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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(9)

9.キリストの十字架の意味の歪曲

偽りのキリスト教であるグノーシス主義においても、キリストの受肉、そして十字架は特別な意味を持っています。グノーシス主義者は必ずと言って良いほど強調します、「神が人となられた」がゆえに、と…。

しかし、グノーシス主義者の教えにおけるキリストの受肉と十字架の意味は、聖書の正統な解釈からはおよそかけ離れていることに注意が必要です。結論から述べるならば、彼らはキリストの受肉と十字架の意味を歪曲し、それを罪人が罪あるままで神に受け入れられ、生まれながらの人が神に等しい者として栄光化されるための手段として悪用するのです。

今日のキリスト教界においても、「キリストが私たち罪人を愛し、私たちのために十字架で死んで下さった」と言って、神の愛と憐みの深さに滂沱の涙を流すクリスチャンは大勢います。しかし、その中には、罪人に対する神の愛と憐みの深さを強調するばかりで、ますます悔い改めから遠ざかり、決して罪を離れようともせず、かえって罪深い自分自身に自己安堵してしまう人々がいます。
 
これまでの色々な分析を通して、そのような人々の十字架の解釈には大いなる偽りの可能性があることを、多少なりとも、明確にできたのではないかと思います。

さて、この分析においても、サンダー・シングが神の独り子なるキリストの十字架の意味をどのように歪曲してとらえているか、それがどのような点でグノーシス主義に通じているかを説明します。

ただし、サンダー・シングの文章を引用する前に、改めて、彼の文章を読む際の危険性について前もって警告しておきたいと思います。なぜなら、彼の文章は、生まれながらの人の耳には、とても道徳的で、もっともらしく聞こえるため、人々を真理から引き離す大きな危険性を持っているからです。感化力の強い、確信に満ちた独特の文体で書かれているため、本来、引用することも望ましくありませんし、クリスチャンが彼の書物に目を通すことは全くお勧めできません。

それにも関わらず、この分析においてサンダー・シングの文章を引用するのは、彼の偽りに満ちた話が、いかに生まれながらの人の耳に道徳的で、心地よく、もっともらしく響くかをあえて知ってもらうためでもあります。私たちは、偽りというものがいつも不道徳の仮面をかぶってやって来るなどと思うべきではありません。むしろ逆なのです。サタンの偽りはいつも非常にもっともらしく、正しそうに聞こえ、道徳的で、(世の)道理にかなっており、ヒューマニズムにも合致しているのです。

ですから、私たちは、ある話の内容が道徳的に聞こえるというだけの理由で、それを信用すべきではありません。肉による善行というものが存在するように、御霊を離れた人間の道徳性というものも、アダムの命から出て来るものとして、神の御前には徹底的に腐敗しているのです。ですから、欺かれないようにするためには、私たちは世の道徳基準や、ヒューマニズムの観点から物事を判断するのではなく、語られている内容が本当に聖書に合致しているのかどうかをよくよく自分で吟味する必要があります。

以下、かなり説明が長くなりましたが、一貫したテーマのため、記事を分割せずに掲載します。「続きを読む」からお読み下さい。

 




 

①キリストを罪人と同一視する
②御子を十字架につけた世の罪を覆い隠す
③十字架の受難を軽視する
④十字架を罪人に都合の良いグノーシスの実とみなす
⑤ こんなに尊い救いをないがしろにしてはならない!


①キリストを罪人と同一視する

さて、以下のサンダー・シングのたとえ話を吟味していただきたいと思います。

「キリストは、われわれのために罪人となり、罪人の死をお通りになった。悪者をその邪悪な状態から救わんと、自ら悪党の巣の中に入っていった善人の話がある。多くの人は、この神の人も仲間の一人に違いないと考え、ある重大事件が起こったときに、この事件に関わっているとの嫌疑を彼にかけた。こうして彼は逮捕され、死刑の宣告を受けたが、彼は喜んでこの判決を受けた。

悪人たちは、この人が潔白であることを知っていたため、彼の死後、神の人が自分たちのために死んだのだという思いに駆られて、ついに多くの者が悪事から身を引くに至った。イエス・キリストも、そのようにして死なれたのである。キリストの力は今も生きている。罪人が主の奇しき愛の力に感化され、悔悟し、主に心を向けるとき、主は彼らの霊魂から悪を根こそぎにし、彼らに新しい命を与えてくださる。こうして、彼らは主ご自身に似た新しい人類となっていく。」(p.292)

これは生まれながらの人の耳には、大変、良さそうに聞こえる、東洋人好みの美しい教訓話のため、うっかりすると、そのまま通りすぎてしまうでしょう。どこに誤りがあるかお気づきになられたでしょうか? サンダー・シングがこのような美化されたたとえ話を用いて、巧みに神を人間(罪人)の側に引き寄せ、神を人間(罪人)に等しい者とみなそうとしているのがお分かりになるでしょうか? 

結論から述べるなら、これは神の聖を否定して、神を罪人に同形化し、神と生まれながらの罪人を同一視する偽りの教えです。そのことを順を追って説明していきましょう。

まず、冒頭の文章に、サンダー・シングのたとえ話が偽りであるとすぐに分かる決定的な言葉があるのに気づかれたでしょうか。「キリストは、われわれのために罪人となり罪人の死をお通りになった。」

真のクリスチャンは決してこのような表現を用いません。なぜなら、聖書のあらゆる箇所が、キリストには罪がなかったことを証しており、「キリストは、われわれのために罪人とな」られたというサンダー・シングの言説を否定しているからです。

「キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなた方は知っています。キリストには何の罪もありません。」(Ⅰヨハネ3:5) 

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」(Ⅰペテロ2:22) 

「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(Ⅰペテロ3:18)

「また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとって必要な方です。」(ヘブル7:26)


キリストは罪なくして十字架にかかられたのですから、彼は断じて罪人ではありません。注意して下さい、もしもサンダー・シングの言うことを受け入れて、キリストが「われわれのために罪人となり、罪人の死をお通りになった」と考えるならば、私たちは救いを失います。聖く、一切の罪の汚れのない方が私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれたからこそ、キリストは完全な贖いの供え物となられたのです。もしもキリストに罪を見いだすなら、贖いの完全性は失われ、私たちを神の御怒りから救ってくれる手段は何一つとしてありません。

「…あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖いだされたのは…、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:18)

私たちが主イエス・キリストを何者であるととらえるかにより、私たちの救いそのものが決定されます。サンダー・シングの言説は、罪人にとってはまことに結構な美談に聞こえるかも知れませんが、神の独り子である主イエス・キリストの聖を否定して、御子を罪人の一人にまで貶めている点で、神に対する冒涜であり、信じた者に永遠の命を失わせる偽りの教えなのです。


②御子を十字架につけた世の罪を覆い隠す

さらに、サンダー・シングが上記のたとえ話の中で、御子を十字架につけた世の罪に全く触れていないことにお気づきになられたでしょうか? このたとえ話の中では、キリストを十字架につけたのは当の悪人たち自身であったという事実がすっかり覆い隠されています。サンダー・シングのたとえ話によれば、主イエスは、まるで偶然に悪党の巣窟のそばを通りかかっただけの第三者のようです。そして、キリストは、罪人を憐れむがゆえに、誰も強制しなかったのに、自ら愛のボランティアとして、すすんで有罪判決を受けたのだと言わんばかりです。

このようなたとえ話がどれほど聖書に違反しているかを理解するために、まず福音書において主イエスご自身の語られたたとえ話を確認することにしましょう。
 
ヨハネの福音書の冒頭の記述を見れば、キリストは決してサンダー・シングが述べているような「通りすがりの第三者」ではなかったことがすぐに分かります。御子は万物の創造者であり、万物に対する正当な支配権を持っておられる方です。「すべてのものは、この方によって造られた」(ヨハネ1:3)のです。サタンがこの世の君として君臨しているのは、不当な強奪(=神に対する反逆)によってその地位を奪ったに過ぎません。ですから、この世の正当な支配権はサタンにはなく、御子にあります。御子は万物の支配者として、来るべき世だけでなく、この世をも統べ治めるべき方です。

御子は地上に来られた時、本来、ご自分の王国であるはずの場所に来られました。主は「ご自分のくにに来られた」(ヨハネ1:11)のです。ですから、罪人たちはまことの王として彼をお迎えせねばなりませんでした。

ところが、「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」(ヨハネ1:11)のです。罪人たちは御子こそ、王の王であることを認めず、彼を王として迎えることを拒み、辱め、十字架にかけて殺しました。ここに世の決定的な罪があります。

このような前提を理解した上で、主イエスがご自分で語られたたとえ話を振り返りましょう。

「…イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。『ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。

ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』 ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』 そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。』 これを聞いた民衆は、『そんなことがあってはなりません。』と言った。

イエスは、彼らを見つめて言われた。『では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」(ルカ20:9-18)


ぶどう園はこの世を指し、ぶどう園の主人とは天におられる御父です。ぶどう園の主人の一人息子とは、神の独り子なる主イエス・キリストです。悪い農夫らによって袋叩きにされ、辱められ、追い払われた僕たちとは、神が農夫らの罪を警告するために聖別して世に遣わした預言者たちのことです。農夫たちは、神に仕えるはずの民でありながら、神に背いたこの世の罪人らを指します。

農夫たちは、神に雇われてぶどう園の仕事を任されていた以上、当然のことながら、主人である神の命令に従い、その僕である預言者を敬い、息子である主イエス・キリストを丁重にお迎えし、その命令に従って、神にきちんと収穫を納めなければなりませんでした。ところが、農夫たちは主人に収穫を納めるどころか、自分たちのもうけのために、ぶどう園を横領しようと考えたのです。それは、罪人らがサタンに従って、神に背き、御子の正統な所有権・支配権を否定して、ぶどう園を強奪するために、御子を殺したことを指します。

聖書のこのたとえから、私たちは主イエス・キリストが決して、サンダー・シングの言うような、たまたま悪事のそばを通りすがった第三者ではなかったことをはっきりと理解するのです。罪人たちは、ぶどう園の正統な後継者である主イエスを殺すことで、彼の正当な権利を否定し、それを強奪したのですから、主イエスは直接、罪人たちによって被害を受けられた被害者であり、罪人たちは御子に対して直接、加害者の立場にあります。

ですから、断じて、主イエス・キリストの十字架は、サンダー・シングが述べているような、罪人に寄り添うための神の自主的な愛のボランティアではなかったことが分かります。御子は罪人らの起こしたあるまじき反逆によって不当に殺された被害者なのです。

罪人たちが、王の王であられる方を迎えた態度はどのようなものだったでしょうか? 主イエスの十字架上に書かれた「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」という罪状書き(ヨハネ19:19)、それが主イエスが王の王であられることに対する、サタンと罪人たちの悪意に満ちた応答でした。何と皮肉なことでしょうか、罪人たちは、御子が自分たちの真の王であられることをさえ、彼の「罪状」として嘲笑ったのです。雇い人の身分に過ぎない者が、正統な後継者を罪に定め、殺したのです。これが反逆です。これが真理に対する世の応答でした。ですから、世が御子に対して直接犯した罪には、はかりしれない重さがあるのです。

ところが、サンダー・シングは罪人らがキリストに対して直接的な加害を行ない、それによって神に反逆したという事実には一切触れずに、キリストが自ら罪人たちを憐れむがゆえに、喜んで十字架に赴いたかのように述べるのです。こうして、サンダー・シングは十字架を神の自主的な愛のボランティアに変えてしまうことによって、世が彼を十字架につけた罪を帳消しにしようとし、もっと言うならば、十字架は神の自己責任であって罪人とは本来、無関係だと主張しようとしているのです。彼は御子の十字架が、罪人らによって引き起こされた殺人であるという事実を認めていません。

こうして、サンダー・シングは世が御子に対して直接行なった悪事を否定するだけでなく、さらに罪人らを弁護して、次のように書きます、「悪人たちは、この人が潔白であることを知っていたため、彼の死後、神の人が自分たちのために死んだのだという思いに駆られて、ついに多くの者が悪事から身を引くに至った」と。

ここで、サンダー・シングがキリストを呼ぶに当たり、「神の人」という呼称を用いており、恐らくは意図的に、「御子」、「神の独り子」という呼び名を避けていることにも注意する必要があります。

確かに、罪人たちの多く、特に、主イエスを十字架につけるべく骨折った事件の首謀者たちは、御子が「潔白であること」を知っていたと言えるでしょう。しかし、それにも関わらず、彼らは主イエスを十字架につけたのです。

律法学者、パリサイ人たちは主イエスを幾度も罪に定めようとしましたが、その度ごとに失敗し、言質を取ることができなかったので、彼を殺すために意図的に陥れました。イスカリオテのユダも、御子に罪がないことを知っていながら、彼を売り渡しました。ピラトは主イエスの内に何の罪も見出せなかったにも関わらず、彼に十字架刑を宣告しました。ピラトが主を釈放しようとして民衆に呼びかけたとき、「彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」(ヨハネ19:15) 

これが世の反応でした。「悪人たちは、この人が潔白であることを知っていた」、にも関わらず、主イエスを十字架につけて殺したのです。ですから、サンダー・シングの言説に反して、御子の潔白を知っていたがゆえに、世人の罪は、より一層、重いものとなったのだと言えましょう。

「これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」(ヨハネ15:25)

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)


ところが、サンダー・シングはこのような罪人らの罪の重さを全く覆い隠したままで、かえって罪人を弁護してこう述べています、「悪人たちは、この人が潔白であることを知っていたため、彼の死後、…ついに多くの者が悪事から身を引くに至った」
と。

これは本当なのでしょうか? 聖書に照らし合わせるならば、これもまた甚だしい嘘であることが分かります。私たちは知っています、主の民のほとんどは、自分たちの手で十字架につけた方の死とよみがえりを目撃し、御子の死とよみがえりの事実を間近に告げ知らされたにも関わらず、御子が「自分たちのために死んだのだ」という事実を認めようとせず、悔い改めもせず、信じようともしなかったのです。そこで、福音は選ばれた主の民から取り上げられて、異邦人に宣べ伝えられました。

聖書は、主イエスを十字架につけることに関わっていた悪人たちが、「彼の死後、…ついに多くの者が悪事から身を引くに至った」とは述べていません。むしろ、この民に対する神の宣告は次の通りです。

「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。

『あなたがたは確かに聞きはするが、
決して悟らない。
確かに見てはいるが、決してわからない。
この民の心は鈍くなり、
その耳は遠く、
目はつぶっているからである。
それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、
その心で悟って立ち返り、
わたしにいやされることのないためである。』」(マタイ13:14-15)



③キリストの十字架の受難を軽視する

さらに、サンダー・シングが主イエスが十字架で受けた苦しみを軽く見積もることによって、世の罪を大いに軽減し、御子の十字架をできるならば、神の自己責任に還元しようとしていることに気づかれたでしょうか? 彼は言います、「こうして彼は逮捕され、死刑の宣告を受けたが、彼は喜んでこの判決を受けた。」と。

聖書によれば、「彼は喜んでこの判決を受けた」などという事実は全くありませんでした。確かに、へブル書には次のような下りがあるにはあります。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)

しかし、このような記述が聖書にあるからと言って、主イエスが喜んで十字架の死の判決を受け、そこには苦しみが伴わなかったと考えるのは間違っています。主イエスにとって十字架は最大の試練であり、受難でした。主イエスはゲッセマネの園で弟子たちに言われました、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ26:38)。さらに、御父にこう祈られたのです、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26:39)と。

これは十字架が御子の本意ではなかったことをはっきりと示しています。主は断じて、サンダー・シングの言うように、「喜んで(筆者注:つまり、自らすすんで)この判決を受けた」のではありません。主イエスは霊においては、それが神の御旨であることを知り、喜んでそれに従いたいと願っていましたが、人としてはその従順には大いなる苦しみが伴いました。もしも御子がいかなる苦しみや抵抗もなく喜んで自ら十字架の死に赴いたと主張するならば、私たちは、主イエスの完全な人性を過小評価していることになり、また、無実にも関わらず御子を十字架にかけた世の殺人の罪を弁護していることになります。

十字架はその当時、主人に背いた奴隷が受けるべき最も恥辱に満ちた刑罰でした。十字架において、主イエスの人としての尊厳のすべては剥ぎ取られ、彼は肉体的に最大限の苦痛を味わい、霊的にも、神との断絶という苦しみを味わわなければなりませんでした。一体、肉体のうちにあるどのような人が、無実にも関わらず、このような刑罰を自ら背負いたいと願うでしょうか? さらに、救われたクリスチャンの内の、誰が霊において神に捨てられることを願うでしょうか? 十字架は主イエスが受けなければならなかった苦しみの中でも、最大の杯だったのです。それは私たちの罪の贖いのためでした。繰り返しますが、それは罪人らが信仰によって罪なき御子に同形化することで、罪人らの罪が贖われるためであって、断じて、神が罪人らに同形化することで、自ら罪人となられるためではありませんでした。
 
御子は、ご自分の願いに反してでも、意志によって御父に従われ、十字架へ向かわれました。それは死に至るまで御父に従順であるためであり、ご自分を無にして、神のご計画に従うためでした。十字架を耐え忍ぶためには、御子はご自分を完全に否まねばなりませんでした。もしも私たちが御子が喜んで十字架につけられたのだと解釈するならば、私たちは、十字架において主イエスは完全にご自分を否まれたのではないと主張し、御子の死に至るまでの従順を軽視していることになります。十字架は主イエスにとって完全にご自分を無にすることが必要な場所でした。十字架において、御子はご自分の望みのすべてを放棄して、ご自分の願いによってではなく、意志によって、御父に従われたのです。

しかし、グノーシス主義の教えは、御子の十字架における苦しみを軽視し、十字架を罪人に対する神の刑罰としてとらえず、むしろ、十字架を罪人にとって喜ばしい、祝福に満ちた、甘い物語へと変えてしまいます。以前の記事でも触れましたが、グノーシス主義のある文献、『ペテロ黙示録』においては、キリストの十字架における苦しみは完全に否定されています。

「……あなたの見た、十字架の上で喜び笑っている者は、生けるイエスである。しかし、彼らが手足に釘を打ちつけているその人は、生けるイエスの肉体的な部分であり、それは身代りである。彼らは、彼の似像に残ったものを辱めているのだ。<…>」(『ナグ・ハマディ写本 初期キリスト教の正統と異端』、エレーヌ・ペイゲルス著、荒井献他訳、白水社、p.168)

この教えは、主イエスは初めから肉体を霊的に超越していたために、喜び笑いながら十字架につけられたのだと主張します。このような荒唐無稽な教えは、キリストの神性だけを重んじて人性を軽んじている点で、キリストの完全な神性と人性を認めるカルケドン信条に反し、もちろんのこと、聖書の記述にも著しく違反していますが、このように十字架の苦しみを軽視する教えが、「…彼は喜んでこの判決を受けた」として、キリストの十字架における苦しみに一切触れようとしないサンダー・シングの主張に非常に通じるものがあるのはお分かりいただけるでしょうか?

聖書は言います、「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(Ⅰペテロ3:18)

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:3-4)

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。」(エペソ2:14-16)


キリストが十字架で受けられた苦しみと死は、私たちの罪なる肉、旧創造が受けなければならない当然の刑罰でした。キリストの十字架は、全ての旧創造が神の御前に滅びに定められていることをはっきりと示しています。もしも私たちがグノーシス主義者のように、キリストが十字架において受けられた苦しみを割り引いて考えるならば、それは、罪人である私たち自身が神の御前に受けるべき刑罰をも、軽く見積もっていることになります。それは私たちが自分の罪を否定し、旧創造が受けなければならない刑罰を神の御前で軽く見積もろうとすることを意味します。

このように、キリストの十字架における苦しみを否定したり、軽く考えようとすることは、旧創造が神の御前に受けるべき滅びの刑罰そのものを軽減しようとすることにつながります。最終的には、それは十字架が全ての旧創造に対する神の刑罰であるという事実そのものを否定することを意味します。そうなれば、私たちを永遠の滅びから救う手立てはもう何も残されていません。

私たちは主イエスが十字架で受けられた苦しみを、自らの経験を通じて理解することはできませんが、信仰によってそれを信じます。すなわち、主イエスが身代わりに受けて下さった十字架を、生まれながらの自分自身に対する宣告・刑罰として受け取り、信仰によって、彼の死を自分自身の死とみなし、彼のよみがえりを自分自身のよみがえりとみなすことにより、キリストの死と復活に接木されて、御子の贖いによって、神の御怒りから救われて、神に受け入れられ、御霊に導かれる神の子供とされるのです。


④十字架を罪人に都合の良いグノーシスの実とみなす

グノーシス主義の全ての教えは、キリストの十字架を生まれながらの罪人に対する神の刑罰であるとはとらえません。それどころか、キリストの十字架を、罪人にとって何の脅威にもならない、恵みと祝福に満ちた、甘い砂糖菓子のような物語へと変えてしまいます。

エレーヌ・ペイゲルスはグノーシス主義の教えにおけるキリストの十字架の解釈が、正統な解釈からはおよそかけ離れたものであることを説明してこう述べます、「キリストの死は人間を過ちと罪から贖うための犠牲と解釈する正統派の諸資料とは反対に、このグノーシス派の福音は、内なる神的自己を発見する機会として十字架刑をとらえている」(同上、p.170)と。

グノーシス主義の教えとは、幾度も述べて来たように、神と生まれながらの人とが本来的に同一であるという神秘主義の教えです。その偽りの教えは、人の生まれながらの自己のうちに、何らかの聖なる要素(神的自己、神的火花)が宿っており、(サンダー・シングの表現によれば、それは「決して罪に傾かない聖なる火花」であるとされる)、人が自らの内に宿る神性に目覚め、本来的自己に回帰することによって(=自己の義によって)、神と同一になれる、と主張します。この転倒した教えにおいては、神の義によらなければ、人は誰も神に受け入れられないという事実は否定され、人が本来的自己に目覚めて、自己の内に宿っている神性(=自己の義)によって神に回帰することが救いであると唱えられます。そのために必要となる啓示が、「グノーシス」(知識)であるとされ、彼らは、「グノーシス」を得た者だけが永遠の命を得ると主張するのです。

ですから、グノーシス主義の多くの教えが、たとえキリストの十字架の事実を否定していなかったとしても、キリストの十字架の意味を歪曲し、すり変えることによって、キリストの十字架もまた、神と生まれながらの人とが本来的に同一であるという彼らの主張を裏付ける根拠にしてしまっているのは不思議ではありません。

グノーシス主義の多くの教えにおいて、十字架は、イエスの霊が肉体から解放されるために必要不可欠な手段であったとみなされています。すなわち、グノーシス主義の教えにおいては、十字架によって、キリストの霊は「肉体の牢獄」から解放されて、完全に本来的自己に回帰して(神と同一になり)、天界に戻ったと解釈されているため、キリストの十字架は罪人に対する神の刑罰であるどころか、肉体からの喜ばしい解放の手段とみなされるのです。

ヴァレンティノス派に属するグノーシス主義文献、『真理の福音書』は次のように述べています。

「……いつくしみ深い忠実なイエスが、苦難を身にひき受けて耐え忍んだ。……なぜなら彼は、彼のこの死が、多くの人々にとって命であることを知っていたからである。……彼は木に釘づけにされた。……彼は 自らを死に至らせるが、彼は永遠の命を身につける。滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとうのである。……」(同上)

ここでは、キリストは十字架の死を経て初めて、肉体から解放されて、永遠の命を身につけ、不滅をまとった、と主張されています。このような教えは、永遠の命が信仰によらなければ得ることができないという事実を否定して、肉体からの解放を永遠の命とみなすことにより、十字架を、永遠の命を得るための手段にすり変えてしまっています。さらには、キリストの神性と人性が分割できないとするカルケドン信条にも違反して、キリストの霊・魂・肉体を分割して、キリストの霊のみが神に結合したと主張して、キリストの完全な人性を否定しています。また、御子自身が「よみがえりであり、命である」(ヨハネ11:25)事実を否定して、御子の復活は、肉体の復活を伴う完全な復活であるという事実を否定しています。

さて、十字架が罪人に対する神の刑罰であったという事実を否定し、御子の贖いも否定しているこのグノーシス主義文献が、なぜ「彼のこの死が、多くの人々にとって命である」と主張するのでしょうか? グノーシス主義者の言う、キリストの死から得られる命とは何なのでしょうか? 同じく『真理の福音書』の次の文章の中に、私たちはその手がかりを得ます。

「……木に釘づけにされた。彼は父の知識(グノーシス)の実になった。しかし、それは食べ[られ]ることによって破滅を与えるものになるのではない。そうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのである。なぜなら、彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだしたからである。……」(同上、p.169)

この記述は、十字架を通してキリストご自身がグノーシス(知識)を与える甘美な実になったと述べています。ですから私たちは、この文献の主張したい結論は、このグノーシスの実を食べた者だけが、命を見いだすということであると分かります。「それは食べられることによって破滅を与えるものになるのではない。そうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのである。」

つまり、そのグノーシスの実とは、それを食べたからと言って、人が「決して死」んだりせず(創世記3:4)(=「それは食べられることによって破滅を与える…のではない」)、むしろ、その実は「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする」には「いかにも好まし」い(創世記3:6)ものであり(=「それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えた」)、そのグノーシスを見いだした人間は、「目が開け、…神のようになり、善悪を知るようになる」(創世記3:5)(=「彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだした」)、決して破滅しないどころか、「永遠の命を身につけ」、「滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとう」すなわち、神と自己とが同一になるというのです。

全てのグノーシス主義の教えは、神と生まれながらの人とが本来的に同一であるという結論に帰着します。ですから、「彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだした」という上記の文献の言葉も、当然のことながら、神と人とが同一であるということを意味しています。それを分かりやすく言いかえるならば、「(十字架において)キリストは罪人を自らのなかに見いだし、罪人はキリストを自らの内に見いだした」となるでしょう。

つまり、このグノーシス主義文献が言おうとしているのは、十字架においてキリストは自らを罪人に同形化し、神と罪人とが一体となった、そこで今やキリストは自らの内に罪人を見いだし、罪人は自らの内にキリストを見いだし、罪人は自己の内に神を発見するので、彼はもはや罪人ではなく、神に似た聖なる者とされる、ということなのです。

このようなものは断じて悔い改めではありませんし、新生とも関係ありません。生まれながらの人間(=罪人)が、御子の完全な贖いを認めず、自らの罪を認めて悔い改めることもせず、信仰にもよらずして、ただ生まれながらの自己の内に神性を見いだし、自己の義により頼むことによって、自らをキリストに同形化し、ありのままの罪ある姿で、自分を神に等しい聖なる者とみなすという、このような聖書に反する言語道断な主張が偽りであることは、火を見るよりも明らかです。しかし、このようなグノーシス主義におけるキリストの十字架の歪められた解釈が、サンダー・シングの記述とそっくりであることに私たちは気づかないではいられないのです。

上記の文脈をすべて踏まえた上で、もう一度、サンダー・シングの言葉を確認しましょう、「キリストは、われわれのために罪人となり、罪人の死をお通りになった」

サンダー・シングが、グノーシス主義者と同じように、十字架においてキリストがご自分を罪人に同形化された(キリストが罪人となられた)と主張しようとしていることがお分かりになるでしょうか? 

このことは、サンダー・シングが事実上のグノーシス主義者であることをはっきりと物語っています。彼はキリストの十字架を、神と罪人とが本来的に同一であると主張するための根拠にしようとしているのです。

ですから、私たちはこのような文脈の中で、サンダー・シングのたとえ話の最後の主張、「こうして、彼らは主ご自身に似た新しい人類となっていく」というフレーズを理解せねばなりません。

「罪人が主の奇しき愛の力に感化され、悔悟し、主に心を向けるとき、主は彼らの霊魂から悪を根こそぎにし、彼らに新しい命を与えてくださる。こうして、彼らは主ご自身に似た新しい人類となっていく。」と彼は書いていますが、人が御子を十字架につけた罪を認めず、自分自身が罪人である事実を認めもしないのに、そこに真実な悔い改めがあるはずもなく、そのような偽りの「悔悟」は、「彼らの霊魂から悪を根こそぎに」する力を持ちません。彼の言う「主の奇しき愛の力の感化」とは、キリストが十字架において罪人に等しくなられたという偽りを指しており、このような感化は罪人をより慢心させ、生まれながらの自己を肥大化させることはあっても、決して、罪人を罪から分離し、キリストの聖いまことの永遠の命によって新たに生かすことはありません。

サンダー・シングの主張を分かりやすい言葉で言い換えるならば、大体、次のようになるでしょう。「罪人は、自らの内に生まれながらにして宿っている『決して罪に傾かない聖なる火花』を発見することにより、自己の内に神性を見いだす。人が神との断絶を克服するために必要なのは、己が罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信じることではなく、むしろ、自らの内に生まれながらに宿っている神性に目覚めることである。罪の悔い改めや、キリストの十字架の死に自分を同形化することではなく、人が本来的に神に等しい者であると見いだすことこそ、人が神に回帰するために必要な手段である。キリストの十字架もまた、人が自らの内に神を見いだすための知識(グノーシス)である。すなわち、キリストは人となられることにより、罪人と同じさまで生まれ、さらにキリストは十字架において罪人にご自分を同形化され、神が罪人に等しくなられたのだ。それゆえ、神と罪人とは今や一体となった。この虚偽を発見し、この偽りを信じ、神の義を捨てて、存在するはずもない自己の義を選び取ることにより、罪人は自らの内に神を見いだし、ありのまま罪人のままで聖化され、神に似た新しい人類となっていく…。」

こんなものは、考えるだに恐ろしい偽りの「新人類」の誕生です。サンダー・シングを含め、全てのグノーシス主義者が主張しようとしているのは、罪人がありのままで神になれるという教えなのです。このようなものが、サタンから来た偽りに他ならず、彼らの主張する永遠の命とは、キリストのまことのよみがえりの命のむなしい模造品に過ぎず、彼らの言う「新しい人類」が、決して、聖書の言う新創造でありえないことは明白なのです。


⑤ こんなに尊い救いをないがしろにしてはならない!

以上のことから、サンダー・シングの文章がいかに美しく、もっともらしく、道徳的に聞こえたとしても、それを信じたクリスチャンに完全に救いを失わせてしまうものであるということは明確にお分かりいただけたのではないかと思います。また、十字架において神が罪人に示された愛や憐みの深さをしきりに強調しながら、ますます心頑なになって罪深い自分に自己安堵し、堂々と開き直って罪の内を歩むようになる「クリスチャン」(?)が出現する理由もお分かりいただけたものと思います。

そのようなことが起きる背景には必ず、十字架の歪められた解釈があります。これらの偽りの教えの主要目的は、御子の贖いの完全性を否定して、永遠の命に至る道を閉ざし、聖なる神の御子を罪人の一人に数えて世の判決に同調し、世の罪を帳消しにして神を罪に定めて冒涜し、あろうことか、罪ある人間を罪あるままで神に等しい存在にまで祭り上げ、生まれながらの人間を神として栄光化し、神と人との地位を逆転させることにあります。

これは反逆の教えです。このような教えを信じた人々は、永遠の命を失い、来るべき世での栄光を失うだけでなく、今生の人生においても、死の道を歩むことになります。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。」(ローマ8:13)

神はエデンの園で、善悪の知識の木の実を取って食べれば、人は死ぬと警告されました。にも関わらず、蛇は人を巧みに騙して、その実を食べても、人は「決して死」なず、むしろ、「神のようにな」れると誘惑したのです。しかし、サタンの提案はことごとく偽りでした。同様に、罪人の耳に心地よく響くサンダー・シングの美しいたとえ話も、同じように、初めから終わりまで偽りであることを私たちは見て来ました。

今日に至るまで、私たちは常に二者択一を迫られています。セルフを拒んで、まことの命の木であるキリストを選ぶのか、それともセルフを肥大化させて人を死に至らしめる善悪知識の木を選ぶのか。神の義により頼むのか、自己の義により頼むのか。見えるものにより頼み、目に見える地上に神の国を築き上げようとして、この世に座を占めるのか、それとも、見えるものによらず、信仰によって見えない天のふるさとを目指し、この世においては寄留者として歩むのか。十字架においてアダムの命に死に、キリストのよみがえりの命によって生かされるのか、それとも生まれながらの自分を惜しんで十字架の死を拒み、アダムの命のままで、自分を栄光化し、神にまで至ろうとするのか。

「見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。」(エレミヤ21:8)

「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)

聖書には、異端というものの本質が何であるか、はっきりと書かれています。それは私たちを買い取ってくださった主イエス・キリストの完全な贖いを否定して、私たちが永遠の命に至る道を閉ざし、人を滅亡に至らせることがその目的なのです。どんなに美しい物語で覆われていたとしても、そこにあるのはすべて作り事に過ぎません。この偽りを教える教師たちの目的は、それを信じた人々を自分の栄光の手段として食い物にし、破滅の道連れにすることにあります。

「…あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。

彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:1-3)

ですから、私たちは、神を人間にとって理解しやすい存在へと変えるために、神の聖を否定し、神を罪に定めて罪人の一人にまで引き下ろし、その一方で、生まれながらの罪人を神として高く掲げるような偽りの教えをきっぱり拒否すべきです。そのような教えを信じるならば、私たちの行く手にはただ死があるのみ、焼き尽くす火である神の燃え盛る滅びの刑罰が待っているのみです。

「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」(ヘブル12:25)

「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができるでしょう。」(ヘブル2:1-3)

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。だれでも、モーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」(ヘブル10:26-29)

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

 
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命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(8)

8.見えるものを神とする――汎神論化された偽りのキリスト教

①死の否定

サンダー・シングの教えは、ただ裁き主としての神を否定し、万物に定められている滅びを否定するだけにはとどまりません。彼は何よりも、「死」という概念そのものを骨抜きにすることによって、旧創造と新創造の切り分けを否定し、朽ちるものと朽ちないもの、見えるものと見えないもの、神に属するものと、そうでないもの、一時的なものと永遠に至るものの切り分けを否定しようとします。

一言で言うならば、十字架の切り分けを否定して、朽ちるものと朽ちないものとを混同するこのような教えは、結局、目に見えるものこそ神であるという主張へとたどりつくのですが、まず最初に、サンダー・シングが、朽ちるすべてのものが経なければならない死という概念を、どれほど歪めて解釈しているかを見てみましょう。まず、彼の書物の冒頭の文章を引用します。

「ただ一つの生命の源――無限かつ全能の生命――がある。その創造の力が、生きとし生けるものすべてに生命を与えたのである。全被造物はその中に生き、未来永劫にわたりその中に留まり続ける。この生命の源は、違った種類の、発展段階も異なる、数知れぬ生命を創造した。人間はその一つであり、神ご自身の姿に似せて造られた。それは、人が神の聖なる臨在の中で、永遠に幸福であり続けるためである。」(p.34)

まず、この文章を通して、サンダー・シングが事実上、目に見えるものの永遠性を主張していることがお分かりになるでしょうか? 彼は言います、神こそが全ての生命の源であり、神が全ての被造物を創造し、「全被造物はその中に生き、未来永劫にわたりその中(筆者――神の命の内)に留まり続ける」と。これは、創造の初めから今に至るまで、罪によって神と断絶した被造物は一つもなく、従って、被造物は創造からこの方ずっと神の命の中にあり、滅びを経ることなく、これからも未来永劫に、神の内にとどまり続けると言っているに等しいのです。

しかし、このような主張は「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」(Ⅱコリント4:18)という御言葉に反しています。人の罪のゆえに全ての「被造物が虚無に服し」、「滅びの束縛」の中に置かれたこと、神の子供たちがこの朽ちゆく肉体の中にあって、からだの贖われるときを待ち望んでいること、「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」(ローマ8:20-23)ことを否定しています。

サンダー・シングは全被造物には
罪のために死が入り込み、被造物が神と断絶したという事実を認めません。そして彼は「朽ちるものは、朽ちないものを相続できません」(Ⅰコリント16:50)という御言葉を無視して、被造物が持っている朽ちる命が、そのままで神の命に等しく、永遠に続くかのように主張しているのです。これは見えるものと見えないものの切り分けの否定であり、朽ちるものと朽ちないものとの混同、一時的な滅び行くものと、神の永遠の命に属するものを混同する教えです。

このような異常な考え方に立つと、新創造とは何かを理解する根拠が全く失われてしまいます。ここには旧創造と新創造を切り分ける十字架が全くありません。

さらに、サンダー・シングの使っている「発展段階」という言葉は、彼の教えが進化論の影響を受けていることを物語っています。サンダー・シングは、人は「神ご自身の姿に似せて造られた」けれども、「違った種類の、発展段階も異なる、数知れぬ生命…の一つ」に過ぎないと言っています。つまり、それぞれの生命には種類を超えた「発展段階」があると示唆しているのです。

しかし、聖書は、神がそれぞれの生命をその「種類にしたがって」(創世記第一章)造られたことは記述していますが、それぞれの生命に種類を超えた
「発展段階」があるとは全く述べていません。ですから、この言葉からも、私たちはサンダー・シングの教えが聖書に基づかず、決して神から来たのでない別の起源を持っていることをさらに明確に理解するのです。

さらに、朽ちゆく命が決して滅びを経ることなく永遠に神の内にとどまりつづけるという、絶対にあり得ない事柄を主張するために、サンダー・シングが「死」という概念をどのように骨抜きにしているかを見て下さい。


「生命は変化することはあっても、決して滅ぼすことはできない。死とは、ある存在形態から別の存在形態へと変化することを指すのであり、生命を終わらせることを意味するのでも、生命を加えることを意味するのでも、ましてやそこから何かを取り去ることを意味するものでもない一つの存在形態から別の存在形態へと生命を移すことにすぎないのだ。あるものが目にみえなくなっても、それは存在しなくなったのではなく、別な形と状態の中でまた現われるのである。

この宇宙の中でかつて滅ぼされたものは何一つなく、今後もそうである。それは、創造主が破滅のためにものをお造りにならなかったからである。滅ぼす意志があれば、初めから創造することはなかったであろう。被造物が何一つ滅ぼされないとすれば、被造物の極みにして神の形に造られたという人間が、どうして滅ぼされよう。神は神ご自身の形を滅ぼすことができようか。あるいは、それ以外のどのような被造物にも人間を滅ぼすことができるだろうか。決してできないのである。人が死をもって滅びないとすれば、次のような問いが起こってこよう。人は死後、どこにいるのか、どのような状態にいるのか……。」(p.34-35)


ここでも、サンダー・シングは再三に渡り、神は絶対に人間を滅ぼしたりなさらないと、万物に定められた神の滅びの刑罰を否定せずにおれないわけですが、それはさて置き、ここで「死」という概念そのものが事実上、骨抜きにされ、否定されていることに注目して下さい。「死とは、ある存在形態から別の存在形態へと変化することを指すのであり、生命を終わらせることを意味するので…もない」と彼は言います。

このような詭弁を許すならば、死はもはや死ではなくなってしまいます。オースチンスパークスは『人とは何者か?』の中で、死についてこう述べています。「アダムのときにこれが起きた時、死が入り込みました。死の性質は、この語の聖書的意味によると、神との霊的結合からの分離です。」

人が罪を犯した時、人の霊は堕落し、神に対して死んでしまいました。全被造物も人の罪のゆえに神と断絶し、サタンと暗闇の軍勢に引き渡されました。これが死の意味です。死の真の意味は、霊的な死を指しており、神に対して死んでいるということです。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23) 肉体の死は罪が最終的に結ぶ実に過ぎません。一人の人の罪のゆえに全被造物に死が入り込んだのです。

生まれながらの人は、アダムの命にあって、人の目にはあたかも生きているかのように思われますが、それは、肉と罪とこの世(サタンと暗闇の世)に対して生きているのであって、神に対して彼は死んでいます(「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって…」(エペソ2:1))。「ひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになった」(ローマ5:17)。生まれながらの人は「一生涯死の恐怖につながれて奴隷」(ヘブル3:15)となって、死の支配下にあります。

もろもろの罪に対する解決策は赦しであり、それは神の子羊なるキリストの尊い血潮によって得られますが、死に対する解決法はただ一つ、復活しかありません。それはキリストのよみがえりの命によります。それは人が今まで生かされていたアダムの命に対して死んで、神の霊によって新しく生かされることです。復活は神の側からの奇跡以外の何ものでもなく、それはただキリストの達成された御業です。アダムの命からはどんなに努力しても、死以外のものを生み出すことはできません。ですから、人が神に対して生きるとは、ただキリストの十字架の死とよみがえりによる以外にはないのです。

「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:4-6)

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25)

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル3:14-15)

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5-6)

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)


このように信仰により、キリストの十字架の贖いを受け入れ、神の霊によって新しく生まれなければ、誰も神の国に入ることはできず、死の支配から解放される手立てはないのです。

しかし、サンダー・シングは生まれながらの人が一人の例外もなく、罪のゆえに神に対して死んでいることを認めず、信仰によらずとも、被造物の朽ちる命の永遠性を主張します。そして、人が罪のゆえに刈り取らなければならない最後の報酬である死さえも事実上、否定して、死とは「別の存在形態へと生命を移すことにすぎない」と、魔法のように言い換えるのです。こうして、アダムの朽ちる命のままで、人が永遠に至る道があるかのような偽りを教えるのです。


②肉の思いは死である

しかし、驚くべき結果に注目しましょう。このような詭弁を用いて、人の命は決して滅ぼされないと主張しているサンダー・シングの関心は、結局、どこへ誘われていくのでしょうか?

「人が死をもって滅びないとすれば、次のような問いが起こってこよう。人は死後、どこにいるのか、どのような状態にいるのか……。」


この問いの後、サンダー・シングの物語は、彼が瞑想中に出会ったとする様々な「死者との交流」、「死後の世界」に没入していきます。

なんと不健康極まりない発想だろうかと呆れ果てるのです。まさに「肉の思いは死であり」(ローマ8:6)というパラドックスが見事に表れているのではありませんか? これは彼の自己矛盾です。一方では、「被造物の極みにして神の形に造られたという人間が、どうして滅ぼされよう」と、旧創造の死を否定しながら、他方では、彼は生きている者についてではなく、死者について語らずにいられないのです。

この矛盾はまさに、「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39)という御言葉の成就ではないか思います。朽ちるアダムの命に定められている滅びを否定して、アダムの命を惜しみ、主と共なる十字架の死を拒んで、自らの力で復活の領域に達し、永遠に至ろうとすると、人はこうなるのではないでしょうか。思いは死にとらわれ、ずっと死の周辺をめぐり続け、生きているうちからまるで死者のように、死の支配にとらわれて、黄泉の国に誘われていくのです…。

補記:「悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。」(箴言21:16)

断じて、クリスチャンはこんな問いに誘われて、死者との交流というテーマに立ち入るべきではありません。義人であろうと罪人であろうと、生きている者が死人にお伺いを立てることを、聖書がどれほど禁じているか振り返ってください。

「あなたがたのうちに…占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならないこれらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。」(申命記18:10-13)


③見えるものを神とする

さて、このように十字架の切り分けを否定して、朽ちるものと朽ちないもの、見えるものと見えないもの、旧創造と新創造との切り分けを否定すると、最後には、全てのグノーシス主義の教えがそうであるように、目に見えるこの物質世界こそが真のリアリティであり、見えるものこそ神であるという主張に至りつきます。サンダー・シングは次のように述べます。

「真の、全能かつ永遠の唯一神がいること、現世はその被造物であるというのが真実なのである。この物質世界は、ヴェーダーンタ学者やソフィストのいうがごときマーヤー(筆者注――幻影)ではなく、現に存在するものである。被造物は神そのものではなく、神から離れてもいない。神は全被造物の中に現臨するのである。『人は神の中に生き、動き、存在を得る」(p.393)

ここまで来ると、完全にキリスト教とは別の宗教が成り立っているとしか言えませんが、ここでサンダー・シングが言おうとしていることは、「神はすべての見えるもの(被造物)の中にいます」という結論なのです。これはほとんど汎神論と呼んで差し支えないと私は思います。

ここにもサンダー・シングの自己矛盾があります。一方では、彼はまことしやかに、彼一人だけが「霊眼」によって見たとする、(聖書にも反し)誰一人として存在を証明できない目に見えない死後の霊界について語りながら、他方では、目に見えるこの全宇宙こそ、まことのリアリティであり、「神は全被造物の中に現臨する」と宣言しているのです。

聖書によれば、悪魔は「偽りの父」であって「彼が偽りを言うとき、いつも本音を吐いている」(ヨハネ8:44)のですから、偽りの父を起源とする異端に、自己矛盾、支離滅裂がつきものなのは当然のことです。今しがたあれほど確信を持って述べたことを、次の瞬間には、平然と自分で否定していたとしても不思議ではないのです。

「実際、神は万物に在り、万物は神に在る。だからといって、神イコール万物でも、万物イコール神でもない、創造者と創造物を混同する人間が無明に沈み込むのである。」(p.175)

サンダー・シングは、被造物イコール神なのではない、とあくまで注釈をつけていますが、そうであるからといって、サンダー・シングが「神は万物に在り、万物は神に在る」と言って、信仰によらずとも、全ての被造物が神の命の内にとどまっているかのように主張し、キリストの体を、見えない霊の体としてとらえず、むしろ、目に見える宇宙(物質世界)と同一視し、目に見えるこの世の被造物に神の現われを見出そうとしている事実は否めません。

朽ちる命と、朽ちない命の切り分けを否定し、見える一時的な世界と見えない永遠の来るべき世とを混同する結果は、結局、見えるものを神として祭り上げる結論の他にないのです。このようなサンダー・シングの言説が、キリストは宇宙の全ての被造物の中に満ちており、人格を持たない木や石の中にさえおられるとしたグノーシス主義の一部の教えと非常に共通していることにも、注意を払いたいと思います。

以下は、『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社、p.302から、

「イエスが言った、『私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。
 木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」(七七)

 イエスは「光」として、覚知(グノーシス)者にとっては、そこから出てそこに帰る「すべて」のもの――人間のみならず、木にも石にも内在する。――こうして、「父」と「子」(イエス)と「子ら」は、「光」にあってその本質を一つにする。そしてこの「光」は、語録六一において「一人」あるいは「同じ者」と言い換えられるのである。」

このような主張は、神が唯一の神であって、キリストが人格を持っておられることさえも否定している点で、その荒唐無稽さに呆れる他ないのですが、しかし、サンダー・シングの主張もほとんどそれと変わりません、彼もまた目に見える物質世界に神の現われを見出そうとしているからです。

しかし、聖書は、サンダー・シングが万物を神の位置にまで押し上げているのとは逆に、万物こそ、キリストの足の下に従わねばならないことを述べています。聖書はキリストは万物の上に立つかしらであると述べています。(エペソ1:20-23 参照)

「…それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。『彼は万物をその足の下に従わせた。』からです。…万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」(Ⅰコリント15:24-28)

このような文脈で、次の御言葉も述べられています。

「…すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:36)

聖書は、万物を支配する一切の権限が御子に委ねられていることを示しています。「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」(ヨハネ3:35)「…万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:16-17)

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3)

聖書ははっきりと、見えるものは、見えない神の言葉によって成ったのであり、見えるものは目に見えるものから出来たのではないことを示しています。

しかし、サンダー・シングは、万物が御子の支配に服従せねばならないことを否定して、むしろ、万物を神の地位にまで引き上げようとするだけでなく、聖書によれば、見えないものこそが真のリアリティであって、見えるものはすべて、真のリアリティによって作り出された影のようなものに過ぎないという事実を決して認めようとしません。彼の書物の中には、「神(ブラフマン=絶対者)」を除いてはすべてが「マーヤー(幻影)」であるとするインドのヴェーダーンタ学派を彼が非難しているくだりがありますが、なぜ彼がヴェーダーンタ学派の「マーヤー」という考え方に激しく反対したのかも、これまでの文脈からほぼ明らかとなります。

聖書によれば、”I AM”と言われるお方だけが真のリアリティであり、全ての造られたものは、まことの神のリアリティに比べるならば、影のようなものであって、真のリアリティとは言えません。天に属するもの、すなわち、御子の十字架を経て、神の永遠の命に属し、永遠に至るものだけがまことのリアリティであり、それ以外は一時的な、滅びゆくものに過ぎないのです。そして、見えるものも見えないものも、すべての造られたものが、見えない御子によって、御子のために造られ、御子の支配に――神の霊なる支配に――服さなければなりません。サンダー・シングにはそのこと――見えるものが目に見えるものから出来たのではなく、万物が見えない御子によって成り、御子の支配に服さねばならないこと――が認められないのです。

聖書は言います、「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方」であり、「万物は、御子にあって造られ、御子のために造られたのです」(コロサイ1:15-16)、律法の定めや色々な決まりごとだけでなく、造られたすべてのものは――被造物も含め――次に来るもののであって、本体はキリストにある」(コロサイ2:17)のです。

ところが、サンダー・シングは「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」(Ⅱコリント4:18)という事実、目に見えるものは、「次に来るもの影」であるという事実を思わせるような主張には、(たとえそれがヴェーダンタ哲学であっても)、異議を唱えずにいられないのです。彼は言います、「目に見える被造物は夢でもマーヤーでもなく、現実のものなのである」(p.395)と。つまり、見えるものこそが、真のリアリティであると彼は言いたいのです。

これが見えるものと見えないものの秩序をさかさまにした偽りのキリスト教であることはすでに述べましたが、このような主張は結局、見えるものを神としている点で、(まことの神を否定して物質を神とする)唯物論、また、物質に神性を見出そうとする汎神論となり、聖書からは全くかけ離れた別の教えになるのです。


④ 神の国をこの世と同一視する

こうして、見えるものと見えないものの順序をさかさまにし、朽ちるものと朽ちないものを混同し、霊によって把握すべきことを魂によってこの世の領域に還元し、地に属するものと天に属するものを混ぜ合わせようとした結果、サンダー・シングはキリストのからだを見えない霊のからだとして理解せず、むしろ、キリストを見える世界そのものに見出そうとして、ほとんど汎神論と言っても良い主張に陥るだけでなく、彼は神の国というものも、目に見える世界に還元し、神の国をこの世と同一視しようとするのです。

「全宇宙は体である。四肢はどれも全身につながっているので、一部にでも痛みが生じれば、全身にそれが響く。血清が体の一部に使われれば、全身がその作用を感じる。それと同じく、キリストはこのみえる、そしてみえざる宇宙の一部たる地球で十字架に付けられたにもかかわらず、全宇宙がキリストの死から影響を被った。また、キリストは世の救いのためにただ一つの場所(エルサレム)で十字架にかけられたにもかかわらず、今も全世界はキリストの犠牲を共にしている。霊が全身に満ちているように、神は全宇宙に存在している。」(p.291)

ここでも、「神は全宇宙に存在している」という汎神論的主張が繰り返されています。その上、サンダー・シングがここでもやはり、信仰の必要性を否定していることが分かるでしょうか。ここで彼は、まるで全世界の被造物が、歴史を通じて、キリストの十字架と自動的に一体であり、キリストと絶え間なく苦しみを共にして来たかのように述べています。しかし、きちんと聖書に戻るならば、この言説がまるで嘘であることがよく分かるのです。

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:9-12)

ここにははっきりと書いてあります。「世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」と。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」と。世は自分を救うために遣わされたキリストを受け入れることを拒み、彼を十字架につけて殺したのです。

にも関わらず、サンダー・シングは世が御子を拒んで十字架につけた罪には一切触れずに(上記の文章の続きのくだりでも、キリストの十字架は罪人に対する神の一方的な愛のボランティアに過ぎなかったことにされ、世が彼を十字架につけて殺したその罪については一言の言及もありません)、まるで全世界が初めから彼の犠牲に哀悼の意を表し、全宇宙がキリストと自動的に一体であるかのように述べているのです。これでは、世の犯した罪も、信仰の必要性も否定されてしまいます。

聖書ははっきりと述べています、「…この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と。

このように、個人的な信仰によらなければ、誰もキリストの十字架の贖いを受け取ることはできず、神に受け入れられることもないにも関わらず、サンダー・シングは、あたかも信仰によらなくとも全世界がキリストの十字架により自動的に贖われているかのように主張し、信仰による救いを否定し、そのようにして、御子を拒んだ世の罪を覆い隠し、帳消しにして、この世をむしろ名誉回復させようとしているのです。

ですから、このようなことを考え合わせるならば、サンダー・シングが述べている全宇宙に存在している神とは、とどのつまり、この世の神を指していると言って良いのではないかと思います。
「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」(Ⅰヨハネ5:19)。人の堕落とともに、この世、旧創造はサタンに引き渡されました。ですから、「この世の君」(ヨハネ12:31)とはサタンのことに他なりません。それらの文脈を一切を無視して、サンダー・シングは目に見えるこの世があたかも創世の初めから神に背いたことなど一度もなく、キリストの十字架以来、絶えず彼と苦しみをともにして来たかのように主張し、世の罪というものを認めないのです。これでは結局、彼はこの世の神をまことの神として逆転させようとしていると言っても過言ではありません。

「…この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」(Ⅱコリント4:4)

サンダー・シングの次のような言説も、すべてをさかさまにしているため、決して惑わされないように注意しなければなりません。

「神が存在するところには、天国あるいは神の国がある。だが、神はどこにも存在するので、天国はすべての場所にある。このことを知っている真の信仰者はどこにあっても、どのような状態にあっても、苦しみや困難に見舞われているときも、友の中にいるときも敵の中にいるときも、現世にあっても来世にあっても幸せである。彼らは神の中に住み、神もまた彼らの中に永遠に住まわれる。これこそ神の国である。」(p.304)

注意して下さい、このような主張は東洋人の好みに非常に合致しているがゆえに、日本人の耳にとても良さそうに響くのです。日本人の文化的・精神風土には、「知られない神に」(使徒17:23)と刻んだ祭壇を拝んだアテネの人々のように、「神(々)はどこにでも存在する」という考え方が脈々と流れています(聖書の神は遍在されますが、この時空間の中に住まわれるのではなく、また、被造物の中に神性として宿っているのでもありません)。私たちは幼少期から、八百万の神や、石で作った道ばたの地蔵にも神が宿っているといったような考え方に慣らされて、神を人格としてとらえないことや、あたかも目に見えるどんな被造物の中にも神が宿っているかのような考えを受け入れやすい精神的土壌が作られてしまっているのです。

しかし、きちんと聖書に戻りましょう。神の国はどこにあると聖書は言っていますか?

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20-21)


この記述に照らし合わせるならば、「神はどこにも存在するので、天国はすべての場所にある」というサンダー・シングの主張が完全に偽りであることがよく分かります。彼の主張とは逆に、聖書は、神の国の所在をきわめて限定しています。神の国はこの世の時空間に存在するあれやこれやの場所や、あれやこれやの被造物の中にはなく、ただ御子を信じる者のただ中に存在すると聖書は言っています。ですから、サンダー・シングの述べている地上天国の夢がどんなに良さそうに響いたとしても、聖書に反して、神の国をこの地上の時空間内(全ての被造物の内)に見出そうとしている点で、それがむなしい偽りの夢に過ぎないことが分かるのです。それは地上に作り出された神の国の幻(模造品)に過ぎず、その偽りの夢を作り出したのは、ただこの世においてのみ活動を限定的に許されている者たち(暗闇の勢力)なのです。

最後に、もう一度、確認しましょう、キリストはどこにおられるのでしょうか? 「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」と、果たして主は言われたのでしょうか? 「神は万物に在り、万物は神に在る」「神は全被造物の中に現臨する」、それが聖書の教えなのでしょうか? 

いいえ、まず、神については聖書はこう述べています、

「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」(Ⅰテモテ6:15-16)


(そうです、この御言葉にも、死のない方はただ神お一人しかおられないということが示されているではありませんか。) そして、キリストのおられる場所は、次の御言葉が示している通りです。


「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)


 


命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(7)

7.裁き主としての神の否定

聖書は、神は愛であられると同時に、大いなる「さばきの主」(イザヤ33:22)(ヤコブ5:9)であることを教えています。ところが、サンダー・シングは言います、「愛なる神」と、「裁き主である神」とは、決して両立し得ない相矛盾する側面であると。彼は聖書を歪曲してでも、人間にとって都合の良い「愛なる神」だけを残し、「裁き主である神」を否定しようとします。彼は言います、「『神は誰をも罰したりはなさらない。誰をも地獄に落とされたりはなさらない。そのようなことは、キリストが教えられ、十字架上での犠牲によって表された神の愛とは相容れぬものである。」(p.21)と。

このような考え方がどの点で聖書に反し、誤っているかを理解するために、まず、「神の愛」とは何なのか、もう一度、聖書を振り返ってみましょう。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ56:8-9) 

まず、聖書は言います、神の思いは人の思いとは異なっており、人の思いよりも高いと。私は神の愛とは、神の御思い、神のご計画、神の御旨そのものを指すと言って良いと考えていますが、そもそも、神の思いは、人の思いによってはかり知ることのできないものです。従って、神の愛に、人間に理解可能な、人間に都合のよい解釈を施そうとすることに非常な無理があることは明らかです。

さらに、私たちは神が愛であることと、神が公正な裁きを行なわれるという二つのことが、何ら矛盾しないことを知っています。これを卑近な例で考えてみましょう。子供を愛する父親は、子供が従順である間は愛に溢れている親しみやすいパパですが、もしも子供が父の戒めを破り、悪戯をするならば、「鬼のように」恐るべき存在へと変わるでしょう。父親は子供を叱り、子供は恐ろしさのあまり、二度と父に近寄りたくないと感じるかもしれません。しかし、その時、たとえ子供には理解できなくとも、父の怒りは、愛ゆえの訓戒なのです。

子供が悪いことをした時に、本心から叱ることのできないような父親は、良い父親とは言えません。何でも赦して大目に見るのが愛なのではありません。父親は審判者でなくてはならず、何が正しいのかを子供に教える手本となる義務を負っています。

また、ならず者が家に侵入しようとすれば、父は一家を守るために立ち上がり、彼を撃退するでしょう。父は権威を帯び、力を持って、一家の中で自分の支配を確立せねばなりません。彼の秩序にそぐわないものは警告を受け、叱責され、それでも従わないなら排斥されます。排斥される側にとって、彼は恐れの的でしょう。しかし、それは父が家族を愛しているということに反しません。彼は自分の保護下にある者を守るために権威を帯びなければなりません。その権威を正しく行使することが彼の義務です。愛によって、彼は家族を守るために権威を行使するのです。

詩篇の作者は次のように述べています、神は正しい審判者、日々、怒る神。悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。」(詩篇7:11-13)、「主は義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行なわれる。」(詩篇9:8)、「主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」(詩篇19:9)

以前にヨナの話をしたのを覚えておられるでしょうか。ヨナが主の御顔を避けて逃げ出した一つ目の理由は、ニネベの人々に厳しい託宣を告げたくなかったことにあるだろうと述べました。しかし、ヨナが主の御顔を避けたもっと重要かつ直接的な理由があると考えられます。それは、ヨナが裁き主としての主の御顔を恐れたということです。

「主の御顔を避けて」(ヨナ1:3)、この言葉に注目するならば、ヨナは他のどんなものよりも、主の御顔そのものから身を隠したかったことが分かるのです。一体、なぜでしょう? もしもヨナが主の憐みに満ちた御顔を仰いだのであれば、彼は御顔を慕い求めこそすれ、それを避けて逃げ出す理由はなかったでしょう。しかし、ニネベに滅びの宣告を伝えることの恐ろしさもさることながら、何よりも、主の御顔こそ、ヨナの心に最も大きな恐れを呼び起こしたのではないかと考えられるのです。

それは、彼が裁き主としての主の御顔を見、それを恐れたためではないかと思います。黙示録の中にそう考える一つの根拠を見ます。黙示録において、ヨハネは裁き主としての主イエスを見ますが、その容貌は非常な恐れを彼に起こさせるものでした。

「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」(黙示1:12-16)

ヨハネの見た正確なイメージをこの言葉から思い浮かべることは難しいです。しかし、私たちは少なくとも、主の御顔を見たとき、ヨハネがどのような反応をしたのかを知っています。「…私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった」(黙示1:17)

預言者イザヤはウジヤ王の死んだ年に、高くあげられた王座に座す聖なる万軍の主を見ました。その時、イザヤが何と言ったか、私たちは知っています、「ああ。私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(イザヤ6:5)

ホレブの山で主が火の中から語られたとき、イスラエルの民は神にこう願い求めずにいられませんでした、「私の神、主の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません。」(申命記18:16)

シモン・ペテロは主が御業をなされたとき、主の足もとにひれ伏して、こう言わずにおれませんでした、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ5:8) 

そうです、聖なる方、いと高き方、大いなる裁き主、正しい審判者、この方の前で、肉なる者は誰一人立ちおおせません。神の聖に近づくとき、私たちはもはや自己肯定できなくなり、自分が死にしか値しない罪人であることを思い知らされ、深く恐れ、おののきながら、御前にひれ伏すしかないのです。

神の光は何よりも、私たちがいかに神の聖から遠く隔たった罪ある者であるかという事実を容赦なく見せます。神の光は、私たちがそれまで見ることを拒んでいた自分自身の真の姿を明るみに出し、私たちに旧創造の忌まわしさを見せて、それまでの自己安堵、自己肯定を打ち砕きます。御光の下で、私たちは自分の裸の恥を露にされ、自分が神の御前でどれほどまでに腐敗し切って、ただ死にしか値しない、惨めな肉に過ぎない者であるかという事実を思い知らされます。私たちは深く恥じ入り、死人のように恐れおののいて、塵と灰の中で悔い改める他ないのです。

ダビデも神の裁きを恐れてこう言わずにいられませんでした、「まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。」(詩篇90:7-9)

「主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。…あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められないからです。」(詩篇143:1-2)

行いにおいては何一つ落ち度がなかった義人ヨブも、主に試みられて、こう言う他ありませんでした、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(ヨブ42:5-6)

神は恐れおののいて崇められるべき方です! 本当に神の光に照らされて御前に立つ時、神に心を探られ、試みられる時、私たちは自己弁明の全てを捨てて、御前にひれ伏し、沈黙するしかないのです。「すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ。」(ゼカリヤ2:13)

これらは、旧創造そのものが神の御前に罪に定められていることをはっきりと表わしています。ただ私たちのあれやこれやの罪が忌まわしいものであるというだけではなく、旧創造の全てが十字架の死に服さなければならないのです。私たちの生まれながらの命は何の役にも立たず、ただ死にしか値しません。私たち自身には改良の余地がありません! 私たちはただキリストの十字架の死に服すしかなく、彼とともに死を経て、彼の命によってよみがえらされたものだけが、神の御前に貴く、受け入れられるのです。そのことを、信仰によって進んで行くごとに、私たちはますます深く知らなければならないのです。

そして、神の愛とは、私たちを滅びから救うために、御子を遣わして、私たちの負うべき刑罰を御子に身代わりに負わせ、十字架上で御子がご自分の肉体を裂いて、私たちのために新創造へ至る道を開いてくださった、その御業にこそ現れています。従って、旧創造に対する神の刑罰を否定するならば、私たちは神の愛の最高の表現を否定していることになり、もはや神の愛を理解する手がかりは全く失われてしまうのです。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがた行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:13-15)


恵みとは、それに全く値しない者に与えられるからこそ、恵みなのです。私たち自身のうちにわずかでも、それを受け取るべき資格があったのでは、それは恵みにはなりません。私たちは永遠に廃棄されてしかるべき厭うべき堕落した罪人に過ぎませんでした。神は私たちを大目に見て、無罪放免するために、私たちに対する刑罰を思い直され、撤回されたのでは決してありません。神は私たちに対する刑罰を、十字架で御子に余すところなく負わせ、ご自分の義を証明され、罰せられるべきものを罰せられたのです。すべては御子が成就されたのです。御子は私たちの受けるべき苦痛のすべてを十字架で受けられ、肉において罰せられ、霊において神に捨てられ、そして言われました、「完了した。」(ヨハネ15:30)と。

死に至るまで従順であった御子の名のゆえに、私たちは御父に何でも願い求めることが許されており、御子の従順のゆえに、私たちは御父に子供として受け入れられるのです。私たちは、自分が決して自力では神に受け入れられることのできない者であり、すべては神の恵みによったのであることを片時も忘れるわけにはいきません。私たちは信仰によって、御子の刑罰を自分への刑罰として受け取り、私たち自身が主とともに十字架で死に渡されたことに同意することによって、このアダムの命、旧創造に死んで、彼の復活の命へと入れられ、御子のゆえに、神に喜ばれ、受け入れられる者とされるのです。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

地上にある間、私たちは御父によって、僕として、子として訓練を受けます。私たちは御子の贖いを信じて受け取っているので、私たちを永遠の滅びに定める神の裁きからは解放されていますが、しかし、地上にあって主の訓練を避けることはできません。ある意味で、私たちは義なる裁き主によって、罰せられたり、懲らしめられる存在です。その度ごとに、主の正しさを知り、恐れを持って裁き主の御顔を仰ぐのです。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示3:19) 

私たちは、主なる神が「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」(創世記18:17)と言われたアブラハムや、顔と顔を合わせて主と見えたモーセのように、主に信頼される僕、いや、友のようにまでなれるか分かりません。

それは私たちの歩み次第でしょう。それでも、恵みの中で、僕から子供へ、子供から息子へ、息子から友へと、恵みにふさわしく、主が私たちを訓戒し、生長させて下さることを疑いません。もしも私たちが主の小さな信頼に応えることができ、任されたわずかなものに忠実であるならば、より多くの信頼を受け、より多くを任されることになるでしょう。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実」(ルカ16:10)だからです。それについてはまたいつか述べることができればと思います。

とにかく、神は愛であられますが、私たちを叱ったり、懲らしめられる方なのです。そして神が愛であることと、神が裁きを行なわれ、人を罰したり、訓戒される方であるということは何ら矛盾しないのです。神は秩序の神であり、彼の秩序の中に、彼の権威と支配の中に、全ての調和が保たれているのです。

「『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』 

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめられたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら…、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものでなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。…聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル12:5-14)




命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(6)

6.復活の否定

「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」(マタイ16:23)

生まれながらの人の思いの奥底には、人のアダムの命、すなわち、旧創造が神によって滅びに定められているという事実をどうしても認めたくない思いがあります。それは、生まれながらの人が神の御前に腐敗し切っており、ただ滅びの刑罰にしか値しないという事実を否定して、生まれながらの人(肉)をできる限り弁護したいという自己義認の思いに基づいています。また、それは神によって罰せられることへの生まれながらの人の根強い反発と恐れでもあります。

クリスチャンになって十字架の意味を知った後でも、私たちの心の中には、依然として、十字架の死を厭う気持ちがあります。肉が死の刑罰にしか値しないとは認めず、むしろ、肉の腐敗から目を背け、肉による善行を積み上げることによって、神に受け入れられ、天にまで達したいという願いがあります。人の生まれながらの心は、自分自身に対する神の刑罰を真正面から受け止めることができません。

偽りの福音は、人の生まれながらの自己の内にあるそのような自己保存の願望、すなわち、肉を弁護し、旧創造を惜しむ気持ちに巧妙に働きかけて、また、神の愛を悪用することによって、人が十字架の死を避けて、自分の生まれながらの命を保つようささやきかけます。主イエスが、エルサレムで受けねばならない苦難や、十字架の死と三日目のよみがえりについて弟子たちに語られたとき、ペテロの口を借りてサタンが語ったのが、そのような偽りの教義でした。

サタンの偽りの教義は、旧創造が全て十字架の死を受けなければならないことを否定します。サタンは「神の愛」を拡大解釈することによって、神は憐み深い方なので、罪人を寛容に赦して下さるはずであり、人が十字架の死という重すぎる神の刑罰を耐え忍ぶ必要はない、それは人にとっては残酷すぎると説明します。そうして、サタンは主イエスに向かって、生まれながらの人(アダム)を弁護して、アダムの命を惜しむよう提案したのでした。

サタンは今日、神の子供たちにも同じ提案をささやきかけます。すなわち、クリスチャンが旧創造は十字架で死に渡されねばならないという事実を否定して、アダムの命を惜しみ、弁護するよう仕向けるのです。それは、十字架の死がなければ、復活はあり得ないことをサタンは知っているからです。

サタンは復活の命を激しく憎んでいます。なぜなら、復活の命の現われほど、悪魔とその暗闇の王国に対して、決定的な敗北を突きつける事実はないからです。復活の命が地上に現われることは、その領域に御子の揺るぎない統治が確立され、神の国が到来し、サタンの支配が追放されることを意味します。復活の命のあるところには、汚れたもの、旧創造はもはや存在する余地がありません。復活の命が現われるための前提として、旧創造は全て死んでいなければならないからです。

アダムの堕落とともに、目に見えるもの、万物、旧創造は全てサタンの支配下に引き渡されました(「私たちは…全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」(Ⅰヨハネ5:19))。旧創造はサタンの作業場です。ですから、旧創造が真に主と共なる十字架の死によってはりつけにされ、キリストの復活の命が生じることは、悪魔にとっては自分の作業場である旧創造に対する支配権を失うという大打撃をもたらします。

それだけではありません。キリストの復活の命の現われそのものが、サタンにとっては永遠の恥辱に満ちた敗北であり、致命的な脅威でもあるのです。それは、復活の命の現われは、御子が十字架で取られた勝利――「死は勝利に飲まれた」(Ⅰコリント15:54)――を完膚なきまでに証明するからです。御子の来臨に先立って、キリストの復活の命が現われるところではどこでも、御子が悪魔の最大の武器である死をすでに打ち破って、もろもろの支配と権威の武装を解除され、彼らをさらしものにして、揺るぎない統治を確立されたことが証明され、神の国の(御子の霊なる)支配が打ち立てられることにより、悪魔の支配はすでに打ち破られ、彼にはもはや何の権利も力もなく、悪魔は御子によってすでに滅ぼされたことが、事実として証明されるからです。

ですから、サタンはクリスチャンの目から何としても復活の命を隠したいのです。何としても復活の命の現われを阻止し、復活を地上から消し去りたいのです。悪魔はあらゆる方法を尽くして、クリスチャンが復活の命に達しないように仕向けます。そのために、悪魔は復活という概念そのものを作り話であると思い込ませて嘲笑するか、もしくは、罪人に対する神の愛や憐みを拡大解釈することにより、十字架の教義を歪め、クリスチャンが十字架を厭い、自分の命を愛し、それを惜しんで十字架の死を拒むように仕向け、どんなことがあっても、決して御子の復活の命へ達することがないよう妨げるのです。

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

それでも、もしも私たちが主と共なる十字架の死を経由して、復活の領域を実際に生き始めたならば、地獄の全軍勢が私たちに敵対して立ちはだかるのが分かるでしょう。私たちは復活の命に生きるようになって初めて、神の子供が、血肉によっては到底、立ち向かうことのできない、暗闇の全軍勢からのどれほどはかりしれない憎悪の前にさらされているかを、実際に理解し始めるのです。復活の命の現われを地上から消し去るために、サタンが人知を超えた方法で総力を尽くして神の子供たちを日夜攻撃することをも実際に分かるでしょう。その攻撃と対峙する時、復活がどれほどサタンの憎むべきものであるかを私たちは知るのです。そこには私たち個人に向けられるべき憎しみをはるかに上回る、まさに想像を絶するものがあります。それと同時に私たちは、キリストの復活の命の現われが、闇の王国に対してどれほど圧倒的な脅威となり、そして、彼らにとって大いなる敗北を意味するかも理解し始め、復活の命の中にある勝利を敵に対して実際に行使することを学び始めるのです。

「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:19)

「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」(ヨハネ12:32)

ですから、「愛である神は誰一人地獄に落とし給わない。永遠にそうである」(p.210)というサンダー・シングの主張は、旧創造が神によって罰せられることへの否定、神の正しい裁きへの異議申し立てに貫かれていることが分かるでしょう。

いかに「愛」という罪人の耳にとって心地よい言葉を使っていたとしても、このように旧創造に対する十字架の死の刑罰を否定する教えは、神から来たものではありません。そこにあるのは、旧創造に対する滅びはないと主張することで、新創造(復活)が現われることを何としても阻止したいサタンの思惑であり、それが独特の美意識をまとって教義化されたものであると言って差し支えないのです。

このような主張は、表面的には神の愛を語ってはいますが、神の愛を本当に知りたいという動機から出て来たのではありません。むしろ、神が全ての旧創造を滅ぼされることに対する根強い不満がそのような教えを作り出すのです。ペテロが主を脇に呼んでいさめ始めたとき、彼の言葉には、あたかも、主に対する美しい愛があったかのように聞こえたことでしょう。それでも、人間的には美しい同情で飾られていたペテロの主張は、神の御前に悪しき動機から出て来たものとして罪定めされたのです。それは彼の述べた思想が、人間にとって都合が良くとも、神のご計画を否定し、妨げようとするものだったからです。

ですから、神の愛を口実にして、旧創造に定められた滅びを否定してはいけないのです。そのような教えの背後には必ず、目に見える全てのものに対する神の滅びの宣告を否定して、自分自身が滅びに定められていることを決して認めたくない暗闇の世の主権者の思惑があります。

聖書の記述から、私たちは邪霊や悪鬼たちが人知を超える知性を持っており、キリストが来られる時に、自分たちがどうなるかを知っていたことを見ます。(たとえば、ルカ4:34参照。)

汚れた霊でさえ、御子の権威を前にして、自分たちの支配がもはや成り立たず、自分たちが滅ぼされる他ないことを知っていたのです。まして、御言葉を曲げる偽預言者たちが、自分たちに対する聖書の永遠の滅びの宣告を知らないはずがあるでしょうか。偽りの教えを語る者たちが必死になって、神は愛だから人を滅ぼしたりなさらないと、神の刑罰を再三に渡り、否定せずにおれないその理由はそこから明らかなのです。それは彼らが神が自分たちに下された判決を知っており、自分たちがどこへ行かなければならないかを知って、それが成就するときが来るのを、心底、恐れているからなのです。

「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することができるのです。」(マタイ12:29)

「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ2:15)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神の全ての武具をとりなさい。」(エペソ6:12-13)


「…彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示20:10)



命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(5)

5.アダムの神格化という誤った考えについて(補足)

「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」(ローマ5:12)

以前の記事の中で、私はグノーシス主義の多くの教えがアダムを神格化し、アダムを神に等しい者(=神に勝る)とみなしていることについて触れました。

「いつか自分が、似せて造られた神に戻る。それが人間の究極の目標なのだ」、
というサンダー・シングの言葉からも、彼が多くのグノーシス主義者と同じように、堕落以前の「アダムは神であった」と考えていることが分かります。なぜなら、サンダー・シングはわざわざ「神に戻る」と言っているからです。もしも人が最初に神であったと考えていないのなら、神に戻るという表現を彼は用いなかったでしょう。

このようなアダムを神とする考えがどれほど聖書に反し、誤っているかを確認するために、私たちはもう一度、きちんと聖書に照らし合わせて、アダムとは何者であったのかを振り返ってみたいと思います。

(6/28 今回は相当に長く込み入った説明となってしまいましたが、補足説明ということで、分割しないで以下にそのまま掲載します。一部、正しく表示されなかった部分を修正しました。「続きを読む」ではなく、以下、本文に掲載し直します。)


 
①創造された当初のアダムの不完全性
②今や堕落して肉となったアダム
③全き人である第二のアダム、キリスト
④アダムにある地位とキリストにある地位の比べものにならない違い
⑤ キリストの十字架の死と復活 新創造に至る唯一の道
⑥ アダムの命と神の永遠の命との違い
⑦ 人の魂の危険性と、自己(魂の命)を否んでキリストのうちにとどまる必要性

①創造された当初のアダムの不完全性

アダムとエバは神の御旨に従って、全地を統べ治めるために創造されました。創造された当初、人類に罪はありませんでした。しかし、アダムは神ではありませんでした。聖書が述べているのは、アダムが神にかたどって、神のかたちに似せて造られたという事実だけです。

「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」(創世記1:26-27)

私たちの神はこう言われます、「私は初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。」(イザヤ44:6)と。このように、天地の造り主はただお一人です。神はただお一人です。人は神に造られた被造物に過ぎません。被造物を神とすることは、創造主を否定し、唯一の神を否定することを意味します。

さらに、第一の人アダムは、第二のアダムであられるキリストと比べるならば、全き人ではなかったことが分かります。オースチン・スパークスは『人とは何者なのでしょう?』の中で、アダムの不完全性についてこう説明しています。

「創造された時、アダムは罪がなく純真でした。神は彼が完全になるよう定められましたが、創造された時はまだそのように完全ではありませんでした。これを理解することが重要です。彼が神の御旨に完全に到達するには、彼の性質と目標の中に何かが加えられなければなりませんでした。人の霊を通しての神とのつながりには、一体化への潜在性や可能性はありましたが、絶対的かつ決定的な一体性はありませんでした。ですから、彼は戒めや命令という線に沿って神に従わなければならなかったのです――それは息子として以上に、僕としての地位においてでした。あるいは、新約聖書における「子供(child)」と「息子(son)」の区別を用いると、「この違いは生まれた者と成熟に達した者との間の相違である」と言えます。アダムの場合、子供から息子へ、外的統治から内的統治へ、不完全から完全へ、この地位を飛躍的に向上させたであろうものは、信仰の従順による永遠のいのちでした。」

アダムは毎時、自分の外側にある命の木を選び取ることによって神に従い、神への従順を通して、完全な存在に至ることが望まれていました。しかし、人は魂の領域に働きかけられることにより、欺かれ、神に背いて善悪を知る知識を選んで罪を犯したことにより、神の御旨を成就することに失敗しました。


②今や堕落して肉となったアダム

今やアダムの罪を通して全人類に罪と死が入り込みました。人は生まれながらにして「自分の罪過と罪との中に死んで」おり、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」となりました(エペソ2:1-3) 

アダムは不名誉な堕落によって、肉の象徴、朽ちる命の象徴、罪と死の象徴となりました
。「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:19)、これが第一の人であるアダムに対する神の宣告です。

「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)「…私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:5)

生まれながらの人は「肉にすぎない」(創世記6:3)者となりました。「肉によって生まれた者は肉です。」(ヨハネ3:6)、「肉の思いは死であり…、肉の思いは神に対して反抗するもの」であり、「それは神の律法に…服従できないのです。」(ローマ8:6-7)、「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り」(ガラテヤ6:8)、「肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:8)

何という惨めな宣告でしょうか。アダムに属し、肉にあって歩んでいる限り、誰一人として、神を喜ばせることはできず、永遠に至る実を結ぶこともできません。そればかりか、私たちはもっとひどい風景を見ます、人の堕落により、目に見えるこの世界や、他の被造物までも、人類の罪の影響を受けて堕落したのです。

「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。」(創世記4:17)。神は人ばかりか、目に見える世界も、罪による堕落のために、もはや廃棄されるしかないことを決定されました。

人の罪が目に見える世界に悪影響をもたらすものであることは、聖書が随所で述べている通りです。(たとえば、ホセア4:1-3を参照下さい。)

罪による堕落のゆえに、アダムのみならず、アダムもろともに万物も、滅びを免れることができなくなりました。神は見えるものすべてに対し、全面的な廃棄を決定されました。神が創造された当初、「非常によかった」(創世記1:31)全ての見える世界が、人の罪のゆえに、むなしくなり、滅びを宣告されたのです。

「万物の終わりが近づきました。」(Ⅰペテロ4:7) 目に見えるものはこうして滅びへ向かう一時的なものとなったのです(Ⅱコリント4:18)


③全き人である第二のアダム、キリスト

神はアダムをあきらめられ、アダムを廃棄することを決定されました。しかし、アダムが失敗したことをもう一度、なし遂げて、御旨を成就させるため、そして、全世界を滅びから救い、被造物を贖うために、神は愛する御子を人として地上に遣わされました。神は人が受けるべき刑罰を、御子に身代わりに受けさせることによって、かつてノアの箱舟を通して、人々を目に見える世界の滅びから救いだされたように、御子の十字架を通して、信じる人々を見える滅びから救い、堅い基礎の上に建てられた都(ヘブル11:10)、震われない国(ヘブル12:28)、見えない天のふるさと(ヘブル11:16)、来たらんとする永遠の都(ヘブル13:14)へと連れ出そうとなさっておられます。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」(Ⅰコリント15:21-22)


「この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」(Ⅰヨハネ2:2)

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。」(エペソ2:14-16)

神はアダムにもはや何の期待もしておられません。アダムの命に属するもの、旧創造は滅びにしか値せず、神の御前に何の価値も持ちません。第二の人であるキリストだけが、神の御心を満足させました。ですから、信仰によって御子の十字架の贖いを受け入れ、彼とともに死と復活を経て、キリストのよみがえりの命によって新創造とされたものだけが、神に対して生き、永遠に至る実を結ぶことができるのです。アダムの命に属するものではなく、キリストのまことの命に属するもの、キリストの十字架を経て、新創造とされたものだけが神の目にかなう、神を喜ばせるものなのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

こうして、目に見える滅びゆく世界と、目に見えない永遠に至る来るべき世との間には、主イエスの十字架という隔てが永遠に置かれました。この御子の十字架を通らずして、神の国に至ることのできる人は一人もいません。


④アダムにある地位とキリストにある地位の比べものにならない違い

私たちは堕落以前のアダムが持っていた地位と、クリスチャンが現在、キリストにあって受け継いでいる地位とが比較にならないものであることに注意を払う必要があります。

「…神である主は、土地のちりで人を形作り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きたものとなった。」(創世記2:7)

この記述は、アダムが神と交わることのできる霊を持っていたことを示していますが、しかし、アダムが生かされていた命は、私たちクリスチャンが御子にあって、賜物として与えられている永遠の命――キリストのよみがえりの命、神の非受造のいのち――ではなかったことに注意しなければなりません。アダムは当初、罪なき者として創造されましたが、彼は神の子ではありませんでした。もう一度言いますが、アダムは(グノーシス主義者の言うような)神でなかっただけでなく、アダムは私たちクリスチャンのように神の命によって生かされる神の子供でもなかったのです。

メアリー・マクドゥーノフは、
『神の贖いのご計画』の中でこう説明しています、「最初のアダムは神の子ではありませんでした。その理由は生物学的に明らかです。彼は、神のいのちと同じ種類のいのちを持っていませんでした。

贖いは、最初のアダムの堕落以前の水準に人を回復する』という誤った考えがありますこの誤りの原因は、子たる身分に関する無知にあります。これは実に悲しむべきことです。私たちは贖いによって、堕落以前のアダムとエバよりも高い身分――神の子としての身分――を受けました私たちは永遠の御子を通して神の子にされました

このように、御子の贖いによって、私たちクリスチャンは堕落以前のアダムよりもはるかに高い身分、神の子としての身分(ローマ8:15-16)を受けているのです。私たちは神の永遠の命(ローマ6:23)を受けています。これはアダムが持っていなかった命です。

アダムは生きた魂でしたが、彼は血肉に過ぎませんでした。彼は土で造られ、地に属する者であり、神の国を相続できませんでした。私たちは第二の人であるキリストによって、命の御霊を受け、神の子とされ、天に属する者とされ、神の国を受け継ぐ約束の保証を受けているのです。御子を通して与えられている賜物のはかりしれない大きさを少しでも理解するなら、誰も、創造当初のアダムに回帰することが人類の目標だなどと思わないでしょう。

「聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。

第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです

兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。…朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。…朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。

死のとげは罪であり、罪の力は律法ですしかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(Ⅰコリント15:45-57)


ですから、アダムへの回帰を主張している人々は、二つの点で完全に誤っているのです。一つは、罪のゆえにアダムの命は腐敗し、神はアダムに属するものを永遠の滅びに定められ、旧創造にはもはや何の改善の見込みもなくなったという事実を否定していること。もう一つ目は、神がキリストを通して、私たちにお与え下さっている永遠の命、神の子として神の国を受け継ぐ保証という、はかりしれない絶大な恵みを無視していることです。



⑤ キリストの十字架の死と復活 新創造に至る唯一の道

少し話が横に逸れますが、今日、クリスチャンにはもろもろの罪の贖いとしての十字架は語られますが、新創造に至るためのキリストの十字架の死についてはほとんど知らされていません。この地上での生涯において、新創造とされることの意味を知るためには、私たちはキリストの十字架の死について知ることを避けて通ることはできないにも関わらずです。

十字架で流された子羊の血潮は、私たちのもろもろの罪(複数形)を赦すことができ、それを通して私たちは神との和解を受けます。しかし、十字架の贖いの働きはそこで終わりません。血潮によってもろもろの罪に対する赦しを得ることは、私たちの旧創造、単数形の罪を対処することとは別のことです。旧創造を対処するのは、血潮ではなく、十字架です。

たとえ血潮によって何度、もろもろの罪を赦されたとしても、もろもろの罪を生み出す源となっている「罪と死の原理」(ローマ8:2)が私たちの肉のうちに、この罪のからだの内に働いている限り、私たちは依然として罪に支配され、そこから一歩も抜け出すことができません。それはちょうど悪習慣に支配されている人が、何度、悪い行ないをやめようと決意し、努力を重ねても、目に見えない強力な力によって、再び同じ悪い行ないに引き戻されていくのに似ています。一つ一つの行ないは目に見えない法則性の結果に過ぎず、その法則性が断ち切られない限り、何度でも同じ結果が現われるのです。

私たちの生まれながらの命、アダムの命の中には、ただ挫折あるのみです。肉に従って歩いている者は、肉の原理に支配されるしかなく、決して神に従い得ないのです。肉の内に、朽ちるからだの内に働く罪と死の原理が有効である限り、それは私たちに何度でも罪を犯させ、滅びという結果を刈り取らせるだけなのです。

ですから、私たちがからだの内に働く「罪と死の原理」から解放されるためには、死によって、肉の支配から解放されるという方法しかありません。それを実現するために、キリストは、(彼に罪はありませんでしたが)罪深い肉と同じようなさまで地上へ遣わされ、全てのアダム(肉)を着て十字架へと向かわれ、十字架上で肉において罪を罰せられ、ご自分の死によって罪深い肉を永遠に廃棄されたのです。私たちが信仰によって彼の死を自分の死として受け取るとき、キリストの十字架は私たちの罪深い肉に対して霊的な死を及ぼすのです。

「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:2-4)

「私はキリストとともに十字架につけられました」(ガラテヤ2:20)――信仰によって、この事実を受け取り、彼の刑罰を、私たちは自分自身の刑罰として受け取ります。信仰によって、私たちは彼とともに十字架につけられました、そこで私たちの厭うべき罪深い肉が処罰され、この罪のからだは、彼とともに十字架につけられて死んだのです――。「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」 キリストの死を通してのみ、私たちはもはや「肉に従って歩まず」とも良くなります、そして、彼のよみがえりの命を通してのみ、「御霊に従って歩む」者とされます、アダムの命は挫折しか招きませんが、キリストの命だけが、死に至るまでの神への従順を私たちの内側に成就することができます、聖書は言います。「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ3:3)

キリストとともに十字架で死んだ――この事実に信仰によって立ち続け、彼とともに彼の十字架を通して、肉に死んで、アダムの命に死んで、彼の命によって生かされることにより、私たちは「肉に従って生きる責任」(ローマ8:12)から解放されて、それとは全く異なる新しい原理であり、神の御旨に反することのない「いのちの御霊の原理」(ローマ8:2)によって生かされるのです。

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:13)

主イエスの十字架の死以外のどんなものも、私たちを罪と死の原理から解放できません。主イエスの十字架以外のどんなものも、私たちをアダムの古き命から解放し、キリストのよみがえりの命に至らせることはできません。旧創造は何の役にも立たず、ただキリストにあって、新しく造られた者、新創造だけが、神の御前に価値あるものなのです。第一の人アダムは失敗し、何の価値もなくなりました。第二のアダムであるキリストだけが、今や神の御心を満足させます。第一の人アダムは不完全で、自分の外側にある行ないによって神への従順を表わさなければなりませんでしたが、それに失敗し、神に従順であることができませんでした。しかし、第二の人キリストは死に至るまで従順であることにより、神の御心を完全に満足させる、完全な人となりました。今や、このキリストが内に住まわれ、彼の命によって生かされ、彼の内にとどまることを通して、人はこの栄光の望みであるお方によって、神の御旨を成就することのできる、神の御心にかなう者とされるのです。

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるのです。」(ローマ8:11)

信仰によってキリストの十字架の死と復活の力を知ること、それは一度限りではなく、生涯かけて追い求めるべきものであることをパウロは述べています。(ピリピ3:10-12) 地上にあって、この贖われない肉体の幕屋の中にあって歩んでいる限り、私たちは完全な贖いに達することはできませんが、彼の死と復活をより深く知ることにより、霊・魂・肉体の全ての面に渡って旧創造の滅びの縄目から解放されて、新しい人とされることが許されているのです。これが御子が十字架において肉体を裂かれ、死の刑罰を受けられ、また、死を打ち破ってよみがえられたことにより、私たちのために切り開いて下さった新しい人への道です。この十字架の働きは信仰者が生涯かけて信仰によって追い求めるべきものです。


⑥ アダムの命と神の永遠の命との違い

このように、神の永遠の命はただキリストを通してのみ得られ、キリストのうちにのみあります。それは賜物であり、人が生まれながらに持っているアダムの命とは何の関係もありません。前述の『人とは何者なのでしょう?』の中で、オースチン・スパークスは、キリストの贖いを通して、人が神の永遠の命を受けて新生され、信仰によってキリストとの真の結合に至る道と、人が生まれながらのアダムの命、すなわち、自己の魂の内にある何らかの力に目覚めることによって、神と融合できると教えるグノーシス主義の偽りの教えとの違いを明確に区別して、次のように述べています。

「…永遠のいのちは賜物であることを心に留めなければなりません。<…>新生に関する二つの解釈があります。一つは真実であり、他方は真理をくつがえす美しい嘘です。

この(誤謬である―筆者)後者の解釈によると、霊のいのちは復興の類のものであり、神秘的な力の働きによって引き起こされる内なる活性化です神秘的な力が魂を取り囲み、春の陽ざしが眠れる種子を目覚めさせるように魂を昏睡から目覚めさせ、すでにあるけれども眠っている力を活動させるというのです――私たちがすでに持っているものを高い水準、満潮へと引き上げ、その結果、これまで及ぶことなく活性化していなかった領域にも満ちあふれ、抑圧されていた力と機能をただちに解放し、内側の意識と外側の奉仕に効力を及ぼすというのです。

他方の真実な解釈によると、新生は全く新しい別のいのちを受けることであり、キリストのように神聖な受胎という特別な働きによって上から生まれるために必要です――私たちの人間生活の中にそれまで存在していなかった全く新しい独特なものを賦与されることであり、元々私たちの内には備わっていない、ユニークで奇跡的な誕生による、全く別のいのちであり続けます。」

 
オースチンスパークスがここで「真理を覆す美しい嘘」と述べているものが、まさにグノーシス主義に相当することを私たちは見ます。グノーシス主義の教えは、神の「霊のいのちは復興の類」であると解釈します。つまり、人のアダムの生まれながらの命の中に眠っていた何らかの要素が「復興」されることにより(もしくは「覚醒」されることにより)、人の自己のそれまで活動していなかった領域が活性化されて、人の自己がより高次の水準に引き上げられ、「抑圧されていた力と機能をただちに解放」し、神と融合し、神のようになると主張するのです。グノーシス主義は、生まれながらの人の自己の「神秘的な力の働きによって引き起こされる内なる活性化」こそが、人を神の命に至らせる道であると主張するのです。

マービン・マイヤー氏はこのようなグノーシス主義の立場を説明して次のように言います、「神とはおのれのなかに存在する魂であり、内なる光である」(『原典 ユダの福音書』、p.9)と。

キリストの十字架を介さなくとも人が神に至れるとしている点で、このような考えが決定的に誤っていることはすでに説明しましたが、その他の点でも、グノーシス主義は神の命というものを、人間の生まれながらの魂の内に見いだそうとし、人の命と神の命の性質を混同している点で、完全に誤っているのです。

オースチン・スパークスは新生によって人が受ける神の命についてこう説明します、「新生は全く新しい別のいのちを受けること」であり、「私たちの人間生活の中にそれまで存在していなかった全く新しい独特なものを賦与されること」、つまり、神の命とは「元々私たちの内には備わっていない、ユニークで奇跡的な誕生による、全く別のいのち」であると。

神の永遠の命は賜物であって、人自身が生まれながらに持っている命とは全く性質が異なります。アダムには神の永遠の命はありませんでした。今日、クリスチャンがキリストの贖いによって受ける命は、アダムの命とは全く別の、それまで人の内には存在したことのない、ユニークで、新しく、力強い、永遠に至る命なのです。生まれながらの人の命の中にあるどんな要素からも、神の永遠の命を作り出すことは決してできません。

しかし、グノーシス主義者は、人の生まれながらの命の中に、神の命に至る何らかの要素を見つけ出すことができると主張します(これは錬金術のようなものです)。彼らの言う人の自己の中にある「神的火花」の内容は、それぞれの説によって異なっており、サンダー・シングの主張する「聖なる火花」が、生まれながらの人の良心を指しているかと思えば、解放神学者らは、人の「社会的弱者性」の中に、神性を見いだそうとします。

すでに紹介したように、解放神学者ジェームズ・コーンは、「神の国は、社会の反逆児、見捨てられた人々、弱者のものであって、自称義人のものではない」(『解放神学 虚と実』、p.45)と述べました。このことは彼が「貧しき者たち」や「虐げられた人々」など、生まれながらの人の「社会的弱者性」のうちに「神」に至る要素を見いだそうとしたことを示しています。今日のクリスチャンの間にも同じように、聖書を歪曲して、生まれながらの人の「弱者性」や「被害者性」のうちに「神が宿っておられる」と主張する危険な考え方が広まっています。このような異端的思想が、反カルト運動を支える理念となっていたことはすでに幾度も指摘しました。

聖書によれば、私たちは確かに、貧しい者たち、虐げられた人々、心砕かれて、へりくだった者たちの信仰に、神が特別な憐れみと配慮をもって応えて下さることを知ることができます。たとえば、「あなたはみなしごを助ける方」(詩篇10:14)、「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神」(詩篇68:5)、第146篇他をご参照下さい。しかし、そのことは決して、人間が、信仰によらず、生まれながらの自己に属する何らかの要素――たとえば、貧しさや、弱さや、苦難や、抑圧されていることなど――によって、神に至ることができるということを全く意味しません。

救いはあくまで神の一方的な恵みであり、神の御業であり、永遠の命は賜物として与えられるものであり、人自身の内にある何かによって達成されるものではないのです。ダビデが上記の詩篇で歌ったような貧しい人々は、福音書を見るならば、ただ信仰によって、主イエスを救い主として受け入れることによって、神の御業によって救われたことが分かります。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と言われる主イエスが彼らを救われたのであって、人自身の弱者性が彼らを救ったのでは全くないのです。


⑦ 人の魂の危険性と、自己(魂の命)を否んでキリストのうちにとどまる必要性

オースチン・スパークスは言います、「人の魂は複雑で危険なものであり、けたはずれなことを行うことができます。後で見るように、それは私たちを完全に誤らせることができ、私たちを何度も欺くことができます。」

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ17:9)、この箇所は口語訳ではこうなっています、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。 」 ダビデは書いています、「人の内側のものと心とは、深いものです。」(詩篇64:6)と。人の生まれながらの魂は、偽りに満ちており、甚だしく悪に染まっており、とても深くて危険なものなのです。にも関わらず、グノーシス主義のように、人の生まれながらの魂のうちに「神性」を見いだし、人の生まれながらの自己を触発して、その内に眠っている何らかの力を目覚めさせることによって、人をより高次元な存在へと導こうとするような教えは、魂を肥大化させるという点で、大きな危険性をはらんでいます。そのような教えは人を欺いて神に逆らわせることができるだけでなく、人の魂を肥大化させることによって、その人の内なる秩序を覆し、その人の自己を崩壊に導くことさえできるのです。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)

クリスチャンの内に「キリストが形作られる」(ガラテヤ4:19)過程は、グノーシス主義者が魂を肥大化させる過程とは全く異なります。私たちは、生まれながらの自己を十字架で否み、アダムの命を主とともなる十字架で死に渡すことによって、自分自身の生まれながらの魂や、アダムの命から来る肉の力によって歩むのではなく、信仰によって、キリストのまことの命によって歩む新しい人とされるのです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子の信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

私たちに与えられている神の命は、私たちが神を離れて所有したり、独立して行使したりすることのできる類のものではなく、「依然として神のパースンの中に保たれます。「神は私たちに永遠のいのちを与えて下さいました。このいのちは御子の中にあります」(ヨハネ第一の手紙5章11節)。」

アダムは自分の外にある命の木を選び取ることによって、神への従順を表明しなければなりませんでした。堕落の後、人は律法を守ることによって、神への従順を表明しなければなりませんでした。しかし、人はそのような外的表明に決して成功することはありませんでした。それはただ人がいかに不完全であって、神に従い得ない者であるかを証明したに過ぎません。

御子の十字架を経て、今や、従順は外面的行為ではなく、信仰によって、内なるキリストによって達成されるようになりました。完全さはキリストにのみあります。私たちは外側にあるものに手を伸ばすことによって完全になろうとするのではなく――命の木はキリストご自身です――ユニークなパースンとして私たちの内に住んで下さるキリストを通して、全ての必要の供給を受けるのです。「見えない神のかたち」(コロサイ1:15)である御子との結合にとどまり、彼の与えられた戒めを守り、御子のパースンとの生き生きとした交わりの中に、御子のうちにとどまること、それこそが私たちが御霊によって導かれる神の子供であり続けるために必要なことなのです。「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1:27)

グノーシス主義においては、人の生まれながらの自己のうちに神性が宿っているとしながらも、グノーシス(知恵)の啓示を受けるのには、結局、目に見える導師や導き手といった仲介者の存在が不可欠とされているのに対し、聖書の御言葉は、私たちが信仰によってキリストの死と復活と一つにされ、彼の内にとどまるとき、目に見える仲介者は不要であり(神と人との仲保者はただお一人キリスト・イエス以外にはないのですから(Ⅰテモテ2:5))、私たちは外側の何にも頼らずとも、キリストにあってすべてを得ており、私たちの内に与えられた見えない油塗りである御霊こそが必要な真理を私たちに教えて下さることをはっきりと示しています。

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたをお教えるように、――その教えは真理であって偽りであはりません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。そこで、子どもたちよ。キリストにとどまっていなさい。」(Ⅰヨハネ2:27-28)

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びますわたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:4-5)

「…キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。」(コロサイ2:3-4)

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。」(コロサイ2:9-10)

まことの命の供給者、知恵の供給者は、見えない神のかたちである御子ご自身であり、私たちのアダムの命の内には何もありません。私たちは内なる塗り油にとどまり、内におられるキリストにとどまり、彼の頭首権に服し、彼に従うことにより、神の御心を満足させる神の子供となるのです。私たちの内におられるキリストこそ全ての全てであられ、私たちの栄光の望みなのです。


命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(4)

4.原罪の否定

サンダー・シングがサタンの悪は永久不変ではないと主張することにより、サタンを名誉回復させようとしていることはすでに述べましたが、これと同じ論理を彼は人間にもあてはめ、サタンの罪ばかりか、人間の原罪も否定します。「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」という彼の主張を読めば、彼が人間も生まれながらにして悪であるはずがないと考えていることは明白です。サンダー・シングが人の原罪を認めていないことは、次の文章にはっきりと表われています。

「火打ち石の中に火があるように、人の心の中にも神と交わることへの憧れがある。このような願いは罪と無知という硬い火打石の下に隠れているかもしれないが、神の人と近づきになり、あるいは神の聖霊に触れられるときに、ちょうど火打ち石が鉄で打たれたときのように、即座に火を放つ。<…>

人がどれほど悪く曲がった生き方をしていようとも、人の性質の中には、決して罪に傾かない聖なる火花、聖なる要素が存在する良心と霊的感覚が曇り働かなくなったとしても、この聖なる火花は決して消えることはない。どんな極悪人にも多少の善がみられるのはこのためである。残虐極まりないやり方で殺人を重ねた人間でさえ、貧乏人や虐げられている者たちに援助の手をさしのべるといったことが、よく起こる。

この聖なる火花が不滅のものであれば、どんな罪人にも絶望することはない。それが滅ぼしうるものであるとすれば、罪によって神から離れたときの悲しみ、地獄の苦しみといったものは決して感じられることはないだろう。悲しみや後悔の念を感じるというのは、ほかならぬこの火花が人間の中にあるからである。この感覚がなければ、地獄は地獄足り得ない。人がそのような痛みを感じるのであれば、その苦しみがいずれは人を神の御元へ回復させることになる。」(p.295-297)


これは事実上の原罪の否定です。サンダー・シングはどんなにひどく堕落した罪人の中にも、「決して罪に傾かない聖なる火花」があって、それが必ずや罪人を神の御元に回帰させるはずだと主張します。彼はここでキリストの十字架だけが神と人とを和解させる唯一の道だとは言っていません。彼はむしろ十字架を介さねば生まれながらの人は誰一人として神と和解できないという事実を否定して、人間が自力で神に立ち戻る道があると提唱しているのです。つまり、人の行いがどんなに悪くとも、人間の中に残っている「聖なる火花」が、必ず、彼を神に回帰させると彼は言うのです。

私は以前の記事の中で、サンダー・シングの言う「聖なる火花」が、グノーシス主義における「神的自己」、「本来的自己」に相当することを説明しました。これは神秘主義です。生まれながらの人間が、御子キリストの十字架を信仰によって受け入れなくとも、本来生まれながらにして持っている自己の何らかの性質や力に目覚め、それを利用することによって、自力で神と結合できるとする教えです。サンダー・シングの教えもこの点で神秘主義に属しており、これが正統なキリスト教でありえないことは言うまでもありません。

さて、サンダー・シングの言う「聖なる火花」とは具体的に何を指すのでしょうか。あまりはっきりと書かれていないので、文脈から判断するしかありませんが、彼は人間に生来備わっている良心(のとがめ、すなわち罪悪感)のことを指しているのではないかと思われます。

つまり、サンダー・シングは生まれながらの人の内に宿っている良心こそ、罪人を神に引き戻す「聖なる火花」に当たると主張しているのです。この聖なる不滅の火花がある限り、人は行いの如何に関わらず、本来的には罪のない聖なる性質を内に保存しているのであって、この聖なる要素を利用することによって、人は神に回帰できるはずだと主張しているのです。

しかし、たとえ罪人に多少なりとも良心の呵責が存在したとしても、だからといって、それは人を神に引き戻す力を持ちません。人の堕落とともに、人の良心さえも深く麻痺し、堕落し、神に対して死んだ状態で、サタンと暗闇の軍勢に引き渡されたのです。その良心は、人に罪悪感を感じさせ、苦しめることはできるかも知れませんが、人を神に引き戻す橋渡しにはならないのです。もしも生まれながらの良心によって、人が義とされ、神に受け入れられるのだとすれば、人は自分自身の良心だけによって救われることができ、パウロが次のように叫ぶ必要はなかったでしょう。

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。…私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっていますもし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住むです。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです

すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:18-24)


パウロは律法の上では落ち度のない人でしたので、彼は自分の正しさを誰より誇って良いはずであり、彼の良心が彼を潔白とみなしたとしても不思議ではありませんでした。にも関わらず、そのパウロの良心が彼を罪に定め、彼の内には「善が住んでいない」と叫ばざるを得なかったのです。彼は自分の中には「決して罪に傾かない聖なる火花がある」などとは言いませんでした。彼はどんな人よりも罪から遠ざかっていると胸を張って言えたにも関わらず、彼が自分の中に見出したのは、「聖なる火花」とは正反対の「悪」、すなわち、「私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこに」する、私に悪が宿っているという原理だけだったのです。

聖書は言います、「肉によって生まれた者は肉です。」(ヨハネ3:6)「肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:8)と。人は堕落して罪深い「肉」となりました。すなわち、生まれながらの人は誰一人として、肉に働く罪と死の法則から自力で逃れられる人はいません。どんなに努力しても、肉には一切の改善の余地がないからこそ、主イエスは言われたのです、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」(ヨハネ3:5)と。

人が神に受け入れられる者となるには、信仰によって、主イエス・キリストの十字架の死を自分自身の死として受け入れ、彼の肉の死を自分自身の肉の死として受け取り、肉に働く罪と死の法則に死んで、御霊によって神に対して生きる者とされる以外にはありません。キリストは「肉において罪を処罰」するために「罪深い肉と同じような形で」「罪のために」遣わされたのです。

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:3-4)

私たちの生まれながらの自己、アダムの古き命には何ひとつとして神に受け入れられる聖なる要素はありませんし、また、肉にはいかなる改善の余地もありません。どんなに月日が経っても、どんなに改善の努力を重ねても、肉から生まれるものは肉でしかありません。信仰によって、御子の十字架の死を自分自身の死として受け入れ、古きアダムの命に死に、キリストのよみがえりの命によって新しく生かされなければ、誰一人として神に受け入れられ、神に対して生きることはできないのです。そのために、御子はすべてのアダムを着て十字架に向かわれました。私たちは信仰によって彼の死を自分自身の死として受け取ることを通してのみ、罪と死の法則から解放されます。人の生まれながらのアダムの命、そして生まれながらの自己はサタンの座でありこすれ、そこには何ら神を喜ばせる聖なる要素はないのです。

にも関わらず、サンダー・シングは人の生まれながらの自己の中に「聖なる火花」を見出し、それゆえに御子の十字架の死を信仰によって経ずとも、その「聖なる要素」によって人は自力で神に回帰できるとしているのです。これは恐るべき教えであり、完全に聖書に反しています。これは肉を栄化し、アダムの命を栄化し、生まれながらの人間を神化し、生まれながらの人を神とすることに等しいのです。

次の文章の中で、自らの教えの究極的な目的は何であるか、サンダー・シングはまたとないほどにはっきりと明言しています。

「人は自由な行為者であり、自由の誤用によって自分をも人をも大きく傷つける。だが自分という存在や内なる神の火花を滅ぼしてしまえるほど自分を傷つけられる人はいない。そのような力は、創造主以外、誰ももってはいないのである。また、創造主さえ、滅ぼしたりはなさらないだろう。そのようなことをお望みなら、初めから創造などされなかったはずである。滅ぼすということになれば、神は結果もわきまえずに行動したことになる。このようなことは神にあってはありえないことである。

人は自分の魂を造りえなかったし、それを滅ぼすこともできない。創造主は、どのような生き物もある特殊な目的のためにお造りになった。自分の魂、内在の聖なる火花を滅ぼすことが人間にもできず、神もなさらないというのは、人の創造された目的が、いつの日か必ずや成就するからである迷いに導かれる者は多くとも、いつかは自分が、似せて造られた神に戻るのである。それが人間の究極の目標なのだ。」(p.297)

ここでサンダー・シングは、神の刑罰は存在しないという独自の主張を何度も、何度も、まるで自分に言い聞かせるがごとく念押ししています。彼は罪人に対する神の刑罰の存在を何としても否定せずにいられません。そのことだけを取っても、どれほど彼が内心では神の刑罰を恐れているか分かろうというものですが、しかし、そのことは今は置いておきましょう。

サンダー・シングにとっては、神が昔も今も、ご自分に不従順な者たちを滞りなく罰しておられるという聖書の記述もまるで意味をなさないようです。ノアの時代に、地に満ちている暴虐をご覧になって、神はノアにこう仰せられました、「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。…それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。」(創世記6:13)

また、「…主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められ」、「…ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も…好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされてました(ユダ6-7)

さらに、再臨の日には、「…主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われ」、「…神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復され」るのです。彼らは「主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けることが定められています(Ⅱテサロニケ1:7-9)


「…天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ不敬虔な者どものさばきと滅びの日まで、保たれているのです。」(Ⅱペテロ3:5-7)

しかし、サンダー・シングはこれら全ての記述を無視してでも、罪人に対する神の裁きや、滅びの刑罰はないと主張します。彼は言います、人は断じて滅びにしか値しない罪人などではなく、神は人を絶対に滅ぼしたりなさらないと。人の生まれながらの魂は不滅であり、「内在の聖なる火花」を滅ぼすことは誰にもできないと。もし自ら創造したものを滅ぼすとすれば、それは神が後先考えずに行動したことになり、それでは神の名折れになるではないかとさえ彼は言います。(それでは神が御子の十字架を通して、信じる者たちを滅びから救い出してくださったこの永遠の計画の意味はどうなるのでしょう? 御子の贖いがなくとも人は救われ得ると言うのでしょうか? それこそ、神の御心を最もないがしろにし、傷つけることではありませんか!) 

彼は言います、「というのは、人の創造された目的が、いつの日か必ずや成就するからである」と。

ここで彼は、自分の偽りの教えの究極目的が何であるのかはっきりと明言しています。「いつか自分が、似せて造られた神に戻る。それが人間の究極の目標なのだ」と。

やれやれと私たちは大きな溜息をつくしかありません。原初回帰、全てのグノーシス主義者の主張は必ずここに帰着するのです。「いつか自分が似せて造られた神に戻る」、すなわち、人類が自力で創造された当初の罪のない存在に立ち戻り、神の似姿としての自分を取り戻すと、自力で「神のようになる」と! 人が神になるのだと! アダムの古き命のままで、肉のままで、人は神になれるのだと! これがすべての福音を歪める者たちの究極目標なのです。彼らはどうしてもこの目的を告白せずにいられないようです。

彼らは言います、今は人類は自由意志を乱用したがために自分を傷つけ、互いを傷つけ、無知の中、地を這いずるように生きているかも知れないが、本来、神に似せて造られた者である以上、人の内には誰にも滅ぼすことのできない「聖なる神的火花」が宿っているのだと。そうである以上、いつかきっと人類は自分の力で、似せて造られた神に戻ってみせると。いつか自力で神のようになってみせると。いつかきっと「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」(イザヤ14:13-14) それが人間の究極的目標だと!

このような教えがどこからやって来たものか、それでもまだ分からないという人がおられるでしょうか?

「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:5)


命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(3)

3.善と悪の弁証法と、サタンの受けるべき刑罰の否定

前回では、サンダー・シングが福音を唯物論化して、「地獄」や「天界」を神の定められた絶対的なものとしてとらえず、むしろ、この世や人の心の状態に応じて作り出される相対的なものであるとみなしていることを説明しました。さらに、サンダー・シングはそれにとどまらず、善悪の概念をも同じように相対化し、悪は永久不変のものではなく、神の御前で動かせない絶対的なものではないと主張するのです。

悪はすべて、何かを得ようとの目的をもって行われるものであって、悪を悪として行なう者は誰もいない。どんな悪者も邪な者も、判断力というものがあれば、自分を傷つけたりはしないものだ。悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではないのである。人を殺し他を滅ぼす悪の有毒な作用が、自らをも永遠に滅ぼす。

永久不変とは、永遠の神の属性[善]についていえることである。悪が永遠なる実在の属性である場合に限り、それは永遠たりうる。「悪」がサタンの属性であるというのも間違いであるサタンもまた無垢な状態に造られたのであり、今のような邪悪な状態は自由意志の乱用によって起こったものだからだ。

このように、悪は永遠ではない――始まりあるところ終わりがある――のであるから、悪は終わりを迎えると結論しなければならない。悪は自らを滅ぼすという点で、特にそれがいえるのである。」(p.285)


この文章は決して注意せずに通りすぎてはならないものです。まず、サンダー・シングが善悪の概念を相対化することにより、善悪の概念そのものを骨抜きにしていることに注意を払いましょう。彼は言います、永遠の神の属性である善だけが永久不変なのであり、「悪は永遠ではない」と。つまり、動かせない絶対的な悪というものはこの世に何ひとつ存在せず、どんな悪にも必ず終わりが来るのだと、あるものが今、悪であるように見えたとしても、その悪はやがて必ず悪であることを終えて、善に還元されるときが来るのだと、そう言っているのです。そして、すべての悪は最終的には善に還元され、善だけが永遠に残ると言っているのです。

これは善悪の切り分けそのものの否定です。このような考えに立つと、神の御前で、永遠に動かせない絶対的な悪というものは何ひとつ存在しないことになります。

さらに注目すべきは、サンダー・シングが「悪には用途(目的)がある」と主張している点です。彼は言います、「悪はすべて、何かを得ようとの目的をもって行われるもの」であると。つまり、彼は言うのです、全ての悪は何らかの合理的な目的があって生まれて来るものであり、必要に迫られて生まれて来るもの(=必要悪)だと。そうである限り、その用途、つまり、悪の悪たる役割を終えるならば、悪はもはや悪ではなくなって、善に還元されるのだと。

だからこそ、サンダー・シングは言うのです、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」と。彼は神の創造した全てのものは、本来的に善であるはずであり(=性善説)、それが悪のように見えるのは一時的に何らかの役割を果たすためにそうなっているに過ぎず、役割を終えれば、すべての悪がいずれ善となる、そこですべてのものは本来的に善であって、永久不変の悪などというものは何ひとつとして存在しないと主張しているのです。

このような性善説が聖書に反していることは明らかです。アダムの堕落により、生まれながらの人類は神と断絶し、キリストの十字架の死を経ずには、人は神に受け入れられない存在となりました。聖書は言います、人類は生まれながらにして一人の例外もなく「自分の罪過と罪との中に死んで」おり、「不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない」「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」であると(エペソ2:1-3)。ところが、サンダー・シングは善悪の概念を相対化することにより、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」として、事実上、原罪を否定し、生まれながらの人類をそのままで罪なき者、善なる存在とみなそうとしているのです。

ところで、私は以前に記事の中で、キリスト教を政治的弱者の社会的救済のために利用しようとする解放神学の偽りに触れました。学者たちは、この解放神学が、神学を装っただけの偽りのイデオロギー宗教であると述べています。大石昭夫氏は「解放神学の基本構造」の中で次のように言います、「解放神学の基本的主張を調べれば蚕の中のさなぎのようにイデオロギーが内部にあることを否定することはできない。」(『解放神学 虚と実』、勝田吉太郎他著、荒竹出版、p.32)

これと全く同じことがサンダー・シングの教え、そして、全てのグノーシス主義に影響を受けた擬似キリスト教にもあてはまるのです。サンダー・シングの教えを調べていくと、これがキリスト教に寄生しただけのイデオロギーであることが分かります。本来、キリスト教では決してありえない異質な思想が、キリスト教を宿主としてその内側に寄生し、巣食っていることが分かるのです。

たとえば、善悪に関するサンダー・シングの主張がマルクス主義者のものとほぼ完全に一致していることにご注意下さい。マルクス主義者は言います、ある時代に悪(不合理)とされた概念でも、時代が交替し、その用途を果たし終えれば、悪(不合理)であることを終えて、むしろ善(合理的なもの)に転換すると。そして、歴史の中で、合理的なものも全て時とともに不合理となり、不合理なものも合理的となるというのです。

「…さきには現実的であったものが、すべて発展の過程のなかで非現実的になり、その必然性、その存在権、その合理性をうしなっていく。死んでいく現実的なものに代わって、新しい、生活力のある現実性が現れてくる、――古いものが反抗せずに死んでいくほど賢明な場合には平和的に、古いものがこの必然性にさからう場合には暴力的に<…>。すなわち、人類の歴史の領域で現実的であるものは、すべて時とともに不合理になるのであり、<…>人間の頭脳のなかで合理的であるものは、どんなに現存する見せかけだけの現実性と矛盾していようと、すべて現実的になるようにさだめられているのである。」(『フォイエルバッハ論』、p.11より)

このような主張は、善悪というものが本来、神の御前に絶対に動かせないものであることを否定し、善悪の区別を消し去ってうやむやにしてしまいます。

「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」というサンダー・シングの考え方に立つならば、創造の初めから、神の善と全く相容れないものは何ひとつこの地上に存在せず、今、仮に神と人との断絶があるとしても、それも一時的状態に過ぎないので、すべての被造物が究極的には神に回帰し、神の善の中にいずれ吸収されていくということになってしまいます。つまり、このような主張に立てば、御子の十字架の死によらなければ絶対に解消され得ない神と人との断絶というものは存在せず、神の御前に永久に罪定めされる悪は存在しないことになります。

覚えていらっしゃる方もおられると思いますが、以前、私はグノーシス主義文献の『ユダの福音書』においては、イスカリオテのユダの裏切りが「善」とみなされて正当化されていることに触れました。そこでは、ユダこそが主イエスの最高の弟子であったとみなされています。グノーシス主義者がそう考える根拠として挙げているのは、ユダの裏切りが、神のご計画の成就のために必要不可欠な一部をなしていること、その点で彼の行為は必要悪として役目を果たしたということです。つまり、サンダー・シングと同じように、グノーシス主義者も、「悪はすべて、何かを得ようとの目的をもって行なわれる」と考え、その文脈で、ユダの悪は、神のご計画の成就(グノーシス主義者は神のご計画というものもきわめて独自に歪めて解釈するわけですが)を助けるという特別な「目的」を果たしたのだから、ユダの行為はもはや悪ではありえず、最高の「善」と言って差し支えないと主張するわけです。

(「…不条理な物質世界から退場できるのだから、死を恐れたり怖がったりすることはないのだ。死は悲しいものではない。イエスが肉体から解放され、天上の家に戻る手段である。そしてユダは、敬愛するイエスを裏切ることで、彼が肉体を捨て去り、内なる神聖な本質を自由にすることを手助けしている。」 『原典 ユダの福音書』、日経ナショナルジオグラフィック社、p.8、マービン・マイヤー氏による解説)

このような詭弁は、目的が手段を正当化するという恐ろしい考えを生みます。このような考えに立つと、地上における全ての善悪の概念はうやむやにされ、何らかの崇高な目的さえあれば、それを達成する手段として人はどのような悪事を犯しても構わないという結論になります。むしろ、全ての悪は善に通じるので、合理的な目的のためならば人類はためらいなく悪事を犯せばよいという話になるのです。

作家ドストエフスキーは『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフという人物に、「目的は手段を正当化する」というこの思想を体現させたわけですが、このような思想は、すべてのテロリズムに共通する思想であり、どんな倫理・道徳をも骨抜きにしてしまう非常に恐ろしい考えです。たとえば、共産主義建設のため、人類のユートピア建設のためという口実で、歴史を通じてどれほど血塗られた方法が用いられてきたことでしょうか。そのようなものを正当化するのがこの思想なのです。人類の幸福社会の建設という「合理的な目的」を口実にすれば、どんな悪事を犯しても、それは「善」として正当化され、容認されうるというのがこの思想なのです。

私たちが人間の弱さを弁護するために、悪を悪とせず、罪を罪として見なくなる時、神の御前に善悪が動かせない絶対的なものであることを認めず、むしろ、人間に都合の良い観点から善悪を判断しようとして、善悪の線引きを巧妙にずらしていくとき、すなわち、聖書に沿って、神がご覧になるように善悪を判断することをやめてしまうとき、それは一種の「悪の解禁」のような状態を招くのです。そこでは、最も恐ろしい悪でさえ、最も麗しい善のように咲き誇り、古くからあった善良なものが、かえって時代遅れな無用の長物として批判され、退けられるのです。目的の見せかけだけの崇高さがあらゆる悪事の忌まわしさを覆い隠し、どんなに多くの人間が苦しみに遭っても、その犠牲はかえりみられません。私たちは断じて、このような価値観の到来を許してはいけないのです。

さて、話を戻せば、サンダー・シングは、先に引用した文章の中で、サタンの悪でさえ永遠ではないと、さらに恐るべきことを述べています。もう一度引用しましょう、「永久不変とは、永遠の神の属性[善]についていえることである。悪が永遠なる実在の属性である場合に限り、それは永遠たりうる。「悪」がサタンの属性であるというのも間違いであるサタンもまた無垢な状態に造られたのであり、今のような邪悪な状態は自由意志の乱用によって起こったものだからだ。」

これも決して注意せずに通りすぎてはならない文章です、彼は「悪はサタンの永久不変の属性ではない」と述べているのです。彼は言います、サタンも本来は無垢な存在に造られたのであり、彼はただ自由意志を乱用したという点で間違っただけであって、全ての「悪は永遠ではない」以上、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではな」く、従って、神に創造されたものとして、サタンの「悪」でさえ永久不変の属性ではあり得ないのだと。

サンダー・シングはここでクリスチャンをはばかってか、あえて言葉を濁して最後まで言い切っていませんが、このことは結局、サタンの悪にもいずれ終わりが来て、サタンは善なる存在に転換すると言っているのと同じなのです。

サンダー・シングはサタンの「悪」を、「行動面」にのみ絞り込むことによって、サタンの「行動面」の悪と、彼の「性質」とを分離しようとします。すなわち、サタンは「自由意志の乱用」という行いによって、「今のような邪悪な状態(注意して下さい、彼はここで悪を「状態」とみなしているのです)に陥ったが、それによって、本来は「無垢な状態に造られた」はずのサタンの性質そのものまでが変わってしまったわけではないと言うのです。なぜなら――彼の主張からは必然的にこのような結論が出ざるを得ないのですが――、サタンが邪悪であるように見えるのは、彼の悪が悪たる役目を終えるまでの間(サタンが神のご計画を助けて一定の目的を成就させるまでの間)の一時的な状態に過ぎず、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」以上、必ず、サタンの「悪は終わりを迎える」時が来ると。その後、サタンは神に創造された当初からの生得の性質であった善に戻るのだと。もっと極言すれば、サンダー・シングはサタンの性質は今も造られた当初と変わらず、無垢なままであると言っているのです(サタンが邪悪であるかのように見えるのは一時的な状態に過ぎないのであって、悪はサタンの永久不変の属性ではないというのですから)。

こんな詭弁にごまかされることなく、きちんと聖書に戻りましょう。聖書はサタンの最終的な末路についてどう告げているでしょうか。「…彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示20:10)

このように、聖書はサタンには一切の名誉回復の余地が残されていないことをはっきりと告げています。確かにサタンは造られた当初は無垢な存在であったのです。それどころか、最も美しい完全な被造物でありさえしたのです。エゼキエル書は言います、「神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。…あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。」(エゼキエル28:12,15)。 

しかし、サタンは自分の美と栄光に心高ぶり、「神のようになろう」として神に反逆し、失敗して堕落したのです。「あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。…あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。」(エゼキエル28:16,17) 「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」(イザヤ14:12-15)

そうです、サタンには「よみに落とされ、穴の底に落とされる」ことが確定しているのです。サタンは人類を堕落させた罪のために神によって呪われ(創世記3:14)「女の子孫」である御子キリストが十字架で彼の頭を打ち砕きました。キリストはご自分の「死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださ」ったのです(ヘブル2:14-15)。そして、「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ2:15)

サタンは永久に打ち破られました! 彼には永遠の敗北が決定しています! 同じように堕落した被造物であっても、悔い改めの機会が残されている人間とは異なり、サタンにはいかなる悔い改めの余地も残されていません。サタンには神の善に立ち帰る道が永久に閉ざされているのです。そればかりか、燃える火と硫黄の池での永遠の刑罰が確定しているのです。ですから、サタンには永遠の罪定めと滅びがあるのみで、名誉回復など永久にあるはずがないことは明らかです。

にも関わらず、聖書が永遠の刑罰を宣告しているサタンでさえいずれ善なる存在に立ち戻るかのように語るサンダー・シングの教えが、どんなに危険なものであるかは、これでお分かりいただけると思います。サンダー・シングに限らず、全てのグノーシス主義の教えに共通することですが、どんなに神の御名を利用して、敬虔なキリスト教のように装っていたとしても、神の御前での善悪の絶対性を否定し、サタンの悪を相対化し、サタンでさえ神に立ち帰る可能性があるかのように見せかけ、サタンに定められている永遠の刑罰を否定するような教えは、全てまことの神から来た思想でなく、むしろサタンに由来する思想であることが明らかなのです。


命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(2)

2.唯物論化された擬似キリスト教

サンダー・シングが神の刑罰の存在を否定していることはすでに見ました。すると一つの疑問が浮かび上がります。もしも神が人を地獄に落とされることはないと彼が考えているのだとすれば、それでは、サンーダ・シングの言う天界と地獄とは、一体、どこからやって来たものなのでしょうか?

自らを地獄に突き落とすのは罪人自身の誤った生活である。生が終わり天界と地獄が迫ってくるはるか以前に、善悪の性質に応じて各人の心の中で自分自身の天界か地獄が形作られている。それゆえ、あの永遠の苦しみから救われたいと切に望む者は、心底悔いて心をわたしに明け渡すがよい。わが現存と聖霊の働きによって、永遠に神の御国の子供となるためである。」(p.210)

これはサンダー・シングの自己矛盾です。一方では、彼は地獄にさえも救いはあると説きながら、他方では、地獄には「永遠の苦しみ」が存在すると述べているのです。しかし、異端につきもののこの種の支離滅裂は今は気にせず通りすぎ、もっと重要な部分に注目しましょう。

ここで見落としてはならないのは、サンダー・シングが「天界」「地獄」もともに人の心の中で形作られるもの、つまり、天国も地獄も神の創造されたものではなくて、むしろ、人の心が生み出す「状態」であるとしていることです。

「天界と地獄は、霊の領域にある相反する二つの状態である。人間の心の中にその起源はあり、その基礎が築かれるのもこの世界である。」(p.247)

これは驚くべき発言です。サンダー・シングは天界も地獄も、「人間の心の中にその起源はあ」ると述べているのです。天界とは、彼の呼び名であって、クリスチャンにとっての御国、神の国に相当するのですが、彼は神の国も地獄も、神の創造したものではなく、被造物である人自身から出て来るもの、人の心の状態や性質が決定するもの、ひいては、この世でその基礎が築かれると言っているのです。

お分かりになりますか? これは唯物論の始まりと言って差し支えないのです。論理が飛躍していると思わないで下さい。これは神の国と地獄に対する唯物的解釈と言えるのです。なぜならば、ここでは目に見えるものと目に見えないものの順序がさかさまになっているからです。サンダー・シングは、神の国と地獄という目に見えないものは、目に見えない神ご自身に起源がある絶対的なものではなく、目に見えるもの(この世、被造物である人間)によって作り出される相対的な状態に過ぎないと言っているのです。「その基礎が築かれるのもこの世界」という彼の言葉は、神の国と地獄はこの世によってその基礎が規定されると言っているに等しいのです。

このような考え方を極みまで推し進めると、「下部構造は上部構造を規定する」というマルクス主義の主張が出て来ます。少なくとも、ここには根底に同じ(さかさまの)発想があることはお分かりいただけるでしょう。

しかし、聖書は何と言っているでしょうか、「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3) 

聖書の述べている正しい順序は、目に見えないものこそが全ての造られたものの起源であるということです。この目に見えないものとは、神の言葉であられる御子キリストです。聖書は言います、全ての目に見えるもの目に見えないものは御子によって造られたと、御子によって造られなかったものは何ひとつとしてないと。

「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです万物は、御子によって造られ、御子のために作られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:15-17)


「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:1-3)

にも関わらず、サンダー・シングはこの秩序を逆にひっくり返してしまうのです。彼は天界と地獄が見えない御子によって造られたとは認めません。むしろ、目に見えるこの世と目に見える人間の心の状態が目に見えない天界と地獄を規定すると言うのです。

このさかさまになった秩序、目に見えるもの(この世)こそが全ての造られたものの起源であるという主張こそ、唯物論なのです。しかし、これはサタンの秩序です。

以前にも書きましたが、まことの神の働きは、常に見えない神の霊から出発して、霊→魂→肉体の順序を取ります。しかし、サタンの働きは、常に外側からで、肉体(この世)→魂→霊です。神は目に見えない霊の領域から全ての物事を始められますが、サタンはその秩序を否定してさかさまにし、すべては目に見えるこの世から出発し、目に見えるこの世に帰着して終わると主張するのです。

神の事実は、見えないものが見えるもの・見えないもの含めて、全ての造られたものを規定するというものですが、サタンの主張は、見えるものが、見えるものも見えないものも含めて全ての造られたものを規定するというものなのです。サタンは見えない神の言葉であられる御子による支配がすべてを超越することを決して認めません。彼にあっては、自らが統治する暗やみの世が最高の権威でなくてはならず、従って、この世こそ全ての起源であり、アルファでありオメガであり、目に見えるものが全ての造られたものの根源であると主張するのです。サタンには、万物が見えない御子によって生まれ、万物が御子の霊的統治に服さなければならず、御子こそがこの世においても来るべき世においても永遠に最高の権威であることが絶対に認められないのです。

このことを考慮すれば、天界と地獄の基礎がこの世にあるとするサンダー・シングの主張がどのように聖書に反しているのかが分かるだけでなく、
「下部構造は上部構造を規定する」という唯物論者の主張が、まさにサタンによって息吹かれた思想であることも分かるのです。


サンダー・シングの教えをあと一歩、突き詰めるならば、無神論となります。唯物論者はサンダー・シングよりもさらに先を進んで、天界や地獄だけでなく、神そのものも、しょせん人間の心が作り出した心の状態に過ぎないと言い切っています。

参考までに、唯物論者が神をどう定義しているかを挙げておきます。

「自然の諸力の擬人化によって最初の神がみが生じた。この神がみは、諸宗教がさらに発達していくうちに、ますます世界外的な姿をとるようになった。ついには、[人間の]精神が発達していくにつれて自然に生じてくる抽象作用の過程<…>をつうじて、多数の<…>神がみから、一神教的諸宗教の唯一神という観念が人間の頭のなかに生じたのである。」(『フォイエルバッハ論』、エンゲルス著、大月書店、p.28)

この主張が誇らしげに述べようとしているのは、神が人間を創造したのではなく、人間こそが神を創造したのだ、ということです。この主張は創造主を否定しています。神はこの世界を造られた、万物を超越して支配する唯一の見えないパースンなのではなく、人間の心の状態が作り出した産物に過ぎない、と言っているのです。従って、これによれば、人間を離れて神は存在せず、神は人間の付属物、もしくは人間によって作り出された被造物、神は人間によって規定されるもの、ということになります。

これは何という冒涜的な考えでしょうか。すべてがさかさまです。唯物論は、見えるものこそ真のリアリティだと言うのです。見えないものが見えるものを規定するのではなく、見えるものが見えないものを規定し、神ですら、物質世界としてのこの世と目に見える人間が造りだした産物に過ぎないと言うのです。

しかし、サンダー・シングの主張も唯物論者の主張からそう遠く離れていません。サンダー・シングは神そのものまでが人間の想像の産物であるとまでは言っていませんが、しかしながら、彼の主張はその一歩手前まで来ています。

もう一度、サンダー・シングの言う「神」とは何かを振り返ってみましょう。それは、聖書のリアリティから遠くかけ離れた「神」です。それは人間に都合の良い神、人間を決して罰したり、滅ぼしたりしない神、決して人間にとって脅威にならない神です。この「神」は何によって規定されているのでしょうか? 人間の思いによってです。目に見える人間の心の欲望によってです。確かに、サンダー・シングの「神」は、人間の心によって規定されたものだと言えるでしょう。彼の教えにおいては、天界や地獄だけでなく、神までも人間の心によって規定されているのです。目に見える人間の心の欲望が見えない神を定義しているのです!

(人間自らが神を定義しようとすることの愚かさを認め、そのようなものは人の心の作り出した幻、偽りに過ぎないと言い切っていた点だけに注目するならば、唯物論者はサンダー・シングに比べればまだ幾分か正直だったと言えるかも知れません。)

どんなに「神」や「キリスト」、「神の国」などのさまざまな用語を使っていたとしても、人が聖書の御言葉から逸れて、神を自分の思いによって定義し、推しはかろうとすればするほど、そこからはまことの神のリアリティが失われていきます。そこにあるのはただ人間の心によって作り出された幻、形骸化した概念だけです。そんなものは人間の欲望に過ぎず、神ではありません。”I AM”と言われるまことの神のリアリティはそこにはありません。

被造物に過ぎない人間が自分勝手な思いによって神を定義してはならないのです。それは神に対する驕りに満ちた挑戦となります。それは人が神に服するのではなく、むしろ、神を人間に服させようとすることですから、神に対する反逆です。人が神を自分に都合良くおしはかろうとして御言葉を曲げると、その主張から、ただ”I AM”と言われるまことのお方のリアリティが失われるだけでなく、結局、そのような主張の最後に行き着く先は、まことの創造主なる唯一の神の否定であり、「神はない」という結論の他にないのです。

「悪者はおのれの心の欲望を誇り、
 貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。
 悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。
 その思いは『神はいない。』の一言に尽きる。」(詩篇10:3-4)

「主を恐れることは知恵の初め、
 聖なる方を知ることは悟りである。
 わたしによって、あなたの日は多くなり、
 あなたのいのちの年は増すからだ。

 もし、あなたが知恵を得れば、
 その知恵はあなたのものだ。
 もし、あなたがこれをあざけるなら、
 あなただけが、その責任を負うことになる。」(箴言9:10-12)


命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(1)

「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」(Ⅰテモテ4:1)

「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。」(Ⅰヨハネ4:1)

サンダー・シングの書物には、多くの奇蹟の物語や、彼が経験したとする天界でのエクスタシー、亡くなった聖人や死者との交流、道徳的な教訓話など、非凡な話が満ちています。これらの内容は人の心を惹きつける、わくわくするような偉大な物語のように聞こえますが、きちんと聖書に照らし合わせずに鵜呑みにすることはあまりにも危険です。

たとえば、死者との交流というテーマ、一体、これは聖書に合致しているのでしょうか。私たちは聖書のどこを調べても、信仰の偉人たちが、信仰を深めるために積極的に死者の霊と親しく交わったという記述を見つけることができません。むしろ、死者の霊と交流できるとされる巫女や、占い師、霊媒などとの関わりは、全て聖書の神の忌み嫌われるものなのです。イザヤ書にはこうあります、「人々があなたがたに、『霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。』と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのかおしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。」(イザヤ8:19-20)

また、これら非凡な奇跡の物語の記述がサンダー・シングの個人的な名声を飛躍的に高めるのに役立っている点に注目すれば、この書物が書かれた目的は、神ではなく人間サンダー・シングに栄光を帰すことにあるのだろうということはすぐに予想がつきます。

しかし、今はそのような非凡な体験談の詳細にこだわらず、まずは、サンダー・シングの教えの全体的な構造を把握することにより、彼の教えがどのような点で異端であり、どういう危険性を持っているのかを明らかにしましょう。以下、彼の書物の引用は全て『聖なる導き インド永遠の書』、サンダー・シング著、林 陽訳、徳間書店から行ないます。


1.「神の愛」の誤用と、「神の裁き」の否定

「神または神の民が、罪人たちを天界から締め出し地獄に突き落とすなどと思ってはならない。愛である神は誰一人地獄に落とし給わない永遠にそうである。」(p.210)

まず、この短い文章が、サンダー・シングの教えが決定的に聖書に反する異端であることを明らかにしています。神は愛であるから、誰一人地獄に落とすことはないと、彼は罪人に対する神の刑罰の存在を真っ向から否定しています。これがサンダー・シングの主張の核心であり、この神の裁きの否定という考え方が、彼の全ての主張に影響を落とし、真理と虚偽との切り分けを否定する根拠となっています。

注意すべきことは、このような主張はサンダー・シングに限らず、東洋的に(グノーシス主義的に)歪められた愛の福音(砂糖まぶしの甘えの福音)のほとんどに全て共通していることです。そこでは、「神の愛」を人間に都合良く解釈することによって、生まれながらの全ての人間(=罪人)が避けて通ることのできない神の刑罰としての十字架が否定されているのです。

ところが、この歪められた福音が、今日のキリスト教界において主流となりつつあることについては、今まで多くの人々が警告を発してきました(反カルト運動がその異端化された福音の強い影響を受けて生まれて来たものであることも、すでに述べました。)それは、「神の愛」を人間に都合良く解釈しようとした結果、聖書の御言葉を曲げてでも、人間に脅威にならない福音を生み出そうとし、生まれながらの罪人が決して十字架の死を通らなくとも、御国に到達できるかのように教えるのです。

さて、この書物の冒頭の解説ではこのようにまで極言されています。

「『神は誰をも罰したりはなさらない誰をも地獄に落とされたりはなさらないそのようなことは、キリストが教えられ、十字架上での犠牲によって表された神の愛とは相容れぬものである。罪人自身が自らを裁くのである。欲望の奴隷、この世の奴隷が自らを滅びに定めるのである』 

しかし、地獄の中にさえ神は救いの道を開かれ、たとえ何百万年かかろうと、いつか地獄にいるほとんどの者がキリストの元に引き上げられるよう、聖徒たちを通して導きが与えられている、とも述べている。」(p.21)

なんと神の裁きが否定されるだけでなく、地獄にさえも救いはあると説かれているのです。このような主張が聖書の定める「永遠の刑罰」(マタイ25:46)、「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火」(マタイ26:41)、「とこしえのさばき」(ヘブル6:2)、「永遠の滅びの刑罰」(Ⅱテサロニケ1:9)、「永遠の火の刑罰」(ユダ7)、「第二の死」(黙示21:8)などの、不従順な者たちへの神の永遠の刑罰に関する全ての記述に違反していることは一目瞭然です。

サンダー・シングの教えの異端性については、これですでにお分かりいただけたと思います。あえて、これ以上、論証する必要はないと言えます。この教えの中にどんなに「愛」や「憐み」といった人間にとって心地よい言葉が溢れていたとしても、この教えが聖書の真理から離れている以上、完全な偽りであり、それに巻き込まれて影響を受けることは大変危険であることはお分かりいただけるでしょう。

しかし、もう少し先へ進みましょう。このような教えを信じると、クリスチャンはどうなってしまうのでしょうか。まず、神の刑罰は存在しないと考えるならば、それは、何よりも、主イエスの十字架の死を、生まれながらの人間すべてに対する神の刑罰ではなかったとみなすことになります。御子の犠牲は尊いものであったかも知れませんが、彼が死ななければならなかった必然性はないということになります(ある意味で、十字架は、罪人に寄り添うための神の愛と善意のボランティアに過ぎなかったということになります)。

そうなると、罪人はどうなるのでしょうか? ただ自分たちのために「死んでくださった」主イエスの深い愛に感動して存分に涙を流し、そして、神がそんなにも愛して下さった自分自身にひたすら満悦して生きていけば良いという結論になります。そこでは、生まれながらの人間はみな十字架の刑罰を受けるべき罪人であるという事実は忘れられ、人が信仰によって御子の死に自分の死を同形化する必要もなくなります。そして、十字架において人が生まれながらの自己を否む必要もないことになります。

そのような教えは、人の生まれながらの自己に十字架の死を回避させて、むしろ、「神はありのままのあなたのために死んで下さるほどまでに、あなたを愛して下さっています、ありのままのあなたが尊いのです、あなたはそのままで生きていけば良いのです」などと教えることにより、生まれながらの自己を名誉回復させてしまいます。そうしてクリスチャンに生まれながらの自己の罪深さ、腐敗を忘れさせるのです。その教えは、人が本来、神の御前でどれほど忌むべき罪深い存在であり、地獄にしか値しない存在であるかという事実を忘れさせるのです。

ですから、それを信じてしまうと、クリスチャンの内側で、生まれながらの自己を抑圧する枷が全て最終的に取り払われてしまいます。なぜなら、その人は自分の生まれながらの自己を警戒せず、むしろ、ありのままで愛し、信頼するようになるため、生まれながらの自己を抑圧する、どのような支配にも服さなくなり、自己が肥大化し、高慢になってしまうのです。聖書に反する自己信頼が、その人の自己を過剰なまでに肥大化させ、頑なにするのだと言えましょう。

また、この教えは、神に対する大いなる侮りとあざけりの心を起こさせます。もし神の裁きが存在しないのだとすれば、どうして罪人が神の裁きを恐れ、罪を離れて身を清く保つ必要性があるでしょう? もしも神の裁きがないのだとすれば、なぜ人は神を恐れ、目を覚まして身を慎んで歩まなければならないのでしょう? もしも神が誰も罰せず、誰をも地獄に落とされないのだとすれば、なぜ人は主イエス・キリストを救い主として受け入れる必要があるのでしょう?

もしもサンダー・シングの言うように、神は愛だから、誰をも罰せず、誰をも永遠の滅びの刑罰に至らしめることがないのだとすれば、当然、人はキリストを信じなくても滅びに至ることはないという結論になります。仏教を信じても、イスラム教を信じても、神の刑罰が存在しないならば、結果は同じです。ですから、このような教えは、そもそも人がキリストを信じなければ救われないという聖書の福音の大前提をすら否定してしまいます。

もしも、どのように生きても、神は誰をも罰しないというなら、人々は大いにこの世を楽しみ、こう言えば良いのです、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」(Ⅰコリント15:32)、「やって来い。ぶどう酒を持ってくるから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」(イザヤ56:12)

ですから、このような教えは、ただ神の言葉を曲げているだけでなく、神を恐れること、そして、神に服することを完全に忘れさせてしまうのです。この教えを信じた人は、もはや神を恐れの対象としては見なくなります。そして、自分に都合の良い、決して人を裁いたり、罰したりすることのない、人類にとって少しも脅威にならない「愛に満ちた神」を自分勝手に思い描き、それぞれ自分の好みに合わせて想像した「神」、もっと言うならば、自分の欲望によって作り出された幻を「神」として拝むということになるのです。それは人間にとっては親切で、親しみやすい「神」のように映るかも知れませんが、結局、人が自分自身(の欲望)を拝んでいるわけですから、これは大変恐ろしいことです。その礼拝の対象は聖書の真実な神ではなく、人の心が作り出した偶像であり、偽りであり、幻なのです。それは神の概念のすりかえなのです。

だからこそ、十字架を骨抜きにしてしまうこのような異端の教えについて、御言葉は次のように述べているのです。

「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18-19)


命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(序)

サンダー・シングの教えがあたかもキリスト教の教えのように装って登場して来たとき、私はクリスチャンの交わりの変遷を見ながら、この教えが交わりの中に登場して来たのは決して偶然ではないと思いました。しかし、その教えが偽りであることは分かったものの、これをどのように分析するのかはかなり難しい課題であると思いました。

サンダー・シングに言及するには一つの難点がありました。それは、彼の書物が論理的に書かれていないということです。この書物は、西欧的な論理に基づいておらず、むしろ、東洋的な思考で、物語風に書かれており、子供向けのおとぎ話や寓話のように、深く物事を考えずに、ただ直感的に内容を受け入れるよう促しています。この書物は、内容について深く吟味する事を読者に求めないだけに、多くの人にとって入りやすく、しかもとても良さそうに聞こえるため感化力があり、うっかり引用できません。信仰暦の長いクリスチャンであっても、その内容をそのまま鵜呑みにしてしまいかねない危険性があります。

しかし、この教えに影響を受けた人々と向き合っているうちに、偽りの影響は予想を超えて深く、無視できないものであるため、立ち向かわなければならないことが分かりました。警告後、偽りに気づき、主イエスの血潮によりこの教えと手を切った人もいましたが、かえって教えに深く影響を受けたクリスチャンは、私が観察しているうちに、人格に以前にはなかった変化が見られるようになりました。彼らはこの教えが危険であるから公に撤回した方が良いとの警告の言葉を聞くと、強い反発を示し、彼らにそのような警告を行った私の方が正気ではないと主張し、この偽りの教えを頑なに擁護するようになったのです。いずれも、キリスト教界と深いかかわりのあるクリスチャンでした。この教えがその人の内側でどれほど深く根を張ってしまっているかを感じさせる出来事でした。

今でもこのような分析記事を書こうとすると、大々的なネガティヴ・キャンペーンを行って、決して事実を公表させまいと圧力を加える人がいます。このような人の憎しみの激しさ、敵意の深さ、陰湿さ、執拗さを見る時、私はその人の人格が以前とはすっかり変わってしまったことを思わずにいられず、また、反カルト運動の末路を思い出さずにはいられないのです。

偽りの教えの影響はいつも、クリスチャンの人格を蝕み、変わり果てた姿にしてしまいます。病気が内側から人を蝕むのと同じように、異端というものは、それを信じる人を内側から破壊するのです。それが主に結び合わされた者が、主を捨て、主の霊を離れ、真理を否定し、主以外のものを愛したことの苦い結果なのですが、偽りの教えは、その人がもともと持っていた生まれながらの愛すべき人格の特徴さえも食いつくし、その人の全人格を憎しみと敵意の炎で燃やしてしまいます。そして、神(真理)と聖徒らに対する激しい敵対に駆り立ててしまうのです。偽りに気づいて途中で立ち戻ることができた人は幸いですが、真理に敵対するようになった人々には、主が必ず御手を置かれます。

「…私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18-19)


偽りの教えを言い広めることや、異端を擁護して正統な教えであるかのように見せかけたり、そのために真理に立つ人を罪に定めることが、どれほど大きな罪に当たるかは、聖書を見れば明らかです。黙示録に登場する預言者イゼベルとは、あたかも教師のごとく振る舞いながら、偽りの教えをクリスチャンに信じ込ませようとするクリスチャンを指しています(必ずしも姉妹ではなく兄弟の可能性もあります)。

異端とは霊的姦淫のことです。クリスチャンが真理を捨てて偽りを信じ、神の霊以外の霊と交わることは、神に対する背信行為です。淫婦バビロンも、イゼベルと同じように、霊的姦淫のゆえに裁きに定められており、バビロンの受ける災害に巻き込まれないように、そこから離れるようにとの警告がなされています。これは異端の教えには決して関わってはならないとの警告ですが、同時に、どんなに警告しても異端を離れ去ろうとしない人からは、ともに災害に巻き込まれないために離れなければならないことも示しています。

クリスチャンには、人間の面目を保つことよりも、はるかに重要なことがあります、それが神の戒めに聞き従うこと、御言葉を決して曲げないということです。御言葉は、足すことも引くこともできません。御言葉を書き換え、骨抜きにする偽りの教えを擁護することは、神の御怒りの結果としての災いをその人にもたらすと聖書に書いてあります。神の言葉を曲げる罪を決して軽く見てはいけないことが分かります。

「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられるまた、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる

これらのことをあかしする方がこういわれる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙示22:18-20)


偽りの教えを拒否し、真理にとどまるかどうかは、私たちの命がかかった問題です。異端の影響とは、私たちの信仰を薄れさせる程度のものでなく、私たちを滅びに引き渡すとはっきり御言葉が述べているのです。これは永遠の命、御国での権利に関わる問題です。ですから、人前でどのように評価されるかを気にするよりも、神の言葉を曲げず、真理のうちにとどまり、神の信頼を損なわないことの方がはるかに重要であることが理解できます。偽りの教えを宣べ伝える者、その教えを離れない者がどのような報いを受けるかは、聖書に記されています。どうしてクリスチャンがそのような末路を辿ってよい理由があるでしょうか。

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いていますそして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです

また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません」(Ⅱペテロ2:1-3)


それにしても、異端というものはなぜ人の人格を変質させ、人を滅び(死)に至らせるほどの恐ろしい影響力を発揮するのでしょうか? それは異端の教えの全ての構造が、真理と虚偽との切り分けを曖昧にすることにより、救いはキリストの十字架にしかないという事実を否定するからです。

箴言の冒頭の章にはこうあります。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1:7) これは逆に言うと、人が御霊を捨てて、主を恐れることをやめ、真理にとどまることをやめたとき、その人は神を侮ることによって、「知識」を失うことを意味しています。言い換えれば、真理を離れれば、クリスチャンの思考は偽りの影響を受けて支離滅裂となり、矛盾のない首尾一貫した健全な思考が失われます。真理に逆らっては誰も正常な意識を保ち得ないのです。

異端は、あたかも十字架を語っているようでありながら、そこに巧妙に何かを付け加えることにより、十字架を介さなくても、人が生まれながらの姿のままで救われるかのように教えます。結論から言えば、多くの異端の教えは、罪人に対する神の裁きの存在を公然と否定し、人間の原罪を否定しています。それは生まれながらの人間を十字架の死にのみ値する罪ある存在としてとらえず、むしろ、十字架を回避して、生まれながらの人間を神の高みにまで至らせようとするのです。

さて、以下では、サンダー・シングの教えの何が聖書に反しているのか、誰にでも分かるよう詳しく説明していきます。