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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

羊の門を通らないで入る者はみな強盗である


 

「イエスは言われた「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。
  盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
  わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:9-11)



上記のニュース動画を見るにつけても、「牧師が教会と自分を同一視し、教会内手続きを無視して教会を乗っ取り、教会を私物化する」現象と、「政治家が国家と自分を同一視し、自らを法として自己の無謬性を主張し、自分自身が国家であると宣言する」現象の背後には、同じ心理構造があることが分かる。
 
三島の盾の会の決起について以下の記事で触れた通り、人の自己には生まれながらに神聖な要素が宿っているとみなすグノーシス主義者の行動には、一定の特徴がある。

それは彼らが必ず、自分たちの属している組織を自己防衛の手段として利用し(私物化し)、組織まるごと神に対する反逆の手段として変質させてしまい、やがて何らかの集団的な謀反に至りつき、組織そのものを破滅させてしまうという特徴である。

このような人々は、人間の生まれながらの本能的な自己防衛と復讐の心理に基づいて行動しているのだと言える。このような心理を、これまで記事では「カインの城壁の論理」として提示して来た。旧約聖書に登場するカインは、自己の犯した罪を否定し、隠すために、罪のない弟アベルに責任転嫁して弟を殺した。この弟殺しという恐ろしい罪から逃れるために、カインは自己義認を続けながら地上をさまようことになり、自らの罪を暴いて自分にとって脅威となりうる人間に対しては、七倍の復讐を遂げることを誓う。

こうして人類が己が罪から逃れるための自己義認と復讐の精神が生まれ、それはバベルの塔に受け継がれる。バベルの塔は、人類が神に敵対して生まれながらの自己(セルフすなわち旧創造)を防衛するために作り上げた城壁である。バベルの塔は神に対抗して人類が己の聖なることを主張し、自分の罪を否定するという、神に対する反逆の精神に基づく建設であった。

このバベルの塔が後世に形を変えて、人が自分を守るために作り上げる組織の囲いとなり、市街を守るための城壁となり、組織を守るための軍隊などに変化を遂げる。地上のあらゆる組織(教会、企業、国家、軍隊等)は、人類が自己防衛を成し遂げるという目的のために作られているのだと言えるが、そうした性質のために、人類が己の罪を否定して神へ反逆を成し遂げるために悪用されたり、変質する危険をも持っているのである。

むろん、本来、教会や国家はそんな目的のために設立されたわけではなく、そのような悪しき目的に組織が利用されることを人々は願っていない。確かに、組織には本来的に所属する人々の安全の確保のために自己防衛をはかる機能が備わっているが、それはあくまで平和的な防衛を目的としているのであって、仮想敵との戦いを煽り、これを膨らませることにより、恒常的な戦闘状態に落ち込んだり、神への反逆的な意味を持つ究極的な行動(=集団的な決起)に至るということになると、話が別である。なぜなら、そのような集団的決起は、組織そのものを破壊してしまう危険を持つからである。

そこで、このような戦いや内乱状態を防ぎ、平和を保つために、組織には法が定められており、その法に従って平和の破壊が起こらないように、人々が行動する義務を負っているのである。

ところが、悪しき目的を持つ人々がやって来ると、この人々は法を無視して正当な手続きを踏まずに組織をまるごと乗っ取り、神への反逆という悪しき目的のために利用して行くということが実際に起きる。そうなると、その組織の中にいる人々は、みなこの悪意ある計画に巻き込まれ、集団的な謀反のような、戦いや内乱へ巻き込まれて行くことになる。
 
かつての国家神道に基づく軍国主義国家としての日本は、成立そのものが、キリスト教に敵対して作られた国家であったが、このような歴史を振り返れば、国家そのものが、神への反逆の手段として利用されることがありうることが分かる。全体主義国家はみな、人間の指導者を現人神として神以上に高く掲げ、神への反逆的なイデオロギーに基づいて国民を統制する点で共通しているが、同じことが、教会にも当てはまるのである。

オースチンスパークスの論説において確認したように、終わりの時代には、教会であれ、国家であれ、すべての目に見える地上の組織が、こうして反キリストの性質を帯びて、「人間が己を誇り、高く掲げるための偽りの神の国」として、神への反逆に悪用される危険をはらんでいるのだと言える。
 
話を戻すと、自己義認のために組織を乗っ取り、悪用するリーダーは、一様に、法に対する憎しみを表す。というのも、彼らは、正当な権利なく、羊の群れの中に不法に柵を乗り越えて入り込んで来ているので、その犯罪的な行為がバレては困るため、組織を支配する旧来の法が邪魔になるのである。また、彼らは高慢なので、自らこそが法だと考えており、自己の無謬性を主張して、自分たちを罪に定める法を嫌い、自ら法に服し、これに束縛さなければならない義務があるとは認めないのである。

こうして、彼らは法に則らず、法に服さず、むしろ自分たちに都合の悪い法を無視し、歪曲し、排除して、門を通らず、柵を乗り越えて組織に入って来る。

これまで、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の指導者(津村昭二郎氏や、村上密氏)と信徒(たとえばBr.Takaこと鵜川貴範氏)がどのような、不法かつ卑劣な手段で、自分たちの所属していない他の教会に潜入し、これを私物化し、思うがままに混乱に陥れて来たかはすでに詳しく述べた通りである。

聖書はこのように、正式な門を通らずに、羊の群れの中に入って来る者はみな強盗であると告げている。正当な教団内の規則や、教会内の規則に則った手続きを経ずに、これを無視して暗闇で恫喝を手段として行動し、また、この世の法律さえも無視して、勝手気ままな主張を繰り広げて、組織を思うがままに私物化しているこうした指導者や信徒たちは、キリストの御霊に基づく信者であるとは言えず、むしろ、反キリストの精神に基づいて行動しているのだと明言できる。

そのことが明るみに出ると困るので、彼らは自らにとって不都合な人物に濡れ衣を着せて排斥し、恫喝しては恐怖によって人々を沈黙させ、自分にとって不都合な法や規則はすべてないことのように蹂躙し、正当な手続きによらずに人事を掌握して組織を手中におさめて私物化したその後で、不都合な規則はすべて撤廃し改変することで、組織そのものを自分の意のままになる機関へと変えてしまおうと狙っているのである。
 
今、そのことが国家レベルで画策されている。A級戦犯の孫であり、統一教会との密接な関係が明らかであり、正当な選挙結果が認められてない内閣の首相である安倍氏が率先して、中国などを仮想敵として脅威論などを煽り、憲法を改変して我が国をかつてと同じような恐怖政治や戦争へ導き入れることを可能とにしようとしている。これは統一教会を脱会してアッセンブリー教団指導者となった村上密牧師がカルトを仮想敵としてこれとの戦いを唱えて教団を絶えざる戦闘状態に陥れて、不法な手続きによって人事を掌握して私物化をはかり、カルト監視機構の創設を訴えたり、他教会に裁判をしかけるなどして、不都合な勢力を追い払いながら、教団内外のキリスト教界で不法に実権を握って、聖書に基づかない支配を行ったのとよく似ている。その究極的な目的は、教会の破壊とクリスチャンの迫害と神への反逆にある。もし国家としての日本も上記のようなことを許せばいつか来たよりもっと恐ろしい神への反逆の道をひた走ることになろう。

終わりの時代、地上のあらゆる目に見える組織がこうした悪意ある目的のために利用されてしまう危険がある。このような反キリストの精神に基づいて組織が動かされるようになると、その中には絶えず混乱が満ち、戦いが起こり、最終的には組織そのものが破壊される。

だから、こうした悪しき目的に巻き込まれない秘訣は、法を守ること、これを遵守すること、そして、法を蹂躙し、これを無視して行動する人々の真意を見抜き、糾弾することである。このことをキリスト者の生活に置き換えれば、法とは聖書の御言葉のことであるから、聖書の御言葉を守り、これに従い、これを守って生きることがクリスチャン生活の第一義的な課題である。そこで、クリスチャンを名乗っていながらも、聖書の御言葉に従わず、教会内手続きを無視して勝手に行動し、この世の法さえ守らないような人々は、兄弟姉妹ではなく、偽牧者であり、強盗でしかないので、このような悪しき指導者や信者には関わるべきではないのは明白である。

終わりの時代に、信者がなすべき行動は、地上のいかなる目に見える組織や、指導者にも、頼ることなく、ただ見えないキリストのみを真の助けとしてより頼んで生きることであろう。沈没船のたとえを何度も引き合いに出して語って来たように、救いとなるのはキリストの十字架のみであり、目に見えるあの指導者、この信者ではないのである。

信仰者が、目に見えるいかなるものにも惑わされることなく、ただ内におられるキリストだけに従うこと、もしそれができなければ、信者は絶え間なく欺かれ、利用され、最終的には、神への謀反へと駆り立てられ破滅する人生が待っているだけである。過ちも初回であれば許されるだろうが、同じ過ちを二度、三度、学習なく繰り返していながら、それでも重い罰を免れられるかどうかは分からない。

残念ながら、このことは国家としての日本にもあてはまることである。もしこの国がかつての過ちを認めることを拒んで、二度、三度、神への反逆の道を進んで行くならば、その度ごとに科される罰も重くなっていくであろう。

同様に、もし信者が、繰り返し、神の代わりに、人間のリーダーを崇拝し、御言葉に従わず、法をおざなりにしてでも、目に見える人間のリーダーの言うことを鵜呑みにして従っていれば、その度ごとに、より悲惨なとんでもない目的のために人生を浪費し、破滅するだけである。

そこで、クリスチャンは(もうそろそろいい加減に)教会を含めて、人間の作り上げる組織そのものを絶対化して、人間の連帯を美化したり、これに希望を見いだして依存することをやめて、見えない神を第一として生きることが何より肝要である。特に今の時代、旧約聖書のサムソンの例に見られるように、クリスチャンが他者に自分の弱みを安易に打ち明けることは、自らその者に支配させるきっかけを与えるのと同じ自滅行為に他ならないことをよく理解する必要があるだろう。

教会は、神のために、キリストのために存在するものであって、人間が互いに自分の弱さを持ち寄っては慰め合い、助け合い、かばいあい、互いを褒めたたえ、認め合うための共同体ではない。もし後者が前者より重視され、神以上に人間の都合や必要が重んじられるようになると、それはもはや教会の正常な姿ではなくなっていく。

カルト被害者救済活動に携わる人々のように、弱者救済を口実に、神よりも人間の必要に応えることを第一義的な使命として掲げるようになってしまうと、それはもはや教会のあるべき姿ではなくなり、信者のあるべき生活でもなくなり、そのような人々は神を礼拝し、神に仕えるというクリスチャンの本来的な使命を失って、その組織や集まりも、人間の欲望のために無制限に悪用される場へと変質して行くのである。

そこで、「弱者救済」や「人助け」という巧みな口実により、聖書からの逸脱が成し遂げられることがないよう注意が必要である。カルト団体は、困窮状態にあったり、弱さを抱えている人々を助ける風を装いながら、人々に接近し、巧みに信者に取り込んでいくことでよく知られている。人の弱さを助けると言えば聞こえは良いが、信者が従うべきは、あくまで聖書の御言葉であって、誰かの考え出した人の耳に心地よい弱者救済のスローガンではないのである。

また、エクレシアとは何かという疑問に魅せられるあまり、人間の集まりに過ぎないものに過度な注意を払い、人の集まりを美化し、賞賛することも、自己陶酔の危険をはらんでいると言える。エクレシア賛美という罠にはまると、教会が、兄弟姉妹の親しい関係という美しい言葉を口実に、人間同士が互いを誉め称え合い、自己陶酔するための場へと変えられてしまいかねない。愛という言葉で、人間の罪や弱さを大目に見、人間の連帯を過度に賛美する思想も危険であり、そのようなものが聖書に基づくクリスチャン生活とは言えないのである。

教会が追求すべきはあくまで見えない神ご自身、見えないキリストのみであり、この点を間違えて、教会が社会事業に逸れたり、弱者救済活動に邁進したり、信者が互いの罪や弱さを大目に見てかばい合うことを目的にしたり、目に見える指導者や目に見える信者同士を誉め讃え合うことを目的に集まったりすると、教会そのものが人間の欲望に基づく組織へと変質し、その腐敗と堕落の結果、神への反逆に利用されて、やがてとんでもない結末に至るのは避けられない。

キリスト教とは人間を礼賛する思想ではなく、弱者救済のための手段でもない。聖書は人間の罪の堕落について途方もない深みがあることを教えている。聖書が教えているのは、旧創造は全て十字架の死を通らなければならないということであり、社会的弱者だから心が美しく罪がないとか、マイノリティだから無条件に同情されて手を差し伸べられるべきであるといった主張は、聖書に真っ向から反しているグノーシス主義的な異端思想である。聖書によれば、全ての人間は例外なく罪人であって、真実な方は神お一人しかいないのである。にも関わらず、弱者という言葉の響きを悪用して、キリストの十字架を退けて人間を聖とする危険な思想に、クリスチャンは関わるべきではない。

にも関わらず、今日のキリスト教は概して全て人間の必要に応え、人間を賛美し、人間に栄光を帰し、人間を喜ばせ、満足させることを第一義的な課題として存在している。これは完全に堕落しており、誤った偽りの「教会」の姿だと言える。だからこそ、そのような組織は、いつ何時たりとも、不法にやって来た指導者の思惑通りに悪用されてしまいかねない危険をはらんでいるのだと言える。
 
しかし、真実な信者は、誰の声に聴き従うべきかを知っている。真の兄弟姉妹は聖書の御言葉を踏みにじることなく、法を踏みにじることなく、御言葉に忠実な方が誰であるか知っているので、その声だけに聞き従う。偽牧者が現れること自体は阻止できないが、真実、神に従うことを願っている羊は、御言葉を踏みにじる偽牧者の声には従わず、彼らの危険なスローガンを避けて逃げ去る。こうして、御言葉の中にとどまり、御言葉に服従し、ただ一人の真実な牧者だけに従うという選択が、羊の命を守るのである。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。

しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。

彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は彼の声を知っているので、彼について行きます。

しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」(ヨハネ10:1-5)


「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても言ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。」(ルカ17:20-23)

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