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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死にそこに葬られたいのです。

「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:6-9)

「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、
そんなひどいことを強いないでください。
わたしは、あなたの行かれる所に行き
お泊りになる所に泊まります。
あなたの民はわたしの民
あなたの神はわたしの神。
あなたの亡くなる所でわたしも死に
そこに葬られたいのです。
死んでお別れするならともかく、
そのほかのことで
あなたを離れるようなことをしたなら、
主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」(ルツ1:16-17)

* * *

先日の和解協議において、被告Aは訴えを取り下げろ、さもなくば和解しない、という条件を提示して来た。

一つ前の協議において、被告Aは双方からの控訴の取り下げを和解の条件としていたにも関わらず、その要求をさらに拡大して、原審において、ちょうど被告Bと息を合わせて筆者に反訴を予告したときと同じように、筆者が訴えそのものを取り下げなければ、和解協議を決裂させるぞと言って、自らにとって不利な判決を撤回させようとして来たのである。
  
それに伴い、彼ら(人物は特定できないし、いかなる協力関係があるのかも不明だが、あえて「彼ら」と表記しておく)は、まずは当サイトの名前を悪用した権利侵害サイトを作り、そこにおいて、筆者のドッペルゲンガーを作って、彼らの前にひざまずかせ、懺悔させ、訴えの取り下げの「リハーサル」を行わせた上で、現実に行われた和解協議の場においても、訴えの取り下げを要求し、掲示板においても、匿名の投稿者が次のような投稿を行って、訴えを取り下げなければ、ひどい目に遭うぞと予告したのである。



これを見れば、筆者が向き合っている相手が、いかにまともではない人々であるかということが誰にでもよく分かるであろう。
 
しかも、こういう投稿は、これまでにも絶えまなく行われて来たのであって、何ら珍しい内容でもない。要するに、ブログを執筆するのをやめなければ、人生が破滅するぞと脅していた今までと同様である。

結局のところ、彼らはこう言っている。「被告らに対する訴えを全面的に取り下げないと、なしりすましサイトを100個作るぞ。それから、あんたを何重にも提訴・刑事告訴してやる。和解協議が決裂するくらいのことでは済まない。犯罪者にされていいのか。人生が破滅するんだ。考え直せ」

彼らは、何としても、筆者に訴えそのものを取り下げさせることで、判決を無効にしたいのである。
 
命が惜しいなら、主張を撤回せよとの「踏み絵」である。
 
控訴審では、秘匿の措置が認められていないので、判決に向かってためらいなく突き進めない事情がある。それを分かった上で、裁判所も判決言い渡し日をあえて未定としており、和解協議を勧めたのであり、さらに、被告Aも以上のような条件に、筆者が応ずるよう迫っているのである。

しかしながら、筆者はこの訴訟においては、もともと完全な敗訴もしていないし、完全な勝訴もしていない。さらに、被告Aは何年間にも渡り、筆者を告訴しようとしても、できなかった経緯があるため、この先も、告訴が受け入れられる見込みはまずないものと考える。

被告Bについても、被告Bが筆者を告訴したと主張する前から、筆者自身がすでに被告B対策を幾重にもして来たのであり、先週もさらに大量の資料を警察署に送って備えとしたところである。

さらに、以上のような投稿がなされたのを皮切りに、掲示板も、これまでは文体などが投稿者の身元の確認に役立つと考えて様子を見て来たのだが、そろそろ時期が来たと判断した。発信者を特定してIPアドレスを警察に提供し、犯人を告訴し、損害賠償請求訴訟を提起するための準備に入る。

だから、掲示板が聖域になるなどといった考えは捨ててもらわなければ困る。身元が特定された暁には、当然のこととして、人物が公表される可能性があることを十分に考慮してもらわなくてはならない。そうなれば、手が後ろに回るのは、こうして藪の中から石を投げて無責任な生き方をしている匿名の投稿者なのであって、筆者ではない。投稿前によく考えることをお勧めするのみである。
 
さて、和解協議において、被告Aから訴えを取り下げないと、和解に応じないとの条件が、裁判官を通して告げられたとき、筆者は尋ねた。

「判決が下された後に訴えを取り下げたらどうなるのですか?」
「判決は法的には効力を失うでしょう」

筆者はしばらく言葉を失った。判決を無効にしたならば、賠償も行う義務はないのであって、何のための和解なのか。ごくわずかな金銭と引き換えに、命に等しい約束を手放させようなどというこの卑劣な条件に、心の底から憤りが込み上げて来た。

ここに懐剣があれば良いのに・・・、との思いが脳裏をよぎった。

もちろん、裁判所には小刀一つ持ち込むことはできないが、筆者は、まるで武家の娘になったような気分で、裁判官の前で、黙って懐剣を差し出し、テーブルの上に置くことができればいいのに・・・との思いに駆られた。

「一体、あなた方は、私を誰だと思っているのですか。私がはした金と引き換えに、個人情報を開示されたくないとか、提訴や告訴をされたくないなどという願いと引き換えに、自分を生かすと言ってくれた人の言葉をやすやすと裏切って、命乞いをするような女だと、本気で思っているのですか? あなた方はあまりにも大きな考え違いをしています。そんなことをして自分の操を穢すくらいなら、私はいっそこの場で自分の命を絶って、この先の世界を一瞬たりとも見ないで済むことを願います。」

むろん、筆者は自殺などするつもりもない。以上は単なる比喩である。しかし、そのような思いが込み上げて来たとき、筆者は同時に、何かえも言われぬ感動を覚えた。

いつの間にか、判決は、筆者にとって、もはや二度と離れることのできない、かけがえのない命となり、友となっていた。これがあったからこそ、今日まですべてを耐え抜き、控訴審まで来ることもできたのだ。

これは筆者の苦悩を深く理解し、ねぎらってくれた裁判官が、その善良な思いのすべてをかけて、筆者に「生きよ」と命じてくれた、忘れ形見のような命である。

この判決と引き離されるくらいなら、筆者は、むしろ、死を選ぶ。この宣言を自分で否定して、これまで戦ったプロセスを自分ですべて否定して、抜け殻となった宣言を手に生きるくらいならば、喜んですべての苦難を引き受け、何重にも告訴・提訴された上、潔く死に追いやられることを願うだろう。

敵は何でも願うことを筆者に対してすれば良い。だが、筆者はそのすべてを恐れない。全く恐れないし、逃げようとも、隠れようとも思わない。筆者は全力でそのすべてに立ち向かい、提訴されるなら反訴するし、告訴されるなら、虚偽告訴罪を主張して、どんなに訴訟が泥沼化しようと、命の限りを尽くして徹底的に立ち向かい、彼らの常軌を逸した残酷さを証明し、身の潔白を証しする機会とするだけである。
 
筆者が恐れるのは、自分に害を加えられることではなく、自分を愛し、かばい、助け、命を与えようとしてくれた人の言葉を裏切って、否定することなのだ。そうして、自分一人だけ、身の安全を保ち、生き延びようとして、再び、真っ暗闇の世界に投げ出され、その挙句、栄誉だけでなく、命をも失うことなのである。

確かに、判決は人間の言葉であるため、神の御言葉のように完全なものではないが、自分に命を与えてくれた権威ある裁判官の判決を否定し、裏切ることは、神の御言葉を否定し、裏切ることにも通じるほどの恐ろしい効果がある。

判決を保とうとすることが、筆者の破滅につながるのではなく、逆に、筆者を生かし、守る命である判決を裏切り、これを否定し、捨てることこそ、筆者の身の破滅につながるのである。

それは、聖書がファンタジーだと言って、聖書の神の御言葉の正しさを否定している人が、その後、正常な意識を保って生きられなくなるのと同じである。

被告らは、筆者のブログをファンタジーだ、創作だと言っているが、その背後には、聖書の神の御言葉の揺るぎないことを否定しようとする思いがある。だからこそ、彼らは権威ある裁判官の下した判決にも服さず、これを何とかして自分たちの言葉で飲み尽くし、否定し、覆そうと試みているのである。

それは彼らが自分たちは裁判官よりも上に立っていると考えていることの証拠である。しかし、 聖書の秩序はこれとは逆であり、死ではなく、命が死を飲み尽くすのだ。

だから、この踏み絵を踏んではならない・・・ということが、筆者には実によく分かった。

この訴訟を提起した時、筆者には支援する者はなく、ただ一人、裁判官が、筆者の心を知っており、これを汲み上げてくれた。その後、裁判官が下してくれた判決は、筆者に命を吹き込んで、新たな場所へと導き、そこで新たな人々に出会わせてくれ、かけがえのない助言者や、理解者をも与えてくれた。

以前は支援者もなかったが、今はもうそうではない。職場も、同僚も、筆者の生活も、すべてこの宣言文が書かれた後に与えられたものであり、筆者はこれまでどんなにこの宣言に助けられて、支えられて生きて来たろうか。

その判決文から権威ある命の効力を除き去って、これを抜け殻同然の空文句に変えてしまうことに自ら同意するくらいならば、筆者はこの判決文と、目に見えない領域で、しっかりと手に手を取りあったまま、その場で一緒に殺されてただちに息絶えることを選ぶだろう。

判決文の威力を殺すことは、筆者を殺すことと同じなのであり、私たちは不可分の存在なのであるから、判決が無効化された世界に、筆者一人だけが生きていることはできない。

だから、絶対にこれを無効化するようなことに同意してはならない。

そこで、筆者は一計を案じ、自分にできるただ一つのことを提案した。

それは、判決の正しさを守り通す代わりに、筆者が自分の主張を放棄するという、これまでに幾度となく取って来た策である。

筆者はそれまでの協議の深刻な雰囲気とは打って変わって、にっこりと笑って裁判官に言った。

「私は判決文をスキャンして一般に公開したこともありませんし、事件番号も公開していません。この事件記録を閲覧した人も、今日まで誰もいませんので、被告Aについては、誰もどんな判決があったのか、現物を手にして見たわけではありません。客観的な証拠がないので、ネット上では当てにならない噂しか流れていないのです。被告Bも、自分に関することしか書いていませんので、被告Aのことは誰も知る術がありません。

ですから、そうした状況で、私が訴えを取り下げることで、判決を無効化する必要もないのです。公開しなければ、判決もただ裁判所の記録として残るだけで、その外に出て行くことはありません。実態が分からない以上、誰にも不名誉を与えることはないのです。

ですが、ネットに書かれた個人情報は、いつまでも人の目に触れるところに残り続けて、現実的な悪影響を及ぼす恐れがあります。被告Aは、個人情報を消して欲しいのでしょう? それなら、たとえこの先、被告Aが私を提訴し、告訴したところで、到底、目的は遂げられるものではありません。権利侵害の事実は、自ら立証しなければ認められませんし、権利侵害に当たらないと判断されれば、削除も認められませんので、すべての記述を取り去るためには、膨大な分量の書面を、ものすごい時間をかけて書き続なければなりません。多分、一生かかっても、目的は達成できないと思います。

そんな無駄な訴訟を起こしても意味はありませんから、その代わりに、私が自分で記述を修正してはどうでしょう。本当は一年くらい欲しいところですが、もっと早くしろというなら、可能な限り、迅速に行うことはできます。それで、この先は双方、互いの個人情報を書かないという約束で、和解すればどうでしょう?」

裁判官はその要望を被告Aに伝え、被告Aは、弁護士と協議すると言って、その日の話し合いは終了した。

すでに夕方になっていたが、筆者にはまだ裁判所に用事があったので、帰宅するわけにいかず、裁判官は何度も「被告を先に返しますよ?」と筆者に念押ししてから、実際にそうした。

実は、裁判所には、勝訴(もしくは勝訴的和解)を遂げた方が先に帰宅するという暗黙のルールがあるのだ。被告Aが先に帰宅するということは、あたかも被告Aが勝ったと言っているも同然であるが、筆者にとっては、それは些細なことであった。

被告らは、見かけの栄誉を何より重んじる。人前に自分がどう映るかを気にする。しかし、筆者は人に知られないリアリティを重んじる。だから、外見的に、被告Aが勝訴したかのごとく扱われたとしても、別にそのことで何とも感じることはない。この点で、被告らの考え方と、筆者の考え方は、正反対なのである。

これまで被告らの書面を公開しようかと考えたことも何度もあったが、それをしないで来たのも、何かしらそれを押しとどめるものがあったためである。公開すれば、どんなにひどい主張をされているのか、万人に開示して訴えることもできたであろうが、なぜかそれに踏み切れない思いがあった。

おそらく、それも理由のないことではなかっただろう。

この訴訟は、筆者にとって、人の思いを超えたところにある、何かしら神聖と言っても良いほどの価値のあるものである。特に、原審はそうであった。だから、たとえ判決が、裁判所から一歩も外に出ず、誰にも閲覧されず、何が書かれているのかも分からないまま、まるで聖域のような領域に、膨大な事件記録の一つとして、人知れず眠るだけであったとしても、その誰にも知られないリアリティの中に、筆者の栄誉、筆者の正しさが、確かに込められていることを感じてならないのである。

逆に言えば、筆者が訴えを取り下げ、その事実が、仮に誰にも知らされなかったとしても、それは確かなリアリティであるから、人が知ろうと知るまいと、筆者が判決を否認し、自分の正しさを認めてくれた人の言葉を裏切った事実は、宇宙的な規模で悪影響を及ぼし、何万光年先になっても拭い去れない罪と恥の記録になるに違いない。
 
筆者が肯定していればこそ、判決は尊い価値を持って、聖域の中に静かに保たれるのであって、もしも筆者がこれを否認すれば、それはまるで悪党どもによって暴かれた墓のように、さらしものにされ、土足で踏みつけにされ、神聖さを失って、蹂躙・冒涜されることであろう。

筆者は、これまでそのような瞬間を何度も見せられて来た。筆者が心の中で手放さなかった人々、手放さなかった団体、守り通したものだけが、確かな揺るぎないリアリティとして保たれるのであって、もしも筆者が、それらを守り通すことを断念したならば、それは敵の陣営に引き渡され、防衛の外に追いやられ、蹂躙されて、恥をこうむることになる。

だから、筆者と判決とは、互いに守り合い、かばい合う関係にあり、それはかけがえのない強い愛の絆にも似て、私たちは見えない領域で結ばれた手を、互いにしっかりと握り合い、死に至るまで、決して離してはならない。筆者が新たに出会った人々との関係においても、同様の愛の関係が成立しているのである。

それは死によっても、引き離すことができないほどの強い結びつきであり、命をかけてでも、守り抜きたいと願う、かけがえのない価値である。

ところで、筆者にも、和解協議の期日が来る前に、弁護士に相談することができそうなチャンスがあった。だが、のど元まで出かかった言葉を、筆者は飲み込んで、何も言うべきでないと思い直した。

信頼できる人に、せっかくの貴重な時間を、わざわざこのような事件のために費やさせる必要もないと思っただけではない。それ以上に、筆者の助言者は、ただ一人、キリストだけであり、御霊だけであるから、誰にも助けを乞わずとも、自分自身で何が正しく、何が間違っているかを判断することができるはずだと信じた。その強さ、独立性を失ってはならない、と思い直したのである。

さて、前回の期日に、双方から控訴の取り下げを行うという提案がなされた後、控訴の取り下げを行うと、事件記録が横浜地裁に戻って来ることを筆者は書記官から聞かされた。

その時、筆者の心には大きな喜びが湧き起こり、まだ結果が確定もしていないうちから、そうなることが動かせない事実であると感じた。被告Aから訴えの取り下げを要求された時でさえ、その確信は変わらなかった。

あの陰気な東京高等裁判所の建物ではなく、この海と空のある地にこそ、事件記録を迎えてやりたい。戻って来たら、おまえはよくやった、勇敢に戦った、と言って、その栄誉をたたえて、いつまでもここで静かに眠りなさいと、まるで祖国のために勇敢に戦って戦死した夫の亡骸を迎える妻のように、心の中で花束を携えて、出迎えてその労をねぎらってやりたい。

そして、その後も、筆者の生きているそば近くの、人に知られない静かな聖域のような一区画に、記録を眠らせておこう。あの電話会議が実際に行われた明るい裁判所の中に、海と空を同時に見ることのできるこの開放的な空間の只中に、その記録を保ち、それがいつも自分と共にあること、今も生きて効力を及ぼしていることを思い出し、見えない領域で互いを見守りながら生きて行きたい。

そうこうしているうちに、きっとその判決は、ますます不思議な効力を及ぼして、多くの人々を筆者のもとに送り、多くのかけがえのない宝をこの地にもたらしてくれるに違いない。それは誰も見ることのない秘められた聖域として、契約の箱のように、この地に眠るだろう。

筆者は人生で初めて、自分以外のものを、命がけで守りたいと願った。冒頭に挙げた御言葉は、ただ人間の男女のことを指しているだけではない。霊的には、それにはもっと深い意味があって、それは神の御言葉と、人が一体となること、御言葉なるキリストが、信仰によって、人の内に住まわれ、神と人とがもはや不可分の引き離せない関係になることを言い表している。

神はどれほど人を愛され、また、人の側でも、神を慕い求めた結果、神と人との出会いが生まれることだろうか。双方からの強い願いの結果、神が人に対してご自身を現して下さり、人の内側に住まわれるという信じ難い出来事が起きるのである。

そのことが、この事件を通して、筆者はよく分かる気がする。

判決はもはや筆者と不可分の関係になったのであり、今更、これを分離することはできない。歴史を逆行して、出会わなかった前に戻ることはできないし、出された宣言を無効化することもできない。 神が出会わせて下さったものを、人の力で引き離すことはできない。

だが、筆者は新たに出会った人たちにも、全く同様のことを思う。私たちは、人の力によって、決して引き離すことのできない領域で出会い、結び合わされたのだと。その結びつきから、未だかつて見たことのない新しい歴史がすでに始まっているのだと・・・。

そういう意味で、判決以前の世界と、判決以後の世界は、まるでノアの洪水のように、大きな境界となって、筆者の人生を二つに分けている。それには、まるでB.C.(Before Christ)とA.D.(Anno Domini)を隔てるくらいの威力があり、これも大きな十字架なのである。洪水と共に、以前の筆者は死んだのであり、泥沼の法廷闘争にも、すでに終止符が打たれた。その大いなる宣言がある以上、今更、被告らが筆者に何を述べたとしても、結論は変わらない。

紛争は、もはやとうに終わっているのであって、筆者には、ただ筆者に命と平安を与える命令に服し、これを忠実に実行に移すために労する義務と、これにそぐわないすべての行きがかりを最終的に終わらせるために知恵を尽くす任務が任されているだけである。

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村上密その他を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(22)―わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。

悔い改めを拒否し、教会を分裂に導き、神の教会を冒涜して、滅びへ向かう唐沢治と村上密と杉本徳久
 
さて、一つ前の記事で、筆者は最後の機会として、村上密に向かって唐沢治と手を切り、悔い改めるよう呼びかけた。そして、杉本徳久の賠償金の支払いのために、手を貸してやるよう勧めた。

だが、こうした一切の働きかけは無駄のようである。むろん、最初から彼らが忠告に従わないことを、予想しつつ、あえて筆者は最後の呼びかけを行ったのである。筆者は彼らの善意に期待することは全く考えていない。

ちょうど民事訴訟を刑事告訴と並行して進めたように、今、筆者は同時に三つの策を用意しているところだ。一つ目は、任意の悔い改めの呼びかけ。二つ目は強制力を伴う実力行使。これは判決言い渡しや、警察を通じた取り調べや、処罰を求める手続きである。

そして、三つ目は、極めて重要な新しいステップである。

杉本は昨日に至るまで、判決で命じられた記事を3つも削除していないことが発覚した。当ブログのひとこと欄で、そのことを指摘してから、慌てて削除したようだ。

未練がましさの感じられる態度である。杉本が残していたのは、一つは筆者の著作者人格権を侵害した記事、もう一つは、2009年に筆者が削除を依頼したコメント、さらに、筆者の著作者人格権を侵害しつつ、鳴尾教会の女性牧師と筆者を並べて断罪した記事である。

こうした記事の残し方に、村上密からの深い影響を感じざるを得ない。まず彼らの強い学歴コンプレックスが感じられる。それから、男尊女卑、そして、自画自賛を手放せない思いである。

それらの記事はそそくさと消したようだが、杉本は判決で削除が命じられた「トランスフォーメーション・グロース」のコメントNo.17を未だに削除していない。しかも、コメントから名前を消し、投稿内容を消してでもいいから、☆5つの評価にすがり続ける男のみっともなさ、未練がましさである。



だが、こうして、杉本が判決に逆らっていることは、筆者には有利にしか働かない。なぜなら、こうしたことも、費用の回収に役立つからだ。

さらに、杉本が世話人として所属していた全国ヤギネットワークにも、杉本のことについて問い合わせた。杉本が執筆して来たキリスト教界をバッシングするブログの趣旨を伝え、そこで面識もないのに、当方がプライバシー権を侵害されて、名誉毀損され、さらに判決言い渡し後にも、2ヶ月が経とうとしているのに、賠償金の支払いもなく、本人は電話に出ず、メールに返信せず、連絡がつかない状態にあるため、困っていることを伝えた。

さらに、杉本が商工会議所の会員でないのに、会員資格を詐称したり、東京銀杏会の正会員などを詐称している事実も伝え、筆者は提供している情報がデマではないことを示すため、事件番号も伝えた上で、事実確認を依頼した。

すると、研究者兼事務局の代表者は、杉本は世話人としてここ2年ほどは会合に姿を現していないので、活動の実態も不明で、どんな人物かは知らないが、会の信用もあるため、そのように社会的・法的責任をきちんと負えない人をこのまま世話人にしておくのははばかられるため、事実確認の上、今後の対応を事務局内部でも検討するとの返答であった。

不愉快な問答は何一つなく、直接的な関係は何もないのに、うちの会員が迷惑をかけてすみませんでしたと、丁寧にお詫びをされていた。追って判決等の資料をスキャンして送付しておこうと思う。
 
このように、筆者はまさか彼らの善意のみに期待して解決を委ねる気は決してない。むしろ、任意では、これが最後の呼びかけであると、筆者は書いた。そして、彼らがその機会を無視したことの報いも、大きいだろうと考えている。

第三の策は、種明かしをすれば、包囲網である。キリスト教界からの包囲網、そして、世間からの包囲網によって、彼らを囲い込んで行き、活動できない状態を作り上げることである。杉本は、筆者が杉本に対して訴えを起こしたことをさんざん嘲笑し、司法や警察が筆者の味方になるはずがないとうそぶいていたが、実際には、司法も警察も生きており、筆者を根拠もなく精神異常者呼ばわりした杉本のデマなど信じこむことはなかった。

こうして、司法と警察を取り戻しただけには終わらない。この世全体を取り戻し、それによって、こうした中傷者を囲い込んで行くのである。私たちは、信仰によって、この世から召し出された民であり、キリストの御名によって、この世を統べ治める権限が与えられている。

だから、教会全体がこの世を足の下に置いて活動することが可能なのである。その霊的優位性、そして体としての一体性を取り戻すことが今、必要とされている。

* * *

筆者はこの戦いを中途で終えるつもりは全くない。神は教会を通じて、ご自分の多種多様な知恵を世のもろもろの支配と権威に示される。神はこの世の知者だと己惚れている人々を辱め、取るに足りない知恵なき者を用いて、ご自分の豊かな知恵を示される。

だから、教会の知恵を侮る者は、したたかに恥を受けるであろう。

杉本が判決に従わず、賠償金の支払いを遅らせれば遅らせるほど、利子がつき、債務は膨らんで行くだけのことである。筆者の提案を侮れば侮るほど、そして、法的責任を回避しようとすればするほど、杉本自身が失うものが増えるだけだ。

掲示板もしかりで、投稿者を2、3人でも特定できれば、十分に費用の回収はできる。海外にある掲示板の運営会社の法外に高い資格証明書取得料(5万円相当)も、慰謝料(5~10万円)と合わせて請求することになろう。その上に、訴訟費用(数万円)が上乗せされる。何しろ、ここ数ヶ月間、毎日のように権利侵害のコメントがなされて来たので、連続して多数のコメントを投稿している場合、杉本に下された賠償を超える判決が下される可能性も否定できない。

特に、こうして筆者に執拗につきまとって来ては、杉本や村上を擁護し、賠償金を踏み倒すことを勧め、筆者をストーカー呼ばわりするこの女投稿者を特定することが先決である。



この女は誰よりもおびただしい数の中傷のコメントを投稿して来た人間である。人物が特定されれば、氏名住所電話番号等を公開の上、刑事告訴することとなり、村上密や唐沢治や杉本徳久とのつながりや、投稿者同士の横のつながりについても、取調室でゆっくりしゃべってもらうことになるだろう。
 
その日は、ある日、突然、予告なく来るかもしれない。筆者から見れば、たった3行程度のコメントを日々書き連ねたために、そのように人生を棒に振るなど愚かさの極みだが、どうしても破滅に落ち込みたいという人間を止めるつもりはない。

人は他人に対して行ったことが、いつか自分に跳ね返って来る。これから先、杉本が筆者に対して行った仕打ちは、ほぼすべて掲示板の愚かな投稿者らに報いとして降りかかることとなろう。筆者は信仰にあって、どのような迫害を受けても、立ちおおせたが、信仰のない彼らには、破滅以外に待っているものはない。

この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。

わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。」(2ペテロ2:17-21)
  
* * *
 
村上密率いるカルト被害者救済活動は、唐沢治がニッポンキリスト教界を日々、罵り、非難して続けているのと、全く同じ精神に導かれる運動である。キリスト教会をブログで次々バッシングして来た杉本徳久も同じであって、これらの人々の行っている活動は、もとから本質的に同根だったのであり、彼らの行っていることは、教会に対する迫害であり、聖書の神への敵対行為であり、聖徒らに対する冒瀆である。

それだからこそ、この度、村上密が唐沢治を擁護するために、唐沢の陳述書をブログで公開したのであり、この二人が提携したのは、まさに必然の結果だったと言える。
 
さらに、驚くべきことに、唐沢が口汚く罵っていた「ニッポンキリスト教界」は、ついに筆者を指す用語なった模様だ。村上も、唐沢も、これまで諸教会を非難・断罪して来た以上に、筆者を仮想敵としている。そして、それがおそらく最初から彼らの活動の真の狙いであったことを筆者は疑わない。

要するに、「教会のカルト化を防ぐ」などというのは、ほんの見せかけだけのきれいごとであって、この人々の活動の真の目的は、キリスト教徒の迫害にこそあり、信者同士を敵対させて、教会を分裂させて、教会を弱体化させることにある。
 
京都教会の信者は、長澤牧師を失った痛手に加え、村上が唐沢と手を結んだことが分かれば、この教会から大慌てで逃げ出すに違いない。筆者はこれまで、村上が集めて来たカルト被害者らが、どんなに唐沢治を嫌っていたかを知っている。なぜなら、唐沢は被害者を名乗る人々に格別に厳しい残酷で容赦のない批判の言葉を並べ、心打ちひしがれた人々に一切の同情を払わなかったからである。

貧しい人々、心ひしがれた人々、不遇の環境にある信者たちに対する唐沢の容赦のない侮蔑と嘲笑の言葉は、カルト被害者にとっては、とりわけ耳を塞ぎたいような恐ろしいメッセージと聞こえていただろう。筆者はカルト被害者の中で、一人たりとも唐沢を擁護した人間を見たことがない。次の記事でも述べる通り、学歴をひけらかし、自分たちだけが真理に立っているかのように吹聴し、キリスト教界の牧師たちの貧しさや、苦労を嘲る唐沢のメッセージは、牧師たちの心にも、居ても立ってもいられないほどの憤りを呼び起こして来た。
 
従って、そのような状況で、村上が唐沢の陳述書の公開に及び、唐沢を擁護したことは、明らかに、京都教会にとってはかりしれない打撃となり、信徒数の減少、教会の終焉を招く行動となろう。長澤牧師が今この時期に京都教会を離れたのも、まさにバビロン倒壊から助け出されたに近いものがあると筆者は考えている。

* * *

さて、村上は、自分が吐いた言葉が、いずれ自分に跳ね返って来ることを、考えたことがあるのだろうか。彼は5月10日付で「著作権侵害」という記事を投稿している。

この記事の中で、村上は教会と教会を対立させて、兄弟同士を争わせたくてたまらないという様子で、自分が当事者でもないのに、ある教会で、著作権侵害の書物が配布されている事実を発見したと得意げに記し、「被害」を受けた教会は、これを訴えるべきだと呼びかける。

「ここでは教会名と出版社名を伏せることにした。双方の話し合いで解決するか。民事・刑事訴訟で取り組むか、それは教会の対応次第である。双方で解決するにしても、償い金は必要である。それは損害を与えているからである。それでは主導したと思われる牧師に対する罰はあるか。償いをすればそれで済むわけではない。牧師としての職務を辞すことで責任を取る必要があると私は考える。かつて、ソフトの違法コピーをした牧師に対して、コピーの破棄とソフトの購入で解決したことがある。今回の著作権侵害は、教会が組織をあげて、検証をし、責任を果たさなければならない。」

しかしながら、筆者は、紛争の火種を見つけてきては、教会の恥になる記事を発表し、諸教会を互いに争わせては分裂に導きたくてたまらない村上の呼びかけには、次の通り応答するのみだ。

本日に至るまで、掲示板では、毎日のように、村上密の支持者たちが、当ブログの文章を盗んでは、著作権侵害の投稿を続けて来た。全体としてものすごい文章に達している。こうした投稿者らが、村上の支持者から成り、村上のブログをキリスト教界(およびカルト問題の第一人者)としてスターの地位に押し上げ、村上を批判する当ブログの更新を阻止・妨害するために、こうした行為に及んでいる事実は、ずっと前から明らかだ。

そこで、もしもこの先、投稿者らの実名が特定されて、村上がこうした権利侵害のコメントの投稿を主導した事実が発覚した場合には、村上は以上の言葉の責任を取って、投稿者に償い金を払うよう言い聞かせた上、牧師としての責任を取って、辞職せねばならない。
  
だから、読者は、村上の発言をしっかり覚えておかれたい。以上の通りの事実が発覚した後に、村上が地位に恋々としがみついたりすることがないように。筆者は掲示板の投稿者の特定に動いているからだ。

さて、「双方で解決するにしても、償い金は必要である。それは損害を与えているからである。」と言うならば、村上は、なぜ杉本徳久に対して、賠償金を支払うよう説得しないのだろうか。

それどころか、村上は、筆者の提起した訴訟の一審で、杉本の投稿が、筆者に対する名誉毀損に当たる事実も認めず、杉本をかばうために、二人、一緒になって、賠償なしでの和解を唱え、それに筆者が応じないならば、反訴するとまで予告し、脅しのような圧迫を加えた。
 
一審判決で賠償命令が出た後も、杉本は賠償金を踏み倒すつもりで逃げ回っており、本日に至るまで、判決で命じられた記事をすべて削除したわけでもなかった。未だに、削除を命じられたコメントも内容を勝手に書き換えたまま、残している。

村上はこうした杉本の卑劣な行為をなぜ一言たりとも非難しないのか。損害を与えたのに、なぜ償い金を支払うよう言い聞かせないのか。従って、村上の論はダブルスタンダードであることは明らかだ。

もちろん、筆者はこのような行為を見逃すつもりはなく、杉本が支払いを遅らせれば、遅らせるほど、彼の負債は雪だるま式に拡大して行くだけのことである。
 
杉本は、村上が尊大に構えているので、その威を借りてさえいれば、賠償金など踏み倒せると考えているらしいが、そのようなことが社会的に通じるはずもない。これはもはやキリスト教界内の問題ではなくなっている。世間を敵に回し、社会を侮れば、その分のツケは、残る人生全体に落ちかかって来ることになる。
 
* * *
 
さて、村上と杉本はこれまで、教会に対する裁判を唱え、自分たちが教会に損失を与える時だけ、意気揚々と賠償請求に及んで来た。

村上が、元鳴尾教会の信徒を焚き付けて、鳴尾教会の教団離脱に反対するために、鳴尾教会に対する裁判に及ばせた時、村上の支援する信徒たちは敗訴したが、それでも、鳴尾教会は訴訟の対応のために、大きな経済的打撃を受けた。

杉本がかつて筆者に「相談している弁護士名を明かせ」とか、「あなたから私を訴えなさい」などという脅しのメールを送りつけて来た時も、同じように、杉本は、筆者に弁護士を雇わせることで、経済的損失を与えようとしていたのである。

彼らは、諸教会や信徒を混乱に陥れ、教会や信者たちに濡れ衣を着せて、彼らが弁護士を雇わなければ、対応できないようなトラブルを発生させて、大きな経済的負担を背負わせ、教会や信者たちの名誉を傷つけ、信徒数を現象させて、キリスト教の評判を貶めることを目的に、活動して来たのである。
 
唐沢治もこれと同一線上に立って、「ニッポンキリスト教界」を非難し続け、嘲笑することで、諸教会にダメージを与えている。その目的は、キリスト教そのものの評判を貶め、聖書の御言葉の真実性を人々に疑わせ、教会と信者と、引いては神御自身に損失を与えることにある。

要するに、彼らの活動は、諸教会に打撃を与え、信者たちに心理的・経済的損失をもたらし、聖書の神の栄光を傷つけるためにこそ行われているのである。「カルトを防止する」などという美名は、ほんの表向きの看板でしかない。

そこで、いざ、彼ら自身が、訴訟に引きずり出され、社会人として、市民として、一人前の法的責任を負わなければならない段階になると、彼らは今まであれほど教会をこっぴどく罵り、非難し、償いを要求して来たことなど、すっかり忘れたかのように、詭弁を弄して、自らの責任から逃げようとするのだ。

これらの人々は大嘘つきであり、本質的に、教会の敵、クリスチャンの敵、聖書の福音の敵、反キリストの精神に導かれる者たちである。だからこそ、彼らは信者を訴えては、公開裁判に引きずり出し、中世の魔女狩りの再現を願い続けているのである。

村上がいかに唐沢治の陳述書を公開した記事の内容を、都合よく書き換えて来たかについては、5月13日の筆者および村上密のブログおよび杉本徳久および工作員読者らの動きにもまとめておいたが、このPDFファイルとは別に、以下にも、記事本文にざっくり記しておきたい。

村上密の卑劣な記事の書き換えは、これまで再三、再四、行われて来た。村上は、まず判決言い渡し後、4月に筆者の著作者人格権を侵害する記事を投稿した上、筆者からの批判を受けると、権利侵害がなかったかのように、記事内容を書き換え、さらに、その次には、筆者を刑事告訴したなどという記事を投稿した上、筆者から虚偽告訴罪に該当するとの抗議を受けると、すぐにその記事を削除し、さらに、「唐沢治氏の陳述書 3 」と題する記事を投稿した後、筆者がこの記事の内容が名誉毀損に該当する恐れがあると反論すると、またもや、こそこそと記事を書き換えた。

今回の村上による卑劣な書き換えの内容は次の通りである。
  
➀投稿当初の村上密の記事



②書き換え後の村上密の記事



お分かりだろうか、何の断り書きもなく、記事からは、こっそり次の2文が削除されている。

「もし土下座が強要であればこれは強要罪(刑法223条)となる。」
「もし、土下座が強要されたものであれば、ヴィオロンを追放する法的根拠にはなる。」

だが、無駄なことである。この記事は、投稿された文面のまま、控訴審で不法行為の証拠として用いられる。

こうして、杉本徳久と同じように、村上密が、次から次へとトラブルを引き起こしながら、絶え間なく信者に損害を与える行動を取り、批判を受けると、うわべだけこそこそ修正し、何事もなかったかのように見せかけながら、自らの責任を全くかえりみることなく、後始末を人に押しつけて、自己憐憫と自画自賛に明け暮れて来た様子が分かるだろう。

人騒がせにもほどがある。村上が、子供のように自らの行為に責任を取れない幼稚な人間であることがよく分かる事実だ。

* * *

そして、村上が以上のような記事を投稿すると、掲示板では早速、これに触発されて、以下のように、筆者を滅茶苦茶な理屈により断罪するコメントが投稿されるのが常であった。



何と恐るべき倒錯だろうかと呆れるのみである。筆者が、裁判所を経由して強制執行に及び、差押命令が出て、正式に取立が許可され、さらに杉本が筆者のメールに返信せず、電話にも出ず、賠償金を踏み倒して逃げ回っているがゆえに、筆者がやむなく商工会議所、東京銀杏会、杉本の関係者に問い合わせを行うと予告したことを、「恐喝罪」だなどと非難するコメントが投稿されたのである。

さて、それでは恐喝罪の定義を見てみよう。

「他人を脅して財物を交付させたり、財産上不法の利益を得、または他人にこれを得させる罪(刑法249条)。恐喝とは、相手に恐怖心を抱かせ、その瑕疵(かし)ある意思(詐欺、強迫によって強いられた意思)により財産的処分行為をさせることである。」日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

まず、恐喝罪では、脅しによって得ようとしている利益が 、不法の利益であることが必要なので、判決に基づき、強制執行して債務を取り立てることが、不法の利益を得ることに当てはまらないのは明白だ。
 
さらに、 Wikipediaでは「脅して」という部分の意味は、次の通り解説されている。

「恐喝罪とは、暴力や相手の公表できない弱みを握るなどして脅迫すること等で相手を畏怖させ、金銭その他の財物を脅し取ることを内容とする犯罪。刑法249条に規定されている。 」
 
筆者が電話とメールで取立を行うことでは何の権利侵害も発生しない。 何よりも、杉本自身が最初の1本を除き、電話に全く出ておらず、メールの返信も一通たりとも寄越していない以上、こうした本人への取り立てが、迷惑電話や営業妨害等が成立する余地は全くない。

また、債務者が応答しないので、知人らに接触して問い尋ねたとしても、押しかけて住居侵入罪を犯すわけでもなければ、日に無言電話を100本かけるなどして、営業妨害に及んでいるわけでもないので、いかなる罪にも当たらない。
 
もちろん、杉本は実名を公表してブログを執筆して来たため、杉本の記事が名誉毀損に問われ、判決で賠償命令が下された事実を、筆者が第三者に告げたところで、それも「公表できない弱み」を握って脅したことに当たらない。

このように、何から何まで正当な筆者の取立の権利をすべて否定してまでも、筆者が杉本に対して賠償金の取立を行うことを「恐喝未遂罪」などと非難したい匿名のコメント者がいるのである。

しかし、こうしたコメントの方が、まさに筆者に対する恐るべき権利侵害だと言える。
 
このようなことをしてまで、この人々が杉本に賠償金を支払わないよう勧めるのは、なぜなのか? 

それはやはり、彼らが初めから教会を罪に定め、信者を罪に定め、教会に打撃を与え、聖書の神を否定する目的で活動しているからである。

彼らが信者に賠償金を払うことは、教会を富ませる結果になるから、やりたくないのである。

しかし、法的拘束力を持った判決にさえ公然と逆らうことを正当化する彼らの理屈は、まさにすべてが「さかさま」であることがよく分かる。

そこでは、正しい人が罪に定められ、罪人が聖人とされる。

根本的に狂ったこのさかさまの世界観は、彼らが聖書の神を否定していることから生まれる。神を否定した唯物論だからこそ、すべてがこのように白黒反転して見えているのであり、その世界観に基づき、彼らはすべてを裏返しに見て、ありもしないことを主張し、その結果として、厳しく責任を問われて人生を失って行くのである。

彼らのこうした異常なものの見方が、反聖書的世界観が土台となって生まれていることは、村上の記事を一つ一つ丹念に追っていくとよく分かる。

* * *

村上密はほぼすべてのブログ記事において、自分は常に他者よりも上に立って、上から人にものを教えてやれる立場にあるかのように吹聴している。自分を誰よりも賢く、誰よりも事実がよく見えていると考えており、他者から学ぶ姿勢がない。

そのことは、村上の最新記事「故郷の春」を読んでも分かる。

一見、ほのぼのとした記事のように見えるが、結局、言いたいことは自慢話なのだと分かる。

「アカハラは2006年には環境省レッドリストに準絶滅危惧種(NT)として掲載されている。数年前沖縄ではシリケンイモリ(準絶滅危惧種NT)を見つけた。どちらの場所も人に教えるつもりはないが、生物学者で、研究している人には話の内容次第で教えるかもしれない。

村上は科学者ではない。それなのに、自分こそが動物の生態について、学者も知らない物事を知っているかのようにうそぶき、生物学者や、研究者にも、ものを教えてやれる立場にあるかのように表明している。

こうした記述を読んで、「へええ、村上先生ってすごいんですね」などと思う人は、本当に物事をきちんと自分の頭で考察できない愚かな人たちである。学者が動物の生態を観察するためにどれほどの時間を費やすか、それに比べて、全国を飛び回っている忙しい牧師である村上に、彼ら以上の情報を握ることが、どれほど困難であるか、そんなことは考えずとも分かることである。

さらに、その一つ前の記事「幻覚」を読んでみよう。

何とこの記事の中で、村上は、20年前、30年前に「幻覚」が見えていると相談しに来た信者らを引き合いに出しながら、心理学者でもなければ、脳科学者でもないのに、彼らの状態は「シャルル・ボネ症候群」に該当するのではないかなどと、根拠もない病名診断に及び、さらに次のような結論に至り着くのである。

「読み進めて行くうちに、幻覚が深く宗教と関係していることも知った。カルト問題で宗教が避けられ、茂木健一郎氏がマスコミに盛んに登場するようになって、脳科学に人々の興味が移って行った。宗教人口は今でも減少し続けている。「日本は世界で4番目の無宗教国家だ」(1)発表が出ている。」

まず最初に、自分に批判を向けて来た信者や相談者に、次々と精神異常のレッテルを貼り、信者への「病名診断」に及ぶことは、唐沢治の専売特許であったことを思い出す必要があろう。未だに「脳内空転」などというありもしない造語を使って、唐沢は自分に刃向った信者らを精神異常と決めつけて嘲笑している。

次に、唐沢の問題をさて措いても、村上の「シャルル・ボネ症候群」の理解自体がおかしい、ということが分かる。この症状については、次の記事にも説明されている通りである。

真に迫る幻視、シャルル・ボネ症候群 視覚障害のある高齢者に多い 」(時事メディカル 2018年9月4日)
真に迫る幻視、シャルル・ボネ症候群」(医療法人 裕心会 いわい中央クリニック 2018年9月10日)

まず、どちらの記事でも、村上の相談者とは異なり、シャルル・ボネ症候群に陥り、幻覚を見ている人は「本人は,自分が幻を見ていると認識しています。」、「本人は戸惑い「自分はおかしくなったのか?」と一人悩むケースも少なくない。」と記されているように、はっきりと、自分は幻覚を見ているのであって、見ているものが現実ではないことを認識している。

だから、村上が記事で挙げているケース「「度々、夜になると部屋の中で若い男性たちがが来て、座り込むの困る。」(20年前の相談者A)「度々、引き出しの中から知らない動物が飛び出て、部屋の中を走り回るので困る。」(30年前の相談者B)ふたりとも見たように話されるが見ているものは存在しない。と、シャルル・ボネ症候群は、全く異なる症状であることがすぐに分かる。
  
つまり、村上は「オリヴァー・サックスの『幻覚の脳科学 見てしまう人々』(大田直子訳 早川書房)を読んで、それは「シャルル・ボネ症候群」ではないかと思った。この本は2018年に発行された。20年、30年前では、この名称はまだ一般的ではなかった。」などと書くが、村上が引き合いに出している例は、シャルル・ボネ症候群ではあり得ない、ということが分かるだけである。

こうして、村上は手前勝手な理屈を駆使して、研究者でも科学者でもないのに、自分の相談者たちに偽りの「病名診断」に及んだ挙句、さらに「読み進めて行くうちに、幻覚が深く宗教と関係していることも知った。」などと、驚愕の結論に至り着く。何と、宗教が幻覚の原因であるかのように、唐突に話が結びつけられるのである。

果たして、村上が引用しているオリヴァー・サックスの著書が、そんな結論に本当に読者を導いているのかを実際に確かめるために、 本の要約サイトを覗いてみた。すると、脳神経科医である著者は、村上の提示した結論とは、真逆の結論を述べていたことが発覚した。

「つまり幻覚とは、心の病やスピリチュアルな存在からのお告げなどではない。脳がなんらかのきっかけで、いつもと異なるはたらきをした結果というのが、著者オリヴァー・サックスの一貫した見解なのである。

映画にもなった『レナードの朝』をはじめ、脳神経科医らしい鋭い観察眼とヒューマニズムあふれる筆致で多くのベストセラーを著し、2015年に没したサックス氏。同氏の生前最後の著作が本書だ。医師として、また作家として「人間のありようの根幹」を追い求めた同氏の集大成といえるのではないだろうか。」幻覚の脳科学 見てしまう人びと

つまり、オリヴァー・サックスは、幻覚は、断じて精神病や宗教のお告げなどではなく、脳の異常に由来すると指摘しているのである。それなのに、村上はこの著書の結論を勝手に真逆に読み換えて、「読み進めて行くうちに、幻覚が深く宗教と関係していることも知った。」などというトンデモない結論を提示する。

こうして、村上は、巧みに宗教全般を「人間を狂わせるもの」と思わせる方向へ話を誘導し、自分自身がキリスト教の牧師を名乗っているにも関わらず、日本は世界で4番目の無宗教国だなどという統計を提示、まるで「ああ、だから、宗教なんて信じる方が馬鹿なんだ」と言いたげな結論で記事を終えている。

これはどういうことなのだろうか。なぜキリスト教の牧師を名乗る人間が、こんな記事を書くのか。

筆者はこの記事を読んで、かつてカルト被害者の一人が、話してくれたことを思い出した。村上の娘は、かねてより父親の牧会する京都教会を毛嫌いし、村上のもとに相談に訪れる信者たちを「理由(わけ)ありの人」と呼んで軽蔑していたというのである。「牧師の娘にも関わらず、信者を侮蔑するなんて、家庭でどういう教育を施したら、ああいう風になるのか」と、被害者は憤っていた。

そして、村上の娘婿は、前にも述べた通り、教会からリフォームの仕事を回してもらったにも関わらず、事業がうまくいかなかったのか、不明な理由で自殺を遂げている。

村上の発言から見えて来るのは、カルト被害者の指摘の通り、村上が、自分は牧師であるにも関わらず、「宗教なんか信じるから、幻覚が見えるようになったりして、精神を病んで行くのだ」などと、幻覚を見たという相談者の例を無限大にまで拡大しながら、宗教そのものを蔑視し、あるいは断罪し、信者たちを蔑視し、異常者扱いするような結論を記事で示唆していることである。

だが、実際には、何十年も前に見聞きした、シャルル・ボネ症候群に相当しない相談者を、あたかもこの病名に当てはまる患者であるがごとく、根拠もなく断定したり、オリヴァー・サックスの著書が全く述べてもいない結論を、まことしやかに著書の結論であるかのように提示したり、無いものをあるように「見てしまっている」のは、村上自身ではないのか?

ここに筆者は、キリスト教を敵に回すことの恐ろしさがある、と思う。前々からずっと述べている通り、 主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)であり、「無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」のであって、宗教が精神的な病の根源なのではなく、むしろ、逆に、神を畏れないことこそ、精神崩壊の始まりなのである。

それなのに、村上は聖書とは真逆の結論を述べて、神など信じるから、人は精神異常に陥るのだと言いたげな結論へ読者をいざなう。

だが、聖書の御言葉を知ってさえいれば、村上がこの記事で最も述べたい結論は、要するに、聖書とは真逆の唯物論なのだということが分かる。

なぜなら、聖書は言うからだ、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(へブライ11:3)

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント4:18)

聖書は、この世界は、見えるものからではなく、見えないもの(神の言葉)から出来ていると言う。そして、見えるものではなく、見えないものこそ、すべての根源であって、永遠に続くものであると教える。そのような聖書的世界観は、村上から見れば、まさにないものを「見てしまう」という、「精神を病んだ人々」として、蔑視の対象にしかならないのであろう。

ところが、現実は真逆であり、神を畏れ、尊ぶ人たちは、まっとうな生き方をするのに、宗教を侮蔑し、神を畏れない人間、そして、諸教会を断罪しては、信者同士を争わせ、神の教会を侮蔑してはばからない村上たちの活動の支持者らは、どういうわけか、自分は正しいと言い張りながら、判決に逆らって、賠償金を踏み倒したり、あるいは不明な理由で自殺に至ったり、刑事事件で訴えられたり、人権侵害の記事を書き連ねながら、全く反省がなかったりするのである。

神の教会を冒涜し、あらゆる宗教を敵視し、見えるものの根源は見えないものにあるという霊的法則性を否定して、見えるものこそすべての根源であるかのように主張するこの人たちが、彼らの論とは裏腹に、自分たちこそ、精神異常に落ちかかっている様子が見えて来る。
 
そこで、私たちは、村上がすべての宗教に「害悪や、病をもたらすもの」、「胡散臭いもの」、「カルト的なもの」、「悪」というイメージを植えつけようとして、根も葉もない虚偽のプロパガンダを言い広め、キリスト教のイメージを貶めようとしていることを十分に理解した上で、これを鵜呑みにしないように、警戒しなければならない。そして、牧師であるにも関わらず、このような記事を書く人間は、決して、真実なキリスト教徒ではあり得ず、まともな牧師でもあり得ないという結論も、おのずと見えて来よう。

つまり、村上は、聖書66巻が神の霊感を受けて書かれた書物であることを否定した杉本徳久と同様に、偽牧師であり、偽教師であり、偽クリスチャンであり、要するに、反キリストの精神に導かれる人間だということが分かるのである。

ちなみに、筆者は、物事のうわべのありようではなく、その本質を見ている。そして、クリスチャンには、聖書に「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあながたに告げるからである。」(ヨハネ16:13)と記されている通り、御霊によって、将来的に起こることをも、ある程度、予知する力が備わっている。

たとえば、以前にも書いた通り、筆者が2010年に杉本徳久をラスコーリニコフになぞらえ、カルト被害者救済活動が不法行為の温床になっていると記事で警告したときには、まだ明白な不法行為と言えるものは明らかになっておらず、杉本が犯罪行為に問われていたわけでもなかった。

しかし、その後、物事は筆者の予想した通りの展開を辿り、杉本は今やラスコーリニコフからそう遠くない地点に立っている。さらに、筆者が昨年、仮処分の申立てを杉本・村上・唐沢の3名に対して提起したとき(これは一部訴訟に転じる予定で取り下げている)、筆者はこの訴えの中で、3人が共謀しているなどとは全く主張していなかったが(3者の行動にそれぞれ接点があったため、3者を債務者として同時に申立を出した)、1年後にはほとんどそれに近い状況が出来上がっている。

 唐沢などは、自分たちに共謀関係などあるはずがないと、筆者の論を嘲笑っていたが、今、村上が唐沢治の陳述書を公開している有様を見ても、その当時いはなかったネットワークが、今、出来上がっている様子が分かるのである。

こうしたことも、筆者が約1年前にほぼ確実な未来予測をしていたことを示している。

とはいえ、これは筆者自身の予知能力などではなく、何ら不思議な現象でもなく、彼らの活動が本質的に聖書に反するものであることを理解すれば、遅かれ早かれ、この人たちが聖徒らを迫害する目的で、手を結ぶに至るであろうことも、十分に予測しうるのである。

誰であろうと、物事の本質をきちんと見極めれば、将来的にどのように事態が展開するか、実際にその出来事が起きるよりも前に、一定程度、予測できる。

つまり、これは無いものが「見えてしまう」という幻覚の類とは全く異なる事柄なのである。信仰を持たない人々が、いかに否定したとしても、世界は、厳然たる霊的な法則性によって造られており、また、それに従って動いており、その法則は、物理法則と同じくらいに変わらないものである(正確には物理法則を超える)ので、ある人の思想を緻密に分析すれば、その人がどういう人生の最期を迎えるかまで、大体分かってしまうのである。

だから、筆者には、村上も、杉本も、唐沢も、決して平和な人生の終わりを迎えないであろうことが予想できる。KFCは特に、地上のエルサレムの崩壊や、マサダの集団自決などを彷彿とさせるような、ひどい最期を遂げるだろうと予想している。

* * *

掲示板でも引用されていたが、唐沢は記事「最期で分かる男の価値-いかに地上を去るべきか- 」の中で、このようなことを述べていた、「われわれは思索によって生きるのではない、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。その言葉こそが究極の存在であり、いのちの実体なのだ。で、唐突だが、男の死に方。」

この冒頭を読んだだけで、クリスチャンには、何かがおかしい、ということが分かるだろう。「いのちの実体」を語っているはずが、唐突に「死」へ話が結びつけられる。しかも、その間に、復活がない。そもそも、復活という概念が、一度も出て来ないまま、生と死とが結び付けられるだけで話が終わっているのである。

このような世界観を、グノーシス主義的な対極の概念の融合という。「あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪」なるウロボロスの輪というシンボルに象徴される、初めも終わりもない永遠の循環の概念である。

この循環の概念については、過去に三島由紀夫の映画の分析記事(「神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から⑤」)などで詳しく記した。

実際、唐沢が述べているものが、グノーシス主義的世界観であることは、「生と死の間は浮世狂言、脳内の電気と化学物質の生み出すマトリックス。まともに思索したところで空理空論の無限ループ。」という記事冒頭の言葉からも分かる。
 
つまり、唐沢から見れば、世界のすべては存在しないも同然の無であり、生も死も結局は存在しない無限ループでしかなく、本質的に同一だというのである。

そして、唐沢はローマ帝国時代の殉教者たちを、神への愛のゆえに命を投げ出しても信仰の証を守り通した勇敢な信仰の先人たちとは見ずに、むしろ、殉教に死の美学としての肉体の完成を見いだそうとする。

「ローマ時代のようにライオンと戦って殉教するような華々しい場面はないとは思うが、【その時】、ブヨブヨの肉体を晒さないために、これまで鍛えてきた。葉隠にいわく、武士道とは死ぬことと見つけたり・・・。主も言われる-わたしのために魂を捨てる者はそれを得る。得ようとすれば失い、失えば得るのだから。-Jesus」

しかし、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という葉隠の言葉が、決してキリスト教とは両立しない、むしろ、正反対の大変、危険なものの考え方であることは、記事「肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑤~」などで再三再四、指摘して来た。

戦前・戦中の国家神道においても、天皇の御ために身命を捧げることは<略>、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。などと説かれ、天皇のために死を遂げることが、「真生命の発揚」などという言葉でごまかされ、生と死とが、まるで根本的に同一であるかのように、一つの概念へと結びつけられていたのである。

こうして、対極の概念を融合する考え方は、東洋思想の基本である。そして、東洋思想は、本来的にグノーシス主義と同じであることも述べて来たのであって、これは絶対にキリスト教と混じり合うことのない異質な思想である。

というよりも、東洋思想は、それ自体が、キリスト教の「対極にあるもの」であって、キリスト教と己を合体させることで、キリスト教を堕落させることを真の目的としている教えだと言って差し支えない。
 
唐沢はまんまとその罠にはまり、キリスト教と武士道の精神をごちゃまぜにしている上、最近は、禅までも融合したらしい。一体、いくつの非聖書的な思想を無分別に取り込めば気が済むのか、唐沢の信仰は、もはやキリスト教からは遠く遠くかけ慣れた、異端のデパートのようになっている。
 
東洋思想には、復活という概念がない。死を打ち破ることのできる力は、その世界にはどこを探しても、存在しない。そこでは、物質的なものが、本質的なものとされ、一切が究極的には無である、とされる。つまり、唐沢の言葉で言えば、何もかもが「脳内の電気と化学物質の生み出すマトリックス。」という結論に至り着くのである。むろん、人間もである。

従って、本来的に無であるものが、どういう扱いを受けようと、損失も、痛みも、発生するはずはなく、また、見えている有様は、本来的なものでなく、無こそが本来的な姿であるとされるので、この世界観にとらわれた人は、己の無なる本質を証明するために、生きているうちから、死を目指すことになる。
 
唐沢は、かつては十字架における死と復活を頻繁に語っていた。しかし、それも借り物の教義に過ぎなかったのか、今やあからさまに肉の思いは死であり、」(ローマ8:6)との御言葉が示す通り、生を語っているようでありながら、あからさまに死を語るようになっている。

苦痛を避けて、美しい人生の終わりを迎えたいなどと書いているが、彼の信奉する三島由紀夫の終わりも、ウォッチマン・ニーの終わりも、決してそんなものではなかった。

筆者は、唐沢のこうした思想を見るにつけても、彼とKFCは決して平穏な終わりを迎えないことを心から確信せざるを得ない。
 
唯物論とは、見えるものと、見えないものの秩序を逆転させて、見えるもの(物質)を見えないもの(神の御言葉)よりも重視し、神の神殿たる人間を、神ご自身以上に高く掲げる聖書に対する反逆の思想である。

それは男と女との秩序をも覆し、人自身における霊魂と肉体の秩序をも転覆し、肉体を魂や霊以上に重視し、最終的に、人間を自己破壊へと至らせる。肉体を重んじる、と言いながらも、最後は己の肉体の破壊で幕を閉じる思想である。これは決して変えられない法則性であり、数多くの人たちがこの思想の虜となって、非業の死を遂げて来た。だからこそ、それは死の美学を形成するのである。

自分たちはエロヒムだ!と豪語する唐沢は、自分たちを神々だと称して、諸教会に君臨し、教会を「ニッポンキリスト教界」と呼んで、盛んに侮蔑・罵倒することで、エクレシアを蹂躙・冒涜している。そして、自分に刃向って来た信者や、自分のもとを去った信者を呪い、断罪し、罵倒している。

だが、そうすることで、結局のところ、唐沢は、神の神殿として造られた宮である自分自身を否定・蹂躙・冒涜しているのである。

キリスト教徒の殉教は、決して肉体美の誇示のためではない。にも関わらず、唐沢は、これを信仰の完成としてではなく、肉体の完成であるかのように受けとる。そして、殉教者たちが、神を愛するがゆえに、命がけで信仰を証したのではなく、自分の肉体美を保存するために死へ赴いたかのようにとらえる。そして、自分の肉体を老いさらばえる前に保存するために、その死にならいたいと憧れている。ものの考え方としては、三島と同じである。

唐沢の考え方には、ただ見える世界だけがあって、見えない世界は存在しない。
 
だからこそ、筆者は余計に、唐沢がいかに「脳内空転的に三島のように腹を切るのもグロ。今回の西部氏の老人性鬱病と間違われるような最期もね。要するにキレイに逝きたいと思うのだ。」などと言っていても、彼の生涯の終わりは、非常に象徴的な自己破壊となり、苦痛を免れられないであろうと思うのだ。村上の愛読書がフィリップ・ヤンシーの『苦痛』であって、そこには次から次へと激痛に呻く人々が登場して来ることも、よく似ている気がする。

唐沢は、死は肉体の完成であるとして、「死の美学」を語りながら、己の肉体を破壊する方法を絶えず思いめぐらしているようにしか、筆者には見えない。死のカタログのページをめくって、どのような死に様が自分にとって良いかを絶えず思いめぐらし、絶えず死に憧れて、生を語りながら、死へと至り着かずにいられない唐沢の中に、すでに彼の最期が明白に表れていると思うのだ。

しかし、私たちは断じて、このような唯物論的「死の美学」を信奉する者ではない。

「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。」(ローマ8:6)
「義人は信仰によって生きる。」(ヘブル10:38)
もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。<略>わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ6:5-8)
 
私たちは、キリストと共に十字架で死んで、彼と共によみがえった者として、すでに死の脅威からは解き放たれている。とはいえ、日々、自分の十字架を負って、主の霊的死を身に帯びるからこそ、そこによみがえりの命が働き、私たちは生きる。

そういう意味では、私たちに霊的死は必要であるが、それはあくまで霊的死であって、肉体的死を目指すものではない。だから、筆者は、自分がどのように死ねば、満足を得られるのか、と、死に様を思いめぐらすようなことはない。むしろ、生きている間に、何を成し遂げれば、御心の満足になるのか、と思いめぐらし、時間を惜しんで、御国の前進のために働いている。

筆者は、キリストと共なる古き人に死んで、もはや自己満足のために生きているのではなく、筆者のために死んでよみがえって下さった方のために生きているのであるから、束の間に過ぎない地上における自分の美を保存するために、まるで自分を冷凍保存するように、死というガラスケースの中に閉じ込めようなどとは間違っても思わない。

いずれにしても、キリスト教を罪に定め、神を信じる敬虔な信者たちを「精神異常者」呼ばわりし、信仰を侮蔑し、教会を冒涜するこれらの牧師たちは、自画自賛し、信者たちを病人呼ばわりした舌の根も乾かないうちに、自分たちは、率先して、病どころか、激痛や、死を慕い求めながら、罪に罪を重ね、破滅へ向かっているのである。
 
 
<続く>


生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2:19-21)

さて、判決を思うと言い知れない喜びが込みあげてくる。あまりにも嬉しくて、同じ言葉しか書けない。おそらく、判決を受け取った後も、生涯に渡り、この喜びは続き、忘れ得ぬ出来事として心に刻まれるであろう。予め関係者に幾度も深く感謝を述べておきたい。

このようにすがすがしい気持ちで、決着を迎えられることは、本当に神の恵みである。

筆者はこの戦いを立派に戦い抜いて、すべての責務を果たした。必要な努力はすべて払った。協力してくれたある人は、「そんな素敵な裁判があるんだね」と、顛末を聞いて感心していた。

だが、今回の戦いにおいて真に問われたのは、当ブログが標題に掲げている通り、筆者が「私」に立つのか、それとも「キリスト」に立つのか、という事実であった。

当ブログは2008年に始まり、2009年に暗闇の勢力から激しい争いをしかけられ、それ以来、ずっと戦いの最中にある。その間、暗闇の勢力は、筆者の名誉を傷つけ、筆者の様々な個人的権利を侵害し、かつ、侵害すると脅すことで、筆者が自分自身を惜しみ、「私」の利益を守るために、この信仰の戦いを途中で投げ出して退却するよう、再三に渡り促して来た。

もしもこのブログがただ筆者の趣味の披露が目的で開設されたものであれば、筆者が「私」を擁護して立ったところで、それは罪にはならなかったであろうし、このような迫害に立ち向かってまで続行する意味もなかったはずだ。

だが、当ブログは聖書の御言葉の正しさを公然と世に証しし、神の国の権益を擁護するために存在しているわけであるから、人の生まれながらの肉なる要素に頼るわけにはいかない。

自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:25-26)

もしも筆者が自分の命を愛するのであれば、様々な脅しや権利侵害に立ち向かって、信仰の証しを続けることなど、到底、不可能であり、困難や、迫害が起きれば、早々に退却するしかない。だが、そうして途中で退却して、神を捨てるくらいならば、初めから何もしない方が良いと筆者は確信している。

今、筆者がどんなことよりも望むことは、父なる神のおられる聖所で、主と共に過ごし、神を礼拝する幸いな人生を送ることである。この世の人々からの頼りなくはかない賞賛や栄誉と引き換えにそれを捨てることなど、断じてできない。

そこで、筆者は肉を頼みとすることを徹底的に拒み、バアルの預言者の前に立ったエリヤと同じく、今でも祭壇に何度も水をかけ、「あえて事を難しく」している。

筆者は人前に、聖人のような人間としてではなく、罪人の代表格として立ち、かつ、神の御前にも、敗れ口に立って執り成す者として進み出たいのだ。

そして、イエスが門の外で辱めを受けられたように、今日の背信の教会が向けられるべき非難と蔑みの言葉を身に背負い、営所の外で苦しみを受けつつ、見えない都へ向かって進んでいく。

これは義人ヨブが神の御前で、「私は塵灰の中で悔い改めます」と述べたのと同じ姿勢である。ヨブに悔い改めねばならない罪があったわけではない。だが、神はヨブに人類の代表として、信仰者の代表として、神の御前にへりくだり、全被造物が塵に過ぎないことをあえて告白し、ただ神にのみ栄光が帰されるよう、己の義を完全に投げ捨てるよう求められた。

アブラハムとサラが百歳になってからようやく与えられた約束の子イサクも、一度、燔祭の犠牲として、霊的に屠られ、死をくぐらなければならなかった。

信仰の先人たちはみなこの十字架の死と復活という同じ過程を辿ったのである。

だから、筆者も、祭壇に自分を横たえ、通常人が誇りとし、頼みとするすべてのものが無価値とされ、死に渡されることに同意し、「私」にまつわるすべての利益を、完全に主と共なる十字架で投げ捨てる。

その結果として、そこに死と復活の原則が働き、失われた「私」の代わりに、「キリスト」が生きて下さる。この方は義なる方であって、決して罪に定められることがない。

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられた良い香りです。

滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(Ⅱコリント2:14-17)

神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に加えて下さり、私たちを通じて、至るところに、キリストを知る知識の香りを漂わせて下さる――この霊的事実は、今回の争いの決着にも現れるだろう。

表向きには、司法の争いは、すべて個人の人権を擁護するために起こされるものであるが、筆者は己の命を擁護するために、この争いを起こしたわけではなく、神の御前に己を完全に投げ捨てることによって、逆説的に、再び命を得て、勝利を勝ち取ろうとしている。

今回、こうした信仰的な議論を深く理解できる裁判官が、この事件を担当してくれたことにも、神の大きな采配が働いている。以前にも書いたように、市民は訴えを出すに当たり、裁判官を選ぶことはできない。だが、神は、人の知恵や思惑を超えたところで、この事件に最もふさわしい人を采配して下さったと信じている。

これまで当ブログには、裁判官の書いたものとして、被告からの移送申立が却下された書面を掲載しているが、それを読んでも、この裁判官が、この世の人でありながら、いかにこの事件の核心部分を的確にとらえているかが読者にもよく分かるはずだ。

筆者はこの文章を読み、そして、口頭弁論の進め方などを見て、この裁判官ならば、間違いなくこの紛争を正しい結論に導くことができるという確信を、かなり早い段階で心に得ていた。その確信があればこそ、あらゆる困難に立ち向かい、また、反訴や控訴の脅しに屈さず、不本意な和解を退けて、判決にたどり着くまで、根気強く戦い通すことができたのである。

ただし、掲示板に対する捜査や、その他の刑事事件は今回の裁判結果には反映していないため、こうした事件の解決はまだまだこれからである。
 
読者も知っている通り、元来、当ブログでは、信仰に関する議論を、信仰のない人々の前に持ち出すことには反対であったので、それにも関わらず、このような争いを起こさねばならなくなったことは、それ自体が極めて不本意であると言う他ない。

だが、今回の裁判では、筆者は予想だにしていなかった大きな喜びに満ちた収穫を得ることができた。この紛争は、繰り返し述べて来たように、最初から最後まで、すべてが信仰の証しに満ちており、関わる人々の心に、神が直接、働きかけて、ご自分の偉大さを現して下さったからである。

そこでは、筆者の生まれながらの人としての誇りではなく、ただ神の栄光だけが証しされた。このことに筆者は本当に満足している。

なぜなら、私たちは、自分自身を証ししているのではないからだ。この方だけが――この見えないお方だけが、我々の希望であって、栄光を受けられるべき唯一の方であり、私たちはこの方の栄光、この方の利益のために、世から召し出され、贖い出された民なのである。

だから、筆者はキリストと共に喜んで十字架で自分を死に渡し、もはや生きているのは私ではない、と宣言する――。

こうして、世の人々の前で、聖書の御言葉の正しさを証明し、そして、神が筆者を愛して下さった、その愛の大きさを、証明することができたことは、他のどんなことにも代えられない恵みである。

今、筆者はこの訴えを出したがために、以前にもまして様々な権利侵害と中傷をこうむっているが、そのことに一切、筆者は落胆しておらず、読者もまた落胆などする必要がないことを述べておきたい。

神はすべての事柄を見ておられ、ご自分の子供たちを擁護するために必要な措置をなして下さる。神は間もなく、ヨブのために失われたすべてを回復して下さったと同様に、筆者の失われた利益をも余すところなく回復し、花嫁の帯の飾りのように、以前にもまして多くの宝で飾って下さるであろう。

従って、筆者を蔑んだ人々は、裁判結果もさることながら、そうした事態の成り行きを見て、唖然とすることであろうと予想する。それによって、また改めて私たちの主イエス・キリストの偉大さと、愛の深さが証明されることになる。

この紛争を通して、もう一つ明らかにされたことは、今日の目に見える教会というところが、いかに信仰を持たない人々の危険な運動によって占拠され、聖書の正しい信仰に立脚しなくなり、この世の人々から見ても、近寄ることが危険な場所になりつつあるかということである。

筆者はキリスト教徒であり、聖書の教えが正しいことを、揺るぎない確信と共に、公然と証しており、これからもその証を続けるつもりであるが、読者には、当ブログに降りかかった数々の出来事をよく見て、目に見える教会や、目に見える宗教指導者には、これからも決して近づかないように改めて警告したい。

そして、改めて、目に見えるものでなく、見えないお方に目を注いで歩むよう読者に勧める。また、私たちがこうむっている艱難を見て、落胆などしないでもらいたい。それは非常に一時的で軽いものでしかなく、私たちには、これを耐え忍んだことの報いとして、比べものにならない重い永遠の栄光がすでに用意されているからである。

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:16-18)


人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は、自分の身に裁きを招くでしょう。

実際、支配者は、善を行う者にはそうでないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。

しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。

だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。

すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(ローマ13:1-7)

改めて以上の御言葉が心に思い起こされる。

いくつか前の記事に、私たちは裁判官も含め、地上で立てられたすべての権威に服すべきということについて書いた。そうしないことの恐ろしさがどんなものであるかを、筆者はすでに結審した裁判の過程で十分に思い知らされたと言える。
  
今回、被告となった人々は、すでに結審したその訴訟のみならず、他の裁判においても、幾度も裁判所の判断を信頼しない姿勢を示して来た。彼らは自分たちにとって不利な判決が出ると、早速、「裁判所はこの世の機関であって、信仰の世界には疎いから・・・」という言い訳がましい弁明を持ち出し、自分たちにとって不利な判決を尊重しない姿勢を示して来たのである。

そのように、ご都合主義的に地上の裁判所の権威を利用して来た被告らの一人は、筆者の提起した裁判では、ついに裁判所の決定を「不法行為」であるとまで言い立てた。

詳細はここには記さない(それを記すのは、すべてが終結してからのことになろう)が、筆者が行ったある申請が裁判所によって許可されたことが許せないがために、被告はついに裁判所が「不法行為」を働いているとまで言い始め、裁判官の権威をさえ否定するような主張に及んだのである。

その主張を書面で読んだとき、筆者は、ついに来るべき瞬間が来たなと感じた。彼らはこれまでにも自分たちにとって不利な決定は何であれ、認めない態度を取って来たが、今となっては、ただこれまでのように、教会の権威に逆らうだけでなく、地上の権威にも逆らい、ついにおよそ自分の上に立てられた権威という権威をすべて否定して、自分はどんな裁きにも服さず、自ら裁き主となって、神に等しい権威者になろうとしていると筆者は感じ、そのような発言を非常に恐ろしいものであると感じたのである。
 
そして、その恐るべき発言を聞いたからこそ、筆者は、決してその姿勢にならってはならず、そのために、我々は信仰を持たない人々の決定であっても、自分の上に立てられた権威の前に、己を低くして、徹底的に従順な姿勢を貫かなければならないと固く心に留め、そうすることを決意したのである。
  
我々の上に立てられた信仰を持たない権威者は、彼らも人間であるから、しばしば、弱さも見せるであろうし、判断を誤りかけることさえあるかも知れない。しかし、もし我々が誰かを自分の上に立てられた権威者として選んだのであれば、私たちはたとえ彼らの弱さや限界を知ったとしても、それにつけこんだり、利用したりすることなく、彼らの人格を理解し、受け入れた上で、彼らが我々との関わりの中で、共に正しい判断へと至り着くことができるよう、最大限の努力を払わなければならない。私たちはそのために、仕える人々とならなければならないのである。

筆者はちょうど裁判が結審した日に、裁判官のみならず、自分の職場の上司に従うのかどうかも試されていた。その日、出勤するのか、それとも欠勤するのか、という選択が、死活的重要性を帯びる問題となったのである。

職場にはそれぞれ異なるルールがあり、自由に欠勤できる職場もあれば、欠勤が非常に厳しくマイナス評価される職場もある。その職場は、早退の許可を得ることさえ容易ではなかった。
  
筆者は、期日よりも前に早退の許可を願い出ていたものの、期日当日の朝になってから、審理の時間に遅れてはならないことを考え、いっそ大事を取るため、何か理由をつけて欠勤した方が良いのではないかと思いめぐらした。しかし、仕事も重要な時期であったので、やはり申告通り、勤務を早引けして審理に駆けつけることにした。

そして、それが正解だったのである。その日、出勤してから、改めて早退の旨を上司に告げると、不思議なことに、筆者が何も願い出ないうちに、上司から前もって申告していた時間よりも30分早く前に早退して良いと許可が出た。そのおかげで、筆者がいつもと異なる駅で降りたために、出口を間違えて道に迷ったにも関わらず、予定時刻に全く遅れることもなく、余裕を持って期日に到着することができたのである。

しかも、その日、裁判所の周辺では、パトカーが不法駐車を取り締まっていた。それは筆者が初めて見る光景で、これまで裁判所付近の道路には、広い駐車場もないため、常に色々な(業者も含め)車が止まっていた。そして、取り締まりなど一向に行われている気配もなかった
 
それなのに、その日には、パトカーが来てラウドスピーカーで停車中の車に向かって立ち退きを呼びかけていた。明らかに、その後、立ち退かない車には罰金が科されていたか、強制的に撤去・移動させられていたに違いない。従って、もしもこの日、筆者が職場を欠勤し、車で裁判所に向かうようなことがあれば、その後、何が起きていたかは保証の限りではない。

そうした出来事や、すでに書いた通りの結審の運びを見て、筆者は、この日、地上で立てられた権威者に従うかどうか、筆者の内心が試されていたのだと理解したのであった。
 
それは天から筆者に下されたテストのようなものであった。もしも筆者が、突発的な欠勤の一日くらい大したことはないと考えたり、もしくは、職場の上司であれ、裁判官であれ、あるいは警官であれ、誰か一人に対してでも序列および信頼関係を崩すような行為に出ていたならば、それだけでこの日受けられた一切の輝かしい勝利の結末を失わせるに十分な効果を発揮したであろうと疑わない。
 
 繰り返すが、我々の上に立てられたさまざまな身近な権威者には、人間としての弱さや限界も存在するかも知れない。たとえば、職場にたくさんの上司がいたとして、その全員が、私たちの気に入るわけではないであろうし、過度に厳しいルールが課されているかのように感じられ、改善が必要と思うこともあるかも知れない。あまりにもがんじがらめの自由のない規則に対しては、私たちの心は反発を覚えるであろう。

だが、そういった問題と、我々が権威そのものに従うかどうかという問題は別問題なのである。ルールは運用が変わったり、改善がなされたりして、変化して行く可能性がある。上司の顔ぶれも変わるであろう。

だが、現時点で定められているルールが不完全なものであったとしても、私たちはそのことを口実に、その背後に存在する権威を認めないことはできない。同じように、上司の人間性に限界が見えたとしても、私たちはそれを口実にして、その人に与えられた権威そのものを否定するという行動に出てはいけないのである。

言い換えるならば、神が立てられた権威はすべて、その権威者の人間性と、実に不思議なユニークな形で一つに結びついている。人間であるからこそ、長所もあれば、短所も存在するが、生きた人格を持った人間が、権威を行使し、決定を下すからこそ、その権威にはかけがえのない価値があると言える。

私たちは、権威者はいくらでも交替が可能であるように思っているかも知れない。首相も交替すれば、大臣も交替し、政治家も変わり、役所の職員などは、すべて交替可能な要員に見えるであろう。機械でも代行できるような仕事だと思う事さえあるかも知れない。誰が決定しても、同じ結果が出ると思うこともあるだろう。

しかし、実際にはそうではないのだ。私たちがさざまなところで出会う権威者は、実は一人一人が、人格を持ったユニークな存在であり、彼らの権威の行使は、彼らの人格や、彼らの人間的な判断と一つに結びついており、それは決して他の人々に真似ができるものではないし、二度と繰り返せるものではない。しかも、それは我々との関係性の中で行使される権威なのである。

従って、彼らが行っていることは、単なる職務上の処理や、偶然に過ぎない出来事のように見えたとしても、実際には、その一つ一つが、彼らの人間性の発揮であり、我々との人間関係なのであり、そうであるがゆえに、それは非常にユニークでチャーミングな権威の行使であると言える。しかも、それには我々の側からの関与も求められる。

そこで、どんなに些細な決定であれ、それは人間の自由意志の行使、また自己決定・自己表現の一つの形態であり、人間社会の方向性を決定づける上で、見逃せない意味や効果を持つものなのである。

そのため、我々はただ単に、権威者が自分にとって有利な決定を下せるからという理由で、彼らが持っている権威だけを恐れ、尊重するわけではなく、あるいは、自分に有利な決定が欲しいから、面従腹背の態度を取り、うわべだけ従うわけでもなく、その権威者の人間性にも注意を払い、彼らを全人格的な存在として敬い、認める必要がある。

それは、我々がちょうど神に仕え、神を愛するように、自分の上に立てられた地上の権威者たち、上司たちを敬い、仕えるべきことを意味する。ただし、これは私たちが、人間に過ぎない者を、まるで神のように思って絶対服従するとか、一切の不服を申し立ててはいけないという意味ではない。

私たちは地上の人間に対していかなる異議申し立てもしてはならないわけではない。変えるべきルールというものも存在する。しかし、権威者に対する異議申し立てを行う上で、重要なのは、上司への異議申し立ては、まず部下の側から上司への心からの敬意と従順と信頼の裏づけがあって、初めて効力を帯びるということである。信頼関係が構築されていないのに不服を申し立てることは、序列の転覆、人間関係の破壊につながり、本質的には反逆という要素をはらむ行為である。

そこで、私たちは、自分の上に立てられた権威者の人間的な欠点や弱さや限界をも理解した上で、彼らに心からの従順を示す必要がある。彼らに言いたいことがあるならば、信頼関係が損なわれない方法で、彼らの人格を尊重しつつ、助言や忠告を上に上げる必要がある。そのような配慮が必要なのは、私たち自身も、彼らと同じように、欠点や弱さや限界を持った存在であり、彼らの権威によって、尊重され、守られるべき立場にあるのに、その保護を失わないためである。

このような話を持ち出したのは、筆者が審理を抱えていた日に、単に一日、仕事を欠勤するかどうかという問題でさえ、心の深い所では、筆者の上司に対する態度、職場全体に対する態度、自分の上に立てられた権威者に対する態度を如実に示していたと思うためである。

その日から今日に至るまで、テストはずっと続いている。そのテストとは、筆者が自己の力を誇るためのものではなく、むしろ、自己を手放すことを求められるテストであり、自分の都合、自分の事情、自分の思い、自分の手柄を失い、自らの栄光を手放してでも、自らの上に立てられた権威に従えるかどうかを試すテストである。

私たちは一人一人が不完全さを持った人間であり、自分の事情、自分の都合、自分の利益を最優先したいと考える思いが出て来る時がある。そして、上に立てられた権威者に向かっても、まずは自分の事情を訴え、それを理解してもらうのが当然、という態度を取ろうとする。

だが、権威者は部下の事情を真っ先に考えて行動すべき立場にはない。そして上司と部下は、互いの弱さや欠点をも知りながら、共に協力して正しい決定を下して行かねばならない関係にある。そこで、もし私たちが自分の上司に対して、もっと我々のために自由を与えて欲しい、理解や配慮を示してほしいと願うならば、まずは部下としての私たちの従順が、正真正銘、心から真実なものであることが証明されねばならない。

そうすれば、その従順は、信仰を持たない上司にも、大きな影響をもたらし、彼らの心を動かす力となり、彼らが私たちを信用して、私たちの言い分を耳を傾け、正しく権威を行使して、私たちにより多くの自由を与え、さらに世の中をあるべき正しい方向へ向かわせる決定を下すきっかけとなりうるだろう。

だが、それとは逆に、もしも私たちが上司たちの人間的な限界、弱さ、欠点といったものにばかり目を向け、それを口実にして、彼らの人格だけでなく、彼らの権威までも否定し始めるならば、結果として、正しい決定が下される大きなチャンスが失われてしまうだけでなく、その権威者と私たちとは信頼関係を失って、互いが疑心暗鬼に陥り、あるいは離反し、ついに双方ともに暗闇の勢力に引き渡されるということが起きうる。

その結果、上司たちは部下を憎むようになり、部下に対して悪を行使するために、自らの権威を濫用するようになり、部下の側でもいつまでも上司に対する不服だけを心に抱え、いつか秩序を転覆してやるなどとクーデタの機会を伺うようなことが起きかねないのである。

しかし、本来、上司と部下はそのような存在ではない。それはキリストと花嫁なる教会がそうであるように、協力して正しい行いを成し遂げるべき関係である。

今はあまり時間がないので、この程度にとどめるが、これは非常に奥が深く、かつ重要なテーマなので、この先も、何度か繰り返すことになるのではないかと思う。

結論をもう一度述べる。私たちはクリスチャンとして、地上で立てられた権威に対して、従う姿勢を見せるべきである。それは主に従うように、上司に従うことを意味する。改善すべきところは提案し、不正には決して加担しない態度を取りながらも、私たちは上司に何か提案する時にも、権威そのものを決して否定しない態度を取るべきである。そして、自分の上に立てられた権威者も、弱い人間であって限界があり、いつ誤った判断に陥るか分からない恐れがあることを十分に理解して、彼らの弱さを助長したり、つけこむようなことを決してせずに、むしろ、彼らがその弱さを乗り越えて、真にあるべきふさわしい形で己が権威を行使し、大勢の人々に正しい影響を及ぼすことができるよう、絶えず祈り、願い続け、それを助ける姿勢を持つべきなのである。

私たちには、自分の上に立てられた権威者のためにとりなし続けることが必要である。だが、そのためには、私たちが口先だけで、自分以外の他人の振る舞いだけを正そうと、もっともらしい言葉を並べることが必要なのではなく、何よりもまず、私たち自身が、日々自分の十字架を取って、主の死を共に身に帯びることが必要である。我々自身に、主と共なる十字架が適用されていないのに、我々が何千、何万語を費やして正しい主張を語ってみたところで、そのすべての言葉はむなしい。私たちがどれほど神に従順であるかという度合いが、地上の権威者への従順の度合いをも決定するのである。

この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。

「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊(魂と霊)、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(ヘブライ4:12-13)


「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

今日のオリーブ園の記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (10)」(オースチンスパークス)も非常に意義深い。

 「エホデはこれを対処しなければなりませんでした。彼は太った人であるエグロンを対処しなければなりませんでした。さて、聖書に記されていることにはみな意義があります。エグロンは円もしくは丸いことを意味します。聖書は「さて、エグロンはとても太った人だった」と述べています。

とても太った人は、あまり多くのエネルギーを使ったことのない人です(私は攻撃的になりたくありません!)。単なる口先だけの者は、とても自己充足しており、自分のことでいっぱいで真の霊のエネルギーや力がない、という雰囲気を帯びています。それは一種の満ち足りて自己満足・自己充足しているものであり、決してあまり多くのことを行いません。

エグロンは彼の夏の部屋で素晴らしい快適な時を過ごしていました。この肉、この満ち足りた、快適で、宗教界の中で自己満足している天然の人が入って来て、神の民を支配します。「円」を意味する彼の名は、口先だけの者は円を描いて進み、決してどこにも辿り着かないことを示唆するように思われます。口先だけの者――これがエグロンです。

そしてエホデはこれを、それ自身の根拠に基づいて、神の御言葉という両刃の剣を用いて対処しました。そして、口先だけのものと本物とを真っ二つに切り分けるほどに刺し通しました。エホデの名が「告白」を意味するのは興味深いです。彼は口先だけのものに反対しました。この二つの証しの間には大きな違いがあります。その詳細は霊的背景の上にとても多くの光を投じます。


 主が私たちに告げたいのは次のことのように思われます。すなわち、霊の力は主イエスの全き主権の中に立つ問題であり、それをあなたの生活の中で個人的・団体的に知る問題なのです。それに必要不可欠なのは、あなたが主を生き生きとした個人的・実際的方法で知ることであり、あなたの生活が単なるキリスト教的生活ではなくなることです――あなたがその中にあるのは、その中にいることが良いことだからでも、自分に宗教的傾向があるからそれに興味を持っているからでもなく、その中にいざるをえないからです。あなたはその中に上から生まれたのです。」

円には完全という意味もあるが、当ブログにおいては、円とはどこにも行きつかない永遠の堂々巡り、人類が自力で神の懐に回帰して、神と分離される前の一体性を取り戻そうとするむなしい努力、すなわち、被造物を造物主と取り替えようとするグノーシス主義思想における「鏡」、相矛盾する概念の統合であるウロボロスの輪、東洋思想における永遠の混沌との一体化である「道」、禅においてすべてがさかさまになった「大円鏡智」などを意味し、すべて人類が歴史を逆行して自力で神に回帰しようとする不可能な努力のことを指していると示して来た。

そういう意味で、士師記に登場する、神が起こされた勇士エホデが滅ぼした、イスラエルを虐げていたモアブ人の王エグロンの名が「円」を意味することは興味深い。

(筆者はここで筆者がかつていたこともあるキリスト教の集会でクーデターを起こして集会を乗っ取った人物(夫妻)が、共に太った人物であったことを思い出さずにいられない。夫妻ともどもに非常に似た者同士だったのである。

筆者は外見で人を判断したいとは思わないし、外見がすなわち人の性格を表すものだとも言わないが、彼らの場合は例外で、彼らの外見は彼らの内面をよく表していた――自己を制御できない状態、貪欲さ、動物的で野卑な性格、忍耐のなさ、性急さ、緩慢さ、感覚の鈍麻といった内面の状態をはっきりと表していたのである。だから、筆者はこの集会のリーダーに向かって、この人々の危険性を告げたとき、彼らはなぜあれほどまでに太っているのか、という質問を投げかけたことがあった。他方、集会のリーダーは外見に非常にこだわりのある人物で、外見を鍛え上げ、自己鍛錬に励んでいたが、そのような人物が、自分のポリシーと相容れないエグロンのような人々と和合したことも、非常に象徴的であった。人の生まれながらの自己から発生するものは、何であれ、円を描いて対極のものと結びつき、腐敗して行くのである。)

 
  
異端思想(神秘主義)のシンボル
エグロン=円=輪=和=日輪=道=ウロボロスの輪=大円鏡智=グノーシス主義の鏡


こうして、神と人との区別を否定するすべての異端思想(神秘主義思想)が、相矛盾する概念の統合、循環する時間軸として、円というシンボルで表されるのに対し、聖書に基づく正統なキリスト教の時間軸は、直線であって、円ではなく、そこでは矛盾する概念が一つに溶け合うなどのことは絶対に起こらない。正統なキリスト教にはアルファ(はじめ)とオメガ(終わり)があって、それは決して円を描いて一つに結びつくことはない。

聖書は、神の御言葉には、切り分ける(切断する)機能があるとしており、それは何よりも人の生まれながらの腐敗した命の働きと、神の新しい聖なる命の働きとを鋭く切り分ける。その切り分けの機能は、ちょうど旧約聖書において、いけにえとして神に捧げられた動物が幕屋で解体される場面になぞらえられる。

エホデの名は「告白」を意味し、その言葉は、ちょうど黙示録に登場する「証しの言葉」に一致する。クリスチャンは小羊の血により罪を清められ、キリストの復活の証人として、神の御言葉の正しさを証言する人々である。聖書の御言葉が神に属する聖なる永遠に続くものと、神に属さない滅びゆくものを切り分ける機能を持つならば、御言葉を告白する人々の証しも、同様に、すべての物事を切り分ける機能を持つ。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

エホデがエグロンを対処したことは、今日、私たちが口先だけで十字架を唱えながらも決して自己を主と共なる十字架において死に渡そうとしない相矛盾した態度を捨てて、厳粛に御言葉に服し、生まれながらの自分自身に対する死の宣告を受け入れることを意味する。

エグロンのように天然の命に基づいて、緩慢な滅びである円を描いて生活する人々は、信者の中にも、あまりにも数多く存在するが、私たちは彼らにならうことなく、自分自身が、祭壇の上に捧げられた供え物として、まことの大祭司なる主イエスの御言葉の切り分けの機能の下に服し、切断されることに同意しなければならない。

裁きは神の家から始まる――私たちは世が滅びるよりも前に、世から召し出された者として、真っ先に神の裁きに服する者たちである。今日、主の民全体が、両刃の剣よりも鋭い神の言葉によって刺し通され、対処される必要があるが、私たちはその代表として、神が立てられたエホデである御言葉の剣を取り、自分自身の内側にあるエグロンが刺し通されることに同意する。

私たちはいついかなる瞬間にも、自分がゴルゴタで主と一体となって、この世に対してはりつけにされて死んでいることを認め、告白する。ただこのキリストの十字架によってのみ、地獄の全軍勢が、私たちに手出しをする力を失い、かえってその勢力がキリストによって征服されて、彼の凱旋の行進に捕虜としてさらしものとされるのである。


あなたを離れ、あなたから別れて帰るよう、私にしむけないでください。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。

「ルツは言った。『あなたを離れ、あなたから別れて帰るよう、私にしむけないでください。あなたが行かれる所に私も行き、あなたが住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。死以外のものによって私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰して下さいますように』」。」(ルツ記1:16-17)

このところ、オリーブ園のブログに掲載されているオースチンスパークスの連載はまことに身につまされるような厳しい内容が続いている。主の民の敗北や後退がテーマとなっているからだ。主の民が神に従う上で、どれほど妥協を繰り返したか、それによって、どれほど前進が妨げられたか、引用すると、あまりにも厳しい内容になりすぎるのではないかと心配に思われるほどであった。今日あたりの「「霊の力の回復」第三章 主と共に進み続ける (9)」で、ようやく希望ある結論が見え始めた。

神の召しに従うためには、私たちの側からその召しに積極的に応答するという過程がなくてはならない。神は多くの人を招いておられるが、その招きに従う人もいれば、従うことを断る人々もいる。真に神を満足させる働きをして、主と共に大いなる栄誉にあずかるためには、私たちは絶え間なく新たな霊的領土を獲得することを目指して前進し続けなければならないが、それは非常に骨の折れることであって、しかも、自分の限界を絶えず思い知らされながら、これを打ち破らなければならない戦いとなる。
 
私たちの前進とは、自分の考えに基づいて進むのではなく、常に人間の心の思いを超えた神の最善の御旨を探し続け、自分の満足ではなく、神の満足を追い求めて進み続ける姿勢を意味する。そこに到達するためには、日々の十字架を取って主に従う決意が必要であり、厳しい犠牲をも厭わず払い続ける姿勢が必要なのである。

多くの人々は、その途中で挫折してしまう。それは、彼らが自分には限界を打ち破る力がないと思い込んでしまうことによる。この人々は、いわば、神の最善が何であるか分かっているのに、次善で満足することを選んでしまった人々である。

次善には次善らしい長所や利点があるが、それでも、次善はただ最善ではないというだけの理由で、本質的に悪なのである。

しかし、主の民はしばしばこの点に欺かれる。それは人々が、人間の目に心地よく、人間の感覚にとって好ましく、人間に恥をかかせず、人間の望みを手っ取り早く満たし、人間を傷つけないように見えるというだけで、次善を最善と勘違いしてそれを選び取ってしまうことによる。

今日の多くの教会は、社会的弱者支援などの、人間に利益をもたらす、人の目に優しい活動には熱心に精を出すかも知れないが、神の栄光が傷つけられても、見向きもしない。人間の利益のためならば、人の心(自分の心)が傷つけられないためならば、いくらでも立ち上がって声を上げるのに、神の利権が脅かされ、御名の権威が否定されても、声を上げる者もない。

そのような状態が今日のクリスチャンを取り巻く状況ではないだろうか。神の教会が、どれほど脅かされても、そのために立ち上がる者もなく、声を上げる者もないのは、あまりにも多くの教会が、神の利益という最善ではなく、人間の利益という次善に仕える団体となってしまったことの結果である。

繰り返すが、クリスチャンにとっての最善とは、もちろん、神の御心を指すのであり、人間の思いを超えた、神が満足される目的の水準に到達するために、人は代価を払わなければならない。

ところが、クリスチャンが自分にとって何が最善であるのかが分かっているのに、それを差し置いて、しばしばあえて次善を選ぶとうことが起きるのは、その信者が、自分は最善には値しない劣った存在だという心の恐怖を乗り越えられないためである。

そのような恐怖心は、しばしばコンプレックスや、過去に起きた出来事から来るトラウマや、自信のなさなどに起因して起きて来るが、根本的にはすべて不信仰の表れである。

神はしばらくの間ならば、信者の心の弱さを理解して、信者が御心に従うのを躊躇している間も、忍耐強く待って下さる。従いたいと願っているのに、それができないでいる心の迷いや躊躇を理解して下さらないわけではない。

だが、もしも人が最終的に最善(神の御心)を退けて、次善(人自身の利益)を選ぶなら、場合によっては、そこで人は神を退けて、自分の救いを失ってしまうことにもなりかねない。

それが、神と富(この世、生まれながらの人間)に兼ね仕えることはできないという御言葉の厳しい意味なのである。

人が自分にとって何が最善であるかを知りながら、次善で満足することは、自分で自分をディスカウントすることと同じである。そのような妥協をすることによって、人は本来ならば達成できるはずの高い目的を失ってしまう。そのために、輝かしい達成が失われ、主の民の前進が妨げられる。しかも、それは当事者だけでなく、その人間に関係する多くの人々に悪影響を与える。

そのような妥協を繰り返したがために、神の教会が力を失って今日に至っていることを思わずにいられない。前回の記事で触れたハガルとイシマエルは、肉的な力の象徴であって、あれやこれやの人物を指すわけではない。それは霊的な比喩であり、敵は私たちの心の中に攻撃をしかける。
  
要するに、主の民が、自分の心の中に起きる恐れに打ち負かされ、自分には願っている最も高い目的に到達する力がないと早々に諦めて妥協を繰り返すことが、敗北の始まりとなるのであり、私たちはそのように主の民から証の力を失わせる虚偽のささやきを、自分の心から徹底的に追い出さなければならない。

だが、今、この問題について多くを書く必要はないと思う。なぜなら、私たちの心がただ一心に神に向いてさえいれば、すべての心の覆いは取り除かれるからだ。そして、すでに書いた通り、主の民が自分の心の弱さに負けて回り道をしたとしても、神はなぜそのようなことが起きているのかもご存じで、民の心が訓練されて、ただ神だけを神として崇めるようになるまで、長い月日を耐えて待つことがおできになる。

神の側には弱く脆い器である人類を用いて、ご自分の栄光を表すために、果てしない忍耐の道のりを耐える用意がある。神には私たちを訓練するための十分な計画があり、知恵と力がある。私たちは決してそのことを忘れてはならない。たとえ私たちの側で忍耐がつきかけ、自分たちは道を見失った、あまりにも弱く、愚かすぎて、失敗したのだと諦めてしまうようなときでも、神の側にはまだ忍耐があることを忘れてはならない。

私たちが意図的な反逆に及んで、自ら神の御心に従うことをやめることさえなければ、私たちの側の不用意から来るあらゆる失敗や、恐れによる紆余曲折、愚かさによる遠回り、回り道に見えることさえ、神は益として下さることができることを思い出す必要がある。

これは決して回り道を良いものとして認めるわけではない。しかし、神は主の民の側のあらゆる不従順や失敗にも関わらず、常にご自分の御心にかなう人々を探し出して、これをご自分の栄光を表す器として用いることがおできになる。そのために必要なすべてを自ら与えて下さる。それが神が教会に与えておられる使命なのである。
 
そこで、できるならば私たちのすべてが、失敗して終わる一群ではなく、キリストと共に栄誉にあずかる一群に入るべきだと思う。そのような高い志、動機をすべての信者が持つべきである。

もう一度、オースチンスパークスの「ルツ記注解」第二部からを引用しておきたい。

まさに、あなたや私に対して、主イエスは関心と愛に満ちておられます。主は私たちを得ることを心から願っておられます。しかし、他のすべてのものが道からどかない限り、私たちは決して主の真価を認めないであろうことを、主はとてもよくご存じです。ですから、主は中途半端な忠誠は受け入れません。半分しか持たないで次席を占めるくらいなら、すべてを手放す用意が主にはあるのです。主はあらゆる危険を冒されます。

「別の救い主を見つけることができるなら、いいでしょう、見つけなさい。これに関して私が何かを行うには、あなたはまず、私がすべてとなる地点に達しなければならないのです」。主は妬み深くそのような地位を欲しておられます。主にはできます。主は願っておられます。主は切望しておられます。しかし、それはおそらく隠されているのでしょう。主は縛られてはいません。主は自由です。主には他の関心や興味は何もありません。主はこのもう一人の人とは違い、何にも興味はありません。主はこのようなすべてのものから自由なのです。


ルツ記注釈については、以前にも当ブログで紹介したため、この物語の筋書きについて繰り返すことはしない。ルツ記はちょうど士師記の霊的荒廃の時代に起きた出来事の物語であり、ちょうど現在のオースチンスパークスの連載で語られているような、神の教会が荒廃状態に陥った時代を指す。そのことは、ちょうどこの物語が、現代という霊的飢饉の見舞う荒廃した時代のクリスチャン生活にとって非常に良い教訓となることをよく物語っている。

主の民から占め出され、呪いの下にあり、嗣業を失いかけていた一人の女が、自分を買い戻す権利のある近親者に出会い、幸せな結婚を遂げるハッピーエンドのこのストーリーは、士師記の絶望感とは対照的である。霊的な筋書きにおいては、ルツとボアズの結婚は、キリストと花嫁たる教会の婚姻を指している。

ここでは、ボアズがルツを買い戻す前に、もう一人、ルツを買い戻す権利がある人が名乗り出たことが記されているくだりに注目したい。

こうして現れた彼が「次善」である。

ボアズはルツにとって「最善」であり、ボアズの役目は、神の最善――すなわち、ご自分の命を投げ出して人類を罪から完全に贖われた神の独り子なるキリスト、私たち信じる者にとってすべてのすべてである方を象徴している。しかし、最善の価値が証明されるためには、次善の価値がまず明るみに出されなければならない。いや、次善の悪が証明されなければならないと言っても過言ではない。いわば、次善は次善でしかなく、決して最善に届かない不完全で呪われたものでしかなく、そこには人を救い得るいかなる望みもないことが、まずはっきりと証明されなければならない。

しばしばこのテストは回り道のように見える。人々は早くルツが買い戻されて彼女の立場が安楽になれば良いと思う。なぜボアズは自分にとって不利なことをわざわざ口にして、自分以外の人間にチャンスを与えるようなことをするのか。

しかし、神はご自分の価値を知っておられるがゆえに、ご自分の願っている結論を得るために、急いだり、焦ったりすることはなさらない。人がすべてのものを試し、神以外には人を救いうる方が他にないことを人自身が理解して納得するまで、神は忍耐強く待って下さる。それは神が本当にご自分に自信を持っておられ、完全で欠けることのない方であり、人間の理解を超えた方だからである。

だからこそ、神と人との出会いは壮大なドラマなのだと言える。それは決して人間の思惑通りには進まない。波乱に満ち、ほとんど絶望的な状況が幾度も展開され、人類は幾度も神以外には自分を救い得る者がないと叫ばなければならない窮地を通らされる。その戦いが繰り返されるうちにスケールが拡大し、最後に最も大きな決戦へと至る。

「次善」は、未来の人類史の終わりには、堕落した巨大な都バビロンにまで発展し、「最善」である方の思惑の前に大きく立ちはだかる。バビロンは生まれながらの人間が、自らの知恵と力によって神の高みにまで到達しようとする呪われた努力の集大成であり、そこには多くの住人がおり、大勢の味方、軍隊がいる。

しかし、その一方で、「最善」である方のみにつき従おうと身を整える、天の都エルサレムに属するつつましい聖徒たちがいる。彼らには、神以外に頼るべき味方はおらず、「彼女」はまだ花嫁になっていないので、独身であり、やもめであり、愛人もなければ、多くの味方も援軍もない。今日も、真にキリストの花嫁として彼に就き従う教会は、いわば、ルツのような孤独な立場にある多くの人々から成る。

筆者は、現代のような曲がった荒廃の時代にも、バビロンに与することなく、最後までキリストに従い、勝利を得るために、ルツのような心の有志たちが各地で起こされていることを疑わない。

さて、私たちは聖書を読んで、これを人間の悪なることを証明しただけの残酷な物語だと考えるだろうか。聖書は神が人間を罪と滅びに定めただけの残酷な物語で、人間を辱める救いのない荒唐無稽な作り話に満ちているだけだと決めつけるだろうか。それとも、そこには、生まれながらの人間には何の希望もないという、絶望的な状況の中でも、神だけは揺るぎない確かな希望であるから、私たちには望みを捨てる理由がないという結論が力強く提示されていると信じるだろうか。

私たちは士師記の絶望感を究極的な結論だと受け止めるだろうか。それとも、その中でルツとボアズの物語が人知れず展開していることを信じるだろうか。どちらの立場に立つのかによって、私たちの得る結論は全く異なるものとなる。

私たちは聖書の中から、自分のためのボアズを見つけることができるだろうか。それとも、自分を救う力のない「次善」を選んで、絶望という結論を握りしめるだけに終わるのだろうか。

もう一度言うが、私たちは自分の心から、自分は最善には達し得ない劣った存在だという恐怖感を徹底的に追い出さなければならない。最善に到達するために代価や犠牲を払うことを厭うがゆえに、手っ取り早く次善で満足しようとする妥協を心の中から追い出さなければならない。次善はどんなに良く見えても、人を救う力がないことを悟らなければならない。

キリストと共なる十字架を日々通過することこそ、私たちの最善である。生まれながらの人間にとって心地よく、恥とはならず、苦しみの少ない安楽な道を行くことを拒否して、主と共に栄光にあずかるために、主と共にどんなに困難な道をも通過することを決意しなければならない。

ルツがナオミに向かって語った言葉は、キリストへの従順の告白であり、ほとんど彼女の心の叫びと言っても良い、心の底から語った彼女の願いである。

「あなたを離れ、あなたから別れて帰るよう、私にしむけないでください。あなたが行かれる所に私も行き、あなたが住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。死以外のものによって私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰して下さいますように。」

このような告白を、私たちは本当に心から神に向かって捧げることができるだろうか。告白できたとしても、実際に、それを実行するために代価を払うことができるだろうか。

私たちは信仰によらなければ、神に徹底的に従う力がない。私たちは神ではなく、被造物に過ぎない者であるから、信仰によらなければ、神の厳しい検査に耐えうるような徹底的な清さを持つこともできない。
 
私たちも、被造物であるから、被造物としての弱さを日々存分に噛みしめながら生きている。そこで、私たちは、主に従うと決意するに当たっても、口では、神のためにすべてを投げ打っても構わないと言いながら、自分を見て、「自分にはできるだろうか」と恐れのうちに問うことがあるかも知れない。

御心がどこにあるのかを知っていながら、躊躇し続けて、新たな一歩を踏み出さないことがあるかもしれない。自分にはあまりにも厳しい理不尽な代価が要求されていると苦にして、心の中でこっそりと自分を哀れんで涙を流すようなことがあるかもしれない。
 
ある人々は言う、「殉教ですって。ご冗談を。何を言っているんですか、そういうのはカルト的信仰ですよ。神はあなたに行き過ぎた残酷な要求をしているのです。あなたは今のままで十分です。自分の権利を握りしめ、これを守りなさい。あなたは最善には達し得ないから、次善で満足しなさい。一歩を踏み出す必要なんてありません」という次善のささやきを聞く時、それに頷きそうになる心を拒否して、先へ進んで行くことができるだろうか。

人にはできないことも、神にはできるのだと信じられるだろうか。
 
もしもあなたが、神があなたに求められている代価が、あなたには過剰かつ理不尽なものであって、あなたにはそれに耐える力がないと認めてしまえば、あなたの前進はそこで止むことになる。それだけではない、あなたは自分を哀れむことによって、神はあなたに理不尽な要求をされているのだと信じ込むことになり、その自己憐憫の思いを周囲の人々に振りまいて影響を与え、その思いが高ずれば、あなたは必ずやいつか神に対して反逆し、自ら神を裏切って捨てることになる。

しかし、神が私たちを選んで立てられたのは、私たちに被造物の愚かさ、弱さ、限界、罪深さという、自明の理を証明させる目的のためではない。むしろ、私たちが被造物としての限界を打ち破り、神の栄光を証する器として、出て行って実を結び、その実がいつまでも残るためなのである。決して私たちを辱め、罪に定め、滅ぼし、排除することが目的ではないのである。

キリストが十字架において、人類が負うべき恥のすべてを、私たちに代わって負って下さり、私たちの弱さ、愚かさ、不従順、罪に対する罰をすでに受けて下さった。だから、私たちは、自分に求められている代価が、人の目にどんなに厳しいものに見えたとしても、主に従うならば、それが「負いやすいくびき」に変わることを知っているし、そのことを常に信ずべきである。

筆者は、この記事を読んでいる一人一人が今、神の御前にどんな形で「日々の十字架」を負うことを求められているのかを知らない。ある人にとっては、それは自分の心の恐れを乗り越えて前進することを意味するかもしれないし、自分で負って来た心の重荷を主に明け渡すことを意味するかも知れない。

だが、 いずれにしても、信者には、日々、負わねばならない十字架が存在する。主と共なる十字架は、人の目には非常に厳しく、肉にとっては限りなく残酷に見えるだろう。それは人の生まれながらの自己にとっては、自分が死の刑罰によって殺される恥辱の場所であるから、生まれながらの自己は、自分の醜さ、恥がそこで暴かれることを望まない。これを憎むべきものとみなして、何とかして退けようとする。

しかし、十字架を回避して「次善」を選び取れば、生きやすくなると考えるのは錯覚でしかない。人間が与える偽りの十字架は、神が与える本物の十字架に比べ、百倍も千倍も厳しいものであり、次善が提案する道を選べば楽になれると考えるのは、錯覚でしかない。

だから、勇気を持って、自分の十字架を取って、キリストの御許へ赴くべきである。そして、まことの医者に、自分の中に切除されるべき腫瘍があることを正直に見せて、彼に従順に身を委ね、自分を吟味してもらいなさい。あなたがこれまで自分で背負って来た全ての呪いと罪定めと恥と刑罰を、主の御許に置きなさい。そうすれば、主がくびきを負って下さり、あなたの負うべき十字架が格段に軽くなったことが分かるだろう。

私たち信者は土の器に過ぎなくとも、その中に神のはかり知れない命の力が入れられている。そこで、私たちが前進するために通過せねばならないすべての試練には、予め勝利が与えられていることを、いついかなる瞬間にも、固く思い出さなければならない。ただ従いますと言うだけでは不十分で、従い抜くことができるという勝利の確信を握りしめて、実際に前進して行かねばならない。その新たな一歩を踏み出すことを決して恐れてはならず、これ以上、躊躇していてはいけない。

カルバリこそ、私たちの常なる住処であり、終着駅である。
 
あなたを離れ、あなたから別れて帰るよう、私にしむけないでください。あなたが行かれる所に私も行き、あなたが住まわれる所に私も住みます。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。死以外のものによって私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰して下さいますように。


ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

当ブログでは好んで引用する聖句だが、今週も大きな収穫があったので報告しておきたい。 
 
膠着状態にあった事件が急ピッチで進み始め、新たな組織態勢が組まれた。このブログを開設したばかりの頃のように、非常に清浄な空気が周りにあることを感じる。

この出来事については、事件の関係であまり詳しく書けないが、準備作業が着々と進んでいるので、遠からず、どんでん返しが起きるであろうと言っておきたい。

こうなるまで、かなりの時間と労力を要したが、あきらめずに主張しただけの甲斐はあった。このブログ記事の結論を述べると、悪魔から来た重荷は一刻も早く悪魔に返しなさい、という一言に尽きる。

たとえば、当ブログを中傷する記事を約10年近くもネットに掲載し、その記事の削除と引き換えに、当ブログ記事の削除を求めていたアッセンブリーズ・オブ ・ゴッド教団の村上密牧師が、少し前、裁判を通じて事実上の降伏宣言を出した。 

村上の準備書面には、「裁判では和解が勧められる。まだ勧められてはいないが、一刻も早い紛争解決を望むので、原告に対する2つの記事を削除することにする。」と記されている(準備書面2頁)。
 
村上は、裁判開始当初、当ブログ記事の削除を要求していたが、具体的なURLや権利侵害の事実を挙げることさえせず、それらを立証するよう求められた結果、自らの要求をさっさとあきらめ、和解を目指して自ら問題となる記事を取り下げると宣言したのである。

だが、まさかこれが真に「和解」を目指した主張であるとは誰も理解しないであろうし、そんな和解が評価に値することはなく、実にみっともないことである。

なぜみっともないのか? 自分が主張した事実をきちんと最後まで論証して闘う努力をはらわず、論証できないからと言って、「和解」という綺麗事を理由に、論争から逃げようとすること自体がみっともないのである。

筆者はてっきり、村上は、鳴尾教会に教団を使ってしかけた裁判の時と同じように、最高裁まで争うつもりだろうと考えていたので、記事の取り下げは意外かつ拍子抜けであった。しかも、かつてはかなり有名だった牧師が、弁護士も雇わず、人を馬鹿にした二枚程度の準備書面で、自分の主張をあっさり撤回したのである(準備書面は真実、2枚しかない)。教団を大いに利用できる時には、弁護士もつけるが、自分個人の争いでは、極力費用と労力を惜しみたいという思惑が透けて見える。信徒相手だから、ろくに答弁もしなくても良いと思っているのかも知れない。しかも、自分の書いた記事が虚偽であることさえ認めず、それにも関わらず、記事を取り下げるという自己矛盾ぶりである。

このことから、村上牧師の人間性を読者は十分に観察することができるであろう。当ブログでは、信仰に基づいて主張したことは、命をかけて証明せねばならないということを繰り返し書いて来た。殉教者たちは死に至るまで「キリストの復活の証人」だったのである。

ところが、村上牧師のような人々は、自分のブログでは大風呂敷を広げて、次々と「怪しい」とみなした牧師や信徒を非難断罪するものの、いざ裁判で、自らのブログ記事の証拠を求められると、あっさりと記事の撤回に応じる。何という情けない、無責任ではた迷惑かつ一貫性のない行動だろうかと思わずにいられない。
 
すぐに諦めるくらいなら、初めから正義感ぶって、他者をカルト扱いしたり、無責任呼ばわりするような嘘を記事に書いたりして、挑発行為に出なければよかったのである。 裁判においても、当ブログの記事の削除など、初めから要求しなければよかったのである。費用の計算もせずに家を建てかけて途中でやめれば、笑い者になるだけだという聖書のことば通り、できもしないことは初めから要求すべきではないのだ。そのことがこの人々にはどうしても分からないようだ。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、この手の人騒がせな信者らが、数えきれないほどに存在していることは、幾度も繰り返し述べて来た通りである。筆者はこれは「霊的な」現象であると考えており、彼らが「聖霊のバプテスマ」と称して受けた「霊」が、この人々にこのような無責任かつ奔放な行動をさせているのだと理解している。

彼らは根拠もない事柄を「神から示された」と主張して、多くの人を巻き込んで人騒がせな事件を起こすが、いざ自らの主張の具体的な根拠を求められ、公の場で論証するよう要求されると、何の証拠も提示できずに、そそくさと主張を撤回して逃げて行き、自分の引き起こした事件の後始末をすべて他人に押しつけるという体たらくである。

筆者は同教団の中にこのような性質の信徒がいることは幾度も確かめて来たが、牧師も例外ではない。そもそも公の場においてきちんと論証できないような主張を提示すること自体が間違っているが、彼らにはそれは言っても無駄なことである。

昔は「男に二言はない」などと言われたが、そもそも、人が一旦、信念に基づいて主張したことを、最後まで貫き通す覚悟もなく、途中で撤回すること自体が情けない。何より、そうして主張を簡単に翻すことが、その人間が信念に基づいて行動していないことの証拠である。そうした行動から、彼らのしていることは、正義や真実や信念に基づく行動ではなく、ただうわべだけ自分がヒーローを演じ、誰かを悪者にしては、他人に不快な思いをかけ、膨大な手間暇をかけて自分に抗議をさせて、人生を浪費させることだけが目的の迷惑行為でしかないと分かる。
 
だが、それでも、牧師にも関わらず、信徒と全面的に争い、最高裁まで我を押し通すよりは幾分かマシであろう。そんなことをすれば、全キリスト教界の笑い者でしかない。牧師が信徒と最高裁まで争う、そんな教会には、まず人は来ない。KFCのように、牧師が信徒を公然とブログで非難断罪・呪い・中傷するような教会も、人々は願い下げである。

村上の他に、最後まで全面的に筆者と争いたいという人間がいる(唐沢治もその一人である)が、そういうことをすれば、牧師としてのその人間の信用は粉微塵に砕け散るだけである。唐沢治は未だにニッポンキリスト教界を敵視し、日々、呪詛のような非難の言葉を浴びせ、さらに自分の集会を去った信徒を公然とブログ記事で断罪し続け、筆者に対しても全面的に争う姿勢を見せているが、そのような行為に及ぶ宗教指導者に将来はないであろう。

さらに、唐沢治が本年になって杉本徳久といまだに交わしていた一連のメールを、杉本が裁判に提出して来るというコントのような滑稽さである。互いに裏切り合って協力もできないのになぜメールなど交わし続けているのであろうか。いつまで経っても、和解を目指ささず、自分に盾突いた人間を半永久的に許さずに恨みに思い、公に根拠のない非難断罪を続けるという点で、二人は実によく似ていると感じられる。こんな牧師を擁護する弁護士がいることにも呆れる。しかも、弁護士を使ってまで、かつては「ヴィオロンさんのために」などとさかんに筆者の名前を勝手に引き合いに出しては、自分が大見栄を切って助言者や擁護者を演じようとした信徒と争う。その陰で、その信徒を苦しめた加害者と内通して文通を重ねる。そして、唐沢は自分は筆者と「牧師と信徒の関係ではなかった」と主張しているのだから、笑い話のごとく呆れた話である。

こうした行動から、読者は唐沢治という人物の不実な人間性をもよくよく理解できるはずである。こういう牧師のいる集会に通えば、どういう将来が待ち受けているか予想できないのは、よほどの愚か者だけである。この集会に通った信徒が、その後、どんなトラブルに巻き込まれても、こういう牧師は、「私はそもそもあなたの牧師などにはなっていませんから、私には何の責任もありません」と後から言ってくるのは間違いない。その上、牧師のブログで公開処刑のごとく糾弾され、その牧師は別な人物に信徒の実名を書き送り、晒させるであろう。このような牧師は、まさに狼がやって来れば、群れを放棄して逃げる、聖書に登場する悪い牧者のたとえの典型例と言える。

読者のみなさん、牧師ななどという職業を安易に信用することは決してお勧めできませんよ。自分を正義漢や、優しい助言者に見せかける人間の内実を強く疑い、彼らを試してみることをお勧めします。大抵は、その本質はこういう人々から成るものだからです。
 
村上牧師は、あるいは、これ以上この事件を深く掘り下げると、もっとヤバい問題が噴出してくると危惧して、争いを早期終結させようとしているのかも知れない。杉本には公に言って良いことと悪いことの区別がつかないらしく、関係者を裏切るような証拠を次々と裁判に提出している。村上に筆者に関する問い合わせを行ったことを自ら答弁書において証言しているのも杉本である。杉本のその証言がなければ、そもそも村上が裁判に呼ばれる事態とはなっていない。

従って、この先、杉本がどれほど自己正当化のために不用意な発言を重ねるかは注目されるところであり、また、村上のブログで被害を受けたのも、筆者のような無名信徒の一人や二人ではないため、本件が長引けば、そうした人々が公に被害者として名乗り出て来る可能性は実に高いと見られる。
 
鳴尾教会を含め、当ブログなどよりもはるかに深刻な被害を受けた人々や団体が存在する。今回の裁判でも協力を仰いでいるが、彼らには勇気を捨てないでもらいたい。最後まで主張することの重要性を決して見逃さないでもらいたい。神にあって潔白とされ、無実とされ、誰からも罪に定められない贖いを得たことのはかりしれない意味を今一度、公然と主張してもらいたい。そして、正義は人間でなく神にあることを証明してもらいたいと願っている。 

ところで、読者にはさらなる注意事項がある。

それは、村上密についての記事を書くと、早速、掲示板等で騒ぎ立て、話題を逸らそうとする「さわやか読者」らが現れることだ。村上密の場合、他の人々に比べて、話題がかく乱されるスピードが圧倒的に速いため、他の人々との影響力の違いを感じさせる。

こうしたコメント投稿者らは、当ブログだけではなく、村上に敵対する人間に対して、ことごとく「狂気」「馬鹿」「人騒がせ」などの粗野な言葉で悪人のレッテルを貼り、しきりに誹謗中傷を繰り広げることで、話題を逸らし、この牧師を擁護する部隊の役目を果たしているのである。
 
こうしたコメント投稿者らは、何者なのか素性の全く分からない人間たちである。 一体、これらの人々が、まさか京都七條基督教会の信徒であるために村上を擁護しているとは思えず、信仰については一言もないため、おそらくクリスチャンでもないと見られる。

しかし、彼らは明らかに村上牧師を擁護する目的で団結しており、この牧師についてのコメントを隅から隅まで監視し、批判的な言動があると、一斉に匿批判者を名掲示板で中傷するなどして、話題をそらす役目を担っている。

そこで、彼らが誰の支持やリクエストに従って、こうしたコメントの投稿を日夜行っているのか、読者はよくよく考えてみられたい。特に、村上密が統一教会の出身であった事実を重視されたい。

村上牧師がこれまで常に杉本徳久のように、自分の教団や教会とは一切、無関係な人間のブログ記事を、自分のブログで引用しながら、自分の主張の裏づけとして来たことを思い出されたい。

なぜこの牧師は、自分の主張を展開するに当たり、自分の教会の信徒でもなければ、教団関係者でもない人間の主張を援用するのであろうか? どうしてカルト監視機構は最初から、キリスト教とは関係のない人間が、キリスト教界を監視することを想定していたのか? この事実をよくよく考えてみられたい。

村上はこのように、初めからキリスト教界に、キリスト教界に属さない部外者の手でメスを入れることを提案していたのであり、その部外者の中には、天理教の関係者なども含まれていたのであるから、それならば、統一教会の関係者だけは、カルト監視機構のメンバーになってはいけないという理由もあるまい。

実に恐ろしいことであるが、このように、村上の提唱するカルト監視機構は、最初から信仰を持たない人々によって教会の内情を監視することを目的としていたのであり、その意味で、カルトを取り締まると言いながらも、まさにカルトと内通し、「カルトによって教会を監視する」という逆転現象が起きる危険を最初から内包した機関だったと言えるのである。
 
従って、こうした事実を通して、現在、掲示板で匿名で、村上に敵対するクリスチャンへの誹謗中傷をしきりに繰り広げているコメント投稿者の雇い主(指導者)が誰であるのか、所属団体は何であるのか、彼らがそもそもどこから来たのかという事実をよく考えてみられたい。
 
もしも村上の主張が正しければ、裁判で全面的に自分の正義を主張し続けて、敵対勢力を敗訴に追い込めば良いだけであり、表向きの「和解」という美辞麗句を名目にして、自らの要求の取り下げを行う必要など全くないのである。

それにも関わらず、裁判では自らの主張を提示できなかった牧師が、掲示板等ではヒーローとなり、その牧師に「たてついた」信徒らが、依然、「悪者」とされて、根も葉もない誹謗中傷が拡大されて騒ぎが繰り広げられる。

こうした現象が繰り返されているのであり、繰り返されているという事実自体が、それが偶然ではなく、計画的に行われていることをよく物語っている。組織されたコメントであり、運動だということである。
 
公平かつ中立的な読者は、こうした現象を通して、当ブログに対する敵対がどの方面から来ているのか、村上密牧師を批判した牧師や信徒らが、これまでどのような目に遭わされて来たかをよくよく観察して、事の本質を見極められたい。

そして、村上牧師を含め、カルト被害者救済活動を推進したり、あるいは、ニッポンキリスト教界をしきりに挑発・敵対して来た唐沢治のような牧師が、本当にクリスチャンと言えるのかどうか、彼らは一体、何者であるのかについても、よくよく考察されたい。
  
さらに、信仰もなく掲示板で騒ぎを拡大している連中こそ、真に「匿名に隠れて」無責任な挑発行為を繰り返している人々であるから、最も警察の捜査対象となるにふさわしいと当ブログはみなしている。実に2015年から、当ブログでは2chの書き込みも十分に刑事告訴の対象となりうることを警察から知らされていることは、すでに書いた通りである。そして、告訴状を提出できる場所も、警察だけではないことを読者は知っているだろうか。彼らに対する警告は十分である。

さらには、掲示板では、パソコンを通じて敵対する勢力を監視していることをほのめかす読者まで現れる始末であるが、カルト監視機構の設立を願っていた村上密のような人々が、自分たちに挑戦して来るカルト勢力が、自分たちのパソコンをハッキングしようとしたとまでブログで主張していることを思い出されたい。

だが、一体、カルト被害者救済活動に関わる人々は、どのような経緯で自分たちのパソコンがハッキングされた事実を知り得たのか?という疑問が生じるのは当然である。そのような事実を察知したというだけで、この人々が普通の暮らしを送っていないであろうことは容易に推測される。なぜなら、セミプロ的な知識を持って、常時、そのような危険が自分にあることを理解して見張って、犯人を特定できなければ、そのような事実が分かるはずもないからである。

その意味で、彼らは、自分たちも同じ手口を使って常時、敵対勢力を監視していればこそ、敵の手法が分かったのではないかと推測される。

このように、カルトも闇であるが、カルト被害者救済活動も、同じほど深い闇なのである。どちらの陣営も、まさに暗闇におけるスパイ合戦でしかない。これまで、カルト被害者救済活動を支持する人々が、どれほど非合法な手段を駆使しては、自分たちへの批判をしきりに闇に葬ろうとして来たか、それは彼らの用いた手法、また彼らの取り巻きや支持者となった人々の言葉から十分に伺える。

この人々はクリスチャンでは断じてない。そして、キリスト教界を破壊することを目論むこの勢力がどこから送り込まれて来たのかについては、読者はよくよく考察と注意が必要である。彼らの目的が、聖書に基づく正しい信仰の破壊にあるということを決して忘れないでもらいたい。

   
とはいえ、掲示板等に書き込まれている証拠のない文章は、何年も残るものではなく、すべて束の間に消えて行くものでしかない。すでに昔に書かれたものの多くが板ごと削除されている。

他方、白日の下に残るのは、公の場所に提出された文書と、そこで下された判決文である。そして、筆者は、カルト被害者救済活動は、ただ自分たちの批判者を誹謗中傷しているのではなく、神が御子キリストを通して私たち人間にお与え下さった贖いそのものに敵対しているのだと2009年以来主張している。

私たちが主張しているのは、神の贖いの完全性であって、自分自身の義ではない。また、読者に自分自身を見させることが目的でもない(我が身可愛さ、自己主張が目的であれば、どうしてこれほどまでの手間暇と大いなる犠牲を払ってまでわざわざ主張するだろうか。無駄なことである)。

当ブログではただ、私たちを贖われたキリストの十字架における犠牲の完全さを主張し、贖われた人間を再び罪に定めることのできる人間は誰もいないということを示しているのである。
 
従って、聖書に予告された通り、この贖いに敵対する人間は、ヴィオロン何某に敵対しているのではなく、神の贖いを否定しているわけであるから、自ら救いを退けているのであり、罪に定められるのは当然である。

以上のような出来事は、やはり不当な圧迫に毅然と立ち向かえばこそ、得られる収穫である。

多くの人々は、著名人や、自分より強い力を持った権力者に対して、波風を立てることは、無益であり、害をこうむるだけだと考えている。彼らの頭の中では、法を犯すことが悪なのではなく、「権力者に立ち向かうこと、世間に波風立てることが悪」なのである。

しかし、筆者の言い分は、これとは全く別である。不当な主張に対して、立ち向かわなければ、何一つ成果はない。立ち向かわないことは、不当な主張が真実であると認めることに等しい。その悪しき効果は、すでに幾度も述べた通りであり、最初はどんなにいわれのない中傷や非難の言葉であっても、それを退けずに認めるならば、その「呪い」が現実になって行くのである。

また、不当な主張に反論しないということは、自分の権利を知らないこと、それを自ら放棄することを意味する。自らの権利を侵害されても、それを権利侵害と主張しない人間が、正当な権利を手にすることは決してない。

だが、自分の権利を主張するためには、まず、自分がどういう者なのかを知らなければならない。 
 
私たちの立脚点はあくまで天のキリストである。キリストの完全性が、私たちの霊的現実であり、また最終ゴールなのである。そこで、私たちの諸権利は、地上の法的根拠によっても付与されていることは確かだが、何よりも、天におられるキリストから発するものなのである。

キリストが持っておられる義が、私たちの義なのであり、彼の持っておられる聖が、私たちの聖なのであり、彼の贖いが、私たちの贖いとなったのである。これが、私たちクリスチャンにとっての本当の「人権」が生じる発端である。

つまり、この世の法的根拠は、アダムに属する古き人の人権を規定しているが、私たちはキリストから生まれた「新しい人」として、アダムにはるかにまさる人権を持っていることを知るべきなのであり、私たちの人権意識はすべてここを発端として始まるのである。
 
この他、山と書かねばならない事実があるが、それはこれからの記事に回すことにしたい。そこでは、虚偽や、他人の悪意や、中傷だけでなく、金銭面でも、仕事の上でも、人間関係でも、私たちは全ての圧迫に立ち向かわねばならないことを示すつもりである。そのためには、攻めの姿勢が極めて肝心だということを書きたい。

ただその前に一言だけ、もう一度、言っておきたい、サタンは、人に不当な重荷を課す達人だが、その重荷はサタン自身にお返しできるのだと。その法則を学びさえすれば、不当な圧迫に立ち向かうことは難しいことではないと。

長年、当ブログにいわれなく敵対・挑戦して来た人々は、村上牧師のように、自己の名声のためだけでも良いから、早期に主張を撤回して和解しないなら、彼らの名誉はいずれ打ち破られて粉々になるだろう。特に、宗教指導者でありながら、信徒と徹底的に争うようなことをすれば、その指導者の名声は終わりである。

さらに、物事には順序があるが、匿名掲示板だから対象外ということは決してない。というよりも、実名により、もしくは、自分自身でブログやホームページを開設して、きちんと文責の所在を明らかにした上で、公に論争している人々に比べ、このように真に「匿名に隠れて」、一切、責任を取ろうとしない形で、騒ぎを拡大している人々の方が、より罪が重く、責任も重いのは当然である。彼らが誰であり、誰の指示に従って動いているのか、といった事実も、時と共にはっきりするであろう。

筆者は、横浜にやって来た目的はここにあると考えている。つまり、試金石としての役目を果たすことにある。世間に媚び、地的な思いに心を占領されている人々と仲良くすることが目的では初めからないのだ。そして、暗闇の中で、ひそひそ声でささやかれただけのような会話が、今、公にされている事実を見ても、神はやはり闇の中に隠れていた真実を明らかにされる方だと思わずにいられない。

私たちは信仰のともしびを内に持つ者として、闇を照らす光である。私たちクリスチャンが存在することによって、世はその暗闇の中に隠れていた事柄を明るみに出されるのである。カルト監視機構を闇を暴くのではない。神の教会とクリスチャンこそ、高い山の上から下界にある町々をことごとく照らし出す大きなともしびなのである。
 
そこで、筆者はすべての心あるクリスチャンに向かって言いたい、最後まで目を上げて、この戦いをしっかり見なさいと。そして、不当な重荷を勇敢に押し返しなさいと言いたい。勇敢に重荷を払いのけて、早くそれを負うべき人間に押し返しなさい!と。

かつて、日本軍は敗戦に敗戦を重ねている時でさえ、自分たちは「勝っている」と嘘を発表して来たが、悪魔のやり方は今日も同じである。敵は最後まで「負けてはいない」と見栄を張るであろう。そして、正しい人を罪に定め、殺そうとするであろう。しかし、当ブログを嘲笑している人々が、恥をこうむって終わることは、聖書によれば、初めから確定済みの事実である。なぜなら、神を避けどころとする人間が恥をこうむることは決してないからである。
 
おそらく、当ブログがカルト被害者救済活動に対して勝つか負けるか、虎視眈々と結果に注目している人々が、世間にはかなりの人数、存在しており、情勢次第では、早速、カルト被害者救済活動に恨みを晴らすために襲いかかろうとしている人々も、たくさんいるものと考えられる。なぜなら、この活動はあまりにも多くの人々に敵対して来たためである。すでに戦いの決着はつき始めている。

筆者はクリスチャンであるから、カルトを擁護しようとは全く思わない。しかし、筆者はキリスト教を絶対的なものとして、人々に押しつけるつもりは毛頭なく、これを信じない人々を排斥するつもりもない。

筆者が擁護しているのは、内心の自由であり、信教の自由である。

クリスチャンであっても、人々は間違うことがある。そして、神はアダムが誤って罪を犯してしまうことを想定した上で、それでも、アダムに自由意志を授けられた。神が人間を創造される時、自分に逆らわないように脅したり、強制力によって意志を奪うということはなさらなかったのである。

それは今日も同じであって、神は、私たちが自らの判断で、物事の真偽を確かめ、正しい道を選び取っていくことを願っておられる。人は一時的に誤った教えをそれと知らずに信じてしまうこともあるかも知れない。だが、だからと言って、これらの人々が、その誤った思想のゆえに、危険人物のごとく排斥・殲滅されるようなことはあってはならない。公正な論争は行われなければならないが、それはあくまで法的に許された範囲内で行われるべきである。誤った思想を持つ人間を排斥することが目的になれば、それは初めから間違った運動である。

(しかしながら、一つのパラドックスとして、当ブログの根絶を願った人々が、自らブログを根絶され、当ブログ主の社会的抹殺を願った人々が、自ら社会的に抹殺されるということは大いに起きうるであろう。それはただ彼らが他人を呪い、他人の不幸を願い、他人に対して宣告した呪詛の言葉が、自分自身に跳ね返っているだけのことである。)
  
人は病原菌に感染して免疫抵抗力を育み、耐性を身に着けて強くなる。その意味で、病原菌そのものは有害であっても、人はその危険性に触れてそれを理解・体得したことによって、結果的に耐性を身に着け、進歩することがある。異端や誤った教えもこれに似ている。それ自体は極めて有害なのだが、それが存在していることによって、初めて、人々は、これを見わけ、退け、抵抗していく術を学び、自分の弱点をも知って、これを防衛する方法を学び、より賢明になり、進歩するのである。

その意味で、カルトそのものは誤っており、あるべきでないとはいえ、人の人生は複雑であって、これに触れたことによって初めて学べる教訓が存在する。その意味で、人の内心の自由は、誤った思想を信じないことよりも、より高度な利益であり、優先されるべきものである。

それにも関わらず、カルトが危険だというだけの理由で、カルトとカルトに「感染」した人々を根こそぎ危険人物扱いし、断罪し、無理やり棄教させ、考えを改めさせ、徹底的に謝罪させて恥をかかせ、誤りを認めさせなければ気が済まないといった時代遅れな方法では、物事は何も解決できない。まして強制力を用いて彼らを思想改造(洗脳)し、脱会工作を行い、内心の自由を侵してキリスト教徒に仕立て上げるといった方法では、カルトの問題を解決することは決してできない。

神がサタンを最終的に滅ぼされるまではまだ時間が残されている。その時間は、私たちが触れてはならないものが何であるか自ら識別することを学習し、誤った思想に対する耐性を身に着けるための時間なのである。従って、誤った教えを根絶して完全な無菌室を作ることは、地上では不可能事であるだけでなく、それによっては、私たちの進歩はない。

しかしながら、同時に、話を戻せば、恐怖、不安、脅かし、嘘といった圧迫は、何よりも、それをもたらした悪魔自身にお返しし、悪魔にこそ、恐怖を増し加えることができるのである。

だから、不当な圧迫は、どこから来たのか、原因を特定した上で、悪魔にお返ししなさい。恥は悪魔に、栄光は神に返しなさい。私たちは、キリストと共に天の栄光に満ちた御国を相続する者なのだから、主に信頼する者が恥をこうむることがないというのは、真実である。だとすれば、当然、恥は、それを負うべきしかるべき存在が、キリスト者とは別に、存在しているはずである。


だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます

本日は雨であったが、午後に外出先で、当ブログが工作員の襲来に見舞われているのを知って投稿したところ、いつものごとく、すぐに雨は止んだ。それを見て、次の御言葉を思い出した。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

 筆者が御国の働き人である以上、日々、主の御前で果たさなければならない義務がある。ただ恐れず勇敢であるだけでなく、日々、悪魔に立ち向かわなければならないのである。だが、そうして、キリスト者がキリスト者としての分を果たしさえすれば、主はすべてのことについて、信者を守って下さる。そのことをいつも様々な出来事を通して感じさせられる。

 2012年、KFCのDr.Lukeが「今年は破滅と制御不能の年になる」と神からお告げを受けたと宣言し、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド信者である鵜川貴範氏によってこの団体がかき回され、「真に忠実な信徒以外はみなふるい分けられていなくなるだろう」などと、メッセージで主張するようになり、人数の激減を高らかに宣言し、いよいよ異常になって来たと分かった頃、筆者は、以下の聖書の御言葉をブログに引用した。

「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことがないためです。人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。」(ヨハネ16:1-3)

 筆者はこの御言葉を通して、この会堂から自分が追い出されることを予め示されて分かっていた。会堂を占拠した人々が間違っており、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド信者が、ルーク氏を裏切るであろうことも分かっていた。なのになぜそこに残ったのか。友人は行くべきではないと引き留めた。だが、筆者は、すべてを自分の目で確認したいとその当時は思っていた。そして、自分がそこにいたことが無駄ではなかったと考えている。

 筆者は自分の目で多くの「信者」が御言葉を拒んで偽りの福音に落ち、堕落して行く様子を見て来た。これは恐ろしいことであり、幾度も警告は発したが、止めようもなかった。だが、彼らに向かって語った警告が無駄であったとは思わない。神は必ずそういう人を用意されるものと思う。それでも、これを退けて御言葉を否んだ時、人は本当の破滅に至るのである。そこで、これらの人々を見て、筆者はより一層、御言葉に立つことの重要性を噛みしめるのみである。 

 キリスト者の道は、絶えざる「エクソダス」であり、「分離」である。それは決してきらびやかな歴史の晴れ舞台の真ん中に立って、我こそは歴史の主役であり、神に選ばれた者であると宣言するような生き様からはほど遠いものである。

 キリスト者は確かに神に選ばれている。それは人間の側からの努力によるのではない。だが、キリスト者の側でも果たさなければならない義務がある。それは常に御言葉の内にとどまり、十字架の死にとどまることである。ゴルゴタが我々の家であり、十字架によってこの世に対して死んでいるがゆえに、この世の名誉、力、栄光と、キリスト者は一線を画しているのである。十字架の死がないのに、復活があろうはずもない。

 KFCという団体を知ったばかりの頃は、筆者には、彼らは「高み」にいるように見え、自分もそこへ行かねばならないかのような焦燥感を覚えたこともあった。(それはもうずっとずっと前の話である)。

 しかし、長い間の観察と接触を通して、こうしてきらびやかな舞台に立ち、派手なパフォーマンスで人目を引きつけ、あたかも歴史の頂点に立っているがごとくに饒舌に自慢話を繰り広げ、人前に脚光を浴びて賞賛され、不器用な人々を哀れんで上から見下しているような人々に、内実があったためしはない、ということが心底、よく理解できるのである。

 内実がない空っぽの器であるくらいであればまだ良いか、そういうものはことごとく偽物なのである。ゴルゴタの十字架における自己の死――主の御名のゆえに人がこうむるあらゆる苦難――を何一つ経過することなく、それを他者にばかり語って聞かせながら、自分には適用しようともせず、常に己を一番として弱者を踏みしだき、利用しながら勝ち誇っているような人物は、ことごとく詐欺師なのである。

それは、当ブログで再三に渡り、記事で示したように、弱者救済を唱えながら、その実、強者にばかり寄り添い、自分に従わない弱者には徹底的に制裁を加えて来た村上密氏や杉本徳久氏のようなカルト被害者救済活動の指導者たちにも言えることであるが、十字架における自己の死について知りながら、これを自分だけには適用しようとしない全ての人々にもあてはまるのである。

 KFCをよく観察すれば、彼らが幸せそうに見えるのはほんのうわべだけで、実際には水面下で絶えず分裂といがみあいと不幸に見舞われているのがすぐに分かるであろう。

 だから、今は人の目に賞賛され、人の弱みに巧みにつけ込みながら、教師然と上から目線で他者に向かって道を説き、歴史の晴れ舞台に立って脚光を浴びているように見える全ての物事に意味がないということがよく分かるのである。また、こうしたものに浅はかに拍手を送る愚かな人々の末路がどういうものであるかも。

 地味で目立たないことや、不器用であることは、こういう見かけ倒しの偽りから身を守ってくれる防護服である。キリスト者は外見が控えめで目立たないことが多いが、それは神がわざと彼らを隠されているのだと筆者は確信している。

 目立ちたがり屋で、正義の味方や、弱者の救済者・仲裁者をきどりたがる饒舌な人間は、ことごとく本質は詐欺師であるから、そういう人間の道連れになっても何の意味もない。彼らと共に歩んでいく先に待つものは滅びでしかない。
 
 伊勢志摩サミットから除外されたロシアではないが、筆者は自分がそうした恐ろしい呪われた「晴れ舞台」の共犯とされなかったことを神に重ねて感謝すべきであると考えている。

 また、彼らの姿を見ながら、つくづく、御言葉に服さないことは恐ろしいと考えるのである。俺は勝者だと自ら勝ち誇っている人間、自分はやもめでも孤児でもないと勝ち誇って、自分よりも弱く孤独で寄る辺ない者たちを踏みしだき、その悲しみと犠牲をダシにして手柄を立てているような人間は、この世でどんなに勝者に見えても、神の御前では、誰よりも敗者であり、やもめであり、孤児なのである。何が本当のリアリティかと言えば、神の御前での人間の姿である。それがやがて誰も否定できない現実となって現れることであろう。

「聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。
 見なさい。あなたがたの畑の借り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。
 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。」(ヤコブ5:1-6)
 
この世でいくら大所帯を構えて孤独を知らずとも、真の夫であるキリストに結びつかない霊的「やもめ」であっては何の意味もない。この世の幸福をやたら見せびらかし人数を集めることで集合体となって自分の優位を誇りたがる人間が、なぜそうするかと言えば、彼らには霊の財産が何もないからであり、本当は自分が極めて惨めで裸で孤独であり、この世の朽ちゆくものの他に誇るものが何もないから、つまり、キリストを内にいただいていないから――の一言に尽きる。

追記: ちなみに、以前に書いた記事「家庭は主からの贈り物(2)」は、家庭を賛美する文脈で書かれたものではなく、すでに家庭を持っているにも関わらず、異端の宗教のために家庭が破壊されたまま、これを放置している兄弟姉妹に向けての警告の意味を込めて筆者が書いたものである。

 
特に、我が子が異端の教えの痛ましい犠牲になって非業の死を遂げたり、深刻な病に陥っているにも関わらず、子供を置いて宗教活動に邁進している人々の冷酷無慈悲さ・無責任さに対する非難と警告の意味を込めたものである。(詳細を書かなかったのは個人情報に触れないために他ならない。)
 
しかしながら、これとは正反対の文脈で、上記の標題のような言葉を用いて、筆者の前で自分の家庭をあたかも「信仰の賜物」であるかのように誇ろうとする信者は、これまで数多く現れて来たが、じっくり観察して見ると、彼らの家庭は、あらゆる点で破綻に瀕していることが分かるのである

 
たとえば、親のわがままのために子供が育児放棄されていたり。親子がほぼ完全に仲たがいして長期に渡り断絶していたり。子供が自殺を遂げていたり。あるいは、親の闘病生活を支えるために子供が過酷な労働をしていたり。未成年の子供を働かせながら、親が宗教活動に没入していたり。夫婦が互いに隠しごとをし合って、一方が他の信者と霊的姦淫に陥っていたり。そうでなければ、幸福な家庭と言いながら、借金返済に追われて争いが絶えなかったり。

 こんな風に、彼らが誇る「信仰の賜物としての幸福な家庭」なるものが、現実には、半ば破壊されかかっている様子、そしてこれらの人々が家庭に対する義務をきちんと果たしていないためにその数々の問題が起きている様子が見えて来るのである。

 筆者は、このような無責任な「信者」たちが、まるで信仰の手柄であるかのように常に繰り広げる己が家庭の自慢話と、その破滅に瀕したお寒い現状には正直、心から飽き飽きし、うんざりして来た。そういう人々は、まずは自分の家庭に対する義務をきちんと果たしてから他人にその自慢話をするが良かろう。まことに、これもまた、人が口先だけで誇っているものには、全く内実がない、ということをよく示す事例である。)
 
ルーク氏の名言の一つに、「あえて事を難しくせよ」という言葉があった。その鉄則を今でも私は守っている。神がどれほど強い方で、全力で信じる者を守って下さるかを証明するために、筆者はあえて人数に頼らないのである。この世の力にも頼らず、能力にも頼らない。大体、権勢や能力によって勝つのでは何の面白みもありはしないではないか。

ゴリアテに向き合ったダビデのように、石つぶて一つしか武器を持たない若造に過ぎないのに勝利するからこそ、面白い。ゴリアテが強ければ強いほどその勝利は奇跡であり、神が介在されたことが明白になるわけである。

そこで、エリヤのように、祭壇に幾度も水をかけ、神がついておられなければ、到底、火がつかず、勝利もあり得ない状況を自ら作る。そうしないことには、神だけが栄光をお受けになるということがないからである。

そうして、この世のどんな目に見えるものにも頼らず、見えない神だけに頼り、ただ御言葉のみを武器として、自分よりもはるかに強そうに見える無数の者どもの前に勇敢に立つ、それが、キリスト者の生き様である。

さわやか読者は相変わらず、この世の目に見えるものに信者の関心を引きつけるべく、労苦しているようであるが、それはことごとく徒労に終わるであろう。

キリスト者が生きているのは、もはや自分自身のためではなく、私を愛し、私のために死んで下さった方の栄光のため、神の栄光のためである。私を守る方は天にも地にも神のほかには決していないことを、生きて世に証明するためである。

そこで、神以外のどんなものも、誇るべきものは私にはなく、他のどんなものに頼って勝利を得たわけでもないと証明するために、あえてゴルゴタにとどまり、孤独や孤立無援や自ら貧しさを選んでいるかのような、困難な道を取るのである。主の民が荒野で訓練されたように、神の軍隊において訓練される道を取るのである。

しかし、このようにして、キリストを待ち望むために、世の富と虚栄を拒み、あえてゴルゴタにとどまった花嫁をあざ笑った人々には、いずれ恐ろしい報いが降りかかるであろう。なぜなら、ただ主のみを待ち望むという貞潔さから来る孤独と、寄留者としてのつつましい身分こそ、エクレシアに不可欠な要素だからである。この世ですでに望むものを得て、地上に居場所を構え、幸福になって満ち足りてしまっている人々は、エクレシアではなく、バビロンなのである。
  
よくよく言っておく、エクレシアの貧しさの前で己の豊かさを誇った人々がこの先どうなって行くのかは、非常に面白い参考事例であると。エクレシアとは、この場合、私のことでもあり、同時に、御言葉の飢饉に見舞われている現在のキリスト教界のことでもある。現実に目に見える教会には幾多の問題があるかも知れないが、教会を告発することにより、その背後にあるエクレシアを否定した時、その人は神の敵となるのである。キリスト教界を告発することをライフワークとしている人々とそれに賛同する人間にはゆめ関わらないことである。
 
「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。
 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:17-18)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。
一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(Ⅱコリント5:14-15)

さて、2009年10月にこちらに来て当時の記事を当ブログにも転載するため、少し読み返している。すると、あの時、何が起きていたのかが明確に分かって来た。

キリストと共なる自己の死から、復活の命、そして昇天へと…。
これは私という一人のキリスト者の中で当時、まざまざとしたリアリティとして進行していた過程である。(むろん、今もやんだわけではないが、しばらくこのテーマを離れていた。)

これが極めて重要なことなので、当時の記事はこのブログ等にもすべて転載して行く。

さらに、非常に重大な事実として、私を含め、当時の兄弟姉妹の間では、KFCの偽りも、すでに明確に見えていたことが挙げられる。たとえば、「霊の人が直面する危険」などは当時、魂的な体験に欺かれて生きる人々に対する兄弟姉妹の警告を受けて書かれたものである。

御言葉は、他人に向かってどれほど語っても、自分自身に適用されていなければ意味を持たない。たとえば、百万語費やして、キリストの十字架における死と復活について懇切丁寧な解説を述べることはできるかも知れない。だが、その人が内側でそれをリアリティとして持っておらず、その経験を求めてさえもいなければ、書いている人が、誰よりも一層、御言葉の現実から遠く離れて行くこともありうる。
 
暗闇の勢力が事件を起こしたのは、魂的な体験に欺かれている人物の偽りが明るみに出されると困るため、および、一人のキリスト者の内側で十字架の経験がより深くなることを妨げる目的があったものと見られる。幾度も語って来たように、KFCとカルト被害者救済活動は霊的には同じ運動だからである。誤りと分かっているものへ引き戻し、信者を拘束することが、彼らの目的なのである。
 
当時、我々の交わりはKFCの偽りを見抜いた上で拒んでいたため、何が起きようとも、KFCに戻って行ったり、触する必要性はまるでなかった。

だが、我々がまだその重要性を十分に知っていなかった事柄があるとすれば、それは集合体としてのエクレシアの前進に注目するよりも、一人のキリスト者の内側での作り変えの事実の重要性をより重んじるべきだという点である。

つまり、エクレシアの前進はあくまで一人一人の個人がどれほど主の御前で時を過ごし、御言葉の実際を知ったかによるのであって、どれほど信者が頻繁に集まって語らったかにはよらない。一人一人の内側での変革がなければ、エクレシアの前進はない。
 
当時の私は、環境条件が変わって、様々な困難が主の不思議な御業によって取り除かれ、私自身が生き生きして解放されたことを喜んでいたし、当時、私を取り巻く兄弟姉妹も、その解放を、あたかも信仰の前進のごとく評価していた。

だが、事の本質はそれとはもう少し異なるところにあった。むろん、神が信者にもたらされる生き生きとした解放のわざが無益だというのではない。それも神の栄光となる出来事である。だが、あくまで事の本質は現象よりももっと深い所に存在しているのである。

真の信仰の前進としての霊的変化は、主の御前で過ごす個人の内側で、どれほど十字架の働きがリアリティとして深く進行したかによる。世界の片隅で忘れられたような取るに足りないように見える信者であっても、その一人の内側でのキリストに似た者となるための作り変えには、天地を揺るがすほどのはかりしれない重大な意義がある。
 
個人の内側での十字架の働きは、一連の外側の出来事と連動して起こるとはいえ、より内側深くで起きる霊的変化であり、しかも、そうした個人的な霊的造り変えこそ、実は、環境状況にもはかりしれない激変をもたらすのである。

実のところ、環境を変える力は、個人の奮闘によるのでも、努力によるのでもない。すでに幾度も述べた通り、環境を治めることは、キリスト者の使命であり、それはキリストと信者との共同の霊的創造である。

だが、環境を治め、御旨を地に引き下ろす鍵となるのは、キリスト者がいかに御言葉の内にとどまり、御言葉を守り、十字架の死と復活の経験をより深く自分のものとして受け取り、これがその人の内側で確固たる実際となったかによる。

つまり、御言葉と信者との一体化の度合いによるのである。

そして、十字架の死と復活の体験を、主ご自身、つまり、主の人格と切り離して単なる個人体験として受け取ることはできない。それは神ご自身の人格と深く結びついており、いかに信者が、主なる神を神として仰いで生きたかによって、その人の内側の作り変えも進行して行くのである。

秘訣は、人に頼らないことであろう。何事についても、神ご自身に尋ね、聞くことであろう。人に頼れば頼った分だけ、神の栄光が減って行く。神は御言葉の実際を知りたいと願う人には快く教えて下さる。


追記:
すべての異端の本質的な同一性は、生まれながらの人間に神に至る要素が含まれていると語ることにある。Dr.Lukeの言説の誤りも、同氏が生まれながらの人の体の堕落という問題に向き合わなかった点にある。
同氏によると、体はそのものに決定的な堕落が含まれているのではなく、体は罪の道具として利用することもできるが、神の器として用いることもできるため、「中立」なのだそうである。

しかし、聖書の御言葉を見て行くと、霊・魂・体の中で、魂及び体は人の堕落した「肉」の機能のうちに含まれ、最も甚だしく堕落しているものが体であることが分かる。たとえば、「目の肉・肉の欲・持ち物の誇り」などの感覚的な享楽はすべて主として体に働く欲望である。

そこで、人の体に対しては、「霊によって体の働きを殺す」ことが必要となる。すなわち、アダムに対する十字架の死の一環として、体も魂同様に古き人の機能として十字架において死に渡される必要があり、この御言葉による霊的死を受け入れることなくして、体が中立になることは決してない。

さらに、Dr.Lukeは、アダムの命に属する古き人は「大脳の古い働きによる」ものとして、キリストの御霊によって生きる新しい人の機能も、脳内にその基礎があるとした。古き人が刷新されないのは、御言葉を守らないからではなく、信者が古い脳内の働きに依存して生きているためだそうである。そうなると、結局、神の霊に属する事柄も、すべて堕落した身体の機能の一部であるということになる。

このような説だと、人は神の側からの介入なくして、能の働きを自ら刷新することにより、キリストの御霊の機能を再現し、自らキリストに似た者とされることが可能ということになる。それは神に至る道が本質的に人の生まれながらの体の中に含まれているという結論を生み、結局は進化論的な説へと行き着く。

ちなみに、グノーシス主義においては、霊(本来的に神に至る要素を「欠片」として持っているとされる)を肉体の牢獄から解放することが最終的な自由とみなされるので、最後にはこの教えの信者は自己破壊へ行き着く。

(追記の追記: グノーシス主義においても、一般的に、魂及び肉体は堕落したものとみなされているが、この思想においては、人の「霊」のうちに本来的に神に至る「聖なる要素」が含まれているとされるため、その「霊」を肉体及び魂から解放することが、真の解放であるとみなされる。そのようにして、「霊」を閉じ込めている堕落した肉体を破壊することが、霊が天界へ回帰する道だとされるのである。「体」の堕落そのものを認めない思想とは多少、異なってはいるものの、人の自己の内に本来的に神に回帰する道があると唱える点は同じである。)

こうして、グノーシス主義は最終的には自己破壊へ行き着くのであるが、KFCがやたらイスラエルの受難と自らを重ね合わせていることにも注意が必要である(イスラエルは地上で最もならず者国家として知られている)。三島由紀夫の最期も含め、あたかもキリストにある自由と豊かさを高らかに誇っているようでありながら、彼らが常に悲劇へ共感、傾倒し、そのメッセージ内容に常に悲劇の通奏低音が鳴り響いている点に注意が必要である。

このような傾向から察するに、体を「中立」とみなす全ての思想(体の堕落を認めない思想は、体を「聖」としているのと同じであり、その「聖なる要素」が「霊」にあるとするにせよ、「脳」(体)にあるとするにせよ、人間の古き自己の決定的な堕落を完全に認めず、神に至る自己回復の道が人間の内に含まれているかのようにみなす思想は、すべて同じである)は、最後には、みな自己破壊へ至る。

グノーシス主義思想はすべての点において秩序転倒である。神を信じない者でも、体の欲望が、魂(理性や常識等、人の思考)によって治められなければならないことは否定しないであろう。聖書は、体は魂の下に治められなければならず、魂は霊の配下になければならないことを教える。

ところが、グノーシス主義は人の内側の秩序をすべて逆転し、最も堕落したものを最も崇高なものとして掲げ、体を抑圧しているすべての枷(魂も含む)を打ち砕いて、欲望を解禁することを目指すので、この教えの信奉者は理性を失って欲望に走り、最終的には、自らの体の欲望を解放するために、自分を殺すというところまで行き着くのである。彼らが解放しようとしているのは「霊」ではない。己の欲望なのである。

事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれてい たのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。

昨日は気持ちの良い快晴であったが、一昨日は雨。雨が降ると、いつも主との秘密の語らいが始まる。「主よ、本当に共にいて下さいますか?」
 
不思議なことに、これまで何度も何度も、私は主に雨を止めていただいたことがある。別に雨そのものが嫌いなわけではないが、通勤時には、バイクで走行するには雨は危険だった。

「神様、あと15分で家を出ます。」出発の時間が近づくに連れて、時計に目をやりながら、ちらりと外を見る。まだ随分、降っている。当分、止みそうにもない。 ところが、出発時刻になると、あれほど激しかった雨音がピタリと止んでいる。私は傘もささずに外にでる。そんなことが幾度もあった。

昨日もそうだった。明け方から激しかった雨が、車まで歩く頃にはもうほとんど止んでいる。傘なしで外へ出ても問題ない。しかし、走行中にまた降り出す。だが、帰り道には止んでいる。予報では午後の降水確率が低かったから不思議ではないと思うが、停車して食事休憩すると、ガラス窓越しに外ではまた激しく降り出している。ああ、あの降り方だと、当分、やみそうにもないなとがっかりする。やれやれ、傘を置いて来た。油断しすぎたかな。主よ、これ以上は、ダメでしょうか…? だが、コーヒーを飲みほして、外に出るとまた不思議にピタリと止んでいる。 やはり傘なしで帰宅する。

こんな事柄を通してもいつも思うのだ、主よ、あなたはやはり生きておられますね。あなたは確かに生きておられ、信じる者と共におられ、いつも守って下さるんですね。あなたは天を支えておられ、洪水のように雨を降らせることも、止めて下さることもできる。御名によって名付けられる民のために、あなたは日々、特別なはからいを示して下さるんですね。

しかし、これは天にも地にも主と私以外には誰も知らない秘密で、あまりにもありふれた日常生活のワンシーン。語ってみたところで、興味を持つ人もなく、感動する人も特にいまい。

だが、こんな風に、日常生活の些細な事柄に至るまで、すべてが主の御手にあることを常に感じるのだ。自然現象だけでない。物流や、人々の行動や、たとえば、ものの配達時間、電話のかかるタイミング、あるいはお金の管理なども、何もかも、すべて御手の中に不思議な形で預けられている。人の思いの至らないところ、コントロールできないところまで、主の統治が見事に及んでいることに実に小さな様々な出来事を通して気づかされるのだ。

だから、少し思いを馳せれば、信仰者のための主の優しい計らいを、いつでもどこにでも感じることができる。朝から晩まで懸命に働き、あるいは、人の思惑を気にして、常にスケジュールが満載で自由時間の取れないような時には、主の御業を見ることもなく、仮に何かが起きたとしても、気づくことさえできない。だが、神に心の照準を合わせ、主と共に人知れず信仰の歩みを進めて行くときには、何から何に至るまで、すべて主が共におられることを不思議な形で実感するのだ。

それは神の臨在を見たとか、幻を見たとか、そういう非凡でダイナミックな現象ではなく、日常生活の全く取るに足らないごくごく小さなことに至るまで、すべてにおいて御手の采配を見るのだ。そして、その小さな優しさがたとえようもなく嬉しいのである。

ところで、植草一秀氏のブログに次の言葉があった、「2009年に開かれた光り輝く展望を粉々に打ち砕いたのは…

今は政治情勢の分析は脇に置き、氏の優れた文脈からも離れ、ただ「2009年に開かれた光り輝く展望」という言葉だけにこだわりたい。これは信仰者にとっても、胸にグサリと突き刺さる言葉だからだ。

2009年、我々キリスト者には、未だかつてない光輝く展望が見えていた。誰もまだ見たことのない、達したことのない新しい境地である。組織の不正と腐敗と、人間の指導者による搾取と偽りと、汚れた数々の行ない、人による支配や虐げに疲れ果て、これらの悪に背を向けて、もはや人間の栄光を打ち立てるためでなく、ただ神だけに忠実であり、真理に生き、神に栄光を帰するために、真の自立と豊かさとを目指して、歩き始めた一群がいた。

あの時、我々の目の前にまさに開かれんとしていた光景、あたかもすぐ目の前に手の先にあるように思われ、多くの人々が心の底から求めていた自由なエクレシア、組織にとらわれず、人間の指導者によらず、神によって直接養われ、神によってすべての必要を満たしていただき、神の御心を満足させるエクレシアの展望は、どこへ行ったのであろうか。なぜ我々はその光輝く展望へまっすぐ一直線に進めなかったのか。

あの人、この人に原因を見いだそうとすることはもうやめよう。振り返る価値もないような、嘘と裏切りと密告その他その他の人間の腐敗堕落した行いのせいで起きた惨事はどうでもいい。そんなことには言及の価値もなく、どんなに「戦犯」を探し出し、その人間を処罰してみたところで、それで目的が達成されるわけでもない。

それらの想像を乞えるほどの狡猾な悪事に対して免疫がなかった信者の側の無防備さはまだ無罪放免されるとして、その経験不足を除いても、いずれにせよ、我々には何かが足りなかったのである。神に対する純粋さ、貞潔さ、何があってもすべての試練を潜り抜けて目的に達するまでは絶対にあきらめないという揺るぎない覚悟、神への確固たる信頼、そして用心が足りなかったのであろうか?

エジプトで40年間、荒野をさまよって民のことを思う。本当は、そんな年月を費やさずとも、約束の地にたどり着くことは可能だったのだ。信仰さえあれば、無駄に荒地をさまよわず、民は一直線に、乳と蜜の流れる地に入っていたはずなのだ。あのような形で、日々、試される必要もなかった。なぜそんなに時間がかかったのか。その間、罪と背信によってどれだけ多くの民が倒れたか。不品行があった。盗みがあった。敵を見て怖じけづいて逃走した人々がいた。金の子牛によろめいた人々がいた。裏切りもあった。指導者でさえついにはその民を投げ出そうとして、目的地の一歩手前で、そこに達しないまま死んだ。それはすべて民の不従順のゆえであった。人間側に、常に炉を通るようにして火で洗練されねばならない何かがあったのだ。

だが、仮に時間がかかったとしても、一度現れた展望が消えたわけではない。目的地がなくなったわけでもない。主の民が見捨てられたわけでもない。彼らは、実際に地上にいる間にそこに達したか達しなかったかということによらず、確かに目指す都を見ていたのである。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれてい たのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル 11:13-16)

人間の側は命が限られているので、常に性急であるが、神は気長である。そして、神が目的を定められ、その民を選び出された以上、神は勝利されるであろう。

最近も、よく緑のビルのそばを通過する。以前にあった選挙事務所もとうになくなり、クリーニング屋の大きな看板が掲げられ、以前よりも、ますます雑然としているように見受けられる。以前は地理に詳しくなかったので、210円の電車賃を払って到達できるところくらいしか思っていなかったが、今は地上のことがよく把握できる。だが、これほどよく分かるようになった今、すべてはすでに過ぎ去ったのだ。

しかしながら、感傷に浸っているわけでなく、この緑のビルとは、全くもって、最初から最後まですれ違いの連続であった。2009年、主の生き生きした御業を見て、望みがかなえられ、喜びと共にこの地にやって来た時、「神様が私に何をして下さったと思いますか? 私は解放されたんですよ!」と、最も兄弟姉妹に告げたいと思って、何も知らせず礼拝に飛び込んだところ、指導者は遠くの同窓会に出かけて不在で、礼拝は完全に気の抜けたビールのごとく、何の期待感もなく、話を分かち合えそうな人もなかった。耐えられなくなって外に飛び出し、公衆電話に十円をたくさん入れて電話をかけてみたが、つながらなかった。

あまりにもその体験に失望したので、その後、半年間、その場所には寄りつこうとも思わなかった。明らかに、主の御思いからは遠くかけ離れていると感じられたからだ。そして、別の群れに行ってみたが、そうこうしているうちに、事件が起きて、仕方がなく指導者と顔を合わせることになった。が、だからと言って、何かが開けることもなく、最後には、最も望ましくない形で、その場所は悪党どもに占拠されて、出入り禁止とされたのである。

その出入り禁止とされた場所が、見るからに荘厳な、お城のようだったのならばまだ良い。何百億円もかけて建設された礼拝堂で、全国に有名な指導者が率いる何千人もの群れがいて、庶民は入れませんよと言われたならば、まだ理解できよう。だが、そこは最初から最後まで何の変哲もない平凡な緑のビルで、そこに集まっていた人々も、諸教会から見放され、最も光彩に欠ける数えるほどの人々であった。

インターネット上では現実がはるかに見違えて見えるものだ。現実には、それは悪党どもが奪い取るほどの価値すらもあったかどうか疑わしいほどに、細々として、注目もされない、小さな群れでしかなかった。悪党どもは肩をそびやかして指導者を追い出し、この哀れな群れの中から、最もえりすぐりの評判の良くない支持者を引きぬいて連れて行った。こうして私は、遠路はるばるやって来たのに、もともと諸教会から見放され、放逐されていた群れの中から、さらに放逐されたのであった。

むろん、これは多少、筆が滑りすぎて、皮肉が行き過ぎていると言えるだろう。その後、様々なクリスチャンに出会ったが、別に緑のビルにいたことが「前科」とみなされるようなことも全くなく、そこから「放逐」されたという話も、とりたてて何の問題ともならなかった。悪党どもの占拠についても、人々はずいぶん管理がいい加減だったと肩をすくめるか、あるいはいっぱい食わされたと吹き出した。「諸教会から見放され、放逐された最も光彩に欠ける・・・」云々のくだりも、緑のビルから放逐されて絶望して他宗派に去った信者が私に向かって投げかけた言葉に基づいているので、こうした評価も、この集会に対して敵対的な人の個人感情が反映したものでしかなかった。

実際には、そこで起きている出来事は、世界の誰の関心も引いておらず、かつてはあれほど組織からの脱出を夢見てその交わりに注目していた信徒たちも、いつの間にか、それぞれちゃっかりと元のさやにおさまって、そこが一番だと豪語していたのである。

だが、私はその人たちと一緒に元の故郷へ戻ろうとは思わなった。こうしたことも、悪党どもが場所を奪ったために起きた事件ではなく、初めから、そこが居場所ではなかったことをよく示しているだけなのである。居場所は常に、天にある。だから、飛行機が陸を離れて飛び立つときのように、私は地から目を離し、天へと視線を移す。

古い記事には、何を書いたか自分でも忘れているのだが、「港町の風景」にこんなことを書いていたのを思い出す。「近いうちにもう一度、横浜を訪れることができればと思う。以下は、懐かしい神戸の海。横浜の夜景はまだ一度も見たことがないが、きっとこれに似ているのではないかと思う。」

その時には、これが実現するとは思ってもいなかった。今、神様はおっしゃるだろう、「私はあなたが望んだから、その願いに応えて、あなたをこの地に導いて来たのであって、あの人、この人に帰属させるため、もしくはあの集会、この集会に所属させるために、来させたわけではないんですよ。あなた自身が当時から分かっていた通り、エクレシアは常に、今、目に見えているものの中にはなく、私に忠実な民の心の中にあるんです。エクレシアは、あなたの只中にあるのです。教会は、常に私に忠実な民自身の心の只中にあるのであって、誰か偉そうな他人の心の中にあるのではない。それはあなた自身が私と共に建設して行く見えない統治のことでもあるんですよ。だから、あなたの望みを私に託しなさい」と。

こうしたことからも、主がどれほど注意深く、ご自分の民の願いに耳を傾けておられるかがよく分かる。だが、信仰はどこまでも人間に対する期待ではなく、神への期待である。間違っても、途中から、地上にあるものに目を移して、主からいただいた目に見えるものを後生大事に握りしめるわけにはいかない。信仰は、神に心を向ける人間の願いと、それに応えて下さる神との共同作業で、神の御思いと人の願いが重なり合って地に引き下ろされるコラボレーション。私たちの目は常に地ではなく、天へと、まことの供給者である方へと向かなければならない。

さて、話を戻せば、信仰の展望を他者と分かち合うことは難しいが、それでも、2009年、エクレシアの展望は多くの人たちの心に、切実な願いとなって生まれ、生き生きした新鮮な展望として育まれていた。

今日、そのうちどれだけ大勢の人たちが、何事もなかったかのように元の地上組織に帰って行っただろうか。あるいは御言葉の否定に至って、探求そのものをやめただろうか。それでも、一旦、始まった以上、どれほどの月日がかかったとしても、目的をあきらめない人々もいることだろう。

エクレシアとは、主の御心にかなう統治が実現している場所のことであり、それはこの世の地上の領域のことではなく、目に見える人々の群れを指すのでもない。それはまさに山上の垂訓が実現している神の霊的統治そのもののことなのである。目を上げれば、神の統治は主の民の生活の至る所で常に見いだすことができる。御言葉に忠実な民こそ、見えないキリストと共に、天地をつなぐハシであり、こうした主の民の存在を通して、神の御思いが地上に引き下ろされる。キリスト者一人一人が、可動式の神の幕屋なのであり、地ではヘビを踏みつけ、その頭は天で御座についておられるキリスト、我々の居場所は、天にある。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが言って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。私の行く道はあなたがたも知っています。」(ヨハネ14:1-3)

「私の行く道はあなたがたも知っています。」、主イエスが弟子たちに、天には住まいがたくさんあると言って、その住まいを設けるために、どこへ行くのか示された道が、十字架だったのである。十字架における完全な自己の死だったのである。

我々キリスト者は、天にはたくさん住まいがあって、その住まいの募集がすでに始まっていることを知っており、そこへ入りたいと望んでいるが、そこへ至りつくためには、ただ一つの道である十字架を経由しなくてはならない。

この道を行くとき、いわゆる私たちの個人的もうけなるものはない。これは私たちにとって地上では手柄とも栄光ともならない。もしかしたら、先人たちと同じように、我々も地上で約束のものを手に入れないかも知れないし、それを見ないうちに人生が終わる可能性もないとは言いきれない。

それでも、私たちはそろばんをはじいて地上での自分の利益のためにあきらめるのではなく、そのような無価値な地上の宝をすべてかなぐり捨ててでも、信仰によって、今見ているものよりも、「さらにすぐれた天の故郷」があることを確信し、「はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白する」ことを否まないのである。へブル書の言葉は、私にとっては詩のようである。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれてい たのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル 11:13-16)

以下も、幾度も引用して来た信者の言葉であるが、しかしながら、これにも決定的につけ加えなければならない一言がある。

「敢えて時空内に留まり 時空の中で勝ち誇って 
復活の中の永遠のリアリティを「彼」に見せつける、
と言う「宇宙最高の」役割を楽しむ」

ことは逆説的に、十字架の死にとどまることによってのみ可能なのだ。
確かに、キリスト者にはダイナミックな勝利もあり、悪魔に対して決定的に勝ち誇る瞬間がある。要塞をも打ち破って、暗闇の軍勢に勝利しなければならない。

しかしながら、復活を達成するためには、常に十字架にとどまり、己を否んで死を受け入れなければならないのである。私たちが求めているものが、この世の故郷ではないことを、絶えず告白し、証明し続けなければならない。信者は、信仰の戦いに、この世の方法によって勝利するのではなく、人の常識や知恵に頼って勝利するのでもなく、あくまで、ただ御言葉だけによって勝利を得るのである。

そのためにこそ、どういうわけか知らないが、キリスト者は年々より自分の力に死なされて、より小さくなっていくのである。アブラハムとサラはもう限界である。100歳に到達した。展望は遠のき、絶望的になったかに思われる。もはや彼らに何ができようか。彼らが若く美しく力と活気に溢れ大勢の人々に囲まれて注目の的となりまさに幸せを望まれていたその時はとうに去った。彼らはもう期待外れであり、規格外である。後はどのように地上の人生を安らかに終えて静かに人々の目の前から退場して行くかという「終活」以外に、何の期待も寄せられていない。彼ら自身、かつて見えていた展望や、望みについて、何と自分は大それたことを夢見ていたのだろうかと、自嘲せずにいられないまでになった。それはすべて夢だったのではあるまいか? 

そのような地点まで、キリスト者は連れて行かれる。もはや自己の力が尽きて、神でなければなし得ないという地点まで。常にこれが原則である。そして我々にはもう無理だ、できそうにもない、本当にあきらめるしかないのだろうか、初めからすべては大それた夢でしかなかったのだろうか、というところまで来て、主が力強く働かれる。生まれながらの人間にとってはつらいことであるが、しかし、神にはできるのだ。そのことを私は信じている。

だから、我々にとっての自己の終わりが常に主の御業の始まりなのである。

主よ、我が国の有様は、あなたがご覧になっている通りです。
しかし、私たちは、まさかこれがあなたの御心だとは信じていません。
そして、このような有様が現実だとも思っていません。
そろそろ、あなたの出番です。
そろそろあなたの出番です、そうではありませんか、主よ?

雨がやんで、空は晴れ渡り、新しいことが始まりそうな気配が漂う。
我々は神を信じて、心を騒がせず、絶えず十字架の死と復活にとどまり、これをより深く知り、味わいながら、地上で大胆に次の一歩を踏み出していくのみである。



 "エクレシア、コイノニヤの時空における現れは
臨機応変、伸縮自在、そして神出鬼没であるべきです。
何故でしょう、それは復活したキリストが正にそうであるからです。
そのような現在のキリストと聖徒達を、この世の何者も(そして多くの
キリスト者でさえも)捕らえることは出来ません。そしてまた決して
誰も自分のものとして所有することも不可能です。

このような エクレシア、コイノニヤの姿には神の無限の知恵が
隠されています。この最後の時代 神はそのような復活の中の
隠された知恵を隠された方法で行使されるでしょう。
そのような有様のエクレシアのみが 遂には次の時代 
極めて圧倒的かつあからさまな王国の到来を招致出来るのです。

あなたがある固定された箱の中へ、固定された時間に行って見る時、
もしも 決まってある同じ人物が登場し、その人を見るために「お客」が
集まって来ると言う風景に固定的に出会うのであれば、そこには復活、
不死、無限の性質はなく、健康な人間性も見ることは出来ません。

そこで見られるのは
四隅を区切られた時空の中の限りある朽ち行く物質の性質です。
なぜなら その固定、制限、区別と言う箱(時空)によって限定された
ひと時内でのみ活動を許されている王は かつてのルシファー、
永遠の苦悩と恥辱と破滅の運命が既に固定確定されている
今現在のサタンであるからです。

私達は
敢えて時空内に留まり 時空の中で勝ち誇って 
復活の中の永遠のリアリティを「彼」に見せつける、
と言う「宇宙最高の」役割を楽しむためにこそ
今ここで生きているのです。 "



十字架における自己の死と復活

なぜ今まで気づかなかったのだろう。十字架経由で自己の死を経たということは、復活したということでもあったのだ。この素晴らしい恵みを直接体験していたにも関わらず、今まで気づいていなかったとは!

 8月の初めに、記事の中で、私はあるキリスト者との語らいについてこう書いた。

「いかにイエスの十字架が軽いといえども、この状況では、苦しくて音をあげたくなる時があります。永久に私はこのままなのだろうか、そんなことには耐えられない、何とかして名誉挽回したいし、人並みに楽しんで幸福な人生を生きていきたい<…>と思わずにいられないのです…。人からどんなに蔑まれ、どんなに貧しく、どんなに惨めな境遇にあったとしても、ただ黙って耐え続けるのが十字架なのでしょうか?」と私。

「気持ちは分かりますよ、でも、そこで自分をごまかして、つまり、自己弁護しようとしてはいけません。サタンは私たちが肉なる自己にしがみつき、肉を立てようとするのを待っているのです。けれども、キリストにならう道とは、馬鹿にされ、誤解され、あざけられ、軽蔑される道なのです。私たちは肉体を持っているとはいえ、すでに肉に死んでいます。私たちの命はすでに死んで、キリストと共に神のうちに隠されているのです(コロサイ3:3)。神のうちに隠されている、これはいわば、墓の向こうで生きるようなものなのですよ。」

「それじゃあ、私はすでにこの世とは別次元で生きているようなものだということですね。だから、この世からはたとえ死人のようにみなされていても仕方がないし、むしろそうあって普通なのだと」
「そうです、この世に対しては死んで、隠された命を生きているのです。自分を祭壇に横たえ、本当に死んでしまえば、敵ももうそれ以上、あなたを攻撃できないのですよ」

 会話は、キリスト者はイエスにならって、十字架、死、復活、キリストと共に御座につくこと、それらを経験しなければならないという運びになった。私は自分の名誉回復をいまだに願ったりしている時点で、本当の意味では自己の死さえ完了していないのかも知れない。<…>

 また、私たちの戦いは血肉に対するものではない、だから、真の敵は人間ではないということが、歩みを進めるに従って、もっとはっきりと分かって来るだろう、との話であった。そうなれば、もはや肉なる人間に対する憎しみや恨み、怒りなども、持ちようがなくなってくるのだと。


 この記事を書いた当初、交わりで交わされていた言葉が、今、成就したのだということが分かる。私は今初めて、自己の死と復活を身を持って体験したのである。
 「自己の死」について、Dr.Lukeの説明を改めて引用することによって、この出来事を振り返りたい。

「…人は自分の意志を完全に放棄することはできません。なぜなら、元々人は悪魔によって『神のようになれる』という誘惑を受け、それに従った結果、堕落に陥ったからです<…>

そこで人は外界と適当な折り合いをつけながらも、手練手管を用いて、最後には自己の意志を通すことを学びます。このために教育や自己啓発によって魂(特に知性)を発達させるのです。これが社会に適応する形で表現されれば、例えば有能な経営者として手腕を発揮し、これが社会に適応し得ない屈折した形で表現されるとカルトの教祖ともなり得るわけです。<…>

それに対して、イエスは自己の意志を通し、それを自ら実現させることを一切排除されました:『わたしは父が行うことを見て、その通りをおこなうのである』、『わたしの言葉は父の言葉である』と。彼はあらゆる状況を自らの有利になるようにコントロールされませんでした。イエスの生き方の特徴は、御父に対する愛と信仰によって、完全に御父に頼り、御父の意志を行ったことです。すなわち、『自己における死』とは、主に私たち自身の意志の取り扱い方において、具体的に表現されます。

このことを学ぶ機会を得させるために、神は時に私たちを私たちから見ると過酷とも見える環境・状況に導かれることがあります。その中にあっては、それまで自己の思いのままにコントロールできていた対象が一つ一つ奪い取られ、すべての事柄が自分の手中から落ちて行ってしまうように感じられます。まったく自分の意志を通すことのできない、自らの方法や策略によって事態を収拾できない、そういう状況を私たちに対して、神は必ずある明確な時期において備えられます。イエスですら、十字架の死という自分ではどうしようもない状況に置かれたのです。

このような期間において私たちに残されるのは、ただ私と主との祈りによる交わりだけです。他の対象において自分自身の存在の保証、自分のアイデンティティーを担保を期待することは100%不可能です。私の存在の保証とアイデンティティーを担保して下さるのは、ただ天地を造られた神のみです!『わが救いはどこから来るのか、天地を造られた主から来る』(詩篇)とある通りです。<…>

多分、私は感覚としてそれを感じることはできません。しかし信仰は知っています。私に残されているのは、ただ御霊による復活なのです!イエスは死に入られ、3日目に復活させられました。そのイエスを甦らせた神の力が私たち信じる者のうちにも働いているのです。その時こそ、私の意志ではなく、神の意志が実現され、神へと感謝と賛美、そして栄光が帰されるのです!神の御業が最も顕著に、かつ明確になされるのは、私たちが自己努力でもがくことなく、自己にあって死ぬ瞬間、すなわち自己の意志が無とされる時です。自己の死は、誰の意志が優先されるか、という点において明確に識別し得ます。それは私の意志でしょうか、それとも神の意志でしょうか・・・」

 今から振り返ると、不思議なほどその通りなのである。私は十字架で自己の死を経るまでには、自分がガス室に向かっているような感覚を絶えず持っていた。その時、私に見えていた十字架とは、反人間的なものであり、私を殺そうとする脅威のように思われた。そして、私の自己は、この暗い予感の通りに、まるで車の衝突実験に見られるように、時速何百キロというスピードで、十字架という壁に向かって突っこんで行った、そして、見事にクラッシュして、私は帰らぬ人となった。
 一つの事件を通して、私の自己は砕け散り、私は自分が死んだと思った…。私の生きる意欲、生きたいという願い、幸せになりたいという願いの全てが、微塵に砕け散った瞬間だった。

 だが、死んだと思った私は、十字架を経由して、まだ生きていることを知った。初めは、自分の命が奇跡によって救われたのだと思った。しかし徐々に、そうではないことが分かって来た。いや、奇跡は私が思ったよりなお素晴らしいものだったのである。私は確かに死んで、自己に死んで、復活したのだということ、この世に復活したのではなく、この世に対して死に、御霊によって、キリストの命を得て復活にあずかったということが分かってきたのである。

 なぜそれが分かるかと言えば、今、私を生かしているのが「私の意志でしょうか、それとも神の意志でしょうか」という違いがはっきりしているからである。すなわち、十字架の死を経るまでは、私は自己保存の法則に従って生きていた。この世で何とかして自分を生かそうという思い、他人を生かしたいとの思いが、私の人生目的の全てであった。神は私たちの生存を手助けした上で、永遠の命へと導いてくれる存在としか見えていなかった。たとえ御言葉を語り、神の栄光について語っている時でさえも、私は自分を起点にして話していた。

 ところが、今や、私は「神の意志が何であるか」ということを起点にしか、物事を考えることができなくなりつつあるのだ(まだこの学習は完全ではないとはいえ)。

 ここ数日、私は、世界が幾度、滅んだとしても、主のご計画は絶対に変わらないという安心感の中に生きていた。こうした表現は、一見、世界の価値、人の生命の価値を何とも思っていないかの発言に聞こえるだろう。

 しかし、それを通して、私が真に言いたかったことはただ一つ、すなわち、私はもはや古き人の情の世界に生きていないということである。私はこの世に対して死んで、この世も私に対して死んだので、私は、肉なる人を救おうとする人情が最高の価値を持っているこの世の価値観に対して死んでしまったのである。

 人情から解放されると、一見、この世に無関心で、人に対して冷たくなったように見られることがあるかも知れない。しかし、そうではないのだ。自分自身で直接、人を救おうと焦ることがなくなった代わりに、神の御心が人を救うものであることを知っているので、神を経由することによって、人を愛し、神のご計画の中で、人の救いを手助けしていくことができるようになるのである。それは情の上で人を愛するということではなく、むしろ、神のご計画の一端を担いながら、それによって、人を愛するということなのである。

 十字架上で自分が崩壊してからというもの、自分の考えで人を救い、人の苦痛を少しでも減らすことを最善と考える「人に優しい生き方」が、私にとって、一切の価値を失った。そして、「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ2:19-20)という御言葉が、本当に私の中で、はっきりした形で理解できるようになったのである。

 これを上手く説明するのは難しいだろう。「千と千尋の神隠し」という映画の中で、主人公の千尋が廃墟と化したテーマパーク(?)にいるうちに、夜を迎えてしまい、元の現実世界に戻ろうと思っても、河に隔てられて帰れなくなってしまう場面があるが、それに似ているかも知れない。

 あの場面に登場する河は、此岸と彼岸とを隔てる、三途の河のようなものを象徴している。それにもよく似て、自己に死んだキリスト者と、この世との間には、十字架なしには渡れない何らかの深い隔てがあり、十字架の死と復活を経由して、御霊の法則の支配する世界に移されたキリスト者は、この世をまるで対岸にあるもののように眺めており、そこに帰ることがもはやできないのである。私たちは、深い淵の中を、信仰の小船に乗って進んでいる。向こう岸にあるこの世の明かりはますます遠ざかるばかりで、二度と私たちはそこへ戻ることはない。新しい旅路が始まっており、向かう先はまだよく分からないが、栄光に満ちた御国が行く手にあることがはっきりしており、この小船の船頭はイエス・キリストである。この世の絶えざる苦労の中に生きていた頃の自分が、すでに死んで昔のものとなってしまったことが分かる。

 今生きている世界で、私を生かしている法則は、「主は何を望まれるのか」ということに尽きる。実際には、私はまだこの世に生きているのだが、それにも関わらず、もはやこの世と隔絶したところに生きており、自己保存の法則ではなく、御心を第一とする法則に支配されて、この世から隠されて生きている。
 「自分を祭壇に横たえ、本当に死んでしまえば、敵ももうそれ以上、あなたを攻撃できないのですよ」との言葉通り、肉なる私は死んで十字架につけられたままこの世での生命を終え、今生きているのは、キリストによって復活させられた私、キリストの命を生きている私なのである。
 多分、どう説明したところで、分からない人には分かってもらえそうにない気がするが、これが、私が十字架において自己の死と復活とを経由したということの拙い説明である。

 もちろん、このような自己の死というものは、恐らく一度限りでは終わらないだろう。私にはさらに砕かれる必要があるだろうと思う。だが、これほど大がかりで、しかも、はっきりした形でそれを理解させられたのは、私にとっては初めてのことであった。大昔にバプテスマを受けながらも、私は自己に死ぬことを(経験的に)知らなかったのだ。今、これほど明確に、自己に死に、復活するとは何かを主が私に教えて下さったことを嬉しく思う。さて、「死と復活の原則について」から引用。

 「私たちのうちには聖霊によって神の命が種の形で蒔かれています。神の命の遺伝子が組み込まれているのです。これは自分が感じようと感じまいと事実です。なぜなら聖書が信じる者は永遠の命を持つと言っているからです。問題はその命が私たちの自我という固い殻に覆われていて、その命の現れが見えて来ないことです。私たちの生まれつきの魂は、自らの意志を通し、自らの思いを守り、自らの感情に傷を受けまいとします。すなわち、私たちは魂の本質的性向として『自己保存』という強い欲求を持っています。<…>自我(魂)は自己の保存を意識的にせよ、無意識的にせよ、第一に求めるのです。

一方、神が求めておられるのは、私たちの内の神の命が、私たちを通して表現されることです(注)。そのためにはどうしても私たちの自我(魂)という硬い殻が一旦破られる必要があるのです。内に閉じ込められた命を解放するためにどうしても必要な過程です。これが私たちの『自己における死』です。」

 何のために自己の死を経る必要があるのか。それは一粒の麦が地に落ちて多くの実を結ぶためである。命の川、生ける水の川々が私たちの自我の殻を打ち破って、隔てなく、よどみなく外へ向かって流れ出るためである。そうやって、神の栄光が私たちを通して、よどみなく現されるためである。
 さらに、自己に死ぬとは、私たち自身のためでもあると、私は思う。自己に死ぬまでの過程は、肉の存在である私たちにとっては、かなり苦しいものであるかも知れないが、一旦、自己の死を経ると、私たち自身が、罪と死の法則性から解放されて、圧倒的な自由を得るのである。

 人間は、神を誉めたたえるために創造された。自分自身を生かすために生存するのでなく、神の栄光のために生きることこそが、人間にとって本来の最も自然なあるべき姿である。従って、自己に死んで、キリストの命を生きるようになる時、私たち人間は、最もあるべき姿、自然な姿、神が本来私たちをかくあれかしと創造された姿へと回復されていくのである。

「見よ、わたしは新しい事をなす。
 やがてそれは起る、
 あなたがたはそれを知らないのか。
 わたしは荒野に道を設け、
 さばくに川を流れさせる。<…>
 この民は、わが誉を述べさせるために
 わたしが自分のために造ったものである。」(イザヤ43:19,21)