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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます

本日は雨であったが、午後に外出先で、当ブログが工作員の襲来に見舞われているのを知って投稿したところ、いつものごとく、すぐに雨は止んだ。それを見て、次の御言葉を思い出した。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

 筆者が御国の働き人である以上、日々、主の御前で果たさなければならない義務がある。ただ恐れず勇敢であるだけでなく、日々、悪魔に立ち向かわなければならないのである。だが、そうして、キリスト者がキリスト者としての分を果たしさえすれば、主はすべてのことについて、信者を守って下さる。そのことをいつも様々な出来事を通して感じさせられる。

 2012年、KFCのDr.Lukeが「今年は破滅と制御不能の年になる」と神からお告げを受けたと宣言し、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド信者である鵜川貴範氏によってこの団体がかき回され、「真に忠実な信徒以外はみなふるい分けられていなくなるだろう」などと、メッセージで主張するようになり、人数の激減を高らかに宣言し、いよいよ異常になって来たと分かった頃、筆者は、以下の聖書の御言葉をブログに引用した。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことがないためです。人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。」(ヨハネ16:1-3)

 筆者はこの御言葉を通して、この会堂から自分が追い出されることを予め示されて分かっていた。会堂を占拠した人々が間違っており、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド信者が、ルーク氏を裏切るであろうことも分かっていた。なのになぜそこに残ったのか。友人は行くべきではないと引き留めた。だが、筆者は、すべてを自分の目で確認したいとその当時は思っていた。そして、自分がそこにいたことが無駄ではなかったと考えている。

 筆者は自分の目で多くの「信者」が御言葉を拒んで偽りの福音に落ち、堕落して行く様子を見て来た。これは恐ろしいことであり、幾度も警告は発したが、止めようもなかった。だが、彼らに向かって語った警告が無駄であったとは思わない。神は必ずそういう人を用意されるものと思う。それでも、これを退けて御言葉を否んだ時、人は本当の破滅に至るのである。そこで、これらの人々を見て、筆者はより一層、御言葉に立つことの重要性を噛みしめるのみである。 

 キリスト者の道は、絶えざる「エクソダス」であり、「分離」である。それは決してきらびやかな歴史の晴れ舞台の真ん中に立って、我こそは歴史の主役であり、神に選ばれた者であると宣言するような生き様からはほど遠いものである。

 キリスト者は確かに神に選ばれている。それは人間の側からの努力によるのではない。だが、キリスト者の側でも果たさなければならない義務がある。それは常に御言葉の内にとどまり、十字架の死にとどまることである。ゴルゴタが我々の家であり、十字架によってこの世に対して死んでいるがゆえに、この世の名誉、力、栄光と、キリスト者は一線を画しているのである。十字架の死がないのに、復活があろうはずもない。

 KFCという団体を知ったばかりの頃は、筆者には、彼らは「高み」にいるように見え、自分もそこへ行かねばならないかのような焦燥感を覚えたこともあった。(それはもうずっとずっと前の話である)。

 しかし、長い間の観察と接触を通して、こうしてきらびやかな舞台に立ち、派手なパフォーマンスで人目を引きつけ、あたかも歴史の頂点に立っているがごとくに饒舌に自慢話を繰り広げ、人前に脚光を浴びて賞賛され、不器用な人々を哀れんで上から見下しているような人々に、内実があったためしはない、ということが心底、よく理解できるのである。

 内実がない空っぽの器であるくらいであればまだ良いか、そういうものはことごとく偽物なのである。ゴルゴタの十字架における自己の死――主の御名のゆえに人がこうむるあらゆる苦難――を何一つ経過することなく、それを他者にばかり語って聞かせながら、自分には適用しようともせず、常に己を一番として弱者を踏みしだき、利用しながら勝ち誇っているような人物は、ことごとく詐欺師なのである。

それは、当ブログで再三に渡り、記事で示したように、弱者救済を唱えながら、その実、強者にばかり寄り添い、自分に従わない弱者には徹底的に制裁を加えて来た村上密氏や杉本徳久氏のようなカルト被害者救済活動の指導者たちにも言えることであるが、十字架における自己の死について知りながら、これを自分だけには適用しようとしない全ての人々にもあてはまるのである。

 KFCをよく観察すれば、彼らが幸せそうに見えるのはほんのうわべだけで、実際には水面下で絶えず分裂といがみあいと不幸に見舞われているのがすぐに分かるであろう。

 だから、今は人の目に賞賛され、人の弱みに巧みにつけ込みながら、教師然と上から目線で他者に向かって道を説き、歴史の晴れ舞台に立って脚光を浴びているように見える全ての物事に意味がないということがよく分かるのである。また、こうしたものに浅はかに拍手を送る愚かな人々の末路がどういうものであるかも。

 地味で目立たないことや、不器用であることは、こういう見かけ倒しの偽りから身を守ってくれる防護服である。キリスト者は外見が控えめで目立たないことが多いが、それは神がわざと彼らを隠されているのだと筆者は確信している。

 目立ちたがり屋で、正義の味方や、弱者の救済者・仲裁者をきどりたがる饒舌な人間は、ことごとく本質は詐欺師であるから、そういう人間の道連れになっても何の意味もない。彼らと共に歩んでいく先に待つものは滅びでしかない。
 
 伊勢志摩サミットから除外されたロシアではないが、筆者は自分がそうした恐ろしい呪われた「晴れ舞台」の共犯とされなかったことを神に重ねて感謝すべきであると考えている。

 また、彼らの姿を見ながら、つくづく、御言葉に服さないことは恐ろしいと考えるのである。俺は勝者だと自ら勝ち誇っている人間、自分はやもめでも孤児でもないと勝ち誇って、自分よりも弱く孤独で寄る辺ない者たちを踏みしだき、その悲しみと犠牲をダシにして手柄を立てているような人間は、この世でどんなに勝者に見えても、神の御前では、誰よりも敗者であり、やもめであり、孤児なのである。何が本当のリアリティかと言えば、神の御前での人間の姿である。それがやがて誰も否定できない現実となって現れることであろう。

「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。
 見なさい。あなたがたの畑の借り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。
 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。」(ヤコブ5:1-6)
 
この世でいくら大所帯を構えて孤独を知らずとも、真の夫であるキリストに結びつかない霊的「やもめ」であっては何の意味もない。この世の幸福をやたら見せびらかし人数を集めることで集合体となって自分の優位を誇りたがる人間が、なぜそうするかと言えば、彼らには霊の財産が何もないからであり、本当は自分が極めて惨めで裸で孤独であり、この世の朽ちゆくものの他に誇るものが何もないから、つまり、キリストを内にいただいていないから――の一言に尽きる。

追記: ちなみに、以前に書いた記事「家庭は主からの贈り物(2)」は、家庭を賛美する文脈で書かれたものではなく、すでに家庭を持っているにも関わらず、異端の宗教のために家庭が破壊されたまま、これを放置している兄弟姉妹に向けての警告の意味を込めて筆者が書いたものである。

 
特に、我が子が異端の教えの痛ましい犠牲になって非業の死を遂げたり、深刻な病に陥っているにも関わらず、子供を置いて宗教活動に邁進している人々の冷酷無慈悲さ・無責任さに対する非難と警告の意味を込めたものである。(詳細を書かなかったのは個人情報に触れないために他ならない。)
 
しかしながら、これとは正反対の文脈で、上記の標題のような言葉を用いて、筆者の前で自分の家庭をあたかも「信仰の賜物」であるかのように誇ろうとする信者は、これまで数多く現れて来たが、じっくり観察して見ると、彼らの家庭は、あらゆる点で破綻に瀕していることが分かるのである

 
たとえば、親のわがままのために子供が育児放棄されていたり。親子がほぼ完全に仲たがいして長期に渡り断絶していたり。子供が自殺を遂げていたり。あるいは、親の闘病生活を支えるために子供が過酷な労働をしていたり。未成年の子供を働かせながら、親が宗教活動に没入していたり。夫婦が互いに隠しごとをし合って、一方が他の信者と霊的姦淫に陥っていたり。そうでなければ、幸福な家庭と言いながら、借金返済に追われて争いが絶えなかったり。

 こんな風に、彼らが誇る「信仰の賜物としての幸福な家庭」なるものが、現実には、半ば破壊されかかっている様子、そしてこれらの人々が家庭に対する義務をきちんと果たしていないためにその数々の問題が起きている様子が見えて来るのである。

 筆者は、このような無責任な「信者」たちが、まるで信仰の手柄であるかのように常に繰り広げる己が家庭の自慢話と、その破滅に瀕したお寒い現状には正直、心から飽き飽きし、うんざりして来た。そういう人々は、まずは自分の家庭に対する義務をきちんと果たしてから他人にその自慢話をするが良かろう。まことに、これもまた、人が口先だけで誇っているものには、全く内実がない、ということをよく示す事例である。)
 
ルーク氏の名言の一つに、「あえて事を難しくせよ」という言葉があった。その鉄則を今でも私は守っている。神がどれほど強い方で、全力で信じる者を守って下さるかを証明するために、筆者はあえて人数に頼らないのである。この世の力にも頼らず、能力にも頼らない。大体、権勢や能力によって勝つのでは何の面白みもありはしないではないか。

ゴリアテに向き合ったダビデのように、石つぶて一つしか武器を持たない若造に過ぎないのに勝利するからこそ、面白い。ゴリアテが強ければ強いほどその勝利は奇跡であり、神が介在されたことが明白になるわけである。

そこで、エリヤのように、祭壇に幾度も水をかけ、神がついておられなければ、到底、火がつかず、勝利もあり得ない状況を自ら作る。そうしないことには、神だけが栄光をお受けになるということがないからである。

そうして、この世のどんな目に見えるものにも頼らず、見えない神だけに頼り、ただ御言葉のみを武器として、自分よりもはるかに強そうに見える無数の者どもの前に勇敢に立つ、それが、キリスト者の生き様である。

さわやか読者は相変わらず、この世の目に見えるものに信者の関心を引きつけるべく、労苦しているようであるが、それはことごとく徒労に終わるであろう。

キリスト者が生きているのは、もはや自分自身のためではなく、私を愛し、私のために死んで下さった方の栄光のため、神の栄光のためである。私を守る方は天にも地にも神のほかには決していないことを、生きて世に証明するためである。

そこで、神以外のどんなものも、誇るべきものは私にはなく、他のどんなものに頼って勝利を得たわけでもないと証明するために、あえてゴルゴタにとどまり、孤独や孤立無援や自ら貧しさを選んでいるかのような、困難な道を取るのである。主の民が荒野で訓練されたように、神の軍隊において訓練される道を取るのである。

しかし、このようにして、キリストを待ち望むために、世の富と虚栄を拒み、あえてゴルゴタにとどまった花嫁をあざ笑った人々には、いずれ恐ろしい報いが降りかかるであろう。なぜなら、ただ主のみを待ち望むという貞潔さから来る孤独と、寄留者としてのつつましい身分こそ、エクレシアに不可欠な要素だからである。この世ですでに望むものを得て、地上に居場所を構え、幸福になって満ち足りてしまっている人々は、エクレシアではなく、バビロンなのである。
  
よくよく言っておく、エクレシアの貧しさの前で己の豊かさを誇った人々がこの先どうなって行くのかは、非常に面白い参考事例であると。エクレシアとは、この場合、私のことでもあり、同時に、御言葉の飢饉に見舞われている現在のキリスト教界のことでもある。現実に目に見える教会には幾多の問題があるかも知れないが、教会を告発することにより、その背後にあるエクレシアを否定した時、その人は神の敵となるのである。キリスト教界を告発することをライフワークとしている人々とそれに賛同する人間にはゆめ関わらないことである。
 
「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。
 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:17-18)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)
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キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。
一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(Ⅱコリント5:14-15)

さて、2009年10月にこちらに来て当時の記事を当ブログにも転載するため、少し読み返している。すると、あの時、何が起きていたのかが明確に分かって来た。

キリストと共なる自己の死から、復活の命、そして昇天へと…。
これは私という一人のキリスト者の中で当時、まざまざとしたリアリティとして進行していた過程である。(むろん、今もやんだわけではないが、しばらくこのテーマを離れていた。)

これが極めて重要なことなので、当時の記事はこのブログ等にもすべて転載して行く。

さらに、非常に重大な事実として、私を含め、当時の兄弟姉妹の間では、KFCの偽りも、すでに明確に見えていたことが挙げられる。たとえば、「霊の人が直面する危険」などは当時、魂的な体験に欺かれて生きる人々に対する兄弟姉妹の警告を受けて書かれたものである。

御言葉は、他人に向かってどれほど語っても、自分自身に適用されていなければ意味を持たない。たとえば、百万語費やして、キリストの十字架における死と復活について懇切丁寧な解説を述べることはできるかも知れない。だが、その人が内側でそれをリアリティとして持っておらず、その経験を求めてさえもいなければ、書いている人が、誰よりも一層、御言葉の現実から遠く離れて行くこともありうる。
 
暗闇の勢力が事件を起こしたのは、魂的な体験に欺かれている人物の偽りが明るみに出されると困るため、および、一人のキリスト者の内側で十字架の経験がより深くなることを妨げる目的があったものと見られる。幾度も語って来たように、KFCとカルト被害者救済活動は霊的には同じ運動だからである。誤りと分かっているものへ引き戻し、信者を拘束することが、彼らの目的なのである。
 
当時、我々の交わりはKFCの偽りを見抜いた上で拒んでいたため、何が起きようとも、KFCに戻って行ったり、触する必要性はまるでなかった。

だが、我々がまだその重要性を十分に知っていなかった事柄があるとすれば、それは集合体としてのエクレシアの前進に注目するよりも、一人のキリスト者の内側での作り変えの事実の重要性をより重んじるべきだという点である。

つまり、エクレシアの前進はあくまで一人一人の個人がどれほど主の御前で時を過ごし、御言葉の実際を知ったかによるのであって、どれほど信者が頻繁に集まって語らったかにはよらない。一人一人の内側での変革がなければ、エクレシアの前進はない。
 
当時の私は、環境条件が変わって、様々な困難が主の不思議な御業によって取り除かれ、私自身が生き生きして解放されたことを喜んでいたし、当時、私を取り巻く兄弟姉妹も、その解放を、あたかも信仰の前進のごとく評価していた。

だが、事の本質はそれとはもう少し異なるところにあった。むろん、神が信者にもたらされる生き生きとした解放のわざが無益だというのではない。それも神の栄光となる出来事である。だが、あくまで事の本質は現象よりももっと深い所に存在しているのである。

真の信仰の前進としての霊的変化は、主の御前で過ごす個人の内側で、どれほど十字架の働きがリアリティとして深く進行したかによる。世界の片隅で忘れられたような取るに足りないように見える信者であっても、その一人の内側でのキリストに似た者となるための作り変えには、天地を揺るがすほどのはかりしれない重大な意義がある。
 
個人の内側での十字架の働きは、一連の外側の出来事と連動して起こるとはいえ、より内側深くで起きる霊的変化であり、しかも、そうした個人的な霊的造り変えこそ、実は、環境状況にもはかりしれない激変をもたらすのである。

実のところ、環境を変える力は、個人の奮闘によるのでも、努力によるのでもない。すでに幾度も述べた通り、環境を治めることは、キリスト者の使命であり、それはキリストと信者との共同の霊的創造である。

だが、環境を治め、御旨を地に引き下ろす鍵となるのは、キリスト者がいかに御言葉の内にとどまり、御言葉を守り、十字架の死と復活の経験をより深く自分のものとして受け取り、これがその人の内側で確固たる実際となったかによる。

つまり、御言葉と信者との一体化の度合いによるのである。

そして、十字架の死と復活の体験を、主ご自身、つまり、主の人格と切り離して単なる個人体験として受け取ることはできない。それは神ご自身の人格と深く結びついており、いかに信者が、主なる神を神として仰いで生きたかによって、その人の内側の作り変えも進行して行くのである。

秘訣は、人に頼らないことであろう。何事についても、神ご自身に尋ね、聞くことであろう。人に頼れば頼った分だけ、神の栄光が減って行く。神は御言葉の実際を知りたいと願う人には快く教えて下さる。


追記:
すべての異端の本質的な同一性は、生まれながらの人間に神に至る要素が含まれていると語ることにある。Dr.Lukeの言説の誤りも、同氏が生まれながらの人の体の堕落という問題に向き合わなかった点にある。
同氏によると、体はそのものに決定的な堕落が含まれているのではなく、体は罪の道具として利用することもできるが、神の器として用いることもできるため、「中立」なのだそうである。

しかし、聖書の御言葉を見て行くと、霊・魂・体の中で、魂及び体は人の堕落した「肉」の機能のうちに含まれ、最も甚だしく堕落しているものが体であることが分かる。たとえば、「目の肉・肉の欲・持ち物の誇り」などの感覚的な享楽はすべて主として体に働く欲望である。

そこで、人の体に対しては、「霊によって体の働きを殺す」ことが必要となる。すなわち、アダムに対する十字架の死の一環として、体も魂同様に古き人の機能として十字架において死に渡される必要があり、この御言葉による霊的死を受け入れることなくして、体が中立になることは決してない。

さらに、Dr.Lukeは、アダムの命に属する古き人は「大脳の古い働きによる」ものとして、キリストの御霊によって生きる新しい人の機能も、脳内にその基礎があるとした。古き人が刷新されないのは、御言葉を守らないからではなく、信者が古い脳内の働きに依存して生きているためだそうである。そうなると、結局、神の霊に属する事柄も、すべて堕落した身体の機能の一部であるということになる。

このような説だと、人は神の側からの介入なくして、能の働きを自ら刷新することにより、キリストの御霊の機能を再現し、自らキリストに似た者とされることが可能ということになる。それは神に至る道が本質的に人の生まれながらの体の中に含まれているという結論を生み、結局は進化論的な説へと行き着く。

ちなみに、グノーシス主義においては、霊(本来的に神に至る要素を「欠片」として持っているとされる)を肉体の牢獄から解放することが最終的な自由とみなされるので、最後にはこの教えの信者は自己破壊へ行き着く。

(追記の追記: グノーシス主義においても、一般的に、魂及び肉体は堕落したものとみなされているが、この思想においては、人の「霊」のうちに本来的に神に至る「聖なる要素」が含まれているとされるため、その「霊」を肉体及び魂から解放することが、真の解放であるとみなされる。そのようにして、「霊」を閉じ込めている堕落した肉体を破壊することが、霊が天界へ回帰する道だとされるのである。「体」の堕落そのものを認めない思想とは多少、異なってはいるものの、人の自己の内に本来的に神に回帰する道があると唱える点は同じである。)

こうして、グノーシス主義は最終的には自己破壊へ行き着くのであるが、KFCがやたらイスラエルの受難と自らを重ね合わせていることにも注意が必要である(イスラエルは地上で最もならず者国家として知られている)。三島由紀夫の最期も含め、あたかもキリストにある自由と豊かさを高らかに誇っているようでありながら、彼らが常に悲劇へ共感、傾倒し、そのメッセージ内容に常に悲劇の通奏低音が鳴り響いている点に注意が必要である。

このような傾向から察するに、体を「中立」とみなす全ての思想(体の堕落を認めない思想は、体を「聖」としているのと同じであり、その「聖なる要素」が「霊」にあるとするにせよ、「脳」(体)にあるとするにせよ、人間の古き自己の決定的な堕落を完全に認めず、神に至る自己回復の道が人間の内に含まれているかのようにみなす思想は、すべて同じである)は、最後には、みな自己破壊へ至る。

グノーシス主義思想はすべての点において秩序転倒である。神を信じない者でも、体の欲望が、魂(理性や常識等、人の思考)によって治められなければならないことは否定しないであろう。聖書は、体は魂の下に治められなければならず、魂は霊の配下になければならないことを教える。

ところが、グノーシス主義は人の内側の秩序をすべて逆転し、最も堕落したものを最も崇高なものとして掲げ、体を抑圧しているすべての枷(魂も含む)を打ち砕いて、欲望を解禁することを目指すので、この教えの信奉者は理性を失って欲望に走り、最終的には、自らの体の欲望を解放するために、自分を殺すというところまで行き着くのである。彼らが解放しようとしているのは「霊」ではない。己の欲望なのである。

事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれてい たのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。

昨日は気持ちの良い快晴であったが、一昨日は雨。雨が降ると、いつも主との秘密の語らいが始まる。「主よ、本当に共にいて下さいますか?」
 
不思議なことに、これまで何度も何度も、私は主に雨を止めていただいたことがある。別に雨そのものが嫌いなわけではないが、通勤時には、バイクで走行するには雨は危険だった。

「神様、あと15分で家を出ます。」出発の時間が近づくに連れて、時計に目をやりながら、ちらりと外を見る。まだ随分、降っている。当分、止みそうにもない。 ところが、出発時刻になると、あれほど激しかった雨音がピタリと止んでいる。私は傘もささずに外にでる。そんなことが幾度もあった。

昨日もそうだった。明け方から激しかった雨が、車まで歩く頃にはもうほとんど止んでいる。傘なしで外へ出ても問題ない。しかし、走行中にまた降り出す。だが、帰り道には止んでいる。予報では午後の降水確率が低かったから不思議ではないと思うが、停車して食事休憩すると、ガラス窓越しに外ではまた激しく降り出している。ああ、あの降り方だと、当分、やみそうにもないなとがっかりする。やれやれ、傘を置いて来た。油断しすぎたかな。主よ、これ以上は、ダメでしょうか…? だが、コーヒーを飲みほして、外に出るとまた不思議にピタリと止んでいる。 やはり傘なしで帰宅する。

こんな事柄を通してもいつも思うのだ、主よ、あなたはやはり生きておられますね。あなたは確かに生きておられ、信じる者と共におられ、いつも守って下さるんですね。あなたは天を支えておられ、洪水のように雨を降らせることも、止めて下さることもできる。御名によって名付けられる民のために、あなたは日々、特別なはからいを示して下さるんですね。

しかし、これは天にも地にも主と私以外には誰も知らない秘密で、あまりにもありふれた日常生活のワンシーン。語ってみたところで、興味を持つ人もなく、感動する人も特にいまい。

だが、こんな風に、日常生活の些細な事柄に至るまで、すべてが主の御手にあることを常に感じるのだ。自然現象だけでない。物流や、人々の行動や、たとえば、ものの配達時間、電話のかかるタイミング、あるいはお金の管理なども、何もかも、すべて御手の中に不思議な形で預けられている。人の思いの至らないところ、コントロールできないところまで、主の統治が見事に及んでいることに実に小さな様々な出来事を通して気づかされるのだ。

だから、少し思いを馳せれば、信仰者のための主の優しい計らいを、いつでもどこにでも感じることができる。朝から晩まで懸命に働き、あるいは、人の思惑を気にして、常にスケジュールが満載で自由時間の取れないような時には、主の御業を見ることもなく、仮に何かが起きたとしても、気づくことさえできない。だが、神に心の照準を合わせ、主と共に人知れず信仰の歩みを進めて行くときには、何から何に至るまで、すべて主が共におられることを不思議な形で実感するのだ。

それは神の臨在を見たとか、幻を見たとか、そういう非凡でダイナミックな現象ではなく、日常生活の全く取るに足らないごくごく小さなことに至るまで、すべてにおいて御手の采配を見るのだ。そして、その小さな優しさがたとえようもなく嬉しいのである。

ところで、植草一秀氏のブログに次の言葉があった、「2009年に開かれた光り輝く展望を粉々に打ち砕いたのは…

今は政治情勢の分析は脇に置き、氏の優れた文脈からも離れ、ただ「2009年に開かれた光り輝く展望」という言葉だけにこだわりたい。これは信仰者にとっても、胸にグサリと突き刺さる言葉だからだ。

2009年、我々キリスト者には、未だかつてない光輝く展望が見えていた。誰もまだ見たことのない、達したことのない新しい境地である。組織の不正と腐敗と、人間の指導者による搾取と偽りと、汚れた数々の行ない、人による支配や虐げに疲れ果て、これらの悪に背を向けて、もはや人間の栄光を打ち立てるためでなく、ただ神だけに忠実であり、真理に生き、神に栄光を帰するために、真の自立と豊かさとを目指して、歩き始めた一群がいた。

あの時、我々の目の前にまさに開かれんとしていた光景、あたかもすぐ目の前に手の先にあるように思われ、多くの人々が心の底から求めていた自由なエクレシア、組織にとらわれず、人間の指導者によらず、神によって直接養われ、神によってすべての必要を満たしていただき、神の御心を満足させるエクレシアの展望は、どこへ行ったのであろうか。なぜ我々はその光輝く展望へまっすぐ一直線に進めなかったのか。

あの人、この人に原因を見いだそうとすることはもうやめよう。振り返る価値もないような、嘘と裏切りと密告その他その他の人間の腐敗堕落した行いのせいで起きた惨事はどうでもいい。そんなことには言及の価値もなく、どんなに「戦犯」を探し出し、その人間を処罰してみたところで、それで目的が達成されるわけでもない。

それらの想像を乞えるほどの狡猾な悪事に対して免疫がなかった信者の側の無防備さはまだ無罪放免されるとして、その経験不足を除いても、いずれにせよ、我々には何かが足りなかったのである。神に対する純粋さ、貞潔さ、何があってもすべての試練を潜り抜けて目的に達するまでは絶対にあきらめないという揺るぎない覚悟、神への確固たる信頼、そして用心が足りなかったのであろうか?

エジプトで40年間、荒野をさまよって民のことを思う。本当は、そんな年月を費やさずとも、約束の地にたどり着くことは可能だったのだ。信仰さえあれば、無駄に荒地をさまよわず、民は一直線に、乳と蜜の流れる地に入っていたはずなのだ。あのような形で、日々、試される必要もなかった。なぜそんなに時間がかかったのか。その間、罪と背信によってどれだけ多くの民が倒れたか。不品行があった。盗みがあった。敵を見て怖じけづいて逃走した人々がいた。金の子牛によろめいた人々がいた。裏切りもあった。指導者でさえついにはその民を投げ出そうとして、目的地の一歩手前で、そこに達しないまま死んだ。それはすべて民の不従順のゆえであった。人間側に、常に炉を通るようにして火で洗練されねばならない何かがあったのだ。

だが、仮に時間がかかったとしても、一度現れた展望が消えたわけではない。目的地がなくなったわけでもない。主の民が見捨てられたわけでもない。彼らは、実際に地上にいる間にそこに達したか達しなかったかということによらず、確かに目指す都を見ていたのである。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれてい たのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル 11:13-16)

人間の側は命が限られているので、常に性急であるが、神は気長である。そして、神が目的を定められ、その民を選び出された以上、神は勝利されるであろう。

最近も、よく緑のビルのそばを通過する。以前にあった選挙事務所もとうになくなり、クリーニング屋の大きな看板が掲げられ、以前よりも、ますます雑然としているように見受けられる。以前は地理に詳しくなかったので、210円の電車賃を払って到達できるところくらいしか思っていなかったが、今は地上のことがよく把握できる。だが、これほどよく分かるようになった今、すべてはすでに過ぎ去ったのだ。

しかしながら、感傷に浸っているわけでなく、この緑のビルとは、全くもって、最初から最後まですれ違いの連続であった。2009年、主の生き生きした御業を見て、望みがかなえられ、喜びと共にこの地にやって来た時、「神様が私に何をして下さったと思いますか? 私は解放されたんですよ!」と、最も兄弟姉妹に告げたいと思って、何も知らせず礼拝に飛び込んだところ、指導者は遠くの同窓会に出かけて不在で、礼拝は完全に気の抜けたビールのごとく、何の期待感もなく、話を分かち合えそうな人もなかった。耐えられなくなって外に飛び出し、公衆電話に十円をたくさん入れて電話をかけてみたが、つながらなかった。

あまりにもその体験に失望したので、その後、半年間、その場所には寄りつこうとも思わなかった。明らかに、主の御思いからは遠くかけ離れていると感じられたからだ。そして、別の群れに行ってみたが、そうこうしているうちに、事件が起きて、仕方がなく指導者と顔を合わせることになった。が、だからと言って、何かが開けることもなく、最後には、最も望ましくない形で、その場所は悪党どもに占拠されて、出入り禁止とされたのである。

その出入り禁止とされた場所が、見るからに荘厳な、お城のようだったのならばまだ良い。何百億円もかけて建設された礼拝堂で、全国に有名な指導者が率いる何千人もの群れがいて、庶民は入れませんよと言われたならば、まだ理解できよう。だが、そこは最初から最後まで何の変哲もない平凡な緑のビルで、そこに集まっていた人々も、諸教会から見放され、最も光彩に欠ける数えるほどの人々であった。

インターネット上では現実がはるかに見違えて見えるものだ。現実には、それは悪党どもが奪い取るほどの価値すらもあったかどうか疑わしいほどに、細々として、注目もされない、小さな群れでしかなかった。悪党どもは肩をそびやかして指導者を追い出し、この哀れな群れの中から、最もえりすぐりの評判の良くない支持者を引きぬいて連れて行った。こうして私は、遠路はるばるやって来たのに、もともと諸教会から見放され、放逐されていた群れの中から、さらに放逐されたのであった。

むろん、これは多少、筆が滑りすぎて、皮肉が行き過ぎていると言えるだろう。その後、様々なクリスチャンに出会ったが、別に緑のビルにいたことが「前科」とみなされるようなことも全くなく、そこから「放逐」されたという話も、とりたてて何の問題ともならなかった。悪党どもの占拠についても、人々はずいぶん管理がいい加減だったと肩をすくめるか、あるいはいっぱい食わされたと吹き出した。「諸教会から見放され、放逐された最も光彩に欠ける・・・」云々のくだりも、緑のビルから放逐されて絶望して他宗派に去った信者が私に向かって投げかけた言葉に基づいているので、こうした評価も、この集会に対して敵対的な人の個人感情が反映したものでしかなかった。

実際には、そこで起きている出来事は、世界の誰の関心も引いておらず、かつてはあれほど組織からの脱出を夢見てその交わりに注目していた信徒たちも、いつの間にか、それぞれちゃっかりと元のさやにおさまって、そこが一番だと豪語していたのである。

だが、私はその人たちと一緒に元の故郷へ戻ろうとは思わなった。こうしたことも、悪党どもが場所を奪ったために起きた事件ではなく、初めから、そこが居場所ではなかったことをよく示しているだけなのである。居場所は常に、天にある。だから、飛行機が陸を離れて飛び立つときのように、私は地から目を離し、天へと視線を移す。

古い記事には、何を書いたか自分でも忘れているのだが、「港町の風景」にこんなことを書いていたのを思い出す。「近いうちにもう一度、横浜を訪れることができればと思う。以下は、懐かしい神戸の海。横浜の夜景はまだ一度も見たことがないが、きっとこれに似ているのではないかと思う。」

その時には、これが実現するとは思ってもいなかった。今、神様はおっしゃるだろう、「私はあなたが望んだから、その願いに応えて、あなたをこの地に導いて来たのであって、あの人、この人に帰属させるため、もしくはあの集会、この集会に所属させるために、来させたわけではないんですよ。あなた自身が当時から分かっていた通り、エクレシアは常に、今、目に見えているものの中にはなく、私に忠実な民の心の中にあるんです。エクレシアは、あなたの只中にあるのです。教会は、常に私に忠実な民自身の心の只中にあるのであって、誰か偉そうな他人の心の中にあるのではない。それはあなた自身が私と共に建設して行く見えない統治のことでもあるんですよ。だから、あなたの望みを私に託しなさい」と。

こうしたことからも、主がどれほど注意深く、ご自分の民の願いに耳を傾けておられるかがよく分かる。だが、信仰はどこまでも人間に対する期待ではなく、神への期待である。間違っても、途中から、地上にあるものに目を移して、主からいただいた目に見えるものを後生大事に握りしめるわけにはいかない。信仰は、神に心を向ける人間の願いと、それに応えて下さる神との共同作業で、神の御思いと人の願いが重なり合って地に引き下ろされるコラボレーション。私たちの目は常に地ではなく、天へと、まことの供給者である方へと向かなければならない。

さて、話を戻せば、信仰の展望を他者と分かち合うことは難しいが、それでも、2009年、エクレシアの展望は多くの人たちの心に、切実な願いとなって生まれ、生き生きした新鮮な展望として育まれていた。

今日、そのうちどれだけ大勢の人たちが、何事もなかったかのように元の地上組織に帰って行っただろうか。あるいは御言葉の否定に至って、探求そのものをやめただろうか。それでも、一旦、始まった以上、どれほどの月日がかかったとしても、目的をあきらめない人々もいることだろう。

エクレシアとは、主の御心にかなう統治が実現している場所のことであり、それはこの世の地上の領域のことではなく、目に見える人々の群れを指すのでもない。それはまさに山上の垂訓が実現している神の霊的統治そのもののことなのである。目を上げれば、神の統治は主の民の生活の至る所で常に見いだすことができる。御言葉に忠実な民こそ、見えないキリストと共に、天地をつなぐハシであり、こうした主の民の存在を通して、神の御思いが地上に引き下ろされる。キリスト者一人一人が、可動式の神の幕屋なのであり、地ではヘビを踏みつけ、その頭は天で御座についておられるキリスト、我々の居場所は、天にある。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが言って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。私の行く道はあなたがたも知っています。」(ヨハネ14:1-3)

「私の行く道はあなたがたも知っています。」、主イエスが弟子たちに、天には住まいがたくさんあると言って、その住まいを設けるために、どこへ行くのか示された道が、十字架だったのである。十字架における完全な自己の死だったのである。

我々キリスト者は、天にはたくさん住まいがあって、その住まいの募集がすでに始まっていることを知っており、そこへ入りたいと望んでいるが、そこへ至りつくためには、ただ一つの道である十字架を経由しなくてはならない。

この道を行くとき、いわゆる私たちの個人的もうけなるものはない。これは私たちにとって地上では手柄とも栄光ともならない。もしかしたら、先人たちと同じように、我々も地上で約束のものを手に入れないかも知れないし、それを見ないうちに人生が終わる可能性もないとは言いきれない。

それでも、私たちはそろばんをはじいて地上での自分の利益のためにあきらめるのではなく、そのような無価値な地上の宝をすべてかなぐり捨ててでも、信仰によって、今見ているものよりも、「さらにすぐれた天の故郷」があることを確信し、「はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白する」ことを否まないのである。へブル書の言葉は、私にとっては詩のようである。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれてい たのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル 11:13-16)

以下も、幾度も引用して来た信者の言葉であるが、しかしながら、これにも決定的につけ加えなければならない一言がある。

「敢えて時空内に留まり 時空の中で勝ち誇って 
復活の中の永遠のリアリティを「彼」に見せつける、
と言う「宇宙最高の」役割を楽しむ」

ことは逆説的に、十字架の死にとどまることによってのみ可能なのだ。
確かに、キリスト者にはダイナミックな勝利もあり、悪魔に対して決定的に勝ち誇る瞬間がある。要塞をも打ち破って、暗闇の軍勢に勝利しなければならない。

しかしながら、復活を達成するためには、常に十字架にとどまり、己を否んで死を受け入れなければならないのである。私たちが求めているものが、この世の故郷ではないことを、絶えず告白し、証明し続けなければならない。信者は、信仰の戦いに、この世の方法によって勝利するのではなく、人の常識や知恵に頼って勝利するのでもなく、あくまで、ただ御言葉だけによって勝利を得るのである。

そのためにこそ、どういうわけか知らないが、キリスト者は年々より自分の力に死なされて、より小さくなっていくのである。アブラハムとサラはもう限界である。100歳に到達した。展望は遠のき、絶望的になったかに思われる。もはや彼らに何ができようか。彼らが若く美しく力と活気に溢れ大勢の人々に囲まれて注目の的となりまさに幸せを望まれていたその時はとうに去った。彼らはもう期待外れであり、規格外である。後はどのように地上の人生を安らかに終えて静かに人々の目の前から退場して行くかという「終活」以外に、何の期待も寄せられていない。彼ら自身、かつて見えていた展望や、望みについて、何と自分は大それたことを夢見ていたのだろうかと、自嘲せずにいられないまでになった。それはすべて夢だったのではあるまいか? 

そのような地点まで、キリスト者は連れて行かれる。もはや自己の力が尽きて、神でなければなし得ないという地点まで。常にこれが原則である。そして我々にはもう無理だ、できそうにもない、本当にあきらめるしかないのだろうか、初めからすべては大それた夢でしかなかったのだろうか、というところまで来て、主が力強く働かれる。生まれながらの人間にとってはつらいことであるが、しかし、神にはできるのだ。そのことを私は信じている。

だから、我々にとっての自己の終わりが常に主の御業の始まりなのである。

主よ、我が国の有様は、あなたがご覧になっている通りです。
しかし、私たちは、まさかこれがあなたの御心だとは信じていません。
そして、このような有様が現実だとも思っていません。
そろそろ、あなたの出番です。
そろそろあなたの出番です、そうではありませんか、主よ?

雨がやんで、空は晴れ渡り、新しいことが始まりそうな気配が漂う。
我々は神を信じて、心を騒がせず、絶えず十字架の死と復活にとどまり、これをより深く知り、味わいながら、地上で大胆に次の一歩を踏み出していくのみである。



 "エクレシア、コイノニヤの時空における現れは
臨機応変、伸縮自在、そして神出鬼没であるべきです。
何故でしょう、それは復活したキリストが正にそうであるからです。
そのような現在のキリストと聖徒達を、この世の何者も(そして多くの
キリスト者でさえも)捕らえることは出来ません。そしてまた決して
誰も自分のものとして所有することも不可能です。

このような エクレシア、コイノニヤの姿には神の無限の知恵が
隠されています。この最後の時代 神はそのような復活の中の
隠された知恵を隠された方法で行使されるでしょう。
そのような有様のエクレシアのみが 遂には次の時代 
極めて圧倒的かつあからさまな王国の到来を招致出来るのです。

あなたがある固定された箱の中へ、固定された時間に行って見る時、
もしも 決まってある同じ人物が登場し、その人を見るために「お客」が
集まって来ると言う風景に固定的に出会うのであれば、そこには復活、
不死、無限の性質はなく、健康な人間性も見ることは出来ません。

そこで見られるのは
四隅を区切られた時空の中の限りある朽ち行く物質の性質です。
なぜなら その固定、制限、区別と言う箱(時空)によって限定された
ひと時内でのみ活動を許されている王は かつてのルシファー、
永遠の苦悩と恥辱と破滅の運命が既に固定確定されている
今現在のサタンであるからです。

私達は
敢えて時空内に留まり 時空の中で勝ち誇って 
復活の中の永遠のリアリティを「彼」に見せつける、
と言う「宇宙最高の」役割を楽しむためにこそ
今ここで生きているのです。 "



十字架における自己の死と復活

なぜ今まで気づかなかったのだろう。十字架経由で自己の死を経たということは、復活したということでもあったのだ。この素晴らしい恵みを直接体験していたにも関わらず、今まで気づいていなかったとは!

 8月の初めに、記事の中で、私はあるキリスト者との語らいについてこう書いた。

「いかにイエスの十字架が軽いといえども、この状況では、苦しくて音をあげたくなる時があります。永久に私はこのままなのだろうか、そんなことには耐えられない、何とかして名誉挽回したいし、人並みに楽しんで幸福な人生を生きていきたい<…>と思わずにいられないのです…。人からどんなに蔑まれ、どんなに貧しく、どんなに惨めな境遇にあったとしても、ただ黙って耐え続けるのが十字架なのでしょうか?」と私。

「気持ちは分かりますよ、でも、そこで自分をごまかして、つまり、自己弁護しようとしてはいけません。サタンは私たちが肉なる自己にしがみつき、肉を立てようとするのを待っているのです。けれども、キリストにならう道とは、馬鹿にされ、誤解され、あざけられ、軽蔑される道なのです。私たちは肉体を持っているとはいえ、すでに肉に死んでいます。私たちの命はすでに死んで、キリストと共に神のうちに隠されているのです(コロサイ3:3)。神のうちに隠されている、これはいわば、墓の向こうで生きるようなものなのですよ。」

「それじゃあ、私はすでにこの世とは別次元で生きているようなものだということですね。だから、この世からはたとえ死人のようにみなされていても仕方がないし、むしろそうあって普通なのだと」
「そうです、この世に対しては死んで、隠された命を生きているのです。自分を祭壇に横たえ、本当に死んでしまえば、敵ももうそれ以上、あなたを攻撃できないのですよ」

 会話は、キリスト者はイエスにならって、十字架、死、復活、キリストと共に御座につくこと、それらを経験しなければならないという運びになった。私は自分の名誉回復をいまだに願ったりしている時点で、本当の意味では自己の死さえ完了していないのかも知れない。<…>

 また、私たちの戦いは血肉に対するものではない、だから、真の敵は人間ではないということが、歩みを進めるに従って、もっとはっきりと分かって来るだろう、との話であった。そうなれば、もはや肉なる人間に対する憎しみや恨み、怒りなども、持ちようがなくなってくるのだと。


 この記事を書いた当初、交わりで交わされていた言葉が、今、成就したのだということが分かる。私は今初めて、自己の死と復活を身を持って体験したのである。
 「自己の死」について、Dr.Lukeの説明を改めて引用することによって、この出来事を振り返りたい。

「…人は自分の意志を完全に放棄することはできません。なぜなら、元々人は悪魔によって『神のようになれる』という誘惑を受け、それに従った結果、堕落に陥ったからです<…>

そこで人は外界と適当な折り合いをつけながらも、手練手管を用いて、最後には自己の意志を通すことを学びます。このために教育や自己啓発によって魂(特に知性)を発達させるのです。これが社会に適応する形で表現されれば、例えば有能な経営者として手腕を発揮し、これが社会に適応し得ない屈折した形で表現されるとカルトの教祖ともなり得るわけです。<…>

それに対して、イエスは自己の意志を通し、それを自ら実現させることを一切排除されました:『わたしは父が行うことを見て、その通りをおこなうのである』、『わたしの言葉は父の言葉である』と。彼はあらゆる状況を自らの有利になるようにコントロールされませんでした。イエスの生き方の特徴は、御父に対する愛と信仰によって、完全に御父に頼り、御父の意志を行ったことです。すなわち、『自己における死』とは、主に私たち自身の意志の取り扱い方において、具体的に表現されます。

このことを学ぶ機会を得させるために、神は時に私たちを私たちから見ると過酷とも見える環境・状況に導かれることがあります。その中にあっては、それまで自己の思いのままにコントロールできていた対象が一つ一つ奪い取られ、すべての事柄が自分の手中から落ちて行ってしまうように感じられます。まったく自分の意志を通すことのできない、自らの方法や策略によって事態を収拾できない、そういう状況を私たちに対して、神は必ずある明確な時期において備えられます。イエスですら、十字架の死という自分ではどうしようもない状況に置かれたのです。

このような期間において私たちに残されるのは、ただ私と主との祈りによる交わりだけです。他の対象において自分自身の存在の保証、自分のアイデンティティーを担保を期待することは100%不可能です。私の存在の保証とアイデンティティーを担保して下さるのは、ただ天地を造られた神のみです!『わが救いはどこから来るのか、天地を造られた主から来る』(詩篇)とある通りです。<…>

多分、私は感覚としてそれを感じることはできません。しかし信仰は知っています。私に残されているのは、ただ御霊による復活なのです!イエスは死に入られ、3日目に復活させられました。そのイエスを甦らせた神の力が私たち信じる者のうちにも働いているのです。その時こそ、私の意志ではなく、神の意志が実現され、神へと感謝と賛美、そして栄光が帰されるのです!神の御業が最も顕著に、かつ明確になされるのは、私たちが自己努力でもがくことなく、自己にあって死ぬ瞬間、すなわち自己の意志が無とされる時です。自己の死は、誰の意志が優先されるか、という点において明確に識別し得ます。それは私の意志でしょうか、それとも神の意志でしょうか・・・」

 今から振り返ると、不思議なほどその通りなのである。私は十字架で自己の死を経るまでには、自分がガス室に向かっているような感覚を絶えず持っていた。その時、私に見えていた十字架とは、反人間的なものであり、私を殺そうとする脅威のように思われた。そして、私の自己は、この暗い予感の通りに、まるで車の衝突実験に見られるように、時速何百キロというスピードで、十字架という壁に向かって突っこんで行った、そして、見事にクラッシュして、私は帰らぬ人となった。
 一つの事件を通して、私の自己は砕け散り、私は自分が死んだと思った…。私の生きる意欲、生きたいという願い、幸せになりたいという願いの全てが、微塵に砕け散った瞬間だった。

 だが、死んだと思った私は、十字架を経由して、まだ生きていることを知った。初めは、自分の命が奇跡によって救われたのだと思った。しかし徐々に、そうではないことが分かって来た。いや、奇跡は私が思ったよりなお素晴らしいものだったのである。私は確かに死んで、自己に死んで、復活したのだということ、この世に復活したのではなく、この世に対して死に、御霊によって、キリストの命を得て復活にあずかったということが分かってきたのである。

 なぜそれが分かるかと言えば、今、私を生かしているのが「私の意志でしょうか、それとも神の意志でしょうか」という違いがはっきりしているからである。すなわち、十字架の死を経るまでは、私は自己保存の法則に従って生きていた。この世で何とかして自分を生かそうという思い、他人を生かしたいとの思いが、私の人生目的の全てであった。神は私たちの生存を手助けした上で、永遠の命へと導いてくれる存在としか見えていなかった。たとえ御言葉を語り、神の栄光について語っている時でさえも、私は自分を起点にして話していた。

 ところが、今や、私は「神の意志が何であるか」ということを起点にしか、物事を考えることができなくなりつつあるのだ(まだこの学習は完全ではないとはいえ)。

 ここ数日、私は、世界が幾度、滅んだとしても、主のご計画は絶対に変わらないという安心感の中に生きていた。こうした表現は、一見、世界の価値、人の生命の価値を何とも思っていないかの発言に聞こえるだろう。

 しかし、それを通して、私が真に言いたかったことはただ一つ、すなわち、私はもはや古き人の情の世界に生きていないということである。私はこの世に対して死んで、この世も私に対して死んだので、私は、肉なる人を救おうとする人情が最高の価値を持っているこの世の価値観に対して死んでしまったのである。

 人情から解放されると、一見、この世に無関心で、人に対して冷たくなったように見られることがあるかも知れない。しかし、そうではないのだ。自分自身で直接、人を救おうと焦ることがなくなった代わりに、神の御心が人を救うものであることを知っているので、神を経由することによって、人を愛し、神のご計画の中で、人の救いを手助けしていくことができるようになるのである。それは情の上で人を愛するということではなく、むしろ、神のご計画の一端を担いながら、それによって、人を愛するということなのである。

 十字架上で自分が崩壊してからというもの、自分の考えで人を救い、人の苦痛を少しでも減らすことを最善と考える「人に優しい生き方」が、私にとって、一切の価値を失った。そして、「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:19-20)という御言葉が、本当に私の中で、はっきりした形で理解できるようになったのである。

 これを上手く説明するのは難しいだろう。「千と千尋の神隠し」という映画の中で、主人公の千尋が廃墟と化したテーマパーク(?)にいるうちに、夜を迎えてしまい、元の現実世界に戻ろうと思っても、河に隔てられて帰れなくなってしまう場面があるが、それに似ているかも知れない。

 あの場面に登場する河は、此岸と彼岸とを隔てる、三途の河のようなものを象徴している。それにもよく似て、自己に死んだキリスト者と、この世との間には、十字架なしには渡れない何らかの深い隔てがあり、十字架の死と復活を経由して、御霊の法則の支配する世界に移されたキリスト者は、この世をまるで対岸にあるもののように眺めており、そこに帰ることがもはやできないのである。私たちは、深い淵の中を、信仰の小船に乗って進んでいる。向こう岸にあるこの世の明かりはますます遠ざかるばかりで、二度と私たちはそこへ戻ることはない。新しい旅路が始まっており、向かう先はまだよく分からないが、栄光に満ちた御国が行く手にあることがはっきりしており、この小船の船頭はイエス・キリストである。この世の絶えざる苦労の中に生きていた頃の自分が、すでに死んで昔のものとなってしまったことが分かる。

 今生きている世界で、私を生かしている法則は、「主は何を望まれるのか」ということに尽きる。実際には、私はまだこの世に生きているのだが、それにも関わらず、もはやこの世と隔絶したところに生きており、自己保存の法則ではなく、御心を第一とする法則に支配されて、この世から隠されて生きている。
 「自分を祭壇に横たえ、本当に死んでしまえば、敵ももうそれ以上、あなたを攻撃できないのですよ」との言葉通り、肉なる私は死んで十字架につけられたままこの世での生命を終え、今生きているのは、キリストによって復活させられた私、キリストの命を生きている私なのである。
 多分、どう説明したところで、分からない人には分かってもらえそうにない気がするが、これが、私が十字架において自己の死と復活とを経由したということの拙い説明である。

 もちろん、このような自己の死というものは、恐らく一度限りでは終わらないだろう。私にはさらに砕かれる必要があるだろうと思う。だが、これほど大がかりで、しかも、はっきりした形でそれを理解させられたのは、私にとっては初めてのことであった。大昔にバプテスマを受けながらも、私は自己に死ぬことを(経験的に)知らなかったのだ。今、これほど明確に、自己に死に、復活するとは何かを主が私に教えて下さったことを嬉しく思う。さて、「死と復活の原則について」から引用。

 「私たちのうちには聖霊によって神の命が種の形で蒔かれています。神の命の遺伝子が組み込まれているのです。これは自分が感じようと感じまいと事実です。なぜなら聖書が信じる者は永遠の命を持つと言っているからです。問題はその命が私たちの自我という固い殻に覆われていて、その命の現れが見えて来ないことです。私たちの生まれつきの魂は、自らの意志を通し、自らの思いを守り、自らの感情に傷を受けまいとします。すなわち、私たちは魂の本質的性向として『自己保存』という強い欲求を持っています。<…>自我(魂)は自己の保存を意識的にせよ、無意識的にせよ、第一に求めるのです。

一方、神が求めておられるのは、私たちの内の神の命が、私たちを通して表現されることです(注)。そのためにはどうしても私たちの自我(魂)という硬い殻が一旦破られる必要があるのです。内に閉じ込められた命を解放するためにどうしても必要な過程です。これが私たちの『自己における死』です。」

 何のために自己の死を経る必要があるのか。それは一粒の麦が地に落ちて多くの実を結ぶためである。命の川、生ける水の川々が私たちの自我の殻を打ち破って、隔てなく、よどみなく外へ向かって流れ出るためである。そうやって、神の栄光が私たちを通して、よどみなく現されるためである。
 さらに、自己に死ぬとは、私たち自身のためでもあると、私は思う。自己に死ぬまでの過程は、肉の存在である私たちにとっては、かなり苦しいものであるかも知れないが、一旦、自己の死を経ると、私たち自身が、罪と死の法則性から解放されて、圧倒的な自由を得るのである。

 人間は、神を誉めたたえるために創造された。自分自身を生かすために生存するのでなく、神の栄光のために生きることこそが、人間にとって本来の最も自然なあるべき姿である。従って、自己に死んで、キリストの命を生きるようになる時、私たち人間は、最もあるべき姿、自然な姿、神が本来私たちをかくあれかしと創造された姿へと回復されていくのである。

「見よ、わたしは新しい事をなす。
 やがてそれは起る、
 あなたがたはそれを知らないのか。
 わたしは荒野に道を設け、
 さばくに川を流れさせる。<…>
 この民は、わが誉を述べさせるために
 わたしが自分のために造ったものである。」(イザヤ43:19,21)