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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

己が罪から目を背け、自己を英雄化する日本政府の現実逃避のトリックからはエクソダスせよ

1.日本は真の戦後を未だに迎えていない。戦前と戦後の板挟みの中、歴史の岐路に立つ日本
 
これまで書いて来たように、現在の日本の抱える最大の自己矛盾は、現行の憲法を含め、現在の日本政府の形態、および、国内のすべてのシステムに、敗戦以前の明治憲法時代の体制の遺物が中途半端な形で温存されているために、敗戦によってすでに敗れ、罪に問われ、とうに裁かれ、追放されているはずの勢力と、その悪しきイデオロギーが引き継がれて今日に至っていることから生じる。

つまり、本来、敗戦によって終止符が打たれなければならないはずの思想やシステムが、こっそり仮面をつけかえて戦後の体制に忍び込み、堂々と大手を振ってこの国の頂点に居座り、君臨していることが、この国にさまざまな矛盾と悲劇を呼び起こしている最大の原因なのである。
 
その矛盾の筆頭は、敗戦後、A級戦犯であった岸信介が首相にまでなった事実にも見られるように、「共産主義の脅威に立ち向かう」ことを口実に、米国の承認を受けて、本来は、裁きの対象とされ、公職から完全に追放されていなければならなかった戦前の政治勢力が政界に返り咲き、この国のトップの座に居座り続けたことにある。

政界のトップに、敗戦によって終止符が打たれたはずの勢力が居座り続けたわけだから、我が国に敗戦後も、真の刷新が訪れなかったのは当然である。

国民には敗戦によってあらゆる負い目の意識が植えつけられたかも知れないが、政府には、敗戦によっても変わることのなく戦前と同じイデオロギーが受け継がれたため、国民と政府との間に大きな「ねじれ」が生じたのである。

その「ねじれ」は今日に至るまで、政府と国民との間の巨大な思想的な壁、この国のシステムの抱えるあらゆる自己矛盾となって受け継がれている。
 
さらに、敗戦後も政府に居座り続けた戦前の政治勢力と同様に、明治憲法時代の官僚制の遺物も、戦後の憲法の制定直後から抜け目なく温存されて今日に至っている。それが、我が国第二の悲劇である。

敗戦によって天皇の戦争責任を問うことなしに、天皇制をそのまま温存し、さらに、生まれや、門地、家柄による差別を禁止しながら、皇室だけをその例外とし、天皇という地位が、血筋、生まれ、家柄によって定められるものとしていること自体が、憲法の抱える最大の自己矛盾である。

そして、天皇制が廃止されなかったことをきっかけに、天皇制を隠れ蓑にして、本来、敗戦によって敗れたはずの政治勢力と、官僚制が、抜け目なく自己保存をはかって今日に至っているのである。

つまり、この国は、敗戦を経験しても、上層部はほとんど変わることなく今日に至っているのであり、そのために戦後の政治的刷新が行われなかったことこそが、この国最大の「ねじれ」であり、最大の矛盾であり、国民の悲劇の源なのである。
 
このような自己矛盾があるため、この国では、未だ戦前の遺物と、戦後に作られた新体制のイデオロギーとが激しくせめぎ合い、この国を過去へ引き戻そうとする力と、過去と訣別して未来へ向けて新たな一歩を踏み出そうとする相矛盾する両方の動きが同時に起きているのだと言える。

表面的には、A級戦犯の孫が首相になっていたり、肥大化して国全体を操る官僚システムがあったり、軍国主義や国家神道の復活を願う日本会議の面々によって政府が事実上、占領状態に置かれていることなどから、この国ではあたかも明治憲法時代へ逆戻りしようという勢力が大勢を占め、未来に向けた刷新は絶望的であるように見えるかも知れない。

だが、実際にはそうでなく、天皇の生前退位へ向けたメッセージにも見られるように、そうした歴史的後退の動きを牽制し、むしろ、「真の戦後」に向けて、自己矛盾を取り払い、新たな一歩を踏み出そうとする動きも、ないわけでなく、目立たないように見えながら静かに力強く進行している。

この国はそうした意味で、今、重要な岐路に立たされているのだと言える。筆者は、天皇の生前退位に関する意向表明は、たとえ天皇自身が意図していなかったとしても、やがては必ず天皇制そのものの廃止という議論へとつながって行くであろう極めて重大な問題提起を含んでいることを、思わずにいられない。

明仁天皇の「お気持ち表明」は、天皇とて基本的人権を有すべき一人の人間である、というごく当たり前の事実を表明したものであるが、しかし、現行の憲法と皇室典範の規定では、その当たり前の事実も、当たり前に実現できない、という矛盾が、それによって露呈したのである。

その意見表明により、現行の憲法が規定する国民と皇室との区別という象徴天皇制そのものの抱える自己矛盾が白日の下にさらけ出されたのだと言える。

それゆえ、天皇のメッセージは、天皇を国民とは別格の高みへと押し上げて、天皇を中心としたヒエラルキーをより強化したい人々の願いに応えるどころか、むしろ、それとは逆に、天皇を国民と同じ水準へと「引き下げ」て、天皇と国民との平等化をはかろうとする意味をおのずと含んでいた。

天皇は、天皇という地位だけが独り歩きして、その地位によって自分が現実以上の存在に祀り上げられて栄光化されるのを拒み、むしろ、自分は普通の人間として生き、普通の人間として人生の幕を閉じたいという願いを表明した。

それは明仁天皇という一人の人間の願いであるだけにとどまらず、結局は、天皇を頂点とする虚構のヒエラルキーのみなしさを暴露するものであり、そうである限り、ヒエラルキーそのもの崩壊へとつながる序曲だと言っても差し支えないほどに、衝撃的な意味を持つものと筆者は考えている。

明仁天皇のメッセージは、ただ激務から解放されたいという個人的願いを示すだけのものではなく、天皇であり続けることには、何ら輝かしい栄光はなく、むしろ、一人の人間を生涯に渡って人身御供にしてしまうような、ある種の非人間性が伴うことを無言のうちに明らかにしたのだと言って差し支えない。

従って、そのような告白がなされたこと自体が、天皇を未だ取り巻く神秘のベールを取り払い、天皇を神話化し、栄光化しようとする動きに相当、水を差すものであったことは間違いない。

つまり、そのメッセージ自体が、天皇制を隠れ蓑に、自分たちを「上級国民」として栄光化し、「下級国民」を見下して、ヒエラルキーを強化したい人々にとっては、限りない屈辱であり、著しい敗北だったのではないかと思う。

結局、この「お気持ち表明」を通して、明らかになったのは、現行憲法が定めている、日本国民の間に差別を敷く天皇制そのものが抱える自己矛盾であり、その矛盾が、天皇自身をも人間として犠牲にしていること、また、そのような形で天皇制を維持し、人が生まれによって人の上に立つことを認めたがために、我が国では、天皇ばかりか、敗戦によって終止符が打たれるべきであった旧いヒエラルキーが温存され、国民の間でも、競争が敷かれ、地位や職務ばかりが独り歩きし、社会における役割を離れての一個の個人の価値というものが、全く重視されなかったことである。役割を離れた個人の価値を認めないからこそ、基本的人権も軽視されている。

こうしたことから、筆者は、今回の明仁天皇による「お気持ち表明」は、天皇を基本的人権の例外とみなす自己矛盾の撤廃と、生まれや血筋に基づく差別の完全な撤廃と平等の実現に向けて、やがては天皇制そのものの撤廃へとつながる国民的な議論を呼び起こすであろう、と予測するのである。
 
むろん、明仁天皇は、そのメッセージによって、象徴天皇制自体の廃止の願いを表明したわけではなく、象徴天皇制そのものは国民と共に続いて行くことを願っていたので、天皇自らがそのような希望を述べたわけではない。

また、今はまだ多くの人々が、明仁天皇の生前退位の問題は、個人の問題に過ぎず、大々的な制度的変革の必要性は生じず、まして天皇制の廃止といった話には結びつかない、と考えているかも知れない。だが、筆者の予測では、そうはならない。

明仁天皇の生前退位によって提起された問題は、以上に述べたように、もっと根本的な重みをもつ問題提起なのであり、そうである限り、いずれ必ず、皇室や天皇制そのものの廃止という議論へとつながって行くことであろうと思う。
 
こうして、奇妙なきっかけであったとはいえ、今まで一度もこの国に姿を現したことのなかった真の民主主義へ向けての展望が、天皇自らの生前退位を示唆する意向表明によって、わずかながら姿を見せ始めた。

たとえこれをどんなに妨げようと考える勢力がいたとしても、一旦、始まった動きはいつの日か必ず成就されるであろうと筆者は思う。

さて、この生前退位の問題に関して、天木直人氏のブログに極めて重要な指摘があったため、転載しておきたい。

天木氏の記事における重要なポイントは、現在の皇室典範は、明治憲法時代の旧皇室典範の精神をそのまま受け継いだものだということである。

明治憲法時代の旧皇室典範は、皇族についての家法でありながら、憲法と同格の法規とみなされ、なおかつ、国民をも束縛する内容であった。戦後の皇室典範は、憲法と同格ではなく、憲法の規定に従って作られた下位法に過ぎず、国民は議会を通じてこれを改変することができ、皇室典範が国民を縛るとこともない。

だが、安倍政権を含め、極右・保守勢力は、この秩序を再び逆にして、憲法を貶めたいのであろう。彼らは皇室典範は改正せずに、憲法だけを改正することによって、憲法の精神を愚弄し、さらには将来的には、皇室典範を憲法の上位に置いて、再び天皇の名の下に国民を束縛することを主眼としているのだと考えられる。

「皇室典範は壊憲派にとっての9条だ」などと世間で言われたりするのも、こうした理由からである。だからこそ、天皇の生前退位に関しても、安倍政権は皇室典範を改正することを嫌がり、この問題を特別立法によって済まそうとしているのである。
 
つまり、彼らの目には、今も憲法と同等の(それ以上の)法規と見えており、本当は彼らが憲法につけ加えようとしている緊急事態条項などにもまして、天皇の名の下に、国民の人権を再び大規模に抑圧することが狙いであって、皇室典範こそ、それを正当化するための精神的根拠なのであろう。
 

天木直人氏のブログ記事
皇室典範は国民の手で改正しなければいけない」から転載
2016年8月17日

 国民の圧倒的多数(8割-9割)が天皇陛下の生前退位を支持する事が分かった以上、もはや安倍政権はそれを認めるざるを得ない。

 本来ならば皇室典範の改正が本筋であるが、メディアがはやばやと報
じたように、安倍政権は特別立法で乗り切るつもりだ。

 なぜか。

 
その理由を発売中のサンデー毎日(8月28日号)でノンフィクション作家・評論家の保阪正康氏が、で見事に言い当てくれた。

 すなわち、彼は「平成の玉音放送を読み解く」と題する特別寄稿の中で、皇室典範に関して次のように書いている。

 「・・・大日本帝国憲法成立と旧皇室典範はほぼ同時期に成立していて、いわば近代日本の天皇制はこの二つの枠組みで決まっていた。天皇はこの国の主権者であり、統治権、統帥権の総攬者であった。これに反して新憲法の成立とやはりほぼ同時期に決まった新しい皇室典範は、本来なら新憲法と併せて象徴天皇の両輪になるはずであった。

ところが、
たとえば新憲法では、国民の市民的権利を認める民主主義の創設を謳っているにもかかわらず、新しい皇室典範は旧皇室典範を踏襲した形になっていた・・・つまり今の憲法と皇室典範には、共通の回路があるわけではない。二つの枠組みには異質なものが抱え込まれている・・」

 賢明な読者なら、この指摘がいかに深刻な意味を持っているか、お分かりだろう。

 つまり新憲法は天皇制に関しては明示憲法の考え方を引き継いでいるということだ。

 そして天皇制に関して明治憲法の考えを引き継いでいるということは、新憲法は民主主義と明治憲法の相反する矛盾を抱えているということだ。

 この矛盾に私は気づかなかった。

 いや国民のほとんどは気づいていないに違いない。

 新憲法の成立過程は国民の手に及ばないところで作られた。

 しかし皇室典範はもっと国民の手の届かないところで作られ、その存在は国民の意識の外にあり続けたのだ。

 天皇陛下の生前退位によって皇室典範の改正が不可避になった以上、我々は、特別立法というごまかしではなく、いまこそ皇室典範の改正を求めなければいけない。

 すなわち国民の手で、皇室典範を、新憲法の定める民主主義、基本的人権尊重の精神にしたがって、作り直す必要があるのだ。

  明治時代への回帰を求める国粋・右翼の連中が、おそれおおくも天皇陛下の生前退位のお言葉に不快感を抱き、皇室典範の改正に反対する理由が、これではっきりした。

 日本が本当の意味で民主主義国家になれるかどうか。

 いま我々は歴史の大きな転換期に立たされているのである。

 天皇陛下が覚悟を持って示されたお言葉を、特別立法でごまかしては日本に民主主義はやってこない(了)

 

このように、我が国では、法的にも、民主主義を阻む戦前の遺物と、民主主義へ向けた新たな一歩と、全く相矛盾する二つの理念が未だ併存し、対立している状態で、戦後70年が経過しても、未だ過渡期のような状態である。だが、そうであるがゆえに、今、極めて重大な分岐点に差し掛かっているのだと言える。
 
時計の針を逆戻して歴史をさかさまにすることは誰にもできない以上、今はどんなに弱く小さく見えても、時代を前進させ、刷新する動きの方が最終的には勝つであろう。
 
さらに、天皇制の次に廃止されなければならないものが、官僚制度である。
 
 明治憲法下では、 主権者は天皇であるとされており、行政官庁は天皇の直属の機関であり、官僚は天皇の僕ということになっていたので、天皇に仕えるという名目で、官吏には特権的な社会的地位を得、身分保障がされていた。さらに、官吏の人事は、議会も関与できない「聖域」であった。

戦後になっても、事情はあまり変わらず、戦後、官僚は天皇の僕ではなく、国民の公僕と定められている。しかし、現実には、官僚には国民の公僕との意識は全くと言ってよいほど存在しない。天皇の直属の機関でなくなってもなお、官僚には国民が主人なのだという意識はなく、かえって自分たちは国民に君臨する存在だという意識に貫かれている。

悪しき上級キャリア試験に合格したというエリート意識が、彼らの国民への優越感をより一層助長しており、そうした官僚の特権的・優越的な意識と、その意識に基づいて、彼らが現実に作り上げ、維持している、肥大化したモンスター・天下り・システムも、結局は、「神である天皇に直接仕える官吏」という戦前の幻のような自惚れと特権意識をそのまま今日まで引きずることによって正当化されている。

そのような官僚の優越感と特権意識は、憲法が中途半端に天皇制を温存したがゆえに、これを隠れ蓑に正当化されているのだと言える。官僚には敗戦後も何ら精神的刷新が訪れず、戦前と変わらず、自分たちは国民に君臨する特権階級だという意識が持ち続けられ、そのために、現在も、自らの優越的地位を正当化し、手放さないのである。

また、官僚の人事が「聖域」であるという事情も変わらず、国家公務員は若くして国家公務員試験に合格し、省庁に採用されさえすれば、よほどの不祥事を起こして世間を騒がせたり、あるいは組織内部の判断によって降格されたり罷免されたりといったことが起きなければ、誰からも出世コースを阻まれることがない。

官僚のエリート意識を生んでいる一つの大きな要因は、官僚の登用試験制度である。戦前の官吏が試験を通じて登用されたのと同様に、今日も官僚は試験によって採用され、しかも、キャリアとノンキャリを区別するエリート専用の試験が設けられている点も、戦前と同じである。
 
このように画一的な、生涯に渡る出世のコースが限定されてしまうような試験の区別がなされていること自体、極めて深刻な問題であるが、それは戦前の制度を今日に継承して成り立っている。
 
こうして官僚の出世の可能性はおおよそ試験の結果によって決まって行く。民間企業にも、入社試験なるものはあるが、その試験が、入社後の人事に半永久的に影響を及ぼすことは決してない。さらに今日、民間企業にはアファーマティブ・アクションの一環で、障害者雇用の枠なども義務付けられているが、国家官僚にはそれもなく、経験者採用の枠組みも狭く、官僚になるには、基本的には、一定年齢の間に公務員試験に合格する以外には道がなく、たった一度の試験結果がほとんど生涯に渡って影響を及ぼすのである。

そんな制度自体が、年齢や能力に基づいた差別であり、しかも、そのような画一的な試験に高得点で合格した人間こそが、真に官僚にふさわしい人間だと判断できるだけの客観的な根拠は、全くどこにも存在しない。

明治時代、当初は官吏の試験を受けることのできるメンバー自体も限られており、学歴や卒業校による差別も行なわれていた。

その後、官吏になるための試験は国民の誰もが受けられるという体裁にはなったが、それも表向きのことであり、実際には、戦後の今でさえ、東大(法学部)卒がキャリア官僚の大半を占めるという構図は変わっていない。

こうしたシステムはすべて明治時代に作られた官吏の制度に起因しており、それが敗戦を経ても、本質的に変化することなく今日に精神的に受け継がれている。

だが、こうしたシステムは、戦後の憲法の時代、何ら正当な根拠を持つものではない。
 
このように、日本では、天皇制を筆頭として、官僚制も温存され、政治的刷新がなされなかった。戦後の憲法でさえ、完全な政治的刷新を拒む不完全さと矛盾を抱えており、そこにあらゆる戦前の悪しき勢力がつけ込み、自己保存をはかった結果、不完全な憲法の中にこめられたなけなしの新時代の理念さえ、骨抜きにされ、愚弄されて、今日まで一度も完全な形で実現を見ていない。

たとえば、戦争放棄や、非核三原則でさえ、米軍基地が置かれたことや、自衛隊の設置により、骨抜きにされ、日本国憲法が基本的人権によって保障している最低限度の生活や、居住移転職業選択の自由といったものも、定められてから一度たりとも国民の間で完全な形で実行されたことはない。
 
憲法の定める差別の禁止や平等などは謳い文句に過ぎず、今も我が国に根強く存在するのは、幼い頃から学校で良い成績を取り、偏差値優秀な大学を卒業し、官庁やエリート企業に勤め、そのエリートコースから外れなかった者だけが、社会の最上層部で特権的で裕福な生活を享受でき、自由を謳歌できるという幻想であり、他方、エリートコースから逸れた者には、その外れた分だけ、人間としての自由や権利が制限されて行く、という歪んだ価値観が横行している。

就職による新卒・既卒の区別など、法的には何の根拠のない差別でしかないのに、そのようなものが「慣習」として大手を振ってまかり通り、そのような悪しきヒエラルキーを容認し、正当化する最たる制度として、受験競争の上に官僚制度が君臨しているのである。
 
おそらくは、官僚制度がなくならない限り、日本特有の「受験戦争」や「就活」の異常な風景もなくなることはきっとないであろうという気がしてならない。

こうして、日本国憲法の理念は、戦前に作られてとうに撤廃されてしかるべき悪しきヒエラルキーによって、成立から今日に至るまで、絶え間なく踏みにじられ、愚弄され、骨抜きにされている。そのせいで、我が国では一度もきちんと完全に実行されたことがない。ところが、この憲法を、実行もされないうちから、時代遅れなものとして撤廃しようという動きが出ていることには、呆れる他にない。その理由として、そうした動きを助長する人々は、この憲法は「米国から押しつけられたものだった」と言う。

だが、実際には、日本国憲法は「押しつけ憲法」などではなかったのであり、つい先日も、「「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料」(東京新聞 2016年8月12日 朝刊)という記事により、また新たな裏付づが得られたばかりである。

ところが、こうしたニュースも、国民の目を欺きたい勢力は、トリックによってかき消そうと、「魔法」に余念がなく、「日本の憲法「我々が書いた」…米副大統領」(YOMIURI ONLIEN 2016年08月16日)といった情報を盛んに御用メディアで流布し、何とかして、戦後の憲法は米国から押しつけられたものだったのだ、という歪曲された歴史観を強化しようと試みている。

だが、たとえ現在の米副大統領が「我々が書いた」と発言したからと言って、当時の証拠もなしに、そんな発言だけを頼りに、日本国憲法が押しつけだったという論拠とするのは愚かであろうし、そんな試みは後世の人々による歴史の書き変えの一環に過ぎない。

しかも、このような傲慢な発言の真に言わんとしているメッセージは、結局、「世界のどの国であろうと、我々米国人は、その国の憲法をないがしろにし、いくらでも自分たちに都合の良いように書き変える権利を持っているのだ」という、他国の主権の否定と他国への愚弄の意図に他ならない。

もし我が国が、そんな聞き捨てならないプロパガンダに乗って、一度も完全に実現されたことのない憲法を「押しつけ」だの「時代遅れ」だの「みっともない憲法」だのと言って、時の政権に都合よく改変するようなことがあれば、その時こそ、米国の「押しつけ憲法」が成立し、この国の主権は蹂躙され、もはや無法地帯同然となるだけである。

そもそも、最高法規で何を定めていても、それに違反する現状がすべてに優先するというのであれば、憲法のみならず、どんな法の定めも、すべて単なる「絵空事」に過ぎないことになり、現場でやりたいようにやった者勝ちの世界が成立する。そんなことならば、見かけだけ文明国をきどるためのまやかしの法など全て捨てて、文字も持たない未開の野蛮人に戻り、実力だけにすがって生きるのが最も手っ取り早いであろう。

戦後の平和憲法を「みっともない押しつけ憲法」だと呼んでいる者たちは、しょせん、戦犯の子孫であったり、あるいは、戦前の官吏の制度をそっくり継承して国民に君臨する官僚であったり、ほとんどがトリックによって現在の政府に入りこんだ戦前の政治勢力に過ぎない。
 
要するに彼らは、自分たちの存在そのものの違憲性が暴かれ、自分たちの無法行為が暴かれ、罪に問われたりしないように、法を骨抜きにして「やりたいようにやった」者勝ちの世界を正当化しようと、彼らを罪に問える憲法自体を自分たちに都合よく別物に変えてしまおうとしているだけである。
  
戦犯の子孫である彼らのみならず、彼らが戦犯であることを重々知りながらも、日本を「反共の砦」とするために、また、永久に属国化するために、あえてこのような犯罪者集団をこの国の政権の座につけた米国とが協力して、彼ら両方のはかりしれない重い罪を覆い隠すために、壊憲を実現しようとしているだけである。
 
今日、世界中の国々で、ネオナチ・前科者などの忌むべき犯罪集団を積極的に政権の座につけることにより、クーデター同然にその国を乗っ取り、犯罪集団のもたらす恐怖によってその国民を支配しているのが米国であり、ウクライナを例に、我が国への米国支配のあり方をも十分に学ぶことができよう。
  
こうした人々は自らの罪を否定し、自分たちが不法に獲得した特権的地位を保つために、自分たちを罪に問う力を持つ法そのものを否定し、これを歪曲し、自分たちがあらゆる法規を超える存在(神)になろうとしているだけである。


2.映画『シン・ゴジラ』に見る日本政府の妄想的な自己美化願望
  

いつの世も同じことの繰り返しである。止めようのないものは止められぬし、殺せようのないものは殺せない。時にはそれが、自分の中に住んでいることもある。「魔物」である。

仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、無限に暗くそして深い腐臭漂う心の独房の中… 死霊の如く立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい何が見えているのであろうか。「理解」に苦しまざるを得ないのである。 

・・・

大多数の人たちは魔物を、心の中と同じように外見も怪物的だと思いがちであるが、事実は全くそれに反している。通常、現実の魔物は、本当に普通な彼の兄弟や両親たち以上に普通に見えるし、実際そのように振る舞う。彼は徳そのものが持っている内容以上の徳を持っているかの如く人に思わせてしまう… ちょうど、蝋で作ったバラのつぼみやプラスチックでできた桃の方が、実物が不完全な形であったのに、俺たちの目にはより完璧に見え、バラのつぼみや桃はこういう風でなければならないんだと俺たちが思い込んでしまうように。

今まで生きてきた中で、敵とはほぼ当たり前の存在のように思える。良き敵、悪い敵、愉快な敵、不愉快な敵、破滅させられそうになった敵。しかし、最近、このような敵はどれもとるに足りぬちっぽけな存在であることに気づいた。そして一つの「答え」が俺の脳裏を駆け巡った。

「人生において、最大の敵とは自分自身なのである」


さて、次は『シン・ゴジラ』について書きたい。

映画はすべて未来へ向けて人々の意識を誘導する意図を込めて作られるものである。だから、この映画についても、国民をどのような未来へと誘導しようとして作られたのか、隠されたストーリーを疑わないわけにはいかない。

筆者は、この映画は、戦争と緊急事態へ向けての布石であり、かなり巧妙かつ悪質な政府のプロパガンダ映画であるという印象を受けた。むろん、この映画は政府が制作したものでないとはいえ、その筋書きは、強く政府の意向を反映したものとなっていると感じざるを得ない。

この映画に関しては、「『シン・ゴジラ』に覚えた“違和感”の正体〜繰り返し発露する日本人の「儚い願望」」(現代ビジネス 2016年08月13日)にも見られるように、すでにかなりの批判の声も上がっている。

筆者の観点から見ても、この映画の最も遺憾な点は、これが「主権在民」とは程遠く、むしろそれとは正反対の「主権在官」と言っても良い「官主導」の観点だけから作られた、国民を軽視し、政治家と官僚だけを英雄視する政府の太鼓持ち的なストーリーとなっている点だ。

さらに、悪質で許しがたいと感じられる数々の印象操作がこの映画では堂々と行われている。ゴジラという架空生物を登場させて、政府を「ゴジラを退治する正義の味方」として描き出すことによって、本来、福島原発事故によって、東京を含め、全国にまき散らされた放射能汚染に関して政府が現実に負っている責任をごまかし、ファンタジーによって薄め、被災地への復興支援の遅れの責任なども曖昧化し、震災関連で起きた政府の全ての対応の無責任という現実を、ゴジラに転嫁してことを済ませることが、真の目的だとしか思えないほど、フィクションとは言え、許しがたい印象操作がなされている。

さらに、そのような印象に追い打ちをかけるように、ゴジラを口実にした、首相権限による超法的な「緊急事態・戒厳令」の制定、さらには自衛隊による国内での武力行使や、まるで特攻隊の再来のような、自衛隊員によるゴジラへの決死の体当たり作戦といった、人権の軽視、生命の軽視を念頭に置いた刷り込みが行われ、まるで国民に「緊急事態だになれば、人権停止も、武力行使による人的犠牲も、やむを得ないのだ」と、予め心の準備をさせることを目的としているとしか思えない筋書きが込められている。

これらのことを考慮すると、筆者には、これは福島原発事故によって生じた放射能汚染の被害に関する日本政府責任を覆い隠し、政府を「英雄化」した上で、さらには「有事」を口実に、政府の権限を無制限に拡大し、政府主導で緊急事態を宣言して国民の人権を停止するという来るべき将来の事態に向けて、国民を心理的に「地ならし」するために作られたプロパガンダ映画だとしか思えないのである。
 
もしかすると、この作品は、これまでに作られたどのゴジラ映画のストーリーともほぼ正反対の筋書きになっているのではないかと怪しまれてならない。
 
海外では、福島原発事故後、東電及び日本政府の無責任な対応について、以下のような皮肉な風刺画も描かれ、つまり日本政府こそ、人類に危害を与えるゴジラだ、と揶揄されたのである。

ところが、この映画では、まるでこうした批判をかわし、あざ笑うかのように、汚染水垂れ流しの無責任のために、「おまえこそがゴジラだ」、と国際的に非難を浴びているはずの日本政府が、「放射能をまき散らすゴジラを退治する英雄」にすり替わっている。
 
その意味で、『シン・ゴジラ』という映画自体が、東電と日本政府とが、空想の中に逃げ込むことによって、現実に起きた災害から目をそむけ、それに対する自らの対策不足と、無責任という罪から逃げ、自己を英雄視するための、架空のありもしないストーリーを思い描いて現実逃避し、そこに国民を巻き込みながら、自己肯定・自己安堵するために作られた大がかりな(自己美化のための)「装置」なのだと感じられてならない。

 

画像の出典:"Fukushima: Japan building giant ice wall as TEPCO gets go ahead"
(The News Doctors. May 28, 2014) フクシュビッツのホロコースト

しかも、この映画には、随所で3.11で現実に起きた出来事を模して作ったとしか思えない映像がちりばめられている。

たとえば、作品に登場する政府の対策本部の人々の着ている濃いブルーの防災服は、福島原発事故直後、菅直人元首相、東電勝俣元会長らが着ていた防災服とカラーが一致し、当時の政府と東電責任者を強く思い起こさせるものとなっているが、これも決して偶然ではなかろう。
  
上記の面々、特に東電の責任者らは、3.11当時、この国を滅亡へ導くほどの未曾有の原発事故の責任を問われ、ひたすら国民の前に謝罪と対応を求められていた「戦犯」たちであるが、映画では、そのような面々を思わせる登場人物が、勇敢にゴジラと闘って国を救うヒーローのように登場しているところに、これらの「戦犯」を「名誉回復」しよう、という隠れた意図を感じざるを得ない。登場人物の風貌も、どこかしら東電の吉田所長や、勝俣元会長などを思い起こさせるのは偶然であろうか?

事故後初めて記者会見し、頭を下げる東京電力の勝俣恒久会長(中)ら=30日午後、東京都千代田区

(写真の出典(上):日本経済新聞「3月30日」(2011/3/30)事故後初めて記者会見し、頭を下げる東京電力の勝俣恒久会長(中)ら=30日午後、東京都千代田区)
 (下二枚):「シン・ゴジラ 予告」より 
 


 
 


(写真の出典(上):「【菅直人氏インタビュー(中)】 原発から逃げたら、日本は国として成り立たないと思った」WEBRONZA 2012年06月15日
  (下):「シン・ゴジラ 予告」より

 

しかも、この映画では、3.11で起きた災害の様子を強く思い出させるようなシーンが、「ゴジラの脅威」にすり替えられて使われているため、現実に起きた自然災害の脅威を、人々に忘れさせる効果がある。

東電福島原発がまき散らした放射能被害に対する政府と東電の無責任を問う国民の怒りの声も、すべてゴジラへの怒りの声にすり替えられ、今でも、連日のように、国会議事堂周辺で繰り広げられる反原発デモの怒号も、「ゴジラを倒せ」という架空の存在への怒りへと置き換えられる。 

こうして、この映画は、フィクションでありながらも、現実に存在する様々な現象を、その意味を巧みに歪曲し、すり替える効果を持っており、結果として、非常に巧妙かつ狡猾な形で、政府にとって都合の良い「概念のすり替え」を、観客に刷り込み、結果として、現実に起きたあらゆる災害についての政府責任を免罪するかのような心理的効果を観客にもたらすものとなっている。

また、この映画では、国民の人権は軽視され、あえて言うならば、時代錯誤な「国体護持」以上の「理想」が何ら提示されていない。

つまり、この映画のストーリーが目指している「解決」とは、要するに、主都と政府機能が壊滅しないことにより、日本という国が体制の変革を迫られることなく、滅亡せずに存続する(現代版の「国体護持」)ことを解決とみなす、という以上のものではない。
 
人間一人一人の命よりも、「国を守る」ことの方が優先なのである。東京が壊滅しなかったことが、国全体が助かったことと同一視され、時代遅れで無能な政府が、ゴジラによってさえも終止符を打たれず、中途半端に生き永らえたことが、物語の中で、一種の「ハッピーエンド」のようにとらえられる。
 
この(現代版)「国体護持」は、おびただしい数の国民の人権の抑圧と、多数の自衛隊員の犠牲と引き換えにもたらされたものであるが、その犠牲者も、ゴジラの脅威が去って国が滅びなかったという喜びに影を落とすものではない。

こうして、国民の犠牲や、自衛隊員の死が悲劇としてはとらえられず、人間を道具のように扱いながら、どこまでも政府の作戦だけにスポットライトを当てて、その成功を祝う人命軽視のストーリーに感じる違和感は、現存の政府が抱える思想的な欠陥を、そのまま浮き彫りにしたものだと言えよう。

この物語では、政府が「主役」として高められる一方で、国民には暗黙のうちに蔑視的な眼差しが向けられる。

国民一人一人は、自らの意志で決断・行動する生きた「主体」ではなく、常に外的現象の影響力に振り回される「客体」でしかなく、ゴジラの姿を見ても危険を覚えず、スマホでの撮影に熱中したり、避難の最中にも悪ふざけしてはしゃぐような、何の危機感もない愚かな連中でしかない。メディアを通して政府から一方的に与えられる情報や指示や手助けにすがることなくして、自分自身では何らの自己管理も、正しい判断も下せないような「愚民」の集合体にされてしまっている。

そんな知性の欠ける大衆だから、災害時にはただ恐怖に逃げ惑う群衆と化し、ついに政府主導の緊急事態に基づく戒厳令によって、人権も停止され、無理やり疎開させられたり、外出もできず、缶詰のように家に閉じ込められても当然の存在ということになり、国民は徹頭徹尾、生きた人間としての自己決定権や、主体性を奪われた哀れな群衆・被災者でしかなく、政府とゴジラとの勇敢な闘いというストーリーから排除されて脇役に追いやられた黒子でしかない。

この映画を観て思い浮かぶことは、政府が勇敢にゴジラと闘う英雄となっている間、行き場もなく疎開させられ、戒厳令により家屋に閉じ込められ、帰宅難民となっていた何十万もの人々は、何を感じていたのだろうかという疑問である。3.11の時のように、彼らはテレビを通して発表される嘘だらけの政府報道に釘づけになっていたのであろうか?
 
3.11のあの時、主役どころか、悪役のトップであったはずの政府や東電のメンバーが、「ゴジラとの闘い」というフィクションの舞台で、国民を押しのけて、厚かましくも主役として舞い戻って来たのだという奇妙な既視感が生じざるを得ない。

ゴジラの破壊力の大きさを示し、群衆の恐怖を伝えるためのシーンでは、津波に追われながら、町中を逃げ惑う人々や、泥水に無残に押し流された家屋や、車、津波にさらわれてがれきの山となり、荒廃した町の様子など、現実に起きた3.11の被害を強く思い起こさせるいくつもの映像が登場する。

がれきの山を目の前に、呆然と佇む人間を見ても、それがフィクションだとは思えないほどに、3.11の災害の記憶はまだ我々の脳裏に鮮明である。正直、現実に起きた災害の場面を、こうしたフィクションに活用すること自体に、正直、映画といえども、深刻な疑問を感じざるを得ない。
 
 

写真の出典(上):「被災地のがれき処理は軌道に乗るか」(WEBRONZA 2012年04月19日)
 (下):「シン・ゴジラ 予告」より

 

3.11のみならず、熊本地震も含め、現実に起きた災害では、今も立ち上がれないでいる多くの被災者が存在する。そうした被災者には、映画のように、「ゴジラが退治されて良かったね!!」などと安堵して、避難所で手を取り合って喜ぶような余裕は全く存在しない。現実には重い被害だけが残り、今もその痛手を無言のうちに背負いつつ、避難所暮らしを余儀なくされている。

にもかかわらず、ゴジラという架空の生物を設定すれば、こうした人々の生活が元通りになっていないのに、あたかもハッピーエンドが訪れたかのような錯覚を人々に起こさせ、現実に起きた災害の苦しみから、意識をそらすことができる。こうしたごまかしは、たとえフィクションと言っても、許されるべきものであろうか?

この映画には、現実に起きた巨大災害、しかも、未解決の災害の映像をふんだんに参考材料にしながら、それを「ゴジラが原因で引き起こされた災害」にすり替えることによって、今も政府によって見捨てられたも同然に、被災地に置き去りにされ、被害から立ち上がれないでいる人々の苦しみや、復興に至っていない地域の苦しみをごまかし、こうした生きた現実を忘却させ、風化させて、政府の無能さと無責任からも人々の目をそらし、現実のすべての深刻な問題の重さと教訓を、フィクションの軽さにすり替える効果がある。

さらに、政府を英雄化することによって、観客の意識をまるごと架空の世界に逃避させて、政府の責任を忘れさせるだけでなく、現実に今、実際に何が起きているのかを忘れさせようとするトリックが随所にしかけられているように思われてならない。
 
  たとえ映画といえども、このようなフィクションは、忘れてはならない災害の教訓をより風化させることに貢献するだけであって、しかも、3.11は、自然災害と人災の組み合わさったものであって、その災害は、いついかなる場合にも繰り返されうる生きた教訓であるにも関わらず、それさえ、ゴジラの脅威にすり替えることによって、嘲笑するかのように、ないがしろにし、忘れさせてしまうものであると感じられてならない。

ゴジラの脅威に対する対策は全く必要ないが、すでに起きた自然災害への教訓は、未来へ生かさなければならない。そうしなければ、二度、三度でも、同じことが起きうる。にも関わらず、現実の政府は、過去の教訓に一切、学ぼうともせず、そこから目を背け、適切な避難計画さえもないまま、原発を無理やり再稼働させているような有様である。
 
この映画は、そのような政府の暴挙を人々に忘れさせて、国民に向かって「あなたがた愚民は、自分で考えたり、行動しようとはせず、政府の指示にさえ従っておけば、それで良いのですよ」と訴えかけ、そうした考えを刷り込む効果を持っているようにしか見えないのである。

結果として、この映画は、3.11とその結果起きた原発事故の被害についての政府責任をごまかし、自然災害の教訓を生かす対策が何ら取られないまま、政府による原発再稼働という狂気の策が実行されている恐ろしい現実を、ゴジラの脅威という架空の物語と合わせることによって、巧妙にごまかそうとするトリックだとしか考えられないのである。

しかも、この映画のストーリーは、現実に起きた災害だけでなく、未来に起きうるであろう災害からも人々の目をそらさせる効果を持っている。

すでに指摘されていることであるが、物語の政府は、あり得ないほど美化された政府であって、現実の日本政府には、映画に見られるような危機管理能力は全く存在しない。福島原発事故に際しても、政府も東電も、チェルノブイリ原発事故を石棺化するために身を投じたリクヴィダートルのような「決死隊」を組むことができなかったのだから、たとえ相手がゴジラであっても、そのような決断はこの国の人々には決してできはしない。

フィクションだからこそ、そのような「英断」が可能となるのだが、それでも、フィクションの世界でさえ、そのような「ヒロイズム」は、勇気ある美しいストーリーというよりも、戦前の特攻のような人命軽視の精神の上にしか成り立たない痛ましい犠牲だと思わずにいられない。

ゴジラへの自衛隊員の突撃シーンで思い起こされるのは、安倍内閣の解釈改憲のために、「駆けつけ警護」などを命じられ、世界の戦闘地域に実際にこれから派遣されようとしている自衛隊員の苦悩である。


ゴジラと闘わされた自衛隊員は多くが死出の旅路へ赴かされ、生還しても、トモダチ作戦以上の被爆が予想されるわけだが、このような「特攻」の任務を帯びた自衛隊員の苦悩には、映画では全くスポットライトが当てられない。ただ彼らの死と引き換えに東京が守られ、「国体が護持された」ことが、政府の作戦の成功をもたらす自衛隊の快挙とみなされるだけである。

さらに、ゴジラの危機のために、民間企業も操業を停止して、戒厳令が敷かれて国民生活は根こそぎ奪われ、すべての国民が個人生活を犠牲にして、国家総動員体制によって、ゴジラ駆逐に励んだことが、国民の団結と、ヒロイズムとして賛美される。そのような価値観自体が、敗戦と共にとうに死んで終わったものではなかったのだろうか?

しかも、さらに悪いことに、この映画では、ゴジラ駆除のための米国と国連による核の先制使用の提案に、日本政府が勇気ある反対を唱えて国土を守ったことになっているが、現実には、恐ろしいことに、「安倍首相 核先制不使用、米司令官に反対伝える 米紙報道」(毎日新聞 2016年8月16日)とのニュースにも明確に表れているように、日本政府こそが、オバマ大統領が宣言しようとしている核の先制不使用に対して、今もって猛烈に反対を唱えて、日本の国土を危険にさらしている張本人なのである。この映画はそのことも人々に忘れさせてしまう。

映画は、国土を守り、国民の命を心配する、ありもしない英雄的な日本政府の姿を描き出すことによって、実際にこの政府が行って来たすべての無責任行為と悪しきイデオロギーを覆い隠し、この国の政府の真の姿を隠す効果を持つのである。

このように、この映画には、我々が決して目を背けてはならない現実の深刻な出来事に関する様々な概念のすり替え・歪曲が満ちており、とりわけ、政府や東電の「戦犯」を免罪し、現実には国民を救えなかった無力で無責任な政府を、現実を無視して美化し、英雄化するという偽りのプロパガンダ的ストーリー立てが強く感じられるものとなっている。

要するに、この映画は、3.11と福島原発事故に今もって全く対処できておらず、その教訓を、将来的に起きうる災害への備えとして生かすこともせず、現実から目を背け続けて原発再稼働に走っているだけの無能な日本政府を美化し、しかも、国民をそのような無力かつ無責任な政府の助けなしには生きられない「愚民」として描き出すことにより、この国の歪んだ統治体制がいついつまでも変革されることもなく、永久に変わらないことを願って作られたものだとしか思えないのである。

この映画に天皇は登場しない。なぜなら、この映画の「主権者」は、事実上、国民でもなく、天皇でもなく、官僚だからである。「この国はまだまだいける」とか、「戦後は続くよどこまでも」といったような言葉さえも、実のところ、官僚主導の統治体制を賛美するものなのであって、官僚独自の「君が代」なのだと感じられてならない。

現実の日本政府は、英雄どころか、極度に追い詰められているはずであり、ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代は過去となり、アベノミクスには成果がなく、福島原発事故の収束にはめどが立たず、国際的にも事故処理の遅れを非難され、しかも、平和憲法を骨抜きにし、挑発的で好戦的な軍国主義的スローガンばかりを唱えているので、周辺諸国との関係は悪化し、いつ戦争に巻き込まれてもおかしくなく、その戦争を勝ち抜くだけの国力はこの国にはもうないのに、軍備をいたずらに増強している。再稼働した原発がいつ災害に見舞われ、二度目、三度目のフクシマが起きてもおかしくないが、原発を断念するだけのひとかけらの知恵もない。

かつての敗戦時と同じように、こんな体制には、できるだけ早く何かの政治的変革によって終止符が打たれなければ、我が国がまるごと滅亡し、未来をつなげないところまで来てしまっている。

このように、脅威はゴジラなどでなく、現存する日本政府にこそあり、政府は、自然の摂理を無視して自滅へと向かっているのに、この映画は、政府の罪を免罪する上、未だ国体の護持だけが最高の理想という考え方を全く脱し切れていない。その国体も、結局、敗戦によって敗れたはずの政治家と官僚制を永遠に温存するための体制でしかないのである。

この映画は、「ゴジラ」という仮想敵を作り出すことによって、本来は、日本政府そのものの中に潜んでいるはずの「魔物」を、巧妙に政府から分離・抽出して、この架空生物だけに一身に投影した。それによって、あたかも政府には罪がないかのように、政府が現実に担うべき責任を曖昧化し、ごまかしている。
 
さらに、「ゴジラ」という人類共通の敵を口実にしさえすれば、政府はいくらでも軍備を増強し、首相判断で、超法的な武器使用の可能性も認められ、事実上、無制限の権力が与えられる。その一方で、国民は緊急事態と戒厳令によって家屋や疎開先に物のように押し込められ、主体性と個人生活を奪われても当然ということになる。こうした筋書きそのものが、悪質な誘導だと筆者は感じざるを得ない。

現実世界には、「ゴジラ」など存在せず、「魔物」は決してこうした誰にでも分かる怪物の姿を取って現れることなく、むしろ、いかにも正しそうに見える普通の人間、いや、普通よりも優れているように見える人間の中にこそ潜んでいるものであり、その魔物は、米国でもなく、国連でもなく、他でもない我が国の政府にこそ、潜んでいるのである。
 
本当は、自分たちは悪を退治する正義の味方で、追い詰められて可哀想な人々を守る英雄だと言っている人々の中にこそ、ゴジラはいるのであって、国民を放射能の脅威にさらし、国際的に害を垂れ流す日本政府の中にこそ、退治されねばならない「ゴジラ」の姿がある。

にも関わらず、政府が己が罪を「ゴジラ」に転嫁することで自分自身を免罪し、自己を英雄化して、現実に直面している危機を忘れようとしているのであれば、それは悪質な目くらましであり、破滅へ至る現実逃避以外の何物でもない。そのような架空のヒーローに自己を重ね、陶酔に浸る人々も、同じように現実逃避する魔物なのである。

真に駆逐されるべきゴジラとは、実は日本政府に他ならないのだという事実を、改めて目を見開いて直視せねばならない。

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カルト宗教と一体化し、自己を神として、神と人類を敵に回す日本政府の狂気からはエクソダスせよ

日々蝉の鳴き声が盛んだが、日によってはすでに秋の気配が感じられるようになった。
 
安倍首相が初めて二度目の夏休みを取ったというが、歴代首相で最長というこの夏休みのニュースには我が国の先行き不安と首相の悠長かつ不適切な判断に不快なものしか感じられない。「安倍首相が“2度目の夏休み” 歴代首相で最長休暇は確実」日刊ゲンダイ 2016年8月10日」

ちょうど今上天皇の生前退位を示唆するメッセージが発表されて、80代の天皇がこのまま激務に忙殺されて十分な休みも取れないようなあり方で良いのかという議論が起きて来たばかりである。

そんな頃、今上天皇に比べはるかに若いはずの我が国の首相が、まるで自分は天皇以上の存在だとでも言うかのように、公務を差し置いて自らの休暇を優先していることには、国民はおろか、天皇に対してまでも、当てつけめいた意図を感じずにいられない。おそらくそう考えるのは、筆者だけではないように思う。

首相が休暇を取ること自体が、国にとってはあまり喜ばしいニュースではない。北朝鮮のミサイルの発射をこれ幸いとばかりに、周辺諸国の脅威を煽っては、軍国主義化に邁進しようとしている現政権の、この呑気さは何だろう。しかも、高齢者でもないのに、二度までも夏休みを取らねばならないのは健康不安があるからではないのか、といった憶測が生じるのも当然である。このように危機感のない国が、たとえいつどこから攻められたとしても、国防などできるはずもないことは明白である。

安倍首相については、長崎の原爆投下の日、平和式典では、まるで学級崩壊したクラスの不良少年のように、注意散漫・気もそぞろな姿が撮影されている。(「【これは酷い】長崎原爆の日、安倍首相は退屈だった?耳をかいたり眠そうな表情が激写される!#原爆の日」2016年8月9日)

これは首相がただかつての大戦の敗北を認めるつもりがなく、米国と同じように原爆投下によるキリスト教徒の抹殺に内心で拍手を送り、平和式典にまるで関心がなく、参加するのも嫌々で、退屈だったというだけではない。これほどの集中力の欠如は、やはり病気が原因で生じるものなのではないのか、という危惧も生じる。いずれにしても、自分にとって関心のない事柄については全くそっけなく、うわべだけでも真剣な態度が取れない首相の振る舞いは、精神的にも幼児化していることを如実に物語っている。

だが、今や日本政府はそのものが、幼児化が甚だしいというべきか、凶暴化しているとでも言うべきか、国内外を問わず、誰彼構わず、高飛車に喧嘩を売っては、挑発的な振る舞いを繰り返しながら、敵を作り続けている。
  
政府の敵意は誰よりも国民に向けられているが、政府の国民蔑視の姿勢が何よりも明白に現れている場所は、まずは沖縄だろう。北方領土についても「歯舞」すらもまともに読めず、参院選では、沖縄の民意によって公に拒否され落選の憂き目を見た島尻安伊子氏を、「知識や経験があるから」として、再び沖縄担当大臣補佐官に任命しようという、あきらかに沖縄の民意を逆なでする当てつけ人事が発表されたのもつい数日前である(「落選の島尻氏を大臣補佐官に起用へ…鶴保沖縄相」読売ONLINE 2016年08月10日)。

同時に、沖縄県東村高江における米軍のヘリパッド建設現場では、ヘリコプター発着陸のための訓練場とは名ばかりで、連日、オスプレイが飛び交う騒音に苦しめられた住民が、これ以上のヘリパッド建設は生活を不可能にすると反対して、工事を阻止するためのデモを行っている。だが、この建設反対派の住民に対する政府の弾圧が強化され、あろうことか、本来は、沖縄における米軍属による女性殺害遺棄事件を受けて、住民の安全確保のためのパトロール強化を任務としているはずの機動隊が、ヘリパッド建設反対派を排除する弾圧に乗り出し、住民を殴る・首を絞めるなどの暴行に及び、住民の車を法的根拠もなしに強制的に撤去したり、工事を口実に村への出入り口も封鎖したりして、地元の人々の日常生活に重い支障をきたしているという。
 
数日前に、ついにヘリパッド建設反対派の中から逮捕者まで出たことが発表されたが、その逮捕も、結局のところ、警察による全くの不当逮捕でしかなく、反対派の走行者に対する警察からの一方的な幅寄せがあったことが動画によって明らかになり、逮捕者は釈放された。「【沖縄・高江発】不当逮捕明らかに 検察勾留できず男性釈放] 」IWJ 2016年8月12日」

これは、たとえ容疑が立証できずとも、とにかく逮捕という既成事実を作ることによって、「政府の政策に対する反対デモなどに参加すれば誰でも逮捕されるのだ」という恐怖感を国民に植えつけるためにこそ、当局によって行われていることである。

そんな中、米軍属によって殺害された女性に関するその後の報道は意図的に隠され、ほとんど聞かれもしない状態となっている。筆者は、この女性が行方不明になった4月28日が、安倍内閣によって定められた「主権回復の日」であることが、偶然とは思えないということをかつて記事に書いた。

この「主権回復の日」なるものの虚偽性については、植草一秀氏が記事「沖縄切り棄て米軍占領継続熱烈歓迎した吉田茂」(2016年8月13日)に詳細に記しているが、驚くべきことに、この日は、安倍氏の祖父である岸信介が公職追放を解かれた日でもあるという。
 

「1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は主権を回復した。
そして、この4月28日は安倍晋三氏の祖父にあたる岸信介氏の公職追放が解かれた日でもある。

「そして、1952年4月28日の「独立回復」は、沖縄を米国に献上するかたちでもたらされたものである。

 サンフランシスコ平和条約には、沖縄を含む南西諸島を国連憲章第77条「敵国条項」を用いて日本から分離した「信託統治制度」のなかに位置づけ、さらに国連憲章第82条の「戦略地域」に指定し、沖縄を軍事利用して支配する条項が盛り込まれた。

 このなかで、沖縄については、
「日本は、アメリカが国連に対して、沖縄を信託統治制度のもとに置くという提案をした場合に、無条件でそれに同意する」
という表現を盛り込んだにもかかわらず、アメリカは結局、1972年の沖縄返還まで、一度もその提案をせず、沖縄を完全な軍事占領状態に「合法的に」置き続けたのである。

沖縄を米国に献上し、米軍の日本駐留を引き続き認めることと引き換えに、日本が「見かけ上の独立」を回復したのが1952年4月28日である。

沖縄は日本の「見かけ上の主権回復」のために切り捨てられたのである。
4月28日は沖縄にとって「屈辱の日」である。

ブログ 「植草一秀氏の知られざる真実」の記事「沖縄切り棄て米軍占領継続熱烈歓迎した吉田茂」(2016年8月13日)から部分的に抜粋


この虚偽的な「主権回復の日」にこそ、米軍属による殺人・死体遺棄という、沖縄にとってさらに忘れがたい屈辱的な事件が起きたのだと推測されるのだが、このタイミングの忌まわしさを置いても、この悲しい記念日の名称には、沖縄のみならず、日本全体を愚弄しようという意図が明白に込められているように思われてならない。

つまり、沖縄を切り捨てただけでなく、A級戦犯であった岸信介が公職追放を解かれた日に意図的に合わせて定められた「主権回復の日」という、まるで名ばかりの記念日の存在そのものが、悪意を込めた国民へのダブルメッセージなのであり、「沖縄はもちろんだが、日本人全体に絶対に主権回復などあり得ないことを覚えておけ」という米国(と日本政府)からの脅しの意図が込められているとしか思えないのだ。

岸信介に代表されるように、敗戦によって敗れ、罪に問われたはずのかつての旧日本政府の面々が、「共産主義の脅威」を口実にして、米国とタグを組んで政界に返り咲いたその時から、日本政府と米国はずっと国民を欺きながら、国民のためを装いつつ、国を売り続けて来たのである。

2013年4月28日の式典で起きた「天皇陛下万歳」三唱も、そのような文脈で、とうに敗れたはずの勢力が、かつての軍国主義や国家神道の復活を祝う精神から出たものであり、当然ながら、その式典は沖縄県民の巨大な反発を招いたのみならず、近隣諸国からも、改憲と軍国主義化へつながる動きとして警戒心を呼んだ。

当の天皇・皇后にとっても、この万歳三唱は予想外の出来事であったと見られ、こわばった堅い表情が映像におさめられている。
 


 天皇陛下万歳? 沖縄切捨て! 別世界に住む日本政府の政治屋と沖縄市民


 20130503 「天皇陛下への万歳さんしょう」に中国政府が批判(上海ATV)



 安倍继续"向右跑":煽动右倾不遗余力 安倍高呼"天皇万岁"
(この最後の動画は、中国語が理解できずとも、少なくとも、安倍氏が諸外国からどのような人物と映っているのかが客観的によく分かる映像である。)
 
さて、日本政府の中では、米国と組んでこのようなダブルメッセージによって国民を欺くことが、サンフランシスコ講和条約の時点から習慣化しているのだと見られ、そのような考えに立ってこそ、高江に派遣された機動隊も、沖縄の住民の安全のためのパトロール強化という任務を、住民弾圧へとすり替えたのである。

こうした政府の所業から見えて来るのは、「日本国民に決して自由と安全を与えるまい」という、悪意に満ちた断固たる決意であり、本来、国民の自由と安全と幸福追求のために提供されなければならない全ての公のサービスを、国民を騙し、抑圧し、自由を奪って、苦しめるために用いようという明白な悪意である。その悪意をもはや隠し立てすることさえなく公然と提示するようになっているのが、現在の政府である。
 
 日本政府にとって、我が国には「民意」などあってはならず、「米国の意向」と「政府の意向」だけしか存在してはならないのであろう。高江に派遣された機動隊による住民弾圧は、いずれ政府が警察や自衛隊を用いて、不都合な国民全体に対する監視と抑圧を強化し、大規模な弾圧を決行しようとしている計画の明白な表れである。
 
政府にとって国民とは欺き、収奪する対象でしかないのだ。アベノミクスに成果が出ず、今や国の財政赤字が過去最高に達していることが、ここ数日前に発表されたばかりだが(「「国の借金」1053兆円 国債残高、過去最高に 」日本経済新聞 2016/8/10)、政府は自分でこしらえたこの法外な借金をすべて「国民1人当たりでは約829万円になる」などと、国民の借金と偽り、詭弁によってその責任を国民に転嫁しながら、国家公務員の給与だけを引き上げ、焼け太りを続けている(「国家公務員の給与引き上げを勧告 人事院、3年連続」朝日新聞DIGITAL2016年8月8日」)

国家財政が赤字で、民間企業でさえ経営難にあえぐ中、国家公務員の給与だけを引き上げる根拠など存在するはずもなく、これはすべて国民を欺くためのトリック以外の何物でもない。国の財政が破たんしても、自分たちの給与だけは引き上げ、ツケはすべて国民に回そうというのが、官僚集団の思惑なのであり、官僚はもはや国民に敵対する、国民への寄生階級になってしまっている。

深刻な問題は、そうした政府の唯我独尊の姿勢、傲慢さ、のべつまくなしの無差別的な敵意と、終わりなき収奪の願望が、もはや自国民のみならず、天皇や、他国にまでも向けられ、今や政府自体が、国際的に無差別的な敵意の塊となって、反人間的な道を歩んで、人類の敵となろうとしていることである。

沖縄ヘイト、という言葉もあちこちで使われているが、全国民に対するヘイトが始まっていると言って差し支えなく、沖縄・福島での棄民政策も含め、要するに、政府は自らの政策の誤りを消して認めたくないために、自らの政策の犠牲になった人々、つまり、政府の罪の生き証人となった人々に対してとりわけ激しい憎悪を向けて、彼らを弾圧し、口を封じることで、自分自身の罪から目を背けようとしているのである。

このような精神病理的な傾向がより重症化すると、やがて日本政府は身勝手な偽りの「正義」を掲げて、国民全体への弾圧に乗り出すだけでなく、国際社会においても孤立し、人類全体の敵と化することになる。ちょうどかつての大戦時にそうであったようにだ。そうなると再び、うわべだけの大義名分の下、全人類を破滅に追い込むような暴挙に打って出ることが予想され、それはすでに始まっていると言えよう。

オリンピックで人々の関心を巧みにそらせながら、四国電力の伊方原発が再稼働されたことも、そうした破滅への兆候の一つである。さらに、オリンピックのどさくさに紛れて、ウクライナがクリミアに破壊工作をしかけたというニュースもあるが、米国もまた工作に余念がないようである(「クリミアでの破壊工作」ロシアNOW 2016年8月12日 。)

原子力の火は、人間の制御の力を超えた、人類には扱い切れない技術である、ということが、福島原発事故以来、我が国の人々の間で共通認識のようになっているが、原子力は悪魔が人類に与えた誤った知恵であり、「サタンの火だ」ということも言われる。(たとえば、クリスチャン・トゥデイの記事「「天の声・地の声・人々の声を無視」伊方原発が再稼働 地元団体代表の信徒・牧師や市民団体らは強く抗議」2016年8月13日)

別にキリスト教徒でなくとも、福島原発以後、原子力の火を弄ぶことの手痛い結果は、国民の大半が認識している。
 
しかし、日本政府は、この「サタンの火」を公然ともてあそびながら、今や人類史上、誰も足を踏み入れたことのない未知の領域に踏みこみ、かつての国家神道の時代と同じように、自ら神になって、万象を操ろうとしている。これはあまりにも無謀かつ絶望的な試みであり、神と全人類に対する挑戦である。特に、伊方原発は日本最大級の断層帯の真上に立つ最も危険な原発なのだと専門家は指摘する。
 

再稼働した伊方原発は日本で一番危険な原発だ! 安全審査をした原子力規制委の元委員長代理が「見直し」警告」LITERA 2016.08.12. から抜粋

というのも、伊方原発は日本に55基ある原発のなかでも“もっとも危険な原発のひとつ”と指摘されているからだ。

 その理由はいくつかあるが、いちばん大きいのは、伊方原発が日本でも有数の大地震に襲われるリスクを抱えているということだろう。伊方原発のそばには日本最大級の断層帯である「中央構造線断層帯」が、南には活発で大規模な地震発生源の南海トラフが走っている。

 特に「中央構造線」は、九州の西南部から、四国を横断し紀伊半島、関東にまで延びる日本最大級の活断層で、熊本大地震で大きな注目を浴びたものだ。これまでこの「中央線構造線」は活動していないと思われていたが、実際には九州、四国などでおよそ2000年に1回動いており、1595年に四国西部から九州東部にかけ、「中央構造線」を震源とするマグニチュード8クラスの巨大地震が起こっていたことも判明している。

 そして伊方原発は、この「中央構造線」が走る断層からわずか5キロ、ほぼ真上といってもいい場所に立地しているのだ。

 しかも、「中央構造線」は熊本地震をきっかけに活動が活発化、熊本地震で断層の延長上にひずみがたまったことで、四国側の「中央構造線」が動く危険性が指摘されている。もし「中央構造線」を震源とする地震が起きれば、伊方原発を10メートルを超える大津波が直撃する恐れがある。

 しかし、四国電力は一貫して「瀬戸内海に津波は来ない」と津波対策をとっておらず、このままでは福島第一原発事故の再現が起きかねない。

<中略>

伊方原発は、日本で唯一、内海に面している原発であり、外海に面していた福島原発事故と比べても、瀬戸内海における放射能汚染の濃度は格段に高くなることが予想され、またその影響は長期に及ぶだろう。しかも、伊方原発ではプルトニウムMOX燃料が使用されるが、これも事故の際のリスクを高めるものだ。

 さらに、事故の際の住民たちの避難も困難を極める。伊方原発は佐田岬半島の入り口、付け根部分に立地しているが、その先の半島部分には実に5000人もの住人が生活している。もし伊方原発で事故が起こり、放射性物質が放出されても、住民は原発に向かってしか避難できないことになってしまう。つまり逃げ場を失ってしまうのだ。 


こうして日本政府が自作のハルマゲドンに向かって突き進んでいる中、有事の際、米国が日本に助けの手を差し伸べてくれるだろうか? 米国を隠れ蓑にすれば、日本政府に追及の矛先が向くことはないのだろうか? いや、筆者は、その時には、日本政府は頼みの米国からも梯子を外されることであろうと思う。

人間の心には、たとえ信仰心がなくとも、良心という機能が備わっており、これが人間の地上での営みにおいて、限りなく重要な役割を果たす。人の良心は、人間の未来予測と密接に関わっており、何が人にとって危険であるのか、前もって教えてくれる灯のようなものだ。ところが、この良心の機能を麻痺させて、営利と我欲だけに突き進み、自分自身の振る舞いを客観的に真摯に反省することができなくなった人間は、事実上、もう終わりである。

このことは、組織や集団にも当てはまり、保身と自己正当化の思いに目をくらまされて、良心のブレーキの利かなくなった団体は、まるで自爆テロ犯のように、自己を無謬と(己を神と)し、誰からの忠告にも耳を貸さなくなって、パラノイド的な妄想に突き動かされて、悲劇的な最期へ突進して行くことになる。

そのような良心を麻痺させる精神病理的な傾向(=カルト化)が、日本政府には相当重症に進行しているのだと言えよう。

ネオナチや在特会と密接な関係があり、生長の家の創始者谷口雅春を信奉し、「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」と述べて、かつての戦争を美化・肯定する稲田朋美氏を、安倍氏が防衛相に起用したことも、国際的に近隣諸国への重大な当てつけ・挑発行為であり、人類社会全体への挑発行為であると言える。この人事は早くも国際的な警戒を呼び起こし、米国からさえ稲田氏に対して靖国参拝を控えるよう忠告があったと言われる。

このようなことはすべて日本政府のカルト化の結果であり、政府はもはや自国民のみならず、誰彼構わず、のべつまくなしに敵意を振りまく狂った要塞のようになっている。このような精神病理的傾向が強まると、最後には、まさしく日本政府そのものが人類全体を敵としながら、オウム真理教のように反人間的な集団的決起に至ることが予測される。

つまり、人類全体に対して隠し持った憎悪と敵意を、「人類救済」という名で美化し、カモフラージュしながら、何かしら空恐ろしい終末論的な破滅へ突き進んで行くことが予想されるのである。

このような予測は、決して大袈裟な冗談や杞憂ではない。川内原発を再稼働と同時期に起きた熊本地震の教訓にも学ばず、今度はさらに危険な伊方原発を再稼働し、稲田氏のように戦争を美化する人間を防衛相に据え、沖縄では警察や機動隊を使って自国民への弾圧に血道を上げている政府のすべての政策が、彼らが計画している将来的なハルマゲドンをよく物語っている。

要するに、緊急事態条項も、原発再稼働も、戦争も、すべてはカルト化した政府が自ら引き起こしている「終末」の一環なのである。我が国政府は、狂気の理念に駆られて、もはや人為的な「世界の滅亡」に向けて着々と準備を進めているのだと言って良い。

このようなことを空想として一笑する前に、我々は現実に起きたオウムの事件から学ぶべきである。オウム真理教がなぜ省庁制を取っていたのか、なぜ政府を模した機能を教団内部に抱えていたのか、サリン製造をどのような形でカモフラージュしていたのか、このことを思い出すべきである。

オウムの教団内でサリン製造に関わっていた村井秀夫氏は、当時、教団の科学技術大臣に任命されていた。そして、農薬の開発という「平和利用」を装ってサリンを開発していたのである。なぜなら、農薬の製造過程と、サリンの製造過程は途中まで同じだからである。

オウムによるサリン製造は、現政府のしていることとそっくり同じである。オウムは政府の外に政府を模して作られたカルト宗教だったが、現政府は日本会議・統一教会・創価学会などのカルト宗教と一体化している。そして、政府が推し進めている「原子力の平和利用」も、「原子力の軍事利用」と途中まで行程が同じなのである。

実際に、「原子力の平和利用」は、「軍事利用」と初めから表裏一体なのであり、そうであるがゆえに、日本政府は「潜在的な核保有国」として国際的に常に監視の対象とされて来た。しかし、政府を監視しなければならないのは国際社会だけではなく、国民も同じである。

日本が「平和利用」という表向きの顔の裏側で、核兵器になりうるプルトニウムを抽出する技術を保有し続けることが何を意味するのか、そして、なぜプルトニウムMOX燃料を使う伊方原発の再稼働に走ったのか、考えてみるべきであろう。

専門家の間では「核兵器と原発は一卵性双生児」(PRESIDENT ONLINE 2011.12.26)と言われ、「原子力の利用は、〝表〟の原子力発電という平和利用の側面だけではない。軍事利用という〝裏〟と密接に絡み合っている。」ということは常識である(「日本が核武装? 世界が警戒するプルトニウム問題」NEWSWEEK日本版 2015年11月24日)。

さらに、2014年から発表されていた「米国が日本にプルトニウム300キロの返還を要求している」というニュースもまだ記憶に新しいが、これが物語るのも、冷戦時代から、日本を「反共の砦」としたかった米国が、当時から研究開発用に日本にプルトニウムを大量に貸与し、日本政府による核研究を極秘に認めていたという事実である。

何のための「研究」か? 詳しく書かれていなくとも、答えは明白である。日本がオバマ政権に返還を求められたプルトニウムの量は331キロで、「高濃度で軍事利用に適した「兵器級」が大半を占める。」と言うから、明らかに軍事利用を想定した研究開発のために提供されたものだと見ることができる(「日本のプルトニウム移送へ 3月末にも兵器級331キロ」佐賀新聞 2016年01月04日参照。)

つまり、これは「共産主義国の核の脅威に対抗する」ために、日本を極秘に核武装させて米国の防衛力を強化するための一助とするために提供されたものだとしか思えないのだ。つまり、冷戦時代から、日本政府による核開発は、米国の暗黙の承認のもとで、両者の間では公然の秘密のようになっていたと見るのが自然なのである。
 
日本が保有するプルトニウム全体の量は約300キロどころでは終わらず、この返還要求について、次のようにも書かれている、(返還の)「対象は日本が保有するプルトニウム約44トンのうちの約300キログラム。高濃度で核兵器にも転用可能な核物質だ。」。これによれば、日本は、米国に返還を求められた150倍近くものプルトニウムを保有していることになる(「米にプルトニウム返還 政府調整、核不拡散に配慮 」日本経済新聞 2014/2/26付)さらに、これさえ少なく見積もった場合の数字であって、別の指摘では、国外で処理中のものも含めると、日本が保有する兵器級プルトニウムは約70トンに達するとの声もある。

こうしたことが意味するものは何か? いい加減に我々国民は気づくべきなのだ。こうした報道が物語るのは、冷戦時代から、日本政府は、国民の目を欺いて、米国の暗黙の承認のもと、極秘に核開発を進めて来た可能性が極めて高いことであり、日本にプルトニウムが貸与されたのも、その一環で、冷戦時、いつ勃発しておかしくなかったソ連との核戦争に備えて、日本が米国の一助として核武装できるように準備しておくために他ならなかったと見られる。

そして、今もって我が国における原子力の利用が推進されているのは、断じてエネルギー政策のためなどではなく、初めから軍事利用が主たる目的なのである。「平和利用」の側面は、平和憲法のもとで原子力の真の利用目的を隠すためのカモフラージュに過ぎない。もしそうでないならば、なぜ電力が余っているのに原発を再稼働する必要があるのか? なぜ地震が来れば国土が壊滅する危険性さえかえりみずに再稼働する必要があるのか? なぜ我が国では、軍国主義を肯定し戦争を美化する人間が堂々と防衛相となり、日本の核武装も辞さないとする人間が都知事になったりするのか? 

これらの事実が公然と示しているのは、原発再稼働は、日本の潜在的な核武装のために必要不可欠な措置であると政府が考え、また、政府が将来的な核武装を悲願としているがゆえに、これを手放すことがどうしてもできない、という暗黙の事実である。ただ単に電力会社の巨額の利益のためだけに原発が再稼働されるのではない、と考えるのが自然であろう。

また、このことは、なぜ福島原発の事故後にも、東電を破産させて解体することが、政府に出来なかったのか、という理由をも推測させる。もし東電が解体されていれば、原子力の平和利用の名の裏側で、国内の原子力施設で実際に行われていることの実態が外に知れてしまったであろう。米国に返還を求められた約300キロのプルトニウムについても、一体、それが日本のどこに保管され、どのような施設でどのような目的のために利用されて来たのか、全く明かされてはいない。

つまり、原子力の利用については、全てに秘密のベールの覆いがかかっているのであり、政府はどうしてもその実態が世間に知れることを避けねばならなかったためにこそ、未だに東電を破綻させるわけにいかないのだと考えられる。
 
オウムの事件は、政府がカルト宗教と一体化すると、どういう結末が起きるかをよく物語っている。我々はオウム真理教の事件から学ぶべきである。村井秀夫が大臣となったオウムの科学技術省は、形を変えて、今やカルト宗教と一体化した政府の中に存在しており、民間企業と手を携えて、国民を殺戮するための兵器を開発している、という危惧は、単なる空想で済まされようか?
 
現政府はすでに宗教カルトと一体であり、今後、何かしら大がかりな「終末」に向かって坂を転げ落ちて行き、その時、主役となるのは、サリンではなく、原子力であると考えられるのだ。そしてそれはすでに始まっているのである。

こうしたことを考えると、プロテスタントのキリスト教界のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する村上密牧師や、KFCのDr.Lukeが、盛んに「キリスト教界のカルト化」現象を訴えて、キリスト教を攻撃して来たのも、ゆえなきことではないように思われる。これもまた「政府のカルト化」から国民の目をそらせるための目くらましの一環なのである。

そもそも、自身が統一教会の出身で、初めは統一教会の危険性を訴えていたはずの村上氏が、「カルトとの闘い」の過程で、他のどんなクリスチャンよりも悪質に、キリスト教をカルト化のターゲットとして攻撃するようになったことも、非常に不気味な現象であり、また、Dr.Lukeもキリスト教界を攻撃しているうちにすっかり聖書から逸れて異端へと落ちて行ったことも、キリスト教徒を装う異端者によるキリスト教への攻撃が、どこから来たのかという疑いを持たせる。

こうした人々の引き起こしたキリスト教への敵対運動は、何よりも宗教カルトと結びついた「日本政府そのもののカルト化」や、統一教会などの宗教カルトの危険性を人々の目から覆い隠し、まるでキリスト教こそカルト化の温床であるかのように論点をすり替え、こうした問題をいわれなくキリスト教徒に転嫁して、キリスト教徒だけを悪者として断罪するための目くらましの運動だったのではないかと見られる。

だが、今や、最も深刻な問題は、日本政府そのものがカルト化していることであり、これを放置しておけば、必ずや、この先、政府はオウム真理教のような人工的なハルマゲドンを引き起こすことであろうし、すでにそれが開始しているということなのである。

さて、話は変わるようだが、天皇の生前退位という問題に移りたい。

今回、「お気持ち」表明によって示唆された今上天皇の退位の意向の表明を、護憲時代の終わりとして見るむきもあれば、そこでは退位という言葉も使われていない以上、これは民意に探りを入れる試みでしかないと述べる者もあれば、あるいは、今上天皇の生前退位の意向をさえ、改憲(壊憲)に利用したい勢力もあると予想される。

だが、今、生前退位を何かしらの政治的変革に結びつけたい人々の意図を全く別にして、筆者は、この天皇のメッセージにそれなりに重要な意義を見いださないわけにいかない。

それは、「主権回復の日」において唱えられた「天皇陛下万歳」という笑止千万な叫びにも見られるように、天皇を国家元首として祀り上げたい人々の思惑があるのに対して、今上天皇自身は、自らがそのような思惑と全く無縁であることを表明したことに加え、今上天皇のメッセージの中には、「人間を栄光化し、己の限界を超えて人を高く祀り上げるような偽りの栄光や地位にしがみつこうとする誘惑」に対する強力なアンチテーゼが込められているように受け止められることである。

日本人には、自己の限界や失敗を認めることを恥とするあまり、一旦、始めたことをいつまでもやめられないという悪癖がある。計画を中止すること自体が、自分の失敗を認める行為であり、恥である、という意識から、本当はとうに限界が来ているのに、いつまでも虚勢を張って、廃止しておくべき制度や計画をいつまでも無駄に残しておく悪習慣がある。

そのような虚栄心に基づいた「やめられない」悪癖は、我が国政府の原発再稼働や、沖縄の基地建設の強行にもよく表れているが、それらは戦前の「一億玉砕」といったスローガンや、「国民体力法」などに脈々と流れて来た精神を今日まで受け継いだだけのものである。

我が国では未だに、一旦、政府によって何かの計画が発表されると、それがどれほど失敗続きであろうと、まったく将来の見通しがなかろうと、見直しもされず、軌道修正もされず、国がとことん疲弊して、不可抗力によってそのプロジェクトに強制的に終止符が打たれるまで、延々と犠牲を拡大し続けながら、反省なしに続行されるという悪習がある。

政府には良心と自己反省の機能が備わっていないので、そうならざるを得ないのだろうが、このように己の限界をかえりみずに突き進む姿勢には、人間についてありもしない偉大な幻想を作り出し、人間存在に備わった自然な限界すらも否定して、人間を何かの大義名分を達成するための消耗品のようにみなす非常に危険な考え方がある。

前述したアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏についても、同氏が関わったうちで公に知られている最も最初の忌まわしいキリスト教徒への迫害は、村上氏が、義理の父であった津村昭二郎牧師が、生涯現役を貫き通そうとして引退を拒み、自らの後継者を自分の教会から追放する行為に加担したことに起因していることをすでに記事に書いた。

もしもこの高齢の牧師が「講壇で死にたい」などと主張して生涯現役を貫き通そうなどと考えず、快く後継者を育てて道を譲っていれば、そのような事件自体、起きなかった。
 
だが、以上のような事件は、超高齢化社会となった日本社会に満ち満ちている悲劇の一環でしかない。「生涯現役」というスローガンは、人が己の獲得した地位や権力を他者に譲り渡したくないという我欲と密接に結びついている。

たとえば、俳優や、教師や、牧師が「舞台で死にたい」とか「講壇で死にたい」などと述べることは、あたかも天職に邁進する人間の理想的な最期のように今でも美化されがちだが、ある意味では、そのような考えほど周囲の人間にとってはた迷惑な話はない。

まず第一に、高齢者がいつまでも自分の獲得した栄光ある高い地位にしがみつき続けると、後学が育たなくなり、社会全体の発展が遅れる。高齢者が地位にしがみつくことは、後学からチャンスを奪うことと同義である。

さらに、当然のことであるが、役者や、教師や、牧師が、「生涯現役」を唱え、高齢のために無理を押して重要な舞台や式典に立ち、そこで倒れ、亡くなったりしたところで、それによって利益を得る人間など誰もいはしないのだ。たとえ本人は舞台で死ぬことを本望と考えたとしても、周りはその死によって大迷惑をこうむるだけであり、何一つ得るものはない。

同様に、「(お国のために)血を流す覚悟を!!」という稲田朋美氏のような、うわべだけ勇ましさを装った大言壮語も、要は意味するところは全く同じで、高齢者であろうと、若者であろうと、そのように死に急ぐ人間は、一体、自分が死んだ後、誰がその後始末をするのかという問題にきちんと答えを出した上で、そのような発言をしてもらいたいものである。

エノクや、預言者エリヤのように、天に携え挙げられていなくなって終わるというのでなければ、誰しも、自らの死という出来事に際しては、必ず、他者の手を借りなければならないのである。

死は美しいものでも、単純なものでもない。約70年前に先の大戦により、大陸まで出かけて行って、そこで戦火に飲まれ、あるいは捕虜とされて亡くなった人々についても、今現在に至るまで捜索が続いている。後世の人々は、70年が経過しても、行方不明の人々を探し続けているのであり、戦争の混乱で、いつどこで誰が死んだのか分からないので、もう知りません、というわけにはいかないのである。

体制が変わっても、時代が変わっても、一人の亡くなった人間のために費やされる膨大な労力がある。まして尋常でない終わりに至った人々については払われる労力が倍以上になるのは当然であり、従って、もし政府が再び、無責任に国民の死を奨励するようなことがあれば、その後始末にかかる手間はどれほど甚大なものになるか分からない。
 
「散華」といった言葉で、死を美化し、死に伴う当然の備えすらもないままに、人々に己の限界を忘れさせて、無謀に死に赴かせるような無責任な教えは、それに酔いしれた人々の身勝手な自己満足以外には何ももたらすことなく、社会全体にとって甚だ迷惑な結果をもたらすだけであるということを、稲田氏のような人々には考えてもらいたいものである。

たとえば、三島由紀夫の割腹自殺という最期についても、現実は、人々が思い描くストーリーほど美しくない。そのような悲惨でむごたらしい死に方で自ら命を絶った人の最期を処理する人間や、残された人間がその死によって背負わされなければならないトラウマのことを、考えてみるべきである。

また、非業の死を遂げずとも、引退の時を間違えただけで、人の人生そのものが狂わされることは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の津村昭二郎牧師のみならず、KFCのDr.Lukeの人生を通しても理解できることである。

たとえば、Dr.Lukeの団体が、聖書の教えから逸れて、自己を神とするまでに異端化するよりも前に、幾度も同氏には引退のチャンスがあったことはすでに記事に書いた。Dr.Luke自身が引退を願い出たこともあるという話も関係者を通して伝わっている。

ところが、取り巻き連中がそれを許さなかったのである。だから、問題は己を栄光化する指導者だけにあるのではなく、指導者を担ぎ上げ、ほめそやし、おだてあげて、彼に力量以上の力があるかのように錯覚させて、破滅へと押し出していく取り巻き連中の罪も相当に重い、ということが確かに言える。
 
ヒトラーの伝記には、ヒトラーを祀り上げ、自惚れに陥らせた人々の中には、彼に心酔する多くの女性たちがいたことが記されている。ドイツの民衆だけでなく、ヒトラーのファンクラブのようなこの婦人たちのサークルが、この指導者をおだてあげて、自身を現人神のように錯覚させ、彼を人類浄化という異常な道に突き進ませ、なおかつ、その達成不可能な野望のために具体的支援を行ったのである。

どんな忌むべき指導者も、これを支持する取り巻きなしに登場して来ることはない。それはKFCも同じである。愚かな連中が指導者を祀り上げて、現実の人間から乖離した、ありもしない偽りの偉大なイメージを作り上げ、生涯、その幻想を現実であるかのように人々に錯覚させようと、指導者にヴァーチャルな自己像を演じ続けるように求め、その仮面を外すことを永久に不可能としてしまったのである。

だが、明仁天皇が、自分が人間として衰え行く中で、天皇が国家元首として祀り上げられ、「ヴァーチャルな人間像」だけが独り歩きすることを拒み、そのような動きに乗じて自らを栄光化するどころか、生前退位の意向をほのめかし、職務を降りたいという願いを率直に表明したことは極めて重要な出来事であると受け止められる。

明治以降、天皇という地位は、生きた個人の人格と切り離せないものと考えられて来たため、仮に今上天皇が今後、気力・体力の衰えのために公務を執行できなくなったとしても、本人が生前退位を希望しない限り、体力の衰えを理由に誰かが天皇に向かって退位を迫るということは、決してあり得ないことであろう。

だが、明仁天皇は、「天皇」という役割と、一個の自分自身を切り離せないものとしてはとらえていなかった。むしろ、自分は天皇である前に、一人の人間であり、また、そうでなければならない、という考えに立っていたのである。

天皇だからと言って、人間としての限界に関係なく、地位だけによって、己の存在意義を保つようなことはあってはならないこととして、形ばかりの地位にしがみついてそれを自己の限界から目を背ける口実とすることを拒否したのである。

さらに、こうした生前退位の意向のほのめかしから見えて来る事実に、戦後の天皇という仕事の重責がある。

今日でも、皇室や、天皇は、一般人とは別格の近寄りがたい存在として栄光化され、美化されているが、現実には、そのような栄光は存在しない、ということがそのメッセージからおのずと見えて来るのである。

高齢の天皇の公務のスケジュールがブラック企業並みに過密である、ということはすでに指摘されているが、そのスケジュールの過密さに加え、天皇とは、この国の誰もに与えられている基本的人権さえも及ばない、人権の枠外に置かれていると言っても良いような存在であり、そのことを通して、憲法が抱える重大な問題点が浮き彫りになったと言える。つまり、憲法は、あたかも戦後の平和憲法の象徴のような存在として天皇という地位を定めながらも、同時に、天皇自身を半ば憲法の枠外に置いていると言っておかしくないパラドックスを抱えていることが判明したのである。

つまり、憲法は、門地、家柄などによって、誰も差別されることはないと定めながらも、もし天皇を血筋によって生まれながらに天皇になるべく定め、自分の意志でそれを拒むこともできないとしているのであれば、それ自体が、憲法が禁じている差別ではないのか? そもそも皇室という存在そのものが、国民の間に作り出された差別制度ではないのか? 憲法の理念に照らし合わせると、天皇の地位と職務のあり方については大いなる改革が必要なのではないか? 果たして本当にそのような地位が今も必要なのだろうか? そうした矛盾が、今回の「お気持ち」表明と同時に噴出して来たのである。

それに加えて、戦後の天皇の公務に定められた仕事の内容についても、多くの吟味が必要であることが明らかになった。時代錯誤な「殯 (もがり)」の儀式だけでなく、宗教性を帯びた様々な儀式への参加は、見直されるべきであろう。
 
今日、天皇の公務の中でも第一義的に重要な仕事は、国民に対する慰霊事業であると言って良い。つまり、過去の大戦での犠牲者を慰めるという、いわば贖罪行為のような仕事が、天皇のとりわけ重要な仕事なのだ。

むろん、天皇が公に謝罪を行っておらず、戦争責任について裁かれてもいない以上、それが本当に贖罪と言えるのかどうかについては、議論の余地があることは確かであるが、少なくとも、明仁天皇が、ある意味、父の犯した罪の責任を無言のうちに背負いながら、それがあるために、国民に寄り添うためにとりわけ熱心に公務に当たって来たことは、否定の余地がない事実であるように思う。

だが、公に裁かれることがなかったからこそ、そうした贖罪行為は、終わりなきものとなっているのであり、このような形で戦争の犠牲者への慰霊という仕事を、生きている限り、一人の人間に負わせ続けるのは、果たして妥当なのであろうか? このようなことは、敗戦後も、天皇の戦争責任を決して公に問うことなく、中途半端な形で天皇制を温存したことの結果、生じたとも考えられるのである。
 
筆者はこれをかつての政府の罪を無罪放免するためについて言っているのではない。現存する日本政府は、敗戦で敗れたはずの勢力に率いられており、過去の大戦に対する真摯な反省の意も、罪の意識も存在しないと言って過言ではない。むしろ、過去の敗戦についての真摯な反省を天皇に押しつけて、慰霊事業さえビジネスに変えながら、過去を正当化して今日に至っている。
 
現政府は、このように過去の敗戦の責任をうやむやにし正当化するばかりか、やがて憲法を変え、核武装し、自分たちに科された全てのくびきを払い落として、再び戦争を起こしてでも、雪辱を果たしたい、と願っているのであり、しかもその際、自分たちの野望のゆえに引き起こそうとしている将来的な戦争をも、自分たちの責任とされないために、天皇の「鶴の一声」によって始まったことにしたいと考え、そのために、天皇の国家元首化を企んでいるのである。このような政府が、過去の罪を免罪されなければならない理由は全く存在しない。

だが、明仁天皇は、そのような流れからあえて距離を置いて、自分が一人の人間の限界を超えて「栄光化」され、高みに祀り上げられ、国家元首化され、神とされ、この国全体の将来的な責任を一身に押しつけられることを拒否して、むしろ、率直に自分は限界ある一人の人間に過ぎないことを表明し、自分の進退について、国民に理解を求めたい、と語ったのである。

このことは、官僚たちが天皇を隠れ蓑にして作り上げ、肯定して来た身分制度のヒエラルキーそのものに対する異議申し立ての意味合いを帯びているように感じられる。

現在、日本社会では終身雇用制も崩れて久しく、リストラが横行し、一人の人間が、どんなに同じ職場に勤め続けることを願っても、それは一般的に難しい時代となっている。政治家でも選挙に備えなければならず、落選の憂き目と無縁ではいられない。

そんな今の時代、官僚だけは、20代の前半ほどの年齢で国家公務員試験を突破しさえすれば、基本的にリストラに遭うこともなく、定年が来るまでヒエラルキーの中で出世の階段を上り続けられ、退職後も、天下り先で、巨額の収入を手に入れられることとなっている。

このようにして、時代の変化の波にさらされることもなく、時の政権によって交替を迫られることもなく、固定化した特権階級となって、国民に君臨する官僚機構と、これと密接に結びついた政財界が、強力な影の実権となって、法律を盾にとって、この国を操っているのが現状である。

官僚制度は、そのものが違憲であるということはすでに指摘したが、それにしても、官僚などよりも、はるかに正当な根拠に基づいて、「生涯現役」でいられ、その職務が、生まれながらの身分と一体となっていておかしくない天皇が、自らの地位や職務にしがみつくことなく、また、そうすることを正しいことだと思わず引退を表明したことの意味は大きい。

官僚と政治家が徹底的に国民を蔑視し、国民に君臨する支配階級であることだけを誇りにして生きているのに対し、天皇は自らのメッセージによって、自分が国民に君臨する存在ではないことを示し、しかも、この国のあり方を決めるのは、官僚ではなく、政府でもなく、国民であるという見解を改めて表明して、自らの進退を国民の手に委ねるために、国民に向かって語りかけたのである。

筆者は、天皇のメッセージをありがたがるためにこれを書いているのではなく、このメッセージに、「天皇とは国民統合の象徴である限り、天皇制を含め、この国のあり方を実際に決めて行くのは、政府ではなく、国民なのだ」という、極めて明確かつ健全な意図を感じ、そのような考えがこの国の重要なポジションにいる人々にまだ残っていたこと自体に、ある種の新鮮な驚きを覚えた。

たとえある人々が、あからさまに憲法の破壊を企み、また、皇室典範の改正云々についての議論も、自分たちにとって都合の良いように利用しようと狙っていたとしても、そのような人々の悪しき思惑とは無関係に、主権在民の原則は今も生きて働いており、明仁天皇はその確信を示すために、自らの進退を政府にではなく国民に委ねていることを表明したのである。

だが、その意向を、明仁天皇が今回のような形で、突然に、しかも、不明な報道経路を通して、最終的にはビデオメッセージの形で、政府の意向とは別に、発表せねばならなかった経緯を考えると、これには何かしら尋常ならぬものを感じざるを得ず、国民と政府との間だけでなく、天皇と政府との間にも、極めて深刻な乖離状態が生じているのではないかという懸念が当然のごとく生じる。
 
政府は、敗戦の責任やそれに対する贖罪行為をすべて国民と天皇に押しつけただけでなく、天皇をも置き去りにして、半ば人質のようにしながら、あらぬ方向へ暴走を続けて今日に至っているのではないだろうかという危惧が生じる。

さて、このビデオメッセージの表明時までには、護憲の象徴としての天皇にはぜひとも安倍政権と対峙して頑張ってもらいたいという期待が筆者の中になかったわけではなく、生前退位によって護憲時代に終止符が打たれることへの危惧もなかったわけではないが、今、考えさせられるのは、「大切なのは、役割ではなく、個人である」という価値観である。

相模原の障害者殺傷事件にも表れているように、社会の中における個人の役割や、地位ばかりを重視する考えは、「国家のために、社会のために、生産性を発揮できないような個人には、生きている価値がない」という残酷なイデオロギーへと容易に結びつく。
 
そのような野蛮な思想が息を吹き返している昨今の風潮の中で、明仁天皇が、人間が一番直視したくないはずの自らの老いと衰えと死という問題と向き合い、一人の人間として、生きているうちから、残される者のために死への備えをしておきたいという自然な願いを表明し、天皇としての職務を果たせなくなった天皇、という自分自身のイメージを恥じることなく明確に描き出し、自己の限界を率直に表明して後継者に道を譲りたいという考えを示したことは、極めて重大な意義を持っていると感じられる。

本当は、日本政府にとっても、引き際が肝心なのだ。しかしながら、カルトには自己反省することも、引き返すこともできない。それは彼らが己の限界や罪を決して認めず、ありもしない偉大さと永遠性を目指して、神とその被造物全体に対して挑戦を挑んでいるからである。
 
筆者は、一事不再理の原則についての記事でも述べたように、すでに過去の大戦の罪を認め、真摯に反省し、裁かれた者が、同じ罪で二度、三度まで、裁かれる理由がないと考えている。そこで、天皇も含めて、我々国民はそろそろ贖罪行為から解放されてしかるべきではないかと思う。

だが、過去の罪を頑なに認めず、己に対する裁きをいつまでも否定する者は、将来的に前よりも一層厳しい裁きに見舞われるべき理由が存在する。その意味で、二度目の敗戦が、我が国の政府に必要なのであり、再び、敗れ、今度こそ、二度と立ち上がれないように裁かれるためにこそ、彼らは己の目的に向かって突き進んでいるのだと言えよう。


相模原で起きた障害者の大量殺人事件は、安倍政権の歪んだエリート主義が生んだ実である(2)―人間を滅ぼす偽りの「マトリックス」からはブラグを抜け!

<続き>

さて、神戸の事件から相模原の事件に話を戻すと、植松容疑者は、衆議院議長に宛てた手紙の中で、自らの行う障害者の大量殺人が、「全人類が心の隅に隠した想い」を実行に移すことであり、「日本国、全人類の為」に実行される「作戦」行動であり、「今回の革命で日本国が生まれ変わればと考えて」いると述べている。

そのことから、我々は、植松容疑者の思想にも、酒鬼薔薇と同じような、誤ったエリート主義(優生思想)が潜んでいることを理解できる。さらに、植松容疑者は自らの声明文の中で安倍晋三の名前を引き合いに出して、自分の犯行に予め国家権力からの同意とお墨付きを本気でもらおうとしていたことに注意したい。
 
植松聖容疑者の手紙より一部抜粋
 
「私は大量殺人をしたいという狂気に満ちた発想で、今回の作戦を提案を上げる訳ではありません。全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意を持って行動しました。

障害者は人間としてではなく、動物として生活を過ごしております。車イスに一生縛られている気の毒な利用者も多く存在し、保護者が絶縁状態にあることも珍しくありません。

私の目標は重複障碍者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。

重複障碍者に対する命のあり方は未だに超えたが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。

「戦争で未来ある人間が殺されるのはとても悲しく、多くの憎しみを生みますが、障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます。今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可決(※ママ)である辛い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。


「どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか。」

今回の革命で日本国が生まれ変わればと考えております。」

「ご決断頂ければいつでも作戦を実行致します。
日本国と世界平和の為に何卒よろしくお願い致します。
想像を絶する激務の中大変恐縮ではござますが、安倍晋三様にご相談頂けることを切に願っております。

全文は「植松容疑者の衆議院議長公邸宛て手紙の全文 障害者抹殺作戦を犯行予告
(ニュース速報Japan 2016/7/26)に掲載されている。


植松容疑者は、この手紙の中で、障害者の殺害という計画は、「日本国と世界平和の為」の「革命」であると述べ、自分は国家のためにこの作戦を実行するのだと強調し、その「見返り」として、逮捕後の国からの具体的な支援を求めて「取引」までも申し出ている。

ご決断頂ければいつでも作戦を実行致します。」などと書いている様子からも、この人間が自らの犯行を官邸への「献上物」のように差し出そうと考えていたこと、自己を安倍晋三の影の代理人のようにみなし、場合によっては、本気でこの計画に国からの賛同と支援がもらえるかも知れないと期待していた様子が伺える。

当然ながら、理性ある人間の誰一人として、こんな狂った申し出に耳を貸すことはあり得ないのだが、それにしても、植松容疑者が、衆議院議長を通して、他でもなく安倍晋三とのコンタクトを取りたいと願った背景には、植松容疑者の弱者抹殺の思想に、安倍政権との弱者切り捨て策と根本的な親和性が見られるためである点は見逃せない。

この人物は、自分の犯行が、安倍政権の「隠れた思惑」を体現し、これを実行に移すものであることを直感的に知っていたのである。

だから、もし我が国が、この凶行をきっかけに、この国の取って来た残酷な弱肉強食の路線を改める必要性に気づくことができなければ、この国は本当に終わりであろう。

植松容疑者の犯行には、明らかに、小泉政権の頃から自民党が行って来た、障害者への福祉サービスの切り捨てや、弱肉強食のグローバリズム、市場原理主義の推進、若者の就労環境の劣悪化や、学生を食い物にする奨学金という名の金貸しビジネス、などなどの、社会的弱者を容赦なく食い物とし、彼らの犠牲の上に繁栄を築こうとする我が国の誤ったエリート主義的政策の残酷さの全てが、余すところなく信念となって結実しているのだと言える。

安倍政権のもとで、厚労省が精神障害者の受けとる年金額の減額方針を固めていた問題は、この事件と絡めて、すでに人々に指摘され始めている。(障害者年金の新基準については、「精神障害者ら7.9万人、受給減額・停止も 年金新指針で  医師団体推計」(日本経済新聞 2015/12/12 参照。)
こうして国は、まさに一番、抗議する力を持たない弱者から順番に、「国家の重荷」として切り捨てて行こうという思惑をあらわにしていたのである。

だから、結局のところ、国は、酒鬼薔薇聖斗や、植松容疑者ほどにあからさまにその信念を公言し、自ら手を下そうとしなかっただけで、実際には、その政策を通して、事実上、「自分で生き延びる力のない社会的弱者は死んだ方がいい」と公言しているに等しいのである。

沖縄・高江における政府機動隊の弾圧も、緊急事態条項が創設されれば、政府にとって不都合な国民はみなことごとく同様に弾圧を受けることの予表である。人々は首を絞められ、車で轢かれ、いつ死者が出てもおかしくない事態が展開している。

こうして、憲法改正がなされずとも、あたかもすでにそれが成就したかのように、国家が率先して、不都合な人間の排除に乗り出している今、植松容疑者のような人物は、自民党政権の弱肉強食の政治方針、さらに、自民党の中でも、とりわけ強権的な安倍政権の残酷な政治思想を自ら「忖度」した上で、自らその体現者として名乗り出て来たのだと言える。「全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する」…という文面はそういう意味なのである。

つまり、強者の生存のために、弱者は容赦なく犠牲になるべきだという「国策」の実現を手助けするために、私は自ら手を貸しますよと、名乗り出て来たのである。
 
国が弱肉強食の政策を推進し、緊急事態を口実に人権まで停止しようと企んでいる状況で、植松容疑者が言わんとしたのは、仮に自分が率先してその理念を実行に移し、弱者を抹殺して国家の重荷を減らす手助けをしたからと言って、一体、その何が罪なのだ、むしろ、国家の負担軽減という計画に助力しているのだから、報酬をもらっても良いくらいであり、政府は自分の逮捕後の世話をしても当然だということである。

おそらく、社会の大勢の人々がこの事件を通して自省させられたことであろう。若者を容赦なく使役した上で残酷に解雇して利益を上げているブラック企業の社長や社員たち、奨学金ビジネスで身を立てている人々など、多くの人々が、自分たちのやっていることは、実質的に植松容疑者と変わりないことに気づかなったろうか? そもそも弱く若い世代にすべてのツケを負わせて成り立っているこの社会そのものが、植松容疑者と同じ理念を共有していることに気づかなったろうか?

植松容疑者が自らの手紙の中で、安倍氏へのコンタクトを願っているのは決して偶然ではなく、それは彼が安倍の中に、自分と共通の思想を見いだしていたためであり、大企業や外国にばかりおもねり、国内の声を上げることのできない者たちは容赦なく見殺しにする安倍自民党政権の政策に、自分と同種の「理想」を見ていたからに他ならない。
 
今、もし我が国に生きる人々が、この事件の持つ深い警告の意味に気づかなければ、植松容疑者のような人間は、また二度、三度、その度ごとに、より残忍さを増して現れて来ないとも限らないだろう。

酒鬼薔薇聖斗の時代には、このような「魔物」としての偽りのエリート主義に基づく優生思想は、まだ公然と姿を現すに至っていなかったが、植松容疑者にあっては、「魔物」はもはや自分の姿を人々の目から隠そうともせず、人間を操り、人間と一体化し、堂々と自分の贈り物を携えて、国家の前に姿を現したのである。

魔物は満面の笑みをたたえて言う、「ねえ、ほら、これがあなたたちの望んでいる世界なのでしょう? 高潔で思いやりあるヒューマニストの仮面を被りたいあなたたちが、臆病さゆえに決して言えないでいる言葉を、私が口に出し、実行してさしあげますよ。全ての見たくない「美しくない現実」が根絶された幻想の国。これぞ、まさに、あなた方の思い描いている"beautiful Japan"(美しい国)の実態なのでしょう?」

それが、犯行後に容疑者が投稿したとみられるツイート「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」の意味なのだろうと推測される。

かつて小泉政権の時代まで、我が国の政府はハンセン病者の絶対隔離政策を法律で義務化し、平成になるまで、ハンセン病者を「社会の恥」とみなして人前から隠し、強制隔離に及び、人権を奪って塀の向こうに押し込めて来たのである。

ようやくその絶対隔離政策が終わって、まだその反省も十分に行われないうちから、今度は、緊急事態条項を作って、国家にとってすべての不都合な人間から人権を奪って、塀の向こうに追いやろうという計画が蠢き出しているのである。

一体、我が国の人権意識はなぜこれほまでに低く、なぜこれほど薄っぺらい人間観が横行し、こんな未開のところを未ださまよっているのであろうか。安倍晋三の言う「美しい国」とは、まさにハンセン病者の強制隔離のような時代への逆戻りに他ならない。要するに、それは人間を喜ばせるきれい事だけで塗り固められたウソの世界であり、うわべだけを美しく飾って、その陰で、人間にとって全ての見たくない不都合な現実を覆い隠し、排除した上で作り出される幻想の世界である。

安倍政権こそ、「美しい国」という名目の下で、植松容疑者が一日で成し遂げたことを、政策を通して、実行に移そうとしているのであり、彼らが向かっているのは、植松容疑者と同じく、歪んだ優生思想に基づく「淘汰」の世界なのである。

むろん、抹殺されようとしているのは、すべての社会的弱者である。この「美しい国」では、国家の威信を高めてくれそうにない全ての「美しくない」矛盾は、厳重に隔離され、無いものとして抹殺される。「美しい国」には、原発事故の影響などあってはならない。雇用情勢の悪化も、株価の下落もあってはならず、そこには、虐げられた若者もいなければ、被爆労働者もおらず、沖縄の不幸もなく、社会的弱者もおらず、老老介護の問題もなければ、待機児童もおらず、障害者もなく、少子化問題もない。

こうした現実の全ての矛盾や問題を無視した「きれい事」の陰で、今まさにどれほど多くの人々が、現存する政府の政策によって見えないナイフを喉元に突きつけられ、「自分で自分を救うことのできないおまえには生きる価値がない。社会の重荷であり、周りを不幸にするだけのおまえは、生きているべきではない」という悪魔のささやきを耳元で聞かされていることだろう。これら全ては政府の誤ったエリート主義的政策が生んだ弊害であり、国の政策が、彼らの存在自体を抹殺しようとしているのである。

植松容疑者の実行した「障害者の安楽死計画」が、単なる個人的な犯行として片づけられないのは、それがヒトラーがナチズムを通して国策としてドイツで推し進めた狂気の優生思想と根本的に同一だからでもある。
 
ナチス・ドイツは1939年から1941年8月までに、約7万人の障害者を「生きるに値しない生命」として抹殺した。(ナチス・ドイツの安楽死計画については、ヒトラーの「超人思想」の謎~ ナチズムの裏面史 ~第2章:ナチス・ドイツの「安楽死計画」などを参照)。

ナチスはドイツが1920-30年代にかけて見舞われた国家的経済危機が、障害者への支援が国の負担となって起きたものであるかのように説明し、障害者の存在が社会の効率的な運営を妨げていると主張したのである。そして、以下のポスターにも見られるような、知的障害者に対するネガティブ・キャンペーンを展開し、障害者への福祉の削減、最終的には、障害者の存在そのものの抹殺を訴えたのである。

 

 
画像は"Mind and Flux, Disability and Propaganda"から転載。
ポスターの文面要約:「遺伝性の疾患を抱える一人の人間を一生支援するために、コミュニティが背負う負担額は6万ライヒマルク。いくら何でも高すぎませんか。」

 
だが、実際には、当時のドイツの経済危機は、第一次世界大戦の敗北の結果、ドイツに課された多額の戦争賠償金に由来するところが大きく、ナチスの言い分は。この問題をただ障害者に責任転嫁しただけに過ぎなかった。

なぜそのようなナチスの詭弁に多くの人々が惑わされたのかと言えば、そこに巧妙な心理的トリックがあって、そのような責任転嫁を口実にしさえすれば、当時のドイツ人が、戦争における自国の敗北という重い現実と、それに伴うツケと真正面から向き合わなくて済んだからである。

つまり、すべてを障害者のせいにかこつけてしまえば、敗戦の責任を直視する必要もなく、それによって自尊心が傷つけられることもない。そのようにして、現実から逃げることで、プライドを打ち砕かれて自信喪失に陥ることを避け、なおかつ、多額の賠償金がもたらした経済危機をどう解決するのかという問題からも目を背け、ただ「強いドイツを取り戻す」といった、自分たちのプライドを満足させて、心を高揚させてくれそうな、うわべだけの美辞麗句のスローガンに飛びつき、現実の諸問題を解決するための何ら具体的な道筋が見えてもいないのに、問題をすり替えることで、自分たちの未来に希望があるかのように思い込もうとしたことが、ナチスという超国家主義の台頭を招く主要な心理的原因の一つとなったのである。

日本の現状はこの当時のドイツにかなり似ていると言える。我が国では、先の大戦での敗北を未だ直視できない人々も数多く、さらに、増え続ける国家の財政赤字、少子高齢化、原発事故の影響などが、この国そのものの威信を著しく低下させており、国の未来に暗黒の影を落としている。こうした問題の多くは、従来の考えでは全く打つ手がないものばかりであり、社会構造の根本的な変革を促すものであるが、過去への反省を抜きにしてはそのような変革は生まれ得ない。

だが、自らのプライドが傷つけられたくないために、過去の誤りを直視することを拒み、これまで通りの生き方によって得られる利益を手放したくないある人々は、自国に抱いていた偉大な幻想が崩れゆくことに耐えられないあまり、自分たちの犯した失敗と、痛みに満ちた現実から目を背けようと、オリンピックのように、何かしら現実離れした偉大な幻想に逃避しながら、虚構の自信、虚構の勝利を演出し、全ての現実的な諸問題については、これを手っ取り早く誰かに責任転嫁してしまおうと、スケープゴートを探し求めているのである。

ナチズムの超国家主義のような思想は、国力が低下し、人々が未来に希望が持てなくなり、コミュニティの伝統的な生活が危機にさらされればさらされるほど、ある人々を強く魅了する。自分たちが責任を問われなければならないとなると、ある人々は、それを防ぐために、ますます現実から目を背けて、ありもしない幻想に逃避し、誇大妄想的な自己イメージを膨らませて、集団的自己陶酔にふけるのである。果ては国がまるごとそうやって現実逃避に走るということが起きる。

現在の日本が抱える全ての出口のない問題について、国民一人一人がそれを我が事として悩み、苦しみ、心を痛めながら、明日をどう築き上げるべきかを真摯に考えるのではなく、こうした問題を社会的弱者の責任になすりつけることで、問題の原因をすり替え、一部の人々だけを悪者として描き、彼らを抹殺することで、自分たちはエリートであって彼らとは違って生存に値するのだという愚かしい考えに逃げ込んでそこで自己安堵しようとする連中が出現するのである。

植松容疑者の文章からは、彼がナチス・ドイツの推進した「障害者の安楽死計画」と同じように、「社会的弱者は生きるに値しない」という歪んだ思想の持主だっただけでなく、彼が自らを「進化した未来の人間」のように考えていたこと、つまり、自分自身は生き残るべきエリートの一員であって、障害者とは全く違う存在である、と考えようとしていたことが分かる。

植松容疑者は声明文の中で「容姿に自信が無い為、美容整形を行」うなどと述べているが、興味深いのは、その理由である。つまり、彼が自分の容姿に「自信が無い」と考える動機とは、女性にもてないとか、もっと男らしくなりたいとか、そんな単純な、昔ながらの価値観に基づくものではなく、自分の容姿が、彼自身が理想とする「未来人」の姿に似ていないからなのである。声明文には次のような文面が書かれている。
 

外見はとても大切なことに気づき、容姿に自信が無い為、美容整形を行います。進化の先にある大きい瞳、小さい顔、宇宙人が代表するイメージそれらを実現しております。私はUFOを2回見たことがあります。未来人なのかも知れません。


一昔前、容姿に自信のない男性は、三島由紀夫のように、肉体改造に取り組んだものだが、時代の価値観が大きく変わっているようである。植松容疑者が憧れるのは、「進化の先」にある「未来人」の姿である。彼にとっての理想としての「未来人」の姿とは、「宇宙人が代表するイメージ」に似たものである。彼はそれを自分の理想として思い描き、未来人の姿を体現せねばならないと考えて、美容整形という方法で、自分を改造しようとするのである。

今の時代、ある人々にとっての理想の容姿とは、ますます人間臭さの伴わない、生きた生命や感情の感じられない、地球外生命体か、命のない人形のように、美しくても、冷たく、人工的で、無機質な姿へ近づいていることが分かる。

さらに、植松容疑者の述べた、「進化の先にある未来人」という概念の意味を正確に理解するには、ヒトラーの超人思想や、トランス・ヒューマニズム、アセンション、霊性進化論などを振り返る必要がある。

筆者はこのブログで、すべての悪魔的思想は、「人が神になる」ことを最終目的とする、キリスト教の異端思想であることを繰り返し述べて来た。この悪魔的思想は、キリスト教のように、人間がキリストの十字架という神の側から提供された救いを信じて受け入れることによって、神の側からの「恵み」として救済され、神に受け入れられるのではなく、人間が生まれ持った自己の要素を刺激・啓発し、覚醒することによって、自力で神に到達し、神との分離・断絶を乗り越え、神と一体化しようとする自己救済の思想である。

これは聖書に反する異端、グノーシス主義であり、言い換えれば、神秘主義である。悪魔にとっては、キリストの十字架によらない人間的な方法によって、神に属する「新しい人類」を創造しようということが悲願なのであって、それが、これまで地上に現れて来た全ての悪魔的な思想と計画に共通する最終目的なのである。なぜそうなるかと言えば、これは聖書が御言葉によって信じる者に約束しているキリストにある新創造の、悪魔的模倣だからである。
 
ナチス・ドイツの障害者安楽死計画の背景にも、むろん、この思想がある。つまり、ヒトラーの安楽死計画は、ただ単に当時のドイツの抱える諸問題を社会的弱者に押しつけてその責任から逃れようという考えだけから出て来たものではなく、まさに「新人類の誕生」という計画の一環だったのである。

ヒトラーは、「人間とは生成途上の“神”なのである」と考え、人間は進化の過程で、やがて放っておいても神のように進化し、超人的存在となるはずだと確信していた。彼はそのような人間だけで構成される社会を理想とみなし、人類改良計画の一環として、遺伝子問題の研究に取り組み、犬や猫のように、優れた血統を持つ人間を「生産」しようと試みたのである。

こうして、ヒトラーは一方では、限りなく神に近い、優れた資質と血統を備えた優秀な人間の生産に励みながらも、人間は将来的に二極化し、他方では、機械的・動物的生存へ落ちて行く者たちが現れると考え、そしてそのような者たちは「古い人類」として淘汰され、衰退して行くのが当然だと確信していた。

ナチス・ドイツはこのような歪んだ優生思想を自ら社会に適用して実行に移し、社会の「浄化」という壮大な実験に取り組もうとしたのであり、彼らは、自分たちが「劣等人種」とみなし、「古い人類」に属すると考える全ての人々を社会から排除し、抹殺することによって、残りの人々を「新人類」に近づけ、人類を飛躍的に進化させることができると考えたのである。
 

新しい種類の人類が、いまその輪郭を示し始めている。完全に自然科学的な意味における突然変異によってである。

これまでの“古い人類”は、これによって、必然的に生物学的に衰退の段階に入っている。古い人間は、衰退形態においてのみ、その生を生きながらえるのである。創造力は、全て新しい種類の人間に集中することになろう。この二種類の人間は、急速に、相互に逆の方向へ発展している。一方は、人間の限界の下へ没落していき、他方は、今日の人間のはるか上まで上昇する。……そう、人間が“神”となる。これこそ、ごく明快な意味なのだ。人間とは生成途上の“神”なのである!」

「人間は、自己の限界を乗り越えるべく、永遠に努力しなければならない。立ち止まり閉じこもれば衰退して、人間の限界下に落ちてしまう。半獣となる。神々と獣たち。世界の前途は今日、そのようなものとして我々の行く手にあるのだ。こう考えれば、全てはなんと根源的で単純になることか。」

(「ヒトラーの「超人思想」の謎~ ナチズムの裏面史 ~第9章:「新人類誕生」の実現を目指していたヒトラー」から抜粋)
 
「……人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。これが2039年の人類だ。その先もずっと人類はこの状態を続ける。

そしておそらく2089年から2999年にかけて、完全な神々と完全な機械的生物だけの世界が出来上がる。地上には機械的生物の群れが住み、神々がそれを宇宙から支配するようになるのだ。」

(「ナチスの「人間改良計画」 ~ ドイツの「優生思想」の裏面史 ~第9章:人類の分岐──「人類の二極化」現象」 から抜粋)

 

ちなみに、ここで話が大きく逸れるようであるが、すでに多くの人々を悲惨な事故や死へと追いやっている「ポケモンGO」のゲームにも、人類をマインドコントロールし、神に進化させるという悪魔的実験という思想が込められているという警告がなされていることに触れておきたい。


 


以上の動画は、クリスチャンの立場から、ポケモンGOの危険性を警告するものであるが、この動画で語られているトランス・ヒューマニズム(超人間主義)とは、ゆくゆくは人工知能と人間の脳を一体化させることで、人間を超自然的な存在に高め、不滅の「神人」を生み出そうという計画であり、ポケモンGOはその一環だというのである。

そこでは、このゲームは、世界のエリート支配者たちが、人類をAR(拡張現実)に接続して思い通りに支配する術を開発するための大がかりな社会実験であり、テクノロジーを通じてエリートが大衆を支配し、「サイバー神」になるという、トランス・ヒューマニズム運動の一環であり、そのような運動は、人が永遠の命を得る唯一の道であるイエス・キリストを否定する悪魔的欺きであると警告されている。
 
ARは、人々を現実逃避させるための偽りの「マトリックス」のようなものであり、悪魔の作り出した偽りの世界なのだが、その仮想現実の世界が、スリリングでエキサイティングであるために、多くの人々が危険を顧みず我を忘れてこれに没入し、その結果、取り返しのつかない損害が起きる、というのである。

優生思想というのはどれも同じなのだが、不滅の「サイバー神」という一部のエリートを生み出す目的のために、実際には、どれだけの人間が淘汰され、犠牲にならなければならないのであろうか?
 
映画「マトリックス」でも、マトリックスの世界における死は、現実にも死をもたらした。同様に、ポケモンGOはすでに多くの人々を悲惨な事故や死に至らせており、この仮想現実の世界は、もはやゲームの域を超えて、現実に人を殺す力を持つものとなっている。そのような世界にプラグインした結果、待っている未来が明るいものであるはずがない。

動画では、いずれARにプラグインするための装置が、人間の脳に直接、埋め込まれることになるだろうと予告される。

以上のような話を聞けば、クリスチャンがすぐに思い起こすのが、聖書の黙示録に記述されている、反キリストに魂を捧げた人々が右手か額に受けるという「獣の刻印」である。それはずっと以前から、マイクロチップであるとか、色々な憶測を呼んで来たが、それは人間を反キリストが作り出す偽りの「神の国」としての仮想現実の世界に強制的にアクセスさせるための装置なのだと考えられる。それを受けてしまえば、待ち受けているのは、永遠の地獄だけである。

さて、このブログでは、クリスチャンに対する悪魔の欺きは、人間の魂と感覚の領域に偽物の「霊的世界」を作り出し、様々な恍惚体験によって信者を虜にし、信者が自分は「聖霊に導かれているのだ」と思い込みながら、偽りの「霊の世界」の虜となって、そこから抜け出せなくなるよう仕向けることにあると指摘して来た。そのような欺きの一つが、サイバー空間に作られた仮想現実の世界であり、それは感覚刺激ゆえに人類を虜にしていくのである。

この仮想現実の世界は、聖書の言う「神の国」の霊的統治に似せて造られた悪魔の模造品である。キリストの復活の命に基づく神の霊的統治もまた、現実世界を超越する霊的世界なのであるが、悪魔は、それに似たものを、現実世界に存在する堕落した物質を材料として、現実世界の中に、作り出そうとするのである。

そのような悪魔的な偽物の世界として、今やサイバー空間は埋め尽くされようとしているのであり、これより先、その世界はより一層、神の自然な統治ではなく、歪んだ悪魔的支配を表す空間となって行き、やがて、多くの人の目には、それこそが現実以上に現実的に感じられるような世界へと発展して行くだろうと思われる。



  

トランス・ヒューマニズムとは、人工知能を用いて人間を改良することによって、「人が神になる」という思想であり、人間がもともと生まれ持った能力を開発して神に至ろうとする点で、これも結局は、神智学、霊性進化論、ナチズムの優生学などと根本的に同じ思想なのである。

こうした思想をもし大雑把に分類するとすれば、人間の遺伝子を実際に操作して、人間を「品種改良」することによって、人類を高度に「進化」させて「神人」を生み出そうという試みがナチズムの優生学であり、他方、遺伝子の領域には手をつけず、「霊性」という、あくまで見えない領域から人間を高次元の存在に「進化」させようというのが「霊性進化論」である、と言えるのではないかと思う。

優生学は、現実の人間の「血統」を操作しようと試みるが、霊性進化論は「霊的血統」の転換によって、人類を神に至らせようと試みる。たとえば、統一教会、ペンテコステ運動、国家神道などに共通するのは、人間が、文鮮明や、天皇や、あるいは牧師と言った「霊的指導者の夫妻」に帰依し、彼らを「真の霊的父母」として崇め、「霊の家族」の一員に加わることで、その人間の堕落した血統が「浄化」され、そのように「聖なる家族」に属する人々が増えることで、全人類がやがてはみな「神の家族」に転換され、全人類の救済が成し遂げられるという思想である。

トランス・ヒューマニズムは、人工知能との一体化により、人間の見えない「血統」の転換を成し遂げようとし、サイバー空間を「霊の家」になぞらえて、これに連なる人間を増やし、全人類をこれに接続することによって、人類を「神に進化」させようとする試みなのであろう。
 
最後に、こうした思想の数々は、知れば知るほど、筆者には、驚くほどKFCのDr.Lukeの主張を思い起こさせる。

Dr.LukeのKFCの言う「異言」や「聖霊のバプテスマ」なるものが、聖書に基づくものでない偽物の霊的世界であり、信者が霊界と交信し、正体不明の「霊」に身を任せ、自分でも理解できない音声を話して、それに自己陶酔するという行為が、単なる現実逃避でしかないことはすでに記事で述べたが、このような幻想の世界は、いわば、ARとほぼ変わらない「マトリックス」の世界なのだと言える。彼らはそれに没入するあまり、何が本当の現実であるのか、すでに分からなくなっているのである。

さらに、Dr.Lukeの以下のようなメッセージの標題に使われている用語、

神属人類の誕生」(2016年2月27日)、「聖霊のバイブレーションにチューニングする」(2015年9月20日)、「霊のDNAを活性化せよ」(2016年4月10日)、「すべてを神の目を通して見る」(2016年6月19日)、「左脳の束縛から解かれよ」(2015年8月19日)、「フェイスの覚醒」(2015年12月6日)

などを考慮するだけでも、Dr.LukeやKFCの同氏の言う「神属人類の誕生」とは、要するに、ナチズムと同じように、人間が自己を改造することによって自ら「新人類の誕生」に至ろうという悪魔的自己救済の方法に他ならないことが分かる。こうしたものはすべて結局この世の物質世界に属する事柄であり、人間を新しくする力を持たない「霊の偽物」でしかない。

人工知能に接続するまでもなく、Dr.Lukeがこのような仮想現実に溺れ、日常生活においても、音楽や映像を通して、ひっきりなしに自己を楽しませる感覚的な刺激を受けていなければ生きられなくなっている姿は、まさにテクノロジーに支配される人間の姿そのものだと言える。

筆者はかつてDr.Lukeと共に同氏の車で横浜から福島にあるMr.Sugarの山小屋へ行ったことがあったが、その時の様子を今でも覚えている。その道中、Dr.Lukeは自分の車内で絶え間なく自分のお気に入りの音楽をかけ続けていたのであった。筆者がその時、知ったのは、同氏が、絶え間なく感覚刺激に身を委ねることで、たとえば音楽などのツールが作り出す幻想の世界に没入していなければ、片時も気が休まらないということであった。沈黙や、無音状態に全く耐えられないのである。(後に、同氏と共に山小屋へ行ったことのある別の信者が筆者に向かって、Dr.Lukeについて全く同じ印象を受けたと語った。)

また、筆者は、山小屋に向かっていた当時、携帯電話というものが嫌いだったため、一度も持ったことがなかった。その後、KFCで病に陥った姉妹を見舞うために、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のcandy氏と共に富士山麓にある大きな病院へ行った時、見舞いの後で、上階にある見晴らしの良い開放的なレストランの喫茶に向かったことを覚えている。歓談の後であったか、折しも夕暮れ時で、巨大なガラス窓の向こうに、雲や山影の合間に、真っ赤な夕陽が輝いて見えた。この雄大な景色に、candy氏は自分の携帯を取り出して撮影を行った。筆者はその時、今まで携帯で一度も写真を撮ったことがなかったことにふと気づいた。(それまで、筆者は常にデジカメで撮影していたのである。)

そこで、筆者は、その時には持っていた自分の最初の携帯をcandy氏に見せて、撮影の仕方を尋ねたのだが、その時、candy氏が筆者に向けた、驚愕と侮蔑の入り混じったような、一瞬の表情を、今でも覚えている。それはまるで、自分の携帯での撮影の仕方を知らないなど、人間としてあり得ないことであるとでも言いたげな表情であった。

その時、筆者は、candy氏も、Dr.Lukeと同じように、流行かつ最新鋭の機器に敏感で、便利なものは何でも真っ先に取り入れたいと願う人間の一人であるのだと悟った。さらに、それだけでなく、なおかつ、KFCにまつわる彼らのコミュニティにおいては、いかに自分が流行に通じ、そつなく上品に振る舞える「スマートな人間」であるかをアピールすることが暗黙のルールとなっており、何事であれ、自分が「できない」ところを見せたり、困っている様子をアピールするのは、ご法度なのだ、ということを察した。

だが、筆者は、携帯は初心者でも、パソコンで何時間もかけて画像を編集したり、ゼロから絵を描いたりする苦労をそれまで味わっていたので、そんなうわべだけの「そつのなさ」を全く評価していなかった。そこで、そのような表面的な立ち振る舞いが大きくものを言うらしいコミュニティの価値観の浅はかさに内心で失望と危機感を覚えたのであった。

また、筆者より何十歳も年上の老境にあるSugar氏も、自分では機器のことなど何も分からないのに、不思議にタブレットやスカイプを使い、最先端の電子機器を持ち歩いていた様子も思い起こされる。筆者が誰にも言わずに更新したWebページの存在を、Sugar氏が知っていたりしたこともあった。

こうした色々な出来事を考え合わせる時、彼ら(Dr.Luke、Sugar氏、KFCに関わる人々)のネットやテクノロジーへのこだわりには、何かしらある種の危険性が潜んでいるということを筆者はどうしても感じないわけにいかない。そういう予感があったために、筆者はかつてSugar氏から毎日のようにスカイプを使っての交わりに呼び出された時に、これを断ったのであった。

固定的な信者の交わりから遠ざかっていた筆者には、本来、交わりは必要なものと見えたかも知れない。だが、筆者は様々な失敗体験を通して、キリスト以外の人間に率直に心を打ち明けることの危険性を学んでいたことに加え、スカイプを通して会話することにもある種の不気味さを覚えていたので、これに接続することを完全に放棄したのであった。

そういった、折に触れて筆者が受けた危惧や予感は、長い年月を通じて、実際の経験の上で確かめられた。KFCに関わっていた人々は、うわべにおいては、自分は人を見下したり、軽蔑したりすることは絶対にない、親切で思いやりのあるクリスチャンらしい人間のように振る舞っていたが、その実、彼らの間では、誰が彼らのコミュニティにおいて、最もうまく成功者のように振る舞い、脚光を浴びることができるかという点で、絶えざる競争が行われていたのであった。

要するに、彼らは、自分が人の上に立ちたかったのであり、どうしてもその誘惑を手放せなかったのである。自分が一人でも多くの周囲の人間たちに比べ、抜きんでて真理を知っており、それゆえ、幸福で、恵まれており、進歩なく同じ問題を堂々巡りしているだけの不幸な人々と違って、神に愛されている特別な人間だという自負が欲しかったのである。
  
KFCとそれにまつわる人々が誇っていた優越感とは、対外的には、キリスト教界の信者に対する優位性に基づくものであり、つまり、自分たちはキリスト教界の信者たちの知らない高邁な真理を知っており、そのような組織にとらわれた生き方をしていないという自負によって保たれていた。他方、対内的には、仲間の信者同士で絶えず比べ合い、他者の弱みを足がかりに、内心で他者を貶め、自分を誇ることによって支えられていた。

また、彼らの心の安寧は、自分が「美しくない」と感じる、見たくない全ての現実から目を背けることによって成り立つ偽りの幻想であった。candy氏は自分が洗礼に導いた障害者の洗礼式で、その障害者が自分で書き記した信仰の証の「美しくない」部分を全て自分好みに書き変え、なおかつ、障害の影響は多少あったが、十分に意思疎通可能なその信者に代わって、自らその証を全て代読して途中で泣き崩れた。

また、Dr.Lukeは、KFCの病にある姉妹が死の床について、以前の壮健さを失って行った時、そのような姿は見るに忍びないとして、それ以上、二度と見舞いに行かなかった。Sugar氏も同じであった。それにも関わらず、Dr.Lukeは彼女の葬儀で誰よりも大声をあげて泣き崩れたのである。生前、あれほど親しく寄り添い、さんざん自分に心を向けさせようと苦心して、頻繁に交わりを持っていたのに、いざ、相手に自分を喜ばせるだけの要素がなくなると、この豹変ぶりなのである。利用していたという自覚もないかも知れないし、彼らはその行為に何か信仰的な、もっともらしい理由をつけて正当化を試みるであろうが、要するに、自分にとって都合の良いこと以外は、何も見たくないという態度なのである。

彼らは、実に高邁な真理を人前で語り、彼らの語っていることの中には、多くの真実もあり、ためになることも、習うべきこともあった。だが、彼らは、自分を美しく偉大に見せることのできる瞬間に対しては、どこまでも貪欲で、熱心であるが、他方、自分で語った真理を隠れたところで実践して行くに当たり、誰でも遭遇する試練、苦難、失敗、挫折、弱さ、争いや対立に見舞われると、そんな苦しみには自分は一瞬たりとも耐えられないとでも言うかのように、たちまちに逃げ去ってしまうのである。しかも、その際、その卑怯な行為を正当化するために、その都度、誰かに濡れ衣を着せ、自分以外の誰かを悪者にしながら、コミュニティの中で自分の立場が低下することのないように、手を打つのである。

彼らの長老然とした、あるいは、饒舌で積極的なスピーチに魅了されている人々は、その言動の裏にあるものが分からないので、まことしやかな忠告を装って他者の悪口を吹き込まれても、免疫がないので本気でそれを信じ込んで、その信者から距離を置いてしまう。そのようにして彼らは信者間の関係にくさびを打ち込み、それを自分の教室へと変えてしまう。人々は、誰かの信仰には問題があると聞かされる度に、自分はそうなってはいけないという教訓なのだと受け止め、より敬虔な信者になるべく、外見を磨きながら、これらの教師たちに取り入って行く。こうして、見栄のための競争が出来上がり、以前には無邪気で対等だった交わりが壊される結果になる。

筆者はこうした信者間で信仰の前進を競い合うエリート主義に生きる信者たちに、自ら相談を持ちかけたり、祈りの支援を乞うたり、彼らの評価を気にして生きるのは愚の骨頂であると悟り、彼らを仲間と思う必要のないことを知った。
 
KFCに関わる人々のすることは何もかもすべて、彼ら自身の見栄と自己顕示のためである。たとえKFCを陰では悪しざまに非難していたとしても、これと公に訣別宣言をしないならば、彼らの仲間同然なのである。

彼らの活動は全て、自分たちがいかに他者よりも優れており、特権を享受している幸福な人間であるかを誇示するために行われるものでしかない。すでに書いた通り、信者の結婚式さえも、その目的のために存分に利用されたのである。そして、その結果、起きたことは、とても痛ましい出来事であった。

聖書は、もし宴席に誰かを招いてもてなすならば、立派な金持ちではなく、貧しい者たちのように、返礼できない相手を招きなさいと教えている。そうすれば、主がその隠れた親切に報いて下さるというのである。本当の親切とは、見返りを求めず、隠れたところで行われるものである。だが、KFCは常に、自分たちの恵みを、自分たちの仲間内の狭い集団の中だけで誇示することで、すべての栄誉を自分たちだけで独占してしまい、他の人々に分かち与えることをしなかった。その独占を、自己の優位性とみなしたのである。

そのような彼らの態度は、常に閉ざされていて、内向きで、何もかもが、自分たちのためであり、そのような態度が、主の御前に喜ばれることは決してあり得ないと筆者は今でも確信している。彼らは地上にいる間にすべての報いと栄誉を受けてしまったのである。

Dr.LukeとKFCは、カルト被害者救済活動の指導者である村上密氏とほぼ同様に、決して自己の本当の弱さや醜さや限界と向き合わなくても済むように、自分がいつでもヒーローとなって人前に脚光を浴びていられるような、偽りの「マトリックス」の世界を作り出し、それを信仰生活とはき違え、その幻想の中で、ついに自分たちは「神である」と宣言するところまで行き着いた。

このような人々にとっては、信仰生活そのものが「マトリックス」だったのだと言える。むろん、以前には知らずに協力させられていたあまりにも大勢の信者が、その虚構の世界に疑念を感じ、これに同意せず立ち去ったので、今、実際にKFCと呼べるものは、ごく限られたわずかな人数でしかないのだが、いずれにせよ、Dr.Lukeは自分自身が信者を巻き込んでこれまで行って来た全ての自己顕示の最終目的が、「神になる」ことにあったのだと自ら告白したのである。まだARが完成もしていないうちから、彼らは悪魔的思想の目的を先取りして宣言したのである。これは恐ろしいことであり、そのツケも当然ながら相当に厳しいものとなろう。

Dr.Lukeの語る「霊的世界」が存在しない偽物であり、彼らの誇っている自慢話も虚栄であるならば、Dr.Lukeという人間そのものも、現実には存在しないヴァーチャルな虚像である、と言えよう。Dr.Lukeという仮想現実が、現実の人間を飲み込んで、消滅させようとしているのである。同じことを、筆者はcandy氏にも告げたことがある。

特権的な社交クラブのようなコミュニティで、そんな「無礼な」台詞をストレートに面と向かって語ったゆえに、筆者はその社交クラブから排除されたわけだが、正直に言えば、本心を殺してそんな社交クラブに名を連ね、自分も彼らと同じようになろうと努力することは、全く人生の浪費と不幸以外の何物でもないと筆者は考えている。

以上のような人々について、今でも、筆者が言えることは、Dr.LukeやKFCが演じている虚構の自己像は、ヴァーチャルでありながら、最終的には、生きた彼ら自身を完全に飲み込んで食い滅ぼすだろうということだけである。

それはちょうどポケモンのゲームに熱中している人が、不意の事故に遭って命を失うようなものである。本当の終わりが来るまで、自分が熱中しているものが、偽りのマトリックスであることに気づかない人々もいるかも知れない。マトリックスは、ありもしない幻想によって人間をおだて上げ、有頂天にさせて、束の間の興奮と栄光を餌として与え、自分自身が飛躍的に高められ、優れた人間になったかのような錯覚を与えながら、最後には瞬く間に彼らを破滅のどん底に突き落とし、そのようにして神とその被造物である人間を愚弄するのである。

アセンション然り、トランス・ヒューマニズム然り、霊性進化論然り、KFCの神属人類然り、ナチズムの優生思想然り、人類が自力で神に到達しようとする試みから生まれるのは、常に、歪んで、誤った、偽りのエリート主義思想だけである。以上に挙げたような思想は、みなそれぞれに違った方面から、「新人類の誕生」を目指して、人類の自己改良に取り組んで来たわけだが、これらは方法が異なるだけで、根本的には同一であり、全て悪魔に由来する、神によらない「偽りのエリート」を生み出すための淘汰の手段なのである。
 
クリスチャンには、関わってはならない悪魔的理念というものが確かにある。偽りのエリート主義に欺かれてはいけないし、彼らの富を羨んでもいけない。そのような人々の誇っている「幸福」や「高邁さ」や「スマートさ」を決して羨んではいけないし、彼らと同じように「進化」しようとする必要もない。たとえ彼らから、流行遅れで不器用な人間のように嘲笑されることがあったとしても、悪魔に魂を売ることに比べれば、そんなことは取るに足りない問題である。競争に踊らされて自分も同じようになろうとすれば、行き着く先は永遠の地獄である。

上記の動画が警告する通り、クリスチャンにはテクノロジーと間もなく訣別せねばならない時が迫っていると筆者も確信している。ポケモンゲームをインストールせずとも、スマートフォンはすでに人間の思考を遠隔操作で盗聴し、誘導するところまで来ている。テクノロジーに精通することは、自分自身がそれに操られることに同意することに他ならない。自分が機械を自在に使いこなしているのだと考えるのは愚かであり、今や人間が機械に操られているのである。

さて、最後に、ヒトラーは、新人類の誕生について「東方が実験場になる」と述べたそうだ。これまで当ブログでは、終末の一大背教の象徴である大淫婦バビロンとは、東洋的神秘主義とキリスト教の混合であり、東洋的神秘主義こそ、グノーシス主義の母体であると主張して来た。

ペンテコステ運動も、東洋的神秘主義とキリスト教が合体してできた異端であり、西洋キリスト教に幻滅して、東洋諸国に足を向けたサンダー・シングも異端者となり、「欧米キリスト教のマトリックスから脱出せよ」と叫んでいるKFCも、異端化したことはすでに述べた。さらに、安倍政権の出現や、ポケモンのストーリーが日本で生まれたことなどを考え合わせても、この東洋の片隅の国に待ち受けている未来が、お世辞にも明るいものであるとは考えられない。

だが、たとえこの世が全体としてバビロン化する現象自体は避けられないにせよ、人間には自分の個人的な歩みについて、自ら決断する自由があり、その自由と責任を人生の最後まで失うことはない。だから、偽りの熱狂や「エリート性」に誘われて、マトリックスの世界になど決して接続しないことである。

また、植松容疑者や、酒鬼薔薇聖斗のようにならないためにも、官僚が作り出した虚構のエリート主義に欺かれないことである。先の大戦で証明された通り、「お国のために役立つに人間になる」とは、死をしか意味しない。教育システムにおいて優等生になろうとする競争から「プラグを抜く」だけでなく、市場原理主義社会において「勝ち組」になるための競争からも「プラグを抜く」ことであろう。

植松容疑者の事件は、安倍政権下での雇用環境の悪化が生んだ悪夢のような悲劇だという指摘もある。大学を出ても未来に希望がなく、学んだ知識も生かせず、本業で独り立ちも出来ず、自分の置かれている劣悪な労働環境から目を背けるために、その鬱憤を自分よりも弱い者に向けるしかなかったのだという見方も存在しないわけではない。

そんなにまでも心を病む前に、人間同士が自ら有用性を競い合うという愚かしい終わりなき競争からは一刻も早く降りることである。「一億総活躍社会」などという名で呼ばれる愚かで残酷な競争に踊らされるのをやめて、国家や、社会や、人々の目に覚えめでたい人間となって、他者よりも高く評価される有用な人間と見られたいという欲を捨てることである。

このように、プラグを抜くべき世界は色々存在する。今は過越の時であろう。悪魔はその高ぶりのゆえに、神に反逆したのであり、我々が、悪魔と同じ誘惑に陥らないための方法は、十字架の謙遜に下ることしかない。キリストの十字架という、人間にとっては何の栄誉も伴わない、不名誉と、死の中に隠れることしかない。

キリストご自身が、人前に栄光を受けず、蔑まれ、嘲笑され、誤解される道を歩まれたのである。なのになぜ、信者が、キリストを差し置いて、地上で自ら栄光を受けることを目的に活動し、まして自ら神になるなどと言語道断な宣言をすることができようか。

この悪魔的高慢から身を守る方法は、人間を高ぶらせるだけの偽りのエリート主義に立たず、決して、これに魂を売らず、キリストと共なる十字架の死というへりくだりの道を行くことだけである。


非常事態によって不都合な国民の粛清弾圧を目論む政府の狂気からの脱出

ここ一週間ほど、主が信者にお与え下さった自由の価値を再認識し、復活の命を奮い立たせるひと時を過ごした。KFCの分析が終わった時、一つのミッションを終えたという実感があった。むろん、異端分析などはいくらでも書けるが、より価値あることに取り組まなければならない。

古い楽譜を引っ張り出して、かなり以前に練習をやめていた曲の数々をさらうと、何年間かの空白の間、まるで完全に時が止まっていたかのように、記憶は鮮やかに思い起こされる。三、四日ほどの練習でほとんど元の状態に戻すことができた。一カ月もあれば、以前の水準を超えられるだろうか?

筆者はこれらの曲を、以前、ロシアの大学に通いながら、弾いていたのであった。冬の雪に閉ざされて、景色が白黒のモノトーンになり、退屈を持て余すような時には、美術館を巡るか、オペラやバレエを観に行くか、地下鉄を乗り継いで大学のキャンパスに行って、教室に置いてあるグランドピアノを毎日のように弾く。

講堂いっぱいに音がキラキラと輝くように響き渡り、通りすがりの人々がよく足を止めて聞き惚れてくれた。かの地の人々はみな音楽に対して驚くほど心を開いており、意地悪な批評家のように難癖をつけて来り、人の演奏のできないところばかりを数え上げて値踏みする、ということがない。みな素直に心で聞いて喜んでくれた。

そのような好意的な聴衆が一時でもいたことは、日本の聴衆しか知らなかった筆者の人生に大きな影響を与えた。どこへ行っても、日本とは比較にならないほどの良好な反応を得たのである。そのため、筆者自身の音楽への関心は格段に高まった。日本にいると、同じほど無心に取り組むのは難しい。だが、すべての心の雑音を排除して、当時と同じ思いを呼び起こす。
 
楽曲は、どこへでも持ち運べる見えない傑作であり、人の人生をどこへ行っても鮮やかに彩ってくれる。そのように決して奪われることのない豊かな宝を自分自身の中に蓄積して行こうと考えている。むろん、キリスト者にとっての宝とは第一に御言葉なのだが。

ピアノに限らず、あの当時、筆者が目指していた世界、到達しようと願っていた場所が、再び鮮やかに姿を現して、向こうから近づいて来るような具合だ。永い眠りから覚めて我に返ったように、様々な出来事によって中断されていた願いが復活して、行き着こうとしていた到達点を目がけて再び出発せねばならないと感じる。

もし誰かが自分の命が残り少ないと感じたとすれば、今日という日をその人はどのように過ごすであろうか? 満員電車に乗って通勤して会社に奉公することを第一として生きるであろうか? 

筆者の命にはまだ残りがそれなりにあると感じているが、他方で、我が国の現状はどうであろうか? 将来の亡命に備えるというわけではないが、何かしらの霊的直感が、中断していた色々なことに取り組むようにと筆者に促す。かねてより学ぼうと思っていた外国語の勉強を再開すべきであると感じた。

ずっと何年も前にロシアへ渡った筆者の以前の同僚の人生の歩みが、その決意をさらに後押しした。その人は筆者に向かって、自分の夢は日本では実現できないからロシアへ行く、と言ったのであった。そして、着々とそれを実現している。だが、今やロシアにとどまらず、より幅広く活動しているようであるが。

また、日本の国内情勢が危うくなった時にヨーロッパへの亡命を考えている、という日本人の言説にも考えさせられるところがあった。多分、ある種の身支度を始めねばならないのであろう。
 
筆者はこの間に主に二つの道を問うたが、神はそこにさらに思いがけない第三の道を示された。これまでにまだ踏み出したことのない、新しい道である。それは前々から心の中に存在しており、家人を含め、色々な人々が後押ししてくれていたのだが、筆者は実現をためらっていた。

筆者自身には、ごく人並みの平凡な人生の計画があって、普通の人のように働き、普通の人のように家を買って、普通の人のように、この地に根差して生きるということを考えているのであったが、どうにも「この地に根差して生きる」ということが違うようなのである。つまり、キリスト者はこの地においては寄留者であるが、主は同時に、いつも前人未踏のフロンティアを示される。誰も歩いたことのない、真っ白な雪に覆われた道のように、踏み固められていない道を行けと言われるのである。そしてまた信者自身に、そのようなビジョンがなければならないのである。

筆者に対する人生の法則は、一貫して、教会を離れた時と同じで、人間の作った一切の組織に関係なく、人の思惑によらず、ただ見えないキリストだけを頼りに真に自由に歩むべしというものである。筆者自身には、人間としての様々な好みや、思惑があり、時には、自分のお気に入りの人々、自分のお気に入りの環境、などを周囲に取り揃え、定着したいという願望が起きないわけではない。ひょっとして、主はそれらを許容して下さるだろうかと御心を問う。だが、御心でないものは全て閉ざされるので、自分の人間的な好みや思惑がどうあれ、決してそれらのものに未練を感じたり、後ろを振り返ってはいけないのである。



さて、筆者が自分の人生に専念していたここ一週間ほどの間に、世の中はますます物騒な具合になっているようである。フランスでは非常事態の6カ月延長をもたらした「テロ事件」が起きたが、それもオランド大統領が8ヶ月続いた非常事態宣言を7月末に解除すると宣言した直後の事件であり、どうにもタイミングが出来すぎているなと感じていると、実は、このテロは偽旗で、犠牲者はクライシス・アクターと呼ばれるプロの演技者であったことが指摘された。(「ニース・テロの遺体にマネキンが混じっていた?:戦争勢力の一味・仏NATOが仕組んだ偽旗テロ疑惑浮上、仏白人へのイスラム敵視洗脳工作か 」「新ベンチャー革命」参照。)

また、トルコのクーデターも、エルドアンによる偽旗作戦であると早くも指摘されている(「エルドアンは今や彼自身の陰の政府を運営している: “エルゲネコン II”」「マスコミに載らない海外記事」参照)。一説によるとこのクーデターは米国の手引きだとも言われる(スプートニク)。

天皇陛下の早期退位という筆者が誤報と断定したニュースも、天皇陛下は早期退位を望んでいない(共同通信)との発表にもあるように、知識人らの見解は、この生前退位のニュースは、全く信憑性のない話題作りでしかなく、天皇を退位に追い込みたい官邸の策謀だということで概ね意見が一致している。(たとえば、「「天皇の生前退位」は「改憲への天皇利用」」(「兵頭に訊こう」より))

これらの動きはみな、世界の諸国を独裁と緊急事態へと向かわせるものである。どちらかと言えば、ヨーロッパの方が日本の先を行っている感じがするが、もし日本で緊急事態条項が認められれば、必ず、フランスの二の舞となるであろう。フランスのテロは、緊急事態を永遠に長引かせたい勢力が仕組んだ偽の事件である。今回は6カ月の非常事態延長だと言うが、これからも、同じことが延々と繰り返されるだろうという気がする。

「日本版CIA」に言及 ウィキリークスが暴露」(2016年7月21日23時35分)などというニュースもネットを駆け巡っている通り、 日本版CIA(要するに秘密警察)と緊急事態とは、切っても切れない関係にある。

その関係の不可分性は、緊急事態とはすなわち秘密警察のことだと言っても過言ではないくらいである。以下にも再び説明する通り、筆者が以前に記事「カルト監視機構という名の秘密警察」で書いた通りなのである。最近は、この記事を消し去ろうとするネット右翼の活動が特に盛んだが、よほど政府はこの「秘密警察」という言葉の響きが後ろめたいのであろう。
 
ソビエト連邦は、共産主義政権が樹立されて後ただちに秘密警察を作った。「疎外されし者たちの復讐の哲学~抑圧された社会的弱者が弱さと傷によって絆(連帯)を結ぶ危険③~安倍政権と反安倍政権運動は同一化する~」という記事の中でも指摘したことであるが、その最初の名はチェーカー、反革命・サボタージュ取締のための非常委員会であった。

この「非常」という言葉が曲者である。あくまで常設の委員会ではなく、臨時的な必要性に応じて、束の間、設立されただけで、役目を終えれば即廃止される、と言いたいわけである。ところが、実態は、その名の通りには決してならなかった。その機関は、革命の翌年にエカテリンブルクで皇帝一家を殺害し、その後も絶えず人の生き血を吸っては巨大に成長して行く。やがてOGPU、NKVD、KGBになり、スターリン体制の大粛清の時代にはおびただしい数の人々の人々を抑圧し、死へと追いやった。ソ連が崩壊するまで、この秘密警察は巨大な権力機関として存続し続けたのである。

非常事態というのは、結局、見えないクーデターをごまかし、正当化しようとの隠れ蓑のようなものであって、反革命・サボタージュ取締委員会が非常で終わらずソビエト体制崩壊までエンドレスに拡大を続けながら巨大な抑圧機関として存続したのと同じように、非常事態も、決して一時的には終わらず、エンドレスに続き、その間、権力にとって不都合な人間を監視・抑圧するための抑圧機関が暗躍することになろう。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の一牧師が提唱した全宗教界を監視するカルト監視機構の政治バージョン、それが日本版CIAの意味するところである。その秘密警察に活動の機会を与えるための緊急事態である。外敵の脅威に立ち向かうという名目で、自国民を弾圧するための抑圧装置がいよいよ公になるのである。

秘密警察とは機関であり、非常事態とは期間の定めであるが、どちらも結局、指している内容は同じで、既存の秩序を転覆させるために、見えないクーデターを正当化し、常態化する体制を作ろうという試みに他ならない。非常事態宣言は、その間に、何かしら成し遂げねばならない目的があるがゆえに敷かれ、そのためにこそ、人権が抑圧されるのである。「公共の秩序を乱す」ような人間は、みな粛清されねばならない、というわけであろう。

そのことは、トルコのクーデター未遂事件が何よりもよく物語っている。全く、今はいつの世紀なのだと思われるような「大粛清」のニュースが数日前までネットを駆け巡った。果たしてそのニュース自体、どの程度額面通りに信ずべきかもよく分からないが、ウクライナでネオナチ政権が誕生した時よりももっとはるかに短期間で過激な粛清が横行した有様は、いかにもこのクーデター未遂事件が、粛清という結果を導き出すために、予め周到に準備された出来事であったという印象を与える。この事件をきっかけにトルコという国が今までとは全く違うものへと変質したことだけは確かであろう。
 

トルコ・クーデター未遂 粛清は4万5000人規模に
2016年07月20日

トルコで先週末に起きたクーデター未遂事件を受け、エルドアン大統領率いる政権は大規模な粛清に乗り出した。これまでに少なくとも4万5000人が拘束されるか解任、もしくは停職となった。

19日には、エルドアン大統領の忠実な支持者でないとみられた人物も粛清され、対象は教師や大学教授、メディア関係者まで広がっている。

トルコ政府は、米国在住の宗教家・社会運動家のフェトゥラ・ギュレン氏(75)が反乱の首謀者だと主張しており、粛清されているのはギュレン氏の支持者たちだとしている。ギュレン氏は関与を否定している。

トルコのユルドゥルム首相は、ギュレン氏が「テロ組織」を率いていると語った。同首相は国会で、「彼らを根絶やしにする」と述べた。

トルコは米国にギュレン氏の身柄引き渡しを求めている。ホワイトハウスによると、オバマ米大統領とエルドアン大統領との電話会談でも言及されたという。

ホワイトハウスのジョシュ・アーネスト報道官は、身側引き渡しをめぐる判断は両国間の条約に基づいて下されると述べた。

トルコ政府のイブラヒム・カリン報道官は、米国は、確かな証拠でなくとも「疑いを根拠として」ギュレン氏を送還できるはずだと示唆した。同報道官は、「彼(ギュレン氏)がクーデター未遂に関与した強い疑いがある。したがって、根拠は十分だ」と語った。

一方、ギュレン氏は、クーデター未遂の黒幕だという主張は「ばかげている」と反発し、「米政府に対しては、政治的復讐のために送還手続きを乱用するようなことは拒否すべきだと訴えたい」と文書で述べた。

米国防総省は、アッシュ・カーター国防長官とトルコの国防相が、トルコ南部にあるインジルリク空軍基地について協議したことを明らかにした。同空軍基地は、米国主導の有志連合がシリアやイラク国内で、過激派組織「イスラム国」(IS)への空爆攻撃に使用しているが、クーデター未遂事件後、基地への電力供給が途絶えている。

トルコのメディアは、教師や教育関係者1万5200人が免職され、大学教授1577人が辞職するよう命令を受けたと報じている。このほか内務省と財務省で、それぞれ8777人と1500人の職員が解雇され、首相府で257人が免職されたという。

トルコのメディア規制機関は19日、ギュレン氏と関連があるとされたラジオとテレビ24局・チャンネルの放送免許を取り消した。

トルコではすでに、6000人以上の軍関係者と、9000人近い警察官が免職されており、約3000人の判事が停職処分を受けている。

トルコで多数の公務員らの解任・停職が行われていることは国際社会に懸念を呼び起こしており、国連はトルコに法の支配と人権擁護を訴えた。

ドイツの高官は19日、トルコに「深い断絶」が生じており、ドイツ国内に多数居住するトルコ人の社会が不安定になる懸念があると語った。バイエルン州のヨアヒム・ヘルマン内相は、「エルドアン大統領支持者と反対派の間の暴力的な対立が激化する危険性はドイツでも高まっている」と述べた。

欧州議会のマルティン・シュルツ議長は、トルコのエルドアン政権が政治的な敵と反対派に「復讐」する機会になっていると非難した。さらに同議長は、トルコで議論されている死刑制度復活について、「深く懸念している」と述べた。欧州連合(EU)は、死刑制度が復活した場合には、EU加盟の交渉は停止すると警告している。

トルコ当局の発表によると、今月15日夜に始まったクーデター未遂で232人が死亡、1541人が負傷した。

(英語記事 Turkey coup: Crackdown toll passes 45,000)


トルコでの粛清は軍や政治関係者だけでなく、大学関係者にも及んでおり、カンボジアでのポル・ポト政権を思わせるような粛清ぶりである。「トルコ・リラ、最安値更新に向かう-クーデター未遂後の粛清拡大」(2016年7月20日 Bloomberg)のニュースでは、こう書かれている。
 

「クーデター未遂後の粛清の対象は既に裁判官の6分の1余りに及び、また高等教育評議会が全国の国立・私立大学の学部長1577人に辞職を求めていると、国営トルコ・ラジオ・テレビ放送(TRT)が19日報じた。 」


兵頭氏は記事「エルドアンという狂気の正気」(2016年7月21日)の中で、猜疑心に憑りつかれたエルドアンはもはや正気を失いつつあるという見解を示しており、それが安倍晋三の明日の姿に重なると述べる。その予測はかなり正しいものであろう。なぜなら、それは独裁者が必ず陥る末期症状だからである。

キリスト教界で聖霊派と呼ばれる組織の一つであるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に、村上密という牧師がおり、この牧師は統一教会の出身であるが、この男こそ、キリスト教界のカルト化を阻止するという名目で、教界にカルト監視機構を設立して、自らその統率者となることを夢見ていた人物である。この牧師は、その計画を発表するずっと以前から、鳴尾教会で引き起こした事件に見られるように、支持者と連携して、暗闇で不都合な反対者や政敵に圧力をかけて粛清することに血道をあげていたが、カルト監視機構設立の計画を明るみに出して以後は、その構想が誰からも公に認可されなかったにも関わらず、勝手に早々と支持者を使ってネット上に私的な形で自分の覇権を築き上げ、反対者を次々と弾圧しては裁判に訴えるという実力行使に出たのである。

同氏は当初、キリスト教界の「外のカルト」を標的にしていたのが、いつの間にか、キリスト教界の「内部の敵」の粛清へと標的がすり変わり、同氏の憎悪と恨みは、最後には、誰よりも自教団に属していた牧師や信徒に向けられることになり、さらに、敵を捏造してでも作り出すというものへと変わって行った。その頃から、筆者が当初から警告していた通り、この人間は本当に尋常な理性を捨てて、行動がおかしくなって行った。そのことは、この牧師が根拠なき疑惑だけに基づいて、次々とクリスチャンを訴えるようになり、ただ政敵に打撃を与えるためだけに、全く勝ち目のない裁判を自ら起こし続けては泥沼にはまり込んで行った様子によく表れている。

エルドアンの粛清もそうだが、粛清というのは、当初、どんなもっともらしい口実がついていたしても、一旦、始められると、歯止めが利かなくなる。猜疑心が猜疑心を呼び、弾圧それ自体が目的になって行くのである。そしてついに最後には、捏造してでも敵を作り出すことによって、粛清という商売を永遠に続けようというところまで行き着く。粛清が目的化するのである。
 
そこで、権力を掌握するまでは、安倍晋三も、自分の野望だけを頼りに生きる、出来の悪い生徒のような、平凡でありふれた普通の人間であり続けるだろう。どんなにずるくしたたかで野望が見え透いていても、出来の悪さがあらゆるところから噴出しているために、彼はぱっとしない人間の一人でしかなく、多くの人々の揶揄の対象にさえなっている。サラリーマンであれば、とうに会社からいなくなっていたはずの人物であろう。ところが、そんな人物でも、一旦、完全に権力を掌握すれば、考えられないほどまでに冷酷な人間に豹変する(本当は豹変したのではなく、本質が露呈しただけである)。そして、愚かであるがゆえに、とてつもない規模の悪事を平然と行うのであり、その冷酷無慈悲さは、誰よりも、今まで彼と共に歩いて来た側近らに向けられることになる。 
 
トルコのクーデターが、エルドアンが自ら引き起こした偽旗作戦だという指摘に立てば、本当のクーデターとは、ギュレン氏が起こしたとされるクーデター未遂事件ではなく、エルドアンの引き起こした粛清だったことになる。国内の反対派を粛清する名目を得るために、ありもしないクーデターをでっちあげて政敵に濡れ衣を着せ、不都合な人物をみな追放することが最初からの目的だったのである。だが、このような大粛清が進行すれば、国の機能はマヒする。それはエルドアン自身のためにもならない。だとすれば、それを引き起こした本当の黒幕は、エルドアンではなく、トルコの混乱と弱体化によって利益を得る外国勢力だと見るべきであろう。世界中の国々で革命やらクーデターを起こし続けて荒らしまわっているある一国の存在が浮かび上がって来ないわけがない。
 
さらに、こういう非常事態には、どさくさに紛れて、キリスト教徒が弾圧されることにならないか、様子見が必要である。イスラム教徒が悪者にされているだけではない。宗教そのものが標的とされる危険性がある。我が国でも、まるでその伏線のように、一神教への恨みつらみを述べる輩をネット上でよく見かけるようになった。一神教が脅威だと言っては多神教を賛美し、キリスト教に対する敵意を煽るやり方は戦前とそっくりである。
    
そんなきな臭さの中でポケモンGOの配信だとか、全く愚民化政策に余念がない。KFCの礼拝と同じく、これはすべて人々を思考停止に陥らせるための現実逃避なのである。これもまた米国のスパイソフトだとの指摘もある。

アウシュヴィッツに列車で連れて行かれたユダヤ人たちは、仕事に行くのだと言われて列車に乗せられ、駅に着くと、あたかもそこから出発することができるかのように、偽のプラットホームや時刻表まであったのだという。ガス室の前では、服の引換券を渡され、それが決して戻ることのできない死出の旅路への片道切符なのだということに、人々の思いが至らないように、細部まで工夫がされていた。徹底的に反乱を阻止する体制が準備されていたのである。

現在、行なわれていることもそれと同様である。あたかも存在するかのような偽の夢、偽の希望によって人々を欺きながら、死へと追いやろうとしている勢力が存在するのである。我が国も、着々とトルコと同じ末路へ近づいている。
 
きな臭さは、もはや遠くの出来事ではない。日本では、沖縄での政府による弾圧が参院選直後から早速強化された上、政府が沖縄県を提訴したのだという。現政府が、沖縄をもはや自国の一部とみなしておらず、敵のように考えていることが、これによって態度で明白にされた。

むろん、ここまで道義を失っては、この政府はもう終わりであって、こんなにまでも弱い者イジメという目的だけしか存在しない大義のない裁判には、勝敗がどうあれ、人々の理解も支援も得られない。国際社会も黙ってはいないであろう。
 
しかも、植草一秀氏が「真剣に検討するべき東日本の分離独立」の中で、自民候補が敗北した東日本の独立という問題に言及しているように、だんだん東日本だけでなく、沖縄も、そろそろ本当に、この政府から分離すべき時が近づいて来たのである。

どこから分離独立が始まるか分からないが、虐げられた人々の多い地域から順番に、日本という国が、バラバラに解体される時が近づいているのかも知れない。そして、それを食い止める手段が、政府には、中国や北朝鮮などの諸外国を「脅威」として描き出すことで、恐怖によって国内の団結を促す策と、非常事態による締め付けと、独裁しかないところまで来ている。

その作戦のお粗末さはすでに露呈してしまっているので、多分、いつまでもそのようなまやかしで人々を引き留めるのは無理であろう。さらに急速な人口減少がその求心力の低下に追い打ちをかける。

我々もこのような政府の下に残っていて何も良いことはない。本土はすでに沖縄から加害者とみなされており、恨みを買っているし、フクシマもまた東京を加害者とみなすであろう。そして、政府がモルモット扱いしているのは、沖縄だけではない。若者も使い捨てにされているし、老人も死へ追いやられている。政府は国民のために存在しておらず、自己保存のためだけにしか存在していない。支配者以外のものは、この国にもはや存在してはならないというところまで来てしまっている。

我が国の政府は、エルドアンとほとんど違いのないとこまで来ている。あとは全国民に対する職業や地位や身分を問わない無差別的な粛清が、いつ開始されるのかという秒読み段階に入っているだけである。そして、特段に注意を払うべきこととして、その弾圧は沖縄ではすでに始まっているのである。

政府の沖縄県への提訴と、高江での弾圧(「安倍政権の「沖縄潰し」本土マスコミが伝えない機動隊の暴力ー高江ヘリパッド建設問題」 2016年7月23日などを参照 )は、我が国の内乱と分裂の始まりと見ても良いのではないかと思う。そして、英国がEUからの離脱を決めたように、仮に血塗られた過程を辿ったとしても、おそらく、この分離独立の動きを阻止することは現政府にはもうできまい。それだけの大義が存在しないからである。
 
ここまで劣化してしまうと、どんなに強硬な姿勢を取っても、政府にも滅亡が確定しているということが言える。この先、いかに非常事態やら、独裁政治やらを確立したとしても、こんな政府に生き残りの可能性はなく、急速な老朽化に見舞われ、倒れるのも時間の問題である。

だが、断末魔に陥った政府が終了するまでの間にどれほどの害悪を周囲に振りまくかということが問題なのであり、貞潔な信者が、バビロンの倒壊に巻き込まれる必要はないように、束の間の利益と引き換えに魂を売って生きていない国民が、断末魔にある権力の狂気に巻き込まれなければならない理由はないのである。

筆者はKFCをエクソダスしたときのことを思い出す。神は、彼らを懸命に説得しようとしていた筆者を不思議な方法でそこから出されたのであった。その当時、その事件が何のために起きたのかまでは分からなかったが、誘われても彼らと同じ船に乗って行かなかったこと、彼らと共に後戻りできないような宣言をして神に対する罪を犯さなかったことは、筆者にとっては限りなく幸運であったことが今はよく分かるのである。

KFCを初め遠くから見た時には、筆者の目には、高みにあるように見え、輝いて見えた。そこにいる人々は敬虔な信者なのだろうと筆者は思っていた。だが、忘れられない出来事は、まだこの団体の何たるかをよく知らない頃、信者たちがDr.Lukeの仲介で結婚式を挙げていた様子をネットで遠目に見て、その出来事が、筆者の心に痛みを与えたことである。

Dr.Lukeはその信者らの結婚をキリストとエクレシアの結婚になぞらえるスピーチを晴れがましく語っていたが、本当のエクレシアは、そんな風に誰かの個人的な欲望や利益と密接に結びついた、特定の人々に限定された、特定の人間に栄光を帰するものではない、という確信が筆者にあったからである。

神がキリストの婚礼を祝うために、誰彼構わず無差別に人々を招く様子は、福音書にいくつものたとえ話で描かれている。神は一人でも多くの人々に、ご自分の喜びを惜しみなく分かち合いたいのである。だが、人々の方がこの招きに注意を払わない。そんな風に、神はご自分の喜びや、富を、可能な限り、多くの人々に分かち合おうとされるのだが、他方、Dr.Lukeの閉ざされたファンクラブも同然となっていたKFCは、神の恵みを初めから自分たちの集団だけに限定された自分たちだけの特権のように変えてしまおうとしていたのである。
 
Dr.Lukeは多分、今になっても、自分たちの特権的な「幸福」を理解しない人々は、すべて妬みや、ひがみや、やっかみに陥っているだけなのだと言っては、他者を嘲笑し、自己正当化しようとするであろうが、今だから言っておくと、その時、Dr.Lukeの仲介で結婚式を挙げた夫婦には、間もなく極めて尋常でない事件が降りかかった。

その夫婦は、この結婚式から数年後に、心臓や、目や、耳と言った、当然、あるべき臓器を持たない双子を授かり、その子供は生まれる前に亡くなったのである。信者たちは当時、むろん彼らのために同情し、子供が助かるようにとしきりに泣き、断食し、祈っていたが、筆者の心には、このような異常な出来事が、決して偶然に起きるものではない、と感じられた。

筆者は人の心を痛めないために、その確信を決して誰にも語らなかったが、今になっても、その出来事が、Dr.Lukeによってもたらされた呪いであり、この人物に対する神の怒りの激しさを表すものではないのかという疑惑が拭い去れない。

Dr.LukeとKFCが自分たちの悦楽をまるで信仰の手柄のように誇示しながら、神の名を冠して、自分たちの限定された幸福を永遠の価値のように誇っていたことが、神の御怒りを買ったのである。その子供の姿は、まるでKFCという団体そのものの不毛性を象徴しているかのようである。今でも、まさに次の御言葉が思い出されてならない。

「この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、
 自分の心で悟り、
 立ち返って、いやされることのないために。」(イザヤ6:10)

だが、もちろん、これはすでにずっと以前に起きた事件であり、その夫婦も、その他の数多くの信者や、筆者と同じく、もはやKFCを離れ、今は全く違った人生を歩いていると聞く。これらすべての出来事から受けた警告にも関わらず、そこに依然として残ってDr.Lukeと共に自己を神として己を賛美している最も愚かな人々だけに、この先、最も大きな災いが降りかかるであろう。

そして、筆者はバビロンの倒壊に巻き込まれるつもりは全くない。だからこそ、主が、色々な方法を使って、近づいてはならない全てのものから筆者を遠ざけておられるのだと確信しているし、それを幸いに感じている。この先、我が国についても、KFCや、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と似たようなことが起きるであろうと考えている。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師は、政敵に裁判をしかけたが、ことごとく負け、今やこの牧師とペンテコステ運動の異常な理念のために、教団そのものが普通の信者たちからカルトだとささやかれるまでに信用を失っている。

おそらく、主は、今、この国において、ご自分に忠実な人々をえり分けておられるのではないか、と筆者は思う。神は、真実な民と不忠実な人々を一緒に滅ぼすことはなさらない。だから、今は過越しの時である。

そして、筆者は神を信頼している。 物騒な事件が起きれば起きるほど、その信頼はより深まって行く。天には永遠に揺るがない秩序があって、そこに生きる人々はクーデターには見舞われないからである。筆者の救いの岩は、何があっても変わらない、ご自分を信頼して身を寄せる者を決して失望させることはない永遠のお方だからである。筆者に要求されているのは、唯一のまことの神に忠実に従って生きることである。

 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)

「なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:10-12)

 「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。」(黙示17:4-5


伊勢志摩サミットにおける米国と日本の首脳による戦争犯罪の正当化―「皇軍」と「米軍」の一体化―

さて、伊勢志摩サミットは、落ちぶれた政治家たちが、名誉挽回のために思う存分、この会合を利用した他、誰にも成果などないままに終わった。

安倍首相の最大の「成果」は、皇国史観・軍国主義の復活への願いを巧みに隠しながら、G7首脳のキリスト教徒を伊勢神宮に招くことで背教へ導き堕落させる計画に成功したことであろう(G7諸国の先行きは暗いと、もっぱらの評判だ。)

安倍氏とその背後に控える国家主義者らの真の意図については、エコノミスト誌がサミット前にすでに指摘している。(訳全文は、星の金貨プロジェクト、記事「宗教も政治も、そして原爆の投下すら、安倍首相の国家主義政策実現のための演出に利用される 憲法9条の廃止、歴史の書き換え、国家神道の復活 - 伊勢志摩サミットの演出に隠された国家主義的野望  安倍首相は戦前の宗教的、社会的、政治的秩序を甦らせようとして活動を続ける組織の一員」参照。以下は一部のみ抜粋する。)
 

星の金貨プロジェクト
に掲載された「エコノミスト」誌(
5月21日)の訳文から抜粋

広島と長崎に原爆が投下され、第二次世界大戦に日本が降伏してからそれほど日数も過ぎていないある日、アメリカ軍兵士の一団が日本の本州にある三重県の伊勢市にある、この国で最も神聖視されている神社の一つにやってきました。

彼らは貴重なイトスギ材で造られた長さ100メートルの宇治橋をジープで渡り、そのまま神社の境内に入ろうとしたため、一人の警備員が押しとどめようとしました。
しかし彼はピストルを突きつけられ、退くように脅されました。
この1,300年の歴史を持つ伊勢神宮の本殿は遷宮と言って20年ごとに作り直されますが、宇治橋も同様に20年ごとに作り直されるため、損害を被ってもいずれ修復されることにはなっていました。
日本は敗戦国として戦後様々な屈辱的な目にあいましたが、これなどは些細な出来事であり、いつのほどか忘れられてしまいました。
世界の中でも富裕な国々のクラブである主要先進7カ国の年次サミットが伊勢神宮近くの島で開催され、5月26日に安倍晋三首相がその仲間のリーダーたちを歓迎するために宇治橋を使うことになっており、その時こそかつての屈辱が拭いさられることになるでしょう。


この施設は人里離れた目立たない場所にあり、海外ではほとんど知られておらず、戦後その神聖特権が廃止された神道により守られてきました。
1947年に施行された日本国憲法はいかなる宗教的特権も認めていません。
「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」
憲法第20条にはこう明記されています。

伊勢市、志摩市を中心に三重県はほぼ無競争でサミットの会場に選ばれましたが、その背景には安倍氏が率いる首相官邸の強い意向がありました。
安倍首相は自らの政治的使命について「戦後体制からの脱却」と規定し、日本を再び誇り高い強力な国家として蘇らせることを主張しており、今回の選択については隠された意図がほの見えます。

いずれにせよ今回のサミット開催は、特にバラク・オバマが広島を訪問する初のアメリカの大統領になることにより、安倍首相にさらなる政治的恩恵をもたらすことになるでしょう。


ホワイトハウスは、オバマ大統領は1945年8月6日に広島に、そしてその3日後に長崎に課された大量虐殺と大量破壊について謝罪はしないという方針を明確に示しました。
しかし世論調査の結果は、日本人の90パーセントがオバマ大統領の広島訪問を歓迎する意思があることを明らかにしました。



 オバマ大統領の広島訪問の「成果」は、原爆を投下しても被害者はただで許してくれて謝罪は求められることなく、その上、被害者に寄り添う心優しき同情者にもなれて脚光を浴び、なおかつ「核なき世界」を提唱するリーダーにもなれるという、魂の安い買い物が可能だと世界に示したことである。何しろ、ノーベル賞の返却まで求められたというオバマ氏である(「ロシアの声」参照)から、この不名誉を払拭するために広島訪問は政治的に利用したかったことであろう。

だが、実際にはどこにも「成果」などない。このサミットは、 まさに我が国が被害者をダシにして魂を売ったことの証明にしかならず、しかも、他国までもその罠に引きずりこんだのである。
 
沖縄で米軍属により事件が起こされたとされる4月28日は、日本にとっては主権回復の日であり、子の日に起きた沖縄の事件が伊勢志摩サミットに永久に暗い影を投げかけることは間違いがない。沖縄だけではない。広島も、徹底的に被害者を利用して手柄を立てることしか考えない政治家の野心と冷酷無慈悲に利用されたのである。

ともあれ、沖縄の事件は、我が国の真の「主権回復」を決して真に実現したくない勢力の思惑をよく示しているように思われる。本当にこの事件は偶発的に起きたものだろうかという疑問を起こさせる。この事件は、この日をいつまでも沖縄及び日本全体にとっての「屈辱の日」とし、度重なる凶悪事件を起こすことによって、日本国民全体の心に恐怖と無力感を植えつけ、間違っても、日本の国民が属国を脱し主権を求めて立ち上がらないように仕向けることが目的なのだと思わずにいられない。 
 
「ジャーナリスト通信」(執筆者は創価学会員のようである)が、この主権回復の日に起きた二つの凶悪事件について書いていることは興味深い。さらに同ブログの著者は、米軍属による事件が、かつての皇軍の仕業と同じだと指摘する。折しもネットアイドルの巻き込まれたこれまた凶悪事件等が盛んに報道されているのもスピンとは言え単なる偶然とは思えないのである。すべては属国民に無力感を植えつけるためとしか思われない。
  
そして、主語を省くことによって、原爆投下という恐るべき殺戮を誰が行ったかにさえ言及せず、米国の罪を巧妙に隠すオバマ演説の虚偽性については、「原爆は誰が落としたのか」オバマ広島演説 騙しの手口 [核兵器]」でよく解説されている。

上記の記事は次のように締めくくられている。

 

「原爆は誰が落としたのか」オバマ広島演説 騙しの手口 [核兵器]」から抜粋

これで日米はお互いの非人道的な行為をとやかく言わないことになる。法の支配からいよいよ離れたズブズブの関係になって行く。それは例えばすでに沖縄の米兵や米軍関係者の容疑者の身柄をアメリカ側の「特別の配慮」で日本側に引き渡したり、日本からの「思いやり」で米軍駐留費の一部を肩代わりするようなところに現われているが、今後は日本自衛隊がアメリカの戦争に付き合わされる中で発揮されよう。日米の共犯関係が深まるわけだ。

悲しいかな被爆者までがオバマ演説を好意的にとらえている。この国の人々はいったい何度アメリカに騙されれば気が済むのだろうか。思えば「平和のための原子力」を押し付けられたときもそうだった。おー!原子力を平和のために!原発、すばらしい!と。

いずれにせよ安倍政権にとっては思惑通りの展開ではないだろうか。G7やオバマの広島訪問で世論の支持を得た。次は消費税増税延期の表明、株が急伸して、衆参同時選挙、自民圧勝、改憲、とまあこーゆーシナリオでしょう。



最後の自民圧勝の下りについては筆者には異論がある。植草氏もこの先には「まさか」という坂が控えていると指摘しているように、そこまで浅はかな展開にはならないであろうと思う。
 

 植草一秀氏のブログ
安倍首相のこじつけリーマン級危機説に異論噴出 から抜粋
2016年5月26日 (木) 

サミット後、安倍首相は消費税再増税再延期を打ち出し、参院選に臨むものと見られる。
衆院選については、先送りして2016年から2018年までの好機を見定める方向に傾いていると思われるが、安倍政権の政局時計の歯車は明らかに狂い始めている。
サミットでは日米同盟の強化をアピールする予定であったが、沖縄での米軍関係者による卑劣で凶悪な事件が表面化して、同盟そのものの矛盾が表面化することになった。
オバマ大統領が広島を訪問することが目玉となったが、
「謝罪なき広島訪問」
は広島を侮辱するものである。
広島は物見遊山の観光地ではないのだ。
沖縄の事件についてもオバマ大統領は謝罪すらしていない。
米軍のトップに大統領が位置し、その配下の米軍関係者による凶悪犯罪について、トップが謝罪するのは当然のことだ。
植民地での凶悪犯罪については謝罪する必要がないと判断しているのだろう。

参院選で安倍政権与党が敗北すれば、衆院選に向けて野党共闘が加速する。
株価は安倍政権発足後から2015年6月までが上り坂。
2015年6月からは下り坂に転じているが、この下り坂の先には
「まさか」
が控えているようだ。


  
安倍政権の先行きが明るいとは筆者はお世辞にも思わないが、いずれにしても、安倍とオバマの今回の会見は、「お互いに過去のことをとやかく言わない(=過去の戦争犯罪については責任を問わない)」という暗黙の同意が日米のもとでなされたことを意味する。

つまり、米国がお手本として「過去の戦争犯罪について謝罪は不要」と示したので、日本もそれにならって、従軍慰安婦問題から人体実験その他その他の数々の忌まわしい戦争犯罪について謝罪が必要なくなったということである。(誰に?むろん、被害者となった人々に対してである。)
 
その目論見は、「のんきに介護」の記事「橋下徹さん 小物ぶりを発揮 相変わらず、かっこわるいおっさんですな」で指摘されている通り、橋下透氏の以下のツイートにもよく表現されていると言えよう。(橋下氏が故意に「戦争犯罪」と書かずに「戦争」としか書いていないことにも注意が必要。)
 
 
橋下徹‏@t_ishin さんのツイート。

――今回のオバマ大統領の広島訪問の最大の効果は、今後日本が中国・韓国に対して謝罪をしなくてもよくなること。過去の戦争について謝罪は不要。これをアメリカが示す。朝日や毎日その一派の自称インテリはもう終わり。安倍首相の大勝利だね【橋下ゼミ】⇒11:29 - 2016年5月12日11:29 - 2016年5月12日 〕――


 

 
このように、敗戦という歴史的事実と、過去の戦争犯罪を帳消しにしようという流れは、昨年の安倍談話によってあからさまに形成されて来た流れである。筆者は「一事不再理の原則(1) ~東京裁判の否定―日本のグノーシス主義的原初回帰~」において、日本政府は東京裁判で下された日本の戦争犯罪に対する有罪判決を公式に受け入れていたことに言及した。

ところが、その後まもなく、上の記事でも示した外務省のホームページは安倍談話の発表とほぼ同時期に削除されたのである。(記事「引き分け」から「敗北」へ~グノーシス主義的な原初回帰が招く政治的悲劇~安倍談話がもたらす日本の世界的孤立~」参照。)これも現政府による歴史の書き変えの試みの一環としてとらえることは可能である。
 
このように、すでに安倍政権による歴史の書き換えが進行して来た。すなわち、日本の過去の戦争犯罪に対して歴史的裁きが下されたという事実そのものを否定し、裁きはなかったとした上で、やがてそれらの戦争犯罪は犯罪ではなかったということにして、善悪の区別を排除して、罪人を名誉回復し、すべてをうやむやにしたいという意図が見えるのである。

筆者はここにグノーシス主義的原初回帰の野望があり、歴史を逆転させて東京裁判を否定して日本の敗戦と戦争犯罪の罪を帳消しにしようとすることは、戦争犯罪人を名誉回復させて、人殺しを無罪放免しようという悪魔的願望であり、これはキリストの十字架における裁きを否定して、罪人を名誉回復させたいという悪魔的願望に重なることを幾度も指摘して来た。

しかし、このようなことを敗戦国である日本が主張するだけならば、まだ理解もできようが、それを米国が追認したのが今回のサミットの驚くべき悪しき「成果」である。

それによって、旧日本軍による従軍慰安婦等の女性の徴用の問題と、米軍属による女性殺害という、国境を超えた軍隊がらみの忌むべき犯罪行為がともにうやむやにされようとしているのである。過去だけではない、サミット前の沖縄の事件に対する両政府の対応は、現在起きている事件までも同じ影響下にあることを示している。その意味で、安倍とオバマの会見は、かつての皇軍と米軍が一体化したこと(及びこれがまさに現代に復活しようとしていること)を暗に示していると言えるのではないか。

そこには、ただ女性に対する軍隊による犯罪を容認する思想が根底にあるだけでなく、強い者が弱い者に対して力によって何をしても許される世界を作ろうという意図が隠されている。
  
もし強い者がその力によって弱い者に何をしても、謝罪も必要なく、形ばかりの同情や、むなしい再発防止の決意や、空涙でことが終わるならば、米国が今後、力によって日本に何をしようとも、属国民である日本は異議を申し立てられないということになる。そのことは、日本国民には圧倒的な無力感をもたらすであろう。さらに、日本においても、もし自衛隊が軍隊に昇格することがあれば、その軍隊が無辜の民に何をしても罪に問われないという全く同じ理屈が出来上がるのである。

 従って、これは、もはやかつての戦争犯罪や、沖縄の基地問題だけに限定されることではないのである。そこで軍隊の犠牲となって殺害されようとしているのは、「女性」や「市民」といった非武装の個人であるばかりか、象徴的に、日本国民全体でもあるとも言えよう。
 
本来、市民一人一人が、武装せずとも殺されず、脅かされず、平和のうちに生活するための、誰にも侵害されることのない確固たる主権が回復されなければならないのに、その「主権」こそが、弱肉強食の力の論理の前に蹂躙され、否定されているのが現実なのである。そして、その考えは、政権与党においては、あろうことか、憲法改正と緊急事態条項案における人権停止のような極端な発想にまで結びつけられようとしている。

こうして、弱い国民には無力感と失意を植えつけて、人権を奪い取り、抵抗できないようにしておいてから、最上層部の詐欺師連中が自分たちの人気取りと汚名挽回のためのパフォーマンスを上から目線で見せつけているのである。

だが、日本政府が己の戦争犯罪を無罪放免しようという野望を抱いているとしても、それはまだ理解できるとしても、本来、日本と米国との間には、戦勝国と敗戦国としての圧倒的な差がある。原爆投下について、米国はこれまで「日本のファシズム・軍国主義政権を無条件降伏に至らせるために不可欠な措置であった」と主張して、大きな顔をして来た。それを戦後70年以上が経過した今更になって、原爆投下の「罪悪感」を帳消しにするために、米国が日本と取引しなければならなかったとはおよそ考えられない。

なのに、なぜ戦勝国である米国までが、日本政府が過去の汚名を払拭したいという野望を認め、それに便乗する形で、己の罪を払拭しようとして日本政府と取引するに至ったのか。

それには二つの理由が考えられる。一つ目には、そこから、米国支配層も相当に追い詰められて自己正当化をはからずにいられない様子が見えて来ることである。

つまり、そこにはパナマ文書の公開によって高まった世界の人口の1%に過ぎない富裕層の支配に対する99%の非難と憎悪にも見られるように、米国の支配層もまた追い詰められて、かりそめにも、「弱者への配慮」や「同情」があるかのように見せかけねばならない状況となっている様子が伺える。そのようにして形ばかりのパフォーマンスで欺かなければ、あからさまな偽善と、力の論理だけではもはや進んでいけなくなっているのである。

ここでは、戦勝国も敗戦国もなく、ただ弱者を徹底的に踏み台とし、どこまでも欺きながら、自分だけが栄光を受け、うまい汁を吸い、助かりたいという一念によって団結する世界の支配層の姿が見えて来る。

第二に、彼らは手を組んで過去の罪を無罪放免しようとしているのみならず、これから犯そうとしている罪を無罪放免しようとしているのだと見られる。過去の戦争犯罪について、「とやかく言わない」空気を作り出そうとしているのは、日米両政府に過去を無罪放免したいという思惑があるためだけではない。何よりも、これから過去と同様か、あるいは過去を凌ぐような「戦争犯罪」を作り出したい勢力が、その欲望を予め正当化するために先手を打っているのだと見ることができる。

その悪しき野望を気取られ、非難させないために、かつての戦争犯罪については、被害者を形ばかりの「同情」でなだめ、沈黙させておきながら、それ以外の人々は、予め共犯とすることで、ものを言わせないようにしようとしているのである。

そのために、我が政府が行おうとしているのは、学術界を堕落させることである。まず、日本のマスコミはすでにほぼ完全に御用機関に堕しており、抵抗・非難する力を奪われている。次なる標的は学術界である。「軍事研究」の復活により、インテリ層を完全に攻略して、共犯とすることが必要となる。

東京新聞 2016年5月26日 朝刊
学術会議会長「自衛目的の研究許容を」 軍事否定から転換の可能性

 国内の科学者を代表する機関である日本学術会議(東京都港区)の大西隆会長が、「大学などの研究者が、自衛の目的にかなう基礎的な研究開発することは許容されるべきだ」とする考えを、四月の総会で示していたことが分かった。学術会議は今後、委員会で軍事研究の許容範囲などについて議論し、一定の見解をまとめる見通し。これまで軍事目的のための研究を否定する声明を発表してきたが、その基本姿勢を転換する可能性も出てきた。 (望月衣塑子)

 学術会議は一九四九年の発足時の決意表明で、科学者の戦争協力を反省し平和的復興への貢献を誓った。五〇年と六七年には、「戦争目的」や「軍事目的」の科学研究を行わないとする声明を決議した。五〇年の声明に会員として関わったノーベル賞受賞者の湯川秀樹氏は戦時中に原爆研究した反省から、戦後は核廃絶運動に取り組み「科学者の社会的責任」を唱えた。軍事目的の研究に関わることを否定する考え方は科学者の間に定着していった。

 大西会長は、学術会議の全会員が参加した四月の総会の会長報告で、過去の声明を「堅持する」とする一方で「国民は個別的自衛権の観点から、自衛隊を容認している。大学などの研究者がその目的にかなう基礎的な研究開発することは許容されるべきではないか」と述べ、学術会議としての見解が必要と主張した。

 こうした発言に対し、自由討議で「従来の立場と異なる考えだ」との反対意見も相次ぎ紛糾。京都大の山極寿一(やまぎわじゅいち)総長は「自衛隊の活動全般にわたって国民の総意は得られていない」と指摘し、見解をまとめる際は「これまでの声明を変えることのない文言を考えてほしい」と求めた。別の会員からは「会長の私見には疑問がある。科学には倫理や規範が必要な時がある」という意見もあった。

 大西会長は二〇一一年十月に会長就任。都市工学が専門で、豊橋技術科学大学長を務める。



こうして巧妙に線引きをずらしながら、日本の学術界には、良心を葬って、かつては全面「禁止」されていた軍事研究を少しずつ「許容」して行く方向に方針転換しようという動きが生まれている。いよいよ科学者がかつて訣別したはずの殺人や人体実験を主たる目的とする「悪魔的研究」に取り込まれ、軍事研究を容認する空気作りが行われようとしている。軍事研究の中心は、もちろん、核兵器である。かつて湯川秀樹博士が原爆開発の反省に立って禁止したものを、全面的に容認したいというのが本音であろう。

この国で、すでに文官統制が廃止され、制服組の優位が確立しようとしていることは、「科学者の社会的・道義的責任」が事実上、退けられたこと、つまり、人の良心によって、人間の欲望の暴走や権力の暴走に歯止めをかけ、枷をはめようとする試みそのものが否定されようとしており、知性を排除したところでの力と実利優先の唯物論的な考え方にこの国が傾きつつあることを意味する。このまま、この政府が存続し続けたなら、いずれ、政府の補助金を断たれたくなければ、大学関係者は進んで軍事研究に協力しなければならないような状況が作られるものと見られる。

安倍氏と並んで反知性主義者の代表のような橋下徹氏が愚かにも賞賛しているように、これはインテリの良心に対する殺人、インテリの抹殺である。マスコミのみならず、学術界のインテリも抹殺されようとしているのである。「過去の戦争について謝罪は不要。これをアメリカが示す。朝日や毎日その一派の自称インテリはもう終わり。」

こうして、米国が率先してお手本として広島の核による犠牲に対して善悪を問わない姿勢を見せることで、米国がかつての日本のファシズム・軍国主義政権の戦争犯罪をうやむやにする手助けをし、なおかつ、日本政府による核開発の野望を根底に秘めた軍事研究が(米国の暗黙の認可の下)解禁に向かっているらしい様子は、やがて米国と日本とが共に絶望的な戦争に突入しようという計画があることを伺わせる。

さらに巧妙に文官や一般市民をもこうした犯罪的な企てに加担させていこうとする動きが見られる。たとえば、以下の記事である。すでに削除されているようなのでキャッシュから拾った。

「ゆとり」市職員、空自で鍛え直し…3年目研修
 YOMIURI ONLINE  2016年05月26日 15時00分
 
 東京都府中市は今年度から、入庁3年目の市職員全50人を自衛隊に2泊3日で体験入隊させる。
 研修の一環で、同市は「厳しい規律の中で『ゆとり世代』の若手職員を鍛え直したい」とその意義を強調。ただ、識者からは否定的な意見も出ている。

 研修は同市内にある航空自衛隊府中基地で実施。事務職、技術職、保育士職の全員が6月の平日3日間を使い、災害時の救助活動やあいさつ、行進などの基本動作の訓練を行う。宿泊を伴う集団生活では時間厳守や整理整頓も重視される。

 同市の入庁3年目は、初めて配置された部署から異動する時期。一部の職員には自分が何をすべきかを見失ったり、積極性に欠けたりする傾向が見られるという。

 このため、市職員課は「規律に厳しい自衛隊の訓練を通じて、ゆとり世代があまり経験していない上下関係を学び、チームワークや積極性などの向上につなげたい」としている。



 おそらくこの記事にはあまりにも大きな反発があったものと見られる。ネット上ではどこを見ても、不気味だ、ぞっとするという人々の反感が溢れている。そこで、このような世論の下では、上記の構想の実現は無理だろうと筆者は考えるが、おそらくそれでも、この手の話は、今後も、繰り返し繰り返し出て来るであろうと思う。マイナンバーカードの携帯が国家公務員に義務付けられているように、若年層の自衛隊での「研修」も、まずは国家公務員、地方自治体職員から始まり、やがて民間企業に及ぶということが考えられる。すでに幾年も前に民間企業の新入社員を自衛隊で研修させるという提案が出ていたのだ。
 
 こうして、裁判員制度と同じように、人間が人間を殺すという行為に全国民を加担させるような試みが行われようとしている。上の記事でも強調されている通り、軍隊での序列は絶対的なものであり、個人は命令に従うロボット同然に、上部の命令に逆らうことは許されない。軍隊は個人の良心に基づく意志決定よりも序列と上官の命令がものを言う世界である。殺せと言われれば殺すしかない世界である。

  このような厳しい軍隊の規律と上下関係の中で、一兵卒のような末端の末端にいる人間は心を破壊される。その結果が、自分よりもさらに弱い者(女子供)を痛めつけることによる鬱憤晴らしとなる。そうして行なわれる「女性殺し(エクレシア殺し)」の問題については、今は触れないが、東洋思想と絡めて今後、書いて行く予定である。

 ちなみに、G8から早々に除外されたために、ロシア首脳が今回、伊勢神宮に足を踏み入れることなく、キリスト教徒として、G7諸国ほどのあからさまな堕落に至らなかった点は、幸運だったと言えるだろう。原爆投下に拍手を送ったオバマと十字を切ったプーチンではどちらが本当に被曝者に「同情的」か、たとえパフォーマンスだけであったとしても明白である。

 G7諸国のメディアは、消費税増税の先送りを正当化するために発せられた安倍の「リーマンショック前の状況に似ている」という発言に皮肉と失笑と懐疑の混じった反発を投げかけているが、それでも、これらの国々が、サミットの場に居合わせたことによって、安倍の共犯として利用されてしまった事実は変わらない。

 聖書の神はご自分に忠実な信仰者を覚えておられ、すべての危機から必ず救い出して下さることを筆者は確信しているので、悪しき政権と命運を共にするつもりなど全くないが、安倍氏の策略を十分に知りながら、あえて利用された諸国にも暗い将来が待ち受けているであろうことを疑わない。

身分制度と搾取を肯定し、弱者救済を口実に犠牲を肯定する神なき偽りのヒューマニズムの終焉

さて、あまりにも愚かしい政治スキャンダルがこのところ連続しており、ほとんどが記事にする気にもならなかったが、2020年の東京オリンピックはいよいよ開催できそうにもない様相となってきたので、そのことに触れておきたい。


いよいよ幻に終わりそうな東京五輪

昨年夏に、筆者はこのオリンピック開催は不可能であると述べた。また、戦前の軍国主義時代に幻に終わった東京オリンピックの二の舞となるだろうと記事に記した。

それはこのオリンピックには人の心を引きつけ、歴史を前進させるための一切の大義が存在しないからである。大義がないだけでなく、安倍首相による「福島原発事故はコントロールされている」との偽証によって勝ち得た忌むべき利権でさえある。

さらに、「神の国」発言で失脚した森喜朗元首相が率いていることにもよく表れているように、皇国史観に基づく悪しきイデオロギーがその根底にある。このような誤ったイデオロギーにはすでに歴史の鉄槌が加えられたのであり、再び同じことを試みても、国の名折れにはなっても、成功に至る見込みはゼロに等しい。

オリンピックにまつわる「造られた流れ」に、もはや国民の関心はついて行っていない。利権のために嘘と悪事に邁進するにしても、もう少しましな新しい理念を提唱しないと、単なる過去の焼き増しだけでは、暗闇の勢力もいよいよカードが尽きたと思われるだけであろう。

さて、当記事には字数制限があって、筆者は常に字数との戦いを強いられており、全文引用するわけにいかないので、どれほど今回の五輪が国民に歓迎されていないかについては、以下の記事を参照されたい。

「東京五輪中止、ロンドン開催」の可能性が本格浮上。もはや 「誰も望まない五輪」への変貌と、森喜朗会長の「戯言」(ギャンブルジャーナル 2016.05.17.)


植草一秀氏「賄賂を贈ってまでの五輪開催求めてない日本国民」(2016年5月17日)
 

さらに決定打となるようなニュースが流れている。それは皇族利権とも言われるオリンピックで、今回の東京への招致の中心的役割を果たした日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長なる人物の驚くべき人物像が過去を通して明らかにされたことである。

東京五輪招致の裏金問題で“厚顔”答弁…JOC竹田恆和会長に自動車事故で女性を轢き殺した過去が!
LITERA 2016.05.18

 
日本オリンピック委員会(JOC)公式サイトより  2020年東京オリンピック招致に際しての裏金賄賂疑惑をめぐり、16日の衆議院予算委員会に、招致委員会で理事長を務めていた日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恆和会長が参考人として出席した。

 既報の通り、招致委員会はシンガポールにあるブラックタイディングス社の代表イアン・タン氏にコンサルタント料として2億円超の大金を支払っていた。しかし、イアン氏は国際陸連前会長で国際オリンピック委員会(IOC)の選考委員で、大きな力をもつラミン・ディアク氏の息子と深い関係にあり、この金がブラックタイディングス社を通じて賄賂として渡ったとの疑惑が浮上。フランスの捜査当局が捜査を開始する事態となった。

 これに対して、竹田会長はこの日の国会で、BT社への2億2000万円の支払いを「コンサルティング料」「正当な手続き」としたうえ、選考委員の息子との関係を知らなかったと言い張った。また、このブラックタイディングス社がペーパーカンパニーだという疑惑についても、完全否定した。

 しかし、その説明はとても納得できるものではなかった。そもそも、2億円というのはコンサル料として巨額すぎるし、BT社への支払いは、13年7月に9500万円、10月に1億3500万円と二回に分けて行われているが、そのうち、10月の支払いは IOCの総会で東京での五輪開催が決まった後のこと。名目は「勝因分析」と説明していたが、選ばれた後の分析に1億円支払うなんていうのは明らかにおかしい。これはどう考えても、招致の成功報酬として渡されたものだろう。

 また、ブラックタイディングス社の所在地は、築50年近く経った古い公営住宅の一室で、どこからどう見てもオリンピック招致に関する高度なコンサルティング業務を行えるような会社ではない、典型的なペーパーカンパニーである。

 これで「正当な手続き」などといいはるのだから、竹田会長の態度はもはや厚顔としかいいようがない。というか、そもそも竹田会長は、まともな調査などまったくしていないペーパーを朗々とした調子で読み上げているだけで、この問題に対する当事者意識も、疑惑をきちんと調査しようという姿勢もまったく感じられなかった。

 竹田恆和氏といえば、あのネトウヨタレント・竹田恒泰氏の父親ではあるが、旧皇族・竹田宮家の生まれで、明治天皇のひ孫、今上天皇とははとこにあたる。01年からJOCの会長を務め続けており、人望も厚いといわれていた。それが、まさかこんな不誠実な姿勢を示すとは……。

 しかし、この人の不誠実や厚顔はもともとのものなのかもしれない。その一端がかいま見えるのが、竹田氏が起こした不祥事とその対応だ。

実は、竹田氏は40年ちょっと前、若い女性を轢き殺す交通事故を起こしたことがあるのだ。

 当時、竹田氏は馬術の選手で、国体の試合に出るため会場に車で向かう途中のことだった。この事故について、1974年10月23日付の読売新聞夕刊が〈五輪馬術代表の竹田選手 女性はね死なす〉という見出しで記事にしているので、全文を紹介しよう。

〈茨城国体に出場する東京都の馬術選手の乗用車が、二十二日夕、会場近くの茨城県稲敷郡新利根村で歩行者をはね、死亡させた。このため、東京都は、二十三日以降の全馬術競技の出場を辞退した。
  二十二日午後五時ごろ、新利根村角崎の県道を歩いていた同村××××、会社員××××さん(二二)は、茨城国体馬術競技東京都代表、竹田恆和選手(二六)(東京都港区高輪三の一三の一)の乗用車にはねられ、頭を強く打って近くの病院に収容されたが、二十三日午前零時過ぎ死んだ。江戸崎署の調べでは竹田選手が対向車のライトに目がくらんだのが事故の原因。
  竹田選手はIOC(国際オリンピック委員会)委員の竹田恒徳氏の三男で、馬術のミュンヘン・オリンピック日本代表。茨城国体には、二十三日午後の一般飛越競技に東京都の代表選手として出場するため、会場の同郡美浦村の馬術会場近くの合宿所に行く途中だった。
  竹田選手の事故責任をとり、東京都チームは二十三日朝、この日以降の全馬術競技の出場を辞退することを決定、大会本部に連絡した。〉

 40年以上前の話とはいえ、こんな重大事故を引き起こした人物が、今、日本の五輪組織のトップに君臨しているというのも驚きだが、問題だと思うのはこの事故の後の竹田氏の身の処し方だった。

 新聞報道によれば、明らかに竹田氏側の過失だと思われるが、竹田氏は重い刑事責任を問われることもなく、ほどなく馬術競技に復帰。事故から2年も経っていない1976年に開かれたモントリオールオリンピックに出場しているのである。

 通常の会社勤務なら、死亡事故を起こすと解雇になるケースも多いし、スポーツ選手では、最近、バトミントン五輪代表選手が違法カジノに出入りしていただけで、無期限の競技会出場停止になり、リオ五輪の出場権を剥奪された。それらと較べれば、雲泥の差だろう。

「被害者と示談が成立したというのもあるでしょうが、竹田氏の場合はやはり宮家の威光というのが大きかったようです。周辺の政界人脈が動いて、事故の影響を小さくし、すぐに復帰できるようにお膳立てしたようです。復帰した時もほとんどマスコミには叩かれなかったようですね」(スポーツ関係者)

もちろん、交通事故は過失であり、人を死なせた人間にも人生をやり直すチャンスは与えられるべきだ。しかし、これだけの大事故を引き起こしていたら、やはり五輪のような華々しい表舞台からは身を引くのが普通の神経だろう。ましてや、竹田氏の場合は、事故の影響で東京チームが連帯責任をとって、国体の出場をとりやめているのだ。それが、本人がすぐに五輪出場とは……。

 しかも、竹田氏はこの後、1984年のロサンゼルス五輪で日本選手団コーチ、92年のバルセロナ五輪で日本選手団監督と、JOC内部でどんどん出世していくのだ。そして、2001年にはとうとう日本オリンピック委員会(JOC)会長に就任し、以来、16年という長い期間にわたって、JOCトップに君臨し続けている。

「JOCでの力は完全にコネですね。竹田さんの父である竹田宮恒徳王が戦後、JOC会長、IOC委員を務めており、JOCは以前から竹田家と縁が深かったんです。それで、父君の時代の側近たちがお膳立てして、息子の恆和さんのJOC会長への道筋をつけたんです」(前出・スポーツ関係者)

 つまり、竹田恆和という人物は、どんな不祥事を起こしても周りがカバーしてくれて、出世の段取りをしてくれるという環境の中で生きてきたのだ。そして、本人も無自覚にそれに乗っかっていく。

 そういえば、2020年のオリンピックの開催地を決めるIOC総会前の会見で、外国人記者から福島原発の影響を聞かれて、竹田会長は「福島は東京から250キロ離れており、皆さんが想像する危険性は東京にない」と発言。まるで福島を切り捨てるような、あまりに他人事な発言に批判が殺到した(といっても、海外メディアとネットだけで、国内マスコミはほとんど批判しなかったが)。

 ようするに、こういう人物だから、今回のような贈収賄に問われる重大事態が起きても、まったく当事者意識がなく、問題解決ができないのだろう。いや、今回のことだけでなく、これまで起きた国立競技場やエンブレム問題などもそうだ。竹田会長の当事者意識のない無責任な姿勢が森喜朗氏や電通の暴走を許し、さまざまなトラブル、不祥事を誘発してきたともいえるだろう。

 こんな人物がトップにいるかぎり、東京五輪の混乱がまだまだ続くであろうことは間違いない。
 (井川健二)

記事は五輪の混乱はまだまだ続くとしているが、こうなっては、さすがにそろそろ終わるのではないかという予感が漂う。何しろ、このあたりで終止符を打っておかなければ、もっと取り返しのつかない決定的な醜聞が持ち上がることになろう。それも含めて、根こそぎ日本の闇が明らかにされる必要があるのかも知れないが…。
 



伊勢志摩サミットに暗い影を落とす米軍基地がらみの事件

さて、5月の伊勢志摩サミットにも明らかに暗い影が忍び寄っている。以上に挙げた竹田氏の事件ではないが、前途有望な若い女性を巻き込んだ、明らかにこのサミットに悪影響を与えるであろう痛ましい米軍記事がらみの事件がまたしても沖縄で起きた。

サミットにかこつけて、各国首脳を伊勢神宮に参拝させたことにしたい日本会議のような勢力、オバマ大統領の広島訪問を実現させて、被爆者という弱者を思い切り利用して、手柄を立てたい思惑を持つ安倍首相のような人々にとっては、極めて不都合な事件である。

しかも、小泉元首相が「トモダチ作戦」で被爆した米兵の健康被害は見過ごせないと涙を流したニュースが流れるとほぼ同時期のことであった。福島原発労働者や、基地の犠牲となる沖縄県民の犠牲をよそに、強者の利益だけに寄り添おうとする日本の政治家が、真に涙を流し同情すべき相手を完全に間違えていることを明らかにした事件だったと言えよう。

再び、植草氏のブログから。

謝罪なき広島訪問を政治利用する「ゲスの極み」
2016年5月20日 (金)  から一部抜粋

<前略>

「原爆投下によって無辜の市民が一瞬にして数十万人単位で殺戮され、その後もおびただしい数の放射能被害者を死や苦しみに追い込んだ。
このことに日本政府は抗議せず、米国は謝罪していない。
この現実に手を付けぬまま、オバマ大統領の広島訪問だけが実行されようとしている。
欺瞞に満ち溢れていると言わざるを得ない。」

米国の原爆投下を日本政府が抗議せず、米国も謝罪していない。
では、オバマ大統領は何を目的に広島を訪問するのか。
原爆の威力がどの程度あったのかを、自分の目で見物するために広島を訪問するとでも言うのか。

 沖縄では、20歳の女性の死体を遺棄した容疑で、米軍属の米国人が逮捕された。
このタイミングでオバマ大統領が来日することになる。 沖縄の過大な基地負担と米国軍人による凶悪犯罪の多発について、オバマ大統領がどのような謝罪を行うのか注目しなければならない。

このような凶悪犯罪に見舞われている沖縄県民に対して、さらに基地負担を押し付ける考えを述べるのだろうか。

米国大統領選で共和党候補者に指名される可能性の高いドナルド・トランプ氏は、日本が米軍駐留費を全額負担しないなら、米軍は日本から撤退することを検討すべきだとの考えを示している。

日本にとっては千載一遇のチャンスになる。

日本が無条件降伏を受け入れたポツダム宣言には以下の条文が置かれている。

ポツダム宣言第十二条
十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ

また、日本の国際社会への復帰根拠となったサンフランシスコ講和条約には以下の条文が置かれた。

サンフランシスコ講和条約
第六条
(a)連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。

日本の独立回復後、占領軍は日本から撤退することが義務付けられた。

ところが、サンフランシスコ講和条約第6条にはただし書きが付けられた。

「但し、この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」

さらに、同講和条約第3条には次の規定が盛り込まれた。

「第三条
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」

つまり、米軍は日本の独立回復後、すみやかに日本から撤退することが定められたが、日米両国は日米安全保障条約を締結し、米軍の駐留が継続され、現在に至っている。

そのなかで、沖縄は1952年4月28日の日本の独立回復と同時に、日本から切り離され、米国施政下に置かれた。
そして、日本本土にあった米軍基地は沖縄に移設され、現在では日本に存在する米軍専用施設の74%が沖縄に集中している。
第2次大戦で地上戦が行われ、沖縄は本土防衛のための捨て石にされた。
敗戦後は、日本から切り離された。
そして、日本復帰後も、過大な基地負担が押し付けられたままになっている。
そのなかで、米兵による凶悪犯罪が後を絶たない。

この状況下でオバマ大統領は沖縄に謝罪することもせず、沖縄の米軍基地建設推進を強要するのか。
無辜の市民を大量虐殺した現地を訪問して、国際法違反の行為について、謝罪もせずに観光のために訪問するというのか。
心ある日本国民は、オバマ大統領の「謝罪なき広島訪問」に連帯して抗議の意思を表明するべきである。


天木直人氏も次のように述べている。

米軍属による沖縄女性殺害事件の衝撃 
2016年5月20日 から一部抜粋
 
沖縄で行方不明になっていた女性が在日米軍の「軍属」によって殺害されていたというニュースがかけめぐった。

 このニュースを聞いた私はこれは見えざる神の手のしわざではないかと思った。
 辺野古移設を強行し、オバマの広島訪問で日米同盟強化の喧伝を目論む日米両政府にとって、このタイミングで、このような事件が起きた衝撃は、はかりしれないに違いない。

<中略>

 思えば、在日米軍撤退の気運が盛り上がるのは、きまってこのような不幸が起きた時だ。

 そして、最後は何も変わらないまま、その抗議は抑え込まれてしまう。
 なぜか。
 それは、日本が講和条約を結んだ後でも日米安保条約によって主権を放棄して来たからだ。
 主権を放棄して来ただけではなく、米軍による軍事占領を認めて来たからだ。

 今度の報道で、「軍属」という、およそ日本語になじまない言葉が存在する事を我々は知った。
 これは、日米安保条約の事実上の主役である日米地位協定に出てくる言葉だ。
 
すなわち、米軍基地内で働く軍人以外の米国職員と言う意味だ。
 
米国人は軍人だけでなくすべての者が、軍用機で自由に日本の米軍基地を往復できる。
 
入国審査を一切受けることなく、誰もが米国軍用機に乗れば米国本土と在日米軍基地を往復できる。
 
そしていったん在日米軍基地に降り立てば、そこから日本のどこにでも自由に行き来することができる。
 
日本で不祥事を起こしても、在日米軍基地に逃げ込めば、日本の主権は及ばない。
 
犯罪でもスパイでも何でもできるのだ。

 
なぜ、このような、世界でも異例の二国間関係がいまでも対等であるべき日米間で厳然と存在するのか。
 
それは、日本政府が、国民に知らせることなく、日米安保条約の交渉の過程で米国に譲歩して合意したからだ。
 
それがこの国の戦後70年の日米関係なのだ。
 

 <中略>

 なぜ小泉元首相が米国にまで行って、日本の被爆者よりも先に、トモダチ作戦に派遣された元米兵に涙を流して謝罪したか。
 なぜオバマの広島訪問が謝罪ではなく日米同盟の強化のための訪問になるのか。
 なぜ今度の選挙で、共産党を含めた野党共闘は、安倍打倒を叫んでも、日米安保問題を棚上げするのか。
 なぜ少女暴行事件で盛り上がった普天間基地返還が、いつのまにか辺野古新基地建設にすり替えられて、強行される事になったのか。
 なぜ今度の沖縄女性の米軍属による殺害事件が起きても、それがケネディ大使に対する大衆抗議や、オバマの広島訪問ボイコットに発展しないのか。
 なぜメディアの報道ぶりがここまで抑制的なのか。
 すべてが理解できる。
 我々はそろそろ米国から自立すべき事に気づかなければいけない。
 真実を知れば、そのあまりの従属ぶりに怒りが彷彿する。
 大衆の怒りこそが政治を動かす。
 日本国民は真実を知って怒らなければいけない。
 その怒りで、政治を自分たちのものにしなければいけない。

<後略>

 

沖縄には日本の国家主権を巡る最前線の闘いがあり、そこに我が国の病理が凝縮されている。しかし、その病理は、もともとは沖縄に、あるいは日本に固有のものではなく、外から持ち込まれたものである。ところが、国民は、この病理の源を排除することをせず、むしろ同胞が同胞を犠牲者として売り渡し、互いに攻撃し合うことで、真の病理の元凶を隠し、かばって来たのである。

米軍基地がらみの全ての事件は、いずれも「宗主国」の「属国」に対する優越感をよく示すものであり、その根源は本来、対等であるべき二国間に結ばれている不平等な条約にある。このような条約は、一方の国からの圧力だけでは結べない。そこには明らかに、日本国民の目からは隠れて、米国との不平等な条約を密約として結び続けて来た日本政府の存在がある。

なぜ日本政府はそのように国の主権を積極的に売り渡すようなことをして来たのか? そこには明らかに、上記のJOC竹田会長にまつわる事件にも見られるように、天皇制から始まって、旧宮家や財閥などに代表されるような、戦前の日本に作られた利権構造を、国民の目から隠れて密に温存したい人々の思惑があったとしか思えないのである。
 
つまり、日本という国が、真に国民が平等な国になっては困る人々が、国民が決して自分たちの置かれている理不尽な状態に気づいてこれを拒否して自立して立ちあがることのないように、しかも、自分たちの悪しき支配が表に出て国民の敵意を呼び起こすことのないように、米国の庇護を隠れ蓑に自らの支配を正当化して来たのだとしか思えないのである。

そのために、彼らは米国と手を携えてあらゆる解放運動の芽を潰して来たのであり、支配階級を敵視する共産主義思想が脅威になったのは言うまでもない。安保闘争が盛り上がった時、マルクス主義に影響を受けた学生運動を潰すために、宗教に名を借りて実質的には皇国史観を思想的に温存する生長の家などが学生運動を瓦解させる工作に一役買ったことは知られている。しかし、共産主義思想はもともとはキリスト教の焼き増しのようなものでしかなく、人を自由と解放に至らせることのできる真の衝撃力としてのキリスト教もまた彼らの目に見えない弾圧と監視の対象であった。(以下の記事で、興味深いことに、兵頭氏はキリスト教が暗闇の勢力の奥の院にさえ最も鋭く切り込むことのできる唯一の衝撃力であると認めている。)

さて、日本が、真に主権を取り戻すためには、米国からの自立を叫ぶだけでなく、国を売り続けて来た戦前の遺物との完全な訣別が必要となる。

戦前の遺物をブランドのようにありがたがる国民性から脱し、長い物には巻かれろ式に、自分はどれほど踏みにじられても、強い者には決して物申すことなく、自分よりも弱い同胞を踏みつけにして鬱憤晴らしをするだけのプライドも気概もない属国国民性を捨て、偽りの優越感によって買収されることなく、真の対等と自立を目指すことができるのか、我が国は再び重要な分岐点に差し掛かっているのだと言えよう。



沈黙のうちに再び見殺しにされる長崎のクリスチャンの犠牲者たち

ところで、なぜオバマ大統領は、広島訪問をして、長崎を訪問しないのか? その理由について、兵頭氏が、以下の記事で実に興味深い説を述べている。

 広島への第二の原爆投下
2016年5月17日 [USA] から一部抜粋

5月14日、安倍晋三は、オバマの広島見物(謝罪しない宗主国のトップは、見物にくるのである)に関して、「歴史的な訪問にしなければならない」と述べた。

それにしても、それほどオバマの広島見物はすごいことなのか。実は、それはすごいことなのである。なぜなら謝罪なしの広島見物をやってのけ、日本の政権も謝罪を要求しないという意味で、実にすごいことなのだ。

安倍は「世界で唯一の戦争被爆国の首相と、世界で唯一核兵器を使用した国の指導者が共に犠牲者に哀悼の誠をささげることは、核のない世界に向けての一歩になる」と語った。米国へのヨイショが身に染みついているのである。

戦後の日本の1%は、民族の負の遺産を語るのが好きだ。「世界で唯一の戦争被爆国」、「失われた10年」、「失われた20年」、「失われた30年」(どこまで失い続けるのか。いっそ「永遠に続く喪失」とでもしておけばいいのだ)「阪神・淡路大震災の教訓」、「東日本大震災の教訓」、「福島を完全にコントロール」……。すべてに失政が深く絡んでいるのだが、それさえわからなくなっているのだ。

だいたい不幸や悲劇は、誇らしげに他人に語るものではない。それさえわからなくなっているのである。

<中略>


結局、オバマは謝罪せずに今月27日に広島を見物して帰るということに落ち着いた。
なぜ長崎は見物さえしないのだろう。

<中略>

原爆投下された1945年当時の長崎は、500年以上も続いた日本キリスト教の中心地であった。米国は、市の中心部に投下した広島とは違って、長崎では、わざわざ軍需工場の三菱造船所を外し、浦上天主堂があった市の北西部を狙っている。

米国はすでに戦後を考えており、神としての天皇がいなくなった間隙をキリスト教が埋めることを潰しておく必要があった。極東の場末の神道などどうでもいい。欧米からはあらかじめ場末のカルトとして排除されている。しかし、キリスト教は世界への発信力がある。フリーメイソン(その奥の院としてのイルミナティ)への反撃力もある。

長崎は、米国も恐れる日本のバチカンであった。その象徴としてキリスト教大聖堂を狙ったイルミナティの、反キリスト教の戦略が長崎への投下を隠し続けるのである。

広島・長崎への原爆投下を、米国は戦争を終結させるためのものとして語る。しかし、この当時の日本に戦争継続の余力はなかった。昭和天皇裕仁はすでに戦犯免責を求めて画策していた。すでに制空権は奪われ、好き放題に大都市は焼き払われていた。

広島と長崎とで、違う原爆を市民に対して使ったのは、明らかに人体実験のためである。広島では爆弾の燃料としてウラン235(TNT火薬換算15kt)が使われた。

長崎では、破壊力が強力な最新のプルトニュウム239(TNT火薬換算22kt)が使われた。広島の1.5倍の威力である。

技術的な意味においても、政治的な意味においても、米国1%にとっては、広島より遙かに長崎の方が位置づけが重いのである。だから長崎は隠されるのだ。

フリーメイソンのトルーマン大統領は、原爆投下の指示書にサインしたとき、周囲の閣僚に向かって笑い、「獣(のような人間)に対処するときは、彼らを獣として扱わなければならない」と言い放ったといわれる。おそらく、そのときのトルーマンは獣の顔をしていたのだろう。

<中略>

オバマ大統領が広島を尋ねる訳だが、これを機会にアメリカが原爆を落としたのは、アメリカがわざと日本にパールハーバーを攻撃せざるを得なくさせたのと同じように日本政府がアメリカに原爆を落とさせた面がある事を指摘したい。日本に原爆を落とさせたのは当時の安倍政権の様な日本政府だった。

<中略>

2004年の民主党大会の基調講演でオバマは「進歩のアメリカと保守のアメリカとがあるのではない―アメリカ合衆国があるのみだ。黒人のアメリカが、白人のアメリカが、ラテン系人のアメリカが、アジア系人のアメリカがあるのではない ―― あるのはアメリカ合衆国だ」と語った。

この空虚な美辞麗句に人々は酔いしれた。この嘘は現実がすぐにあばいた。

<中略>


オバマ大統領誕生の意味は、黒人を差別し、排除してきた白人の偽善が、過去を免罪しようとしたのである。

その動機は広島でも実行される。広島見物で実現されるのは、広島・長崎への二度目の原爆投下であり、原爆ホロコーストの免罪であり、謝罪なしに広島見物を実現したという米国の最終的勝利の勝ちどきなのである。

<後略>

兵頭氏の見解によれば、オバマ大統領の広島訪問は、日米両政府が手を携えて米国による原爆投下を正当化し、それを追認する目的でしかないことになる。

このことは、キリスト教界とカルト被害者救済活動とが同根であるという筆者の主張にも通じるところがあるように思う。つまり、被害を生み出したまさに張本人(キリスト教界)が、かりそめの被害者救済運動を繰り広げることによって、その中にある支配構造(牧師制度)を肯定しながら、あたかも被害者に「同情」しているふりをして、上から目線で涙を注ぐことによって、被害者をより一層、被害者意識から立ち上がれないようにして自立を阻み、半永久的に被害者を踏み台にして自らの罪を正当化するのとよく似た構図を見る。被爆者への同情は、支配を正当化し、より強化するための口実でしかない。そんなうわべだけの「同情」に満足している人々がいるとすれば論外である。
 
さらに、兵頭氏は、長崎が注目もされないのは、長崎への原爆投下によって殺害された多くがキリスト教徒であったからだと述べる。すなわち、長崎への原爆投下は、予め戦後の日本において起きるであろうと見られた真のキリスト教の高揚を抹殺することが、本来的な目的であったのだというのである。

当時の軍国主義日本がキリスト教徒を抹殺したというならまだ理解できるが、表向きにはキリスト教国のように見えた米国が、日本のキリスト教徒の抹殺を積極推進したというのである。信仰を持たず、神に反逆するファシストの兵士を殺害したというならば、まだ弁明もあるかも知れないが、同じ信仰に立つ無害な一般市民である兄弟姉妹を殺したのだから、それは「兄弟殺し」であり、これに対しては弁明は成り立たない。このことは、連合国の側にも、実は大義がなかったことをよく表している。

(しかし、米国による日本のキリスト教徒への支配は戦後も続けられる。それはたとえば、戦後の日本の開拓伝道期に日本各地で起こり、当時は自由な教会であったものが、後には米国によってコントロールされる教団に組み入れられて行く様子にも見て取れる。プライス師の時代には教団に属していなかった鳴尾教会が、米国と深い関わりを持つアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属して以後、起きた事件については言うまでもない。この教団を離脱するために同教会は多大な苦しみを通らねばならなかった。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の推進するカルト被害者救済活動は、「教会のカルト化の危機」を口実に、日本のプロテスタント全体を監視下に置こうとしているが、そのようなことが起きる背景にも、以下で引用する記事にあるように、長崎への原爆投下を当時から正当化しつつ日本のキリスト教界に打撃を加えることを肯定していた米国の異常なキリスト教界が、今でも日本のキリスト教界を完全にコントロール下に置いておこうとする明らかな思惑が働いているように見受けられてならない。)

長崎の原爆投下によって殺されたクリスチャンについては、以前にも、「マスコミに載らない海外記事」から引用したことがある。以下の記事は長崎への原爆投下を明確に「キリスト教徒によるキリスト教徒の殺害」として告発し、この出来事に神と信者に対する冒涜的な意図があったことを記している。また、原爆投下の時点で、日本の敗戦は決定的なものになっていたのであり、それは戦争を終わらせるためというよりも、米国が日本人を実験台として、ソ連に先んじて自らの軍事力を見せつける意味も持っていたことを示している。

長崎原爆投下70周年 : 教会と国家にとって歓迎されざる真実
Dr. Gary G. Kohls
Global Research
2015年8月4日

洗礼と堅信礼を受けた、このキリスト教徒航空兵達は、致命的な突然のトラブルがいくつもあったにもかかわらず、戦時の命令に一字一句従い、業務を能率的に行い、軍人としての誇りをもって、任務を完遂した。1945年の大半のアメリカ人なら、もしボックスカー乗組員の立場になっていたら、まさに同じことをしていただろう。そして、もし、我々が、地上で、原爆が引き起こした人々の苦難を実際に目にせず、聞かず、臭いを嗅がなければ、そして後に、英雄として処遇されるのであれば、遡及的に、一般に、戦争犯罪と見なされるようになったものに参加したことに、精神的苦痛もほとんどなかったろう。

実際、戦争の歴史において、あの極悪非道の大量破壊兵器使用は、後にニュールンベルク裁判で、国際的な戦争犯罪、人類に対する犯罪として定義された。

もちろん、任務当時、乗組員がそれを知る方法など皆無だった。<略>

日本を降伏しにくくさせる

それは、原爆が広島を滅ぼした8月6日から、わずか3日後のことだった。長崎での原爆投下は、ファシスト軍事司令部が、いかに名誉ある降伏をするか議論すべく、天皇との会議を始めたばかり- すでに何ヶ月も前から、戦争に負けたことを理解していて、それゆえ戦争を終わらせる方法を模索していた東京における混沌、混乱のさなかに行われた。両国の軍と民間人指導部は、もう何カ月も、日本が戦争に負けたことを知っていた。

降伏に対する唯一の障害は、連合国諸国が、日本人が神と見なしていた天皇裕仁が、日本における名目上の長の立場から排除され、恐らく、戦争犯罪裁判にかけられる可能性を意味する、無条件降伏を主張していたことだった。この要求は、天皇を神と見なしている日本人にとって、耐えがたいものだった。

ソ連は、その一日前、8月8日に、40年前の(ロシアにとって)屈辱的な日露戦争で、日本に奪われた領土を奪還することを狙って、日本に対し、戦争を宣言し、スターリンの軍隊は、満州を前進していた。ロシア参戦は、ロシアより、アメリカに降伏するほうがずっとましだと考えている日本にとって、戦争を早急に終わらせる為の強い動機となった。そして、もちろん、アメリカは、いかなる戦利品も、ロシアと分け合いたくはなく、ロシアに対して、アメリカが、この世界における新超大国だという初期の冷戦メッセージを送りたがっていた。

ロシア参戦は、 7月16日、ニュー・メキシコ州での原子爆弾実験成功を知る前に、トルーマン大統領が奨励したものだった。

だが今や、トルーマンと彼のブレイン達は、スターリンの助けなしに、原子爆弾で日本を降伏させられるのを理解した。それで、ソ連と戦利品を分け合う意図は皆無だったアメリカは、アメリカが地球上の新たな超大国だという初期の冷戦メッセージをロシアに送りたかったので、天気が良く、原爆が利用可能になり次第(実際は、四発目の原子爆弾を製造する為に使える核分裂物質はもはや無かったが)原子爆弾使用の方向で進めるようトルーマンは、爆撃機司令部に命じたのだ。

<中略>

トリニティー実験

最初で、唯一の原子爆弾実地試験は、冒涜的なことに(明らかにキリスト教用語の)“トリニティー=三位一体”というコード名がつけられていた。この実験は、原爆投下に先立つこと三週間、1945年7月16日に、ニュー・メキシコ州アラモゴルドでおこなわれた。結果は見事に壊滅的だったが、爆風は、不運なコヨーテ、ウサギ、ヘビや他の砂漠の害獣を絶滅させただけだった。アラモゴルドの、プルトニウム原子爆弾は、長崎原爆と同じものだった。

トリニティー実験では、予期せず、後に“トリニタイト”と呼ばれるようになった、膨大な量の新たな鉱物をもたらしたが、これは原爆爆破地点上空の太陽温度の二倍もの強烈な熱によって生み出された溶岩塊だった。

1945年8月9日午前3時、(ボックスカーという“洗礼名を授けられていた”)超空の要塞B-29が、ルター派とカトリックの従軍牧師の祈祷と祝福を受けて、南太平洋のテニアン島を離陸した。

<略>

長崎は日本の軍事参議院が、再度降伏条件について議論をしている最中、灰にされた。

<略>

長崎キリスト教の歴史

長崎は、日本のキリスト教史上で有名だ。長崎は、日本で最大のキリスト教徒の集中地だった。浦上天主堂は当時の巨大教会で、12,000人の洗礼を受けた信者を擁していた。

長崎は伝説的なイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが、1549年に伝道教会を建てた場所だ。長崎のカトリック教共同体は拡大し、ついには続く数世代、繁栄した。ところが結局、日本にとって、ポルトガルとスペインの商業権益が、日本を搾取していることが明らかになった。やがてわずか数世代で、全てのヨーロッパ人と、彼等の外国宗教は国外追放された。

1600年から1850年まで、日本では、キリスト教徒であることは、死罪に値した。1600年代初期、信仰取り消しを拒否した日本人キリスト教徒は、磔刑を含め、言語に絶する拷問を受けた。大量磔刑を行った後、恐怖政治支配は終わり、あらゆる観察者にとって、日本におけるキリスト教は絶滅したかに見えた。

ところが、250年後に、マシュー・ペリー准将の砲艦外交が、沿岸の島を、アメリカ貿易の為に開放させた後、長崎には、政府には全く知られず、地下潜伏した形で、洗礼を施された何千人ものキリスト教徒達が暮らしていることが発見された。

この屈辱的な発見の後、日本政府は新たな粛清を開始した。ところが国際的圧力の為、迫害は止められ、長崎のキリスト教は地上に出現した。1917年には、政府から何の援助も受けずに、復興したキリスト教共同体が、長崎の浦上川地区に、壮大なセントメアリー大聖堂を建立した。


キリストの名において、キリスト教徒を殺害するキリスト教徒


9300メートル上空から確認可能な、長崎に二つしかない陸標の一つ(もう一つは、連合諸国の海上封鎖の為、原材料も不足していた、三菱の兵器工場複合体)である巨大な天主堂が、ファット・マン原爆の爆心地となったのは皮肉の極みだ。

午前11:02、木曜朝ミサのさなか、何百人もの長崎キリスト教徒はゆだり、蒸発し、炭化し、あるいは天主堂上空500メートルで爆発した、焼けつく放射能の火の玉へと消えた。間もなくきのこ雲から降った黒い雨が、多数の長崎の神道信者、仏教徒やキリスト教徒の入り交じった亡骸を包んだ。長崎の黒い雨の神学的含意は、あらゆる宗派の神学者達の心をひるませるに違いない。


長崎キリスト教信者の死者数


大半の長崎のキリスト教徒は、爆破から生き残れなかった。ゆるしの告解に出席していた全員を含め、6,000人が即死した。12,000人の教会員のうち、8,500人が原爆の結果として亡くなった。他の多くの人々も極めて致死的な全く新しい病気になった。放射能疾患だ。

近隣にあった三つの女子修道院と、キリスト教女学校が、黒煙となって消滅するか、炭の塊と化した。何万人もの無辜のキリスト教信者ではない人々も即死し、更に多くの人々が、致命傷を負ったり、治療もできないほど負傷したりした。犠牲者の子孫の中には致命的なプルトニウムや、原爆が生み出した他の放射性同位元素によって引き起こされる、継代悪性腫瘍や、免疫不全を患っている。

ここで、本記事の重要点の一つをあげよう。日本の帝国主義政権が、200年間にわたる迫害でできなかったことを(日本キリスト教の破壊)、アメリカのキリスト教徒は、数秒でなし遂げたのだ。

第二次世界大戦以来の数十年間で、キリスト教が、ゆっくりと復興した今でも、日本人教会信者数は、総人口のわずか1%というものでしかなく、キリスト教礼拝への平均出席者は、わずか30人と報じられている。戦争末期における長崎の絶滅が、一時は活気に満ちていた教会を、損なってしまったことは確実だ。 

<後略>

ここには、長崎のクリスチャンを代表として、日本のキリスト教が辿って来た受難の歴史が表れている。長崎への原爆投下が、クリスチャンに対する意図的な迫害であった可能性は、様々な形で指摘され始めているが、ここに、人間を悪魔への隷従から解き放ち、真の自由と解放へ導くキリスト教の持つ真の威力を暗闇の勢力が恐れていたことがよく表れているように思う。その点で、軍国主義下の日本が深い闇の中にあったと同様、連合国側にも、底知れぬ闇が潜んでいたことを思わずにいられない。

だが、キリスト教が本質的に持つ十字架の解放の力はどんな原爆よりもはるかに衝撃的である。これを発揮させないためにこそ、今も人口の1%程度の日本のクリスチャンは、米国と深い関わりのある教団によって始められた被害者運動なるものによって引き裂かれ、弾圧され、同士討ち的状況に陥れられている事実を考えなければならない。これもまたキリストの名を悪用して行われるクリスチャンに対する迫害なのである。特に今日沖縄のクリスチャンに起きていることはそうである。

しかし、最も激しい戦いに見舞われているからこそ、そこが最前線なのであり、最先端でもある。もし我が国の主権の回復――真の自立と解放が始まるとすれば、それは必ず沖縄からであると筆者は確信せずにいられない。

真の加害者は誰か?〜戦争とハンセン病隔離政策に見る政府の主体なき反省~

今までグノーシス主義の構造を解明すると幾度も予告して来たが、まだその本題に踏み込めていない。これまでのようなペースで記事を進めていくことはかなわないが、本題に入る前の序章への一歩として、戦争責任と、ハンセン病患者に対する絶対隔離政策に関する国の主体なき反省という問題に触れておきたい。なぜこの問題に触れざるを得ないかは、追って記事に記して行く予定である。

厚生労働省に「社会援護局」という部局がある。ここでは社会福祉及び戦後処理に関する仕事が扱われている。ちなみに、この局の英訳は、厚労省がウェブサイトに発表している組織図によると、”The Social Welfare and War Victims' Relief Bureau (including the Department of Health and Welfare for People with Disabilities”となっている。
 
この英語を忠実にきちんと訳すなら、決して「社会援護局」という呼び名にはならないはずだ。 「社会福祉障害者への保健福祉を含む及び戦争被害者救済 」というような訳になると思われる。いずれにしても、「社会援護局」という日本語の呼称には、英語の呼称には明確に記載されている「戦争被害者への救済」(War Victims' Relief)という言葉が丸ごと抜けているのである。

"War Victims"という単語は、「戦争被害者」とも「戦争犠牲者」とも呼べる非常に強い響きを帯びた言葉だ。誰の犠牲者なのか? 当然、政府の犠牲者である。つまり、政府の引き起こした誤った戦争の犠牲者という意味である。
 
この「戦争の犠牲者」という言葉を、厚労省は国内向けの呼称には全く使用していないのだ。

このことは、日本政府が対外(米国)向けの説明と、国内向けの説明において、巧妙に二重の態度を使い分け、相矛盾する説明を繰り返していることを示す一端である。つまり、政府は、対外的にはあくまで敗戦国の政府として、戦争被害者へちゃんと補償を行っていますよとへりくだってアピールしながら、日本国民に対してはあくまで「私たちはおまえらを援護して(助けて)やっているんだ」という上から目線の態度を崩さず、一切、自らの(政府の)戦争責任には触れようとせずに、自分たちがあたかも慈善事業かもしくは気前の良い善行でも行っているかのように戦後処理という仕事を美化しているのである。

だが、それは戦後処理であるから、本当は国民への「援護」と呼べるものではなく、政府が自ら犠牲にした人々への当然の償いであり「罪滅ぼし」に過ぎない。社会福祉と一緒くたにして論ずべき仕事でもない。それを一緒にすることにより、政府は戦争犯罪に対する贖罪のニュアンスを消し去っているのである。

さらに、厚労省は日本政府の戦後処理を中心的に行っている部署であるが、あらゆる省庁の中でも、唯一、巨大クラスの戦没者の「霊安室」を抱える省であるという点でも、特異な存在である。

以下の動画でも言及されているように、庁舎の四階を中心として、職員らが普通に仕事を行なっている執務室と並行して、同省には国民の遺骨がおさめられた「霊安室」が散在しているのだという。以下の議員の質疑によると、厚労省に存在する「霊安室」の規模はかなり大きく、全体としては、もはや霊廟と言っても良いほどであるそうだ。

このような「霊安室」は、身元が不明であったり、引き取り手がなかったり、または千鳥ヶ淵の墓苑に入れきれない(入れるのがふさわしくない)遺骨を仮置きしたことから巨大化して行ったと見られる。

実のところ、遺骨収集事業そのものも、政府にまつわる利権と化している。政府の下請けの仕事はどれもそうであるが、大規模な公共事業の建設を除けば、どれも企業にとっては決して実入りの良い仕事とは言えない。毎年の入札で最低金額を提示する会社がそれを受注するくらいなので、集まって来るのは、人件費などは真っ先に削ってでも、その薄利の中からでも何とか儲けを取りたいハゲタカ・ハイエナのような企業のみである。そこで、原発利権がそうであるように、こうした政府の下請け事業においては、環境はひどいものとなり、仕事の質もそれだけ疑わしいものとなっていく傾向がある。

それだからこそ、幾年も前に、フィリピンなどで収集された遺骨の中に、果たして日本兵のものであるかどうかが疑われる遺骨が混じっていたというニュースも、まだ記憶に新しい。この行方の定まらない遺骨をどうするのかという問題も、ずっと棚上げされたまま、省内の霊安室に仮置きされて、もはや放置状態で今日を迎えているのだと考えられる。いかに毎日、花や水が手向けられていたとしても、オカルトや怪談ではないのだから、行き場のない遺骨が大量に保管されて霊廟のようになっている省の不気味さについては改めて言及する必要もない。

戦後70年経っても、異国の地に連れていかれたまま、どこで亡くなったかもわからない人が未だ大勢おり、その亡骸も発見されておらず、その上、遺骨収集そのものが利権ビジネスと化して、疑わしい事業になったり、ようやく収集された遺骨も、引き取り手のないまま、省庁の仮の事務室に天井にとどくほどまでにうずたかく積み上げられ、家にも帰れず、いつまで置かれるのかも分からないままに放置され、月日だけが過ぎるうちに、ますます引き取り手がなくなっていくという悲劇・・・。これが戦争の痛ましい結果である。70年前の出来事でさえこのように未解決なのだから、今再び、戦争が起きた暁にはどこに霊安室を作るつもりなのか・・・。今度は防衛省も巨大な霊廟になるのだろうか・・・。こうしてやがて国ごと霊廟と化して行くのであろうか・・・。(かなりその線が濃厚である。)



さて、「社会援護局」という名称から、「戦争犠牲者」の文言が省かれていることにも、政府の過去の戦争への反省なき上から目線の態度が表れているという話であった。そのような態度は、別な側面では、戦争被害者のみならず、ハンセン病者に対する政府の啓発活動にも見ることができる。

後述するように、ハンセン病者については、治療薬が開発され、これが不治の病ではないことが世界の共通認識となった後も、日本政府は、平成になるまで、到底、現代に似つかわしくない差別的で反人間的な強制絶対隔離政策を長年にわたって続けて来た。そのため、ハンセン病者は政府の政策として、人生を奪われて療養所の塀の向こうに強制隔離され続けたのである。小泉政権下で、2001年(平成13年)5月11日、熊本地裁で患者・元患者らが原告となって国を訴えて勝訴し、政府が控訴を断念するその時まで、日本政府はこの隔離政策を正しいものとして推進して来たのである。

このような歴史を認めるならば、政府はハンセン病に関する啓発活動において、真っ先に国が過去に行った絶対隔離政策の誤りに言及し、社会に残るハンセン病者への差別や偏見の責任は、誰よりもまず政府にあり、これを払拭する責任も、政府にあるということを認め、その事実から話を始めなければならない。

ところが、国の啓発活動には、「ハンセン病者への差別は、誰の罪によって生まれたのか」という主体の記述が丸ごと抜けているのである。たとえば、厚労省が作成したパンフレットの冒頭には、次のような導入の言葉が書いてある。

ハンセン病療養所に暮らしている元患者さんたちは、療養所の壁の外の社会にいる健常者のことを、”壮健さん”と呼んでいます。つまり、壮健さんとは皆さん自身なのです。ハンセン病の患者さんは今日まで、想像を絶する偏見と差別にあいました。私(壮健さん)は、患者さんや元患者さんたちに対する偏見や差別をなくすために、一生懸命勉強しました。私が、ハンセン病の歴史について、皆さんの疑問に答えます。」



こうしたパンフレットの文言からも明確に感じられるのは、国の責任回避及び、差別の責任の巧妙な転嫁である。

すでに述べたように、平成に至るまで言語道断なハンセン病者への絶対隔離政策をとることによって、「ハンセン病者への偏見・差別」を作り出し、積極的に社会に普及した罪は政府にこそあった。

それにも関わらず、ここで政府は「ハンセン病の患者さんは今日まで、想像を絶する偏見と差別にあいました。」と、まるで他人事のような表現で、誰がそのような偏見や差別を作り出した責任者なのか、あいまいにお茶を濁し、加害責任への言及を避けている。

そして、政府はあたかもハンセン病者の気の毒な状況に優しく寄り添い、ハンセン病者の辿った気の毒な歴史の啓発活動に従事している第三者のような態度を取っているのである。

このトリックは安倍談話で使われたものと同じである。ちなみに安倍談話では、安倍氏は従軍慰安婦について次のように言及した、「私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります」

ここには、一体、誰が「多くの女性たちの尊厳や名誉を深く傷つけ」た主体なのか、主語が全く存在しない。つまり、従軍慰安婦を作り出して女性の尊厳と名誉を深く傷つけた日本政府の加害責任というものについて、一切言及がなく(むろん、慰安婦という言葉さえ使われていない)、政府はまるでこの人々に対して罪滅ぼしの責任がないのに、あたかも女性の人権向上のためにしなくても良い仕事を積極的に引き受けて努力しているかのような表現がなされている。

こうして政府は「自分たちは可哀想な社会的弱者に同情的に寄り添い、積極的に支援している善良な慈善家・人権擁護家なのだ」という美しい仮面をかぶり、自分たちを「加害者」ではなく「支援者・救済者」であるかのように見せかけて美化し、自らの加害責任に言及することを避けているのである。

しかし、本当は、その活動は政府が自ら犠牲にした被害者への当然の罪の償いであって、慈善的な支援や人権擁護活動とは全く別ものである。加害者でありながら、「過去を、この胸に刻み続けます」とか、「女性たちの心に、常に寄り添う国」とか、「女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードする」とか、情緒的で自己陶酔的な美辞麗句をふんだんに使った過剰な自己演出は、思い上がりとしか言えず、犠牲者にされた人々にはただ嫌悪を催すだけであろう。

まるでおとぎ話の「青髭」が、人前では「愛する妻を痛ましい事故で失った気の毒な夫」を演じて悲嘆に暮れ、葬儀の列席者に「そんなに深く妻を愛していたのだな」と同情を受けようと自己演出しているかのような、そんな印象さえ覚える。女性たちを犠牲にして来た張本人が、立派な人権擁護家のようにしたたかに振る舞っているのである。加害者でありながら「世界をリードする」とは何事であろうか。

こうして、単なる「罪滅ぼし」であり「当然の償い」に過ぎないものが、あたかも人権擁護のための世界的一大救済事業のようにまで高められ、美化される。加害者が英雄にまでなる。しかし、罪を美化しているかのような、このような歪んだ自己陶酔は、日本政府にこれまで定着してきた精神性であると言って差し支えない。いや、それが日本政府だけならば、まだ話は早いのだが・・・。

話を戻せば、厚労省が前述のパンフレットにおいて「ハンセン病者」と「壮健さん(健常者)」という対立構造を巧みに作り出していることにお気づきだろうか。こうして、病者と健常者を対立させることによって、政府は自ら作り出した「ハンセン病者への差別や偏見の責任」を巧妙に社会(健常者!)の責任へ転嫁し、この問題を健常者に押しつけようとしているのである。

今まで、私は、神戸児童連続殺傷事件の犯人とされた少年Aにまつわる最近の動きにも、これと同じ構造があることを指摘した。義務教育が自分を怪物に作り上げたと告白していた酒鬼薔薇聖斗を生んだ責任は、本来、国にあるはずなのだが、これを社会に転嫁しようとする動きがあることを指摘して来た。また、同性愛者に対する差別という問題についても、同性婚を禁止してきたのは政府の施策であって、それは何ら非同性愛者の罪になすりつけられるべきものではない。もしその過去の施策が間違っていたというならば、なぜ間違っていたのかをきちんと説明した上で、懺悔を迫られるのは政府でなければならない。ところが、「同性愛者」対「非同性愛者」という偽の対立構造を作り、両者の間で憎悪を煽ることで、同性愛者への”差別”や”無理解”をあたかも非同性愛者の罪であるがごとくに非同性愛者に責任を押しつけ、非同性愛者を断罪し、罪悪感を持たせ、懺悔を迫ることで、これを解決できるかのような見当はずれなキャンペーンが行われている。こうした偽の対立構造がいかに有害であり、問題の本質を覆い隠す目くらましに過ぎないものであるかを指摘した。

難民問題もまた同じである。亡くなった男の子の写真は、人々の哀れを催すには十分すぎるほど痛ましいものであろう。だが、その背後にどんな意図が隠されているだろうか? 難民が発生した本質的な原因が誰にあるのか(シリアを内戦に導いたのは誰か)を考慮せずに、ただ難民(社会的弱者)と非難民(社会的強者)という対立構造を作っては、難民を受け入れようとしない国の人々を「利己的で偏狭な人でなし」として責め、本来、国家間の問題であるはずの事柄を、一般人の個人的な良心の問題であるかのごとく議論をすり替えることは、責任転嫁であり、目くらましにしかならない。「マスコミに載らない海外記事」に次のような記事が掲載されている。アメリカが爆弾を投下し、EUが難民と非難を受ける。これは正気ではない。

同様に、障害者への偏見や差別、または国家による障害者福祉の不足という問題を、「障害者」対「健常者」を対立させることによって、あたかも健常者の罪のようになすりつけて、国家の不作為を覆い隠そうとする構図も不毛である。

にも関わらず、多くの人々がこうした策略を見抜けずに、「社会的強者」と「弱者」という国民分断のための対立構造にまんまとはまっては、同士討ちのような不毛な論争を繰り広げて来たのである。それによって、それが本当は誰の責任であったのかという問題は、より一層、うやむやにされて行ったのである。


「ハンセン病者」対「壮健さん」という対立構造にも、それと全く同じ巧妙なトリックが見て取れる。

つまり、ハンセン病者への差別や偏見を作り出したのは政府であって、健常者ではない。本当に糾弾されるべき「強者」は、政府であって、「壮健さん」ではない。それにも関わらず、ハンセン病療養所に暮らしている元患者さんたちは、療養所の壁の外の社会にいる健常者のことを、”壮健さん”と呼んでいます。壮健さんとは皆さん自身なのです。」などと言って、政府はハンセン病者への差別や偏見・差別を払拭する責任が、あたかも一般の国民、健常者にあるかのように対立構造を作り出した上、自らはその陰に身を隠し、責任を転嫁しているのである。

こうして国は「ハンセン病者」と「壮健さん」の二項対立の陰に隠れ、あくまで「ハンセン病者を差別するのはやめましょう」と、「差別の払拭」のために善良な活動を繰り広げる第三者のような立場を取っているのである。

全く笑えないことに、このパンフレットの冒頭に登場する男性の画像には、「ojisan1」という適当な名前が付けられている。つまり、患者さんや元患者さんたちに対する偏見や差別をなくすために、一生懸命勉強しました。」と述べているのは、政府職員ではなく、名もなき一人の健常者のおじさんなのである。

繰り返すが、差別や偏見をなくすために一生懸命勉強し、国民からの問いに懸命に答えようとしているのは、官僚ではなく、名もなき一般の私(壮健さん)」のおじさんなのである。

すなわち、ここから分かるのは、国が行うこうした啓発活動においては、社会にハンセン病者への偏見や差別を積極的に普及したのは政府であるから、それを払拭する責任も、本来、政府こそが負っているのだという加害行為に対する認識と、罪滅ぼしの責任の認識が、ほとんどと言って良いほど、完全に欠けていることである。そして政府は、偏見や差別を改めなければならない責任があたかも健常者にあるかのように議論をすり替え、偏見と差別の払拭の責任を社会に丸投げし、自らは善良な啓発活動に従事するだけの立場に身を隠している。

しかし、これはとんでもない話である。もしも本来、国が責任を認めてもっとあるべき自然な文面を追及したとすれば、どのような文案になっていたかは想像にお任せしたい。たとえば次のような文案も考えられたことだろう。

「ハンセン病の患者の方々は、私たち政府が長年に渡り進めてきた誤った絶対隔離政策のために、今日まで想像を絶する偏見と差別にあってきました。国はこの政策が誤ったものであることを認め、これを撤廃し、患者さんに公式に謝罪しました。

ハンセン病療養所に暮らしている元患者さんたちは、療養所の壁の外の社会にいる健常者のことを、”壮健さん”と呼んでいます。隔離政策が誤ったものとして廃止された今、ハンセン病患者さんと”壮健さん”とを隔てる壁はもうありません。しかし、国があまりにも長年行ってきた誤った隔離政策の歴史の影響により、今でも社会にはハンセン病患者さんに対する偏見や差別という見えない壁は残り続けています。

私たち政府職員は、国が誤った隔離政策によってハンセン病患者や元患者の方々に対する社会の偏見や差別を助長して来た過去を反省し、偏見や差別を払拭し、「壁」のない社会を作るために日夜一生懸命努力しています。

患者さん・元患者さんと”壮健さん”が共に隔てなく幸福に暮らせる社会のために、また、ハンセン病に関する国の政策の歴史や、患者さん・元患者さんの存在を国民の皆さんに広く知っていただくために、私たち職員が皆さんの疑問にお答えします。」

しかし、おそらく、間違っても、政府はこのような自らの責任を真摯に認めるパンフレットを作ることはないだろうと予想される。戦争責任についても話は全く同じで、国には、国民に対する戦争加害者としての自覚が欠けているのである。欠けているというよりも、よほどこれを認めたくないのであろう。そして、国民の前ではひたすら虚勢を張って、自分たちはその手を血で汚した罪滅ぼしをすべき加害者などではなく、可哀想な国民を救済してやっている正義の味方であり、支援者なのだという仮面を被りたいのである。その態度が「社会援護局」という呼称にも表れているのだと言える。

さて、国とハンセン病の歴史はこれで終わらない。むしろ、こんなことはほんの序の口に過ぎない。それほどこの問題は奥が深い。日本政府がハンセン病患者に対して何をして来たのか、それは厚労省のウェブサイトの次の最終報告書に詳しくまとめられている。

何かと問題の多い小泉政権であったが、その中で唯一に近く(政府の施策としては遅きに失したとはいえ)至極まともな総括の一つが、この最終報告書ではないかと考えられる。それは、この報告書の中で、ハンセン病の強制・絶対隔離政策という国の過ちが、なぜこれほどまでに長年に渡って行われたのか、政府の視点からではなく、利害関係に巻き込まれることのない独立した第三者のグループの検証として、実に多面的かつ詳細な検証がなされているからである。これを読んだことがない人も、ぜひ一度目を通すことをお勧めしたい。

ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書

特に、この報告書の中で注目されるのは、狂気に憑りつかれたかのように絶対隔離政策にこだわった一部のマッドサイエンティストのような専門家と、まるで刑務所のような療養所の体制と、この問題に長年蓋をして来た政府の重過ぎる罪はいうまでもないこととして脇に置いても、これらの明々白々な罪だけでなく、他の人々は、なぜこの強制隔離政策に反対しなかったのかという問題をも真剣に追求している点である。

特に、ハンセン病者に深い同情を抱いて療養所を慰問に訪れた人々は数多く存在していた。宗教者・教育者・政治家・その他・・・。ところが、そのすべての人々が、病者を慰めることには気を遣っても、絶対隔離政策そのものの忌まわしさには目を向けようともせず、これを非難もしなかったことにより、結果的には、隔離政策という政府の非人間的な閉じ込め政策に加担し、これを補強し、助長する側に回ってしまったのである。それは一体、なぜなのかという問題が、この報告書では追求されている。

これは注目に値する問いかけである。それは、この問題が、ハンセン病者の自由の制限という問題のみならず、日本人一般の自由に対する感覚の欠点、盲点をよく表しているように感じられるからである。

この報告書は目をそむけたくなるほどの犯罪性に対しても真正面から向き合ったその検証と問題提起の深さ、鋭さにおいて、非常に深い歴史的な意義を持っている。あたかもドイツが過去の犯罪について徹底的な解明を行なったのと似たような、時代を超える普遍的な価値を持っていると言えるだろう。

だから、私はこの報告書を一つの参考としながら、療養所を慰問した人々が、ハンセン病者のつらい境遇を慰めようとしつつも、どのようにその慰めと励ましによって、かえってこれらの人々に黙って閉じ込めという抑圧政策におとなしく同意するよう圧力をかけ、縛って行ったのか、その心理的カラクリについて改めて考えてみたい。

政府の施策を糾弾するだけならば、誰にでもできるだろう。だが、それを助長した無数の体制があったということをも理解しなければならない。それは「ハンセン病者」対「壮健さん」などという皮相なレベルの話では決してない。

つまり、彼らの自由を抑圧し人権をはく奪するためにどんな口実が用いられたのか、そのトリックの嘘は本当に打破されたのか、むしろ、今日も使われているのではないか。そうした問題を考えて行く時、おそらく、この問題は終わっておらず、しかも、閉じ込められているのは、ハンセン病者だけとは言えないこと、同様の隔離政策は、いついかなる場所にでも、形を変えて存在しうることが見えて来るのである。

さて、結論から言えば、そこには、二つの根本的な心理的トリックがあったように思われる。それは、偽りの同情によって促進される身代わりの犠牲への同意というマインドコントロールと、宗教そのものが持つ隔離的性質の影響である。検証報告では、天皇制が隔離政策に与えた影響と、宗教が与えた影響の両方について言及されている。そして、私はこの二つは本質的に同根であると考えている。これから、この問題をさらに掘り下げて考えていきたい。


「引き分け」から「敗北」へ~グノーシス主義的な原初回帰が招く政治的悲劇~安倍談話がもたらす日本の世界的孤立~

日本封じ込めのために世界に逆手に取られた安倍談話

安倍氏が自ら未来志向と述べた談話を出し、過去の戦争に関する日本政府の謝罪はもう十分であり、これ以上、未来を担う若い世代に過去の戦争への謝罪責任を負わせないためにも、政府の戦争責任への謝罪は終了すべきであるとほのめかし、若者を口実にして日本政府が戦争責任を認めることをこれから放棄していくかのような内容を示唆した後、8月14日、日本の外務省は、過去の戦争責任に関するウェブサイト上のQ&Aの解説ページをまるごと削除した。

そのページには東京裁判で下された判決に対する日本政府の見解も記されており、私が以下の記事「一事不再理の原則(1) ~東京裁判の否定―日本のグノーシス主義的原初回帰~」でも触れたものであった。

このウェブサイトの削除により、外務省を含め日本政府は、これまで国家として示して来た先の大戦への贖罪と、それにより被害を受けた関係諸国の人々を含めたすべての人々に対する公式な謝罪をこれで打ち切るという(安倍政権の)方針を暗に示したのではないかと見られる。

つまり、安倍政権は、今年の8月15日を日本政府にとっての(精神的な第二の)「終戦の日」にしようと考えたのではないかと考えられるのだ。すなわち、政府が戦争責任の罪を追及され続けるという善悪の戦いの終了という意味で、これを新たな終戦の日としてとらえ、それに合わせて、玉音放送の原盤も公開されたのではないかーー。安倍氏とそれを支える勢力にとって、今年の8月15日は、国家としての日本の戦争責任終了日であり、日本政府の再生の日と見えていたのではあるまいか。

だが、この安倍談話を受けて、未来に向けて、日本政府が極東軍事裁判を含め、大戦に関する過去の裁きと責任をどのようにとらえて行くのか、その変化は具体的に明示されていない。天木直人氏は、外務省に安倍談話に沿うような新たなウェブページが作成される見込みは薄く、削除されたページはこのまま放置されるのではないかという予測を述べている。(「安倍談話に関する外務省のHPから目を離すな」8月18日

その予測もかなり的を射ているように感じられるのは、談話をきっかけに、いきなり過去の大戦への謝罪責任を放棄するような見解を政府が述べれば、国際世論にたちまち大きな反発が巻き起こることが予測される。そこで、日本政府はあえて戦争責任に対する政府の態度をあいまいにしておくことで批判を避けながら、未来に向けた見解を、得意の後出しジャンケンで、徐々に明らかにしていくつもりなのではないかと思われるからだ。

だが、関係諸国はこのような安倍氏の歴史そのものに対するあいまいかつ危険な態度を極めて重く受け止め、歴史修正主義として厳しく批判し、強い不信感・警戒感を示している。こうして、日本国内で安倍氏に権力が集まり、政権が過去の大戦とそれに対する裁きを否定すればするほど、日本は世界の諸外国にとって、ますます危険かつ不信感を抱かれる仮想敵国と化していく様子が見て取れる。その構図は、今回の中国で開催された抗日式典に明確に表れているのではないだろうか。

まず、事前に発表されたこの抗日式典への参加国の多さに驚かされる。ほとんど日本包囲網と言って良い状況が出来つつあることがよく分かるのではないだろうか? 中国の抗日戦争への勝利は、確かに指摘されているように中国共産党の功績ではないため、政治的アピールの意味合いが強いと思われるが、そんなことは良く知っていながら、あえてこれほどの数の要人が参加しているのは、それほどまでに安倍政権率いる日本への世界の警戒感が強まっていることの証拠であろう。

中国抗日式典に国連総長も出席、49か国参加
読売ONLINE 2015年08月26日 07時46分

【北京=竹腰雅彦】中国政府は25日、9月3日に北京で開く「抗日戦争勝利70年」の記念式典に49か国が参加し、ロシアのプーチン大統領や韓国の朴槿恵パククネ大統領ら計30か国の国家元首・政府首脳級が出席すると発表した。


 首脳級の参加は、中国と関係の深いアジア、アフリカの友好国が中心で、中露以外の国連安全保障理事会常任理事国である米英仏や日本は出席を見送った。

 首脳級の参加は外交的に蜜月関係にあるロシア、韓国のほか、中露と「上海協力機構」を構成するカザフスタンなど中央アジア4か国、ミャンマー、パキスタンなど伝統的友好国、南アフリカやアルゼンチンなど経済を中心に中国と親交を深める国が目立った。北朝鮮からは、金正恩キムジョンウン第1書記の側近とされる崔竜海チェリョンヘ・朝鮮労働党書記が参加するとした。

 30か国以外の19か国からは「政府代表」が出席し、フランスやイタリア、インドなどは閣僚級を派遣、英国は首相特使として元閣僚を参加させる。このほか、国際・地域機関からは、国連の潘基文パンギムン事務総長ら10人が出席。米国やドイツ、カナダ、欧州連合(EU)からは中国駐在の外交使節が参加するとした。日本からは、村山元首相が出席するとしている。


 

さらに、安倍談話を奇貨として、これまで領土問題についてもそれなりに交渉の余地があるかのような姿勢を示して来たロシアがその態度を完全に硬化させた。しかも、安倍が「日本の戦争に対する謝罪責任は解決済み」としたのを裏返しにする形で、ロシアは「領土問題は解決済み」と宣言したのである。

ロシア外務次官「北方領土問題は解決済み」と発言
TBS NEWSi

ロシアのインタファクス通信は、日本との交渉担当者であるロシアのモルグロフ外務次官が北方領土問題について70年前に解決しており、日本と対話はしていないと述べた、と報じました。

モルグロフ外務次官は、プーチン大統領の年内の訪日実現や平和条約締結などに関して、これまで、日本側と協議を行ってきた人物です。

 インタファクス通信によりますと、モルグロフ外務次官は北方領土問題について、「第2次世界大戦の結果、北方領土はロシアの領土になった」「70年前に解決された」と述べ、この問題でロシアは日本と対話する意思はない、と報じています。

 また外務次官は、日ロの平和条約締結交渉に関しては「話し合いの建設的な交渉に向けた用意がある」としています。

 しかし、その一方で「相互に受け入れ可能な解決を見つける努力をする理解があることが前提だ」と述べたということです。

 今回のモルグロフ外務次官の発言は、先月、メドベージェフ首相が択捉島に訪問した後、安倍総理が発言したことについて述べたものだということです。

 ロシアは3日に中国で行われる抗日戦争勝利記念式典を前に、プーチン大統領が1日、国名を名指ししていないものの、ある国々が第2次世界大戦の歴史を偽ろうとしている、と述べています。プーチン大統領の訪日の前提となる、岸田外務大臣のロシア訪問も進展が見通せない中、メドベージェフ首相の択捉島訪問や今回の交渉担当者の発言など、相次ぐロシア側の動向に日本側がどう反応するのかが次の焦点です。(03日03:05)

これはロシアの態度の硬化と見て良い。2013年の3月の森・プーチン階段の時点では、プーチン氏が「引き分け」という言葉を用いたことから、領土問題に関しては、日ロ間で交渉の余地があるという期待感が高まっていた。むろん、領土問題に関しては色々な憶測が飛び交い、どのような交渉の可能性があるのかないのか何も具体的に定かではなかったが、とにかくロシア政府はここに来るまで、あえて交渉の余地が残っている可能性そのものは否定しなかった。

2013年は日ロ関係が好転するという期待感がいつになく高まった年であった。安倍訪露とそれに対する返礼の意味も込めたプーチン氏の訪日の実現を通して、平和条約の締結と共に、領土問題についても「双方共に受け入れ可能な策」を模索するという方向で報道がなされ、その実現は目前に来ていると考えられていた。

北方領土引き分け 「双方受け入れ可能な策」
MSN産経ニュース 2013.2.22 01:00
 

ロシアのプーチン大統領(右)と会談する森喜朗元首相。2人を描いた日本の新聞漫画を見せ、和やかな雰囲気を作った =2月21日、モスクワのクレムリン (AP)


 【モスクワ=酒井充】安倍晋三首相の特使としてロシアを訪問中の森喜朗元首相は21日午後(日本時間同日夜)、プーチン大統領とモスクワ市内のクレムリン(大統領府)で1時間10分会談した。プーチン氏は、昨年3月に北方領土問題で「引き分け」と言及したことを「双方が受け入れ可能な解決策のことだ」と説明したが、「なかなか難しい問題だ」とも述べた。さらに、「日露間に平和条約がないのは異常な事態だ」と語り、今年前半の首相の訪露に期待感を表明した。

 両氏は平成13(2001)年、平和条約締結後に歯舞群島、色丹島を引き渡すと明記した日ソ共同宣言を「交渉の出発点を設定した基本的な法的文書」とするイルクーツク声明で合意しており、会談ではその重要性を確認した。

 森氏は会談で、首相からの親書を伝達し、今年前半に予定される首相の訪露に向け調整。プーチン氏は「首相の訪問を待っている」と述べた。首相は昨年12月のプーチン氏との電話会談で「双方が受け入れ可能な解決策を生み出すべく努力する」と伝えていた。

 一方、プーチン氏は北朝鮮による核実験に関し、「断じて容認できない。国際社会の責任ある一員に取り込むためには日露両国が協力する必要がある」と強調した。両氏は極東地域開発やエネルギー分野での日露間協力の重要性も確認。森氏は会談に先立ち、プーチン氏が尊敬するロシア帝政末期の首相、ストルイピンの銅像に献花した。


プーチン大統領の訪日は日本政府としての公式な約束であったが、我が国政府の対米隷属的な態度のために、今日まで実現していない。それでも、ロシアは当初、対ロ制裁の影響のせいもあって、ヨーロッパと同様にアジアの市場に熱いまなざしを向けていたこともあってか、日本の置かれている事情にも一定の理解を示し、態度を硬化させることなく、対話の糸口を探して来た。

だから、日本の最良の外交政策としては、鉄は熱いうちに打ち、ロシアが対ロ制裁の打撃からまだ完全に抜け出せておらず、なおかつ、中国を含めてアジアの国々とのパートナーシップをまだ模索しているうちに、早々にこの可能性に飛び込んでプーチン氏の訪日を実現させて領土交渉と平和条約の締結の両方のカードを切るのが適当であっただろうと思われる。

ところが、日本政府は米国の顔色を伺い続けてこのカードを利用しなかっただけでなく、対ロ制裁に加わった他、軍国主義の復活と、歴史修正主義的な色濃い安倍談話を発表してしまったため、領土交渉については「引き分け」の表現から何の譲歩も引き出すことができないままに、ロシア側の態度を硬化させ、むしろ「負け」が決定的になった。

(日本の対ロ制裁への参加も大きな要因に:プーチン露大統領、北方領土交渉の中断を示唆=日本の対露制裁が影響か―中国メディアRecordChina:2014年5月26日(月) 17時26分 )
 
このような態度硬化を引き出したことは、明らかに日本側の外交政策の失敗であろう。安倍政権は自らの失策で、勝利も引き分けも逃してしまい、むしろ一本取られてしまった。今回の談話で、安倍氏が無駄に日露戦争に言及したことも、マイナス要素として響くのではないかと噂されていた。これは日本人が人質となって拘束されている最中、安倍氏がイスラム国への非難に言及し、かえってイスラム国を挑発した時のことを思い出させる。いずれにしても、プーチン氏はかつての盟友(?)安倍氏の声明に未だかつてない厳しい言葉で意趣返しをしてきた。

プーチン大統領「ある国々が歴史を偽ろうとしている」
TBS NEWSi 

 中国で3日に開かれる抗日戦争勝利記念式典への出席を前に、プーチン大統領は、ある国々が第2次世界大戦の歴史を偽ろうとしている、と改めて批判しました。

これはプーチン大統領が、ロシアと中国のニュースメディアに対し語ったものです。

 この中でプーチン大統領は、中国との関係について、両国の歴史上、ピークに達したと述べたほか、ドイツのナチズムと日本軍国主義と戦った同盟国である、と述べました。

 そして、現在、第2次世界大戦の歴史を偽り、事実に基づかない、捻じ曲げた解釈を進めようとする試みがある」と指摘しました。この際、大統領は特定の国名を挙げていませんが、北方領土問題でロシアは日本に対し、第2次世界大戦の結果を直視するよう繰り返し求めています

 また、ある国々が歴史の解釈を捻じ曲げる試みを行っていることは、戦後の国際軍事裁判である「ニュルンベルク裁判と東京裁判をとんでもなく軽蔑している」と批判しました。

 その上で、プーチン大統領は、3日に中国で行われる抗日戦争勝利記念式典について、「ロシアと中国が共に戦勝70年を祝うことで、 歴史的信念と共通の勝利を守ることを示すことになる」と主張しています。(03日03:26)

 
これほど厳しい非難をプーチン氏が安倍氏率いる日本に向けて来たことは今までなかった。諸国の日本包囲網に後押しされて、ロシアも明らかに日本(政府)への態度を硬化しつつあり、友好的なムードは消えかかっていると言えよう。このままいくと、今はまだ「平和条約締結」の可能性が残っているが、いずれ、それさえも消え、安倍政権の危険性がさらに世界で認識されるにつれて平和条約締結どころではなくなる可能性が高いように思う。

つまり、日本は世界から全く信頼できない、相手にすることもできない、領土交渉などもっての他の、平和条約の締結さえ対象外の極めて危険な国とみなされるようになってしまう恐れがある。.


歴史否定は「良識への侮辱」=抗日記念で日本けん制-中国主席

【北京時事】新華社電によると、中国の習近平国家主席は3日昼、北京・人民大会堂で開かれた「抗日戦争・反ファシズム戦争勝利70年」の記念レセプションで演説し、侵略の歴史を否定することは歴史をもてあそぶことであり、人類の良識への侮辱だ。必ず世界人民の信頼を失う」と述べ、名指しはせずに暗に日本をけん制した。

 習主席は、3日午前の軍事パレード前の演説では「日本軍国主義侵略者を打ち負かした」などと発言したが、現在の日本や安倍政権をけん制する発言は控えた。しかし外国の首脳級や国連の潘基文事務総長らが出席した昼のレセプションでは、安倍晋三首相の歴史認識を念頭に厳しい見方を示した。

 習主席はこのほか、「歴史は人民の心の中に書かれており、歴史の抹殺は許されないし、抹殺もできない」と強調。「残忍非道な侵略や血なまぐさい戦争の場面、人々を激怒させる虐殺の犯罪行為のほか、あの戦争で不幸にも亡くなった数千万人の善良な魂を、人類の歴史の記録に銘記し、人類の心の中にとどめる」必要性を訴えた。
 さらに「歴史を忘れることは裏切りを意味する」とした上で、「侵略戦争を否定したり、歪曲(わいきょく)・美化したり、その歴史的な責任から逃れようとしたりする一切の言行は、どんなに聞こえが良くても、自分も他人もだますものだ」と強く批判した。 (2015/09/03-22:50)


 

潘基文事務総長の返答 安倍首相、分かったか?
jp.xinhuanet.com | 発表時間 2015-09-01 11:35:30  | 人民網日本語版 | 編集: 王珊寧

中国人民抗日戦争ならびに世界反ファシズム戦争70周年記念軍事パレードが近く行われる。数十カ国の指導者または代表および国連を含む多くの国際組織の指導者が出席する。国連の潘基文事務総長もこの重大な行事に出席する。(文:沈丁立・復旦大学国際問題研究院副院長。人民日報海外版コラム「望海楼」掲載)

だが日本政府筋は不遜な物言いをし、政治的中立性を保つよう要求した。これについて事務総長が返答した。

  潘事務総長は北京での軍事パレードへの出席は自らの仕事だと表明した。現在全世界が第2次大戦という人類史上最大の悲劇の終結70周年を記念し、国連創設70周年も記念している。国連創設は世界平和を永遠に保つためだ。軍事パレードを含む記念行事への出席は、歴史の教訓を汲み取り、明るい未来を創造する助けとなる。したがって、これは国連事務総長として当然のことだ。

  日本側発言に対する潘事務総長の反論は非常に素晴らしい。その見解は簡にして要を得ており、核心は「歴史の教訓」と「当然のこと」の2つだ。

  第1に、人類はどのような「歴史の教訓」を汲み取るべきか。第2次大戦時、日独は世界的範囲で大規模な侵略を行い、人類にかつてない惨禍をもたらすとともに、国際社会をかつてないほど団結させた。国際社会は協力してファシズムの世界的拡張を粉砕し、抑圧された民族の正当な権利を守った。第2次大戦は日本の対中侵略で始まり、中国軍民は日本の侵略に長期間断固として抵抗し、反撃を加え、日本軍に大きな打撃を与えた。周知の通り、中国は抗日戦争期間に重大な犠牲を払い、アジア太平洋地域全体の日本軍国主義への反対に卓越した貢献を果たし、そのために国連の5つの常任理事国の1つとなった。人類の安全に対する中国のリーダーシップはしっかりと確立された。

  歴史を理解して初めて現在を大切にし、さらにより良い未来を切り開くことができる。第2次大戦終結から70年、かつてのファシズム敗戦国が自己改造の努力と結果において各々異なることを国際社会は目にしている。教訓を深く認識し、徹底的に前非を改め、国際社会に再び受け入れられた国がある。一方で、過ちをごまかし、軍国主義の政治的・文化的根源を掘り起こすことを拒み、そのために右翼思潮がはびこり、歴史修正主義を前面に出して、国際正義に公然と挑戦している国もある。

  次に、潘事務総長が中国側の招待を受け入れ、抗日戦争勝利70周年軍事パレードに出席するのは「当然のこと」だ。潘事務総長は日本側の非難に反論したうえ、第2次大戦での中国の貢献と犠牲が世界の人々に認められ、感謝されていることを肯定した。潘事務総長の訪中は国連に対する中国の多くの貢献に感謝するためだ。潘事務総長は現代中国は平和を愛しており、急速に多角化する時代において一層の貢献を果たすことができると指摘した。持続可能な開発という目標の実現と気候変動など世界的試練への対処において、国連は中国が引き続き世界的指導力を発揮することを高く称賛し、期待している。

  潘事務総長が歴史と現実をしっかりと結びつけていることは明らかだ。潘事務総長が中国の軍事パレードに出席するのは、歴史を振り返り、未来に向かうためだ。国連事務総長として、潘氏は十分な責任感と正義感を備えている。これは歴史と現実を極力切り離そうとする日本当局の不誠実さ、無責任さと雲泥の差がある。

  北京での軍事パレードへの国連事務総長の出席に対する日本の妨害が成功することはあり得ない。歴史を直視しようとしない日本は、更に多くの挫折に直面するだけだ。かつて被害を与えた国と国民に対する誠意と和解を拒む日本が、自縄自縛に陥り、歴史に汚名を残すのは必至だ。抗日戦争は中国の勝利により終わりを告げた。中国の軍事パレードは「もし歴史修正主義が再びもめ事を引き起こすのなら、必ずや中国軍民と世界の正義の勢力によって再び粉砕される」ということを世界に告げる。安倍首相、分ったか? 

  (人民網日本語版)

日本政府が誤った戦争と敗戦の歴史的事実を率直に認め、これについて謝罪の態度を取り続けていた間、これほど厳しい声明が日本の首相に対して出されたことはなかった。安倍氏は最近、メディア関係者との私的懇談において、さかんに中国との戦争を吹聴していたとも報道されているが(「安倍首相が官邸記者とのオフ懇で「安保法制は中国が相手。必ずやる」と戦争宣言!」2015.06.25 LITERA参照。)、それでも、日本政府の対米隷属という「特別な事情」は諸外国からも一定の同情を集めていたふしも見られ、安倍氏の外交に見られる中国敵視政策は、その文脈で、ただ単に同氏の個人的な悲願というよりも、米国の強い要請のもとに作り出されたものであったと理解されていたのではないかと考えられる。

飛躍的に経済成長を遂げている中国は、世界の覇権を失いたくない米国にとっては、油断のならない政敵であり、目の上のタンコブのようにも見えることだろう。米国は中国の成長という「脅威」を押しとどめるために、日本をも巻き込んで、アジアで中国包囲網を作りたかったのではないか、それに日本政府がいつものごとく何ら抵抗なしに応じて来たのだ。安保法制も、断じてホルムズ海峡の機雷除去などが真の狙いではなかった。安倍談話も、安保法制も、アジアでの中国の躍進を抑えることを主目的とする日米同盟の関係強化のために、米国からの要請に基づいてなされたのではないかということが、以下の記事からもうすうす感じられる。(なぜなら、以下の記事で、マケイン氏は国際秩序にとって脅威になっている存在として暗に中国をほのめかしているためである)。だからこそ、米国は自ら属国に外注して作らせた安倍談話にも、一定の評価を下していたのではないか。

日米の70年「和解の手本」 オバマ大統領が声明
朝日新聞DIGITAL ワシントン=奥寺淳 2015年9月3日10時09分

オバマ米大統領は2日、日本が第2次大戦の降伏文書に署名してから70年になるのにあわせ、声明を発表した。日米関係について「かつての敵国が最も安定した同盟国となり、和解の力を表す手本だ」とし、両国の関係がさらに深化することを確信していると強調した。

オバマ氏はまず、想像しがたい苦しみに耐えた戦争捕虜に思いをはせ、太平洋戦線で命を落とした10万人以上の米兵士に敬意を表した。その上で、4月に米国で安倍晋三首相と会談したことに触れ、日米両国は世界で共通の利益や普遍的な価値観を推し進めているとし、「70年前は、こうした関係が築けるとは想像も出来なかった」と評した。

 ケリー国務長官も声明を発表した。ハワイの真珠湾と、激戦地ガダルカナル島を昨年訪れたことに触れると共に、その大戦から70年後、日米が敵国から強固な同盟国になったことを「驚くべき転換だ」と表現した。

 共和党の重鎮、マケイン上院軍事委員長も声明で、「過去に焦点を当てる人もいるが、私は70年前から成し遂げた進展に目を向ける」とし、日米が世界の平和と安定に貢献していることを強調。一方で、「アジア太平洋地区ではいま、戦争の灰から手に入れた法に基づいた国際秩序が試練に直面している」と暗に中国の存在をほのめかし、日米などの協調を強めるべきだとの考えを強調した。(ワシントン=奥寺淳)


だが、今のままでは、米国からいかに「和解の成功例」とお誉めにあずかったとしても、日本は安倍談話によって全世界を敵に回すことになりかねない。そうなれば、米国でさえ、日本に向けられた諸外国からの厳しい不信のまなざしの前に、日本を弁護することが不可能となり、その役目を放棄するであろうと思われる。つまり、米国(+欧州)と中国(+ロシア)との覇権争いの中で、日本は単なる踏み台にされて終わる可能性が高い。だからこそ、以前から、日本の対米隷属は「沈みゆく大国としての米国からの抱きつき」、「米国との無理心中」などと揶揄され、批判されて来たのである。今のままでは、日本は完全に誰かの野心の道具として、すべての罪を身代わりに負わされる犠牲となって、最終的に裁きを受けることになりかねない。そのとき、米国はそれは日本が自分で選んだ道であり、自分は何も知らず、何かを指示したことなども全くないと言って、日本の罪とは一切手を切って自らは潔白を保つであろう。

天木氏は8月27日の時点で日本政府筋から代表として公式に抗日式典に参加する人間がいないことを日本の外交政策の失敗として批判している。米国はこの式典を本心では歓迎していなくとも、ひとまず駐中国大使を参加させて形式的には無難にやり過ごすが、日本からは駐中国大使の出席さえないことで、中国敵視政策を取っていることがあからさまとなる。それは日本の今後の外交的な孤立を意味する。
 

日本だけが中国の抗日記念行事に欠席するなら外交的大失態だ
 
きょう8月27日の産経がワシントン発共同を引用して報じた。

米国務省のカービー報道官は北京で9月3日に開かれる抗日戦争勝利
70年記念行事に米国を代表してボーカス駐中国大使が出席する事を確認したと。

当然だろう。

 本国政府から要人を派遣せずに駐在大使の出席で済ませることは、米国としてその行事を手放しで歓迎しないというサインだ。

しかし、駐在大使の出席さえも見送るなら、それはもはやあからさまな敵対行為だ。

 9月初めに習近平主席を迎えるオバマ大統領がそのようなことをするはずがない。

 そして、米国と歩調を合わせるかのように、欧州主要国や豪州、カナダなどいわゆる西側主要国はみな政府代表と言う形で現地大使や代理を参加させる。

 もちろん中国との関係を重視する国は、プーチン大統領や朴クネ大統領を含め、30カ国が首脳級を派遣する。

 ところが日本だけが駐中国大使さえも参加させない方針であると報じられている(8月26日東京)

 これが事実なら、外交の常識を逸脱した中国敵視行為だ。

 世界の主要国の中で、日本だけが習近平主席が最も重視している行事をボイコットするのだ。

 いくらこの行事が日本の侵略を批判する日本敵視行事であるとしても、欠席してはいけない。

 いや、だからこそ、堂々と出席して日本の度量を示すのだ。

 安倍談話でお詫びまでしているのだから、安倍談話を抗日バレードで繰り返し、そのかわりお得意の未来志向を強調して、いつまでも過去に
こだわるのはやめようと世界に向かって呼びかけるべきなのだ。

 世界は安倍首相のほうに軍配を上げるだろう。

 誰が、どういう考えで、木寺駐中国大使の出席すら拒んだのか。

 まさか谷内NSC局長や斎木次官がそれを進めたのではないだろうな。

 もしそうなら安倍首相に迎合した、外務官僚の風上にも置けないしわざだ。

 もし安倍右翼政権の意向であるなら、それを止められなかった彼らの責任は大きい。

 もし米国の圧力で欠席を決め込んだなら、安倍首相ははしごを外されたことになる。

 もし、米国がボーカス駐中国大使を出席させることを予想していなかったとすれば、あまりにも情報不足だ。

 木寺大使はボーカス大使とほとんど現地で接触していない証拠だ。

 いずれが真実であったにしても、中国の抗日戦争勝利70年行事に日本だけが欠席することになるなら、前代未聞の外交失態だ。

 いまからでも遅くない。

 日本を代表して誰かを参加させるべきだ。

 村山富市元首相が出席すると伝えられているが、安倍首相としてこれほどの恥はない(了)


 (追記:本日9月4日の天木氏のブログで、実際に日本の駐中国大使が抗日式典に参加しなかった事実が糾弾されている。「木寺駐中国大使の出席さえも拒否した日本の異常さ」

日本政府からの抗日式典への不参加は、安倍氏自身の考えであった可能性も十分に考えられるが、結果としては、日本政府が米国に「はしごを外された」形にもなる。つまり、この抗日式典の時点までは、中国敵視政策は対ロ制裁と同様に米国主導の政策であって、各国は逆らいきれずに渋々ながらそれに従っていただけと言い訳をすることができたが、この式典を機に、「中国を積極的に敵視しているのは米国ではなく日本である」ことが、世界の共通認識として定着してしまう恐れがある。式典への不参加は、日本政府が自ら選んだ道であり、対米隷属とは無関係の独自政策であると。

そのことはロシアやその他の諸外国との関係悪化にも直結し、そのすべての結果が日本政府が自ら選んだ道として降りかかって来ることになりかねない。この先、対米隷属がもはや何らの言い訳にもならず、日本政府の政策決定が全て自主的な責任として重い責任が伴うようになる大きな節目に今さしかかっているのではないか。

そして、安保法制が成立すれば、日本は本来は米国のための覇権争いである代理戦争に、米国の身代わりに完全な悪役として徹底参加を求められ、その結果、ひとりすべての罪を背負って国際的に孤立し、上記の国連事務総長の指摘の通りに、「世界の正義の勢力によって再び粉砕される」という結果に至ることが予想される。

そのような道を辿らなければ、日本は「いつか来た道」を行くのをやめて、軍国主義の復活を望む勢力を押しとどめることができないのであろうか? この誤ったイデオロギーから解放されるために、日本政府は再び徹底的な裁きを受けて、今度こそ、根こそぎ粉砕され、解体されることが必要なのであろうか? しかも、結局、外圧がなければ変われないというのだろうか? 

むろん、現在の国際社会の秩序も盤石なものとは言えず、そこに絶対的で完全な正義が見出せるわけではない。だから、日本から軍国主義的勢力が一掃されてこの国が更生した暁には、諸国も何らかの軌道修正を行う可能性がないわけではないが、それはまだまだ遠い未来の話である。その前にまず日本政府の態度が改められなければならないのは言うまでもない。

米国の代理として日本が中国に立ち向かい、その過程ですべての関係諸国との信頼と協力関係を失うという悲劇の道を進むなら、これから先、それはもはや米国の政策ではなく日本の罪とみなされ、最後には、東京裁判どころでは済まない、以前にもましてより一層、ひどい裁きがこの国に下ることになるであろう。だが、裁かれるのは政府だけで十分である。一事不再理の原則の記事で述べた通り、過去と向き合うことを何ら拒否していない日本国民までが、その裁きに巻き添えにならなければならない理由はどこにもない。


国民全体が戦争の罪を永久に謝罪し続けるという宿命から解放されるために、政府こそ国民全体に対して戦争遂行した罪を負っていることを認め、詫びるべきである

かつて関西にいた頃、あるおじいさんに出会った。戦後の荒廃の中で身一つで財をなし、地元ではかなり有力者となり、受勲者でもあった。様々な事業に精を出し、成功した、かくしゃくとした老人であった。だが、毎年、8月15日が近付いて来ると、彼は耐えがたい思いとなって、家に引きこもり、何日間も我が罪を悔いて嘆き続けるのが常であると語った。実際にその時期に偶然、会ってみると、大の大人が真っ赤に泣きはらした目をして、自分は赦されない罪を犯したと悲嘆に暮れ、体をわななかせてむせび泣くのであった。
 
その人は、軍隊にいた頃、部下の若者を特攻に選抜し送り出す仕事をしていた。彼は自分の決定によって将来ある人々が命奪われたことを、何十年経っても、忘れることができず、毎年夏が来る度に引きこもっては、罪を悔いて泣き続けていたのであった。

国が負わなかった戦争責任の罪に比べ、国民が負わされた罪悪感はあまりにも深く、重かった。今でもその慙愧の念は生き残った一人一人の心の中に深くしまい込まれ、痛ましい形で刻まれたまま、持ち続けられている。

今、かつて戦争に反対できずに加担させられてしまった世代が、その負い目ゆえ、若者のデモに期待を託すのもいいだろう。もしかすると、彼らは戦争に協力してしまったがゆえに、自分は失格者だと思っているのかも知れない。だが、私は言いたい、若者に責任を投げてはいけない。戦争という罪を知らないがゆえに、若者は年配者の前に、穢れなく、美しく、希望に満ちた改革者のように見えるかも知れない。しかし、本当はそうではない。誰しも同じ状況に入れられれば、同じ行動をする可能性がある。だから、罪の堕落を知っており、非人間的な地獄を垣間見た人々こそ、実は最も肝心な鍵なのである。罪の汚辱を知らない人たちが反対を叫ぶのにもまして、知っている人々が反対するのには力がある。そして、その地獄に一度は投げ出された人々が、どのようにしてその負い目や罪悪感と向き合い、それを克服し、地獄から正気を取り戻して帰って来て、度重なる過ちにも関わらず、人間らしく、誇りを持って生きようと努力して来たのかということこそ、一番、心を打つ肝心な問題なのである。
 
「悪魔を糾弾する」というテーマについて述べた時、私は人が不当に負わされている罪悪感から解放される必要があること、そのためには、神の救済を信じることと、誰が本当の責任者であるのかを明確にすることがぜひとも必要であると述べた。本当の責任者が明らかになる時、人は自分自身も被害者であったこと、にも関わらず、あまりにも不当な大きすぎる罪悪感を負わされて来たことが分かるのである。そして、ようやく自分を赦すこともできるようになる。

そうなるためには、戦争を引き起こした罪は、本来、国民ではなく、政府が負うべき罪であることが一般的に認識されなければならない。むろん、加担した国民にも何がしかの罪はあるのだが、政府の罪の方がはるかにそれに勝って重いことを知る必要がある。国民は加害者であると同時に被害者でもあるのだ。そのことに気付かない限り、一般的な日本人が、自責の念から来る自己嫌悪や劣等感などといった不健全な感情から本当に解放される日は来ないだろう。

安倍談話もはあたかも日本国民を罪悪感から解放することを願っているようなうわべだけの思いやりあるセリフがちりばめられている。だが、私は言いたいのだが、日本国民は、戦争を引き起こした政府や、戦争責任者の親族によって罪を赦していただく必要もなければ、罪悪感から解放していただく必要もない。むしろ、日本政府こそ、鳩山元首相がしたように深く頭を垂れて、国民の前に赦しを乞うべきなのである。むろん、政府は植民地支配した諸国の人々に対しても謝罪すべきだが、同時に、日本国民に対しても謝罪すべきなのである。

だが、玉音放送でもそれは全くされなかった。戦争を引き起こし、国民を悲惨に巻き込んだ罪は誰にあるのか、その後も、ほとんど明らかにされなかった。むしろ、昭和天皇は自ら被害者であるかのような言葉を述べて、戦争が終わったことを告げただけで、東京裁判も、連合国が主体となって行われ、わずかばかりの政治家が罪に問われただけで、その後も、植民地支配に対する国家的責任は問われたが、国家が自国民を戦争に引きずり込んだ罪に対して、誰一人、謝罪の言葉を述べなかった。国民も、敗戦国であるがゆえに自分は決して被害者面できないという思いで、罪の意識の中で沈黙した。そのようなわけで、国民は自分たちが、戦争の加害者であると同時に、政府によって戦争に引きずり込まれた被害者でもあったのだという事実を今に至るまで認識していない。

だから、戦争世代の多くの日本人は自分たちが戦争の加害者であったと考えて深い負い目を負っているものの、政府の罪についてはまことに意識が乏しく、その分だけ、政府の罪までも不当に負わされていると言って良い。戦争世代でなくとも、それは日本国民の心深くに刻まれている罪悪感である。こうした自責の念や、それによって生じる自己嫌悪に対する反発から、かえって、戦争を正当化するような危険な復古の思想が生まれて来ている。だが、本当は逆なのだ。そのような自責の念から逃れるためには、国民は、自分たちが加害者であっただけでなく、同時に、被害者でもあったことをも認識し、自分たちにもそれなりに責任はあったが、もっと重い罪に問われるべき真の加害者は政府である(また昭和天皇にも責任がある)ということに気付く必要がある。

加害者たる政府が、当時とほとんど本質的に変わることなく、今日まで同じような思想を持って存続しているために、様々な矛盾が生じている。国民は重い罪悪感を負わされたが、政府の方はそれに比べてあまりにも負っているものが小さすぎるのであり、この責任問題のアンバランスを解消する必要がある。(むろん、政府の背後で戦争を引き起こした勢力が真の加害者であることは言うまでもない。そのように連綿と責任関係を辿っていくと、最終的には悪魔に行き着くのであるが、それは今は置いておこう。)

だから、もし政府が、若者ばかりか、国民全体を戦争の罪という宿命から解放したいと言うのであれば、そのために必要なのは、戦争を引き起こし国民を巻き込んだ罪は政府にこそあったという事実を謙虚に認め、それを政府が国民の前に謝罪し続ける態度である。最も罪が重いはずの政府が、「若者に謝罪の責任を負わせてはならない」、などとあたかも第三者のように、あるいは国民の罪を赦免する権限でも持っているかのように述べるべきではない。むしろ、真に国民を謝罪の責任から解放するつもりがあるなら、政府は戦争の当時者として、また最大の加害者として、自ら頭を下げて国民の前に詫びるべきなのである。そして、「戦争の罪は政府にこそあるのであって、その負い目を国民が負わされるべきではありません。」と言わねばならないのである。そのようにして真の責任者が名乗り出て、代表が負い目を負うことによってのみ、国民はかなりの程度、罪悪感から解放されるのである。それを続けて行った果てに、独立国家としての誇りをどう取り戻すかという問題がようやく見えて来るのである。

繰り返すが、国民が不当に負わされたあまりにも重過ぎる罪悪感の問題を解消するためには、まず、政府の罪というものをはっきりさせる必要がある。その中で、昭和天皇の戦争責任というものもやはり追及されねばならないだろう。だが、これまで、(連合国からの「押しつけ」の要求を除いて)「お上」が己の罪を自ら振り返ることなく、国民に追及させようともしなかったがゆえに、政府の罪は過小評価される一方で、あまりにも大勢の国民が耐えがたいほどの深い負い目と責任を個人的に負わされたまま、今日に至っているのである。若者が謝罪の宿命を負わされるべきでないと言うならば、冒頭に挙げたような老人も、とうに罪悪感から解放されて良い頃だろう。だが、その罪悪感は、真の責任者がきちんと名乗り出て責任を負うことによってしか、解消されないのである。

戦争責任と真に向き合うべきは、国民ではなく、政府なのである。

謝罪の姿を、ブラントと鳩山と安倍に見る
「そりゃおかいいゼ」2015-8-13 から転載します。


 



韓国を訪問している鳩山由紀夫元首相は12日、ソウル市内にある西大門刑務所歴史館(旧刑務所跡)を訪れ、ここは日本による植民地時代に抗日独立運動家らが投獄されていた場所であるが、鳩山氏は独立運動家への拷問など過酷な行為を行ったことについて、跪き合掌し頭を下げて黙とうした。
「独立運動家らをここに収容し、拷問というひどい刑を与えて命を奪ったと聞いた」とした上で、「心から申し訳なく思っている」と謝罪した。
元首相のこの行為を、好ましくないと思っている日本人も少なくはないであろう。韓国風の謝罪であるが、日本的には土下座に見える鳩山の謝罪は、嫌韓風潮もあって攻撃を受けている。事実ネットでは、鳩山に対する非国民的攻が多く見受けられる。日本の主要なメディアは、これまでのこともあり、多分報道すらしないであろう。
鳩山の侵略国家としての懺悔は当然と言えば当然である。立場や肩書はこの際関係ない。
翻って、上のモノクロ写真はドイツのブラント首相が1970年にワルシャワの歴史博物館で、ドイツ・ナチスが行った非人道的行為に対し、跪き謝罪するものである。
戦争犯罪への謝罪は、ドイツを見習えとよく言われるが、こうしたドイツの日常的行為はヨーロッパ各国との軋轢をなくしていることは、日本は大いに学ぶべきなのである。
嫌悪感から、鳩山を批難してはならい。
下は、先日の長崎の原爆投下の日に平和祭の写真である。黙とうして誰もが頭を下げているのに、安倍晋三だけは、目をつむっているだけである。黙祷などではない。鳩山を非難する人たち、鳩山の姿に違和感を持つ人は、安倍晋三のこうした非人間性を知るべきなのである。この男に平和を語る資格もなければ、近隣諸国への謝罪する気持ちもないのである。この男が首相談話として何を語っても、虚言である。



全日本おばちゃん党(All Japan Obachan Party:AJOP)から転載します。

【全日本おばちゃん党 戦後70年談話プロジェクト】


第二次世界大戦が終わってから、70年がすぎてしまいましたなぁ。
戦争で失われてしもたすべてのお命に、 心から哀悼の意を表明いたします。

うちの子もよその子も、戦争には出さん。

さまざまな背景を持ってます私らおばちゃんは、このひとつの想いのもとに集ってきましてん。

先の戦争では、おばちゃんらもいっぱい間違いを犯してしまいました。
日本は正しいんやと信じて、「国防婦人会」としてお国の策に協力してしまいましたし、「隣組」としてご近所さん同士で監視し合うて、兵隊さんに千人針も縫うて、慰問袋もせっせと作ったんですわ。

なんかおかしいなと思ったときも、怖うて黙ってしもたんですわ。
ほんまは戦争なんか行ってもらいたないのに、男の人らを万歳三唱で送り出しましてん。自分らが殺されるかもしれへんなとは思ってましたけど、よその国に行ってよそさんの人を殺してくることにまでは、思いが至ってへんかったんですわ。

日本軍は男の人だけやなくて、女の人も戦地に駆り出しましたなぁ。なかには、ご本人の気持ちに反して、兵隊さんの性欲なんかを満たすために利用されていた女の人もいてはりました。戦時であれ、平時であれ、性暴力は決して許せることではありまへん。おばちゃんらは、「従軍慰安婦」と呼ばれたその女の人たちが、戦争が終わった後も苦しみ続けてはることに、心から謝りたいという気持ちでいっぱいですねん。

また、おばちゃんらは、沖縄戦のえげつなさ、占領下の苦しみ、ほんで今に至る軍事基地の状況さえも、どこか他人事のように捉えてきてしもてました。沖縄の人らの叫びに、今でも鈍感なんちゃうかと、自分を省りみなあきまへん。

日本はヒロシマ、ナガサキへ原爆を落とされた体験をした国やさかい、核兵器は未来永劫つかわれることがないよう、「過ちは繰り返しません」と世界に向けて発信してきましてん。せやけどその一方で、核の平和利用や言うて、原子力発電の開発を進めてきましたがな。

その始末として、2011年の東日本大震災は、福島第一原子力発電所のエライ事故を伴ってしもて、いまだにお家に帰ることのでけへん人たちや、目に見えへん放射線の影響に怯えてる人たちがぎょうさんいてはるのは、ほんまにエライことやなと憂いてますねん。

おばちゃんらは、日本が戦争に向かうのを止めへんかったんですわ。
日本の戦争責任は、おばちゃんら自身の問題ですわ。「ほかの国もやってたんやから、日本だけが謝るのはおかしいわ」なんていくら叫んだところで、日本がやってしもたことに対する罪は免れられへんのとちゃいますやろか。傷ついたよその国のおばちゃんらが、「もうええよ」と言うてくれはるまで、「ごめんな、堪忍してな」の気持ちを持ち続けなあかんのとちゃいますやろか。

おばちゃんらは、先の戦争で大きな代償を払って、いろんなことを知りました。おばちゃんらは、国が戦争に向かうときの空気とか、戦争が何をもたらすかっちゅうことを、もう知ってますねん。もう二度と戦争はごめんやで、心底そない実感したその想いを受け継いで、次世代にも繋いでいきましょ。それこそが、先の戦争で尊い命を落とした人たちへの弔いになるんとちゃいますやろか。

だからもう、この国のことを人任せにせんと、おばちゃんらが知恵を絞りましょ。自ら学んで、考えることを放棄せんときましょ。戦争したがるオッサン政治には、同じ想いの人らと立ち向かいましょ。次の世代を生きる人らに「なんであのとき止めてくれへんかったん?」なんて言わせまへんで。

今も世界で戦争や紛争に苦しむ人らのためにも、知恵を絞り、おばちゃんらしくお節介な行動をしていきましょ。二度と戦争には与しまへんし、戦争を避ける道をあきらめへんこと、ここに誓います。

うちの子もよその子も、戦争には出さん。

戦後70年の夏に  全日本おばちゃん党一同


「田布施システム」と「下位法によって上位法を覆す」―政府による怨念に基づく憲法と国民へのクーデター

「クーデター」とは何かということを考えているうちに分かることは、真の危険、真の脅威として、「政府の側からの国民への見えないクーデター」があるということである。つまり、外来の勢力が、何らかの形で国民を欺いて、その国の政府が決して国民のために機能することがないよう、政府を気づかれないよう乗っ取り、変質させて、反社会的•反人間的•反国民的な抑圧政策を推し進めるということがありうる。

私は以下の記事で、ウクライナの政変が計画的に準備されたものであることを述べた。それは民主化を求める国民運動に見せかけて、その実、外国勢力が国を乗っ取るために、周到に準備された偽りの政変であった。

ウクライナでは、長年かけて、米国の支援のもと、ウクライナ国民を「民主化」という大義名分で欺いて、ネオナチ極右政党支持者を政権の座につけるために、元の政権を転覆させる計画が行われて来たのである。それは一種の現代の冷戦とでも言うべき政治的対立構造の中で起きたことであり、ウクライナをロシアの影響下から引き離し、米欧の勢力圏におさめることを目的として、米欧の支援のもとに行われた。そのクーデターは2013年末から2014年初めまでのわずか数か月で成就した。

こうしてネオナチ・極右ナショナリズム・ファシズム思想を賛美するとんでもない危険思想を持つ指導者らが政権の頂点に据えられた結果、ウクライナは内戦状態に陥った。真に国を動かす能力と実績を持った政治家が次々と追放されて、愚劣で急進的なナショナリズム政策が推し進められ、ロシア語話者とウクライナ語話者が対立させられて戦闘状態になり、多くの人々が亡命し、恐怖のどん底に陥れられた。

だが、日本の場合、私は言いたい、すでに同じようなことが起きていると。日本の場合、クーデターはこれから起きるのではなく、すでに起きているのであり、現政権そのものが、国民を裏切って成立したものであるということである。(問題は、これをいかに暴力によらず、平和的手段で退陣に追い込み、真に国民のためになる制度を整えて行けるかということにある。)

国民にとっての最大の脅威は、このような「政府を利用した国民への見えないクーデター」が行われることにある。

そもそも、これまでの日本の歴史は、国が絶えず(売国勢力によって)乗っ取られてきた歴史であると言える。ところが、国民は何に立ち向かうべきか、何が自分たちを真に脅威にさらしているのか、その正体を決して理解できないように、弱い国民同士を巧みに分断させようとする策に惑わされてきた。「お上」は非難の対象とならず、国民同士だけが何らかの争点をめぐって互いに対立し、争うのである。このような国民同士の分断政策が、真の責任者が自らの姿を隠して、弱い者に罪を転嫁し、弱い者同士を闘わせて疲弊させるのに役立って来たことは言うまでもない。最近、にわかに高まっている嫌韓嫌中の動きも、ロシアを仮想敵とするウクライナのナショナリズム運動と同様に無益な対立であり、あるいは放射能被害を巡る市民同士の対立や、同性愛を巡る対立、生活保護受給者など社会的弱者へのバッシング、あるいはその逆としての社会的弱者から非社会的弱者への反発、カルト被害者救済活動の内部抗争、デモ賛成派と反対派の論争もすべては同じ構図である。つまり、そこにあるのは、何らかの争点を作り出し、あたかも国民同士が対立しているかのように思わせ、国民を二分して争わせることにより、真の敵がどこにいるのかを分からなくさせようという策である。

だが、真に国民の脅威となっているのは、最高法規である憲法を平然と破っている勢力である。はっきり言えば、それは政府であり、官僚であり、また、その背後にいる勢力である。

日本の場合は、ウクライナのような暴力を伴うあからさまなクーデータが起きる代りに、長年かけて、静かに見えない形で政府が国民のために機能することのない体制が整えられて来た。まず、「田布施人脈」により国民に対する怨念を持つ者が政権中枢に送り込まれて国民への抑圧的な政策を実施し、さらに「官僚による法的クーデータ」により憲法が蹂躙されて、官僚集団による巨大利権が出来上がった。こうして、「国家権力による憲法と国民への裏切り」が絶えず行われて、憲法の精神としての主権在民は破壊・蹂躙されてきたのである。

日本では、すでに書いたように、終戦直後に官僚による「見えないクーデター」が行われた。それが「公務員法トリック」、つまり、下位法によって、上位法である憲法の定めた秩序を覆そうとする試みである。官僚が悪知恵を働かせて国民の知らぬ間に法的クーデターを起こし、それにより主権在民を否定し、憲法に従うことを拒んだのである。

「公務員法トリック」とは、憲法に反して、官僚を政治家よりも高い地位に置く国家公務員法のことである。本来、憲法が公務員に想定しているのは、官僚ではなく、選挙で選ばれた政治家である。にも関わらず、官僚は政治家からその地位を不当に奪い、公務員を詐称して今日に至っている。(官僚制度の闇 〜なぜ日本政府は憲法と国民を敵視するのか〜②参照。)

「公務員法トリック」は憲法制定の翌年には定められた。そこですでにこの時点で、国会は形骸化し、選挙は有名無実化し、主権在民が否定され、実質的な決定権は官僚の手に渡って、官僚が国民に対して絶大な権威を振るう社会の仕組みの基礎が形作られたのだと言える。

こうして終戦直後、すでに憲法制定の翌年に、「公務員法トリック」により、官僚による見えない法的クーデターが成就していた。だから、竹原氏が述べているように、法的に見るならば、官僚は正当な存在基盤を持たない、根本的に憲法違反の利権・犯罪者集団なのである。

次に、「田布施人脈」である。「兵頭に訊こう」で兵頭正俊氏が興味深いことを書いている。原発利権の背後に「田布施システム」があると言うのである。長州人脈(特に岸信介・佐藤栄作・安倍晋三の三者)が原発を推進して来たことに言及し、そもそも米国が日本の開国以来、日本を属国として統治するにあたり、日本国民に怨念を持つ長州人脈に注目し、これを巧みに属国統治の手段として利用して来たのだと説明している。

日本を滅ぼす長州人脈 2015年8月1日 から部分的に抜粋


広瀬隆は、『東京が壊滅する日 ― フクシマと日本の運命』で、「安倍晋三の長州藩歴代犯罪の系譜」として、次のように論じている。(引用文の漢数字は算用数字に改めてある。また、ディスプレイ上の読みやすさを考慮して改行を増やしてある)

日本政府による原子力推進の基礎的な思想は、1964年5月27日に、科学技術庁長官・佐藤栄作(安倍晋三の大叔父)を委員長とする原子力委員会のメンバーが策定していた。彼らが定めた原子炉立地審査指針―第1項「原子炉立地審査指針」の2「立地審査の指針」2―2は、原子力発電所を建設する場所を、こう定義した。

―原子炉からある距離の範囲内であって、非居住区域の外側の地帯は、低人口地帯であること。
ここにいう「ある距離の範囲」としては、仮想事故の場合、なんらの措置も講じなければ、範囲内にいる公衆に著しい放射線災害を与えるかもしれないと判断される範囲をとるものとし、「低人口地帯」とは、著しい放射線災害を与えないために、適切な措置を講じうる環境にある地帯(例えば、人口密度の低い地帯)をいうものとする」

つまり、ネバダの核実験とまったく同じルールで、人口密度の高い大都市には原子炉を立地してはならない、とする指針であった。言い換えれば、原子力発電所の大事故は起こり得るので、低人口地帯(過疎地)の人間であれば著しい放射線災害を受けても致し方ない、としていた。

この指針が定められて2年後の1966年7月25日、わが国最初の商業用原子炉・東海発電所が茨城県で運転を開始し、“安倍晋三が尊敬する祖父”岸信介(佐藤栄作の実兄)が1959年に決定した東海村原子炉によって、現在まで続く原子力発電の時代に突入したのである」


日本の原発は岸・佐藤・安倍と長州人脈によって作られてきたそして世界史最大の環境汚染をもたらし、さらに日本民族の物理的な消滅にまで追い込みつつある。

「言い換えれば、原子力発電所の大事故は起こり得るので、低人口地帯(過疎地)の人間であれば著しい放射線災害を受けても致し方ない、としていた」。この文章を読んで、わたしは佐藤栄作(安倍晋三の大叔父)と安倍晋三とは、考え方が同じだという、異様な感慨に襲われた。

1582年、日本にイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノがやってきて以来、日本の軍事力を中国征服に利用するのは、一貫した欧米の戦略になっている。

1853年に、米国から艦隊を率いて来日したマシュー・ペリーは、フリーメーソンだった。娘婿はロスチャイルドの親戚であった。このときの米国の最終標的も中国だった。日本は中国攻略の足場だったのである。

このペリー提督の来日以来、米国は、日本を植民地として支配するために、日本の朝鮮・部落の怨念に注目し、田布施人脈を利用してきた。その中心にいたのが、岸・佐藤・安倍の田布施トリオである。

米国は、現在、中国の国力伸張に合わせて、日中を戦わせて、中国の勢力を殺ぐという戦略に深化してきている。

現在、米国は、日本のトップに安倍という、米国の一貫した戦略を実現するために、もっともふさわしい、頭の軽い男を得ている。(以下略)


つまり、ペリー提督の来航から日本の開国以後、米国が日本を属国として思い通りに利用するために、決して本心から日本国民の利益を願わないであろう人々、むしろ、日本国民に怨念を持ち、日本国民を抑圧することにすすんで力を貸してくれそうな思想的背景を持つ集団を入念に選んで、米国は(傀儡として)日本の政権の座につけて来たのだということである。これが俗に言う「田布施システム」、「長州人脈」だというのである。

こうして、日本国民や日本社会に対する怨念を持つ集団(社会的弱者)をあたかもエリートであるかのように政権トップの座に座らせることによって、米国が日本国民を欺いて抑圧的に支配し、その利益を徹底的に米国に献上していくシステムを築き上げて来たのである。そのような売国的な仕事を良心の呵責なしにすすんで成し遂げてくれるような人間は、それなりの背景を持つ集団の中からしか決して見つからない。つまり、抑圧・疎外されて社会に怨念を持つ社会的弱者の集団を意図的に利用し、反社会的・反国民的な思想的背景のある人物を政権に送り込むことによって支配の手段として来たのである。

このことは、ウクライナを属国支配するために、民主化を装って国民を欺きながら、米国が決してウクライナ国民のためにならない、むしろ、ウクライナ国民を抑圧することを望んでいるネオナチ極右政党支持者を政権の座につけたのと同じ構図である。米国は日本にも同じようにして、日本会議や、ネオナチ思想や、極右政党支持者など、軍国主義やファシズムの再来を願う、極めて危険な思想の持ち主ばかりを故意に選んで政権の中枢に送り込んだのである。

安倍内閣の閣僚がナオナチと深い関わりがあることはもはや公然の事実であるので改めて説明の必要もないだろう。
(写真の出典:高市早苗氏や稲田朋美氏、ネオナチ団体代表とのツーショット写真で波紋
The Huffington Post   投稿日: 2014年09月10日 11時22分 JST より) 
  


以上のような事柄をふまえると、11日に原発が再稼働されるや否や、安倍氏が勝利の祝い酒を共にするためにさっそく地元山口入りし、悠々と休暇に入った理由もよく分かる。国民を恐怖に陥れ、民意を踏みにじり、抑圧することで復讐を成し遂げることこそ、田布施人脈の悲願だからである。

だが、その間に、思いがけない大変なニュースが世間を騒がせていた。国会の審議も終わらないうちに、すでに安保法制の成立を前提として、防衛省が憲法上許されない自衛隊の活動を含む日程を組んでいたことが発覚したのである。



防衛省内部資料めぐり紛糾=「安保成立前提」と共産追及―参院特別委

08月11日 19:54時事通信 goonewsより


 参院平和安全法制特別委員会は11日、防衛省の内部資料に基づき質問した共産党が、中谷元防衛相の答弁を不服として紛糾した。鴻池祥肇委員長(自民)は、予定されていた野党の質疑を行わないまま散会を宣言した。国会は12日から事実上の夏休みに入るため、与党はお盆明けの18日の再開を目指し、野党と調整を続ける。

 11日の質疑で共産党の小池晃氏は、防衛省統合幕僚監部が5月末に作成したとみられる内部資料を提示。その中に審議中の安全保障関連法案の8月成立、年明けの施行を前提としたスケジュール表が掲載されていると指摘した。

 7日に期間延長が閣議決定されたばかりの南スーダンの国連平和維持活動(PKO)についても、派遣延長を前提に自衛隊の具体的な部隊編成や、来年3月からの「新法制に基づく運用」が明記されており、小池氏は「軍部の独走だ。絶対に許されない」と追及した。

 これに対し、防衛相は「(資料の)真贋(しんがん)や位置付けを即答するのは困難だ」と答弁を避け、審議が中断。再開後、防衛相は資料の存在を認め、内容についても「法案成立後に検討すべきことだ」と釈明したが、小池氏は納得せず、法案の撤回を要求。「これ以上議論できない」と質問を取りやめた。 


驚くことほどのことはない。「知らぬは国民ばかり」の状態は、他の法案についてもあてはまる。労働者派遣法改正についても、まだ法案が衆議院さえ通過していない先に、企業ではすでに派遣切りが行われるなどの痛ましいニュースが飛びかっていたことは記憶に新しい。官僚と財界が一体となって国民を裏切り、重要事項はすべて国民の頭越しに決められて共有されているような有様なのである。

それにしても、秘密主義にもほどがある。防衛省が秘密裏に組んでいた活動スケジュールのもう少し詳しい内容を「赤旗」から拾って来よう(他のニュースに掲載されていないため)。
最も重要な点は、これが防衛省だけの独走ではないこと、防衛省・外務省の連携により組まれたこと平時より自衛隊を米軍指揮下に組み込むことを重大な目的の一つとしていたスケジュールであることである。

国会審議無視 日程すべて決定/統合幕僚監部 戦争法案成立前提の計画/参院安保特委 小池議員の追及 「赤旗」2015年8月12日付 から抜粋

軍・軍調整所

資料はさらに、新ガイドラインの核心である「同盟調整メカニズム」(ACM)について、発表された合意事項にない内容を明記しています。

ACMは、「平時」から自衛隊を事実上、米軍の指揮下に組み込む枠組みです。同メカニズムには政府機関も含まれていますが、資料に「ACM内には、運用面の調整を実施する軍軍間の調整所が設置される」と明記。ガイドラインが一言もふれていない、米軍と自衛隊が直接、作戦計画について「調整」を行う機関の設置が明らかになりました。

小池氏は、資料にある「軍・軍とは米軍と自衛隊のことか。自衛隊はいつから軍になったのか」と追及。さらに、「これはまさに、米軍・自衛隊の共同司令部だ。明らかな憲法違反だ」と指摘しました。

政府は、戦争法案に基づく「戦闘地域」での米軍に対する兵たん支援について、「主体的に判断する」と繰り返しています。しかし、このような枠組みが設けられれば、どんなに危険でも途中で逃れられない米軍との一体化が加速することになります。

駆けつけ警護

図
(拡大図はこちら)

小池氏が委員会終了後の記者会見で「極めつき」だと指摘したのは、戦争法案の8月成立・来年2月施行を前提に、自衛隊の部隊運用に関する詳細な日程を作成していたことです。(表)

これによれば、ACMの運用は、日米の外務・防衛局長級からなる防衛協力小委員会(SDC)が文書を発出し、8月から開始されるとしています。現時点で設置の具体的な期限が定められているわけではない」(中谷防衛相、7月8日)という答弁に真っ向から反します。

また、来年1月には、新ガイドラインと戦争法案を前提とした日米共同統合指揮所演習(キーンエッジ16)を実施することも決めて、2016年度の自衛隊の防衛・警備等に関する計画に演習の成果や法案を反映すると明記しています。

さらに資料は、陸上自衛隊・南スーダンPKO(国連平和維持活動)について、来年3月から法案を反映させることを盛り込んでいます。資料には、8月末からの第9次部隊の派遣を明記。南スーダンPKOの派遣延長は7日に閣議決定されたばかりですが、法案も成立していない段階から、戦争法案に基づく運用を想定している疑念を抱かざるを得ないものです。

武器使用については、自己保存のための武器使用ならば「どのような場面でも憲法第9条との関係で問題にならない」などと勝手な憲法解釈を行って範囲を拡大。法施行とほぼ同時に「宿営地の共同防衛」や「駆けつけ警護」を実施することも盛り込んでいます。


私はこれを官僚全体が一体化した国民の頭越しの軍国主義への暴走であるととらえている。これによっていよいよ官僚は国民への裏切りを完成しようというわけだ。これまでにもすでに幾度か私は、日本政府が目指しているのは、国家が国民に対して無制限の権力を有する戒厳令下の統治(国家総動員体制)であると書いた。

つまり、軍国主義、全体主義の再来、恐怖政治と、国家総動員体制が現政府の悲願なのであり、官僚はそのための準備を進めているだけであると見ることができる。国家総動員体制が政府の最終目標であることは、自民党の憲法改正案からも読み取れるし、今回、発覚した自衛隊を平時から米軍指揮下に組み込むという自衛隊スケジュールも、そこへ向かう道筋であると理解できる。

さらに、はからずも、防衛省(+外務省)の暴走が事実であることが、ほぼ時期を同じくして起きていた米軍ヘリ墜落事故に自衛隊員が巻き込まれていたことによっても裏付けられた形となった。

以下の記事で天木直人氏が言及している朝日新聞の記事によると、自衛隊はすでに2009年時点から実質的に米軍の指揮下に入り、平時に米軍と共同軍事演習を繰り返すことによって戦闘行為を行う「軍」としての性格を着々と強めて来たことが見て取れよう。

米軍ヘリ墜落事故ではからずも露呈した自衛隊の違憲軍事行動
新党憲法9条(天木直人氏)

 きのう書いたばかりだ。
 国民の知らないところで、いや政治家さえほとんど知らされていない
中で、自衛隊は公然と憲法違反の軍事演習を米軍と一体になって行って
きたと。
 それが共産党や社民党の国会質疑で明らかにされたと。

 わずか一日後に、今度はそのことが米軍ヘリの墜落事故という思いも
よらない偶然によって露呈した。
 日米地位協定と特定秘密保護法の二つの巨大な壁に妨げられて、今度の米軍墜落事故の実態はほとんど明らかにされていない。

 それでも、きょう8月13日の朝日新聞が次のように書いていた。
 すなわち、陸上自衛隊によるとケガをした陸自隊員は「中央即応集
団」に所属していたと。
 合計10名が在沖縄米陸軍部隊の研修に参加するため沖縄に訪れてい
て、そのうちの二人が事故機に乗っていたと。
 中央即応集団を含む陸自の各部隊は2009年度から、米軍の部隊の
活動を学ぶ研修を毎年重ねてきたと。

 これだけでも十分だ。
 研修と言えば聞こえはいいが、これは紛れもなく米国との共同軍事演
だ。
 そして中央即応集団とは、国際貢献、国連PKO活動などという美名
の下で作られた、専守防衛を逸脱した、もっぱら海外活動を念頭につく
られた新たな戦闘集団だ。
 この日米共同軍事演習が、2009年度から毎年行われ来たと朝日新聞は書いている。
 これは紛れもない自衛隊の憲法違反行動だ。

 このような憲法違反の自衛隊の行動が、安保法制案ができるはるか以前から公然と行われていたのである。
 その事を誰も知らなかったのである。
 知っている政治家やメディアは、誰も問題にしなかったのである。

 今度の米軍ヘリ墜落の本当の衝撃は、日米軍事協力が憲法論議を超え
て先行しているという現実が明るみになった事である。
 メディアが書くべきは、まさにその事である(了)

 
さらに、「Sukiyakisongの日記」が、今回発覚した防衛省の独走を示す資料を、かつて現実に起こった自衛隊のクーデター計画の試みである「三ツ矢計画事件」に関連付けてとらえている。


原発の亡霊再び/WWⅡの亡霊である安倍晋三がアジアに出没

から最後の項目のみ抜粋

………(5) 自衛隊統合参謀本部の極秘文書………

◆PDF:統合幕僚監部「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)および平和安全法制関連法案について・・・共産党の小池晃議員が暴露した防衛省の統合幕僚監部作成した資料
http://www.jcp.or.jp/web_download/data/20150810183700620.pdf

「自衛隊の三ツ矢計画事件」を思い出す。クーデターに関する図上演習ですが、クーデター鎮圧ではなく、自衛隊がクーデターを起こす図上演習だったのです。5.15や2.26は「一部の青年将校が」でしたが、「三ツ矢研究」は自衛隊組織ぐるみ。

自衛隊と海上保安庁は帝国陸海軍の不良分子が参集して作られた経緯がある。特に海自と海保は5.15を起こした海軍将校と同じ国粋主義者で公職追放を免れた連中が集合し、危険集団になった。海自艦艇内での陰湿な苛め自殺の多発やサマワ派兵陸自での大量自殺や、尖閣を担当する海保の殺人性等も。


三ツ矢計画事件とは1965年に発覚した自衛隊が現実に図上で計画していたクーデター•シミュレーションであるが、その詳細は以下で説明する。その前に、「三ツ矢」という言葉に注意したい。これは安倍晋三氏が唱えていた「アベノミクスの三本の矢」という符号と一致する。

このことは、もしかすると、アベが政策として打ち出した「三本の矢」は、ダブルメッセージであり、そもそもの初めから軍事クーデターを指す暗号だったのではないかという疑問を抱かせる。

これをあながち妄想やフィクションとして切り捨てられないのは、以下のような写真もすでに世間に出回っているためである。

 

(写真の出典:安倍首相の731戦闘機試乗 「止まらない挑発」の非難
Japanese.CHINA.ORG.CN 2013-05-16 11:23:45)

当然ながら、731という数字が、戦時中に生物兵器を開発するために人体実験を行った日本軍の研究機関731部隊を連想させることは言うまでもない(Wikipedia731部隊)。

もしも良識の欠片でも持ち合わせているならば、日本の首相が731と大きく書かれた戦闘機に搭乗することが世界に向けてどんなメッセージを発信することになるか分からなかったはずがなく、これは故意に行われたことである。731という数字の戦闘機に搭乗すること自体が挑発的なメッセージである。同様に、この首相がこれまで行ってきた活動には、先の大戦で被害を受けたすべての日本国民、関係諸国の人々を嘲弄するメッセージが故意に込められていた。そのことは、A級戦犯であった岸信介の孫であるという安倍晋三という人の独特の出自のみならず、そもそも同氏が日本国民に恨みを持つ思想的背景を持つ「長州人脈」に由来することを考えると、ますます不思議ではなくなる。

さて、「三ツ矢計画事件」とは何だったのかというテーマに戻ろう。

それは一言で言えば、戦争を前提とした国家総動員体制を敷くことを想定して自衛隊が秘密裏に図上で作成したクーデター計画であった。

この計画が国民に発覚した経緯も、今回とよく似ており、衆院予算員会で社会党議員が研究の存在を暴露したのがきっかけで世間に露呈し、世論の激しい反発を引き起こしたのだった。

まずは発覚の経緯について、Wikipediaの「三ツ矢研究」から抜粋してみよう。


研究の発覚

1965年(昭和40年)2月10日の衆議院予算委員会において社会党岡田春夫がこの研究の存在を発言し(暴露内容は第三動の部分に当たる)、一般的に研究の存在が知れ渡った。その後衆議院で松野頼三を小委員長とする「防衛図上研究問題に関する予算小委員会」が設けられ、11回にわたって集中的に問題点の追求が行なわれた。

三矢研究問題

岡田がこの研究の存在を暴露した際、政府は虚を突かれた格好となった。野党はこの研究の全資料の提出を求め、

  1. 三矢研究の性格と責任の所在
  2. 政治領域への介入と軍事優先の考え方
  3. シビリアンコントロールの不在

この3点を主に追及した。

これに対し防衛庁側は、

  1. 当該研究は統合幕僚会議事務局長が長として行なった研究であり、研究という性質上結論は無く計画でもない
  2. 当該研究は有事の際の統合運用を中心議題にしたものであり、防衛庁以外の諸機関の施策は想定であって、非常立法についてもそれぞれ権限のある諸機関が処理することが想定としておりこんでおり、核兵器の問題も政治判断を待つとした
  3. 国会と自衛隊、政府と自衛隊、防衛庁内局と各幕僚監部の関係を見た際、既にシビリアンコントロールは成立している

と反論した。

この問題中において就任間もない佐藤栄作首相は不用意な発言を行い主導権は社会党側にあり、報道機関も終始野党側に加担する報道を行なった。そのような中にあっても松野はその委員長としての功績を評価され1965年6月の第1次佐藤内閣第1次改造内閣防衛庁長官に起用された。

三矢研究問題はその後の国会において防衛問題をタブー視する風潮を助長する契機となった。


現時点と比べ、当時は「シビリアン・コントロール」がまだ揺るぎないものとして存在していた。だが、今はそれさえもぐらついている。今年2月に防衛省は「シビリアン・コントロール」を崩すための一突きとして、制服組」が「背広組」と対等であると主張し、防衛省設置法の条文を見直す方針を固めた。その後、国会に「防衛省設置法等の一部を改正する法律案(防衛省設置法改正案)」を提出した。

「シビリアン・コントロール」は、戦前・戦中の軍部の暴走の反省からできた制度であり、軍部の暴走の再発防止のために文官が自衛官より優位に立ち、これを統制するという制度であった。それがぐらつき、風前の灯となっているのだから、国が大変危険な地点にさしかかっているのは明白であろう。防衛省はまずは「制服組」と「背広組」との「対等」を主張しておいて、次には必ず、「制服組」の「背広組」への「優位」を主張し始めるだろうことが簡単に想像できる。

そもそも「制服組」の「背広組」との対等が打ち出された時点で、すでに「シビリアン・コントロール」の破壊が行われていると見るべきなのである。

 背広組と制服組、対等に 「文官統制」大転換 法改正へ
 朝日新聞DIGITAL 三輪さち子 2015年2月23日22時33分

 防衛省は、文官である背広組(内局)が制服組(自衛官)を監督する根拠となってきた防衛省設置法の条文を見直す方針を固めた。同法改正案を、今国会に提出する方針だが、背広組を制服組より優位としてきた「文官統制」の大きな転換となるだけに、国会でも議論を呼びそうだ。

「文官統制」の仕組みができたのは、戦前・戦中の軍の暴走の反省からだ。

文民である防衛相が自衛隊を統制するのが「文民統制」。その防衛相を政策の専門家である「文官」の背広組が支えるのが「文官統制」だ。「文官統制」をとり入れたのは、制服組への統制をより強化する狙いがあった。

 
ある意味では、憲法に対するクーデターの結果として成立した官僚集団の中で、それまで下位に置かれてきた自衛官が文官より優位に立つというさらなるクーデターが進行しているのだと言えるかも知れない。こうして、文官統制を覆して行き、やがて自衛官が文官よりも優位に立てば、国家総動員体制への布石がまた一つ打たれることになる。 

さて、再び話が逸れてしまったので、三ツ矢計画事件に戻ろう。Wikipediaからその内容がどのようなものであったのかを振り返りたい。

概要

紛争発生を想定したオペレーションズ・リサーチであり、統幕会議が昭和38年に図上研究として行った。統裁官は統幕事務局長田中義男陸将を長とし、統合幕僚会議の佐官級16名、研究部として陸海空の幕僚監部から佐官級36名が参加、1963年2月1日から6月30日まで行なわれた。

研究内容

概略としては、まず朝鮮半島で武力紛争(第二次朝鮮戦争)が発生し、これが日本に波及する場合を想定し、これを例題として非常事態に対する日本防衛のための自衛隊の運用並びにこれに関連する諸般の措置及び手続きを統合の立場から研究することを目的とした。

具体的なシナリオは以下のとおり。

  1. 昭和3X年4月に第一動として韓国軍内の一部において反乱が起き在韓米軍がこれの鎮圧に出動、この状況に呼応するように日本国内の治安情勢が悪化
  2. 第二動として北朝鮮内でも動静が活発化し反乱軍に支援が行なわれる
  3. 第三動として38度線を北朝鮮を主体とする共産軍が南下し第二次朝鮮戦争が勃発し、続いて西日本に対する武力侵攻の危機が高まる
  4. 第四動として韓国国内の情勢悪化にともなう日本国外からの武力脅威が増大し自衛隊は米軍との共同作戦を開始
  5. 第五動としてついに西日本が攻撃を受け、北日本ではソビエト連邦による北日本に対する武力侵攻の危機が増大し、朝鮮半島では戦術核が使用される
  6. 第六動としてはソビエト連邦が北海道に進攻を開始し自衛隊と米軍の共同作戦が本格化
  7. 第七動で日本全土に対するソビエト連邦軍による本格的海空攻撃が行なわれ、全戦場で核兵器が使用され(この時点で日本は壊滅的損害を被る)、

最終的にサハリン、北朝鮮、満州中華人民共和国への反攻および核報復によってアメリカが勝利するという想定であった。

これら予想される第一動から第七動までの状況を想定して各段階における問題点の洗い出しを研究した。これらはいずれも核兵器を使用するにも拘らず、全面戦争に至らず局地紛争を想定しその対応策を研究するものであった。

その中において、朝鮮半島有事に対応するための日米共同作戦が実行される。攻勢面は米軍が担当し、防勢面では自衛隊が担当することとなっており、間接侵略に対しては自衛隊が国内治安の確保にあたり、外部からの侵略抑制には米軍がその対応にあたる。直接侵略に対しては自衛隊は防勢面を担当し、米軍は全般支援の他に自衛隊には不足する一部作戦を担当することとなっており、米軍の全面協力を前提としていた研究であった。

これがために国家機関・国民の総動員態勢を確保し、そのための軍法会議関連など87件の戦時諸法令も国会に提出成立させ(「非常時」としてクーデター的あるいは同時進行で整備中の想定を前提に2週間程度で)国家総動員体制を整備する。当時の自衛隊の作戦計画については国家機密に当たるために不明であるが、この研究は米ソデタントの時代まで日本の防衛戦略の前提的な研究であったと考えられる。


ソ連をロシアに置き換えれば、そのまま現在にあてはめることも可能なシナリオであろう。

むろん、「三ツ矢計画事件」は事前に発覚したため実現に至らなかった自衛隊の幻のクーデター•シミュレーション計画であるが、もし発覚していなければ、図上の研究で終わらず、実行された可能性がなきにしもあらずだ。そもそも、冷戦の対立構造の緊張関係の高まりを契機に、米軍と協力しての自衛隊の軍事クーデターを想定した図上計画が作られていたこと自体が重大問題であった。

今現在、あらゆる状況証拠から判断して、「三本の矢」政策を打ち出した安倍政権下で、全く同じシナリオが水面下で進行しているのだと予想するのが妥当ではないだろうか。文官統制の排除もそのための一歩である。そもそも軍部というものは暴れ馬のごとき性質を持つものであることは先の大戦で証明済みであり、世界で絶え間なく戦争を引き起こしてきた米国と軍事協力するとことは、必然的にそういう結果にしか至らない。つまり、何らかの口実を設けて故意に戦争を引き起こすことに結びつくだろうと予想されるのである。

とりあえず、世界滅亡の一歩手前で終わる筋書きにはなっているものの、それでもこのシナリオは、やはり、人工的にハルマゲドンを引き起こすための試みだと言われて仕方がないものである。「三ツ矢計画」を現代に移せば、ロシアを悪魔国家とし、ヨーロッパを反キリストの登場の土台とし、アメリカが正義の国として勝利することを目指す「レフト・ビハインド」の物語の筋書きの具現化の試みとなろう。

こうして、ネロの精神が現代によみがえり、日本国土は核の火で焼かれて壊滅的な打撃をこうむり焦土となり、非常事態により国民生活は極度に圧迫され、自由がなくなり、人々は恐怖に怖じ惑い、疑心暗鬼の中で密告し合い、殺し合い、こうして、国民に恨みを持つ政府による国民への復讐が成し遂げられるという筋書きとなる。

いや、「三ツ矢研究」はあくまで過去のことだから、現在とは関係ないと言う人もあろう。しかも、単なるシミュレーションではないかと。だが、米国がロシアを敵視する新たな冷戦とでも言うべき世界構造の中、再び、同じ事態を想定して、同様の計画が作られ、実行に移されることはないと、誰に保証できようか。

いずれにせよ、シビリアン・コントロールの崩壊を受け入れれば、そのような結果が到来するのは避けられないであろう。日本に待っているのはウクライナと同じか、それよりもさらに悪い未来だけである。すでに着々とその地点へ向かって政府により準備がなされて来たのである。憲法改正案もその一つである。すべては自由の圧迫のため、平和の破壊のため、国民に対する抑圧のためである。自ら火をつけた火事を燃え上がらせてこれを他人の罪に転嫁し、それを口実に軍事政権を成立させて国家総動員体制を敷き、恐怖政治によって徹底的な国民弾圧に乗り出そうとする政府の企みは暴かれ、打破され、退けられなければならない。

次回以降、このような恐ろしい人間抑圧を最終目的とする反人間的な復讐計画がなぜ生まれて来るのか、その背後にどのような思想があるのかを検証したい。その背後にあるのは、グノーシス主義である。「日の下に新しいものはない」と聖書の言う通り、こうした反人間的な(悪魔的)思想には、決まった型が存在する。


大いなるバビロンへの邁進~神なきヒューマニズムとしての弱者救済の思想の危険性~己の火をつけた火事を他人の罪に帰する~

猛暑の中バビロン化した社会について述べるのも気が進まないので、本当はもっと清々しい信仰の話題について書きたかったのだが、ひとまず元のテーマに戻ろう。

まずは、沖縄、辺野古基地建設問題からである。

植草一秀氏が、政府による辺野古の工事中断について、いよいよ翁長知事の動きが怪しくなってきたとの見方を示している。


埋立承認取り消さず国と協議に談合の気配充満
2015年8月10日 (月)


沖縄県名護市で安倍政権が推進している米軍基地建設に関連して、安倍政権は8月4日、移設に関する作業を8月10日から9月9日まで1カ月間中止して、沖縄県と集中的に協議すると発表した。

この日、沖縄県知事の翁長雄志氏は記者会見を行い、辺野古埋立工事の1ヵ月中断と引き換えに、「埋立承認取り消し」を公式に棚上げした。<略>

8月5日付琉球新報は、1面トップに
「辺野古1ヵ月停止」
の大見出しを打ち、
「県と国 合意」
のサブの見出しを付けて報道した。 まるで、沖縄県が国から大きな譲歩を勝ち取ったかのような報道だが、問題の本質を取り違えた、ミスリーディングな報道である。

問題の本質は、
翁長雄志知事が、
「辺野古に基地を造らせない」
という知事選公約を実行するのかどうかである。<略>

「辺野古に基地を造らせない」
という公約を実現しようというなら、いま何よりも重要なことは、辺野古基地の本体工事着手を阻止することだ。<略>

国は沖縄県と事前協議をしなければ、本体工事に着工することができない。
この「事前協議」のための協議書が沖縄県に提出された。
これを沖縄県が受け取ってしまうと、国は本体工事に着手する条件を得てしまうことになる。

翁長知事が国による本体工事着手を阻止するには、この事前協議書を受け取ってはならなかったのである。
そのためには何が必要だったのか。
答えは明白だ。
翁長氏が仲井真前知事が出した埋め立て承認を撤回ないし取り消すことが必要不可欠なのだ。<略>

しかし、翁長知事は、いまだに埋め立て承認を撤回ないし取り消ししていない。
そして、国が提出した事前協議書を受け取ってしまったのである。

今後、1ヵ月国が工事を中断しても、その後に本体工事に着手することを阻止する最大の防御策を、翁長氏は、自ら放棄したということになる。

1ヵ月間の工事中断は、安倍政権が戦争法案を押し通す際に、沖縄の基地問題で国民世論の批判を浴びることを避けたいために取られた策である。

安倍政権の安倍政権による安倍政権のための、「目くらまし」施策に過ぎない可能性が濃厚なのだ。
沖縄が喜ぶような話ではないのである。

むしろ、原発、戦争法案という二大問題が国民世論の批判に晒されているタイミングで、沖縄が埋め立て承認の取り消しを行うことが、安倍政権を攻略する最大のチャンスであると見るべきなのだ。


国による突然の工事中断を受けて、目前まで来ていた埋立承認取消の決定が先延ばしされ、それにより翁長知事の決断を通して彼の真意を見極めるタイミングも先延ばしとなった。

この工事の中止がなければ、第三者員会の報告を受けて、8月中には翁長知事が埋立承認取り消しをするかどうか結果が出る流れになっていた。

それが先延ばしになったのは、政府の延命策であると同時に、翁長氏自身の延命策でもある可能性が考えられる。

なぜなら、8月3日に翁長氏は「国は突然、何をするか分からない」と意味深な発言をしていたからだ。それまで政府は断固、着工を目指して強硬な姿勢で猪突猛進していた。が、工事中断前に政府の態度に何か急変があるかも知れないことをあらかじめ察知しているかのような台詞を翁長氏は述べた。


翁長知事 「承認」取り消しの意向示唆 NHKニュース 8月3日 16時14分
(早くも削除されているようなのでキャッシュから)

翁長知事 「承認」取り消しの意向示唆沖縄県の翁長知事は、3日発売された週刊誌でアメリカ軍普天間基地の移設計画を巡り、仲井真前知事が行った埋め立て承認の取り扱いについて「あとはタイミングだ」と述べ、承認を取り消す意向を示唆しました。

アメリカ軍普天間基地の移設計画を巡って沖縄県の翁長知事が設置した第三者委員会は先月、仲井真前知事が行った名護市辺野古沖の埋め立て承認について、「法律が求める要件を満たさず、かしがある」という報告をまとめています。これに関連し翁長知事は3日発売された週刊誌で、埋め立て承認の取り扱いについて「取り消し以外、方向性はないのではないか」と質問されたのに対し「そうですね。あとはタイミングですね」と述べ、仲井真前知事が行った埋め立て承認を取り消す意向を示唆しました。そのうえで翁長知事は取り消す場合の判断時期について「先を見越した話は一切できないが国は、突然、何をするか分からないので、じっくり横目でにらみながら即応態勢でやっていく」と述べ、政府の対応を見極めて判断する考えを示しました。

 
翁長氏の上記の発言は、あたかも視聴者に向けて語っているように見せかけて、その実、日本政府に対する暗黙のメッセージを送っていたのではないかとの推測に立つと、とても理解しやすい。そう考えると、ダブルメッセージが込められていた可能性がある。

「日本政府殿、県側では第三者委員会の報告もあり、もうこれ以上、取消の決定のタイミングを先延ばしにできないところまで来てしまいました。このままでは、知事として今月中にも取消の決定を下さざるを得なくなります。そうすると、県民の意思が実現してしまいますがどうでしょう。お約束したように、私はあくまであなた様の対応を仰いでから決定を下すつもりでございます。そこで、お知らせしておきますが、もし今まで通りのガチンコ勝負で突き進むと、取消は避けられません。ですから、打ち合わせした一時休戦のタイミングは今しかないのではないでしょうか。」

つまり、これは承認取消のタイミングについて語っているように見せかけて、その実、取消を阻止するための政府の一時停戦戦略にゴーサインを出していた可能性があるように感じられる。

まさかそこまで深読みする必要はないだろうという人であっても、少なくとも、世論の反発を抑えるために、沖縄問題と安保法制の問題を同時にガチンコさせたくないという政府の思惑に、翁長知事が無抵抗に応じてしまったことは、政府によりチャンスを与えるだけで、安倍政権に対峙する政治家としてあるまじき譲歩であり、重大な裏切り行為の始まりなのではと批判にはうなずくだろう。


辺野古工事中断という変化球 翁長と官房長官、第二の仲井真か?
「世相を斬る」あいば達也氏

どうもキナ臭い。この情報に接した沖縄辺野古基地問題に興味のある方たちの多くが、背筋をザワッとさせたのではないだろうか?力と体力で有利な権力者と闘う時の王道は、けたぐり、はたき込み、飛んで出し投げ‥等、離れ業で勝負するものだが、翁長知事は、官邸側に一服の時間を与え、四つ相撲でじっくり勝負は、力の弱い方に有利であるわけがない。筆者には、安倍法制で非難轟々の上に、辺野古で、埋め立て取り消し訴訟でも起きようものなら、内閣支持率は軒並み低下して、20%台続出だっただけに、敵に塩を送った印象は拭えない。

政府(菅)は丁寧に説明する時間の確保であり、“辺野古しかあり得ない”という旗を振り続けているのだから、その大関横綱に、幕内力士が一歩でも相手に余裕を与えることは、得策とは言えない。植草氏の予言が当たってしまい、筆者は、お人好しのピエロとなる(笑)。しかし、翁長流の琉球人独特の王道をゆく粘り腰だと信じたいところだが、些か怪しい気配も出てきている。 (以下略)


今のままでは沖縄県民は裏切られる可能性が高いと私も考えるのは、そもそも社会的弱者の圧倒的な支持を味方に取り付けて正義の味方のように登場して来る指導者の存在そのものを大変、疑わしく感じているためであることはすでに述べた。

キリスト教界でもそうであったが、カルト被害者救済活動のような弱者救済運動のほとんどは人工的に作り出された運動であり、偽りの指導者の栄光を築き上げるために利用されるだけで、人々を真に解放することができない。被害者たちが口を揃えて言うことは、そうした指導者は決まって最初から彼らを裏切ってこっそり敵対勢力と背後で交渉し手を結んで弱者を売り渡していたということである。それがこのような救済運動のお決まりのパターンであると言って良い。そのような反対運動は敵対しているように見える双方の指導者が利益を分かち合って終わるための出来レースであり、真の解放に至らないことが約束済みなのである。

だから、真に自立するためには、特定の指導者を頼らず、弱さによる連帯をせず、それまでとは違った新しい方法で一人一人が立ち上がるしかないと私は考えている。そこで、この弱者救済の運動の盛り上がりが、人々をどこへ連れて行くのかについても、大きな疑惑を持って眺めている。

さらに、あいば氏は、安保法制を巡っては、米国の願いをかなえるために、官邸はもう後に引けないところまで来ているが、8月30日に予定されている反安倍政権大規模デモにおいて、政権と国民とが対峙し、この問題が大きな山場を迎えることに触れている。もし世論の反発に譲歩せざるを得なくなるとすれば、解散という形を取るしかないが、政治生命を考えると、その可能性は低い。長いが、一通り引用したい。


●8月30日は散歩ついでに議事堂散策 そして叫ぼう、安倍やめろ!

以下のように、日刊ゲンダイが希望的観測記事を書いている。日刊ゲンダイは、最低限度の「道義」(人が踏み行うべき、正しい道)の欠片くらい、安倍晋三や日本会議の連中に存在しているに違いない、と云う前提で、記事を書いている。鈴木哲夫も、同様の視点で、60日ルールなんて、容易に使えないだろうと考えているようだ。しかし、筆者は、安倍や日本会議の連中に、「道義」への細い糸でも残っていると考えるのは、相当に虚しい願望なのだと思う。


ただ、参議院の特別委員会の鴻池祥肇委員長が、男気を出して、採決の延長を宣言したとして、60日ルールは、菅官房長官が「粛々と法に則った手続きを開始すると言うに違いない。参議院自民党議員の多くが、「鴻池委員長、せめて参議院は採決なしに持って行ってくれ」法案を決定したの衆議院議員と云う形に持って行きたいのは、参議院与党議員らの総意である。辺野古新基地も、ただ休み時間を官邸に与えた、翁長の裏切りなのか、王道を行きたがる虚栄心なのかどうか判別できないが、単に官邸にとって都合のいい、ブレイクタイムに過ぎない。

 「戦争法案反対」のシュプレヒコールに埋め尽くされた“10万人デモ”が、「30~50万人デモ」になっても、安倍と日本会議の連中は、「戦争法案」を60日ルールに乗せるだろう。そのくらい「理」に反した「無理」な法案であることは、百も承知だろう。しかし、閣議決定でクーデターを起こした政権が、ここで「道理」「道義」を感じたら、負けなのだ。安倍はこの際、日本会議に殺されるか、米軍に殺されるか、霞が関に殺されるか、いずれにせよ「戦争法案」の廃棄は、万死が待っている。しかし、通過させれば、殺される事態は回避できる。国民の側に、そこまでの暴力性はないからだ。そして、そのように安倍が考えても不思議ではないところまで、安倍は追い込まれている。

<略>ことが此処まで進むと、悪事を成し遂げる方が、理にかなうと云う矛盾が起きるのだが、電通方式と霞が関方式の混合部隊で推進した流れには、総理の生き死にに関わるレベルになっていると云う事だ。

<略>仮に、安倍晋三が廃案方向に舵を切る時は、再度の解散総選挙に打って出る道が残されている。これは、筆者はあるのでは、と思っている。自ら廃案を決定するのはヤバイ。それを逃れる方法は、解散総選挙しか残されていはずだ。<略>

そういう意味で、8月30日のデモは「反戦争法案」の集大成として、かなりの価値がある。どこかで、筆者も議事堂を囲むデモの一員になっているだろう。国家緊急権の発動と云う禁じ手まで行かないまでも、警察法による“緊急事態の布告”なんてしないだろうが、50万に位の規模になると、小便を漏らしながら、今の官邸ならやりかねない。或る意味で、10万人オーバーくらいで、充分な国民の意志表示になるだろう。その時は、安倍政権は立ち往生、ヤケクソを起こすよりは、解散権の行使に踏み切る可能性が一番ありそうだ。ただ、安倍の考えだから、この読みに自信はない(笑)。


現在の国民による反安倍政権大規模デモの広がりを見ていると、歴史上、国民にここまで憎まれた総理はいなかったかも知れないと思えて来る。霞が関にとっても連日のデモはそれなりに恐怖感を与えるであろう。だが、官邸はだからと言ってもはや退却できないところまで追い込まれているという見方には賛成だ。退路が断たれ、国民の巨大な反発との板挟みになる中で、政府はどのような選択に出るのか。

しかも、大規模デモの行方にも十分な注意が必要である。その理由は、この日本ではそうそう考えられることではないが、あらゆるデモには長期化し、やがて暴徒化して革命にまで発展するという危険性が完全にゼロとは言えないことと、あるいはデモが暴徒化した結果、弾圧されて、より一層、厳しい統制の口実を政府に与えるという二通りの危険性がつきものだからだ。前者は前者で不幸な未来を招くし、後者はただ政府の弾圧に口実を与えるだけに終わる。
 
今、最も重要な問題は、どのようにして国民が政権を奪還し、民意を反映できるものに変えていくかということにあろう。たとえ自民党以外の政党に政治経験が乏しかったとしても、現政権に代わりうる受け皿を用意する必要がある。軍国主義の復活を願っている日本会議の支配にこの国をだねることだけは、全くもって誰も了承しておらず、民意でないことは誰の目にも明白であろう。
 
だから、政権交代をすべて平和的手段で合法的に成し遂げるための準備を進めて行くことが必要である。その時、デモがその妨げになるのか、助けになるのか、これも注目される。21世紀なりのスマートな方法で、しかも、政敵の急所をつく戦略が必要となろう。繰り返しになるが、自民党の憲法改正案を見てもわかるように、政府が目指しているのは、国家が国民に対して無制限の権力を有する戒厳令下の国家である。だから、デモの暴徒化が万一起こった場合、それは政府による国民弾圧に格好の口実を与える。同時に、仮定の話だが、もし日比谷公園や議事堂前デモを革命に発展させたとしても、そんな方法では民主主義的政権はできないし、それでは現行の政府が目指しているのと同じ恐ろしい結果にしか行き着かないだろう。
 
もしここでこれほどの反対運動の高まりがあったにも関わらず、それが一過性のお祭り騒ぎのような盛り上がりで終わってしまい、自民党政権を真に退陣に追い込むことに失敗すれば、以前よりもはるかに厳しい言論統制を伴う冬の時代がその後に到来するかもしれないことを国民は覚悟しなければならない。退路がないのは政権も国民も同じである。現政権が長ひけば長引くほど、弾圧と反発がいたちごっこのように繰り返され、嘘と陰謀もより深化し、反対も地下運動化したりして、ただ政情不安定な国へ転落していくことにもなりかねない。
 
政権を早期に断固、国民の手に奪還し、民意を反映さける仕組みを作ることがどんなに重要であるかは説明できない。もしそれに失敗すれば、その間に敵はさらに強化する。一度退陣した安倍政権が、民主党政権後に二度目に政権にかえり咲いた時には前よりも強硬になっていたように、また、かつての学生運動の失敗が大学当局の硬化や、大学の自治のさらなる死滅をもたらしたように、中途半端な反対はかえって政敵を強化するものであることを覚えておくべきだろう。善意の説得など通じる相手ではない。民意をいかにくじき、いかに自由を求める人々の自主的な運動を人工的なものにすり替え、人々を欺いて運動を潰して行くかについては、長年に渡り、戦略が編み出されて来た。どうしようもないほどに稚拙な議論の繰り返しにより真面目な人々を意気阻喪させるのも戦略の一つである。議論するように見せかけて時間が許す限り話を引き伸ばし、騙し、はぐらかし、あるいは脅しつけるのが向こうの狙いである。

それでも、憲法の平和主義を掲げるならば、卑劣な方法にも最後まで平和的手段で立ち向かわなければならない。それにより、完全に政敵に打ち勝ち、新たな体制を形作るところまで辿りつかなければならないのだ。悪魔は手段を選ぶ必要がないので常に戦略にことかかないものだが、立ち向かう側はどうなのか? 単に義憤だけを武器として反対を叫ぶのでなく、目的に至るまでの道筋が見えているのだろうか?




話が変わるようだが、今日から川内原発再稼働だという。広島と長崎の原爆投下の悲しい記念日の直後、8月11日午前11時に再稼働というのがまさか偶然のはずもあるまい。原爆投下と原発再稼働は一見、無関係なように見えて、背後に宗主国から属国への恐るべきジェノサイドの悪意があることを、私はこの日付を見ても感じざるを得ない。

「マスコミに載らない海外記事」に長崎への原爆投下について興味深い記事が掲載されている。読んでしばらく、言葉を失ってしまった。これほどあからさまに原爆投下を「キリスト教徒によるキリスト教徒の殺害」という構図でとらえた論説をこれまでに読んだことがなかったからだ。原爆投下が終戦に役立たなかったことや、人体実験であったことなども詳細に書かれているが、今は一部のみ引用させていただく。


「長崎原爆投下70周年 : 教会と国家にとって歓迎されざる真実」

Dr. Gary G. Kohls Global Research

2015年8月4日

70年前、(19458月9日) 全員キリスト教徒の爆撃機乗組員が、“ファットマン”、プルトニウム原爆を、日本の長崎に投下し、何万人もの無辜の一般市民を瞬時に殲滅させたが、彼等の中でも不釣り合いなほど多数が日本人キリスト教徒だった。この爆発は、更に、キリスト教徒以外の無数の犠牲者達に、爆発や、とてつもない熱や、放射能によって致命傷を負わせた。

1945年、アメリカは、世界でも最もキリスト教徒の国(つまり、目には目をという報復の支持者で、他国を軍事的、経済的に搾取するアメリカを教会が支持し、山上の垂訓として教えられているイエスの倫理を、心から、教えたり、忠実に守ったりしそこねている国を、キリスト教と呼べるとすればだが)だった。

皮肉なことに、午前11:02に、浦上天主堂上空で原爆が爆発するまで、長崎は、日本最大のキリスト教都市だった浦上天主堂は、東アジア最大のキリスト教大聖堂だった。

<中略>

キリストの名において、キリスト教徒を殺害するキリスト教徒

9300メートル上空から確認可能な、長崎に二つしかない陸標の一つ(もう一つは、連合諸国の海上封鎖の為、原材料も不足していた、三菱の兵器工場複合体)である巨大な天主堂が、ファット・マン原爆の爆心地となったのは皮肉の極みだ。

午前11:02、木曜朝ミサのさなか、何百人もの長崎キリスト教徒はゆだり、蒸発し、炭化し、あるいは天主堂上空500メートルで爆発した、焼けつく放射能の火の玉へと消えた。間もなくきのこ雲から降った黒い雨が、多数の長崎の神道信者、仏教徒やキリスト教徒の入り交じった亡骸を包んだ。長崎の黒い雨の神学的含意は、あらゆる宗派の神学者達の心をひるませるに違いない。

長崎キリスト教信者の死者数

大半の長崎のキリスト教徒は、爆破から生き残れなかった。ゆるしの告解に出席していた全員を含め、6,000人が即死した。12,000人の教会員のうち、8,500人が原爆の結果として亡くなった。他の多くの人々も極めて致死的な全く新しい病気になった。放射能疾患だ。
近隣にあった三つの女子修道院と、キリスト教女学校が、黒煙となって消滅するか、炭の塊と化した。何万人もの無辜のキリスト教信者ではない人々も即死し、更に多くの人々が、致命傷を負ったり、治療もできないほど負傷したりした。犠牲者の子孫の中には致命的なプルトニウムや、原爆が生み出した他の放射性同位元素によって引き起こされる、継代悪性腫瘍や、免疫不全を患っている。

ここで、本記事の重要点の一つをあげよう。日本の帝国主義政権が、200年間にわたる迫害でできなかったことを(日本キリスト教の破壊)、アメリカのキリスト教徒は、数秒でなし遂げたのだ。

第二次世界大戦以来の数十年間で、キリスト教が、ゆっくりと復興した今でも、日本人教会信者数は、総人口のわずか1%というものでしかなく、キリスト教礼拝への平均出席者は、わずか30人と報じられている。戦争末期における長崎の絶滅が、一時は活気に満ちていた教会を、損なってしまったことは確実だ。 (以下略)


読んでいて空恐ろしい感覚になってくる。まさか、まさか、特別にクリスチャンに狙いを定めるために長崎を選んだというのではあるまい? 

2009年当時、すでに述べたように、私の知っている限り、キリスト教界からエクソダスせよと呼びかけに応じて、キリスト教界の腐敗と手を切り、真理に基づく真の自由な信仰と交わりを求めるクリスチャンが出現していた。こうしたクリスチャンが当時は多数、各地に存在し、それぞれに真の信仰を求めて模索し、連帯も生まれていたのである。

だが、こうした真の信仰を求める人々の気運の盛り上がりは、ペンテコステ運動など米国からもたらされた異常なキリスト教運動に染まった(自称)クリスチャンたちの嘘や、裏切りや、告発や、偽の被害者救済活動などによって、あらぬ方向へ誘導され、打撃を受け、壊滅させられていった。

クリスチャンが本気で神に向かい、自由になろうと模索する度に、宗主国を発信源とする何らかの影響力により、自称クリスチャンによるクリスチャンへの迫害がもたらされ、真に神に向かう人々が意気阻喪させられ、その試みが壊滅させられてい ったのである。その有様が、あたかも原爆投下という歴史上の出来事にまで重なって見えるようであった。、

そんなこんなの出来事のせいもあってか、日本の総人口の1%に過ぎない教会は、まるで共産主義国にある見せかけの教会と同じように、すっかり生気の抜けた、毒にも薬にもならない見かけ倒しの代物として、申し訳程度に存続しているに過ぎない。そんな生気の抜けた偽物しか残さない、いや、戦争さえも是とする宗主国公認の偽りの教会しか残さないことが、きっと宗主国の望み通りの公式路線だったのであろう。一体、米国のキリスト教とは何なのだろうかと思わされる。クリスチャンを名乗る人々が、聖書に背き、生きた信仰者を焼き殺してでも、真に自主的に活動する自由な教会が生まれる前に、教会とクリスチャンを絶滅させようとする、理解しがたい憎悪、怨念の繰り返しがあることを感じざるを得ない。これは以下で書くネロの精神にも何かしらつながるように思われる。

だが、同時に、日本の読者から大ひんしゅくを買ったというWSJの「原爆投下を神に感謝」にもよく表れているように、実は米国にも、このような暴挙に対する無意識の良心の疼きがずっと存在してきたのだと言える。上記の記事は罪悪感の裏返しである。たとえ無意識であるにせよ、拭い去れない罪悪感に苛まれていればこそ、こんなに年月が経っても、彼らは自ら引き起こした悪夢を忘れることができず、何とか理由をつけては、自分たちは正しいことをしたのだと自分に言い聞かせ続けねば、心が落ち着かず、この日をやり過ごせないのであろう。自らの罪悪感から目を背け、これを弱い者の罪に転嫁し、自分たちの罪を正当化するために、核の脅威でいつまでも日本を脅し続けることが宗主国の願いなのであり、再稼働もその延長線上にあるものではないかと思われてならない。

私は考えるのだが、原発推進•再稼働政策は、まさか日本政府だけが独自に決めた政策ではあるまい。大体、日本政府が独自に決めた政策など果たしてあるものかどうか。3.11以後も原発を日本の基本電源にしようとする日本の原発推進政策は、日本政府だけの願いというより、そもそも米国の強い要請なのではないだろうか。巷でよく言われているように、米国のみならず、ロシアも新興国を中心に原発輸出に積極姿勢であるが、原発推進は、大国が新興国などを属国支配する際に欠かせない手段なのだと見るのが自然ではないかと思う。

宗主国は属国に対して、クリーンで安全なエネルギー政策のために技術を提供すると謳って、国内では世論が背を向け不採算部門となっているような産業技術を新興国に高く売りつける。莫大なコストのかかる巨大なプロジェクトは、引き受けた企業をそれに依存させて意のままに操ることができる点でも支配の手段になりうる。さらにそれは暗黙の「核のボタン」としての役割をも果たしてくれるのだから、宗主国は、原発輸出を成し遂げれば、受け入れた国の生殺与奪の権を握ったも同然である。むろん、日本政府もこれを他の国にやりたいのである。

日本の原発輸出、なぜ推進するの?
THE PAGE 2014.04.25 09:00 から抜粋

日本の原発メーカー各社は、もともと米国企業からの技術導入で事業をスタートさせていますこのうち、三菱はウェスチングハウス社から、東芝と日立は、GE(ゼネラル・エレクトリック)社からそれぞれ技術提供を受けました。現在では米国メーカーと日本メーカーの力関係はほぼ対等となり、東芝は逆にウェスチングハウスを買収するまでになっています。日米には、三菱、東芝ウェスチングハウスグループ、日立、GEの4大メーカーが存在しているわけですが、これにフランスのアレバ社を含めた5社が世界の原発市場における主な事業者となっています。

最近では、ウェスチングハウスから技術提供を受けた韓国メーカーや、ロシアのメーカーがかなりの安値で市場に参入してきています。GEは原発の輸出にそれほど積極的ではありませんから、日本勢と韓国勢、そしてロシア勢が主に受注を争う状況となっています。


このように見ると、原発再稼働はまさか電力供給のために不可欠な措置などではなく、いつでも宗主国が属国にジェノサイドを実行できるぞという脅しなのだと見る方がはるかに自然で納得が行く。そのような脅しと悪意が真の目的でなければ、なぜ電力不足という仮初めの大義名分さえ存在しない時に、これほどまでに故意に民意を踏みにじってまでそれを強行する必要があろうか。これは日本国民の尊厳をわざと傷つけ、貶め、悪しきものと手を切って自由になろうとする人々の心をくじき、意気阻喪させ、心理的に疲弊させ、いつまでも核の恐怖の中に閉じ込めるために行なわれている心理作戦であり、さらにそこには、今更、戦時中の過去の恨みつらみを述べるなよという暗黙の脅しも込められているように感じられる。少なくとも、電力不足という大義名分さえ消失しているのだから、いい加減、再稼働の真の目的は、電力供給などには全くないということに気づくべきだろう。

ここで少しオウム真理教の事件を思い出してみたい。オウムが省庁制を取っていたことを覚えておられるだろうか。また、野菜栽培に使う農薬の製造だと言ってサリン工場を作っていたことを覚えておられるだろうか。両者の製造過程は途中までよく似ていたので、平和利用に見せかけて教団はサリン製造に従事していたのだ。

それから世紀をまたいで、もし当時、あのカルト団体の背後にいた勢力が今も存続していると仮定すれば、その勢力は学ばなかったろうか。わざわざ世間に怪しまれるような新興宗教団体を新しく作り、教祖の下に疑似政府を作るという二度手間に比べれば、本物の霞が関を乗っ取って望む人物を首相に据えた方が話がはるかに早いのにと。農薬に見せかけてちっぽけなサリン工場を作るよりも、平和なエネルギー政策に見せかけて原発を推進する方がはるかに効率が良く、プルトニウムは平和利用と言いながら、いざという時に核兵器の製造にも転用できるので、それがあるだけで核保有に近づく。地下鉄でサリンをまくという小規模な事件のために犯罪者として人生を投げ打ち、教団そのものもその事件で終焉を迎えるという愚かさに比べれば、政府の公式の施策として、「食べて応援」を大々的に推進することで汚染を全国に流布し、特に首都の企業や霞が関には念入りに被災地直産の食材を送りつけておけば、誰からも非難されず、合法的に望みを成し遂げられる。宗教団体に見せかけて外国で武器を非合法に買い付ける危険を冒すことに比べれば、政府を通して正式に武器取引ができるように法改正した方がはるかに効率が良いだろう。

つまり、かつて破壊的カルト団体が人の目を盗んでこっそり準備していたことを、今や政府を乗っ取った日本会議(やその背後にある勢力)が白昼堂々、政府を動かして合法的に公に行っているのだと思えば、非常に分かりやすい。

その上、中国脅威論だの、ロシア脅威論だのと、新たな「脅威」が追加されていくが、お聞きしますが、あなた方が本当に目指しているのは、結局、自国民を敵として殲滅するための人工的なハルマゲドンではないのでしょうね? 米国が中心となって「レフト・ビハインド」の物語を具現化する予定でないでしょうね?

首相の好きな火事のたとえを聞くたびに、思い起こされるのは皇帝ネロの所業である。ネロはローマ帝国による最初のキリスト教徒の大迫害を行った。64年、ローマで大火が起こった。それがどういう原因による火事であったのか、果たして、よく言われるように、ネロが大火をつまらない詩を作るための生きた題材にするために自分で火をつけたのか、あるいは、他の理由から、皇帝自身が謀略として火を放ったのか、原因は定かではない。いずれにせよ、皇帝は出火原因をキリスト教徒の罪になすりつけることに決めた。そこで、クリスチャンに対する大々的なネガティヴ・キャンペーンを行い、それまで世間に知られていなかったキリスト教徒の信仰生活について事実をゆがめた偽の情報を流布し、クリスチャンは人間の生き血を吸い、生肉を食らう野獣のごとき人々であるとの偏見を世間に植えつけ、非クリスチャンの敵愾心を呼び起こし、密告を助長した。ネロは捕らえたキリスト教徒を十分な裁判なしに死刑に処し、猛獣の餌にしたり、十字架にかけたり、松明代わりに燃やすという残酷な方法で処刑した。この大迫害により、使徒ペテロ、パウロも殉教したのだと言われている。

今、何かしら、キリスト教徒を生きたまま焼き殺したネロの精神が、時代を超えてよみがえり、いや、今日まで連綿と続いて、様々な事象の背後に見え隠れしているように思われてならない。政府が真の脅威とみなしているのが、中国やロシアということはあるまい。政府はこの国民をこそ最大の脅威とみなし、粛清することを真の目的としているように思われてならない。なぜなら、国民は政府の罪を知っているからだ。むろん、米国についても同じである。彼らが真に排除したいのは、まさか口で唱えているような「外敵」の脅威ではあるまい。真の目的は、それを口実にして自国民を抑圧し、迫害し、決して自由にさせないことにあるのだ。民意をくじき、わざと大勢の人の嫌がることばかりやって、精神的に疲弊させることも戦略の一つなのである。

もし黙って見ていれば、今、あたかも国外に敵がいるかのように叫んでいる人々が、いずれ何かの事件を起こすために自分の手で最初の火をつけるだろう。そのようにして先の大戦も始まったわけだ。その後、火が燃え上がり、もはや火事を制しきれなくなった彼らは、自ら犯した罪を弱い者に転嫁するために、必ず銃口を国民の胸に向けて来る日が来るだろう。そんなことが起きると分かっていて、誰が成就を許すことができると思いますか。

「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

 しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。

 しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。<略>

 私を憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。

 もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行わなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。
 これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためなのです。」(ヨハネ15:18-25)
 



さて、今日は最後に、歴史の教訓として、ユーロマイダンの実例を少し振り返って終わりたい。

以下の記事でウクライナの政変に少しだけ触れた。かの地では長年かけて「自分たちはロシアに抑圧されて苦しめられてきた被害者であり、弱者だ」という思想が広がった結果、脱ロシア化を成し遂げ、ヨーロッパに接近さえすれば、あらゆる問題が解決に向かい、自分たちが解放されるかのような誤った思想が流布されてきた。だが、こうした脱ロシア化の運動は、本当は、ウクライナの民主化や自立のために起こされたのではなく、彼らを前より悪いさらなる隷従へと導くために、周到に用意されたクーデターへの布石であった。

2013年11月末、キエフでヤヌコーヴィチ政権に反対する市民の大規模デモが始まった。少なくとも、当初は、マイダンの市民デモは平和的なものであった。デモが暴徒化し、マイダンが火に包まれるほどの混乱に至るまでの間、約1か月近くが経過している。この暴徒化は(米欧の支援を受けて)平和なデモ隊の中に計画的に送り込まれたプロ市民、特にナチスと酷似したシンボルを公然と掲げるウクライナ社会民族党を前身とする「スヴォボーダ」などネオナチ極右政党による計画的な仕業だと言われている。いつどのようにデモを煽って暴徒化し、政府の庁舎を占拠すべきか、事前に作戦行動の手順を定めたメモが発見されたという情報もあった。

暴徒化したデモ隊により政府の庁舎が占拠されたのは、2014年1月に入ってからのことである。たとえば、ウクライナ農業政策食糧省の庁舎は、同省のプレスリリースによると、2014年1月24日にデモ隊に占拠された。同月30日に暴徒は破壊した庁舎を明け渡したが、それは単に建物が解放されただけのことであって、本当の占拠、つまり、ネオナチ極右政党支持者らによる政権の奪取というクーデターはほぼ完了していたと見られる。

   

左:農業政策食糧省の庁舎 右:デモ隊により占拠され、破壊された同省の庁舎
(写真の出典はウクライナ農業政策食糧省のサイトより)

というのも、同省のサイトによると、翌2月26日にはまだプリシャジニュク農相が食糧危機問題についてインタビューに答えているが、その翌日の27日には、何の前触れもなく、突然、シュヴァイク氏が農相に就任したとのニュースが発表される。そこには、新大臣就任の理由として、ウクライナ中央議会の決定という他、何の説明もなかった。

   
左:プリシャジニュク氏(元農業政策食糧相) 右:後任のシュヴァイク氏
(出典は同上)
 
インテリらしいプリシャジニュク氏の風貌に比べ、シュヴイク氏はとても政治家には見えず、どちらかと言えば粗野で、大学卒業間近の学生ような幼い顔立ちに驚かされるが、シュヴァイク氏は経歴の上でも、民間の法律事務所の経営等があるのみで、「スヴォボーダ」党での活動以外に、政治家らしい活動歴が全くなかった。農業政策に従事した経験など一切ない。どこからどう見ても、受勲者でもある熟練した前任者を押しのけて、いきなり農相に抜擢されるにふさわしい人物ではなかった。

(さすがにシュヴァイク氏に農相はつとまらなかったのだろう。Wikipedia によると、その後、同氏は2014年7月に500人以上の農民に辞任を求める運動を起こされた上、早くも同年12月で辞任。今夏には在任中の収賄の容疑で刑事告訴された。)

だから、こうしたことはどんなに普通のニュースのように同省のプレスリリースに発表されていようと、読者には、前大臣の首がすげかえられた時点で、同省の歴史の連続性は絶たれ、省全体が全く違う政治勢力に乗っ取られたのだと分かる。ほどなくして、同省のホームページからロシア語版も消えて、ウクライナ語のみとなった。

同じ頃、ウクライナ中央議会に何が起きていたかを見てみると、議長ルィバク氏は、旧暦のクリスマス休暇中の1月8日にはまだヤヌコーヴィチ大統領や、アザロフ首相らと共にペチェルスカ修道院を参拝していた(写真左下)。デモの高まりの中でも、同月半ばまでは議会はほぼ通常通りの仕事をしていた様子が見受けられる。

マイダンの民主化運動に見せかけたネオナチ極右政権のクーデターが完成したのは2月22日、中央議会議長ルィバク氏が辞任(21日)、トゥルチノフ氏が議長に就任し、「(ヤヌコーヴィチ)政権は恥ずべき終焉を迎えた」と宣言。以下の写真で、元議長のルィバク氏の風貌と、どう見てもマフィアにしか見えないトゥルチノフ氏をよく見比べてほしい。

Wikipediaによると、ルィバク氏は、21日にユーロマイダン支持者によって暴行を受け、車に向かって銃で発砲されており、22日にはマイダンの暴徒を逃れてヤヌコーヴィチ大統領がキエフを脱出した。28日にはアザロフ首相も辞任。

この時に発表された法令等を細かく見ていないが、すでに22日の時点で、ファシズムの犯罪を否定したり、それを正当化する意見表明を行うことに対し責任を問うウクライナ刑法の規定を廃止する改正法案が議会に出されていたことも注目に値する。
    
  
写真上 下左)元中央議会議長ルィバク氏 右下)トゥルチノフ氏
(写真の出典:ウクライナ中央議会のサイト

アザロフ元首相の後任となったヤツェニューク氏についても、あまりにも若く、とてもではないが熟練した政治家という風貌ではない。アザロフ元首相に比べると、まるで教師と生徒のようである。こういう人々がたった2ヶ月程度のデモと政変の結果、政権トップの座に就くことができたのは、決して彼らの功績によるのではなかった。まるで人形劇である。だが、その2ヶ月程度で起きた政変のために国が内戦状態に陥ったのである。この結果をもたらすために、彼らとそれを背後で支える勢力は、長年かけてウクライナ人の中でロシアへの嫌悪感を煽り、「ウクライナはロシアに虐げられた弱者」であると主張する偽の人工的な民主化運動を育て上げ、ウクライナの支配勢力をすげかえる政変のために利用したのである。

Wikipediaのヤツェニューク氏の経歴では、彼がかねてからライス氏やオバマ氏など米国政府要人と密接なつながりがあったことが隠し立てなく誇示されている。

  

写真左:アザロフ元首相 Wikipediaより 右)ヤツェニューク首相 AFPニュースより

 
(写真 ヤツェニューク氏と米国との密接なつながり Wikipediaより)


大いなるバビロンへの邁進~己の欲望を神として人命を労働力として使い捨てにし偽りの栄光を築き上げる収容所群島からはエクソダスせよ~

「福島原発の事故はコントロールされている」という首相の嘘で開催権を勝ち取った東京オリンピック。嘘で始まったのだから、嘘で終わる可能性が高い。

原発事故処理という最優先に考えるべき問題を先送りして、全世界を放射能汚染の脅威にさらしながら、平然とその事故を「なかったこと」にし、被災地からより一層、世間の関心を引き離し、もはや被害も復興も否定して無理やり被災地への帰還政策を推し進めた挙句、東京だけがお祭り騒ぎに浮かれよういうのだから、いかがわしさの極致であり、事実を歪曲して騙し取った権利ゆえにもともと返上すべきものである。

だが、2020年までには汚染問題が深刻化して、どうせ開催できないだろうという批判も根強く存在する。海外選手も汚染を恐れてこの国にやって来ない可能性がある。

もともと嘘で始まったものだから、蓋を開けてみれば、嘘ばかりが大噴出する。
 
なんとシンボルとなるエンブレムそのものにまで、盗作疑惑。もうだめだこりゃ、という感じだ。訴訟の行方は不明だが、国立競技場と言い、幸先があまりにも悪すぎる。

「盗作だ」ベルギーのデザイナーが法的措置へ 2020年東京オリンピックのエンブレム 
ハフィントンポスト 2015年07月30日 11時52分 JST


2020年に開催される東京オリンピックのエンブレムについて、ベルギーのデザイナーが「自分のつくったロゴの盗作だ」と訴えて、法的措置を取ることを明らかにした。7月30日、テレビ朝日系のニュース番組「モーニングバード」が報じた。

ベルギー東部のリエージュ劇場のロゴ(左)を制作したオリビエ・ドビさんが、東京オリンピックのエンブレム(右)がデザイン・ロゴともに酷似していると指摘した。ANNの取材に対して彼は、「どんなケースであっても『盗作』と言える。もちろん、何らかの条件が偶然重なることもあるが、(今は)世界のどこにあるものも手に入る時代、疑問を抱かざるを得ない」と話した東京オリンピックの組織委員会では「世界中の商標確認をしており、問題ない」との認識を示しているという。


TとLの文字を組み合わせたエンブレム、リエージュ劇場の場合には意味は明白だが、東京五輪の場合、Lが何を意味するのか定かではない。盗作と主張されても仕方あるまい…。

思い出されるのは、佐村河内守氏や野々村竜太郎議員の騒動だ…。
 
訴訟の行方はともかくとして、これでは、いつから日本人は「他人のものを横領し」「詐称する民族」に成り果てたのだろうか、との批判を浴びても仕方がなかろう。少なくとも、高度経済成長期には、日本人の勤勉さと独創的な発想は世界を瞠目させるくらいの力を持っていた。それが今や、こんな疑惑が生じるほどまでに独創性を失い、劣化してしまったとは。
 
嘘のオンパレードと、何を指摘されても、批判や反対意見には耳を貸さず、「問題ない」の一点張りで、何の責任も取らずに、むしろ被害者面をして自己義を押し通そうとする詐欺師のような人々の一群…。

こうして考えてみると、オリンピックは、決してやって来ない聖霊派クリスチャンの「ユートピア」である「リバイバル」、「俺達万歳!」的な自己陶酔の行事としての大規模集会と同じで、決して実現することのない詐欺の仕掛けなのではないだろうかとの疑問さえ生じて来る。

たとえ開催されても、束の間の夢と引き換えに、残るは巨額の借金。そして、指摘されているように、その準備の間にも、年々、汚染はますます深刻化し、人々がバタバタと倒れ、死んで行く…。

「戦争法案」もまだ参議院を通過していないというのに、今や日本は国土全体がすでに戦争状態と同じ荒廃した有様になっているように感じるのは私だけだろうか。

原爆が投下されなくとも、原発が事故を起こしたので、国土は汚染されて取り返しのないほど脆弱化した。それにも関わらず、政府はかつての大本営発表と同じように、この巨大事故という「敗北」を無視し、中身のないお題目だけの「国土強靭化計画」というマッチョイズムを振りかざして、事実を隠ぺいし、議論をすり替え、国民の前にしらを切り通し、「私たちは勝っている」と見栄を張る。日本が壊滅するまで見栄を張り続けるつもりなのだろうか。

写真の出典:内閣官房
 
 
むなしい名目だけの「国土強靭化計画」をよそに、フクシマの事故による汚染は、日々、「負の絆」に結ばれて日本全国を駆け巡り、「国土脆弱化」をもたらしている。中でも、東京と被災地はとりわけ切っても切れない負の連帯責任の絆で結ばれている。なぜなら、「食べて応援」の政府の施策は、とりわけ東京を直撃しているためであり、東京に密集するビル群にある大企業や官公庁の建物には、必ず、被災地からの産地直送の食材を使用する食堂がある。フクシマとトーキョーはある意味ではコインの表と裏なのだ…。被災地で起きていることはやがて日本全国に蔓延するのであり、とりわけ東京に重い罪の償いが求められる時が来よう。

今、被災地では何が起きているのだろうか。3.11の直後に、被災地にボランティアに入り、関東に戻って来た人たちからよく聞かされたのは、「報道されない被災地の現状がある」ということであった。海外のニュースでは、「震災があっても日本人は秩序正しく行動している」という報道ばかりが注目されたが、実際には、震災直後から被災地では、報道できないような犯罪が多発しており、略奪もあれば、蛮行もあるのだと聞かされた…。

もしも現在、被災地で原因不明の死を遂げる人々が大量に発生していなかったなら、以下のような不気味な施設が設立される必要もなかったであろう。

 死因究明センター開設 福島県立医大 
2015年07月30日木曜日河北新報 ONLINE NEWS

福島県立医大は29日、変死体の死因を特定するための専門のCT(コンピューター断層撮影)機器を備えた死因究明センターの開設式を開き、本格運用を始めた。県立医大によると、現場に医師が出向いて遺体の状況などから死因を見極める方法のほか、CTや解剖といった方法を総合的に扱う施設は全国でも珍しい。 センターには法医学の医師4人を配置。既に試験的運用を始めており、これまでにCTを活用した検査例が約30件あるという。


さて、 ひとたび労働市場へ目を移せば、長引く不況と、アホノミクスによる打撃のせいで、現在の日本は「国体護持」のために国家総動員体制が敷かれた戦時中のような有様となっている。「お国の」対面維持のために年金も底まで供出させられ、労働市場は極みまで破壊されて、婦女子や子供までが労働に駆り出されようとしている…。

下記の記事など、戦中の「学徒動員」そのものに近づいているのではないかと見えてならない。建設業界など、深刻な人手不足に見舞われる業界は、女子中学生の取り込みを図らなければ生き残れないような展望であるらしい。肉体労働などの厳しい業界での重い負担は、女子や子供たちに担わせようという計画なのだ。

日建連/女子小中学生・保護者向け見学会

 【集まれ!けんせつ女子/小町の現場見よう】

  日本建設業連合会(中村満義会長)は、7月下旬から8月にかけての夏休み期間中に、『けんせつ小町』が活躍する工事現場11カ所で女子小・中学生とその保護者向けの見学会を開く。ホームページ(http://www.nikkenren.com/)で参加者の募集を開始した。見学会は国土交通省が後援しており、「“建設業界は男社会”というイメージを打破し、将来の就職先として建設業界を目指す女の子を増やす」とその趣旨を説明している。

  見学会は、7月24日の「(仮称)芝浦工業大学附属豊洲中学高等学校建設工事」(東京都江東区)を皮切りに、東京都内、大阪府内、さいたま市内、千葉県市川市内、福岡市内の現場計11カ所で開催する。各現場20-50人までの参加者を募集する。

  8月以降もけんせつ小町が活躍する現場の見学会は継続し、 現段階では「野村不動産志木市本町計画」 (埼玉県志木市)と「奥村組九州支店社屋・寮新築工事」 (北九州市)での開催を予定している。(以下略)


こんな状況下で、自衛隊を軍隊に昇格し、海外に派兵しようということを政府は目論んでいるわけだが、一体、誰が入隊すると見込んでいるのだろうか。むろん、当然ながら、子供や若者を一番に犠牲にする心づもりなのであろう。そうでなければ、外国人を傭兵に雇うつもりであろうか。
 
しかし、日本企業による海外からの技能実習生への人権を無視した過酷な取り扱いが早くも国際的な批判を浴びている。労働者派遣法改正案を強引に衆議院で採決に持ち込んだように、政府には日本人労働者への待遇を改善する気はまるでなく、日本人の労働力で不足した部分は、移民で補えば良いとしか考えていない。

だが、誰が考えても分かることだが、自国民を大切にしない国がどうして外国人を手厚く保護するだろうか。こんなことでは、どこの外国人がこんな国に移住しようと願うだろうか。移民によって労働力を補おうとする政府の政策は早くも破たんに直面していると言って良い。

外国人技能実習生 その過酷な現実
NHK 国際報道2015 2014年7月11日(金)

日本の労働力不足を補うために制度の拡充が検討されている外国人技能実習制度。人身売買や強制労働につながるケースがあとをたたないとして国連やアメリカなどから長年批判の対象となっている。長時間労働や賃金未払いなど日本での外国人技能実習生のおかれた過酷な実態を取材。制度の問題点と外国人労働者のセーフティー・ネットについて考える。出演:川島進之介(国際部) 
(以下略)


「過酷な現実」などと悠長なことを言っていられる場合ではない。外国人技能実習生は、命を守るために、職場を脱走するしか方法がないほどまでに追い詰められている。将来ある若者を言葉巧みに騙して過酷な業務に従事させて犠牲とし、貧しい国の外国人を安価な労働力として死ぬまでこき使い、異議を唱える者には、解雇や、減給や、各種の懲罰により報復措置に及び、逃げてもどこまでも罰を加えようと追って来る強欲な企業と、これと結託した政府の恐ろしい姿勢が透けて見える。

信徒たちが教団や教会を拡大するために、奉仕や献金の道具としてひたすらすり減らされ、逃げ出せば「救いを失う」と脅かされているキリスト教界と様相が似ている。キリスト教界の有様が正常な信仰と呼べないのと同様、生きるために人権を犠牲にし、良心を売ることを求められ、挙句の果てには死を強要されるような、そんなものは労働とは呼べない。こんな恐ろしい労働市場の仕組みには、近寄るべきでなく、外国人技能実習生も、エクソダスするしかなかろう。

2万5千人失踪、日本人の13倍の過労死、強制労働・人身売買の外国人技能実習生を介護等へ広げる安倍政権

井上伸 | 国家公務員一般労働組合執行委員、国公労連書記、雑誌編集者
 Yahoo ニュース 2015年3月9日 21時2分

日本の外国人技能実習制度については、アメリカからも「2014年人身売買報告書」の中で、労働搾取を目的とする強制労働への人身売買の制度だと批判されています、驚くべき報道が続いています。

「過酷労働、困窮訴え ヤギ盗んで食べたベトナム人技能実習生」
そして、2014年に失踪した外国人技能実習生は過去最多の4,851人となり、この10年間で約2万5千人が失踪し、「多くの実習生が最低賃金水準で稼働
しているが、残業代の未払いなど労働関連法違反は後を絶たない。労働条件の厳しさが失踪増加の背景にあるとみられる」と報道されています。

こんな惨状になっているにもかかわらず、安倍政権は3月6日、外国人技能実習制度の受け入れ期間を最長3年から5年に延長するとともに、受け入れ職種に介護職なども追加する法案を閣議決定しました。この法案が今国会で通れば来年度から実施されることになりますが、そんなことになればさらに惨状が広がると思います。

上の図は、国際研修協力機構(JITCO)のサイトに掲載されている「技能実習生の死亡事故及び労働災害発生状況」の中の「死亡事故の内訳(2013年度)原因別」です。外国人技能実習生の9割は20~30代の若い世代なのに、「脳・心疾患」による死亡が8人もいます。自殺も2人となっています。国際研修協力機構(JITCO)サイトには以下の過労死の事例がアップされています。

早朝、うめき声のような音を聞いた同室の実習生が本人のベッドを確認したところ、布団に血液が付着していたため、消防等に連絡したが、既に心肺停止の状態で死亡が確認(入国後約4カ月の30代の中国人女性)

土曜日早朝、宿舎の布団の中でくも膜下出血により意識を失っているのが発見され、死亡が確認(入国後約33カ月の20代の中国人男性)

本人からの申し出により仕事を休ませていたところ、宿舎のベッドに倒れていたため、病院に搬送したが3日後死亡(入国後約33カ月の20代のベトナム人女性)

上記の事例にもみられるように、20代、30代が過労死しているわけです。(以下省略)


以上のような過酷な労働条件下で、過労死や使い捨てを逃れようと、命を守るために脱走した外国人技能実習生に対し、政府と企業は口座の動きまで監視し、まるで犯罪者のように元警察の特別調査チームを組んで後を追う。いったん、確保した労働力は何が何でも逃がすまいという政府と企業とのすさまじい執念が伝わって来る。

 外国人技能実習生 失踪の実態
NHK WEB NEWS 7月29日 19時50分 瀬古久美子記者

外国人が日本の企業などで働きながら技術を学ぶ「外国人技能実習制度」。発展途上国の人材育成や技術を伝えることが目的の制度ですが、事実上、人手不足の業種を支える労働力として、現在、全国で16万人以上が工場や農業、漁業、建設現場などで働いています。

ところが、いま実習生が、実習先の企業から突然、姿を消し、失踪するケースが急増しています。その数は、去年4800人余り、5年前に比べて4倍近くに上っているのです相次ぐ失踪の実態とその背景について、取材班の1人、社会部・瀬古久美子記者が解説します。


失踪実習生を追跡

7月末の夜、私たちは、失踪した外国人技能実習生を追跡する民間の特別調査チームに同行して、茨城県の住宅街にある飲食店に向かいました。この飲食店には、夜になると失踪した実習生とみられる外国人が遠方から集まってくるという情報が寄せられていました。特別調査チームのメンバーは、元入国管理局職員や元警察官。情報が確認できれば入国管理局に通報します。

この日は、外国人がオートバイやタクシーで次々と集まってくる様子を遠目に監視していました。 この調査チームを作ったのは、実習生を企業などに紹介している「監理団体」です。 「監理団体」は来日した実習生をまず受け入れる民間の団体で、実習生は、監理団体から紹介された企業などで働く仕組みになっています。ところが、いま実習先の企業からの失踪が相次ぎ、企業からの信頼を失いかねないとして、独自に調査チームを作って行方を突き止めようとしているのです。 私たちがある企業に取材に訪れた際には、実習生に逃げられた企業からの情報をもとに、元実習生の郵便貯金の口座の動きを追跡し、本国に180万円余りを送金した形跡を見つけていました。


逃げられた企業は


調査チームは実習生に逃げられた企業を訪れ、聞き取りやアドバイスも行っています。関東地方の板金加工の会社では、実習を始めて2年半で、タイ人の実習生が突然姿を消しました。この会社の社長は、「時間をかけて一人前にしているのにその途中で失踪され、裏切られた気持ちだ」と話していました。

調査チームの聞き取りに対して社長は、「失踪の直前、仕事に集中していないようすが見られた」と説明しました。この会社では、ほかにも6人のタイ人の実習生を雇っていて、調査チームのメンバーは、これ以上、失踪者が出ないよう「知らない人間と頻繁に携帯電話などでやり取りしているようなことがあれば連絡をしてほしい」と話していました。(以下略)

 
これを読むと、外国人技能実習生については、「管理団体」がちょうど「人材派遣会社」のような役割を果たしていることが分かるが、「管理団体」のしていることは「人材派遣会社」以上に悪質である。自らが紹介した実習生に途中で逃げ出されると信用を失い面子を潰されて困ると考える「管理団体」は、民間の団体であるにも関わらず、元警察官や元入国管理局職員などを集めて、私立探偵のような調査チームを作り、脱走した実習生の行動を監視・追跡しているのだという。

さらに、会社の方でも、これ以上の脱走者を出さないために、職場で実習生が「本当に仕事に集中しているか」、「外部の人間と不明な連絡を取ったりしていないか」など、脱走につながる不審な行動がないかどうか、実習生の行動を常時、監視している。万一、脱走されてしまった場合にも、追跡ができるよう、企業が実習生の口座の管理ができるような仕組みを作っている様子も伺える。(雇用時にパスポートや通帳を企業が預かるなどして、脱走を防ぐ仕組みを作っていると推測される。)そして、このような問題があることを知りながら、政府はこれを見殺しにして外国人技能実習制度を拡大しようとしているのだ。

これに対しては、「真実を探すブログ」が、外国人技能実習生には人権すら全く認められていないのかと糾弾している。
【奴隷】脱走する外国人技能実習生が相次ぐ!元警察官らの特別調査チームが追跡!口座の動きも把握!日本の好印象は激減!
2015.07.30 15:00 から抜粋

NHKの記事を読むと分かりますが、口座の情報を勝手に把握したりと、外国人技能実習生の人権は完全に消えていました。嫌な仕事ならば、辞める自由は誰にでもあります。それにも関わらず、元警察官らの特別チームに追われるというのはあまりにも酷いです。

本当に、これでは、「人さらい」や「人身売買」とほとんど変わらないという批判を免れられず、国際社会からの理解を得ることは不可能であろう。このような外国人実習生の置かれている実態は「女郎屋」や「タコ部屋」と揶揄されても仕方がないほど劣悪なものである。戦前戦中に、業者と軍が一体となって、貧しい農村の若い娘たちに「酌婦」や「踊り子」の仕事だなどと言い聞かせて騙し、従軍慰安婦として連行したやり方と何が違うのか。
 
おそらく、日本人は礼儀正しい国民で、人を大切にするので、住み良い国であると外国人の若者に宣伝し、仕事は簡単で楽なもので、技術も身に付き、将来も安定した職業につけるかのように言葉巧みに誘って、彼らを騙すがごとくに、安価な労働力として日本へ連れてきている現状があるのだろう。その後、過酷な労働と判明して辞めさせてほしいと実習生から申し出があっても、研修にかかったコストなどを口実にして辞職を認めず、「いったん確保した人材はうちの”商品”であるから、絶対に逃がさない」と、逃げようとすれば、どこまでも後を追って犯罪者のように徹底的に制裁を加える。

これでは、技能実習どころか、強制収容所や刑務所と変わりない実態と言われて仕方がない。

「日本の印象良かった」97%→来日後58%に激減 ベトナム人技能実習生調査 龍谷大

産経 WEST 2015.7.29 09:05更新 から抜粋


アンケート回答さえ困難…「雇用先に知られれば報復が…」


だが、過酷な扱いをされているのは外国人技能実習生だけではない。長引く不況を口実に低賃金で過酷な業務に従事させられている日本人も同じである。非正規雇用の労働条件の悪さもさることながら、特に、賃金と引き換えに命まで差し出さなければならない原発労働者がその筆頭である。

このような恐ろしい犠牲の上に保たれている日本はすでにまともな国ではない。「国家総動員体制」「強制労働収容所群島」になりつつある。

そして、その流れは必ず日本全体を覆うだろう。犠牲となるのが被災者だけ、子供や若者だけ、貧しい人々だけ、外国人だけ、社会的弱者だけということは絶対にない。犠牲は必ず全体に及ぶ時が来る。特権的な立場にいると思われた人々も巻き込まれる日が来る。
 
今、山本太郎氏の国会での質疑が話題を呼んでいるが、これを見ると、確かに、多くの人々が指摘しているように、何かが明らかに変わったという印象を受ける。ダビデがゴリアテの前に出て行った時のように、最初は嘲笑的だった空気が、最後には凍てつき、緊張に包まれている。追い込まれ、孤立しているのは誰か、それが明確に読み取れる。


これまでは大企業と公務員だけは手厚く保護され、その特権を誇ってきたが、次第に、それさえおぼつかない有様になりつつある。「安保法制を取り巻く厳しい状況」もあって、霞が関が得意げに導入した「夕活」なるものも、名目倒れに終わりそうな勢いだ(もともと「不夜城」と呼ばれた霞が関だから、「夕活」など似合わないという意見もあろうかと思うが…)。

だが、何よりも、安倍政権の政策の弊害が厳しく国民から追及されるに及んで、「トカゲのしっぽ切り」として安倍氏が身内の官僚やら大臣やらをも切り捨てる策を進めざるを得なくなっているので、身内同士の罪の擦り付け合いが起きているばかりか、自らの悲願である安保法制さえ実現できれば、自分の「お友達」を含め、誰を犠牲にし切り捨てても平気であるという安倍氏の冷酷な人格の特徴が、今や万人に知れ渡りつつあるのだと言えよう。

メディアも官僚も、この「宰相」にはどんなに忠実に仕えても、ご機嫌次第でいつ梯子を外されるか分からないことをいい加減に学ぶべきであろう。(悪魔の特徴は嘘と使い捨てであるから、悪魔に仕えても約束された報酬は当然、与えられない。)


本当の「脅威」は誰なのか、もはや隠しおおせることはできないところまで来ている。中国や北朝鮮のミサイルが「脅威」なのではない。フクシマの原発事故から始まって、労働関係法の改悪、社会保障の改悪、等々により、国民全体を、国全体を絶えず脅威にさらし、基本的人権も否定しながら、その横暴を自覚しようともせず、あらゆる問題が起きているのに責任も取ろうとせずに、さらなる脅威を国中に蔓延させ、自らの政策に反対する国民を悪魔扱いするがごとくに悪者にして制裁を加え、自ら火をつけた火事を外敵の仕業に見せかけようとしている人たちこそ、真の脅威であり、真に責任を問われ、追及されるべきであることがますます明白になって来たと言えよう。

口座の動きまで監視され、犯罪者のように追跡されなければならないのは、職場を脱走した外国人技能実習生ではあるまい(マイナンバーが導入されて口座と紐付けられれば、日本国民もこうして監視と追跡の対象となる)。人権も無視して、生きた人間を果てしなく己の利益と欲望をかなえるための道具として使い果たす強欲な企業の経営者と、その欲望を許し助長してきた政府こそ、追及され、糾弾されるべきなのだ。その事実が、もはや隠せないところまで露呈してきたのを感じる。

バビロンは必ず倒れる。その嘘と虚栄は必ず暴かれ、ふさわしい罰が下される時が来る。だが、何がバビロンであるか分かったならば、その倒壊に巻き込まれないために、いち早くその体系から離れるのが賢明であろう。命と健全な生き方を守るために、そのような体系からはエクソダスすべきである。
 
 
さて、オリンピックという最初の話題に戻ろう。日本は今、あらゆる面から見て、戦中と様子が似てきているように思うが、2020年オリンピックも1940年に返上された幻の東京オリンピックと様相が酷似しているように感じられる。以下の引用で締めくくりたい。

 
幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで 
(講談社BOOK倶楽部)発売日 : 2014年01月10日 定価 : 本体960円(税別) 橋本 一夫 (著)

東京がオリンピック招致に成功したのは、今回の2020年で実は3回目である。1940年(昭和15年)に開催が予定されていた第12回オリンピック東京大会は、開催都市が自ら大会を返上した史上唯一のケースとなり、「幻のオリンピック」と呼ばれることとなった。

日本国内でも当初から「皇紀2600年記念」の国家行事として構想されたこの大会は、激しい誘致合戦に勝つためのヒトラーやムソリーニとの取り引き満洲事変と国連脱退に対する厳しい国際世論拡大する日中戦争のなかで起こり始めるボイコットの動きなど、最初から戦争と政治に振り回されていた。また、開催しても「満州国」は参加できるのか、天皇の開会宣言は可能なのか、など問題山積みのまま、準備は遅れに遅れていた。そんななか、招致に尽力したIOC委員・副島道正は、あえて「返上やむなし」と腹を決める――。

関東大震災からの復興をアピールし、名乗りを上げてからわずか5年で招致に成功しながら、返上に追い込まれるまでの経緯と関係者の苦闘を、長くスポーツ報道に携わった著者が描き出す。

『幻の東京オリンピック』(1994年・日本放送出版協会刊)の文庫化。

第一章 オリンピックを東京に―市長永田秀次郎の夢
紀元二千六百年を記念して/腰の重い体育協会/ロサンゼルスの青い空/満州国は参加できるのか/ムソリーニの好意/オスロ総会の舞台裏

第二章 招致実現に向けて―ヒトラーも協力
ベルリン大会を前に/IOC会長の変心/東京招致に成功/ナチス・オリンピック/日本選手団騒動

第三章 戦火ただようなかで―問題山積の開催準備
難航した組織委員会の発足/テレビ中継をめざして/メーンスタジアムはどこに日中戦争勃発/対立と苦悩の組織委員会/四面楚歌のカイロ総会

第四章 オリンピックの火は消えた―ついに大会を返上
雄大な聖火リレー計画/着工できない競技場/東京大会ボイコットへ/国策に敗れたオリンピック/空白の祝祭

学術文庫版のあとがき

 


7.1クーデターと、主権在民を否定する自民党の憲法改正案について①

 いよいよ、昨年夏の集団的自衛権の行使容認を認めた安倍政権による閣議決定が、クーデターに相当することが世間の一般常識として浸透した。今まで気づかなかった多くの人々が、現政権が「羊の皮をかぶった狼」であり、日本国という家を内側から破壊する強盗であることに気づいて来たのだと言える。

だが、安倍氏の説明の自己矛盾や、現政権の物事の進め方のあまりの稚拙さに、非難の声を上げることが早くも馬鹿らしく感じられる人々も登場して来ているようだ。そんなことでは日本人は忘れっぽいと揶揄されるのも仕方がないであろう。

批判すべきは安倍氏個人や現政権ではなく、その背後にある理念である。この点を見間違えることが、最も議論をむなしいものとしてしまう。
 
今、必要なのは、彼らの目指している理念がどんなものであるかを明るみに出し、その計画を糾弾し、打破し、拒否することである。彼らには日本をどのように改造するかについて確たる目標がある。

この目的が実現された時に最も恐ろしい時代が来る。

憲法が改正されれば、やってくるのは真の独裁政治、基本的人権が憲法によっても保障されない恐怖政治であり、戒厳令下の統治である。

集団的自衛権を認め、総仕上げとして憲法を改正すれば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団も設立できなかったカルト監視機構を国単位で認めるのと同じ恐ろしい状態が発生するのである。

これは事実上の国民から政府への無条件の白紙委任となる。その先に待っているのは、収奪と、密告と、粛清と、告訴や裁判が満ち溢れ、国民同士が敵対し、「お上」が絶大な権威を握って国民を脅かす疑心暗鬼に満ちた恐怖政治である。基本的人権などというものは、もはやないに等しい。

しかも、こうした理念の背後にあるのは、グノーシス主義である。

 「日の下に新しいことはない」と聖書の言うとおり、自民党の憲法改正案も、今の時代になって初めて登場して来たものではない。歴史を振り返れば、同様の恐ろしい案は何度も登場して来ていた。悪魔的計画というものは、どれもこれも基本理念が一致している。

だから、過去に学ぶことにより、私たちがこれから起きようとしていることが何であるかを知ることは十分に可能である。泥棒が来ると分かっている時に、「戸締り」をしない愚か者はいないが、今、本当に「戸締り」が必要なのは、他国の脅威に対してではないのだ。

すでに、日本国は玄関のカギを何度も壊されかけていることに気づく必要がある。それは他国からの攻撃によってではなく、この国を乗っ取った内なる政権によって内側からなされた破壊行為である。玄関のドアが壊れてしまえば、誰でも入り放題になるので、その結果、外敵の侵入ということも起こるかもしれないが、それは結果論に過ぎない。

繰り返すが、泥棒は国の外にいるのではなく、内側にいる人々によってこの国の基本理念が破壊されているのである。自民党の憲法改正案は、まさに日本のすべての個人の家の玄関のカギである主権在民、そして基本的人権の概念を決定的に破壊する行為となる。その蛮行を隠し、これを外敵の脅威にすりかえて責任転嫁するためにこそ、今、中国への脅威論がしきりに煽り立てられているだけである。

これから、複数回に分けて、この憲法改正草案がどれほど恐ろしいものであるかについて、書いていきたい。

自民党憲法改正草案全文 


「7・1クーデター」:

2015年7月22日  東京新聞


 何かが壊れた-。昨年七月一日に集団的自衛権の行使を認める閣議決定がなされたとき、そう感じた人も多いのではないか。私は当時、ある言論誌に「政治的なクーデターだ」と書いた。歴代内閣が憲法九条のもとではできないと約束してきたのに、「解釈改憲」により、それを破ったのだから…。

 ほぼ一年たって、憲法学者の石川健治東大教授と話をしたとき、それに及んだ。石川教授も「法学的にはクーデターだったと思っています」と語った。石川教授によれば、国民もしくは大本の規範は動かないまま、政府レベルで法秩序の連続性の破壊が起こった場合を、法学的にはクーデターという。

 「政府が国民なり外国に対して約束したことを破るためには、より上位の規範に則(のっと)った、ふさわしい手続きによるのでなければなりません。国民投票や、それに相当する手続きが必要だったはずです。それを普通の閣議決定で決めてしまいました。法学的には『法の破壊』がなされたといいます。クーデターとは『法の破壊』の一種なのです」

 自分が契約したのだから、自分が勝手に契約を破っていい-。そんな無法が契約社会で通用するはずがない。「合意は拘束する」というルールが破られたのだ。

 何かが壊れたと感じた、あの出来事は「7・1クーデター」と呼んでいいのではないだろうか。 (桐山桂一)


 <つづく>kenpoKaiakuLogo.jpg