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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

国家権力は大昔から検閲・監視・密告を統治の手段として活用していた―ASKAの事件から見えて来るもの―

・事実上の共産主義国と化した日本――残された時間で全力で国の破壊にいそしむ安倍独裁政権――
 
安倍政権による日本破壊が続いている。政策にも外交にも全く成果が出ず、アベノミクスの破綻が明らかになって、いよいよ終わりが近いことを悟った現政権は、残された時間でこの国に対するありったけの破壊行為にいそしむつもりだと思われる。

国会でろくな審議もなしに凶悪な法案を次から次へと強行採決しているのはそういう意図を込めてである。もはやこの国の民主主義はほんの建前だけ、うわべだけのものとなった。前々から国会での審議など予定調和的な出来レースだと言われてきたが、かろうじて民主主義国の保たれていたうわべだけの体裁もかなぐり捨てて、今はあからさまな安倍の自民・官僚独裁体制へと移行している。

原発の爆発のツケは国民に回し、GPIFによる年金の運用損も国民に押しつけ、消費が活発化しない分は、カジノ法案を通し、ギャンブルで国民から巻き上げようという所存である。

10年を超える休眠預金はすでに国有化されることが決まった(「貧困対策や若者支援に活用=「休眠預金法」が成立」gooニュース 12月02日 12:20)。この「忘れ去られたお金」は500億~600億ほどは存在するという。貧困対策や若者支援など、これまで政府が一度たりとも本腰を入れてやったことのない政策へ活用するというのだから、そんなことは国民の資産を国が奪うための単なる口実に過ぎないのは明白である。この休眠預金の国有化は来るべき預金封鎖へとつながる初めの第一歩になるのではないかと囁かれている。

これから先、肥大化した官僚機構に率いられる国家権力が少子高齢化(と原発事故の影響による人口の著しい減少から生じる)財政難を乗り越えるために、いかに国民財産のありったけを強制的・合法的に収奪できるか、国会はただそのためだけの法整備の場所へ変わるものと見られる。
 
筆者は、この国はずっと前から事実上の共産主義国であると述べて来たが、いよいよ一人のカリスマ(というのにはあまりにも力不足だが)政治指導者のもとで、事実上、独裁化した中央集権が国民を徹底的に抑圧し、収奪するという、共産主義国には欠かせない政治形態が整ったと言える。もはや天皇さえも国家権力による抑圧のための飾り物のようにされてしまっている。
 
安倍は「美しい国」という偽りの夢(存在しないユートピア)を口実に、とことん人を騙し、国を滅ぼして来ただけで、何一つとしてこの国にリアルな成果を提供することはできていない。

安倍晋三を率いているのは、共産主義や、統一教会、ペンテコステ運動、国家神道を率いる悪霊と同じ種類のカルトの霊であって、これは偽りの父である悪魔から出て来た霊である。
 
安倍の政策は、ペンテコステ運動などと同じく、そもそもの最初から最後まで徹底的な詐欺の仕掛けなのである。その嘘の仕掛けは、かつてソ連が共産主義という、絶対にやって来ない夢を担保にして、とことん国民を騙し、巻き上げたのと同じである。
 
強行採決は、この偽りの霊が、安倍晋三というリーダーを現人神化し、残された時間内で、この人物を通して、とことん民主主義を破壊し尽くすという意志表示である。これを放置していれば、この国は暗黒時代に突入するだけである。


・偽りの北方領土返還の夢――無い夢を担保に、米国とロシアの二国にATM扱いされる悪夢をこの国はどう防ぐのか――

安倍は「強いロシアを取り戻す」というスローガンを掲げるロシアのプーチン政権に自分と同じ思想を見いだし、それゆえ親和性を感じ、個人的な親交を結ぼうとして来たわけだが、日ロの首脳会談は、今やまるで狐と狸の化かし合いのようになって来ている。

むろん、両方が精神性においては詐欺師と言って差し支えないのだが、こういう場合は、悪がより強い方が勝つと相場は決まっている。悪が強い方とはむろんロシアのことであって、この国の闇の深さは、これまで70年間平和を保って来た我が国の想像をはるかに超える。

一説によると、本物のプーチンはすでに死亡しており、現在のウラジーミル・プーチンは替え玉によるなりすましだと言う。プーチンの別れた元妻さえ替え玉であると証言しているというのだ。

長い間、筆者はそんな話はロシアを悪魔化するためのプロパガンダに過ぎないと考え、取り合わずに一蹴して来たが、最近になって過去の動画を比較してみると、確かに、以前のプーチンとは声も顔も違う。身体的特徴も異なれば、声のトーンも違う。


 

若い頃のプーチンには表情にどこかしら敏感で神経質そうな個人的特徴があったが、現在のプーチンには、それが見られず、物腰は訓練された工作員そのもので、電話機や銃を持つときの仕草にその特徴がよく表れている。面長だったプーチンの顔の特徴が丸く変わっており、目の色も変わっていると言われている。かつては流暢に話せたはずのドイツ語では、通訳を介さなければ意思疎通ができなくなった。

 

(秋田犬ゆめ、飼い主から撫でられそうになると顔を背け、逃げ去る)

プーチン死亡・替え玉説という話は深入りせず、この辺でさて置くとしても、こういう話を冗談として一蹴できない国がロシアなのだ。

話を戻せば、安倍が拙速なトランプ詣でをしたことによって、以下のニュースにも見るように、北方領土の返還は、ますます一層、遠のいたと言える。もはや日本は完全にロシアにいいようにあしらわれている様子がよく分かる。
 

岸田外相、プーチン大統領と会談 交渉の難しさ露呈フジテレビ系(FNN) 12/3(土) 1:14配信、から抜粋

岸田外相は、ロシアのプーチン大統領との初めての会談に臨んだが、2時間という、大遅刻の洗礼を受けた。
さらに、ロシア側との交渉の難しさが露呈する出来事が、次々に起こった。1時間50分遅れで始まった会談では、待たされていた岸田外相の前に、笑顔のプーチン大統領が現れ、会談は30分で終わった。
これに先立ち行われた国内行事で、プーチン大統領は、会談の予定開始時刻を1時間すぎても、雄弁に演説し、あわてる気配はない。
 思いがけないハプニングは、これだけにとどまらず、日本時間2日になって、ロシア側から日本側に、会談の出席者を4人から3人に絞るように要請があり、ロシアを担当する欧州局長が協議に入れない事態になった。


 筆者は必ず、こういうことになるだろうと前もって告げておいた。北方領土問題には、1%も希望などもともとなかったのだが、それでも、領土問題に進展がないのだと分かれば、即座に経済協力をひっこめ、プーチン大統領の訪日も中止するくらいのしたたかな駆け引きが日本の首相にぜひとも必要だった。しかし、安倍にそのような決断が出来るはずがない。

仮にもしもここ数年間に起きた日ロの急接近の中で、北方領土返還のチャンスが1%でも我が国にあったとしたならば、それはただロシアが米国に睨まれて国際的に孤立し、悪魔化されて包囲されていた他ならぬその時期だけであったと言えるだろう。だが、その間に安倍政権はロシアに近寄ることなく、むしろ、公然と対ロ制裁に加わった。そして一時はあわや世界大戦勃発に至るかと見られた米国とロシアとの対立も、今はトランプが次期大統領に選出されたことによって、ロシアにとっては緊張緩和の見込みが開けている。そんなバラ色の期待が高まっている今の時期のロシアにとって、わざわざ米国の傀儡に過ぎない日本の安倍政権に自ら歩み寄り、助けを求めねばならないような必然性はまるでない。

むしろ、この先は、米国とロシアとがタグを組んで可能な限りこの自立できない卑屈な属国を踏みつけにして、カモれるだけカモろうという態度を明白にしないように、釘を刺しておかなくてはらない時期に入ったのだ。確かに、安倍氏はそのようなことをされて仕方がないだけの卑劣な二枚舌外交を発揮して来た。自分が最も困難に陥った時期に、敵に回り、信頼と友情を確固として示さなかった人間に、誰がその人間が困ったときに救いの手など差し伸べるであろうか。そういうやり方は、人間関係にも通用しないが、外交としては完全な失敗である。

しかしながら、筆者は、たとえこの国のトップが狡猾な外交作戦を展開できうるだけの頭脳を持っていたとしても、やはり安倍政権の存続中に北方領土が返還される見込みは、初めから1%も存在しなかっただろうと考えている。そのようなことがもし起きうるとすれば、それはこの国が米国のくびきを断ち切って、完全に自立を成し遂げたその後のことである。

もともとロシアから見て、今の日本は米国の延長のようなものに過ぎない。そして、米国はロシアにとってずっと前から仮想敵なのである。日本が米国と共に対ロ制裁に加わった事実は、日本が自ら米国の手足に過ぎないと名乗り出たも同然であり、その記憶はロシアからこの先も決してなくなることはないであろう。いざとなればいつでも敵に変わり得るような国と見えているのだから、そんな国に、どの国が1ミリたりとも領土を明け渡すことがあろうか。そうでなくとも、どの国も自国の領土は1ミリでも大きい方が良いと考えるはずだ。普通に考えさえすれば結論は最初から見えている。

実際は、北方領土返還のテーマもまた国民を欺くための安倍のトリックに過ぎなかったのだが、安倍自身も、それが偽りの夢でしかないことに気づいていなかった可能性がある。

だが、こうした楽観の結果、日本は米国のみならずロシアからもATM扱いされ、国際的に自立できない国として蔑まれ、孤立して行く危険性に直面しているのだと言えよう。だが、ヘタレ国家のヘタレ政権には、そうなってもまだ、このくびきを跳ね返すだけの勇気も力もなく、自分たちが屈従を強いられている分の腹いせを、これから先、すべて国民に向け、国民をいたぶることで晴らそうとして来る可能性がある。それが最悪の結末である。


・強制集団化の始まり――原発事故処理の収束という天文学的負債を国家の破綻を経ずに乗り越えるには、国家が国民を徹底的に抑圧するしかないという悪夢――
 
いずれにしても、少子高齢化の中、半永久的に終わらない原発事故処理という天文学的な負債を抱え、これから先、財政難へと急落して行くことが目に見えている国である。その限りない負債をやりくりするために、この国では、この先、私有財産の国有化がなされ、徹底的に国民の資本と労働力を収奪するための強制集団化が始まるものと見られる。(ただし、こうした現象が起きるであろうという筆者の予測は、実のところは、日本だけでなく、米国やロシアにも当てはまるのだが、そのことは今は置いておく。)

さて、強制集団化とは何か。それは国民の労働力と財産を最後の一滴に至るまで搾り取って国の財産へと変えるための制度づくりである。安倍による農協潰しは、コルホーズ・ソフホーズの建設を思い起こさせる。マイナンバーも、国民財産と労働力を合法的に収奪するために活用されるであろう。いずれマイナンバーは体内埋め込み型のマイクロチップに取って変わり、その刻印を受けた人々はみな「マトリックス」に奴隷として拘束される仕組みが完成すると考えられる。

さて米国では、このほど、時期米国大統領に選出されたトランプの支持者であり、同氏の選挙チームの有力メンバーでもあった人間が、第二次世界大戦中の日系人強制収容所を手本として、米国で移民向けに強制収容所を建設することに言及したという(「「イスラム教徒の入国管理には、戦時中の日系人強制収容が前例になる」トランプ氏支持者が発言」The Huffington Post 投稿日: 2016年11月18日 17時15分 JST   更新: 2016年11月18日 17時31分 JST)

以前からネット上では、全米各地に大規模な強制収容所の建設が進んでいるといった話や、大量の棺桶が用意されているなどの怪しい話が飛び交って、国民に対する大規模な弾圧が行われると言われて来たが、こんな発言を見ると、以前には都市伝説や、流言飛語と思われても仕方がなかったような話が、いよいよ現実味を帯びて来たように感じられる。

つまり、米国は未来のトランプ政権下で、いよいよ本格的に戒厳令国家へと変貌しようとしているのではないかという予想が起きて来るのである。実際、米国民が最も懸念している点はそこであろう。移民抑制など単なる口実に過ぎない。まずは人権抑圧の最初のターゲットとなるのが、トランプが幾度となく憎しみを向けて口撃して来たマイノリティであるというだけで、最終的にはトランプ政権にとって不都合なすべての米国民は、みな強制収容所行きとなる危険を覚悟しなければならないような世の中になるのではないか。それがトランプ一人の治世で終われば良いが、米国の政権の特徴として後戻りできない形で浸透してしまう危険が考えられる。
 
そうなった場合、米国との腐れ縁を断ち切らない限り、我が国も、米国に続いて戒厳令国家へ突入することを免れられなくなるであろう。なぜなら、これまでの歴史的経験から、米国で起きたことは、数年遅れて、我が国の現実となって来たということが言えるからだ。たとえば、官僚だけがヒーローとなって、国民は恐怖に逃げ惑うか、もしくは移動も制限されて、家屋に閉じ込められて、TV画面を通じて報道される大本営発表を固唾を飲んで見守るしかない、という『シン・ゴジラ』のストーリーなども、未来の予表として描かれたものであるように思われてならない。

だが、一体、なぜ国家がそのような戒厳令下の世の中を用意せねばならないのか? 何のために国民の人権を抑圧するのか? それは、いよいよ国家が財政難その他のために経済的にも道徳的にも落ちぶれて行き詰まり、信用を失って崩壊の危機に瀕し、己の生き残りだけが全てとなって、いよいよ犯罪政権としての性質と正体を隠せなくなって来た時に、それでも滅亡を免れるためには、国民から収奪を強化し、手ひどいやり方で反対を封じ込めるために、国民の人権を大規模に抑圧することしか、残る方法はないからだ。

かつての一億玉砕と同じである。国の面子が保たれ、国体が護持されるためであれば、国民が残らず死んでも構わないという発想である。そのような発想の下では、国民は文字通り、犯罪性を帯びた政府と心中させられることになる。
 
だが、人は通常、自分自身の幸福のために生きているのであり、誰も強いられない限り、「お国のために」生きようなどとは考えない。だから、国民の財産と労働のすべてを国家のために合法的に供出させる仕組みを作るためには、まず、国策に反する者は誰であれ、権力の判断で恣意的に逮捕でき、人権(財産権を含む)を放棄させるような仕組みを作らなければならない。強制集団化のような過酷な政策の実施は、流血を伴うのであり、まずは国策に従わない国民から人権を奪って強制的に収容所に送って奴隷労働に従事させるなどの恐怖政治の仕組みを作らない限り、実行できない。
 
だが、初めから、権力のために国民の人権を抑圧しますなどとは、おおっぴらに言えないので、緊急事態や、外敵の脅威を口実に、国内で恐怖政治を常態化させるのである。しかも、最初から国民全体を縛るためにと言っては誰も同意しないので、最初はあくまでごくごく一握りの社会にとって不都合な、国民全体にとって脅威となりうる集団だけを取り締まり、排除するのだと言って、人権抑圧の仕組みを作り、作った後で抑圧の対象を無限大に広げて全国民を取り締まるのである。こうして戒厳令国家の仕組みが成立する。


・国家権力は大昔から検閲・監視・密告を統治の手段として活用していた――ASKA逮捕の事件から見えて来る監視社会――

ところで、筆者はCHAGE&ASKAのファンではなく、この事件にそんなに興味もないが、この度のASKAの逮捕という出来事は、以上のような文脈において、実に象徴的・暗示的であったと思うので触れておきたい。

このほど、二度目に逮捕された歌手のASKAは、本人の言によると、盗聴盗撮の被害を訴えて警察に被害届を出そうと通報したところ、その言い分が「薬による幻覚」であるとみなされて、自身が逮捕されてしまったという。
 
芸能人であるとはいえ、政治家でもない人間が、何らかの犯罪被害を訴えて警察に通報したことがきっかけとなって、逆に自分が疑われて逮捕されたというわけだから、これは人々を震撼させる出来事であり、この日本社会の大きな曲がり角である。

ASKAは週刊誌では脳が壊れたなどとしきりに笑い者とされ、危険な薬中毒患者だから何をされても仕方がないかのような報道がされているが、世論はASKAにかなり同情的で、この行き過ぎたバッシングに拒否反応を示し、真相を疑っている。

実のところ、ASKAに起こったことは、明日には国民全体に誰でも起きうる現実である、と言える。それが分からずに、ASKAを特別な人間と考えて笑い者とし、人権侵害を正当化している人間は、よほど愚かである。

ASKA逮捕が、当局によって周到に仕組まれた計画のもとに行われた罠であったろうことは、逮捕前からメディア中ですでに逮捕の予告が公に報道され、乗ったタクシーの映像まで勝手に公開されるという異常な状況から容易に推測される。

つまり、ASKAが逮捕されるはるか前から、警察、メディア、民間企業などが連携プレイを行って、本人に対する監視体制を作り上げ、網で魚を捕えるように、ただ逮捕の機会を伺っていただけであるとみなさなければ、そういう事態は起き得ないのだ。
 
(「ASKA逮捕を事前予告して“見せ物”に! 清原逮捕に続く警視庁組対5課の情報操作とそれに乗っかるマスコミの手口」 LITERA2016.11.28.などを参照。)

このようにメディア・警察・民間企業の見事な連携プレーを見せられると、「盗聴・盗撮されている」というASKAの言い分が、逆に正しかったのではないかと見えて来るのも当然である。
 
ちなみに、タクシー内の映像ではしっかりと運転手と話をし、料金を支払っているASKAの姿が映っているようなので、覚せい剤の影響で脳が壊れたとの公式発表を完全に否定する証拠となっている。

もちろん、ASKAの逮捕が、年金カット法案や、廃炉費用の国民負担や、カジノ法案の強行採決など、政府の実行しようとしている恐るべき凶悪な国民の権利抑圧の政策を覆い隠すためのスピン報道として存分に用いられたことは疑いの余地がない。だが、この事件は、スピンだけが目的の全てではなかったものと思う。

ASKAはこの逮捕がなければ、活動を再開する準備が整っており、今回の二度目の逮捕は(一度目の逮捕に至る経緯も周到に計画されたものであった可能性が高いが)、社会復帰を妨害する上で重要な役割を果たした。中でも、特に、ASKAが執筆しすでに公刊が近かったとされる『盗聴国家・日本』の出版を妨げるために極めて重要な役割を果たしたのは見逃せない。

(「ASKA容疑者 著書執筆中だった テーマは「盗聴国家・日本」」 スポニチ 2016年11月29日 05:30参照)

ちなみに、今でもごく普通の生活レベルで人々が接触する街の交番や警察署のお巡りさんは、道に迷った人にも親切で、気前も良く、そんな街のお巡りさんだけを見ていたのでは、警察が凶悪な組織だという印象は持ちにくいであろうが、しかし、それはあくまで警察組織の最下層の話であって、組織の上層部はこれとは全く異なる性質を持っているものと考えられる。国家権力の一部としての警察組織が恐るべき腐敗・犯罪性に陥っている可能性については、たとえば、神戸の児童連続殺傷事件についての少年A君冤罪説に関する一連の記事の中でも触れた。

今日、国民の誰かが仮に自転車盗難などの被害を訴えて交番に赴いたからと言って、自らが窃盗容疑で逮捕されるようなことはないと思うが、ASKAの事件は、これから先、平凡な国民が、本気でこの国の闇・タブーに触れるような何かの事件を告発する側に回ると、それをきっかけに、警察を含め、国家権力全体から監視対象としてマークされ、社会活動が不可能となるような妨害を受け、警察に何かを相談しても、かえって疑われ、狂人扱いされ、逮捕され、隔離されるきっかけとされるような、恐ろしい社会が到来しようとしていることをよくよく物語っているように見受けられてならない。

筆者はASKAをかばいだてするためにこう言うのではなく、国民に対する権利侵害に鈍感でいると、それがいずれ全国民の身に降りかかって来ることになると言っているのである。芸能人だから、再犯を疑われたから、自分とは扱いが違うとみなすのは誰しも早すぎるであろう。
 
仮に今、ASKAが訴えた盗聴・盗撮の被害は事実であり、この度のASKA逮捕は、この組織的犯罪を隠すための国策逮捕であったと仮定しよう。

すると、浮かび上がって来る疑問は、これら二つの間には密接な関連性があって、集団ストーキングは連携プレーによる逮捕と同じく、国家権力が不都合な人間を抑圧し、追い込むための闇の統治手段ではないのかということだ。

集団ストーキングという用語は、ネット上で調べると、カルト宗教から脱退した人への報復措置として言及されていることが多く、ネット以外の世界では、そういう話は、ほとんどが薬による幻覚か、もしくは、統合失調症のもたらす妄想として片付けられて終わっているようである。いずれにしても、現実世界はこのような問題の存在自体を頑なに否定しているのである。

だが、盗聴・盗撮という問題を単純に妄想と片づけるのは極めて愚かなことである。何より、ソビエト・ロシアの歴史を知っている者として、ここではっきり言えるのは、国家権力による盗聴・盗撮は、何世紀も前かられっきとして存在しており、いわば使い古された手段であって、何ら個人の妄想の産物でもなければ、新しい発想でもないということである。

全体主義政権は、いつの時代も、自らの政策の異常さ、残酷さ、誤りを、民衆の心に単純に訴えかけるアートの形で発表されることを何よりも嫌がった。そこで、政治家だけでなく、詩人、作家、音楽家など、芸術家をとりわけ厳しい監視対象としたのである。

たとえば、19世紀ロシアの詩人レールモントフは次のような詩を書いた。
 

Прощай, немытая Россия,
Страна рабов, страна господ,
И вы, мундиры голубые,
И ты, им преданный народ.

Быть может, за стеной Кавказа
Сокроюсь от твоих пашей,
От их всевидящего глаза,
От их всеслышащих ушей.



この詩には違うバリエーションもあるようだが、今はこの詩に正確かつ芸術的に完成された訳をつけることは目的とせず、単に意味を大まかに理解するだけに専念したい。もし逐語的に訳せば、次のような意味になるだろうか。

さらば、*無割礼のロシアよ、
奴隷らの国、ご主人様らの国、
おまえたち**青い制服にも、
奴らに忠実な民衆にも。

(注*無割礼と訳した言葉は、原語では「洗礼を受けていない」の意味、つまり、野蛮な、下品な、といった意味合い)
(**青い(空色の)制服とは、帝政ロシアの憲兵の制服)
 
ひょっとして、*コーカサス山脈の向こうまで行けば、
おまえの**官憲から逃れられるかも知れない、
奴らのすべてを見通す目から、
奴らのすべてを聴く地獄耳から。

(注*=僻地への兵役や流刑の方が都にいるよりもはるかにましだという意味)
(**原語では、パシャというオスマン帝国軍司令官の称号、複数形)
 
レールモントフがこの詩の中で激しい侮蔑と嫌悪感を示して糾弾しているのは、帝政ロシアの巨大な権力機構によって国民の間に徹底的に張り巡らされた監視・密告・検閲体制である。当時、ロシアの帝政権力による検閲は、ただ単に政治的な出版物やパンフレットの検閲だけでなく、あらゆる分野の出版物に及び、国民のあらゆる会話の監視・盗聴と、それに基づく密告が行われていた。貴族であっても、この監視体制から逃れられる者はいなかった。

このような徹底的な監視・密告・検閲体制は、ロシア国家の不治の病として、この国の歴史に深く刻まれ、ソビエト体制にも受け継がれる。帝政ロシアが権力を批判する文書を細部に至るまで統制し取り締まっていたと同様、特にスターリン体制になって以後のソビエト権力は、国内のすべての文書を厳しく事前検閲して取り締まりの対象とし、国民のあらゆる会話を盗聴し、国民同士による盗聴・密告体制を作り上げて、国家にとって不都合な人間を排除する手がかりとした。ソルジェニーツィンが収容所群島と呼んだ強制収容所には、国民同士の密告に基づいて「人民の敵」とのあらぬ嫌疑をかけられて秘密警察により逮捕され、証拠もなく有罪にされた数知れない人々が送られた。

だが、ソビエト体制になるよりもずっと前に、レールモントフが自らの詩に描いたのが、まさにこれと同じ世界であった。この詩人にとっては、それこそが「ロシア」であり、ロシアとこの盗聴・密告・監視システムは切り離せないものとして一体化して機能している。しかも、その奴隷のシステムは国家権力だけが独断で作り上げたものではなく、民衆の自発的協力と一体になって成立しており、そのようにして権力に自ら迎合し、媚びへつらい、屈従する国民の卑屈さ、精神的奴隷ぶりが、この誇り高い詩人には我慢がならなかったのである。

今日のロシア人は、この詩はシニカルに過ぎるものとして否定したがるかも知れない。そのような卑屈な奴隷根性を国民的歴史としては認めたがらないであろう。だが、これはロシア国家の不治の病であり、今日もそうした体質は変わらない。ロシアという国に対して幻想を持つのは早くやめた方が良いであろう。

筆者はかつて半数ほどがロシア人から成る小規模な仕事場で働いたことがあったが、そこで、毎日、毎日、ロシア人の集団と顔を合わせているうちに、普通ならば、国際結婚でもしなければ見えて来ないような彼らの国民性の負の部分を間近で観察することになった。その結果分かったのは、ロシア人には自分たちは虐げられているという被害者意識による団結力はあるが、それがあだとなって、自ら監視・密告体制を作り、信念を持たず、浮草のように力の強い者から力の強い者に流れ、何度でも寝返りながら、本心を隠して媚びへつらうという無節操ぶりであった。ロシア国民の大半はこのような無節操な人々から成ると見て良い。筋を通して権力に戦いを挑む真のインテリなど極めて稀である。

そのようなわけで、我が国の現状を相当に辛辣に批判する数多くの人々が、米国嫌いの反動のためか、今もロシアには甘い点をつけ、淡い期待を託している現状を、筆者は残念に思う。

たとえば、兵頭正俊氏でさえ「南スーダンの黙示録」(2016年12月1日)において次のように語っている。
       
 

2015年にノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチが日本にきている。

11月28日に、東京外国語大学で講演して、「日本には抵抗の文化がない」と発言した。福島第1原発破壊の福島を視察して、被災者から国の責任を追及する声が少ないことに驚いたものである。

福島で目にしたのは、日本社会に人々が団結する形での『抵抗』という文化がないことです。祖母を亡くし、国を提訴した女性はその例外です。同じ訴えが何千件もあれば、人々に対する国の態度も変わったかもしれません。全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません。日本ではなぜなのでしょうか

「全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません」という言葉をそのまま受け取るわけにはいかない。ロシアは、世界史に残るロシア革命を成し遂げ、またその革命が裏切られると、ソ連邦をも倒した

 
隣の芝生は青く見えるのであろう。だが、アレクシエーヴィチはロシアという国を十分に知った上で、以上のように発言しているのだ。それは知らない者に否定できる見解ではない。さらに、ロシア革命は、今日の言葉で言うカラー革命の一種であり、ソ連崩壊も同じことである。それらは決してロシア人の勇敢な抵抗の精神を物語る立派な歴史的事実ではない。とにかく、ロシアを色眼鏡で見て甘く評価することは、相当に危険である。この国の流血の歴史に比べれば我が国の方がまだ幾分か罪が軽いとさえ言える。
 
またもや話がロシアに飛んだので、ASKAの話に戻らねばならないが、ASKAが訴えている盗聴・盗撮などといった手法は、以上に記したように、何世紀にも渡り、国家権力が国民を取り締まり、統治を強化するために実際に用いて来た闇の手段なのであり、何も病人による筋の通らない戯言ではなく、さらに、公権力を批判する者が「狂人」や「病人」扱いされるという歴史も、今に始まったことではないのである。

いつの時代にも、国家権力は、人々が何千ページもある難解な論文や報告書を書いて政権を批判することよりも、絵画や、音楽や、詩などの、人の心に単純に訴えかける、民衆に広く理解される単純な形式による政権批判の方を目の敵にして取り締まって来た。
 
何千ページにも及ぶ論文は、読む人も限られるが、わずか数十分のプロモーション・ビデオなどは、誰でも容易に理解できる。

筆者が何を言わんとしているかもう分かる人もいるかも知れない。ASKAが訴えたような執拗かつ大規模な集団ストーキングが、もし国家権力と結びついたものであった場合、一体、それは何を理由として始まったのか。何がきっかけで、同氏はそれほど激しい妨害にさらされることになったのか。
 
誰でもすぐに思いつく重要なきっかけの一つは、 CHAGE&ASKAがかつて宮崎駿監督のスタジオ・ジブリの制作により、反原発をアピールする以下のプロモーション・ビデオ"On your mark"を作ったことである。「ああ、またもや、原発反対派による国家権力による陰謀説か。そんなものは聞き飽きた」と一笑に付すのは簡単だが、少し待ってもらいたい。
  


このプロモーション・ビデオは、Wikipediaの記述によれば、最初に公開されたのは1995年で、その後も、コンサートツアーで使われたり、2005年にはスタジオジブリのDVDにも収録されたりして、問題なく公開されていた様子なので、その事実を見る限り、最初からこのビデオが問題作として当局からの攻撃の対象となったという事実は全くないものと考えられる。

おそらく、福島原発事故が起きるまでの間は、かなりディープな問題提起がなされているとは言え、それほど物議を醸すことのない比較的無難な作品であったように思われる。

しかしながら、3.11後、権力にとって、このプロモーション・ビデオは、それまでとは全く違った意味合いを持つものとなった。すなわち、原発推進という「国策」に真っ向から逆らう、「権力に盾突く」深刻かつ見過ごせない内容の「危険作品」になったのである。

特に、当のASKA自身が明白に反原発のプロパガンダの意味を込めてこの作品を利用しようとしたことが、余計に当局の反発を買ったのではないかと予想される。

このプロモーション・ビデオのタイトルは、CHAGE and ASKAのライブとしては6年ぶりに予定されていた再始動の意味を持つスペシャルライブ2013“On Your Mark” にも大々的に利用されていた。このライブは、ASKAに「一過性脳虚血症の疑いがある」という理由で延期され、その後、完全中止になったが、この時につけられた病名が本当に正確な診断であったのかどうかについては色々な憶測が飛んでいる。

ASKAが最初に覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕されたのは、2014年5月17日であり、この逮捕の影響により、それから約1か月後の6月18日に予定されていた上記のビデオの「宮崎駿監督作品集」の特典映像としての収録が中止になった。

筆者は、ASKAの覚せい剤使用の容疑が全て捏造であったと言っているのではない。おそらく一度目の逮捕の容疑は事実だったのだろうと想像する。だが、芸能人と暴力団や薬の使用との結びつきは、ASKAに限らず、あまりにもありふれた話でしかなく、当局はそのようなことはすべて知った上で、いつそれを大々的な事件として取り扱うかということだけに焦点を絞っていた可能性が高い。

当局は、有名人CHAGE and ASKAの華々しい再デビューと、反原発のプロパガンダのビデオが一つに結びついて、大々的に国民感情を揺さぶる現象を引き起こすことを何より恐れ、一計を案じたのではあるまいか。これを防ぐために、ライブの中止に向けて逮捕を計画しただけでなく、ASKAの名誉を徹底的に貶める執拗な報道によりビデオの信憑性を国民に疑わせ、その普及を阻止すべく手を打ったのではないかという見方が可能である。
  
さらに、上記のプロモーション・ビデオの他に、当局の恨みを買うきっかけとなったもう一つの事件が、ASKA自身が、(おそらくは国家権力と結びついた)大規模な盗聴・盗撮のシステム(集団ストーカー)の存在を告発しようとしていた事実である。

集団ストーカーの存在は、これまでネット上の妄言とされるばかりで、芸能人や著名人がその存在を認めることはほとんど無かった。影響力の大きい著名人の発言だけに、余計にそれが社会的に認知される前に早々に闇に葬る必要があったと見られる。

ASKA本人の手記によれば、同氏がこの問題に深入りするきっかけとなったのは、身近な他者が集団ストーカーの被害に遭い、自殺したという事件から生じた慙愧の念と義憤だったようである。同氏の手記を額面通りに受け止めるなら、他者の無念を晴らそうと、自らその事件に深入りしているうちに、組織的な盗聴・盗撮集団の存在を突き止め、これを追跡しているうちに、自身がターゲットとされたということになる。

だが、ASKAの手記を読むと、同氏は人を信じやすく、正義感が強く、疑うことのできない人柄の持ち主であったように見受けられてならない。そういう性格の人間を闇の中に誘導して陥れるには、親しい知人を痛ましい事件に巻き込むだけで良い。だから、真相は分からないとはいえ、監視集団の真のターゲットは、初めからASKAだった可能性も考えられる。

こうしたことは、栩内香澄美容疑者についてもあてはまる。ASKAはこの女性をも疑うことができないでいる様子だが、パソナにおける会長秘書という役職を考えるとき、おそらくこれは普通の人間ではないだろうという印象が拭い去れない。彼女はもともと一定の目的で派遣されたエージェントであった可能性が考えられる。道連れに逮捕されたのは目くらましで、当局の真のターゲットはもともとASKA一人だったのではないだろうか。
  
今回、二度目に逮捕される直前、ASKAは盗聴・盗撮集団の存在について、次のように言及していた。
   

  「ASKA容疑者 謎の言葉「ギフハブ」とは?」daily sports 2016.11.30 によると、
 
「同容疑者は警視庁に28日に逮捕される約5時間前に宮根誠司キャスターと電話で話し、その模様を29日に同番組で放送した。その際、同容疑者は「組織があるんですけど、ギフハブっていう。そこが組織を作って今…」などと自分の行動が監視されていると訴えていた。」



そこでASKAの語った具体的な内容は次のようなものだったという。
 

「ギフハブ」っていう組織があるんですけどそこが組織を作って。
今AR(拡張現実)っていう仮想現実なんですけど僕のいるところを映したりして。
携帯の中にそのアプリが埋め込まれてたんですよ。その証拠もとってるんですね。」


この秘密組織の存在は、様々な場所で、ASKAの妄想と幻覚を示す証拠のように嘲笑されているが、本当にすべてが作り話と決めつけられるであろうか。

何しろ、スマートフォンを含む携帯電話が、人々の位置情報、通話内容を含め、音声の盗聴及び盗撮に利用されうること、携帯電話を通して得られた情報をすでにCIAなどの大規模組織が大がかりに利用していることは、エドワード・スノーデンなどもすでに指摘していることであり、何ら新しい情報ではない。

それはあくまで米国の話だと我が国の人々は思って安心している。しかしながら、もしASKAの証言により我が国においても、同様の大規模監視集団の存在があることが明るみに出れば、人々はパニックに陥り、携帯電話を二度と使わないと決意するであろう。そのようなことを防ぐために、こういう話は早めに「妄想」と決めつけるのが手っ取り早い。病気でないなら、薬による幻覚、脳の破壊ということにして、「妄想の持ち主」を徹底的に見せしめに嘲笑すれば、そんな「作り話」は誰も口にしなくなる。

ところで、ARを作って、そこに現実の人物を置くことで、現実世界のパラレルワールドを作り、人間を監視するという、ASKAの語る監視手法は、上記のプロモーション・ビデオの中にもヒントがある。

"On your mark"のストーリーは、すべてがパラレルワールドから成り立っているとも言える。まず、そこでは、現実世界は放射能に汚染されて、人が住めなくなっており、人々は地下に現実を模した人工都市を作って、そこをあたかも現実世界のように思って生活している。それは人々を人為的に閉じ込める一種の「マトリックス」である。

この自由なき地下社会を支配しているのは、現実世界を放射能に汚染させて人が住めないようにした犯罪者政府であり、その犯罪者政府が、いかがわしいカルト宗教と手を結んで人心を統治しているというのが、このビデオの動かせない「現実」である。



ちなみに、このカルト宗教の掲げる標語"God is watching you"「神はあなたを見ている」は、この宗教の第一目的が、全ての人々を「監視する」ことにあるとよく物語っている。要するに、「おまえらはみな監視されているぞ」という脅し文句である。この宗教はフィクション版のフリーメーソンであり、そこで言う「神」とは悪魔を指す。

このすべてが裏返しのフィクションにおいて、主人公は、警察官の職に就いている友人同士の二人である。だが、二人がカルト宗教団体に突入するというストーリーの始まりは、そこからしておそらくはすでに幻想であり、妄想であると筆者は思う。

本当は、この世界においては、犯罪者政府とカルト集団による支配から逃れられる者は誰一人いない。現実における主人公は、カルト宗教・政府の手先としての「官憲」でしかないであろう。だが、ちょうど映画「マトリックス」がそうであるように、現実の欺瞞に気づき、これに耐えられなくなった主人公が、この「マトリックス」を脱し、勇敢に巨悪と闘うる正義の味方となるという「夢」を一人、空想の内に思い描くのである。

この「夢」の中で、主人公はカルト宗教にとらわれていた一人の翼ある少女を救出するというミッションを帯びる。が、何度も失敗しては、また最初からやり直しになる。ゲームのように、一度失敗すると、オールリセットして、また新たな策を練って、初めから出直しとなる。このストーリーでは、少女を救出して解放することが、人類全体の自由を取り戻すことと同義になっている。

その救出作戦の途中で、研究資料として政府に連れ去られた少女の位置情報を探り出すために、主人公はパソコンに向かう。パソコンの上には、不思議の国のアリスに登場するウサギを思わせる置物が置かれている。

少女の位置情報は、パソコンの向こうの仮想現実の中で見つけられる。「マトリックス」の世界に存在するすべては、コンピュータープログラムによって監視され、記録されているので、システム上で探り出すことが可能である。

CHAGEを思わせるもう一人の主人公が作ったものは、無線機のようにも見えるが、少女が監禁されている装置のロックを解除するためのリモコンであるらしい。





 
  
なぜこの少女は国家による研究材料にされて、試験管のような装置の中に閉じ込められたのであろうか?

推測に過ぎないが、この少女にはおそらく、放射能を無害化する特殊能力があるのだと思われる。そのことは、このストーリーの最後に、汚染された町で、少女一人が生き生きと羽ばたいて空へ向かっていく様子からも理解できる。

犯罪者政府とカルト宗教は、放射能を無害化する技術が一般大衆に知れ渡ると、地球が再生され、自分たちが人々を脅し、「マトリックス」である地下都市に監禁する口実がなくなるので、自分たちの支配が永遠に続くように、少女を隔離することによって、その技術を政府が独占し、外へ知られないように手を打ったのである。

むろん、この少女は存在自体が、主人公の「妄想」の産物である。実際には、この少女はカルト宗教に捕われて、無残に犠牲にとされた信者(もしくは奴隷)の一人に過ぎない。その犠牲者の少女に、地球再生の鍵が秘められているというのは、主人公の「夢」でしかない。

だが、その「夢」においては、政府と宗教団体の犠牲となって閉じ込められている一人のか弱い少女を救出して、汚染区域に解き放つことは、少女一人だけでなく、地球全体が救出される道である。少女が持つ放射能を無害化する力によって、汚染区域は、長い時間をかけて、再生の道を辿り、それによって地球は再び人の住める場所となり、未来の人類に、犯罪者政府とカルト宗教による支配から逃れる道が開かれるのである。

つまり、一人のか弱い人間を救うことが、地球全体の救済へとつながっているのであって、それを成し遂げることが、主人公が真の英雄へ至るミッションである。主人公二人は、汚染区域に入ったことによって、死ぬ羽目になるが、少なくとも、自己を犠牲にして、地球を汚染から解き放つ方法を提供することで、真の英雄になれたのである。

このビデオはフィクションとはいえ、現実世界の歪みを鋭く暴いて糾弾する意味を持っている。それは放射能の脅威(だけでなく人類の直面するあらゆる問題)を逆手ににとって、その脅威を悪用して人々を脅しつつ、カルト宗教と結びついて、人々の自由な暮らしを奪いながら、恐怖によって人心を支配する政府の存在を指摘していることである。その犯罪者政府にとって、放射能汚染という恐怖は、永久に取り除かれずに存在していた方が、むしろ、好都合なのである。

3.11以降、このフィクションに込められた現実の矛盾を暴きだす力が、あまりにも強烈なメッセージになったがゆえに、当局はこれをお蔵入りとし、闇に葬る必要があったのである。

そのために、フィクションの物語を裏返しにして、ASKAを模した主人公が、現実世界においてはスキャンダルと恥辱にまみれた「容疑者」となり、決して「英雄」にはなれず、少女も飛び立てず、再生の道が絶たれるように、悪意を込めて物語の事実をひっくり返したのである。

この悪意ある監視集団は、そのために現実とは別のもう一つの仮想現実であるARの世界をコンピュータ内に作り、そこでASKAを監視の対象、さらし者にした。そのARにおいて、彼らはどうやって同氏を罠にかけ、貶めるかを話し合ったのであろう。そして、その悪意が現実世界にも及ぶように、周到な計画を練ったのである。現実世界において、同氏をどんな風に罠に引き込んで凋落させるかを話し合ったのであろう。

「落ちて行くだけのコインは二度と戻らない」とか「流行りの風邪にやられた」などの歌詞を彼らは弄び、悪い事柄だけが現実になって降りかかり、作品自体が本人を嘲弄する手段となるように粋を凝らしたのである。

この犯罪者集団は、おそらくはASKAの他にも自らの脅威となりうる人間に対して、ずっと同じ方法で監視を繰り広げ、その人物が真の社会的脅威となる前に、あらゆる方法を使って社会から排除されるよう、引きずりおろして来たものと想像される。小沢一郎、植草一秀、鳩山由紀夫などの政治的大物は言うまでもないが、影の政府にとって不都合な人間を欺き、その人間性を貶め、周到に罠にかけるのが彼らの仕事であり、今やその手法はただ単に社会的な大物だけでなく、一般人にまで及ぼうとしている・・・。

しかしながら、こうした恐るべき推測を一旦、脇に置いても、このビデオは宮崎駿の作品にしては、随分、不吉な印象である。特に、この翼ある少女には、宮崎作品に登場する多くの女性主人公のような主体性があまり感じられず、彼女はただ受動的に救いを待っているだけの、意志を奪われた無力な人間であり、どちらかと言えば、『風立ちぬ』に登場する女性のように、悲しい犠牲者の風貌をしている。このストーリーの中では、本当の彼女はきっと、翼もなく、ただ痛ましい犠牲となって死ぬおびただしい屍の一人に過ぎないのであろう。この犠牲者としての風貌の中には、汚染された地域の被災者の悲しみのすべてが、隔離された人類全体の悲しみが投影されている。

この哀れな犠牲者の少女を解き放つために、結果的に、二人の主人公も命を失う(としか思われないのだが)というエンディングもかなり悲愴である。話の運びのテンポは良いが、『風立ちぬ』もそうだが、エンディングが、ハッピーエンドなのか、悲劇なのか分からないという消化不良を観た者に引き起こす。『風立ちぬ』の主人公は、明らかに体制側についた人間であり、自らの想像力を悪なる戦争のために利用され、妻を救う手段も見つけ出せなかった無力な人間である。彼には妻の愛情に報いる術もなく、彼女が死の床についてから、病める時も、人生を共にしてやるという伴侶のつとめを果たせず、むしろ戦争の大義を優先したような非力で無能な男性である。それとほぼ同じように、このビデオの中でも、主人公が英雄になれるのは、自分の空想の中だけである。

もしかすると、このあたりが、現在の日本人一般男性の思考と能力の限界かも知れないと思う。何しろ、この国は、真の意味での精神的自立を成し遂げたことが今まで一度もないのだ。だから、これまで、この国で生きるということは、多くの人々ににとって、マトリックスの一員、体制側の人間として生きることしか意味しなかった。特に、男性が、社会に認められようと思ったときに、完全に反体制的人間として、マトリックスを告発する側に立つことはほぼ許されなかった。こうした意味で、我が国の遅れて閉塞的な文化的・精神的な状態はロシアに非常によく似ているのである。

だから、この国の男性たちはおおむね誰もが自分の魂をどこかで置き去りにし、権力に売り渡しながら生きて来たのであり、それが悪であることは、本人の魂が重々知っている。だが、それより他の生き方を選択できないので、その人々は自分の心の本当の願いを、フィクションや、仮想現実や、空想に託すしかない。上記のプロモーション・ビデオも、ある意味では、良心を曲げられ、屈従を強いられた人間の慙愧の念と良心の叫びから出て来る「妄想」や「幻覚」に近い現実逃避としての「夢」のように見受けられる部分がある。

しかし、ASKAはおそらくこの仮想現実の物語を地で生きようとしていたのであろう。カルト宗教団体に捕われ、犠牲となった少女を見捨てておけなかった主人公のように、集団ストーカーの犠牲となった死んだ友達をも放っておくことができず、原発事故被害を見過ごしにすることもできず、犠牲となった人々を助けたいという生来の義憤と同情から、深い暗闇に自ら首を突っ込んで行き、自分自身もその犠牲となったのである。

だが、その同情と義憤にこそある種の非常な人間観の甘さ、お人好しさがあったのだと言える。結局、人間が自分の手で人間を救おうとする試みは必ず頓挫し、犠牲は犠牲の連鎖を生むだけで、どんなに美しく見える人の良心も、愛情も、義憤も、決して人を生かす真の力とはならない。人間の救いは神にしかなく、人間自身には義はないからである。犠牲の連鎖を抜け出る新たな生き方が必要なのである。

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その聖なるすまいにおられる神は、みなし子の父、やもめの保護者

(「私ではなくキリスト」記事から転載)

「その聖なるすまいにおられる神は
 みなしごの父、やもめの保護者である。
 神は寄るべなき者に住むべき家を与え、
 めしゅうどを解いて幸福に導かれる。」
                  (詩篇第68篇5-6節)

  
神はどんな状態からでも信者の家庭を回復することのできる方である。
神は信者のどんな失われたものでも回復できるし、無から有を作り出すことのできる方である。

家のない人に家を供給することもできるし、生活の糧も与えることができる。
家族のない人に家族を与えることもできる。

神は絶望の淵にいる人々に希望を与え、仕事を失った人たちに良い仕事を与え、主に信頼する者たちに、生きるために必要な全ての糧と、未来の希望を用意することができる。

我らの望みを実現して下さる方は神である。
我らの万軍の主、ただお一人の神である。
  
神の助けを受けるためにただ一つ必要な条件は、神のみを頼りとすること、主イエス・キリストの御名のみにより頼み、キリストのみに栄光を帰すること、人間の助けに頼らないことである。
 
さて、上に書いたような一つ一つの恵みは、私の人生を通しても豊かに立証済みである。

他方、カルト被害者救済活動なるものに関わり、自分自身を被害者と考えて、神と教会や牧師や、他のクリスチャンを訴えることだけに精を出している人間の人生には、この先も、永久に何の解決もないだろう。

100%保証するが、自分を被害者だと自称している人が、神の幸福にあずかることは決してない。
 
しかし、私自身は、この活動と完全に縁を切って、アッセンブリーズ教団や、村上密氏や、彼を支持する人間たちと訣別してから、家庭のすみずみに至るまで、幸福が回復されたのである。

父は以前よりももっと話をじっくり聞いてくれるようになったし、姉妹関係も回復した。 悩みの時には、親族だけでなく、助けてくれる人たちが常に用意されている。

たとえば、ロシア人の友が必要だと主に願い出れば、神が友を送って下さる。
専門の仕事が必要だと願い出れば、神がこれを与えて下さる。
生活の糧も、ペットも、家も、何もかも、主に願って与えられて来たのである。

そして、私自身の安全も、我が実家も、常に守られている。

これは、私の仕事が常に順調で、私に特別な才覚があって、人並み以上に恵まれた生活を送って来たから言うのではなく、むしろ、私は仕事を変えたり、願いが変わったり、明日の保険などという考えとは無縁のところで生きて来た。

が、それにも関わらず、毎日、毎日、必ず、神が必要の全てを備えて下さり、私の人生を守って下さり、しかも、豊かに守って下さることを、これまで一日、一日、しっかりと確かめて来たのである。
   
カルト被害者救済活動なるものにまだ接触があった頃、私は結局、この活動に何らの希望も解決も見いだせず、将来への展望も何も見いだせないまま、その頃に住んでいた家を手放して、実家に帰らざるを得なくなるという出来事があった。

いよいよ郷里に帰るというその時、筆者が当時、助けを求めて通っていたアッセンブリーズ京都教会の村上密牧師の夫人が、筆者に向かってこう言い放った。

「岡山にも、教会はいっぱいあるからね」

耳を疑うようなこの言葉を聞いたとき、どれほどこの婦人が心冷たい人間であるかを筆者はよくよく思い知った。そして、このような人物から離れられることは幸いだと確信したのである。

つまり、村上牧師夫人は、「あなたがいなくなって寂しくなるわ」と、お世辞でも別れを惜しむでもなく、「なかなか会えないけど、元気で頑張ってね」と励ますでもなく、

「岡山にも、教会はいっぱいあるからね」と、それだけ冷たく言い放ったのである。要するに、そこには、「あなたがいなくなってせいせいするわ、二度と戻って来ないでね」というニュアンスが、はっきりと込められていたのである。

実際のところ、この夫人の冷酷さについては、カルト被害者救済活動に関係していた被害者たちの間でさえ、定評がある。まるで氷の人形のように冷酷で無慈悲かつサディスティックだというのである。

村上夫人の旧姓は津村である。筆者はこの女性の父親である牧師の人柄をよく知っている。その牧師を筆頭に、元津村ファミリーの人間は、大体みなそうなのだが、この女性も、まるでサイボーグ戦士のように無感覚で、他人の心の痛みというものを、およそ理解したり、慰めたりできるような繊細な心の持ち主ではない。

だから、もし誰か心傷ついている時に、相談相手が欲しいと願うなら、絶対に、村上夫妻に助けを求めることだけは、やめておいた方がいい。問題が解決するどころか、彼らの餌食とされ、下手をすれば、それをきっかけとして、死へ追いやられることになるだけであろう。

特に、夫人には何も打ち明けてはいけない。まだ癒えない傷を、切れもしない鈍い刀で無理やりグイグイとこじあけられるように、傷口を押し広げられ、徹底的に痛めつけられることは請け合いである。村上夫妻はサディストなのではないかと感じずにいられないほどのやり方である。

言っておくが、これは筆者が一人だけで主張していることではなく、被害者の間での定評なのである。
 
おそらく、カルト被害者の中では、このような悪質な「カウンセリング」の結果、死に追いやられた人たちもいるのではないかと想像せずにいられない。

こうして、筆者はこれらのサディストたちの親子の両方から逃れて来たことになるが、もうすでに彼らと手を切って何年になるか分からないのに、未だに筆者には、この教会と牧師の関係者とおぼしき連中からの嫌がらせが続いている様子を見れば、一般の人々にも、ここで筆者が主張していることが、嘘とは言えないことがよく立証されるであろう。

沖縄の被害者は村上ファミリーによってもっとひどい恫喝の下に置かれているともっぱらの評判である。
 
このような事実があるわけだから、クリスチャンはどんなに不安を覚える出来事に遭遇しても、カルト被害者救済活動なるものには決して関わらないことをお勧めする。アッセンブリーズ教団にも決して足を向けてはいけない。
 
さて、上記のような牧師夫人の捨て台詞と共にその教会を去ることになる前に、一度だけ、筆者は、関西での生活に不安を覚えたことを、この牧師夫人に打ち明けたことがあった。

当時、筆者はバイクで通勤していたので、もし通勤中に交通事故に遭ったならば、どうすれば良いかという不安が心によぎった。もし自分に万一のことがあると、親族が近くにいないので、すぐに誰かに助けを求められないという不安を語ってしまったのであった。

その時に、この牧師夫人が筆者に答えた言葉が、これまた典型的なサディストとして非常に奮っていた。彼女は表情を変えもせず、こう言い放ったのだ。

「遺書を書いて携帯しておけばいいじゃない。『もし私に万一のことがあったら、村上に葬儀をして下さい』って」

筆者はこの答えを聞いたとき、一体、これが牧師夫人の言葉だろうかと絶句した。

「大丈夫、通勤の道も、神様が必ず守ってくれるわよ、それを信じましょうよ」と励ますでもなく、「私たちがついているわよ。何かあったら、すぐに私たちに電話してね」と言うでもなく、

「もし不慮の事故で自分が死んだ時には、村上密に葬儀をして下さい、と遺書に書いて、その遺書を常時、懐に携帯しておけばいいじゃない」

と言ったのである。

まるで筆者が事故死しても当然であるとでも言いたげなこの死に対する消極的かつ絶望的で不信仰で投げやりな答えと、筆者がまだ何も言わないうちから、筆者の葬儀が京都アッセンブリーズ教会で行われることを当然視しているかのようなこの答えには、本当にドン引きしてしまった。

そして、筆者はあまりにもこの牧師夫人の答えに呆れ果てたので、夫人には面と向かって何も言わなかった(言っても無駄であろう)が、その時、心の中で、「絶対に筆者は死なないし、こんな冷酷人間の思い通りになって、こんな連中に葬儀を頼むようなこともしない」と決意したのであった。
 
大体、そんなことが起きたのでは、神の名折れであり、地獄の笑い者にしかならないであろう。一体、そんな死に方のどこに信仰の意味があると言うのか、信仰者の名が泣く。神の助けを信じると言いながら、悪魔の吹き込む嘘の不安に負けて、犬死するなど言語道断であり、絶対にそのよう悪しき前例を作ってはいけないと、断固、決意したのであった。

当時、筆者の信仰はまだ人間に頼ったり、他者に不安を打ち明けたりするほど未熟で、神の守りの万全さを自ら決意するまでには至っていなかったが、それにしても、そんな当時の筆者にも、上記の牧師夫人の答えは、クリスチャンとしてあるまじき言語道断なものであり、そこには死に対する力強い抵抗もなく、死を打ち破る信仰の勝利もなく、もしかけらほどでも信仰を持っていれば、絶対に出て来るはずのない臆病者の悪魔的・敗北的回答だと理解するだけの力はあった。

だから、神への信仰そのものを全否定し、弱い者たちを冷酷に突き放し、人が死ぬことを当然視してそれを助長しこそすれ、死に対して全く抵抗しようともしないこの牧師夫人の不信仰で冷酷な言葉を、筆者は人に生きる力を失わせるための悪魔の策略としてきっぱり退け、夫人の勧めに従って遺書を書くことを拒み、なおかつ、村上密に葬儀を頼むという言語道断な提案をも退けて、その当時、筆者が親交を結んだ信頼できるクリスチャンの名と携帯番号をノートに記して、「万一の際は、この人物に連絡してください」というメモだけを携帯し、絶対に、何があっても、村上密には連絡が行かないように布石を打ったのであった。

むろん、アッセンブリーズ教団と京都教会といかなる縁も持たない今、筆者に関して、この牧師が乗り出して来ることは決してない。

だが、今ならば、筆者は信仰が成長したので、たとえ上記のような状況に置かれても、もう不安を覚えることはないし、誰にも助けを求めることはないであろうと言える。そもそも、筆者は自らの死に備えて、わざわざ遺書など携帯することはない。それは、筆者の死がもし避けがたいものとして近づいて来る時には、必ず、神が知らせて下さると確信しているからである。

それに、第一、クリスチャンが、携え上げや殉教を願うこともなく、ありふれた事故死や、畳の上での死を当たり前のように受け入れているようでは、信仰者としてもう終わりである。

クリスチャンにとっての死とは、生と同じく、神への証でなければならないのだ。それはありふれた出来事ではなく、主への献身の完成でなければならない。

今、筆者はバイクだけでなく車も運転する。必ずしもいつも近くに駆けつけてくれる誰かが常にいるという状況ではない。

しかし、筆者が乗っているのは、信仰という乗り物であり、その同乗者は神である。神が私の保険であり、私の最も注意深い同乗者であり、助手席のナビゲーターである。だから、私は「もし事故に遭ったなら・・・」などという想定を考えることさえなく、困ったことがあれば、「主よ、どうしましょうか?」と相談する。

これは筆者が格別に熟練したドライバーで、腕に相当の自信があるから言うわけでもないし、筆者の車が特別頑丈にできているためでもない。道に迷うことから、機械のトラブルに見舞われることから、日常生活で、全く相談事が生じないことは決してない。だが、それらはすべて主に持って行くのである。実際、筆者が長年のペーパードライバーから特別な講習もなしに一直線にドライバーに戻った時にも、すべて主のみが守り、助けて下さったのである。

頑丈で確かなのは車でもなければ筆者の腕前でもなく、主の確かな守りである。

さて、こんな有様だったので、カルト被害者救済活動と訣別したことに、筆者は何のためらいも後悔もありはしない。あんな風に冷酷でサディスティックで生きる希望を持たない敗北的な連中と関わっていれば、信者はいつしか最初に持っていたはずの生きる望みさえ奪われて、彼らの嫌がらせの果てに精神的に殺されて本当に死者にされてしまうだけである。

別の記事に書いたが、当時、アッセンブリーズ教団に属していた鳴尾教会で、村上夫人の父である津村牧師に関わってボロボロになるまで使役され、マタハラにも遭い、大切な子供を失った伝道者夫妻の話も今日に伝わっている。だから、筆者が上記のように書いたからと言って、それは決して誇張ではないと確かに言える。
 
神でないものに助けを求めれば、悪魔がつけこんで来るだけである。その挙句の果てに行き着く先は、死でしかない。だから、生きていたいという望みがわずかでもあるならば、一刻も早く人間の指導者に助けを求めることをやめて、そんな敗北の道は早々にお断りするにこしたことはない。

さて、この運動を離れたのはもうはるか昔のことであるが、筆者には、それ以来、家を失うなどということは、一度も起きたことがない。
 
かえって、アッセンブリーズ教団に残った信徒が家を失ったという話を聞くばかりである。

その信者は、かつて筆者がカルト被害者救済活動と対立していたことを、まるで筆者の人徳のなさの結果であるかのように責め、嘲笑していた。要するに、筆者が不器用だから人と対立しているのであって、皆と仲良くしていれば、そんな対立は起きるはずなく、筆者はこの運動の支持者とも和解すべきと彼女は言うのであった。
 
彼女には、自分なら決してそんな対立に巻き込まれはしないという自負があって、自分の八方美人性によほどの自信があったのであろう。何しろ、アッセンブリーズ教団の人間なのだから、そう考えたとしても、不思議ではない。そして、筆者を支援するように口では言いながら、陰では多くの信者たちに、筆者に対する侮蔑的な見方を植えつけていた。
  
だが、筆者はその八方美人的な自称信者の上から目線で自信満々な忠告を聞かなかった。
 
何しろ、神に敵対する人間たちと仲良くすることが信仰の道ではないのである。主に対して不忠実で、聖書の御言葉に従わない人間とは、袂を分かたない限り、自分自身にも彼らと同じ呪いを招くことになるだけであることは、その頃には、もう十分に理解していた。

汚れたものとは分離せよ、それが聖書が随所で信者に警告している原則である。

だから、筆者にはアッセンブリーズ教団に戻る気もなかったし、カルト被害者救済活動に戻る気もなく、その信者の助言を聞く必要もないと分かっていた。さらに、その信者と関わる必要もなかったのである。その最後の点だけが、その頃には分かっていなかった点であった。筆者はその人も「信者」だと思っていたからだ。
 
さて、神に祝福されるための道は、御言葉に忠実に従い、神に従わない悪人どもと手を切ることである。人に好かれ、世の覚えめでたい人間になることなどが信仰生活の目的では決してないのである。そのような生き方を推奨し、神にではなく、世に色目を使って媚びる人間とは早く訣別することが肝心である。
 
さて、話を戻せば、筆者の「貧しさ」や「不器用さ」ゆえの苦労を、さんざん他人事のように嘲笑し、自分ならばもっとうまくやれると上から目線で見下しながら、忠告を繰り返していたその信者は、自分と同じ病院で治療を受けていた自分の障害者の友人にも、「私はもっと設備の良い病院で治療を受けるから、あなたとはさよならする」と言い放って、その病院を去って行った。

しかし、その言葉通りに彼女はその後、豊かな生活を送るどころか、かえって夫の給与が下がって、家を手放して、郊外にある実家に戻らざるを得なくなったのであった。

夫を持たない天涯孤独かつ重度の障害者である闘病生活の仲間と、筆者の悩みと孤独の多い信仰生活を、まるで不器用さの証であるかのように、さんざん上から目線で嘲笑した信者の行く末であった。

もしそのアッセンブリー信者の筆者への忠告が正しかったのならば、決してそんな結末にはならなかったであろうと筆者は確信している。設備の良い病院で治療を受けると同時に、より良い家に住み替えるくらいのことができたであろう。

何しろ、どんなに些細なことがきっかけであれ、信仰者がやむなく生活を縮小し、持ち物を手放し、家を失う、という結末は、悪魔を大喜びさせるだけだからである。それはあたかも神の助けが不十分であり、なおかつ、信者が不信仰であることの現れのように世には受け取られる。

だから、もし本当に神を信じているならば、信者は決して自殺によって犬死になどしてはならないし、どんな持ち物も安易に手放してはならないし、世の情勢が悪くなったからと言って、それに影響されて貧しくなって行くこともない。

どんな窮地に追い込まれても、そこから神の偉大さを、信仰を通して立証できるだけの勝利をつかみ取らなければならないのだ。
 
ところが、彼女は、人前で自分の裕福さと器用さ(立ち回りの上手さ)を誇って、自分ほどに器用に生きていない人間を見下して嘲笑していたにも関わらず、時代の趨勢の通りに、より貧しくなっていくという結果を避けられなかったのである。それは、その信者の誇っていた世渡りの才覚が、何ら世の情勢の悪化に立ち向かう力とはならなかったことをはっきりと物語っている。

世と馴れ合う人間は、世が「豊かになれ」と言ってくれる間は、豊かになるが、世に「貧乏になれ」と言われたら、それに全く立ち向かう力を持たないのである。そのような人間は、もし世から「死ね」と言われたら、本当に死んでしまうのに違いない。つまり、彼らが信者を名乗っているのはほんの口先だけのことで、実際には貧しさや病や死の圧迫に対して、信仰によって立ち向かう術を全く持たないのである。一体、そんな信仰に意味があるだろうか?

我らの神は、そんな時にこそ、我らの力強い助け主となって下さる方である。我らの神は、やもめや、みなし子や、よるべのない者たちを見捨てず、彼らが追い詰められた時の最も力強い砦、最強の保護者である。我々が最も弱く、最も策なく、窮地に追い込まれているようなその時こそ、我らの神の出番があり、神の全能の力が現れる。我らに神以外の全ての助けが断たれるその時にこそ、神の力強さが最も大胆に現れるのだ。
   
それなのに、アッセンブリーズ教団にいるこの人々たちの主張の何と弱々しく敗北的なことだろうか。彼らの言う「信仰」なるものは、この世においてあらゆる死の圧迫に大胆に立ち向かうために全く役に立たない非力なゴミ・ガラクタでしかなく、むしろ、速やかにあの世へ渡って自分を慰めるためのパスポートでしかない。悪魔は大喜びであろう。そのようなものは断じて信仰と呼ばれるべきではない。

だから、そんな様子を見るにつけても、アッセンブリーズ教団やカルト被害者救済活動を擁護することは、誰に対しても、呪いに満ちた悲惨な結果しか招かない、と改めて筆者は確信している。この運動は、世の方しか向いておらず、神の方を向いていないからだ。悪魔と世のなすがままである。それでいながら、どうやって天に蓄えられた宝を信仰によって地上に引き下ろすことなどできよう。こんな運動に関わりながら、神に祝福された人生を送るのは無理な相談である。
 
村上密は、自殺した人間を責めたり、罪に問うのは残酷であって、自殺者は神に拒まれ、天国へ行けないという考えは、クリスチャンの偏見だ、などという趣旨の記事を繰り返しブログに書いているようである。要するに、自殺者も天国に行けるし、神に受け入れられるかのようなデマの流布に加担しているのだ。

このような屁理屈は、死に対する何の抑止力にもなりはせず、死を願う人たちの心の願望をいたずらに助長するだけである。

「自殺しても、罪にはなりません。天国にも行けるし、神様も分かってくれます」
 
そんな風に、人々の自殺願望に太鼓判を押し、死へ向かって背中を押すような、むなしい自己安堵の言葉を、自称「被害者救済活動」に携わる牧師が投げかけているのだから、世も末、言語道断、笑止千万な話である。しかも、それが牧師を名乗っている人間の言葉なのであるから、全く呆れ果てる。

そこに、一体どんな「救済」があるというのか? 死が救済だとでも言うのであろうか?
 
そのような主張から透けて見えてくるのは、この牧師夫妻に関わったために、実際に死に追いやられた被害者が相当数存在するのだろうという暗黙の事実だ。

彼らは、自分たちが救えなかった被害者への無念、自分たちの非力さ、不信仰という罪を覆い隠すために、上記のように自殺者を擁護し、自殺を後押しするような主張をしているだけである、筆者にはそうとしか見えない。
  
だが、キリストは、死に打ち勝った方であり、信じる者に豊かに命を供給される方である。

キリストは、カルバリで悪魔を打ち破り、我々を悪魔のもたらす全ての死の恐怖から救い出し、我々を死の奴隷状態から実際に解放して下さった方なのである。
 
だから、一体、この方への信仰を持っているのに、なぜ、我々が依然、死に怯えて暮らさねばならない理由があるのだろうか。いや、我々は死に立ち向かい、これを断固拒否し、撃退しなければならないのである。
  
筆者自身の確かな経験に立って、ここに警告しておくが、人間に過ぎない村上密に助けを求めた人間は死ぬだけであろう。彼らは救済にもあずかることはないし、受けた被害も回復されない。むしろ、持っていたものまで取り上げられる。

しかし、主イエス・キリストに助けを求める人間は、これらすべてを回復され、単に死に打ち勝つどころか、神の満ち満ちた命の豊かさに至る。
 
だから、筆者は、カルト被害者救済活動に失望し、一旦は、郷里に帰ったが、その後、信仰によってまた新たな家を手に入れて独立できたし、仕事も与えられているし、関西の地を去って後、今度は関東にやって来ることが出来たので、前よりも大きなチャレンジに至った。

まだまだ、このチャレンジは続くのである。むろん、郷里は自然が豊かで食べ物が美味しく、いつでも帰りたいという誘惑はあるが、キリスト者の道は「出て来たところに戻る」ことにはなく、「前に向かって身を伸ばし」、常にまだ見ぬ地へ、天の都を目指すことにある。
 
こうした事柄は、もし筆者がアッセンブリーズ教団や被害者運動などというものにすがっていれば、絶対に起きなかったことばかりで、目に見える人間に助けを求めて、見えない神に従わないことの不毛性をよく物語る事実である。
 
だから、貧しい者はただ主イエス・キリストの御名にすがり、神にのみ助けを求めるが良い。もし本当に神だけに栄光を帰するならば、主は御名に信頼する全ての人たちの願いに応えて、豊かな命を与えて下さる。

神の家族に加えられた人々は、もはやみなし子でもなければ、やもめでもない。神が保護者なのだから、地上の誰にも増して富んでいる人間であり、キリストと共に、天の相続財産が約束された御国の後継者である。

福音書の中で、放蕩息子が帰宅した時に、父親が彼に新しい服を着せ、履物と、指輪をはめてくれたように、神はあらゆる贈り物で、信じる者たちの人生を満たして下さる。
 
だから、真に恵まれて豊かで幸福な人生を生き、人間として地上に生まれて来たことの醍醐味を味わいたいならば、カルト被害者救済活動などという汚れた運動とはさっさと手を切り、被害者をダシにして自分の栄光を求めるような牧師への期待は、可能な限り早く捨てることである。

そして、まことの創造者たる神に立ち返り、神だけに栄光を帰して生きることである。

この唯一の神、我らのまことの造り主なる神を退け、神と教会とクリスチャンを訴える道を選んだ人間には、破滅しか降りかかるものはない。

村上密の最期は、自身の予告にふさわしいものとなるだろう。つまり、彼が自殺を擁護しているのは、自殺した被害者のためではなく、実のところ、自分自身の未来への自己弁明のためなのではないかと思わずにいられない。

「肉の思いは死であるが、御霊の思いは命と平安である。」(ローマ8:6)

狭い門からはいりなさい。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

ペンテコステ運動とグノーシス主義の関係について書くと、早速、さわやか読者らが蠢動を始める。グノーシス主義の話題になると、これまでにも必ず、常にスピン的な動きが出て来たが、このことは、ペンテコステ・カリスマ運動の基礎がグノーシス主義にあることが明るみに出されてはよほど困る勢力が存在することを示している。

長年、当ブログに対するさわやか読者の動きを観察して分かることは、当ブログに対して、おそらくはアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の関係者(特に村上密氏やカルト被害者救済活動との関連)から、長年に渡り、彼らの活動への批判を潰すための工作がなされて来たという事実である。

杉本事件もその一環である。当ブログに対する1千件のコメントを伴う杉本徳久氏のブログにおけるバッシングが、杉本氏の一存によって行われたものであろうはずもなく、これも委託された全体の工作の一部であったと考えるのがふさわしい。

そもそも、杉本氏が自身のブログにおいて行って来たプロテスタントの諸教会に対するバッシングは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のカルト被害者救済活動の需要を意図的に作り出したい人々にとって、非常に好都合なものであった。

杉本氏がプロテスタントの諸教会の醜聞を次々発表することによって利益を得るのは誰かを考えれば、それは間違いなく、カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であり、「カルト対策の専門家」を名乗る村上密氏のような牧師である。

カルト被害者救済活動というのは、とにかく「教会で被害を受けた」と主張する信徒が登場しないことには始まらない。

そして、教会での不祥事は頻繁に起きる事件でないため、杉本氏のブログでの発表の中には、当初は本当のスキャンダルも幾分か含まれていたかも知れないが、結局、同氏らは事件をでっちあげてでも、注目を集める機会を作り出すという「やらせ」に陥らざるを得なかったのである。だが、そのように暴走するよりも前から、もとより、教会のスキャンダルを食い物として、弁護士やカウンセラーや教職者に仕事の機会と出番を作り出し、被害者救済ビジネスを成立させるという村上密氏の活動の手法そのものが、2ch等の「炎上商法」と極めて近い関係にあったと言える。

こういう他者の不祥事を糧とする種類の活動は、もともとその性質上、「やらせ」としての要素を色濃く持つものであり、いずれはスキャンダルをでっちあげてでも需要を作り出していくという暴走したものにならざるを得ない。毎年、年末になると同じ道路を掘り返して需要を作る公共工事くらいであれば、まだしもましであるが、諸教会と生きた信者に対する告発を捏造するところまで行くと、極めて罪が重いと言わざるを得ない。何より恐ろしいのは、これが人間相手ではなく、神に敵対する活動だという点である。

そういう意味において、カルト被害者救済活動は、2chとも極めて性質と仕組みがよく似ている。誰かの醜聞を故意に作り上げることによって人々の注目を集め、それを奇禍としてビジネスチャンスに変えて行くという性質である。

2chには、炎上のためのシナリオがある。まずは事件を大々的に煽る「敵」役が現れ、彼らが自らを当て馬として誰かを追い詰め、そこへ事件を解決するように見せかけた「正義の味方」や、心優しい「助言者」に見せかけた裏切り者などが登場し、その他大勢のエキストラ、情報提供者、ウォッチャーなど、さまざまな役割分担が振り分けられる。

災いをしかけられた側に知識がなければ、その時、その事件は自分の過失が引き起こした結果だと思って自己反省に陥ったり、争いをしかけて来る人物が主犯ではなく演技者の一人に過ぎず、助け手を装って現れる人間もまた工作員であり、すべてが背後にある巨大なネットワークによって一つに結びついて一個のシステムとして動いているのだとは疑うことなく、彼らの思い描いたシナリオ通りの行動パターンを辿らされることになるであろう。

だが、以下に示すような2chの実態等の情報を少しでも知っていれば、それらの事件は、最初からすべて計画的・人工的に仕組まれた舞台演出に過ぎず、霧のように、あってないも同然の事件に過ぎないことが理解できる。悪役でさえも、演技者でしかなく、ヒーローを演じる人物に花を持たせ、観客を動員してビジネスチャンスとなる物語を作り上げるためにすべてのシナリオが仕組まれているのだと分かろう。

そして、その脚本は最初から意図的に書かれたものである以上、誰かの言動がその事件勃発の引き金となったわけではなく、そのようにして延々と被害者を作り出してはビジネス化するネットワークはずっと以前からロシアン・ルーレットのように回り続けて来たのであって、あなたはただ順番が来たから機械的に巻き込まれただけなのである。

さて、一体、その大がかりなネットワークは誰が作り、動かしているのであろうか?

以下の記事を書きながらも、筆者が改めて感じたのは、約十四年間も、自らの名誉と地位を守るために、鳴尾教会に起きた事件の真相を隠し続け、自らの誤りを罪なき他者に冷酷に責任転嫁すべく、ひたすら他者を貶めるための「創作物語」を終わりなく延々と作り上げて来た村上密氏という人物の危険性である。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~


「演技性人格障害」という言葉も存在するが、村上密という人物の病理については深く考え込まざるを得ない。一つ嘘をつくと、それを隠すために、人は次から次へと嘘をつかざるを得なくなり、人前に自己を偽ると、鱗のように嘘に塗り固められた人物像が出来上がって行く。村上密氏が演じているような、被害者を救う「ヒーロー」としての人物像は、同氏自身の真実な姿から著しく乖離しており、もうずっと前から、約十四年以上も前から、破綻していたのだ。本人だけがそれを未だに認めまいとして今に至っている。

恐ろしいことである。だが、村上氏に限らず、「優秀なクリスチャン」を演じようとしたがために、虚像の自分自身を作り上げることになり、その演技がやめられなくなり、もはや現実を直視できなくなる実例は、筆者の周りで珍しいものではなかった。たとえば、筆者はルーク氏や杉本氏や下記に登場するcandy氏に対しても、全く同様の危惧を感じ、しばしば本人に対してかなりあからさまにそれを警告したのである。(だからこそ、KFCは筆者を疎んじたのである。)
 
村上密氏について言えることは、そもそも、メディアと密接な関係があって、メディアでもてはやされる人物というのは、およそ信用がならないということだ。そう言えるのは、メディアへの出演者はみな俳優のようなものであり、彼らが視聴者の注目を得るための番組作りは、その根本に「やらせ」があるためだ。

特に、牧師が自分をヒーローに見せかけるために、常に「仮想敵」を必要とし、「やらせ」に走ってでも、諸教会のスキャンダルをでっちあげては、自らの活動の需要を作り出し、キリスト教界を舞台にして、水戸黄門や暴れん坊将軍といった古典的な時代劇ドラマを思わせるような「勧善懲悪」のストーリーを効果的に演出せねば、世間の支持を得られず、存続もできないというアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のカルト被害者救済活動は、もともとメディアの「やらせ」と、2chなどの匿名掲示板の「炎上商法」と密接に親和性を持つものであったと言える。それゆえに、結局、悪者を終わりなく作り上げ、政敵を追い落とすための工作において、教団と2chの両者は「蜜月」の関係を築くに至ったのだと推測される。

その観点に立てば、杉本徳久氏が当ブログに対して引き起こした事件も工作であったとみなすのがふさわしく、仕掛け人は杉本ではないのである。杉本ブログはそれ自体が隆盛期には巨大な掲示板と化していたのであり、同氏はカルト被害者救済活動を存続させて、自分たちが救済者としての名誉ある地位を失わないでいるために、我が身を当て馬としてでも、事件を作り出す役目を担って来たのだと考えられる。

カルト被害者救済活動と2chとの親和性は次のようなところにある。2chには一般市民を装って常時掲示板の話題を盛り上げるための「プロ固定」と呼ばれる工作員書き込み者が多数存在する。彼らは、通りすがりの市民を装いながら、その実、2chの犯罪ビジネスを成功させるために、金をもらって特定の企業や個人を貶めてはネットから駆逐して言論統制を行う。2ch対策と称して風評被害の解決を謳っている弁護士も、この掲示板と一体であり、これらは表裏合わせて一つのビジネスなのである。

この掲示板には、言論統制や炎上など様々な委託されたミッションの実行に向けて人工的な「世論」の流れを作り出すために、常時、話題を意図的に操作する工作員コメント者が多数配備されている。こうしたことは、以下に挙げたような2chの実態を告発する数々のサイトで、内部告発者らの証言によってすでに裏付けられている事実であるため、ここで改めて詳しく説明する必要もないであろう。

2chのような掲示板での議論が、意図的に犯罪を作り出し、人工的に炎上を引き起こしては儲けるためのビジネスであることは、すでによく知られている。その手法を知るには以下のサイトを多少読むだけで十分であり、これを読めば、杉本事件が偶然に起きたとみなす者は一人もいまい。

匿名掲示板2ちゃんねるの実態
 2ちゃんねる掲示板の運営側による情報操作


2ch裏の歴史と噂話と真相

2ちゃんねる から子供たちを守ろう!

カルト被害者救済活動と2chとに実際に密接な結びつきがあると言えるのは、当ブログに日夜押し寄せて来ていたさわやか読者のIPアドレスを検索すると、その多くが2chを含む掲示板の常連であり、クリスチャンとは全く無縁の不信者ばかりである実態が浮かび上がったことによっても裏づけられる。

それだけでなく、さわやか読者の活動には周期があり、ネット監視の開始時間と終了時間、一人の工作員から別の工作員へのバトンタッチの様子など、アクセスログから活動がスケジュール化されている様子が分かる。そして、IPアドレスなどをもとに集団ネット監視に及んでいる実態が明確に浮かび上がるのである。

2chは、キリスト教に限らず、多数のネットユーザーに対してこうした集団的な監視活動を行うことで有名である。そこで、こうした工作を彼らに委託したのは何者であるのかを考える時に、筆者には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に深い関わりのある人間たち以外からの働きかけを考えることもできないのである。

さわやか読者らの動きも、観察してみると、明らかに、雇い主の指示に従って当ブログを監視しているだけの雇われ工作員と分かるのである。信仰者でない以上、彼らが筆者の主張にもともと特段の関心があろうはずもなく、彼らには筆者に対する私怨はない。ただ議論を封じ込め、筆者の執筆意欲を低下させ、最も重要な争点から人々の注目をそらし、情報の信憑性を低下させるような発言を繰り返して、不穏な印象を与え、議論をかく乱するためのスピンを行うことを主たる「業務」としているだけである。

むしろ、読者の関心が筆者自身に集まると逆に彼らは困るのであろう。なぜなら、筆者が信仰者として神だけを見上げて一人で立っているのに、信仰はおろか、聖書の知識の片鱗すらもない、キリスト教のことを何も知らない部外者が、信者であるかのように立場を偽って、集団で騒ぎ立てて、筆者や、敬虔なキリスト教徒をさらし者としているだけだという悪事がより一層際立つからである。もともと無関係な人々が関わって来ようとする背景には、金をもらっているからだろう、スポンサーは誰なのか、という議論しか起きて来るものはない。

しかも、彼らは集団でかかっても筆者を論破することができない。当然である。さわやか読者には、まるで知性がなく、基礎知識がなく、もともとキリスト教に興味がなく、お仕事でやっているだけである。しかも自作自演なので、ずっと延々と引用とレッテル貼りとごまかししか続けられないのである。そんな無益なことに人生を費やさざるを得ないとは、ご愁傷様であるが、多分、報酬もないに等しいのであろう。

こうしたさわやか読者の雇い主が明らかにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団やペンテコステ運動の支持者と深い関わりがあると見られるのは、筆者がグノーシス主義についての一連の連載を本格的に始めた頃、次のような馬鹿の見本のような掲示板がスピンのために立てられたことからも推測できる。上記、リンクは貼っておいたが、IPアドレス情報を盗み取られるため、正常な読者は誰も閲覧しないように注意しておく。

こうした掲示板でのスピンのための「やらせ」工作の材料を集めに、当ブログへ毎日せっせとアクセスしてネタを取りに来ている工作員は以下の二人である。

kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
kd210249054007.ec-userreverse.dion.ne.jp  (出身は 掲示板1

主犯は上である。これは何か月間も当ブログを監視しているさわやか工作員であり、日々、「村上密」の名前で当ブログにたどり着いて来ることを見ても、自らどの筋の者かを告白していると言える。いずれアクセス履歴を公表する。下はもともとキリスト教とは何の関係もない掲示板のプロである。この二人か、もしくは上の一人が自作自演によって何人かを演じ分けながら、延々とつまらない話題作りに励んでいるのである。

それにしても、閑古鳥が鳴いている掲示板を、自作自演によって成り立たせるしかないとは、2chも杉本ブログと同じほどの情けない落ちぶれようである。

だが、それもそのはずであろう。昨今は、どんな業界も店舗が一人体制で人手が足りなくて困っているという。足りないのは人手だけではなく、深刻な経営難で人件費が削られ、店員が基礎的な研修も受けられず、業務知識そのものが足りなくなっている。

そういった事情は、掲示板までも変わらないと見られ、寒い懐事情が議論の質の薄さにもろに影響している。まず基礎的文献に全く目を通していないので、議論に必要な知見が圧倒的に不足しており、下調べを何もしないまま、レッテル貼りと争点逸らししかできない。グノーシス主義についても、基礎的な文献を読んでいないのでは、発言に信憑性がない。さらに信者ではなく、信仰の事柄に疎いので、文脈を踏まえた聖書の引用ができず、信仰の常識を踏み間違えて恥を晒しており、結局、自説を証拠立てるための何らの有力な理論も提示できない。

ペンテコステ・カリスマ運動の教義など理解もしていないのであろう。さらに鈴木大拙や禅と仏教と東洋思想の知識になると彼らにはもう完全にお手上げである。日本には僧侶はたくさんいるので、下手に言及すると無知がバレる。これはキリスト教も同じである。無知がバレるというより、教義面から出身がバレるのである。

こんな知見不足の状態では、聖霊派の教義とグノーシス主義を結びつけた詳細な議論に反論できるだけの証拠もあろうはずもない。杉本ブログよりももっと質が低い。その上、自作自演ではもともと議論が盛り上がるはずもない。だからこそ、結局、三歳児でも理解できるようなレベルに落ちて行くだけなのである。

こういったことはすべて、もともと聖書の知識なく信仰もない人間にはこの手の議論は無理な挑戦だということをよく物語っている。そもそも、自分に興味がないことについて、人は何を書こうと思っても書けないものだ。信仰の事柄はまして不信者の議論には向かない。だから、無謀な挑戦をして、阿呆の見本のようになるしかないのだ。

それにも関わらず、なぜそのような無謀な挑戦をこれらの人々は行うのか、それは彼らが業務を委託されているからである。彼ら工作員の間では、常にアッセンブリー教団の批判がタブー化されている様子を見ても、彼らがどこから依頼された仕事として作業に励んでいるのかは明白になる。

彼らの課題は、異端グノーシス主義とペンテコステ・カリスマ運動が本質的に同一であるという事実を隠すことにある。つまり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教義そのものが異端であるという事実を明るみに出さないために、行われていることである。
 
すなわち、これらの工作員らが常に議論を紛糾させようとする目的は、カルト被害者救済活動も含め、そうした運動を生み出した弱者救済のペンテコステ・カリスマ運動が根本的に異端であり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が根本から聖書に反した理念に基づく運動から生まれたものであり、その基本理念の基本構造はグノーシス主義と同じであるという事実を論証する主張を人の目から覆い隠し、議論をかく乱することにある。そのための目くらましなのである。
 
だが、2chの影響力は実際には世間で恐れられているほど大きくない。それは実際、日々当ブログへリンクして来る人間がまるでいないことを見ても明白である。

さらに、こうした匿名掲示板で、悪質な誹謗中傷の書き込みを繰り返したために、逮捕され、顔写真までさらされている人物もいるようであるからご用心だ。左記のようなケースでは、さしずめ勤務にも影響が出るであろう。人の行動には相当の報いが降りかかるという格好の実例である。

さらに、当ブログの内容を勝手に切り取って転載していると、筆者とは無関係に、その人間が告訴される可能性がある。特に、筆者のブログには、牧師を名乗っている人物も含め、信者を容赦なく次々と法廷に訴え出ては留意を下げているような御仁が度々登場しているので、それらの人々との絡みで、筆者のブログ記事を利用するのは避けた方が良かろう。

当ブログの内容はそれぞれの記事に関連性があり、長大な論文のような構成を成しているため、部分的に切り取ることができない。さらに、筆者の提示している主張が捏造でないことを証明する一連の細かい論証過程がある。

そういう文脈をすべて無視して、当ブログの内容を無理に切り取って一部だけ話題作りに利用しようと転載すれば、筆者は一切その行為に対して責任を負わないが、その人間が自らの言質を取られ、誰かから誹謗中傷と判断されて訴えられる危険を自ら背負うことになる。(ちなみに、コメント書き込み犯が告訴されるために必要な条件はそう多くはない。)

さて結局、こうしたことも、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の率いるカルト被害者救済活動そのものが「やらせ」であり、ペンテコステ運動の基礎が異端グノーシス主義にあるという事実を明白に証明されたくない人々が、真剣な議論を早期に潰し、隠すためにスピン工作を委託しているだけである。
 
さて、一体、そんな工作を委託するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団とはどれほど危険な団体なのか。

筆者は、これまで同教団の信者らに関わって来た経験に立って、2chに「プロ固定」と呼ばれる工作員が存在するのと同じように、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にも、「プロ固定信者」と呼ぶべき工作員信者が相当数、存在するものと考えている。

これらの「信者」は外見的には一般の信者を装っているが、実際にその動向を長く追跡して行くと、彼らのやっていることはセミプロ工作員と言うべき域に達しており、到底、一般信者の取るべきではない数々の怪しい行為に及んでいる実態が見えて来る。

たとえば、記事「カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~」で言及したアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団神召教会所属のBr.Takaこと鵜川貴範・直子夫妻にしてもそうである。

もともと鵜川氏は牧師資格を持たないのに、教会指導者の意向を無視して、街頭で路傍伝道に立つことによって、ニュース記事に取り上げられたりしていただけでなく、次々とペンネームを変えながらネット上で活動を立ち上げては、放棄して来たこともすでに記事に書いた。その上、身元を隠して他教会でメッセージをしたり、といった活動は、単なる伝道の領域を超えた、詐欺師的な仮面の付け替えと言って良い。

真に伝道者を目指し、福音のメッセージを語りたいならば、まずは自分の属している教団の神学校へ入学して堂々と牧師資格を取れば良いことであり、母教会と他教会の信徒らの目を欺いてまで、所属もしていない他教会へ潜入してわざわざ身元を隠してメッセージを語る必要などない。だが、こうした人々はなぜか正規の手段を取らず、わざわざ人を欺いて隠密に行動するのが大好きなのである。それは彼らがもともと身元を公にして活動できないような何らかの秘密を抱えており、一般信者の隠れ蓑を利用して活動していた方が、いずれ嘘がばれた時にも有利だからという計算が働いているためだと思われてならない。

それは名古屋のアッセンブリー信者である「十字架の恵みが溢れて」の著者(candy氏)も同じである。ちょうど杉本氏とのネット上の対立が頂点にあった頃、この信者はあたかも筆者を助けるかのような文脈で幾度か当ブログに書き込んだこともあった。

だが、すでに記事「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」でも述べた通り、どうにも同氏の主張には、常に筆者には同意できない異端的教えの影響が見られ、根本的に何かがおかしいと常に感じられてならなかったのである。

candy氏はある時期「神は愛だから誰をも裁かない」などと聖書に反する異端の教えを宣べ伝えるサンダー・シングの偽りの教えに深く影響を受け、これを広める要塞と化した。

Dr.Lukeもこの信者の影響を受けて2008年に「サンダー・シングの霊性」なる記事を書いている。筆者はDr.Lukeに直接、サンダー・シングの異端性を告げて警告し、さらに、これが筆者の決めつけでないことを証明するために、サンダー・シングの教えの何がどう聖書に反し間違っているのかを一連の記事(「命の道と死の道――狭き門と広き門――偽りの教えの構造(序)」等)で明らかにした。

さらに、Dr.Lukeに対しては「キリスト教界からエクソダスせよ、と自ら唱えながら、なぜ現役のキリスト教界の信者、中でも危険視されているアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信者と関わるのか」を問うた。そのような二重性は、自ら述べている信念に反するものであり、キリストのみへの貞潔を保つにあたって、ふさわしい行動ではないのではないかと。

だが、Dr.Lukeは筆者の警告に耳を貸すことなく、かえってcandy氏とサンダー・シングの教えを擁護し、後にLuke氏とcandy氏とBr.Taka夫妻、および天声教会のリーダーが連帯して、彼らに耳障りな警告を発した筆者に対する「報復」を果たすために、筆者に異端者の濡れ衣を着せて、KFCから追放するという行為に及んだのである。

この事件は偶然に起きたものだとは筆者は全く考えていない。何しろ、ここに三人ものアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信者が関わっているのである。カルト被害者救済活動のやり方は、彼らがターゲットと定めた人物の人間関係に巧みに隠密に工作員を送り込んでは、ターゲットとなる人物に関する情報を収集し、なおかつ、その人物に対する周囲の人々の不満や愚痴を探り出すことによって、「被害」を捏造して、分裂や争いを引き起こし、ターゲットとする人物を中傷し、孤立させることにあるのだということは、長年の観察を通して分かっている。つまり、工作員を送り込んでは人間関係を壊し、「友人」であった人々を裏切らせて「告発者」に変えて行くことが、彼らの常套手段なのである。
 
KFCに関わっていた頃、筆者はアッセンブリー信者を信用していなかったので、彼らを信じても、裏切られるだけであり、Br.Taka夫妻はKFCを乗っ取るために来たのだから、彼らとの連帯は成り立たず、もし筆者の忠告を退けて彼らを信用し仲間だと考えれば、すぐにあなたも追放されることになるはずだと、Dr.Lukeに警告した。実際、その通りになった。Dr.Lukeは一時不名誉な理由でメッセンジャーを降ろされ、KFCの会堂は失われ、Br.Taka夫妻は逃亡し、筆者を陥れるために彼らが作った「同盟」は、わずか数ヶ月も持たなかった。そこにBr.Taka夫妻だけでなく、candy氏も一役買っていることが、Br.Taka夫妻の発言から明白となった。結局、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の人間が連帯して、他団体を潰し、そこにいる信者を中傷し分裂させたのである。
 
以上に挙げたDr.Luke氏の記事「サンダー・シングの霊性」では、サンダー・シングの影響を受けた中には、山谷少佐も含まれていたことが分かる。これはまだ山谷氏の裁判の判決が確定する前のことである。重要な裁判の決着がつく前に、山谷少佐がこの異端の教えを擁護したことには、決定的な意味があったものと筆者は考えている。なぜなら、我々は、自分の戦いに神が味方して下さるためには、どうしても、あらゆる汚れたものと分離して、身を清めなければならないからであり、「アカンの外套」を所持したままだと、戦いに勝てないからである。

こうして、candy氏は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者でありながら、Br.Taka夫妻と同じように、無害な一般信者という立場を装い、ネットを利用して、自分の所属教団の枠組みを超えて、他の教会の信者らに接近し、聖書に立脚して信仰の道を生きる信徒を悪者にして汚名を着せてまで、数多くの人々、特にリーダー格の人々を異端の教えによって惑わすことに成功したのである。

それでも、一般信徒であるがゆえに、Br.Taka夫妻もcandy氏も、批判の矢面に立たされたり、責任を追及されることはない。何事もなかったかのように、すべてに知らぬふりをして活動を続けているだけである。だが、たとえそのようにしてみたところで、聖書によれば、彼らには厳しい報いが約束されており、これを免れることはできない。惑わされた方も責任重大だが、惑わした者はもっと責任が重いのである。

「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」(マルコ9:42)

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:1-3)

candy氏は筆者の忠告を受けて、サンダー・シング関連の記事を削除したが、その教えが異端であるとは未だに認めていない。だが、同氏が認めようと認めまいと、結果的に、彼女の意向を受けてサンダー・シングを支持した人々が、今は見る影もなくなっている様子が、すべてをよく物語っているように思う。Dr.Lukeは自分を神だと宣言するに至っているし、山谷少佐は裁判に勝利できずネットから遠ざかることになった。Br.Taka夫妻については言及する価値がない。

これらの人々はみな聖書の真理よりも、人間の名誉と絆を重んじたのである。情に流され、人との交わりや、そこから得られる感覚的満足を、御言葉よりも優先し、御言葉に従うことよりも、人間の名誉を傷つけないことを優先したがゆえに、忠告の価値を軽んじ、誤った教えに逸れて行ったのである。

さらに、聖書は彼らの教えが「好色」であり、「貪欲」であると述べている。そのことは、Dr.Lukeとcandy氏が自分のブログで飽くことなく続けている「飲んだり、食べたり」(マタイ24:38)の自慢話を見てもすぐに分かることである。まさかそんな自慢話の羅列が信仰の証であろうはずがない。

聖書にはこうある、なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ14:17)

candy氏のブログは、当初の「イエスの喜びと満足のために」書かれる証から、「セルフの恵みと満足のために」執筆されるものへとすっかり変わってしまった。

さらに、上記で挙げた工作員の立てた掲示板の趣旨も「愛と赦し」(の母性的福音)であり、御言葉の切り分けがないところを見ても、まさにサンダー・シングやグノーシス主義やペンテコステ・カリスマ運動を擁護するために立てられたものと言って良い。だからこそ、こうした議論は決まって最後は肉欲の賛美に溺れて行くのである。その様子が彼らの信奉している教えの内容をどんな事実よりも明白に物語っている。

掲示板工作員は、決してBr.Taka氏やcandy氏などのアッセンブリー信者を批判しない。そのことだけを見ても、彼らがどの筋から来た者であるかは明白である。不思議なことに、candy氏のことを当ブログで書いても、さわやか読者はこの話題をタブーのように扱う。彼らはDr.Lukeについては常に騒ぎを煽ろうと狙っているのに、決してこの人物については触れないのである。
 
このようなアッセンブリー信者らの極めて不審な主張と活動を振り返り、彼らが言い広めて来た異端の教えのことを考えるにつけても、こうした「信者」らは、真実な信仰者を迫害し、退けるための「プロ固定信者」であると筆者はみなさざるを得ない。一人の信徒が霊的要塞と化して与えた影響の大きさを思うのである。

「十字架の恵みが溢れて」の著者は、今年5月に「十字架の恵みが溢れて2」という名で、ライブドアにブログを開き直している。言わずと知れた、杉本徳久氏の「随想 吉祥寺の森から」と同じプロバイダである。杉本氏から当ブログに対して実行不可能な提訴を予告する恫喝のメールフォームが送られて来たのと時期的に重なっており、また、当ブログに対するスピンの為に上記匿名掲示板が立てられたタイミングとも時期的にほぼ重なっている。2chとライブドア社も以前から密接な関係にあることが指摘されている。

以前の彼女のブログには、KFC関係者のブログへのリンクが数多く貼られていたが、当ブログでKFCの理念の異端性を明白に書き始めてから、新アドレスに移行している点にも注意が必要である。

こうしたことは、一般信者の立場だからこそできることであり、アッセンブリー教団に所属していながら、次々に他の団体の信者に関わり、しかもKFCのように、キリスト教界そのものに敵対しているような相反する理念を持つ団体に関わり、その団体が批判を浴びて都合が悪くなると、そういう一連の事件は全てなかったことのように、彼らと無関係を装って新たに活動を続ける。そういう変わり身の早さも感じられるように思う。

実際、筆者がKFCに関わって最も驚かされたのがまずこの点なのである。candy氏に限らず、Dr.Lukeのメッセージを熱心に聞いている者たち(特に女性)には、キリスト教界に身を置きながら、牧師に隠れてKFCやDr.Lukeとコンタクトを取り、メッセージを聞くという、二足の草鞋を履いている者があまりに多い。自分の所属している教会と指導者がありながら、キリスト教界の非をこれほど激しくあげつらっては告発しているDr.Lukeのメッセージを聞くこと自体が、自らの群れに対する裏切り行為であることが分からないのであろうか。

本来ならば、エクソダスするのか、現在の指導者に従うのか、どちらかを選ばなければ、信用も成り立たないであろう。(むろん、エクソダスしたからと言って、Dr.Lukeに従うという結果にはならない。)どっちつかずの立場では、自分の指導者に対しても申し開きが出来ない。ところが、まるでどちらかが倒れたらいつでも古巣に戻る準備が出来ているとでも言わんばかりに、いつまでも二重の立場をずるずると続け、両方の「いいとこどり」に終始するのである。それでいながら、自分たちには一般信徒の分かっていない、より深い霊的真理が(Dr.Lukeのおかげで)理解できていると考えているのである。

このように、対立する陣営のどちらにも良い顔をすることが不可能であることが、クリスチャンでありながら、なぜ分からないのか、筆者には全く理解できない。そのような曖昧などっちつかずの態度をずっと続けて、どちらの陣営においても、信用を勝ち得ようとすることは、全く信頼できる行動ではないと筆者は考えている。そのような誠実さの欠ける貞潔さのない人々を信用して、どっちつかずの立場の人々ばかりを積極的に集めては交わりの拡大を重んじたことが、KFCの致命的な誤りであり、それがゆえにこの団体のこれまでの絶えざる二重の歩みがあったのだと筆者は考えている。結局、信仰の純粋性よりも人数(地上の権勢)の方が彼らには大切だったのであり、そうであるがゆえに、他の群れの信徒らを盗み取り、奪い取ってでも、その心を私物化して行こうとしたのである。
 
話を戻せば、こうした一連のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者の動向を考え合わせると、杉本氏からの提訴予告も、単なるシナリオ工作の一環でしかなかったことが見えて来る。その背後に控えているのは、どこからどう見ても怪しい活動を続ける工作員信者らを手先のように他団体へ送り込んで、巧みに駆使しながら、敵対する者たちに関する情報を収集し、次々と争いや分裂をしかけ、中傷を広めては追い落とし、キリスト教界の統一と一元化を目論んで来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団である。

もともとアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念自体が、プロテスタントに潜り込んだ異端であることを考えれば、この教団の信者が、他教団や他宗派の信者の動向を監視したり、裏切りに備えて予め個人情報を収集したり、異端の教えを言い広めては信者を堕落させる悪霊の要塞となったりするのは全く不思議なことではない。

彼らの目的は、親切で忠実な信徒を装って活動しながら、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、できるだけ数多くの信者を惑わし、聖書に基づく唯一の真理から逸らすことにあるのだと言っても過言ではないのではなかろうか。

特に、キリスト教界と一線を画して、真理だけを求めているような群れを、何としても彼らの二重性を帯びた支配・統制の下に置くために、密かに行状偵察し、信仰者の群れを一元管理し、村上密氏のような人物にライバルのいない状態を作り出すために、信者を手先として利用しているのではないのかという疑問が生まれる。
 
こうしたことから、果たして、バビロンや、イゼベルとして非難されるべきは誰なのかという疑問が起こらない方が不思議である。
 
candyというペンネームも相当に象徴的であると言える。何しろ、それはDr.Lukeが最も嫌っていたはずのいわゆる「砂糖まぶしの甘えの福音」を象徴するような名だからだ。十字架は、セルフにとって決して甘い恵みではない。花輪で飾り立て甘い砂糖菓子のようにされた人間に都合の良い「十字架」は本物ではないと気づくべきである。

こうしたアッセンブリー信者の惑わしの働きの源は、その親分にこそあると見るべきである。

村上密氏はキリスト教界の不祥事をきっかけに、クリスチャンに対する裁判を推進することにより、アッセンブリー教団の枠組みを超えて、他教会を破壊することに成功して来た。さらに、同氏のブログも、福音伝道を目的とする牧師のブログというよりは、ネット上の政治プロパガンダ工作を思わせるものである。たとえば、同氏のブログは、書き方一つを取っても、コメントを一切受けつけない点で、対話と異論を初めから排除する「言いっぱなし」の形式を取っている。こうしたことだけを取っても、同氏は初めから一方的なプロパガンダを目的としてブログを開いているのであって、対話と議論を一切目的としていないことがよく分かる。
 
さらに、同氏は筆者の書いた「カルト監視機構という名の秘密警察」という記事に対する反論として、わざわざ「『カルト監視機構』という名の秘密警察」の誤報」と銘打って、筆者の記事のタイトル全文を引用する形で記事を書いている。

こうしたやり方も、本記事に対する緻密な反論が目的というよりも、まるで広告のキャッチコピーのようなレッテル貼りによる印象操作と、明らかに検索結果を意図的に操作して、そこで論敵の記事を貶めることを目的に同氏が記事を書いている様子をよく物語っている。これは杉本徳久氏が用いて来た手法と同じである。つまり、内容を通してきちんと反論することで、自説の正当性を主張するのではなく、他者の記事内容やタイトルや文章をまるごと模倣・剽窃したり、類似するタイトルをわざとつけることによって、論敵の主張をまる飲みする形でダミーを作り、それによって標的とする人物の主張を乗っ取り、追い落として行くのである。

さらに、村上密氏は鳴尾教会関係者のみならず、筆者についても、長年に渡り、人物破壊を行なうためのプロパガンダ記事を掲載し続けている。このような、正攻法とはとても言えない、ネット上の不正な権利侵害によって政敵を蹴落とす手法は、2chなどのネット操作の常連の常套手段であっても、牧師にはふさわしくない。裁判もそうであるが、こうした争い事のやり方にばかり精通しており、反則行為と抜け穴探しのような手法にひどく長けているような人間は、まともな人物ではないと言える。

2chは日本をエバ国家と蔑視する統一教会などとも関連が指摘されており、ことさらに日本人を中傷する掲示板と化している理由が色々と推測されているが、村上氏は統一教会の出身であり、掲示板に書かれている情報の中には、同氏に由来するとしか考えられない情報も含まれている。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、牧師からしてこのようであるから、信者にも、この種の極めて怪しい確信犯的な詐欺師が多いのは無理もない。ヤクザの回心をお涙頂戴の物語として得意げに伝道材料にするくらいであるから、今や教団そのものが、社会的弱者とヤクザと障害者と病者と統一教会出身者で溢れている。

その上、キリスト教界の不祥事を告発することを生業としてクリスチャンに裁判を挑む指導者が牧師として常駐しているわけだから、教団そのものが、まるでキリスト教徒に因縁をつけては罠をしかけるためのヤクザ工作団体と化していると言って過言ではない。
 
こんな団体に所属している信者が、ゆめ油断できない人物ばかりなのは何の不思議もない。杉本徳久氏も、キリスト教界により数多くのスキャンダルをでっちあげて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のカルト被害者運動の需要を作り上げたい勢力から、思う存分、利用されているだけに過ぎないと見るのがふさわしい。そして、アッセンブリー教団の背教は米国に由来するものなのである。

いみじくも、筆者が色々と訴訟関係の手続きを調べている時に、ある専門家が尋ねた。「その教団の理念は、外国から来たものなのではないですか」と。
 
Dr.Lukeは以上に挙げた記事の中で、サンダー・シングをウォッチマン・ニーと同じく「東洋的な霊性」と記している。candy氏はウォッチマン・ニーにも深入りしている様子がブログから分かるが、それを見るにつけても、「東洋的霊性」なるものは混合の教えだと筆者は思わずにいられない。

ちなみに、筆者にウォッチマン・ニーを紹介し、その体系を教えたのは、Mr.Sugarである。Dr.Lukeはこの点もずっと意図的に隠し、あたかも筆者が自ら勝手にウォッチマン・ニーに「傾倒した」かのように、まるで現場を見て来たかのように主張して、事件を無駄に煽って来た。だが、Mr.Sugarはその当時、KFCに全く理解を示していなかったので、この時期、筆者もまたDr.Lukeには一切関わっていなかった。

Mr.SugarはDr.Lukeのローカルチャーチ時代からの長年に渡る年長の兄弟であり、当時、他の信者の誰も及ばないほどにウォッチマン・ニーに「傾倒していた」。筆者とMr.Sugarのそうしたやり取りは、筆者自身が伝えたので、Dr.Lukeは知っているが、それを知った上で、あえてSugar氏の名前は出さず、筆者だけに注目が集まるような、誤解を呼ぶ一連の事実に反する記事をDr.Lukeは自身のブログで断りなく発表していったのである。

たとえば、Mr.Sugarのニーに対する熱心さはこんな風であった。筆者がブログにニーの引用文を載せて、そこに誤変換や誤字脱字があると、早速、Mr.Sugarから電話がかかって来る。そして「あそこの何行目のどこそこの文字が間違っていますよ」と指摘がある。筆者の書いた文章よりも、ニーの文章の方がSugar氏にとってははるかに重要であり、まるで聖書以上にニーが重要であるかのように感じられるほどの関心の払いようであった。それほどまでに、当時、Mr.Sugarはウォッチマン・ニーに心酔しており、しばしば、ニーの最期を思って涙を流し、自身のブログにも、ニーの引用に「加筆した」ものをずっと発表していたのである。

Mr.Sugarは筆者にウォッチマン・ニーを読まないか、恐る恐る勧めたと語っていた。そして筆者が『霊の人』に関心があったと言うと、欣喜雀躍として喜んだという。

筆者は、特に霊的な事柄についてのウォッチマン・ニーの内容の深さには関心を持ったが、どうにもこの心酔ぶりにはついて行けないものを感じていた。そこへ杉本事件が起きた。しかも、それはちょうど、「こんなブログがありますが」と、筆者がMr.Sugarに「随想 吉祥寺の森から」のアドレスを伝えてからほどなくしてからのことであった。杉本氏からの非難は筆者のみならず、ウォッチマン・ニーも対象としていたので、Mr.Sugarはおそらくこんな時だからこそ、ウォッチマン・ニーの信憑性を擁護するために立ち上がるだろうと筆者は思ったが、あにはからんや、同氏はそそくさと理由をつけてネットから撤退してしまった。

その姿を見たとき、あれほどまでに涙を流しては「ニーの同労者になりたい」と告白していた台詞は何だったのだろうかと驚き呆れた。しかも、ちょうど「デッドライン君」の事件が起きた時分であったので、デッドライン君の家族を救うという使命のために、Mr.Sugarはこの事件をひどく胡散臭く思っていた筆者との交わりを絶ってしまった。

Mr.Sugarにはその後も再会し、KFCの偽りを理解する上では数多くのヒントをもらったことは確かであり、おそらく筆者が今まで知り合った目に見える信者の中では、最も鋭い霊的な指摘を受けた一人であろうと言える(その根源は、結局、ウォッチマン・ニーの著書から得られた知識にあると考えられる)。だが、candy氏と同じで、何故、この人も”sugar”なのであろうか、と疑問に思う。そして、この人のブログの題名が「山暮らしのキリスト」であることも、実に意味深に感じられる。
 
筆者はニーの書いたものの中で、ペン-ルイス、オースチン-スパークス、アンドリュー・マーレーのような霊的先人と重なる部分は認めており、それから『霊の人』にも一定の評価を下して来た。魂と霊の切り分け、霊の機能についても、これ以上に意義深い説明を他にはまだ知らない。しかし、『権威と服従』のように、明らかに年功序列を絶対化するような、聖書とは異なる教えがニーの著書とされて混合していることも確かであり、このような教えを土台としたがゆえに、いくつかの集会では、子供への搾取等が発生しているのであると考えられる。ローカルチャーチから出た出版物は特に吟味なく受け入れるべきではないことが指摘されて久しい。

それにとどまらず、ニーの生涯、彼の著作物、ニーの最期についても、すべて再考が必要であるように筆者は思う。それはこれもまた「東洋思想との混合」である可能性があるためだ。

ペンテコステ運動の基盤が東洋思想・グノーシス主義にあることはすでに明確にしたが、聖書に登場する大淫婦バビロンの教えとは、筆者の観点では、まさに東洋思想とキリスト教の混合物なのである。

キリスト教をベースにして、そこに「東洋的霊性」が混合してできる化合物が、悪魔の悲願としてのバビロンの教えの完成であり、そのためにこそ、「キリスト教に父性原理が強すぎるので、母性原理を補うべきである」という主張が繰り返し、キリスト教批判として現れて来るのである。

ただし、ウォッチマン・ニーの著書については、その教えの多くの部分は、先人たちの主張を取り入れたものであり、どこからがニーの独自の言説で、後世の人々による改ざんなのか、めて識別が難しい。今、著書も手元にないので、分析を行えるとしても、まだ先のことになるだろう。

ただし、筆者の周りでウォッチマン・ニーにかなり傾倒した人々に一様に観察された特徴は、先人の良さそうな言葉の引用で身を飾り立てることはしても、その言葉が試された時、代価を払ってその真実性を証明するということがなかった点である。はっきり言ってしばえば、その言葉は借り物の域を超えないのである。
 
以前、candy氏は筆者の前でKFCをかなり批判的に評しており、Dr.Lukeにブログを閲覧されると客観的に内容が書けなくなる、とか、Dr.Lukeはもっと早くにKFCから引退すべきであった、そうであればこうまで異常にはならなかっただろう、などと述べたことがあった。筆者より前からこの団体を知っていた者としての率直な感想であり、こうした意見には全く異存はない。(つまり、筆者がKFCに関わり出した頃は、すでにKFCの異常期に入っていたのである。)さらに、ウォッチマン・ニーであれ、サンダー・シングであれ、すべての聖書以外の信仰の教えは必要ないためみな捨てるべきであると、彼女は筆者の前で自ら述べたこともあった。

彼女が筆者に向かって語った最も良い言葉は、「その父母を離れ」(創世記2:24)である。つまり、聖書の原則は、子がいつまでも親にとらわれ、家を基準として、父母のような指導者を崇め、絶対化することにはないという確信を述べたのである。精神的にも霊的にも完全に自立してあらゆる外からの助けなしに、キリストのみを頼りとして、一人の人間として、大人として、自立して立つことこそ、キリストが信者の一人一人に望んでおられる成長なのだということである。

なぜそれらのことを語った本人がそれを実行しておらず、未だにずっと聖書以外の教えの引用ばかりを繰り返しているのか。

どんなに良いことを語っても、言った本人がこれを実行しないのでは意味がない。だから、誰が述べたにせよ(たとえそれが工作員信者の発言であれ)、良いことはやはり実行に移すべきなのだと筆者は考えている。 そのようにして「知」と「行」とが一致する世界に向かって行くことが、キリスト者には可能であるはずだ。

我々は「知性による分割以前」とか「神が光あれ」と言われなかった前に向かっているのではなく、創世記で「光あれ」と神が言われた言葉がそのまま真実となったように、あるいは御言葉なる方がキリストであり、御言葉とキリストのパースンが一つであるように、言行の不一致がなく、我々の確信するところが、大胆に我々の存在と行動と一つとなって、リアリティとして世に放たれるような生き様を目指している。

だが、それを実行するただ一つの方法は、十字架を通ることにしかない。聖書から逸脱したやり方で、その素晴らしいリアリティが我々と一つになることは絶対にない。
 
Mr.Sugarがかつてとても良いことを書いていた。エクレシアの戸口に達するまでにキリスト者は死んでいなければならないと。要するに、セルフを抱えたまま、復活の領域にたどり着ける者は誰もいないのである。

私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。

「光が、やみの中から輝きでよ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」(Ⅱコリント4:5-11)
 

カルト被害者救済活動の反聖書性―グノーシス主義の基本構造④

9.十字架の「切り分け」を否定する者は、己を神として神への反逆に至る
  

さて、前稿「カルト被害者救済活動の反聖書性について キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動③」では、プロテスタントにおける御言葉中心主義を「思い上がりに基づく傲慢な排他主義」として非難することで、聖書の御言葉の否定に至る人々がいることを見て来た。

そして、こうした人々は、プロテスタントにつまづいているのでも、信者につまづいているのでもなく、実際には、聖書の御言葉の持つ「切り分け」や「二分性」につまづいているのであり、とどのつまり、「狭き門」であるキリストの福音そのものにつまづいていることを見て来た。

そうである以上、聖書の御言葉の持つ「二分性」や「排他性」を否定する人々が、やがてキリスト教そのものを拒んで神に敵対するに至るのも不思議ではない。

だが、上記のようにあからさまな御言葉の否定に至らずとも、ペンテコステ運動のように、人間の感覚的陶酔をしきりに強調することによって、「人の五感にとって心地よい福音」を作り出し、御言葉に基づく厳粛な分離や切り分けを曖昧にし、信者が御言葉を守り、御言葉のうちにとどまる必要性をおざなりにする主張も存在している。

キリスト教そのものを破壊することが目的であるかのように、諸教会を訴え、信者を裁判に引きずり出しては、盛んにキリスト教にダメージを与えて来たカルト被害者救済活動が、まさにペンテコステ運動の只中から生まれて来たことは実に興味深い事実である。

カルト被害者救済活動は、ペンテコステ運動を率いる最大の宗教団体であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役の牧師である村上密氏と、かつてアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に所属し、同教団の信仰生活につまづいて他宗派に去りながらも、依然として、同教団の村上牧師を支持する杉本徳久氏が中心的に率いて来たことで知られる。
 
杉本徳久氏が「神々の風景」という題名のブログを執筆していることなど、様々な点から判断して、同氏が到底、キリスト教の正常な信仰を持っているとは言い難いことを当ブログではすでに幾度も指摘して来た。(おそらくは、「神々」という言葉も、彼ら自身(生まれながらの人間)を指しているのだろうと筆者は推測している。)

だが、同時に、キリスト教界の偽りを告発し、被害者運動とは明確に一線を隠しながらも、杉本氏らとの争いを通じて、信者を裁判に引き込む役割を果たしたKFCのDr.Lukeも、実際には、彼らの活動を補完する役割を果たしたことも、当ブログでは幾度も指摘して来た。(記事「キリスト教界と反キリスト教界は同一である~KFCはどのようにキリスト教界と同一化したか~」参照。)

KFCのDr.Lukeのミニストリーもまた、ペンテコステ運動の深い影響を受けたものであることは、一見してすぐに分かる。Dr.Lukeへのペンテコステ運動の影響は、同氏がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒であったBr.Takaこと鵜川貴範氏をメッセンジャーに据えるよりも前から始まっていた。

そこで、上記の人々は、それぞれに立場は異なっているが、みなキリスト教界に何らかの形でつまづいた過去を持ち、それゆえ、キリスト教界に対して尽きせぬ憎悪と敵意を心に持ちながら、キリスト教界を告発することを生業とし、なおかつ、今日に至るまでペンテコステ運動と深い関わりを持っている点で共通している。
 
同時に、自らは聖書の二分性を否定するか、曖昧にし、御言葉を守っていないにも関わらず、キリスト教界の誤りを糾弾し続けている点においても一致している。

彼らの言動は、すべてにおいて「どっちつかず」の「いいとこどり」である。すなわち、一方では、自ら信者を名乗ることによって、クリスチャンの善良なイメージを大いに利用して、世間の信頼を勝ち得て、人前に栄光を受けようとする。ところが、他方では、キリスト教界に起きる様々な不祥事をあげつらっては、キリスト教界を断罪し、信者の無知をひどく嘲りながら、キリスト教の「不備」や「欠点」を暴き出しては強調し、このの宗教のイメージを貶める。

彼らは、自分には一般の信者以上に物事が分かっていると考え、信者を見下しては、断罪するか、あるいは上から手を差し伸べることにより、常にキリスト教界に対して優位に立とうとするが、結局のところ、彼ら自身が、全く御言葉を守っておらず、その中にとどまっていないのである。

KFCの「セレブレーション」の内容の偽りに関しては、東洋思想に関する論稿が終わり次第、分析を進める予定であったため、今まで筆者は内容を詳細に振り返ることがなかったが、しかしながら、改めて内容を分析するまでもなく、以下のような標題を見るだけで、ここまで病状が進行していたのかと驚くばかりである。善良なクリスチャンには、この集会がどれほどひどく聖書から逸脱しており、どんなに恐ろしい結末へ向かっているかが見て取れよう。

以下は杉本徳久氏の「神々」と同じく、極めて恐ろしい告白である。これこそ御言葉の二分性を否定し、キリスト教の「病理」を主張する者たちの行き着く先であり、こうしてアダムを神格化して自ら神と名乗ることこそ、ペンテコステ運動の霊的な本質なのだと言えよう。

悪魔の願望は、神を押しのけて、己を神とすることにある。以前、筆者は記事「カインの城壁 旧創造を弁護するために現実を否定して滅びを選ぶというグノーシス主義者の末路」において三島由紀夫の末路と重ねて、KFCの行く末について述べたことがある。下記のような告白をDr.Lukeと共に行った者たちには、厳しい末路が待ち受けていることであろうと思う。筆者はとうにこの集会を去っていることを改めて神の憐れみに満ちた采配として喜びたい。
  
「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの芽が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:4-6)
 

  

ここまで「病理」が進行すると、
もはや解説も不要であろう。
ローカルチャーチの教えとペンテコステ運動と
心理学とサンダー・シング等々、すべての教えの
「いいとこどり」をした結果の結論である。
むろん、聖書についても「いいとこどり」をしたのである。
 このメッセージの冒頭で、ルーク氏はキリスト教界の
罪による癒着という「病理」を批判しているが、
最後には自ら同じ罠に落ちていることに気づいていない。
すなわち、「神が人となって下さった」点だけを強調する
ことにより、キリストを罪人のレベルにまで引き下げ、
人(アダム)が十字架の死を通らなければ、
神に受け入れられない事実を巧妙に覆い隠している。
アダムの神格化という、ペンテコステ運動と
ローカルチャーチの誤りを引き継いで、ついに
自ら神と宣言するにまで至ったのは恐ろしいことである。

 
  



10.キリスト教の「二分性」を否定する者は、「唯一の神」を否定して、主客の区別を否定する。そして、知性による全ての区別を廃した「善悪未分化の母なる混沌」への「嬰児的回帰」を主張する。


さて、これからいよいよ上記の恐ろしい各種の運動のように、御言葉の「二分性」を否定し、十字架の切り分けを曖昧にする思想が、「神は唯一である」という聖書の真理に逆らって、自ら神になりかわろうとする試みであり、その根本に横たわるものは、聖書の神に反逆する東洋思想(グノーシス主義)であることを見ていきたい。
 
さて、聖書は初めから最後まで分離と切り分けに満ちている。天と地、光と闇、神と悪魔、造物主と被造物、堕落したこの世と来るべき世、霊と肉、男と女、父と子・・・。

聖書の御言葉の持つ二分性は本来的にすべて「神は唯一である」という事実に由来する。すなわち、神は絶対者であって、創造主であり、すべてを切り分ける主体である。他方、唯一の神以外の全てのものは、すべて神によって「造られた者」であり、神に「知られる者」という客体である。
 
このように、「神は唯一である」という事実が聖書のあらゆる「二分性」の根源となっている。どこまでも絶対者である主なる神と、それによって造られ、統治される客体である被造物との主客の区別が、キリスト教の「二分性」の根源なのである。

御言葉は、ただ創造主である神と、神によって造られた被造物との区別を生じさせるだけでなく、被造物の堕落後、キリストの十字架を通して、神に属する新創造と、滅びに定められた旧創造を峻厳に区別する。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえ刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル5:12)

神は唯一です。また、神と人との間の仲保者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)

わたしが神である。ほかにはいない。

 わたしのような神はいない。」(イザヤ46:9)

「私は、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、である。
  あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
」(出エジプト20:2-3)

ところが、すべての異端思想は、「神は唯一であり、神と人との仲保者も唯一である」という聖書の事実に激しく逆らう。それは、異端思想は、神の地位を奪おうとした悪魔の欲望を正当化し、悪魔とそれに従う暗闇の勢力が神に対して罪を犯したために神と断絶し、神に永久に見捨てられて滅びに定められているという事実を覆い隠して、主と客を転倒させて、神を罪に定め、悪魔と悪霊たちが自分たちを無罪放免して名誉回復するために作りだした秩序転倒の教えだからである。

そこで、堕落した暗闇の勢力は、神に反逆した自分たちが未来永劫、破滅を運命づけられているという事実を否定し、これを人の目からも覆い隠すために、聖書をさかさまにして、「唯一の神」という聖書の真理を、「傲慢で愚かな悪神の思い上がり」として否定する。そして、神と人との唯一の仲保者であるキリストの十字架をも退けて、聖書の御言葉への信仰を否定して、キリスト教そのものを傲慢な排他主義だと主張して退ける。

今日でも、異端の教えは、キリスト教の持つ「二分性」を「傲慢さ」や「狭量さ」として非難して、御言葉による十字架の切り分けが、愚かで荒唐無稽なカルト的思考であるかのように信者に思わせることで、御言葉を退けて、救われていないこの世を擁護し、神に反逆して堕落した罪あるものを無罪放免し、神を押しのけて悪魔を名誉回復しようとするのである。カルト被害者救済活動は、あたかもキリスト教を装って始まったが、実際には、上記のように、キリスト教そのものに根本的に敵対する運動であることはすでに述べた通りである。
 
当ブログではこれまで、すべての異端思想の根源は、グノーシス主義思想にあることを述べて来たが、グノーシス主義の教えが、自らを唯一の神とする創造主を「悪神」として非難していることを思い出したい。グノーシス主義思想は、この目に見える物質世界を作った神は「狂った悪神」であるとし、この世を不幸に陥れている元凶であり、思い上がりゆえに「妬む神」となって「自分こそが唯一の神である」と宣言したのだとして非難する。たとえば、次のような記述は、グノーシス主義思想の基本を解説したものである。
 
 

グノーシス主義はこの世が悪の支配にゆだねられている理由を、この世を作った神が実は「偽の神」であって、それゆえに「悪の宇宙」、狂った世界が生まれた、と説明する。それはどういう意味かというと、もともと至高神(「真の神」)の作った世界はプレーローマ(充溢)した世界であったが、この至高神のアイオーン(神性)の一つであるソフィア(知恵)が、デミウルゴスDemiuruge(プラトンの「ティマイオス」に登場する造物主)あるいは、ヤルダバオートYaldabaothという狂った神を作った。ヤルダバオートは自分の出生を忘れ、自分こそ唯一の神だと錯覚している。このヤルダバオートの作った世界こそ悲惨に満ちた人間の生存している悪の宇宙である。従って、グノーシス主義はこの狂った宇宙に叛旗を翻す。(反宇宙主義)

グノーシス主義~悪の臨在
より引用



東洋思想には、「唯一の神」を否定するための物語があるわけではないが、事実上、グノーシス主義と同じように、唯一の神という概念が否定されている。

以前にも、当ブログで引用したことのある鈴木大拙氏は、著書『東洋的な見方』(岩波文庫)の中で次のように述べている、すなわち、西洋思想における「二分性」の原則は、知性を発展させて文明の発達に寄与はしたはいいが、それは同時に、力の論理を生み、果てしない分裂と闘争、疎外に結びついたと。そして、鈴木氏はこの悪しき「二分性」の源が、キリスト教にあるとみなすのである。
 
「ラテン語でdivide et imperaというのがある。英語に訳すると、divide and ruleの義だという。すなわち「分けて制する」とでも邦訳すべきか。なんでも政治家軍事上の言葉らしい。相手になるものの勢力を分割して、その間に闘争を起こさしめ、それで弱まるところを打って、屈服させるのである。ところが、この語には不思議に西洋思想や文化の特性を剴切に表現している。

 分割は知性の性格である。まず主と客とをわけるわれと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。

 それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。」(p.10-11)
 
鈴木大拙氏は、西洋思想における知性による分割の「二分性」の根源はキリスト教にあり、そして、この二分性こそ、「キリスト教の著しい欠点」であると主張する。

「西洋文化といえば、ギリシャ、ローマ、ユダヤ的文化の伝統ということになる。その不完全さは、宗教の上に最も強くあらわれる。自分はキリスト教をみだりに非難するのでなく、また悪口するのでもない。これはいうまでもないところだが、キ教には、二分性から来る短所が著しく見え、それが今後の人間生活の上に何らかの意味で欠点を生じ、世界文化の形成に、面白からぬ影響を及ぼすものと信じる。キ教はこれを自覚して、包容性を涵養しなくてはならぬ。

 二分性から生ずる排他性・主我性などは、はなはだ好ましからざる性格である。二分性を調節して、しかもそれを包含することになれば話はわかるが、これがないと、喧嘩が絶えない。<中略>

 西洋では造物主と所造者とを峻別する。造物主をゴッドという。天地万物はこの能造者から出て来る。造られて出る。そうして能造者自身は造られないものである。絶対者である。それがまた所造者として統率している。それから出る命令は至上命令で、これを乗り越えるわけにいかぬ。二分性は人間に与えられたところのもので、これから脱離不可能だ。能造と所造とを分けてかかると、それから次々とあらゆる対蹠が出てくる。自分と汝、善と悪、罪人と聖者、黒と白、はじめと終わり、生と死、地獄と極楽、運と不運、味方と敵、愛と憎しみ、その他、あらゆる方面に対立が可能になる。こんなあんばいにして、まず二つに分かれてくると、それから無限の分裂が可能になってくる。その結果は無限の関係網がひろがって、人間の考えが、いやが上に紛糾する。手のつけられぬようになる。ある意味で、われらは今日のところ、この紛糾せる乱麻の間中に出没している。それで、手や足やが、彼方にひっかかり、此方にひっかかりって、もがけば、またそれだけ、幾重にもまつわってくるという次第である。一遍ひっかかると、手がつけられぬといってよい。枝葉がはびこると、自然に根本を忘れる。二分性の論理はそういうことになるのが、常である。」(p.169-171)
 
鈴木氏によるキリスト教の持つ「二分性」への非難は、今改めて読んでみると、まさにこれまで当ブログ記事で示してきたような、「キリスト教の排他性」を非難して、キリスト教から「脱福」した元信者や、カルト被害者救済活動の支持者らによる信者に対する非難の言葉にぴったり重なるように思われる。特に、元信者によるキリスト教に対する非難の言葉を思い出したい。

「キリスト教そのものに本質的な精神病理があると愚考しているのです。」

「聖書絶対主義と申しますか、よく言えば「福音的」な信仰と申しますか、そういう発想のただ中にそもそも自己愛的な「排除の病理」を看取するのですよ。」
 
鈴木氏もこうした人々と同様に、キリスト教の「二分性」をあるまじき「排他性」「主我性(言い換えれば、自己愛!)」として非難し、この「二分性」こそ、キリスト教を「不完全」にしている最大の欠点であるとみなし、キリスト教はこの「二分性」を克服して、もっと「包容性」を補わなければならないと言うのである。

鈴木氏のキリスト教に対する非難の言葉を見ると、今日、福音を拒んでキリスト教に敵対している人々の主張が、何ら新しいものではなく、彼らの使う「自己愛」や「ナルシシズム」や「病理」といった言葉でさえ、古くからあるキリスト教批判の焼き増しに過ぎない事実が見えて来る。
 
こうした人々のキリスト教に対する非難の根源となっているのは、「主客の区別」、すなわち「創造主」と「被造物」との区別、「知る者」と「知られる者」との区別などの「二分性」である。そして、彼らはこの主客の二分性を撤廃することによって、キリスト教はその残酷な排他性という著しい欠点(もしくは「病理」)を克服せねばならない、と主張するのである。

だが、彼らの言うように、主客の区別を撤廃することは、被造物に過ぎない者が、自らを造った神に対して、神であることをやめよと言うのと同じであるから、とてつもない傲慢であり、まさに神に対する反逆なのだが、彼らはそのことは全く理解しない。

鈴木氏は、聖書の「唯一の神」から生まれる主客の区別を「キリスト教の不完全性」として退ける一方で、東洋思想の長所と称して、神と人との断絶が生じる前の「主客未分化」の状態へ回帰するべしと提唱する。すなわち、無限の分離を生み出すだけの知性に基づく父性原理にではなく、善悪の区別なく全てを包容する母なる混沌へと回帰せよというのである。

「主客未分化(善悪未分化)の母なる混沌」――これこそ、あらゆる種類のグノーシス主義が一様に原初のユートピアとして回帰を唱えるものの正体である。

さて、鈴木氏の提唱する「主客未分化」の状態とは、神が「光あれ」と言われる前の状態、すなわち、光と闇とが分離されない状態、つまり、善も悪もなく、神と、神に反逆して堕落した永遠の犯罪者である悪魔と暗闇の勢力との区別すらもない混沌とした状態である。

同時に、鈴木氏の言う、神が「光あれ」と言われる前の未分化の状態とは、分割する知性によってあらゆるものが識別される前の状態、すなわち、人が自分自身と、自分を取り巻く世界を明確に区別し、理性によって周囲の物事を分析しわきまえる必要が生じるより前の状態を指している。これは人間の知性による一切の分析や識別自体が存在しない状態である。
 
あたかも暗い母胎のような場所で、人が嬰児のごとく、受動的に世界に包まれて養われており、自分が誰であるのか、これから何が起きようとしているのか、自分を包んでいる世界とは何なのか、どこまでが自分で、どこからが自分でないのか、それさえ分からずに、ただ世界と一体化して無防備に混沌に身を委ねて漂う、一切の自我意識が生じる前の、無意識のような、忘我の境地のような状態を指している。

さらに、重要なのは、この混沌が「母なるもの」と女性形で呼ばれていることである。鈴木氏の言う知性による区別が存在しない「主客未分化(善悪未分化)の混沌」、これこそ、あらゆる東洋的な「母なるもの」の正体であり、グノーシス主義思想が唱えるユートピアとしての「原初回帰」なのであるが、これを説明するために、長いが、鈴木氏の言葉をそのまま引用したい。

「東洋民族の間では、分割的知性、したがって、それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。われわれ東洋人の真理は、知性発生以前、論理万能主義以前の所に向かって、その根を下ろし、その幹を培うところになった。近ごろの学者たちは、これを嘲笑せんとする傾向を示すが、それは知性の外面的光彩のまばゆきまでなるに眩惑せられた結果である。畢竟ずるに眼光紙背に徹せぬからだ。

 主客未分以前というのは、神がまだ「光あれ」といわれなかったときのことである。あるいは、そういわんとする刹那である。この刹那の機を捕えるところに、東洋真理の「玄之又玄」(『老子』第一章)なるものがある。この玄に触れないかぎり、知性はいつも浮き足になっている。現代人の不安は実にここから出て来る。これは個人の上だけに表れているのではない。国際政治の上にもっとも顕著な事象となって、日々の新聞に報ぜられる。

 「光あれ」という心が、神の胸に動き出さんとする、その刹那に触れんとするのが、東洋民族の心理であるのに対して、欧米的心理は、「光」が現れてからの事象に没頭するのである。主客あるいは明暗未分化以前の光景を、東洋思想の思想家である老子の言葉を借りると、「恍惚」である。荘子はこれを「混沌」といっている。また「無状の状。無象の象」(『老子』第十四章)ともいう。何だか形相があるようで何もない。名をつけると、それに相応した何かがあるように考える。それで、まだ何とも名をつけず、何らの性格づけをしないとき、かりに、これをいまだ動き始めぬ神の存在態とする。老子は、またこれを「天下谿(てんかのけい)」とも「天下谷(てんかのたに)」ともいう(第二十八章)。谷も谿も同じだ。またこれを「玄牝(げんぴん)」ともいう。母の義、または、雌の義である。ゲーテの「永遠の女性」である。これを守って離れず惑わざるところに、「嬰児(えいじ)」に復帰し、「無極(むきょく)」に復帰し、「樸(はく)」に復帰するのである。ここに未だ発言せざる神がいる。神が何かをいうときが、樸の散ずるところ、無象の象に名のつけられるところで、これから万物が生まれ出る母性が成立する。分割が行ぜられる。万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」(p.13-14)
 
以上の鈴木氏の言葉を読めば、同氏がキリスト教の持つ「二分性」(あるいは「分割する知性」そのもの)を、「律法と義によって統御する」狭量な「父性原理」として退け、むしろ、善悪の切り分け自体が存在しない、何もかもを無条件に許し包容する(知性発生以前の)「母性原理」の境地に嬰児的に回帰することが、東洋思想の醍醐味であり、長所であると述べていることが分かるのである。

だが、実は、このような「母なるものへの回帰」は、大変、恐ろしい思想なのである。

 



11.聖書の原則である「分離」や「切り分け」を否定して、主客未分化の「母なる混沌」への「嬰児的回帰」を提唱する思想は、個人を全体にからめ取り、離脱を許さない恐ろしい支配を生む。

「主客未分化」、「善悪の区別のない母のような包容性」とは、一体、何を意味するのか。
「受容」や「包容」と言った甘い言葉の響きに欺かれることなく、「人が永遠に胎児のままで母胎から抜け出られない世界」とはどういうものか、想像してもらいたい。

「分割する知性が発生する以前の善悪未分化の状態」とは、人が自分で物事を考えることも、識別することもできず、むろん、行動や選択の自由もなく、自己決定権というものが一切、存在せず、ただ与えられるものを無条件に受け入れて、自分を何者かに完全に委ねて明け渡し、自分よりもはるかに強い何者かに包み込まれ、支配されてしか、生きられない状態を意味する。

それは、「母なるもの」の支配から決して人が分離することのできない、永遠に離脱の自由のない、がんじがらめの世界である。

これが決して行き過ぎた表現でないことは、東洋思想に基づいて作られた戦前の日本の国家主義が、個人が共同体(家族、社会、企業、国家)から離脱する自由を一切認めない恐ろしい思想であったことによく表れている。

それは、「神と人との断絶はない」(神と人とが和合している)という思想ゆえに、生まれて来た発想であった。

すなわち、神と人との断絶を認めず、人が神によって造られた被造物であり、なおかつ、堕落しているがゆえに神と切り離されているという聖書の事実を認めないと、主客の区別が消滅し、その結果、全体と切り離された個人という概念も否定されるのである。そうなると、個人として認められない人間は、自分を取り巻く環境から離脱する自己決定権を永久に奪われることになるのである。(記事「東洋思想とは何か。~その柱は何を再建しようとしているのか~」参照。)

こうして、東洋思想が「分離」や「切り分け」を悪いものであるかのように否定して、個人としての人間の自己決定権をも退けて、切り分けの存在しない状態である「善悪未分化」「主客未分化」の「母なる混沌」への「嬰児的回帰」を目指すのに対し、聖書の原則は常に、人が自らの知性を完全に働かせて、大人として能動的に識別し選択する「分離」や「切り分け」を奨励する。
 
聖書には「分離」や「切り分け」を否定的にとらえる発想はない。神に属さないものとは「分離せよ」というのが、聖書の教えの基本である。

不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
 キリストとべリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。
「わたしは彼らの間に住み、また歩む。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らは私の民となる。
 それゆえ、彼らの中から出て行き、
 彼らと分離せよ、と主は言われる。
 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:14-18)


キリスト者は、この世からの分離によって、キリストの霊的統治の中に召し出された者たちである。キリストと共なる十字架の死を通して、自らの古き自己に死んで、肉なる家族からも分離を遂げて、神の霊的な家族へと加えられた。このように、キリスト者の信仰の歩みは絶えざる「エクソダス」であり、「分離」であって、その目的は「出て来た故郷」に戻ることには決してない。

聖書の分離の原則は、母胎のような未分化の混沌への回帰とは正反対であり、「父母からの分離」も、聖書の原則の一つである。「それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。」(マタイ19:5)

ここでイエスの語られた御言葉は、男女の結婚を指しているのみならず、キリスト者の信仰の歩みにもあてはまる。つまり、人はキリストへの信仰を持つことにより、生まれながらの自分の出自に死んで、生まれ落ちた家庭を離れ、神の霊的な家族の一員として加えられ、キリストの花嫁なるエクレシア(教会)として召されるのである。信者が教会として召されることは、この世からの分離なくしては決して成り立たない。

ヘブル書11章には、信仰の先人たちの地上での歩みがことごとく神に属さないものからの絶えざる「分離」であったことが記されている。

「信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟りしたがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。」
「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。」
「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造りその箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」
「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました
 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続する遺作やヤコブとともに天幕生活をしました
 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」
「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み
はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
 信仰によって、彼は王の怒りを逸れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。
信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎを行ないました
 信仰によって、彼らはかわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。」


「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)

このように、「分離」や「切り分け」は、キリスト教から決して外すことのできない大原則であり、信者はこの御言葉の切り分けの機能に基づいて、何が神の御心であり、何がそうでないのかを自ら識別する。そして、神に従う道を選び取るために、堕落したこの世の故郷と自ら訣別して、まだ見ぬ天の故郷へ向けて旅立って来たのである。

しかしながら、今日、キリスト教にも、御言葉の「分離」や「切り分け」を巧妙に否定する異端思想の危険が迫っている。東洋思想における「何もかも包含する母の愛」なるものが、あたかもキリスト教のような仮面をつけてこの宗教に入り込み、「神は愛だから罪人を裁いたりなさらない」などと言って、人の罪を否定して、神と人との断絶を否定したり、神の裁きを否定したりしている。(記事「命の道と死の道――狭き門と広き門――偽りの教えの構造(1)」参照。) あるいは、ペンテコステ運動のように、御言葉の切り分けを曖昧にして、信者が自ら霊的な識別力を放棄して、恍惚状態に受動的に身を委ねることを奨励するような教えが流行している。

東洋思想は、「主客未分化」や「すべてを包含する母なるもの」などの言葉で、神と人との断絶を否定し、光と闇とが分離される前の(悪魔が罪を犯して神に反逆する前の)状態への回帰を主張する。こうして、キリストの十字架を介さずに、「主」である神を退けて、生まれながらの人間が神に至る道を見つけようとする。

このような思想はあらゆる点から見て反逆的なのであるが、何よりもまず、被造物である人間が「神に造られたもの」であって、神に「知られる者」という客体であるという事実を否定する点で、反逆的である。そして、被造物は、自らを造った神に従うのが当然であるという秩序をも否定する。そして、「目に見えるもの」と「見えないもの」の秩序を逆転し、主と客との立場を逆転して、自分が「主」となり、神になり、創造主の神秘を極めようとする。

こうして、東洋思想は、グノーシス主義と同様に、聖書のまことの神を退けて自ら神になろうという悪しき願望を述べるのだが、その反逆的な動機の悪質さを隠すために、「キリスト教は残酷で排他的で不完全な宗教だ!」とか「包容性が足りない!」とか「キリスト教の二分性は争いを助長する!」とか「キリスト教の信者の主我性は自己愛だ!」などと、ありとあらゆる方法で聖書の二分性を非難して、何とかして善悪の区別を廃し、神が唯一であるという聖書の事実を否定して、神に呪われて退けられた堕落した勢力をもう一度、復権し、神にまで至らせようと試みるのである。

その主客転倒(主客未分化ではなく主客転倒!)の試みが、東洋思想においては「善悪未分化の状態である母なる混沌への回帰」となって現れ、グノーシス主義思想においては「唯一の神」を宣言する創造主を「傲慢な悪神」として貶めて断罪するという考えになって現れるのである。

こうした思想を信じる人々は、自ら聖書の御言葉を曲げて神に反逆し、神になりかわろうとしているのであるが、その反逆の意図を隠すためにこそ、「キリスト教の危機」をしきりに訴えては信者の心を揺さぶり、キリスト教を「不完全で短所だらけの排他的で病理的な宗教」として印象づけようと努力し、キリスト教の教義や、聖書の御言葉に立脚した信仰生活が、あたかもカルト的・反人間的な思考に基づくものであるかのように描き出すことで、聖書の御言葉の信用を毀損し、聖書の御言葉の真実性を信者に疑わせて、「思い上がって狭量な信仰」に対する自己反省を迫り、十字架における「切り分け」を否定することで、本来、救われるはずのない人々、罪に定められている堕落した世界を「救済」しようと試みるのである。

結局、こうした人々は、キリストの福音を否定して、罪の悔い改めもなく、キリストの十字架の贖いを信じることもなく、アダムに対する十字架の死の宣告を受け入れることもなくして、誰もがありのままで救われ、神に至ることができるようなヒューマニスティックな「広い道」をよこせと叫んでいるのである。しかも、聖書の御言葉を否定して、自ら神になりかわろうとする忌まわしい欲望を、「キリスト教によって被害を受けた被害者を救済する」などと述べて、人類愛や弱者救済などの美辞麗句で覆い隠そうとしているのである。

これらの思想は、形は違えどその主張の根幹は同じであり、要するに、その根底には、聖書の神に対する反逆の思想がある。このような思想こそ、神に対する「高慢」と「自己愛」と歪んだ「ナルシシズム」の「病理」として非難されてしかるべきであろう。

だが、鈴木大拙のように、キリスト教とは関わりのない他宗教の信者がそのような批判を繰り広げるならば、まだしも理解できるが、キリスト教の内側から、キリスト教に偽装して、そのように福音を曲げる主張が生まれて来ることには驚きを禁じ得ない。

こうした人々を生む土壌となっているのが、カルト被害者救済活動であり、さらに、このカルト被害者救済活動を生み出す母体となっているものが、ペンテコステ運動である。

そして、ペンテコステ運動も、御言葉の切り分けを否定して、生まれながらの人を神に至らせようとする聖書に対する反逆思想の土壌となっていることに注意しなければならない。(たとえば、「偽キリスト」現代における背教:「人が神になる」という偽りの教え---ペンテコステ・カリスマ運動の場合―」参照。)
  
このような主張をする人々は、たとえクリスチャンを装っていたとしても、その思想形態から判断するに、とてもではないが信者とは呼べない。むしろ、こうした人々は、十字架の切り分けの存在しない東洋思想(グノーシス主義)をキリスト教の中に持ち込んで、キリスト教を内側から乗っ取り、この宗教からあらゆる区別を撤廃することで、キリスト教を全く異質なものへ変質させようという大変、危険な試みを推進しているのだと言えよう。

だが、こうした異端思想がどれほど流行しようとも、「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしい」(ルカ16:17)とイエスが言われた通り、聖書の御言葉の真実性が少しでも揺らいだり、キリストの十字架の「分離」や「切り分け」が消滅することは決してない。

たとえキリスト教界の中に、悪党のような嘘つきが入り込み、どれだけ声高に偽りの福音を叫んだとしても、聖書の御言葉は永遠に堅固として不変であり、人間の勝手な必要に応じて変えることはできず、まして堕落した時代の要請に基づいて変えることはできない。

従って、どんな理屈を用いていたとしても、十字架の分離を否定し、神に呪われた旧創造を無罪放免しようとする人々は、聖書の事実に逆らうことによって、神に敵対しているのであり、その試みは、歴史を振り返っても分かる通り、最期は悲惨な自滅に終わるであろう。

聖書はこのような人々の考え方に対して言う、

ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている
 陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。
 造られた者が、それを造った者に、
「彼は私を造らなかった。」と言い、
 陶器が陶器師に、
「彼はわからずやだ。」と言えようか。」イザヤ29:16)
 
  「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、
多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。
彼らの 思いは地上のことだけです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のかたらだと同じに変えてくださるのです。」(ピリピ3:18-21)

 さて、次回は、「母なる混沌」のもたらす支配の恐ろしい本質により迫って行きたい。

<続く>


カルト被害者救済活動の反聖書性―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動③ー

7.キリストの十字架によらず、肉による善行を通して、人が自力で救済に至ろうとする偽りのヒューマニズムは、「神に見捨てられた罪人を、神の十字架の判決から救う」ための「神に対する被害者運動」である


さて、記事「カルト被害者救済活動の反聖書性について―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動➀」の中では、キリスト教の不祥事につまづいたことをきっかけに、キリスト教の「二分性」や「排他性」につまずき、これを「思い上がって狭量な救い」として非難して、聖書の御言葉の否定に至る人々がいることを書いた。

カルト被害者救済活動に携わる人々が、特にプロテスタントのクリスチャンを「高慢」や「自己愛」などという言葉を用いて盛んに非難する背景には、聖書の御言葉が本質的に持っている排他性に対する抗議の念が含まれている。つまり、彼らは信者に抗議しているのではなく、聖書の御言葉に逆らっていることを見て来た。

ここから、聖書の二分性を否定する東洋思想の恐ろしさについて述べたいのだが、その前に、偽りの救済活動の持つ「高慢さ」について、さらに少し補足しておきたい。

幾度も書いて来たように、上記のような人々には、キリスト教の福音が、多くの人々を排除する残酷で狭量で反人間的な「排除の論理」であると述べて、キリストの達成された御業だけに頼ろうとせず、そこに人間の努力による自己救済という要素をつけ加え、よりヒューマニスティックな福音を作ろうとして、最後には聖書の御言葉に逆らって、これを否定して行というく特徴がある。

彼らは、神の救済を退けて、己の肉を高く掲げ、肉による善行を通して神に至ろうとする高慢に陥っているのだが、それが自分では分からないのである。

キリスト教界においては、一方では、組織に所属し、礼拝儀式への参加や、様々な奉仕活動を通して神に至ろうと、己の外面を磨き、肉の善行により頼む人々がいるかと思えば、その対極には、カルト化した教会で被害を受けた人々を救おうと、善良な救済者を名乗って登場し、やはり肉の行いにより頼んで人間を救おうとする人々がいる。

それらは対極にあるように見えて、どちらも同じように、キリストの十字架を抜きにした人間の自己救済の努力としての偽りのヒューマニズムである。これらは聖書に立脚しておらず、御言葉を曲げているという意味において、本当はキリスト教と呼ばれるべきではない。こうした活動の最たる特徴は、信者を決してキリストだけに導いて自由へ至らせることなく、むしろ、人間が作り出した様々な支配関係・依存関係の中に閉じ込めてしまう点である。

一方には、教会籍を作り、信者を組織としての教会に束縛し、キリストではなく目に見える人間である牧師という指導者に従わせ、指導者を絶対化する制度があり、他方には、自称救済者である指導者が、「教会で被害を受けた」とする信者たちを集めて自分に従わせ、離反者には容赦なく制裁を加え、離脱を許さない閉鎖的なカルト被害者救済活動がある。

筆者はこれらの二つの活動が、ともに聖書の本質から逸れて堕落した地上組織としてのキリスト教界の産物であって、根本的に同一の起源から出てきていることを指摘して来た。

これらはどちらも、聖書の御言葉を曲げて、キリストではなく人間の指導者を崇め、人が己の肉により頼んで自己救済を図るところから出て来た活動であり、本質的に聖書に反している。だが、今日、キリスト教と呼ばれているものの99%以上は、こうした活動で占められており、無知ゆえにそれに欺かれているだけの人々が、ことさらに罪に問われることはないようにと願う(だが、彼らの人生の損失は非常に大きいものと思うが)。

いずれにしても、そのようなものが聖書の御言葉の本質でないことは確かであり、そうである限り、本気で真理を求める人々が、そのような皮相な活動を離れて、神を尋ね求める例はこれからも現れるだろう。キリストのお与え下さった自由を生きて知るために、そうした虚偽の活動を離れ、人知れず、荒野を通るようにして、キリストご自身以外に頼るもののない状況で、この方だけにより頼み、御言葉の真実さ、確かさを生きて知るための訓練を受け、神の熟練した兵士となって、神の約束して下さった御国の前味を生きて知り、御旨を地上に実際に引き下ろす人々が現れるだろう。

必ず、神はご自分の民を用意しておられる。この先、どのような時代が来て、拙稿がどれほど役に立つのかは分からないが、筆者がしているのは、主の民のために道を整えるために、これまでに達し得たすべての教訓を残すことである。拙稿をたたき台として踏み越えて、さらに前進して行く人も現れることであろう。

さて、話を戻せば、以上に挙げたように、神の知恵に逆らって、生まれながらの人間の肉を高く掲げる人々は、当然ながら、神に対してのみならず、人に対しても高慢になる。

筆者は、これまで奉仕精神にあふれたクリスチャンに幾人も出会った。困っている人々を見ると助けずにいられず、自分の知っている真理を人にも分かち合わずにいられない、といった人々で、必ずしも、「善魔」と呼ばれるような、押しつけがましい奉仕者ばかりではなかった。

だが、たとえどんなに彼らが謙虚に人助けに邁進しているようであっても、そこにはどうしても、彼らが自分では気づいていない密かな高慢さとナルシシズムの落とし穴が存在することを筆者は常に感じずにいられなかった。

それは、彼らが神の御前で自分こそが欠乏を抱え、自分こそが問題を抱えている張本人なのだという事実を見ることを否み、自分の問題を他者に転嫁し、他者を救済することで、自己救済をはかろうとしているという自己欺瞞である。そういう人々に対しては、

「なぜ、人を教えて自分を教えないのか。」(ローマ2:21)という一言に尽きるだろう。

「イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」」(ヨハネ9:41)

上記のヨハネの福音書の御言葉は、イエスが盲人を癒された時に言われた言葉である。だが、これは、盲人という障害者に対する健常者の差別を非難して言われた言葉ではない。この言葉は、「社会的弱者を見下してはいけません」という観点から述べられたものではなく、神を見下している人々に向かって述べられた非難の言葉である。すなわち、イエスは、偽善者たちが(人に対してではなく)神に対して「私は見える」と言い張っているところに罪があると非難されたのである。

肉による善行とは、結局、己を神以上に高く掲げ、神以上に自分が正しいと言い張り、神の最善としてのキリストの十字架の救いを退けて、人が自分自身の努力によって神に至ろうとするすべての努力を指すのである。その中には、当然ながら、カルト被害者救済活動のように、まことの救い主である神を退けてまで、己が救済者になって人助けにいそしもうとする人間の高慢さも含まれている。

このように熱心に人助けにいそしんで救済者や指導者になりたがる人々は、一様に言う、「私には分かっている」、「私は知っている」、「私は人に教えてあげられる」、「私はあなたの状態を見て可哀想に思う」云々。一見、人を助けると見せかけて、弱さを抱えた人をどこまでも見下し、自らの栄光の道具として行く人々の口調に見られる高慢な響きは、杉本徳久氏の書簡を読むだけで十分である。

彼らは外見的には、困っている人々を見捨ててはおけない隣人愛に溢れた謙虚な人間を装い、教会にも熱心に通って敬虔なクリスチャンのように振る舞い、自分の人生においてはあたかもすべての問題に対する解決をすでに得ているかのように振る舞うかも知れない。だが、そのように人前で「完全無欠」を装い、熱心に人助けに励む人間ほど、心の内側では、必ずと言って良いほど、マザー・テレサ同様に、神が分からない、自分は神に見捨てられているという絶望感や空虚さに苛まれているのではないかと筆者は思う。カルト被害者救済活動の辿って来た道のりが、そのことを十分に立証しているように思う。

他者に対して救済者になりたがる人々というのは、欠乏を抱えて道に迷い、困窮して「可哀想な」弱者とは、常に自分ではない他の誰かであると考えて、他者を心密に見下しながら、同情の眼差しで見、上から手を差し伸べようとする。

このような人々は、他者を「救済する」という口実に自分自身が欺かれており、人助けを口実として、自分が常に他者よりも優位に立って、人間関係において主導権を握り、相手を支配して行こうという願望をかなえようとしているだけであることに気づかない。「救済する」側の人間は栄光を受け、感謝され、脚光を浴びるが、「救済する者」と「救済される者」との間には、圧倒的な力の差が出来、その溝はいつまで経っても、決して埋まらない。これは霊的搾取に基づく支配関係である。

そのようにして、彼らは巧妙に他者の尊厳を貶めながら、真の救済者である神を押しのけて、自分が救済者を名乗り、神から栄光を奪っているのである。なおかつ、そうして他者の問題ばかりに注目し、他者に同情し、謙虚に手を差し伸べているように見せかけながら、密かに優越感を味わい、自己の抱える本当の問題や必要から目をそらし、神を抜きにして自己をあたかも完全であるかのように思い込もうとしているのである。

こうした人々は、自分の問題を決して訴えようとしないので、傍目には、謙虚に隣人愛に生きているように見えるかも知れないが、それはただ自分の内心の問題に目をつぶり、これを他者に転嫁して、自分の問題を、他者の問題として訴えることで、自分はあたかも己の利益のために行動していないかのように装っているだけである。

どんなに人助けにいそしんでも、依然として、彼らの注意は人間にしか向いておらず、キリストに向いていない。そうである以上、そのような活動に没頭すればするほど、ますます神の臨在を感じることもなくなり、神が分からないという絶望感に陥るのは当然である。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」(Ⅱコリント3:16)

マザー・テレサは50年以上も神の臨在を全く感じられない「神の不在」の中にあった。単に霊的な交わりを一切感じられなかっただけでなく、神そのものが生きて実在しておられると信じることさえできないほどの絶望にあったようである。他人に神の愛を伝えておきながら、自分自身は神の愛が分からないというのでは、本末転倒ではないだろうか。どうして自分が分かっていないことを、人に教えられるのだろうか。理解することもできないほどの衝撃的な自己矛盾であるが、ここに筆者は、カルト被害者救済活動の支持者らとの共通点を見ずにいられない。すなわち、自分を差し置いて、救済されねばならないのは他人だと考えて、人助けにいそしむ人々の高慢さというものを見ずにいられないのである。

さらに、彼らの人助けなるものも、本当は、世間で賞賛と共に理解されているようなものとは、全く違ったものであった。それは結局、キリストへの信仰を持たない、神に見捨てられた人々を、同じように神に見捨てられた人々が、聖書とは別の方法で「救済」しようとするという意味において、神に逆らう高慢な反聖書的な活動だったのであり、パウロの指摘した「神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり」(Ⅱコリント10:5)にあてはまるものと言わざるを得ない。

マザー・テレサはインドの「貧しい人々の中にキリストが臨在しておられる」と述べて、信仰を持たない人々の内に「キリスト」を見いだせると主張した。だが、このことは、彼女が聖書の御言葉を曲げて、信仰を持たなくても人が救われてキリストに至ることが可能だとみなしたことを意味する。こうした彼女の主張は、ちょうどカルト被害者救済活動が、信者よりも、不信者をより多く引きつけたのと、よく似た構図を持つ。彼らの人助けは、根本的に、信者のためのものではなかったのである。むしろ、それは神が十字架で罪に定め、廃棄するしかないという宣告を下された、信仰を持たないアダムに属する古き人(旧創造)を、神が唯一の救いとして定められたキリストの十字架から救おうとする活動だったのであり、「神に見捨てられた罪人・弱者を神の残酷な死刑判決から救うための、神に対する被害者運動」だったのである。

そのような意味で、これは聖書をさかさまにして、キリストの十字架を通して、神が定められた罪と死の判決から、哀れな人類を救おうとする、神を仮想敵とする、神に対する人類の被害者運動だったと言えるのであり、決して聖書の御言葉を介さずに、キリストの十字架を経由することなくして、人類を神による罪定めから解放し、人間がまことの神を退けて自力で神に至ろうとする(神の座を奪おうとする)点で、神に対する反逆運動だったと言えるのである。

そうである以上、こうした活動が人に自由をもたらすことは決してない。実際に、これは全く人助けなどではなく、あたかも人助けのように見せかけながら、人を不自由な人間関係の序列の中に束縛し、決してそこから逃がさずに、人の栄光を築き上げる道具として閉じ込める偽りの支配関係・依存関係なのであり、その残酷で不自由な支配は、この活動の虚偽を見抜き、それに反対を唱えて離脱しようとする人々が現れた時に、根こそぎ明るみに出た。カルト被害者救済活動の支持者が、この活動の危険を訴えたり、反対する者に対して、何をして来たかはすでに幾度も明らかにした通りである。

こうして、弱者救済活動に関わる人々の心に潜む、高慢さと歪んだ自己愛、さらにもっと言えば、権力欲、名誉欲、支配欲といったものが確かに存在することを筆者は考えないわけにいかない。だからこそ、一見、人の目には美しく見えるこうした弱者救済活動の持つ聖書に反する本質的な危険性について、再三に渡り、訴えないわけにはいかないのである。

さて、神を知るためには、信者がこうした偽りの運動によって身を飾ろうとすることをやめ、何よりも人の方ばかりを向くのをやめて、神の方を向くしかない。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ2:4)

新約に出て来る神のぶどう園を企業にたとえてみたい。神はある日、ぶどう園運営会社で働いていた全社員の働き方を見て、全員の解雇を決定された。これら全社員は、今や横領と背任の罪で告発されている。神は、ご自分に完全に忠実な新しい指導者を会社に送り込んで、己の罪を認めてこの新たな指導者に従う人間だけが、社員であり続けることができるという規則を定めた。社員が解雇されない道は、この新しい規則に服することしかない。すでに新しい規則に基づいて新入社員の受け入れも始まっている。なのに、会社には依然として、この新しい規則を拒んで、新しい社員をいわれなく攻撃しては排斥し、神が立てられた新しい指導者をも拒んで、罪に問われている古い社員を擁護して、彼らを残酷に排除された「被害者」であると主張して、「残酷な排除の論理」である新しい規則に逆らって、古い社員の「救済活動」を繰り広げている人々がいる。だが、そんなことをして何になるのか。それは救済ではなく反逆である。それは神のぶどう園の乗っ取り計画である。そのように、神を罪に定め、神の憐れみによって与えられた唯一の解決をも退けてでも、罪人を復権させようとする悪人どもは、根こそぎ解雇された上、監獄にぶち込まれるであろう。

神が人類全体を罪に定められた以上、人類(旧創造)の利益にこだわっても無意味なのである。キリスト者は、罪に定められた旧創造としての人類を擁護し、旧創造の思惑を忖度するために生きるのではなく、これをすべて退けてでも、神は一体、何を望んでおられ、神の目に真に価値あるものは何なのか、それをこそ考え、追い求め、実現するために生きている。

そのために必要なのは、信者が、神の御前で自分の無知を偽らず、自分が神の御前で貧しい者であることを認め、真理を求めて絶えず神に近づきたいと願うことである。自分自身の心の欠乏を他者に投影・転嫁するのではなく、人の問題にかこつけて願い出るのでもなく、強がりを捨て、素直に自分の必要を認めて、あらゆる問題について神に正直に打ち明けて助けを乞うために、自分をさらけ出して神に真剣に向き合い、心のすべてを持って誠実に語り合い、懇願するしかない。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る軟膏を買いなさい。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示3:17-19)

この終わりの時代、本気で神に従い抜きたいと願うなら、どの信者も信仰を守るためにそれなりの戦いを余儀なくされるものと筆者は考えている。パウロでさえも書いている、「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Ⅰコリント9:27)と。

パウロでさえこのように言わなければならなかったのであるから、今日の信者が、キリストに忠実であり続けるために何の覚悟も要らないというわけにはいかないだろう。

確かに、信者がキリストの十字架を信じ、救われている事実は永遠に変わらない。我々の内におられる方は「世に勝った方」であり、この世の君であるサタンよりも強いのである。そして、キリストから生まれた者たちも、この世よりも強いのである。だから、勝利は常にキリスト者のものである。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ5:3-5)

だが、その勝利は、信者が生きて御言葉を信仰によって実際にこの地に引き下ろすことなくして、世に現れ出ることはない。そのために、信者はのんきに悠長に構えているわけにはいかないのである。もし御言葉を実際としたいならば、日々、自分の十字架を負って、自己を否んでキリストに従い、御言葉の内にとどまり、これを守らなければならない。

神の御前で真に「豊かな者」となるために、自分が貧しい者であることを認め、神に叱られたり、懲らしめられたりしながら、あらゆる試練を潜り抜けて、より御言葉のリアリティの中に入り込んで前進し、やがて勇敢で強い兵士になって、御言葉を毀損するこの世のあらゆる偽りと高ぶりを打破し、キリストが十字架で取られた勝利をこの地に実際として打ち立てて、復活の領域を押し広げて行く必要がある。

このような戦いの中で、神に絶えず知恵と助けを求めて近づく必要を覚えない信者がどこにいるだろうか。だが、自分自身を偽って、神と人との前で、「私は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と言い張っている人間だけは、例外である。

彼らは神と人との前で自分の無知を認めることもなく、自分の弱さを認めてキリストに助けを乞うこともなく、自分の内側にある問題を神に正直に打ち明けることをもしないで、あたかも自分には何の不足もないかのように装い、自分の抱える見たくない問題には一切蓋をしながら、他者の問題だけにスポットライトを当て、容赦なく人の問題を暴き、他人の窮状について言葉を尽くして語りながら、それがさも隣人愛であるかのように偽り、神と人との前で自己を偽り、自分は優れて立派な人間であるかのように取り繕う。

このようなやり方では、どんなに他者をたくさん助けて感謝されてみたところで、彼ら自身の抱える心の必要性は永久に忘れ去られ、放置されたまま、誰にも振り返ってもらえず、置き去りにされるであろう。そのためにこそ、彼らの心の内側には、「自分は神に見捨てられている」という絶望感・空虚感が人知れず日々増し加わって行くのである。

そうして、人に宣べ伝えておきながら、自分自身は救いの対象外であり、自分の問題は永久に見捨てられており、解決されることもないという癒しがたい孤独と絶望感から目を背けるために、彼らは日々より一層、熱心に人助けに励み、自分の問題を他者に転嫁せずにいられなくなる。そうして、同じように「神に見捨てられて理不尽な状況に陥っている可哀想な弱者」(ほとんどが不信者)のために東奔西走することで、まことの救い主である神を否定し、神の栄光を盗みながら、神に見捨てられた旧創造の代表として、「生まれながらの人類を罪に定め、救いから排除した残酷な神の横暴さと理不尽」のゆえに神に抗議活動を続けるのである。

このような堂々巡りの罠にはまってしまうと、助ける側も、助けられる側も、永久にその偽りの救済活動が作り出す依存関係・支配関係の癒着から抜け出せなくなる。これこそが、謙遜とヒューマニズムに見せかけた、神によらない人類の絶望的な自己救済が生み出す高慢さと自己愛とナルシシズムの道である。

だが、主イエスの御言葉は、決してこんな恐ろしい不自由な束縛の中に人間を閉じ込めることはない。キリストご自身が、信者にとってすべての解決であり、まことの命であり、救い主であり、カウンセラーであり、弁護者である。従って、この方を内に得ている以上、信者はすべての必要をこの方のところに持って行き、解決をいただくことができるのであり、地上の誰にも助けを求めて走り回る必要がなく、神の地位を奪って「救済者」を名乗る人々に、栄光をかすめ取られ、道具とされる必要もないのである。

信仰の戦いをどう戦いぬくかという問題についても、あの指導者、この指導者のもとへ行かずとも、内なる油塗りであるキリストの御霊を通して、信者は必要な真理を十分に教わることができる。真理の御霊が内におられるからこそ、信者には自由があるのであり、どのように御言葉の内にとどまるかを理解するために、人の助けを求め、人の知恵に依存する必要がないのである。

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)



8.御言葉(十字架)の「二分性」、「切り分け」の機能に基づき、信者が目を覚まして、真理と偽りとを峻別する必要性

さて、以上に記したように、弱者救済という名目で、あからさまに旧創造の「救済」を唱えて、罪に定められた人類の復権のために、聖書の御言葉の否定に至る人々がいるだけではない。

前稿では、「霊と肉の切り分け」という極めて重要な事柄について言及しながらも、ペンテコステ運動の誤りを無批判に取り込んでしまったがゆえに、偽りの霊の運動に惑わされてしまったKFCについても触れたが、このように、聖書の御言葉に忠実にとどまりたいと考えているクリスチャンにも、ペンテコステ運動のように、巧妙に聖書の御言葉の「分離」や「切り分け」を否定する偽りの教えの危険が迫っている。

だが、公平のために断っておけば、ペンテコステ運動は、何よりアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が推進していることで知られる。上記のKFCも、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒のゆえに道をそらされた部分が大きく、同教団に属する現役信者と、ルーク氏との交流も、Br.Takaによって始まったものではなく、もっと古くから存在するものであった。

キリスト教界の危険性を見抜いていたルーク氏であるから、この危険な教団の信者との交流は断つべきであったろうというのが筆者の見解であるが、いずれにしても、数々の誤った霊的ムーブメントを日本に引き入れる原因を作ったアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の危険性については数多くの記事を書いて来たので、ここで改めて言及するまでもない。聖書に逆らう腐敗したカルト被害者救済活動もこの教団から出て来たのである。

ペンテコステ運動の危険性については、稿を改めて分析を続けるとして、その前に、ルーク氏が幾度も強調していた「善悪の路線」から「命の御霊の路線」へ(=「罪と死の法則」から「命の御霊の法則」へ)というテーマについて、さらに補足しておきたい。なぜなら、そのことによって、KFCがなぜ偽りを見抜けなかったのかを明確に理解し、二の轍を踏むことを避けられると思うからである。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1-2)

キリストと共に十字架において自己の死を受け入れ、彼と共に罰せられ、共に復活にあずかり、彼の命によって生かされたことにより、信者は律法による罪定めから解かれ、自分で自分を義とするために果てしない努力を重ねた挙句に罪に定められる必要はなくなった。そして、まことの命なるキリストの御霊の法則によって生かされるようになった。

ここまでは良いとして、だが、それで「善悪の法則」(罪と死の法則)自体はなくなったのであろうか? 信者に対して無効にされたのであろうか?

いや、決してそうではない。「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」(ルカ16:17)と言われる通り、信者が「罪と死の法則」に死んで、「命の御霊の法則」によって生かされるようになった後も、律法そのものがなくなったわけでなく、「善悪の法則」自体が死んだわけではないのである。

信者が律法によって罪に問われなくなったのは、「キリストのからだによって、律法に対しては死んでいる」(ローマ7:4)ためであり、「自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えている」(ローマ7:6)ためである。つまり、信者の側が律法に対して霊的死を帯びているので、この死が信者に対する律法の訴えを無効化しているだけであって、律法そのものは依然として有効なものとして存在しているのである。

依然として有効であるだけでなく、律法は、これを完全に全うして父なる神の前に義と認められた御子が、信者の内に御霊として住んで下さることにより、信者もまた、彼と共に完全に律法の要求を満たしたものとして神の目に義とされ、さらに、御霊を通して、律法は信者の内に書きつけられているのである。

「主が、言われる。
 見よ。日が来る。
 わたしが、イスラエルの家やユダの家と
 新しい契約を結ぶ日が。
 それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、
 彼らをエジプトの地から導き出した日に
 彼らと結んだ契約のようなものではない。
 彼らがわたしの契約を守り通さないので、
 わたしも、彼らを顧みなかったと、
 主は言われる。
 それらの日の後、わたしが、
 イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、
 主が言われる。
 わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
 彼らの心に書きつける。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 また彼らが、おのおのその町の者に、
 また、おのおのその兄弟に教えて、
 『主を知れ。』と言うことは決してない。
 小さい者から大きい者に至るまで、
 彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
 なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、
 もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」
(ヘブル8:8-12)

キリストの御霊を通して、律法は信者の心に書きつけられ、信者はもはや自分の外側にある律法によって罪に定められることはない。が、だからと言って、善悪の区別そのものがなくなったわけではなく、今度は、信者自身が、御霊によって心に書きつけられた律法を通して、御言葉を理解し、神との交わりを得るだけでなく、自分に起きるすべての出来事を吟味し、見分け、識別して行く責任を負うのである。それによって、信者は御言葉の内にとどまる秘訣を知るのである。

ここで、大きな転換が成し遂げられていることに気づく。キリストを受け入れ、御霊が内に住んで下さるまでは、信者は律法によって調べられ、追及される対象であった。しかし、御霊によって律法が心に書きつけられてからは、今度は、信者自身が、すべてのことを識別し、吟味し、追及する側に立ったのである。

そのことは、信者が意識的に御言葉の中にとどまり続ける義務と密接な関係がある。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」と、主イエスが言われた通り、御言葉にとどまる(御言葉を守る)とは、信者が自分で意識的に行わなければならない選択であり、救いが与えられているからと言って、信者の意志を抜きに、自動的に成し遂げられる事柄ではない。

「義務」とは書いてはみたものの、これは筆者の見解であって、御言葉に従うかどうかは、あくまで信者の自由意志に委ねられた選択なのである。もし信者がそんな義務は自分にはないとか、果たしたくないと考えるならば、御言葉の内にとどまらず、外に弾き出されてしまうこともありうる。(たとえば、自分で御言葉の真実性を拒み、否定した場合など。)

信者には救われて後も、依然、御言葉を拒む選択の自由もある。さらに、望んでいなくとも、敵の偽りに欺かれて、御言葉の外に引き出されることもある。御言葉にとどまるのかどうか、とどまるとしても、どうやってとどまるのか。それは信者自身が自ら御霊を通して学び、考え、識別し、能動的に選択して行かなければならない。

真理の御霊は、ただキリストとの麗しい交わりのためだけにあるのではない。それが教える真理を通して、信者は自分に起きるすべての出来事を理解し、吟味し、何が御言葉に忠実な、神から来た事柄で、何がそうでない偽りであるかを見極めて、絶えず自らの意志によって、御言葉の内にとどまり、御言葉を実体化して行くのである。(それが信者が霊によって自分自身を治め、環境を治めることにつながる。そのようにして御国の霊的統治が実体化されるのである。)

だが、御言葉にとどまることは、信者が主体的になすべき事柄であり、神を信じているからと言って、自動的に達成されるものではない。信者が御言葉を守ってその中にとどまっている限りは、信者はキリストのうちにとどまり、父なる神との交わりを失わない。内におられる御霊が、御言葉の内にとどまる方法を信者に教えてくれるので、これに忠実に従いさえすればである。

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)
 

だが、もし信者が、自分は何をしても罪に定められないから良いだろうと考えて、御言葉に照らし合わせて識別することもなく、偽りを退ける必要性も認めずに、どんな影響力でも警戒することなく自分の内に招き入れて、何にでも扉を開き続けていれば、いずれ敵の嘘に欺かれ、御言葉の外へおびき出され、堕落することは避けられないであろう。さらに、そんなことばかりずっと続けていれば、神との交わりも失われ、御霊の警告もやみ、悪魔の虜となってその奴隷とされる人生へ逆戻って行くだけである。御血の清めによって神に立ち返ることが可能なうちは良いが、意図的な反逆を続けていれば、どこかで引き返せなくなる。そんなことにならないように、偽りは初期のうちに見分けて退けられるように、信者は絶えず目を覚まして警戒を怠らないようにしておく必要がある。

そのために、信者は積極的に御言葉を行使して、すべての影響力(自分自身の外からやって来る影響力だけでなく、内側から起こる思いや感情をも含む)を鋭く識別し、神に属さないものを切り分け、退けて行く必要がある。

「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」(Ⅰコリント2:15)

ここに、以前は律法によって罪に定められるだけであった信者が、今度は、キリスト共に、自ら心に書きつけられた律法によって、すべてを識別する側に立つという立場の転換がある。
 
上記の御言葉は、クリスチャンのこの世に対する超越的な地位を示している。たとえどんなに幼子のように未熟なクリスチャンであっても、まだ霊的な事柄をほとんど知らない生まれたての信者であっても、キリストの御霊が内に宿り、律法が心に書きつけられていることは、この世のいかなる裁判官よりも高い地位に信者がつけられ、どんな法律家よりも深遠な知識を持っているのと同じほどの意味なのである。

だからこそ、その内なる御霊によって、信者はすべての出来事をわきまえ、その識別力を生長させ、発展させなければならないのである。信者は、この世の常識によってではなく、識者の言葉によってでもなければ、学問によってでもなく、人情によってでもなく、感覚によってでもなく、御霊を通して、御言葉によって、すべての事柄をわきまえるのである。その御霊による霊的識別こそ、神の観点から何が本当に重要で、価値ある事柄なのかを信者に教えてくれるのであり、その識別力を失えば、信者は信者としての特質を失い、この世の人と同じように、「人の悪だくみや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりする」(エペソ4:14)だけである。

KFCの問題点は、信者が「命の御霊の法則」に生きる重要性を唱えた点では、極めて重要な役割を果たしたが、同時に、「罪と死の法則」から解かれた自由を強調するあまり、信者が主体的に御言葉を守り、そのうちにとどまることの重要性、すなわち、御霊を通して、心に書きつけられた律法を通して、信者が全ての事柄をわきまえ、識別して、虚偽を退けることの重要性を見落とした点にあるかも知れないと筆者は考えている。あるいは、言葉では語っていても、それを実際には行使しなかったのである。

今日ほど、御言葉の切り分けの機能が重要な時代はないであろう。信者が暗闇の勢力のもたらす偽りを目を覚まして警戒し、御言葉を通してすべての事柄を識別し、偽りを見抜いて退ける作業は、どんなに強調してもしたりないほど重要である。

聖書の御言葉の持つ二分性は、信者が命の御霊の法則によって律法に対して死んだ後も、絶えず残り続ける。信者が律法によって罪に定められることがないからと言って、御言葉の二分性が消えたとか、信者にとって失われたとか、御言葉(十字架)の切り分けや、分離する働きが無効になったわけでは全くない。むしろ、御言葉は、諸刃の剣よりも鋭く、信者にとっては、何が神から来たものであり、真理であり、何が偽りであるかを識別する強力な武器となるのである。この武器を信者はただ持っているだけでなく、実際に行使しなければならない。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえ刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル5:12)

さて、ようやく次回から、聖書の御言葉の二分性を否定して、人を「善悪未分化」の状態に引き戻そうとする東洋思想の危険性について述べて行きたい。

<続く>


カルト被害者救済活動の反聖書性―グノーシス主義の基本構造②ー

5.神の知恵である御言葉に逆らって、キリストの十字架を否定し、人が己の努力によって自力で救済に至ろうとする「高慢さ」

さて、前稿では、杉本徳久氏のようなカルト被害者救済活動の支持者らも含め、「プロテスタント信者特有の鼻持ちならない高慢さとナルシシズム」を持ち出して信者を非難する人々が、結局は、聖書の御言葉の「二分性」や「排他性」につまずいて、「狭き門」としてのキリストの救いに抗議していることを見て来た。

だが、ここにはさらにもう一つ大きな重要なポイントがある。

それは、信者に対する彼らの非難が、自力で救済に至ろうとしてもがき苦しむいわゆる「クルシチャン」の生き方と訣別して、御言葉を信じて、キリストの達成された御業に安んじ、「命の御霊の路線」に生きるクリスチャンに対する、暗闇の勢力からの全力を込めた妨害だったという点である。

ちなみに、筆者自身は「自己愛の病理」という言葉を使って記事を書いたことはないが、このテーマで探せばすぐに見つかるのは、KFCのドクター・ルークの次の記事である。

自己愛の病理を脱する十字架の道

記事内容は以下にも引用するが、これを読めば、カルト被害者救済活動の支持者たちや、前述の記事で挙げたブログ主の信者への非難は、ルーク氏の記事をそっくり裏返しにしたものであることが分かる。

筆者は、KFCやルーク氏の主張に対して全面的に賛同できない数多くの点があるので、この記事についても、細かい注意点を以下に詳しく記している。筆者が、ルーク氏の見解に注意が必要であると考えるのは、同氏の見解が、常に心理学とペンテコステ運動と聖書の御言葉に基づくキリストの御霊の働きとの混合になっていると思われるからである。(これについての詳細な分析は別稿でも行う。)

たとえば、「自己愛の病理」などという単語自体が、聖書に由来するものではなく、前の記事で示した元信者と同じように、心理学を模して造られたルーク氏の造語である。

だが、この造語の是非の問題は今はあえて脇に置いて、大筋でこの記事をとらえたい。要するに、同氏がこの記事において「自己愛」という言葉でバッサリと断ち切り、退けているのは、キリストと共に十字架の死を経由していない人間の生まれながらの古き人(自己)であり、また、この古き人を十字架を回避して生き永らえさせようとする、神の御言葉に逆らう人間の高ぶりとしての各種の努力のことである。

同氏は記事で言う、現代人は、自分で自分の問題を解決しようと必死の努力を重ねて生きており、クリスチャンもそれが信仰の道だと考えて、各種の自己改善の努力を必死で重ねているが、それこそ、神の御言葉に逆らって、人が自力で自分を救おうとする「自己愛の病理」であると。そうした努力は、神の一方的な恵みとして与えられたキリストの救いを退けて、人類が自らの力で自己義認し、自己救済に至ろうとするむなしい絶望的な努力なのだと。

キリスト教界においては、今日も、この種の人間が自力で自己を救済して神に至ろうとする絶望的な努力が絶え間なく続けられている――たとえば、礼拝儀式の順守義務、献金や奉仕の義務、良いクリスチャンであると人にみなされるために必要な一切の外面的・道徳的要素を整えるための果てしない努力の義務、そこには、むろん、カトリックで重んじられている社会への熱心な奉仕活動なども含まれる。

こうして「クリスチャンらしい外面」を整えるための果てしない「義務」を守ることこそ、あたかも信仰生活の根幹のように多くの人たちに誤解されているのだが、実際には、それらは聖書の御言葉の周りを包む飾り物のようなものに過ぎず、御言葉に基づく神の霊的な事実とは本質的に何の関係もない。

これらの活動はすべて、神ではなく人間の方を向いており、人間を満足させることを目的として作り上げられた活動に過ぎない。いかに神を口実に用いていても、荘厳で立派な礼拝儀式さえ、宗教指導者及び信者の「宗教的気分」を演出するために整えられるものであり、そのような儀式は、「霊とまこと」による礼拝(ヨハネ4:24)の本質ではない。それらの目に見える立派な全ての外面は、御言葉の本質ではないので、どんなにこれを整えても、信者は決してそれらの行いによって神に近づくことはできない。

しかも、こうした外面を取り繕い、人の目に優秀で立派な信徒を演じるための各種の努力や義務は、信者自身にとっても、しばしば耐えきれないほどの重荷となっている。

堕落した肉は悪しき行いに従事できるだけでなく、人の目に善と見える行いに従事することもできる。だが、人が神によらずに、己の生まれながらの力に頼って成し遂げようとする行いは、たとえ人の目にどんなに良さそうに見えても、すべて腐敗している。「肉にある者は神を喜ばせることができません」(ローマ8:8)

肉による善行は、人の目には立派そうに見え、「宗教的」に見えるかも知れないが、キリストの十字架の死に至らない人の生まれながらの命の生んだものは、すべて神の御前に無価値である。信者がクリスチャンらしい外面を取り繕うための各種の努力は、人間が獲得してもいない「神の聖」をあたかも獲得したかのように、もっともらしく演出して見せかけるための装置のようなものであり、人が神ではなく自己を喜ばせるために作りだした偽りであり、どこまで行っても偽善でしかない。

また、クリスチャンの信仰生活とは、何か人の目に優れて道徳的に立派な生き方をして、人類社会に奉仕し、人々に賞賛されることを目的とするものではない。宗派を問わず、キリスト教からは絶えず、社会的弱者や、困っている人々を「救済しなければならない」という強迫観念にとりつかれた人々が多数、現れて来たが、これもまた往々にして神を抜きにした人間の自己救済の活動を生んできたのであり、弱者救済のための社会奉仕活動が、聖書の御言葉の本質なのでもない。

さて、ルーク氏の記事は、信者が肉によって自己改善しようというむなしい努力を手放して、自己をキリストと共なる十字架における死に同形化し、自分ではなく、キリストがすべてを達成されたという事実に安息して、そこから信仰によってすべての解決を実際に引き出すよう奨励している。

クリスチャンは自力で神の聖に至りつくための必死の自己義認の努力を放棄して、この果てしない努力の結果、ただ罪に定められるだけのむなしい『善悪の路線』を離れて、キリストの成し遂げて下さった救いの御業から、すべての必要を引き出す『命の御霊の路線』に移行しなさいと告げているのである。

この点において、筆者は記事の趣旨に大筋で異議を唱えるつもりはなく、これは極めて重要な事実を信者に告げた警告であると思う。

ちなみに、この論考は「恵みの雨」2001年9月号に掲載されたようであるが、当時、キリスト教界に投げかけられたルーク氏の主張は、多くの信者にとって非常に画期的な意味を持っていた。それは同氏が、人間側の努力によって築き上げられる一切の熱心な宗教活動が、神を喜ばせることのできない堕落した肉に由来するものであり、聖書の御言葉の本質から遠くかけ離れ、御言葉を歪める偽りであることを指摘して、キリスト教界全体を覆っているこの偽りを聖書の真理に立って鋭く糾弾したからである。

同氏による「キリスト教界からエクソダスせよ」との呼びかけも、腐敗堕落した教会や、自己の努力によって神に至ろうとする偽りの体系としてのキリスト教界と訣別すべきであるという趣旨で述べられたのであり、前の記事で挙げた元信者の例に見るように、聖書の御言葉やキリストの福音そのものを拒んで「脱福」することを全く意味しなかった。

キリスト教界からエクソダスするとは、クリスチャンが自分や他人の状態を自分で何とかして改善しようと叫び、もがき、苦しみながら、絶望的な努力を続けるという、むなしい自己主張――ルーク氏の表現によれば、自分で自分の髪の毛を引っ張って空を飛ぼうとするような無意味な努力――をやめて、御言葉の実際に入り込むことにより、神の側から達成された恵みに立って、そこから、信仰によって、すべての必要を引き出す秘訣を学ぶようにということであった。
 
このような同氏の呼びかけは、当時、教会で要求される数々の奉仕の義務や、クリスチャンらしい外面を整えるための果てしない努力に疲れ果てていた数多くのクリスチャンに多大な影響を与え、多くの信者らが、自分に無理な要求を突きつけては挫折感に苛まれるだけの「善悪路線」の誤りに気づき、そこから抜け出して、真にキリストの命の豊かさを知ることのできる「命の御霊の路線」に立ち戻る必要性に気づいたのである。

また、同氏は、キリスト教界における様々な儀式や奉仕という、人が自力で神に至るための各種の努力を否定したのみならず、キリスト教界のカルト化という問題についても、カルト被害者救済活動の支持者のように、信者が自分の受けた「被害」を訴えることにより、人間側の利益だけを回復することを目的に活動することの無意味さを主張した。

つまり、カルト化の問題は、人が「私は腐敗堕落したキリスト教界によって傷つけられた被害者だ」と主張して、教会と信者と神に抗議して、自分の権利回復を目指すことでは絶対に解決しない。むしろ、人間が自分の利益が失われたこと嘆くのではなく、「聖書の真理が損なわれて、神の利益が損なわれた」という観点からこの問題に向き合い、神の御心に照準を合わせ、キリストの十字架に立ち返り、より御言葉を実際として生きねばならないと提唱したのである。この点では筆者もほぼ見解を同じくしている。

特に、終わりの時代に、「セルフではなくキリスト」を選ぶことができるかどうかが、クリスチャンの歩みを決定的に分けるだろうとの同氏の予測には、筆者は今も同意するのであり、そこからキリストの十字架に敵対して人の生まれながらの自己を延命させようとすることが、あらゆる異端思想の基本構造であることに気づき、その思想の危険性を述べねばならないと思い至った。

キリスト共なる十字架の死と復活に共にあずかること、それがなければ、信者の信仰生活は始まらない。十字架の死未満のところでは、どんなに人が一生懸命にもがいても、その努力が霊的な実を生むことはないのである。

以下の記事には、「なぜ聖書66巻だけが神の霊感を受けた書物であるのか。どうして証明の方法がないのに、御言葉は絶対的に正しいと言えるのか。」という、前稿に登場した信者の問いに対する答えも含まれている。それは、霊の機能と魂の機能の違いを理解すれば解ける問題である。
 
それほど長くないので、全文引用しておく。注釈は以下に述べる通りである。

■本稿は"恵みの雨"9月号特集記事の原稿です。


■自己愛の時代



現代はどこもかしこも"癒し"が流行し、それ自体がほとんど強迫神経症的です。クリスチャンも例にもれず、対人関係や仕事などで傷つくと、精神分析、交流分析、自律訓練法、行動療法、来談者中心療法、果ては心療内科に精神神経科・・・とさ迷っています。

このような様子をイエスがご覧になったらどうでしょうか。彼は言われるでしょう:「わたしの十字架に戻りなさい」、即ち「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分の魂(原語)を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分の魂(原語)を失う者は、それを救う」のです(ルカ九・23,24)。

この世の方法は"まず得よう"とします。対して神の方法は"まず失う"のです。現代社会の病理は"自己愛パーソナリティ"です。この世も、キリスト教会も「私が、私は、私の・・・」と果てしない"私"の訴えに満ち溢れています。しかし真の心の癒しを得るには、その訴えと主張に満ちている"私"を下ろし、十字架におけるキリストと共なる死に与ることに秘訣があります。死は自己の終焉であって、魂の沈静と深い平安と安息をもたらします。「失えば得る(Lose to Get)、死ねば生きる(Die to Live)」のです!


■御言葉と真理



神が世界を創造された時、世界の運行を法則に委ねました。自然界には物理法則などが、精神の世界には心の法則が、そして霊的領域には霊の法則があります。いかにマッチョでも、自分の髪を引っ張って空を飛ぶことはできません。それは法則に反します。よってそうやって空を飛べなくとも自分を責めたりはしません。物理的領域においては、可能なことと、不可能なことが明確に分かるからです。

ところが、こと心の領域の問題になりますと、法則自体が曖昧です。一応精神分析学とか精神病理学などの理論はあっても、かつて幼女誘拐殺人事件の被告人Mの裁判で三人の専門家の精神鑑定が分かれたように、物理法則ほどの精密さがありません。さらに霊的要因が絡んでくると、通常の学問ではまず太刀打ち出来ません。結果として私たちは可能な事と不可能な事との識別ができず、自分はこれができないとか、あれができるとかなど、劣等感や優越感で揺れ動きます。心の問題を抱えている人々と接して分かることは、それらの法則についての無知のために、ちょうど自分の髪を引っ張って空を飛ぼうとして葛藤し、疲れ果てているケースが多いのです(ホセア四・6)。

しかし聖書はその心の法則と霊の法則を明確に提示しているのです。なぜなら聖書は被造物である私たちに関する創造主による"取り扱い説明書"だからです。私たちは物理的真理を知ることによって、無駄な努力から解かれるのと同様に、精神的また霊的な真理を知ることによって、内的な葛藤や悩みからも解かれるのです。イエスは言います、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ八・32)。


■御言葉と御霊



このように真理には"霊的な事柄の道理"の意味があります。また聖書では真理はひとりのパースンであると啓示します。イエスは言われます、「わたしは道であり、真理であり、いのちです」(ヨハネ十四・6)。イエスは神のロゴスの受肉だからです。この世の学者先生方はそれぞれの分野で"真理"を探しあぐねています。究極の真理を得たと思うと、逃げ水のようにするっと逃げてしまうのです。

しかし私たちは自分の努力によらず、ただ信じることによってこの究極の真理を得たのです!それは私たちの霊に御臨在くださるイエスです。「真理はあなたがたを自由にする」と言う場合、単なる知的理解によるのみでなく、私たちの霊において、究極の真理なるイエスのパースンに触れるときに、あらゆる束縛から解かれるのです。イエスこそ真のワンダフル・カウンセラーです(イザヤ九・6)。そこでイエスは「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」(ヨハネ八・36)と言われます。

現在の私たちは長血を患う女のように、物理的イエスの衣の房に触れることはできません。しかし、今や最後のアダム(=イエス)は命を与える霊となられました(第一コリント十五・45)。物理的には復活の体を持って昇天されましたが、彼は私たちを孤児として残すことはなく、御霊が来られるとき、また戻ってくると約束して下さいました(ヨハネ十四・15-21)。すなわち霊的領域において、イエスは私たちの霊に御臨在されるのです(第二テモテ四・22)。当時の弟子たちとは物理的に接触されましたが、現在の私たちとは霊的に触れて下さるのです。それは物理的触れ合いよりもはるかに深く、親密で、甘い交わりなのです。

これは御霊によりますが、御霊はご自分から語ることはなく、聞いたままを語り、イエスに栄光をもたらします(ヨハネ十六13-15)。すなわち御霊はご自分ではなく、イエスの言葉とわざそしてパースンを私たちの霊の内に実体化し、証して下さるのです。よって御霊の臨在とキリストの臨在は等価です。このとき「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」(第二コリント三・16-17)。パウロはこの文脈においてはキリストと御霊をほとんど同一視しています(注:位格を混同しているのではありません)。

さらに御霊は私たちの魂にも触れます。私たちは罪による霊的な死のために、自分の魂と体のみで奮闘努力していました。その生き方のパタンがパウロの言う肉です。肉は私たちの罪によって腐敗していますので、死に渡すのみです(ガラテヤ五・24)。一方私たちの魂は、霊から照らし込む霊的な光によって露にされ(詩篇三十六・9)、古い価値観や生き方などが廃棄されるごとに(エペソ四・22、コロサイ三・9)、御言葉によって再構成されることにより(コロサイ三・16)、思いから造り変えられて行きます(ローマ十二・2;原語)。意志は神に対して柔らかくされ、感情は神の愛で潤されて平安と安息に満ち、思いは神の言葉に沿った考え方が条件付けられていきます。こうして心の中にキリストの形が造られていきます(ローマ八・29、ガラテヤ四・19)。これは主なる御霊の働きによるのです(第二コリント三・18)。


■御言葉と私たちの霊



人には霊があります(ヨブ三十二・8、イザヤ五十七・15、ゼカリヤ十二・1)。鍵は霊の内で御霊と御言葉が相互作用することにあります。霊には、良心、直覚、交わりの三つの機能があります。私たちは良心が探られて自分の罪を認め、イエスを受け入れました。また真理を直覚によって知り、霊なる神との甘い交わりを得ます。神は霊ですから、私たちは霊によって礼拝する必要があります(ヨハネ四・24)。光は目によって、音は耳によって感知されるのと同様です。

すでに十字架の救いは百%完全に成就しています。私たちのすべての罪は赦され、すべての病も癒され、すべての必要も満たされたのです(完了形)。御言葉はこれらの客観的事実(=真理)を語ります。何かを客観的に表現する言葉をロゴスと言います。ちなみにイエスは神を語る神のロゴスでした(ヨハネ一・1)。このロゴスを私たちが信仰によって受けるとき、御言葉は光を放って(詩篇百十九・130)、レーマとなります。レーマとは即時的に語られた主観的なことばです。イエスは「わたしが話したことば(レーマ)は霊であり、いのちである。人を生かすのは霊であって、肉は何の役にも立たない」(ヨハネ六・63)と言われました。すなわち私たちの信仰と御言葉が結び付けられて(へブル四・2)、レーマとなり、霊的な光を放ち、またいのちとして私たちの魂を、さらに体をも生かすのです(ローマ八・11)。これは私たちの霊の内でなされるのです。まさに人の霊は神のともし火です(箴言二十・27)。

私は以上のことを<ロゴス+信仰=レーマ=霊=いのち>、および<客観的真理+信仰=主観的経験>と定式化しています。この霊的な"いのちの方程式"が働くのは、私たちの霊の内であり、それを実現するのが御霊です。この霊的作用の中で、いわゆる心の傷なるものも自然と癒されてしまうのです。


■御言葉と信仰



御霊の御わざには、私たちの信仰が必須です。新約聖書で唯一の信仰の定義は「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」です(へブル十一・1)。Darby訳聖書では"保証"と言う単語に"substantiating"を使っています。日本語では"実体化"です。すでになされている客観的な霊的リアリティを私たちの内で実体化すること、これが信仰です。目を開けば、電磁波である光は私たちの視覚野においてただちに実体化されます。同様に霊的リアリティは私たちの霊に実体化されるのです。これが信仰です。「私は信じます、信じます・・・」と念じることではなく、霊を開けば霊的リアリティはただちに私たちの霊に感光します。「得た!」と分かるのです。大切なことは知恵と啓示の霊を受けることです(エペソ一・17)。単純に父なる神に求めましょう。

そして信じた者は自分のわざを止めて安息に入ります(へブル四・3)。自分のもがきを止め、完成されたキリストの十字架の事実の中に休むのです。御霊のみわざが自分の内で進展するに任せるのです。愛、喜び、平安などの御霊の実(単数形)が結びます(ガラテヤ五・22)。これは自己努力によるのではなく、御霊のみわざです。私たちの責任ではありません。私たちの責任はキリストの死に与って、自分の体を罪と死の法則の支配に委ねず、いのちの御霊の法則に委ねることです(ローマ六・11-12、八・2)。

まず自分の傷の癒しを求めるのではなく、そのような自己主張はひとまず下ろして、キリストの十字架の事実に戻り、そこに留まり続けるだけです。サタンやこの世、さらに肉はそこから私たちを引き出そうとします。しかしその誘惑に乗ってはなりません。もし乗って罪を犯しても、ただちにイエスの血によって洗っていただき、十字架に戻ることです。天には大祭司であるイエスがおられます(ヘブル九・11-14)。


■自己愛からキリストへ



自分で何とかしようとしている限り、癒しは得られません。まず自分を放擲することです。痛んだままの自分を十字架に投げ出すことです。そこではイエスの圧倒的な愛が私たちの凝り固まった魂を融かし、御霊がひび割れた心にモイスチャ・クリームを塗って下さるのです。自己に向いていた注意がキリストに向くとき、そこには自由、平安と安息、そして癒しがあります。私たちは自分を忘れて、ただこのキリストの甘い愛の交わりの中に留まり続けるだけです。God bless you!



さて、以上のようなルーク氏の主張に対しては、当然ながら、暗闇の勢力からのすさまじい反撃があったと見られる。

なぜなら、この主張は、キリストの十字架における「切り分け」――特に、霊と肉の切り分け――という問題を明確にキリスト教界に投げかけたからである。

霊と肉の切り分けの問題は、今日に至るまで、キリスト教界ではほぼ見失われている真理である。それを回復するという点において、ローカルチャーチ出身の同氏の主張は、画期的であったが、同時に、ある種の人々からは、大きな反発をも呼び起こした。

何しろ、人間の努力(肉)によって成し遂げられる熱心な宗教活動こそ、今日、キリスト教と呼ばれているものの99%以上を占めるのである。そうした人間側の極めて熱心な努力によって築き上げられた一切の良さそうに見える宗教体系が、すべて無意味かつ、御言葉に悪質に逆らう虚偽であり、しかも人間の身勝手な自己愛の産物でしかないということになれば、目に見えるキリスト教はほぼ完全な失業状態に陥るだろう。

さらに、そのような肉に基づく熱心な自己救済の努力は、「キリスト教界のカルト化を是正する」という名目で、キリスト教界を浄化するために絶え間ない争いを続けているカルト被害者救済活動のような運動にもあてはまるのである。これもまた「被害者のため」という名目で、人間が御言葉によらず、神の救いにより頼まずに、自己の力で自己を救済するために繰り広げるむなしい活動に過ぎない。

だが、そのようにして自己の熱心な努力により頼んで生きる人ほど、その生き様が、神の御言葉に逆らう偽善であり、神の知恵に逆らう高慢さであることが明らかにされるのを嫌う。そこで、上記のような言説に対しては、当然ながら、猛反撃に出た。彼らは自分たちの熱心な努力が「自己愛」や「ナルシシズム」と呼ばれて退けられることに猛反発し、むしろ、聖書の御言葉に基づいて、人が自力で救済に至る努力をやめるように促している人々の方が、「聖書の御言葉を絶対的なものとみなし、これに従って自分たちだけが正しい信仰を持っていると思い込み、自らの見解に合致しない他者を容赦なく裁いては切り捨てる、思い上がって高慢な、自己愛とナルシシズムに満ちた信者」だと非難することによって意趣返しに及んだのである。

だが、このような主張は、前稿で見た通り、結局は、信者の心の排他性ではなく、聖書の御言葉の持つ「排他性」、キリストの十字架そのものが持つ「二分性」や「切り分け」につまずく思想なのである。

そのような人々は、ルーク氏の唱えた「自己愛の病理」という言葉に反発しているのではなく、その向こうにある聖書の二分性の原則に逆らっているのであり、人類の自己救済の努力が否定されることに我慢がならず、キリストの十字架におけるアダムの死を回避するために、霊と肉の区別そのものを否定してかかりたいのである。とどのつまり、彼らが逆らっているのは、アダムに属する古き自己は神の御前に無価値であり、キリストと共なる十字架の死に渡されて廃棄されるしかなく、肉は何の役にも立たないという神の事実なのであり、「肉にある者は神を喜ばせることができません」(ローマ8:8)という聖書の真理なのである。



6.魂と霊を混同し、信仰によらずに、感覚的な陶酔によって霊の事柄をわきまえようとするペンテコステ運動の危険

このように、以上で挙げたルーク氏の記事の趣旨には、大筋では同意できるものの、同時に、極めて重要な注意点が含まれている。それは、同氏が霊と肉の切り分けの重要性を主張しながらも、同時に、明らかにこの切り分けを意図的に曖昧にしようとするペンテコステ運動の悪影響を無批判に取り込んでいると見受けられるからである。

まず第一に、ルーク氏は神との交わりが「甘い」ものであるとしきりに強調するが、神との交わりが常に「甘美さ」を伴うかどうか、筆者は断言できない。神との甘美な交わりが存在すること自体は否定しないが、聖書においては、霊において主イエスのパースンに触れた人々の反応は様々に異なり、必ずしも交わりの「甘美さ」だけが強調されてはいない。最も極端な例では、「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。」(黙示1:17)

神との交わりは、霊における確かなリアリティとして強い臨在感を伴うこともあるが、常にそうであるとは限らない。それは必ずしも何らかの感動体験を伴うものではなく、時には、全く何の感覚も伴わず、あるとさえ感じられないこともある。だが、感覚において何も感じられないからと言って、神が不在になったり、信者との交わりを絶たれたわけではないのである。

神との交わりは、信者に何かが「見えて」いるかどうかや、何かが「感じられる」かどうかといった人の感覚によってとらえられるものではなく、霊において、あくまで信仰によって知覚するものである。確かに、霊においても、魂によく似た「直覚」の機能はあり、信者はこの機能を通して神との交わりを知り、御言葉の啓示を明確に受けることがある。その啓示に、喜びや、深い感動や、安らぎや、畏れの念が伴うことはある。

だが、たとえ何も感じられなかったとしても、御言葉の通り、神が常に信者と共におられ、霊において絶えず交わりが可能であるという事実が変わることはない。信者は常にその事実の中を歩んでいるのである。信者が何を「感じる」かが重要なのではなく、あくまで御言葉が何を告げているかが信者にとっての現実なのである。

しかし、記事「ペンテコステ運動はなぜ誤っているのか(1)―カリスマ指導者に栄光を帰し、五感を信仰よりも優先する教え―」でも指摘したように、ペンテコステ運動はほとんどと言って良いほど、霊的なものを感覚的なもの(魂的なもの)と混同し、御霊の働きを何らかの感動体験、恍惚体験と結びつけてとらえ、極端なまでに感動体験を強調する。そこに危険な偽りの誘惑がある。

なぜなら、悪霊もまたキリストの御霊を装って、人間に何らかの幻や感動体験をもたらすことが可能だからである。そうして、悪霊がキリストの御霊に偽装して信者のもとにやって来て、喜びに満ちた感覚によって信者を欺き、これをあたかも信仰であるかのように思わせて、信者を深くとらえて支配するということがあり得る。悪霊が麻薬のように、恍惚体験や感動体験を利用して、信者をこれに病みつきにさせ、何も考えずに信者が喜ばしい感覚に身を委ねて自己放棄することを求め、冷静で現実的な思考を失わせて、信者を思い通りに支配して行くことがありうる。

偽りの霊の狙いは、聖霊の働きを模倣することにより、聖霊に偽装して、信者を神の真の霊的秩序から堕落した感覚世界へとおびき出し、信者の冷静な思考と判断力を眠らせて、恍惚体験の虜にしてしまうことにある。

神の霊は決して人に主権を放棄させることがない。人は自分の意志によって自分を治める必要があり、常に自分の主権を守り、これを誰にも奪われることなく保持しながら、何に対して扉を開き、どこまで自分を委ねて良いのか、絶えず自分で吟味し、自己決定せねばならない。玄関の扉の鍵を開けっぱなしにしていれば、強盗や詐欺師も入って来るのは避けられない。鍵をかけておくのは、人として当然の態度である。神の霊の働きは決して人の主権を侵害したり、これを放棄させることがない。

キリストの御霊の働きは常に霊⇒魂⇒身体という順序を取り、決して人の自己決定権を脅かすことはないが、悪霊の働きは、まず何らかの体験を通して、喜ばしい感覚や、あるいは恐怖などによって人の魂をとらえ、圧迫し、これをきっかけとして人の主権を侵害して奪い取って行く点で、キリストの御霊とは正反対である。



だから、信者が何も考えずにただ甘美で喜ばしい感動体験に自分を開いて無条件に身を委ねることが、「セルフを否んでキリストに従う」ことだと勘違いすることは危険である。信者の正常な理性や判断力に基づいた正常な警戒心までも眠らせて、「無私」、「委ねる」、「明け渡す」、「身を任せる」などの言葉で、恍惚体験の中に自己放棄させる教えは危険であると見抜かねばならない。

東洋的な瞑想の危険性もここにあり、「無私」を強調することによって、人の正常な警戒心を眠らせて、人が主権を放棄して、無防備に環境から来る影響力を受け入れ、結果として正体不明の霊に扉を開くよう促すのである。

ペンテコステ運動は、キリストに属する聖霊の働きを装ってはいるものの、実際には、東洋的な未分化の状態へと信者を回帰させる目論見を含んでいるように筆者には感じられてならない。すなわち、喜びに満ちた恍惚体験をきっかけに、信者が「霊に対して自分を明け渡す」よう求めることにより、信者が自らの知性によってあらゆる物事を識別し、何を受け入れて何を退けるかを自ら選択する作業をやめさせて、すべての識別・区別を排除したところにある未分化の状態、すなわち、人が自らの主権を放棄して、自分を取り巻く環境と一体になって受動的に身を委ねる無防備な状態へ回帰するよう、信者を誘い込んで行く狙いがあるものと見ている。

ペンテコステ運動はなぜ誤っているのか(1)」から抜粋

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)


 信仰は、目に見えない(五感では感じることのできない)神の側の霊的事実を自分の事実として信じ受け取ることによるのであり、すでに見たり、聞いたり、感じたりしている出来事をその感覚ゆえに受け入れることとはわけが違う。

 特別な喜びや感動が全く伴わなくとも、信じる者は御言葉を根拠として神の事実を受けとるのである。

 このように、正しいクリスチャンの信仰の歩みは、すべてのことが霊から始まる。まず霊的事実があって、次に魂や体で知覚することのできる感覚世界がこれに従属する。聖霊が働くのは、人の霊に対してであって、魂や体の感覚世界の中ではない。感覚世界はこの世の物質世界、人の堕落した肉に属するものであって、これは神と接触するための媒体ではない。神と交わることのできるのは、人の感覚ではなく霊である。

 ところが、ペンテコステ運動は、霊→魂→肉体という聖書的な秩序を覆してしまい、人の魂や肉体に巧妙に働きかける感覚的なものを霊的なものと呼び変え、すり替え、混同し、結果として、信仰よりも感覚を重んじるのである。そこで、ペンテコステ運動は、再生も、聖霊のバプテスマも、説教も、単に「喜びの伴う感覚体験」に変えてしまう。そしてついにはその「喜びの伴う感覚体験」が欠落していれば信仰ではないとまで言い切るのである。

 そこで、セス・リースの論説集もそうだが、ペンテコステ系の指導者のメッセージは、共通して極めて情緒的で、非凡な言葉を述べては人の感情を強く揺さぶり、感動を呼び起こそうとする手法に満ちている。だが、少しでも冷静に吟味すれば、常に感動しっぱなしということは、人にとって極めて不自然な状態であることが分かる。音楽の楽曲でもそうだが、初めから最後までずっとクライマックスということは絶対にない。しかし、ペンテコステの指導者の説教は最初から上り調子一辺倒で、テンションが全く下がらず、常なる感動を目指している点で、極めて不自然で人工的な作為を感じるものなのである。

 こうしたことが分からないまま、ペンテコステ運動に一度でも深く関わったことのある信者には、霊的な事実よりも感覚を重視するという危険な傾向――しかも、深く物事を吟味することを嫌い、自分の感覚にとって好ましいものだけを「信仰的・霊的なもの」だと勘違いする危険な傾向――が深く根付いている。それは一種の麻薬のような陶酔感に似ていて、人を盲目にさせて、繰り返し、繰り返し、聖書の御言葉に基づく冷静で穏やかな信仰よりも、自分を感動させ、手っ取り早く喜びや興奮をもたらし、感覚を喜ばせてくれるような偉大で非凡な体験へ飛びつかせようとその人を誘導するのである。

ペンテコステ運動につきものである、偉大な英雄の物語や、奇跡や感動体験の描写、あるいは感動的な礼拝音楽などといった偽の信仰物語は、人の耳を喜ばせることで、聞く人の心を釣りげるためのしかけである。このしかけに慣らされた人は、その感動体験を疑うことなく、条件反射のようにあっけなく飛びついては欺かれてしまう。そうなるのは、その信者の考えの根本に、セス・リースの書いたような、「信仰とは五感によって知覚できるものだ」という誤った思い込みが消えずに残っているためであり、霊の事柄と感覚的な事柄を混同しているからである。

 だが、信仰を五感によってとらえようとするこの試みこそ、聖書が最も人に警告している危険なのである。

「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:6)


この点で、やって来る霊を信者自身が鋭く吟味し、識別する作業をしないまま、ただ「霊の流れに身を任せる」などの言葉で、その場の空気やムードに無防備に自分を委ねるよう呼びかけるKFCの「セレブレーション」には、甘美な恍惚体験を餌にして、信者の正常な警戒心を眠らせて、偽りの霊に身を委ねさせるペンテコステ運動と全く同種の危険が潜んでいると筆者は考えている。



ある兄弟は、ルーク氏が魂の事柄と霊の事柄を混同し、
偽りの霊による魂的な体験に深く欺かれていると述べた。
しかし、受けた体験が甘美であればあるほど、また、
捕えられた人の感受性が鋭く豊かであればあるほど、
こうした甘美な体験を疑い、抜け出すのは難しくなる。
当初、ルーク氏の主張はかなり理知的であったが、
年々、同氏のミニストリーは深い論理的思考の裏づけを失い、
喜ばしい感覚体験をしきりに強調するものとなって行った。
標題にも見るように、正体不明の感動体験に信徒が
無防備に身を委ね、自己の主権を放棄して明け渡すように求める
ミニストリーは、聖霊派に特徴的であり、極めて危険である。


キリストの御霊の働きは、必ずしも心地よい感覚や、高揚感や、感動体験を伴うものではなく、たとえて言えば、「無色透明な」、信者が自分の意志や知性も含めて、完全な判断力や識別力を決して失うことなく、自ら選び取ることのできる現実である。

信者は心地よい感覚が伴うかどうかに従ってではなく、あくまで御言葉が何を言っているかに基づいて、何を信じて受け入れるべきかを自分自身で判断する。

キリストと共なる十字架における自己の死という事実についても、自己が死んだと感じるからそう信じるのではなく、御言葉が事実であるから信じて受け入れるのである。そのようにして絶えず、自分の感覚ではなく、御言葉への信頼に立ち続ける時に、ある時点で、信者は確かにその霊的事実が、自分の日常生活において実際になっていることを見るのである。

こうして、キリストの十字架の死に古き自己を同形化しながら、絶えず御言葉に従って歩むことは、人の自己にとっては、必ずしも喜ばしく感動的なことではない。日々自分の十字架を負い、キリストの勝利を実際として生きるとは、激しい霊的戦いでもある。

信仰の世界においては、言いっぱなしということは決してなく、信者は自ら信仰によって行なった告白を必ず試される。信者は、自分で宣言した御言葉の事実が確固たる現実になって生活に実際に現れるまで、絶えずそれに逆らうすべての有様を拒否して戦いを続け、これに勝利しなければならない。

信者は、霊においては、キリストがすべてを達成して下さったという事実に立脚して、これがすでに現実であることを知って、安息している。だが、日常生活においては、その霊的事実に反するような事柄が押し寄せて来て、自らの確信が揺るがされそうになったり、御言葉の外に引き出されそうになるのに抵抗しながら、堅く御言葉に踏みとどまって、御言葉のリアリティを地に引き下ろし、自らの生活において実際とせねばならない。この戦いは容易なものではなく、時には信者自身の魂が、霊を裏切って、敵の作業場になることもある。

霊は直覚によって御言葉をレーマとして受け取るので、何の証明もなくても、信者にはそれが真理であることが分かる。だが、信者は、霊においてはすでに御言葉の意味を悟り、複雑な状況の中で、どう行動すべきかを知っていても、魂は、常に常識に従ってものを考え、自分に納得の行く説明や証明を求めるので、霊が受けた啓示を受け入れがたいと感じ、これに逆らうことがある。

人の魂は、霊とは異なり、堕落した古き人(肉)に属するものであるから、御言葉に逆らい、肉の欲を遂げようと願うことがある。

たとえば、主イエスが共に船に乗っておられるのに、外の嵐を見て恐怖に駆られた弟子たちのように、信者は自分を取り巻く環境状況に実際に大きな波乱が巻き起こる時に、御言葉の平安の外に引き出されそうになることがある。

そのような時には、信者は「御霊によって、からだの行ないを殺」し(ローマ8:13)、御言葉に逆らう自分の魂の動きを全力で屈服させて、自分の心を治め、御言葉に従わせなければならない。

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。<…>
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:16-24)

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
私たちは、さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち破り、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を制する用意ができているのです。」(Ⅱコリント10:3-6)
 
時には、信者は感覚的には平安さえも失われたかのような状況も通過しながら、御言葉が実際になって自分の生活に現れるまで、戦い抜いて勝利せねばならない。環境を治め、自分の心を治め、自分の身体を治め、自己の内外に御言葉に逆らって立つあらゆる「高ぶり」を打ち破り、戦いに勝ち抜いて、御言葉を実体化することが求められるのである。そのような霊的戦いを経て、信者の内側での御言葉に応じた造り変えも進行する。

さらに、ルーク氏の言説には決定的に重要な問題点がある。それは信者にとって最も重要なのは、同氏の言うように「キリストの甘い愛の交わりの中に留り続ける」ことではなく、「御言葉の中にとどまり続ける」ことだという点である。

キリストとの交わりの中に留まることと、御言葉にとどまることは、ある人々にとって、ほとんど同じに聞こえるかもしれない。だが、順序が違うのである。聖書が繰り返し、述べているのは、信者がまず御言葉にとどまり、御言葉を遵守せよ、ということである。そうするならば、おのずと、その人の内側で、キリストを介した父なる神との愛の交わりも保たれる。だが、逆の順序はあり得ない。御言葉にとどまらず、御言葉を守らない人の内側で、神との交わりが保たれることはあり得ない。

従って、信者にとって重要なのは、自分の感覚にとって甘美で好ましく感じられる交わりにとどまろうとすることではなく、たとえ自分にとって好ましい感覚が全く伴わなくとも、それでも「御言葉に従う、これを遵守する」ことなのである。

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」(ヨハネ14:23-24)

もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)

ルーク氏は、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」という後半部分の解放は幾度となく強調するが、その前半にある「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら」という、信者の側の責任を、半ば意図的に見過ごしている趣があることに注意が必要である。

つまり、キリストの達成して下さった御業に安息するためには、人間の側にも果たさなければならない一定の義務があり、それが御言葉の中にとどまり、御言葉を守ることなのであるが、この点については、意図的にほぼ言及されていないのである。

こうしたことの中にも、筆者はペンテコステ運動の影響を見ざるを得ない。そこでは、人間にとって好ましく喜ばしい体験は幾度も強調されて、その体験に信者が自分を開いて受動的に身を委ねることは求められても、信者の側にも、主体的・能動的に果たさねばならない義務があり、中でも特に、御言葉に基づいて、信者が片時も警戒心を鈍らせることなく、目を覚まして自分に起きるすべての物事を鋭く吟味し、何が真理であるか、何が偽りであるかを自ら識別し、虚偽を見分けて退け、真理だけを選び取って受け入れるという識別の作業、すなわち、御言葉による「分離」や「切り分け」の機能を用いて、信者自身が何が真理であるかを識別する作業の重要性が、見落とされている点である。

こうした教えの中では、信者が疑ったり、識別したりする作業をやめて、受動的に感動体験に自分を委ねることは求められても、信者が片時も自分の理性を眠らせず、自分の主権を(キリスト以外の)何者にも明け渡すことなく、積極的・能動的に虚偽を退けて、御言葉の中にとどまりつづけねばならないことの重要性については言及されないのである。


<続く>


カルト被害者救済活動の反聖書性―グノーシス主義の基本構造➀ー



大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――カルト被害者救済活動の反聖書性について――
~キリストの十字架を否定するグノーシス主義思想~


1.キリスト教に恨みや被害者意識を持つ不信者を利用して、キリスト教の信用を貶め、聖書への信仰を毀損するために作り上げられた「カルト被害者救済活動」

2.キリスト教そのものに「カルト化」を生む病理が含まれているかのように唱える人間は、聖書の御言葉への信仰を否定し、神に敵対することになり、その結果、自らが「病理の見本」と化す

3.聖書の御言葉への信仰を「高慢さと自己愛の病理」として非難する人々は、キリスト教界のカルト化問題につまずいているのではなく、聖書の御言葉の「排他性」につまずいている。

4.キリスト教の「二分性」、「排他性」につまずいた人々は、キリストの十字架を否定して、聖書に基づかない「異なる福音」を捏造する。

5.神の知恵である御言葉に逆らって、キリストの十字架を否定し、人が己の努力によって自力で救済に至ろうとする「高慢さ」

6.魂と霊を混同し、信仰によらずに、感覚的な陶酔によって霊の事柄をわきまえようとするペンテコステ運動の危険
  
7.キリストの十字架によらず、肉による善行を通して、人が自力で救済に至ろうとする偽りのヒューマニズムは、「神に見捨てられた罪人を、神の十字架の判決から救う」ための「神に対する被害者運動」である

8.御言葉(十字架)の「二分性」、「切り分け」の機能に基づき、信者が目を覚まして、真理と偽りとを峻別する必要性

9.十字架の「切り分け」を否定する者は、己を神として神への反逆に至る

10.キリスト教の「二分性」を否定する者は、「唯一の神」を否定して、主客の区別を否定する。そして、知性による全ての区別を廃した「善悪未分化の母なる混沌」への「嬰児的回帰」を主張する。

   



1.キリスト教に恨みや被害者意識を持つ不信者を利用して、キリスト教の信用を貶め、聖書への信仰を毀損するために作り上げられた「カルト被害者救済活動」

 
さて、カルト被害者救済活動を推進するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、同牧師の活動を支持する杉本徳久氏は、これまでキリスト教界に起きた不祥事を次々に告発することにより、「キリスト教界のカルト化の危険」を盛んに訴えて来た。

当ブログにおいては、記事「罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか」などにおいて、聖書に立脚していない彼らの活動は、キリスト教の改革に何ら役立たないどころか、ただクリスチャンの間に行き過ぎた異端審問と魔女狩りを生むだけであることを指摘し、この活動を糾弾し、その危険性について警告して来た。

だが、その後、さらに長年、この活動の参加者らを観察した結果、筆者が気づいたのは、こうした活動の参加者らは、クリスチャンというよりも、むしろキリスト教の信仰を持たない不信者が中心であり、どちらかと言えば、これは初めからキリスト教の信仰に基づかない、キリスト教に敵意や恨みを持つ不信者ばかりを強く引きつけて作り上げられた運動だったという事実である。
 
村上密氏自身がプロテスタントの牧師であり、この活動を支持する杉本徳久氏が「信者」を名乗っていたという事実から、筆者は当初、彼らの活動を、あたかもキリスト教の内部から生まれて来た改革運動であるかのように見ていた時期もあった。確かに、活動に参加していた者の中には信者も含まれており、キリスト教界に起きた不祥事を見て、キリスト教の現状に危機感を持つ信者が、彼らと共に「キリスト教界のカルト化の危機」を訴えるということもあるにはあった。

だが、その実、この運動は、今やとうに信者たちからは見放され、カルト被害者からの支持をも失っており、現在は信者よりも、キリスト教に根強い恨みや敵意を持ち、キリスト教に何らかの被害者意識を持つこの世の不信者、もしくは、キリスト教につまずいて信仰をすでに捨て去った元信者らを盛んに引きつけている。そして、この運動は、こうしたキリスト教に敵意を持つ不信者らを駆り立てては、キリスト教に対する敵対的な世論を作り出し、クリスチャンに対する断罪・攻撃に及んで来たことが分かったのである。
 
なぜそのような結果に至ったかと言えば、カルト被害者救済活動は、一部、信者も取り込んでいたとはいえ、本質的には、初めからキリスト教の信仰に基づかない、キリスト教に偽装しただけの、キリスト教とは異質な、別の思想に基づく運動だったためである。むろん、その思想とは聖書を否定するグノーシス主義に他ならず、言い換えれば、東洋思想であるというのが、筆者の見方である。
  
当ブログでは、カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師の活動が、クリスチャンにあるまじき所業であることを幾多の記事で示してきた。
(たとえば、「村上密牧師による鳴尾教会への不当な介入問題 まとめ」や、「この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀」を参照。)

だが、村上牧師のみならず、同氏の活動を最も熱心に支持して来た「信者」の一人である杉本徳久氏の主張を見ても、同氏が「信者」であるという証拠を筆者は全く見いだせない。杉本氏は、カトリックの信者とも言われており、地上の組織としての教会には所属している信徒であるかも知れないが、信仰告白の内容においては、どこからどう見ても、クリスチャンの正常な信仰を持っていると言い難いことが明白である。(記事「この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②」等を参照。)

こうして、カルト被害者救済活動は、キリスト教の「牧師」や「信者」を名乗る人々が率いていたため、一見すると、あたかもキリスト教界の内部から信者自身によって始められた改革運動のように見えたかも知れないが、実際には、この活動の主要な指導者・支持者たちは、キリスト教の信仰を持っているとは到底、言い難い人々であった。さらに、この活動は、「キリスト教界のカルト化問題について論じ合う」ことを口実に、もともとキリスト教に不満や敵意を持つ不信者や、すでに信仰を捨ててしまった元信者たちを盛んに引きつけては、彼らにキリスト教に対する敵意や被害者意識のはけ口を提供し、キリスト教に対する敵対的で批判的な世論を意図的に作り上げた。

こうして、キリスト教のイメージを貶めて、キリスト教があたかも危機的状況にあるかのように世間にアピールしながら、こうした世論の後押しを受けて、不信者が、信者を断罪しては懺悔と自己反省を迫り、キリスト教に対して常日頃から持っていた恨みや被害者意識の鬱憤晴らしを行うという構図になっていたのである。この点で、カルト被害者救済活動は、信者による信者のための改革運動では全くなく、むしろ、不信者のキリスト教に対する敵意と憎しを原動力に、キリスト教に対する非難と攻撃を正当化するための運動だったと言えるのである。
  
村上氏や杉本氏らが、「疑わしい」とみなしたクリスチャンにインターネットで不法なバッシングを加えたり、あるいは法廷に引きずり出して信者に強制的な処罰を試みることが出来たのも、ひとえにこうした不信者らの作り出したキリスト教に対する批判的で敵対的な「世論」の高まりがあればこそであった。
 
こうして、彼らの活動は、あたかもキリスト教の改革が目的であるかのように装ってはいたが、その実、初めから、キリスト教に対して被害者意識や、恨みを持つ人々がその鬱憤を晴らすことを目的としていたのであり、その意味で、この運動は、キリスト教とは本来的に異質なイデオロギーを信奉する人々による「キリスト教の内側からの破壊・乗っ取り作戦」だったとみなすのが最もふさわしいと筆者は考えている。

その意味で、村上密氏が約十四年前、教団から鳴尾教会に正式に遣わされた伝道師夫妻を理不尽な方法で追放し、その後も、被害者を組織して「カルト化の疑いがある」とみなした教会や牧師に裁判をしかけたり、自らの活動を批判する人物に次々に抑圧を加えて来たことは決して故なきことではない。
 
これは、キリスト教徒に偽装してはいるが、実際には聖書に基づくキリストへの信仰を持たない不信者が、キリスト教に対する敵意や被害者意識を持つ人々を意図的に組織することによって、キリスト教内外に、この宗教に対する批判的で敵意に満ちた世論を作り上げ、キリスト教そのものが危機的状況にあるかのように訴えることによって、この宗教の信用を貶め、信者の御言葉への信仰を揺るがし、キリスト教を内側から攻撃し、破壊し、変質させて行くことが、この運動の支持者らの初めからの主要な狙いだったのではないかと見られる。

この運動は、その点で、最初から聖書の信仰に基づくキリスト教の改革運動ではなかったのである。むしろ、キリスト教を敵視し、何らかの恨みや被害者意識に基づいて、この宗教に報復し、打撃を与えたいと願っている人々が、この宗教全体に破壊的な影響を及ぼすために、キリスト教界に起きる不祥事を都合よく利用して、キリスト教を敵視する世論を作り上げ、信者への攻撃に従事して来たのである。

その参加者のほとんどが信者を名乗っていても、実際には不信者であり、彼らの目的は、カルト監視機構を設立することで、キリスト教と信者全体を監視し、取り締まりの対象とし、彼らの支配界に置き、反対者は訴訟や嫌がらせ等によって容赦なく追放しながら、キリスト教の教義を骨抜きにし、キリスト教の中身を、信者もろともにまるごと入れ替えて、彼ら好みの異質な宗教へ変質させていくことが目的だったのではないかと思われるのである。
 
 つまり、これは聖書の神を信じておらず、キリストの救いからも除外され、聖書の御言葉への信仰もなく、キリスト教に敵意と恨みを持ち、「キリスト教から被害を受けた」と主張する人々による、キリスト教とその信者全体に対する怨念に基づく復讐の運動だったとみなすのが、最もふさわしいと筆者は考えるのである。
 


    
2.キリスト教そのものに「カルト化」を生む病理が含まれているかのように唱える人間は、聖書の御言葉への信仰を否定し、神に敵対することになり、その結果、自らが「病理の見本」と化す
    
さて、上記のような活動の支持者らの言い分に明確に共通する点は何であるかを考えると、彼らが盛んに「キリスト教の病理」(言い換えるならば、「キリスト教界のカルト化の危機」)を訴えて、あたかもキリスト教そのものに「カルト化の原因」を生む「病理」が含まれているかのように主張している点であるように思う。

(ただし、彼らはこの問題を教義面から追究して立証するよりも、むしろ、以下に示すように、信者の「高慢さ」や「排他性」を非難するという形を取ることが多い。)
 
ちなみに、「キリスト教の病理」という用語は、ルーク氏の影響もあって、筆者もかつては使ったこともあったが、カルト被害者救済活動の支持者らと袂を分かって後は特に、筆者はそのような形で問題を訴えてはいない。
 
なぜなら、キリスト教そのものに「病理」なるものは存在しないからである。むしろ、聖書の御言葉こそ、人間の陥るすべての「病理」に対する唯一完全な処方箋なのであって、それ以外に、解決策はないのである。人間の作った組織としてのキリスト教界には、あまたの病理現象が見られるかも知れないが、その原因が、聖書の御言葉にあるわけでは決してない。カルト化現象は、信者が聖書の御言葉から逸脱し、これを曲げた結果として生まれるのであり、もし信者が本心からこうした問題を正したいと願うならば、その人々は御言葉へ立ち戻るだけで良い。信仰の問題は、信仰によらずに解決することは不可能である。

しかし、こうした立場とは逆に、聖書の御言葉によらずに、この世の裁判等に訴えて、キリスト教界の諸問題にメスを入れ、信仰の問題に介入しようとするならば、それは唯一の解決策を退けることであるから、より一層「病理」を深めるだけであるばかりか、やがてはその方法は、聖書の御言葉を否定して、キリスト教そのものに敵対して、神と聖徒らに敵対するという恐ろしい運動になって行く。それこそが、カルト被害者救済活動の辿って来た歴史であった。
   
聖書の御言葉への信仰を持たずに、キリスト教全体を疑わしいものとみなして、この宗教そのものに「病理」が含まれているかのようにみなして断罪するようなことをすれば、その人々は結果的にキリストの福音を否定して、神の救いから除外されることになり、理性を失う。御言葉に基づかず、キリスト教そのものを「病理的な、疑わしい宗教」であるかのように非難している人々が、真っ先に、まさに「病理」の見本となって行くのである。

このことは、カルト被害者救済活動の支持者らが非難している対象が、無差別的に拡大していることの中にも見て取れる。

たとえば、村上密氏の場合、当初、同氏は統一教会などのキリスト教外の「カルト」を糾弾していたが、次には同氏の標的は、キリスト教内部の「カルト化の疑いのある教会」になり、果ては、村上密氏自身が所属している教団にまで向いた。同氏は「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の危機」を唱えて、自身の属する教団までも非難の対象としている。

こうなっては、キリスト教界に安全地帯はないということになろう。村上氏は、鳴尾教会に対する訴訟に及んだ事実からも確認できるように、もとは同じ教団の仲間であって、「同じ釜の飯を食った」牧師でさえも容赦なく敵扱いし、打撃を加えることを辞さないのである。

カルト被害者救済活動の指導者による、このようなのべつまくなしの信者への攻撃を見ると、自分の活動を批判し、理解を示さない全ての人を敵扱いするという一種のパラノイド的思考に陥っている様子が見て取れる。筆者が当初より警告した通り、彼らの言う「カルトとの闘い」は暴走して魔女狩りのようになり、キリスト教を信じる全ての信者に対する無差別攻撃になって行ったのである。

このようなことが起きたのは、彼らの率いるカルト被害者救済活動が、もともと本質的に、キリスト教の中から信者自身によって起こされた、聖書に回帰することを唱える平和な改革運動ではなく、むしろ、キリスト教には異質な理念を基礎とする、聖書の御言葉を否んでキリスト教そのものに敵対する運動であって、内側からの破壊運動であったと考えれば不思議ではない。
  
つまり、彼らの真の目的は最初から、聖書に戻ることにはなく、むしろ、キリスト教に異質な思想と方法論を持ち込むことで、キリスト教を破壊し、聖書の御言葉への信仰を毀損することにあるのだと見られるのである。
 



3.聖書の御言葉への信仰を「高慢さと自己愛の病理」として非難する人々は、キリスト教界のカルト化問題につまずいているのではなく、聖書の御言葉の「排他性」につまずいている。
 
このことは、カルト被害者救済活動の支持者らが、聖書に忠実な信仰を維持する信者たちを非難・攻撃する際の主張の中にも見て取れる。
    
筆者は、かつて記事「キリストの十字架以外に救いはない!」において、教会のカルト化という問題は、聖書の御言葉に立ち戻り、キリストの十字架に立ち戻ることによらなければ、決して解決し得ない問題であることを訴えて、聖書に立ち戻ることなく、キリスト教界の不祥事を現象面から糾弾することにのみ熱中しているカルト被害者救済活動に訣別を宣言した。

それ以後、当ブログに対しては、この活動を支持する人々から長年に渡り、猛烈な嫌がらせが行われて来た。中でも、杉本徳久氏からのとりわけ執拗な嫌がらせについては、記事「この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②」等で紹介した通りである。
 
さて、杉本氏が、筆者の信仰的な立場を非難するために書いた一連の記事やメールの中で、しきりに「自己愛性妄想」だの「自己愛イメージ」だのといった意味不明な造語をふりかざしては筆者を断罪しようと試みていたことを思い出したい。
 
実のところ、筆者は長い間、こういう意味不明な単語がどこから出て来たものなのか、さっぱり理解できなかった。そもそも「自己愛性妄想」という用語自体が杉本氏の造語に過ぎず、同氏の言う「自己愛イメージ」という概念も、一体、何を指しているのか、具体的文脈が全く不明なのである。
  
しかしながら、以下に引用するような記事を読めば、彼らが何を言わんとしていたのか、それがどんな理由によって生まれた主張なのか、かなり明確に理解できるように思う。

以下の記事は、教会のカルト化問題をきっかけに、プロテスタントにつまずいて「脱福した」と述べている元信者が書いたものである。記事の標題は、「クリスチャンの自己愛の病理と「病識」の問題」。心理学の分野に造詣のある人物が書いているようだが、しかし「クリスチャンの自己愛や病理や病識」と言った専門用語は、学術世界に正式な用語としては存在していないはずである。従って、これは学術的見解と呼べるものではなく、杉本氏と同じように、単にこの人物が、キリスト教の理念を誤ったものとして非難したいという動機から、自らの専門知識にものを言わせてそれらしく作り出した造語であると見て良かろう。
   
ブログには一見、讃美歌が記されていたり、主イエスの御名が登場したり、カトリックへの共感が語られたりもしており、著者はどうやら幼い頃から、キリスト教になじみ深い環境で育ったようである。当ブログの管理人が、プロテスタントのキリスト教界で起きる様々な問題に疑問と絶望感を覚えながら、真剣に神を求めて歩んでいた頃の姿勢に、どこかしら重なる部分も感じられる。

しかしながら、筆者と以下のブログの著者との決定的な違いは、このブログの著者が、単にキリスト教界の問題に絶望を感じてキリスト教界から脱出したにとどまらず、「脱福した」と自ら記している点である。

つまり、この人は組織としてのキリスト教界の抱える問題に疑問を感じたことをきっかけに、組織としてのキリスト教と訣別したのみならず、それを機に、キリストへの信仰とも訣別したのであり、キリストの福音を自ら捨てたと公言しているのである。

プロテスタント信者の「高慢さ」に辟易してカトリックに戻ったというわけでもなく、プロテスタントにつまずいたことをきっかけに、聖書の御言葉そのものに対する疑念が生じて信者をやめたというのである。
 
そこで、以下の記事は、文化としてのキリスト教にはなじみ深い環境で育った人間であるかも知れないが、すでに信者ではない人間によって書かれたものであり、この著者は、キリスト教の外に立って、プロテスタントの信者たちの「聖書の御言葉中心(絶対)主義」を、信者の「高慢さやナルシシズム」の表れとして非難し、否定しているのである。
    
今ここに、この記事をあえて長々と引用するのは、この記事に記されているプロテスタント信者への非難の言葉の中に、筆者がカルト被害者救済活動の支持者らの言動の中に常に感じて来た「クリスチャンに対する敵意と憎悪」をそっくりそのまま見ることができるからである。

さらに言えば、カルト被害者救済活動の参加者たちが一様に述べる、クリスチャンに対する被害者意識と恨みの念が、実際には、あれやこれやの未熟な信者の言動や、カトリックやプロテスタントといった特定の宗派の独自性につまずいて生まれただけにとどまらず、その根源が、聖書の御言葉そのものに対する彼らの敵意と否定にある様子が見て取れるからである。
 
すなわち、彼らの表明するような、「高慢で自己愛に満ちたクリスチャンたち」に対する恨みや被害者意識の念は、根本的には、彼らのキリスト教そのものに対する敵意と、御言葉に対する敵意と不信感から生まれて来るのであり、最終的には――クリスチャンのみならず、キリストの福音の否定と、聖書の神そのものに対する敵意へと至り着くのである。

クリスチャンの自己愛の病理と「病識」の問題――その①

私がカトリックの世界の中にいた時には比較的感じなかったけれども、プロテスタントの世界に入信して以来強烈に感じる様になった違和感の一つに、福音派のクリスチャンたちの持つ鼻持ちならない高慢さとナルシシズムがありました。

私の親戚縁者には福音派のキリスト教徒が多く、また大叔母などはカトリックでシスターに献身しているくらい熱心なキリスト教徒なのです。そういうわけで、私も幼少期より『聖書物語』を愛読して育ちましたので、アブラハム、イサク、ヤコブの神=「主なる神」という存在をとても身近に感じつつ成長したように思います。

私は諸般の事情があって、主イエスの救いを個人的に受け入れた十三歳のクリスマスには洗礼を受けることが出来ませんでした。しかし、その後も継続的に聖書研究会に出席し続けましたので、カトリックの公共要理についての問答は一通り学びました。

カトリックの大先輩たちには、例えば当時まだ元気溌剌と活動しておられたマザー・テレサもいらっしゃいましたし、フロイト派の精神分析医で「甘え理論」を打ち立てられた土居健郎先生もまだまだ元気で活動しておられました。何より、死生学を日本に広めたアルフォンス・デーケン神父も、今上智大学で臨床心理学の教授をなさっているクスマノ神父もみなさん本当にお元気な姿を見せてくださっていましたね(*^_^*)

私は何もカトリックがよくてプロテスタントは駄目だとか、そんなアホなことは考えていません。カトリックにもプロテスタントにも、と申しますか、キリスト教そのものに本質的な精神病理があると愚考しているのです。「ヨシュア」ことイエスが説いた教えとこんにち存在するキリスト教徒の間には、看過できない乖離があるのではないかと思いますが、いかがですか(^-^;

聖書絶対主義と申しますか、よく言えば「福音的」な信仰と申しますか、そういう発想のただ中にそもそも自己愛的な「排除の病理」を看取するのですよ

聖書しか信じない者が正しいクリスチャンで、聖書以外の中にも何がしかの真理を認めるという姿勢は、リベラルな信仰として排除されるという訳です。

今問題になっている感のあるイスラム教とか仏教についても、大体のクリスチャンは極めていい加減なことしか知らないのに、ただ彼らが聖書第一信仰ではないからというだけの理由で、例えば仏教の寺院に油を掛けたりするのですね。何とも情けない信仰ですね(-_-;)

「聖書だけが唯一正しい(誤りなき)神の言葉だ。」ということを福音派の方々はしばしば呪文のように唱えますね。しかし、聖書が各種の資料を恣意的に置換するように変換して人工的に作られたものであるということは考古学的にも神学的にも自明の理ですのに、どうして論理学的に破綻を来している福音的信仰に疑問を持たないのか、私は不思議でなりません。

「聖書が正しいということは聖書がそう宣言しているのだから、その通りなんだよ。」と言われましても、こんなひどい論理的矛盾はないものですね(^_^;) 

「私が正しいのは『私が正しい』と自分で言っているからだ!!!」と一般人が何万回叫んでみても、誰も耳を貸さないでしょうね

まぁそりゃあ三浦光世・綾子夫妻が体現しておられたようなある意味で麗しい(ように見える)夫婦愛とか、分かりやすい例で言えば『塩狩峠』の主人公が身を持って示したような愛の自己犠牲とかの真実に触れた人が、「この人はどうしてこんなに温かいのだろう? 何がこの人をこんなにもやさしい人にさせているのだろう?」と自発的に思うくらいそこに神の愛が存在するならば、赦しと愛に飢えた人々は押し寄せる様にエクレシアにやってくるでしょうね。

もしキリスト教会に本物のイエス・キリストの似姿としての愛があれば、恵みの雰囲気に飢えた人たちは押し寄せてくると思うんですよね。

バザーをやれば、或いはゴスペルコンサートを上演すれば、それを目当てとしてお客さんが来るかのように求道者が押し寄せてくるのではないかなんて、ペンテコステ派や福音派の信徒さんたちや牧師さんたちは本気で考えているのでしょうかねぇ。そんな姑息な手段では人は集まりませんよ((+_+))

<中略>
 

 私は確かに今後二度とキリスト教会に行くことはありません。それは、こんにちのキリスト教会が本質的に――神学的にも――イエスの説いた本筋から脱線しているということもあるのですが、キリスト教会のカルト化がひどいという事情もあるのです。私はカルト教会に歯向かって、かなり戦いましたのでね。疲れますよ、無駄にねぇ

今日は「クリスチャンの自己愛の病理と『病識』の問題――その①」と題しまして、クリスチャンが持っている自己愛的精神病理や排除によるヒエラルキーの問題、トゥルニエが指摘している『暴力的存在としてのキリスト教徒』の問題、そして自分のおかしさを自分で認識しているといういわゆる「病識」の問題に入っていく切り口を作りかかったところでお時間となりました。

この話題は何回かに分けてゆるやかにお書きしたいと(そんな記事は誰も期待していないでしょうけれど)勝手に思っています<(_ _)> 

カルト教会の問題に興味のある方々にたまに読んでいただけたらとても嬉しいです(*^_^*)

いつの時代も同様だったのではないかと思いますが、キリスト教徒を誠実にこなすことは骨の折れる仕事です。私は一抜けましたが、何せ三十数年間キリスト教会の内幕をつぶさに拝見して参りましたので、その辺りのことをいろいろとお書きしていきたいと思います<(_ _)>


ここでも、「神社への油まき事件」が、村上密牧師らの活動と同じような文脈で、キリスト教とクリスチャンに対して敵対的で否定的な意見を裏づける根拠として利用されていることに注意したい。

筆者から見ると、実に恐ろしい現象なのだが、「教会のカルト化」という問題をきっかけとして、これを非難しているうちに、聖書の御言葉の絶対性を否定して、キリストの福音そのものから除外されて行く「信者」たちが現れるのである。

カルト化問題を解決するために、真に御言葉に立ち戻る必要性があることを訴えるのではなく、むしろ、こうした問題をきっかけに、キリスト教そのものに「病理性」があることを訴えて、この宗教と信者を糾弾し、この宗教への絶望感を語り、煽る人々は、聖書の御言葉への信仰そのものを否定して、キリストの救いから自ら除外されて行くのである。こうした人々は、カルト被害者救済活動の参加者らの中にも多数、見受けられた。
 
ここから、「教会のカルト化」問題を語る際に、その人が、聖書の御言葉に対してどう向き合うかという点が、信者のその後の明暗を大きく分けることが分かる。

教会に起きた問題をきっかけに、神をより真剣に求め、より聖書に忠実に戻ろうとする人は、決して、キリスト教そのものにつまずいて、これを否定するに至ることはない。だが、教会の問題を論じるうちに、聖書の御言葉そのものに懐疑的になる人は、いずれキリスト教からも脱落し、キリストの福音そのものを否定することになる。つまり、救いを失うのである。
 
「クリスチャンに見られるあれやこれやのあるまじき問題」を現象面だけから非難していると、そのうちにいつの間にか、こうした問題が、あたかもキリスト教そのものに原因があって生まれたかのような錯覚が生じ、こうした「被害者」を生み出した「狭き門」としてのキリスト教そのものに懐疑的になり、聖書の御言葉の真実性を否定して、十字架の切り分けを否定して、神の福音から除外されて、福音の外に弾き出されてしまうことになるのである。
 
筆者の観点では、こうした人々は、クリスチャンの未熟な言動につまずいているのではなく、聖書の御言葉そのものにつまずいているのである。彼らが真に糾弾したいのは、あれやこれやの信者の未熟な言動ではなく、カトリックやプロテスタントという特定の宗派の欠点でもなく、むしろ、キリスト教に本質的に備わっている「二分性」、「排他性」なのであり、聖書の御言葉そのものが持つ「分離」や「切り分け」の機能、キリストの福音の排他的な「狭き門」なのである。
 
つまり、キリスト教の「狭い救い」(あえてこのような表現を使うならば)自体が、彼らのような人々にとっては、「反人間的で思い上がったもの」と見え、自分を残酷に排除した「狭量な福音」自体に我慢がならないということが、この人々のキリスト教に対する抗議の核心なのである。
 
従って、こうした人々にとって「教会のカルト化」という問題は、キリスト教に特有の「排他性」を非難するための単なるきっかけに過ぎない。彼らの主張の根幹は、特定の信者や特定の教会や特定の宗派に対する不満にあるのではなく、聖書の御言葉そのものへの不満、否定にあるのだと見られる。
 
すなわち、こうした人々は結局、神と人との断絶という聖書の事実そのものに対して異議を唱え、この断絶を解消するための手段が、唯一、キリストの十字架にしかないという聖書の事実を否定しているのであり、つまりは、己の罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信じて受け入れた者しか救われないという「キリスト教の狭量で排他的な救い」自体に抗議しているのである。そして、このような「狭き門」しか提唱できない「キリスト教そのものに本質的な精神病理がある」と非難して、そのような「狭い救い」から除外された自分たちを、「残酷で狭量なキリスト教の被害者」であるとみなし、彼らを容赦なく救いの対象外としたこの「残酷な」宗教全体を、「神と信者たちの高慢と自己愛が作り出した病的に歪んだ宗教」として非難しようとしているのである。

「キリスト教そのものに本質的な精神病理があると愚考しているのです。」

「聖書絶対主義と申しますか、よく言えば「福音的」な信仰と申しますか、そういう発想のただ中にそもそも自己愛的な「排除の病理」を看取するのですよ。」

筆者は、このブログの著者と同様の見解に立つ人々に個人的に出会ったことがある。たとえば、2009年頃、筆者は「キリスト教界からエクソダスせよ」という呼びかけに共感し、真実なエクレシアを求めてキリスト教界を旅立った信者たちに数多く出会ったが、記事には一度も記したことがないが、その中には、ある信者の「山小屋」で出会った姉妹もいた。彼女もやはりキリスト教界を出た一人であり、当時、私たちは兄弟たちと共に聖書に基づく真実なエクレシアのあり方について、夜を明かすほど熱心に語り合ったものであった。

ところが、ずっと何年も経ってから、この「姉妹」に再会すると、彼女は驚くべきことに、当時とは全く異なる見解に達していた。

その「姉妹」は聖書外伝に多大な関心を持って没頭しており、なぜそれらの外伝が、プロテスタントの信者の通常の概念によると、正統な聖書から除外されねばならないのか、全く理解できない様子であった。その「姉妹」は、聖書66巻だけが神の霊感を受けた書物であるとする「排他的な」プロテスタント信者の聖書信仰に対する明らかな敵意と怒りを込めて、筆者を詰問した。「なぜ聖書66巻だけが神の霊感を受けた書物なんですか!? どうしてそれ以外のものは聖書に含まれないんですか。どうしてこれだけが正しいと言えるんですか? 証明する方法があるなら、証明して下さいよ!!」

以前にエクレシアを求めて和やかに熱心に交わっていた頃とは、全く変わり果てた調子に、筆者はいささか驚いたが、いずれにしても、66巻だけが神の霊感を受けた書物であることを「証明」することは誰にもできない相談であり、我々はそれをただ信仰により「信じて」おり、また、御霊が我々の霊において御言葉の正しさを直接教えてくれるがゆえに、私たちは神の御言葉を論理的証明によるのでなく啓示によって理解するのであり、聖書外伝については、多くのグノーシス主義思想に基づく外伝も書かれているため、そのようなものを無分別に取り入れるのは極めて危険であると忠告した。

その「姉妹」は、上に引用したブログ記事の著者と同じように、聖書信仰が論理的に「証明不可能」であると確認するや否や、侮蔑と嘲笑を込めて、「そんな荒唐無稽で非科学的な未熟な信仰を未だに後生大事に保持している信者たちは愚かで可哀想だ」との見解を述べた。それ以来、筆者は、以前は同じように見えたこの「姉妹」との見解が、天と地ほどかけ離れていることを理解したので、彼女とは一切議論したことがない。
  
通常、聖書66巻が神の啓示によって書かれた書物であるということについて、クリスチャンは証明の必要がないと考えている。しかし、すでにこの点でも、聖書が提示する「二分性」や「排他性」に大きくつまずく人たちが出て来るのである。

このようなことから始まって、何が神に属するものであり、何がそうでないかという、御言葉に基づく「切り分け」自体が全く認められないという人たちが出現するのである。彼らはそれが「高慢で狭量な残酷な排除の論理」だとして、怒りと憎しみを込めてクリスチャンに抗議し、聖書の御言葉の持つ「二分性」を非難するのである。
 
そのような見解に陥る人々が、もともとキリスト教に理解のないこの世の人々であったならば、まだしも理解できるが、元は信者であり、何年間も、教会に所属しており、かなり熱心に真の教会のあり方を探し求めていたような人々が、キリスト教界の不祥事につまずいたことをきっかけに、最後には聖書の御言葉自体を否定して、キリストの救いから除外されて行くことは、筆者から見れば、極めて恐ろしい現象であった。

彼らは一様に言う、プロテスタントの「聖書絶対主義」そのものが、信者の「高慢」と「ナルシシズム」の産物なのだと。つまり、彼らは、信者が聖書66巻の御言葉の真実性を信じていること自体が、「思い上がって身勝手な自己愛」だと言って信者を非難するのである。
 
全く賛同も理解できないが、そのような転倒した理屈が生まれて来るのは、彼らが自分たちは、キリストの救いから「除外されている」という確信を心の内側で持っているためであると見られる。

もし信者が、聖書の御言葉を真実なものとして信じて受け入れていれば、自分は御言葉の内側にいて、すでに救われているという確信が心にあるので、安堵してキリストの救いを受け入れていられるはずである。御言葉は、その人の心に平安をもたらすことはあっても、憤りや憎しみや敵意をかき立てることはない。だが、もし人が聖書の御言葉の真実性を疑うならば、その人は、自分が神の救いから除外されており、罪に定められると感じればこそ、そんな「反人間的な狭い福音は許せない」と抗議するのであろう。

このように、目には見えずとも、聖書の御言葉は、聞く人に確かに何らかの峻厳な区別をつきつけるようである。目に見えずとも、御言葉により、はっきりとした霊的な線引きが生じるのである――そこで、ある人々は、自分は御言葉の「内側にいる」と感じて平安を受け、ある人々は、「外側にいる」と自覚して憤りを覚えるのである。
 
キリスト教そのものに病理があるなどと言って抗議して来る人々は、ほぼ間違いなく、「外側にいる」と感じている人たちである。彼らは、キリストの十字架の贖いを信じた者だけが罪赦されて救われるという、キリスト教の大前提(プロテスタントのみならず、カトリックであっても、正教であっても、教義上、変わらないはずであるが)自体が、全く許せないほどに「狭量で排他的」であり、そんなものは「信者の思い上がって高慢な自己愛とナルシシズム」から生まれて来た偽りであり幻想に過ぎないと抗議するのである。つまり、彼らはそのように信者を非難することによって、結局、自分を除外した福音そのものに異議を唱えているのである。



 4.キリスト教の「二分性」、「排他性」につまずいた人々は、キリストの十字架を否定して、聖書に基づかない「異なる福音」を捏造する。
   
こうして、キリスト教の持つ「二分性」、「排他性」につまずいたことをきっかけに、キリストの福音そのものから除外される人々が出現するのであるが、さらにその上、こうしてキリスト教につまずき、救いから除外された「可哀想な人々」を、聖書とは別な方法で「救済」すべく、キリストの「狭き門」を押し広げて、独自の「広き門」を打ち立てようとする人々が、昔から今に至るまで、数多く存在して来た。上で引用したブログ記事において、キリスト教を捨てた元信者が賞賛しているマザー・テレサもその一人である。
 
記事「神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~」からもう一度、引用したい。

「ここで思い出されるのが、ドストエフスキーの大審問官や、サンダー・シングなどの存在である。ドストエフスキーの大審問官は、聖書的な方法では人類のほんの一部しか救われないため、自分はこのような残酷で狭量な救いの代わりに、人類の圧倒的大多数を救うことのできる寛大で広い救いを作ってやるのだと述べて、教会の提示する方法では救われない圧倒的大多数のための新たな福音を提唱する。

サンダー・シングもまた、ヨーロッパのキリスト教界に接触した際、形骸化した教会生活と高慢なクリスチャンに深い絶望を覚え、こうした「自称クリスチャン」の中に神はおられないという結論に至り、それをきっかけとして、「ヨーロッパの地の塵を足から払い落とし」貧苦に喘ぎながらも真剣に神を求めている東洋の人々へと」関心を移した。「聖なる導き インド永遠の書」林陽訳、徳間書店、p.19。)
 
マザー・テレサや奥田牧師の場合と同様、こうしてクリスチャンを名乗りながらも、教会から打ち捨てられた人々を積極的に救いの対象とする「弱者救済活動」を行う指導者は、往々にして、従来のキリスト教界と従来のクリスチャンに対する深い絶望感、嫌悪感を心の底に秘めている。

彼らの「救済活動」は、神と教会とクリスチャンに対する絶望をきっかけとして始まっており、彼ら自身の自己救済のためであると言える。その出発から見て、必然的に、そのゴールは、神と教会とクリスチャンの「横暴」によって虐げられた者たちを、神と教会とクリスチャンの手から救うという性質を持つものとならざるを得ない。その結果、彼らは信仰による解決を退け、信仰によっては救われない圧倒的大多数のために、別の福音を作り上げるのである。
    
こうした人々の弱者救済活動は、ただ単に形骸化したキリスト教界に対するアンチテーゼであるばかりではなく、本質的に、聖書の提示する狭き門として「狭い福音」そのものに対する抵抗であり、抗議なのである。

彼らはその活動を通して、神自身の「横暴」と「偏狭な救い」から人々を救おうとしているのだと言えるかも知れない。だから、こうした弱者救済活動は、本質的には神を仮想敵としているのだと言えるのである。すなわち、神に疎外され見捨てられた「クリスチャン」が、同じように、教会に見捨てられた人々に自己投影し、この哀れな人々を「救済」することによって、自己救済を成し遂げ、さらには自分たちこそ神に等しい者であると主張することによって、自分を見捨て来た神と教会とクリスチャンに復讐を果たし、彼らを見返そうとする心理がその根底に横たわっているのだと考えられる。
 
従って、こうした弱者救済活動は、いかにうわべはキリスト教的な装いをまとっていたとしても、聖書に基づくものではなく、その支援者らもクリスチャンとは言えない。彼らの救済活動は、本質的には「神と教会とクリスチャンの唱える偏狭な救いに対する抵抗運動」なのであり、彼らが真に糾弾している相手は、彼らを理不尽な苦しみに遭わせ、見捨てて来た神ご自身なのである。」


全く恐ろしいことではあるが、プロテスタントの聖書中心主義につまずいて、そんなものは信者たちの「高慢」や「自己愛」の産物だのと言って非難している人々は、結局、キリスト教そのものを「神の高慢で偏狭な救い」であるとして、この「狭い救い」そのものを退け、御言葉を否定して、神に敵対しているのである。
 
こうした人々は、キリスト教を「病理的な宗教」として非難するのみならず、「教会のカルト化を憂う」、「カルト化現象によって傷ついた被害者を救う必要がある」などという一見、もっともらしく、美しく見えるヒューマニスティックな大義名分を持ち出して、他の信者に接近し、巧みにその信者の教会や信者に対する不満を探り出し、それをきっかけに、目に見える教会のあり方に疑問を感じさせるだけでなく、目に見えないキリストの御言葉の真実性までも疑わせ、巧妙に福音の外へ引き出して行こうとするのである。

カルト化問題をきっかけに、自分が「キリスト教の被害者」であると訴えた人々は、ことごとく、このような偽りに欺かれ、神と教会とクリスチャンの敵となって行った。カルト被害者救済活動を支持するほとんどの人々は、このようにして信者の敵と化したのである。たとえ讃美歌や教会行事や文化としてのキリスト教には関わっていたとしても、御言葉の真実性を信じることができなくなったこのような人々を信者とは呼ぶことはできない。

その意味において、カルト被害者救済活動は、初めから聖書の御言葉に基づく改革運動ではなく、むしろ、「教会に見捨てられ、神に見捨てられた哀れなキリスト教の被害者を、同じように教会につまずき、神につまずき、キリストの救いから除外された者が自己救済するという、神なきヒューマニズムに基づく偽りの救済運動だったと言える。
 
この人々が最もつまずき、「被害」をこうむったと主張している本質的な問題は、教会のカルト化という現象にではなく、彼らを救いから排除した聖書の御言葉にあったのである。

彼らは結局、カルト化問題を告発することにより、こう主張しているのである。「キリスト教が私たち人間を精神病理に陥れる原因を作った。だから、キリスト教は加害者であり、聖書の神は加害者であり、我々はその被害者だ」と。つまり、彼らはただキリスト教の被害者であるのみならず、神の被害者だと自称しているのであり、「我々は自己愛とナルシシズムに満ちたキリスト教の思い上がって身勝手な信者たちだけでなく、神の自己愛とナルシシズムに満ちた狭量な福音によって傷つけられ、そこから理不尽に除外された被害者なのだ!!」と主張しているのである。

従って、カルト被害者救済活動とは何かと問えば、結局、これは「キリスト教という、本質的に精神病理を含んだ狭量で異常で排他的なカルト宗教によって、容赦なく見捨てられ、救いの対象外とされ、精神を病み、被害を受けた主張する哀れな人類を、聖書の神と聖書の御言葉によらずに、別な方法で救済しようとする、キリスト教とは本質的に異質な運動」ということになろう。

だからこそ、当ブログでは繰り返し、この活動はあれやこれやのカルト化教会やあれやこれやの「疑わしい」信者だけを仮想敵とする運動なのではなく、キリスト教そのものと、聖書の神そのものを仮想敵とする神に敵対する運動だと述べているのである。
 
 
<続く>


この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②

2.この世の常識によってクリスチャンを罪に定め、クリスチャンを裁判にかけることで、キリスト教徒を弾圧し、霊と肉の秩序を転倒させることに喜びを見いだすカルト被害者救済活動の異常な支持者たち 
  
2-1.この世の不信者を動員して信者を恫喝して黙らせるカルト被害者救済活動の手口

さて、カルト被害者救済活動の根底に流れる異端思想については、別稿でも詳述する予定であるが、私は異端思想の総称を「東洋思想」と呼べるのではないかと考えている。

東洋思想は日本人には極めてなじみ深いものであり、それは神と人との断絶を認めないことから始まって、キリストの十字架における分離と切り分けを否定して、全体と切り離された個人というものを認めず、個人を「母なるもの(全宇宙)」や「全体」(社会、家族、国家、世論、空気、すなわち最終的には「この世」)の一部とみなす。

この思想は、人間が罪によって神と断絶したことを認めず、被造物の堕落を認めないので、神と宇宙は一つであり、人はこの宇宙と切り離されることなく、それに生まれながらに包含されるという考え方に貫かれており、そこで、宇宙には神が満ちているというとか、木や石にも神が宿っているとか、人も生まれながらに神であるとか、目に見えるものはすなわちみな神であるという汎神論的な考え方を生む。 
 
このような考え方は、見えるものすべてを高く掲げ、人間の罪や堕落といった考えを否定するので、人の耳には心地よく響くかも知れないが、結局、神と人との断絶を認めず、被造物の堕落を認めない思想は、個人を全体から分離することや区別することも否定して、人を堕落した「この世」に永久に閉じ込めて束縛し、決してそこから外に出そうとしない点で、恐ろしい思想なのである。
 
しかし、日本人は古来からこのような思想に慣らされているので、物心ついた時から、全体の中で自分が何らかの役割を果たすことによって、初めて個人としての評価を得られるという考え方をすりこまれている。

ゆりかごから墓場まで、日本人は、絶えず社会や集団における人間関係のヒエラルキー、縦の序列の中で、自分よりも強い立場にある人間に積極的に奉仕し、権威者から覚えめでたい人となり、優秀だという評価を得なければ、自分が人としての価値を失うかのような恐れに縛られて生きている。そのような恐れを人に抱かせるためのシステムがこの世に出来上がっている。

そこでは、個人の尊厳というものが、社会全体においてその個人が果たす役割(あるいは貢献度)を基準としてはかられるのが当然視されているため、個人の尊厳というものが、そもそも他者によって外から評価されたり付与されるべきでなく、個人の尊厳とは、個人が生まれながらにして持っている絶対的な価値だとみなす考え方がないに等しい。

このようなシステムに従って生きている人は、集団と切り離されたところで、集団の中で何の役割も担わない個人というものを考えることができず、自分の価値を、自分を取り巻く集団における自分の有益性という外側からの評価と切り離して考えることが極めて困難である。
 
そこで、ほとんどの人は、外面的な評価を得るための競争に絶えず踊らされながら、大変な努力をして何かを達成しても、それによって満足することもなく、さらに多くの人々を凌駕して、さらに多くのものを手に入れなければ、自分の価値を確信できないという不安と焦燥感に追い立てられている。

クリスチャンは、曲がりなりにも、このような弱肉強食の世が堕落しており、この世で尊ばれているものに価値がないこと、また、人間が堕落した罪深い存在であり、キリストの救いを信じることなくしては、神と断絶していることを知っている。そして、キリストの十字架を信じることにより、信者が罪から贖われ、キリストの義を着せられ、堕落した「この世から召し出された」ことを知っている。この召し出された人々が、神の教会なのである。

召し出された人々は、この世の価値観とは違った価値基準によって生きている。神を信じる以前のように、この世の人々からどう評価されるかという恐れに縛られ、人の目により評価されるべく努力して生きるのではなく、神の目に喜ばれ、評価されることが、クリスチャンの新しい人生の目的である。
  
クリスチャンは世から召し出されたがゆえに、自分がこの世からは激しい憎しみの対象となっていることをも知っている。この世の君は、「空中の権を持つ君」、すなわち、サタンであり、この世の世論、社会の動向、世界の情勢、目に見える世界を直接、支配しているのは、悪魔なのである。しかし、この世にあるものは、必ずしも人の目にすべて悪く見えるものばかりでなく、良識や善と見えるような、良さそうなものも多く含まれており、こうした見せかけの偽善的な道徳や、見せかけの良識を巧みに利用しながら、悪魔はこの世という巨大な偽りの体系を築き上げているのである。

生まれながらの人々は、この世という体系が偽りであり、堕落していることを理解できない。たとえ何かがおかしいと気づいたとしても、罪のゆえに、彼らはこの世の奴隷とされており、死の恐怖のために逃げ出すことができない。

しかし、クリスチャンは、この世の暗闇の圧政から救い出されて、キリストの霊的統治のもとに置かれているため、悪魔がその支配を及ぼすことのできない領域にいる。それゆえ、信者は暗闇の勢力と彼らの支配する「この世」からは激しい憎しみの対象となっており、暗闇の勢力は何としても、この世から召し出された信者を、再びこの世の奴隷に戻そうとたくらんでいるのである。

聖書は、再三に渡り、信者がキリストにあって自由を失わず、キリストの復活の証人として立ち続けるためには、この世を愛してはならず、この世と妥協してはならないと警告している。しかし、この世を愛するとは、単にこの世の富を愛するだけでなく、世からの評価(自己の栄誉)を愛することをも意味する。
 
もし信者が神がどう自分を評価されるかを気にするのではなく、人の目に自分がどう評価されるかを気にして、この世の人々の批判を恐れたり、人から良い評価を受けたいがばかりに、外面を取り繕い始めると、早速、その人は神に対して生きるのではなく、世に対して生きる者となってしまう。

さて、カルト被害者救済活動に携わる人々は、クリスチャンを信仰の道から逸らすために、「この世」を巧みに利用して、クリスチャンを糾弾する「世論」を作り上げた。そして、この偽りの世論によって信者を圧迫することによって、信者が神ではなく、人(不信者)の目を恐れ、世間の評価を気にしながら生きるように仕向けているのである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、杉本徳久氏のような、カルト被害者救済活動を主導する人々は、「キリスト教界のカルト化問題に警鐘を鳴らす」ことを口実に、キリスト教の信仰を持たない不信者を積極的に動員しては、キリスト教に対する世間の批判的な世論を形成し、キリスト教に対する憎悪と偏見を煽り、裁判などのこの世の強制力を用いて、教会に強制的に介入することを肯定し、「疑わしい」とみなしたクリスチャンを次々とバッシングしたり、裁判にかけることによって、不信者らをクリスチャンに対する弾圧に駆り立てている。

カルト被害者救済活動は、当初、キリスト教界の不祥事の犠牲となった人々を救済することを目指していたが、今やこの活動は、キリスト教そのものに対する憎しみに満ち、キリスト教に対して恨みや被害者意識を持つ人々で溢れかえっている。こうした人々が勝手に「被害」を主張しては、クリスチャンを次々弾圧しているのが現状である。
 
当ブログで悪質な嫌がらせ工作員として紹介している「さわやか読者」も、カルト被害者救済活動に強い影響を受けた人々から成っているが、この人々は実際にはキリスト教のことを何も知らず、関係者でもなく、部外者でありながら、キリスト教に対する憎悪と不信感から、信者を攻撃しているのである。

このような部外者を積極的に集めては、キリスト教に対するネガティブな世論を作り上げ、それをきっかけに、キリスト教徒への弾圧に乗り出し、自らの活動の需要を世間に訴えて、活躍の場を作り出そうとしているのが、カルト被害者救済活動に携わる人々である。

彼らはキリスト教界の不祥事を大々的に発表し、自ら世間におけるキリスト教のイメージを貶めておきながら、もう一方では、「キリスト教のイメージが世間で低下したので、これを正さなければならない」と言って、キリスト教界を力づくで自分たちの活動の支配下におさめようとする。

こうした活動は明らかにマッチポンプであり、彼ら自身が、自らの活動の需要を作り出すために、キリスト教界のイメージを限りなく貶めているのであり、さらに、信者をこの世の不信者らの圧力の下にひれ伏させるために、キリスト教を非難し貶める世論を作り上げ、本物の信者らを、彼らの作り出した世論に怯えさせ、彼らに従わせようとしているのである。

そのために、至る所で、ほえたける獅子のように暴れまわっては、クリスチャン・ブロガーなどに圧力を加え、信者を裁判に引きずり出し、信仰告白をやめさせ、神を信じ、御言葉に従う人々の信仰生活を妨害しているのである。
 
こうして、不信者によって信者を取り締まること、この世の霊的盲目にある人々を利用して、信者を恫喝し、怯えさせて黙らせて、神の霊的統治に関する事柄を、この世の悪魔的統治の支配下に置き、目に見えるものと見得ないものの秩序を逆転し、霊と肉との秩序を逆転させ、悪魔的統治を教会の上位に据えることこそ、村上密氏が唱えていた「カルト監視機構」の発想の根底にある恐ろしい思想なのである。
   
堕落した世の影響を聖書の御言葉以上に高く掲げ、信者を御言葉ではなく「この世」の言い分に従わせようとする圧力に、信者は従うべきではない。いかに上記のような活動の支持者らが「この世の常識」をふりかざして、クリスチャンを断罪していたとしても、信者がその言い分に影響され、欺かれるべきではない。

信者が従うべきは聖書の御言葉であって、この世の常識や世論の動向ではない。この世にあるものはすべて神から来たものではなく、サタンこそ「空中の権を持つ君」であり、悪魔こそ、この世を牛耳り、世論を操り、何が正しいことであるか、真理を捻じ曲げて、虚偽をまことしやかに是認する空気を作り出し、多くの人々を惑わしている張本人なのである。

ちなみに、世間に波風立てないことを第一とし、組織の序列に逆らうことを許さず、人にとって耳障りなことは言わず、世の「空気」に逆らわないで、権威者を立てて生きることを奨励する「和の精神」が、人の目に良さそうに見えても、実際には、どんなに危険な思想であるかについては、以下の記事「東洋思想とは何か。その柱は何を再建しようとしているのか」でも少し触れているので、こちらを参考にされたい。 
 
さて、前の記事「カルト被害者救済活動の暴走 この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀」でも述べたように、クリスチャンは、人の言動の背後に、どういう霊的思想があるのかを鋭く見分けねばならない。キリストの御霊に導かれ、聖書の御言葉に基づいて、これを体現するために生きる人々もいれば、この世には、悪霊の思想を体現し、悪魔の欲望の実現を悲願として生きる人々も存在している。

聖書の御言葉の信用を貶め、その真実性を毀損しようとするすべての思想は、どんなに良さそうな口実を掲げ、この世の常識を装っていても、神から来たものではない。 それはすべて悪魔から来たものであり、反キリストの霊の仕業である。

そこで、「キリスト教のカルト化の危機」を唱えることにより、キリスト教そのものが何かしら不完全で危険なものであって、聖書の御言葉そのものに何か問題があり、御言葉に忠実に生きることが、あたかも「カルト的思考」であるかのように信者に疑わせようとする影響力には注意しなければならない。

キリスト教界に起きている不祥事は、信者が聖書から逸れたために起きたのであって、聖書の御言葉に問題があって引き起こされているわけではない。にも関わらず、不祥事をきっかけに、キリスト教そのものや、聖書の御言葉そのものに疑いを抱かせようとする思想がどこから来たのか、不祥事をきっかけに、キリスト教やクリスチャンを断罪し、罪悪感や、憎悪を抱かせようとするまことしやかな「世論」が、どういう目的で作り上げられたのか、キリスト者は見分けねばならない。
   
こうして一見、「キリスト教の改革」を目指しているように主張しながら、クリスチャンの世論に巧みに偽装して、その実、キリスト教と聖書の信用を貶め、御言葉の真実性を信者に疑わせるために、不信者によって作り上げられた偽りの世論に、クリスチャンは耳を貸すべきではない。そのような「世論」を気にして怯えるべきでもなく、そこで自分が批判されることを恐れるあまり、彼らと歩調を合わせるべきでもない。むしろ、こうした議論が、信者の関心を巧みに神ご自身から、人の思いへと(この世へと)逸らして行こうとするものであることを見抜くべきなのである。
   


 
2-2.匿名掲示板における不信者の議論にクリスチャンを引きずり込み恫喝する手法
 
さて、匿名掲示板で行われている議論にクリスチャンが注意を取られることがないように警告しておきたい。多くのクリスチャンが、当初は本気でキリスト教界の堕落を憂い、聖書に忠実な信仰生活に立ち戻ることを提唱していたが、彼らは不信者とのむなしい議論に熱中するうちに、全く違う方向へ逸らされてしまったからである。

彼らは、不信者の議論に気を取られ、時を追うごとにますますこれに深入りして行き、引き返せなくなって行ったのである。彼らを突き動かしていたのは、自分が人々にどう見られるかという恐れであった。この世の不信者たちの間でキリスト教が批判され、信者が批判され、自分が批判されているのを見ているうちに、自分たちの評判を取り返さなければならないという思いに駆られ、いわれなき嘲笑や批判を抑えるために、不信者を説得したり、彼らと交渉しなければならないという誘惑に駆られたのである。

いわば、外見を気にする保身の思いや、誤りを正さねばならないという義務感が、彼らをこのような議論に引き込んでいくきっかけとなったのである。しかし、そのようにしてクリスチャンを自らの信仰告白という最も重要な舞台から引きずり出し、この世の不信者たちのむなしい争いに満ちた議論の中におびき出し、それによって恐れさせ、がんじがらめに縛って行くことこそ、不信者の議論の真の狙いなのである。

このむなしい論争に気を取られ、深入りして行った人々は、唯一の道から逸れ、泥沼の訴訟に足を取られ、以前のような信仰告白を続けられなくなり、帰らぬ人となった。ルーク氏、山谷少佐、坂井氏の例についてよく考えて欲しい。たとえ彼らがあかしを続けているように見えても、そこには以前のような輝きが、以前、最も彼らが真剣に訴えようとしていた主張の核心がない。彼らは、骨抜きにされてしまったのである。

これが、匿名掲示板の狙いなのである。彼らの議論は、暗闇から来たものだが、闇によって光を駆逐するのが、その目的なのである。識者ぶってキリスト教を批判している不信仰な信者たちや、すでにキリスト教に愛想を尽かして部外者となった人々や、世にどっぷりと迎合している不信者らを巧みに利用して、本物の信者を攻撃させては、恫喝によって口を封じ、もしくは、自主規制させることによって、信者に「世の光」を掲げさせまいとすることが目的なのである。

キリスト教を批判することは、一見、キリスト教の改革のために必要な自己反省のようにも見え、そこに識者らのさまざまなもっともらしい理屈が加われば、欺かれる人も出て来るかも知れないが、その実、そこにあるのは、巧みに聖書の御言葉そのものを疑わせようとする誘惑なのである。

真にキリスト教を改革したいなら、聖書の御言葉に立ち戻ることにしか道はなく、聖書の御言葉への忠実な信仰そのものを疑いや批判の対象とするのでは、より深い混乱が生まれるだけである。
 
さて、このようにして匿名掲示板を利用して政敵を叩くやり方は、自民党も利用していることで有名であり、統一教会など新興宗教等のカルト団体も盛んに使って来た手口である。カルト被害者救済活動も、政敵を追い落とすために、まさにこの方法に頼ったのであり、不信者を動員して信者をバッシングすることによって、キリスト教徒を恐怖に怯えさえ、「世」の支配下に置こうとしたのである。

しかし、クリスチャンには、「この世」と交渉する必要性はない。逆に、この世の方がクリスチャンによって裁かれ、罪に定められ、赦しを乞わなければならない立場にある。「この世」は初めから悪魔の配下にあって堕落しており、罪を犯している。「世」を巧みに利用して、世に調子を合わせることにより、自分の身を守り、信仰者を圧迫し、迫害している人々は、神の霊によって生きているのではなく、悪魔を父としているのであり、これらの人々には、いずれ主の御手が置かれ、彼らは自滅することになろう。

クリスチャンの武器は、小羊の血潮と、自分自身のあかしの言葉である。それによって兄弟たちは悪魔に打ち勝つことができると、はっきりと聖書に書いてある。

そこで、世間で批判されたくないという恐れや、人に自分がどう見られるかという恐れから、信者が悪霊に導かれる人々と交渉したり、彼らに懇願したり、あるいは説得されたり、彼らの誤りに満ちた思想を正してあげようと努力する必要はない。

クリスチャンの使命は、日々、しっかりと自分の信仰告白を握って、主の御名を証し続けることにある。悪魔以上の執拗さを持って、神に向かって彼らの悪しき所業を糾弾し続け、正しい裁きを願い求めることである。そうすれば、「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴える者」は必ず「投げ落とされる」ことになる。

「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。

 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示12:10-11)      



2-3.聖書に基づかず、この世の論理によって、自らの活動を支持しないクリスチャン・ブロガーを断罪し、信者を裁判にかけることにより、この世の支配下に置こうとする杉本徳久氏の活動の危険
  
さて、「世の常識」を味方につけて、「この世」の罪を無罪放免する一方で、クリスチャンを容赦なく断罪しては、懺悔を迫り、処罰することに悦楽を見いだすという、カルト被害者救済活動の支持者らの転倒して異常な特徴は、村上密氏だけでなく、同氏の活動を積極的に支持する人々に共通して見られるものである。

当ブログにおいては、村上密氏の活動に支持を表明している杉本徳久氏から送られて来たおびただしい数の恫喝の書簡を公開しているが、それも「キリスト教のカルト化の危険を訴える」ということを口実にして、その実、クリスチャンを貶めることを真の目的としている彼らの活動の危険性を明らかにするためである。
 
2009年頃まで、筆者は村上密氏や杉本徳久氏の主導するカルト被害者救済活動に公に反対を表明していなかったが、その後、この活動が根本的に聖書に反しており、行き過ぎた魔女狩りや異端審問へ結びつくだけの、キリストの十字架に敵対する誤った運動であることに気づいたため、杉本徳久氏に対して、筆者は直接、この活動にはもう賛成できないことを告げ、かつて筆者が同氏のブログに書き込んだ活動への賛同のコメントを削除してほしいと正式に依頼した。
 
その際、筆者は、教会のカルト化問題を解決する糸口は、クリスチャンの不祥事を次々暴露することにより、クリスチャンを断罪したり、法廷に引きずり出して処罰することにはなく、ただ信者が聖書に立ち戻ることにしかないと、聖書に立脚して説明したのである。

しかし、これが杉本氏から筆者や当ブログに対する多年に渡る嫌がらせのきっかけとなった。杉本徳久氏から帰って来た返答は、罵詈雑言の羅列と、筆者の言い分が、「思い上がって自己中心な」「市井で求められる良識からは外れた文面であ」るという同氏の決めつけだけであり、その思い込みだけを根拠に、杉本氏はそれ以来、今日まで約7年間に渡り、当ブログに対する様々な嫌がらせ工作を続けているのである。

このような異常な執念は狂気の沙汰としか言えず、クリスチャンを何としても苦しめ、弾圧したいという彼らの飽くことのない悪魔的欲望と、クリスチャンに対する呪いや執念のような尽きせぬ憎悪に基づいていることを筆者は感じざるを得ない。

ちなみに、杉本氏は以上に記したような自らの見解をブログ記事に記しており、同記事は当初、筆者に対する一千件のコメントを伴うバッシング記事として、同氏のメインブログ「随想 吉祥寺の森から」に掲載された。

だが、たった一つのコメントを削除してほしいと依頼しただけの筆者を、一千件のコメントを伴う記事によってバッシングしたことに対しては、さすがに杉本氏へ批判が集中したと見られ、その批判を受けて、この記事は同氏が執筆している別のブログ「神々の風景 -religious scene」に移し替えられた。

その上、今年に入ってからは、杉本氏の不安定な心理状態を反映するかのように、この記事は非表示にされたり、ころころと変更が加えられていたが、今のところ、再び公開されているようである。
  



杉本徳久氏が何度もアドレスを変え、さらには非表示にしたりと
同氏の不安定な心理状態を示す幾度もの変更を繰り返しながら、

 「神々の風景」に掲載している筆者に対する嫌がらせ記事。
「神々の風景」という題名からも、同氏がキリスト教徒としての
正常な信仰を持っていないことが明白である。

同氏はプロテスタントそのものを敵視するかのように、
自らのブログにプロテスタント信者を弾劾する記事を次々と掲載、
キリスト教のイメージを世間で貶めることに貢献して来た。
  自らの活動を批判する信者に対する訴訟を積極的に提起しては、
キリスト教徒への弾圧と迫害に臨んでいる。
このような人物がクリスチャンであるとは誰も信じないであろう。
信者を名乗りながら、キリスト教の破壊を試みている人物である。

 
ちなみに、この記事は標題が「東洋からの風の便り ヴィオロン」となっていることからも分かるように、杉本氏が当ブログに対する嫌がらせを目的に、故意に検索結果に表示されるように作成したものであり、その上、当ブログの内容を大量に無断引用しているスパム記事である。さわやか読者の記録にも示しているように、杉本ブログを熱心に支持する読者らは、同氏の書いたこの嫌がらせ記事が検索結果の上位に表示されるように、日夜、工作を繰り返しているのである。

つまり、彼らは聖書に基づく正常な信仰告白である当ブログを駆逐して、彼らの異常で悪意ある情報だけをネットに残すことを目的に、日夜、工作を繰り返しているのである。おそらくはこれまでにもこうした方法により、自分たちにとって好ましくないクリスチャン・ブロガーを次々に沈黙に追い込んで来たのであろう。
 
杉本徳久氏自身や、その読者らが、当ブログの検索結果を操作するために行った不法なアクセス集中の履歴は、次の記事や資料において公開している。

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(前編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(中編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(後編)
 
    
しかしながら、筆者は上記の嫌がらせ記事の公開を好都合と考えている。なぜなら、これによって杉本氏に対する公の責任追及や反論がより容易になるからである。
 
まずは同氏が上記の記事を掲載しているブログの題名である「神々の風景」という象徴的な言葉に注目したい。この標題は、杉本氏がキリストの十字架を信じておらず、己を生まれながらに神とするグノーシス主義者であることを明確に物語っている。
 
クリスチャンであれば、「神は唯一である」ことを例外なく認めているので、決して「神々」という複数形を肯定的な文脈で使わない。「神々」の存在を認めることは、自分はクリスチャンではなく、唯一の神を信じていないと自ら告白するに等しい。神を複数形とした時点で、これは唯一の神に対する敵対であり、まことの神と、それを信じる者たちに対する一種の冒涜・挑戦だと言っても差し支えない。
 
杉本氏が「神々」という言葉によって何を指しているか具体的なところは不明であるにせよ(おそらくは自分たち唯一の神を信じておらず、キリストの十字架を否定する生まれながらの人間が「神々」であると言いたいのではなかろうかと推測するが)、いずれにしても、複数の神の存在を肯定した時点で、同氏がキリスト教の信仰告白の大前提となる「神は唯一である」という事実を否定していることは明白となる。

いかに同氏がカトリックなどの宗派の教会組織に公に属する信徒であったとしても、この事実は、同氏が内面においては実際にはクリスチャンでないことを意味するに等しい。
 
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)
  
さて、上記の記事で、杉本氏はカルト被害者救済活動を支持できないとする筆者の見解に対し、事実に立脚しない捏造された文脈で、筆者を罵倒しながら理不尽な非難を繰り返している。同氏は書いている、

 10日ほど前、彼女からのメールを受け取った。それは、

 http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/51884112.html

 2009年3月26日 「沖縄 トランスフォーメーション・グロース」 

 に「ヴィオロン」の名で書き込んだコメントを消して欲しいという依頼であった。しかし、そこには非常に思い上がった上に自己中心的な、彼女が経験した「回心」とその後の心変わりについての理屈が並べられてあった。市井の社会で求められる良識からは外れた文面であった。」

だが、この見解も、杉本氏自身の常識から外れた身勝手な思い込みと偏見に満ちた思考パターンをよく示すものである。

まず、杉本氏のブログに書き込んだコメントは筆者自身が書いたものであり、著作権も筆者にあるので、筆者から削除の依頼があったにも関わらず、杉本氏がこれを削除しない正当な理由が存在しない。にも関わらず、杉本氏は、自分の活動が支持されなくなったという事実そのものが認めがたいので、削除を拒否することを正当化するために、何とかして筆者に罪を着せようと、筆者を罵倒する文脈を捏造して考え出しているのである。


 
以上は杉本ブログに記載されている文面。
杉本氏は、筆者が答えてもいない事柄を、
勝手な決めつけによって
解釈しているが、
なぜそのような見解に至ったのかは不明である。

筆者が勧めたように、真理の御霊には聞かず、
悪霊に聞いて、そのような返答を得たと見られる。
 思い込みに基づいて発した言葉であっても
いずれその重い責任を問われる日が来ることを
誰よりも杉本氏自身が自覚しなければならない。


  
当ブログにおいては、筆者が杉本氏から受け取ったおびただしい数の恫喝書簡の文面を公開しているが、それを読むならば、「思い上がって自己中心な」、「市井で求められる良識からは外れた文面」を記しているのは、筆者ではなく、杉本氏自身であることが、誰にでもよく分かるであろう。

2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール
  
 
上記の嫌がらせ記事もそうなのであるが、杉本徳久氏の文面には、読んでいて恥ずかしくなるほど、また吹き出したくなるほどに、他者に対する礼儀を一切わきまえない自己中心な決めつけと、安物のドラマから抜き出して来たような陳腐な罵詈雑言、偏見と一方的な被害者意識に基づいた根拠のない思い込み、そして恫喝が溢れている。

さらに、同氏は、そうしたメールの中で、あまつさえ、自分にとって気に入らない記事を筆者が削除しなければ、筆者の個人情報を無断で公開するという脅迫行為にまで及んでいる。こうした文面のどこが「市井で求められる良識」にかなうのであろうか。

杉本氏こそ、自分の言葉に照らし合わせて、自らの行為を振り返らなければならない。同氏の書いた文章は、子供の書いた作文のように幼稚であるだけでなく、完全にマナー違反であり、なおかつ、違法行為をほのめかすものであるという点で、犯罪的でさえある。

このような脅迫行為を自分が暗闇で行っておきながら、同氏は未だに筆者を一方的に「自己中心だ」とか、「良識を備えていない」かのように非難しているのだから、その倒錯した論理に自分でまるで思いが至っていない愚かさに呆れ果て、恐れ入るのみである。

また、杉本氏は書いている。

「また、彼女ががらりと立場を変えて非難し始めた私や独裁カルト牧師の被害者信徒たちのことについて記した最新の投稿を熟読した後、私は彼女にこれらあなたが非難している人物の中には明らかに私が含まれていると読み取れるがその認識で良いのかと問いただす返事を送ったところ、彼女は私に対して真理の御霊に全てを問い尋ねよと言い、非難の対象が私であることを書き送ってきたのであった。一度、自分の口から出た言葉は後から消すことができないということがわかっていない。もし、それがネット上のものではなく紙媒体の印刷物であれば不可能である。」

これもまた甚だしい虚偽である。杉本氏の根拠のない被害者意識に基づく妄想的な思考を顕著に表す文章であると言える。筆者は、杉本氏に対してただ「真理の御霊に問い尋ねよ」としか答えておらず、筆者の書いた記事の中に杉本氏が含まれているなどと回答したことは一度もない。

そして実際、当時筆者がカルト被害者救済活動を支持できないことを表明するために書いた記事「キリストの十字架以外に救いはない」には、一切、杉本氏の実名は登場していないのである。この記事はカルト被害者救済活動に対する筆者の立場を明らかにするために、あくまで一般論の立場から書かれたものであり、特定の人物を名指しで非難するようなことを目的としていない。そして、カルト被害者救済活動に携わっている主要な人物も、村上密氏のように、当時、杉本氏以外にも、複数存在したのである。

にも関わらず、杉本氏は、何の根拠もなく、さらには筆者自身も認めてもいないにも関わらず、これが杉本氏を名指しで個人攻撃するために書かれた記事であると勝手に決めつけ、それを根拠に、筆者に対する多年に渡る様々な嫌がらせに及んだのである。

一体、杉本氏はこの件について、筆者が同氏に勧めたように「真理の御霊に問い尋ねた」のであろうか? 多分、真理の御霊ではなく、悪霊に問い尋ねたのではないだろうか。そして、悪霊から、「それはあなたのことだ」という答えが返って来たので、それを信じたのではあるまいか。もしそうでないというならば、杉本氏の良心の呵責がそのように思わせたのに違いない。

いずれにしても、筆者はそのようなことを全く答えていない。にも関わらず、筆者が言っていないことを、杉本氏が聞いたというのであれば、どこから聞いたのかが問題となる。それは「真理の御霊」の声ではなく、悪霊の声に違いないと推測せざるを得ないのである。なぜなら、悪霊は嘘つきだからである。

こうして、杉本氏は思い込みや決めつけだけに基づいて、自己中心で身勝手な話を「創作」して行き、これを基に他者への誹謗中傷や嫌がらせに及ぶのだが、それにしても、「一度、口から出た言葉は後から消すことができないことがわかっていない」というのは、誰よりも同氏自身に向けられるべき言葉である。

ネット上でも、一旦、発した言葉は取り消すことは難しい。それは、当ブログにおいて公開している杉本徳久氏による恫喝書簡を読んでも誰しも分かることであろう。こうした手紙は書かれてから年数が経過しているが、だからと言って、文面を通して、人の心の内側にあるものが完膚なきまでに明らかになる事実は変わらない。

当ブログでは、約十四年前の鳴尾教会で起きた事件に関する「教団文書 村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題」なども公開しているが、こうしたものは、歴史的に価値ある資料であり、たとえ民事や刑事事件としての時効を迎えていても、だからと言って、少しも価値が減ずるものではない。

人々のモラルを動かすのに時効はなく、真実が人の心に訴えかける衝撃の重さは時が経っても変わらない。まして人がクリスチャンとして行った行為に時効はない。我々は皆いつか神の御前に立って、自分の行なった言動に対して申し開きをせねばならないのである。
 
杉本氏は、自分が他人を暗闇で恫喝しておいても、こうした書簡が明るみに出されることはないと高をくくっていたのであろう。だが、「一度、口から出た言葉は後から消すことができない」

こうした書簡においても、杉本氏が、筆者が言ってもいないことを再三に渡り、単なる思い込みと決めつけだけに基づいて勝手に解釈し、それを根拠に筆者をなじっては、誹謗し、脅迫まで行い、数々の嫌がらせに及んだ事実が明らかになるが、そうした行為の責任を、杉本氏はきちんと考えて反省せねばならない。これらは罪に問われて当然の行為である。

同氏のして来たことには証拠が残っており、これを取り消すことは誰にもできない。不都合な記事を削除せよと筆者を恫喝しても無駄である。他者に向かって述べた理屈は、自分自身に跳ね返る。自分にできもしないことは、人にも最初から要求しないが良かろう。

 つい最近に至るまでも、杉本氏は再三に渡り、筆者に刑事告訴を予告するメールを送り付けているが、それにしては、告訴の脅しは一向に実行されたことがない。それも当然であろう。筆者をいわれなく脅し、嫌がらせ記事を次々と掲載し、コメント者を煽って嫌がらせに及び、当ブログに嫌がらせのアクセスを集中させて検索結果を操作して来たのは杉本氏自身であるから、その杉本氏が筆者を訴えるなど言語道断であり、そんな告訴が成立するはずもない。そんな訴訟に世間を納得させられるだけの正義の筋書きを見いだすことは誰にもできない相談である。

仮にそんな提訴を無理に成立させてみたところで、同氏には勝算もなく、ただ相手を苦しめるための時間稼ぎであることが明白となるだけである。そんな手段を用いてまでも、クリスチャンを次々と力づくで法廷に引きずり出しては断罪し、打撃を加え、キリスト教徒への弾圧と、クリスチャンの言論統制に日々いそしんでいれば、「日夜、兄弟たちを訴える者」という悪評がさらに定着して行くだけであり、それは同氏にとっても何の利益にもならない。

逆に、筆者自身も、筆者に対する嫌がらせ行為としてなされた個人情報の無断公開やそれによって生じた人権侵害等に関して、事実関係が特定され次第、当ブログに公表したいと考えている。杉本氏以外には、そのような行為に及ぶと筆者を脅迫して来た人物は存在しないのであるが。
 
さて、話を戻せば、以上の嫌がらせの記事や、恫喝メールにおいて、杉本氏が再三に渡り、「市民社会の常識」や「市民社会の一員としての責任」などといった言葉を振りかざしては、筆者を断罪しようとしていた様子が見て取れる。
 
このように、「世間の常識」を盾に取り、自分が世論を味方につけているかのような印象を与えながら、クリスチャンを聖書の御言葉ではなく、「この世の論理」によって追い込んでいく手法は、村上密氏がクリスチャンに対して使って来たものと同じである。

すなわち、カルト被害者救済活動の支持者らは、巧みに世間の常識やら、市井の良識やら、市民社会の責任といった、全く信仰によらないこの世の論理を持ち出して来ては、クリスチャンが信仰の事柄について判断するにあたり、聖書を基準とするのでなく、この世の基準に従って是非を問うよう仕向け、クリスチャンに自らの信仰告白を捨てさせて、この世の土俵へおびき出そうとするのである。

彼らはキリスト教界におきる不祥事を大々的に取り上げては、クリスチャンが「市民社会の常識を備えていない」とか「世間に迷惑をかけた」などと言いがかりをつけ、こうした事件をきっかけに、事件には何の関係もない信者らを非難して、不信者の前に「行き過ぎ」を反省させては懺悔させようとし、それがかなわないと、果てはクリスチャンを無理やり法廷に引きずり出してでも断罪し、何とかして弾圧を加えようとする。

彼らの目指しているものは、最終的に、キリスト教の教義や、聖書の御言葉、聖書の神を信じる信仰そのものを、何か恥ずべき、非常識な、カルト的な、傲慢で、思い上がって自己中心で、狭量な思考であるかのようなイメージを作り出し、聖書の神を信じているクリスチャンの信仰そのものを貶めることで、キリスト教とクリスチャンの信用を毀損し、最終的には、聖書の御言葉の信用を失墜させ、クリスチャンに御言葉への信仰を恥じさせ、信仰告白を捨てさせることなのである。

以上で挙げたような、杉本氏の書いた嫌がらせ記事や、恫喝書簡(それも杉本氏から送られて来たメールの一部に過ぎない)は、クリスチャンをこの世の圧力の前にひれ伏させて信仰告白を捨てさせるための一種の「踏み絵」だと見て良い。刑事告訴の脅しも同様である。

このような行為を平然と行う人間が、聖書に基づくクリスチャンとしての正常な信仰を持っていないことは明白である。

にも関わらず、このような人間が、自ら信者を名乗りながら、非聖書的な手法でクリスチャンを追いつめて断罪し、沈黙に追い込もうとするところに、彼らの活動の最大の卑劣さがある。
 
これはキリスト教徒に偽装してはいるが、その実、キリストへの信仰を全く持たない人々が、信仰者の群れに紛れ込み、キリスト教界を内側から破壊し、信者を攻撃して追い散らし、キリスト教そのもののイメージを貶め、聖書の御言葉の信用そのものを傷つけることによって、キリスト教とその信者をこの世の力の前に跪かせ、弾圧し、処罰することを目的として活動しているだけである。

こうしたすべての事柄は、キリストの御霊によらない、反キリストの霊によるクリスチャンへの弾圧なのであり、彼らが己の前に跪かせようとしているのは、信者のみならず、最終的には、すべてのクリスチャンが信じているまことの神ご自身なのだと言える。従って、彼らの活動は、唯一の神そのものを仮想敵とし、キリスト教そのものに敵対する運動なのであり、聖書の神に対する反逆であるという点で、極めて危険なものであり、その最期が滅びとなることは避けられないであろう。
  
こうした神に対する反逆行為と、クリスチャンに対するいわれなき弾圧を正当化するために、彼らは自己流の定義による「市民社会の良識」を持ち出しては、さも自分たちが世間代表のように振る舞っているのであるが、突き詰めてみれば、その「良識」とやらも、本当に世間の人々に支持されたものではなく、結局は、彼らが狭いネット上で作り出した身勝手な理屈に過ぎず、幻のような偽りの世論である。

彼らは、吠えたける獅子のように人々を恫喝して委縮させながら、クリスチャンを断罪し、見世物として嘲笑することを容認するような「空気」を盛んに作ろうとして来たのであるが、これはどうみても明らかに悪霊から来る働きである。

こうした暗闇の勢力から来る圧迫、「この世の霊」による卑劣な脅しに対して、御言葉を武器に毅然と立ち向かっていくことこそ、クリスチャンにとっての真の「霊の戦い」である。

悪魔は「兄弟たちの告発者」(黙示12:10)である。日夜、クリスチャンを訴え続けることが悪魔の日課なのである。これに対して、信者は沈黙していてはならない。

信者にはまず「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血」(ヘブル12:24)がある。

十字架で永遠に流された小羊の血潮が、永遠に信者の潔白を証する。神がその独り子なるキリストを十字架につけてまで罪を赦されたクリスチャンを再び罪に定めることのできる存在はどこにもいない。

 「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:33-34)

次に信者は、自ら御言葉に立脚した証の言葉を述べ続けることによって、悪魔の告発に打ち勝つ。「死に至るまで命を惜しまない」とは、死の恐怖におののいて退却しないという意味でもある。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言われている通りである。
  
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示12:10-11)      

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

「もうしばらくすれば、
 来るべき方が来られる。おそくなることはない。
 わたしの義人は信仰によって生きる。
 もし、恐れ退くなら、
 わたしのこころは彼を喜ばない。」
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
(ヘブル10:35-39)
 

最後に、もう一度、「霊の戦い」についてのパウロの言葉を引用しておこう。聖書は一貫して、信者に「雄々しくあれ、勇敢であれ」と命じている。クリスチャンはこの世の常識によって生きているのではなく、我々のために命を捨てられ、死んで、よみがえられたキリストへの信仰によって生きているのである。「義人は信仰によって生きる」。この事実を証するために、信者は恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者なのである。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ6:10-13)

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」申命記31:6)

さて、次回以降の論稿においては、カルト被害者救済活動の支持者らが盛んに唱えているような「世の常識」に見せかけた偽りの世論が、東洋思想と密接な関係があること、その根本にあるものが、キリスト教に対抗するグノーシス主義であることについて、より一層、踏み込んで考察を行って行きたい。


村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害③

   ~村上密氏と杉本徳久氏の主導する「サイバーカルト監視機構」の正体~
 
 
4-3.杉本徳久氏の活動履歴(続)


5月2日、4月25日、30日とまた新たに杉本徳久氏から恫喝メール➀恫喝メール②恫喝メール③が来ましたが…、ゴールデンウィークにまで他人に恫喝メールを送りつけずにいられないとは何たる哀れ。平和で落ち着いた家庭人からは程遠い姿ですね…。
同氏による過去の恫喝メールはさらに公開していきますよ!


 
4日も本ブログが更新されるや否や早速、深夜にアクセス。他人に刑事告訴の予告などしている間に、自分自身が様々な罪状により訴えられないといいですね。ネット上で匿名で行ったことも必ず証拠は残るのです。自分に不都合な人間に次々提訴の脅しをかけて言論を封じようとするその姿により、今まで作り上げようとして来た弱者の味方というイメージは完全に崩れています。結局、カルトとの闘いなどほんの口実に過ぎず、クリスチャンの弾圧が真の目的であったことが明白になったのです。


5月6日
やはり自分の情報が気になる様子。掲載されたくなければ、恫喝書簡など書かなければ良かったのです。「思い上がった上に自己中心な」「市井で求められる常識からは外れた文章」を隠れた所で人に向かって延々と書き綴っていたのは誰なのか。全世界に向けて明らかになりましたね。


↓以下の三人がお仲間であることはアクセス時間帯から明白。
英語圏からの異常な訪問者を招致したのも杉本氏と考えられます…。

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kd119104115222.au-net.ne.jp
204.79.180.186



  
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こうやって工作仲間を連れて来るんですよね。残念ですが、まだまだこのシリーズは続きます。あなたの書いた恫喝書簡の公開と共に。


5月9日
わざわざ更新されていないコンテンツにログを残す。真正面から人に対峙できない臆病な性格がよく表れていますね…。またも長文のウェブページがまとめられるのを恐れているのでしょう。(長文どころか、論文ですよ。)いつまでも数の力にものを言わせることは無理なんですよ。自分のしたことには一人で責任を問われる日が必ず来ます。

  

5月11日
 

当ブログで私が勝利の信仰告白をすると、必ず、杉本氏は猛烈嫌がらせアクセスを集中して来るのが恒例に。もはや動物的な反応パターンと化しており、初めから予想可能。深夜3時に狂気のアクセス集中の犯罪履歴は、サイバーカルト監視機構(杉本徳久編)PDFにアップロードしましたので、ご覧あれ!

こんな低次元な方法で、深夜に一人でこそこそ嫌がらせしているところを見ても、刑事告訴などできるはずがないことが明らかですねえ…。結局、大袈裟に喚き立てては周囲を脅して己の罪を隠そうとしているだけ。できもしないことを初めから宣言しなければ、自分が恥をかくこともないのに、愚かですね~。┐('~`;)┌

悪魔は「吠えたける獅子」のように人を脅しますが、その多くは実行不可能なことを吹聴しているだけで、恐れるに足りないのです。たとえ実行に移しても、より一層、自分が不利になるだけ。あるクリスチャンは言いました、「キリストを殺せば、復活という最も恐ろしい事態が起きてしまい、悪魔の最大の武器である死が打ち破られると分かっていたのに、それでも悪魔はキリストを殺さずにいられなかった。自滅と分かっていて攻撃せずにいられない。そこに悪魔のどうしようもない愚かさがある。」と。

ますます魔物との一体化が進んでいるようで、深く同情いたします。大体、キリスト教と聖書が不完全であるかのように糾弾し、聖書の神の不完全さを補って神の民が過ちを犯さないように監視し、取り締まってやろうなどという恐ろしい目的を掲げるから、反キリストの霊が降臨してこれと一体化する羽目になるんです。

どんなに表向き「弱者救済」を唱えていても、常に自分が救済者の立場に立って他者を哀れみ、人より優れて一番でなければ気が済まず、自分が批判されると報復せずにいられないという自己愛とプライドを捨て去れないところに、どうしようもない傲慢さが表れていますね。

その上、神の民を踏みにじり、教会に君臨し、神の上に立とうとするわけですから、それ以上の傲慢さはありません。

プロテスタントにつまづいた多くの人たちが、結局は、御言葉を否定して、キリスト教そのものを否定する結果に至るのです。こうして、キリスト教や教会や信徒につまずいたことをきっかけに、救いから除外されて行く、こういう哀れな元信者たちがいることについては、じっくり分析する必要があります。

偉そうに「キリスト教の病理」だの「自己愛」だのを語り、クリスチャンの批判ばかりしていると、いつこんな風に悪魔の道連れにされて神の敵となり、気づけば救いから完全に弾き出されていたという結末になりかねない。神の民は、神にとって瞳のようなものですから、これを傷つける人間に対しては、神自らが報復されるんです。

人への批判はまだ許されても、御言葉を毀損すればただ事では済みません。教会を攻撃し神の民を踏みにじり御言葉を否定する者は、決してまともな運命には終わりません。これは聖書に書いてあることで、私の個人的見解や呪いではありませんので…(「彼らの(十字架に敵対する者の)最後は滅びです。」(ピリピ3:19))。
 
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おや、噂をすれば影。悔い改めないと、行く末は火の池ですよ。手遅れとは思いますがね。
 



   4-4.さわやか読者の活動履歴(続)
 
(5月2日)
kd113154046021.ppp-bb.dion.ne.jp
em1-115-11-20.pool.e-mobile.ne.jp
↑福岡市久留米、もしくは大阪市
p315088-ipngn200404yosemiya.okinawa.ocn.ne.jp
↑沖縄、宮古島、那覇市
pw126210050044.5.kyb.panda-world.ne.jp
cc221-121-239-141.ccnw.ne.jp
↑愛知県日進市
pl1913.nas81d-3.p-fukuoka.nttpc.ne.jp

(5月3日)
p15058-ipngnfx01oomichi.oita.ocn.ne.jp

この人もやはり匿名掲示板の常連。匿名掲示板というのは、それ自体が宗教団体の雇われ工作員による偽装掲示板なんじゃないですかね。

u847096.neas2.ne2.tachikawa.mopera.net
東京都立川市
softbank221080155159.bbtec.net
113x40x2x73.ap113.ftth.ucom.ne.jp 
   
5月5日 
ほとんどの言語が英語ですよ! 米国様が批判されている記事をアドレスを引用しただけでこの始末。一体、この国の言論は誰に牛耳られているのか。何とも野蛮なことで…。

204.79.180.134 
204.79.180.241 
204.79.180.112
↑ヴァージニア州
末尾三桁が絶えず変わっているだけ。
 
「壁に耳あり障子に目あり」、人の情報を詮索し、自分の噂話にあれこれ聞き耳を立てずにいられない恐ろしいまでの詮索好きは米国様の由来だったんですかね? だとすれば、これはもはやとうにロシアの専売特許じゃないですよね。

Быть может, за стеной Кавказа
Сокроюсь от твоих пашей,
От их всевидящего глаза,
От их всеслышащих ушей.

全知全能の神を模したユビキタス・ネットワークの構築、世界は一つ、神と人との断絶はない、人類はみな神であり、地上はユートピアである、…との名目のもと、異論をすべて暴力的に排除し、不都合な人間の言論を取り締まり、人類を監視し、一大家族理想国家という地上天国を詐称する。ヒエラルキーと情報統制の締め付けによるディストピア構築。それがあなた方の目的なんでしょう。お次は緊急事態の導入によるペルソナ・ノングラータの弾圧ですかな。

fitamazing.com
↑米国 ワシントンDC
tor-exit-readme.manalyzer.org
↑フランス、パリ
destiny.enn.lu
↑ルーマニアということに。
edwardsnowden2.torservers.net
↑同じくルーマニア
aurora.enn.lu
↑こちらも。

こういう現象も、結局はSoftbank嫌がらせ集団が主犯と見るのが当然ですね。ソフトバンクは反日イデオロギーと密接な関係があるとの噂も根強く、この嫌がらせ集団も日本人じゃないのかも。

softbank126120083025.bbtec.net
 
茨城県取手市


softbank126021122071.bbtec.net

↑京都府京都市、熱心な杉本読者のようですが。
 

p4ac1ac.chibnt01.ap.so-net.ne.jp

↑千葉県千葉市
 

116-65-225-118.rev.home.ne.jp

検索用語が「有名牧師、逸脱行為、誰」
ですって。とにかく有名な牧師を引きずりおろしたい。次のバッシングのターゲットが欲しくて仕方がない。「俺様に次の獲物を寄越せ!」「次のキリスト教の不祥事の材料は誰だ!」と、まるでほえたける獅子のように獲物を求めてさまよう恐ろしい渇望が見て取れますね。このようにクリスチャンを弾圧することにやみつきになる読者を生んだのが、杉本ブログの明白な罪なのです。  
 
一説によると、埼玉県川口市 UR都市機構川口芝園団地4号棟にお住いの方と。
 
 
(5月4日)
112-70-19-62f1.hyg1.eonet.ne.jp
 
↑尼崎市ハピネスライフケアサービスすぐ、


もしくは、神戸市西区、玉津板金すぐ。


   

113x40x2x69.ap113.ftth.ucom.ne.jp

↑よほど吉祥寺キリスト集会に未練がある様子ですね~。

東京都小金井市と。


om126186246065.7.openmobile.ne.jp
匿名掲示板常連。大和市あたりの地元民とも思われますが。杉本読者です。不信者ではない連中を使って信者を迫害するのが彼らの手口。


 
kd119104110150.au-net.ne.jp
↓東京都狛江市 〒201-000

匿名掲示板のアドレスを見せつけることにより、恫喝したいのでしょうが、自分がやってると白状しているようなものですね~。

kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
↓京都府京都市もしくは大阪市中央区  杉本氏とKFCによほど未練があるようですね。この主犯格の人物が特定されれば、後は楽そうですね。  


36-2-169-88.kanagawa.fdn.vectant.ne.jp
↑↓はお仲間でしょう。
このアドレス、以下のコメント者と極めてよく似ていますが、きっと単なる偶然でしょうね~。
 

ちなみに、大脳辺縁系のなせるわざではなく、悪霊のなせるわざですよ。
搾取する者とされる者の役割分担…それが分かっていらっしゃるなら、KFCでもゴッコ遊びと搾取をやめれば良かったのです。リバイバル運動の偽りが分かっていたのに、なぜ聖霊派の信徒と手を結んだのでしょう。言っていることは正しく、やっていることは正反対というのではまさに偽善者ですね。

以下の読者とほぼ同時間帯にアクセスしていることからも、KFCと吉祥寺の森は一つ、匿名掲示板も一つ、キリスト教界も一つ、全部合わせて「この世」。アンチカルトはカルトと同一、アンチキリスト教界はキリスト教界なのです。

softbank221080155159.bbtec.net
↑例の偽装なりすまし読者です。接吻で裏切るというあの古典的手段ですね…。いかにも偽善者のやること。

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↑千葉県千葉市or松戸市
67.208.13.160.dy.iij4u.or.jp
↑埼玉県八潮市
s638105.xgsspn.imtp.tachikawa.spmode.ne.jp
〒922-033 石川県加賀市
ipbfn005-225.kcn.ne.jp
↑奈良県奈良市
s649160.xgsspn.imtp.tachikawa.spmode.ne.jp
↑埼玉県小川市もしくは東京。アドレス露出ここにも。 
町田市?まず信者ではなさそうですね。

 p421233-ipngn200607kyoto.kyoto.ocn.ne.jp

アドレスそのまま、京都府京都市…。




上記の方は5月7日にもお友達と共に工作に来ていたので調べてみましたが、八幡市の住所が表示されていました。
 
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↑新潟県新潟市


p421233-ipngn200607kyoto.kyoto.ocn.ne.jp
↑京都府八幡市
   
こちらの地図ではハイソな住宅街が表示されてますね。

 
ipngn26501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp

これも匿名掲示板の常連。他にもある模様。123.225.21.200
 
   
121-81-239-86f1.shg1.eonet.ne.jp


↑滋賀県大津市。カトリックもターゲットになったわけですね。

softbank219034112007.bbtec.net


「預言カフェ」まだそんなことの是非にこだわってるんですか。
本当に終わってますね。この業界。
 
kd119104102241.au-net.ne.jp
長野県諏訪市 角上鮮魚店すぐ。

softbank221080155159.bbtec.net
香川県高松市or坂出市。 ここからアドレスの変化を見られます。

pw126253228234.6.panda-world.ne.jp 

 
「十字架、愛、明け渡し」などという非常に気持ちの悪い説教表題のような検索用語で辿り着くこの方。IPアドレス 126.253.228.234
やはり匿名掲示板の常連。こういうキ教専門用語を文脈から完全に切り抜いて使うのは悪霊の常套手段。要するに、前後の論理的な文脈が全くないんです。短い検索用語を使ってしか話せない時点で、すでに思考がおかしいと言えるでしょう。

tcn024240.tcn-catv.ne.jp
これも上に同じ検索用語。

 
ttb4-ip187.user.xsp.fenics.jp
↑東京都港区 AG信者ですか?

fw1.hokkoku.co.jp

 

首相の偶像化と神社本庁の活動に絶望なさいましたか? 被害者意識に陥り絶望するのはあなたの自由ですが、神は正しい人と悪人を共に滅ぼすようなことはなさいませんよ。義人は信仰によって生きる。未来のない人生は自己責任でどうぞ。

14-132-84-150.aichieast1.commufa.jp
岐阜県美濃加茂市、もしくは愛知県一宮市
大人気ですねえ。このブログ。この訪問者たちは決してキ教以外の宗教をターゲットにしない。 明らかに一定のミッションを帯びた工作員集団。
 
  softbank060065042131.bbtec.net


↑相変わらずバッシング対象を探し求めている読者。そんな暇があれば日本会議の事でも調べたら。

pw126236212121.12.panda-world.ne.jp
ipbfn005-225.kcn.ne.jp
↑は古参さわやか読者

↓はすべて言語が英語です。
203.104.145.49
exit.kapustik.info
h-170-78.a322.priv.bahnhof.se
 
(5月7日)
p673045-ipngn200603sizuokaden.shizuoka.ocn.ne.jp
↑富山県富山市



アッセンブリーズ・オブ・ゴッドに恨みがあるなら、なぜ教団に抗議しないんです?その勇気もない?(おまけにAG信徒だったりして…笑)


softbank126031116219.bbtec.net
↑熊本県合志 県道341号線からほど近く


 

softbank221080155159.bbtec.net
香川県高松市(さわやか読者主犯格)

kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
京都府京都市もしくは大阪市中央区(さわやか読者主犯格)

ipbfn005-225.kcn.ne.jp
(奈良県奈良市もしくは京都府木津川)

この三人がお仲間であることも見えて来ましたね。
 
 
ipbfn005-225.kcn.ne.jpについては…




19.199.13.160.dy.iij4u.or.jp
愛知県名古屋市もしくは安城市
 
 
手束正昭氏の思想の異端性をこれほど詳しく明確に分析したのは、当ブログを置いて他にないと思いますが。感謝されて良いはずなのですがね。あなたは結局、教会成長論の擁護者なんですかね?
 

明治用水会館ほど近く。
 
 
これだけ湧いて出て来ると、ネット対策企業の雇われ工作員よりも、別の宗教団体の信者を思わせますね。

前々から指摘していますが、Br.Taka氏らと同じように、村上氏や杉本氏も、隠れた目的を持ってキ教に送り込まれた偽装信者である可能性を考えてみるべき。彼らのライフワークが通常の牧師や信徒の福音伝道からかけ離れ、キリスト教を破壊することが生業となり、聖書の御言葉に立脚した健全で正常な信仰生活について、全く証することができないところを見ても、彼らにキリストへの信仰があるとは思えません。別の宗教の信者だと考えればすべてに納得がいく。だからこそ、この人々を支持する人たちはクリスチャンではない得体の知れない人たちばかりなのです。 


5月8日
kd106161130104.au-net.ne.jp
杉本氏に関する最新記事がものすごく気になっている様子ですが、だんだん身元が割れて来ましたね。


p6165-ipngn10701marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp 



pw126152100017.10.panda-world.ne.jp




「クリスチャンの病理」と。あなたは自分がクリスチャンではないとお認めになるんですか。情勢に応じてころころ立場を変え、都合の良い時には聖書を引用しながら、都合の悪い時にはクリスチャンと無関係をきどり信者を非難する。立脚点がまるでない卑怯などっちつかずの二重性は村上氏や杉本氏やルーク氏と同じですね。自分の心の二重性を見ず、他者だけを断罪し始めた時点で深刻な心の病気でしょう。
 
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信者に対する嫌味のつもりなんでしょうね。村上氏の書いたキリスト教批判を鵜呑みにしてペンテコステ信者を攻撃する人々は数多くいますよ。彼らの記事は結局、信者に対する憎しみと攻撃を煽っているわけです。



p38073-omed01.osaka.ocn.ne.jp


杉本氏とほぼ同時間帯に来ていることから、仲間と見られますね…。

千葉県浦安市老人福祉センター近くもしくは大阪市。

 
117-53-26-116.adachi.ne.jp
↑埼玉県さいたま市もしくは東京都足立区

 

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 ↑相当執念深い杉本読者。いつまでも金魚の糞のように首領様にくっついていたら、杉本氏と一緒に責任追及されることになりますよ。

ipbfn005-225.kcn.ne.jp
日夜クリスチャンを訴えるための監視活動、お疲れ様です。どのくらい工作手当もらってるんです?


fs76eee8a5.tkyc210.ap.nuro.jp

↑本日昼の工作員一人。本当にさわやか読者、減りました。しかも検索結果を操作している主要な嫌がらせ犯のほとんどが数名のしつこい常習犯であることも分かりました。最後まで繰り返している人は主犯と共に罪に問われます。個人名が特定されれば、ネット上に公表され、半永久的に削除されませんのでご注意を。

softbank126065009076.bbtec.net
ソフトバンク嫌がらせ古参工作員の一人。↑の直後に来ていることから、杉本読者のお仲間でしょう。


 

34.78.149.210.bf.2iij.net
↑こちらも古参。例の「帝塚山学園」。当ブログのランキング順位を下げるためにおびただしい回数、アクセスを重ねようとするも、途中であえなくログ公開に。
 
おたくひょっとしてキリ短の講師とかと関係あるのでは?犯罪者は現場に戻る、と言うように、何か書かれると困ることがあればこそ、これだけ頻繁に当ブログを訪れているんでしょうねえ。今後もあなたのログはすべて公開し、嫌がらせ行為の証拠として提示しますよ。
勤務時間中に学校に不名誉な行為にいそしんで進退に影響がなければいいですがね。

157.55.2.130
↑米国様。放っておくとまた工作にいそしむ輩。ペンテコステ運動の擁護者でしょう。

 

125-31-115-203.ppp.bbiq.jp
↑福岡県福岡市

 
所在地のすぐ近くに創価学会池田文化会館がありますね。
さわやか読者は、その嫌がらせのやり口から見ても、どうにも新興宗教独特の強い臭気を放っており、キリスト教を敵視する他宗教の工作員信者だという気がしてならないのですが。

softbank060074224186.bbtec.net



↑さわやか読者はこうしていつも当ブログから結論だけを奪い取って、これを無関係な信者を責める材料に使うのですよ。彼らは決してペンテコステ派の組織には直接、抗議せず、むしろ教団を離れた信者らを攻撃する。弱いものイジメ大好きな倒錯して異常な思考が分かります。

杉本と同じで、一見、批判してるフリしながら、その実、水面下ではしっかり敵と手を結んで、自ら異端視しているペ運動と提携しているのです。異端に抗議したいなら、Br.Takaや村上密のようなAG信者に抗議すべきですが、長いものに巻かれいじめっ子に媚びることしかできない人々にそんな勇気があるはずもない。こうして、カルト=アンチカルト。真の反対者を駆逐することが目的の人工芝•偽装反対運動の工作員信者たちなのです。

これらの人々を見て分かるように、一方には、キリスト教をダシに牧師や学校教師となって信徒に君臨しカネを収奪するろくでもないニンゲンがいるかと思えば、その対極には、キリスト教のカルト化問題をビジネスとして信者を収奪し踏みにじり手柄を立てるカウンセラーや自称専門家の輩がいる。さらにその下には、彼らに手柄を献上すべくヒラメや金魚の糞のごとくまとわりついて識者ぶり、「キリスト教の堕落」について得意げにコメントし、自分以外の信者を見下し反省を迫る偉そうな偽装信者たちがいる。

この人たちはクリスチャンを罪に定め懺悔させることに悦楽を感じ、各地でクリスチャンを断罪する材料を探し求めている。異端の情報を得ると、これを早速、本物の信者を駆逐するために悪用し、決して組織には戦いを挑まず、個人を泥沼の訴訟による密告•裏切り•報復合戦に引きずり込む。どこまで腐り切り終わっているのか、このギョウカイ。

これら自称信者(実際にはみなグノーシス主義者の工作員であって、本当の信者ではない!!)が跋扈し自滅に向けて準備万端のこの有様には、誰しも溜息つきたくなります。しかし、神はご自分に忠実な民を知っておられます。エゼキエル書にあるように、神の宮の腐敗を心から憂えている人々が誰であるか知っておられます。正しい人が悪人と連帯責任を負わされることは決してない。

悪人と詐欺師どもは互いに騙し騙されながら悪から悪へと落ちて行き、十字架に敵対する人間の末路は滅びです。街路に落ちて人に踏みにじられるだけの枯れ落ち葉、さまよう星、自分の帰るべき巣を忘れ自分の子らを見捨てた愚かな鳥のような、この真っ暗な暗闇、穢れた鳥どもの巣窟を離れ、聖書に立ち戻れ、言えることはそれだけですね。  

(5月9日)
↓もうだんだんメンバーも限定されてきました。何の面白みもない顔ぶれですね。誰が煽ってるんだかもまるわかり…。
p4695200-ipngn26501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
↑古参。主犯格級の一人。
kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
↑上に同じ。主犯格。
softbank221080155159.bbtec.net
↑上に同じ。ソフトバンク工作員集団。

こうしてどんどん不審な読者を引き連れて来ては、工作を繰り返し、スギモの立場を悪くしていく杉本読者たち。こんなメンバーしかいないとは、頭悪すぎですね。

204.79.180.155
cpc81275-enfi21-2-0-cust323.20-2.cable.virginm.net
↑上二つは英語組。
ub34019.ubffm.ub.uni-frankfurt.de
↑ドイツ語。
p3dd3124e.hkidnt01.ap.so-net.ne.jp
↑北海道札幌市



om126237052190.9.openmobile.ne.jp
天声教会は日本に数ある熱血韓国系の教会です。繰り返しますが、韓国系です。異端と糾弾するなら、この事実をよーく踏まえて下さいね。知人に話したところ、「その名前だけで遠慮しとくわ」との事。未だにKFC関係の教会のバッシングで盛り上がってるんでしょうか。古いですよ。その話題は。



p13232-ipngn6201hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
おやお久しぶりですね。ドクタールークにまだ関心があるんですか。いい加減卒業なされば。




↓昔、以下のようなコメント者がいたんですね。スギモと同じくプロテスタントに絶望してカトリックに去った信者です。KFCに対する根強いを恨みとルーク氏に対する拭い去れない憧憬と未練を持ち合わせ、去った後までも「私がルークの一番弟子だった」と回想。


ルーク氏とKFCにつまずいたことを機に、プロテスタントへの対抗意識が捨てられなくなった人たちは多数います。しかも、こういう短いコメントしか書けない人って大抵、匿名掲示板の常連なんです。

しかし、プロテスタントに絶望したからカトリックというのは歴史的後退でしかない。もし間違いだと分かったならば、「出て来た故郷」(へブル11:15)に逆戻りするのではなく、「後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進」む(ピリピ3:13)べきなんですよ。

霊的先人たちは組織としての教会の間違いが分かった時にきっぱりと組織を離れた。プロテスタントに絶望するのは勝手ですが、組織の誤りを知りながら、より強力な組織のヒエラルキーに身を委ねるのは、自己矛盾でしかない。教会につまづいた時、その人がより明確な真理を求めているのか、それとも、ただ傷ついた自分の心を優しく介抱してくれそうな人の温もりを求めているだけなのか、そこが決定的な分岐点となります。

前者はより御言葉に立ち返り、神に近づくために犠牲を払いますが、後者は人の組織につまずいたことをきっかけにそれまで知っていた真理をも捨て、前よりも状態が悪くなるのです。真理のために犠牲を払って神に問うことができないと、どんな集団に帰属しても、いずれ不満が生じて脱落するだけでしょう。そして最終的にはキリスト教自体を否定するようになります。

実のところ、この手の人々はプロテスタントにつまずいたのではなく、御言葉につまずき、キリストの「狭い道」につまずいて「広い道」を望んでいるだけなのです。

サンダー・シングやマザー・テレサは西欧キリスト教の「傲慢さ」や「狭量さ」、弱者への憐れみのなさに絶望したことを口実に、東洋思想に後退した。そして、十字架の切り分けを否定するグノーシス主義者となった。組織としてのキリスト教につまずいたことをきっかけに、真理からも弾き出され除外されてしまう人々がいるという恐ろしい実例です。

キリストの真理は、今日も、みすぼらしい土の器の中に入れて運ばれているのです。土の器の中にはゴミも入っているかも知れませんし、器の外見のみすぼらしさをあざ笑うのは結構ですが、だからと言って、容器と中身を混同して、中にある「測り知れない力が神のものであって、私たち(人間)から出たものでないこと」(Ⅱコリント4:7)まで否定すると、最後にはその人は聖書を否定して神の敵にまでなるのです。

 5月11日
↓相変わらず、ボーフラのようなさわやか読者たち…。

182-167-186-40f1.hyg1.eonet.ne.jp
↑兵庫県尼崎市or神戸市の古参。杉本とほとんど同時間にアクセスしていることから、仲間とみられる。鳴尾教会を迫害する側に回ったAG教団や津村氏の関係者とも推測される。


p6253-ipbfp213sizuokaden.shizuoka.ocn.ne.jp
↑これも上に同じ。杉本の仲間。静岡県静岡市



30.net059085008.t-com.ne.jp


m106073147096.v4.enabler.ne.jp
h219-110-85-077.catv02.itscom.jp
204.79.180.19

 
exit.norway.tor-node.net
kd182251243040.au-net.ne.jp
↑広島県尾道市 一つ上はノルウェーですが、上記二人は仲間と見られます。


pw126245021126.16.panda-world.ne.jp
↑東京都福生市、牛浜幼稚園すぐ。



kd182251243005.au-net.ne.jp
kd182251243051.au-net.ne.jp

↑様々な掲示板に出没し、キリスト教徒に対する被害妄想を匿名掲示板に延々と書き連ねる常連。キリスト教に恨みを持つトンデモ不信者をつかまえては、カルト被害者救済活動はクリスチャンへの攻撃に利用して行く。結局、キリスト教をカルト宗教扱いして信用を貶めることが彼らの真の目的と。

ipbfn005-225.kcn.ne.jp
古参杉本読者の常連工作員。

gate.sumitomocorp.co.jp
↑住友商事です。杉本の記事に関心があるようですが、それよりも統一教会や安倍首相と関連があるのでは。武器商人と手を組み国民を殺して金儲けすることを決めた一社でしょうか。そういう噂があるのはご存じ?


  

  


さわやか読者の活動履歴
      
サイバーカルト監視機構(杉本徳久編)②(5月23日版)

サイバーカルト監視機構(杉本徳久編)➀(5月14日版)
        
さわやか読者・サイバーカルト監視機構版(後編)
 
さわやか読者・サイバーカルト監視機構版(中編)
 
さわやか読者・サイバーカルト監視機構版(前編)

優良さわやか読者賞(続)2月22日改定版

優良さわやか読者特別賞 2月10日改定版




カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール③


<補足>
これは「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール②」の続きである。

さらに、4月30日 4:03:32 JSTにも、杉本徳久氏からは次のようなメールが来たので、補足的に公開しておく。 ただし、メールフォームはすでに閉鎖しており、今後はもう使用できない。

それにしても、ゴールデンウィークにまで他人に恫喝メールを送りつけずにいられないとは! 記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール➀」にも示しているように、これまでにも、同氏からのメールの多くは、新年やクリスマスシーズンなど、世間の人々が最もくつろぎ、楽しんでいる時分に届いていたが、
 平和で落ち着いた家庭人からは程遠いその姿に、哀れを催さずにはいられない。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 ▼投稿されたメッセージ
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REMOTE_ADDR: 219.215.163.80

[ 名前c ]
杉本徳久


[ メールアドレスc ]
sugimotonorihisa@gmail.com


[ メールアドレス再入力c ]
sugimotonorihisa@gmail.com


[ 件名c ]
4/25付の投稿につきまして


[ ご感想c ]

前略、ヴィオロンこと〇〇様
杉本徳久です。先に私があなたへ送信したメールを引用され、4/25付の新しい投稿を読みました。こちらですね。


http://godslove.kamakurablog.com/Entry/115/



 私はあなたをいたずらに挑発したくてご連絡をとったわけではありませんが、いったい、どういうおつもりでしょうか。

あなたは再三、意味不明の論旨を連ねていますが、全く理解しかねます。

私から警察へ刑事告訴して〇〇さんを法的に訴えてほしいのでしょうか?

(当ブログの記事をきちんと読めば、趣旨は理解できるはずである。それでも理解できないのは、自分に不都合なことを杉本氏が何も理解しようとしていないだけである。

杉本氏は、自分にとって不都合な記事の削除を他者に迫る前に、自分自身が、2009年にヴィオロンが削除を要求したコメントを速やかに削除し、ヴィオロンについて記した一連の誹謗記事を削除してから、人にものを頼むのが筋であろう。自分だけは人をさんざん誹謗しておきながら、それに対する反論も許さないという態度は筋違いである。

杉本氏からは、以前から何度も「何らかの対応を取らねばならない」という脅しメールをもらっているが、同氏は、不法な個人情報の暴露を予告して筆者を脅迫したり、嫌がらせのアクセス集中を行なったりしているだけであり、一向に、正式な方法で、筆者に対峙して来たことがない。常に「訴えるぞ」と相手を脅しているだけで、提訴が成り立たないのである。)

数年前からあなたは私が行ったと主張する「恫喝」、「脅迫」について警察へ相談したと主張されますが、いったい、どこの警察へ、何の罪状で相談されたのでしょうか。当方のところへはどこの警察のどの刑事さんからも一本の電話も、一通の連絡も来ておりません。事件として受理もされていないと思いますが、どういうことでしょうか。


(当ブログで示している杉本氏の違法行為について、杉本氏がどんな形で責任を問われることになるか、前もって杉本氏に知らせる必要はない。いずれにせよ、同氏が筆者に対して行って来たすべての所業は否定できない証拠が残っており、関係機関へも情報提供されており、やがて同氏が罪に問われることになると言えるだけである。当ブログに途中経過は記載しない。明確な結果だけを公表する。)

これ以上、この様な投稿活動を続けられるようでは当方、何らか対応を取らねばならないと思っております。

(このような投稿活動をやめるべきは杉本氏である。まずは筆者の要求したコメントを削除し、筆者について記したブログ記事を全文削除の上、ネット上の不法なアクセス集中を含めた嫌がらせ行為をすべてやめていただきたい。)


直ぐにお辞めいただきたく、また、きちんと削除して下さい。

以上、よろしくお願いします。

2016年4月30日 杉本徳久

(筆者はすでに記事を削除する理由が存在しないことをきちんと説明している。杉本氏が、自分で書いた恫喝メールも含め、一連の記事を公表されると困るというのであれば、違法な方法で筆者に嫌がらせを加えるのではなく、まず、筆者について杉本氏自身がブログに公開しているすべての誹謗中傷の記事及びコメント、筆者の著作物の無断転載を行なっているブログ記事、さらに2009年当時から筆者が杉本氏に削除を要求しているコメントを速やかに削除した上、筆者に対する様々な嫌がらせ行為を謝罪し、生涯に渡り、二度と筆者に関与しないことを公に約束することをお勧めする。それができないのであれば、正式な責任追及は免れられないであろう。)


カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール②

以下の記事「 村上密牧師による自己流の「異端審問」」を掲載したところ、早速、杉本徳久氏から、当ブログのメールフォームを利用して、次のような手紙が来たため、読者へのお知らせを兼ねて、この場で公開しておく。

杉本氏からは以前にも、同氏にとって気に入らない記事を削除せねば、ヴィオロンの個人情報を無断で公開するなどの脅しを含むメールが何通も来ており、その文面は、記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール」でも示している通りである。

2012年頃から、実際に杉本氏の恫喝と予告の通り、当ブログの管理人に対するプライバシーの侵害等を含む悪質な書き込みが匿名掲示板に大量に書き込まれ始めたことは周知の通りであり、この件に関しては、杉本氏以外にそのような行為を行なう意図を予め筆者に伝えて来た人間は誰一人存在しない。
 
なお、当ブログ管理人は個人情報を公開していないが、筆者の意に反して、無断で筆者の個人情報を公の場にさらす行為は、罪に問われる可能性があることも警告しておく。さわやか読者の情報も蓄積されているので、これらを合わせると、嫌がらせ工作員の個人情報が特定されて、個人名が公表されるだけでなく、賠償責任などの形により、個人的に責任追及がなされる可能性が十分にあることをこの場で述べておく。

このように本人からの投稿があったことにより、記事「村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(後編)~」にて示したIPアドレスが、杉本徳久氏のものであることが確定した。

以下の二つの投稿の時間は、それぞれ2016年4月25日13:26、同日13:27である。

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  ▼投稿されたメッセージ
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 REMOTE_ADDR: 219.215.163.80

 [ 名前c ]
杉本徳久

[ 件名c ]
ブログの記載につきまして その1

[ ご感想c ]
拝啓、「ヴィオロン」こと、〇〇様、

武蔵野市吉祥寺北町の杉本徳久です。少し前から再開された〇〇さん執筆のブログの記載につきまして、内容を読み、大きな問題がありますのでご連絡申し上げます。

相変わらず、気に入らない他人のブログ記事内容に削除を迫るためとはいえ、今までずっとメールで連絡して来ていた杉本氏が、急にメールフォームから連絡する気になったのには、どういう意図が隠されているのか、これまでのいきさつを振り返ると、疑わないわけにはいかない。

同氏からは、上記した通り、以前にも、同氏にとって気に入らない記事を筆者が削除しなければ、筆者の個人情報を無断で公開するとの脅しメールもいただいており、それは記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール」に示した通りである。

そこでもし今回、筆者が杉本氏にメールで返信をするようなことがあれば、同氏はそれを機に、筆者のメールの文章や、メールアドレス等の個人情報も、ブログに公開するのが目的であったのかも知れないと考えられる。

以前の杉本氏からの脅しメールの内容を振り返っても、同氏に対して個人的な密室でのやり取りは無用と判断しているため、ここに杉本氏の文面と、筆者の見解を記しておく。

誤解のないように伝えておくが、これは杉本氏に限った措置ではなく、メールフォームからの投稿であっても、公表すべきと筆者が判断するものがあれば、随時、公表して行く。ただし、このブログ始まって以来、メールフォームから筆者に否定的なコメントを送って来た人間は、杉本氏以外にはいない。

たまには、他者への和やかな挨拶と、人の作品を誉めるということから、コメントを始めてはどうかと思うのだが、杉本氏に限ってはそのような忠告も無用であろう。
  
さて、今回の杉本氏の投稿の趣旨も、今までの恫喝メールと同じで、要するに、同氏にとって気に入らない、同氏に関して否定的な内容を記載する記事もしくはその記事から同氏の実名をすべて削除せよという要望である。だが、相変わらず、杉本氏には削除を丁重に依頼する口調が全くない。
 
それでも、以前に比べれば、文面がトーンダウンしており、人をいたずらに罵倒したり、嘲笑するような口調や、檄文のような憤りに満ちた文章や、ドラマから取って来たような感情的で陳腐な紋切り型の啖呵を切るようなことは減ったようである。
 
〇〇さんがかつて「主にある兄弟として信頼」しているとされていたKFCの唐沢治(Dr.ルーク)さんらとなぜ、今は絶縁しているのかなど詳しい経緯はわかりませんが、こと、私に関する記事については看過ならない内容が多くあります。

なぜかここで唐突に唐沢氏の名前が登場する。いつも驚かされるのは、なぜ杉本氏がこれほどまでにルーク氏の話題を筆者に対して頻繁に繰り返すのか、ということである。

よほど杉本氏には、ルーク氏と筆者との関係が気になって気になって仕方がないように見受けられるが、一体、どんな理由で、筆者がルーク氏と親交を結ばなければならないというのだろうか。

「なぜ、今は絶縁しているかなど詳しい経緯はわかりませんが」などと残念そうに書かれているが、筆者のブログを読めば、KFCの理念に対して筆者がどのような態度を取っているかは明白である。にも関わらず、杉本氏は、常に信者間に起きることを、信仰や理念の問題として理解することができず、三流映画のような人間模様のドラマとしてしかとらえられない様子である。いつまで経っても、何年も前の大昔の出来事を引っ張り出して蒸し返さざるを得ないのは、よほどブログに掲載するゴシップのネタが足りなくなっているからなのであろうか。

だが、同氏が「詳しい経緯はわからない」などととぼけているのは、おそらくは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者であったBr.Takaこと鵜川貴範・直子夫妻がKFCを乗っ取った事件に知らぬふりを決め込むためではないかと思われる。この事件は、唐沢氏と私とを分裂させ、KFCを地上から消滅させるために、悪意をもって引き起こされた工作であったと考えられる節が極めて大きいのだが、こうした出来事について杉本氏は、自分は詳しい経緯を知らないと、問われてもいないのに自己弁明せずにいられないような、何かの後ろめたい事情が存在しているようである。
    
例えば、京都の村上密牧師からの指示を受け、「杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」と書かれていますが、私はそもそも村上さんと面識がありません。お会いしたことも電話をしたこともなく、他界された石原牧師などを介したりしたこともありましたが、簡単な事務的メール連絡を取ったことが何度かあるだけです。その私が、どうやって村上さんからの指示を受けて「サイバーカルト監視機構」を主導することなどできましょうか。また、そもそもそのような「機構」は私の知る限りこの世に存在しませんし、私がそれに関与していることなど全くありません。
 
何としても「カルト監視機構」とは無縁だと主張したい杉本氏の思惑が見て取れる文章である。杉本氏が村上密氏と面会したことがないのは事実かも知れないが、直接面会しなくとも、親交を結ぶ方法はいくらでもあり、村上氏とのメールでのやり取りがあることは、杉本氏自身が認めている。こうして、メールのやり取りがあり、人物を互いに確認しているわけであるから、村上密氏と杉本氏に面識がないという結論には至らないであろう。

さらに、私はブログ記事の中で、杉本氏と村上氏との間にどんな面識があるのかについては触れていない。私が記事に書いているのは、この二人の思想的共通性である。
 
二人はまずカルト被害者救済活動を支持し、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を擁護し、ヴィオロンを非難し、鳴尾教会の教団離脱に反対し、津村昭二郎氏を擁護し、鳴尾の山田牧師夫妻を非難するといういくつかの点を見ただけでも、思想的立場をほぼ完全に同じくしている。

杉本氏が、村上密氏の行うカルト被害者救済活動を支持し、カルト被害者を名乗る信者に積極的に接触を図っては、村上氏が「疑わしい」とみなした牧師に対する裁判を後押しして来たことは、杉本氏自身が記事に書いていることであり、被害者間でもよく知られている。

このように、村上氏と杉本氏との両者は思想的に共通した見解を持って、同じ活動の枠組みの中で互いを擁護し支え合って来たのである。もっと言えば、以下に示すように、杉本氏は村上氏を擁護する内容の記事を多数書いていることから、師弟のように密接な関係とまでは言えなくとも、一定の尊敬を村上氏に対して持っており、常に村上氏を支持する立場から活動しているように見受けられる。
 
村上氏と杉本氏との活動は、カルト被害者救済活動を通して、教団教派や教会の枠組みや規則を飛び越えて、これを無視して他教会の内政に干渉し、カルト化の疑いありとみなした教会に対して、ネットによる吊し上げを助長し、司法の強制力を用いて弾圧を試みて来た点でも一致する。

だが、杉本氏はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者ではないため、本来は、鳴尾教会のような他教団の事情に首を突っ込むことができる立場にはない。そもそも、プロテスタントの信者でもない人間が、どんな権限があって、自分が属していないプロテスタントの諸教会の内政に干渉し、その内情を探り出し、暴露するような記事を書くことが許されるのか、甚だ疑問である。
 
同様のことが、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する村上密牧師の場合にも当てはまる。村上密氏のカルトとの闘いも、同じように教界内規則に基づかない単なる越権行為でしかないが、そのような越権行為を、裁判という強制力を用いて正当化できると考えている点でも、村上氏と杉本氏の見解は一致している。

しかも、両者の記事の中には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の関係者でなければ、決して知り得ない情報が含まれており、鳴尾教会に関する裁判の経緯などに関する杉本氏の記事は、教団離脱に反対した鳴尾の信者をバックアップする立場から書かれており、それはおそらくは教会関係者への接触なしには書けない事柄であり、また、その記事内容は、鳴尾教会の教団からの離脱を裁判によって阻止しようと試みていた村上密氏の活動を支援する立場から書かれている。鳴尾教会に関する杉本氏の一連の記事は、村上密氏の思想的立場や、同氏の利益と完全に一致する。
 
村上氏と杉本氏とは共に、事実に反して、鳴尾教会の現在の山田牧師夫妻を、あたかも異端に走った教職者として不適格な人物であるかのように描き出して非難し、鳴尾教会のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からの離脱という出来事を、山田牧師夫妻による「陰謀」や「教会の乗っ取り」であるかのようなストーリーをブログ記事で描き、牧師夫妻を非難している点でも一致する。

一体、村上サイドに立つ情報提供者の協力なしに、どのような方法を用いて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には無関係なはずの杉本氏が、このような記事を書くに至ったのか。杉本氏がかなり中枢深くまで同教団の内情に食い込んでいる様子がはっきり伺えるのである。
  
このように、両者の見解は、驚くほどに共通しており、しかも、その主張の盲点や、事実に反する虚偽の主張についてまで、大筋で完全に一致しているのである。

こうしたことから、村上氏と杉本氏は、いわば思想的な同志のような関係にあって、互いの主張を補い合うという文脈で協力し合って来たことが明白であり、そのことは、村上密氏自身も、自らのブログ記事において、杉本氏の記事を引用していることでも裏付けられる。

さらに、サイバーカルト監視機構という呼び名は、私がつけたものであるにせよ、村上氏や杉本氏が、自ら「カルト化の疑いあり」とみなした教会や牧師や信者を、ネット上で袋叩きにする活動を積極的に後押しして来たことは事実である。

両者が、特定の教会やクリスチャンについてネガティヴなイメージを広めるために書いた記事は、実際に、ネット暴民のような身元不明のユーザーやコメント者を煽り立てて、記事でターゲットとされている人物への嫌がらせのコメント等を助長し、ブログの炎上を起こしたりする効果を与え、ネット上の集団的嫌がらせを次々と生んで来たことは事実である。

そのことは、杉本氏が自身のブログに掲載した私に対するバッシング記事に、一千件のコメントがついた事実を見ても明白である(むろん、この一千件のコメントは水増しの可能性が極めて高いので、実際に書き込んだ人数は数人程度かも知れないが)。このようにネットを利用して、村上氏や杉本氏の活動に賛同しない信者に対する組織的な嫌がらせが行われて来たことは事実であり、こうしたネット暴民のようなネットユーザーによる特定のクリスチャンに対する行き過ぎたバッシング、クリスチャン・ブロガーへの吊し上げや、悪質な書き込みの助長、悪意あるアクセス集中によるブログの検索結果の意図的操作等、ネット上の集団的な嫌がらせを生む母体となって来たのが、村上密氏や杉本徳久氏のブログ記事なのであり、これらの集団的悪意を総称して、私はサイバーカルト監視機構と呼んでいるのである。

このように、ある一定の目的のために活動するネット上の集団的悪意が存在することの証拠として、私はさわやか読者に関する情報を記録に残し、公表して来た。こうした読者らの動きを見ると、彼らが何を目的にしているのかも、おのずと見えて来る。匿名掲示板に大量に書き込まれた筆者に対する嫌がらせのコメントも、村上密氏を擁護する立場から書かれているが、そのようにして私の個人情報を公開すると事前に脅迫して来た人物は、杉本氏の他にはいない。こうしたことからも、村上密氏の活動に好ましくない特定のクリスチャンに対するバッシングによる印象操作や嫌がらせを、杉本氏が分担して担当している構図が見えて来るのである。
 
現実に接点がなくとも、インターネットで知り合った者同士が、思想的に手を結んで、同様の内容の記事を掲載して行くということは十分にあることで、それがたとえ計画的な形でなくとも、コメント者などを巻き込んで、行き過ぎたバッシングという見えない悪意につながっていくこともよくあることである。まして、元記事が悪意による誹謗中傷を含んだ内容であれば、それを鵜呑みにした読者らが、ターゲットとされた人物への集団攻撃に加勢することは容易に起きうる。

本来、ブログ記事は、そのようなことが起きないように配慮して書かなければならないが、村上氏と杉本氏は、最初から特定のクリスチャンを貶める目的で、事実に反して記載して来た決めつけの誹謗記事(たとえば、私や鳴尾教会牧師に対する記事内容については別稿で反論しているので、ここでは触れない)を次々と発表しては、多くのコメント者やネットユーザーを悪意による便乗的な嫌がらせへと駆り立て、ターゲットとされた人の人物評価を長年に渡り、貶めることに貢献して来たのである。

こうした行為は、罪に問われて当然の他者への名誉棄損、信用の重大な毀損であるが、そのような効果を最初から狙って、村上氏や杉本氏は一連の記事を書いて来たのであり、このようなネガティブ・キャンペーンと言える記事を発表することや、また、こうした記事を作成しては、ネット上で次々と好ましくない人物に弾圧を加えて行くことを肯定する思想と行動そのものが、カルト監視機構の本質なのである。
 
村上氏と杉本氏は、私のブログを常に「創作」と呼んで、事実に基づかない空想物語のように決めつけているが、その点でも、二人の主張は驚くほど一致している。
 
さらに、杉本氏は、「自己愛性妄想だ」とか(このような用語自体が「杉本用語」であり、公の概念としては存在しないのであるが)、「訳の分からぬ妄想的な珍説を並べている」などとヴィオロンを罵倒し、嘲笑するような言葉をいくつも並べては、長期に渡り、当ブログを酷評する記事をいくつも掲載して来た。その記事も全文データが残っているので、杉本氏によって書かれた他のスパム記事と共に、近日中に注釈を加えて公表する予定である。

鳴尾教会の教団離脱に関しても、杉本氏は、山田牧師夫妻について、具体的な根拠も提示せずに、一方的に「道に外れている」と決めつけたブログ記事を発表し、村上氏と同じように、鳴尾教会の教団離脱に反対する立場から一連の記事を書き、牧師夫妻のイメージを貶めており、こうした記事がコメント者らをいたずらに夫妻への嘲笑やバッシングに駆り立てて来たことは、杉本氏の記事につけられたコメントを一読しただけで分かることである。

このように、村上氏と杉本氏はネット上で手を組んで、自ら敵とみなした人物の評判を貶めるためのネガティブ・キャンペーンを積極的に展開して来たのであるが、杉本氏が鳴尾教会に関して掲載した情報は、その多くが捏造された不正確な情報であるにせよ、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の内部から出て来たものであり、関係者への接触がなければ知り得ない事柄であり、なおかつ、村上サイドから提供される情報と内容的に一致している。

しかも、鳴尾の山田牧師夫妻に関しては、異端の疑惑は教団内でさえも認められていないにも関わらず、全く根拠なく、杉本氏が彼らを「道に外れている」と非難していという点でも、杉本氏の見解は、その決めつけに満ちた事実に反する一方的で盲信的な主張という欠点において、村上氏の見解と瓜二つなまでに一致している。

ちなみに、杉本氏は、村上密氏のカルト監視機構の発想に全く反対を唱えたことがなかった。

こうして、杉本氏がこれまでにブログに記載して来た特定のクリスチャンに対する誹謗記事は、あらゆる角度から見て、村上密氏の主張と同一の思想を基盤とするものであり、村上密氏の活動を擁護し、支援する立場から書かれたものであることは疑いの余地がない。そして、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者ではない杉本氏に、ここまで事件の詳細を(しかも歪曲された一方的な角度から)情報提供できる人物は、村上密氏(とその関係者)以外には見当たらないのである。

こうした杉本氏の記事が原因となって、今日に至るまで、私のブログに対しても嫌がらせ工作が繰り返されているのだが、その嫌がらせ工作者の多くは、あからさまに杉本氏の記事から当ブログへとリンクして来た形跡が残っている。こうした証拠があるにも関わらず、それでも、杉本氏が自分がブログ記事で行っているネガティブ・キャンペーンが、ターゲットとされた人物に対する読者らの嫌がらせを煽るものではないと主張するつもりであろうか。

しかも、もっとあからさまな事実は、嫌がらせ工作を続けている読者の中に、杉本氏のものとしか考えられないIPアドレスが含まれており、その特定のIPアドレスから当ブログに対して、頻繁に異常なアクセスが集中していることである。これについては以下の記事を参照されたい。

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(前編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(中編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(後編)
  
さて、村上密氏と杉本徳久氏の最も重大な思想的な共通点は、両者がこのようにネットや司法の場を利用して、自ら「疑わしい」とみなしたクリスチャンたちに対して、恫喝訴訟をしかけたり、私刑と言って差し支えない不法なバッシングや、脅迫や嫌がらせなどの圧迫による個人攻撃を行ない、気に入らない人物に対して、この世の法律や教会の規則に基づかない行き過ぎた懲罰的で報復的な行為を容認し、さらにはこれを積極的に奨励してさえいることである。
 
このように、聖書に基づかずに、人間が他者の内心の自由を侵害してまで、自らの思惑に基づいて、神のように他人を裁き、人の内心を監視し、誤った思想を罰し、是正しようとする危険な思想と、こうした思想を容認する活動をこそ、私はこれまで「カルト監視機構」の本質として糾弾して来たのであり、村上密氏と杉本氏の活動とそのブログ記事内容は、このような思想をまさに体現したものであると言える。こうして特定の人物に対して懲罰を加える目的で書かれた彼らの著作物が、それに悪影響を受けて嫌がらせに及ぶネット読者らを生み出すのは当然なのであるが、こうしたネット上の嫌がらせ工作を総称して、私は「サイバーカルト監視機構」と呼んでいるのである。

サイバーカルト監視機構とは、特定の人々が、インターネット上で、好ましくないクリスチャンに対する非合法な弾圧を肯定するために作り上げた「空気」であり、そのような残酷な私刑を是認するための「世論作り」であり、また、そうしたネット上の弾圧によって、キリスト教界に大規模な言論統制をもたらし、好ましくない発言を行なうクリスチャンを恫喝して沈黙に追い込もうとする圧力のことでもある。また、こうした嫌がらせ工作を日夜行うネット上の集団的悪意そのもののことでもある。
 
ネットで起きた事柄については、具体的に、いつ、誰が、誰に対してどんな指示を出したのか、ということを立証することは困難であるが、少なくとも、思想的な共通点を通して、それをある程度、探り出すことは可能である。

村上密氏、杉本徳久氏は、インターネット上で、プロテスタントのキリスト教会を次々ターゲットとした告発記事を掲載し、キリスト教界全体にネガティヴなイメージを形成し、キリスト教界を改革するために、聖書と教界内規則に基づいた改革を訴えるのでなく、信者や教会をこの世の裁判に訴えることを助長するような主張を積極的に行なって来た人物として、キリスト教界において、極めて特異な存在であり、両者の主張を見れば、公の教団教派のつながりにおいては無関係であるにも関わらず、両者が同一の深い思想的なつながりで結ばれており、なおかつ、牧師である村上氏が指導的な立場に立って、杉本氏の執筆活動にも多大な思想的影響を及ぼし、杉本氏が村上氏の活動を擁護し、支える形で活動して来たことが見て取れるのである。

上記したようなすべての事実に反して、杉本氏はそれでもあくまで自分は村上氏とは直接の面識がないのだから村上氏とは思想的にも無関係であり、筆者がサイバーカルト監視機構と名付けているような、ネット上のクリスチャンに対する集団的な嫌がらせには関与していないと言い張るつもりであろうか? その際、筆者に送って来た恫喝メールや、自身のブログに記載して来たバッシング記事については、どのように弁明するつもりなのであろうか?

自分自身は他者を公の場でいわれなく非難し、暗闇で幾度も恫喝しては、沈黙に追い込もうと圧力を加えておきながら、他者から公に反論があると、具体的な根拠も提示せずに、すぐに「名誉棄損だ!」と騒ぎ立て、無理やり記事の削除を迫ったり、個人情報を公開するなどの脅しによって黙らせようとしたり、果ては裁判にまで及ぶのでは、あまりにも非常識で大人げない態度であると思うのだが、杉本氏はそのような考えはないのだろうか。

杉本氏は、自分にとって都合の悪い記事を削除してほしいと他者に依頼するよりも前に、まずは自分自身が、その他者に関して書いたネガティヴなバッシング記事をすべて削除し、他者の名前を自分のブログから抹消するのが筋であろう。それもしないうちに、なぜ他者にだけ一方的に自分にとって不都合な記事の削除を迫ることができるのか。自分こそ、相手の嫌がることはしない、それが相手にものを頼むときの基本的な礼儀ではないかと思うのだが。

杉本氏はプロテスタントの信者でさえないのに、どんな権限があってプロテスタントのキリスト教界の異端審問官のように振る舞い、気に入らないクリスチャンを脅して言論統制を行なう権利があるのか。部外者に過ぎない同氏の不法な主張に信者が従わなければならない理由はない。

 〇〇さんが書かれていることは全て私に対する誹謗中傷であり、私の名誉や信用を重大に毀損する行為に該当します。〇〇さんと唐沢さんやその他の人たちとの間のことについては私はわかりませんが、少なくともすぐに私に関する記事、私の名については削除して下さい。

(もう一通、別のメールに続きます。)

杉本氏は、ここで村上密氏、ルーク氏、Br.Taka夫妻など、すべての人を切り捨てても、自分だけは難を逃れたいという意思を示している。他の人たちはどう非難しても構わないから、自分だけは別扱いにして欲しいと述べているのである。

特に、杉本氏がこれまで、あれほど歩みを一つにして来た村上氏とも、ほとんど無関係に近いかのように弁明して距離を置こうとしている姿勢は興味深い。
 
また、不思議なのは、なぜかここでも、再び、杉本氏が唐突に唐沢氏の名前を出し、「他の人たちとの間のこと」などに言及していることである。

杉本氏の文章にはこのような飛躍がしょっちゅうである。「他の人たちの間のことについては私は分かりませんが」などと、不自然な文脈でもっともらしく弁明している時こそ、その文脈に注意が必要なのである。これは、Br.Takaこと鵜川貴範・直子夫妻の牧師資格詐称やKFCの乗っ取り事件などには全く関与していないという自己弁明であろうか?
  
これまでの杉本氏の様々な言動を振り返ると、同氏は他教会の内政に干渉したり、無関係な他者の個人情報を収集したり、他者の人間関係について詮索したりという越権行為をしりきに繰り返して来ており、そんな人間が「他の人たちの間のことについては私は分かりませんが」などとわざとらしく否定すれば否定するほど、かえって不自然な印象と疑惑だけがより深まって行くというのが正直なところである。

杉本氏に関して私の掲載している記事内容が、事実無根の誹謗中傷でないことは、すでに根拠を示しながら幾度も述べて来たことである。杉本氏が自ら実名で公表している記事について、誰かが公に批評や分析を加えたからと言って、それだけでは何ら誹謗中傷にはあたらない。
 
まして、杉本氏が誰でも読める形でブログに公表している当ブログに対する一連の決めつけに満ちた非難やバッシングや、杉本氏の記事に含まれているスパムとしか思えない当ブログへの悪質なリンクや、杉本氏とおぼしき人物からの当ブログに対する嫌がらせのアクセスや、杉本氏が私に送って来た恫喝メール等に対して、当ブログできちんと根拠を示して反論し、抗議することは、全く誹謗にも中傷にも当たらない。自分自身がそのようなことを行なっておきながら、他者には反論も許さないとは何事か。よって、記事を削除しなければならない理由が全く存在しないのである。



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  ▼投稿されたメッセージ
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 REMOTE_ADDR: 219.215.163.80

 [ 名前c ]
 杉本徳久

 [ メールアドレスc ]
 sugimotonorihisa@gmail.com

 [ メールアドレス再入力c ]
 sugimotonorihisa@gmail.com

 [ 件名c ]
 ブログの文章につきまして その2

 [ ご感想c ]
 〇〇さんの名については、先の坂井能大を相手取った民事訴訟(武蔵野簡易裁判所にて)の中にて、坂井の提出した書証や唐沢が提出したメール記録の書証の中に出てきて、ヴィオロンさんの本名が「〇〇」だということについて確認しました。それまでは疑い半分で本名は不明だという前提でおりました。現段階であなたの本名を私のブログで公開したりしたことは一度もありません。社会福祉士として、あなたが通っていた教会のことやあなたの心の状態が良くわかりますから、あれこれ坂井能大を相手にしたような追及はしませんでした。

杉本徳久氏は、村上密氏と同じように、裁判を通して、自分の属している教会とは無関係な教会や、そこにいる信者の信仰生活に強制的に介入し、懲罰を加えることを肯定して来ただけでなく、その裁判を通じて積極的に自分とは無関係の教団教派に属する信者についての情報収集をも行なって来たようである。ひょっとすると、本当は個人の情報収集が目的で裁判を起こしているのではないかという印象さえ受けるほどである。

さらに、杉本氏はここで坂井氏との裁判を通して私の実名を知ったかのように書いているが、それは虚偽であり、実際には、すでに2011年末の時点で、私は杉本氏から、私の実名を特定したメールを受け取っている。これは坂井氏との裁判が起きる以前のことであり、この時差を杉本氏はどのように説明するのだろうか。まさか当てずっぽうの推測で人の名前を書いていたとは弁明できまい。

杉本氏は私の本名をブログで公開したことは一度もないと自己弁明しているが、それでは、ブログ以外の匿名掲示板などの場所ではどうだったのだろうか。これについては何もコメントがない。杉本氏にとって気に入らない記事を削除しない限り、私の実名を公表すると、恫喝メールで息巻いていたことについては、どのように説明するつもりであろうか。そのように私に予告して来た人物は、杉本氏以外には誰もいないのだが。

「社会福祉士として、あなたが通っていた教会のことやあなたの心の状態が良くわかります」と杉本氏は書いているが、これはどこの教会のことを指しているのか見当もつかない。そもそも、社会福祉士として、他人の通っていた教会のことが分かると主張すること自体、随分、妙な理屈であると思う。社会福祉士とは、そもそも教会の内情や、信者の信仰を理解するための職ではない。もしクリスチャンとしての信仰が本当にあるのであれば、社会福祉士として他者の教会を理解しようとする必要はなく、ただ聖書に基づいて理解すればよいと思うのだが、このコメントを読んでいると、杉本氏には本当に信仰があるのかと疑ってしまう。

「社会福祉士として<中略>あなたの心の状態が良くわかりますから、あれこれ坂井能大を相手にしたような追及はしませんでした。」と、杉本氏は書いているが、このように「配慮してやったのだ」「情状酌量したから提訴しなかったのだ」と、もったいぶって見せる割には、私へのかつてのメールには、「あまりあなたには同情いたしておりませんので、今回の件、私をあまり侮られませんよう。」などと、他人の心境など知ったことではないという脅し文句をちりばめていたのは何だったのであろうか(たとえば 2011年12月6日付メール

 
このように、筆者に何通もの恫喝メールを送って来たり、メールフォームで気に入らない全ての記事から名前を削除せよと要求して来たり、嫌がらせのようなアクセスを当ブログに集中させたりと、人の目に触れない場所で、随分、多くの圧迫と恫喝を杉本氏は私に対して行って来たのだが、それでも、「坂井能大を相手にしたような追及はしませんでした。」と、あくまで手加減してやったのだと言うつもりなのだろうか。

今までのいきさつを振り返ると、こうした言葉も、結局は、杉本氏にとって気に入らない記事を私が削除せず、杉本氏の要望を聞き入れずに、杉本氏の名前を自分のブログ記事から削除しなければ、坂井氏と同じようにおまえも告訴してやるという脅し文句としか受け取れないのである。
残念だが、杉本氏からこれまでにされて来た数々の嫌がらせを考えると、そのように深読みするのが当然である。

 
  一時、閉鎖されていた〇〇さんのブログが今のように大々的に再開された以上、ことを放置することはできません。個人的に、あまりことを大げさにしたいわけではなく、大がかりな対応をとりたいと思っているわけではありませんが、内容が内容だけにこのままで座視するわけにはいきません。

 ブログ記事、すぐに削除して下さいますよう。何か疑問などあれば、どうぞお尋ね下さい。

この文章も、一方では、「あまりことを大げさにしたいわけではなく、大がかりな対応をとりたいと思っているわけではありません」と言いながらも、その実、言うことをおとなしく聞いておかなければ、いつでも事件を大々的に炎上させるぞという杉本氏の思惑が透けて見える。

しかも、これはすごい文章である、「 一時、閉鎖されていた〇〇さんのブログが今のように大々的に再開された以上、ことを放置することはできません。」

つまり、自分に気に入らない内容の記事が書かれているので、ことを放置できないと主張するのではなく、私のブログが今のように大々的に再開されたから放置できないと、はっきり述べているわけである。

大々的に再開されたとは、一体、どういうことなのであろうか。私は以前と同じように淡々とブログ記事を書き続けているだけであり、以前のブログの方が、今より読みやすく、文章も簡潔で、更新も頻繁であった部分もあるように感じているので、努力が足りないと感じることはあっても、特に大々的に何かをやり始めたという自覚はまるで全くない。

杉本氏のこの発言を通して感じられるのは、どれほど同氏が私のブログそのものを未だに目の敵として閉鎖に追い込みたいと考えているか、どんなにその目的で、これまで再三に渡る嫌がらせと恫喝を執拗に重ねて来たか、そして、同氏の脅迫と嫌がらせの数々にも関わらず、私のブログが再開されたこと自体が、どれほど同氏にとって気に食わないことであり、どれほどこのブログが杉本氏にとって脅威と見え、激しい憎悪の的となっているかという事実である。
 
もし本当に相手の心の平安を願う心があれば、まずはこのブログが再開されたことに祝辞を述べるであろうが、相変わらず、杉本氏の文面には、挨拶文さえ記載されておらず、人を祝福する気持ちがまるでないことがよく伝わって来る文面である。上から目線の一方的な命令を下し、不法な手段で人を威嚇することによって、他者の執筆活動を妨害し、不都合な信者をネットから駆逐することで、自分にとって不都合な言説を取り締まり、自分に都合よくクリスチャンの世論を言論統制することだけが、私への接触の目的なのである。

これでは、杉本氏は、私のブログを何が何でも再び閉鎖に追い込む目的で、さわやか読者の履歴に示されているように、今日に至るまで執拗な嫌がらせを水面下で続けているのだと、自ら白状し、宣戦布告を突きつけているようなものである。
 
そんな人に疑問があればお尋ね下さいなどと言われても、尋ねることもなければ、杉本氏がこれまでに行って来た事柄を考えると、返信などしようものなら、どんな厄災が待ち受けているか、誰しも容易に想像できる。

削除はしない。そうするだけの理由が何も存在しないためである。

そう答えれば、また次なる嫌がらせに及ぶつもりだろうか。坂井氏と同じように、私も法廷の場に引き出し、恫喝裁判のターゲットとするつもりであろうか。

しかしながら、杉本氏のこうした恫喝は、何年も前からずっと繰り返されて来たものであり、裁判の脅しなど、全く効果のないものである。さらに、杉本氏が坂井氏を訴え、勝利してさえも、それによってどれほど世間で杉本氏についてネガティヴなイメージばかりが広まり、定着して行ったか、ネットの世論を見回すとよく見えて来る。一般に、身近な他人を次々と訴え、法廷に引きずり出して戦いを挑むことを生きがいとしているような人間は、たとえ勝訴することがあったとしても、みなに嫌われ、近寄られなくなって行くだけである。

しかも、自分にとって気に入らない記事を書いているクリスチャンを暗闇で恫喝し、自分が証拠不十分で敗訴することも織り込み済みで、ただ心理的な打撃を与えることを目的に、次々とクリスチャンを裁判に訴える活動を繰り返して来た人間が、また裁判だと叫んでみたところで、半ばオオカミ少年のように見られるだけではないかと思う。

そのような姿は、クリスチャンの生き様からはほど遠く、これまで幾度も指摘して来たように、「日夜、兄弟たちを訴える者」、すなわち、悪魔を彷彿とさせるのである。
 
こうして、杉本氏がクリスチャンに闘いを挑むために提起してきた裁判という手法も、まさに村上密氏が積極的に奨励し、用いて来た手法であり、両者の行動を見れば、その背後に、クリスチャンに対する尽きせぬ憎悪、何としてもクリスチャンを弾圧したいとの欲望が、どうしても筆者には透けて見えてならないのである。

クリスチャンに言いがかりをつけ、クリスチャンを脅し、クリスチャンを法廷に引きずり出して苦しめ、クリスチャンを罰して、苦しめて、懺悔させたい。神の民を己の前に跪かせ、赦しを乞わせ、屈辱をこうむらせたい。そういう飽くことのない悪魔的欲望が、どうしても両者の行動の背後に透けて見えてならないのである。

従って、両氏の活動は、到底、キリストの御霊から来るものではなく、むしろ、反キリストの霊、キリスト教徒に対する弾圧の霊から来る活動だと言わざるを得ない。従って、彼らの活動の目的も、彼らが口で唱えているように、キリスト教界の改革にはなく、むしろ、キリスト教界の改革を口実にして、気に入らないクリスチャンを次々とネット上で吊し上げ、あるいは法廷に引きずり出して弾圧し、懺悔を迫り、処罰することを目的としているのだろうと思わずにいられない。私が当ブログで早くから訴えて来たのは、この人々の活動の真の目的は、キリスト教界の浄化を口実にしただけのキリスト教徒の弾圧にあるという事実である。

このような活動にいつまでも従事している人々は、キリスト教徒への迫害者という定評が後世にまで残ることになるであろう。キリスト教の恥ずべき異端審問の歴史に、また新たな名が刻まれることになる。

杉本氏がたとえ憤りにまかせてクリスチャンを幾人告訴したとしても、事実無根の訴えでは、勝ち目がない。膨大な時間と労力と資金の無駄が待っているだけであり、そして、キリストの霊的秩序は、この世のすべての秩序を超えるのである。

パウロによれば、クリスチャンは、「御使いさえも裁く者」である。黙って苦しみを担われたキリストのゆえに、クリスチャンはむやみに兄弟姉妹を訴えるようなことはしないが、いずれにしても、我々にはイエスの御名によってキリストと同じ権威が与えられているのであり、この御名を超える権威は地上のどこにも存在しない。小羊の血潮によって贖われ、神が義とされた信者を再び訴え、罪に定めることのできる人間は地上に誰も存在しないのである。

にも関わらず、気に入らないクリスチャンの言説に遭遇する度に、「削除だ!」「裁判だ!」と叫び立て、告発記事の執筆にいそしみ、あるいは水面下で恫喝と嫌がらせ工作にいそしみ、提訴できる相手を探し求めて日々クリスチャン・ブロガーを見回しているのでは、「日夜、兄弟たちを訴える者」という定評がさらに広まって行くだけであり、それでは杉本氏自身にも全く利益にならないであろう。
   
180−0001 武蔵野市吉祥寺北町1−5−14
 杉本徳久
070 5012 7587
sugimotonorihisa@gmail.com
 
 


村上密牧師による自己流の「異端審問」―アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動

 

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会の私物化問題について~



2.弱者ではなく、強者の目線に立って行なわれる村上密氏の「弱者救済活動」

2-1.「毒を持って毒を制す」式の考えの危険性 
2-2.弱者の人権を踏みにじり、「世間」という強者の目線に立って行なわれるカルト被害者救済活動
2-3.強制力を用いて人間の内心の自由に対する侵害を繰り返す
2-4.信仰を持たない「家族」や「世間」の観点に立って、カルトに入信した信者だけを問題視する
2-5.公の認可を一切受けておらず、キリスト教界内の規則を無視した越権行為
2-6.聖書に基づく信仰によらず、世間の倫理道徳によってキリスト教界を裁き、この世の強制力を用いて教界を改革しようとする
2-7.強制力を用いて人の心を矯正しようとする活動は、平和な福音伝道によって人々にキリストの救いを宣べ伝え、自主的な回心を促すことを第一とする牧師の本来的な使命から逸脱している
2-8.カルトとの闘いを続行するために、自ら敵を作り出す
2-9.アンチカルトはカルトと同一である
2-10.キリスト教界で回復されなければならないのは、人間の利益ではなく、神の利益である





2.弱者ではなく、強者の目線に立って行なわれる村上密氏の「弱者救済活動」

2-1.「毒を持って毒を制す」式の考えの危険性 論敵と同じ誤りを犯していることに気づかない村上密氏


さて、カルトを取り締まるために、カルトを超える強力な取締機関を創設するという、「毒を持って毒を制す」式のカルト監視機構の設立の構想は、おそらくは、村上氏がこれを明確な形で公表するよりもずっと前から、同氏の心に温め続けられて来た計画であったものと思われる。

村上密氏は、前述の記事でも示したブログ記事「ザビエルの光と影 」で、フランシスコ・ザビエルの活動の負の側面として異端審問の創設の提案を挙げる。また、自民党が統一教会の勝共連合などの提案を受けて国会に提出した「スパイ防止法」を危険なものとして非難する。


「ザビエルは1542年にゴアに到着し、1546年5月16日付けの書簡で、ポルトガル国王ジョアン3世に、インドにおける異端審問所の開設を進言しています。1560年にはゴアで異端審問所が発足しています。その結果、多くのマラーノ(15世紀末から、スペインおよびポルトガルにおいて強制的にキリスト教に改宗させられた旧ユダヤ教徒)が安住の地を求めて行ったゴアで火炙りになりました。これが影です。このことを知っている人は稀です。」

「むしろ、自民党政権下、自民党と協力していたカルト宗教が「スパイ防止法」制定に奔走しました。この法案が宗教をも監視下に置くことは一部の人にはよく知られていました。カルトを叩いていた私や他の人がカルトから監視されることも考えられたのです。危ういのは権力と結び付いた宗教です。キリスト教の一牧師の案に大袈裟な警告は夢想家の戯言です。」

しかしながら、村上氏はこのようにしてザビエルの異端審問を彼の活動を負の側面であると指摘し、スパイ防止法の危険性を唱えながらも、自分自身が、論敵と全く同じ誤りを犯していることには気づかない。

スパイ防止法は、かつて中曽根政権下で、国際勝共連合の推進のもと、自民党議員により国会に提出された。この法案は社会党や日弁連、自民党のリベラル派の反対により、審議未了のまま廃案となったが、Wikipediaによると、当初、これを推進していた宗教団体には、統一教会だけでなく、生長の家も含まれていたようである。

国際勝共連合とは、「共産主義の脅威に対抗する」ことを目的として統一教会の創始者であった文鮮明が創設した政治団体であり、今日に至るまで統一教会と不可分の関係にある。
 
「共産主義の脅威」を訴え、これに対抗して勝利することを目指す国際勝共連合の主張を見ると、スパイ防止法の制定や、日本版NSCの創設、日本の核武装なども含め、どれもこれも共産国の国家防衛の手段をそっくり模倣したものばかりであることに気づく。特に、スパイ防止法と日本版NSCの創設は、ソ連が国家の機能として持っていた強大な秘密警察の機能と活動を我が国でも取り入れて合法的に認可しようという構想である。

一言で言えば、勝共連合は、共産主義国の脅威に対抗するという名目の下、日本が強い軍隊を持って核武装し、秘密警察を持ち、外国のスパイを含めて国家にとって望ましくないあらゆる人物を合法的に処罰でき、国家が国民に対する大規模な諜報・監視活動を合法的に行なえるような法整備が必要である、と訴えているわけである。

だが、これは結局、敵以上に武装を強化することによって敵(共産主義国)に対抗しようという発想であるから、「毒を持って毒を制す」式の考えであり、果てしない軍拡競争を招き、より一層の国際的緊張を高めるだけであり、さらには、軍拡競争の中で、いつしか敵に対抗するということが口実となり、自国の武装の強化それ自体が目的となって、とめどない軍拡に陥り、異常に肥大化した軍部が生まれかねないことが予想される。

その結果、最初は手段であったはずのものが、目的化し、果てしない武装それ自体が目的と化す恐れがあるのである。その上、こうしたことの危険性に気づいてそれを訴える国民が、国家にとって望ましくない人物とのレッテルを貼られて弾圧され、武力によって強制的に排除される危険性までが生まれる。最初は共産主義に対抗することが目的であったはずなのに、仮想敵の概念がいつの間にかどんどん膨らんで行き、戦いは果てしないものとなって、ついには武装や諜報の機能のほとんど全てが、真の外敵ではなく、国家にとって「疑わしい」思想を持つ自国民の弾圧へと向けられる恐れが十分に想定される。

ここに「毒を持って毒を制す」式の考え方の危険性がある。外敵との闘いを訴える者は、魔物と闘っているうちに、自ら魔物と一体化し、敵以上の恐るべき魔物に変身してしまいかねないという法則である。 外部の敵との抗争は、いずれ内部抗争に転嫁する。国際勝共連合の唱えているような目的を容認すると、日本は、共産主義に立ち向かうという名目の下、果てしない軍拡競争に巻き込まれ、絶え間ない国際的緊張の下に置かれ、その上、スパイ根絶という口実で、大規模な国民への抑圧が正当化されかねない。こういった危険性が知識人らに指摘されたことの影響もあり、スパイ防止法は廃案になったのである。(だが、今日の秘密保護法にも同じ危険が指摘されている。)
 
ところが、村上密氏が述べているのは、勝共連合の提案と本質的に同様の論理である。村上氏はザビエルの異端審問のアイディアを彼の活動の負の側面として挙げ、今日のプロテスタントのキリスト教界における「霊の戦い」が事実無根の魔女狩りのような様相を帯びていることを非難する。そして、こうしたキリスト教における信者同士の争いが、キリスト教界の恥ずべき「影の歴史」であり、繰り返されるべきではないものであることを訴えている。

ところが、そう述べている村上氏自身が、キリスト教界を浄化するために、ザビエルと同じように、キリスト教界に超法的な「異端審問」機関としてカルト監視機構を設立することを提唱し、「スパイ防止法」を非難しながらも、キリスト教界の「カルト化」を未然に取り締まることを口実に、「カルト防止(監視・抑止)法案」とでも呼ぶべき「カルト監視機構設立案」を宗教界全体に提唱して行くのである。

村上氏は、キリスト教界を改革するという名目で、「異端審問機関の設置」及び「宗教的スパイ防止法案」を提案するという、自ら論敵と全く変わらない極めて危険な発想を述べている自己矛盾にはまるで思いが至っていない。



2-2.真に弱者である信者の側に立たず、弱者の人権を踏みにじり、「世間」という強者の目線に立って行なわれるカルト被害者救済活動

さらにもっと危険なのは、同氏がこのように自ら唱えたプランが、キリスト教界で容認されるかどうかには全く注意を払わず、教界において自分の提案が何ら公の承認を受けたわけでもないのに、自分だけの一存に基づき、非公式に、自己流の「異端審問」を繰り広げ、他教会に対する干渉という越権行為に乗り出して来たことである。

そして、この越権行為を正当化するために、村上氏は「世論」を巧みに利用して、自分自身の思惑が世論に合致しているかのような「空気作り」を行なって来た。

村上氏はカルト監視機構の設立というアイディアを提示するより以前から、カルト被害者救済活動という形で、独自の「異端審問」を行なって来たが、同氏率いるカルト被害者救済活動は、初めは、統一教会等に入信した信者を、信者の親族等の要請を受けて、半強制的に脱会させるというものであった。これは当初、カルトに入信した信者を、強制的に拉致してアパートなどの密室に監禁し自由を奪った上で、牧師などキリスト教の教職者が脱会のための説得工作にいそしみ、信者にカルトの教義の誤りを認めさせて、棄教させるという手法のものであった。

こうした活動は、信者の内心の自由を否定して、さらには身体を拘束し、強制的に外側から「正しい教義」を押しつけて改心を迫るという点で、そもそもの初めから、中世の魔女狩りのような残酷さを備えていたのだと言える。
 
まず、この活動においては、キリスト教の権威者が力づくでカルトに入信した信者の身柄を拘束し、「誤った思想に傾いた罪」を強引に認めさせて、信仰を放棄させるまで自由を与えないという不法な形での懺悔の強要と、強制的な再教育による内心の自由の侵害身体の拘束と言う罰に等しい不法な人権侵害が行われていたことについて考える必要がある。これは憲法が保障する「信教の自由」そのものの否定であり、人の信仰生活を外側から力づくで侵すことを正当化する活動であることに注意が必要である。

このような活動内容を見れば、それが暗黙のうちに意味するところは、信者を取り巻く社会(カルト団体のことではなく、この世の社会のこと)からの容認がありさえすれば、つまり、親族からの同意がありさえすれば、カルトに入信した信者は、危険人物として拘束され、人権を侵害され、思想的再教育を強制的に受けさせられて、信仰を剥奪されても当然であるという思想であると分かる。

そのような思想は、カルトに入信した信者は、その誤った思想のゆえに、世間を騒がせたのだから、身体の自由を奪われて、自らの罪を認めて懺悔させられ、強制的な再教育を受けさせられて半強制的に人格を矯正されても当然であり、なおかつ、誤った信仰に傾倒したことを懺悔するのみならず、家庭を捨ててカルト団体に逃亡したことで、どれほど家族を混乱と悲しみのどん底に突き落とし、社会に迷惑をかけたか分からないのだから、社会を騒がせて迷惑をかけた罪を認めて詫びるべきであるという考えに基づいている。

これは、社会から迷惑を受けたという通報がありさえすれば、人間が外側から力づくで他者の内心を取り締まり、その信仰や思想を弾圧することを正当化する思想であり、このような思想を延長して行くと、やがて誤った思想によって公共の秩序を騒乱した個人は、社会全体の世論の同意がありさえすれば、いかようにでも人権を奪われて処罰されても当然であるという発想へと結びついて行く。

強制的な拉致監禁と強制的な説得工作などの手法を見れば、村上密氏らの「救済」活動が、決してカルトに入信した信者という「弱者」の観点に立って行なわれたものではなく、むしろ、信者を取り巻く社会(家庭を含む)という「強者」(多数者)の観点からなされたものであることが分かる。

ただし、当初、使われていた拉致監禁という手法は、その後、信者を奪われたカルト団体から訴追の対象となったり、また世間からも批判を受けたりして、次第に使われなくなっていくが、そのような暴力的な手段を用いないようになって後も、以下に示す通り、村上氏のカルト被害者救済活動が持つ、信者に対する懲罰的な意味は変わらなかった。

同氏の「救済活動」はその後、キリスト教以外の宗教だけでなく、キリスト教界内部でも積極的に行なわれるが、そこでも、同氏は聖書の教えから逸れて道を踏み外した牧師や信者に対し、この世の司法などの強制力を用いて、その信者が「誤った思想」を認めて懺悔するまで徹底的に圧迫を加え続けるという手法を用いたのである。




2-3.強制力を用いて人間の内心の自由に対する侵害を繰り返す村上密氏のカルト被害者救済活動
 
だが、問題は、一体、この世の誰が、強制的に他人の内心の自由を抑圧してまで、他者の思想の是非を判断し、その誤りを認めさせ、これを「矯正」する権利を持つのかという点である。

そのような思想的再教育プログラムが、人の自主性を侵害して本人に強制されること自体、不法であり、大変、恐ろしいことである。そのような手法は、カルトと同じように、「洗脳」や「マインドコントロール」と非難されても当然であるが、さらに恐ろしいのは、そのような活動が、何ら公の認可を受けず、個人的な思惑に基づいて行われることである。
 
村上氏のカルト被害者救済活動が、主にカルトに入信した信者の親族(必ずしもキリスト教の信者ではない)からの要請に基づいて行われていたことを見ても、この活動が目指していたのは、信者に自主的にまことの神を知ってもらい、聖書に基づく真の信仰に自主的に至りついてもらうことではなく、むしろ、キリスト教の教義は、信者の誤った思想を論破し、誤りを認めさせてかつての信仰を放棄させるための道具として使われたにすぎないことが見えて来る。

この活動の最終的な目的は、信者に本当の神を知りたいという願いを自主的に起こさせることではなく、健全で自然な信仰を持ってもらうことでもなく、信者がカルト団体から完全に足を洗って社会復帰を果たすこと、とりわけ、もとの家庭生活に復帰することにあり、キリスト教はそれを実現するための手段であったのだと見られる。
 
つまり、この活動は、表面的には、キリスト教の信仰に基づくものであるかのように標榜していても、実際にはそうではなく、カルトに入信したがゆえに、家庭から逃亡し、社会生活から切り離されて、半ば孤立状態に陥っている信者を、親族らの訴えに基づき、家庭に連れ戻すことにより、社会生活に復帰させることを、最終目的としていたのであると考えられる。

それを実現する上で、信者の内心を作り変える必要があり、救済活動を行なうキリスト教の教職者らは、カルトの教義以上に強力で首尾一貫した教義を提示することによって、カルト的教義の誤りを暴き出して論破し、その思想の誤りを信者の目の前で明白にする必要があった。その手段として、キリスト教の教義が用いられたのである。これは、多くの新興宗教が、キリスト教を換骨奪胎して作られたキリスト教の亜種のようなものであることを考えれば、不思議なことではない。

だが、いかにカルトの教義が真理からほど遠く、矛盾に満ちた危険なものであったとしても、人が自ら内心で神を求める過程を邪魔してまで、何が真理であり、誤りであるかを、人が人に強制的に教え込み、信者がカルト的思考の誤りに自ら気づくのを待たずに、キリスト教の権威者を名乗る人間が、自らの権威によって、外側から強制的にカルトに入信した信者の思考パターンを打ち砕き、変えようとすること、しかもその説得工作を、信者の身体の自由を奪うという威嚇的な方法を用いて、信者自身が最も屈辱的な状態に置かれ、尋常でない精神状態にあり、正常な判断力の弱まっている時に行うことにより、力づくでカルトの教義の誤りを認めさせて棄教させるという方法では、カルト以上の洗脳とマインドコントロールと非難されても仕方なく、仮にその結果、カルトに入信した信者が以前の信仰生活の誤りに気づいてキリスト教に改宗したとしても、これでは強制的な改宗も同然で、到底、キリスト教の平和で自然な伝道活動とは呼べないし、このような方法によっては正常で自然な信仰も生まれ得ないであろう。

実際に、脱会の方法が強制的であればあるほど、それは本人の自主性に基づかないため、本人の自然な思考を破壊し、結果として、人格を破壊する恐れがあることが指摘されている。カルトから脱会させるという、一見、正しく見える目的のためであっても、これを暴力的な方法で成し遂げれば、後々大きな弊害が信者自身に残るのである。

もしも、正しい教義を知ってもらうためならば、人の内心の自由を力づくで侵しても良いという考えを肯定するならば、たとえそこで用いられているものが、キリスト教の教義であっても、それは実際には、カルト以上にもっとひどい形で人の内心の自由を圧迫し、彼らを洗脳し、マインドコントロールすることを正当化する暴力であるという非難を免れられない。
  
こうして信者の内心の自由を侵す形で棄教を迫るという方法は、カルトに入信していない信者の親族や、カルトを疑わしいものとみなす「世間」という「強者」の観点に立って、彼らの利益の回復のためならば、弱者であるカルト信者への抑圧も正当化されうるという考えに基づくものであり、それは決して真の意味で、弱者の観点に立って行われる救済活動とは言えないのである。




2-4.信仰を持たない「家族」や「世間」の観点に立って、カルトに入信した信者だけを問題視するカルト被害者救済活動
 
さらに、もっと複雑なのは、たとえどんなに信者の家族や親族が、カルトに入信した信者が誤った信仰を捨てて、以前のように家庭に戻って生活することを願い、そのために、カルトからの脱会を手伝ってくれるようキリスト教の牧師に懇願したとしても、カルトに入信した信者を家庭生活に復帰させることが、必ずしも、正しい解決かどうかは分からない点である。

なぜなら、カルトに入信する信者の多くは、家庭環境にもともと何か大きな不安材料があって、その問題から逃れるために、誤った信仰に心惹かれて行ったというケースが多く見られるからである。そのようなケースだと、家庭に潜む根本的な問題を見ずして、家庭復帰イコール健全な社会復帰と安易にとらえることはできない。

むしろ、根本問題が何ら解決されていない状態の家庭に信者を引き戻すことは、ただカルトに入信する以前の状態に引き戻すだけでなく、いや、カルトに逃亡するという形でしか、信者が逃げ道を模索することができなかったのだとすれば、その逃げ道さえ存在しない、より悪い袋小路に信者を追い込むことにもつながりかねない。また、それはカルトに入信することにより、信者が探索していた目的自体を否定し、あきらめさせることであるから、それはより一層、信者の心理を複雑にしてしまうきっかけとなりかねない。このような活動は、決して真の意味での弱者の心のニーズに応えるものとはならないのである。

たとえ説得工作によってカルトに入信した信者にその教義の誤りに気づかせることに成功したとしても、それだけでは、信者がそもそも一体、どんな問題から解放されるために、カルトに接近したのか、カルトに入信することによって、どのような目的をかなえようと目指していたのか、という根本的な心の問題に焦点が当てられない。
 
ただカルトに入信したことが誤りであったという事実を認めさせてその団体から脱会させて、家庭復帰を成し遂げ、あるいはキリスト教へ入信させることだけをゴールとしていたのでは、その信者の個人的な心の必要性は忘れ去られてしまう。

たとえ信者がキリスト教に改宗したからと言って、それでかつて信者の抱えていた心の問題が解決するかと言えば、そのようなことは決してない。だが、カルト被害者救済活動は、基本的に、カルトのマインドコントロールを受けてしまった信者自身の心に、何らかの弱さがあったのだと考えて、その弱さや問題の克服のために、信者に様々なカウンセリング等を受けるよう勧めても、信者自身を取り巻く「世間」の抱える深い問題には言及しないのである。
 
親族らの要請に基づいて行われるカルト被害者救済活動でも、カルトに入信した信者の誤りだけがクローズアップされ、信者をカルトに追いやる原因を作った家庭や社会の側が抱える問題は、半ば蓋がされたまま、その罪が問われることはほとんどない。信者が己の罪を認め、懺悔することは奨励されても、信者をカルトに追いやる原因を作ったかも知れない家庭や社会の「罪」は問われない。こうして、間違っていたのは、カルトに入信した信者だけであり、家庭や社会は「被害者」であって、罪はないという考えに立って、信者は家庭と社会に迷惑をかけた罪を詫びて復帰し、社会に適合するよう努力することだけが、最終的なゴールのようになってしまいかねないのである。

つまり、そこでは、家族や社会という強者の集団の抱える闇という問題は蓋をされたまま、弱者の立場にある信者だけが責められ、「家族や「世間」の利益や都合だけが優先されて、カルトに入信した信者の心のニーズは容赦なく無視され、押しつぶされてしまう危険性がつきものである。実際、そうなっていたであろうことは、説得工作が監禁という強制的な手段を用いて行われたことを見ても分かる。
 
そこで、結論を述べれば、この活動は、この世の腐敗に絶望し、真理や、まことの神や、正しい生き方を求めた結果、誤ってカルトに入信してしまった信者だけを問題視し、信者の思考と生き方だけを矯正の対象とすることによって、彼らがカルトに追いやられざるを得ないような原因を作り出した「世間」の罪を巧みに免罪する性質を持っているのだと言える。


  
2-5.公の認可を一切受けておらず、キリスト教界内の規則を無視した越権行為としての村上密氏のカルト救済活動

さて、村上密氏を含め、多くのプロテスタントの牧師が関わっていたカルト被害者救済活動は、キリスト教外部の宗教から信者を奪還するのみならず、やがてキリスト教内部で起きた不祥事から被害者を「救済する」という内容に重きを置くものへと変わって行った。そうなったのには、信者を無理やり奪われた他宗教から、訴訟などの形で多大な反発があり、なおかつ、世論にも非難の声が上がって、強制的な脱会工作が難しくなり、かつてのような他宗教からの信者の大々的な奪還が困難になって行ったことが反映していると見られる。

その中で、村上氏の活動も、キリスト教外部の「異端」を取り締まることだけでなく、キリスト教内部の「異端」を取り締まることが活動の中心になって行った。

だが、すでに述べた通り、そもそも村上密氏のカルト被害者救済活動は、関係者からの懇願や訴えがあったという他は、一切、公の認可を受けておらず、一体、何の権威に基づいてなされているのか全く分からないという問題を初めから抱えていた。

プロテスタント内部の異端を取り締まるということになれば、本来は、プロテスタント内部の規則に則ってこれを行なうのが当然であるが、プロテスタントの教界には、教団教派や教会の枠組みを超えて、これを外から取り締まることを是認するような規則は存在しない。

村上密氏は自身も牧師であるのだから、自ら属している教団の規則に従うべきであり、その牧師が、教団や教会の規約を踏み超えて、他教会の内政に干渉することは許されざる越権行為に当たる。だが、村上密氏は、同氏の所属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からさえ公の認可を受けておらず、ましてプロテスタント教界全体においては、何の公の承認も与えられてはいない自らの活動を、個人の一存で繰り広げ、何らの公の権限にも基づかないまま、他教会の内政に積極的に積極的に干渉して行くのである。
 
このような越権行為を正当化するために、村上氏は、キリスト教界からの公の認可を受けようと努力するのではなく、むしろ、この世の裁判という強制力を味方につけようとした。
 
同氏は、カルト化の疑いのある牧師や信徒を裁判に訴え、彼らを強制的に司法の場に引き出して来ることにより、キリスト教内部の問題を議論する場を、無理やりキリスト教の外へ持ち出し、それによって、キリスト教内部の規則を飛び越えて、この世の司法による強制力によって自分の活動を正当化しようとした。

村上氏はこうして、自ら教界に属していながら、教界の規則を無視し、むしろ、教界外のこの世の司法という強制力に訴え得ることによって、キリスト教界に強制的にメスを入れることを正当化しようとしたのである。

このことは、同氏の活動が決して聖書に基づく平和な信仰によるものではなく、むしろ、全く聖書に基づかず、信仰を持たないこの世の論理と力に基づいて、キリスト教界全体を監視し、断罪し、これに強制的に懲罰を加える機会を得ようとするものであったことを意味する。その点で、同氏の活動は、ただキリスト教を隠れ蓑にしただけの、最初から聖書に基づかない、信仰によらない活動だったと言えるのである。
 
村上氏が積極的に用いていた裁判という手法を見ても、同氏の活動は、真に弱者の側に立つものではなく、世論や弁護士等この世の有識者や権威者という「強者」の目線に立って、この世の力を武器にして行われるものであったことが分かる。

村上氏による統一教会などからの信者の「救出」活動も、カルトに入信した信者自身の心の要望に基づくのではなく、信者の親族という「社会的強者」(社会からドロップアウトしたカルト信者に比べれば、彼らは強者の立場にあったと言える。また、親族の背後には信仰を持たない世間の思惑があった)の側に立って、強者の利益を確保するためになされたものであったことを思い出す。そこで、カルトに入信せざるを得なかった信者の深刻な事情や、心の必要性は理解されず、信者個人の人格も尊重されない形でその活動は行われ、むろん、家族側からの依頼に基づいて「救出活動」に携わった牧師に、どれほどの謝礼が成功報酬として渡っていたのかは誰にも分からない。
  
こうして同氏は当初、カルトに入信した信者の親族という「強者」の言い分を利用して、信者の人権に対する侵害を正当化し、信者に懺悔と棄教を迫り、異端審問官のように懲罰的に振る舞ったが、次には、キリスト教界の「疑わしい」牧師や信者を司法の場に強制的に引き出して来ることにより、彼らに強制的に懲罰を加え、それによって倫理の低下したキリスト教界そのものを断罪するということをやり始めたのである。

村上氏は、こうして、弱者救済と言いながら、自らの活動が徹底してこの世の弱者ではなく、むしろ強者の側に立って行なわれ、信仰を持つ者ではなく、むしろ、不信者の利益を擁護するために行われ、この世の力を持って、有無を言わせず信者の内心の自由を侵害し、信者の誤りを暴き出し、断罪することで、弱者の声なき声を踏みにじり、黙殺していることには、気づこうともしない。

そして、同氏は教団や教会の規則を踏み越えて、誰からも何の公の権限も与えられていないのに、自らキリスト教界の「異端審問官」であるかのように振る舞い、関係者からの不確かな証言や要請だけに基づいて、自分の一存で始まったに過ぎない自分の非公式な活動が、あたかも世間全体の後押しを受けているかのように見せかけて、さらには自らの「救済活動」が、宗教界全体に必要不可欠な改革であるかのように唱えるのである。



2-6.聖書に基づく信仰による価値基準ではなく、世間の倫理道徳によってキリスト教界を裁き、この世の司法などの強制力を用いて教界を改革しようとする危険

村上氏は、裁判によってキリスト教界に弾圧を加えることを正当化する理由づけとして、キリスト教界が倫理の低下により世間を騒乱した「罪」を挙げる。前述のブログ記事の中で村上氏はこう続ける。

 さて、キリスト教は世間に良いイメージを持たれています。そのイメージが近年カルト化した教会によって低下していることは読者の知るところです。このような問題を正すためには裁判が必要だとする私に対して、沖縄南部牧師会は声明文を過去に発表しました。<中略>キリスト教のイメージが低下したのは牧師と牧師会の倫理観が低下してきたからが私の見解です。次々と牧師の不祥事が明るみになっています。それを擁護する牧師もいます。被害者は二重三重に心に痛みを受けています。このような被害を知っていながら対策室を開設する教団は稀です。いつまでも限られた牧師たちがやっていること事態(ママ)がキリスト教の怠慢です。


ここで同氏が「世間」を引き合いに出していることが注目される。これによって、村上氏が、あたかも「世間(=信仰を持たないこの世の社会)」の観点に立って、「世間」の要望に基づいてそれをかなえるために自らの活動を繰り広げているかのような印象を与えようとしており、キリスト教に批判的な「世論」の高まりをもって、キリスト教界を断罪することの根拠にしようとしている姿勢が伺える。

つまり、同氏は決して信仰に基づいてキリスト教界の改革を唱えているわけではないのである。同氏は、キリスト教界から聖書の真理が失われ、正しい信仰が失われたがゆえに、「神の利益が損なわれている」ことを嘆くのではなく、キリスト教のカルト化が進行し、牧師の「倫理観」(聖書に基づく信仰ではない!)が失われたために、キリスト教のイメージが世間で低下したことが、あるまじき損失であると言うのである。
 
まず同氏が、一体、誰の利益を回復しようとしているのかという点に注意が必要である。同氏が主張するのは、神の利益ではなく、信者の利益でもなく、「世間」の利益である。キリスト教界によって傷つけられた被害者を救済するという名目を取ってはいるものの、実際には、この活動は被害者本人のために行なわれているものではなく、むしろ、被害者を取り巻く「世間」の観点に立ったものであり、「キリスト教が不祥事を起こして犠牲者を出し、世間をお騒がせしたので、キリスト教はその罪を認めて償わなければならない」と言っているに等しい。
 
さらに、どのような観点から、同氏がキリスト教の倫理の低下を罪深いこととして糾弾しているのかにも注意が必要である。村上氏は、キリスト教に不祥事が起きていることを、「聖書の真理から逸れたために、神に対して犯された罪」として、神の利益が損なわれ、神が心を痛めているという文脈で非難し嘆くのではなく、ただキリスト教に倫理の低下が見られたから、また、被害者が苦しめられたから、これを人の目にかなうように改善しなければならないと言うのであり、ここで、同氏がキリスト教の堕落を糾弾する根拠としているのは、聖書ではなく、世間の倫理道徳観、世間の判断基準である。

村上氏がこうしてキリスト教の現状を裁くものさしを、巧みに聖書の価値基準から、この世の価値基準へと移し替えていることに注目する必要がある。同氏は、「世間でのキリスト教界の倫理的イメージの低下」と「心に痛みを受けている被害者」の存在を引き合いに出すことによって、このままでは、キリスト教界が世間に顔向けできない嘆かわしい状態にあって、早急に改革が必要であるかのように唱え、巧みに「世間」をキリスト教界よりも上位に置こうとしているのである。

だが、すでに述べた通り、信仰者が、自らの信仰生活が正しいかどうかの判断を、信仰を持たない「世間」に委ねることなど、もともとナンセンスである。そのようなことは、霊的な事柄と肉的な事柄の順序を覆し、聖書の秩序を転倒させる危険な考え方であることはすでに前項で述べた。
 
キリスト教界に起きることは、ただ聖書の価値基準に従って、信仰によってしか理解することができないにも関わらず、村上氏は、自らの主張が不特定多数の人々からなる「世間」にバックアップされているような印象を醸し出すことにより、「世間」の判断基準を基に、あたかも世間を味方につけているかのように振る舞い、世間という「強者」の立場から、キリスト教界に起きる不祥事を糾弾し、キリスト教のみならず、宗教全体に対しても、これを疑わしいものとして監視し、断罪し、裁く側に立とうとする。聖書に基づく信仰の観点からではなく、「世間」の立場から、宗教全体を監視し、抑圧する必要性を訴えるのである。

こうして、片方では「弱者救済」を唱えながらも、実際には、村上氏は信者という真の「弱者」の立場に立って物事を考えることを決してしない。同氏は一見、自らの活動がキリスト教に基づくものであるかのように偽装してはいるが、実際には、その活動は、この世の強制力を用いたものであり、聖書に基づくものでなく、さらには信教の自由という憲法上に定められた信者の人権をも否定するものであり、信仰によってしか理解し得ない事柄を、信仰を持たない圧倒的多数者という「強者」の論理に委ねることによって信者の内心を踏みにじり、「世間」の価値判断を、聖書に基づく信仰による価値判断の上位に置き、結果的に、この世を信仰よりも上位に置くことを正当化しているのである。
 
このような転倒した理屈を基に、同氏は「世間でのキリスト教のイメージの回復」を目指し、キリスト教界では誰からも公に認可を受けていない、ただ自分の一存だけで始まったカルト被害者救済活動を、司法の強制力によって推し進め、強制的にキリスト教界に介入してメスを入れ、さらには、このような活動がキリスト教界全体に必要不可欠なものであるとみなし、他の牧師もこれを行なうのが当然であるとまで述べるのである。



2-7.強制力を用いて人の心を矯正しようとする村上密氏の活動は、平和な福音伝道によって人々にキリストの救いを宣べ伝え、自主的な回心を促すことを第一とする牧師の本来的な使命から逸脱している

だが、牧師の主たる活動とは、救いを知らない人々の魂をキリストの福音に導くことにあって、しかも、その魂の救いとは、人が自主的に悔い改めてキリストの救いを信じて受けとることによるのであり、裁判等を通してキリスト教界の不祥事を告発することで、信者に無理やり懺悔を促したり、カルトから信者を奪還しようとして強制的に信者を拉致するなどして他宗教に闘いを挑むことにはないことは明らかである。
 
そこで、こうした村上密氏の活動は、福音伝道という牧師の本来的な使命から逸脱しており、牧師の従来の正常な牧会活動のあり方を否定するものであり、しかも、教団や教会に属していながら、キリスト教界内部の規則に則らずに、この世の強制力によって、キリスト教内部の問題解決を目指している点で、他教会の内政への不当な干渉であり、牧師としての越権行為に過ぎないものであると断言できる。

このように、村上氏が、キリスト教の牧師の本来的な牧会活動のあり方から大きく外れて、絶え間ない政治闘争のような争いを己の主たる活動とし、「弱者救済」を旗印に掲げながらも、実際には、弱者ではなく強者、しかも、信仰を持たない「世間」の目線に立って、強者の利益を確保するために、カルト化問題を訴えて来たこと、また、同氏が常にキリスト教界内の規則にのっとらず、この世の司法などの力にものを言わせて、カルト化問題を解決しようとして、越権行為を繰り返して来たその手法は、約十四年前に起きて今日に至るまで続いている鳴尾教会に対する同氏の干渉にも共通して見られる。鳴尾教会の事件は、村上氏による教会内規則を踏み越えた越権行為としての「カルト狩り」や「異端審問」の走りだったとみなすことも可能である。
 



2-8.自己目的化した村上密氏の活動 カルトとの闘いを続行するために、自ら敵を作り出す


 村上氏の越権行為は、同氏の唱えたカルト監視機構という構想についてもあてはまる。

筆者の警告記事の影響もあったのか、村上密氏のカルト監視機構はキリスト教界からの関係者からの反対も大きく、ネガティブなイメージが定着し、今日に至るまで設立されることはなかった。だが、村上氏は自らの構想に宗教界からのお墨付きが得られるまで座して待つようなことはせず、それまでに自身が率いて来た「カルト被害者救済活動」の支持者を集めて、誰からの認可もないままに、早々とインターネット上に自分たちに都合のよい言論空間を作り上げ、そこで「疑わしい」教会の摘発や、「望ましくない」反対者らへの弾劾に乗り出して行った。

村上氏の活動は、ここでも全く非合法、非公認、非公式なものであり、同氏がインターネット上に組織したものは、カルト化問題について、信者を集めて客観的に話し合う場ではなく、むしろ、プロテスタントの信者ではない部外者たちを積極的に動員して、キリスト教界の不祥事を公表し、キリスト教に関するネガティヴな「世論作り」、「空気作り」を行なうための印象操作の場であった。

明らかに村上氏の意向を受けて、村上氏にとって都合の良い記事を発表するために、村上密氏のカルト被害者救済活動を支持するカトリックの信者とも言われる杉本徳久氏を中心に、そのほとんどが烏合の衆のような身元不明・匿名のネットユーザーから成るインターネット版カルト監視機構と呼ぶべき集団が出来た。そして、こうした烏合の衆のような人々が集まって、何の権限にも基づかず、あたかも世間代表、識者代表のような仮面をつけて、インターネット上でキリスト教界の不祥事を次々告発し、関係者へのバッシングを行ない、キリスト教界に関するネガティヴなイメージづくりに日夜、積極的に励んだのである。

こうした事実を振り返るならば、村上密氏の活動は、一種のマッチポンプと呼ぶべきものであったことが分かる。片方では、杉本徳久氏のような支持者を積極的に利用して、キリスト教界のイメージダウンを狙う弾劾記事を次々発表させた上で、「このようなひどい出来事が起きて世間を騒がせているのだから、キリスト教界の倫理低下とカルト化問題を解決するために、我々は行動を起こさねばならない」と提唱して、自分がカルト問題の有識者として登場するのである。だが、誰よりもキリスト教界のイメージダウンをもたらしたのは、キリスト教界の不祥事を暴くことだけを生業として活動して来た村上密氏や杉本徳久氏のような人々なのである。
 
村上氏がキリスト教界の不祥事にインターネット上で警鐘を鳴らすために利用したのが、そのほとんどが信仰を持たない身元も定かでない部外者でしかないネットユーザーであったことを見ても、同氏の目的が、聖書に基づく信仰についての健全な議論ではなく、まずはキリスト教界を糾弾することを歓迎し、是認するような「世論作り」であったことが分かる。同氏は、キリスト教に関するネガティヴな批判を自身のブログや支持者のブログを通して積極的に発表した上で、自分はこうした「世論」の後押しを受けて、悪しき問題の是正のために行動しているのであり、それゆえ、自分の活動は社会の利益にかなったことなのだという印象を自ら作り出そうとしたのである。

確かに、そのようにして発表された中には、キリスト教界に実際に起きていた不祥事もあったものと思うが、彼らの活動が、絶え間なく「カルトの疑いのある教会や牧師」といった仮想敵を必要とする性質上、その活動は、次第に、捏造してでも良いから、キリスト教界に不祥事を作り出そうと、事実から遠くかけ離れた自作自演劇のようなものとなって行った。

信仰の問題についての議論を、教義さえも満足に知らない不信者のネットユーザーらの手に委ねれば、何が起きるかは誰でも容易に想像がつく。身元も不確かなネットユーザーを盛んに利用したネット上の議論では、暗闇の中で、真偽のほども分からない質の悪い情報が飛び交い、自称「被害者」や、なりすましも現れて、行き過ぎたバッシングが横行し、事実から遠くかけ離れた「魔女狩り」としか言えない荒唐無稽な「異端審問」が過激化して行った。

こうして、村上氏の意向に沿って、村上氏に都合の良い言説や批判を並べる無数の身元不明のネットユーザーから成る、インターネット版カルト監視機構とでも呼ぶべき、ネット暴民のような非合法の集団が暴走し、杉本氏や、村上氏らの活動を理解しない人々や、それに対する反対者を吊し上げる目的で、魔女狩りのようなバッシングが行われた。「キリスト教界のカルト化問題の解決を目指す」とする彼らの目的とは裏腹に、その活動によっては、カルト化問題は何ら解決されるどころか、より一層のひどい混乱がキリスト教界にもたらされただけであったが、それでも、その行き過ぎたバッシングと混乱は、キリスト教界のイメージダウンという世論作りを行なう上では、彼らの目的にかなったものであり、織り込み済みの結果であったと見られる。何しろ、キリスト教界の疑わしい事件が次々発表されて、カルト化の疑いのある教会や牧師や信者という仮想敵が増え、キリスト教界の印象が悪くなればなるほど、カルト救済活動の指導者らの出番は増えるからである。

こうして見ると、村上氏が目指していたのは、初めから、きちんと裏づけの取れた真実の情報だけを発表して、誤った教えに警戒を呼びかけ、キリスト教界の信者らを聖書に基づく正しい信仰生活に立ち戻らせることにはなく、むしろ、暴力的とも言える威嚇的なバッシングによって、キリスト教界に起きる不祥事を次々と暴くことにより、キリスト教界そのもののイメージを低下させ、信者らを怯えさせて自由な議論を封じ込め、インターネット世論を占領し、教界全体に関する世論を自らの手中におさめて情報統制した上で、自分自身はあたかも腐敗したキリスト教界を是正する正義の味方や救済者のように登場し、そのような自己イメージを定着させていくことにあったものと見られる。

つまり、ネット上でのこうした活動はみな、村上氏とその活動の支持者らがインターネットの世論を独占して信者らを委縮させて情報統制し、キリスト教界のイメージダウンを成し遂げた上で、自分たちの活動を正当化し、信教の自由を取り締まり、キリスト教界に懲罰を加えるために、キリスト教界内の権力を掌握する目的で行われた威嚇行為としての自己流の「異端審問」であり、「恐怖政治」だったのである。

村上氏がインターネット上の記事や、裁判などの場面で、支持者を利用して行ってきた自己流の「異端審問」は、それ自体が、キリスト教界に対する威嚇であり、信者を黙らせるための恫喝であり、同時に、信者の自由な信仰生活の否定であり、同氏が教界内権力を掌握するための手段であったと見るのがふさわしい。
 
村上密氏のカルト退治は、自らの活動の需要がなくならないために、ついには自ら積極的に敵を作り出すというところまで行き着いた。これでは到底、同氏はザビエルの「負の」活動を批判できる立場にはないと言える。



2-9.アンチカルトはカルトと同一である 政敵と同化した村上密氏の活動
 
結論を述べると、上記したように、国際勝共連合の主張に危惧されたのと全く同じことが、村上氏の活動にも実際に起こったのである。国際勝共連合の提唱していたスパイ防止法の制定や、核武装が肯定されれば、「共産主義の脅威に立ち向かう」ことを口実として、やがて国家の武装それ自体が目的となり、飽くことない権力への渇望が生まれ、その結果、異常に肥大した軍部や秘密警察による諜報活動が生まれ、やがてはそれが自国民への容赦のない弾圧につながって行く危険性があると危惧されたのと全く同じように、「カルトに立ち向かう」ことを旗印に掲げた村上密氏の活動は、いつの間にか、その活動自体が自己目的化し、無実の信者を貶めてでも、カルトという政敵をでっちあげることによって、カルトとの戦いを終わりなきものとし、それによって同氏が無限に手柄を築き上げるための土壌を作ることが目的となった。キリスト教界のイメージを貶めて、この問題を是正するために、キリスト教を監視し、取り締まる必要があると唱えることにより、同氏は、教界を超える権力を掌握するための手段を自ら作り出して行ったのである。

「弱者救済」や「カルト化問題の解決」といった美名は、実際には、同氏による教界内権力掌握の口実として利用されたに過ぎない。

こうして、記事「行き詰まりの打開は方策でなく、心の改革が根本である」にも書いたように、魔物と闘っている者が、魔物の手法を取り入れることにより、自分自身が魔物と一体化するという現象が起きたのである。

魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう気をつけねばならない。深淵をのぞき込むとき、その深淵もこちらを見つめているものである。 「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた」


2-10.キリスト教界で回復されなければならないのは、人間の利益ではなく、神の利益である

確かに、キリスト教界の不祥事それ自体はあってはならないことであるにせよ、果たして、その是正を訴えるにあたり、一体、何を損失としてとらえ、誰の利益を確保する観点から活動するのかという点は、極めて重要である。
 
村上密氏の活動に一貫して見られるのは、同氏が神の利益を回復すること、信者の利益を確保することではなく、むしろ、不信者の利益を確保するために、不信者の目線(世間の目線)に立って、不信者の意見を代弁して、信者の信教の自由そのものを否定しながら活動して来たという特徴である。

同氏の理屈によると、キリスト教界のカルト化問題が解決されなくてはならない第一の理由は、キリスト教界が聖書から逸れたために、真理が損なわれ、神の利益が損なわれ、神が悲しんでおられるためではなく、むしろ、カルト化問題の犠牲になったゆえに、人間に過ぎない被害者たちの利益が損なわれ、被害者が悲しんでいるためであり、さらにはキリスト教界の倫理低下によって、信仰を持たない世間でキリスト教のイメージが低下し、信者が不信者(世間)の恥となり、世間に迷惑をかけているからなのである。

このことを見れば、村上氏が信仰そのものに対してどれほど理解のない態度を取っており、神の願いという観点から物事を見ず、人間の利益の観点、しかも、不信者の利益を中心に物事を見ているかがよく分かる。同氏がいかに聖書の価値観とは相いれない、この世の価値判断を基準として、常に問題解決を行なおうとして来たかその様子がよく理解できるのである。

つまり、村上氏は、一人の信仰者として、人の内心の自由で自主的な信仰生活を尊重しながら、聖書の真理の回復、神の利益の回復を目指しているのではなく、キリスト教を単なる手段として利用しながら、その実、信仰を持たず、神を知らない生まれながらの人間の利益を代弁して、不信者の利益の回復を目指しているのである。これはクリスチャンの自然なものの考え方ではない。

すでに前項でも確認した通り、信仰によらない、生まれながらの人間の道徳観や正義感は、どれほど人間の目に良いものに見えても、むしろ、聖書の唱える神の義には悪質に逆らうものなのであり、そのような方法で、人間社会の抱える問題を解決しようと試みれば、より問題を深化させるだけである。そのことは、キリスト者であれば誰しも理解していることである。
  
そればかりか、生まれながらの人間が、キリストの十字架の贖いによらず、生まれながらの知恵によって他者を救済したり、あるいは自己を正義として、神に代わって他者を裁こうとすることは、自ら神となって全宗教に君臨することと同じであるから、それは反キリストの悪魔的欲望でしかない。このような方法を用いれば、キリスト教界にますます問題を引き起こすだけでなく、やがてはキリストへの信仰そのものに敵対することになり、聖書の神そのものに敵対することにならざるを得ない。
  
村上氏の聖書に基づかない、信仰によらない活動は、結局のところ、宗教界全体を敵に回すものであり、ひいては、信仰そのもの、神そのものを仮想敵としていると言って過言ではない。村上氏が疑惑の眼差しを向け、取り締まり、撲滅しようとしているのは、あれやこれやのカルトではなく、もはや神を信じる信仰そのものなのである。

<続く>


悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構」―村上密牧師の非聖書的で危険な活動

 
大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会の私物化問題について~


 1.悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構」
~自らに与えられた権限の範囲を超えて、全キリスト教会と宗教界に君臨してこれに干渉し支配することを願う村上密牧師~

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は彼の声を知っているので、彼について行きます。
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」(ヨハネ10:1-5)
 



アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が、プロテスタント教会のカルト化問題を訴え、この問題を解決する手段として、カルト監視機構の設立を提唱して以後、私は、 記事
「カルト監視機構という名の秘密警察」などの中で、クリスチャンを名乗っている人々が、聖書によらずに人間の正義を掲げてこのような機関を作るべきではなく、人の心に潜む罪と悪の問題をこのような外側からの強制力によって解決しようとする試みには何の希望もなく、かえって教会に恐ろしい混乱をもたらすだけであると繰り返し警告して来た。

もしこのような機構が設立されれば、必ず、その活動は暴走し、教会のカルト化問題は解決されるどころか、密告と、疑心暗鬼が横行し、人間の思惑に基づいて今まで以上に滅茶苦茶な異端審問が行われ、魔女狩りが横行するようになるだけであると。


これに対して、村上密氏は自身のブログにおいて、こう反論している。

ザビエルの光と影 2010年 07月 22日

「雑感ですが、私は過去に「カルト監視機構」の必要性を訴えました。このことに対してある人が「『カルト監視機構』という名の秘密警察」と批判したことがありました。カルト監視機構が国家権力と結び付かない限り秘密警察とはなりません。むしろ、自民党政権下、自民党と協力していたカルト宗教が「スパイ防止法」制定に奔走しました。この法案が宗教をも監視下に置くことは一部の人にはよく知られていました。カルトを叩いていた私や他の人がカルトから監視されることも考えられたのです。危ういのは権力と結び付いた宗教です。キリスト教の一牧師の案に大袈裟な警告は夢想家の戯言です。

だが、この村上密氏の論理には重大な飛躍がある。まず、村上氏はカルト監視機構が国家権力と結びつかない限り秘密警察とはなりませんと述べているが、この点は完全な論理のすり替えであり、全くの誤りである。

おそらく、同氏がここで強調したかったことは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を含め、プロテスタントのキリスト教界全体が、この世の政治活動と一線を画し、統一教会や創価学会などのように政界への進出を目指しておらず、国家権力の掌握を目指していないので、カルト監視機構が設立されたとしても、これが国家権力と結びついてその庇護を受けて、無制限の権力機関となることはなく、仮に暴走することがあったとしても、その被害も小さなものに食い止められるだろうという予測であったものと思われる。

だが、仮にそう考えたとしても、村上密氏の主張は、極めて大きな矛盾を抱えている。 まず、第一に、村上氏はここで国家権力だけを危険視しているが、危険なのは、国家権力だけではなく、文字通りあらゆる権力である。

そもそも権力とは、組織と個人との間に、個人と個人の間に、あらゆる形で存在しうるものであり、これを乱用する人間が現れれば、いつでもいかようにでも悪用されうる危険性を持っている。企業においても、宗教団体においても、家庭においても、権力はいかなる場所においても存在しうるのであり、むろん、宗教団体もそれ自体が強大な権力であり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団も、一つの権力である。

そして、大小を問わず、あらゆる権力は腐敗しうるのであって、宗教もその点は同じである。このことを、教会のカルト化という問題を扱って来た村上密氏が否定することはできないであろう。

時として、宗教には国家権力以上の恐ろしさがあると言えるのは、たとえば、国家権力は、国家が定めている秩序を破壊し、これに立ち向かって来るような人物に対しては、逮捕、裁判、流刑、懲役などの、法の強制力によって脅かし、排除することができるが、宗教は、神の概念を用いさえすれば、法のどんな厳しい裁きも及ばないほどの深みまで、人の内心に立ち入ることが可能だという点である。そこにカルト化問題の源も存在する。
 
しかし、宗教がこのように悪用される危険性があるからと言って、キリスト教界のカルト化問題を食い止めるために、村上密氏が主張しているように、カルト監視機構を設立することによって教会を取り締まろうという発想は、いわば、
毒を持って毒を制す」式の考え方であり、これは教会にさらなる混乱を生みだけで、カルト化問題に根本的な解決をもたらすことは絶対にない。
 
なぜなら、宗教権力を超えるさらなる権力を作り出すことによって、宗教権力の腐敗を取り締まろうと言う村上氏の発想は、権力によって権力を制するという考えを意味し、これでは、権力は腐敗するという根本問題を含め、人間の心の悪の問題の本質に迫ることができないばかりか、宗教全体を取り締まることのできるこれまで以上に強大な権力を作り出すことによって、さらなる権力の悪用と腐敗の危険性に道を開くことなるからである。


村上氏は、カルト監視機構が
国家権力と結びつかない限り、秘密警察とはなりません」と述べているが、同氏は、カルト監視機構そのものが、腐敗した宗教権力や、悪意ある宗教指導者と結びつく危険性をまるで考慮しようとはしない。
 
腐敗した宗教指導者が自らの悪事を覆い隠すためにカルト監視機構を隠れ蓑に活動する危険性や、カルト監視機構のメンバーが自ら誘惑に駆られて権限を悪用する危険、もしくは、最初から悪用を目的にして、悪意ある人間がカルト監視機構に入り込む危険は、誰にでもすぐに思い浮かべることが可能だ。なのに、どうしてそのような単純な危険性さえ、同氏の構想においては全く考慮されていないのだろうか?

 
村上氏の構想では、悪意ある人間によってカルト監視機構そのものが悪用された時、誰がこれを「監視」し、その暴走を食い止めるのかという問題は、極端なまでに過小評価され、全くと言って良いほど考慮されていない。このことは、カルト監視機構は決して間違うことはないという前提を、同氏が思い浮かべていることを意味し、その前提の下に、この監視機構に事実上、無制限の権限を付与することを同氏が提唱しているにも等しい。

村上氏は、カルト化教会の牧師が誤りに陥る危険については声を大にして訴えながら、自分自身を含め、カルト化を監視する側の人間もまた同様に、与えられた権力の大きさに誘惑されて、誤りに陥る危険性を微塵も考慮していないのである。取り締まられる側には誤りがあっても、取り締まる側である自分たちは決して誤ることはないとの思い込みの下に、同氏の構想は述べられているのである。


なぜ村上氏はそのように自分自身だけは決して誤らないという絶対的なまでの自信を持つことができるのだろうか? それは同氏がよほど自らの信仰に自信を持っているためなのだろうか?
  
それにしても奇妙なのは、村上氏が、
カルト監視機構のメンバーに、初めからキリスト教の信仰を持たないこの世の有識者を据えようとしていた点である。村上密氏は、カルト監視機構の設立を呼びかけるにあたり、最初からそのメンバーとして、宗教家や臨床心理士や弁護士や法律家などといったこの世の有識者を念頭に置いており、さらには日蓮宗や天理教の教職者といった協力者も思い描いていた。こうしたことを見ると同氏がカルト監視機構のメンバーとなるための条件として、敬虔なキリスト教の信仰は必ずしも必要ないと考えていたことむしろ、キリスト教とは全く異なる他宗教の信者も最初から大いに歓迎するつもりであった様子が伺える。

そうなったのは、村上氏がカルト監視機構におそらくは最初から、
プロテスタントのキリスト教界のみならず、全宗教を監視する役割を持たせようとしていたためだと考えられる。すなわち、同氏はカルト監視機構というアイディアによって最初から、あらゆる宗教の枠組みを超えて、全ての宗教を上から監視し、抑圧することのできる強大な抑圧機関の創設という構想を提起していたのである。それゆえ、同氏は最初からこの機構のメンバーを「リベラルな」ものとしておくために、キリスト教の信仰者に限定するつもりがなかったのだと見られる。

「■ 『カルト監視機構』、設立へ
 村上密(アッセンブリー京都教会牧師)とウィリアム・ウッドは、『カルト監視機構』の設立に向けて、具体的に動き始めました
。この機構の目的は、カルトと疑問視されている団体を調査し、適正な判定を下し、発表することです。
構成は、カルト問題に精通している宗教家、臨床心理士、弁護士、法律家など、6人から12人ほどです。先日、プロテスタント教会、聖公会、日蓮宗、及び天理教の教職者で、カルト問題に取り組んでいる方々への協力要請の手紙を出し、六月中に最初の会合を持つことを予定しています。

また、『集団のカルト度に関するアンケート調査』も作成しています。その内容は六つの項目(組織、指導者、信者の実生活、組織活動、家庭生活、被害)に分かれており、百以上の質問からなっています。一つの団体に関する、正確でかつ公正な判断を下すのに不可欠な資料になると思われます。自分の属している団体の『カルト度』を計りたい方に、『集団のカルト度に関するアンケート調査』をお送りします。」 
真理のみことば伝道協会 カルト関連NEWSより)
 
以上から分かるのは、村上氏が、教会のカルト化という問題をきっかけに、キリスト教会を外部から監視する必要を訴え、この役割を、信仰を持つクリスチャンではなく、信仰を持たないこの世の不信者に委ねようとしていたことである。

ここに、キリスト教の信者にとっては決して看過することのできない極めて恐ろしい問題がある。もし村上氏のこのような構想が実現したならば、必ずや、キリスト教界の自治が破壊されるだけでなく、
キリスト教会がキリストへの信仰を持たないこの世の不信者の管理下・支配下に置かれ、聖書に基づく霊的秩序が、この世の秩序よりも下位に置かれるようになるためである。

他の記事でも幾度も訴えて来たことであるが、そもそもキリスト教会における信仰生活の正常性を、キリスト教の信仰を全く持たない外部の人々がおしはかるという発想自体が、ナンセンスである。使徒パウロは、教会の中で起きた争い事を、信者がこの世の人々の前に持ち出して、不信者の裁きに委ねるようなことをを勧めていない。

「あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。
あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
私たちは御使いをもさばくべきものだ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないはずではありませんか。
それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。
私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。
それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。
そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。」(Ⅰコリント6:1-7)


このように聖書的な観点から見ると、たとえ教会の中で仮に権力の乱用という問題が起き、それによって争いや混乱が引き起こされることがあっても、村上密氏の考えるように、カルト監視機構を作って、教会の問題を世の人々の仲裁に委ねることは、全く勧められていないのである。

それどころか、争いごとの発生をきっかけに、教会がこの世に助けを求め、この世の法則を内に取り入れ、この世の評価や裁きに身を委ねて行くことは、聖書の定める霊的秩序の転覆を意味する。なぜなら、それは
キリストの十字架を通して、この世に対して死んで、神の定めた霊的秩序に生きるようになった信者(この世から召し出された人々―神の教会なるエクレシア―)を再びこの世の堕落した秩序の管理下に置いて、この世を教会の上位に据えることで、最終的には悪魔の秩序を神の秩序よりも上位に掲げることを意味するからである

もし村上氏の唱えるカルト監視機構が実現すれば、教会はカルト監視機構を通して、絶えず、自分たちが外からどう見えるかにおびえ、気を遣わなくてはならなくなり、この世の有識者の判断や評価に気を遣い、振り回され、カルト監視機構から「疑いあり」とみなされて、取り締まりの対象とされたくない恐れから、自主的にカルト監視機構に迎合し、喜んでこの世と一体化する道へも逆戻って行くことであろう。

その結果、この世の権力闘争とは一線を画して、平和で穏やかな信仰生活に専念することを決めたプロテスタントの教界が、再びこの世の権力闘争に引き戻され、この世の権力と結びつくという、歴史を逆行するような結果も生まれかねないと予想される。

こうしたことからも、村上密氏が思い描く発想は、決して聖書から出て来たものではなく、むしろ、聖書の秩序を否定する悪魔的な発想だと言って差し支えない。それは、
信仰者の生活を、不信者の判断の下に置き、この世を教会の上位に置き、それによって肉的な秩序を霊的な秩序よりも優先し、目に見えるものを目に見えないものの上位に置くという、聖書の秩序を完全に転倒させるものであり、神と悪魔との秩序を逆転させようとする唯物論的発想だと言えるのである。

カルト監視機構が危険なのは、宗教全体を監視するという口実の下、カルト化した宗教権力が人になしうる人心支配よりも、はるかに強力な支配を人の心に及ぼしかねない点にある。カルト監視機構それ自体が、人間の心の自由に対する無制限な干渉や抑圧を正当化する手段となりかねず、もっと言えば、この抑圧機関は、初めからそれを念頭に置いているのだと言える。

カルト監視機構は、人の信仰生活という、人間の内心の自由の最も奥深くにあって、神にしか立ち入ることができず、神にしか判断し得ない事柄に関して、これを外部から別な人間が監視し、その是正を判断し、干渉し、抑圧することを肯定することにより、人の内心の自由に対する最大限の侵犯を肯定していると言って良い。そこで、この計画は人間の自由や自主性という、人の侵しがたい領域に対する侵犯に他ならないことが明白であるだけでなく、その設立自体が、神に対する越権行為なのだと言える。一体、誰が、他人の信仰生活という、神でしか判断しえないような事柄を、外から見て正確におしはかることができるだろうか。

聖書は述べている、
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(Ⅰコリント2:14)

聖書はこのように、
信仰に属する霊的な事柄を、御霊を持たない人々、つまり、信仰を持たない生まれながらの人々が理解し、わきまえることは決してできないことを教えている。キリスト者の信仰生活における霊的な事柄は、この世的な観点からは決して価値判断することが不可能なのである。この世の常識や道徳や伝統など、たとえこの世の英知の全てを結集したとしても、それによって、神に属する霊的な事柄(信仰生活)をおしはかることはできず、ましてこれを裁いたり、評価することはできないのである。

にも関わらず、村上氏は、カルト監視機構の設立により、霊的な(信仰の)領域に肉的な(この世的な)原則を堂々と持ち込み、聖書の秩序を転倒させて、不信者が信者の内心を監視して取り締まることを肯定し、それによって、キリスト教が再びこの世の支配下に引き戻され、教会がこの世の権力と一体化し、結果的には、真のキリスト者がこの世の思惑によって干渉や弾圧を受ける道を開いて行こうとするのである。

村上氏は、カルト監視機構が悪用されれば、これまで宗教権力が悪用されて起きて来た最も恥ずべき歴史である「魔女狩り」や「異端審問」よりも、さらにもっと恐ろしい抑圧行為が容易に繰り返されかねない危険について、全く何の考慮もしておらず、一切沈黙を守っているが、これは極めて恐ろしいことである。

万民祭司となった新約のこの時代、キリスト者は一人一人が神に直接、聞き従うことが求められているのであって、たとえ信者であっても、他者の信仰生活の内面に立ち入って、これを管理したり、取り締まったりすることはできない。まして、キリスト教の部外者である信仰を持たない人々がそれをしようとしたならば、どれほど的外れで支離滅裂な評価や裁きが行われ、でたらめな「カルト狩り」が横行し、キリスト教という宗教全体がどれほどそれによってひっかきまわされることになるかは誰にでも予想できる。


にも関わらず、村上密氏はこのような危惧を一顧だにせず言い放つ、「
キリスト教の一牧師の案に大袈裟な警告は夢想家の戯言です」と。

このような同氏の態度からは、カルト監視機構の真の狙いに対する疑いが逆に生じない方がおかしい。カルト監視機構は、本当にカルト化問題の解決を目的としたものと言えるのか。むしろ、これを提唱する者たちの真の狙いは、キリスト教界の不祥事を口実にして、強制力をふりかざしてキリスト教界に介入し、教会をこの世の管理下に置いて、彼らの思惑に従わないキリスト教徒をことごとく弾圧し、迫害し、排除することにあるのではないだろうか? 教会を、御霊を知らず、神の霊的秩序を全く知らず、これに従うこともしない不信者たちの手に委ね、こうした者たちが、この世の法則をふりかざして教会を占領し、聖書の秩序に忠実に従おうとして彼らの支配を拒む善良なキリスト教徒を、教会からことごとく駆逐することを、この計画は最初から、隠れた目的としているのではないのか? たとえ村上氏が何千万回、そのようなことはあり得ないと述べたとしても、カルト監視機構そのものの悪用と暴走という問題が何ら考慮されていない以上、この機関は、設立されれば、やがてそういう結果に至りつくのは必至だと考えられるのである。

実際に、村上密氏がインターネット上に作り上げた「サイバーカルト監視機構」とでも呼ぶべきネットワークによる教会の監視活動がどれほどの暴走を見せたかについては、別に述べるとして、そもそもカルト監視機構の設立を提唱する村上氏自身は、本当に、同氏の言うように無害な「
キリスト教の一牧師」に過ぎないのであろうか?

本稿では、これから鳴尾教会に関する事件の顛末を振り返りながら、村上密と言う人物について考えて行くが、その過程で私たちは、鳴尾教会に起きた事件を通して、自分は無力で無害な「
キリスト教の一牧師」に過ぎないと述べている村上氏が、当時から、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団という強大な宗教権力を味方につけて、自分よりも弱い立場にある教職者や個人の信徒、ひいては教会そのものに対して、どれほどの影響力を及ぼし、これを蹂躙して来たかを伺い知ることができる。

この事件を通して、私たちは、村上密氏が、カルト監視機構の設立を提唱するよりもはるか前から、自らに与えられた権限を踏み越え、教団や教会の規則を無視して、他教会を私物化し、自分たちの利益にかなわない者にはいわれなき嫌疑をかけて追放し、暗闇の密室に置いて恣意的な「魔女狩り」を繰り広げて来た事実を知るのである。

こうした事件を詳細に振り返る時、「キリスト教の一牧師の案に大袈裟な警告は夢想家の戯言です。という村上密牧師の言葉が、どれほど信用ならない発言であり、これは同氏が心に抱いている野望の重大な危険性と、同氏がこれまで暗闇の密室で、他教会の内政へ不当に干渉し、不法な形で権力の拡大をはかって来た過去をカモフラージュしようという意図のもとに発せられた詭弁であることがよく分かるのである。

村上氏は、自分は善良で無力な一人の牧師に過ぎず、大それたことなどできるはずがないと印象づけることで、自分が全宗教界に君臨してこれを抑圧することのできる機関を作り、その強大な権力機関の頂点に立つという、どんなキリスト教の牧師も心に抱いていないような並外れた計画と野望を心に抱いていることの恐ろしさを人に悟られまいとしているだけである。


こうしたことから思い出されるのは、次の聖句である。
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」(Ⅱテサロニケ2:4)

聖書によれば、
あらゆる宗教を超えて、それに君臨するほど自分を高く掲げることは、反キリストの特徴であることが分かる。

地上のどんな人間にも、他者の内心を取り締まることのできるような権限は与えられていない。自由意志が保障されることは、人間が人間であり続け、人としての尊厳を保つために決して奪われてはならない条件である。

にも関わらず、人間のこの最も本質的で侵しがたい自由の領域に手を付け、人の内心を取り締まり、抑圧することを正当化するような思想は、表向きどんなもっともらしい口実がつけられていたとしても、事実上、無制限の権力、無制限の人心支配の手段を得たいという欲望から出たものなのである。

いつの時代も、強大な権力を手にした独裁者が最後に目指すのが、言論弾圧と、言論が生まれる源となる人間の内心の自由の弾圧であった。そういうことが起きるのは、権力に憧れる者が、己の手にした権力の完成形として目指すのが、完全な人心支配、すなわち、自分が絶対者となって人々に君臨し、人々の心を完全に掌握し、支配すること、つまり、己が神となって人の心を治めることだからであると筆者は考えている。

ヒトラーもスターリンも、単なる一人の人間に過ぎなかったが、今日、彼らの所業に対して、「
大げさな警告は夢想家の戯言である」などと言える者は誰もいない。こうした独裁者たちは、一個の人間であるよりも前に、強大な権力機関を歯車のように回す司令塔であり、システムであった。

だとすれば、宗教教団全体を味方につけて、教団や教会の規則を無視して他教会の内政に干渉し、教会の自治を破壊し、教団教派の枠組みを超えてプロテスタント教界全体に君臨し、さらには、宗教界全体を取り締まることのできるカルト監視機構というはかりしれない権力を持つシステムの設立を提唱し、その頂点に立ちたいという野望を自ら述べている宗教指導者が、どうして無力で無害な一個の牧師であり続けられようか。強大な権力機構の指導者となった人間は、もはや単なる「キリスト教の一牧師」ではあり得ない。それは大勢のクリスチャンに思うがままに影響力を与え、大勢の信者の運命を狂わせることのできる強大なシステムなのである。
 
こうしたことを考えるならば、人間の信仰生活という、神でなければ決しておしはかることのできない人間の内心の自由の最も深みにまでも干渉し、これに外から価値判断を加え、支配し、取り締まろうという願望を述べる者は、神に代わって人の心を裁き、統治したいという欲望を述べているのであって、それは神に対する越権行為であり、人類が神に反して抱きうる欲望の中でも、最悪の性質のものであると言える。

こうした願望はサタンから来るものであって、神から来るものではない。その欲望の本質は、信者の心を神の御手から引き離して横領しキリストの花嫁である教会をキリストから奪い教会を私物化して、自分が神となってこれに君臨し支配したいという悪魔的願望である。

ちなみに、聖書はこのような願望を述べる指導者が偽り者であって、羊の群れを食い物にするためにやって来た強盗であり、その声に信徒が聞き従ってはならないことを警告している。そこで、聖書に忠実に生きることを真に願っている敬虔な信仰者の目には、彼らの目的が、神に対する反逆としての人間による教会の私物化であることが明確に分かるのである。

<続く>

村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害②

3.  ~村上密氏と杉本徳久氏の主導する「サイバーカルト監視機構」の正体~

3-1.杉本徳久氏のIPアドレス特定の経緯
 
3/22 付記  さわやか読者のアドレスと、無実にも関わらず迫害された鳴尾教会の事件の顛末をきちんと発表してから、当ブログに対するアッセンブリー教団関係者による工作が力を失いました。
 
特に、ソフトバンク工作員集団の中でも、現在までとりわけ熱心だった主犯のこの方。
softbank219215163080.bbtec.net

  

(2016年2月22日現在も何十回となく当ブログへアクセスし、必死にGoogle検索を繰り返す。 検索順位を操作するために、毎日当ブログで熱心に工作を続けて来たが、この頃はなぜか一向に効果が出ない・・・?)
 
他のさわやか読者がみんな散って行った後も、一人最後まで残り続けて毎日のように当ブログへ激しく工作に訪れていましたが、その執念深さから、 おのずと人物は知れてきますよね。

しかも、ネット上にアドレス露出しちゃってるんで、誰の目にも人物は明らか。連絡先は株式会社メディアテラスですって。私への脅迫メールを送って来た方と携帯番号まで一致します。
(今まで同氏から送られて来たすべての脅迫メールは全文PDFで公開の準備があります。
 
 

 5月3日 13:00-15:00  府中市 朝日グランド

種類 個人参加(助っ人)募集
投稿者 FC弥生
種目 サッカー
Lv1 豆級- ~ Lv9 上級+
日時 2015/05/03(日) 府中市 朝日グランド 
募集期限 2015/05/06(水)
場所(地域) 東京 - 府中市 朝日グランド 
コート確保 確保している
詳細・説明 5/3, 5/4, 5/5  個人参加者募集
2015/4/29(水)08:43 - FC弥生  fcyayoi@gmail.com (男) <fcyayoi@gmail.com> - softbank219215163080.bbtec.net 削除
FC弥生です。人生を楽しむためだけにサッカーをしている庶民チームです。
東京都西部を中心に土日祝、活動しています。

 日程はこちら http://d.hatena.ne.jp/fcyayoi

● 5月3日 13:00-15:00  府中市 朝日グランド  
   天然芝、東京外国語大学前 駐車場有り  
   西武多摩川線・多磨駅、京王線・飛田給駅

● 5月4日 祝日 19:00-21:00 下高井戸運動場

● 5月5日(火) 三鷹 大沢総合グランド  朝7:00-09:00 
 

 個人参加者を募集します。
 場所は良いピッチでやりやすく気分良いと思います。
 シニア可 
 ファールが多い人、荒っぽいプレイと気性の人はいません。
 メール: fcyayoi@gmail.com 
 URL    試合日程・結果など http://d.hatena.ne.jp/fcyayoi
 電話   070-5012-7587
作成日時 2015/04/29 08:50:37


 
Yayoi football team、ねえ…。思いきり名前と連絡先も出ておりますゆえ、間違いようがございませんよね。



3月20日 sun 12時30分-4時30分    調布・三菱養和会グランド   ミニ大会 

杉本、小川、木村

弥生浅野クラブ(白)、マスターズ平川(黒)、ボールド吉岡(赤)


チケット販売しています。 2000 yen 送料込み

1800001 武蔵野市吉祥寺北町1-5-14 メディアテラス mediaterrace@gmail.com



 
 さて、このチーム、以下のような理念があるようです。

Team mission statement

 FC弥生のチーム理念は以下の通りです。:

 人生を楽しむためだけに行うサッカーなので、勝つためのサッカーを目指さない。

 暴言や他人の悪口は言わない。特に審判やGKのご奉仕をしている人に対しては文句を言わない。

 怪我をしないことを最優先とする。そのため、ファール禁止。スタッドが相手に接触するプレー、厳しいタックル、後方からのチャージなどは禁じられる。

 基本的にすね当てとストッキングを着用し、スポーツ保険に入る。年間1500円。怪我をしたりしたときの危険、負担は自己責任。

 ポジション割り振りなど世話人の指示に必ず従う。グランド整備、試合準備などの協力を惜しまない。

 電子メールでの連絡を基本とする。

 主権者たる国民として、市民社会の一員に恥じない良識に沿った行動規範を持つ。


主権者たる国民として、市民社会の一員に恥じない良識に沿った行動規範の結果が、見も知らない他人に向かっての 脅迫メールとなって結実するものなのでしょうか・・・!?

付記:さらに、後日、杉本氏ご本人からメールフォームからさらなる脅迫状が送られて来たことにより、以下のIPアドレスが間違いなく本人のものであることが確定しました!!
 
杉本氏からの脅迫メールは、たくさんあるので、随時、公開していきますよ~!!
        
2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール



3-2.杉本徳久氏の活動履歴

4月2日 2012年当時に執筆して大きな反響を呼んだ論考 罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反しているのか。をホームページに再掲しました。
この論考はまだ完成していないため、随時、加筆して行きますし、鳴尾教会の事件の顛末も、いずれWEBページになります。
 

するとこうした動きを受けてか、再びご本人、登場。またもGoogle検索結果の操作にいそしんでいる様子ですが(Google信者をやめられない模様)、相変わらず頭隠して尻隠さず。

4月5日の杉本氏のアクセス回数はものすごいですよ〜。いつも当ブログの更新がされていない時間を見計らって猛烈アクセス!

 同氏の異常なアクセスは記事末尾のさわやか読者の活動履歴に発表しておりますので、ご覧くださいな。    
     
    最近、杉本がこれほど焦りを見せるのも当然、検索結果には何かすごいことが起き始めています。これは鳴尾の事件の真相と村上➕杉本の卑劣なネット工作を事細かに分析して明るみに出した成果です。

彼らの獅子のような咆哮はもう力を失っているのです。この変化はまもなく全体に波及しますよ。真実の持つ力はすごい。全体主義国だって最後は倒れますから。彼らの陰謀工作の結果はほんの一瞬しか持たないのです。
 
 
ブログの検索結果など操作する前に、 罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反しているのかと、自分の書いた恫喝メールをちゃんと読みなさい。(と言っても、そんな勇気があるはずもなく、馬と鹿の耳に念仏…。)

4月25日、30日とまた新たに杉本徳久氏から恫喝メールが来ました。ゴールデンウィークにまで他人に恫喝メールを送りつけずにいられないとは何たる哀れ。他者の行楽をひたすら邪魔することしか考えられない、平和で落ち着いた家庭人からは程遠い姿ですね…。

4日も、本ブログが更新されるや否や早速、深夜にアクセス。他人に刑事告訴の予告などしている間に、自分自身が様々な罪状により訴えられることをなぜ考えないのでしょうか。全てに不利な証拠が残りすぎています。ついでにお仲間も一緒に罪に問われることになるかも知れません。そうなると擁護する者もまずなく、今まで一生懸命に作り上げようとして来た弱者の味方というイメージはもはや完全に崩壊しますね。



3-3. 最近の検索順位の劇的変化

さわやか読者はとにかく杉本ブログの順位を上げることに血道をあげているようですが、大変なことになってますよ!

以下では、杉本ブログ、跡形もなし。これが工作されなかった場合の本当の検索結果。この影響はおそらく波及して行くでしょう。

 

それから杉本徳久氏の名前で検索してみると…、これまた大変な状態に。
ルーク氏と坂井氏からの杉本氏の告訴に対する非難で満ち溢れている模様。これでは裁判に勝っても喜びも半減ですね。貴重な金を費やしてネット対策するなら、政敵を貶める工作などより、自分の名誉回復に着手した方が得策だと思うのですが?

   

村上密の検索結果も同様に・・・。

 



3-4. 「頭隠して尻隠さず」のさわやか読者のネット対策

なぜこの人たちは、いつも頭隠して尻隠さずで、他人を貶めることばかりに精魂費やし、自分を守ることをしないのでしょうか? たとえばこれ。

村上密氏の悪質ななりすましサイト
 

 
むろん、こんな悪趣味なサイト、ヴィオロンは作りませんよ(文体とスタイルからその程度のことは誰でも分かるでしょう。)

当ブログに対する日夜の嫌がらせにエネルギーを費やす気力があれば、こういう悪質なりすましサイトにこそ、真っ先に立ち向かい、犯人検挙と削除に追い込むのが筋ではないのでしょうか? 
 
なぜずっと何年間も村上氏はこれを放置しているのでしょう?
何か削除できない特別な事情でもあるのでしょうか?(脅されているとか、自作自演など?)
そういう人に、本気で悪に立ち向かう勇気があると言えるのでしょうか?
 
しかも、神社の油まき事件に際しての村上密氏の記者会見という栄えある舞台にまで
このなりすましサイトがちゃっかり入り込んで削除もされていないという奇怪・・・。

 
しかも、こうした悪質サイトを放置しているのみならず、村上氏は自分の記事で論敵に対決を宣言するどころか、削除を要求しないと宣言、論敵の宣伝をしちゃったりもしてるんですよね…

 
自らのブログ記事で、大幅な紙面を割いて、わざわざ宿敵(?)の鳴尾キリスト福音教会から皆様へのブログを宣伝する村上氏。

ちなみに、本人だけが気づいていない深刻な自己矛盾と独特の論理の破綻は、これまで偽りの運動に欺かれたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者を含め、悪霊に導かれるクリスチャンにおびただしい回数、観察されてきました。



3-5.行き場を失った日曜祝日工作員たちの悲哀と孤独
   
ゴールデンウイーク中にも妨害活動にいそしむ工作員たち。
(他に行くところもやることもないんでしょうねえ、同情しますよ。)
      
★読者になりすます工作員!!

softbank221080155159.bbtec.net
5月1日に至るまで、連日、異常なほど猛烈アクセスしてます。
他のさわやか読者と連動していることから、最近の工作の主犯格と思われます。
 

明らかに検索結果の操作が目的の模様。

4月13日に「光の天使の罠」にコメントしてますが、読者に偽装した工作員ですね。

(大体、NONAMEで無内容の一言コメントを投稿するような人は、かなり異常です。きちんと内容を踏まえた感想が書けないからこういう切れ切れの文章になるわけです。文脈を無視してキリスト教用語を呪文のように使うところも、思考が非常にカルトっぽいですね。
工作員は行動だけでなく思考も操られているので、自分の言葉できちんと話せないことが分かります。悪霊の言葉には常に独特の節回しと論理破綻がつきものです。偽装の見本として公開しておきます。) 
それにしても、工作員が自らコメント投稿とは、手が込んでますね!!
 
一説によると、香川県高松市とも。
 


・国際化するさわやか読者たち!?
 
最近はさわやか読者も国際色豊かになっておりますよ~。(むろん、なりすましの可能性も大) 
153-149-154-18.compute.jp-e1.cloudn-service.com

言語が中国語ですって。よもやキリスト教徒とも思えませんが、どこまで無関係な人間を工作者として使っているんでしょうね?

123-192-105-233.dynamic.kbronet.com.tw
こちらも台湾ということになっていますよ。

 

14-203-150-60.static.tpgi.com.au
 在オーストラリアの杉本読者ってことですかね(ほんとかしらね~) 
  
 
c-24-20-22-31.hsd1.or.comcast.net
さわやか読者もいよいよ国際化の時代ですかね!
アメリカ合衆国、オレゴンもしくはニュージャージー州らしいですよ。



   ・企業、学校法人からも・・・
 
 gw.newdaysys.co.jp
常に昼休憩中にネットを覗き見している株式会社Newデイシス。
〒420-0857 静岡県静岡市葵区御幸町4-1アーバンネット静岡ビル5F
どんな会社か調べてみました!

 
 
34.78.149.210.bf.2iij.net
奈良県東生駒にある学校法人帝塚山学園のアドレス。
検索結果の操作のための集中アクセスあり。学校からこんなことやっていて良いのでしょうか。




 
ホームページをのぞいてみると、モットーは「絆」だとか…
(やれやれ。見るからにヒューマニズム色満載ですね。)
 



・その他の日曜祝日工作員たちの活動履歴
   
以下の人々も、あんまりしつこいんで、出所をちょっくら地図で調べてみましたよ~。
p1305171-ipngn201005fukuokachu.fukuoka.ocn.ne.jp

〒839-086 福岡県久留米市
  Googleマップだと、灰塚鮮魚店が表示されるんですよね!
(場合によっては、家まで見れちゃうかも!!)



119-231-143-81f1.shg1.eonet.ne.jp
 

〒529-115 滋賀県彦根市
 丸源ラーメン彦根店のすぐそば。



softbank126091188212.bbtec.net

〒800-031 福岡県苅田市
 ディスカウントドラッグコスモス苅田店すぐ。

 

pw126210050044.5.kyb.panda-world.ne.jp

神奈川県伊勢原市 
県道63号線 中木津根交差点からほど近く(ど田舎っぽいな~)
この人もどうやら匿名掲示板の常連の模様。(IP:126.210.50.44) 
全然部外者ですね…。



p15058-ipngnfx01oomichi.oita.ocn.ne.jp
古参の杉本読者に見たようなアドレスですね~。でも、調べてみたら、これも匿名掲示板の常連で、全然信者とは無関係のようですねえ。匿名掲示板で餌食にされた人をずっと追跡しては嫌がらせを続けている人々の仲間なんでしょうねえ。

一説によると、高知県高知市、でも匿名掲示板では、自分で大分県民と名乗っておりますよ。
多分そっちがほんとでしょうね。



 

s730098.xgsspn.imtp.tachikawa.spmode.ne.jp 
こちらも古参杉本読者と思われます。検索結果操作型。
  
 
埼玉県川口市、ラディラ川口すぐ。

 
 
softbank126066224032.bbtec.net
検索結果操作型。千葉県松戸市、もしくは千葉市。
匿名掲示板の常連のようですよ。信者じゃございませんね。



 janis220254148016.janis.or.jp

こちらも検索結果操作型。
一説では長野県長野市 日産プリンス長野が表示される。

もしくは以下の説も・・・
 

kd182251240051.au-net.ne.jp
随分、熱心な杉本読者のようですねえ。弱者つながりでしょうか?
 
 
地図の場所だと、グループホームふたつみやとなりますね。



   
以下は、お友達工作員でしょうかね~。ともにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団関係の
記事に関心があるようです。

fl1-203-136-35-186.tky.mesh.ad.jp
p189194-ipngn200404niho.hiroshima.ocn.ne.jp


上は、カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~の記事にリンク

下は、検索用語が「杉本徳久」(相変わらずbiglobeユーザーの模様) 
 
 
softbank126014189181.bbtec.net
Google検索操作に加え、おびただしい回数の集中アクセス!

北海道札幌市、もしくは、秋田県湯沢市

 

p4216-ipbf207koufu.yamanashi.ocn.ne.jp
久々にお説教検索型が来ました。
    

前後の文脈もなく聖書の一節だけ切り取るのは、カルト的思考を思わせますね。

以下の地図では南アルプス市下宮地と…


  



 その他、4月中旬~4月30日当たりのさわやか工作員
 
kd182249241004.au-net.ne.jp
「ジョン・ビビア」で検索を繰り返す。
 

softbank126094108046.bbtec.net
 

oscfx-04p11-15.ppp11.odn.ad.jp


大阪府大阪市

42-148-192-135.rev.home.ne.jp

東京都練馬区

zaqb4dc441d.zaq.ne.jp
59-166-234-47.rev.home.ne.jp
 softbank126066224032.bbtec.net
千葉県松戸市
i121-117-76-254.s41.a013.ap.plala.or.jp
東京都立川市
om126229049194.12.openmobile.ne.jp
g88.115-65-186.ppp.wakwak.ne.jp
fs76eee8a5.tkyc210.ap.nuro.jp
p022.net042126243.tokai.or.jp
〒431-030 静岡県湖西市
 
     



  4月3日
日曜ごとに、杉本氏の嫌がらせ記事を上位にランキングさせるべく当ブログには検索結果の操作のための雇われ工作員がやって来るのが恒例の風景となりました。
しかし、彼らの工作もだんだん効果がなくなって来た模様。

 

桜も満開となり、人々は行楽に出かけ、家族サービスにいそしむ日曜の快適な午後に、行くあてもなく、密室に閉じこもってネットの前に座り、幸福そうなクリスチャンに八つ当たりして、害を与える以外に従事する活動もないというのは、本当に惨めかつ哀れな境遇を思わせますね・・・。

教会を訴えることを生業としたために、礼拝に出ることもかなわず、行き場を失って浮遊する(自称)信者にとって、日曜は、特別に孤独で居たたまれない惨めな日となったものと思われます。そのやり場のない孤独を、毎週、どこかの信者にぶつけ続けているのでしょう。

今日は特に朝から晩まで熱心なのは、この方・・・。
杉本氏に不利な情報が気になって気になって仕方ないようです。

kd118156078055.au-net.ne.jp
   
  どこから来たのか見てみました。かなり精密な地図ですね~。 
 

下馬五丁目交差点(ハイソな住宅街が並ぶ…)


ちなみに、次の杉本読者も同じアクセスポイントが表示されてますね。
p2284113-ipngn17701marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
東京都目黒区


 


 
その他の日曜工作員

softbank126017039141.bbtec.net
↑大阪
pl2247.nas816-3.miyazaki.nttpc.ne.jp
p17066-ipngn1101koufu.yamanashi.ocn.ne.jp
224.77.131.180.ap.yournet.ne.jp
p53050-ipngn200301kanazawa.ishikawa.ocn.ne.jp
↑石川県能見市  


  


gw.newdaysys.co.jp
今日も来てますね、株式会社Newデイシス。やはり杉本らと連動しており、まるで彼らの委託先のネット工作会社のような悪印象を与えておりますね・・・。

以下の人々は杉本信者の最後の生き残りといったところでしょうか・・・?
 
softbank126235131246.bbtec.net
softbank219054243174.bbtec.net
↑〒500-817 岐阜県岐阜市
kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
↑〒602-805 京都府京都市
kd111237166222.au-net.ne.jp
↑ 〒446-003 愛知県安城市
p2102061-ipngn200608osakachuo.osaka.ocn.ne.jp
↑広島県呉市
pw126152099231.10.panda-world.ne.jp
↑栃木県小山市
mdapp017.mitsui.co.jp
 
  


  
4月6日
今朝はスギモのパシリ信者がいよいよ一人になりましたよ~。
softbank219215163080.bbtec.net

67.208.13.160.dy.iij4u.or.jp
〒340-081埼玉県八潮市

誰から工作を請け負っているのか明らかな構図ですね~。
下の方は何十回となく猛烈アクセスを繰り返し、犯罪履歴を残す。日中の時間帯にこんな不毛なことに全精力を費やせる人とは、無職なのでしょうか~?人生の悲哀を感じますね~。

   

 


4月6日、さわやか読者にとって極めて不都合な鳴尾文書を全世界に向けて公開しました。
愛の注釈もございますので、目を皿にしてよく読んでね!
教団文書 村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題ダウンロード
  
   
p3134-ipbfp2402osakakita.osaka.ocn.ne.jp
↑鳴尾教会の記事に関する工作者


Googleの怪

杉本氏がGmailを愛用し、Google検索結果を最も操作することを願っている熱心なGoogle信者であるところを見ても、何だかGoogleには一種の薄気味悪さを覚えずにいられないのですが。

ちなみに、当ブログへの訪問回数が相当に多い一つが、Googleのクローラーです。
他のどんな検索エンジンよりも素早く深夜でも早朝でも更新されるとすぐに巡回します。
 
新情報の取り込みに熱心なのはいいですが、何かしらそれにとどまらぬ不気味な思惑が感じられてならないことが多いのですが…。

たとえば、これ。
検索用語が入っている。「預言カフェ 成就しなかった」と。
どう見てもキリスト教の旬の(?)話題に関心があってやって来る興味本位のウォッチャーのようにしか見えないのですが…?

背後にいる人間の思惑が感じられる機械怪奇現象ですねえ。
crawl-66-249-82-74.googlebot.com
 
 




さて、以下の二人は主犯格です。
今日に至るまで検索結果を操作し集団的な嫌がらせを煽って来た人物です。過去ログは保存してあり、賠償請求が発生することも十分に考えられます。ご注意下さい。
150-70-173-7.trendmicro.com
kd182249247165.au-net.ne.jp

kd182249241070.au-net.ne.jp 

以下は、現在まで活動中の方々です。

116.net220148228.t-com.ne.jp
↑埼玉県八潮市
softbank219215163080.bbtec.net 
 
kd182251240012.au-net.ne.jp
検索用語が「へりくだって生きる」ですって!! いや、実にあなた様は奇特な方ですね!! 昨今、そのような目標を唱える人々はこの世から消え失せかけておりますので、あなた様は貴重な期待の星です。キリスト教の教職者でしょうか?
…まずはご自分の人生でとことん実験なさった上、来るべき世でぜひともその成果を皆さまにご報告下さいませね。人類の模範としての成果を楽しみにしております。
(自分が本当にへりくだって生きている人々は、このような検索用語を基に他人のブログに到達しない。高慢だからそうするのである。キリスト教界の信者と教職者にはこのようなタイプが実に多い。)

どうしても杉本氏関連の記事が気になって仕方がないらしいこの会社。
位置情報検索会社の株式会社Newデイシスからのアクセス。
gw.newdaysys.co.jp
 休憩時間中に私用でネットなんか使って当ブログを読んでいたら
クビになるのではありませんか、会社の評判落ちますよ?
それとも、工作でも委託されて請け負っているんですかね?
一千件のコメントを伴う杉本氏のバッシング記事も、委託された工作であり、
仕組まれた自作自演だった可能性があると私は見ているのですが、
おたくと何か関係ありますかね?

 


softbank126220001175.bbtec.net
↑愛知県
113x40x2x69.ap113.ftth.ucom.ne.jp
42-150-232-64.rev.home.ne.jp
nttkyo740115.tkyo.nt.ftth.ppp.infoweb.ne.jp
上の二人は仲間です。特に下の方はKFCのことになると必ず激しく反応してしゃしゃり出て来ますので、身元が知れますね。
ac246138.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
↑岩手県盛岡市・北上市
202-229-49-219.ap-p27.canvas.ne.jp
↑大阪府東大阪市
wmx2-pvt-155-130-255-123.kualnet.jp
↑山口県宇部市
p29208-ipngnfx01marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp


s668237.xgsspn.imtp.tachikawa.spmode.ne.jp
↑北海道北見市との説有。
この人もアドレス露出してますが?他にも相当何か所もあるようです。まずクリスチャンではあり得ない。なるほどカルト弱者救済活動はこういう背景の人たちを積極的に取り込むんですね…
 
i118-20-76-49.s42.a013.ap.plala.or.jp
113x40x2x69.ap113.ftth.ucom.ne.jp
ac246138.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
↑岩手県盛岡市・北上市
 202-229-49-219.ap-p27.canvas.ne.jp
↑大阪府東大阪市
wmx2-pvt-155-130-255-123.kualnet.jp
↑山口県宇部市
p7238-adsao12honb5-acca.tokyo.ocn.ne.jp
↑神奈川県相模原市 相模原の集会でしょうか。
p29208-ipngnfx01marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
↑2ch掲示板の常連です
p10046-adsao01tenjmi-acca.fukuoka.ocn.ne.jp
↑福岡県福岡市
p2128-ipbfp603oomichi.oita.ocn.ne.jp
↑大分県
p8217-ipad01okidate.aomori.ocn.ne.jp
↑青森県
pw126255208213.9.panda-world.ne.jp
↑神奈川県横須賀市 緯度35.25 経度139.667 
pw126236133246.12.panda-world.ne.jp
↑群馬だそう。緯度36.3 経度139.367 
182-165-138-86f1.osk2.eonet.ne.jp
↑大阪府堺市
125-14-226-199.rev.home.ne.jp
↑東京都町田市
068018014222.ppp-oct.au-hikari.ne.jp
↑沖縄県那覇市
202.34.15.62
↑京都八幡 〒614-834
211.9.36.33
↑東京都豊島区
p352208-ipngn200206takamatu.kagawa.ocn.ne.jp
↑京都府京都市

211.44.29.130(←韓国から)
 

202-127-177-016.users.bc9.ne.jp 
 
 
kd059138166172.au-net.ne.jp
kd036012077069.au-net.ne.jpp
101-140-19-149f1.osk3.eonet.ne.jpp
ntchba019109.chba.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp
 
p345056-ipngn502aobadori.miyagi.ocn.ne.jp
神の代理人として教会に裁判をしかける恐るべき罪を自らこそが悔い改めるべきでは?キリストの花嫁なるエクレシアを訴えて無傷で済んだ者はない。神ご自身が報復されますから…。

i125-203-100-251.s41.a013.ap.plala.or.jp
kd119104069207.au-net.ne.jp
p3134-ipbfp2402osakakita.osaka.ocn.ne.jp
fp76f178f3.tkyc002.ap.nuro.jp 

p448153-ipngn5701funabasi.chiba.ocn.ne.jp
飢えた者がパンに殺到することこそ大審問官の狙いです。あなたが見えない天のパンによって生きる方法を知らない限り、石をパンに変える奇跡の指導者に何度でも欺かれることでしょう。

180-199-139-145.nagoya1.commufa.jp
もし御霊が宿っているならば・・・ですよね。もし宿っているのが悪霊ならば、その法則性はあなたに通用しないです。(ピリピ2:1-30)「罪の報酬は死である」(ローマ6:34)ですからね。

i125-203-100-251.s41.a013.ap.plala.or.jp
kd119104069207.au-net.ne.jp
kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
p3134-ipbfp2402osakakita.osaka.ocn.ne.jp
ai126173232015.46.access-internet.ne.jp 
  
 ソフトバンク工作員集団 
softbank220007062180.bbtec.net
softbank126057215049.bbtec.net
softbank126015096033.bbtec.net 
softbank221077139132.bbtec.net
softbank126065009076.bbtec.net 
softbank126057103249.bbtec.net 



 さわやか読者の活動履歴
        
サイバーカルト監視機構(杉本徳久編)②(5月23日版)

サイバーカルト監視機構(杉本徳久編)➀(5月14日版)
        
さわやか読者・サイバーカルト監視機構版(後編)
 
さわやか読者・サイバーカルト監視機構版(中編)
 
さわやか読者・サイバーカルト監視機構版(前編)

優良さわやか読者賞(続)2月22日改定版

優良さわやか読者特別賞 2月10日改定版


 


村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害➀

「サイバーカルト監視機構」とは何か。
~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師とその支持者らが
カルト対策を口実にクリスチャンを迫害する手法~




1-1.村上密氏と杉本徳久氏がネットの暗闇で繰り広げるサイバー犯罪
1-2.政敵を貶める人物破壊工作を目的にブログ記事を掲載し、都合が悪くなると記事を書き変える杉本徳久氏
1-3.情報統制のために検索結果を操作する杉本徳久氏が日夜いそしむ逆SEO
1-4.不都合なブロガーに暗闇で脅迫状を送り付けてはブログ閉鎖に追い込もうとする杉本徳久氏
1-5.村上密氏と杉本徳久氏の活動はクリスチャンからの支持をすでに失っている
1-6.教団と無関係な個人のブログやサイバー犯罪を利用して情報統制を行ない、権力掌握に努めてきた村上密氏
1-7.村上密氏が杉本徳久氏に指示して掲載させたと見られる鳴尾教会に対する誹謗記事
1-8.杉本徳久氏のブログ以外に根拠を持たない村上密氏の主張
1-9.ネット専門の工作員を動員して政敵を貶める村上密氏と杉本徳久氏
1-10.「あざける者ども」や「兄弟たちの告白者」を彷彿とさせる村上密氏と杉本徳久氏の活動
1-11.「闇は光に打ち勝たなかった」 「公然」は「密」の反意語 真実を提示することにより嘘を暴く
1-12.嘘に満ちた村上密氏と杉本徳久氏の活動は、聖霊から来るものではない
1-13.十字架に敵対する者たちの最期は滅びである

2.さわやか読者の活動履歴



 


1.暗闇で非合法に活動するサイバーカルト監視機構

1-1.村上密氏と杉本徳久氏がネット工作員を利用して暗闇で繰り広げるサイバー犯罪

 
プロテスタントのアッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団は、教会のカルト化を防ぐことを口実として、カルト被害者救済活動を行って来ました。しかし、2009年頃から、私は聖書に基づかないこの活動の危険性に気づき、この活動は必ず暴走すると、記事「『カルト監視機構』という名の秘密警察の設立について」等で危険性を具体的に訴えて来ました

こうしたことを指摘して後、同教団や上記の活動の関係者からこのブログに対して、今日に至るまで予想を超える嫌がらせや工作が行われて来ました。その最たる事件は、ご承知の通り、彼らが仲間のブログ「随想 吉祥寺の森から」(以下参照)において、当ブログを一千件のコメントと共にバッシングしたことです。

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師は、かつてカルト化教会を取り締まるという名目で、クリスチャンだけでなく、非クリスチャンの有識者も加えた「カルト監視機構」の設立を訴えていました。しかし、反対が大きく、この機構の設立を断念せざるを得ませんでしたが、代わりにインターネット版「サイバーカルト監視機構」と呼ぶにふさわしい暗闇のネットワークを構築し、彼らの活動を批判する者たちに対する容赦のない制裁を加え続けているのだと見られます。

むろん、そのような機構は非公認かつ非合法なものであり、個人の(自称)クリスチャン・ブロガーなどが集まって、反対者を吊し上げるための秘密結社のような暗闇の犯罪集団を作っているにすぎません。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、きちんとした公の手続きに則って、教団ホームページなどを利用して、反対者に対する弁明を行うことが出来たのに、そうすることなく、むしろ、教団と全く関係のない個人によるブログ「随想 吉祥寺の森から」などを含め、その多くは匿名の個人から成るネット上の暗闇の犯罪組織・私刑集団を積極的に活用して、教団にとって不都合な人物に対するネガティブ・キャンペーンを展開し、ネット上の言論統制を行なって来ました。

彼らは独自のネットワークを駆使しては、自分たちの活動に不都合な情報を掲載するブロガーに対して水面下で妨害工作を繰り返し、恫喝メールを大量に送りつけてはブログを閉鎖に追い込んだり、検索結果から気に入らない情報を駆逐するための工作を行ない、ターゲットとみなした人間に対する捏造された悪評を広めるために日夜工作を行っています。


1-2.政敵を貶める人物破壊工作を目的にブログ記事を掲載し、都合が悪くなると記事を書き変える杉本徳久氏
 
(付記:たとえば、杉本徳久氏が2009年末に執筆した記事「東洋からの風の便り ヴィオロン」は、当時一千件のコメントがついて杉本氏のブログの炎上に至るきっかけとなった記事であるが、その題名から見ても、この記事は、故意に他者のブログと同じ標題をつけて、標的とみなしたブログに対する悪意ある内容を掲載し、悪意ある情報を意図的に検索結果に表示させることによって、他者のブログの印象を貶めて操作することを目的として書かれたことが明白である。

杉本氏の多くの記事は、このように、初めから同氏が政敵とみなした人物のブログやサイトの評判を貶め、特に検索結果を意図的に操作して歪めることを主たる目的に書かれている。


上記の記事は、よほど多くの批判を浴びたのであろう、その後、杉本氏によって大幅に内容が書き変えられ、題名も、「ウォッチマン・ニー」と変えられたが、それはただ単に世間で批判が高まったので、同氏が記事を別のアドレスに移し変えただけである。

さらに、この記事の標題とされているウォッチマン・ニーについても、杉本氏は本文で何らきちんとした分析を行なえていない。杉本氏がウォッチマン・ニーの思想の内容に踏み込んだ具体的な議論を全く記事で行うことができていない様子を見ても、この無内容の空疎な記事が、批評を目的としたものではなく、単に当ブログに対する嫌がらせとして未だ掲載され続けているだけであることは明白である。



(注:当ブログをバッシングすることだけを目的に
 杉本徳久氏が作成した「悪意に溢れるダミー記事」
当ブログの標題と内容を無断で大量に剽窃し、
当ブログ管理人を貶める悪意ある情報を掲載した。

後に世間の非難が殺到し、都合が悪くなったと見え、
杉本氏はこっそり記事内容を書き変え、剽窃部分を削除するも、
 元記事はただ別のアドレス(以下)に移し変えただけである。

2009年12月28日と 2013年6月23日のバージョンでは、
大幅に内容が書き換えられている様子が確認できる。)


 
変更前の元記事はこっそり別ブログの記事に移し変えている。
 ただし、名誉棄損で犯罪が立件しては困るためか
現在はPC版ではプライベートモードで非表示にしている模様。

 


  1-3.情報統制のために検索結果を操作する杉本徳久氏が日夜いそしむ逆SEO

上記の記事の他にも、当ブログを標的として杉本氏の手で書かれたバッシング記事やコメントは枚挙に暇がないほど多数あり、その多くにおいて、同氏は当ブログ執筆者を根拠なく誹謗しているのみならず、当ブログの標題やアドレス、記事内容を大量に無断で掲載している。

このことを見ると、杉本氏がただ単に無断転載の常習犯であるだけでなく、他者のブログの検索結果を意図に操作することを目的として、故意に他者の書いた内容を大量に引用しては、ダミーとして自らのブログに取り込んでいる様子がよく分かる。
 
こうした方法は逆SEOとして知られ、たとえばライバル企業のサイトの検索順位を下げたり、評判を貶めて営業活動を妨害し、利益を低下させたりする目的で使われる悪質で犯罪的な妨害工作である。

杉本氏は上記のような嫌がらせ目的のスパム記事をブログに掲載する他にも、以下のさわやか読者の活動履歴
に示しているように、ライバルとみなしたサイトを毎日のように訪れては、短い時間で数十回を超えるような異常でしつこいアクセスを繰り返すことによって、標的と定めたサイトの検索順位を下落させようと日夜工作を繰り返している。このデータを見れば、彼がどれほどの執念の持ち主であるかがよく分かるだろう。
 
  
1-4.不都合なブロガーに暗闇で脅迫状を送り付けてはブログ閉鎖に追い込もうとする杉本徳久氏

さらに、これにとどまらず、杉本氏は以下にも示す通り、おびただしい回数、当ブログ管理人に脅迫メールを送りつけては、同氏にとって都合の悪い記事を削除するよう、一方的な要求を繰り返して来た。また、これがかなわない場合には、匿名掲示板等で当ブログ管理人の個人情報を無断で公開するなどと脅迫し、実際に大量の嫌がらせ投稿を行なったと見られる。こうしたことはすべて悪質な犯罪である。

杉本徳久氏が私に宛てて書き送った恫喝メールは多数存在するため、前後についての詳しい注釈を付した上で一つ一つ全文公開して行く。まずは次のものから。

2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール
     
          
1-5.村上密氏と杉本徳久氏の活動はクリスチャンからの支持をすでに失っている
  
杉本徳久氏のこうした不法かつ行き過ぎた異常な活動に関しては、2012年にその反聖書的意義を分析し、WEBページにまとめた。「  罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか。」この論考は当時、多大な反響を呼んだ。
  
杉本氏にとってはこのWEBページが特に気に入らなかった様子で、脅迫メールを大量に送りつけたり、嫌がらせコメントを大量投稿するなどの方法で、当ブログやWEBページを閉鎖に追い込もうと試みた。

だが、いずれにしても、杉本氏が暗闇で行っている工作や脅迫は、あまりにも幼稚で根拠のないものであり、いつまでも功を奏するものではない。最初は杉本氏に賛同していた人々もいるにはいたが、同氏が述べている主張がことごとく嘘であることが暴露され、また、同氏の用いている手法が極めて陰険で悪質な犯罪的なものであることが判明するに伴い、杉本氏の常軌を逸した人柄を知って、必然的に、支持者も激減して行った。

今となっては、さわやか読者はほんの数えるほどしか存在しない。おそらくは、当時はたくさんいたように見えた人々も、そのほとんどは雇われ工作員に過ぎなかったものと見られる。杉本氏がバッシング記事に掲載したコメントも、同様に、サクラであった可能性が極めて高い。

真にクリスチャンであれば、すべてのことについて公に議論が可能なはずだが、彼ら(ほとんどのコメント者)が決して公の場所に出て来ようとしない様子を見ても、おそらく、さわやか読者の多くが、もともとクリスチャンではないネット専門の工作員であり、キリスト教に関して議論に耐えうる知識が全くなく、下手に議論になって身元が判明することを恐れて陰に引っ込んでいると考えられる。)


1-6.教団と無関係な個人のブログやサイバー犯罪を利用して情報統制を行ない、権力掌握に努めてきた村上密氏

   
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、公には上記のようなネットを利用した犯罪的な活動と無関係を装っていますが、あらゆる角度から見て、村上密牧師が、杉本徳久氏のようなブロガーやコメント者らを積極的に利用しては、自分に都合の良い捏造された情報を流布し、自らにとって不都合な人物の評判を貶め、ネット上の情報を操作して言論統制を行ない、不都合な情報を掲載するブログを閉鎖に追い込み、クリスチャン同士の分裂・対立・憎み合いを助長して、それを奇貨として、教団内、ひいてはプロテスタント教界全体の権力の掌握につとめて来たことは明らかです。


1-7.村上密氏が杉本徳久氏に指示して掲載させたと見られる鳴尾教会に対する誹謗記事


(たとえば、村上密氏と杉本徳久氏は、当ブログのみならず、鳴尾教会の後任の山田博・晃美牧師夫妻に対しても、同様に、事実無根の誹謗中傷の記事をいくつも掲載しては、名誉を貶め、人物破壊工作を続けて来たことはよく知られている。


一例を挙げれば、杉本徳久氏のブログ記事「道を外れたならば」には、教団内の議論によっても全く裏付けの取れなかった山田夫妻への異端疑惑がまことしやかに事実であるかのように記されている。

しかし、鳴尾教会の関係者には、一見しただけで、この記事がきちんとした下調べもなしに、一方的な思い込みだけによって書かれたものであり、しかも、無実の他人について「悪人」のイメージを捏造し、他者の印象を貶めるために書かれた虚偽の内容であることがすぐに分かる。


そもそも、この記事には一文たりとも、きちんと事実関係を確認した上で、証拠を挙げて書かれた文章がない。それだけを見ても、いかに信憑性に欠ける記事であるかはすぐに分かるが、こうした捏造記事の悪質さは、ざっとピックアップしただけでも次のようになる。

鳴尾教会に関しては、今になっても、こうした事実に反する偏った情報にいつまでも固執して、これを真実であるかのように声高に叫んでいる人物が、(津村氏と)村上密の他には見当たらないという事実を見ても、杉本徳久氏の執筆したこの記事が、村上密氏、すなわちアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の意向を強く受けて書かれたことは明白である。

 



以上は、鳴尾の牧師夫妻の人柄について「異端者」や「悪役」としてのイメージを捏造し、
人物破壊工作を行う目的で「随想 吉祥寺の森から」のブログに杉本氏が掲載した誹謗記事。
 いかに論理の飛躍が多く、不確かな情報ばかりが掲載されているかよく分かる。



1-8.杉本徳久氏のブログ以外に根拠を持たない村上密氏の主張


このように杉本徳久氏が事実に反して特定のクリスチャンの評判を貶めるために掲載したブログ記事内容が、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と村上密氏の強い意向を受けて執筆されたものであることは、ただ記事内容から推察されるだけでなく、村上密氏自身のブログ記事によっても明白にされている。
 
村上氏はブログ記事「除名に相当する解任」を受けた山田博・晃美夫妻のその後 」の中で、鳴尾教会の後任の山田博・晃美牧師夫妻が、教団から「除名に相当する解任」を受けたと得意満面に発表し、夫妻の人格を貶め、彼らに対して勝ち誇ろうとしているが、村上氏がここで自らの主張を裏付ける根拠として挙げているのは、教団とは無関係の個人である杉本ブログしかない。

ちなみに、除名に相当する解任、という言葉から察するに、これは形式上は、単なる解任であって、どうやら、除名ではないようである。村上氏は「除名」に追い込みかったのであろうが、結局、除名にまでは至らなかったことが分かる。
 
つまり、村上氏からかねてより山田夫妻に対してでっちあげて主張して来た異端疑惑には、何の裏付けも取れなかったので、教団側も、彼らを除名することができなかったものと見られる。

こうした村上氏の記事内容から分かるのは、村上氏が自らの政敵を貶める目的で、予め自分にとって都合の良い、偏って捏造された情報を杉本氏サイドに提供し、杉本氏にあたかも自分の代理人のようにそれを発表させた上、後から杉本氏の記事を引用して、自らの記事の主張の裏づけにしようとしている点である。

このことは、村上・杉本両氏が仲間であり、秘密裏に結託して情報をやり取りしていること、また、彼らがタグを組んで繰り広げて来たカルト対策活動が、完全な出来レースであることをよく示している。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団とは無関係の杉本氏が、こうした情報を自らの一存だけでは手に入れることができないことは明白であり、さらに、こうした情報を提供することによって利益を受ける存在も、村上密氏以外にはいないことは明白である。


さらに、もっと言えば、このことは、村上密氏には、自分の主張を裏付けるために、教団とは何の関係もない私人のブログを引用する他に、もう手段が残されていないことを示している。

村上氏が杉本ブログ以外のソースを何も提供できていない事実から察するに、村上氏の活動がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中で、他の牧師たちから本当に支持を得ているのかどうかも疑わしい。


もし村上氏がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団内で相当の支持を受けているならば、同氏は自分の主張の裏づけとして、きちんとした教団の正式な文書や、他の牧師の言説を引用して発表することができていたはずである。教団と無関係の私人のブログしか、根拠として挙げるものもないという嘆かわしい事態には陥っていなかったであろう。

ところが、同氏が牧師でありながら、一信徒の、しかも自分の教会とも教団とも無関係の私人のブログを引用して自分の主張の裏づけとするしかない様子は、教団外だけでなく、教団内でも、同氏の相当な孤立無援状態を伺わせるものである。

 

村上密Blog記事「除名に相当する解任」を受けた山田博・晃美夫妻のその後 」には、同氏が自分の主張を援護する主張として、杉本ブログ以外に引用できるソースを持たない様子がよく分かる。 これは村上氏の教団内外での孤立状態を如実に物語っているように見える。


1-9.ネット専門の工作員を動員して政敵を貶める村上密氏と杉本徳久氏

さらに、当ブログに対する嫌がらせとして投稿されたコメントの内容等を見ても分かるのは、村上密氏と杉本徳久氏は、ネット上で政敵を貶めるために、おそらくはネット対策専門の会社に委託して金で工作員を雇い、積極的に利用して来たということである。

たとえば、当ブログに対する嫌がらせとして匿名掲示板に大量投稿されたコメントは、その内容から判断するに、杉本徳久氏か村上密氏が自ら書き込んだか、もしくは彼らが結託して雇った工作員の仕業であるとしか考えられず、およそクリスチャンが行った投稿とは考えられない。


なぜなら、そのコメント内容には、すでにネット上に出回っている既知の情報の大量の拙いコピペしかなく、いかなる新情報も提示されていない上、何の思想的裏づけもなく、個人的特徴も見られないためである。従って、これを書き込んだ人間が、提示された情報をコピペする能力しか持たず、教会やクリスチャンの事情を全く知らず、教義さえ知らない第三者であって、クリスチャンでないことは明白なのである。

そこから推測できるのは、こうした大量の嫌がらせコメントを拡散する目的で、村上氏と杉本氏が、ネット専門の対策会社に金を払って工作員を雇い、彼らに一定量の嫌がらせコメント投稿を委託したという事実である。つまり、工作員が彼らの指示した内容をコピペして大量投稿したということである。

こうした事実を見るならば、おそらく、杉本氏が当ブログに対して掲載した一千件のコメントを伴うバッシング記事も、大量の工作員を動員して仕組まれた自作自演劇であり、彼らが今日に至るまでいそしんでいる逆SEOも、雇われ工作員の仕業である可能性が高い。

つまり、彼らは金で雇われたネット専門の工作員しか使えない状態なのである。それは、村上密氏と杉本徳久氏がすでにクリスチャンから見放され、キリスト教界においてほぼ完全に支持を失って、誰からも応援を得られなくなっている様子をよく物語っている。)


1-10.「あざける者ども」や「兄弟たちの告白者」を彷彿とさせる村上密氏と杉本徳久氏の活動


聖書にはこうあります、「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコブ4:7)。クリスチャンが悪に対して何も手を打たずにただ翻弄されることを奨励する箇所は聖書にはありません。

悪魔は「私たちの兄たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」(黙示12:10)です。クリスチャンに対して事実無根の誹謗中傷を浴びせるのは、悪魔の日課であることが分かります。

また、悪魔は嘘つきです、彼は「偽り者であり、偽りの父」であり、「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立っていません。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。」(ヨハネ8:44)
 
村上密氏と杉本徳久氏の提示する主張の多くの部分が、事実でなく捏造された情報に基づいており、嘘に満ちていることや、彼らが無実のクリスチャンに次々と異端者の濡れ衣を着せては攻撃し、自らにとって不都合な信者の「魔女狩り」を行なって追放を試みて来た様子を見るときに、彼らの活動は、一見、「教会のカルト化」問題を憂い、これと戦い、この問題を克服することを口実にはしているものの、実際の彼らの姿は、カルトと勇敢に闘う正義の味方どころか、むしろ、「兄弟たちを訴える者」である悪魔に近いことが分かります。

また、聖書には、「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。」(ユダ1:19)と警告されています。

村上氏や杉本氏が、ネット暴民とでも呼ぶしかない、ネトウヨのような暴徒化した工作員を大量動員しては、自ら敵とみなした信者を中傷・嘲笑・揶揄し、その印象と評判を貶めて来た様を見れば、彼らの活動が、同胞のクリスチャンへの思いやりや、信頼や、愛情や、尊敬に基づくものでなく、彼らの議論も、きちんとした事実や、知識に裏付けられたものでなく、彼らの活動は、ただ彼らの気に入らない反対者をあざけり、その評判を傷つけ、貶めることで、気に入らない他者を嘲笑し、吊し上げ、苦しめることを目的としており、その所業は、まさに聖書に警告されている「あざける者ども」の姿を彷彿とさせます。

さらに、村上氏や杉本氏の活動は、聖霊に基づくものではなく、むしろ、悪霊に基づくものであり、各地で信者同士の分裂や裏切りを引き起こし、己の欲望のままに人々を悪意によって嘲笑し、傍若無人にふるまっている点でも、聖書に記された「あざける者ども」の特徴にぴったり当てはまります。
 
「しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。」(ガラテヤ4:29)

とある通り、悪魔の日課は、己の罪をクリスチャンに転嫁して、クリスチャンを告発することにあります。罪を犯している者が、自分の罪を隠し、その責任から逃げるために、無実の者にその罪を転嫁して告発する、これは有史以来、悪魔がずっと神の僕に対して繰り返して来た行為であり、カインが己の罪を隠すために弟アベルに身代わりに罪を着せて殺し、ペニンナがハンナをいじめ、嫌がらせを行なった時代から、今も変わらず、悪魔に息吹かれた人々が用いている常套手段です。

すさまじい執念を込めて、何年間も、ターゲットとみなしたクリスチャンを無実にも関わらず告発し、傷つけ、苦しめることをライフワークとする村上密氏と杉本徳久氏の活動を見る時、こうした活動が、悪魔に直接、息吹かれたものであることを思わずにはいられません。


1-11.「闇は光に打ち勝たなかった」 「公然」は「密」の反意語 真実を提示することにより嘘を暴く

悪魔は「吠えたけるしし」のように、束の間、傍若無人にふるまい、隆盛を誇っているように見えるかも知れませんが、クリスチャンがこれを見て、怖気づいたり、気落ちする必要はありません。

「しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもなのです。」(ガラテヤ4:30-31)


このように、最終的に追い出されるのは、「肉にある者」であって、「御霊に従って歩む者」ではない、ということが、聖書には、明確に記されているからです。それは、悪魔は、信者が毅然と立ち向かえば、恐れをなして逃げ去ると聖書に書いてある通りです。悪魔と暗闇の勢力が盛んに述べ立てている嘘も、信者が毅然と立ち向かえば、当然ながら、後退して行きます。

聖書には裁判官に悪人を訴え続けたやもめの話も登場していますので、悪魔の卑劣な所業を卑劣であると指摘して、神に訴え続けることは重要です。

「まして神は夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。」(ルカ18:7-8)
  
信者が悪に対して立ち向かう最も有効な方法は、まずは光を当てることです。つまり、暗闇で行われている活動を公の光の下に、明るみに出すことこそ重要です。村上氏と杉元氏が暗闇で主導して来たサイバーカルト監視機構についても、全貌をまず明るみに出す必要があると考えます。

勘のいい人は「公然」つまり「光」が、「密」(=闇)の反意語になりうることが分かるでしょう。光を照射することで焼き尽くし、光に晒すことによって縛る、という方法が存在します。
 
暗くてジメジメしたところの好きな虫が清潔で明るい環境を避けるように、悪霊も公然たる光の下では活動できません。ですから、暗闇の勢力には光が当たるだけで相当な衝撃となります。
  
聖書に予告されている通り、隠されていたすべてのことはいずれ明るみに出されます。
「おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。」(ルカ12:2)

人が暗闇で行った活動も、いつか必ず全世界の前で明らかにされる時が来ます。だからこそ、悪霊の働きである活動には関わってはいけないのです。いつか必ずそれが明るみに出されて重い責任を問われる時が来ますから。
 
「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、闇の中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する賞賛が届くのです。」(Ⅰコリント4:5)


クリスチャンの対処とは、このように、まずは嘘の嘘たる所以、悪の悪なる所以をきちんと論証し、光の下に置くところから始まります。異端の教えの分析も方法は同じであり、誰が有罪になるとかならないとかは結果論に過ぎません。

「兄弟たちを告発する者」に対して、クリスチャンが用いることのできる武器は、小羊の血と、あかしの言葉です。彼らが放つ全ての非難の毒矢に対しては、キリストが信じる者を義として下さった血潮を高く掲げることで対抗できますし、彼らの述べ立てる嘘に対しては、真理を証することで対抗できます。

これを続けるなら、必ず、「神の救いと力と国と、神のキリストの権威は現れる」のです。
 
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」(黙示12:10-12)   
 
 
 
1-12.嘘に満ちた村上密氏と杉本徳久氏の活動は、聖霊から来るものではない

いかに教会のカルト化問題を解決するとか、カルト被害者を救済するなどの美名を用いていたとしても、何年間もの長きに渡り、教団や教会の公式な手続きに従わず、教団とは公式に何の関係もない個人を暗闇で動員し、この世の司法の判断さえも尊重せずに、非合法なパワーを行使し続けて、政敵とみなした人物に誹謗中傷を浴びせて苦しめようとする人間が、正常なクリスチャン指導者と言えないことは、誰の目にも明白です。

村上密氏や、杉本徳久氏の繰り広げるカルト被害者救済活動は、あらゆる点から見て、聖書に基づくものではなく、神の聖霊から来る活動ではなく、危険な悪霊の働きです。人生を破滅させないためには、彼らの活動を支持しないよう警告しておきます。彼らには主の御手が置かれるでしょう。


1-13.十字架に敵対する者たちの最期は滅びである
  
最後に、真理を喜ばず、偽りを愛し、悪を喜んでいた人々は、神自らが惑わす霊を送って、彼らを欺きに引き渡し、それによって裁かれると、聖書にあります。

村上氏や杉本氏と一緒になってクリスチャンをあざける側に回っていた人々には、悔い改めないならば、どんなに重い罰が待ち受けていることでしょうか?
 
生ける神のみ手に落ちるのは恐ろしいことです(ヘブル10:31)
聖書の真理を侮り、神を侮る人々にはまことに恐ろしい結果が待ち受けています。 

不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理に対する愛を受け入れなかったからです。

それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。
それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:9-12)

 
 「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、
多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。
彼らの 思いは地上のことだけです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のかたらだと同じに変えてくださるのです。」(ピリピ3:18-21)


神は侮られるような方ではありません。十字架に敵対して歩んでいる者たちが、たとえ獅子のように吠えたけることがあっても、彼らがいつまでも正しい者たちを虐げて偽りの繁栄を享受し、勝者であり続けることは決してありません。悪者は草のように萎れて消え失せ、彼らの最期は恥であり、滅びとなります。

バビロンとは何なのか、それはバビロン焼却の煙がまもなく証明するでしょう。サイバーカルト監視機構という犯罪組織も、人数が激減して範囲が狭まって来ているため、個人が特定されるのも時間の問題でしかありません。残念ながら、いつかここに個人名をあげてそれぞれにどんな対処を行ったか公表しなければならない日が来るかも知れません。


さわやか読者よ、あなた方はずっと全世界の聖徒らの前で最期を観察されているのです、もう終わりが近いですよ、悪しからず…。

当ブログではこうした人々についての情報を収集し、随時、発表しています。ダウンロードは以下から可能です。こうした情報は捜査のためにも提供して行きます。
 
  


さわやか読者の活動履歴
      

サイバーカルト監視機構(杉本徳久編)②(5月23日版)

サイバーカルト監視機構(杉本徳久編)➀(5月14日版)
        
さわやか読者・サイバーカルト監視機構版(後編)
 
さわやか読者・サイバーカルト監視機構版(中編)
 
さわやか読者・サイバーカルト監視機構版(前編)

優良さわやか読者賞(続)2月22日改定版

優良さわやか読者特別賞 2月10日改定版


 

 

正義の仮面を被り、無実の教会とキリスト教徒を迫害する村上密氏の活動の危険 まとめ

~異端の教えを無批判に取り入れ、無実の教会を迫害し、
正義の仮面を被りながら、カルト被害者救済活動を暴走させる
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と村上密牧師の危険~


 さて、筆者はブログ記事において、2001-2002年にかけて鳴尾教会で起きた混乱に関して、教団が公に配布した資料を公表した。この資料は以下でも示しているが、この発表により、鳴尾教会を巡り教団が長年に渡り、流布して来た数々のデマの暗闇が大きく打破されたものと信じる。

これまで鳴尾教会に関しては、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団及び村上密サイドが、彼らに都合の良い偏った虚偽の情報ばかりをさかんにネット上に流布して来た。 そして、事件の当事者でもなく、当時の教会の様子を知りもしない者たちが、その虚偽の情報に見境なく飛びついては、関係者を中傷し、事件を膨らませながら事実と全く異なる空想物語を言い広めて来た。
 
しかしながら、以下で示す内容は、村上密氏がこれまで鳴尾教会について言い広めて来た情報が、完全に嘘であることを証明している。この主張の信憑性を証拠立てる点としては以下が挙げられる。

1. 以下で示している内容は、当時の教会の実情をよく知る当事者の証言に基づいており、なおかつ、教団側によって公に認められて信徒に配布された資料を根拠としているため、当事者でない者が、確たる証拠もなしに、この事実関係を否定するのは不可能である。
 
2.教団から配布された資料を通して、改めて明らかになるのは、鳴尾教会を混乱に陥れた原因は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する指導者ら(津村昭二郎氏、村上密氏)による不当な教会内人事の私物化にあったという事実である。

鳴尾教会の事件を振り返るとき、何よりも明白となるのは、同教会に混乱を引き起こした何よりの原因が、当時の鳴尾教会の主監者であった津村昭二郎氏の義理の息子としての立場を利用して、教団や教会に定められた正式な手続きに則らず、本来は同教会において何の権限を有していなかったにも関わらず、信徒の了承も得ずに、密室の暗闇で教会に不当な介入を繰り返した村上密牧師の不誠実で信用ならない行動にあったという点である。

また、同教会に尋常ならぬこだわりを抱いて引退を拒み、そのために自らの後継として派遣された伝道師を、過酷な労働条件で酷使した挙句、不当な汚名を着せていわれなく追放した当時の鳴尾教会の主監者であり村上密氏の義理の父である津村昭二郎牧師の行動の責任が問われるべきである。

3.にも関わらず、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、鳴尾教会に混乱が起きた2001-2002年当初から、村上氏と津村氏らによって教団内・教会内手続きに従わずに行われた鳴尾教会内人事の私物化という問題点を何ら追究しないまま、こうした指導者らの無責任な対応をかばい立てし、ごまかすために、ただ津村氏の引退により、事件をうやむやなままに幕引きをはかった。

4.さらに、これに終わらず、教団側はその後も、鳴尾教会に起きた混乱の責任が、あたかも教団自らが派遣した後任の山田牧師夫妻や、信徒の側にあるかのように見せかける虚偽の情報を拡散することで、長年に渡り、自らの責任をごまかそうとして来た。

その嘘を正当化するために、教団側は、かつて津村氏が鳴尾の後継者として派遣された伝道師夫妻に濡れ衣を着せて、鳴尾教会から追放をはかったのと同様に、鳴尾の後任である山田牧師牧師夫妻に「異端者」の濡れ衣を着せることで、鳴尾教会に起きた混乱を後任の牧師に責任転嫁することを正当化しようとはかったのである。

5.しかも、このような虚偽の情報を流布するにあたり、村上密氏は、教団のホームページ等、教団の正式なツールを通じて物事を公にして議論を進めようとはせず、むしろ、自身の私的なブログや、アッセンブリー教団とは何の関係もない私人である杉本徳久氏のブログ「随想 吉祥寺の森から」に代表されるような、教団には何ら関係なく、従って、本来、当然、教会内人事に口をさしはさむ権限も持っていない部外者を積極的に活用して、鳴尾教会を貶めるためのネガティヴ・キャンペーンを行った。

村上氏がこれまで、自らにとって不都合とみなした政敵を貶め、印象を操作して貶めるためのネガティブ・キャンペーン(人物破壊工作)の多くを、教団とは何の関係もない部外者の口から発表させて来たことは周知の事実である。

杉本徳久氏のブログについては、当初から、同氏が「疑わしい」とみなしたクリスチャンを次々と根拠もなくネット上で一方的に吊し上げては私的に制裁を加えるというものであったため、暴走の危険が指摘されていたが、案の上、同氏のブログはキリスト教に恨みを持つ者たちが集まっては、昼夜を問わず、キリスト教徒に対する見境のないリンチを繰り広げるだけの場となって行ったことは、「罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか」ですでに指摘したことである。

村上氏はこのように教団と無関係の部外者を積極利用して、インターネットを中心に、自らの意見を代弁させたわけだが、そうした行為に及んだ理由としては、万一、村上氏や教団側の投げかけた疑惑に十分な根拠がないことが明らかにされて、後日、相手方から名誉棄損の訴訟が提起されるなどして責任を問われた際に、同氏や教団関係者らが直接、矢面に立たされることなく、責任を逃れる目的があったものと見られる。

村上氏はカルト化の疑いを投げかけた教会には幾度も自分から裁判をしかけておきながら、自分自身は責任を追及されたくないばかりに、教団とは何の関係もない個人に全責任を身代わりにかぶらせる形で、一般人に自分の意見を代弁させて、教団側にとって都合の良い捏造された情報を言い広めて来たのである。

こうして、自らの見解を公式に発表して自分の述べた言葉の責任を取ろうとはせず、教団と無関係な個人や支持者を身代わりに矢面に立たせることで、相手に公に反論する機会も与えずに、公の審議にはかることもないまま、何の裏付けも取れていない不確かな虚偽の情報を一方的に次々と流布しては、政敵を貶め、クリスチャン同士の疑心暗鬼と対立を煽り、それによって「カルト問題の専門家」として脚光を浴びて来た村上氏が、いかに信用ならない人物であり、同氏の唱える「カルトとの闘い」が、信憑性のない荒唐無稽な嘘っぱちであるかは、今や誰の目にも明白である。

6.こうした一連の事件を振り返るとき、村上氏の唱える「カルトとの闘い」とは、村上氏が不都合な政敵を追い落とすための口実に過ぎなかったことが分かる。鳴尾の事件を見ても分かるように、同氏はすでに十年以上の長きに渡り、自らにとって都合の悪い信徒に対して、「異端者」の濡れ衣をでっちあげては、繰り返し相手を誹謗中傷することで、信用の失墜をはかり、追放を試みて来たのである。つまり、魔女狩りのような「異端疑惑」は、村上氏が自らに不都合な政敵を追放するために用いる常套手段だったのである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、こうした村上氏や津村氏の身勝手な行動をいさめることもなく、むしろ、その言いなりとなって、彼らと一緒に危険な活動に従事し、卑劣かつ無責任に自らの不適切な対応をごまかし、弱い立場にある牧師や信徒、ひいては教会にまで身代わりに罪を着せながら、責任転嫁をはかって来た。
 
同教団は、本来ならば、鳴尾教会に起きた混乱を収拾すべき立場であったが、それをするどころか、混乱の責任を一方的に教会に転嫁することにより、自分たちは知らぬふりを決め込み、事態をより悪化させて来たのである。

恐ろしいのは、今やアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団全体が、津村氏や村上氏の私物のように動かされている事実である。
 
記事「「カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について」の中でも指摘した通り、こうして他教会の人事に不法に介入しては教会を私物化し、不都合な人間にはでっちあげの嫌疑をかけて追放し、自らに不利な情報は隠蔽し、捏造された情報を支持者を使って大量に流布することによって、自らの責任をごまかし続けて来た村上氏が、まるで正義の味方のような仮面を被って、「弱者救済」の美名の下、「カルト被害者救済活動」を推進し、教団全体を「カルトとの闘い」に巻き込んで来ただけでなく、果ては「カルト監視機構」の設立を訴えて、教団の枠組みを超えて、プロテスタントの全教団教派に属する諸教会の人事にまで介入しようと試みていることは、恐ろしい事態である。
  
このように全く信頼できない行動を繰り返す指導者がリーダーとなって、全プロテスタント教界の教会に干渉することのできる機関が設立されることが、どれほどキリスト教界全体にとって重大かつ恐ろしい危険を意味するか、改めて指摘するまでもないであろう。
 
ちなみに、村上密氏の活動については、カルト被害者の側からも早くから疑念の声が上がっていた。ORCを守る有志の会からは、同氏に対して、すでに2009年の時点で「本当に専門家なのだろうか?」との深刻な疑念が投げかける声明が発表されている。 

 



カルト被害者の側からも村上密氏の活動には疑念の声が上がっている。
ORCを守る有志の会のホームページから)


     
また、筆者が「偽預言者をゲストに招く教会」の記事でも指摘した通り、村上密氏自身が、カルト化の疑いがあると知っていた指導者を堂々と自らの教会へ招き、被害を受けた信徒の目の前でメッセージをさせるという行為に及んでいたことを、被害者自身が証言している。もともと怪しい霊的ムーブメントを率先して無分別に取り入れて来たアッセンブリー教団が、他教会の活動だけを「カルト化の疑いがある」と批判すること自体がおかしいのだが、それをさて置いても、これは悪質な二重性のある行動だと言わざるを得ない。

7.鳴尾教会は、このような恐るべき腐敗・無法状態・無責任状態に陥った教団から、正式に離脱を決定したが、その際、教団側(村上氏+津村氏サイド)は、教会の決定に復讐心を燃やし、あたかもそれが山田牧師夫妻による不法な「教会の乗っ取り」であったかのように主張して、鳴尾教会の教団からの離脱の決定を撤回させようと、教会に恫喝訴訟をしかけるなどして、執拗に制裁を加えた。

8.しかしながら、村上サイドの主張は裁判によっても認められることはなく、教団側はこれらの争いにことごとく敗れ、鳴尾教会は無事に教団から離脱して新たな出発を遂げた

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団側からの長年に及ぶ執念深く陰湿な言いがかりに対して、無実の小さな教会が勇気をもって戦い抜いた経緯は、「鳴尾キリスト福音教会から皆様へ」のブログに詳しい。

こうして、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と関係を断ち、単立教会として晴れて新たな出発を遂げた鳴尾キリスト福音教会の安堵と喜び溢れる様子は、同教会の新しいホームページからもよく伝わって来る。



 
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からのスラップ訴訟に負けず、
礼拝堂も見違えるように美しくなった鳴尾キリスト福音教会


  
9.アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、裁判においても全面敗北しているにも関わらず、今日に至るまで、なお鳴尾教会への対応に過ちを認めることなく、あらぬ疑いをかけて誹謗した鳴尾教会関係者への謝罪も行っていない。それどころか、村上密牧師は未だにブログ等で、同教会とその牧師に対する事実無根の非難を続けている有様である。
 
このように、すでに事実を事実として認めることさえできなくなって、現実から乖離した空想の物語を延々と築き上げては自分を正義のヒーローだと勘違いして「カルトとの闘い」に没頭し、自分に敵対するすべての信徒を「悪者」と決めつけて、虚偽を言い広めて恥じることもなく、他の信徒の平和な信仰生活を執拗に妨害してやまない恐るべき教団とのその指導者が、本当にクリスチャンを名乗る資格があるのか、聖書に基づくキリストの平和な福音に根差しているのか、まして牧師として活動するにふさわしい人物であるか、信仰を持たない人の目にも、明白であろう。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、フランスではすでに準カルトと認定されているが、同教団が暗闇で行って来た一連の信用できない活動を見れば、我が国でも、正式にカルト団体との認定を受けるのがふさわしいと言うべきであろう。

アッセンブリー教団からは、随分前から、信徒の深刻な離脱が起きていると聞く。過激な霊的ムーブメントを無分別に取り入れて来たために、もともとプロテスタント内では評判が芳しくなかった教団であるが、村上密牧師の登場以後、同氏が率先して全プロテスタントの教会を敵に回しながら今日に至るまで推し進めて来たカルト被害者救済活動の暴走の様子を見て、良心的な信徒の心はさらに離れたのだと思われる。

たとえキリスト教界が幾多の問題を抱え、カルト化という現象が実際に起きているにせよ、これを是正する方法は、当ブログで幾度も述べて来たように、クリスチャンが聖書に立ち戻ることにしかない。人間的な思惑に基づいて、聖書に従わずに、どんなに人間の正義を振りかざしても、それは泥沼の闘争にしか至らないのであり、かえって残酷で不公平な私刑を助長し、神と教会とクリスチャンに敵対する危険な運動に変わって行くだけである。

信仰によらず、御言葉によらず、人間の思惑だけに基づいて行われる弱者救済活動は、人の目にどんなに良さそうに見えても、神に敵対する人類の自己救済の運動として、失敗に終わることを運命づけられている。

聖書をきちんと理解するならば、弱者救済といううわべだけの美名に欺かれて村上密氏やアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の活動を支持することがどれほど大きな危険であるかが分かるはずである。
 
聖書の神と、聖書の御言葉への忠実な信仰を捨て、神と教会とクリスチャンに敵対してまで、己のプライドと欲望を満たそうとする教団に所属していることが、クリスチャンの平和な信仰生活に有利に働くことはない。もし聖書に忠実に生きたいと願うならば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団とその信者らには、何があっても関わらないことが得策である。      
  
10.村上密氏は、「宗教トラブルセンター」や「カルト被害者救済活動」などの看板を掲げて、他教会のカルト化だけを監視し、糾弾し、取り締まる前に、まずは自教団の深刻なカルト化という現実に目を向け、自分というカルトをこそ監視し、取り締まるべきである。
    
  


 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾教会に対する不当な介入と
 村上密牧師率いる「カルト被害者救済活動」の危険性に関するまとめ~

(随時追加予定)
 

 ★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の指導者が鳴尾教会に引き起こした混乱について
(村上密氏による鳴尾教会人事への不当な介入と津村氏による鳴尾後継者の不当な追放)
   
正義の仮面を被り、無実の教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動➀
 
正義の仮面を被り、無実の教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動② 

正義の仮面を被り、無実の教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動③

正義の仮面を被り、無実の教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動④ 
 

★上記の事件に関して教団から鳴尾信徒に公に配布された資料
(津村昭二郎牧師と村上密牧師によって密室でいわれなき嫌疑をかけられて鳴尾を不当に追われた伝道師が教団に宛てた苦情の書簡と津村氏による弁明 ※一部個人情報を伏せ、筆者による注釈を赤字で余白に加えた。)

 村上密牧師と津村昭二郎牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について(教団配布文書PDF)


★村上密氏によるカルト監視機構の発案の基盤となっている非聖書的思想の危険性について

カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について

悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構~村上密牧師の危険な活動

村上密牧師による自己流の「異端審問」
 

★村上密牧師が教団と無関係の個人である杉本徳久氏と結託して暗闇でネット工作員を動員し、当ブログに対して長年に渡り加えて来た妨害工作について

村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害➀

村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害②

村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害③
   

★村上密氏と杉本徳久氏の活動が、信者ではなく、この世の不信者らの目線に立っており、聖書に基づかないこの世の思想を無罪放免しながら、キリスト教を貶め、クリスチャンだけを断罪する構図となっていることの危険性について

この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀

この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②


★杉本徳久氏が同氏にとって不都合な記事を削除しない限り、違法な報復行為に及ぶと当ブログ管理人を脅迫して来たメール

2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール
    
      
★鳴尾教会が正当な手続きによってアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離脱した際、教団が、これを「牧師による教会の乗っ取り」であるかのように主張して、鳴尾教会に加えた恫喝訴訟を含む制裁について(同教団はこの争いに全面的に敗北した)

文化庁第160回宗教法人審議会議事録 ~日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾キリスト福音教会の教団離脱手続きに対する異議申し立て棄却の記録~
 
文化庁第163回宗教法人審議会議事録 ~「日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団」による「鳴尾キリスト福音教会」の単立化手続きに対する異議申し立て棄却の記録~

宗務時報No.115 ~日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾キリスト福音教会の教団離脱手続きに対する異議申し立て棄却の記録~
  

★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒が、身元を隠して他教会に潜入し、他教会を乗っ取った事件について

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り


 ★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団及び村上密氏の推進して来たカルト被害者救済活動の非聖書性とこの活動の暴走について

 罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか。
――杉本徳久氏によるクリスチャンへの聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――


 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか① 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか② 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか③ 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか④ 

  
★弱者救済の思想はなぜ危険なのか 
 
神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~


カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール➀ー

これは東洋からの風の便りIIIの2012年3月9日の記事「杉本徳久氏への公開書簡」の転載である。 当時、杉本徳久氏から筆者に送られて来た恫喝メールは複数あるため、以下に一つ一つ公開して行く。まずは次のものから。

2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール

2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール
   
なお、杉本氏のメール本文は紫字、ヴィオロンの注釈は黒字、個人名はすべて〇〇もしくはペンネームに変えてある。メールの文面からは、いずれも杉本徳久氏という人の思考パターンやその主張の特徴がよく理解できる。

以下の記事は、2012年3月8日付の杉本徳久氏の恫喝メールに対するヴィオロンの回答。
本記事に対する杉本徳久氏の応答は以下の通り。
 2012年3月9日付 杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール



杉本徳久氏へ

本日、「明日、金曜いっぱいまでに削除されない場合」と題するあなたからのメールを拝受いたしましたので、この場を借りてご返答申し上げます。

杉本さん、あなたはメールの中で、私の書いた三つの記事を、本日、3月9日(金曜日)いっぱいに削除するよう要求し、もしも私があなたの指定した期日内にこれらを削除しなかった場合、次の犯行に及ぶ用意があると記しておられます。

「十分、機会はご用意しましたし、十分な期間もとりましたが、なお、お考えが変わらないようならば、あなたの実名を公開し、あなたの住所、あなたの実家の住所などを調べて内容証明、書留郵便を送るべく準備にはいります。」

「その後のあなたに降りかかる不利益は全て自ら招いたこととしてあなた自身が引き受けることになります。」

これらの文章は、もしも私が記事を削除しなかった場合、あなたは無断で私の個人情報を公表するという違法行為に及ぶだけでなく、私の関係者に対しても迷惑 行為を行い、それ以外にも、さらに私に不利益をもたらすような犯罪行為に及ぶつもりであるという意図を明確に示していると受け取れます。

杉本さんは、これまで幾度にも渡り、私の実名を無断で公表するとの脅迫のメールを送って来られました。そこで、あなたは、ご自分の指定された期日内に私が記事を削除しなければ、「私もあなたの実名を記し、卒業したあなたの大学などに問い合わせするなど、可能な対応をとらなければなりません。」などと書いておられます。

このような犯行予告と言っても差し支えない、他人への害意を記したメールを送ることが、脅迫という罪に当たることをあなたはご存じないのでしょうか。

もしもあなたが私の実名を無断でネット上に公開されるならば、あなたは法的に罪に問われることになるでしょう。それにより、今まであなたやあなたのブログのコメント者が私に向けて書き記したいわれのない非難が全て実名による名誉毀損として罪に問われることになるからです。もしもあなたが私の関係者にまで迷惑を及ぼさ れるようなことがあれば、他にもさまざまな犯罪が成立することになりましょう。

なお、杉本さんが削除するよう要求しておられる私のブログやホームページは、サムライファクトリーの正式な認可を得た上で私が掲載しているものです。

杉本さんはこれまで二度に渡り、私の記事についてサムライファクトリーに送信防止措置の要請を行われました。一度目は私の回答が期日を過ぎたため、一旦、 ブログとホームページが削除されるという結果になりましたが、その後、私はあなたの二度目の掲載削除の要請を受けて、二度に渡るあなたの訴えが双方とも事実に基づかないものであり、掲載削除の必要性を裏づけるだけの正当な根拠が存在しないことを、サムライファクトリーに宛てて正式に通知いたしました。

私の申立内容の真実性がサムライファクトリーに認められたため、上記のブログやホームページは今も掲載を許可されています。それにも関わらず、杉本さんがサムライファクトリーの判断を尊重せず、メールによる個人的な脅迫という方法を用いて、これらの記事を削除するよう未だ私に圧力をかけておられることは重大な違法行為に相当します。

杉本さんがブログやメールを通して私に対して行って来られた違法な嫌がらせは長きに渡っており、深刻かつ悪質なものであることから、今後、本件には主として警察を通じて対応いたしますこと、ご承知おき下さい。

(なお、あなたが私に対する権利侵害を行うことを予告しておられる今回のメールは、あなたがブログを掲載している管理会社へも送付させていただきます。)
  

 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~

神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性 
~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による
「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~


「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

 というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」(Ⅱコリント11:3-4)

 



1.社会的弱者を無条件に美化することは、人の原罪を否定することにつながる
 ~平和な信仰生活を弱者救済という社会事業と政治闘争と置き換える危険~


ペンテコステ運動は、聖霊による超自然的な奇跡や癒しを強調することにより、社会から打ち捨てられた弱者を対象に、彼らへの早急な具体的支援を謳って、積極的に伝道を繰り広げて来たことで知られる。

アッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団もこの点では例外ではなく、同教団は、病者、障害者、元ヤクザ、元統一教会員など、社会で最も憂慮すべき状態にある社会的弱者を積極的に勧誘して信者に取り込み、彼らが神を信じる以前の「負の過去」をも、積極的に宣伝材料として伝道に利用して来た。たとえば、元ヤクザで形成される伝道団体ミッション・バラバの活動を積極的に後押しして来たことなども知られる。
 
だが、キリスト教は本来、社会的マイノリティの救済のための慈善事業ではなく、教会が福音伝道という本来的な目的から逸れて、こうした社会事業に没入することは、教会の本来のあり方を見失わせる危険がつきものである。さらに、弱者や被害者を名乗る人たちをよく確かめもせず同情や救済の対象とし、彼らを美化するのは極めて危険な行為である。


私はこのブログにおいて、弱者救済という活動の美名の背後に潜む非聖書的な理念の危険性を一貫して訴えて来た。以下で映画" Mishima A Life In Four Chapters The Criterion Collection] [1985] Paul Schrader "を紹介したのもそうした理由からである。

この映画からも理解できるように、社会的弱者だからと言って、必ずしも善良な人々であるとは限らない。それどころか、人の強さと同様に、弱さもまた、人が自分よりも強い人間を騙し、巧みに利用して、己の欲望を叶えるための武器になりうるのである。弱さを持った人間が、自分の本当の動機を隠し、自分の弱さを巧みに利用して人の同情や罪悪感を引き出すことにより、自分よりも強い者を騙し、搾取し、支配するということがありうる。こうして、社会的な弱者が、弱者であることをバネに、強者との関係を覆し、強者に君臨し、自らのコンプレックスの憂さ晴らしをして、強者に復讐を果たすということが事実上、ありうるのである。

このような方法は古来から利用されて来たし、思想としても存在して来た。たとえば、マルクス主義も、弱者の復讐願望を理論化したものであると言える。経済的・社会的弱者であるがゆえに、プロレタリアートは善なる人々であるとし、彼らを搾取するブルジョアジーを悪人として描くことにより、マルクス主義思想は、プロレタリアートの救済という大義名分の下、弱者が決起して強者を打ち倒すことにより、強者を抑圧し、復讐を遂げることを肯定したのである。

確かに、強い者が自らの力により頼んでおごり高ぶり、弱者を蔑み、騙し、虐げる罪は重い。だが、それと同時に、弱者が弱者であることを理由に自分を聖なる存在のようにみなし、その弱さを武器にして、復讐心から強者を騙し、搾取し、抑圧して、支配関係を逆転しようとする思想も、前者と同じほど重大な危険をはらむ、恐ろしい思想であると言える。

聖書は人間はみな生まれながらに堕落した罪人であると教えており、その点で、いかなる例外も存在しない。社会的弱者だから、マイノリティだからと言って、心の清い人間は一人もいないのである。社会的弱者が、社会的強者に比べ、優先的に救いに値する心の清い人々だとは、聖書は教えていない。

たとえ社会的弱者であっても、その人に信仰がなければ、人は救われることができない。罪を逃れることもできないし、神の聖にたどり着くこともない。社会的な弱者であるその立場が、信仰なしに魂の救済につながることは絶対にあり得ない。

にも関わらず、社会的弱者であるという点をことさらに強調することによって、まるで彼らが特別に優れて心の清い、神に近い聖なる存在で、最も救済に近い人々であるかのように美化して描くことは、聖書に悪質に逆らう大変、危険な思想であると言える。
 
人はみな生まれながらに罪人であるという聖書の事実を否定して、社会的弱者も社会的強者と全く同じように罪人であるという点を見ず、社会的弱者だから無条件に救済に値すると考えて、弱者を無条件に美化し、弱者救済活動を行うと、結局、人間の原罪そのものを否定し、キリストの十字架を抜きに、人類が自力で自己義認し、神へ反逆するという、最も福音からほど遠い、恐ろしい思想につながりかねない。



2.「異なる福音」~聖書に基づく「救済」の概念を歪曲し、この世的な生活改善を「救済」とみなす異端~

   
かつて記事「疎外されし者たちの復讐の哲学~抑圧された社会的弱者や被害者の内に神を見いだす危険②~」の中で述べたように、キリスト教界において行われて来た弱者救済活動の中には、多くの信仰に基づかない非聖書的な活動があった。というより、弱者救済活動に励むキリスト教徒の指導者は、往々にして、自らが神を見いだせないという絶望に悩み苦しんでいた。上記の記事で挙げたマザー・テレサや、奥田牧師といった人々もそうである。

マザー・テレサは、死んだように形骸化して人への憐れみを失った冷たいキリスト教界の教会生活の中で神を見いだすことができず、神が実在しているのかどうか分からず、神に見捨てられているという絶望感に苛まれていたことを告白している。マザーは、教会にいる信仰者の中にキリストを見いだせず、絶望しか感じられなかったからこそ、路上生活者のもとへ赴き、「イエス=キリストは路上で 生活する貧しい人々に遍在している」と考えて、信仰を持たない貧しい人々の中にキリストを見いだそうと、弱者「救済」に励んだのである。

奥田牧師も同様に、釜ヶ崎のホームレスの置かれている悲惨な状況を目撃し、神はどこにおられるのか分からないという絶望感に苛まれ、自らの絶望をアウシュヴィッツを経験したユダヤ教徒のエリ・ヴィーゼルの告白に重ねながら、虐げられたホームレスの人々の中に神を見い出そうと、路上生活者のもとを訪れた。

形骸化して死んだように生気に欠け、人間への愛や憐れみを見失った従来のキリスト教界とクリスチャンの交わりの中で、神を見いだすことができず、むしろ、自分は神に見捨てられているという絶望しか感じることができなかったからこそ、その絶望感を癒すために、彼らはあえて教会から見捨てられた社会的弱者を対象に、救済活動を始めたのだと見られる。

従って、彼らの活動は、ただ社会的弱者のためだけに行われたというよりも、彼ら自身が、神に見捨てられたという自らの内なる絶望感を解消するために行われた自己救済の試みであった。

つまり、彼らは社会的弱者の哀れな境遇に自分自身を投影し、弱者に優しく手を差し伸べ、その生活の状態を改善することにより、神に見捨てられた絶望感から自分自身を救おうと試みていたのである。

マザー・テレサや奥田牧師は、キリスト教徒であったので、彼らの「救済活動」も、ともすれば、聖書に基づくものだと考えられがちであるが、実際には、彼らの唱える「救済」は、魂の救いという、キリスト教における聖書に基づく従来の「救済」とは全く異なるものであった。
 
だが、彼らの救済活動は、決して聖書に基づいて福音宣教の範囲を拡大することにより、従来のキリスト教界の手の届かないところを補い、宣教の範囲を広げることで、より多くの人々をキリストへ導くことを目的にはするものではなかった。

むしろ、従来の教会の宣教では、決して救いの対象とならないであろう見捨てられた人々を積極的に集め、彼らのために、教会の提示する従来の福音とは異なる福音を作りだすことによって、この人々を救いの対象外に打ち捨てて来た憐れみのないキリスト教界(ひいては神ご自身)に、深刻な疑念を提示し、抗議することを根本的な目的としていたのだと見られる。
 
たとえば、マザー・テレサは、キリスト教を押しつけないという理由で、インドの人々にキリスト教への改宗を促さなかったことが知られている。これを通しても、マザーの「救済」活動は、滅びゆく人々の魂をキリストへの信仰に導く福音伝道を第一目的としていなかったことが分かる。

正常なクリスチャンであれば誰しも、たとえ社会的弱者がどんなに手厚い支援を受けて、人として尊厳ある死に方をしたとしても、もし信仰を持たず、魂の救いに至っていなければ、罪や死後の裁きから逃れる道はなく、永遠の命もないということを否定しないであろう。

さらに、ホームレス伝道の場合も含めて、上記のように弱者救済に励む人々が、たとえ福音伝道をその活動の一部に含めていたとしても、彼らはほとんどの場合、社会的弱者への物質的・精神的支援の必要性を強調して、弱者を支援者である彼ら自身に依存させてしまうだけで、キリストの命にこそすべてがあって、キリストだけを頼り生きることによって、弱者が目に見える人間の支援者に頼ることなく、完全な自立に至ることが可能であることを決して教えない。そこで、ホームレスはホームレス生活からは抜け出られたとしても、今度は支援者につかまってしまい、教会の助けなしには決して自立できないような依存した状態にとどまってしまうのである。
 
困窮する社会的弱者が、弱さや困難から抜け出る秘訣は、本当は、人間の支援者による助けにあるのではなく、キリストの復活の命にこそある。悩める人に必要なのは、人間の与える一時的で不完全な物質的・精神的支援ではなく、神の御子の十字架における贖いの完全性を信じ、永遠の命に至り、この命に立脚して自立して生きることである。

この世の物質的・精神的支援は、それ自体、無意味ではないにせよ、すぐに尽きてしまう束の間の延命治療のようなものに過ぎない。それは人を死から救うこともできないし、人の抱えるあらゆる必要を不思議な天的方法で満たすこともできない。

だが、キリストの十字架の贖いによる救いは、永遠に至るものであり、信者がこの世においても、来るべき世においても、直接、神から助けをいただいて、目に見える誰にも依存せずに、自立して生きる解放を約束するものである。

だから、社会的弱者へどんなに手厚い支援を行なったとしても、もし人々にキリストの十字架の贖いを信じて魂の救済を受けとるように導かず、さらにキリストを信じさせたとしても、ただキリストだけに頼り、キリストの命だけによってすべての必要を供給していただくことが実際に可能であることを教えず、かえって人間の支援者らによる物質的・精神的支援へと依存させていき、彼らの救済活動の枠組みから決して外へ出そうとしないならば、それは偽りの救済活動であり、その対象とされてしまった人々には、目に見える支援者から自立して生きる道が半永久的に閉ざされてしまう。

そのため、こうした活動においては、「支援する側」と「支援される側」に、永久に埋まらない溝(区別)ができ、その格差の分だけ、支援者だけが、弱者の救済の美名を利用して輝き、弱者を土台にして、賞賛され、栄光を受けるのである。

従って、こうした神によらない弱者救済活動は、一見、弱者を解放するように見えても、決して弱者を真の解放へは導かない。むしろ、弱者をまことの神への信仰から遠ざけ、前よりももっと巧妙で気づきにくい新たな支配と搾取の構図の中にからめとって行くだけなのである。ただ、利用されている側の弱者は、前よりも生活が良くなったのは支援者のおかげだと思わされているため、その新たな搾取の忌まわしさが分からないだけである。
 
こうした弱者救済活動にいそしむキリスト教の指導者は、「救い」の概念そのものを歪曲し、すり替えてしまう。彼らの提示する「救い」とは、社会的弱者が、彼らの提供するこの世の物質的・精神的支援を受けて、生活状態が改善することを意味しているのであり、彼らが見えないまことの神を信じて永遠の命を受け取り、その命に基づいて自立して生きることでを「救済」とはしていないのである。

こうして、「救済」の概念をすり替えることにより、こうした指導者は、聖書の提示する救いとは全く異なる別の救済の概念を作り出し、聖書とは「異なる福音」を宣べ伝えているのである。

こうしたことを考えるならば、たとえ世間でどんなにマザー・テレサの「偉業」が誉めたたえられたとしても、彼女の活動は、聖書の信仰を土台とせず、この世的な支援だけを行い、人々の生活状態の改善を「救済」とみなすことにより、むしろ、最も大切な聖書の真理を、滅びゆく人々の目から覆い隠し、彼らがまことの神を信じて魂の救いを受けとる機会を奪ったのだと言える。そうした文脈で見ると、これはキリスト教的な救済事業ではあり得ないどころか、神の福音に本質的に敵対する活動であったということになる。ほぼ同じことが、キリスト教指導者によって行われるホームレス伝道についてもあてはまるのである。



3.「異なるイエス」~キリストは信仰者の内におられるのではなく、信仰を持たない社会的弱者のうちにおられるとする異端~

すでに述べた通り、上記のような弱者救済活動は、救済事業に関わるキリスト教の指導者自身が、神を見いだせないという絶望感から発生していた。

つまり、教会の従来の宣教活動によっては、決して福音伝道の対象とはみなされず、従って、救いの対象外となるしかないような人々が存在していた。献金を払う余裕もなく、教会活動に何ら有益な貢献ができそうにないという理由で、初めから伝道の対象から除外されて、教会から見放され、悲惨な滅びと死へと向かわされている人々がいた。――彼らは地上で苦しんでいるばかりではなく、伝道の対象外であるために、従来のキリスト教の教義によれば、来るべき世でも苦しみしか待ち受けているもののない人々である。――もし、彼らが教会の不作為により、福音を伝えられず、キリストを信じることなく死んでしまった場合、彼らの魂が永遠に救済されないというならば、一体、これらの人々は何のために生まれて来るのか、誰が彼らの存在に対して責任を負うのか、神と教会はなぜこれらの人々を見捨てているのかーー。

自分自身が教会で味わった絶望とあいまって、見捨てられた弱者への痛みに満ちた共感が生まれ、それが彼らを見捨てて来た神と教会とクリスチャンに対する深い絶望感と憤りとなって、上記のような活動へと、キリスト教指導者を追いやったものと考えられる。

そこで、彼らは教会からは暗黙のうちに「救いの対象外」とみなされているような貧しい路上生活者のもとへ赴き、意図的に彼らを対象にして、今まで彼らを疎外することしかできなかった教会の提示する「狭い救い」の代わりに、この世的な手厚い支援を救済とする「広い救い」を作り出して、教会とは全く別のやり方で、これらの人々を「救済」しようとした。

それだけでなく、こうした指導者らは、「神」の概念をもすり替え、キリストは、冷淡で愛を失い生気なく死んだような教会の、死んだようなクリスチャンの只中におられるのではなく、むしろ、教会から見捨てられているように見えるこれらの社会的弱者の中にこそおられるのだと主張した。

そうすることで、彼らは、実は、神から見捨てられた自分自身と、教会から見捨てられた社会的弱者とで、共同のリベンジを果たしていたのだと考えられる。つまり、彼らの論理によれば、神が本当におられるのは、信仰を持っていると自称して自己安堵しながら他者への憐れみを失い弱者を容赦なく教会の外に見捨てているクリスチャンの只中ではなく、信仰を知ることもないまま打ち捨てられている貧しい路上生活者の只中にこそ、神がおられるのであり、従って、その論理を推し進めると、神に本当に見捨てられているのは路上生活者ではなく、むしろ彼らを容赦なく見捨てて来た教会の方だということになる。

こうして、弱者救済活動の支援者らは、自らが教会の中で見いだせなかった救いを、路上生活者のもとに見いだそうとする。彼らは路上生活者に生活の支援を与えることにより、彼らを「救済」してやる代わりに、路上生活者の中に「キリスト」を見いだし、それによって自分自身が「救い」を得るのである。

従って、彼らの活動は、このような観点から見ると、聖書をさかさまにしたものであり、たとえキリスト教界を公に糾弾したり、これと敵対したりすることがなかったとしても、本質的には、この活動は、社会的弱者を容赦なく打ち捨てて来た従来のキリスト教界と、彼らを救いの対象としえなかった従来の福音に対する異議申し立て、告発、強烈なアンチテーゼの意味合いを持っているのだと言える。
  
だが、もちろん、そのような活動は、人の耳には優しく聞こえるかも知れないが、聖書に基づかないものである以上、虚偽であり、まやかしでしかない。

こうした活動では、本来、神の救いを宣べ伝える側に立っているはずキリスト教の伝道者が、宣べ伝えられる側の人々の方に救いを求めているという点で、本末転倒であるだけではない。信仰なくして社会的弱者のうちに「神」が宿っているとする思想は、人の原罪を否定して、生まれながらの人を神に等しいものとしている点で、聖書に真っ向から対立する異端思想である。
  
そこで、こうした「弱者救済」の思想は、マルクス主義と同じく、本質的には、グノーシス主義に分類されるのだと言える。グノーシス主義思想においては、人は生まれながらに神聖な要素を内に宿しているため、その神聖に覚醒して目覚めさえすれば、自らを抑圧から解き放って神の聖に達することができるとされる。

グノーシス主義思想においては、生まれながらの人の原罪は否定されており、人は罪深い存在であるどころか、むしろ「神聖な要素」を内に宿しているのであって、ただこれが抑圧されているために、転倒した状態にあるだけだとされる。そこで、この思想においては、人は己のうちに抑圧されている神聖な要素を解き放ち、自分自身の中で秩序転覆を成し遂げ、神聖な要素を全体に押し広げさえすれば、自ら神のように聖なる存在に到達できるとされる。そのような秩序転覆は、一人の人の内側において可能であるだけでなく、社会全体にもあてはめられる。その際、社会全体の秩序転覆のために利用されるのが、「抑圧された(聖なる要素としての)社会的弱者」の存在である。

つまり、こうした思想においては、社会において「抑圧されている弱者」が「神聖な」要素とみなされているのであり、この「聖なる」人々を抑圧から解き放つことにより、社会全体が「聖化」され、弱者のユートピアという地上天国に至るというのである。

このような文脈における「弱者救済」の思想は、ただ単に個人としての社会的弱者を抑圧された生活状態から救うことを目的として目指しているのみならず、それは社会事業としての意味を持っており、すなわち、弱者の集団を社会全体において抑圧から解き放ち、強者と弱者の関係を覆すことにより、弱者のユートピアを築き、社会全体を浄化しようとする意味を自ずから含んでいるのである。
   
むろん、このような思想には、人の原罪という概念もなければ、人類の罪の贖いのためのキリストの十字架もなく、従って、これがキリスト教に悪質に敵対する異端的な思想であることは明白である。このようなグノーシス主義思想は、早い話が、弱者による秩序転覆のクーデターを容認するものであり、これを正当化する根拠として、社会的弱者をあたかも聖なる存在のように祀り上げているのである。



4.己を疎外した神と教会とクリスチャンに対する復讐としての「弱者救済活動」

  
すでに見て来たように、マザー・テレサや奥田牧師のような「弱者救済活動」に励むキリスト教指導者は、自ら信仰者を名乗っているので、彼らの活動がグノーシス主義思想に基づいているのだとはなかなか外からは見えにくい。

だが、 彼らが「信仰を持たない貧しい人々の中にキリストを見いだしていた」という事実を考えれば、これがまことの神を否定するグノーシス主義思想に沿った考え方であり、彼らが聖書の示す「神」や「救い」の概念をひっくり返して、本来、聖書によれば、罪に定められるべき集団を「聖」とみなし、救われていないはずの者たちを「救われている」とみなし、神に属しているはずのない人々を「神である」と唱え、それによって、最終的には、見捨てられた社会的弱者と共に、神に見捨てられた自分自身を、神に等しい者として祀り上げようとしていたのだと言うことができる。

つまり、彼らは、たとえ公言してはいないにせよ、社会的弱者を「キリスト」と同じ高さにまで祀り上げることにより、彼らだけでなく本当は神から見捨てられた自分自身を「神」としていたのだと言える。すなわち、本当に「キリスト」がおられるのは、神への信仰を持っていると言いながら、死んだ教会の死んだクリスチャンの只中ではなく、むしろ、彼らから疎外され、見捨てられた社会的弱者と自分自身の只中であると言うのである。そう主張することによって、彼らは、神に見捨てられているという絶望感を払拭できるだけでなく、自分を神の愛から疎外した冷たい教会とクリスチャンに復讐を果たし、ひいては、そのような方法で、人類のごく限られた人々しか救いの対象としていない聖書の神の「狭い福音」そのものに異議を唱えているのだと見ることができる。
  
同様のことが、カルト被害者救済活動にあてはまる。すでに述べて来た通り、この活動も、弱者救済という美名を隠れ蓑にしてはいるが、それ自体が、キリスト教界に対する強烈なアンチテーゼであり、告発であった。この活動は、あえてキリスト教界で信仰につまずき、教界から見捨てられて、教界に根強い不満や恨みを持つ分子を集めて来ては、彼らの存在を利用して、キリスト教界に闘いをしかけ、教界を告発して攻撃し、秩序転覆をはかって来た。

つまり、カルト被害者救済活動の支持者から見れば、正しい生き方をしているのは不当に虐げられたカルト被害者であって、彼らを見捨てて来た冷たい教会と冷たいクリスチャンではない。さらに、「救済」に値するのも、虐げられたカルト被害者であって、教会の中にいて彼らを見捨てて来たクリスチャンではないのである。
  
こうして、キリスト教界から見捨てられた「弱者」や「被害者」の存在を口実に、彼らを見捨てたキリスト教界と冷たいクリスチャンを告発し、ひいては神ご自身を非難して、救いの概念を歪曲し、聖書の福音そのものに異議を唱えようとする活動が、カルト被害者救済活動なのである。たとえ彼らがあからさまに神を呪ったり、罵ったりすることがないとしても、彼らにとっての「神」の概念は、正常なクリスチャンと同じものではない。この活動が聖書から著しく逸れたものであることは、すでに幾度も指摘した通りである。
  
こうして、キリスト教徒を名乗っている人々によって行われる「弱者救済活動」は、必ずしも、聖書に基づかないどころか、こうした活動の指導者らには共通して、キリスト教界から見捨てられた社会的弱者・被害者こそ「救済」にふさわしい対象であるとして、弱者のために特別に、従来の聖書の福音とは異なる「救済」を提示することによって、弱者を苦しみの中に容赦なく見捨てて来たキリスト教界の「狭い救い」を否定し、ひいては聖書の提示する福音そのものを否定するという側面があることは否めない。彼らの唱える「救済」は、弱者の生活を改善するという地上のパンを第一の目的としてはいても、見えない霊のパンである聖書の御言葉に基づかないのである。
  
そのため、こうした聖書に基づかない、信仰を抜きにした弱者救済の思想は、それ自体が、神と教会とクリスチャンに対する異議申し立てであり、抵抗運動であり、復讐であると言える。
   
ここで思い出されるのが、ドストエフスキーの大審問官や、サンダー・シングなどの存在である。ドストエフスキーの大審問官は、聖書的な方法では人類のほんの一部しか救われないため、自分はこのような残酷で狭量な救いの代わりに、人類の圧倒的大多数を救うことのできる寛大で広い救いを作ってやるのだと述べて、教会の提示する方法では救われない圧倒的大多数のための新たな福音を提唱する。

サンダー・シングもまた、ヨーロッパのキリスト教界に接触した際、形骸化した教会生活と高慢なクリスチャンに深い絶望を覚え、こうした「自称クリスチャン」の中に神はおられないという結論に至り、それをきっかけとして、「ヨーロッパの地の塵を足から払い落とし」「貧苦に喘ぎながらも真剣に神を求めている東洋の人々へと」関心を移した。(「聖なる導き インド永遠の書」林陽訳、徳間書店、p.19。)
 
マザー・テレサや奥田牧師の場合と同様、こうしてクリスチャンを名乗りながらも、教会から打ち捨てられた人々を積極的に救いの対象とする「弱者救済活動」を行う指導者は、往々にして、従来のキリスト教界と従来のクリスチャンに対する深い絶望感、嫌悪感を心の底に秘めている。

彼らの「救済活動」は、神と教会とクリスチャンに対する絶望をきっかけとして始まっており、彼ら自身の自己救済のためであると言える。その出発から見て、必然的に、そのゴールは、神と教会とクリスチャンの「横暴」によって虐げられた者たちを、神と教会とクリスチャンの手から救うという性質を持つものとならざるを得ない。その結果、彼らは信仰による解決を退け、信仰によっては救われない圧倒的大多数のために、別の福音を作り上げるのである。
    
こうした人々の弱者救済活動は、ただ単に形骸化したキリスト教界に対するアンチテーゼであるばかりではなく、本質的に、聖書の提示する狭き門として「狭い福音」そのものに対する抵抗であり、抗議なのである。

彼らはその活動を通して、神自身の「横暴」と「偏狭な救い」から人々を救おうとしているのだと言えるかも知れない。だから、こうした弱者救済活動は、本質的には神を仮想敵としているのだと言えるのである。すなわち、神に疎外され見捨てられた「クリスチャン」が、同じように、教会に見捨てられた人々に自己投影し、この哀れな人々を「救済」することによって、自己救済を成し遂げ、さらには自分たちこそ神に等しい者であると主張することによって、自分を見捨て来た神と教会とクリスチャンに復讐を果たし、彼らを見返そうとする心理がその根底に横たわっているのだと考えられる。
 
従って、こうした弱者救済活動は、いかにうわべはキリスト教的な装いをまとっていたとしても、聖書に基づくものではなく、その支援者らもクリスチャンとは言えない。彼らの救済活動は、本質的には「神と教会とクリスチャンの唱える偏狭な救いに対する抵抗運動」なのであり、彼らが真に糾弾している相手は、彼らを理不尽な苦しみに遭わせ、見捨てて来た神ご自身なのである。
  
従って、神を隠れた仮想敵としているこうした活動に関わると、たとえクリスチャンであっても、結果として救いを失うことは避けられない。どんなに人の耳に優しく響いたとしても、聖書の福音そのものに対して異議を唱えるこの活動に関わることは全く勧られない
  
  



5. アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による危険な「弱者救済活動」
~弱さに居直り、被害者意識と自己正当化に溺れ、欲望に歯止めが利かなくなる信者~

  
さて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、すでに述べたように、社会的弱者やマイノリティに接近しては、これを積極的に信者に取り込んで来たため、今や教団内には、社会的弱者が溢れるようになった。

さらに、同教団は、こうした社会的弱者やマイノリティの「負の過去」を積極的に伝道の材料として利用して来たので、今や教団内では、元統一教会員や、元ヤクザであることは、何ら恥ずべきこととはみなされず、むしろ、普通の信徒らには欠けている稀有な経験や希少な価値であるかのようにみなされ、歓迎されるようになった。

同教団は、このように社会的弱者やマイノリティを美化して盛んに受け入れるだけでなく、大規模な「カルト被害者救済活動」を推し進め、平和な信仰生活を、弱者救済のための手段に変えて来た。その過程で、キリスト教界につまずいて、キリスト教界に根強い恨みや不満を持つ信徒らを積極的に集め、カルト被害者を「救済」するという口実で、彼らの憎しみや怨念を利用して、既存の教会に争いをしかけて来たのである。

その結果、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、社会的弱者とマイノリティとキリスト教界に不満や憎しみを持つ者たちの「天国」のようにまでなった。
 
同教団では、平和的な信仰生活を送ることよりも、弱者救済を口実に、キリスト教界を絶え間なく非難して、教会やクリスチャンを相手に恒常的に争いに生きることこそ、信仰生活であるかのようにみなされ、争いが第一義的課題のようにまでなったのである。
 
だが、同教団の推進する「カルトとの闘い」は、当初から予想された通り、内ゲバや外ゲバのような泥沼の闘争へと発展し、あらゆる教会や信徒に対する無差別な迫害へと様変わりした。その活動はキリスト教とキリスト教界そのものに対する破壊運動のような様相を帯びて行ったのである。
 
こうした状況を考慮すれば、もはやアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団そのものが、聖書の神と教会とクリスチャンに敵対する者たちの要塞となり、キリスト教界全体に戦いを挑むことを第一目的とする極めて危険な集団になっていることが分かるであろう。
  
教団の誤った非聖書的な教えのために、教団の信徒らも、深刻な悪影響を受けた。 同教団からは、一方では、被害者意識に溺れ、弱さを武器にヤクザのようにクリスチャンを恫喝しては、身勝手な利益をほしいままに引き出す「信者」が生まれたかと思えば、他方では、怪しい非聖書的な霊的ムーブメントに欺かれた結果、偽りのメッセージを盛んに述べ立てては信徒を惑わせ、最終的には呪いや滅びの予告を捨て台詞に立ち去って行く破壊工作型の「信者」も生まれた。(Br.Takaなどは後者の顕著な例である。)いずれの場合も、彼らの真の目的は、信徒らの交わりを私物化して破壊し、兄弟姉妹に深刻な害を与えることにある。

私が関わっただけでも、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に深い関わりのある信者たちは、例外なく深刻なトラブルメーカーであった。デリラがサムソンに誘惑をしかけたように、彼らは自らの弱さを武器に、、自分よりも強い者を脅し、非難しては、罪意識を抱かせ、自分の前にひれ伏させ、謝罪させることに、至上の喜びを見いだしているようであった。
 
統一教会を脱会してアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団へ転籍するというカルト被害者救済活動のお決まりのコースを辿ったある信者は、兄弟姉妹の交わりを求めているように主張していたが、途中から、自らの切迫した生活状況を赤裸々に告白し、交わりを自分の個人的な必要を訴える場へと変えてしまった。そして、兄弟姉妹に具体的支援を求めて懇願を重ね、同情を勝ち得て、身内や信者から総額何百万円にも及ぶ借金を重ねることに成功した。だが、それほどまでに手厚い支援を受けながらも、彼はそれを有効に生かすことができず、次々と事業に失敗した挙句、最後には、自分に十分な同情を示してくれないクリスチャンを冷酷だと非難し、非クリスチャンの方がよほど同情的で信頼できると捨て台詞を吐いて立ち去るのであった。それなりの年齢で、家庭もきちんとありながら、常にクリスチャンに自分の生活改善などの必要のために利用することしかできず、幾度にも渡り手厚い支援を兄弟姉妹からむしりとったその後に、クリスチャンは信用ならないと捨て台詞を吐いて立ち去るのだから、始末に負えないとしか言いようがなかった。
 
こうした信者らを観察した結果として言えることは、彼らは従来の教会とクリスチャンに対する根深い恨みと被害者意識を心に抱えており、それゆえに、たとえ表面的には真の信仰や交わりを求めているように見えても、実際には、兄弟姉妹を自分に都合よく利用したり、身勝手な理由で非難しては懺悔させたり、精神的・物質的に搾取して損害を与えるような有害な形でしか関われないということであった。
 
どのように説得しても、彼らは自分たちの抱える問題を解決できるお方は神であり、ただ神だけに頼って自らの必要を供給してもらうことの方が、人に頼ることに比べ、はるかに安全な方法であることを信じようとはしなかった。また、兄弟姉妹がどれほど彼らに同情を注ぎ、支援を行なっても、彼らを教会やクリスチャンに対する被害者意識から逃れさせるのは、人の力では無理だという事実が判明するのである。

そこで、結論として言えるのは、このような「信者」を相手にしても、クリスチャンには損失以外、何も得られるものはないということである。彼らを被害者意識から立ち直らせるのは神の仕事であって、人の仕事ではない。同情はかえって恨みを増長させるだけで、あだにしかならない。そもそも兄弟姉妹の交わりを第一目的にしておらず、教会を自分の必要を訴える場と誤解している人々をクリスチャンが受け入れても、信仰的に結ばれる実は皆無に等しい。
 
さらに悪いことには、彼らは弱者に偽装しているだけで、本当の意味で手を差し伸べられるべき弱者ではなかった。よく観察してみれば、彼らが本当に困窮している人々に比べて、実に多くの富を手にしていることが分かる。だから、彼らは単に自分の弱さを巧みにアピールの材料として利用し、都合の良い利益を得るために、クリスチャンに接近しているだけだと分かるのである。 
  
しかし、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者にはあまりにもこの手の信者が多かった。 
このようなことが起きる背景には、すでに述べて来た通り、同教団が推し進めて来た誤った人類(弱者)救済思想が深く影響していることは否めない。同教団は、教会と信仰生活を、人が神に従う場ではなく、人が神を利用して自分の欲望をかなえる場所へと変えてしまったのである。

その結果、同教団の誤った教えに影響された「信者」らも、信仰生活とは、信者が聖書の御言葉に服し、見えない神に従い、見えない神を喜ばせるために送るものではなく、目に見える人間である自分自身を喜ばせ、己の欲望を満たす場であり、堂々と自分の必要を声高に主張して、兄弟姉妹をその欲望をかなえる手段として利用しても構わないという誤解に陥って行ったのである。しかも、彼らにとっての「神」とは、どうやら、聖書の見えないまことの神ではなく、社会的弱者である自分自身を指しているらしい。

このようにして「社会的弱者」であるがゆえに、自分自身を正当化し、被害者意識と、自己陶酔に陥り、自分を「神」のようにまでみなしてしまった人々は、もはや恥も外聞も罪の意識もなく、途方もない厚かましさで、兄弟姉妹の交わりを自分の欲望をかなえるための手段として利用する。その挙句、自分の願いに沿わない兄弟姉妹を容赦なく罪定めして退け、最終的には、信仰を持たない人々のうちに神がおられると言って、教会とクリスチャンに背を向けて、信仰者の目の前から立ち去って行くのである。
 
余計なお世話ではあるとはいえ、こうした人々が、たとえ教会とクリスチャンの冷酷さを非難して、教会に背を向けて、信仰を持たない人々のもとへ逃走したとしても、常に他人を利用して同情と支援を乞うばかりで、自分の人生に対して何ら自分で責任を負うことのできない無責任で甘えに満ちた態度では、その後も、正常な人生を送ることはできないであろうと思う。最初は気前よく同情し、支援を与えてくれた人々も、何度も同じことが繰り返されるうちに、本質的な原因がどこにあるのか見抜いて行く。

本質的な原因は、その人自身の信仰の欠落にある。神ご自身に頼って生きる秘訣を学ばない限り、彼らは人の助けや理解をどれほど得たとしても、結局、それを有効に生かすことができず、同じ問題が延々と繰り返されるだけに終わるのである。
 
だが、こうした無責任で甘えに満ちた信徒を大量に生んだ責任はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にある。同教団は、社会的弱者をさかんに美化することにより、彼らを自己陶酔に陥らせて、罪の悔い改めの機会を失わせた。そして、信者が自らの弱さゆえに、自分は清いと考えて己を神に等しいものとみなして自己の欲望を正当化し、他の教会やクリスチャンを見下しては、被害者意識をバネに、彼らを自分の利益を引き出す道具とすることを積極的に奨励して来たのである。
 
聖書がすべての人間は生まれながらの罪人であると教えている以上、たとえ社会的弱者であっても、神の御前に己の罪を否定し、御言葉に服さず、御手の下にへりくだることをしないならば、その人の末路は悲惨なものとなることは避けられない。

たとえ理不尽な苦しみを通されることがあったとしても、すべての人は神の御手の下にへりくだらなければならない。神こそ、人の弱さと苦しみをすべて理解し、人に必要な支援を与えて下さる方である。どれほど兄弟姉妹に失望することがあっても、性急な復讐に走らず、人に助けを求めるのではなく、忍耐強く神だけを待ち続ける態度がクリスチャンに求められている。
  
もし神を畏れることが知恵の初めならば、神を否定することは精神崩壊の始まりである。神は信者の内側には住んで下さっても、信仰を持たない社会的弱者のうちにはおられない。にも関わらず、社会的弱者を「神」のように美化し、人が己の欲望を成し遂げることを「救済」とみなし、福音からほど遠い非聖書的な活動を推し進めるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、決して関わらないことをお勧めする。

「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、
多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。
かれらの 思いは地上のことだけです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のかたらだと同じに変えてくださるのです。」(ピリピ3:18-21)


正義の仮面を被り、無実の教会とキリスト教徒を迫害する村上密氏の活動の危険④

<伝道師の書簡 後半>

 今回の騒ぎに関する今までの経緯は以上ですが、派遣されて1年半ほど我々が経験して来たことを思いつくままに挙げますので何かの参考になさって下さい。

 先ず、生活環境に関してですが一番驚いたのは風呂がないという事でした。一年目は教会員に銭湯を経営しておられる方がおられましたので、その方の好意により、無料で入らせていただいておりました。ところが、昨年末にこの銭湯は廃業になり、我々は急遽、他の銭湯に行くことになりました。教会員のところではありませんので、⑭勿論自腹です。毎日ということになると正直、経済的に苦しいですので週に二三回になります。しかし冬場などはそれでいいのですが、夏場はそういうわけにはいきません。毎日入らないと大変ですので経済的には大変です。夫婦二人ですからそれでも我慢します。⑮しかし、子供が与えられたらどうすればいいのでしょうか。新生児を連れて銭湯に行くのは困難と思われます。

 勿論、伝道者ですから経済的な戦いも覚悟の上ですし、「あらゆる境遇に処する秘訣」も訓練される必要もあるのは分かります。今の伝道者は苦労が足りないと言われればその通りかもしれません。ただ、せめてお風呂くらいは自由に入りたいと願うのは贅沢でしょうか。

⑭ 私は「教会牧師館の風呂を使いませんか」と進めると、B師は「銭湯に行きます」と答えた。教会員の銭湯はその年の1月4日頃閉めた。A師への教会からの総収入を上げた。(月15万円から18万円に)

 
  (津村氏のこの反論には答える言葉を失う。これは津村氏の内心の冷淡さ、薄情さ、思いやりのなさ、想像力の欠如が極めてよく理解できる文章である。

 まず、牧師館の風呂を使うという問題は、極めてデリケートな問題であることに津村氏は想像も及んでいない。

 当時、牧師館には津村夫妻が住んでおり、伝道師は同じ教会の離れ(臨時の来客の宿泊のためのような狭い別室)を使っていた。牧師館に立ち入ること自体、伝道師夫妻にとっては津村夫婦の生活圏内に足を踏み入れることを意味し、それだけで気が重かったろう。さらに身内でもない他人同士が風呂を共有するということになると、どれほどの気兼ねがあるか分からない。

 また、不況とはいえ、今よりも給与水準はいくらか高かった当時のことであり、鳴尾教会は開拓伝道所ではなく、それなりに安定した規模の大きい教会だった。そこから見ても、伝道師の薄給には驚かされる。(B氏にA氏とは別の給与が支給されていたという事はないと考えられる。そこでこれは二人分の給与であろう。)このような中から日々の銭湯代を捻出するのは並大抵のことではないと誰にでも分かる。

⑮ まだ、この時点で子どもが与えられていないのに、想像で物を言うのは困る。もちろん役員会はそれなりに処遇していくことを考える。
 
  (ここでも、津村氏の冷淡な発言には驚かざるを得ない。「子供が与えられたらどうすればいいのでしょうか」という伝道師の言葉は、若い夫婦が子供を持ちたいと願うのは当然であるが、風呂もなく、夫婦二人でさえ狭い部屋で毎日をやり過ごすのがやっとの先の見えない暮らしの中では、その夢さえ躊躇せざるを得ないという苦しい心境を記したものである。
 二人は津村氏より若かったとはいえ、もし子供を持つとなれば、人生設計を急がねばならない年齢にあった。さらに、以下に示されている通り、B氏の妊娠という出来事もあり、子供の誕生は「想像」ではなく、極めて現実的な可能性だった。

 そのような伝道師夫妻の心境や立場を一切理解せず、子供の誕生のために準備したいという彼らの夢をただ「想像で物を言われても困る」と一蹴することしかできなかった津村氏の内心の冷淡さには、呆れるよりも、絶句するしかない。同氏がいかに伝道師夫妻の家庭が祝福されることを願っておらず、二人を人間として扱わず、単なる労働力のようにしかみなしていなかったかがよく表れている。)
 

 それから、私達が入った時、部屋のクーラーは完全に壊れていて使えない状態でした。建物の構造上の問題と西陽が差し込む関係で夏場は蒸し風呂のようになります。しかし、津村師は「先生方は〇〇(海外)におられたのだから、暑さは気にならないでしょう」ということで何の改善もされないままでした。誤解のないように付け加えますとこれは⑰昨年の話で今年クーラーは新しいものに交換されています

⑰ これは信者から「A先生はクーラーを修理してもらうんだと言っていた」と言うことを私が聞いたので、A師に尋ねた。「あのクーラーは駄目なんですか」A師が「はい」と言ったので私は会計に相談して、すぐに新しいクーラーに取り替えました。

(生活状況について伝道師は牧師に不満を言いにくい立場にある。だが、おそらく、それ以前の問題として、この時までに津村氏と伝道師との間では、日常のコミュニケーションさえ満足に取れない状態となり、伝道師は高額なクーラーの修理代のことなど津村氏にはとてもではないが言い出せない心境にあったのだろうと想像される。鳴尾の信徒は津村氏の性格をよく知っていたため、信徒の方で津村氏の配慮のなさを補おうと、橋渡し役となって伝道師の必要を探り出し、津村氏に伝えたのかも知れない。こうして信徒を介さなければコミュニケーションも取れないほどに、両者の間に溝が出来ていたことをよく物語っている。津村氏のワンマンで他人に理解のない冷淡な性格を考えると、このコミュニケーションの失敗を一方的に伝道師夫妻の側だけの責任として片づけるのは相当に無理があろう。)


 もう一つ、気になるのが郵便物のことです。私達の専用のポストはありません。従って、教会に来るすべての郵便物は津村師がとることになります。それは構わないのですが、よく私達に来たものも間違って持っていかれることがあります。時には封を開けられてしまうことも頻繁です勿論、悪気はないのは分かりますし、わざとではないことですから仕方のないことなのですが、それでもいい気はしません。プライベートな手紙もありますし。一度我々の玄関にポストをつけてもいいだろうかとご相談しましたが、断られました。理由は分かりません。

⑱ 私は2~3回開封してからA師の物であることに気づき、返すときに謝った。

(これも津村氏サイドからの相当に配慮を欠く対応である。他人宛ての郵便物を誤って開封すれば、謝るのは当然である。もし、故意に開封したならば、犯罪になりうる。津村氏が誤って伝道師宛ての郵便物を開封してしまったと気づいたときに、ポストを別々に分けておかなかったことや、その提案がなされたのに断ったという出来事を通して感じられるのは、津村氏が伝道師夫妻をまるで自分の子供か、私物や、小間使いのようにみなしており、二人のプライバシーを確保する必要性を全く感じていなかったということである。)


 結局のところ、これらの一番の問題は、教会の建物の中に二世帯が住んでいるということです。普通でも親子で同じ家に住むのは大変なことで問題が生じますが、他人と一緒に住むことはもっと大変なことと思われます。設備がそれなりに整っているならいざ知らず、⑲単に経済的にもったいないという理由のみで住まわせられているのが実情です

⑲ AB両師が赴任したとき、私は「少し狭くて悪いね」と言ったら、「私たちは学校の寮に住んでいたので大丈夫です」と答えた。私はそれを聞いて安心していた。ところが実はそうではなかったのがこの文章で分かった。

(津村氏のこの反論は、赴任直後の伝道師の発言を言い訳にしているに過ぎない。その後の二人の生活状況を一度でもきちんと自分の目で確認していれば、そのようなことが言えたかは分からない。同氏は部屋の狭さを予め知っていたのだから、それを耐え忍ぶよう要求するのでなく、状態改善の努力をすべきだった。ちなみに、この手紙では、風呂とクーラーのことしか触れられていないが、設備の不備はそんな程度にはとどまらなかったと思われる。十分な料理のできる台所や食事場所の欠如を考えれば、二人の生活の苦労は並大抵ではなかっただろうと想像される。)

 あと働きの面で気になることも幾つかあります。さきにも書きましたが、月に一二度打ち合わせのときがあります。津村師はその際、我々に「毎日の予定を朝・昼・晩書いて提出しろ」と言われます。私達もおっしゃられる通りに提出してきましたしかし、こちらの予定や、都合も考慮には入れてくれることもなく、途中で急な仕事が入ることがしばしばで予定表の提出は余り意味がありません勿論、予定は未定ですし、臨機応変に動くのも当然ですから急な用事に当たるのは構いません。しかし、あまりにも朝令暮改な事が多く正直振り回されます。これでは予定表をわざわざ提出する意味があるのでしょうか。一生懸命、集会の為にメッセージを用意していたら、㉑当日になって何の予告もなく急に津村師が奉仕されることもありました

⑳ A師に何か頼むときに、先生のスケジュールを知っていないと困るので書いてもらっていた。何かを頼むときは「A先生、都合はいいでしょうか」と尋ねて奉仕を依頼した。

(津村師はこの反論でも話をすり替えて答えている。ここでは津村氏の仕事の依頼の仕方の表現が問題になっているのではなく、同氏による伝道師への過剰なスケジュール管理と、朝令暮改なスケジュール変更が問題にされているのである。朝・昼・晩と日に三度も予定表を提出させることが自体が、ブラック企業やカルト団体を思わせる行き過ぎた管理であり、人の自由を過度に縛り、拘束しようとする行為だと言われても仕方がない。

 しかも、そのようにまで相手の行動の予定を綿密に報告させ、把握しておきながら、相手の予定に十分に配慮せず、一方的な変更を迫ることを繰り返すわけだから、予定表の提出の要求自体が嫌がらせと受け取られたとしても不思議ではない。)


㉑ 私は自分の奉仕だと思い込んでいたが、A師の当番であったのを忘れてメッセージをしてしまった。申し訳なかった。後で謝った。

(ここでも津村氏の反論は的を外れている。伝道師には日に3度も予定表を提出させておきながら、自分は説教の担当という最も基本的な予定の確認作業さえ十分でなかったのである。まずはその不公平をかえりみて恥じるべきであり、謝罪するしないの問題ではないのである。)

  また、休みに関してですが、一応打ち合わせでは月曜が基本的には休みということでした。しかし、月曜日は教区会は勿論のこと、地域の超教派の会議やイベントなどで休めないことが多いのです。月に一度、休めればいいほうで実際は㉒休みが全くない月のほうが多いくらいです。正直、疲れとストレスがたまり限界の状態です。何とか改善できないものでしょうか。

㉒ 月曜日が4週とも仕事になったのはそう多くはない。

(この津村氏の反論にも呆れるばかりである。まるで休みが取れないのは当然であり、休日を全部返上させたわけでもないのに、大げさに騒ぎすぎだ、とでも言いたげである。
 
 津村氏には、返上させた休日の代わりに代休を取らせるという考えもなかったのだろうか。月に1日程度の休日さえままならないとなれば、もはや過労死の危険さえある。この状況を異常と考えなかった津村氏には絶句する他ない。

 日に3度の予定表の提出と言い、週休1日さえ成り立っていない点と言い、ブラック企業顔負けの統制ぶり、酷使の実態が浮かび上がる。カルト団体とのそしりを受けても弁明はできないであろう。)


 説教に関しましても、文句がつけられるのはB師だけではありません。㉓私の説教も打ち合わせのたびに何回か批判されています勿論、ベテランの津村師からすれば私の説教に至らない点があるのは当然でしょうし、分校で「説教学」を教えられている程の先生ですので未熟な点は認めますし、ご批判は甘んじて受けます。しかし、こうすればもっとよくなるなどの具体的アドバイスがあるならともかくただの批判だけなら気が重くなるのも事実です。月に一度でも私に講壇を譲るのもかなりの抵抗がおありなのでしょうか。私の説教の後はいつもお機嫌が悪いのはこちらも分かります。

㉓ 私の記憶では1~2回指摘したことがある。

(これも津村氏がいかに伝道師夫妻を同労者として、また自分の後継として尊重していなかったかがよく分かる出来事である。同氏はB氏の説教の際には初回から「異端疑惑」を持ち出して厳しく叱責し、A氏の説教にも上から目線でケチをつけるばかりで、二人の説教に温かい励ましや、率直で謙虚な応援の感想を送ることがなかった。
 
 それどころか、津村氏は、まるでA伝道師が説教することによって、自分が出番を奪われ、存在を脅かされるかのように、苛立ちと焦燥感を募らせていた。男性の伝道者に対してもこうした反応しか示せないのだから、まして女性伝道師の説教を謙虚に聞くことが同氏にはどれほど耐えがたかったかは想像に余りある。

 津村氏には、自分が講壇に立って会衆を教えたいという欲求はあっても、自分も会衆や信徒の一人として、同僚の説教に謙虚に耳を傾け、そこから何かを学ぶべきだという考えは全くなかったのだろう。そもそも同氏には、自分が人を教えることはあっても、自分が謙って人から何かを教わるなど考えられないことであり、人に教えられること自体、我慢がならなかったのだろうと思う。

 まるで初代教会時代の律法学者やパリサイ人を思わせる高慢である。このような人には、「なぜ、人を教えて自分を教えないのか。」(ローマ2:21)というパウロの言葉が最もふさわしい忠告であろう。)


 今から申し上げることは理事会がどこまで把握しておられるのか分からないことなのですが、㉔今年の教会総会において急に教会主導で大阪市内の阪神沿線に開拓伝道を始めたいという話が出てきました。全くの寝耳に水で私たちにも役員にも聞かされていないことでした。そこには老夫婦と一姉妹の家族が住んでいるのですがまだまだ群れが形成できるような状態ではありません。一度は物件が見つからないのと、信徒の理解不足?ということで開拓も諦められたようでした。ところが最近、またも開拓のために物件を探しておられるようなのです。㉕私達としては何故、この時期に開拓なのかと理解しがたいところです。勿論、開拓の働きは大いに奨励されるべきですし、信仰的ともいえます。ただ何故、この時期なのかと言う点で疑問が残るのです。現在、鳴尾教会にそこまでの財政的裏づけがあるとも思えません。津村師への退職金、新しく会堂建築するための財源の確保等を考えると余りにも時期尚早な感じがします。もし、㉗津村師夫妻が開拓伝道という名目で引退後の住居を教会の財源から捻出しようとしておられるならばこれは明らかに教会会計の私物化と批判されても仕方のないところです。私達の取り越し苦労ならよいのですが。〇〇教会の前例もありますし、気になります。もし津村師が役員会の反対を無視して開拓に乗り出そうとした場合、教会秩序上、我々はどうすればいいのでしょうか?

㉔開拓伝道については、まず役員会で提案して決めた。役員記録に残っているので、A師の指摘は間違っている。

(ここでの津村氏の反論は事実としては正しいかも知れないが、その役員会さえも形骸化していたことを考えると、開拓伝道の話は十分に議論されて決まったとは言えない。津村氏はたとえ役員相手であっても、物事を十分に説明して、同意を得てから事を進めるということがなかったため、いつものように十分な議論がないまま、津村氏の鶴の一声だけで話が進んでいった可能性が十分にある。)


㉕ 千舟の家庭集会の責任を持っている姉妹かが、「千舟に教会がないので教会が欲しい」と言うので、私は建物などについて検討した。ある時、A師に開拓伝道のことを尋ねたら、「私は出来ません」と断った。私は同労者(A師)が反対するので開拓伝道推進が消極的になった。

(ここでは、津村氏が自ら提案した開拓伝道の実行を伝道者任せにしようとしていた姿勢が浮き彫りになる。もし信念を持って提案したことならば、津村氏には伝道師に反対されても一人で実行するほどの決意があってもおかしくなかった。ところが、伝道師が賛成しないと早々に諦めてしまうところを見ても、この提案は、どちらかと言えば、津村氏が信徒の要望に流されて行っただけのものであり、深い信念の裏付けを持って発せられたのでないことが分かる。)

㉖ 何の財政的根拠を持ってこの発言をするのか示して欲しい。私は財政的根拠があって考えていた。

(この津村氏の反論から推測されるのは、千舟に教会が建てられるなら、建設資金を提供しても良いなどの提案が信徒の側から行われたかも知れない等のことである。

 だが、仮にそのような話があったとしても、財源の問題は極めて重大であるから、津村氏は自分が把握している「財政的根拠」とは一体、何なのか、具体的な詳細を伝道師によく伝えて、予め教会内できちんと議論すべきだったろう。

 しかし、いつものごとく、津村氏はこうした具体的な詳細を自分の方からは何も明かそうとしないまま、周囲の人々が不安や憶測の中で行動するしかない状況を作り出し、そうしておきながら、人々が憶測でものを言っているだけだと非難するのである。)

㉗ 何の根拠があってA師はこういう事を言うのか判断に苦しむ。

(ここでの伝道師の発言も、津村氏の無責任であいまいな言動が引き金となって起きている。津村氏自身が自分の引退について何ら明確な発言をしないために、津村氏の引退後の住居等の確保の方法について、教会内で公にきちんと話し合うことがはばかられる状況(そもそも津村師の引退について話し合うこと自体がタブーであるような教会の雰囲気)が作られ、この問題については誰もが憶測でしかものを言えない状態となっていた。

 ちなみに、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団では、ひと昔前、牧師たちは教会に定住せず、一定期間が過ぎると、別の教会へ移動しなければならない決まりになっていたという。そこで、一つの教会にずっと同じ牧師家族が住み続けて、教会が牧師の「終の棲家」になることはなかった。さらに、その当時は教会の規模もそう大きくはなかったので、牧師が信徒からの献金だけに依存して暮らすのは困難で、副業によって生計を成り立たせる例は珍しくなかった。

 ところが、同教団ではそのような制度がいつの頃からかなし崩しになり、牧師たちは教会から移動することを拒むようになり、さらには教会が一定の規模に達すると、牧師家族全員の生活費が、教会会計から捻出されるのが当然の習慣となった。その頃から、教会はあたかも主任牧師の私物や財産のようにみなされるようになって行ったのである。

 だから、「教会会計の私物化」という問題は、津村氏に限ったことではなかったのだが、まだこの当時は、そのようなことを恥ずべき習慣とみなして忌避する空気も少しは教団内に残っていたと見える。

 こうして、教会が牧師のための「終の棲家」とみなされるようになり、牧師の引退後も、教会が一生彼を支えなければならないという暗黙の慣習の圧力に加え、津村氏自身がどのような引退後の生活プランを思い描いているのか、自分からは何も明かさないという不透明さから、開拓伝道という名目で新たな教会を作ることは、津村氏の引退後の生活の確保の一環なのではないかという憶測が生まれるのは不思議ではなかった。新しい教会が生まれることは、その教会にはどの牧師が住むのかという問題と直結していた。

 実際、鳴尾教会にはスペースの問題だけを取っても、いつまでも牧師と伝道師の二世帯がそこに住み続けるのは無理であることは明白であった。そこで、伝道師には、突然、降って湧いたような開拓伝道の提案は、「開拓伝道を成功させて私たちの引退後の住居を確保してくれれば、鳴尾教会はあなたたちに譲って私たちは移動してもいい」という津村氏からの暗黙の提案のようにも受け取られたのだろう。

 だが、そうなると、問題になるのは、新たな教会にはただ会堂(土地と建物)だけでなく、牧師家族の生計を支えるための財源が必要だということである。十分な信徒数が確保されていない開拓伝道からの出発だと、その財源を捻出できるとは言い難い。

そうすると、津村氏への退職金に加え、同氏の引退後の生計を支えられる財源は、鳴尾教会の会計しかない。伝道師はそのように教会にとって半永久的に重い負担となりかねない不確かな提案を実行に移すわけには行かないと判断したのである。)

㉘ 私は役員会の反対を押しきって進めたことは一度もない。そんな事が出来ると思っているのか。私は退職金のことを一度も役員会に相談したことがない。こんな事実でないことを想像して牧師を批判するとは、伝道師のすることだろうか。大きな問題である。

(ここでの津村氏の反論も当たらない。何度も述べて来たように、津村氏の圧倒的な説明不足がいつも原因となって、周囲はその説明のなさを「想像」で補いながら行動するしかない状況に追い込まれたのである。役員会は、津村氏のワンマンぶりに引きずられて、ものが言えず、機能不全に陥っていた。そもそも津村氏が全く議論のできない人だったので、同氏とは誰も複雑な要件についてきちんと話をすることができず、十分に物事を審議するための土台そのものが存在していなかったのだと言える。

「退職金のことを一度も役員会に相談したことがない」と津村氏は反論しているが、それこそが、極めて深刻な問題なのである。牧師が自分の退職金や、引退後の生活プランについて、自分は何を望んでいるのか、何ら意見表明もせず、教会全体にとって極めて重要なこの問題に何の明確な指針も示さないからこそ、信徒の側は常に不安な状態に置かれ、憶測でしか行動できなくなっているのだということに津村氏は考えが全く至っていない。

 役員の方では、このようなデリケートな問題を自分から提起して牧師に返答を迫るわけにはいかず、さりとて四十年近く牧会した牧者に退職金を払えず引退後の住居の世話もできないと断るわけにも行かず、退職金の問題を持ち出すこと自体が、あたかも牧師に引退を迫っているかのような印象も与えかねないという恐れもあり、何よりも、津村氏自身は一体何を願っているのか全く分からない中、何を解決として持ち出すべきかも分からず、ただこの問題を心の重荷として抱え続けていたのである。

 つまり、牧師が自ら引退と退職金について全く口にしないことが、逆に、彼の意を忖度して行動せよという暗黙の要求のように周囲には映っていたが、その暗黙の要求を完全に察知して応えうる人間は誰もいなかったので、この問題は、教会全体の重荷となっていたのである。)


もう既にお聞き及びのことと思いますが、B師は昨年、流産しました。結婚六年目にして諦めていた頃に初めて与えられた赤ちゃんでした。全ては神様の御手の中にあることですが、〇〇歳を目前にした女性としてはかなりショックだったようです。それが環境からくるストレスによるものかどうか、その因果関係は分かりません。最近になって立ち直りつつありますが、退院してすぐ医師から「少なくとも一カ月は安静にしているように」というお達しを頂いているにもかかわらず、㉙津村師は退院したその日に「B先生はいつから働けますか」と本人に尋ねられるような環境では落ち着いて静養もできません。㉚静養中も因みにクーラーのない蒸し風呂の中でした。

㉙ 私は「先生、奉仕が出来るようになったら教えてね」と尋ねたのである。主管者としては当然である。

(津村氏のこの冷淡極まる反論について多くの言葉は必要ないだろう。そもそも狭い部屋で、風呂もクーラーもない蒸し風呂のような暮らし、さらに月に1日の休みさえ満足に取れない過酷な労働条件、説教を担当してもひどく叱責され、日々の行動も厳しく管理され、自由もなく温かい励ましもない生活が、妊婦にとってどれほどの負担であったかは指摘するまでもない。

 さらに子供を失った直後の女性を目の前にしても、慰めと励ましの言葉を述べるより前に、「奉仕について尋ねるのは、主監者として当然である」とする津村氏の態度には、彼の冷淡で無感覚で無慈悲な人柄がよく表れている。同氏には自分が指導者である以前に、人として他人に接している自覚がまるでない。人間的な血の通った温かい感受性が麻痺しているのみならず、普段から、B氏に対しては憎しみにも近い感情を抱いていたのではないかと推測される。

 私の記憶では、津村夫妻も子供を失った経験があり、その体験を礼拝説教で語っていたこともあったように思う。もしそうであれば、本来は、同じ苦しみを経験した者として、他人の痛みに対する同情や、温かい励ましの言葉を豊かに持っていたとしても不思議ではない。

 
 もし津村氏が普段から人としての思いやりに満ちた態度を取っていれば、B氏の退院後、同氏が奉仕について投げかけた質問が、心無い仕打ちと受け止められることもなかったであろう。

 だが、津村氏は自らの冷淡さを指摘されても自己正当化に終始するだけで、相手の痛みに気づいてやれなかった自分の心無さを悔やむ気持ちは皆無である。
 
 そんな同氏が、B師の流産をきっかけに、自ら伝道師夫妻に強いた過酷な生活、伝道師に与えた過度なストレスなどに思いを馳せて反省するはずがないことは明らかであった。

 津村氏は伝道師夫妻を人として扱わず、単なる労働力、下働きとしかみなしていなかった。彼らの人間としての幸福のことなど、どうでも良かったのである。)

㉚ なぜ、クーラーが故障していることを牧師に言わなかったのか。これは被害者意識の強い文章ではないか。

(ここでも、津村氏は、伝道師とうまくコミュニケーションが取れなかった責任を伝道師だけに押しつけている。だが、たとえ伝道師が自ら言い出さなかったとしても、もし一度でも、津村夫妻が、静養中のB氏を見舞うために彼らの居室を訪問していたならば、クーラーの故障に気づかなかったはずがない。つまり、津村師夫妻は、同じ教会に住んでいながら、AB氏の生活の場を一度も訪れたことがなかったと見られる。これも津村氏夫妻の他人への極度の冷淡さ•無関心さをよく表す事実であると言えよう。

 にも関わらず、「被害者意識の強い文章だ」という津村氏の弁明には呆れて笑ってしまう。しかも、これはプロテスタントのキリスト教界の牧師たちの不祥事を告発し、教会のカルト化を憂い、被害者となった信徒らを「救済する」という名目で、「カルト被害者救済活動」を繰り広げている村上密氏の義理の父の言葉なのである。

 これが、カルト被害者を救済すると言っている人たちにふさわしい言葉なのであろうか。他の牧師たちの悪事だけは厳しく告発しておきながら、いざ自分たちの冷淡さが咎められる段階になると、たちまちそれを他人の被害妄想だと言い訳して、無責任に逃げを決め込むつもりだろうか。そんな彼らがどうやって被害者を理解し、助け、「カルト被害者救済活動」など行えるのだろう。他人の被害者意識を否定するならば、信徒の被害者意識を利用して自らの儲けの手段とするなどナンセンスである。そんな活動はさっさとやめればいいことである。)


  私も昨年の赴任してすぐの五月以来、痛風にかかっています。今でも時々足の指に激痛が走ります。医者の話ではアルコールを飲まない人が痛風にかかるケースで、しかも若い人の場合は十中八九、ストレスが原因だろうとの診断でした。しかし、㉛津村師は事ある度に「病気にかかるのは健康管理がなっていないせいだ」とか「不信仰だ」とか申されます

㉛ 私は「健康管理は自分でしないといけないですよ」と強調したのである。「不信仰」などと言った覚えはない。信徒に対してもそういった事は一度もない。

(津村氏が「病は不信仰の産物だ」とする考えを持っていたかどうかまでは記憶にないが、少なくとも、はっきり言えることは、週に1日の休みさえ十分に取れない過酷な労働条件を押しつけておきながら、「健康管理は自分でしないといけないですよ」などと言って、健康状態の悪化をただ労働者側の自己責任にして終わらせようとするのは、カルト団体やブラック企業の屁理屈だということである。

 若い人が痛風などという病気になった時点で、労働・生活環境から来るストレスを津村氏は疑うべきであったが、そうなってもまだ環境の改善について全く思いを馳せなかったことは、同氏の呆れ果てるほどの冷淡さ・残酷で無慈悲な性格をよく表している。)


   私達二人の共通の感想としては長年、伝道牧会で苦労しておられる方であるはずなのに何と温かみがなく、人の痛みの分からない先生なのだろうかと嘆かわしく思います。

(全く同感である。長年、津村氏を知っている者であっても、反論の言葉がない。ちなみに、このことは、津村氏の娘である恵子氏にも同様にあてはまる。津村夫妻は、人として様々な痛みを経験して来ているはずなのに、驚くほど思いやりや、感受性や、愛情に欠け、他人の痛み苦しみに対する基本的な共感能力、自分とは異なる立場に置かれている人々の心中や境遇を理解する配慮や想像力が決定的に欠けているのである。

 その結果として、彼らには何かしら恐ろしい感情の硬化、感情の抑圧が起きており、特に、他者の痛みに対しては、全くと言っていいほど冷淡・無慈悲・無感覚な態度を示すのである。
 ただ人の痛みに無感覚であるだけでなく、さらに進んで、一旦、自分の配下に置かれた人間であれば、永久に痛めつけて苦しめようとするサディスティックな願望さえ見られると言って差し支えなかった。)


  以上のような話から理解いただけますように津村師と我々の関係は消して良好とはいえません。思うに津村師が我々をやめさせたい二つの理由も具体的な理由というよりはむしろ、津村師自身の感情的な部分が大きいと思っております

  勿論、我々が未熟な点、人間関係での歩み寄りが足りなかった点などはあると思います。努力が足りないと言われればその通りかも知れません。しかし、これが私達の体験してきた偽らざるところです。今後における、教団の継承問題について、何かの参考にしていただければ幸いです。

 
㉜ 決して根拠のない感情的な理由からではない。私は私個人の問題としてではなく、今後の教会のことを考えて、A師を後継者と判断できなかった。

(津村氏はここでAB伝道師を「後継にふさわしくない」と判断したことは「決して根拠のない感情的な理由からではない」と述べているが、その割には、津村氏の反論全体を読んでも、同氏の主張の正当性を裏付けるだけの具体的で信憑性のある「根拠」は何も示されていないのである。

 さらに「今後の教会のことを考えて」そう判断したと津村氏は述べているが、事実は逆で、同氏がこのような判断を下したためにこそ、津村氏自身も引退へ追い込まれる羽目になり、鳴尾教会はその後も長年に渡り続く混乱に突き落とされたのである。それでも、津村氏はこの決断が「今後の教会のことを考えて」行われた正しいものであったとあくまで主張し続けるつもりなのであろうか?

 おそらく、ここで津村氏の言う「教会」とは、信徒らのことではなく、津村氏自身のことを指しているのに違いない。

 津村氏の言う「今後の教会のことを思って」とは、「今後の自分のためを思って」と同じ意味なのである。津村氏はおそらく、自分自身を鳴尾教会と同一視していたのではないか。彼にとって教会とは信徒の総意によって作られるものではなく、ただ同氏の意志だけによって成り立つべきものと見えていたのではないだろうか?

 「今後の教会のことを考えて」津村氏は、AB伝道師を鳴尾から追放した。「今後の教会のことを考えて」、津村氏と村上氏サイドは、後任の山田牧師夫妻も鳴尾の後継者にふさわしくないと判断し、異端者の疑惑をかけて中傷し、追放を試みた。「今後の教会のことを考えて」、彼らは鳴尾教会がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離脱を決めた際、これを全力で阻止し、裁判までしかけ、教会をとことん弱体化させてでも、自分たちの手中に取り戻そうとしたのである。

 このような津村氏+村上氏サイドの鳴尾教会への異常で偏執的なこだわりは、津村氏が永久に鳴尾の牧者でい続けたいと願っていたために生まれたものだしか思えない。同氏はこの教会を誰にも譲り渡すつもりがなく、鳴尾教会と自分自身を同一視していればこそ、引退後でさえ、同教会が自分を離れて他人の牧会に委ねられることが我慢できず、こうした一連の事件を引き起こしてでも、手元に引き止めようとしたのではないかと思われるのだ。もし、それでも教会が彼のもとに戻って来ないというならば、いっそ消滅させてやりたい。村上密氏はそんな津村氏の心中を理解し、彼の意向を受けてそれを暗闇で忠実に実行に移せばこそ、鳴尾教会に今日に至るまであらゆる卑劣な方法で打撃を与え続けて来たのである。

 ここには何かしら理屈を超えた空恐ろしい執念、まるで霊的「呪縛」にも等しいしがみつきが感じられる。一体、もし地獄からの影響力でないなら、そんな執念がどこから生まれて来るだろうか。)



  以上のことを踏まえて今後の教団の後継問題に関して個人的な提案をさせて頂きたいと思います。勿論、個々の事例はケースが違うでしょうしどこまで適用できるか分かりませんが。

 先ず、前任者がいつ引退なさるのか定かではない場合は、簡単に後継者を派遣しない方がよいのではないかと考えます。というのは若い伝道者を入れることで牧師はますます仕事が楽になり、自分はまだまだやれるという気持ちを起こさせ引退の意志をにぶらせます。㉝(私たちの派遣以来、津村夫妻はセミナーだ大会だ海外だと教会を留守にすることが多くなりました)下手な派遣は無用な延命措置にもなりかねません。それならば、気力と体力が続く限り納得の行くまで、ご自分一人でなされた方がよろしいのではないでしょうか。勿論、その結果、教会の教勢が下降線をたどることは十分考えられますが、それくらいのリスクはご自分の責任ですからやむなしとするべきです。それでも大教会は底力がありますから、牧師が変わった時点で教勢を盛り上げるだけのエネルギーはあると信じます。

㉝ 私はA師が赴任するずっと以前から、セミナーや大会に出席していた。また、海外旅行をしている。

(この津村氏の反論も的を外れている。伝道師夫妻に月1日の休みも満足に取らせずに、自分たちだけセミナーや海外出張に行っていたことが問題なのである。そんな暇があるならば、教会内奉仕を手伝うべきであった。さらに津村氏がこうして出席していた大会やセミナーも、当時、教団が積極的に後押ししていた「ベニー・ヒン ミラクルクルセード」のような怪しい非聖書的なムーブメントだったのだから、それは教会に益をもたらすはずもない、無意味でむなしい活動であった。)

㉞ 大変非礼な発言である。

(伝道師の主張は、確かに思い切った発言ではあるが、彼らが当初は津村氏の引退を条件に鳴尾に招かれたのに、津村氏によって使い捨て雑巾のように粗末に扱われ、約束を裏切られた上、密室で異端の嫌疑までかけられて悪者扱いされて追放されようとしている心境を思えば無理もないことである。
 
 残念ながら、鳴尾信徒の方でも、津村氏の引退に関しては、伝道師と同じように感じていた。すでに述べた通り、信徒らにとっても、津村氏が一向に引退する意志を示さないことが、相当な重荷になっていたのである。鳴尾には若い後継者の育成が必要であり、そのために、津村牧師の適宜引退が望まれていたのに、津村氏だけが、その要求に耳を貸そうとせず、いつまでも自分は講壇に立ち続けたいと願い、それが可能だと信じ切っていた。

 高齢になっても自分の限界を自覚することもなく、信徒らの要望には全く耳を貸そうともせず、全ての課題は自分以外の者に押しつけ、ただ周囲に一方的に自分に従うように求め、後学が来ても潰し、誰にも道を譲ろうとしない。そのような牧師に対しては、どうぞ気が済むまでお一人でやって下さい、という言葉の他に、かける言葉はない。

 非礼なのは、津村氏の方である。常に村上密氏を利用しては、重要な約束を証拠も残らない密室で相手に伝え、その約束さえ裏切って、教会に派遣されて来た伝道師を自分の雑用係のように使役し、気に入らなくなったからと言って、一方的な疑惑をふっかけて悪者にして追放し、信徒らに対しても何の説明もなく、ただ自分の一存だけで行ったことを、あたかも伝道師の自主的な決断のように見せかけ、自分の本当の行いと動機をずっと隠したまま、いつまでも教会を私物化し続けようとした津村氏こそ責められるべきだということに、同氏は全く気づいていないのである。)


  第二に四人の伝道者、牧師をいつまでも雇うことは日本の教会の規模では教会の経済負担が余りにも大きすぎます。勿論、その分、伝道に力を入れて教勢をあげればいいと言うのは正論ですが、長年の伝統がある中で手かせ足かせをされ、㊱経済的裏づけもないまま青年伝道をしろ、日曜学校をしろと言われても実際は困難です。㊲出すアイデアをことごとく否定されるのではどうすればいいでしょうか

㉟ A師は何を手かせ、足かせと考えているのか分からない。

(当時の鳴尾では、誰よりも指導者である津村氏自身が、自分の作り出した旧来のスタイルを守り抜くことに最も重きを置く超保守的な態度だったので、新しい発想を柔軟に受け入れられるような素地は、教会内に形成されていなかった。信徒も高齢者が多く、新しいイベントを起こそうにも、必ず反対が起きた。このように改革を阻む伝統的で保守的な雰囲気を打破して、後から来た者が率先して組織に新しい空気を吹き込んで行くのは並大抵の苦労ではない。)

㊱ 青年伝道会計と日曜学校会計で予算を取っている。青年伝道会計はA師が預かっていた。毎月10000円の収入、SSは15000とっている。必要ならば役員会で検討して増額は可能である。このように経済的裏づけがあるのに、A師がこう発言するのはおかしい。

(上記の予算は、伝道師の一存で使い道を決められるようなものでなく、記憶によれば、青年伝道と日曜学校の現場にいる信徒らで常に話し合って使途を決めていた。そこで、これらは最終的にはA氏の監督下にあったとはいえ、それは名目だけのことであって、A伝道師の自由裁量に任された財源ではなかった。新しいイベントを起こすためには、従来の予算では足りないことが明白であるが、それ以前の問題として、津村氏は青年伝道や日曜学校の今後の展望の問題を、まるで他人事のように現場に丸投げしていたため、教会全体としてこれらをどう変えて行くのかという展望がなかった。さらに改革を拒む雰囲気もあった。このように、具体的なプランがなく実行以前の段階のものについて、予算請求できるはずがなかった。)

㊲ どういうアイデアを出したのか。「こんなん駄目だ」とこごとごく否定した覚えはない。方法を変える必要があることはのべた。

(津村氏自身、伝道師からどういうアイディアが出されたのか記憶にないのであろう。下からアイディアをあげさせてはダメ出しするばかりで、自分自身には具体的展望もなく他人任せだったことをよく表している。)


  第三に、もし後継者を入れるのであるならば、その前に牧師と役員の話し合いの場に理事も入って戴いて牧師は何年後に引退するという確約をはっきりといただくべきだと考えます。その場合も後継の先生のプライベートを確保するためには最低、㊳別にアパートかマンションを借りる配慮がほしいと思います。夫婦者ならばなおさらのことです。そうでないと精神的ストレスがお互いに余りにも大きすぎます。

㊳〇〇伝道師のとき(注:AB両師以前に鳴尾に赴任した伝道師のこと)、信徒のマンションを紹介したが、師は教会で良いと言われた。

(これも反論になっていない。◯◯伝道師は鳴尾への派遣当時、独身であったのだから、当然、妻帯者と同列に論じるべきではない。

 後継問題については、開かれた公の話し合いの場で、具体的条件提示がなされるべきであり、村上密氏が密室で介入すべきでなかったのは繰り返すまでもない。)


  第四に後継と言っても実際、㊴我々は今のところ具体的なことは何一つ教えられておりません。信徒との人間関係が強くなった点では意味がありました。しかし、その程度のことなら何年もかけて引き継ぐ必要はないように思います。大教会というのは役員がしっかりしています。牧師が急に変わっても順調に機能していくのではないでしょうか。いずれにせよ、何年間かのスパンをおいて後継を潤滑にするという考えはいかがなものでしょうか。

㊴ A師が正教師を取った後、来年は主管者にという希望を持っていることを個人的に話したが、その後、いろいろな問題点が判明し後継を断念せざるを得なかった。

(このことについても繰り返す必要がない。津村氏には最初から引退する意志がなかったのである。)

 第五に引退に際して、一番の問題となるのは、㊵退職金のことです。不況が続き、教会内も高齢化が進んで、年金暮らしの人が多い中、退職金の話は非常にデリケートな問題です。やはり理事会に中に入っていただいた方が無難ではないかと思います。

㊵ 私は退職金については一度も役員会に言ってはいない。転任する者の役員会に対する干渉である。

(「転任する者の役員会に対する干渉」という津村氏の言葉には、村上密氏を通した策略が功を奏して、伝道師らに異動届を自主的に出させたことを、まるで鬼の首でも取ったように勝ち誇っている様子が見受けられる。不都合な後継は追い払ったので、鳴尾は自分の好きにさせろというわけである。

 「役員会に対する干渉」という言葉も、事実上、津村氏が役員会を私物化していた状況をよく表しているように思う。津村氏はあえて退職金について明確な希望を述べないことにより、役員会を同氏の意向を忖度して動く機関へと変えてしまっていたのである。

 津村氏のこのやり方は、村上密氏と同様である。重要な問題について、あえて明言しないことによって、自分から何かを要求したという形跡を残さず、あたかも信徒らの方から自主的に提案がなされたような形に持っていく。故意に重要な話をあいまいなままにしておくことによって、周囲の者を不安な心境に陥れ、結果として、自主性を装いながら、自分たちの意向を忖度して行動するよう仕向けることが、彼らのマインドコントロールのテクニックなのである。)


  幸い、私は牧師師弟ですので〇〇(家族)に相談できました。しかし、何の相談相手もない場合、あとから派遣された伝道者は泣き寝入りするしかないのでしょうか主管から一方的に悪者扱いされ、闇に葬られてしまわないとも限りません。今後、こういう事態が起こらないように継承問題には細心の注意を払ってご配慮いただきますように提案させていただきたいと思います。それを避けるためには、理事者とザックバランに本音を語れる場があるといいと思われます。

(残念ながら、教団はすでに当時、このような良心的な忠告に耳を傾けるには手遅れな状態にあった。津村氏と村上密氏の結託、村上氏の暗躍により、鳴尾教会のみならず、教団自体が彼らの思うがままに操られる危機的状態に至っていたのである。

 AB両氏が津村氏に睨まれながらも教団を追放されずに済んだのは、ただ彼らが村上サイドからの取引に応じて自主的に異動届を出して鳴尾を去ったためだけでなく、彼らには村上密氏と関わりのない別の牧師師弟のネットワークがあったためと思われる。もしそれがなければ、A氏の述べている通り、彼らは間違いなく津村氏と村上氏により「一方的に悪者扱いされ」、汚名を着せられて「闇に葬られていた」ことであろう。)


 尚、ここに書いたことの一部はB師が以前一度、㊶理事長に直接電話で相談したことがあります。理事長は誰にも他言しないということで聞いてくださいました

㊶ 理事長が「誰にも他言しない」ような内容の文章が、なぜA師から鳴尾の信徒に渡っているのか理解に苦しむ。

(津村氏は、まるで伝道師が信徒らを「扇動する」ために、この手紙を故意に信徒らに配布したとでも言いたげである。

 しかし、理事長が「他言しない」と約束したのは、B氏の電話相談の内容についてであり、それも伝道師夫妻のプライバシーに配慮しての約束であったと考えられる。津村氏の評判をおもんばかって、相談内容を「内密にしておくよう」理事長が伝道師夫妻に忠告したわけではないのである。

 また、この書簡は総務局長に宛てられたものであり、この書簡の内容について、「他言しない」との約束を負っている者は誰もいない。

 確かにこの書簡は、教団側から配布される前にすでに信徒らに存在が知れていた。だが、そうなったのも、津村氏が信徒らの頭越しに、教会内できちんと物事を議論せず、信徒らの同意もないまま、不明な理由でAB伝道師を追放しようとしたことがきっかけとなって起きたことである。

 いかに表向きは伝道師らが自主的に異動届を出した形になっていても、鳴尾信徒らは誰もそれが伝道師の本意だとは思っていなかった。そこで、この決定に納得できないものを感じ、その背後には、津村氏の暗黙の意向が強く働いていることや、深い暗闇があることを察知して、真相を追求しようと試みたのである。伝道師の方でも、弁明の機会も与えられず密室で悪者とされたまま、信徒らに釈明もなく無責任な態度で鳴尾を去るわけに行かなかったのは当然である。

 こうした事態は、津村氏がきちんと物事を教会内で公に議論した上で、信徒らの納得を得てから進めていれば、決して起きなかった。従って、同氏は、自らの独善的な牧会が原因で引き起こされた事態について、伝道師や信徒らを一方的に責められる筋合いにはないのである。)

  <略>

 よろしくお願いいたします。2001年10月20日
 
 伝道師A・B

<書簡 終わり 次回に続く>

正義の仮面を被り、無実の教会とキリスト教徒を迫害する村上密氏の活動の危険③

先に述べたように、「鳴尾教会事件」とは、津村昭二郎牧師の後継者となるべく、教団から正式に鳴尾教会に派遣され、信徒からも期待を寄せられていたAB伝道師夫妻が、教会内での公の議論も手続きもなしに、不透明な理由によって、他教会に異動せざるを得なくなったことをきっかけに、2001-2002年に鳴尾教会で持ち上がった混乱のことである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、鳴尾信徒らの要請に基づき、なぜこのような顛末となったのか、理由を説明し、事態を収拾するために、以下の資料を鳴尾信徒らに配布した。

この文書は、津村牧師の采配の下で、自分たちの置かれていた苦しい立を訴えるために、AB伝道師夫妻が教団の責任者に宛てて送った書簡である。

ここには、鳴尾問題の発端となった津村氏の引退にまつわるいきさつ、津村氏のワンマン教会運営ぶり、津村氏から伝道師夫妻にかけられた理不尽な嫌疑、津村氏から伝道師夫妻に対する理不尽な扱い、伝道師の置かれていた過酷な生活状況、さらには教団理事であり津村氏の義理の息子であった村上密氏による鳴尾教会人事への度重なる密室での公正さを欠く不透明な介入等の具体的な詳細がよく示されている。

この書簡には、教団から配布された時点で、津村氏からの公式な反論も併記されていた。そこで、これは決して一方的にAB伝道師の主張だけに肩入れした不公平な資料とは言えない。しかし、すでに述べた通り、津村氏の反論を考慮しても、なお依然として、津村氏が自らの後継者として派遣されたAB伝道師夫妻をなぜ「後任にふさわしくない」と断定して鳴尾から追放せねばならなかったのか、相応の重大な理由が存在したとは誰の目にも理解できないのである。

むしろ、この資料を通して浮かび上がって来るのは、信徒からも信頼を得ていたAB伝道師を鳴尾から異動させるという重大な決定を、鳴尾の役員会で審議することもなく、鳴尾信徒には一切相談も説明もなしに独り決めしてしまった津村氏の独善的な牧会の抱える重大な問題、および、それに便乗するような形で、当時、教団理事であったとはいえ、鳴尾教会内では何ら公の資格を持っていなかったにも関わらず、あたかも自分が津村氏の代理人であるかのように、鳴尾信徒を徹頭徹尾蚊帳の外に置いて、鳴尾教会の人事に不透明な介入を繰り返した村上密氏の信頼性に欠ける行動の問題点である。

こうした津村氏と村上氏の信頼できない行動と、AB伝道師が津村氏の下で強いられていた過酷な生活条件を見るときに、津村氏及び村上氏が両伝道師にかけた様々な疑惑は、決して根拠あるものとは言えず、むしろ、AB伝道師を都合よく鳴尾教会から追放するために作られた口実だったと見るのが適当であると思われてならない。

なお、文中の赤字は筆者による強調津村師からの反論は紫字、さらに筆者の注釈は青字で加えた。個人名と地名は伏せ、伝道師夫妻の名前は便宜上A師(夫)B師(妻)とする。

 


「教団総務局長 内川 寿造先生


内川先生、先日は突然のお電話、失礼しました。今までの経緯について、順を追って出来るだけ➀客観的に事実を報告させて頂いた方がいいかと思って改めて文書にしています。

➀ 事実だけではなく、想像して記載されている部分が多い

(残念ながら、この資料において、AB伝道師が事の次第を極めて丁寧に詳細に説明しているのに対し、津村氏からの反論はその10分の1にも満たないごくわずかな量であり、とてもではないが、事実関係を丁寧に説明した信憑性のあるものとは言えない。

 この他にも、津村氏が教団に宛てた手紙も鳴尾信徒らに配布されたが、そこにもこの資料以上の具体的な反論は何も記されていなかったので割愛する。

 上記のような津村氏の短い反論を通しても明らかになるのは、同氏は普段から何事についても圧倒的な説明不足であった(もしくは説明しようとの意欲が不足していた)という問題である。
 
 津村氏は教会内で物事を決める際にも、きちんと物事を周囲に相談し、予め十分に周囲の納得を得られるように説明することがほとんどなかった。むしろ、説明抜きに、自らの意志を一方的に押し通してしまうことがほとんどであったと言える。
   そういった事情から、鳴尾信徒らは常に津村氏の説明不足の部分を「推測」や「想像」で補いながら、同氏の心中を忖度して行動するしかなかったのである。

 それは伝道師も同じであったろうと見られる。従って、たとえこの手紙でAB伝道師が「想像」で何かを書いている部分があったとしても、それは津村氏の説明不足が原因で引き起こされたことであり、伝道師の「想像」が先走りした結果ではないのだと言える。

 だが、むろん、津村氏自身はそんなことには全く思いが至っていないことは言うまでもない。) 

   
    実はAPTSを卒業する前に七条教会で村上師と卒業後のことについて話し合う機会がありました。2000年の冬だったと記憶しています。村上師の話では、「津村師は二年後に引退する意志がある」「引退は鳴尾教会の役員も承知のことである」「その上でA師を鳴尾教会の後継として招聘したい」「礼拝説教も少なくとも月に一度はA師に任せる。二年目からは月に二度は依頼する」との事でした私達は当然、村上師個人の見解というよりもむしろ一理事の発言として理解しました。我々としては卒業後の任地に特に希望はなく地方教会でも小教会でも構わないという考えでしたので、何故鳴尾なのだろうかと戸惑いましたが、理事の見解がそうであるならと祈りつつ備えました。

(ここから、AB伝道師の鳴尾教会への赴任前、村上密氏がAB伝道師を呼び出して、鳴尾教会への派遣の際の具体的な「条件提示」を行なっていたことが分かる。

 その条件とは、 
1.津村氏は二年後(2002年)に引退する予定
2.津村氏の引退には教会役員も同意済である
3.津村氏の後継者となる前提での赴任である
4.礼拝説教は月1度行う
5.二年目からは月に2度は行う
 というものであった。

 しかし、ここでなぜ津村氏は自らの口から以上の条件を伝道師に伝えず、村上密氏がまるで津村氏の代理人のようになって、津村氏の同席もない場所で、むろん、鳴尾の信徒も一人もいない密室に等しい場所で、AB伝道師に、証拠の残らない形で、これほど重大な話を非公式に持ちかけたのだろうか。そのこと自体が極めて異常であり、適正な手続きの欠如を示す深刻重大な問題であったと言える。

  村上氏は一体、どんな権限に基づいて、このように鳴尾教会の人事問題に介入したのだろうか?

 仮に村上氏が津村氏から何らかの委託を受けてそのような行動に及んだのだとしても、津村氏の同席なく、第三者の立ち合いもなく、役員会のような開かれた場でなく、記録も証拠も残らない形で、このような重大な「条件提示」を一方的に伝道師夫妻に行ったのは、あまりにも適正を欠く非常識な行為であったと言える。

 そもそも鳴尾教会の後任者を誰にするかという極めて重大な問題は、津村氏の立ち合いなしに決められて良いことでなく、さらに、鳴尾教会内での役員会を含めた信徒の話し合いを経てから、決定されるべき事柄であった。鳴尾教会の指導者でなければ、役員でもなく、同教会と直接の関係を持たない村上密氏が、鳴尾信徒をよそにして自らの一存で介入できる立場にはなかったことは明白である。

 教団理事といえども、緊急事態でもないのに、他教会の指導者及び信徒のいない非公式な場所で、他教会の人事について一方的に関与できるような権限は与えられていないはずである。

 そこで、これは正当な根拠に基づかずに尾教会の信徒全体の頭越しに密室で行われた談合のようなものであり、そこから見えて来るのは、この当時から、村上密氏が津村氏の義理の息子であるという立場を存分に利用して、自らに公に与えられた権限の範囲を踏み越えて、鳴尾教会の内政に暗闇で介入をはかろうとしていた事実である。

  しかも、さらに悪いことに、この時、津村氏の同席なくして村上氏がAB伝道師に行った「条件提示」の内容は、後になってことごとく、事実ではなかったことが判明した。そうなったのは、この時、村上密氏が創作で嘘をついていたせいなのか、それとも、津村氏が村上氏にそのような事実ではない条件を伝えて話し合いを依頼していたためなのか、今となっては不明である。

 いずれにしても、村上密氏は誤った情報をAB伝道師に伝え、それを前提条件として彼らに鳴尾教会への赴任を促したわけであり、これが後に大きな事件を引き起こす原因となって行ったのである。

 にも関わらず、村上氏は自分がAB伝道師に伝えた内容の誤りについては、今日に至るまで何の責任も取っていない。むしろ、村上氏は、初めから、そのようなこじれた事態に発展する可能性があることを見越した上で、後々、自分が矢面に立たされて責任を追及されることがないよう、あえて第三者もおらず、記録も残らない密室で話し合いに及んだのかも知れないという疑惑が生じる。
 
 このように、鳴尾教会内では何の権限も持っていなかった村上密氏が、津村氏の立ち合いもなしに、証人もいなければ、記録も残らない、非公式な閉ざされた話し合いの場で、鳴尾教会の命運を左右するような、極めて重要な決定に関与したことは、恐るべきことであり、不透明かつ適正さを欠く事柄であった。一体、同氏は何を目的にそれを行ったのか、追及されなければならない。
 こうして、正当な権限を持たないのに、他教会の人事に不当に介入を試みる者が、到底、信用に値せず、また、介入の動機も疑われてしかるべきであることは疑いの余地がない。)

 
 2000年の三月にはAPTSの卒業式があり、日本からは内村師が理事として出席くださいました。その時、我々は復職に当たり、内村師から面接を受けています。その後、しばらくクラス等の関係で帰国が遅れ、四月の半ばに帰国し、4月30日に正式に鳴尾教会の伝道師として赴任しました。

 しばらくして気付いたのは、村上師の認識と津村師や役員会の認識との間に相当のズレがあるという事でした。先ず、津村師が二年後の引退を毛頭考えておられないこと、役員会は何一つ知らされていないこと、津村師は主管を退く意志はあっても、その後も鳴尾教会で奉職したい希望を持っておられること等でした。また、②礼拝説教に関しましても私が2000年度に奉仕させていただいた回数は合計5回でした。因みに2001年度は10月20日現在で10回です。実際、私達は派遣されて二年近くになりますが③未だに教会の経済状態が分かりません。過去の教会資料に関しても④牧師館にしまわれていて全く分からない状態です。

(ここでAB伝道師は、村上密氏によって行われた「条件提示」が事実と異なるものであったことを指摘している。具体的な相違点は以下の通り。
 
 1.津村氏は二年後に引退する予定 ⇒ 二年後に引退する予定などなかった
   2.引退は教会役員も同意済である  ⇒ 役員会は引退の予定など知らない
 3.津村氏の後継者となる前提での赴任である
    ⇒引退後も、津村氏は鳴尾で奉仕を続けるつもり。
 4. 礼拝説教は月1度伝道師が行う    ⇒ 年に5回しか説教を担当できなかった
 5.二年目からは月に2度は行う        ⇒ 2年目になっても月1ペース
 
 さらに、教会の経済問題が分からない という問題が発生した。

 また、津村氏はたとえ引退しても、鳴尾を退くつもりはなく、(あるいは名誉牧師のような形で?)鳴尾で奉職し続けるつもりであることが判明した。
 これはつまり、伝道師が本格的に後継となれるのがいつの日になるか分からないことと、津村氏の引退後の世話はすべて伝道師が行わねばならないことを意味したが、津村氏はこの点について全く否定していない。)

② 礼拝説教の回数はそのとおりだが、第1祈祷会、第2祈祷会、および、地区集会の説教を多く担当した。早天のお話し、英会話時の聖書のお話等
 
 (②における津村氏の反論は、どれもメインとは言えない行事の説教のことなので、伝道師の主張に対する具体的な反論とはなっていない。要するに、メインの説教は津村氏がほとんど独占し、なかなか伝道師には回そうとしなかった事実が見て取れる。)

 ③ 教会では毎月の会計報告は、役員会で検討・承認している。伝道師両師は毎回役員会に出席しているが、会計については一度も質問したことがない。信徒総会で1年の決算・予算について審議したが、両師は一度も質問したことがない。
 
(③については、確かに毎月の会計報告は役員会で承認されていたが、その会計報告は形式的なものでしかなかった。津村氏は役員会でも信徒からの意見や質問に十分に耳を傾けずに一方的に話を進めるのが常であったため、役員会での「検討や承認」は十分なものとは言えなかった。
 さらに後になって、津村夫妻のために会計から計上されていた「伝道牧会費」の使途を津村氏は尋ねられたが、その具体的な用途を信徒らにきちんと説明することができなかった。)

④ 過去の教会資料について両師は一度も閲覧希望したことがない。

(④ 牧師館資料については、牧師館に住んでいるのは津村氏夫妻だったので、伝道師らは立ち入るのに遠慮があったろうし、おそらくは津村氏のワンマンぶりがひどかったので、言い出せる状況になかったものと推測される。しかし、そうした事情を考慮に入れて、たとえ伝道師からの閲覧希望がなくとも、本来は当然、津村氏から伝道師に説明して引き継ぐべき事柄だっただろう。)

 
 この時点で我々の立場は何なのだろうかと戸惑いましたが、とにかく理事会に任命された異常、務めを果たそうと努力してまいりました。

 そして、2001年の10月18日、理事会が終わった翌月の朝、突然村上師より電話を頂きました。話があるので午後、訪ねていっていいかとの事でした。我々としては理事会の翌日のことでしたので、人事のことかもしれないと推測しました。

 村上師の話の内容を正確に伝えますと「津村師は2002年に引退なさる意志はなく、少なくとも教会50周年を迎える77歳までは現役でいたい」ということと「AB伝道師を後継者とみなすには疑問を感じる」との事でした。但し、これはあくまでも村上師から伺った話であり、⑤津村師本人からはこの旨を一度も伺ったことはありません

⑤ 両師の正教師任命後、私は来年、主監者になって欲しいという希望を両師に対して個人的に述べた。

(⑤での津村氏の反論はあまりにも言葉足らずだが、言わんとしていることを通訳するならば、次のようになるだろうと思う。

「当初は私も2002年からA伝道者に主監者を譲るつもりでいた。その旨は伝道師にきちんと伝えていた。だから私には引退する意志がなかったというわけではなく、また、引退するとウソをついて騙したわけでもない。ただ、伝道師が後継者にふさわしくないと判断せざるを得ない問題が起きたので、結果として私の引退の話はなくなったのだ」
 
 しかしながら、もし津村氏が本当にAB伝道師を「後継者にふさわしくない」とまで判断したのであれば、なぜそのような重大な決意を、津村氏は(同じ教会に住んで毎日顔を合わせている!)伝道師に直接、誤解のないように伝えなかったのか。

 また、なぜ役員会できちんと発表して、信徒らに理解を求めなかったのか。

 なぜかここでも再び、村上密氏が登場する。村上氏はあたかも自分こそが津村氏の代理人であり、鳴尾の命運を決定できる権限を持っているかのように振る舞い、またもや津村氏の同席なしに、「津村氏の意向」をAB伝道師に伝え、鳴尾人事に資格なく介入するのである。

 こうした村上氏の度重なる介入のために、鳴尾信徒は常に蚊帳の外に置かれたまま、事態は余計にこじれ、悪化し、不透明なものとなって行った。伝道師夫妻にも、一体、どこまで村上氏が津村氏の内心を正確に語っているのか、それさえ分からないまま、密室で一方的に話が進められたのである。)

  
    村上師は後継として疑問を感じる点に関しては次の二点を理由に挙げておられました。第一にB師の説教がまずいという事。これは少し説明させてください。2001年5月20日の礼拝でB師が始めて礼拝説教を担当しました。テキストはヨブ記1:1-12でした。ここでB師は⑦ヨブ記において、サタンは神の敵ではない、という発言をしました。彼女の未熟な点もあり、後から考えると誤解を招きかねない表現だったのですが、彼女としてはサタンと雖も神の主権の下にあって神の意志を超えては働けない。従って、我々は必要以上にサタンを恐れる必要はない。サタンは神と対等の力を持っているのではないという事を一番強調したかったのです。それはメッセージをちゃんと聞いてくだされば十分伝わる事と思います。

⑦ 説教の中で、B師は続けて「サタンは神のしもべである」と発言した。

(⑦ ここで、村上氏が伝道師に伝えたところによると、津村氏がAB両氏を「鳴尾の後継にふさわしくない」と判断した最も重要な理由の一つが、B氏の説教が「異端的だ」と津村氏が考えていることであると判明した。

 「説教がまずい」というのは、話下手だという意味ではない。以下のA氏の指摘からも分かるように、説教内容が「異端的だ」という津村氏サイドからの非難なのである。だが、これはB氏が初めて鳴尾で説教を行なった際の津村氏の指摘であり、つまり、津村氏は一度たりともB氏の説教を温かく応援したり、祝福し、励ましたことがないという事実にも注意が必要である。
 
 そして、もちろん、伝道師の言う通り、説教内容の「異端性」を論じるためには、津村氏のしたように膨大なメッセージの中から一文だけを抜き出すのではなく、全体の文脈を考慮して論じなければ意味がない。さらに、異端的かどうかという判断を下すにあたっては、公の討論が必要であり、津村氏一人だけで決められることでもないだろう。

 たとえば、「サタンは神のしもべである」という表現も、場合によっては、「サタンももとを辿れば神のしもべである」という意味で発せられたかも知れないし、また、「サタンは神の敵でない」という表現も、「サタンでさえ最終的には神の敵になり得ない」という意味で使われたかも知れない。こうしたことは、口頭のメッセージでは分かりにくく、前後の文脈を見なければ判断がつかない事柄である。一文だけを取り上げて議論するのがふさわしくないのは明白である。)

 
   ところが、津村師にしてみれば「サタンは神の敵ではない」という言葉だけが強烈だったようで、5月23日の打ち合わせの際にひどいお叱りを受けました。「今まで、私はサタンは神の敵だと信徒に教えてきたのに牧会上、混乱をきたすことを講壇から伝えられては困る。⑧あなたが謝らない限り、二度と説教の奉仕は回らない」と相当感情的になっておられました。

⑧ サタンは神の敵ではないということを、誰から学んだのかを質問したら、B師は「ダビデ先生から学んだ」と答えた。私は「もう一度、ダビデ先生に聞いてください」と言った。特に私が強調したのは、「神学的にではなく、牧会的に牧師と伝道師が相反する教えをするのは矛盾ではないのか」ということである。

(⑧ この反論では、津村氏は実際に伝道師を叱りつけた時に比べ、かなりトーンダウンしており、神学議論を避けようとしているように見える。
 伝道師夫妻を直接、叱責した際には、津村氏はあたかも異端的な発言が行われたかのように憤慨し、謝罪を求め、それがなければ二度と説教は担当させないとまで言ったものの、反論では、異端の疑いという言葉を津村氏は一切、述べていない。むしろ、「神学的にではなく」とあえて神学論争をするつもりがないことを強調し、ただ自分の説教と異なる主張をされると矛盾が生じて困るから注意をしただけなのだと話をすり替えている。

 当初は、特定の人物に対して大々的に異端の疑惑をかけて騒ぎ立てておきながら、いざ細かい神学論争が必要になると、急に話をすり替えてごまかすという手法は、津村氏がB氏に対してだ行っただけでなく、後に村上密氏が後に鳴尾教会の牧師夫人山田晃美氏に対して異端の疑惑をかけた際にも用いたことに注意が必要である。

 つまり、このように正当な議論も根拠もないのに一方的に異端疑惑を「ふっかける」ことによって、ターゲットとした人物を貶めようとする手法は、村上+津村サイドの常套手段であったと言える。)
 

  
    これに対してB師は「私の説教に関して何か信徒から苦情やつまずいた等の連絡はあったのでしょうか」と伺いました。津村師はそれに対しては「ない」と答えられました。B師にしてみれば、信念を持って御言葉を語ったこともあり、信徒がつまずいてもいないのなら謝る筋合いのことでもないと判断し、「表現には至らない点はあったかもしれませんが、よく説教を聴いてくだされば私の趣旨がご理解いただけると思います」とだけ申し上げてその場では喧嘩別れのようになりました。

(確かに、鳴尾信徒がB氏の説教を聞いて異端の疑惑を持ったり、その内容につまずいたり、苦情が発生したという出来事はなかった。もちろん、B氏が鳴尾教会を去った後も、そのような疑惑が招じたという話は聞いたこともない。そのような問題を提起したのは津村氏1人しかいないのである。)


 その後、6月20日に再び、打ち合わせがありました。津村師はその席でもヨブ記の件を取り上げ、⑨「まだ謝る気はありませんか」と念を押されましたB師は「何が間違っているのでしょうか」と自分の信じているところを再び説明申し上げたのですが、津村師は前回以上に感情的になられ、暴力の危険を感じるほどでした。もう少しで手が出るのではないかというところでした。私も彼女が誤解されたままでは気の毒と思い、⑩援護射撃に回りました。津村師は「先生までそんなことを言われるのですか。もういいです」と一方的に話を切り上げられました。まるで我々の信じているところが⑪教理的に致命的な間違いで異端でもあるかのようなご様子でした

⑨ 私はB師に「ダビデ先生に聞きましたか」と尋ねた。B師は「ダビデ先生には聞いていない。私は他の本も読んでそう教えられた」と答えた。「5月30日にはダビデ先生に責任があるように発言したのに、他の書物や先生から教わったのであれば、ダビデ先生に謝る必要があるのではないか」と私は言った。私は6月20までにダビデ師に直接この件について電話で尋ねた。ダビデ師は「私はそんなことは教えていない」と答えた。

(⑨ ここでの津村氏の反論では、議論そのものが成立していない。津村氏自身が、B氏は「ダビデ先生を含め、他の本や先生からも教わった」と述べたと主張している。ところが、津村氏はそれをあたかも「ダビデ氏ではない他の本と先生から教わった」という意味であるかのようにすり替え、「ダビデ先生から教わってもいないことを、ダビデ先生から教わったかのように主張したのだから、あなたはダビデ先生に謝らなければならない」と、話をすり替えて、今度はダビデ氏への謝罪を迫っているのである。

 こうして、話の内容がどんどん変わって行っていることに注意が必要である。津村氏は、当初は「異端的な内容を説教したのだから、あなたはこれを撤回して私に謝罪せねばならない」と言っていたのが、いつの間にか「ダビデ先生が教えていないことを主張したのだから、ダビデ先生に謝罪しなければならない」と話が変わり、「異端の疑惑」もうやむやにされ、ただ「私の説教と矛盾した内容を話されては困るから注意をした」と、叱責の理由も変わっているのである。

 ダビデ氏については、津村氏がどのような形でこの事件をダビデ氏に伝え、何をどう説明し確認したのかも分からない以上、津村氏の反論は具体性がないと言える。ここから感じられるのは、とにかく謝らせたい、何が何でも謝らせたい、というB氏に対する津村氏のおさまらない怒りだけである。

 これがB氏の鳴尾での初めての説教の時になされた叱責であったことを考えても、こうした津村氏の反応は、あまりにも行き過ぎているように思われる。最初の説教であることを考慮すれば、もし仮に不慣れさから多少表現に至らない点があったとしても、血相を変えて叱責するほどのことでなく、やんわりと注意すれば済むことだったであろう。

 にも関わらず、B氏への一言の温かい応援も励ましもないまま、さらに信徒から苦情があったわけでもないのに、ここまでの叱責を津村氏が繰り返し行ったこと、さらにはそれを後に伝道師らの異動の口実にさえしていったことから感じられるのは、説教の内容以前に、津村氏は女性伝道者が説教をすること自体を快く思えず、B氏の説教を会衆の一人として穏やかに謙虚に聞けるような心境は全くなかったのではないか、という疑問である。

 しかも、A氏は、津村氏がB氏に対してひどく感情的になり、暴力の危険さえ感じるほどであったと述べているが、津村氏はこの点についても否定していない。津村氏を知っている者として、そういうことは十分にありうると考えられるのである。


⑩ A師は「津村師がノーと教えて、私がイエスと教えても良いんじゃありませんか」と言った。

(⑩ 残念ながら、津村氏は全く知的な議論ができない人であった。議論すること自体が苦手であればこそ、同氏は人から反論されることにプライドを傷つけられたように感じ、まして女性から反論されることには、それだけで耐えられなかったのだろうと想像する。
 
 だが、何を言っても議論にならない相手に対しては、A氏がしたように、⑩のように返答するしか方法がない。) 

⑪ これはA師の推測である。私は信徒に対して牧会的に矛盾のない話しをすることが必要ではないかと強調した。

 ⑪でも、津村氏は一生懸命に自ら述べた「異端疑惑」を打ち消そうと努力している。神学論争になると困るので、自分は異端だと指摘したのではなく、ただ自分の説教と一致しない内容を話されては困るから注意したのだと後から話をすり替え、細かい議論を避けようとしているように見える。

 もしB氏の説教を異端だと言ってしまえば、当然ながら、神学論争に発展し、そうなると、自分は議論に負けるだろうと予測してのことだと思われる。

 だが、もし津村氏が神学論争によってB氏の異端疑惑を証明できないことを自ら認めるのであれば、B氏が説教で述べた事柄は、何ら聖書に反する虚偽ではないということになり、津村氏の怒りを正当化する理由がなくなってしまう。
 
 もしB氏の説教が異端的でないのであれば、B氏が津村氏の見解に一方的に合わせなければならない理由も存在しない。津村氏の言うように、同じ教会で、牧師と伝道師の説教が食い違うと困るということがあったとしても、だからと言って、どうして津村氏だけが自分の見解に一方的に合わせるよう他人に求めて良いだろうか。逆に津村氏が他人に歩み寄ることもあってはいいのではないだろうか。
 
 しかし、津村氏の主張は一貫して、自分こそが主監者であるから、自分の見解に他人はみな合わせ従うべきであるという考えを出ない。聖書の御言葉を曲げるような妥協ができないのは聖職者として当然であるが、津村氏が述べているのはそういうことではない。異端の疑惑もないのに、自分と異なる見解や表現を他人が使うことが全く容認できず、ただ相手にだけ一方的に自分に合わせるよう求めるその態度からも、津村氏のワンマンぶりが浮き彫りになっていると言えよう。)

 
   話が長くなりましたが、第一の理由の背景は以上です。

 第二の理由としては「Aが何の報告もしてくれない」というものです。具体的に何の事をおっしゃっておられるのか見当もつきませんが、私としては⑬津村師には大切なことは逐一報告させて頂いているつもりですし、見解の相違があるようです。

   勿論、この二つの理由もあくまでも村上師から聞いたことで、津村師本人からは何一つ伺っておりません。

⑬ 毎月1回、牧師とAB両師との打ちあわせのときに私は「伝道について提案はありませんか」と聞いたら、それについては、いつも「ありません」との答えしか返ってこなかった。

(⑪ ここから、「B氏の説教の異端疑惑」に加えて、津村氏がAB伝道師が「鳴尾の後継者にふさわしくない」と判断した第二の理由が、「A氏による津村氏への報告義務違反」であったことが分かる。といっても、これも村上密氏の言葉を通して伝道師に伝えられたことなので、どこまでが津村氏の本心であったのかは誰にも分からない。

 ここでA氏が述べているのは、「A氏が津村氏に重要なことを何も報告しておらず、それゆえ、後継者として不適格だと津村氏がみなしている」と、村上密氏を通じて知らされたという事実である。

 ところが、これに対しても、津村氏は話をすり替えて答えている。津村氏は「毎月1回の打ち合わせの時、伝道についての提案が何もされなかった」と、ここで全然別の話を持ち出して反論しているのである。「重要な報告を怠った」ことと「伝道について提案をしなかった」ことは誰が聞いても全く別の話である。

 このように、両者の言い分が完全にちぐはぐになって議論が成り立っていないことが、果たして、村上密氏が津村氏の内心を誤って伝道師に伝えたせいで起きているのか、それとも津村氏が後から話をすり替えているだけなのか、それははっきりとは分からない。

 だが、以下で伝道師が示しているように、津村氏は伝道師夫妻に対して「朝・昼・晩」の一日三回も予定表を提出せよと要求していたのである。ブラック企業でも見られないほどの統制ぶりと言えるが、ここまで綿密に部下に報告を出させておきながら、「重要な報告を何もしてくれなかった」とは、主張できるはずもない。だから、これは津村氏が後から話をすり替えて、自らの言いがかりの不当さをごまかそうと弁明しているのだと判断されるのである。

 
 結局、津村氏の反論から分かるのは、津村氏がAB伝道師夫妻を「鳴尾の後継者にふさわしくない」と判断した二つの理由は、両方とも正当性がなく具体的な根拠にも欠けるということである。

 もし百歩譲って、本当にそれが重大な疑惑であったとしても、そうであるならば、なおさらのこと、きちんと公の場での検証が必要であった。役員会等での検討も経ないうちに、鳴尾の後継者問題を、津村氏だけの一存で決めて良かったという結論にはならない。ましてその一方的な決断を、津村氏の同席なしに、村上密氏が密室で伝道師に伝えて異動を迫るという形式が言語道断なのは言うまでもない。)

 
 村上師は以上の二つの理由を挙げられた後、「今後、先生方はどうなさいますか」と尋ねられました。誤解にならないように申し上げますが、直接、異動届を出せという促しは一度もありませんでした。但し、我々としては異動させたいというニュアンスを感じたのは事実です。私としては「もし、異動を我々が希望するなら津村師の許可を得ないで黙って理事会に提出してもいいのですか」と尋ねました。これに対して村上師は「津村師には私から伝えるから構わない」との事でした。

(村上サイドがここで伝道師に強いた展開には呆れて言葉もない。

  まず、AB伝道師が鳴尾の後継にふさわしくないほどに問題があるかどうかという点については、すでに述べた通り、きちんと教会内の公の場で議論されるべきであった。

 その上で、もし仮に彼らが鳴尾の後任としてどうしてもふさわくないと津村氏が判断したとすれば、その事実は当然ながら、教会での議論の後、津村氏本人から、直接、伝道師に伝えられるべきであった。

 ところが、その二つともの手続きを経ないまま、今回もまた鳴尾教会とは直接の関わりのない村上密氏がしゃしゃり出て来て、津村氏の同席なしに、津村氏の代理人であるかのように、「津村氏の意向」を伝道師に伝えるのである。

 そもそも教会内人事という極めて重大な問題が、このように閉ざされた非公式の話し合いで決められること自体、すでに述べた通り、極めて異常であると言わざるを得ない。

 それにさらに輪をかけて異常なのは、津村氏以外には知ることもなく、教会内で議論もされず、十分な裏付けも取れていない「疑惑」に飛びついて、村上氏が伝道師夫妻に密室で異動の決断を迫ったことである。
 
 村上氏はその際、あろうことか、「先生方はどうなさいますか」というあいまいな質問でお茶を濁し、伝道師夫妻に自主的に鳴尾を去るように暗に圧力をかけている。村上密氏が、自身の口からからはっきりと異動届を出せと言わなかったことも、同氏が自らこの事件に関与していることを公には隠して、自分が後から言質を取られたり、責任を負わされずに済むように、この異動をあたかも伝道師夫妻の自主的な決断であるかのように見せかけて、証拠を残さないあいまいな形で介入した事実をよく示している。

 こうした村上氏の言動には、自分に与えられた権限の範囲をはるかに超えて、密室において他教会の人事に介入し、しかも、阿吽の呼吸で自分の願いを相手に読み取ってもらうことで、自分は矢面に立たず、証拠を残さず、暗黙の圧力によって物事を密室で自分の思う通りに決定していこうとする信用ならない行動がよく表れている。)
 

 
   また、「もし仮に、異動願いを提出するならどんな理由を挙げればいいのか」と尋ねたところ、村上師は「津村師が77歳まで引退する意志のないこと」「津村師が我々をを後任とはみなしておられないようなので、これ以上鳴尾にいる必然性を感じないこと」を挙げればいいとアドバイスされ、「B師の説教がまずいこと」と「Aが何の報告もしないこと」は伏せたほうがいいと助言されました。

(伝道師の手紙を通して、村上密氏の卑劣な脅しの手法がさらに浮き彫りになる。ここで、村上氏は津村氏の言い分を盾に、伝道師夫妻に取引をもちかけている。つまり、もし伝道師夫妻が「四の五の言わずに、黙って鳴尾から手を引き、自主的に異動した形にするならば、そうなった原因は、津村氏に引退する意志がないことにあったとしてあげよう。あなたたちにかけられている「嫌疑」は公にされることはない。あなた方はこの先も何ら鳴尾のことで責任を追及されることはないだろう。どうするかね?」とほのめかし、決断を迫っているのである。

 これは暗黙の脅しである。つまり、もし伝道師夫妻が村上氏の願い通りに異動届を自主的に出さず、鳴尾から手を引かず、津村氏の意向に真っ向から対立して、自らの潔白を主張して反論するようなことがあれば、津村氏が夫妻にかけた事実無根の言いがかりを、あたかも真実であるかのように言いふらし、教団内での伝道師夫妻の立場を悪くしてやるぞという脅しと受け取れるのだ。

 村上氏はこうして、津村氏が伝道師夫妻にかけた「疑惑」を可能な限り利用して、伝道師らを鳴尾から異動させるために「圧力」をかけるとし、もしこの疑惑をかき消したいならば、交換条件としておとなしく「取引」に応じ、自ら異動届を出すようにと伝道師に迫っているのである。(しかもその提案さえ、きちんと言葉にして伝えず、暗にほのめかすだけで、裏付けも取れていない疑惑が異動の真の理由であることを隠して、異動届を書かせようとしているところが、まるでヤクザ並みの手法である。)

 こうしたことをすべて証人もおらず、議事録も残らない密室で、暗黙のほのめかしによって実行した村上密氏の卑劣さ、不誠実さ、胡散臭さについては、何度、疑問を呈しても十分ということはない。このように常に公正な手続きを経ずに、密室の暗闇で影響力を行使しようとする人物が、到底、信頼に値するクリスチャンでないことは誰の目にも明白である。)


 三時間ほど話したでしょうか。私は人事の手続きに明るくありませんし、どうも筋の上で釈然としないものを感じましたので19日に〇〇の父に相談しました。「それは内川先生に連絡したほうがいい」との事でしたので、電話させていただいた次第です。

(むろん、以上のようなことは、伝道師のみならず、誰が聞いても「釈然としない」話である。いかに人事に明るくない人物であろうと、村上密氏によるこのような話の運び方には、ただ胡散臭さしか感じられないのが当然である。

 この時、AB伝道師は自分たちが村上氏に脅されており、根拠もない「疑惑」を材料に、交換条件として異動を迫られているとまでは気づいていなかったかも知れない。だが、彼らも、津村氏と村上氏の暗黙の圧力によって、自分たちが不当に追い詰められていることに危機感を覚えていればこそ、教団内にこうした事態を食い止めることのできる人物がいないかと助けを求めたのである。)


  もし、村上師が津村師の本音を我々に隠しておられたなら、事態はここまでこじれなかったのかもしれません。しかし、間接的にではあれ、津村師の気持ちを聞かされた以上、今までどおりの気持ちで奉仕するのは困難です。津村師と毎日顔を合わせるわけですから、当然しこりが残ります。

(このように、本来そのような権限を持っていなかったにも関わらず、村上氏は津村氏と伝道師との間に割って入り、両者の直接の対話を妨げることによって、両者の間に決定的なくさびを打ち込み、二度と信頼関係が回復しないようにしてしまった。それだけでなく、伝道者の心中で、もはや鳴尾で奉仕したいという気持ちが完全に失われて、彼らが自主的に鳴尾を去るように仕向けたのである。

 このように、異なる利害を持つ人々の間に巧みに割って入り、あたかも両者の言い分を仲裁するかのように見せかけて、不信感と対立を煽って信頼関係を損い、両者を分裂させて意思疎通を決定的に不可能にすることにより、自分が両サイドに対して優越的な支配権を握れるようにして、人間関係を思うがままに操作・支配しようとする分断のテクニックは、村上密氏の常套手段である。

 後にネット上で村上氏の支持者によって行われた信徒やカルト被害者に向けた分裂工作もそうであるが、村上密氏は常にこうしたやり方で、証拠の残らない密室で、信者同士の対立を巧みに煽っては、団結を阻止し、リーダーを追放したりして組織を弱体化させ、その結果、寄る辺のなくなった信者や教会を自らの教会に併合したりと、自分の利益を得て来たのである。

 このように暗闇で信者に分裂工作をしかける方法は、村上密氏が不都合な人物を失脚させる際に絶えず利用して来た手法であり、後に同氏が鳴尾教会に恫喝裁判をしかけた際にも、鳴尾信徒らの意志決定を分裂させるために積極的に利用された。村上氏は現在の牧師の頭越しに鳴尾信徒らに接近し、牧師への不満を煽っては、彼らを焚きつけ、教会が教団を離脱するという決定を下せないように(あるいは撤回するように)仕向けようとしたのである。

 推測するに、村上氏はAB伝道師に対して、決定的な形で津村氏への不信感を吹き込んだのと同様に、津村氏に対しても、伝道師夫妻への悪印象が残るように話を伝えて、両者の関係を回復不可能なまでに損なったのだと思われる。)


 我々は教団の任命によって鳴尾教会に派遣されたわけですから、今後の展開につきましても理事会のご判断にお任せいたします。但し、津村師の本音を聞かされた以上、鳴尾教会に留まりつづけることは正直言って気が重いのも事実です。この辺りのことをご配慮頂いて適切な判断をしてくださいますように宜しくお願いします。
(このように、村上密氏による信頼できない暗闇で卑劣な介入・分裂・分断工作によって、AB伝道師夫妻は、鳴尾で奉職したいという願いを失ってしまった。津村氏からの「言いがかり」に毅然と立ち向かい、同氏及び村上氏と公然と闘って、いわれなき嫌疑を晴らした上で、鳴尾の後任者としてとどまるよりも、ことを穏便におさめて自ら異動届を出し、鳴尾の地を去った方が良いと思い込まされてしまったのである。

 津村氏の身内である立場を利用して、このような圧力を、暗闇の密室で、徹頭徹尾、鳴尾信徒を蚊帳の外に置いて、伝道師に対してかけ続けた村上密氏の手法が、どれほど陰険かつ不誠実かつ信用ならないものであり、それが村上密氏による鳴尾教会内の人事へのどれほど不当な介入であったかは今更言うまでもない。だが、そのことを十分に理解した上でも、なお、次に示すように、当時、AB伝道師が津村氏の下で置かれていたひどい生活状況を考えるならば、彼らが津村氏と村上氏の「魔の手」を逃れるために、鳴尾を早々に去ったことは、彼ら自身にとっては良策であったかも知れないと思う。

 こうして弱い者を脅しつけて黙らせておきさえすれば、事は丸く収まると津村+村上サイドは考えていたのであろう。後継者を追放しさえすれば、津村氏は好きなだけ鳴尾にとどまって説教を続けられる。信徒は黙って教団の言うことを聞き、献金だけ払っておけばいいのだ。

 しかし、事態はそこまで単純ではなかった。それは鳴尾信徒らが彼らが予想していたほど愚かではなく、約四十年間の牧会期間を通して、津村氏の本質を鋭く見抜いていたためでもあった。

 もはや随分前から、鳴尾は津村氏を必要としていなかったのである。津村氏の牧会のワンマン運営、鳴尾信徒にとって重い負担となっていた。自分は少しも後ろに退かず、信徒との十分な対話の場も設けずに、教会の若返りなど、全ての課題を一方的に信徒だけに押しつけて、信徒の重荷を理解し軽減しようとしない津村氏の冷淡な態度に、鳴尾信徒らはどうしようもないやるせなさを感じていたのである。

 だが、それでも、同氏が後継者を快く育てようとしてさえいれば、結果は違ったかも知れない。突然、期待していた伝道師を訳の分からない理由で失うことを知らされた時、鳴尾信徒は、この事件の背後に大きな暗闇があることに気づいた。そして、疑惑の矛先は伝道師ではなくむしろ津村氏に向かったのである。

 繰り返すが、そうなったのは、伝道師が書簡で訴えた理不尽な状況に、鳴尾信徒の同情票が集まったからではない。もし約四十年間の牧会生活の間に、津村氏が鳴尾信徒の本心からの信頼を得ていたならば、後から来た若い伝道師が何かを主張した程度のことでは、牧師と信徒の信頼関係は揺るがなかったろう。

 だが、そうなるまでに、鳴尾信徒の多くは、津村氏の人柄をかなり正確に理解していた。だからこそ、事実は決して教団サイドにはなく、津村氏+村上氏サイドにはないということに、当初から多くの人々が気づいていたのである。)

 <後半に続く>

正義の仮面を被り、無実の教会とキリスト教徒を迫害する村上密氏の活動の危険②

 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団村上密牧師による
鳴尾教会人事への度重なる密室での不当な介入について~

写真:鳴尾教会の創立者のジュエル・プライス宣教師(左)と アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の津村昭二郎牧師(右) 出典:武庫川純福音キリスト教界NEWS

 

目次

.事の発端 
    ~鳴尾教会を引退するつもりのなかった津村昭二郎牧師~

2.騒動の原因
    ~村上密氏の介入により、密室で決められたAB伝道師の鳴尾からの異動~

3.津村氏をめぐる疑惑
    ~教団側文書によって明らかになった津村氏によるAB伝道師に対する一方的な嫌疑と理不尽な扱い~

4.混乱の深化 ~村上密氏による暗闇での鳴尾の人事への介入の問題点と、津村氏の責任をあいまいにした教団側の不透明で不適切な対応~
5.繰り返される悪夢
 ~教団側から鳴尾牧師に再びかけられた嫌疑~

6.事件のパターン化
 ~「津村氏の呪縛」? 村上サイドから鳴尾教会の牧者に繰り返されている攻撃~

7.「魔女狩り」の背景
 ~津村氏と村上氏の男尊女卑と唯我独尊の思想~

8.「魔女狩り」の理由その2
 ~村上氏は鳴尾をブランチ化したかった?~

9.本当の「異端者」は誰か?
 ~自己の無謬性を主張し、自ら神に代わって裁きを行うという異端~



 



1.事の発端 ~鳴尾教会を引退するつもりのなかった津村昭二郎牧師~

 
さて、鳴尾教会の問題に戻りたいと思う