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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

異端思想と死後の世界の密接な関係 死後の世界へようこそ~カルバリーチャペル~

キリスト教に偽装して入り込んでいるグノーシス主義のことを調べ始めたときに、私がすぐに気づいたことは、この種類の異端の思想は、なぜか決まって死後の世界に特別な愛着を示す、ということでした。

「悟りの道を離れる人は、死人の集会の中におる。」(箴言21:16)

こんなみことばが聖書にあるのに気づいたのも、その頃のことでした。

以前にキリスト教に偽装した異端の書として詳細な分析を試みたサンダー・シングの「聖なる導き インド永遠の書」も、半分ほどが死者の霊との対話に割かれていました。

ちなみに、そこでも説明しましたが、全聖書は、クリスチャンが死者の霊やそれを呼び出す占い師や霊媒師などにお伺いを立てることを忌むべきこととして退け、警告しています。

「エジプト人の思いは、胸の中に乱れる。わたしが、その謀を乱すので 彼らは、偶像と死者の霊 口寄せと霊媒に指示を求める。 」(新共同訳イザヤ19:3)

ところが、ニューエイジやオカルト、それらの太古の源流をなしているグノーシス主義には、必ずと言ってよいほど、黄泉、墓、死者の霊、等々に対するオカルト的な嗜好や関心が見られるのです。
 
今日、キリスト教に偽装する最大の異端、日本最大級の偽装キリスト教的カルト宗教組織といわれる、統一教会のホームページを見ても、そこには早速、「人生と霊界」という怪しげなタイトルやら、「死について」、「死後の世界とは」、などの怪しげな項目が並んでいるのが目につきます。

つまり、異端やカルト宗教が人々の関心を誘うためのきっかけとして、いかに「死後の世界」というテーマを頻繁に用いるかが分かります。



さて、神奈川県にプロテスタント最大規模の信徒数を誇る教会のひとつ、大川従道氏率いる大和カルバリーチャペルがあります。これは一見、聖霊派に属するプロテスタントの教会だと考えられていますが、その規模にも関わらず、しるし・不思議、奇跡などの超自然現象を重んじる全ての聖霊派教会の例に漏れず、良い噂がほとんど聞かれません。そのことは内部の信者でさえ認めています。AG教団もそうですが、大規模教会だけれども、悪い噂が絶えないという教会は、特に聖霊派に多いのです。
 
カルバリーチャペルについては、あまりにも多くの批判があるため、その一つ一つを検証することは無意味であると判断しています。ここではその中でも、この教会が死後の世界に特別な関心を持っていることの証拠として、特に教義的に物議をかもしている大川氏の唱えたセカンド・チャンス論について記しておきたいと思います。

セカンド・チャンス論とは何でしょうか。ウィキによると、

セカンドチャンスとは、キリスト教の一派で唱えられている宗教思想の一つで、キリストの福音を聞くことなく死んだ人々も死後、よみ(陰府、黄泉)の世界で福音を聞き、回心の機会が与えられるとするものである。ファーストチャンスはこの地上における回心の機会、セカンドチャンスは死後における回心の機会をさす。

何ですって? 死後の救い? 黄泉にいる死者に宣べ伝えられる福音?

耳を疑うような話が始まります。もちろん、このような「教義(?)」がプロテスタントのクリスチャンの間でも多くの批判を生んでおり、広く認められていないことは言うまでもありません。

以下の文章は、キリスト教界の指導者がセカンド・チャンスに対してどのような立場をとっているかを紹介するために引いているのではありません。

この短い説明文の中だけでも、「死後」という言葉がどんなに頻繁に繰り返されているかを見てもらいたいために引用しています。つまり、セカンド・チャンス論そのものが、その是非を問う議論の如何に関わらず、いかに我々の関心を巧みに死後の世界へと導いていこうとするものであるか、それを知ってもらいたいと思うわけです。

セカンドチャンス論に対しては反対論も根強い。ウィリアム・ウッド山岸登尾形守富井健尾山令仁その他が反対論を唱えており、キリスト教界で論議となっている。

反対派の多くは、「もしセカンドチャンスがあるなら、多くの人は『死後に回心すればよい』と思ってしまうだろう」と言う点や、「セカンドチャンスが実際には、なかった場合、そうやって回心を伸ばした人を地獄に追いやる事になる。」と言う点などを懸念して反対している。

月刊『ハーザー』誌は、賛成派と反対派に同じページ数を与えて、ディベート(討論)を連載した。『ハーザー』2002年7月(97号)は特集「死後に救いのチャンスはあるのか?」を組み、久保有政の「死後のセカンドチャンスは伝道の妨げではない、それはまた聖書の教えである」と反対論の富井健死後に救いのチャンスはあるのか」が載った。2002年8月(98号)に中村準一死後の救いを主張することの危険について」とする否定論と久保有政「死後のセカンドチャンス-否定論への反論」、2002年9月(99号)には秋一元宏「死者への取り成しの祈りは可能か」、富井健「死後のセカンドチャンス-肯定論への反論-」、ピーター・藤正信「久保有政師の執筆に対しての意見」が載った。 2002年10月(100号)には「議論と今後の展開」とする巻頭言はセカンドチャンスを異端視する立場から購読中止の知らせをうけたハーザー編集長の、 議論することそのものは禁じられていないとする主張が載せられている。2002年11月(101号)はセカンドチャンス否定論の尾形守「人間の死後と救い 聖書はどうか」と肯定論の久保有政「死後のセカンドチャンスを示す6つの聖書箇所」が載った。

 
 このようにしてセカンド・チャンス論は私たちの関心を巧みに死後の世界へと、死者の救いというテーマに誘うわけですが、さて、これに対して聖書は何と言っているでしょう。

「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」(マタイ22:32)
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。あなたがたは非常な思い違いをしている」(マルコ12:27)
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」(ルカ20:38)

 このように、聖書は再三に渡り、神は死者の神ではなく、生きている者の神であると繰り返し述べています。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブはみなとうに死んでいるのに、なぜ生きている者の神であると言えるのでしょうか。それは聖書が復活を前提としているからです。

 全聖書には、死を私たちに親しみのあるものとして描く調子は全くなく、むしろ、死に対する断固とした拒否、力強い抵抗と、復活の命の勝利に貫かれています。

 そもそも、聖書によれば、死は罪の結果として人類にもたらされた憎むべきものです。神が死というものをいかに憎んでいるか、そして、最終的には、復活の命によって死を飲み込むことが神のご計画であるか、それはあえて指摘するまでもありません。最終的には、復活のいのちが死を飲み込んで打ち破る、それが、死に対する聖書の最終宣告です。

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(イザヤ19:3)

死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(Ⅰコリント15:55)

 ところが、グノーシス主義系の誤った異端の思想においては、この復活ということが巧みに隠されており、死者の霊や、死後の世界が憎むべきものとして提示されないどころか、むしろ、何かしら人になじみ深い、居心地の良い、親しみの持てる世界のように描かれており、そのようにして異端思想は人々の関心を、巧みに「生」ではなく、「死」の世界へと誘い込んでいくという特徴があります。異端思想にはとにかく死や死者に対する特別な愛着という共通点があるのです。
 
 しかし、このような死者との馴れ合いとでも言うべき世界がいかに危険なものであるか、そしていかにそれがキリスト教と無縁の思想であるかに気づいてもらいたいと思います。

肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 」(ローマ8:6)

 このようにして、聖書は常に「死」と「生」とを真っ向から対立するものとして提示し、「死」を「罪」の結果としての憎むべきものとして扱い、キリスト者の思いは、死から離れて、いのちと平安へと向かうことを強調しています。死者や死後の世界との危険な馴れ合いはそこには全く存在しないのです。



 話を戻すと、大和カルバリーチャペルの支部的存在として、横浜カルバリーチャペルがあります。主任牧師は武井博氏です。どこかで聞いた名ではないでしょうか?

 武井博氏は、NHKの有名な人形劇「ひょっこりひょうたん島」のディレクターでした。そんな人がなぜクリスチャンに?と思うかもしれませんが、娘さんが統一教会に入信したのをきっかけに、長い年月をかけて脱会に成功し、それをきっかけに信仰を持つようになったとのことです。

 しかし、話はそこでめでたし、では終わりません。このブログを以前から知っている人の中には、すでに「また統一教会の登場かー」と、次の展開を予想する人々もいるかもしれませんが、ひとまずここでは牧師の話にのみ焦点を絞ります。

 自分自身かもしくは身内がかつて統一教会の出身であった、という前歴は、今日、クリスチャンの間ではそんなにも珍しいことではありません。カルト被害者救済活動が始まってから、おびただしい数の統一教会員がキリスト教徒に改宗するということが起きました。

 しかし、統一教会の場合、そのマインドコントロールの徹底した深さはよく知られており、その影響は、脱会してクリスチャンになったから、もう良いではないか、などという程度の軽い話では済まないことを脱会者自身が明らかにしています。

 そもそも、カルト団体への入信は、ただ入信している間の本人の思考をゆがめてしまうだけではなく、もっと言うならば、そこへ入信するに至った背景に、必ず何かの心理的土壌となるような深刻な問題が隠されているわけです。

 いわば、カルトに入信する人には、それなりの精神的土壌が必ず存在するのであって、多くはそれは家庭の環境に起因します。これは差別を助長するため、もしくは非難のために言うのではなく、もちろん、カルトに入信しなかったからと言って、その人が完全に健康であるとか、家庭に問題がないという話にはなりません。一般的に、心に傷を負ったことのない、ゆがみの一つもない人間など地上にいないでしょう。しかしながら、カルトに入信する人の多くの場合には、生い立ちの過程ですでにその心理的な土壌が築かれているということを私は指摘しておきたいのです。

 
 多少、先走ってしまうようですが、カルトに走る人々の心理状態の土壌となるのが、自分は抵抗もできない幼く弱い時に何らかの巨大な悪事の犠牲とされたか、もしくはそれを目撃したという「原体験」による心の傷ではないかと私は推測しています。

 その「原体験」によって生じた被害者意識と、それゆえに社会に対して無意識に生まれた恨みが、その後、誤った形でのカルト的な勧善懲悪の「世直し」の思想に人々をひきつけていく原因となっているのでないかと私は個人的に考えています。そしてこのような厭世的な世界観は、子供が無意識に親の思想の影響を受け継いでいる場合も多くあるのではないかと考えます。
 
 カルトに入信して脱会した人たちに関わってみてすぐに分かることは、彼らは人一倍、感受性が強く、潔癖で、正義感もあり、人の痛みに敏感で、世直しを願う気持ちも強い、優しい人々であるということです。しかし、そのようにして彼らが敏感な心と強い正義感を持って生き続ける背景には、かつて不当に抑圧された自分自身を救いたいという願望があるのではないかと私は考えているのです。

 人は過去にさかのぼって幼少期の自分を救うことはできないので、その傷を癒したいという願いから、無意識のうちに自分ではなく誰か可哀想な他者にその傷を転化・投影し、他者を救うことで、己を救おうとすることがあるのではないかと推測できます。特に、カルトから脱会した後も、カルト被害者を救済することを生業にしているような人々には、ずっと同じ思考パターンの繰り返しから抜け出られていない可能性があるように思うのです。

 幼い頃に世の中のゆがみの犠牲になって傷ついた心が、青年期になってもまだ痛み、その傷を癒したいとの願望から、カルト団体に入信して世直しを試みて失敗する。反社会的な団体の掟に従い、犯罪者になるすれすれのところまで身を落とし、ようやく周囲の人々の説得などによって、あるいは自分自身でその失敗に気づいて脱会したと思ったら、今度はキリスト教に入信して、そこでもまた勧善懲悪的な発想に基づいて世直しを試みて、何かの大々的なキリスト教改革運動や、被害者救済運動に手を染めて行く。統一教会から脱会してキリスト教に入信した人々の何割かは、単なる脱会者では終わらず、何らかのカルト被害者救済済運動に再び関わるようになります。そうこうしているうちに、多くの人々を巻き込みながら、その運動の方向性自体がだんだんおかしくなって来たのです。

 このようにして、カルトから脱会したのち、生涯を救済活動に捧げる人々の特徴は、一生、自分を正義の味方と思い込み、自分自身を世界を破滅から救う正義漢・救済者として描き出すための絶えざる運動を続けなければ生きていけない点にあります。とにかく、この種の人々の生き方の根底にはどうにも、抑圧されている自己を救いたいという脅迫反復的なものの考え方があって、それがあるために、どこへ行っても自分の属する集団において自分を正義の審判者として勧善懲悪の世直し的活動に手を染めずにいられないという特徴があるように思うのです。

 もっと言うならば、世界をそのように善悪の二項対立に分けて、自分自身を被害者に寄り添う正義の味方であると考えようとすること自体が、カルト的二元論の発想であり、そのようにして絶えず自分を世界を破滅から救う、弱者を救うヒーローとして描かずにいられないところに、その人がそれによって幼い頃に味わった抑圧された自己という原体験から逃れて自己救済を成し遂げ、歪んだこの世を成敗し、自分を虐げた者に対して無意識の復讐を果たしたいという願望がこめられているように私には思われてならないわけです。



 AG教団の村上密氏が提唱する「カルト監視機構」の危険性や、こうした組織の設立により、キリスト教社会を悪から浄化しようという発想が、どんなに危険なものであるかについてはすでに述べて来たので、繰り返しませんが、それは統一教会にはおなじみの発想でもあります。

 統一教会は昔から、スパイ防止のために秘密警察的な組織の設立を訴える声が根強かったといわれており、それは統一教会が最も敵視してきた共産主義者そのものから得た着想であることも指摘されています。統一教会と密接な関わりがある安倍現首相が率先して進めた秘密保護法の制定もこれと同じ発想の起源を持つものです。

 しかし、世紀をいくつもさかのぼって歴史を振り返るなら、こういう発想はすべての異端思想及び社会主義思想に共通だったことが分かります。歴代の社会主義者、アナーキスト、共産主義者らは、革命成就のはるか以前から、彼らが国家権力を奪取した暁には、人民の取締りと思想矯正のために、望ましくない人間を抑圧・矯正するための秘密警察的な組織を設立する必要性を訴えてきました。

 その人民の抑圧機関としての秘密警察の発想と計画は、それぞれの思想家の違いはあれど、大筋では驚くほど似通っているのです。つまり、人類の性質を改良し、彼らを悪から浄化し、望ましい人間を生み出すためには、秘密警察のような機能を持った組織の設立がぜひとも必要であると、彼らは考え、一様にその「人民の抑圧機関としての監視機関」の設立を理論として提唱して来たのです。

 統一教会の信者らもその例にならって、口では共産主義者を非難しつつも、悪との戦いと人類の浄化と地上天国の確立という自分たちの目的遂行のために、共産主義者らから最も恐ろしいアイディアを拝借して取り入れてしまったわけです。そして、その統一教会と同じ発想に基づいて、今度はキリスト教界そのものを悪から浄化するために、カルト監視機構が必要だと村上密氏は述べているわけです。これは見逃すことのできない発想の同一性です。



 さて、あまりに長く脱線してしまったので、話を戻しますと、カルバリーチャペルの武井博牧師は、ひょっこりひょうたん島のディレクターであるだけでなく、聖霊派の中で、今ではすっかり悪評しか聞かれないベニー・ヒンの『聖霊さま、おはようございます』の訳者でもあります。

 ベニー・ヒンの離婚(と再婚)や数々の異端的発言が知られるようになった後でも、聖霊派に属する多くの教会は、特段、この教えを退けることをしておらず、カルバリーチャペルもその著書の内容を否定していません。カルバリーチャペルは、同じ聖霊派の兄弟分のような存在であるAG教団が推し進めてきた各種の怪しい霊的ムーブメントも否定していませんし、AG教団と同じく、今もなお日本のリバイバルを目指して活動しているという特徴があります。

 いずれ私はペンテコステ運動そのものが、聖霊そのものとは無関係の、むしろグノーシス主義と密接なつながりのある(オ)カルト的運動であったことについて説明したいと考えていますが、こうした文脈で、聖霊派の人々の夢見ている日本のリバイバルも、統一教会や共産主義者の見果てぬ夢としての地上天国、ユートピアと全く変わりのないものだと私は考えます。

 聖書はそもそも神の国を目に見えるものではないと言っていますが、リバイバルを信じる人々の目指しているのはあくまで地上天国です。それは人類の人類による人類のための救済、現代のバベルの塔であり、そもそも聖書が目指している目に見えない都とは本質的に正反対であり、必ずディストピア化して終わるのものと私は考えています。
 
 キリスト教界での「リバイバル」はもうかれこれ20年も叫ばれていますが、日本のクリスチャン人口は相変わらず出たり入ったりの結果1%を横ばいの状態で、リバイバルなど地平線上に影すらも見られません。リバイバルを名目にした集金活動だけはそんな結果とは全く関係なくせっせと行なわれています。様々な「霊の器」が献金袋を提げては来日し、消えていきました。いい加減、いかにお人よしのクリスチャンも、それが詐欺的な活動であったことに対して、目を覚ますべきときにきているのではないかと私は考えるのですが、それも今は本題でないので脇に置いておきましょう。

 さて、異端思想は死後の世界に特別な関心を示すという話でした。

 創作家の人となりを判断するには、その代表作を知るのが一番です。ですから、カルバリーチャペルの武井牧師がどのような思想を持つ人物であるのか知るためには、同氏の代表作である「ひょっこりひょうたん島」がどのような作品であったのかを理解するのが一番の早道です。

 以下の驚くべき新聞記事を読めば、この記事が言わんとしているところは十分に理解できるものと思います。(残念ながら、出典元のに日付がありませんでしたので、この記事がどこに掲載されたものなのかは分かりません。)




ひょうたん島は、死後の世界だった!

作者・井上ひさしが初告白

サンデー先生も子供たちも、実は最初から死んでいる人だった!

 一九六四年から五年間、NHKで放送された人形劇「ひょっこりひょうたん島」。作者の井上ひさしの故郷でもある、山形県川西市のフレンドリープラザで開かれた「ひょうたん島」を語り合う講座の席上で、井上はスタッフにも伝えていなかった衝撃的な秘密を明かした。


「これが子供番組かって、最初は抵抗されましたねえ」。

「ひょうたん島」を企画した元担当ディレクターの武井博が、井上との対談で当時を振り返った。井上も「考査室の台本チェックで、いっぱい付せんがついて戻ってきた。ぜひ直して欲しいって」と話す。このほかにも、番組にかかわった講師陣から、「言葉遣いが悪い」「人形がグロテスク」などの苦言を耳にした体験談が披露された。

さらに、井上は「サンデー先生と五人の子供たちは、最初にひょうたん島へ遠足に行った時、火山の噴火で死んでるんです」と、衝撃的な設定を初めて明かした。

その背景について、井上が静かに語りだした。井上、共作者で七八年に亡くなった山本護久、武井ディレクターの三人とも、家庭の事情で親に頼れない少年時代を過ごした。

「大人たちに徹底的に絶望した」少年たちが、ユートピアとして考えた「ひょうたん島」は、「親も大人も存在しない、我々が新しい生き方を造って行かなくてはならない、どこでもない場所」になっていったという。そして、そんな「どこでもない場所」の物語にリアリティーを持たせ、作者の二人が自分自身を納得させるために出した結論が、死者の物語という設定だった。

劇中に「御詠歌」や「四国登場物語」を出したのはそのためだが、二人だけの秘密だった。井上が、秘密を明かしたのは、「みなさんがひょうたん島を好きなことがよく分かったので、基本的なことを知っておいて欲しいと思ったから」だ。

会場からは「ショックだ」という声も聞かれたが、大半の人が、納得した顔で、井上の話に聞き入った。この番組が、多くの人の心の中で生き続け、魅了しているのは、今なお、ひょうたん島の世界が、三十六年前と同じぐらい遠い、あこがれのユートピアだからなのかもしれない。


 これを読んだときに、聖霊派のリバイバルがどこから生まれてきたのか、私は妙に納得させられる思いになった。

 井上氏、山本氏、武井氏の三人は、ともに共通して幸薄い幼少期を過ごしている。彼らは戦争の影響などで日本が貧しい時代に生まれ育ち、飢えや、大人のずるさや、両親の頼れなさや、この世の不条理を思い切り味わって、早くからこの世に絶望する子供たちとなった。

 大人たちへの絶望、自分たちを温かく受け入れてくれなかった社会への恨み、よすがとなる家庭生活にも何の希望も持てず、十分な愛を受けて育つことのできなかった傷心を抱えて、この世のどこにも居場所を見出せないまま、大人になった三人が、創作という分野でたまたま出会い、意気投合し、そこに自分たちの見果てぬ夢をかなえてくれそうな現実逃避の場所を作り上げた。
  
 それが、どこにもない場所としての、死後の世界のユートピアだった。サンデー先生と子供たちの明るくくったくのない笑顔と幸福は、親や大人たちのずるさから解かれ、この世のあらゆるしがらみと不条理から解かれた死後の世界にしか存在しないものであり、それは、そもそも救いや幸福などこの世には存在しないという作者の結論を物語っているようにも感じられる。

 「ひょうたん島」が死後の世界だというのは、視聴者を欺くかのような舞台裏の仕掛けであり、この世に対する強烈な皮肉でもある。人形がグロテスクだという指摘も、どんなに幸福そうに物語を描いても、どこかしら、異様な世界観がにじみ出てしまった結果、出て来た指摘だったのかも知れない。

 この作者の三人のうち二人はすでに世を去り、残る一人は、見果てぬ夢の舞台を人形劇から教会の講壇へと移し変えた。ひょうたん島の死後のユートピアは、聖霊派のリバイバルへと移り変わった。その教会はセカンド・チャンスを唱えている。つまり、生きているこの世にではなく、死後の世界に積極的に救いを見出そうとしている教会である。

 ここには何かしら空恐ろしい、人を愚弄するような逆説の皮肉がこめられているような気がしてならない。神の国は目で見えるものではないと聖書は言う。にも関わらず、地上のユートピアを目指そうとすると、どういうわけかわからないが、それは死後のユートピアにしかつながっていかないらしいのだ。

 ひょうたん島はどこにも存在しない世界だった。それを考えると、聖霊派の唱える地上天国としてのリバイバル、そして死後のセカンド・チャンスなども、本当に実在する希望だと言えるのだろうか。むしろ、それは決して訪れるはずのない架空の希望、偽りの望みだという確信が強まるばかりなのである。それは信者や視聴者を欺くためのしかけであり、この世に絶望しきった大人たちがこの世にひそかに復讐を遂げるために描き出した幻想の夢なのではないだろうか。
 

 さて、上記の教会はインターネットでも礼拝を配信しているが、私が最後に視聴した時には、副牧師が臨終をどう迎えるかについて面白おかしく講壇から演技していた。

 なぜこの人々はそれほどまでに死に憧れ、死を慕い、死を希うのだろう。そのどこに救いがあり、力強く死を打ち破る復活の命の現われがあるのか。なぜ面白おかしく希望に満ちているはずの全ての活動が、ただ死という一点に集約されていくのか。その逆説がひたすら疑問に思われてならない。

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」(ルカ20:38)
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