忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑯

⑤ Dr.LukeのKFC(Kingdom fellowship church)の理念の異端性(続-5)

・キリストの十字架によらず、神秘主義体験を通して、自力で神に到達したと豪語するDr.LukeとKFC

さて、これまで、偽りの教えの特徴が、人を聖書の神の御言葉に従って歩ませるのではなく、自己の感情や感覚に従って歩ませようとするものであり、そのためならば、悪霊は魂の領域に偽物の霊的経験を作り出すことも行い、偽りの神秘体験をあたかも神や聖霊から来るものであるかのように思い込ませて信者を欺く、ということを見て来た。

さらに、ペンテコステ・カリスマ運動が、そのように信者が自ら味わう神秘体験を「神との交わり」だと思い込むことによって、信者が聖霊によらず、「異なる霊」の導きに従い、キリストの十字架を介さずに、あたかも自力で神との合一に達し得たかのように思い込む偽りの「疑似霊的運動」である、ということを見て来た。

グノーシス主義とは、もともとは悪魔が人類を欺いて、人間が神の御言葉に背き、自己の感覚に従って、事の是非を勝手に判断し、自分の欲望に従って生きることを通して、「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と、人類が神以上の存在になれるかのように教えた欺きから始まっている。

そこで、悪魔に由来する偽りの教えはすべて例外なく、人間が「神のようにな」ることを最終目的としていると言って良い。

むろん、聖書は、人間が神に至る道はただ一つ、十字架を経られたキリストにしかなく、この方を介さずに神に受け入れられる者は誰一人としていないことを教えている。しかし、偽りの教えはすべて、キリストを介さずに(たとえキリストの名を掲げていたとしても、キリストの概念を歪曲することによって、人を救う力のない偽りのキリストを作り出し)、人が生まれ持った自己の能力を刺激・啓発することによって、自力で神に至ることができるかのように教える。

Dr.Lukeは、すでに確認したように、霊界との交信によって、正体不明の「霊の波動」に耳を傾け、無意味な音声の羅列に過ぎない偽物の「異言」を「神のことば」とみなし、これを授かったことにより、自分たち(Dr.Luke及びKFC)は「神である」と主張する。

ちょうど筆者がこの記事を書いている最中にも、自己の神格化という恐るべき罪を正当化するために、Dr.Lukeは新たなブログ記事で次のように述べている。(エロヒムとは「神々」の意。)
 

あなたがたはエロヒムだ!(Dr.Lukeの2016年07月04日の記事から抜粋)

今週のメッセはいわゆるキリスト教(特にニッポンキリスト教)の神学オツムにはかなり刺激的だと思う。あるいは挑発的か。われわれの真のアイデンティティーに覚醒せよ! われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである! WOW!

ニッポンキリスト教や英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!エロヒム・ヤハヴェはエロヒムの会議で裁定するのだから。知ろうとせず、闇の中を行き来する、ことのないように!

【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。
 「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」
彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
わたしは言った/「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。
しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。
神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。-Ps 82:1-8


以上のDr.Lukeの告白は、同氏が受けたのがまさに人類をそそのかした悪魔から来る反キリストの偽りの霊、人間の堕落した自己を神格化する自己栄化の霊であることを何よりもよく物語っている。

信じがたいことに、以上の記事には一言も、キリストの御名が登場しておらず、贖いの十字架もない。そして、Dr.Luke及びKFCが、自分たちが「新創造」とされたとする根拠は、旧約聖書に求められているのである。

以下の信者の誰もになじみ深い御言葉は、彼らの思考の中で、どこへ消え去ったのであろうか。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

キリスト者が新創造とされる根拠は、この御言葉の通り、十字架の死と復活を経られたキリスト以外にはない。

だが、Dr.Lukeの言説からは最も肝心なキリストが消え失せている。そして、「御霊はわたし(=イエス)の栄光を現します。わたし(=イエス)のものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16:14)と聖書が述べているのに、同氏は主イエス・キリストの御名にすら言及せず、その告白は、イエスの栄光を全く現していない。

そうしたことからも、「われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである!」とDr.Lukeが述べる根拠が、キリストにはないこと、同氏を導いている霊が、反キリストの霊であることが明白である。

キリストの十字架以外のものによって、人が新創造に達しうるかのような教えは、ことごとく偽りだからである。

むろん、このような恐るべき自己の神格化は、長い時間の積み重ねの中で起きることであって、サンダー・シングだけが原因で生じたものではない。

空中にどれほど病原菌があっても、健康な人がそれに感染しないのと同様、異端の教えも、それを受け入れる素地が心にない人にとっては脅威とはならない。異端の教えに感染するのは、本人の心の中にそれを培養できる一定の条件が整っている人だけである。そして、その土壌は一夜にして形成されるものではない。

サンダー・シングも、ペンテコステ運動も、おそらく、Dr.Lukeがこれまでに受け入れて来た偽りの一端でしかなく、自己の神格化という同氏の発想の基礎は、ローカルチャーチの時代か、あるいはもっと以前から存在していたものと考えられる。

さて、話を戻せば、すでに述べた通り、Dr.Lukeが自己の神格化を正当化するために引用している詩編も、文脈が歪曲されており、Dr.LukeやKFCが自分たちを「神々である」とみなす根拠とは全くならない。それどころか、それはむしろ、彼らのように、自らを神々とみなして高慢になっている者たちを辱める文脈で書かれたものなのである。

この詩編は、それが書かれた当時のイスラエルで、賄賂を取って正義と真実を曲げて、貧しい者たちを不利に陥れる不正な裁きを行いながら、自分たちは「神々である」と誇っていた不義なる裁判官らを罪に定める文脈で書かれたものである。そして、主イエスも同じように、地上におられた当時、自分たちは律法を完全に守っている立派な教師なので、通常の信者たちの及ばない高みに達している神聖な存在であると考えて自己義認し、救い主を否定して、人々に自分への尊敬を要求していたユダヤ教の聖職者らを辱めるために、この詩編を引用されたのである。

エロヒム・ヤハヴェはエロヒムの会議で裁定する」(=「神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。」)というくだりは、「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」(Ⅰペテロ4:17)との御言葉とあまり意味が変わらない。

つまり、いつの時代にも、神の裁きは、「我々は神の家にいて、最も神に近い存在であり、神と一つであるから、従って神々のようなものだ」と、自分を誇り、他の信者を見下している者たちを筆頭として行われるのである。自分こそ最も神に近く、他の信者とは別格だと考えて高慢に陥っている者たちを先頭に、神の裁きの御前に立たされることになり、そこで自らの不正な行いの数々を咎められるのである。

なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」(Ⅰペテロ4:17)

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:9-14)

そこで、神聖な会議の只中で、神の裁きの対象となっている者たちとは、まさに「われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである!」などと叫び、自分たちを「神々」であるとみなし、他の信者を押しのけて、まことの神ご自身とその御言葉までも退けながら、自己を神と同一視している者たちなのである。

「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」


この文面も、KFCにそのままそっくり当てはまる。Dr.Lukeは自らの罪を覆い隠すためならば、不正な裁判を起こすことも厭わず、自分に有利な裁きをさせて、真実と正義を曲げた。そのような行動は、自分に逆らう者たちに対しては容赦なく濡れ衣を着せ、恫喝裁判を起こし、教会や信者を敵に回しながら、無差別に迫害して来た村上密氏率いるカルト被害者救済活動のような、神に逆らう者たちの活動と一体、何の違いがあろうか。

ところが、彼らよりももっと悪いことには、Dr.Lukeは表向きには、カルト被害者救済活動や、キリスト教界と一線を画し、自分は彼らとは全く異なる信仰的立場に立って、彼らよりも優れて真理を知っているかのように振る舞いながら、水面下ではカルト被害者救済活動の支持者や、現役のキリスト教界の信者らと公然と手を結び、彼らと結託して、無実の信者を陥れる計画を練って来たのである。カルト被害者救済活動が弱者を食い物にして成立しているように、KFCもまた、寄る辺ない者たちを見下し、踏みつけにして、自分たちの栄光を築き上げる道具として利用して来たのである。そうでありながら、一体、どんな理屈で、彼らがキリスト教界を非難できるのだろうか?

いつまでこうした連中は不法と搾取に頼り、己の栄光のみを求め続けて神に逆らうのであろうか。神は彼らの不正をすべて覚えておられ、必ず彼らに報復される。そして残忍な彼らの手から、苦しむ者を救い出される。

そこで、「彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。」という非難も、ニッポンキリスト教界ではなく、まさに霊的盲目に陥った高慢な人々(ここではDr.LukeとKFC)に当てはまる。

さらに、「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。」という御言葉も、Dr.LukeやKFCのように、己を神以上に高く掲げる高慢な罪人らに対する文字通りの死の宣告なのである。

君侯のように、いっせいに没落する」という訳は、「君主たちのひとりのように倒れよう」という新改訳よりもより厳しい響きである。御言葉を否定して、闇の中を歩いている者たちに、滅びは、盗人のように突如として襲いかかるのである。

「人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」(Ⅰテサロニケ5:3)

従って、Dr.Lukeがどんなに聖書の文脈をさかさまにしてその意味を歪曲しようと試みたとしても、この詩編は彼らを「神々」として持ち上げる根拠とはならず、また、そこにある滅びの宣告も、ニッポンキリスト教界ではなく、彼ら自身に向けられるものなのである。

このような御言葉を引用した以上、その報いは、必ず彼ら自身に実際に及ぶことになるだろう。それは霊的法則性であるから、変えようがない。ただ一つこの報いを逃れる道は、悔い改めてまことの神に立ち返ることだけであるが、ニッポンキリスト教界への憎しみを放棄することが、果たしてDr.Lukeにできるだろうか。病もここまで進行すると、後戻りは不可能に思われてならない。すでに述べた通り、彼らをここまで霊的盲目に陥れられたのは、神ご自身であると考えられ、それは真理を喜ばず、悪を喜んでいた者たちが悔い改めて癒されることなく、裁かれるためなのである。

「この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、
 自分の心で悟り、
 立ち返って、いやされることのないために。」(イザヤ6:10)

なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:10-12)



・キリスト教界に対する憎しみと被害者意識による連帯 KFCとアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の同化と、彼らの「東洋的な福音への回帰」

それにしても、Dr.Lukeのニッポンキリスト教界に対する絶え間ない侮蔑・嘲笑・憎しみが、ついに時至って、聖書の御言葉と、キリスト教そのもの、神ご自身に対する挑戦・敵対へと変わりつつあるのは恐ろしいことである。

ニッポンキリスト教や英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!」というDr.Lukeの言葉は、西欧キリスト教に幻滅し、靴の塵を払い落としてアジアの国々へ向かったサンダー・シングの姿とほぼ重なる。サンダー・シングは西欧キリスト教を拒んだだけでなく、それを機に、御言葉の二分性を否定して、「東洋的な愛と赦しの母性的受容の福音」を捏造したのであるが、Dr.LukeとKFCが「英語圏キリスト教」から離脱して向かう先も、サンダー・シングと同じように、「東洋的な福音へ回帰する」ことだと思われてならない。

(カタカナ英語を振りかざすことで、先駆的なイメージを演出しようとして来たDr.Lukeが、「英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!」と主張するのは、正直に言って、可笑しいほどの自己矛盾であり、そのように主張するならば、まずは不自然なカタカナ英語を捨てて、聖書の引用も、英語以外の言語にすれば良いだろう。

思い出されるのは、筆者が初めてDr.Lukeと面会した際に、同氏がキリスト教徒というよりも、禅寺の住職に極めて近いという印象を受けたことである。"Pastor"よりも、むしろ「坊主」と呼んだ方がしっくりくるような風貌ゆえであったが、これも一種の予感だったのであろうか。)

だが、むろん、当然のことであるが、「東洋的な福音」などというものは、実際には存在しない。福音には西も東もなく、英語圏も非英語圏もなく、ただ一つ同じ聖書が存在するだけである。もしあえて東洋的な福音というものがあると仮定するならば、それは、ペンテコステ運動や、サンダー・シングの教えのように、東洋的神秘主義とキリスト教の混合としてのバビロン宗教だけなのである。

だが、Dr.Lukeにとっては、ニッポンキリスト教界を踏みつけにし、これに対して勝ち誇ることさえできれば、何を利用しても構わないのであろう。同氏にとっては、伝統的なキリスト教徒よりも優位に立つことだけが、すべての目的となってしまっているのである。

このようにキリスト教界をどこまでも敵とみなす考え方は、キリスト教界の不祥事を次々と探し出しては、これを告発することを生業として来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、カルト被害者救済活動の支持者と根本的な共通性・親和性を持つものである。

このような現象が起きるのは、彼らの心に巣くう闇であるキリスト教に対する憎しみと被害者意識赦せない思いに悪霊がつけ込んだことにより、それがキリスト教そのものへの敵意と憎しみに発展し、最終的には、聖書の神ご自身に対する反逆へと発展しつつあるからに他ならない。

つまり、Dr.Lukeや、カルト被害者救済活動の支持者らを、キリスト教界に対する敵対行動に駆り立てているものは、キリスト教そのものに対する彼らの被害者意識なのであり、こうした人々に共通する被害者意識の一端を、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信者のcandy氏の記事にも見ることができる。

すでに記事でも書いたように、2010年の時点で、candy氏は未信者の夫と自分自身を、迫害されているイエスになぞらえて、キリストと同一視する記述をブログに記している。すなわち、主イエスが彼女に向かって(彼女の夫を指して)「私のために祈っていただけませんか」と懇願されたと述べて、彼女は夫とキリストを同一視し、それによって信者と不信者の区別、神と人との区別をうやむやにし、かつ、キリストを自分自身よりも下に置くのである。
 

主と一つ (candy氏のブログ「十字架の恵みが溢れて」から抜粋)
 2010.11.18 Thursday  から抜粋

 サウロは主の弟子たちを脅迫し、迫害し、男も女も縛り上げ、エルサレムに引いてくるためにダマスコに向かっていた。
 その途中の出来事だった。
 このときはすでにイエスご自身はこの地上にはおられなかった。でも主がサウロに現れておっしゃったことは、
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と語られた
「なぜわたしを信じる者たちを迫害するのか」とは言われなかった。
「なぜわ・た・し・を迫害するのか」と仰せられたのです。

 この箇所を読むたびに、思い出すことがある。
 それは主人の闘病中に語ってくださった主の言葉を忘れることができない。
 初めて外来での抗がん剤を投与する日、主人を送ったあと、病院の駐車場に向かっているその時だった。

 主の御名を呼び求めながら歩いていると
 「私のために祈っていただけませんか」
 という御声を感じた。
 
 私はその御声を聞くと同時に、それが主人のことであることがわかった主は、主人のことを祈るように言われたのではなく、
 私のために祈って欲しい・・と語られたのだ。

 私は・・・胸がいっぱいになって言葉を失い、驚きと共に涙がどっと溢れ出た。
 それほどに、主はご自身と、信じる者とを一つとしてくださっている。主の中で区別などないほどに
 ひとつとしてくださっているのだ。
 あなたがたはキリストのからだであって、
 ひとりひとりは各器官なのです。
 第一コリント12:27
 
主の深い愛を褒め称えます。
詩篇の歌を持って褒め称えます(以下略)


ここに、「主の中で区別などないほどにひとつとしてくださっているのだ。」と書かれているように、ここでは、神の聖なるものと、汚れたものとの区別が事実上、なくなっており、人間がキリストと同一視されて、神と人との区別までが消え失せている。

こうした考えは、ちょうどサンダー・シングとウォッチマン・ニーの鉄と火のたとえ話のように、神と人間とが親密に「混じり合う」のみならず、もはや「区別などないほどに一つ」となって、神と人との境界線まで消え失せて、信仰がなくともまるで人がそのまま神であるかのように神格化されて行くのである。

また、そこでは、「御声を感じた」とあるように、五感に訴えかける感覚体験が強調されるが、このように、第三者による客観的に立証が全く不可能な個人的な幻や神秘体験を信仰の証であるかのように強調することは、ペンテコステ運動の大きな特徴である。

さらに、この記事に限らず、ペンテコステ運動に関わる信者たちの告白には、不自然で大げさすぎる感情表現が目立つ。以上で挙げたDr.Lukeの記事もそうなのであるが、その不自然な抑揚から、彼らを突き動かしているものが、冷静な思考ではなく、自分を熱狂させてくれる感情と感覚の刺激であることが、どの記事を読んでも、すぐに分かるのである。

このように大袈裟な感情表現を用いて、絶えざる熱狂と不自然な感動の涙に明け暮れ、絶えず自分の気分と感情を高揚させてくれる魂的・肉体的な刺激を求めずにいられない中毒患者のような症状も、ペンテコステ運動に関わる信者に特徴的である。

こうした大袈裟な感情表現は一見、「神」を口実にして、信仰の証のような形式を取ってはいるが、実際にはすべて自己の満足のためになされるものであり、流される涙も、熱狂も、全て自己のためである。Dr.Lukeは自分たちが「神々である」と言って、神以上に自分自身を高く掲げて熱狂し、candy氏はキリストが彼女に現れて、彼女の前でひざをかがめて(夫を指して自分のために祈って欲しいと)懇願されたとして、自分(と夫)を神に等しい者として掲げながら、自分のために感動の涙を流すのである。

こうした自己陶酔的な告白には、常にある種の自作自演的・作為的な印象がつきもので、不自然な印象が拭い去れない。何よりも、こうした自己陶酔的な感動や熱狂は、彼らの実年齢に照らし合わせて、あり得ないほどに子供じみているという印象を受けざるを得ない。10代の少年少女ではなく、それなりの年齢に達しようとしている壮年の大人が、これほど子供じみた一方的な熱狂に周りもわきまえずに没頭し、自画自賛しながら、一方的な涙に明け暮れたり、あるいは熱狂の雄叫びをあげる様子は、極めて奇妙かつ不自然、そして不気味な印象を与える。なぜペンテコステ運動の信者らには、年齢相応の落ち着きが全く見られず、絶えず自己を中心とした軽薄な浮かれ話しか話す話題がなく、自分がいかに満たされたかという体験だけで、年がら年中自画自賛にふけっていられるのであろうか。その幼児化と言っても差し支えない自分への熱中こそが、彼らを突き動かしている衝動が誤っていることの一つの明白な証拠だと言えるのではないか。

ペンテコステ・カリスマ運動が信者を感情と感覚の刺激にばかり駆り立て、落ち着いてものを考えさせないせいで、この運動に関わった信者らの知的成長が遅れるということは、十分にあり得る。人は他者の言葉の受け売りばかりをどれほど繰り返し、あるいは、刺激的な体験を受け続けても、そんなことでは、人格が成長することはない。人は自らものを考え、自らの判断で試行錯誤しながら、逆境を切り抜けて前進して行ったその度合いによって成長する。それは信仰によるキリストとの歩みも同様で、誰にも知られないところで、どれくらい静まって、主と共に一人で問題に立ち向かって来たか、どれくらい密室での知られざる祈りと信仰による知られざる行動を積み重ねて来たかがものを言うのである。

だが、自分を喜ばせてくれる感覚刺激や神秘体験にばかり明け暮れているペンテコステ・カリスマ運動の信者らは、まるでひっきりなしにジェットコースターに乗り続けている乗客のように、一切自分の考えを放棄して感覚刺激に身を委ねているだけなので、彼らがどれほど数多くの「恵まれた」体験談を披露しても、それは人を成長させる力のない、あまりにも自己中心で薄っぺらい感動でしかなく、そのような「感動」には、周囲の人々を突き動かす力もない。しかもその喜びはすべて外界からの刺激に依存したものであって、本人の信仰によって困難を粘り強く耐え抜いて得られた勝利ではないので、説得力もなく、そんな浅はかな熱狂からは、全く本人の人格的生長が見えず、そうした「喜ばしい」体験談を聞けば聞くほど、作り事のようなわざとらしさと不自然な誇張に対する胡散臭さだけが印象に残るのである。

自分を喜ばせてくれる超自然的な神秘体験ばかりを追い求める人々は、自分ではその不自然さが分からないのであろうが、早い話が、彼らの人格的成長は著しく止まってしまうのである。止まってしまうくらいならばまだ良いが、何かしら退行現象のようなものが起きて、次第に、物事の考え方・受け止め方の範囲が著しく狭まり、思考が幼児化して行くのである。そして、最後には、自分にとって何が「快」であり、「不快」であるかという、赤ん坊のように単純な基準を通してしか物事を判断できなくなってしまう。

そういった現象は、サンダー・シングのように、「福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。」などと言って、知的考察を退けたことの結果として起きるのであり、何を信じるのも本人の勝手とはいえ、筋力も使わなければ衰えるのと同様、人間の思考力も、使用しなければ無いも同然に退化するのだということを覚えておかなければならない。

自分に二本の足があって自由に動けるのに、わざわざ車いすに乗って移動する人がどこにあるだろうか? 同じように、神は人間に健全な思考力や判断力や、自ら考察する力を確かにお与えになったのであり、しかも、一人一人の人間には、他のどんな動物と比べても、はるかに優れた思考力が豊かに与えられているのである。にも関わらず、なぜ人間がわざわざ自らの存在を「全一的」にとらえず、自分自身の一部である知的な思考能力だけを悪いものであるかのようにみなし、これを退けて、己の情と感覚に従って生きようとする必要があるのだろうか? そのようなことは人間の自主的な後退以外の何物でもない。

さらに、福音をミルクにたとえるにしても、神は人間をいつまでも哺乳瓶にしゃぶりついている赤ん坊のように弱い存在として造られたわけではない。福音にも、信者の成長段階に応じて種類があり、ミルクだけでなく、堅い食物も存在することは、聖書が示している通りである。にも関わらず、いつまでもミルクばかりを飲んで生長しようとしない信者を叱責して、パウロは次のように述べた。

あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。

まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル5:12-14)

サンダー・シングのように、信者が自分の頭を使って自ら考えることを嫌い、ただ受動的に「ミルクを飲む」ことだけを勧める偽りの教えに聞き従っていたのでは、信者は永久に霊的幼児のままこの世を去ることになろう。信者が自ら思考を働かせ、識別し、考察しようとしなければ、その信者には「良い物と悪い物とを見分ける感覚」が訓練されることは永久にない。自ら思考を放棄していながら、「考え方においてはおとなにな」る(Ⅰコリント14:20)ことは誰にもできない相談である。

だから、ペンテコステ運動や、サンダー・シングのような思考停止の教えを受け入れた信者の人格的成長が完全に止まってしまうのは当然であると言える。

どんなに「幻を見た」とか「主イエスの御姿を見た」「御声を聞いた」と誇ってみても、キリストの御言葉に従わない人たちに、信者としての成長などあるはずもなく、肉の思いで幻を見たことを誇るだけで、キリストに結びつかない根無し草のような信者たちについては、聖書は次のように警告している通りである。

「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。」(コロサイ2:18-19)

さらに、もう一つ重要なこととして、candy氏が「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という主イエスの御言葉に、キリストご自身を追い出す形で人間に過ぎない自分自身を投影し、まるで迫害されているのが、主イエスではなく、自分たち人間であるかのように表現していることにも注意が必要である。

ここで「なぜわたしを迫害するのか」という聖書のフレーズが登場するのは決して偶然ではない。ペンテコステ運動(中でもとりわけアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団)は、病者、障害者、元ヤクザ、元統一教会員、等々、社会や教会から打ち捨てられて来た弱者を積極的に伝道対象として来たが、そのように弱さを抱えた人々の心には、往々にして、自分たちは社会から冷遇され、打ち捨てられ、疎外されて来た弱者だという被害者意識と、深い厭世観が横たわっている。

カルト宗教が様々な弱点を抱えた人々を積極的に勧誘するのは知られていることであるが、こうした人間的な弱点が、ペンテコステ運動と結びつくと、それまで彼らが持って来た厭世観や疎外感が、彼らを見捨てて来た伝統的なキリスト教と、神ご自身への恨みとして向けられることになる。

もちろん、彼ら自身は、自分たちは正しい神を信じている正統なキリスト教徒だと思い込んでいるので、キリスト教を敵視しているという意識は必ずしもないかも知れない。

だが、実際には、統一教会やエホバの証人やものみの塔の信者も、自分たちを「クリスチャン」であると名乗っているのと同様、自らクリスチャンを名乗っているからと言って、その人々がどんな教義を信じているのかは、調べてみなければ分からないのである。

ペンテコステ運動は、これまで見て来たように、その教義自体が聖書から逸脱しており、異端としか言いようのない構造を持っている以上、どんなにこの運動に関わる人々が、自分たちは敬虔なキリスト教徒だと自称したとしても、この運動自体が、伝統的なキリスト教に対する対抗・挑戦となることは避けられない。

こうした運動に関わる人々の心の根底には、従来のキリスト教界に対する敵意と反発が無意識のうちに根を張っており、それが異端の教義と合わさって、自己の弱さを神格化することで、キリスト教全体の上に立ち、これを見返すというところにまで至るのである。

マザー・テレサが「貧しい人たちの内にはキリストがおられる」と述べて、信仰のない貧しい人々をそのまま神格化しようとしたのと同じように、弱者救済の運動として始まったペンテコステ運動も、人の弱さそのものをあたかも「神聖なもの」であるかのように祀り上げ、もてはやす。さらに、そこに御言葉を深く考察・吟味しようとせず、人間の五感に心地よく訴えかけて来る偽りの神秘体験に飛びつくことによって、信者が手っ取り早く神に近づけるかのような誤謬が合わさって、この運動の影響を受けた人々は、地道な信仰の歩みの積み重ねなしに、自分の弱さと神秘体験を通して、あたかも「一足飛びに他の信者を超越して神に近い存在になった」かのように思い込むのである。

ペンテコステ・カリスマ運動のような偽りの教えは、人の弱さをありのままで肯定しながら、なおかつ、それを恥ではなく、「神聖な要素」にまで高め、さらに、弱さを抱える人々を一足飛びに、通常の人々の及ばない高みにまで引き上げ、栄光化してくれる点で、生まれながらの人間、特に様々な問題や弱さから抜け出せずに、コンプレックスや恥の意識を心深くに抱えて来た人々にとっては極めて都合が良いのである。

上記の記事で、candy氏が信仰を持たない夫をキリストと同一視する理由も、「弱さ」にこそあると考えられる。自分たちは、様々な弱さによって社会的に追い詰められ、苦難をくぐり抜けて来た弱者であるからこそ、迫害されているキリストに近い存在なのだ、という思想が無意識に影響しているのではないかと考えられる。

「多くの苦難を通り、追い詰められて来た弱者であるからこそ、神聖である」――そういう自覚が、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」というくだりに自分たちを重ね合わせ、迫害されているキリストに自分たちをなぞらえるという発想を生んでいると考えられるのである。そのようにして、病や、障害や、苦難を美化し、自分たちの弱さをあたかも神聖なものであるかのように祀り上げて美化し、追い詰められている自分たちをキリストと同一視して、自分たちのために自己憐憫の涙を流すのである。

こうした記述の背後に隠れているのは、ペンテコステ運動が、弱者救済の名の下にしきりに助長・肯定して来た人間の弱さ(もしくは罪や、被害者意識)そのものの美化、神格化である。

聖書に目を向けるならば、使徒行伝において、主イエスを迫害したのはあくまで信仰を持たない人間(サウロ)の側であった。だが、以上の記述では、人間が迫害されているキリストに置き換えられることによって、聖書の文脈が全く覆い隠され、真の被害者は神であるという事実が、隠されている。

たとえサウロが迫害した対象が教会であっても、結局、そこで迫害されているのは、個々の信者ではなく、キリストご自身なのである。そして、生まれながらの信仰を持たない人間は、今日もサウロと同じく、神に対して迫害者なのであり、悔い改めて立ち返らなければならない立場にある。

ところが、candy氏のような記述では、迫害されているのは、神ではなく人間、しかも、彼ら自身であるかのように立場が置き換えられ、人間が神に対して犯した罪というものが、全く言及されない。不信者は、神の御前に悔い改めねば受け入れられない罪人であるという事実は否定され、むしろ、不信者が「神」の立場に置かれ、神はただ人間の苦難に寄り添い、あるいは人間の本来的に神聖なることを追認するための存在でしかなくなり、聖書の文脈がまるで完全にさかさまにされているのである。このような聖書の文脈の歪曲は、まさにグノーシス主義の特徴である。

だが、では一体、彼らは自分たちが何によって迫害されていると言うのか? 

そこで言外に示されているのは、「自分たちは聖書の神と御言葉とキリスト教とクリスチャンによって不当に迫害されて来た弱者だ」という主張である。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、Dr.Lukeのような人々が、なぜキリスト教界そのものを敵とみなすかのような活動を繰り広げて来たのか、その理由を考えてみたい。彼らがクリスチャンを名乗っているからと言って、信者はそれに惑わされるべきではない。彼らが最も「敵」とみなして戦っている相手は、伝統的なキリスト教、伝統的なクリスチャンたち、聖書の御言葉、ひいては聖書の神ご自身なのである。

サウロは信仰を持たない時代に、ユダヤ教徒の観点から、救い主なるイエス・キリストを否定して教会を迫害していたのであるが、グノーシス主義者らは、今日、聖書の文脈をさかさまにして、聖書の御言葉を曲げる自分たちこそ、神であって、彼らは(残酷な)キリスト教徒たちによって、不当に迫害されている弱者であり、迫害されている神である、と言う。

従って、Dr.Lukeの文章にも、candy氏の文章にも、彼らのキリスト教に対する被害者意識が、言外に表れているのだと言えよう。candy氏は「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という主イエスの言葉を自分たちに当てはめて自己憐憫の涙を流し、Dr.Lukeは以下の御言葉が、自分たちの不正に向けられた非難ではなく、ニッポンキリスト教界が彼らに対してなしてきた悪事に対する非難であるとして文脈をすり替える。

 「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」

こうして彼らは、自ら聖書の御言葉を曲げ、その信用を毀損しておきながら、自分たちこそ、キリスト教によって虐げられた被害者である、と言うのである。

こうした文脈のすり替えは、偽りの霊だけがなしうることであり、偽りの霊は、人間の持つ何らかの被害者意識を足がかりとして人の自己の内に侵入し、それを増幅させて、「自分たちは不当に追い詰められている弱者である、ゆえに最も神に近い神聖な人々である」という自負を作り出す。そして、聖書の文脈を乗っ取って、御言葉からまことの神を追い出して、人間に過ぎない自分自身を神の座に据え、他の愚かな信者たちには、無知ゆえに、自分たちが神であることが分からないため、自分たちを不当に迫害するのだ、と言うのである。

だが、こうして「迫害されている」被害者の立場に自分を置こうとするところに、すでに書いた通り、悪霊たちの将来に対する動かせない予感が込められていると言えよう。悪魔と悪霊は、自分たちを待ち受けている神の裁きが否定できないものであることを確実に知っており、キリストの贖いの十字架を退けた人間が、どんなに自分は神だと叫んでも、彼らに待ち受けている末路が恐ろしいものとなる事実を知っている。

特に、悪霊たちは、自分たちの嘘偽りを知っている神ご自身と、彼らを罪に定める聖書の御言葉と、クリスチャンの信仰告白に対する本能的な恐怖を持っているのである。

その恐怖は、マタイによる福音書で、イエスと出会った悪霊たちが、まだイエスが何も言わない先から、自分たちが罰せられることに怯え、「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめるために来られたのですか。」(マタイ8:29)と叫んだことにも見て取れる。

だから、キリスト教界に対するDr.Lukeや村上密のような人々の憎しみと攻撃にも、同じことが見て取れるのである。彼らのキリスト教界に対する被害者意識は、個人的にはどんな出来後が原因となって生じたにせよ、その根底にあるのは、彼らを導く悪霊どもが、自分たちが反キリストの霊の持ち主であることを暴かれたくないという本能的な恐怖に由来する。自分たちが羊に偽装して群れの中に入り込んだ狼であることがいつか必ず暴かれて、自分たちがキリスト教徒の真の「敵」として攻撃され、排斥されることへの本能的な恐怖があればこそ、彼らは自分が訴えられないために、先手を打って、キリスト教そのものを「悪者」として告発し、クリスチャンに濡れ衣を着せようとしているのである。

それは律法学者やパリサイ人たちが、自分たちの不義が暴かれないために、主イエスを十字架にかけて殺したのと同じ敵意・憎しみ・殺意である。すべては罪人らが神の刑罰としての十字架を退けて、自己義認、自己正当化するために行なわれていることである。しかも、救い主を拒みながら、なおかつ、自分たちは被害者だと居直っているのである。結局、彼らの言いたいことは、「自分たちは聖書の神の被害者だ、十字架という人類に対する刑罰は不当だ」ということに尽きる。彼らが告発している相手は、ニッポンキリスト教界や、個々のクリスチャンや教会ではなく、まことの神ご自身なのである。



・コンプレックスと復讐心の裏返しとしての「エリート主義の福音」

さて、グノーシス主義は、「エリートの福音」である(以下注参照)。グノーシス主義者は、自分たちが(キリストの贖いのゆえにではなく)自己の弱さのゆえに、あるいは罪のゆえに、生まれながらに本来的に聖なる存在とみなし、そのように考える自分たちが、聖書から逸脱しているのではなく、むしろ、一般信者には知り得ない「隠された教え」にあずかったのであり、他方、一般会衆は愚劣で盲目であるがゆえに、それを知覚できないだけだと考えて、他の信者を見下しながら、自己の高慢をどこまでも正当化して行く。

エリート主義というのは、そもそも見下し、踏みつけにする相手がいなくては成立しない。グノーシス主義が踏みつけにする相手とは、キリスト教である。グノーシス主義はそれ自体が旧約聖書の神に対する敵対・挑戦として生まれて来たのであるが、その教えは東洋思想を経由して今日までも連綿と受け継がれ、あたかもキリスト教であるかのように偽装して、神の教会に入りこみ、神の御手から聖徒らを奪い、教会の建造を押しとどめようと狙っている。

だが、エリート主義とは、決して真に優れた人々から生まれて来るものではなく、むしろ、人間の弱さと劣等感の裏返しとして生まれるものであり、人が自らの罪や弱点から目を背け、弱さを持ったままで一足飛びに他者を超越して高みに達し、そこから自分よりも強い者を見返そうという復讐願望から生まれた心理的トリックである。
 

(注:荒井献氏は、グノーシス主義ナハシュ派(ナハシュとはアラム語で「蛇」の意)の文献である『トマスの福音書』の解説の中で、次のように記している。

「以下に収録されたイエスの言葉の意味は、一般会衆には「隠され」ている。それは、イエスによって「覚知(グノーシス)」を得る用意のある宗教的エリートにのみ保留されている。これがグノーシス主義の根本的立場といえよう。「隠された言葉」は、ここではコプト語で言い表されているが、これをギリシア語で表現すると「アポクリュフォン(その複数形が「アポクリュファ」)となる。そしてこの表現は、グノーシス文書の標題に多用されている(例えば『ヨハネのアポクリュフォン』『ヤコブのアポクリュフォン』など)。そしてこれが、一般的には「秘書」あるいは「秘教」と訳されるように、われわれのトマス福音書のイエスの教えも、トマスによれば、「秘教」そのものなのである。」
『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社学術文庫、1994年、p.120.


真に優れた人間は、自己の優れた能力をもって他者の欠点を補い、他者を生かそうとするものであり、決してそれを自己の手柄として誇示したりしない。自分の強さによって他者を貶めたり、他者の弱点につけ込んで救済者になろうとはせず、他者に君臨することを目指さない。そういうことをするのは、常に、弱さと劣等感を抱える人間だけである。

キリスト教界を告発することにより、神と教会と信者に復讐を果たそうとするカルト被害者救済活動も、ニッポンキリスト教界を踏みつけにして勝ち誇ろうとするDr.Lukeも、同じように、キリストご自身につまづき、神と聖書の御言葉につまづき、これに被害者意識を持った人々である。

こうした人々がしきりにキリスト教界に悪罵を投げつけているのは、それによって、彼らのありもしない「エリート性」を誇ると同時に、彼らが聖徒らから正体を見抜かれ、排斥されることを避けるためでもある。

この人々は、本能的にキリスト教を恐れているのである。それは、自分の時が短いことを知って怒り狂う悪魔の焦りにも似て、自分の終わりを予感していればこそ、その前に、可能な限り、聖書の御言葉を毀損して、できるだけ多くの信者を欺きに巻き込んで苦しめ、神の栄光を傷つけようと、暗闇の軍勢が彼らの存在を通して、絶えず神とキリスト教とクリスチャン全般に対して霊的攻撃を続けているのである。このような偽装信者に対する裁きは昔から滞りなく行なわれており、彼らが相応の報いを受けずに済むことは決してない。

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。」(マタイ7:15-16) 

人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24:4-5)

「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

「イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。」(ルカ17:20-23)

「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:9-12)

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3-4)

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:1-3)

 「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18)

義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。」(Ⅱペテロ2:21)

PR

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑮

⑤ Dr.LukeのKFC(Kingdom fellowship church)の理念の異端性(続-4)

・悪霊が人の魂(思いと感覚)の領域に作り出す「偽物の霊的体験」としてのペンテコステ運動や、サンダー・シングの教えに欺かれたDr.LukeとKFC
 

Dr.Lukeはメッセージの中であからさまにサンダー・シングに言及してはいないが、それでも、両者の言い分を比較すれば、実に多くの共通点があることがすぐに分かる。

たとえば、サンダー・シングの著書には、「祈りと波動」という項目もあり、その付近には次のような記述が存在する。
 

「<略>神は無限であり、人は有限である。人は無限なる神を十分に理解することはできないが、神は人の中に神を味わうことのできる感覚をお造りになった。」(『聖なる導き インド永遠の書』、p.151)

「<略>脳は多くの繊細な感覚を備えた実に敏感な器官で、瞑想中にみえざる世界からの情報を受けとり、普通の人間をはるかに超えたアイデアを刺激する。脳がこのようなアイデアを生むのではなく、上にあるみえざる霊界からこれを受け、人間にわかりやすい言語に変換するのである。夢の中でこうしたメッセージを受ける人もいれば、異象の中で受ける人もおり、また瞑想中の覚めた時間に受ける人もいる。

 祈りは、こうして得られた情報の中から有用なものと無用なものとをふるい分ける。真の祈りの中で神からの光が解き放たれ、良心、倫理観の座である霊魂の最奥部、一番敏感な部分を照らすからである。色鮮やかな色彩、心地よい音楽その他、見えざる世界からの素晴らしい光景や音色が、脳の内部で反射される。画家や詩人は、その本当の源を理解することもなく、彼らを打つこうした見えざる実在を詩や絵に写そうと試みるが、瞑想する人はこうした実在のいわば核心部分に触れて無上の歓びを味わうのである。それらの出所である霊界と本人の霊魂とが密になっているからである。」(同上、p.150)


瞑想中にみえざる世界からの情報を受けと」るとか、「実在のいわば核心部分に触れて無上の歓びを味わう」とかいった個人的な神秘体験を強調するサンダー・シングの記述は、Dr.Lukeの「霊界からの振動・波動を聞く」といった主張や、KFCやペンテコステ・カリスマ運動が常に強調する(偽物の)「聖霊のバプテスマ」や「異言」といった恍惚体験にほぼ重なる。

ここで、サンダー・シングは、「神は人の中に神を味わうことのできる感覚をお造りになった。」と、人間があたかも己の感覚を通して神に至ることができるかのように教える。そして、「実在(=神)との交わり」の甘美さを強調するために、人の五感を刺激する巧みな描写を用いて、彼の言う「霊界」の魅力的な世界を描き出そうとつとめる。

サンダー・シングが聖書に則って「神を知る」という表現を用いずに(たとえばヘブル8:11では主を「知る」と表現される。ここでの「知る」という言葉には人格を持った者同士の親密な交わりの意味がある)、あえて「神を味わう」と、まるで神を食べ物(対象物)であるかのように表現していることにも注意が必要である。

このように、人間の味覚を使って神との合一の甘美さを表そうとする特徴は、Dr.Lukeの「神との交わりは甘い」という言葉や、鈴木大拙の「二度目の林檎を食べぬといけない」という表現にも表れており、さらに、以前にも記事で紹介した通り、それは何よりグノーシス主義に見られた特徴なのである。

たとえば、ヴァレンティノス派のグノーシス文献、『真理の福音書』では、キリストの十字架そのものが、人間を喜ばせるための甘く喜ばしい「果実」へと変えられる。その十字架は、聖書の教えるような、人類の罪のための贖いの犠牲ではなく、「人が内なる神的自己を発見する機会」に歪曲された十字架である。
 

「……木に釘づけにされた。彼は父の知識(グノーシス)の実になった。しかし、それは食べ[られ]ることによって破滅を与えるものになるのではないそうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのであるなぜなら、彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだしたからである。……」

……いつくしみ深い忠実なイエスが、苦難を身にひき受けて耐え忍んだ、……なぜなら彼は、彼のこの死が、多くの人々にとって命であることを知っていたからである。……彼は木に釘づけにされた。……彼は自らを死に至らせるが、彼は永遠の命を身につける。滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとうのである。……」。(『ナグ・ハマディ写本』、エレーヌ・ペイゲルス著、白水社、p.169-170)


このように、異端の教えは、神だけでなく、キリストの十字架の概念も歪曲し、十字架を人間にとって都合よく、人間を喜び楽しませるための「甘く麗しい果実」へと変えてしまう。 

(筆者がcandy氏のブログタイトル「十字架の恵みが溢れて」という標題そのものに深刻な違和感を覚えるのもそのためである。)

そこでは、十字架はもはや人類の罪のための身代わりの刑罰ではなく、むしろ、人間の生まれながらの自己を高めるための道徳的感化や、新たな知識やインスピレーションの源へと歪曲される。そして、イエスの十字架の死が、しばしば、苦しみに満ちた出来事ではなく、まるで喜ばしい出来事であったかのように描写されるのである。

偽りの霊が、このように十字架の概念を歪曲するのは、そこに何とかして十字架から人類の罪に対する神の刑罰としての側面を除き去り、人間に下された神の刑罰を否定して、人間を無罪放免したいという欲求が働いているからである。

そのために、偽りの霊は、十字架を甘い砂糖菓子のように人間に都合よく味つけし、花輪で飾り立て、十字架を人間にとって罪や恥辱や刑罰の象徴ではなく、むしろ、人の生まれながらの自己を飾り立て、高めるための、喜ばしく楽しいツールへと変えてしまう。そうすることによって、彼らは、「神が罪人と自分を同化するために死んで下さったのだから、罪人はもはや罪人ではなく、神なのである」と主張して、十字架さえも、人が堕落した自分自身の内にありもしない「神的自己」を見いだす手段へと変えて行くのである。

グノーシス主義とは、その名が示す通り、人が本来的な自己に目覚めさえすれば、その知識によって「神のようになれる」とする神秘主義の教えであり、もともとは悪魔に由来する偽りであるが、この思想は、自らの主張を正当化するためならば、聖書のあらゆる概念を歪曲し、捏造する。

サンダー・シングの言葉も、一見、聖書に似ているようであるが、御言葉と対照しながら読んでみると、すべての概念が歪曲だらけ、捏造だらけで、結局、その言わんとしているところは、聖書の御言葉とは真逆であることが分かる。

例を挙げれば、Dr.Lukeは記事「
サンダー・シングのことば」(2008年1月17日)で、サンダー・シングの文章を無批判に大量に引用しているので、いくつかその中から例を挙げてみよう。
  

「神との交わりとは、私たちの中に神があり、神の中にわたしたちがいるということである。とはいえ、これによってわれわれの個別性が失われるわけではない。鉄が火の中に置かれれば、鉄の中に火がおこる。だからといって鉄が火になるわけでも、火が鉄になるわけでもない。」

キリスト者は塩のようなものでなければならぬ。塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。自己犠牲にこそ、訴える力はある。」

「福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。」

今われわれは、富も地位も名誉も望まない。いや、天国さえも望まない。ただ、自分の心を天に変えしめた主のみを必要とする。主の無限の御愛は、それ以外のすべてのものに向けられる愛を一掃した。クリスチャンと呼ばれる人々の中に、主の尊い、生命を与える臨在感を実感できない人々が多いのは、キリストが彼らの頭や聖書の中に生きているだけで、心の中に生きていないからである。人は心を明け渡す時のみ、主を見出す。心[ハート]はキリストの王座である。王たるキリストの支配する心(ハート)こそ、天の都である。」

「神の化肉について

かつて、ヒマラヤ山中にいた時、わたしはサトレジュ河を渡ろうとしたが、橋がなかった。とても泳いで渡れるところではなかった。どうしたものかと考えていた時、一人の男を見つけたので、彼に声をかけた。

「向こう岸に行きたいのだが、橋もなければ船もないのです。」すると彼は、「心配ない。空気が向こう岸につれてってくれるさ」と答えたので、私はびっくりした。空気を吸うことは出来るが、吸った空気で体が持ち上がり、対岸にいけるわけでもない。すると相手は獣皮をとりだして、空気をそこに吹き込み、ゴムボートにしてそれに乗れと命じたのである。こうして私は安全に向こう岸に辿りつけた。空気は皮の中に閉じ込められることによってのみ、私を運ぶことができた。

同じく、神もまた、人を救うために受肉されなければならなかったのである。いのちは言葉となった。その方はこの世の河を渡りたいと願う人々を安全に天国へ運んでくださる。

「わたしを見たものは、すなわち父をみたのである。」われわれは、イエス・キリストの化肉の中に、生ける父を見ることができる。

世を救うために、全能の神自らが化肉されたのは、まさにその愛のためなのです。」


こうした文章がどれほどもっともらしく聞こえ、説得力のあるたとえ話を用いていたとしても、実際には、聖書が何を言っているのかに逐一照らし合わせて検証せねばならない。

たとえば、「神もまた、人を救うために受肉されなければならなかったのである。いのちは言葉となった。その方はこの世の河を渡りたいと願う人々を安全に天国へ運んでくださる。」といったサンダー・シングの文章も、キリストを単に人間のために天国への橋渡し役をつとめるボランティア船頭に過ぎないかのように描いて、キリストの十字架が人類の罪の贖いのためである、という聖書の真理を全く覆い隠している。
 
驚くべきことに、ここには十字架という言葉さえも登場してはいない。「神もまた、人を救うために受肉されなければならなかったのである」とは言っても、一体、人類を何から救うために、神は受肉されたのか? 全く文脈が定かではないのである。

また、「
キリスト者は塩のようなものでなければならぬ。塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。自己犠牲にこそ、訴える力はある。」という文章も、一見、もっともらしく聞こえるが、聖書を著しく歪曲していることが分かる。聖書は次のように述べる。

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)

この聖書のたとえには、「塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。」などという事は一言も書かれていない。そもそもこれはサンダー・シングの述べているような自己犠牲による道徳的感化の価値を示すための話ではないのである。

この御言葉は、その直後に
「あなたがたは世界の光です。」、「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14,16)とあるように、「地の塩」、「世の光」という両方のたとえが指しているのは、同じように、「あなたがたクリスチャンは、神によってこの世から召し出されたのだから、この世と迎合して同化したりせず、むしろ、御言葉に従って、何が神に喜ばれることであり、何がそうでないのか、その区別を公然と世に示し、天におられる父が栄光を受けられるようにしなさい」ということに尽きる。

つまり、「地の塩」や「世の光」といった表現を用いたたとえ話は、神の子らである信者たちと、この世との明確な区別を示しているのであって、神に聖別された者たちが、その区別を自ら失ってはいけないという戒めなのである。

ところが、サンダー・シングは、「
塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。」と話をすり替えることにより、御言葉の意味を真逆にして、信者とこの世の区別をうやむやにする。塩(クリスチャン)が水(この世)に溶けてしまえば、この世と信者との区別は失われる。にも関わらず、そのようにして自分を取り巻く環境(この世)と調和して自らの信仰を主張することをやめることが、信者のあるべき自己犠牲であるかのように、文脈をすり替えるのである。

さらに、上記の引用で、サンダー・シングは、「
福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。」などとも述べており、ここでも、またもや「味覚によって味わう」表現が登場すると同時に、聖書の御言葉の二分性に基づく知的分析が否定されている。

だが、考えればすぐに分かることであるが、ミルクはこの世の有限な物質からなるので時間の経過と共に腐敗もしようが
、「聖書は廃棄されるものではない」(ヨハネ10:35)のであり、聖書の御言葉は、人の短い一生を超えて永遠に変わらずに残るものであり、その御言葉が、人間の束の間の分析にも耐えられないようなことがどうしてあり得ようか。

むしろ、
のみことばは混じりけのないことば。主の炉で七回もためされて、純化された銀。」(詩編12:6)

とあるように、聖書の御言葉はあらゆる検証に耐えうる永遠の不変性を持ち、人間の知性による分析や考察を排除するものではないのである。

しかしながら、すでに書いたように、東洋思想は、聖書の二分性に基づく知性による分析や考察を嫌い、感情と感覚に基づいて直観的に行動することこそ、人間の本質であるかのように主張する。

すでに幾度も引用して来たように、鈴木大拙は、以下の文章で、エデンにいた時、人間は「行」のみの世界に生きていたが、善悪知識の木の実を食べたことによって、「知」が発生したのであり、それこそが失楽園の原因だとなったと述べて、知性による分析を悪しきものとみなし、これが消滅するか、もしくは「行」と一致して、悟りによって新たな世界が出現しなくてはならないと述べる(それが同氏の言う「二度目の林檎を食べる」とい言葉の意味である)。
 

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、p.195-196)


このように知性による考察や分析を「悪しきもの」として退け、物事を自らの知性によって深く考えることを厭う傾向は、鈴木大拙・サンダー・シングに全く共通しており、東洋思想そのものの特徴なのであるが、これもまさに聖書をさかさまにした偽りなのである。

すでに見て来た通り、聖書における人類の失楽園のくだりは、人間が知性によって神の御言葉を理解し、これに聞き従うことを捨てて、己の情と欲に誘われて、己の欲することを後先考えずに行動した結果として起きた堕落であり、鈴木氏の言うように、聖書の二分性に基づく知性が人類の堕落の原因となったのではないのである。

すなわち、人間の堕落は、神が何を是とし、何を非として戒めているのか、御言葉による区別(二分性)を己の知性で吟味・理解し、それをわきまえて行動することをやめて、むしろ、「人間は行為を最先にして、それから反省が出る」と鈴木氏が言うように、知性による考察自体を放棄して、自分の行動の意味やその後先を全く考えることなく、ただ己が欲に誘われるままに、己の欲するところを行ったことによって起きたのである。

言い換えれば、人間の行動が意味と切り離されて、ただ情と感覚だけに基づいて、己の感覚的欲求を満たすことだけを究極目的とするようになった時、人類の堕落が起きたのである。

その堕落とは、人間が神に対して、神を喜ばせるために生きることをやめて、ただ己の満足だけを念頭に置いて、自己のためだけに生きるようになったという価値観・人生観の一大転換を意味する。その瞬間から、人間の全ての行動は自己の満足しか念頭に置かないものとなった。御言葉の二分性に基づく知性を放棄して、何が真に是であり非であるかをわきまえることなく、自分にとって好ましいものだけを全て「良い」ものと判断し、何もかもを自己の感覚を通して判断するという「全一的」存在になろうとしたことによって、人間は自己を客観視する能力までも失ったのである。
 
従って、そのような浅はかで衝動的で考えなしの自己満足的行動こそが、「薄っぺらだ」と非難されるべきであって、そのように知性と結びつかない短絡的衝動が人間の本能であるというのは、大変、嘆かわしい事実でしかなく、それもただ単に人間から知性を切り離して、堕落した動物的本能だけを指して本能だと言っているに過ぎない。

軍隊であっても、指揮命令を下すのは司令部であって、前線の兵士ではない。前線の兵士が受けた命令をどうして「薄っぺらだ」と言って拒めよう。同様に、人間が真に「全一的」であるためには、人が知性によって自らの行動の全てを律することが必要なのであって、その逆は決してあり得ない。「行」が「知」より優先されたり、「行」が「知」を支配することで両者の一体化を目指す世界は、反逆の世界でしかない。
 
だが、人間による知性の放棄と、動物的衝動への邁進と、その結果としての神への離反を後づけで正当化するために、鈴木大拙氏は「人間は行為を最先にして、それから反省が出る」生き物だ、と言うのであるが、このように東洋思想は、「行」の方が人間の本質であって、「知性」は本質ではない、と言うのである。

このような主張こそ、人間が自らの行為の罪深さを覆い隠すために作り上げた自己弁明のための詭弁なのである。しかも、鈴木氏がそこで悪者にしようとしている「知性」とは、聖書の御言葉の二分性のことではなく、むしろ、人類が善悪知識の木の実を取って食べたことにより、悪魔が人類に吹き込んだ偽りの思想、偽りの知性を指している。

従って、もし「知性」による分析や考察が悪者にされるのだとすれば、その非難は、聖書の神の御言葉に基づく知性に対してではなく、悪魔が吹き込んだ偽りの思想に対してこそ向けられねばならない。ところが、東洋思想はこれを全てさかさまにしてしまい、悪魔に由来する偽りの「知性」に対する非難を、聖書の神の御言葉に向けようとするのである。

このように聖書を転倒させた詭弁は、まさにグノーシス主義に見られた特徴であり、東洋思想とは、すでに述べて来た通り、グノーシス主義を保存する入れ物の一つに過ぎないのであるが、こうしたものは、聖書の御言葉の二分性に基づく知性を捨てて、己の情と欲に走った人間が、己の堕落を神に責任転嫁して、聖書の御言葉を悪者にするために、聖書をさかさまにして作り上げた詭弁なのである。

そこで、今日も、東洋思想の中には、人間とはもともと「理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである」という考え方が根強く生き残っている。それは結局、生まれながらの人間が自己の罪と堕落を正当化するために作り出した考えなのであり、こうした主張を繰り広げる人々は、人類の堕落の瞬間から今に至るまでずっと、神に離反した人類の罪を正当化するために連綿と偽りを作り出しているのであり、それによって延々と「善悪知識の木の実」を食べ続けているのだと言える。このサタンに由来する「善悪知識」は、人間にとって都合が良いように、聖書のすべての概念を歪曲し、さかさまに変えてしまうのである。

従って、クリスチャンは、東洋思想の言うように、人間を直感的・動物的・衝動的な生き物とみなす考え方の恐ろしさを理解して、そのように知性による考察を侮蔑する考えがどれほど危険なものであり、聖書の御言葉に従うことの妨げになるかに気づかなければならない。

大体、人にじっくりと時間をかけて自分自身で物事を深く考える暇を与えようとせず、人がただ己の欲求に基づいて感情的・衝動的に行動することばかりを促すのは、詐欺師の手法である。
 
そこで、一体、サンダー・シングが何のために、「福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。」などと言って、聖書の御言葉を知性によって考察する作業を軽んじて、信者の吟味や疑いを退けながら、可能な限り、信者が自分では何もものを考えずに。ただ己の直感だけに基づいて、自分にとって心地よいと感じられる行動に出る方向へと誘導しようとしているのか、気づかなければならない。何のために、彼は知性による考察を退けているのか、そこにどんな危険を隠そうとする意図が込められているのか、よくよく考えてみる必要がある。

結局、そこにあるのは、人間の思考を眠らせることによって、嘘を暴かれまいとする意図である。一見、もっともらしく、良さそうに聞こえるサンダー・シングの言葉が、少しでも聖書の御言葉に照らし合わせれば、どれほど著しく矛盾しているか、誰にでもすぐに分かってしまう。そこで、自らの述べている思想の虚偽を暴かれないために、予め読者の思考を眠らせておこうと、サンダー・シングは以上のような論法を使っているのであって、そこにトリックがあることに信者は気づかなければならないのである。

だが、Dr.Lukeはそのような「しかけ」には全く気づこうともせずに、サンダー・シングの文章を手放しで賞賛している。

「クリスチャンと呼ばれる人々の中に、主の尊い、生命を与える臨在感を実感できない人々が多いのは、キリストが彼らの頭や聖書の中に生きているだけで、心の中に生きていないからである。人は心を明け渡す時のみ、主を見出す。心[ハート]はキリストの王座である。王たるキリストの支配する心(ハート)こそ、天の都である。

というサンダー・シングの言葉にも、西欧キリスト教に見られるような、伝統的なクリスチャンに対する嫌悪と侮蔑の感情が込められている。自分は「神の臨在を直接味わっている」のであって、西欧のキリスト教徒のような、神の臨在を全く実感できないでいる「頭でっかちな」可哀想な連中とは違うのだという自惚れが満ちている。

サンダー・シングの伝統的なキリスト教徒に対するこのような上から目線の批判と侮蔑は、ニッポンキリスト教界を見下し、侮蔑するDr.Lukeの心境にはさぞかしよく合致したことであろう。

「神との交わりとは、私たちの中に神があり、神の中にわたしたちがいるということである。とはいえ、これによってわれわれの個別性が失われるわけではない。鉄が火の中に置かれれば、鉄の中に火がおこる。だからといって鉄が火になるわけでも、火が鉄になるわけでもない。」

というサンダー・シングの「鉄と火のたとえ話」も、以前にも記事で引用したように、不思議なことであるが、「神と人とが混ざり合う」と教えているローカルチャーチから出されたウォッチマン・ニーの著書とされている全集の中の記述にぴったりと合致する。
  

「さらに完全な結合

神はすでにわたしたちをキリストの中に包含されました。わたしたちは今どのようにしてキリストがわたしたちの中へと造り込まれるのかを見なければなりませ ん。キリストが わたしたちの中におられる時だけ、わたしたちの結合は実際であり、完全であり得ます。そして、その時はじめて、キリストが持っておられた あらゆるものが、わたしたちの中へと造り込まれます。このキリストとの関係こそ、その究極的で最高の意味での結合です。

ある日、わたしは鍛冶師が作業しているのをじっと見ていました。彼が大きな一塊の鉄を火の中に投じ、炎を燃え立たせてから、その赤くなった金属を鉄槌で打 ち始めました。脇に立っていた一人の弟子が火を得ようとしていました。彼は一枚の紙を巻き、それを火に突っ込むことをしないで、その端を赤くなった鉄に触 れました。たちまちその紙に火がつきました。わたしは火が鉄から出て来たのを見て非常に驚きました。この一塊の鉄は、今は他のすべての鉄とは違っていまし た。あなたはそれを鉄であったと言うかもしれません。しかし、またそれを一つの火の球と考えることもできます。火は鉄の中に、また鉄は火の中にあったので す。それは鉄の性質と鉄の様相とを持っていました。あなたがそれに一枚の紙を置くと、その紙は燃え上がりました。

神はわたしたちとキリストとの結合がその鉄と火の結合のように親密なものであることを願われます。神はわたしたちのすべての罪を赦されました。そして、わ たしたちの古い人をキリストの中で終わらせました。しかし、神はそこで終わりにされませんでした。鉄と火が一つであったように、神はわたしたちがキリスト と完全に一つであることを欲しておられます。鉄のあらゆる分子は火と混ざり合い、その火のあらゆる性質は鉄の中で現されました。神はこの程度にまでキリス トをわたしたちの中に造り込むことを欲しておられるのです。」(ウォッチマン・ニー全集(第二期 第二七巻、正常なキリスト者の信仰、日本福音書房、 1997、p.200-201)


上記のような教えを信じる人々は、鉄と火が混じり合うように、「神と人とがほとんど区別がないほどまでに一体になれる」と教えるのである。しかしながら、問題は、このたとえ話によって、一体、キリストと信者との結合は何によって保障されるのか、という最も肝心な点が、覆い隠されている点である。聖書は言う、

「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネ14:20-21)

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:23)

「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

鉄と火のたとえ話を何万回繰り返しても、聖書の御言葉を守らない信者は、キリストとの合一にあずかることは決してできない。キリストとの合一に達したいならば、最も肝心な点は、信者が御言葉を守り、従うかどうかということである。だが、サンダー・シングや上記のウォッチマン・ニーの著書(福音書房)は、たとえ話のもっともらしさばかりを強調することによって、信者が「聖書の御言葉を守る」ことなしにキリストとの合一には絶対に達し得ない、という事実を教えないのである。

心[ハート]はキリストの王座である。」というサンダー・シングの言葉にも注意が必要なのは、ここにもまた聖書の歪曲が潜んでいるからである。「神は霊です。神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23)という御言葉に表れている通り、神と交わることができるのは、人の霊のみであって、魂ではない。信者はむろん、霊においても、心においても、自分のすべてを尽くして神を愛し、神に従うのであるが、だからと言って、人は己の情や感覚を通して神を知ることはできないのである。人の魂と肉体の感覚の領域には、神との霊の交わりは存在しない。

だが、サンダー・シングが「心(ハート)」を強調するのと同じように、Dr.Lukeもしきりに「マインド(思い)」を強調する。(メッセージの主題を見るだけでもそのことは分かる。「マインドのゲートキーパー」(2016年4月3日)「祝福のマインドフルネス」(2016年5月29))

このように、しきりに信者の「心(魂)」における活動を強調し、あたかも、天国(神の国)が人の魂の領域に存在するかのように主張する教えが危険なのは、ペン-ルイスが指摘するように、悪霊が信者を霊に従ってではなく、堕落した魂の思いや感覚に従って歩ませるために、人の思いや感覚を刺激して、甘美な体験を味わわせることによって、信者の魂の領域に、「偽物の霊的世界」を作り出し、偽物の霊の感覚を、聖霊の働きと取り違えて歩ませようとすることがあり得るからである。

ペンテコステ・カリスマ運動もそうであるが、信者は自分が個人的に受けた体験が非常に甘美で心地よく、自分のニーズに合致しているために、それが聖書の御言葉と矛盾していても、注意を払うことなく、「自分は聖霊に導かれて、霊的な体験を受けているのだ」と思い込みながら、自ら感覚体験の虜とされて行くのである。この種類の欺きに対して、ペン-ルイスは次のように警告している。

  

サタンの欺く霊どもは、真の霊のいのちの偽物を魂の領域に造り上げて、信者を欺こうとします。信者はこの偽物に気がつきません。彼らの狙いは、信者をおびき寄せて、無意識の内にふたたび魂の領域の中を歩ませることだからです。

霊を魂から解放されて「切り離された」霊の人は、魂や体によってではなく、によって歩み、によって支配されている人です。しかしこれは、霊の人は二度と魂のいのちに巻き込まれることはありえない、ということではありません。

霊の人でも、霊の法則を知らず、霊に治めさせることに失敗するなら、ふたたび魂のいのちに巻き込まれるでしょう。何がからであるのかを識別する方法、霊を自由に保ち、神の霊に開き続ける方法、絶えず聖霊と協力するのに必要な条件を、霊の人は学ばなければなりません。

霊の人は、悪霊どもの攻撃を見抜いて、対処することができなくてはなりません。悪霊どもは、霊の人の霊を攻撃して、神との交わりを妨げようとします。あるいは、霊の機能を麻痺させ、受動的にさせて、霊を魂に追いやろうとします。これに失敗すると、悪霊どもは霊の人の霊を過度の活動に駆り立てようとします。その狙いは、自分たちの攻撃に対する絶え間ない抵抗を阻止して、妨害することです。
(『魂と霊』、ジェシー・ペン-ルイス著、第5章 「霊的な」(プネウマチコス)クリスチャン、霊のいのちの法則、より抜粋)


以上のような警告を読むと、なぜペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた信者らが、頻繁に不自然で大袈裟な感動の涙を流し、芝居じみているとしか思えないほどに誇張された行動や感情表現を繰り返しながら、絶えず過度の熱狂に陥っているのかも理解できる。それは悪霊によって過度に活発化された魂の活動であり、絶えず信者の霊を圧迫し、静穏な思考を妨げ、信者を霊の平安の静けさの中から、自分自身の騒がしい思いと感覚という魂の領域へと誘い出し、その領域にとどめおいて、霊ではなく魂の感覚に従って歩ませるために行われる欺きのための「疑似霊的活動」なのである。

むろん、有害で不快な感覚体験を通しても、悪霊は信者が霊に従って歩むことを妨げることができるが、同時に、心地よい体験を通しても、信者を欺くことができ、そのようにして、信者を御言葉ではなく、自分自身の感覚体験の虜として行こうと狙っているのである。この種の偽りを見抜くために信者に必要なのは、信者が自分にもたらされる全ての感覚体験を疑うことなく受け入れるのをやめて、それが自分にとって心地よいかどうかという基準に従って是非を判断するのではなく、御言葉に合致しているかどうかという基準によって是非を判断し、御言葉に合致しない体験は、どんなに好ましく感じられたとしてもこれを否み、そこから遠ざかることだけである。

特に、信者の静穏な思考そのものを妨げるほどに強烈で受け身の絶え間ない感覚的刺激を求めさせる教え、過度な熱狂、不自然な感動、絶えず流される滂沱の涙、恍惚体験、行き過ぎた歓喜などを伴う感覚体験ばかりを強調する教えは、とことん警戒して退けることである。

サンダー・シングやペンテコステ・カリスマ運動のように、信者が聖書の御言葉に従うことの重要性よりも、「神との甘美な交わりを味わう」という個人体験ばかりを強調することによって、こうした体験が信仰生活の本質であるかのように主張する教えは、例外なく、信者を霊ではなく魂の領域で己の感覚に従って歩ませるために作り出された偽りであり、そこで強調されている「霊的体験」とは、結局、魂の領域に作り出された偽物なのである。
 

 サタンの欺く霊どもは、人の霊の偽物を魂の領域に造り上げることができます霊的な信者はこのことを理解しなければなりません。これは重要です。欺く霊どもは、策略を用いて外なる人に接触することにより、次に霊からではない動きをその人の中に生じさせることにより、これを行います。このような動きは霊的に見えるかもしれませんが、いったん主導権を握ると、真の霊の動きを封じ、圧倒するほど強くなります。もし信者がこのような敵の戦略を知らないなら、たやすく真の霊の動きを棄ててしまうでしょう。彼は、「霊にしたがって歩んでいる」つもりなのですが、霊的な感覚の偽物にしたがっているのです

 真の霊の動きがやむ時、「神は今、新しくされた思いを通して導いています」と悪霊どもはほのめかすかもしれません。これは、彼らの偽りの働きと、人が霊を用いていないことを隠すためのたくらみです。それと同時に偽りの光が思いを照らし、続いて偽りの推論や判断などが生じます。その人は、「自分は神からの光を持っている」と思います。なぜなら彼は、自分が「霊にしたがって歩く」ことをやめてしまったこと、そして今、天然的な思いにしたがって歩んでいることに、気づいていないからです。

 霊の人が直面するもう一つの危険は、彼を肉(体)にしたがって歩ませようとする、サタンの欺く霊どもの巧妙なたくらみにあります。欺く霊どもは、人が「霊的」だと思う感覚を体の中に生じさせることにより、「自分はなおも霊にしたがって歩んでいる」という確信の下で、人を肉にしたがって歩ませようとします

これらの策略を打ち破るには、超自然的事柄を知覚するすべての肉体感覚だけでなく、通常の事柄を知覚する過度の肉体感覚をも拒まなければならないことを、信者は理解しなければなりません。なぜなら両方とも、思いを「霊にしたがって歩むこと」から逸らし、肉体的な感覚に向かわせるからです。 (同上)
 

<続く>


Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑭

⑤ Dr.LukeのKFC(Kingdom fellowship church)の理念の異端性(続-3)

・魂の力によって人が自力で神に至ろうとする自己高揚の教え 東洋的神秘主義とキリスト教の混合としてのペンテコステ・カリスマ運動

先人の文献を辿って行くと、ペンテコステ・カリスマ運動がしきりに強調しているような「偽物の聖霊のバプテスマ」や「偽物の異言」、つまり、人間が正体不明の「霊」を受けて、これと親しく交わることによって、生来の自己の命を刺激して、超自然的な力を帯び、何かしら高次の存在(「神のような存在」)に高められるかのような偽りの教えは、かなり昔からキリスト教界に偽装して敬虔なクリスチャンたちの中に侵入を試みていた様子が分かる。

これまでにも書いて来たことであるが、人がキリストの十字架の贖いを信じて受け入れることなく、自己の生まれ持った力を用いて神と合一できるという考えは、神秘主義思想であり、これは根本的にはグノーシス主義と同一で、もともとは蛇(サタン)が人間に吹き込んだ偽りの思想を原点としている。

そうした神秘主義思想は、西欧諸国ではキリスト教によって封じ込められていたので、主に東洋世界で発展して来た。インドの修行僧や、異教の霊的指導者などは、人の内に眠っている生来の潜在的な力を引き出すために、祈りに加えて、断食や、修行、瞑想などに励み、その結果として、彼らが「神との合一」と呼んでいる神秘体験にあずかるだけでなく、空間や、自分の肉体の限界を超えて、世界の多くの人々や事象に霊的影響力を行使する秘訣を会得するのである。

暗闇の勢力は、人が特別な修行や瞑想や祈祷などを経験することによって、生まれながらの人間の自己の中に眠っている潜在的な能力を引き出し、人間が通常の人間の及ばない超自然的な力を手にするのを助ける。

そのような超自然的な悪魔的な力を帯びた「霊的指導者」が、インドやアジアの国々の中で影響力を行使するだけでなく、キリスト教世界にも影響を及ぼそうと試みていることについて、すでに一世紀近く前に、ジェシー・ペン-ルイス (1861–1927)などが著書において鋭い警告を発していた。

聖書は、主イエスが悪霊にとらわれていた人々を解放されたように、神の聖霊に超自然的な働きをすることができると同様、悪魔とその率いる堕落した諸霊も、偽りの奇跡を行うことができることを示している。

特に、偽預言者、偽キリストなどの、聖書の教えを曲げ、神に反逆する異端者は、自分たちがあたかも神の使いであるかのように見せかけるため、様々な超自然的な惑わしの力を魔法のように駆使して、人々を欺くと警告する。

不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:9-12)

にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。だから、気をつけていなさい。」(マルコ13:22-23)

ペン-ルイスは、このように、御言葉に背く人々が神の聖霊によらずに、人間の中にもともと存在している堕落した魂の力を発揮して行う超自然現象を、聖霊に由来する「霊の力」と区別して、「魂の力」と呼んだ。(ここで言う「魂」とは、人の生まれ持ったアダムの命のこと。)
 

「魂の力」とは何でしょう?それは「生まれながらの人」が用いる生来の潜在的な力であり、神の霊からではない力です。それでは、「霊の力」とは何でしょう?それは「霊」なる神ご自身の力であり、霊の人を通して働く力です。霊の人は御霊から生まれ、御霊によって歩み、カルバリの血の根拠に立って神に祈ります(たとえば、黙示録八章三~五節参照)。」
(『「魂の力」対「霊の力」』、ペンールイス著、「第一章 終わりの時代の危険に関する洞察


こうした「魂の力」を発揮する秘訣を会得した神秘主義者たちは、今日も、独自の「祈祷」を通して、魂の力を動員し、彼らの願いを現実にすべく、日々祈願を重ねている。従って、こうした人々の行使する「祈り」とは、ただ単に存在しない神に捧げられる無意味な所業というよりは、悪霊の力を動員して、その影響力を標的に向かって行使するための呪術的な要素を帯びたものと言えるのである。
 

「『魂の力』という言葉の魅力や魔力は、東洋でだけ知られています。東洋では、マハトマのような聖人はこの力を行使することができると信じられています。彼らは過去数世紀にわたってインドの霊的指導者でした。そして、昔と同じように今も、超自然的な力を持つと信じられています。彼らは人を強める力を持つだけでなく、人の意志をコントロールする力も持つと言われています

インド人の宗教生活は、まぎれもなく、これらの魂の力を発達させています。キリストの福音を知らない数十万の人々が、ある特定の対象に向けて強烈な「祈り」を放つ効果は、いかばかりでしょう。彼らはこの世の神に導かれて、自分の望む対象に魂の力を「投影」しているのです。」

私たちの周りでも、意識的・無意識的に、この魂の力が発達・行使されつつあるのです。目に見えない悪の軍勢は、この「魂の力」を利用することができます。」


「イスラム教徒はみな、世界を動かす力の秘訣は祈りにあると信じています。そして、彼らは信じることを実行します。彼らは『祈り』、ヨーロッパ諸国の議会が覆されることを信じます。これはキリスト教国に対する何という教訓でしょうか!」


「ヒンズー教徒とイスラム教徒は、祈り――瞑想行為――によって結ばれて、共に『魂の力』を生み出す働きに従事しています。彼らは、東洋における西洋諸国の権力や威信を失墜させるために、『魂の力』を西洋諸国の上に投影しているのです。これは歴史上最大の反乱です!……」(同上)


ここではヒンズー教やイスラム教のことしか触れられていないが、禅、仏教、国家神道の礼拝なども、全てここに含まれる。たとえば、なぜ安倍首相が公務の合間に、政教分離の原則に反して、神社参拝を繰り返しているのかも、そこから理解できよう。政治指導者が己の支配を強化するために、オカルト的な力に頼ることは、東洋諸国では珍しいことではないのである。

悪霊に由来する呪術的・超自然的な力は、瞑想、断食、祈祷と言った特別な修行を通して引き出され、そうした方法で、導師と呼ばれる霊的指導者は、己の肉体を超越して多くの人々に影響力を行使する秘訣を会得する。
 

「この『魂の力』は、祈りや、断食や、宗教的な瞑想によって開拓されると信じられています。」

「ペンバーの「地球の幼年期」の中に、これに光を当てる節があります。彼は次のように記しています。「『魂の力』を生み出すためには、肉体を魂の支配下に置かなければならない。そうすることによって、自分の魂と霊を投影し、地上に生きていながら、あたかも肉体を持たない霊のように行動することができるようになる」

この力を会得した人は『導師』と呼ばれており……意識的に他人の心の中を覗くことができる。彼は自分の『魂の力』によって、外界の諸霊に働きかけることができる。……彼は凶暴な野生の獣をおとなしくさせ、自分の魂を遠方に送ることができる」

「彼は遠くにいる友人に、肉の体と同じ様で自分の霊の体を見せることができる」

「長期間の訓練によってのみ、これらの能力を会得することができる。訓練の目的は、体を完全に服従させて、一切の喜び、痛み、地的情動に対して無感覚にならせることである」(同上)


このように、人が生まれ持った自己、すなわち、「魂の力」を高揚させ、啓発することによって、超自然的な力を帯びるという、「偽りの霊性」は、主に東洋世界で受け継がれて来たが、ペン-ルイスは、こうした悪霊に由来する力が、あたかも神の聖霊の働きを装って、キリスト教界に公然と流入しようとしている危険性に気づき、警告を発していたのである。

ペン-ルイスは、今日、キリスト教界で流行し、あたかも聖霊の賜物であるかのように誇示されている「聖霊のバプテスマ」や「異言」の多くが、上記のような堕落した「魂の力」であると指摘する。

 

「ですから、今日流行している「魂」の力は「霊」ではありません。なぜなら、それはまったく、人の堕落した性質に属しているからです「魂の能力」を発達させることは、「生まれながらの人」の中に眠っている能力を引き出して、働かせることです。」

魂の力を完全に発達させるには、超自然的力が必要なようです。そして、堕落以降、魂の力は神の力によってではなく、サタンの力によって発達させられています。こう考えると、これまで説明できなかった多くのこと――ここ数年の間に神の子供たちの多くが経験した、悪魔の超自然的働きの台頭――を説明することができます

これはまた、神からのものであると思われた「力のバプテスマ」が、どうして、深い謙遜、砕かれた霊、人々に対する優しい愛情、自己放棄を生み出さずに、個人的な力を誇示する「利己主義」という結果になりえたのかをも説明します。
(同上、第五章 魂的なものを「霊的」と呼ぶ危険性」)


以上のような警告を踏まえると、なぜ今日、Dr.LukeのKFCなどを含む、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが、自分たちは聖書の神を信じていると言って、「聖霊のバプテスマ」をしきりに主張しながら、他方では、公然と己の肉欲に邁進して、特権的で贅沢な生活を人前に見せびらかしたり、誰にも理解できない「異言」を人前で滔々と披露したり、他の人々を床に倒れさせたりするような、圧倒的な超自然的力を誇示することにより、自分たちが他のクリスチャンに比べていかに優れた存在であるかを誇示して自己満悦に浸り、自分よりも弱い信者を攻撃し、踏みつけにしては、隅に追いやろうとしているのかが理解できる。

それは彼らが受けた「霊」が、神の聖霊ではなく、人の内にもともと眠っている堕落した力に由来する自己高揚を目的とする偽りの霊だからである。

神の聖霊は必ず、人の自己をカルバリの十字架の死へもたらす。そこにあるのは悪魔的な高慢や、自惚れや、自己宣伝とは対極にある、キリストと共なる自己の死という究極の謙遜である。十字架は人の生まれ持った自己の欲望、自惚れ、自己義認、プライドなどに対する死の判決であり、これを経由した人にのみ御霊は注がれる。

主イエスが「御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16:14)と言われた通り、御霊はただキリストを証し、キリストに栄光を帰するのであって、人間の栄光を求めることは決してない。

このように、真に神の聖霊を受けた人々が、ただキリストだけが栄光を受けられるようにと願い、決して自己を証せず、自分自身の栄光を求めないのに対し、神の聖霊ではなく、悪魔に由来する「この世の霊」を受けた人々は、自分を高く掲げ、己の賢さ、裕福さ、他の人々にはない優れた賜物や、恵まれた特権的な地位などを誇って、自分がいかに他の信者に比べて別格の存在であるかを強調する。
 
それは自己高揚、自己栄化、自己義認、自己満悦などにより、人の自己を肥大化させて、神と人への反逆に至らせる高慢の霊である。
 
そのような偽りの霊を信じて受け入れた人々は、他者を押しのけて肉欲に邁進するだけでなく、必ず、やがて自分を神以上に優れた者とするという高慢に至る。彼らは、聖書の教義を歪曲し、贖い主であるキリストを否定して、自ら救いから除外されて行くだけでなく、やがて最終的には、「自分は神である(私はキリストである)!」と名乗ることによって、神の地位を乗っ取り、人々にまことの神ではなく自分自身を拝ませて、滅びの道連れにして行くのである。

こうした人々が神の裁きを免れて滅ぼされないで済むことは決してない。

人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24:4-5)

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。

また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。
」(Ⅱペテロ2:1-3)

「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、
多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18)



「東洋的な偽りの霊性」の危険 インドの行者サンダー・シングの霊に自己を乗っ取られたDr.Lukeとcandy氏

これまでにも述べて来たことであるが、聖書に登場する終末の背教の象徴であるバビロンとは、キリスト教と東洋的神秘主義思想の混合を指しているように筆者には思われてならない。

終わりの時代の背教においては、インドやアジアの「霊的指導者」たちの間で開拓されて来たような、人の生まれながらの「魂の力」に由来する偽りの「霊性」が、あたかも神の聖霊の働きであるかのように偽装して、キリスト教界に潜り込み、キリスト教との一大混合物を形成することが、大きな特徴をなすものと考えられる。

そのようにして「西洋キリスト教と東洋神秘主義思想とを合体」させようとする試みの一つが、「キリスト教には父性原理の排他性ばかりが強すぎて、受容する母性が足りない」などと主張して、あたかもキリスト教そのものに欠陥があるかのように述べて、これに東洋的な母性原理をつけ加えることによって、聖書の御言葉を骨抜きにしようとする運動である。

(ここで言う「母性的要素」というのは要するに「造られたもの(被造物)」としての人類(男から造られた者が女であるのと同様に、神から造られたものとしての人類)を象徴的に指しており、従って、これは堕落した被造物としての人類を神に「つけ加えよう」とする思想なのだと言える。)
 
すでに確認した通り、ペンテコステ・カリスマ運動はその一つであり、カリスマ運動の指導者である手束正昭牧師は、養子論的キリスト論を唱えてイエスの定義を歪曲し、聖霊を「母なる霊」とみなし、「聖霊のバプテスマ」を受けることによって、信者が高次元の存在に引き上げられ、「ナザレのイエスのように質の高い人生を生きることができる」かのように教える。

このような教えは、聖書の三位一体の概念や、イエスの概念を歪曲し、神の聖霊ではない
「異なる霊」との交わりを通じて、信者が神との合一に達しうると教える偽りの教えであり、もとは東洋的神秘主義に由来する「偽りの霊性」に信者を駆り立てる教えである。
 
(「神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。」(箴言40:6)
と聖書にあるにも関わらず、聖書や、聖書の神ご自身に不備や欠陥があるかのように主張して、何かを「つけ加えよう」とする者たちの精神の何と高慢で御言葉に逆らっていることか。)

さて、同様の危険が、サンダー・シングの教えにある。聖書の御言葉の知的学びを軽視し、「神(実在)との交わり」という個人体験を何よりも重視するサンダー・シングの教えは、ペンテコステ・カリスマ運動と基礎を同じくするものだと言える。

Dr.Lukeとサンダー・シングとの接触は、2008年頃に始まったものと見られ、同氏は「ニッポンキリスト教vs.サンダー・シング」(2008年1月12日)、「サンダー・シングの霊性」(2008年1月14日)、「サンダー・シングのことば」(2008年1月17日)などの一連のブログ記事で、愛知家のさっちゃん(名古屋のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒、現在は「十字架の恵みが溢れて2」を執筆するcandy氏)の紹介を通じてサンダー・シングの教えに傾倒して行った様子を自ら記している。

Dr.Lukeはサンダー・シングの教えを「東洋的霊性」として高く評価し、これを聖書に照らし合わせて検証・批判することなく、無批判にその教えを取り入れ、さらに標題からも分かるように、サンダー・シングの教えを霊的な潤いを失ったニッポンキリスト教界に対比させて、キリスト教界を非難する格好の材料として利用した。
  

「インドを愛したシング師は、西欧流のキリスト教ではなく、東洋の霊性に通じるイエスを再発見し、自分の生活と伝道のスタイルに、インドの行者サドゥーの形式を採り入れました。」

「西洋キリスト教ではなく、東洋的な霊性をキリストに見出したというあたりは、ウォッチマン・ニーとも通じる感じがしますし、私的には大いに惹かれるところです。」サンダー・シングの霊性」より抜粋


このように、Dr.Lukeがサンダー・シングの教えに無批判に傾倒して行った最大の原因の一つは、それが人の五感に巧みに訴えかける魅力的で「良さそうな教え」だったことに加え、サンダー・シングの教えの根底に、伝統的なキリスト教に対する敵意と侮蔑があって、個人的な神秘体験を通して、通常のクリスチャンにはかなわない霊的高みに到達し、それによって伝統的キリスト教を超越することができるかのような偽りが述べられていたことであったと見られる。

つまり、伝統的なキリスト教に対するサンダー・シングの容赦のない蔑みと非難の感情が、ニッポンキリスト教界に対するDr.Lukeの嘲笑と非難にぴったり重なったのである。

サンダー・シングは、インドの裕福なヒンドゥー教徒の領主の家に生まれ、幼い頃からサードゥーを目指してインドの古典的哲学やコーラン等の教えに通じ、また、ミッションスクールで教育を受けるなど、恵まれた英才教育を受けた。しかし、キリスト教に回心して後に、すでに書いたように、同氏は西欧キリスト教の「傲慢さ」や「排他性」に幻滅し、それ以後、東洋諸国の人々を対象に、「神は愛だから誰をも裁いたりなさらない」という、聖書とは全く異なる「愛と受容の(母性的)福音」を宣べ伝えた。

幼い頃よりヨーガやサマーディ(瞑想)などを習得していたサンダー・シングは、キリスト教徒を名乗るようになった後も、瞑想を通じて霊界と交信し、「神(実在)との交わりを楽しむ」ことを強調して、多くの神秘体験を経たことを著書に記している。同氏の著書『聖なる導き インド永遠の書』の約半分は、霊界における死霊との交流というオカルト的な話題に割かれており、こうしたサンダー・シングの教えは、明らかに、キリスト教と、東洋神秘主義が合体した混合の教えである。

Dr.Lukeは(candy氏もそうであるが)、その時期、時期によって複数の霊的先人の教えを積極的に取り入れては、その受け売りを繰り返しており、もともとそれらの引用のすべてが本人の内なる信仰と結びつかない、表面的な借り物に過ぎなかった可能性が高い。

場合によっては、それらのアイテムは、偽りの霊が自分自身を敬虔なキリスト教徒に偽装するために寄せ集めた飾りのようなものであった可能性も考えられる。
 
偽りの教えを信じる人々は、初めから自分たちが神やキリストであると名乗って反キリストとしての正体を現したりはしない。こうした運動の支持者たちは、信者たちの信用を得るために、自分たちが宣べ伝えている教えが、あたかも聖書に合致するキリスト教であるかのように見せかけるために、敬虔な信者たちの告白など、様々なツールを駆使する。

だが、彼らには一つの特徴があって、そのようにして、一方では、自分はクリスチャンの仲間であり、とりわけ熱心に聖書の真理を探究しているかのように振る舞いながらも、他方では、従来の伝統的なキリスト教全体に対する嫌悪や侮蔑を示して、自分たちは凡庸な信者たちの決して知ることのない霊的高みを実際に知っている別格の存在なのだと自分を誇示するのである。

すでに書いたように、筆者もcandy氏からサンダー・シングの教えを紹介されたが、この著書の危険性に気づいたため、candy氏とLuke氏の両氏に、このような聖書に反する偽りの教えを言い広めることは重大な罪に当たり、それを奉ずれば、自身の救いをも失う危険があるため、この偽りの教えを公に撤回して放棄することを強く勧めた。放置しておけば、必ずや、異端者の霊に人格全体を乗っ取られるであろうと判断したのである。

だが、時すでに遅く、同氏らはあまりにも深くサンダー・シングの教えに魅了されていたので、筆者の忠告を真に受けることなく、むしろサンダー・シングを擁護して筆者に異端者の濡れ衣を着せ、この危険な教えと公に手を切ることをしなかった。

その結果、何が起きたのかと言えば、両者ともに、聖書から公然と逸脱して、自分自身をキリスト(神)と同一視し始め、自己の神格化という現象が起きたのである。

以下にも述べるように、Dr.Lukeのメッセージには実に多くの点で、今日もサンダー・シングとの共通性が見られる。明らかに、サンダー・シングの霊に人格が乗っ取られて行く様子が、Dr.Lukeのメッセージ内容の変化から見て取れるのである。

Dr.Lukeがウォッチマン・ニーの教えに熱中していた頃には、同氏はまだ人類の罪や、キリストの十字架の贖いを公然と否定するまでには至っていなかった。しかし、同氏がサンダー・シングの教えを受け入れた後には、同氏の中からは、人類の罪や、贖いとしてのキリストの十字架と言った、生まれながらの人間にとって都合の悪い概念が消え失せ、サンダー・シングと同じように、自らを罪人と一体化するために死んだという、人間の罪を指摘しない、人間にとって都合よく歪曲された「異なるイエス」像と、「感覚世界において神の臨在を味わい、神との交わりを楽しむことによって、人は神と合一できる」という、サンダー・シングとペンテコステ運動に共通する神秘主義思想だけが残ったのである。

今日、サンダー・シングはすでに死んでいないが、その著書を通して、悪霊に由来する力を未だ読者に行使することが可能であるため、信者は注意しなければならない。以前にも書いた通り、サンダー・シングの文体には、東洋人の感性に巧みに訴えかける強力な影響力があり、その影響力は、ただ単に同氏の巧みな文章力から来るものではなく、サンダー・シングが生前に開拓した悪霊に由来するオカルト的な霊的影響力であるため、注意が必要である。
 
今日、悪霊どもは、サンダー・シングの文章を通して、サンダー・シングに見せたのと同じような、「偽りの霊界の幻」を、読者たちにリアリティであると信じさせようと狙っている。それと知らずに、信者が彼の著書をキリスト教の書物だと考えて手に取り、そこに描かれている魅力的で「良さそうな」幻想の世界に没入して行くと、サンダー・シングを導いていたのと同じ高慢の霊を、自分の中に取り入れてしまうことになりかねない。

サンダー・シングに限らず、鈴木大拙もそうであるが、東洋思想家の著書を引用するときは、特に注意が必要である。もし、その文章を聖書に照らし合わせて、その偽りを論破して、影響力を封じ込めることをせず、無批判に引用すれば、信者はその影響力を肯定して自分の内に取り入れてしまうことになる。
 
そのようなことが起きると、信者の内側に入りこんだ偽りの霊は、聖霊に偽装しながら、長い時間をかけて、宿主を欺き、徐々に宿主の人格と一体化して行く。悪霊は、時間の経過と共にその影響力を増し加え、やがて、時が来ると、宿主の人格を完全に乗っ取り、これを食い破る形で、聖書に反する自らの主張を公然と示し、可能な限り大勢の関係者を欺きに巻き込みながら、本人もろともに、神に対する反逆へと駆り立てて、破滅に至らせるのである。

そのようなことが起きないためには、信者は常日頃から自分の行う信仰告白の内容や、他者から聞いた教えを、良さそうだからといってすべて無批判に肯定することなく、常に聖書に照らし合わせて、御言葉との矛盾がないかどうかを点検・吟味し、聖書にそぐわない教えを拒み、これと訣別を宣言する必要がある。その作業をやめた場合には、たとえ信者であっても、次のようになることは避けられない。

「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住み着くのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」(マタイ12:43-44)

義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。」(Ⅱペテロ2:21)

<続く>


Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑬

⑤ Dr.LukeのKFC(Kingdom fellowship church)の理念の異端性(続-2)

無意味な音声には人間の魂を救う力はない。御言葉を聞いても従わず、自分を欺くDr.LukeとKFC
 
一つ前の記事ですでに見た通り、Dr.Lukeは、聖書の御言葉から意味を除き去り、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)という御言葉の意味をも歪曲し、これを無意味な「霊の振動・波動」に耳を傾け、音声化する作業へと変えてしまう。
 

みなさん、信仰っていうのは、じゃあ、どっから生まれるんでしたっけ。信仰は聞くことからくる。聞くことはキリストのことば。あれはレーマです。レーマを聞くこと。
レーマっていうのは、言葉ってのは、前も言ったように振動なんですよ。霊的な振動があるんです。波動があるんです。それの波動に私たちが調和してしているかどうか。

この霊の振動があるんです。それにぼくらがチューニングしてる。調和してること。だから、聞くことがすべての鍵なんです。この聞くということ、私たちこれから聞いた者が、勝ちです。

神のことばを語るってのは、前も言いました、聖書を朗読することではない。内なる聖霊が動く、神が動く、父が語ることばを語ることなんですよ。イエスご自身がそうやってみわざをしたって言ってるでしょ。」

 
しかし、Dr.Lukeの上記の主張を裏づける根拠は聖書にはない。聖書はこう述べる。

「「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:8-10)

「「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。」(ローマ10:16)
 
このように、「キリストについてのみことば」を「聞く」とは、断じて、Dr.Lukeの言うように、霊界からの意味不明な信号としての「霊の波動・振動」に耳を傾けることではなく、「良い知らせ」であるキリストの福音を聞くことを指している。

人は聖書の御言葉に基づいて、神の福音を心に受け入れ、心に信じた事柄を口で告白して救われるのであり、どんなに「聞くことがすべての鍵なんです。」、「私たちこれから聞いた者が、勝ちです。」などと叫んでみても、その信者が一体、何を聞いたのか、何を告白したのか、その内容によって、永遠にその人の生死が分かたれる。

Dr.Lukeの言うように、霊界からの意味不明な信号としての「霊の波動・振動」をどんなに沢山キャッチして、それを機械的に音声化したとしても、信者自身が自分で何を語っているのか、意味さえ分からないような「祈り」や「告白」に、信者の魂を救う力はない。
 
しかも、聖書ははっきりと、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)と、聖書の御言葉を聞くだけでも不十分であり、これに従わなければ意味がないことを信者に教えている。「すべての人が福音に従ったのではありません。」とある通り、御言葉を聞いても従わず、実行に移そうともしない人間は、自分で自分を欺いているのであり、そのような人間は救いの対象ではなく、罪に定められ、神の怒りがその人間の上にとどまるのである。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)

だが、Dr.Lukeはまるで聖書そのものから信者の注意をそらそうとするかのように、「神のことばを語るってのは、聖書を朗読することではない。」と述べて、無意味な「霊の波動や振動」にばかりに注意を向けさせ、御言葉の意味内容を考えようともせず、それに従うこともしないのである。

この点で、全くDr.LukeやKFCほど「自分を欺いて、ただ聞くだけの者」となっている者はいない。しかも、彼らが「聞いた者が、勝ちです。」などと言って勝ち誇っている内容が、霊界からの得体のしれない「波動」なのだから、これほど荒唐無稽な「福音」ばないと呆れるのみである。彼らはもはや自分たちが何を信じて告白しているのか、その内容すらも見失っているのである。
 



・神のみことばを授かった者は、自分の十字架を負って、何が聖であり、何が汚れたものであるのか、民の前に峻厳な区別を提示する重大な責任を帯びた
 
Dr.Lukeは、御言葉の意味を骨抜きにするのと同様、御言葉を守り、従うという「行い」や「わざ」の意味をも極端なまでに歪曲する。
 

「「そしてあなたがたはわたしのわざを行ない、わたしのわざよりはるかに大いなるわざを行なう」 誰が言ったんですか。イエスご自身です。

わたしたちがわざを行うのは、内なる霊の波動を語ることです。Amen? 語るっていうのは、いわゆる、行ないとして何とかかんとかじゃないのよ。嗣業として何とかかんとかじゃない。内なる霊が動くから、語りたくなっちゃうんです。

ホセアでしたっけ、えーと、誰だっけ、内側で御言葉が燃えて、燃えて、ね、内側にもうとどめおくことができないって言ったよね。誰だっけ、あれ? ホセアでしたっけ? ネヘミヤだった? ホセアでしたっけね? 内側でみことばが燃えて燃えてしょうがないって書いてある。だから私は語るんだって。ね、そうやって証してますけども。我々の内に燃えるんです。燃える。それを降ろさないと、降ろさないと、もう自分がどうかなっちゃうわけです。」(2:32:11-2:33:32)


Dr.Lukeは言う、「わたしたちがわざを行うのは、内なる霊の波動を語ることです。」と。

しかし、そんな記述も、聖書には一切存在しない。主イエスが言われた
「わたし(イエス)を信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)
という御言葉で述べられている「わたしの行なうわざ」の内容が具体的にどんなものであるのかは、イザヤ書に明確な記述がある。

神である主の霊が、わたしの上にある。はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現すの植木と呼ばれよう。」(イザヤ61:1-3)

このように、主イエスの行われた「わざ」とは、何よりも、心貧しい者たちに「良い知らせ」である福音を宣べ伝え、悲しむ者を慰め、心の傷ついた者を癒し、悪魔の捕われ人となっている人々を解放し、神を信じ、忠実に従う人々には真理にある自由を、信じず従わない人々には神の裁きと永遠の滅びを公然と示し、父なる神に栄光を帰し、ご自身の贖いのみわざを世に示されることであった。

しかし、Dr.Lukeは主イエスの行われた「わざ」の中から、御言葉に定義されているこれらの具体性を全て除き去り、「わたしたちがわざを行うのは、内なる霊の波動を語ることです。」と、聖書には全く記載がない定義づけを行い、「語るっていうのは、いわゆる、行ないとして何とかかんとかじゃないのよ。嗣業として何とかかんとかじゃない。内なる霊が動くから、語りたくなっちゃうんです。」などと、何の意味も持たない「内なる霊の波動を語る」ことが「わざを行なう」ことだと歪曲する。
 
さらに、「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃え盛る火のようになり、私はうちにしまっておくのに、疲れて耐えられません。」(エレミヤ20:9)と語った預言者の名前さえも、Dr.Lukeは思い出せないのである。

こうした様子は、同氏がいかに聖書から遠ざかった日々を送っているか、また、いかに急速な思考の衰えと忘却に直面しているかという事実を伺わせる。

実は、こうした忘却や、急速な思考の衰え、視野の狭窄、無知、短気、幼児化などの現象の中には、悪霊が原因となって引き起こされるものも多い。偽りの教えは、これを受け入れた人の思考を、以前に比べると極端なまでに狭めたり、優れた能力を持っていたはずの人に、通常人をはるかに下回るような衰えや故障を引き起こしたりすることができるのである。

さて、旧約聖書を見ると、預言者エレミヤに授けられた「神のことば」の内容は、背教に陥った民に対する神の裁きを宣告するという、非常に厳しいメッセージであったことが分かる。

預言者エレミヤに限らず、聖書を振り返るなら、神から人に託されたメッセージが、神に従わないこの世の生まれながらの人間にとって心地よく優しい内容だったことは全くと言って良いほどない。

神のことばは、常にそれを聞いた人々に従順を要求し、これが守られない場合には、厳しい罰が待ち受けていることを告げ知らせるものであった。このように、神の御言葉は常に、神に属する聖なるものと、汚れたものとの違いを明確に区別して、両者を切り分け、人々にどちらを選ぶのか、選択を迫る役割を担っていた。

神のことばは常に、それを授かった人間を、世の側から引き離し、人類の利益の代表者ではなく、神の権益の代表者として立たせたのであり、それゆえ、それを授かった人間は、人前で栄光を受けることはなく、むしろ、世の憎しみや恨みや反発にさらされるという代価を要求されたのである。

エレミヤも、民の背信の罪を暴き出し、これを叱責する役目を負わされたために、人々に憎まれ、命を狙われ、その迫害の激しさゆえに、「わたしの生まれた日は、のろわれよ」(エレミヤ20:14)とまで言わずにいられないほど追い込まれた。
  
このように、「神のことば」を授かることに、代価としての十字架が伴わなかったことは一度もない。

にも関わらず、すべての障害を乗り越えて、神が命じられたことばを宣べ伝える力を、神ご自身が、僕らに付与された。預言者エレミヤも含め、暗闇の勢力からのあらゆる妨害に耐え抜いて、どんな代価を支払ってでも、神の御言葉を宣べ伝える重大な責務に耐えうるように、御言葉を語る力を、、神ご自身が僕らに与え、彼らを奮い立たせたのである。

従って、旧約聖書でエレミヤが「主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃え盛る火のようになり…」と述べているのも、こうした文脈でこそとらえなければならない。

エレミヤが授かっていたメッセージは、決して、彼自身にとっても、すすんで人々に語りたいと願うような、心地よい内容ではなく、Dr.Lukeの言う「内なる霊が動くから、語りたくなっちゃう」などという軽薄なレベルの衝動とはおよそ無縁であった。
   
今日も、神のことばを真に授かった信者たちは、みな主イエスにならって、日々自分の十字架を負って主イエスに従うのである。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16:24-25)
 
内なる霊が動くから、語りたくなっちゃう」などと、十字架を負うことを拒み、ひたすら自己を喜ばせる心地よい活動だけに邁進しているDr.LukeとKFCが、神の僕としての条件をどれ一つ満たしていないことは明白である。この人々は「神のことば」を預かって語っているのではなく、反キリストの偽りの霊に憑りつかれているだけである。



・自己を神格化したDr.LukeとKFC 御霊はキリストの栄光を証するが、この世の霊は人間を高ぶりに陥らせる

キリストの御霊とは、すでに確認したように「わたし(=イエス)のものを受けて、あなたがたに知らせる」(ヨハネ16:14)。御霊は、罪なき神の独り子でありながら、死に至るまでの従順を通して、人類の罪の身代わりとして十字架で贖いを完成されたキリストを証し、キリストだけに栄光を帰する。

これに対して、反キリストの霊は、あたかもイエスを証しているようでありながら、「異なるイエス」「異なる福音」を作り出して、イエスの定義を歪曲し、最終的には、キリストの十字架を否定して、人類の罪を正当化し、人の自己を高く掲げてこれを栄光化、神格化する。

すでに述べた通り、人類に対する悪魔の誘惑の手口は、有史以来変わっておらず、それは人類が神の御言葉に背いて、己の情と感覚(欲)に従って生きるようにそそのかし、なおかつ、その反逆によって、人間が破滅するどころか、「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と、人が神以上の存在になれるかのように偽りを吹き込むものである。

もともと悪魔はその高ぶりのゆえに神に反逆し、永遠の滅びに定められているのであるが、悪魔の送り出す「反キリストの霊」も、これを受け入れた人間に、悪魔と同じ高ぶりをもたらすのだと言って差し支えない。

Dr.Lukeのメッセージには、こうした悪魔的反逆の思想が余すところなく表れている。
 
前述のくだりでも、同氏は、「神のことばを語るってのは、前も言いました、聖書を朗読することではない。内なる聖霊が動く、神が動く、父が語ることばを語ることなんですよ。」と述べて、自分たちは「父なる神のことば」を授かって語っていると述べているが、聖書は、今日、クリスチャンがキリストを介さずに、直接、「父(なる神)が語ることば」を受けて語ることができるとは教えていない。
 
「神と人とのあいだの 仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)とある通り、新約の時代には、父なる神と信者との間には、あくまで仲介者としてのキリストが存在しているのであり、キリストを介さずに父なる神と直接、交わることのできる人間は一人もいないのである。

ところが、Dr.Lukeは、旧約聖書のモーセの例を引き合いに出して、異言を語る者は、父なる神の言葉を授かって語るのだから、神に代わって神の言葉を語っているのであり、従って、その信者は「神である」と宣言する。
 

「ちょと前置き長かったけれども、言いたいこと、この前ですね。出エジプト7の1で、『主はモーセに言われた。見よ、私はあなたをファラオに対して』、これ、『神の代わり』、新共同訳では、『神の代わり』、となってますが、原文では、『神とする』。前も言いましたね、新改訳では、神のようなもの、『神とし』、エロヒムとするんです。

みなさんね、私たちは神になっちゃうわけじゃないですよ、もちろん。だけど、この霊が、我々の中に染み込んで、内側には父と子と聖霊、その三位一体の神がおられる、そのお方が内側で波動を起こすその波動を語り出すということは、我々は神の言葉を語ってるでしょ。

神の言葉を語るってのは、聖書を朗読することじゃない。内なる神の言葉をほんとに語るんです。じゃ、皆さんは何なの? 神ですAmen? 」(2:22:54-2:24:02)


「出エジプト4の16、ちょっと戻って下さい。ここでモーセが召命を受けます。で、一生懸命、私は口が重いとか、もうね、誰も言うことを聞かないとか、ね、神と、争うわけです。で、『アロンを私はあなたに与える。彼によく話し、語るべきことばを託すがよい。私はあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう、彼はあなたに代わって民に代わり、彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して』、ここまたね、『神の代わりとなる』、と書いてあるんです。『神とする』、です。新改訳では、『神の代わり』。『神とする』。つまりモーセとアロンが、神のことばを代わって語る、神なんです」(2:24:02-2:25:05)


だからモーセは、パロに対しては神なんです。なぜ? 神のことばを語るからです。モーセと、あ、アロンと、ね、えー。アロンか、アロンは、あれはモーセに対して神とされたんです。なぜ?神のことばを語ったからです。あずかって。

つまり、我々、いいですか、内なる霊から生まれる父の霊は、これは霊的な振動です。言葉です。言葉って振動でしょ。この振動が霊の中で起きて来る。波動が起きて来る。それに調和した私たちの霊が、何らかの印象を受ける。そのまんま音声にすれば異言です。それを思いで解釈して言葉にする。あるいはみことばと照らして語り出せば、それは預言です。これをなす存在が、神なんです。わたしたちは、神なんです」(2:27:23-2:28:35)


ここではっきりと、Dr.Lukeは、「自分たちは神々だ」と宣言して、聖書に対する冒涜的な思想を披露している。すなわち、主イエスの定義を歪曲し、霊界と交信した結果、正体不明の霊の言うことをに聞き従い、意味すらも持たない、「内なる波動」を語る彼らが、「神のことば」を授かっているから、「神である」と言うのである。
  
このような主張を正当化するために、Dr.Lukeがどんな説明をしているかを見てみよう。
 

「詩編82 の6。『わたしは言った、あなたたちは神々だ。みないと高き方の子らなのか。』新改訳はどうなってます? 『あなたがたは神々だ。』Amen。

どういうこと? これを受けてヨハネ10の34見て下さい。これね、イエスがね、神の子だと言ったら、律法学者たちは反対したわけです。それに対して主はですね、ヨハネ10の34、『そこでイエスは言われた。』その前を見ると、『あなたは人間なのに自分を神としている』それは冒涜だって言ってるわけです。

そこでイエスは言われた、『あなたたちの律法に、私は言う、あなたたちは神々である、と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが神々と呼ばれている。そして聖書が廃れることはあり得ない。それなら、父から聖なる者として世に遣わされたわたしが、わたしは神の子であると言ったからとて、どうして神を冒涜していると言うのか。

もしわたしが父のわざを行なっていないのであれば、わたしを信じなくとも良い。しかし行っているのであれば、わたしを信じなくとも、そのわざを信じなさい。父がわたしの内におられ、わたしが父のうちにいると、あなたたちは知り、また、悟るであろう。』

はい。今、詩編の言葉をイエスは受けたね。『神々』って何ですか。『神のことばをあずかっている人』 Amen? 」(2:27:23-2:25:05)


このメッセージの異常さを理解するためには、ここで引用されている主イエスの御言葉と詩編とを、前後の文脈をきちんと踏まえて理解することが必要である。

まずは、新約で主イエスの述べられた次の御言葉から見てみよう。

「ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」

 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。」(ヨハネ10:33-36)

これは主イエスがご自分を「神の子である」と言われたことに対し、ユダヤ人たちが反発して、「あなたは人間に過ぎないのに自分を神としているのだから、神を冒涜している」と言って非難する場面である。

ユダヤ人たちは、イエスが神の独り子であるという事実を認められないために、イエスが「私は神の子である」と言ったこと自体が、神に対する許しがたい冒涜だとみなして憤るのである。

だが、これに対して、イエスは旧約聖書の詩編82編を引用して反論された。
 
主イエスのこの反論の意味を理解するためには、この詩編が書かれた時代背景を踏まえておかなければならない。

主イエスはここで、旧約聖書では「神のことばを受けた人々が、神々と呼ばれていた事実があった」という事実を示されたのであるが、この詩編が書かれた当時、イスラエルには、民の間に生じた争い事を仲裁するための裁き人(裁判官、判事)が存在していた。彼らは、神に代わって善悪を判断するというその職務の重さゆえに、人々から尊敬の意味を込めて「神々」と呼ばれていた。

しかしながら、その裁判官らは、自分たちが「神々」と呼ばれて民の間で持ち上げられていることで高慢になって他者を見下していた上、賄賂を取って悪者の顔を立て、貧しい人々を不利に陥れる不公平な裁きを行い、神に代わって人を裁くという崇高な務めをきちんと果たさず、その尊厳に全くふさわしくないものに歪めてしまっていた。

そこで、詩編を書いたダビデは、そのように正義を曲げて、寄る辺ない弱く貧しい者たちを虐げる役に立たない不義なる裁判官が「神々」と呼ばれていることに憤りを示し、まことの神ご自身が、こうした不義なる裁判官らの間に立って、彼らを裁き、彼らの不正を正し、模範を示して下さるように、貧しく寄る辺ない人々を、残忍な彼らの手から救い出し、民に直接、正しい裁きを示し、民を救って下さるようにと求めたのである。

イエスが引用された詩編82編の全体を引用しよう。

「神は神の会衆の中に立つ。
 
神は神々の間中で、さばきを下す。
 
いつまでおまえたちは、不正なさばきを行ない、
 
悪者どもの顔を立てるのか。
 
弱い者とみなしごとのためにさばき、
 悩む者と乏しい者の権利を認めよ。
 
弱い者と貧しい者とを助け出し、
 
悪者どもの手から救い出せ。

 彼らは、知らない。また、悟らない。
 
彼らは、暗やみの中を歩き回る。
 地の基は、ことごとく揺らいでいる。

 
わたしは言った。「おまえたちは神々だ。
 
おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。
 
にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、
 
君主たちのひとりのように倒れよう。

 神よ。立ち上がって、地をさばいてください。
 
まことに、すべての国々はあなたが、
 ご自分のものとしておられます。」


従って、主イエスがこの詩編を引用して、人間に過ぎない不義なる裁判官らが「神々」と呼ばれていた時代があったことを示されたのは、決して、不義なる裁判官らを「神々」として賞賛するためではなかったのだと言える。

むしろ、これは、自分たちは「神々だ」と吹聴して、高慢に陥っていた不義なる裁判官たちの姿を、主イエスが地上におられた当時、自分たちは律法を忠実に守っている宗教指導者であるから、平凡な信者たちとは別格の存在であるとみなして自分を聖なる存在であるかのように誇り、人々に尊敬を要求していた当時の律法学者やパリサイ人などの姿に重ね、彼らの偽りを論破し、その高慢さを罪に定めるために用いられた一種の逆説であることが分かるのである。

すなわち、人類はかつて、神々と呼ばれるに全くふさわしくない不正な人々を、神々と呼んで誇っていた時代があったわけだが、その当時、人間を高く掲げるその呼び名が、まことの神に対する冒涜であるとも思っていなかった。ところが、そのようなことを自ら行っていた人類が、今、本当に神の御子であるイエス・キリストが地上に来られて、ご自分が「神の子である」と主張されたからと言って、なぜそれを冒涜だと非難する資格があるのか。自分たちを「神々だ」と呼ぶことは正当化しながらも、なぜまことの神の独り子が来て「わたしは神の子である」と言ったことを、冒涜だと言って罪に定めようとするのか。そんな理屈は全く支離滅裂で筋が通っていない、ということを主イエスはユダヤ人たちに示されたのである。
 
実は主イエスが引用された詩編の「わたしは言った。「おまえたちは神々だ。」という個所が書かれた文脈も、主イエスが述べられたのと全く同じように、決して、不義なる裁判官らを誉め讃えるためのものではなく、むしろ、この記述を通して、不義なる裁き人たちの不正と高慢を罪に定めることこそ、真の狙いだったことが分かる。
 
そのことはこの詩編をよく読んでみれば分かる。「おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ。という、一見、不義なる裁判官らを高めるかのようなフレーズの直後には、次の厳しい宣告が続く。「にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、君主たちのひとりのように倒れよう。
 
結局、この詩編が示しているのは、自分たちは神々だ、などと言って、あたかも自分が他の人々とは別格の存在であるかのように考えて他者を見下し、真実や正義を曲げて、弱い者を痛めつけ、驕り高ぶっている高慢な連中には、容赦のない裁きが下る、ということに他ならないのである。

つまり、この詩編は、そのような人々は、自ら主張している高貴さに全くふさわしくない、惨めで卑しい人間の死を遂げることになるだろうと警告しているのである。

後にもう一度記すように、詩編のこの「神は神々の間中で、さばきを下す。」というフレーズは、旧約聖書の不義なる裁判官、そして、救い主を受け入れなかったユダヤ人たちに対する罪の宣告だけでなく、新約の「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」(Ⅰペテロ4:17)という教会への宣告にも一致する。

つまり、こうした御言葉は、神の家にいて、自分たちは神(キリスト)と一つであり、神々のようなものだと言って、他の信者を見下しながら、自分を誇っている者たちに対する警告なのであり、そのような者たちこそ筆頭となって、神の裁きの前に立たされ、申し開きを求められることになるのであって、自らの不正な行いの数々の報いを受けることを覚悟せよと警告したものなのである。

「なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」(Ⅰペテロ4:17)
 
まことに聖書の「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)方である。

そこで、主イエスでさえ、「わたしは神の子である」(ヨハネ10:36)としか言われなかったことを私たちは思うべきである。主イエスは、カルケドン信条によれば、「神性において父と同一本質のものである」から、父なる神と一つであり、たとえご自分を「神である」と宣言されたとしても、何ら罪に当たらなかったはずである。

しかし、主イエスは決してご自分を「神である」とは言われず、「神の子である」として、ご自分を低くし、栄光を父なる神に帰された。

そのように、主イエスでさえ、ご自分を「神の子である」としか言われなかったのに、Dr.LukeとKFCが自分たちを「神々である」と主張していることが、どれほどの高慢、愚かさであるか分ろうというものである。

しかも、彼らはそうした主張を、旧約聖書に登場する不義なる裁判官らに自分たちを重ねることで正当化しようとしているわけであるから、それならば、「おまえたちは神々だ。」という個所だけでなく、「にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、君主たちのひとりのように倒れよう。」という宣告も、当然ながら、同じように彼らに当てはまることになるのだとなぜ思い至らないのであろうか。

上記の詩編は、Dr.Lukeが主張しているように、人間に過ぎない者を「神々」として高く祀り上げることを正当化するために作られたものではなく、むしろ、罪人らが自己を神以上に高く掲げることへの戒めと、神の裁きを曲げる者たちに待ち受ける厳しい報いの警告なのであるが、 それが分からないKFCとDr.Lukeこそ、見ても信じず、聞いても悟らず、暗やみの中をさまよっているのである。それは神ご自身が「真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるため」に、惑わす力を送って、あえて彼らを盲目にされたのである。これは恐ろしいことである。

「この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、
 自分の心で悟り、
 立ち返って、いやされることのないために。」(イザヤ6:10)

「なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:10-12)

「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」(ヘブル10:31)



・キリストの十字架を否定して、己を神とする高慢な者たちを待ち受ける悲惨な最期
 
ちなみに、詩編82編に記されている「人のように死に、君主たちのひとりのように倒れる」という御言葉は、一見しただけでは、それほどまでに厳しい宣告には感じられないかも知れない。

だが、ここでアハブ王を背教で惑わせた王妃イゼベルの最期について考えてみよう。旧約聖書の王妃イゼベルは、アハブ王を誘惑して、王だけでなく、イスラエルの民の大半をまことの神に背かせ、神に遣わされた預言者エリヤを殺害しようと企て、迫害した人物である。

新約聖書の黙示録にも、テアテラの教会に対する警告の中で、イゼベルという同名の人物が登場し、異端の教えを宣べ伝えて多くの信徒を惑わした女として記述されている。そこで、イゼベルとは、ただ単に特定の歴史人物を指しているだけでなく、特に黙示録では、背信の罪を犯し、異端の教えを言い広める要塞と化した信者全体、もしくは、背教の原則そのものを象徴的に含んでいると理解することができる。

さて、旧約聖書のイゼベルはどのような最期を遂げたのであろうか。

「エフーがイズレエルに来たとき、イゼベルはこれを聞いて、目の縁を塗り、髪を結い直し、窓から見おろしていた。エフーが門にはいって来たので、彼女は、「元気かね。主君殺しのジムリ。」と言った。

彼は窓を見上げて、「だれか私にくみする者はいないか。だれかいないか。」と言った。二、三人の宦官が彼を見おろしていたので、彼が、「その女を突き落とせ。」と言うと、彼らは彼女を突き落とした。それで彼女の血は壁や馬にはねかかった。エフーは彼女を踏みつけた。


彼は内にはいって飲み食いし、それから言った。「あののろわれた女を見に行って、彼女を葬ってやれ。あれは王の娘だから。」彼らが彼女を葬りに行ってみると、彼女の頭蓋骨と両足と両方の手首しか残っていなかったので、帰って来て、エフーにこのことを知らせた。す

ると、エフーは言った。「これは、主がそのしもべベティシュベ人エリヤによって語られたことばの通りだ。『イズレエルの地所で犬どもがイゼベルの肉を食らい、イゼベルの死体は、イズレエルの地所で畑の上にまかれた肥やしのようになり、だれも、これがイゼベルだと言えなくなる。」(列王記Ⅱ9:30-37)


イゼベルは王妃という高貴な身分にあり、君主たちの一人のようであったが、その失脚及び死に様は、以上のようにまるで悲惨なものとなった。まことの神を否定して、背教を広め、聖徒らを神に背かせ、迫害した彼女は、その罪の報いとして、死の際に、跡形もなく粉砕されてしまったのである。これは背信の罪に対する神の憤りの深さを示している。イゼベルの死は、はっきり言えば、人間の死からもほど遠く、まして君主としての尊厳など微塵も伴わないものであった。

さらに黙示録のイゼベルの末路を見てみよう。黙示録のイゼベルは、異端を宣べ伝えた報いとして、「病の床に投げ込まれ」、彼女の宣べ伝えた異端の教えを受け入れた人々も、みな「悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込」まれると予告されている。彼女の背教によって生まれた子どもたちも、「死病によって殺」される
 
「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。
また、わたしはこの女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。

しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。」(黙示2:20-25)

すでに書いたことであるが、2012年、KFCでアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信者の鵜川貴範氏がまだメッセンジャーをしていた頃、彼らはDr.Lukeと一緒になって、自分たちのメッセージに逆らう者は「聖霊に逆らっている」のであり、「赦されない罪を犯している」などと主張していた。

すでにこの時点で、KFCのメッセンジャーたちによる自己の神格化が明確に表面化していたのであるが、その頃、彼らは「自分たちはこれから深みに漕ぎ出すのだ。それには着いて来られる信徒だけが着いて来られる。それ以外の信者はみなふるい分けられ、脱落して行くだろう。」などと主張していた。

その「深みに漕ぎ出す」という言葉を聞いた時に、筆者に思い起こされたのが、上記の黙示録の御言葉に記されている「サタンの深み」であった。

通常、信仰生活において「深みに漕ぎ出す」という表現はあまり使われない(信仰生活は道にたとえられ、前進があるのみだからである。また、聖書では「海はその中にいる死者を出し」(黙示録20:13)とあるように、海は一般に死者の霊などの住処とされ、(霊的な意味においては)どちらかと言えば不浄の場所とみなされている)。さらに、KFCのメッセンジャーらの言う「深み」が具体的に何を意味するのかも明白でなかった。

いずれにせよ、人は自ら語った言葉によって、自分自身の歩みを規定して行く。従って、おそらくはその時にDr.LukeとKFCは、超えてはならない一線を決定的に踏み越えて、「サタンの深み」に向かって漕ぎ出したのではないかと筆者は考えている。

その瞬間が来るまでにも、Dr.LukeとKFCは着々と聖書の御言葉から逸脱していたのだが、キリスト教界を批判しながら、自らペンテコステ運動という偽物の聖霊運動を取り入れ、それに加えて、ローカルチャーチやサンダー・シングの異端の教えとも手を結び、サタンの自己高揚の教えを無批判に取り入れた時、KFCはまるで異端の殿堂のようになりながら、「サタンの深み」に向かって漕ぎ出して行き、もはや後戻りは永久に不可能となったのである。

このように、キリストの贖いを知り、一度は福音を受け入れながら、これを自ら拒んで、贖いの主を否定して己を神と宣言した人々の末路は、おそらく、通常の最期では決して終わらないのではないかと筆者は見ている。それは聖書が明らかに随所で警告していることだからである。

義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。」(Ⅱペテロ2:21)
 
「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。

また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。
」(Ⅱペテロ2:1-3)


「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18)

Dr.Lukeは以前からも、松沢牧師の例などをよく引き合いに出して、キリスト教界の牧師が多々正常でない最期を辿っていることを主張し、アーサー・ホーランドの行く末などを憂慮していた。それを聞きながら筆者は、同氏は他人の行く末を憂慮しているのではなく、むしろ自分自身の最期を予見して、御言葉から逸れた人々の悲惨な終わりに自分を重ねているのではないかと感じたものである。

このことは、Dr.Lukeが三島由紀夫や、イスラエルの「受難」に並々ならぬこだわりを抱いている様子からも感じ取れる(たとえば、2015年10月11日のメッセージのタイトルは「ユダヤ人の苦難と資産に与る」)。

だが、なぜ同氏は、神を信じ、御言葉に従う人々の栄光ある終わりに注目せずに、神を拒み、御言葉に従わずに生きた人々の「受難」に共感を見出すのか。

全く同じことが、同氏にサンダー・シングの教えを紹介したアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のcandy氏にも当てはまる。同氏は自身のブログ「主と一つ 」の中で、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という主イエスの言葉に、未信者である夫と自分自身を重ね、キリストと自分たちを同一視していた。このくだりについては追ってまた述べるが、このように、神を信じない者をもキリストと同一であるかのようにみなして、生まれながらの人間を高く掲げながら、同時に、自分たちを「迫害されている」キリストの立場になぞらえて、一種の被害者意識を通じて世界を見ようとする考えは、彼らの内にある偽りの霊から生まれて来る、将来に対する予感から生じたものであるとみなせる。

このような考えは、実際、キリスト教と、聖書の御言葉、そして神ご自身に対する被害者意識からこそ生まれて来るものなのである。悪魔と暗闇の軍勢は、自分たちが永遠の滅びに定められているという事実をよく知っている。そして、この定めを決して変えられないことを知りながら、それでも、一人でも多くの人間を滅びの道連れにしようと、日々、欺きを続けているのである。

従って、悪霊の欺きの教えを受け入れた人々には、一方では、自分を神に等しい者として高く掲げて栄光化し、絶えず幸福の絶頂にあるかのように陽気に振る舞い、他の人々にはない特権を自慢して自己満悦しながら、同時に他方では、神を信じない人の悲惨な末路に自分自身を重ね合わせて、それに我が事のように同情と自己憐憫の涙を注ぎ、自分自身が彼らと同じような末路を辿るのではないかという予感を示すという自己矛盾が見られるのである。
 
こうした予感は霊的なものであると言える。聖書では、己を神とする者の末路は、いつの時代にもほとんど変わらず、とりわけ厳しい破滅で幕を閉じる。そのような宣言を行って、通常の最期を迎えた者は誰一人としていない。それは、己を神とする思想が、まさに神の地位を盗むことにより、神に反逆を企てたサタンの高ぶりと同じところから生まれて来る思想だからである。
詩編で不義なる裁判官らに下された宣告、「人のように死に、君主たちのひとりのように倒れる」は、エゼキエル書に記された、己を神としたツロの君主に対する次の宣告にも重なる。「心高ぶり、『私は神だ。海の間中で神の座に着いている。』と言った」ツロの君主に対する宣告は次の通りであった。「あなたは海の間中で、刺し殺される者の死を遂げる。」
 

己を神として 「サタンの深み」に漕ぎ出した人々の末路を暗示するような詩編である。
 
 
「人の子よ。ツロの君主に言え。
 神である主はこう仰せられる。
 あなたは心高ぶり、『私は神だ。
 海の間中で神の座に着いている。』と言った。
 あなたは自分の心を神の心のようにみなしたが、
 あなたは人であって、神ではない。

 あなたはダニエルよりも知恵があり、
 どんな秘密もあなたに隠されていない。

 あなたは自分の知恵と叡智によって財宝を積み、
 金や銀を宝物倉にたくわえた。
 商いに多くの知恵を使って財宝をふやし、
 あなたの心は、財宝で高ぶった。

 それゆえ、神である主はこう仰せられる。
 あなたは自分の心を神の心のようにみなした。
 それゆえ、他国人、最も横暴な異邦の民を連れて来て、
 あなたを攻めさせる。
 彼らはあなたの美しい知恵に向かって剣を抜き、
 あなたの輝きを汚し、
 あなたを穴に投げ入れる。
 
 あなたは海の間中で、
 刺し殺される者の死を遂げる。
 それでもあなたは、自分を殺す者の前で、
 『私は神だ。』と言うのか。

 あなたは人であって、神ではない。
 あなたはあなたを刺し殺す者たちの手の中にある。
 あなたは異邦人の手によって
 割礼を受けていない己の死を遂げる。
 わたしがこれを語ったからだ。
 ―神である主の御告げ。―」(エゼキエル書第28章)

<続く>


Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑫

⑤ Dr.LukeのKFC(Kingdom fellowship church)の理念の異端性(続き-1)

・異言や、聖書の御言葉から意味を除き去り、無意味な音声の羅列を「神のことば」と称するDr.LukeとKFC
 
すでに述べた通り、言葉というものはおよそ意味と一体であって初めて言葉と呼べるのであり、人間の言葉も、意味を伝達すること、もしくはその意味する物事を成就することを目的としている。音声だけの意味を持たない言葉というのは、単なる音、もしくは無意味な言葉遊びに過ぎず、言葉の抜け殻でしかない。まして、聖書の御言葉は、神の命令であって、そこに意味のない言葉は一つもない。人間の発した言葉は不完全であるが、神が御言葉によって命令されたことは必ず実現される。次のように書いてある通りである。

「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところには帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:10-11)
 
ところが、Dr.Lukeは、「言葉ってのは振動なんですよ。」と述べて、事実上、言葉というものから、意味や伝達内容を抜き去ってしまう。そして、同時に、「異言」による「霊の祈り」もまた、「霊的な振動、波動」に過ぎないとすることによって、まるでラジオが電波を受信するように、信者は(どこから来るのかも分からない)「霊的な振動、波動」を聞き取って、これを自分の音声として表現することで、「神のことば」である「異言」を語ることができるのだと言う。

そのようにして、誰も意味を解き明かす者がおらず、語っている本人も、自分が何を言っているのか、全く分からないむなしい意味不明な音声の羅列を「神のことば」とみなし、それを語ることで、自分たちは神との合一に達しているのだと思い込みながら、延々と訳の分からない音声作りに集団で没頭しているのがKFCなのである。

さて、ここでまずは、聖書に登場する異言や、霊の祈り、聖霊のバプテスマとはどのようなものであるのか、それがKFCやペンテコステ・カリスマ運動の主張する概念といかにかけ離れたものであるかを振り返りたい。

まず、聖書には、神の聖霊が信者に語らせる「神のことば」としての「異言」というものが、確かに存在していることが示されている。それは御霊が信者に与える賜物の一つであり、聖書に記述がある以上、存在それ自体は否定することができない。

「異言」とはどのようなものであるかは、初代教会の信徒らに起きた聖霊降臨の場面に見ることができる。

「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒2:1-4)

「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が奮い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」(使徒4:31)
 
この場面から、聖霊に満たされた弟子たちが、御霊に促されて、めいめい自分の知らない外国語で話し始めたことが分かる。それは、説教者が会衆に向かってメッセージを語る時のように、予め準備していた内容ではなく、なおかつ、特定の聴衆を想定して語られたわけでもなかった。聴衆がいたわけではないのに、弟子たちは、御霊に促されて、知らない言語で明確なメッセージを語ったのである。

しかしながら、同時に、この時、弟子たちが語っていた異言は、人間が意味を全く理解できない、地上に存在しない言語だったのかと言えば、そうではない。それは、続く記述からも分かるように、語っていた本人にとっては、「他国のことば」であったが、そこにたまたま居合わせてその異言を聞いていた目撃者たちにも、それを自分の母国語として明瞭に理解することができたのである。

「さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう」(使徒2:5-8)

そこで、以上の記述から、異言とは、神の霊が信者に語らせる言葉という意味では、「神のことば」とも呼ばれ、パウロは、「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。」(Ⅰコリント14:2)と、特定の聴衆を想定して語られない異言は、人が神に向かって祈ることばであると述べてはいるものの、だからと言って、異言は、初めから人間を聞き手として排除する、人間の知性によっては全く理解できない言語メッセージではなかったことが分かるのである。

以上に挙げた記述から分かることは、異言とは、御霊によって信者が語らせられることばであるとは言え、それには通常の言葉と同じように、明確な意味と、伝達内容が伴っており、人間が聞いて理解可能な、しかも地上の特定の言語で表現されたメッセージだったということである。

従って、異言とは、人がトランス状態に陥って口にする訳の分からない戯言や、また、俗に言われる「天使用語」やら「霊界からの信号」といった、誰にも存在することが立証不可能な怪しいコミュニケーション手段とは明確に区別されるべきである。

さらに、異言の話し手は、意識喪失や夢遊状態に陥ることなく、主体性を失わずに語っていた。それは「預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。」(Ⅰコリント14:32)という御言葉からも分かる通りであり、多くの場合、語る者自身が、その意味を解き明かし、あるいは、他の信者たちがそれを解き明かすことによって、彼らは自分たちが何を話しているのか、明確に内容を理解していたものと考えられる。

最初のペンテコステの時、弟子たちが御霊に促されて語っていた異言のメッセージの意味内容が具体的にどんなものだったのか、聖書には記述はないが、以下の御言葉から、真理の御霊がどのような役割を担っているのかを考えれば、その内容もおのずと想像できる。

「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16:12-14)

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。」(ヨハネ15:26-27)

人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」(Ⅰヨハネ4:2)


以上の御言葉に照らし合わせると、キリストの御霊(聖霊)の目的は、第一に「人となって来たイエス・キリストを告白」し、「わたし(=イエス)についてあかし」し「わたし(=イエス)の栄光を現」すことにあると言える。
 
そこで、真理の御霊が弟子たちに語らせた異言も、その内容は、「人となって来たイエス・キリストを告白する」こと、つまり、人類の罪の身代わりに十字架で死なれ、復活された「イエスについてあかし」して、「イエスの栄光を現」すこと、もしくは、「やがて起ころうとしていること」を「示す」こと(預言)にあっただろうと想像できる。

たとえ人間の会衆を意図して語られたメッセージでなかったとしても、内容はそのようなものであったろうと想像できるのである。

ところが、Dr.Lukeが異言や、霊の祈りや、言葉自体というものを聖書とは全く別のものとしてとらえていることが、同氏の次のメッセージによく表れている。
 

「今日ちょっと言いたいことはね。前に出エジプトの7の1を見ましたよね。みなさん、信仰っていうのは、じゃあ、どっから生まれるんでしたっけ。信仰は聞くことからくる。聞くことはキリストのことば。あれはレーマです。レーマを聞くこと。

レーマっていうのは、言葉ってのは、前も言ったように振動なんですよ。霊的な振動があるんです。波動があるんです。それの波動に私たちが調和してしているかどうか。

今日は非常に霊の臨在感があって、みなさん異言の祈りが出てましたけれども、あれは内側で霊の振動に私の霊が共鳴しちゃったんですよ。だから自然と音が出ちゃうわけでしょ。祈りってのは知性の祈り、パウロは言っている、霊の祈りと言ってる。知性でも祈ろう、霊でも祈ろう。霊の祈りってのは、直接、この波動が音になること、前にも言いました。それを魂の思いで解釈して言葉にする、これは知性の祈りです。

その祈りはどっから来るのか。この霊の振動があるんですそれにぼくらがチューニングしてる。調和してること。だから、聞くことがすべての鍵なんです。この聞くということ、私たちこれから聞いた者が、勝ちです。」(2:13:40-2:15:12)

神のことばを語るってのは、前も言いました、聖書を朗読することではない。内なる聖霊が動く、神が動く、父が語ることばを語ることなんですよ。イエスご自身がそうやってみわざをしたって言ってるでしょ。わたしがやってるんではないと。わたしがやったわざは全部内なる父のわざ。わたしが語った言葉は全部、内なる父の言葉だと。」(2:28:35-2:29:06)


だが、ここで思い出さなければならないのは、パウロが、言葉というものは、およそ意味と切り離せないものであることを認めており、それは異言も同じであるとみなしていたことである。

楽器で演奏される音楽も、単なる振動や波動の連続ではなく、はっきりした主題や旋律を持っており、それが分かるように演奏されなくては、誰も耳を傾ける人はいない。言語も、聞く人にとって意味の分かるメッセージを伝えなければ、一切は無意味である。異言だからと言って、そうした事情は何も変わらない。

笛や琴などいのちのない楽器でも、はっきりした音を出さなければ、何を吹いているのか、何をひいているのか、どうしてわかりましょう。また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したなら、だれが戦闘の準備をするでしょう。

それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。


世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。それで、もし私がそのことばの意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。」(Ⅰコリント14:7-11)
 

このように、パウロは、異言を明確な意味を持つものであるとみなし、異言は教会内で聞いた人の徳を高めるべく語られるべきであって、話す人も、聞く人も、誰もが知性で理解できるように、異言が語られると同時に、知性による解き明かしがなされるべきだと教えたのである。

そして、もし教会内に誰も異言を解き明かす人が誰もいないなら、誰にも理解できない音声の羅列を延々と語り続けることは、信徒の誰もにとって無益でしかないので、信者は自分一人だけの場所で異言で祈りなさいと戒めたのである。

また、異言が語られる時には、秩序が守られねばならず、多数の者がめいめいバラバラに同時に異言で祈り始めたりすることによって、解き明かしができなくなり、教会に混乱がもたらされることがないようにと教えた。

「あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。

もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。もし解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。預言をする者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。<略>預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。」(Ⅰコリント14:26-33)

「こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるよう祈りなさい。もし私が 異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。そうでないと、あなたが霊において祝福しても、異言を知らない人々の座席に着いている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたの感謝は結構ですが、他の人の徳を高めることはできません。

私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、教会では、異言で一万語話すよりもは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。」(Ⅰコリント14:7-19)

このように、パウロは、自分自身も異言を語ることができたが、だからと言って、それを誇示するために、誰にも意味が分からない祈りを教会内で延々と捧げるようなことはせず、むしろ、教会内で異言が聞く人に全く理解できない形で語られることを戒めたのである。

「私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう」というパウロの言葉は、霊によって異言で祈る時には、同時にその意味が他者に分かるように自ら知性によって解き明かすべきということを指しており、また、異言を語る場合、「ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。もし解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。」と、複数の者が同時に異言で祈るようなことがないよう規定した。

ところが、Dr.Lukeはこれに逆らって、全く逆のことを行うのである。KFCの集会は常にそうであるが、彼らは異言の意味を、聞く者の徳を高めるために解き明かすことなど、初めから考慮に入れていない。そして、聞く者はおろか、語っている本人にさえ、理解できない意味不明な「言語」を、延々と集団的に同時に垂れ流し、自己陶酔に浸るのである。

このように、KFCが知性による異言の解き明かしを軽んじるのは、もともとDr.Lukeが、「言葉ってのは、振動なんですよ。」、「霊の祈りってのは、直接、この波動が音になること」と述べていることから分かるように、彼らが霊の祈りというものを「意味」を基に生まれるのではなく、単なる「振動・波動」を出発点にしているに過ぎないとみなしているためである。

もともと単なる「振動」でしかないものを、魂の思いで解釈することなど誰にもできない相談である。彼らの語っている「異言」とは、最初から単なる「振動」でしかなく、何のメッセージも伴わない無意味なものであるからこそ、KFCの異言には誰もその内容を解き明かす者がいないのである。

そのようなものは、聖書の言う異言には該当しない。そのような意味を持たない音声の羅列は、言葉とも呼べず、祈りとも呼べず、単なる雑音に分類されるのが最もふさわしい。内容もなく、聞き手も存在しない、誰に向かって捧げられるのかも分からない、宙に向かった「祈り」をどれほど延々と続けても、語る本人にも、聞く人にも、まるで人生の浪費でしかなく、教会内の徳はますます下がって行くだけである。
 



・霊の事柄をこの世の事象によってしか解釈できないDr.LukeとKFC

さて、Dr.Lukeが、以上に挙げたメッセージの中で、「言葉ってのは振動なんですよ。」と述べ、「霊の祈り」もまた、「霊的な振動、波動」に過ぎないとしている荒唐無稽なメッセージから分かるのは、同氏が霊に属する事柄を、何とかして自分の感覚体験と、この世の物理現象を通して理解できる形に歪曲しようと試みて、様々な捏造された概念を作り出している様子である。

聖書には、生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(Ⅰコリント2:14)とある。

このように、聖書の霊的な事柄をこの世の物理現象を通して理解することは誰にもできないのである。しかし、Dr.Lukeは全く「生まれながらの人間」のやり方で、霊的な事柄を解釈しようとして、その結果、こじつけと歪曲に満ちた説明を作り出す。そのことは、同氏が霊に属する事柄を何ら自分自身では本当に体験したことがないという事実を明確に物語っている。

まず第一に、誰にでも分かることであるが、「振動」や「波動」というのは、物理的時空間の中でしか発生しない、この世の物理現象である。地上における言葉の伝達の場合も、話し手と聞き手の間に、距離があり、そこに空間的な隔たりが横たわっているからこそ、話し手の発した音声が、振動やら波動やらの形になって、時間の経過と共に空間を伝わり、聞き手に届くのである。

そこで、もし仮にDr.Lukeの言うような「霊的な振動や波動」というものが存在するのだと仮定すれば、霊的世界にも、この物質世界と同じような時空間が存在しているということになり、さらに、「霊的振動や波動」が起きるためには、神の霊と人の霊との間に距離がなくてはならない。

しかしながら、そんな記述は聖書にはないのである。まず、聖書によれば、時空間とは、それ自体がこの世に属する被造物であると言え、それはあくまでこの世(物質世界)に固有のものである。他方、神の霊的秩序は時空間によって限定されない永遠性を伴うものである。天地創造以前、この世界が滅びた後のことについて、聖書にどのように記述されているかを見ればそれは分かる。そこには時空間が存在せず、神の永遠の霊的秩序が存在するのである。

また、聖書によれば、「あなたがたの中におられるキリスト」(コロサイ1:27)と言われる通り、キリストは御霊として信者の内に住んで下さるので、神は霊と人との霊の間には、距離というものが存在しない。そこで、神の霊は、信者の霊に直接、物事を伝えることができ(=啓示)、そこには空間的隔たりがないため、御霊による啓示が、振動や波動という物理現象を通じて信者の霊に伝達される必要がないのである。

こうして、神の啓示は、信者の内に住んでおられるキリストを通して、信者の霊に直接、啓示される。信者は信仰を通して、また自分の霊に備わる直覚の機能を通じてこれを受け取り、魂の思考によってその意味を解釈する。

こうしたことは、一度でもキリストの御霊によって啓示を受けたことのある人ならば、誰でも分かるはずのことである。

もし信者が直覚の機能を研ぎ澄まし、御霊の啓示を受けたいと願うならば、その信者は、Dr.Lukeの言うように、「霊の振動や波動」に自分自身をチューニングするのではなく、神の御思いにこそ、心を「チューニング」すべきなのである。

「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」(Ⅰコリント2:11)
とあるように、御霊は、神の御心を信者に知らせるが、神の御心とは、何よりも、御言葉を通して信者に明らかにされており、御霊は御言葉(ロゴス)を信者の内側で生きたもの(レーマ)として下さるのである。御霊は、御言葉が死んだ文字ではなく、その意味が生きた現実となって効力を及ぼすことを信者にはっきりと内側で教えてくれるのである。

そこで、御霊の賜物や啓示を受けたいと願う信者は、ダビデが言ったように、「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ぐさむ」(詩編1:2)という例にならい、常日頃から聖書の御言葉によく親しみ、神の命令である御言葉に思いを馳せ、御言葉の戒めを守って、神に喜ばれる生活をして、すべての出来事の内に神を待ち望むべきなのである。

聖霊は必ず御言葉に合致したことを語り、御霊が、御言葉に反する内容を語ることはない。御言葉を通して、何が神に喜ばれる聖なる事柄であり、何が神の忌み嫌われる、悪魔的な事柄であるか、その違いを明確に信者に教える。そして、信者がこの世を愛することなく、神の戒めを守って生きるよう教える。

このように、神に近づくことは、清い生活を送ることと不可分の関係があり、神とこの世を両方愛した二心の状態のまま、神に近づける人間はおらず、信者が二心のまま「聖霊にバプテスマ」にあずかることもあり得ない。

ヤコブの手紙にはこうある。貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」(ヤコブ4:4-5)

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち、手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」(ヤコブ4:8)

そこで、信者がもし御霊の賜物としての異言や預言を受けたいと願うならば、まず第一に、彼は聖書の御言葉の戒めに従った清い生活を送らなければならないことは言うまでもない。

ところが、Dr.Lukeは、こうした点を全て無視して、世と世の欲との関係を断たない二心の状態のまま、異言や聖霊を受けたかのように装い、その際、御言葉への自らの不従順の罪を覆い隠すために、"surrender"(従う)とは、「手を挙げること」などと主張して、御言葉への従順の概念を骨抜きにし、さらに、「言葉ってのは、振動なんですよ。」、「霊の祈りってのは、直接、この波動が音になること」などとして、聖書の御言葉そのものや、異言をも、単なる「振動」に過ぎないとし、事実上、聖書の御言葉から意味を全く除き去ってしまうのである。

そうして、信者が思う存分、この世とこの世にあるものを愛し、己の欲望に邁進しながら、同時に、そのような二心の人間にも神は聖霊を賜るのだと偽りを主張するのである。

そのような人間を導いている霊が、神の聖霊であることはあり得ない。それは聖霊を装っているだけの「この世の霊」(Ⅰコリント2:12)であり、この世の霊であればこそ、この世の罪を大目に見て弁護し、人類の罪を否定して、キリストを単なる人間に引き下げ、自分たちと同一視し、キリストの貴い贖いを否定するのである。

こうして、十字架に敵対して歩んでいる彼らの心は、貪欲な欲望に満ちており、常に地上のことだけでいっぱいで、まことの神を退けて、己の欲望を神とし、それを正当化するために、偽物の概念ばかりを作り出し、神の霊に属する事柄を全くわきまえることができないでいるのである

「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18)



 ・「異なるイエス」、「異なる福音」を宣べ伝える反キリストの霊

聖書は、神の聖霊に偽装する「反キリストの霊」というものがれっきとして存在することを教えている。そこで、信者がすべての霊を安易に信じることなく、霊を試して、本当にそれが神から出たものであるのかを見分けるよう促している。

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(Ⅰヨハネ4:1)
 
「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。
というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」(Ⅱコリント11:3-4)

霊を試して出所を見分けるとは、その霊が語っているメッセージ内容を聖書に照らし合わせて逸脱がないかを吟味することに他ならない。上記の御言葉は、悪魔の偽りとして、「異なるイエス」、「異なる霊」、「異なる福音」が存在し、神の聖霊に偽装する「異なる霊」も、たくさん世に出てきていることを教えている。

悪霊の教えには聖書のような首尾一貫性がなく、調べれば必ず、数々の自己矛盾、論理破綻、聖書の御言葉への不一致が見つかる。

特に、「人となって来たイエス・キリストを告白する例はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」(Ⅰヨハネ4:2-3)とあるように、悪魔に由来する偽りの霊は、とりわけ、イエスの定義を歪曲する。そうすることで、信者たちに贖い主としての力を持たない偽物のイエスを信じさせ、それによって彼らがキリストの救いを失うよう仕向けるためである。

ここで言われている「人となって来たイエス・キリストを告白する」とは、ただ単にイエスの受肉を認めることだけを意味しない。それはカルケドン信条に定義されているような、完全な神性・人性を持つ神の独り子としてのイエス・キリストを認め、キリストが人類の罪の身代わりとして十字架で贖いとなられた事実を認めることである。

しかしながら、すでにこの時点で、Dr.LukeやKFCの主張する「霊」は重大な違反を犯していることが明らかである。すでに確認したように、Dr.Lukeは、イエスは「人間であるわたしたちと共有点を持つために人となった」と述べ、また、イエスが「私たちと全く同じ、人間」であると主張することによって、カルケドン信条に定義されているような完全な神性・人性を備えたイエス・キリストを否定して、人類の罪を否定し、キリストが罪なき神の独り子として、人類の贖いのために十字架にかかられたという聖書の事実を否定しているからである。

そこで、Dr.Lukeのメッセージ内容から、同氏とKFCが宣べ伝えているものは、聖書とは「別のイエス」「異なる福音」であり、このような歪曲されたイエスを宣べ伝える霊が、神から出たものであることはあり得ない。

こうして、「人となって来たイエス・キリストを告白」せず、「イエスに栄光を現し」てもいない彼らの霊は、当然ながら、「異なる霊」であり、「反キリストの霊」であると明言できるのである。



・「地の果てまでキリストの証人となる」ためでなく、自分が高次の存在に高められて「神のようになる」ために聖霊のバプテスマや異言を追い求めるペンテコステ・カリスマ運動

聖書に記述された聖霊降臨の場面で、弟子たちが語り出した異言が、地上に確かに存在する人間の言語であり、それを聞いて理解する者たちが立ち会っていたということには、実は、深い意味が込められている。

それは、この記述が、創世記のバベルの塔における混乱と分裂に対する明らかな対比だからである。

創世記におけるバベル塔建設の場面で、人類が神を排除して地上に自力で一致を打ち立てることによって、自らの力で神の領域に到達し、神を超えようと試みたとき、神はその反逆的な試みを押しとどめるために、「彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにし」、なおかつ、「人々を、そこから地の全面に散らされた」(創世記11:7-8)。

しかし、キリストが十字架の死と復活を経られ、天に昇られ、キリストの御霊が信じる者たちに下ったことによって、かつて神ご自身が混乱させた人類の言語に、人類が自力ではなし得ない理解の一致が天的方法によって与えられたのである。それが起きた場所は、地上のエルサレムであり、しかも、立ち会っていた人々も、必ずしも信仰者でなかったにも関わらず、集まって来ていた人々の間に、言語の壁を超えた理解が成立したのである。

このことは、やがてキリストご自身によって、すべてのものが一つに統合されること、すなわち、「天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること」(エペソ1:10)の予表である。

人類が自力で団結して神を凌駕しようと建設したバベルの塔は(終末には、大いなる都バビロンにまで発展している)、何度建設されようとも、常に分裂と混乱しかもたらさず、目指している一致に到達せずに失敗に終わるのに対し、神が御霊によって建造される天の都には、キリストにある真の一致がもたらされるのである。

そこで、聖霊の賜物としての異言も、このような観点から見ると、なおさら、意味不明な音声によって、聞く者を煙に巻いたり、あるいは、人々を互いに意思疎通不可能にして分裂をもたらすために与えられるものでなく、かえって人類が国籍や言語を含め、生まれ持った全ての隔たりを超えて、キリストにある信仰の一致に至るために与えられるのだと言えよう。

それへあ、最初のペンテコステの場面で、必ずしも信仰者でない人が異言を聞いて内容を理解したという聖書の記述にもよく表れている。異言が、神に向かって話すことばだとされながら、信仰者でない人間がたまたまそれを聞いてその意味を理解したというこの記述は、神は誰に対しても分け隔てなく福音の扉を開いておられ、キリストにある一致から一方的に誰かを排除するおつもりがないことをよく表している。

神は、できるなら誰一人排除することなくキリストにある一致、調和に至らせ、人々を一つに集めたいと願っておられる。たまたま弟子たちと共に居合わせた信仰者でなかった人々までが、弟子たちの異言を通して、キリストについての証を母国語で聞くことになったという事実は、万人に対する神のわけ隔てのない福音への招きを示している。聖霊は、そのように、エルサレムから始まって全世界に福音が宣べ伝えられるために与えられたのであり、一部の人々が、他の人々には全く分からない形で「神と交信して」自己満足に浸るために与えられたわけではないのである。

「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:5)
 
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

ペンテコステ・カリスマ運動は、以上のような主イエスの記述を基にして、信者が「聖霊のバプテスマ」を受けるという個人体験を重視し、なおかつ、信者が「聖霊のバプテスマ」を確かに受けたしるしとして、必ず「異言が伴う」はずだと主張して、聖霊降臨を重視して、そのための特別待望集会を開いたり、信者に異言で祈ることを特に熱心に勧めている。KFCも同じ立場に立って、異言の集会を毎回のように開いているのである。

しかし、以上の御言葉からも分かるのは、信者が聖霊を受けるのは、「地の果てまで、キリストの証人となる」ためであり、神の敵から来るあらゆる妨害や危機を耐え抜いて、キリストの十字架の死と復活をあまねく全地に宣べ伝えるという目的のためなのである。

ところが、上記のようなペンテコステ・カリスマ運動の支持者たちが、「聖霊のバプテスマ」や「異言」を重んじているのは、これとは全く異なる目的のためである。以前にも挙げたように、カリスマ運動の指導者である手束正昭氏は次のように書いている。
  

「 聖霊の働くところ、聖霊に満たされるところ、質の高い人生や生活が生まれてくる。創世記二章七節の後半に、『主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった』とある。“神のかたち”としての人間というのは、生物学的意味ではなく、霊的意味即ち“クオリティ・オブ・ライフ”質の高い命を持った人のことである。
その最高の体現者こそナザレのイエスであり、この方こそその霊的命を完全に全うされたのである。そして、私たちもまた、聖霊によって、ナザレのイエスのように質の高い人生、生き方をすることが可能とされている。

キリスト教とは『聖霊による可能性の宗教』だと、私は主張してやまない。そして『聖霊による可能性の宗教』とは、即ち真の“クオリティ・オブ・ライフ”であるといえる。まことの質の高い人生、生き方を保証するのが聖霊である」(聖霊の新しい時代の到来』、手束正昭著、マルコーシュ・パブリケーション、2005年、p.170-171)

 
ここでは、聖霊が与えられる目的が、完全に歪曲されており、それはキリストの十字架の死と復活を地の果てまで証する証人となるために与えられるのではなく、信者自身が、霊的に「神のかたち」に似たものとされて、「ナザレのイエスのように質の高い人生、生き方をする」ためだというのである。

ここで使われている「質の高い命(クオリティ・オブ・ライフ)」という言葉にも注意が必要である。命に高等とか下等とかいう質の差があるということが前提にないと、このような言葉は発せられない。確かに、神の非受造の永遠の命である御霊は、人の生まれながらの有限な命とは全く異質なものであるが、異質であるがゆえに、それらは比較もできないし、その違いは、高等とか下等とかいった質の差にはないのである。

同じ性質の命であれば、比較もできようが、神の永遠の命としての御霊は、人の生まれながらの被造物の命とは全く性質が異なる。ところが、ここで手束氏は、あたかも、人の生まれながらの命を進化させ、その質をより一層高めた「高等な命」が、聖霊であるかのようにみなしているのである。

手束氏は、「イエスは生まれにおいては単なる人間に過ぎなかったが、聖霊を受けることによって神の養子に引き上げられた」(養子論的キリスト論)と主張するが、それと同じ理屈を人間にもあてはめ、事実上、「信者はより高等な命である『聖霊』を受けることによって、高次元の存在へと引き上げられ、他の人々には達し得ない、より質の高い人生を送ることができる」と言っているのである。

これは、人は霊界からの高次元の霊を受けることによって、高次の存在へと引き上げられるとする心霊主義のアセンションの定義の変型であるとみなせる。聖霊を受ける目的が、キリストの死と復活の証人となるためではなく、人自身の自己高揚と自己満足のため、人が自分自身を「より高次の存在へと高め」て、自己満足に浸るためにすりかえられているのである。

つまり、ペンテコステ・カリスマ運動の言う「聖霊のバプテスマ」とは、信者が「キリストの証人」となって、福音を地の果てまで宣べ伝えるために与えられるものではなく、人が正体不明の「高次元の霊」を受けて、霊界と交信しながら、「神の臨在に浸され」、「神と交わる」ことによって、「高次元の存在に高められる」ことを目的とする、聖書の言う「聖霊のバプテスマ」とは全く別物の偽物体験なのである。

それは徹頭徹尾、人が己を喜ばせ、自分が高められたことを確認して自己満足するために求める個人体験なのだと言える。そのような「霊」を受ければ、自分は他の信者たちとは別格の、より高次の存在へと引き上げられるとみなしていればこそ、この運動に関わる信者たちは、そのような「個人体験」を誇り、これを極めて重視し、競うように追い求めるのである。
 
これと同様の考えが、以下のサンダー・シングの記述にも見て取れる。サンダー・シングはここで、「神の甘美なる臨在」を楽しんだ者たちだけが、真の「証人となる」と述べ、「祈りの中で神との交わりを持たない者は人と呼ぶに値しない」とまで言い切って、自分のように「神との甘美なる交わり」という個人体験を知らない信者たちを人間以下の存在として見下している。

「<略>神の聖旨は、その甘美なる、生命を分かち与える臨在を楽しんだ者たちが証人となることにある。個人体験こそが、理屈によるどんな証拠よりも納得できる証明となるからだ」(『聖なる導き インド永遠の書』、p.296)

「<略>祈りの中で神との交わりを保たない者は人と呼ぶに値しない。彼らは、決まった時に決まったやり方で決まった事をするような訓練された動物に似ている。動物よりもなお悪い場合がある。それは、彼らが自分だけでは無に等しいことを悟らず、神との関係も、神と人とに果たすべき義務も悟ることがないからである。だが、祈りの人は神の子らとなる権利を手にし、神によって神の似姿へと象られてゆく。」(同上、p.149)


これでなぜペンテコステ・カリスマ運動の支持者が「神との甘美なる交わり」としての「聖霊のバプテスマ」という個人体験をしきりに追い求めるのか、その目的も理解できたと言えよう。その目的は、手束氏や、サンダー・シングの次の言葉に明確に現れている、「私たちもまた、聖霊によって、ナザレのイエスのように質の高い人生、生き方をすることが可能とされている。」、「祈りの人は神の子らとなる権利を手にし、神によって神の似姿へと象られてゆく。

つまり、彼らが「霊」との交わりを追い求めるのは、それによって自分自身を高次の存在に高め、神に似た者になり、「神のようにな」る(創世記3:5)、すなわち、「神になる」ためである。

サンダー・シングは、以上の引用の中で、人はキリストの十字架の贖いを信じて受け入れることによって、神の子らとされるのではなく、霊界からの正体不明の霊を受け、これと交わり、甘美な臨在に浸るという個人体験によって、「神の子らとなる権利を手にし、神によって神の似姿へと象られてゆく」と述べている。手束氏の主張とほぼ同様である。
 
また、Dr.Lukeが神との交わりが「甘い」としきりに強調していたことや、鈴木大拙氏の言った「二度目の林檎を食べねばならぬ」という言葉が思い起こされる。

むろん、そんな教えは聖書にはなく、キリストの十字架の贖いを信じずして、人が正体不明の「霊との交わり」によって、「神に似た者」とされることなどあり得ない。

だが、以上のような人々は、有史以来、ずっと「神のようになる」ことを追い求めて、聖書の御言葉を知性によって吟味し、これに従い、守ることを捨てては、己の情と欲に誘われて、「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった」(創世記3:6)とされる、神が食べてはならないと禁じられた禁断の木の実ばかりを食べ続けて、神に逆らっているのである。悪魔の誘惑の手法は太古から現在に至るまで、全く変わらないことがよく理解できよう。

 
<続く>


Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑪

⑤ペンテコステ・カリスマ運動に基づき、キリストの十字架の贖いを否定するDr.LukeのKFC(Kingdom Fellowship Church)の異端性

少し本題から逸れるが、ここで、KFC(Dr.Luke's kingdom fellowship church)のメッセージに顕著に表れているペンテコステ・カリスマ運動の異端性について見てみたい。十字架を抜きにしたグノーシス主義的手法によって彼らがどのように神との合一に達しようとしているかを振り返りたい。

次の2015年8月16日の動画には、KFCの理念の異端性が余すところなく表れている。わざわざ他の動画を見て分析する必要もなく、この動画だけで、KFCの現時点でのほぼ全ての主張をカバーできるのではないかと思われるほど、盛りだくさんの内容である。
このメッセージを少し聞いただけでも、聖霊と異言の価値を強調するこの団体がペンテコステ・カリスマ運動の深い影響を受けていること、そして、この団体がすでにキリストの十字架を完全に見失い、聖書とは「異なる福音」を宣べ伝えており、自分たちを「神々だ」と自称するまでに至っている様子が誰にでもすぐに見て取れるからだ。

視聴は全く勧めないが、KFCがすでに異端化していることを示す明白な証拠としてここに挙げておく。





・原罪とキリストの十字架の贖いの否定

Dr.Lukeはこの動画において、人間の罪という問題を完全に否定して、生まれながらの人間が神の中に生きていると述べている。魚が水の中に生まれ、暮らしているように、人はみな神の中に生まれ、生きているのだと。

人にとっての神とは、魚にとっての水のようなもので、たとえ人がどんなに神を否定しても、その人が神の中に生まれ、生きている事実は変わらないというのである。
 

「魚ってたぶん水の中にいる意識ないんですよ。でしょ?ないですよ。そこがもう全てですから。ぼくらは空中にいて水の中っていう区別がるから、あ、今、水の中だって分かるんだけど。生まれた時から水の中にいる人にとっては水の中だってことが分からないんですよ。そうでしょ? でも感じることはできますよね。こうやってやると、水、抵抗もあるし。

神も同じです。使徒行伝の、あれ、パウロが、エペソでしたっけ、パウロがあのしじ、しじ、詩人の詩を聞いてさ、「人はみな神の中に生きている」って言っているわけ。
我々は神の中に生まれていたんです。人ってのは、ぜんぶ神の中に生まれているんです。だから神の存在が分かんないんですよ。

世の中の人もね、信じてない人も、神の中にいるんです。パウロもそういっているもの。あの「名前も知らざる神のために」っていう詩人のあれを引いてさ、あなたがたはこういう感受性がおありだと。

我々は神の中に生きている。人はみな神の中に生きている。我々は神の中に生きている。神の中に生まれていた。世の中に「神はいない」と言ってる人も、ほんとは、神の中にいるんです。
魚も同じです。」(2:16:48-2:18:27)


むろん、これは神と人との断絶という聖書の真理の事実上の否定であり、人の原罪の否定、同時に、キリストの十字架の贖いの否定である。

パウロが引き合いに出した「知られない神に。」と刻まれた祭壇(使徒17:23)は当然ながら異教の神々を奉じるギリシア人の汎神論的な考えを引き合いに出しただけであり、彼らの考える神の概念を肯定したものではない。また、「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒17:28)というパウロの言葉も、確かに人は神に創造され、神の栄光を表す被造物に囲まれて生きているという点では、自分で自覚せずとも、被造物を通して神の栄光を見ているわけだが、だからと言って、その言葉を拡大解釈して、被造物全体の堕落という聖書の事実を無視して、物質世界に生きている全ての人間が、キリストの十字架での罪の贖いを信じることなくして、神の子孫になりうるかと言えば、そのようなことは決してない。

パウロはギリシア人の神についての熱心さを利用して、まことの神に注意を向けさせようと語ったのであって、異教の神々を信じるギリシア人が、キリストを知らなくとも、知らずに拝んでいる神によって救われているとか、すべての人が信仰なくして「神の中に生きている」と言ったわけではない。

別の個所でパウロははっきりと述べている、「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:3)

「罪過の中に死んでいたこの私たち」(エペソ2:5)
という言葉が示すように、聖書によれば、キリストの贖いを信じない人間は、みな「罪過の中に死んでい」るのであって、「神の中に生まれて」もいないし、「神の中」にもいない。それどころか、「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない」、神に対しては無価値で死んだ、神との交わりを全く持たない「生まれながらに(神の)御怒りを受けるべき子ら」なのである。人はいかに神の創造としての物質世界に生まれ、生きていたとしても、罪によって神と断絶しており、己の罪を悔い改めて、十字架の贖いを信じて受け入れることによってしか、神に立ち返る道はない。

ところが、Dr.Lukeはこのような聖書の基本とクリスチャンの初歩的な認識さえも失って、人間の原罪を否定する。そうすると、当然ながら、人類の罪を認めないのだから、人類の罪を贖うためのキリストの十字架の意味も否定されることになる。このメッセージ全体を通して聞いても分かることであるが、Dr.Lukeはすでにキリストの十字架には全く言及していないのである。彼の「キリスト」からは十字架の贖いが完全に消し去られているのである。

このことから、Dr.Lukeはもはや人が罪によって神と断絶しているという聖書の事実を認めない立場に立っていることが分かるのである。もし十字架が語られていたとしても、そこにはもはや罪の贖いとしての意味はない。そして、人は神を認めようが認めまいが、キリストの救いを信じようが信じまいが、みな「神の中に生きている」と言うのである。これは、人がキリストの十字架の贖いを通さずとも、自力で神に回帰する道があり、人は本来的に神と同一であるとするグノーシス主義の教えである。



・汎神論的かつ東洋的な「慈愛の神」の概念


さらに、Dr.Lukeは、「神」の概念を、「魚にとっての水」にたとえる。同氏の言う「神」とは、人格を持ったお方というよりも、人間を包み込む環境全体、もしくは人間を浸すプールの水のようなものに近い。そうなるのは、Dr.Lukeがこの「神」を人格を持った父なる神、子なるキリストとしてではなく、むしろ「聖霊」としてとらえているからである。明らかに、KFCはペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けて、「聖霊のバプテスマ」を重視し、「聖霊に浸される」という経験を、「神の中に生きている」ことと同一視しているのである。
 

「魚も、生まれつき水の中ですから、自分が水の中にいるなんて意識はないんです。だけど水がないないって言ったって、水の中にいるだろうと。同じ。神がいないいないと言ったって、あなたは神の中にいるでしょう。そう、神の中にいるのが、感じられると言ったわけ。

神がここに満ちている。神は遍在されるお方でしょ。<中略>ダビデは「あなたの霊、どこへ行けば、あなたの霊から逃れることができましょうか。どこへ行っても、あなたの霊の中にわたしはいます」と。もう我々は神の霊の中にいるんですよ。」(2:18:18-2:19:13)


 そのように、人が水の中に浸されるように、どこへ行っても、神は満ちておられ、人は神の霊の中に包み込まれ、神の慈愛の中に浸されて生きている、という認識は、聖書の神ではなく、むしろ、東洋的な神の概念に合致するものである。Dr.Lukeは続ける、
 

「神はそれくらいに近いんです。主は近い。ぼくらはこの神の中にいて、神のいつも慈愛を感じるんです。神のfavourを感じている。あなたのことをいつも見ている、あなたのことをいつも思いはからっている、あなたの人生をすべてわたしが導いている、わたしはあなたの主である、あなたの父であると。この感覚がこっから伝わってくるわけよ。危ないねえ。」(2:19:47-2:20:25)


 こうした「慈愛に満ちた神」の概念には、人間を罪定めしたり、罰したり、懲らしめ、訓戒したりする厳格な父なる神の性質、裁き主、贖い主としての神の側面はない。そこで、これは聖書の神の概念というよりも、むしろ、「東洋的な神」のイメージであり、ちょうど国家神道における「神と人との和」、「人と自然との和」で語られている「神」の概念に驚くほど酷似している。
 
『国体の本義』の「神と人との和」における東洋の神の定義をもう一度読んでみよう。
 

更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。<中略>

我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。我が国は<中略>、他国には見られない美しい自然をなしてゐる。この美しい自然は、神々と共に天ッ神の生み給うたところのものであつて、親しむべきものでこそあれ、恐るべきものではない。そこに自然を愛する国民性が生まれ、人と自然との和が成り立つ。」


 要するに、これは万物には神が満ちているという汎神論的な考えであって、すべてのものはみな同じ神から生まれ、神の中に調和しており、世界は神の中に一つであり、人もその中に一つとなって調和して生きているという考えである。

これが東洋思想における「神」の概念であるが、Dr.Lukeもこれと同じように、聖書にはっきり記されている人間の罪を語らず、神と人との断絶を語らず、キリストの十字架を語らず、神の裁きを語らず、神をただ人間にとって優しく親しみ深い、常に慈愛を垂れ、感謝される、人間にとって恐ろしくもなければ、脅威ともならない存在へ変えてしまう。そして、そのような慈愛の神があらゆるところに満ちて偏在している、と言うのである。そして、聖霊を通して、人はそのような神の愛に浸され、神の御言葉の実体にあずかれると言うのである。

サンダー・シングも全く同じような形で、汎神論的な概念で神の遍在性を主張している。
 

「神が存在するところには、天国あるいは神の国がある。だが、神はどこにも存在するので、天国はすべての場所にあるこのことを知っている真の信仰者はどこにあっても、どのような状態いあっても、苦しみや困難に見舞われているときも、友の中にいるときも敵の中にいるときも、現世にあっても来世にあっても幸せである。彼らは神の中に住み、神もまた彼らの中に永遠に住まわれる。これこそ神の国である。」(『聖なる導き インド永遠の書』、林陽訳、徳間書店、p.304-305)


 



・キリストの贖いと、キリストの完全な神性と人性の否定

だが、そんな考えでは、キリストは一体何のために地上に来られたことになるのか? Dr.Lukeは言う、父の独り子が「わたしたちと共有点を持つために人となった。」と。

「イエスは本質的にももちろん、神の独り子です。ですよね。ロゴス。初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。ですから、永遠の初め、あの初めっていうのは、創世記の初めとは違うよ。創世記の初めは時間の始まり。だからこういう、立ってる端っこです、時間の端っこ。だけど、ヨハネの言う初めは、時間とか空間がなかった初めです。
永遠に。その時からもうロゴスはすでに父の懐の中にいた。父の独り子だった。だから、この点においてイエスはユニークです。

だけど、わたしたちと共有点を持つために人となった。幕屋を張った。書いてあるよね、あの「人となられた。肉体となった」というのは原文では、「幕屋を張った」です。幕屋を張って、
その幕屋は私たちと全く同じ、人間。そして、その中におられた聖霊は、人間生活を経験して下さった霊なんです。だからただ単なる旧約における神の霊としてではなく、人間、イエスの中にいて、人間性を知っておられる霊なんですよ。」(2:29:17-2:30:17)


 だが、当然のことであるが、聖書は、キリストが「人間であるわたしたちと共有点を持つために人となった」とは全く言っていない。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。 これが時至ってなされたあかしなのです。」(Ⅰテモテ2:5-6)

神がその独り子を世に遣わされた目的は、人類の罪の贖いのためである。イエスは神の御前に永遠の贖いとして供えられた小羊である。ところが、Dr.Lukeはキリストの受肉から、十字架の贖いという目的を取り去って、全く別の説明をはめ込む。

つまり、キリストが人となられたのは、人間と共有点を持つため、つまり人間に近しい存在となるため、だというのである。このような考えは、以下のサンダー・シングの主張にぴったり重なる。
 
わたし(筆者注:イエスのこと)は、人のために人となった。彼らが神を知るようになるためである。恐ろしい異質な者としてではなく、愛に満ちた、人に似たものとして世に現れた。人は神に似て、神の姿に象られたからである。

人はまた、自分の信じている神、自分を愛してくださっている神に会いたいという、自然な願いをもっている。だが、父を見ることはできない。父のご性質は人の理解を超えているからである、父を理解するには父と同じ性質をもたねばならないからである。一方、人は理解できる被造物であり、それがため神をみることはできない。だが、神は愛であり、その同じ愛の力を人にお与えになっているため、愛の渇きを満たすために、神は人に理解できる存在の形をとられたのである。こうして、神は人となった。(『聖なる導き インド永遠の書』、p.200)


サンダー・シングのこの記述は、「西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、<中略>我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である。」という国家神道が述べる東洋的な神の概念にも合致するものである。

こうして、Dr.Lukeは、聖書の神の概念を東洋的な慈愛に満ちた神へとすり替えることによって、キリストの受肉の意味をも、人間にとって極めて都合の良い概念へと変えてしまったのである。すなわち、キリストの受肉の目的は、ただ神が人間に近しい存在となって人間と共有点を持つことにあったとすることによって、キリストがその十字架の死において、父なる神から人類に対する刑罰を身代わりに受けられることによって、その贖いを信じる者を永遠の滅びと裁きから救われたのだという事実を覆い隠し、人類の罪を否定し、その罪に対する神の刑罰としての十字架を否定し、信じない者に定められている永遠の滅びも否定する。そして、聖書の神から、このような「恐ろしい側面」を全て除き去って、人間にとってひたすら心地よく、都合の良い、人間を脅かさない「慈愛に満ちた神」の概念を作り出すのである。

Dr.Lukeは言う、キリストが人となられた肉体(幕屋)は「私たちと全く同じ、人間」であると。しかし、この言説も、誤りである。カルケドン信条には、キリストの人性について、「人間性においてわれわれと同一本質のものである。「罪のほかはすべてにおいてわれわれと同じである」」と定義されており、ここに「罪の他は」という、決して見落としてはならない極めて重大な相違点がある。

カルケドン信条のこの箇所は、聖書の次の御言葉を基本としている。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(ヘブル4:15)

このように、人間にはキリストにはない「罪」が存在する以上、キリストは「私たちと全く同じ人間」であるとは言えないのである。にも関わらず、Dr.Lukeが言うように、キリストが「私たちと全く同じ、人間」になられたとするならば、キリストは罪人となられたということになってしまう。

サンダー・シングはこの点でもっと大胆に、「キリストは、われわれのために罪人となり、罪人の死をお通りになった。」(『聖なる導き インド永遠の書』、p.292)と明言する。これはキリストの神性を否定し、キリストを罪人の一人へと貶める記述である。前にも述べた通り、サンダー・シングはここでキリストの十字架を、冤罪によって殺された無実の人間の死と同じように解釈し、キリストは罪人たちへの愛のゆえにすすんで罪人と同化しようと、喜んで濡れ衣を着せられて処刑されることに同意したのだ、と主張する。
 
他方、カリスマ運動の指導者である手束正昭氏も、養子論的キリスト論に基づいて独自の主張を展開し、キリストは元来、単なる人間に過ぎなかったが、聖霊を受けることによって、神性を帯びたのだ、としている。
  

「養子論的キリスト論は『霊のキリスト論』とも呼ばれ、それは聖霊論的キリスト論です。つまり、人間なるイエスがある時を境にして、聖霊の圧倒的な注ぎを受けて神の養子として引き上げられたというのが、“養子論”の一般的な理解である。 このいわゆる養子論の系譜にありつつも、その生涯の発端から聖霊の圧倒的な注ぎを受けて神の養子として引き上げられていたというのが『霊のキリスト論』であり、養子論的でありつつ、いわゆる養子論とは異なる使徒教父たちに強く見られるキリスト論である。
そして“受肉論”が神とキリストの連続性を見ているのに比べて“養子論”の場合はむしろキリストと私達の連続性、しかも聖霊の役割の大きさということが注目される。
(『続 キリスト教の第三の波―カリスマ運動とは何か―』、手束正昭著、キリスト新聞社、1989年、p.17)

 

ペンテコステ・カリスマ運動の影響を強く受けたDr.Lukeの言説も、今や、手束氏と同様の意味を持つものであると言える。まず、罪の問題を曖昧にしたまま、キリストが「私たちと全く同じ、人間」になられた、と主張することは、事実上、キリストを罪人の一人に貶めることに等しい。もしそうだとすれば、我々と全く同じ人間として生まれたキリストに、後天的に神性を付与したのは誰なのか、という問題が生じる。それが手束氏が言うように、ペンテコステ・カリスマ運動では、聖霊の役割だとみなされるのである。



・神の戒めを守ることよりも、正体不明の「霊」に浸される恍惚体験を「礼拝」にすり替える

Dr.Lukeは、以上のように、ペンテコステ・カリスマ運動がしきりに強調する異言を特徴とするいわゆる聖霊のバプテスマと同様の体験を通して、信者が水の中に浸されるように、「霊」の中に浸され、「神のfavour」(愛顧)を感じながら、フワフワした恍惚体験の中に自己放棄し、自分でも理解できない言葉をしゃべり続けながら、一種の神がかり状態に陥って悦楽に浸ることが、神との交わりであり、礼拝である、と言う。

Dr.Lukeは自分自身の「神」観が、以前とは全く違うものに変わったことを、自ら告白している。

以前には、明らかに、同氏の信仰はまだ、「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1:27)という認識にとどまっていたが、いつの間にか、それが汎神論的な意味において「どこにでも偏在しておられる神」という概念にすり替わり、「魚が水の中に生きるように、私たちは神の霊の中に浸け込まれている」という感覚的なものに変わって行ったのである。

そして、「神はここにおられる。ここに。ほら」と、自分たちは神のうちにいて賛美しているのだと言うのである。
 

「最近ね、ぼく変なんですよ。前はほら、内側に主がいてね、平安とか安息とかは内側で満たして下さるって。今はここなんですよ。とにかくね、ぼくね、おかしいって言われるほど 見えるわけよ。神が見てくれてる。父が、ほら、感じるわけよ、ここに。もう父が迫るわけ。」(2:16:10-2:16:48) 
神はここにおられる、ここに。もう、ほら、こう近寄って来られる。我々が賛美している時には、神は喜んで下さっている。これが、ここで感じられるわけ。私たちは、神のうちにいるんです。そして、神の愛顧、favourにあずかっている。神の愛が、みなさんの中に絶えず注がれている。これがあまりにも当たり前になっちゃってると、感じられなくなっちゃうんですよ。水の中にいる魚は感じないでしょ。

だけどある時ふってこう主のところへ向くわけですよ。水の中で手を動かしてみると、あ、水の中にいる。神の中にいる。だから、手を挙げるってことはものすごく大事。前回も言ったけど、これはsurrenderです。

そうすると、神がふってこう近寄って来るわけ。ふわってこう触れてくれる。そういう神との経験、これを我々、味わえば味わうほど、クリスチャンはjuicyになります。freshになります。パサパサじゃなくて、筋々じゃなくて、juicyなクリスチャンになるんですよ。ハレルヤ。それが人に何か潤いを与えるわけ。juicyなステーキ。Amen? 神が食べたいのは、juicyなステーキです。

そのために、浸けてくれるわけ、ご自分の霊の中に。みなさんを浸け込んでくれてるんですよ。
だから、worshipでsurrenderしてパ~っと委ねちゃうとき、チューニングして、自然と祈りも出る、声も出る、異言も出る。自然と内側が満たされる。そういう経験をそれぞれが味わってるわけ。これが、礼拝なんです。

こんなもんじゃないですよ。祝祷とか言ってね。ああいう儀式じゃないんです。ハレルヤ。生ける神との関係ですから、生ける神が皆さんを満たすことですから、そのお方に感謝と賛美を捧げることが、celebrationです。」(2:20:25- 2:22:54)


こうなってはもう完全に荒唐無稽な主張である。Dr.Lukeがやたら多用しているカタカナ英語にも注意が必要なのは、そこには大抵、聞きなれない用語で人の思考を煙に巻こうとするがごとくに、概念のすり替えが満ちているためである。

たとえば、上記のメッセージでは、「明け渡す、委ねる、服従する」(surrender)という言葉の意味は、御言葉への従順を通して父なる神の御旨に従うことではなく、ただ単に「手を挙げる」という、ほとんど何の意味を持たないアクションにすり替えられており、信者が手を挙げさえすれば、神の方から近寄って下さる、と言う。

多くの場合、Dr.Lukeはこのように人の行動とその背景にある動機や意味をバラバラに切り離して、ほとんど何の意味も持たない表面的な現象や行動の重要性だけを強調することによって、人が自ら御言葉に基づいて自分の行動を決め、一貫性をもって行動することの重要性を覆い隠してしまう。

つまり、現象と行動の重要性ばかりをひたすら強調し、その意味を軽んじることによって、信者が深い意味の裏づけなしにただ行動することを促すのである。異言の重視も、後述するように、その一環であり、意味不明の言葉を語り続ける重要性をひたすら強調することによって、言葉というものが、本来、意味と一体である事実を見失わせる。聖書の御言葉は神の命令であり、当然、一定の目的と意味を帯びている。意味を持たない御言葉というものは一つもない。だが、誰にも理解も解釈もできない異言という、意味を持たない音声の羅列を「神の言葉」として弄ぶことによって、言葉と意味を切り離し、何の目的も思考の裏づけもない、歌詞もなければ旋律もない歌のような無目的で空虚な音声作りに時間を費すのである。

礼拝についても、Dr.Lukeは神への崇敬の意味を強く持つ「礼拝」(worship)という言葉を意図的に避けながら、「祝賀、祭典」と言ったお祭り的な意味合いの濃い”celebration"を多用する。早い話が、感覚的高揚感ばかりを強調して、非日常的なお祭り体験、神がかり的な自己陶酔に、信者が理性を眠らせて身を委ねることが、神への礼拝であり、神との交わりだというのである。

こうして、人に自分で物事をきちんと考え、吟味することをやめさせ、信者の思考や知性を意図的に眠らせて、信者が疑うことや、警戒心を持つこと、識別力をもって自分で物事を考察し、行動を注意深く律する努力を自ら放棄させて、幼子のように無防備・無分別の状態になって、自分を開放して何者か分からない「霊」の導きに受動的に身を委ねるようにさせるというのは、礼拝というよりも、原始宗教レベルの「祭り」と呼んだ方がふさわしいと思うが、こうした神がかり状態を作り出すことは、ペンテコステ・カリスマ運動には極めて特徴的であって、それがこの運動では「聖霊のバプテスマ」と呼ばれ、聖霊が降臨した状態だとされるのである。

Dr.Lukeの言う「霊の中に浸け込む」というのも、「聖霊の(中に)バプテスマ(する)」という意味である。つまり、「聖霊のバプテスマ」を通して(彼らが)「神のことば」(とみなしている)異言を語りながら、恍惚状態となり、現実逃避のように自己放棄した一種のトランス状態に陥ることを通して「生ける神との関係」を持つことができ、神との合一体験を味わい、神に「感謝と賛美を捧げる」ことができる、というのである。

だが、次に述べるように、ペンテコステ・カリスマ運動の「聖霊のバプテスマ」のように、人の理性的思考を眠らせて、感覚的高揚感、陶酔感、恍惚体験に受動的に身を委ねさせる教えは、まさに人の主権を放棄させてそこに入りこもうとする悪霊の欺きのテクニックなのである。

神の聖霊は決して人が理性や知性を眠らせて、自分の主権を放棄し、全ての現象の源を御言葉に照らし合わせて吟味・識別することなく、正体不明の霊のもたらす感動体験にただ受け身に身を任せるよう促すことはない。なぜなら、聖書は、「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」(Ⅰヨハネ4:1)とあるように、信者が目を覚まして、自分の理性を働かせ、すべての霊が本当に神から来たものであるかどうか、自ら吟味し、識別するよう教えているからである。

悪霊も奇跡を行うことができる。人に好ましい感覚体験をもたらすからと言って、それが神から来た霊なのかどうかは調べてみなければ分からない。玄関のドアを無施錠で開放しておけば、泥棒も詐欺師も自由に入って来るであろう。そんな無防備な状態が信者にとって理想のはずがない。



・羊を「juicyでfreshなステーキ」にして味わうことを欲する貪欲な狼

しかし、Dr.Lukeのメッセージでは、常にキリスト教界に対する嫌悪と共に、プロテスタントの礼拝に顕著に見られる、信者が御言葉を朗読しながら、自分の知性によって御言葉の意味を理解する過程は脇に追いやられ、キリスト教界の礼拝儀式は真の礼拝ではないとして否定され、特にキリスト教神学は強い嫌悪をもって退けられる。上記のメッセージでも、Dr.Lukeは、キリスト教の神学理論にことさらに強い嫌悪感を示し、「肉汁の抜けて乾燥した筋だらけの肉」にたとえ、無価値なものとして一蹴している。

同氏は、神学及びキリスト教界のクリスチャンは「肉汁の抜けたステーキ」のように「筋だらけでパサパサで、美味しくない!」のだと揶揄する。そして、クリスチャンの人生は「juicyで美味しい」ものでなければならない、と言う。
 

「クリスチャンの人生は、美味しい人生です。これね、最近、いいたとえを思いついたの。ステーキで、ほら、肉汁が抜けちゃったステーキってあるじゃないですか。パサパサの、筋だらけのやつ。ね? 神学だとか、ね、何とかだとか、筋だけなんですよ。あんな何とか神学だとさ、バルトとか、ブルトマンだとかさ、あんなの読んでみなさん、内側が潤されますか? 筋です。美味しくない! 

ステーキが美味しいのは、肉汁が、juicyなステーキが、美味しいんでしょ。そのjuicyさを生み出すのは、聖霊です。聖霊が流れるとき、我々の内側に流れるとき、それが甘さであったり、平安であったり、喜びであったり、私の内側に、神の愛の実体、神の愛のサブスタンスを私の経験にして下さっているわけですよ。それがjuicyなんです。美味しいんです。

美味しいクリスチャンになりましょう! 筋のクリスチャンはもういいから。筋ばっかり…。美味しくない! 我々はjuicyにね、流すんです。美味しく、juicyなオーラを醸すんです。Amen? 」(2:11:43-2:13-27)


 

そういう神との経験、これを我々、味わえば味わうほど、クリスチャンはjuicyになります。freshになります。パサパサじゃなくて、筋々じゃなくて、juicyなクリスチャンになるんですよ。ハレルヤ。それが人に何か潤いを与えるわけ。juicyなステーキ。Amen? 神が食べたいのは、juicyなステーキです。」(2:21:12-2:21:58)


 果たして、このような主張にどんな聖書的裏づけがあるのだろうか?
美味しい」という表現は、当然、食べる主体がいてこそ成り立つものであるため、この文脈では、クリスチャンは誰かに「食べられる対象」だという事になる。

では、信者を「食らう」のは誰なのか。信者を「美味」だとか「不味い」とか判断するのは誰なのか? 信者は誰のために「美味しいクリスチャン」になるべきだと言うのか? Dr.Lukeは、「神が食べたいのは、juicyなステーキです」と言う。しかし、聖書の神はそんなことを信者に一度も要求してはおられない。

聖書が一貫して信者に教えるのは、御言葉に従うことによって、信者が父なる神の戒めを守ることである。キリストの愛の中にとどまることは、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが言うような「霊のバプテスマ」の中で自己陶酔に陥ることによるのではなく、ただキリストのいましめを守ることによってのみ可能である。

「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)
 
主イエスは、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:1)と言われる方であり、ご自分の羊を食い物にされることはない。聖霊もそのようなことを信者に求めない。にも関わらず、Dr.Lukeは、こうした御言葉を全て無視して、神が願っておられるのは、信者が神にとって「juicyなクリスチャンになる」ことだと言う。だとすれば、同氏の言う「羊を食する『神』」とは、一体、何者なのか?
 
そこで、真っ先に思い浮かぶのは、次の御言葉である。

「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い気は悪い実を結びます。」(マタイ7:15-17)

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:1-3)
  
つまり、羊を食らい、なおかつ、羊が「肉汁の抜けた筋だらけのパサパサの肉では不味いから嫌だ」と不平を言い、羊は「肉汁たっぷりのjuicyでfreshなステーキでなければならない」と注文をつける者は誰かと言えば、むろん、羊を食い物にするためにやって来た貪欲な狼以外にはない。つまり、偽預言者である。

従って、Dr.Lukeが、「神」という言葉で指しているのは、自分自身なのである。次稿でも確認するように、Dr.Luke及びKFCは自己を神としているのであって、つまり、自分を満足させる餌食となるために、信者は「美味しいクリスチャンになれ」と言っているわけである。

そんな偽預言者としてのDr.Lukeが、キリスト教神学に嫌悪を催すのは当然であろう。なぜなら、たとえ昨日クリスチャンになったばかりの信者であっても、キリスト教の教義の初歩の初歩に目を通しただけで、人間の罪も認めず、キリストの十字架の贖いも否定し、信者を食い物とみなすDr.Lukeの言説が「滅びをもたらす異端」であり、「自分たちを買い取ってくださった主を否定する」ものだということは、火を見るよりも明らかだからだ。
 
そこで、Dr.Lukeのキリスト教神学に対する憎しみの動機となっているのは、聖書の正統な教義そのものへの憎しみなのだと言える。正統な教義に照らせば、自分の言説がことごとく異端であることがすぐに暴かれると分かっていればこそ、同氏はキリスト教とその教義全体に強い嫌悪と拒否感を示さずにいられないのである。

その背景にあるのは、聖書の御言葉そのものへの憎しみである。同氏は御言葉の意味を可能な限り、歪曲するか、除き去りたいのである。神学は、人が解釈したものとはいえ、聖書本体の形を多少はとどめている。Dr.Lukeは自分自身が本当は偽クリスチャンであればこそ、神学、礼拝、キリスト教全体に向かって、絶えず嫌悪と呪いの言葉を吐かずにいられないのである。



己の欲に従って生きるために聖書の御言葉の二分性を否定する

Dr.Lukeの神学蔑視・軽視の姿勢はサンダー・シングにも合致する。サンダー・シングもまた、聖霊から力を付与されて神の実在との交わりを個人的に楽しむことこそが、信者に最も必要なことであり、それがキリストの証人になる秘訣であって、この単純な生き方を複雑な哲学的教えに変えてしまうような者は、不信仰であり、病にかかって死ぬ、と述べる。サンダー・シングは聖書学者たちを批判して次のように述べる。
 

「彼らの地上的知恵と哲学そのものが、霊感を受けた聖書記者たちの深い霊的意味を知るのを難しくしているのである。彼らは、文体や年代、記者の特徴といった外側の殻ばかりをつつき、「実在」という核は調べずにいる。

 これに対して、真の実在の探求者は、聖書にまったく異なる取り組みをする。彼は実在との交わりのみを願い、いつ、誰の手によって福音書その他が書かれたかというような、ささいなことにはとらわれない。使徒たちが聖霊に動かされて書いた神の言を手にしていること、その真理たる証拠は歴史や論理に拠るものではないことを、彼らは知っている。<略>彼が求めるのは実在のみである。神との交わりの中に彼は真の生命を見出し、神における永遠の満ち足りをみる。
(『聖なる導き インド永遠の書』、p.426-427)

「<略>単純な信仰を持つ人は単純な心の糧を食べて、神の言葉、聖霊から力をいただく。彼らは人を助け起こすことに人生を費やし、完全な健康と幸せ、平和の中に生き続ける。しかし、このような単純かつ普遍的な心理と実在を、複雑な哲学的教えに変えてしまう者は、疑惑や不信仰といった消化不良にかかりやすい。どれほど魅力的にみえようと、このような哲学は栄養過多で心の糧とはならない、それを食べる者は、実在と交わる体験を楽しむこともなく病にかかり、ついには死ぬことになる。」(同上、p.427-428)


確かに、神学の中には無駄なものもあろう。キリスト教界の儀式的礼拝にも無駄はあろう。
 
しかしながら、そうしたキリスト教界の不備を指摘するという意味合いをはるかに超えて、Dr.Lukeやサンダー・シングの言説が持つ重大な危険性は、「実在と交わる体験を楽しむ」とか、「神との経験、これを我々、味わえば味わうほど、クリスチャンはjuicyになります。freshになります。」などと、信者が自分にとって都合の良い、感覚的に好ましい非日常的恍惚体験ばかりを強調することによって、そうした体験の出所を吟味し、それが本当に神から来たものなのか、悪魔に由来するものではないのか、御言葉に照らし合わせて識別する作業まで退けてしまうことにある。

これまでにも、鈴木大拙や、『国体の本義』などを例に挙げて指摘して来た通り、もともと東洋文化の中には、西洋のように分析的・知的に深く考えることを厭い、直観的・行的にものごとをとらえようとする性質がある。

東洋には、知的な分析や、深い考察を「難しい」という一言で退け、全く受けつけようとしない風潮さえある。もっと言うならば、鈴木大拙が述べているように、そのような知性による把握は人間の本性に反するという考えがある。そのため、知的分析や考察に無意識のうちに嫌悪を示す精神性が受け継がれて来たのである。
 

これを要するに、西洋の学問や思想の長所が分析的・知的であるに対して、東洋の学問・思想は、直観的・行的なることを特色とする。それは民族と歴史との相違から起る必然的傾向であるが、これを我が国の精神・思想並びに生活と比較する時は、尚そこに大なる根本的の差異を認めざるを得ない。」「国体の本義」、結語、新日本文化の創造、より抜粋

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を再先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、p.195)


 そこで、Dr.Lukeやサンダー・シングやペンテコステ理論のように、聖書の御言葉を知性によって分析し、深く考察することなく、ただ「神との交わり」を感覚的・直観的にとらえて楽しむことこそ信仰生活の要であるとする主張は、もともと東洋人の以上のような感性に合致しているため、非常に好ましく響くのである。特に、常日頃から深く物事を考えることを嫌っている人たちには、このような主張は、自己弁明、自己正当化の意味も合わせて、まことに都合が良いのである。

そのような人々は、ペンテコステ理論のような話を聞くと諸手を挙げて賛成し、ほとんど思考停止と言って良い受動性に陥り、今までよりも一層、自分の感覚を中心に全てをとらえるようになり、御言葉に従ってすべての物事を吟味、識別するために、「目を覚ましている」ことをやめてしまう。

その結果、何が起きるかと言えば、「理性的、知性的、分析的」なものを嫌い、「情性的・意欲的、直観的、行的」なものばかりを重視するようになり、常に自分の情と感覚を頼りに物事を把握しようとして、自分にとって感覚的に好ましいものだけを「良い(=正しい)」ものとして受け入れ、自分の感性にとって不快と感じられるものを「悪い(=誤っている)」と決めつけて退けて行くことになる。そうなると当然、物事の判断が極めて主観的、短絡的、幼児的、自己中心的にならざるを得ず、受け入れる物事の範囲も極端に偏り、狭まって行く。判断力も著しく低下して、自分の感性を喜ばせてくれないものにはすげなくそっぽを向きつつ、情と感覚に訴えるしかけさえあれば、安っぽいメロドラマのような作り事の筋書きにも、疑うことなく飛びついては欺かれるということの連続になる。どんな物事をも疑いをもって慎重に吟味し、識別することをやめて、自分の感覚の奴隷となるので、理性・知性のブレーキが全く効かなくなる。

次の御言葉は、そのように自分の感性を満足させてくれる教えばかりを求めて、聖書の真理から空想話へ逸れて行く人々について警告している。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3-4)

ペンテコステ・カリスマ運動の言う「聖霊のバプテスマ」や、サンダー・シングの語る様々な英雄譚のような逸話などは、まさに「空想話」の筆頭格に該当する。それは人の五感には心地よく響き、何らかの高揚感や、感動、恍惚感を実際にもたらすかも知れない。だが、最も重要なのは、果たして、それが神から来た真理なのか、それとも悪魔から来た偽りの影響力なのか、という区別である。

東洋思想は、「人間の本質は、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。」として、聖書の御言葉の二分性に基づく知的な分析や考察が、あたかも人間の本質にかなわないものであるかのように主張する。だが、本当にそうであろうか?

聖書はむしろ、最初から最後まで、人間の情や思いや感覚の方が、よほど欺きに満ちていることを教える。人類に対する悪魔の最初の誘惑は、人間の感覚的欲望に訴えかけることを通してもたらされたのである。

「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」


そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかったそれで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」(創世記3:1-6)

エバが蛇にそそのかされて取った、食べてはならないとされた木の実は、他の木の実に比べても、とりわけ"juicy”かつ"fresh"で、「美味しそう」に見えなかったろうか?

人類が自分の感覚にとって好ましいものを「是」とした時点で、神のロゴスから感覚への転換が人に起きたのである。人は神の御言葉によって生まれ、神に離反するその決定的瞬間が来るまでは、神の御言葉の戒めを守ることによって命を得て生きていた。人を生かしていた命の源は、自分の感覚的満足ではなく、神の御言葉を守り、そのうちにとどまることにあった。しかし、悪魔の誘惑は、人が生きる命の根源を、神の戒めを守ることにではなく、自分にとって何が好ましく感じられるかという感覚的満足(欲)にすりかえたのである。

そうして自分の欲におびき出されて御言葉の外に誘い出された瞬間から、人は神から切り離されて、命の源を失い、自分の欲に従って罪の中を迷いながら生きるしかなくなった。サンダー・シングが言うように、難解な神学や哲学が病と死をもたらしたのではない。人間の感覚に基づく欲望こそが、人に命を与えることなく、かえって罪と死に至らせる原因となったのである。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。
すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。」(ヤコブ1:14-18)

御言葉は人の命の源であり、御言葉はすべてを二分する。神が「光あれ」と言われたことによって光が造られたように、人は神の御言葉によって創造された。その御言葉の切り分けの区別を退けて、人が自分の感覚(欲望)に従って世界を一元化し、自分にとって好ましいものを全て良いものだと判断しようとしたときに、堕落が起きたのである。しかも、悪魔はそのように人が己の欲に従って、神に代わって勝手な判断を下すことを、「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と言って人類をそそのかしたのである。

<続く>


バビロン化するキリスト教界―Dr.LukeのKFCとカルト被害者救済活動の同一化の過程

前回の記事ではKFCの誤りだけを取り上げたが、現役のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団会員であり、無資格でありながら、母教会に隠れてKFCで身元を隠してメッセンジャーとなっていたBr.Takaの活動が、何よりもKFCを決定的な誤りへと導いた極めつけの問題であったことは言うまでもない。これについてはすでに記事で書いたので詳細は繰り返さない。

Br.Takaの偽教師、偽預言者としての活動は、もちろん、AG教団内の牧師さえ全く弁護することはできないものであった。AG教団のある古参牧師は言った、「そのようなことをする信徒は必ず自分の教会でも孤立しているはずだ」と。

他のプロテスタントの教団では、所属教会に隠れて他の教会を放浪したり、ましてそこで牧師資格があると偽ってメッセージを語ったりしたことが発覚すれば、除籍となる。ところが、AG教団は、そのような活動を行なっていた信徒を咎めもせず、事実確認も行わない。他教団のカルト化を取り締まりながら、このように野良犬のごとく母教会をないがしろにして放浪する自教団信徒は野放し状態なのである。それでいながら、正義の担い手を自称している。こんな腐敗した恐るべき教団には、決して近寄らないことであろう。

だが、そうは言っても、AG教団も牧師制度を持つ教会である以上、信徒が無資格で伝道を繰り広げたり、所属教会の牧師に内緒で他の教会を遍歴するような行為を決して後押しているわけではない。

だから、Br.Takaの活動を擁護する者はAG教団の中にもなかった。彼の押しの強い饒舌なメッセージは、これまたネット上だけの虚構の世界であり、現実では全く誰からも相手にされていなかった。教団は、むろん、このように母教会と関係ないところで信徒に勝手な活動を繰り返されては大変困るというのが本音である。さらに、彼がKFCから引き連れて出て行った信徒も、もしこんな表現が許されるならばだが、KFCの中でも最も異常な信徒たちであった。だから、史上最悪のグループを引き連れて、史上最低の詐欺教会を開くために、彼はKFCを出て行ったのだったと言える。最悪のバビロンから最悪の残り滓を集めて、一体、何がやりたかったのかーーバビロンの大掃除がしたかっただけなのかーー疑問が残らざるをえない。

Br.Takaと似たようなことが、KFCにもあてはまった。一見、ルーク氏やKFCはネットではかなり人気を誇っているように見える。確かに、身近で見ると、弁舌やパフォーマンスが巧みで、立ち回りが器用で、それなりに魅力があるように見える。ところが、社会の中で聞き取りをしてみると、大半の人々が全く相手にしないのである。それどころか、まるで唾棄すべきもののように憎しみを込めて酷評する言葉を幾度も聞かされた。これは不思議なことであった。彼の評判は、ほんの少数の仲間内だけでしか保たれていないことがはっきり分かったからだ。

しかし、ルーク氏とKFCがTaka 氏のように怪しい偽教師であったAG信徒の真の目的を見抜くことも、排除することもできずに、私の忠告も完全に退け、すっかりかき回される事態に至ったのも、必然的結果であった。それはKFCが、AG教団やカルト被害者救済活動と全く同じ自己矛盾を抱えていたためである。
 
カルト被害者救済活動の指導者は、自分もキリスト教界の牧師でありながら、同業者であるキリスト教界の牧師を告発することを生業にしているわけで、そこに誰が見ても明白な根本的矛盾があった。たとえば、もし弁護士を訴えることを専門の稼業にする弁護士が現れたとすれば、同業者はどう感じるだろうか。彼が同業者から仲間とみなされることは絶対にない。

それなのに、カルト被害者救済活動は、牧師が同業者である牧師を訴えることを使命にしているわけだから、この活動が教界になじむことは考えられず、この先も決してないだろうと思われる。

それでも、このような活動が存続してきた背景には、カルト被害者救済活動が初めは統一教会などの他宗教から信徒を奪還することを目的とし、同業者から羊を奪うことを目的に掲げていなかった点がある。しかし、キリスト教界のカルト化の問題を彼らが叫べば叫ぶほど、彼らのターゲットの範囲は次第に狭まっていき、ついには身内に矛先が向いた。最初はプロテスタントの諸々の教団、さらにはアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団内部の危機を訴え、かつては仲間であった同じ教団の牧師を訴えるというところにまで至りついた。

こうなって来ると、それは牧師同士が互いを告発して血で血を洗いながら、信徒を争奪するような同士討ちの様相を帯びて来る。同じ教団の教会さえも標的になりうるというのであれば、どの牧師も、彼らに睨まれればいつ悪者の濡れ衣を着せられて、信徒を奪われるか分からない。そんな恐怖があるのでは、牧師らがこの活動を快く思わなくなるのは当然であろう。

しかし、このようにして、キリスト教界内でテロルを実行し、自分に逆らうとひどい目に遭わせるぞという心理的恐怖を与え、裁判などの手段に訴えて人を恫喝することで、反対派を黙らせて、教界内の覇権を握っていくことが、最初から彼らの目的であったと思われる。そのことは幾度も述べた通りである。
 
そもそもキリスト教界そのものが、牧師制度を含め、信徒間に差別と序列を作り出す階級制度を持っている以上、同じキリスト教界の牧師がこれを取り締まるというのは、もともと不可能であるばかりか、大きな自己矛盾なのである。

キリスト教界が信徒や教会を、見えない神ではなく、目に見える人間の統治下に置くことを是認している限り、カルト化教会は生まれ続ける。つまり、牧師制度ある限り、カルト化教会は決してなくならない。カルト化の根本原因は人間の指導者による信徒の支配を肯定するところにあり、キリスト教界の階級制度、身分制度にあるからだ。

ところが、カルト被害者救済活動はこの点から目を背ける。カルト化教会の出現の根本原因は、キリスト教界の構造そのものにあることを見ないで、自分自身も牧師でありながら、あたかも信徒を搾取するカルト化教会の牧師の罪とは一切無関係であるかのように、自分だけは正義の味方のように、彼らの腐敗を取り締まろうとする。

本当は両者ともに同じ罪を犯している以上、それは加害者が加害者を訴え、加害者が加害者を取り締まるのと同じ無益な行為であり、そんな活動に解決が見いだせるはずもないのである。訴える側にも正義が欠落しているのだから、ただ泥沼の闘争に陥って行くだけであるのは目に見えている。

だからこそ、カルト被害者救済活動というものは、最初から恐怖によって支配することだけを目的とする正義とは無縁の活動であり、掲げている正義は単なるデモンストレーションであり、もっと言えば、その戦いは初めから出来レースだったのだと言える。

カルト化教会の牧師と、それを取り締まっているように見える牧師は、同罪であり、同類なのであり、そうである以上、本気で両者が戦うことなどあるはずもない。なぜなら、彼らは共に信徒を食い物にすることによって利益を得る階級に属している以上、訴える側も、訴えられる側も、同じ罪を犯しているのであって、本気で相手の悪を糾弾するなら、必ず、我が身に類が及ぶのである。だからこそ、両者が相通じ癒着するのは時間の問題でしかなかった。

そのことを見抜いた被害者たちは、ずっと何年も前に早々にこの活動を離れて行った。

村上密牧師については、彼が被害者サイドからの訴えの内容を、断りなしに加害者サイドに転送していたという事実が早くから指摘されている。それにより、彼の掲げている被害者救済活動なるものは、完全な出来レースであったことが被害者たちにも判明してしまった。

こうして、カルトを取り締まる側も、カルトの側も、共に同じキリスト教界が生んだ毒性の副産物であり、両者共にキリスト教界の搾取から信徒を永遠に逃がさないことを目的とする囲い込みのシステムであることが明らかになったのである。

キリスト教界には、一方で、信徒をあからさまに食い物にするカルト化教会があれば、他方には、食い物にされた信徒を優しくかばい立てし、助けてやるように見せかけて、さらに食い物にしていく被害者活動がある。これらの間をぐるぐると巡っている限り、信徒は永久に自由にはなれない。だからこそ、教界そのものからエクソダスが必要なのである。

ところが、キリスト教界をエクソダスせよと述べながら、キリスト教界と同じ牧師制度を維持し、リーダーを立ていたKFCの活動にも、根本的な自己矛盾があった。

だからこそ、その自己矛盾の必然的な結末として、KFCはAG信徒を受け入れ、彼らと結合することにより、公然とキリスト教界と一体化して行ったのである。それは、KFCの指導者もまた信徒を支配して自分の利益と栄光を築き上げることを第一目的としていた点でキリスト教界と性質が同じだったからであり、その支配と栄光はヒエラルキー(重層的搾取の階層制度)なくしては実現できないものであった。

搾取とは、何も金銭的な搾取ばかりではない。霊的搾取というものも存在する。本来はまっすぐに神へと捧げられるべき栄光を中間で人間の指導者がピンハネすることにより、神の栄光と恵みが掠め取られてしまうのである。ただ搾取する側だけが忌むべき存在なのではなく、神ではなく人間の指導者に栄光を帰する信徒の側も忌むべき行いに従事しているのだと言える。
 
だからこそ、オースチンスパークスの論説を通じて述べたように、終わりの時代、目に見える指導者に帰依することは、今まで以上に危険な行為となる。それは単に信徒にとってつまずきとなるばかりか、いずれ反キリストに帰依し、道を開くことに直結するであろう。
 
KFCの指導者に顕著に見られた自己陶酔、ナルシシズム、自己義認は、すでに人間を絶対化する現人神信仰に通じるものである。

この自己陶酔と、己の無謬性の主張は、カルト被害者救済活動の指導者にも共通している。彼らはあまりにも深い自己陶酔に陥ってしまったので、もはや己の過ちを謙虚に認めたり、軌道修正することができないまでになってしまった。カルト化の悪を取り締まる正義の味方という役割を演じ続けるうちに、自分たちは絶対に正しく、間違うことはなく、自分たちに盾突き、反対する人間こそみな悪人であり、間違っているという思い込みに陥ってしまった。

つまり、彼らは自己の無謬性を信じるまでに至ったのであり、それは己を神とすることに等しい。裁判に敗北してさえ、過ちを認められないほど強烈な思い込みに支配されている。今更、説得しようにも手遅れであろう。

しかし、すでに述べて来たように、人間の指導者を神以上に称え、祀り上げるという偶像崇拝は、ペンテコステの教えに極めて特徴的である。カトリックはそれ以上にさらに強力なヒエラルキーを敷いているが、ペンテコステ系の教えも、必ず人間のカリスマ指導者を擁立するという特徴があることはすでに述べた。

だから、キリスト教界のカルト化教会も、カルト被害者救済活動も、KFCも、みなこの同じ流れの中から生まれてきたものだと言える。このように人間の指導者を頂点として、その下に統一的な組織を編成し、リーダーを神以上に高く掲げることによって、この人物をシンボルとし、信徒らがそのシンボルに服し、彼と一体化することによって、集団的な一体感、集団的自己陶酔、集団的自己義認、集団的自己肯定に陥ることを可能としていくーー このようなものは断じてキリストの名で呼ばれるにふさわしい教会、エクレシアではない。

このようなリーダーたちの目的は、信徒に神ではなく自分を見させ、自分に陶酔させ、自分に従わせることであり、彼らは己の栄光を立てあげるために、神の名を利用して霊的中間搾取を成し遂げているに過ぎない。もし営利企業であれば、そのようなことをしたとて何の問題もないであろうが、それを主の御名を利用して行うところに彼らの深い罪がある。

繰り返すが、真実に神に向かう道は、常に孤独を伴う。それは信者がたった一人で神に向かう行程を避けて通れないからだ。このような生き方を不器用だとか人間嫌いだとか見栄えがしないと嘲笑するのは勝手だが、だからと言って、歴代の預言者も、信仰の先人たちも、みな同じ道を辿って来たのである。人前で歓待され、もてはやされ、栄光を受けるのは、決まって偽預言者であった。今更、その法則性が変わることはない。しかし、異端的な教えを掲げる組織は、決まって信徒が深く個人的に神に向かうことを妨げ、自他の切り分けを否定して、一人のカリスマ指導者のもとで集団的自己肯定、集団的陶酔状態を作り出す。

そこには必ず、男女差別や年功序列に基づく信徒間のヒエラルキーが存在する。指導者の絶対化から始まって、信徒間には階層制が敷かれ、暗黙の序列や、身分差別がある。だからこそ、若年者への虐待という問題も起きて来る。

また、人間の犠牲がほめたたえられる。指導者が讃えられる一方で、常に生贄にされる信徒がいる。若年者や子供が真っ先に食い物にされて行く。これは旧約聖書の背教の風景と同じである。

それにも関わらず、この終わりの時代、人間を賛美する思想は、生まれながらの人間にとっては極めて心地よく響くものであり、自分について厳しい宣告を聞きたくない人間、ヒエラルキーが与えてくれる地位に安住したい人間は、簡単にそれに惑わされて行くであろう。出帆した船を今更引き戻すのは手遅れである。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ3:3-4)

こうして、キリスト教界と、それを告発していたカルト被害者救済活動、さらにそれを告発していたアンチ・キリスト教界(KFC)は、根本的に同一だった。そうであるがゆえに、これらは次第に一体化して行ったのであり、KFCにおけるBr.Taka氏の事件も、一人の異常な信徒によって引き起こされた偶発的な出来事ではなかった。そして繰り返すように、これから先も、彼らは心を一つにして異端の教えを擁護し、聖徒らを憎み、迫害し、排斥しながら、最終的には反キリストへの信仰へと至りつくだろう。それこそが、腐敗したバビロンの本意である。

聖書はこのようなバビロンからは離れなさいと教えている。離れることのできた人は幸いである。

わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。

あなたがたは、彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行ないに応じて二倍にして戻しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中には、彼女のために二倍の量を混ぜ合わせなさい。

彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。

それゆえ一日のうちに、さまざまの災害、すなわち、死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。

彼女と不品行を行ない、好色にふけった地上の王たちは、彼女が火で焼かれる煙を見ると、彼女のことで泣き、悲しみます。

彼らは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、こう言います。『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。』<略>

おお、天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都のことで喜びなさい。神は、あなたがたのために、この都にさばきを宣告されたからです。」(黙示18:4-20)

キリスト教界を非難しながら自らがバビロン化したDr.LukeのKingdom Fellowship church

・Kingdomfellowship churchのDr.Lukeの危険性と同氏の憂慮すべき未来について

さて、ルーク氏とKFCについて、書いておかねばならないことがある。カリスマ指導者を立てては人間に栄光を帰し、神以上に人に尊敬を集めようとすることが、ペンテコステ系の教えの最たる特徴であることについて確認して来たが、これについてはKFCも例外ではない。

私が関東に来て2日目に「KFCはバビロンだから関わってはいけない」と、ルーク氏を長年よく知る人物から忠告を受けたことはすでに書いたが、その忠告の正しさは今日に至るまで証明されている。

カルトとアンチカルトが一つであるのと同じように、ルーク氏はキリスト教界に反対しているように見えても、両者は一体なのである。
 
2009年当時、ルーク氏が私のブログにコメントの書き込みを始めたばかりの頃、それは当時ペンテコステ系の教会で得られる程度の聖書の真理しか知らなかった私にとって、御言葉のより深い働きに至りつくために、神ご自身が用意された助けの一つであった。それは確かに有益な学びであり、読者がいることによって議論は深まったが、そこに一つの深刻な危機があった。良き学びがあった反面、彼が本音では何を目的に接近して来ているのか分からないという危惧が私の側にあったからだ。

というのも、ルーク氏の行動にはいつも尋常ならぬ影響力が伴っており、彼が他人のブログに書き込んだ文字だけのコメントでさえ、圧倒的な存在感で読者の関心を集めた。彼が行動すると、背後にある何か得体の知れない大きな力が動員されて、望むと望まざるに関わらず、関わる人々は大きな出来事の渦中に巻き込まれて行くのである。そういう不穏な影響力を私が当初から感じていたのは事実であった。
  
後になって、私はルーク氏が行って来たような接近は、彼ら(あえて彼らと呼ぶ)が自分たちにとって好ましくない人間を味方に取り込んで行く際の常套手段であることが分かった。今となって分かるのは、彼はおそらく無意識であったかも知れないが、私に何かの脅威を感じていたということである。

たとえ御言葉の深い働きを知らなくとも、最初に書いていた「光の天使の罠」の中には、すでに私のクリスチャンとしての洞察力、筋を曲げない生き方、御言葉にそぐわないものに対する容赦のない批判精神が表れていた。これを見て、彼はおそらく、私が明確に彼の正体を見抜いて敵になるよりも前に、味方にしようと考えたものと見られる。あるいは、そこまで深く考えずとも、利用価値があると見たのであろう。

むろん、どんなに取り込もうとしてみたところで、しょせん異質なもの、相容れないものは、決して交わることはできないのだが・・・。
 
思い出すが、ルーク氏は当時、品行方正、清貧貞潔なキリスト教界の牧師の生き様を揶揄しては、「私は真っ赤な偽牧師だ」と吹聴していた。事実、その通りだったのだろうと私は思っているが、こうした彼の言葉の裏には、ただ堅苦しい儀礼や、死んだ教義にとらわれて、自由なく命の通わないキリスト教界の牧師生活に対する彼の嫌気だけでなく、もっと深いものが含まれていたように思う。

その言葉の中には、誠実さ、真面目さ、貞潔さ、透明性、単一さ、首尾一貫性といった人間の高潔さ、信念を貫いた生き方全般に対するルーク氏の嫌悪が如実に表れていたように見受けられる。彼はただ真面目一辺倒のキリスト教界の牧師を軽蔑していただけではない。そこには、たとえ自分の利益を根こそぎ犠牲にしてでも、うわべだけの利得になびかず、信念を貫き、心の真実性を優先する人の生き様そのものに対する彼のどうしようもない嫌悪感、もしくは劣等感が表れていたように今となっては見受けられるのだ。

彼はそういう昔ながらの美徳を嫌っていた。なぜなら、彼にはそうしたものが欠けていたからである。
 
ルーク氏は自分をとても親切で心ある正義感溢れる優しい指導者に見せかけることができたが、それはカルト被害者救済活動の指導者と同じように一種の演技であり、心の真実から出たものではなかった。

このような宗教指導者は、絶え間なく正義の味方、人々の優しい助力者、何もかも知っている信仰の導き手を演じ続けることがライフワークになってしまっている。しかも、優しく心ある指導者を演ずるために、巧みに周りの人たちの弱点を利用しては、人の心に入り込んで行くのである。そのようなことを続けているうちに、すっかり自分でも、自分が誰なのか分からなくなり、演じ続けているヒーローが自分の実際なのだと思い込み、ついには自己の無謬性さえ信じるようになる。これは恐ろしいことである。

改めて、牧師という地位は、人が立ってはならないものであると私は思う。それは自分は牧師ではないと言っていたルーク氏も同じことなのである。

こうした宗教指導者は、カルト被害者救済活動の支持者もそうであるが、信徒らの甘えや過ちや弱点を大目に見ることにより、人間的な弱さに同情し、あたかも人の弱さをカバーし助けてやるように見せかけながら、人の罪を大目に見て甘やかし、悪に対する敏感さを鈍らせていく。そうして、人の自己を増長させ、肥大化させていくのである。だから、このやり方につけこまれた人は、交わりを通して、より自己中心になって行き、兄弟姉妹に対しても冷酷に、頑迷になり、人間性が荒廃して行くのである。

さて、キリスト教界の腐敗を厳しく糾弾していたにも関わらず、ルーク氏にはキリスト教界にまさる真実がなかった。カルト被害者救済活動の指導者と全く同じように、彼は弱者を己の人生の成功のために利用していた。
  
おそらくルーク氏は自分が心の真実性よりも利得を優先する打算的な生き方を変えられないと分かっていたのだろう。だから、自分が成功や名声と引き換えに踏みつけて来たものを彼は軽蔑し、憎んでおり、それを目の前から消し去りたいと望んでいたと見られる。
 
そこで、彼は、本当に神だけを第一として、利得になびこうとしない、自分にとって危険となりうるクリスチャンを見つけ出すと、味方を装いながら近づいて行き、自分の社会的な高名さや人格的魅力、また、相手の欠点や弱点を十分に利用して信用を得ようとした。親切な助け手を装って接近することによって、敵は警戒心を弱め、あわよくば騙されて思い通りになってくれるし、彼は弱者を救うヒーローになれて脚光を浴びることができるので、一石二鳥である。

こうしたやり方は、後になって、霞が関の官僚や、いわゆる東大話法やら、自民党率いる現政権を支持する人々を観察した結果、彼らの行動に典型的なものであることが分かった。

たとえば、今、自民党が沖縄出身のSPEEDの今井絵理子氏を候補に擁立したとのニュースが飛び交っているが、これも同じ懐柔の手口である。彼らは人の弱みを探り出して利用するのが上手く、特に障害者やら社会的弱者を利用するのが大好きだ。今井氏は障害者の子供を利用されたのであろう。
 
彼らのやり方はこんな風である。「障害者のお子さんを育てておられるとは、きっと今でも理不尽な差別などを受けられて、大変なご苦労があるでしょうね、立派ですね、尊敬します。どうですか、もっと社会を住みよい場所にするために、政策の上で、あなたのご経験やお考えを生かしてみられませんか。私たちには到底、分からない知識をあなたはお持ちだ。もしお気づきの点があれば、ぜひ私たちにも知恵を貸していただきたい。どうです、一緒にやろうではありませんか・・・」 

こうして、言葉巧みに相手の弱さに寄り添い、同情するふりをして近づき、巧みにその人の自尊心をくすぐって丸め込み、やがて決して抵抗できないようにがんじがらめにして行くのである。

そのようにして相手の主張を骨抜きにし、決して正義を実行できないように拘束しておきながら、他方では、彼らのひたむきな抵抗精神、庶民としての正義感、弱者への憐れみ深さ、一途さなどを清純なイメージとして存分に広告に利用するのである。

ルーク氏がウォッチマン・ニーの生き様を利用していたことについてはすでに述べたが、利用はウォッチマン・ニーだけにはとどまらなかった。彼は当時、ネットを巡回して、ひたむきに神を見上げる真実で善良そうなクリスチャン・ブロガーを見つけ出しては、巧みにリンクに加えていたが、それも宣伝材料として利用価値があったからに過ぎない。
 
当時、困難の中でひたむきに神に頼る清らかな証を発表しているように見えたあるブロガーは、ルーク氏がリンクを貼った後に、KFCの姉妹からの接近を受けて、開口一番、このように言われたことを私に明かした、「本物だったら怖いと思った」と。

この話が決して嘘ではないと確信できるのは、私もまた同様の接近を受けたからである。私が関東へ来ることが決まるとすぐに、一度もこちらから連絡を取ったことのない、見も知らないKFC内部の中核的な存在の信徒から挨拶状が来た。私はそれを読んだ時、これが彼らの縄張りに新たに断りなく入って来ようとしている人間(私)へ探りを入れるための身体検査であるとすぐに分かった。
 
そのことから、私が関東に来ることは、KFCの側からは、また新たな知らない人間が、ルーク氏だけを頼りに、彼らの縄張りに足を踏み入れようとする行為として映っているのだとよく分かった。表向きの優しい文面とは裏腹に、歓迎されていないことがはっきりと分かったのである。

そのことは、それまでルーク氏が、KFCにはリーダーはおらず、これは牧師を持たない兄弟姉妹の自由な交わりだ、と表向きに主張していたことが、事実ではないことを私に確信させた。実際には、KFCにあるのはれっきとしたルーク氏を頂点とする組織であり、人の縄張りであり、この世のテリトリーであり、そこに入るためには、古参の信徒らへのお伺いも必要なのだと分かり、私は失望した。それを裏付けるように、内情を知る人々からのKFCとルーク氏に関する厳しい忠告があり、私は真のエクレシアを求めるために、この団体を避けたのである。もし杉本事件が起こらなければ、ずっと近寄ることもなかったであろう。
  
それにしても、「本物だったら怖いと思った」という言葉は、ルーク氏を筆頭としてKFCの中核的な信徒らが確信犯として行動していたことをよく表しているように思う。つまり、彼らは自分たちに真実性がないことをよく知っていて、それをカモフラージュするために、本物の信者を仲間のように見せて利用していたのであり、同時に、自分たちの嘘を見抜けるほどの真実な信仰者の出現を脅威に感じていたのである。
 
だから、ルーク氏の私への接近は、今となっては、決して純粋な信徒の交わりを目的としたものではなかったと確信できる。むしろ、彼らの隠れたミッションは、一心に神を求める有望なクリスチャンに近づき、虚偽を信じさせて腐敗させ、その主張を曲げて、唯一の道から逸らし、キリストの復活の命の高い水準から引き下ろすことにあったのだと言える。

一旦、その接近を許してしまうと、信者たちは神への貞潔な思いを失い、ルーク氏に惹きつけられて、彼の言うなりとなり、腐敗して行くのである。

ここで私は、信者を異端へと逸らして行くのは、何も女性信徒に限らないことを付言しておきたい。むろん、ルーク氏の背後には女性信徒がいた。サンダー・シングを彼に勧めたのも名古屋のAG女性信徒であるし、Br.Takaの妻であるAG信徒もまたKFCを乗っ取るためにルーク氏を欺いた。ルーク氏はこれらの女性信徒らにすっかり乗せられ、さらに自らの過ちを認めないために、私に異端の濡れ衣を着せて団体から追放したのである。

だが、こうしてエバにそそのかされたアダム同然、異端の影響を受けた女性信徒らにはめられたルーク氏自身も、率先して信徒を巧みにキリストへの真実と貞潔から逸らす役割を果たした。異端の教えという御言葉への混ぜ物を容認したのは彼ら自身なのである。

「私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが穢されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。」(Ⅱコリント11:2-3)

このようなわけで、当初は本物のように輝いていた信仰者たちも、ルーク氏に接近すると共に、神への一途な関心から逸らされて行くのだった。彼らからは当初の清らかさ、単一さ、貞潔さが失われ、その輝きはどんどん曇らされて行くのである。その人々はすっかり人間関係の地位争いとプライドにしがみつくようになり、ルーク氏の周りの人間関係において自分がどれくらい高位を占めているか、見栄とプライドを維持できるか、それだけを念頭として行動するようになり、他の信徒を平気で押しのけ、中傷し、蹴落とすようになり、 最後には凡庸さ、低俗さ以外には何も残らなくなって、完全に塩気を失った無価値なごみ屑のように、人々に唾棄され、踏みつけられて終わることになる。

実に数多くの兄弟姉妹がそのようにしてルーク氏を通して信仰の道から逸らされて腐敗して行っただけでなく、兄弟姉妹の間で互いに争い、排斥しあい、傷つけ合う道を選んで、人生を浪費した。それもそのはずで、聖書が「互いに愛し合いなさい」と命じているにも関わらず、ルーク氏は愛という言葉を何よりも嫌い、その教えに全く関心を払っていなかった。そのことは彼が自ら幾度も公表していたことなので、これほど公然の嘘に騙された人は自業自得であろう。聖書が最も肝心だと言っているものを、彼は踏みつけにしているのだから。

ちなみに、こういう冷酷な側面は、村上密氏や杉本徳久氏のようなカルト被害者救済活動の支持者たちにも極めてよく似ているように見受けられる。彼らにとって何より大切なのは、権力闘争に勝ち抜いて、自己の正義を貫き、己のプライドを立てあげること、より多くの支持者を獲得して、自分たちの活動を通して地上に手柄を立てて、名を馳せることである。被害者はそのための手段である。そして、その戦いに勝つためならば、彼らは手段を選ばず、他の教会や信徒らに戦いを挑み、仲間に嘘を信じさせて欺き、内的に腐敗させたり、法廷闘争のような泥沼の争いに巻き込んで疲弊させたり、あらゆる方法で人の生活の前進を妨害し、信仰の歩みを駄目にすることをいとわない。

KFCの歴史にも、そうした不幸な事件は数多くあった。中には、不平等な結婚を強いられて離婚に至ったケースもあれば、山谷少佐、坂井氏のように活動中止に追いこまれたブロガーもいる。表向き、それは本人の自主的な選択によるものであったが、すでに述べた通り、ルーク氏はそれらの事件に間接的に関与していた。

何よりも、彼らを感情的に焚き付けて争いの火に油を注ぎ、彼らに異端の教えや虚偽を信じ込ませて、真っ直ぐな道からそらしたのはルーク氏であり、彼がいなければ、これらの事件は決して起こらなかっただろうとの確信が私にはある。こうして、ルーク氏は表向きにはキリスト教界を批判しながらも、他方では、キリスト教界に現役で籍を置く信徒らと積極的に交わることで、キリスト教界の毒を周りの信徒らに注入して行ったのである。

だから、一連の出来事から見えて来るのは、ルーク氏は、自分の利益からでなく聖書に基づいて異端の教えを糾弾しようとしていた信徒らに、神への貞潔さを失わせることによって、唯一の道から逸らし、戦いに敗北させて口を封じる役割を果たしたということである。ルーク氏を信じたために、彼らはクリスチャンとしての矜恃を失い、戦いに敗北して行ったのである。

ルーク氏の隠れた働きは、こうしてあたかもクリスチャンの解放を願い、それを助けてやるように見せかけながら、人々の情けや、自己憐憫、彼に対する尊敬や好意、あるいは自尊心などに巧みに働きかけて、御言葉から逸れたところで、彼らが己の正当性を主張するように仕向け、それによって神に対する真実性、純粋性、貞潔さを失わせて神の防御の外に引き出し、戦いに敗北させることにあった。

この点で、彼の果たした役割は、カルト被害者救済活動の指導者と本質的に同じであり、車の両輪のようなものであった。カルト被害者救済活動の指導者らは、気に入らない信徒や教会に積極的に裁判をしかけ、泥沼の争いに引き込むことで、信仰生活を妨げようとしたが、他方、ルーク氏は信徒の抱える問題に助けの手を差し伸べるように見せかけて接近しては、人々を欺き、腐敗させることで、戦いに勝利できないように仕向けて行った。だから、両者は両輪のごとき一つの働きであり、ともに暗闇の勢力の働きであったと言える。

そして、彼らの終局的な目的は、信徒らに神ではなく人間の指導者である自分を見させ、自分に陶酔させ、従わせることにあった。オースチンスパークスの書いている通り、これは終末に向けてますます腐敗に落ちて行く偽りの教会の姿である。最終的には、信者は、神か、それとも人か、どちらかを選ばなくてはならなくなるだろう。だからこそ、次の御言葉があるのだ。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方とすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときに勝利を得るため。」
 と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

神が私たちを保って下さるのは、私たちが御言葉に従うことによってキリストのうちにとどまり、キリストも御言葉を通して私たちの内にとどまって下さる限りにおいてであり、もし私たちが御言葉を曲げたり、捨てたりするのであれば、以前にどれほど純粋な信仰心を持っていたとしても、もはや私たちは神の守りの中にはいない。ある一つの戦いが、最初は神から出て始まったものであったとしても、もしその戦いの途中で、クリスチャンが御言葉を捨て堕落するなら、もはや神はその戦いを擁護しては下さらない。
 
ルーク氏については、彼が多くの信仰者を唯一の道から逸らし、堕落させて来た危険を早くからよく知っている人々がいた。彼らはルーク氏を兄弟として愛していたが、彼の行動を嘆いており、ルーク氏はKFCを畳んで、神の御名を利用して栄光を築き上げ、兄弟姉妹の交わりを私物化するのをやめて、リーダーの座から自主的に降りるべきだ、と日頃から漏らしていた。

実際、そのチャンスは何度かあった。ルーク氏自身が引退を望んだ時期もあったと聞くし、AG信徒に騙されて会堂を失ったその時も、彼にとってはチャンスであった。だが、エリコの街を再建するように、彼らはこの団体を再建し、その度ごとに前よりももっと洗練されたものを作ろうとして、状況は悪化していったのである。
  
まだルーク氏と親交があった頃、彼はアーサー・ホーランドのことをよく記事に取り上げていた。私が、キリスト教界を批判しているくせに、なぜそんな人物に関心を寄せるのかと問い尋ねたところ、彼は言った、「アーサーは老人性鬱状態じゃないかと思う。どこか彼はぼくに似ている。だからどうなるのか関心がある・・・」と。

その時私は、彼はアーサー・ホーランドの中に自分自身を見ているのだと感じた。ハーレーを乗り回し、白いスーツ男と呼ばれたアーサー・ホーランドも、あるいは勇敢にカルト化教会の牧師と闘って被害者を取り戻しているように見える村上密牧師も、ドクター・ルークも、共に同じように彼らが作り上げた虚構の人物であって、舞台から降りられなくなった俳優と同じく、自己から逃避するために彼らがひっきりなしに演じ続けている架空の人物であると。

ルーク氏はその演じ続ける苦労を知っているのだ。だからこそ、他者の中にも自分と同じような倦怠を見たのであろう。彼らはきっと人生の終わりまでその役割を演じ続けることをやめられないだろうと思う。だが、そうやって他者の願望を満たすために、あるいは自己から逃避するために、存在しない立派な人物を演じ続ければ演じ続けるほど、内面的な空虚さは募って行く。それが倦怠や疲労から鬱状態にまで発展し、最後には絶望に至るのもそう遠くないことであると感じられる。

ルーク氏はそうしたことを無意識に感じつつ、アーサー・ホーランドに同情を持って注目していたのだと感じられる。アーサー・ホーランドのみならず、当時、ルーク氏が、ペンテコステ系のキリスト教の牧師がまともな最期を遂げていないと度々指摘していたのも印象深いことであった。
 
キリスト教界で超人のように非凡な正義の味方を演じるこうした指導者らの虚像は、彼らが自己の弱さやコンプレックスから目をそらし、自分を強く完璧に見せかけるために築き上げたブランドである。それはエリコの城壁であり、いちじくの葉であり、マサダの城壁である。弱々しい自己を克服するための三島由紀夫の肉体改造と原理は同じなのである。

このようなブランドの下に集まりたい信徒は、大体、指導者と同じような弱さを抱えているものであり、指導者だけでなく、信徒の方でも、あるいは自分の人生から、あるいは自分の性格の弱さや失敗から、あるいは自分の家庭から逃避したい願望を持っている。自分自身の内にどんな恐ろしい空洞があるのか、それは見ないでおいて、御言葉によって自分を飾り立てることで、美しい自己像を作り上げ、現実の自分から逃れたい。そういう人々が互いに寄りあって、御言葉を使ってありもしない美しい自己像を作り上げ、互いの弱さを優しくかばい合って失敗に目をつぶり、当面抱える問題から目を背けて、自己陶酔に浸るために作り上げた逃避のための同盟が彼らの教会なのである。(公平のために言っておけば、キリスト教界の教会はすべて同じである。)

それは古くはバベルの塔と呼ばれ、今日まで連綿と続いているカインの城壁である。そこには、神のみ前で、自分には居場所があり、伴侶があり、家庭があるから安心だ、私は幸福であって、何も不足はない!と宣言したい人々、地上では貧しい寄留者、やもめであるキリストの花嫁の精神を忘れてしまった信徒らが集まっている。
 
本来、地上で伴侶がいることと、神に対する貞潔さは何の関係もないはずだ。信仰歴が長いからと言って、神に対して純粋かどうかは分からない。しかし彼らはこの世の勢力関係を教会の中に持ち込み、自分たちは安定した社会的な地位を得ており、それなりの年齢にも達しているので、誰からも疑われる筋合いはないというお墨つきを勝手に作り上げて慰め合う。こうして自分たちが人間からだけでなく、神からも後ろ指を指されなくて済むために寄り合いを作り、そこに安住し、仲間内で認め合い、誉めそやし合うことで、神に対する真実性の保証にできるかのように思い込んでいるのである。 しかし、その保証は、人間から来るものであって、神から来るものではない。

ルーク氏は三島由紀夫にも共感を示していたが、映画「MISHIMA」を観たときに、私には当初不可解に見えていた色々なことに合点がいった。この主人公の生き様が、まさにルーク氏に重なって見えたからである。むろん、三島由紀夫自身も、ルーク氏も、演じている俳優ほどの立派さは全くない。これはあくまで映画であり、現実はここまで美しくない。だが、KFCは、彼にとってまさに三島由紀夫の盾の会のようなものだったのだと理解すれば、すべてに納得がいく。

再建されたKFCはバベルの塔であり、エリコの城壁であり、盾の会であり、蛇の道の上にあるマサダの城壁である。そして、もしこの予想が正しければ、 必ず、KFCはこれらと同じ末路を辿ることになろう・・・。
 
話が少し逸れるようだが、私は、キリスト教界一般における救いの概念を、「教会から貸与される救い」と呼んでいる。たとえば、ある教会(集会)に属していることによって保証される救い(言い換えれば、その教会から出ると失われるような救い)は、本当の救いとは呼べない。キリストの救いは、保険のように、団体に加入することによって得られるものでなく、一時的に貸与したりすることもできず、個人が信仰によって受け取るものでしかない。そしてその神の保険への個人的な加入手続きは一度限りで、永遠に効力を発するのである。

にも関わらず、キリスト教界にはダブルスタンダードがあり、救いは個人的な信仰によって受け取れるとしながらも、同時に、教会を離れれば、救いが失われるかのように教えている。教会を離れることは、信徒にとって信仰の道から逸れる恐ろしいことであるかのように教えられ、まして、教会から追放されれば、サタンの手下となり、呪いしか待ち受けるものはないかのように思い込まされている。

しかし、もしそれが本当だとすれば、そのような教会に所属していなければ維持できないような救いは、永遠性がなく、束の間、教会から「貸与されている救い」に過ぎず、その救いはそもそも信者自身のものではなく、教会のものであって、団体の所有であって、貸し出されているに過ぎないということになる。だが、そんな風に団体から貸与される救いなるものは、聖書に何の根拠も持たない全くの偽りであって、人の作り出した幻想に過ぎない。
 
それなのに、往々にして人間は、隠れたところで個人的に静かに神に向かって、神ご自身から承認を受けるよりも、人の群れの中で、団体から貸し出される偽りの救いの方を好むのである。なぜなら、そこにいれば常に人間の群れがあって、一人で神に向かうという孤独を避けて通れるからである。それこそ、バビロンのつぶやきなのである。

「彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。」(黙示18:7)

このバビロンのつぶやきは、キリストの花嫁たるエクレシアの地上における寄留者の立場、貧しさや孤独、苦難の十字架とは対極にある享楽である。そして、終わりの時代に向かうに連れて、バビロンはますます装いを新たにし、より洗練された格好をして、きらびやかに自分を飾るであろう。

今でも私は時折、用事で車を運転しながら、あのみすぼらしい緑のビルのそばを通り過ぎることがある。その時、毎回おなじみの古びたジャケットを着て、自分でそろえた古いパソコンを起動して、使い古しのOHPを映しだしていたルーク氏を思い出すが、その頃の彼の方が、今よりはるかにましであったように思う。同じようなことを、他の誰かが言っていた。かつて寿町にホームレス伝道に出かけて、自分のお気に入りのピカピカの車の後部座席に、みすぼらしい格好のホームレスのおっちゃんたちを大量に乗せて、嬉しそうに横浜を案内していた時の彼の姿は輝いていたと。

ルーク氏には何かしらそういうところがあった。キリスト者は例外なく誰しも人格的魅力を持っているものだが、彼にも、もしかしたら、私心なく純粋に神に向かってくれる時があるかも知れないと、初心に戻ってくれる時があるかも知れないと期待させるようなところがあった。だが、それが多くの人々にとってつまずきとなったのである。初心に戻るどころか、年を追うごとに、彼の二重性は深まり、ついに今のような状況にまで行き着いてしまった。

KFCはキリスト教界を批判しながらも、キリスト教界以上に何でも無分別に受け入れたので、とんでもないバビロンの巣窟に至ってしまった。そこにはサンダー・シングのような異端の教えもあれば、ペンテコステ系の誤った教えもあり、あやしげな予言も、異言も、イスラエル賛美も、何でもあった。

すでに述べて来たことなので、ここでは繰り返さないが、これらの思想の忌まわしさはすべて、生まれながらの人間を神以上に高く掲げ、御言葉よりも人間の言説に信徒を従わせようとするところにあり、さらには感覚的陶酔感を、霊の導きとすり替え、感覚的な満足を御言葉に従うようにとの静かな御霊の導きよりも重視するところにある。

私がKFCを追放されて去るよりも前(異常だと分かっていながら、あえて結末を見たいがためにとどまった)、現役のAG信徒でありながら、そこで偽ってメッセージをしていたBr.Takaが、自分たちはこれから「深みに漕ぎ出すのだ!」とメッセージで宣言していたのを思い出す。

その時、私の念頭に真っ先に思い浮かんだのは、「サタンの深み」(黙示2:24)だった。彼らは私にも盛んに踏み絵を踏むように促していた。つまり、彼らと一緒になって、すべての疑いを捨てて、仲間になって着いて来いと促していたのである。

Br.Taka夫妻は毎回、礼拝が終わるとルーク氏と共にどこかへ姿を消していた。三人で交わっているのだろうと思われたし、ルーク氏を説得できるチャンスはもうないと内心、理解していたが、私は、どうしても彼らの交わりには加わる気になれなかった。

その当時も、時折、勇気を出して彼らの後を追って一緒に行ってしまえばよかったのにという思いが去来しないこともなかったが、今は心の直観が正しかったことを思う。それは単なる臆病さや心理的な迷いをはるかに超えた深い直観的な疑いに基づいた正しい行動であった。光と闇が交わらないように、彼らと私とは元来、仲間ではなかったのである。そのことは後に明確に事実となって現れた。

そして、彼らは当初から私の内心の疑いを鋭く見抜いていたので、彼らの仲間にならない私を激しく糾弾し、自分たちだけで船に乗ってどこへやら「深み」に漕ぎ出して行った。

その後、AG信徒らとルーク氏が決裂したのは私の予想の通りであり、私の忠告を退けたルーク氏は見事に彼らに裏切られたわけだが、それでも、たとえAG信徒がいなくなっても、おそらく、彼が一旦、漕ぎ出した深みは、ますます彼をとらえて離さないだろうと私は思う。

今になって、私はいつかどこかの信徒が見たという幻を思い出す。それは沈没船に乗っていた信徒の話であり(「神の義対人間の義」参照)、まっすぐに滅びゆく沈没船に、様々な「救い」を提唱しては救助に近づいて来る船はみな偽りであった。

私はBr.TakaとDr.Lukeらの誘いに応じて彼らの船に一緒に乗って行かなかったことを、まことに正しい選択であったと考えている。同じような船は、別の機会にも、何度も近づいて来た。だが、偽りの救いをかざして、大勢の人たちを載せて近づいて来る救助船に乗り込む代わりに、私は一人でキリストの十字架をつかんだ。そうして、復活の領域へと引き上げられた。

もしキリストへの信仰というものを全く知らなければ、三島由紀夫の生涯とその主張を見て、彼はそれなりに純粋で優しい人であったと思うかも知れない。ある意味、「ドクター・ルーク」も、「村上密」も、生まれながらの人間への憐憫の情という点では、ある種の人間的な優しさと魅力を持っていたのであろう(全くそれがなかったとは言わない)。だが、彼らの持っている生まれながらの人への憐憫の情や理解は、もしそれが旧創造に対する憐れみであるならば、神の判決に逆らうものなのである。だからこそ、それは一見、優しさや同情のように見えても、腐敗した本性を現し、最終的には自他の生活や自分の生命そのものの破壊という恐ろしい結果にまで至りつくのである。
 
三島由紀夫の最期をグノーシス主義者の最期として見るならば分かる。彼は神が滅びに定めた古き人を愛しすぎ、惜しむがあまり、古き人に対する十字架の死の判決をどうしても受け入れられなかったのだと。彼は人類を惜しみ、日本人を惜しみ、人は神になれると信じたがゆえに、期待したが、誰も彼の期待に応えうるような聖なる人間はいない事実が突きつけられた。この事実を拒否して、自らの理想に生きるために、彼は死を選んだのである。

ルーク氏は三島と同じように、自分の地上の滅びゆく幕屋である肉体も含め、目に見えるものを愛しすぎたように見える。目に見えない神との隠れたパートナーシップよりも、地上における人間との目に見える絆や、目に見える美を愛し、これを滅びに定めた神の判決を受け入れられず、神の「残酷な判決」から逃れようと、滅びゆく人々を十字架を介さずに救おうと試みたのである。

だからこそ、彼は自ら偽りだと分かっていたキリスト教界とわざわざ手を結び、信頼できないと公言していたAG信徒を仲間にし、神の聖を選ぶために単一な生き方をしようとせず、二重性の後ろ暗さの中にとどまったのである。それは人間一般の罪を弁護するためである。たとえば、杉本徳久氏からあれほど中傷されながらも、杉本氏ではなく、元KFCの信徒を告訴したのも同じ理由からである。それは彼が理性の上では完全に誤りだと分かっていたものをあえて自分の力で弁護し、救おうとしたためである。

彼は杉本氏を擁護してKFCの元信徒を見捨てた。つまり、彼はクリスチャンを憎み、聖徒らを訴えることを罪とせず、むしろKFCという囲いに歯向かうこと(すなわち、ルーク氏に盾突くこと)を罪としてとらえ、自分に敵対する行為を罪としてとらえて信徒を訴えた。むろん、訴えられた人間に問題がなかったとは言わない。だが、そうして元KFCの信徒には報復しながらも、自分を誹謗したカルト被害者救済活動には何の対処もしなかったことは、ルーク氏が根本的にカルト被害者救済活動の支援者らと同じ霊的基盤を持ち、彼らに一定の理解を示していたことを表している。それは彼らが同じように、自らを神に等しい者と考えて、信徒を利用していたからである。

カルト被害者救済活動も、これと同じように、カルト化教会の横暴な牧師から被害者を救おうとしているのではなく、人の罪を大目に見て、両者を神の摂理から救い出そうとしているのである。本当は、被害者を自称している人々もまた罪を犯しているのであり、聖書から逸れて、人間の指導者を神以上に慕って付き従った罪の結果として起きたことを悔い改めずして、まことの神に立ち戻ることはできず、決して自立にも回復にも至ることはない。にも関わらず、人に隷従した罪は大目に見て、カルト化教会の牧師だけを責めることによって、彼らは神以外のものを神として拝んではならないという神の掟から被害者をかばいだてし、その罪の刈り取りから逃れさせようとしているのである。そうなるのも無理もない。なぜなら、カルト被害者救済活動の指導者も牧師だからである。
 
これらの人々の試みは、人情によって十字架という旧創造すべてに下された神の滅びの判決を退けようとしているのであり、己の義を神の義以上に高く掲げようとしている。だが、どんなに彼らが主張しても、決して神の判決(旧創造に下された十字架の宣告)を取り除くことはできない。だから、その岩なるキリストにつまずくと、粉みじんに砕け散る破滅が待ち受けているだけである。

あらゆるグノーシス主義者がそうであるように、いずれ最後には、この人々も、己を神の判決の上に置き、旧創造に定められた滅びの恥辱から自らを解放しようと、自分自身を肉体の牢獄から解き放つという試みにまで至りつくのではないかと予想される。それがマサダの自決であり、盾の会の決起であり、三島の最期であり、ルーク氏が憂慮していたアーサー・ホーランド氏の末路なのである。ルーク氏はまさに自分自身の終わりを予感しながら、他人の人生を憂慮していただけと思われてならない。

しかし、KFCのみならず、カルト被害者救済活動の支持者もやはり同じようになるだろうとの予測を述べておきたい。なぜなら、彼らは現実の人間、現実の自分自身というものを、どうしても認められないからである。その現実とは、すべての人間は罪によって堕落しており、例外はないということである。それは、彼ら自身もまた他の人々と同じように、間違いやすい愚かな人間に過ぎず、カルト化教会の牧師とさほど変わらない罪人であり、神の救いを必要としている哀れな人間の一人に過ぎないという事実である。人の掲げる正義は、どれもこれもぐらつきやすく、誤りの多いものでしかなく、彼らの主張もまた偽りと誤りに満ちており、神の義からは遠くかけ離れているという現実を直視できないことである。

彼らは自分をありもしないヒーローや、正義の味方、聖人君子のように描き出し、この役割を演じることがやめられず、自分の作り上げた幻想の美しい自分に反するどんな深刻な事実を突きつけられても、美しい幻想から目覚めることができない。そこまで虚像の自己像に陶酔し執着している以上、その幻想の自己像を守り抜くためならば、反対者をせん滅しようと憎しみをあらわにすることはおろか、最後には現実の自分自身も含めて、現実世界のすべてを否定して自ら思い描いた幻想の理想を貫くために、この世から去って行くこともいとわないだろう。彼らが否定しようとして立ち向かっているのは神の事実であり、現実そのものなのである。そして、そのような末路に至ることは、少なくとも、これまであらゆるグノーシス主義者が証明して来た変わらない法則性であった。

(最後に「MISHIMA」を引用しておくが、これはすべて自己責任でご覧いただきたい。)


キリスト教界からエクソダスした人々~ペンテコステ運動からの離反 KFCから離れた信徒たち~②

「だから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:26-28)

 


Dr.Lukeへ

今日は主にあってあなたに最後にお便りいたします。これは数年前にあなたから聞かされた話に対する反論と思って下さい。


AG信徒のU夫妻(Taka兄弟姉妹)とあなたと三人で東神奈川に呼び出され、さんざん呪いと破滅の予言を浴びせられた上、KFCを追放された日のことは今も忘れませんが、あれから今日に至るまで、私はあなた方の予想に反して、破滅することも、呪われることもなく、極めて幸運な生活を送ってきました。

「罪が増し加わるところには恵みも増し加わる」という聖書の言葉の通り、どちらかと言えば、不器用な人間の方にこそ、主の恵みは多く注がれるものと思います。それほど、主はいつも全ての面で私の面倒を見てくださっています。確かに今の時代ならではの苦しみは伴いますが、その分、恵みも大きいのです。

さて、グレゴリウスさんが今年の春にブログを閉鎖されたそうですね。先日、久方ぶりにネットを開いてみたところ、グレゴさんの苦境をあなたがツイッターで云々している記事が目につきました。また、あなたが支援を表明しておられた山谷少佐、坂井能大牧師も敗訴されたことを知りました。

 何だか、Dr.Lukeの周りの人たちはどんどん不幸に追いやられていくような感じがいたします。あなたが支援を表明されると、なぜだかその人はかえって不利になり、破滅に追い込まれて行くようなのですね。それもあなたの人徳のなせるわざではないかと思うのですが。

KFCは再開されても人が集まらず、会場費も参加者の結構な負担になっている一方、あなたを裏切ったTaka信徒が横浜で開いている集会にはそれなりに人数が集まっていると聞きます。

どちらも自分たちを主役として自己顕示を続けている点では全く同じですが、アッセンブリーの信徒と分かりつつTakaさんをあえてKFCのメッセンジャーに据えた時点で、こうした結果は避けられないものであっただろうと私は思います。U夫妻は別の教団の人なので、何が目的で来たのか分からず、信用しない方がいいですよとあなたに忠告した私の言葉通りのことが起きたわけです。しかし、あなたが彼らの裏切りの後で、少しでも私の忠告を考慮されたのかどうかは今も疑問に思います。

 一時はあなた自身がU信徒によってKFCのメッセンジャーから降ろされ、緑のビルも失われ、偽サイトは今も開かれたままのようですし、U氏は今もアッセンブリーの正式な信者だそうで、母教会を欺いてずっと二足のわらじを履いて二重の信仰生活を送って来たことがすでにすっかり兄弟姉妹に知れ渡っています。でも、私が以前から忠告して来た通り、アッセンブリーはもともとそういう何が起きても不思議ではない何でもありの異常な教団なので、そういう非常識な信徒が登場して来ても、驚くほどのこともありません。

Lukeさん、長い間、主にある兄弟として、私はあなたに期待していましたし、あなたの周りに集まった兄弟姉妹たちもみな同様の思いだったと思いますが、ある時期からは、私にはあなたのずるさ、利己主義、卑劣さが、これ以上ないほどにはっきりと見えてしまったので、もうあなたという人に対し、いかなる期待もしておらず、兄弟として、人としての魅力も感じておりません。他の兄弟たちの口からも、あなたが正しい信仰の道に立ち戻るのはもう無理かも知れないという嘆きの言葉を幾度となく聞くはめになりました。今はもうただあなたがいつかその事実に気づいて欲しいと願うのみです。

あなたはツイッター等で、グレゴさんの苦しい生活をあざ笑っていましたが、そのあなた自身も、極めてグレゴさんとよく似た性格だということをお考えになった方がいいと思います。いい年をして妻子も孫までもありながら、いつまでも自分よりもはるかに年下の女子学生たちの関心の対象になっていると自慢せずにいられないような態度で、グレゴさんのことだけをとやかく言えるのでしょうか。

 失礼ながら、あなたのご年齢になっても、未だ教室の中で起きていることを額面通りに間に受けて、人の賛辞に本気で舞い上がってそれを周囲に触れ回らずにいられない様子は、哀れを催すものでさえあります。ブログに自分の裸体の写真を載せて、自慢話をひたすら並べて、そういう自分の姿が読者の好感を買っていると未だに本気で思い込んでいることにも呆れ果てるのです。

あなたのブログはごくたまに見ることがあるだけですが、その度に思うことは、グレゴさんに劣らずみっともない、この人は今になってもまだこんな幼稚なことをやり続けているのか、いつになったら卒業するのだろう、ということだけです。もちろん、子供のように熱中しているあなたには、大きなお世話でしょうけれどね。

思い返せば、あなたがまだグレゴさんと訴訟で戦う前、あなたは本来この事件には直接関係がなく、責任もなく、グレゴさんに会ったこともない私を呼びだし、ファミレスでグレゴさんの事件を説明して理解を求め、その後、警察で参考人としてご自分に有利な証言をさせるために私に協力を求めましたね。

あなたは多分、私が杉本氏の行ったネットでのバッシングについてあなたのところに相談に行った当初から、グレゴさんの事件を解決するために、私を存分に利用する心づもりでいたのだと思います。そういうあなたの厚かましさはどんどんエスカレートして、グレゴさんへの呼びかけの文章を私に読ませて校閲させたり、グレゴさんのブログを読ませて今後の対策を検討したり、グレゴさんの自殺未遂の時には、私に一緒に会いに行ってくれと頼んできたりと、あなたはグレゴさんとの事件の解決のために、無関係だった私をさんざん巻き込んでは利用しましたよね。

私の友人は、五十を超えた大人がどうして自分の事件を一人で解決できないのかといぶかしんで呆れ、そういう人間は危険だから関わるなと言っていました。今ならよく分かりますが、あなたはそうやってご自分の手を汚したくない件が起きると、常に自分よりも弱い誰かに身代わりの重荷を負わせ、他人にご自分の問題を片づけさせて来たのです。あなたは常に何か弱みを持っていたり、信じやすい若者や、あなたに心酔している周りの誰かを騙しては、ご自分に不都合な問題を片付けさせるために利用して来たのです。

そうやって、いつも他人の手を借りなければ、人生で抱える複雑な問題を何ら解決できない、一人では何もできない人があなただったということです。そういうLukeさんのずるさ、自分よりはるかに弱い女性や、若者によりかかり、他人を利用しようとする甘えは、まさにグレゴさんとぴったり一致するものがあるのではないかと思います。そのことは、誰が言わずとも、すでに分かる人はとうに理解しているだろうと思います。ただあなた自身だけが、未だに自分とグレゴさんは違うと思い、グレゴさんだけを笑い者にすることで、優越感に浸っているだけでしょう。

 信仰が幼く、世間を知らないうちは、若者や女性たちはあなた方のような男性を可哀想に思って助けたりもしますが、しばらく見ているうちに、こいつはただの卑怯者で自分勝手なものぐさ男で、全く同情にも値しない、助ける価値もない男だ、ということが分かるので、最後はそういう男たちは女性たちに呆れられ、軽蔑されて、踏みつけられて、見捨てられるだけに終わります。

しかし、あなたの罪が分けても深いのは、グレゴリウスさんとの訴訟時に、私を参考人として呼び出し、Dr.Lukeは人を呪ったりするような人間ではなく、嘘を言っているのはグレゴさんの方だと私に証言させた、そうしておいたその後で、私を呪い、破滅の宣告を下して集会から追放したことです。

しかも、それに当たり、あなたはわざわざ私が危ないですよと忠告していたアッセンブリー信者のTaka夫妻を味方につけて、三人で取り囲んで私にあらぬ罪を着せてさんざん非難したのですよね。あなたが私の忠告にも関わらず、UさんをKFCにわざと残しておいたのは、そうやって、ご自分の都合の悪い人間を排斥するのに彼が役立つと計算していたからですよね。とにかく、あなたは私を排除するためにUさんを利用したのですね。その後、やっぱり思ったとおり、あなた自身も裏切られ、排除されたわけですけど。必ずそうなりますよと私はあなたに忠告しましたよね。

とにかく、そうやって、あなたは今まで自分の周りにいる人々の心を巧みに操っては、互いを対立させることで、ご自分に有利な状況を作り出し、都合の悪い人々を他人の手を使って排除してきたのです。私の手を借りてグレゴさんに報復したのと同様に、Uさんの手を借りて私を排除したのです。リーダーのあなたがそんな有様だから、KFCではいつも信徒の争いや妬み合いが絶えず、その背後には表面的には無関係を装いながら、いつもLukeさんが立っていたわけですね。
 
Lukeさんは、グレゴさんを刑事告訴で追い詰めただけでは飽き足らず、彼の不幸を嘲笑い、彼を徹底的に追い詰めずにいられないようです。そういうあなたの残忍な姿を見れば、あなたにとっては気に入らない相手に密室で呪いや破滅の宣告を下すくらい、全くたやすいことであり、そもそもあなたは本当に心から相手の破滅を望んでいるとしか思えない言動を繰り返しており、その破滅が実現したことを喜んでいる、それは衆目の前に明らかだと思います。

こうしたあなたの一連の行動を通して、これまであなたを疑うことのなかった人々でさえ、グレゴさんの方があなたより正しかったかも知れないと気づくでしょう。そもそも、Lukeさん、あなたには人に対する優しさや、憐れみや、同情心、幸福を願う気持ちがほぼ完全に欠落しているのだということが、あなた自身の言葉と態度によって、火を見るよりも明らかになってしまいました。

 神様は全てを見ておられます。学歴があって大学講師だから正しいとは限らず、立派な先生が卑怯な嘘つきで、社会では敗残者と見られているような「ビョーキの人」の方に真実がある場合もあります。人は見かけではないですから。
 
Lukeさんが実際に密室で人を呪ったり、破滅の宣告を平然と下せる残忍な人間だったことは、私は自分の体験を通してよく分かりましたが、これは私にとって大きな人生勉強でした。自分の無実を証明するために奔走してくれた主にある兄弟姉妹を呪い、あらぬ罪を着せて排斥することができるあなたの性格がどれほど歪んでおり、利己的で、普通でないか、よく分かりました。ですから、もう二度と、天においても地においても、私はあなたを主にある兄弟として弁護することはありません。
 
けれども、あなたは他でもなく自分のために無実を証言しようとしてくれた人間を悪魔扱いし、呪い、踏みにじって追放したわけですから、その瞬間に、あなたは神のみ前でも、キリストの血潮によって兄弟姉妹であった人間を退けることにより、ご自分を神の家族から切り離し、さらにはご自分の身の潔白をもご自分で否定してしまわれたのだと思います。

あなたはかつてグレゴさんが和解を反故にしたことで、血潮を踏みにじったので赦されない罪を犯した、などと主張しておられましたが、そのあなたが、あなたの無実を証言してくれた人間を悪霊にとりつかれていると言って退けたのですから、あなた自身があなたの身の潔白を自分で否定したに等しく、今となっては、あなたのために神のみ前で残されている証言はもうないと想像します。

しかしながら、私は密室での破滅と呪いの予言のために被害を受けたと主張する気は毛頭ありません。むしろ、あなた方がどんなに私を呪っても、主は絶えず私と共におられ、エクレシアは常に主と共に私の内側にありました。今もそうです。そのことは元来は、Lukeさんが私に気づくきっかけを与えてくれたことであったのですがね。

エクレシアは決して囲いにとらわれることはない。あなた方の作った囲いの中だけにとらわれることは絶対にありません。緑のビルは私がいなくなって後、長くは続きませんでしたが、それも何かしら象徴的な出来事だったと思います。

あなたたちはKFCに残っている自分たちこそ、神に選ばれた民だと未だに思っているのかも知れませんが、それに負けないほどに、私は自分が神によって選ばれた民であることを確信しています。神の約束は確かであり、私の救いは永遠であり、あなた方が私に向かって何を言おうと、キリストが私に与えて下さった救いは、それによって駄目にされるような不確かなものではありません。

ですから、あなた方は大変、惨めな人たちです。あなた方は天国を遮っており、自分も入らず、他人も入らせまいとしているに過ぎません。しかし、エクレシアはあなた方の狭い想像の範疇に制限されることなど決してなく、常に神出鬼没、伸縮自在、時空間をはるかに超えて永遠に達しています。私たちの内に住まわれるキリストは、私たちと世の終わりまでともにいて下さり、エクレシアは常に可動式の幕屋です。たとえ私がたった一人であっても、神の約束は揺るぎなく、神はこの命の尽きる最後まで私と共におられます。

聖書には、みことばに従わない人間が、いずれ神のみ前から追放されることが、しっかり定められていますので、自分たちは神に選ばれた人間だということだけをよすがに、ひたすら利己的に振る舞い、真実を曲げて、兄弟姉妹を踏みにじって、実を結ばない活動を繰り返している枝があれば、早晩、切り捨てられると思いますよ。どんなに自分たちは神に選ばれていると主張しても、そのことにより、こうした嘘と残忍な振る舞いの全てが帳消しにされることは決してないと思います。

むしろ、「あなたたちは自分の父はアブラハムだと主張しているが、あなたたちの父は悪魔だ」と言われないと良いですね。平気で嘘をつき続け、人を騙してはばからない人々が、アブラハムの子孫ということはあり得ないと思います。ですから、自分たちだけが神に選ばれた民だと主張する前に、ご自分の父は本当は誰なのか、よくお考えになった方がよろしいかと思います。

 最後にお話した際、Lukeさんは私に向かって、ヴィオロンさんはキリスト教界の危険人物だから、どこの教会もあなたを受け入れないだろうとおっしゃいましたね。でも、私はその後、いくつかの教会を訪れましたが、ネットの事件を取り上げて私を危険人物扱いするところはどこにもなく、現実の社会でも、そのようなことはありませんでした。それどころか、逆に私がDr.Lukeの危険性を他人から切々と説いて聞かされるようなことがよくありました。むろん、東大関係者にも出会いましたが、その人々もあなたに対する深い憂慮の念を持っていることが分かりました。

こうして現実に色んなクリスチャンと出会って話して来たので、あなた方が私に浴びせた呪いと非難には全く根拠がないだけでなく、Dr.Lukeの魅力や栄光そのものがネット上だけにしか存在しない、バーチャルな見せかけの虚栄だったことがよく分かりました。

 今、Lukeさんのしておられることは、現実に裁判で負けながら、その事実をひた隠しにし、まるで負けているものを勝っているかのようにに見せかけて、ネット上だけに自分たちの嘘に満ちた虚栄の世界を築き上げては自己満足し、真実がバレそうになると反対者を徹底的に吊るし上げては報復し、次々と封じることで、自らの虚栄を保ち続けようとしている村上密氏や杉本氏やカルト被害者救済活動の支援者たちとそっくりに見えます。

彼らもすでに被害者から見限られているのに、まるで今も支持を得ているかのように、その事実を隠し続けていますが、あなたのしておられることはそれと何が違うのでしょうか。常識を破り、法律をも尊重せず、他人に濡れ衣を着せながら、自分たちは正義の味方で、かっこいい有益な活動をしているんだと己惚れて、自分たちは何か超法的な存在で、どんな二重性のある逸脱行為をしても罪に問われることがないかのように思い込んでいる、神の御前でさえその罪を追及されることがないと思い込んでいる、そのような姿には、もはや自分が神になってしまっているという危険性を大いに感じます。口を開けば、出て来る言葉は、「目の欲、肉の欲、持ち物の誇り」、もしくは他者への断罪や、呪いの言葉や、破滅の宣告でしかないというのも、もはや人格が正常でなくなってきていることの証拠で、大変、深く憂慮すべき異常事態だと思います。

 時々、私は、Lukeさん、あなたという人は、一人の個性というよりも、周りのみんなの悪いところを少しずつ取り込んで成り立っている集合体のような気がしてならないことがあります。こんなことを言うと、大変、失礼なのは分かっていますが、もちろん、あなたにはそれなりの魅力もきっとあるのでしょうが、しかしながら、周りのみんなの悪いところが実によく似ているのです。

あなたは杉本氏と私が似ているとおっしゃっていましたが、でも、お二人をよく観察してみた結果、私よりもはるかに、あなたの方が杉本氏と一つだと感じられるのです。

キリスト教界についても同じことが言えます。あなたはキリスト教界を盛んに非難しながら、同時にキリスト教界の信徒をご自分の集会に受け入れてメッセンジャーに選び、彼を神に油注がれた者と認めたのですから、自分で自分の信念を裏切ってキリスト教界と同化したに等しく、それでいながら、一体、どの口を持ってキリスト教界の堕落を非難する資格があるのか不思議に思います。二重性がある分だけ、あなたの方がキリスト教界よりも罪が重いのでは?

そもそも杉本氏とあなたのつながりはかなり古く、彼が私をネットでバッシングする以前から、それは始まっていました。あなたはハンドルネームをいくつも変えながら、杉本氏のブログに色々書き込みをされており、そんなあなたの挙動不審な接近に、杉本氏が得体の知れない恐怖感を抱いてあなたを警戒していたことも、彼のメールに書かれていました。

そこへそんな事情を何も知らずに私が通りかかり、杉本氏の活動に賛成できない立場を示したので、杉本氏はてっきり私の背後にはLuke氏がいるのだと思い込み、それだからこそ、あれほど渾身のバッシングを私に加えたのだということも今は分かっています。でも、杉本氏は口でどんなに強がっていてもそのことを後悔していると思います。このバッシングに関しては、杉本氏を擁護するカルト被害者でさえ疑問を呈しています。

いずれにせよ、Lukeさん、私はたった一件のコメントしか杉本氏のブログに書き込んだことはありませんでしたが、あなたは裏で杉本氏のブログに色々としかけていました。あなたはそんなことはおくびにも出さず、まるで私のせいでご自分があらぬ事件に巻き込まれたかのように主張しましたが、私は当時、KFCとは一切無関係だったのですから、実際には、巻き込まれたのは私の方なのです。あなたの影響がなければ、あのようなバッシングも起きなかったでしょうし、グレゴさんの書き込みもなかったのです。

その後も、Lukeさんは、杉本氏と私との間をさらにこじらせることを目的としているとしか思えない形で、私に断りなく勝手に杉本氏に提訴予告をしては彼を激怒させたり、その前後から、興味本位に見える色々な事実と異なる記事を私には確認せずにブログに書いたり、また、杉本氏のメールを傍受してスパイ行為のようなことをやりながら、勝手に「ヴィオロンさんのため」を装って、どんどん事態をこじらせて、争いを泥沼化していきましたね。そして、ご自分は矢面に立つことなく、背後から間接的に影響を与えて事件を煽るので、非難やとばっちりは結局、私のところに集中するという構図になっていました。

同じようなことが、坂井さんや山谷さんについても言えます。あなたは事情のありそうな人に味方のふりをして近づき、弱者を救済することが目的であるかのように装って、「不当に追い詰められている人たちを支援している正義の味方としてのDr.ルーク」を演出するのですが、実際には、あなたは他人の苦しみに犠牲も払わず便乗しては、都合良くその栄光(?)にあやかっているだけなのです。

だからこそ、あなたの「支援」は決して相手にとってプラスに働かないのです。あなたは事件の当事者ではなく、部外者にも関わらず、そのあなたがまるで勝手知ったる当事者のような顔をして、同情的な仮面をつけて事件の舞台に登場し、間接的に争いを煽り、関わって来ることで、渦中にいる人は助けを得て救われるどころか、むしろ逆で、問題は余計にこじれ、敵対する人たちの警戒心も倍加し、バッシングは加熱するのです。「あいつもルークの仲間だ」とみなされることにより、敵意が倍増するのです。

そのようにして、あなたはまるで陰に身を隠して戦いの火に油を注ぐようなことを続け、対立する両陣営を両手で操りながら、弱者を助けるふりをして、実際にはクリスチャンたちの争いや対立をひたすらこじらせ、泥沼化させ続けてきたのです。ある意味、キリスト教界の不祥事による被害をビジネスとしている村上密陣営とよく似ていますが、でも、あなたの方が知的な狡猾さが彼らより優っているだけ、よりたちが悪いと思います。

そのようにして、クリスチャン同士の対立を煽るためにあなたは今まで卑怯な形で人を利用してきましたね。あなたはKFCのあり方に疑問を呈した私とエシュコル氏に滅びと裁きを宣告して集会から追放しておきながら、その後、自分が杉本氏を非難したい時にだけ、都合良く私たちの名を記事で引き合いに出し、事情を知らない人に向かって、杉本氏による私たちへの「人権侵害」は許せないと、あたかも私たちに同情しているふり、正義の味方のふりをしてきたのです。

それを鵜呑みにしてうまく乗せられた坂井さんのような人が、あなたの意のままに操られ、杉本氏に立ち向かって行ったんですね。あなたにとっては、それはあくまで坂井氏が個人の意志でやったことなのでしょうが、私には分かります、あなたは一緒になって石を投げたのに、彼一人を身代わりとして矢面に立たせ、攻撃にさらしたのです。そうして坂井さんが敗訴して、その負の影響は坂井さんだけが負わされて、ブログも削除され、罰金を支払わされたりしたわけなんですね。まあ、坂井さんにも仕方がない部分はあると思いますが、Lukeさん、あなたが関わらなければ、多分、こうはなっていなかったと思います。

いずれにせよ、あなたはヒューマニズムの仮面をつけて、あたかも人助けをしているふりをしながら、実際には、あなたを信頼して周囲にやってくる信徒を次々と罠にかけるようにして陥れ、争いに巻き込み、害を受けるように仕向けて来たのですね。

あなたが都合良く私やエシュコル氏の名前を引き合いに出して、まるで私たちを擁護しているふりをしながら、杉本氏を非難するのには、馬鹿馬鹿しすぎて、呆れ果てます。

Lukeさん、私たちの人格の尊厳を誰よりも傷つけたのはあなたです。杉本氏は色々と不愉快なことを行い、我々にかなりひどい悪罵も浴びせてはいますが、あなたのように、面と向かって神の名を乱用して呪ったり、破滅の宣告をするほどのところまで及んでいません。ですから、私たちに対しては、二人ともひどいことをしていると言っても、杉本氏よりもあなたの方が罪が重く、そんなあなたが私たちの味方を装って、杉本氏に抗議する資格があるはずもありません。恥を知っていただきたいと思います。

Lukeさん、私にとって怖いのは、あなたにとって周りの人間はそんな風に、いつでもご自分の身代わりに痛みを味わわせたり、ご自分に都合良く利用するための道具でしかなく、あなたはご自分の正しさを主張するためなら、嘘も平気でつき、周りの人間をどんなに騙して道具として利用しても、何の抵抗感も、罪悪感も覚えない人なのだろうと思われる点です。しかも、ご自分の主張の自己矛盾を自覚することもできないので、このように言われても、まだ見当はずれな非難をされていると思うだけなのかも知れません。これはとても恐ろしいことです。

そのようにして、あなたは私やエシュコル氏のみならず、坂井さんや山谷少佐、グレゴさんなども、あなたの作った筋書きの中で、杉本氏に争いをしかけるための道具として、都合良く利用して来たように見えます。杉本氏のメールを傍受して「彼の手の内はすべて分かっている」と喜んでいたくらいですから、杉本氏や村上氏さえも、あなたのゲームの一部なのでしょう。

少なくとも、あなたはキリスト教界の対立を煽るために、他人の戦いに都合よく便乗して、自分は手を下さずに代理戦争をしかけていたようにしか見えません。その一つの証拠として、山谷さんの裁判にあなたが毎回、傍聴にいって応援していたというような話は一度も聞いたこともありません。あなたの「応援」の実態は、それほど中身のない口先だけのものだったろうと思います。

しかしながら、こういうDr.Lukeという人の危険性は、すでに多くの人たちの知るところとなっています。少なくとも、あなたに支援された人たちがより不幸に追いやられて敗北し、みんなネットからいなくなって、その中であなた一人が勝ち誇っているという状況を見ても、多くの人が胡散臭さしか感じないのは当然だろうと思います。

一見、杉本氏に比べると、あなたの方がはるかに知的に紳士的に見えるので、彼らだけが悪者に見え、あなたの狡猾さや卑怯さに、人が気づくのに時間がかかるだけです。しかしながら、キリスト教界の対立を煽り、信徒の争いを食い物としている点では、あなた方は全く双方ともに変わりがありません。
 
ところで、エシュコル氏がKFCを離れたのは彼自身の判断ではなく、私の入れ知恵だとも、あなたはおっしゃっていましたね。その際、「あんな低脳な人間に自分でそんな事が判断できるわけがない」とあなたが彼を蔑んで言われたのをはっきりと覚えています。

エシュコル氏のように高い教育を受けたわけでない人にこんな複雑な問題が自分で分かるわけがないから、エシュコルがKFCの正統な信仰から脱落したのはヴィオロンの差し金であり、その罪はヴィオロンにあると、あなた方は言っていましたね。あなた方はそういう筋書きを作っていたのですよね。

しかし、お信じにならなくても結構ですが、事実はそれとは異なっており、エシュコル氏の方が私よりも先にKFCの異常性を判断し、立ち去るべきだと警告しました。彼はかなり早い段階でKFCの異言を疑問視していました。そして、危険だから、もう行かない方がいいと私を説得したのです。

にも関わらず、エシュコルには自分で判断することなどできるはずがないとあなたが考えたのは、あなたのような人にとっては、頭の悪い人間はより頭の良い人間にコントロールされるしか生きる術がなく、知識は一部のエリートの専売特許でなければならず、教養のない人間に物事の道理が分かってはたまらないという思い込みがあったからなのでしょう。

Lukeさんがそういう風にしか物事を考えられないのは、他でもないあなた自身が、周りの人たちを巧みにコントロールして誘導しているからなのでしょう。自分が他人を不当にコントロールしている自覚があるからこそ、あなたは人が物事をきちんと自分で判断できるとは信じられず、誰もが必ず自分よりも強い他人にコントロールされているはずだという前提でしか物事を考えられないのだと思います。

しかし、それは結局、KFCという場所は、今までLukeさんがコントロールしていればこそ成り立って来た集団で、自主的な決断が下せる人などそこに一人もいるはずないと、まさにあなた自身が告白しているのと同じですよね。

仮に百歩譲って、最初はコントロールされていても、人は必ず生長します、いつかあなたの魔法を打ち破って、自分で物事を判断して生きて行くようになります。出て行った人々はみな、あなた以上に生長した人たちです。あなただけがそのことが分からないのです。

知的レベルは真理の理解とは本当は何の関係もありません。教養高い人に真理が見えず、逆に教養のない人の方が単純素朴に真理を見ているというようなことは十分にあり得ます。聖書もそう言っていますよね。

最後に、あなたとAG信徒が私に投げかけたあらぬ非難の中には、私がLukeさんに恋愛感情を抱いており、姦淫の霊にとりつかれていたという主張もありましたが、失礼ながら、完全な荒唐無稽の作り話として全否定いたしますよ。

でも、そこまでおっしゃられて、あらぬ罪を私に着せられて私の名誉を傷つけられたわけですから、私の方でも、かなり言葉厳しく反論するのはどうか許して下さいね。

私は兄弟としてのLukeさんには常に一定の愛情と尊敬と同情を持って来ましたし、主にあって兄が増えたことを喜び、あなたの社会的面子のためにも、できるだけあなたを傷つけるようなことは言わないように配慮してきましたが(今はもうそう思っていませんけれど)、その配慮が行き過ぎたことを反省しています。もっと厳しく、言うべきことを言って、早期に対決しておくべきだったのです。

しかし、こうして私が遠慮深く沈黙していたからと言って、勝手にその意味を誤解して、あなたの自惚れと自己陶酔に都合の良い物語を創作されては困ります。実際のところ、私はあなたに恋愛感情を持ったことは一度たりともありません。

それはあなたがまるで私の好みから外れているからです。失礼な表現であれば、お許し下さい。でも、これは本当のことです。私はあなたの行き過ぎた自己陶酔と、弱い者を平気で利用して踏みつけ、自分だけが得をしてはばからない残酷な利己主義を常に厭い、人格的高潔さの欠如として嘆かわしく感じて来ました。そのことは面と向かって何度もお話ししたはずです。

あなたがブログで書いていた自慢話にも一度も共感したことがないのは何度も申し上げて来た通りです。いい年をして、妻も子も孫までいるのに、女子学生からの人気を誇ったり、自分より年下の弱みを持った女性に常に愛着を示して寄り添おうとするあなたの嗜癖を、正直に言って、気持ち悪いとさえずっと思って来ました。

私が訪れるより前から、KFCではずっと以前から、あなたがいつも特定の誰かをえこひいきするので、その女性が他のメンバーから憎まれたり、妬まれたりして、最後は罪を着せられて追い出されるというのが、集会のお決まりのパターンと化していたことも、当時の関係者からの聞き取りを通してとうに私は理解していました。ですから、私に起こった出来事は、KFCがそれまで行ってきたことの繰り返しでしかなく、いわば、Lukeさんの異常な嗜癖を覆い隠すために、みなでリーダーの罪を隠ぺいし、逆に犠牲者になった信徒に罪を着せて追い出すというワンパターンでしかなく、KFCの歪んだ体質だと理解しています。それを私のせいにしようとしても無駄ですし、そんなことを信じる人々もこの社会にはいません。

申し訳ないですが、普通の女性の感覚では、あなたのような人をカッコイイとは多分、思わないでしょうし、百歩譲って、そういう特別な趣味の持ち主の人々がいたとしても、あなたと私の年齢差や、性格や、趣味の違いを考慮すれば、どう考えてもそんな感情は生まれ得ないことをハッキリ申し上げておきたいと思います。

もちろん、私自身も、人としてもっと自分を磨き、キリストの似姿に近づかないことには、他人のことをどうこうとやかく言えませんが、個人的な好みの点では、もともと体育会系のマッチョイズムは私の嗜好からあまりにも遠くかけ離れており、私の興味の対象から完全に外れています。ただ、あなたの趣味を人前でけなしたくはなかったし、福音の事柄だけを語っていたかったので、そういう話題にはあえて触れなかっただけです。しかし、だからと言って、教養もあるあなたがそれを自分への個人的な好感だと誤解するとは、よもや考えることもできませんでした。

Lukeさんとは、電話やメールでは会話できても、実際に会って話をすると、いつも噛み合わないもどかしさを感じて終わっていたのを覚えています。あなたの二重性ある言動に耐えられず、「真人間になって下さい!」と、私があなたに本気で叱責したのも覚えておられますよね。私がLukeさんという人間にどんなに満足していなかったか、そのことはあなたご自身が分かっておられるはずです。

しかし、そうは言っても、Lukeさんとはコミュニケーションを取った時間も本当に少ししかなく、その間も、常に異端の話しかしていなかったので、個人的興味が生じうる緊密なコミュニケーションそのものがなかったように思います。Takaさんたちとは毎週のように会食しておられましたが、私は、一、二度しか、Lukeさんと食卓を囲んだこともありませんし、KFCを離れていた時期も長く、個人的な交わりなど生じもしない前に、あなたが私をKFCから追放したので、関わりそのものがなくなったのですよね。

Lukeさんとは主にある兄弟として出会えたことは感謝し、私に関心を払ってくれたことにも感謝していますし、私なりにあなたの個性を尊重もしておりますけれども、ただ、私には私の好みがあり、あくまでネット上と信仰の世界だけのおつきあいだと考えておりましたし、主にある兄弟だからこそ、自分とかけ離れた人間であっても、愛情や尊敬を保ち続けられたのだと思っています。

けれども、あなたもTaka氏もそういう人の思いやりや、個人的な性格などまるでないがごとくに無視して、あなた方が自己陶酔と自己創作で勝手に作り上げたストーリーを基にして、あなた方の素晴らしさをあなた方が望んでいるように理解しようとしなかった私を嫉妬深い魔女(?)と決めつけることにより、自分たちの罪を覆い隠して、弱い人に濡れ衣を着せて、問題を隠ぺいしたかったわけですよね。そうしかしようがなかったことはわかっています。なぜなら、Takaさんは詐欺師の一歩手前のように嘘をついて自分の身元を隠していましたし、Lukeさんは卑怯でずるく他人を利用していました。そうでありながら、二人とも、自分たちは神に立てられたメッセンジャーだから間違うはずがないと、とんでもない自惚れに落ち込んでいました。

そんなあなたたちから見れば、つまらない恋愛ゲームか何かみたいに、お決まりの結論として、信徒たちはリーダーに恋愛感情を持っていないといけないことになっていたのでしょう。それはゲームの作者であるあなた方にとって、そうでないと自負心を満たせないし、都合が悪いからです。

しかしながら、あなたもTakaさんもはっきり言えば、異様であり、完全に好感の対象としての範疇から外れていました。今でもヤクザみたいな人たちだとしか思っていません。礼拝中も、滂沱の涙を流したり、床にひれ伏したり、泣き叫んだりといった、あなた方の芝居じみた行き過ぎたパフォーマンスには全くついて行けませんでした。そういう私の態度によって、自分たちの礼拝への自己陶酔に水を差されと感じたので、あなた方はそれに復讐するために、余計に私を悪魔扱いせずにいられなかったのですよね。

あなたはエシュコル氏に関しても、「彼は自分がかまって欲しいからKFCに来ていただけだということは前から分かっていた」などと言っていましたが、プライドの高すぎるあなたには、自分が人から愛想をつかされ、見放されたのだということが、どうしても受け入れられないからこそ、そういう理屈をつけて相手を悪者にしなければ気が済まなかったのでしょうね。

そして、社会的地位のある既婚者の自分にはどんな非難も降りかかることはなく、それにひきかえ、独身のかばってくれる身内もそばいない人たちにはどんな濡れ衣を着せても簡単に切り捨てられると思っていたのでしょう。それにしても、姦淫の霊とは笑止ですね。

もし誰かが仮に姦淫の霊なるものにとりつかれていたのだとして、誰が本当の犯人なのかは、その振る舞いによって一目瞭然ではないでしょうか。ご自分の裸の写真を万人の目の触れるブログで自慢げに披露し、女子学生からモテているんだとブログで自画自賛を繰り返している中年男性(失礼、初老でしょうか)が、子供ほどの年齢の女性に向かって、姦淫の霊がついているとか、自分は恋愛感情の対象にされたなどとどんなに懸命に主張してみたところで、世間からは、セクハラ牧師の世迷言としか受け取られず、せいぜい、「みっともないからやめろ、いやらしいのはおまえの方だろう、おやじの勘違いもいい加減にしやがれ」というような答えしか、返って来るものはないと思います。

それが分からず、自分たちを見限った信徒をいつまでも悪魔扱いせずにいられないあなた方の姿は、まるで振られた少年が自分を振った少女の悪口をいつまでもずっと言いふらしているようなもので、そんなところも、グレゴさんにものすごく似ているように感じられるのですね。誰しも女性は自分に好感を持ち、尽くしてくれるはずだと勝手に思い込んでいるその勘違いした自惚れは何とかならないのでしょうか。そういう自分の情けない姿が自分でまるで見えなくなって、むしろ、得意満面で自己顕示して、そのみっともなさを指摘する全ての人たちを罪人扱いして、神の名を乱用して逆ギレして呪って排斥せずにいられないほどまでに、偏狭で狭量になっている裸の王様には、説得しても意味がなくもはや同情しか残されていないのかも知れませんが…。正直なところ、自分に対する悪霊の仕業を本気で疑った方が良いのはあなたの方ではと、僭越ながら忠告させていただきます。

これはLukeさんご自身のよく言っておられたことですが、「メタ的視点」が欠落し、物事を様々な観点から多角的に分析したり評価したりする柔軟さがなくなり、ただ自分に都合の良いことにしか耳を傾けないようになり、少しでもプライドを傷つけられたと感じると、やたら切れ、しかもその怒りを聖書を使って正当化し、口を開けば、自慢話を語るか、もしくは、敵対する人々に破滅や裁きや呪いを願うだけで、何ら他人を益することがない、という行動は、人としての精神的幼児性を表すものでしかなく、もっと言えば、精神崩壊の始まりであり、早く気づいてやめないと、手遅れになる危険性があり、それは聖書の言葉をどんなに巧みに使ってカモフラージュしようとしても、到底、聖霊の働きではないことは誰の目にも隠し仰せないだろうと思います。

あなたがメッセンジャーとして立てられたこと自体には、当初、神の導きがあったのかも知れないと思いますし、Lukeさんのおかげで学んだことは多くありますが、感謝すべきは人ではなく神ご自身です。緑のビルがあって、田川さんや中尾さんがいた頃には、KFCには献金もいつも与えられ、主の導きもあったのかもと思いますが、上記したような一連のことは、全て杉本氏の言うような愚かしい「教会ごっこ」の域を出ないと思います。

Taka氏のように霊的に異常な人が引き寄せられるようにやって来たことも、Lukeさんが忠告を受けてもなおその問題を見抜けず深みに入って行ったことも、全てあなた自身が呼び寄せた出来事だろうと私は思っています。他の人たちの罪もあるにはありますが、根本的にはみんなあなた自身の心の蟻塚が引き起こして来たことで、私がKFCに来る前に、Lukeには近づくなと兄弟から忠告を受けたその意味が今はよく分かります。

こういう風に考える私や、去って行った人たちを依然、悪霊にとりつかれていると非難したければ一向に構いませんよ。でも、一時は70人以上もいたKFCの信徒らがみな間違っていて、あなただけが一人正しいなどということがあるはずがないのは明白ですし、誰もそんな理屈に納得する者はないでしょう。リーダーに問題があればこそ、団体が不幸な歴史を辿ったのであり、せっかくやって来た大勢の人々をいわれなく排斥したり、空手で帰らせたのです。

正常な人が去って行き、おかしな人ばかりがやって来てトラブルになったり、周りの人との関係がいつもこじれて争いが絶えないことは、まさにあなた自身がそれを引き起こす原因を自分の中に持って来たのだいうことに気づかれた方がいいと思います。

Lukeさんはよく「KFCなんて潰れた方がいいと思っている」と吐き捨てるようにおっしゃっていましたが、KFCのみならず、自分を取り巻く世界全体へのあなたの冷笑的で破滅的な態度に気づかれた方がいいと思います。そのような態度がまさに実際となって実現したのが今までのKFCの歴史だったのだろうと思います。リーダーが潰れることを願っている集会ですから、潰れないはずはないですよね。そんなルークさんを、「彼は(KFCに)執着がないから(そういうことが言えるの)」とカッコ良く思ってもてはやすおばちゃんもいますが、クラスのワルにいつまでも心酔する子供も同然で、呆れるのみです。

本当にもったいないことです。あなたの能力を、願えばもっといくらでも違う方向へ利用することができたはずだからです。

よくお考えになった方がいいと思います。あなたはKFCだけでなく、日本のキリスト教界に対しても、日本のクリスチャン全体に対しても、敵対する全ての人々に対しても、果ては日本や、世界そのものに対しても、絶えず、冷笑を浴びせ、吐き捨てるように憐れみのない容赦のない言葉と、破滅宣告を下すことしかしておられませんが、だからこそ、あなたの周りには不毛と荒廃が呼び寄せられてやって来るわけです、それを人のせいにするのはやめた方が良いと思います。あなたが自分の周囲にいる人々へひたすらまき散らしている軽蔑と嘲笑、人の不幸を喜び、あざ笑う態度、自分だけは特別だという根拠のない自惚れに気づき、それによって周りの人々を挑発し汚染するのはもうおやめになったほうが良いと思います。

Lukeさん自身が争いの中にしか生きられず、争いを望んできたので、今まで対立が引き起こされて来ただけなのだと気づかれた方が良いでしょう。それは周りの人たちのせいではありません。なぜご自分が周りの全てに対してそれほどまでに思いやりのない冷笑的な態度しか取れず、なぜあなたは他人を生かし、幸せにすることを願わず、祝福の言葉の代わりに蔑みと呪いを語り続けるのか、そのようにせずにいられないご自分の心の中の暗闇としっかり向き合われた方がいいと思います。

心理学や保健の専門家であるあなたは、ご自分のことは自分が最もよく分かっており、専門外の素人から忠告を受ける筋合いはないとお考えでしょうが、それでも今申し上げた問題をよくお考えになることをお勧めします。あなたを取り巻く世界の不毛性という問題をただ人のせいにして終わりにすることをやめられることをお勧めします。常に他人を貶めることで、優越感を誇り、他人を見下してその苦しみの上に自分の特権を誇ることにより、自分は正しく、神に選ばれていると自負するあなたの態度は、その実、信仰とは何の関係もありません。そんな態度こそ、あなたが好んで使ってきた言葉によれば、ビョーキであり、セルフの権化でしかなく、極めて異常だと人は感じます。聖書を使って議論せずとも、そんな姿は信仰を持たない人よりもっと人として異常なので、議論の余地がなくおかしいと分かるからです。

キリストにある健全さを目指せというのも、私があなたから教わった教訓でしたね。今、あなたの健全さはどこへ消えたのでしょうか。最初に戻るなら、グレゴさんを非難する前に、あなたご自身も同じ穴のムジナである可能性を理解し、身近にいる他人の口から自分の情けない実態が容赦なくに暴き出される前に、人の尊厳を卑しめることをやめ、ご自分の恐るべき心の空洞と暗闇をちゃんと真摯に見つめた方がいいと思います。そのような言動を繰り返す背景には、歪んだ自己愛、自己嫌悪があるということに気づかれた方がいいと思います。

さようなら。お返事は期待していませんし、呪いと非難と叱責の言葉なら、聞いても意味がないので結構です。私の気が確かでないとお思いになりたければ、そのように考えていただいても結構です。僭越だとお怒りになりたければどうぞ。悪霊に取りつかれていると言いふらしたければ、どうぞご自由に。聖書のみことばを使って人を煙に巻くような議論には意味がないと思っているので、普通の言葉で書かせていただきました。

福音は人を罪に定めるためのものでなく、赦すためのものです。だからこそ、誰にとっても良いニュースなのです。その赦しを本当に受け取れていたら、他人を赦すことができるはずです。

インターネット上にしか存在しないむなしい栄光、あなたが作り出した架空の人物であるドクター•ルークからは早く離れられることを勧めます。
様が照らして下さるようにと願っています。



 


キリスト教界からエクソダスした人々~ペンテコステ運動からの離反 KFCを離れた信徒たち~②


最近、KFCを離れたクリスチャンと語り合う機会があった。
「私をそんなに見くびらないで(あんな集会に何があっても戻ったりしないから)」との返答に少し驚いた。同時に、その返答は嬉しくもあった。

ああ、クリスチャンたちの認識が変わってきているな、と感じたからだ。
もはや、奇跡やら、癒しといった超自然的な目覚ましい働きばかりを求めて、目立つリーダーの派手な説教のもとへ、多くの人たちの群がる大規模集会へと人々が駆けつけるということがなくなって来たのだ。
 
むろん、ペンテコステ運動の宣伝は依然として盛んだが、同時に、ペンテコステ系の集会があらゆる場所で引き起こして来た無秩序と混乱も、人々に広く知れ渡ってしまった。聖霊の働きと銘打って、やたら尋常ならぬ超自然現象を売り物とし、人々がひれ伏したり、泣き叫んだり、異言だと言っては誰にも分からない言葉を叫んだり…、とにかくペンテコステ系の教会はどこも無秩序と混乱ばかりを引き起こしているのはなぜなのか。それはあの集会、この集会、あの教団だけがおかしいのではなく、この運動自体がもともとおかしかったからではないのか、私はそう考えている。

ペンテコステ運動は最初から弱者救済の社会運動、大衆運動の側面を持っていた。20世紀、社会からも教会からもいわば打ち捨てられた、病院に行く余裕もないほどに貧しい労働者家庭やホームレスの病める人々を現場で癒すというその奇跡的な業が、大衆を強くひきつけた。

また、しるし・不思議・奇跡、聖霊のバプテスマや異言といった目に見える超自然現象を強調するその教えは、難解な教義を理解するための知性を必要としなかった。そこで、貧しくて教会には行けず、行ったとしても牧師の説教が分からない、高い教育を受けていない人々をも、十分に魅了するだけの要素を多分に備えていた。

だが、そのように社会的弱者をひきつける魅力とは裏腹に、目に見えないパンであるキリストの十字架の贖いへの理解よりも、「しるし・不思議・奇跡」という「目に見えるパン」を売り物としたこの運動はそもそもの初めから大きく誤っていたのではないかと思われてならない。
 
解放神学の誤りについて語った時にも述べたことだが、ペンテコステ運動についても同様に、こうした大衆運動、特に社会から打ち捨てられた弱者の救済をことさらに強調して登場して来る新種の福音の偽りと危険性について、この先、検証が必要ではないかという気がしてならない。

だが、それはともかく、もはや時代はそういう弱者救済を掲げる大規模な大衆運動を求めてはいないのを感じる。これは大量生産・大量消費の大衆社会の終焉をも意味するかもしれないが、人々はもっと個人的なニーズに沿った深い満足を求めているように見える。

話を戻せば、KFCにいる人々は、自分たちは以前とは見違えるように変わった、などと主張しているらしいが、もうそんな言葉に心惑わされるほど、私たちは未熟者ではなくなった。ペンテコステ系の教会はそういうお涙頂戴の劇的な回心の物語がいつも大好きだ。やれヤクザが回心して牧師になったとか、統一教会の脱会者が牧師になって救済活動に従事しているとか、そういう劇的な回心の物語で満ち溢れている。過去が悪ければ悪いほど、ますますそれを材料として回心の大きさを誇示し、人々の心をひきつける手法だ。

KFCにしても同じである。だが、私の関心はそういう目に見える人物の回心の物語にはない。

もしもあなた方の回心が本物だというならば、あなた方がこれまで傷つけて来た人々の名を列挙して謝罪すれば良い。それができず、自分が過去に犯した過ちを公言することさえできない人々が「自分は変わった」などと言っても、愚か者の他、誰も信じる者はいないだろう。
 
あなたたちはそうしていつまでも自分だけを主役として舞台で回心の演技をしていれば良いが、もはやそのような「自分病」に注目するほど人々は愚かではない。

人は生長するものであり、子供の頃に使った遊具が、大人になれば不要になるように、いつまでも小学校一年生の担任に教わり続けるのが無理であるように、信仰生活において出会うものも、何もかも単なる通過点に過ぎず、段階に応じて人は自分にふさわしい交わりを得て行く。

一時は、解放的な福音を宣べ伝え、多くの人々の支持を集めたKFC。その中で学んだことがあったこと自体を私は否定しない。だが、彼らの役目はもう明らかに終わった。ある姉妹が以前に言っていたことを思い出す、KFCはとうに役目を終えていたのに、引き際を間違えたから、どんどん異常になって行ったのだと。

以前、Sさんへの手紙を公開したので、昨年夏に私がDr.Luke宛に送った最後の手紙もここに公開しておく。趣旨は同じであるが、多少、表現は変えた。

さようなら。存在しないユートピアのようなお子様の国。人は生長して大人になるものだ。あなた方の夢見ている何の責任も伴わずに自分たちがいつまでも主役になれる空想の世界にこれ以上、お付き合いすることは馬鹿らし過ぎて、できそうにもない。

夢見ても絶対にやって来ることのない聖霊派のリバイバルを信じて、自分たちは世界を救ってやる救済者だと思い込んで生きることはできない。必要なのは、そんな風に大言壮語して自分たちの活動にスポットライトを当てて常に非日常ばかりを追い求め、自己陶酔に生きることではなく、地に足をつけて、人として健全で責任の伴うごく普通の生活を静かに送って行くことではないか。だから、あなた方とはとうに違った方向へ向かって、私たちはすでに歩き出している…。行く先が見えずとも、あなた方の目指す目に見える都ではなく、見えない都を目指して歩き続けることが使命であると私は確信している。

<つづく>

キリスト教界と反キリスト教界は同一である~KFCはどのようにキリスト教界と同一化したか~

キリスト教界と反キリスト教界は同一である

~KFCはどのようにキリスト教界と同一化したか~
 

1)嘲りと断罪~自らを神とする人間の陥る人格荒廃の事例~
2)KFCとDr.Lukeの表向きの魅力と、裏面の二重性
3)Dr.Lukeを含むローカルチャーチ出身者に特有な偽善的二重性
4)偽善に生きる宗教指導者の陥る人格荒廃
5)バビロンとは何か ~地上的宗教となったキリスト教~
6)杉本徳久氏とDr.Lukeの類似性
7)Dr.Lukeの印象操作と虚言癖
8)聖書に反してKFCを何でもありにの場にしたDr.Luke
9)キリスト教界を非難しながらキリスト教界と相通じたDr.Luke
10)盛んな呪いの言葉と罪定めによって支持を失ったDr.Luke
11)キリスト教界に反対する個人を支援するように見せかけて陥れたDr.Luke
12)杉本徳久氏とDr.Lukeの果たした役割は根本的に同一



1)離反者への徹底的な嘲りと断罪~自らを神とした人の陥る人格荒廃の典型的な事例~

 
引用の出典:Dr.Lukeのツイッターから


Luke Karasawa(唐沢治)@Doctor_Luke
 
@Yoshihiro_Sakai ま、杉本徳久氏の罠に乗ったのが運の尽き。二度までも悔改めの機会を与え、一度は笑顔を見せたその自分の言葉を自分で裏切り、主の血と御名も侮りましたからね。自身の罪もですが、杉本氏の罪は実に深いですよ。神の裁きがあるでしょう。
6:48 - 19 6 2013.

Answer@Doctor_Luke
 
19 6 2013.
Luke Karasawa(唐沢治) ‏@Doctor_Luke 
@Yoshihiro_Sakai しかも、相手の彼女にあれだけ暴露記事書かれて・・・哀れなものです。全体の流れからして誰が自分にとっての本当の敵なのか、見えていないのですね。ニッポンキリスト教の歴史に燦然と残るかも(苦笑)
 

20 6 2013.
坂井能大 ‏@Yoshihiro_Sakai
@Doctor_Luke 私は全く事情や経緯を知りませんでしたのであれには驚きましたが、今後の展開次第では、つまびらかに明らかにする必要があると存じます…どうせカミングアウトされている事柄なのですし。
 
20 6 2013 .
Luke Karasawa(唐沢治) ‏@Doctor_Luke
@Yoshihiro_Sakai そうですね、ただ、私も知らないことばかりですから。彼女の家族も大変だったでしょう。しかし10年粘着してきてますので、機会を見て。妄想もますます進んでいるようですし、ついに生活保護に落ちたとは・・・。知りませんでした。
 
20 6 2013 .
Luke Karasawa(唐沢治) ‏@Doctor_Luke
@Yoshihiro_Sakai まあ、最近のニッポンキリスト教では私怨で人を裁いている者が不治の病を得たり、突然死したりしてるようですから。神の主権を犯す者は自分が何をしているか知らないのですね。生ける神の手に落ちることは恐ろしいことです。
 
22 6 2013 .
坂井能大 ‏@Yoshihiro_Sakai
@Doctor_Luke あ、自分のことを棚にあげて、「和解の破綻者」 こと 「Dr.」崔森悦クンが韓国語で遠吠えしています(笑)  http://bit.ly/1c7c3Pl
 
22 6 2013 .
坂井能大 ‏@Yoshihiro_Sakai
@Doctor_Luke 税金のムダですね…本当に必要とされる方が生活保護を受けられますように祈ります。

 <以下略>

 

2)KFCとDr.Lukeの表向きの魅力と裏面にある二重性
 
もしノーベル賞作家のイヴァン・ブーニンの言葉を借りるなら、Dr.Lukeという人もまさに「才能と無道徳の結合」であったと言えるだろう。

私が初めて会ったとき、彼はすでに初老にさしかかっていたが、それでも若かりし頃の大きな才能の片鱗は残っていた。

圧倒的な情報量を思うがままに処理・引用して流暢に語る能力、メッセージや賛美を自在に導き聴衆を感動させる技術、そして、さまざまに異なる人々の性格を理解して受け止める包容力。

こうした人間的な非凡な才能と力量の残り香が、確かに彼が並々ならぬ人物であることを感じさせた。

だからこそ、KFCに一時は70人以上の信徒が集まり、リバイバル新聞に彼の寄稿が始まった時、キリスト教界に大きな衝撃を与えたことを、当時をよく知る証人から聞いても私は驚かなかった。実に多くのクリスチャンが未だかつてない何か新しい革新的な運動が始まろうとしていることを感じ、そこに参加したいとの願いを持ったのである。

ただし、それはむろんDr.Lukeの才覚や人柄によるものではなく、後で述べるように、彼がローカルチャーチの出身であり、そこで学んだキリスト教界にはない(失われた)真理を語っていたという事情も手伝っていたのではないかと私は推測する。

ローカルチャーチは「神と人とが混ざり合う」ことを教えている異端の教会である。しかし、同時にそこは、回復の教会と呼ばれているように、キリスト教界が初代教会の頃には知りながら、それ以降、はるかに忘れ、見失ってしまった聖書の真理の回復を目指している点で、通常のプロテスタントのクリスチャンの通常の教会生活ではおよそ知りえない真理の深い霊的な啓示や理解を保存する貴重な一面も持っていた。

ウォッチマン・ニーはそのような霊的な真理に基づいた生活を「キリスト者の標準」であると言った。だが、悲しいことに、現代のキリスト教界ではそれは全く標準でないどころか、すっかり忘れ去られ、例外にまでなってしまっている。

だから、ローカルチャーチから出て来た兄弟たちが、キリスト教界にいる普通のクリスチャンたちに向かって、見失われた真理を再び大胆に語り始めたときの衝撃は大きかったものと思われる。それは人間的な意味ではなく、霊的な意味で、クリスチャンにとってとても画期的で衝撃的な出来事だったのである。だからこそ、そこには大きな解放の魅力が伴った。


3)Dr.Lukeやローカルチャーチ出身者に特有な偽善的二重性

だが、Dr.Lukeは才能のある人であったが、誠実な人間ではなかった。私の知っている限りでは、残念なことに、Dr.Lukeに限らず、ローカルチャーチ出身の兄弟たちはいずれも同じ欠点を抱えていたように見える。
 
まず第一に、彼らには、自分たちは真理を特別に知っている人間であり、他の兄弟たちとは別格であるという思い込みに基づく途方もない高慢さがあった。次に、ほとんどの場合、彼らには自分では知っているはずの真理を守らず、人に正しい道を教えながら、自分自身は平然とそれと相反する言動を行うという二重性があった。

この二重性は聖書に言う偽善者の最たる特徴であるが、教団教派に関わらず、クリスチャンの教える立場にある人間が極めて陥りやすい誘惑であるものと思う。牧師も、説教者も、およそすべての指導者や教師と呼ばれる人間の中で、こういう偽善的要素を持たない人間を見つけるのは極めて難しかった。

私はローカルチャーチを知らないが、聞くところによると、そこでは、タラント(賜物)による徹底的な階層制が敷かれているという。そこで、生まれ持った才能や資質が大きければ大きいほど、また、組織の中で上位の立場にあればあるほど、高慢さが無意識に身についてしまうものなのかもしれなかった。

しかし、最も厄介なのは、偽善である。それはたとえば、ローカルチャーチ出身のこれらの兄弟たちが、こぞってウォッチマン・ニーを賞賛しながらも、では、あなたもニーと同じような投獄やら迫害やらの苦難をクリスチャンとして身に受ける覚悟がありますかと問われれば、当然のごとく、自分はそんな苦しみはお断りだねと答え、享楽的な生活を送っていた点にも表れている。

いわば、彼らの考え方は、「いいとこどり」なのである。他人だけを身代わりのように苦しませておきながら、自分は何の代価も払わずに、他人が苦しみによって得た教訓だけは頂戴したいという具合なのである。ウォッチマン・ニーのような生き方は間違っても自分はしたくない、でも彼が得た霊的な真理だけは自分もほしい、だから彼の著作を一生懸命に読んで、あたかもそれが我が物となったかのように考え、振る舞うという具合である。

だが、真に代価を払わなかったものは、本当は何一つその人のものにならない。すべて頭だけの知識にとどまってしまう。だから、大変、高邁な真理を口先で語ることはできても、結局、すべてが「借り物」に過ぎないのである。それでも、たとえ口先であっても、飢え渇いている人々にとっては、それさえも大きな恩恵をもたらした側面があることは確かであるが。


4)偽善に生きる宗教指導者の陥る人格荒廃について

クリスチャンはどうにも聖書の真理から逸れていくほどに、人格が荒廃することを運命づけられていると私は思う。そこで、偽善を重ねていくと、正常な意識のままではあり得なくなる。考え方も行動もすべてが異常になる。それが聖書から逸れて行ったクリスチャンに逃れようなく待っている結末である。

そこで、偽善がまし加わるにつれ、Dr.Lukeに備わっていた類まれな才能と人間的な包容力も枯渇して行ったように思う。Dr.Lukeは自ら私のような他のクリスチャンに向かって、健全な信仰に戻るようにと唱道していたにも関わらず、時を追うごとに、自分自身はますます寛容さや優しさや思いやりを失って、争いと憎しみへ没入していった。冒頭に引用したような彼のツイートは、離反した信者に向けられた呪いの言葉であるが、まさに人格の荒廃をよく証明している。しかし、Dr.Lukeは当初、面倒見の良い人間としても知られており、自分に対する批判に憤りをもって立ち向かうようなこともなかった。そこで、時間をかけて人格の荒廃へと至りついたのだと言える。聖書から逸れ、真理を知りながらその道に生きることをやめると、人は当初、持っていた魅力や資質までも失ってしまう。

2009年8月、関東に来てはや翌日、Dr.Lukeをよく知る年長の兄弟から、私はDr.LukeとKFCがいかに危険であるかという忠告を受けた。この年長の兄弟もやはりローカルチャーチ出身であったが、「KFCはバビロンである」と主張して、KFCには決して関わらないようにと厳しく私を戒めた。そのため、私は関東に来はしたものの、翌年になるまでKFCには一度も出向くことはなかった。
 
公平に断っておくならば、バビロンというのは、何もKFCに限らず、囲いの中に囲まれたキリスト教界の礼拝すべてを指している言葉である。当時、Dr.Luke自身も、「囲いの呪縛から出よ」、と主張して、己の栄光を築き上げるだけが目的となって自己目的化し、腐敗したキリスト教界の呪縛から脱出するようにと人々に呼びかけていた。しかしながら、そう呼びかけているKFCのDr.Luke自身が、兄弟たちの上に立って人を教えることやめられず、兄弟たちを自分にひきつけ、自分に拘束する指導者になってしまっている矛盾を、他の兄弟たちは鋭く指摘して警告していたのである。
 
 


5)バビロンとは何か~地上的宗教となったキリスト教界~

"エクレシア、コイノニヤの時空における現れは
臨機応変、伸縮自在、そして神出鬼没であるべきです。
何故でしょう、それは復活したキリストが正にそうであるからです。

そのような現在のキリストと聖徒達を、
この世の何者も(そして多くの
キリスト者でさえも)捕らえることは出来ません。
そしてまた決して誰も自分のものとして所有することも不可能です


このような エクレシア、コイノニヤの姿には神の無限の知恵が
隠されています。この最後の時代 神はそのような復活の中の
隠された知恵を隠された方法で行使されるでしょう
そのような有様のエクレシアのみが 遂には次の時代 
極めて圧倒的かつあからさまな王国の到来を招致出来るのです。

あなたがある固定された箱の中へ、固定された時間に行って見る時、
もしも 決まってある同じ人物が登場し、その人を見るために「お客」が
集まって来ると言う風景に固定的に出会うのであれば、そこには復活、
不死、無限の性質はなく、健康な人間性も見ることは出来ません。

そこで見られるのは
四隅を区切られた時空の中の限りある朽ち行く物質の性質です。
なぜなら その固定、制限、区別と言う箱(時空)によって限定された
ひと時内でのみ活動を許されている王は かつてのルシファー、
永遠の苦悩と恥辱と破滅の運命が既に固定確定されている
今現在のサタンであるからです。

私達は
敢えて時空内に留まり 時空の中で勝ち誇って 
復活の中の永遠のリアリティを「彼」に見せつける、
と言う「宇宙最高の」役割を楽しむためにこそ
今ここで生きているのです。 "

------------------------------------------------------------------------------------

"
人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し 
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします。

即ち人にある宗教性には ある時間と場所を定め 
そこに「立派な礼拝」を構築したいとする強い願望があるのです。


更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で 
この地上に自分達を根付かせ自分達の名を高く掲げたいと言う 
人本来の宗教本能
が働いている
のです。


その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、
私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると


<中略>

これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。

そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう。

そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する
「地に住む」(原文では「地に座る」)と言う
人の奥底に居座る根深い 願望なのです。

それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。


教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて
出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。

教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。
私達は単に 寄る辺無き 何も持たない「やもめ」でなければならないのです。

わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22) "
 
ここで言う「女」とは、あるべきエクレシアとは対極のものとなって、腐敗した教会のことであり、金と自己満足と地上的な栄光が目的のすべてとなって、組織的な宗教に堕してしまったキリスト教界全体を指している。そして、キリスト教界を非難しながらも、KFCも結局、牧師制度と変わらない指導者制度を敷いて、同じ道を辿っていたのである。


6)杉本徳久氏とDr.Lukeの類似性
~キリスト教界を脱出した信徒らの指導者になりたかった二人のネット上の争い~

  
  
こうした忠告を受けていたにも関わらず、私がKFCに出向かざるを得なくなった理由は、私が関東に来たのはDr.Lukeの庇護を受けるために違いないと勝手に誤解した杉本徳久氏が、自身のブログにおいて私とDr.LukeとKFCを一緒くたにしてバッシングを行ったことへ対処するためであった。

ちなみに、ウォッチマン・ニーの著書を私に勧めたのも、当時、杉本氏が考えていたように、Dr.Lukeではない。上記の年長の兄弟であり、その他、複数の兄弟姉妹で開かれていた交わりの中で、ニーの著書は読まれていた。ブログでは交わりで分かち合ったものを引用していた。こうしたことは一切、KFCとは無関係であった。

従って、杉本徳久氏が主張するように、Dr.Lukeが私の「カウンセラー」だったことは一度たりともなく、彼が私を「保護」したり「ケア」していた事実も存在しない。それは当時もその後も同じである。従って、そうしたことは杉本氏の作り上げた幻想に過ぎない。

だが、杉本氏のみならず、Dr.Lukeも一緒になってこうした嘘を助長して来た。二人がこのように虚偽の主張をしているのは、二人ともがおそらく、より多くの「カルト被害者」やら、キリスト教界から脱出したクリスチャンの指導者になることを目指していたからに違いない。ネット上では、2009年以前から、両者による信徒の取り合いのような現象がすでに起きていたものと見られる。両者の間では以前から、一種の縄張り争いが繰り広げられていたのである。

当時は今と異なり、キリスト教界の腐敗や堕落に気づいた多くのクリスチャンが個人として声を上げていた。ブログも多数、開かれており、こうしてキリスト教界を脱出した信徒たちはどこへ行くのかということが注目されていた。そこで、おそらく、Dr.Lukeも杉本氏も(あるいは杉本氏の背後にいた村上密牧師も)、より多くの「被害者」や信徒を獲得して、権勢を拡大することを望んでいたのであろう。

口では「キリスト教界からエクソダスせよ」と言って、「神の御前での単独者」を主張していたDr.Lukeもその点では同じであった。彼は一見、被害者運動に共感を示していなかったものの、教師として信徒を指導し、賛同者を増やそうとすることをやめられず、従って、杉本氏もDr.Lukeも、リーダーのいない、指導者に全く依存しない信仰生活、真に自立した、キリストご自身だけに頼る信仰生活など考えることさえできなかったのであろう。だから、二人にとって、信徒には必ず指導者やカウンセラーがいなくてはならず、そういう枠組みを外れた発想は不可能だったのである。


7)Dr.Lukeの印象操作と虚言癖について
   
上記のように、私がニーを読んでいた当時、Dr.Lukeは一切私との交わりがなかったので、その様子を知るはずもないのだが、勝手によく知っていたかのようにブログに記載することにより、彼はその当時から私が親しい仲間であったかのような印象を読者に抱かせようとした。

こうしたDr.Lukeの印象操作や虚言癖については、彼を20年以上に渡って知っていた年長の兄弟がかねてから嘆いていた。この兄弟は自分のブログがDr.Lukeのお友達のリンクに勝手につけ加えられていることに憤慨していた。彼はDr.Lukeの主張にすでに賛同も共感もできなくなっていたにも関わらず、自分が賛同者のように見せかけられていることに不満だった。

このように、Dr.Lukeは必ずしも自分の仲間でもなく、賛同者でもない人々を、あたかも自分の仲間や、彼が面倒を見てやっている人間であるかのように見せかけることが巧みであった。当時のDr.Lukeが義理堅く、人間的な魅力や愛嬌を備えていたことも手伝って、多くのクリスチャンがこうした接近に逆らえず、このやり方で彼の仲間に取り込まれてしまった。いつの間にか、誰もがDr.Lukeのペースに巻き込まれ、彼の親しい賛同者のようにされ、彼の世界観に巻き込まれ、責任を負わされてしまうのである。どんなに彼の歩みに異論があっても、関わっている限り、最終的には賛同者にされてしまうのである。

そのことが分かって、年長の兄弟を含め、一定の人々はある時期にDr.Lukeと完全に関わりを絶った。しかし、こうした断絶をしなければならないことについて、兄弟姉妹は彼を惜しみ、悲しんでもいた。

杉本氏がウォッチマン・ニーをバッシングした際、私が当時属していた交わりはまるで機を同じくしてニーや私を擁護するどころか散会してしまったので、私は仕方がなくKFCに出向いて行くはめになったが、こうした出来事自体が一つの罠のようであったと今は考える。その後、何が起きたかについては別の機会に後述する。


8)異論を排除し、忠告を退け、聖書に反してKFCを何でもありにの場にしたDr.Luke

Dr.Lukeと私とは様々な点で意見が合わなかった。まず、なぜ彼が聖書の言葉を守らず、ブログにおいて自分の快適な生活をしきりに自慢するのかという疑問から始まって、彼の主張には多くの点で、私が決して賛成できない内容が含まれていた。幾度、そのことで口論になったか知れないが、彼は決して二重性ある言動を変えることはなかった。彼がサンダー・シングの教えを取り入れた時にも、私は抗議を行ったが、彼は全く聞き入れず、それはサンダー・シングを紹介した(これまた別の)AG信徒の姉妹に対する私の人格的狭量さの表れに過ぎないかのように考えて、私の主張に腹を立てていた。

Dr.Lukeには聖書に照らし合わせて踏み越えてはならない一線というものが存在していなかった。二重性を帯びた言動についても、一切、良心の呵責がないようであった。だから、その点についてどんなに説得を試みても、彼の心に訴えかけることは無理なのである。彼は他人が真心から自分に忠告しているということも理解できなかった。彼にはあたかも良心の痛みそのものが存在していないか、それがあったとしても、決して生き方を変えることのできない何かの理由があるかのようであった。

こうして、Dr.Lukeは常に二重性のある言動を続け、しかも、常に自分こそが他人よりも物事をよく理解していると自負していたため、人の忠告や抗議に耳を傾けなかった。批判されないようにうまく立ち回ることには長けていたが、根本的に、人からの忠告を受け入れて変化するということがなかった。また、自ら心砕かれて変化するということもなかった。まして、自分よりもはるかに若輩者、指導者でもない者から何かを指摘されるということはプライドが許さなかったのだろう。

だが、だからと言って彼は意見の異なる人をすぐに退けようとはせず、のらりくらりと時間を稼ぎながら、その人にあたかも多くの点で同調しているかのように装い、失望を長引かせるのであった。あたかも人にいたずらな希望を持たせては苦しめ、失望させることを目的に関わっているかのようであった。そうこうしているうちに、すでに述べたように、いつの間にか、人は自分が賛成していないことに対してまでも、彼に賛成しているかのように扱われ、連帯責任を負わされ、聖書から逸れた道に巻き込まれていくのである。

公に名誉を傷つけることがためらわれたので、当時、ネットを通じてDr.Lukeに反駁しようという気にはならなかったが、そうした義理人情を重んじる心境も、大いに利用されていたことが分かる。だが、こうした見解のあまりにも大きな相違があったので、実際には、私は多くの時間、KFCとは関わらないで過ごした。


9)キリスト教界を非難しながら、キリスト教界を積極的にKFCに招き入れたDr.Luke

 
年月が飛んで、2012年、以下に述べたように、KFCでAG信徒が身元を隠してメッセージをしていることに改めて疑問を抱いた私は、Dr.Lukeに向かって、なぜキリスト教界と縁を切れと言いながら、もう一方では、キリスト教界を積極的に招き入れるような矛盾する言動をするのかと問い尋ねた。それは彼の信念そのものに反しているのではないかと。また、AG信徒を信頼すれば、必ず裏切られてKFCは乗っ取られるだろうとも私は警告した。

事実‫その通りになったのだが、Dr.Lukeはその当時もそれまでと全く同じように、私の忠告には耳を貸さなかった。そして私の忠告を退けるにあたり、今までもずっとそうして来たように、こうした忠告はAG信徒やメッセンジャーへの嫉妬に基づく讒言であると解釈した。彼は常にそのような理屈をつけては、真心から自分へ忠告してくれた人々の言葉や、耳の痛い意見や批判を自分への「ねたみ」だと言って退けて来たのである。

彼は元来、自分には誰からの忠告も必要ないという考えの持ち主であったが、その当時は、さらに、AG信徒と一緒になって、すっかり自分は神の代理人としてメッセージを語る崇高な牧師のような自負に落ち込んでしまっていた。というよりも、自分は神だと思っていたと言って過言ではない。そこで、単に人の忠告に耳を貸さないばかりか、自分たちのメッセージに逆らう信徒は神に逆らっているのだと言って、当時、KFCの在り方に疑念を抱いていた別の信徒の兄弟と共に、私に対してもほぼ同時に、イゼベル、ユダとの汚名を着せてKFCから追放した。

自分たちの身元が明らかにされることを恐れたAG信徒夫妻と、KFCの悪評が外に知れることを恐れたDr.Lukeが結託して、私や彼らに反対した兄弟を神に逆らった者であるから破滅すると宣告して、KFCから追放したのである。


10)日本やクリスチャンへの盛んな呪いの言葉と罪定めによって支持を失ったDr.LukeとKFC
 
当時、私はKFC以外の場所で、同時期に追放されることになった兄弟や、その他のKFCの歴史をよく知る複数の兄弟姉妹と共に、KFCの在り方の問題について話し合っていた。そして、KFCの教説は完全に異常なものであるから聖書に反しているとの結論に達していた。特に、当時、「2012年は破壊と制御不能の年となるだろう」とDr.Lukeが主張していたことについて、そんなことは聖書に照らし合わせて絶対にあり得ない予言であり、それが神から来たものでない以上、KFCの未来も混乱した暗いものとならざるを得ないだろうとの予測に私たちは達していた。そういう破滅的な予言は、当時、流行していた終末思想の受け売りに過ぎないものと見られた。

姉妹は私に早くKFCを去るように忠告していたが、私は結末を知りたいと願い、追放されることを知っていてわざとそこに残った。その後起きた出来事はすべて予想通りの結果であったが、彼らから向けられた敵意と悪意だけは予想を超えていた。その後、「KFCはバビロン」としていた年長の兄弟を含め、数多くのクリスチャンにこの事件について話し、意見を聞いてみたところ、その中の誰一人として、Dr.LukeやKFCが以前からまともであると考えていた人はなかった。中には学歴・職歴の点で十分にエリート層に属している人々もいたが、彼らもまたDr.Lukeを仲間として擁護することを拒否した。

それどころか、クリスチャンの多くがDr.Lukeについて語る際に、何かしらの憎しみめいた敵意をあからさまにすることに気づかされた。おそらく、Dr.Lukeがメッセージにおいて再三、キリスト教界のみならず、クリスチャンやニッポンそのものに対しても「ビョーキ」や「破滅」などの呪いの宣告を下していたことや、彼の享楽的で上から目線の自慢話などが、人々の心に非常な嫌悪と敵意を催させていたのであろうと考えられる。

ある時期まで、私はDr.Lukeは純粋に自立した信仰を模索している兄弟だと考えていたし、周りの兄弟姉妹もそう考えており、読者もそのように理解していた。多くの人々がDr.Lukeに期待し、また賛同や応援もしていた時期があることを私は知っている。そういう流れが明らかに変わったのは、次の機会に述べるように、グレゴリウス氏と杉本氏への彼の対応がきっかけであったと見られる。

さらに、杉本氏によるバッシングが起こって後、ネットで書かれていることが実社会に与える影響はどの程度かということについても、合わせて私は調べてみたが、それもゼロに等しかった。インターネット上の事実と現実とは乖離しており、ネット上で支持者を誇り、勢力を伸ばしているように見える人々が、現実にどれほど支持されているのかを調べてみると、そこにはあまりにも大きな乖離があることだけが分かった。特に、KFCは当初とは大きく違って、すでにほとんど誰からも支持されてはいなかったし、敵意の他には関心さえも払われていなかった。


11)キリスト教界に反対する個人を一見支援するように見せかけて裏で陥れたDr.Luke

私は上記のような事件に辟易して長くネットから離れていたが、ある時期、ふと見てみると、あろうことか、Dr.Lukeが私や他の反対者の信徒をKFCから自分で追放したにも関わらず、そんな事件が全くなかったかのように、彼が坂井能大氏に接近して、「杉本徳久氏からKFCの信徒に対する数々の野蛮な行動」に対抗して立ち上がるように影響を及ぼし、坂井氏を焚き付けて杉本氏に裁判で対抗させることに成功していたことが分かった。

策略と知らずに坂井氏はDr.Lukeの身代わりに杉本氏に対峙させられ、敗訴させられたようである。表向き、杉本氏に向かって主張していたのは坂井氏なので、彼が責任を問われるのはやむを得ないが、背後でそれをさせていたのはDr.Lukeであることが私にはよく理解できる。冒頭に挙げた二人の上記ツイートからも、Dr.Lukeが坂井氏の心に巧みに杉本氏への憎しみを煽っていた様子が十分に伺える。それはDr.Lukeが杉本氏に敵意を抱きながらも、自分は傷つかないために、坂井氏を身代わりにして杉本氏に代理戦争をしかけたことを意味する(Dr.Lukeは常に自分は直接他人とガチンコしないのだと吹聴していたが、それはただ自分の身代わりに常に誰かを前面に押し出して犠牲にして来ただけのことである)。

こうして、Dr.Lukeは坂井氏を計画的に欺いて陥れたのである。私を含め、兄弟たちの人権を踏みにじって交わりから追放したのはDr.Luke自身であるから、彼は杉本氏による人権侵害など言い立てられる筋合いには全くなかったにも関わらず、彼は私たちが杉本徳久氏の一方的な「被害者」であるかのように描き出し、「被害を受けたKFC信徒を助ける」という文脈で、坂井氏を焚き付けて、杉本氏に対決させていったのである。


KFCを長きに渡って知っている複数の信徒に長期間、聞き取りを行った結果、Dr.Lukeはこれまでそのようにして、幾度も自ら手を下さずに、他人を身代わりの犠牲にして自分の願いを首尾よく成し遂げて来たことが分かった。その際、信じやすい若い信徒や、未熟な年少者らを大いに利用して来たのである。そして、弱い者を犠牲にしたことに対して、彼には罪悪感がなかった。


12)杉本徳久氏とDr.Lukeの果たした役割は根本的に同一である
 
なぜそういうことをDr.Lukeは人を欺いてまで行ったのだろうか。私は、杉本氏とDr.Lukeとがうわべは対立しているように見えても、実際にはほとんど同じ役割を果たしていたことに注目する。二人が果たして来た役割とは、キリスト教界に属さず、自立した信仰を持って自主的に歩もうと決意していた信徒を、正義感や同情心を刺激することによって、裁判その他の無意味な争いの中に引きずり込み、神の御前で単独者として歩むことや、自立した信仰と福音を宣べ伝えるという最も重要な課題から目をそらさせ、それが公にできなくなるように追い込んでは口を封じることに貢献したことである。それによって、彼らは信徒がキリスト教界から真に自由になることを妨げ、真に自主性に基づいた個人同士の交わりをも分断し、個人の連帯を阻止したのである。

こうしたことの結果、ネット上には、キリスト教界による公認の活動だけが残っていき、組織されない個人の主張は分断され、駆逐された。キリスト教界から自由になろうとする個人は、無駄な争い事に巻き込まれて精力を浪費させられた挙句、敗北して潰されて行った。キリスト教界に反旗を翻しているように見えた被害者運動さえも、教界によって組織・管理された公の運動にすり変わって行ったのである。

杉本氏はすべての被害者運動の庇護者を買って出て、被害者を村上牧師の傘下に集めることにより、被害者運動がキリスト教界と対立するものでなくなり、キリスト教界の管理下に置かれるのを助けた。他方、Dr.Lukeは周りのキリスト教界に属さない個人を自分自身もしくは杉本氏との争いの中に引きずり込むことによって、結果的に、キリスト教界の管理下にない個人が自由な意見をネット上で述べられないように、彼らをことごとく排除するのに役立った。

両者はともにクリスチャンが決してキリスト教界から自由にならないように追い込み、ネット上の公の空間がただキリスト教界に公認された情報と活動だけによって占められるようになることに寄与したのである。
 
だから、私は改めて言う、キリスト教界と反キリスト教界は同一であり、Dr.Lukeも杉本氏もコインの表と裏に過ぎない。両者が対立しているように見えるのはほんのうわべだけに過ぎず、本質的に両者は互いに補完し合っているのである。Dr.Lukeは一見、杉本氏と対立しているようなポーズをとりながらも、次々と「獲物」を捕まえてきては、杉本氏のもとへ運んで行ったのである。
  
さらに、この二人はともに裁判を通じて信仰の問題を解決する道を選んだ点でも歩みを一つにしている。だが、裁判に正義を見出すことは不可能であることを私は再三、主張して来た。信仰の問題は、裁判によってではなく、ただ聖書に立ち戻ることによってしか解決しない。それは決して人が自分だけは間違わない神のように正しい存在として、他人だけを一方的に罪に定めて裁き、罰し、矯正しようとし、他人に君臨する行為を意味しない。むしろ、己自身がまず罪人として神の御前に立ち、神に真摯に赦しを乞い、救いを求める立場に立つことからしか始まらない。

指導者であってもそれは全く同じである。Dr.Lukeは自分の言葉を自分に適用すれば良いだろう。悔い改めがあって初めて血潮が適用される余地があるのであり、自分をかたくなに義とする者に憐れみは必要なく、血潮も必要ない。自分が罪人であると認めない人間には、赦される余地そのものがないと言えよう。


ある姉妹との出会いと別れ(KFCをエクソダスできず、立ち戻って行った姉妹)

ここ数日は、暖かい日だったので、市内を散策した。
 一昨日は、ある姉妹が私に街の案内をしてくださった。若い頃、ご主人とのデートコースだったというこの街は、年月が経って、すっかり変わってしまったらしく、かすかな記憶をたぐり寄せながら、あちこち連れて行ってくださった。エネルギッシュなこの街は、私には大阪と神戸をごちゃまぜにしたように見える。彼女は私よりだいぶ年上なのに、疲れることもなく、むしろ、恥ずかしいことに、スタミナのない私の方が着いていくのがやっとだった。

 姉妹とは、まだ知り合って間もないので、お互いのことはよくわからない。私のブログの長すぎ、かつ、殺伐とした文章が、よほど、あまりいい印象を与えていなかったらしく、初め、
 「あなたは何でも理詰めで考える方なんですか?」
 なんて質問されたりもして、ちょっと面食らった。

 そう言えば、他の兄弟からも、「あなたの日常的なところを見せてあげたら、きっと喜ぶと思いますよ」なんて、妙なアドバイスを事前にもらっていた。一体、私という人は、兄弟姉妹からどのような印象を持たれているのだろう、よほどの変人と思われているに違いないと、首をかしげることしきりだった。

 もちろん、そんなのは最初だけのこと、話を深めるとすぐに、第一印象は吹き飛び、年齢差も、好みも消え去って、とても仲良くなってしまうのが、エクレシアの不思議なところだ。主についての話題を語りだすと、きりがない上に、あたかも、個人差が消え去ったかのように、皆が一つにされる。

 昼食を終える頃には、互いの人生にどのように神が働かれたかを聞いて、「ああ、この人も、やっぱり、主が召し出された人なんだなあ…」という確信と、親しさをお互いに感じていたのではないか、と思う。キリスト者は、外見がどれほど違っていようと、根底では、とても共通した部分を持っているはずだ。そうであるのが当然、そうならない方がおかしい。何しろ、キリストの性質が人格に織り込まれているのだから。

 私には、これまで、主にあっての「お父さん」が一人登場したが、今度は、「伯母さん」が与えられた。この家族は、一体、どこまで広がりを見せていくのだろう? 楽しみこの上ない。

 キリスト者の人生には、大変なことも随分あるが、適時に、主は楽しみを与えて下さる。とても平凡で、人には知られていないようでありながら、驚きと楽しみが尽きない人生を私たちは送ることができる。
 その姉妹も、これからの世の中は、ますます混乱に満ちたものになるだろうと予想されていた。しかし、キリスト者には、たとえ迫害の中にあっても、人知を越えた平安が与えられる。

 「神の言葉はみな真実である、
 神は彼に寄り頼む者の盾である。<…>

 わたしは二つのことをあなたに求めます、
 わたしの死なないうちに、これをかなえてください。
 うそ、偽りをわたしから遠ざけ、
 貧しくもなく、また富みもせず、
 ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。
 
 飽き足りて、あなたを知らないといい、
 『主とはだれか』と言うことのないため、
 また貧しくて盗みをし、
 わたしの神の名を汚すことのないためです。」(箴言30:5-9)


 共にこの道をしっかり歩んで行きましょうね。

--------------

2016年追記。この姉妹も残念なことに、当時、書いていたブログを早々に閉鎖して、震災の後には、海の見える素敵な一軒家を手放して、最後には関東をも去った。筆者が出会った頃には、かなり年配の独身者でありながら、エネルギッシュで活動的な人であり、活発に仕事もしていた。しかし、その後、自分で見つけて入ったホームをも放棄して、ついには関東を去って、それほど親しかったわけでもない家族のもとに身を寄せたという話を聞いた。

結局、この人もまたルーク氏の取り巻きを離れられなかった一人なのだろうと筆者は考えている。筆者が出会った頃、すでにKFCから距離を置いていたが、精神的には離れられなかった一人である。そうした人々は結構な人数、存在していた。彼らは陰では去って来た団体のことをあれやこれやと批評し、新たな出発を遂げたように主張していたのであるが、決して公に訣別宣言をしようとしなかった。だから、精神的・霊的なつながりが、結局、最後まで絶たれないのである。

はっきり言ってしまえば、彼らが重視したのは、人情による絆、また社交クラブのような仲間内の親しい関係が断たれないことであり、神の御前で受ける便宜よりも、人間から来る便宜の方を優先したのである。だからこそ、関東を去った後までも、その交友関係のつてを辿って行ったのだろうと推測される。

2009年当時、この信者に出会って開口一番に筆者が聞かれたことは、「あなたはKFCを目当てに関東に来たのだと私は思っていた」という言葉であった。その「目当て」というクリスチャンにふさわしからぬ意地悪な意図を含んだ言葉が、筆者にとって最も心外であったことをよく記憶している(なぜなら、その頃、筆者はKFCには一度たりとも足を踏み入れていなかったにも関わらず、この姉妹はあえてそのような表現を用いたからである。)ある意味、上記に書いた交わりも、自分たちのサークルに足を踏み入れてきた新人への一種の行状偵察のような意味合いを帯びていただろうという気がする。

だが、この姉妹は、そういう挑発的な発言を相手構わず発する性癖があることを自他共に認めていた。横浜の有名な公園が改装された時には、公園の設計者に向かって自ら「前の方が良かった」と発言したと自ら語っていたほどであった。

あっけらかんとして常に開放的ではあるが、色々なことについて何度も語り合うと、常にどうにも釈然としない印象だけが残った。筆者はKFCからの追放という事件についても語ったが、この「姉妹」が筆者に勧めたのは、仲直りによってその団体に戻ったら、ということだけだったのである。2009年当時、自分自身がKFCを批判し、そこからエクソダスしたと主張していたことさえすっかり記憶から消し去っている様子であった。結局、この「姉妹」は自分は批判されないために、もうとうに離れたはずのKFC関係の人間関係を再び引っ越し先でも頼っているとのことであった。

この姉妹については、比較的最近、「あの人は家を手放したりしなければ良かったんですよ…」という評価を耳に挟んだこともあった。決して、そのような言い分を述べた人間に全面的に賛同するわけではないが、ある意味では、この評価に筆者も同意している。

上記の記事で、筆者はスタミナがなかった自分を振り返っているが、若いころにはエネルギッシュでも、我々は、老年になってどういう生活を送るのか、神と人との前で試されることであろう。生まれながらの力が衰えるままに、常識の通り、それまで獲得したものをただ手放し、生活を縮小し、衰退の一途をたどるだけに終わるのか、それとも、この地上の法則に逆らって、アブラハムのように、老年になってなお衰えず、栄光から栄光へと主の似姿に変えられるのか。

これは筆者が姉妹より若いから言うのではない。この姉妹ほどエネルギッシュでも陽気でもなく、この姉妹より年上であっても、未だ単身で活発に活動しているしている人たちも存在していることを筆者は知っている。

だから、外側から判断したときの人の生来の輝きと、内なる人の輝きは全く別物であるのだということを、今だからこそ、はっきりと確信できる。この姉妹を含め、当時、筆者が出会った人々は、ほとんどが筆者より10~20歳は年上で、人生経験も豊富で、まだまだ元気で、関東のことも、クリスチャンの交わりのことも、勝手知ったる様子で、活発に活動していた。ある意味、豊かな時代に思う存分、甘やかされたのか、尊大で、我が物顔に振る舞い、思いのままに放言していた人々も多く、そこから見ると、筆者は青二才であったのだろうと思うが、その後の数年間で、彼らは人間関係の対立が起きないことだけを第一として、自らの信仰告白や意見発表もやめ、第一線から退いてしまった。そして、それをきっかけに、彼らはそれまで歩んで来た霊的上昇の人生そのものを放棄してしまったようにしか見えないのである。ついには彼らの交わりも散り散りになって行った。彼らの信じていたものの本質が、露呈したのだと筆者は考えている。

第一印象で受けた一種の違和感は、錯覚ではなかったと今は思う。当時、姉妹が書いていたブログは「この道」という題名だったのだが、そのブログさえ、姉妹はあまりに早く辞めてしまい、書きとおすことをしなかった。実のところ、ブログは単なる趣味ではない。これは全世界と暗闇の軍勢の前での、神の正しさと勝利を証するための激しい戦いを意味する。自分はこの道を確かに貫徹しており、決して諦める意図はないという態度の表明でもある。

だが、残念なことに、ほとんどの信者にとっては、ブログは単なる貴族的趣味に過ぎなかった。だから、戦いのほんの最初のとっかかりに触れただけで、そんなものは絶対に御免だとばかりに一目散に逃げ去って行ったのである。その上で、彼らは戦場に残った信者たちの無様な戦いぶりを嘲笑する側に回った。そして、ネットで信仰告白を続けることは、無意味でむなしい所業であるかのように聖徒らの苦労をあざ笑ったのである。その罪は重いと筆者は考えている。

だから、筆者のブログに長いとか、難しいとか、ケチをつけるのは人の勝手であるが、それだけの批判が出来るのであれば、なおさらのこと、自らは初心を貫徹し、より優れた作品を残し、信念を貫き通して表明して欲しかったものである。信仰に限らず、自分ができもしないことで、人をいたずらに批判するのは高慢さの証でしかないので、やめた方が良かろう。

「KFCに一度でも関わったことのある人は、難しい」ということを述べた信者がいた。筆者はその意味が今だからよく分かるのである。KFCに関わったことのある信者たちの内側にいつまでも拭い去れない悪影響として残り続けるのは、「私は人前でみっともない失敗をしたくない。私はスマートでカッコいい生き方をして、決して誰からも嘲笑されないように、高みに座して賞賛を受け、無傷でいたい」という願望、つまりは見栄である。そして、そのような成功者としての外見をきどるために、彼らは戦いを忌避し、泥にまみれることを厭い、リスクを払わず、キリストの通られた十字架の痛み苦しみを決して負わない。そして、主の御名のために真に苦難を受けている人々を蔑む。だから、そこにとどまっている限り、彼等にはそれ以上の前進もないのである。

人が生まれ持った力や、肉的な願望に基づいて、信仰をアクセサリーのようにひけらかし、それによって自分がいかに優れて幸福な人間であって、神に愛されている信者であるかを人前に誇示するのは簡単なことである。だが、信仰も、試されない限り、決して本物にならない。この世の法則と肉の力によって手に入れただけのものは、この世の情勢が変わり、肉の力が衰えると同時に、全て消え去って行く。そのことにより、彼らが誇っていた信仰の本物度が試されるであろう。

我々はただ環境によって手に入れた幸福や、自分の外なる人の強さから来る長所により頼んで生きるのではなく、それらの肉の強さが全て尽きた後でもなお残る信仰による内なる人の強さを握って生きたいと願う。ある意味、ここに書いたことはとても厳しい言葉であるが、筆者自身も、必ず、同じように試されるのである。

2009年当時に知り合ったあまりにも多くの信者たちが、KFCなる実態もないような団体の中における自分の見栄や地位を失いたくないという願望のために、信仰の証を曲げ、戦いを退き、当初、目指していたはずの目的を放棄して、去って行った。だが、その選択が、決して本当に神に喜ばれるものではなかったことをその後の顛末から筆者は確認しているように思う。

震災以降、この関東に残り続けることには、色々な人々に安全面での心の不安もあろう。正直なところ、どうして主がこの地での筆者の生活をずっと守って下さっているのか、筆者にも分からなくなる時がある。ここにいなければ、もっと安穏とした生活が送れるだろうという気がすることもあるからだ。しかし、そうした怖れに駆られて敗退すべきではない、ということを常に思わされる。我々は自分の地歩を固め、拡大しこそすれ、それを決して縮小してはならないのだ。我々は、キリストの復活の命によって、死に逆らって立つ者である。神が信じる者に要求しておられるのは、信者を取り巻くあらゆる死の圧迫を打ち破って、力強く復活の命に立って、その勝利を生きて証明することであるのではないか。たとえ生活のあらゆる安寧を即座に手に入れたとしても、もし永遠に変わることのない価値を追い求めて生きるのでなければ、信者になった意味そのものがないと言って差し支えないと筆者は確信している。