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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

「宗教トラブル相談センター」村上密による移送申立が、横浜地方裁判所より却下される

久々に裁判に関する進捗報告を一つ。

カルト被害者を名乗る人々はよくよく見ておいて欲しい。 もしもキリスト教会であなたが何かの事件に遭遇したとして、受けた被害の相談をあなたは誰かに行いたいと考える。むろん、それを禁じる法はなく、誰かに話せば胸の内がすっきりすると思うのも当然だろう。

だが、そこで誰を相手に相談すべきかは、よくよく考えて検討することをお勧めする。特に、宗教トラブル相談センターに赴くことが妥当かどうかは、よくよく熟慮することをお勧めする。

なぜなら、相談と引き換えに、あなたは個人情報を収集され、その後、もしも相談した相手に何かの不審や疑問を感じても、いざ批判の言葉を口にすれば、たちまちネット上ですさまじい制裁を加えられるだけかも知れないからだ。

あなたは相談内容をことごとく公表されて、個人情報を暴かれ、人生の道を踏み誤り、カルト宗教の洗脳を受けた信者と呼ばれ、プライバシー権を侵害された上、そうした事件の解決を目的に、相手を調停や訴訟の場に呼び出し、公に議論しようとしても、その相手は、決して裁判所からの呼び出しに応じて速やかに出頭しようともせず、色々な理屈をつけては、逃げ回るだけかも知れないからである。

あなたは教会で遭遇したごくごく些細なトラブルをきっかけに、それとは比べものにもならないほどの巨大な重荷を背負い込まされることになるかも知れないからだ。

以下は、アッセンリーズ・オブ・ゴッド教団京都七條基督教会、宗教トラブル相談センターの村上密牧師が、当ブログ執筆者を原告として提起された訴訟の第一回口頭弁論期日について、「バングラデシュへの出張」を理由に、事件の京都の裁判所への移送を申し立て、それが裁判所により却下された通知である。

かつて被告A(杉本徳久)は、自らのブログで、被告が申し立てさえすれば、事件を被告の住所の管轄裁判所に移送できるかのように主張していたが、そのような主張が虚偽でしかないことが、この決定によっても証明された。

原告が知っている限り、一般に、原告の住所地の所轄裁判所で提起された損害賠償請求事件に、被告の希望に基づいて、移送の申立が認められるための条件は、かなり厳しい。被告が、仮に次回、別な理由を持ち出して移送を希望したとしても、同じように却下となる可能性は極めて高い。

それにしても、自分が正義の味方のように、カルトをやっつける側に回る時には、意気揚々と法廷闘争を呼びかけ、他の牧師を法廷に引きずり出すことをいとわない人間が、いざ自分が被告として法廷に呼び出されると、何かと理由をつけては出頭をしぶるというのは、感心できる態度ではない。

公に名を名乗り、TVにも出演しながら、全国をカルト被害者への支援のために飛び回っていることをアピールしている牧師ならば、誰からどんな訴えがなされたとしても、正々堂々とそれを受けて立ち、持論を展開して公の場で反駁すれば良いだけであり、自分にとって不利な訴えにも、根気強く、透明性のある形で、公に反論している姿が、信頼を呼ぶのである。それをしようとしないのは、自分にとって不都合なことには向き合うつもりがなく、そもそもやましい思いがあるから出頭したくないのだろう、などと憶測されても仕方がない。
 
しかも、海外出張という一過性の出来事を理由に、移送の申立が認められる見込みがほとんどないのは、誰にでも事前に予想できることである。そこで、この移送の申立は、自分が出頭を拒むための口実であるだけでなく、事件の解決を何とかして先延ばしにし、自分に不利な判決を先送りするための苦肉の策だと思われても仕方がないだろう。

それにしても、海外宣教師でもない牧師が、この時期にわざわざ出張というのは・・・。一般信徒から提起された訴訟に向き合うことが、そんなにも怖くて、バングラデシュまで逃亡せねばならないのか、という憶測を呼ぶのも仕方がない。

断っておけば、第一回目の口頭弁論には、被告は出頭しないこともできる。しかし、出頭しなければ、自分の口から主張を説明できないので、誤解が生じ、不利な判決が下される恐れが増し加わるだけだ。そして、二回目以降の期日には、出頭しないことはできない。

審理が長引けば長引くほど、被告として呼び出される回数が増え、答弁する苦労や、交通費が増し加わるだけのことである。それくらいなら、一度ですっきりとカタをつけるために、全力で準備した方が、よほど重荷が減るだろうに。
 
さて、被告らの答弁書が提出されたので、原告も準備書面を作成したが、村上密の答弁書は2頁、杉本徳久の答弁書は6頁と、相も変わらず、真面目に答弁しようという意気込みが全く感じられない。

原告が提起した訴状は約200頁。それに対し、この分量の反駁では、訴状の冒頭部分にさえ反駁したことにならず、自分の主張の正当性を広く世に訴えて、自分の権利を守るつもりが初めから全くない、とみなされても仕方がないことであろう。

具体的な根拠も伴わない一方的な「言いっぱなし」のスタイルが認められるのは、ネット上だけのことである。それ以外の文書では、すべての主張に具体的かつ客観性のある論拠を示すことなしには、どんな主張も正当と認められることはない。
 
神に対しても、人に対しても、原則は同じだが、自分がどのような権利を持っているのか、きちんと根拠を示して、他者に訴え、公然と自らの願いを正当なものであると主張することをしないのに、その人の言い分が認められることは、決してない。

主張しないということは、最初から、自分の権利を放棄し、自分に有利な判決をあきらめているのと同じことである。

被告らの主張には、依然として、いかなる信憑性のある具体的な根拠も示されておらず、仮に二回目、三回目の期日を開いたとしても、そこで新たな証拠等が提出されて、今以上に有意義な議論が行われる見込みがほとんどない様子は誰にでも分かる。

そこで、彼らの答弁書の分量・内容の薄さが、今後の審理の進行に甚大な影響を与えることはほぼ間違いないと予想される。



 


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村上密と「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久に見るグノーシス主義者の空虚な自己の本質

さて、民事調停ではいかなる妥協も歩み寄りも示さず、当ブログの主張を「棄却する」などと豪語していた杉本徳久が、調停の期日後に、当ブログに新たなメールを送りつけて来たので、ここに掲載しておく。

 杉本徳久が3月28日に送りつけて来た新たな迷惑メール

杉本は、わざわざ公の開かれた場所で、自分の主張を具体的に提示して、和解を探るために交渉するチャンスが与えられているにも関わらず、そこでは自分の非を一切認めず、一歩たりとも譲歩せず、自分の主張内容を客観的に論証することも、具体内容さえ明らかにすることもなく、誰にも理解できない要求をただ一方的に突きつけただけで、合意にも至っていない。

にも関わらず、早速、そこで提示した自分の一方的な要求を、あたかも当ブログが履行する義務でも負ったかのように、人目につかない場所で、他人の人生に不当に干渉し続けようとする杉本の行為には、呆れ果てるほかない。

正当な手段では決して問題解決をはかることができず、真実に向き合う勇気もなく、正々堂々と他人に向き合えない臆病で卑怯な性格を見ることができる。

杉本は自分が今まで他人にして来たように、自分自身が標的とされて記事を書かれたことが、よほど身に堪えたのだと見られるが、以上のメールの中で、何とかして筆者の非難の矛先を、自分から他人へと逸らそうとしている。

だが、証拠もないのに、他人の悪口を第三者へ宛てたメールの中に書き連ねていれば、さらなる名誉棄損や侮辱罪で訴えられる可能性が高まるだけだ。
 
村上密はおそらく今までと同様、自分は決して矢面に立つことなく、杉本と筆者をぶつけ、戦わせることにより、自分は手を下すことなく、当ブログを駆逐し、自分はネット上のキリスト教界批判の分野において、ナンバーワンの座を得ようと考えているものと思われる。

それと同様のことを、おそらく唐沢治も考えていたであろうことはすでに述べた。唐沢から見れば、杉本も筆者も、KFCを批判しているため、どちらが勝利をおさめようと、一定の利益が得られることになる。

これが牧師というものの実態である。信徒同士を争わせ、戦わせ、自分はそれを高みの見物しながら、自分自身の地位の安泰をはかる。唐沢であろうと、村上であろうと、坂井であろうと、結局、彼らは牧師階級を守るという、全く同じ利益のもとに結託して、ほとんど同じ働きをなしているのだ。つまり、彼らは、キリスト教界内のカースト制度を温存する目的で、信徒を踏み台にし、互いに戦わせながら、それによって自分の利益を得ているのである。
 
だが、すでに見て来た通り、唐沢は、本気で杉本や村上と対立する気は全くないため、Dr.Lukeは彼らの競争相手ではない。残るは筆者一人である。

そこで、杉本は村上の代弁者として、村上の意向を忠実に「忖度」して、自分自身を捨て駒・当て馬とすることによって、必死に当ブログの更新を中断させ、相打ちに持ち込もうと試みているのだと考えられる。

そのことは、以上の杉本のメールの内容からも理解できるし、さらに、村上密が他ならぬ3月23日に自らのブログに以下のごとく大量の投稿をしているという異常現象を通しても伺える。村上は、民事調停への出席を蹴ったこの日に、なんと29本もの記事をブログに投稿しているのである。

ちなみに、さわやか読者らは、大抵、当ブログの更新が途絶えて何時間も経ってから騒ぎ出すのが常であるが、筆者が本日、村上のブログを訪問して、当ブログの欄外のコメント欄で、この異常な投稿数について書き記した途端、早速、ほとんど時間を置かずに、フェイスブックから、以下の読者が当ブログに押し寄せて来た。

p399088-ipngn5401souka.saitama.ocn.ne.jp
(↑古参のさわやか読者、どれだけの工作がこの特定のIPアドレスから行われているかを間もなく発表予定。いつかは必ず人物が特定される。)
pl960.ag1111.nttpc.ne.jp
69.171.240.21
66.220.151.210
31.13.114.55
66.220.151.182
pl6728.ag5354.nttpc.ne.jp
p3b935fcf.hyognt01.ap.so-net.ne.jp
fs76eee8bc.tkyc210.ap.nuro.jp

(追記:3.31)
pl14651.ag1212.nttpc.ne.jp
p399088-ipngn5401souka.saitama.ocn.ne.jp
(↑この日も朝一で来ている。ほとんど主犯格と言えよう。) 

(4.1)
softbank219209223053.bbtec.net 
   
調停が行われた当日にも、フェイスブックを利用して当ブログを訪れたのは以下の面々である。

55.10.134.27.ap.yournet.ne.jp
185.89.219.166
pw126199005109.18.panda-world.ne.jp
16.199.183.58.megaegg.ne.jp
p701203-ipngn1802sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp
ool-2f16ab0a.static.optonline.net
softbank126209003004.bbtec.net
sp49-98-53-109.mse.spmode.ne.jp
 
しかし、フェイスブックは最も個人が特定されやすい危険な媒体である。匿名の2ちゃんねるが不評であり信頼低下が著しいため、彼らは別な媒体に移動しつつあるのかも知れないが、そういうことを繰り返しているうちに、彼らはやがて自ら身元を明かす時が来る。杉本がメールで画像を添付して来たように、それを見ている人々が身元を特定して通報することが十分にあり得るからだ。

当ブログのさわやか読者はほとんどが毎回、そのようにして徐々に自分自身の存在を明かすというパターンを辿っている。悪霊に導かれる人々には、自己顕示欲という捨てがたい欲望があるため、危険を承知で自分たちの存在を誇示しないわけに行かないのである。

いずれにしても、今回の記事のテーマはさわやか読者ではない。杉本もさわやか読者も自分たちに注目を集めることによって、記事の本題を逸らそうとする人々である。そこで、今回は、杉本がどれほど当ブログで批判されても、それだけではほとんど反応しない人々が、村上に関わる話題が持ち上がると、これほど素早く反応を起こすことに注目されたい。
 
以上とはまた別に、連日、Yahoo!、Google、Bing などの検索サイトで工作を繰り返し、当ブログの順位を下落させ、検索結果から駆逐するために活動している部隊がある(重複している部分もある)。だが、村上に関する話題が出ない限り、決して起きることのない騒ぎがある。
 
さわやか読者らは、検索結果を操作し、話題をかく乱し、印象操作を行うことによって、「本命」の村上密をかばおうとしているのである。だが、彼らのすべてが村上密をかばうという目的だけのために活動しているとは言わない。杉本徳久を含め、彼らは牧師階級そのものを温存するために、牧師階級の手先となって活動している勢力であると言った方が良い。

さて、村上密が自分に関する評判にどれほど敏感に目を光らせているかについては、かつて何年も前に、杉本徳久が、自らのブログに、村上密という牧師を「全く信用していない」と記し、村上の記事内容を批判した際、その直後に、村上からクレームをつけられ、反省文のような記事を書かされている様子からもよく分かる。

その当時、水面下でどんな圧力があったのか知らないが、その出来事や、当ブログ執筆者が村上から受けた人格攻撃を通しても分かることは、村上密という人物は、少しでも自分に対して批判的な言動があれば、決してそれを放置せず、ただちにクレームをつけ、さらにそれで効果がなければ報復措置に出る人間だということである。

村上密に関する記述を巡っては、当ブログに関しても、連日、工作員部隊が、隅から隅まで発言に目を光らせており、少しでも批判的な言動がなされれば、すぐに飛んで来る。そして、批判を行った者を揶揄したり、嘲笑したりするコメントを別の場所に投稿することによって、批判者を追い込み、批判的な言説が広まらないように印象操作を続けているのである。

こうした工作員部隊の活動は、アベンジャーズとも呼ばれている自民党ネットサポーターズクラブの動きを彷彿とさせる。アベ様を身を呈して守ろうとしている人たちと、密様を守ろうとしている部隊の動きは、筆者から見れば、瓜二つに見える。「誤報」などという言葉を使って、論敵を貶めようとする言葉の遣い方もよく似ているが、やはり統一教会がらみだからであろうか、こうして批判者を封じ込めようとする手口までそっくりなのだ。

自民党ネトサポに関しては、彼らのネット上の書き込みが金で行われていた事実が判明している。そこで、牧師という階級制度を温存するために、捨て身の作戦に出ているこれらの者たちの書き込みも、印象操作のためのシナリオに基づき、世論の誘導のために行われているのであって、決して自発的なものではない可能性を我々は十分に疑ってみなければならない。
 
以前から何度も書いて来たように、我々は、統一教会がキリスト教界にスパイを送ることなど決してないなどと安心している場合ではない。キリスト教の中に、キリスト教とは無縁かつ異質な勢力を送り込み、彼らの圧力によって神に忠実に従うクリスチャンを駆逐して行くということは、異端の勢力が必ず取る方法である。ペンテコステ・カリスマ運動もそのようにして既存の教会を破壊して来た歴史がある。

村上密が全くクリスチャンの利益のために行動していないことは、村上の言動から一目瞭然であり、村上が仕えているのは、聖書とは「別の福音」であることは何度も述べて来たが、それならば、村上は一体、どこの宗教、誰の利益に仕えているということになるのであろうか。

しかし、それにしても、村上密が3月23日に開かれた調停の場に出て来ることもなく、自らのブログに引きこもろうとするかのように、記事を大量に投稿した行為は、どこから見ても異常でしかない。引きこもりの患者ならば、他にすることもないので、一日に10本以上の記事を投稿するようなこともあるかも知れないが、29本の投稿は行き過ぎである。何のためになされた行為なのか、必然性もなく、牧師にも関わらず、ここまでブログに入れ込んでいる姿はもはや異常と言われても仕方がない。

このことは、当ブログが、村上のブログを引きこもり老人のモノローグ的回顧録も同然であると評したことの腹いせに、筆者が期日に出かけ、ブログを更新できなかった日に、大量投稿を繰り返すことにより、遅れを挽回しようとしたと考えられないわけでもないが、あまりにも異常な行動なので、そういう動機では単純に片づけられないものがある。

しかも、その後の記事において、村上はまたもや信徒の恥を晒すような相談内容を漏洩している。以前と何も変わってはいない。人間関係などを仔細に描写するだけで、相談者が明らかになってしまう危険もかえりみず、いつまで経っても、信徒の個人情報を守ろうとする姿勢がないことに呆れるしかない。 

さて、一日に29本の記事の投稿という異常行動は、調停の期日当日の村上の不安心理をよく示していると考えられる。やはり、この日、村上は杉本一人をスケープゴートとするかのように矢面に立たせ、自分は公の場に姿さえ現さなかったことに、内心ではよほどの罪悪感や、忸怩たる思いがあり、居ても経ってもいられない心境だったのだろうと感じさせる。

以下を見れば、これがただ不安心理の表れとしか見えないのは当然である。光のもとへ出る勇気がないために、藪の中に隠れて石を投げることしかできない幼稚な生き方しかできない人間が、一体、誰であったのかは、読者の前に明々白々である。
  

3月23日の村上密の記事投稿数(全29本)

権威について [ 2018-03 -23 23:37] 
権威2018-03 -23 23:28 ] 
宗教的権威に対して [ 2018-03 -23 23:20 ]
政治的権威に対して [ 2018-03 -23 23:14 ]
司法的権威に対して [ 2018-03 -23 23:07 ]
司法的権威を持つ者への注意事項
 [ 2018-03 -23 23:03 ]
政治的権威を持つ者への注意事項 [ 2018-03 -23 22:58 ]
権威について 21
 [ 2018-03 -23 22:50 ]
権威について 20
2018-03 -23 22:25 ]
権威について 192018-03 -23 22:23 ]
権威について 182018-03 -23 22:20 ]
権威について 17
2018-03 -23 22:18 ]
権威について 162018-03 -23 22:15 ]
権威について 152018-03 -23 22:12 ]
権威について 142018-03 -23 22:00 ]
権威について 13
2018-03 -23 21:56 ]
権威について 122018-03 -23 21:54 ]
権威について 112018-03 -23 21:51 ]
権威について 102018-03 -23 21:47 ]
権威について 92018-03 -23 21:45 ]
権威について 82018-03 -23 21:42 ]
権威について 72018-03 -23 21:40 ]
権威について 62018-03 -23 21:33 ]
権威について 52018-03 -23 21:32 ]
権威について 42018-03 -23 21:29 ]
権威について 32018-03 -23 21:26 ]
権威について 22018-03 -23 21:19 ]
赦し2018-03 -23 20:39 ]
権威について 12018-03 -23 10:10 ] 
  


 
 だが、断っておくが、人間は、それほどまでに単純な生き物ではない。うわべでは自らの非を認めなくとも、良心においては、自分がどんなに卑劣な行為に及んでいるかはちゃんと分かっている。そこで、この先、杉本をスケープゴートにすればするほど、村上は罪悪感の重さに耐え切れなくなるだろうと筆者は予想している。

しかも、上記メールに見るように、杉本がこの期に及んでもまだいじらしく村上をかばっているだけに、村上が自分一人、ブログに引きこもって、モノローグ的回想を延々と綴っている行為は、誰から見ても納得できるものではない。神と人の前で、こうして信者を利用して破滅させた村上の罪ははかりしれないほど重いものとなろう。

だが、だからと言って、筆者は決してそのことで杉本を犠牲者として擁護するつもりはない。我々は、以上に挙げた杉本のメールの文面を通して、杉本という人物がどれほど深くグノーシス主義に汚染されてしまっているか、また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者でもないにも関わらず、村上密にどれほど深く心酔し、まるで運命共同体のように、この牧師の意向を「忖度」し、身を呈してこの牧師をかばおうとするほどまでに、深くマインドコントロールされてしまっているかをはっきりと見ることができる。

そのようにまで自分を見失って他人の欲望の奴隷となって行動したことの罪は、全て本人に跳ね返る。聖書は、キリストにあって自由とされた信者は、二度と人間の奴隷となってはいけないと教えている。しかも、あれほどカルトの危険性を訴えていた本人がこうなったことには、誰も同情しないだろう。

杉本と村上の例を通して、我々は、互いに面識があるかないかとか、同じ教団に所属しているとかいないとか言ったことに関わらず、離れたところにいても、これほどまでに深い精神的絆(癒着)が生まれることがあり得ると分かる。村上密による遠隔操作、重症のマインドコントロールを思わせる行動である。
 
杉本が当ブログに対していわれのないバッシングをしかけ続けた行為も、やはり杉本が村上の意向を忖度して、村上密の利益のためになされたのだろうと筆者は改めて思う。杉本はこれまで常に村上密の「影」として、村上の心を「忖度」しているつもりになって、村上の利益をおもんばかって行動して来た。そして、村上密にはそういう杉本の行動を止めようとした形跡が全くない。
 
杉本は、村上密のために、村上をキリスト教批判の分野においてナンバーワンとして担ぐためならば、自分自身は捨て駒となって、罪を問われても構わないという姿勢で、当ブログに体当たりしているのであるから、もはやこういう人間関係は、カルトの教組と信者との結びつきにも近く、教祖を守るためならば、どんな罪に問われても構わず、死んでも良いとする信者の姿を彷彿とさせる。

かつて杉本は、筆者を妄想教組に従うカルト信者のように形容していたが、蓋を開けてみれば、それは他ならぬ杉本自身だったことがこうして明らかになっているのである。

 だが、彼らがどれだけそのように所属教団や所属教会をも無視した異常な連帯を用いて、当ブログを圧迫したとしても、この先、誰の主張が駆逐されるのかは明らかである。

以前にも書いた通り、クリスチャンは、試金石である。本物のクリスチャンであれば、誰かがその人間にぶつかればぶつかるほど、かえってぶつかった人間の本質が見えて来る。

石とダイヤモンドでは勝負にならず、高速でダイヤモンドにぶつけられた石は、粉々に砕け散るしかないように、霊的法則性についても同様のことが言える。人間の主張対主張の争いにおいては、もしもどちらかが聖書の真理に堅く立っている場合には、虚偽の主張は根こそぎ粉砕されるしかない。

キリストご自身が生ける「石」となって、偽善者たちの上に落ちかかり、その教えを粉砕してしまったように、今日も、クリスチャンたちは、神の神殿を構成する「生ける石」として、嘘を粉々に打ち砕いてしまう役割を担っている。

それは、私たちが願おうと願うまいと、避けられない結果として起きて来る。このリトマス試験紙としての役割は、「地の塩」としての役割であり、自分の意志で取り除くことができるものではなく、その役目を果たせなくなれば、外に捨てられて踏みつけられるだけで、クリスチャンとしての意味もない。

そして、杉本も村上も、自分たちの主張に正当な論拠がなく、公の場所に提示すれば、それが否定され、粉砕される運命にあることを知っていればこそ、可能な限り、公の場で、当ブログの主張と直接、対峙することを避け、暗闇から非合法な方法で言いがかりをつけることで、意見表明を断念させようとしているのである。

以上のような事情があるため、当ブログでは、あえてこの先も、杉本から送りつけられる全ての迷惑メールや、さわやか読者らの動向を、逐一、仔細な注釈や分析を加えた上で、すべて公開して行くつもりである。
 
さて、筆者は、この先、杉本に一つだけ期待していることがある。それは杉本がこれから訴訟等を通して、公の場で、どれほど多くの情報を証拠として提示して来るかということである。

ソ連が崩壊する前には、ペレストロイカとグラースノスチがあり、その過程で、あまりにも多くの体制の腐敗・不正に関する闇の事件の情報が明るみに出て来たことが、この体制の決定的な信頼の失墜と崩壊を導いた。

このように、悪しき体制の崩壊には、まず信頼の失墜が先立つ。杉本はこれまでクリスチャンに関する情報を暗闇で密かに収集しては、クリスチャンを脅しつける材料として利用して来たが、当ブログではこの度、その「鏡」をくるりと反転して、逆に杉本からの情報収集を始めた。

まずは杉本が調停で証拠として出して来た唐沢治のメールを公開したが、それによって、当ブログがDr.LukeとKFCに関して述べて来た主張にも、かなりの裏づけが取れたと言える。

しかしながら、こんな程度では済まない大量の情報が、杉本徳久という「要塞」の中に、まだ数多く眠っているものと見られる。そして、当ブログでは、その情報に多大なる関心を寄せている。それだからこそ、前々から、杉本は、一人の人間でありながら、同時に、反聖書的な思想の体現者であり、霊的要塞なのだと述べて来たのである。

訴訟になれば、彼らは今まで以上に多くの証拠を出して具体的に反駁せねばならないが、その過程で、どれだけの情報が明らかになるのかが、最も注目するところである。

杉本徳久という人物は、うわべだけは敬虔そうな態度を装う”自称”クリスチャンたちが、密かなところで隠れて行って来た悪事、嘘、密告、裏切り、中傷、讒言、監視、陰謀、分裂工作などに関する様々な情報を嫌というほど握っている証人であると見られ、そうした情報を出させることにより、事の真相を明らかにすることには、とてつもなく大きな意義があると考えられる。

しかも、通常であれば、犯罪事件で訴えられたことが分かっている被疑者は、自分に捜査が及ぶ前に、証拠隠滅を図るであろうが、杉本という人物にだけはその原則が当てはまらない。未だに刑事事件となった事実さえ認めようとしない杉本は、まるで現実感覚がないがゆえに、逆に自分が難を逃れるために、この先、開き直って自分の握っている情報をとことんまで吐き出して来る可能性がある。

杉本が、ブログに記したコメントの一つさえ、削除を要求しても、応じない人間であったことを考えれば、杉本が自称クリスチャンたちに関して握っている不利な情報を隠滅するとは考えにくい。クリスチャンを貶めることが最初から彼らの目的であったにも関わらず、その材料を自ら手放すとは思えないからである。

そして、当ブログでは、杉本の存在を通して、うわべだけ敬虔を装う”信者”が、暗闇の中で、どれほど陰湿かつ卑劣な陰謀に加担し、神の子供たちを貶める行為に手を染めて来たかという情報が明らかになることは、大いに結構であり、望ましい展開だと考えている。
 
現在になっても、当ブログがまだ、人に優しく、耳に心地よい信仰告白を行う場だと考えている読者がいるとすれば、その人には、大変、残念なことであるが、当ブログにはそのような目的は初めからないので、人間の弱さを根こそぎ明るみに出すような話題を不快に感じられるならば、読まないことをお勧めするしかない。

なぜなら、聖書は言う、

人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父がお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:26-31)

「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」(ルカ8:16-18)

ある人は言うかも知れない、「ヴィオロンさん、あなたは杉本が、カルト監視機構の設立を訴えていた村上密の活動に共感して、教会の不祥事をブログで発表し続けたことを、キリスト教の信用を失墜させる行為であると非難しています。それならば、あなた自身が、クリスチャンの堕落を明らかにすることは、同じようにキリスト教の信用を失墜させる結果になるだけだと思いませんか?」

筆者はそれに答えて、決してそうは思わないと言おう。なぜなら、たとえば「私たちはエロヒム(神々)だ!」と臆面もなく集会で宣言しているDr.Lukeこと唐沢治が、真にクリスチャンであって、聖書の御言葉に基づくキリスト教を布教しているなどと、どうしてあなたは思うことができようか。

だとすれば、KFCのメッセージが反聖書的であることを具体的な根拠と共に明らかにしたからと言って、それがキリスト教の信用を低下させる行為であるとは言えないであろう。むしろ、逆である。

ペンテコステ・カリスマ運動についても同様のことが言える。キリスト教の中にこっそりと滅びに至る異端を混ぜ込む「疑似キリスト教」の骨子を明らかにし、なぜペンテコステ・カリスマ運動がこれほどまでの混乱をキリスト教界に引き起こして来たのか、それをこの教えの本質を明らかにすることによって理論的に証明し、このような偽りを聖書の御言葉から公然と分離し、取り除いて行くことこそ、キリスト教の信頼の回復のために欠かせない過程ではないだろうか。
 
さらに、牧師制度の根本的な誤りを明らかにすることの重要性がある。村上密のような牧師が、いかにカルト化教会の牧師が自らの権威を絶対化していると批判したとしても、その村上自身が牧師である以上、そのような主張は大いなる自己矛盾でしかない。

唐沢治であろうと、村上密であろうと、彼らの論理破綻はまさに同じ点にある。他の牧師を批判する前に、自分自身が牧師の職を辞さなければならない。なぜなら、牧師が自らの権威を絶対化することが誤りなのではなく、牧師制度そのものが、必ず、権力の絶対化を引き起こす誤った制度なのであり、それを認めず、一部の牧師だけを批判する彼らの主張は、甚だしく合理性を欠いており、さらに自分自身を絶対化している彼らの行動とも相矛盾盾するものでしかないからだ。

このことは、かつてあれほど牧師制度を批判し、キリスト教界を批判していたDr.Lukeが、結局、自分のミニストリーに反対した信者について、虚偽の情報を言い広めて印象操作を行うまでに身を落とした様子からもよく分かる。まさにカルト化である。自分の活動の批判者を誰彼弾圧せずにいられない村上は言わずもがなである。
 
しかし、そうしたカルト化現象も、もしも村上や唐沢が、人々の目にヒーローのように映るフィクションの自分自身の姿を作り出し、それを見つめさせることによってしか、自己肯定、自己安堵を得られず、自己認識ができないという精神的弱さを克服することさえできていれば、起きなかったであろう。
 
だが、彼らには後戻りの道はなく、おそらくこの先も、最後まで虚構の自己像を演じ続けることで、真の自分自身から逃避するしか道はあるまい。
 
我々は、臆病さや卑怯さのために、彼らと同様に、ありもしない幻想の自己に逃げ込むことはせず、恐れることなく、真実な自分の姿を見つめたい。そして、真実な自分の姿とは、聖書に書いてある通り、アダムに属する人間はすべて堕落しており、弁明の余地なく、すべて十字架で廃棄されなければならないという事実である。

キリスト教の信用を失墜させないとは、決して人間に媚び、人間の機嫌を損なわず、人間の威光を傷つけないために、人間に関して楽観的で、美化された虚偽の幻想を流布することを意味しない。

キリスト教が唯一正しい方であるとしているのは、聖書の父なる神、独り子なるキリストだけであって、人間については徹底的に悲観的で絶望的な結論しか提示していない。

キリスト教は人間を賛美したり、神を信じているクリスチャンを美化し、誉め讃えるための教えではない。
 
聖書が教える人間の本質とは以下の通りである。

心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。
「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。 」(エレミヤ17:9-10)

聖書はすべての人間が、義人ではなく、堕落・腐敗しており、信用ならないことを教えている。だからこそ、被造物はすべて死を通らねばならないのであって、キリストの十字架以外にはいかなる救いも存在しない。

にも関わらず、あまりに大勢のクリスチャンが、キリスト教を自分のうわべを飾り、人前で自分を義と見せかけるための手段として用いている。彼らはうわべだけは敬虔そうに振る舞い、数々の儀式には精通しており、熱心かも知れないが、神を知らず、神に近づくことも考えておらず、聖書の御言葉への従順さも、神の御前での心の清さも求めない。何よりも、彼らは偽善的で、誠実さ、真実、御言葉への従順が欠けているのである。

彼らはアダムに属する人間の自己が、キリストと共なる十字架で死に渡されねばならないことを認めず、神を信じていると言いながら、自分が受ける恵みのことばかりを強調し、こっそりと、神を自分の魂の情愛や欲望を満たす手段へと変えてしまう。ない。そして、古い命に基づく情愛を賛美し、その情に基づく関係を兄弟姉妹の交わりと呼び、堕落した魂の情愛によって、神の教会を築き上げようとして失敗し、結局、異端に逸れて行くのである。

だが、そうした腐敗は、すべてもとを辿れば、グノーシス主義が生む現人神崇拝としての牧師制度へと行き着く。まずは牧師制度が、キリスト教を人間が栄光を受けるための手段に変え、被造物中心の教えに変えてしまうのである。神を信じることにより、堕落した人間に過ぎない牧師が、あたかも神の代理人のように高められ、しかも、他の信徒にまさって、「神の御言葉を取り継ぐ」資格を得たかのように振る舞い、神と人との唯一の仲保者であるキリストになり代わって信徒の心を支配し、金銭的にも肉体的にも、搾取し、自ら栄光を受けるのである。

このような牧師制度は、教会内に偽りのヒエラルキーを作り出し、教会を人間の欲望を叶える手段とし、奴隷としてしまうだけである。

それはちょうど、地上の会社組織が、人間の欲望に仕える団体であるがゆえに、人々に尊ばれているのと同じである。ある企業の社長が人前に敬われ、栄光を受けるとすれば、それは、その会社が人々の欲望を満たす手段だからである。人々は、ある会社の社長を尊ぶとき、本当は、その会社の社名や、社長の人物を尊んでいるのではなく、その社長の背後に存在しており、自分の欲望を都合よくかなえてくれる手段としての会社を尊んでいるのである。つまるところ、社長を尊んでいるというよりも、自分の欲望を尊んでいるのだと言って良い。

これと全く同じ原則が、牧師という制度や職業にも当てはまる。

主イエスは言われた、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる。」(ルカ16:15)

なぜ人に尊ばれるものが、神に忌み嫌われるのか。それは、人が尊ぶものは、自分の欲望を都合よくかなえてくれそうなものばかりだからである。この世において、人が尊ぶものはすべて人々の欲望の化身なのであって、人はそれを尊ぶことによって、結局、自分自身の欲望を重んじているのである。

今日の教会においても、信徒らは、牧師という目に見える「象徴」の中に、自分の一切の願望を投影する。神の御心にかない、人々の救いのために自分の命を惜しまず注ぎだす、御言葉に忠実で従順かつ理想的な神の僕の姿を見ようとする。

しかし、神の御心にかなう従順で忠実な僕は、キリストお一人しかいないのであるから、目に見える人間の中に、神の忠実な僕を見たいとする信徒らの欲望は、裏切られて終わるだけである。

あれやこれやの牧師が特別な例外として誤りに陥るのではない。牧師制度そのものが、神と人との唯一の仲保者であるキリストの地位を奪い、キリストになり代わろうとするフィクションの制度であって、牧師という職は、それ自体が、人々の心の欲望から作り出された偶像、神話なのである。
 
そこで、信徒が、牧師という目に見える存在に、美化された人間の幻想を重ね合わせ、それを自らの欲望の化身として拝むことをやめなければ、信徒らがこの「フィクション」である牧師を手本に、福音を自分の御を飾る手段として利用して、幻想の自分を作り出しては、それに耽溺し、虚構の「聖化」や「栄化」の概念に溺れて行くことも終わらないであろう。

私たちは、そもそも人間という存在を欺瞞に満ちた幻想の美しい花輪で飾り立てることをやめ、聖書の突きつける厳しい現実を決して目を背けることなく直視せねばならない。

そこで、話を戻せば、当ブログでは、杉本を含め、カルト被害者救済活動の陣営がこの先、出して来る情報を通して、いかにも敬虔そうに振る舞う「信者」たちが、隠れたところで行って来た悪事が明らかになることは、全く問題ではないと考えている。むしろ、そうした情報が明るみに出されることにより、うわべの外見だけで人を判断し、無意味に人を美化しようとする偽りの幻想が打ち砕かれて恥をかかされ、退散して行くことは、まことに望ましい結果だと考えている。

私たちは、クリスチャンになったからと言って、人間というものの堕落した本質から決して目を背けるべきではない。誰にも嫌われたくないからという理由で、人の耳に心地よい言葉を語り、人間に過ぎない者を賛美したり、自分自身を美化したりして、神を自分の欲望をかなえ、自分が栄光を受ける道具として利用することは、聖書の福音に対する裏切り行為でしかない。

そんなことをしていれば、結局、神の御前で真理を否定して、救いから除外されるだけだ。

クリスチャンは、神が預言者エゼキエルに語られた内容を知らないわけではないと思う。

「彼はわたしに言われた、「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」。
 そして彼がわたしに語られた時、霊がわたしのうちに入り、わたしを立ちあがらせた。そして彼のわたしに語られるのを聞いた。
 彼はわたしに言われた、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわたしにそむいた反逆の民につかわす。彼らもその先祖も、わたしにそむいて今日に及んでいる。
彼らは厚顔で強情な者たちである。わたしはあなたを彼らにつかわす。あなたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。
彼らは聞いても、拒んでも、(彼らは反逆の家だから)彼らの中に預言者がいたことを知るだろう。
人の子よ、彼らを恐れてはならない。彼らの言葉をも恐れてはならない。たといあざみといばらがあなたと一緒にあっても、またあなたが、さそりの中に住んでも、彼らの言葉を恐れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である。
彼らが聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない。彼らは反逆の家だから。
人の子よ、わたしがあなたに語るところを聞きなさい。反逆の家のようにそむいてはならない。あなたの口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」。
この時わたしが見ると、見よ、わたしの方に伸べた手があった。また見よ、手の中に巻物があった。
彼がわたしの前にこれを開くと、その表にも裏にも文字が書いてあった。その書かれていることは悲しみと、嘆きと、災の言葉であった。」(エゼキエル書第2章)
 
旧約聖書において、神が人に語られる時、その内容が、人間の耳にとって心地よいものだったことはほとんどない。特に、自分たちは神に仕えていると自負する民にとって、それは厳しすぎる宣告と思われるほどに、彼らの罪を暴き出すものであり、耳を背けたくなるほど、受け入れがたい内容ばかりだった。その原則は、新約になっても変わらない。主イエスは、地上に来られた当時、律法学者やパリサイ人たちが、自分こそは神の代理人だと考えて、自分を聖なる存在のようにみなして思い上がり、民に誉めそやされ、民に君臨し、民を収奪していることの罪を指摘し、彼らの面目を失わせたのである。

だとすれば、現代だけは例外などということがどうしてあるだろうか。さばきは神の家から始まる、と書いてある通り、今日も、自分たちこそ敬虔な信者であって、御言葉の教師であると自認している人々こそ、最も厳しい裁きを受けねばならないのである。

このようなわけで、筆者は、万民祭司のこの時代、キリスト教界に秩序が回復されることがもしあるとすれば、それは一人一人のクリスチャンが、牧師制度を離れ、直接、キリストに従うようになる時だけであると考えている。

少なくとも、筆者が知っている限り、2008~2009年当時には、牧師制度と訣別し、キリスト教界を出て、信徒たちが真に対等な兄弟姉妹として交わることのできる場を追い求め、直接、御霊から御言葉から教わり、キリストに連なろうとする信仰者たちが存在した。そういう議論がタブー視されることもなく公然と展開されていた。

それから随分、状況は変わったが、その時に明らかにされた結論が、後になって変わることは決してない。当ブログの出発点は、牧師制度を離れなければ、正しいキリスト教の信仰は決して得られないというものであり、筆者が神を知ったのも、一切の地上的な組織や団体を離れ、いかなる宗教指導者からも離れた後のことである。

そこで、我々は一度得られた確信を決して捨てることなく、汚れた一切のものとの分離を保ち続け、前進して行かねばならない。我々の側から、心を清め、神に近づくためには、それが必要であり、神に忌み嫌われるものを一切捨てる覚悟なしには、誰も神に近づくことはできず、神が近づいて下さることも決してない。



★本来の正しい教義

正しい教義 キリストだけが神と人との仲保者

★今日広まっている異端の教義


牧師がイエス・キリストに成り代わっている


「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久の答弁書を通して見るグノーシス主義者の空虚な自己の本質

~「父なる神」をフィクションとし、人類をもフィクションとするグノーシス主義を信じる人間の自己の内面の空虚化と荒廃の実例~

さて、このところ、政局が目まぐるしく変化しているので最初に一言述べておきたい。昨年、7月末から大阪拘置所に長期拘留され、家族との面会すらも断られ続けて来た籠池泰典氏に野党がようやく接見を果たしたという。

裁判もなく詐欺罪の容疑だけでこれほど長期拘留する法的根拠は疑わしく、ただこれ以上安倍政権に不利な証言を行わないよう、口封じのためだけに、勾留されているのは明らかである。今や安倍政権にたてつく「政治犯」を収容する監獄のようになりつつある大阪拘置所が「バスティーユ監獄」にたとえられ、首相夫人(安倍昭恵)が「マリー・アントワネット」になぞらえられるのはまことに無理もない。

「私人」と言いながら、歴代の首相夫人と比べても、破格の特権的な待遇で警護され、公務員の付き人を5人もつけていたこともあるという昭恵夫人は、夫である首相が国会で厳しい追及を受けている最中にも、全国各地での公演活動をやめず、野党を罵倒したり侮辱するような書き込みに、軽率に「いいね!」ボタンを押してはひんしゅくと買っている。このように状況をわきまえない奔放な行動を繰り返すお騒がせ者で、その上、森友事案に深く関与したことが明白となり、国有地の不当な売却や、公文書改ざんという重大な犯罪に関与した疑いが濃厚であるのに、国会への招致も拒み、権限もないのに国政を陰から操る「私人」に、公金を大量につぎこむ意味がどこにあるのかと、国民に怒りがおさまらないのは当然だ。そうした総理夫人の姿が、民衆が飢えている時に「パンがないなら、お菓子を食べれば良いじゃない」と言い放ったとされるマリー・アントワネットの姿を彷彿とさせるのは仕方がない。

さらに、安倍首相の八方美人的な外交も行き詰りに達し、トランプ大統領からも「人を出し抜こうとして薄ら笑いを浮かべている」かのように勘ぐられて疑いの眼差しを向けられ、ロシアからも北方領土を返せる見込みなど全くないとの宣告を突きつけられて共同開発も進まず、国際的に、もはや相手にする者もなくなりつつある状況を見ていると、国内にも国外にも逃げ場のなくなりつつある安倍夫妻は、やがて本当にルイ16世とマリー・アントワネットのような終わりを辿るかも知れないと感じられて来る。

筆者は、これを機に、我が国に新たな革命勢力が台頭すれば良いと言いたいわけではない。この政権が転覆した後に、どういう時代が来るのか、それは一つの懸念事項である。だが、いずれにせよ、安倍政権が終わらないことには、この国にはいかなる希望ある未来もないことだけは確かであろう。そのことはもはや国民の共通認識に近くなって来ているように感じる。

安倍政権に盾突いた人々が、官僚であれ、民間人であれ、執拗に人格攻撃を受けては、社会的に抹殺され、ブラック企業や裁量労働制などが実質的に広がり、国民の貧窮化が進み、国力が低下している中、国家総動員体制のような無理な苦労が国民に要求され、税は重くなる一方で、軍備が拡張され、最後には、政権が誤った政策を自ら認めて撤回することができないプライドのゆえに、再び、軍事力に頼って無謀な戦争を起こしてすべてを都合よくオールリセットしようとするしか残された道がなくなるという、一度すでに辿り、結論が初めから見え透いている破滅へ転げ落ちるだけのこの暗黒時代が早く終わらないことには、この国には何一つ進歩もなく、希望ある未来もなく、未来が向こうから愛想を尽かして立ち去るであろう。
 
さて、筆者は政治家ではないので、政治運動に参加することを通して政局を変えようとはしないが、クリスチャンとして、霊的な戦いを勇敢に戦い通すことによって闇を払うことに貢献できると考えている。それが当ブログの役割なのである。

当ブログが聖書に基づく真実な信仰を求めて探求を始めたのが2008年、それから一年近くで、筆者自身が神と出会うという実りある収穫を得て、2009年8月末に戦後、初めて政権交代がなされたが、こうしたことが偶然に起きたようには思われない。
 
また、この度、籠池氏に野党が接見を果たしたのが、ちょうど筆者が当ブログに執拗に根拠のない言いがかりをつけては記事の削除を要求し続けて来たブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および、杉本に筆者の個人情報を提供して誹謗中傷を幇助した疑いが濃厚であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密を民事調停に呼び出した日に当たることも、とても偶然とは思われない。


・ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が民事調停で出した空疎な答弁書とグノーシス主義の関連性について

ちなみに、杉本徳久と村上密に対して当ブログが起こした民事調停は、予想の通り、まるでお子様のようなレベルでしかなく、筆者が出した100枚近くの答弁書は、十分に訴訟に対応できる内容であり、民事調停のレベルをはるかに超えていたため、一刻も早く訴訟に移行すべきものと思う。

だが、お子様のレベルの「話し合い」とはいえ、叩けばそれなりに埃は出るもので、今回、収穫がゼロだったわけではない。

村上密は予想通り、具体的な反駁も寄越さず、調停に姿を見せることもなかった。その一方、杉本徳久は当日になって時間ぎりぎりに現れ、たった2枚しかない人を馬鹿にした内容の答弁書を提出した。

今回の二人の対応から、これまでクリスチャンや教会に次々と言いがかりをつけては、裁判に及んできた村上密と杉本徳久の正体が、さらにはっきりしたと言えよう。

村上は、自分に不利な訴えには極力、耳を貸したくないという狡い性格の持ち主であり、杉本も、とてもではないが、訴訟に対応できるような人物ではない。クリスチャンをこれまで訴訟によって恫喝して来たこの二人が、実際には、自ら訴訟を受けて立つような力量が全くない人間であることは、今回のことではっきりと証明されたと言えよう。

以下で記す通り、杉本の答弁書における反駁を読めば、それがまるでお話にならないほどに幼稚なレベルのものであることは、誰にでも分かる。

むろん、杉本には弁護士などいなかった。あれほど筆者に向かって、再三、弁護士を通じて連絡せよと要求し、弁護士相手でなければ、話にもならないという態度を見せていたにも関わらず、結局、杉本には、自分が訴えられた際、弁護士をつける経済的余裕が全くなかった様子が、今回のことで明らかになったのである。

ちなみに、杉本徳久は、株式会社メディアテラスの代表を名乗っている人物であるから、単なる一般人としての「私人」ではない。杉本の行為は、すべてこの会社の代表としての振る舞いであると世間に受け止められることになる。

それが、期日当日の時間ぎりぎりになって、ようやく裁判所に答弁書を出すというのは、まるでブラック企業に雇用された悪徳弁護士が使うような汚い手口である。そういうことをすると、参加者全員が、事前に答弁書をきちんと読んで協議に備える時間がなくなるため、審理に悪影響を及ぼす。いたずらに協議を長引かせて結論を先送りすることだけを目的とする、非常に印象の悪い、人を馬鹿にした利己的な行動である。

さらに、杉本が出して来た答弁書は以下の通りであるが、その内容を見ると、基本的な言葉遣いさえなっておらず、証拠書類の番号の振り方さえ間違っており、弁護士が一度も目を通していないことが明白であるだけでなく、大の大人が書いた文章とも思えず、小学生程度の算数さえできるのかどうか危ぶまれる内容である。

  
(図1、2 杉本徳久が民事調停の期日当日に提出した「とんちんかんでお話にならない」ほど幼稚な答弁書)

杉本は答弁書の冒頭において、筆者の主張を「棄却する」などと書いているが、正しい表現は、「否認する」である。訴えを棄却するのは裁判所にも関わらず、まるで自分に誰かの訴えを「棄却する」権限があるかのように考えているこの言葉からも、杉本の傲慢さが透けて見える。
 
 杉本はこのたった2枚しかないあまりにも手抜き作業であることが明白な答弁書によって、筆者の訴えを一方的に「棄却」したつもりになっている上、調停を起こす費用もすべて筆者に負担させた上で、自分は一銭の賠償金も支払うことなく、勝手に「3日以内」と根拠も不明な期日を一方的に指定して、自分のブログ記事を削除する代わりに、筆者のブログからも、都合の悪い記事を削除せよと叫んでいるのである。

きちんとした弁護士であれば、申立書に記された一つ一つの項目ごとに、きちんとその内容を踏まえた上で、否認する旨とその具体理由をちゃんと書き記すものであるが、杉本の答弁書には一切、具体的な反駁がなく、反論している内容さえ、申立書には書かれていない内容ばかりである。

筆者の申立書には、段落ごとに番号もふってあり、無数の段落がある。それがたった2枚の答弁書の数行だけの文章で、筆者の全ての主張に反駁したつもりになり、これを「棄却する」とまで宣言しているとは。厚かましさ・愚かさに呆れ果てることを通り越して、もはやただ苦笑するのみである。

小学生でももう少しましな文章を書くであろう。しかも、杉本が出した証拠の大半も、筆者のブログをただ印刷しただけのもので、答弁書の本文と照らし合わせても、必然性が全く感じられない添付書類であった。その上、証拠書類の番号のふり方さえ間違って、番号が飛んでいるのだから、夏休みの終わりになって宿題を片づける小学生のように、期日当日になって慌てて作成したのだろうと笑うだけだ。

杉本が弁護士に相談を行った実績がないことが、この答弁書の内容からはよく分かる。無料相談くらいなら、利用したかも知れないが。

要するに、杉本の答弁は、杉本自身の言葉を使えば、完全に「とんちんかんでお話しにならない」レベルのものであり、とことんまでの手抜き作業であり、さらに、杉本が筆者に投げつけて来た言葉を使えば、この答弁書こそ、「思い上がった上に、市井の常識をわきまえない、あまりにも自己中心な内容」と非難されてしかるべき内容であったと言えよう。

筆者は近々、このようにお子様レベルの不毛な民事調停を打ち切って、訴訟に移行するつもりである。訴訟となれば、こんな人を馬鹿にした無内容の答弁書など提出している余裕などは全くない。信憑性のある反駁ができなければ、敗訴に終わるだけである。また、村上密も反駁を寄越さないわけには行かなくなる。さらに申立内容によっては、申立人の住所地で裁判を行う道が開けるため、わざわざ被告の住所地へ足を運ぶ手間も省ける。移送を申し立てても、被告の希望が認められる見込みはほぼなくなるであろう。

以上のような経緯から察するに、杉本と坂井氏が対決したという裁判も、しょせん、民事調停以下のレベルだったのだろうと想像されてならない。つまり、杉本は、きちんとした訴訟が提起されれば、およそ勝ち目のない人間であり、これまでただ自分の方から先に訴訟をふっかけることにより、心の準備のできていないクリスチャンを恫喝して黙らせて来ただけなのである。

かつて杉本徳久は2009年頃に、2ちゃんねるの書き込み内容が名誉毀損であるとして、2ちゃんねるに削除要請を行おうとした様子が、掲示板「株式会社メディアテラス(杉本徳久)」に残っている。

確かに2ちゃんねるは悪質な掲示板であり、しかも、杉本がこの当時から2ちゃんねるに、コメント番号を指定することさえも不可能なほどに大量の書き込みをされて、ほぼストーカーのごとく追いかけられていたことを考えれば、多少、彼の言い分にも、同情の余地があると言えないわけではない。

だが、それでも、そのような事態となったのは、杉本自身が自らのブログであまりにも多くのクリスチャンに自ら喧嘩を売って、実名で誹謗中傷を重ねて来た結果であることや、また、削除を要請するに当たっては、どんな掲示板であろうと、どれほど書き込み数が多かろうと、杉本自身が、どの部分をどんな理由で削除依頼するのか、手間がかかっても、やはりそれだけは最低限度、明らかに指定しておかねばならないことを考えれば、一方的な同情の余地は残らない。

その当然の形式を整える手間を怠ったがゆえに、杉本は2ちゃんねるに削除依頼を出しても、依頼として扱ってももらえないまま、門前払いされた経緯がよく分かるのである。

こうしたことからも分かるのは、杉本徳久は、常に自分が主張している内容の正当性を、他者にも客観的に分かるように具体的に根拠を示して証明するという作業をしないということである。今回の民事調停の答弁書もそうなのであるが、杉本はいつも「自分が迷惑を受けて嫌な思いをしていることは、あなた方にも当然、分かるはずだ!」という理屈で、自分の要求を何一つ客観的に証明することなく、相手がそれを理解して飲むのが当然であるとして、一方的に押し通そうと突きつけて来るのである。

しかも、杉本は、そうして客観的な手間を省いた分だけ、常に刑事告訴やら、民事提訴やらといった脅し文句を凶器のように振り回して、相手に要求を飲めと脅すばかりなのである。

杉本はこうした手抜きな要求の結果として、以上の掲示板でも、自分の出した削除依頼を、必要条件を全く満たしていないため審査にも考慮にも値しないと言われて「棄却」され、「門前払い」された上、削除を求めた書き込みや、そこで引用した誹謗中傷のコメントの転載も含めて、それをさらに半永久的にさらしものとされる材料として増し加えてしまい、削除依頼をもあきらめざるを得ない結果に追い込まれたのである。

2ちゃんねるはこのように悪質な掲示板であるとはいえ、それでも、2ちゃんねるで事件に巻き込まれた人々の中には、努力に努力を重ねて、刑事事件にこぎつけたり、その他の方法で、第三者機関を通して、削除にこぎつけている例もある。

彼らはおそらく膨大な手間暇をかけては証拠書類を集め、読みたくもないコメントを一つ一つ丹念に探し出してコピーし、番号を指定して、そこでどんな人権侵害が行われているのか、何が事実であってそうでないのか、自分の主張を精魂込めて練り上げた上、しかるべき場所に書類を持参し、何度も何度も様々な公的機関に足を運んで話を重ねつつ、あきらめることなく、自分の主張が認められて実現にこぎつけるまで、手続きを重ねて来たのである。

ところが、杉本は、そうした努力を一切払わず、ただ「私が言いたいことはあなたにも分かるはずだ」という子供のような理屈で、常に周囲の者たちが、自分の意向を「忖度」してくれるよう当然のごとく求め、「忖度」してくれない他人は、告訴したり、個人情報を暴露するなどと脅して言うことを聞かせようとし、筆者のような形で事件を解決しようとする他人が現れると、その他人の努力に便乗して、調停や裁判を自分のリクエストを提示する場として都合よく利用しようとするのである。

しかも、訴えを起こされても、自分の非を一切認めず、何の譲歩も行なわずに、ただ他人だけに一方的な代価を払わせて、自分の願いを実現しようとするのである。そこに、杉本徳久という人間のどうしようもない卑怯さ、利己主義、怠慢が見て取れる。

杉本は、筆者に送りつけて来た恫喝メールの内容からも分かるように、おそらく、これまで自分の願いを実現するために必要となる苦労をして来たことがないのであろう。周りの者たちが、常に自分の意向を尊重してくれて、面倒な作業を何もしなくても、願いが叶うのが当然という環境で、甘やかされて育って来たのではないかと想像される。

自分よりも強い者には媚びておとなしく従うが、そうして自分をひっこめて願いをあきらめた分だけ、自分よりも弱い者を恫喝し、八つ当たりすることでしか、自分の弱さ、卑怯さ、臆病さをごまかそうとするしかないのだろう。

杉本が勝訴した裁判がこれまでにいくつかあるそうだが、こんな風に自分の主張を客観的に論証する手間さえ省く無精者に敗訴するなど、あまりにも恥ずかしくみっともなく馬鹿げたことである。多分、訴訟に及ばれた側が、あまりにも不慣れで、心の準備ができておらず、弁護士を雇ったりして、十分に対策を打つ手間暇がなかったせいでそうなっただけであろう。クリスチャンの中には、そういう風に世の事柄に格別疎い人々も多い。

この度、杉本が出して来た答弁書を見るにつけても、このような手抜き作業では、訴訟には絶対に勝てないことは明白である。弁護士がついているかどうかといった問題ですらない。たとえ弁護士がついていたとしても、依頼人自身が、自分が何を言いたいのかさえ分からず、自分の主張を明確にして相手に反駁することさえできない状況で、当事者でもない弁護士が、それを補って完璧な主張を作り上げてやることは無理である。

まあ、とてつもない大金を積めば、そういう面倒な作業をも代行してくれる弁護士がいないわけではないだろうが、企業であればそういうことができても、個人のレベルではまず無理である。だから、この答弁書を見ただけで、いざ訴訟になった時の結果は初めから明らかだと言えよう。

繰り返すが、これが今まで数々のクリスチャンを訴訟の脅しで黙らせて来た男のみっともない答弁なのである。まだ分析は以下でも続くが、まずはよくよくご覧になられたい。

さて、このようにお子様レベルの民事調停であるとはいえども、それでも、杉本が今回、出して来た証拠の中にも、それなりに収穫と言えるものが、二つだけあった。

それは、杉本の生年月日を記した社会福祉士登録証と、唐沢治が杉本に送信したというメールである。


(図3 杉本が出して来た社会福祉士の資格者証 社会福祉士にあるまじき社会的弱者への侮蔑・嘲笑をブログで公然と行っておきながら、こうして資格を誇示しようとする態度に呆れる。しかも、資格取得から2年しか経っていないのに、自分は駆け出しに過ぎないという認識が全く欠けている様子にも呆れ果てるのみ。)

杉本徳久は、大学院修士課程まで出ており、博士号の取得は諦めたようであるが、修士でも、研究者として生きるのでなければ、一般人の学歴としては十分であろう。にも関わらず、杉本は博士号を取得しなかったことが、それほど自信喪失やトラウマにつながったのであろうか。大学院卒の肩書では満足できなかったようである。

杉本はこの度、社会福祉士の国家資格を取得したことが、よほど自慢の種だったらしく、唐沢のメールの文面からも、杉本がソーシャルワーカーの資格を取得したことを唐沢に向かって大いに自慢していたらしい様子が読み取れる。


(図4 唐沢治が杉本徳久に送ったメール。唐沢の信用ならない嘘つきな性格がよく分かる内容であり、唐沢が水面下でどれほどこれまで事態を常にこじらせてきたか、その様子も見て取れるが、それでも、杉本が坂井氏と唐沢を裁判で破ったにも関わらず、2017年になってもまだこうして唐沢にも筆者と同様に因縁をつけては絡み続け、嫌がらせメールを送りつけていた様子にも、唖然とし、恐れ入ると苦笑するほかない。杉本は、こうして明らかになっている人々の他にも、一体、どれだけの人物にこうして隠れたところで言いがかりをつけては嫌がらせメールの送信を繰り返して来たのであろうか。)

だが、このタイミングで、杉本が自分が何より大切にしている国家資格者証を、筆者に向かって出して来た気が知れない。

特に、杉本が今までクリスチャンに対して裁判をしかけては個人情報を収集し、その情報をダシにして、クリスチャンを貶め、中傷して来たことを思うと、まさにそれは自滅行為であるとしか言えない。

杉本徳久や、村上密が、これまでクリスチャンに対して取って来た行動は、古代社会における、シャーマンの呪詛の祈祷をも思わせるものである。

古代社会や、今でも文明の行き届いていない社会では、シャーマンのような呪術師が、誰かから金をもらって、ターゲットとする人を呪い殺すための祈祷を捧げる依頼を受けるなどのことが、おそらく日常的に行われていると思われる。

その際に、シャーマンは、依頼者に、ターゲットとなる人物の髪の毛など、身の回りの品を持って来させ、それをもとに藁人形などを作っては、その人形を本人に見立てて、連日、呪いの祈祷を捧げるのである。

筆者は、村上密や杉本徳久のして来た行為は、シャーマンによる「呪い」や「冒涜」とほとんど変わりないものだと考えている。彼らは自分たちが憎んでいる相手(クリスチャン)の個人情報を何らかの方法で入手しては、それを不当な形で利用して、その情報を土台に、まるで「藁人形」でも作るように、本人の歪んだ「像」を作り出し、その像を侮辱・嘲笑することで、ターゲットとなる人間の人生に危害を加えようとして来たのである。

杉本は自分がこれまでそのようにクリスチャンをターゲットとして呪詛のような行為に及んできた事実を少しでも考えれば、自分が宝としている情報を、敵方のサイドに提供することが、どれほどの自滅行為であるか、分からなかったとは思えない。

しかも、当ブログでは、杉本の行った行為は、ソーシャルワーカーの信用を著しく傷つけるもので、国家資格の剥奪に値すると何度も書いているのである。

にも関わらず、杉本が危険もかえりみずに以上のように国家資格者証を誇示したことは、筆者から見れば、杉本を破滅に導こうとしている悪霊のなせるわざであるとしか言えないのである。

これまで書いて来たように、社会福祉士の仕事内容は、社会的弱者を助けることにあり、社会的弱者を嘲笑したり、罵倒することにはない。精神障害者も、社会的弱者に含まれるのは明らかだ。にも関わらず、杉本は、筆者のような健康な人間を、何の根拠もなく精神異常、人格障害と決めつけて罵倒・嘲笑した上、さらに、精神障害者が一般的に就労困難であったり、社会に適応困難な状態にあるなどの苦しい状況をあげつらいながら、これを罵倒・嘲笑したのだ。

自分が助けねばならない社会的弱者全般をターゲットとして侮辱するようなソーシャルワーカーが全国のどこにいるだろうか。こうした記述内容を通して、杉本がおよそソーシャルワーカーにふさわしくない人格の持ち主であることがよく分かるのである。

杉本が資格を取得したのは、決して社会的弱者を助けるためではなく、ただ自分よりも弱く困っている人間を上から目線で見下げ、彼らを「助けてやっている」という優越感を味わうためでしなかったのではないかと強く疑われる。

さらに、この証書を通して、杉本が国家資格を取得したのは、平成28年3月であり(交付は4月)、取得からまだたった2年しか経っていない事実も分かる。これでは、社会福祉士として、まだほんの駆け出しではないか。

現場で10年くらい実践を積み、プロと言えるような実績がそれなりに出来上がってから、人前で資格を自慢するならばともかくとして、よくもこんなにも短期間で、ただ資格を取ったという表面的な事実だけを理由に、これほど他者に対して傲岸不遜な態度に出られるものだと呆れざるを得ない。

筆者は、まだ唐沢治と親交があった頃、杉本が福祉関係の仕事を始めたという情報を入手した唐沢が「杉本にそんな仕事が続くはずがない」と述べて苦笑していたことを思い出す。

それでも、しばらくの間は続いたのであろう。だが、その努力すらも、今回のような行動を取ることによって、杉本は自分で台無しにしてしまっているのである。

杉本は、以前には、株式会社メディアテラスの代表であるという身分をしきりに強調していた。今やそれをあまり口にしなくなり、かえって、ソーシャルワーカーであることを誇示している様子を見ても、メディアテラスという会社は、ネットで幽霊会社と言われていることは事実無根でなく、極めて厳しい経営実態にあると懸念されてならない。

杉本は会社の事業として、音楽スタジオやら、他にも様々な事業を手がけようとしていたようであるが、あまりに手を広げすぎて、趣味と実益が結び付かなかったのであろうし、仮にそうした事業が先見性のあるものだったとしても、「随想 吉祥寺の森から」のようなブログで、あれほど数多くの人々の実名を出して誹謗中傷し、自分からクリスチャンを訴えるための争いを起こし、さらにそれを手柄のように吹聴していたのでは、会社の代表としては、およそ世間の理解や信頼を得られない。事業が成功する見込みを自ら潰しているも同然である。

杉本は筆者のように、杉本とは一切面識のなかった無関係な人間をも、ただインターネットで一つのコメントの削除依頼を受けたというだけの理由で、これほど長きに渡って執拗に脅しつけ、嫌がらせを重ねて来たのであるから、そんな人物と、ビジネスで金銭の絡む取引をしたいと願う人が現れるはずもないことは明白である。

しかも、以上の民事調停の答弁書を見ても、杉本が自分にとって不利な訴えは何一つ認めず、一銭の賠償金さえも払わず、他人の労に便乗して、自分の望む結果を得ようとしているケチさ、無精さ、利己主義がよく伝わって来る。そこから察するに、およそメディアテラスという会社が、自社の評判を大切にして、人との調和を重んじる会社だと考える根拠は何一つ存在しない。

昨今、中小零細企業の社長は、他人に向かって威張りちらしているわけにいかず、大変な苦労を背負っているものだ。旅行業やサービス業の社長は、社長と言っても、名ばかりで、実際には、顧客のクレームのために、社員が負わない苦情を一身に背負って、絶えず駆け回らねばならない。どれほど顧客から会社に言いがかりのようなクレームをつけられても、言い返さず、謙虚に頭を下げて誤解を解く努力を続けながら、人々の理解と賛同を勝ち得て、事業展開をせねばならないのだ。

それが、杉本のように、他人の些細な言動に腹を立てては、それを理由に、根拠もない言いがかりをつけ、記事を削除せよと一方的な要求を突きつけ、果ては告訴をふりかざして脅したりしながら、力づくで人に言うことを聞かせようと試み、果ては訴えられてもデタラメな答弁書ばかり出して身勝手な要求を繰り返すだけであれば、そういう人間をビジネスパートナーとして選ぶ人はいなくなるのが当然である。

どういう経緯があって事業展開が難しくなったのかは知らないが、杉本は会社代表という身分を誇示することが難しくなった次には、今度は、ソーシャルワーカーの資格に飛びつき、国からのお墨付きをもらい、弱者救済をライフワークとすることで、新たな活路と自信の源を見いだそうとしたのだと思われる。

だが、こうして、大学院、会社経営、社会福祉士と、次々と自分のよりどころとする立場や肩書を変え、自分の手がけた一つ一つの試みを、何一つ、時間をかけて苦労を耐え忍びながら成功へと導くこともできないままに、熱中の対象を次々と取り替え、うわべだけの資格によって身を飾ろうと試みても、そんな試みが成功へとつながる見込みは極めて薄い。だからこそ、今回のような藪蛇な展開になっているのである。

杉本は、今回、社会福祉士の資格者証を出せば、自分の身分保証や、信頼を得る材料となると考えたかったのかも知れないが、刑事事件で有罪が確定すれば、当然、国家資格を剥奪されるだけであると、当ブログでは再三、予告している。筆者から見れば、杉本はただ厚労省に資格取消を求めて通報される際の手間を自ら省いているだけなのである。

最後に、杉本は答弁書において、自分の身にまだ捜査が及んでおらず、逮捕令状も出ておらず、身柄拘束も、取り調べも行なわれていないことを理由に挙げて、自分が刑事告訴されたという事実そのものを否定し、今回の訴えは事件にならないなどと一方的に決めつけ、迷惑行為防止条例にて警告を受けた事実をも否定しようとしている。

杉本が、自分が告訴された事実を何とかして嘘であると考え、否定したい様子がひしひしと伝わって来る。いつものように、筆者の「狂言」と決めつけたいのだろう。

こうして、自分が名誉毀損で訴えられているにも関わらず、都合の悪い事実を否定するばかりで、事態を収拾する努力もせず、自分の人権侵害のブログをまるで取引材料のように振りかざし、筆者の起こした調停の場を自分に都合よく利用して、筆者のブログから気に入らない記事を削除させるための機会に変えようと、「喧嘩両成敗」に持ち込もうとしている態度に、どこまで常識がないのかと心底、呆れる。

しかも、杉本は例によってどの記事の削除を要求しているのか、自分の要求の内容さえも具体的に明らかにしていないのであるから、こんな主張は、最初から通る見込みがなく、なかったも同然に空中に散じ、胡散霧消していくだけである。

要するに、杉本の取っている行動は、自分の書いた犯罪的な誹謗中傷の記事をダシにして、依然、筆者を脅し、その記事を一刻も早く削除して欲しいと願うなら、筆者が刑事告訴を取り下げ、事件自体をなかったことにし、筆者のブログからも、杉本の気に入らない記事を即刻、削除して、杉本の犯罪行為をすべてなかったことにして水に流せと、筆者を脅しているのと同じである。

どこまで限りなく卑怯な人間なのだろうかと呆れるばかりだが、しかしながら、こうした杉本の主張が、この先、杉本に非常に不利な結果を生む材料となるのは避けられないだろう。

杉本は答弁書において警察から連絡を受けた事実を否定していないが、もしも杉本が名誉毀損で告訴されておらず、迷惑行為防止条例にも違反していないというならば、一体、何のために、刑事が杉本に連絡せねばならない理由があるのだろうか。

刑事は実際に杉本にブログの削除を要求しており、ブログを更新しないようにとも警告し、二度と筆者に関する誹謗中傷の記事を書いたり、嫌がらせメールを送信しないようにと警告し、この度、名誉毀損で告訴状が受理された旨も伝えている。警察が介入した結果として、杉本のブログの一つ「神々の風景 religsious scene」が実際に削除されたのである。

にも関わらず、杉本はこうした事実をすべて否定することが、この先、自分にどれほど不利な結果をもたらすかを予想していない。杉本の主張は、警察に向かって、「本当に事件になっているというなら、その証拠にちゃんと捜査令状、逮捕令状を出して、取り調べをしろ!」と言っているのと同じなのだが、警察とて、そうまで言われれば、事件になっていることを自ら証明せざるを得ない立場に追い込まれる。(警察も捜査義務を怠ったとして追及されることは望ましくないためである。)

杉本のこうした発言は、かえって敵方のアクションにきっかけを与えているだけであり、警察が民事調停で杉本が反省を示し、自主的に記事を削除するかも知れないことを最後の望みとして行動を留保して来ただけであるとは思いも至らないのである。

杉本はこれまでにも、自分の吐いた容赦のない言葉の報いとして、数々の災難を身に招いて来た。完全に自分自身の言葉で罠にはまってしまっているのである。

たとえば、杉本が根拠もないのに、当ブログで自分が「サタン呼ばわりされている」と主張したり、「自分が冒涜された」などと主張して、次々と当ブログへのバッシング記事を書かなければ、当ブログでも、反論のために杉本の名を記して記事を書き記す必要もなかったであろう。

さらに、もしも杉本からの当ブログへの一方的な刑事告訴の脅しがなければ、杉本自身が刑事告訴されるという展開にもならなかったろう。この他にも、杉本は「一度口から出した言葉は取消できない」と述べたり、「民事で巨額の賠償金を支払っても、刑事事件の捜査は続く」などと、自分で自分の情状酌量の余地をなくすような、容赦のない非難の言葉をブログで他者に向かって吐き続けている。

「人に憐れみをかけない者には、憐れみのないさばきが下されます。」(ヤコブ2:13)と聖書にある通り、他人に対して容赦のない態度を取った人間が、自分だけは憐れみを受けることはできない相談である。こうして他人に向かって吐いた憐れみのない言葉の数々が、すべて杉本自身に跳ね返ることになると、杉本は考えてもみない。これは悪霊が彼に言わせている言葉の数々であろうと思うが、大変に恐ろしいことである。

このように、自分の取った行為の責任ときちんと向き合うこともできない空疎な人間が、どんなにうわべだけ、様々な立派な肩書や資格を振りかざして身を飾ったとしても、しょせんクジャクの羽をつけたカラスでしかなく、決してそれによって内面の空疎さを埋めることはできない。

そして、内面が空虚であればこそ、こうした人々は、その空虚さを突かれ、自分を他者に奪われ続けるのである。

次回以降の記事でも詳しく論じるが、筆者の目から見れば、村上密も、杉本徳久も、唐沢治も、「自分がない」という点では、共通しており、内面の空虚さとコンプレックスを埋め合わせるために、常に他者の眼差しの中に、自分への承認や賛同を見つけようとし、それを通して、自己を取り戻そうと、「弱者を救済するヒーロー」のような虚構の自己を演じ続けているのである。

彼らにとっては、他者の眼差しこそ、自分自身を映し出す「鏡」であり、インターネットも、そのような「鏡」の一つである。彼らはこれまで、そうした「鏡」としての他人の眼差しの中に、他人が喜ぶような「理想的な自己像」を投影し、他者からの賞賛や賛同を得ることで、自分を確認しようとして来たのであるが、そういうありもしないヒーローのような自己像の演出を重ねているうちに、「鏡」を通してしか自己を認識できないという心理的弱点があだとなり、結局、「鏡」の方が「本体」以上のリアリティとなり、「鏡」に人生を乗っ取られてしまったのである。

彼らがブログ等において演出している「理想的な存在としての自己像」も虚構であると同様、その他の無数の歪んだ「鏡」が映し出す彼らの自己像も誤りであり、もはや彼ら自身が、どれが彼らの本当の自己像であるのかさえ、すっかり分からなくなっているのである。
 
「鏡」はしょせん「鏡」に過ぎず、そこに真実が映し出されることなど永久にない。鏡の表面には、凸凹があったり、光が乱反射したりして、「本体」を正しく反映することさえ、至難の業である。

にも関わらず、確固たる自分がない人々は、絶えず、他人の眼差しという「鏡」に映る自己像を確かめることでしか、自分を認識できず、自信を得ることもできないため、その弱さのせいで、どんどん虚構の「鏡」の世界に取り込まれ、他人に自己像を奪われ続け、ついに「鏡」の世界で「本体」を喪失したまま、帰らぬ人となってしまうのである。

これは大変に恐ろしい事態である。杉本は、すでに2ちゃんねるによって、長年に渡り、「自己像」を侵害されて、奪い取られ、上書きされ続けて来たが、今やその上に、唐沢のブログの指摘があり、当ブログの指摘もあり、多数の「鏡」によって、杉本の像は根本から書き変えられ続けているのである。

杉本はそれに抵抗するために走り回っているが、その主張があまりにもお粗末であるために、どこへ行っても相手にされず、それどころか、ついに杉本自身のブログが名誉毀損であり人権侵害であるとして削除され、消滅しかかっているのであり、さらにこの先、杉本の訴えが裁判においても「棄却」されるなどした日には、杉本にはもはや「自分自身とは何か」ということを、自らの口で主張する手段がなくなる。

こうして、ついに「本体」が消え去って「鏡」だけが残るのである。杉本が主張した内容はすべて無かったこととされて消え失せ、他者が杉本に向かって述べた様々な言葉や印象批評だけが、「杉本の像」として定着し、残って行くのである。

これが、他人からの「お墨付き」を得ることによってしか、自己を確かめられない空疎な人間が決まって辿る悲劇の結末である。

ところで、「剽窃」だとか、「乗っ取り」だとかいう主張が成立するのは、あくまで「本体」がれっきとして存在し、誰かがこれを証明しうる場合のみである。たとえば、無断複製を違法であると主張するためには、オリジナルの所有者が出て来て、オリジナルとは何かを提示した上で、問題となる内容がオリジナルから違法にコピーされたものであることを証明しなければならない。

オリジナルが存在しないか、誰もそれを証明できない事柄については、コピーという概念も存在せず、「贋作」や「無断複製」や「違法な改変」や「剽窃」という主張自体が成立しない。「本体」が確かに存在していないものについては、どんなにたくさんの歪んだ「鏡」が作り出されても、誰一人として、それを権利侵害だと主張できないのである。

杉本が、これまで自分自身に確かなよりどころとなる自己がないことを埋め合わせるために、会社の代表や、国家資格といったうわべだけのステータスで身を飾り、あるいは、苦しんでいる他者を助けることで、自分の内面の空虚さを補えるかのように考えたことは、錯覚でしかない。

そうしたものはすべて「鏡」なのである。そして、杉本ブログそれ自体も「鏡」である。そのような「鏡」に人が自分を映し出し、その像に熱中すればするほど、その人間は、確かなリアリティを失って、「鏡」の世界に自分を吸い取られて行くだけである。

そして、ついに最後には「本体」が「鏡」に吸収されて消失し、フィクションとなり、神話となり、その代わりに、ただ歪んだ「コピー」だけが、リアリティであるかのように残ることのである。

結論から言えば、グノーシス主義の本質とは、もともとオリジナルとしての「本体」が存在しない、無数のフィクションの物語である。

次回以降に論ずるが、グノーシス主義が「父なる神」をフィクションとしていることは、つまるところ、グノーシス主義が「父なる神」に創造された人類も、結局は「フィクションである」と主張しているに等しい。

ペンテコステ・カリスマ運動も、その本質は、グノーシス主義であり、こうして、人類の自己の本質がもともと「フィクション」であるという教えを信じた人々の内側には、確かな自己がなくなる。

彼らは、心の内に空虚な深淵を抱え、人々の眼差しという「鏡」に映る不正確な映像を手がかりにする以外には、自己存在を証明するための手立てが何もなくなり、それゆえ、「鏡」を通して、自分の見たくない欠点を暴露されることを病的なまでに恐れ、気に入らない「鏡」を根こそぎ破壊しようとの行為に出たりするのである。

だが、もし「本体」がリアリティとして存在しなければ、「鏡」によってどんな権利侵害を受けたと感じても、それを権利侵害だと主張する根拠もまたないのである。

彼らに出来ることは、ただ一つ、一つの「鏡」に映った気に入らない自己像を否定するために、別な「鏡」を持って来て、これが自分だと宣言することでしかないのだが、もともとその鏡は、どれもこれも不正確なもので、そこに映った像も乱れ、影のようなものでしかないため、その人物が「鏡」を基にして行う証言は、あらゆる面で辻褄の合わない、嘘で埋め尽くされた、整合性の取れないものとなって行く。

結局、自分がないからこそ、そのようなデタラメなつぎはぎの証言が生まれるのであって、そのような人間には、デタラメな証言を行う以外に、自分が何者であるかを客観的に証明する手段もない。そのため、そのデタラメな証言のゆえに、その人間が何者であり、何を言いたかったのかは、結局、最後まで誰にも分からないまま、その人間そのものが不明な塊となって消え去って終わる。

こうして、確固たる自己を持たない人間の内部には、自己の代わりに、ただ虚無の深淵が横たわっているだけなので、そのブラックホールのような虚無性の隙をついて、そこには、何でもありとばかりに、あらゆる種類のゴミが投棄され、贋作やコピーなどのありとあらゆる偽の創作物語が詰め込まれ、虚偽によって埋め尽くされて行くのである。

それが、グノーシス主義の本質なのである。グノーシス主義は、人間の自己存在をフィクションとして消し去るものであり、そんな教えを信じている限り、その人物には、自分が失われて、デタラメな創作物語によって自分がどんどん書き換えられて行くことに抵抗する術もない。
 
繰り返すが、どんなにそれを「デタラメな創作物語」だと声高に非難しようとしても、もともとオリジナルが存在しない以上、コピーも存在せず、人権侵害も存在せず、名誉毀損もないのである。虚無の深淵が仮にサタン呼ばわりされたところで、誰もそれを虚無の深淵に対する権利侵害であるとして虚無の深淵の代理人となってこれを是正できないのと同様である。

それに引き換え、「わたしはある」という方を信じ、聖書のまことの父なる神を知っているクリスチャンは、グノーシス主義者のように虚無の深淵を信じているわけではなく、キリストの復活の命にあって再生された確かな自己を持ち、神に対して生きる人々であるから、こうして再生されたクリスチャンの主張も、確固たるリアリティであり、誰かが勝手に書き換えたりすることはできず、そのようなことを試みた人間は、当然ながら、人権侵害のかどで罰せられる。

武蔵野簡裁の付近は、横浜のように海風が吹くこともなく、起伏もない平地の開けた都会で、桜が咲き、人々は穏やかに行き交い、街はのどかで平和であった。確かに、ここに住む住民にとっては、この都会に生きていることが、ステータスに感じられているのかも知れない。民事調停では、相手方と顔を合わせることはないため、杉本徳久なる人物の印象は分からなかったが、四捨五入すれば50歳にもなろうという男に会いたいという願いは筆者には全くない。一体どういう理由で、こんなにも平和そうに見える街から、こんなにも常軌を逸した人物が生まれて来るのか、ただただ理解に苦しみ、首をかしげるばかりである。

改めて杉本のような人物を生んだペンテコステ・カリスマ運動とグノーシス主義を心の底から非難しないわけには行かないと感じるのみである。


「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久を待ち受ける厳しい裁き―悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。

しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:16-21)

以上の御言葉ほど、カルト被害者救済活動の支持者らの悪しき心の本性にぴったりと当てはまるものはきっと他にないだろう。

カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、同牧師を支持する杉本徳久のような人々は、これまでプロテスタントの諸教会や牧師やクリスチャンにさんざん言いがかりをつけては、信者らを裁判に引きずり出しては打撃を加えて来た。

しかし、彼らはいざ自分たちが訴えられると、その訴えから全速力で逃走し、自らの社会的信用を完全に失墜させるという醜い逃亡劇を繰り広げている。

以下は、当ブログ執筆者が、村上密および杉本徳久の2名に対し、当ブログが彼らから受けた長年に渡る執拗な嫌がらせ工作に対する民事上の責任を追及するために起こした民事調停の期日呼び出し状であり、裁判所からの正式な召喚状である。

  しかし、すでに述べたように、カルト被害者救済活動の支持者らは、自分たちが行っている悪事が明るみに出されるのを恐れて、光のもとへ出て来て、人前できちんと自分を弁護しようともせず、ただ闇から闇へと逃げ回っている。
   
彼らはこうして闇から闇へと逃走し続けることによって、聖徒らとの和解のチャンスを踏みにじり、自分たちの身にさらなる神の御怒りを招き、厳しい裁きに自分自身をさらしているのである。

筆者は、以上の連中は、出廷の義務がないことを逆手に取り、期日に裁判所にやって来て、きちんとした弁明を行う可能性は極めて低いだろうと予想している。

先の記事でも述べた通り、村上密は、事件を京都に移送しろと身勝手な要求を出し、京都でなければ行くつもりがないと出廷を拒んでいるだけでなく、筆者が送った100頁ほどの申立書に対しても、たった一枚の反駁の答弁書すらも送って来ていない。

筆者の申立書には、当ブログが受けた嫌がらせの経緯が仔細に書かれているため、追って内容を公開する予定であるが、村上はそれに対して、「自分こそ実名で色々書かれて迷惑だ。ここには書ききれない」などと子供じみた返答しかしておらず、こうして具体的な反論がないということは、事実上、筆者の言い分を認めているに等しい。

およそこれまで「被害者の味方」をきどって様々な裁判を戦い通して来た人間の言い分とは思えず、完全に人をなめきった対応であると言えよう。

村上はこうして、自分がこれまで頼みとして来た裁判所からの呼び出しも蹴とばしながら、今やネットの陰に隠れて、コメント投稿欄さえない完全に一方通行のブログで、依然、自分があたかもキリスト教界を取り締まる資格と権限を持つ人間であるかのような(誇大)妄想に基づく恥ずかしい自画自賛の記事を書き連ねている。

村上のそのブログ記事も、昨今は劣化が激しく、まるで引きこもり老人のモノローグ的回顧録や、惰性で書かれた小学生の夏休みの感想文のようになりつつある。

このように、村上密は、反響も得られない自作自演ブログを書き連ねることの方が、裁判所へ出廷して、公の場所できちんと客観的な証拠を提示しながら自分の主張を述べることよりも、はるかに優先されるべき重要課題であるかのように考えているらしいのであるが、こうして自分にとって不都合な事実からはひたすら逃げ続けながら、都合の良い夢想のような見解を並べ、ただ他者を非難するだけのブログに引きこもっている様子を見ると、このようにまで現実感覚を失ったことは、精神の異常さえ疑われてもおかしくないほどの恐るべき思考の退行現象だと言わざるを得ない。

もはやこうなってはカルトを取り締まるどころの話ではないだろう。

村上は、神学校時代に宗教法人法を学び、「その甲斐あって、教会運営の問題を扱う時、教団を越えて取り組むことができるようになった。」などとブログでうそぶいているが、村上がもし宗教法人法の基本的精神をほんのわずかでも理解していれば、諸教会の規則を踏み越えて教会に外から介入することが、いかに宗教法人法になじまない行為であり、憲法上保障された信教の自由の侵害に当たるかは、初歩の初歩として理解していておかしくないはずである。

もちろん、宗教法人法は、世俗的な事柄しか規定しておらず、宗教法人法に限らず、信教の自由に鑑みて、宗教団体の教義について外から介入できる法は存在しない。にも関わらず、村上や杉本が自分の属さない宗教団体の教義が「異端である」とケチをつけて、運営に介入しようとしていることは、それ自体が、信教の自由の否定であり、著しい侵害行為である。

杉本徳久も村上密も、その論理の破綻は明白であり、彼らは一見、法を盾に取って、宗教団体の腐敗の是正を呼びかけているように見えるが、その論をじっくり眺めると、彼らは常に感情論を振りかざしては、「法律が定めている規制以上に厳しい制裁を!」と叫んでいるだけの様子がよく分かる。

たとえば、村上は最新の記事の中で、韓国の摂理の教組が出所したことに触れ、足輪をつけただけでは、宗教団体内での被害を食い止めることができず、「これでは防止にならない。」と言う。

だが、それでは一体何をすれば解決になるのかという問いが生じよう。摂理の教祖を死ぬまで監禁するか、いっそ死刑に処せば、当然、被害はもう発生しないことは明白である。だが、そのようなことが正しい解決方法だと言いたいのであろうか。

村上は、この点に全く答えようとしない。杉本および村上は、常に「被害の防止」を口実にして、法の定めを超えて、もっと厳しい措置をと、法に基づかない制裁を声高に叫ぶ。だが、その一方で、彼らは、なぜ宗教法人法も含め、この世の法は、人間の自由を最大限に尊重し、規制を最小限度に抑えているのか、もっと言えば、なぜ聖書の神が、人間の自由意志を尊重し、罪を犯す自由をも人間に与えられたのか、その意味を全く理解しようとしない。
   
村上密が、他人だけを強制的に裁判に引きずり出しておきながら、自分自身は出廷することから逃げ続けている様子を見ても、村上は、他人には法の定めを超える厳しい制裁を科すことに同意しても、自分自身は法に服するつもりが全くなく、裁きからも逃げ回り、要するに、村上自身は自分だけはいかなる法にも服さなくて良いと考えている様子がよく分かるのである。

村上はこの度、これまでネット上でクリスチャンを貶めるために一致協力して来た杉本徳久をも、弁護することもなく責任を押しつけ、切り捨てようと、「トカゲの尻尾切り」に走っている。

さらに、親分が親分なら子分も子分で、杉本も村上同様に、わざわざ自宅付近の武蔵野簡裁で開かれる期日に出廷するかどうか、期限までに回答もせず、むろん一枚の反駁の答弁書も出さず、ただ逃げ回っている。

読者はこの有様をよくよく見てもらいたい。これが、これまでプロテスタントの諸教会のカルト化を取り締まるなどと豪語しては、諸教会に自ら裁判を起こし、名を売って来たカルト被害者救済活動の支持者らたちの責任のなすりつけ合いと醜態なのである。

これまで正義の味方の仮面をかぶって活動して来た彼らの内心が、どれほど卑怯で、臆病で、利己的で、二重性を帯びているかがよく分かる行動であろう。要するに、彼らは、他人にだけは極めて厳しい基準を振りかざし、他者だけを裁きながら、自分自身は一切、法に服する姿勢が欠落しており、自分自身の犯した行為についてふさわしい裁きを受けるつもりもない様子がよく分かるのである。

もしも彼らがこれまで述べて来たように、筆者の主張が不当であると言いたいならば、公の場所へ出て来て、十分な証拠を用意して反駁すれば良いだけの話であるが、彼らには決してそれはできまい。

なぜなら、筆者が述べていることは、何ら不当な主張ではなく、彼らにはそれに反駁できるだけの証拠がないからだ。第三者の前に双方の言い分を持ち出せば、どちらに信憑性があるかは明らかだ。従って、彼らは、己が罪を認めないためには、どこまでも逃げ回るしか残された道がないのである。

また、杉本と村上は、これまで様々なクリスチャンに訴訟を吹っかけては、裁判資料という形で、クリスチャンの個人情報を強制的に収取し、嘲りの対象として来た。そういう醜悪な過去があるのだから、彼らはこの先、自分たちがクリスチャンの呼び出しに応えて裁判所に赴けば、したたかな反撃を受けると分かっているはずだ。

彼らは、自分たちがこれまで信者らに対して犯して来た悪行の罪深さを分かっていればこそ、信者からの反撃怖さに、決してこれから先、公の世界に出て議論はできないだろうと筆者は予想する。

まさに、悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。と聖書が言う通り、闇へ闇へと逃げて行くしかないのである。

こういうわけで、村上や杉本のようなカルト被害者救済活動の支持者らは、今回の民事調停に出廷しようとすまいと、この先、二度と自分から教会や信者らに対して裁判を起こすことができなくなるだろうと思う。

他人だけは率先して裁判に訴えるが、いざ自分自身が訴えられると、逃げ回り、「市民社会の一員」として、全く責任ある行動ができない幼稚な大人たちが起こす裁判など、あまりにみっともなく情けなく恥ずかしいため、今後、誰一人として見向きもせず、取り合いもしないからである。

かつて杉本は筆者に送りつけたおびただしい数の恫喝書簡の中で、「ヴィオロンさん、いつまでも逃げ回っていないできちんと対処して下さい!」とか「市民社会の一員としてふさわしい行動を!」などと叫んでいたが、自分ができもしないことを他人に要求するなど、おこがましさの極み、呆れるばかりである。

さて、当ブログには、杉本と思しきIPアドレスから最後にアクセスがあったのは、お友達の工作員仲間が懸命に検索結果の操作にいそしんでいた以下の深夜の時間帯であり、それ以後、同IPアドレスからは、当ブログへのアクセスは行われていない様子である。

それを見ても、杉本は筆者が武蔵野へ赴くことを極度に恐れており、自分にこの先、降りかかろうとしている災難を直視する勇気もなく、この事件から逃げられるだけ逃げのびようと決めて、すでに武蔵野からも逃走している可能性さえ思わされる(むろん、事実は神のみぞ知るだが)。


 杉本と思われるIPアドレス
 
<追記>本記事の投稿後、本人登場。
この先、どこへも逃げようはありません。



だが、そのようなことも初めから織り込み済みである。刑事事件になっている以上、わざわざ自己弁明の機会も棒に振って逃げ続ければ、この先、ますます不利で厳しい結果がふりかかることになるだけなのだ。

刑事事件に関してネットに出回っている情報は、とにかく早期の対応、早期の弁護が重要だという弁護士の助言ばかりである。これは早い段階で、本人が真摯な反省の態度を示し、社会人として、信用の置ける責任ある行動を取り、事態を収拾するために必要な努力を払い、自分で自分を弁護しようと懸命に努力することが、たとえ罰を逃れられない場合であっても、罪の軽減のために、どれほど重要な決め手であるかをよく物語っている。

それを親切にも与えられた自己弁護の機会を理由もなく蹴って出廷もせず、証拠を出して反駁もせず、自分の行為に一切の責任を取らず、ブログの削除もせずにただ逃げ回っているだけとあれば、当然、極度に心証が悪くなって行くのは避けられない。

おそらく、杉本は良心的でまともな弁護士に助言を求めなかったものと想像される。何度も言うように、きちんとした弁護士がついていれば、自らを弁護する絶好の機会が与えられているのに、裁判所に赴かないようにといった言語道断な助言を行うことは決してなかったであろう。

杉本はこれまで、筆者が「カルト被害者を冒涜した」とか、当ブログの記事が自分への誹謗中傷であるとか、正当な根拠もないのにさまざまな言いがかりをつけては、筆者を脅し、筆者から杉本を訴えるようにと、身勝手な要求を突きつけ、ソーシャルワーカーであるにも関わらず、自身のブログで、社会的弱者の困窮状態を上から目線であざ笑いつつ、筆者に弁護士を通して連絡を寄越せと、再三、一方的に要求して来た。

だが、そうして人を脅し続けた杉本に、果たして、自分が訴えられた時にきちんと弁護士を雇う経済余裕があるのかどうか、それはこれから杉本自身が証明せねばならない。

目下、杉本は、弁護士からの書面はおろか、自分自身の答弁さえ、裁判所が定めた期限までに送って来ないのだから、眩暈がするような自己矛盾である。どこまで自分の述べた言葉に責任を取ろうとしない卑怯者なのかと呆れるのみだ。

他人には最大限の手間と出費を要求しておきながら、自分自身は、自己を守るためだけにも、ほんのわずかな労をさえ厭うのである。こんなオブローモフ主義者のような不精者のために本気で弁護する人間が現れるとはとてもではないが思えない。

ちなみに、無精者オブローモフは、聖女のようなオリガにも、愛想を尽かされ、立ち直りは不可能との烙印を押され、見限られた。杉本もグレゴ氏とよく似たような将来が待ち受けているのではないか。自分が破滅に瀕しているのに、自分の問題を棚に上げ、他人の問題ばかりに首を突っ込み、他者の立ち直り云々を論じようとすること自体、あまりにおこがましく、僭越で、見当違いである。

杉本は今後の自分の人生の更生のためにこそ、すべての労力を注ぎ、自分の人生に降りかかろうとしている災難を思って泣き叫ぶべきであろう。

何度も言うが、これが、今まで「カルトと勇敢に戦う正義の味方」を演じながら、諸教会に裁判を吹っかけ、あたかも被害者を救うために、不当な濡れ衣を耐え忍んでいるかのように演じて、世間の同情票を乞い続けて来た者たちの惨めで哀れな末路なのである。

あまりにもみっともなく、情けなく、目も当てられない醜悪としか言えず、この醜い逃亡劇と罪の擦り付け合いにより、彼らには、戦う前からすでに敗北と裁きが確定していると言えよう。

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」

「信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」

さて、以上の図は「刑事事件弁護士ナビ」から転載したものであるが、杉本はこの先ニュッサのグレゴリウス氏(それにしても異常なペンネームだ)と同様の行程を辿ることになる。以上の図を参照すると、グレゴリウス氏が不起訴になったのは、勾留後のことであり、この段階で、(Dr.Lukeが書いている内容によると)、グレゴ氏の主治医が心神喪失を主張したことが、不起訴へ向けて決定的影響を与えたと思われる。

お騒がせ者のグレゴ氏のブログは、すでに正式に削除されたようだが、そこには当時、同氏の破綻した生活状態や、仕事に就けない無念、同居人から責め立てられるなどして肩身の狭い思いをしながら暮らしていることの愚痴が延々と綴られていた。Webに残っている情報によると、不起訴になった後でも、以下のような愚痴が書き連ねられていたようである。

「 2011/4/21 4:13

 今だから書くが、私は不起訴になった。

 けれど、このことは精神的、社会的、経済的に、徹底して崩壊させた。未だに人のたくさんいるところはこわくて冷や汗が出る。友人はひとりを残してみな逃げ去った。仕事を失い、得る見込みもない。もはや、ホームレスになるかわからぬ明日をも知れぬ我が身である。けれど、これらの惨憺たる状況のなかで、しみじみと・・・(*続きは本文にて) 」


グレゴ氏の文章は常に大袈裟で誇張された表現に満ちていたため、どこまで本当なのかも判別がつかないが、それでも、この記述は、嘘とは言えないであろう。不起訴になっても、これだけの害が降りかかるのだから、起訴されて有罪になった人物は、一体、どれほどの損失をこうむるのであろうか。

それが予想されればこそ、筆者はこれまで再三、カルト被害者救済活動の支持者の陣営に、和解を呼びかけ、自己弁明の機会や、悔い改めのチャンスを提供して来たのである。

だが、筆者が思うに、おそらく、彼らはそうした機会を決して有益に活かすことなく、ことごとく踏みにじり、悪用することしかできまい。筆者は前々から、神は彼らが情状酌量の余地を徹底的に遠ざけ、最も厳しい結末を選ばせるのではないかと考えている。

なぜなら、彼らはもはや引き返せる橋をとうに超えてしまっているからだ。彼らは神の教会と全クリスチャンのみならず、神ご自身を敵に回しながら逃亡しているのである。

しかし、筆者自身は、彼らがどのように行動するかに関係なく、あくまで光のもとに出て行き、神と人との前で公然と恥じることなく自分の主張を提示し続けるつもりである。そうして、筆者が単なるポーズとしてではなく、事実、最後まで彼らに扉を開き、和解の呼びかけを続けたことが公然と証明されよう。

カルト被害者救済活動の支持者らは、せっかく与えられた猶予や、弁明の機会や、人の憐れみや情けをとことん踏みにじり、その当然の報いとして、最も厳しい結果を身に受けることになるのである。

さて、グレゴ氏は、当時、Dr.Lukeから受けた「呪いの予言」が、自分の人生を破滅させたのだと主張していた。カルト被害者救済活動の支持らは、今になってもまだ、グレゴ氏が破滅したのは、Dr.Lukeのせいであると言って、グレゴ氏を被害者にしたいと考えているのかもしれない。

だが、筆者に言わせれば、それはDr.Lukeのせいにして済まされるような問題ではない。グレゴ氏がDr.Lukeに勝てなかったのは、グレゴ氏が悪魔の言いがかりに対して全く無防備で、御言葉によって装して、毅然と立ち向かう姿勢を全く見せなかったことの当然の結末である。

我々はクリスチャンとして、あらゆる方面から、不当な言いがかりや非難に直面する。それは悪魔や、その手下となった詐欺師連中からやって来る時もあれば、仲の良かったクリスチャンの兄弟姉妹から来る時もあろう。しかし、誰からどのような非難を受けようとも、それに対して、我々は最後まで神の義に堅く立って、御言葉によって武装し、血潮と、信仰の守りの盾によって、悪魔の放つ罪定めの火矢に対抗し、防戦し続けなければならない義務を負う。

我々を弁護して下さるのは神であり、聖霊であり、御言葉が我々の武器であり、信仰が守りの盾であるが、我々自身がキリストの贖いによって義とされたという確信に揺るがされることなく立ち続けないことには、神でさえ我々を弁護できないからだ。

そこで、我々は自分がどんなに不完全であるように思える時にも、信仰によって神の完全な武具を着て、暗闇の勢力を相手取った戦いにおいて、完全な勝利をおさめねばならない。

主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯びとして腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:10-18)

筆者は、杉本が当ブログにしきりに言いがかりをつけては刑事告訴すると恫喝していた頃、幾度となく、以下の聖書の御言葉を引用し、彼の悪しき計画は成就しないと予告した。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、地のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39)

キリスト者にはこうして力強く絶大な勝利が約束されている。御言葉に従い、神のうちに隠れることさえできれば、無敵といっても良い権限が与えられているのである。

にも関わらず、クリスチャンを名乗っている者が、自分で自分を被害者だと主張して、不当な言い分を反駁もせずに受け入れ、いわれのない罪定めや呪いの言葉を退けもしないならば、そのような臆病者は、悪魔と暗闇の勢力に思う存分弄ばれて、被害の上にも被害が増し加わり、果てしなく人生の重荷が増し加わって行くだけであろう。

このようにして、信者は常に問われている、自分のせいで生じたのではない、自分では負うこともできない罪の負債を、自分で背負おうとして破滅するのか。それとも、キリストがすでにすべての罪を十字架上で負って下さった以上、もはや自分で重荷を負い続けることは必要なく、罪は自分から取り除かれたものであるとみなし、私たちのために日々重荷を担われる方にその荷をお任せするのか。

カルト被害者救済活動の支持者らの中には、自分の抱える「生きづらさ」を何とか克服しようと、「カウンセリング」を通して自分自身を粘土のようにこね回しながら自己改善に取り組んでいる者たちがいる。

だが、そのようにして彼らが自分の重荷を神に委ねようともせず、そうした重荷をもたらした主たる原因である悪魔を糾弾することもせず、むしろ、悪魔が押しつけて来る「生きづらさ」を、まるで自分自身の責任であるかのように抱え込み、蟻地獄の中でもがくようにもがきながら、絶えず、その重さに下へ下へと引っ張られ、それでも自分は他の誰かに比べて少しはましな状態になり進歩はあったなどと気休めを言っている時点で、彼らはすでに悪魔の術策にすっかりはまってしまっていると言えよう。

そういう問題は、もともとすべて人間の手に負えるものではなく、どんなに努力を重ねてみたところで、人が自分で改善などできる問題ではないため、我々はそうした重荷を一刻も早く自分自身の手から切り離して、我々自身の古き自己と共に、キリストの十字架の死に渡すべきなのである。

にも関わらず、自分を被害者だと主張している人々は、悪魔の押しつけて来る不当な重荷を自分のものであるかのように受け入れ、その責任を引き受けているわけであるから、これでは戦う前から敗北を認めているのと同じである。

本当は、その重荷は、クリスチャンには負う義務もないため、敵に背負っていただくのが正しい処置であると、気づかなければならないのである。暗闇の勢力はやり方が汚いため、次々と不当に押しつけられる「生きづらさ」を、クリスチャンが自分のせいで起きたことのように考えて対処しようとしていれば、雪だるま式に負債が膨らんで、気づけば負いきれないほどの巨額のマイナスが生じるだけである。

そこで、クリスチャンは、誰からどんな「被害」を受けようとも、決してそこで生じた「マイナス」を自分のものとして主張してはならない。ただ聖書の御言葉に基づき、その「損害」を毅然と跳ね返し、それが自分には決して害を及ぼす力を持たない虚偽でしかないことを公然と証明すべきなのである。

クリスチャンにはどんな状況にあっても、主は羊飼い。わたしには何も欠けることがない。」(詩編23:1)と宣言できる特権を与えられており、また、そう宣言すべきなのである。

わたしを苦しめる者を前にしても
 あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
 わたしの頭に香油を注ぎ
 わたしの杯を溢れさせてくださる。

 命のある限り
 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
 主の家にわたしは帰り
 生涯、そこにとどまるであろう。」(詩編23:5-6)

そこで、筆者は、今回、村上密・杉本徳久の両者による悪事を世に訴えて責任追及しているとはいえ、彼らが出廷もせず、最後までこの呼び出しを嘲り、踏みにじったとしても、だからと言って、筆者の生活はそんなことではいささかも影響されないと断っておく。

筆者の生活の守り主は神であり、その生活は、悪党に依存しなければやっていけないような弱々しいものではない。神はこれまで常に筆者の生活を守って下さったが、この先も、筆者を守り、かつ、栄えさせて下さる。キリストの御言葉に堅く立つ者の足は、よろめくことなく、遠く遠くまで歩いて行くことができる。

最後につけ加えておきたいが、先の記事にも記したように、Dr.Lukeが2010年8月29日にグレゴリウス氏へ送った以下の和解の呼びかけ「雲さんへの伝言 」は、筆者がDr.Lukeの書いた文章を土台にこれを大幅に加筆修正して作成されたものである。

当時、Dr.Lukeはこの呼びかけを見て「よく見れば唐沢文体でないことはすぐに分かる」と言っていたが、これは合作というよりも、むしろ、筆者の文章と言うべきである。(ちなみに、これ以外の用件で、筆者がゴーストライターのような仕事をしたことはない。)

以下の文章を改めて読めば、グレゴリウス氏の非がどこにあるために彼が自己防衛できなかったのかが明白に分かるだろう。Dr.Lukeがどれほど心理操作に長けており、グレゴ氏と最初から和解する気がなく、ただポーズのためだけに和解を呼びかけ、筆者の文章を利用したのだとしても、それでも、この呼びかけの中には、決してDr.Lukeのせいにして済ませられない決定的に重要な要素が含まれている。

それは、この呼びかけの中で、グレゴ氏が、Dr.Lukeとかつて「主の御名によって」また「血潮によって」和解した事実があったのに、それを自ら反故にしたと記述されていることである。この呼びかけで、Dr.Lukeはグレゴ氏にもう一度、「キリストによって結ばれた兄弟同士として」「二心を廃し」、「キリストの血潮に立って」、和解を呼びかけている。

Dr.Lukeがこの呼びかけを筆者に推敲させたのは、おそらく、Dr.Lukeの心の中に当時から欠けていた真実な信仰と誠心誠意を補うためだったと推測されるが、とにもかくにも、Dr.Lukeはこうして筆者を利用することにより、実際に、御言葉によって自分の主張を武装することに成功したのだ。

その時点で、Dr.Lukeはグレゴ氏に比べて圧倒的に有利に立ったと言えるかも知れない。御言葉に対しては、御言葉をもってしか応戦することはできず、相手の主張を粉砕できるだけの、より強度のある論理が必要となる。その場合は、信仰対信仰の対決になる。

我々が注意しておかねばならないのは、人間的な感情の対立や確執のレベルで、信者同士がどれだけ対立しても、それだけならば、痴話喧嘩のような話でしかなく、誰の人生にも重大な影響は及ぼさないが、その紛争に聖書の御言葉が関わって来ると、その対立は人間的な対立を超えて、霊的次元の対立にまで発展する危険をはらむことである。

クリスチャンを相手取った紛争で、どちらか一方が、聖書の御言葉によって固く武装しているような場合には、よくよく注意しなければならない。なぜなら、その人間の呼びかけにどのように反応・応答するかが、対戦相手の人生を決めてしまいかねないからである。

この点こそ、信仰を持たない者が、クリスチャンを相手取って争う際に、最も気を付けねばならない点なのであるが、不信者には決して理解することができないがゆえに、不信者にとって巨大な罠となる点なのである。

不信者は、みすぼらしく弱々しく疑わしそうに見えるクリスチャンを相手に争う際、まさか自分の目の前にいる人間が、単なる人間ではなく、神が弁護しておられる聖徒なのだとは気づかない。そして、人間的な確執や対立の次元で衝突しているつもりでいるうちに、いつの間にか、永遠の領域で決定的に自分の利益を損う重大な過失を犯してしまいかねないのである。

不信者は、信仰がないゆえに、信者を相手取った戦いの恐ろしさが分からず、その背後に神がついておられる信者を侮辱したり、敵に回したりすると、一歩間違えば、この世だけでなく、来るべき世においても、破滅に至ることの恐ろしさが分からない。

だからこそ、筆者は何度も、カルト被害者救済活動の支持者らが、神の教会やクリスチャンを相手取って争い続けることの恐ろしさを述べて来たのである。そういうことをしていると、その者は、いずれ神ご自身を敵に回すことになると。

長いが、当時の和解の呼びかけを引用しておこう。

「雲さん、もう一度、あなたに呼びかけたいと思います。あなたがどこかでこの文章を読んで下さっていることを願いつつ…。

雲さん、もしも、あなたがこの文章を読まれたなら、ぜひ、私とお会いしていただきたいのです。直接、私に連絡しづらいのであれば、山谷少佐を通じて、連絡して下さっても構いません。

なぜ私があなたにお会いしたいのかと言えば、会って、事実関係について、あなたを責めるためではありません。二人で話し合いをして、何とか全ての誤解と行き違いを解き、あなたと合意に達し、以前のような、キリストの御身体に属する兄弟同士としての、親しいお交わりを回復できないかと願っているのです。

雲さん、私も今、あなたと同じように、時の人となって騒がれています。Dr.Lukeは数え切れない中傷を受けて、衆目にさらされており、もはや地に落ちて、泥まみれになっているも同然なのです。ですから、雲さんの置かれている現在のつらい心境が、私に分からないわけではありません。

それでも、私が雲さんにどうしても出て来ていただき、私に会って欲しいと願うのは、何とかして直接、雲さんの真のお気持ちを確かめられないかと思うからです。

事実関係について触れるつもりはないと言いながら、細かいことを振り返るのを許して下さい。私にはどうしても腑に落ちないことがあります。2004年10月、あの掲示板で、二人は和解できていたものと、私は思っておりました。雲さんが追い詰められていたので、見るに見かねて、私が掲示板に登場し、あなたが傷つけられたと感じられたその思いは理解しました。そこで、私はあなたの求めに100%応じて、謝罪いたしましたね。「私の裁きをあなたに委ねます」とも書きました。

あなたは「主の名によって赦します」、と言って下さり、すぐにあなたから長いメールがありました。「こちらの気持ちを書かせていただきますね…」と、心中を率直に吐露して下さり、最後に、「私にとってあの謝罪で十分です」と、結んで下さいました。あなたとの交わりが回復されて、私はとても嬉しく思いました。

さらに、2005年5月、雲さんからメールをいただきましたが、その中では、今度は、雲さんの方から、あの時はご自分が悪かったと、丁重に謝罪して下さり、祈りの要請もして下さいました。私はあなたが赦して下さったことを感謝しています、とお答えしました。すると、神は別の次元に導いてくださった、と喜びの報告を下さいましたね。

そして2006年10月には、私が旧いブログで、上記の件について証した際、あなたの方からコメントを下さり、

「私がその当事者です。あの時は、Lukeさんが和解の手を差し出してくださり本当に感謝しております。また、私もキリストの血のゆえに赦してくださったこともありがとうございました。そのために、私は恨みと苦き思いから解き放たれて神の愛の道を再び歩むことができるようになりました。LukeさんとKFCの愛する兄弟姉妹たちに、さらに豊かな祝福がありますように。」

「また、エタさん、本当にありがとうございます。機会があれば、と思います。いまだ、御心配されている方々がいるとのこと、心動かされます。本当に、多大な御迷惑と心痛をおあたえして申し訳ありませんでした。どうぞ、皆様によろしくお伝えください」

と、書いて下さいました。私はあなたの証を本当に嬉しく受け止め、キリストが十字架で流された御血によって、私たちは敵対を解かれ、すっかり和解できたのだと思っておりました。

ところがこの和解について、あなたは後になって、杉本氏のブログの書き込みの中で、これはただあなたがフリをしただけだったとして、和解は本心ではなかったかのように、反故にされ、その上、Dr.Lukeによって、この話が「美談にされている」と、揶揄されました。まるでこの和解が、私の一方的な作り話であったかのようにです。

けれども、同じ2006年11月に、私の旧いブログ上で、あなたはこのようにも書いておられます。

「Commented by Luke 2006年11月16日(木)07:14山谷スレは凄いことになっていますね。ところがうれしい記事を見つけました。雲さん、まだ来てくださっていますか?おめでとうございます^^あなたの論にアーメンですよ。

Commented by 雲 2006年11月16日(木)08:02ありがとうございます。今年3月に結婚しました。山谷少佐の件は黙ってられなくて発言してしまいました。お恥ずかしい限りです。

Commented by Luke 2006年11月16日(木)12:25これはうれしいご報告です^^ずっと気にしておりましたので、感謝です。彼女も私のことを赦してくださるとうれしいのですが。

God bless!

Commented by 雲 2006年11月16日(木)14:43もう赦していると思います。KFCとLukeさんにますます主の祝福がありますように。」

これにも、私は大いなる喜びを覚え、祝福しました。

それから、最後に私があなたがたと接触したのは、2007年7月のこと、彼女の方からも、自分たちをおゆるしくださいとメールをいただき、私は「もうゆるされています」と祝福をお祈りしました。

ですから、その後、私はてっきり、雲さんは幸福な生活を歩んでおられるものと信じて喜び、安心しきっておりました。ところが、杉本氏のブログにあなたが書かれたコメントを通して、あなた方が予想外の状況にあることを知り、非常に驚きました。また、和解はフリだったので反故にすると、一方的に書いておられたので、これにはとても困惑せずにいられませんでした。

雲さん、あなたは掲示板で、「主の名によってゆるします」と言って下さり、メールで、「公の和解は神の前での和解」と言って下さったのです。さらに、私の旧いブログ上では、「キリストの血によって」とまで書いて下さっています。

この言葉を正直に受け止めるならば、あなたは、主の御名と、キリストの御血によって語られたご自分の言葉を、後になって、あれはただフリをしただけだった、と反故にしたことになります。雲さんはよく言っておられましたね、あなたの最も嫌いなものは、「二心」であると。偽善や、二心を嫌っておられた雲さんなのに、なぜキリストの御血によって語った言葉を、反故にできるのか、私にはあなたの思いがどうしても理解できないのです。

雲さん、この点について、何か行き違いや誤解があったのでしょうか?私が知りたいと思っているのは、本当に、これらすべては、あなたのフリにだったのかどうかということです。あなたとすっかり和解できていたと思っていたのは、私一人の思い込みでしたでしょうか?もしも、あなたがおっしゃるとおり、それがフリだったのだとしたら、それがあなたにとっての真実であるとして、私は受け止めたいと思っています。

ですから、あなたの本心を正直に教えて欲しいと願います。それとも、あなたには、この他に、何か私の知らない、別なわだかまりや、不満があって、それを私に伝えたいと思って、このような方法を取られたのでしょうか?私はあなたの本当の気持ちを聞かせていただきたいと思っています。どうぞ、直接、私に会って、正直な気持ちを語ってくれませんか。

また、雲さん、あなたは公の場において、ウォッチマン・ニーや、私の教えは、カルトであり、ホラー以外の何ものでもないとおっしゃいました。それはきっと、私には分からない、あなたなりのお考えに基づいて、これ以上、この教えにはまる人々が出ないように、つまり、キリストの御体が損傷を受けないようにと、警告を発せられたおつもりだったのだろうと思います。

もしも、あなたのおっしゃるように、ニーや私が、主の御体に対して、損傷を与えるのでしたら、私はいつでも降りるつもりです。正直なところを申し上げれば、兄弟姉妹は、もう自立して歩んでおられますし、私という存在は、必要不可欠な存在ではなくなりつつあると言っても、過言ではありません。今、私はただ主の御体にある一人として、何らかの形で、兄弟姉妹に仕えたいと願っているだけです。

もしも私に改めるべき点があるならば、改めなければならないと考えています。ですから、何を根拠にして、あなたがニーや私の教えをカルトとまで主張しておられるのか、率直なご意見を、忌憚なくお聞かせいただきたいと思うのです。このことについて、どうかあなたの思いを直接、私に語っていただけませんか。

雲さん、あなたはご自分の主張を一方的に展開された後、私との対話の場を設けることなく、篭ってしまわれました。もしも、二人が直接、話し合うことなく、このまま時だけが経っていけば、互いの思いのずれは、どんどん大きくなっていき、和解はますます難しくなっていくような気がいたします。願わくは、今のうちに、あなたと以前のような交わりを取り戻せたらと、私は願っております。もしも何か私の知らない誤解や、わだかまりがあるならば、主が私にそれを知らせて下さいます様に。そして、何とかしてそれを解き、兄弟の絆を取り戻すことを祈ります。

雲さん、もしこの呼びかけに、あなたが心を開いて下さり、私との対話を望んでいただけるなら、まずは雲さんの方から、ぜひ私にご連絡をいただけませんでしょうか? 私は雲さんご自身の口から、直接、この事件について本当のお気持ちを語っていただきたいと願っています。」

筆者は、以上と同様の呼びかけを、当時、杉本徳久に対しても「Sさんへの手紙」としてしたためたが、杉本も、グレゴ氏と同様、決して和解の呼びかけに応じようとはせず、自らを弁護する道を退け、杉本は特に与えられた和解のチャンスさえも嘲りながら、クリスチャンを憎み、侮辱し続ける道を自ら選んだ。

こうした和解の呼びかけには、脅しの文句の一つも含まれておらず、完全に相手の自由意志に委ねようとする謙虚な内容であるため、無視することも、踏みにじることも、簡単にできよう。

しかしながら、その呼びかけの中には、キリスト者であれば、絶対に無視することのできない、いくつもの重要なポイントが含まれている。信仰者であれば、それに応答しないわけにいかないことがすぐに分かるはずだ。

そこには、キリストの流された血潮に対して、主の御名に対して、聖書の御言葉に対して、キリストの御身体に対して、どのように関わり、どのように応答するのか、といった問いかけが含まれている。信者が、こうした問題をはっきりさせないで黙っておくことには、永遠のリスクが伴う。

にも関わらず、ただ呼びかけを行った人間が嫌いだとか、応答する気が起きないといった人間的な動機で、呼びかけを拒否するにとどまらず、そこに含まれているキリストの血潮、主の御名、御身体を嘲り、踏みにじる行動に及んだなら、その人間は、ただあれやこれやのクリスチャンを侮辱しただけには終わらず、永遠の領域において、神に対して赦されない冒涜行為を犯してしまう危険が生じるのである。

人間的な対立であれば、いくらでも撤回や謝罪や和解が可能である。しかし、信者を名乗っていた人間が、自分を罪から贖う小羊の血、すべてにまさる権威である主の御名、キリストの花嫁であり、御身体なる教会を嘲り、踏みにじると、その者は、自分で自分の救いを退けたことになるため、人間的な確執や対立をはるかに超えた霊的次元で、神ご自身を敵に回して破滅するという結果になってしまうのである。

ここにクリスチャンや教会を相手取った戦いのはかりしれない恐ろしさがある。

もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

復讐はわたしのすること、
 わたしが報復する
と言い、また、
「主はその民を裁かれる」
と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヘブライ10:26-31)

おそらく、杉本徳久はグレゴリウス氏の場合よりも、さらに悲惨かつ深刻な形で、自分自身の救いを退け、自分のための贖いを否定するのではないかと思われる。

2010年当時から、杉本がDr.Lukeから受けた民事提訴の予告をどれほど内心で恐れていたかは、ブログを通してはっきりと読者に伝わっている。当時、杉本から実名で名誉毀損を受けていたDr.Lukeには、杉本を提訴することが十分に可能であった。Dr.Lukeがそれに踏み切ってさえいれば、争いは早期に終結していた可能性が高い。

だが、Dr.Lukeはグレゴ氏に対する和解の呼びかけも筆者に推敲させたくらいなので、杉本の不当な主張に断固立ち向かって勝利をおさめることが、クリスチャンとして当然の責務であるという考えはなかったのであろう。結果として、偽預言者と呼ばれても、その汚名を晴らそうとしなかった。

そこで、筆者がその跡を継いで、杉本が当時から恐れていた事柄を実行している。いや、Dr.Lukeが当初から筆者の名を引き合いに出して杉本に提訴の予告を行うなど、筋の通らない主張をしていたことを考えても、おそらく、杉本に引導を渡すことは、最初から筆者の仕事だったのではあるまいか。

だが、筆者は、杉本が今回の調停に応じなければ、この先、杉本を「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と言われる方に、直接、引き渡す。杉本は暗闇に引き渡され、その後、筆者が自分で杉本に向き合うことはおそらくもうないであろう。

ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

筆者はこれまでカルト被害者救済活動の支持者らが、常に人の情けや憐れみを悪用し、どれだけチャンスが与えられても、決して光の方に来ようとせず、罪を悔い改めようともしなかったことを知っている。だから、そうした性質がこの先、変わるという楽観を筆者は持たない。彼らはあまりにも心を頑なにされているため、悔い改めることも、和解することも不可能な地点にいるのではないかと、最悪の予想をしている。だからこそ、この事件の結末は彼らにとって非常に厳しいものとなると考えられるのだ。

杉本はこの事件から逃げたつもりでも、やがて「生ける神の手に落ちる」ことになる。それは恐ろしい事態であり、そんな事態になるくらいならば、まだ筆者と直接、向き合っていた方がはるかにましだったと後になって分かるであろう。

こうして、自分を贖って下さった御子を足蹴にし、自らの罪を清めた血潮を汚れたものとし、聖霊を冒涜する者の末路は、非常に恐ろしいものとなる。

「神は愛だから誰をも裁いたりなさらない」などとうそぶき、カルト被害者救済活動に賛同していた者は、この活動の支持者らが今後どういう末路を辿るのかによくよく注目されたい。

「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)


「律法による義」もなければ「信仰による義」もない村上密の呆れた正体

「愛する者たちよ。 すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。 多くのにせ預言者が世に出てきているからである。 」(Ⅰヨハネ4:1)

以上に挙げた聖書の御言葉にあるように、人は試されなければ、その本質は決して分からない。

そのことは、とりわけ牧師や信徒に当てはまる。そこで、見かけが正義漢で善良そうに見える人間ほど、内実は一体、どうなのか、よくよく試してみることをお勧めする。その人間が表向きに掲げている美しいスローガンを、他人に向かって振りかざすだけでなく、自分自身も本当に守るつもりがあるのか、試してみることをお勧めする。

今回、当ブログでは、これまで自称「被害者」の信徒らを募っては、次々とプロテスタントのキリスト教会に「カルト化の疑い」ありとレッテルを貼り、裁判をふっかけて来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密という人間の薄っぺらい人間性を見せつけられる出来事に遭遇したため、そのことを書いておきたい。

ここしばらく、このような物騒な話題が続いていることに飽き飽きしている読者もいるかも知れないが、もうしばらく辛抱していただきたい。

筆者は、この度、今月(2018年3月)下旬の期日に向けて、村上密および杉本徳久を民事調停に呼び出した。場所は武蔵野簡裁だ。この調停は、杉本が長年に渡り、当ブログに対して執拗な嫌がらせ行為に及んで来たことに対する民事上の責任追及であるが、村上密も杉本の行為を幇助した疑いが極めて濃厚であるため、両名を呼び出したのである。

これは裁判に至る前段階である。民事調停というのはADR(裁判外紛争解決手続き)の一種で、参加は任意で不参加の罰則はない。決定に不服があったからと言って、上告などの制度もなく、即、裁判に至るわけでもない。

民事調停は裁判とは異なるが、その代わり、利点もあり、裁判のような大事に至る前に、また、裁判ほどの長期化を避けて紛争解決しておきたいと願う人々にとっては都合の良い場だ。裁判のようにきっちりと法的概念に照らし合わせてすべてが白黒つけられるわけではなく、弁護士でなくては作成できないほどの緻密な文書も要らず、話し合いの性質が高いため、裁判よりは緩やかな基準で物事の解決がはかられる。

民事調停は、このように話し合いの性質が高いという特性を利用して、夫婦の離婚の話し合いや、子供の親権に関する争いなど、家庭に関わる紛争にも大いに利用されており、大きなもめ事から小さなもめ事まで、市民に開かれた場だと言えよう。

ところで、なぜ筆者が今回、出席さえ義務づけられていない、拘束力のない手段をあえて取ったかというと、筆者は突然、誰かに裁判をふっかけるとか、突然、誰かを予告なく逮捕に至らせるとか、そういうやり方が好きではないからだ。

裁判にすれば、欠席のまま終了するリスクが減ることは分かっている。だが、筆者は、グレゴリウス氏が訴えられた時に、その事件を傍から見ていてつくづく思ったのだが、可能な限り、強制力を行使することを最小限度に控え、まずは本人の意志を活かす余地のある場から始めたいと思うのだ。

たとえば、本来、刑事事件になると、被告訴人には、自分が訴えられた事実が前もって告げられることは決してなく、捜査が進んで行くうちに、本人が特定され、突然、ある日、逮捕に至るというケースが稀ではない。それまでに任意の事情聴取が行われるかどうかも分からず、本人は自分に捜査が及んでいることを全く知らないまま、突然、青天の霹靂のように逮捕されるということも起きうる。

だが、それでは、突如、そのような目に遭わされた人間にとっては、あまりにもはかりしれない衝撃となろう。

むろん、告訴されている事実を相手に告げれば、証拠隠滅や逃亡などの恐れが出て来るので、通常、そんなことは決してしない。ただし、当ブログに対して行われた嫌がらせについては、今更、証拠隠滅もないものと筆者は考えている。従って、今回の措置には筆者の意向や決断が大きく影響している。

筆者は、手荒な措置を恐れるがゆえに、緩やかな手段を取りたいわけではない。ただ我々の信じている神が、突如として人を罰したりは決してなさらず、何度も、何度も、真理の道に立ち返るよう、人々に警告を行い、最後の最後まで、人間の自由意志による判断に物事を委ねておられ、最後の最後の段階になってから、ようやく裁きを行われるというその性質を、筆者は自分自身も持ちたく思っており、見習うべきと考えているのである。

だから、筆者は、どんな紛争についても、いきなり裁判、ではなく、まずは話し合いの場を、というのが、常識人の考える当然のルールであろうと思う。刑事事件として扱うにしても、いきなり逮捕、有罪ありきではない。まずは何度も、何度も、問題行為をやめるよう警告が繰り返され、その一つ一つの忠告が次々と破られて行き、何を言っても、本人に全く反省の態度が見られず、いかなる忠告や叱責も全く効き目がなく、自分が引き起こした事件に対する自覚が完全に皆無で、それをやめる意図もなく、罰せられる以外にその行為が悪であることを自覚してもらう道が他にないと分かってから、初めて、強制力を持った措置が取られるべきであると思う。

むろん、事件化されることは、物事は有罪の方向へ向かっていくということなのであるが、それでも、その中でも、踏むべき手順を一つ一つ踏んで、他に残る手段が何もないことが分かってから、最後に強制力を持った措置が取られるべきだと考える。

そのようにすべてのプロセスを十分に踏み、なおかつ、本人にも弁明の機会を与えたにも関わらず、本人がそれを嘲笑い、踏みつけにしたというのであれば、その後、強制力を行使する最悪の結果になっても、それが不可避であって行き過ぎた報復措置でないことは誰もが認めることになろう。

そこで、筆者の場合は、ただ扉を開いていますよという、うわべだけのパフォーマンスではなく、きちんとした段取りを踏んで、物事の本質、人の心の本質を底の底まで確かめるために、一つ一つ時間をかけて踏まなければならない手順があると考えているのである。

このようにして、筆者の紛争解決のやり方は、まずは緩やかな措置から始まり、それが功を奏さなければ、次第に、取る措置の難度・強度が増していくというものである。律儀すぎるかも知れないが、そのように段取りを踏まずに、いきなり強制的な措置を取ることには、あまり賛成できない(そうすることを恐れるがゆえに言うのではなく、神と人との前に、証明しなければならない段取りがあると考えているのである)。

だが、村上は今回、裁判ではなく、それよりも緩やかな民事調停が取られたという事実を自分に都合よく理解してか、事件を京都に移送することを希望しており、京都でなければ出席しないと言い張り、話し合いに応じる姿勢すら見せていないらしい。

それを聞いても、何という滅茶苦茶な話だろうかと筆者は呆れている。村上は事実上、残る二人に京都まで来いと言っているに等しい。要するに、自分一人さえ交通費と時間が浮けばそれでいいというスタンスらしい。

しかも、村上は、サラリーマンでなく、自営業者でもなく、信徒からの献金を受けて生計を成り立たせている牧師なのだ。交通費を惜しまなければならないほどに赤貧の貧乏人でもなければ、働き蟻のように働いて平日に裁判所へ赴いただけで生計が破綻するようなパートやアルバイトの勤め人でもない。

そこで、読者は注意されたい。こういった些細な返答からも、村上の利己主義は明白に見えて来るであろう。自分一人さえ楽であればそれでよく、他の人々が自分のためにこうむる都合など考えもしないのだ。というより、京都への移送の嘆願は、そもそも調停に参加しないための言い訳でしかないと見るべきだろう。

これでも本当に牧師なのだろうか。これでは通常人よりももっと不誠実ということになりかねない。

しかも、村上は、今回、筆者の出した約50頁近くの申立書(証拠書類を含めるとおよそ100頁にはなる)に対し、一枚の反駁の答弁書も送って来ず、ただ裁判所の照会書のフォーマットに、短く「私こそ実名で色々書かれて迷惑しています。ここには書ききれません。」などと三行程度の呆れるほどに子供じみた回答しかしていないと聞いている。

やる気のなさが最初から見えている、人を馬鹿にした回答である。

このことから、村上が筆者をどれほど見下げているか、どれほど民事調停をなめてかかっているか、どれほど自分の教会の元信徒を軽んじているかがよく分かるが、それでも筆者は、ここではっきりと言っておきたい。

村上は事態の深刻さを何も分かっていないようだが、これは村上が筆者一人だけに対して取っている行動ではなく、神と全教会と全クリスチャンの前で取っている行動なのである。

そこで、もし本当に村上が今回の調停期日に武蔵野へ出て来なければ、村上の活動はこれでもうお終いであると筆者は断言しておく。村上の社会的信用は完全に地に落ちることになる。

村上が筆者を見下げるのは今に始まったことでなく別に結構だが、村上自身がこれまで裁判を振りかざして来たにも関わらず、自分への訴えだけは忌避するような態度を取れば、村上の信用はそれでお終いである。

なぜなら、裁判というものは、自分が相手を訴えることもできる代わりに、自分自身が訴えられた場合にも、きちんと応じてそれなりの責任は取りますよ、という双方通行の姿勢がなければ、決して世間の信用を得られないからだ。

これまで村上は、「自分は命をかけてカルトと戦っている」などと正義漢ぶって豪語しながら、「カルト化している」とみなした教会や牧師たちを相手取って裁判を起こして来た。そして、そうした裁判のことを、村上は誇らしげに自分の手柄のように語って来た。

村上は、自分がそうして次々と教会やクリスチャンを裁判に訴えるのであれば、当然ながら、自分が訴えられた時にも、それを受けて立つ姿勢がなければならない。

他人だけを訴えておきながら、いざ自分自身が訴えられる段になると、忙しいだの、遠いだの、様々な逃げ口上を並べて、ろくに反駁もせず、雲隠れするのであれば、もはやそんな人間のふりかざすご都合主義的な「裁判」など、誰一人見向きもしなくなるだろう。

しかも、村上はこれまで様々な教会に対し、「被害者」を名乗る元信徒を募っては、裁判をけしかけて来たのだから、村上自身の教会の「元信徒」である筆者が訴えを起こす場合にも、当然ながら、それに向き合う道義的な義務が生じるであろう。

どんなに不当な訴えを出されたと感じても、やましいことがなければ、きちんと開かれた場所へ出て来て、十分な証拠を提示して、論拠を示して反駁すればいいだけのことだ。オープンな姿勢を見せること、不当な主張にも忍耐強く、正当な手段で向き合っている姿勢をアピールすることは、市民からの信頼を勝ち得るために必要なアクションだ。

それが、裁判所から呼び出されても、遠いとか、書ききれないとか、子供の寝言のようなことを並べて、真面目に対応もせず、姿さえ見せないというのでは、ネットの影に隠れて自分は言いたい放題、一方通行の場所で、自分に都合の良い嘘ばかりを並べ、いざその言葉の証拠を求められ、責任を追及されると、早速、全速力で遁走し、世間の前で堂々と勝負することもできずに、敵前逃亡して逃げ回るしかないという最低最悪の印象を免れられない。出て来ないのは、やましいことがあるからだろうと憶測されるのは当然である。

しかも、TVにまで出て記者会見までして名前を売っているのに、実名で色々書かれて迷惑だとか、自分を未成年の中学生か何かだとでも思っているのだろうか、と呆れる。政治家や芸能人などの有名人が、どれほどの批判に耐えているか分からないのだろうか。ましてや、村上は自分自身が他の牧師にどれほど容赦のない批判を浴びせて来たかを、都合よく忘れ去ったのであろうか?

あれほど「被害者を助ける勇敢な正義の味方」をきどって、諸教会に裁判をふっかけておきながら、いざ自分が訴えられると、しょせん、この程度なのか。市民や元信徒から責任を追及されても、出るべきところに出る勇気さえ持たない臆病者なのか。肩をすくめざるを得ない。

読者の方々は、村上が元信徒からの民事調停の訴えから逃げているというこの事実を決して見逃さないでもらいたい。

さらに、筆者は先の記事で、村上が杉本を切り捨てにかかっていると書いたが、今回のことで、多分、それも本当のことになりつつあるのだろうという印象を受けている。

今回、杉本は出席について回答していないが、杉本は刑事責任を問われている以上、この先、どちらにせよ、逃げることができなくなる。弁明の機会や交渉の機会が与えられているのに、そこに出て来なければ、どんどん立場が不利になって行くだけなのだ。逃げれば逃げるほど、ますます世間の心証は悪くなる。刑事事件の結末がはっきりしてから裁判をするよりも、今の段階で和解の姿勢を示しておいた方が有利なことも確かである。

村上密がネットではこれまで相方のように協力しながらクリスチャンを貶めて来た杉本を、この度、積極的に弁護してやる気もないらしい態度にも、筆者は心底、呆れている。だが、これは実に村上らしい態度だ。

これまで村上は、周知の通り、杉本ブログをさんざん利用して、村上自身とアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に都合の良い偏った虚偽の情報を発表して来た(今ここで紙面を割いて詳しく論証しないが、鳴尾教会に関する記事などを読めば、杉本ブログの情報源が村上と同一であることは一目瞭然である。こうした事柄については後ほど詳しく証拠を提示して論じる予定であるから、その発表を待たれたい)。が、いざその虚偽情報の責任を問われる段階になると、村上は杉本一人にそれを押しつけて、自分は陰に隠れようというのか。

村上にとって信徒とは、そういう都合の良い、捨て駒のような存在なのか。政治家の秘書のように、牧師をかばうためなら、信徒が罪をかぶるのは当然だと考えているのだろうか。

おそらく、杉本は村上にとって、初めから「捨て駒」であり、「とかげの尻尾」だったのだろうと筆者は思う。筆者が最も許せないのはその点なのである。杉本の行為も、当然ながら、筆者には許し難いが、ある意味では、それよりも許し難いと言えるのが、村上の行為である。

村上が、カルト化教会の牧師が信徒を利己主義の犠牲にする行為を非難しながらも、自分自身は、筆者や同僚の牧師や信徒ら(杉本でさえ、ある意味では村上の犠牲者だと言える)を、自分の利益のために犠牲にしてはばからない態度を取っていることは、言語道断な行為である。これでは一体、村上はどの口で他の牧師たちが信徒を犠牲にしていると非難できるのであろうか?

読者は、この事件を通して、ぜひとも村上密の人柄をよくよく観察して判断してもらいたい。村上はこれまで自分が栄光を受けられる場面であれば、それが東京であれ、どこであれ、率先して駆けつけたものだ。しかし、村上はそのようにして物事の「おいしいところ」をつまむことには積極的でも、今、自分にとって不都合な事柄は、徹底的に避けて通りたいという姿勢を示している。この偏ったご都合主義的な行動を、読者はよくよく見て脳裏に焼き付けてもらいたい。

杉本もそうなのだが、住所氏名電話番号を公開しているからと言って、必ずしも物事に責任を取るつもりがあるという姿勢には直結しない。牧師だから、権威者だから、有名人だから、信用できるというわけでもない。要は、牧師であろうが、信徒であろうが、自分のしたことに最後まで責任を持って向き合えるかどうか、そこにすべてがかかっている。

繰り返すが、今回、期日に出て来なければ、村上密の活動の社会的信用は、地に落ちるだろう。自分が「元信徒」から訴えを受けても、見向きもせず、振り返りもしないような牧師が、他の牧師にだけは、元信徒を「被害者」としてけしかけ、「被害者」の言い分に耳を傾けよ、などと訴えても、説得力はゼロである。まずは自分への訴えをきちんと解決・処理してから、他人への訴えに取り組めと言われて、どの教会でも門前払いになるのが関の山だ。

村上の信奉者は、今、彼の行動をよくよく見て脳裏に焼き付けておくことだ。なぜなら、人は不利な状況に立たされた時、初めてその本質が現れるからだ。順境にあって威勢の良い言葉だけを並べているときに、その人の人間性を判断することは難しい。その人が責められ、不利な立場に立たされた時に、初めてその人の本当の人間性が現れて来る。くれぐれも、聖書の御言葉を都合よくちりばめただけの本質的に無内容の綺麗事に目を奪われることなく、きちんと行動を見てその人の本質を確かめられたい。

さて、こうして、世間に波風立てつつ行動するのはかなり大変な労力の要ることであるし、勇気も、犠牲も要ることである。村上はかつてブログで、「自分は命をかけてカルトと戦っている」のに、筆者は「藪の中から石を投げているだけの非常識で幼稚な生き方」をしているとあざ笑っていた。

だが、今、筆者は読者の前で、はっきりと言わせてもらいたい。事実は全く逆ではないかと。自分に都合が悪くなると、途端に「藪に隠れて石を投げる」だけになるのは、村上自身ではないのかと。

もちろん、頭の中で想像を極度に巡らせて、筆者を含め、数々のクリスチャンを「極端に危険人物化」して、巨大な悪役の像を仕立て上げては、無責任な「創作物語」を綴っているのも、村上と杉本であって、筆者ではない。そして、今回のように信頼の失墜を自ら招くような行為を続けていれば、そのうち、杉本のみならず、村上自身にも、「交流も少ない所」に住まざるを得ないという条件が、おのずと跳ね返ることになろう。

他人だけを裁判に引きずり出してあらゆる苦悩を味わわせておいて、自分は訴えられても逃げ隠れし続けるような牧師の言い分に、誰がこの先、真面目に耳を傾けるであろうか。むろん、信徒から受けた相談内容を軽率に口外しているような牧師のもとに、相談を持ち込もうとする信徒がいなくなることは言うまでもない。

筆者は、当ブログを始めた当初は、命がけでキリスト教界の腐敗と是正を訴えるつもりであったが、その目的はその後、少しずつ変化して行った。とはいえ、今になっても、相変わらず、記事を書くことには、命をかけるような代価が必要だ。いや、記事を書くことではない。キリストに従うことそれ自体が、自分のすべてをかけて行う価値のあることだ。もし命をかけるというなら、文章を書くことではなく、神を愛すること、神に従うことにこそ、かけるべきである。

筆者はクリスチャンであるから、「和を持って貴しとなす」式に、世間に波風立てず、すべての物事を曖昧にして、切り分けを否定しながら、人間の心だけを満足させるような生き方を是としない。たとえ波風が立つことになっても、人の感情を時には害することになっても、あくまで聖書の御言葉に基づき、何が神の御心であって、何がそうでないのか、何が真実であって、何が虚偽であるのか、すべてにはっきりと公然と区別をつけるべきであると考えている。

だから、筆者は自分の主張を取り下げるつもりはない。時間はかかっても、また、代償は必要となっても、真実を訴え続ければ、嘘の牙城はかならず崩れると信じている。多くの先人たちもこういういばらの道を辿ったが、彼らの名誉はきちんと回復されているのだから、何も心配することはない。

最後に、またも村上が愚かしい内容の記事を書いている。

「全き者であれは、行いではない。倫理的完全の要求ではない。義は与えられるものであって、獲得するものではない。「律法を行なうことによっては、だれ一人神の前に義と認められないからです。」(ローマ3:20)パウロは、信仰による義、神の前に正しいとされる道(ローマ3章21~5:21)を教えている。「義の賜物」(ローマ5:21)でわかるとおり、義は神から与えられるものであって、自分で獲得する義(自己義)ではない。神の前には「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:24)行いとは別の道、神の前を歩み(信仰生活を)続けよう。

これはきっと村上が、自分は完全無欠な人間でなくてもいいと自己弁護するため、もしくは開き直るために書いたのか、あるいは、村上の率いるカルト被害者救済活動が、筆者の言うような「自己義に基づくものではない」と弁明するために書かれた記事なのだろう。

だが、もしも村上が、自分で書いているように、神は「倫理的完全を人に要求しておられない」と本気で主張しているならば、それでは、これまで村上自身が、信仰によって義とされたはずの他の牧師やクリスチャンを「倫理の欠如」によって訴え、責め立てて来た根拠はどこにあるというのだろうか?

村上がこれまでこの世の法によってさんざん他教会の内情に干渉し、「聖なる法」よりも「この世の法」を高く掲げてクリスチャンを裁く行為に手を染めて来た根拠はどこにあるのだろうか?

そんな活動に手を染めながら、村上は、いざ自分が責められる段階になると、今更、自分だけは、「義人はいない」と豪語して、「信仰による義」に隠れられると考えているのだろうか? 

いや、もしも村上が本当に「信仰による義」に立っているなら、村上は、逃げも隠れもせず、堂々と裁判所に赴くことができるはずではないか。何しろ、信仰による義は、この世の法を超越するのだ。神によって義とされている信者は、決してこの世のいかなる法によっても罪に定められたりはしない。

にも関わらず、村上が裁判所へ来ることを避けているのは、本当は、自分には「律法による義」も、「信仰による義」も、両方ないことが初めから分かっているためではないのか?

筆者は以前にこう書いた。

神が義とされた教会やクリスチャンに、この世の法の裁きを適用し、クリスチャンを有罪に追い込むことで、正義を実現しようと考えるような人々は、結局、自分自身がよりどころとしているこの世の法によって最も容赦なく罪に定められるだけである。

彼らを裁くのは、御霊ではなく、主イエスでもなく、御言葉ではない。彼らには神の憐れみに満ちた裁きが適用されず、彼らを裁くのは、彼らが信じて頼みとしているこの世の法である。そして、悪魔の悪魔に対する裁きはいかなる容赦もないものであり、彼らが他者に対してふりかざした厳しい基準がそのまま彼らに当てはまることになる。律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」(ルカ16:17)のだ。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)

村上が本当にクリスチャンであるなら、以上の御言葉を見失うことは決してないはずだ。すなわち、筆者が村上に反感を持ち、村上に対する訴えを両手に抱えているのを見れば、大急ぎで供え物を祭壇の前に置いて、筆者のもとにすっとんで来て、まずは筆者と和解をしてから、「神の前を歩こう」と豪語するだろう。それができないことが、村上が内心ではクリスチャンではなく、信仰による義に立っていないことの何よりの証拠である。

だとすれば、聖なる法だけでなく、この世の法も、こんな人間に味方しはしない。だが、筆者は、この先、村上に対峙する仕事は、おそらく、誰よりも彼に貶められた牧師たちの仕事になるのではないかという気がしている。

繰り返すが、読者らは、今回の出来事を通して、よくよく村上の人間性を見極められたい。(果たして、こんな人物を恐れて口をつぐむ必要がどこにあるのかと。)

神は人前での信仰による告白を重んじて下さる。我々は聖書の御言葉に立ってこれを守って生きていることを、神の前だけでなく、人々の前でも告白し、証明しなければならない立場に置かれている。

クリスチャンから訴えられているにも関わらず、その兄弟姉妹との和解を目指そうともしない村上密に、信仰による義など欠片もないことは誰の目にも明々白々である。


「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実⑤






~ 奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならない~

これは「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実④」の続きである。

 さて、そろそろ、神の教会は、キリスト教と教会と信者全体を冒涜し、呪うような狼藉者たちに、団結して立ち向かうべき時が来ているのではないかと筆者は思う。

 前回、取り上げた村上密の最新の記事には、次のような一文がある。

「権利の侵害である。となれば、民事で精神的な慰謝料請求の道も開けてくる。教会を正すために法の力を借りることは避けがちであるが、自浄作用がなければ裁判も視野に入れる必要がある。」

 この文章から読み取れるのは、村上が何とかして教会にケチをつけ、教会に打撃を与えるチャンスを伺い、教会財産を一銭でも減らし、教会を貧しくしようと、教会に恨みを持つ不信者(こんな人々は信者とは呼べないが)をけしかけては、教会に対する裁判を起こすチャンスを狙っている様子だ。

 同氏が牧師であるにも関わらず、何とか口実を見つけては教会に争いをしかけ、教会財産を不信者のもとに移したいと願っている様子が伺える。

 自浄作用が働かないから裁判に出るというのであれば、見込みのある裁判をせねばならない。
 
だが、「法の力を借り」たとしても、村上の言うような裁判には、勝ち目がないことが明白であることはすでに述べた。従って、村上の主張は、「聖なる法」である教会規則になじまないばかりか、「この世の法」に照らし合わせても、非現実的な世迷いごとでしかない。
  
「自浄作用」をなくしているのは、村上密と同氏の所属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であって、それ以外の教会ではない。
 
村上自身の言葉を使えば、事実は以下の通りとなるだろう。

「村上密は、自らのブログにおいて、かつての同僚、「同じ釜の飯を食った」牧師たちであっても、教団と袂を分かった者については、個人情報を漏えいし、それを歪曲する形で、彼らを誹謗中傷する材料としている。また、同氏は、かつて自分の教会に相談に訪れていた信徒であっても、気に食わなくなれば、信徒の個人情報を漏えい・悪用しては、信徒を中傷している。

このようなことは、同氏の牧師としての倫理の徹底的な欠如を証明しているだけでなく、牧師としての守秘義務違反、信者のプライバシーの侵害、パワハラ、個人情報の漏洩などの深刻重大な人権侵害に相当する可能性が大である。


となれば、当然、村上の行為によって被害を受けた信徒や牧師には、村上密に対して精神的・もしくは物質的な損害に対する賠償請求を行う道が開けて来る。村上は牧師を名乗っているのだから、本来、牧師の活動を正すのは教会や教団であるべきで、この世の法を用いることは適当でない。しかしながら、自浄作用が全く働かなくなっているアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と、牧師としての職務から完全に逸脱しており、クリスチャンとしての信仰の欠片も見られない村上についてだけは話は別である。兄弟姉妹としてのいかなる忠告も、話し合いも効果のない人間の行動を押さえるためには、当然ながら、この世の裁判を考慮に入れる必要が出て来る。」

このように、損害賠償、慰謝料請求は諸教会に対してでなく、村上牧師とその活動に「悪のり」して兄弟姉妹を誹謗中傷する者たちに対して行われるのが最もふさわしい。

村上は、元信徒を裁判に焚き付けては教会から受けた被害を取り返すよう主張して来たのだから、その主張は同氏自身にも全くその通りに適用されねばならない。自分は人を訴えておきながら、自分が訴えられれば、逃げ回るというのでは、あまりにも往生際が悪い。

筆者は、村上とその活動の支持者らが行って来た人権侵害に対して、被害を受けた牧師や教会や信徒らは、黙っておらず、必要な法的アクションを取ることを強くお勧めする。取れる手段は色々ある。この人々は、キリスト教を断罪しているのだから、兄弟姉妹として扱う根拠がなく、法的措置以外の方法で、このタイプの人々に主張の誤りを認めさせたり、責任を取らせることは決してできないと筆者は考える。

クリスチャンは世の光なのであるから、虚偽の訴えに対して沈黙していてはならない。偽牧師、偽預言者、偽信徒だなどといわれなく非難されて黙っているなど論外である。おくびょう者の行き着く先も、地獄の火の池なのだから。
 
今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 
 兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
 
 このゆえに、もろもろの天と、
 その中に住む者たちよ、喜べ。
 地と海とは不幸である。
 悪魔は怒りに燃えて、
 お前たちのところへ降って行った。
 残された時が少ないのを知ったからである。」
(黙示12:10-12)

さて、最後に、ハガルとイシマエル、サラとイサクの話をつけ足して記事を終わりたい。

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。

喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ。
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。

 ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。
要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ4:21-31)
 
カルト被害者救済活動は、幾度も述べて来たように、生まれながらの人間の正義を掲げるものであって、神の義に反し、御霊に基づく運動ではない。「肉によって生まれた」運動である。

ところが、これまで、信仰に基づかないこの偽りの運動が、全教会を圧迫し、信者を無差別的に迫害して来た。「肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。

しかも、多くの信者たちが自らこの悪しき運動に降伏宣言し、汚し言を言う獣のような彼らの主張の前にひざまずき、彼らの軍門に下った。それによって兄弟姉妹を売った。だが、このようなことに対して、聖書は何と言っているか。

奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである

 さて、女奴隷とその子が追い出されるためには、サラとイサクが成長して強くならなければならない。その時、初めて、肉にあるものと霊にあるものの関係が逆転し、御霊によって生まれた子らが「しかるべき地位を取り返す」のである。

 この仕事を、神はクリスチャンに委ねておられる。

 これが、私たちが地上に置かれていることの意味なのだ。私たちが戦わずにただ沈黙していて、福音がこの地上で前進し、成就することはない。私たち自身が福音の旗を掲げて、霊的な戦いを命をかけて真剣に戦い抜き、新しい陣地を勝ち取り、サタンのわざを打ち壊して前進して行かなければ、神の国の前進はないのである。

 神の国を前進させるとは、多くのクリスチャンがそう信じているように、地上で座って楽しく飲み食いし、気に入った信徒だけを周りに集めて、お気に入りの讃美歌を歌い、耳に心地よい歓談にふけりながら、それを「聖徒らの交わり」と称して誇ることでは断じてない。そのような瞬間が、場合によってはクリスチャンの交わりにないわけではないとしても、激しい霊的戦いを戦い通さねば褒賞を得られないことも事実なのだ。

 先の記事で、筆者は不当解雇された人が、裁判で地位確認請求を行って権利を取り戻すことに触れたが、その際に、決定的に重要な証拠となるのが、雇入れ時に労働契約を明示した書面が労使双方の間で取り交わされているかどうかであると述べた。

 このことをクリスチャンに適用するならば、我々が神の国の正統な後継者として神の教会に残り、狼藉者を追い出す根拠となるのは、神と我々との間に結ばれた契約、約束の御言葉である。

 イサクは、神との約束を生まれる前から持っていたが、イシマエルにはその約束は与えられていなかった。それゆえ、イサクには正統な跡継ぎであると主張できる根拠があったが、イシマエルにはそれがなかった。

 今日、神の教会に連なるための条件は、キリストの贖いを受け入れ、罪赦されて神の子供たされたという、聖書の御言葉に基づく信仰であって、教会に対する怨念や被害者感情ではない。むろん、人受けのする性格や見栄えの良い外見でもないのは言うまでもない。

 ところが、カルト被害者救済活動の支持者らは、神の約束に基づかず、神との契約によって結ばれていない人々を、全く不当な理由で、教会に受け入れるよう迫っているのであるから、こうした人々は、正統な神の国の相続人ではないのに相続人を詐称する不法者として、教会から追い出されて当然である。
 
 このように、まず最初に約束の契約が与えられなければ、クリスチャンは神にも教会にもいかなる地位をも主張できない。だが、約束が与えられているなら、それに基づいて、大胆に権利を主張し、天に対して「地位確認請求」を出すことが重要である。

 創世記(21:9-14)を読むと、神の国の前進のためには、サラの意志表示が決定的に重要な意味を持っていた様子が分かる。

「サラはエジプトの女ハガルのアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクと遊ぶのを見て、アブラハムに言った、「このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません」。 

この事で、アブラハムはその子のために非常に心配した。

神はアブラハムに言われた、「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです
しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。
そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。」

 ハガルは奴隷にも関わらず、自分が先に主人の子を産んだことで得意になり、早くから女主人のサラを見下げていた。それゆえ、サラもハガルを相当いじめていたようだが、それでも、一定期間、ハガルとサラは一つ屋根の下で暮らし、イシマエルとイサクも兄弟のごとく過ごした。

 おそらく、アブラハムはイシマエルもイサクもどちらをも息子として愛し、ハガルとサラも何とか折り合いをつけてやって行けるかのように考えていたのであろう。

 だが、サラの堪忍袋の緒が切れる時が来た。これ以上、ハガルとイシマエルを一つ屋根の下に置いておけば、彼らはかならず、サラとイサクを押しのけて、家の跡取りになろうとしてクーデターを起こすだろうことが、彼女にはっきり予測できたためである。そこで、彼女はアブラハムに明白な意志表示を行う、奴隷とその子を家から追い出してくれと

 神はアブラハムに言われた、「サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。」そして、アブラハムは神の約束に従い、サラの要求を聞き入れ、奴隷とその子を家から追い出した。

 アブラハムにとってはつらい決断だったろう。以後、彼は二度とイシマエルを見なかったのだから。だが、人間の肉に基づく関係、生まれながらの魂の情愛は断ち切られ、御霊に基づく関係だけが残らねばならなかった。

 今日、神の聖徒らは、約束を持たない奴隷の子らに向かって、同じように言わねばならない。「奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならない」と。

 このように、我々が神と人との前で、明白な意志表示を行うことがぜひとも必要なのである。自分たちの「あるべき地位」をきちんと請求するための訴えを天に対して、神と人との前で起こすことが重要なのである。おそらくサラも一度や二度ではなく、アブラハムに願い出たに違いない。

 今、神の教会を荒らし回り、御霊によって生まれた子たちをいわれなく迫害する者たちを、クリスチャンが一致団結して、神の家からきっぱり断ち切り、追い出す覚悟を固めるべき時が来ている。イエスが強盗たちを、憤りを持って宮から追い出されたように、聖徒らは、激しい憤りを持って、神の教会と聖徒らをあざけり、冒涜し、呪う者たちを、容赦なく福音の敵として神の家から追い払うべきなのである。
 
小さな群れよ。恐れるな。あなたがたの父は喜んで御国を与えてくださる。」(ルカ12:32)


「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実④






~教会の不祥事をきっかけに、キリスト教を欠陥宗教のように非難するDr.Lukeと村上密の主張の類似性について~

これは「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実③」の続きである。

さて、カルト被害者救済活動の支持者らが、クリスチャン同士に分裂・分断工作をしかけ、互いを憎み合わせ、争わせることで、キリスト教界を弱体化させる手段として来たことはよく知られている。そうした分断工作の結果、以前にはブログ上でも活発に重要な意見交換をしていた筆者と唐沢との間にも、くさびがうち込まれたのは事実である。

しかし、それだけがすべての原因だと筆者は言うつもりはない。結局は、そうした出来事が試金石のようになって、個人の心の中にもとからあった要素が外に露呈し、個人個人が、神の御言葉の前で「ふるいわけられた」だけなのである。

筆者が唐沢について不審に思うのは、以上のように、唐沢が村上と全く同様に、自分への批判を受けたからと言って、信徒である筆者の利益を害する行動に出たというだけが理由ではない。

そもそも2010年の初めに、唐沢が杉本に向かって、筆者や当ブログをバッシングする記事を取り下げるよう働きかけた後、杉本が唐沢をもバッシング対象とし、自身のブログで誹謗中傷するようになったことは、周知の事実である。

むろん、杉本のこうした行為が許し難いものであることは明白である。これは杉本がクリスチャンや教会を断罪する新たな材料として、まずは筆者を、次に唐沢を獲物のように捕らえたというだけでなく、唐沢と筆者とのクリスチャンとしての親交を冒涜して、クリスチャン同士を引き裂くために行った分断工作であったと見られる。
 
そのバッシングの際、杉本は、唐沢と唐沢の集会にも、「偽預言者」「独裁カルトの妄想教組」「まごうことなき新興カルト宗教団体」などとあらん限りの罵倒を浴びせた。
 
ところが、唐沢は、その当時から、そうした冒涜の言葉の数々に対して一言も反論しなかった。ただ杉本への民事提訴の予告を実行に移さなかっただけではない(名誉毀損は親告罪であるから、もともと唐沢が筆者の件を理由として杉本を訴えるなど不可能であり、唐沢にできるのは、自分が誹謗中層されたことで杉本を訴えることだけであった)。

唐沢は杉本からの主張に、具体的に論拠を示して反論せず、記事の削除に必要となるアクションを取らなかった。当時、社会的地位もあった唐沢がしかるべく行動を取ってさえいれば、杉本のバッシング記事は速やかに削除されて、それ以上の広がりを見せることなく、事態はおさまっていた可能性が高い。それをしなかったことが、唐沢の目に見える妥協の始まりであった。そして、唐沢がこのようにしてグレゴ氏を「有罪」と決めつけながらも、杉本を「免罪」しようとしたことは、唐沢の内面の二重性と深い関係がある。
 
唐沢が杉本の行動を非難しているのは、うわべだけのポーズであることに加え、ただ「人間的な感情の観点」だけからの非難である。杉本の行動は、人の心を傷つけるから許せないというわけである。しかし、そのような主張はすべて感情論でしかなく、実に些細な事柄であって、本質的な議論は、全く別のところにある。
 
唐沢は、杉本の主張の反聖書性を立証し、杉本によって自分が偽預言者と呼ばれて非難されていることについてこそ、反駁し、疑惑を晴らさなければならなかった。グレゴ氏に立ち向かうくらいならば、杉本に対してはもっと毅然と立ち向かって、とことん疑惑を晴らし、身の潔白を主張せねばならない立場にあった。何より、聖書の御言葉に基づく信仰そのものを守らねばならなかったのである。

にも関わらず、唐沢は杉本には反論せず、その主張に立ち向かいもしなかったのであるから、それは裏を返せば、杉本の主張を自ら容認しているも同然である。うわべだけは対立しているようなポーズを取りながら、その陰ではどんどん紛争が拡大して行くような行動を取り続けたのである。
 
その後、唐沢がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒に欺かれ、坂井氏と杉本との裁判においても、筆者のメールを無断で提出するなどあからさまに不審な行動を取った挙句、坂井氏ともどもに敗れたことは周知の事実であり、こうして唐沢がどんどん深みにはまるようにして、カルト被害者救済活動の陣営の圧力にますます屈して妥協(「転向」)させられて行った様子が分かる。

だが、そうなる前から、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒らは(KFCの乗っ取り事件を起こした人物だけでなく、別の人物も)KFCの集会に深く影響を及ぼしており、サンダー・シングの教えなど、明らかに聖書に反する教えを、集会に公然と持ち込んでいた。唐沢はこれについても、サンダー・シングを異端として退けるどころか、かえってサンダー・シングを読んでいた信徒に同情の涙を注いで擁護し、筆者および筆者の警告を退けたことはすでに書いた通りである。ここでも、唐沢が振りかざしたのは「同情論」であり、聖書の御言葉に基づく議論ではなかった。

上記アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者は、筆者が唐沢と知り合うより前からKFCに関わっており、KFCに通えるところに居住していなかったとはいえ、唐沢の長年の知り合いであり、事実上、この集会において極めて重要な役割を担っていた一人であると見られる。
 
唐沢の言動には、このように、「身びいき」や「情」に基づく偏った判断はあっても、御言葉による「切り分け」が存在しなかった。唐沢は当初から、一方では、キリスト教界を激しく非難しながらも、他方では、キリスト教界を離れず、離れようともしていない他教団の信徒と積極的に交わり、人情に流されるあまり、自分に親しく関わろうとする信徒に入れ込み、何が異端であるかを識別しようという姿勢すらも失っていた。

唐沢は当初から、聖書の御言葉を基準とせず、人間の情、自分の感覚や感情を基準として物事の是非を判断し、自ら情に流されて、自分が心地よく感じるものを正しい教えであるかのようにみなし、自分が「可哀想」と感じる信者らにどんどん肩入れして行った。その信者らに自分たちのリーダーがあり、それぞれ所属する教団があっても、お構いなしであった。

そのようにして御言葉の「切り分け」を曖昧にし、異端の教えを吟味もせずに受け入れ、自ら批判していたキリスト教界の信徒らと親交を続けた結果、唐沢の教えはすっかり混合物となり、以前にあった主張の鋭さは失われ、「セルフかキリストか」とあれほど問いかけていたにも関わらず、自ら「セルフ」を選んで、聖書の御言葉の敵となり、ついには筆者をも、敵のようにみなすようになったのである。そのような被害者感情に引きずられやすい情に流されたものの見方は、村上と完全に一致している。

さらに、重要な点として、唐沢は、ニッポンキリスト教界を非難・糾弾する過程で、あたかもキリスト教そのものに根本的な問題(欠陥)があるかのように、早くから自らのブログ等で幾度も述べていたが、この点こそ、唐沢の主張と村上の主張との最大の共通項であるため、読者は注意されたい。
 
教会に様々な不祥事が起きるとき、それを聖書の御言葉への信仰や、キリスト教からの逸脱として訴え、改めて聖書に立ち戻るよう呼びかけるのか、それとも、そうした事件を、あたかもキリスト教の理念そのものの「欠陥」が引き起こした歪みであるかのように訴えて、キリスト教全体を断罪するのかでは、主張が180度違ってくる。そして、まさにこの点こそ、その人間が神の民であり続けられるのか、それとも、偽預言者となって終わるのか、命運を分ける分水嶺である。
 
筆者は、唐沢および村上の信用ならない人柄を見るにつけても、聖霊派特有のナルシシズムの弊害とでも言うべきものを常に感じざるを得ないが(アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、牧師だけでなく、信徒の中にも、うわべを飾って「良い子」を演じることに生涯の情熱を費やしている人々があまりにも多い。そして美化された自己像にすっかり溺れて、真の自分が見えなくなっているのである)、それに加えて、両氏の主張の問題点を論じるに当たっても、やはりアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念がどんなに危険なものであるか、幾度となく強調せざるを得ない。

(ちなみに、キリスト教界全体を口汚く罵っていた唐沢が、筆者が「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団で挫折した」と語っている様子には、思わず笑ってしまう。一体、唐沢はどの口を持って一方ではキリスト教界全体を罵りながら、他方では、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を擁護できるのであろうか。こうした主張は身びいきと言う他ないだろう。

むろん、筆者がこの教団で挫折した過去などなく、筆者がこの教団を離れた直接的なきっかけは、津村昭二郎氏の牧会に失望幻滅したことにあり、津村氏が不祥事事件で引責辞任に追い込まれ、かつその疑惑に相当な根拠があることについては、教団配布の様々な証拠資料と共に具体的に記事に記した。唐沢が「転向」されられて以後、津村・村上ファミリーおよび杉本を擁護するために、筆者を中傷して以上のような嘘を述べているのは明白である。)

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を率いる聖霊派の理念の誤りは、大きく見れば同じ聖霊派に位置づけられるカリスマ運動の指導者である手束昭明氏の著書を引き合いに出して詳しく論じた通りである。要するに、キリスト教には「父性原理ばかりが強すぎて、母性原理が足りない」と、あたかもキリスト教にはバランスが欠けているかのように非難して、もともとキリスト教にあるはずのない「母性原理」という新たな要素(要するに、異端思想)を巧妙に付け加えようとするのである。
  
異端思想はこのようにして、まずはキリスト教に何らかの「重大な欠陥」が存在するかのように「ケチ」をつけるところから侵入口を得る。(被害者を募って教会に「ケチ」をつけては裁判をしかける手口と同じだ。もちろん、彼らは信徒に対しても同じように振る舞う。異端思想を見分けてこれとの分離を訴える筆者のような信徒が現れれば、「非難された人が可哀想」と同情論を唱え、「愛情や同情心に欠ける」などと人格攻撃を浴びせ、こうして人柄に「けち」をつけることで人物像を歪め、すべてを人間的な対立の話に置き換えることで、聖書の御言葉に関する議論から逃げ、物事を曖昧にごまかそうとするのである。)
 
だが、聖霊派が「キリスト教に補われるべき」と主張しているこの「母性原理」こそ、東洋的な母性崇拝に起源を持つ、キリスト教に根本的に敵対する悪魔的な思想であることは幾度も述べた。洋の東西に関わらず、母性原理を「神」として崇める非キリスト教的な宗教は、「慈愛」とか「慈悲」とかいった言葉を悪用しながら、「和をもって貴しとなす」式に、人間の感情が満たされ、傷つけられないことだけを最終目的としながら、すべてを情に基づいて判断し、物事に白黒つけることを嫌い、光と闇を明白に切り分ける聖書の御言葉に悪質に対抗する。そして、人間を高く掲げながら、最終的には聖書の神に敵対し、キリスト教に敵対し、クリスチャンに敵対する運動を生んで行く。

キリスト教の異端は、こうした母性原理を崇める思想が、巧妙にキリスト教の仮面をつけて、キリスト教の中に入り込んで来ることによって生まれる。そこで、筆者は、「父性原理」に立つのか(御言葉の切り分けを保持するのか)、「母性原理」に立つのか(情に流されて御言葉の切り分けを曖昧にするのか)という議論は、本質的に重要なものであって、クリスチャンが、人間の感情が満たされることだけを最終目的に掲げて、すべてを明白に切り分ける御言葉の「父性原理」を退ける道を選べば、待っているのは破滅だけであると確信する。信者は、人間の感情が根こそぎ傷つけられても、聖書の神の御言葉に従い、御言葉が成就することだけを最終目的として、御言葉の「父性原理」(切り分け)に服さねばならないと考える。どちらの立場を取るのかによって、信者の人生ははっきりと明暗が分かれてしまう。

村上と唐沢の主張の非常によく似ている点は、両者がキリスト教の教会で起きる様々な事件を糾弾する過程で、被害者感情に寄り添い、自称被害者たちの言い分を盲目的に信じて肩入れして行くうちに(実は被害者に寄り添うことで、彼らは自分自身の心を慰撫しているだけなのであるが)、そうした事件があたかもキリスト教そのものに原因があって引き起こされたかのように述べて、自分と被害者を一体化させる形で、キリスト教全体を敵視し、クリスチャンを敵視する発言を何度も行い、諸教会を断罪し、自分たちの傘下に身を寄せた信徒や同僚を次々と売り渡すような行動に出ながら、それでも、自分たちだけが正しい教えに立っているかのように主張している点にある。

両者ともに、自分たちが偽預言者と呼ばれて非難されても、人格攻撃のような形で論敵を貶めながら、話の矛先を逸らそうとするだけで、決して真正面から反論しようとはしない。彼らには、論敵と対峙するに当たり、そもそも教義に関する議論を避け、自分たちの「見てくれ」で勝負しようと試みるという特徴が共通して見られる、要するに、自分たちは優れた人好きのする外見を持っていて、つきあい上手で、取り巻きも多いが、自分たちを非難する人間は、見栄えの悪い、欠点だらけの人物で、誰からも好かれていないかのようなネガキャンを行うことで、論敵の人格について印象操作を行って議論から逃げようとするのである。

このようなものは稚拙な印象操作であって、議論とは呼べない。だが、果たして、そこまで言うのならば、彼らにはそれほど誇れる立派な「外見」が本当にあるのだろうか?という疑問も生じる。大体、家庭内暴力などを振るう男たちは、決まって外面だけは良いのを自慢とするが、唐沢の例に至っては、以前から自分が大学の守衛から不審者のように見られたと述べたり、何より「自分は真っ赤な偽牧師だ」と至る所で自嘲していたような有様なので、これで誇れる立派な外見があると言うのはあまりにもお粗末である。
  
そもそも自分で自分を「偽牧師だ」と自称しているような人物の言葉に、信憑性があるのかどうかは、読者の目には明らかであろう。

以前に持っていたそれなりに尊敬される社会的地位までも自ら捨ててしまったとあれば、外見を誇りながら、その外見と社会的地位によって人を納得させる道すら自ら絶っているも同然である。さらに、この世の裁判でも杉本に敗北したとなれば、唐沢の主張は、この世の実社会においても、認められなくなりつつある様子が分かる。次々と何らかの事情のありそうな信徒を周りに集めては、その信徒を助ける風を装って、同情をきっかけに、信徒に感情的に肩入れして行き、その後、その信徒らから訣別を言い渡されると、今後はその信徒の人生を破滅させるような行為に手を染めるのだから、全体として見れば、誰一人としてきちんと育った「教え子」がいないわけで、信頼が失墜するのは無理もなかろう。このような点でも、唐沢は村上と同じである。
  
杉本との裁判に敗北して妥協させられて以後、唐沢は村上のみならず杉本ともあからまさにそっくりな主張を展開するようになっている。どちらも、自分にとって不都合な真実を見ないでいるために、罪もない人間に罪を着せて、虚偽を言いふらしているだけである。

唐沢はこうして自分を偽牧師と罵る杉本の主張の前にひれ伏し、ひざまずいたのである。それは唐沢が主イエスの御名を裏切って、信徒の血を代価として、神と人との前で公然と行った行為であるから、この世だけでなく来るべき世でも、二度と撤回はできまい。
   
このように、村上も唐沢もともに、キリスト教の本来的な信仰から逸脱している不信者らの被害者感情に寄り添うあまり、キリスト教そのものを敵に回すような活動に手を染め、そうしたがゆえに、御言葉の敵となり、教会の敵となり、信徒の敵となってしまったのである。

欺かれてはいけない。事の本質は、決して弁舌の巧みさや、カリスマ性のある外見や、取り巻きや支持者の数や、おべっかやお追従を受けているかどうかや、人好きのする性格、うわべの行動のそつのなさ、立ち回りの器用さ、老練さ、老獪さがあるかどうかなどの外見や手練手管にあるのではない。
 
そうした性質をすべて備えているのは、詐欺師だけである。そして、そういう派手な外見とうわついた甘言にやすやすと欺かれるのも、愚か者だけと相場は決まっている。物事を深く考察せず、見た目で判断せよと迫って来る人間の中に、真実はまずない。このことは世人でさえ否定しないであろう。
 
クリスチャンは、あの有名なイザヤ書53章で、主イエスの外見について、聖書に何と書かれているか、立ち戻ってきちんと朗読されたい。

だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。
 主の腕は、だれにあらわれたか。
 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。
 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

このように、主イエスには、「われわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさも」なかった。奇跡を行っても、人々に受け入れられず、人を癒しても、感謝もされず、多くの町々で、まるで不審人物のように追い払われた。最後は罪を犯していないのに、十字架にまでかけられ、殺された。
 
主イエスが、きらびやかな外見や、弁舌の巧みさ、弱者救済のお涙頂戴のスピーチなどで、人の注目を集めたなどという記述は聖書には全くない。数多くの取り巻き連に担ぎ上げられて、おべっかや、お追従を受けて自己満悦されたなどの記述も全くない。

そこで、我々は、以上のように、キリスト教に敵対する人々が、クリスチャンの外見のみすぼらしさ、貧しさ、弱さ、不器用さを嘲笑しながら、得意げな自己アピールによって、自分こそ正しく信頼に値する人間であるかのように吹聴している有様を見れば、彼らの主張が、主イエスの生き様とはまさに正反対であることを知る。

キリスト教の不祥事などを口実に、あたかもキリスト教が欠陥宗教であって、キリスト教そのものの理念に重大な問題があるかのように吹聴し始めた人々は、その主張がことごとく聖書と真逆になって行く様子がよく分かるのである。
 
唐沢のメッセージでは、もはや十字架の死と復活という言葉も聞かれず、キリストの十字架そのものが消え失せている。これは筆者から見れば、極めて恐ろしい、ぞっとする事実である。
 
信者たちは、決してこのような例に倣うことなく、たとえ外見はどんなに弱々しく、みすぼらしく、不器用で、力もないように見えても、内心では決して揺るがされることなく、最後までキリストの十字架に堅く立って、人間の義ではなく、神の義を主張し続けたい。

<⑤に続く>

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実③


~Dr.LukeことKingdom Fellowship Church(KFC)の唐沢治も守秘義務を破り、対杉本の裁判において当ブログ執筆者の個人情報を杉本徳久へ提供・漏洩したと見られる事実について~


この記事は「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実②」の続きである。

さて、杉本は、筆者の個人情報(名前)についてだけは、Dr.Lukeこと唐沢治と坂井能大氏が行った裁判で坂井氏側から提出された資料を通して入手したと述べている。

おそらくこの記述は事実であると考えられる。ただし、杉本はそれ以前から筆者の氏名を別のルートでも入手しており、それゆえ、筆者に名前を記した上で脅しメールを送って来ている。

杉本対坂井氏の裁判が行われた当時、筆者は以前の記事にも記した通り、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒であった鵜川貴範・直子夫妻が、他教団の信徒であるという身元を隠してKFCに潜入し、集会をかき回し、会堂契約を失わせ、筆者を断罪・追放し、唐沢をもメッセンジャーから降ろすという出来事があったことを機に、唐沢と完全に親交を絶ち切っていた。

筆者は唐沢に前もってアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団および鵜川夫妻の危険性を告げていたが、同氏はその忠告を全く信じようとせず、鵜川夫妻に感情的に(ほとんど盲目的と言っても良いほどに)入れ込んでおり、集会が終わるたびに三人だけで場所を移して長時間に渡り話し込んでいる有様だった。

筆者は彼ら三人からKFCの集会中での「態度が悪い」(?)とか「面従腹背である」(???)などを理由に断罪され、ほとんど「呪いの予言」と述べて構わない言葉の数々を浴びせられた挙句、KFCから追放されたのであるが、この馬鹿馬鹿しい事件については「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒による他教会(KFC)乗っ取り事件」 にも詳しい。鵜川夫妻がどれほど信用できない人物であり、その二人を信用した唐沢がどんなに愚かで人を見る目がないかも分かる出来事である。

以前にも書いたように、筆者はそうした出来事を真に受けず、その足でまっすぐ唐沢のことを長年知っている別な兄弟姉妹のもとへ行き、この事件をどう思うか尋ねてみた。すると、彼らは異口同音にKFCの異常性を述べ立て、このような異常な団体に関われば、上記のような事件が起きるのはまさに当然であって、彼らの吐いた言葉にはことごとく根拠がないと述べ、一切唐沢との親交を絶ち切るように告げて来たので、筆者はそれを聞くまでにも彼らと同様の見解を持っていたが、やはりそうだったのかと納得した。

筆者自身が当ブログにおける議論の中では、唐沢のコメントを通して大いに実りある収穫を得たとはいえ、唐沢には何かしら非常に不穏な存在感を覚えていたため、もし杉本によるバッシング事件がなければ、おそらく横浜に来ても、KFCや唐沢のもとに足を向けることは決してなかったであろうと思う。

以上のような経緯があったため、筆者は、唐沢にも完全に愛想を尽かし、KFCの欺瞞にもうんざりしており、唐沢が支援したという坂井氏の裁判には全くと言って良いほど関わっておらず、筆者が書いたメールを、そこで唐沢が裁判資料として提出することに同意した事実も全くない(一体、誰がそんなことに同意できようか)。

要するに、唐沢は筆者をKFCから自ら追放しておきながら、その事実がなかったかのように隠した上、筆者には無断で、筆者の個人情報の記載されたメールを裁判資料として提出したのである。

そのようなことを唐沢が行った理由として、筆者の証言という援護射撃を受ければ、坂井氏の裁判を有利に進められるだろうという考えがあったことが推測される。
 
唐沢はニュッサのグレゴリウス氏を刑事告訴した際にも、筆者ともう一人のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団出身の信徒に、自分に有利な証言をさせている。

唐沢は2010年当時、グレゴリウス氏が杉本のブログ等で「Dr.Lukeに呪いの予言をされた」などと書き連ねていたことに、相当に頭を悩ませていたらしく、その件で、筆者に力になって欲しいと、自ら頼み込んできた。

その当時、筆者は唐沢のことをよく知らず、また、筆者自身が杉本のブログで激しいバッシングを受けて、その件で困り果てていたこともあり、唐沢がまるで杉本のバッシングの件で筆者の相談に乗ってやる交換条件のように、グレゴ氏の件で支援して欲しいと話を持ちかけて来たとき、筆者自身が唐沢という人物とほとんど直接接触したことがなかった情報の少なさも手伝って、そこで聞かされた内容を疑ったり、断ることができなかった。

唐沢は2010年に、杉本によるバッシングの件で途方に暮れて唐沢のもとを訪れた筆者に向かい、「KFCに関わるつもりがあるなら、グレゴ氏の事件のことも、含んでおかなくてはいけないよ」などと述べて、グレゴ氏のことなど一切知らない筆者にも、まるでこの事件の解決の責任があるかのように図々しく主張した。

だが、筆者はグレゴ氏が誰なのかも知らず、当時のKFCの様子も全く知らず、唐沢とグレゴ氏の間に何があったかも全く知らず、その事件の解決のためにできることもほとんどなかった。
 
にも関わらず、唐沢はこの事件に無関係であった筆者の存在を、事件を自分に有利に「解決」するために最大限に利用して、グレゴ氏に対する和解の呼びかけを何度も書き直させたり、自分に有利な証言を行わせたりして、自分一人、難を逃れるための手立てをいくつも講じた。

筆者はその当時、紛争の経緯は知らなかったものの、グレゴ氏と唐沢との早期の和解を心から願っていたために、唐沢が送って来た和解の呼びかけの文章にも目を通し、効果的な呼びかけに必要と思われる数々の助言を行った。だが、筆者がそのようにして、どうすれば二人の間に和解が成立するかと、真剣に頭をひねっていた間にも、唐沢は「あくまで扉は開いているということをアピールするためにね」と述べて、その和解案が、単なる表向きのポーズでしかないという意図を明白に表明した。

唐沢はおそらくその頃から、グレゴ氏の自分への「裏切り」を許し難いものとみなして、グレゴ氏を刑事告訴して有罪に追い込むことだけを目的に据えており、初めから和解する意図はまるでなかったのではないかと推測される。筆者は、それより少し前に、唐沢があまりにもその事件のために悩んでいる様子であり、筆者にできることもなかったので、被害届でも出したらどうか、という意味で、「警察に相談したらどうですか」と水を向けてみたことがあった。

しかし、唐沢はその言葉の意味を、筆者の述べたのとは全く違った意味内容として受け取ったらしく、グレゴ氏に対する報復を果たす手段が手に入ったと考えたのか、その後、早速、グレゴ氏を刑事告訴することに決めたと告げて来た。ちなみに、この行為については、実に数多くの信徒が唐沢を非難し、「杉本を告訴するならともかく、なぜ元信徒を告訴するんだ」と反対した。筆者に対しても、「ルークを止めて欲しい」と言った依頼がなされたし、後に筆者のもとにやって来て、面と向かって、「あの時、自分の集会に通っていた元信徒を告訴したことで、ルークは指導者として決定的に信用を失った」と述べた信徒もいた。

そうした経緯もあって、筆者自身も、当時は、唐沢に何とかして思いとどまってグレゴ氏と平和的に和解してもらおうという意図のもと、話し合いを提案し、自らそれに赴こうとさえしていた。すでに述べたように、結果としてその計画は成らなかった。唐沢が「あなたがそこまで言うなら、あなた自身が話し合いに同席して下さい」と(厚かましくも)筆者に頼み、筆者が土産物まで用意して、グレゴ氏のもとへ向かおうと、唐沢が筆者をピックアップした直後、警察から制止が入って、話し合いによって和解を求める計画は中止となったのである。筆者はこれを、筆者がこれ以上、事件に深入りすることのないように助けられた神の采配であったと考えているが、その結果、筆者はグレゴ氏と対面したこともなく、グレゴ氏が誰なのかも知らず、以後、その事件のなりゆきには、全く関わっていない。

さて、唐沢はグレゴ氏を刑事告訴したと筆者に告げた際に、「Dr.Lukeは人を呪うような人間ではない」という趣旨の証言を、筆者にもしてもらいたいと頼み込んで来た。

筆者はその頃、あまりにも未熟で愚かな信徒であったので、唐沢の心中を疑うことができず、まさか筆者同様に高い学歴を持つ教養人であるはずの唐沢が、「呪いの予言」などを口にするなど、あり得ないことだと考えて一笑に付していた。とはいえ、この依頼のことで、筆者は後に、唐沢に面と向かって、非常識な行動の数々を責めることになった。まず、唐沢が自分から人に証言を頼んでおきながら、面倒なことには一切関わりたくないとばかりに、自分自身は警察署に足を運ぼうともせず、自分のために証言してくれた他人の労をねぎらおうともしなかったこと、証言と言いながら、台本まで首尾よく用意していたことなどから始まり、筆者はこの事件で罠にはめられたように感じ、この事件を巡る唐沢の行動があまりにも非常識であり、不信感を呼ぶものであることを面と向かってかなり率直に責めた。

その当時、筆者はよく唐沢と口論のような喧嘩をしていた。以上のような事柄だけでなく、信仰に関わる事柄についても、兄弟姉妹に関わる事柄についても、あまりにも数多くの点で、唐沢には不信感を呼ぶ行動が見られたため、誰も決して言わないであろう耳の痛い苦言を、筆者は何度も唐沢に向かって述べた。

唐沢は当初、嫌そうな顔をするでもなくそうした叱責や忠告を聞いていたが、筆者が、唐沢はただ人の心をいたぶったり、弄んだりしながら時間を稼いでいるだけであって、真心からのいかなる忠告も、一切功を奏することのない対話者であると分かったのは、それからかなり月日が経ってからのことであった。

本来ならば、裁判や事件で、自分に有利な証言を行ってくれた人間は、恩人にも等しい存在であるから、一生、頭が上がらなくなるものと思う。だが、唐沢には、そういう考え方はまるでなかった。唐沢は、筆者を理由もなくKFCから追放し、筆者がKFCを公然と批判するようになった後では、筆者が唐沢のために証言した事実など全くなかったかのように沈黙し、かつての恩も忘れ、掌を返して筆者を中傷しているのであるから、大した「恩返し」である。

こうして、筆者は唐沢のために有利な証言を行ったが、唐沢は筆者のために不利な証言しかしなかった。むろん、杉本のバッシングの件でも、唐沢は筆者のために何の力ともならず、実行するつもりもない民事提訴の予告をしたりして、事件をより一層こじらせただけであった。

そして、その当時から、唐沢は筆者に向かって、次のような話も得意げにしていた。杉本が信頼して心を打ち明けて、クリスチャンをバッシングする計画を逐一相談している牧師がいるが、その牧師が杉本に恐れをなして、杉本が送って来るメールをすべて唐沢に転送しているため、杉本の計画は、すべて唐沢には分かっているのだと。

筆者はそれを聞いた際、ますます唐沢という人物に不信感を持ち、「あなたはどうしてそうやって人の裏をかくような、スパイみたいな活動に手を染めるんですか。どうして自分が予告した通りに、民事裁判のような開かれた場所で、正々堂々と勝負しないんですか」と尋ねただけで、その牧師とは誰であったのか、唐沢が掴んでいる杉本の情報とは何なのか、尋ねようという気にもならなかった。

むろん、その後、唐沢がそうして得られた情報をもとに、杉本がしようとしている計画を筆者に事前に告げて、気をつけるよう警告して来たことは一度もなかった。今となっては、唐沢はただ自分一人だけ他の人々には及ばない情報を握り、高みに立って、大勢の無知な人々を惑わせ、争わせて楽しんでいたようにしか、筆者には見受けられないのである。

このようなことから、筆者は大きな教訓を学んだ。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。 」(エレミヤ17:9)と、聖書が言う通り、人の心の中で起きていることは、誰にも分からず、決して誰をも弁護しようと思ってはならず、他者の証人になってもいけない、ということである。

唐沢のために弁護してやる価値がなかったことは確かであり、こういう利己的な人間の正体を見抜けなかったことは(当時は唐沢との親交も短く、様々な事件のために混乱しており、状況そのものが極めて異常だったとは言え)やはり愚かであったとみなさなければならない。

だが、以上のような事柄は、決して唐沢一人に当てはまるのではなく、例外なくすべての人間に当てはまるのである。外見がどうあれ、社会的地位がどうあれ、他の人々からの受けがどうあれ、つきあいの長さがどうあれ、どれほど思い入れがあろうとなかろうと、人間というものは、一人の例外もなく、弁護に値しない存在だというのが、聖書の教える真理なのである。

だから、人間については決して早まった判断をしてはいけない。うわついた賛辞や、耳に心地よいおべっかや、お世辞、人々の人間性について太鼓判を押すような言葉は極力控え、ただ辛辣な批判だけを述べている方が、よほど真実には近く、無難であるとさえ言えるかも知れない。そのようにして、人間を高く掲げず、賞賛もしないことは、世の中の考えとは真逆であろうが、実際には、それが聖書の最も真実に近い態度なのである。
 
今となっては、村上同様に、唐沢の利己主義、ご都合主義、非常識にも、呆れ果てるのみで、二人は悪党同士、良い仲間だと言えよう。
 
また、グレゴ氏の言い分には、かなりの割合で、事実が含まれていたものと筆者は考える。特に、唐沢が「呪いの予言を行った」とする同氏の言い分は、少なくとも、筆者自身に起きた事柄に照らし合わせても、事実であった可能性が相当に高い。

だが、だからと言って、それでは、グレゴリウス氏は一方的な犠牲者であるのかと言えば、そうも言えない。唐沢をかばうつもりは筆者には微塵もなく、唐沢が指導者としての地位や権威を利用して、グレゴ氏を圧倒的に有利な立場から叩きのめした行為は非難されてしかるべきであると思うが、グレゴ氏がその非難から身を守れなかったのにも、それなりの理由がある。

グレゴ氏は、唐沢の呪いの予言などを真に受けず、まずきちんと聖書の御言葉に立って、それに対抗しなければならなかった。そのようなことを「被害」として主張すべきでなく、ましてそれを杉本ブログ(しかも杉本が筆者と当ブログをいわれなくバッシングしている記事)に書き込んだりすべきでもなかった。唐沢に不信感を抱いたとしても、唐沢と筆者とが別人であることを理解した上で、面識もない筆者を同様に扱うべきではなかったろう。さらに、病と手を切り、自分が完全に健康であることを主張して立ち上がるべきであった。

結局、悪魔からどのようないわれのない非難を受けたとしても、キリスト者は堅く信仰に立って、身の潔白を主張して、応戦せねばならないのであって、もし神が味方して下されば、キリスト者には、必ず、どのような状況でも、自分を守り通す方法はある。不当な主張には徹底的に抵抗し、立ち向かわねばならない。それは相当に骨の折れる作業ではあるが、信仰によって貫徹すれば、必ず、身の潔白は証明される。なぜなら、神の義に立っている信徒を守って下さることは、神の仕事だからだ。

そのことは、筆者自身が、たった一人で杉本からのいわれのないバッシングや、刑事告訴の脅し、また、唐沢や鵜川夫妻の三人から受けた「呪い」の言葉の数々や、杉本や村上や唐沢の取り巻き連中からの心ない言葉や、呪詛と呼ぶにふさわしい言葉の数々も含めて、すべての圧迫に、ただ聖書の御言葉だけを武器に、一人で立ち向かったからこそ、言えることである。
 
こうして、グレゴリウス氏を巡る事件は錯綜しており、誰にどれだけの責任があるのかは、まさに神のみぞ知る領域であって、安易に決めつけることはできないが、少なくとも、その事件が起きる中で、唐沢が自分だけ都合よく難を逃れるために、無関係に等しい筆者を最大限に利用したことは確かである。

こうしたことがあったために、筆者は今、自分自身のためには、誰の証言も求めないのである。筆者のための証人としては、最も確かな証言をして下さる聖霊がついておられるから、それで十分である。それ以上の保証人はどこからも探し出して来ることはできない。


筆者が正しい人間なのか、そうでないのか、神の御言葉に忠実に従っているのか、そうでないのか、生きた人間の中には、誰一人として保証できる者はいない。筆者は、そのことを十分に分かっており、最後まで自分のための弁護を、ただ神お一人にだけ依頼するつもりである。自分のしていることや、歩んでいる道に、他人を巻き込むつもりはなく、誰からの理解や援護も求めるつもりはない。困難が深ければ深いほど、筆者は自分のための弁護を決して神以外の方に委ねず、神がついておられなければ、勝利もないという状況にあえて立とうと思うのである。だが、このように神以外の一切のよりどころを持たないからこそ、神自身が筆者の潔白を証明して下さると確信している。(こんな風に神に頼る人間を見捨てれば、神の名折れである。)
 

ただそうは言っても、読者はここに筆者が述べていることも含め、それぞれの主張を見比べて、誰が本当のことを言っているのか、真剣に吟味・判断してもらいたい。

さて、唐沢は、一度目の成功に味をしめたので、坂井氏の裁判の際にも、筆者の証言が得られれば、有利に事を運べると踏んだものと見られる。もしくは、何とかして筆者をもその裁判に引きずり込みたかったのであろう。

だが、愚かなことである。本人不在の中で、裁判にメールなど提出してみたところで、何の信憑性があるというのだろう。裁判で証言を行うためには、陳述書という形を取るのが通常である。しかし、唐沢は自ら鵜川夫妻と一緒になって、筆者をKFCから追い出す側に回った以上、筆者から陳述書を取れる状態にあるはずもなかった。

唐沢はそうした事情を、おそらくすべて坂井氏に隠した上で、あたかも依然、筆者の味方であるかのように振る舞いながら、筆者のメールを裁判に提出したのだと思われる。

本来、メールは私信であるから、本人の承諾なく裁判資料として提出するなど考えられない行為である。しかも、唐沢は杉本に敵対する立場として、裁判に臨み、杉本が筆者を憎み、中傷していた事実も十分に知っていたわけであるから、そのような状況で、杉本に筆者の個人情報を提供することが、どれほど危険な行為であるかを知らなかったはずがない。

それ以前にも、唐沢は2010年に杉本に自ら民事提訴の予告をしておきながら、それを長い間、理由も示さずに、実行せず、そのせいで事態は余計にこじれ、杉本がそのことで激高して筆者を非難したため、とばっちりはすべて筆者に及んだ。その上、唐沢は筆者に悪意を持っていることが明白な人物に、筆者の個人情報を流出・漏洩させて、裁判に負けた後では、筆者一人を矢面に立たせ、自分だけはあたかも杉本と和解したかのようにちゃっかりと装っているわけだから、もはや唐沢の信用ならない性格や、唐沢の心に筆者への善意や筆者を守ろうという気持ちが微塵もなかったことは明白だと言えよう。

こうしたことは、唐沢も、村上と同様の人間であることをよく物語っている。自分が批判されると、その批判を交わすために、信徒を陥れることなど平気であり、自分の身を守るためならば、真実でない主張も、平然と繰り広げられるのである。保身のためならば、守秘義務違反、信徒のプライバシーの侵害、個人情報の漏洩などの行為を犯すことにも、まるでためらいがない。彼らにとって大切なのは、自分の美しい外見的イメージが傷つけられず、見栄を保つことだけなのである。

今や、唐沢は、以上のような悪事を自分が行ったことを隠すために、都合よく立場を翻し、杉本同様に、筆者の書いていることが夢想であるかのように述べて、筆者に人格攻撃を行っている。それによって、筆者の主張の信憑性を読者に疑わせようとしているのである。インテリの何も値しないどうしようもない見かけ倒しの人間で、弁護する価値など全くなかったとしか述べる言葉もない。

筆者は、唐沢の集会を去って以後、唐沢のブログを読むこともほとんどなかったが、この度、標記事件について調べる過程で、唐沢が2011年2月19日の記事に追記する形で、自分をかばうために、筆者の人格を貶めて中傷したり、「ヴィオロン氏と杉本徳久氏の争いに関して、2009年当時はヴィオロン氏が私の元にいたので間に割って入ったが、2012年以降私とは関係ない状況にあり、またニュッサの件も真実が明らかにされ、杉本と争う根拠は消失した故、一切手を引いている。」と記していることを知った。

こうして、唐沢は一方の口では、筆者について「2012年以降私とは関係ない状況」、「一切手を引いている。」と言いながら、もう一方では、その記述を自ら裏切る形で、筆者には無断で、筆者の個人情報を裁判資料として提出したり、あるいは、かつては筆者のブログで自分も中心的存在となって、村上密を糾弾する立場に立っていたにも関わらず、そうした事実が全くなかったかのように、筆者が個人感情ゆえに一人で村上に対立しているかのように述べながら、筆者を貶め、杉本が筆者の人格を誹謗中傷する格好の材料を提供しているのだから、全く呆れ果てるばかりである。

もちろん、「ニュッサの件」で唐沢が真実を闇に葬る側に回ったことも、それから、杉本に依然として自分が偽預言者扱いされているにも関わらず、それに立ち向かおうともせずに「杉本と争う根拠は消失した」などとうそぶいていることにも、呆れ果てるだけである。(唐沢は裁判に負けたために、杉本の主張にやむなく妥協させられたという不都合な事実を隠すために以上のように述べているだけである。)

「一切手を引いている」と言いながら、よくこれだけの嘘をついて、事態の悪化に関与し続けられるものである。このように、唐沢の言動は全く不誠実であり、首尾一貫性がなく、自己矛盾に満ちている。だが、そのことは、唐沢の集会の信徒たちも十分に知っており、唐沢が嘘つきであることを承知しながら、彼らはリーダーへの心酔をやめられないのである。村上の信奉者の場合と同様である。

今や唐沢が杉本を非難しているのは、ほんのうわべだけのポーズでしかなく、実際には、唐沢は次々と杉本を利する行動に出ては、坂井氏を含め、多くのクリスチャンを杉本に敗北させる結果へと追い込もうとして来たことは明白である。

これも牧師制度というものの闇を見る格好の事例であろう。一旦、宗教指導者となって信徒の上に君臨してしまった人間が、どんなに人格を狂わされ、見栄だけがすべてとなって、自分を守るためならば、真実を平然と売り渡し、信徒を裏切るかという事例である。

唐沢も、エクレシアの兄弟姉妹は対等であるべきで、リーダーは要らないと述べて、公然と牧師制度に異議を唱えていたが、それにも関わらず、自分が指導者となって集会を支配し、神を差し置いて、信徒らの前に栄光を受けてしまった罪は重い。

唐沢の様々な相矛盾する言動から、読者は唐沢の信用ならないご都合主義的な性格や変心を十分に伺い知ることができよう。

 
<④に続く>


「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実②






~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密が守秘義務を破って杉本徳久に当ブログ著者の個人情報を漏洩したと見られる事実について~
 
さて、この記事は「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実➀」の続きである。

杉本徳久は当ブログの著者と直接の面識がないため、第三者から情報提供を受けない限り、当ブログ著者を誹謗中傷する材料となる筆者の個人情報を入手できない。そこで、杉本がどのような経路で筆者の個人情報を入手したのかが問題となるが、そこで、杉本に情報提供した疑いが極めて高い人物として、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が浮かび上がって来ることについてはすでに述べた。

なぜなら、杉本は自らのブログにおいて、筆者の「両親」があたかもアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の鳴尾教会に通っていたかのような虚偽の情報をブログに公然と記している。

だが、そうした杉本のブログには多くの虚偽が含まれており、まず第一に、鳴尾キリスト福音教会というのは、鳴尾教会がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を離れて以後の名称であるから、筆者を含め、筆者の家族の誰一人として、鳴尾キリスト福音教会に通った事実は存在しない。

第二に、筆者の母はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の会員でなく、他教団の信徒であり、鳴尾教会では客員であり続けた。また、筆者の父に至っては、クリスチャンでさえないため、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のいかなる教会のいかなる集会にも通った事実が全く存在しない。

それにも関わらず、杉本徳久は筆者の「両親」がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の鳴尾教会に通っていたかのようなデマを勝手にまき散らしているのだが、そのようなデマは、杉本が一人で考え出したとは思えず、その根源となる偽情報を杉本に伝達した誰かがいるためだとしか思えない。

そして、そのような誤った情報を杉本に伝達しうる人物は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師以外には、誰一人として存在しないのである。

なぜなら、杉本に以上のようなデマ情報を提供するためには、以下の条件が必要となるが、その条件にすべて当てはまっている人間は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中に、村上密以外には誰一人としていないからだ。

➀当時の鳴尾教会の関係者であること
②筆者の両親がどこかの教会の集会にそろって訪れたところを目撃していること(鳴尾教会の信者は誰もそんな場面を見たことがない)
③筆者の両親が引越して後、どこに住み、何を営んでいるかを知っていること(鳴尾教会の信徒はその事実を知らない)
④杉本が筆者に対する悪意を持って当ブログへの誹謗中傷の機会を伺っていることを十分に知りながら、それでも杉本に誹謗中傷の材料となる筆者の個人情報をあえて提供するような心卑しい人間であること(そんなことをする信徒は鳴尾教会はおろか、どんな教会にも一人もいない)

村上密が、自らのブログで、杉本よりも以前から、筆者および当ブログを卑しめる記事を発表していたことは周知の事実であり、その点で、村上は以上の➀~③のみならず、④の行為に及ぶ動機をも十分に満たしていたと言える。

もっとも、そのような村上の行為自体が、牧師として考えられないほどに幼稚で、牧師の職業倫理にもとる行為であることはすでに述べた。通常の牧師であれば、一度でも自分の教会に通ったことのある信徒については、信徒が教会を去った後でも、決して個人情報を口外せず、まして、信徒の信用を貶めるような情報を口にすることはない。

たとえその信徒が牧師と対立して教会を去った者であったり、牧師の活動を公に批判している信徒であっとしても、牧師は公人であるが、信徒は私人であるため、牧師はその信徒に報復を果たすために信徒の個人情報を公にしたり、信徒を中傷して信用を貶める内容の記事を公表したりすることは決してない。

そのようなことは牧師の職権を濫用したパワハラに該当し、プライバシー侵害や名誉毀損その他の責任追及を受ける可能性も出て来るが、何よりも、その牧師と牧師の教会の評判を著しく落とすため、そのような中傷合戦のようなことに通常の牧師が手を染めることは決してない。

だが、村上密には通常の牧師であれば、誰しも備えている品格、常識といったものがまるでないのである。

さらに、当時の鳴尾教会を知る信徒たちは、筆者の両親がそろって教会を訪れるところを誰一人目撃していないため、筆者の両親が共に教会に通っていたなどという誤解を抱きうる人間もいない。

津村昭二郎牧師でさえ、筆者の父がいかなる伝道集会にも決して出席しなかった事実を見失うとは思えず、こうしたことは、村上が一度でも津村氏に確認していれば、生じなかった誤解である。

次に、筆者の両親は、津村氏が不祥事により引責辞任してから何年も経って、遠方の地に引っ越した。そこで、筆者の両親がどこに引越し、何を営んでいるのかといった事柄について、当時の鳴尾教会の信徒たちは知らない。

しかし、村上密はこうした情報を握っていたのである。なぜなら、2008年、筆者は村上密の率いる宗教トラブル相談センターを訪れた際、村上の勧めもあって(被害者の多くから名ばかりと批判されている)「カウンセリング」の一環として、「家族カウンセリング」のために、一度だけ両親を呼んで、村上と面会させたことがあるためだ。

その時に、村上氏が筆者に送って来たメールが以下である。ちなみに、このメールは村上の記名が入っているが、伝道師の長澤氏のアドレスから送信されている。

このことは、2008年当時から、村上には信徒の個人情報に関する守秘義務という概念が全くなく、村上が伝道師と全ての情報を共有していた様子を物語っている。

2008年7月22日に村上密が「家族カウンセリング」を名目にヴィオロンの父と連絡を取った証拠

そして、実際に、筆者の両親は、筆者の依頼に基づき、村上の教会を訪れているのだが、村上はその際、筆者の両親がそろって教会を訪れた姿だけを見て、筆者の父には信仰がないという事実をよく確かめもせず、筆者の両親がともにクリスチャンであって、それ以前にも一緒に教会に通っていたのだと早合点したものと見られる。

また、村上は、その際、筆者の両親がどこに住んで何をしているかなどの情報も、二人から個人的に聞いて確かめている。

このように、杉本徳久が筆者の両親がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の鳴尾教会に通っていたとか、どこに住んで何をしているかなど、嘘をまき散らしているのは、いつものように、村上密の「強烈な思い込み」を伝授されてこれを真に受けた結果としか考えられないのである。

村上密と杉本徳久のブログは、このように、不確かな伝聞だけを頼りに、自分が見たことも聞いたこともない事柄について、まことしやかに虚偽を書き記す点で一致している。

そして、村上密が自身のブログで、これまでどれだけ大勢の同僚の牧師や信徒らの個人情報を悪用して、そうした情報を、村上の活動を批判するようになった元同僚や、信徒たちを誹謗中傷する材料として利用して来たかを思えば、あえて筆者が以上のように事細かく説明せずとも、村上が宗教トラブル相談センターを訪れた信徒らの個人情報を平気で漏洩しうる精神の人間であることに、異論を唱える者も、疑問を抱く人間もほとんどいまい。

 さらに、それに加えて、杉本自身が、筆者の情報について、村上密に問い合わせたと自らのブログで述べているのである。その際、村上が、杉本をいさめて、誹謗中傷をやめるよう説得したとか、信徒のプライバシーに触れる情報は一切提供できないと断ったなどの記述は全くない。

むしろ、杉本よりも前から、筆者に悪意を抱いていた村上は、杉本からの問い合わせを受けて、渡りに船とばかりに、筆者に関する情報を提供したのではないかと考えられる。

いずれにしても、そのような問い合わせを杉本から受けた際、村上が杉本を制止しようともせず、筆者の個人情報を漏洩したと見られる行為が、どこからどう見ても、牧師の道に完全に外れたあるまじき行動であることは言うまでもないだろう。

村上が杉本よりも先に筆者や当ブログについて書いた中傷の記事が、悪質な虚偽であることは、すでに幾度も述べて来た通りであり、筆者は杉本のみならず、村上にも記事の削除を求めているが、村上がそれに同意して記事を取り下げたという話を今の時点で全く聞いていない。

これで今でも牧師を名乗っているというのだから、心底、呆れ果てるのみだ。まさに牧師の名を穢すだけの、キリスト教徒を名乗る資格のない牧師である。杉本も村上も両者ともにゲヘナの子であるとしか言えない。

<③に続く。>

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実➀






~ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実~

さて、読者のために誤解のないよう断っておきたい。

この度、当ブログに対して長年に渡り、おびただしい回数の嫌がらせを行って来た「現代の風景 随想 吉祥寺の森から」(http://d.hatena.ne.jp/religious/)および「神々の風景 ーreligious sceneー」(http://d.hatena.ne.jp/religious/)と題するブログの著者杉本徳久氏およびその共犯者たちが刑事告訴された(この名は本人が公開したプロフィールから得たもの。情報は以下参照)。

上記のブログの著者とその共犯者たちが、2009年以来、当ブログに対してどんなに執拗かつ陰湿な嫌がらせと誹謗中傷を重ねて行って来たかについては、幾度も当ブログ記事で詳しく証拠を提示して記して来た通りであるので、これについては過去の記事を参照されたい。
  
杉本徳久氏への公開書簡」には、当ブログが、杉本なる人物から、本人の住所氏名連絡先を記した上で、送りつけられたおびただしい数の嫌がらせメールを公開している。当ブログは、そこで、杉本にとって気に入らない記事を一方的に削除するよう迫られたり、その不当な要求に応じなければ、当ブログ執筆者の個人情報を無断で暴露すると脅されたり、その他にも様々な嫌がらせを予告されて来た。
 
こうしたすさまじい陰湿な嫌がらせ行為を受けて、当ブログ執筆者が幾度も警察に報告・相談を行った結果、杉本および共犯らは、去る2月23日に神奈川県警察に名誉毀損罪により刑事告訴された。さらに、杉本は名誉毀損の他にも、つきまとい等の迷惑行為防止条例違反で警察から警告を受けている。

杉本は当ブログ執筆者が警察に相談していることを事実だと考えなかったのか、あるいは、それが事実であると大変不都合であると考えたのか、当ブログが警察に相談しているという事実が根拠のない虚偽であるかのように吹聴していたようだが、実際には、杉本の行為は刑法に触れる罪であって刑事事件にまで発展している。

さて、当ブログでは、何年も前に、「罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――」と題する論文を掲載し、そこで、杉本が何の公的資格にも基づかず、自らの義憤だけに基づいて、「教会のカルト化を監視する」として、自らのブログで、様々な教会やクリスチャンに関する不利な情報を集めては、教会や信者をブログでバッシングする記事を発表していることに、何の正当な根拠もないこと、また、杉本ブログに掲載されている情報が虚偽の温床になっていることを指摘した。
 
その記事の中で、杉本は、以上のようなクリスチャンや教会に対するいわれのない迫害の当然の報いとして、必ず刑罰を受けねばならなくなるだろうと予告した。

今回、まさにそうした予告が現実になった形であるが、やはり、聖霊に導かれるキリスト者の述べる事柄には、一つ一つ、本人が自覚している以上に深い意味があるのだと考えさせられる。

ちなみに、当ブログでは、2012年頃からすでに各種の掲示板等に投稿された嫌がらせのコメントに対して刑事告訴が可能である旨を警察から告げ知らされていた。ただし、杉本本人につながる確たる証拠が出て来るのを待ちたいという筆者の意向があったために、告訴がなされなかっただけである。

このように、現代という時代は、個人のブログであろうと掲示板であろうと、いずれにしても、書き込み者を特定して責任追及を行うことは十分に可能な世の中であるから、読者はよくよく熟慮してコメントを投稿されたい。
 
さて、筆者は杉本とは面識が全くないので、杉本徳久という名前がペンネームなのか本名なのかも知らない。杉本の年齢は、ブログの情報によれば、40代の男ということになろう。

杉本の職業は、本人が自らブログで社会福祉士であると述べていることから、ブログだけでなく、実生活においても、社会的弱者の救済をライフワークにしている様子が伺える。

しかし、それにしては、杉本は自らのブログで、筆者のような健康な人間を何の根拠もなく精神異常呼ばわりして嘲笑った挙句、精神異常者の社会への適応困難な状況や、就労困難を嘲笑するような内容の記事を書き、社会的弱者を罵倒しているわけであるから、人目につかないところで、そのような社会的弱者へのイジメのような行為にコソコソ手を染めていたことが発覚すれば、当然ながら、職場も解雇される恐れが十分に出て来る。

何よりも、刑法に抵触する行為の報いとして罰を受ければ、社会福祉士の国家資格を剥奪されることが十分に考えられる。

たかがブログと考えて、自分よりも弱そうな社会的弱者を鬱憤晴らしに貶めるような行為に手を染めれば、その報いとして、現実生活に数多くの不利益がふりかかることになるという見本のようである。何度も当ブログではそういう事態になることを警告していたのに、耳を貸さなかったのだから、愚かとしか言いようがない。
 
さて、杉本の住所は、「随想 吉祥寺の森から」および「神々の風景」および、さらに同じ人物が主催者となっているサッカーチームのブログ「Soccer team - FC弥生- Yayoi football club」の三つのブログで公開されているプロフィールを手がかりにすると、以下の通りである。

ちなみに、これらのプロフィールは未だに閉鎖されることもなく無防備に閲覧可能な状態で放置されている。(著者に自分が訴えられたことの自覚がまるでない様子を伺わせる。)

株式会社メディアテラスという会社が実在しているかどうかについても、筆者は知らない。ネットの情報によれば、何年も前から幽霊会社になっているという説もある。もしそれが事実だとすると、杉本に社会的弱者を笑っているような経済的余裕が本当にあるのかどうかも疑わしい。
 

   

 

http://d.hatena.ne.jp/religious/about

 

 

http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/cat_50012366.html


 

http://d.hatena.ne.jp/fcyayoi/20070112

さて、このブログの杉本徳久なる人物は、以上のプロフィールの連絡先に、警察からの連絡を受け、本人確認を済ませた上で、自ら以上のブログを書き、当ブログに対する嫌がらせ行為に及んだ事実を認めたものの、人権侵害に該当する記事の削除や、ブログの閉鎖を求められると、強硬に拒んでいるという。

この度、当ブログはプロバイダを通じても、杉本がブログの削除を拒否している旨の通知を受け取っている。事件になった以上、削除は本人の意志の問題でないことも、まるで分かっていない様子だ。そこには、一秒でも長くクリスチャンを害する情報をまき散らしたいという本人の悪しき願望を見るだけである。
  
きちんとした弁護士がついてさえいれば、杉本とてこのような愚かな行為に至ることはなかっただろう。何しろ、警察の警告にも耳を貸さないとなれば、悪印象が募り、本人がこの先、情状酌量を受ける余地がますます減って行くだけだからである。

このように、他人に迷惑をかけても一切の自覚がなく、法律を遵守しようとの姿勢もなく、自ら行った行為の犯罪性の認識が皆無で、刑法に触れる記事を削除するつもりもなく、被害者に謝罪する意志や、反省の態度も微塵も見られないとなると、やがて本人の意志に関わりなく、処罰を受けることでしか反省してもらう余地はないね、という結論が、関わった人々から異口同音に出て来るのは避けられないであろう。

ちなみに、一般には、不当な理由で告訴された人には、虚偽告訴という形で対抗することが可能であるが、杉本徳久の場合には、それは当てはまらない。なぜなら、杉本の嫌がらせ行為は、あまりにも大勢の人々が知り得る場所で行われており、十分すぎるほどの目撃者と証拠の蓄積があることに加え、杉本はこれまで一年間もかけて当ブログを刑事告訴しようと試みたにも関わらず、武蔵野警察署がそれを受理せず、杉本の訴えを棄却した経緯があるからだ。

そういう事情を考慮すれば、この先、警察が杉本の虚偽告訴を受理する可能性は、今まで以上に低くなったと言えるだろう。そのようなことをすれば、武蔵野警察が先の告訴を受けなかったことが誤りであったと認め、また、神奈川県警察の仕事を否定するも同然の格好になってしまう。
 
さて、筆者は、約9年間という長きに渡り、不当な嫌がらせによって損害を受けたことに対し、杉本に対し、民事においても責任追及する所存である。

杉本の虚偽(というより妄想)に溢れた「創作物語」に対する当ブログの公式な反論及び民事上の責任追及については、詳細を以下に公表するつもりであるが、情報の公開までは少しだけ待たれたい。

杉本の当ブログに対する主張が何から何まで完全に虚偽であることについて

さて、筆者はここで、杉本ブログで同様の被害に遭われたすべてのクリスチャンが、決して泣き寝入りすることなく、本人に対してしかるべき責任追及を行うよう呼びかけたい。

杉本はこれまで自分がクリスチャンや教会を訴えることに何のためらいもなかったわけであるから、自ら他者に対して行ったことを、自分自身の身に受けるのは、至極当然である。

事態を大きくすることをためらう必要はない。このような種類の人間は、強制力を行使して、捕えられ、世間からの強い圧力がかかることがなければ、決してクリスチャンをターゲットとして嫌がらせを続け、苦しめることをやめないであろう。

信徒は、住所や連絡先を公開せずとも、刑事や民事での責任追及は可能であるから、時効を迎える前にきちんとアクションを取られたい。
 
当ブログの読者であれば、杉本が長年に渡り、当ブログにしかけて来た争いが、当事者同士で解決できるレベルをはるかに超えており、筆者が個人でそれに対応しなければならない理由もなく、筆者自身にも市民としての措置を取る権利があることには同意してくれるだろう。

しかも、筆者がそうしたアクションを取るまでには、長い長い年月が経過している。その間に、杉本自身が、当ブログを刑事告訴すると息巻いていたことや、杉本から行われたあらゆる嫌がらせにも関わらず、筆者が杉本に幾度も和解を呼びかけては嫌がらせをやめるよう警告を行ったこと、むろん、警察に相談している事実があることも本人に知らせた上で、万策を尽くした事実があるわけだから、今更、以上のような措置に出たところで、遅すぎるという非難は受けたとしても、誰もそれに反対する者はいまい。

今後、事件の捜査および進展の過程で、新たな情報が出て来れば、それもまたここに掲載したいと考えている。
 
筆者はこれまで第三者を介した話し合いの場で、それまで居丈高に高圧的に振る舞い、暴言を吐き続けて来たような人間が、まるで捕えられた獣のように急におとなしくなり、何も言えなくなる瞬間を何度も目撃して来た。

筆者は弁護士という職業が好きではないが、あまりにもプライドに凝り固まり、真実が見えなくなり、感情的で、理性を見失った人間を相手にする場合には、向こうに弁護士がついている方が都合が良い場合もあることを知っている。なぜなら、弁護士は当事者よりもはるかに現実的に物事が見えており、裁判官の助言も重んじるため、当事者が感情に走りすぎている場合は、ちゃんといさめてくれるからだ。

弁護士にとって、紛争が長引けば得になると書いたのは、あくまで取りはぐれのない企業などが依頼人になっている場合であって、個人の争いが長引いても、弁護士に得になることはない。紛争が長引く間に、その個人が自己破産でもしようものならば、収入の見込みも途絶えるため、弁護士は個人の紛争をいたずらに長引かせず、裁判官の判断には基本的に従う。
 
そこで、当事者は、感情的になっていても、裁判官と自分の依頼した弁護士の両方から説得を受ければ、最終的に折れざるを得ない。紛争を第三者の前に持ち出すことの意味はこうしたところにある。

<②へ続く>


十字架の死と復活の原則―悪魔と暗闇の勢力に対する容赦のない裁き―神は罪人らが悔い改めて癒されることのないよう、彼らの心を頑なにされる―

「この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。」(黙示13:5)

「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示21:6-8)
 
オリーブ園にちょっと不思議な記事が掲載されている。

これまでずっとオースチン-スパークスの連載が続いていたのだが、途中に以下のエバン・ロバーツの記事が掲載されているのだ。

戦いに関する光

悪魔の白旗に注意しなさい!それは戦いを停止させるための休戦の旗なのです。悪魔は出来ることなら何らかの方法で入り込み、まさにカナン人がヨシュアにしたように、教会を自分に妥協させようとします。危険なのは戦いが終わる前に妥協して、戦いをやめることです。暗闇の力に対していかなる妥協、あわれみ、同情もあってはなりません。

 悪霊どもは知性と交信することができますが、接触するのは霊です。霊に接触し、知性と交信するのです。これがあなたが大いに警戒しなければならない理由であり、あなたが大いに戦わなければならない理由です。悪霊どもは足がかりがあろうとなかろうと、実際に霊に接触します。あなたがあなたの霊の中にあればあるほど、ますますあなたは悪霊どもと接触するようになります。あなたの霊を守りなさい。あなたが自分の霊を正しい状態に保つなら、あなたの霊はまさに船の緩衝材のように働きます。船が港の岸壁に衝突しても――緩衝材がその衝撃を散らしてくれるのです。

 悪霊どもの大目的は悪です。悪霊どもがある人の外側にいる時、悪霊どもが行いたいことをその人が理解し、願い、遂行するという保証は彼らにはありません。しかし、もし悪霊どもがその人の中に入り込むことができるなら、悪霊どもはその人に自分たちの行いたいことを行わせることができます。悪霊どもの大きな願いは、その人に自分たちの意志を遂行するよう強いることです。悪霊どもが人に取り憑く時、その主な現れは強制です。あるいは、悪霊どもが取り憑く主な目的はこれなのかもしれません。取り憑くことにより、悪霊どもは安堵するのです。

エバン・ロバーツ


 この記事は前後の記事がないため、言わんとしていることの具体的な意味がそれほどまでに明瞭ではないが、筆者はこの記事の内容に心を留める。

 以上の記事が具体的に何かを指して言われたのかどうかは分からないが、筆者は、カルト被害者救済活動の偽りと対峙する時、「暗闇の力に対していかなる妥協、あわれみ、同情もあってはなりません。」という忠告は、まさに当てはまるものだと思う。

 このところ、カルト被害者救済活動の支持者には、警察から、刑法に違反し、人権を侵害する記事を取り下げるよう、連日、警告が行われていた。ところが、当初は記事を取り下げることに同意していたその人物は、その後心を翻し、記事を掲載し続ける意向を示している。

 ついに、警察の忠告にまで逆らう意向を示したのだ。だが、そうしたことも、いわば、織り込み済みの事実であったと言える。なぜなら、この人々は今までずっと「市民社会の掟」を振りかざしては、クリスチャンが非常識な存在であるかのように断罪して来たとはいえ、本当は、彼らの正体こそ、最も非常識かつ反社会的な勢力だからだ。

 神の教会に敵対して立ち向かいながら、この世の社会にだけは色の良い顔をすることは不可能なのである。

 もうしばらくすれば、彼らは警察に対しても正体を現し、彼らがこれまで何か貴いものであるかのように振りかざして来た「市民社会」そのものを冒涜し、踏みつけにするだろう。そして、自らの強情さによって、可能な限りの手下を滅びの運命に道連れにしようとするだろう。

 しかし、彼らの計画は中途で打ち砕かれる。

 まだ終わりの時は来ていない。バベルの塔の建設が完成に至ることはなく、必ず、それは離散で終わると相場は決まっている。

 従って、今回、彼らが警察の忠告まで振り切って行動したことは、神のご計画の範疇なのである。つまり、神ご自身が、彼らの心を頑なにされたことをよく示している。

「この民のところへ行って言え。
 あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
 この民の心は鈍くなり、 
 耳は遠くなり、
 目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 耳で聞くことなく、
 心で理解せず、立ち帰らない。
 わたしは彼らをいやさない。」(使徒28:26-28)

 これまで幾度も述べて来たように、神は、ご自分で癒そうと考える者の心を柔軟にし、癒すつもりのない人間の心を頑なにされる。

 心を頑なにされた人間には、悔い改めて神に立ち返って罪赦される可能性が失われる。人間的な観点から見ても、情状酌量の余地がなくなり、その後は徹底的な滅びへと向かって行くだけになる。
  
 筆者は、こうした事態を見ながら、やはり悪魔と暗闇の勢力は、自分の手下となった人物に対する使い捨ての法則を貫き、その人物から情状酌量を受ける余地を完全に奪い去り、徹底的な破滅へ追い込むものだという確信を強めている。

 こうして、また一つまた一つと彼らの新たな罪状書きが増えて行く。だが、それでも筆者は知っているのだ、彼らが何を考え、どう行動し、何を宣言しようと、結論は最初から決まっていると。

 結論が決まっているからこそ、彼らは当初から、筆者やクリスチャンに対してこれほど激しい憎しみを燃やし、自分の運命に抵抗して来たのである。

 それは、筆者自身の中にある神の御霊が、彼らの目から見てそれほどまでに重大な脅威だったためである。
 
 ところで、筆者は以前にある人が刑事告訴され、逮捕されたいきさつを間近で見ていたことがあるため、そういう事件の進展の仕方と、訴えられた人がどうなるのかも知っている。

 その当時の筆者は、まだとても未熟な信者で、人間的な対立を可能な限り避けて、すべてを当事者同士の話し合いで解決できるものと信じていた。だから、最後の最後まで、事件などにはせず、何とか話し合って和解できないかと、関係者に呼びかけていたのである。

 すると、告訴人に当たる人物が、筆者に向かって言った、「ヴィオロンさん、あなたがそこまで言うのなら、あなた自身が私たちの話し合いに立ち会ってもらえませんか?」

 それは何度目かの和解の呼びかけがすべて拒否された後の出来事であった。

 今から考えれば、筆者にはその提案を受ける筋合いはなかったのだが、筆者はその当時、あまりにも未熟であったがゆえに、どこかに和解の道が残っているに違いないと信じ、彼らを思いとどまらせるべきと考えていた。そして、自分としてできることをすべてしようと思い、説得する材料となりそうな土産物まで持って、車に乗り込んだのである。

 ところが、我々の出発直後に、警察からストップがかかった。「行ってはいけません。ここから先は我々に任せて下さい。」

 まさにそれは天の守りもしくは介入だったものと思う。その当時、いかに筆者が未熟で愚かな信者であったにせよ、神は筆者を守って下さり、筆者が超えてはならない一線を踏み越えて、足を踏み入れるべきでない領域に介入することがないよう、すべてを采配して下さり、筆者を力づくでその事件から遠ざけたのであった。

 結局、筆者はその当事者に会うこともなく、説得に赴くこともなく、その人物が誰なのかさえも知らないまま、時が過ぎ、その人物が間もなく逮捕されたことを聞かされた。その逮捕が当人にとってどれほど測り知れない衝撃であったかも知らされた。

 いわば、事件になったその時から、筆者が何を言ってみたところで、そういう顛末を辿ることは最初から決まっていたのだと言える。話せばきっと思いは通じるだろうといった浅はかで子供じみた感情的な次元の対立ではなかったのである。

 この出来事を通して、筆者は初めて、人が力づくで拘束されることや、それによって生活を奪われ、社会的名誉も失い、自分の書いたもののすべてが強制的に削除され、以後、どこにも何一つ意見発表できなくなり、完全な沈黙に追いやられ、人としての活動を失うということの意味を、傍観者の立場を通してだが、はっきりと目撃したのであった。

 現在の日本社会では、男性にとっては特に、容疑を受けて身柄を拘束されること自体が、社会生活のほぼ完全な破滅を意味すると言っても差し支えない。人々は自分が告訴されたと分かっただけでも、職場を辞めたりする。その後の顛末がどうあれ、関係者に迷惑をかけないためである。冤罪事件で逮捕された人も、後になって、それがどんなに自分の生活に重大な悪影響を及ぼす出来事であったかを繰り返し語る。

 筆者は、以上の事件には、話し合いで物事を解決する道がなくなって以後、全くと言って良いほど関与もしておらず、もっと言えば、最初から何の関係もなかったのだが、関わらなくなって以後も、以上の事件で逮捕された人が、立ち直ったという話を二度と聞かない。本人のみならず、関係者からも、その人が一体、どうなったのか、全く話を聞かない。生きていたとしても、死んでいるも同然のごとく、噂が全く絶えてしまったのである。

 だが、そうなったのは、以上の事件だけがきっかけではなかったものと思われる。その人は、有罪になることを免れる目的もあってか、心神喪失を主張していたらしいが、その過程で、多分、自ら主張した病が現実になってしまったのだろうと思われる。

 これまでに何度も警告して来たことであるが、クリスチャンは、絶対に自分から病にかかっているなどと宣言してはいけない。病は火遊びの相手としてはあまりにも危険すぎ、断固、拒否しなければ、些細な入り口から侵入して、全身を燃え上がらせて灰にしてしまう。

 だが、その人には初めから、病に徹底的に立ち向かう姿勢が見られなかった。それだけではなく、呪いに対しても、毅然と立ち向かう姿勢がなかった。その結果、自ら信じたことがその身に成就してしまったのである。

 信仰に立って最後まで抵抗すべきであった。自らを被害者の立場に置くのでなく、神がすべての呪いを身代わりに背負って下さったことを信じて、抵抗すれば、すべての縄目は絶ち切れていたであろうし、むろん、早期に和解もできていたに違いない。
 
 この出来事は、筆者にとって、非常に暗示的であり、教訓的であった。それまでの筆者は、この事件に限らず、強制力を用いて人間の意志が打ち砕かれる瞬間を、一度も見たことがなかったためである。

 また、病が徐々に人を滅ぼして行くように、ある時点まで、普通に行動していた人間が、ある時点を境に、強制的に社会から隔離され、生活を送れなくなるまでに追い込まれるという現象も、見たことはなかった。しかも、信仰者の世界では、なおさらそんな事件は目にしたこともなかった。

 だが、そうした事件を目撃しつつ、筆者が思わされたのは、罪人に対する神の裁きの容赦のなさであった。この世には永遠に至るまでの刑罰はないが、それでも地上の刑罰にも、永遠の予表としての意味はある。

 神は罪人、悪魔、暗闇の勢力に対して、最終的には、容赦のない裁きを宣告されて、彼らを強制的に隔離・排除・処分される。

 神はしばらくの間、人に猶予を与えておられ、選択の自由も、行動の自由も与えておられるが、人がその自由を悪用し、いつまでも福音に背を向け、聖徒らの説得に全く耳を貸さず、神を冒涜し、神の教会やクリスチャンを冒涜し続ければ、その人の末路は悪魔と同じようになるであろう。

 筆者は、カルト被害者救済活動の支持者らが、筆者を呪い、いわれなく罰し、社会から隔離しようと企んでいたその悪意をよくよく知っている。彼らは罪もない筆者を、いわれのないことで呪い、罰したかったのであるが、その計画は成らなかった。

 筆者は神の義に立っているためである。

 筆者はずいぶんたくさんのいわれのない悪意や、彼らの発する呪いの言葉に直面したが、それでも、筆者のために呪いとなって木にかかって下さった方を知っているため、そういう呪いの言葉が、筆者に対して効力を持たないことをよく知っている。
 
 そして、実際には、クリスチャンではなく、カルト被害者救済活動の支持者らこそ、罰せられるにふさわしい人たちなのだということも知っている。筆者がそのことにはっきりと気づいた以上、彼らは、この先、その運命を免れることはできない。

 そのことは、筆者が何年も前から当ブログで予告して来た通りである。筆者は何年も何年も前から、彼らは刑罰を受けなければならない、ということを主張して来た。一緒になって罪を犯して来た者たちも同様である。その当時は、そうした日が来るとは、多くの人たちは思っていなかったかも知れないが、実際に、その言葉は現実に成就するであろう。
 
 彼らの自らの罪を認めようとしない強情さ、頑なさが、人間の理性や常識や思いをはるかに超えていることを見るにつけても、筆者は日一日と確信するようになっている、この人たちは間もなく拘束されて、強制的に排除されることを免れられないだろうと。

 以上で挙げた事件の際にも、警察の制止が入ったことにより、その人物が完全に筆者の手の届かないところに隔離され、その後、永遠に関わることがなくなった時と同じように、今、この時点を境として、カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者から霊的に隔離され、筆者は彼らの運命を何とか取り戻そうと、これ以上、説得したり、呼びかけたり、関与することのできない立場に置かれたのである。

 それは、彼らが暗闇の勢力に連行され、外の暗闇に投げ込まれることが確定したためである。

 彼らの心をそこまで頑なにされたのは神である。それは、彼らの末路が悲惨なものとなることが、いかなる情状酌量の余地もなく、公然と世に表されるためである。

 神は彼らの心を徹底的に頑なにされることにより、神と教会とクリスチャンに立ち向かう人々の末路が、たとえようもなく悲惨なものであり、そこには情け容赦の余地が一切なく、後戻りの可能性もないことを、公然と世に示されようとしているのであり、また、神の容赦のない裁きが、現実に存在することを、信仰を持たない人々も含め、この世のすべての人々の見ている前で、証明されようとしているものと筆者は思う。

 悪魔と暗闇の勢力に立ち向かう戦いの中では、いかなる妥協、憐れみ、同情も持ってはならない。そのような激しい決戦が行われるために、筆者の助言も忠告も和解の呼びかけも、何一つ彼らには届かず、彼らの目は曇らされ、その耳は聞こえなくなり、背は曲がり、心は頑なにされたのである。それは彼らが誰からもいかなる憐れみも受けず、一切の免罪の可能性を奪われるためである。

 以前にも、筆者は当ブログにおいて、彼らを「サタンに引き渡す」と宣言した。それは「あなたのしようと思うことを今すぐしなさい」という言葉と同じ意味である。その後、間もなく、その宣言は現実になり、彼らは一線を超えて自分自身の人生を破滅させる行為を行った。だから、今回の宣言も、間もなく実現するだろう。

 筆者はここでいかなる情け容赦もなく、カルト被害者救済活動の支持者らを、暗闇の勢力に引き渡して連行させ、二度と聖徒らの世界に手を触れることのできないところに隔離すると宣言しておく。

 筆者が「暗闇の勢力に引き渡す」と言っているのは、この世の強制力は、本質的には、堕落した力であり、神に由来するものではないことを知っているからだ。以前に、現代の世の中で、誰かがステパノを石打にして殺せば、石打にした人々は殺人罪に問われるだろうと書いた。このように、この世のことは、この世が裁くのである。はっきり言えば、この世の裁きには、神の裁きのような容赦がないので、この世の裁きに服するよりは、神の裁きに服した方が、圧倒的に生きやすい。
 
 手続きは放っておいても粛々と進んで行く。病が徐々に進行して、人の肢体から自由を奪うように、砂時計の砂が徐々に落ちるように、時を追うごとに、彼らの自由は失われる。病が進行すれば、病人はいずれ口もきけなくなるように、彼らの発言には何の効力もなくなり、お伺いを立てる者もいなくなる。

 彼らのためには、この先、真っ暗な闇が用意されているだけだ。それは彼らが聖徒らのいかなる猶予にも和解の呼びかけにも全く応答しなかったためである。


国家権力は大昔から検閲・監視・密告を統治の手段として活用していた―ASKAの事件から見えて来るもの―

・事実上の共産主義国と化した日本――残された時間で全力で国の破壊にいそしむ安倍独裁政権――
 
安倍政権による日本破壊が続いている。政策にも外交にも全く成果が出ず、アベノミクスの破綻が明らかになって、いよいよ終わりが近いことを悟った現政権は、残された時間でこの国に対するありったけの破壊行為にいそしむつもりだと思われる。

国会でろくな審議もなしに凶悪な法案を次から次へと強行採決しているのはそういう意図を込めてである。もはやこの国の民主主義はほんの建前だけ、うわべだけのものとなった。前々から国会での審議など予定調和的な出来レースだと言われてきたが、かろうじて民主主義国の保たれていたうわべだけの体裁もかなぐり捨てて、今はあからさまな安倍の自民・官僚独裁体制へと移行している。

原発の爆発のツケは国民に回し、GPIFによる年金の運用損も国民に押しつけ、消費が活発化しない分は、カジノ法案を通し、ギャンブルで国民から巻き上げようという所存である。

10年を超える休眠預金はすでに国有化されることが決まった(「貧困対策や若者支援に活用=「休眠預金法」が成立」gooニュース 12月02日 12:20)。この「忘れ去られたお金」は500億~600億ほどは存在するという。貧困対策や若者支援など、これまで政府が一度たりとも本腰を入れてやったことのない政策へ活用するというのだから、そんなことは国民の資産を国が奪うための単なる口実に過ぎないのは明白である。この休眠預金の国有化は来るべき預金封鎖へとつながる初めの第一歩になるのではないかと囁かれている。

これから先、肥大化した官僚機構に率いられる国家権力が少子高齢化(と原発事故の影響による人口の著しい減少から生じる)財政難を乗り越えるために、いかに国民財産のありったけを強制的・合法的に収奪できるか、国会はただそのためだけの法整備の場所へ変わるものと見られる。
 
筆者は、この国はずっと前から事実上の共産主義国であると述べて来たが、いよいよ一人のカリスマ(というのにはあまりにも力不足だが)政治指導者のもとで、事実上、独裁化した中央集権が国民を徹底的に抑圧し、収奪するという、共産主義国には欠かせない政治形態が整ったと言える。もはや天皇さえも国家権力による抑圧のための飾り物のようにされてしまっている。
 
安倍は「美しい国」という偽りの夢(存在しないユートピア)を口実に、とことん人を騙し、国を滅ぼして来ただけで、何一つとしてこの国にリアルな成果を提供することはできていない。

安倍晋三を率いているのは、共産主義や、統一教会、ペンテコステ運動、国家神道を率いる悪霊と同じ種類のカルトの霊であって、これは偽りの父である悪魔から出て来た霊である。
 
安倍の政策は、ペンテコステ運動などと同じく、そもそもの最初から最後まで徹底的な詐欺の仕掛けなのである。その嘘の仕掛けは、かつてソ連が共産主義という、絶対にやって来ない夢を担保にして、とことん国民を騙し、巻き上げたのと同じである。
 
強行採決は、この偽りの霊が、安倍晋三というリーダーを現人神化し、残された時間内で、この人物を通して、とことん民主主義を破壊し尽くすという意志表示である。これを放置していれば、この国は暗黒時代に突入するだけである。


・偽りの北方領土返還の夢――無い夢を担保に、米国とロシアの二国にATM扱いされる悪夢をこの国はどう防ぐのか――

安倍は「強いロシアを取り戻す」というスローガンを掲げるロシアのプーチン政権に自分と同じ思想を見いだし、それゆえ親和性を感じ、個人的な親交を結ぼうとして来たわけだが、日ロの首脳会談は、今やまるで狐と狸の化かし合いのようになって来ている。

むろん、両方が精神性においては詐欺師と言って差し支えないのだが、こういう場合は、悪がより強い方が勝つと相場は決まっている。悪が強い方とはむろんロシアのことであって、この国の闇の深さは、これまで70年間平和を保って来た我が国の想像をはるかに超える。

一説によると、本物のプーチンはすでに死亡しており、現在のウラジーミル・プーチンは替え玉によるなりすましだと言う。プーチンの別れた元妻さえ替え玉であると証言しているというのだ。

長い間、筆者はそんな話はロシアを悪魔化するためのプロパガンダに過ぎないと考え、取り合わずに一蹴して来たが、最近になって過去の動画を比較してみると、確かに、以前のプーチンとは声も顔も違う。身体的特徴も異なれば、声のトーンも違う。


 

若い頃のプーチンには表情にどこかしら敏感で神経質そうな個人的特徴があったが、現在のプーチンには、それが見られず、物腰は訓練された工作員そのもので、電話機や銃を持つときの仕草にその特徴がよく表れている。面長だったプーチンの顔の特徴が丸く変わっており、目の色も変わっていると言われている。かつては流暢に話せたはずのドイツ語では、通訳を介さなければ意思疎通ができなくなった。

 

(秋田犬ゆめ、飼い主から撫でられそうになると顔を背け、逃げ去る)

プーチン死亡・替え玉説という話は深入りせず、この辺でさて置くとしても、こういう話を冗談として一蹴できない国がロシアなのだ。

話を戻せば、安倍が拙速なトランプ詣でをしたことによって、以下のニュースにも見るように、北方領土の返還は、ますます一層、遠のいたと言える。もはや日本は完全にロシアにいいようにあしらわれている様子がよく分かる。
 

岸田外相、プーチン大統領と会談 交渉の難しさ露呈フジテレビ系(FNN) 12/3(土) 1:14配信、から抜粋

岸田外相は、ロシアのプーチン大統領との初めての会談に臨んだが、2時間という、大遅刻の洗礼を受けた。
さらに、ロシア側との交渉の難しさが露呈する出来事が、次々に起こった。1時間50分遅れで始まった会談では、待たされていた岸田外相の前に、笑顔のプーチン大統領が現れ、会談は30分で終わった。
これに先立ち行われた国内行事で、プーチン大統領は、会談の予定開始時刻を1時間すぎても、雄弁に演説し、あわてる気配はない。
 思いがけないハプニングは、これだけにとどまらず、日本時間2日になって、ロシア側から日本側に、会談の出席者を4人から3人に絞るように要請があり、ロシアを担当する欧州局長が協議に入れない事態になった。


 筆者は必ず、こういうことになるだろうと前もって告げておいた。北方領土問題には、1%も希望などもともとなかったのだが、それでも、領土問題に進展がないのだと分かれば、即座に経済協力をひっこめ、プーチン大統領の訪日も中止するくらいのしたたかな駆け引きが日本の首相にぜひとも必要だった。しかし、安倍にそのような決断が出来るはずがない。

仮にもしもここ数年間に起きた日ロの急接近の中で、北方領土返還のチャンスが1%でも我が国にあったとしたならば、それはただロシアが米国に睨まれて国際的に孤立し、悪魔化されて包囲されていた他ならぬその時期だけであったと言えるだろう。だが、その間に安倍政権はロシアに近寄ることなく、むしろ、公然と対ロ制裁に加わった。そして一時はあわや世界大戦勃発に至るかと見られた米国とロシアとの対立も、今はトランプが次期大統領に選出されたことによって、ロシアにとっては緊張緩和の見込みが開けている。そんなバラ色の期待が高まっている今の時期のロシアにとって、わざわざ米国の傀儡に過ぎない日本の安倍政権に自ら歩み寄り、助けを求めねばならないような必然性はまるでない。

むしろ、この先は、米国とロシアとがタグを組んで可能な限りこの自立できない卑屈な属国を踏みつけにして、カモれるだけカモろうという態度を明白にしないように、釘を刺しておかなくてはらない時期に入ったのだ。確かに、安倍氏はそのようなことをされて仕方がないだけの卑劣な二枚舌外交を発揮して来た。自分が最も困難に陥った時期に、敵に回り、信頼と友情を確固として示さなかった人間に、誰がその人間が困ったときに救いの手など差し伸べるであろうか。そういうやり方は、人間関係にも通用しないが、外交としては完全な失敗である。

しかしながら、筆者は、たとえこの国のトップが狡猾な外交作戦を展開できうるだけの頭脳を持っていたとしても、やはり安倍政権の存続中に北方領土が返還される見込みは、初めから1%も存在しなかっただろうと考えている。そのようなことがもし起きうるとすれば、それはこの国が米国のくびきを断ち切って、完全に自立を成し遂げたその後のことである。

もともとロシアから見て、今の日本は米国の延長のようなものに過ぎない。そして、米国はロシアにとってずっと前から仮想敵なのである。日本が米国と共に対ロ制裁に加わった事実は、日本が自ら米国の手足に過ぎないと名乗り出たも同然であり、その記憶はロシアからこの先も決してなくなることはないであろう。いざとなればいつでも敵に変わり得るような国と見えているのだから、そんな国に、どの国が1ミリたりとも領土を明け渡すことがあろうか。そうでなくとも、どの国も自国の領土は1ミリでも大きい方が良いと考えるはずだ。普通に考えさえすれば結論は最初から見えている。

実際は、北方領土返還のテーマもまた国民を欺くための安倍のトリックに過ぎなかったのだが、安倍自身も、それが偽りの夢でしかないことに気づいていなかった可能性がある。

だが、こうした楽観の結果、日本は米国のみならずロシアからもATM扱いされ、国際的に自立できない国として蔑まれ、孤立して行く危険性に直面しているのだと言えよう。だが、ヘタレ国家のヘタレ政権には、そうなってもまだ、このくびきを跳ね返すだけの勇気も力もなく、自分たちが屈従を強いられている分の腹いせを、これから先、すべて国民に向け、国民をいたぶることで晴らそうとして来る可能性がある。それが最悪の結末である。


・強制集団化の始まり――原発事故処理の収束という天文学的負債を国家の破綻を経ずに乗り越えるには、国家が国民を徹底的に抑圧するしかないという悪夢――
 
いずれにしても、少子高齢化の中、半永久的に終わらない原発事故処理という天文学的な負債を抱え、これから先、財政難へと急落して行くことが目に見えている国である。その限りない負債をやりくりするために、この国では、この先、私有財産の国有化がなされ、徹底的に国民の資本と労働力を収奪するための強制集団化が始まるものと見られる。(ただし、こうした現象が起きるであろうという筆者の予測は、実のところは、日本だけでなく、米国やロシアにも当てはまるのだが、そのことは今は置いておく。)

さて、強制集団化とは何か。それは国民の労働力と財産を最後の一滴に至るまで搾り取って国の財産へと変えるための制度づくりである。安倍による農協潰しは、コルホーズ・ソフホーズの建設を思い起こさせる。マイナンバーも、国民財産と労働力を合法的に収奪するために活用されるであろう。いずれマイナンバーは体内埋め込み型のマイクロチップに取って変わり、その刻印を受けた人々はみな「マトリックス」に奴隷として拘束される仕組みが完成すると考えられる。

さて米国では、このほど、時期米国大統領に選出されたトランプの支持者であり、同氏の選挙チームの有力メンバーでもあった人間が、第二次世界大戦中の日系人強制収容所を手本として、米国で移民向けに強制収容所を建設することに言及したという(「「イスラム教徒の入国管理には、戦時中の日系人強制収容が前例になる」トランプ氏支持者が発言」The Huffington Post 投稿日: 2016年11月18日 17時15分 JST   更新: 2016年11月18日 17時31分 JST)

以前からネット上では、全米各地に大規模な強制収容所の建設が進んでいるといった話や、大量の棺桶が用意されているなどの怪しい話が飛び交って、国民に対する大規模な弾圧が行われると言われて来たが、こんな発言を見ると、以前には都市伝説や、流言飛語と思われても仕方がなかったような話が、いよいよ現実味を帯びて来たように感じられる。

つまり、米国は未来のトランプ政権下で、いよいよ本格的に戒厳令国家へと変貌しようとしているのではないかという予想が起きて来るのである。実際、米国民が最も懸念している点はそこであろう。移民抑制など単なる口実に過ぎない。まずは人権抑圧の最初のターゲットとなるのが、トランプが幾度となく憎しみを向けて口撃して来たマイノリティであるというだけで、最終的にはトランプ政権にとって不都合なすべての米国民は、みな強制収容所行きとなる危険を覚悟しなければならないような世の中になるのではないか。それがトランプ一人の治世で終われば良いが、米国の政権の特徴として後戻りできない形で浸透してしまう危険が考えられる。
 
そうなった場合、米国との腐れ縁を断ち切らない限り、我が国も、米国に続いて戒厳令国家へ突入することを免れられなくなるであろう。なぜなら、これまでの歴史的経験から、米国で起きたことは、数年遅れて、我が国の現実となって来たということが言えるからだ。たとえば、官僚だけがヒーローとなって、国民は恐怖に逃げ惑うか、もしくは移動も制限されて、家屋に閉じ込められて、TV画面を通じて報道される大本営発表を固唾を飲んで見守るしかない、という『シン・ゴジラ』のストーリーなども、未来の予表として描かれたものであるように思われてならない。

だが、一体、なぜ国家がそのような戒厳令下の世の中を用意せねばならないのか? 何のために国民の人権を抑圧するのか? それは、いよいよ国家が財政難その他のために経済的にも道徳的にも落ちぶれて行き詰まり、信用を失って崩壊の危機に瀕し、己の生き残りだけが全てとなって、いよいよ犯罪政権としての性質と正体を隠せなくなって来た時に、それでも滅亡を免れるためには、国民から収奪を強化し、手ひどいやり方で反対を封じ込めるために、国民の人権を大規模に抑圧することしか、残る方法はないからだ。

かつての一億玉砕と同じである。国の面子が保たれ、国体が護持されるためであれば、国民が残らず死んでも構わないという発想である。そのような発想の下では、国民は文字通り、犯罪性を帯びた政府と心中させられることになる。
 
だが、人は通常、自分自身の幸福のために生きているのであり、誰も強いられない限り、「お国のために」生きようなどとは考えない。だから、国民の財産と労働のすべてを国家のために合法的に供出させる仕組みを作るためには、まず、国策に反する者は誰であれ、権力の判断で恣意的に逮捕でき、人権(財産権を含む)を放棄させるような仕組みを作らなければならない。強制集団化のような過酷な政策の実施は、流血を伴うのであり、まずは国策に従わない国民から人権を奪って強制的に収容所に送って奴隷労働に従事させるなどの恐怖政治の仕組みを作らない限り、実行できない。
 
だが、初めから、権力のために国民の人権を抑圧しますなどとは、おおっぴらに言えないので、緊急事態や、外敵の脅威を口実に、国内で恐怖政治を常態化させるのである。しかも、最初から国民全体を縛るためにと言っては誰も同意しないので、最初はあくまでごくごく一握りの社会にとって不都合な、国民全体にとって脅威となりうる集団だけを取り締まり、排除するのだと言って、人権抑圧の仕組みを作り、作った後で抑圧の対象を無限大に広げて全国民を取り締まるのである。こうして戒厳令国家の仕組みが成立する。


・国家権力は大昔から検閲・監視・密告を統治の手段として活用していた――ASKA逮捕の事件から見えて来る監視社会――

ところで、筆者はCHAGE&ASKAのファンではなく、この事件にそんなに興味もないが、この度のASKAの逮捕という出来事は、以上のような文脈において、実に象徴的・暗示的であったと思うので触れておきたい。

このほど、二度目に逮捕された歌手のASKAは、本人の言によると、盗聴盗撮の被害を訴えて警察に被害届を出そうと通報したところ、その言い分が「薬による幻覚」であるとみなされて、自身が逮捕されてしまったという。
 
芸能人であるとはいえ、政治家でもない人間が、何らかの犯罪被害を訴えて警察に通報したことがきっかけとなって、逆に自分が疑われて逮捕されたというわけだから、これは人々を震撼させる出来事であり、この日本社会の大きな曲がり角である。

ASKAは週刊誌では脳が壊れたなどとしきりに笑い者とされ、危険な薬中毒患者だから何をされても仕方がないかのような報道がされているが、世論はASKAにかなり同情的で、この行き過ぎたバッシングに拒否反応を示し、真相を疑っている。

実のところ、ASKAに起こったことは、明日には国民全体に誰でも起きうる現実である、と言える。それが分からずに、ASKAを特別な人間と考えて笑い者とし、人権侵害を正当化している人間は、よほど愚かである。

ASKA逮捕が、当局によって周到に仕組まれた計画のもとに行われた罠であったろうことは、逮捕前からメディア中ですでに逮捕の予告が公に報道され、乗ったタクシーの映像まで勝手に公開されるという異常な状況から容易に推測される。

つまり、ASKAが逮捕されるはるか前から、警察、メディア、民間企業などが連携プレイを行って、本人に対する監視体制を作り上げ、網で魚を捕えるように、ただ逮捕の機会を伺っていただけであるとみなさなければ、そういう事態は起き得ないのだ。
 
(「ASKA逮捕を事前予告して“見せ物”に! 清原逮捕に続く警視庁組対5課の情報操作とそれに乗っかるマスコミの手口」 LITERA2016.11.28.などを参照。)

このようにメディア・警察・民間企業の見事な連携プレーを見せられると、「盗聴・盗撮されている」というASKAの言い分が、逆に正しかったのではないかと見えて来るのも当然である。
 
ちなみに、タクシー内の映像ではしっかりと運転手と話をし、料金を支払っているASKAの姿が映っているようなので、覚せい剤の影響で脳が壊れたとの公式発表を完全に否定する証拠となっている。

もちろん、ASKAの逮捕が、年金カット法案や、廃炉費用の国民負担や、カジノ法案の強行採決など、政府の実行しようとしている恐るべき凶悪な国民の権利抑圧の政策を覆い隠すためのスピン報道として存分に用いられたことは疑いの余地がない。だが、この事件は、スピンだけが目的の全てではなかったものと思う。

ASKAはこの逮捕がなければ、活動を再開する準備が整っており、今回の二度目の逮捕は(一度目の逮捕に至る経緯も周到に計画されたものであった可能性が高いが)、社会復帰を妨害する上で重要な役割を果たした。中でも、特に、ASKAが執筆しすでに公刊が近かったとされる『盗聴国家・日本』の出版を妨げるために極めて重要な役割を果たしたのは見逃せない。

(「ASKA容疑者 著書執筆中だった テーマは「盗聴国家・日本」」 スポニチ 2016年11月29日 05:30参照)

ちなみに、今でもごく普通の生活レベルで人々が接触する街の交番や警察署のお巡りさんは、道に迷った人にも親切で、気前も良く、そんな街のお巡りさんだけを見ていたのでは、警察が凶悪な組織だという印象は持ちにくいであろうが、しかし、それはあくまで警察組織の最下層の話であって、組織の上層部はこれとは全く異なる性質を持っているものと考えられる。国家権力の一部としての警察組織が恐るべき腐敗・犯罪性に陥っている可能性については、たとえば、神戸の児童連続殺傷事件についての少年A君冤罪説に関する一連の記事の中でも触れた。

今日、国民の誰かが仮に自転車盗難などの被害を訴えて交番に赴いたからと言って、自らが窃盗容疑で逮捕されるようなことはないと思うが、ASKAの事件は、これから先、平凡な国民が、本気でこの国の闇・タブーに触れるような何かの事件を告発する側に回ると、それをきっかけに、警察を含め、国家権力全体から監視対象としてマークされ、社会活動が不可能となるような妨害を受け、警察に何かを相談しても、かえって疑われ、狂人扱いされ、逮捕され、隔離されるきっかけとされるような、恐ろしい社会が到来しようとしていることをよくよく物語っているように見受けられてならない。

筆者はASKAをかばいだてするためにこう言うのではなく、国民に対する権利侵害に鈍感でいると、それがいずれ全国民の身に降りかかって来ることになると言っているのである。芸能人だから、再犯を疑われたから、自分とは扱いが違うとみなすのは誰しも早すぎるであろう。
 
仮に今、ASKAが訴えた盗聴・盗撮の被害は事実であり、この度のASKA逮捕は、この組織的犯罪を隠すための国策逮捕であったと仮定しよう。

すると、浮かび上がって来る疑問は、これら二つの間には密接な関連性があって、集団ストーキングは連携プレーによる逮捕と同じく、国家権力が不都合な人間を抑圧し、追い込むための闇の統治手段ではないのかということだ。

集団ストーキングという用語は、ネット上で調べると、カルト宗教から脱退した人への報復措置として言及されていることが多く、ネット以外の世界では、そういう話は、ほとんどが薬による幻覚か、もしくは、統合失調症のもたらす妄想として片付けられて終わっているようである。いずれにしても、現実世界はこのような問題の存在自体を頑なに否定しているのである。

だが、盗聴・盗撮という問題を単純に妄想と片づけるのは極めて愚かなことである。何より、ソビエト・ロシアの歴史を知っている者として、ここではっきり言えるのは、国家権力による盗聴・盗撮は、何世紀も前かられっきとして存在しており、いわば使い古された手段であって、何ら個人の妄想の産物でもなければ、新しい発想でもないということである。

全体主義政権は、いつの時代も、自らの政策の異常さ、残酷さ、誤りを、民衆の心に単純に訴えかけるアートの形で発表されることを何よりも嫌がった。そこで、政治家だけでなく、詩人、作家、音楽家など、芸術家をとりわけ厳しい監視対象としたのである。

たとえば、19世紀ロシアの詩人レールモントフは次のような詩を書いた。
 

Прощай, немытая Россия,
Страна рабов, страна господ,
И вы, мундиры голубые,
И ты, им преданный народ.

Быть может, за стеной Кавказа
Сокроюсь от твоих пашей,
От их всевидящего глаза,
От их всеслышащих ушей.



この詩には違うバリエーションもあるようだが、今はこの詩に正確かつ芸術的に完成された訳をつけることは目的とせず、単に意味を大まかに理解するだけに専念したい。もし逐語的に訳せば、次のような意味になるだろうか。

さらば、*無割礼のロシアよ、
奴隷らの国、ご主人様らの国、
おまえたち**青い制服にも、
奴らに忠実な民衆にも。

(注*無割礼と訳した言葉は、原語では「洗礼を受けていない」の意味、つまり、野蛮な、下品な、といった意味合い)
(**青い(空色の)制服とは、帝政ロシアの憲兵の制服)
 
ひょっとして、*コーカサス山脈の向こうまで行けば、
おまえの**官憲から逃れられるかも知れない、
奴らのすべてを見通す目から、
奴らのすべてを聴く地獄耳から。

(注*=僻地への兵役や流刑の方が都にいるよりもはるかにましだという意味)
(**原語では、パシャというオスマン帝国軍司令官の称号、複数形)
 
レールモントフがこの詩の中で激しい侮蔑と嫌悪感を示して糾弾しているのは、帝政ロシアの巨大な権力機構によって国民の間に徹底的に張り巡らされた監視・密告・検閲体制である。当時、ロシアの帝政権力による検閲は、ただ単に政治的な出版物やパンフレットの検閲だけでなく、あらゆる分野の出版物に及び、国民のあらゆる会話の監視・盗聴と、それに基づく密告が行われていた。貴族であっても、この監視体制から逃れられる者はいなかった。

このような徹底的な監視・密告・検閲体制は、ロシア国家の不治の病として、この国の歴史に深く刻まれ、ソビエト体制にも受け継がれる。帝政ロシアが権力を批判する文書を細部に至るまで統制し取り締まっていたと同様、特にスターリン体制になって以後のソビエト権力は、国内のすべての文書を厳しく事前検閲して取り締まりの対象とし、国民のあらゆる会話を盗聴し、国民同士による盗聴・密告体制を作り上げて、国家にとって不都合な人間を排除する手がかりとした。ソルジェニーツィンが収容所群島と呼んだ強制収容所には、国民同士の密告に基づいて「人民の敵」とのあらぬ嫌疑をかけられて秘密警察により逮捕され、証拠もなく有罪にされた数知れない人々が送られた。

だが、ソビエト体制になるよりもずっと前に、レールモントフが自らの詩に描いたのが、まさにこれと同じ世界であった。この詩人にとっては、それこそが「ロシア」であり、ロシアとこの盗聴・密告・監視システムは切り離せないものとして一体化して機能している。しかも、その奴隷のシステムは国家権力だけが独断で作り上げたものではなく、民衆の自発的協力と一体になって成立しており、そのようにして権力に自ら迎合し、媚びへつらい、屈従する国民の卑屈さ、精神的奴隷ぶりが、この誇り高い詩人には我慢がならなかったのである。

今日のロシア人は、この詩はシニカルに過ぎるものとして否定したがるかも知れない。そのような卑屈な奴隷根性を国民的歴史としては認めたがらないであろう。だが、これはロシア国家の不治の病であり、今日もそうした体質は変わらない。ロシアという国に対して幻想を持つのは早くやめた方が良いであろう。

筆者はかつて半数ほどがロシア人から成る小規模な仕事場で働いたことがあったが、そこで、毎日、毎日、ロシア人の集団と顔を合わせているうちに、普通ならば、国際結婚でもしなければ見えて来ないような彼らの国民性の負の部分を間近で観察することになった。その結果分かったのは、ロシア人には自分たちは虐げられているという被害者意識による団結力はあるが、それがあだとなって、自ら監視・密告体制を作り、信念を持たず、浮草のように力の強い者から力の強い者に流れ、何度でも寝返りながら、本心を隠して媚びへつらうという無節操ぶりであった。ロシア国民の大半はこのような無節操な人々から成ると見て良い。筋を通して権力に戦いを挑む真のインテリなど極めて稀である。

そのようなわけで、我が国の現状を相当に辛辣に批判する数多くの人々が、米国嫌いの反動のためか、今もロシアには甘い点をつけ、淡い期待を託している現状を、筆者は残念に思う。

たとえば、兵頭正俊氏でさえ「南スーダンの黙示録」(2016年12月1日)において次のように語っている。
       
 

2015年にノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチが日本にきている。

11月28日に、東京外国語大学で講演して、「日本には抵抗の文化がない」と発言した。福島第1原発破壊の福島を視察して、被災者から国の責任を追及する声が少ないことに驚いたものである。

福島で目にしたのは、日本社会に人々が団結する形での『抵抗』という文化がないことです。祖母を亡くし、国を提訴した女性はその例外です。同じ訴えが何千件もあれば、人々に対する国の態度も変わったかもしれません。全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません。日本ではなぜなのでしょうか

「全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません」という言葉をそのまま受け取るわけにはいかない。ロシアは、世界史に残るロシア革命を成し遂げ、またその革命が裏切られると、ソ連邦をも倒した

 
隣の芝生は青く見えるのであろう。だが、アレクシエーヴィチはロシアという国を十分に知った上で、以上のように発言しているのだ。それは知らない者に否定できる見解ではない。さらに、ロシア革命は、今日の言葉で言うカラー革命の一種であり、ソ連崩壊も同じことである。それらは決してロシア人の勇敢な抵抗の精神を物語る立派な歴史的事実ではない。とにかく、ロシアを色眼鏡で見て甘く評価することは、相当に危険である。この国の流血の歴史に比べれば我が国の方がまだ幾分か罪が軽いとさえ言える。
 
またもや話がロシアに飛んだので、ASKAの話に戻らねばならないが、ASKAが訴えている盗聴・盗撮などといった手法は、以上に記したように、何世紀にも渡り、国家権力が国民を取り締まり、統治を強化するために実際に用いて来た闇の手段なのであり、何も病人による筋の通らない戯言ではなく、さらに、公権力を批判する者が「狂人」や「病人」扱いされるという歴史も、今に始まったことではないのである。

いつの時代にも、国家権力は、人々が何千ページもある難解な論文や報告書を書いて政権を批判することよりも、絵画や、音楽や、詩などの、人の心に単純に訴えかける、民衆に広く理解される単純な形式による政権批判の方を目の敵にして取り締まって来た。
 
何千ページにも及ぶ論文は、読む人も限られるが、わずか数十分のプロモーション・ビデオなどは、誰でも容易に理解できる。

筆者が何を言わんとしているかもう分かる人もいるかも知れない。ASKAが訴えたような執拗かつ大規模な集団ストーキングが、もし国家権力と結びついたものであった場合、一体、それは何を理由として始まったのか。何がきっかけで、同氏はそれほど激しい妨害にさらされることになったのか。
 
誰でもすぐに思いつく重要なきっかけの一つは、 CHAGE&ASKAがかつて宮崎駿監督のスタジオ・ジブリの制作により、反原発をアピールする以下のプロモーション・ビデオ"On your mark"を作ったことである。「ああ、またもや、原発反対派による国家権力による陰謀説か。そんなものは聞き飽きた」と一笑に付すのは簡単だが、少し待ってもらいたい。
  


このプロモーション・ビデオは、Wikipediaの記述によれば、最初に公開されたのは1995年で、その後も、コンサートツアーで使われたり、2005年にはスタジオジブリのDVDにも収録されたりして、問題なく公開されていた様子なので、その事実を見る限り、最初からこのビデオが問題作として当局からの攻撃の対象となったという事実は全くないものと考えられる。

おそらく、福島原発事故が起きるまでの間は、かなりディープな問題提起がなされているとは言え、それほど物議を醸すことのない比較的無難な作品であったように思われる。

しかしながら、3.11後、権力にとって、このプロモーション・ビデオは、それまでとは全く違った意味合いを持つものとなった。すなわち、原発推進という「国策」に真っ向から逆らう、「権力に盾突く」深刻かつ見過ごせない内容の「危険作品」になったのである。

特に、当のASKA自身が明白に反原発のプロパガンダの意味を込めてこの作品を利用しようとしたことが、余計に当局の反発を買ったのではないかと予想される。

このプロモーション・ビデオのタイトルは、CHAGE and ASKAのライブとしては6年ぶりに予定されていた再始動の意味を持つスペシャルライブ2013“On Your Mark” にも大々的に利用されていた。このライブは、ASKAに「一過性脳虚血症の疑いがある」という理由で延期され、その後、完全中止になったが、この時につけられた病名が本当に正確な診断であったのかどうかについては色々な憶測が飛んでいる。

ASKAが最初に覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕されたのは、2014年5月17日であり、この逮捕の影響により、それから約1か月後の6月18日に予定されていた上記のビデオの「宮崎駿監督作品集」の特典映像としての収録が中止になった。

筆者は、ASKAの覚せい剤使用の容疑が全て捏造であったと言っているのではない。おそらく一度目の逮捕の容疑は事実だったのだろうと想像する。だが、芸能人と暴力団や薬の使用との結びつきは、ASKAに限らず、あまりにもありふれた話でしかなく、当局はそのようなことはすべて知った上で、いつそれを大々的な事件として取り扱うかということだけに焦点を絞っていた可能性が高い。

当局は、有名人CHAGE and ASKAの華々しい再デビューと、反原発のプロパガンダのビデオが一つに結びついて、大々的に国民感情を揺さぶる現象を引き起こすことを何より恐れ、一計を案じたのではあるまいか。これを防ぐために、ライブの中止に向けて逮捕を計画しただけでなく、ASKAの名誉を徹底的に貶める執拗な報道によりビデオの信憑性を国民に疑わせ、その普及を阻止すべく手を打ったのではないかという見方が可能である。
  
さらに、上記のプロモーション・ビデオの他に、当局の恨みを買うきっかけとなったもう一つの事件が、ASKA自身が、(おそらくは国家権力と結びついた)大規模な盗聴・盗撮のシステム(集団ストーカー)の存在を告発しようとしていた事実である。

集団ストーカーの存在は、これまでネット上の妄言とされるばかりで、芸能人や著名人がその存在を認めることはほとんど無かった。影響力の大きい著名人の発言だけに、余計にそれが社会的に認知される前に早々に闇に葬る必要があったと見られる。

ASKA本人の手記によれば、同氏がこの問題に深入りするきっかけとなったのは、身近な他者が集団ストーカーの被害に遭い、自殺したという事件から生じた慙愧の念と義憤だったようである。同氏の手記を額面通りに受け止めるなら、他者の無念を晴らそうと、自らその事件に深入りしているうちに、組織的な盗聴・盗撮集団の存在を突き止め、これを追跡しているうちに、自身がターゲットとされたということになる。

だが、ASKAの手記を読むと、同氏は人を信じやすく、正義感が強く、疑うことのできない人柄の持ち主であったように見受けられてならない。そういう性格の人間を闇の中に誘導して陥れるには、親しい知人を痛ましい事件に巻き込むだけで良い。だから、真相は分からないとはいえ、監視集団の真のターゲットは、初めからASKAだった可能性も考えられる。

こうしたことは、栩内香澄美容疑者についてもあてはまる。ASKAはこの女性をも疑うことができないでいる様子だが、パソナにおける会長秘書という役職を考えるとき、おそらくこれは普通の人間ではないだろうという印象が拭い去れない。彼女はもともと一定の目的で派遣されたエージェントであった可能性が考えられる。道連れに逮捕されたのは目くらましで、当局の真のターゲットはもともとASKA一人だったのではないだろうか。
  
今回、二度目に逮捕される直前、ASKAは盗聴・盗撮集団の存在について、次のように言及していた。
   

  「ASKA容疑者 謎の言葉「ギフハブ」とは?」daily sports 2016.11.30 によると、
 
「同容疑者は警視庁に28日に逮捕される約5時間前に宮根誠司キャスターと電話で話し、その模様を29日に同番組で放送した。その際、同容疑者は「組織があるんですけど、ギフハブっていう。そこが組織を作って今…」などと自分の行動が監視されていると訴えていた。」



そこでASKAの語った具体的な内容は次のようなものだったという。
 

「ギフハブ」っていう組織があるんですけどそこが組織を作って。
今AR(拡張現実)っていう仮想現実なんですけど僕のいるところを映したりして。
携帯の中にそのアプリが埋め込まれてたんですよ。その証拠もとってるんですね。」


この秘密組織の存在は、様々な場所で、ASKAの妄想と幻覚を示す証拠のように嘲笑されているが、本当にすべてが作り話と決めつけられるであろうか。

何しろ、スマートフォンを含む携帯電話が、人々の位置情報、通話内容を含め、音声の盗聴及び盗撮に利用されうること、携帯電話を通して得られた情報をすでにCIAなどの大規模組織が大がかりに利用していることは、エドワード・スノーデンなどもすでに指摘していることであり、何ら新しい情報ではない。

それはあくまで米国の話だと我が国の人々は思って安心している。しかしながら、もしASKAの証言により我が国においても、同様の大規模監視集団の存在があることが明るみに出れば、人々はパニックに陥り、携帯電話を二度と使わないと決意するであろう。そのようなことを防ぐために、こういう話は早めに「妄想」と決めつけるのが手っ取り早い。病気でないなら、薬による幻覚、脳の破壊ということにして、「妄想の持ち主」を徹底的に見せしめに嘲笑すれば、そんな「作り話」は誰も口にしなくなる。

ところで、ARを作って、そこに現実の人物を置くことで、現実世界のパラレルワールドを作り、人間を監視するという、ASKAの語る監視手法は、上記のプロモーション・ビデオの中にもヒントがある。

"On your mark"のストーリーは、すべてがパラレルワールドから成り立っているとも言える。まず、そこでは、現実世界は放射能に汚染されて、人が住めなくなっており、人々は地下に現実を模した人工都市を作って、そこをあたかも現実世界のように思って生活している。それは人々を人為的に閉じ込める一種の「マトリックス」である。

この自由なき地下社会を支配しているのは、現実世界を放射能に汚染させて人が住めないようにした犯罪者政府であり、その犯罪者政府が、いかがわしいカルト宗教と手を結んで人心を統治しているというのが、このビデオの動かせない「現実」である。



ちなみに、このカルト宗教の掲げる標語"God is watching you"「神はあなたを見ている」は、この宗教の第一目的が、全ての人々を「監視する」ことにあるとよく物語っている。要するに、「おまえらはみな監視されているぞ」という脅し文句である。この宗教はフィクション版のフリーメーソンであり、そこで言う「神」とは悪魔を指す。

このすべてが裏返しのフィクションにおいて、主人公は、警察官の職に就いている友人同士の二人である。だが、二人がカルト宗教団体に突入するというストーリーの始まりは、そこからしておそらくはすでに幻想であり、妄想であると筆者は思う。

本当は、この世界においては、犯罪者政府とカルト集団による支配から逃れられる者は誰一人いない。現実における主人公は、カルト宗教・政府の手先としての「官憲」でしかないであろう。だが、ちょうど映画「マトリックス」がそうであるように、現実の欺瞞に気づき、これに耐えられなくなった主人公が、この「マトリックス」を脱し、勇敢に巨悪と闘うる正義の味方となるという「夢」を一人、空想の内に思い描くのである。

この「夢」の中で、主人公はカルト宗教にとらわれていた一人の翼ある少女を救出するというミッションを帯びる。が、何度も失敗しては、また最初からやり直しになる。ゲームのように、一度失敗すると、オールリセットして、また新たな策を練って、初めから出直しとなる。このストーリーでは、少女を救出して解放することが、人類全体の自由を取り戻すことと同義になっている。

その救出作戦の途中で、研究資料として政府に連れ去られた少女の位置情報を探り出すために、主人公はパソコンに向かう。パソコンの上には、不思議の国のアリスに登場するウサギを思わせる置物が置かれている。

少女の位置情報は、パソコンの向こうの仮想現実の中で見つけられる。「マトリックス」の世界に存在するすべては、コンピュータープログラムによって監視され、記録されているので、システム上で探り出すことが可能である。

CHAGEを思わせるもう一人の主人公が作ったものは、無線機のようにも見えるが、少女が監禁されている装置のロックを解除するためのリモコンであるらしい。





 
  
なぜこの少女は国家による研究材料にされて、試験管のような装置の中に閉じ込められたのであろうか?

推測に過ぎないが、この少女にはおそらく、放射能を無害化する特殊能力があるのだと思われる。そのことは、このストーリーの最後に、汚染された町で、少女一人が生き生きと羽ばたいて空へ向かっていく様子からも理解できる。

犯罪者政府とカルト宗教は、放射能を無害化する技術が一般大衆に知れ渡ると、地球が再生され、自分たちが人々を脅し、「マトリックス」である地下都市に監禁する口実がなくなるので、自分たちの支配が永遠に続くように、少女を隔離することによって、その技術を政府が独占し、外へ知られないように手を打ったのである。

むろん、この少女は存在自体が、主人公の「妄想」の産物である。実際には、この少女はカルト宗教に捕われて、無残に犠牲にとされた信者(もしくは奴隷)の一人に過ぎない。その犠牲者の少女に、地球再生の鍵が秘められているというのは、主人公の「夢」でしかない。

だが、その「夢」においては、政府と宗教団体の犠牲となって閉じ込められている一人のか弱い少女を救出して、汚染区域に解き放つことは、少女一人だけでなく、地球全体が救出される道である。少女が持つ放射能を無害化する力によって、汚染区域は、長い時間をかけて、再生の道を辿り、それによって地球は再び人の住める場所となり、未来の人類に、犯罪者政府とカルト宗教による支配から逃れる道が開かれるのである。

つまり、一人のか弱い人間を救うことが、地球全体の救済へとつながっているのであって、それを成し遂げることが、主人公が真の英雄へ至るミッションである。主人公二人は、汚染区域に入ったことによって、死ぬ羽目になるが、少なくとも、自己を犠牲にして、地球を汚染から解き放つ方法を提供することで、真の英雄になれたのである。

このビデオはフィクションとはいえ、現実世界の歪みを鋭く暴いて糾弾する意味を持っている。それは放射能の脅威(だけでなく人類の直面するあらゆる問題)を逆手ににとって、その脅威を悪用して人々を脅しつつ、カルト宗教と結びついて、人々の自由な暮らしを奪いながら、恐怖によって人心を支配する政府の存在を指摘していることである。その犯罪者政府にとって、放射能汚染という恐怖は、永久に取り除かれずに存在していた方が、むしろ、好都合なのである。

3.11以降、このフィクションに込められた現実の矛盾を暴きだす力が、あまりにも強烈なメッセージになったがゆえに、当局はこれをお蔵入りとし、闇に葬る必要があったのである。

そのために、フィクションの物語を裏返しにして、ASKAを模した主人公が、現実世界においてはスキャンダルと恥辱にまみれた「容疑者」となり、決して「英雄」にはなれず、少女も飛び立てず、再生の道が絶たれるように、悪意を込めて物語の事実をひっくり返したのである。

この悪意ある監視集団は、そのために現実とは別のもう一つの仮想現実であるARの世界をコンピュータ内に作り、そこでASKAを監視の対象、さらし者にした。そのARにおいて、彼らはどうやって同氏を罠にかけ、貶めるかを話し合ったのであろう。そして、その悪意が現実世界にも及ぶように、周到な計画を練ったのである。現実世界において、同氏をどんな風に罠に引き込んで凋落させるかを話し合ったのであろう。

「落ちて行くだけのコインは二度と戻らない」とか「流行りの風邪にやられた」などの歌詞を彼らは弄び、悪い事柄だけが現実になって降りかかり、作品自体が本人を嘲弄する手段となるように粋を凝らしたのである。

この犯罪者集団は、おそらくはASKAの他にも自らの脅威となりうる人間に対して、ずっと同じ方法で監視を繰り広げ、その人物が真の社会的脅威となる前に、あらゆる方法を使って社会から排除されるよう、引きずりおろして来たものと想像される。小沢一郎、植草一秀、鳩山由紀夫などの政治的大物は言うまでもないが、影の政府にとって不都合な人間を欺き、その人間性を貶め、周到に罠にかけるのが彼らの仕事であり、今やその手法はただ単に社会的な大物だけでなく、一般人にまで及ぼうとしている・・・。

しかしながら、こうした恐るべき推測を一旦、脇に置いても、このビデオは宮崎駿の作品にしては、随分、不吉な印象である。特に、この翼ある少女には、宮崎作品に登場する多くの女性主人公のような主体性があまり感じられず、彼女はただ受動的に救いを待っているだけの、意志を奪われた無力な人間であり、どちらかと言えば、『風立ちぬ』に登場する女性のように、悲しい犠牲者の風貌をしている。このストーリーの中では、本当の彼女はきっと、翼もなく、ただ痛ましい犠牲となって死ぬおびただしい屍の一人に過ぎないのであろう。この犠牲者としての風貌の中には、汚染された地域の被災者の悲しみのすべてが、隔離された人類全体の悲しみが投影されている。

この哀れな犠牲者の少女を解き放つために、結果的に、二人の主人公も命を失う(としか思われないのだが)というエンディングもかなり悲愴である。話の運びのテンポは良いが、『風立ちぬ』もそうだが、エンディングが、ハッピーエンドなのか、悲劇なのか分からないという消化不良を観た者に引き起こす。『風立ちぬ』の主人公は、明らかに体制側についた人間であり、自らの想像力を悪なる戦争のために利用され、妻を救う手段も見つけ出せなかった無力な人間である。彼には妻の愛情に報いる術もなく、彼女が死の床についてから、病める時も、人生を共にしてやるという伴侶のつとめを果たせず、むしろ戦争の大義を優先したような非力で無能な男性である。それとほぼ同じように、このビデオの中でも、主人公が英雄になれるのは、自分の空想の中だけである。

もしかすると、このあたりが、現在の日本人一般男性の思考と能力の限界かも知れないと思う。何しろ、この国は、真の意味での精神的自立を成し遂げたことが今まで一度もないのだ。だから、これまで、この国で生きるということは、多くの人々ににとって、マトリックスの一員、体制側の人間として生きることしか意味しなかった。特に、男性が、社会に認められようと思ったときに、完全に反体制的人間として、マトリックスを告発する側に立つことはほぼ許されなかった。こうした意味で、我が国の遅れて閉塞的な文化的・精神的な状態はロシアに非常によく似ているのである。

だから、この国の男性たちはおおむね誰もが自分の魂をどこかで置き去りにし、権力に売り渡しながら生きて来たのであり、それが悪であることは、本人の魂が重々知っている。だが、それより他の生き方を選択できないので、その人々は自分の心の本当の願いを、フィクションや、仮想現実や、空想に託すしかない。上記のプロモーション・ビデオも、ある意味では、良心を曲げられ、屈従を強いられた人間の慙愧の念と良心の叫びから出て来る「妄想」や「幻覚」に近い現実逃避としての「夢」のように見受けられる部分がある。

しかし、ASKAはおそらくこの仮想現実の物語を地で生きようとしていたのであろう。カルト宗教団体に捕われ、犠牲となった少女を見捨てておけなかった主人公のように、集団ストーカーの犠牲となった死んだ友達をも放っておくことができず、原発事故被害を見過ごしにすることもできず、犠牲となった人々を助けたいという生来の義憤と同情から、深い暗闇に自ら首を突っ込んで行き、自分自身もその犠牲となったのである。

だが、その同情と義憤にこそある種の非常な人間観の甘さ、お人好しさがあったのだと言える。結局、人間が自分の手で人間を救おうとする試みは必ず頓挫し、犠牲は犠牲の連鎖を生むだけで、どんなに美しく見える人の良心も、愛情も、義憤も、決して人を生かす真の力とはならない。人間の救いは神にしかなく、人間自身には義はないからである。犠牲の連鎖を抜け出る新たな生き方が必要なのである。


その聖なるすまいにおられる神は、みなし子の父、やもめの保護者

(「私ではなくキリスト」記事から転載)

「その聖なるすまいにおられる神は
 みなしごの父、やもめの保護者である。
 神は寄るべなき者に住むべき家を与え、
 めしゅうどを解いて幸福に導かれる。」
                  (詩篇第68篇5-6節)

  
神はどんな状態からでも信者の家庭を回復することのできる方である。
神は信者のどんな失われたものでも回復できるし、無から有を作り出すことのできる方である。

家のない人に家を供給することもできるし、生活の糧も与えることができる。
家族のない人に家族を与えることもできる。

神は絶望の淵にいる人々に希望を与え、仕事を失った人たちに良い仕事を与え、主に信頼する者たちに、生きるために必要な全ての糧と、未来の希望を用意することができる。

我らの望みを実現して下さる方は神である。
我らの万軍の主、ただお一人の神である。
  
神の助けを受けるためにただ一つ必要な条件は、神のみを頼りとすること、主イエス・キリストの御名のみにより頼み、キリストのみに栄光を帰すること、人間の助けに頼らないことである。
 
さて、上に書いたような一つ一つの恵みは、私の人生を通しても豊かに立証済みである。

他方、カルト被害者救済活動なるものに関わり、自分自身を被害者と考えて、神と教会や牧師や、他のクリスチャンを訴えることだけに精を出している人間の人生には、この先も、永久に何の解決もないだろう。

100%保証するが、自分を被害者だと自称している人が、神の幸福にあずかることは決してない。
 
しかし、私自身は、この活動と完全に縁を切って、アッセンブリーズ教団や、村上密氏や、彼を支持する人間たちと訣別してから、家庭のすみずみに至るまで、幸福が回復されたのである。

父は以前よりももっと話をじっくり聞いてくれるようになったし、姉妹関係も回復した。 悩みの時には、親族だけでなく、助けてくれる人たちが常に用意されている。

たとえば、ロシア人の友が必要だと主に願い出れば、神が友を送って下さる。
専門の仕事が必要だと願い出れば、神がこれを与えて下さる。
生活の糧も、ペットも、家も、何もかも、主に願って与えられて来たのである。

そして、私自身の安全も、我が実家も、常に守られている。

これは、私の仕事が常に順調で、私に特別な才覚があって、人並み以上に恵まれた生活を送って来たから言うのではなく、むしろ、私は仕事を変えたり、願いが変わったり、明日の保険などという考えとは無縁のところで生きて来た。

が、それにも関わらず、毎日、毎日、必ず、神が必要の全てを備えて下さり、私の人生を守って下さり、しかも、豊かに守って下さることを、これまで一日、一日、しっかりと確かめて来たのである。
   
カルト被害者救済活動なるものにまだ接触があった頃、私は結局、この活動に何らの希望も解決も見いだせず、将来への展望も何も見いだせないまま、その頃に住んでいた家を手放して、実家に帰らざるを得なくなるという出来事があった。

いよいよ郷里に帰るというその時、筆者が当時、助けを求めて通っていたアッセンブリーズ京都教会の村上密牧師の夫人が、筆者に向かってこう言い放った。

「岡山にも、教会はいっぱいあるからね」

耳を疑うようなこの言葉を聞いたとき、どれほどこの婦人が心冷たい人間であるかを筆者はよくよく思い知った。そして、このような人物から離れられることは幸いだと確信したのである。

つまり、村上牧師夫人は、「あなたがいなくなって寂しくなるわ」と、お世辞でも別れを惜しむでもなく、「なかなか会えないけど、元気で頑張ってね」と励ますでもなく、

「岡山にも、教会はいっぱいあるからね」と、それだけ冷たく言い放ったのである。要するに、そこには、「あなたがいなくなってせいせいするわ、二度と戻って来ないでね」というニュアンスが、はっきりと込められていたのである。

実際のところ、この夫人の冷酷さについては、カルト被害者救済活動に関係していた被害者たちの間でさえ、定評がある。まるで氷の人形のように冷酷で無慈悲かつサディスティックだというのである。

村上夫人の旧姓は津村である。筆者はこの女性の父親である牧師の人柄をよく知っている。その牧師を筆頭に、元津村ファミリーの人間は、大体みなそうなのだが、この女性も、まるでサイボーグ戦士のように無感覚で、他人の心の痛みというものを、およそ理解したり、慰めたりできるような繊細な心の持ち主ではない。

だから、もし誰か心傷ついている時に、相談相手が欲しいと願うなら、絶対に、村上夫妻に助けを求めることだけは、やめておいた方がいい。問題が解決するどころか、彼らの餌食とされ、下手をすれば、それをきっかけとして、死へ追いやられることになるだけであろう。

特に、夫人には何も打ち明けてはいけない。まだ癒えない傷を、切れもしない鈍い刀で無理やりグイグイとこじあけられるように、傷口を押し広げられ、徹底的に痛めつけられることは請け合いである。村上夫妻はサディストなのではないかと感じずにいられないほどのやり方である。

言っておくが、これは筆者が一人だけで主張していることではなく、被害者の間での定評なのである。
 
おそらく、カルト被害者の中では、このような悪質な「カウンセリング」の結果、死に追いやられた人たちもいるのではないかと想像せずにいられない。

こうして、筆者はこれらのサディストたちの親子の両方から逃れて来たことになるが、もうすでに彼らと手を切って何年になるか分からないのに、未だに筆者には、この教会と牧師の関係者とおぼしき連中からの嫌がらせが続いている様子を見れば、一般の人々にも、ここで筆者が主張していることが、嘘とは言えないことがよく立証されるであろう。

沖縄の被害者は村上ファミリーによってもっとひどい恫喝の下に置かれているともっぱらの評判である。
 
このような事実があるわけだから、クリスチャンはどんなに不安を覚える出来事に遭遇しても、カルト被害者救済活動なるものには決して関わらないことをお勧めする。アッセンブリーズ教団にも決して足を向けてはいけない。
 
さて、上記のような牧師夫人の捨て台詞と共にその教会を去ることになる前に、一度だけ、筆者は、関西での生活に不安を覚えたことを、この牧師夫人に打ち明けたことがあった。

当時、筆者はバイクで通勤していたので、もし通勤中に交通事故に遭ったならば、どうすれば良いかという不安が心によぎった。もし自分に万一のことがあると、親族が近くにいないので、すぐに誰かに助けを求められないという不安を語ってしまったのであった。

その時に、この牧師夫人が筆者に答えた言葉が、これまた典型的なサディストとして非常に奮っていた。彼女は表情を変えもせず、こう言い放ったのだ。

「遺書を書いて携帯しておけばいいじゃない。『もし私に万一のことがあったら、村上に葬儀をして下さい』って」

筆者はこの答えを聞いたとき、一体、これが牧師夫人の言葉だろうかと絶句した。

「大丈夫、通勤の道も、神様が必ず守ってくれるわよ、それを信じましょうよ」と励ますでもなく、「私たちがついているわよ。何かあったら、すぐに私たちに電話してね」と言うでもなく、

「もし不慮の事故で自分が死んだ時には、村上密に葬儀をして下さい、と遺書に書いて、その遺書を常時、懐に携帯しておけばいいじゃない」

と言ったのである。

まるで筆者が事故死しても当然であるとでも言いたげなこの死に対する消極的かつ絶望的で不信仰で投げやりな答えと、筆者がまだ何も言わないうちから、筆者の葬儀が京都アッセンブリーズ教会で行われることを当然視しているかのようなこの答えには、本当にドン引きしてしまった。

そして、筆者はあまりにもこの牧師夫人の答えに呆れ果てたので、夫人には面と向かって何も言わなかった(言っても無駄であろう)が、その時、心の中で、「絶対に筆者は死なないし、こんな冷酷人間の思い通りになって、こんな連中に葬儀を頼むようなこともしない」と決意したのであった。
 
大体、そんなことが起きたのでは、神の名折れであり、地獄の笑い者にしかならないであろう。一体、そんな死に方のどこに信仰の意味があると言うのか、信仰者の名が泣く。神の助けを信じると言いながら、悪魔の吹き込む嘘の不安に負けて、犬死するなど言語道断であり、絶対にそのよう悪しき前例を作ってはいけないと、断固、決意したのであった。

当時、筆者の信仰はまだ人間に頼ったり、他者に不安を打ち明けたりするほど未熟で、神の守りの万全さを自ら決意するまでには至っていなかったが、それにしても、そんな当時の筆者にも、上記の牧師夫人の答えは、クリスチャンとしてあるまじき言語道断なものであり、そこには死に対する力強い抵抗もなく、死を打ち破る信仰の勝利もなく、もしかけらほどでも信仰を持っていれば、絶対に出て来るはずのない臆病者の悪魔的・敗北的回答だと理解するだけの力はあった。

だから、神への信仰そのものを全否定し、弱い者たちを冷酷に突き放し、人が死ぬことを当然視してそれを助長しこそすれ、死に対して全く抵抗しようともしないこの牧師夫人の不信仰で冷酷な言葉を、筆者は人に生きる力を失わせるための悪魔の策略としてきっぱり退け、夫人の勧めに従って遺書を書くことを拒み、なおかつ、村上密に葬儀を頼むという言語道断な提案をも退けて、その当時、筆者が親交を結んだ信頼できるクリスチャンの名と携帯番号をノートに記して、「万一の際は、この人物に連絡してください」というメモだけを携帯し、絶対に、何があっても、村上密には連絡が行かないように布石を打ったのであった。

むろん、アッセンブリーズ教団と京都教会といかなる縁も持たない今、筆者に関して、この牧師が乗り出して来ることは決してない。

だが、今ならば、筆者は信仰が成長したので、たとえ上記のような状況に置かれても、もう不安を覚えることはないし、誰にも助けを求めることはないであろうと言える。そもそも、筆者は自らの死に備えて、わざわざ遺書など携帯することはない。それは、筆者の死がもし避けがたいものとして近づいて来る時には、必ず、神が知らせて下さると確信しているからである。

それに、第一、クリスチャンが、携え上げや殉教を願うこともなく、ありふれた事故死や、畳の上での死を当たり前のように受け入れているようでは、信仰者としてもう終わりである。

クリスチャンにとっての死とは、生と同じく、神への証でなければならないのだ。それはありふれた出来事ではなく、主への献身の完成でなければならない。

今、筆者はバイクだけでなく車も運転する。必ずしもいつも近くに駆けつけてくれる誰かが常にいるという状況ではない。

しかし、筆者が乗っているのは、信仰という乗り物であり、その同乗者は神である。神が私の保険であり、私の最も注意深い同乗者であり、助手席のナビゲーターである。だから、私は「もし事故に遭ったなら・・・」などという想定を考えることさえなく、困ったことがあれば、「主よ、どうしましょうか?」と相談する。

これは筆者が格別に熟練したドライバーで、腕に相当の自信があるから言うわけでもないし、筆者の車が特別頑丈にできているためでもない。道に迷うことから、機械のトラブルに見舞われることから、日常生活で、全く相談事が生じないことは決してない。だが、それらはすべて主に持って行くのである。実際、筆者が長年のペーパードライバーから特別な講習もなしに一直線にドライバーに戻った時にも、すべて主のみが守り、助けて下さったのである。

頑丈で確かなのは車でもなければ筆者の腕前でもなく、主の確かな守りである。

さて、こんな有様だったので、カルト被害者救済活動と訣別したことに、筆者は何のためらいも後悔もありはしない。あんな風に冷酷でサディスティックで生きる希望を持たない敗北的な連中と関わっていれば、信者はいつしか最初に持っていたはずの生きる望みさえ奪われて、彼らの嫌がらせの果てに精神的に殺されて本当に死者にされてしまうだけである。

別の記事に書いたが、当時、アッセンブリーズ教団に属していた鳴尾教会で、村上夫人の父である津村牧師に関わってボロボロになるまで使役され、マタハラにも遭い、大切な子供を失った伝道者夫妻の話も今日に伝わっている。だから、筆者が上記のように書いたからと言って、それは決して誇張ではないと確かに言える。
 
神でないものに助けを求めれば、悪魔がつけこんで来るだけである。その挙句の果てに行き着く先は、死でしかない。だから、生きていたいという望みがわずかでもあるならば、一刻も早く人間の指導者に助けを求めることをやめて、そんな敗北の道は早々にお断りするにこしたことはない。

さて、この運動を離れたのはもうはるか昔のことであるが、筆者には、それ以来、家を失うなどということは、一度も起きたことがない。
 
かえって、アッセンブリーズ教団に残った信徒が家を失ったという話を聞くばかりである。

その信者は、かつて筆者がカルト被害者救済活動と対立していたことを、まるで筆者の人徳のなさの結果であるかのように責め、嘲笑していた。要するに、筆者が不器用だから人と対立しているのであって、皆と仲良くしていれば、そんな対立は起きるはずなく、筆者はこの運動の支持者とも和解すべきと彼女は言うのであった。
 
彼女には、自分なら決してそんな対立に巻き込まれはしないという自負があって、自分の八方美人性によほどの自信があったのであろう。何しろ、アッセンブリーズ教団の人間なのだから、そう考えたとしても、不思議ではない。そして、筆者を支援するように口では言いながら、陰では多くの信者たちに、筆者に対する侮蔑的な見方を植えつけていた。
  
だが、筆者はその八方美人的な自称信者の上から目線で自信満々な忠告を聞かなかった。
 
何しろ、神に敵対する人間たちと仲良くすることが信仰の道ではないのである。主に対して不忠実で、聖書の御言葉に従わない人間とは、袂を分かたない限り、自分自身にも彼らと同じ呪いを招くことになるだけであることは、その頃には、もう十分に理解していた。

汚れたものとは分離せよ、それが聖書が随所で信者に警告している原則である。

だから、筆者にはアッセンブリーズ教団に戻る気もなかったし、カルト被害者救済活動に戻る気もなく、その信者の助言を聞く必要もないと分かっていた。さらに、その信者と関わる必要もなかったのである。その最後の点だけが、その頃には分かっていなかった点であった。筆者はその人も「信者」だと思っていたからだ。
 
さて、神に祝福されるための道は、御言葉に忠実に従い、神に従わない悪人どもと手を切ることである。人に好かれ、世の覚えめでたい人間になることなどが信仰生活の目的では決してないのである。そのような生き方を推奨し、神にではなく、世に色目を使って媚びる人間とは早く訣別することが肝心である。
 
さて、話を戻せば、筆者の「貧しさ」や「不器用さ」ゆえの苦労を、さんざん他人事のように嘲笑し、自分ならばもっとうまくやれると上から目線で見下しながら、忠告を繰り返していたその信者は、自分と同じ病院で治療を受けていた自分の障害者の友人にも、「私はもっと設備の良い病院で治療を受けるから、あなたとはさよならする」と言い放って、その病院を去って行った。

しかし、その言葉通りに彼女はその後、豊かな生活を送るどころか、かえって夫の給与が下がって、家を手放して、郊外にある実家に戻らざるを得なくなったのであった。

夫を持たない天涯孤独かつ重度の障害者である闘病生活の仲間と、筆者の悩みと孤独の多い信仰生活を、まるで不器用さの証であるかのように、さんざん上から目線で嘲笑した信者の行く末であった。

もしそのアッセンブリー信者の筆者への忠告が正しかったのならば、決してそんな結末にはならなかったであろうと筆者は確信している。設備の良い病院で治療を受けると同時に、より良い家に住み替えるくらいのことができたであろう。

何しろ、どんなに些細なことがきっかけであれ、信仰者がやむなく生活を縮小し、持ち物を手放し、家を失う、という結末は、悪魔を大喜びさせるだけだからである。それはあたかも神の助けが不十分であり、なおかつ、信者が不信仰であることの現れのように世には受け取られる。

だから、もし本当に神を信じているならば、信者は決して自殺によって犬死になどしてはならないし、どんな持ち物も安易に手放してはならないし、世の情勢が悪くなったからと言って、それに影響されて貧しくなって行くこともない。

どんな窮地に追い込まれても、そこから神の偉大さを、信仰を通して立証できるだけの勝利をつかみ取らなければならないのだ。
 
ところが、彼女は、人前で自分の裕福さと器用さ(立ち回りの上手さ)を誇って、自分ほどに器用に生きていない人間を見下して嘲笑していたにも関わらず、時代の趨勢の通りに、より貧しくなっていくという結果を避けられなかったのである。それは、その信者の誇っていた世渡りの才覚が、何ら世の情勢の悪化に立ち向かう力とはならなかったことをはっきりと物語っている。

世と馴れ合う人間は、世が「豊かになれ」と言ってくれる間は、豊かになるが、世に「貧乏になれ」と言われたら、それに全く立ち向かう力を持たないのである。そのような人間は、もし世から「死ね」と言われたら、本当に死んでしまうのに違いない。つまり、彼らが信者を名乗っているのはほんの口先だけのことで、実際には貧しさや病や死の圧迫に対して、信仰によって立ち向かう術を全く持たないのである。一体、そんな信仰に意味があるだろうか?

我らの神は、そんな時にこそ、我らの力強い助け主となって下さる方である。我らの神は、やもめや、みなし子や、よるべのない者たちを見捨てず、彼らが追い詰められた時の最も力強い砦、最強の保護者である。我々が最も弱く、最も策なく、窮地に追い込まれているようなその時こそ、我らの神の出番があり、神の全能の力が現れる。我らに神以外の全ての助けが断たれるその時にこそ、神の力強さが最も大胆に現れるのだ。
   
それなのに、アッセンブリーズ教団にいるこの人々たちの主張の何と弱々しく敗北的なことだろうか。彼らの言う「信仰」なるものは、この世においてあらゆる死の圧迫に大胆に立ち向かうために全く役に立たない非力なゴミ・ガラクタでしかなく、むしろ、速やかにあの世へ渡って自分を慰めるためのパスポートでしかない。悪魔は大喜びであろう。そのようなものは断じて信仰と呼ばれるべきではない。

だから、そんな様子を見るにつけても、アッセンブリーズ教団やカルト被害者救済活動を擁護することは、誰に対しても、呪いに満ちた悲惨な結果しか招かない、と改めて筆者は確信している。この運動は、世の方しか向いておらず、神の方を向いていないからだ。悪魔と世のなすがままである。それでいながら、どうやって天に蓄えられた宝を信仰によって地上に引き下ろすことなどできよう。こんな運動に関わりながら、神に祝福された人生を送るのは無理な相談である。
 
村上密は、自殺した人間を責めたり、罪に問うのは残酷であって、自殺者は神に拒まれ、天国へ行けないという考えは、クリスチャンの偏見だ、などという趣旨の記事を繰り返しブログに書いているようである。要するに、自殺者も天国に行けるし、神に受け入れられるかのようなデマの流布に加担しているのだ。

このような屁理屈は、死に対する何の抑止力にもなりはせず、死を願う人たちの心の願望をいたずらに助長するだけである。

「自殺しても、罪にはなりません。天国にも行けるし、神様も分かってくれます」
 
そんな風に、人々の自殺願望に太鼓判を押し、死へ向かって背中を押すような、むなしい自己安堵の言葉を、自称「被害者救済活動」に携わる牧師が投げかけているのだから、世も末、言語道断、笑止千万な話である。しかも、それが牧師を名乗っている人間の言葉なのであるから、全く呆れ果てる。

そこに、一体どんな「救済」があるというのか? 死が救済だとでも言うのであろうか?
 
そのような主張から透けて見えてくるのは、この牧師夫妻に関わったために、実際に死に追いやられた被害者が相当数存在するのだろうという暗黙の事実だ。

彼らは、自分たちが救えなかった被害者への無念、自分たちの非力さ、不信仰という罪を覆い隠すために、上記のように自殺者を擁護し、自殺を後押しするような主張をしているだけである、筆者にはそうとしか見えない。
  
だが、キリストは、死に打ち勝った方であり、信じる者に豊かに命を供給される方である。

キリストは、カルバリで悪魔を打ち破り、我々を悪魔のもたらす全ての死の恐怖から救い出し、我々を死の奴隷状態から実際に解放して下さった方なのである。
 
だから、一体、この方への信仰を持っているのに、なぜ、我々が依然、死に怯えて暮らさねばならない理由があるのだろうか。いや、我々は死に立ち向かい、これを断固拒否し、撃退しなければならないのである。
  
筆者自身の確かな経験に立って、ここに警告しておくが、人間に過ぎない村上密に助けを求めた人間は死ぬだけであろう。彼らは救済にもあずかることはないし、受けた被害も回復されない。むしろ、持っていたものまで取り上げられる。

しかし、主イエス・キリストに助けを求める人間は、これらすべてを回復され、単に死に打ち勝つどころか、神の満ち満ちた命の豊かさに至る。
 
だから、筆者は、カルト被害者救済活動に失望し、一旦は、郷里に帰ったが、その後、信仰によってまた新たな家を手に入れて独立できたし、仕事も与えられているし、関西の地を去って後、今度は関東にやって来ることが出来たので、前よりも大きなチャレンジに至った。

まだまだ、このチャレンジは続くのである。むろん、郷里は自然が豊かで食べ物が美味しく、いつでも帰りたいという誘惑はあるが、キリスト者の道は「出て来たところに戻る」ことにはなく、「前に向かって身を伸ばし」、常にまだ見ぬ地へ、天の都を目指すことにある。
 
こうした事柄は、もし筆者がアッセンブリーズ教団や被害者運動などというものにすがっていれば、絶対に起きなかったことばかりで、目に見える人間に助けを求めて、見えない神に従わないことの不毛性をよく物語る事実である。
 
だから、貧しい者はただ主イエス・キリストの御名にすがり、神にのみ助けを求めるが良い。もし本当に神だけに栄光を帰するならば、主は御名に信頼する全ての人たちの願いに応えて、豊かな命を与えて下さる。

神の家族に加えられた人々は、もはやみなし子でもなければ、やもめでもない。神が保護者なのだから、地上の誰にも増して富んでいる人間であり、キリストと共に、天の相続財産が約束された御国の後継者である。

福音書の中で、放蕩息子が帰宅した時に、父親が彼に新しい服を着せ、履物と、指輪をはめてくれたように、神はあらゆる贈り物で、信じる者たちの人生を満たして下さる。
 
だから、真に恵まれて豊かで幸福な人生を生き、人間として地上に生まれて来たことの醍醐味を味わいたいならば、カルト被害者救済活動などという汚れた運動とはさっさと手を切り、被害者をダシにして自分の栄光を求めるような牧師への期待は、可能な限り早く捨てることである。

そして、まことの創造者たる神に立ち返り、神だけに栄光を帰して生きることである。

この唯一の神、我らのまことの造り主なる神を退け、神と教会とクリスチャンを訴える道を選んだ人間には、破滅しか降りかかるものはない。

村上密の最期は、自身の予告にふさわしいものとなるだろう。つまり、彼が自殺を擁護しているのは、自殺した被害者のためではなく、実のところ、自分自身の未来への自己弁明のためなのではないかと思わずにいられない。

「肉の思いは死であるが、御霊の思いは命と平安である。」(ローマ8:6)

狭い門からはいりなさい。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

ペンテコステ運動とグノーシス主義の関係について書くと、早速、さわやか読者らが蠢動を始める。グノーシス主義の話題になると、これまでにも必ず、常にスピン的な動きが出て来たが、このことは、ペンテコステ・カリスマ運動の基礎がグノーシス主義にあることが明るみに出されてはよほど困る勢力が存在することを示している。

長年、当ブログに対するさわやか読者の動きを観察して分かることは、当ブログに対して、おそらくはアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の関係者(特に村上密氏やカルト被害者救済活動との関連)から、長年に渡り、彼らの活動への批判を潰すための工作がなされて来たという事実である。

杉本事件もその一環である。当ブログに対する1千件のコメントを伴う杉本徳久氏のブログにおけるバッシングが、杉本氏の一存によって行われたものであろうはずもなく、これも委託された全体の工作の一部であったと考えるのがふさわしい。

そもそも、杉本氏が自身のブログにおいて行って来たプロテスタントの諸教会に対するバッシングは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のカルト被害者救済活動の需要を意図的に作り出したい人々にとって、非常に好都合なものであった。

杉本氏がプロテスタントの諸教会の醜聞を次々発表することによって利益を得るのは誰かを考えれば、それは間違いなく、カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であり、「カルト対策の専門家」を名乗る村上密氏のような牧師である。

カルト被害者救済活動というのは、とにかく「教会で被害を受けた」と主張する信徒が登場しないことには始まらない。

そして、教会での不祥事は頻繁に起きる事件でないため、杉本氏のブログでの発表の中には、当初は本当のスキャンダルも幾分か含まれていたかも知れないが、結局、同氏らは事件をでっちあげてでも、注目を集める機会を作り出すという「やらせ」に陥らざるを得なかったのである。だが、そのように暴走するよりも前から、もとより、教会のスキャンダルを食い物として、弁護士やカウンセラーや教職者に仕事の機会と出番を作り出し、被害者救済ビジネスを成立させるという村上密氏の活動の手法そのものが、2ch等の「炎上商法」と極めて近い関係にあったと言える。

こういう他者の不祥事を糧とする種類の活動は、もともとその性質上、「やらせ」としての要素を色濃く持つものであり、いずれはスキャンダルをでっちあげてでも需要を作り出していくという暴走したものにならざるを得ない。毎年、年末になると同じ道路を掘り返して需要を作る公共工事くらいであれば、まだしもましであるが、諸教会と生きた信者に対する告発を捏造するところまで行くと、極めて罪が重いと言わざるを得ない。何より恐ろしいのは、これが人間相手ではなく、神に敵対する活動だという点である。

そういう意味において、カルト被害者救済活動は、2chとも極めて性質と仕組みがよく似ている。誰かの醜聞を故意に作り上げることによって人々の注目を集め、それを奇禍としてビジネスチャンスに変えて行くという性質である。

2chには、炎上のためのシナリオがある。まずは事件を大々的に煽る「敵」役が現れ、彼らが自らを当て馬として誰かを追い詰め、そこへ事件を解決するように見せかけた「正義の味方」や、心優しい「助言者」に見せかけた裏切り者などが登場し、その他大勢のエキストラ、情報提供者、ウォッチャーなど、さまざまな役割分担が振り分けられる。

災いをしかけられた側に知識がなければ、その時、その事件は自分の過失が引き起こした結果だと思って自己反省に陥ったり、争いをしかけて来る人物が主犯ではなく演技者の一人に過ぎず、助け手を装って現れる人間もまた工作員であり、すべてが背後にある巨大なネットワークによって一つに結びついて一個のシステムとして動いているのだとは疑うことなく、彼らの思い描いたシナリオ通りの行動パターンを辿らされることになるであろう。

だが、以下に示すような2chの実態等の情報を少しでも知っていれば、それらの事件は、最初からすべて計画的・人工的に仕組まれた舞台演出に過ぎず、霧のように、あってないも同然の事件に過ぎないことが理解できる。悪役でさえも、演技者でしかなく、ヒーローを演じる人物に花を持たせ、観客を動員してビジネスチャンスとなる物語を作り上げるためにすべてのシナリオが仕組まれているのだと分かろう。

そして、その脚本は最初から意図的に書かれたものである以上、誰かの言動がその事件勃発の引き金となったわけではなく、そのようにして延々と被害者を作り出してはビジネス化するネットワークはずっと以前からロシアン・ルーレットのように回り続けて来たのであって、あなたはただ順番が来たから機械的に巻き込まれただけなのである。

さて、一体、その大がかりなネットワークは誰が作り、動かしているのであろうか?

以下の記事を書きながらも、筆者が改めて感じたのは、約十四年間も、自らの名誉と地位を守るために、鳴尾教会に起きた事件の真相を隠し続け、自らの誤りを罪なき他者に冷酷に責任転嫁すべく、ひたすら他者を貶めるための「創作物語」を終わりなく延々と作り上げて来た村上密氏という人物の危険性である。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~


「演技性人格障害」という言葉も存在するが、村上密という人物の病理については深く考え込まざるを得ない。一つ嘘をつくと、それを隠すために、人は次から次へと嘘をつかざるを得なくなり、人前に自己を偽ると、鱗のように嘘に塗り固められた人物像が出来上がって行く。村上密氏が演じているような、被害者を救う「ヒーロー」としての人物像は、同氏自身の真実な姿から著しく乖離しており、もうずっと前から、約十四年以上も前から、破綻していたのだ。本人だけがそれを未だに認めまいとして今に至っている。

恐ろしいことである。だが、村上氏に限らず、「優秀なクリスチャン」を演じようとしたがために、虚像の自分自身を作り上げることになり、その演技がやめられなくなり、もはや現実を直視できなくなる実例は、筆者の周りで珍しいものではなかった。たとえば、筆者はルーク氏や杉本氏や下記に登場するcandy氏に対しても、全く同様の危惧を感じ、しばしば本人に対してかなりあからさまにそれを警告したのである。(だからこそ、KFCは筆者を疎んじたのである。)
 
村上密氏について言えることは、そもそも、メディアと密接な関係があって、メディアでもてはやされる人物というのは、およそ信用がならないということだ。そう言えるのは、メディアへの出演者はみな俳優のようなものであり、彼らが視聴者の注目を得るための番組作りは、その根本に「やらせ」があるためだ。

特に、牧師が自分をヒーローに見せかけるために、常に「仮想敵」を必要とし、「やらせ」に走ってでも、諸教会のスキャンダルをでっちあげては、自らの活動の需要を作り出し、キリスト教界を舞台にして、水戸黄門や暴れん坊将軍といった古典的な時代劇ドラマを思わせるような「勧善懲悪」のストーリーを効果的に演出せねば、世間の支持を得られず、存続もできないというアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のカルト被害者救済活動は、もともとメディアの「やらせ」と、2chなどの匿名掲示板の「炎上商法」と密接に親和性を持つものであったと言える。それゆえに、結局、悪者を終わりなく作り上げ、政敵を追い落とすための工作において、教団と2chの両者は「蜜月」の関係を築くに至ったのだと推測される。

その観点に立てば、杉本徳久氏が当ブログに対して引き起こした事件も工作であったとみなすのがふさわしく、仕掛け人は杉本ではないのである。杉本ブログはそれ自体が隆盛期には巨大な掲示板と化していたのであり、同氏はカルト被害者救済活動を存続させて、自分たちが救済者としての名誉ある地位を失わないでいるために、我が身を当て馬としてでも、事件を作り出す役目を担って来たのだと考えられる。

カルト被害者救済活動と2chとの親和性は次のようなところにある。2chには一般市民を装って常時掲示板の話題を盛り上げるための「プロ固定」と呼ばれる工作員書き込み者が多数存在する。彼らは、通りすがりの市民を装いながら、その実、2chの犯罪ビジネスを成功させるために、金をもらって特定の企業や個人を貶めてはネットから駆逐して言論統制を行う。2ch対策と称して風評被害の解決を謳っている弁護士も、この掲示板と一体であり、これらは表裏合わせて一つのビジネスなのである。

この掲示板には、言論統制や炎上など様々な委託されたミッションの実行に向けて人工的な「世論」の流れを作り出すために、常時、話題を意図的に操作する工作員コメント者が多数配備されている。こうしたことは、以下に挙げたような2chの実態を告発する数々のサイトで、内部告発者らの証言によってすでに裏付けられている事実であるため、ここで改めて詳しく説明する必要もないであろう。

2chのような掲示板での議論が、意図的に犯罪を作り出し、人工的に炎上を引き起こしては儲けるためのビジネスであることは、すでによく知られている。その手法を知るには以下のサイトを多少読むだけで十分であり、これを読めば、杉本事件が偶然に起きたとみなす者は一人もいまい。

匿名掲示板2ちゃんねるの実態
 2ちゃんねる掲示板の運営側による情報操作


2ch裏の歴史と噂話と真相

2ちゃんねる から子供たちを守ろう!

カルト被害者救済活動と2chとに実際に密接な結びつきがあると言えるのは、当ブログに日夜押し寄せて来ていたさわやか読者のIPアドレスを検索すると、その多くが2chを含む掲示板の常連であり、クリスチャンとは全く無縁の不信者ばかりである実態が浮かび上がったことによっても裏づけられる。

それだけでなく、さわやか読者の活動には周期があり、ネット監視の開始時間と終了時間、一人の工作員から別の工作員へのバトンタッチの様子など、アクセスログから活動がスケジュール化されている様子が分かる。そして、IPアドレスなどをもとに集団ネット監視に及んでいる実態が明確に浮かび上がるのである。

2chは、キリスト教に限らず、多数のネットユーザーに対してこうした集団的な監視活動を行うことで有名である。そこで、こうした工作を彼らに委託したのは何者であるのかを考える時に、筆者には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に深い関わりのある人間たち以外からの働きかけを考えることもできないのである。

さわやか読者らの動きも、観察してみると、明らかに、雇い主の指示に従って当ブログを監視しているだけの雇われ工作員と分かるのである。信仰者でない以上、彼らが筆者の主張にもともと特段の関心があろうはずもなく、彼らには筆者に対する私怨はない。ただ議論を封じ込め、筆者の執筆意欲を低下させ、最も重要な争点から人々の注目をそらし、情報の信憑性を低下させるような発言を繰り返して、不穏な印象を与え、議論をかく乱するためのスピンを行うことを主たる「業務」としているだけである。

むしろ、読者の関心が筆者自身に集まると逆に彼らは困るのであろう。なぜなら、筆者が信仰者として神だけを見上げて一人で立っているのに、信仰はおろか、聖書の知識の片鱗すらもない、キリスト教のことを何も知らない部外者が、信者であるかのように立場を偽って、集団で騒ぎ立てて、筆者や、敬虔なキリスト教徒をさらし者としているだけだという悪事がより一層際立つからである。もともと無関係な人々が関わって来ようとする背景には、金をもらっているからだろう、スポンサーは誰なのか、という議論しか起きて来るものはない。

しかも、彼らは集団でかかっても筆者を論破することができない。当然である。さわやか読者には、まるで知性がなく、基礎知識がなく、もともとキリスト教に興味がなく、お仕事でやっているだけである。しかも自作自演なので、ずっと延々と引用とレッテル貼りとごまかししか続けられないのである。そんな無益なことに人生を費やさざるを得ないとは、ご愁傷様であるが、多分、報酬もないに等しいのであろう。

こうしたさわやか読者の雇い主が明らかにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団やペンテコステ運動の支持者と深い関わりがあると見られるのは、筆者がグノーシス主義についての一連の連載を本格的に始めた頃、次のような馬鹿の見本のような掲示板がスピンのために立てられたことからも推測できる。上記、リンクは貼っておいたが、IPアドレス情報を盗み取られるため、正常な読者は誰も閲覧しないように注意しておく。

こうした掲示板でのスピンのための「やらせ」工作の材料を集めに、当ブログへ毎日せっせとアクセスしてネタを取りに来ている工作員は以下の二人である。

kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
kd210249054007.ec-userreverse.dion.ne.jp  (出身は 掲示板1

主犯は上である。これは何か月間も当ブログを監視しているさわやか工作員であり、日々、「村上密」の名前で当ブログにたどり着いて来ることを見ても、自らどの筋の者かを告白していると言える。いずれアクセス履歴を公表する。下はもともとキリスト教とは何の関係もない掲示板のプロである。この二人か、もしくは上の一人が自作自演によって何人かを演じ分けながら、延々とつまらない話題作りに励んでいるのである。

それにしても、閑古鳥が鳴いている掲示板を、自作自演によって成り立たせるしかないとは、2chも杉本ブログと同じほどの情けない落ちぶれようである。

だが、それもそのはずであろう。昨今は、どんな業界も店舗が一人体制で人手が足りなくて困っているという。足りないのは人手だけではなく、深刻な経営難で人件費が削られ、店員が基礎的な研修も受けられず、業務知識そのものが足りなくなっている。

そういった事情は、掲示板までも変わらないと見られ、寒い懐事情が議論の質の薄さにもろに影響している。まず基礎的文献に全く目を通していないので、議論に必要な知見が圧倒的に不足しており、下調べを何もしないまま、レッテル貼りと争点逸らししかできない。グノーシス主義についても、基礎的な文献を読んでいないのでは、発言に信憑性がない。さらに信者ではなく、信仰の事柄に疎いので、文脈を踏まえた聖書の引用ができず、信仰の常識を踏み間違えて恥を晒しており、結局、自説を証拠立てるための何らの有力な理論も提示できない。

ペンテコステ・カリスマ運動の教義など理解もしていないのであろう。さらに鈴木大拙や禅と仏教と東洋思想の知識になると彼らにはもう完全にお手上げである。日本には僧侶はたくさんいるので、下手に言及すると無知がバレる。これはキリスト教も同じである。無知がバレるというより、教義面から出身がバレるのである。

こんな知見不足の状態では、聖霊派の教義とグノーシス主義を結びつけた詳細な議論に反論できるだけの証拠もあろうはずもない。杉本ブログよりももっと質が低い。その上、自作自演ではもともと議論が盛り上がるはずもない。だからこそ、結局、三歳児でも理解できるようなレベルに落ちて行くだけなのである。

こういったことはすべて、もともと聖書の知識なく信仰もない人間にはこの手の議論は無理な挑戦だということをよく物語っている。そもそも、自分に興味がないことについて、人は何を書こうと思っても書けないものだ。信仰の事柄はまして不信者の議論には向かない。だから、無謀な挑戦をして、阿呆の見本のようになるしかないのだ。

それにも関わらず、なぜそのような無謀な挑戦をこれらの人々は行うのか、それは彼らが業務を委託されているからである。彼ら工作員の間では、常にアッセンブリー教団の批判がタブー化されている様子を見ても、彼らがどこから依頼された仕事として作業に励んでいるのかは明白になる。

彼らの課題は、異端グノーシス主義とペンテコステ・カリスマ運動が本質的に同一であるという事実を隠すことにある。つまり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教義そのものが異端であるという事実を明るみに出さないために、行われていることである。
 
すなわち、これらの工作員らが常に議論を紛糾させようとする目的は、カルト被害者救済活動も含め、そうした運動を生み出した弱者救済のペンテコステ・カリスマ運動が根本的に異端であり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が根本から聖書に反した理念に基づく運動から生まれたものであり、その基本理念の基本構造はグノーシス主義と同じであるという事実を論証する主張を人の目から覆い隠し、議論をかく乱することにある。そのための目くらましなのである。
 
だが、2chの影響力は実際には世間で恐れられているほど大きくない。それは実際、日々当ブログへリンクして来る人間がまるでいないことを見ても明白である。

さらに、こうした匿名掲示板で、悪質な誹謗中傷の書き込みを繰り返したために、逮捕され、顔写真までさらされている人物もいるようであるからご用心だ。左記のようなケースでは、さしずめ勤務にも影響が出るであろう。人の行動には相当の報いが降りかかるという格好の実例である。

さらに、当ブログの内容を勝手に切り取って転載していると、筆者とは無関係に、その人間が告訴される可能性がある。特に、筆者のブログには、牧師を名乗っている人物も含め、信者を容赦なく次々と法廷に訴え出ては留意を下げているような御仁が度々登場しているので、それらの人々との絡みで、筆者のブログ記事を利用するのは避けた方が良かろう。

当ブログの内容はそれぞれの記事に関連性があり、長大な論文のような構成を成しているため、部分的に切り取ることができない。さらに、筆者の提示している主張が捏造でないことを証明する一連の細かい論証過程がある。

そういう文脈をすべて無視して、当ブログの内容を無理に切り取って一部だけ話題作りに利用しようと転載すれば、筆者は一切その行為に対して責任を負わないが、その人間が自らの言質を取られ、誰かから誹謗中傷と判断されて訴えられる危険を自ら背負うことになる。(ちなみに、コメント書き込み犯が告訴されるために必要な条件はそう多くはない。)

さて結局、こうしたことも、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の率いるカルト被害者救済活動そのものが「やらせ」であり、ペンテコステ運動の基礎が異端グノーシス主義にあるという事実を明白に証明されたくない人々が、真剣な議論を早期に潰し、隠すためにスピン工作を委託しているだけである。
 
さて、一体、そんな工作を委託するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団とはどれほど危険な団体なのか。

筆者は、これまで同教団の信者らに関わって来た経験に立って、2chに「プロ固定」と呼ばれる工作員が存在するのと同じように、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にも、「プロ固定信者」と呼ぶべき工作員信者が相当数、存在するものと考えている。

これらの「信者」は外見的には一般の信者を装っているが、実際にその動向を長く追跡して行くと、彼らのやっていることはセミプロ工作員と言うべき域に達しており、到底、一般信者の取るべきではない数々の怪しい行為に及んでいる実態が見えて来る。

たとえば、記事「カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~」で言及したアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団神召教会所属のBr.Takaこと鵜川貴範・直子夫妻にしてもそうである。

もともと鵜川氏は牧師資格を持たないのに、教会指導者の意向を無視して、街頭で路傍伝道に立つことによって、ニュース記事に取り上げられたりしていただけでなく、次々とペンネームを変えながらネット上で活動を立ち上げては、放棄して来たこともすでに記事に書いた。その上、身元を隠して他教会でメッセージをしたり、といった活動は、単なる伝道の領域を超えた、詐欺師的な仮面の付け替えと言って良い。

真に伝道者を目指し、福音のメッセージを語りたいならば、まずは自分の属している教団の神学校へ入学して堂々と牧師資格を取れば良いことであり、母教会と他教会の信徒らの目を欺いてまで、所属もしていない他教会へ潜入してわざわざ身元を隠してメッセージを語る必要などない。だが、こうした人々はなぜか正規の手段を取らず、わざわざ人を欺いて隠密に行動するのが大好きなのである。それは彼らがもともと身元を公にして活動できないような何らかの秘密を抱えており、一般信者の隠れ蓑を利用して活動していた方が、いずれ嘘がばれた時にも有利だからという計算が働いているためだと思われてならない。

それは名古屋のアッセンブリー信者である「十字架の恵みが溢れて」の著者(candy氏)も同じである。ちょうど杉本氏とのネット上の対立が頂点にあった頃、この信者はあたかも筆者を助けるかのような文脈で幾度か当ブログに書き込んだこともあった。

だが、すでに記事「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」でも述べた通り、どうにも同氏の主張には、常に筆者には同意できない異端的教えの影響が見られ、根本的に何かがおかしいと常に感じられてならなかったのである。

candy氏はある時期「神は愛だから誰をも裁かない」などと聖書に反する異端の教えを宣べ伝えるサンダー・シングの偽りの教えに深く影響を受け、これを広める要塞と化した。

Dr.Lukeもこの信者の影響を受けて2008年に「サンダー・シングの霊性」なる記事を書いている。筆者はDr.Lukeに直接、サンダー・シングの異端性を告げて警告し、さらに、これが筆者の決めつけでないことを証明するために、サンダー・シングの教えの何がどう聖書に反し間違っているのかを一連の記事(「命の道と死の道――狭き門と広き門――偽りの教えの構造(序)」等)で明らかにした。

さらに、Dr.Lukeに対しては「キリスト教界からエクソダスせよ、と自ら唱えながら、なぜ現役のキリスト教界の信者、中でも危険視されているアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信者と関わるのか」を問うた。そのような二重性は、自ら述べている信念に反するものであり、キリストのみへの貞潔を保つにあたって、ふさわしい行動ではないのではないかと。

だが、Dr.Lukeは筆者の警告に耳を貸すことなく、かえってcandy氏とサンダー・シングの教えを擁護し、後にLuke氏とcandy氏とBr.Taka夫妻、および天声教会のリーダーが連帯して、彼らに耳障りな警告を発した筆者に対する「報復」を果たすために、筆者に異端者の濡れ衣を着せて、KFCから追放するという行為に及んだのである。

この事件は偶然に起きたものだとは筆者は全く考えていない。何しろ、ここに三人ものアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信者が関わっているのである。カルト被害者救済活動のやり方は、彼らがターゲットと定めた人物の人間関係に巧みに隠密に工作員を送り込んでは、ターゲットとなる人物に関する情報を収集し、なおかつ、その人物に対する周囲の人々の不満や愚痴を探り出すことによって、「被害」を捏造して、分裂や争いを引き起こし、ターゲットとする人物を中傷し、孤立させることにあるのだということは、長年の観察を通して分かっている。つまり、工作員を送り込んでは人間関係を壊し、「友人」であった人々を裏切らせて「告発者」に変えて行くことが、彼らの常套手段なのである。
 
KFCに関わっていた頃、筆者はアッセンブリー信者を信用していなかったので、彼らを信じても、裏切られるだけであり、Br.Taka夫妻はKFCを乗っ取るために来たのだから、彼らとの連帯は成り立たず、もし筆者の忠告を退けて彼らを信用し仲間だと考えれば、すぐにあなたも追放されることになるはずだと、Dr.Lukeに警告した。実際、その通りになった。Dr.Lukeは一時不名誉な理由でメッセンジャーを降ろされ、KFCの会堂は失われ、Br.Taka夫妻は逃亡し、筆者を陥れるために彼らが作った「同盟」は、わずか数ヶ月も持たなかった。そこにBr.Taka夫妻だけでなく、candy氏も一役買っていることが、Br.Taka夫妻の発言から明白となった。結局、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の人間が連帯して、他団体を潰し、そこにいる信者を中傷し分裂させたのである。
 
以上に挙げたDr.Luke氏の記事「サンダー・シングの霊性」では、サンダー・シングの影響を受けた中には、山谷少佐も含まれていたことが分かる。これはまだ山谷氏の裁判の判決が確定する前のことである。重要な裁判の決着がつく前に、山谷少佐がこの異端の教えを擁護したことには、決定的な意味があったものと筆者は考えている。なぜなら、我々は、自分の戦いに神が味方して下さるためには、どうしても、あらゆる汚れたものと分離して、身を清めなければならないからであり、「アカンの外套」を所持したままだと、戦いに勝てないからである。

こうして、candy氏は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者でありながら、Br.Taka夫妻と同じように、無害な一般信者という立場を装い、ネットを利用して、自分の所属教団の枠組みを超えて、他の教会の信者らに接近し、聖書に立脚して信仰の道を生きる信徒を悪者にして汚名を着せてまで、数多くの人々、特にリーダー格の人々を異端の教えによって惑わすことに成功したのである。

それでも、一般信徒であるがゆえに、Br.Taka夫妻もcandy氏も、批判の矢面に立たされたり、責任を追及されることはない。何事もなかったかのように、すべてに知らぬふりをして活動を続けているだけである。だが、たとえそのようにしてみたところで、聖書によれば、彼らには厳しい報いが約束されており、これを免れることはできない。惑わされた方も責任重大だが、惑わした者はもっと責任が重いのである。

「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」(マルコ9:42)

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:1-3)

candy氏は筆者の忠告を受けて、サンダー・シング関連の記事を削除したが、その教えが異端であるとは未だに認めていない。だが、同氏が認めようと認めまいと、結果的に、彼女の意向を受けてサンダー・シングを支持した人々が、今は見る影もなくなっている様子が、すべてをよく物語っているように思う。Dr.Lukeは自分を神だと宣言するに至っているし、山谷少佐は裁判に勝利できずネットから遠ざかることになった。Br.Taka夫妻については言及する価値がない。

これらの人々はみな聖書の真理よりも、人間の名誉と絆を重んじたのである。情に流され、人との交わりや、そこから得られる感覚的満足を、御言葉よりも優先し、御言葉に従うことよりも、人間の名誉を傷つけないことを優先したがゆえに、忠告の価値を軽んじ、誤った教えに逸れて行ったのである。

さらに、聖書は彼らの教えが「好色」であり、「貪欲」であると述べている。そのことは、Dr.Lukeとcandy氏が自分のブログで飽くことなく続けている「飲んだり、食べたり」(マタイ24:38)の自慢話を見てもすぐに分かることである。まさかそんな自慢話の羅列が信仰の証であろうはずがない。

聖書にはこうある、なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ14:17)

candy氏のブログは、当初の「イエスの喜びと満足のために」書かれる証から、「セルフの恵みと満足のために」執筆されるものへとすっかり変わってしまった。

さらに、上記で挙げた工作員の立てた掲示板の趣旨も「愛と赦し」(の母性的福音)であり、御言葉の切り分けがないところを見ても、まさにサンダー・シングやグノーシス主義やペンテコステ・カリスマ運動を擁護するために立てられたものと言って良い。だからこそ、こうした議論は決まって最後は肉欲の賛美に溺れて行くのである。その様子が彼らの信奉している教えの内容をどんな事実よりも明白に物語っている。

掲示板工作員は、決してBr.Taka氏やcandy氏などのアッセンブリー信者を批判しない。そのことだけを見ても、彼らがどの筋から来た者であるかは明白である。不思議なことに、candy氏のことを当ブログで書いても、さわやか読者はこの話題をタブーのように扱う。彼らはDr.Lukeについては常に騒ぎを煽ろうと狙っているのに、決してこの人物については触れないのである。
 
このようなアッセンブリー信者らの極めて不審な主張と活動を振り返り、彼らが言い広めて来た異端の教えのことを考えるにつけても、こうした「信者」らは、真実な信仰者を迫害し、退けるための「プロ固定信者」であると筆者はみなさざるを得ない。一人の信徒が霊的要塞と化して与えた影響の大きさを思うのである。

「十字架の恵みが溢れて」の著者は、今年5月に「十字架の恵みが溢れて2」という名で、ライブドアにブログを開き直している。言わずと知れた、杉本徳久氏の「随想 吉祥寺の森から」と同じプロバイダである。杉本氏から当ブログに対して実行不可能な提訴を予告する恫喝のメールフォームが送られて来たのと時期的に重なっており、また、当ブログに対するスピンの為に上記匿名掲示板が立てられたタイミングとも時期的にほぼ重なっている。2chとライブドア社も以前から密接な関係にあることが指摘されている。

以前の彼女のブログには、KFC関係者のブログへのリンクが数多く貼られていたが、当ブログでKFCの理念の異端性を明白に書き始めてから、新アドレスに移行している点にも注意が必要である。

こうしたことは、一般信者の立場だからこそできることであり、アッセンブリー教団に所属していながら、次々に他の団体の信者に関わり、しかもKFCのように、キリスト教界そのものに敵対しているような相反する理念を持つ団体に関わり、その団体が批判を浴びて都合が悪くなると、そういう一連の事件は全てなかったことのように、彼らと無関係を装って新たに活動を続ける。そういう変わり身の早さも感じられるように思う。

実際、筆者がKFCに関わって最も驚かされたのがまずこの点なのである。candy氏に限らず、Dr.Lukeのメッセージを熱心に聞いている者たち(特に女性)には、キリスト教界に身を置きながら、牧師に隠れてKFCやDr.Lukeとコンタクトを取り、メッセージを聞くという、二足の草鞋を履いている者があまりに多い。自分の所属している教会と指導者がありながら、キリスト教界の非をこれほど激しくあげつらっては告発しているDr.Lukeのメッセージを聞くこと自体が、自らの群れに対する裏切り行為であることが分からないのであろうか。

本来ならば、エクソダスするのか、現在の指導者に従うのか、どちらかを選ばなければ、信用も成り立たないであろう。(むろん、エクソダスしたからと言って、Dr.Lukeに従うという結果にはならない。)どっちつかずの立場では、自分の指導者に対しても申し開きが出来ない。ところが、まるでどちらかが倒れたらいつでも古巣に戻る準備が出来ているとでも言わんばかりに、いつまでも二重の立場をずるずると続け、両方の「いいとこどり」に終始するのである。それでいながら、自分たちには一般信徒の分かっていない、より深い霊的真理が(Dr.Lukeのおかげで)理解できていると考えているのである。

このように、対立する陣営のどちらにも良い顔をすることが不可能であることが、クリスチャンでありながら、なぜ分からないのか、筆者には全く理解できない。そのような曖昧などっちつかずの態度をずっと続けて、どちらの陣営においても、信用を勝ち得ようとすることは、全く信頼できる行動ではないと筆者は考えている。そのような誠実さの欠ける貞潔さのない人々を信用して、どっちつかずの立場の人々ばかりを積極的に集めては交わりの拡大を重んじたことが、KFCの致命的な誤りであり、それがゆえにこの団体のこれまでの絶えざる二重の歩みがあったのだと筆者は考えている。結局、信仰の純粋性よりも人数(地上の権勢)の方が彼らには大切だったのであり、そうであるがゆえに、他の群れの信徒らを盗み取り、奪い取ってでも、その心を私物化して行こうとしたのである。
 
話を戻せば、こうした一連のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者の動向を考え合わせると、杉本氏からの提訴予告も、単なるシナリオ工作の一環でしかなかったことが見えて来る。その背後に控えているのは、どこからどう見ても怪しい活動を続ける工作員信者らを手先のように他団体へ送り込んで、巧みに駆使しながら、敵対する者たちに関する情報を収集し、次々と争いや分裂をしかけ、中傷を広めては追い落とし、キリスト教界の統一と一元化を目論んで来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団である。

もともとアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念自体が、プロテスタントに潜り込んだ異端であることを考えれば、この教団の信者が、他教団や他宗派の信者の動向を監視したり、裏切りに備えて予め個人情報を収集したり、異端の教えを言い広めては信者を堕落させる悪霊の要塞となったりするのは全く不思議なことではない。

彼らの目的は、親切で忠実な信徒を装って活動しながら、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、できるだけ数多くの信者を惑わし、聖書に基づく唯一の真理から逸らすことにあるのだと言っても過言ではないのではなかろうか。

特に、キリスト教界と一線を画して、真理だけを求めているような群れを、何としても彼らの二重性を帯びた支配・統制の下に置くために、密かに行状偵察し、信仰者の群れを一元管理し、村上密氏のような人物にライバルのいない状態を作り出すために、信者を手先として利用しているのではないのかという疑問が生まれる。
 
こうしたことから、果たして、バビロンや、イゼベルとして非難されるべきは誰なのかという疑問が起こらない方が不思議である。
 
candyというペンネームも相当に象徴的であると言える。何しろ、それはDr.Lukeが最も嫌っていたはずのいわゆる「砂糖まぶしの甘えの福音」を象徴するような名だからだ。十字架は、セルフにとって決して甘い恵みではない。花輪で飾り立て甘い砂糖菓子のようにされた人間に都合の良い「十字架」は本物ではないと気づくべきである。

こうしたアッセンブリー信者の惑わしの働きの源は、その親分にこそあると見るべきである。

村上密氏はキリスト教界の不祥事をきっかけに、クリスチャンに対する裁判を推進することにより、アッセンブリー教団の枠組みを超えて、他教会を破壊することに成功して来た。さらに、同氏のブログも、福音伝道を目的とする牧師のブログというよりは、ネット上の政治プロパガンダ工作を思わせるものである。たとえば、同氏のブログは、書き方一つを取っても、コメントを一切受けつけない点で、対話と異論を初めから排除する「言いっぱなし」の形式を取っている。こうしたことだけを取っても、同氏は初めから一方的なプロパガンダを目的としてブログを開いているのであって、対話と議論を一切目的としていないことがよく分かる。
 
さらに、同氏は筆者の書いた「カルト監視機構という名の秘密警察」という記事に対する反論として、わざわざ「『カルト監視機構』という名の秘密警察」の誤報」と銘打って、筆者の記事のタイトル全文を引用する形で記事を書いている。

こうしたやり方も、本記事に対する緻密な反論が目的というよりも、まるで広告のキャッチコピーのようなレッテル貼りによる印象操作と、明らかに検索結果を意図的に操作して、そこで論敵の記事を貶めることを目的に同氏が記事を書いている様子をよく物語っている。これは杉本徳久氏が用いて来た手法と同じである。つまり、内容を通してきちんと反論することで、自説の正当性を主張するのではなく、他者の記事内容やタイトルや文章をまるごと模倣・剽窃したり、類似するタイトルをわざとつけることによって、論敵の主張をまる飲みする形でダミーを作り、それによって標的とする人物の主張を乗っ取り、追い落として行くのである。

さらに、村上密氏は鳴尾教会関係者のみならず、筆者についても、長年に渡り、人物破壊を行なうためのプロパガンダ記事を掲載し続けている。このような、正攻法とはとても言えない、ネット上の不正な権利侵害によって政敵を蹴落とす手法は、2chなどのネット操作の常連の常套手段であっても、牧師にはふさわしくない。裁判もそうであるが、こうした争い事のやり方にばかり精通しており、反則行為と抜け穴探しのような手法にひどく長けているような人間は、まともな人物ではないと言える。

2chは日本をエバ国家と蔑視する統一教会などとも関連が指摘されており、ことさらに日本人を中傷する掲示板と化している理由が色々と推測されているが、村上氏は統一教会の出身であり、掲示板に書かれている情報の中には、同氏に由来するとしか考えられない情報も含まれている。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、牧師からしてこのようであるから、信者にも、この種の極めて怪しい確信犯的な詐欺師が多いのは無理もない。ヤクザの回心をお涙頂戴の物語として得意げに伝道材料にするくらいであるから、今や教団そのものが、社会的弱者とヤクザと障害者と病者と統一教会出身者で溢れている。

その上、キリスト教界の不祥事を告発することを生業としてクリスチャンに裁判を挑む指導者が牧師として常駐しているわけだから、教団そのものが、まるでキリスト教徒に因縁をつけては罠をしかけるためのヤクザ工作団体と化していると言って過言ではない。
 
こんな団体に所属している信者が、ゆめ油断できない人物ばかりなのは何の不思議もない。杉本徳久氏も、キリスト教界により数多くのスキャンダルをでっちあげて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のカルト被害者運動の需要を作り上げたい勢力から、思う存分、利用されているだけに過ぎないと見るのがふさわしい。そして、アッセンブリー教団の背教は米国に由来するものなのである。

いみじくも、筆者が色々と訴訟関係の手続きを調べている時に、ある専門家が尋ねた。「その教団の理念は、外国から来たものなのではないですか」と。
 
Dr.Lukeは以上に挙げた記事の中で、サンダー・シングをウォッチマン・ニーと同じく「東洋的な霊性」と記している。candy氏はウォッチマン・ニーにも深入りしている様子がブログから分かるが、それを見るにつけても、「東洋的霊性」なるものは混合の教えだと筆者は思わずにいられない。

ちなみに、筆者にウォッチマン・ニーを紹介し、その体系を教えたのは、Mr.Sugarである。Dr.Lukeはこの点もずっと意図的に隠し、あたかも筆者が自ら勝手にウォッチマン・ニーに「傾倒した」かのように、まるで現場を見て来たかのように主張して、事件を無駄に煽って来た。だが、Mr.Sugarはその当時、KFCに全く理解を示していなかったので、この時期、筆者もまたDr.Lukeには一切関わっていなかった。

Mr.SugarはDr.Lukeのローカルチャーチ時代からの長年に渡る年長の兄弟であり、当時、他の信者の誰も及ばないほどにウォッチマン・ニーに「傾倒していた」。筆者とMr.Sugarのそうしたやり取りは、筆者自身が伝えたので、Dr.Lukeは知っているが、それを知った上で、あえてSugar氏の名前は出さず、筆者だけに注目が集まるような、誤解を呼ぶ一連の事実に反する記事をDr.Lukeは自身のブログで断りなく発表していったのである。

たとえば、Mr.Sugarのニーに対する熱心さはこんな風であった。筆者がブログにニーの引用文を載せて、そこに誤変換や誤字脱字があると、早速、Mr.Sugarから電話がかかって来る。そして「あそこの何行目のどこそこの文字が間違っていますよ」と指摘がある。筆者の書いた文章よりも、ニーの文章の方がSugar氏にとってははるかに重要であり、まるで聖書以上にニーが重要であるかのように感じられるほどの関心の払いようであった。それほどまでに、当時、Mr.Sugarはウォッチマン・ニーに心酔しており、しばしば、ニーの最期を思って涙を流し、自身のブログにも、ニーの引用に「加筆した」ものをずっと発表していたのである。

Mr.Sugarは筆者にウォッチマン・ニーを読まないか、恐る恐る勧めたと語っていた。そして筆者が『霊の人』に関心があったと言うと、欣喜雀躍として喜んだという。

筆者は、特に霊的な事柄についてのウォッチマン・ニーの内容の深さには関心を持ったが、どうにもこの心酔ぶりにはついて行けないものを感じていた。そこへ杉本事件が起きた。しかも、それはちょうど、「こんなブログがありますが」と、筆者がMr.Sugarに「随想 吉祥寺の森から」のアドレスを伝えてからほどなくしてからのことであった。杉本氏からの非難は筆者のみならず、ウォッチマン・ニーも対象としていたので、Mr.Sugarはおそらくこんな時だからこそ、ウォッチマン・ニーの信憑性を擁護するために立ち上がるだろうと筆者は思ったが、あにはからんや、同氏はそそくさと理由をつけてネットから撤退してしまった。

その姿を見たとき、あれほどまでに涙を流しては「ニーの同労者になりたい」と告白していた台詞は何だったのだろうかと驚き呆れた。しかも、ちょうど「デッドライン君」の事件が起きた時分であったので、デッドライン君の家族を救うという使命のために、Mr.Sugarはこの事件をひどく胡散臭く思っていた筆者との交わりを絶ってしまった。

Mr.Sugarにはその後も再会し、KFCの偽りを理解する上では数多くのヒントをもらったことは確かであり、おそらく筆者が今まで知り合った目に見える信者の中では、最も鋭い霊的な指摘を受けた一人であろうと言える(その根源は、結局、ウォッチマン・ニーの著書から得られた知識にあると考えられる)。だが、candy氏と同じで、何故、この人も”sugar”なのであろうか、と疑問に思う。そして、この人のブログの題名が「山暮らしのキリスト」であることも、実に意味深に感じられる。
 
筆者はニーの書いたものの中で、ペン-ルイス、オースチン-スパークス、アンドリュー・マーレーのような霊的先人と重なる部分は認めており、それから『霊の人』にも一定の評価を下して来た。魂と霊の切り分け、霊の機能についても、これ以上に意義深い説明を他にはまだ知らない。しかし、『権威と服従』のように、明らかに年功序列を絶対化するような、聖書とは異なる教えがニーの著書とされて混合していることも確かであり、このような教えを土台としたがゆえに、いくつかの集会では、子供への搾取等が発生しているのであると考えられる。ローカルチャーチから出た出版物は特に吟味なく受け入れるべきではないことが指摘されて久しい。

それにとどまらず、ニーの生涯、彼の著作物、ニーの最期についても、すべて再考が必要であるように筆者は思う。それはこれもまた「東洋思想との混合」である可能性があるためだ。

ペンテコステ運動の基盤が東洋思想・グノーシス主義にあることはすでに明確にしたが、聖書に登場する大淫婦バビロンの教えとは、筆者の観点では、まさに東洋思想とキリスト教の混合物なのである。

キリスト教をベースにして、そこに「東洋的霊性」が混合してできる化合物が、悪魔の悲願としてのバビロンの教えの完成であり、そのためにこそ、「キリスト教に父性原理が強すぎるので、母性原理を補うべきである」という主張が繰り返し、キリスト教批判として現れて来るのである。

ただし、ウォッチマン・ニーの著書については、その教えの多くの部分は、先人たちの主張を取り入れたものであり、どこからがニーの独自の言説で、後世の人々による改ざんなのか、めて識別が難しい。今、著書も手元にないので、分析を行えるとしても、まだ先のことになるだろう。

ただし、筆者の周りでウォッチマン・ニーにかなり傾倒した人々に一様に観察された特徴は、先人の良さそうな言葉の引用で身を飾り立てることはしても、その言葉が試された時、代価を払ってその真実性を証明するということがなかった点である。はっきり言ってしばえば、その言葉は借り物の域を超えないのである。
 
以前、candy氏は筆者の前でKFCをかなり批判的に評しており、Dr.Lukeにブログを閲覧されると客観的に内容が書けなくなる、とか、Dr.Lukeはもっと早くにKFCから引退すべきであった、そうであればこうまで異常にはならなかっただろう、などと述べたことがあった。筆者より前からこの団体を知っていた者としての率直な感想であり、こうした意見には全く異存はない。(つまり、筆者がKFCに関わり出した頃は、すでにKFCの異常期に入っていたのである。)さらに、ウォッチマン・ニーであれ、サンダー・シングであれ、すべての聖書以外の信仰の教えは必要ないためみな捨てるべきであると、彼女は筆者の前で自ら述べたこともあった。

彼女が筆者に向かって語った最も良い言葉は、「その父母を離れ」(創世記2:24)である。つまり、聖書の原則は、子がいつまでも親にとらわれ、家を基準として、父母のような指導者を崇め、絶対化することにはないという確信を述べたのである。精神的にも霊的にも完全に自立してあらゆる外からの助けなしに、キリストのみを頼りとして、一人の人間として、大人として、自立して立つことこそ、キリストが信者の一人一人に望んでおられる成長なのだということである。

なぜそれらのことを語った本人がそれを実行しておらず、未だにずっと聖書以外の教えの引用ばかりを繰り返しているのか。

どんなに良いことを語っても、言った本人がこれを実行しないのでは意味がない。だから、誰が述べたにせよ(たとえそれが工作員信者の発言であれ)、良いことはやはり実行に移すべきなのだと筆者は考えている。 そのようにして「知」と「行」とが一致する世界に向かって行くことが、キリスト者には可能であるはずだ。

我々は「知性による分割以前」とか「神が光あれ」と言われなかった前に向かっているのではなく、創世記で「光あれ」と神が言われた言葉がそのまま真実となったように、あるいは御言葉なる方がキリストであり、御言葉とキリストのパースンが一つであるように、言行の不一致がなく、我々の確信するところが、大胆に我々の存在と行動と一つとなって、リアリティとして世に放たれるような生き様を目指している。

だが、それを実行するただ一つの方法は、十字架を通ることにしかない。聖書から逸脱したやり方で、その素晴らしいリアリティが我々と一つになることは絶対にない。
 
Mr.Sugarがかつてとても良いことを書いていた。エクレシアの戸口に達するまでにキリスト者は死んでいなければならないと。要するに、セルフを抱えたまま、復活の領域にたどり着ける者は誰もいないのである。

私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。

「光が、やみの中から輝きでよ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」(Ⅱコリント4:5-11)
 

カルト被害者救済活動の反聖書性―グノーシス主義の基本構造④

9.十字架の「切り分け」を否定する者は、己を神として神への反逆に至る
  

さて、前稿「カルト被害者救済活動の反聖書性について キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動③」では、プロテスタントにおける御言葉中心主義を「思い上がりに基づく傲慢な排他主義」として非難することで、聖書の御言葉の否定に至る人々がいることを見て来た。

そして、こうした人々は、プロテスタントにつまづいているのでも、信者につまづいているのでもなく、実際には、聖書の御言葉の持つ「切り分け」や「二分性」につまづいているのであり、とどのつまり、「狭き門」であるキリストの福音そのものにつまづいていることを見て来た。

そうである以上、聖書の御言葉の持つ「二分性」や「排他性」を否定する人々が、やがてキリスト教そのものを拒んで神に敵対するに至るのも不思議ではない。

だが、上記のようにあからさまな御言葉の否定に至らずとも、ペンテコステ運動のように、人間の感覚的陶酔をしきりに強調することによって、「人の五感にとって心地よい福音」を作り出し、御言葉に基づく厳粛な分離や切り分けを曖昧にし、信者が御言葉を守り、御言葉のうちにとどまる必要性をおざなりにする主張も存在している。

キリスト教そのものを破壊することが目的であるかのように、諸教会を訴え、信者を裁判に引きずり出しては、盛んにキリスト教にダメージを与えて来たカルト被害者救済活動が、まさにペンテコステ運動の只中から生まれて来たことは実に興味深い事実である。

カルト被害者救済活動は、ペンテコステ運動を率いる最大の宗教団体であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役の牧師である村上密氏と、かつてアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に所属し、同教団の信仰生活につまづいて他宗派に去りながらも、依然として、同教団の村上牧師を支持する杉本徳久氏が中心的に率いて来たことで知られる。
 
杉本徳久氏が「神々の風景」という題名のブログを執筆していることなど、様々な点から判断して、同氏が到底、キリスト教の正常な信仰を持っているとは言い難いことを当ブログではすでに幾度も指摘して来た。(おそらくは、「神々」という言葉も、彼ら自身(生まれながらの人間)を指しているのだろうと筆者は推測している。)

だが、同時に、キリスト教界の偽りを告発し、被害者運動とは明確に一線を隠しながらも、杉本氏らとの争いを通じて、信者を裁判に引き込む役割を果たしたKFCのDr.Lukeも、実際には、彼らの活動を補完する役割を果たしたことも、当ブログでは幾度も指摘して来た。(記事「キリスト教界と反キリスト教界は同一である~KFCはどのようにキリスト教界と同一化したか~」参照。)

KFCのDr.Lukeのミニストリーもまた、ペンテコステ運動の深い影響を受けたものであることは、一見してすぐに分かる。Dr.Lukeへのペンテコステ運動の影響は、同氏がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒であったBr.Takaこと鵜川貴範氏をメッセンジャーに据えるよりも前から始まっていた。

そこで、上記の人々は、それぞれに立場は異なっているが、みなキリスト教界に何らかの形でつまづいた過去を持ち、それゆえ、キリスト教界に対して尽きせぬ憎悪と敵意を心に持ちながら、キリスト教界を告発することを生業とし、なおかつ、今日に至るまでペンテコステ運動と深い関わりを持っている点で共通している。
 
同時に、自らは聖書の二分性を否定するか、曖昧にし、御言葉を守っていないにも関わらず、キリスト教界の誤りを糾弾し続けている点においても一致している。

彼らの言動は、すべてにおいて「どっちつかず」の「いいとこどり」である。すなわち、一方では、自ら信者を名乗ることによって、クリスチャンの善良なイメージを大いに利用して、世間の信頼を勝ち得て、人前に栄光を受けようとする。ところが、他方では、キリスト教界に起きる様々な不祥事をあげつらっては、キリスト教界を断罪し、信者の無知をひどく嘲りながら、キリスト教の「不備」や「欠点」を暴き出しては強調し、このの宗教のイメージを貶める。

彼らは、自分には一般の信者以上に物事が分かっていると考え、信者を見下しては、断罪するか、あるいは上から手を差し伸べることにより、常にキリスト教界に対して優位に立とうとするが、結局のところ、彼ら自身が、全く御言葉を守っておらず、その中にとどまっていないのである。

KFCの「セレブレーション」の内容の偽りに関しては、東洋思想に関する論稿が終わり次第、分析を進める予定であったため、今まで筆者は内容を詳細に振り返ることがなかったが、しかしながら、改めて内容を分析するまでもなく、以下のような標題を見るだけで、ここまで病状が進行していたのかと驚くばかりである。善良なクリスチャンには、この集会がどれほどひどく聖書から逸脱しており、どんなに恐ろしい結末へ向かっているかが見て取れよう。

以下は杉本徳久氏の「神々」と同じく、極めて恐ろしい告白である。これこそ御言葉の二分性を否定し、キリスト教の「病理」を主張する者たちの行き着く先であり、こうしてアダムを神格化して自ら神と名乗ることこそ、ペンテコステ運動の霊的な本質なのだと言えよう。

悪魔の願望は、神を押しのけて、己を神とすることにある。以前、筆者は記事「カインの城壁 旧創造を弁護するために現実を否定して滅びを選ぶというグノーシス主義者の末路」において三島由紀夫の末路と重ねて、KFCの行く末について述べたことがある。下記のような告白をDr.Lukeと共に行った者たちには、厳しい末路が待ち受けていることであろうと思う。筆者はとうにこの集会を去っていることを改めて神の憐れみに満ちた采配として喜びたい。
  
「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの芽が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:4-6)
 

  

ここまで「病理」が進行すると、
もはや解説も不要であろう。
ローカルチャーチの教えとペンテコステ運動と
心理学とサンダー・シング等々、すべての教えの
「いいとこどり」をした結果の結論である。
むろん、聖書についても「いいとこどり」をしたのである。
 このメッセージの冒頭で、ルーク氏はキリスト教界の
罪による癒着という「病理」を批判しているが、
最後には自ら同じ罠に落ちていることに気づいていない。
すなわち、「神が人となって下さった」点だけを強調する
ことにより、キリストを罪人のレベルにまで引き下げ、
人(アダム)が十字架の死を通らなければ、
神に受け入れられない事実を巧妙に覆い隠している。
アダムの神格化という、ペンテコステ運動と
ローカルチャーチの誤りを引き継いで、ついに
自ら神と宣言するにまで至ったのは恐ろしいことである。

 
  



10.キリスト教の「二分性」を否定する者は、「唯一の神」を否定して、主客の区別を否定する。そして、知性による全ての区別を廃した「善悪未分化の母なる混沌」への「嬰児的回帰」を主張する。


さて、これからいよいよ上記の恐ろしい各種の運動のように、御言葉の「二分性」を否定し、十字架の切り分けを曖昧にする思想が、「神は唯一である」という聖書の真理に逆らって、自ら神になりかわろうとする試みであり、その根本に横たわるものは、聖書の神に反逆する東洋思想(グノーシス主義)であることを見ていきたい。
 
さて、聖書は初めから最後まで分離と切り分けに満ちている。天と地、光と闇、神と悪魔、造物主と被造物、堕落したこの世と来るべき世、霊と肉、男と女、父と子・・・。

聖書の御言葉の持つ二分性は本来的にすべて「神は唯一である」という事実に由来する。すなわち、神は絶対者であって、創造主であり、すべてを切り分ける主体である。他方、唯一の神以外の全てのものは、すべて神によって「造られた者」であり、神に「知られる者」という客体である。
 
このように、「神は唯一である」という事実が聖書のあらゆる「二分性」の根源となっている。どこまでも絶対者である主なる神と、それによって造られ、統治される客体である被造物との主客の区別が、キリスト教の「二分性」の根源なのである。

御言葉は、ただ創造主である神と、神によって造られた被造物との区別を生じさせるだけでなく、被造物の堕落後、キリストの十字架を通して、神に属する新創造と、滅びに定められた旧創造を峻厳に区別する。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえ刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル5:12)

神は唯一です。また、神と人との間の仲保者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)

わたしが神である。ほかにはいない。

 わたしのような神はいない。」(イザヤ46:9)

「私は、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、である。
  あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
」(出エジプト20:2-3)

ところが、すべての異端思想は、「神は唯一であり、神と人との仲保者も唯一である」という聖書の事実に激しく逆らう。それは、異端思想は、神の地位を奪おうとした悪魔の欲望を正当化し、悪魔とそれに従う暗闇の勢力が神に対して罪を犯したために神と断絶し、神に永久に見捨てられて滅びに定められているという事実を覆い隠して、主と客を転倒させて、神を罪に定め、悪魔と悪霊たちが自分たちを無罪放免して名誉回復するために作りだした秩序転倒の教えだからである。

そこで、堕落した暗闇の勢力は、神に反逆した自分たちが未来永劫、破滅を運命づけられているという事実を否定し、これを人の目からも覆い隠すために、聖書をさかさまにして、「唯一の神」という聖書の真理を、「傲慢で愚かな悪神の思い上がり」として否定する。そして、神と人との唯一の仲保者であるキリストの十字架をも退けて、聖書の御言葉への信仰を否定して、キリスト教そのものを傲慢な排他主義だと主張して退ける。

今日でも、異端の教えは、キリスト教の持つ「二分性」を「傲慢さ」や「狭量さ」として非難して、御言葉による十字架の切り分けが、愚かで荒唐無稽なカルト的思考であるかのように信者に思わせることで、御言葉を退けて、救われていないこの世を擁護し、神に反逆して堕落した罪あるものを無罪放免し、神を押しのけて悪魔を名誉回復しようとするのである。カルト被害者救済活動は、あたかもキリスト教を装って始まったが、実際には、上記のように、キリスト教そのものに根本的に敵対する運動であることはすでに述べた通りである。
 
当ブログではこれまで、すべての異端思想の根源は、グノーシス主義思想にあることを述べて来たが、グノーシス主義の教えが、自らを唯一の神とする創造主を「悪神」として非難していることを思い出したい。グノーシス主義思想は、この目に見える物質世界を作った神は「狂った悪神」であるとし、この世を不幸に陥れている元凶であり、思い上がりゆえに「妬む神」となって「自分こそが唯一の神である」と宣言したのだとして非難する。たとえば、次のような記述は、グノーシス主義思想の基本を解説したものである。
 
 

グノーシス主義はこの世が悪の支配にゆだねられている理由を、この世を作った神が実は「偽の神」であって、それゆえに「悪の宇宙」、狂った世界が生まれた、と説明する。それはどういう意味かというと、もともと至高神(「真の神」)の作った世界はプレーローマ(充溢)した世界であったが、この至高神のアイオーン(神性)の一つであるソフィア(知恵)が、デミウルゴスDemiuruge(プラトンの「ティマイオス」に登場する造物主)あるいは、ヤルダバオートYaldabaothという狂った神を作った。ヤルダバオートは自分の出生を忘れ、自分こそ唯一の神だと錯覚している。このヤルダバオートの作った世界こそ悲惨に満ちた人間の生存している悪の宇宙である。従って、グノーシス主義はこの狂った宇宙に叛旗を翻す。(反宇宙主義)

グノーシス主義~悪の臨在
より引用



東洋思想には、「唯一の神」を否定するための物語があるわけではないが、事実上、グノーシス主義と同じように、唯一の神という概念が否定されている。

以前にも、当ブログで引用したことのある鈴木大拙氏は、著書『東洋的な見方』(岩波文庫)の中で次のように述べている、すなわち、西洋思想における「二分性」の原則は、知性を発展させて文明の発達に寄与はしたはいいが、それは同時に、力の論理を生み、果てしない分裂と闘争、疎外に結びついたと。そして、鈴木氏はこの悪しき「二分性」の源が、キリスト教にあるとみなすのである。
 
「ラテン語でdivide et imperaというのがある。英語に訳すると、divide and ruleの義だという。すなわち「分けて制する」とでも邦訳すべきか。なんでも政治家軍事上の言葉らしい。相手になるものの勢力を分割して、その間に闘争を起こさしめ、それで弱まるところを打って、屈服させるのである。ところが、この語には不思議に西洋思想や文化の特性を剴切に表現している。

 分割は知性の性格である。まず主と客とをわけるわれと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。

 それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。」(p.10-11)
 
鈴木大拙氏は、西洋思想における知性による分割の「二分性」の根源はキリスト教にあり、そして、この二分性こそ、「キリスト教の著しい欠点」であると主張する。

「西洋文化といえば、ギリシャ、ローマ、ユダヤ的文化の伝統ということになる。その不完全さは、宗教の上に最も強くあらわれる。自分はキリスト教をみだりに非難するのでなく、また悪口するのでもない。これはいうまでもないところだが、キ教には、二分性から来る短所が著しく見え、それが今後の人間生活の上に何らかの意味で欠点を生じ、世界文化の形成に、面白からぬ影響を及ぼすものと信じる。キ教はこれを自覚して、包容性を涵養しなくてはならぬ。

 二分性から生ずる排他性・主我性などは、はなはだ好ましからざる性格である。二分性を調節して、しかもそれを包含することになれば話はわかるが、これがないと、喧嘩が絶えない。<中略>

 西洋では造物主と所造者とを峻別する。造物主をゴッドという。天地万物はこの能造者から出て来る。造られて出る。そうして能造者自身は造られないものである。絶対者である。それがまた所造者として統率している。それから出る命令は至上命令で、これを乗り越えるわけにいかぬ。二分性は人間に与えられたところのもので、これから脱離不可能だ。能造と所造とを分けてかかると、それから次々とあらゆる対蹠が出てくる。自分と汝、善と悪、罪人と聖者、黒と白、はじめと終わり、生と死、地獄と極楽、運と不運、味方と敵、愛と憎しみ、その他、あらゆる方面に対立が可能になる。こんなあんばいにして、まず二つに分かれてくると、それから無限の分裂が可能になってくる。その結果は無限の関係網がひろがって、人間の考えが、いやが上に紛糾する。手のつけられぬようになる。ある意味で、われらは今日のところ、この紛糾せる乱麻の間中に出没している。それで、手や足やが、彼方にひっかかり、此方にひっかかりって、もがけば、またそれだけ、幾重にもまつわってくるという次第である。一遍ひっかかると、手がつけられぬといってよい。枝葉がはびこると、自然に根本を忘れる。二分性の論理はそういうことになるのが、常である。」(p.169-171)
 
鈴木氏によるキリスト教の持つ「二分性」への非難は、今改めて読んでみると、まさにこれまで当ブログ記事で示してきたような、「キリスト教の排他性」を非難して、キリスト教から「脱福」した元信者や、カルト被害者救済活動の支持者らによる信者に対する非難の言葉にぴったり重なるように思われる。特に、元信者によるキリスト教に対する非難の言葉を思い出したい。

「キリスト教そのものに本質的な精神病理があると愚考しているのです。」

「聖書絶対主義と申しますか、よく言えば「福音的」な信仰と申しますか、そういう発想のただ中にそもそも自己愛的な「排除の病理」を看取するのですよ。」
 
鈴木氏もこうした人々と同様に、キリスト教の「二分性」をあるまじき「排他性」「主我性(言い換えれば、自己愛!)」として非難し、この「二分性」こそ、キリスト教を「不完全」にしている最大の欠点であるとみなし、キリスト教はこの「二分性」を克服して、もっと「包容性」を補わなければならないと言うのである。

鈴木氏のキリスト教に対する非難の言葉を見ると、今日、福音を拒んでキリスト教に敵対している人々の主張が、何ら新しいものではなく、彼らの使う「自己愛」や「ナルシシズム」や「病理」といった言葉でさえ、古くからあるキリスト教批判の焼き増しに過ぎない事実が見えて来る。
 
こうした人々のキリスト教に対する非難の根源となっているのは、「主客の区別」、すなわち「創造主」と「被造物」との区別、「知る者」と「知られる者」との区別などの「二分性」である。そして、彼らはこの主客の二分性を撤廃することによって、キリスト教はその残酷な排他性という著しい欠点(もしくは「病理」)を克服せねばならない、と主張するのである。

だが、彼らの言うように、主客の区別を撤廃することは、被造物に過ぎない者が、自らを造った神に対して、神であることをやめよと言うのと同じであるから、とてつもない傲慢であり、まさに神に対する反逆なのだが、彼らはそのことは全く理解しない。

鈴木氏は、聖書の「唯一の神」から生まれる主客の区別を「キリスト教の不完全性」として退ける一方で、東洋思想の長所と称して、神と人との断絶が生じる前の「主客未分化」の状態へ回帰するべしと提唱する。すなわち、無限の分離を生み出すだけの知性に基づく父性原理にではなく、善悪の区別なく全てを包容する母なる混沌へと回帰せよというのである。

「主客未分化(善悪未分化)の母なる混沌」――これこそ、あらゆる種類のグノーシス主義が一様に原初のユートピアとして回帰を唱えるものの正体である。

さて、鈴木氏の提唱する「主客未分化」の状態とは、神が「光あれ」と言われる前の状態、すなわち、光と闇とが分離されない状態、つまり、善も悪もなく、神と、神に反逆して堕落した永遠の犯罪者である悪魔と暗闇の勢力との区別すらもない混沌とした状態である。

同時に、鈴木氏の言う、神が「光あれ」と言われる前の未分化の状態とは、分割する知性によってあらゆるものが識別される前の状態、すなわち、人が自分自身と、自分を取り巻く世界を明確に区別し、理性によって周囲の物事を分析しわきまえる必要が生じるより前の状態を指している。これは人間の知性による一切の分析や識別自体が存在しない状態である。
 
あたかも暗い母胎のような場所で、人が嬰児のごとく、受動的に世界に包まれて養われており、自分が誰であるのか、これから何が起きようとしているのか、自分を包んでいる世界とは何なのか、どこまでが自分で、どこからが自分でないのか、それさえ分からずに、ただ世界と一体化して無防備に混沌に身を委ねて漂う、一切の自我意識が生じる前の、無意識のような、忘我の境地のような状態を指している。

さらに、重要なのは、この混沌が「母なるもの」と女性形で呼ばれていることである。鈴木氏の言う知性による区別が存在しない「主客未分化(善悪未分化)の混沌」、これこそ、あらゆる東洋的な「母なるもの」の正体であり、グノーシス主義思想が唱えるユートピアとしての「原初回帰」なのであるが、これを説明するために、長いが、鈴木氏の言葉をそのまま引用したい。

「東洋民族の間では、分割的知性、したがって、それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。われわれ東洋人の真理は、知性発生以前、論理万能主義以前の所に向かって、その根を下ろし、その幹を培うところになった。近ごろの学者たちは、これを嘲笑せんとする傾向を示すが、それは知性の外面的光彩のまばゆきまでなるに眩惑せられた結果である。畢竟ずるに眼光紙背に徹せぬからだ。

 主客未分以前というのは、神がまだ「光あれ」といわれなかったときのことである。あるいは、そういわんとする刹那である。この刹那の機を捕えるところに、東洋真理の「玄之又玄」(『老子』第一章)なるものがある。この玄に触れないかぎり、知性はいつも浮き足になっている。現代人の不安は実にここから出て来る。これは個人の上だけに表れているのではない。国際政治の上にもっとも顕著な事象となって、日々の新聞に報ぜられる。

 「光あれ」という心が、神の胸に動き出さんとする、その刹那に触れんとするのが、東洋民族の心理であるのに対して、欧米的心理は、「光」が現れてからの事象に没頭するのである。主客あるいは明暗未分化以前の光景を、東洋思想の思想家である老子の言葉を借りると、「恍惚」である。荘子はこれを「混沌」といっている。また「無状の状。無象の象」(『老子』第十四章)ともいう。何だか形相があるようで何もない。名をつけると、それに相応した何かがあるように考える。それで、まだ何とも名をつけず、何らの性格づけをしないとき、かりに、これをいまだ動き始めぬ神の存在態とする。老子は、またこれを「天下谿(てんかのけい)」とも「天下谷(てんかのたに)」ともいう(第二十八章)。谷も谿も同じだ。またこれを「玄牝(げんぴん)」ともいう。母の義、または、雌の義である。ゲーテの「永遠の女性」である。これを守って離れず惑わざるところに、「嬰児(えいじ)」に復帰し、「無極(むきょく)」に復帰し、「樸(はく)」に復帰するのである。ここに未だ発言せざる神がいる。神が何かをいうときが、樸の散ずるところ、無象の象に名のつけられるところで、これから万物が生まれ出る母性が成立する。分割が行ぜられる。万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」(p.13-14)
 
以上の鈴木氏の言葉を読めば、同氏がキリスト教の持つ「二分性」(あるいは「分割する知性」そのもの)を、「律法と義によって統御する」狭量な「父性原理」として退け、むしろ、善悪の切り分け自体が存在しない、何もかもを無条件に許し包容する(知性発生以前の)「母性原理」の境地に嬰児的に回帰することが、東洋思想の醍醐味であり、長所であると述べていることが分かるのである。

だが、実は、このような「母なるものへの回帰」は、大変、恐ろしい思想なのである。

 



11.聖書の原則である「分離」や「切り分け」を否定して、主客未分化の「母なる混沌」への「嬰児的回帰」を提唱する思想は、個人を全体にからめ取り、離脱を許さない恐ろしい支配を生む。

「主客未分化」、「善悪の区別のない母のような包容性」とは、一体、何を意味するのか。
「受容」や「包容」と言った甘い言葉の響きに欺かれることなく、「人が永遠に胎児のままで母胎から抜け出られない世界」とはどういうものか、想像してもらいたい。

「分割する知性が発生する以前の善悪未分化の状態」とは、人が自分で物事を考えることも、識別することもできず、むろん、行動や選択の自由もなく、自己決定権というものが一切、存在せず、ただ与えられるものを無条件に受け入れて、自分を何者かに完全に委ねて明け渡し、自分よりもはるかに強い何者かに包み込まれ、支配されてしか、生きられない状態を意味する。

それは、「母なるもの」の支配から決して人が分離することのできない、永遠に離脱の自由のない、がんじがらめの世界である。

これが決して行き過ぎた表現でないことは、東洋思想に基づいて作られた戦前の日本の国家主義が、個人が共同体(家族、社会、企業、国家)から離脱する自由を一切認めない恐ろしい思想であったことによく表れている。

それは、「神と人との断絶はない」(神と人とが和合している)という思想ゆえに、生まれて来た発想であった。

すなわち、神と人との断絶を認めず、人が神によって造られた被造物であり、なおかつ、堕落しているがゆえに神と切り離されているという聖書の事実を認めないと、主客の区別が消滅し、その結果、全体と切り離された個人という概念も否定されるのである。そうなると、個人として認められない人間は、自分を取り巻く環境から離脱する自己決定権を永久に奪われることになるのである。(記事「東洋思想とは何か。~その柱は何を再建しようとしているのか~」参照。)

こうして、東洋思想が「分離」や「切り分け」を悪いものであるかのように否定して、個人としての人間の自己決定権をも退けて、切り分けの存在しない状態である「善悪未分化」「主客未分化」の「母なる混沌」への「嬰児的回帰」を目指すのに対し、聖書の原則は常に、人が自らの知性を完全に働かせて、大人として能動的に識別し選択する「分離」や「切り分け」を奨励する。
 
聖書には「分離」や「切り分け」を否定的にとらえる発想はない。神に属さないものとは「分離せよ」というのが、聖書の教えの基本である。

不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
 キリストとべリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。
「わたしは彼らの間に住み、また歩む。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らは私の民となる。
 それゆえ、彼らの中から出て行き、
 彼らと分離せよ、と主は言われる。
 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:14-18)


キリスト者は、この世からの分離によって、キリストの霊的統治の中に召し出された者たちである。キリストと共なる十字架の死を通して、自らの古き自己に死んで、肉なる家族からも分離を遂げて、神の霊的な家族へと加えられた。このように、キリスト者の信仰の歩みは絶えざる「エクソダス」であり、「分離」であって、その目的は「出て来た故郷」に戻ることには決してない。

聖書の分離の原則は、母胎のような未分化の混沌への回帰とは正反対であり、「父母からの分離」も、聖書の原則の一つである。「それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。」(マタイ19:5)

ここでイエスの語られた御言葉は、男女の結婚を指しているのみならず、キリスト者の信仰の歩みにもあてはまる。つまり、人はキリストへの信仰を持つことにより、生まれながらの自分の出自に死んで、生まれ落ちた家庭を離れ、神の霊的な家族の一員として加えられ、キリストの花嫁なるエクレシア(教会)として召されるのである。信者が教会として召されることは、この世からの分離なくしては決して成り立たない。

ヘブル書11章には、信仰の先人たちの地上での歩みがことごとく神に属さないものからの絶えざる「分離」であったことが記されている。

「信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟りしたがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。」
「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。」
「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造りその箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」
「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました
 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続する遺作やヤコブとともに天幕生活をしました
 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」
「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み
はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
 信仰によって、彼は王の怒りを逸れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。
信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎを行ないました
 信仰によって、彼らはかわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。」


「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)

このように、「分離」や「切り分け」は、キリスト教から決して外すことのできない大原則であり、信者はこの御言葉の切り分けの機能に基づいて、何が神の御心であり、何がそうでないのかを自ら識別する。そして、神に従う道を選び取るために、堕落したこの世の故郷と自ら訣別して、まだ見ぬ天の故郷へ向けて旅立って来たのである。

しかしながら、今日、キリスト教にも、御言葉の「分離」や「切り分け」を巧妙に否定する異端思想の危険が迫っている。東洋思想における「何もかも包含する母の愛」なるものが、あたかもキリスト教のような仮面をつけてこの宗教に入り込み、「神は愛だから罪人を裁いたりなさらない」などと言って、人の罪を否定して、神と人との断絶を否定したり、神の裁きを否定したりしている。(記事「命の道と死の道――狭き門と広き門――偽りの教えの構造(1)」参照。) あるいは、ペンテコステ運動のように、御言葉の切り分けを曖昧にして、信者が自ら霊的な識別力を放棄して、恍惚状態に受動的に身を委ねることを奨励するような教えが流行している。

東洋思想は、「主客未分化」や「すべてを包含する母なるもの」などの言葉で、神と人との断絶を否定し、光と闇とが分離される前の(悪魔が罪を犯して神に反逆する前の)状態への回帰を主張する。こうして、キリストの十字架を介さずに、「主」である神を退けて、生まれながらの人間が神に至る道を見つけようとする。

このような思想はあらゆる点から見て反逆的なのであるが、何よりもまず、被造物である人間が「神に造られたもの」であって、神に「知られる者」という客体であるという事実を否定する点で、反逆的である。そして、被造物は、自らを造った神に従うのが当然であるという秩序をも否定する。そして、「目に見えるもの」と「見えないもの」の秩序を逆転し、主と客との立場を逆転して、自分が「主」となり、神になり、創造主の神秘を極めようとする。

こうして、東洋思想は、グノーシス主義と同様に、聖書のまことの神を退けて自ら神になろうという悪しき願望を述べるのだが、その反逆的な動機の悪質さを隠すために、「キリスト教は残酷で排他的で不完全な宗教だ!」とか「包容性が足りない!」とか「キリスト教の二分性は争いを助長する!」とか「キリスト教の信者の主我性は自己愛だ!」などと、ありとあらゆる方法で聖書の二分性を非難して、何とかして善悪の区別を廃し、神が唯一であるという聖書の事実を否定して、神に呪われて退けられた堕落した勢力をもう一度、復権し、神にまで至らせようと試みるのである。

その主客転倒(主客未分化ではなく主客転倒!)の試みが、東洋思想においては「善悪未分化の状態である母なる混沌への回帰」となって現れ、グノーシス主義思想においては「唯一の神」を宣言する創造主を「傲慢な悪神」として貶めて断罪するという考えになって現れるのである。

こうした思想を信じる人々は、自ら聖書の御言葉を曲げて神に反逆し、神になりかわろうとしているのであるが、その反逆の意図を隠すためにこそ、「キリスト教の危機」をしきりに訴えては信者の心を揺さぶり、キリスト教を「不完全で短所だらけの排他的で病理的な宗教」として印象づけようと努力し、キリスト教の教義や、聖書の御言葉に立脚した信仰生活が、あたかもカルト的・反人間的な思考に基づくものであるかのように描き出すことで、聖書の御言葉の信用を毀損し、聖書の御言葉の真実性を信者に疑わせて、「思い上がって狭量な信仰」に対する自己反省を迫り、十字架における「切り分け」を否定することで、本来、救われるはずのない人々、罪に定められている堕落した世界を「救済」しようと試みるのである。

結局、こうした人々は、キリストの福音を否定して、罪の悔い改めもなく、キリストの十字架の贖いを信じることもなく、アダムに対する十字架の死の宣告を受け入れることもなくして、誰もがありのままで救われ、神に至ることができるようなヒューマニスティックな「広い道」をよこせと叫んでいるのである。しかも、聖書の御言葉を否定して、自ら神になりかわろうとする忌まわしい欲望を、「キリスト教によって被害を受けた被害者を救済する」などと述べて、人類愛や弱者救済などの美辞麗句で覆い隠そうとしているのである。

これらの思想は、形は違えどその主張の根幹は同じであり、要するに、その根底には、聖書の神に対する反逆の思想がある。このような思想こそ、神に対する「高慢」と「自己愛」と歪んだ「ナルシシズム」の「病理」として非難されてしかるべきであろう。

だが、鈴木大拙のように、キリスト教とは関わりのない他宗教の信者がそのような批判を繰り広げるならば、まだしも理解できるが、キリスト教の内側から、キリスト教に偽装して、そのように福音を曲げる主張が生まれて来ることには驚きを禁じ得ない。

こうした人々を生む土壌となっているのが、カルト被害者救済活動であり、さらに、このカルト被害者救済活動を生み出す母体となっているものが、ペンテコステ運動である。

そして、ペンテコステ運動も、御言葉の切り分けを否定して、生まれながらの人を神に至らせようとする聖書に対する反逆思想の土壌となっていることに注意しなければならない。(たとえば、「偽キリスト」現代における背教:「人が神になる」という偽りの教え---ペンテコステ・カリスマ運動の場合―」参照。)
  
このような主張をする人々は、たとえクリスチャンを装っていたとしても、その思想形態から判断するに、とてもではないが信者とは呼べない。むしろ、こうした人々は、十字架の切り分けの存在しない東洋思想(グノーシス主義)をキリスト教の中に持ち込んで、キリスト教を内側から乗っ取り、この宗教からあらゆる区別を撤廃することで、キリスト教を全く異質なものへ変質させようという大変、危険な試みを推進しているのだと言えよう。

だが、こうした異端思想がどれほど流行しようとも、「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしい」(ルカ16:17)とイエスが言われた通り、聖書の御言葉の真実性が少しでも揺らいだり、キリストの十字架の「分離」や「切り分け」が消滅することは決してない。

たとえキリスト教界の中に、悪党のような嘘つきが入り込み、どれだけ声高に偽りの福音を叫んだとしても、聖書の御言葉は永遠に堅固として不変であり、人間の勝手な必要に応じて変えることはできず、まして堕落した時代の要請に基づいて変えることはできない。

従って、どんな理屈を用いていたとしても、十字架の分離を否定し、神に呪われた旧創造を無罪放免しようとする人々は、聖書の事実に逆らうことによって、神に敵対しているのであり、その試みは、歴史を振り返っても分かる通り、最期は悲惨な自滅に終わるであろう。

聖書はこのような人々の考え方に対して言う、

ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている
 陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。
 造られた者が、それを造った者に、
「彼は私を造らなかった。」と言い、
 陶器が陶器師に、
「彼はわからずやだ。」と言えようか。」イザヤ29:16)
 
  「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、
多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。
彼らの 思いは地上のことだけです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のかたらだと同じに変えてくださるのです。」(ピリピ3:18-21)

 さて、次回は、「母なる混沌」のもたらす支配の恐ろしい本質により迫って行きたい。

<続く>


カルト被害者救済活動の反聖書性―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動③ー

7.キリストの十字架によらず、肉による善行を通して、人が自力で救済に至ろうとする偽りのヒューマニズムは、「神に見捨てられた罪人を、神の十字架の判決から救う」ための「神に対する被害者運動」である


さて、記事「カルト被害者救済活動の反聖書性について―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動➀」の中では、キリスト教の不祥事につまづいたことをきっかけに、キリスト教の「二分性」や「排他性」につまずき、これを「思い上がって狭量な救い」として非難して、聖書の御言葉の否定に至る人々がいることを書いた。

カルト被害者救済活動に携わる人々が、特にプロテスタントのクリスチャンを「高慢」や「自己愛」などという言葉を用いて盛んに非難する背景には、聖書の御言葉が本質的に持っている排他性に対する抗議の念が含まれている。つまり、彼らは信者に抗議しているのではなく、聖書の御言葉に逆らっていることを見て来た。

ここから、聖書の二分性を否定する東洋思想の恐ろしさについて述べたいのだが、その前に、偽りの救済活動の持つ「高慢さ」について、さらに少し補足しておきたい。

幾度も書いて来たように、上記のような人々には、キリスト教の福音が、多くの人々を排除する残酷で狭量で反人間的な「排除の論理」であると述べて、キリストの達成された御業だけに頼ろうとせず、そこに人間の努力による自己救済という要素をつけ加え、よりヒューマニスティックな福音を作ろうとして、最後には聖書の御言葉に逆らって、これを否定して行というく特徴がある。

彼らは、神の救済を退けて、己の肉を高く掲げ、肉による善行を通して神に至ろうとする高慢に陥っているのだが、それが自分では分からないのである。

キリスト教界においては、一方では、組織に所属し、礼拝儀式への参加や、様々な奉仕活動を通して神に至ろうと、己の外面を磨き、肉の善行により頼む人々がいるかと思えば、その対極には、カルト化した教会で被害を受けた人々を救おうと、善良な救済者を名乗って登場し、やはり肉の行いにより頼んで人間を救おうとする人々がいる。

それらは対極にあるように見えて、どちらも同じように、キリストの十字架を抜きにした人間の自己救済の努力としての偽りのヒューマニズムである。これらは聖書に立脚しておらず、御言葉を曲げているという意味において、本当はキリスト教と呼ばれるべきではない。こうした活動の最たる特徴は、信者を決してキリストだけに導いて自由へ至らせることなく、むしろ、人間が作り出した様々な支配関係・依存関係の中に閉じ込めてしまう点である。

一方には、教会籍を作り、信者を組織としての教会に束縛し、キリストではなく目に見える人間である牧師という指導者に従わせ、指導者を絶対化する制度があり、他方には、自称救済者である指導者が、「教会で被害を受けた」とする信者たちを集めて自分に従わせ、離反者には容赦なく制裁を加え、離脱を許さない閉鎖的なカルト被害者救済活動がある。

筆者はこれらの二つの活動が、ともに聖書の本質から逸れて堕落した地上組織としてのキリスト教界の産物であって、根本的に同一の起源から出てきていることを指摘して来た。

これらはどちらも、聖書の御言葉を曲げて、キリストではなく人間の指導者を崇め、人が己の肉により頼んで自己救済を図るところから出て来た活動であり、本質的に聖書に反している。だが、今日、キリスト教と呼ばれているものの99%以上は、こうした活動で占められており、無知ゆえにそれに欺かれているだけの人々が、ことさらに罪に問われることはないようにと願う(だが、彼らの人生の損失は非常に大きいものと思うが)。

いずれにしても、そのようなものが聖書の御言葉の本質でないことは確かであり、そうである限り、本気で真理を求める人々が、そのような皮相な活動を離れて、神を尋ね求める例はこれからも現れるだろう。キリストのお与え下さった自由を生きて知るために、そうした虚偽の活動を離れ、人知れず、荒野を通るようにして、キリストご自身以外に頼るもののない状況で、この方だけにより頼み、御言葉の真実さ、確かさを生きて知るための訓練を受け、神の熟練した兵士となって、神の約束して下さった御国の前味を生きて知り、御旨を地上に実際に引き下ろす人々が現れるだろう。

必ず、神はご自分の民を用意しておられる。この先、どのような時代が来て、拙稿がどれほど役に立つのかは分からないが、筆者がしているのは、主の民のために道を整えるために、これまでに達し得たすべての教訓を残すことである。拙稿をたたき台として踏み越えて、さらに前進して行く人も現れることであろう。

さて、話を戻せば、以上に挙げたように、神の知恵に逆らって、生まれながらの人間の肉を高く掲げる人々は、当然ながら、神に対してのみならず、人に対しても高慢になる。

筆者は、これまで奉仕精神にあふれたクリスチャンに幾人も出会った。困っている人々を見ると助けずにいられず、自分の知っている真理を人にも分かち合わずにいられない、といった人々で、必ずしも、「善魔」と呼ばれるような、押しつけがましい奉仕者ばかりではなかった。

だが、たとえどんなに彼らが謙虚に人助けに邁進しているようであっても、そこにはどうしても、彼らが自分では気づいていない密かな高慢さとナルシシズムの落とし穴が存在することを筆者は常に感じずにいられなかった。

それは、彼らが神の御前で自分こそが欠乏を抱え、自分こそが問題を抱えている張本人なのだという事実を見ることを否み、自分の問題を他者に転嫁し、他者を救済することで、自己救済をはかろうとしているという自己欺瞞である。そういう人々に対しては、

「なぜ、人を教えて自分を教えないのか。」(ローマ2:21)という一言に尽きるだろう。

「イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」」(ヨハネ9:41)

上記のヨハネの福音書の御言葉は、イエスが盲人を癒された時に言われた言葉である。だが、これは、盲人という障害者に対する健常者の差別を非難して言われた言葉ではない。この言葉は、「社会的弱者を見下してはいけません」という観点から述べられたものではなく、神を見下している人々に向かって述べられた非難の言葉である。すなわち、イエスは、偽善者たちが(人に対してではなく)神に対して「私は見える」と言い張っているところに罪があると非難されたのである。

肉による善行とは、結局、己を神以上に高く掲げ、神以上に自分が正しいと言い張り、神の最善としてのキリストの十字架の救いを退けて、人が自分自身の努力によって神に至ろうとするすべての努力を指すのである。その中には、当然ながら、カルト被害者救済活動のように、まことの救い主である神を退けてまで、己が救済者になって人助けにいそしもうとする人間の高慢さも含まれている。

このように熱心に人助けにいそしんで救済者や指導者になりたがる人々は、一様に言う、「私には分かっている」、「私は知っている」、「私は人に教えてあげられる」、「私はあなたの状態を見て可哀想に思う」云々。一見、人を助けると見せかけて、弱さを抱えた人をどこまでも見下し、自らの栄光の道具として行く人々の口調に見られる高慢な響きは、杉本徳久氏の書簡を読むだけで十分である。

彼らは外見的には、困っている人々を見捨ててはおけない隣人愛に溢れた謙虚な人間を装い、教会にも熱心に通って敬虔なクリスチャンのように振る舞い、自分の人生においてはあたかもすべての問題に対する解決をすでに得ているかのように振る舞うかも知れない。だが、そのように人前で「完全無欠」を装い、熱心に人助けに励む人間ほど、心の内側では、必ずと言って良いほど、マザー・テレサ同様に、神が分からない、自分は神に見捨てられているという絶望感や空虚さに苛まれているのではないかと筆者は思う。カルト被害者救済活動の辿って来た道のりが、そのことを十分に立証しているように思う。

他者に対して救済者になりたがる人々というのは、欠乏を抱えて道に迷い、困窮して「可哀想な」弱者とは、常に自分ではない他の誰かであると考えて、他者を心密に見下しながら、同情の眼差しで見、上から手を差し伸べようとする。

このような人々は、他者を「救済する」という口実に自分自身が欺かれており、人助けを口実として、自分が常に他者よりも優位に立って、人間関係において主導権を握り、相手を支配して行こうという願望をかなえようとしているだけであることに気づかない。「救済する」側の人間は栄光を受け、感謝され、脚光を浴びるが、「救済する者」と「救済される者」との間には、圧倒的な力の差が出来、その溝はいつまで経っても、決して埋まらない。これは霊的搾取に基づく支配関係である。

そのようにして、彼らは巧妙に他者の尊厳を貶めながら、真の救済者である神を押しのけて、自分が救済者を名乗り、神から栄光を奪っているのである。なおかつ、そうして他者の問題ばかりに注目し、他者に同情し、謙虚に手を差し伸べているように見せかけながら、密かに優越感を味わい、自己の抱える本当の問題や必要から目をそらし、神を抜きにして自己をあたかも完全であるかのように思い込もうとしているのである。

こうした人々は、自分の問題を決して訴えようとしないので、傍目には、謙虚に隣人愛に生きているように見えるかも知れないが、それはただ自分の内心の問題に目をつぶり、これを他者に転嫁して、自分の問題を、他者の問題として訴えることで、自分はあたかも己の利益のために行動していないかのように装っているだけである。

どんなに人助けにいそしんでも、依然として、彼らの注意は人間にしか向いておらず、キリストに向いていない。そうである以上、そのような活動に没頭すればするほど、ますます神の臨在を感じることもなくなり、神が分からないという絶望感に陥るのは当然である。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」(Ⅱコリント3:16)

マザー・テレサは50年以上も神の臨在を全く感じられない「神の不在」の中にあった。単に霊的な交わりを一切感じられなかっただけでなく、神そのものが生きて実在しておられると信じることさえできないほどの絶望にあったようである。他人に神の愛を伝えておきながら、自分自身は神の愛が分からないというのでは、本末転倒ではないだろうか。どうして自分が分かっていないことを、人に教えられるのだろうか。理解することもできないほどの衝撃的な自己矛盾であるが、ここに筆者は、カルト被害者救済活動の支持者らとの共通点を見ずにいられない。すなわち、自分を差し置いて、救済されねばならないのは他人だと考えて、人助けにいそしむ人々の高慢さというものを見ずにいられないのである。

さらに、彼らの人助けなるものも、本当は、世間で賞賛と共に理解されているようなものとは、全く違ったものであった。それは結局、キリストへの信仰を持たない、神に見捨てられた人々を、同じように神に見捨てられた人々が、聖書とは別の方法で「救済」しようとするという意味において、神に逆らう高慢な反聖書的な活動だったのであり、パウロの指摘した「神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり」(Ⅱコリント10:5)にあてはまるものと言わざるを得ない。

マザー・テレサはインドの「貧しい人々の中にキリストが臨在しておられる」と述べて、信仰を持たない人々の内に「キリスト」を見いだせると主張した。だが、このことは、彼女が聖書の御言葉を曲げて、信仰を持たなくても人が救われてキリストに至ることが可能だとみなしたことを意味する。こうした彼女の主張は、ちょうどカルト被害者救済活動が、信者よりも、不信者をより多く引きつけたのと、よく似た構図を持つ。彼らの人助けは、根本的に、信者のためのものではなかったのである。むしろ、それは神が十字架で罪に定め、廃棄するしかないという宣告を下された、信仰を持たないアダムに属する古き人(旧創造)を、神が唯一の救いとして定められたキリストの十字架から救おうとする活動だったのであり、「神に見捨てられた罪人・弱者を神の残酷な死刑判決から救うための、神に対する被害者運動」だったのである。

そのような意味で、これは聖書をさかさまにして、キリストの十字架を通して、神が定められた罪と死の判決から、哀れな人類を救おうとする、神を仮想敵とする、神に対する人類の被害者運動だったと言えるのであり、決して聖書の御言葉を介さずに、キリストの十字架を経由することなくして、人類を神による罪定めから解放し、人間がまことの神を退けて自力で神に至ろうとする(神の座を奪おうとする)点で、神に対する反逆運動だったと言えるのである。

そうである以上、こうした活動が人に自由をもたらすことは決してない。実際に、これは全く人助けなどではなく、あたかも人助けのように見せかけながら、人を不自由な人間関係の序列の中に束縛し、決してそこから逃がさずに、人の栄光を築き上げる道具として閉じ込める偽りの支配関係・依存関係なのであり、その残酷で不自由な支配は、この活動の虚偽を見抜き、それに反対を唱えて離脱しようとする人々が現れた時に、根こそぎ明るみに出た。カルト被害者救済活動の支持者が、この活動の危険を訴えたり、反対する者に対して、何をして来たかはすでに幾度も明らかにした通りである。

こうして、弱者救済活動に関わる人々の心に潜む、高慢さと歪んだ自己愛、さらにもっと言えば、権力欲、名誉欲、支配欲といったものが確かに存在することを筆者は考えないわけにいかない。だからこそ、一見、人の目には美しく見えるこうした弱者救済活動の持つ聖書に反する本質的な危険性について、再三に渡り、訴えないわけにはいかないのである。

さて、神を知るためには、信者がこうした偽りの運動によって身を飾ろうとすることをやめ、何よりも人の方ばかりを向くのをやめて、神の方を向くしかない。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ2:4)

新約に出て来る神のぶどう園を企業にたとえてみたい。神はある日、ぶどう園運営会社で働いていた全社員の働き方を見て、全員の解雇を決定された。これら全社員は、今や横領と背任の罪で告発されている。神は、ご自分に完全に忠実な新しい指導者を会社に送り込んで、己の罪を認めてこの新たな指導者に従う人間だけが、社員であり続けることができるという規則を定めた。社員が解雇されない道は、この新しい規則に服することしかない。すでに新しい規則に基づいて新入社員の受け入れも始まっている。なのに、会社には依然として、この新しい規則を拒んで、新しい社員をいわれなく攻撃しては排斥し、神が立てられた新しい指導者をも拒んで、罪に問われている古い社員を擁護して、彼らを残酷に排除された「被害者」であると主張して、「残酷な排除の論理」である新しい規則に逆らって、古い社員の「救済活動」を繰り広げている人々がいる。だが、そんなことをして何になるのか。それは救済ではなく反逆である。それは神のぶどう園の乗っ取り計画である。そのように、神を罪に定め、神の憐れみによって与えられた唯一の解決をも退けてでも、罪人を復権させようとする悪人どもは、根こそぎ解雇された上、監獄にぶち込まれるであろう。

神が人類全体を罪に定められた以上、人類(旧創造)の利益にこだわっても無意味なのである。キリスト者は、罪に定められた旧創造としての人類を擁護し、旧創造の思惑を忖度するために生きるのではなく、これをすべて退けてでも、神は一体、何を望んでおられ、神の目に真に価値あるものは何なのか、それをこそ考え、追い求め、実現するために生きている。

そのために必要なのは、信者が、神の御前で自分の無知を偽らず、自分が神の御前で貧しい者であることを認め、真理を求めて絶えず神に近づきたいと願うことである。自分自身の心の欠乏を他者に投影・転嫁するのではなく、人の問題にかこつけて願い出るのでもなく、強がりを捨て、素直に自分の必要を認めて、あらゆる問題について神に正直に打ち明けて助けを乞うために、自分をさらけ出して神に真剣に向き合い、心のすべてを持って誠実に語り合い、懇願するしかない。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る軟膏を買いなさい。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示3:17-19)

この終わりの時代、本気で神に従い抜きたいと願うなら、どの信者も信仰を守るためにそれなりの戦いを余儀なくされるものと筆者は考えている。パウロでさえも書いている、「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Ⅰコリント9:27)と。

パウロでさえこのように言わなければならなかったのであるから、今日の信者が、キリストに忠実であり続けるために何の覚悟も要らないというわけにはいかないだろう。

確かに、信者がキリストの十字架を信じ、救われている事実は永遠に変わらない。我々の内におられる方は「世に勝った方」であり、この世の君であるサタンよりも強いのである。そして、キリストから生まれた者たちも、この世よりも強いのである。だから、勝利は常にキリスト者のものである。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ5:3-5)

だが、その勝利は、信者が生きて御言葉を信仰によって実際にこの地に引き下ろすことなくして、世に現れ出ることはない。そのために、信者はのんきに悠長に構えているわけにはいかないのである。もし御言葉を実際としたいならば、日々、自分の十字架を負って、自己を否んでキリストに従い、御言葉の内にとどまり、これを守らなければならない。

神の御前で真に「豊かな者」となるために、自分が貧しい者であることを認め、神に叱られたり、懲らしめられたりしながら、あらゆる試練を潜り抜けて、より御言葉のリアリティの中に入り込んで前進し、やがて勇敢で強い兵士になって、御言葉を毀損するこの世のあらゆる偽りと高ぶりを打破し、キリストが十字架で取られた勝利をこの地に実際として打ち立てて、復活の領域を押し広げて行く必要がある。

このような戦いの中で、神に絶えず知恵と助けを求めて近づく必要を覚えない信者がどこにいるだろうか。だが、自分自身を偽って、神と人との前で、「私は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」と言い張っている人間だけは、例外である。

彼らは神と人との前で自分の無知を認めることもなく、自分の弱さを認めてキリストに助けを乞うこともなく、自分の内側にある問題を神に正直に打ち明けることをもしないで、あたかも自分には何の不足もないかのように装い、自分の抱える見たくない問題には一切蓋をしながら、他者の問題だけにスポットライトを当て、容赦なく人の問題を暴き、他人の窮状について言葉を尽くして語りながら、それがさも隣人愛であるかのように偽り、神と人との前で自己を偽り、自分は優れて立派な人間であるかのように取り繕う。

このようなやり方では、どんなに他者をたくさん助けて感謝されてみたところで、彼ら自身の抱える心の必要性は永久に忘れ去られ、放置されたまま、誰にも振り返ってもらえず、置き去りにされるであろう。そのためにこそ、彼らの心の内側には、「自分は神に見捨てられている」という絶望感・空虚感が人知れず日々増し加わって行くのである。

そうして、人に宣べ伝えておきながら、自分自身は救いの対象外であり、自分の問題は永久に見捨てられており、解決されることもないという癒しがたい孤独と絶望感から目を背けるために、彼らは日々より一層、熱心に人助けに励み、自分の問題を他者に転嫁せずにいられなくなる。そうして、同じように「神に見捨てられて理不尽な状況に陥っている可哀想な弱者」(ほとんどが不信者)のために東奔西走することで、まことの救い主である神を否定し、神の栄光を盗みながら、神に見捨てられた旧創造の代表として、「生まれながらの人類を罪に定め、救いから排除した残酷な神の横暴さと理不尽」のゆえに神に抗議活動を続けるのである。

このような堂々巡りの罠にはまってしまうと、助ける側も、助けられる側も、永久にその偽りの救済活動が作り出す依存関係・支配関係の癒着から抜け出せなくなる。これこそが、謙遜とヒューマニズムに見せかけた、神によらない人類の絶望的な自己救済が生み出す高慢さと自己愛とナルシシズムの道である。

だが、主イエスの御言葉は、決してこんな恐ろしい不自由な束縛の中に人間を閉じ込めることはない。キリストご自身が、信者にとってすべての解決であり、まことの命であり、救い主であり、カウンセラーであり、弁護者である。従って、この方を内に得ている以上、信者はすべての必要をこの方のところに持って行き、解決をいただくことができるのであり、地上の誰にも助けを求めて走り回る必要がなく、神の地位を奪って「救済者」を名乗る人々に、栄光をかすめ取られ、道具とされる必要もないのである。

信仰の戦いをどう戦いぬくかという問題についても、あの指導者、この指導者のもとへ行かずとも、内なる油塗りであるキリストの御霊を通して、信者は必要な真理を十分に教わることができる。真理の御霊が内におられるからこそ、信者には自由があるのであり、どのように御言葉の内にとどまるかを理解するために、人の助けを求め、人の知恵に依存する必要がないのである。

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)



8.御言葉(十字架)の「二分性」、「切り分け」の機能に基づき、信者が目を覚まして、真理と偽りとを峻別する必要性

さて、以上に記したように、弱者救済という名目で、あからさまに旧創造の「救済」を唱えて、罪に定められた人類の復権のために、聖書の御言葉の否定に至る人々がいるだけではない。

前稿では、「霊と肉の切り分け」という極めて重要な事柄について言及しながらも、ペンテコステ運動の誤りを無批判に取り込んでしまったがゆえに、偽りの霊の運動に惑わされてしまったKFCについても触れたが、このように、聖書の御言葉に忠実にとどまりたいと考えているクリスチャンにも、ペンテコステ運動のように、巧妙に聖書の御言葉の「分離」や「切り分け」を否定する偽りの教えの危険が迫っている。

だが、公平のために断っておけば、ペンテコステ運動は、何よりアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が推進していることで知られる。上記のKFCも、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒のゆえに道をそらされた部分が大きく、同教団に属する現役信者と、ルーク氏との交流も、Br.Takaによって始まったものではなく、もっと古くから存在するものであった。

キリスト教界の危険性を見抜いていたルーク氏であるから、この危険な教団の信者との交流は断つべきであったろうというのが筆者の見解であるが、いずれにしても、数々の誤った霊的ムーブメントを日本に引き入れる原因を作ったアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の危険性については数多くの記事を書いて来たので、ここで改めて言及するまでもない。聖書に逆らう腐敗したカルト被害者救済活動もこの教団から出て来たのである。

ペンテコステ運動の危険性については、稿を改めて分析を続けるとして、その前に、ルーク氏が幾度も強調していた「善悪の路線」から「命の御霊の路線」へ(=「罪と死の法則」から「命の御霊の法則」へ)というテーマについて、さらに補足しておきたい。なぜなら、そのことによって、KFCがなぜ偽りを見抜けなかったのかを明確に理解し、二の轍を踏むことを避けられると思うからである。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1-2)

キリストと共に十字架において自己の死を受け入れ、彼と共に罰せられ、共に復活にあずかり、彼の命によって生かされたことにより、信者は律法による罪定めから解かれ、自分で自分を義とするために果てしない努力を重ねた挙句に罪に定められる必要はなくなった。そして、まことの命なるキリストの御霊の法則によって生かされるようになった。

ここまでは良いとして、だが、それで「善悪の法則」(罪と死の法則)自体はなくなったのであろうか? 信者に対して無効にされたのであろうか?

いや、決してそうではない。「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」(ルカ16:17)と言われる通り、信者が「罪と死の法則」に死んで、「命の御霊の法則」によって生かされるようになった後も、律法そのものがなくなったわけでなく、「善悪の法則」自体が死んだわけではないのである。

信者が律法によって罪に問われなくなったのは、「キリストのからだによって、律法に対しては死んでいる」(ローマ7:4)ためであり、「自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えている」(ローマ7:6)ためである。つまり、信者の側が律法に対して霊的死を帯びているので、この死が信者に対する律法の訴えを無効化しているだけであって、律法そのものは依然として有効なものとして存在しているのである。

依然として有効であるだけでなく、律法は、これを完全に全うして父なる神の前に義と認められた御子が、信者の内に御霊として住んで下さることにより、信者もまた、彼と共に完全に律法の要求を満たしたものとして神の目に義とされ、さらに、御霊を通して、律法は信者の内に書きつけられているのである。

「主が、言われる。
 見よ。日が来る。
 わたしが、イスラエルの家やユダの家と
 新しい契約を結ぶ日が。
 それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、
 彼らをエジプトの地から導き出した日に
 彼らと結んだ契約のようなものではない。
 彼らがわたしの契約を守り通さないので、
 わたしも、彼らを顧みなかったと、
 主は言われる。
 それらの日の後、わたしが、
 イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、
 主が言われる。
 わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、
 彼らの心に書きつける。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 また彼らが、おのおのその町の者に、
 また、おのおのその兄弟に教えて、
 『主を知れ。』と言うことは決してない。
 小さい者から大きい者に至るまで、
 彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
 なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、
 もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」
(ヘブル8:8-12)

キリストの御霊を通して、律法は信者の心に書きつけられ、信者はもはや自分の外側にある律法によって罪に定められることはない。が、だからと言って、善悪の区別そのものがなくなったわけではなく、今度は、信者自身が、御霊によって心に書きつけられた律法を通して、御言葉を理解し、神との交わりを得るだけでなく、自分に起きるすべての出来事を吟味し、見分け、識別して行く責任を負うのである。それによって、信者は御言葉の内にとどまる秘訣を知るのである。

ここで、大きな転換が成し遂げられていることに気づく。キリストを受け入れ、御霊が内に住んで下さるまでは、信者は律法によって調べられ、追及される対象であった。しかし、御霊によって律法が心に書きつけられてからは、今度は、信者自身が、すべてのことを識別し、吟味し、追及する側に立ったのである。

そのことは、信者が意識的に御言葉の中にとどまり続ける義務と密接な関係がある。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」と、主イエスが言われた通り、御言葉にとどまる(御言葉を守る)とは、信者が自分で意識的に行わなければならない選択であり、救いが与えられているからと言って、信者の意志を抜きに、自動的に成し遂げられる事柄ではない。

「義務」とは書いてはみたものの、これは筆者の見解であって、御言葉に従うかどうかは、あくまで信者の自由意志に委ねられた選択なのである。もし信者がそんな義務は自分にはないとか、果たしたくないと考えるならば、御言葉の内にとどまらず、外に弾き出されてしまうこともありうる。(たとえば、自分で御言葉の真実性を拒み、否定した場合など。)

信者には救われて後も、依然、御言葉を拒む選択の自由もある。さらに、望んでいなくとも、敵の偽りに欺かれて、御言葉の外に引き出されることもある。御言葉にとどまるのかどうか、とどまるとしても、どうやってとどまるのか。それは信者自身が自ら御霊を通して学び、考え、識別し、能動的に選択して行かなければならない。

真理の御霊は、ただキリストとの麗しい交わりのためだけにあるのではない。それが教える真理を通して、信者は自分に起きるすべての出来事を理解し、吟味し、何が御言葉に忠実な、神から来た事柄で、何がそうでない偽りであるかを見極めて、絶えず自らの意志によって、御言葉の内にとどまり、御言葉を実体化して行くのである。(それが信者が霊によって自分自身を治め、環境を治めることにつながる。そのようにして御国の霊的統治が実体化されるのである。)

だが、御言葉にとどまることは、信者が主体的になすべき事柄であり、神を信じているからと言って、自動的に達成されるものではない。信者が御言葉を守ってその中にとどまっている限りは、信者はキリストのうちにとどまり、父なる神との交わりを失わない。内におられる御霊が、御言葉の内にとどまる方法を信者に教えてくれるので、これに忠実に従いさえすればである。

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)
 

だが、もし信者が、自分は何をしても罪に定められないから良いだろうと考えて、御言葉に照らし合わせて識別することもなく、偽りを退ける必要性も認めずに、どんな影響力でも警戒することなく自分の内に招き入れて、何にでも扉を開き続けていれば、いずれ敵の嘘に欺かれ、御言葉の外へおびき出され、堕落することは避けられないであろう。さらに、そんなことばかりずっと続けていれば、神との交わりも失われ、御霊の警告もやみ、悪魔の虜となってその奴隷とされる人生へ逆戻って行くだけである。御血の清めによって神に立ち返ることが可能なうちは良いが、意図的な反逆を続けていれば、どこかで引き返せなくなる。そんなことにならないように、偽りは初期のうちに見分けて退けられるように、信者は絶えず目を覚まして警戒を怠らないようにしておく必要がある。

そのために、信者は積極的に御言葉を行使して、すべての影響力(自分自身の外からやって来る影響力だけでなく、内側から起こる思いや感情をも含む)を鋭く識別し、神に属さないものを切り分け、退けて行く必要がある。

「御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」(Ⅰコリント2:15)

ここに、以前は律法によって罪に定められるだけであった信者が、今度は、キリスト共に、自ら心に書きつけられた律法によって、すべてを識別する側に立つという立場の転換がある。
 
上記の御言葉は、クリスチャンのこの世に対する超越的な地位を示している。たとえどんなに幼子のように未熟なクリスチャンであっても、まだ霊的な事柄をほとんど知らない生まれたての信者であっても、キリストの御霊が内に宿り、律法が心に書きつけられていることは、この世のいかなる裁判官よりも高い地位に信者がつけられ、どんな法律家よりも深遠な知識を持っているのと同じほどの意味なのである。

だからこそ、その内なる御霊によって、信者はすべての出来事をわきまえ、その識別力を生長させ、発展させなければならないのである。信者は、この世の常識によってではなく、識者の言葉によってでもなければ、学問によってでもなく、人情によってでもなく、感覚によってでもなく、御霊を通して、御言葉によって、すべての事柄をわきまえるのである。その御霊による霊的識別こそ、神の観点から何が本当に重要で、価値ある事柄なのかを信者に教えてくれるのであり、その識別力を失えば、信者は信者としての特質を失い、この世の人と同じように、「人の悪だくみや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりする」(エペソ4:14)だけである。

KFCの問題点は、信者が「命の御霊の法則」に生きる重要性を唱えた点では、極めて重要な役割を果たしたが、同時に、「罪と死の法則」から解かれた自由を強調するあまり、信者が主体的に御言葉を守り、そのうちにとどまることの重要性、すなわち、御霊を通して、心に書きつけられた律法を通して、信者が全ての事柄をわきまえ、識別して、虚偽を退けることの重要性を見落とした点にあるかも知れないと筆者は考えている。あるいは、言葉では語っていても、それを実際には行使しなかったのである。

今日ほど、御言葉の切り分けの機能が重要な時代はないであろう。信者が暗闇の勢力のもたらす偽りを目を覚まして警戒し、御言葉を通してすべての事柄を識別し、偽りを見抜いて退ける作業は、どんなに強調してもしたりないほど重要である。

聖書の御言葉の持つ二分性は、信者が命の御霊の法則によって律法に対して死んだ後も、絶えず残り続ける。信者が律法によって罪に定められることがないからと言って、御言葉の二分性が消えたとか、信者にとって失われたとか、御言葉(十字架)の切り分けや、分離する働きが無効になったわけでは全くない。むしろ、御言葉は、諸刃の剣よりも鋭く、信者にとっては、何が神から来たものであり、真理であり、何が偽りであるかを識別する強力な武器となるのである。この武器を信者はただ持っているだけでなく、実際に行使しなければならない。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえ刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル5:12)

さて、ようやく次回から、聖書の御言葉の二分性を否定して、人を「善悪未分化」の状態に引き戻そうとする東洋思想の危険性について述べて行きたい。

<続く>


カルト被害者救済活動の反聖書性―グノーシス主義の基本構造②ー

5.神の知恵である御言葉に逆らって、キリストの十字架を否定し、人が己の努力によって自力で救済に至ろうとする「高慢さ」

さて、前稿では、杉本徳久氏のようなカルト被害者救済活動の支持者らも含め、「プロテスタント信者特有の鼻持ちならない高慢さとナルシシズム」を持ち出して信者を非難する人々が、結局は、聖書の御言葉の「二分性」や「排他性」につまずいて、「狭き門」としてのキリストの救いに抗議していることを見て来た。

だが、ここにはさらにもう一つ大きな重要なポイントがある。

それは、信者に対する彼らの非難が、自力で救済に至ろうとしてもがき苦しむいわゆる「クルシチャン」の生き方と訣別して、御言葉を信じて、キリストの達成された御業に安んじ、「命の御霊の路線」に生きるクリスチャンに対する、暗闇の勢力からの全力を込めた妨害だったという点である。

ちなみに、筆者自身は「自己愛の病理」という言葉を使って記事を書いたことはないが、このテーマで探せばすぐに見つかるのは、KFCのドクター・ルークの次の記事である。

自己愛の病理を脱する十字架の道

記事内容は以下にも引用するが、これを読めば、カルト被害者救済活動の支持者たちや、前述の記事で挙げたブログ主の信者への非難は、ルーク氏の記事をそっくり裏返しにしたものであることが分かる。

筆者は、KFCやルーク氏の主張に対して全面的に賛同できない数多くの点があるので、この記事についても、細かい注意点を以下に詳しく記している。筆者が、ルーク氏の見解に注意が必要であると考えるのは、同氏の見解が、常に心理学とペンテコステ運動と聖書の御言葉に基づくキリストの御霊の働きとの混合になっていると思われるからである。(これについての詳細な分析は別稿でも行う。)

たとえば、「自己愛の病理」などという単語自体が、聖書に由来するものではなく、前の記事で示した元信者と同じように、心理学を模して造られたルーク氏の造語である。

だが、この造語の是非の問題は今はあえて脇に置いて、大筋でこの記事をとらえたい。要するに、同氏がこの記事において「自己愛」という言葉でバッサリと断ち切り、退けているのは、キリストと共に十字架の死を経由していない人間の生まれながらの古き人(自己)であり、また、この古き人を十字架を回避して生き永らえさせようとする、神の御言葉に逆らう人間の高ぶりとしての各種の努力のことである。

同氏は記事で言う、現代人は、自分で自分の問題を解決しようと必死の努力を重ねて生きており、クリスチャンもそれが信仰の道だと考えて、各種の自己改善の努力を必死で重ねているが、それこそ、神の御言葉に逆らって、人が自力で自分を救おうとする「自己愛の病理」であると。そうした努力は、神の一方的な恵みとして与えられたキリストの救いを退けて、人類が自らの力で自己義認し、自己救済に至ろうとするむなしい絶望的な努力なのだと。

キリスト教界においては、今日も、この種の人間が自力で自己を救済して神に至ろうとする絶望的な努力が絶え間なく続けられている――たとえば、礼拝儀式の順守義務、献金や奉仕の義務、良いクリスチャンであると人にみなされるために必要な一切の外面的・道徳的要素を整えるための果てしない努力の義務、そこには、むろん、カトリックで重んじられている社会への熱心な奉仕活動なども含まれる。

こうして「クリスチャンらしい外面」を整えるための果てしない「義務」を守ることこそ、あたかも信仰生活の根幹のように多くの人たちに誤解されているのだが、実際には、それらは聖書の御言葉の周りを包む飾り物のようなものに過ぎず、御言葉に基づく神の霊的な事実とは本質的に何の関係もない。

これらの活動はすべて、神ではなく人間の方を向いており、人間を満足させることを目的として作り上げられた活動に過ぎない。いかに神を口実に用いていても、荘厳で立派な礼拝儀式さえ、宗教指導者及び信者の「宗教的気分」を演出するために整えられるものであり、そのような儀式は、「霊とまこと」による礼拝(ヨハネ4:24)の本質ではない。それらの目に見える立派な全ての外面は、御言葉の本質ではないので、どんなにこれを整えても、信者は決してそれらの行いによって神に近づくことはできない。

しかも、こうした外面を取り繕い、人の目に優秀で立派な信徒を演じるための各種の努力や義務は、信者自身にとっても、しばしば耐えきれないほどの重荷となっている。

堕落した肉は悪しき行いに従事できるだけでなく、人の目に善と見える行いに従事することもできる。だが、人が神によらずに、己の生まれながらの力に頼って成し遂げようとする行いは、たとえ人の目にどんなに良さそうに見えても、すべて腐敗している。「肉にある者は神を喜ばせることができません」(ローマ8:8)

肉による善行は、人の目には立派そうに見え、「宗教的」に見えるかも知れないが、キリストの十字架の死に至らない人の生まれながらの命の生んだものは、すべて神の御前に無価値である。信者がクリスチャンらしい外面を取り繕うための各種の努力は、人間が獲得してもいない「神の聖」をあたかも獲得したかのように、もっともらしく演出して見せかけるための装置のようなものであり、人が神ではなく自己を喜ばせるために作りだした偽りであり、どこまで行っても偽善でしかない。

また、クリスチャンの信仰生活とは、何か人の目に優れて道徳的に立派な生き方をして、人類社会に奉仕し、人々に賞賛されることを目的とするものではない。宗派を問わず、キリスト教からは絶えず、社会的弱者や、困っている人々を「救済しなければならない」という強迫観念にとりつかれた人々が多数、現れて来たが、これもまた往々にして神を抜きにした人間の自己救済の活動を生んできたのであり、弱者救済のための社会奉仕活動が、聖書の御言葉の本質なのでもない。

さて、ルーク氏の記事は、信者が肉によって自己改善しようというむなしい努力を手放して、自己をキリストと共なる十字架における死に同形化し、自分ではなく、キリストがすべてを達成されたという事実に安息して、そこから信仰によってすべての解決を実際に引き出すよう奨励している。

クリスチャンは自力で神の聖に至りつくための必死の自己義認の努力を放棄して、この果てしない努力の結果、ただ罪に定められるだけのむなしい『善悪の路線』を離れて、キリストの成し遂げて下さった救いの御業から、すべての必要を引き出す『命の御霊の路線』に移行しなさいと告げているのである。

この点において、筆者は記事の趣旨に大筋で異議を唱えるつもりはなく、これは極めて重要な事実を信者に告げた警告であると思う。

ちなみに、この論考は「恵みの雨」2001年9月号に掲載されたようであるが、当時、キリスト教界に投げかけられたルーク氏の主張は、多くの信者にとって非常に画期的な意味を持っていた。それは同氏が、人間側の努力によって築き上げられる一切の熱心な宗教活動が、神を喜ばせることのできない堕落した肉に由来するものであり、聖書の御言葉の本質から遠くかけ離れ、御言葉を歪める偽りであることを指摘して、キリスト教界全体を覆っているこの偽りを聖書の真理に立って鋭く糾弾したからである。

同氏による「キリスト教界からエクソダスせよ」との呼びかけも、腐敗堕落した教会や、自己の努力によって神に至ろうとする偽りの体系としてのキリスト教界と訣別すべきであるという趣旨で述べられたのであり、前の記事で挙げた元信者の例に見るように、聖書の御言葉やキリストの福音そのものを拒んで「脱福」することを全く意味しなかった。

キリスト教界からエクソダスするとは、クリスチャンが自分や他人の状態を自分で何とかして改善しようと叫び、もがき、苦しみながら、絶望的な努力を続けるという、むなしい自己主張――ルーク氏の表現によれば、自分で自分の髪の毛を引っ張って空を飛ぼうとするような無意味な努力――をやめて、御言葉の実際に入り込むことにより、神の側から達成された恵みに立って、そこから、信仰によって、すべての必要を引き出す秘訣を学ぶようにということであった。
 
このような同氏の呼びかけは、当時、教会で要求される数々の奉仕の義務や、クリスチャンらしい外面を整えるための果てしない努力に疲れ果てていた数多くのクリスチャンに多大な影響を与え、多くの信者らが、自分に無理な要求を突きつけては挫折感に苛まれるだけの「善悪路線」の誤りに気づき、そこから抜け出して、真にキリストの命の豊かさを知ることのできる「命の御霊の路線」に立ち戻る必要性に気づいたのである。

また、同氏は、キリスト教界における様々な儀式や奉仕という、人が自力で神に至るための各種の努力を否定したのみならず、キリスト教界のカルト化という問題についても、カルト被害者救済活動の支持者のように、信者が自分の受けた「被害」を訴えることにより、人間側の利益だけを回復することを目的に活動することの無意味さを主張した。

つまり、カルト化の問題は、人が「私は腐敗堕落したキリスト教界によって傷つけられた被害者だ」と主張して、教会と信者と神に抗議して、自分の権利回復を目指すことでは絶対に解決しない。むしろ、人間が自分の利益が失われたこと嘆くのではなく、「聖書の真理が損なわれて、神の利益が損なわれた」という観点からこの問題に向き合い、神の御心に照準を合わせ、キリストの十字架に立ち返り、より御言葉を実際として生きねばならないと提唱したのである。この点では筆者もほぼ見解を同じくしている。

特に、終わりの時代に、「セルフではなくキリスト」を選ぶことができるかどうかが、クリスチャンの歩みを決定的に分けるだろうとの同氏の予測には、筆者は今も同意するのであり、そこからキリストの十字架に敵対して人の生まれながらの自己を延命させようとすることが、あらゆる異端思想の基本構造であることに気づき、その思想の危険性を述べねばならないと思い至った。

キリスト共なる十字架の死と復活に共にあずかること、それがなければ、信者の信仰生活は始まらない。十字架の死未満のところでは、どんなに人が一生懸命にもがいても、その努力が霊的な実を生むことはないのである。

以下の記事には、「なぜ聖書66巻だけが神の霊感を受けた書物であるのか。どうして証明の方法がないのに、御言葉は絶対的に正しいと言えるのか。」という、前稿に登場した信者の問いに対する答えも含まれている。それは、霊の機能と魂の機能の違いを理解すれば解ける問題である。
 
それほど長くないので、全文引用しておく。注釈は以下に述べる通りである。

■本稿は"恵みの雨"9月号特集記事の原稿です。


■自己愛の時代



現代はどこもかしこも"癒し"が流行し、それ自体がほとんど強迫神経症的です。クリスチャンも例にもれず、対人関係や仕事などで傷つくと、精神分析、交流分析、自律訓練法、行動療法、来談者中心療法、果ては心療内科に精神神経科・・・とさ迷っています。

このような様子をイエスがご覧になったらどうでしょうか。彼は言われるでしょう:「わたしの十字架に戻りなさい」、即ち「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分の魂(原語)を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分の魂(原語)を失う者は、それを救う」のです(ルカ九・23,24)。

この世の方法は"まず得よう"とします。対して神の方法は"まず失う"のです。現代社会の病理は"自己愛パーソナリティ"です。この世も、キリスト教会も「私が、私は、私の・・・」と果てしない"私"の訴えに満ち溢れています。しかし真の心の癒しを得るには、その訴えと主張に満ちている"私"を下ろし、十字架におけるキリストと共なる死に与ることに秘訣があります。死は自己の終焉であって、魂の沈静と深い平安と安息をもたらします。「失えば得る(Lose to Get)、死ねば生きる(Die to Live)」のです!


■御言葉と真理



神が世界を創造された時、世界の運行を法則に委ねました。自然界には物理法則などが、精神の世界には心の法則が、そして霊的領域には霊の法則があります。いかにマッチョでも、自分の髪を引っ張って空を飛ぶことはできません。それは法則に反します。よってそうやって空を飛べなくとも自分を責めたりはしません。物理的領域においては、可能なことと、不可能なことが明確に分かるからです。

ところが、こと心の領域の問題になりますと、法則自体が曖昧です。一応精神分析学とか精神病理学などの理論はあっても、かつて幼女誘拐殺人事件の被告人Mの裁判で三人の専門家の精神鑑定が分かれたように、物理法則ほどの精密さがありません。さらに霊的要因が絡んでくると、通常の学問ではまず太刀打ち出来ません。結果として私たちは可能な事と不可能な事との識別ができず、自分はこれができないとか、あれができるとかなど、劣等感や優越感で揺れ動きます。心の問題を抱えている人々と接して分かることは、それらの法則についての無知のために、ちょうど自分の髪を引っ張って空を飛ぼうとして葛藤し、疲れ果てているケースが多いのです(ホセア四・6)。

しかし聖書はその心の法則と霊の法則を明確に提示しているのです。なぜなら聖書は被造物である私たちに関する創造主による"取り扱い説明書"だからです。私たちは物理的真理を知ることによって、無駄な努力から解かれるのと同様に、精神的また霊的な真理を知ることによって、内的な葛藤や悩みからも解かれるのです。イエスは言います、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ八・32)。


■御言葉と御霊



このように真理には"霊的な事柄の道理"の意味があります。また聖書では真理はひとりのパースンであると啓示します。イエスは言われます、「わたしは道であり、真理であり、いのちです」(ヨハネ十四・6)。イエスは神のロゴスの受肉だからです。この世の学者先生方はそれぞれの分野で"真理"を探しあぐねています。究極の真理を得たと思うと、逃げ水のようにするっと逃げてしまうのです。

しかし私たちは自分の努力によらず、ただ信じることによってこの究極の真理を得たのです!それは私たちの霊に御臨在くださるイエスです。「真理はあなたがたを自由にする」と言う場合、単なる知的理解によるのみでなく、私たちの霊において、究極の真理なるイエスのパースンに触れるときに、あらゆる束縛から解かれるのです。イエスこそ真のワンダフル・カウンセラーです(イザヤ九・6)。そこでイエスは「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」(ヨハネ八・36)と言われます。

現在の私たちは長血を患う女のように、物理的イエスの衣の房に触れることはできません。しかし、今や最後のアダム(=イエス)は命を与える霊となられました(第一コリント十五・45)。物理的には復活の体を持って昇天されましたが、彼は私たちを孤児として残すことはなく、御霊が来られるとき、また戻ってくると約束して下さいました(ヨハネ十四・15-21)。すなわち霊的領域において、イエスは私たちの霊に御臨在されるのです(第二テモテ四・22)。当時の弟子たちとは物理的に接触されましたが、現在の私たちとは霊的に触れて下さるのです。それは物理的触れ合いよりもはるかに深く、親密で、甘い交わりなのです。

これは御霊によりますが、御霊はご自分から語ることはなく、聞いたままを語り、イエスに栄光をもたらします(ヨハネ十六13-15)。すなわち御霊はご自分ではなく、イエスの言葉とわざそしてパースンを私たちの霊の内に実体化し、証して下さるのです。よって御霊の臨在とキリストの臨在は等価です。このとき「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」(第二コリント三・16-17)。パウロはこの文脈においてはキリストと御霊をほとんど同一視しています(注:位格を混同しているのではありません)。

さらに御霊は私たちの魂にも触れます。私たちは罪による霊的な死のために、自分の魂と体のみで奮闘努力していました。その生き方のパタンがパウロの言う肉です。肉は私たちの罪によって腐敗していますので、死に渡すのみです(ガラテヤ五・24)。一方私たちの魂は、霊から照らし込む霊的な光によって露にされ(詩篇三十六・9)、古い価値観や生き方などが廃棄されるごとに(エペソ四・22、コロサイ三・9)、御言葉によって再構成されることにより(コロサイ三・16)、思いから造り変えられて行きます(ローマ十二・2;原語)。意志は神に対して柔らかくされ、感情は神の愛で潤されて平安と安息に満ち、思いは神の言葉に沿った考え方が条件付けられていきます。こうして心の中にキリストの形が造られていきます(ローマ八・29、ガラテヤ四・19)。これは主なる御霊の働きによるのです(第二コリント三・18)。


■御言葉と私たちの霊



人には霊があります(ヨブ三十二・8、イザヤ五十七・15、ゼカリヤ十二・1)。鍵は霊の内で御霊と御言葉が相互作用することにあります。霊には、良心、直覚、交わりの三つの機能があります。私たちは良心が探られて自分の罪を認め、イエスを受け入れました。また真理を直覚によって知り、霊なる神との甘い交わりを得ます。神は霊ですから、私たちは霊によって礼拝する必要があります(ヨハネ四・24)。光は目によって、音は耳によって感知されるのと同様です。

すでに十字架の救いは百%完全に成就しています。私たちのすべての罪は赦され、すべての病も癒され、すべての必要も満たされたのです(完了形)。御言葉はこれらの客観的事実(=真理)を語ります。何かを客観的に表現する言葉をロゴスと言います。ちなみにイエスは神を語る神のロゴスでした(ヨハネ一・1)。このロゴスを私たちが信仰によって受けるとき、御言葉は光を放って(詩篇百十九・130)、レーマとなります。レーマとは即時的に語られた主観的なことばです。イエスは「わたしが話したことば(レーマ)は霊であり、いのちである。人を生かすのは霊であって、肉は何の役にも立たない」(ヨハネ六・63)と言われました。すなわち私たちの信仰と御言葉が結び付けられて(へブル四・2)、レーマとなり、霊的な光を放ち、またいのちとして私たちの魂を、さらに体をも生かすのです(ローマ八・11)。これは私たちの霊の内でなされるのです。まさに人の霊は神のともし火です(箴言二十・27)。

私は以上のことを<ロゴス+信仰=レーマ=霊=いのち>、および<客観的真理+信仰=主観的経験>と定式化しています。この霊的な"いのちの方程式"が働くのは、私たちの霊の内であり、それを実現するのが御霊です。この霊的作用の中で、いわゆる心の傷なるものも自然と癒されてしまうのです。


■御言葉と信仰



御霊の御わざには、私たちの信仰が必須です。新約聖書で唯一の信仰の定義は「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるもの」です(へブル十一・1)。Darby訳聖書では"保証"と言う単語に"substantiating"を使っています。日本語では"実体化"です。すでになされている客観的な霊的リアリティを私たちの内で実体化すること、これが信仰です。目を開けば、電磁波である光は私たちの視覚野においてただちに実体化されます。同様に霊的リアリティは私たちの霊に実体化されるのです。これが信仰です。「私は信じます、信じます・・・」と念じることではなく、霊を開けば霊的リアリティはただちに私たちの霊に感光します。「得た!」と分かるのです。大切なことは知恵と啓示の霊を受けることです(エペソ一・17)。単純に父なる神に求めましょう。

そして信じた者は自分のわざを止めて安息に入ります(へブル四・3)。自分のもがきを止め、完成されたキリストの十字架の事実の中に休むのです。御霊のみわざが自分の内で進展するに任せるのです。愛、喜び、平安などの御霊の実(単数形)が結びます(ガラテヤ五・22)。これは自己努力によるのではなく、御霊のみわざです。私たちの責任ではありません。私たちの責任はキリストの死に与って、自分の体を罪と死の法則の支配に委ねず、いのちの御霊の法則に委ねることです(ローマ六・11-12、八・2)。

まず自分の傷の癒しを求めるのではなく、そのような自己主張はひとまず下ろして、キリストの十字架の事実に戻り、そこに留まり続けるだけです。サタンやこの世、さらに肉はそこから私たちを引き出そうとします。しかしその誘惑に乗ってはなりません。もし乗って罪を犯しても、ただちにイエスの血によって洗っていただき、十字架に戻ることです。天には大祭司であるイエスがおられます(ヘブル九・11-14)。


■自己愛からキリストへ



自分で何とかしようとしている限り、癒しは得られません。まず自分を放擲することです。痛んだままの自分を十字架に投げ出すことです。そこではイエスの圧倒的な愛が私たちの凝り固まった魂を融かし、御霊がひび割れた心にモイスチャ・クリームを塗って下さるのです。自己に向いていた注意がキリストに向くとき、そこには自由、平安と安息、そして癒しがあります。私たちは自分を忘れて、ただこのキリストの甘い愛の交わりの中に留まり続けるだけです。God bless you!



さて、以上のようなルーク氏の主張に対しては、当然ながら、暗闇の勢力からのすさまじい反撃があったと見られる。

なぜなら、この主張は、キリストの十字架における「切り分け」――特に、霊と肉の切り分け――という問題を明確にキリスト教界に投げかけたからである。

霊と肉の切り分けの問題は、今日に至るまで、キリスト教界ではほぼ見失われている真理である。それを回復するという点において、ローカルチャーチ出身の同氏の主張は、画期的であったが、同時に、ある種の人々からは、大きな反発をも呼び起こした。

何しろ、人間の努力(肉)によって成し遂げられる熱心な宗教活動こそ、今日、キリスト教と呼ばれているものの99%以上を占めるのである。そうした人間側の極めて熱心な努力によって築き上げられた一切の良さそうに見える宗教体系が、すべて無意味かつ、御言葉に悪質に逆らう虚偽であり、しかも人間の身勝手な自己愛の産物でしかないということになれば、目に見えるキリスト教はほぼ完全な失業状態に陥るだろう。

さらに、そのような肉に基づく熱心な自己救済の努力は、「キリスト教界のカルト化を是正する」という名目で、キリスト教界を浄化するために絶え間ない争いを続けているカルト被害者救済活動のような運動にもあてはまるのである。これもまた「被害者のため」という名目で、人間が御言葉によらず、神の救いにより頼まずに、自己の力で自己を救済するために繰り広げるむなしい活動に過ぎない。

だが、そのようにして自己の熱心な努力により頼んで生きる人ほど、その生き様が、神の御言葉に逆らう偽善であり、神の知恵に逆らう高慢さであることが明らかにされるのを嫌う。そこで、上記のような言説に対しては、当然ながら、猛反撃に出た。彼らは自分たちの熱心な努力が「自己愛」や「ナルシシズム」と呼ばれて退けられることに猛反発し、むしろ、聖書の御言葉に基づいて、人が自力で救済に至る努力をやめるように促している人々の方が、「聖書の御言葉を絶対的なものとみなし、これに従って自分たちだけが正しい信仰を持っていると思い込み、自らの見解に合致しない他者を容赦なく裁いては切り捨てる、思い上がって高慢な、自己愛とナルシシズムに満ちた信者」だと非難することによって意趣返しに及んだのである。

だが、このような主張は、前稿で見た通り、結局は、信者の心の排他性ではなく、聖書の御言葉の持つ「排他性」、キリストの十字架そのものが持つ「二分性」や「切り分け」につまずく思想なのである。

そのような人々は、ルーク氏の唱えた「自己愛の病理」という言葉に反発しているのではなく、その向こうにある聖書の二分性の原則に逆らっているのであり、人類の自己救済の努力が否定されることに我慢がならず、キリストの十字架におけるアダムの死を回避するために、霊と肉の区別そのものを否定してかかりたいのである。とどのつまり、彼らが逆らっているのは、アダムに属する古き自己は神の御前に無価値であり、キリストと共なる十字架の死に渡されて廃棄されるしかなく、肉は何の役にも立たないという神の事実なのであり、「肉にある者は神を喜ばせることができません」(ローマ8:8)という聖書の真理なのである。



6.魂と霊を混同し、信仰によらずに、感覚的な陶酔によって霊の事柄をわきまえようとするペンテコステ運動の危険

このように、以上で挙げたルーク氏の記事の趣旨には、大筋では同意できるものの、同時に、極めて重要な注意点が含まれている。それは、同氏が霊と肉の切り分けの重要性を主張しながらも、同時に、明らかにこの切り分けを意図的に曖昧にしようとするペンテコステ運動の悪影響を無批判に取り込んでいると見受けられるからである。

まず第一に、ルーク氏は神との交わりが「甘い」ものであるとしきりに強調するが、神との交わりが常に「甘美さ」を伴うかどうか、筆者は断言できない。神との甘美な交わりが存在すること自体は否定しないが、聖書においては、霊において主イエスのパースンに触れた人々の反応は様々に異なり、必ずしも交わりの「甘美さ」だけが強調されてはいない。最も極端な例では、「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。」(黙示1:17)

神との交わりは、霊における確かなリアリティとして強い臨在感を伴うこともあるが、常にそうであるとは限らない。それは必ずしも何らかの感動体験を伴うものではなく、時には、全く何の感覚も伴わず、あるとさえ感じられないこともある。だが、感覚において何も感じられないからと言って、神が不在になったり、信者との交わりを絶たれたわけではないのである。

神との交わりは、信者に何かが「見えて」いるかどうかや、何かが「感じられる」かどうかといった人の感覚によってとらえられるものではなく、霊において、あくまで信仰によって知覚するものである。確かに、霊においても、魂によく似た「直覚」の機能はあり、信者はこの機能を通して神との交わりを知り、御言葉の啓示を明確に受けることがある。その啓示に、喜びや、深い感動や、安らぎや、畏れの念が伴うことはある。

だが、たとえ何も感じられなかったとしても、御言葉の通り、神が常に信者と共におられ、霊において絶えず交わりが可能であるという事実が変わることはない。信者は常にその事実の中を歩んでいるのである。信者が何を「感じる」かが重要なのではなく、あくまで御言葉が何を告げているかが信者にとっての現実なのである。

しかし、記事「ペンテコステ運動はなぜ誤っているのか(1)―カリスマ指導者に栄光を帰し、五感を信仰よりも優先する教え―」でも指摘したように、ペンテコステ運動はほとんどと言って良いほど、霊的なものを感覚的なもの(魂的なもの)と混同し、御霊の働きを何らかの感動体験、恍惚体験と結びつけてとらえ、極端なまでに感動体験を強調する。そこに危険な偽りの誘惑がある。

なぜなら、悪霊もまたキリストの御霊を装って、人間に何らかの幻や感動体験をもたらすことが可能だからである。そうして、悪霊がキリストの御霊に偽装して信者のもとにやって来て、喜びに満ちた感覚によって信者を欺き、これをあたかも信仰であるかのように思わせて、信者を深くとらえて支配するということがあり得る。悪霊が麻薬のように、恍惚体験や感動体験を利用して、信者をこれに病みつきにさせ、何も考えずに信者が喜ばしい感覚に身を委ねて自己放棄することを求め、冷静で現実的な思考を失わせて、信者を思い通りに支配して行くことがありうる。

偽りの霊の狙いは、聖霊の働きを模倣することにより、聖霊に偽装して、信者を神の真の霊的秩序から堕落した感覚世界へとおびき出し、信者の冷静な思考と判断力を眠らせて、恍惚体験の虜にしてしまうことにある。

神の霊は決して人に主権を放棄させることがない。人は自分の意志によって自分を治める必要があり、常に自分の主権を守り、これを誰にも奪われることなく保持しながら、何に対して扉を開き、どこまで自分を委ねて良いのか、絶えず自分で吟味し、自己決定せねばならない。玄関の扉の鍵を開けっぱなしにしていれば、強盗や詐欺師も入って来るのは避けられない。鍵をかけておくのは、人として当然の態度である。神の霊の働きは決して人の主権を侵害したり、これを放棄させることがない。

キリストの御霊の働きは常に霊⇒魂⇒身体という順序を取り、決して人の自己決定権を脅かすことはないが、悪霊の働きは、まず何らかの体験を通して、喜ばしい感覚や、あるいは恐怖などによって人の魂をとらえ、圧迫し、これをきっかけとして人の主権を侵害して奪い取って行く点で、キリストの御霊とは正反対である。



だから、信者が何も考えずにただ甘美で喜ばしい感動体験に自分を開いて無条件に身を委ねることが、「セルフを否んでキリストに従う」ことだと勘違いすることは危険である。信者の正常な理性や判断力に基づいた正常な警戒心までも眠らせて、「無私」、「委ねる」、「明け渡す」、「身を任せる」などの言葉で、恍惚体験の中に自己放棄させる教えは危険であると見抜かねばならない。

東洋的な瞑想の危険性もここにあり、「無私」を強調することによって、人の正常な警戒心を眠らせて、人が主権を放棄して、無防備に環境から来る影響力を受け入れ、結果として正体不明の霊に扉を開くよう促すのである。

ペンテコステ運動は、キリストに属する聖霊の働きを装ってはいるものの、実際には、東洋的な未分化の状態へと信者を回帰させる目論見を含んでいるように筆者には感じられてならない。すなわち、喜びに満ちた恍惚体験をきっかけに、信者が「霊に対して自分を明け渡す」よう求めることにより、信者が自らの知性によってあらゆる物事を識別し、何を受け入れて何を退けるかを自ら選択する作業をやめさせて、すべての識別・区別を排除したところにある未分化の状態、すなわち、人が自らの主権を放棄して、自分を取り巻く環境と一体になって受動的に身を委ねる無防備な状態へ回帰するよう、信者を誘い込んで行く狙いがあるものと見ている。

ペンテコステ運動はなぜ誤っているのか(1)」から抜粋

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)


 信仰は、目に見えない(五感では感じることのできない)神の側の霊的事実を自分の事実として信じ受け取ることによるのであり、すでに見たり、聞いたり、感じたりしている出来事をその感覚ゆえに受け入れることとはわけが違う。

 特別な喜びや感動が全く伴わなくとも、信じる者は御言葉を根拠として神の事実を受けとるのである。

 このように、正しいクリスチャンの信仰の歩みは、すべてのことが霊から始まる。まず霊的事実があって、次に魂や体で知覚することのできる感覚世界がこれに従属する。聖霊が働くのは、人の霊に対してであって、魂や体の感覚世界の中ではない。感覚世界はこの世の物質世界、人の堕落した肉に属するものであって、これは神と接触するための媒体ではない。神と交わることのできるのは、人の感覚ではなく霊である。

 ところが、ペンテコステ運動は、霊→魂→肉体という聖書的な秩序を覆してしまい、人の魂や肉体に巧妙に働きかける感覚的なものを霊的なものと呼び変え、すり替え、混同し、結果として、信仰よりも感覚を重んじるのである。そこで、ペンテコステ運動は、再生も、聖霊のバプテスマも、説教も、単に「喜びの伴う感覚体験」に変えてしまう。そしてついにはその「喜びの伴う感覚体験」が欠落していれば信仰ではないとまで言い切るのである。

 そこで、セス・リースの論説集もそうだが、ペンテコステ系の指導者のメッセージは、共通して極めて情緒的で、非凡な言葉を述べては人の感情を強く揺さぶり、感動を呼び起こそうとする手法に満ちている。だが、少しでも冷静に吟味すれば、常に感動しっぱなしということは、人にとって極めて不自然な状態であることが分かる。音楽の楽曲でもそうだが、初めから最後までずっとクライマックスということは絶対にない。しかし、ペンテコステの指導者の説教は最初から上り調子一辺倒で、テンションが全く下がらず、常なる感動を目指している点で、極めて不自然で人工的な作為を感じるものなのである。

 こうしたことが分からないまま、ペンテコステ運動に一度でも深く関わったことのある信者には、霊的な事実よりも感覚を重視するという危険な傾向――しかも、深く物事を吟味することを嫌い、自分の感覚にとって好ましいものだけを「信仰的・霊的なもの」だと勘違いする危険な傾向――が深く根付いている。それは一種の麻薬のような陶酔感に似ていて、人を盲目にさせて、繰り返し、繰り返し、聖書の御言葉に基づく冷静で穏やかな信仰よりも、自分を感動させ、手っ取り早く喜びや興奮をもたらし、感覚を喜ばせてくれるような偉大で非凡な体験へ飛びつかせようとその人を誘導するのである。

ペンテコステ運動につきものである、偉大な英雄の物語や、奇跡や感動体験の描写、あるいは感動的な礼拝音楽などといった偽の信仰物語は、人の耳を喜ばせることで、聞く人の心を釣りげるためのしかけである。このしかけに慣らされた人は、その感動体験を疑うことなく、条件反射のようにあっけなく飛びついては欺かれてしまう。そうなるのは、その信者の考えの根本に、セス・リースの書いたような、「信仰とは五感によって知覚できるものだ」という誤った思い込みが消えずに残っているためであり、霊の事柄と感覚的な事柄を混同しているからである。

 だが、信仰を五感によってとらえようとするこの試みこそ、聖書が最も人に警告している危険なのである。

「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:6)


この点で、やって来る霊を信者自身が鋭く吟味し、識別する作業をしないまま、ただ「霊の流れに身を任せる」などの言葉で、その場の空気やムードに無防備に自分を委ねるよう呼びかけるKFCの「セレブレーション」には、甘美な恍惚体験を餌にして、信者の正常な警戒心を眠らせて、偽りの霊に身を委ねさせるペンテコステ運動と全く同種の危険が潜んでいると筆者は考えている。



ある兄弟は、ルーク氏が魂の事柄と霊の事柄を混同し、
偽りの霊による魂的な体験に深く欺かれていると述べた。
しかし、受けた体験が甘美であればあるほど、また、
捕えられた人の感受性が鋭く豊かであればあるほど、
こうした甘美な体験を疑い、抜け出すのは難しくなる。
当初、ルーク氏の主張はかなり理知的であったが、
年々、同氏のミニストリーは深い論理的思考の裏づけを失い、
喜ばしい感覚体験をしきりに強調するものとなって行った。
標題にも見るように、正体不明の感動体験に信徒が
無防備に身を委ね、自己の主権を放棄して明け渡すように求める
ミニストリーは、聖霊派に特徴的であり、極めて危険である。


キリストの御霊の働きは、必ずしも心地よい感覚や、高揚感や、感動体験を伴うものではなく、たとえて言えば、「無色透明な」、信者が自分の意志や知性も含めて、完全な判断力や識別力を決して失うことなく、自ら選び取ることのできる現実である。

信者は心地よい感覚が伴うかどうかに従ってではなく、あくまで御言葉が何を言っているかに基づいて、何を信じて受け入れるべきかを自分自身で判断する。

キリストと共なる十字架における自己の死という事実についても、自己が死んだと感じるからそう信じるのではなく、御言葉が事実であるから信じて受け入れるのである。そのようにして絶えず、自分の感覚ではなく、御言葉への信頼に立ち続ける時に、ある時点で、信者は確かにその霊的事実が、自分の日常生活において実際になっていることを見るのである。

こうして、キリストの十字架の死に古き自己を同形化しながら、絶えず御言葉に従って歩むことは、人の自己にとっては、必ずしも喜ばしく感動的なことではない。日々自分の十字架を負い、キリストの勝利を実際として生きるとは、激しい霊的戦いでもある。

信仰の世界においては、言いっぱなしということは決してなく、信者は自ら信仰によって行なった告白を必ず試される。信者は、自分で宣言した御言葉の事実が確固たる現実になって生活に実際に現れるまで、絶えずそれに逆らうすべての有様を拒否して戦いを続け、これに勝利しなければならない。

信者は、霊においては、キリストがすべてを達成して下さったという事実に立脚して、これがすでに現実であることを知って、安息している。だが、日常生活においては、その霊的事実に反するような事柄が押し寄せて来て、自らの確信が揺るがされそうになったり、御言葉の外に引き出されそうになるのに抵抗しながら、堅く御言葉に踏みとどまって、御言葉のリアリティを地に引き下ろし、自らの生活において実際とせねばならない。この戦いは容易なものではなく、時には信者自身の魂が、霊を裏切って、敵の作業場になることもある。

霊は直覚によって御言葉をレーマとして受け取るので、何の証明もなくても、信者にはそれが真理であることが分かる。だが、信者は、霊においてはすでに御言葉の意味を悟り、複雑な状況の中で、どう行動すべきかを知っていても、魂は、常に常識に従ってものを考え、自分に納得の行く説明や証明を求めるので、霊が受けた啓示を受け入れがたいと感じ、これに逆らうことがある。

人の魂は、霊とは異なり、堕落した古き人(肉)に属するものであるから、御言葉に逆らい、肉の欲を遂げようと願うことがある。

たとえば、主イエスが共に船に乗っておられるのに、外の嵐を見て恐怖に駆られた弟子たちのように、信者は自分を取り巻く環境状況に実際に大きな波乱が巻き起こる時に、御言葉の平安の外に引き出されそうになることがある。

そのような時には、信者は「御霊によって、からだの行ないを殺」し(ローマ8:13)、御言葉に逆らう自分の魂の動きを全力で屈服させて、自分の心を治め、御言葉に従わせなければならない。

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。<…>
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:16-24)

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
私たちは、さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち破り、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を制する用意ができているのです。」(Ⅱコリント10:3-6)
 
時には、信者は感覚的には平安さえも失われたかのような状況も通過しながら、御言葉が実際になって自分の生活に現れるまで、戦い抜いて勝利せねばならない。環境を治め、自分の心を治め、自分の身体を治め、自己の内外に御言葉に逆らって立つあらゆる「高ぶり」を打ち破り、戦いに勝ち抜いて、御言葉を実体化することが求められるのである。そのような霊的戦いを経て、信者の内側での御言葉に応じた造り変えも進行する。

さらに、ルーク氏の言説には決定的に重要な問題点がある。それは信者にとって最も重要なのは、同氏の言うように「キリストの甘い愛の交わりの中に留り続ける」ことではなく、「御言葉の中にとどまり続ける」ことだという点である。

キリストとの交わりの中に留まることと、御言葉にとどまることは、ある人々にとって、ほとんど同じに聞こえるかもしれない。だが、順序が違うのである。聖書が繰り返し、述べているのは、信者がまず御言葉にとどまり、御言葉を遵守せよ、ということである。そうするならば、おのずと、その人の内側で、キリストを介した父なる神との愛の交わりも保たれる。だが、逆の順序はあり得ない。御言葉にとどまらず、御言葉を守らない人の内側で、神との交わりが保たれることはあり得ない。

従って、信者にとって重要なのは、自分の感覚にとって甘美で好ましく感じられる交わりにとどまろうとすることではなく、たとえ自分にとって好ましい感覚が全く伴わなくとも、それでも「御言葉に従う、これを遵守する」ことなのである。

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」(ヨハネ14:23-24)

もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)

ルーク氏は、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」という後半部分の解放は幾度となく強調するが、その前半にある「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら」という、信者の側の責任を、半ば意図的に見過ごしている趣があることに注意が必要である。

つまり、キリストの達成して下さった御業に安息するためには、人間の側にも果たさなければならない一定の義務があり、それが御言葉の中にとどまり、御言葉を守ることなのであるが、この点については、意図的にほぼ言及されていないのである。

こうしたことの中にも、筆者はペンテコステ運動の影響を見ざるを得ない。そこでは、人間にとって好ましく喜ばしい体験は幾度も強調されて、その体験に信者が自分を開いて受動的に身を委ねることは求められても、信者の側にも、主体的・能動的に果たさねばならない義務があり、中でも特に、御言葉に基づいて、信者が片時も警戒心を鈍らせることなく、目を覚まして自分に起きるすべての物事を鋭く吟味し、何が真理であるか、何が偽りであるかを自ら識別し、虚偽を見分けて退け、真理だけを選び取って受け入れるという識別の作業、すなわち、御言葉による「分離」や「切り分け」の機能を用いて、信者自身が何が真理であるかを識別する作業の重要性が、見落とされている点である。

こうした教えの中では、信者が疑ったり、識別したりする作業をやめて、受動的に感動体験に自分を委ねることは求められても、信者が片時も自分の理性を眠らせず、自分の主権を(キリスト以外の)何者にも明け渡すことなく、積極的・能動的に虚偽を退けて、御言葉の中にとどまりつづけねばならないことの重要性については言及されないのである。


<続く>


カルト被害者救済活動の反聖書性―グノーシス主義の基本構造➀ー



大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――カルト被害者救済活動の反聖書性について――
~キリストの十字架を否定するグノーシス主義思想~


1.キリスト教に恨みや被害者意識を持つ不信者を利用して、キリスト教の信用を貶め、聖書への信仰を毀損するために作り上げられた「カルト被害者救済活動」

2.キリスト教そのものに「カルト化」を生む病理が含まれているかのように唱える人間は、聖書の御言葉への信仰を否定し、神に敵対することになり、その結果、自らが「病理の見本」と化す

3.聖書の御言葉への信仰を「高慢さと自己愛の病理」として非難する人々は、キリスト教界のカルト化問題につまずいているのではなく、聖書の御言葉の「排他性」につまずいている。

4.キリスト教の「二分性」、「排他性」につまずいた人々は、キリストの十字架を否定して、聖書に基づかない「異なる福音」を捏造する。

5.神の知恵である御言葉に逆らって、キリストの十字架を否定し、人が己の努力によって自力で救済に至ろうとする「高慢さ」

6.魂と霊を混同し、信仰によらずに、感覚的な陶酔によって霊の事柄をわきまえようとするペンテコステ運動の危険
  
7.キリストの十字架によらず、肉による善行を通して、人が自力で救済に至ろうとする偽りのヒューマニズムは、「神に見捨てられた罪人を、神の十字架の判決から救う」ための「神に対する被害者運動」である

8.御言葉(十字架)の「二分性」、「切り分け」の機能に基づき、信者が目を覚まして、真理と偽りとを峻別する必要性

9.十字架の「切り分け」を否定する者は、己を神として神への反逆に至る

10.キリスト教の「二分性」を否定する者は、「唯一の神」を否定して、主客の区別を否定する。そして、知性による全ての区別を廃した「善悪未分化の母なる混沌」への「嬰児的回帰」を主張する。

   



1.キリスト教に恨みや被害者意識を持つ不信者を利用して、キリスト教の信用を貶め、聖書への信仰を毀損するために作り上げられた「カルト被害者救済活動」

 
さて、カルト被害者救済活動を推進するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、同牧師の活動を支持する杉本徳久氏は、これまでキリスト教界に起きた不祥事を次々に告発することにより、「キリスト教界のカルト化の危険」を盛んに訴えて来た。

当ブログにおいては、記事「罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか」などにおいて、聖書に立脚していない彼らの活動は、キリスト教の改革に何ら役立たないどころか、ただクリスチャンの間に行き過ぎた異端審問と魔女狩りを生むだけであることを指摘し、この活動を糾弾し、その危険性について警告して来た。

だが、その後、さらに長年、この活動の参加者らを観察した結果、筆者が気づいたのは、こうした活動の参加者らは、クリスチャンというよりも、むしろキリスト教の信仰を持たない不信者が中心であり、どちらかと言えば、これは初めからキリスト教の信仰に基づかない、キリスト教に敵意や恨みを持つ不信者ばかりを強く引きつけて作り上げられた運動だったという事実である。
 
村上密氏自身がプロテスタントの牧師であり、この活動を支持する杉本徳久氏が「信者」を名乗っていたという事実から、筆者は当初、彼らの活動を、あたかもキリスト教の内部から生まれて来た改革運動であるかのように見ていた時期もあった。確かに、活動に参加していた者の中には信者も含まれており、キリスト教界に起きた不祥事を見て、キリスト教の現状に危機感を持つ信者が、彼らと共に「キリスト教界のカルト化の危機」を訴えるということもあるにはあった。

だが、その実、この運動は、今やとうに信者たちからは見放され、カルト被害者からの支持をも失っており、現在は信者よりも、キリスト教に根強い恨みや敵意を持ち、キリスト教に何らかの被害者意識を持つこの世の不信者、もしくは、キリスト教につまずいて信仰をすでに捨て去った元信者らを盛んに引きつけている。そして、この運動は、こうしたキリスト教に敵意を持つ不信者らを駆り立てては、キリスト教に対する敵対的な世論を作り出し、クリスチャンに対する断罪・攻撃に及んで来たことが分かったのである。
 
なぜそのような結果に至ったかと言えば、カルト被害者救済活動は、一部、信者も取り込んでいたとはいえ、本質的には、初めからキリスト教の信仰に基づかない、キリスト教に偽装しただけの、キリスト教とは異質な、別の思想に基づく運動だったためである。むろん、その思想とは聖書を否定するグノーシス主義に他ならず、言い換えれば、東洋思想であるというのが、筆者の見方である。
  
当ブログでは、カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師の活動が、クリスチャンにあるまじき所業であることを幾多の記事で示してきた。
(たとえば、「村上密牧師による鳴尾教会への不当な介入問題 まとめ」や、「この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀」を参照。)

だが、村上牧師のみならず、同氏の活動を最も熱心に支持して来た「信者」の一人である杉本徳久氏の主張を見ても、同氏が「信者」であるという証拠を筆者は全く見いだせない。杉本氏は、カトリックの信者とも言われており、地上の組織としての教会には所属している信徒であるかも知れないが、信仰告白の内容においては、どこからどう見ても、クリスチャンの正常な信仰を持っていると言い難いことが明白である。(記事「この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②」等を参照。)

こうして、カルト被害者救済活動は、キリスト教の「牧師」や「信者」を名乗る人々が率いていたため、一見すると、あたかもキリスト教界の内部から信者自身によって始められた改革運動のように見えたかも知れないが、実際には、この活動の主要な指導者・支持者たちは、キリスト教の信仰を持っているとは到底、言い難い人々であった。さらに、この活動は、「キリスト教界のカルト化問題について論じ合う」ことを口実に、もともとキリスト教に不満や敵意を持つ不信者や、すでに信仰を捨ててしまった元信者たちを盛んに引きつけては、彼らにキリスト教に対する敵意や被害者意識のはけ口を提供し、キリスト教に対する敵対的で批判的な世論を意図的に作り上げた。

こうして、キリスト教のイメージを貶めて、キリスト教があたかも危機的状況にあるかのように世間にアピールしながら、こうした世論の後押しを受けて、不信者が、信者を断罪しては懺悔と自己反省を迫り、キリスト教に対して常日頃から持っていた恨みや被害者意識の鬱憤晴らしを行うという構図になっていたのである。この点で、カルト被害者救済活動は、信者による信者のための改革運動では全くなく、むしろ、不信者のキリスト教に対する敵意と憎しを原動力に、キリスト教に対する非難と攻撃を正当化するための運動だったと言えるのである。
  
村上氏や杉本氏らが、「疑わしい」とみなしたクリスチャンにインターネットで不法なバッシングを加えたり、あるいは法廷に引きずり出して信者に強制的な処罰を試みることが出来たのも、ひとえにこうした不信者らの作り出したキリスト教に対する批判的で敵対的な「世論」の高まりがあればこそであった。
 
こうして、彼らの活動は、あたかもキリスト教の改革が目的であるかのように装ってはいたが、その実、初めから、キリスト教に対して被害者意識や、恨みを持つ人々がその鬱憤を晴らすことを目的としていたのであり、その意味で、この運動は、キリスト教とは本来的に異質なイデオロギーを信奉する人々による「キリスト教の内側からの破壊・乗っ取り作戦」だったとみなすのが最もふさわしいと筆者は考えている。

その意味で、村上密氏が約十四年前、教団から鳴尾教会に正式に遣わされた伝道師夫妻を理不尽な方法で追放し、その後も、被害者を組織して「カルト化の疑いがある」とみなした教会や牧師に裁判をしかけたり、自らの活動を批判する人物に次々に抑圧を加えて来たことは決して故なきことではない。
 
これは、キリスト教徒に偽装してはいるが、実際には聖書に基づくキリストへの信仰を持たない不信者が、キリスト教に対する敵意や被害者意識を持つ人々を意図的に組織することによって、キリスト教内外に、この宗教に対する批判的で敵意に満ちた世論を作り上げ、キリスト教そのものが危機的状況にあるかのように訴えることによって、この宗教の信用を貶め、信者の御言葉への信仰を揺るがし、キリスト教を内側から攻撃し、破壊し、変質させて行くことが、この運動の支持者らの初めからの主要な狙いだったのではないかと見られる。

この運動は、その点で、最初から聖書の信仰に基づくキリスト教の改革運動ではなかったのである。むしろ、キリスト教を敵視し、何らかの恨みや被害者意識に基づいて、この宗教に報復し、打撃を与えたいと願っている人々が、この宗教全体に破壊的な影響を及ぼすために、キリスト教界に起きる不祥事を都合よく利用して、キリスト教を敵視する世論を作り上げ、信者への攻撃に従事して来たのである。

その参加者のほとんどが信者を名乗っていても、実際には不信者であり、彼らの目的は、カルト監視機構を設立することで、キリスト教と信者全体を監視し、取り締まりの対象とし、彼らの支配界に置き、反対者は訴訟や嫌がらせ等によって容赦なく追放しながら、キリスト教の教義を骨抜きにし、キリスト教の中身を、信者もろともにまるごと入れ替えて、彼ら好みの異質な宗教へ変質させていくことが目的だったのではないかと思われるのである。
 
 つまり、これは聖書の神を信じておらず、キリストの救いからも除外され、聖書の御言葉への信仰もなく、キリスト教に敵意と恨みを持ち、「キリスト教から被害を受けた」と主張する人々による、キリスト教とその信者全体に対する怨念に基づく復讐の運動だったとみなすのが、最もふさわしいと筆者は考えるのである。
 


    
2.キリスト教そのものに「カルト化」を生む病理が含まれているかのように唱える人間は、聖書の御言葉への信仰を否定し、神に敵対することになり、その結果、自らが「病理の見本」と化す
    
さて、上記のような活動の支持者らの言い分に明確に共通する点は何であるかを考えると、彼らが盛んに「キリスト教の病理」(言い換えるならば、「キリスト教界のカルト化の危機」)を訴えて、あたかもキリスト教そのものに「カルト化の原因」を生む「病理」が含まれているかのように主張している点であるように思う。

(ただし、彼らはこの問題を教義面から追究して立証するよりも、むしろ、以下に示すように、信者の「高慢さ」や「排他性」を非難するという形を取ることが多い。)
 
ちなみに、「キリスト教の病理」という用語は、ルーク氏の影響もあって、筆者もかつては使ったこともあったが、カルト被害者救済活動の支持者らと袂を分かって後は特に、筆者はそのような形で問題を訴えてはいない。
 
なぜなら、キリスト教そのものに「病理」なるものは存在しないからである。むしろ、聖書の御言葉こそ、人間の陥るすべての「病理」に対する唯一完全な処方箋なのであって、それ以外に、解決策はないのである。人間の作った組織としてのキリスト教界には、あまたの病理現象が見られるかも知れないが、その原因が、聖書の御言葉にあるわけでは決してない。カルト化現象は、信者が聖書の御言葉から逸脱し、これを曲げた結果として生まれるのであり、もし信者が本心からこうした問題を正したいと願うならば、その人々は御言葉へ立ち戻るだけで良い。信仰の問題は、信仰によらずに解決することは不可能である。

しかし、こうした立場とは逆に、聖書の御言葉によらずに、この世の裁判等に訴えて、キリスト教界の諸問題にメスを入れ、信仰の問題に介入しようとするならば、それは唯一の解決策を退けることであるから、より一層「病理」を深めるだけであるばかりか、やがてはその方法は、聖書の御言葉を否定して、キリスト教そのものに敵対して、神と聖徒らに敵対するという恐ろしい運動になって行く。それこそが、カルト被害者救済活動の辿って来た歴史であった。
   
聖書の御言葉への信仰を持たずに、キリスト教全体を疑わしいものとみなして、この宗教そのものに「病理」が含まれているかのようにみなして断罪するようなことをすれば、その人々は結果的にキリストの福音を否定して、神の救いから除外されることになり、理性を失う。御言葉に基づかず、キリスト教そのものを「病理的な、疑わしい宗教」であるかのように非難している人々が、真っ先に、まさに「病理」の見本となって行くのである。

このことは、カルト被害者救済活動の支持者らが非難している対象が、無差別的に拡大していることの中にも見て取れる。

たとえば、村上密氏の場合、当初、同氏は統一教会などのキリスト教外の「カルト」を糾弾していたが、次には同氏の標的は、キリスト教内部の「カルト化の疑いのある教会」になり、果ては、村上密氏自身が所属している教団にまで向いた。同氏は「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の危機」を唱えて、自身の属する教団までも非難の対象としている。

こうなっては、キリスト教界に安全地帯はないということになろう。村上氏は、鳴尾教会に対する訴訟に及んだ事実からも確認できるように、もとは同じ教団の仲間であって、「同じ釜の飯を食った」牧師でさえも容赦なく敵扱いし、打撃を加えることを辞さないのである。

カルト被害者救済活動の指導者による、このようなのべつまくなしの信者への攻撃を見ると、自分の活動を批判し、理解を示さない全ての人を敵扱いするという一種のパラノイド的思考に陥っている様子が見て取れる。筆者が当初より警告した通り、彼らの言う「カルトとの闘い」は暴走して魔女狩りのようになり、キリスト教を信じる全ての信者に対する無差別攻撃になって行ったのである。

このようなことが起きたのは、彼らの率いるカルト被害者救済活動が、もともと本質的に、キリスト教の中から信者自身によって起こされた、聖書に回帰することを唱える平和な改革運動ではなく、むしろ、キリスト教には異質な理念を基礎とする、聖書の御言葉を否んでキリスト教そのものに敵対する運動であって、内側からの破壊運動であったと考えれば不思議ではない。
  
つまり、彼らの真の目的は最初から、聖書に戻ることにはなく、むしろ、キリスト教に異質な思想と方法論を持ち込むことで、キリスト教を破壊し、聖書の御言葉への信仰を毀損することにあるのだと見られるのである。
 



3.聖書の御言葉への信仰を「高慢さと自己愛の病理」として非難する人々は、キリスト教界のカルト化問題につまずいているのではなく、聖書の御言葉の「排他性」につまずいている。
 
このことは、カルト被害者救済活動の支持者らが、聖書に忠実な信仰を維持する信者たちを非難・攻撃する際の主張の中にも見て取れる。
    
筆者は、かつて記事「キリストの十字架以外に救いはない!」において、教会のカルト化という問題は、聖書の御言葉に立ち戻り、キリストの十字架に立ち戻ることによらなければ、決して解決し得ない問題であることを訴えて、聖書に立ち戻ることなく、キリスト教界の不祥事を現象面から糾弾することにのみ熱中しているカルト被害者救済活動に訣別を宣言した。

それ以後、当ブログに対しては、この活動を支持する人々から長年に渡り、猛烈な嫌がらせが行われて来た。中でも、杉本徳久氏からのとりわけ執拗な嫌がらせについては、記事「この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②」等で紹介した通りである。
 
さて、杉本氏が、筆者の信仰的な立場を非難するために書いた一連の記事やメールの中で、しきりに「自己愛性妄想」だの「自己愛イメージ」だのといった意味不明な造語をふりかざしては筆者を断罪しようと試みていたことを思い出したい。
 
実のところ、筆者は長い間、こういう意味不明な単語がどこから出て来たものなのか、さっぱり理解できなかった。そもそも「自己愛性妄想」という用語自体が杉本氏の造語に過ぎず、同氏の言う「自己愛イメージ」という概念も、一体、何を指しているのか、具体的文脈が全く不明なのである。
  
しかしながら、以下に引用するような記事を読めば、彼らが何を言わんとしていたのか、それがどんな理由によって生まれた主張なのか、かなり明確に理解できるように思う。

以下の記事は、教会のカルト化問題をきっかけに、プロテスタントにつまずいて「脱福した」と述べている元信者が書いたものである。記事の標題は、「クリスチャンの自己愛の病理と「病識」の問題」。心理学の分野に造詣のある人物が書いているようだが、しかし「クリスチャンの自己愛や病理や病識」と言った専門用語は、学術世界に正式な用語としては存在していないはずである。従って、これは学術的見解と呼べるものではなく、杉本氏と同じように、単にこの人物が、キリスト教の理念を誤ったものとして非難したいという動機から、自らの専門知識にものを言わせてそれらしく作り出した造語であると見て良かろう。
   
ブログには一見、讃美歌が記されていたり、主イエスの御名が登場したり、カトリックへの共感が語られたりもしており、著者はどうやら幼い頃から、キリスト教になじみ深い環境で育ったようである。当ブログの管理人が、プロテスタントのキリスト教界で起きる様々な問題に疑問と絶望感を覚えながら、真剣に神を求めて歩んでいた頃の姿勢に、どこかしら重なる部分も感じられる。

しかしながら、筆者と以下のブログの著者との決定的な違いは、このブログの著者が、単にキリスト教界の問題に絶望を感じてキリスト教界から脱出したにとどまらず、「脱福した」と自ら記している点である。

つまり、この人は組織としてのキリスト教界の抱える問題に疑問を感じたことをきっかけに、組織としてのキリスト教と訣別したのみならず、それを機に、キリストへの信仰とも訣別したのであり、キリストの福音を自ら捨てたと公言しているのである。

プロテスタント信者の「高慢さ」に辟易してカトリックに戻ったというわけでもなく、プロテスタントにつまずいたことをきっかけに、聖書の御言葉そのものに対する疑念が生じて信者をやめたというのである。
 
そこで、以下の記事は、文化としてのキリスト教にはなじみ深い環境で育った人間であるかも知れないが、すでに信者ではない人間によって書かれたものであり、この著者は、キリスト教の外に立って、プロテスタントの信者たちの「聖書の御言葉中心(絶対)主義」を、信者の「高慢さやナルシシズム」の表れとして非難し、否定しているのである。
    
今ここに、この記事をあえて長々と引用するのは、この記事に記されているプロテスタント信者への非難の言葉の中に、筆者がカルト被害者救済活動の支持者らの言動の中に常に感じて来た「クリスチャンに対する敵意と憎悪」をそっくりそのまま見ることができるからである。

さらに言えば、カルト被害者救済活動の参加者たちが一様に述べる、クリスチャンに対する被害者意識と恨みの念が、実際には、あれやこれやの未熟な信者の言動や、カトリックやプロテスタントといった特定の宗派の独自性につまずいて生まれただけにとどまらず、その根源が、聖書の御言葉そのものに対する彼らの敵意と否定にある様子が見て取れるからである。
 
すなわち、彼らの表明するような、「高慢で自己愛に満ちたクリスチャンたち」に対する恨みや被害者意識の念は、根本的には、彼らのキリスト教そのものに対する敵意と、御言葉に対する敵意と不信感から生まれて来るのであり、最終的には――クリスチャンのみならず、キリストの福音の否定と、聖書の神そのものに対する敵意へと至り着くのである。

クリスチャンの自己愛の病理と「病識」の問題――その①

私がカトリックの世界の中にいた時には比較的感じなかったけれども、プロテスタントの世界に入信して以来強烈に感じる様になった違和感の一つに、福音派のクリスチャンたちの持つ鼻持ちならない高慢さとナルシシズムがありました。

私の親戚縁者には福音派のキリスト教徒が多く、また大叔母などはカトリックでシスターに献身しているくらい熱心なキリスト教徒なのです。そういうわけで、私も幼少期より『聖書物語』を愛読して育ちましたので、アブラハム、イサク、ヤコブの神=「主なる神」という存在をとても身近に感じつつ成長したように思います。

私は諸般の事情があって、主イエスの救いを個人的に受け入れた十三歳のクリスマスには洗礼を受けることが出来ませんでした。しかし、その後も継続的に聖書研究会に出席し続けましたので、カトリックの公共要理についての問答は一通り学びました。

カトリックの大先輩たちには、例えば当時まだ元気溌剌と活動しておられたマザー・テレサもいらっしゃいましたし、フロイト派の精神分析医で「甘え理論」を打ち立てられた土居健郎先生もまだまだ元気で活動しておられました。何より、死生学を日本に広めたアルフォンス・デーケン神父も、今上智大学で臨床心理学の教授をなさっているクスマノ神父もみなさん本当にお元気な姿を見せてくださっていましたね(*^_^*)

私は何もカトリックがよくてプロテスタントは駄目だとか、そんなアホなことは考えていません。カトリックにもプロテスタントにも、と申しますか、キリスト教そのものに本質的な精神病理があると愚考しているのです。「ヨシュア」ことイエスが説いた教えとこんにち存在するキリスト教徒の間には、看過できない乖離があるのではないかと思いますが、いかがですか(^-^;

聖書絶対主義と申しますか、よく言えば「福音的」な信仰と申しますか、そういう発想のただ中にそもそも自己愛的な「排除の病理」を看取するのですよ

聖書しか信じない者が正しいクリスチャンで、聖書以外の中にも何がしかの真理を認めるという姿勢は、リベラルな信仰として排除されるという訳です。

今問題になっている感のあるイスラム教とか仏教についても、大体のクリスチャンは極めていい加減なことしか知らないのに、ただ彼らが聖書第一信仰ではないからというだけの理由で、例えば仏教の寺院に油を掛けたりするのですね。何とも情けない信仰ですね(-_-;)

「聖書だけが唯一正しい(誤りなき)神の言葉だ。」ということを福音派の方々はしばしば呪文のように唱えますね。しかし、聖書が各種の資料を恣意的に置換するように変換して人工的に作られたものであるということは考古学的にも神学的にも自明の理ですのに、どうして論理学的に破綻を来している福音的信仰に疑問を持たないのか、私は不思議でなりません。

「聖書が正しいということは聖書がそう宣言しているのだから、その通りなんだよ。」と言われましても、こんなひどい論理的矛盾はないものですね(^_^;) 

「私が正しいのは『私が正しい』と自分で言っているからだ!!!」と一般人が何万回叫んでみても、誰も耳を貸さないでしょうね

まぁそりゃあ三浦光世・綾子夫妻が体現しておられたようなある意味で麗しい(ように見える)夫婦愛とか、分かりやすい例で言えば『塩狩峠』の主人公が身を持って示したような愛の自己犠牲とかの真実に触れた人が、「この人はどうしてこんなに温かいのだろう? 何がこの人をこんなにもやさしい人にさせているのだろう?」と自発的に思うくらいそこに神の愛が存在するならば、赦しと愛に飢えた人々は押し寄せる様にエクレシアにやってくるでしょうね。

もしキリスト教会に本物のイエス・キリストの似姿としての愛があれば、恵みの雰囲気に飢えた人たちは押し寄せてくると思うんですよね。

バザーをやれば、或いはゴスペルコンサートを上演すれば、それを目当てとしてお客さんが来るかのように求道者が押し寄せてくるのではないかなんて、ペンテコステ派や福音派の信徒さんたちや牧師さんたちは本気で考えているのでしょうかねぇ。そんな姑息な手段では人は集まりませんよ((+_+))

<中略>
 

 私は確かに今後二度とキリスト教会に行くことはありません。それは、こんにちのキリスト教会が本質的に――神学的にも――イエスの説いた本筋から脱線しているということもあるのですが、キリスト教会のカルト化がひどいという事情もあるのです。私はカルト教会に歯向かって、かなり戦いましたのでね。疲れますよ、無駄にねぇ

今日は「クリスチャンの自己愛の病理と『病識』の問題――その①」と題しまして、クリスチャンが持っている自己愛的精神病理や排除によるヒエラルキーの問題、トゥルニエが指摘している『暴力的存在としてのキリスト教徒』の問題、そして自分のおかしさを自分で認識しているといういわゆる「病識」の問題に入っていく切り口を作りかかったところでお時間となりました。

この話題は何回かに分けてゆるやかにお書きしたいと(そんな記事は誰も期待していないでしょうけれど)勝手に思っています<(_ _)> 

カルト教会の問題に興味のある方々にたまに読んでいただけたらとても嬉しいです(*^_^*)

いつの時代も同様だったのではないかと思いますが、キリスト教徒を誠実にこなすことは骨の折れる仕事です。私は一抜けましたが、何せ三十数年間キリスト教会の内幕をつぶさに拝見して参りましたので、その辺りのことをいろいろとお書きしていきたいと思います<(_ _)>


ここでも、「神社への油まき事件」が、村上密牧師らの活動と同じような文脈で、キリスト教とクリスチャンに対して敵対的で否定的な意見を裏づける根拠として利用されていることに注意したい。

筆者から見ると、実に恐ろしい現象なのだが、「教会のカルト化」という問題をきっかけとして、これを非難しているうちに、聖書の御言葉の絶対性を否定して、キリストの福音そのものから除外されて行く「信者」たちが現れるのである。

カルト化問題を解決するために、真に御言葉に立ち戻る必要性があることを訴えるのではなく、むしろ、こうした問題をきっかけに、キリスト教そのものに「病理性」があることを訴えて、この宗教と信者を糾弾し、この宗教への絶望感を語り、煽る人々は、聖書の御言葉への信仰そのものを否定して、キリストの救いから自ら除外されて行くのである。こうした人々は、カルト被害者救済活動の参加者らの中にも多数、見受けられた。
 
ここから、「教会のカルト化」問題を語る際に、その人が、聖書の御言葉に対してどう向き合うかという点が、信者のその後の明暗を大きく分けることが分かる。

教会に起きた問題をきっかけに、神をより真剣に求め、より聖書に忠実に戻ろうとする人は、決して、キリスト教そのものにつまずいて、これを否定するに至ることはない。だが、教会の問題を論じるうちに、聖書の御言葉そのものに懐疑的になる人は、いずれキリスト教からも脱落し、キリストの福音そのものを否定することになる。つまり、救いを失うのである。
 
「クリスチャンに見られるあれやこれやのあるまじき問題」を現象面だけから非難していると、そのうちにいつの間にか、こうした問題が、あたかもキリスト教そのものに原因があって生まれたかのような錯覚が生じ、こうした「被害者」を生み出した「狭き門」としてのキリスト教そのものに懐疑的になり、聖書の御言葉の真実性を否定して、十字架の切り分けを否定して、神の福音から除外されて、福音の外に弾き出されてしまうことになるのである。
 
筆者の観点では、こうした人々は、クリスチャンの未熟な言動につまずいているのではなく、聖書の御言葉そのものにつまずいているのである。彼らが真に糾弾したいのは、あれやこれやの信者の未熟な言動ではなく、カトリックやプロテスタントという特定の宗派の欠点でもなく、むしろ、キリスト教に本質的に備わっている「二分性」、「排他性」なのであり、聖書の御言葉そのものが持つ「分離」や「切り分け」の機能、キリストの福音の排他的な「狭き門」なのである。
 
つまり、キリスト教の「狭い救い」(あえてこのような表現を使うならば)自体が、彼らのような人々にとっては、「反人間的で思い上がったもの」と見え、自分を残酷に排除した「狭量な福音」自体に我慢がならないということが、この人々のキリスト教に対する抗議の核心なのである。
 
従って、こうした人々にとって「教会のカルト化」という問題は、キリスト教に特有の「排他性」を非難するための単なるきっかけに過ぎない。彼らの主張の根幹は、特定の信者や特定の教会や特定の宗派に対する不満にあるのではなく、聖書の御言葉そのものへの不満、否定にあるのだと見られる。
 
すなわち、こうした人々は結局、神と人との断絶という聖書の事実そのものに対して異議を唱え、この断絶を解消するための手段が、唯一、キリストの十字架にしかないという聖書の事実を否定しているのであり、つまりは、己の罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信じて受け入れた者しか救われないという「キリスト教の狭量で排他的な救い」自体に抗議しているのである。そして、このような「狭き門」しか提唱できない「キリスト教そのものに本質的な精神病理がある」と非難して、そのような「狭い救い」から除外された自分たちを、「残酷で狭量なキリスト教の被害者」であるとみなし、彼らを容赦なく救いの対象外としたこの「残酷な」宗教全体を、「神と信者たちの高慢と自己愛が作り出した病的に歪んだ宗教」として非難しようとしているのである。

「キリスト教そのものに本質的な精神病理があると愚考しているのです。」

「聖書絶対主義と申しますか、よく言えば「福音的」な信仰と申しますか、そういう発想のただ中にそもそも自己愛的な「排除の病理」を看取するのですよ。」

筆者は、このブログの著者と同様の見解に立つ人々に個人的に出会ったことがある。たとえば、2009年頃、筆者は「キリスト教界からエクソダスせよ」という呼びかけに共感し、真実なエクレシアを求めてキリスト教界を旅立った信者たちに数多く出会ったが、記事には一度も記したことがないが、その中には、ある信者の「山小屋」で出会った姉妹もいた。彼女もやはりキリスト教界を出た一人であり、当時、私たちは兄弟たちと共に聖書に基づく真実なエクレシアのあり方について、夜を明かすほど熱心に語り合ったものであった。

ところが、ずっと何年も経ってから、この「姉妹」に再会すると、彼女は驚くべきことに、当時とは全く異なる見解に達していた。

その「姉妹」は聖書外伝に多大な関心を持って没頭しており、なぜそれらの外伝が、プロテスタントの信者の通常の概念によると、正統な聖書から除外されねばならないのか、全く理解できない様子であった。その「姉妹」は、聖書66巻だけが神の霊感を受けた書物であるとする「排他的な」プロテスタント信者の聖書信仰に対する明らかな敵意と怒りを込めて、筆者を詰問した。「なぜ聖書66巻だけが神の霊感を受けた書物なんですか!? どうしてそれ以外のものは聖書に含まれないんですか。どうしてこれだけが正しいと言えるんですか? 証明する方法があるなら、証明して下さいよ!!」

以前にエクレシアを求めて和やかに熱心に交わっていた頃とは、全く変わり果てた調子に、筆者はいささか驚いたが、いずれにしても、66巻だけが神の霊感を受けた書物であることを「証明」することは誰にもできない相談であり、我々はそれをただ信仰により「信じて」おり、また、御霊が我々の霊において御言葉の正しさを直接教えてくれるがゆえに、私たちは神の御言葉を論理的証明によるのでなく啓示によって理解するのであり、聖書外伝については、多くのグノーシス主義思想に基づく外伝も書かれているため、そのようなものを無分別に取り入れるのは極めて危険であると忠告した。

その「姉妹」は、上に引用したブログ記事の著者と同じように、聖書信仰が論理的に「証明不可能」であると確認するや否や、侮蔑と嘲笑を込めて、「そんな荒唐無稽で非科学的な未熟な信仰を未だに後生大事に保持している信者たちは愚かで可哀想だ」との見解を述べた。それ以来、筆者は、以前は同じように見えたこの「姉妹」との見解が、天と地ほどかけ離れていることを理解したので、彼女とは一切議論したことがない。
  
通常、聖書66巻が神の啓示によって書かれた書物であるということについて、クリスチャンは証明の必要がないと考えている。しかし、すでにこの点でも、聖書が提示する「二分性」や「排他性」に大きくつまずく人たちが出て来るのである。

このようなことから始まって、何が神に属するものであり、何がそうでないかという、御言葉に基づく「切り分け」自体が全く認められないという人たちが出現するのである。彼らはそれが「高慢で狭量な残酷な排除の論理」だとして、怒りと憎しみを込めてクリスチャンに抗議し、聖書の御言葉の持つ「二分性」を非難するのである。
 
そのような見解に陥る人々が、もともとキリスト教に理解のないこの世の人々であったならば、まだしも理解できるが、元は信者であり、何年間も、教会に所属しており、かなり熱心に真の教会のあり方を探し求めていたような人々が、キリスト教界の不祥事につまずいたことをきっかけに、最後には聖書の御言葉自体を否定して、キリストの救いから除外されて行くことは、筆者から見れば、極めて恐ろしい現象であった。

彼らは一様に言う、プロテスタントの「聖書絶対主義」そのものが、信者の「高慢」と「ナルシシズム」の産物なのだと。つまり、彼らは、信者が聖書66巻の御言葉の真実性を信じていること自体が、「思い上がって身勝手な自己愛」だと言って信者を非難するのである。
 
全く賛同も理解できないが、そのような転倒した理屈が生まれて来るのは、彼らが自分たちは、キリストの救いから「除外されている」という確信を心の内側で持っているためであると見られる。

もし信者が、聖書の御言葉を真実なものとして信じて受け入れていれば、自分は御言葉の内側にいて、すでに救われているという確信が心にあるので、安堵してキリストの救いを受け入れていられるはずである。御言葉は、その人の心に平安をもたらすことはあっても、憤りや憎しみや敵意をかき立てることはない。だが、もし人が聖書の御言葉の真実性を疑うならば、その人は、自分が神の救いから除外されており、罪に定められると感じればこそ、そんな「反人間的な狭い福音は許せない」と抗議するのであろう。

このように、目には見えずとも、聖書の御言葉は、聞く人に確かに何らかの峻厳な区別をつきつけるようである。目に見えずとも、御言葉により、はっきりとした霊的な線引きが生じるのである――そこで、ある人々は、自分は御言葉の「内側にいる」と感じて平安を受け、ある人々は、「外側にいる」と自覚して憤りを覚えるのである。
 
キリスト教そのものに病理があるなどと言って抗議して来る人々は、ほぼ間違いなく、「外側にいる」と感じている人たちである。彼らは、キリストの十字架の贖いを信じた者だけが罪赦されて救われるという、キリスト教の大前提(プロテスタントのみならず、カトリックであっても、正教であっても、教義上、変わらないはずであるが)自体が、全く許せないほどに「狭量で排他的」であり、そんなものは「信者の思い上がって高慢な自己愛とナルシシズム」から生まれて来た偽りであり幻想に過ぎないと抗議するのである。つまり、彼らはそのように信者を非難することによって、結局、自分を除外した福音そのものに異議を唱えているのである。



 4.キリスト教の「二分性」、「排他性」につまずいた人々は、キリストの十字架を否定して、聖書に基づかない「異なる福音」を捏造する。
   
こうして、キリスト教の持つ「二分性」、「排他性」につまずいたことをきっかけに、キリストの福音そのものから除外される人々が出現するのであるが、さらにその上、こうしてキリスト教につまずき、救いから除外された「可哀想な人々」を、聖書とは別な方法で「救済」すべく、キリストの「狭き門」を押し広げて、独自の「広き門」を打ち立てようとする人々が、昔から今に至るまで、数多く存在して来た。上で引用したブログ記事において、キリスト教を捨てた元信者が賞賛しているマザー・テレサもその一人である。
 
記事「神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~」からもう一度、引用したい。

「ここで思い出されるのが、ドストエフスキーの大審問官や、サンダー・シングなどの存在である。ドストエフスキーの大審問官は、聖書的な方法では人類のほんの一部しか救われないため、自分はこのような残酷で狭量な救いの代わりに、人類の圧倒的大多数を救うことのできる寛大で広い救いを作ってやるのだと述べて、教会の提示する方法では救われない圧倒的大多数のための新たな福音を提唱する。

サンダー・シングもまた、ヨーロッパのキリスト教界に接触した際、形骸化した教会生活と高慢なクリスチャンに深い絶望を覚え、こうした「自称クリスチャン」の中に神はおられないという結論に至り、それをきっかけとして、「ヨーロッパの地の塵を足から払い落とし」貧苦に喘ぎながらも真剣に神を求めている東洋の人々へと」関心を移した。「聖なる導き インド永遠の書」林陽訳、徳間書店、p.19。)
 
マザー・テレサや奥田牧師の場合と同様、こうしてクリスチャンを名乗りながらも、教会から打ち捨てられた人々を積極的に救いの対象とする「弱者救済活動」を行う指導者は、往々にして、従来のキリスト教界と従来のクリスチャンに対する深い絶望感、嫌悪感を心の底に秘めている。

彼らの「救済活動」は、神と教会とクリスチャンに対する絶望をきっかけとして始まっており、彼ら自身の自己救済のためであると言える。その出発から見て、必然的に、そのゴールは、神と教会とクリスチャンの「横暴」によって虐げられた者たちを、神と教会とクリスチャンの手から救うという性質を持つものとならざるを得ない。その結果、彼らは信仰による解決を退け、信仰によっては救われない圧倒的大多数のために、別の福音を作り上げるのである。
    
こうした人々の弱者救済活動は、ただ単に形骸化したキリスト教界に対するアンチテーゼであるばかりではなく、本質的に、聖書の提示する狭き門として「狭い福音」そのものに対する抵抗であり、抗議なのである。

彼らはその活動を通して、神自身の「横暴」と「偏狭な救い」から人々を救おうとしているのだと言えるかも知れない。だから、こうした弱者救済活動は、本質的には神を仮想敵としているのだと言えるのである。すなわち、神に疎外され見捨てられた「クリスチャン」が、同じように、教会に見捨てられた人々に自己投影し、この哀れな人々を「救済」することによって、自己救済を成し遂げ、さらには自分たちこそ神に等しい者であると主張することによって、自分を見捨て来た神と教会とクリスチャンに復讐を果たし、彼らを見返そうとする心理がその根底に横たわっているのだと考えられる。
 
従って、こうした弱者救済活動は、いかにうわべはキリスト教的な装いをまとっていたとしても、聖書に基づくものではなく、その支援者らもクリスチャンとは言えない。彼らの救済活動は、本質的には「神と教会とクリスチャンの唱える偏狭な救いに対する抵抗運動」なのであり、彼らが真に糾弾している相手は、彼らを理不尽な苦しみに遭わせ、見捨てて来た神ご自身なのである。」


全く恐ろしいことではあるが、プロテスタントの聖書中心主義につまずいて、そんなものは信者たちの「高慢」や「自己愛」の産物だのと言って非難している人々は、結局、キリスト教そのものを「神の高慢で偏狭な救い」であるとして、この「狭い救い」そのものを退け、御言葉を否定して、神に敵対しているのである。
 
こうした人々は、キリスト教を「病理的な宗教」として非難するのみならず、「教会のカルト化を憂う」、「カルト化現象によって傷ついた被害者を救う必要がある」などという一見、もっともらしく、美しく見えるヒューマニスティックな大義名分を持ち出して、他の信者に接近し、巧みにその信者の教会や信者に対する不満を探り出し、それをきっかけに、目に見える教会のあり方に疑問を感じさせるだけでなく、目に見えないキリストの御言葉の真実性までも疑わせ、巧妙に福音の外へ引き出して行こうとするのである。

カルト化問題をきっかけに、自分が「キリスト教の被害者」であると訴えた人々は、ことごとく、このような偽りに欺かれ、神と教会とクリスチャンの敵となって行った。カルト被害者救済活動を支持するほとんどの人々は、このようにして信者の敵と化したのである。たとえ讃美歌や教会行事や文化としてのキリスト教には関わっていたとしても、御言葉の真実性を信じることができなくなったこのような人々を信者とは呼ぶことはできない。

その意味において、カルト被害者救済活動は、初めから聖書の御言葉に基づく改革運動ではなく、むしろ、「教会に見捨てられ、神に見捨てられた哀れなキリスト教の被害者を、同じように教会につまずき、神につまずき、キリストの救いから除外された者が自己救済するという、神なきヒューマニズムに基づく偽りの救済運動だったと言える。
 
この人々が最もつまずき、「被害」をこうむったと主張している本質的な問題は、教会のカルト化という現象にではなく、彼らを救いから排除した聖書の御言葉にあったのである。

彼らは結局、カルト化問題を告発することにより、こう主張しているのである。「キリスト教が私たち人間を精神病理に陥れる原因を作った。だから、キリスト教は加害者であり、聖書の神は加害者であり、我々はその被害者だ」と。つまり、彼らはただキリスト教の被害者であるのみならず、神の被害者だと自称しているのであり、「我々は自己愛とナルシシズムに満ちたキリスト教の思い上がって身勝手な信者たちだけでなく、神の自己愛とナルシシズムに満ちた狭量な福音によって傷つけられ、そこから理不尽に除外された被害者なのだ!!」と主張しているのである。

従って、カルト被害者救済活動とは何かと問えば、結局、これは「キリスト教という、本質的に精神病理を含んだ狭量で異常で排他的なカルト宗教によって、容赦なく見捨てられ、救いの対象外とされ、精神を病み、被害を受けた主張する哀れな人類を、聖書の神と聖書の御言葉によらずに、別な方法で救済しようとする、キリスト教とは本質的に異質な運動」ということになろう。

だからこそ、当ブログでは繰り返し、この活動はあれやこれやのカルト化教会やあれやこれやの「疑わしい」信者だけを仮想敵とする運動なのではなく、キリスト教そのものと、聖書の神そのものを仮想敵とする神に敵対する運動だと述べているのである。
 
 
<続く>


この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②

追記:2018年2月に、村上密率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事等を参照。「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実



 2.この世の常識によってクリスチャンを罪に定め、クリスチャンを裁判にかけることで、キリスト教徒を弾圧し、霊と肉の秩序を転倒させることに喜びを見いだすカルト被害者救済活動の異常な支持者たち 
  
2-1.この世の不信者を動員して信者を恫喝して黙らせるカルト被害者救済活動の手口

さて、カルト被害者救済活動の根底に流れる異端思想については、別稿でも詳述する予定であるが、私は異端思想の総称を「東洋思想」と呼べるのではないかと考えている。

東洋思想は日本人には極めてなじみ深いものであり、それは神と人との断絶を認めないことから始まって、キリストの十字架における分離と切り分けを否定して、全体と切り離された個人というものを認めず、個人を「母なるもの(全宇宙)」や「全体」(社会、家族、国家、世論、空気、すなわち最終的には「この世」)の一部とみなす。

この思想は、人間が罪によって神と断絶したことを認めず、被造物の堕落を認めないので、神と宇宙は一つであり、人はこの宇宙と切り離されることなく、それに生まれながらに包含されるという考え方に貫かれており、そこで、宇宙には神が満ちているというとか、木や石にも神が宿っているとか、人も生まれながらに神であるとか、目に見えるものはすなわちみな神であるという汎神論的な考え方を生む。 
 
このような考え方は、見えるものすべてを高く掲げ、人間の罪や堕落といった考えを否定するので、人の耳には心地よく響くかも知れないが、結局、神と人との断絶を認めず、被造物の堕落を認めない思想は、個人を全体から分離することや区別することも否定して、人を堕落した「この世」に永久に閉じ込めて束縛し、決してそこから外に出そうとしない点で、恐ろしい思想なのである。
 
しかし、日本人は古来からこのような思想に慣らされているので、物心ついた時から、全体の中で自分が何らかの役割を果たすことによって、初めて個人としての評価を得られるという考え方をすりこまれている。

ゆりかごから墓場まで、日本人は、絶えず社会や集団における人間関係のヒエラルキー、縦の序列の中で、自分よりも強い立場にある人間に積極的に奉仕し、権威者から覚えめでたい人となり、優秀だという評価を得なければ、自分が人としての価値を失うかのような恐れに縛られて生きている。そのような恐れを人に抱かせるためのシステムがこの世に出来上がっている。

そこでは、個人の尊厳というものが、社会全体においてその個人が果たす役割(あるいは貢献度)を基準としてはかられるのが当然視されているため、個人の尊厳というものが、そもそも他者によって外から評価されたり付与されるべきでなく、個人の尊厳とは、個人が生まれながらにして持っている絶対的な価値だとみなす考え方がないに等しい。

このようなシステムに従って生きている人は、集団と切り離されたところで、集団の中で何の役割も担わない個人というものを考えることができず、自分の価値を、自分を取り巻く集団における自分の有益性という外側からの評価と切り離して考えることが極めて困難である。
 
そこで、ほとんどの人は、外面的な評価を得るための競争に絶えず踊らされながら、大変な努力をして何かを達成しても、それによって満足することもなく、さらに多くの人々を凌駕して、さらに多くのものを手に入れなければ、自分の価値を確信できないという不安と焦燥感に追い立てられている。

クリスチャンは、曲がりなりにも、このような弱肉強食の世が堕落しており、この世で尊ばれているものに価値がないこと、また、人間が堕落した罪深い存在であり、キリストの救いを信じることなくしては、神と断絶していることを知っている。そして、キリストの十字架を信じることにより、信者が罪から贖われ、キリストの義を着せられ、堕落した「この世から召し出された」ことを知っている。この召し出された人々が、神の教会なのである。

召し出された人々は、この世の価値観とは違った価値基準によって生きている。神を信じる以前のように、この世の人々からどう評価されるかという恐れに縛られ、人の目により評価されるべく努力して生きるのではなく、神の目に喜ばれ、評価されることが、クリスチャンの新しい人生の目的である。
  
クリスチャンは世から召し出されたがゆえに、自分がこの世からは激しい憎しみの対象となっていることをも知っている。この世の君は、「空中の権を持つ君」、すなわち、サタンであり、この世の世論、社会の動向、世界の情勢、目に見える世界を直接、支配しているのは、悪魔なのである。しかし、この世にあるものは、必ずしも人の目にすべて悪く見えるものばかりでなく、良識や善と見えるような、良さそうなものも多く含まれており、こうした見せかけの偽善的な道徳や、見せかけの良識を巧みに利用しながら、悪魔はこの世という巨大な偽りの体系を築き上げているのである。

生まれながらの人々は、この世という体系が偽りであり、堕落していることを理解できない。たとえ何かがおかしいと気づいたとしても、罪のゆえに、彼らはこの世の奴隷とされており、死の恐怖のために逃げ出すことができない。

しかし、クリスチャンは、この世の暗闇の圧政から救い出されて、キリストの霊的統治のもとに置かれているため、悪魔がその支配を及ぼすことのできない領域にいる。それゆえ、信者は暗闇の勢力と彼らの支配する「この世」からは激しい憎しみの対象となっており、暗闇の勢力は何としても、この世から召し出された信者を、再びこの世の奴隷に戻そうとたくらんでいるのである。

聖書は、再三に渡り、信者がキリストにあって自由を失わず、キリストの復活の証人として立ち続けるためには、この世を愛してはならず、この世と妥協してはならないと警告している。しかし、この世を愛するとは、単にこの世の富を愛するだけでなく、世からの評価(自己の栄誉)を愛することをも意味する。
 
もし信者が神がどう自分を評価されるかを気にするのではなく、人の目に自分がどう評価されるかを気にして、この世の人々の批判を恐れたり、人から良い評価を受けたいがばかりに、外面を取り繕い始めると、早速、その人は神に対して生きるのではなく、世に対して生きる者となってしまう。

さて、カルト被害者救済活動に携わる人々は、クリスチャンを信仰の道から逸らすために、「この世」を巧みに利用して、クリスチャンを糾弾する「世論」を作り上げた。そして、この偽りの世論によって信者を圧迫することによって、信者が神ではなく、人(不信者)の目を恐れ、世間の評価を気にしながら生きるように仕向けているのである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、杉本徳久氏のような、カルト被害者救済活動を主導する人々は、「キリスト教界のカルト化問題に警鐘を鳴らす」ことを口実に、キリスト教の信仰を持たない不信者を積極的に動員しては、キリスト教に対する世間の批判的な世論を形成し、キリスト教に対する憎悪と偏見を煽り、裁判などのこの世の強制力を用いて、教会に強制的に介入することを肯定し、「疑わしい」とみなしたクリスチャンを次々とバッシングしたり、裁判にかけることによって、不信者らをクリスチャンに対する弾圧に駆り立てている。

カルト被害者救済活動は、当初、キリスト教界の不祥事の犠牲となった人々を救済することを目指していたが、今やこの活動は、キリスト教そのものに対する憎しみに満ち、キリスト教に対して恨みや被害者意識を持つ人々で溢れかえっている。こうした人々が勝手に「被害」を主張しては、クリスチャンを次々弾圧しているのが現状である。
 
当ブログで悪質な嫌がらせ工作員として紹介している「さわやか読者」も、カルト被害者救済活動に強い影響を受けた人々から成っているが、この人々は実際にはキリスト教のことを何も知らず、関係者でもなく、部外者でありながら、キリスト教に対する憎悪と不信感から、信者を攻撃しているのである。

このような部外者を積極的に集めては、キリスト教に対するネガティブな世論を作り上げ、それをきっかけに、キリスト教徒への弾圧に乗り出し、自らの活動の需要を世間に訴えて、活躍の場を作り出そうとしているのが、カルト被害者救済活動に携わる人々である。

彼らはキリスト教界の不祥事を大々的に発表し、自ら世間におけるキリスト教のイメージを貶めておきながら、もう一方では、「キリスト教のイメージが世間で低下したので、これを正さなければならない」と言って、キリスト教界を力づくで自分たちの活動の支配下におさめようとする。

こうした活動は明らかにマッチポンプであり、彼ら自身が、自らの活動の需要を作り出すために、キリスト教界のイメージを限りなく貶めているのであり、さらに、信者をこの世の不信者らの圧力の下にひれ伏させるために、キリスト教を非難し貶める世論を作り上げ、本物の信者らを、彼らの作り出した世論に怯えさせ、彼らに従わせようとしているのである。

そのために、至る所で、ほえたける獅子のように暴れまわっては、クリスチャン・ブロガーなどに圧力を加え、信者を裁判に引きずり出し、信仰告白をやめさせ、神を信じ、御言葉に従う人々の信仰生活を妨害しているのである。
 
こうして、不信者によって信者を取り締まること、この世の霊的盲目にある人々を利用して、信者を恫喝し、怯えさせて黙らせて、神の霊的統治に関する事柄を、この世の悪魔的統治の支配下に置き、目に見えるものと見得ないものの秩序を逆転し、霊と肉との秩序を逆転させ、悪魔的統治を教会の上位に据えることこそ、村上密氏が唱えていた「カルト監視機構」の発想の根底にある恐ろしい思想なのである。
   
堕落した世の影響を聖書の御言葉以上に高く掲げ、信者を御言葉ではなく「この世」の言い分に従わせようとする圧力に、信者は従うべきではない。いかに上記のような活動の支持者らが「この世の常識」をふりかざして、クリスチャンを断罪していたとしても、信者がその言い分に影響され、欺かれるべきではない。

信者が従うべきは聖書の御言葉であって、この世の常識や世論の動向ではない。この世にあるものはすべて神から来たものではなく、サタンこそ「空中の権を持つ君」であり、悪魔こそ、この世を牛耳り、世論を操り、何が正しいことであるか、真理を捻じ曲げて、虚偽をまことしやかに是認する空気を作り出し、多くの人々を惑わしている張本人なのである。

ちなみに、世間に波風立てないことを第一とし、組織の序列に逆らうことを許さず、人にとって耳障りなことは言わず、世の「空気」に逆らわないで、権威者を立てて生きることを奨励する「和の精神」が、人の目に良さそうに見えても、実際には、どんなに危険な思想であるかについては、以下の記事「東洋思想とは何か。その柱は何を再建しようとしているのか」でも少し触れているので、こちらを参考にされたい。 
 
さて、前の記事「カルト被害者救済活動の暴走 この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀」でも述べたように、クリスチャンは、人の言動の背後に、どういう霊的思想があるのかを鋭く見分けねばならない。キリストの御霊に導かれ、聖書の御言葉に基づいて、これを体現するために生きる人々もいれば、この世には、悪霊の思想を体現し、悪魔の欲望の実現を悲願として生きる人々も存在している。

聖書の御言葉の信用を貶め、その真実性を毀損しようとするすべての思想は、どんなに良さそうな口実を掲げ、この世の常識を装っていても、神から来たものではない。 それはすべて悪魔から来たものであり、反キリストの霊の仕業である。

そこで、「キリスト教のカルト化の危機」を唱えることにより、キリスト教そのものが何かしら不完全で危険なものであって、聖書の御言葉そのものに何か問題があり、御言葉に忠実に生きることが、あたかも「カルト的思考」であるかのように信者に疑わせようとする影響力には注意しなければならない。

キリスト教界に起きている不祥事は、信者が聖書から逸れたために起きたのであって、聖書の御言葉に問題があって引き起こされているわけではない。にも関わらず、不祥事をきっかけに、キリスト教そのものや、聖書の御言葉そのものに疑いを抱かせようとする思想がどこから来たのか、不祥事をきっかけに、キリスト教やクリスチャンを断罪し、罪悪感や、憎悪を抱かせようとするまことしやかな「世論」が、どういう目的で作り上げられたのか、キリスト者は見分けねばならない。
   
こうして一見、「キリスト教の改革」を目指しているように主張しながら、クリスチャンの世論に巧みに偽装して、その実、キリスト教と聖書の信用を貶め、御言葉の真実性を信者に疑わせるために、不信者によって作り上げられた偽りの世論に、クリスチャンは耳を貸すべきではない。そのような「世論」を気にして怯えるべきでもなく、そこで自分が批判されることを恐れるあまり、彼らと歩調を合わせるべきでもない。むしろ、こうした議論が、信者の関心を巧みに神ご自身から、人の思いへと(この世へと)逸らして行こうとするものであることを見抜くべきなのである。
    


 
2-2.匿名掲示板における不信者の議論にクリスチャンを引きずり込み恫喝する手法
 
さて、匿名掲示板で行われている議論にクリスチャンが注意を取られることがないように警告しておきたい。多くのクリスチャンが、当初は本気でキリスト教界の堕落を憂い、聖書に忠実な信仰生活に立ち戻ることを提唱していたが、彼らは不信者とのむなしい議論に熱中するうちに、全く違う方向へ逸らされてしまったからである。

彼らは、不信者の議論に気を取られ、時を追うごとにますますこれに深入りして行き、引き返せなくなって行ったのである。彼らを突き動かしていたのは、自分が人々にどう見られるかという恐れであった。この世の不信者たちの間でキリスト教が批判され、信者が批判され、自分が批判されているのを見ているうちに、自分たちの評判を取り返さなければならないという思いに駆られ、いわれなき嘲笑や批判を抑えるために、不信者を説得したり、彼らと交渉しなければならないという誘惑に駆られたのである。

いわば、外見を気にする保身の思いや、誤りを正さねばならないという義務感が、彼らをこのような議論に引き込んでいくきっかけとなったのである。しかし、そのようにしてクリスチャンを自らの信仰告白という最も重要な舞台から引きずり出し、この世の不信者たちのむなしい争いに満ちた議論の中におびき出し、それによって恐れさせ、がんじがらめに縛って行くことこそ、不信者の議論の真の狙いなのである。

このむなしい論争に気を取られ、深入りして行った人々は、唯一の道から逸れ、泥沼の訴訟に足を取られ、以前のような信仰告白を続けられなくなり、帰らぬ人となった。ルーク氏、山谷少佐、坂井氏の例についてよく考えて欲しい。たとえ彼らがあかしを続けているように見えても、そこには以前のような輝きが、以前、最も彼らが真剣に訴えようとしていた主張の核心がない。彼らは、骨抜きにされてしまったのである。

これが、匿名掲示板の狙いなのである。彼らの議論は、暗闇から来たものだが、闇によって光を駆逐するのが、その目的なのである。識者ぶってキリスト教を批判している不信仰な信者たちや、すでにキリスト教に愛想を尽かして部外者となった人々や、世にどっぷりと迎合している不信者らを巧みに利用して、本物の信者を攻撃させては、恫喝によって口を封じ、もしくは、自主規制させることによって、信者に「世の光」を掲げさせまいとすることが目的なのである。

キリスト教を批判することは、一見、キリスト教の改革のために必要な自己反省のようにも見え、そこに識者らのさまざまなもっともらしい理屈が加われば、欺かれる人も出て来るかも知れないが、その実、そこにあるのは、巧みに聖書の御言葉そのものを疑わせようとする誘惑なのである。

真にキリスト教を改革したいなら、聖書の御言葉に立ち戻ることにしか道はなく、聖書の御言葉への忠実な信仰そのものを疑いや批判の対象とするのでは、より深い混乱が生まれるだけである。
 
さて、このようにして匿名掲示板を利用して政敵を叩くやり方は、自民党も利用していることで有名であり、統一教会など新興宗教等のカルト団体も盛んに使って来た手口である。カルト被害者救済活動も、政敵を追い落とすために、まさにこの方法に頼ったのであり、不信者を動員して信者をバッシングすることによって、キリスト教徒を恐怖に怯えさえ、「世」の支配下に置こうとしたのである。

しかし、クリスチャンには、「この世」と交渉する必要性はない。逆に、この世の方がクリスチャンによって裁かれ、罪に定められ、赦しを乞わなければならない立場にある。「この世」は初めから悪魔の配下にあって堕落しており、罪を犯している。「世」を巧みに利用して、世に調子を合わせることにより、自分の身を守り、信仰者を圧迫し、迫害している人々は、神の霊によって生きているのではなく、悪魔を父としているのであり、これらの人々には、いずれ主の御手が置かれ、彼らは自滅することになろう。

クリスチャンの武器は、小羊の血潮と、自分自身のあかしの言葉である。それによって兄弟たちは悪魔に打ち勝つことができると、はっきりと聖書に書いてある。

そこで、世間で批判されたくないという恐れや、人に自分がどう見られるかという恐れから、信者が悪霊に導かれる人々と交渉したり、彼らに懇願したり、あるいは説得されたり、彼らの誤りに満ちた思想を正してあげようと努力する必要はない。

クリスチャンの使命は、日々、しっかりと自分の信仰告白を握って、主の御名を証し続けることにある。悪魔以上の執拗さを持って、神に向かって彼らの悪しき所業を糾弾し続け、正しい裁きを願い求めることである。そうすれば、「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴える者」は必ず「投げ落とされる」ことになる。

「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。

 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示12:10-11)      



2-3.聖書に基づかず、この世の論理によって、自らの活動を支持しないクリスチャン・ブロガーを断罪し、信者を裁判にかけることにより、この世の支配下に置こうとする杉本徳久氏の活動の危険
  
さて、「世の常識」を味方につけて、「この世」の罪を無罪放免する一方で、クリスチャンを容赦なく断罪しては、懺悔を迫り、処罰することに悦楽を見いだすという、カルト被害者救済活動の支持者らの転倒して異常な特徴は、村上密氏だけでなく、同氏の活動を積極的に支持する人々に共通して見られるものである。

当ブログにおいては、村上密氏の活動に支持を表明している杉本徳久氏から送られて来たおびただしい数の恫喝の書簡を公開しているが、それも「キリスト教のカルト化の危険を訴える」ということを口実にして、その実、クリスチャンを貶めることを真の目的としている彼らの活動の危険性を明らかにするためである。
 
2009年頃まで、筆者は村上密氏や杉本徳久氏の主導するカルト被害者救済活動に公に反対を表明していなかったが、その後、この活動が根本的に聖書に反しており、行き過ぎた魔女狩りや異端審問へ結びつくだけの、キリストの十字架に敵対する誤った運動であることに気づいたため、杉本徳久氏に対して、筆者は直接、この活動にはもう賛成できないことを告げ、かつて筆者が同氏のブログに書き込んだ活動への賛同のコメントを削除してほしいと正式に依頼した。
 
その際、筆者は、教会のカルト化問題を解決する糸口は、クリスチャンの不祥事を次々暴露することにより、クリスチャンを断罪したり、法廷に引きずり出して処罰することにはなく、ただ信者が聖書に立ち戻ることにしかないと、聖書に立脚して説明したのである。

しかし、これが杉本氏から筆者や当ブログに対する多年に渡る嫌がらせのきっかけとなった。杉本徳久氏から帰って来た返答は、罵詈雑言の羅列と、筆者の言い分が、「思い上がって自己中心な」「市井で求められる良識からは外れた文面であ」るという同氏の決めつけだけであり、その思い込みだけを根拠に、杉本氏はそれ以来、今日まで約7年間に渡り、当ブログに対する様々な嫌がらせ工作を続けているのである。

このような異常な執念は狂気の沙汰としか言えず、クリスチャンを何としても苦しめ、弾圧したいという彼らの飽くことのない悪魔的欲望と、クリスチャンに対する呪いや執念のような尽きせぬ憎悪に基づいていることを筆者は感じざるを得ない。

ちなみに、杉本氏は以上に記したような自らの見解をブログ記事に記しており、同記事は当初、筆者に対する一千件のコメントを伴うバッシング記事として、同氏のメインブログ「随想 吉祥寺の森から」に掲載された。

だが、たった一つのコメントを削除してほしいと依頼しただけの筆者を、一千件のコメントを伴う記事によってバッシングしたことに対しては、さすがに杉本氏へ批判が集中したと見られ、その批判を受けて、この記事は同氏が執筆している別のブログ「神々の風景 -religious scene」に移し替えられた。

その上、今年に入ってからは、杉本氏の不安定な心理状態を反映するかのように、この記事は非表示にされたり、ころころと変更が加えられていたが、今のところ、再び公開されているようである。
  



杉本徳久氏が何度もアドレスを変え、さらには非表示にしたりと
同氏の不安定な心理状態を示す幾度もの変更を繰り返しながら、

 「神々の風景」に掲載している筆者に対する嫌がらせ記事。
「神々の風景」という題名からも、同氏がキリスト教徒としての
正常な信仰を持っていないことが明白である。

同氏はプロテスタントそのものを敵視するかのように、
自らのブログにプロテスタント信者を弾劾する記事を次々と掲載、
キリスト教のイメージを世間で貶めることに貢献して来た。
  自らの活動を批判する信者に対する訴訟を積極的に提起しては、
キリスト教徒への弾圧と迫害に臨んでいる。
このような人物がクリスチャンであるとは誰も信じないであろう。
信者を名乗りながら、キリスト教の破壊を試みている人物である。

 
ちなみに、この記事は標題が「東洋からの風の便り ヴィオロン」となっていることからも分かるように、杉本氏が当ブログに対する嫌がらせを目的に、故意に検索結果に表示されるように作成したものであり、その上、当ブログの内容を大量に無断引用しているスパム記事である。さわやか読者の記録にも示しているように、杉本ブログを熱心に支持する読者らは、同氏の書いたこの嫌がらせ記事が検索結果の上位に表示されるように、日夜、工作を繰り返しているのである。

つまり、彼らは聖書に基づく正常な信仰告白である当ブログを駆逐して、彼らの異常で悪意ある情報だけをネットに残すことを目的に、日夜、工作を繰り返しているのである。おそらくはこれまでにもこうした方法により、自分たちにとって好ましくないクリスチャン・ブロガーを次々に沈黙に追い込んで来たのであろう。
 
杉本徳久氏自身や、その読者らが、当ブログの検索結果を操作するために行った不法なアクセス集中の履歴は、次の記事や資料において公開している。

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(前編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(中編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(後編)
 
    
しかしながら、筆者は上記の嫌がらせ記事の公開を好都合と考えている。なぜなら、これによって杉本氏に対する公の責任追及や反論がより容易になるからである。
 
まずは同氏が上記の記事を掲載しているブログの題名である「神々の風景」という象徴的な言葉に注目したい。この標題は、杉本氏がキリストの十字架を信じておらず、己を生まれながらに神とするグノーシス主義者であることを明確に物語っている。
 
クリスチャンであれば、「神は唯一である」ことを例外なく認めているので、決して「神々」という複数形を肯定的な文脈で使わない。「神々」の存在を認めることは、自分はクリスチャンではなく、唯一の神を信じていないと自ら告白するに等しい。神を複数形とした時点で、これは唯一の神に対する敵対であり、まことの神と、それを信じる者たちに対する一種の冒涜・挑戦だと言っても差し支えない。
 
杉本氏が「神々」という言葉によって何を指しているか具体的なところは不明であるにせよ(おそらくは自分たち唯一の神を信じておらず、キリストの十字架を否定する生まれながらの人間が「神々」であると言いたいのではなかろうかと推測するが)、いずれにしても、複数の神の存在を肯定した時点で、同氏がキリスト教の信仰告白の大前提となる「神は唯一である」という事実を否定していることは明白となる。

いかに同氏がカトリックなどの宗派の教会組織に公に属する信徒であったとしても、この事実は、同氏が内面においては実際にはクリスチャンでないことを意味するに等しい。
 
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)
  
さて、上記の記事で、杉本氏はカルト被害者救済活動を支持できないとする筆者の見解に対し、事実に立脚しない捏造された文脈で、筆者を罵倒しながら理不尽な非難を繰り返している。同氏は書いている、

 10日ほど前、彼女からのメールを受け取った。それは、

 http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/51884112.html

 2009年3月26日 「沖縄 トランスフォーメーション・グロース」 

 に「ヴィオロン」の名で書き込んだコメントを消して欲しいという依頼であった。しかし、そこには非常に思い上がった上に自己中心的な、彼女が経験した「回心」とその後の心変わりについての理屈が並べられてあった。市井の社会で求められる良識からは外れた文面であった。」

だが、この見解も、杉本氏自身の常識から外れた身勝手な思い込みと偏見に満ちた思考パターンをよく示すものである。

まず、杉本氏のブログに書き込んだコメントは筆者自身が書いたものであり、著作権も筆者にあるので、筆者から削除の依頼があったにも関わらず、杉本氏がこれを削除しない正当な理由が存在しない。にも関わらず、杉本氏は、自分の活動が支持されなくなったという事実そのものが認めがたいので、削除を拒否することを正当化するために、何とかして筆者に罪を着せようと、筆者を罵倒する文脈を捏造して考え出しているのである。


 
以上は杉本ブログに記載されている文面。
杉本氏は、筆者が答えてもいない事柄を、
勝手な決めつけによって
解釈しているが、
なぜそのような見解に至ったのかは不明である。

筆者が勧めたように、真理の御霊には聞かず、
悪霊に聞いて、そのような返答を得たと見られる。
 思い込みに基づいて発した言葉であっても
いずれその重い責任を問われる日が来ることを
誰よりも杉本氏自身が自覚しなければならない。


  
当ブログにおいては、筆者が杉本氏から受け取ったおびただしい数の恫喝書簡の文面を公開しているが、それを読むならば、「思い上がって自己中心な」、「市井で求められる良識からは外れた文面」を記しているのは、筆者ではなく、杉本氏自身であることが、誰にでもよく分かるであろう。

2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール
  
 
上記の嫌がらせ記事もそうなのであるが、杉本徳久氏の文面には、読んでいて恥ずかしくなるほど、また吹き出したくなるほどに、他者に対する礼儀を一切わきまえない自己中心な決めつけと、安物のドラマから抜き出して来たような陳腐な罵詈雑言、偏見と一方的な被害者意識に基づいた根拠のない思い込み、そして恫喝が溢れている。

さらに、同氏は、そうしたメールの中で、あまつさえ、自分にとって気に入らない記事を筆者が削除しなければ、筆者の個人情報を無断で公開するという脅迫行為にまで及んでいる。こうした文面のどこが「市井で求められる良識」にかなうのであろうか。

杉本氏こそ、自分の言葉に照らし合わせて、自らの行為を振り返らなければならない。同氏の書いた文章は、子供の書いた作文のように幼稚であるだけでなく、完全にマナー違反であり、なおかつ、違法行為をほのめかすものであるという点で、犯罪的でさえある。

このような脅迫行為を自分が暗闇で行っておきながら、同氏は未だに筆者を一方的に「自己中心だ」とか、「良識を備えていない」かのように非難しているのだから、その倒錯した論理に自分でまるで思いが至っていない愚かさに呆れ果て、恐れ入るのみである。

また、杉本氏は書いている。

「また、彼女ががらりと立場を変えて非難し始めた私や独裁カルト牧師の被害者信徒たちのことについて記した最新の投稿を熟読した後、私は彼女にこれらあなたが非難している人物の中には明らかに私が含まれていると読み取れるがその認識で良いのかと問いただす返事を送ったところ、彼女は私に対して真理の御霊に全てを問い尋ねよと言い、非難の対象が私であることを書き送ってきたのであった。一度、自分の口から出た言葉は後から消すことができないということがわかっていない。もし、それがネット上のものではなく紙媒体の印刷物であれば不可能である。」

これもまた甚だしい虚偽である。杉本氏の根拠のない被害者意識に基づく妄想的な思考を顕著に表す文章であると言える。筆者は、杉本氏に対してただ「真理の御霊に問い尋ねよ」としか答えておらず、筆者の書いた記事の中に杉本氏が含まれているなどと回答したことは一度もない。

そして実際、当時筆者がカルト被害者救済活動を支持できないことを表明するために書いた記事「キリストの十字架以外に救いはない」には、一切、杉本氏の実名は登場していないのである。この記事はカルト被害者救済活動に対する筆者の立場を明らかにするために、あくまで一般論の立場から書かれたものであり、特定の人物を名指しで非難するようなことを目的としていない。そして、カルト被害者救済活動に携わっている主要な人物も、村上密氏のように、当時、杉本氏以外にも、複数存在したのである。

にも関わらず、杉本氏は、何の根拠もなく、さらには筆者自身も認めてもいないにも関わらず、これが杉本氏を名指しで個人攻撃するために書かれた記事であると勝手に決めつけ、それを根拠に、筆者に対する多年に渡る様々な嫌がらせに及んだのである。

一体、杉本氏はこの件について、筆者が同氏に勧めたように「真理の御霊に問い尋ねた」のであろうか? 多分、真理の御霊ではなく、悪霊に問い尋ねたのではないだろうか。そして、悪霊から、「それはあなたのことだ」という答えが返って来たので、それを信じたのではあるまいか。もしそうでないというならば、杉本氏の良心の呵責がそのように思わせたのに違いない。

いずれにしても、筆者はそのようなことを全く答えていない。にも関わらず、筆者が言っていないことを、杉本氏が聞いたというのであれば、どこから聞いたのかが問題となる。それは「真理の御霊」の声ではなく、悪霊の声に違いないと推測せざるを得ないのである。なぜなら、悪霊は嘘つきだからである。

こうして、杉本氏は思い込みや決めつけだけに基づいて、自己中心で身勝手な話を「創作」して行き、これを基に他者への誹謗中傷や嫌がらせに及ぶのだが、それにしても、「一度、口から出た言葉は後から消すことができないことがわかっていない」というのは、誰よりも同氏自身に向けられるべき言葉である。

ネット上でも、一旦、発した言葉は取り消すことは難しい。それは、当ブログにおいて公開している杉本徳久氏による恫喝書簡を読んでも誰しも分かることであろう。こうした手紙は書かれてから年数が経過しているが、だからと言って、文面を通して、人の心の内側にあるものが完膚なきまでに明らかになる事実は変わらない。

当ブログでは、約十四年前の鳴尾教会で起きた事件に関する「教団文書 村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題」なども公開しているが、こうしたものは、歴史的に価値ある資料であり、たとえ民事や刑事事件としての時効を迎えていても、だからと言って、少しも価値が減ずるものではない。

人々のモラルを動かすのに時効はなく、真実が人の心に訴えかける衝撃の重さは時が経っても変わらない。まして人がクリスチャンとして行った行為に時効はない。我々は皆いつか神の御前に立って、自分の行なった言動に対して申し開きをせねばならないのである。
 
杉本氏は、自分が他人を暗闇で恫喝しておいても、こうした書簡が明るみに出されることはないと高をくくっていたのであろう。だが、「一度、口から出た言葉は後から消すことができない」

こうした書簡においても、杉本氏が、筆者が言ってもいないことを再三に渡り、単なる思い込みと決めつけだけに基づいて勝手に解釈し、それを根拠に筆者をなじっては、誹謗し、脅迫まで行い、数々の嫌がらせに及んだ事実が明らかになるが、そうした行為の責任を、杉本氏はきちんと考えて反省せねばならない。これらは罪に問われて当然の行為である。

同氏のして来たことには証拠が残っており、これを取り消すことは誰にもできない。不都合な記事を削除せよと筆者を恫喝しても無駄である。他者に向かって述べた理屈は、自分自身に跳ね返る。自分にできもしないことは、人にも最初から要求しないが良かろう。

 つい最近に至るまでも、杉本氏は再三に渡り、筆者に刑事告訴を予告するメールを送り付けているが、それにしては、告訴の脅しは一向に実行されたことがない。それも当然であろう。筆者をいわれなく脅し、嫌がらせ記事を次々と掲載し、コメント者を煽って嫌がらせに及び、当ブログに嫌がらせのアクセスを集中させて検索結果を操作して来たのは杉本氏自身であるから、その杉本氏が筆者を訴えるなど言語道断であり、そんな告訴が成立するはずもない。そんな訴訟に世間を納得させられるだけの正義の筋書きを見いだすことは誰にもできない相談である。

仮にそんな提訴を無理に成立させてみたところで、同氏には勝算もなく、ただ相手を苦しめるための時間稼ぎであることが明白となるだけである。そんな手段を用いてまでも、クリスチャンを次々と力づくで法廷に引きずり出しては断罪し、打撃を加え、キリスト教徒への弾圧と、クリスチャンの言論統制に日々いそしんでいれば、「日夜、兄弟たちを訴える者」という悪評がさらに定着して行くだけであり、それは同氏にとっても何の利益にもならない。

逆に、筆者自身も、筆者に対する嫌がらせ行為としてなされた個人情報の無断公開やそれによって生じた人権侵害等に関して、事実関係が特定され次第、当ブログに公表したいと考えている。杉本氏以外には、そのような行為に及ぶと筆者を脅迫して来た人物は存在しないのであるが。
 
さて、話を戻せば、以上の嫌がらせの記事や、恫喝メールにおいて、杉本氏が再三に渡り、「市民社会の常識」や「市民社会の一員としての責任」などといった言葉を振りかざしては、筆者を断罪しようとしていた様子が見て取れる。
 
このように、「世間の常識」を盾に取り、自分が世論を味方につけているかのような印象を与えながら、クリスチャンを聖書の御言葉ではなく、「この世の論理」によって追い込んでいく手法は、村上密氏がクリスチャンに対して使って来たものと同じである。

すなわち、カルト被害者救済活動の支持者らは、巧みに世間の常識やら、市井の良識やら、市民社会の責任といった、全く信仰によらないこの世の論理を持ち出して来ては、クリスチャンが信仰の事柄について判断するにあたり、聖書を基準とするのでなく、この世の基準に従って是非を問うよう仕向け、クリスチャンに自らの信仰告白を捨てさせて、この世の土俵へおびき出そうとするのである。

彼らはキリスト教界におきる不祥事を大々的に取り上げては、クリスチャンが「市民社会の常識を備えていない」とか「世間に迷惑をかけた」などと言いがかりをつけ、こうした事件をきっかけに、事件には何の関係もない信者らを非難して、不信者の前に「行き過ぎ」を反省させては懺悔させようとし、それがかなわないと、果てはクリスチャンを無理やり法廷に引きずり出してでも断罪し、何とかして弾圧を加えようとする。

彼らの目指しているものは、最終的に、キリスト教の教義や、聖書の御言葉、聖書の神を信じる信仰そのものを、何か恥ずべき、非常識な、カルト的な、傲慢で、思い上がって自己中心で、狭量な思考であるかのようなイメージを作り出し、聖書の神を信じているクリスチャンの信仰そのものを貶めることで、キリスト教とクリスチャンの信用を毀損し、最終的には、聖書の御言葉の信用を失墜させ、クリスチャンに御言葉への信仰を恥じさせ、信仰告白を捨てさせることなのである。

以上で挙げたような、杉本氏の書いた嫌がらせ記事や、恫喝書簡(それも杉本氏から送られて来たメールの一部に過ぎない)は、クリスチャンをこの世の圧力の前にひれ伏させて信仰告白を捨てさせるための一種の「踏み絵」だと見て良い。刑事告訴の脅しも同様である。

このような行為を平然と行う人間が、聖書に基づくクリスチャンとしての正常な信仰を持っていないことは明白である。

にも関わらず、このような人間が、自ら信者を名乗りながら、非聖書的な手法でクリスチャンを追いつめて断罪し、沈黙に追い込もうとするところに、彼らの活動の最大の卑劣さがある。
 
これはキリスト教徒に偽装してはいるが、その実、キリストへの信仰を全く持たない人々が、信仰者の群れに紛れ込み、キリスト教界を内側から破壊し、信者を攻撃して追い散らし、キリスト教そのもののイメージを貶め、聖書の御言葉の信用そのものを傷つけることによって、キリスト教とその信者をこの世の力の前に跪かせ、弾圧し、処罰することを目的として活動しているだけである。

こうしたすべての事柄は、キリストの御霊によらない、反キリストの霊によるクリスチャンへの弾圧なのであり、彼らが己の前に跪かせようとしているのは、信者のみならず、最終的には、すべてのクリスチャンが信じているまことの神ご自身なのだと言える。従って、彼らの活動は、唯一の神そのものを仮想敵とし、キリスト教そのものに敵対する運動なのであり、聖書の神に対する反逆であるという点で、極めて危険なものであり、その最期が滅びとなることは避けられないであろう。
  
こうした神に対する反逆行為と、クリスチャンに対するいわれなき弾圧を正当化するために、彼らは自己流の定義による「市民社会の良識」を持ち出しては、さも自分たちが世間代表のように振る舞っているのであるが、突き詰めてみれば、その「良識」とやらも、本当に世間の人々に支持されたものではなく、結局は、彼らが狭いネット上で作り出した身勝手な理屈に過ぎず、幻のような偽りの世論である。

彼らは、吠えたける獅子のように人々を恫喝して委縮させながら、クリスチャンを断罪し、見世物として嘲笑することを容認するような「空気」を盛んに作ろうとして来たのであるが、これはどうみても明らかに悪霊から来る働きである。

こうした暗闇の勢力から来る圧迫、「この世の霊」による卑劣な脅しに対して、御言葉を武器に毅然と立ち向かっていくことこそ、クリスチャンにとっての真の「霊の戦い」である。

悪魔は「兄弟たちの告発者」(黙示12:10)である。日夜、クリスチャンを訴え続けることが悪魔の日課なのである。これに対して、信者は沈黙していてはならない。

信者にはまず「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血」(ヘブル12:24)がある。

十字架で永遠に流された小羊の血潮が、永遠に信者の潔白を証する。神がその独り子なるキリストを十字架につけてまで罪を赦されたクリスチャンを再び罪に定めることのできる存在はどこにもいない。

 「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:33-34)

次に信者は、自ら御言葉に立脚した証の言葉を述べ続けることによって、悪魔の告発に打ち勝つ。「死に至るまで命を惜しまない」とは、死の恐怖におののいて退却しないという意味でもある。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言われている通りである。
  
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示12:10-11)      

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

「もうしばらくすれば、
 来るべき方が来られる。おそくなることはない。
 わたしの義人は信仰によって生きる。
 もし、恐れ退くなら、
 わたしのこころは彼を喜ばない。」
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
(ヘブル10:35-39)
 

最後に、もう一度、「霊の戦い」についてのパウロの言葉を引用しておこう。聖書は一貫して、信者に「雄々しくあれ、勇敢であれ」と命じている。クリスチャンはこの世の常識によって生きているのではなく、我々のために命を捨てられ、死んで、よみがえられたキリストへの信仰によって生きているのである。「義人は信仰によって生きる」。この事実を証するために、信者は恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者なのである。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ6:10-13)

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」申命記31:6)

さて、次回以降の論稿においては、カルト被害者救済活動の支持者らが盛んに唱えているような「世の常識」に見せかけた偽りの世論が、東洋思想と密接な関係があること、その根本にあるものが、キリスト教に対抗するグノーシス主義であることについて、より一層、踏み込んで考察を行って行きたい。


村上密牧師と杉本徳久によるクリスチャンへの迫害と、杉本徳久が刑事告訴された事実③

   ~村上密氏と杉本徳久氏の主導する「サイバーカルト監視機構」の正体~
  
 追記:2018年2月に、村上密率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。村上と杉本の活動に深い関連性があると見られることについては以下の記事等を参照。「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実



 
4-3.杉本徳久氏の活動履歴(続)


5月2日、4月25日、30日とまた新たに杉本徳久氏から恫喝メール➀恫喝メール②恫喝メール③が来ましたが…、ゴールデンウィークにまで他人に恫喝メールを送りつけずにいられないとは何たる哀れ。平和で落ち着いた家庭人からは程遠い姿ですね…。
同氏による過去の恫喝メールはさらに公開していきますよ!


 
4日も本ブログが更新されるや否や早速、深夜にアクセス。他人に刑事告訴の予告などしている間に、自分自身が様々な罪状により訴えられないといいですね。ネット上で匿名で行ったことも必ず証拠は残るのです。自分に不都合な人間に次々提訴の脅しをかけて言論を封じようとするその姿により、今まで作り上げようとして来た弱者の味方というイメージは完全に崩れています。結局、カルトとの闘いなどほんの口実に過ぎず、クリスチャンの弾圧が真の目的であったことが明白になったのです。


5月6日
やはり自分の情報が気になる様子。掲載されたくなければ、恫喝書簡など書かなければ良かったのです。「思い上がった上に自己中心な」「市井で求められる常識からは外れた文章」を隠れた所で人に向かって延々と書き綴っていたのは誰なのか。全世界に向けて明らかになりましたね。


↓以下の三人がお仲間であることはアクセス時間帯から明白。
英語圏からの異常な訪問者を招致したのも杉本氏と考えられます…。

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kd119104115222.au-net.ne.jp
204.79.180.186



  
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こうやって工作仲間を連れて来るんですよね。残念ですが、まだまだこのシリーズは続きます。あなたの書いた恫喝書簡の公開と共に。


5月9日
わざわざ更新されていないコンテンツにログを残す。真正面から人に対峙できない臆病な性格がよく表れていますね…。またも長文のウェブページがまとめられるのを恐れているのでしょう。(長文どころか、論文ですよ。)いつまでも数の力にものを言わせることは無理なんですよ。自分のしたことには一人で責任を問われる日が必ず来ます。

  

5月11日
 

当ブログで私が勝利の信仰告白をすると、必ず、杉本氏は猛烈嫌がらせアクセスを集中して来るのが恒例に。もはや動物的な反応パターンと化しており、初めから予想可能。深夜3時に狂気のアクセス集中の犯罪履歴は、サイバーカルト監視機構(杉本徳久編)PDFにアップロードしましたので、ご覧あれ!

こんな低次元な方法で、深夜に一人でこそこそ嫌がらせしているところを見ても、刑事告訴などできるはずがないことが明らかですねえ…。結局、大袈裟に喚き立てては周囲を脅して己の罪を隠そうとしているだけ。できもしないことを初めから宣言しなければ、自分が恥をかくこともないのに、愚かですね~。┐('~`;)┌

悪魔は「吠えたける獅子」のように人を脅しますが、その多くは実行不可能なことを吹聴しているだけで、恐れるに足りないのです。たとえ実行に移しても、より一層、自分が不利になるだけ。あるクリスチャンは言いました、「キリストを殺せば、復活という最も恐ろしい事態が起きてしまい、悪魔の最大の武器である死が打ち破られると分かっていたのに、それでも悪魔はキリストを殺さずにいられなかった。自滅と分かっていて攻撃せずにいられない。そこに悪魔のどうしようもない愚かさがある。」と。

ますます魔物との一体化が進んでいるようで、深く同情いたします。大体、キリスト教と聖書が不完全であるかのように糾弾し、聖書の神の不完全さを補って神の民が過ちを犯さないように監視し、取り締まってやろうなどという恐ろしい目的を掲げるから、反キリストの霊が降臨してこれと一体化する羽目になるんです。

どんなに表向き「弱者救済」を唱えていても、常に自分が救済者の立場に立って他者を哀れみ、人より優れて一番でなければ気が済まず、自分が批判されると報復せずにいられないという自己愛とプライドを捨て去れないところに、どうしようもない傲慢さが表れていますね。

その上、神の民を踏みにじり、教会に君臨し、神の上に立とうとするわけですから、それ以上の傲慢さはありません。

プロテスタントにつまづいた多くの人たちが、結局は、御言葉を否定して、キリスト教そのものを否定する結果に至るのです。こうして、キリスト教や教会や信徒につまずいたことをきっかけに、救いから除外されて行く、こういう哀れな元信者たちがいることについては、じっくり分析する必要があります。

偉そうに「キリスト教の病理」だの「自己愛」だのを語り、クリスチャンの批判ばかりしていると、いつこんな風に悪魔の道連れにされて神の敵となり、気づけば救いから完全に弾き出されていたという結末になりかねない。神の民は、神にとって瞳のようなものですから、これを傷つける人間に対しては、神自らが報復されるんです。

人への批判はまだ許されても、御言葉を毀損すればただ事では済みません。教会を攻撃し神の民を踏みにじり御言葉を否定する者は、決してまともな運命には終わりません。これは聖書に書いてあることで、私の個人的見解や呪いではありませんので…(「彼らの(十字架に敵対する者の)最後は滅びです。」(ピリピ3:19))。
 
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おや、噂をすれば影。悔い改めないと、行く末は火の池ですよ。手遅れとは思いますがね。
 



   4-4.さわやか読者の活動履歴(続)
 
(5月2日)
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pw126210050044.5.kyb.panda-world.ne.jp
cc221-121-239-141.ccnw.ne.jp
↑愛知県日進市
pl1913.nas81d-3.p-fukuoka.nttpc.ne.jp

(5月3日)
p15058-ipngnfx01oomichi.oita.ocn.ne.jp

この人もやはり匿名掲示板の常連。匿名掲示板というのは、それ自体が宗教団体の雇われ工作員による偽装掲示板なんじゃないですかね。

u847096.neas2.ne2.tachikawa.mopera.net
東京都立川市
softbank221080155159.bbtec.net
113x40x2x73.ap113.ftth.ucom.ne.jp 
   
5月5日 
ほとんどの言語が英語ですよ! 米国様が批判されている記事をアドレスを引用しただけでこの始末。一体、この国の言論は誰に牛耳られているのか。何とも野蛮なことで…。

204.79.180.134 
204.79.180.241 
204.79.180.112
↑ヴァージニア州
末尾三桁が絶えず変わっているだけ。
 
「壁に耳あり障子に目あり」、人の情報を詮索し、自分の噂話にあれこれ聞き耳を立てずにいられない恐ろしいまでの詮索好きは米国様の由来だったんですかね? だとすれば、これはもはやとうにロシアの専売特許じゃないですよね。

Быть может, за стеной Кавказа
Сокроюсь от твоих пашей,
От их всевидящего глаза,
От их всеслышащих ушей.

全知全能の神を模したユビキタス・ネットワークの構築、世界は一つ、神と人との断絶はない、人類はみな神であり、地上はユートピアである、…との名目のもと、異論をすべて暴力的に排除し、不都合な人間の言論を取り締まり、人類を監視し、一大家族理想国家という地上天国を詐称する。ヒエラルキーと情報統制の締め付けによるディストピア構築。それがあなた方の目的なんでしょう。お次は緊急事態の導入によるペルソナ・ノングラータの弾圧ですかな。

fitamazing.com
↑米国 ワシントンDC
tor-exit-readme.manalyzer.org
↑フランス、パリ
destiny.enn.lu
↑ルーマニアということに。
edwardsnowden2.torservers.net
↑同じくルーマニア
aurora.enn.lu
↑こちらも。

こういう現象も、結局はSoftbank嫌がらせ集団が主犯と見るのが当然ですね。ソフトバンクは反日イデオロギーと密接な関係があるとの噂も根強く、この嫌がらせ集団も日本人じゃないのかも。

softbank126120083025.bbtec.net
 
茨城県取手市


softbank126021122071.bbtec.net

↑京都府京都市、熱心な杉本読者のようですが。
 

p4ac1ac.chibnt01.ap.so-net.ne.jp

↑千葉県千葉市
 

116-65-225-118.rev.home.ne.jp

検索用語が「有名牧師、逸脱行為、誰」
ですって。とにかく有名な牧師を引きずりおろしたい。次のバッシングのターゲットが欲しくて仕方がない。「俺様に次の獲物を寄越せ!」「次のキリスト教の不祥事の材料は誰だ!」と、まるでほえたける獅子のように獲物を求めてさまよう恐ろしい渇望が見て取れますね。このようにクリスチャンを弾圧することにやみつきになる読者を生んだのが、杉本ブログの明白な罪なのです。  
 
一説によると、埼玉県川口市 UR都市機構川口芝園団地4号棟にお住いの方と。
 
 
(5月4日)
112-70-19-62f1.hyg1.eonet.ne.jp
 
↑尼崎市ハピネスライフケアサービスすぐ、


もしくは、神戸市西区、玉津板金すぐ。


   

113x40x2x69.ap113.ftth.ucom.ne.jp

↑よほど吉祥寺キリスト集会に未練がある様子ですね~。

東京都小金井市と。


om126186246065.7.openmobile.ne.jp
匿名掲示板常連。大和市あたりの地元民とも思われますが。杉本読者です。不信者ではない連中を使って信者を迫害するのが彼らの手口。


 
kd119104110150.au-net.ne.jp
↓東京都狛江市 〒201-000

匿名掲示板のアドレスを見せつけることにより、恫喝したいのでしょうが、自分がやってると白状しているようなものですね~。

kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
↓京都府京都市もしくは大阪市中央区  杉本氏とKFCによほど未練があるようですね。この主犯格の人物が特定されれば、後は楽そうですね。  


36-2-169-88.kanagawa.fdn.vectant.ne.jp
↑↓はお仲間でしょう。
このアドレス、以下のコメント者と極めてよく似ていますが、きっと単なる偶然でしょうね~。
 

ちなみに、大脳辺縁系のなせるわざではなく、悪霊のなせるわざですよ。
搾取する者とされる者の役割分担…それが分かっていらっしゃるなら、KFCでもゴッコ遊びと搾取をやめれば良かったのです。リバイバル運動の偽りが分かっていたのに、なぜ聖霊派の信徒と手を結んだのでしょう。言っていることは正しく、やっていることは正反対というのではまさに偽善者ですね。

以下の読者とほぼ同時間帯にアクセスしていることからも、KFCと吉祥寺の森は一つ、匿名掲示板も一つ、キリスト教界も一つ、全部合わせて「この世」。アンチカルトはカルトと同一、アンチキリスト教界はキリスト教界なのです。

softbank221080155159.bbtec.net
↑例の偽装なりすまし読者です。接吻で裏切るというあの古典的手段ですね…。いかにも偽善者のやること。

softbank126066224032.bbtec.net
↑千葉県千葉市or松戸市
67.208.13.160.dy.iij4u.or.jp
↑埼玉県八潮市
s638105.xgsspn.imtp.tachikawa.spmode.ne.jp
〒922-033 石川県加賀市
ipbfn005-225.kcn.ne.jp
↑奈良県奈良市
s649160.xgsspn.imtp.tachikawa.spmode.ne.jp
↑埼玉県小川市もしくは東京。アドレス露出ここにも。 
町田市?まず信者ではなさそうですね。

 p421233-ipngn200607kyoto.kyoto.ocn.ne.jp

アドレスそのまま、京都府京都市…。




上記の方は5月7日にもお友達と共に工作に来ていたので調べてみましたが、八幡市の住所が表示されていました。
 
softbank126141119050.bbtec.net
↑新潟県新潟市


p421233-ipngn200607kyoto.kyoto.ocn.ne.jp
↑京都府八幡市
   
こちらの地図ではハイソな住宅街が表示されてますね。

 
ipngn26501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp

これも匿名掲示板の常連。他にもある模様。123.225.21.200
 
   
121-81-239-86f1.shg1.eonet.ne.jp


↑滋賀県大津市。カトリックもターゲットになったわけですね。

softbank219034112007.bbtec.net


「預言カフェ」まだそんなことの是非にこだわってるんですか。
本当に終わってますね。この業界。
 
kd119104102241.au-net.ne.jp
長野県諏訪市 角上鮮魚店すぐ。

softbank221080155159.bbtec.net
香川県高松市or坂出市。 ここからアドレスの変化を見られます。

pw126253228234.6.panda-world.ne.jp 

 
「十字架、愛、明け渡し」などという非常に気持ちの悪い説教表題のような検索用語で辿り着くこの方。IPアドレス 126.253.228.234
やはり匿名掲示板の常連。こういうキ教専門用語を文脈から完全に切り抜いて使うのは悪霊の常套手段。要するに、前後の論理的な文脈が全くないんです。短い検索用語を使ってしか話せない時点で、すでに思考がおかしいと言えるでしょう。

tcn024240.tcn-catv.ne.jp
これも上に同じ検索用語。

 
ttb4-ip187.user.xsp.fenics.jp
↑東京都港区 AG信者ですか?

fw1.hokkoku.co.jp

 

首相の偶像化と神社本庁の活動に絶望なさいましたか? 被害者意識に陥り絶望するのはあなたの自由ですが、神は正しい人と悪人を共に滅ぼすようなことはなさいませんよ。義人は信仰によって生きる。未来のない人生は自己責任でどうぞ。

14-132-84-150.aichieast1.commufa.jp
岐阜県美濃加茂市、もしくは愛知県一宮市
大人気ですねえ。このブログ。この訪問者たちは決してキ教以外の宗教をターゲットにしない。 明らかに一定のミッションを帯びた工作員集団。
 
  softbank060065042131.bbtec.net


↑相変わらずバッシング対象を探し求めている読者。そんな暇があれば日本会議の事でも調べたら。

pw126236212121.12.panda-world.ne.jp
ipbfn005-225.kcn.ne.jp
↑は古参さわやか読者

↓はすべて言語が英語です。
203.104.145.49
exit.kapustik.info
h-170-78.a322.priv.bahnhof.se
 
(5月7日)
p673045-ipngn200603sizuokaden.shizuoka.ocn.ne.jp
↑富山県富山市



アッセンブリーズ・オブ・ゴッドに恨みがあるなら、なぜ教団に抗議しないんです?その勇気もない?(おまけにAG信徒だったりして…笑)


softbank126031116219.bbtec.net
↑熊本県合志 県道341号線からほど近く


 

softbank221080155159.bbtec.net
香川県高松市(さわやか読者主犯格)

kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
京都府京都市もしくは大阪市中央区(さわやか読者主犯格)

ipbfn005-225.kcn.ne.jp
(奈良県奈良市もしくは京都府木津川)

この三人がお仲間であることも見えて来ましたね。
 
 
ipbfn005-225.kcn.ne.jpについては…




19.199.13.160.dy.iij4u.or.jp
愛知県名古屋市もしくは安城市
 
 
手束正昭氏の思想の異端性をこれほど詳しく明確に分析したのは、当ブログを置いて他にないと思いますが。感謝されて良いはずなのですがね。あなたは結局、教会成長論の擁護者なんですかね?
 

明治用水会館ほど近く。
 
 
これだけ湧いて出て来ると、ネット対策企業の雇われ工作員よりも、別の宗教団体の信者を思わせますね。

前々から指摘していますが、Br.Taka氏らと同じように、村上氏や杉本氏も、隠れた目的を持ってキ教に送り込まれた偽装信者である可能性を考えてみるべき。彼らのライフワークが通常の牧師や信徒の福音伝道からかけ離れ、キリスト教を破壊することが生業となり、聖書の御言葉に立脚した健全で正常な信仰生活について、全く証することができないところを見ても、彼らにキリストへの信仰があるとは思えません。別の宗教の信者だと考えればすべてに納得がいく。だからこそ、この人々を支持する人たちはクリスチャンではない得体の知れない人たちばかりなのです。 


5月8日
kd106161130104.au-net.ne.jp
杉本氏に関する最新記事がものすごく気になっている様子ですが、だんだん身元が割れて来ましたね。


p6165-ipngn10701marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp 



pw126152100017.10.panda-world.ne.jp




「クリスチャンの病理」と。あなたは自分がクリスチャンではないとお認めになるんですか。情勢に応じてころころ立場を変え、都合の良い時には聖書を引用しながら、都合の悪い時にはクリスチャンと無関係をきどり信者を非難する。立脚点がまるでない卑怯などっちつかずの二重性は村上氏や杉本氏やルーク氏と同じですね。自分の心の二重性を見ず、他者だけを断罪し始めた時点で深刻な心の病気でしょう。
 
softbank126094241180.bbtec.net
信者に対する嫌味のつもりなんでしょうね。村上氏の書いたキリスト教批判を鵜呑みにしてペンテコステ信者を攻撃する人々は数多くいますよ。彼らの記事は結局、信者に対する憎しみと攻撃を煽っているわけです。



p38073-omed01.osaka.ocn.ne.jp


杉本氏とほぼ同時間帯に来ていることから、仲間と見られますね…。

千葉県浦安市老人福祉センター近くもしくは大阪市。

 
117-53-26-116.adachi.ne.jp
↑埼玉県さいたま市もしくは東京都足立区

 

softbank221080155159.bbtec.net 
 

 ↑相当執念深い杉本読者。いつまでも金魚の糞のように首領様にくっついていたら、杉本氏と一緒に責任追及されることになりますよ。

ipbfn005-225.kcn.ne.jp
日夜クリスチャンを訴えるための監視活動、お疲れ様です。どのくらい工作手当もらってるんです?


fs76eee8a5.tkyc210.ap.nuro.jp

↑本日昼の工作員一人。本当にさわやか読者、減りました。しかも検索結果を操作している主要な嫌がらせ犯のほとんどが数名のしつこい常習犯であることも分かりました。最後まで繰り返している人は主犯と共に罪に問われます。個人名が特定されれば、ネット上に公表され、半永久的に削除されませんのでご注意を。

softbank126065009076.bbtec.net
ソフトバンク嫌がらせ古参工作員の一人。↑の直後に来ていることから、杉本読者のお仲間でしょう。


 

34.78.149.210.bf.2iij.net
↑こちらも古参。例の「帝塚山学園」。当ブログのランキング順位を下げるためにおびただしい回数、アクセスを重ねようとするも、途中であえなくログ公開に。
 
おたくひょっとしてキリ短の講師とかと関係あるのでは?犯罪者は現場に戻る、と言うように、何か書かれると困ることがあればこそ、これだけ頻繁に当ブログを訪れているんでしょうねえ。今後もあなたのログはすべて公開し、嫌がらせ行為の証拠として提示しますよ。
勤務時間中に学校に不名誉な行為にいそしんで進退に影響がなければいいですがね。

157.55.2.130
↑米国様。放っておくとまた工作にいそしむ輩。ペンテコステ運動の擁護者でしょう。

 

125-31-115-203.ppp.bbiq.jp
↑福岡県福岡市

 
所在地のすぐ近くに創価学会池田文化会館がありますね。
さわやか読者は、その嫌がらせのやり口から見ても、どうにも新興宗教独特の強い臭気を放っており、キリスト教を敵視する他宗教の工作員信者だという気がしてならないのですが。

softbank060074224186.bbtec.net



↑さわやか読者はこうしていつも当ブログから結論だけを奪い取って、これを無関係な信者を責める材料に使うのですよ。彼らは決してペンテコステ派の組織には直接、抗議せず、むしろ教団を離れた信者らを攻撃する。弱いものイジメ大好きな倒錯して異常な思考が分かります。

杉本と同じで、一見、批判してるフリしながら、その実、水面下ではしっかり敵と手を結んで、自ら異端視しているペ運動と提携しているのです。異端に抗議したいなら、Br.Takaや村上密のようなAG信者に抗議すべきですが、長いものに巻かれいじめっ子に媚びることしかできない人々にそんな勇気があるはずもない。こうして、カルト=アンチカルト。真の反対者を駆逐することが目的の人工芝•偽装反対運動の工作員信者たちなのです。

これらの人々を見て分かるように、一方には、キリスト教をダシに牧師や学校教師となって信徒に君臨しカネを収奪するろくでもないニンゲンがいるかと思えば、その対極には、キリスト教のカルト化問題をビジネスとして信者を収奪し踏みにじり手柄を立てるカウンセラーや自称専門家の輩がいる。さらにその下には、彼らに手柄を献上すべくヒラメや金魚の糞のごとくまとわりついて識者ぶり、「キリスト教の堕落」について得意げにコメントし、自分以外の信者を見下し反省を迫る偉そうな偽装信者たちがいる。

この人たちはクリスチャンを罪に定め懺悔させることに悦楽を感じ、各地でクリスチャンを断罪する材料を探し求めている。異端の情報を得ると、これを早速、本物の信者を駆逐するために悪用し、決して組織には戦いを挑まず、個人を泥沼の訴訟による密告•裏切り•報復合戦に引きずり込む。どこまで腐り切り終わっているのか、このギョウカイ。

これら自称信者(実際にはみなグノーシス主義者の工作員であって、本当の信者ではない!!)が跋扈し自滅に向けて準備万端のこの有様には、誰しも溜息つきたくなります。しかし、神はご自分に忠実な民を知っておられます。エゼキエル書にあるように、神の宮の腐敗を心から憂えている人々が誰であるか知っておられます。正しい人が悪人と連帯責任を負わされることは決してない。

悪人と詐欺師どもは互いに騙し騙されながら悪から悪へと落ちて行き、十字架に敵対する人間の末路は滅びです。街路に落ちて人に踏みにじられるだけの枯れ落ち葉、さまよう星、自分の帰るべき巣を忘れ自分の子らを見捨てた愚かな鳥のような、この真っ暗な暗闇、穢れた鳥どもの巣窟を離れ、聖書に立ち戻れ、言えることはそれだけですね。  

(5月9日)
↓もうだんだんメンバーも限定されてきました。何の面白みもない顔ぶれですね。誰が煽ってるんだかもまるわかり…。
p4695200-ipngn26501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
↑古参。主犯格級の一人。
kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
↑上に同じ。主犯格。
softbank221080155159.bbtec.net
↑上に同じ。ソフトバンク工作員集団。

こうしてどんどん不審な読者を引き連れて来ては、工作を繰り返し、スギモの立場を悪くしていく杉本読者たち。こんなメンバーしかいないとは、頭悪すぎですね。

204.79.180.155
cpc81275-enfi21-2-0-cust323.20-2.cable.virginm.net
↑上二つは英語組。
ub34019.ubffm.ub.uni-frankfurt.de
↑ドイツ語。
p3dd3124e.hkidnt01.ap.so-net.ne.jp
↑北海道札幌市



om126237052190.9.openmobile.ne.jp
天声教会は日本に数ある熱血韓国系の教会です。繰り返しますが、韓国系です。異端と糾弾するなら、この事実をよーく踏まえて下さいね。知人に話したところ、「その名前だけで遠慮しとくわ」との事。未だにKFC関係の教会のバッシングで盛り上がってるんでしょうか。古いですよ。その話題は。



p13232-ipngn6201hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
おやお久しぶりですね。ドクタールークにまだ関心があるんですか。いい加減卒業なされば。




↓昔、以下のようなコメント者がいたんですね。スギモと同じくプロテスタントに絶望してカトリックに去った信者です。KFCに対する根強いを恨みとルーク氏に対する拭い去れない憧憬と未練を持ち合わせ、去った後までも「私がルークの一番弟子だった」と回想。


ルーク氏とKFCにつまずいたことを機に、プロテスタントへの対抗意識が捨てられなくなった人たちは多数います。しかも、こういう短いコメントしか書けない人って大抵、匿名掲示板の常連なんです。

しかし、プロテスタントに絶望したからカトリックというのは歴史的後退でしかない。もし間違いだと分かったならば、「出て来た故郷」(へブル11:15)に逆戻りするのではなく、「後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進」む(ピリピ3:13)べきなんですよ。

霊的先人たちは組織としての教会の間違いが分かった時にきっぱりと組織を離れた。プロテスタントに絶望するのは勝手ですが、組織の誤りを知りながら、より強力な組織のヒエラルキーに身を委ねるのは、自己矛盾でしかない。教会につまづいた時、その人がより明確な真理を求めているのか、それとも、ただ傷ついた自分の心を優しく介抱してくれそうな人の温もりを求めているだけなのか、そこが決定的な分岐点となります。

前者はより御言葉に立ち返り、神に近づくために犠牲を払いますが、後者は人の組織につまずいたことをきっかけにそれまで知っていた真理をも捨て、前よりも状態が悪くなるのです。真理のために犠牲を払って神に問うことができないと、どんな集団に帰属しても、いずれ不満が生じて脱落するだけでしょう。そして最終的にはキリスト教自体を否定するようになります。

実のところ、この手の人々はプロテスタントにつまずいたのではなく、御言葉につまずき、キリストの「狭い道」につまずいて「広い道」を望んでいるだけなのです。

サンダー・シングやマザー・テレサは西欧キリスト教の「傲慢さ」や「狭量さ」、弱者への憐れみのなさに絶望したことを口実に、東洋思想に後退した。そして、十字架の切り分けを否定するグノーシス主義者となった。組織としてのキリスト教につまずいたことをきっかけに、真理からも弾き出され除外されてしまう人々がいるという恐ろしい実例です。

キリストの真理は、今日も、みすぼらしい土の器の中に入れて運ばれているのです。土の器の中にはゴミも入っているかも知れませんし、器の外見のみすぼらしさをあざ笑うのは結構ですが、だからと言って、容器と中身を混同して、中にある「測り知れない力が神のものであって、私たち(人間)から出たものでないこと」(Ⅱコリント4:7)まで否定すると、最後にはその人は聖書を否定して神の敵にまでなるのです。

 5月11日
↓相変わらず、ボーフラのようなさわやか読者たち…。

182-167-186-40f1.hyg1.eonet.ne.jp
↑兵庫県尼崎市or神戸市の古参。杉本とほとんど同時間にアクセスしていることから、仲間とみられる。鳴尾教会を迫害する側に回ったAG教団や津村氏の関係者とも推測される。


p6253-ipbfp213sizuokaden.shizuoka.ocn.ne.jp
↑これも上に同じ。杉本の仲間。静岡県静岡市



30.net059085008.t-com.ne.jp


m106073147096.v4.enabler.ne.jp
h219-110-85-077.catv02.itscom.jp
204.79.180.19

 
exit.norway.tor-node.net
kd182251243040.au-net.ne.jp
↑広島県尾道市 一つ上はノルウェーですが、上記二人は仲間と見られます。


pw126245021126.16.panda-world.ne.jp
↑東京都福生市、牛浜幼稚園すぐ。



kd182251243005.au-net.ne.jp
kd182251243051.au-net.ne.jp

↑様々な掲示板に出没し、キリスト教徒に対する被害妄想を匿名掲示板に延々と書き連ねる常連。キリスト教に恨みを持つトンデモ不信者をつかまえては、カルト被害者救済活動はクリスチャンへの攻撃に利用して行く。結局、キリスト教をカルト宗教扱いして信用を貶めることが彼らの真の目的と。

ipbfn005-225.kcn.ne.jp
古参杉本読者の常連工作員。

gate.sumitomocorp.co.jp
↑住友商事です。杉本の記事に関心があるようですが、それよりも統一教会や安倍首相と関連があるのでは。武器商人と手を組み国民を殺して金儲けすることを決めた一社でしょうか。そういう噂があるのはご存じ?


  


「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久からの恫喝メールと杉本徳久が刑事告訴された事実④

<追記>

 2018年2月に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。

杉本の多年に渡る嫌がらせについて、また、村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事やその他で詳しく記しているため参照されたい。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実

なお、当ブログが杉本の嫌がらせ行為について、警察に相談を行っていることを最初に警告したのが2012年に記した「杉本徳久氏への公開書簡」の記事であった。この記事の中で、当ブログ著者は、親切にも、杉本本人に向かって、杉本が当ブログから気に入らない記事を削除しなければ、当ブログ著者の個人情報を無断で公開するなどと息巻いていることが、名誉毀損やプライバシーの侵害の罪に当たることを警告したが、杉本はこの警告を考慮しなかった。

杉本は当ブログ著者が杉本の嫌がらせ行為について警察に相談しているという事実を嘘だと思いたかったようであり、なおかつ、当ブログを名誉毀損で訴えるつもりだったようであるが、実際には、当ブログ著者が杉本の行為について警察に相談していたことは事実であり、杉本の当ブログへの告訴も成らなかった。

なお、当ブログは2012年頃より、掲示板に記された嫌がらせコメントなどについて告訴が可能な旨を警察からアドバイスされていた。ただし、より明白な証拠を得たいがために踏み切らなかっただけである。(読者には掲示板のコメントでも告訴される可能性が十分にあることをよくよく熟慮されたい。)


<杉本氏からの恫喝メール 続き>

本記事は、カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール③の続きに当たる。

杉本氏からは以前にも、同氏にとって気に入らない記事を削除せねば、ヴィオロンの個人情報を無断で公開するなどの脅しを含むメールがおびただしい回数、送られて来た。その罵倒や恫喝に満ちた文面は、記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メールー」でも示している通りである。

以下は5月2日に杉本徳久氏からさらに送られて来た恫喝メールである。
   
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 ▼投稿されたメッセージ
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

REMOTE_ADDR: 219.215.163.80

[ 名前c ]
杉本徳久

[ メールアドレスc ]
sugimotonorihisa@gmail.com

[ メールアドレス再入力c ]
sugimotonorihisa@gmail.com

[ 件名c ]
4/30付けの文章につきまして

[ ご感想c ]
前略、〇〇さん

杉本徳久です。再三、ご連絡をとっていますが、その内容を引用してさらに挑発したり、侮蔑したりする文章を書き加えられている様子を拝見しました。4/30付けの文章につきまして、こちらですね。

http://sosudy.blog.shinobi.jp/Entry/134/


このままですと本当に洒落にならないことになっていきましょう。刑事告訴されるような事態をお望みですか?

すでに警視庁・武蔵野署の刑事さんにも何度も相談済みです。貴殿の立場、状況を鑑み、告訴状を出していないだけの話です。これまであなたの名などについて一切、公開してきませんでしたが、それは一にも二にもあなたの状態を慮ってのことです。

あまり手荒に〇〇さんを追い詰める様なことはいたしたくありませんが、このあたりが当方としても忍耐の限界ですので予め申し添えます。

すぐに書かれた文章を削除されてください。

草々
 



刑事告訴に至るまでには相当の時間がかかる。しかも、よほどの強力な証拠がなくてはならない。ゴールデンウイーク中はどこの警察も弁護士も対応しない。もし杉本氏が本気で刑事告訴を望んでいるならば、このようにゴールデンウイーク中を見計らってメールフォームから悠長に手紙を送るなどの措置に及ぶことなく、とうに手続きに及んでいたはずである。
 
にも関わらず、なぜ今まで杉本氏の告訴はずっと成就しなかったのか。それは同氏が述べているような、私に対する手加減ゆえではない。坂井氏を訴えた杉本氏であり、また、同氏から私に対する多年の嫌がらせの執拗さ・悪辣さを見ても、同氏にはいかなるクリスチャンに対しても情状酌量があるとみなすことはできない。

告訴が成立しないのは、私の側に何らの罪状もなく、また、私に対して罪を犯しているのは杉本氏であることが明らかなためである。

もし杉本氏が相談を繰り返してきた警視庁・武蔵野署の刑事が、これを刑事事件として扱うことができると判断していれば、杉本氏はとうに告訴に至っていたはずである。杉本氏の性格と主張を考えれば、同氏はクリスチャンを告訴するきっかけが欲しくてたまらないはずである。同氏が何度も警察に相談したにも関わらず、未だに事件化されていないのは、本件が同氏が私を告訴するための構成要件を満たしていないためである。
 
本件は、2009年に私が杉本氏のブログに自分で書き込んだコメントを削除してほしいと杉本氏に依頼したことをきっかけに、これを恨みに思った杉本氏が、以後、約7年近くに渡り、インターネット上で執拗に私に嫌がらせを加えて来たことによる。

2009年当時、杉本氏が速やかに私の望むコメントを削除し、さらに、自身のブログに私に対する一千件のコメントを伴うバッシング記事を掲載したりせず、人の知られないところで、私に嫌がらせメールを再三に渡り送り付けたり、当ブログに悪意あるアクセスを集中させたり、筆者の個人情報を違法に暴露するなどと脅迫したりしなければ、このような事態には至っていない。

杉本氏が筆者に対して何をして来たかは、無数の証人が見て知っている。当ブログでも、杉本氏が用いて来た嫌がらせの手法はすべて公開し、明らかにしている通りである。
 
しかも、私は何年も前から、当ブログにおいて幾度も杉本氏にネットを通じて平和的に和解するよう呼びかけ、速やかに筆者の求めるコメントを削除し、クリスチャンに対する逆恨みと嫌がらせに及ぶのをやめるよう勧めている。
   
にも関わらず、杉本氏は自らの違法行為を反省することもなく、筆者の助言にも提案にも全く耳を貸さず、不法な形で筆者に嫌がらせを続けることにより、事態を煽り続け、悪化させ続けて来た。このことは万人の目に明白である。

にも関わらず、杉本氏がクリスチャンをさらに「手荒に追い詰める」ような措置に及び、本当に「日夜、兄弟たちを訴える者」の道を全うしたいと望むならば、筆者はそれを止めはしない。だが、同氏に勝ち目はないであろう。

聖書には、クリスチャンが法廷に引き出されるのは、キリストの証をするためであると書いてある。歴代の信仰者も、鳴尾教会の信者たちも、みなこの道を通り、あらゆる中傷や迫害を耐えたのである。彼らは恫喝スラップ訴訟をただ耐え忍んだだけでなく、これを立派に戦い通して、真理を守って勝利したのである。

従って、私もまた、神の御前に私の信仰告白を守り通す義務があり、信者に与えられたキリストの義の完全性を訴え続ける義務がある。杉本氏にはこの最も肝心なもの――キリストの義がないのである。神の法廷において、キリストの血潮によってすでに義とされているという、宇宙最大の武器を持っているのに、この世の法廷を恐れるがゆえに、脅しに屈して自主規制をするつもりは筆者にはない。たとえ訴訟が提起されたとしても、かえって主の御名が証され、事実が世間により広く知らしめられるきっかけとなるだけである。
  
杉本氏は、私に記事の削除を求める前に、2009年当時から私が同氏に削除を要請しているコメント及び杉本氏が筆者について書いた一連の記事の削除するのが筋である。そして、筆者に対してこれまで及んできた嫌がらせについて謝罪し、二度とそのようなことを繰り返さないと約束すべきである。それをしてから、筆者に連絡を寄越すのが当然である。


「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久からの恫喝メールと杉本徳久が刑事告訴された事実③

<追記>

 2018年2月に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。

杉本の多年に渡る嫌がらせについて、また、村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事やその他で詳しく記しているため参照されたい。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実

なお、当ブログが杉本の嫌がらせ行為について、警察に相談を行っていることを最初に警告したのが2012年に記した「杉本徳久氏への公開書簡」の記事であった。この記事の中で、当ブログ著者は、親切にも、杉本本人に向かって、杉本が当ブログから気に入らない記事を削除しなければ、当ブログ著者の個人情報を無断で公開するなどと息巻いていることが、名誉毀損やプライバシーの侵害の罪に当たることを警告したが、杉本はこの警告を考慮しなかった。

杉本は当ブログ著者が杉本の嫌がらせ行為について警察に相談しているという事実を嘘だと思いたかったようであり、なおかつ、当ブログを名誉毀損で訴えるつもりだったようであるが、実際には、当ブログ著者が杉本の行為について警察に相談していたことは事実であり、杉本の当ブログへの告訴も成らなかった。

なお、当ブログは2012年頃より、掲示板に記された嫌がらせコメントなどについて告訴が可能な旨を警察からアドバイスされていた。ただし、より明白な証拠を得たいがために踏み切らなかっただけである。(読者には掲示板のコメントでも告訴される可能性が十分にあることをよくよく熟慮されたい。)



 これは「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール②」の続きである。

その後、4月30日 4:03:32 JSTにも、杉本徳久氏からは次のようなメールが来たので、補足的に公開しておく。 ただし、メールフォームはすでに閉鎖しており、今後はもう使用できない。

それにしても、ゴールデンウィークにまで他人に恫喝メールを送りつけずにいられないとは! 記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール➀」にも示しているように、これまでにも、同氏からのメールの多くは、新年やクリスマスシーズンなど、世間の人々が最もくつろぎ、楽しんでいる時分に届いていたが、休暇中にまで人を脅しつけずにいられない、平和で落ち着いた家庭人からは程遠いその姿に、哀れを催さずにはいられない。

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 ▼投稿されたメッセージ
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REMOTE_ADDR: 219.215.163.80

[ 名前c ]
杉本徳久


[ メールアドレスc ]
sugimotonorihisa@gmail.com


[ メールアドレス再入力c ]
sugimotonorihisa@gmail.com


[ 件名c ]
4/25付の投稿につきまして


[ ご感想c ]

前略、ヴィオロンこと〇〇様
杉本徳久です。先に私があなたへ送信したメールを引用され、4/25付の新しい投稿を読みました。こちらですね。


http://godslove.kamakurablog.com/Entry/115/



 私はあなたをいたずらに挑発したくてご連絡をとったわけではありませんが、いったい、どういうおつもりでしょうか。

あなたは再三、意味不明の論旨を連ねていますが、全く理解しかねます。

私から警察へ刑事告訴して〇〇さんを法的に訴えてほしいのでしょうか?

(当ブログの記事をきちんと読めば、趣旨は理解できるはずである。それでも理解できないのは、自分に不都合なことを杉本氏が何も理解しようとしていないだけである。

杉本氏は、自分にとって不都合な記事の削除を他者に迫る前に、自分自身が、2009年にヴィオロンが削除を要求したコメントを速やかに削除し、ヴィオロンについて記した一連の誹謗記事を削除してから、人にものを頼むのが筋であろう。自分だけは人をさんざん誹謗しておきながら、それに対する反論も許さないという態度は筋違いである。

杉本氏からは、以前から何度も「何らかの対応を取らねばならない」という脅しメールをもらっているが、同氏は、不法な個人情報の暴露を予告して筆者を脅迫したり、嫌がらせのアクセス集中を行なったりしているだけであり、一向に、正式な方法で、筆者に対峙して来たことがない。常に「訴えるぞ」と相手を脅しているだけで、提訴が成り立たないのである。)

数年前からあなたは私が行ったと主張する「恫喝」、「脅迫」について警察へ相談したと主張されますが、いったい、どこの警察へ、何の罪状で相談されたのでしょうか。当方のところへはどこの警察のどの刑事さんからも一本の電話も、一通の連絡も来ておりません。事件として受理もされていないと思いますが、どういうことでしょうか。


(当ブログで示している杉本氏の違法行為について、杉本氏がどんな形で責任を問われることになるか、前もって杉本氏に知らせる必要はない。いずれにせよ、同氏が筆者に対して行って来たすべての所業は否定できない証拠が残っており、関係機関へも情報提供されており、やがて同氏が罪に問われることになると言えるだけである。当ブログに途中経過は記載しない。明確な結果だけを公表する。)

これ以上、この様な投稿活動を続けられるようでは当方、何らか対応を取らねばならないと思っております。

(このような投稿活動をやめるべきは杉本氏である。まずは筆者の要求したコメントを削除し、筆者について記したブログ記事を全文削除の上、ネット上の不法なアクセス集中を含めた嫌がらせ行為をすべてやめていただきたい。)


直ぐにお辞めいただきたく、また、きちんと削除して下さい。

以上、よろしくお願いします。

2016年4月30日 杉本徳久

(筆者はすでに記事を削除する理由が存在しないことをきちんと説明している。杉本氏が、自分で書いた恫喝メールも含め、一連の記事を公表されると困るというのであれば、違法な方法で筆者に嫌がらせを加えるのではなく、まず、筆者について杉本氏自身がブログに公開しているすべての誹謗中傷の記事及びコメント、筆者の著作物の無断転載を行なっているブログ記事、さらに2009年当時から筆者が杉本氏に削除を要求しているコメントを速やかに削除した上、筆者に対する様々な嫌がらせ行為を謝罪し、生涯に渡り、二度と筆者に関与しないことを公に約束することをお勧めする。それができないのであれば、正式な責任追及は免れられないであろう。)


「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久からの恫喝メールと杉本徳久が刑事告訴された事実②

<追記>

 2018年2月に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。

杉本の多年に渡る嫌がらせについて、また、村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事やその他で詳しく記しているため参照されたい。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実

なお、当ブログが杉本の嫌がらせ行為について、警察に相談を行っていることを最初に警告したのが2012年に記した「杉本徳久氏への公開書簡」の記事であった。この記事の中で、当ブログ著者は、親切にも、杉本本人に向かって、杉本が当ブログから気に入らない記事を削除しなければ、当ブログ著者の個人情報を無断で公開するなどと息巻いていることが、名誉毀損やプライバシーの侵害の罪に当たることを警告したが、杉本はこの警告を考慮しなかった。

杉本は当ブログ著者が杉本の嫌がらせ行為について警察に相談しているという事実を嘘だと思いたかったようであり、なおかつ、当ブログを名誉毀損で訴えるつもりだったようであるが、実際には、当ブログ著者が杉本の行為について警察に相談していたことは事実であり、杉本の当ブログへの告訴も成らなかった。

なお、当ブログは2012年頃より、掲示板に記された嫌がらせコメントなどについて告訴が可能な旨を警察からアドバイスされていた。ただし、より明白な証拠を得たいがために踏み切らなかっただけである。(読者には掲示板のコメントでも告訴される可能性が十分にあることをよくよく熟慮されたい。)




以下の記事「 村上密牧師による自己流の「異端審問」」を掲載したところ、早速、杉本徳久氏から、当ブログのメールフォームを利用して、次のような手紙が来たため、読者へのお知らせを兼ねて、この場で公開しておく。

杉本氏からは以前にも、同氏にとって気に入らない記事を削除せねば、ヴィオロンの個人情報を無断で公開するなどの脅しを含むメールが何通も来ており、その文面は、記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール」でも示している通りである。

2012年頃から、実際に杉本氏の恫喝と予告の通り、当ブログの管理人に対するプライバシーの侵害等を含む悪質な書き込みが匿名掲示板に大量に書き込まれ始めたことは周知の通りであり、この件に関しては、杉本氏以外にそのような行為を行なう意図を予め筆者に伝えて来た人間は誰一人存在しない。
 
なお、当ブログ管理人は個人情報を公開していないが、筆者の意に反して、無断で筆者の個人情報を公の場にさらす行為は、罪に問われる可能性があることも警告しておく。さわやか読者の情報も蓄積されているので、これらを合わせると、嫌がらせ工作員の個人情報が特定されて、個人名が公表されるだけでなく、賠償責任などの形により、個人的に責任追及がなされる可能性が十分にあることをこの場で述べておく。

このように本人からの投稿があったことにより、記事「村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(後編)~」にて示したIPアドレスが、杉本徳久氏のものであることが確定した。

以下の二つの投稿の時間は、それぞれ2016年4月25日13:26、同日13:27である。

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  ▼投稿されたメッセージ
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 REMOTE_ADDR: 219.215.163.80

 [ 名前c ]
杉本徳久

[ 件名c ]
ブログの記載につきまして その1

[ ご感想c ]
拝啓、「ヴィオロン」こと、〇〇様、

武蔵野市吉祥寺北町の杉本徳久です。少し前から再開された〇〇さん執筆のブログの記載につきまして、内容を読み、大きな問題がありますのでご連絡申し上げます。

相変わらず、気に入らない他人のブログ記事内容に削除を迫るためとはいえ、今までずっとメールで連絡して来ていた杉本氏が、急にメールフォームから連絡する気になったのには、どういう意図が隠されているのか、これまでのいきさつを振り返ると、疑わないわけにはいかない。

同氏からは、上記した通り、以前にも、同氏にとって気に入らない記事を筆者が削除しなければ、筆者の個人情報を無断で公開するとの脅しメールもいただいており、それは記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール」に示した通りである。

そこでもし今回、筆者が杉本氏にメールで返信をするようなことがあれば、同氏はそれを機に、筆者のメールの文章や、メールアドレス等の個人情報も、ブログに公開するのが目的であったのかも知れないと考えられる。

以前の杉本氏からの脅しメールの内容を振り返っても、同氏に対して個人的な密室でのやり取りは無用と判断しているため、ここに杉本氏の文面と、筆者の見解を記しておく。

誤解のないように伝えておくが、これは杉本氏に限った措置ではなく、メールフォームからの投稿であっても、公表すべきと筆者が判断するものがあれば、随時、公表して行く。ただし、このブログ始まって以来、メールフォームから筆者に否定的なコメントを送って来た人間は、杉本氏以外にはいない。

たまには、他者への和やかな挨拶と、人の作品を誉めるということから、コメントを始めてはどうかと思うのだが、杉本氏に限ってはそのような忠告も無用であろう。
  
さて、今回の杉本氏の投稿の趣旨も、今までの恫喝メールと同じで、要するに、同氏にとって気に入らない、同氏に関して否定的な内容を記載する記事もしくはその記事から同氏の実名をすべて削除せよという要望である。だが、相変わらず、杉本氏には削除を丁重に依頼する口調が全くない。
 
それでも、以前に比べれば、文面がトーンダウンしており、人をいたずらに罵倒したり、嘲笑するような口調や、檄文のような憤りに満ちた文章や、ドラマから取って来たような感情的で陳腐な紋切り型の啖呵を切るようなことは減ったようである。
 
〇〇さんがかつて「主にある兄弟として信頼」しているとされていたKFCの唐沢治(Dr.ルーク)さんらとなぜ、今は絶縁しているのかなど詳しい経緯はわかりませんが、こと、私に関する記事については看過ならない内容が多くあります。

なぜかここで唐突に唐沢氏の名前が登場する。いつも驚かされるのは、なぜ杉本氏がこれほどまでにルーク氏の話題を筆者に対して頻繁に繰り返すのか、ということである。

よほど杉本氏には、ルーク氏と筆者との関係が気になって気になって仕方がないように見受けられるが、一体、どんな理由で、筆者がルーク氏と親交を結ばなければならないというのだろうか。

「なぜ、今は絶縁しているかなど詳しい経緯はわかりませんが」などと残念そうに書かれているが、筆者のブログを読めば、KFCの理念に対して筆者がどのような態度を取っているかは明白である。にも関わらず、杉本氏は、常に信者間に起きることを、信仰や理念の問題として理解することができず、三流映画のような人間模様のドラマとしてしかとらえられない様子である。いつまで経っても、何年も前の大昔の出来事を引っ張り出して蒸し返さざるを得ないのは、よほどブログに掲載するゴシップのネタが足りなくなっているからなのであろうか。

だが、同氏が「詳しい経緯はわからない」などととぼけているのは、おそらくは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者であったBr.Takaこと鵜川貴範・直子夫妻がKFCを乗っ取った事件に知らぬふりを決め込むためではないかと思われる。この事件は、唐沢氏と私とを分裂させ、KFCを地上から消滅させるために、悪意をもって引き起こされた工作であったと考えられる節が極めて大きいのだが、こうした出来事について杉本氏は、自分は詳しい経緯を知らないと、問われてもいないのに自己弁明せずにいられないような、何かの後ろめたい事情が存在しているようである。
    
例えば、京都の村上密牧師からの指示を受け、「杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」と書かれていますが、私はそもそも村上さんと面識がありません。お会いしたことも電話をしたこともなく、他界された石原牧師などを介したりしたこともありましたが、簡単な事務的メール連絡を取ったことが何度かあるだけです。その私が、どうやって村上さんからの指示を受けて「サイバーカルト監視機構」を主導することなどできましょうか。また、そもそもそのような「機構」は私の知る限りこの世に存在しませんし、私がそれに関与していることなど全くありません。
 
何としても「カルト監視機構」とは無縁だと主張したい杉本氏の思惑が見て取れる文章である。杉本氏が村上密氏と面会したことがないのは事実かも知れないが、直接面会しなくとも、親交を結ぶ方法はいくらでもあり、村上氏とのメールでのやり取りがあることは、杉本氏自身が認めている。こうして、メールのやり取りがあり、人物を互いに確認しているわけであるから、村上密氏と杉本氏に面識がないという結論には至らないであろう。

さらに、私はブログ記事の中で、杉本氏と村上氏との間にどんな面識があるのかについては触れていない。私が記事に書いているのは、この二人の思想的共通性である。
 
二人はまずカルト被害者救済活動を支持し、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を擁護し、ヴィオロンを非難し、鳴尾教会の教団離脱に反対し、津村昭二郎氏を擁護し、鳴尾の山田牧師夫妻を非難するといういくつかの点を見ただけでも、思想的立場をほぼ完全に同じくしている。

杉本氏が、村上密氏の行うカルト被害者救済活動を支持し、カルト被害者を名乗る信者に積極的に接触を図っては、村上氏が「疑わしい」とみなした牧師に対する裁判を後押しして来たことは、杉本氏自身が記事に書いていることであり、被害者間でもよく知られている。

このように、村上氏と杉本氏との両者は思想的に共通した見解を持って、同じ活動の枠組みの中で互いを擁護し支え合って来たのである。もっと言えば、以下に示すように、杉本氏は村上氏を擁護する内容の記事を多数書いていることから、師弟のように密接な関係とまでは言えなくとも、一定の尊敬を村上氏に対して持っており、常に村上氏を支持する立場から活動しているように見受けられる。
 
村上氏と杉本氏との活動は、カルト被害者救済活動を通して、教団教派や教会の枠組みや規則を飛び越えて、これを無視して他教会の内政に干渉し、カルト化の疑いありとみなした教会に対して、ネットによる吊し上げを助長し、司法の強制力を用いて弾圧を試みて来た点でも一致する。

だが、杉本氏はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者ではないため、本来は、鳴尾教会のような他教団の事情に首を突っ込むことができる立場にはない。そもそも、プロテスタントの信者でもない人間が、どんな権限があって、自分が属していないプロテスタントの諸教会の内政に干渉し、その内情を探り出し、暴露するような記事を書くことが許されるのか、甚だ疑問である。
 
同様のことが、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する村上密牧師の場合にも当てはまる。村上密氏のカルトとの闘いも、同じように教界内規則に基づかない単なる越権行為でしかないが、そのような越権行為を、裁判という強制力を用いて正当化できると考えている点でも、村上氏と杉本氏の見解は一致している。

しかも、両者の記事の中には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の関係者でなければ、決して知り得ない情報が含まれており、鳴尾教会に関する裁判の経緯などに関する杉本氏の記事は、教団離脱に反対した鳴尾の信者をバックアップする立場から書かれており、それはおそらくは教会関係者への接触なしには書けない事柄であり、また、その記事内容は、鳴尾教会の教団からの離脱を裁判によって阻止しようと試みていた村上密氏の活動を支援する立場から書かれている。鳴尾教会に関する杉本氏の一連の記事は、村上密氏の思想的立場や、同氏の利益と完全に一致する。
 
村上氏と杉本氏とは共に、事実に反して、鳴尾教会の現在の山田牧師夫妻を、あたかも異端に走った教職者として不適格な人物であるかのように描き出して非難し、鳴尾教会のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からの離脱という出来事を、山田牧師夫妻による「陰謀」や「教会の乗っ取り」であるかのようなストーリーをブログ記事で描き、牧師夫妻を非難している点でも一致する。

一体、村上サイドに立つ情報提供者の協力なしに、どのような方法を用いて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には無関係なはずの杉本氏が、このような記事を書くに至ったのか。杉本氏がかなり中枢深くまで同教団の内情に食い込んでいる様子がはっきり伺えるのである。
  
このように、両者の見解は、驚くほどに共通しており、しかも、その主張の盲点や、事実に反する虚偽の主張についてまで、大筋で完全に一致しているのである。

こうしたことから、村上氏と杉本氏は、いわば思想的な同志のような関係にあって、互いの主張を補い合うという文脈で協力し合って来たことが明白であり、そのことは、村上密氏自身も、自らのブログ記事において、杉本氏の記事を引用していることでも裏付けられる。

さらに、サイバーカルト監視機構という呼び名は、私がつけたものであるにせよ、村上氏や杉本氏が、自ら「カルト化の疑いあり」とみなした教会や牧師や信者を、ネット上で袋叩きにする活動を積極的に後押しして来たことは事実である。

両者が、特定の教会やクリスチャンについてネガティヴなイメージを広めるために書いた記事は、実際に、ネット暴民のような身元不明のユーザーやコメント者を煽り立てて、記事でターゲットとされている人物への嫌がらせのコメント等を助長し、ブログの炎上を起こしたりする効果を与え、ネット上の集団的嫌がらせを次々と生んで来たことは事実である。

そのことは、杉本氏が自身のブログに掲載した私に対するバッシング記事に、一千件のコメントがついた事実を見ても明白である(むろん、この一千件のコメントは水増しの可能性が極めて高いので、実際に書き込んだ人数は数人程度かも知れないが)。このようにネットを利用して、村上氏や杉本氏の活動に賛同しない信者に対する組織的な嫌がらせが行われて来たことは事実であり、こうしたネット暴民のようなネットユーザーによる特定のクリスチャンに対する行き過ぎたバッシング、クリスチャン・ブロガーへの吊し上げや、悪質な書き込みの助長、悪意あるアクセス集中によるブログの検索結果の意図的操作等、ネット上の集団的な嫌がらせを生む母体となって来たのが、村上密氏や杉本徳久氏のブログ記事なのであり、これらの集団的悪意を総称して、私はサイバーカルト監視機構と呼んでいるのである。

このように、ある一定の目的のために活動するネット上の集団的悪意が存在することの証拠として、私はさわやか読者に関する情報を記録に残し、公表して来た。こうした読者らの動きを見ると、彼らが何を目的にしているのかも、おのずと見えて来る。匿名掲示板に大量に書き込まれた筆者に対する嫌がらせのコメントも、村上密氏を擁護する立場から書かれているが、そのようにして私の個人情報を公開すると事前に脅迫して来た人物は、杉本氏の他にはいない。こうしたことからも、村上密氏の活動に好ましくない特定のクリスチャンに対するバッシングによる印象操作や嫌がらせを、杉本氏が分担して担当している構図が見えて来るのである。
 
現実に接点がなくとも、インターネットで知り合った者同士が、思想的に手を結んで、同様の内容の記事を掲載して行くということは十分にあることで、それがたとえ計画的な形でなくとも、コメント者などを巻き込んで、行き過ぎたバッシングという見えない悪意につながっていくこともよくあることである。まして、元記事が悪意による誹謗中傷を含んだ内容であれば、それを鵜呑みにした読者らが、ターゲットとされた人物への集団攻撃に加勢することは容易に起きうる。

本来、ブログ記事は、そのようなことが起きないように配慮して書かなければならないが、村上氏と杉本氏は、最初から特定のクリスチャンを貶める目的で、事実に反して記載して来た決めつけの誹謗記事(たとえば、私や鳴尾教会牧師に対する記事内容については別稿で反論しているので、ここでは触れない)を次々と発表しては、多くのコメント者やネットユーザーを悪意による便乗的な嫌がらせへと駆り立て、ターゲットとされた人の人物評価を長年に渡り、貶めることに貢献して来たのである。

こうした行為は、罪に問われて当然の他者への名誉棄損、信用の重大な毀損であるが、そのような効果を最初から狙って、村上氏や杉本氏は一連の記事を書いて来たのであり、このようなネガティブ・キャンペーンと言える記事を発表することや、また、こうした記事を作成しては、ネット上で次々と好ましくない人物に弾圧を加えて行くことを肯定する思想と行動そのものが、カルト監視機構の本質なのである。
 
村上氏と杉本氏は、私のブログを常に「創作」と呼んで、事実に基づかない空想物語のように決めつけているが、その点でも、二人の主張は驚くほど一致している。
 
さらに、杉本氏は、「自己愛性妄想だ」とか(このような用語自体が「杉本用語」であり、公の概念としては存在しないのであるが)、「訳の分からぬ妄想的な珍説を並べている」などとヴィオロンを罵倒し、嘲笑するような言葉をいくつも並べては、長期に渡り、当ブログを酷評する記事をいくつも掲載して来た。その記事も全文データが残っているので、杉本氏によって書かれた他のスパム記事と共に、近日中に注釈を加えて公表する予定である。

鳴尾教会の教団離脱に関しても、杉本氏は、山田牧師夫妻について、具体的な根拠も提示せずに、一方的に「道に外れている」と決めつけたブログ記事を発表し、村上氏と同じように、鳴尾教会の教団離脱に反対する立場から一連の記事を書き、牧師夫妻のイメージを貶めており、こうした記事がコメント者らをいたずらに夫妻への嘲笑やバッシングに駆り立てて来たことは、杉本氏の記事につけられたコメントを一読しただけで分かることである。

このように、村上氏と杉本氏はネット上で手を組んで、自ら敵とみなした人物の評判を貶めるためのネガティブ・キャンペーンを積極的に展開して来たのであるが、杉本氏が鳴尾教会に関して掲載した情報は、その多くが捏造された不正確な情報であるにせよ、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の内部から出て来たものであり、関係者への接触がなければ知り得ない事柄であり、なおかつ、村上サイドから提供される情報と内容的に一致している。

しかも、鳴尾の山田牧師夫妻に関しては、異端の疑惑は教団内でさえも認められていないにも関わらず、全く根拠なく、杉本氏が彼らを「道に外れている」と非難していという点でも、杉本氏の見解は、その決めつけに満ちた事実に反する一方的で盲信的な主張という欠点において、村上氏の見解と瓜二つなまでに一致している。

ちなみに、杉本氏は、村上密氏のカルト監視機構の発想に全く反対を唱えたことがなかった。

こうして、杉本氏がこれまでにブログに記載して来た特定のクリスチャンに対する誹謗記事は、あらゆる角度から見て、村上密氏の主張と同一の思想を基盤とするものであり、村上密氏の活動を擁護し、支援する立場から書かれたものであることは疑いの余地がない。そして、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者ではない杉本氏に、ここまで事件の詳細を(しかも歪曲された一方的な角度から)情報提供できる人物は、村上密氏(とその関係者)以外には見当たらないのである。

こうした杉本氏の記事が原因となって、今日に至るまで、私のブログに対しても嫌がらせ工作が繰り返されているのだが、その嫌がらせ工作者の多くは、あからさまに杉本氏の記事から当ブログへとリンクして来た形跡が残っている。こうした証拠があるにも関わらず、それでも、杉本氏が自分がブログ記事で行っているネガティブ・キャンペーンが、ターゲットとされた人物に対する読者らの嫌がらせを煽るものではないと主張するつもりであろうか。

しかも、もっとあからさまな事実は、嫌がらせ工作を続けている読者の中に、杉本氏のものとしか考えられないIPアドレスが含まれており、その特定のIPアドレスから当ブログに対して、頻繁に異常なアクセスが集中していることである。これについては以下の記事を参照されたい。

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(前編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(中編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(後編)
  
さて、村上密氏と杉本徳久氏の最も重大な思想的な共通点は、両者がこのようにネットや司法の場を利用して、自ら「疑わしい」とみなしたクリスチャンたちに対して、恫喝訴訟をしかけたり、私刑と言って差し支えない不法なバッシングや、脅迫や嫌がらせなどの圧迫による個人攻撃を行ない、気に入らない人物に対して、この世の法律や教会の規則に基づかない行き過ぎた懲罰的で報復的な行為を容認し、さらにはこれを積極的に奨励してさえいることである。
 
このように、聖書に基づかずに、人間が他者の内心の自由を侵害してまで、自らの思惑に基づいて、神のように他人を裁き、人の内心を監視し、誤った思想を罰し、是正しようとする危険な思想と、こうした思想を容認する活動をこそ、私はこれまで「カルト監視機構」の本質として糾弾して来たのであり、村上密氏と杉本氏の活動とそのブログ記事内容は、このような思想をまさに体現したものであると言える。こうして特定の人物に対して懲罰を加える目的で書かれた彼らの著作物が、それに悪影響を受けて嫌がらせに及ぶネット読者らを生み出すのは当然なのであるが、こうしたネット上の嫌がらせ工作を総称して、私は「サイバーカルト監視機構」と呼んでいるのである。

サイバーカルト監視機構とは、特定の人々が、インターネット上で、好ましくないクリスチャンに対する非合法な弾圧を肯定するために作り上げた「空気」であり、そのような残酷な私刑を是認するための「世論作り」であり、また、そうしたネット上の弾圧によって、キリスト教界に大規模な言論統制をもたらし、好ましくない発言を行なうクリスチャンを恫喝して沈黙に追い込もうとする圧力のことでもある。また、こうした嫌がらせ工作を日夜行うネット上の集団的悪意そのもののことでもある。
 
ネットで起きた事柄については、具体的に、いつ、誰が、誰に対してどんな指示を出したのか、ということを立証することは困難であるが、少なくとも、思想的な共通点を通して、それをある程度、探り出すことは可能である。

村上密氏、杉本徳久氏は、インターネット上で、プロテスタントのキリスト教会を次々ターゲットとした告発記事を掲載し、キリスト教界全体にネガティヴなイメージを形成し、キリスト教界を改革するために、聖書と教界内規則に基づいた改革を訴えるのでなく、信者や教会をこの世の裁判に訴えることを助長するような主張を積極的に行なって来た人物として、キリスト教界において、極めて特異な存在であり、両者の主張を見れば、公の教団教派のつながりにおいては無関係であるにも関わらず、両者が同一の深い思想的なつながりで結ばれており、なおかつ、牧師である村上氏が指導的な立場に立って、杉本氏の執筆活動にも多大な思想的影響を及ぼし、杉本氏が村上氏の活動を擁護し、支える形で活動して来たことが見て取れるのである。

上記したようなすべての事実に反して、杉本氏はそれでもあくまで自分は村上氏とは直接の面識がないのだから村上氏とは思想的にも無関係であり、筆者がサイバーカルト監視機構と名付けているような、ネット上のクリスチャンに対する集団的な嫌がらせには関与していないと言い張るつもりであろうか? その際、筆者に送って来た恫喝メールや、自身のブログに記載して来たバッシング記事については、どのように弁明するつもりなのであろうか?

自分自身は他者を公の場でいわれなく非難し、暗闇で幾度も恫喝しては、沈黙に追い込もうと圧力を加えておきながら、他者から公に反論があると、具体的な根拠も提示せずに、すぐに「名誉棄損だ!」と騒ぎ立て、無理やり記事の削除を迫ったり、個人情報を公開するなどの脅しによって黙らせようとしたり、果ては裁判にまで及ぶのでは、あまりにも非常識で大人げない態度であると思うのだが、杉本氏はそのような考えはないのだろうか。

杉本氏は、自分にとって都合の悪い記事を削除してほしいと他者に依頼するよりも前に、まずは自分自身が、その他者に関して書いたネガティヴなバッシング記事をすべて削除し、他者の名前を自分のブログから抹消するのが筋であろう。それもしないうちに、なぜ他者にだけ一方的に自分にとって不都合な記事の削除を迫ることができるのか。自分こそ、相手の嫌がることはしない、それが相手にものを頼むときの基本的な礼儀ではないかと思うのだが。

杉本氏はプロテスタントの信者でさえないのに、どんな権限があってプロテスタントのキリスト教界の異端審問官のように振る舞い、気に入らないクリスチャンを脅して言論統制を行なう権利があるのか。部外者に過ぎない同氏の不法な主張に信者が従わなければならない理由はない。

 〇〇さんが書かれていることは全て私に対する誹謗中傷であり、私の名誉や信用を重大に毀損する行為に該当します。〇〇さんと唐沢さんやその他の人たちとの間のことについては私はわかりませんが、少なくともすぐに私に関する記事、私の名については削除して下さい。

(もう一通、別のメールに続きます。)

杉本氏は、ここで村上密氏、ルーク氏、Br.Taka夫妻など、すべての人を切り捨てても、自分だけは難を逃れたいという意思を示している。他の人たちはどう非難しても構わないから、自分だけは別扱いにして欲しいと述べているのである。

特に、杉本氏がこれまで、あれほど歩みを一つにして来た村上氏とも、ほとんど無関係に近いかのように弁明して距離を置こうとしている姿勢は興味深い。
 
また、不思議なのは、なぜかここでも、再び、杉本氏が唐突に唐沢氏の名前を出し、「他の人たちとの間のこと」などに言及していることである。

杉本氏の文章にはこのような飛躍がしょっちゅうである。「他の人たちの間のことについては私は分かりませんが」などと、不自然な文脈でもっともらしく弁明している時こそ、その文脈に注意が必要なのである。これは、Br.Takaこと鵜川貴範・直子夫妻の牧師資格詐称やKFCの乗っ取り事件などには全く関与していないという自己弁明であろうか?
  
これまでの杉本氏の様々な言動を振り返ると、同氏は他教会の内政に干渉したり、無関係な他者の個人情報を収集したり、他者の人間関係について詮索したりという越権行為をしりきに繰り返して来ており、そんな人間が「他の人たちの間のことについては私は分かりませんが」などとわざとらしく否定すれば否定するほど、かえって不自然な印象と疑惑だけがより深まって行くというのが正直なところである。

杉本氏に関して私の掲載している記事内容が、事実無根の誹謗中傷でないことは、すでに根拠を示しながら幾度も述べて来たことである。杉本氏が自ら実名で公表している記事について、誰かが公に批評や分析を加えたからと言って、それだけでは何ら誹謗中傷にはあたらない。
 
まして、杉本氏が誰でも読める形でブログに公表している当ブログに対する一連の決めつけに満ちた非難やバッシングや、杉本氏の記事に含まれているスパムとしか思えない当ブログへの悪質なリンクや、杉本氏とおぼしき人物からの当ブログに対する嫌がらせのアクセスや、杉本氏が私に送って来た恫喝メール等に対して、当ブログできちんと根拠を示して反論し、抗議することは、全く誹謗にも中傷にも当たらない。自分自身がそのようなことを行なっておきながら、他者には反論も許さないとは何事か。よって、記事を削除しなければならない理由が全く存在しないのである。



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  ▼投稿されたメッセージ
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 REMOTE_ADDR: 219.215.163.80

 [ 名前c ]
 杉本徳久

 [ メールアドレスc ]
 sugimotonorihisa@gmail.com

 [ メールアドレス再入力c ]
 sugimotonorihisa@gmail.com

 [ 件名c ]
 ブログの文章につきまして その2

 [ ご感想c ]
 〇〇さんの名については、先の坂井能大を相手取った民事訴訟(武蔵野簡易裁判所にて)の中にて、坂井の提出した書証や唐沢が提出したメール記録の書証の中に出てきて、ヴィオロンさんの本名が「〇〇」だということについて確認しました。それまでは疑い半分で本名は不明だという前提でおりました。現段階であなたの本名を私のブログで公開したりしたことは一度もありません。社会福祉士として、あなたが通っていた教会のことやあなたの心の状態が良くわかりますから、あれこれ坂井能大を相手にしたような追及はしませんでした。

杉本徳久氏は、村上密氏と同じように、裁判を通して、自分の属している教会とは無関係な教会や、そこにいる信者の信仰生活に強制的に介入し、懲罰を加えることを肯定して来ただけでなく、その裁判を通じて積極的に自分とは無関係の教団教派に属する信者についての情報収集をも行なって来たようである。ひょっとすると、本当は個人の情報収集が目的で裁判を起こしているのではないかという印象さえ受けるほどである。

さらに、杉本氏はここで坂井氏との裁判を通して私の実名を知ったかのように書いているが、それは虚偽であり、実際には、すでに2011年末の時点で、私は杉本氏から、私の実名を特定したメールを受け取っている。これは坂井氏との裁判が起きる以前のことであり、この時差を杉本氏はどのように説明するのだろうか。まさか当てずっぽうの推測で人の名前を書いていたとは弁明できまい。

杉本氏は私の本名をブログで公開したことは一度もないと自己弁明しているが、それでは、ブログ以外の匿名掲示板などの場所ではどうだったのだろうか。これについては何もコメントがない。杉本氏にとって気に入らない記事を削除しない限り、私の実名を公表すると、恫喝メールで息巻いていたことについては、どのように説明するつもりであろうか。そのように私に予告して来た人物は、杉本氏以外には誰もいないのだが。

「社会福祉士として、あなたが通っていた教会のことやあなたの心の状態が良くわかります」と杉本氏は書いているが、これはどこの教会のことを指しているのか見当もつかない。そもそも、社会福祉士として、他人の通っていた教会のことが分かると主張すること自体、随分、妙な理屈であると思う。社会福祉士とは、そもそも教会の内情や、信者の信仰を理解するための職ではない。もしクリスチャンとしての信仰が本当にあるのであれば、社会福祉士として他者の教会を理解しようとする必要はなく、ただ聖書に基づいて理解すればよいと思うのだが、このコメントを読んでいると、杉本氏には本当に信仰があるのかと疑ってしまう。

「社会福祉士として<中略>あなたの心の状態が良くわかりますから、あれこれ坂井能大を相手にしたような追及はしませんでした。」と、杉本氏は書いているが、このように「配慮してやったのだ」「情状酌量したから提訴しなかったのだ」と、もったいぶって見せる割には、私へのかつてのメールには、「あまりあなたには同情いたしておりませんので、今回の件、私をあまり侮られませんよう。」などと、他人の心境など知ったことではないという脅し文句をちりばめていたのは何だったのであろうか(たとえば 2011年12月6日付メール

 
このように、筆者に何通もの恫喝メールを送って来たり、メールフォームで気に入らない全ての記事から名前を削除せよと要求して来たり、嫌がらせのようなアクセスを当ブログに集中させたりと、人の目に触れない場所で、随分、多くの圧迫と恫喝を杉本氏は私に対して行って来たのだが、それでも、「坂井能大を相手にしたような追及はしませんでした。」と、あくまで手加減してやったのだと言うつもりなのだろうか。

今までのいきさつを振り返ると、こうした言葉も、結局は、杉本氏にとって気に入らない記事を私が削除せず、杉本氏の要望を聞き入れずに、杉本氏の名前を自分のブログ記事から削除しなければ、坂井氏と同じようにおまえも告訴してやるという脅し文句としか受け取れないのである。
残念だが、杉本氏からこれまでにされて来た数々の嫌がらせを考えると、そのように深読みするのが当然である。

 
  一時、閉鎖されていた〇〇さんのブログが今のように大々的に再開された以上、ことを放置することはできません。個人的に、あまりことを大げさにしたいわけではなく、大がかりな対応をとりたいと思っているわけではありませんが、内容が内容だけにこのままで座視するわけにはいきません。

 ブログ記事、すぐに削除して下さいますよう。何か疑問などあれば、どうぞお尋ね下さい。

この文章も、一方では、「あまりことを大げさにしたいわけではなく、大がかりな対応をとりたいと思っているわけではありません」と言いながらも、その実、言うことをおとなしく聞いておかなければ、いつでも事件を大々的に炎上させるぞという杉本氏の思惑が透けて見える。

しかも、これはすごい文章である、「 一時、閉鎖されていた〇〇さんのブログが今のように大々的に再開された以上、ことを放置することはできません。」

つまり、自分に気に入らない内容の記事が書かれているので、ことを放置できないと主張するのではなく、私のブログが今のように大々的に再開されたから放置できないと、はっきり述べているわけである。

大々的に再開されたとは、一体、どういうことなのであろうか。私は以前と同じように淡々とブログ記事を書き続けているだけであり、以前のブログの方が、今より読みやすく、文章も簡潔で、更新も頻繁であった部分もあるように感じているので、努力が足りないと感じることはあっても、特に大々的に何かをやり始めたという自覚はまるで全くない。

杉本氏のこの発言を通して感じられるのは、どれほど同氏が私のブログそのものを未だに目の敵として閉鎖に追い込みたいと考えているか、どんなにその目的で、これまで再三に渡る嫌がらせと恫喝を執拗に重ねて来たか、そして、同氏の脅迫と嫌がらせの数々にも関わらず、私のブログが再開されたこと自体が、どれほど同氏にとって気に食わないことであり、どれほどこのブログが杉本氏にとって脅威と見え、激しい憎悪の的となっているかという事実である。
 
もし本当に相手の心の平安を願う心があれば、まずはこのブログが再開されたことに祝辞を述べるであろうが、相変わらず、杉本氏の文面には、挨拶文さえ記載されておらず、人を祝福する気持ちがまるでないことがよく伝わって来る文面である。上から目線の一方的な命令を下し、不法な手段で人を威嚇することによって、他者の執筆活動を妨害し、不都合な信者をネットから駆逐することで、自分にとって不都合な言説を取り締まり、自分に都合よくクリスチャンの世論を言論統制することだけが、私への接触の目的なのである。

これでは、杉本氏は、私のブログを何が何でも再び閉鎖に追い込む目的で、さわやか読者の履歴に示されているように、今日に至るまで執拗な嫌がらせを水面下で続けているのだと、自ら白状し、宣戦布告を突きつけているようなものである。
 
そんな人に疑問があればお尋ね下さいなどと言われても、尋ねることもなければ、杉本氏がこれまでに行って来た事柄を考えると、返信などしようものなら、どんな厄災が待ち受けているか、誰しも容易に想像できる。

削除はしない。そうするだけの理由が何も存在しないためである。

そう答えれば、また次なる嫌がらせに及ぶつもりだろうか。坂井氏と同じように、私も法廷の場に引き出し、恫喝裁判のターゲットとするつもりであろうか。

しかしながら、杉本氏のこうした恫喝は、何年も前からずっと繰り返されて来たものであり、裁判の脅しなど、全く効果のないものである。さらに、杉本氏が坂井氏を訴え、勝利してさえも、それによってどれほど世間で杉本氏についてネガティヴなイメージばかりが広まり、定着して行ったか、ネットの世論を見回すとよく見えて来る。一般に、身近な他人を次々と訴え、法廷に引きずり出して戦いを挑むことを生きがいとしているような人間は、たとえ勝訴することがあったとしても、みなに嫌われ、近寄られなくなって行くだけである。

しかも、自分にとって気に入らない記事を書いているクリスチャンを暗闇で恫喝し、自分が証拠不十分で敗訴することも織り込み済みで、ただ心理的な打撃を与えることを目的に、次々とクリスチャンを裁判に訴える活動を繰り返して来た人間が、また裁判だと叫んでみたところで、半ばオオカミ少年のように見られるだけではないかと思う。

そのような姿は、クリスチャンの生き様からはほど遠く、これまで幾度も指摘して来たように、「日夜、兄弟たちを訴える者」、すなわち、悪魔を彷彿とさせるのである。
 
こうして、杉本氏がクリスチャンに闘いを挑むために提起してきた裁判という手法も、まさに村上密氏が積極的に奨励し、用いて来た手法であり、両者の行動を見れば、その背後に、クリスチャンに対する尽きせぬ憎悪、何としてもクリスチャンを弾圧したいとの欲望が、どうしても筆者には透けて見えてならないのである。

クリスチャンに言いがかりをつけ、クリスチャンを脅し、クリスチャンを法廷に引きずり出して苦しめ、クリスチャンを罰して、苦しめて、懺悔させたい。神の民を己の前に跪かせ、赦しを乞わせ、屈辱をこうむらせたい。そういう飽くことのない悪魔的欲望が、どうしても両者の行動の背後に透けて見えてならないのである。

従って、両氏の活動は、到底、キリストの御霊から来るものではなく、むしろ、反キリストの霊、キリスト教徒に対する弾圧の霊から来る活動だと言わざるを得ない。従って、彼らの活動の目的も、彼らが口で唱えているように、キリスト教界の改革にはなく、むしろ、キリスト教界の改革を口実にして、気に入らないクリスチャンを次々とネット上で吊し上げ、あるいは法廷に引きずり出して弾圧し、懺悔を迫り、処罰することを目的としているのだろうと思わずにいられない。私が当ブログで早くから訴えて来たのは、この人々の活動の真の目的は、キリスト教界の浄化を口実にしただけのキリスト教徒の弾圧にあるという事実である。

このような活動にいつまでも従事している人々は、キリスト教徒への迫害者という定評が後世にまで残ることになるであろう。キリスト教の恥ずべき異端審問の歴史に、また新たな名が刻まれることになる。

杉本氏がたとえ憤りにまかせてクリスチャンを幾人告訴したとしても、事実無根の訴えでは、勝ち目がない。膨大な時間と労力と資金の無駄が待っているだけであり、そして、キリストの霊的秩序は、この世のすべての秩序を超えるのである。

パウロによれば、クリスチャンは、「御使いさえも裁く者」である。黙って苦しみを担われたキリストのゆえに、クリスチャンはむやみに兄弟姉妹を訴えるようなことはしないが、いずれにしても、我々にはイエスの御名によってキリストと同じ権威が与えられているのであり、この御名を超える権威は地上のどこにも存在しない。小羊の血潮によって贖われ、神が義とされた信者を再び訴え、罪に定めることのできる人間は地上に誰も存在しないのである。

にも関わらず、気に入らないクリスチャンの言説に遭遇する度に、「削除だ!」「裁判だ!」と叫び立て、告発記事の執筆にいそしみ、あるいは水面下で恫喝と嫌がらせ工作にいそしみ、提訴できる相手を探し求めて日々クリスチャン・ブロガーを見回しているのでは、「日夜、兄弟たちを訴える者」という定評がさらに広まって行くだけであり、それでは杉本氏自身にも全く利益にならないであろう。
   
180−0001 武蔵野市吉祥寺北町1−5−14
 杉本徳久
070 5012 7587
sugimotonorihisa@gmail.com
 
 


村上密牧師による自己流の「異端審問」―アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動

 

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会の私物化問題について~



2.弱者ではなく、強者の目線に立って行なわれる村上密氏の「弱者救済活動」

2-1.「毒を持って毒を制す」式の考えの危険 
2-2.弱者の人権を踏みにじり、「世間」という強者の目線に立って行なわれる活動
2-3.強制力を用いて人間の内心の自由を侵害
2-4.信仰を持たない「家族」や「世間」の観点から、カルトに入信した信者だけを問題視
2-5.公の認可を一切受けておらず、キリスト教界内の規則を無視した越権行為
2-6.聖書に基づく信仰によらず、世間の倫理道徳や強制力によってキリスト教界を断罪
2-7.平和な福音伝道を第一とする牧師の本来的な使命から逸脱している
2-8.カルトとの闘いを続行するために、自ら敵を作り出す
2-9.アンチカルトはカルトと同一である
2-10.キリスト教界で回復される必要があるのは、人間ではなく神の利益

  追記:2018年2月に、村上密率いるカルト被害者救済活動の中心メンバー「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事等を参照。「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実

2.弱者ではなく、強者の目線に立って行なわれる村上密氏の「弱者救済活動」

2-1.「毒を持って毒を制す」式の考えの危険性

さて、カルトを取り締まるために、カルトを超える強力な取締機関を創設するという、「毒を持って毒を制す」式のカルト監視機構の設立の構想は、おそらくは、村上氏がこれを明確な形で公表するよりもずっと前から、同氏の心に温め続けられて来た計画であったものと思われる。

村上密氏は、前述の記事でも示したブログ記事「ザビエルの光と影 」で、フランシスコ・ザビエルの活動の負の側面として異端審問の創設の提案を挙げる。また、自民党が統一教会の勝共連合などの提案を受けて国会に提出した「スパイ防止法」を危険なものとして非難する。


「ザビエルは1542年にゴアに到着し、1546年5月16日付けの書簡で、ポルトガル国王ジョアン3世に、インドにおける異端審問所の開設を進言しています。1560年にはゴアで異端審問所が発足しています。その結果、多くのマラーノ(15世紀末から、スペインおよびポルトガルにおいて強制的にキリスト教に改宗させられた旧ユダヤ教徒)が安住の地を求めて行ったゴアで火炙りになりました。これが影です。このことを知っている人は稀です。」

「むしろ、自民党政権下、自民党と協力していたカルト宗教が「スパイ防止法」制定に奔走しました。この法案が宗教をも監視下に置くことは一部の人にはよく知られていました。カルトを叩いていた私や他の人がカルトから監視されることも考えられたのです。危ういのは権力と結び付いた宗教です。キリスト教の一牧師の案に大袈裟な警告は夢想家の戯言です。」

しかしながら、村上氏はこのようにしてザビエルの異端審問を彼の活動を負の側面であると指摘し、スパイ防止法の危険性を唱えながらも、自分自身が、論敵と全く同じ誤りを犯していることには気づかない。

スパイ防止法は、かつて中曽根政権下で、国際勝共連合の推進のもと、自民党議員により国会に提出された。この法案は社会党や日弁連、自民党のリベラル派の反対により、審議未了のまま廃案となったが、Wikipediaによると、当初、これを推進していた宗教団体には、統一教会だけでなく、生長の家も含まれていたようである。

国際勝共連合とは、「共産主義の脅威に対抗する」ことを目的として統一教会の創始者であった文鮮明が創設した政治団体であり、今日に至るまで統一教会と不可分の関係にある。
 
「共産主義の脅威」を訴え、これに対抗して勝利することを目指す国際勝共連合の主張を見ると、スパイ防止法の制定や、日本版NSCの創設、日本の核武装なども含め、どれもこれも共産国の国家防衛の手段をそっくり模倣したものばかりであることに気づく。特に、スパイ防止法と日本版NSCの創設は、ソ連が国家の機能として持っていた強大な秘密警察の機能と活動を我が国でも取り入れて合法的に認可しようという構想である。

一言で言えば、勝共連合は、共産主義国の脅威に対抗するという名目の下、日本が強い軍隊を持って核武装し、秘密警察を持ち、外国のスパイを含めて国家にとって望ましくないあらゆる人物を合法的に処罰でき、国家が国民に対する大規模な諜報・監視活動を合法的に行なえるような法整備が必要である、と訴えているわけである。

だが、これは結局、敵以上に武装を強化することによって敵(共産主義国)に対抗しようという発想であるから、「毒を持って毒を制す」式の考えであり、果てしない軍拡競争を招き、より一層の国際的緊張を高めるだけであり、さらには、軍拡競争の中で、いつしか敵に対抗するということが口実となり、自国の武装の強化それ自体が目的となって、とめどない軍拡に陥り、異常に肥大化した軍部が生まれかねないことが予想される。

その結果、最初は手段であったはずのものが、目的化し、果てしない武装それ自体が目的と化す恐れがあるのである。その上、こうしたことの危険性に気づいてそれを訴える国民が、国家にとって望ましくない人物とのレッテルを貼られて弾圧され、武力によって強制的に排除される危険性までが生まれる。最初は共産主義に対抗することが目的であったはずなのに、仮想敵の概念がいつの間にかどんどん膨らんで行き、戦いは果てしないものとなって、ついには武装や諜報の機能のほとんど全てが、真の外敵ではなく、国家にとって「疑わしい」思想を持つ自国民の弾圧へと向けられる恐れが十分に想定される。

ここに「毒を持って毒を制す」式の考え方の危険性がある。外敵との闘いを訴える者は、魔物と闘っているうちに、自ら魔物と一体化し、敵以上の恐るべき魔物に変身してしまいかねないという法則である。 外部の敵との抗争は、いずれ内部抗争に転嫁する。国際勝共連合の唱えているような目的を容認すると、日本は、共産主義に立ち向かうという名目の下、果てしない軍拡競争に巻き込まれ、絶え間ない国際的緊張の下に置かれ、その上、スパイ根絶という口実で、大規模な国民への抑圧が正当化されかねない。こういった危険性が知識人らに指摘されたことの影響もあり、スパイ防止法は廃案になったのである。(だが、今日の秘密保護法にも同じ危険が指摘されている。)
 
ところが、村上密氏が述べているのは、勝共連合の提案と本質的に同様の論理である。村上氏はザビエルの異端審問のアイディアを彼の活動の負の側面として挙げ、今日のプロテスタントのキリスト教界における「霊の戦い」が事実無根の魔女狩りのような様相を帯びていることを非難する。そして、こうしたキリスト教における信者同士の争いが、キリスト教界の恥ずべき「影の歴史」であり、繰り返されるべきではないものであることを訴えている。

ところが、そう述べている村上氏自身が、キリスト教界を浄化するために、ザビエルと同じように、キリスト教界に超法的な「異端審問」機関としてカルト監視機構を設立することを提唱し、「スパイ防止法」を非難しながらも、キリスト教界の「カルト化」を未然に取り締まることを口実に、「カルト防止(監視・抑止)法案」とでも呼ぶべき「カルト監視機構設立案」を宗教界全体に提唱して行くのである。

村上氏は、キリスト教界を改革するという名目で、「異端審問機関の設置」及び「宗教的スパイ防止法案」を提案するという、自ら論敵と全く変わらない極めて危険な発想を述べている自己矛盾にはまるで思いが至っていない。



2-2.真に弱者である信者の側に立たず、弱者の人権を踏みにじり、「世間」という強者の目線に立って行なわれるカルト被害者救済活動

さらにもっと危険なのは、同氏がこのように自ら唱えたプランが、キリスト教界で容認されるかどうかには全く注意を払わず、教界において自分の提案が何ら公の承認を受けたわけでもないのに、自分だけの一存に基づき、非公式に、自己流の「異端審問」を繰り広げ、他教会に対する干渉という越権行為に乗り出して来たことである。

そして、この越権行為を正当化するために、村上氏は「世論」を巧みに利用して、自分自身の思惑が世論に合致しているかのような「空気作り」を行なって来た。

村上氏はカルト監視機構の設立というアイディアを提示するより以前から、カルト被害者救済活動という形で、独自の「異端審問」を行なって来たが、同氏率いるカルト被害者救済活動は、初めは、統一教会等に入信した信者を、信者の親族等の要請を受けて、半強制的に脱会させるというものであった。これは当初、カルトに入信した信者を、強制的に拉致してアパートなどの密室に監禁し自由を奪った上で、牧師などキリスト教の教職者が脱会のための説得工作にいそしみ、信者にカルトの教義の誤りを認めさせて、棄教させるという手法のものであった。

こうした活動は、信者の内心の自由を否定して、さらには身体を拘束し、強制的に外側から「正しい教義」を押しつけて改心を迫るという点で、そもそもの初めから、中世の魔女狩りのような残酷さを備えていたのだと言える。
 
まず、この活動においては、キリスト教の権威者が力づくでカルトに入信した信者の身柄を拘束し、「誤った思想に傾いた罪」を強引に認めさせて、信仰を放棄させるまで自由を与えないという不法な形での懺悔の強要と、強制的な再教育による内心の自由の侵害身体の拘束と言う罰に等しい不法な人権侵害が行われていたことについて考える必要がある。これは憲法が保障する「信教の自由」そのものの否定であり、人の信仰生活を外側から力づくで侵すことを正当化する活動であることに注意が必要である。

このような活動内容を見れば、それが暗黙のうちに意味するところは、信者を取り巻く社会(カルト団体のことではなく、この世の社会のこと)からの容認がありさえすれば、つまり、親族からの同意がありさえすれば、カルトに入信した信者は、危険人物として拘束され、人権を侵害され、思想的再教育を強制的に受けさせられて、信仰を剥奪されても当然であるという思想であると分かる。

そのような思想は、カルトに入信した信者は、その誤った思想のゆえに、世間を騒がせたのだから、身体の自由を奪われて、自らの罪を認めて懺悔させられ、強制的な再教育を受けさせられて半強制的に人格を矯正されても当然であり、なおかつ、誤った信仰に傾倒したことを懺悔するのみならず、家庭を捨ててカルト団体に逃亡したことで、どれほど家族を混乱と悲しみのどん底に突き落とし、社会に迷惑をかけたか分からないのだから、社会を騒がせて迷惑をかけた罪を認めて詫びるべきであるという考えに基づいている。

これは、社会から迷惑を受けたという通報がありさえすれば、人間が外側から力づくで他者の内心を取り締まり、その信仰や思想を弾圧することを正当化する思想であり、このような思想を延長して行くと、やがて誤った思想によって公共の秩序を騒乱した個人は、社会全体の世論の同意がありさえすれば、いかようにでも人権を奪われて処罰されても当然であるという発想へと結びついて行く。

強制的な拉致監禁と強制的な説得工作などの手法を見れば、村上密氏らの「救済」活動が、決してカルトに入信した信者という「弱者」の観点に立って行なわれたものではなく、むしろ、信者を取り巻く社会(家庭を含む)という「強者」(多数者)の観点からなされたものであることが分かる。

ただし、当初、使われていた拉致監禁という手法は、その後、信者を奪われたカルト団体から訴追の対象となったり、また世間からも批判を受けたりして、次第に使われなくなっていくが、そのような暴力的な手段を用いないようになって後も、以下に示す通り、村上氏のカルト被害者救済活動が持つ、信者に対する懲罰的な意味は変わらなかった。

同氏の「救済活動」はその後、キリスト教以外の宗教だけでなく、キリスト教界内部でも積極的に行なわれるが、そこでも、同氏は聖書の教えから逸れて道を踏み外した牧師や信者に対し、この世の司法などの強制力を用いて、その信者が「誤った思想」を認めて懺悔するまで徹底的に圧迫を加え続けるという手法を用いたのである。




2-3.強制力を用いて人間の内心の自由に対する侵害を繰り返す村上密氏のカルト被害者救済活動
 
だが、問題は、一体、この世の誰が、強制的に他人の内心の自由を抑圧してまで、他者の思想の是非を判断し、その誤りを認めさせ、これを「矯正」する権利を持つのかという点である。

そのような思想的再教育プログラムが、人の自主性を侵害して本人に強制されること自体、不法であり、大変、恐ろしいことである。そのような手法は、カルトと同じように、「洗脳」や「マインドコントロール」と非難されても当然であるが、さらに恐ろしいのは、そのような活動が、何ら公の認可を受けず、個人的な思惑に基づいて行われることである。
 
村上氏のカルト被害者救済活動が、主にカルトに入信した信者の親族(必ずしもキリスト教の信者ではない)からの要請に基づいて行われていたことを見ても、この活動が目指していたのは、信者に自主的にまことの神を知ってもらい、聖書に基づく真の信仰に自主的に至りついてもらうことではなく、むしろ、キリスト教の教義は、信者の誤った思想を論破し、誤りを認めさせてかつての信仰を放棄させるための道具として使われたにすぎないことが見えて来る。

この活動の最終的な目的は、信者に本当の神を知りたいという願いを自主的に起こさせることではなく、健全で自然な信仰を持ってもらうことでもなく、信者がカルト団体から完全に足を洗って社会復帰を果たすこと、とりわけ、もとの家庭生活に復帰することにあり、キリスト教はそれを実現するための手段であったのだと見られる。
 
つまり、この活動は、表面的には、キリスト教の信仰に基づくものであるかのように標榜していても、実際にはそうではなく、カルトに入信したがゆえに、家庭から逃亡し、社会生活から切り離されて、半ば孤立状態に陥っている信者を、親族らの訴えに基づき、家庭に連れ戻すことにより、社会生活に復帰させることを、最終目的としていたのであると考えられる。

それを実現する上で、信者の内心を作り変える必要があり、救済活動を行なうキリスト教の教職者らは、カルトの教義以上に強力で首尾一貫した教義を提示することによって、カルト的教義の誤りを暴き出して論破し、その思想の誤りを信者の目の前で明白にする必要があった。その手段として、キリスト教の教義が用いられたのである。これは、多くの新興宗教が、キリスト教を換骨奪胎して作られたキリスト教の亜種のようなものであることを考えれば、不思議なことではない。

だが、いかにカルトの教義が真理からほど遠く、矛盾に満ちた危険なものであったとしても、人が自ら内心で神を求める過程を邪魔してまで、何が真理であり、誤りであるかを、人が人に強制的に教え込み、信者がカルト的思考の誤りに自ら気づくのを待たずに、キリスト教の権威者を名乗る人間が、自らの権威によって、外側から強制的にカルトに入信した信者の思考パターンを打ち砕き、変えようとすること、しかもその説得工作を、信者の身体の自由を奪うという威嚇的な方法を用いて、信者自身が最も屈辱的な状態に置かれ、尋常でない精神状態にあり、正常な判断力の弱まっている時に行うことにより、力づくでカルトの教義の誤りを認めさせて棄教させるという方法では、カルト以上の洗脳とマインドコントロールと非難されても仕方なく、仮にその結果、カルトに入信した信者が以前の信仰生活の誤りに気づいてキリスト教に改宗したとしても、これでは強制的な改宗も同然で、到底、キリスト教の平和で自然な伝道活動とは呼べないし、このような方法によっては正常で自然な信仰も生まれ得ないであろう。

実際に、脱会の方法が強制的であればあるほど、それは本人の自主性に基づかないため、本人の自然な思考を破壊し、結果として、人格を破壊する恐れがあることが指摘されている。カルトから脱会させるという、一見、正しく見える目的のためであっても、これを暴力的な方法で成し遂げれば、後々大きな弊害が信者自身に残るのである。

もしも、正しい教義を知ってもらうためならば、人の内心の自由を力づくで侵しても良いという考えを肯定するならば、たとえそこで用いられているものが、キリスト教の教義であっても、それは実際には、カルト以上にもっとひどい形で人の内心の自由を圧迫し、彼らを洗脳し、マインドコントロールすることを正当化する暴力であるという非難を免れられない。
  
こうして信者の内心の自由を侵す形で棄教を迫るという方法は、カルトに入信していない信者の親族や、カルトを疑わしいものとみなす「世間」という「強者」の観点に立って、彼らの利益の回復のためならば、弱者であるカルト信者への抑圧も正当化されうるという考えに基づくものであり、それは決して真の意味で、弱者の観点に立って行われる救済活動とは言えないのである。




2-4.信仰を持たない「家族」や「世間」の観点に立って、カルトに入信した信者だけを問題視するカルト被害者救済活動
 
さらに、もっと複雑なのは、たとえどんなに信者の家族や親族が、カルトに入信した信者が誤った信仰を捨てて、以前のように家庭に戻って生活することを願い、そのために、カルトからの脱会を手伝ってくれるようキリスト教の牧師に懇願したとしても、カルトに入信した信者を家庭生活に復帰させることが、必ずしも、正しい解決かどうかは分からない点である。

なぜなら、カルトに入信する信者の多くは、家庭環境にもともと何か大きな不安材料があって、その問題から逃れるために、誤った信仰に心惹かれて行ったというケースが多く見られるからである。そのようなケースだと、家庭に潜む根本的な問題を見ずして、家庭復帰イコール健全な社会復帰と安易にとらえることはできない。

むしろ、根本問題が何ら解決されていない状態の家庭に信者を引き戻すことは、ただカルトに入信する以前の状態に引き戻すだけでなく、いや、カルトに逃亡するという形でしか、信者が逃げ道を模索することができなかったのだとすれば、その逃げ道さえ存在しない、より悪い袋小路に信者を追い込むことにもつながりかねない。また、それはカルトに入信することにより、信者が探索していた目的自体を否定し、あきらめさせることであるから、それはより一層、信者の心理を複雑にしてしまうきっかけとなりかねない。このような活動は、決して真の意味での弱者の心のニーズに応えるものとはならないのである。

たとえ説得工作によってカルトに入信した信者にその教義の誤りに気づかせることに成功したとしても、それだけでは、信者がそもそも一体、どんな問題から解放されるために、カルトに接近したのか、カルトに入信することによって、どのような目的をかなえようと目指していたのか、という根本的な心の問題に焦点が当てられない。
 
ただカルトに入信したことが誤りであったという事実を認めさせてその団体から脱会させて、家庭復帰を成し遂げ、あるいはキリスト教へ入信させることだけをゴールとしていたのでは、その信者の個人的な心の必要性は忘れ去られてしまう。

たとえ信者がキリスト教に改宗したからと言って、それでかつて信者の抱えていた心の問題が解決するかと言えば、そのようなことは決してない。だが、カルト被害者救済活動は、基本的に、カルトのマインドコントロールを受けてしまった信者自身の心に、何らかの弱さがあったのだと考えて、その弱さや問題の克服のために、信者に様々なカウンセリング等を受けるよう勧めても、信者自身を取り巻く「世間」の抱える深い問題には言及しないのである。
 
親族らの要請に基づいて行われるカルト被害者救済活動でも、カルトに入信した信者の誤りだけがクローズアップされ、信者をカルトに追いやる原因を作った家庭や社会の側が抱える問題は、半ば蓋がされたまま、その罪が問われることはほとんどない。信者が己の罪を認め、懺悔することは奨励されても、信者をカルトに追いやる原因を作ったかも知れない家庭や社会の「罪」は問われない。こうして、間違っていたのは、カルトに入信した信者だけであり、家庭や社会は「被害者」であって、罪はないという考えに立って、信者は家庭と社会に迷惑をかけた罪を詫びて復帰し、社会に適合するよう努力することだけが、最終的なゴールのようになってしまいかねないのである。

つまり、そこでは、家族や社会という強者の集団の抱える闇という問題は蓋をされたまま、弱者の立場にある信者だけが責められ、「家族や「世間」の利益や都合だけが優先されて、カルトに入信した信者の心のニーズは容赦なく無視され、押しつぶされてしまう危険性がつきものである。実際、そうなっていたであろうことは、説得工作が監禁という強制的な手段を用いて行われたことを見ても分かる。
 
そこで、結論を述べれば、この活動は、この世の腐敗に絶望し、真理や、まことの神や、正しい生き方を求めた結果、誤ってカルトに入信してしまった信者だけを問題視し、信者の思考と生き方だけを矯正の対象とすることによって、彼らがカルトに追いやられざるを得ないような原因を作り出した「世間」の罪を巧みに免罪する性質を持っているのだと言える。


  
2-5.公の認可を一切受けておらず、キリスト教界内の規則を無視した越権行為としての村上密氏のカルト救済活動

さて、村上密氏を含め、多くのプロテスタントの牧師が関わっていたカルト被害者救済活動は、キリスト教外部の宗教から信者を奪還するのみならず、やがてキリスト教内部で起きた不祥事から被害者を「救済する」という内容に重きを置くものへと変わって行った。そうなったのには、信者を無理やり奪われた他宗教から、訴訟などの形で多大な反発があり、なおかつ、世論にも非難の声が上がって、強制的な脱会工作が難しくなり、かつてのような他宗教からの信者の大々的な奪還が困難になって行ったことが反映していると見られる。

その中で、村上氏の活動も、キリスト教外部の「異端」を取り締まることだけでなく、キリスト教内部の「異端」を取り締まることが活動の中心になって行った。

だが、すでに述べた通り、そもそも村上密氏のカルト被害者救済活動は、関係者からの懇願や訴えがあったという他は、一切、公の認可を受けておらず、一体、何の権威に基づいてなされているのか全く分からないという問題を初めから抱えていた。

プロテスタント内部の異端を取り締まるということになれば、本来は、プロテスタント内部の規則に則ってこれを行なうのが当然であるが、プロテスタントの教界には、教団教派や教会の枠組みを超えて、これを外から取り締まることを是認するような規則は存在しない。

村上密氏は自身も牧師であるのだから、自ら属している教団の規則に従うべきであり、その牧師が、教団や教会の規約を踏み超えて、他教会の内政に干渉することは許されざる越権行為に当たる。だが、村上密氏は、同氏の所属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からさえ公の認可を受けておらず、ましてプロテスタント教界全体においては、何の公の承認も与えられてはいない自らの活動を、個人の一存で繰り広げ、何らの公の権限にも基づかないまま、他教会の内政に積極的に積極的に干渉して行くのである。
 
このような越権行為を正当化するために、村上氏は、キリスト教界からの公の認可を受けようと努力するのではなく、むしろ、この世の裁判という強制力を味方につけようとした。
 
同氏は、カルト化の疑いのある牧師や信徒を裁判に訴え、彼らを強制的に司法の場に引き出して来ることにより、キリスト教内部の問題を議論する場を、無理やりキリスト教の外へ持ち出し、それによって、キリスト教内部の規則を飛び越えて、この世の司法による強制力によって自分の活動を正当化しようとした。

村上氏はこうして、自ら教界に属していながら、教界の規則を無視し、むしろ、教界外のこの世の司法という強制力に訴え得ることによって、キリスト教界に強制的にメスを入れることを正当化しようとしたのである。

このことは、同氏の活動が決して聖書に基づく平和な信仰によるものではなく、むしろ、全く聖書に基づかず、信仰を持たないこの世の論理と力に基づいて、キリスト教界全体を監視し、断罪し、これに強制的に懲罰を加える機会を得ようとするものであったことを意味する。その点で、同氏の活動は、ただキリスト教を隠れ蓑にしただけの、最初から聖書に基づかない、信仰によらない活動だったと言えるのである。
 
村上氏が積極的に用いていた裁判という手法を見ても、同氏の活動は、真に弱者の側に立つものではなく、世論や弁護士等この世の有識者や権威者という「強者」の目線に立って、この世の力を武器にして行われるものであったことが分かる。

村上氏による統一教会などからの信者の「救出」活動も、カルトに入信した信者自身の心の要望に基づくのではなく、信者の親族という「社会的強者」(社会からドロップアウトしたカルト信者に比べれば、彼らは強者の立場にあったと言える。また、親族の背後には信仰を持たない世間の思惑があった)の側に立って、強者の利益を確保するためになされたものであったことを思い出す。そこで、カルトに入信せざるを得なかった信者の深刻な事情や、心の必要性は理解されず、信者個人の人格も尊重されない形でその活動は行われ、むろん、家族側からの依頼に基づいて「救出活動」に携わった牧師に、どれほどの謝礼が成功報酬として渡っていたのかは誰にも分からない。
  
こうして同氏は当初、カルトに入信した信者の親族という「強者」の言い分を利用して、信者の人権に対する侵害を正当化し、信者に懺悔と棄教を迫り、異端審問官のように懲罰的に振る舞ったが、次には、キリスト教界の「疑わしい」牧師や信者を司法の場に強制的に引き出して来ることにより、彼らに強制的に懲罰を加え、それによって倫理の低下したキリスト教界そのものを断罪するということをやり始めたのである。

村上氏は、こうして、弱者救済と言いながら、自らの活動が徹底してこの世の弱者ではなく、むしろ強者の側に立って行なわれ、信仰を持つ者ではなく、むしろ、不信者の利益を擁護するために行われ、この世の力を持って、有無を言わせず信者の内心の自由を侵害し、信者の誤りを暴き出し、断罪することで、弱者の声なき声を踏みにじり、黙殺していることには、気づこうともしない。

そして、同氏は教団や教会の規則を踏み越えて、誰からも何の公の権限も与えられていないのに、自らキリスト教界の「異端審問官」であるかのように振る舞い、関係者からの不確かな証言や要請だけに基づいて、自分の一存で始まったに過ぎない自分の非公式な活動が、あたかも世間全体の後押しを受けているかのように見せかけて、さらには自らの「救済活動」が、宗教界全体に必要不可欠な改革であるかのように唱えるのである。



2-6.聖書に基づく信仰による価値基準ではなく、世間の倫理道徳によってキリスト教界を裁き、この世の司法などの強制力を用いて教界を改革しようとする危険

村上氏は、裁判によってキリスト教界に弾圧を加えることを正当化する理由づけとして、キリスト教界が倫理の低下により世間を騒乱した「罪」を挙げる。前述のブログ記事の中で村上氏はこう続ける。

 さて、キリスト教は世間に良いイメージを持たれています。そのイメージが近年カルト化した教会によって低下していることは読者の知るところです。このような問題を正すためには裁判が必要だとする私に対して、沖縄南部牧師会は声明文を過去に発表しました。<中略>キリスト教のイメージが低下したのは牧師と牧師会の倫理観が低下してきたからが私の見解です。次々と牧師の不祥事が明るみになっています。それを擁護する牧師もいます。被害者は二重三重に心に痛みを受けています。このような被害を知っていながら対策室を開設する教団は稀です。いつまでも限られた牧師たちがやっていること事態(ママ)がキリスト教の怠慢です。


ここで同氏が「世間」を引き合いに出していることが注目される。これによって、村上氏が、あたかも「世間(=信仰を持たないこの世の社会)」の観点に立って、「世間」の要望に基づいてそれをかなえるために自らの活動を繰り広げているかのような印象を与えようとしており、キリスト教に批判的な「世論」の高まりをもって、キリスト教界を断罪することの根拠にしようとしている姿勢が伺える。

つまり、同氏は決して信仰に基づいてキリスト教界の改革を唱えているわけではないのである。同氏は、キリスト教界から聖書の真理が失われ、正しい信仰が失われたがゆえに、「神の利益が損なわれている」ことを嘆くのではなく、キリスト教のカルト化が進行し、牧師の「倫理観」(聖書に基づく信仰ではない!)が失われたために、キリスト教のイメージが世間で低下したことが、あるまじき損失であると言うのである。
 
まず同氏が、一体、誰の利益を回復しようとしているのかという点に注意が必要である。同氏が主張するのは、神の利益ではなく、信者の利益でもなく、「世間」の利益である。キリスト教界によって傷つけられた被害者を救済するという名目を取ってはいるものの、実際には、この活動は被害者本人のために行なわれているものではなく、むしろ、被害者を取り巻く「世間」の観点に立ったものであり、「キリスト教が不祥事を起こして犠牲者を出し、世間をお騒がせしたので、キリスト教はその罪を認めて償わなければならない」と言っているに等しい。
 
さらに、どのような観点から、同氏がキリスト教の倫理の低下を罪深いこととして糾弾しているのかにも注意が必要である。村上氏は、キリスト教に不祥事が起きていることを、「聖書の真理から逸れたために、神に対して犯された罪」として、神の利益が損なわれ、神が心を痛めているという文脈で非難し嘆くのではなく、ただキリスト教に倫理の低下が見られたから、また、被害者が苦しめられたから、これを人の目にかなうように改善しなければならないと言うのであり、ここで、同氏がキリスト教の堕落を糾弾する根拠としているのは、聖書ではなく、世間の倫理道徳観、世間の判断基準である。

村上氏がこうしてキリスト教の現状を裁くものさしを、巧みに聖書の価値基準から、この世の価値基準へと移し替えていることに注目する必要がある。同氏は、「世間でのキリスト教界の倫理的イメージの低下」と「心に痛みを受けている被害者」の存在を引き合いに出すことによって、このままでは、キリスト教界が世間に顔向けできない嘆かわしい状態にあって、早急に改革が必要であるかのように唱え、巧みに「世間」をキリスト教界よりも上位に置こうとしているのである。

だが、すでに述べた通り、信仰者が、自らの信仰生活が正しいかどうかの判断を、信仰を持たない「世間」に委ねることなど、もともとナンセンスである。そのようなことは、霊的な事柄と肉的な事柄の順序を覆し、聖書の秩序を転倒させる危険な考え方であることはすでに前項で述べた。
 
キリスト教界に起きることは、ただ聖書の価値基準に従って、信仰によってしか理解することができないにも関わらず、村上氏は、自らの主張が不特定多数の人々からなる「世間」にバックアップされているような印象を醸し出すことにより、「世間」の判断基準を基に、あたかも世間を味方につけているかのように振る舞い、世間という「強者」の立場から、キリスト教界に起きる不祥事を糾弾し、キリスト教のみならず、宗教全体に対しても、これを疑わしいものとして監視し、断罪し、裁く側に立とうとする。聖書に基づく信仰の観点からではなく、「世間」の立場から、宗教全体を監視し、抑圧する必要性を訴えるのである。

こうして、片方では「弱者救済」を唱えながらも、実際には、村上氏は信者という真の「弱者」の立場に立って物事を考えることを決してしない。同氏は一見、自らの活動がキリスト教に基づくものであるかのように偽装してはいるが、実際には、その活動は、この世の強制力を用いたものであり、聖書に基づくものでなく、さらには信教の自由という憲法上に定められた信者の人権をも否定するものであり、信仰によってしか理解し得ない事柄を、信仰を持たない圧倒的多数者という「強者」の論理に委ねることによって信者の内心を踏みにじり、「世間」の価値判断を、聖書に基づく信仰による価値判断の上位に置き、結果的に、この世を信仰よりも上位に置くことを正当化しているのである。
 
このような転倒した理屈を基に、同氏は「世間でのキリスト教のイメージの回復」を目指し、キリスト教界では誰からも公に認可を受けていない、ただ自分の一存だけで始まったカルト被害者救済活動を、司法の強制力によって推し進め、強制的にキリスト教界に介入してメスを入れ、さらには、このような活動がキリスト教界全体に必要不可欠なものであるとみなし、他の牧師もこれを行なうのが当然であるとまで述べるのである。



2-7.強制力を用いて人の心を矯正しようとする村上密氏の活動は、平和な福音伝道によって人々にキリストの救いを宣べ伝え、自主的な回心を促すことを第一とする牧師の本来的な使命から逸脱している

だが、牧師の主たる活動とは、救いを知らない人々の魂をキリストの福音に導くことにあって、しかも、その魂の救いとは、人が自主的に悔い改めてキリストの救いを信じて受けとることによるのであり、裁判等を通してキリスト教界の不祥事を告発することで、信者に無理やり懺悔を促したり、カルトから信者を奪還しようとして強制的に信者を拉致するなどして他宗教に闘いを挑むことにはないことは明らかである。
 
そこで、こうした村上密氏の活動は、福音伝道という牧師の本来的な使命から逸脱しており、牧師の従来の正常な牧会活動のあり方を否定するものであり、しかも、教団や教会に属していながら、キリスト教界内部の規則に則らずに、この世の強制力によって、キリスト教内部の問題解決を目指している点で、他教会の内政への不当な干渉であり、牧師としての越権行為に過ぎないものであると断言できる。

このように、村上氏が、キリスト教の牧師の本来的な牧会活動のあり方から大きく外れて、絶え間ない政治闘争のような争いを己の主たる活動とし、「弱者救済」を旗印に掲げながらも、実際には、弱者ではなく強者、しかも、信仰を持たない「世間」の目線に立って、強者の利益を確保するために、カルト化問題を訴えて来たこと、また、同氏が常にキリスト教界内の規則にのっとらず、この世の司法などの力にものを言わせて、カルト化問題を解決しようとして、越権行為を繰り返して来たその手法は、約十四年前に起きて今日に至るまで続いている鳴尾教会に対する同氏の干渉にも共通して見られる。鳴尾教会の事件は、村上氏による教会内規則を踏み越えた越権行為としての「カルト狩り」や「異端審問」の走りだったとみなすことも可能である。
 



2-8.自己目的化した村上密氏の活動 カルトとの闘いを続行するために、自ら敵を作り出す


 村上氏の越権行為は、同氏の唱えたカルト監視機構という構想についてもあてはまる。

筆者の警告記事の影響もあったのか、村上密氏のカルト監視機構はキリスト教界からの関係者からの反対も大きく、ネガティブなイメージが定着し、今日に至るまで設立されることはなかった。だが、村上氏は自らの構想に宗教界からのお墨付きが得られるまで座して待つようなことはせず、それまでに自身が率いて来た「カルト被害者救済活動」の支持者を集めて、誰からの認可もないままに、早々とインターネット上に自分たちに都合のよい言論空間を作り上げ、そこで「疑わしい」教会の摘発や、「望ましくない」反対者らへの弾劾に乗り出して行った。

村上氏の活動は、ここでも全く非合法、非公認、非公式なものであり、同氏がインターネット上に組織したものは、カルト化問題について、信者を集めて客観的に話し合う場ではなく、むしろ、プロテスタントの信者ではない部外者たちを積極的に動員して、キリスト教界の不祥事を公表し、キリスト教に関するネガティヴな「世論作り」、「空気作り」を行なうための印象操作の場であった。

明らかに村上氏の意向を受けて、村上氏にとって都合の良い記事を発表するために、村上密氏のカルト被害者救済活動を支持するカトリックの信者とも言われる杉本徳久氏を中心に、そのほとんどが烏合の衆のような身元不明・匿名のネットユーザーから成るインターネット版カルト監視機構と呼ぶべき集団が出来た。そして、こうした烏合の衆のような人々が集まって、何の権限にも基づかず、あたかも世間代表、識者代表のような仮面をつけて、インターネット上でキリスト教界の不祥事を次々告発し、関係者へのバッシングを行ない、キリスト教界に関するネガティヴなイメージづくりに日夜、積極的に励んだのである。

こうした事実を振り返るならば、村上密氏の活動は、一種のマッチポンプと呼ぶべきものであったことが分かる。片方では、杉本徳久氏のような支持者を積極的に利用して、キリスト教界のイメージダウンを狙う弾劾記事を次々発表させた上で、「このようなひどい出来事が起きて世間を騒がせているのだから、キリスト教界の倫理低下とカルト化問題を解決するために、我々は行動を起こさねばならない」と提唱して、自分がカルト問題の有識者として登場するのである。だが、誰よりもキリスト教界のイメージダウンをもたらしたのは、キリスト教界の不祥事を暴くことだけを生業として活動して来た村上密氏や杉本徳久氏のような人々なのである。
 
村上氏がキリスト教界の不祥事にインターネット上で警鐘を鳴らすために利用したのが、そのほとんどが信仰を持たない身元も定かでない部外者でしかないネットユーザーであったことを見ても、同氏の目的が、聖書に基づく信仰についての健全な議論ではなく、まずはキリスト教界を糾弾することを歓迎し、是認するような「世論作り」であったことが分かる。同氏は、キリスト教に関するネガティヴな批判を自身のブログや支持者のブログを通して積極的に発表した上で、自分はこうした「世論」の後押しを受けて、悪しき問題の是正のために行動しているのであり、それゆえ、自分の活動は社会の利益にかなったことなのだという印象を自ら作り出そうとしたのである。

確かに、そのようにして発表された中には、キリスト教界に実際に起きていた不祥事もあったものと思うが、彼らの活動が、絶え間なく「カルトの疑いのある教会や牧師」といった仮想敵を必要とする性質上、その活動は、次第に、捏造してでも良いから、キリスト教界に不祥事を作り出そうと、事実から遠くかけ離れた自作自演劇のようなものとなって行った。

信仰の問題についての議論を、教義さえも満足に知らない不信者のネットユーザーらの手に委ねれば、何が起きるかは誰でも容易に想像がつく。身元も不確かなネットユーザーを盛んに利用したネット上の議論では、暗闇の中で、真偽のほども分からない質の悪い情報が飛び交い、自称「被害者」や、なりすましも現れて、行き過ぎたバッシングが横行し、事実から遠くかけ離れた「魔女狩り」としか言えない荒唐無稽な「異端審問」が過激化して行った。

こうして、村上氏の意向に沿って、村上氏に都合の良い言説や批判を並べる無数の身元不明のネットユーザーから成る、インターネット版カルト監視機構とでも呼ぶべき、ネット暴民のような非合法の集団が暴走し、杉本氏や、村上氏らの活動を理解しない人々や、それに対する反対者を吊し上げる目的で、魔女狩りのようなバッシングが行われた。「キリスト教界のカルト化問題の解決を目指す」とする彼らの目的とは裏腹に、その活動によっては、カルト化問題は何ら解決されるどころか、より一層のひどい混乱がキリスト教界にもたらされただけであったが、それでも、その行き過ぎたバッシングと混乱は、キリスト教界のイメージダウンという世論作りを行なう上では、彼らの目的にかなったものであり、織り込み済みの結果であったと見られる。何しろ、キリスト教界の疑わしい事件が次々発表されて、カルト化の疑いのある教会や牧師や信者という仮想敵が増え、キリスト教界の印象が悪くなればなるほど、カルト救済活動の指導者らの出番は増えるからである。

こうして見ると、村上氏が目指していたのは、初めから、きちんと裏づけの取れた真実の情報だけを発表して、誤った教えに警戒を呼びかけ、キリスト教界の信者らを聖書に基づく正しい信仰生活に立ち戻らせることにはなく、むしろ、暴力的とも言える威嚇的なバッシングによって、キリスト教界に起きる不祥事を次々と暴くことにより、キリスト教界そのもののイメージを低下させ、信者らを怯えさせて自由な議論を封じ込め、インターネット世論を占領し、教界全体に関する世論を自らの手中におさめて情報統制した上で、自分自身はあたかも腐敗したキリスト教界を是正する正義の味方や救済者のように登場し、そのような自己イメージを定着させていくことにあったものと見られる。

つまり、ネット上でのこうした活動はみな、村上氏とその活動の支持者らがインターネットの世論を独占して信者らを委縮させて情報統制し、キリスト教界のイメージダウンを成し遂げた上で、自分たちの活動を正当化し、信教の自由を取り締まり、キリスト教界に懲罰を加えるために、キリスト教界内の権力を掌握する目的で行われた威嚇行為としての自己流の「異端審問」であり、「恐怖政治」だったのである。

村上氏がインターネット上の記事や、裁判などの場面で、支持者を利用して行ってきた自己流の「異端審問」は、それ自体が、キリスト教界に対する威嚇であり、信者を黙らせるための恫喝であり、同時に、信者の自由な信仰生活の否定であり、同氏が教界内権力を掌握するための手段であったと見るのがふさわしい。
 
村上密氏のカルト退治は、自らの活動の需要がなくならないために、ついには自ら積極的に敵を作り出すというところまで行き着いた。これでは到底、同氏はザビエルの「負の」活動を批判できる立場にはないと言える。



2-9.アンチカルトはカルトと同一である 政敵と同化した村上密氏の活動
 
結論を述べると、上記したように、国際勝共連合の主張に危惧されたのと全く同じことが、村上氏の活動にも実際に起こったのである。国際勝共連合の提唱していたスパイ防止法の制定や、核武装が肯定されれば、「共産主義の脅威に立ち向かう」ことを口実として、やがて国家の武装それ自体が目的となり、飽くことない権力への渇望が生まれ、その結果、異常に肥大した軍部や秘密警察による諜報活動が生まれ、やがてはそれが自国民への容赦のない弾圧につながって行く危険性があると危惧されたのと全く同じように、「カルトに立ち向かう」ことを旗印に掲げた村上密氏の活動は、いつの間にか、その活動自体が自己目的化し、無実の信者を貶めてでも、カルトという政敵をでっちあげることによって、カルトとの戦いを終わりなきものとし、それによって同氏が無限に手柄を築き上げるための土壌を作ることが目的となった。キリスト教界のイメージを貶めて、この問題を是正するために、キリスト教を監視し、取り締まる必要があると唱えることにより、同氏は、教界を超える権力を掌握するための手段を自ら作り出して行ったのである。

「弱者救済」や「カルト化問題の解決」といった美名は、実際には、同氏による教界内権力掌握の口実として利用されたに過ぎない。

こうして、記事「行き詰まりの打開は方策でなく、心の改革が根本である」にも書いたように、魔物と闘っている者が、魔物の手法を取り入れることにより、自分自身が魔物と一体化するという現象が起きたのである。

魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう気をつけねばならない。深淵をのぞき込むとき、その深淵もこちらを見つめているものである。 「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた」


2-10.キリスト教界で回復されなければならないのは、人間の利益ではなく、神の利益である

確かに、キリスト教界の不祥事それ自体はあってはならないことであるにせよ、果たして、その是正を訴えるにあたり、一体、何を損失としてとらえ、誰の利益を確保する観点から活動するのかという点は、極めて重要である。
 
村上密氏の活動に一貫して見られるのは、同氏が神の利益を回復すること、信者の利益を確保することではなく、むしろ、不信者の利益を確保するために、不信者の目線(世間の目線)に立って、不信者の意見を代弁して、信者の信教の自由そのものを否定しながら活動して来たという特徴である。

同氏の理屈によると、キリスト教界のカルト化問題が解決されなくてはならない第一の理由は、キリスト教界が聖書から逸れたために、真理が損なわれ、神の利益が損なわれ、神が悲しんでおられるためではなく、むしろ、カルト化問題の犠牲になったゆえに、人間に過ぎない被害者たちの利益が損なわれ、被害者が悲しんでいるためであり、さらにはキリスト教界の倫理低下によって、信仰を持たない世間でキリスト教のイメージが低下し、信者が不信者(世間)の恥となり、世間に迷惑をかけているからなのである。

このことを見れば、村上氏が信仰そのものに対してどれほど理解のない態度を取っており、神の願いという観点から物事を見ず、人間の利益の観点、しかも、不信者の利益を中心に物事を見ているかがよく分かる。同氏がいかに聖書の価値観とは相いれない、この世の価値判断を基準として、常に問題解決を行なおうとして来たかその様子がよく理解できるのである。

つまり、村上氏は、一人の信仰者として、人の内心の自由で自主的な信仰生活を尊重しながら、聖書の真理の回復、神の利益の回復を目指しているのではなく、キリスト教を単なる手段として利用しながら、その実、信仰を持たず、神を知らない生まれながらの人間の利益を代弁して、不信者の利益の回復を目指しているのである。これはクリスチャンの自然なものの考え方ではない。

すでに前項でも確認した通り、信仰によらない、生まれながらの人間の道徳観や正義感は、どれほど人間の目に良いものに見えても、むしろ、聖書の唱える神の義には悪質に逆らうものなのであり、そのような方法で、人間社会の抱える問題を解決しようと試みれば、より問題を深化させるだけである。そのことは、キリスト者であれば誰しも理解していることである。
  
そればかりか、生まれながらの人間が、キリストの十字架の贖いによらず、生まれながらの知恵によって他者を救済したり、あるいは自己を正義として、神に代わって他者を裁こうとすることは、自ら神となって全宗教に君臨することと同じであるから、それは反キリストの悪魔的欲望でしかない。このような方法を用いれば、キリスト教界にますます問題を引き起こすだけでなく、やがてはキリストへの信仰そのものに敵対することになり、聖書の神そのものに敵対することにならざるを得ない。
  
村上氏の聖書に基づかない、信仰によらない活動は、結局のところ、宗教界全体を敵に回すものであり、ひいては、信仰そのもの、神そのものを仮想敵としていると言って過言ではない。村上氏が疑惑の眼差しを向け、取り締まり、撲滅しようとしているのは、あれやこれやのカルトではなく、もはや神を信じる信仰そのものなのである。

<続く>


悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構」―村上密牧師の非聖書的で危険な活動

 
大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会の私物化問題について~


 1.悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構」
~自らに与えられた権限の範囲を超えて、全キリスト教会と宗教界に君臨してこれに干渉し支配することを願う村上密牧師~

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗