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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

悪魔による大量生産からキリストにあるオーダーメイドへ

かつて、学術論文を書きながら、生計を維持するために、さまざまな仕事を経験したことがある。今になっても、論文の締め切りに追われていた当時の自分を夢に見ることがある。

その頃の筆者には、人の成さない偉大な仕事を成し遂げた いとの夢があった。友人に向かって、こんな大胆な台詞を口にしていた、「私も自分のケーニヒスベルクへ世界を集められるような人になりたい」*。

(*これはは哲学者カントが生涯のうちに一度も国外旅行をせず、ケーニヒスベルクだけで人生を終えたことになぞらえた言葉である。カントは自分から世界の国々に出て行かなかったが、その代わりに、自らの哲学によって、世界を自分のもとに集めた。人はそれくらいの強烈な創造行為を行うべきである、という意味。

ちなみに、ケーニヒスベルクは東プロイセンの主都であり、ドイツ騎士団によって建てられた美しい貿易都市で、レンガ造りの街並みで知られた。が、第二次大戦中にロシアに占領されてカリーニングラードと改称され、古き良き街並みは破壊され、歴史はほぼ完全に絶たれた。今もって再興は不可能な状態で、いわば、歴史の幻となった都の一つである。)
 
さて、以上のような願いは、天然の人としての筆者だけの力では、実現が不可能であった。そこで、筆者は主と共なる十字架を経て、それまでの願いが全て自分の手から取り去られ、天から聖別されて、再び、キリストの力によって再興されて戻って来るのを見る必要があった。

それまでの夢は、あたかも一旦、目の前で砕け散ったかのようであったが、力強い十字架の解放の御業によって、再び、復興されて筆者の手に返された。筆者はこの十字架の御業により、永遠にアダムの世界にあるあらゆる絶望から救い出され、全ての恐れから解放されて、十字架の死と復活によって、天的な高さへと引き上げられ、暗闇の支配下から、愛する御子の支配下へと移されたのであった。

キリストにあって満ち溢れる光の支配下へと移され、新 しい心と、新しい霊とが与えられた――。

以前とは全く違う人生が開け、過去についての後悔や、痛みや、悲しみは、なくなり、どこにいても、何をしていても、主が共におられると、信じることができるようになった。

そして、今や、主とともに生き、歩んで行きたいという願いだけが、生涯の目的となったのである。

だが、「古き人に死んだ」というテーマと、「神に生きる」というテーマを追求する余り、筆者は、キリストにある新しい人として、自分が過去と現在をどのように結びつけるべきかが、長い間、よく分からなかった。

特に、従来のキリスト教においては、「献身する」とは、信者が自分の個人的な人生を離れて、全生涯を福音宣教に捧げることを意味すると教えられる。

そんな固定概念も手伝って、神のために生きることと、自分の個人生活が、どのように両立し、統合されるのか、筆者には、長い間、よく分からなかったのである。

そして、筆者がこの当時、関わっていた兄弟姉妹は、この点において、全く助けにならなかったどころか、誤った観念によって、かなり有害な影響を及ぼした。

その頃、筆者が「兄弟姉妹」として交わっていた全員が、筆者とは全く無関係なフィールドで生きて来た人たちであり、ほとんどの場合、自らの専門も持っていなければ、あったとしても、すでに仕事からも離れた年金生活者などで、彼らは信仰生活というものを、この世の職業とは何ら関係ない、ほとんど形而上のもののようにとらえていた。

そこで、前途ある若者が、一体、働きながら、どのように神に仕えることができるのか、という問題には、全く具体的な答えやヒントをくれなかったのである。むしろ、そのような人々の話を聞けば聞くほど、筆者にも、「信者がこの世の職業を通して自己実現を目指すことは、御心にかなわない生き方なのだ」といった考えが増し加わるばかりであった。

筆者は兄弟姉妹の人生を参考材料にすることができず、また、彼らも、キリストにある「新しい人」の生き様について、従来のキリスト教の固定概念を超え得るような考えを何も持っていなかったので、その交わりからは、何の新しい発想も生まれて来なかった。

そんなこともあって、筆者は、何年間も、この問題については答えを見いだせなかった。果たして、自分の過去に積み上げて来た功績、過去の自分の持っていた夢、性格、知識、経験、生き様などを、新しい人生にあって、どの程度、継承して良いのだろうか? 

たとえば、学術研究の世界において功績を打ち立てたいという願いは、今後も、妥当なものとして持ち続けるべきなのだろうか? かつて書いていた論文を続行させるために、研究書を取り寄せて、文学の世界に没入することは、許されるのであろうか? 

そんな疑問から始まって、たとえば、ペットを飼うことは許されるのか、とか、一体、自分の願いや嗜好のどこまでが、御心にかなうものとして、生活に適用して良いのであろうか、といった疑問の中にあった。

そういった疑問がなかなか解けなかったので、筆者は長い間、自分で自分の人生を「保留」にし、自分の願いを「保留」し、自分の経歴を「保留」して、それとは無関係の生き様を続けていた。

兄弟姉妹からの不適切な助言の影響もあって、かなり長い間、筆者は自分のかつての個人的特徴を「アダム来のもの」として捨て去るべきなのかどうかという問いに、明確な答えを出せなかったので、個人的な願いに基づいて生活の新たな一歩を踏み出すことをためらっていた。

だが、こうしたことは、全く、間違った固定概念を持つ人々からの悪影響に他ならず、本当は、「キリストにある新しい人」について、そんな疑問を持つ必要はなかったのである。

筆者の過去は、すでに霊的に十字架を経ていたので、キリストにある新しい人に自然と再統合されており、筆者が自分から過去を捨てるとか、個人生活を捨てるとか、そんな行動は全く必要なかった。たとえば、かつてよく筆者が口にしていた「自分のケーニヒスベルクに世界を集める」とかいった台詞も、筆者は、長い間、信仰の何たるかをよく分かっていなかった頃に口にした若気の至りでしかないような気もしていたのであるが、実は、そんな些細な願いでさえ、キリストにある新しい人の中に有益に再統合されていたのである。

そんなわけで、主と共なる十字架の死と復活の何たるかを実際に経験した後も、筆者はあたかも自で自分の過去と訣別せねばならないかのように考えていたため、学術論文を書いておらず、論文を書いているわけでもないのに、ただ生計を立てるためだけに、論文の締め切りに追われていた頃と大差ない、自分の専門とは無関係の仕事に従事したりしていた。

だが、そのような考えは、すでに述べた通り、あたかも信者であるかのように、兄弟姉妹を名乗る人々を通じてもたらされた暗闇の勢力の偽りの力の影響によって生まれたものだったのである。

暗闇の勢力は、信者の人生が、十字架を通して解放され、信者が神と同労して生き生きと自由に生活しながら、,キリストによって生まれた「新しい人」として、天的な歩みを進めることを何としても妨げるために、全力を挙げて、信者の思いを攻撃して来る。だが、その攻撃の多くが、他でもない「兄弟姉妹」を名乗る人々から、間違った不適切な偽りの助言という形を通してやって来ることに、当時の筆者はまだ十分に気づいていなかったのである。

さて、暗闇の勢力が信者に吹き込む嘘の筆頭格は、いわれなき「罪悪感」である。つまり、本当は罪深くもなく、わがままでもなければ、贅沢でもない、信者の些細な願望までも、それがあたかも神の御心にそぐわない罪深いものであるかのように思わせることで、信者に自ら願いを捨てさせ、あきらめさせることが、暗闇の勢力の策略なのである。

第二は、神に対して生きることへの偏見であり、「徹底的に自己を放棄しなければ、神に従うことはできない」という名目で、信者に自分の個性を自ら捨てさせ、自分を否定させようとする偽りであり、これもまた暗闇の勢力による極めて重大な嘘である。そして、第一の嘘と第二の嘘は密接に絡み合っている。

地獄の軍勢は、この世に生きる人々を罪の奴隷として拘束しており、そこで暗闇の勢力は、人を貧しさや、不自由や、夢や希望のない人生に閉じ込め、可能な限り苦しめ、自由を奪うことを使命としている。だが、彼らは、信仰を持たずにこの世に生きている人たちだけでなく、キリストにある新しい人をも、そのように束縛しようと、信者の思いの中に攻撃をしかけて来るのである。

暗闇の勢力は、信者が自分の願いを率直に神に申し上げながら、生き生きと自主的かつ個性的な人生を送ることを何としても妨げようとして、こう言う、「あなたの専門知識や、かつての職業や、かつての願いは、みな堕落したアダムの古き人から生まれたものであるから、あなたはそれを罪深いものとして捨てなければならない。そうしなければ、神のために生きることはできない」と。

実は、兄弟姉妹を名乗っている多くの信者たちでさえ、知らず知らずのうちに、このような悪魔の嘘に加担して、信者をより束縛し、より不自由にし、より不自然に苦しんで生きさせる手伝いをしようとすることが多いのである。

今日の信者のほとんどは、「キリストにある新しい人」という言葉を口にしながらも、実際に、「新しい人」は、この世の職業において、個人生活において、どのように生きるべきか、ほとんど分かってはいない。だから、もしこの点について、信者がうっかり、ふさわしくない兄弟姉妹に助言を求めようものならば、非常に好ましくない有害なアドバイスを受けることがあり得る。

当時の筆者の周りにいた兄弟姉妹の多くは、ただ信者が「神のために」何かを「捨てる」ことや、「理不尽を耐え忍ぶ」ことだけが、御心に従う道であるかのように誤解して、周囲の人々に対して、そのような説得に腐心していた。これは、今日のクリスチャンの多くの姿と同じである。

たとえばの話、「ペットを飼いたい」という願いを、筆者がある兄弟に向かって口にしたとき、その「兄弟」はこう答えた。

「ヴィオロンさん、パウロがペットなんか連れて伝道旅行できたと思いますか?」

こうして、その「兄弟」は、信者がペットを飼うことが、いかにも主への献身の妨げになる、伝道&宣教にとって障害となる、と言わんばかりの否定的反応を示した。だが、筆者は、その頃には、この兄弟の性格を知り抜いていたので、こうした忠告ばかりをずっと聞き続けていれば、自分の人生で何一つ、願いを決行できはしないということを悟っていた。そこで、その忠告を振り切って、ペットを飼ったのであった。

ここで筆者が議論したいのは、信者がペットを飼うことの是非ではなく、従来のキリスト教の固定概念の域を出ない人々は、全ての考え方が、万事こんな調子だということである。つまり、彼らは自分よりも若い「後学」となるような信者をつかまえて、彼からあらゆる自由と権利を取り上げた上で、自分好みの型に当てはめるために、その信者の生活のどんな些細な事柄についても、「神のために」という理由がついていないと、信者に何も許そうとせず、しきりに反対するのである。

たとえば、神のために人生を捧げた人が、学術論文など書くべきではない、といった考えもその中に含まれているし、自分の専門性を人前で誇示すべきではないとか、何を買うか、何を食べるか、といった些細なことでも、「贅沢」や「貪欲」に該当すると非難して、事細かに様々な制約を持ち出して来る人たちもいるのである。そんな人々に助言を求めるのは、自殺行為にも等しい。

だが、何年も、筆者はそういった兄弟姉妹の考え方が根本的に間違っていること、彼らに意見や忠告の機会を与えてはならないこと、あるいは、もっとひどい場合には、こうした人々を「兄弟姉妹」と考えるべきではない、ということに気づくのが遅れた。そして、かなり経ってから、キリストにある新しい人の人生は、過去の何かを「捨てること」に基づいて成り立っているのではなく、むしろ、十字架を経て、「新しい人」には、過去の要素がすべて再統合されているので、信者は自分で過去の生き様と訣別しようと努力して、自分の願いを滅却したり、それを禁じたりする必要はない、ということが分かったのであった。

信者は、御言葉に背き、神を悲しませるような反逆的な内容でなければ、自分の心の自然な願いに従って、ごく普通に生きて行けば良いのであり、もし自分に備わっている何らかの適性があれば、それを思う存分、活かせば良いのである。

奇しくも、そのことを筆者に向かって語ったのは、ベック集会にいた兄弟たちであったが、彼らは、以前に筆者が出会った「兄弟姉妹」たちが、筆者の心にかけた呪縛を解いて、いかに筆者が自分の専門性を有効に活用して生きるべきか、延々と筆者を説得した。

「ヴィオロンさん、あなたの学歴や経歴は、神が許されるのでなければ、決して手に入れられないものです。それが許されたということは、あなたにはそれを用いてなすべきことがある、という意味に他なりません。だから、あなたは自分の専門とは関係のない仕事に就いて苦しんだりする必要はありません。そんな人生が、神のために生きることではないのです。あなたは自分の能力や知識を神に捧げ、神がそれをどう用いて下さるのかを見るべきです。」

この忠告は筆者の心に光を与えた。年々、悪化して行く情勢の中で、専門と関係ない仕事をして生計を立てることには、筆者も限界を感じていたので、筆者は彼らの忠告の通りに、自分の過去に持っていたすべての知識や経験をすべて改めて主にお捧げし、その後、専門の仕事に立ち戻るために必要な努力をして、人生がどう開かれるのかを観察した。

そうして、筆者は確かに専門に復帰したのであるが、しかしながら、以上の兄弟姉妹の助言にも、相当な限界があった。それは、この集会の多くの人たちは、かなり裕福であり、生活の苦労をあまり知らず、特に、筆者の世代が社会で置かれている窮状がどれほど深刻なものであるかに、理解がなかったことである。それゆえ、彼らもまた、前述の兄弟姉妹と同じように、「後学」を自分たちの正しいと思う考えに当てはめ、従わせせようとして来たのである。

以上のような方法で、筆者が神に願って与えられた専門の条件が、過酷で、とても長くは続けられそうにないものだと分かって、筆者がその仕事を辞めようとしたとき、仕事を見つける時に助言し、祈ってくれた兄弟姉妹が、かえって敵対する側に回った。彼らには、「神様が与えて下さった仕事を、そんなにも早く辞めようとするなど、不信仰であり、言語道断だ」という考えしか、返答の持ち合わせがなかった。

また、この集会以外のつながりのある姉妹からも、その時、同じように非難の言葉を返されたことを覚えている。あろうことか、この姉妹からは、この転職を機に、絶縁さえも申し渡されたのであった。その時、筆者には、次の仕事も無事に決まっていたのだが、彼女は、それを喜んでくれるどころか、「もうそんなにも早く、次の仕事を見つけたなんて」と冷たい反応を示し、「もう二度と連絡して来ないで」と、交わりの扉を閉ざしたのであった。

だが、いかに周囲の兄弟姉妹に誤解されたとしても、当時、働いていたのは筆者自身であるから、筆者が誰よりも、その労働環境が、逆立ちしても長くは持ちこたえられないものであることをよく知っていた。そのような不適切な条件に耐えていれば、いずれ自分を壊すことになり、場合によっては、不法に加担することにさえつながりかねない。それが神の御心であろうはずがないことは承知していた。
   
だから、筆者はこれらの「兄弟姉妹」の誤解や怒りや叱責を無視して、自分の判断で、新たな道に踏み出して行った。

こうして、兄弟姉妹と考えていた人々から、間違った、不適切な忠告や助言を受け、それに従わなかったために、筆者がこうむった誤解の数々は、枚挙に暇がない。だが、たとえ不愉快な誤解をこうむったとしても、筆者は根気強く自由と解放を目指して信仰による模索を続けねばならないことを知っていた。だから、そうした助言は、神から来るものではなく、暗闇の勢力から来るものと確信して、筆者はそれらを振り切ったのである。

そもそも、信者は自分の人生について、主ご自身だけを相談相手に、自分自身で決断を下して行かねばならない。たとえ兄弟姉妹であっても、他者に主導権を明け渡すことはできないし、人の支配下に入ると、そこから始まるのは、奴隷的拘束だけである。だから、たとえ兄弟姉妹であっても、他者に助言の隙を与えることは、ほとんどの場合、逆効果となる。
 
そんな模索を繰り返す過程で、筆者には、この世に存在する仕事の大半が、非常に問題だらけで、実に多くの場合は、違法な労働条件のもとに行われており、たとえ専門に関係する仕事に就いても、その事情はすぐに変わらず、こうした悪しき問題が一挙に解決する見込みはほとんどない、ということが分かって来た。

しかし、そんな中でも、筆者は「世の情勢がこんな風だから、どんな不適切な条件にも、自分が耐えるしかない」とは考えず、可能な限り、自分の願いを否定することなく、正常な仕事を探す努力を続けた。

つまり、この世の情勢に自分を合わせるのではなく、あくまで自分の正しいと思うことや、願いを譲らずに天に向かって主張し続けて、根気強く、不正や、不法を助長することなく、神の正義と、自分自身の願いにかなう、納得できる条件を求め続けたのである。

この世の情勢では、99%見込みがない時だからこそ、信仰に頼る価値がある。人にはできなくとも、神にはできる。世はいつでも「これしかないから、あなたは妥協して条件を引き下げなさい。多少の不正には目をつぶりなさい」と言って来るであろうが、信者がその言い分に耳を貸して、自分が最低限度だと思っている条件にさえ、妥協を繰り返すようでは、信仰者となった意味はなく、その先はない。神は必ず、信者が健やかに自立した生活を営むために、必要な全ての条件をお与え下さるはずだ、と、筆者は心に確信していた。

そのような筆者のスタンスを、兄弟姉妹のほとんどは理解できなかったであろうと思う。筆者の態度は、彼らから見れば、「贅沢」であり、「わがまま」であり、「えり好み」でしかなかったのではないかと想像される。だが、そのように不評をこうむるであろうことが予め分かっていたので、筆者の方でも、もう彼らには何の助言も乞わず、相談もしなかった。

そうして、筆者は他者の助言や忠告に従って生きることをやめ、ただ神との関係において、自分の願いをあきらめずに神に申し上げることだけによって、生きることに決めたのである。

そして、その過程で、実に驚くべきことが分かって来た。

筆者がこれまでに見つけた仕事は、もはや相当な数に達しているのだが、もともと数少ないと言われていた専門分野の仕事である。労働条件に文句をつけて、度々、仕事を変わっているような人間に、将来の見込みなどない、と普通の世間は考えるであろう。しかも、筆者は郷里からの援助などは受けず、完全に独立して、自分だけで生計を立てている。筆者の試みは、どうせ長くは続かないだろう、と高をくくっていた人々がいたとしても不思議ではない。

だが、それにも関わらず、筆者は行き詰まりに達することはなく、常に道が開けたのである。そして、それが神の采配であるばかりでなく、筆者と主との「信仰による同労」によって生まれた結果であることが、筆者にも、だんだんはっきりと分かって来た。

つまり、これまでの筆者はよく「こんなご時世だから」と悲観したり、恐れに駆られたりもしながら、それでもあきらめきれずに、「どうか御心にかなう良い条件の仕事をお与えて下さい」と、必死の思いで神に懇願したりしていたのだが、本当はそのように祈るべきではなく、実のところ、神の方が筆者に向かって、問うておられたのである、「あなたは一体、何をしたいのですか。世の情勢は関係ありません。あなたが願っている内容を正直に具体的に私に向かって言いなさい。そして、私にはその願いを満たすことができると信じ、権威を持って行動しなさい。」

神がそのように問うておられることは、その都度、「運よく」見つかる仕事が、どうにも筆者が心の中でそれまで思い描いていた条件にかなり合致している様子からも理解できるのだった。つまり、筆者自身も半信半疑の状態で祈りつつ、「神が奇跡を備えて下さるならば」と期待し、「運よく」見つけたと思っていたものが、実は、筆者自身が心の願いによって、主と同労して自ら創り出したものであり、神が筆者の祈りと信仰に応えて下さったことにより、信仰に応じて「創造」されたものであることを、認めずにいられなくなったのである。むろん、そうしたことは、職探しの過程だけでなく、生活のあらゆる場面で起きて来た。

このあたりから、筆者の考え方が劇的に変わって来た。

つまり、キリストにあって生きる「新しい人」は、この世の情勢に翻弄され、圧迫されて生きるどころか、天に直通の祈りを捧げ、キリストとの同労により、無から有を呼び出して来る権威を持つのだということが、次第に分かり始めたのである。

その「新しい人」の生き様は、世の中の悪化して行く情勢の中で、かろうじて生存が保たれているといったようなレベルのものではなく、まさに(共産主義者が自分たちの思い描くユートピアを表現するために、誇らしげに使っていたあの有名な)フレーズ、「必然の王国から自由の王国へ」、に見るように、「この世の情勢が悪いから、信者は仕方がなく妥協して、たとえ不法で劣悪な条件でも、この程度で我慢しなければならない」といったような、ちっぽけかつ不自由な生き方から、「あなたは何を願うのか」という、信者自身の個人的な願いに基づく「オーダーメイド」の生き方への転換なのである。

「キリストにある新しい人」の人生は、天と地の同労によって作り出される極めて個人的な人生であり、その生き方にキリスト以外の「型」はない。神は信者の心の願いに、細部に渡るまで耳傾け、応えて下さるので、キリスト者の人生は、極めて個人的な特色を持つもの、周囲の誰にも似ていない「オリジナルな」ものとなる、ということを、信者が心に留めておくのは有益である。

この世のほとんどの人々は、まるで大量生産された服を買って着るように、職業や、暮らしぶりなど、人生の隅々においてまで、すべての事柄について、ある種の型に自分をあてはめている。そして、その域を決して出ることはできないし、出ようと考えない。彼らは、その「型」が、自分の個性にとって非常に窮屈で、多くの苦しみをもたらしていることを、ある程度は認識しているのだが、それでも、それがあるまじき制約だとは考えず、あくまで自分自身を型に合わせて切り刻むことが正しいことであり、それ以外の人生はあり得ないかのように錯覚している。

だが、本当の人の人生のあるべき秩序は、それとは逆なのである。人間が型に合わせるべきなのではなく、型が人間に合わせて作られるべきなのである。型というものは、人間によって人間のためにこそ、造り出されるものであって、人間に奉仕することが、その役目だからである。そういう意味で、キリストにあって自由とされた人の人生は、もはや大量生産された型に自分を当てはめて、それに適合しない自分の一部を自ら切り刻んで切除しようと苦しむ人生ではなく、型が信者に従って作られる「オーダーメイド」の人生なのである。

そんなことは信じられないし、信じたくない、という人は信じなくて結構である。

だが、そのように、信者の人生が、信仰による「オーダーメイド」である以上、神との同労において、信者が心に何を願うのか、その願いの内容は、宇宙的な重要性を持っており、信者の人生に最も大きくものを言う事柄である。

そして、聖書の原則はこうである、「口を大きく開けよ、私がそれを満たそう。」

つまり、神は信者に大志を抱くよう求めておられるのである。世人の誰であっても、多少のコネや、実力さえあれば、実現できるような、ちっぽけな願いで人生を終わるのではなく、「どうせなら、神にしか実現できないような、壮大なスケールの夢を持ちなさい。私(神)があなたと同労してそれを叶えてあげるから。そのようにあなたを満たすことが、私の心なのです」と、神は信者に求めておられるのである。

だから、信者が自分の人生について、どういう願望を抱くのかという問題は、信者が神をどのようなお方であると考えているのかという問題に直結している。信者は、神の愛と理解の無限なること、神の懐の深さ、気前良さ、その御力の偉大さなどに、ふさわしい夢を抱くべきである。そして、自分の願いを率直に神に申し上げ、「私にはできないことも、神にはできる」と、神を信頼して一歩を踏み出して行く時、神はそのような信仰を喜んで下さると、筆者は確信している。

そのようなわけで、多くの兄弟姉妹が「わがままだ」とか「贅沢だ」とか「献身者にふさわしくない」、「貪欲だ」などと言って批判し、退けていた信者の個人的な願いこそ、実は、極めて重要な事柄であり、それは信者自身にとってのみならず、神にとっても重要であり、神はその願いに熱心に耳を傾けて下さり、その願いに応えて、ご自分を現して下さることが分かって来たのである。

「現世利益を求めてはいけない」などの言葉で、多くの信者が、自らそんな願望は自分にはないかのように否定しようとしている信者の願いこそが、実は、信者がキリストと共に同労して行う「信仰による創造」の原材料となって行くのだ、ということが分かって来たのである。

だから、信者は、自分の個人的な願いを自ら捨てようとしてはいけないのである。それが明らかに御言葉に反するものでない限り、自分の願いをあきらめることなく、根気強く、天に向かって願い続けるべきである。

信者は自ら「古き人」と訣別しようとして、自分のあれやこれやの特質を自分で抹殺しようと努力する必要はない。信者の過去も、性格も、知識も、能力も、何もかもが、キリストにある「新しい人」に自然に統合されていることを信ずべきである。そして、十字架を経て、自分に備わった全ての特徴が、すでに神のものとして、神にあって有益に活かされることを信ずべきである。

もう一度言うが、信者は、自分の心の願いを通じて、信仰によって環境を創造しているのである。信者が環境に合わせるのではなく、環境が信者によって創造され、治められるべきなのである。

最初のアダムは、地を治めるために創造された。アダムは堕落してその任務に失敗したが、神はキリストにあって再び人類に地を治めさせようと計画しておられる。人間の創造の目的は、人類の罪による堕落と、サタンによるこの世の占領という出来事によってさえ、変わることなく、神はこれを永遠のご計画の中で成就される。それは、ただ単に信者が自らの意志でこの地を治めるというだけでなく、信者が主と同労して、すべてのものをキリストの御名の権威の下に服従させるという壮大な計画の一部なのである。

だから、信者が信仰によって祈り求める時に行使しているのは、御名の権威なのである。その祈りが応えられることは、環境が信者を通して、御名の権威に服することを意味する。

確かに、この世は堕落しており、目に見えるものはいつか終わらなければならない。そうして新しい世がやって来る。だが、キリスト者にあっては、御国はすでに来ている、ということを覚えておかなくてはならない。御国は、信者の心の中に、霊の内にすでに到来しており、信者は御名の権威に基づいて、霊的な支配権を行使することによって、天を地にもたらし、御国をこの地に及ぼし、この世を堕落した悪魔の霊的支配から奪還して、キリストの統治を打ち立てねばならないのである。だから、信者が主にあって何を願い、何を求めるのかは、この二つの支配権――キリストの支配と悪魔の支配――の争奪戦において、極めて重要な意味を持つ。

だが、それはただ単に霊的な戦いにおける勝利と、神の権益の拡大のためという文脈においてのみ行われるのではなく、神は信者自身の個性そのものを、極めて重要なものとして尊重して下さり、キリストにある新しい人の中で、信者の人格や個性が、生き生きと発揮され、そうして信者が一人の人として真に自然なあるべき人間の姿を形成することを願っておられる。

この「新しい人」は、自分の個性を、地獄の軍勢に支配されるこの世が大量生産した型に合わせて自ら歪め、切り刻んでは、自らを苦しめるという不自然で抑圧された生き方(必然の王国)を離れて、信仰によって、神と同労しながら、神に自分の願いを率直に申し上げ、祈りを通して、主と共に望む環境を作り上げていくという「オーダーメイド」(自由の王国)の生き方へと転換して行くのである。

悪魔による大量生産からキリストにあるオーダーメイドへ――御名の権威に基づく環境の創造――それが「キリストにある新しい人」の生き様の主要な特長の一つである。信者が主と共に信仰によって環境を呼び出し、自ら創り出すのだから、信者のいる「ケーニヒスベルク」に全てが集まって来るのは至極当然である。

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遅くなっても待っておれ、それは必ずやって来る(2)

ある姉妹が、自分の理想の家を手に入れるために、何年間も祈り続けたことを語ってくれた。この婦人とは、KFCで出会い、KFCに疑問を持って離れた後、交わるようになり、今すでに彼女はもうこの世の人ではないのだが、KFCで出会った人の中では、例外的に、主にある真実な交わりの何たるかを筆者に教えてくれ、そして心から筆者を愛してくれた本当の姉妹であった。

その彼女が、筆者を自宅に招き(それは素晴らしい家であった)、若い頃から、このような家が与えられるようにと、家の図面を書いて、主に願い続けて来たのだと話してくれた。むろん、色んな紆余曲折があり、どこに土地を買うのかなどで、誤った選択をしそうになったことも何度もあると言っていた。

姉妹が亡くなった後、ご主人にも会ったのだが、実際に、彼女はその家が与えられる前から、「まるでその家がすでにあるように話していた」とのことであった。

面白い姉妹であった。その姉妹のご主人は病気がちな人で、何度も、死ぬような大病に見舞われ、彼女はひやひやさせられるのだが、その都度、彼女の熱心な祈りと、不思議な方法で、夫の病気は回復するのだった。夫があまりに大病を繰り返し、いつもそのために姉妹が祈っていたので、まさか妻である姉妹の方が先に召されるとは、誰も考えていなかったに違いない。

基本的に、やむを得ない手術を除いて、薬は使わず、長く入院しての闘病生活も送らずに、自然な生活の中で夫の病気を治すというのが彼女の方針だったので、彼女は一生懸命、夫のための健康食に力を入れていた。一度は、結石が出来たとき、手術せずにこれを治すために、夫婦でジェットコースターに乗ったら、それで治ってしまった、などという話をしていたこともある。

「神様の知恵よ。こんな不思議な楽しい方法で神様は主人に『手術』をなさったのよ」などと、彼女が喜んで証していたのを覚えている。

この姉妹の話していた内容は、信仰を持っている信者にも、にわかには信じがたいと思うような内容が実に多かったが、筆者にはよく分かる。

話は変わるようだが、最近、筆者がペットを何気なく獣医に連れて行った時に、誤診に遭うという出来事が起きた。些細な怪我の治療のために、獣医へ連れて行くと、それをきっかけに、別件で手術が必要だと医者に言われたのである。

「ヴィオロンさん、これは問題ですね。これは先天性の病気ですよ。こんな問題を知らずに押しつけられたとは、あなたは可哀想です。」

と、そこまで医者は言ったのであるが、その言葉が、全くの誤診だったのである。この誤診がもととなって、大変なすったもんだが起き、あわやペットそのものも手放すかというほどの事態へと発展したのであるが、筆者はそのハプニングの途中で、それが悪霊からの攻撃であると気づき、嘘の不安を振り払って、事なきを得た。

ペットを筆者に譲った人の確認、セカンド・オピニオン、サード・オピニオンの結果、それが獣医の完全な誤診であり、筆者は全く悩む必要のないことで悩まされていたことが判明したのである。

結果的に、問題はすべて嘘のように消えてしまい、平穏が取り戻された。だが、混乱させられ、対応を考えていた時間は、損失であったと言えるかも知れない。さらに、もしも万一、筆者が一人の獣医の診断に従って手術を決行していれば、ただ単に余計な費用がかかっていただけでなく、臓器の一部を永久に摘出し、ペットの一生に関わる重大な悪影響を招いていたことになる。まさに筆者自身が何を信じるのか、ということが問われていた瞬間であった。

筆者は自分自身のためにはよほどのことがない限り、薬も飲まず、医者になど極力かからないタイプなのだが、ペットのためということになると、専門家の判断を無条件に信じてしまいそうになる心の弱さがあることに気づかされた。

そのような不安を入り口として、暗闇の勢力が信者に罠をしかける。獣医が悪意を込めて故意に誤診したとまでは思わないが、この出来事の背景には、筆者の平穏とペットの健康を破壊しようとの暗闇の勢力からの悪魔的な意図が働いていたことは間違いない。

そういう出来事は、今まで、この他にも数知れず、起きて来た。だから、筆者のみならず、神を信じる信仰者の生活には、誰しも戦いがあり、信者は自分の生活に対して悪魔のしかける絶えざる妨害と攻撃の意図を見抜き、それらを全て主の御名によって撃退しながら、自分自身と自分の管理下にあるすべての者たちの平和と健康と安全を守り抜かなければならない義務があると筆者は確信している。

霊感商法のように、人の不安を煽り、それをきっかけに深刻な災いへと発展させようとすることは、暗闇の勢力の常套手段である。そして、悪魔の最終的な狙いは、死をもたらすことである。医者までも、そのきっかけとして利用される危険があることが分かった。だが、そのような試みの最中で、神は常に信者の心に問われる。あなたは何を信じるのかと。

神は筆者に問われる。あなたが信じているのは、神の守りの完全さか、それとも、悪魔のもたらす不完全さと、その結果としての滅びなのか。すなわち、筆者がこれまでにも信じて来た通り、神は信じる者とその家族に完全な健康と幸福と安全を与えて下さり、全ての局面において、守って下さることを信じ切るのか、それとも、神は理不尽な病気を送ったり、思いもかけない災いを下したりして、信じる者の生活を苦しめ、絶えず悩ます存在だと考えるのか。常に筆者自身が、何を信じるのかを選択して行かなければならないのである。

筆者はこれまで自分の生活の全ての局面において、神の守りがあることを確認し続けて生きて来たが、以上のようなことがあってから、神の守りの完全性を、以前よりもなお一層、確信するようになった。そして、神以外のものに頼り、助言を求めようとする心の弱さを、徹底的に追い払って行ったのである。

たとえば、筆者は以前には、専門家と称する人たちに一定の敬意を持ち、定期的に医者にかかるのも良いことだと考えていたが、そのような考えをも改め、たとえ自分に専門知識があるわけでない分野のことであっても、目に見える人間の言葉よりも、まず第一に、まことの命と健康を保証して下さるただ一人の神に信頼を置く生活に切り替えたのである。

もし筆者が神を信じていない人たちに助言を求めるならば、その不信者たちを通して、悪霊が筆者の望んでもいない、御言葉にもそぐわない助言や指導をもたらし、それがきっかけで大変な混乱が生活にもたらされる危険がある。筆者はそのようにして不信仰な人たちに心を煩わされ、翻弄される余地を極力、排除して行ったのである。

だから、そういったことの結果、このブログでそれまで受けつけていたコメントや、設置していたアクセス解析の装置も、すべて取り払ってしまった。良い読者も悪い読者もみなそれによって筆者への応答の余地を失ったわけであるが、それをもったいないとも思わない。

以来、このブログは完全な一方通行になった。すなわち、地から天への一方通行である。このブログはもはや人に捧げられるものではなく、天に向かってのみ捧げられるものになったのである。

他にも、例を挙げれば、スカイプをやめ、以前に登録していた転職サイトのようなものもすべて退会してしまった。登録していると色々な企業からオファーが送られて来て、かつてはそれを見るのも楽しく、筆者を必要としている多くの場所がこの地上にはあるように思われて、悪くない気がしていたものだ。だが、そのようなオファーは、大抵、以上に挙げた獣医の誤診と同じように、全く筆者の望みとは関係ない方向へと筆者を誘導し、無駄な時間を費やさせるだけで、結局、人生で何の助けにもならないのである。

キリスト者は、自分自身の人生の主導権を決して他人には預けず、何もかも、自分の意志によって決断し、決定して行かなければならない。それこそが、統治するということの意味なのである。キリストは、人間的には無力で無知に思われる我々の存在を通して、ご自身の完全な統治を現したいと願っておられるのであり、また、我々の人生をも、我々と共に、統べ治めて下さる。だが、その統治が実現するためには、まず他者からの無用な助言や忠告によって、知らぬ間に自己決定権を奪われるようなきっかけを作らないことである。いたずらに人に頼らず、主導権を明け渡さないことである。そのようなことが起きうる心のきっかけを、とことん排除して行かねばならないのである。

それはちょうど冬が来ると、ロシア人が家のあらゆる隙間を目張りして埋めてしまうのに似ているかも知れない。ロシア人は隙間風を嫌う。冬の冷たい隙間風は人の健康を思いもしない形で損ない、万病のもとになると考えられているため、彼らは本格的な冬が到来する前に、家の窓や扉の隙間を完全に塞いで、外からの風が家の中に全く入りこまないようにしてしまうのである。

それと同じように、筆者は霊的隙間風が筆者の信仰生活に入って来ないように、侵入口を徹底的にふさいだ。その結果、筆者の霊の家には出口がなくなってしまった、ただ一つの方向を除いては。信者は言う、「たとえ信者にとって四方は塞がっていても、天に通じる扉はいつでも開いているのですよ」

そうなのだ。上にあるものを求めなさい、地上のものに心を惹かれてはならない、と、聖書にある通り、我々信仰者の扉は、地上の人々に向かってではなく、ただ天に向かって開いている。我々の心の扉は、天におられるまことの神に向かって開いてさえいればそれで良い。専門家だとか、助言者だとか、教師だとか名乗ってやって来る人々に心を預けても、ほとんどの場合、願っている解決は来ないどころか、とんでもない結末が待ち受けているだけである。

我らのただ一人の助言者、救い主に、常に相談できる特権が与えられていることは大いなる幸いである。この方から、我々は必要な解決のすべてをいただくことができる。たとえ時に、神から来る解決が、遅いように思われ、かなり長い間、待たなければならないことがあったとしても、神はすべてに間に合い、すべてに十分に行き届く方である。

神には遅いということはないし、手遅れということもない。悪魔の囁きに負けて、人間的な不安を煽られて、取り返しのつかない性急な判断をしないことである。ただこの方に信頼し、この方にすべてを打ち明け、力となり、解決となっていただき、健やかに生きるのが、人にとっては最も安全な策である。
 


遅くなっても待っておれ、それは必ずやって来る(1)

クリスチャンの間でよく語られている逸話に、信者が不信仰によって受け取らなかった天からの贈り物の幻というエピソードがある。

正確には記憶していないが、筆者が覚えているかぎり、こんな内容だったように思う。

ある信者が、幻の中で天国に連れられて行き、天使に天国の中を案内された。ある部屋の前で、信者はとても興味を惹かれ、立ち止まった。この部屋の中をぜひとも見てみたいので、扉を開けて欲しいと信者は天使に願う。だが、天使はその部屋は見ない方が良いと信者に言った。理由を尋ねると、天使はこう答える、「その部屋の中には、あなたが生前、神から贈られながらも、不信仰ゆえに受け取ろうとしなかったために、天に送り返されて来たプレゼントの山がしまってあるのです。」

信者は見ない方がいいと言われても納得できず、天使にどうにか懇願してその部屋を開けてもらってみた。実際に、その部屋には素敵なプレゼントの数々が天井に届くほどうずたかく積まれており、すべての贈り物に、その信者宛てのお祝いのカードまでついていた。どれもこれも、信者が確かに、こんなものがあれば、と生前、神に願って祈っていたものばかりであった。信者は愕然として、こんなにも多くの祝福を、神は自分宛てに送って下さっていたのに、自分は受け取りそこなっていたのかと、いたくがっかりしながら幻から目覚めるというような筋書きであった。

筆者はこの意地悪な作り話の内容をほとんど信じていない。

ある意味では、これは身につまされるような話である。実際に、筆者は不器用ゆえに天からの贈り物を受け取りそこなったことが幾度もある。明らかに、筆者自身が主に一生懸命にこいねがい、その願いに応えて、神が用意して下さったと分かっているものさえ、受け取りそこなったことが幾度もあるのだ。

人は本当に心から願っていたものが目の前に現れるとき、妙な緊張感を覚えるものだ。また、あまりにもタイミングよく物事が進むとき、怖れに駆られ、目の前にある祝福を受けとるのに、奇妙なためらいを覚えることがある。

そんなこんなで、せっかく祈り、またその祈りが応えられたにも関わらず、結局、筆者が怖れに駆られて受け取りそこなったものはたくさんあるのだ。だから、上記のようなエピソードは、まさに筆者にはよく当てはまっているように感じられる。

にも関わらず、筆者は以上のような話をまことだとは信じていないのである。

どうしてかというと、天からの贈り物にも、まず保管期限や不在通知なるものはあって、一度や二度、信者が不信仰によって受け取りそこなったからといって、それで終わりにならないからだ。

宅配便や、郵便と同じように、天から送られて来た荷物も、地上での一定の保管期間がある。それが過ぎると、天に送り返されてしまう。そこまでは確かなことだ。たとえば、祈りが応えられて、自分が受け取れるはずだったものも、長い間、怖れ、ためらっていると、自分の前を素通りして行き、他の人が代わりにそれを受け取り、他の人が祝福にあずかるのを見せられることもある。そうして祝福がもはや他人のものになってから、どっと後悔が押し寄せて来て、どうしてあの時、チャンスが与えられていたのに、もっと勇気を出してそれを受取ろうと行動しなかったのか、行動してさえいれば、それは今頃は自分のものになっていたはずなのにと、嘆いたりする。

だが、信者の人生に、本当はそんな後悔は必要ないのだと筆者は確信している。仮に保管期限を過ぎて、贈り物が天に返されたからと言って、一度や二度、祝福を受け取りそこなうと、天からの祝福は、それで終わりになってしまようなものなのかと言うと、そんなことは決してないからだ。

何よりも、私たちの神は、信者の目の前にたくさんのニンジンをぶら下げて、一番、早く大胆にニンジンに飛びついた者が、天の祝福にあずかるのです、などとおっしゃって、多くの信者たちを競争させるような意地悪な方ではない。早くニンジンに積極的に飛びつきさえすれば、天の祝福により多くあずかれると考えるのは、地上的な愚かな考えであり、錯覚である。

天からの贈り物は、一度、天に送り返されても、その後、何度も、何度も、形を変えて送られて来る。そして、後になれば、食べ物が腐ったりするように、中身が悪くなるのかと言えば、そういうことも全くない。むしろ、後になるほど良いものが送られて来るほどである。

人間の心は、体と同じように、絶えず変化するものであって、信者が神に願い出るものもの内容も、絶えず変化する。天からの贈り物は、常に過去ではなく、現在を起点として、信者が今、神に何を願うのか、それを基準に送られて来る。過去に何があったかなど、全く問題ではないのだ。

たとえば、一年前に買った服は、どんなに気に入っていても、今はもう着られないかも知れない。たとえ着ても、自分には似合わなくなっている可能性がある。人はそれを見て、「あなたが太ったのが悪い。前はもっとスリムだったから、その服がよく似合っていた。あなたはもっと痩せるべきだ」と言うかも知れない。あるいは、「あなたが老けたのが悪い。もっと前は若々しく見えたから、その服がよく似合っていた。あなたは十年ほど若返るべきだ」と言うかも知れない。

だが、よく考えてみれば分かることであるが、そんな考えの何と非現実的なことか。人間は今の自分に合う服を探すべきなのであって、過去に遡って、過去に買った服に現在の自分を合わせるなどナンセンスである。そもそも、服が人間に合わせて作られるべきなのであって、人間が服に自分を合わせるなど馬鹿げている。

だから、それと全く同じように、もし仮に信者が過去に受け取りそこなった天からの祝福なるものがあったとしても、それはその時を逸してしまった以上、今はもうたとえ送られて来ても、役に立たないものばかりである。今、信者が必要としているものは、過去とは違っているはずである。それなのに、過去に受け取りそこなったものを数え上げては、自分の不信仰を責めるなどという無意味な悪循環に陥るよりは、今、自分に何が必要なのかを、率直に天の父に申し上げた方がどれほど生産的か。

にも関わらず、大事にしていた服が着られなくなった時に、人が惨めさや失望を味わい、自分がすっかり変わってしまったことに自責の念すら覚えることがあるように、信仰においても、以上のようなナンセンスな考え方を、信者は自分の信仰生活に適用しがちである。すなわち、過去のことを振り返って、自分の不信仰を責め、あの時、ここで間違ったから、このような惨めな結果に至ったのだ、とか、あの時、ああしていれば、こうはならなかった・・・などとくよくよ考え、まるで自分の行動次第で、現在とは違う、バラ色の可能性が開けていたかのように想像をめぐらして、自分を責める思いがこみ上げて来ることがあるのだ。

あたかも、自分が受け取らなかった恵みの山がストックされた部屋がどこかにあって、意地の悪い天使が、死後、あなたにそれを見せて、あなたにはもっと恵まれた生活の可能性があり得たのですよ、でも、もう今となっては遅いですね、と囁いているかのように。

だが、そんな思いには、きっぱりとさよならを告げて、地獄へお帰りいただかなくてはいけない。その思いは、御霊から来たものではない。実際には、そんな部屋はどこにも存在しないのだ。天からの恵みは、あなたを満たすために送られて来るものであって、受取人であるあなたに恥をかかせるために送られて来たものではない。

神はあなたをあらゆる祝福で満たし、慰め、喜ばせたいのであって、それによって、ご自分も栄光を受けたいと願っておられるのである。神があなたにプレゼントを贈るのは、あなたの不信仰を責めるためではなく、あなたがそれを受け取りそこなって絶えず失意に落ち込むためではなく、あなたが神の気前の良さ、神のあなたへの愛の深さ、あなたへの思いやりの深さを、生きて知るためなのである。

だから、もしあなたが神の恵みを受けとることに不器用であったとしても、自分が願った祈りが本当に叶えられるのか、不信仰なときがあったとしても、神は何度も、何度も、あなたが神はどういうお方なのかを知るまで、あきらめることなく、プレゼントの山を送り続けられる。筆者はそのことを保証できる。

そういう意味では、神は、愛した女性にあきらめずにプロポーズを続ける求婚者のような方であって、一度や二度、いや、百度、二百度、すれ違いが続いたとしても、神の側からは、そんなことは何の障害にもならず、あなたが神の方に注意を向けて、神への忠実と愛を失わないでいる限りにおいて、必ず、また恵みの山を何度でもあなたのもとへ送られるのである。しかも、それは一年前のあなたの願いに応えられるのではなく、現在のあなたの心の願いに基づいて、神が実行されることなのである。

求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさい、そうすれば見つかります。叩きなさい、そうすれば開かれます。というのは、そういうことである。

ここには、「いついつまで」という期限は存在しない。どんな風に懇願したか、という態度にも条件はない。具体的にどういうものならば、求めても良いのか、リクエストの内容にも、条件はない。ただ求めなさい、と言われているだけである。

地上における人の人生には限りがあるので、人間は、自分の努力が足りなくて、何かが手遅れになり、もう間に合わなくなるのではないかという怖れを常に抱えている。常に、急がなければならない、もっと大胆に、積極的にならなければならない、そうでなければ、せっかくのチャンスを逸してしまう、という恐怖が心に存在する。だが、神の側からは、人間の有限性など、全く問題にならないのである。

神はあなたの時を知っておられ、あなたの心を知っておられ、あなたの限界を知っておられ、あなたがこの地上では一瞬で消えて行くようなはかない存在であることを知っておられる。どんなにあなたが頑張って、完璧に振る舞おうとしても、あなたにできることなどもともと限られている。それにも関わらず、神は大いなる祝福であなたを満たしたい、と言われるのである。それはあなたが努力によって達成する課題ではなく、神の側からの願いなのである。

神がアブラハムに向かって、彼の子孫が空の星のように、海の砂のように多くなると言われた時、アブラハムにはまだ一人の息子もなかった。あなたは、周りを見回して、自分には何もない、と言うかも知れない。もし本当に神が自分を祝福されたならば、豊かな命で満たして下さったならば、この何もない状況は、何が原因なのか、神が間違っているのでなければ、多分、自分の不信仰のせいで生じたのに違いない、と思うかも知れない。そして、何も結果らしい結果が出ていないことで、自分を責めたり、不信仰ゆえに受け取りそこなった宝の山がどこかに隠されているに違いない、などという無駄な想像までもめぐらすかも知れない。

だが、そうではないのだ。神の祝福は、一見、届くのが遅いように見える、このことをよく覚えておくことも有益である。むろん、早い時もあるのだが、それはあなたが願ってから、あなたの手元に届くまでに、時差があるのが普通だ。随分、長いこと待たされることもあり、一年以上の月日が過ぎ、あなたは自分の願いをもう忘れ、あきらめかかっていることもある。だが、それは必ず、届くのだ。

だから、一体、何のせいで恵みが手元に届くのが遅れているのか、それが人間の側の不信仰によるのか、不器用さのためなのか、それとも別の原因によるのか、などといったことは探らないが良い。それよりも、あくまで神に求め続けることが肝心である。

求めることに、遅すぎるということはない。信者が何かを神に求めることに、期限はつけられていない。何かを願い出るならば、いついつまでに神に予約しなければ、手遅れになる、などとも、聖書に書かれていない。つまり、信者は生きている限り、どんなことでも、神に求め続ければ良いのである。もし期限を考慮されるとしたら、それは神の側で考慮される。神があなたの状況をご覧になって、いつまでに何を送れば良いのかをきちんと考慮される。神はすべてにおいて、必要なタイミングを知っておられ、万事を良きにはからうことがおできになるので、そこに全幅の信頼を置くべきである。だから、遅すぎるかどうか、といったことは、あなたが心配すべきことではないのだ。

信仰においては、遅すぎるということはない。神はすべてに間に合う方である。神にあっては、手遅れであるとか、遅すぎるとか、不可能であるということは、存在しないのである。神ご自身が完全な救いであり、解決だからである。

<つづく>


御言葉を実際とする――バビロン化した教界を出てキリストの復活の領域を生きる

不思議なことに、このブログには未だ悪意でない反響がある。このブログは購読者数を稼ぐことを目的としておらず、信徒にありがたいメッセージを配信することを目的ともしていない。しかも、さわやか読者を一掃したので、閲覧できる読者数も限られている。

不親切と言えば不親切、ブログ再開をした後も、読者などいなくても構わないというスタンスでやって来た。(相手は血肉ではない。)にも関わらず、どのようにしてかこのブログを読んでいる読者が今も存在しており、良心的な忠告を届けて来る。その中には、沖縄から寄せられる悲痛な声もあった。

私がカルト被害者なる人々の主張にも、それを支援する人々の活動にも共感を見いだしていないことはご存知の通りであるが、それでも、沖縄の教会の問題にだけは、立ち止まらないことはできない。沖縄の教会の惨状がどれほどのものであるかを語った人がいたが、同情からでなく、私はこれがおそらく日本の全クリスチャンの間で核となる問題ではないかと考えている。それは日本の政治状況と同じである。

クリスチャンの間で起きていることは、世の中で起きることの予表であると私は考えている。だから、クリスチャンの中の最も忘れられた小さき者たちの間で起きていることは、キリスト教界全体の行く末と無関係ではないのだ。

これからの我が国の行く末には、沖縄問題が多分、大きく関係して来るだろうという気がしてならない。沖縄の自立という問題が、日本全体の自立という問題を象徴しており、大きく左右するほどの意味を持っている。いわば、沖縄は国全体の縮図である。

霊的な状況はこの世の情勢に先行する。だから、実のところ、カルト被害者なる人々、教会につまずいた信徒らが、この先、また新たな指導者の食い物にされて終わるのか、それとも、本当に神ご自身だけを頼りとして自立して立ち上がることができるかどうか、ここに私は実に多くのことがかかっているような気がしてならない。

外面的な自立のためには、まず内面的(霊的)自立が先立たなければならない。そして神はどんなきっかけをとらえてであれ、真にご自分に立ち帰る羊を求めておられるのだと確信している。

一般的には、沖縄にいるカルト被害者はAG教団のカルト被害者救済活動の傘下におさめられており、この活動を批判することが許されない状況にあると聞く。つまり、政治と同じく、霊的にも自立が許されない状況にあるのだ。

その噂はきっと嘘ではないだろう。何しろ、「本土」にいる私でさえこのありさまだ。京都からはこれほど遠く離れているのに、カルト被害者救済活動を批判すればこれほど悪意のアクセスが集中するのだから、沖縄ではどのような状態になっているか想像に余りある。

実のところ、すでに公開しているように、この年明けから、これまでの圧迫を超えるほどに集中的な圧迫が来たので、私は、私を排斥しようとする暗闇の勢力の尋常ならぬ決意があることを感じずにいられなかった。つまり、暗闇の勢力は本気でこのブログを閉鎖に追い込み、私の口を封じ、そして、できることならば、私からすべてを奪い去って、この地から遠く追いやり、私が本気でまことの神を求めてキリスト教界を離脱した事実など全くなかったかのように、その痕跡を消し去ろうとしているのだという気配を感じたのである。

これに対して、私はいつものように主に問うた。もし御心でないなら、私自身は別にここにとどまらなくて良いのです。多くの人たちが勝手に誤解しているように、私はルーク氏やKFCに連なることが目的でここへ来たわけではなかった。むしろ、関東へ来て2日目には、「KFCはバビロンだから行ってはいけない」と、ルーク氏を長年よく知る人から忠告を受け、近寄るのをやめたほどである。人の言葉だけを頼りとしたわけではなく、そう考えるだけの根拠があった。だから、未練を持つべきものは初めからない。

だが、私はもっと大きなもの――見えないエクレシア――を追求していたのである。今まだそれが見えず、もしこの探求をやめなさいと神が言われるならば、それはそれで構わない。

だが、答えは否であった。私はこの道から退却することが許されず、神はすべてをなかったことにされたいとは思っておられないようであった。主がすべてを整えて下さったので、退却は不可能にされた。というよりも、いつも法則は同じなのだが、枯れた骨以外には何もないように見える死の状況――そこにこそ、すべての始まりがあり、復活の命の現れの余地が大いにあり、ここから信仰によってすべてが始まることに、主の権益が確かにかかっていることを思わされた。

そう、鍵は、あの人、この人ではなく、私自身の中にあるのだ。もっと正確に言えば、私の内に住んでおられる栄光の望みである方、キリストの中に。そして、私が主と共なる十字架の死に同形化することにより、復活の命が流れ出て来るのである。

それは静かな、人に知られない、時に痛みや孤独を伴う状況下での、信仰による確かな命の現れである。神の国から流れる生ける水の川々は、今はまだかなり水量が少ないとはいえ、確かに流れ出ているのである。

さて、キリストと共に統治するというテーマで今までいくつも記事を書いて来た。

すでに述べたように、もしこの期間、私が多くのクリスチャンと共に手を携えて歩いていたなら、一体、誰の祈りを神が聞いて下さったのか、誰の信仰のゆえに恵みがもたらされたのか、全く分からなかったであろう。しかし、隠れたところで一人で神に向かったゆえに、私自身の祈りが聞き届けられ、まさに私自身が、主と二人三脚ですべてのものを信仰によって天から地に引き下ろし、この世の状況をさえ主と共に治めて来たのだと分かって来たのである。

このことは、私という一人の信仰者がどれほど大きなものを担っているかに気づくきっかけとなった。人は弱くはかない存在に過ぎないにも関わらず、神は人を共同統治者に定めておられるのである。その共同統治者としての責任を果たすことこそ、御国の働き人となることなのである。そして、私たちが弱さや意気阻喪から立ち上がって、キリストの復活の命のリアリティを全宇宙に見せつける時、そこに高らかに神の勝利の凱旋の歌が鳴り響き、主と共に私たちも喜ぶのである。

私達は
敢えて時空内に留まり 時空の中で勝ち誇って 
復活の中の永遠のリアリティを「彼」に見せつける、
と言う「宇宙最高の」役割を楽しむためにこそ
今ここで生きているのです。

さて、話は飛んで、ウォッチマン・ニーについて述べておきたいと思う。

ウォッチマン・ニーについて語るにあたって、異端の理論はいくつもあるが、その理論の中でも、ローカルチャーチは最高峰であり、これを超える深さのものはなかなか見つからないのではないかと私は想像している。というのも、これまで様々な著作を読んだが、ウォッチマン・ニー以上に、霊的に深い事実を述べているものに出会ったことがないからだ。

おそらく、察するに、ウォッチマン・ニー自身は本当に主に向かって霊的な啓示を受けたのであろう。しかし、その結果、書かれたものを暗闇の勢力が大いに利用している。ここに大きな危険性がある。

私が人生で初めて霊・魂・肉体の区別があることを知り、神は霊を通じて人と交流をはかり、御霊によって信者の霊のうちに啓示を与え、御言葉を直接、理解させて下さるということを知るきっかけとして、ローカルチャーチを出て来た兄弟たちの助力があった。

決してウォッチマン・ニーの著作を読んでそれに気づいたわけではなく、すでに書いたように、交わりの中で、御言葉が実際となっていったのだが、そこにはローカルチャーチ出身の兄弟が関係していた。正直に言って、ペンテコステ系の信者たちの間では、これは決して学ぶことのできない事柄であったと思う。神はこうしてローカルチャーチを出て来た人々を利用して、御言葉のより深い働きへと私を導いて下さり、御言葉のリアリティがあることを教えて下さったのである。

つまり、聖書の御言葉を朗読するだけならば、誰にでもできる。だが、何千万回、朗読したところで、その言葉は単なる死んだ文字であり、暗闇の勢力に対して何の衝撃力も持たないし、その圧迫からあなたを解き放つこともできない。御言葉が本当に人の人生において効力を発し、リアリティとして霊的衝撃力を持つためには、御言葉が信仰によって、その人の内側に作り込まれるという過程が必要なのである。

つまり、人が本当に代価を払って真剣に御言葉に向かうならば、御霊が働いて啓示によってその御言葉の意味をその人自身に分からせてくれる。その時、真理はその人にとって実際となる。こうして、御言葉が信仰者自身に入り込み、両者が一体とならないと、どんなに口先だけの題目として聖書の御言葉を繰り返したところで、それは何の衝撃力も持たないのである。

御言葉がリアリティになって初めて、キリストの復活の命の現れの中を信仰者は実際に生きるようになる。そのとき、聖書の御言葉は生きた言葉となり、暗闇の勢力に対して、すさまじい霊的衝撃力を伴う武器になる。そして、御言葉は実際にその暗闇の力から信者を解放し、信者のあらゆる必要を供給するのである。

このような実際に至ったときに初めて、信徒は自分が暗闇の勢力と対峙し、激しい戦いの中に置かれていることが分かるのである。

初代教会の信徒たちには、きっとこうしたことは、ごく当たり前だったはずである。だが、現代のクリスチャンには、その霊的啓示は失われてしまい、御言葉はほとんど死んだ文字としてしか受け取られなくなった。御言葉の向こうにあるリアリティが失われたのである。これを回復しようという働きが、ローカルチャーチの初期の働きだったものと解釈している。

だが、ローカルチャーチはその後すっかり変質して当初の目的から逸れてしまった。後世の指導者がウォッチマン・ニーの功績を私物化し、ウォッチマン・ニーは宗教団体の栄光を築き上げるための宣伝材料となった。ローカルチャーチのみならず、すでに述べたゴットホルク・ベック氏の集会も、KFCも、同じように、ウォッチマン・ニーを巧みに宣伝材料として利用している。それはもはや当初の探求からは逸れたところで行われていることである。

だが、ここで疑問が生じる。それは、ウォッチマン・ニーを自己の団体の名声と拡大のために利用している人々はさて置いたとして、ウォッチマン・ニーその人には全く問題がなかったのだろうか?という疑問だ。彼は正しく、ただ単に後世の人々によって歪められたり、悪用されているだけなのであろうか?

結論から言えば、私にはそれは分からない。たとえば、ウォッチマン・ニーが兄弟たちの忠告に逆らって、共産党政権下の中国に帰国したことは、彼の働きと命を奪う結果になったが、それが正しい決断だったのか否か、という問題には、私は答えることはできない。なぜなら、それは神以外には誰も知ることのできない信仰の事柄であり、後世の人が外から見て判断することができないからだ。(返答を避けるために言うのではない。)

しかし、ウォッチマン・ニーの生き様の是非の判断を脇に置くとしても、彼の悲劇の人生が、すでに記事で述べたリンデの死と同じように、人々の関心を引く美談として、お涙頂戴の物語として、盛んに宗教団体の宣伝材料とされていることは確かであり、これは非常にいかがわしい事実である。

それはウォッチマン・ニーの著作が宗教団体の宣伝材料とされているのと全く同じである。ウォッチマン・ニーの生涯もまた宣伝材料として利用されているのだと言える。

もっと進んで言えば、ウォッチマン・ニーその人が偶像化されているのだと言える。キリストの十字架における贖い以上に、人の犠牲が誉めたたえられるきっかけにされている。

ある兄弟は、ニーの最期を語る時には涙せずにいられなくなり、「私も兄弟のようになりたい」と告白するのだったが、それを聞きながら、私は心の中で疑問を感じずにいられなかった、「もしならうなら、キリストにならうべきであって、ウォッチマン・ニーではないでしょう」と。

また、すでに書いたことであるが、ウォッチマン・ニーを模範のように考えている人たちが、では自分も本当にニーと同じような苦難を辿り、孤独や悲しみに耐え、兄弟たちの離反や、誤解や、孤立や、迫害を潜り抜けて戦い抜いて行く覚悟を固めているのかと言うと、むしろ、逆のタイプが多いことにも驚かされた。

つまり、彼らは一見、ウォッチマン・ニーを模範としているように口では言いながらも、彼の人生の不都合な部分は決して負いたくないと逃げるのだった。つまり、苦しみはウォッチマン・ニー一人に背負っていただき、その功績だけはちゃっかり自分がいただきたいというタイプの人々が極めて多いのである。

しかし、彼らはその自己矛盾に気づいておらず、このような二重性が極めて深刻な精神的乖離状態であるということを自覚できないのだった。

もしかすると、ウォッチマン・ニーの人生そのものが、そういう誘惑を人に抱かせる源となっているのかも知れなかった。このように、意識的にか無意識的にか知らないが、ウッチマン・ニーは多くの信仰者の心の中で、彼らの信仰生活を美しく彩る飾りもののように、信者自身の生活からはかけ離れたところで、大いに利用されているのであった。

しかし、たとえ飾り物に過ぎないにせよ、(特に問題の多い福音書房刊行の)ウォッチマン・ニーの著作はそれなりの影響力を信徒に及ぼしていた。

福音書房から出ているウォッチマン・ニーの全集には、すでに述べた通り、その内容のほとんどが同時代人や後世の人々によって書き起こされたものであり、どこまでがウォッチマン・ニーの言説か分からないという問題がある。その上、後世に人々の思惑によって異端的言説が付け加えられ、改ざんされている可能性があるので、注意が必要である。

たとえば、福音書房刊行のウォッチマン・ニーの全集におさめられているものの中で、明らかに聖書に反する教えであることが明確なものに、『権威と服従』がある。これは、年長の兄弟の命じることには無条件に従うようにと信徒に教えるものであるが、そのような教えは軍隊の規律を思わせるものであり、聖書に根拠がない。(そもそも聖書は神以外の人間の言うことに無条件に従うようにとは一切教えていない。)このような教えを忠実に実行すると、教会内で年功序列を絶対化することにつながる。

『権威と服従』では、あたかもウォッチマン・ニーがそのような学習をしたかのように書かれているが、この教えは間違いなく聖書に反するものである。もし本当にこれが後世に書き加えられたものでなく、ニー自身の見解だったのだとすれば、それはかなり重大な疑惑となりうる。

しかし、このような年功序列を絶対化するような教えを忠実に守った結果、ベック氏の集会ではすでに述べたような未成年者の労働や、児童虐待の恐れといったような問題が発生しているのである。

また、KFCを思い出す時、そこに集まっていた信徒らの多くが、ベック集会のように、何かしらの家庭的問題を抱えていたことを思い出す。特に、我が子と断絶していたり、危機的状況にあるはずの自分の家庭生活をさし置いて、礼拝に邁進している様子は、それが現実逃避であるとの印象を私に強く抱かせたし、若者や寄る辺ない者たちを踏みにじってでも、大人たちの面子を貫き通そうとした彼らの行動は、ベック集会と同様の危惧を抱かせるものであった。

さらに、もっと深刻な問題があった。それはベック集会とKFCには自他の著作物の区別がついていないという共通の問題点があったことである。

たとえば、当時、ルーク氏のメッセージには、彼の知人や関係者がブログ等に書いた内容が巧みに盛り込まれ、ちりばめられていた(それは私自身が当時、ブログを書いていたのでよく分かる)。当時、ルーク氏は特に台本なしに記憶の中から自在に他人の書いた内容を取り出して、メッセージに組み立てることが出来た。だが、そのメッセージは寄せ集めであり、彼自身が自ら痛みや代価を払って得た教訓ではなかった。ただ彼は巧みなメッセンジャーだったので、借り物であるという不自然さを感じさせないように話すことが出来ただけである。

それは彼がブログに発表していたウォッチマン・ニーの「荒野に宴をもうけ」にしても同じである。そもそも、言葉はそれを述べた人と分かちがたい関係にあり、自分自身が代償を支払っていない他人の言葉をどんなに数多く引用しても、それは決して我が物とはならないし、何の効果も伴わない。それは美しい飾りもの以上にはならない。
 
さらにルーク氏には、私のメールを無断で坂井氏の裁判に提出したという疑惑が存在している。私はそんな事実があったのかどうか知らないが、これまでのすべてのいきさつから察するに、それは事実だろうと推測される。

何度も断っているように、ルーク氏は一度も私のカウンセラーだったことはなく、私が彼に精神的な世話を受けていた事実も存在しない。むしろ、どちらかと言えば、事実は逆だったのだと言えなくもない。ネット上の問題も含め、様々な問題に自力で一人で立ち向かうことのできなかったルーク氏が、自分に解決できない厄介な問題を目下の信徒に持ちかけ、片づけさせて来たのである。

だから、ルーク氏が私に対してカウンセラーとして守秘義務を負っていた事実はない。だが、だからと言って、他人のメールを断りなしに裁判に提出するというのはやはり常軌を逸した行動であり、さらにそれに輪をかけて常軌を逸しているのは、それがルーク氏がAG信徒に騙されて彼らと一緒になって私をKFCから追放したその後に行われたという点である。

自ら異端者として集会から追放した信徒のメールを、一体、何の証拠にできると考えたのだろうか?

しかしながら、こういった話を聞いても全く驚かないのは、私がこれまでウォッチマン・ニーに影響を受けた団体にいる信徒らと接触した結果、彼らは一様に自他の区別がつかず、特に著作権という概念がまるで失われているということを痛感して来たからである。

たとえば、ベック集会の人々は聖書の無断印刷を行なって訴訟にまで発展したが、彼らは、主の再臨が近いので、聖書を無断印刷する行為は罪に当たらず、人々の救いを願う善意から出たものであり、許される範囲だと考えていた。それだけでなく、この集会の人々は、どんな印刷物であれ、良さそうなものがあれば、いくらでもコピーして内輪で共有してしまう。

そういう特徴はローカルチャーチ出身の兄弟にも見られた。たとえば、感動的な信仰の証を書き送ると、たちまちそれが勝手に転送されて、他の人々と共有されてしまうという具合である。その結果、知りもしない信徒から、「感動しました」、「素晴らしい証ですね」、「ぜひ会ってお話したい」などといった反響があったと知らされ、すっかり当惑してしまうのである。

こうしたことの結果、私は、ウォッチマン・ニーの著作に影響を受けた人々の中には、どうにも、他人の良さそうな文章や、何らかのアイテムを見つけると、著作権などには全くお構いなしに、衝動的にそれをコピーして、まるで自分の手柄のように多くの人々にひけらかし共有したいという抑えがたい欲望が起きるのだと理解しないわけにいかなかった。

どんなにそれが問題だと説得しても、彼らはそれをやめられないのである。他者の著作物と自分の著作物の区別が失われているのである。それと同じように、彼らはウォッチマン・ニーの悲劇の人生と自分の人生は違うのだということが分からない。自分は代価を払っていないのに、ウォッチマン・ニーと自分を同一視したり、彼の人生や著作を我が物のように利用することのまずさが分からない。同じ考えに立って、彼らは兄弟姉妹の証を利用して自分の手柄とすることに何のためらないもない。自他の境界が失われ、人の証と自分の証の区別がつかないのである。
 
ひょっとすると、これも共産主義の変種なのかも知れなかった。この人たちは私には理解できない自他の区別の存在しない共有社会を生きているのだと私は思わずにいられない。私もウォッチマン・ニーの著作を読みはしたものの、だからと言って、このような考えや行動は私には全く容認できないものである。

このようなことが起きて来る背景として、福音書房刊行のウォッチマン・ニー全集の多くの部分は先人たちのメッセージの寄せ集めで成り立っていることが挙げられる。この全集はどこまでがニーの言説か分からないという問題を抱えている。極言するならば、福音書房の刊行しているウォッチマン・ニー全集なるものは、ウォッチマン・ニーの著作と銘打っていながらも、実質的には先人たちのメッセージのパクリで成り立っていると言えないこともない。もっと進んで言うならば、これはニーが書いたものでない以上、同時代人や後世の人々が都合よく彼のメッセージを利用して作り上げたものだと結論づけることもできよう。

だからこそ、それに影響を受けた信徒らも、他人の著作物を我が物のように扱って利用し、他人の功績を横取りして栄光を受けることにためらいがなくなるのかも知れない。

ウォッチマン・ニーについては、『キリスト者の標準』など、福音書房から出たのではない出版物も存在しており、その内容について、私は疑問に思うことはない。オースチン・スパークスも、生前ウォッチマン・ニーと会って、兄弟として一定の評価を下している。ウォッチマン・ニーの人生にはスキャンダルが存在せず、出来すぎているほどに立派である。あえて疑うことができるとすれば、この出来すぎているという点くらいであろう。

しかし、繰り返すが、ウォッチマン・ニーの悲劇の人生や神のため同胞のための自己犠牲が、キリストの贖いそのものよりも、人々の心を引きつけているとすれば、彼が偶像となっていると言えるのであり、その点こそ、最大の問題であろう。そして、そのような心理的な効果があることをよく知っていて、宗教団体は彼を広告塔として利用しているのである。

最後にもう一度、今はこうした疑わしいすべての点を差し置いて、逆説的に、今やすっかり変質してしまったローカルチャーチに温存されている教えの中に、回復された真理の片鱗のようなものが存在していて、それがローカルチャーチを出た兄弟たちによって、私に届けられたのだということを言っておきたい。

だからこそ、慎重さが必要であり、一概にすべてを退けることができないのである。その真理は、様々な疑わしいおがくずの中に埋もれて、無価値なものと混合しているかも知れないが、確かにその中に、退けることのできない非常に重要な事実も含まれていたのだと考えられる。おそらく、これらを切り分ける必要があるのだと思うが、その困難を極める作業について今ここで言及するつもりはない。

こうしたことをさて置き、繰り返したい結論は、信者が御言葉を信仰によって実際のものとして受け取り、信者自身が御言葉の霊的リアリティの中に入り込み、信者が御言葉と一体化して、真に衝撃力を伴う武器として、暗闇の世界に対して御言葉を行使する必要があることは、今日も変わらない事実だということである。

だが、この事実の認識が、キリスト教界からは欠落している。そしてそれが逆説的に聖書から逸脱した異端団体を離脱した人々を通してもたらされたのである。
 
今、私は御言葉の探求をウォッチマン・ニーの著作を通して続行しようとは思っていない。基本的にどんな指導者のメッセージも単なる参考材料以上ではなく、人の述べたすべての言葉は聖書に照らし合わせて吟味せずに受け取るべきものではない。

御言葉の意味を教えて下さるのは、人ではなく、御霊であり、神ご自身である。少しばかり時間はかかるかも知れないが、もし信者が心から御言葉の意味を真に知りたいと願い、それを神の御前で求め続けるならば、神は必ず応えて下さり、その意味を教えて下さり、それを信者の人生において実際として下さるだろう。

あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そすうれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけだし、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)