忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

国家神道の異端的家族モデルーグノーシス主義の基本構造⑩

④ 国家神道における地上天国建設のための異端的家族モデル 続き

・神と人との断絶を認めない「和の大精神」とグノーシス主義的原初回帰の類似性

国家神道は、なぜ個人を家や社会や国家や自然環境と切り離せないものとみなし、それを離れての個人というものは「所詮本源を失った抽象論」に過ぎないとして、個人の概念そのものを退けて、個人をより強い存在の一部であるかのようにみなしたのか。

その理由としては、東洋思想においては、神と人との断絶が否定され、「神と人との和」という独特の思想が存在していたことが挙げられる。

キリスト教では、生まれながらの人間は、罪によって堕落しているがゆえに、神から切り離され、キリストの十字架における贖いを信じて受け入れることなくして、神と人との和解は不可能である。従って、信仰のないところでは、神と人とは敵対関係にあり、神と人とのいかなる「和」も存在しない。

しかし、国家神道は、東洋思想を基礎として神というものをとらえるため、キリスト教における「神と人との断絶」という概念そのものを否定する。

「国体の本義」は、東洋思想の「神」とは、キリスト教の神のように、人類を罪に定めたり、(残酷な)処罰によって脅かすような「恐ろしきものではなく」、「西洋の神話」に現れたような、「神による追放」、「処罰」、「厳酷なる制裁」のような、神の側から人類に対する一切の脅かしは存在しないのだと言って胸を張る。

そして、東洋思想においては、西洋思想と異なり、「神と人との間は極めて親密である」から、神と人との間には「一致」や「和合」があり、いかなる断絶も敵意も存在しないと誇らしげに言うのである。

このように、人間を罪に定めたり、脅かすことのない、愛と慈悲に満ちた「神」の概念は、人の耳にはまことに心地よく、都合よく響くであろうが、実際には、以下に示す通り、キリストの贖いの十字架を抜きにして主張される「神と人との和」ほど恐ろしいものはなく、それこそが、最も人間性にも反する様々な歪んだ概念を生み出す源となるのである。
 
 国家神道は、キリスト教における「神と人との断絶」という概念を否定したがゆえに、これを基礎として、天皇と臣民、人と自然、人と家、人と国家、などがすべて「一つの源」から生まれて互いに和合するものであると考え、それを根拠として、人が生まれ落ちた家や国から離脱することを許さず、「子」が「親」に仕え、弱い者が強い者に仕えて、その利益のために自分を犠牲として捧げて生きることを一生の義務とみなし、個人を家や社会や国家といった全体の一部分か、あるいは所有物のようにみなし、それを離れた個人という概念すらも否定するに至ったのである。

そして、このような「和合」を無理やり実現するために、国家神道は、残酷な異論の排除のための装置を生み出さないわけにいかなかったのである。

以下に、以前にも引用した「国体の本義」の「神と人との和」の抜粋をもう一度、挙げておく。そこでは、諸外国と比べて、いかに日本の思想の優れているかということが、嫌になるほど強調されており、その点で、これは自惚れと優越感と競争意識に満ちた醜悪な文章なのであるが、少なくとも、この引用を通して、明らかになるのは、東洋思想が「神と人との断絶はなく、神と人とは和合している」とみなしたことから、その「和」なるものが、人と全ての対象物との関係に無限に適用・拡大されて、「全世界は一つである」という思想を生んだ様子である。

国家神道は、東洋思想を基礎として、「神と人とは和合している」という主張から始まって、これを人と自然、人と人、人とすべての対象物との関係に当てはめ、万物は一つに調和しているという「和の大精神」を説くのである。
  
これはキリスト教の裏返しである。つまり、そこでは、鈴木大拙や、リューサーのような解放神学者が徹底して非難した聖書の「二分性」が完全に否定されて、すべてのものが「一体」であるとみなされ、世界を一元化しようとする試みがなされているのである。
  
東洋思想においては、神は「恐ろしい存在ではない」とされるのと同様、自然も人間にとっては脅威にならない、人間と調和した愛すべきものであるとされる。同様に、親子の関係、個人と家の関係、企業と社員の関係、国民と国家、臣民と天皇との関係といった、すべての関係性にはいかなる断絶もなく、すべてが一つに調和し、溶け合い、和合しているのが我が国の風景である、ということにされてしまうのである。
 
このように、神と人との関係をどうとらえるかによって、人と自然、人と人、人と世界の関係などのがすべてが規定されるのである。国家神道の言う「和の大精神」なるものは、「神と人との断絶」という聖書の二分性を否定したところから生まれて来る、全人類の一致、全世界の一致の思想であると言えよう。
 

国体の本義 
四、和と「まこと」
神と人との和 より抜粋

「更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。このことは我が国の祭祀・祝詞等の中にも明らかに見えてゐるところであつて、我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である

  又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。我が国は海に囲まれ、山秀で水清く、春夏秋冬の季節の変化もあつて、他国には見られない美しい自然をなしてゐる。この美しい自然は、神々と共に天ッ神の生み給うたところのものであつて、親しむべきものでこそあれ、恐るべきものではない。そこに自然を愛する国民性が生まれ、人と自然との和が成り立つ。印度の如きは自然に威圧せられてをり、西洋に於ては人が自然を征服してゐる観があつて、我が国の如き人と自然との深い和は見られない。これに対して、我が国民は常に自然と相和してゐる。文芸にもこの自然との和の心を謳つた歌が多く、自然への深い愛は我が詩歌の最も主なる題材である。それは独り文芸の世界に限らず、日常生活に於ても、よく自然と人生とが調和してゐる。公事根源等に見える季節々々による年中行事を見ても、古くから人生と自然との微妙な調和が現れてゐる。年の始の行事はいふに及ばず、三月の雛の節供は自然の春にふさはしい行事であり、重陽の菊の節供も秋を迎へるにふさはしいものである。季節の推移の著しい我が国に於ては、この自然と人生との和は殊に美しく生きてゐる。その外、家紋には多く自然の動植物が用ゐられてをり、服装その他建築・庭園等もよく自然の芙を生かしてゐる。かゝる自然と人との親しい一体の関係も、亦人と自然とが同胞として相親しむ我が国本来の思想から生まれたのである。

  この和の精神は、広く国民生活の上にも実現せられる。我が国に於ては、特有の家族制度の下に親子・夫婦が相倚り相扶けて生活を共にしてゐる。「教育ニ関スル勅語」には「夫婦相和シ」と仰せられてある。而してこの夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ。即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。

  更に進んで、この和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。

  このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。

  要するに我が国に於ては、夫々の立場による意見の対立、利害の相違も、大本を同じうするところより出づる特有の大和によつてよく一となる。すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる。ここに我が国の大精神がある。而して我が国に現れるすべての進歩発展は、皆かくして成される。聖徳太子が憲法十七条に、
  和を以て貴しとなし、忤ふることなきを宗と為す。人皆党有り、亦達れる者少し。是を以て或は君父に順はずして、乍隣里に違ふ。然れども上和ぎ下睦びて、事を論はむに諧ひぬるときには、則ち事理自らに通ず。何等か成らざらむ。
と示し給うたのも、我が国のこの和の大精神を説かせられたものである。」


 当然のことであるが、こうして国家神道が美化し、謳い上げる「和の大精神」は、聖書に照らし合わせれば、事実に反する考えであり、これは何よりも、分離によって人類に死が入りこんだためにすべての二分性を克服して原初的統合を回復せねばならないとするグノーシス主義を思い起こさせる。

実際に、「和の大精神」なる考えの根底にあるのは、神と人との断絶を否定して、すべての関係における分裂を超えて、全世界を一元化したいという欲求である。

そこで、実際、そこで言う「和」なるものは、結局、グノーシス主義の目指す「原初的統合」の呼びかえに過ぎないと言うこともできよう。

しかしながら、このように聖書の「二分性」を一切否定したところに成り立つ「和の大精神」なる一元的世界は、実際には、自然の摂理にも反し、人間性にも反する完全な幻想に過ぎないのである。

こうした美辞麗句が虚偽に過ぎない幻想であったことは、この「和の大精神」のもとでの麗しい一致や和合が、実際には、暴力による弾圧や、強制的な異論の排除によらなければ、到底、実現不可能であったことからも分かるのである。
 



・聖書の二分性に逆らって世界を一元化しようとする試みは必ず異論を排除する暴力装置を生む
 
「国体の本義」がそのように自然で美しいものとして謳い上げる「和を持って貴しとなす」という精神が、具体的に、どのような方法で実現が試みられたのか、今日、我々は誰でも歴史を通して知っている。

国家神道の完成期に定められた悪名高い治安維持法は、この「和」を強制的に成し遂げるために欠かせない暴力装置の一環であった。治安維持法は、「国体の変革」を試みた人間に対する容赦のない弾圧を定めていたが、大正から昭和に変わるとさらに厳罰化が進み、「国体の変革」を試みた者に対しては死刑さえも導入されることになった。
 

治安維持法(旧法)(大正14年法律第46号)
 第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス
 2 前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

治安維持法(昭和16年法律第54号)
 第一条 国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ三年以上ノ有期懲役ニ処ス
 第七条 国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スべキ事項ヲ流布スル事ヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ無期又ハ四年以上ノ懲役ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ処ス


国家神道が、このような弾圧を通してしか、「和の大精神」を実現できなかった様子を見ても、 そこで唱えられている「神と人との和」から始まって「人とすべてのものとの和」が、しょせん、神話であり、虚偽に過ぎなかったことがよく分かるのである。

国家神道は、神を人間を脅かす恐ろしい存在ではないととらえることによって、我が国は、西洋諸国の陥った二分性の行き詰まりを避けて通れるかのように主張していたわけであるが、実際には、西洋諸国の人間と違って、我が国の人間だけがそうしたことを自然になしうる特別な人間性を備えていたなどということはまずありえない話であった。
 
「国体の本義」が高らかに謳い上げる「神と人との和」、あらゆるものの調和は、実際には、暴力によってしか成立し得ず、維持することもできない、人間性に反する幻の概念に過ぎなかったのである。
 
だが、この「神話」をリアリティと見せかけ、国民を天皇の傘下に一致団結させて、「一家族国家」の理想を成し遂げ、なおかつ、これを全世界にまで押し広げるために、当時の日本政府は、国家神道の理念を否定する者たちをことごとく暴力的に弾圧、排除し、殺したり、処罰したりすることによって、強制的に自ら理想とする「和」を作り出そうとしたのである。

こうして、神というものを、人間を罪に定めたり、処罰したり、追放したり、脅かしたりすることのない「愛と慈悲の神」と定義すると、逆にその「神」の概念を保つために、人間を容赦なく弾圧し、罪に定め、処罰し、追放せざるを得ないというパラドックスが発生するのである。
 
こうした矛盾はすべての異端思想につきものなのであり、だからこそ、「神と人との断絶」を否定する思想は恐ろしいのだと言える。国家神道と全く同じことが、ペンテコステ・カリスマ運動や、共産主義の唱える地上天国の理想にもあてはまった。共産主義思想においては、共産主義ユートピアを実現するためには、階級的を抑圧して滅ぼし、人類を一元化するための抑圧機関としての秘密警察がなくてはならないものとして、理論上、認められていたが、ソ連時代の秘密警察はまさにその理論に忠実に従って作り上げられたものであった。

また、ペンテコステ・カリスマ運動を推進するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、「リバイバル」という地上天国による一致を唱える一方で、カルト監視機構や、カルト被害者救済活動といった、キリスト教界を力によって制圧し、強制力によって一致を作り出すための抑圧機関を提唱せざるを得なかった。
 
つまり、異端思想が目指す全人類の一致という全世界が一元化された地上天国の理想と、これを実現するための暴力・強制力による排除の装置は、コインの両面のように表裏一体なのであり、目に見える地上天国を唱えるすべての運動には、必ず、その半面として、世界を一元管理するための暴力装置、抑圧機関が欠かせないものとして伴うのである。

なぜそうならざるを得ないかと言えば、そのような全人類の調和や一致は、もともと人間性に反する達成不可能な幻想であり、強制力によって異論を排除し、恫喝して反対者を黙らせる以外には、決してあるように見せかけることもできない虚偽だからである。
 
このような偽りの思想、しかも、聖書の神に悪質に敵対するバベルの塔としての全人類の一致を唱える思想という点において、実際には、国家神道も、共産主義思想も、統一教会も、ペンテコステ・カリスマ運動も、基本構造は全て同じだと言えるのである。

これらの思想は、どんなに「神と人との和」や「和の大精神」などの言葉で、「全人類は一つの家族」などといった人類一致の理想を唱えていたとしても、本質的にそれはキリスト教への敵対意識、聖書の神への敵対意識から生まれて来た悪魔的思想なのであり、その幻想に過ぎない全人類の一致という偽りの理想を実現するために、最も反人間的で容赦のない暴力的な弾圧を人間に強いることになるという点でも、実に悪魔的な特徴を持つ思想であり、基本構造が全く同じなのだと言えるのである。



・西洋思想と東洋思想との混合物を作り出すことによってキリスト教を凌駕することを使命とする国家神道

「国体の本義」の提唱する、世界の一元化を目指す「和の大精神」の理想は、キリスト教の二分性にそぐわず、聖書に敵対する思想であることは明白であるが、そうであるがゆえに、「国体の本義」は、自ら唱えている理想は、西洋思想とは根本的に全く異なるものであることを幾度も強調せざるを得なかった。

結局、国家神道とは、まさに鈴木大拙氏が非難したようなキリスト教の「二分性」そのものに対抗するために生まれて来た、聖書に敵対する思想なのである。

以下の抜粋を読めば、国家神道の主張が、鈴木大拙氏の主張とほぼ変わらないものであり、その根底には、西洋思想に対する敵意が流れていることがよく分かるであろう。

「国体の本義」もまた、鈴木大拙氏と同じように、キリスト教の二分性こそが、西洋諸国に個人主義の弊害を生み、世界を行き詰まりに追い込んでいる元凶であるとみなしていた様子が分かる。そして、結局、このようなキリスト教の二分性に基づく西洋的な行き詰まりを打開するためには、西洋思想の欠点を補うことのできる東洋的発想を持ち込んで、西洋思想と東洋思想の混合物である「新日本文化を創造する」ことがぜひとも必要であり、それによって世界文化に貢献することこそ、我が国の使命であると考えていたことが分かるのである。

国家神道は、あからさまに西洋思想を全否定した上で、東洋思想を高く掲げることによって、西洋思想の「行き詰まり」を打開できるとするのではない。むしろ、西洋文化の長所はあくまで長所として学び、取り入れながら、そこに東洋的(日本的)エッセンスを加えることにより、両者を合体した新たな文化を打ち立てようとするのである。

ここに西洋と東洋との思想的混合物を作ることを悲願とする終末のバビロン宗教の一つとしての国家神道のミッションが見えて来る。
 

「国体の本義」、結語、新日本文化の創造、より抜粋

 これを要するに、西洋の学問や思想の長所が分析的・知的であるに対して、東洋の学問・思想は、直観的・行的なることを特色とする。それは民族と歴史との相違から起る必然的傾向であるが、これを我が国の精神・思想並びに生活と比較する時は、尚そこに大なる根本的の差異を認めざるを得ない。

結語、諸般の刷新、より抜粋

 明治以来の我が国の傾向を見るに、或は伝統精神を棄てて全く西洋思想に没入したものがあり、或は歴史的な信念を維持しながら、而も西洋の学術理論に関して十分な批判を加へず、そのまゝこれを踏襲して二元的な思想に陥り、而もこれを意識せざるものがある。

<中略>

 かくの如く、教育・学問・政治・経済等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。

 今や西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れてゐる。所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義・共産主義もこれであり、又国家主養・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。

  併し我が国に於て真に個人主義の齎した欠陥を是正し、その行詰りを打開するには、西洋の社会主義乃至抽象的全体主義等をそのまゝ輸入して、その思想・企画等を模倣せんとしたり、或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。


結語、我らの使命、より抜粋

 今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。

現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。

世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。


こうして、「国体の本義」によると、西洋文明の舞台に遅れてやって来た日本が、西洋キリスト教国の行き詰まりを見抜いた上で、これを打開する有効な策を提示することによって世界をリードし、西洋思想と文化の欠点を巧みに補いながら、世界文化に貢献することができるということになり、なおかつ、それが我が国の使命であるとされるのである。

このように、比較的「後進国」である国が、「先進国」の誤りや行き詰まりを飛び越えて、一足飛びに世界の救済者になれるという発想は、ロシアの革命以前の初期の社会主義思想を彷彿とさせるものである。当時、ゲルツェン等の初期の社会主義者らは、帝政ロシアが資本主義においては比較的後進国であるがゆえに、先進諸国の腐敗や堕落を踏襲することなく、これを避けて通りながら、ロシアの農村共同体を神聖な核として一足飛びにユートピアに至りつけるとみなしていたのであった。

国家神道もそれと同じように、日本は西洋文明の優れたところを取り入れ、これに学ばなければならないとしながらも、同時に、キリスト教の二分性を根源とする西洋思想の弊害としての個人主義の行き詰まりを糾弾し、言外に、我が国は東洋思想を基礎としているがゆえに、そのような西洋的行き詰まりを避けて通りながら、一足飛びに、独自の発展形態を辿り、世界をリードすることができると主張して、西洋思想に対する東洋思想の優位を誇るのである。優位性を誇るのみならず、その思想を核として世界を西洋的な行き詰まりから救うという世界救済が可能であるという結論にまで行き着くのである。

しかしながら、このようなメシアニズムの思想は、西洋文明に対する劣等感の裏返しとしての歪んだ選民意識に基づく実現不可能かつお節介で厚かましい一種の誇大妄想のようなものでしかないことに加え、そのように西洋思想と東洋思想との折衷案を作り出すことは、キリスト教の側から見れば、到底、容認できない異端のレシピに他ならない。

なぜなら、それは単に文化や技術だけでなく、「西洋的な神」と「東洋的な神」を混ぜ合わせることによって、思想的・宗教的混合物を作ろうとするのは、明らかにまた新たな異端の発生を意味するからである。

どう考えても、キリスト教の父なる神と、天照大神を互いになじませようというのは、無理な相談である。だから、そのようなことを企てれば、どちらかが排斥されることになるのは間違いない。東洋思想を高く掲げている国家神道が、キリスト教の神に十分な注意を払うことはあり得ない。従って、国家神道が述べている西洋思想の長所を取り入れた上での「新たな日本文化の創造」なるものは、結局、キリスト教の否定に他ならないのであって、それはキリスト教の側から見れば、実現不可能な幻想であるばかりか、キリスト教にまた新たな異端を作り出そうとする冒涜的思想に過ぎないのである。

そして、国家神道の提示する異端作りためのレシピも、何ら新しいものでなく、古くからグノーシス主義によって温められて来た思想の焼き増しに過ぎない。

そこにあるのは、西洋思想と東洋思想を混ぜ合わせることによって、キリスト教の父性原理の二分性に母性原理の受容性を補い、それによって、世界をキリスト教の二分性の抑圧から解放しようという、あの伝統的なレシピである。

国家神道において最高位の「神」とされる天照大神の性別については、議論も存在するようであるが、天照大神は、通説では大抵、女神とみなされている。

東洋思想における「神」の概念が、大抵、母性原理の象徴を指すことを考えても、天照大神は女神とする方が自然である。すでに見て来たように、東洋思想は、万物の根源を父性原理にではなく、母性原理に求める。そして、万物を生み出す根源としての母性原理の象徴を「神秘なる母性」、「母なる混沌」として賛美するのである。

グノーシス主義神話においては、男女の対が完全とみなされることから、「父・母・子」という異端的三位一体が提唱され、真の神は「原父」という男性的属性とみなされてはいるものの、実際には、グノーシス主義神話においては、男性的属性としての神に対して、女性的属性が反逆を企てることが正当化されるストーリーがあるため、実際には、これは母性原理を父性原理よりも高く掲げる思想だ、とみなすことができる。筆者の考えでは、東洋思想における母性崇拝は、まさにこのグノーシス主義神話を基盤として生まれて来たものなのである。

そこで、もし天照大神を通説に従って女神とみなすならば、以上に述べたようなグノーシス主義的特徴が、国家神道にもぴったり当てはまることになる。

つまり、国家神道のミッションとは、キリスト教の父性原理の二分性のために行き詰まりに陥っている西洋思想に、天照大神を最高位とする東洋的な母性原理を補うことによって、世界を西洋文明の行き詰まりから解放してやろうという思想だ、ということになるのである。

たとえ表向きには、「母性原理を補う」などと慎ましげな表現を用いていても、実際にそこにあるのは、聖書の「唯一の神」の否定であり、「父なる神」を押しのけて、「母性原理」をそれ以上に高く掲げようとする思想であり、聖書の神に対する敵対・反逆の思想である。

国家神道の理念も、結局、煎じ詰めれば、「キリスト教の父性原理の二分性の抑圧から世界を解放せねばならない」というおなじみの主張へと行き着く。アジアの諸国を欧米列強の植民地から解放することを名目とした大東亜共栄圏なる概念の根底にも、この歪んだメシアニズムの思想が流れている。つまり、列強植民地支配からの解放という題目をどんなに表向きに唱えていても、その根底にあるのは、キリスト教そのものへの拭いがたい敵意と対抗意識であり、結局、そこにあるのは、解放神学者らと同じ、「キリスト教の二分性の抑圧と支配から全世界を解放することが我らの使命である」という思想なのである。

そのような観点から見ると、「国体の本義」が随所で盛んに西洋思想の弊害であるとあげつらって非難している「個人主義」にも、結局のところ、キリスト教の二分性への敵意が秘められているのだと言える。

それはちょうど解放神学者リューサーが、キリスト教の男女の二元論が、あらゆるものに断絶と疎外をもたらしたと非難したのと同じであり、国家神道が主張しているのも、キリスト教における「神と人との二分性」こそが根源となってバラバラの個人主義が生まれたのであり、西洋思想はこのキリスト教の「欠点」を克服せねばならない、ということに他ならないのである。

西洋諸国における「個人」の概念は、まず、神から切り離された人間の孤独を前提としなければ、決して生まれて来ることのない概念である。まず「神と人との断絶」という聖書の事実があって、そこから、西洋思想における個人という概念が発生するのである。

しかしながら、東洋思想は、神と人との断絶を全く認めないことから、個人を全体の一部とみなし、全体を離れた個人という概念すらも否定することしかできない。そのように聖書の二分性を否定して、世界を一元化してとらえようとする試みは、結局は、「和の大精神」という美辞麗句の下での残酷な異論の排除と、個人の諸権利の否定と抑圧、反人間的な弾圧を生むだけであることはすでに書いた。

だが、国家神道は、何とかして「神と人との断絶」をないものとし、人間が神から排除されているという事実を否定したいのである。そのためにこそ、聖書の神を否定して、そこに東洋的な「愛と慈悲の神」を持ち出すことにより、キリスト教の父性原理の二分性を溶解し、無効化しようと試みるのである。さらには、個人という概念そのものを否定してまで、神と人とは一つであり、人は世界と一つであると主張するのである。

結局、国家神道の目指している目標とは、解放神学や、ペンテコステ・カリスマ運動と同じように、「キリスト教の二元論の抑圧からの全人類の解放」、もっと言えば、「全世界のキリスト教からの解放」だと言って差し支えない。

そこにあるのは、聖書の「父なる神」の否定と、それに対する人類の側からの反逆の試みである。その試みを天照大神を持ち出して来ることによって、また、天皇皇后という「霊の父母」を持ち出すことによって正当化しようとしたのが国家神道だと言えるのである。



・「子」を守る「父」が存在せず、「子」が「母」のために命を捨てることが義務化される東洋的な「母子家庭」としての国家神道の転倒した家族モデル


そのようにしてキリスト教の父性原理の二分性を「欠点」として非難し、「霊の父母」を持ち込むことによって、キリスト教に「父・母・子」の異端的三位一体を築き上げ、それによってキリスト教に母性原理を補い、西洋思想と東洋思想との合体を試みようとする異端思想は、今までに見て来たように、必ず、途中で、「父」に対する「母」の反逆が起こり、結果として「父」を持たない私生児が生まれるだけに終わる。

以前の記事で筆者は、創造(=命を与える行為)は「父なる神」の働きであって、母性原理が単独で命を生み出す力はなく、それにも関わらず、万物の生命の根源を女性原理にあるとみなす考え方は、聖書の秩序を転倒させて、母性原理を創造者に据えることによって、父なる神の権威を否定して、母性崇拝を肯定する聖書に敵対する反逆の思想である、ということを述べた。

フェミニズム神学もそのように聖書の秩序を転倒させるべく生まれて来た思想の一環であり、「母性原理」を万物の生命を生み出す根源として父なる神以上に高く掲げる思想は、どれも最終的には「父なる神」の否定と、その結果としての「母子家庭」と「父なし子」の発生という悲しい結末を生むだけに終わる。

聖書の父なる神は、ご自分の子らを守るために、自ら人類に必要な救済を全て用意された神である。主イエスが、「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」と言われたように、多くの人々を命にあずからせるために、父なる神はその独り子の命をも惜しむことなくお与えになったのである。

しかし、このまことの命である方を否定して、神による唯一の救済を退けて、人類にとって脅威とならない別の「愛と慈悲の神」を提唱する思想は、必ず、その偽りの神を「救済」するために、信者が命を投げ出すことを要求する残酷なものとならざるを得ない。

そのためにこそ、鈴木大拙氏が述べているように、「父を持たない宗教」である東洋思想の根源には、「(子が)母を守る」という転倒した家族関係が義務づけられているのである。最終的には、「子」が「親」のために犠牲となって死ぬことが、「子」の「親」に対する義務として説かれるのである。

その点で、国家神道も全く例外ではない。
 

第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。


国家神道において、臣民は天皇の「赤子」であるとされたにも関わらず、その「赤子」である臣民を天皇が守る必要はなく、むしろ、臣民こそが「絶対随順」によって「我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕する」ことが、「我等国民の唯一の生きる道」であって、「あらゆる力の源泉」であるとされた。さらには、臣民が「天皇の御ために身命を捧げる」ことこそ、「国民としての真生命を発揚する所以である」とまで説かれたのである。

こうして、臣民が天皇に仕えるために自ら命を捨てることは、「自己犠牲」ではなく、「小我を捨てて大いなる御稜威に生き」ることであるから、断じて「犬死」などではなく、「真生命を発揚する」ことだとして美化されたのである。

一体、母胎の中にいる「赤子」に過ぎないような無力な者が、どうやって「親」を守ることなどできようか。「赤子」こそ守られるべき存在であって、「親」がその生命を絶やさないように注意して見守っていなければ死んでしまうような弱い存在である。

しかし、国家神道においては、上記のような詭弁によって、親子の関係は逆転され、「赤子」が「親」のために命を捨てるよう義務づけられ、「死」に過ぎないものが「真生命の発揚」にすり替えられ、勝ち目のない戦争において、若者を特攻に赴かせるような無謀な犠牲が、連綿と美化されて行ったのである。

むろん、国家神道には、聖書のように復活という概念はないので、天皇のために死ねば「神になれる」という偽りの他、死によって得られる功績など皆無である。

このように、人類に命を与えるために独り子の命を惜しみなくお与えになった聖書の父なる神を退けてまで、人間が勝手に担ぎ出した偽りの神は、人に命を与えるどころか、我が身の保身のために、臣民の命を大量に奪うことしかできなかった。もし本当に万物の生命の根源が「神秘なる母性」にあるのだとしたら、どうして天照大神の子孫である者が、臣民の命を奪うことによってしか、己を存続できない理由があろうか。一体、神を救済するために、信者が犠牲になって死ななければならないような転倒した思想において、「我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。」という文句の根拠は、どこに求められるのであろうか。

このことは、結局、神でないものを神とすれば、その偽りの神のために、人は己の命を無駄に奪われる結果にしか至らないことをよく物語っている。まことの神は人に命を与えるが、異端の神は命を奪うのである。そのようにして、万物の生命の源がどこにあるのか、創造の力を持つ者とは誰なのかという問題の答えが逆説的に証明され続けているのだと言えよう。

こうして、親の名誉のために子が犠牲となって死ななければならず、偽りの「神」の「救済」ために「信者」が絶えず生贄に捧げられるしかないという転倒した世界が、「父なる神」を持たない「母子家庭」としての宗教である東洋思想においては連綿と広がっている。そのようなものが果たして「愛と慈悲の神」であろうはずもなく、そんな「神」と運命共同体にされることは、人間にとって不幸以外の何物でもないのだが、このような思想を信奉している人々には、「愛と赦しと受容」という優しい仮面の裏側に隠された偽りの神の残酷さが分からないのである。

国家神道も、東洋思想の系列に属していればこそ、あれほどおびただしい犠牲を人類に当然のごとく要求したのであり、それが鈴木大拙氏が「母を守る」という言葉で美化する東洋的世界観の実態なのである。

<続く>

PR

国家神道の異端的家族モデルーグノーシス主義の基本構造⑨

④ 戦前の国家神道における天皇・皇后を「真の父母」として国民がその「赤子」となって従う「一大家族国家」という異端的理想
 

さて、前の記事では、統一教会や、プロテスタントの牧師であり、カリスマ運動指導者である手束正昭氏の提唱する教会成長論に見られるような、「父・母・子」という異端的な三位一体の解釈に基づいて、宗教指導者夫妻を「霊の父母」、信者を「子」とみなして、「一つの霊の家族」に連なる信者の家庭を地上で増やすことにより、やがて全人類を「一つの霊の家族」に結び付けて、地上天国が成就されるとみなす考えが、根本的にグノーシス主義に由来する異端であることを確認した。

このように、「父・母・子」という異端的三位一体論を基礎として、目に見える形で地上天国を成就しようという考えは、異端思想の基本理念であると言える。その点で、ペンテコステ・カリスマ運動の目指す「リバイバル」と、統一教会の目指す「全人類一家族理想」とは、名称が異なっていても、ともに異端思想の最終目的としての一つの霊の家族から成る地上天国を目指している点で、根本的に同一なのである。

むろん、異端思想の全てはキリスト教を換骨奪胎してできる疑似キリスト教なのであり、そこで唱えられる地上天国の理想も、聖書における神の国の模倣である。聖書における神の国は、人の目で見られるような形で来るものではないが、異端思想は一様に、これを目に見える地上天国という形に置き換える。

また、聖書においてはキリストによって生まれた兄弟姉妹は神の家族であり、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」(Ⅰペテロ2:5)とあるように、霊の家の建造というアイディアが存在するが、異端思想も「一つの神の家」という聖書のアイディアを模倣する。そして、聖書における神の家はキリストのみを土台として築き上げられるものであるが、異端思想はそこにキリスト以外のもの――「霊の父母」――などを持って来て、これを基礎に「一つの霊の家」を築き上げようとするのである。
  
さて、こ
こからは、戦前の日本の国家神道においても、上記の統一教会やペンテコステ・カリスマ運動に見るのとほぼ同様の異端的家族モデルに基づく地上天国の夢が提唱されていたことを振り返りたい。

国家神道においては、天皇を現人神として、万世一系」という「神の血統」を持つ「霊の父母」である天皇・皇后を頂点に、日本国民全体がその「赤子」となって天皇に仕えることで、「一大家族国家」を築き上げ、天皇皇后の「永遠の統治」を確立するという「聖旨」の大義を成し遂げることにあるとされた。

つまり、当時、国家神道のイデオロギーに基づき、日本という国全体が「一家族国家」という異端的家族モデルの理想を成就するための母体(実験場)とされたのである。また、その「一家族理想」のモデルは「八紘一宇」の名で、国境を超えて、全世界にまで適用されるべきと概念が押し広げられた。その点でも、これはまさにあらゆる異端思想に共通する事実上の地上天国の夢であった。

すでに幾度か引用して来た「国体の本義」にはこうある。
 

文部省、「国体の本義」、
第一 大日本國體、一、肇國より抜粋

「大日本帝國は、萬世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の國體である。而してこの大義に基づき、一大家族國家として億兆一心聖旨を奉體して、克く忠孝の美徳を発揮する。」
第一 大日本国体、二、聖徳、愛民 より抜粋

 天皇の、億兆に限りなき愛撫を垂れさせ給ふ御事蹟は、国史を通じて常にうかがはれる。畏くも天皇は、臣民を「おほみたから」とし、赤子と思召されて愛護し給ひ、その協翼に倚藉して皇猷を恢弘せんと思召されるのである。


 
一大家族国家」という名称は、それ自体が、統一教会の唱える「全人類一家族理想」とほとんど変わらない。そして「八紘一宇」も、全世界を一つの家とみなす思想であるから、これもまさに「全人類一家族理想」の呼び変えと言って差し支えない。結局、それは「現人神」である天皇皇后を「霊の父母」として、その下に全人類が「一つの霊の家族」として結び合わされることによって、地上天国が成し遂げられるという理念を指すのである。
 

Wikipediaによると、「八紘」とは「8つの方位」「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味すると解釈される。
また、「一宇」とは、「一つ」の「家の屋根」を意味している。
そこで、結局、「八紘一宇」とは、「世界は一つの家である」という理念を意味する。


 



・一大家族国家の理想を成就するための「家の生活」における「子が親に仕え、家を守る」という転倒した家族モデル


さて、「国体の本義」では、天皇の「赤子」たる国民の「」というものが、「一大家族国家」という地上天国の理想を実現するための重要拠点とみなされていた。

このことも、宗教指導者夫妻を「霊の父母」として崇める「子」としての信者の家庭を地上で増やすことが、全人類を一つの霊の家に結びつけて、地上天国を成就する最も有効な手段であるとみなす統一教会やペンテコステ・カリスマ運動の理念とも基本的に合致する。

そして、国民生活の基本となる「家の生活」とは、夫婦や兄弟といった横(平面)の関係ではなく、「生み生まれるといふ自然の関係」という、「親子の立体的関係」という縦の関係を中心とするものでなければならないとされた。

つまり、そこでは、「生み生まれるという」肉によって築かれる親子の縦の関係が、一生涯、動かすことのできない絶対的で神聖な序列のようにみなされ、肉によって築かれた生まれながらの親子関係が、個人が自らの意志によって選んだ夫婦や、横の関係である兄弟の関係よりも重視されたのである。
 

「国体の本義」、第一 大日本国体 三、臣節 より抜粋

我が国民の生活の基本は、西洋の如く個人でもなければ夫婦でもない。それはである。家の生活は、夫婦兄弟の如き平面的関係だけではなく、その根幹となるものは、親子の立体的関係である。この親子の関係を本として近親相倚り相扶けて一団となり、我が国体に則とつて家長の下に渾然融合したものが、即ち我が国の家である。従つて家は固より利益を本として集つた団体でもなく、又個人的相対的の愛などが本となつてつくられたものでもない。生み生まれるといふ自然の関係を本とし、敬慕と慈愛とを中心とするのであつて、すべての人が、先づその生まれ落ちると共に一切の運命を託するところである。

 我が国の家の生活は、現在の親子一家の生活に尽きるのではなく、遠き祖先に始り、永遠に子孫によつて継続せられる。現在の家の生活は、過去と未来とをつなぐものであつて、祖先の志を継承発展させると同時に、これを子孫に伝へる。古来我が国に於て、家名が尊重せられた理由もこゝにある。家名は祖先以来築かれた家の名誉であつて、それを汚すことは、単なる個人の汚辱であるばかりでなく、一連の過去現在及び未来の家門の恥辱と考へられる。従つて武士が戦場に出た場合の名乗の如きは、その祖先を語り、祖先の功業を語ることによつて、名誉ある家の名を辱しめないやうに、勇敢に戦ふことを誓ふ意味のものである。」


一体、この「家」の生活とは具体的にどのようなものなのかを説明するにあたり、「国体の本義」が、早速、「家の名誉」を守るという抽象論に没入していることにも注意が必要である。

つまり、「国体の本義」における「家の生活」とは、赤ん坊や、子どもたちや、弱い者たちを、強い大人たちが守り、支え、養い、育てるための場所ではないのである。その「家の生活」において、最も重視されているのは、生きた人間の安全や幸福よりも、「家の名誉を守る」という抽象概念である。しかも、それは「子孫が先祖に仕え、子が親に仕える」という、転倒した家族関係の中で成し遂げられるというのである。

つまり、国家神道における「」においては、先祖崇拝を盾にとって、「子孫」が「先祖」に仕え、「子」らが「親」を仕え、弱い者が強い者の名誉を立て上げる道具となることこそ、義務であるとされたのである。

国家神道は、人間を守るために家があるのではなく、家を守るために人間がいるとみなした。そして、一家のメンバーの存在意義は、「家」という集団の名誉を立て上げることにあるとし、しかも最も弱い者に最も重い義務を負わせる形で、家の名誉が脅かされる時には、先祖から伝わった家名を守るために、子孫は立ち上がって我が身を投げ出して勇敢に戦わなければならないと言う。

先祖代々から伝わる「」という集団の名誉が脅かされる時には、家族の成員は、我が身を犠牲にしてでも、「家を守る」ために積極的に戦うべきという精神が「」という名で呼ばれて、先祖に対する子孫の義務、親に対する子の義務とされるだけでなく、そのような精神を土台にして、「臣民が天皇に仕え、天皇のために我が身を犠牲にする」という「忠君愛国」が国民の義務として説かれるのである。

国家神道においては、親子の感情的・情緒的な結びつきは「慈愛」や「敬慕」などの言葉で美化される一方で、強い者(親)たちには弱い者(子)らを守り、保護する義務があり、同様に、権力者には国民を守る義務がある、ということは全く言及されることもない。

本来、家とは、親が子を守り、育てなければ機能もしないわけで、自力では生きられないような弱い子供たちや赤ん坊に親に仕え、家を守れと言っても、無理な相談である。そのような要求をすると、当然のごとく、家の中で最も弱い立場にある者たちに大変な犠牲が強いられることになり、家の健全な機能が失われ、「子」らの成長はなくなってしまう。

だが、このように、「弱い者(子)が強い者(親)に仕え、弱い者が強い者を守る」という弱肉強食の転倒した家族モデルは、これまで見て来たすべての異端思想の家族モデルにほぼ共通する思想である。

異端思想は、自力では生きる術もないような弱い者たちが、強い者たちを支え、守る義務について、いやというほど強調しながら、強い者たちには彼らを保護する義務があることには触れない。そして、強い者たちの名誉と利益のために弱い者たちが命を捨てることさえ、当然のごとく要求し、奨励する。だから、必然的に、それは健全な家族関係を壊し、「家」を搾取と弱肉強食の場へと変えてしまうのである。


記事「クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(1)」でも見たように、カリスマ運動を率いる手束正昭氏は、自らの著書において、教会を成長させるためには、「子」である信徒らが、「霊の父母」たる牧師夫妻の威厳を守るために、率先して教会内雑用を引き受け、牧師に代わって憎まれ役に徹し、泥をかぶるべきと主張していた。

また、記事「異端の教えは必ず子供を犠牲にする~吉祥寺キリスト集会の事例 リンデはなぜ亡くなったのか~」でも示した通り、この種の弱肉強食の転倒した異端的家族モデルの影響を受けると、結局、親の名誉を守るために、子供や若者が自らを率先して犠牲に捧げて死んで行くという現象が起きる。さらに、その痛ましい犠牲を美談として讃えるという異常極まりない現象が後に続くことになる。


むろん、聖書には、このように「弱い者が強い者に仕えるべき」という考え方は存在しない。聖書における家族の秩序は、弱肉強食の精神とは全く逆であり、強い者こそ、弱い者を守り、強い者こそ、弱い者のために仕えて生きるべき、というものである。

パウロは書いている、「子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。」(Ⅱコリント12:14)

このように、「強い者こそ、弱い者を守るために蓄え、弱い者を守るために、我が身を犠牲にして投げ出すべき」――という模範を、誰よりも率先して、実行に移されたのが、聖書の神ご自身であったと言える。

世祖の父なる神は愛する独り子を地上に送って、人類のための贖いの代価としてその命を与えられることによって、人類のために自ら救済を完成されたのである。御子は、人々に仕えられるためではなく、自ら仕えるために地上に来られた。そして、信者たちもそれにならって、自らの強さにより頼んで弱い者の上に権力を振るわず、率先して仕える者となるようにと言われた。

「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:25-28)

聖書においては、「生み生まれるといふ自然の関係」、「親子の立体的関係」の意義は、地上にキリストが来られた時に終わっており、それ以後、最も重要なのは、肉によって築かれた信者の地上の生まれながらの親子関係ではなく、父なる神と、神の子供としての信者の霊的親子関係である。

聖書においては、親孝行は否定されてはいないものの、同時に、キリストが十字架の死に赴かれたことによって、アダム系列の「生み生まれる」という肉による関係の価値は、永遠に無価値なものとして廃棄されたのであって、信者の地上の「生み生まれるという縦の関係」が絶対化されるということはない。
 
今や信者にとって最も重要なのは、地上で誰を親として生まれたかという生まれながらの縦の関係ではなく、「水と霊によって上から生まれる」こと、すなわち、地上の出自によらず、キリストにある新創造として生きることである。
 
さらに、そこでは、信者にとって真の「父」は天におられるただお一人の神であり、その他にいかなる「霊の父母」も存在しない。神と人との間には、キリスト以外の仲介者は存在しない。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(Ⅰテモテ2:5-6)

「イエスは答えられた。「まことにまことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」(ヨハネ3:5-7)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
 
だが、異端思想はこれらすべての聖書の秩序を覆して真逆のものに変え、生まれながらの肉なる関係を神聖なものとみなして絶対化し、しかも、子が親に仕え、子が親を守るべきと、親子の秩序をも転倒させて、キリスト以外の「霊の父母」を持ち出して来ることによって、偽りの「霊の家族」を築くのである。



・人を永久に「赤子」のままにとどめ、、「子」が「親」を離れ、「家」を離脱することを許さない思想

また、聖書においては、創世記において「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となるのである。」(創世記2章24節)という夫婦のモデルが提唱されているように、子がいつまでも子のままで親から自立せず、親に仕えて生きることを奨励する記述はどこにもない。

むろん、この記述は、何よりも、キリストと教会の結婚の予表であるのだが、いずれにせよ、信仰面においても、実生活においても、子が成長して一人の独立した人間となって、生家を離れ、自らの意志によってパートナーを見つけ、新しい家庭を築くというのが、聖書的家族モデルだと言える。

いつまでも人が精神的に「嬰児」のまま、「生み生まれるという親子の立体関係」に従属し、死ぬまで自分を生んだ父母(と先祖)の名誉を守るために犠牲となって生きよ、という教えは聖書にはない。

信仰において、人はいつまでも子供のままでいてはならない、と聖書は言う。それは信者がものの考え方において生長して、誰にも頼ることなく、独立して一人前の判断力・識別力を持った成熟した人間にならなければならないからである。

パウロは書いている、「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼な子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」(Ⅰコリント14:20)

「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」(コロサイ1:28)

「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により教えの風に吹き回されてたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ4:12-15)

ところが、異端思想は、人が「その父と母を離れ」ることを決して認めない。「国体の本義」が唱えているように、人が生まれ落ちた家から決して離脱できないようにさせて、子を親の従属物のように貶めるだけでなく、精神的にも、「霊の父母」の支配下にからめとることによって、決して人を「成人」に生長させないのである。

すべての異端思想の原則は、信者をいつまでも目に見える指導者という「霊の父母」に依存させて、永久に「子」として半人前の状態にとどめ置き、決して「霊の父母」から自立することを許さないばかりか、いつまでも物の考え方において未熟な「子ども」であって、一人前の自己決定権を持つ「成人」には達しないようにと生長を妨げるのである。

離脱を許さない「家」の生活においては、信者は永久に「霊の親」から自立できず、一人前の判断力も識別力も養うことができず、いつまでも嬰児のごとく半人前とみなされ、指導者と一蓮托生で人生を送らねばならない。

そのような家族モデルは、もともと家族関係と呼ばれるにもふさわしくない転倒した関係であり、搾取と癒着の構図と呼ぶしかないのだが、国家神道においては、そのような転倒した癒着・支配関係の下にある「家」というものが、「すべての人が、先づその生まれ落ちると共に一切の運命を託するところである。」とされて、生まれ落ちた以上、そのしがらみから抜け出る選択肢は個人にはないものとされるのである。

これと同様に、「国」というものも絶対化され、この国に生まれ落ちた以上、臣民は「生まれながらにして天皇に奉仕し、皇国の道を行ずるものであ」るとされ、臣民(子)が天皇(親)に仕える義務は一生のものであり、そこから抜け出る選択肢や自由は、個人には事実上ないものとされた。


 
・全人類を「現人神」である天皇に帰依させることによって「神の血統」に転換し、世界救済を目指すという国家神道の歪んだメシアニズムの思想

そもそも国家神道では、個人というものが、家や、社会や、国家などに所属して初めて意味をなすパーツに過ぎないもののようにみなされ、生まれ落ちた家や国や歴史を離れての個人という概念は、幻のような抽象概念、「所詮本源を失った抽象論」に過ぎないものとして完全に退けられた。
 

第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」

このような状況では、いわば、個人という概念そのものが存在していないに等しく、そのような中で、個人の自立、自由、大人としての精神的成熟、自己決定権、などの概念が考慮されるはずもなかった。

このように個人というものを否定して、独立した個人という概念を認めず、個人をより強い何者かの関係と常に一体とみなし、まるでその従属物であるかのように、強者との関係性においてしかとらえることができないという盲目性は、上記したような誤った親子関係という家族モデルだけでなく、誤った神と人との概念から発生して来るものでもあった。

「国体の本義」においては、日本における天皇と臣民の関係が、いかに西洋諸国と異なっているかということが繰り返し強調される。

西洋諸国においては、君主と人民の関係は絶対的なものではなく、人民を虐げる君主が追放されたり、人民が自ら君主を選ぶということも起きる。しかし、そのようなことは、我が国では決して起こり得ない、とされた。なぜなら、我が国の「国体」においては、天皇と臣民の関係は、生まれながらにして与えられるものであり、さらに、天皇の権威は「神」に由来するものであって、人民の選びにあるのではないので、従って、その関係が変更されたり撤廃されたりすることはなく、しかも、天皇は臣民の発展と幸福のために存在するのではなく、臣民を守ることが天皇の義務なのでもない、と言うのである。
 

第一 大日本国体、三、臣節、臣民 より抜粋

「臣民の道は、皇孫瓊瓊杵ノ尊の降臨し給へる当時、多くの神々が奉仕せられた精神をそのまゝに、億兆心を一にして天皇に仕へ奉るところにある。即ち我等は、生まれながらにして天皇に奉仕し、皇国の道を行ずるものであつて、我等臣民のかゝる本質を有することは、全く自然に出づるのである。

 我等臣民は、西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にしてゐる。君民の関係は、君主と対立する人民とか、人民先づあつて、その人民の発展のため幸福のために、君主を定めるといふが如き関係ではない。然るに往々にして、この臣民の本質を謬り、或は所謂人民と同視し、或は少くともその間に明確な相違あることを明らかにし得ないもののあるのは、これ、我が国体の本義に関し透徹した見解を欠き、外国の国家学説を曖昧な理解の下に混同して来るがためである。」


一体、なぜそこまで天皇と臣民との関係が絶対的かつ不可分のものとされ、個人と国家の関係が切り離せないものとして絶対視されたのか、その根拠となるのは、天皇と臣民は共に「一つの根源」から生まれて来たという思想である。
 

第一 大日本国体、三、臣節、臣民 より抜粋

「然るに我が天皇と臣民との関係は、一つの根源より生まれ、肇国以来一体となつて栄えて来たものである。これ即ち我が国の大道であり、従つて我が臣民の道の根本をなすものであつて、外国とは全くその撰を異にする。固より外国と雖も、君主と人民との間には夫々の歴史があり、これに伴ふ情義がある。併しながら肇国の初より、自然と人とを一にして自らなる一体の道を現じ、これによつて弥々栄えて来た我が国の如きは、決してその例を外国に求めることは出来ない。こゝに世界無比の我が国体があるのであつて、我が臣民のすべての道はこの国体を本として始めて存し、忠孝の道も亦固よりこれに基づく。」

ここで言う「一つの根源」とは、要するに「神の血統」を指す。
  
第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。


このことから、なぜ「生み生まれるという親子の立体関係」が国家神道においては、ほとんど絶対視されていたのかが、説明がつくであろう。臣民と天皇の関係を含め、地上の「親子関係」は、「神の血統」を受け継ぐものと理解されていたからである。

このような発想は、文鮮明を再臨のキリストとみなし、文鮮明夫妻を「霊の父母」とみなして、信者が彼らに「子」として連なることによって、信者が堕落したアダムの血筋から救われて「神の血統」に転換できるとしていた統一教会の教えにそっくりである。

つまり、国家神道は、天皇皇后を「霊の父母」とみなして、全人類をこの「神の血統」に転換させることによって、世界救済を成し遂げようというメシアニズムの思想に他ならないことがそこから分かるのである。

また、それは牧師夫妻を「霊の父母」とみなしてそれに信者が「子」として連なることによって、地上に「リバイバル」が成就すると主張するペンテコステ・カリスマ運動とも全く同型の異端的家族モデルである。

統一教会が文鮮明を再臨のキリストとみなし、信者がこの宗教指導者を現人神として崇めるのと同じように、国家神道は、天皇を天照大神の子孫とみなすことで、天皇を事実上の神(救済者)とみなし、天皇に「子」として帰依する「信者」を増やすことによって、「神の血統」に属する家庭を地上に増やし、そうして「一つの根源」に連なる「霊の家族」を「一大家族国家」として日本全体に普及させるだけでなく、「八紘一宇」のスローガンの下、これを全世界にまで押し広げることによって、全世界を天皇を中心とする「神の血統」に転換して「救済」しようとする世界救済のメシアニズムの思想であったことが分かるのである。

むろん、当時の国家神道は、自らを宗教であるとみなしていなかったので、世界救済などといった用語を持ち出して、そのミッションを公に語ることはなかったが、実際に主張していた内容から判断すれば、それはまさに世界救済の思想に他ならないことが明白なのである。

つまり、国家神道における「国体」とは、そうしたメシアニズムの思想を使命として持ちながら、世界を「神の血統」に塗り替えて行くための核としての役割を担うものだったのであり、それがゆえに「世界に無比なるもの」として賞賛され、神聖視されたのであり、その世界救済の使命こそが、帝国植民地支配からの解放という名目で、当時の日本の世界征服の野望を正当化し、果てしない軍事侵略、軍国主義化を促す根拠となって行ったのである。

村上重良氏の著書『国家神道』においては、日清、日露戦争の時期にはすでに「国体の教義」の中心には、「神の血統」を持つという「世界に無比なる国体」を基礎とする「神国日本」が、「全世界を指導する聖なる使命意識」を持つというメシアニズムの思想があった様子が記されている。その「聖なる使命意識」こそ、日本の軍国主義の強化を思想的に美化・正当化し、侵略戦争を「聖戦」として美化し、正当化する根拠となっていったのである。
 

国体の教義の中心には、世界における「神国日本」の絶対の優位性の主張と、全世界を指導する聖なる使命意識があり、天皇の名による戦争は、無条件に聖戦として美化された。」(『国家神道』、村上重良著、岩波書店、1970年、p.144)

つまり、当時の国家神道は、「我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり」、「開国の初めより、自然と人とを一つにして自ずからなる一体の道を現じ」て来たという神話を根拠にして、日本には事実上、「神に至る聖なる血統」を有する「世界に無比なる国体」があるとみなし、それゆえ、日本は「世界救済」という使命を負うにふさわしい神聖な核となりうる存在であり、この神聖な核を(侵略戦争を通して)全世界に押し広げて行くことによって、事実上、全世界を救済できると主張していたに等しいのである。

<続く>