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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。

「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも、身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(2テモテ4:3-5)


このところ、忍者ブログのサーバーが全体的にダウンしており、接続することさえできない日が続いている。当ブログに対しては、これまで絶え間のない迫害が起きて来て、多くの人が、このブログを閉鎖するよう執拗に要求し続けて来たのだが(こんな個人のブログに対してそんな反発が起きること自体が普通ではない)、こうした現象もその一環なのであろうか?

いずれにしても、終わりの時代が迫っていること、心を引き締め、より一層、清さにあずかるために、訣別せねばならないものと訣別し、まどろんでいてはならないことを感じさせられる毎日である。

ちなみに、当ブログがこれまで絶えず迫害を受けて来た最大の理由の一つは、牧師制度の誤りを指摘しているためで、牧師制度とは、神と人との唯一の仲保者であるキリストを退けて、牧師という人間に過ぎない者が、神と人を仲介しようとする偶像崇拝の制度である、と主張して来たためである。

牧師をを介さなければ、信者が自分では御言葉を理解することもできないとし、毎週日曜日に牧師の説教を聞くために、信徒が牧師に献金を払い、牧師一家を養うことを当然視しているプロテスタントの教職者制度は、根本的に誤っている偶像崇拝の制度であり、このような制度に属している限り、信者は真実な福音にたどり着くことはなく、真実な信仰を求めるならば、信者はこれを離れてまことの福音を追い求めねばならない、と強調して来たためである。

また、同時に、当ブログでは、牧師制度の腐敗により堕落した教会に対して批判の声をあげている反カルト運動も、同時に牧師たちに導かれる運動であるから、両者は根本的に同一であって、どちらにも救いはないと主張しているためである。

牧師制度を早急に離れることこそ、必要なのであり、それをしないまま、カルト化した教会だけを非難していたのでは、全く話にならない。プロテスタントの教会で起きる不祥事は、かつてカトリックが宗教的腐敗に陥って、そこから改革を唱えてプロテスタントが出現したように、プロテスタントもまた腐敗に陥って、終焉に至りつつあり、万民祭司の時代が始まるべき時がすでに来ていることをよく表しているだけなのである。

その中で、私たちがせねばならないことは、聖書に忠実な信仰に立ち戻ることだけであって、何が本当に神の喜ばれることであって、何がそうでないかを見極め、目に見える人間にではなく、ただ神だけを信頼して、ただ神だけに栄光を帰するために、御言葉に従順に歩むことだけである。だから、このブログに反対している人がいるとすれば、その人たちは、自身が教職者であるか、教職者同然に振る舞っている人たち、また、その制度を擁護している人たちだけと見て良い。

2009年には当ブログで述べているのとほぼ同じ考えを持っている人々は相当数、存在していた。キリスト教界からエクソダスせねば、真実な福音にたどり着けないという危機感は、多くの信者らによって共有されていたため、このテーマを語ることは何ら困難ではなかったし、もっと言えば、珍しい意見でもなかった。そのテーマを語ったからと言って、カルト信者扱いされることもなければ、インターネットでバッシングを受けるというわけでもなかった。

しかし、その後、非常に激しい迫害が起きるようになり、エクソダスを主張している多くの人々が、神の御前で一人で信仰を守り抜くことに挫折し、人の歓心、人の理解や慰めを求めて、自分たちのめいめい好き勝手な指導者を選んで立てては、組織に戻って行った。それは彼らが、当ブログに対してしかけられた戦いのあまりの激しさを見て、自分たちはそういう目に遭わされないで生きたいと願ったためでもあろう。一言で言えば、彼らには、御名のために受ける苦難よりも、自己の安寧の方が大切だったのである。

そのようなわけで、今や真にエクソダスを主張している人は、探しても、ほとんど見受けられない状態となった。見当たるのは、エクソダスと言いながら、キリスト教界と妥協し、牧師を批判しながら、自分自身が牧師となって、信者の心を支配し、メッセージを語り、自分たちは組織を作らないと言いながら、自前の組織を作るような偽り者ばかりである。(というよりも、そういう人たちは注目されるところで語るのが好きなので、人目につくところに彼らの発言が掲げられているというだけであるが。)

だが、筆者は、どれだけ大勢の人々が、自ら表明したエクソダスを撤回し、偽りと分かっている組織に舞い戻って行こうとも、人間を崇め、奉る生き方からは離れ、神の御言葉を守り抜いて生きることこそ、誰よりも自由で、豊かで、高貴な人生を送る秘訣であると確信しており、それだけが、勝利の秘訣であることが、身に染みて理解できる。

だから、この先、筆者のこれからの人生を通して、御言葉の正しさが証明されなければならないと考えている。そうなったときに初めて、神の恵みは、権勢によらず、能力によらず、ただ主の御霊によって、御言葉に忠実に生きる人々に恵みとして与えられるものであることが、万人に知れるようになるだろう。

多くの人たちは、自分たちが目で見て確認したものしか信じない。そこで、そのような人々の目には、彼ら自身があり得ないと思うことが成就する他、筆者の信じる神が、まことの神であって、今日も生きて働いておられ、信じる者を全ての苦難と悪から完全に救い出す力があり、聖書の御言葉が真実であることを、思い知ることもないであろうと思う。

そのために、筆者は残りの生涯、主の栄光のために、正しいことを行なわねばならないと決意しており、そうして行くときに初めて、筆者自身に尊厳が与えられ、人々のための利益も、満たされると考えている。

そのようなわけで、詳細はまだ語ることはできないが、筆者の心の中には、今まで考えもしなかったような、遠くまでの道筋、計画が思い描かれている。

だが、先の記事にも書いたように、そういう話を全く受けつけられない人たち、そんなことは絶対にあってはならないと猛反発を示す人もいなかったわけではない。「あなたを助けたいんです、ヴィオロンさん。」などと言いながら、接近して来る人たちは、大概、筆者が真に御言葉に従って生きるなら、悪者に対しては勝利をおさめられるという話を始めると、激しい反発を示して去っていくのであった。

助けたい、と言いながら、自分たちが助けようとしている相手が、真に自由になることを、誰よりも必死で阻止する。こんな人々は助け手の名には値しない。彼らの本質は、私たちが自分を縛っている偽りの体系からエクソダスを試みようとしない限り、現れることはない。だが、私たちが本気で主にあって、自由を目指そうとする時、こうした人々が、足もとに絡みついて来ては、脱出を阻止しようと、あれやこれやの言い分をぶつけ、その時、彼らの偽り者であることが私たちに分かるのである。

たとえば、悪魔に立ち向かいなさい、などという御言葉を好んで引用して語る人たちが、どういうわけか、筆者の周りで実際に起きている様々な霊的戦いについては、筆者に勝利が与えられることを喜ばない。実際に勝利をおさめることが、筆者にはどうしても必要であり、そのための方法を見いだした、と筆者が喜んで証を始めても、「そんなことが神の御心のはずがない!」と猛反発して去っていく。

さらに、筆者が自分の人生において、神の命の豊かさを体現して生きるために、制約だらけの状態から抜け出て、もっと自由にならなければならないし、そのための模索を行っているところだ、という話をすると、それにも耳を塞いで去っていく。

それはちょうど、筆者がとても窮屈で貧しくて不自由な世界から、自由を求めてエクソダスを決意すると、寄ってたかって、「おまえには幸福になる資格などない! おまえが自由になることが、神の御心のはずがない!」と叫んで、不自由な世界から筆者を決して逃がすまいと、必死で束縛して来るような具合である。

そのようなことを、普段から敬虔そうに御言葉を語り、自分は真実な信仰を知っていると豪語する人たちが、まさに行うのである。ただし、そのような人たちは、あなたが主によって真に恵まれたという話をしても、普段から決して喜んでその話を聞かないので、その態度かを通しても、大体、彼らが信奉している教えが何であるかは想像がつくのだが、あなたが真に不自由な状況からエクソダスを遂げて、主にあって、自由と勝利を掴もうとする時には、さらに強烈な反対を示して、それが成就しないように妨害して来るので、よく分かる。その時、彼らの信じている教えが、人を自由に導くように見せかけながら、実際には、貧しさと不幸と滅びの中に連れ込むことしかできない、偽りの宗教体系であることが、私たちによく分かるのである。

だから、そういう人たちに向かっては、筆者は「どうぞあなたの信じるところを行って下さいな。私は一人にされることを一切、恐れませんから」と通告するのみである。こういう人たちと手を携えて前に進んで行くことは絶対にできない相談である。

たとえば、こういう状況を考えてみて欲しい。

あなたが若者であって、軍隊に入隊したとしよう。あなたの祖国は、今や戦争を始めようとしており、士気が高まっているところだ。

ところが、あなたは、その戦争の動機が根本的に間違っており、あなたの国には正しい理念がなく、敵国はあなたの祖国よりも圧倒的に強く、打ち負かせる望みがなく、しかも、あなたの軍隊の上官たちは大変な愚か者で、間違った戦略を立てているため、それに従って戦地に送り出されれば、あなたは戦場で死ぬだけで、どんなに戦っても、生きて帰れる見込みは1%もない、という情報を、仲間よりもいち早く先に掴んだとしよう。

戦場に行けば、十分な兵糧もなく、武器も与えられないのに、飢えと、寒さと、疲労の極致の中でゲリラ戦を続けるという極限状態が待ち受けているだけであり、そこには、仲間同士の間でも、助け合いの精神はなく、あるのは、自分が生き延びるためには互いに殺し合い、互いに食い合うことで、命をつなぐ運命だけである。つまり、仲間を殺して食うという鬼畜の所業にでも手を染めない限り、生きて帰れる見込みもないというのだ。

また、その他にも、特攻作戦が実行され、敵に打撃を与えることもできないのに多くの命が無駄に費やされるという情報もあなたは掴んだ。

このような情報を得て、あなたは何をしようとするだろうか。まずは同僚たちに、この戦争は無謀である、戦っても勝ち目がない、無駄な犠牲が生まれるだけだ、ということを説いて聞かせ、反対者を募ろうとするかも知れないが、同僚たちは誰も耳を傾けてくれず、その話を聞きつけてやって来た上官が、かえってあなたを叱りつけ、これ以上、軍隊の士気を低めるような根拠のない話をすれば、祖国に対する中傷、軍隊への裏切り行為として、軍法会議にかけるぞ、などと言う。

あなたは仕方がなく、この話を誰かに理解してもらうことを断念せざるを得なくなる。だが、何も知らなかったふりをして軍隊の中にとどまっていれば、いずれ戦いにもならない戦いの中で、犬死する他ない。せめて自分の命だけは、この愚かしい戦争によって失うことのないように対策を講じる以外に、なすべきことはないと思うだろう。そこで、あなたは何とかしてこの軍隊から早く脱出するか、死ななくて良い任務に就くかして、呪われた運命を避ける方法を模索しなければならないと決意する。あるいは、そのような状況から脱するためには、亡命ということも考えてみなくてはならないだろう…。

人に先んじて情報を掴むというのは、そういうことなのである。知恵はそのためにあり、いち早く正しい情報を得た人だけが、我が身を救うための方法を、人よりも先んじて講ずることができる。もしかしたら、自分の家族をも救える方法が見つかるかも知れない。だが、残念ながら、多くの人たちは、正しい話を聞かされても、信じない。特に、自分たちが誇りとする軍隊が、愚か者の指導者に導かれているとか、自分の祖国が負けるかも知れないなどという話は、人の心を喜ばせないので、誰も耳を傾けようとしない。

戦って敵国を打ち負かし、自分たちの力と知恵で勝利を打ち立てるという話は人の歓心を買うが、戦争そのものが無謀であって、祖国には正しい理念と知恵がないから勝ち目がないという情報には、人々は耳を傾けたがらない。その話は彼らの無力さと限界を思い知らせるので、彼らにとってはあまりに悲観的過ぎるだけでなく、恥と屈辱をもたらすように思われるからだ。

だが、彼らと同じ価値観の中を生きていれば、あなたは前線で死ぬしかないことが分かっているのに、どうして彼らと一緒の道を行けようか。このように、多くの人々が考える勝利をもたらす方法と、実際に勝利を掴んで生き延びる方法は、いわば、正反対なのである。

同じように、人間が自己の力で罪を贖うために作り上げられた一大宗教体系というものがあり、そこで人々は知恵と力の限りを尽くして、天にまで至り着く高い塔を建設しようとしている。荘厳を極めた儀式、感動的な説教、多くの涙ぐましい奉仕、人々の熱狂がそこにある。

人々は筆者に対しても、その塔の建設に加わるように言う。そして、筆者のような者が、かえって彼らの建設しようとしている塔は、偽りであって、天に到達することなく、神の聖に至り着くこともなく、何らの勝利ももたらさないまま、ひどい倒壊をもたらすだけだと主張すると、彼らは自分たちのしようとしていることに、いたく水を差されたと感じ、侮辱を覚え、敵意を表すだけである。

ノアが洪水を避けて箱舟を建設していた時も、ロトとその家族がソドムを脱出しようとした時も、全く同様であっただろう。ごくわずかな義人たちだけが、堕落したこの世に定められた滅びのことを知っており、何とかしてそこから逃れ出なければならないことを知っていたが、その時、人々は、飲み、食い、売り、買い、建て、めいめいしたいと思うことをして、その日常がこれからも決して妨げられることはなく、自分たちは望みのままに生き、それによって神の聖にまで到達することができると信じて、義人たちの警告には全く耳を貸さなかった。

それだけでなく、彼らに対して耳の痛い忠告をして来た神の僕たちを排斥し、踏みつけにし、あるいは殺した。そうした警告は、人々にとっては、彼らが喜んで謳歌している人生、彼らの生きる目的そのものを、恥や、誤った考えのように思わせるものだったので、彼らはそれを聞きたくなかったし、自分たちに侮辱を感じさせる者を憎んだのである。

もちろん、筆者はこの世界が明日滅びるとか、私たちの町が滅ぼされるなどと言っているのではない。主に従うためには、自分を捨て、自分の十字架を負って、日々主に従うしかないにも関わらず、自分たちに好ましい言葉を述べてもらい、平和だ、無事だ、安全だと耳障りの良い福音を聞き、自分たちの欲望を肯定してもらいたいがために、人間に過ぎない宗教指導者をあちこちから招聘し、彼らを神のごとく崇め、奉り、つき従っている、御言葉に従わない者の末路は滅びでしかない、ということを述べているに過ぎない。

そして、ある人々が、どんなに筆者の口を塞ぎ、当ブログを踏みつけにすることによって、筆者の主張をないものにしようと考えたとしても、そのことによって、間違っているものが間違っているという事実にまで変化が起きるわけではないため、人々が自己の力で罪を贖おうとして必死の思いで積み上げている努力が、その人たち自身に呪いしかもたらさず、寸分たりとも報われないという事実に、変わりはないのである。神の僕を踏みつけにすることはできるかも知れないが、そのことによって、踏みつけた人の罪に罪が増し加わるだけであって、神の御言葉の正しさがいささかも消えるわけではなく、その決定が寸分も変更されることはないのである。

御言葉は言う。


「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要がありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ、安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。


しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」(1テサロニケ5:1-6)


今年に入ってから、筆者には、心の偶像がどのようにキリスト者を弱体化させるかが分かり、また、それを投げ捨てることによって、霊的視力が回復されることも分かった。筆者が、これまで見たことのないほど遠くまで、これから起きることを予想できるようになったと述べているのも、そのためでもある。

敵に対する勝利がどのようにしてもたらされるのか、霊的軍事作戦が見えて来たのである。偽りの宗教体系であるバビロンは、自分は勝利した、無敵である、自分に敵対した者は、一人ぼっちの孤独の中で、恥と敗北を噛みしめているだけだ、二度と立ち向かって来ることはない、と豪語している。しかし、バビロンには、その罪のための裁きが下る時が必ず来て、しかも、その倒壊は非常に激しく、人々の驚きと恐怖の的になる。

これは一種の比喩であって、最終的なバビロンの崩壊は、この世の終わりを待たなければならないが、その前に起きる地上的な様々な出来事の中にも、バビロンの倒壊現象は、確固として現れるのである。だから、筆者は、その時がどうやって来るのか、少しずつ、予想しているのだが、サムソンがそうであったように、真実なキリスト者までが、バビロンの倒壊に巻き込まれるようなことがあってはいけない。

そこで、あなたがバビロンを去ろうとしているその時に、その都に駆け戻って行く人たちとすれ違うかも知れないし、その都にいる人たちを助け出さなければならないと言う人があるかも知れないが、その都に一切の未練を持ってはいけない。決して後ろを振り返らず、前へ進まなければならない。あなたが見つめなければならないものは、不完全さではなく、完全さなのである。

「より完全なものを目指す」――という言葉で検索してみると、大体、企業がより良い商品を開発しようとするときの文章が見つかる。

私たちは自分の商品を開発しているわけではないが、キリスト者として、日々、自分自身が、より完全な、完成された状態になることを目指して歩んでいることを忘れてはならない。私たちは神の作品であって、キリストの手紙のようなものである。神が完全な者であられるように、私たちもそうなることを目指すべきである。

黙示録にはこう書かれている、「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行なわせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。見よ。わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。


命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は門の外にいる。」(黙示録22:10-15)


このように、終わりの時代、不正な者はますます不正になるが、正しい者はますます正しくなり、聖なる者は、なお聖なる者となると記されている。時を無駄にしてはいけない。神に従う者は、他の人々がどのような人生を歩もうと、それに関係なく、ますます正しく、ますます聖なる者となり、ますます完全とされることを目指すべきである。

だから、たとえ多くの人たちが、脱出の道を貫徹できず、荒野で誘惑に負け、倒れ、あるいはもとの故郷に駆け戻って行ったとしても、他の人たちがどうなったのかに心を留めてはいけない。後ろを振り向いてもいけないし、滅びに定められている一切のものに未練を感じてもならない。見つめなければならないのは、私たちの前に置かれた褒賞であり、信仰の創始者であり完成者であるイエスご自身であり、高き御座に座しておられる方である。

私たちの衣を洗い清めるのは、ただ小羊の血潮だけであり、ただ主イエスだけが、私たちの救いであり、栄光を受け、誉め讃えられるべき方なのである。

このことが分からず、人間同士が互いに賞賛し合い、慰め合うことに活路を見いだし、人の温もりに心惹かれた大勢の人たちは、エクソダスと言いながらも、出て来た元の故郷へ戻って行って、そこで神ではない別なものに栄光を帰するはめになった。彼らに待ち受けているのは、やがてその都が倒壊したとき、その下敷きになる運命だけである。それにならってはいけない。

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羊の門を通らないで入る者はみな強盗である


 

「イエスは言われた「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
  盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
  わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:9-11)



上記のニュース動画を見るにつけても、「牧師が教会と自分を同一視し、教会内手続きを無視して教会を乗っ取り、教会を私物化する」現象と、「政治家が国家と自分を同一視し、自らを法として自己の無謬性を主張し、自分自身が国家であると宣言する」現象の背後には、同じ心理構造があることが分かる。
 
三島の盾の会の決起について以下の記事で触れた通り、人の自己には生まれながらに神聖な要素が宿っているとみなすグノーシス主義者の行動には、一定の特徴がある。

それは彼らが必ず、自分たちの属している組織を自己防衛の手段として利用し(私物化し)、組織まるごと神に対する反逆の手段として変質させてしまい、やがて何らかの集団的な謀反に至りつき、組織そのものを破滅させてしまうという特徴である。

このような人々は、人間の生まれながらの本能的な自己防衛と復讐の心理に基づいて行動しているのだと言える。このような心理を、これまで記事では「カインの城壁の論理」として提示して来た。旧約聖書に登場するカインは、自己の犯した罪を否定し、隠すために、罪のない弟アベルに責任転嫁して弟を殺した。この弟殺しという恐ろしい罪から逃れるために、カインは自己義認を続けながら地上をさまようことになり、自らの罪を暴いて自分にとって脅威となりうる人間に対しては、七倍の復讐を遂げることを誓う。

こうして人類が己が罪から逃れるための自己義認と復讐の精神が生まれ、それはバベルの塔に受け継がれる。バベルの塔は、人類が神に敵対して生まれながらの自己(セルフすなわち旧創造)を防衛するために作り上げた城壁である。バベルの塔は神に対抗して人類が己の聖なることを主張し、自分の罪を否定するという、神に対する反逆の精神に基づく建設であった。

このバベルの塔が後世に形を変えて、人が自分を守るために作り上げる組織の囲いとなり、市街を守るための城壁となり、組織を守るための軍隊などに変化を遂げる。地上のあらゆる組織(教会、企業、国家、軍隊等)は、人類が自己防衛を成し遂げるという目的のために作られているのだと言えるが、そうした性質のために、人類が己の罪を否定して神へ反逆を成し遂げるために悪用されたり、変質する危険をも持っているのである。

むろん、本来、教会や国家はそんな目的のために設立されたわけではなく、そのような悪しき目的に組織が利用されることを人々は願っていない。確かに、組織には本来的に所属する人々の安全の確保のために自己防衛をはかる機能が備わっているが、それはあくまで平和的な防衛を目的としているのであって、仮想敵との戦いを煽り、これを膨らませることにより、恒常的な戦闘状態に落ち込んだり、神への反逆的な意味を持つ究極的な行動(=集団的な決起)に至るということになると、話が別である。なぜなら、そのような集団的決起は、組織そのものを破壊してしまう危険を持つからである。

そこで、このような戦いや内乱状態を防ぎ、平和を保つために、組織には法が定められており、その法に従って平和の破壊が起こらないように、人々が行動する義務を負っているのである。

ところが、悪しき目的を持つ人々がやって来ると、この人々は法を無視して正当な手続きを踏まずに組織をまるごと乗っ取り、神への反逆という悪しき目的のために利用して行くということが実際に起きる。そうなると、その組織の中にいる人々は、みなこの悪意ある計画に巻き込まれ、集団的な謀反のような、戦いや内乱へ巻き込まれて行くことになる。
 
かつての国家神道に基づく軍国主義国家としての日本は、成立そのものが、キリスト教に敵対して作られた国家であったが、このような歴史を振り返れば、国家そのものが、神への反逆の手段として利用されることがありうることが分かる。全体主義国家はみな、人間の指導者を現人神として神以上に高く掲げ、神への反逆的なイデオロギーに基づいて国民を統制する点で共通しているが、同じことが、教会にも当てはまるのである。

オースチンスパークスの論説において確認したように、終わりの時代には、教会であれ、国家であれ、すべての目に見える地上の組織が、こうして反キリストの性質を帯びて、「人間が己を誇り、高く掲げるための偽りの神の国」として、神への反逆に悪用される危険をはらんでいるのだと言える。
 
話を戻すと、自己義認のために組織を乗っ取り、悪用するリーダーは、一様に、法に対する憎しみを表す。というのも、彼らは、正当な権利なく、羊の群れの中に不法に柵を乗り越えて入り込んで来ているので、その犯罪的な行為がバレては困るため、組織を支配する旧来の法が邪魔になるのである。また、彼らは高慢なので、自らこそが法だと考えており、自己の無謬性を主張して、自分たちを罪に定める法を嫌い、自ら法に服し、これに束縛さなければならない義務があるとは認めないのである。

こうして、彼らは法に則らず、法に服さず、むしろ自分たちに都合の悪い法を無視し、歪曲し、排除して、門を通らず、柵を乗り越えて組織に入って来る。

これまで、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の指導者(津村昭二郎氏や、村上密氏)と信徒(たとえばBr.Takaこと鵜川貴範氏)がどのような、不法かつ卑劣な手段で、自分たちの所属していない他の教会に潜入し、これを私物化し、思うがままに混乱に陥れて来たかはすでに詳しく述べた通りである。

聖書はこのように、正式な門を通らずに、羊の群れの中に入って来る者はみな強盗であると告げている。正当な教団内の規則や、教会内の規則に則った手続きを経ずに、これを無視して暗闇で恫喝を手段として行動し、また、この世の法律さえも無視して、勝手気ままな主張を繰り広げて、組織を思うがままに私物化しているこうした指導者や信徒たちは、キリストの御霊に基づく信者であるとは言えず、むしろ、反キリストの精神に基づいて行動しているのだと明言できる。

そのことが明るみに出ると困るので、彼らは自らにとって不都合な人物に濡れ衣を着せて排斥し、恫喝しては恐怖によって人々を沈黙させ、自分にとって不都合な法や規則はすべてないことのように蹂躙し、正当な手続きによらずに人事を掌握して組織を手中におさめて私物化したその後で、不都合な規則はすべて撤廃し改変することで、組織そのものを自分の意のままになる機関へと変えてしまおうと狙っているのである。
 
今、そのことが国家レベルで画策されている。A級戦犯の孫であり、統一教会との密接な関係が明らかであり、正当な選挙結果が認められてない内閣の首相である安倍氏が率先して、中国などを仮想敵として脅威論などを煽り、憲法を改変して我が国をかつてと同じような恐怖政治や戦争へ導き入れることを可能とにしようとしている。これは統一教会を脱会してアッセンブリー教団指導者となった村上密牧師がカルトを仮想敵としてこれとの戦いを唱えて教団を絶えざる戦闘状態に陥れて、不法な手続きによって人事を掌握して私物化をはかり、カルト監視機構の創設を訴えたり、他教会に裁判をしかけるなどして、不都合な勢力を追い払いながら、教団内外のキリスト教界で不法に実権を握って、聖書に基づかない支配を行ったのとよく似ている。その究極的な目的は、教会の破壊とクリスチャンの迫害と神への反逆にある。もし国家としての日本も上記のようなことを許せばいつか来たよりもっと恐ろしい神への反逆の道をひた走ることになろう。

終わりの時代、地上のあらゆる目に見える組織がこうした悪意ある目的のために利用されてしまう危険がある。このような反キリストの精神に基づいて組織が動かされるようになると、その中には絶えず混乱が満ち、戦いが起こり、最終的には組織そのものが破壊される。

だから、こうした悪しき目的に巻き込まれない秘訣は、法を守ること、これを遵守すること、そして、法を蹂躙し、これを無視して行動する人々の真意を見抜き、糾弾することである。このことをキリスト者の生活に置き換えれば、法とは聖書の御言葉のことであるから、聖書の御言葉を守り、これに従い、これを守って生きることがクリスチャン生活の第一義的な課題である。そこで、クリスチャンを名乗っていながらも、聖書の御言葉に従わず、教会内手続きを無視して勝手に行動し、この世の法さえ守らないような人々は、兄弟姉妹ではなく、偽牧者であり、強盗でしかないので、このような悪しき指導者や信者には関わるべきではないのは明白である。

終わりの時代に、信者がなすべき行動は、地上のいかなる目に見える組織や、指導者にも、頼ることなく、ただ見えないキリストのみを真の助けとしてより頼んで生きることであろう。沈没船のたとえを何度も引き合いに出して語って来たように、救いとなるのはキリストの十字架のみであり、目に見えるあの指導者、この信者ではないのである。

信仰者が、目に見えるいかなるものにも惑わされることなく、ただ内におられるキリストだけに従うこと、もしそれができなければ、信者は絶え間なく欺かれ、利用され、最終的には、神への謀反へと駆り立てられ破滅する人生が待っているだけである。過ちも初回であれば許されるだろうが、同じ過ちを二度、三度、学習なく繰り返していながら、それでも重い罰を免れられるかどうかは分からない。

残念ながら、このことは国家としての日本にもあてはまることである。もしこの国がかつての過ちを認めることを拒んで、二度、三度、神への反逆の道を進んで行くならば、その度ごとに科される罰も重くなっていくであろう。

同様に、もし信者が、繰り返し、神の代わりに、人間のリーダーを崇拝し、御言葉に従わず、法をおざなりにしてでも、目に見える人間のリーダーの言うことを鵜呑みにして従っていれば、その度ごとに、より悲惨なとんでもない目的のために人生を浪費し、破滅するだけである。

そこで、クリスチャンは(もうそろそろいい加減に)教会を含めて、人間の作り上げる組織そのものを絶対化して、人間の連帯を美化したり、これに希望を見いだして依存することをやめて、見えない神を第一として生きることが何より肝要である。特に今の時代、旧約聖書のサムソンの例に見られるように、クリスチャンが他者に自分の弱みを安易に打ち明けることは、自らその者に支配させるきっかけを与えるのと同じ自滅行為に他ならないことをよく理解する必要があるだろう。

教会は、神のために、キリストのために存在するものであって、人間が互いに自分の弱さを持ち寄っては慰め合い、助け合い、かばいあい、互いを褒めたたえ、認め合うための共同体ではない。もし後者が前者より重視され、神以上に人間の都合や必要が重んじられるようになると、それはもはや教会の正常な姿ではなくなっていく。

カルト被害者救済活動に携わる人々のように、弱者救済を口実に、神よりも人間の必要に応えることを第一義的な使命として掲げるようになってしまうと、それはもはや教会のあるべき姿ではなくなり、信者のあるべき生活でもなくなり、そのような人々は神を礼拝し、神に仕えるというクリスチャンの本来的な使命を失って、その組織や集まりも、人間の欲望のために無制限に悪用される場へと変質して行くのである。

そこで、「弱者救済」や「人助け」という巧みな口実により、聖書からの逸脱が成し遂げられることがないよう注意が必要である。カルト団体は、困窮状態にあったり、弱さを抱えている人々を助ける風を装いながら、人々に接近し、巧みに信者に取り込んでいくことでよく知られている。人の弱さを助けると言えば聞こえは良いが、信者が従うべきは、あくまで聖書の御言葉であって、誰かの考え出した人の耳に心地よい弱者救済のスローガンではないのである。

また、エクレシアとは何かという疑問に魅せられるあまり、人間の集まりに過ぎないものに過度な注意を払い、人の集まりを美化し、賞賛することも、自己陶酔の危険をはらんでいると言える。エクレシア賛美という罠にはまると、教会が、兄弟姉妹の親しい関係という美しい言葉を口実に、人間同士が互いを誉め称え合い、自己陶酔するための場へと変えられてしまいかねない。愛という言葉で、人間の罪や弱さを大目に見、人間の連帯を過度に賛美する思想も危険であり、そのようなものが聖書に基づくクリスチャン生活とは言えないのである。

教会が追求すべきはあくまで見えない神ご自身、見えないキリストのみであり、この点を間違えて、教会が社会事業に逸れたり、弱者救済活動に邁進したり、信者が互いの罪や弱さを大目に見てかばい合うことを目的にしたり、目に見える指導者や目に見える信者同士を誉め讃え合うことを目的に集まったりすると、教会そのものが人間の欲望に基づく組織へと変質し、その腐敗と堕落の結果、神への反逆に利用されて、やがてとんでもない結末に至るのは避けられない。

キリスト教とは人間を礼賛する思想ではなく、弱者救済のための手段でもない。聖書は人間の罪の堕落について途方もない深みがあることを教えている。聖書が教えているのは、旧創造は全て十字架の死を通らなければならないということであり、社会的弱者だから心が美しく罪がないとか、マイノリティだから無条件に同情されて手を差し伸べられるべきであるといった主張は、聖書に真っ向から反しているグノーシス主義的な異端思想である。聖書によれば、全ての人間は例外なく罪人であって、真実な方は神お一人しかいないのである。にも関わらず、弱者という言葉の響きを悪用して、キリストの十字架を退けて人間を聖とする危険な思想に、クリスチャンは関わるべきではない。

にも関わらず、今日のキリスト教は概して全て人間の必要に応え、人間を賛美し、人間に栄光を帰し、人間を喜ばせ、満足させることを第一義的な課題として存在している。これは完全に堕落しており、誤った偽りの「教会」の姿だと言える。だからこそ、そのような組織は、いつ何時たりとも、不法にやって来た指導者の思惑通りに悪用されてしまいかねない危険をはらんでいるのだと言える。
 
しかし、真実な信者は、誰の声に聴き従うべきかを知っている。真の兄弟姉妹は聖書の御言葉を踏みにじることなく、法を踏みにじることなく、御言葉に忠実な方が誰であるか知っているので、その声だけに聞き従う。偽牧者が現れること自体は阻止できないが、真実、神に従うことを願っている羊は、御言葉を踏みにじる偽牧者の声には従わず、彼らの危険なスローガンを避けて逃げ去る。こうして、御言葉の中にとどまり、御言葉に服従し、ただ一人の真実な牧者だけに従うという選択が、羊の命を守るのである。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。

しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。

彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は彼の声を知っているので、彼について行きます。

しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」(ヨハネ10:1-5)


「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても言ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。」(ルカ17:20-23)