に映った自分の姿に恋い焦がれて死んだナルキッソスと同じように悲劇の運命を辿るしかないのである。
 
だが、一体、なぜこんな愚かしいトートロジーが生まれるのであろうか。そもそもグノーシス主義はなぜ「真の至高者」をこんな風に不可知的深淵であると定義しているのであろうか。

大田氏はその謎を解く鍵を、古代社会に求める。古代社会おいては、父という存在が、生物学的にはきわめて不確かな存在であり(父方のルーツは証明不可能であり)、しかも、子供の死亡率が高かったため、「養子制度」の需要も高く、そうした時代には、家族を生物学的な絆にとらわれてとらえることのメリットが薄く、それゆえ、より流動的で融通の効く家族制度を作り上げるために、父子関係を、生物学的なつながりに必ずしもとらわれない、儀礼的なものとみなす必要があったのであり、その結果、生物学的な絆ではなく、言語表明(宣誓)によって作り上げられる儀礼的な父子関係を中心として、家族制度が作り上げられて行ったのだと主張する。
 

古代社会の宗教において、父と子の関係を成立させるのは、母子関係のような生物学的事実ではなく、むしろ「宣誓の言葉」という儀礼的行為であった。すなわち、生まれてきた赤子に対して、「これは私の息子(娘)である」と父親が宣言することにより、正式な父子関係が成立すると見なされたのである。

このような宣誓行為は、古代の宗教における中心的な行事の一つであった。すなわち、子供はただ母親から産まれてきただけでは家族の一員となることはできず、父親によって司られた祭祀において、正式な成員として承認されなければならないのである。」(同上、pp.34-39)


こうして、大田氏は、古代社会においては、子供はただある家族のもとに生まれて来たというだけの理由では、または、父や母と生物学的な絆を有するというだけの理由では、子として認められず、父親が「わたしの子である」と宣誓することによって、初めて生きた父子関係が成立したのだと言う。

ここまでならば、ある程度、聖書においても、同様の原則が見られると言えるかも知れない。

なぜなら、聖書においても、人類は生まれながらにして神の子供とは認められないからである。人類は父なる神に似せて創造されはしたものの、罪に堕落して神と断絶したため、キリストの贖いを信じて受け入れ、水と霊によって生まれなければ、神の子供とはならない。

そして、聖書の父なる神と人類との間で結ばれる父子関係は、極めて排他的なものであって、人の側から、神の側からの双方の「宣誓」が必要となり、人間の側からの宣誓としては、己が罪を認め、これを悔い改め、キリストの十字架の贖いを信じて受け入れると告白し、この世と分離し、父なる神の御心に背く一切のものからの分離としてのバプテスマを通過しなければならない。

「だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。
 全能の主はこう言われる。」(Ⅱコリント6:17-18)

このことを、主イエスご自身が、人類の代表として、バプテスマのヨハネから洗礼を受けることにより証明された。

「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ3:16-17)

イエスは聖霊によって生まれたので、最初から神の独り子であったにも関わらず、人類の代表としてバプテスマを受けることにより、霊的死を通って、堕落したアダムに属する自分自身も含め、神の忌み嫌われる一切のものと分離し、神に属する新しい命によって復活されたことを象徴的に表されたのである。その時、初めて、天が開けて、父なる神の御許から聖霊がイエスに降り、イエスが神の御心にかなう、神の子供であることが、周りの人々にもはっきりと分かる形で、父なる神によって宣誓された。

このように、聖霊によって生まれたイエスでさえ、バプテスマという霊的儀礼を通過することによって、初めて、父なる神から「わたしの子である」という公的な承認を受けたという点では、大田氏が指摘しているように、父子関係は「宣誓」によって初めて確かなものとなるという主張は、聖書からそうかけ離れて遠いものではないと言えるかも知れない。
 
パウロも、選民であったユダヤ人をさし置いて、異邦人に救いが最初に宣べ伝えられ、かつては神の民とは認められなかった異邦人が、救いを受け入れることにより、神の側から「わたしの子である」と、承認されたことについて、次のように述べた。これも信仰に基づく「父」と「子」の双方からの「宣誓」であると言えないこともないかも知れない。
 
「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出して
くださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。
わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
 愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
 『あなたたちは、わたしの民ではない』
 と言われたその場所で、
 彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」(ローマ9:24-26)

以下の詩編も、直接的にはキリストを指すとはいえ、救いを受け入れ、水と霊によって新しく生まれたすべてのクリスチャンに当てはまる神の側からの宣誓である。

主はわたしに告げられた。
「お前はわたしの子
 今日、わたしはお前を生んだ。
 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
 地の果てまで、お前の領土とする。
 お前は鉄の杖で彼らを打ち
 陶工が器を砕くように砕く。」」(詩編2:7-9)

このように、聖書においても、父なる神とその子供たちとの関係は、生まれながらの生物学的な絆(肉による絆)によるのではなく、信仰による双方からの宣誓に基づくものである。人間の側からも、キリストの救いを受け入れ、神の御心に背く一切のものと分離して、バプテスマによって霊的死を通り、キリストの命によって新しく生まれたことを宣言すると共に、神の側からも、その信仰による表明を受け入れて、その人間を信仰を通じて神の子供として承認するという宣誓により、霊的父子関係が成立するのである。

だが、そこから先、グノーシス主義と聖書における記述では、この「父子関係」を巡る態度が決定的に分かれる。グノーシス主義は、こうして成立した父子関係を、生物学的な絆に基づかず、物理的に立証不可能な儀礼的なものであって、それは家族や社会に秩序を与えるために便宜上、造りだされた概念に過ぎないため、本質的には「フィクション」であると結論づけることにより、聖書とは正反対の結論へとたどり着く。

聖書においては、信仰によって宣誓された父子関係は、決して人間社会を保たせるための便宜上の絆ではない。それは生物学的な絆を超越して、永遠のリアリティとして効力を発する、父と子との排他的な結びつきであり、神の側からの無償の愛と人間の側からの従順による強力な人格的な結びつきである。

それに引き換え、グノーシス主義は、儀礼的な祭祀を通して言語による宣誓によって表明された父子関係は、あくまで社会を保たせるための便宜上の絆であり、「擬制的なもの」「パフォーマティブなもの」、要するに、実体の伴わないフィクションだと言うのである。

大田氏は、古代社会において、父子関係は、生物学的な絆にとらわれず、家族制度を維持するために便宜上、作り出された儀礼的・擬制的なものであったということを根拠に、「父とは擬制(フィクション)的な存在である」と言い切るだけでなく、古代社会における「父」の概念は、そもそも、死者(先祖)を神として祀る家制度の中で、「神聖な始祖」々から先祖代々に受け継がれる「神聖な血統(火花)」を継承するという「神話」に基づいて作り出されたものであり、「神聖な始祖」自体が虚構の概念である以上、そのような「神話」を継承するために造りだされた「父」の概念も当然ながらフィクションだと言うのである。

さらに大田氏は、そこからすすんで、「父」とは「フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者」であると定義し、古代社会の家族制度におけるフィクションとしての「父」の概念が、その後、発展して、共同体社会や都市国家の基礎になったのだという。
 

「それでは「父」とは、一体何だろうか。端的に言えばそれは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である。すでに述べたように、父と子の関係は、「お前は私の息子(娘)である」という儀礼的宣誓、すなわち、パフォーマティブな言語行為によって創設される。これを言い換えれば、そのような言語行為が行われる以前、子供が子供でないのと同様に、父もまた父ではない。父はその子と同じように、言語によって創設されるのである。

 しかし、父が擬制的な存在であるというのは、このような意味においてのみではない。そもそも彼が、新しく生まれた子を家族の成員として承認するという権限を持つと見なされるのは、どのような背景に基づいているのだろうか。それは彼が、家族の「神聖な始祖」から「生命の火花」を継承していると考えられていることによる。そしてこの「神聖な始祖」は、先に述べた通り、普段は先祖代々の墓に眠っているのだが、神聖な篭に火が灯されると、現世へと来臨する。すなわち、真の意味で「父(パーテル)」と呼ばれるにふさわしいのは、現実世界に存在しているわけではない、この「神聖な始祖」という虚構の人格、虚構の存在者なのである。」(同上、pp.41-42)


 このように、大田氏が古代社会の家族制度や都市国家の成立とグノーシス主義における「フィクションの父」という概念を結びつけていることは、非常に興味深く、的を射ているのではないかと思われる。
 
だが、それは聖書における「父なる神」と神の子供たちに当てはめることのできる概念ではない。以上のような分析を通して、はっきり分かることは、グノーシス主義における「父子関係」と、聖書における「父子関係」は、それが一体、誰のために結ばれる関係なのか、という点で、完全に異質であり、全く逆の方向を向いていることである。

聖書においては、父なる神は、失われた人類を滅びから救い、罪から贖い出すことを願っておられ、その神の御心に気づいて、これに応答してキリストの十字架を信じて受け入れた人々が、神の子供とされる。それは「初めの愛」にもたとえられるように、当事者同士の強力な個人的な結びつきであって、あくまで当事者の利益のために結ばれるものであって、決して、当事者以外の周囲の人々のために便宜をはかったり、人類社会や家制度を存続させる目的で生み出される絆ではない。

しかし、グノーシス主義における「父子関係」は徹底して、当事者である「父子」のために結ばれるものではなく、むしろ、「神聖な始祖」というフィクションに基づき、当事者以外の人々、先祖、家族、家制度、共同体、人間社会の秩序を保ち、人間社会に便宜をはかるために結ばれる絆なのである。そうであるがゆえに、それはどこまで行っても、真実からはほど遠く、人間の威信を保ち、社会の秩序を成り立たせるために便宜上、作り出された「神話」の一部であり、「フィクション」なのである。

そのことを考えれば、なぜグノーシス主義における「至高者」が「鏡」や「虚無の深淵」にたとえられ、不可解かつ不可知な存在であって、聖書の「父なる神」のように、はっきりした人格や意思を持って、物事に善悪の区別をつけり、時には被造物の世界に積極的に介入し、神に反して反逆した被造物を罰したりすることがないのか、その理由もおのずと見えて来る。

グノーシス主義において「虚無の深淵」にもたとえられる「至高者」は、多数の神々を流出させはするが、物事の善悪を定めたり、背いた者を怒って罰することのない、意志表示さえしない沈黙する神である。その代わりに、「至高者」によって生み出された様々な被造物たちは、「至高者」よりもはるかに活発に動き回り、自らの意志や願望を表明する。

天界の被造物を生み出す根源となったのも「至高者」自身ではなく、「至高者」から最初に生み出されたとするバルベーローという女性人格であり、さらに、時にはソフィアのように、分を超えた逸脱行為を犯して「至高者」の真似をしようとする者も出て来る。それでも、ソフィアが「至高者」によって罰せられて滅ぼされることはない。

ソフィアの過失の結果、天界の歪んだ模造である不幸な下界が誕生したわけだが、それでも、最終的には、人類が天界に復帰することにより、ソフィアの過失も修正されることになっている。
 
その際、グノーシス主義においては、人類は、自己の内に生まれながらにして「神的自己」(「至高者」に由来する神聖な霊の欠片)が宿っていると気づくことにより、自分が「至高者」の子孫であると名乗り出るのだが、その一方で、その神話のプロットに「至高者」が登場して、人類を我が子として「認知」するという場面はない。
 
グノーシス主義においては、子の側から名乗り出る場面はあっても、父が子を前にして「これが我が子である」と宣誓する儀礼的場面が全く存在しないのである。大田氏は一方では、父子関係が、言語行為によって宣誓される儀礼的なものであると述べているのだから、「子の側からの宣誓」はあっても、「父の側からの承認」がないことは、極めて奇妙な矛盾に感じられる。

だが、このことは、グノーシス主義の物語が、根本的に、創造主なる「父なる神」を中心として造られたものでなく、「和を持って尊しとなす」式に、被造物の思いや願望を中心に、被造物の世界に秩序を保たせるために造られたものであることを考えれば納得が行く。

グノーシス主義においては、ソフィアのように、ヒエラルキーを無視して過失を犯した者も、決して悪者にされたり罰せられたりすることなく、彼女の願望もある程度、認められ、彼女の過失を「修正」する仕事は、人類が身代わりに負わされることにより、何とかして物事がおさまりがつくように、辻褄合わせのような筋書きが作り出される。

こうして、グノーシス主義においては、どの被造物も罪に定められることがない一方で、悪者にされている存在が一人だけいる。それは「私は妬む神である」と宣言しているヤルダバオートである。
  
だが、普通に考えれば、ヤルダバオートはソフィアの過失の結果として生まれたのだから、彼もまた哀れな被害者であって、ソフィアの過失を責めずにヤルダバオートだけを責めるのは筋違いであると言えよう。

それにも関わらず、グノーシス主義は徹底してヤルダバオート一人に責めを帰する。
 
グノーシス主義が責め立てているヤルダバオートの「非」や「罪」とは、一体、何なのかという問題を通して、我々は、グノーシス主義という思想の本質をかなりはっきりととらえることができる。

すなわち、グノーシス主義の考えるヤルダバオートの「非」とはおそらく、

➀外見が醜く愚かであるため、他の被造物(特に「母」であるソフィア)の不快を催す存在であること、
②自分の他に神はいないと考えて神の称号を独占しようとしており、他の被造物とのヒエラルキーの中におさまらず、他の被造物から見れば、秩序を乱し、自分たちの栄光にならない目障りな存在であること、

の二点であろう。要するに、ヤルダバオートが他のすべての被造物との間のヒエラルキーに従わず、自分だけが神であるかのように宣言して、他の被造物たちの自惚れに水を差し、他の被造物たちの考える「秩序」を壊し、かつ視覚的にも他の被造物に不快をもたらす存在であるから、徹底的な侮蔑に値するというわけなのである。

このことからも、グノーシス主義とは、徹頭徹尾、被造物の都合や願望を中心に造られた者であり、被造物の世界に、何とか折り合いをつけ、「和をもって尊しとなす」式に、うわべだけの秩序を成り立たせるために作られたストーリーだと言えよう。

そこで最も重要な価値は、聖書の教えるように、絶対者である「父なる神」の命令に背かず、その意志に従うことではなく、むしろ、被造物の社会で、多数決式に、他の被造物にできるだけ迷惑をかけずに、浮いた存在とならず、他の被造物たちとの間で、折り合いをつけて生きることなのだと考えられる。

グノーシス主義において、最も大切なのは、至高者の意志ではなく、被造物たちの意志であるからこそ、至高者に背いたかどで誰も罰せられたり滅ぼされたりすることなく、過失を犯しても、それぞれの被造物の願望がみなある程度、認められているのである。
  
つまり、グノーシス主義にもし善悪という概念があるとすれば、それは、「至高者」の意志に服従するかどうかとは全く関係なく、被造物たちに好ましい影響を与えるかどうか、被造物たちの社会の秩序を成り立たせることに貢献し、そのヒエラルキーに従っているかどうかという基準ではかられるものだと言って良いかも知れない。

グノーシス主義は、被造物の自己肯定や自己都合のために(被造物の欲望をかなえるために)作り出された物語あり、そこでは、被造物の都合が第一優先されているがゆえに、被造物たちの目に慰めとならず、被造物のヒエラルキーにも従わない、「空気」を読めないヤルダバオートが、目障りな存在とみなされ、侮蔑の対象とされ、「悪」とみなされるのである。「神々」の世界において、ヤルダバトートが「わたしの他に神はいない」と宣言することが、他の被造物の自己愛に水を差し、面目を失わせる行動に映るからこそ、ヤルダバオートは毛嫌いされ、「悪」とみなされるのである。
   
グノーシス主義の中心は、被造物の思いであるがゆえに、「至高者」であるはずの「父なる神」さえも、決して絶対の存在ではない。「至高者」は、言葉の上では、至高の存在であるかのように讃えられてはいるものの、実際には、被造物らの願望や都合によって、事実上、骨抜きにされ、形骸化してしまっている。「至高者」は、被造物の勝手な振る舞い合を制止することも、罰することもできず、自らの意志表示を行うことさえなく、まるで神棚に祭られた先祖の遺影のごとく、ただ被造物の願望に口実を与え、彼らの存在を神格化するためだけの名ばかりの存在として沈黙しているだけである。

グノーシス主義において、最高の位階にある神的存在であるはずの「至高者」が、これほど不確かな人格や意思を持たない存在として描かれ、「鏡」や「虚無の深淵」と同様の存在であるかのように、極めて曖昧かつ否定的な表現でしか表されないのは、この「至高者」の存在が、もともと被造物の欲望を集積して作り出された「フィクション」であり、「偶像」だからだと考えられる。

つまり、「至高者」の存在を「虚無の深淵」であると定義するグノーシス主義は(根源的にはその「虚無の深淵」は、仏教などの「無」の概念にも通じるが)、「父なる神」をただフィクションにしているというよりも、「至高者」とは、結局、被造物の欲望の総体として作り出される偶像だとみなしているのであって、それゆえに、「至高者」自身が、あらゆる被造物の願望を映し出す「鏡」と称されているとみなされるのである。
 
つまり、グノーシス主義における「至高者」とは、このように、被造物の存在を承認し、彼らに「神々」としてのステータスを与え、被造物の欲望の総体として生み出された偶像なのであり、被造物自身の欲望の化身としての「フィクション」なのである。
 
このようにして、グノーシス主義の神話は、創造主に似せて人類が造られたため、人類はまことの創造主に回帰することによらなければ自己を発見できないと言いながらも、その創造主を、人類の欲望の対象、偶像に変えてしまうことによって、無限のトートロジーに陥っているのである。

そこで、このような教えを信じた人々が、神に至る道を見つけるために、無限の深淵なる鏡をのぞき込み、そこに自分自身の姿を投影して果てしなくそれに耽溺し、ついに自分が神であると宣言するか、あるいは、「至高者」の崇高な姿を見ることのできない苦悩から逃れようと、嫉妬に駆られて、自分が憧れる対象を歪んだ摸造に写し取ることで剽窃するという、不幸な悪循環に陥るのは当然である。 

こうしたことを考えれば、なぜKFCのDr.Lukeが「わたしたちはエロヒムだ!」というとんでもない宣言をメッセージで行ったり、杉本徳久のような人々が、クリスチャンの個人情報を集めてはそれを利用して、自らのブログを鏡のようにして、そこにターゲットとなる人物の印象操作を行うために歪んだ像を造りだして映し出すことで、ガティブ・キャンペーンを行ったり、あるいは鵜川貴範のような人々が、他教団の人間であるにも関わらず、KFCの違法なコピーサイトを作ったり、KFCの半分を乗っ取って横浜で集会を開き続けたりしたのか、その理由もおのずと明らかになろう。

これらはすべて「簒奪の模倣」や「剽窃」(歪んだ「模倣の霊」の働き)であって、「父なる神」を探求しながらも、自己存在を見つめる以外に「父なる神」に至る道を見つけられないグノーシス主義者が、苦悩のあまり、不正な方法で「父なる神」の似像を盗み見、模倣しようとする手法を意味するのである。
 
さらに、多少、先走って結論を述べれば、牧師制度も、グノーシス主義における「至高者」を模して成り立つ誤った制度であり、大田氏の言葉を借りれば、「擬制的存在である」。

グノーシス主義における「至高者」が、被造物の都合や欲望によって、被造物を神格化して存在に意義を与えるためだけに作り出された「フィクション」であるのと同様、牧師という存在もまた、信徒らの欲望に口実を与えるために作り出された「偶像」であり「フィクション」であり「擬制的存在」なのである。
 
大田氏は、「父」とは「端的に言えばそれは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である。」と述べるが、現実には、このような「フィクションとしての父」は、人間の欲望をいたずらに刺激し、苦悩を増し加えるばかりで、決して人間社会を統御などせず、何の秩序をももたらさない。

「フィクションとしての父」しか存在しない場所では、人々は己が欲望を「父」に投影し、「父」にそれを叶えてもらおうと熱心に願い出るが、その「父」自体がフィクションなので、彼らの願いは実現できない。結果として、ソフィアの欲望がもたらしたと同様の悲劇が延々と繰り返され、誰もが知ろうとしても知りえない「父」のために、嫉妬と苦悩を増し加え、悶絶しながら神の像を盗み取ろうと、悪しき模倣を繰り返し、争いを繰り広げるだけなのである。

以上の考察を通して、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが、なぜカウンセリングを通しての自己認識につとめているかも理解できよう。大田氏は著書で精神分析とグノーシス主義の関連性について論じているが、カウンセリングも、神を見いだそうとしながら、その神を自己の内にしか見つけられないと考える人々(グノーシス主義の教えに影響を受けた者たち)が、「鏡」に映し出した自己像に耽溺することで、何とかして完全な自己を取り戻そうと苦しい努力を重ねる過程なのである。

ある人が、自分の悩み苦しみを他者の前で言葉を通して吐露し、それに他者が頷きながら耳を傾けるのを見ることによって、その人は、他者の眼差しという「鏡」を介して自己存在に承認を受けたように錯覚する。人はそこで他者が自分の主張に頷いてくれたことで、自己存在のリアリティが取り戻されたかのように錯覚する。

ところが、「鏡」を通して自己を発見しようとする過程では、常にそのような望ましい結果が出るとは限らない。他者の眼差しの中に「あらまほしき自己像」を見つけようとしても、そこには、自分の意に反して、自分が望みもしない醜く悪しき自己像が映し出されるということが度々繰り返される。そこで、人は、満足の行く自己像を発見するために、願い通りの自己像を映し出してくれそうな「鏡」を探し求めて走り回るという作業を重ねずにいられないが、そのようなことをすればするほど、他者の眼差しに自己を奪われ、数多くの「鏡」に乱反射する自分自身の一体どれが本物なのかも分からなくなり、ますます自己を見失って行くだけなのである。

人が「鏡」を通してしか自己を認識できないと考えている限り、自分を「鏡」によってどんどん質に取られ、不正に流出させられる結果を防ぐこともできない。
 
結局のところ、「父なる神」をフィクションであると仮定すると、「父なる神」に似せて創造された人類も「フィクションである」という結論しか生まれないのである。神的自己を発見するどころか、自己存在を発見しようとして、虚無の深淵だけが残る(もしくは歪んだ模倣の結果、異形の産物が生み出される)という本末転倒な結果に至るしかないのである。

神を探し求めると言いながら、このような無限のトートロジーに陥った人間は、最後には狂気に至るしかなくなる。

それゆえ、筆者は、「母性原理の崇拝」すなわち、「被造物崇拝」のグノーシス主義を基盤として成立しているペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教の二分性を非難しているのは、とんでもない見当違いであると言うのである。キリスト教の二分性が人を狂気に陥れているのではない。グノーシス主義の支離滅裂なトートロジーの教えこそ、人間を狂気に陥れる根源なのである。 


「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」としてのペンテコステ・カリスマ運動(2)

・国家レベルで広がるグノーシス主義~人間を神とする現人神崇拝からのエクソダスの必要性~
  

本題に入る前に、再び、政局について書いておきたい。やはり、佐川前国税庁長官の国会における証人喚問は、予想した通り、単なる見世物であり、安倍夫妻が逃げ切るための出来レース、ガス抜きだったという印象を受ける。しかも、これをインターネットでリアルタイムで実況中継しようとしていた菅野完氏のツイッターが直前に凍結されるなど、この国の暗黒状態をよくよく物語る出来事が進行中である。

当ブログが、何年も前から、暗闇の勢力からいわれのない攻撃を受けて来たことも、我が国が統一教会や日本会議などのオカルト勢力に占拠されている現状と無関係であるとは思えず、もはや安倍政権になってから何でもありとなったこの国には、言論の自由もなくなりつつある上、巷でささやかれているように、公文書の改ざんも、明らかになっていないだけで、他にも数えきれないほど横行しているものと思われる。

公文書が改ざんされたということは、ただ公務員の仕事に信頼が持てなくなったなどという次元の問題ではなく、国の存立基盤が根本から揺るがされていることを意味する。今やこの国そのものが、オカルト・ヤクザ勢力に乗っ取られ、どんどん書き換えられ、「フィクション」になりつつあるのが現状なのである。

我が国は、すでに何年も前から、全体主義社会と化しており、表面的に平和に無事に生きようと願う人々は、悪魔に魂を売るしかない状況だ。そのことは、官僚の世界でトップクラスに至るまで腐敗が進行し、誰もが粉飾に手を染めている事実からもよく分かる。こうした腐敗と癒着が、官僚の世界だけにとどまるはずがなく、当然、民間にも深く浸透しているはずである。
 
筆者はこうした世の腐敗の中に、牧師を神のように崇めるキリスト教界の堕落を見る思いがする。以下でも詳しく論じるが、牧師制度は、決してキリスト教に由来するものではなく、その起源は被造物を神とするグノーシス主義に由来するのである。

多くの信仰の先人たちが、目に見える人間をリーダーとして、それを頂点にいただく地上の組織や団体を作ることは、キリスト教と本質的に相容れないことに気づき、聖書に忠実なエクレシアを求め、そうした団体をエクソダスして行った。

今や信仰とは関係ない地上社会においても、バビロン化が極度に進んだ結果、誰かをボスとして、その人物に雇用され、生殺与奪を握られて生きることが、結局、教会に籍を置くことにより、救いを教会に質に取られてしまっている信者の状態とほとんど変わらなくなっているものと思う。

独裁国家では、独裁者に異議を唱えた人物に、平和な暮らしはない。投獄されるか、殺されるか、国外追放されるなどして、厳しい迫害が待っているだけである。牧師制度に異議を唱えた信徒も、同様に、教会から悪魔扱いされて追放されるということが多々起きている現状であるが、国ごとグノーシス主義に乗っ取られた我が国では、国家レベルでカルト化が進行中なのである。

首相夫妻が、事実上の現人神となり、「真の父母」となって国民に君臨しており、オカルト信仰によってこの国を動かしている。彼らおよび彼らの作った体制を拝むことを拒否した人々は、「人民の敵」のごとくネガキャンにさらされ、社会的な抹殺へと追いやられているのである。

だが、至る所からほころびが出ている現在、こんなにも腐敗し切った愚かな体制が長く続くことはあり得ない。

筆者は、ペンテコステ運動が米国から持ち込まれたものであるように、日本会議も米国発(源流はイスラエル)から輸入されたものではないかと考える。米国ではロシアの悪魔化のプロパガンダが一層、進んでいるようだが、巨悪から目を逸らすために、「巨大な悪役の像」を作り上げては、自ら犯した悪事のすべての責任をその悪役に転嫁するというのは、彼らの常套手段である。

米国がイスラエル及び他の国々と組んでこれまで行って来たすべての悪事を、ロシアを巨大な悪役に仕立てることでオールリセットしようとしていることは、もはや人々の共通認識となりつつあるように思う。ロシアという国もそれなりに相当に厄介な「フィクション」であるとはいえ、こんなお手軽かつ馬鹿馬鹿しい卑劣な手段によりすべての悪事を帳消しにできるはずがないことは明白である。

こうしたすべてのことには、決して偶然ではない霊的影響があり、筆者は自分が様々な意味で、古い時代と新しい時代の歴史の交差点に立っていることを感じる。結論から言えば、信仰の世界は、この世と合わせ鏡であるから、筆者があるべき場所に確固として立つことにより、こうした支離滅裂な国際情勢や、この国の悲惨な現状にも幾分か変化が訪れる可能性があると考える。

さて、筆者は、これまでの記事にも書いて来たように、暗闇の勢力に真実を語らせるためには、訴訟を通して答弁を公開させるしか残された手段はないと確信している。筆者はこれまで自分から訴訟を提起したことは一度もなく、また、村上徳久や杉本密の行って来た行為を、キリスト教界の内側の問題としてとらえていた頃には、教会の問題を世に持ち出すべきではないという聖書の御言葉に基づき、訴訟という手段を使って彼らの引き起こした争いを解決することを回避して来た。

だが、今や杉本徳久や村上密という人物はキリスト教徒ではなく、彼らには信仰の片鱗もなく、彼らを信者と同様に扱う理由はどこにもない上、筆者が個人的な思惑により彼らと対立しているわけではなく、この争いは彼らの側からしかけられたものであることを明白にするためにも、ネット上の議論を出て、きちんと実社会において公にしかるべき形で決着をつけることがぜひとも必要であると考える。

その作業を通して、これまで杉本や村上のような人物が、自分の側から率先してクリスチャンに訴訟をふっかけることにより、自分たちがあたかも悪を退治する正義の味方であるかのようなポーズを取り続けて来たことの欺瞞性が、より一層、公衆の面前で明らかになるであろうと思う。
 
また、それを通して、聖書の御言葉に反逆する者たちは、どんなにこの世の常識を振りかざしているように見えても、結局は、この世の常識や法制度をも平然と踏みにじり、すべての善悪の基準をあざけり、踏みにじりながら、自分が何者にも服する必要のない神であるかのような思い上がりに陥り、己が欲望を高く掲げるのだという事実が明らかになるだろうと思う。

彼らがこの世の法廷において敗訴したという記録を作ることは、非常に重要である。訴訟は、ヤクザ者の専売特許ではなく、そんな者たちのために作られた制度でもない。クリスチャンはそうしたこの世の手続きにあまりにも無知であるべきではない。

本当のことを言えば、筆者にとっては、個人情報を収集されるとか、実名を開示されるとか、名誉を毀損されるとかいった問題は、本質的に重要ではなく、実に些末な問題でしかないのだ。実名を公表してブログを書いている人々は、世に数多く存在し、そうした人々は厳しい批判にも時にさらされている。筆者が実名を公開しないのは、杉本や村上のようにさかんに自分の名を売りながら、宗教指導者や改革者をきどる気がないためで、自分の名を冠したミニストリーのようなものを作って、人前に栄光を受けたくないからである。

さらに、筆者の実名が特定されないことによって、筆者に関わる人々のプライバシーも保たれる。当ブログでは、牧師や指導者として自分を公にし、自ら自分の情報を明かした人々以外については、たとえ敵のように行動する信者があったとしても、実名を公開したり、彼らを特定できる個人情報を開示したりはしていない。

もしも自分のミニストリーを作って有名になろうと願ったならば、筆者にもそのチャンスは十分にあったであろうと思う。ブログを金もうけの手段とし、何かの新しい教えを宣べる教祖となって、人々に君臨しようと考えたなら、そのための才覚がゼロだったとは思わない。そういう悪しき目的のために、筆者がこれまで地上で積み上げて来た様々な経験や肩書を存分に利用することも可能だったろう。今から先も、様々な戦いに勝利をおさめれば、筆者の名を使って、筆者を担ぎ上げようとする人々が出て来ないとも限らない。

だが、筆者はそういうことを全く願っていないので、無名氏のままであり続け、自分の名を売るまいと考えているのである。地上で栄光を受ければ、天での栄光はもうないからだ。

当ブログに対して引き起こされている様々な戦いは、神の国の権益に関わる問題であって、個人の諸権利に関わる問題ではない。ここで本質的に重要なのは、ヴィオロン何某といった地上の人間の諸権利が侵害されているといった個人的なレベルの問題ではなく、聖書の神の御言葉が否定され、キリスト教が歪められ、聖書の神と神の教会が冒涜され、神の国の権益が侵され、真実と正義が曲げられているという問題なのである。

個人の諸権利を主張することは、聖書の御言葉に基づく信仰を公然と守り、神の国の権益を守るために必要な現実的措置として行っているだけのことであり、それが本質的に重要な問題なのでは全くないのである。

ちなみに、3月23日という日は、本当にいわくつきな日だったらしく、札幌では、元朝日新聞記者で慰安婦報道に関わった植村隆氏と、日本会議の強力な代弁者の一人であると見られ、筋金入りの改憲派でもある櫻井よしこ氏との間で本人尋問が行われた日であったらしい。
 

【慰安婦記事訴訟】植村隆氏、櫻井よしこ氏双方の本人尋問 札幌地裁で7月6日に結審
03/23 19:50 産経新聞

 元朝日新聞記者で慰安婦報道に関わった植村隆氏(59)が、記事を「捏造」と書かれ名誉を傷つけられたとして、ジャーナリストの櫻井よしこ氏や出版社3社に損害賠償などを求めた訴訟で、植村氏と櫻井氏双方の本人尋問が23日、札幌地裁(岡山忠広裁判長)であった。7月6日に結審する。
  植村氏は朝日新聞記者だった平成3年8月、元慰安婦が「『女子挺身隊』の名で連行された」とした大阪本社発行の記事について、「連れていかれた所で監禁され意に反して慰安婦にさせられた。だまされて戦場に連れて行かれた。一連の行為で『連行』と書いた」とした。また、「当時の韓国では慰安婦が『挺身隊』を意味していた」と証言し、意図的に慰安婦と挺身隊を結びつけたのではないと主張した。
  一方、櫻井氏は、後に作り話と判明した吉田清治氏の「女子挺身隊の名のもとで強制連行された」に呼応する形で植村氏の記事が書かれたと主張。「植村氏は(吉田氏の)作り話の被害者が実際にいると書いた」とその影響力の大きさを指摘した上で「植村氏は公開討論の呼びかけにも応じてこなかった」と批判した。  

   この裁判については、植村隆氏を支える市民団体が以下の記事を発表している。

櫻井よしこ氏が自身のウソを認める! 「捏造決めつけ」記述にも重大な誤り
札幌第11回■詳報  次回7月6日に結審、判決は秋以降に

札幌訴訟の第11回口頭弁論が3月23日、札幌地裁で開かれ、原告植村隆氏、被告櫻井よしこ氏に対する長時間の本人尋問があった。

この尋問で、櫻井氏は、いくつかの記述に誤りがあることを認めた。この記述は捏造決めつけの根拠となるものであるため、植村氏に対する誹謗中傷が根も葉もないものであることがはっきりした。櫻井氏本人がウソを認めたことにより、櫻井氏の根拠は大きく揺らぎ、崩れた。櫻井氏はその一部については、訂正を約束した。
<続きは本文参照。>

 
当ブログは、これまでこの訴訟を追って来ていないため、内容について深く立ち入ることはできないが、大筋を見る限り、この裁判は、「大日本帝国」の復活を願い、戦前の軍国主義路線の誤りを認めず、従軍慰安婦などの問題はすべてなかったこととして闇に葬りたい日本会議を支持する櫻井よしこ氏が、慰安婦問題を掘り下げる報道を不当にバッシングし、そのようなテーマを追求するジャーナリストに不当な打撃を加えて、このテーマ自体を葬り去ろうとする趣旨の記事を発表したため、記者がバッシングから身を守り、自分が行った報道の正しさを立証するために起こさざるを得なくなった訴訟であるという印象を受ける。

市民団体の報道によれば、櫻井氏は徐々に誤りを認め、自分の主張が捏造であったことを認めざるを得ない立場に追い込まれているようだ。 

植村氏が起こした裁判は、名誉毀損の被害を取り返すという、ただ自分の権利を守ることだけが目的ではなく、自分が報道した内容が真実であることを論証して、慰安婦問題が闇に葬り去られて社会の利益が損なわれることのないよう必要なアクションを取ったものだと考えらえる。

報道関係者でなくとも、自分が述べた言葉が真実であることを証明するためならば、それを公に論証する機会として、裁判を用いることは、時には必要であろう。そのようにして自分の言葉の真実性を主張するためには、自分の権利が侵害されたという訴えの形を取るしか今のところ方法がないのが実状である。

日本会議サイドは、櫻井よしこ氏を大いに利用して、慰安婦問題を報道した植村氏を個人攻撃させることで、慰安婦問題に触れると、誰でもこういう結果になるので、慰安婦問題など掘り下げない方が良いですよ、という見せしめ事例にしようとしたのではないかと考えられる。

筆者や当ブログに対して行われて来た攻撃もそれと同じで、牧師制度を批判したり、ペンテコステ・カリスマ運動の偽りを証明したり、カルト被害者救済活動を批判したりすれば、徹底的な報復を受け、人生に害を及ぼされるので、そのような厄介なテーマを、クリスチャンは扱わず、決して言及しない方が良いですよ、という見せしめのためになされたと思われる。

このように、あるテーマそのものをタブーとするために、個人攻撃が行われるということはままある。だが、筆者が書いている内容は真実であり、杉本や村上が書いていることは虚偽である以上、どちらが消し去られなければならないのかは明白だ。しかも、これはこの世のみならず、来るべき世にまで及ぶほどの永遠性を持つ普遍的テーマを巡る論争なのである。

虚偽の情報によって真実が駆逐されねばならない理由はなく、ましてそれが永遠性を持つテーマに関するものならば、なおさらだ。そこで筆者は、杉本が当ブログを誹謗するために書いた虚偽と人権侵害に満ち溢れる記事を一刻も早く削除してもらいたいがために、そのための取引材料として、当ブログ記事を差し出したりするつもりはさらさらない。そのようなことをすれば、敵の脅しに屈したことにしかならない。

だが、誰が真実を述べているのかということを証明するにふさわしい場が、判定者のいないインターネット上の議論や匿名の掲示板の無責任なコメント投稿欄ということはあるまい。そこで、より公共性・社会性のある形で決着をつけなければならないのである。

さて、筆者が個人的にキリストの十字架の死と復活のより深い意味を知って、関東へ来た2009年8月に政権交代があった。おそらく、その頃、関東へ来た筆者に求められていたのは、人間の指導者につき従わず、神にのみ従って歩むことであり、決して、人間の指導者を頂点とする組織に所属することではなかったものと思う。

その点で、KFCは偽りであり、その他の人間のリーダーを担ぐすべての交わりや集会も虚偽であった。牧師制度と手を切りながらも、それと類似するすべての人間による支配を断ち切り、その偽りなることを証明できなかったことが、筆者の霊的停滞の原因なのであり、今から考えると、そのようにしてリーダーを担ぐ団体の虚偽なることを証明することこそ、筆者に当初から求められていた課題だったのであろうと考える。

筆者は、その当時、聖書に基づくエクレシアを探し求めていたとはいえ、それはKFCや、誰かをリーダーとし、その人間を事実上の神とする集会に受け入れられたり、その集会にいる信者らと仲良くして、そこに定着することとは全く無関係であった。そのようなことを目的に、筆者はこの地へ召されてやって来たわけではない。神が筆者を召し出されたのは、人間的な思いや欲望に基づいて、人間の作ったヒエラルキーに依存する自己満足的な共同体を作って、それをエクレシアと呼ぶことでは全くなかった。そのような悪しき目的とは全く異なる目的が、当初から存在していたのである。

人間を中心に作り出された団体は、すべて過ぎ行くアンシャン・レジームに過ぎず、万民祭司とされているこの時代、いい加減に、現人神なる人間のリーダーに従うという腐敗とは一切無縁の、新しいエクレシアの姿が出現しなければならず、新しい時代が来なければならないのである。筆者はその新しい時代の新しい思想の担い手としてこの地へやって来た。その後、長く続く停滞が訪れたように見えるが、それでも、筆者が召された当初の目的が変わらないならば、遅かれ早かれ、その目的は姿を現すのであり、それは筆者が人間の生まれながらの情愛に基づく肉なる絆を根こそぎ断ち切り、神の国の権益にのみに立つ者として行動するときに初めて可能となるのだろうと思う。

筆者はアダムに属する「人類」を離れる覚悟を固めねばならないわけで、今その時が来ているように思う。筆者は、筆者が杉本や村上に対して訴訟を起こすことが、地上のアダムとしての出自を完全に断ち切ることとどこかで霊的につながっていると考えている。これまでの筆者は、人間的な感情を優先しすぎるがゆえに、してはならない妥協をし続けて来たのである。その人間的な感情こそ、牧師制度に類するすべての制度を偽りであるとして、毅然と退けることをしなかった筆者の甘さなのである。(今、そうした呪われた団体が、どれほど筆者の足手まといとなっているかを考えればそのことは明白である。)

そこで、筆者は人間的な情愛を優先するがゆえに、物事を曖昧にしたまま決着をつけずに終わりにしようとする甘さを根こそぎ払拭せねばならないと考えている。

一部の人々は、筆者が訴訟を提起しようとしていることを、あたかも筆者の個人感情に基づく残酷な報復措置であるかのように主張するかも知れないが、その考え方は転倒しているとはっきり言う。

物事にきちんと決着をつけないまま、無責任なネット上だけで、当事者でもない者が、野次馬のごとく対立を煽りつつ、責任の所在も分からない匿名のコメントを延々と半永久的に書き連ね続けることの方が、訴訟を起こすことに比べ、はるかに残酷で無責任で有害な行動であり、かつ限度を超えて行き過ぎた報復措置、私的制裁であると言えよう。そのような無責任な行動に比べ、この世の法に従い、きちんとルールを守って論敵と対峙することは、はるかに公正かつ公平な措置であり、それにかかる時間も限られているし、それによって下されるペナルティの度合いも限られている。
 
筆者がもしも自分の個人の利益を優先したいだけの人間であれば、これほどの手間暇を裂いて、ペンテコステ・カリスマ運動の異端性や、カルト被害者救済活動の誤りや、グノーシス主義の分析など行う必要もなく、早々に取引に応じて、不都合な記事を削除してもらう代わりに、手間のかかる当ブログにおける議論もさっさとやめてしまえば良いだけである。

だが、問題は、筆者個人の利益などではなく、聖書の御言葉の真実性という永遠のテーマなのである。聖書の神が否定され、神の御言葉が曲げられ、キリスト教が歪められ、神の教会が蹂躙され、正義が曲げられ、真実が葬り去られようとしている時に、筆者が、自分の利益が最優先だからと、悪魔との取引に応じて沈黙したりすれば、来るべき日に、神は筆者に向かって「わたしはあなたを知らない」と言われ、筆者は恥ずべきクリスチャンとして見捨てられるだけである。

繰り返すが、ここで問題となっているのは、個人の利益などではなく、神の国の権益である。自分の個人的・地上的な利益よりも、神の国の権益を優先し、主と共なる十字架において古き人としての自己を完全に死に渡すクリスチャンが現れないことには、神の国の地上における前進もない。

代価をいとわず、主と共なる十字架において自己を徹底的に死に渡すという過程を、信仰によって貫き通す個人が現れることによって初めて、神の国の前進が地上にもたらされるのであって、誰一人としてそのように代価を払って主に従う者も現れないならば、そんな社会を神が守らねばならない義務はない。そのような社会は、教会も含めて、ますますバビロン化が進み、ソドムとゴモラ同様、地獄のようなところになって滅びるしかないであろう。

日々代価を払って主に従うクリスチャンの信仰を通して、初めて神の国が地上に引き下ろされるのであり、そのようにして神に従う一群が現れる時、初めて、教会だけでなく、この世の地上の政治体制にも影響が及び、変化が訪れるのである。
 

キリスト教が信仰によって「神を知る」ことが可能であるとしているのに対し、「神は不可知である」とするグノーシス主義が人類にもたらす悲劇

さて、筆者が当ブログを始めたのは2008年頃であるが、その頃から、当ブログでは、キリスト教界に誤った教理が満ち溢れていることを検証し、牧師制度の誤りを主張し、聖書に基づく真実なキリスト教とは何なのか探求して来た。

当初は「何が誤った教えであるか」ということに重点的に目を向けていたが、「何が真実であるか」に注意を払わねば、偽りを明るみに出すこともできないと気づき、途中から、当ブログでは、改めて聖書の御言葉に立ち戻り、神ご自身を真剣に尋ね求め始めた。

その過程で、聖霊派の教団の中などにいたのでは、決して知る機会もなかったであろう聖書の真理(キリストと共なる十字架の死と復活という十字架のより深い働き)を知らされ、筆者は、初めて以下のエレミヤ書にあるように、聖書に書かれている「主を知る」ということの意味を知ったのである。
  
「しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。
すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。 」(エレミヤ31:33-34)
 
前の記事で、贋作は、オリジナルと対比されて初めて、贋作であることが証明されうると書いたが、その原則は、何が正しいキリスト教であり、何が誤ったキリスト教であるか、という問題を解く際にも、同じように適用される。

我々自身が、真実なキリスト教の信仰に立ち、神によって選び出され、神の子供とされた、主を知るクリスチャンとして生きないことには、どれほど偽りのキリスト教を分析し、非難したとしても、それを当事者として「神の国の権益に関わる被害」として訴えることができないのである。
 
クリスチャンとは、文字通りの意味では、「キリストに属する者」、「キリストの復活の証人」であるが、現実には、クリスチャンを名乗っているすべての者が、必ずしもキリストのものとされた、キリストの証人であるわけではない。

今日、クリスチャンを名乗っている人々の中には、数えきれないほど、神を知らず、キリストのものとされておらず、神を知ろうともしていない人々が存在する。毎週日曜、どこかの教会で開かれる礼拝に出席し、讃美歌を歌い、聖書を読み、うわべだけ敬虔そうに見える生活を送ることによって、神を知ることはできない。そういう形式を通して神に近づくことはできない。

「イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝するときが来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)

このように、神を礼拝するとは、日曜ごとにどこかの団体へ出かけて行き、人間に過ぎない誰かの語るメッセージに耳を傾けることとは何の関係もないことである。「神を知る」ことは、聖書の御言葉に立つ信仰によって、人の霊の内側で起きることであり、神によって与えられる啓示であるため、形式によってそのような啓示を得ることは誰にもできず、それを外側から見て分かるように客観的に立証することもできない。

そこで、誰がキリストに属する本当のクリスチャンであって、誰がそうでないのか、我々が、それを区別するために与えられている唯一の方法は、外見的要素によってそれを区別しようとすることではなく、ただその人物が述べた言葉や行動を、聖書に照らし合わせて検証することだけである。その人間が述べている証の言葉とその人物の行動を検証することだけである。

そのような検証作業によって初めて、クリスチャンを名乗るある人物が、本当に神に知られているクリスチャンであるのか、そうでないのか、その人物を導く霊の性質を確かめることができる。

その人物が真にキリストの証人であれば、その人の言動には、聖書との齟齬がないはずである。だがもし、その人の言動に、嘘やごまかし、自己矛盾、トリック、歪曲、捏造などが見られ、聖書との齟齬、不透明さが見つかれば、その人は見せかけだけの信者で、内的では、キリストを全く知らず、キリストの御霊に導かれてもおらず、神の子供とされてもいない、非クリスチャンである可能性が極めて高い。

主を知らずとも、様々な教義を身にまとい、うわべだけはあたかも神を知っているかのように、敬虔そうに振る舞うことは可能である。しかし、それがその人の内側の本質から出て来るものでない外側の演技のようなものに過ぎなければ、必ず、その人の言動は偽善的なものとして、あちこちにほころびをきたすことになる。
 
だからこそ、聖書は愛する者たちよ。 すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。 多くのにせ預言者が世に出てきているからである。 」(Ⅰヨハネ4:1)と言うのである。

さて、ようやく話を本題へ戻すが、当ブログでは、今日、あたかも正統なキリスト教であるかのように、プロテスタントの一部を占めているペンテコステ・カリスマ運動は、「偽物のキリスト教」であって、もとを辿ればグノーシス主義に行き着くことを再三、述べて来た。

グノーシス主義とは、一言で言えば、創造主ではなく被造物を崇める「被造物崇拝」の教えである。 筆者が幾度となく強調して来た、異教的な母性崇拝の原理(「イゼベルの霊」)も、被造物崇拝を指すのである。

異教的な女性原理の崇拝における「女性」とは、文字通りの女性ではなく、神の助け手となるべく、霊的な女性として神によって創造された人類を指す。

「イゼベルの霊」の教えとは、要するに、人類を神以上に高く掲げて神として賛美する教えなのである。

この世には、表面的に見れば、様々に異なる思想が存在しているように感じられるかも知れないが、根本的には、大きく分けて、たった二つの思想しか存在しない。キリスト教とグノーシス主義である。

異端はすべてグノーシス主義に由来するものであり、究極的には「被造物崇拝」の教え、人類の自己崇拝である。

だからこそ、異端や異端化されたキリスト教には、必ずと言って良いほど、目に見える人間を指導者として担ぎ上げ、その人間をキリスト以上の存在として絶対化するという特徴が現れるのである。

そして、それに基づいてこそ、筆者は、牧師制度とは、グノーシス主義にルーツを持つ、聖書に根本から抵触する制度であり、牧師制度を取り入れた教会は絶対的に腐敗すると述べて来たのである。

さて、キリスト教とグノーシス主義という、真っ向から対立する二つの思想には、数えきれない違いが挙げられようが、根本的な違いは一つであり、それは「人間には神を知る道があるのか、ないのか」という問いに対して、両者が正反対の答えを出している点にある。

結論から言えば、聖書が「父なる神」は「わたしは有る」(出エジプト3:14)という方であって、れっきとしたリアリティであり、信仰を通じて、人は神を知ることができるとしているのに対し、グノーシス主義は、「父なる神」をフィクション同然の概念とする。

聖書の記述はすべて「父なる神」の計画を中心に「父なる神」の観点から書かれたものであるのに対し、グノーシス主義の神話的プロットは、すべて「父なる神」に創造された被造物の側から、被造物の都合に従って書かれた物語であると言える。

聖書の記述が、「父なる神」の御思いを中心に展開される物語であるのに対し、グノーシス主義の物語における主役は、「父なる神」(真の至高者)ではなく、「父なる神」に創造された被造物なのである。

グノーシス主義における「父なる神」(真の至高者)は、人格もなく、意志もなく、存在すらも、あるかないか分からない「虚無の深淵」であり、いわば、被造物の存在に口実や意義を与えるための添え物のような、名ばかりの存在に過ぎず、物語の最後まで、確固たる登場人物として自分自身を現して舞台に登場することのない不可知的存在である。

こうして、グノーシス主義の本質が、父なる神の概念を「フィクション」とするところにこそ、この偽りの神話とそれに導かれる人々の悲劇の根本原因があるのだと言える。

当ブログでは、以前から、グノーシス主義とは、「母の過ち」によって生まれた「父なし子」としての人類が、確たる証拠もないのに、「父なる神(真の至高者)」の子孫であると一方的に名乗り出て、神の家への復帰を企てるという、実にナンセンスな「神の家の乗っ取り」物語であると主張して来たが、大田俊寛著『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』(春秋社、2009年)は、この考えに驚くほど多くの裏づけを与えてくれる。

この文献は決してグノーシス主義を批判するために書かれたものではないが、それにも関わらず、グノーシス主義における「父」とは何かというテーマだけでなく、「父」を喪失した人類が、完全な自己や、健全な「自己愛」を探し求めて、精神分析やカウンセリングやインターネットといった「鏡」を通しての自己認識に病的に明け暮れるようになることの危険性など、まさにペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが陥っているいくつもの「病理現象」についても、実に多くの示唆を与えてくれる。

この文献を参照しつつ改めて思うことは、ペンテコステ・カリスマ運動の本質はまさにグノーシス主義であり、グノーシス主義とは何かを理解することによってしか、この運動の誤った本質を明らかにすることは決してできないということである。

ペンテコステ・カリスマ運動があたかもキリスト教であるかのように理解して、聖書だけを用いて、この運動の間違いを分析しようとしているうちには、決して解けなかった実に多くの謎が、この運動がグノーシス主義を手本に出来上がったものであると仮定すれば、驚くほどあっさりと解けるのである。

今日、グノーシス主義の研究なくして、キリスト教に流入し、襲いかかっている異端の本質を掴むことが、どれほど困難であるかを思わされる。初代教会があれほどの労力を費やしてグノーシス主義と格闘し、対決したのは、決してゆえなきことではない。現代にも、グノーシス主義という異端がゾンビのようによみがえり、見えないところで教会に襲いかかり、キリスト教を骨抜きにしている事実に、クリスチャンは決して無知であってはならないと筆者は確信する。


ペンテコステ・カリスマ運動は、人類を神以上に高く掲げる「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」

・ペンテコステ・カリスマ運動は、人類を神とする東洋的異教の母性崇拝(「イゼベルの霊」)に支配される運動である。
 
さて、これまでにも当ブログでは、ペンテコステ運動とは、イゼベルの霊(一言で言えば、異教的母性崇拝の思想)に導かれる運動である、ということを再三に渡り、述べて来た。はっきり言えば、ペンテコステ運動とは、異教に由来する非キリスト教的な思想に基づく「神の家の乗っ取り運動」なのである。
  
ペンテコステ運動にははっきりした教義体系が存在せず、教義体系を明らかにする文献も少なく、ただ「聖霊のバプテスマ」を受けて「異言」を語るなどの超常現象ばかりを重んじるため、自然と、この運動の問題について語られる場合にも、現象面の分析で終わりがちであり、教義面からこの運動の根本的な危険性を洗い出す議論は少ない。

とはいえ、それでもペンテコステ運動の教義の基礎を明らかにしていると見られる文献はいくつか存在し、それを手がかりにこの運動の異常性を教義面から論証することは可能である。

そうした文献の一つが、大きく見れば、ペンテコステ運動の中にひとくくりにできるカリスマ運動の指導者である手束正昭氏の言説である。当ブログではすでに幾度も述べて来たように、手束氏は、すべての物事にはっきりとした区別をつけて、何が善であり、何が悪であるかを峻別する聖書の二元論を非難して、キリスト教は、このようにすべてに区別をもうけようとする父性原理ばかりが強すぎて、すべてを慈愛によって包容する母性原理が足りず、それゆえ、バランスが取れていないため、キリスト教は精神異常や狂気を生むなどと主張する。

ペンテコステ・カリスマ運動にもし「教義」というものがあるとすれば、それはこのように伝統的なキリスト教にあたかも「重大な欠陥」が存在しており、それゆえ、キリスト教が「人を精神異常に追い込む狂気の根源」となっているかのように主張し、それを口実に、あたかも聖書の御言葉だけでは不十分であるかのように、キリスト教の中に聖書にはない「何か」を巧みに持ち込み、つけ加えることにあると言えよう。

彼らがキリスト教につけ加えようとしているその「何か」とは、聖書の二元論という「父性原理」を骨抜きにするための「母性原理」である。
 
彼らの理屈によると、キリスト教では、何が善で何が悪であるかを厳しく区別する父性原理の二分性が人間を苦しめ、狂気に追いやっているという。そして、「キリスト教は、あまりにも厳しすぎる区別をもうけたがために、人間を狂気や精神異常に追いやる宗教となった。そこで、そのようなことの起きない、人にやさしいキリスト教を新たに作り出さねばならない」と主張し、そのために、キリスト教は父性原理の二元論を廃し、物事に区別をつけずにすべてを慈愛によって優しく包容する、母のような寛容さを補うべきである、と言うのである。

こうして、ペンテコステ・カリスマ運動は、まずはキリスト教を「ディスカウント」し、もともと聖書にはない「何か」を、あたかも聖書の教理に補われるべき要素であるかのように主張して、「慈愛」や「慈悲」などの美しい言葉を口実に、キリスト教を骨抜きにするような、すべてを曖昧にして包容する「母性的要素」を、キリスト教につけ加えよと要求するのである。
 
だが、当ブログの読者であれば、このような形でキリスト教に「母性原理」をつけ加えると、どういう恐るべき結果がもたらされるかは、あえて説明しなくとも了解しているものと思う。

それでも、キリスト教の「父性原理」に、キリスト教にはない「母性原理」をつけ加えようとすれば、何が起きるのか、それを「家庭内紛争」にたとえながら、あえて説明したい。

家庭の中で、父は、一般的に、規則や権威を象徴する存在である。そこで、ある家で、父親が子供に向かって「宿題はかならず毎日夜の8時までには終えて、夜9時には就寝しなさい」というルールを定め、子供がルールを破った場合には、罰を受けなければならないと定めたとしよう。

しかし、子供がルールを破り、父親が叱責と罰を加えようとする度に、母親が飛んで来て、「お父さん、あなたの決めたルールはあまりにも厳しすぎて理不尽で、それを理由に子供を罰するなんて、残酷すぎます。そんなにまでも、すべてをはっきりさせる必要が本当にあるんでしょうか。あなたはいつも小さなことで目くじら立てては、子供を叱っていますが、あなたのやり方では、子供は委縮してしまってのびのび成長できません。教育上有害です。」などと言って、毎回、子供をかばったら、その子はどのように成長するだろうか。

母親は子供をかばってさらに言う、「お父さん、今日、この子は宿題をまだ終えていないのに、あなたは9時だからもう寝なさいと言いますね。でも、それじゃあ、この子は明日、学校で、宿題を忘れたと言って、友達の前で、自分だけ恥をかかされ、先生から怒られなければいけなくなるんですよ。あなたはこの子が友達の前で恥ずかしい思いをして、それが原因でいじめられるようになっても、何とも思わないんですか? あなたはそうやって、いつも規則を守ることの方が、人間の感情よりも優先されるべきだと言いますが、あなたは私から見れば、規則を口実にして、ただ子供に対して威張り散らして、鬱憤晴らしをしたいだけなんです。そんな動機で、可愛い我が子を危険にさらすことは私には許せません。この子の宿題は私が代わりにやってあげますから、あなたは何も言わないで下さい。私はあなたの定めたルールにも、罰をもうけることにも反対です。」

母親がこんな風に主張すれば、家庭の秩序は成り立たなくなる。おそらく、子供は父の権威を侮るようになり、父を平然と見下げるだけでなく、父は自分の幸福を願っておらず、いたずらに権威を振りかざして自分を威圧し、罰しようとしているだけなのだと考えて、父を憎むようにさえなるだろう。そして、自分が恥をかかず、心傷つけられず、罰せられないで済むように、自分に都合の良いことを言ってくれる母の言うことだけを聞くようになり、母にべったりと甘え、そのうち、自分はどんな過ちを犯しても、決して罰を受けることなどないと高をくくるようになり、一言で言えば、途方もなく甘やかされて、駄目になってしまうに違いない。

このように、ルールを定め、それによって物事の是非をはっきりさせて、ルールを破ったものには罰をもうけるという、父性原理に基づく二元論的な考え方と、何もかも白黒つけずに「母のような慈愛によって」包含しようとする母性原理に基づく考え方は、決して相容れない。このことからも、キリスト教に「父性原理」と「母性原理」を同居させようとする試みは、決してうまくいくことがないと言える。そのようなことをすれば、キリスト教は骨抜きにされ、崩壊するだけである。
 
にも関わらず、ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教の「父性原理」が悪の根源であるかのように主張して、これを否定して、そこに「母性的な要素」をつけ加えることで、キリスト教の「残酷さ」や「偏狭さ」を改革できると言うのである。一見、その言い分は、「愛」や「憐れみ」にカモフラージュされているため、人の耳には心地よく響くであろうが、その教えを受ければ、信者はもはやキリスト教徒ではなくなり、異端の教えによってすっかり自己を肥大化させられた、およそ信者と呼べないばかりか人としても駄目な人間になってしまうだけである。
 
一言で言えば、ペンテコステ・カリスマ運動は、それ自体が、キリスト教に偽装しつつも、キリスト教を骨抜きにして崩壊させるために登場して来た異端の教えなのである。そして、この運動が主張する「母性原理」なるものの起源も、東洋的な非キリスト教的異教にある。

これまで確認して来たように、ペンテコステ・カリスマ運動がキリスト教に足りないと言って導入しようと試みている「母性的要素」とは、もとを辿れば、非キリスト教・異教的な宗教哲学から受け継がれた母性崇拝に由来する。

多くのオリエント・東洋宗教哲学においては、キリスト教のように、「父なる神」が万物を生み出したとは考えられておらず、万物の生命の源として、女性原理の象徴である「神秘なる母性」が讃えられる。(この「母性原理」は、様々な宗教神話において「女神」の形を取って現れたり、あるいは、必ずしも人格を持たない万物の生命の源として「神秘なる母性」、「神秘なる混沌」などと呼ばれる。老子はこれを「玄牝」と呼んだ。)

早い話が、ペンテコステ・カリスマ運動とは、 このように異教に由来する原則を、公然とキリスト教の中に持ち込もうと試みているだけであって、この運動は、西洋的な伝統的なキリスト教と、東洋的・オリエント的な母性崇拝を混ぜ合わせて出来上がった混合宗教なのである。
 
このことを理解すれば、我々は、なぜペンテコステ運動の只中から生まれて来たカルト被害者救済活動のような運動に影響を受けた人々が、クリスチャンに向かってしきりに「精神異常者」のレッテルを貼って中傷しようとしているのかを理解できるだろう。

彼らは、たとえば、完全に健康な筆者に向かっても、何の根拠もなく、「立ち直り不可能な人格障害に陥っている」かのような決めつけを長年に渡って行って筆者を中傷しているのだが、こうして彼らがクリスチャンに「精神異常」というレッテルを貼りたがる背景には、そもそもペンテコステ・カリスマ運動が、「伝統的な西洋的キリスト教は、人間を狂気に陥らせる宗教だ」とみなして非難していることが挙げられる。

つまり、この運動が、聖書に基づく純粋なキリスト教そのものにあたかも重大な欠陥があって、それがために「父性原理ばかりが強すぎるキリスト教が、人を狂気に陥れている」かのように主張しているからこそ、その運動の支持者たちは、キリスト教だけでなく、聖書に忠実に従うクリスチャンたちにも、「狂気の宗教」を信じる「精神異常」のカルト信者といったレッテルを貼り、さかんにディスカウントしているわけなのである。

ペンテコステ・カリスマ運動は、あたかもキリスト教の一派のように、プロテスタントの中で座を占めているが、以上のようにキリスト教をディスカウントして聖書にはない新たな要素をつけ加えるよう主張している人々が、クリスチャンであろうはずなく、この運動は、ただキリスト教に偽装して、キリスト教を内側から骨抜きにして破壊するために登場して来た、根本的に異端の教えなのである。

彼らは、(彼らに言わせれば)「狂気を生み出す根源」でしかないキリスト教の父性原理(二元論、御言葉による切り分け)を攻撃して否定し、御言葉に忠実に従うクリスチャンに狂気のレッテルを貼って、真にクリスチャンを駆逐したいがためにこそ、日夜、以上のように根拠もない印象操作や人格攻撃にいそしんでいるだけなのである。そのような異常な一群を生み出すペンテコステ・カリスマ運動が、聖書を土台にしていないことは明々白々である。

しかし、終末においては、このようにキリスト教の装いをした忌むべき混合宗教が、世界規模で登場することになると予告されている。それが聖書の黙示録に登場する「大淫婦バビロン」であり、彼女が「混ぜ合わせた杯」(黙示18:6)を持っていることからも、バビロンとは、キリスト教と、それとは異質な異教的な要素の混合物であることが分かる。

その「混ぜ物」こそ、東洋・オリエント的異教に由来する母性崇拝の原理であって、ひいては、人間を神とする反逆の思想なのである。


・ペンテコステ・カリスマ運動は、「母」の罪を擁護し、私生児として生まれた「父なし子」を「神の家の後継者」であるかのように詐称するグノーシス主義神話に基づく「神の家の乗っ取り運動」である
 
さて、ここで、非キリスト教的異教が「母性崇拝」を掲げていることは、決して意味のないことではないと断っておきたい。

聖書によれば、万物を生み出したのは「父なる神」であって、母性原理は生命の源ではない。

聖書では、キリストを生んだ処女マリアを例にとっても、彼女はあくまで聖霊によってみごもったのであり、彼女の「女性原理」がキリストを生んだわけではない。イサクを産んだサラも同様で、父なる神の「約束」があって初めてイサクが生まれた。黙示録には、龍に迫害されながら、男の子を生む女が登場するが、この女も、諸説あるとはいえ、母なるエルサレムや、エクレシアを象徴していると考えられており、エクレシアがキリストに属する御霊の実を生むにあたっても、やはり単独で子供を生めるわけでなく、必ず、そこには御霊による働き、御言葉に基づく約束がある。

聖書において、これらの女たちが幾度も「夫のない女」「一人残された女」「産まず女」などと、蔑称のような言葉を用いて、霊的に独身・未婚であると強調されているのは、彼女たちには、キリストを抜きにして自分の力では決してまことの生命を生み出す力がないことをよく表していると言える。

つまり、聖書においては、生命を生み出す根源は、常に神の側にあり、被造物それ自体には、キリストとの結合なくして、自力でキリストに属する産物を生むことは決してできないのである。

ところが、カリスマ運動の指導者の手束正昭氏は、すでに見て来たように、聖霊を「母なる霊」と定義することによって、「父なる神」と「母なる聖霊」と「子」の「三位一体」という、聖書には全く記されていない異常な教理を主張し、あたかも、キリストが「父なる神」という父性原理の象徴と、「母なる聖霊」という母性原理の象徴との結合の結果として生まれたかのようにみなし、「母なる霊」という呼び名で、異教に由来する母性崇拝の原理をキリスト教に偽装して持ち込もうとする。

このような異端的な教説では、まだ「母なる霊」が単独で子を産み出したまでは言い切られていないが、聖書にはない「母性原理(母なる霊)」がつけ加えられることによって、神の独り子であるキリストが、あたかも「母なる霊」によって生み出されたかのように主張されている。

こうして、手束氏の考える「キリスト教」には、東洋・オリエント的母性崇拝の思想が公然と持ち込まれ、それによって聖書の教理までがすっかり変質させられているのである。

そして、これまでにも書いて来たように、このように生命を生み出す根源が、あたかも「母性原理」にあるかのように唱える主張は、異教に由来するだけでなく、もとを辿れば、グノーシス主義に起源がある。

グノーシス主義には、すでに述べたように、共通して、女性人格が単独で生命を生み出すという神話的プロットがある。そこで、万物の生命の根源があたかも女性原理にあるかのように唱える異教的な思想は、大きく見れば、すべて根源的にグノーシス主義を土台にして成り立っていると言える。

このように、異教的な思想が、「父性原理」よりも「母性原理」を高く掲げるのは、神と被造物との主従関係の逆転するためであり、結論から言えば、異端とは、唯物論的な被造物崇拝の教えなのである。
 
聖書によれば、神は人類をご自分に似せて、ご自分の助け手として創造された。そこで、人類は神に対して霊的に女性の立場にある。また、聖書においては、男が先に創造され、男をもとに女が造られている。

だが、すべての異端的思想は、この正当な秩序を覆し、神によって創造された被造物に過ぎない人類(霊的に女性)を、あたかも創造主であるかのように主張し、神以上に高く掲げる。

東洋的な異教が「女性原理」を「父性原理」よりも高く掲げようとするのは、その背景に、「本来は神に似せて、神から生み出された被造物に過ぎない人類を、創造主である神以上に高く掲げたい」とする欲望があるためである。

フェミニズム神学(およそ異端なので本当は神学という名に値しないが)は、「女が男から造られた、男よりも弱い被造物だという聖書の記述は、女を男の付属物に貶める男尊女卑の考えであって、誤りである」などと主張して、聖書の記述を否定する。

母性原理を高く掲げる異教的な思想もこれと同じ理屈を用いて、「人類が神によって、神に似せて創造された被造物だという考え方は、人類を神よりも劣ったものとみなしている点で、人類に対する許しがたい差別・蔑視であって、事実ではない。我々はキリスト教の神による人類へのこのような蔑視を決して認められない」と主張して、神と人類との関係を逆転しようとしているのである。

このように、東洋的な異教の思想において誉めたたえられている「女性原理」とは、文字通りの女性を指すのではなく、被造物全体、もっと言えば、神の被造物としての人類全体を象徴しているのだと言える。そして、ペンテコステ・カリスマ運動のような思想が、キリスト教の「父性原理」の中に「母性原理」を持ち込むことで、両者を競合させ、最終的には「母性原理」によって「父性原理」を骨抜きにし、駆逐して行こうとしていることにも、創造主と被造物との関係を逆転させようという意図が込められている。

そこで言われる「父性原理」とは、父なる神を指している一方、「母性原理」は人類全体を指しており、結局、ペンテコステ・カリスマ運動も、神によって創造された被造物に過ぎない人類を、神と対等か、神以上に高く掲げ、人類を神と同一視して、聖書の父なる神に反逆して、創造主と被造物の関係を逆転させようとしている教えなのである。
 
このように、東洋思想が「女性原理こそ万物の生命の源」であると主張していることには、結局、「我々人類は、誰の手にもよらずに単独で生まれた独立した存在であって、誰の被造物でもない。そして、我々自身が、神のように、単独で生命を生み出す力を持つ、神に等しい存在なのだ。」という主張が込められているのである。

そして、このような東洋的な母性崇拝をキリスト教に混ぜ込んで出来上がったペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた人々は、その教えがもたらす当然の結果として、聖書が教える「人類は神によって造られた被造物に過ぎず、創造主である神に服する義務がある」という基本原則に反抗して、被造物である自分自身を「神」として最高の地位につけようと高く掲げるようになり、自画自賛に溺れて行くのだと言えよう。

ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教にそのような悪しき結果をもたらす致命的な毒素としての「女性原理」を受け入れよと迫っているのである。

(ちなみに、筆者はペンテコステ・カリスマ運動のみならず、「エクレシア崇拝」に陥ることも、以上と同様の反聖書的な考え方であるとみなしている。クリスチャンが自分たちの集会を絶対化したり、賛美するようになれば、それ自体が偶像崇拝に該当する。エクレシアであろうと、何であろうと、被造物に過ぎないものを、キリスト以上に高く掲げることは、すべて「女性原理の崇拝」と同じなのである。)

さて、これまで、グノーシス主義には「女が単独で子を産む」という聖書に反する考え方があると記した。グノーシス主義には神話はないが、神話的プロットと呼んでも差し支えないような共通の筋書きがあり、大きくまとめると、それは以下のようになる。

➀ 万物を生み出す「まことの父(真の至高者)」の能力を見て、「女性人格」がそれを嫉み、自分もその能力が欲しいと願う
② その結果、「女性人格」が規則を破って、「男性人格」の参与なく、単独で子を産む
③ 「女性人格」はその違反の結果として天界から転落しかかり、違反の結果生まれた「子」も転落して醜く愚かな「悪神」となって下界を支配する
④ しかし、「女性人格」が単独で生んだ「子」(悪神)の子孫である「人類」は、悪神よりも賢く、知識の啓示を受けて、自分には「まことの父(真の至高者)」に由来する「神聖な霊の欠片」が受け継がれており、自分の本当の父は「悪神」ではなく、「まことの父」なのだと気づく。
⑤ 人類は、こうして自分が「まことの父」の子孫であると自ら名乗り出ることによって、「母の過ち」を修正し、「母子」ともに天界へ復帰する。

このような物語では、第一に、女性人格が単独で子を生むという違反を犯すことによって、万物の生命を生み出す力は、誰にあるのか、「父なる神」にあるのか、それとも、「母なる神」にあるのかが全く分からないという混乱が持ち上がる。

そして、さらに、人類は、女性人格が単独で生んだ子の子孫であるとされることによって、人類は事実上、父がいないも同然の存在(父を喪失した存在)となる。

だが、最下位の女性人格であるソフィアが単独で子を生んだということは、より深い文脈では、グノーシス主義が、「人類とは、聖書の神によって創造された被造物などでは決してなく、誰にも創造されることなく、自力で生まれた独立する存在なのだ」と言わんとしていることを意味する。

グノーシス主義は、旧約聖書における神を「悪神」とみなし、これをヤルダバオトとか、デーミウルゴスなどと呼び、無知で愚かな神として徹底的に侮蔑する。グノーシス主義のプロットによれば、この「悪神」こそ、最下位の女性人格であるソフィアが単独で子を生むという違反に及んだ結果生まれた、醜く、愚かな、出来そこないの「神」である。

この「悪神」は、出来そこないの醜い産物であるにも関わらず、身の程知らずな思い上がりに陥って、自分こそ至高の神であり、他の神はないと思い込み、「わたしの他に神はいない」「わたしは妬む神である」などと豪語しながら、「神」の称号を不当に独り占めしていると、グノーシス主義は言う。そして、悪神であるがゆえに、彼の創造した被造物はすべて醜く不完全で、それゆえ、地上は不幸に満ちていると言うわけである。

グノーシス主義はこのようなフィクションを作り出すことにより、聖書が「神は唯一である」と述べていることを嘲笑し、聖書の神が「妬む神」であって、決して神という称号を他に明け渡すことがないという事実を徹底的に否定・侮蔑・嘲笑しながら、聖書における神を、醜く愚かな「悪神」にたとえて冒涜する一方、その悪神の子孫であるはずの人類を、悪神よりも賢く高貴な存在として描き、人類こそまことの「神」の子孫であるから、悪神を否定的に超えて天界に復帰できると主張するのである。

だが、このようなものは随分虫の良い身勝手な話であって、額面通りに受けとる方がどうかしていると言えよう。

グノーシス主義の以上のような神話的プロットでは、いくつもの論理破綻と言っても良い規則破りが犯されている。

まず第一に、グノーシス主義においては、あらゆる概念が「対」としてとられ、単独では完全でないとされているにも関わらず、女性人格であるソフィアが、対となるべき男性人格の了承なくして、単独で子を産みたいと願い、実際にその行為に及ぶ時点で、「対」の原則が破壊されている。

次に、その「母」である女性人格は、単独で子を産むという「違反行為」を犯したわけだから、普通に考えれば、その結果、生まれた「子」は、誰を「父」としているのか分からず、それを立証する手立てもないはずである。要するに、その「子」は私生児である。

グノーシス主義の一部の物語によれば、人類は、女性人格が違反を犯して単独で生んだ悪神から生まれた子孫であるだけでなく、悪神が自分を生んだ母を知らずに凌辱して生まれたのが人類だという。単なる「私生児」であるだけでなく、あまりにも悲劇的な生い立ちである。

にも関わらず、グノーシス主義においては、そのような「悪神」によって創造された素性も知れない「人類」(ソフィアが違反の結果生んだ愚かで醜い「悪神」の子孫)が、どういうわけか、悪神よりも上位の神の似像として造られ、その息を吹き込まれているため、悪神を超える存在であり、「神聖な知識の啓示」を受けて、自分は天界にいる「真の至高者(真の父)」のDNA(「神聖なる霊の欠片」)を受け継ぐ神聖なる存在であると気づくことによって、「真の父」の後継者であると自ら名乗り出て、「母の過ち」を修正して、「母子」ともに天界に復帰するのだというのである。

このような話を聞いていると、この「母子」はどこまでも得体の知れない存在だと思わずにいられない。

なぜなら、グノーシス主義が、「人類」は「真の至高者」の子孫であると主張していることには、いかなる客観的な根拠も存在せず、その神話的なプロットの中でさえ、「真の至高者」の側からの「子」への承認や賛同(認知)はなく、「人類」が自分は「真の至高者」の子孫であると主張しているのは、完全に自称の域を出ない、思い込みのような話でしかなく、極言するならば、詐称と呼んで差し支えないほどに疑惑に満ちた主張だと言えるからなのである。
  
そして、人類が本当に「真の至高者」の子孫だというならば、「真の至高者」がそのプロットに登場して、自分の子として人類を認知しないのは一体、なぜなのかという疑問が生まれよう。しかし、グノーシス主義における「真の至高者」とは、そもそもそれ自体が、あたかも人格を持たない虚無の深遠、混沌のような概念であるため、この神話は初めから「真の至高者」の存在や意志など全く無視して出来上がっていると言えるのである。

こうして、グノーシス主義の神話的プロットでは、どこまでも「父」がないがしろにされ、「母」だけが重んじられる一方的なストーリーが展開されるが、こうして、「父」からの承認や応答を一切抜きにして、「違反」を犯した「母」と、「知識の啓示」を受けたと自称する「子」だけが、何一つ客観的な証拠のない、思い込みのような主張により、自分たちは「まことの父」の正当な子孫であるから、神の家に復帰させよと主張して、「母の過ち」を正当化し、母子ともに名誉回復して幸せになろうと目指す、というのが最終目的なのだから、こんな話はあまりにも眉唾ものと思われるのである。

一言で言えば、この話は、家の相続権を巡る争いであるが、一目見ても、これほど素性の分からない「母子」に本当に「真の至高者」の子孫として名乗り出る資格があるのかという疑いが生じるのは当然である。
 
さらに、このような出生の汚点を抱えて生まれた「子」としての人類は随分、不幸な存在である。まず、「母」が極めて身勝手な存在であり、「母」は自分の過ちによって、不幸な出生の「子」を誕生させた上、自分の名誉を挽回するために、「子」を生涯、自分の欲望の道具として束縛してしまう。「子」は、「母」をかばって自分のルーツを正当化し、出生の汚点を取り除くためには、「母の過ち」を修正するために生きるしかなく、証拠があろうとなかろうと、自分が「真の至高者」の子孫であると名乗り出るしか手立てがないという状況に置かれている。この「母子」は不幸な運命共同体であって、こういう状況に置かれている限り、「子」には「母」から自立できる見込みは全くない。

この物語では、「母」の過ちによって、すべてが狂わされたにも関わらず、その過ちがとがめられることもなく、罰せられることもなく、その後、屁理屈のような主張が延々と積み連ねられることによって、「母の過ち」修正して正当化することが最終目的であるとされ、そのために、人類が存在するとされ、連綿と不幸が生み出されているのである。

この物語だけを眺めても、本当の「犯人」は決してグノーシス主義が徹底的に侮蔑する「悪神」ではないだろうと思われて当然である。なぜなら、この「悪神」も、ソフィアの過失のために誕生した不幸な産物に過ぎないためである。にも関わらず、グノーシス主義の神話的プロットにおいては、その「悪神」だけが悪者とされ、ソフィアの過ちが咎められず、人類の使命が「母の過ちを修正する」ことにあるとされているがゆえに、この物語はどこまで行っても不当な主張に満ち溢れた荒唐無稽な内容なのである。
 
このように得体の知れない「神話」が、キリスト教に偽装して、キリスト教の中に公然と入り込んで来ると、当然ながら、真にキリストによって生まれ、神の国の正統な後継者たる神の子供たちが、迫害される結果になるのは避けられない。信仰もなく、キリストによって生まれた事実もなく、場合によっては、聖書の父なる神をさえ信じていない、全く素性の明らかでない人々が、公然と神の家(教会)の後継者を詐称して、神の子供たちであるクリスチャンたちを脅かし、駆逐するようになるのは避けられない。

「父」を裏切ってひそかに誰の子とも知れない子を産んだ「母」と、誰を「父」としているのかも分からない「子」がタグを組んで、自分たちこそ神の正当な子孫であって、神の家の正当な後継者であるかのように主張して、天界に復帰を企てるというグノーシス主義的な「神話」が、キリスト教の中に入り込むと、結局、真に聖書に従うクリスチャンたちを迫害し、教会から追い出して、神の家を乗っ取ろうとする運動が生まれるのは当然である。

ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教に「母性原理をつけ加えよ」と主張することによって、以上のような悪しき目的を果たし、正当な資格がないにも関わらず、不当に神の家を乗っ取ろうと目論んでいるのだと言える。この運動は、本来的にキリスト教に属さない、聖書の神に属さないはずのものを、あたかも正当なキリスト教であるかのように主張して、神の家を乗っ取り、堕落させるために生み出された運動なのである。

だからこそ、カルト被害者救済活動などという恐るべき忌むべき運動も、ペンテコステ・カリスマ運動の只中から生まれて来ているのである。

カルト被害者救済活動が目的としているのも、結局は、「母の過ちを修正すること」、すなわち、人類の罪を、人類が自力で修正することなのである。

この運動は、何らかの原因があって、教会生活につまずき、信仰生活につまずき、聖書の神への信仰を捨て、教会やクリスチャンに恨みを持った人々が、信仰がないため、本来は、教会の一員となる資格もないにも関わらず、自分たちの被害者意識を口実にして、教会を責め、クリスチャンに罪悪感を持たせることにより、自分たちを教会の一員として受け入れよと迫っているのである。

教会はキリストの十字架の贖いを通して罪赦され、贖われた人々のものであるはずなので、信仰のない人々には無縁であるはずだが、この人々は、贖われていないか、贖いを自ら否定しているのに、被害者意識を口実に、自分たちが神の家に入り込む資格があると主張して、自分たちを神の子として「認知」するよう、クリスチャンに迫っているのであるから、このようなものは、神の家の乗っ取り運動である。

このように神の家の正当な相続権を持たない「私生児」が、信仰もないのに、教会を占拠し、正当な相続権を持つ神の子供たちであるクリスチャンを脅かし、迫害し、負い出しているのである。

だが、ペンテコステ・カリスマ運動の教義の異端性を考えるなら、この異端的運動の只中から、こうした極めて異常な歪んだ「救済運動」が生まれて来たのも、まさに必然と言える。

さて、ここまでは、これまでの記事においても幾度か述べて来た内容と重なるが、ここから先は、「グノーシス主義の思想 <父>というフィクション」(大田俊寛著、春秋社、2009年)という、このテーマを掘り下げるに当たり、議論の材料を与えてくれそうな極めて興味深い文献なども参考にしながら、ペンテコステ運動のグノーシス主義的起源をめぐる議論の中核にさらに迫っていきたい。

だが、結論から述べておけば、「父性原理を重んじ、母性原理をないがしろにする伝統的なキリスト教の二元論が、人間を狂気に追い込む原因となっている」などというペンテコステ・カリスマ運動の主張は、完全な偽りであって、笑止千万な荒唐無稽である。

むしろ、真実は、それとは全く逆であり、以上のような論理破綻したグノーシス主義的「神話」こそ、人間の精神を著しく害し、精神異常に追い込む狂気の根源なのである。

すでに述べたように、母性崇拝(女性原理の崇拝)の思想とは、被造物である人類が、あたかも創造主であって、自分自身が神であるかのように唱え、まことの神に反逆する反聖書的な思想のことなのであるが、グノーシス主義はまさにそのような聖書に対するすべての反逆的思想の土台となる思想である。

そして、グノーシス主義の「神話」とは、罪を犯した者が決して己が罪を認めず、過ちの責任も取らずに、本来、罰せられて然るべきにも関わらず、罰を免れて自己正当化をはかり、堕落したルーツしか持たない者が、そのルーツをごまかして、自分を神の子であると詐称して、自己正当化をはかるために作り出された終わりなき嘘であるため、この「神話」では、一つの嘘をごまかすために、次の嘘が作り出され、そうして人類が自分のルーツをごまかすために、果てしなく嘘で塗り固めた「創作神話」が述べられ続けているのである。

そのような荒唐無稽な神話に没入して行った挙句、その人の精神の正常性が保たれることはまずない。

繰り返すが、聖書の二元論が人を狂気に追い込むのではなく、グノーシス主義的荒唐無稽な神話が、人を狂気に追い込むのである。だからこそ、この異端の影響を受けたペンテコステ・カリスマ運動からは、至る所で、眉をひそめるような混乱が引き起こされ、また、カルト被害者救済活動のように、信仰を持たない人間から見ても、全く異常であるとしか言えない運動ばかりが登場し続けているのである。

<続く>


クリスチャンに社会的弱者に対する負い目の意識を植えつけることで、神ではなく世に奉仕させる偽りのキリスト教としてのペンテコステ運動

・クリスチャンに社会的弱者への負い目の意識を植えつけることで、キリスト教を世人の利益に都合よく改造し、神ではなく人類に仕えさせようとする偽りのキリスト教としてのペンテコステ運動の危険
 
さて、これまでの記事において、イゼベルの霊というテーマを用いて、クリスチャンが怨念と被害者意識に支配されて、すべての物事を「加害者・被害者」の対立というフィルターを通して見るようになり、自分自身を被害者とみなすか、もしくは自分を加害者の立場に置いて、罪の意識から絶えざる懺悔と自己批判を繰り広げ、他者への償いを使命として生きるようになることの危険性を見て来た。

すでに見た通り、こうしたトリックは、異端の宗教では普通に用いられており、統一教会においては、信者に罪の意識を植えつけることで、償いとして奉仕活動や献金を促そうとする手法が使われている。しかし、今日、統一教会の脱会者である村上密牧師の主導で、ペンテコステ運動において繰り広げられている、キリスト教会で傷つけられた被害者を「救済する」ためのカルト被害者救済活動も、以上に書いたのと同じ心理的カラクリに基づくものであり、これはキリスト教の中にいながら、キリスト教への加害者意識を捨てられない者が、自らの拭い去れない罪の意識から繰り広げるキリスト教への自己批判であると同時に、罪の償いとしての社会的弱者への懺悔の活動であることを書いた。

だが、これに類似する現象は、ペンテコステ運動の枠組みを超えて、キリスト教界に広く普及しており、ホームレス伝道などの中にも同じ性質を見て取れる。ホームレス伝道に関しては別途、稿を改めて書きたいと考えているが、すでに過去の記事でも触れた通り、解散した学生団体SEALDsの代表者であった奥田愛基氏の父である奥田知志牧師や、マザー・テレサのケースに見るように、生涯を弱者救済活動に捧げる人間には、幼少期もしくは青春時代に何かの事件を通して決定的な罪の意識が心に植えつけられている場合が多く、(奥田牧師は釜ヶ崎で、マザー・テレサはインドのコルカタで、そのような体験をしたものと思われる)、こうした人々はその時に植えつけられた自らの罪の意識を払拭せんがために、残りの生涯を弱者救済事業に捧げざるを得なくなるのである。

このような文脈における弱者救済活動は、弱者救済という美しい響きとは裏腹に、実際には、たとえクリスチャンを名乗っていても、心傷つき、罪悪感に苛まれ、神の救いを見いだせない信者が、自らの心の傷を慰め、自分自身を罪から贖うために行う偽りの自己救済の試みであって、そのようなものは、真の意味での他者への愛や支援にはならない、ということをこれまで書いて来た。奥田牧師の場合にも、同牧師が自分の家庭を半ば置き去りにするような形で、ホームレス伝道にのめりこんでいた影響なども手伝って、息子の愛基氏が幼少期に絶望に至り、学校でのいじめなどを苦にして自殺未遂にまで至っていることが、息子の手記から明らかになっているという。このように、まるでかつての学生運動時代の共産主義の革命家を、キリスト教の社会活動家に置き変えただけのような、家庭をも自分をもかえりみない、痛ましいまでに自己犠牲的で熱血で悲壮な救済事業への取り組みは、決して健全な心理から生まれるものではなく、隣人愛に基づくものでもなく、ただ人間の罪の意識から出て来るものであって、決して誰に対しても正常な結果をももたらさないであろうと言える。

奥田家の場合は、同牧師は家庭に異変が起きても、ホームレス伝道への自らの熱意の裏にある動機の根本的な危険性に気づくことなく、同氏のホームレス救済事業は成功談のように美化され、息子もまた父の事業の根本的な歪みを疑うことなく、父の持っていた罪意識から来る使命感を受け継ぎ、路上デモ支援に身を捧げるなど、親子二代に渡って、類似する道を歩むことになっている。

本当は、このように人の家庭を歪め、子供たちを犠牲にしてまで行われる弱者救済事業は根本的に何かがおかしいのだと気づいて、これを美談として扱うことなく、息子は、この事業に働く怨念と罪の意識の呪縛を見抜いた上で、これと訣別し、いつまでも罪の償いのために生き続ける人生を拒否すべきであったろう。しかし、現実はそうはならず、親子二代に渡って、罪の意識による弱者への自己懺悔の活動が継承された。路上デモ者の苦難に寄り添い、彼らの苦難に自分の苦難を重ね、彼らに手を差し伸べることで自らに手を差し伸べ、路上に人生の活動の場を積極的に見いだす愛基氏の行動は、もともとキリスト教会の信者が繰り広げるホームレス伝道や路傍伝道から福音伝道の要素を抜き去っただけのものであり、そのスタイルはもともとキリスト教会の社会事業、もっと言えば同氏の父の活動に由来する。

本来、牧師という職業は、イエス・キリストが十字架において信じる者の一切の罪を贖われたので、これを信じるなら、もはやその信者が罪の意識に苦しめられて、自分で己が罪の償いを続ける必要はないという聖書の普遍的事実に立って、世の罪を指摘し、世に悔い改めを迫り、世に救いの道を指し示すべき立場にあるはずなのだが、今日のキリスト教は、神の福音だけではどうしても飽き足らなくなって、キリスト教は独善的で冷たいという世からの批判をかわすために、世に譲歩し、世からの承認と賛同を求めずにはいられなくなっている様子である。その歩み寄りが、社会的弱者の救済事業となって表れるのである。

近年、キリスト教においては、『キリスト教の自己批判:明日の福音のために』(上村静著、新教出版社、2013年)などといった著書にも見られるように、社会的弱者への憐れみの欠如した伝統的なキリスト教のあり方を厳しく批判し、これをキリスト教の「独善性」や「排他性」とみなして断罪(クリスチャンの側から自己批判)しながら、キリスト教徒はこれまで自ら無関心に見捨てて来た社会的弱者に対して罪の償いを果たすために行動すべきであると唱える理論がしきりに登場している。社会的弱者のために、という美化された口実があるために、こうした理論の本質的な危険性に気づいて声を上げる人間はほとんど皆無と言って良い状況にある。だが、「明日の福音のために」という、以上に挙げた著書のタイトルにもよく表れているように、こうした理論は、社会的弱者の利益に仕えようとしない排他的で独善的な宗教に未来はないとして、信者自身の告白という形を取りながらも、暗にキリスト教そのものを仮想敵のごとく非難し、変革を迫っているのである。

これまでにも幾度も述べて来たことであるが、このように、キリスト教の内側から出て来る自己批判を装いながら提示される偽りの弱者救済の理論には非常な注意と警戒が必要である。当ブログでは解放神学の危険性を考察することで、こうした偽りの弱者救済理論の持つ危険性を指摘して来たが、このような理論には、「キリスト教は社会的弱者の利益に奉仕するものでなければならない」という大義名分を振りかざして、従来のキリスト教を社会的弱者を排除する「残酷で独善的で排他的な宗教」であったと糾弾し、キリスト教に有罪を宣告し、キリスト教はもっと社会に貢献する寛容で慈愛に満ちた宗教に変革されねばならないと唱え、キリスト教の福音の本質を、巧妙に何か別のもの(すなわち、神の利益に奉仕するものから、人間の利益に奉仕するものへと)すり替えようとする意図がその根底に隠されている。

以上に挙げた『キリスト教の自己批判』においても、解放神学とほぼ同じように、キリスト教の使命を、人間の魂を救うことではなく、信仰を持たない社会的弱者の利益を確保するための社会奉仕活動へとすり替えてしまうよう効果が見て取れる。

こうした理論は、社会的弱者の存在を口実にしつつ、信者が目に見えないパンよりも、目に見える地上のパンを優先して生きるよう促し、キリスト教が人間の魂の救いよりもこの世の物質的な利益を優先して、神ではなく人類の利益に奉仕するものとなるよう、「救済」の概念を巧妙にすり替え、キリスト教の福音を人間の地上的な利益にかなうものへと変質させる効果を持っている。

このように神とこの世の地位を逆転させ、目に見えない霊的な糧とこの世の物質的な糧との優先順位を置き換える転倒した思想を普及させるために、偽りの弱者救済の理論は、「キリスト教はこれまで社会的弱者を十分にかえりみて来なかった」と言ってはクリスチャンを責め、クリスチャンに罪悪感を植えつけることで、世から贖い出された信者たちを、再び、この世の奴隷とし、人類の利益に奉仕する存在へと変えようとするのである。

一旦、このトリックにはまって、罪の意識を持ってしまえば、その信者は良心を汚されてしまい、もはや神の目に清められた者として自信を持って立つことはできなくなる。たとえかつてはキリストの十字架の贖いを信じて罪赦されたという自覚を持っていたとしても、再び、罪の意識の奴隷となれば、その負い目ある限り、その信者はずっと罪の奴隷、この世の奴隷として束縛された状態に置かれ、自ら「被害者」を名乗る人間(世)の意のままに動かされることになる。

聖書には、人間の罪を表すものとして「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書」(コロサイ2:14)という言葉が用いられているが、罪悪感とは、霊的な文脈における貸し借りの関係であり、もしもある人が罪のために負い目の意識を持つならば、その人は霊的な負債を負っているのであり、たとえその負い目を発生させる源となった出来事がどんなに遠い過去であって、仮に当事者がすでに亡くなっているなどして、誰一人それを記憶している者がなかったとしても、本人さえもその出来事を忘れていたとしても、その霊的な負債が完済されて、貸し借りの関係が一切解消されていない限り、その人はいつまでも罪による束縛の下に置かれ続けることになる。

罪意識は、それがキリストの贖いによって解消されない限り、人が悪魔に脅され、この世の支配下に屈する最大の根拠とされるものである。これは悪魔が人を脅し、ゆすり、支配するための格好の材料である。統一教会を含む、いかがわしい各種の宗教では、不幸な事件に遭遇した人に対して、「あなたは十分に先祖供養しなかったために、先祖の祟りとしてこのような災いがふりかかったのだ」などと言って、人を脅し、その「罪」を解消するために高価な壺などを買わせようとする手法が知られているが、そこでは、人に罪悪感を植えつけることで、これを植えつけた人間がその相手を思い通りに支配するという心理的トリックが利用されているのである。

そこで、「キリスト教は社会的弱者を容赦なく見捨てて、自分たちだけで神の救いを独占して来た排他的で独善的な宗教であるから、キリスト教は自らの排他性を罪として悔いて、もっと世に役立つ寛容で慈愛に満ちた福音となって、社会的弱者の利益にも積極的に貢献するようつとめるべきだ」などといった主張も、実のところ、上記の「先祖の祟り」による脅しとさほど変わらない心理的トリックに貫かれていることを見抜かなければならない。

そこではただ「被害者」の仮面をつけて登場しているのが「先祖」なのか、それとも「社会的弱者」なのか、という違いがあるだけで、その他の事項はほとんど基本的に変わらない。結局、そこでは、クリスチャンに対して、何かの行動が不足していたと言っては、真の被害者とは到底言いがたい第三者が巧妙に「被害者」の仮面をつけて登場し、クリスチャンを罪に定め、罪悪感を持たせることで、信者が己が罪を償うためには、「自称被害者」の希望に従って、彼らの注文通りに行動することで、自らの行動を改めるしかないのだと思い込ませるのである。

こうした考えの偽りを見抜けず、そこでしかけられた心理的な罠にはまってしまうと、クリスチャンはとがめのない良心を失って、自分を「加害者」とみなすようになり、「キリスト教や教会やクリスチャンに見捨てられた被害者」を名乗り出る人々に全く頭が上がらなくなり、彼らに対して終わりなき罪の償いを果たさなくてはならなくなる。実際には、ただあらぬ罪の意識を植えつけられ、世から言いがかりをつけられ、その因縁のために脅され、ゆすられ、たかられ、自分の人生を自由に生きられなくなっているだけにも関わらず、「弱者救済」の美名がついているがために、懺悔活動にいそしんでいる人々は、自分は社会に役立つとても良い事業を行っているのであって、まさか信仰を持たない人の背後に働く悪霊に都合よく脅されて彼らの利益の操り人形になっているのではないと思い込んでいるのである。

だが、本来ならば、世から罪定めを受けるどころか、世に罪を告げ知らせ、世に悔い改めを迫り、世の利益のためでなく、神と御国の利益のために働くべき牧師や信者たちが、このようなトリックにまんまとはまって、神を知らない不信者に自分の罪意識を解消してもらおうと、彼らのもとを訪れてはその注文を聞き、こうして世人への罪の償いに努力している様子は、まさに皮肉としか言いようがない。

筆者は、ホームレス伝道にいそしむ奥田牧師や、カルト被害者救済活動に携わる村上密牧師は、以上のように、隣人愛ではなく、罪悪感から弱者救済に突き動かされている人々であると考えている。こうした人々は、自分自身の抱える心の闇(罪の意識や、絶望や、空虚感)を埋めるために、自分と同じような、あるいは自分よりももっと「可哀想な人々」を見つけて来ては、彼らを支援することで、自己の空虚な心を慰め、かつ、自分自身の心の抱える怒りのはけ口を、何らかの救済事業(という名目での抵抗運動)に求めずにいられないのである。

筆者は、クリスチャンが社会的弱者に対して憐れみのない行動を取るべきだと言いたいわけではなく、また、真に困っている人に対して物質的支援が一切、無駄だと言うわけでもない。だが、ここで提起しているのはそれよりももっと深い問題なのである。 

ここで問題となっているのは、「加害者・被害者」という対立構造を持ち出して、クリスチャンであるにも関わらず、罪悪感から、見捨てられた弱者・被害者の救済にいそしむ人々は、人間の罪を指摘し、また人間の罪を赦すことができる存在とは誰かという問いへの答えを、巧妙に捻じ曲げ、はき違えており、そうした人々の思考においては、信仰を持たない者が、社会的弱者という立場に名を借りて(もしくは社会的弱者の存在を巧妙に口実として利用して)、キリスト教とクリスチャンに対して「神」のごとく君臨してこの宗教全体を罪に定め、信者であるはずの人々が、それに反論するどころか、信仰を持たない彼らの言い分を全面的に認めて、自ら言いなりになってその要求に従うことを肯定している異常さである。

そのようにして、信仰を持たないこの世の不信者が、自らの利害に基づいてキリスト教を断罪し、この宗教の足りないところを数え上げて、罪に定めるなど全く恐ろしいことであり、さらに、そのような理不尽な言い分を大真面目に聞いて心に罪悪感を植えつけられた一部のクリスチャン(?)たちが、自分は神に贖われたという清い良心と御子の贖いの完全性を信じる信仰を失って、世人の言いなりとなって、自ら加害者の立場に立って、世の不信者に懺悔し、彼らの利益に仕える道具となって、キリスト教の第一義的使命が、神に仕えることでなく、世に対する奉仕活動にあるかのようにみなしていることは、大変、恐ろしい事実である。

もしもこのような転倒した理屈が成立するならば、クリスチャンは、キリスト教に何らかの被害者意識を持つ者たちが現れれば、簡単にその言いなりになって、彼らの気のすむまで脅され、ゆすられ、たかられ、賠償を要求されるであろう。こうして、キリスト教全体が不信者の利益のために都合よく書き変えられ、全く別の宗教に変質することであろう。このような理屈は、「見捨てられた社会的弱者」を口実にして、キリスト教を脅して思うがままに従わせたい人々の欲望を正当化しているだけである。こうした理論は、キリスト教に恨みを持つ者たちにとってはまさに好都合であり、そこから皇帝ネロの犯したキリスト教徒への迫害と殺戮の罪までの距離はわずかに数歩程度でしかない。

世人はいつの時代も、ネロのような大規模迫害を用いなくとも、常に自ら神となってキリスト教に君臨したいと願っており、そのためにキリスト教の福音を骨抜きにして、この宗教全体を世の利益に仕える道具へ変えて行こうと狙っている。このような不信者の思惑にクリスチャンが自ら迎合し、この世の人間の非難に屈して、地上的・物質的支援(目に見えるパン)を神の福音(見えないパン)と対等かそれ以上の位置に掲げる時、キリスト教の福音は完全に骨抜きにされ、存在意義を失うのである。そうなると、これはもはや塩気を失った塩として捨てられ、踏みつけられるだけである。

さて、ペンテコステ運動に話を戻せば、自ら抱える拭い難い罪の意識の償いとして弱者救済事業にいそしむ牧師たちの活動の一環として、アーサー・ホーランドや元ヤクザの牧師(ミッション・バラバ)による世界各国での十字架行進なども挙げられるだろう。この十字架行進は、公式ページの記載によると、1992年に始まり、ごく最近まで、長年に渡り、世界各国で続けられて来たようであるが、イエス・キリストがすでに負われたはずの十字架を、人間に過ぎない者が再び背負って歩こうとするこの活動は、福音伝道の観点からは全く意味をなさない二番煎じであるばかりか、霊的には有害でさえあると筆者はみなしている。

確かに、奇抜な格好をした牧師が、十字架を背負って各国を巡り歩く姿は、人目を引くであろうし、そのパフォーマンスを見て、これをクリスチャンの巡礼の一種ととらえ、信者の謙遜さや世に対する愛の表れであるかのように誤解して、感動し、涙を流すような人間も、ひょっとすると、いるにはいるのかも知れない。しかし、たとえそうであったとしても、人が十字架を背負って歩くという行為は、クリスチャンならば誰もが知っているように、霊的には罪を負った人間が世のさらし者となりながら己が罪を悔いつつ死へ向かって行進することを意味するだけであるから、信者にふさわしい行動とは言えない。それは罪人が自ら犯した罪のゆえに、恥辱を負って、衆目に晒され、罵倒されながら、自らの罪にふさわしい罰を受けるために刑場へ引かれて行く惨めな姿そのものである。

一体、なぜキリストの贖いを信じて受け入れ、罪赦されたはずの人間が、このような行為をせねばならないのか? それが意味するところは何なのであろうか? 十字架が価値ある貴いものとなるのは、罪を犯したことのない聖なる神の御子キリストが、人類の身代わりに罪無くして十字架において罰せられることによって人類のために贖いとなられたという霊的な文脈においてのみであり、それ以外のケースで、罪ある人間が自ら十字架を背負って歩くことには、ただ単に人類の自業自得の罪を表す以外の意味はない。もっと言うならば、キリストの十字架の贖いを受け入れたはずのクリスチャンが、キリストがされたのと同じように、自ら十字架を背負って歩くことは、その信者がキリストの贖いを内心では否定しており、これを退けて、再び、自分で自分の罪を贖うために終わりなき苦行に励んでいるのと同じ無益で無謀な行為を象徴的に意味する。信者にそのような行動をさせるのは、キリストの御霊ではなく、反キリストの霊だと言われてもおかしくない。

聖書には、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:38)という主イエスの御言葉があるが、これは信者が信仰ゆえに自らの生活において負わなければならない目に見えない様々な代償(自己の死、霊的な試練等々)を意味するのであって、信者が文字通り、目に見える十字架を肩に担いで世界各国を巡礼せよという命令を意味するのではない。さらに、信者が十字架を負って従うべき対象も、目に見えない主イエス・キリストのみであって、世人の目に認められるためのパフォーマンスとして十字架を負えという意味ではない。

アーサー・ホーランドの十字架行進は、この牧師自身がキリストの贖いを自ら退けていることを物語っているにも等しい。こうした活動は、世に対するパフォーマンス以上の効果はなく、その必然性がどこにあるのかも不明であるが、これをクリスチャンになっても罪の意識を捨てられない牧師や信者たちが、自らの負い目の意識から繰り広げる世に対する自主的な罪の告白と償いという文脈でとらえるならば、初めてその意味が明白になる。

アーサー・ホーランドが、牧師になった後でも、根本的に罪赦されたという実感を持てないでいるであろうことは、同氏が創設した元ヤクザの牧師の伝道団体である「ミッション・バラバ」の命名にもよく表れている。

一般に、クリスチャンが、聖書において自分自身をどの人物に同形化するのかは、極めて重要な問題であるが、ミッション・バラバのメンバーの牧師たちは、ゴルゴタに立てられた三本の十字架のどれにも自分を同形化せず、むしろ、キリストの代わりに無罪放免されて十字架刑を完全に免れた殺人者バラバに自分を同形化したのである。

筆者が覚えている限り、ミッション・バラバの命名の根拠については「十字架を免れたバラバも結局は、その後、自分の代わりに十字架に処せられたキリストの死に衝撃を受け、自らの罪を悔い改めてクリスチャンになったのではないか」などという楽観的な推測が用いられていたような気がするが、いずれにしても、そんな話は聖書にはない。

だから、バラバは決して悔い改めた罪人の代名詞ではないのである。この命名には、ひょっとすると「バラバが赦されたことは、キリストに対して申し訳ないことであった」という思いが込められていたのかも知れない。バラバに代表されるような、「恥辱と死の苦痛を免れたいばかりに、罪なきキリストを身がわりに十字架につけてまで、自分自身を無罪放免した卑怯で身勝手で頑なな加害者」としての人類の側から、「人類の横暴のために罪なくして殺された被害者であるキリストへの懺悔」としての意味合いが込められていたのかも知れない。

だが、もしそのような考えが根本にあるとすれば、それは一見、神に対する罪の悔い改めのように見えるかも知れないが、実際には、そこにあるのは、甚だ不遜な考えである。なぜなら、人類が神を人類の「被害者」であるかのように考えて、神に対して同情するほどまでに不遜な考えはないからである。人間に過ぎない者が、神を自分たちの悪行の「犠牲者」とみなして、自ら神に同情することによって、神の霊をなだめ、慰めようとするのは、傲慢以外の何物でもない。聖書をきちんと読めば、キリストは人類の罪の「被害者」として十字架にかかられたわけでなく、人類の凶暴さという意味では、そのような側面が確かに一面では見受けられはするものの、同時に、この十字架にはそれよりも深遠な神のご計画があり、キリストの十字架は、人類の贖いのために神の側から愛によって自主的に差し出された犠牲であり、人類はそれを自分自身の罪の贖いとして感謝して受けとるべきであって、自分とは無関係のものとして涙を流して同情すべき対象ではないことが分かる。

にも関わらず、もし誰かがキリストに「同情する」ならば、その人は、御子の十字架を自分のものとして受け取っていないのである。なぜなら、自分は運よく罰を免れたが、他人は不器用のせいかあるいは不運のせいでそれを免れられなかったと考えている人だけが、自分と違っていわれなく重い刑罰に処せられた誰かに同情することができるからである。もし信者が本当に自分自身の罪を認め、キリストの十字架を自分の罪に対する身代わりの刑罰として受け取っているならば、キリストの受けられた刑罰は、信者が当然受けるべき罰であるから、信者はこれを「不当なもの」として受け止めることはできない。彼はキリストを通して贖いが達成されたことを喜び、感謝し、御子の犠牲を賛美しこそすれ、キリストを人類の罪の被害者のようにみなして「同情」することは決してないであろう。たとえ約二千年前にゴルゴタの丘で死んだのが信者の肉体でなく、信者自身はキリストと同じ苦痛を寸分たりとも味わっていないとしても、信仰を通じて、霊的にその信者は確かにキリストと一体となって、永遠に十字架において罰せられたのである。キリストの受けた刑罰は、信者自身に下された刑罰であり、そこでは信者の信仰を通して、キリストが信者と一つになっていればこそ、キリストの贖いがその信者に対して生きて効力を発し、キリストと共に霊的に死んだ信者は、キリストと共に復活し、贖われた者として新しく生きるのである。

だが、ミッション・バラバという名を見る限り、アーサー・ホーランドを始めとして、そのメンバーは、キリストの十字架の贖いを自分自身の罪に対する贖いとして受け取っていなかった可能性が極めて高いように見受けられる。彼らは、ゴルゴタに立てられた三本の十字架のうち、ただキリストの十字架に自分を同形化しなかったのみならず、死の直前でキリストに向かって罪を悔い改めて、彼をメシアと認め、救われて御国に受け入れられた罪人にも自分をなぞらえなかった。むしろ、十字架刑を完全に免れて、ゴルゴタに立つこともなかったバラバに自分をなぞらえることで、キリストの十字架と自分自身を無縁としたのである。これは極めて暗示的である。

どんなに表向きクリスチャンを名乗っていても、内心ではキリストの十字架の贖いの霊的意義を自分自身に適用していないからこそ、彼らはバラバと同じ立場に立って、不当に十字架を免れた罪により、未だに神(と人類)に赦免を求めて懺悔と償いを続けねばならなくなっているのではあるまいか。そのようにして、自分自身を神の贖いと無縁の者として切り離しているからこそ、彼らは元ヤクザとか、元不良といった過去の負のレッテルを捨てることもできず、この恥ずべきレッテルを貴重なものであるかのように、社会的弱者の証としてかえって売り文句にしながら、神の贖いを退けた人間が、自分自身で背負わねばならない負いきれない刑罰の象徴としての十字架行進などといった活動にいそしんでいるのではないか。それは牧師でありながら、彼らの内心では罪の意識が全く内側で払拭されていないことの証拠である。

アーサー・ホーランドは十字架行進の開始以前から、元不良や元ヤクザの信者仲間と共に、路傍伝道にも精力的に乗り出していたが、このように、世人に対して、特に、世人の中でもとりわけ社会的弱者を対象に、神の愛と憐れみを積極的に説きながらも、同時に、自分自身には罪赦された自覚がなく、内心で深い絶望感を抱えながら、弱者救済という名目で、自らの罪の償いに従事する様子は、奥田牧師や、マザー・テレサ等と共通しているように見受けられる。

マザー・テレサの場合もそうであるが、信仰を持たない世の方を向いて、打ち捨てられた不信者に寄り添い、愛を示すことで、世に愛想を示そうとする活動から見えて来るのは、彼らがその不信者に自分自身を同形化し、彼らの苦しみの中に、自分自身の内心の苦悩を重ね、彼らの中に、自分自身の絶望感を投影することで、自分自身を救おうとし、彼らを「神」とすることで、自分自身を「神」として拝んでいるという事実である。

結局、そこでは、信者の信仰生活を評価するのが、見えない神ではなく、世の人々であるかのように置き換えられ、「社会的弱者」や「被害者」などといった世の人々が、クリスチャンに対して「神」になってしまっており、牧師や信者が、聖書の御言葉に基づき、世を罪に定め、悔い改めを迫るどころか、世に向かって「あなたは神に愛されている」などと語って世の罪を積極的に覆い隠し、世に媚びて、世の利益の代弁者となり、そうしてキリスト教の使命を、人間に奉仕し、人間の欲望をかなえるための社会活動へとすり変えているのである。

このように世に迎合した行動を取るのは、決まって、何かの罪悪感を心に抱え、自分の魂を世に質に取られ、神の救いを拒んでいる人間だけである。「犯罪者は(繰り返し)現場に戻る」という言い回しに表れているように、彼らは自らの心に負い目があり、罪によって自分の魂を世につながれ、担保に取られていればこそ、世という現場に縛りつけられ、繰り返し、そこへ戻らざるを得ないのである。彼らは神を見失っていればこそ、信仰を持たない世人を肯定することで、自分自身を肯定し、世の不信者を美化することで、自分自身を美化し、不信者を「神」のごとく高く掲げることによって、自分自身を崇拝しているのである。

しかし、クリスチャンとは、世から贖い出された者であり、信者はもはや自分自身や、世の栄光のために生きているのではなく、神の栄光のために生きている人々である。信者は罪のゆえに悪魔の奴隷として死の恐怖に脅かされながら、この世の支配下に置かれている者ではないので、世人の利益に媚びて、彼らの言いなりになる必要もない。クリスチャンを無罪放免するのは、世人ではなく、世の社会的弱者でもなく、神お一人だけである。

「義人は信仰によって生きる」と聖書にある通り、信者がどんなに立派な人間性を誇り、熱心な社会奉仕活動を誇ってみたところで、それはマルチン・ルターが登るのをあきらめたピラトの階段を信者が自らの膝で這い上ることと同じであり、それらの行為によって、信者が己が罪を自ら贖い、神の目に義とされることは永久にない。そうした行為によって、人が自らを義としようとすることは、みな人類による自己懺悔、終わりなきむなしい自己救済の試みでしかなく、どんなに社会的弱者に罪の償いを続けても、彼らは罪を告白すべき相手を完全に間違えている以上、人がその行為によって罪赦される日は永久に来ないのである。

聖書の神が、昨日も今日も、永遠に変わらないお方であるように、聖書の福音は時代を通じて一つであり、福音の本質は、過去も未来も永遠に変わらない。キリスト教の福音の本質は、時代のニーズの変化や、人間の思惑によって左右されるものではない。だから、欺かれてはならない、昨日や今日とは全く異なる「明日の福音」なるものは決して存在しない。もしそのようなものがあるとすれば、それは偽りの福音だけである。

福音が一つである以上、人間が罪から解放されて、自由になりたければ、そのために通るべき道もただ一つしかない。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」(Ⅰコリント7:23)聖書にこのようにある通り、キリストの贖いを通して、世から贖い出された信者が、その自由を失わないでいるためには、信者がただ神にのみ従い、再び世の(人の)思惑に屈して、世の(人の)奴隷とならないことが必要である。

世に真理はなく、正義も、真実もない。加害者であろうと、被害者であろうと、弱者であろうと、マイノリティであろうと、御子の贖いの下にいない者は、全て罪人でしかなく、人間の罪を赦す権限は世にはなく、神にしかない。それにも関わらず、信者が、世のために、弱者のためにという美名に欺かれて、世の顔色を伺い、世の軍門に下るならば、世は自らの前に跪き、その支配に下る人間を徹底的に騙し、盗み、滅ぼすだけであろう。「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:3)

このように、
信仰を持たず、神を敬わず、神に従うこともない世に媚びて、世の悔い改めない不信者に対して「あなたは神に愛されている」などと言っては世の罪を無罪放免し、すすんで世の利益の代弁者になろうとする人々は、今日も自分自身を神の敵として、「この人を除け。バラバを釈放しろ。」(ルカ23:18)と叫んでいるのである。だからこそ、そのような人々は決して世を罪に定めようとはしない代わりに、キリスト教を「独善的で排他的な宗教」だと言って罪に定め、クリスチャンに有罪を宣告し、罪の償いを求める。それは結局、彼らが神を罪に定め、敵に回しているのと同じことである。そういうことをしておきながら、同時に「キリストが無罪であるにも関わらず十字架にかけられたのは申し訳ないことであった」などと言って、神のために同情の涙を流し、神を犠牲者に見立てて見当外れな懺悔の活動にいそしむのである。

バラバとは、「都に起こった暴動と人殺しのかどで牢にはいっていた者」(ルカ23:19)であり、一説によれば、革命家だったとも言われる。虐げられた民衆の不満を手っ取り早く解消するために、都の秩序転覆を企てて暴動を起こし、悪代官のように見える役人を何人も殺害したりしていたのかも知れない。そんな荒くれ者の男の方が、キリストに比べ、民衆には親しみやすく、身近に思えたのである。それは、バラバが民衆の利益、つまり、弱者の救済を口実にこれらの犯罪を行ったからであろう。バラバの名前の由来も、息子を意味する「バル」と父を意味する「アバス」から成っているというが、それも偶然ではなかろう。問題は、彼の父は誰なのかということである。ピラトの前には二人の男が立っている。一人は聖なる神の独り子なるキリストであり、もう一人は罪深い人類から生まれたバラバである。当然ながら、キリストを罪に定めることによって無罪とされたバラバは人類を代表しているのであり、その父については、次の御言葉が当てはまる。

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときには、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)


「イゼベルの霊」が生み出すマザコンと、父なる神に反逆する母子が神の家の後継者を詐称して、家の乗っ取りをたくらむペンテコステ運動の危険

・安倍晋三に見る「イゼベルの霊」による支配の危険――母が子に怨念と被害者意識を吹き込むことで生まれる歪んだマザー・コンプレックス
 
さて、ペンテコステ運動の弊害については、以下でも話をつづけるが、この項目では、「抑圧的に支配する異常な母の霊」であるイゼベルの霊が、人の人格をどれほど異常に歪め、人生を狂わせるものであるか、その破壊的影響について、安倍晋三という人物を例に取って考えてみたい。

我が国の現在の首相である安倍晋三が、統一教会と密接な関係にあることは、インターネットでは常識である。さらに、それだけでなく、同氏が相当に深刻な「マザー・コンプレックス」であることも、一般によく知られている。

ちなみに、マザー・コンプレックスという言葉は、心理学用語ではなく、学術的に病理現象として定義されているわけではないようだが、それでも、この語が一般に広く使用されて定着している様子にも見るように、これは日本社会にあまりにも広く蔓延している心の病の一種であると筆者は考えている。

マザー・コンプレックスとは、母親の抱える不安や、孤独、心の傷、被害者意識などが、子に強く投影された結果、それが子供の心の傷となって引き起こされる現象であると筆者はみなしている。

欧米社会では、比較的裕福な家庭の子供などは特に、早くから学校の寄宿舎へ入れられるなどして、親元を離れ、親とは別個の自立した人格としての自覚と責任感を持つよう促される。いつまでも親にべったりな状態が良いものとはみなされておらず、親に依存的な子供は、一人前でないとみなされ、他の子供たちからも嘲笑や侮蔑の対象になることもある。

こうして早くから子供の親離れと自立を促す習慣は、個人を重視するキリスト教的世界観とも無縁ではないであろう。なぜなら、聖書に「その父母を離れ」(創世記2:24)とあるように、キリスト教的世界観においては、人の人生の歩みは、生まれ落ちた家庭から自立して、親の意志とは独立した一個の人格として、自主的に自己決定を下せる状態になることを一人前とみなしているからである。

しかし、東洋諸国においては、集団と個人との概念の切り分けがなく、子をいつまでも親の付属物のように考えたり、社員を企業の所有物のようにみなし、個人をその帰属する団体の所有のごとく考える風潮が根強い。我が国では、家庭においても、子供を健全に成長させるためには、親からの適度な分離が必要であり、子は親だけでなく社会全体で育てるものだという意識が普及していない。

このような社会では、子供は親とは別個の自立した人格であるという意識が非常に薄く、子供を健全に成長させる全責任が、ひたすら親にあるかのようにみなされ、子が成人後に犯罪を犯しても、その責任が親にあるかのようにみなされ、親がバッシングされたりすることも珍しくない。あるいは、親の方でも、子が成人してもなお、子供を自分の付属物のようにみなし、子供の人生を思い通りに支配しようとすることもある。

こうしたことは、まさに東洋的世界観が反映して起きて来る現象であると考えられる。なぜなら、東洋的世界観にはそもそも神と人との断絶という概念がなく、目に見える宇宙と個人とは一体で切り離せないものとみなされ、それが転じて、組織や集団と個人との切り分けも否定され、全世界が一体であるかのようにみなされているためである。

さて、子供への過剰で歪んだ支配は、父親も、母親同様に行う可能性があるが、母から子への抑圧的な支配は、父親の場合と比べて、非常に巧妙で分かりにくい性質を持っている。

父親の子供へのコントロールは、一方的な命令という形で表れることが多い。そこで、もし父親が子供の意志を無視して、一方的な命令を下せば、それは子供の側からの大きな反発を呼び起こし、家庭において、激しい衝突や軋轢を生む可能性がある。それに引き換え、母から子への過剰なコントロールは、父のように強権的で抑圧的な命令という形を取らず、むしろ、一見、子供への「同情」や「愛情」、「思いやり」、「優しさ」といった形をを装って行われることが多い。そこで、それが過剰な支配であり、抑圧であることが、はた目には分かりにくく、当の子供自身にとっても、それが母による自分の人格への侵入であり、人生への不当な介入であることが分かりづらい。

しかも、子供を自分の欲望の道具として支配する母親は、子供が母の本当の動機を決して疑うことができないように、それを子供への同情や愛情という形でカモフラージュするだけでなく、しばしば、自分を夫の被害者と見せかけることで、子供の心に父に対する嫌悪感を植えつけ、自分への同情を呼び起こし、母子の距離を縮めて行くことが多い。

こうした異常な母親は、家庭において自分が抱える孤独や、不安、被害者意識を巧みに子供に吹き込み、父を巧妙に悪者にすることによって、自分には悪意がないかのように装い、子供が自分だけの味方となって、自分に同情するよう仕向ける。「まず母に元気になってもらわないことには、自分の幸せもないのだ」と子供に思わせることで、子供を母親である自分と運命共同体にしてしまい、同じ被害者意識によって結ばれるよう仕向けるのである。

早い話が、それは母親による子供へのマインドコントロールなのであるが、「自分たちは脅かされている被害者だ」という同じ意識を共有することで、母子の境界線が失われる。子は、母の不安を自分自身の思いのように継承しながら、母の利益の代弁者となって、母の観点に立ってのみ全ての物事を見、母の不安を解消することだけを人生の第一義的な使命として生きるようになる。
 
こうして、母と子が被害者意識によって精神的に癒着し、一体となって離れられなくなり、子が母の重荷を自分の重荷として背負い、成人してもなお、母から承認を受け、母を守る盾となって、母を喜ばせ、母の抱える不安や孤独や被害者意識を解消するために生き、独立した一人の人格としてのプライドと境界線を失った状態が、いわゆるマザー・コンプレックスである。このような異常な母親による支配は、被害者意識による連帯があるだけに、子供にとって見抜き難く、抵抗しがたい性質を持つ。

さて、安倍晋三に話題を戻せば、安倍氏の母親(洋子)は、「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介の長女として生まれた。現在ではゴッド・マザーなどとも呼ばれる彼女は、未だに息子である安倍氏の精神に絶大な影響を及ぼしており、内閣改造にまで介入しているとも言われる。安倍氏が官邸になかなか住もうとしないのも、母親から離れられないためなのだと世間では囁かれていた。

この洋子という女性は、あらゆる事実に鑑みて、父親である岸信介の思いを誰よりも強く受け継いで育ったものと思われる。父がA級戦犯としての「汚名」を着せられ、死刑に処されるかという瀬戸際まで追い込まれ、そのために家名が汚されたことへの「無念」や「屈辱感」や「被害者意識」を、この女性は強く我が事として感じ、それゆえ、岸信介に下された歴史の「不当な」審判を覆して、父を「名誉回復」することで、家の名誉を回復し、一家を復興したいという願いを誰よりも強く持って生きて来たものと考えられる。つまり、彼女は「家が脅かされている」という被害者意識を人一倍持って成長して来たのである。

LITERA掲載の記事「母親に弟より愛されたい! 安倍首相の岸信介、改憲への拘りは「マザコン」の現れ!?」(2015.04.01.)によると、洋子氏は「岸家の復興」という悲願を、まず最初に、岸家に養子に出した自分の三男に託そうとしたようである。だが、すでに岸家の人間ではなくなっていた彼女が、家を飛び越えて子供の将来を操るという計画は周囲からも不評を買い、結局、彼女はその悲願を、晋三に託さざるを得なくなった。

こうしたことから、この洋子という女性は、自分の父がこうむった恥から来る怨念と被害者意識を、息子を通して解消しようと考えていたことが分かる。彼女はすでに岸家を出ていたにも関わらず、岸家の人間としての意識を捨てられず、息子が彼女に代わって、先祖の無念を晴らし、家の潔白を主張して、彼女の生家の名誉を回復する道具となってくれることを望み、そのようにして息子を自分の欲望をかなえる道具としようとしたのである。

上記の記事などから判断するに、安倍晋三は、母のマインド・コントロールをまともに受けて成長し、母に認められたいという願望のゆえに、母の怨念と被害者意識と一体化し、それゆえ、A級戦犯とされた岸信介を誰よりも尊敬し、亡き祖父と母の思いを代弁して、先祖の「名誉回復」をはかることを悲願として生き、そのために、祖父が持っていたイデオロギーに自分も身を投じた。

こうして、安倍晋三は首相の座にあるうちに、何とかして「自虐史観」を廃して、自分たちにとって不名誉な歴史はすべて修正し、憲法を改正し、かつての「皇国」として大日本帝国が持っていた「栄光」(むろん、そんなものは存在しないのだが)を「復活」させることにより、自分たちのルーツを正当化し、栄光の高みに押し上げることを、生涯の目的のようにみなすようになったものと見られる(それが「日本を取り戻す」という同氏のスローガンの意味である)。

こうして、安倍氏は、怨念と被害者意識というへその緒で母と強固に結ばれたまま、成人してもなお、母とは別の人間である自分自身の人生を生きることができず、先祖と母の思いを代弁して無念を晴らすことだけが全生涯の目的となってしまったのである。

本来ならば、安倍氏は岸家の人間ではないので、岸信介の「無念」を継承しなければならない理由もないはずであるが、母の存在を通して、彼の負い目の意識、被害者意識を強烈に心に植えつけられ、その呪縛から抜け出ることができなくなってしまったのである。

祖先が下された審判のゆえに、負い目が心に深く刻まれていればこそ、その怨念と屈辱を跳ね返すために、自分たちは無実であると主張しないわけにいかないのである。つまり、自分たちの家に下された歴史の審判は、ただ戦勝国という強者によって押しつけられただけの不当判決であると主張して、これを覆すことによって、先祖の無念を晴らし、負のくびきを払い落として、栄光を取り戻したいと願わずにいられないのである。それはすべて罪の意識を払拭したいという願望から来ていることである。

そのように、安倍氏が母から受け継いで個人的に抱える怨念、被害者意識、復讐心が、我が国において、敗戦を未だに受け入れられない歴史修正主義者やナショナリストやネトウヨのような人々の負の感情と響き合って、我が国に集団的な被害者意識に基づくナショナリズムを生んでいるのである。

このように、安倍晋三という人間は、母(先祖)の被害者意識に人生を乗っ取られ、これを払いのけることだけを目的に生きているも同然であり、その姿はまさに、当ブログで述べて来たグノーシス主義・東洋思想における「脅かされている母を守る子」の姿に重なる。

そこには、ただ「脅かされている母を守る」という姿勢があるだけでなく、「聖書の神が人類に下した罪と死の(不当)判決から逃れたい」という願望が透けて見える。

幾度も述べたように、悪魔は、神によって自分に下された罪定めと永遠の滅びの判決から何とかして逃れて自分を無罪放免したいと願っており、そこで、自分を「神の被害者」であると考え、自分ではなく神を「有罪」として告発することで、神の判決に逆らい続けて生きている。そして、神を知らず、悪魔の支配下にある生まれながらの人類(罪人)を手下とし、自分と同様の負い目の意識を負わせ、自分への有罪宣告から逃れるために神に敵対するよう仕向けているのである。

岸信介を「名誉回復」して、「大日本帝国の栄光」を取り戻すことで、歴史を修正し、自分たちにかけられた汚名を返上して、再び、栄光の高みに上ろうという、以上のような安倍家の人々の考え方は、その魂の深い次元では、まさに悪魔の抱える神に対する怨念と被害者意識と、秩序転覆の願望へと重なって行く。

だから、以上に挙げた例は、決して、先祖がA級戦犯にされたという特殊な事情を抱える一家に限定された話ではなく、その背後には、聖書の父なる神に反逆するグノーシス主義的な母性による「神を押しのけて自分を神としたい」という普遍的な対立が見えるのである。

この母子が逆らっているのは、東京裁判を含めたあれやこれやの不都合な歴史的事実ではない。彼らは歴史的判決を受け入れないことによって、より深い次元では、結局、神がキリストの十字架において人類に下された有罪宣告そのものに逆らって、人間の生まれながらの自己を無罪放免し、自らを神としようと狙っているのである。


・「父」に歯向かう「母」と、「母」の過失をかばう「父なし子」が、勝手に神の家の後継者を詐称して、神の家を乗っ取ろうとする詐欺としてのグノーシス主義

グノーシス主義とは「家が脅かされている」という「母」の被害者意識を土台に成立する「母子家庭の母と父なし子の悲劇の物語」である。なぜ悲劇なのかと言えば、彼らの「脅かされている」という被害者意識は、彼ら自身が犯した罪から来るものであって、ゆえなきことではなく、にも関わらず、己が罪を認めようとしないこの「母子」が「父の家」へ平和に復帰することは絶対にあり得ないからである。

ここで「父なし子」と筆者は述べたが、それが何を意味するのかを、グノーシス主義の構造に照らし合わせて、もう一度振り返っておきたい。

グノーシス主義神話においては、自ら神の創造の秘訣を盗み、神のようになりたいと願った最下位の女性人格(ソフィア)が、どのような方法でかは分からないが、神に反逆して単独で子を生むに至った。そして、この「母」が、自分が生んだ子や子孫(人類)と一緒になって、自分たちこそ神の正統な後継者であると主張し、そうして「子」が「母」の犯した過ちを修正することが、この思想においては、人類の生きる最高の目的とされている。

ここで、単独で子を生むに至った女性人格が、「ソフィア(知恵)」という名で呼ばれているのも偶然ではない。聖書的観点から見れば、この「知恵」は、神に逆らう偽りの知恵を指す。その「知恵」とは、聖書の創世記において、堕落した悪魔が、自分と同じように神に反逆するよう人類をそそのかす際に使った「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)という端的に言葉に表れている。つまり、「知恵を受ければ、誰もが神のようになれる。それによって神を乗り越え、神以上の存在となりなさい」という悪魔の誘惑を指す。

グノーシス主義においては、「神のようになるために知恵を手にしたい」と願ったソフィアの欲望が罰せられることなく、それどころか、この「母」の欲望を正当化し、「母の過ちを修正する」ことこそが、「子」たる人類の使命とされる。

母の過ちを修正するとは、子が母の過ちをかばい、その過ちによって生まれた自分自身のルーツをも正当化し、自分たちは神の後継者として、神の家に正式に迎え入れる資格があると名乗り出て、神の家の一員となり、自ら神となることを意味し、そうして自力で神に回帰することが、人類の最終的なゴールだというわけである。

だが、ここに極めて大きな問題が横たわっている。それは、人類は神の側からの承認を抜きに、一方的に名乗り出ただけで、自力で神に回帰する道があるのか、という問題である。

むろん、そんな道が存在しないことは、聖書によれば明らかだが、グノーシス主義神話を見ても、この点については、神話自体に大きな欠陥があると言えよう。グノーシス主義は、ソフィアの生んだ子の子孫である人類は、「神聖な霊の欠片」を受け継ぐ神の子孫であると主張する。だが、そのことを裏づける客観的な証拠は、この神話の中には存在しない。なぜなら、どうやってソフィアが単独で子を生むに至ったのか、その経緯が明らかにならない以上、彼女の「過ち」の結果として生まれた人類が、神の子孫であると証明する手立ては何もないからである。

ソフィアの違反がどのように成し遂げられたのか、グノーシス主義神話においては詳細が何も語られていないことから、自らの欲望を叶えるために、ソフィアが記述することもはばかられるような、何かしらの禁じ手を使ったのであろうことは明白である。

こうして、彼女は違反に違反を重ね、その結果として生まれた「子」が、本当に「神聖な霊の欠片」を持つ神の正統な後継者であると言える証拠は、グノーシス主義神話の中にはどこにも見つからない。普通に考えても、そのような類の話は、全く胡散臭く疑わしいものとしか言えない。

グノーシス主義が、人類が神のものである「神聖な霊の欠片」を持ち、本来的に神と同一であると主張しているのは、単に人類の側からの「自称」に過ぎない。つまり、ある日、自分は神と同一であるという「知識」に「覚醒」しさえすれば、その日から、人類は神の子孫として、神への回帰の道が開かれるというのである。

このような「神話」の中には、「父からの認可」という発想そのものがない。「父の意向」は、この思想においては、徹頭徹尾、無視されている。ただ「母子」が勝手に自称しさえすれば、彼らは「父の認可」を抜きに、勝手に神の家の子孫・後継者となり、神そのものにもなれるというのである。

正直に言って、こんなにも一方的で虫のよさすぎる話に、誰も信憑性を見いだすことはできないであろう。何よりも、ここまで徹底的に存在を無視され、その意向を踏みにじられ、愚弄されている「父」が、このような「母子」の主張に耳を傾け、これを正しいと認めて、彼らを自分の家族として、自らの後継者として家に迎え入れるようなことは全く考えられない。

もしそんなことが起きれば、もはやそれは「家」ではなくなる。一家の大黒柱、最高の権威である「父」が認めないのに、何者とも知れない者たちがその家の主となることが許されるなら、それは家の乗っ取り事件であり、家の破壊である。そして、ここにこそ、グノーシス主義の狙いが存在する。

グノーシス主義とは、結局、「神の家の乗っ取り」の思想である。だからこそ、最初から最後まですべてが「自称」なのである。人類がただ知識に覚醒して自分から名乗り出さえすれば、神にまでなれるという考えは、神を愚弄している。もともと神を愚弄していればこそ、神の承認など抜きにして、勝手に物事を進めようとするのである。

このようなグノーシス主義の特徴は、誰でも手を挙げれば明日からでも牧師やメッセンジャーになって人を教えられるという、ペンテコステ運動の安っぽくお手軽な特徴にもぴったり重なる。

聖書のテモテ書には、教会の監督や執事の選出の際の審査基準についてこうある。

「「ひとが もし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です。

ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。

――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。


また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。

執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。」(Ⅰテモテ3:1-10)

監督や執事になるための条件は、ここに挙げた記述にとどまらず、さらに続くのだが、いずれにしても、そこでは、教会の要職に信徒が何の審査もなしに就くべきでないことがはっきりと示されている。

以上のような条件は、監督や執事のみならず、当然、牧師やメッセンジャーの選出の際にも当てはまるであろう。牧師やメッセンジャーには、もっと厳しい審査基準が要求されて当然である。

以上に挙げられている条件は、かなり厳しいものであり、それに照らし合わせれば、自分や他人の結婚生活をないがしろにして、他の信者との霊的姦淫にふけっているような信徒は、初めから教会の要職には不適格者として問題外にされているのは言うまでもない。

このような記述が聖書にあるにも関わらず、それを無視して、誰でも神秘体験を受けて「神の霊の器」となったと自称しさえすれば、監督や執事どころか、牧師やメッセンジャーにまでなれるペンテコステ運動が、どれほどいかがわしい信用ならないものであるかは、改めて強調するまでもない。

なぜこの運動においては、牧師やメッセンジャーになるための審査基準がないに等しいほどまでに甘いのか? なぜ客観的な証拠が何もないまま、「自称預言者」が横行するのをいつまでも許しているのか?

それはこの運動が、もともと詐欺師に活躍の場を与えることを目的としているために他ならない。詐欺師のために用意された舞台だからこそ、そこでは詐欺師にとって不利な審査基準が撤廃されているのである。つまり、ペンテコステ運動の指導者は、キリストの名を使ってキリスト教徒を名乗ってはいても、それは完全な偽りであって、彼らは本当はクリスチャンではないということである。

同じことが、統一教会にも当てはまる。「再臨のキリストである」と勝手に自称しさえすれば、その人間がその日から偉大な宗教指導者とみなされ、神にまでなれるというわけだから、何とお手軽な宗教であろうか。ペンテコステ運動との違いは、ただ「神に油注がれた預言者」を名乗るか、「再臨のキリスト」を名乗るかという違いだけである。どちらもキリスト教に名を借りただけの絶望的なまでに信用ならない偽りの宗教である。

キリスト教は、父なる神への従順を信仰生活の基礎としている。人が神に受け入れられるためのすべての条件は、父の御旨に従うことにあり、父の御旨に従うとは、父が遣わされた御子を受け入れ、その御言葉に従うことにある。

それにも関わらず、グノーシス主義は、父の戒めを無視し、父の遣わされた御子を無視し、父の意向を徹底的にないがしろにして、「母の御旨」を全てとしている。

「母の御旨」とは、人類の身勝手な欲望のことである。

統一教会もペンテコステ運動も、共にキリスト教の異端であり、こういう思想の持ち主にとって、大切なのはただ自分の欲望だけである。彼らの「信仰」は、自分自身への信仰、つまり、自己崇拝である。彼らにとって、他人はみな彼らの欲望を満たす手段でしかない。
 
安倍家の例では、母洋子は、自分がすでに岸家の人間ではなくなっているにも関わらず、家を飛び越えて他家の事情に介入し、自分が嫁いだ夫の家を尊重せずに、夫の意向を無視して、自分の生家にこだわり、自分は生家の人間であるかのように振る舞い、自己のルーツの正当化に固執する。そして、彼女は、自分では叶えることのできない夢を、岸家の人間ではない息子に託す。

こうしたことはすべてルール違反であり、彼女は、社会常識を破り、夫の意志を飛び越え、家の枠組みをも飛び越えて、ただひたすら自分の欲望だけを叶えようとしている。歴史的事実もないがしろにし、自分の主人をもないがしろにし、自分の属する家もないがしろにし、他人の家もないがしろにしながら、ただただ自分の祖先の罪をかばって自己正当化をはかることだけを目的に生きているのである。

このような非常識で規則破りの常習犯としての自己中心で厚かましい行動は、ペンテコステ運動の信者たちにも共通して見られることである。何度も繰り返して来たことであるが、ペンテコステ運動に関わる多くの信者たちは、信者が妻である場合には、自分自身を夫の被害者と考えて、夫を心の中で侮蔑しているケースも珍しくない。彼女たちは、自分の主人である夫の意志を決して尊重しようとはせず、家庭を無視して宗教行事に入れ込むなどのことは日常茶飯事で、夫の被害者であることを至る所で触れ回り、夫の面子を潰している例もある。さらには、この運動の信者たちは、自分の所属している教会があっても、牧師や指導者の意志に従わず、彼らに隠れて、平気で他教会に出かけて行き、母教会をよそにして他教会の信徒や指導者と親しく交わるなどのことも日常茶飯事である。こうして、信仰生活においても、平気で二重生活を送り、家族のしがらみや、組織の枠組みなどないがごとくに、どこにでも入り込み、規則を無視して他教会の事情に首を突っ込み、そこにもとからいる信者を追い払ってでも、自分の縄張りを広げて行く。このように、規則も常識もないがしろにし、他人の意志も無視し、自分の意志を妨げるものなど何もないかのように、アメーバのように形を変えてどこにでも浸透し、無限に膨張・拡大しながら、関わるすべての者たちを自分の色に染め上げて行こうとするのが、ペンテコステ運動の信者の特徴である。彼らにはその厚かましく自己中心で非常識な行動に対する罪や恥の意識は全くと言って良いほどない。

ペンテコステ運動の信者たちをそこまで尊大かつ非常識にさせている原因は、彼らの心の被害者意識にある。彼らは、自分たちは家庭においても、教会においても、社会においても、一方的な被害者であると考えることで、自分の行動を正当化していることが多い。もし自分たちの行動に疑いを投げかけられるようなことがあれば、彼らは弱々しい外見や、社会的弱者としての立場などを存分に用いて、情に訴え、自分たちは哀れな被害者であって、多くの過失を情状酌量されるべき存在であるから、自分たちを責めるのは無情で残酷な行為だと主張する。そのような泣き落としも功を奏さなければ、自分と同じように被害者意識を抱える厚かましく自己中心な人間を仲間として呼び寄せ、被害者意識によって結託することで、自分たちに耳の痛い言葉を投げかける人間を「悪魔」扱いし、恫喝し、嘲笑し、呪いの言葉を浴びせることによって、集団的に排斥するのである。

敬虔なクリスチャンの仮面を被りながら、そのようなネットワークを、自分の教会の枠組みを超えて、既存のキリスト教界の中にどこまでも張り巡らそうとする。そのようにして、結果として自分たちの所属していない教会にまでも勢力を広げ、これを乗っ取ることが、彼らの隠れた目的なのである。断じて、教会にこのような破壊的影響を及ぼす運動が、聖書に基づくものであることはあり得ない。

グノーシス主義は、反逆と秩序転覆の思想である。そこでは、神に反逆した「母」と、反逆によって生まれた「子」が一体となって、自らの罪をかばい、「父」に無理やり自分たちを認知させることによって、自己のルーツを自力で浄化し、神の家に回帰して「母子家庭」の汚名を返上しようとたくらんでいる。

このように、グノーシス主義が、聖書の神に敵対する徹底した反逆の思想であるからこそ、初代教会の時代に登場したグノーシス主義の様々な流派の中には、アダム、カイン、ニムロデ、ソドムとゴモラの住人、エサウ、イシマエル、イスカリオテのユダのような、神に反逆した聖書の登場人物たちをまるで聖人のように誉めたたえ、彼らこそキリストの真の弟子であったとして、堕落した罪人らを「名誉回復」しようとする思想も生まれたのである。

このようなグノーシス主義の支離滅裂な反逆の精神は今も健在であり、今日のキリスト教の数多くの異端のみならず、ペンテコステ運動にも脈々と受け継がれている。だから、もしこの運動の支持者をキリスト教徒だと信じて疑わずに関わると、大変な目に遭わされることになろう。

鈴木大拙が、「東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。」と述べているのは、まさにグノーシス主義的世界観に基づいた考えなのである。「母を守る」という言葉は、「母の過ちを修復する」ということと同義である。過ちを犯した母だからこそ、存在を脅かされているのだが、その母をかばうことによって、子までも母と同じ過ちを身に背負おうとする思想である。

そして、このような東洋的・グノーシス主義的世界観における「母を守る」という概念を、キリスト教に公然と持ち込むことによって、キリスト教を骨抜きにしようとしているのがペンテコステ運動である。
 
カリスマ運動の指導者である手束正昭氏は、キリスト教における「母性の欠如」を非難する。同氏は、鈴木大拙と同じように、カトリックがマリア崇拝によって母性原理を補われたのは良いことであるとしながらも、他方、「プロテスタント教会は“聖書のみ”の立場から、聖書からは導き出し得ない『マリヤ崇拝』を廃棄せざるを得」なくなり、その結果、父性原理と母性原理のバランスを失い、「極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまった」と嘆く。そして、このようなプロテスタントに、「人間性の安定や健全さを求めることは難しく、従って、プロテスタント国においては精神的な病を患う人々がより多く排出されることになったのである。父性というのは、上と下、善と悪を峻別して、秩序立てていこうとするので、どうしても心理的葛藤が起こりやすいからである」と言って、まるでキリスト教の父性原理こそが諸悪の根源であるかのように非難する。
 
クリスチャンがこんな主張に簡単に欺かれているようでは話にならないであろう。ここに、グノーシス主義的な「母性」による神の家の乗っ取りの精神があることを見抜かなくてはならない。

こうした主張の本質は、決して「母性原理を補うことによってキリスト教にバランスを回復する」などという美化されたところにあるのではない。そこにあるのは、「父」と「母」を同等に並べ、次に「母」が「父」を凌駕することによって、「父なる神」から主導権を奪おうという試みなのである。そして、「母」とは人類を指す。

だから、そこにあるのは、神の家の主人は誰なのかという問題なのである。

心理的葛藤が起こらないため」などと称して、そこには、同情や愛情や優しさや善意に見せかけて、巧妙に「父」を悪者とし、御父への従順から信者を引き離そうとする思惑が働いていることにクリスチャンは気づかなければならない。

その「母」は優しげに言う、「キリスト教の父なる神様は、全くひどい横暴な独裁者で、考えることもなすことも、みな一方的で偏っているから、そんな残酷で独りよがりな神様の言うことは、あなたは聞かなくても良いわ」。こうして、父の決定をことごとく骨抜きにし、ないがしろにし、その権威を否定し、その戒めを無にして行こうというのが、この「母」の目的なのである。

 「父」の役目とは、まさに手束氏が述べているように、「上と下、善と悪を峻別して、秩序立てて行く」ことにこそある。もしそれが否定されるならば、そんな家庭に「父」はいないも同然である。上下もなければ、善悪もなく、秩序もない。そんなものは家と呼ぶことさえできない。単なる混沌(カオス)である。

グノーシス主義的な「母」が、父性原理の二分性を嫌い、これを残酷なものとして非難するのは、彼女が「父」の意向に服していないからである。自分の罪が暴かれないためにこそ、自分を罪に問うことのできる権威を持つ存在を否定し、告発し、消し去りたいのである。

だから、こんな「母」が「父」と並んで上手くやって行くことは絶対に無理である。彼女は偽り者であって、「父」のふさわしい助け手ではない。この「母」の優しさや寛容さは、偽りであって、真の愛情から来るものではない。彼女は自分の過ちを隠ぺいしているからこそ、他人の過ちにも寛容なのである。

だから、このような罪深い「母」と一体化させられると、「子」は神への従順、貞潔さ、清い良心を失って、魂を汚され、自己を喪失する。母の罪意識を一体となって抱えさせられ、一生、負い目の意識から抜け出られなくなり、父なる神に純粋に向かうことはできなくなる。

そして、その「子」は「母」と一体となって自分の抱える罪の意識を正当化するために、絶えず「父」を否定し憎みながら生きることになる。それは「子」の自尊心をむしばみ、屈辱感、劣等感、被害者意識と、憎しみでいっぱいにしてしまう。「母をかばう」ことによって、「子」は真実を直視できなくなっているので、己が罪をも認められず、悔い改めて、罪赦される機会も失われる。こうして、「子」には「父」に回帰する道が永遠に閉ざされることになる。

挙句の果ては、そのように残酷に支配されている「子」の心では、やがて「母」への憎しみが高じて、それが神と全人類への憎しみになり、特に、エクレシア(教会)への憎しみへと発展するであろう。

人が神の家に正式に迎えられるための手段は、このように怨念と被害者意識の塊である「異常な母」としての「イゼベルの霊」と手を切ることにしかない。人類が無意識に追い求めているのは「父からの承認」であるが、罪深く異常な「母」に結ばれている限り、人は決して「父の本当の子供」にはなれない。

人が神の家に迎え入れられるための条件は、父なる神に対する従順であり、その従順は、御子が十字架において死に至るまでの従順として達成された。この御子の十字架の贖いの御業を通してしか、人間が神に迎え入れられる手段はない。

「イゼベルの霊」と訣別するとは、人間が自己崇拝・自己栄化の偽りの霊と手を切り、神がキリストの十字架において人類の生まれながらの自己に対して下された罪と死の判決を余すところなく自分のものとして受け入れ、神の御手の下に己を低くすることを意味する。それは、キリストが十字架で耐え忍ばれたすべての恥辱と苦痛を、人が自分自身のものとして受け入れ、神が御子に下された裁きを自分自身に対する裁きとして受け入れ、彼の死を自分の死として認めることである。

ところが、ペンテコステ運動は、羊のための唯一の門であるキリストを介さず、人類が一方的に神秘体験によって神と結ばれ、神の子供とされたと主張する。キリストの十字架を抜きにして、神秘体験を誇ることで、信者が自分は「神属人類」となったと主張して、自分を神に等しい存在として高く掲げるのである。

彼らは、神だけを聖なる方とせず、被造物に過ぎない自分を神として誇り、神から神の地位を奪って自分に栄光を帰し、信者の心をも神から奪って、自分自身を崇めさせている。

このように、御父の戒めに従順でなく、キリストの十字架の贖いも否定して、自己の死を経ておらず、本当は、神の家の後継者を名乗る資格を何一つ持っていないのに、ただその身分を詐称しているからこそ、ペンテコステ運動の支持者らが自分を「神の器」だとするその主張には、それを裏づける客観的な証拠が何一つ見つからないのである。

神の家の後継者を詐称しているだけだから、彼らの主張には、主観的な体験以外に何も根拠が存在しないのである。

「イゼベルの霊」とそれに操られる「子」という、詐欺師のような「母子」のペアは、厚かましくしたたかに振る舞うので、しばらくの間は、人を惑わすことはできるかも知れないが、最終的には、必ず、御国の後継者を詐称した罪と、神の家の不法な乗っ取りの罪によって裁かれ、神の家から永久追放される。この「母子」に対する判決はすでに下されている。

「しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」」(ガラテヤ4:30)

父に従わず、父をないがしろにする母と、その母が生んだ誰の子とも分からない子が神の家に家族として迎え入れられることは決してない。この母子による神の家の乗っ取り計画は成功しない。彼らに待ち受けているのは滅びだけである。だからこそ、グノーシス主義とは「母子家庭と父なし子の悲劇の物語」であると筆者は言うのである。


「イゼベルの霊」によるキリスト教の乗っ取り運動としてのペンテコステ運動

・ペンテコステ運動は「イゼベルの霊」によるキリスト教の乗っ取り運動である

これまでの当ブログにおける一連の記事を通して、「イゼベルの霊」の特徴を分析することで、筆者が一体、何を示そうとしているのか、その内容は、ある程度、読者に伝わっているのではないかと思う。

だが、もし伝わっているとしても、あえて踏み込んで説明を続けなければならない。「イゼベルの霊」とは、すでに述べた通り、人の罪悪感や、負い目の意識を足がかかりにして、他者の心に入り込み、他者の人格を乗っ取って支配しようとする「異常な母の霊」である。

悪魔が光の天使を装うように、この忌むべき「母の霊」は、愛情深く、献身的で、敬虔な慈母のような姿をして近づいて来る。だが、彼女の目的は、心傷ついて被害者意識を持つ人間を、真の自由と解放へ導くことにはなく、うわべでは優しく同情的なそぶりを見せながら、傷ついた人の心の弱点に取り入って、彼らを自分の欲望をかなえる道具として支配することにある。

だから、イゼベルの霊に捕まった人々は、彼女の霊の支配下にいる限り、怨念や被害者意識から永久に解放されることはない。心の傷を癒されるどころか、ますます傷が深まって、健全な自尊心を失って行くことになる。そのようにして、被害者意識から立ち上がれなくなり、最後には、何をするにも、彼女からの偽りの慰めと励ましがなければ行動できないほどまでに、自尊心を失って行くことが、彼女の支配の狙いなのである。

イゼベルの霊は、グノーシス主義を起源として生まれており、この霊そのものが被害者意識の塊である。彼女は、外見的には、ただ一人のまことの神を信じている敬虔な信者のように振る舞うかも知れないが、その実、神以外に多くの愛人を抱え、神への貞潔さはなく、彼女は夫を裏切る人妻であるバビロンと同質である。

彼女は、「子ら」を自分の欲望の道具として支配することで、神への反逆へと駆り立てる。この霊の最終目的は、神への反逆と裏切りによって生んだ自分の「子ら」と一体となって、「自分たちこそが神の家の正統な後継者である」と名乗り、父なる神を押しのけて、自分たちこそが神であるとして、神の家を占領し、自分たちを一家の主人に据えることにある。

要するに、イゼベルの霊は、キリスト教に偽装する偽りの霊による、キリスト教の乗っ取りを目的としているのである。

これまで見て来たように、ペンテコステ運動はまさにイゼベルの霊に率いられる疑似キリスト教に他ならない。そうである以上、この運動は、キリスト教を敵視し、最終的には、キリスト教を凌駕し、駆逐し、神の家を乗っ取ることを目的にしているのである。

さて、このような異常な運動を端的に表す特徴としては、「無秩序と混乱」、「被害者意識」、「霊的姦淫」などの用語が挙げられるであろう。以下で分析するように、ペンテコステ運動につきもののこうした悪しき特徴は、この運動が神の正しい聖霊に導かれていないことの何よりの明白な証拠である。


・ペンテコステ運動を導く「イゼベルの霊」が信者たちと結ぶ「被害者意識によるソウル・タイ」

ペンテコステ運動の信者たちは、他のプロテスタントのキリスト教界とはやや異なる独特の社会層の出身であることが多い。一言で言えば、ペンテコステ運動は、もともと無学で貧しく、社会や教会からも見放されて行き場を失ったような人々を、「聖霊による超自然的な癒しや回復」などの超常現象や、異言などの神秘体験によって引きつけ、社会的弱者を主な伝道対象として始まった歴史を持つ。そこで、今日でも、この運動の信者の中には、社会的弱者が極めて多く、現在は、元カルト団体の信者や、元ヤクザ、元ホームレス、元麻薬中毒患者、病者、障害者、社会的マイノリティ、キリスト教界につまずいた過去を持つ信者など、社会から疎外されたり、冷遇された背景を持つ信者が多数在籍している。

このように、もともとキリスト教界からも伝道対象とみなされず、社会でも冷遇されて、行き場を失ったような信者たちを数多く集めていることから、ペンテコステ運動に関わる人々は、極めて被害者意識の生じやすい環境にあると言える。

この運動においては、信者や指導者が講壇に立って、信仰の証として、既存の教会で信仰生活につまずいた体験や、病に苦しんだり、人生における様々な挫折体験に苦しんだ記憶などの、過去の負の体験を積極的にアピールし、そうした体験によって人々の注意を引きつけるような伝道方法を行っているケースも多い。

こうした告白の内容は、表向きには、神を証する内容の形を取っているかも知れないが、実際には、同性愛者などの「カミングアウト」と極めてよく似ている。

そうした告白は、問題を抱えた信者が、自分と同じような問題を抱える信者たちのコミュニティに所属し、問題を互いに確認し合うことによって、その問題を「無害化」し、自分たちが持っていた恥の意識や、負い目や、劣等感を払拭し、負のアイデンティティから解放されようとするものである。

自分たちが過去に受けた心の傷や、挫折体験や、社会で疎外された記憶や、追い詰められた状況などを積極的に人前でアピールし、他者と問題を共有し、連帯することで、それが問題であるという意識を捨て去り、集団的に自己肯定感や、慰めを得るのである。

筆者は、こうした「カミングアウト」のような告白から生じる同情や共感や連帯感を、正常なものとは全くみなしておらず、そうした告白が、神の栄光を証するものであるとも思っていない。

むしろ、そういう告白は、彼らの抱えている問題や、疎外感、負い目の意識、劣等感をより強固にし、キリストの十字架に渡すことなく、自己のアイデンティティの一部にまで高めて行くものであり、そういう告白は、イゼベルの霊がしのびよって来てその信者と強固なソウル・タイ(魂の結びつき)を結ぶには極めて好都合である。

悪霊は、人の魂に傷口がない限り、侵入することができない。他者に対する怨念や、赦せない心や、被害者意識などの負の記憶がなければ、悪霊は侵入口を得られない。そして、悪霊は、人の心にそういった負の記憶がない場合には、新たにそれを作り出すことによって、罪悪感を植えつけ、それを手掛かりに人をコントロールして行こうとする。

「被害者意識」による連帯(ソウル・タイ)が、悪霊によるいかに強力なマインドコントロールの手段となるかは、統一教会などの団体を見ればよく分かる。

統一教会は、アダム(夫)とエバ(妻)との関係になぞらえて、韓国を「アダム国家」、日本を「エバ国家」と呼び、日本は「加害国」であるから堕落した悪魔の国とした上で、「被害国」である韓国に謝罪し償いを果たさねばならないと教える。そうした理屈を用いて、この偽りの宗教は、日本人妻たちが集団で韓国の貧しい農村に嫁ぎ、強制に近い結婚を通して、韓国人の夫に仕え、あるいは日本にいる信者たちが多額の献金を韓国の教会に送ることで、「被害国」に償いを果たすべきであると教える。このように歪められた概念としての「アダム」と「エバ」の関係は、統一教会においては、国家だけでなく、信者間にも、主従関係に等しいものとして適用されるようである。

このように、社会におけるすべての関係を「加害者・被害者」の二項対立を通してしか理解せず、特定の人々の「被害者意識」を事実上「神聖視」することで、他者の心に罪悪感や負い目の意識を植えつけ、その人間を思い通りに支配して行く手がかりにしようというのが、この団体の狙いである。だから、この団体に入信した日本人は、自らを「罪深い加害国」の人間であるとみなし、懺悔と自己批判を繰り返しながらも、同時に、「被害国」の立場に立って全ての物事を見、他者の「被害者意識」に自分を乗っ取られてしまうのである。

ペンテコステ運動は、その思想的構造をつぶさに観察してみれば、まさに統一教会とほとんど変わらない構造を持っていることが見えて来る。

特に、ペンテコステ運動に属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の繰り広げるカルト被害者救済活動などには、以上に挙げたような「加害者・被害者」という単純化された図式が極めて特徴的に表れていると言えよう。

しかも、この被害者運動を率いる村上密牧師は、統一教会の出身である。筆者の見立てでは、村上密牧師は、統一教会を脱会した後でも、統一教会流の「加害者・被害者」の二項対立に基づくものの見方を脱することができず、脱会後も、自分が「加害者」サイドに立っているという負い目から、「被害者」に償いをせねばならないという切迫した強迫観念に駆られて、カルト被害者救済活動にいそしむことによって、統一教会時代と同じように、被害者に対する償いを果たそうとしているのである。

現在の村上氏にとって、「加害者」とは、多くの信者をつまずかせて教会から外に追いやったり、神社に油をまくような非常識な牧師を登場させる「キリスト教」そのものである。つまり、自身もプロテスタントの牧師でありながら、同氏は自らの属するキリスト教そのものを「加害宗教」とみなし、加害者側に立って、罪の意識から、被害者に対する償いを続けているのである。

フェミニズム神学者は、キリスト教を「父性原理の二分性によって多くの信者たちをつまづかせ、精神病理に追い込む偏った欠陥宗教」とみなして、キリスト教に「有罪」を宣告したが、以上のような被害者救済活動に携わる人々も、聖書の二元論に罪があるかのように訴えて、キリスト教を悪者とし、牧師を悪者とし、教会を悪者とし、そして、キリスト教によって傷つけられた被害者は正しい、とみなしているのである。そして、自分ばかりか、他のクリスチャンたちもみな同じように、加害宗教の信者としての負い目を持って、教会につまずいた哀れな「被害者」たちの「救済」に助力すべきだと主張しているのである。

だが、聖書に照らし合わせれば、このような考えがいかに本末転倒であるか分かろう。キリストの十字架は、人間の罪の赦しのために与えられたのであって、その贖いを信じて受け入れた信者が、もはや罪悪感に悩まされる必要はない。可哀想な人々の救済にどんなにいそしんでも、それによって人が自分自身の罪を贖うことは不可能であり、また、それによって他者の魂が救済されることもない。

しかしながら、上記のような人々は、キリストの救いを受け入れたように見えても、魂の深いところで結ばれた「被害者とのソウル・タイ」は消えないのである。だから、一つのカルト団体を脱会し、キリストの贖いを信じて受け入れても、罪悪感から解放されず、未だに自分を加害者の一部のようにみなし、自分の入信した宗教をさえ悪者としながら、弱者に対する罪の意識ゆえに、贖罪行為にいそしむことをやめられないのである。

筆者は、カルトを脱会した人が、真に神に出会って正常な信仰生活に至ることは無理なのだとまでは決して言うつもりはない。だが、カルトを脱会した人には、非常に深刻な心理的な課題があって、脱会したからと言ってそれで問題は終わらず、また、その問題は、カルトによるマインドコントロールの悪影響などと言った表面的な事実よりも、もっと深いところから生まれているものであることを見なければ、その人の生涯に根本的な変化が訪れることはないと考えている。

カルトのイデオロギーに心を惹かれて入信する人には、それに親近感を抱くだけの思想的な土台が、入信前から、すでに心に形成されている。その人の培った世界観そのものが、カルトと似たような思想的特徴を持っているのである。だからこそ、その人はカルトに勧誘された時に、そこに自分と同種のものを見いだし、その思想が偽りであることを見抜けなかったのである。

そうした事実を本人がきちんと見据え、自らの成育歴にまでさかのぼって、自分の心理的な弱点が発生した根本原因を探り出し、これを取り除くことをしなければ、その人は同じ心の弱点を抱えたまま、二度でも、三度でも、同様の過ちを犯し続ける可能性が高い。

以前にも書いたが、「被害者意識(イゼベルの霊)との強力なソウル・タイ」の土台となるものは、カルト団体への入信などよりももっと前から、すでに本人の魂の中に築かれていることが多い。幼い頃や多感な時代に目撃した何かの決定的な痛ましい事件によって発生した心の傷が、最初の明白な「被害者意識によるソウル・タイ」の現われとなることが多いのである。

たとえば、幼い頃に身近な誰かの自殺などの事件に遭遇すると、その出来事を目撃した人の心には、自分はその人を救いなかったという無力感、罪悪感が発生することがありうる。そうした人たちは、大人になっても、負い目の意識を拭い去れず、無意識のうちに、自分の過去を修正するために、過去に遭遇した事件と似たような理不尽の犠牲になっている人たちを探し出し、彼らに助けの手を差し伸べることで、自分自身を罪の意識から救済しようとつとめることがある。

そのような人たちの繰り広げる弱者救済活動は、傍目には、愛情や思いやりに基づくように見えるので、その真の動機が、彼ら自身の罪悪感にあるのだということが見抜かれる可能性は低いであろう。だが、それがもし他者の怨念や被害意識に憑依された人が、自らの罪悪感の重荷から逃れるために行っている活動であれば、それは本質的には、全く不毛な自己救済に終わる。

しかし、人生のある時点で、何らかの痛ましい出来事の記憶を通して、人々の怨念と被害者意識に憑りつかれ、負い目の意識から抜け出せなくなった人々は、魂の内側で、「被害者意識との強力なソウル・タイ」を結び、それがあるために、どこへ行っても、無意識のうちに弱者救済の活動を繰り広げる結果になる可能性がある。早い話が、彼らは他者の被害者意識に呪縛されているのである。

だから、そのようなケースでは、その人は「被害者意識とのソウル・タイ」が発生した根本原因にまでさかのぼって、キリストの十字架においてこの出来事と訣別し、自分の抱える罪の意識を神に解決してもらう必要がある。それをせずに、どんなに自分で罪の意識を払拭しようと償いを繰り返しても、ますます罪の意識にがんじがらめになって行くだけで、その贖罪行為に終わりが来ることはない。そして、そのようなことを続けていれば、最後には、結局、その人は自分自身も被害者意識と一体化して、犠牲者となって終わることになる。そのようにして、ターゲットと定めた人間を自分と同じ破滅へ引きずり込んで滅ぼすことが、イゼベルの霊の目的でもある。

さて、カルト被害者救済活動に関わらず、ペンテコステ運動は、たとえ公然とそのように主張しているわけではないにしても、すでに他の記事で指摘した通り、その理念の構造を調べるならば、初めから、既存のキリスト教界を「加害者」の立場において糾弾し、キリスト教を(その厳しすぎる父性原理の二分性のゆえに、精神病を生み出す)「欠陥宗教」として「有罪」を宣告することで、クリスチャンに罪の懺悔と償いを迫ろうとする性質を持つものであることは明らかである。

そのようなキリスト教に対する被害者意識の霊に導かれていればこそ、この運動は、キリスト教界からも見捨てられ、社会でも疎外されて悩みを抱える人々を主な伝道のターゲットとして定めるのである。

キリスト教界でつまづいた「被害者」を対象とするカルト被害者救済活動などは、決して偶然に生まれたものではなく、この運動がもともと持っていたキリスト教への敵意と憎悪と被害者意識が結晶化しただけであり、この運動がその実、キリスト教それ自体を仮想敵としていることを如実に物語っているに過ぎない。

こうした運動は、早い話が、「キリスト教の被害者」を集団的に組織し、裁判を起こすことによって、他教会の運営に強制介入して、教会の秩序を破壊し、そのような方法で、やがてはキリスト教界全体に有罪を宣告することで、これを乗っ取って行こうとする野望を表すものに過ぎない。

カルト被害者救済活動は、それ自体が、疑似キリスト教としてのペンテコステ運動によるキリスト教界の「乗っ取り」のための巧妙な隠れ蓑なのである。さらに言えば、キリスト教への被害者意識に貫かれるペンテコステ運動自体が、異端思想によるキリスト教界の乗っ取りのために生まれたものであると言って過言ではない。
 

・「混乱と無秩序の霊」としてのペンテコステ運動

聖書は言う、「預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。」(Ⅰコリント14:32-33)と。

ところが、ペンテコステ運動を導く霊は、まさに「混乱と無秩序の霊」である。

ペンテコステ運動には、その集会の形態においても、およそ秩序というものが全く見られないが、教職者の任命方法においても、秩序を無視している。こうした現象は、この運動に「秩序転覆の精神」が満ちているために起きていることである。

この運動においては、信仰生活において十分な成熟が見られず、信徒を教えるために何らの専門的な教育も訓練も受けていない信者が、いきなり教職者の立場に立って説教を語るなどのこともしょっちゅう行われている。

この運動に属する教職者の数多くは、聖職者としての十分な訓練や教育をほとんど受けていない自称牧師、自称メッセンジャー、自称カウンセラーなどである。その中には、元ヤクザ出身の牧師もいれば、カルト団体を脱会して間もなく、カルトのマインドコントロールの影響さえも十分に解けていないのに、牧師やカウンセラーとなって人を教えている例も見られる。

心の傷を抱えたままの人間が、同じように心の傷を抱える人間を導くのでは、まさに盲人による盲人の手引きにしかならず、人を教える立場に立つためにはよほどの訓練と成熟が必要とされることは言うまでもないが、ペンテコステ運動はこうした常識をもあざ笑うかのように、教職者に最もふさわしくない、問題のある過去を抱えた訓練も受けていない人間を、大した功績もないうちに、あっという間に聖職者の高みにまで押し上げてしまうのである。

このように、ペンテコステ系の団体では、通常のプロテスタントのキリスト教界に比べて、教職者となるためのハードルが著しく低いが、こうしたことは、この運動がもともと聖書の深い理解や、信仰生活における実地の訓練などよりも、ただ「聖霊を受けた」などの、第三者には全く確認できない、主観的で個人的な幻のような神秘体験を重視しているためである。

ペンテコステ運動は最初から主観的な体験重視の運動であり、しかも、その体験の内容が、論理的にも客観的にも証明不可能な「超常現象」であり、「神秘体験」である。

だから、客観的に証明可能な実績をよそにしても、このように主観的で個人体験を重視する伝統のもとでは、当然ながら、偽の奇跡体験を売り物とする詐欺師まがいの連中が横行し、そうした人々が指導者となって信徒を欺くという結果になるのは避けられない。

正体不明の「霊界との交信」によって、「神のお告げ(預言)」を受けたと自称し、誰にも理解できない戯言(異言)をしゃべるなどの現象は、キリスト教とは何の関係もないスピリチュアリズムの世界でも普通に広まっていることだからである。そのような現象だけを指して、それが神の霊であると言うことは誰にもできないであろう。

にも関わらず、そうした超常現象や神秘体験を通して、「神と交わった」、「神の霊を受けた」、「指導者として神に召された」などと自称しさえすれば、誰でもその日から一人前の信者とみなされ、教職者にもなれるのがペンテコステ運動であり、そういう運動は、大した努力も実績もないのに、手っ取り早く人の注目される高い地位に立って、人々に褒めそやされ、自分を疎外した社会を見返したいと願っている詐欺師のような人々には、まさにうってつけである。まさにそんなおいしい話はないと映ることであろう。

このように、信仰者としても確かな身元を保証できない、にわか牧師を多数生み出すペンテコステ運動の負の特徴は、たとえば、Dr.Luke率いるKFC(Kingdom Fellowship church)とその姉妹教会である横浜の天声キリスト教会にも、明白に表れている。

Dr.Lukeも、天声教会の現パスターとされる林和也氏も、キリスト教の牧師となるための正式な教育と訓練を何ら実地で受けないまま、自ら「パスタ―」を名乗り、牧会者の立場に立つようになった。Dr.Lukeは、経歴だけから見れば、ペンテコステ運動には稀な高学歴の持ち主であるが、その専門はキリスト教の教職者とは何の関係もなく、聖職者としての訓練を示すものではない。

このように、教会において牧会者としての訓練を受けて指導され、任命されたわけでもない人々が、いきなり牧会者となって講壇に立つことが許されるのが、ペンテコステ運動である。

この運動においては、自称「神の霊の器」であるカリスマ的な指導者が、自分たちこそ神に特別に祝福された選ばれた信者であると誇って、神秘体験を売り物にして信者を集めるなどのことは日常茶飯事である。そういう事例においては、いずれ様々なスキャンダルが明らかになって、その指導者は結局、神の器ではなかったということが判明するのがお決まりのパターンなのだが、「リバイバル」などを目的に掲げて行われた彼らの集金に投じられた献金は戻って来ることはない。

このようなことは、通常のキリスト教界では考えられないほどまでにずさんな信用ならない仕組みであり、まさに真似事のような「自称」に過ぎない世界であり、もっと言えば、振り込め詐欺の変種のようなものである。

筆者は決して神学校というものに存在意義を見いだしておらず、牧師制度にも賛意を示すつもりはないが、誰でも自称しさえすれば、明日からでも、牧者となって人を教えられるという、ペンテコステ運動のあまりにも軽薄でお手軽な慣習は、組織全体を危機にさらすだけであることは否定できない事実であると考えている。実地で何の訓練を受けていない指導者が、いきなり「神の器」や「預言者」を自称して、自ら「聖なる者」を名乗って教会のトップとなるなど、会衆にとってはまさに悲劇である。組織としての最低限度の形態さえ整っていない「教会」が正常に機能するはずもなく、でたらめな運営がまかり通り、悪霊の牙城となって終わるだけなのは目に見えている。

だからこそ、そのような教会には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者であった鵜川貴範氏のように、自分の母教会を裏切ってまで、「自称メッセンジャー」となって他教会に首を突っ込み、他教会の乗っ取りを企むような、まさに詐欺師の見本としか言えないような人物も活躍の場を見いだすことになるのである。

従って、これほどまでにでたらめな特徴を持つペンテコステ運動に属する教団が、カルト監視機構を提唱して、全キリスト教界のカルト化の監視を訴えたり、カルト被害者救済活動を繰り広げて、他教会の運営に介入したりしているのは、もはや笑い話であるとしか言えない。

そういうことが起きるのも、結局、ペンテコステ運動を率いる霊が、「秩序転覆の霊」だからであり、この運動が目的としているのが、キリスト教界の破壊と乗っ取りだからである。

もともとキリスト教界を混乱させることだけを目的としていればこそ、この運動においては、本来は資格がない不適格な者ばかりがリーダーとなって、「我こそは神に選ばれた聖なる器である」などと誇り、でたらめな教会運営を行い、本物の信者を断罪・駆逐して行くのである。

ペンテコステ運動は、イゼベルの霊によるキリスト教の偽装運動であり、「異なる霊」によるキリスト教界の乗っ取りの試みである。ペンテコステ運動の提唱する「リバイバル」の本質は、まさらにバビロン(バベルの塔)の構築という世界征服の野望である。

聖書における「バベル」とはもともと「混乱」を意味する。人類が天まで届く塔を建てて自らを神に等しい者として、まことの神を凌駕し、押しのけようと試みたので、神がその計画を打ち砕くために、人類の言語をバラバラにして意思疎通ができないよう混乱させたことがその語の由来である。

今日、ペンテコステ運動の信者たちが、互いに全く理解し合えない、意味不明の戯言としか言えないような「異言」を、「神の言葉」と称して、てんでんばらばらにしゃべりながら自己陶酔に浸っている様子は、まさに「混乱」と「無秩序」を体現するものとしか言えない。

こうしたことは、彼らを導く霊の本質が「混乱と無秩序の霊」であることをよく物語っており、それだからこそ、こうした信者たちは、互いの意思疎通や承認など初めからお構いなしに、「自称」に過ぎない形で、めいめいバラバラな自己主張に明け暮れているのである。


・ペンテコステ運動の特徴としての「霊的姦淫」―指導者崇拝の教え

さらに、イゼベルの霊とは、唯一の神以外に多くの愛人を持つ「霊的姦淫」の霊である。

グノーシス主義の掲げる「神秘なる母性」は、何が聖であり、何が汚れたものであるかを明確に峻別する聖書の父なる神とは異なり、人の過ちを非難せず、何でも優しく受容し、受け入れる母性であるから、それは偶像崇拝、多神教、汎神論なども優しく受け入れる。その結果として、この霊に導かれる信者たちは、神でないものを神として拝むことになる。

イゼベルの霊が信者たちに犯させる罪の中でも最大の罪は、人類の自己崇拝という罪である。だから、この霊に影響された人々は、ほとんど例外なく、歪んだナルシストとなって、自らを神格化し、最終的には自己を神と同一の存在として高く掲げることになる。

彼らの経歴をつぶさに振り返るなら、こうした人々は、一見、他者に優しく、親切で、敬虔な信者のようにも見えるかも知れないが、内心んでは、被害者意識に貫かれ、傷ついた自己を抱えて、過去の問題をずっと引きずっていることが分かるであろう。だから、彼らが神に等しいものとして神聖視しているのは、彼ら自身であるというより、彼らの抱える被害者意識なのである。

このように歪んだナルシシズムとしての被害者意識や、(傷ついた)自己の神格化という特徴は、以上に挙げた村上密牧師、KFCのDr.Luke、天声教会の林和也氏など、ペンテコステ運動に関わる指導者のほぼすべてに共通して観察される。

すでに述べたように、ペンテコステ運動の支持者たちには、大抵、幼少期からの家庭生活において抱える心の傷が存在する。また、青年時代に異性との関わりにおいて大きな心の傷を受けていたり、大人になってからも、配偶者との間に溝を抱えている例も多数見受けられる。

たとえば、Dr.Lukeは自身の述べていた信仰のあかしによると、若い頃に結婚を前提として交際していた女性に、結婚してほしいと促された際、(進学などを理由に)曖昧に答えをはぐらかしたために、信頼を失って交際が破局し、女性は別の男性と結婚してしまったと述べていたことがある。同氏は、その時に味わった絶望感をきっかけに、心から神を求めるようになり、聖霊による深い慰めを得たと、この体験を信仰の証として語っているのだが、それにしては、その当時、同氏が抱えていた問題は、その後も、解決したようには一向に見えないのである。

Dr.Lukeはその後、新たなパートナーを見つけ、平和で幸福な家庭生活を送っているかのように主張しているが、それにしては、同氏の行動のすべての側面から見えて来るのは、かつての別離によって傷つけられた同氏のおさまらない心の傷と復讐心である。

その心の傷と復讐心あってこそ、Dr.Lukeはいかに自分が女性にとって(女性のみならず全ての人々にとって)魅力的な存在であるかを誇示する自己美化、行き過ぎたナルシシズム、自画自賛を繰り返さずにいられなくなったのである。

村上密牧師の「被害者救済活動」とよく似ていて、過去に起きた問題は、繰り返し、繰り返し、その人の人生において形を変えながら現われ、その度ごとに、Dr.Lukeはこの問題に間違った答えを出し続けているようにしか見えないのである。

さて、目に見える人間との関係は、目に見えない神との関係の影のようなものであり、自分の愛する唯一のパートナーである異性に対して、誠実で貞潔で忠実な態度をとれない人間は、ただ単に人間関係に問題を抱えているだけでなく、神に対する霊的な貞操をも持っていない可能性が高い。

Dr.Lukeの自画自賛はおよそクリスチャンの既婚者にはふさわしくないものである。同氏は自分のブログにおいて、勤め先の大学で自分がいかに女子学生の注目の的になっているかをひたすら自慢せずにいられず、さらに、六本木での夜遊びも止められず、クレジットカードの明細は妻にも決して見せないのだと礼拝メッセージで豪語していた(ちなみに、Dr.Lukeの妻は夫の集会を全くと言って良いほど訪れておらず、信仰生活における夫婦の協調は見られなかった。)

KFCという団体の中においても、Dr.Lukeのナルシシズムは、同氏の信奉者となった他の信者たち(必ずしも女性信者とは限らない)との絶え間ない霊的姦淫と、そのために引き起こされる信者たちの不断の地位争いという形で反映していた。

Dr.Lukeは、そのような争いは自分には全く責任のないことであり、勝手に人々が彼を信奉し、一方的に期待を裏切られて失望しているだけであるかのように主張していたが、事実はそうでなかったものと筆者は確信している。そうした不毛な関係には、明らかに、同氏の青春時代における人間関係の破局と全く同種の構図が繰り返されていた。すなわち、Dr.Luke自身が、「自分がいかに魅力的な存在であるか」を周囲にしきりにアピールすることで、周囲の人々に暗示をかけ、人々の心を自分に惹きつけておきながら、いざ人々から期待に応えるよう要求されると、彼らを冷たく突き放し、その心を傷つける、ということの連続だったのである。そのように他者の心を弄び、傷つけるために用いられる心理的な駆け引きは、まさにイゼベルの霊がターゲットを思い通りに操り、支配し、傷つけるための手法そのものである。

そのような歪んだ方法を通してでも、絶えず自分が他者の注目の的となって、他者からの愛情や関心を独占し、また同時に自分を慕ってやって来る人々を侮蔑し、愚弄して退けていなければ気が済まないDr.Lukeの歪んだナルシシズムは、まさに傷ついたアイデンティティや、劣等感、復讐心の裏返しとして発生したものであったと筆者は見ている。おそらくはそうした心の傷は、同氏の青春時代の人間関係の破局の時点で初めて生じたものではなく、それよりもはるか前から、おそらくは幼少期から、すでに発生していたのではないかと想像される。察するに、生い立ちと親(特に母親)との関係に起因するものなのであろう。

このような深い心の傷を抱える人間は、本人が自分自身の心の傷を直視し、その元凶となる負の記憶を十字架において処理し、それによって生じた罪意識を自分自身から取り除き、その傷が生み出した行為の罪深さを見ない限り、半永久的に誤った行動となって悪影響を放ち続ける。このような傷を抱えたままの人間は、たとえ表面的にはどんなに満ち足りた生活を送っているように見えたとしても、無意識のうちに人を傷つけ、やがては自己愛性人格障害の様相を呈して行くことになるのである。だから、KFCに通う信徒は常に入れ替わっている。一時、Dr.Lukeと親しく交わっていた信徒も、多くが途中で離反し、長年に渡ってこの団体に居続けているのはほんの少数でしかなく、追い出された信徒たちも数多く存在している。そのようなことは、同氏が長期に渡り人々と誠実で信頼できる人間関係を築けないことから発生している。

ある信者は、Dr.LukeとKFCの危険性について次のように述べた。「KFCそのものが、彼が傷ついた自己を慰めるための牙城になっているわけです。彼には人格的な魅力がある。情に厚いことや、恩義を忘れないことや、人の心をほろりとされるような様々な魅力がある。ダメなところだけでなく、そういう魅力もあるので、彼のそばにいる人々は、彼の行動にどんなに問題があって、あるいは、不誠実な振る舞いをされても、ただちに離れようという気にはならないわけです。もう少し、期待して待っていれば、もしかしたら、彼も変わるかもしれない、神が問題を示されて、態度が改善するかも知れない、などと情状酌量し、望みをつなごうとするのです。でも、結局は、そうして人情に訴えることもまた、彼を支配する悪霊の作戦の一つのようなもので、その人情があだとなって、結局、人々は騙され、裏切られ、傷つけられるのです。だから、彼の魅惑的な力は、聖霊から来るものではなく、悪霊に由来するものであって、その魅力にほだされて関わりを続けること自体が危険であることを理解しなければならないのです。」

現在、KFCにいる信者たちは、心の傷を抱えて、他に行き場のなくなった人々である。特に、キリスト教界にはもう戻れないが、居場所を失いたくないという信者たちが古参信徒として残っている。彼らの多くは、配偶者を持つ妻たちであるが、家庭からの逃避の場を求めて、KFCに通っている。あるいは、キリスト教界にいながら、所属教会の牧師を裏切り、仲間の信徒を裏切って、KFCのメッセージを聴き続けている者もいる。こうしたことはすべて、神を裏切って、自分たちの群れを裏切って、家庭を裏切って、人間に過ぎない者を神の栄光の高みに押し上げ、自分を傷つけた者に復讐を果たすためにこそ行われている。

Dr.Lukeのナルシシズムは、同氏の傷つけられた心の被害者意識と復讐心の裏返しとして発生して来たものである。それが生じた最初のきっかけが何であったのかまでは、誰にも分からない。だが、根本原因が何であれ、そのような被害者意識は、長年に渡って持ち続けると、当初、起きた出来事の影響をはるかに超えて果てしなく膨張して行き、やがては人類全体と、キリスト教界と、神に対する敵意にまで発展して行くのである。

他者への根本的な恨みや憎しみを捨てられない人々が、真にキリストの僕となることはできない。そうした人々は、自らの劣等感を優越感で覆い隠すために、宗教に入信するのであって、その信仰生活は本当のものではない。たとえば、夫を恨み続ける妻たちが、夫に対する優位を手に入れるために、信仰にすがるといったこともよく起きる。カルト団体へ入信する妻たちの動機の多くはそうしたところにある。家庭において、社会において、居場所を見いだせず、自分は強い者たちによって踏みにじられた被害者だと感じている妻や子供たちが、夫や親を凌駕する最後の砦として、宗教にすがり、自分を虐げた強者たちを、神を知らない罪人・未信者だと見下げることで、そこに自己の優位を見いだし、心のうちでひそかに復讐を果たすということも往々にしてある。そういう場合は、信仰生活そのものがいわば家庭生活からの現実逃避と復讐の場になっているのである。

このように、神を信じていると自称している人の動機が、真に純粋でなく、彼らの信仰生活が、別の何かの問題からの逃避の手段であり、彼らの惨めな自己を覆い隠すまやかしの手段となっていることは往々にしてある。ある人々は、神不在の心の空洞を覆い隠すために、敬虔な信仰者を装うのである。

そして、ペンテコステ運動のように、そのようにして社会や、家庭や、キリスト教や、果ては神に対しても被害者意識を抱える人々が、集まって団結することで、「自分たちこそまことのキリスト教徒である」と名乗り、キリスト教界を見返そうとする例も珍しくない。

だが、そのような復讐心に基づく人々の「信仰生活」が正常な結果を出すことは絶対にない。そうした人々の信仰生活は、当然の成り行きとして、キリスト教界に戦いを挑み、正常なクリスチャンを罪人として告発し、仲間を絶えず傷つけては排斥するという結果にしか結びつかない。

そうこうしているうちに、自己正当化と被害者意識で凝り固まった人々は、自分たちに反対する者はみな「悪魔の手下」といった考え方に憑りつかれ、人を疑うばかりで誰とも誠実な関係を結べなくなり、やがては聖書の福音からも完全に逸れて、神から神であることさえ盗んで、自分自身を神と自称し、自己崇拝、自己栄光の罪へと陥って行く。KFCはすでにその段階へ入り、異端であることを自ら暴露したも同然である。

残念なことに、KFCの姉妹教会である天声教会も、この点で例外ではなく、この教会では、2009年に、何の正式な手続きもなしに、それまで教会員でさえなく、牧師としての教育も訓練も全く受けていない人物(林和也氏)がいきなり「パスタ―」にされるといった異常な出来事が起きた。

しかも、これを手助けしたのが、天声教会にいる元KFCの信徒の韓国人女性であった。この女性は、以前に、Dr.Lukeの補佐的な役割を果たしたいと願いながらも、KFCの信徒らによって団体を追放されたという過去を持っおり、おそらくはその当時に果たせなかった願望を、子供のような年齢の信者を使って果たそうと願ったものと見られる。

この女性は既婚者であるにも関わらず、教会を拠点としてこのパスタ―と密接な共同生活を送るようになった。恋人のように連れ立って頻繁に外出を共にし、離れていても親子のように密に電話で連絡を取り合い、早天祈祷会や断食祈祷を含め、朝から晩まで教会行事のために林氏を拘束し、同氏はやがて自らの住居も引き払って教会に住み込むようになった。だが、教会には、人が生活するためのスペースがないため、プライバシーも保てず、生活においても何から何まで信徒の世話を受けるしかない。

このようにして信者が自活の手段を奪われて宗教行事だけにのめり込むことは、まさに悪しき団体が信者にマインドコントロールを行うための典型的な手法であることが一目瞭然であった。しかも、素人がメッセンジャーになるなど、あり得ない話であり、本来ならば、神学校に通わせたりして、訓練を受けた後に、牧師として任命するのが当然である。

だが、カルトが人を取り込むのは、真に優れた指導者として福音を宣べ伝えさせるためではなく、傷ついた自尊心を足がかりに団体に取り込み、支配するためでしかない。そこで、講壇でメッセージを語らせるということは、しばしば、カルト団体が心傷ついた人々の自尊心をくすぐり、団体から離れられないようにするための「餌」として利用される。

さらに、上記の韓国人女性は、配偶者をよそにして教会行事と「パスタ―」の世話にのめり込んでいる他にも、水商売用の衣装を販売するブティックを教会の近くに経営するなど、およそ信仰者にふさわしくない生活を送っていた。

筆者はこれらのことを目にして、この「パスタ―」に対して、この教会は危険であり、他者の結婚の関係を侵害するような共同生活が主の御心にかなわず、主の栄光にもふさわしくなく、教会の名を汚す罪深いものであるから、終止符を打つべきであること、そのように信徒に相応しくない生活はただちにやめて、教会を離れて自活した方が良いと告げた。

しかし、同氏はあまりにも教会生活に深く心を支配されていたため、自分の「聖職者」としての任務に反する言動を行うような人間は、みな「イゼベルの霊」に違いないと断定し、こうした忠告に聞く耳を全く持たなかった。自分にとって耳の痛い言葉を告げる者は、悪魔の使いに違いないという考えに至っていたのである。

そのようなことになったのも、林氏がそれまでの人生において抱えていた被害者意識が原因となっているものと筆者は見ている。それはDr.Lukeのケースと極めてよく似ている。

天声教会にメッセンジャーとして取り込まれる前、同氏はちょうど仕事の切れ目にあって、それまでのエンジニアとしての生業を失い、なおかつ、将来を期待していた交際女性とも別れを経験したばかりであった。その痛手を同情的に優しく介抱してやるように見せかけて、その状況を利用して同氏を自分好みの「パスタ―」にしたて上げたのが、上記の韓国人女性である。彼女がそのようなことをしたのも、結局は、それによって彼女を追放したKFCを見返し、なおかつ、彼女が自らの家庭や伴侶に対して抱いていた何らかの被害者意識ゆえに、家庭生活から現実逃避し、伴侶に復讐を果たすことが目的であったとしか考えられない。その欲望のために、彼女は他者の心の傷につけ込み、自分とは何の関係もないはるかに年下の人間を自分の願望をかなえる道具として利用したのである。

その当時の林氏について、Dr.Lukeはある懸念を持っていたようであった。林氏がクリスチャンホームに育ち、閉鎖的な宗教教育を受けたことによって、幼少期から自由な人生を送れず、幅広いものの見方を養うことができなかったことを憂慮して、Dr.Lukeは彼を宗教教育の弊害から解放する必要があると考えていたようであった。そして、筆者はその発想自体は間違っていないものと考えている。だが、信者が解放されなければならない危険は、幼少期に受けた宗教教育のみならず、ペンテコステ運動そのものである。

そうした意味で、自分自身がペンテコステ運動の枠組みを出られず、「パスター」としての栄光も捨てられなかったDr.Lukeの計画が極めて中途半端に終わったのは不思議ではない。

林氏は、不況ゆえに仕事を失って社会での居場所を失い、人生のプランを共有するパートナーをも失って行き場がなくなった心の空白と痛手を利用されて、キリスト教界から出るどころか、再び、ペンテコステ運動のような疑似キリスト教に戻って行くことになった。

ペンテコステ運動に関わる人々は、おそらく筆者のこのような主張を聞いても受けつけず、これを「リバイバルを妨害しようとする悪魔の霊」だとか、「嫉妬のゆえに指導者をひきずりおろそうと企むイゼベルの霊」だなどと断定し、とんでもない決めつけだと考えて、一笑に付そうとすることであろう。(林和也氏が、人間の指導者に従うことを「神に従うこと」と同一視し、指導者に逆らう者をみな「イゼベルの霊」扱いする白か黒かの思考パターンに陥っている様子は同氏のメッセージによく表れている)。

しかしながら、上記のようなペンテコステ運動の指導者がどんなに「自分は神に選ばれた霊の器であり、預言者であるから、自分に逆らったり、自分を批判する者は悪魔の霊に憑りつかれているのだ」などと主張したとしても、実際には、彼らは何の正式な任命手続きをも受けておらず、十分な職業訓練も受けていないまま、講壇に立った自称メッセンジャーでしかない。その上、他者の家庭生活を侵害して、霊的姦淫と呼ばれて仕方のない生活を送り、信徒の心を神から奪い、家庭から奪って、自分自身に向けさせて、自分を神の使いのように崇めさせているのだから、そのような生活のどこに「聖職者」にふさわしい神への従順があると言えようか。

親が子を助けるように、信徒を助けるのではなく、むしろ、信徒から助けられ、仕えられている指導者を、誰が正統な牧者として「神に油注がれた者」と認めるのか。そういうことが通用するのは、ペンテコステ運動の中だけである。

さて、ペンテコステ運動において、このような「自称牧師」が次々と担ぎ上げられる背景には、彼ら自身の意志だけでなく、彼らをおだて上げ、自分好みの指導者に仕立て上げることで、自分の欲望をかなえようとする信者たちの悪影響が必ず存在する。

KFCもそうなのであるが、家庭生活において満足が得られず、夫を心の内で憎み、自分を被害者だと考えている妻たちが、夫に対する復讐の手段として、未熟で心傷ついた男性たちを見つけて来ては、その心の傷を癒してやるように見せかけ、彼らの魂を子供のように手の中で操りながら、彼らをおだてあげ、担ぎ上げ、自分好みの指導者として、人形のように操り、支配して行くのである。そのようにして人の心の弱点につけ入る彼らのしたたかで巧妙な手練手管は、およそ若い独身の男女が考え付いたり真似のできるようなものではない。若くて警戒心がなく、真にキリストへの忠誠心のない人々は、このような人々からの「支援」や「同情」をあっけなく本当の愛情と勘違いして操られて行くことになる。

筆者がイゼベルの霊は「人妻」であり、「母の霊」であると述べるのは、こうした事情があるためだ。ヒトラーでさえ、彼を担ぎ上げた女性信奉者たちの助力なしに、独裁者の地位にまでは昇り詰められなかったのである。担ぎ上げられた人間と、担ぎ上げる人間たちの被害者意識と復讐心が互いに響き合って、悪しき指導者と信者たちとが、切っても切れないソウル・タイを結んで、復讐心の牙城のような団体を築き上げて行く。だが、このようなものは正しい信仰のあり方ではなく、指導者崇拝という霊的姦淫の罪、ひいては、人類の自己崇拝の罪でしかない。

筆者は、この社会において様々な挫折体験を味わい、疎外感を覚える人々の心の弱さに決して同情しないわけではない。だが、それでも、人の被害者意識につけこんで、これに同情的に寄り添い、優しく介抱してやるように見せかけながら、安直な慰めを与え、その心の傷を足がかりに、相手を自分の欲望の通りに思いのまま支配する「母の霊」とは、まことに恐ろしいものだと思わずにいられない。そんな霊に支配されて、安直な慰めを受けて、自分を神に等しい者だと思い上がりに陥るよりは、一人で助けなくもがき苦しんでいた方がまだましなのではないかとさえ思うほどである。

エレミヤ書には、神が忌み嫌われる偽預言者の特徴として、「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ。平安だ。』と言っている。」(エレミヤ6:14)と、偽預言者たちが信者に与える安っぽい同情や慰めが非難されている。

本当は、人の苦しみには、人間の安易な理解を超えるほどの深い意味があって、神の民の傷は、決して手軽に癒されるべきものではないのである。神はご自分の愛しておられる子供たちを様々な方法で訓練される。時には、深い苦難を通過させることで、魂を練られることもある。その苦しみが自己の失敗によって生じた苦難であろうと、そうでなかろうと、そのようなところを通過することによってしか、人は十字架の深い意味を知ることができず、神がその人に知らせようとした重大な教訓を学ぶことができないのである。

人間はただ自分が傷つかないこと、心理的な葛藤やストレスを受けないこと、自分自身が安全であることだけを第一に求め、信仰生活においても、それが理想であるように思い描き、できるだけ苦しみが少なくなるように、自分の身勝手な欲望をかなえてくれそうな人々のもとだけを行き来し、不快なことが起これば、自分を被害者とみなして同情の涙を注いでくれる人々の安直な慰めに飛びつく。

だが、実際には、信仰生活とは彼らが理想として思い描くようなものでは全くない。そのことは、神に愛されたダビデでさえ、己が罪を知らされ、深い苦悩の中で生涯を過ごしたことを見ても分かることである。

聖書に登場する預言者や、信仰の偉人たちのうち、誰一人として苦難を通過しなかった者はいない。彼らは必ずしもダビデのような失敗は犯さなかったかも知れないが、誤解され、いわれなく非難され、中傷され、離反され、憎まれ、迫害され、命を狙われ、時には殺された。民の注目の的となって誉めそやされながら、安全と栄光のうちに生涯を歩んだ者など一人もいない。

信仰生活に限定せずとも、人には、一人で乗り越えなければならない多数の課題が存在する。人間の力だけでは乗り越えられないからこそ、神の助けがあるのだが、人間の理解や支援を度外視して、ただ神とだけ向き合いながら、自分自身で問題を乗り越える力を養わなければ、その人にはどんな人格的成長もない。

自己の欠点を直視することは、人にとっては困難であろうが、人が苦難を通して真に自分の弱点と向き合い、自分の心を吟味することがなければ、その人にはどんな成長も気づきもない。他者ばかりを責めて、自分を被害者だと考えていれば、一歩たりとも、前進して行くことができない。

ところが、今日、キリスト教、特にペンテコステ運動の指導者を名乗っている人々は、全くそれとは異なる道を進んでいる。彼らは心傷ついた人々を積極的に勧誘しては、「あなたは悪くない」という安直な慰めと自己正当化の思いを吹き込み、手軽に信者たちの傷を癒し、その人が真に己の弱点と向き合い、自己の罪を悔い改めて神に立ち返る前に、偽りの慰めと癒しを与えることによって、かえって神から遠ざけ、被害者意識から立ち上がれないようにし、決して問題を乗り越えられないようにしてしまっている。

こうして、安直な慰めを与えることで、手軽に信者たちの傷を癒し、現実逃避によって偽りの平和を唱える者たちは、神から民の心を盗む、呪われるべき偽預言者である。

聖書において、ダビデ王の息子アブシャロムは、ダビデが犯した罪の報いとして、父に反逆する道を選んだが、その末路は悲しい破滅で終わった。アブシャロムが父を出し抜こうと考え出した方法は、以下の通りであった。彼は、美しく立派な容姿をしていたので、その自分の長所を存分に利用して、老いてゆく父をさしおいて、民の人気を集め、自分こそが王であるかのように振る舞い、人々の愛情と尊敬を集めたのである。彼は民の抱える様々な問題を狡猾に利用して、民の陳情に思いやり深く耳を傾けてやるように装いながら、民の被害者意識に巧みに訴えかけて、彼らの心を掴んだ。彼は、王は彼らの抱える悩みには関心がなく、民の陳情には耳を傾けて下さらないのだと思わせて、王を差し置いて民に同情の涙を注ぐことで、民の心を王から引き離し、自分自身に向けさせ、自分こそが憐れみ深い真の指導者であるかのように民衆に思わせたのである。サムエル記には、「こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。」(サムエル記Ⅱ15:6)と書いてある。

今日、ペンテコステ運動に関わる多くの指導者が、安易な慰め主となることによって、信者たちの心を神から奪い、盗んでいる。彼らはまことの神の代わりに、人々の心の問題を解決してやるように見せかけ、信者たちが深い苦しみの只中で、己が罪と弱さを自覚しつつ心から神を呼び求めることを妨げている。そのような指導者にそそのかされて被害者意識に凝り固まってしまった信者たちもまた、自分と同じような心の傷を抱える人々を次々とスカウトしては、被害者意識によるソウル・タイを拡大し、自分たちが神に逆らっているのだとは知らずに、集団的に神の敵と化している。ペンテコステ運動は、そのものが被害者意識の牙城である。

「イゼベルの霊」とは、グノーシス主義的な母性崇拝に由来する「抑圧的に支配する異常な母の霊」である

・グノーシス主義・東洋思想とは、聖書の父なる神を差し置いて、人類を神以上に高く掲げる母性崇拝の思想である。

前回、かなり急いで説明したので、もう一度、ここでグノーシス主義の基本構造をおさらいしておきたい。

グノーシス主義・東洋思想とは、根本的にキリスト教に敵対する秩序転覆の思想であり、同時に、厭世的で悲観的な哲学・世界観でもある。(すでに書いたように、筆者は東洋思想もその構造から見ればグノーシス主義の一種に分類されるととらえている。)

この思想が秩序転覆の思想であるという理由ば、グノーシス主義・東洋思想の根本には、(各神話の細かい差異はさて置き)、万物の生命の源を「神秘なる母性」に求め、この「母なる神(=神秘なる母性)」を聖書における「父なる神」以上に高く掲げる信仰が横たわっているからである。

万物の生命の源を「母なるもの」に求め、「母なるもの」をすべてを包容する慈愛に満ちた存在として崇める思想は、非キリスト教的・異教的な世界、特に東洋諸国においては、明確な宗教や信仰として認知されておらずとも、漠然と、空気のように広く普及している。東洋的世界観は、まさにこの「母なるもの」と切り離すことのできないものである。

しかし、グノーシス主義的な世界観における、「母なる神」という概念は、ただ単に万物の生命の源の象徴としての「母」を指すだけではない(ただし、筆者は、聖書によれば、万物の生命の源は、「母」にはなく、むしろ「父」にこそあると考えているので、生命の源が「母」にあるという考えそのものに同意できない)。ここで言う「母」とは、何よりも、神に造られた被造物としての人類そのものを指す。

聖書の記述によれば、人類最初の女性であるエバは、人類最初の男性であるアダムのあばら骨から、アダムの助け手となるべくして造られたとされる。この男女の秩序は、聖書において、変えられないものであり、また多くのことを象徴している。だが、この男女の秩序は、決して、フェミニズム神学者が言うように、聖書が女を男に比べて劣った、不完全な存在であるとみなして、聖書が男尊女卑の思想に貫かれているなどといった皮相な事柄を意味するのではない。

聖書において、アダムとエバの関係は、二人の罪による堕落ゆえに正しく機能しなかったが、この二人の秩序は、「最後のアダム」であるキリスト(霊的にはただ一人の男子)と、キリストのわき腹から生まれる花嫁たる教会(エクレシア)との結婚を予表するものであった。そうした意味において、人類とは、キリストの花嫁、神の助け手となるべく造られた、霊的な「女性」なのである。

ここで言う「霊的な女性」という概念の中には、人類は本来的に、神を礼拝するために造られた被造物であり、「神から命を受ける器」であり、「神の宮」であるという意味が込められている。だが、そのことは、「神の宮」としての人類の神聖を意味するものでは決してない。宮が貴いのは、神が住まわれるからであって、神を抜きにして、宮が自分だけで聖なる存在となることはない。もしキリストとの結合がなければ、人類は堕落した存在に過ぎず、もし神が住まわれないなら、宮は宮としての貴い価値を失う。宮は、神が住まわれることによって初めて清められ、貴くなるが、神をよそにして、宮が一人だけで神聖を主張するのはナンセンスである。このような意味においても、聖書における神と人類との(霊的な男女の)秩序は覆せないものである。

しかしながら、グノーシス主義は、このような神と人類との秩序を覆してしまう。グノーシス主義は「父なる神」以上に「母なる神」を高く掲げるが、そこから、フェミニズムのように、母性を神格化することで、男女の秩序を転覆しようとする発想も生まれて来る。フェミニズムの思想は、決して単独で産まれたものではなく、その背景にはグノーシス主義がある。こうした思想は、女性をまるで男性の被害者であるかのように主張することで、男性を憎悪すべき罪深い加害者とみなし、かつ、被害者性によって女性を美化することで、女性を男性よりも高く掲げ、あわよくば、男性を無用な存在として退けつつ、この世における男女の秩序を転覆しようとする。だが、こうした思想は、より深い次元では、人類を神の被害者とし、神ではなく人類を崇拝の対象として掲げることによって、神と人類との秩序を覆そうとする欲望が潜んでいる。男女の秩序を覆す思想とは、結局、根本的には、神と人類との秩序を覆すことと同じなのである。

だから、グノーシス主義・東洋思想における「神秘なる母性」への崇拝とは、結局のところ、人類が聖書におけるまことの神を退けて、神の被造物に過ぎない自分自身を神よりも高く掲げ、自己を賛美しようとする自画自賛・自己崇拝の思想であると言える。だから、そこで崇拝されている「神秘なる母」とは、要するに、人類自身のことなのである。

おそらくは、神を知らない堕落した罪深い人類の欲望は、今後、テクノロジーによって、生命それ自体をコントロールする秘訣を見いだし、自らの力で老いや死を克服して、永遠の命を手に入れる方法を開発しようというところへ向かって行くであろう。テクノロジーは、すでに多くの病を克服することで、長寿を可能としたが、やがては死の克服と、永遠の命の獲得を目的に据えるようになるだろう。人類は自らの力で死を克服し、生命を操る秘訣を手にすることによって、神によらずに人類の力だけで、永遠の命を生む「母」になりたいという欲望を抱えているのである。

このように、グノーシス主義的「母性崇拝」の思想には、人類が神を抜きにして単独で神の叡智に到達し、永遠の命を得たいとする欲望が流れているのだが、それはナルシシズムに満ちた、人類の自己崇拝の思想であると同時に、まことの神に対する被害者意識に満ちた思想でもある。

すでに見て来たように、鈴木大拙は、東洋的な世界観の根本には、「母が脅かされている(から母を守らなければならない)」という考えがあると述べたが、そのような発想は、言い換えれば、「聖書の父なる神によって、母(人類)脅かされているから、父なる神の脅威から母(人類)を守らなければならない」という被害者意識を土台としているのだと言える。母(人類)を脅かしている存在とは、聖書の神を指すのである。

グノーシス主義は、このように、聖書の神に対する敵意、被害者意識に基づく思想である。聖書の神が、人類が罪によって堕落したため、全人類に対して、十字架において死の判決を下され、人類が自力で神に回帰する道は永久に途絶えたことを、この思想は、どうしても認めたくないのである。人類は、当初は神によって、神に似せて造られたが、被造物に過ぎず、かつ堕落してしまったので、神の神聖からほど遠いものとなり、神ご自身のように聖ではないということを、この思想は、どうしても認められないのである。

そこで、この思想は、人類がこのように堕落し、その美と栄光を失ったのは、人類が悪いのではなく、神が悪いせいだと考える。この思想は、人類の罪を決して認めないので、人類に罪と死の判決を下した神を悪者とし、人類を神の被害者とする。そして、人類が神を否定することで、自らに死の判決を下した神を否定的に乗り越え、自ら神になり代わって、神に復讐を果たすべきとそそのかすのである。ちょうどフェミニズムの思想が、女性は男性によって劣った存在として規定され、愚弄されていると考えて、男性を嫌悪し、男性を乗り越えることによって、男性を抜きにして、女性が単独で「完全な存在」となることを目指しているのと同じように、グノーシス主義は、創造神を、無知で、劣った悪神として、侮蔑と愚弄の対象とし、被造物に過ぎない人類を、神よりも高く掲げることで、神と人との秩序を覆し、神に対して復讐を遂げようとするのである。聖書の神に対する敵意と被害者意識が、この思想には徹頭徹尾、流れている。

グノーシス主義は、悲観的・厭世的な世界観であればこそ、ハンス・ヨナス教授が述べているように、世の中が混乱し、人々が希望を失い、社会に絶望と被害者意識が満ち溢れるような時代には、いつでもどのような場所にでも、生まれうるものである。

ただし、筆者は、グノーシス主義のような世界観は、異教的な文化的土壌とも密接な関わりがあるものと考えている。

病原菌が、人の肉体的な弱さや傷につけ込まない限り、人の中で増殖して害をなすことができないように、グノーシス主義も、それを受け入れ、培養するにふさわしい土壌が人の心にない限り、決して発生しない。

そして、グノーシス主義が発生するためには、怨念、被害者意識、厭世観、無常観などといった背景が、人の心に必要なのである。こうしたものの溢れる社会には、グノーシス主義は極めて集団的に発生しやすいと言える。

だが、東洋思想に流れる無常観は、まさにグノーシス主義にとっては、最適な寝床であったのではないかと筆者は考えている。インド哲学や仏教などの根底に流れる無常観は、まさにグノーシス主義の悲観的・厭世的な世界観に通じるものと考えられる。

グノーシス主義の発生は、原則として、時代や場所を問わないが、それでも、キリスト教対グノーシス主義の戦いの構図の中では、西洋対東洋といった図式が盛んに見え隠れするのも、そのせいである。西洋世界においては、キリスト教が普及したために、グノーシス主義は弾圧・駆逐されたが、その後、東洋世界こそ、グノーシス主義を保存する母体となって来た歴史があるためである。

ちなみに、筆者が一連の記事で用いている異教的世界観という用語は、かなり荒っぽく大雑把なため、誤解を呼ぶ恐れがあるかも知れない。そこで断っておくと、この概念には、時代を問わず、場所を問わず、聖書のまことの神を受け入れず、聖書の父なる神以上に、異なる神(々)を高く掲げるすべての思想や文化が含まれる。たとえば、国家神道や、共産主義思想のように、宗教という形態を取っていない思想も、広義においては、異教的世界観に含まれると筆者はみなしている。

国家神道もそうであるが、共産主義思想なども、その基本構造から判断するに、宗教に匹敵するものであり、その土台は、まさにグノーシス主義に他ならない。共産主義思想は、決して宗教のように「神聖」という概念を用いず、「弱者の神聖」を謳っているわけでもないが、その基本構造において、事実上、虐げられて自己存在を脅かされた弱者を「聖なるもの」として掲げ、抑圧された者たち(の怨念と被害者意識)を神格化し、それを核として世界の変革を目指していることは否定できない。

つまり、たとえあからさまに「神聖」という概念を用いておらずとも、事実上、「社会的弱者を神聖視し、弱者が怨念と被害者意識によって団結することによって、弱者と強者との秩序を転覆して、弱者が強者を抑圧して復讐を成し遂げようとする思想」は、みな根本ではグノーシス主義に属するのであり、こうした神によらない人類の自己救済の思想はみな、当ブログでは、異教的な世界観の中に分類される。


・「イゼベルの霊」とは、キリスト教とグノーシス主義・東洋思想を合体させて混合宗教を作ろうとする母性崇拝の霊である

さて、長い前置きを終えて、ようやく本題に入るが、今回の記事のテーマは、異教的な世界観を総称するものとして、聖書にも警告されている「イゼベルの霊」というものの危険性について考えることにある。

結論から述べれば、「イゼベルの霊」とは、「霊的な女性である人類が、自己を神以上に高く掲げ、神に逆らって己が罪を否定して、神を乗り越えて自らを神格化しようとする思想」であり、言い換えれば、グノーシス主義的・東洋思想的な母性崇拝(人類の自己崇拝)そのもののことである。

聖書になじみのない人は、「イゼベルの霊」という言葉を聞いても理解できず、突然、どこへ話が飛んだのかという印象しか持たないかも知れない。そこで、まず「イゼベルの霊」という用語が、クリスチャンにとって何を意味するのか、この反キリストの霊に対して込められた糾弾の意味について、予め説明しておくことが必要であると思う。

「イゼベル」という名自体は、旧約聖書と新約聖書の両方に登場する。旧約聖書に登場するイゼベルの人物像は、夫であるアハブ王をそそのかして背教に陥れ、国全体を背教によって堕落させて神に背かせ、神が遣わした預言者をも殺意を持って迫害し、まことの神への信仰を駆逐しようとする悪女として描かれる。他方、新約聖書においては、この同名の女性の名は、特定の人物を指すものというよりも、聖書に反する堕落した教えを言い広める悪霊そのものか、もしくは、その悪霊にとりつかれ、誤った教えを広める要塞となった信者たちを象徴的に指す。

早い話が、「イゼベルの霊」という呼称は、聖書の信仰に立つ信仰者から見れば、到底、容認できない、背教や、誤った異端の教えを流布する偽りの霊(またはその霊に操られる信者)を象徴的に指す。

新約においてイゼベルの霊に該当する聖書箇所は以下の通りである。聖書によれば、正しい信仰から逸れてしまった「イゼベル」と、その霊の影響を受けた信者たちには厳しい裁きが待ち受けている。

「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。」(黙示2:20-23)

ところで、当ブログにおいてはこれまで、聖書の黙示録に登場するバビロンとは、異教的な信仰と、キリスト教とを混ぜ合わせて(両者の霊的姦淫によって)出来上がる混合宗教、すなわち、疑似(似非)キリスト教を指すものであると書いて来た。

「イゼベルの霊」も、以上に見るように、偶像崇拝を指していることから、その本質は、バビロンと同じ疑似キリスト教であると考えられる。つまり、イゼベルの霊もまた、うわべは敬虔なキリスト教徒を装いながら、内面では聖書の唯一の神に対する貞潔さを失って、異教の神々と結合して出来上がった堕落した宗教としての疑似キリスト教を指すものとみなせる。

旧約聖書におけるイゼベルが、正しい信仰に偶像崇拝を混ぜ込むことによって、国を堕落させたように、今日においても、「イゼベルの霊」は、キリスト教に聖書にはない異教的な要素を「つけ加える」ことによって、キリスト教を堕落させようと狙っているのである。

ところで、「イゼベルの霊」が生み出す混合宗教の最たるものとして、ここで挙げたいのが、ペンテコステ運動である。すでに述べた通り、この運動は、あたかもプロテスタントの一派のようにみなされているが、その本質は、異教的な母性崇拝にあることを、これまで一連の記事において見て来た。その事実は、広義においてペンテコステ運動と同種の運動であるカリスマ運動の指導者である手束正昭牧師が、自らの著書において、フェミニズム神学に基づき、聖霊を「母なる霊」と呼んでいる事実に明白に表れている。フェミニズム神学とは、「キリスト教には父性原理の二分性ばかりが強すぎて、母性的要素が足りないので、キリスト教は厳格で偏った宗教になってしまった。母性的要素を補うことによって、キリスト教は欠点を是正され、バランスの取れた宗教になる」などと主張して、キリスト教の中に、聖書にはない母性崇拝をひそかに持ち込むことによって、東洋的な母性崇拝とキリスト教とを合体させた混合宗教を作り上げようとするものである。

だが、今日、ペンテコステ運動に限らず、異教的な母性崇拝の要素は、キリスト教の中に様々な形態を取って公然と入りこんでいる。プロテスタントからは偶像崇拝として非難されているカトリックにおける聖母マリア崇拝などもその一つであり、こうしたものも、「イゼベルの霊」と呼ばれてしかるべき教えである。

結局、「イゼベルの霊」とは、グノーシス主義的・東洋思想的な世界観そのもののことであり、東洋思想的な母性崇拝の霊であると言える。だが、母性崇拝と言っても、結局は、それは人類の自己崇拝の思想を指すのである。

それだからこそ、イゼベルの霊に影響された信者たちは、ほぼ例外なく、歪んだナルシストになって行くのである。カトリックの聖職者による性的不祥事などを例にあげるまでもなく、得体の知れない「母なる霊」に導かれるペンテコステ運動の信者たちにも、以下に述べるように、極度の自己陶酔・ナルシシズム・自己崇拝が観察される。

ペンテコステ運動に関わる信者たちは、ほとんど例外なく、自らの非凡な神秘体験をあからさまに人前で誇り、聖書の記述に反して、誰にも理解できない「異言」を公然と語り、見せびらかし、そうした超常現象を通して、自らが「神の偉大な霊の器」であることを自己顕示し、神ではなく、自分を高く掲げる。

この運動に関わる信者たちの「信仰の証」なるものを聞けば、その内容が、徹頭徹尾、自己の差別化と、自画自賛に溢れていることがすぐに分かる。そうした信者たちのブログ記事、メッセージなどは、隅から隅まで自画自賛に貫かれ、その行き過ぎた自己陶酔、ナルシシズム、自己顕示によって、自分自身を絶対化していることが理解できる。さらに、そこに、誰が見ても不自然で胡散臭いとしか思われないような、非日常的な神秘体験と、極度に情緒的で不自然な感動体験がちりばめられ、それらの体験によって、いかに彼らが他の凡庸な信者たちとは別格の、神に近い特別に祝福された存在であるかが強調されている。

また、この運動においては、牧師として専門教育を受けたわけでもなく、何の資格もなく、訓練も受けていない信者が、ただ「神の霊を受けた」と自称しただけで、突然、メッセンジャーとなって、セミナーや集会で預言者のごとく語り出すということも日常茶飯事で、「自称牧師」、「自称預言者」、「自称メッセンジャー」が至る所で縦横無尽に活動していることでも知られる。こうした無秩序の行き着く先は、大抵、偽りの霊に導かれる彼らの誤った「預言」によって、多くの信者たちが人生の道を踏み誤り、混乱の中に投げ出されるという悲しい結末で終わる。

ペンテコステ運動は、神ご自身を退けて、宮に過ぎない人間が自分自身を誇り、そのような厚かましく愚かで自画自賛的な霊的運動を、特定の教会ばかりか、全世界にまで拡大し、全世界を一つの霊の配下におさめようと、「リバイバル」を提唱する。だが、問題は、この運動を率いる霊とは、一体、何なのかということである。彼らは、自分たちを導く霊は、「聖霊である」と主張するが、彼らの行いは、あらゆる面から見て、ことごとく聖書に反しているため、そうした「実」から判断しても、この運動を支配する霊が、到底、神の聖霊ではないことは明白であり、なおかつ、聖霊を「母なる霊」とする手束氏の主張なども合わせるならば、ペンテコステ運動はそれ自体が、明らかに聖霊に偽装する偽りの霊に導かれる偽りの運動なのである。

そこで、敬虔な信者の目から見れば、このように無秩序かつ盲目的で非聖書的な「俺様主義的な」厚かましい運動を、全世界にまで拡大されるほどにはた迷惑なことはない。だが、この運動の当事者は、自己陶酔のあまり、それが神の御旨であると信じ込み、他者の迷惑などお構いなしに、大真面目に「リバイバル」を目指し、そのために必死で活動し、日夜、祈祷を繰り広げている。そして、彼らの信じる「リバイバル」に反対したり、彼らの自己陶酔的な集会に疑問を投げかけたり、もしくは、「偉大な霊の器」である彼らの欠点を指摘したり、その集会を批判し、この運動の威光を曇らせるような人間は、みな「悪魔の手下」であり、「イゼベルの霊」に違いないと決めつけられ、こうして、彼らは自分たちに歯向かう者に悪魔との罵声を浴びせ、自己に対するいかなる批判も受けつけないまでに頑なになっている。

だが、残念ながら、筆者の目から見れば、「イゼベルの霊」という非難は、目に見える人間の指導者を神以上に絶対化・神格化し、母性崇拝に陥っているペンテコステ運動そのものと、また、この運動に関わって自己陶酔と自己の神格化に至った信者たち自身にこそ向けられなければならない。ペンテコステ運動の提唱する「リバイバル」も、単に彼ら自身のナルシシズムから生まれて来た自己増殖を目的とする歪んだ欲望以外の何物でもない。

このような人間の神格化及び自己陶酔の運動は、まさに人類の自己崇拝の思想である「イゼベルの霊」からしか生まれ得ないものである。

だが、ペンテコステ運動に限らず、もしもキリスト者が、神ご自身以上に自分自身を高く掲げ、神ではなく自分自身に栄光を帰するならば、その人も「イゼベルの霊」の影響下にあるのだと言えよう。だから、ここで非難されるべきは、ペンテコステ運動だけではないのである。

筆者は再三に渡り、プロテスタントの牧師制度自体が誤ったものであると指摘して来たが、それは牧師制度というものが、信者を目に見えないキリストではなく、目に見える人間の指導者に従わせ、人間である指導者に栄光を帰し、指導者を拝ませる偶像崇拝(人類の自己崇拝)だからである。

カトリックにおける法王の神格化や、聖職者のヒエラルキーなどが誤っているとすれば、プロテスタントにおける牧師制度も、それと同じほど誤っているのだと言える。どちらも人間に過ぎない存在を神と同等もしくは神以上に高く掲げ、神の神聖を横取りしている。だが、中でも、とりわけ、ペンテコステ運動は、超常現象を操るカリスマ的な「偉大な霊の器」を誉めそやし、こうした指導者への集団的な陶酔、服従などを要求している点で、通常の牧師制度に輪をかけて、なお一層、深い人間崇拝の罪に落ちていると言えよう。


・「イゼベルの霊」とは、主人を裏切る人妻の霊であり、「子らを抑圧的に支配する異常な母の霊」である

さて、この記事の末尾に、Eden Mediaの警告動画を二つ掲載しておくが、この動画の説明だけでは、「イゼベルの霊」の本質について、不十分で誤解を招きかねない部分があると思うため、ここでもう少し、説明を補っておきたい。

まず記しておかねばならないのは、「イゼベルの霊」とは、聖書における「大淫婦バビロン」と同じように、その根源は、グノーシス主義的な母性崇拝にあるため、それはただ単に「女性の霊」であるばかりでなく、「母の霊」だということである。

「イゼベルの霊」とは、夫(唯一の神)を裏切り、我が子(信者たち)を抑圧的に支配する「異常な母の霊」である。「異常な母」であると言うのは、もし正常な「母」であれば、自分が生んだ子を養い、子が成長すれば、やがて自分を離れて独立するよう促すであろうが、イゼベルは、自分の子らを一生、自分の欲望をかなえる道具として、自分の支配下に閉じ込めてしまうからである。

イゼベルの霊とは、人妻であり、母の霊である。だから、もし聖書における「イゼベルの霊」の持ち主が、若くて美しく魅惑的な独身女性や、あるいは、いかがわしい商売に従事する美麗な女性たちだけに限定されると考えている人があるならば、その人は早めに考えを改めた方が良い。

聖書の箴言にはこうある。

「命令はともしびであり、おしえは光であり、
 訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。

 これはあなたを悪い女から守り、
 見知らぬ女のなめらかな舌から守る。

 そのまぶたに捕えられるな。

 遊女はひとかたまりのパンで買えるが、
 人妻は尊いいのちをあさるからだ。」(箴言6:23-26)

以上の聖句において、「人妻」が、「遊女」よりもさらに恐ろしい危険な誘惑の源として警告の対象にされていることに注意したい。こうした警告がなされる理由は、「遊女」(娼婦)はただ金銭のために一時的に身を売るだけであり、はっきりとそれと分かる身なりをしており、限定された場所にしか存在しておらず、彼女たちは世間から軽蔑される職業に従事しており、到底、誰からも真実な愛情の対象とはみなされないが、堕落した「人妻」は、敬虔かつ貞淑そうな装いをしながら、どこにでも出かけて行き、真実な愛情に見せかけて、数多くの人々を誘惑し、隠れて主人を裏切り、他者の人生を滅ぼすからである。

上記に挙げた新約聖書のイゼベルに関する記述においても、彼女には多くの「愛人」がいるだけでなく、「子供たち」がいることが言及されている。

聖書においては、大淫婦バビロンも、「母」と呼ばれていることに注目したい。

「その額にには、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。」(黙示録17:5)

このように、バビロン、イゼベルの霊は、基本的に、「人妻」であり、「母」である。彼女たちは、唯一の主人に結ばれていながらも、主人を裏切って、多くの愛人を持つ堕落した「人妻」であり、なおかつ、自分の「子供たち」を抑圧的に支配して自立を妨げる異常な「母」である。

彼女たちは「異常な母」でありながら、同時に、自分を慈愛に満ちた聖母のように見せかけ、偽りの美しさによって多くの人々を魅惑する。イゼベルの美しさは、彼女の母性本能から来るものである。

だが、うわべは慈愛に満ちているように見えても、「イゼベルの霊」は決して人を慰めることも、癒すことも、解放することもしない。ただ閉じ込め、道具として支配するだけである。

この「異常な母の霊」は、被害者意識に満ちており、あたかも子供たちを養ってやるように見せかけながら、子供たちに自分と同じ被害者意識を植えつけ、子らが被害者意識という見えないへその緒で彼女と結ばれて、永遠に「マザー・コンプレックス」となって、彼女の支配を離れられず、生きている限り、「母を守る」ことを使命として、彼女の自己防衛や、欲望をかなえる道具となって生きるように、巧妙な形で自分の「マトリックス(子宮)」に閉じ込めてしまう。

イゼベルの霊とは、グノーシス主義や、東洋思想において神格化されている「母なる神」であるが、この「母なる神」とは、聖書の父なる神に対抗して、自己を脅かされている異教的な神(々)である(同時に、それは人類のことでもある)。

東洋思想に流れる「子が母を守るべき」という考えは、「母が脅かされている」という被害者意識からこそ発生している。「母なる霊」であるイゼベルの霊は、絶えず自分を脅かされていると感じていればこそ、「母子ともに家が脅かされている」という恐怖感、危機意識を子供たちに植えつけ、被害者意識を共有することで、子供たちと運命共同体となり、子供たちが彼女を守る防波堤となって、彼女の支配から一生、抜け出せないようにしてしまうのである。彼女が子供たちを閉じ込める「マトリックス」は、「脅かされている家」であると言える。

この霊の支配がどれほど恐ろしいものであるかは、「母を守る」という異教的な考え方が、どれほど多くの人を犠牲にして来たかを見ることによって理解できる。

一つ前の記事において、筆者は「母なるロシアを守る」という考え方が、キリスト教から生まれたものではなく、異教的世界観を土台として生まれたものであること、この概念は、ロシアという国を、国民にとって絶対的なまでに神格化し、国家を守るために国民はすべてを捧げるべきという、国家への絶対的なまでの忠誠・服従を要求する「信仰」にも近いものとなっていることを述べた。そして、そのように「母なるロシア」という概念を用いて、「国」を神聖視・絶対化していればこそ、ロシアの為政者たちは、「神聖な母なるロシアとの結婚」を盾に、自らの権力を強化して来たのであり、その結果、この国の歴史は、異常なまでに肥大化した国家権力が、国民を抑圧的に支配するということの連続となったのである。

ちなみに、ここでは、「母なるロシア」と、神聖な母性と同一視されている国家そのものが、国民を閉じ込める「マトリックス」となっている。

異教的母性崇拝としての「イゼベルの霊」は、このように、国家レベルにまで高められることがある。ロシアと同様の現象が、かつて我が国では、国家神道(国体思想)において見られた。国体思想においては、「子が親を守るべき」という考えに基づき、「臣民は天皇の赤子であるから、天皇のために命を捨てるべき」と説かれ、国民は、天皇制維持(国体の護持)のための防波堤となって、天皇のためにすすんで死ぬことが奨励(ほとんど強制)されたのである。

かつて『国体の本義』において、確認したように、国家神道(国体思想)においても、「マトリックス」の役割を国家が果たした。そこでは、国家は、天皇を中心とする「一大家族国家」とみなされ、臣民は生まれ落ちたその瞬間から、国家と切り離せない関係にあり、その関係は、個人による選択の余地のない、離脱の許されないものとみなされた。国家を離れての個人という概念は、無きに等しい抽象概念であるとされたのである。

さらに、今日、ペンテコステ運動においては、目に見える人間の指導者が「霊の父母」として神格化され、「霊の子」である信者たちは、「霊の親」への事実上の絶対的なまでの従順(崇拝と言って差し支えない)を求められる。そして、そのような歪んだ家族モデルに基づく「霊の家」を全世界に押し広げることが、「リバイバル」であるとみなされる。

この運動においては、教会や、教団などが、信者を閉じ込める「マトリックス」の役割を果たしている。それだからこそ、ペンテコステ運動に属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、自らの教団から信者や教会が離脱することを決して許そうとしないのである。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団京都教会の村上密牧師は、自らの教団を自主的に離脱した鳴尾教会のような小さな教会に向かって、徹底的なまでに悪罵の言葉を浴びせ、離脱を許すまじと非難しているが、そうした自由なき恐るべき主張は、ペンテコステ運動が、母性崇拝という「イゼベルの霊」の歪んだ信仰の入れ物となり、この霊の支配に基づき、自教団という彼女の「マトリックス」に信者を閉じ込め、そこから決して逃がすまじとしている姿勢をよく示すものである。こうして、信者から自由と自己決定権を奪い、信者を「子」として教団というマトリックスに閉じ込めることによって、残酷な「母なる霊」の支配から決して抜け出られないように拘束しているのである。

このような側面から見ても、ペンテコステ運動は、キリスト教ではなく、異常な母である「イゼベルの霊」に導かれている悪しき偽りの運動であると言える。異常な母の霊の支配する運動だからこそ、子らが自立して、自らの意志によって自分自身の人生を選び取り、母を離れて自由に生きて行くことを許さないのである。

さらに、「子孫は先祖のために尽くし、年少者は年長者のために仕え、子は親のために命を捨てるべき」といった東洋的な世界観は、W.ニーの著書『権威と服従』などに見られる「年長者の兄弟姉妹の指示に年少者の兄弟姉妹は無条件に従うべき」といった考え方の中にも受け継がれていると言えよう。

このように、「子は親に仕え、子が親を守るために命を捨てるべき」という考えは、偽りの思想につきものの転倒した思想である。すでに他の記事でも述べた通り、本来は、子こそ、親によって守られなければならない存在であり、子が自分よりも強い者である親を守るために命を投げ出すべきなどといった異常な思想の下では、子は親の付属物とみなされて、独立した人格を否定され、成長するために必要な助けを親から得られないばかりか、下手をすれば、親の利益のために自分の命までも失ってしまうことになる。そのような転倒した価値観の下では、子は親の見栄や欲望をかなえる道具として搾取され、犠牲とされるばかりで、正常な生活を送ることは決してできない。早い話が、グノーシス主義・東洋思想における母性崇拝としての「イゼベルの霊」のもたらすものは、親子関係というよりも、搾取と人殺しの思想であると言えるであろう。


・「イゼベルの霊」とは、聖書の神によって自己存在を脅かされていると感じる生まれながらの人類(罪人)の被害者意識のことでもある

イゼベルの霊とは、被害者意識の塊である。なぜなら、この霊の根本には、「聖書の神とキリスト教によって、人類が不当に存在を脅かされている」という恐怖があるためである。

イゼベルの霊は、悪魔に由来するものであり、悪魔は自分が神を裏切っており、まもなく神に裁かれ、永遠の滅びと恥辱に投げ込まれることを本能的に理解している。だが、悪魔とそれに導かれる諸霊は、決してその判決を受け入れることができないので、そこで、「神の下された判決は不当だ」という被害者意識を持っている。そして、この被害者意識に基づき、神に反逆するために、自分と同じような恐怖感や、被害者意識を持つ人間をたくさん集めて来て、被害者意識によって連帯することで、自己防衛の砦を作り上げ、聖書のまことの神という「脅威」に対抗するための霊的要塞を作り上げているのである。

だから、イゼベルの霊は、傷ついた心や、被害者意識を持つ人々を好んで探し出し、犠牲者にふさわしい人間を見つけると、母性本能を最大限に発揮して、聖女のように、慈愛に満ちた優しい母のように振る舞いながら、問題を抱えた人々に寄り添い、かいがいしく世話を焼いてやることによって、警戒心を緩め、そうして彼らの心の弱点を巧みに探り出し、その人間の心を操って行く。

彼女は、初めから悪鬼としての正体を表したりはせず、ターゲットとした人間を優しくかばってやうに見せかけながら、その人間が、自己憐憫と、自己正当化の思いと、被害者意識から抜け出られないようにして行き、その弱みを担保に、自分の繭のようなマトリックスの中に取り込み、偽りの安全、偽りの慰めを与え、彼女のもとを永久に離れられないように拘束して行くのである。

だが、彼女の優しさは、偽りである。だから、イゼベルの霊の支配に落ちた人間は、「自分は悪くない」という思いに凝り固まって行き、他者を責めるばかりで、傷ついた自尊心が回復することもなく、やがて被害者意識から立ち上がれなくなる。そして、その被害者意識によって、「脅かされる母」であるイゼベルと見えないへその緒で結ばれて、イゼベルの自己防衛の手段として使い尽くされて行くことになる。

ペンテコステ運動に関わる信者たちに接触して、彼らの人生についてつぶさに耳を傾ければ、ほとんど例外なく、彼らが何らかの根強い被害者意識を持っていることが分かるであろう。概してこの運動の支持者に共通しているのは、既存のキリスト教界において信仰生活につまづいた過去を持ち、それゆえ、キリスト教界に対して根強い不信感や恨みを持っていること、また、その恨みの裏返しとして、自分たちがキリスト教界の知らない高邁な霊的真理を知っており、神と親しく交わることのできる特別に選ばれた存在であると考えることで、既存のキリスト教界を見返そうとしていることである。

ペンテコステ運動を支持する指導者のメッセージを聞いてみると、その内容は既存のキリスト教界に対する根強い敵意と反感に貫かれ、他の堕落した教会とは異なり、自分たちこそが「神に受け入れられる正しいキリスト教である」という自惚れ、自己の差別化の意識が随所に見られることであろう。

こうした運動の支持者の多くは、幼少期に家庭生活において大きな心の傷を受けており、親に対する恨みを心に持ち続けていたり、あるいは、若い時分に異性との関わりにおいて何か決定的な心の傷を受け、異性に対する不信感や恨みを抱えていたりする。また、社会的弱者である場合が多いため、社会生活において色々と不利な立場に立たされ、この世に対する敵意、被害者意識などを持ち続けている例も往々にして見られる。

そうした被害者意識が、大人になってからは、配偶者に対する恨みに発展し、特に女性の場合は、信者たちは、自分は配偶者から不当に抑圧されている被害者だと考えている場合も少なくない。

だが、真に夫から抑圧されている不幸な妻たちと、以上のような人々との決定的な違いは、ペンテコステ運動の信者たちは、仮に自分を夫の被害者だと考えて自己を哀れみ、夫を加害者のように主張したとしても、決してその不幸な状態に終止符を打つための現実的な努力をしないことである。彼女たちは、愚痴は言うが、決して勇気を持って夫のもとを去ることをせず、夫と真正面からぶつかってでも、自分が望む生活を打ち立てるための努力をしない。むしろ、「夫が改心してキリストの僕になってくれたら、すべては見違えるように変わるだろう・・・」などといった他力本願な解決に漠然と希望を託すことで、現実から目をそらし、考えることをやめ、自らの行動の責任を放棄して、打つべき対策を講じず、状況に翻弄されてなすがままになるのである。だから、彼女たちの愚痴を聞いていれば、結局、あらゆる試行錯誤を行って、真に自由になることを願っているのではなく、ただ何もしないまま、「自分は被害者である」という立場に居直り、すべてを人のせいにして、かつ、自分の努力によらずに、奇跡的な解決が訪れることに期待して生きているだけなのだということが次第に分かって来る。そのような諦めに満ちた生き方は、無責任を助長するだけで、前進を生まない。

カルト被害者にしても同じなのである。仮に裁判によって自分を傷つけた教会や悪徳牧師に一矢報いることができたとして、その先に何が待っているのであろうか? 真実な信仰はどのようにして養われるのか? 多くの場合、カルト的な団体に接近する人には、そうなる以前から、自分の心に、異常な世界観を呼び寄せる土壌が存在する。病原菌が人に害をなすためには、人に何かの弱さがなければならないように、悪霊が人につけ込むためには、ターゲットとなる人の心に何らかの傷が存在しなければならないのである。

だから、信者は、悪しき霊につけ込まれる隙となった自己の弱さを見ずして、自分はただ騙されただけの被害者だと一方的に主張していれば、なぜ自分がそのような場所へ引きつけられたのか、どのような弱点を持っていたためにそうなったのか、その事実を知ることもできず、聖書に反する道を歩んだことを反省する余地も失われてしまう。こうして、きちんと過去の総括の作業をしないまま、自分を一方的な被害者と考えることで、自分を慰めていれば、いつまでも心の弱点はなくならず、一つの悪しき団体を脱会しても、その次にはまた同様のカルトに自ら捕まってしまうだけであろう。

「あなたは被害者である」という偽りの慰めは、人に自己肯定、自己正当化、自己憐憫の思いを吹き込み、被害者意識の中で、真摯な自己反省、自己吟味の機会を奪ってしまう。この偽りの優しさと慰めは、あらゆる事件を通して、人が神の力強い御手の下にへりくだり、自分で思ってもいなかった深みまで、自分の心が探られ、明るみに出されることを妨げる。

何かの事件によって、心傷つけられた人は、当初は、自分は絶対に悪くないと思い込み、ただ耐え難い出来事が身に降りかかったとしか思わないであろうが、なぜ神がそのような出来事が起きるのを許されたのか、それが自分にとってどんな教訓を意味するのかは、何年も、何年も、経つうちに、ようやく分かって来る。一体、自分に何が足りなかったために、そのような事件が起き、自分の弱点がどこにあったのか、自分の側にも完璧に落ち度がなかったとは到底、言いきれないことを、一定の時が経過して、初めて人は理解するのである。

だが、安直な偽りの慰めは、人に「自分は悪くない」という思いをもたらすだけで、人が苦難に真正面から向き合って、自分の心を探る勇気と試みを妨げ、人格的な成長の機会を奪ってしまう。何よりも、自己憐憫の感情と、人間から得られる安っぽい慰めが、問題の只中で、深く、真摯に神に向き合い、信仰によって、ただ神の慰めと神の解決だけを求め続けることを妨げるのである。

結局、イゼベルの霊がターゲットとする人に与える表面的な慰めや、優しさや、同情は、すべて人を真の慰め主である神に至らせず、かえって被害者意識によって、その人を神の敵へと変えて行くための欺きであり、偽りなのである。だから、このような偽りの助けにすがった人間は、ことごとく、歪んだナルシストとなり、やがては自己を絶対化して、自分を神以上の存在として掲げることになる。

イゼベルの魅惑的な美しさは、彼女の優れた母性本能と、あたかもキリストに結ばれた貞淑な花嫁のような偽りの外見から来るものである。この霊は、自分を慈悲深い母、聖女のように崇高な存在に見せかけることができる。母であり、人妻の霊だからこそ、巧妙な誘惑の手練手管に長けており、その罠は、見えにくく、巧妙で、したたかなのである。





(イゼベルの霊と、彼女の霊に支配される「子ら」としてのナルシストたちは、車の両輪のように一体である。それを考えれば、常に指導者の神格化や、信徒の自己陶酔を生んでいるペンテコステ運動が、どのような偽りの霊に導かれているのかも理解できる。)


ペンテコステ・カリスマ運動のグノーシス主義的三位一体論―グノーシス主義の基本構造⑧

② (続き 2) 
 
・キリストによって生まれていない「私生児」を「神の子供」と偽るカリスマ運動

さて、以前に記事「クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(終)」でも確認したように、手束正昭氏は、異端ネストリウス派の主張を擁護して、養子論的キリスト論を展開する。

同氏は、「ナザレのイエスにおいて無比なる仕方において働いていた聖霊の豊かさこそが、彼をしてキリストたらしめたと言える。」と述べて、イエスは生来は神性を持たない人間に過ぎなかったが、聖霊が吹き込まれたことによって「キリスト」としての性質が付与されたのだとする。だが、同氏の主張によれば、聖霊とは「母なる霊」なのである。

こうして、神の独り子であるイエス・キリストを、神性を持たない単なる人間に貶め、聖書に基づかない「母なる霊」という正体不明の「霊」を高く掲げる手束氏の荒唐無稽な主張がどこから来たものかは、グノーシス主義神話を考慮すれば分かる。

グノーシス主義において、悪神ヤルダバオートから創造された人間は、本来は創造神を父としているため、創造神を超えられない堕落した存在であるはずなのだが、サイト『ヨハネのアポクリュフォン』においても説明されているように、真の父の同意なしに単独でヤルダバオートを生んだ母ソフィアが、愚かな我が子を欺いて、天からの光を「息」として人間に吹き込ませたため、人間にはヤルダバオートにはない神聖な光が宿ったとされている。また、ヤルダバオートは自分の似姿だと勘違いして天上の完全な人間の姿を模して人間を造ったのだという。

こうして、グノーシス主義神話は創造神をひたすら愚弄しながら、創造神によって造られた人間を創造神より優れた存在として高く掲げ、反逆を正当化する。そして、天からの「息」が吹き込まれたことにより、人間の本来的な「父」は創造神ではなく、創造神を超える真の至高者であるとする。

聖書は、キリストの十字架の贖いを信じ、キリスト共に十字架の死と復活にあずかることによって、人は新創造とされると教えるが、聖書を否定して、聖霊を「母なる霊」とみなし、この「母なる霊」を受けることによって、人類は「新創造」に達すると主張する手束氏の見解は、以上のようなグノーシス神話に起源を持つとみなせるのである。

筆者はかつて手束氏の教えを、信者に神の子供としての地位を失わせる「私生児の教え」として非難したが、今また同じ確信を繰り返すのみである。

キリストが神の御子であるという聖書の真理を否定し、キリストと共なる十字架を経由することなく、正体不明の「母なる霊」を受けることによって、「新創造とされる」などという偽りを信じた者が、父なる神の子供として受け入れられることは決してないことは、聖書に照らし合わせて明白である。
 
グノーシス主義神話においてさえ、その「母」とは「原父」の意志を無視して単独で子を生むという「過失」に及んだのだから、その「母」によって生まれた「子」は、父を持たない子ということになる。そんな「母」の「霊」を受けたからと言って、なぜ子が「父」の承認もなしに、「父」から正統な子として認められる理由があるだろうか。そんな主張はあまりにも愚かで身勝手である。

さらに手束氏は、次のようにも述べる、
 

「信仰というものは、外に居給う神に私達が懸命に従おうというものではない。<略>いまや、私達は聖霊をいただくことによって、内に居給う神の促しに従って、その神と一つとなって生きていくことができるのである。<略>そこにあるのは、外なる神から内なる神への転換であり、服従としての神から交わりとしての神への転換である。更にこれは旧約から新約への転換なのである。

 多くの学者達は不十分なままでいる。旧約聖書は預言であって、新約聖書はその成就であると解釈し主張している。この解釈は確かにまちがいではないが、しかし重要なことは、旧約というものは外なる神であり、新約というものは内なる神であるということである。更に旧約というのは律法であり、新約というのは聖霊なのである。

ルターは宗教改革の合言葉として『信仰によって義とされる』と言った。<略>今、私は『律法によらず聖霊による』と言いたい。『信仰によって義とされる』というのでなく、『聖霊によって新創造される』と言いたい。」 (『聖霊の新しい時代の到来』、手束正昭著、マルコーシュ・パブリケーション、2005年、p.33-34、下線は筆者による)


服従としての神から交わりとしての神への転換」、この言葉に特に注意したい。

手束氏はこうして、「父なる神」に服従する必要をひたすら否定して行くのである。同氏は、旧約聖書は律法という父性原理に基づいて服従を求める厳格な宗教であったが、新約は「愛と赦しによる母性的な福音」であり、新約から旧約への移行は、「外なる神から内なる神への転換」であると述べて、新約の時代を生きる信者たちには、神の御言葉への従順がもはや必要なくなったかのように説く。しかし、これは全くの偽りである。

キリストの贖いを信じることにより、信者の内にはキリストが住んで下さるが、だからと言って、律法自体が無効になったわけではなく、信者が御言葉に従う必要性が消えたわけでもない。信者は律法を完全に全うされたキリストの贖いを信じ、キリストの御言葉にとどまることを通して、神の御前に律法を完全に守ったとみなされるのである。

そこで、新約になっても、信者は依然として、自ら神の御言葉を選び取り、これを守って生きることにより、神への従順を成し遂げる必要がある。律法を守るのではなく、キリストの御言葉を守り、そのうちにとどまるのである。しかし、それは信者が自らの意志によって成し遂げるべきことであり、キリストが内に住んで下さるからと言って、信者の意志を抜きにして、神への従順が自動的に成し遂げられるわけではない。

信者には御言葉に従う自由も、背く自由も存在し、もし信者が御言葉に従わず、キリストのうちにとどまらないならば、その信者は律法によって裁かれ、罪に定められる。

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
<略>だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(ヨハネ15:4-6)

「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

イエスも言われた、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天の御国にはいるのではなく、ただ、天におられるわたしの父みこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)。

従って、新約の時代も、クリスチャンにとって最も肝心なのは、聖書の御言葉を守ることによって、キリストの内にとどまって生きることであって、そうして初めて、キリストとの交わりがその信者の内で保たれるのである。

ところが、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らは、「外なる神から内なる神への転換」、「服従としての神から交わりとしての神への転換」などと主張して、信者自身が自らの意志で「御言葉を守る」ことによって、「父なる神の御心を行う」必要性、信者が神の御言葉に「服従」する必要性を否定して、あたかも、信者が御言葉に従わなくとも、「霊の父母・子の交わり」に加わってさえいれば、これを通して神に至れるかのように説く。

結局、父なる神の意志、御言葉の切り分けを全くないがしろにして、御言葉への従順なしに、人が神に至れると教えるのである。
 
だが、聖書においては、はっきりと二組の対照的な「母子」の姿が示されている。一つ目は己の肉の欲望に基づいて、父なる神の御心に背いて生きる「母子」の姿、もう一つは、己の肉の欲望を十字架の死に渡すことに同意し、父なる神の御心を行って生きる「母子」の姿である。

イサクとイシマエルは、共に同じアブラハムを父として生まれた。しかし、イシマエルは父なる神の約束の成就を待たずに、奴隷の女であるハガルを母として肉によって生まれた子であるため、アブラハムから正統な後継者とは認められず、「奴隷の女の子」として退けられた。

他方、己の肉の力に死んですでに「不妊の女」となっていたサラから、ただ神の約束に基づいて、御霊によって生まれたイサクは「自由の女の子」として、アブラハムの家の正統な後継者として受け入れられた。 

パウロは言う、

「律法の下にいたいと思う人たちは、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生れ、自由の女の子は約束によって生れたのです。このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。このハガルは、アラビヤにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、彼女はその子どもたちとともに奴隷だからです。
しかし、上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です。
すなわち、こう書いてあります。

喜べ。子を産まない不妊の女よ。
声をあげて呼ばわれ。
産みの苦しみを知らない女よ。
夫に捨てられた女の産む子どもは、
夫のある女の産む子どもよりも多い。

兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。

しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。

こういうわけで、兄弟たちよ。
私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」(ガラテヤ4:21-31)

これら二組の「母子」の違いは、聖書の御言葉への従順によって父なる神の御旨を行って生きているかどうか、という点である。

グノーシス主義神話におけるソフィアの転落は、まさに聖書におけるハガルの姿に重なる。両者に共通するのは、父なる神の約束の成就を待たずに、己の「肉欲」に基づいて「時期尚早な出産」に及んだことにある。

聖書が全体を通して人間に求めているのは、人が己の肉の欲望により頼んで自らの願いを成し遂げることではなく、神の御言葉に基づき、信仰によって、神の約束の成就を待ち望むことである。しかし、ハガルもソフィアも、神の約束の成就を待たず、父なる神の意志を無視して、己の欲望に突き進んだ結果、時期尚早に子を生んだ。彼女たちはその子が神の家族だと主張するが、聖書はそのような「奴隷の母子」は神の国の相続者になれないと教える。

しかし、グノーシス主義のような転倒した教えは、聖書の御言葉に従わず、神の家から追い出されるべき「奴隷の母子」を逆に擁護する。だからこそ、それは「私生児の教え」なのである。

今日も、ペンテコステ・カリスマ運動運動の支持者らが、己の肉を誇っては高慢に振る舞い、延々と肉の欲を自慢しながら、至る所で真の信者を踏みつけにして迫害している様子は枚挙に暇がない。

 


 

・「分割」を「死」ととらえ、時間を逆にすることによって、「原初的統合」への回帰を主張するグノーシス主義

さて、聖書における「罪」とは、神の戒めに背くことであり、聖書において「死」は「罪」の結果としてもたらされる。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23) しかし、グノーシス主義は「罪」というものを一切、認めず、「分割」こそ「死」をもたらした原因であるかのように話をすり替える。

多くのグノーシス主義文献では、至高者である神のみならず、人間の男女もまた対であることが完全であるとみなされているため、人間は創造された当初は両性具有的存在であったが、その後、女が男から「分割」したときに「死」が入り込んだ、とされている。こうして、人類が神の戒めに背いたため、死に定められたという聖書の記述は無視され、人間が「原初的な男女未分化の状態に回帰する」ことが、人が本来的自己に回帰すること(救済)と同一視される。
 

「――デーミウルゴスはアルコンテスと共に、自分のかたちに人を、男と女とにつくった(創世記一・二七)。この場合、「人」は単数であるから、人は元来両性具有であった、と解釈されることになる女(イブ)が男(アダム)とから離れたとき(三・二二)、死が生じた。彼女が再び入りこみ、彼が彼女を受けいれれば、死はないであろう(『ピリポ福音書』七一。――七八をも参照。)」(『トマスによる福音書』、荒井献著、p.110)


 

「実際多くのグノーシス文書において、「神は自分のかたちに人をつくられた。すなわち、神のかたちにつくり、男と女とにつくられた」(創世記一・二七)の「人」が単数形になっているところから、「原人」は男女両性具有であった、そして地上の人間(男と女)は原人から「女」が分離された時点(創世記二・二一―二二)から生じた、と解釈されている。例えば、『ピリポ福音書』には次のような言葉がある。――「イブがアダムの中にあったとき、死は無かった。彼女が〔彼から〕離れたとき、死が生じた。彼女が(アダムに)再び入りこみ、彼が彼女を受けいれれば、死は無いであろう」(七一)。「もし女が男から離れなかったら、男と共に死ななかったであろう。女の分離が死のはじめとなったのである」(七八)。」(同上、p.159)


むろん、「男女未分化の原初的統合」などと言っても、半ば言葉遊びのようなもので、実際にそのような「原初的」状態に回帰できる人間はいない。だが、グノーシス主義は以上のような確信に基づき、人間に「叡智」を告げる「真の開示者」は、単に人間に、出生を巡る「真実」を告げる役割のみならず、人間を「男女未分化の原初的状態」に回帰させる「統合者」としての役割も担うものとみなす。
 

「<略>イエスは「父のもの」(本来的自己)の具現者として分裂に統合をもたらす者であり、それを「分ける者」「分割者」ではないというグノーシス的意味をも含ませている可能性がある(六一参照)。――「分離が死のはじめとなったのである。それ故に、はじめからあった分離を再び取り除くために、彼ら両人を統合するために、そして分離の中に死んだ人々に命を与え、彼らを統合するために、彼が来たのである」(『ピリポ福音書』七八)。」(同上、p.235)


ここまで来ると、なぜ手束氏や、フェミニズム神学者、鈴木大拙氏のような人々が、聖書の「二分性」に激しい反発を示し、キリスト教に「母性原理が回復される必要がある」と主張したのか、もう十分に理解できよう。

彼らは「分割」が「死」をもたらしたとみなすグノーシス主義の考えに立てばこそ、あらゆる「分割」を廃して「原初的統合を回復」することが「救済」だとみなしているのである。

彼らの嫌う「分割」とは、男女の区別にとどまらず、聖書におけるあらゆる「二分性」に及ぶ。鈴木大拙氏が「神ががまだ「光あれ」といわれなかったときのこと」、「明暗未分化以前」、(善悪を峻別する)「知性発生以前」などと呼んでいるのがまさにそれであり、これらはすべてグノーシス主義的な「二分性が生まれる前の原初統合の状態」を指す言葉である。

こうして、彼らは歴史を逆行させ、時間軸を逆にして、分割が発生する以前の状態に人類が自ら回帰することによって、原初的統合が成し遂げられ、人類は神に至る、と主張しているのである。

これは聖書の時間の流れとは逆である。

聖書においても、男女の「二分性」が廃される道が備えられている。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)とある通り、聖書によれば、時間を逆行することなく、「子」が成長して自らを生んだ「父母」を離れ、新しい伴侶を見つけることによって、男女の「一体化」が成し遂げられる。
 
この男女の統合は、キリストの十字架の死と復活による新しい人の誕生、すなわち、キリストとエクレシア(教会)との結婚を予表している。

聖書は言う、

「これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(コロサイ2:16)

ここで言う「影」とは直接的には、律法や、人間を縛る様々な古い規定を指しているのだが、同時に、目に見えるすべての被造物も「影」に含まれると言えよう。聖書によれば、罪によって堕落して、信仰を持たず、神に受け入れられることなく滅びゆく人類(旧創造)は、神の御前にすでにないも同然の「影」であり、真のリアリティはキリストのみなのである。

神の目には、真の「男子」、真の「人間」はただ一人しかおらず、それが「ひとりの人」(Ⅱコリント11:2)キリストである。キリストの内にこそ、すべての二分性の敵意を廃したところに存在する新しい完全な人の姿がある。

この新しい人であるキリストは、地上に来られたとき、神としての性質を持ちながら、同時に、罪の他は、何ら我々と変わることのない、人としての性質もすべて備えておられた。そして、神でありながら、ご自分を低くして人となられ、十字架の死と復活を成就して、人類のために贖いを達成されたのである。

このキリストこそ、神の御心を真に満足させることのできる真の人間なのであり、人は、神が十字架でキリストに下された裁きを自分自身に対する裁きとして受けとり、キリストの贖いを信じて受け入れ、キリストと共に十字架において自らの肉の出自に死んで(=その父母を離れ)、キリストの復活の命によって新たな人として生かされることにより、キリストの御霊によって上から生まれ、神の家族として、新創造に加えられる。そして、キリストの花嫁たる教会を形成する。

主イエスは、「次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。」(ルカ10:35)と言われ、来るべき世には「男女の二元論」はもはや存在しないことを示されたのである。

だから、キリストにある新しい人には、もはや男女の区別も、国籍の区別もない。新創造には、「ただひとりの男子」(Ⅱコリント11:2)キリストがいるだけであり、キリストにあって召された男女はすべて花嫁たる教会である。

「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(ガラテヤ3:27-28)

キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁をうちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に作り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14-16)

そして、聖書は、キリストこそ、万物をご自分に服従させることで、すべての被造物の二分性を廃し、万物を一つにされる方であると述べている。神は被造物全体が堕落して神への反逆のうちに滅びることを望んでおられない。しかし、堕落した被造物が神に回帰する方法はただ一つ、キリストの十字架によって贖われることにしかない。こうして、万物をご自分に従わせることで、キリストは万物を神の御手にお返ししようとしているのである。

「それは、神が御子においておあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついてに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者となったのです。」(エペソ1:9-11)

「それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。」(Ⅰコリント15:24-28)

こうして、すべてのものがキリストを通して、神に帰せられることが聖書の目的であり、これはただ死に至るまで神の御心に従順であったキリストを通してのみなされうることである。

被造物が神に立ち返る道は、ただキリストの十字架の死と復活の贖いを経由することにしかない。神の用意されたこの救済としての十字架を通らず、堕落して廃棄されるべき被造物が、自らの力で神に立ち帰る術はない。

しかし、グノーシス主義者は、このように、キリストこそ、十字架において「二分性の敵意を廃棄した」唯一の方である事実を認めず、時を逆行して原初的な未分化の状態に回帰することによって、神と人との統合が成し遂げられるとし、キリストも「原初的な統合者」に変えてしまう。

グノーシス主義者らは、徹底して、御言葉への従順なくして、神への回帰が成し遂げられるかのように主張する。こうして、彼らが聖書の「二分性」に反対する背景には、鈴木氏の言う「主客未分以前」へ回帰したい願望、すなわち、「創造神と被造物との区別」をなくしたいという欲望がある。

彼らの言う「男女未分化の原初的統合」も、結局は、この「主客未分以前」という欲望を意味する。ここにこそ、神によって造られた被造物でありながら、人間が「神の御心に反して、神の性質を盗み取り、単独で神になりたい」とする欲望が込められている。

フェミニズム神学者リューサーは言う、「男だけが神の像に似せられて造られ、女は男から造られたために、男性を抜きにしては、単独では完全な神の像をもたないとする聖書の教えは、女性を男性より劣った存在に貶める女性蔑視の思想である」と(『解放神学 虚と実』、pp.62-64参照)。

すでに述べた通り、この主張を推し進めて行くと、必然的に、「神だけが神であり、人類は神によって神に似せて造られたが、神との結合を抜きにしては、完全な神の像を持たないとする聖書の教えは、人類を神より劣った存在に貶める人類蔑視の思想である」という主張が出て来る。

そこで、聖書における男女の二元論に反対する人々は、結局のところ、神が唯一であり、人類は神の被造物に過ぎず、神の介在と承認を抜きに完全な存在になれず、神に属する者とみなされることはない、という聖書の真理に反対しているのである。そして、人間が神に創造されたことにより、神から分離されたという事実そのものに反対しているのである。(人類は神によって造られた被造物であるという点で、霊的には「女性」である。)

そして、グノーシス主義者は「神ががまだ「光あれ」といわれなかったとき」にまで時をさかのぼることによって、人類が神から分かたれる前の合一に回帰できるはずだと主張するのである。

しかし、そんな時間の逆行は無理な相談であり、現実を否定しているとしか言えない。そんな方法で、被造物が神と一体化しようとするのは、「小なる者」が「大なる者」と自らを同一視する高慢であり、被造物の分を超えているとしか言えない。

しかも、そこには、人類が自ら神に背いたために堕落して、自力で神に回帰する道が永久に閉ざされたという聖書の真理の否定がある。

もし新しい人であるキリストに目を向けさえすれば、上記のフェミニズム神学者やグノーシス主義者らが主張しているように、「神は自分だけを神として、人間を劣った被造物として創造した」という非難は全くあたらないことがすぐに分かろう。

グノーシス主義者らが考えているように、もし創造主である父なる神が、人間を自分よりも劣った存在にとどめておきたかったのだとすれば、独り子なるイエスを人として地上に遣わす必要がどこにあったろうか。なぜ愛する御子に人類のための贖いとして十字架の死を通らせる必要があったろうか。これらはすべて人類に対する神の果てしない愛のゆえになされたことなのである。

しかし、解放神学者や手束氏、鈴木大拙氏などは、決してキリストの十字架によって二分性の敵意がすでに廃棄されたのだという事実を見ようとはしない。彼らが最も反対しているのは、神によってしか、人間は救済され得ないという聖書の事実であり、彼らはどこまでも神の意志を抜きにして、人類が自らの力で神に至る道があるかのように主張する。

その過程で、彼らは神と人との区別、旧創造と新創造との区別を否定して、神の側からの救済としてのキリストの十字架の死を介さずに、神と人との区別を一方的に無効化することによって、神から神としての性質を盗み、神の地位を奪い、自らを神と宣言しようとしているのである。

従って、これらの人々がキリスト教の「二分性」によって不当に「抑圧されている」と訴えて、しきりに復権・擁護・救済しようとしているものは、神がキリストの十字架において完全な死の判決を下された旧創造全体としての人類なのである。

そこで、彼らの主張する「善悪を問わずにすべてを受容する母性原理の回復」というのは、結局、キリスト教は、神が滅びに定められた朽ちゆく旧創造と、堕落した旧創造が抱くすべての悪しき欲望をを罪に定めるのをやめて、これを正当化し、神の聖なる性質として認め、受け入れよ、ということなのである。

むろん、これは聖書の神に対する反逆の思想である。すでに見て来たように、グノーシス主義神話では、父なる神の同意によらずに、神の「血統」に属する命をわがものとしたいと願った「女性的属性」の欲望に基づき、父なる神を抜きにして生まれた「私生児」が、人類なのであり、人類はこの母の「過失」を修復することで、自らの出自を正当化することを、全生涯の目的として生きていることにされる。

しかし、それはどこまでも「父」の意志というものを抜きにした、人間側の身勝手な主張でしかない。仮に「母」が「父」を欺いて生んだ「子」が、「母」と一緒になって、「我々こそは神の血統に属する正統な後継者であるから、我々を神の家族として認め、家族の交わりを回復せよ」と主張したからと言って、「父」がそれを聞き入れ、この「母子」を家庭に迎え入れることがあろうか?

そんな行為は「母子」の側から「父」への反乱、神の家の乗っ取り計画、神の家族の詐称でしかない。たとえ血を分けた親子として長年同じ家に暮らしたとしても、親子の絆は絶対的なものではなく、もし子が父の訓戒や戒めに絶えず背き続けるならば、勘当されることもありえようし、子が自ら家出して親と絶縁することもありうる。

いずれにしても、父の承認なしに、家族としてとどまりつづけられる子はいないのである。そこで、もし神の家族としてとどまり続けたいならば、御言葉に服従するということが、信者の側にどうしても必要となる。

にも関わらず、グノーシス主義者はひたすら「(御言葉に)服従する」ことを拒みながら、それでも、「自分は神の正統な子だ」と主張するのである。そして、自分たちを神の家から排除した聖書の御言葉の二分性を、許しがたい傲慢かつ狭量な排他性として非難し、父なる神はこのような父性原理の残酷な「排他性」を克服して、もっとすべてを優しく受け入れる受容性を補うべきだと、神に向かって上から「説教」するのである。

そんな企ては、人間の物語としても破綻しているが、まして聖書に照らし合わせて、絶対に受け入れられることはない。このような「母子」は罰せられ、排除されるのが当然である。


 
「神秘なる母性」を褒めたたえることにより、肉欲を賛美する危険な思想

以上のように、聖書は明確に「肉によって女奴隷から生まれた子供」と「御霊によって自由の女から生まれた子供」の二種類があることを教えている。

御国の相続者は、父なる神の約束に基づいて、御霊によって生まれた子だけである。しかし、「肉によって生まれた者」は、自らの堕落した肉欲の罪が暴かれることを嫌うため、「キリスト教の御言葉の二分性」を己に対する脅威とみなし、「抑圧されている母性原理の回復」を唱えることで、己の欲望を正当化し、無罪放免しようとする。
 
解放神学者リューサーは、伝統的なキリスト教の「二分性」に対して、激しい憎悪と非難の言葉を浴びせるが、彼女がとりわけ強く反発しているのは、キリスト教が人間の肉欲を堕落したものとみなしていることである。
  

(伝統的キリスト教における)「救いとは、肉的なものを抑えることによってくるものであると解釈される。肉欲と感情の抑制、そして内的・超越的・霊的自己への逃避。食べること、眠ること、入浴さえもが、また、視覚的・聴覚的楽しみ、そして何にもまし て、一番強烈な肉体感覚である性の喜びなどが真の『悪魔の住処』とされた。文字通り、死の倫理を形成したのである。救いは死を目指しつつ生涯かけて『苦行』を実践することによって与えられる『魂の肉体からの分離』である。創造を堕落と見るグノーシス主義的思考を訂正しようとして苦心したにもかかわらず、 キリスト教はその同じグノーシス的精神性の多くをそのまま保存するにとどまった」(『解放神学 虚と実』、勝田吉太郎他著、(大石昭夫著、「解放神学の基本構造」)、荒竹出版、昭和61年、p.61-62)。


リューサーは、キリスト教は肉欲を堕落して罪深いものとみなしたがゆえに「文字通り、死の倫理を形成し」、一生かけて「魂の肉体という牢獄からの解放」を目指すしかないという、グノーシス主義と同じ罠に落ちたのだと言って、キリスト教を非難する。

彼女は「食べること、眠ること、入浴さえも<…>一番強烈な肉体感覚である性の喜びなどが真の『悪魔の住処』とされた」と嘆き、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」(マタイ24:38)といった行為に加え、「視覚的・聴覚的楽しみ」がキリスト教で罪に定められていることに異議を申し立て、巧みに「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(Ⅰヨハネ2:16)を復権させようと試みる。

しかし、聖書ははっきりと、こうした人間の一連の肉欲が、この世(悪魔)に由来するものであると告げている。

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(Ⅰヨハネ2:15-16)
 
さらに、キリスト教の救いとは、リューサーが述べているような、「肉的なものを抑えることによってくる」ものではない。キリストの救いは人間側の自己努力によって達成されるものではなく、神の恵みとして神の側から与えられるのであり、キリストの十字架の霊的死にこそ、堕落した肉に対する問題解決がある。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)
 
しかし、リューサーはキリストの十字架を見ない。そして、神の側から人類に与えられた完全な解決を退けて、キリスト教には肉欲を制する方法がないのに、肉欲を罪に定めているのはおかしいと言って、神が十字架において旧創造に下された有罪宣告そのものを不当であると主張し、この理不尽な有罪宣告のせいで、人間は自らの肉体を嫌悪し、自分の肉欲を厭いながら、もがき苦しむ状態から抜け出られなくなったのであり、キリスト教のこの不当な罪定めから人類は解放されなければならない、と主張する。

こうして彼女は、神が救済として人類に与えられたキリストの十字架の死の判決から、人類の堕落した肉を救い出そうとするのである。

従って、こうした人々が「キリスト教において不当に抑圧されている」と非難している「母性原理」とは、結局、人間の欲望そのものであり、神が十字架で死に定められた人類の古き自己と、古き人に付随するもろもろの情と欲なのである。

彼らの言う「解放」とは、「キリスト教の二分性の抑圧からの人類の欲望の解放」を意味するのであり、こうした教えを奉ずる人々は、みな己の「欲望の解禁」を主張しているのである。

だからこそ、ペンテコステ・カリスマ運動の教えの影響を受けたクリスチャンたちはみな「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」に走り、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」という話ばかりを延々と繰り返し、地上的幸福の自慢話を「信仰の証」にすり替え、己の欲望に突き進むことが神の国の到来を招致する手段であるとはき違えるのである。

こうした人々は、神がキリストの十字架で死の宣告を下された己の欲望を「神聖」とみなし、欲望を通して神に至れるという誤謬に本気で落ち込み、欲望の解禁を主張することによって、絶えず神に反逆を企てているのである。

彼らがとりわけ十字架の死の判決から解放したいと願っているのは、リューサーも書いている通り、「一番強烈な肉体感覚である性の喜び」である。

手束氏はこう述べた、
 

「しかし聖霊を示すヘブル語のルァハは女性形であるばかりか、『人間のダイナミックな生命力が表現される特別な呼吸の出来事』を意味した。これは具体的には性的興奮分娩を指しているという。」


胸が悪くなるような記述だが、こうして彼らは「奴隷の女」の抑えがたい欲望を賛美することで、自らが「奴隷の女の子」であると告白しているのである。

一つ前の記事で筆者は、手束氏の言うように、聖霊を「母なる霊」とみなせば、乙女マリアが聖霊によってイエスをみごもったのは、女性が女性の霊によってみごもったことになるが、そんな理屈が成り立つだろうかと書いた。その疑問は、グノーシス主義神話を考慮すれば解ける。

こうした人々の主張の背後には、神に対して霊的に女性である人類が、徹頭徹尾、神を抜きにして、己の力だけで神と同等になりたい、神を愚弄する形で神の創造の力を盗み取り、自分も神のようになりたい、という願望がある。

そこで、彼らが正当化し、誉めたたえているのは、結局、人類が己の肉欲のうちに自己陶酔に浸り、神を抜きに自分の力だけで神に属する子を単独で生みたいとする欲望なのである。

このような教えを奉じた人々は、物事を深く考える力を失い、自分を満たしてくれそうなあらゆる「良さそうなもの」に無分別に飛びいては、これと霊的姦淫を繰り返すようになり、己の肉欲を賛美しながら、軽薄で愚かな感覚的・情緒的な享楽に陶酔し、あらゆる汚れた行いに手を染めながら、やがて善悪の感覚そのものを完全に失って、神への反逆に至る。まさに無分別で見境のない「八方開き」の状態に陥るのである。

こうした人々の異様な自己陶酔の様子は、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが「聖霊のバプテスマ」と称して、理性を失った恍惚状態に陥っている様子を見ても分かるであろう。彼らの中にはすでにその自己陶酔の結果、己を神と宣言し、神属人類を自称する者たちもいる。

主イエスは言われた、

「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪をも赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:28-29)

聖書の「二分性」に逆らって、己の肉欲を誇り、「神秘なる母性」を崇拝し、神の戒めを守らないのに、父なる神の子供を名乗って、十字架を否定してまことの神への反逆を正当化しているペンテコステ・カリスマ運動が、聖霊を冒涜する教えに該当しない理由があるはずもない。
 
この運動に限らず、「キリスト教に母性原理を回復せよ」と主張する教えは、すべてキリスト教と東洋的・グノーシス主義的異端との混合であり、人類が聖書の御言葉の「二分性」であるキリストの十字架を退けて、己の欲望を誇り、自らの欲望を通して神に到達しようという偽りの教えである。

聖書の御言葉は完全であり、これにつけ加えようとする者も、取り除く者も、災いを受ける(黙示22:18-19)。聖書の御言葉の二分性を否定すれば、待っているのは破滅だけである。
 
このように反逆的で汚れた秩序転覆と肉欲を賛美する教えには、絶対に関わるべきではなく、このような教えを信奉した結果、自らを神と宣言するに至った人々に、悔い改めの余地は残されていないであろう。
 
そこで、このような異端とそれを奉ずる人々からは、全力で遠ざかり、永遠に訣別するだけである。

わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。」(黙示17:4-5)

<続く>


ペンテコステ・カリスマ運動のグノーシス主義的三位一体論―グノーシス主義の基本構造⑦

② (続き) 

・カリスマ運動の異端的な「父・母・子」の三位一体の家族モデルのグノーシス主義的起源

さて、前稿では、プロテスタントの牧師であり、カリスマ運動の指導者である手束正昭氏の主張を取り上げて、同氏が牧師夫妻を「霊の父母」とし、信者をその「子」とする家族モデルが、統一教会において指導者夫妻を「真の父母」と崇め、信者を彼らの「子」とみなす家族モデルにそっくりであること、また、手束氏の述べている家族モデルは、フェミニズム神学に基づいて同氏が聖霊を「母なる霊」とみなす「父・母・子」という異端的な三位一体論から導き出されたものであることを確認した。
 
聖書の従来の解釈において、万物を創造したのは「父なる神」であり、聖霊が「母なる霊」とみなされて生命の根源とされることはない。しかし、東洋思想においては、万物の生命の源は、母性原理にあるとされ、母性原理の象徴である「神秘なる母性(母なる混沌)」が賛美される。

そこで、統一教会であれ、ペンテコステ・カリスマ運動のようなキリスト教を自称する内部の異端であれ、「キリスト教に母性原理を回復せよ」という主張は、すべて東洋思想とキリスト教との合体を目指しているとみなせる。それは次回に述べるように、国家神道の目的でもあった。

このように、キリスト教と東洋思想との合体によって生まれる混合物こそ、悪魔の悲願としての聖書における終末のバビロンの姿なのである。
 
終末における世界規模での背教の象徴として聖書の黙示録に登場する大淫婦バビロンは、「混ぜ合わせた杯」(黙示18:6)を持っていることからも分かるように、混合の教えを意味する。大淫婦バビロンとは、キリスト教と非キリスト教的思想との混合体であり、ドストエフスキーの描いた大審問官のように、一見、キリスト教に偽装しつつも、本質的にはキリスト教に敵対する思想を内に秘めており、キリスト教を内側から転倒させ、食い破り、瓦解させていく効果を持つものである。
 
東洋思想は、太古から存在するグノーシス主義と密接な関係がある。グノーシス主義という名称自体は、初期キリスト教の異端として名付けられたものであるが、グノーシス主義的な思想はキリスト教の登場以前から存在していた。

グノーシス主義は旧約聖書の否定の上に成り立っており、この教えにおいては、聖書の創造神である「父なる神」は、悪神(デーミウルゴス、ヤルダバオート)として侮蔑の対象とされる。そこでは、聖書の創造神は愚かな悪神であるがゆえに、他の「神」を否定して自らを「唯一の神」と称するようになったとされて、この「偽りの神」よりも上位に「真の神」(真の至高者)が存在し、その至高者に回帰することが人間の「救済」であるとみなされる。

グノーシス主義とは、このように聖書の秩序を完全に転覆させて、「唯一の神」の概念を否定し、聖書の神に対する反逆を正当化する教えである。
  
そこで、グノーシス主義とは、聖書に照らし合わせると、その起源は蛇(サタン)によって人類に吹き込まれた悪魔的な思想にあると考えられ、その秩序転覆の教えが、古代バビロニアなどのオリエント文化において発展し、東洋思想や文化の中に保存されて、今日に至っているものとみなせる。

グノーシス主義それ自体は宗教ではなく、厭世的・悲観的な世界観であり、時代や社会や宗教の枠組み超えていつでも生じうるものであり、さまざまな宗教に形を変えて入り込み、その宗教を内側から乗っ取り、変質させてしまう効果をも持つ。
 
ペンテコステ・カリスマ運動は、このグノーシス主義的思想がキリスト教に入り込んでできた混合物の一つである。

その証拠の一つとして、手束氏のようなカリスマ運動指導者が提唱している「父・母・子」の異端的三位一体論は、グノーシス主義に原型が見いだせるのである。

以下で引用する荒井献氏によるグノーシス主義神話論では、グノーシス主義的な三位一体論が解説されているが、そこでは、グノーシス主義において「真の神」とされる至高者「原父(プロパテール)」(または「霊(プネウマ)」)は、原初、女性的属性(「思い(エンノイア)」や「知恵(ソフィア)」や「魂(プシュケ)」といったギリシア語の女性名詞で表される)と対をなし彼らの「子」と共に「三位一体」をなしていたという。

ちなみに、「男女が対をなす」という考え方は、グノーシス主義に特徴的であり、この考えに従って、グノーシス主義においては「真の神」も男女の対をなすとみなされる。それが「子」と共に原初は「父・母・子」の「三位一体」を形成していたというのである。

ところが、グノーシス主義神話においては、ある「事件」が発生する。女性的属性の中でも最下位である「ソフィア(知恵)」が、単独で子を生みたいと願い、至高者の命令なくして、また自らの「伴侶」である男性人格を抜きに、自ら至高者を「知ろう」とした。その過ちの結果として、彼女は上界から転落しかかり、中間界に醜い悪神であるデーミウルゴスと諸々の権威と支配を産んだ。さらにそのデーミウルゴスによって、下界に狂ったこの世と堕落した肉体を持つ人間が生まれたという。これはグノーシス主義において一般に「ソフィアの転落」と呼ばれている出来事である。

つまり、グノーシス主義においても、男女のペアが存在しないことには子が生まれないという前提があったようで、女性的属性であるソフィアが、自分だけで子を生もうと願ったことは、「過失」とされている。しかし、グノーシス主義では、ソフィアは同情されても、罰せられることはない。そして、人間の内にはこの「母」を通して、「真の神」である「霊の欠片」が宿っているので、人間は本来的に、創造神よりも優れた存在であり、創造神はその「真実」を人間の目から不当に隠しているがゆえに、人間は無知の中に閉じ込められて悪神の道具となって支配されているだけで、人間は真の神についての「叡智」を告げる「真実の開示者」に出会うことによって、自らの出生をめぐる「真実」を悟り、堕落したこの世と悪神である創造神を否定的に越えて、魂の本来の故郷である上界に戻って行く、それがグノーシス主義的な「救済」だとされるのである。

キリスト教における「救済」とは神の側からの恵みであり、神の介在なくして成り立たないものであるが、グノーシス主義における「救済」とはすべて人間が自ら「叡智」に目覚めることにより自己の出自を悟り、本来的自己に回帰することが「救済」とされるのである。
  

「グノーシスの神話論
 <略>
 ――はじめに上界に、至高者(「原父(プロパテール)」「父(パテール)」または「霊(プネウマ)」があった。彼は女性的属性(「思い(エンノイア)」(「知恵(ソフィア)」または「魂(プシュケ)」)と対をなし、彼らの「子」と、いわば「三位一体」を形成していた(この三体は<略>「父」と男女二体の「子」から成り立っている場合もある)。

 女性的属性は至高者(または男性の「子」)を離れて、上界から中間界へと脱落し、ここで「諸権威(エクスウーシアイ)」あるいは「支配者たち(アルコンテス)」を産む。彼ら――とりわけその長なるデーミウールゴスーーは、至高者の存在を知らずに、「母」を凌辱し、下(地)界と人間を形成する。こうしてデーミウールゴスは「万物の主」たることを誇示し、中間界と下界をその支配下におく。しかし至高者は、女性的属性を通じて人間にその本質(霊)を確保しておく。

デーミウールゴスの支配下にある人間は、自己の本質を知らずに、あるいはそれを忘却し、「無知」の虜となっている。人間は自力でこの本質を認識することができない。そこで至高者は、下界にその「子」を啓示者として遣わし、人間にその本質を啓示する。それによって人間は自己にめざめ、自己を認識して、「子」と共に上界へと帰昇する。中間界と下界(宇宙全体)は解体され、万物は上界の本質(霊)に帰一し、こうして「万物の更新」が成就する。」

(『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社、1994年、p.103-104。
改行・ふりがな等は読み見やすさを考慮して筆者が変更を加えた。)


 



・自ら神のようになり創造の力を得たいと願った「女性的属性」の欲望を正当化するために作られたグノーシス主義神話


しかしながら、以上のような神話を読めば、グノーシス神話における女性的属性「ソフィア(知恵)」は、大した悪者の反逆者だったのではないかという疑問が生じざるを得ない。以下の記述を読んでも、彼女を「過失」へと突き動かしたのは、「原父」の力によらず、自分だけが単独で「原父」と同じように、自分に似た生命を創造する力を得て、神のようになりたいという願望であったことが分かる。

セツ派のグノーシス文書である『ヨハネのアポクリュフォン』には、ソフィアの「過失」の動機が次のように描かれている。

「今度は、『見識の知恵』でありアイオーンでもあるソフィアが、『見えざる霊』と『先住の知識』を思い抱きながら、自らの内に一つの考えを宿した。自分と似た姿のものを生み出したいと思ったのだだが、それまでも賛同することのなかった『霊』の同意もなければ、斟酌してくれる伴侶もいなかった。ソフィアの男性格は賛成しなかった。ソフィアは伴侶を見いだしておらず、『霊』の同意もなければ、伴侶の知識もなしにこの考えを抱いた。そして、子を産んだ。不屈の力を内に秘めたソフィアの思い付きは無益には終わらなかったのだ。だが、伴侶なしに彼女が生み出したものは不完全で彼女に似ていなかった。母に似ていないだけでなく醜かった。(Ⅱ・9-10) 『原典、ユダの福音書』、ロドルフ・カッセル、マービン・マイヤー他著、日経ナショナル ジオグラフィック社、2006年、p.171から引用、下線は筆者による)


 
ソフィアがどうやって単独で子を産むに至ったのか、ここには具体的な記述がないが、考えられることはただ一つ、ソフィアが「原父」の子を生むために、彼の創造の力を何らかの方法で盗んだということである。そうして産まれたのが醜い悪神ヤルダバオートであり、彼女はその自分に似ても似つかぬ醜い子を見ると、上界の外へ投げ捨てたという。

こうして、グノーシス主義ではソフィアの過失がすべての悲劇の原因となって、あらゆる出来事に秩序転覆と反逆の思想が満ち溢れるようになるのだが、その転覆行為に一切、責任が追及されることがない。上記の「過ち」ゆえに、「ソフィア」は上界から転落しそうになるが、彼女は激しい後悔のゆえに同情を受けて上界からの追放を免れる。

グノーシス主義神話においては、霊的存在には序列があるため、本来、最下位の女性的属性が、最上位の「真の神」に対して越権行為に及んだことは「反逆」であるはずだが、それも後悔すれば罰せられずに赦されてしまう。さらに、グノーシス主義神話においては、男女の対が完全であると主張されているにも関わらず、女性的属性であるソフィアが自分一人だけで子を生んだわけだから、それ自体が神話そのものを崩壊させるような矛盾である。

しかし、グノーシス主義では、こうして秩序を揺るがしたソフィアとその産んだ子らが罰せられ、退けられることによってこの問題が片づけられる、ということにはならない。

むしろ彼女の「過ち」によって、人間には逆に「神聖な霊の欠片」が伝わることになったので、人間がその「神聖な自己」に目覚めて本来的故郷に帰ることによって、ソフィアの過ちが「修復される」のだとされ、彼女の過ちは正当化される。
  

「神聖なる世界とその下に位置するこの世界の欠乏はすべて『知恵』が犯した過ちに始まったものであり、人々の内に宿る光が再び神聖さを取り戻せば、ソフィアの過ちは修復され、完全なる神聖さが実現されるのである。」(同上、p.173)


こうして、グノーシス主義神話においては、人間とは自らの出生の「真実」を知ることによって「母の過ちを修復する」ためにこそ存在しているのだと言って過言ではない。それによると、人類は、本来は彼らが悪神とみなされている創造神と同様に、真の父の同意なしに、母の過失によって、「望まれない子」として「母子家庭」に生まれて来たことになるが、その人類が自分の出自を正当化して、自分は創造神ではなく「真の父としての至高者の子供である」と自称して、「真の父」に回帰することによって、「母の過ちが結果的に修復される」のだという。

こうして「子」が「母」の過失を正当化し、母の願いを正当化するための道具となって生きることを最大の目的として作り出された物語が、グノーシス主義だと言えるであろう。



・「母」を守るのが「子」の使命とする転倒した東洋思想

以上のようなグノーシス主義神話の特徴を踏まえた上で、改めて東洋思想の思想家である鈴木大拙氏が、東洋思想においては「母」を守ることが根源にある、と述べていることを考えてみると興味深い。

鈴木氏は述べる、
  

「万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」
(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、p.13-14、太字、下線は筆者による)


鈴木氏の言葉から考えられることは、もし「母」が「子」によって守られねばならないほどに弱い存在でなければ、あるいは「母」が絶えず何者かに脅かされているという前提がなければ、「母を守る」という言葉は、決して生まれて来ないという事実である。

むろん、「守る」という言葉の中には、保存するとか、継承するとか、崇め、奉るという意味もあろうが、それだけではない。たとえば、「母を守る」とは言っても、「父を守る」とは言わないからだ。

特に、聖書の「父なる神」は全知全能であり、人間によって守られなければならないような弱い存在ではない。むしろ、「父なる神」の方が、信ずる者を日々「子」として力強く守って下さるのである。聖書の秩序は一貫して「強い者である親が弱い子供たちを守る」というものである。

ところが、東洋思想はそれとは逆で、弱い立場にある「子」が、自らよりも強い者である「母」を守ることを求めるのである。

手束氏は、心理学者河合隼雄氏の言葉を引用して、こう述べている。
 

「河合隼雄氏は日本社会の様々な病理的現象の背後には、父性が欠如し、母性が過剰になっているとことにあると分析している。さらに遡って河合氏は、このような日本の母性文化の発生の理由を、日本の宗教の母性的性格に見ている。日本人は『父なる宗教を知らぬ国民』なのである。」(『教会成長の勘所』、p.74-75)


もし河合隼雄氏の言うように、「日本人は父なる宗教を知らぬ国民』」であるならば、鈴木氏が述べる「母を守る」という言葉も、東洋思想の心理的特徴が本質的に父を持たない「母子家庭」であるか、もしくは、「母」が「父」に比べて圧倒的に弱く、「母が父によって不当に脅かされている」という被害者意識を前提に成立しているものと考えられてならない。

手束氏が『教会成長の勘所』でこう述べていることを思い出そう。
 

今日の『フェミニズム神学』の評価すべきところは幾つかあるが、そのうちの一つはこれまで父性的男性的な傾向の強かったプロテスタント的キリスト教のあり方に批判を加え、長い間隠され抑圧されていた母性的女性的な要素を回復しようとしたことにある。」(同上、p.77-78)


鈴木大拙氏の言う「母を守る」という言葉もこれと同じで、「キリスト教の父なる神の二分性の脅威から東洋的な母性を守らなければならない」という前提あってこその言葉のように思われる。

むろん、鈴木氏はキリスト教社会に生きておらず、リューサーのようにキリスト教がもたらす女性蔑視により被害を受けたと主張するわけでもなく、また、日本において東洋思想が抑圧されたマイノリティに追いやられている現実もないため、鈴木氏が一体、「母を守る」という言葉によって、何を具体的に指していたのか、文脈は明らかでない。

しかし、鈴木氏自身の主張全体を振り返っても、東洋思想における「母」を脅しうる存在とは、キリスト教の父性原理の二分性を置いて他にないものと考えられる。

そして、キリスト教の父性原理とはすなわち聖書の御言葉なのである。

鈴木氏の言う「母を守る」とは、以上に挙げたような、「原父」に逆らった母ソフィアの過失を「修復」することがその「子」である人類の使命だ、とみなすグノーシス主義の主張を考慮すると、より理解しやすい。

鈴木氏が「善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。」と主張しているのも偶然ではない。

彼らが目指しているのは、「父」だけが最高の権威者で、他の者はみな「父」に従わなければならないという制約の存在しない、「母」が「父」に等しい力と権威を持ち、「父」の御言葉に縛られる必要がなく、これに背いたからと言って罪に定められることもなく、「善悪」の判断自体が存在せず、どんなものでも受け入れ、どこからでも入って来られる世界であり、言い換えれば、「母」の欲望が無制限に肯定され、正当化される世界なのである。

つまり、こうした人々が否定しようとしているのは、人は聖書の御言葉に基づいて、父なる神の意志に従わなければならないという聖書の事実、それに背けば、罪に定められるという事実なのであり、彼らの言う「キリスト教の二分性の抑圧から母性原理を回復せよ」という主張は、結局、神に背いたために、神の家族から疎外された母子(=人類そのもの)を、神の意志に反して、神の家族に加えようという企てを指していると言えよう。

いずれにしても、鈴木大拙氏、手束正昭氏、リューサーなどの面々が、全く異なる立場から、キリスト教に対する同様の批判を提起していることは興味深い。そこで、こう言えるのではないだろうか。キリスト教徒を名乗っているかどうかに関わらず、また性別の如何や暮らしている国や社会の形態に関わらず、ある人々にとっては、キリスト教の父性原理の二分性それ自体が重大な脅威と映り、彼らはどうしても、キリスト教の「二分性」を、この宗教の「欠点」として告発し、これを乗り越えるために、キリスト教に母性原理を回復せよ、と訴えずにいられないのである。

しかし、彼らが「キリスト教の父性原理の二分性が母性原理を抑圧している」と述べる時、それは結局「聖書の御言葉の二分性が人類全体を脅かしている」と言っているに等しいのである。

こうした人々は、聖書の「二分性」につまづいているのだが、つまづいた自分自身を反省して自己吟味するのではなく、むしろ、自らをつまづかせたキリスト教の側に「重大な欠点」があって、キリスト教がそれを克服せねばならないと述べることで、キリスト教に「有罪」を宣告する。

そうした告発が、キリスト教界の内側から出てくるときには、それは解放神学や、ペンテコステ・カリスマ運動や、あるいはカルト被害者救済活動のように、うわべはキリスト教の装いをまとって、キリスト教の中から始まった自己批判や、改革運動のような形を取る。

しかし、彼らの主張は「聖書の御言葉のみ」に基づく信仰を否定して、本来、キリスト教に異質な思想(異端)を持ち込むことであるから、必然的に、それはキリスト教を内側から変質させて、キリスト教を内側から食い破って、破壊しようとするキリスト教への敵対運動になる。

他方、キリスト教の「二分性」への告発が、キリスト教の外側から発せられる時には、それは鈴木大拙氏の主張や、次に述べる国家神道の理念のように、明らかにキリスト教とは異なる(東洋)思想を公然とキリスト教と合体させよ、という主張になる。

だが、これらのキリスト教批判は、外側からの批判であれ、内側からの批判であれ、本来的には同一の起源を持つのであり、それは以下に述べるように、キリスト教を変質させてグノーシス主義的原初統合を実現しようという試みに他ならない。

彼らが最も激しく逆らっているのは、「わたしの他に神はない」とする聖書の唯一の神という概念である。彼らは、父なる神が単独で神であるという事実に我慢がならず、何とかして、唯一の神から神としての性質を盗み取りたいのである。それを、キリスト教における父性原理の「二分性」への批判と、「母性原理の回復」を主張することによって成し遂げようとしているのである。

つまり、聖書の御言葉を否定して、神の意志を抜きに、人類が単独で己の欲望を成し遂げて、神に至ることを正当化したいという欲望こそ、
おそらく、鈴木大拙氏の言う「母を守る」ことの意味ではないかと考えられる。

「唯一の父の意志に縛られず、従わないで良い世界、御言葉の切り分けを否定して、どんなものでも主人として受け入れることが可能な世界」、だからこそ、「八方開き」なのである。

だとすれば、そのような無分別な「母」から生まれて来た「子」とは、まさに父不明の「父なし子」、「私生児」ということにしかならないであろう。
  
だが、彼らには己が罪に定められることが我慢できない。「母の過ち」を擁護することによって、何とかして自らの出生を正当化したい。そのためにこそ、彼らは「キリスト教には母性原理の回復が必要である」と唱え、自分たちが「父なる神」の正統な家族であるかのように訴えて、神の家の乗っ取りを企むのである。

そのような理屈を正当化するために、彼らは「キリスト教にグノーシス主義的な「男女の原初的統合」を「回復」することが必要である」と主張するのである。

こうして結局、東洋思想もその根底にはキリスト教の唯一の神への敵意、聖書の御言葉へ敵意と否定を宿していることになる。これは決してキリスト教と別個に発生し、発展して来た思想ではなく、その起源は、グノーシス主義なのである。

<続く>


異端思想に共通する地上天国建設のための家庭モデルーグノーシス主義の基本構造⑥

➀ 文鮮明夫妻を「真の父母」とし、信者が「子」となって「神の家族」を形成することで地上天国が実現すると述べる統一教会の「全人類一家族理想」

統一教会は、2015年に「世界基督教統一神霊協会(統一教会)」というかつての名称から、「世界平和統一家庭連合」と改称された。この名称だけを見ても、いかにこの宗教が自らメシアと崇めている「真の父母様」である文鮮明を中心とする家族モデルを、信者全体の信仰生活の極めて重要な拠点として思い描いているかがよく伝わって来る。

さて、統一教会が理想と思い描いている信者の家族モデルとはどのようなものかは、以下の統一教会信者とおぼしき人物のブログの抜粋を通してもよく理解できる。
 

ブログ「原理に帰りましょう」
記事
「全てを許してやりたいのが親の心情」から抜粋

「神様の創造理想は、実体を持った人間を創造し、人間に責任分担を与え、愛を完成すること、そして人間と共に地上天国、天上天国を完成することでした。しかし人間始祖アダムとエバが堕落することにより、神様の理想とは似ても似つかない地上地獄、天上地獄を形成してしまいました。

 真の愛による真の生命の創造で神様の真の血統が繁殖するはずでしたが、偽りの愛による偽りの生命が誕生し、サタンの血統を繁殖してしまったのです。

 その血統を転換するために、メシヤすなわち 真の父母 を神様は送って下さいました。
 
私たちは真の父母を迎え、同じ神様の血統を共有する全人類一家族理想を成就しなければならないのです(以下、引用中の太字は全て筆者による)



統一教会では、宗教指導者の執り行う合同結婚式を通じて信者が自らの家庭を築くことにより、現実には全く血のつながりのない宗教指導者の「聖なる血統」を霊的に継承することができ、それによって信者は罪から清められて「神の家族」の一員に加えられると教えられている。

その教えによれば、文鮮明は人類を罪の堕落から救うメシアであり、信者たちは、この宗教指導者の夫妻を「聖なる父母」(「真の父母様」)として崇め、文鮮明の「子供」となって、「お父様」の願いを実現するために生きることこそ、信仰生活の基礎であると信じている。

おそらくは、信者自身の家庭にも同様の構図があって、信者が「真の父」である文鮮明の願いを体現して生きるのと同じように、信者の子供も、親に服従し、親の願いを体現して生きることが求められているのであろう。

このように「真の父母」によって結ばれる「神の家族」である信者の家庭を地上で増やしていくことで、「全人類一家族理想」が成し遂げられ、地上天国が成就すると、彼らは言うのである。「全人類一家族理想」という用語からも分かるように、全人類を統一教会の信者として、「真の父母」を中心とする「一つの家族」に結びつけることそ、彼らのミッションとなのである。

このように、信者が宗教指導者の夫妻を「聖なる両親」と仰ぎ、その「子供」となって彼らの教えに帰依することで、この世の堕落から救われて、聖なる神の家族の一員に加えられ、それによって「神の家族」が拡大して行くという考えは、異端思想のほとんどに共通して見られる特徴である。

そのような教えは、宗教指導者の教えに従うことで、信者の家庭が清められ、「聖家族」が地上で増え広がって行くことにより、やがて全人類がこの一つの神の家族に連なり、地上天国が成し遂げられると教える。

「全人類一家族理想」――すなわち、聖書によれば目に見えないものである神の国を、目に見える地上の王国に置き換え、地上天国を成し遂げるために、全人類を一つの教え、一組の
「真の父母」に帰依させて、「一つの家族」に結びつけること――それこそ、異端思想の時代を超えて変わらない普遍的な目標であり、悪魔が夢見るまことの神の国の模倣としての「地上天国」の「理想」なのである。



② 牧師夫妻を「霊の父母」とし、信者が「子」として牧師夫妻を崇めて「一つの霊的家族」として交わることが「教会成長の勘所」だとするプロテスタントにおける異端思想

驚くべきことに、そのような異端的な教えは、プロテスタントにも入り込んでいる。かつて記事「クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(1)」で記したように、カリスマ運動の指導者である日本基督教団高砂教会の手束正昭牧師は、著書『教会成長の勘所』において、クリスチャンは、自分の属する教会の牧師夫妻を「礼典的・象徴的存在」として崇め、牧師夫妻を「霊の父、霊の母」として、これに「子」として従うべきであるという、統一教会とほとんど変わらない家族モデルを提唱している。

「クリスチャンには三人の父がいると言われる。まず第一には、言うまでもなく、『肉親としての父』である。次に、信仰の対象としての『天の父』、そして第三には、『霊の父』である牧師である
(『教会成長の勘所』、手束正昭著、マルコーシュ・パブリケーション、2003年、
p.74)



むろん、記事でも記して来たことであるが、聖書には牧師を「霊の父」として崇めることを奨励する記述は全くないどころか、それは聖書が逆に明確に禁じている行為である。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師は、ただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、すなわち、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

しかしながら、手束氏は聖書の記述などお構いなしに、
牧師夫妻を「霊の父母」とする家族に信者が属して交わることこそ教会成長論の勘所だと説き、統一教会とほとんど変わらない「リバイバル」という地上天国の夢、一家族理想に邁進して行くのである。


・異端的な「父・母・子」の三位一体論に基づくプロテスタントにおける「母性原理回復」の試み

手束氏がこのような「霊の父母子」という家族モデルの提唱に至ったその背景にあるのは、同氏による異端的三位一体論である。

手束氏はフェミニズム神学者らの主張に基づいて、聖霊を「母なる霊」とみなすことで、父なる神・聖霊・子なるイエスの交わりを、「父なる神・母なる聖霊・子なるイエスの交わり」としてとらえる異端的な三位一体の解釈に至った。(このことは記事クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(2)でも触れた。)

つまり、手束氏は、三位一体を「父・母・子」とみなす異端的な解釈にならって、信者らも、「霊の父母」である牧師夫妻を頂点に、「一つの霊の家族」となるべきであり、その交わりが成し遂げられることによって、教会が成長して行く、と述べるのである。そのようにして成長する教会が数多く現れることが、リバイバルの秘訣であると言うわけである。
  

三位一体の神ご自身が『父性的存在』と『母性的存在』と『子的存在』の交わりとしてあられるならば、当然教会においても、このような交わりが必要であり、そのような交わりが成就するときに、教会は健全となり、安定性を持ち、従って成長していくことになるのではなかろうか。

 パウロはテモテを『愛する子』(第二テモテ一・二)と呼んでいる。牧師や牧師夫人にとって、信徒は『愛する子』であり、『霊の子』である。信徒にとって、牧師は『霊の父』であり、牧師夫人は『霊の母』である。ここにおいて、『神の家族』(エペソニ・十九)であり、『霊の家族』である教会は成立する。

だとするならば、牧師は父性原理の体現者として信徒を教え導いて秩序付け訓練することに秀でなくてはならないし、牧師夫人は母性原理の具現者として、信徒を受容し、慈しむことのできる人でなくてはならない。このとき、教会は落ち着いた安定性を得、また信仰において成熟していくことになるのである。このような雰囲気を持つ教会には、必然的に多くの人々が集まってくるのである。」
(『教会成長の勘所』、p.79)


  
それだけでなく、手束氏がこのような「父・母・子」という異端的三位一体の解釈に基づき、牧師夫妻を「霊の父母」、信徒を「霊の子」とする家族モデルを提唱しているのは、それによって、「キリスト教に母性原理を回復するため」という目的があることも見逃せない。

プロテスタントがカトリックの堕落と腐敗に抗議して、これと訣別すべく生まれたことは知られているが、手束氏はまるで歴史を逆行させるように、カトリックには聖母マリア崇拝がもたらされたことによって、多少なりとも母性原理が回復されたが、聖書の御言葉だけを中心として、マリア崇拝を退けているプロテスタントには、御言葉に基づいて、善・悪を峻別する「分割」、「切断」、「二分」という父性原理ばかりに重きが置かれ、母性的な受容性がなくなり、その結果、プロテスタントは安定や健全さの欠ける、人間を精神病理に追い込むような、「極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまった」と嘆く。

「著名な心理学者河合隼雄氏によると、父性とは『切断する』ことにその特性を持っている。物事を上と下に、善と悪に、主体と客体に分類して、秩序付けや成長を促していく。他方、母性とは『包含する』ことにその特性があり、すべてのものを良きにつけ悪しきにつけ受容していくのである。

人間が精神的に健全に成長し成熟していくためには、どうしてもこの父性原理と母性原理のバランスが必要なのであり、どちらかに偏重すると、いろいろな点で不健全さ、不安定さを免れ得ない。河合隼雄氏は日本社会の様々な病理的現象の背後には、父性が欠如し、母性が過剰になっているとことにあると分析している。さらに遡って河合氏は、このような日本の母性文化の発生の理由を、日本の宗教の母性的性格に見ている。日本人は『父なる宗教を知らぬ国民』なのである」(同上、p.74-75)


 

「ところで、<略>その後のキリスト教の歴史においては、どちらかと言うと、母性的要素がことさら抑えられてきたように思える。特に我らプロテスタント教会はその感が強い。

カトリック教会の場合は『マリヤ崇拝』を導入することによって、何とか父性の偏重にバランスをとろうとした努力がうかがえるのであるが、プロテスタント教会は“聖書のみ”の立場から、聖書からは導き出し得ない『マリヤ崇拝』を廃棄せざるを得なかったのである。その結果、プロテスタントは、<略>極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまったのである。

しかしそこには人間性の安定や健全さを求めることは難しく、従って、プロテスタント国においては精神的な病を患う人々がより多く排出されることになったのである。父性というのは、上と下、善と悪を峻別して、秩序立てていこうとするので、どうしても心理的葛藤が起こりやすいからである」(同上、p.76-77)



このような手束氏の主張は、これまでも何度か言及して来たように、聖書の御言葉の「二分性」をキリスト教の「短所」として非難する仏教学者・禅の指導者鈴木大拙氏の主張にそっくり重なっている。手束氏は自身がキリスト教徒を名乗っており、プロテスタントの牧師であるにも関わらず、仏教学者の主張に歩調を合わせるかのように、プロテスタントの聖書の御言葉中心主義を否定的なものとしてとらえ、善悪を峻別する御言葉の「二分性」を、人間にとって不都合なもの、人間を狂わせる、精神病理に追い込む不健全なものとみなし、この「病理的な弱点」を克服するために、プロテスタントには、善悪を問わずすべてを受容するような(東洋的な)母性原理の回復がぜひとも必要であるとして、そのために「母なる聖霊」や「霊の母」としての牧師夫人論を持ち出すのである。



・「創造」や「生命を与える」力の源を「父なる神」ではなく「女性原理」にあるとするフェミニズム神学の誤り
  
ところで、一体、フェミニズム神学とは何なのであろうか。
手束氏の以下の文章からは、聖霊を「母なる霊」とみなす異端的三位一体の解釈が、解放の神学の一派であるフェミニズム神学の強い影響を受けて生まれたものであることがよく分かる。
そして同氏が、フェミニズム神学がキリスト教が父性原理のうちに長い間、抑圧して来た母性的・女性的な要素を回復すべきと主張したことを、高く評価している様子も伺える。
 

「『父なる神』と『母なる聖霊』

 今日の『フェミニズム神学』の評価すべきところは幾つかあるが、そのうちの一つはこれまで父性的男性的な傾向の強かったプロテスタント的キリスト教のあり方に批判を加え、長い間隠され抑圧されていた母性的女性的な要素を回復しようとしたことにある。<略>

フェミニズム神学の論者たちは言う、『聖霊は女性ではないのか』と。従来、三位一体の一位格である聖霊もまた『父なる神』『子なるキリスト』に続いて、男性的人格として見なされてきた。
しかし聖霊を示すヘブル語のルァハは女性形であるばかりか、『人間のダイナミックな生命力が表現される特別な呼吸の出来事』を意味した。これは具体的には性的興奮と分娩を指しているという。

しかも創世記の冒頭の天地創造の物語において、創造を直接的にもたらした神の言葉の前には、『神の霊』(ルァハ)が働いていたのである。さらに、『新しい存在』(新しい被造物)であるナザレのイエスの誕生に際しては、聖霊が介入している。『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう』(ルカ1:35)。

つまり、聖霊の中心的な働きは創造や生命を与えるということにあるのであり、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。このように見てくると、三位一体の教義も、新しい視点の下に解釈していくことが可能となる。すなわち、『父なる神』と『母なる聖霊』によって生み出されたのが『子なるキリスト』であり、三位一体は神の家族的象徴性を担っているということになる」(同上、p.77-78)

 

しかし、すでに書いたことであるが、従来の神学においては、聖霊はギリシア語では“pneuma”(中性名詞) 、「性を持たない人格」として扱われて来た。また、ラテン語では“Spiritus Sanctus”(男性名詞)、他の言語においても、男性か中性のどちらかの人格とみなされ(たとえば、露語 Святой Дух 男性名詞)、少なくとも、フェミニズム神学を除き、従来の神学上、女性人格とみなされることはなかった。

聖書を見ると、「聖霊」は確かに「息」と密接な関係にあり、命を与えるという役割を担っていることが分かる。創世記において、神が人を創造された時、神は人に息を吹き込まれることにより、人に命(霊)を与えられた。

「その後、神であるは、土地のちりで人を形作り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)

しかし、アダムに吹き込まれた命は永遠性がなく、アダムは罪によって堕落したため、死が人類に入り込んだ。しかし、キリストが人となられ、十字架の死と復活を通られたことにより、「最後のアダム」であるキリストを信じる者は、永遠に滅びることのない、神の非受造の命としてのキリストの御霊を受けることができる。

キリストの御霊は、命を与える源であるだけではなく、キリストご自身の人格と一つに結びついている霊である。主イエスは弟子たちに息を吹きかけて、この永遠に命なる御霊を受けるように、と言われた。これは信じる者に新しい命がもたらされたことを意味する。


「聖書に、「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」(Ⅰコリント15:45)

「イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけられて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:21-22)


このように、確かに、聖霊には「命を与える霊」としての役割がある。しかしながら、だからと言って、果たして、手束氏の言うように、聖霊を女性人格とみなすことが可能なのか。手束氏は聖霊を女性人格とみなす根拠としてこう述べる、「聖霊の中心的な働きは創造や生命を与えるということにあるのであり、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。」と。

多くの原始宗教において、女性は、生命、創造、多産、豊穣などの象徴として扱われて来た。しかしながら、我々は、原始宗教の固定概念に立脚して物事を考えているわけではないので、先入観にとらわれることなく、よくよく冷静になってこの問題を考えてみたい。

果たして、フェミニズム神学の言うように、「創造や生命を与える」行為は、「勝れて女性的特徴」なのであろうか?

筆者の観点から見ると、解放神学というものは、聖書を裏返しにして、神と御言葉に反逆する秩序転覆の思想である。解放神学については、記事「偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(10)」を含む、いくつもの記事を書いて来たので、そちらも参照されたいが、フェミニズム神学も、解放神学の一派である。

フェミニズム神学に限らず、フェミニズムという思想そのものが、男性(父性原理)に対する強い嫌悪感に基づいて、これに対する反発から、母性・女性原理を高く掲げるという構造になっている。これは聖書の説く男女の秩序を転覆させる思想であり、東洋思想(グノーシス主義)とも密接な関係があると筆者はとらえている。

だから、先入観に惑わされずに、この問題をよく考えてみる必要がある。聖霊に性を見いだすかどうか、という問題を脇に置いても、筆者の目から見ると、命を与える役目は、あくまで男性にあるように思えてならないのである。女性は、これを受ける器である。女性は、分与された命を受け取り、これを自らの命と結びつけて新しい生命として養い、世に送り出すことはできても、女性だけがひとりでに命を生み出す能力はない。従って、命を分け与えることは、男性の本来的な使命であると思われてならないのである。

聖書においても、エバはアダムから生み出されたのであり、女性が先に生まれて、女性から男性が生み出されたわけではなかった。イエスを産んだマリヤも、聖霊の働きがなければ、一人では何も生み出せなかったであろう。もし手束氏の言うように、聖霊を「母なる霊」とするならば、キリストの誕生は、女性が女性の霊によってみごもったことになるが、そんな説明が成立するであろうか?

(さらに、手束氏の考えに基づくと、「父なる神」と「母なる聖霊」の交わりの結果、「子なるイエス」が生まれたことになるが、そうであれば、イエスの本当の「母」は聖霊ということになるから、マリヤはカルケドン信条に定義されているように「神の母」ではなく、代理母でしかないということになろう。この点でも、完全に手束氏の主張は異端である。)


聖書の秩序は常に、男性が命を与える側に立つというものである。父なる神がアダムを創造され(創造された側のアダム――人類――は、神の命なる霊を受ける器という意味では、霊的に女性。これも教会の型)、アダムの肋骨からエバが作り出された(アダムとエバとの関係も、キリストと教会を予表する)、聖霊が乙女マリアのうちに働き、キリストの誕生に至らせた(これもまたキリストと教会の型)、ただひとりの男子キリストが十字架にかかられて死なれたそのわき腹から、水と血と霊によって生まれたのが教会であり、キリストは、十字架の死と復活を経験されたがゆえに、永遠に朽ちない命を与える御霊を、信じる者たちに分け与えることができる。

こうして詳細に見て行くと、聖書的な観点からは特に、創造や、生命を与える」行為は、母性原理ではなく、むしろ、父性原理(父なる神)の特質であると言って差し支えないことが分かる。むろん、フェミニズム神学にとっては、このような考えこそが憎悪の対象なのである。フェミニズム神学は、父性原理に対する嫌悪感から、「創造」と「生命を与える」という栄誉ある役割は父性原理にあるのではなく、女性原理にあると主張して、「創造」という役目を、父なる神から母性原理の役目へと奪おうとしているのである。

そのように、命を与えることが、あたかも母性原理であり、女性の専売特許であるかのような誤解は世に広く普及しているが、少なくとも聖書においては、「創造」と「生命を与える」力の根源は、創造主である父なる神にこそある。そこで、いみじくもキリスト教「神学」を名乗っているにも関わらず、父なる神による創造という聖書的事実を退けて、女性こそ創造者であるかのように、母性・女性原理を高く掲げるこの教え(フェミニズム神学)は完全に、聖書の定める男性と女性との秩序の転覆をはかるものだと言えよう。

従って、男性である牧師たちが、自らこのような理念を信奉するならば、必ずや、彼らは男性としてのプライドと名誉を失うことになるであろうと筆者は確信する。なぜなら、この思想の中には、根本的に男性(父性原理)そのものに対する激しい嫌悪と蔑視が含まれているからである。



・解放神学(フェミニズム神学)とそれに基づく(ペンテコステ・)カリスマ運動は、キリスト教ではなくキリスト教に敵対する東洋思想(グノーシス主義)の一種である

フェミニズム神学を含め、解放神学もそうなのだが、手束氏の主張も含め、キリスト教においては「父性原理に基づく二分性ばかりが強すぎるので、母性原理の受容性を補うことによって、その欠点を克服しなければならない」という主張は、根本的には、みな異端であると言って良い。

なぜなら、これは聖書の御言葉を毀損することによって、キリスト教そのものを歪曲する試みであり、キリスト教とは全く相容れない思想がその根底にあるからである。その思想こそ、東洋思想である。

そのことは、こうした思想がすべて、仏教学者・東洋思想家・禅の指導者である鈴木大拙氏の主張とぴったり一致することからも分かることである。結局、「キリスト教における母性原理の回復」を唱える教えは、すべて東洋思想を基盤としているのだと言って過言ではない。従って、それはどんなにキリスト教の仮面をつけて、キリスト教のように装っていても、本質的にキリスト教ではないものから出てきているのである。

記事「偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(11)」でも記したことであるが、女性解放の神学の代表者、ローズマリー・リューサーは、解放神学は、魂と肉体、主体と客体の二元論が、古典的キリスト教の「欠点」であるとして、これを克服せねばならないと述べた。彼女は、古典的キリスト教は、男性だけが神の像に似て造られた「人間性」の真髄を備えた存在であり、女性は完全な神の像を持たず、頭である男性と共にあって初めて真の人間性を持つことができるとしている点で、キリスト教は女性を男性の客体、「対象物」におとしめているとして非難した。

リューサーは欧米諸国のようなキリスト教社会においては、このような聖書的男女二元論が原型となって、社会の全ての抑圧形態に作用しており、この二元論の断絶があらゆるものに応用されて、人類社会に無限の断絶をもたらしており、それゆえ、社会には「もろもろの権威と支配」が乱立し、疎外が満ち溢れたのだと言って、伝統的なキリスト教に「有罪」の宣告を下す。そして、キリスト教の二元論から来る断絶・疎外を解消し、人間を「客体性」から解放することが、人間の救済である、と主張するのである。
 
記事「カルト被害者救済活動の反聖書性について―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動④ー」でも見て来たように、フェミニズム神学者が非難しているようなキリスト教の「二元論」は、創造主と被造物との二分性、すなわち、「知る者」である神と「知られる者」である人との主客の区別を根源として発生して来るものである。

男女の二元論から始まり、「主客の区別」そのものに反対し、人間の「客体性」からの解放を唱えるリューサーの主張は、全くもって鈴木大拙氏の主張にそっくりであることに驚かされる。
再び、鈴木大拙氏の文章を引用しよう。
 

分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。

 それから
分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、p.10-11)

 

「西洋文化といえば、ギリシャ、ローマ、ユダヤ的文化の伝統ということになる。その不完全さは、宗教の上に最も強くあらわれる。自分はキリスト教をみだりに非難するのでなく、また悪口するのでもない。これはいうまでもないところだが、キ教には、二分性から来る短所が著しく見え、それが今後の人間生活の上に何らかの意味で欠点を生じ、世界文化の形成に、面白からぬ影響を及ぼすものと信じる。キ教はこれを自覚して、包容性を涵養しなくてはならぬ。

 二分性から生ずる排他性・主我性などは、はなはだ好ましからざる性格である。二分性を調節して、しかもそれを包含することになれば話はわかるが、これがないと、喧嘩が絶えない。」(同上、p.169-170)



鈴木氏は、西洋思想における「分割する知性」、すなわち、「主客の区別」の根源となっているものは、キリスト教における創造主と被造物との区別であると見る。そして、この「主客の区別」から生じる「二分性」、「排他性」、「主我性」を極めて否定的なものとみなす。

もしそこにリューサーの言葉をあてはめるなら、聖書によれば、創造主は「知る者」であるが、被造物としての人間は神によって「知られる者」(客体)であるから、神によって造られた人間は、男女を問わず、みな神の満足の「対象物に貶められている」ということになろう。

以上からも分かるように、東洋思想が最も激しく反発しているのは、人間は神によって造られた「客体」に過ぎず、どこまで行っても、神(主)ご自身にはなれない、という点なのであるそして、その点はフェミニズム神学者の主張とも根本的に一致する。
 
造られた者であるがゆえに、人は神ご自身ではなく、神から切り離されて、神性から疎外されている、どんなに信仰が増し加わっても、人自身は完全な聖に達し得ず、造られた被造物ではあっても、創造主たる神にはなれない――この点こそ、東洋思想の学者や、フェミニズム神学者らが、最も激しく反発する点である。

「男性だけが神の像に似せて創造され、男性からできた女性は、男性に比べ、完全な神の像を持たない、という聖書の見解は、女性を貶めている」というリューサーの主張は、結局のところ、「神だけが神であって、人間は神のかたちに似せて創造された被造物に過ぎないので、完全な神のかたちを持たない、という聖書の理屈は、人類全体を貶めている」と言っているのと同じなのである。そのような考えには根本に、人間が完全な神のかたちを持たない(人は神になれない)という聖書の事実に対する嫌悪・反発・抵抗がある。

従って、こうした思想の持主が、キリスト教は、聖書の御言葉の「二分性から生じる排他性・主我性」という「短所」を克服することこそ、必要である、と述べているのは、結局のところ、「神と人との区別を廃止して、人を被造物という客体性から解放せよ」と言っているのと同じなのである。

お分かりと思うが、このような思想は、結局、聖書の「唯一の神」という概念そのものに逆らっているのである。グノーシス主義が、自らを唯一の神であるとする創造主の宣言を「悪神の傲慢」として嘲笑・否定するのと全く同じ構図がそこにある。(記事「キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動④ー」参照。)

従って、彼らの述べる、「人間を(被造物の)「客体性」から解放せよ」という主張は、「わたしのほかに神はいない」とする聖書の唯一の神を退けて、人が神の地位を乗っ取り、自ら神になろうとする反逆に他ならないのである。

わたしより先に造られた神はなく、
 わたしより後にもない。
 わたし、このわたしが、であって、
 わたしのほかに救い主はいない。」(イザヤ43:10-11)

わたしがである。ほかにはいない。
わたしは光を作り出し、やみを創造し、
平和をつくり、わざわいを創造する。
わたしは、これらすべてを作る者。」(イザヤ45:6-7)

「ああ。
陶器が投機を作る者に抗議するように
自分を造った者に抗議する者。
粘土は、形造る者に、
「何を造るのか。」とか、
「あなたの作った物には、手がついていない。」
などと言うであろうか。」(イザヤ45:9)

「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている
 陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。
  造られた者が、それを造った者に、
 「彼は私を造らなかった。」と言い、
  陶器が陶器師に、
「彼はわからずやだ。」と言えようか。」(イザヤ29:16)



・キリスト教の「父なる神」に対抗して東洋思想が賛美する「神秘なる母性(母なる混沌)」

さて、それでは、一体、以上のように「唯一の神」を否定して、人間を「客体性」から解放することを主張する思想の持ち主は、一体、どのような方法で、キリスト教の「二分性」を克服することを目指すのであろうか?

それは、キリスト教に「母性・女性原理を回復する」ことによってである。彼らはキリスト教において「父性原理」と「母性原理」を新たに融合することによって、未だかつてない新しい境地に至ることができるかのように主張しているのである。キリスト教と東洋思想とを合体させて混合態を造ることを使命としていると言っても良い。

鈴木大拙氏は、すでに記事で述べた通り、キリスト教の「二分性」から来る「排他性」の問題を解消する方法として、キリスト教に母性原理を補い、「主客(善悪)未分以前の母なる混沌」への「嬰児的回帰」を提唱する。

鈴木氏は、それを「神が光あれ、と言われる以前の状態」と表現する。結局、それは光と闇が分かたれる前の状態、サタンが堕落して神から切り離される前の状態、人間が神によって創造されて、堕落によって楽園を追放されて、神から切り離される前の状態に回帰しようとする試みである。

つまり、事の善悪に拘泥せず、万物をあるがままに受け止め、知性が先走る状態を克服して「知」と「行」とを一つにすることで、知性による分割発生以前の「未分的」で「全一的」状態を取り戻すこと(いうなれば、「真如」に回帰することであろうか)、そのようにして、、「二度目の林檎を食べる」ことが必要であり、それが禅の悟りの本質であるかのように鈴木氏は述べているのである。

相当に長い引用であるが、母性原理・女性原理の回復という言葉が、何を意味するのかを理解するのには役立つと思うので、以前の記事でも度々挙げたが、同氏の言葉を再び引用しておく。
 

「なぜ、西洋的に見たり考えたり行動したりしてゆくと、行き詰まりを見なくてはならぬかというと、人間の生きている世界は、五官で縛られたり、分別識で規定せられる外に、いま一つ別の世界があるのである。これを明らかにしておかぬと、人間は生きてゆけぬのである。生きていると思っていてもそれは自己欺瞞で、虚偽の生涯である。『今一つ別の世界』などいうと、また数の概念に収めこんで、そんなものが、この可視的、可把握性の世界の外にあるかのごとく、思惟せられるのであろう。これが言葉なるものの短所で、禅者はことにこの点に気を配る。」(『東洋的な見方』、p.22)

 

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を再先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、p.195-196)

 

「東洋民族の間では、分割的知性、したがって、それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。われわれ東洋人の真理は、知性発生以前、論理万能主義以前の所に向かって、その根を下ろし、その幹を培うところになった。<略>

 主客未分以前というのは、神がまだ「光あれ」といわれなかったときのことである。あるいは、そういわんとする刹那である。この刹那の機を捕えるところに、東洋真理の「玄之又玄」(『老子』第一章)なるものがある。<略>

 「光あれ」という心が、神の胸に動き出さんとする、その刹那に触れんとするのが、東洋民族の心理であるのに対して、欧米的心理は、「光」が現れてからの事象に没頭するのである。主客あるいは明暗未分化以前の光景を、東洋思想の思想家である老子の言葉を借りると、「恍惚」である。荘子はこれを「混沌」といっている。また「無状の状。無象の象」(『老子』第十四章)ともいう。何だか形相があるようで何もない。<略>またこれを「玄牝(げんぴん)」ともいう。母の義、または、雌の義である。ゲーテの「永遠の女性」である。これを守って離れず惑わざるところに、「嬰児(えいじ)」に復帰し、「無極(むきょく)」に復帰し、「樸(はく)」に復帰するのである。ここに未だ発言せざる神がいる。神が何かをいうときが、樸の散ずるところ、無象の象に名のつけられるところで、これから万物が生まれ出る母性が成立する。分割が行ぜられる。万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」(同上、p.13-14)


 こうして、鈴木氏は、「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである」とした上で、キリスト教の「知性による分割」、「二分性」を否定的なものととらえ、同氏が「人間の本質」であるとする、「情性的なもの、意欲的なもの」に回帰するために、神人とが分かたれる前の「主客未分以前」、「明暗未分化以前」、「知性発生以前」、「善悪未分以前」の状態に回帰することが必要であると述べる。

そして、このような神と人との主客の区別が発生する以前の原初的な状態のことを、鈴木大拙氏は「恍惚」とか、「混沌」とかいう言葉で呼ぶ(まさにペンテコステ運動にふさわしい言葉ではないだろうか?)

そして、この原初的な混沌を「母なる混沌」として(玄牝(げんぴん)と呼ぶ。

ここでなぜ「母」なのか。なぜ女性なのか、という疑問が生じよう。

なぜなら、もし聖書の父なる神が「光あれ」と言われる前の状態に回帰するというならば、そこには、父なる神お一人だけしか存在する方はいないはずだからである。

ここで、いつの間にか、聖書の「父なる神」が、東洋の「母なる混沌(神秘なる母性)」にすり替わっていることに気づくのである。鈴木氏は言う、「万物が生まれ出る母性」と。つまり、東洋思想においては、万物を生み出す源は「父なる神」ではなく「神秘なる母性」でなければならないのである。従って、東洋思想の「神」とは、母なる神なのだと言っても差し支えない。

それは、カリスマ運動の指導者・手束正昭氏が、「創造や生命を与えるということ<…>、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。」と述べているのと同じである。

このような考えは、東洋思想において古くから存在して来た。鈴木氏は老荘思想を根拠に挙げる。老子の思想においては、この「神秘なる母性」は「玄牝」と呼ばれる。
 

河瀬直美監督 映画『玄牝』公式サイトから抜粋

玄牝とは?
『谷神不死。是謂玄牝』――谷神(こくしん)は死せず。これを玄牝という。
タイトルの「玄牝」とは、老子の『道徳経』第6章にあることば。大河の源流にある谷神は、とめどなく生命を生み出しながらも絶えることはない。谷神同様、女性(器)もまた、万物を生み出す源であり、その働きは尽きることがない。
 老子はこれを玄牝――“神秘なる母性”と呼んでいる。


このように、東洋思想の基本には、生命の源は「永遠に女性的なるもの、神秘なる母性」にあるという考えがあり、生命を生み出し、創造する力を「母性」に求める。そして、人は知性によって自他の区別が生じる前の、赤子のような無意識の状態に戻り、「神秘なる母性」に身を委ねてこれと一つとされることが、人間にとっての究極の解決であると言うのである。

むろん、これはキリスト教における「父なる神」の否定であり、「父なる神」による天地創造という聖書の事実そのもの否定と言って良い。聖書をどう歪曲しようとも、聖書の神は父なる神であって、母なる神ではない。初めからないものに回帰せよと言われても、荒唐無稽な話である。

しかしながら、それでも聖書を巧妙に曲げるために、手束氏のようなカリスマ運動の指導者は、「父・母・子」の異端的三位一体論を唱えることにより、キリスト教に「母性原理の回復」がなされねばならないと主張して、「母なる聖霊」論を持ち出すのである。

そこで、この「母なる聖霊」論は、本質的にキリスト教とは無縁の(むろん異端という意味で、絶対にキリスト教ではあり得ないのだが)、もともとは東洋思想に由来する発想なのだと言うことができよう。すなわち、手束氏の言う「母なる聖霊」とは、東洋思想における「神秘なる母性」、「母なる混沌」の言い換えなのである。

つまり、ペンテコステ・カリスマ運動(筆者はこれらの運動を一つにまとめて問題ないと考えている。日本基督教団の手束氏の著書は、聖霊派の枠組みをはるかに超えて、プロテスタント全体に行き渡っている)は、うわべだけはキリスト教の装束をまとってはいても、実際には東洋的な「神秘なる母性」を崇拝する別の教えなのだと言って差し支えないであろう。

全く恐ろしいことである。こうなってもまだペンテコステ・カリスマ運動をキリスト教だと考えて信奉している信者は哀れとしか言いようがない。そして、この東洋的な「神秘なる母性」への崇拝こそが、聖書が全体を挙げて告発する「大淫婦バビロン」の本質なのである。マリア崇拝、フェミニズム神学も含め、キリスト教に「母性原理を回復せよ」という主張は、すべてここから出てきていると見て良い。

<続く>


ペンテコステ運動はなぜ誤っているのか(1)―カリスマ指導者に栄光を帰し、五感を信仰よりも優先する教え―

ペンテコステ運動の誤りについては、今更、多くの紙面を割いて書く必要もないかも知れない。なぜならこの運動の世間での評判はすこぶる悪いと言っても良いからだ。また、今までにもかなりの数の批判分析記事が書かれて来た。それでもまだこの運動を支持している人が本当にいるのか、いるとしても、よほど珍しい人たちではないかと言えるほどまでに、否定的な情報は枚挙に暇がない。

だが、そうした情報をきちんと総括して、この運動の危険な特徴が何であるか、改めて明確に整理して提示する必要があると思う。そこで、ペンテコステ運動に時代を超えて共通して来た危険な特徴をかいつまんで挙げておきたい。

1.常に超自然的な力を持つカリスマ的指導者を立てて英雄のように誉め讃える

…これは近年に始まった特徴ではない。たとえば、私がオースチン・スパークスやジェシー・ペンルイスなどの霊的先人の著作を読むにあたり大いに参考にして来た「オリーブ園 クリスチャン古典ライブラリー」というサイトがある。このサイトには残念なことに、最近、ペンテコステ系の指導者らの記事が数多く掲載されるようになった。(これはちょうど「キリスト教界からエクソダスせよ」と提唱していたKFCがAG教団の信徒に乗っ取られた時期にも重なる。)

 察するに、このオリーブ園の管理者はペンテコステ運動に関わりのある教会の信徒なのであろう。そして、その立場から、上記のような霊的先人と、ペンテコステ運動は同種の霊的運動であるのだとみなしているのだと思われる。

 しかし、私の考えは異なる。確かに、オースチン・スパークス、ペンルイス、アンドリュー・マーレーのような人々は、キリストの御霊による内なる啓示を知っていた人々であった。特に、彼らは聖霊によって十字架の深い働きを知らされた人々であり、彼らはキリストご自身に根差し御霊によって歩むまことの信仰生活は、既存の教会組織に所属することとは全く違うものであることを理解していた。聖霊の深い内なる啓示を知っていたという点では、既存のキリスト教界のクリスチャンに比べ、彼らは御霊の働きを重んじており、「霊的」と言える特徴を持っていた。
 
 しかし、彼らが御霊を通して見ていた事柄と、ペンテコステ運動においてしきりに強調される「聖霊の働き」は、全く異なるものであり、決して同一のものとして混同されるべきではないと私は考えている。

 「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(Ⅰヨハネ4:1)

 問題は「聖霊」と同じ名がつけられていても、本質的には全く異なる霊である危険性が常にあることだ。特に、ペンテコステ運動に関しては、慎重な吟味が必要である。見分けのポイントの一つとなるのは、その霊が誰について証し、誰に最も栄光を帰しているかだ。何度も書いて来たように、聖霊は以下の御言葉の指し示す通り、キリストを証する霊であるから、「キリストのみを証し、キリストのみに栄光を帰しているか」、それとも、「キリストを証しているように見せかけながら、その実、人間を高く掲げ、人間の指導者に栄光を帰しているのか」という点が重要な見分けのポイントである。

 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来る時、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26)。


 この点で、ペンテコステ運動は常に表向きは「聖霊」の働きを重んじているように見せかけながら、実際には、奇跡を行なう「偉大な霊の器」であるカリスマ指導者を常に前面に押し出し、いかにこの指導者が非凡な霊的力を持つ人間であるかを強調することによって、この人物に大衆の関心を引きつけ、人間を神以上に高く掲げて来た歴史がある。

 オリーブ園には、19世紀のペンテコステ指導者であったセス・クック・リースについての著作が納められている。あまり入念に読みたくないし、読むことを勧めもしないが、前書きの数行をわずかでも読むならば、そこでどれほどリースが誉めたたえられていたかが分かる。

 「しばしば「地を揺るがす者」と宣伝されることもあった。彼が説教すると、野外集会の木立が揺らいだ。彼の息子のパウロ・リースは「戦う聖徒」という題名でセス・C・リースの伝記を書いた。」セス・リース論説集

 この数行を読んだだけで本質が分かり、もう結構ですと言いたくならない方がおかしい。神ではなく、人を讃えるための情緒的な文章。「彼が説教すると、野外集会の木立が揺らいだ」。これは「スターリンは砲弾が雨と降り注ぐ中をも、臆することなくしっかりした足取りで歩いて行った」とか、「陛下がお通りになると、群衆はみな感涙してその場に跪いた」といったような表現と何ら変わるところがない。
 しかも「木立が揺らいだ」から「地を揺るがす者」なのか? 神の憐れみの深さや、恵みの大きさを証してイエスの御名に栄光を帰する代わりに、こんな風に、指導者の持つ超自然的な力を巧みにアピールして注目を集めようとするのが、ペンテコステ運動の特徴だ。だが、大げさすぎる嘘をついて読者を騙したことにはならないだろう。そよ風が吹いても木立はそれなりに揺らぐものなのだから。

 この論説集に捧げられている序文「亡くなった我らの大監督について」の中では、「キリストの勇敢な兵士たちの中でも、故人は最も勇敢で英雄的な兵士の一人であり、…」「われわれはこの偉大な人物をあらゆる種類の状況下で見てきた。また、彼が卓越した高い水準に達するのを見た。彼は人の子らの中でも極めて非凡な者として際立っている。」などと歯の浮くような賞賛の言葉が連ねてある。
 だが、使徒たちをさえ差し置いて「最も勇敢で英雄的な兵士」などとよくも臆面もなく書けるものだと読んでいて可笑しい。彼よりも勇敢で英雄的な信仰の兵士はそれまでに一人もいなかったというのか。この一文を読んだだけで、それが嘘であることが見抜けない方が奇妙なのだ。パウロでさえ自分のことを「私はその罪人のかしらなのです。」(Ⅰテモテ1:15)「すべての聖徒たちの中で一番小さな私」(エペソ3:8)と呼んだのだから。

 もしセス・リースが生前、使徒たちと同じような謙虚さを持っていたなら、故人となった後も、残された人々は彼の意志を忠実に汲んで、指導者をいたずらに担ぎ上げて賞賛を浴びせるような真似は決してなかっただろう。だから、このような賞賛の言葉が後世に残されている時点で、セス・リースがどれほど名誉欲に満ちた指導者であったか、こうした献辞を書いている人々もどれほど確信犯的詐欺師であるかが自ずから分かってしまう。

 ペンテコステ運動はとにかく英雄譚が好きである。非凡な出来事の描写と情緒的な表現に頼りながら、力強い論調で偉大な人物とその働きを描き出そうとする。サンダー・シングの伝記も似たような論調である。ただの物語としてならば、よく書けている部類に入るだろう。だが、その物語が、読者の興味を誰に対して向けようとしているのかを考えれば、それが決してキリストの御霊によって書かれたものではないことが分かる。結局、そこでは人間が賛美され、人間に関心が集められており、神やキリストはそのための材料として引き合いに出されているに過ぎない。



2.五感で感じられる非凡な奇跡体験や、感覚的な喜び、陶酔感を霊的体験と取り違え、信仰よりも五感を優先・強調する
 
 セス・リースは「理想的なペンテコステの教会」の中で、クリスチャンの再生について以下のように書いているが、それを読めば、彼が再生というものを全く理解していなかったことがよく分かる。

「人が聖書的に再生されることは、尋常でない畏怖すべきことを伴い、通常考えられている以上のことを意味する。新約聖書が示す霊的誕生は、たんに手を挙げたり、紙に署名したり、記章をつけたり、儀式に参加したり、いわゆる「教会」なる団体に参加したりすることによって生じるのではない。

聖書が示す再生は、深く強烈な認罪と、躊躇せず「世と肉と悪魔」を拒否する悔い改めの後に生じる。これにより、外側の生活の諸問題はすべて正される。」
  
 ここでは、罪を悔い改めるということはとりあえず触れられているが、不思議なことに、「キリストの十字架における人類の罪の贖い」という言葉が一度も登場しない。「キリストの十字架」や「贖い」さえも登場していない。そうであれば、一体、人が罪を悔いたところで、何によって罪赦されたことになるのか。根拠は全く明らかでない。罪を赦す権限を持っているのは誰なのか、一切、書かれておらず、御子の十字架における死に至るまでの従順について全く触れられておらず、キリストの役割が無視され、神に栄光が帰されていないのだ。そして、再生とは、人が単に以前の罪深い行いを悔い改めて、「世と肉と悪魔を拒否する」という人間の側の決意ということに話がすり替えられている。これでは誰でも自分で決意しさえすれば、再生することになり、キリストの十字架も不要であるし、信仰も必要ないであろう。

 そして、このように悔い改めさえすれば、「これにより、外側の生活の諸問題はすべて正される。」などとお手軽な軽い調子で書いてあるが、再生した次の瞬間からすべての生活の問題が一切合切正解決したなどという経験をしたクリスチャンは一人もいないであろう。むしろ、まことの神を信じてから後、クリスチャンは、それまでに意識しなかった罪と手を切るための戦いや、生活の諸問題を信仰を通して解決する方法をようやく少しずつ学び始めるのである。

 さらに、セス・リースは続ける。

「再生は知覚可能な経験である。再生された人にはそれがわかる。自分が再生されたことに確信がないなら、それが事実かどうか誰にもわからないし、神ご自身ですらわからない。」
「再生は、喜び、あたたかな宗教的感情、霊の真の情熱に満ちている。」

 
こうして、彼によれば、再生には必ず知覚や感覚的喜びが伴うとされているが、それもまた嘘である。信仰は五感で感じて確かめられるようなものではない。キリストの十字架の贖いを自分のものとして信じて受け入れるなら、その人は救われているのであり、それはその人が救われた事実を五感で確かめたかどうか、感覚的な喜びが伴ったかどうかなどには全く関係ない。たとえ人がそれを五感で感じなくとも、信仰によって受け取った事実は、神の御前で変わらない永遠の事実なのである。

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

 信仰は、目に見えない(五感では感じることのできない)神の側の霊的事実を自分の事実として信じ受け取ることによるのであり、すでに見たり、聞いたり、感じたりしている出来事をその感覚ゆえに受け入れることとはわけが違う。

 特別な喜びや感動が全く伴わなくとも、信じる者は御言葉を根拠として神の事実を受けとるのである。

 このように、正しいクリスチャンの信仰の歩みは、すべてのことが霊から始まる。まず霊的事実があって、次に魂や体で知覚することのできる感覚世界がこれに従属する。聖霊が働くのは、人の霊に対してであって、魂や体の感覚世界の中ではない。感覚世界はこの世の物質世界、人の堕落した肉に属するものであって、これは神と接触するための媒体ではない。神と交わることのできるのは、人の感覚ではなく霊である。

 ところが、ペンテコステ運動は、霊→魂→肉体という聖書的な秩序を覆してしまい、人の魂や肉体に巧妙に働きかける感覚的なものを霊的なものと呼び変え、すり替え、混同し、結果として、信仰よりも感覚を重んじるのである。そこで、ペンテコステ運動は、再生も、聖霊のバプテスマも、説教も、単に「喜びの伴う感覚体験」に変えてしまう。そしてついにはその「喜びの伴う感覚体験」が欠落していれば信仰ではないとまで言い切るのである。

 そこで、セス・リースの論説集もそうだが、ペンテコステ系の指導者のメッセージは、共通して極めて情緒的で、非凡な言葉を述べては人の感情を強く揺さぶり、感動を呼び起こそうとする手法に満ちている。だが、少しでも冷静に吟味すれば、常に感動しっぱなしということは、人にとって極めて不自然な状態であることが分かる。音楽の楽曲でもそうだが、初めから最後までずっとクライマックスということは絶対にない。しかし、ペンテコステの指導者の説教は最初から上り調子一辺倒で、テンションが全く下がらず、常なる感動を目指している点で、極めて不自然で人工的な作為を感じるものなのである。

 こうしたことが分からないまま、ペンテコステ運動に一度でも深く関わったことのある信者には、霊的な事実よりも感覚を重視するという危険な傾向――しかも、深く物事を吟味することを嫌い、自分の感覚にとって好ましいものだけを「信仰的・霊的なもの」だと勘違いする危険な傾向――が深く根付いている。それは一種の麻薬のような陶酔感に似ていて、人を盲目にさせて、繰り返し、繰り返し、聖書の御言葉に基づく冷静で穏やかな信仰よりも、自分を感動させ、手っ取り早く喜びや興奮をもたらし、感覚を喜ばせてくれるような偉大で非凡な体験へ飛びつかせようとその人を誘導するのである。

ペンテコステ運動につきものである、偉大な英雄の物語や、奇跡や感動体験の描写、あるいは感動的な礼拝音楽などといった偽の信仰物語は、人の耳を喜ばせることで、聞く人の心を釣りげるためのしかけである。このしかけに慣らされた人は、その感動体験を疑うことなく、条件反射のようにあっけなく飛びついては欺かれてしまう。そうなるのは、その信者の考えの根本に、セス・リースの書いたような、「信仰とは五感によって知覚できるものだ」という誤った思い込みが消えずに残っているためであり、霊の事柄と感覚的な事柄を混同しているからである。

 だが、信仰を五感によってとらえようとするこの試みこそ、聖書が最も人に警告している危険なのである。

「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:6)
 
 AG信徒のある姉妹の影響によって、KFCの中にサンダー・シングの教えが持ち込まれた時(ここでもこの災難を発生させたのはAG信徒である)、私はこの教えの具体的な誤りと危険性を提示してこれを批判し、教える立場にありながらなぜルーク氏はこの虚偽を見抜けなかったのかと指摘したが、彼らはこの警告に耳を傾けず、かえって自分たちの面子が傷つけられたとして、私を排斥することで自分たちの過ちを覆い隠し、報復を果たそうとした。

 なぜそのようなことが起きたのかを考えてみると、そこにはKFCの土壌というものが大きく関与していたように思う。KFCにはもともと聖霊派やAG教団の信者が多く集まっており、当時、Br.Takaという現役のAG信徒までが匿名でメッセンジャーとなっている有様であった。そして、当のルーク氏自身も、キリスト教界を批判しながらも、聖霊派の指導者たちの活動や著作から大きな影響を受けていた。

 最大の問題点は、彼らがAG教団牧師の率いるカルト被害者救済活動や、キリスト教界の誤りを非難しながらも、自らがそれを手を切ることをせず、ペンテコステ運動そのものの中に潜む大きな問題を何ら認識しないまま、その影響を深く引きずっていたことにある。

 ムードたっぷりの礼拝音楽、礼拝での冗長な異言の披露は言うまでもなく、ひれ伏したり、跪いたり、涙や叫びを伴う情緒的な祈りといった彼らの礼拝スタイルも、まさに聖霊派の典型的なスタイルを換骨奪胎しただけのものである。

 問題は、これらが信者に思考停止を促し、物事を自分なりに深く考えて吟味したり、聖書に照らし合わせて検証したりする代わりに、その場の雰囲気に身を委ね、良さそうに見えるものを何でも無批判に受け取り、より大きな喜びや感動や陶酔感を得られるように、感覚に任せて生きることを促す点にある。

 しかし、これはKFCに限った話ではない。たとえペンテコステ系の教団の中にいなくとも、このように御言葉に基づいた信仰ではなく、自己の感覚に盲目的に身を委ねさせようとする運動の誤りを自覚し、その影響と自覚的に手を切ることをしなければ、どの教団に転籍しようと、あるいは無所属になろうと、この運動の影響から脱することはできない。このことは、ペンテコステ系の教団を出て後、カトリックや他の教団に転籍した後も、カルト被害者救済活動を支持している者たちによくあてはまる。(ペンテコステ運動と被害者運動にある本質的な共通点については後述する。)

 別途、詳述するが、こうして、口ではペンテコステ運動を批判しているようでありながら、実際には被害者運動を支持するという矛盾した行動に至る信徒が出現するのも、結局のところ、心の中でこの運動への親和性を捨てることができないためなのである。

 ペンテコステ系の信徒たちは、クリスチャンの間でも、福音派の信徒に比べて知性のレベルがあまりにも低いと酷評されることが多々ある。私は個人的に、彼らは他のクリスチャンに比べても、圧倒的に愚かであるという印象を受けているが、なぜそのような印象が生じるのかと言えば、ペンテコステ系の信徒たちが、常に自分の感覚に従って歩み、自分にとって好ましいものに考えもなく浅はかに飛びつき、きちんと物事を深く検証することを厭う習慣を持っているために生じるのではないかと考えられる。
 
 確かに霊的な啓示は信仰生活に必要である。しかし、信仰は五感によって知覚できるものではなく、霊的な事実と、五感を喜ばせる体験を取り違えることははかりしれない危険を信者にもたらす。だが、この事実を、たとえ言い聞かせたとしても、ペンテコステ運動に関わった信者が、以前の感覚優先の誤解に気づくのは容易ではない。なぜなら、彼らの味わった感覚的な喜びや陶酔感は、それほど忘れがたく、麻薬の陶酔感のようにその人の記憶に残っているからであり、そのために、五感を喜ばせるためでない静かで穏やかな信仰生活は、その人にとって物足りない、味気なく、嘘っぽいものにさえ思われるからだ。

 こうして、信仰生活とは何かということを根本的に誤解しているために、彼らは飽くことなく「非凡な感動体験」や「喜び体験」を求め続け、自分たちの祈りをより多くの人たちに聞いてもらって感動を分かち合うために声を張り上げ、メッセージを配信したり、著作を配ることには熱心だが、戸を閉じて、隠れたところで神に向き合い祈る(マタイ6:6)ことは嫌いである。まるで子供のように好き嫌いが激しく、自分にとって喜びの感覚や興奮の伴わないことに対しては、まるで冷淡で無関心なのである。

 そればかりか、彼らにとってはそのような喜びや陶酔感や感動体験こそが、信仰生活の核をなしているように見えているために、この体験を否定されると、彼らは自らの信仰、果ては自分の存在そのものを否定されたかのように憤り、癇癪を起こし、大変な剣幕で立ち向かって来ることがある。だが、そのような反応も、客観的に見ると、中毒患者の症状に極めてよく似た異常な状態で、その信者が、信仰に見せかけて感覚的にやって来る陶酔感をもはや手放せないところまで深くとらえられてしまっているという重度の霊的依存状態を表す危機的症状なのである。そうなって来ると、この運動と手を切るのは非常に難しい段階にあると思われる。だが、AG信徒にはこの重度の依存状態の人々が極めて多いことに驚かされる。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ3:3-4)


ペンテコステ運動はなぜ誤っているのか(序)


さて、今年から優良さわやか読者特別賞(改定)なる発表の場を設けることにした。

このブログの読者であれば、この賞が何を意味しているか、改めて説明の必要もないかと思う。だが、それでもあえて断っておくと、今回、初めてこのような場を設けた理由には、もう5年以上もの長きに渡り、私がキリスト教界に混入している誤った異端的思想や活動――たとえば、ペンテコステ系の教会で繰り広げられるカルト被害者救済活動や、ペンテコステ運動そのものもその中に含まれる――などについて、長編の分析記事を書くことを予告すると、決まって上記の受賞者らのようにまことにさわやかな読者らがどっと大量に押し寄せて来ては、異常行動を繰り広げて来たことが挙げられる。

このような活動は一般の目には触れないので、こうした活動に日夜いそしんでいる一群が存在していることは人に分からない。そこで、今回、全体のほんの一部ではあるものの、証拠を明るみに出すことによって、妨害者らがどの筋から来ている者であるのかを明らかにした。

このさわやかなる読者諸君は、ほぼ例外なく、キリスト教界関係者、すなわち、教団教派に属するプロテスタント(もしくはカトリック)の信者である。そして、その中には私の知人・友人であった者たちも含まれている。彼らは私との交友関係にありながら、裏でこのような活動に手を染めていた。私には分かるまいと高をくくっていたのだと思うが、まさかそこまで単純ではない。

この人々は外見上はまことにさわやかで品行方正なクリスチャンであり、多くは、ネット上にさわやかな信仰の証を発表してさえいる。とてもではないが、表向き、兄弟を密告したり、売り渡したりするような卑劣な人間には見えない。しかし、外見上の品行方正さが、その人の心の真実性の何の保証にもならないことは言うまでもない。特にキリスト教界とはそういう偽善的な人々を大量に生んでいる母体なのだ。

それでも、かつては彼ら自身も、キリスト教界の欺瞞に悩み、一時は、真実な信仰を求めて、そこから脱出しようと本気で機会をはかっていたことを私は知っている。義理人情や、組織の中で得られる栄光や地位がその妨げとなって、この人々はエクソダスを断念したのである。

もし「キリスト教界からエクソダスせよ」と呼びかけられているうちに、組織の枠組みを出てさえいれば、このような二重性を帯びた不誠実な生き方にまで転落することはなかったろうと思うと、彼らの人生がまことに惜しまれてならない。

だが、そのことは振り返るまい。主は言われるだろう、「<…>それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、私に従いなさい」(ヨハネ21:22)と。だから、私は彼らの人生を変えるために介入しないし、その生き方の先に何が待っているかについても関心がない。私はキリストにあっていただいた確信を捨てることなく、まっすぐに進まなければならない。
 
話を戻せば、このさわやか読者らは、このブログやホームページを検索結果から抹殺し、彼らに都合の悪い情報を意図的に排除するために悪質リンクを大量に貼ったり、もしくは、そのような行動によって、私を意気阻喪させ、創作意欲を失わせる方向で行動して来た。究極的には、彼らの目的は、自分たちの活動にとって都合の悪いすべての反対者の口を封じ、ネット空間から駆逐することにある。今もそうである。

しかし、こうしたことの背後には、人間的な思惑を超えた暗闇の勢力の活動があることに注意が必要である。これは人間的な対立ではなく、神の御言葉をどのように理解し、解釈するかという違いから出て来る霊的な対立なのである。一言で言えば、ここで問題になっているのは、聖書の御言葉と、それを曲げようとする活動(ペンテコステ運動を含む)の背後に隠れたグノーシス主義である。

だが、細かい議論はさて置いて、「実を見て判断した」人たちは多かった。2009年当時、私が初めてカルト被害者救済活動の危険性を指摘した時分には、まだこの活動は隆盛を誇っており、私の警告を信じる者も限られていたが、それからほどなくしてこの活動の支援者ら自身が、自分たちの心の中にある異常な憎しみを余すところなく反対者に向かってぶちまけたので、事情をよく知らない人たちでさえ、この活動がおかしいということに気づいて遠ざかった。

具体的には、負け続けているのに、なお継続される裁判。自分の活動を批判する者に対する手段を選ばない容赦のない制裁・・・。クリスチャンの行動にあるまじき同胞への異常な憎しみが、その人々がまことの神を信じる信仰者ではあり得ないことを如実に物語っていた。

私ははからずも自分がリトマス試験紙のような役割を果たしたのではないかと思っている。真のリトマス試験紙はむろん聖書の御言葉であり、その他にはない。が、多分、御言葉という宝を土の器の中に運んでいる信仰者も、少なからず、リトマス試験紙の役割を担っているのだろうと思う。だからこそ、地の塩であり、世の光である信仰者との接触によって、人々は自分たちが何者であるのかを試され、告白せざるを得なくなるのである。

信仰の歩みに戦いがあるのは、悲しむべきことではなく、光栄なことである。なぜなら、キリスト者は暗闇の世界に衝撃をもたらす存在であるべきであり、世の中からもろ手を挙げて歓迎されるような、毒にも薬にもならない霊的綿菓子作りのような活動だけで終わっていたのでは、その存在に意味が全くないからだ。

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。」(マタイ5:13-14)

キリスト者は、キリストの十字架の死と復活の証人である。この証人とは、命をかけて自分が目撃した事実を語り伝え、証明し続ける者のことをいう。もし激しい戦いが起きて来たからと言って、確信を捨て、主の御名を否むなら、神も私たちを否まれるだろう。

「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10:32-33)

「次のことばは信頼すべきことばです。
 「もし私たちが、彼とともに死んだなら、彼とともに生きるようになる。

  もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。
  もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。」(Ⅱテモテ2:11-12)


ある姉妹が私に向かって言ったのを思い出す、「私たちはね、この世において有名になることじゃなくて、霊界においては有名人になることを目指すべきなのよ! ほら、イエス様が地上を歩まれたとき、悪霊たちは、遠くからでも彼の姿を見て、恐れおののいて命乞いをしたでしょう? 私たちもそういう存在になるべきなのよ」
 
霊界の有名人になることを私は第一目標に掲げる気はないし、このテーマを引き延ばして語る気もない。なぜなら、「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)とあるからだ。

私たちの喜びは、キリストの贖いを信じた私たちの名が天に記されていることにある。だが、同時に、信仰のゆえの激しい戦いは、クリスチャン生活には避けては通れない道であることも確かだ。だから、必然的に、信仰者は幾多の訓練を受け、結果として、非常に強い恐れられるほどの衝撃力を持つ戦士にまで生長するのである。

そして、戦いには必ず報いが伴うことを忘れるわけにはいかない。それは決して単なる徒労には終わらない。臆病ゆえに確信を投げ捨て、戦いを中途で放棄する者を神が喜ばれることはないが、この戦いを最後まで耐え忍び、戦い抜いて勝利を得るならば、神は大きな報奨を下さるだろう。

だから、もし神が喜ばれる真実が何であるか知っているならば、恐れて退くべきではないのである。
次回からは、理論的にも、ペンテコステ運動の深部に迫っていく。

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ6:10-13)

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
「もうしばらくすれば、
 来るべき方が来られる。おそくなることはない。
 わたしの義人は信仰によって生きる。
 もし、恐れ退くなら、
 わたしのこころは彼を喜ばない。」
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」
(ヘブル10:35-39)

繁栄の神学の危険性

<聖霊の第三の波とは何か(2)からの続き>

 さて、少し時間が空いたので、前回の話をざっと振り返るところから始めたい。
 以前に書いたように、現時点で、私は聖霊運動(ペンテコステ、カリスマ、第三の波を含む運動)とは、キリスト教に偽装した非キリスト教であるという理解に立っている。その理由は、これから詳しく説明していかなければならない(もしきちんと説明しなければ、ただの誹謗中傷だとのそしりを免れないだろう)。
 初めにお断りしておけば、私はこれを「食わず嫌い」として主張しているのではなく、あくまでかつて聖霊派に属していた経験に立って主張しているのである。

 なぜ聖霊運動が非キリスト教であるとまで言えるのか。
 その第一の理由は、すでに述べたように、聖霊派が、キリストの十字架による贖いの完全性を損なうような教説を唱え、キリスト者の祝福の根源として、「十字架以外の何か」である、聖霊のバプテスマ(満たし)を付け加えようとしているからである。

 もう一度引用しよう、従来のプロテスタントの福音派が伝統的に取って来た立場はこうであった、「クリスチャン体験は全体として一つである。言い換えてみるならば、それは新生ということ、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる信仰によって新しく生まれ変わる回心の体験、新生の体験というものが基本であって、あとのものはこれに含まれるという考え方です。従いまして、聖霊のバプテスマなどという第二の体験はない、もしそれがあるとしたならば、キリストを信じたそのとき、新生の時にあずかっているのであり、新生がイコール聖霊に満たされる、聖霊のバプテスマであるという考え方です。従って聖めという体験も、新生の後に特別にあるものではない。新生の時に罪が赦され、そして聖められているのであり、キリストの救いは十全である、それ自体において完全である、その後何かつけ加えていくものではないという考え方です。これは主として伝統的な教会やまた福音派の中で、ペンテコステ運動に理解をもたない多くの人たちが持っている考え方なのです。」

 この伝統的な考え方は、回心とは別個の祝福としての聖霊の満たしという体験を否定するだけでなく、ペンテコステ・カリスマ運動に顕著に見られる「体験重視の信仰観」をも否定する。従来の福音派は、キリスト者の救いや祝福は、必ずしも、五感で感じられる体験によってはかれるものではないにも関わらず、それを体験という観点のみからとらえようとすることに、危険を見いだすのである。
 たとえば、回心の時にどれだけ後悔の涙を流したかによって、救いの完全性をはかることができないのと同様に、聖霊の満たしを受けてどんな不思議な出来事が身に起きたか、どうやって神の御声を聴いたか、霊の戦いにおいてどんな悪霊と対決しとか…など、目に見え、五感で感じられるような事柄、特に、私たちの感覚に高揚感をもたらすような非日常的な奇跡的体験を通して、信仰の成長をはかろうとすることに、重大な危険を感じ取って来たのである。

 かつて聖霊派に属していた私も、今では、上に書いたような従来の福音派の立場に賛同している(私は福音派に属しているわけではないし、福音派の政治形態については多くの異論があるがそれはさて置き)。体験としての聖霊の満たしが、信仰の成長をはかる現実的なものさしであるとは、私は全く考えられないし、さらに、もっと進んで言うならば、ペンテコステ・カリスマ・第三の波の人々の主張する聖霊のバプテスマ(聖霊の満たし)における「霊」とは、イエスとは関わりのない、何かしら、聖書外の「霊」ではないかと私は結論づけている。

 その「霊」が神から来たのかどうかを見分ける有効な方法の一つは、霊を受けた人にへりくだりがもたらされたか、それとも、高ぶりがもたらされたかに注目することだろう。イエスが遣わす霊は、決して、人に高ぶりをもたらすようなものではない。また、それはイエスを証することはあっても、自分自身を証することはない。聖霊は「臆する霊ではなく、力と愛と慎みの霊」(Ⅱテモテ1:7)である。だが、この聖句の中から、大胆さと力だけを抜き取って、「愛と慎み」を捨て去ってしまったのが、今日の聖霊派に見られる「霊」であると私は考えている。愛と慎みがないのに、ひたすらパワーを主張し、恐れ知らずに突き進んで行く霊が、聖書に示されている聖霊でないことは明らかだろう。

 私が接触した聖霊派の多くの熱心な人たちに共通する特徴は、彼らが自分に与えられた「使命」や「力」に慢心し、酔いしれていることであった。自分たちが「リバイバル」を起こすために「特別に選ばれた器」であると信じ、あるいは、特別な召命として神から「献身」するよう求められたと信じ、その召しや献身に、異常なほどの誇りを持っていることであった。そして、こうした献身者たちは、反対者、助言者の意見などものともせずに、自分の特別なプロジェクトに向かって、いかなる障害をもかえりみずに突き進んで行った。彼らは非常に競争心が強く、自分と異なる考えを持つ者には、蔑視的態度を取ることも多かった。そこで、いつも対立や分裂、競争、疎外が起こっていた。このような影響を人々にもたらす霊が、「力と愛と慎みの霊」であるとは、私には全く考えられないのである。

 さて、では、聖霊派の言う、聖霊の満たしによるエクスタシーのような恍惚体験(天国体験などとも言われている)は一体、何だったのであろうか。私はそれを体験した一人である。それは子供の頃のキャンプでの出来事であったが、不思議な魂の浄化作用を伴うように感じられた。その効果が続いていた間、私はかつてない心の平安を覚え、悪意、競争心、憎しみ、トラウマ…、いかなる罪深い考えも持てなくなったことを覚えている。その点では、聖霊運動に関わる人々が、この体験について異口同音に記しているあの天国体験の描写は、まさに正確な描写であると私は考えている。確かに、そこには何かの恍惚体験があったのである。

 だが、私は以前に、音楽にはカタルシスの作用があり、音楽が人の心に子供のような退行現象を引き起こすこともあるということを書いた。同様に、恍惚体験は、御言葉(キリスト)以外の手段によっても、簡単に引き起こすことができる。Dr.Lukeも薬物体験との類似性を挙げながら、聖霊派の主張する恍惚体験の由来に疑問を投げかけている。その他、たとえば、マントラと呼ばれるお経のような言葉を長時間、唱え続けることによって、人の魂を日常から離脱させることが可能であることも指摘されている。いくつかの人工的装置を組み合わせれば、そのような感覚を人に引き起こすことは簡単にできるだろう。

 従って、何らかの非日常的体験があったからといって、それがただちに神から来たものだと信じ込むのは極めて危険である。特に、聖書には、サタンにも奇跡を起こすことができることが、はっきりと記されているのだから。たとえ聖霊という名前が冠されているにせよ、全ての恍惚体験が神から来るのではないことを私たちは覚えておかなければならない。
 そして、私自身の体験について言うならば、恍惚体験は一日半ほど続いて元に戻り、それによって信仰が深まったという実感はなく、そのために後の人生の歩みが聖められ、より主に近いものになったということもなかった。むしろ、その反対に、将来には信仰的挫折が待っていたのである。

 さらに、第三の波に限って言うならば、ピーター・ワグナーが著書の中で、聖霊の力強い働きが聖書的なものであると主張しようとして、聖書外の記述に頼っていることも見逃せない事実である。彼は、力強い聖霊の働きの有効性を示すために、新約外典『使徒ペテロの働き』、偽典『使徒ヨハネの働き』など、聖書に含まれていない記述を、あたかも正統な根拠であるかのように挙げている(p.94)。さらに、彼が次のような呆れる内容を述べていることに注目したい。
「私が神学校の学生であったとき、使徒時代の話で聖書にないものをあまり信用してはいけないと教えられた。マクマレンはそれに反対している。歴史家として彼は、そのような話も信頼に足る記述であり、歴史的な有効性を持ちうると語っている。さらに、そういった書物によって、実際多くの人々がキリスト教に改宗してきたことをマクマレンは発見した。」(p.95)

 エール大学の歴史学者ラムゼイ・マクマレンの著書からワグナーは大きな影響を受けたことを記している。こうして、マクマレンの意見を取り込みながら、ワグナーは、第三の波運動の方法論の中に、聖書外の事実を混ぜものとして混入し、公然と組み込んで行くのである。

 さらに彼は書いている、
「この本(『ローマ帝国のキリスト教化』―筆者)の最初でマクマレンは彼がもっとも重要だと考える質問を提示している。『キリスト教は大衆に対して何を与えたのか。簡単に言ってしまえば、何があれだけの回心をもたらしたのかということである』。その答えはばかばかしいほど単純である。キリスト教は言葉と行いによって伝えられたが、伝道に果たした役割からすれば、行いが言葉よりもはるかにまさっていたのである。」(p.92)

 ここに問題のすりかえがあることに読者は気づかなければならない。聖書ははっきりと言っている、「信仰は聞くことによるのであり、聞くとはキリストの言葉から来るのである」(ローマ10:17)と。にも関わらず、ワグナーは、マクマレンの著書を引用しながら、ローマ帝国内にキリスト教が爆発的に広がりを見せたのは、「行いが言葉よりもはるかにまさっていた」からだと断言し、その「行い」による宣伝方法論を現代にも適用すべきだとするのである。これは、キリストの御言葉を聞くことから始まるはずの信仰の否定であり、聖書にない考え方を、彼が自分の伝道方法に持ちこんだことの明らかな証明である。ワグナーの言う聖霊による「力の伝道」や「力の対決」は、御言葉によらない「行い」(つまり、宣伝、マーケティング論)として登場してきているのである。

 さて、これから先、第三の波運動(ペンテコステ・カリスマ運動を含む)を「繁栄の神学」と呼び換えよう。第三の波がペンテコステ・カリスマ運動と本質的に同一であることはすでに述べたので、繰り返す必要はないと思うが、ペンテコステ・カリスマ運動の主要な柱は以下の通りである。

1)信徒が回心後に、聖霊のバプテスマ(満たし)を受ける必要性を強調
2)カリスマ的指導者を頂点に頂くミニストリーのスタイル
3)神は貧困を喜ばず、豊かになることは罪ではないとする繁栄の神学
4)人の心身や、地域、国から悪霊を追い出さなくてはならないという霊の戦いの神学
5)キリスト教シオニズム
6)大宣教命令に基づき、運動を全世界に普及させるべく打ち出される教会成長論

 第一の柱である「聖霊のバプテスマ」についての疑いはすでに述べた。
 次に、「繁栄の神学」について見ていこう。

 少し前に、「解放の神学」というものがキリスト教の中に存在していた時期があるのをどれくらいの人がご存知だろうか。これについては次回以降の記事で詳しく述べるつもりだが、「繁栄の神学」は、「解放の神学」と非常に似通っている部分がある。
 かつて「解放の神学」がそうであったように、今日、ペンテコステ・カリスマ運動や第三の波運動が打ち出す「繁栄の神学」は、第三世界を中心にして、貧しく、あまり教養の高くない、一般大衆をターゲットとして布教され、第三世界に流行しつつある。最もよく知られているのは、アルゼンチンやチリのリバイバルであろう。また、ペンテコステ運動と名乗らず、カリスマ派として従来の福音派の教会に浸透しつつある。

 この新しい神学は、既存のキリスト教界、特にカトリックにとって大きな脅威となった。かつて引用したことのあるアンドレ・コルタン氏の『ペンテコステ派という繁栄の神学』にもこうある、「カトリック教会が恐れているのは、『アジアとアフリカにおけるイスラム急進派の拡大』だけでなく、『第三世界の大都市における、福音諸派や様々な新興宗教、それにとどまるところを知らない『ペンテコステ派』との熾烈な競争(4)』である。他方、あるプロテスタント系の神学者(5)はこう問いかける。『ペンテコステ派こそ第三世界におけるキリスト教の未来なのではないか』と。ともあれ、アフリカやラテンアメリカでは、改宗者があとを絶たない。様々な名前を冠した教団が次々に現れる。アッセンブリー・オブ・ゴッドやチャーチ・オブ・ゴッドなど知名度の高いものもあるが、その他にも『神は愛なり』『生ける教会』『シオンの聖堂』『勝利の教会』などそれほど知られていないものもある。これらの教団は『ペンテコステ派』を名乗ることはめったになく、むしろ『福音派』と呼ばれている(6)。」

 この聖霊運動が第三世界にそれほどまでの広がりを見せた理由が、まさにワグナーが指摘した「行い」、つまり、その巧みな宣伝方法にあった。ヨーロッパ文明から半ば置き去りにされかかった第三世界には、今でも、呪術や、シャーマニズムや、アニミズムや、民間信仰が生きている。ペンテコステ、第三の波運動は、従来のカトリックやプロテスタントが見向きもしなかった民衆の伝統的な土着の信仰に目をつけ、その精神性を巧みに利用したのである。

 ワグナーは、欧米文化人の意識には欠けているが、第三世界の人々の意識の中にははっきりと存在している意識の層を、「中間層」と呼ぶ。この中間層に働きかけることが、第三世界への効果的な伝道方法なのだと彼は言う、
「欧米以外のほとんどの人たちの物の見方は三階層になっている。いちばん上の層は、広大な宇宙にただよう人格者あるいは勢力に基づいた高級な宗教心。それは非常に遠く離れた部分である。
もっとも下の層は毎日の生活。たとえば、結婚、子育て、農作業、雨と日照り、病気と健康、あるいは持ち物。
そして真ん中の層は、こういった日常の出来事と、超自然、超人間的なものが普通に交錯する部分である。毎日の生活の中で、さまざまな霊、悪霊、祖先、悪鬼、幽霊、魔術、呪術、魔女、霊媒、魔法など、自分以外の力の影響を心に受けることは、彼らにとってあたりまえなのである。」(p.35)

 シャーマンや、霊媒師、巫女、魔術、先祖崇拝、先祖の祟り…、そういったものが文化の中に組み込まれ、巫女や霊媒に頼る民間療法がれっきとした生活の知恵とみなされているような土地では、この「中間層」に巧みに訴えかける方法論がなければ、布教は成功しないとワグナーは考えた。日本では恐らく、沖縄がこのような地域に当たるのだろう(だからこそ、沖縄は「霊の戦い」の浸透率が全国で最も高いのであろう)。
 病気になれば、病院ではなく、シャーマンのもとに通う生活に慣れきった第三世界の貧しい人たちを取り込むには、キリスト教もシャーマニズムに匹敵するだけの何かを持たなければならない、従来のように、魂の救いを語るだけで、現実問題には何ら答えを出さないようなキリスト教では効き目がないと、ワグナーはみなしたわけである。そこで、第三世界への効果的な伝道方法として、「超自然的ないやし」が打ち出された。さらに、ワグナーがしばしば引き合いに出しているチョー・ヨンギは、病からの超自然的解放を唱えるだけでなく、福音は貧しい者に現実の経済的な豊かさをも約束するものでなければならないと考えて伝道しているため、彼らが唱えているものを総合すれば、それは実質的に、第三世界や比較的貧しい国々の社会的弱者を貧困と病から解放する弱者解放の神学であると言えよう。

 つまり、「繁栄の神学」は、弱者解放の神学として登場してきたのである。それはかつての「解放の神学」のように、公然と既存のキリスト教との対決(暴力革命等)を主張したり、宗教改革や、クーデタの構図をあからさまに示して、既存のキリスト教界の打倒を旗印に掲げることはないにせよ、実質的には、「繁栄の神学」の存在自体が、欧米式教会をモデルとする従来のプロテスタントのキリスト教に対する強烈なアンチ・テーゼになっていることは否めないだろう。「繁栄の神学」は、これまでのように、教養もあり、社会的地位もあり、礼拝堂の席を何不自由なく占めて安楽な信仰を維持することができた「富める者たち」のための福音ではなく、場合によっては、病院での治療費もなく、献金を払うことさえできないような、第三世界のうち捨てられた「貧しい者たち」をターゲットとした福音として始まった点で、まさに黒人や女性や虐げられた弱者を解放しようとした「解放の神学」の焼き増しであると言える。だからこそ、「繁栄の神学」は、「解放の神学」と全く同じ危険性を内に含んでいるのである。

 さて、今日はここまでにして、次回、解放の神学とは何かを見てみよう。
 ちなみに、この蝶は何度目かにやっと撮ることができた♪