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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

死よ、おまえのとげはどこにあるのか!!

「平 和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの 霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(Ⅱテサロニケ 5:23-24)

キリストの命は私たちの霊、魂のためだけでなく、私たちの身体のためでもあります。神は私たちの霊と魂だけが聖くされるだけでは決して満足されません。も ちろん、肉体の完全な贖いは、来臨の時を待たねばなりませんが、地上に生きている間にも、私たちは主イエス・キリストの贖いが私たちの霊、魂、肉体のすべ てに及ぶものであることを知ることができます。繰り返しますが、主イエスの贖いは私たちの肉体のためでもあります。そのことを知って、私たちは思いと、肉 体を攻撃するあらゆる病、弱さ、圧迫、死を拒絶し、信仰によってこの身体を健全なものとして守り通すべきです。

良きサマリヤ人のたとえを私たちは知っています。道に行き倒れていた旅人の姿は私たち自身です。そして隣人とは主イエスです。ある兄弟が語ってくれた通り、律法に照合するなら、民数記19:11-12に記されている、死人に触れた時の3日目の清めは十字架の型です。私たちはかつては真理を知らず、無分別で、情欲と快楽の奴隷となり、悪意と妬みで日々を過ごすだけの生まれながらに神の怒りの子であり、罪によって神に対して死んでいました。

しかし、主イエスは死んでいた私たちのそばを通りかかり、私たちの苦しみを見過ごしになさらず、私たちを抱き上げて乗り物に乗せて、宿へ連れて行ってくださり、その治療にかかる全ての代金を支払ってくださいました。

これは、主イエスの十字架を信じて、私たちが罪と肉とこの世に対して死に、死から命へと移され、神に対して生きる者とされたことを意味します。しかし、聖 霊の証印を受けて、私たちの知ったこの3日目の贖いは手付金に過ぎません。私たちの治療には本当は「もっと費用がかか」るのです。それは私たちの贖いには まだ続きがあることを意味します。

何ということでしょう、主イエスはこう言われるのです、「もっと費用がかかったら、私が帰りに支払います」(ルカ10:35)と。これは、主イエスが再び戻って来られることと、その時に私たちの完全な贖いをなして下さることを告げています。その時に私たちは7日目の清めを受け、この肉体においても全く聖くされ、復活の身体を受けて、主の栄光の似姿へと変えられるのです。

今、私たちは3日目から7日目の間にいます。7日目は近づいています! この喜びをどうして霊の内に感じずにいられるでしょう? 冒頭に挙げた御言葉はこの観点に立って、私たちが来臨に備えるように呼びかけています、私たちが、霊、魂、肉体のすべてにおいて、来臨の日に「責められるところのないように」、完全に守られるように神に願いなさいと教えているのです。

私たちはこの文脈についてよく考えてみなければなりません。なぜならこの御言葉は、もしも私たちが霊、魂、肉体のすべてにおいて神の完全な守りが備えられ ていることを信じず、その守りの中にとどまらないならば、不信仰のゆえに、来臨の時に責められる者となってしまうかも知れないと警告しているからです。今 回は、特に、私たちの身体が完全に守られることの必要について考えてみましょう。

これは私たちが苦難や病に遭ってはならないと言っているのではありません。ヨブがそうであったように、神は私たちを子として訓練されるために、時に私たち を病にあわせ、肉体を打たれ、苦難にあわせられることがあります。神は苦難を通して私たちの信仰を練られます。しかし、主は決していつまでも怒られ、いつ までも私たちを懲らされる方ではなく、私たちが御手の下にへりくだり、服従を学ぶなら、速やかに私たちにもとの繁栄を、いや、もとの二倍の繁栄をさえ返し て下さり、私たちを自由とし、健やかな者として下さいます。

私たちは忘れてはなりません、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ローマ8:6)  ですから、私たちは決して、自分から苦難を求めたり、まして、死を求めるべきではありません(否、私たちはすでに死んだ者であって、私たちの命はキリストとともに神のうちに隠されているのです)。ダビデが述べたように、私たちは時に「死の陰の谷」を歩くかも知れませんが、それでも私たちは「わざわいを恐れません」、なぜなら、「あなたが私とともにおられますから」(詩篇23:4)

私たちは決して、全ての苦難が神から来ると思うべきではありません。十字架という名目を装う、サタンからやって来るいわれのない圧迫、無用な苦しみ、病、 死は拒絶すべきです! 何が神の与える苦しみで、何が罪やサタンから来るいわれのない苦しみであるか、私たちははっきりと見分けなければなりません。そし て後者を拒絶し、追い返すべきです!

ダビデは言います、「あなたのむちと杖、それが私の慰めです。」(詩篇23:4) これは神から来る苦難が、私たちに結果として慰めを、いつくしみ、恵み、命をもたらすことを示しています。しかし、サタンの与える苦難は、人の霊、魂、肉体をいたずらに傷つけ、人生をただ荒廃させるだけなのです。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリント7:10)。 私たちは苦難には二種類あることを見なければなりません。もしも神の御心によって人が懲らされるなら、その時に生じる悲しみは、へりくだり、悔い改め、救 い、平和といった実を結びますが、サタンの与える無用な苦しみは、人を悔い改めや救いに導くことなく、かえって心頑なにし、ただ無益な苦痛を長引かせた上 で、ついには死へと追いやるのです。

私たちはサタンから来る苦しみを拒絶し、サタンによって人生が盗まれ、荒廃させられ、死へと追いやられることを拒絶すべきです! 私たちは死に立ち向か い、主イエスが与えて下さる命を選び取り、しかも、豊かに命を得るべきです。それが神の御心だからです。主イエスは言われました、「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10) 

主は地上におられた間、信仰によって応答した人々の病を癒され、死の恐怖のとらわれから解放し、自由を得させました。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」と言った病人に向かって、主は言われました、「わたしの心だ。きよくなれ。」(マタイ8:2-3)。このことは、私たちが、霊、魂、肉体の全てに渡って、聖められ、新しくされ、完全とされることが、神の御心であり、私たちの肉体も健やかであるようにと神が願っておられることをはっきりと示しています。

ですから、私たちは生きている限り、神のいつくしみと恵みとが、私たちを追ってくることを求めるべきです! 敵前で主が私たちのために食事を整え、私たち の頭に油を注いでくださることを求めるべきです! 悩みの日に、主が私たちの完全な守りの砦となって下さり、私たちを悪しき者の全ての圧迫から完全に守っ て下さることを信じるべきです! 私たちは無用な圧迫を全て退けるべきであり、苦難を日常的なものとして迎え入れてはなりません。たとえ束の間、主に懲ら されることがあっても、断じて、必要以上に苦難の中にとどまろうとしてはなりません!

注意して下さい、多くの異端の書物は、死後の世界の美しさについてまことしやかに語り、私たちの心を巧みに死へと誘います。病、貧困、死を甘く美化する多 くの書物があります。多くの人たちはそれに欺かれて、病や、死をまるで美しいもののように考えて憧れ、まだ主の定められた時が来ないのに、時期尚早な死を 遂げた人々を美化し、それが、神の御心であるかのように勘違いしています。そうしているうちに、自分も早々と召されることを願うようになり、地上で果たす べき召しを軽視するか、あるいは、あきらめてしまうのです。

しかし、私たちは苦しみや、病や、死を美化する誘惑的な教えを心に受け入れるべきではありません! 生きている今から、病や死と戯れたり、死と協定を結ん だりしてはなりません! 私たちはいわれのない病や、無意味な苦しみ、時期尚早な死を断固、拒否すべきです。そして、信仰によってキリストの命を選び取る べきです! なぜなら、御言葉ははっきりと、私たちが御霊によって生きるべきであること、いや、それが私たちに与えられた権利であることを告げているから です、「もしイエスを死人の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:11)

私たちの目の前には、いつでも、命の道と死の道が置かれています。何を信じ、何を選ぶのか、決めるのは私たち自身であり、私たちは自分で意志を活用して、 積極的に御言葉によって真理を選び取り、虚偽を心から退けねばなりません。私たちの肉体のうちには、常に罪と死の法則が働いており、もしも何も考えずに、 ただ肉に従って生きるなら、私たちは死ぬ他ないでしょう。しかし、キリスト・イエスにある命の御霊の法則は、私たちを罪と死の法則から解放したのであり、 この事実を信じ、選び取り、その事実のうちに堅くとどまり、御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8:13)

思い出しましょう、ラザロが死んだ時、主はマルタにこう言われました、わたしは、よみがえりです。いのちですわたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありませんこのことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)

マルタは信仰によってこのことを信じると告白したことにより、死んだ兄弟をよみがえらせてもらいました。使徒の時代にも、命の御霊の法則により、幾人かの死んだ者が復活にあずかったことを私たちは知っています。しかし、私たちはそこからさらに進んで、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありませんという衝撃的な御言葉の意味を考えてみたいと思います。これは携え上げのことを言っているのではないでしょうか。主はマルタに問うたように、今日、私たちに問うておられるのではないでしょうか、「このことを信じますか」と。

ですから、私たちは死を見ないで生きたまま主にお会いして、携え上げられるかも知れないという望みを持つべきです。いや、それを目指すべきです!

もう一度言いますが、私たちは時ならぬ死を来たらせるだけの世の悲しみや苦難を拒絶して、苦しみを美化したり、苦しみの中で感傷にふけるのをやめて、その ようなものを心から追い出し、命を選び取るべきです。時が来て、もしも主が私たちに殉教を求められるなら、それに従うことも素晴らしいことではあります が、何よりも、携え上げを願うべきではないでしょうか。殉教とは、キリストのよみがえりの証人として立ち続けることと同義ですから、殉教を願うならば、何 よりも、その者自身が、この地上において、死を打ち破ったキリストのまことのよみがえりの命を知って、その命に生きるべきです。復活の命の何であるかを知 ることもないうちに、絡みつく罪と、地上の重荷と、サタンの圧迫にひしがれて打ち倒されることを、私たちは断固、拒否すべきです。私たちは無意味な苦難を きっぱりと拒絶し、死を戸口まで追い返すべきです。ハデスの門を閉ざすべきです!

ラザロの死を目の前にした時、主は「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」(ヨハネ11:33)ら れました。神は罪と死を憎んでおられます。神が最初に人間を造られた時、そこに死はありませんでした。死はサタンを通して人類に罪が入り込んだ結果として もたらされたのであり、死は罪の終局的な実です。主イエス・キリストは、御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を得るために、ご自分の肉体を 裂いて十字架で死なれたのであり、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人人を解放してくださった(ヘブル2:14-15)のです。

パウロはコリントの教会の信徒たちに宛てて、彼らの間に多く見られる肉体の弱さ、病、死は、不信仰の結果であるとして責めています、「そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」(Ⅰコリント11:30) 弱 々しさの中に平然ととどまっていたコリントの信徒たちに、パウロは異議を唱えました。死を打ち破った方のよみがえりの命をいただいているのに、彼らのうち に神の命の強さがほとんど現れていないのはどうしてなのでしょう? なぜ信徒たちは絶え間なく圧迫され、地上のことばかりを思い、互いに争い、食い合って 相身を滅ぼし、自分の命のことばかりで絶え間なく思い煩っているのでしょうか? それは神の御心を退けることを意味するのではないでしょうか?

パウロは肉体に一つのとげを与えられていましたが、その弱さ のうちに、絶えず、神の強さの供給を受けていましたので、決して、自分の弱さについて人の同情を乞う必要はありませんでした。また、何か並外れた障害を抱 えている弱者、受難の人として、自分をアピールしたり、人の助けを求める必要もありませんでした。パウロが「大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:9)と言ったとき、それは「キリストの力が私をおおう」ことを誇っていたのであり、彼は「神の強さ」を誇っていたのです。だからこそ、彼は「私が弱いときにこそ、私は強い」(Ⅱコリント12:10)と大胆に言えたのです。

ですから、キリスト者は、断じて、自分の欠陥、自分の弱々しさを誇りとすべきではありませんし、苦しみが作り出す「受難の人」のイメージを、自分の信仰の美的なシンボルにすべきでもありません。神は私たちがどんなに弱くとも、御言葉のうちにとどまり、御言葉を行うならば、
「力ある勇士たちよ」(詩篇103:20)と 呼びかけて下さるのであり、私たちはキリストの強さが自分を覆うことを信じるべきです。欠乏や、弱さや、病や、死と感傷的に戯れ、それらを両手で大事に抱 きかかえ、いつまでも仲良く手を携えて歩けると思ってはなりません。そんなことをすれば、死が私たちを捕えて飲みつくすでしょう。しかし、キリストの命は 統治する命であり、私たちを真に健やかに、自由とします。それは私たちをあらゆる欠乏から解き放ち、死の奴隷的恐怖から解放し、真に健やかに自分自身を治 めることを可能とし、さらには地を治めることさえも可能とします。

「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)、と主は言われました。神の御心は、私たちが非難されるところのない純真な者となり、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝」(ピリピ2:15-16)くことです。

このことは私たちの品性や、行いや、霊や魂の状態について言えるだけでなく、身体についてもあてはまります。律法の時代に、神に捧げられたのは傷のない動 物でしたが、私たちは今日、神に捧げられた生きた供え物です。主が望んでおられるのは、傷のない完全な供え物であることを、私たちは思い出す必要があるの ではないでしょうか。多くの人は、それは自分とは関係ないことだと思っていますが、断じて、そうではありません。主が迎えようとしておられるのは、
しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」(エペソ5:27)であり、そのために、神は私たちを世界の基が置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1:4) 

神が私たちを聖く、傷のない者にしようと願っておられることに心を留める必要 があります。御心を退けてまで、弱さや、傷や、不完全さにしがみつくことに何の意味があるでしょうか。キリストの統治する命がどのような力と性質を伴うも のであったか、私たちは思い出す必要があります。主イエスは言われました、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:17-18)

私たちは自分自身から目を離し、青銅の蛇――すなわち十字架のキリストを見上げます。主の死 を見つめ、主の死を受け入れ、主の死と一つとなるならば、私たちは蛇の致命的な毒から救われて、主のよみがえりの命によって生きるのです! 今までは蛇が 私たちをつかんでいましたが、今は、私たちが蛇をつかみ、ふるい落とすのです! 私たちは自分がどのような瞬間へ向かって歩いているのか、もう一度、思い 出す必要があります。私たちは7日目の清めに向かって、すなわち、完全な贖いに向かって歩いているのです! その日には、私たちはキリストとともに栄光の うちに顕れます。もはや死も、悲しみも、苦しみもありません。なぜなら、神ご自身が私たちとともにおられるからです。

「私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:4)

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとと もにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったか らである。」(黙示21:3-4)

今、私たちはまだ死の陰の谷の存在するこの地上を歩いています。私たちの肉体はまだ完全に贖われていません。しかし、私たちは聖霊によって、来るべき世の 前味をすでにいただいています。御国はすでに私たちの只中に来ています。そして、この邪悪な時代の只中にあって、私たちはキリストのまことの命を灯火とし て輝かせる純潔の花嫁として召し出され、立たされているのです。ですから、私たちはキリストのよみがえりの命の絶大な力を、生きて味わい知ることをもっと 追い求めるべきではないでしょうか。キリストとともに死んだのですから、もはやこの世は私たちに害を及ぼすことはできないことを信じるべきではないでしょ うか。私たちはキリストの十字架を通して、自分自身に対して死に、神に対して生かされたのですから、豊かに命を与えて下さるよう神に願い求めて良いのでは ないでしょうか。それによって、神ご自身が栄光をお受けになるのです。主こそまことの牧者、命を与える方、生ける者の神だからです。

私たちはキリストと共なる十字架によって、アダムの命に死に、この世に対して死んで、キリストのまことのよみがえりの命によって、神に対して生かされたこ とを信じています。私たちは絶えず主イエスの死をこの身に帯びています。ですから、この世のもの、地上のものが自分に触れて、死が私たちの内側に入り込む ことを、断固、拒否すべきではないでしょうか。弱さ、欠乏、貧困、思い煩い、死を来たらせる悲しみ、病、死を戸口まで追い返し、ハデスの門を閉ざし、次の 御言葉が、今から私たちの大胆な宣言であるべきではないでしょうか。なぜなら、主イエスがすでにご自分の死によって死の力を持つ悪魔を滅ぼし、死は勝利に 飲まれてしまったからです。

「死は勝利に飲まれた。…死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげは、どこにあるのか。」!!(Ⅰコリント15:54,55)

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)



(後日追記) この記事はある闘病生活を送る信者にキリストにある健康と癒しを求めることを促すために書いたものであるが、その信者は癒しを信じず、この記事をも半ば嘲笑ぎみに拒否し、健康を求めることはなかった。(健康を求めることについては、キリストによる超自然的な癒しの他にも、移植を受けるなどの現実的な手段があった。たとえそれが応急処置でしかないと言われたとしても、それでも、ある程度、時間を引き延ばすことは可能だったのである。)

その結果として、以前は温泉に行ったり交わりも可能であった信者は、手術による体の切除、抗がん剤治療などに手を伸ばし、さらには生活環境の悪化による転居により、中心部での生活もできなくなった。自分自身の体も含め、次から次へと色々な宝を手放して行かなくてはならなかったのである。もはや二度と以前のように温泉で楽しく交わることなど不可能であろう。

筆者はこのようなことは決してキリスト者の歩むべき道ではないと確信している。信者に一時的な闘病生活はあり得るかも知れないが、長期に渡る、いや生涯抜け出せない不自由な闘病生活とその結果やって来る必然的な弱体化と死ーーこのようなものには断固憎むべきものとして立ち向かい、神に命がけで解放と自由を懇願することがぜひとも必要であると考える。そうでなければ、ただ死に飲まれてしまうだけである。そこにはただ誰にでも分かるこの世の悪魔的法則が働いているだけで、神の解放のみわざもなければ、キリストの命の完全さもない。聖書には、悪霊によってもたらされる病が確かにあって、信者がそれに縛られ続けることが神の御心ではないと分かる。主イエスが長血の女を解放された時のことを思うべきである。

だが、中には病を自ら選び取る信者もいる。闘病生活を美化し、困難な生活を美化し、悲劇や問題の渦中にあって健気に生きているという自己イメージから生じる周囲の同情や共感を捨てられないためである。それは一種の自作自演劇のようなもので、あるいは自己から逃避するためのイチヂクの葉による擬態のようなもので、病によって隠したい何かがその人の心に存在するのである。こうして、何か別のもっと深刻な問題(多くは自分自身の真の姿)から逃げるために、自ら解放よりも苦しみを選び取る人々が存在し、彼らは苦しみによって自己を美化するために、ひっきりなしに、次から次へと自分で問題を呼び込んで来る。その生活は本人が選び取っているので、これを周囲の説得によって変えるのは難しい。なぜ病を憎むべきものとしてとらえないのか、なぜ解放されることに抵抗し、健康になれと言う人を嘲笑するのか、そこに確かに心理的な(霊的な)問題が存在するのであるが、本人はこの世の常識に目を塞がれているので、たとえ説得したところで、目を開く可能性は低い。求められないのに奇跡を行うことは神もなさらない。

こうして、貴重なかけがえのない時間を常に病や問題のために消費し、大切なものを次々に失いながら、ついには当然のごとく死へ至る。筆者は本当にこうした結末を心から憎むべきものと捉えている。

ちなみに、その信者は、キリスト教会からのエクソダスを考えていたこともあったが、夫の病のために教会員が祈ってくれたことに感動したことをきっかけに、キリスト教会からのエクソダスを断念したのであった。ここでも、後ろを振り向く原因となったのは、同情である。病が家庭に深く入りこんでいた。そして、病と親しみ、それがもたらす美しいイメージにのめり込みすぎた結果、誰からも同情される必要のない自由を手にすることよりも、不自由な人間として人に同情されて生きる道を選び取ったのである。

これは筆者の目から見てあまりにも愚かなことであるが、多くの人は同じようにここでつまづいてしまう。すなわち、人に真の解放を見失わせる同情という感情が持つ悪魔的な厄介さに気づかないのである。同情には人を生かす力も、癒す力もなく、かえって心密かに他人を上から目線で哀れみ、蔑みながら、優しさと見せかけて、その人を依存状態に置いて、立ち上がる力を失わせ、不自由な状態に永遠にとどめてしまう。そこで、人からの同情によりかかり、これを受け入れると、不自由な状態に対する憤りと、絶対にそこから立ち上がって自由になってみせるという強い抵抗、自由への希求が失われるのである。

多くの人たちが同情の持つ悪魔的な策略の罠にはまり、人に同情され、注目されただけで満足してしまい、この厭わしい呪われた感情を振り切って、誰からも哀れまれたり、手を差し伸べられたりする必要のない、真に自立したキリストにある完全な命に至り着こうと思わず、かえって弱さを美しいものとして握りしめるのである。人情によってベタベタにされた神の命からほど遠い共同体が、その時 、人を神の約束された命の自由と解放に決して至らせないための束縛の枷として作動する。

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悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう。

「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。 」(黙示録2:10)

「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。 」(ヤコブ1:12)

何年も前から、当ブログにおけるキリストの復活の証に憎しみを燃やし、この証を何とかして地上から取り去り、筆者を含め、真実に聖書の神に従う信者たちの信仰告白を、この世から消し去ろうと腐心している勢力があるが、彼らは常に失敗を続けている。

しかし、悪人どもは、色々な工作をしかけたが、結局、このブログを消し去ることに失敗し、ブログ主を告訴することもできなかったので、このブログの一番どうでも良い記事ばかりが検索結果にヒットするよう常に腐心している。

ところが、このように検索結果が歪められているおかげで、筆者には、悪人どもの狙いがこの上なくはっきりと理解でき、当ブログ記事のどこに弱いところがあって、何をどう書き直すべきか、そのヒントをも的確につかむことができるのだ。

つまり、悪人どもが何を企んでいるのかが分かるため、その策略が功を奏さないよう、以前に書いていた信仰告白の弱いところを補強する。

悪魔を喜ばせるだけの不信仰な文面はすべて削除して、キリストの十字架における解決の完全性をこの上なく強調する内容とする。

中途半端に言い切れていなかったがゆえに誤解を与えそうな表現は最後まで文脈の中に抑え込み、まことの神だけに栄光を帰するように改める。むろん、書き直し不可能な文章は惜しみなく削除して、新たな信仰の証のためにスペースを空ける。

人間の義を掲げて神の義を退け、十字架を否定して、神に敵対する人間たちの悪事は、激しい言葉で糾弾する。そのような記事はできるだけ前面に出す。悪魔に魂を売った連中が恥じ入るようにだ。

真実の重みによる霊的な衝撃力を増し加えることが目的である。読者の存在など、もう何年も前から、筆者の眼中にはなく、文学的修辞も念頭にない。

当ブログを始めた頃、筆者は美的感覚に随分、こだわっていたが、今はもうそんなこだわりがなくなった。しかし、文学的な表現力とは全く違う次元で、言葉というものが持つ本当の衝撃力を、筆者は理解したのである。

ブログの文面は、暗闇の軍勢の嘘の攻撃に対する神の御言葉による真実な証であり、キリスト者が子羊の血潮と証の言葉に確固として立つことは、激しい霊的な戦いにおいて神の権益を守り抜くための防衛戦なのである。また、すべてのものがひざをかがめて、キリストを主として迎える時のための人間側からの準備なのである。

だから、キリストだけにすべての栄光が帰されるように、また、キリストの救いの完全性がこの上なく明確にされて、ここに書かれている内容が、神に栄光をもたらし、暗闇の軍勢にとって恥となり、この上なく不都合な内容となるようにすることこそ、当ブログの狙いなのである。

そのため、悪魔にとって不都合な事実をしきりに強調しながら、神の正しさ、神の憐れみ深さ、神の愛の偉大さがより明確になるよう、書き直しているのである。

一体、そんなことをやり続けることに、意味があるのかと問う人もあろう。しかし、悪人どもの意図的な攻撃が続く限り、筆者の彼らに対する追い討ちも続く。

この戦いの過程で、筆者は相当に強くなったし、戦いのポイントをかなりおさえたのである。

神の被造物である人間を日夜訴え、苦しめ、その尊厳を奪い、無益な人生を送らせようと狙っている勢力があるのに、どうして無防備に呑気に構えている必要があるか。そんなのは愚かな人間のすることである。我々も悪魔と同じだけの執念を持って、日々、悪魔に立ち向かわなければならない。そうすれば、悪魔は逃げ去って行く。悪魔の抑圧から解放されることができるのに、その権利をつかみ取らないほど、無意味なことはない。

さて、悪魔に立ち向かうために、有益なコツをいくつかここに書いておく。

➀・・・罪悪感と訣別すること。これは信者にとって第一義的に必要なことである。クリスチャンが罪悪感や自責の念に苛まれていては、決して悪魔と対峙することなどできはしない。むろん、罪なる生活を送り続けながら、罪悪感を捨てるべきと言うのではない。思いつく限り全ての罪から離れるべきである。だが、離れたならば、もう罪悪感を持ち続けてはいけない。過去に何があったかなど、忘れることだ。いや、忘れなくても良いが、過去は血潮によって清められているという事実を掴むことである。自分の人生に頓着してはいけない。

悪魔は訴える者であるから、あらゆるきっかけをとらえて、あなたを告発しようとして来る。それに対しては、ただ神の義による潔白を徹底して主張することである。自分が何者であるかに立脚せず、神が何者であるかに立脚して闘うのだ。そして、あなたの人生そのものが、キリストの義によって覆われているのだから、あなたの人生そのものがキリストと同じほど、聖別されていることを確信しなさい。

さらに、時には、倍返しの訴えを悪魔に返してやり、あらん限りの力を持って、神の御前で悪魔を告発することも有益である。何しろ、悪魔は最初から罪を犯しているから、悪魔の罪状など終わりなく挙げられる。

悪魔を訴えるに当たり、最も有益な罪状は、クリスチャンに対する迫害の罪である。悪鬼どもは人間よりも寿命が長いので、有史始まって以来、クリスチャンの血をいわれなく流して来た己の罪をよく覚えている。特に、皇帝ネロの大迫害などは、悪魔の所業としていつでも効果的に訴えられる材料である。クリスチャンに対する迫害を、あなたの同胞に対して悪魔が犯した罪として、我が事のように告発せよ。悪鬼どもを殺人者として告発し、聖徒らの迫害者として神に訴えるのだ。その際、恐るべき執拗さを持って、悪魔があなたにしようとしたのと同じほどの執念で、彼らを延々と訴え続けることが有益である。悪魔はそのようにクリスチャンから非難されることが大嫌いであるし、第一、聖徒らの口から自分がクリスチャンの迫害者として非難されることに耐えられない。義人の証言は、暗闇の軍勢に対して大いに衝撃力を持つ。悪魔には良心の呵責は無いのかもしれないが、それでも、罪の自覚が存在するのである。彼らは自分の美が傷つけられることに耐えらない。だから、その非難の際、彼等には悔い改めの余地が永遠に失われており、彼等を待ち受けるのは神の激しい御怒りと地獄の火の池であることもセットで強調するが良い。

②・・・キリストが十字架で取られた完全な勝利を我が物として宣言し、自分の人生のあらゆる場面に適用すること。この点で、クリスチャンは謙虚でありすぎてはいけないし、臆病であってもいけない。クリスチャンは人生の勝利者なのである。あなたの人生の現時点での弱点は何か? 仕事がないことか? 体の不調か? 友人が足りないことか? 家族の理解がないことか? もしあなたが自分の生活に何かしらの弱点を持っているならば、それがキリストの強さによってすでに覆われており、キリストが天に備えて下さっている解決が、すでにあなたのものであることを高らかに宣言し、これを自分に適用せよ。状況に目を留めず、神の強さと恵みに大いに満たされ、それを宣言しなさい。弱々しい生活を送りながら、悪魔と対決することはできない。

神の解決を御言葉によって掴んだならば、もうそれ以上、問題などというものは存在しないのだから、問題を現実のようにとらえるのをやめることである。また、「助けて下さい」と神に向かって懇願するのではなく、もっと大胆に、主の御名によって、状況に向かって命じるのである。

クリスチャンには環境を支配する力がある。地上に生きる動物も、天候も、テクノロジーも支配することができる。その逆ではないのだ。アダムもそれなりに支配力を持っていたが、あなたの支配の力は、すべてにまさる主の御名から来る。だから、キリスト者にどれほど絶大な支配力が与えられているのか、試してみなさい。たとえ嵐が吹き荒れていても、主がそれを静められたことを思い出し、あらゆる困難な状況に向かって、従うよう命じなさい。命じたら、状況がどうあろうとも、それに左右されないことである。状況に主導権を与えず、それをあなたが握りなさい。

主があなたの牧者であるから、あなたには欠けたところは何もないという事実を大胆につかみ取り、あなたの人生における全ての欠乏を、天の恵みによって隅々まで満たしなさい。このようにして、クリスチャンが満たされて恵まれた人生を送り、喜びに溢れることは、悪魔にとって非常に忌々しい大打撃となる。

③・・・ただ神だけに頼ること。神以外のものに頼っていると、恵みが制限される上、御霊からでない無用な助言や忠告も入って来て、混乱が生じる。だから、人に頼らず、神だけに頼りなさい。神だけが栄光を受けられる状況を自ら用意しなさい。

④・・・さらに、神を喜び、高らかに賛美しなさい。悪魔はクリスチャンが喜んでいるところを見るのが我慢がならない。だから、特別に良いことがあった時だけでなく、どんなきっかけをとらえてでも、神を喜び、神に感謝と賛美を捧げるべきである。

むろん、人間には良い時と悪い時があり、不調の時もあろう。だが、そういったすべての状況を超えて、天の喜びの中に住まう秘訣を掴むのである。天にある富がどのくらい地上に引き下ろされるかは、あなたの信仰の状態にかかっている。あなたの霊が打ちのめされている時に、大胆に信仰を働かせることはできない。だから、何かダメージを受けても、失意に落ち込むことなく、できるだけ早く立ち上がり、信仰を奮い立たせ、天に直通の祈りを働かせる秘訣を学ぶことである。そのために最も有益なのは、主を喜ぶことと、主を賛美することである。賛美には人の霊を奮い立たせ、暗闇の軍勢の束縛を打ち破る力がある。パウロが獄中にいたとき、賛美によって囚人の枷が落ちたことを思い出せ。

クリスチャンよ、いつまでも打ちひしがれていないで、信仰によって、大胆に立ち上がって、歩き出しなさい。試練を通過するとは、打ちひしがれ、翻弄され、束縛や弱さに黙って身を委ね、そこから立ち上がれなくなることではなく、むしろ、その逆なのである。あなたに約束された命の冠を受けとるために、御霊によって強くされて、信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい。主は世に勝った方であり、あなたにはこの世のどんな圧迫にもまさる御名が与えられているのだから、その権限を地上で大胆に行使しなさい。そうしているうちに、キリストとあなたとの距離が、思ったほど遠いものではなく、むしろ、主があなたと一つになって働いて下さることが分かるようになるでしょう。

神はあなたを通してもっと働きたいと願っておられる。その可能性は十分に開けているのに、問題は、常に人間の側からの神への応答が、不十分なことにある。だから、もしあなたさえ同意するならば、暗闇の軍勢との霊の戦いにおいて、神はあなたを勇敢な戦士として十分に訓練することができることを信じなさい。その確信に身を委ね、訓練を始めなさい。どうせなら、弱々しい一兵卒で生涯を終えるよりも、将軍になった方が良いと思わない人がどこにあるだろうか。
 


からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。

「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」(Ⅰ列王記19:18)
 
「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。

五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。」(ルカ12:4-9)
 
主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

 
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)

 
朝方、小鳥たちのさわやかな美しい鳴き声で目が覚めるのはまことに気持ちが良い。外出時には引き留められ、帰宅時にも愛らしい出迎えがある。

猫派、犬派だけでなく、鳥派、というものもおそらくあるのではないかと思う。地に足をつけない生き物だからこそ、好感が持てる。特に、文鳥のように小鳥の中でもとりわけ小さな鳥が、どれほど人間によくなつくものか、知っている人はそう多くはないのかも知れない。

鳥がどこまで人間になつくものか、どこまで鳥とのコミュニケーションが可能か、愛好家を除き、どれほどの人々が知っているだろうか。犬猫には多くのことが期待されるが、鳥には一般にあまり期待がかけられていないように思う。

聖書では、鳩を除いて、鳥一般がそれほど良い生き物とはあまりみなされておらず、しばしば悪霊の象徴として描かれるが、都会暮らしの筆者にとって、残念ながら、鳩はそんなに好感が持てない。むしろ、1アサリオンで2羽買えるという雀の方がよほど愛らしく思える。

色々と珍しく美しい鳥を飼ってみて、それぞれに独特の愛らしさがあり、極彩色の珍しい鳥には目を奪われるが、やはり、素朴で愛らしい庶民的な鳥として、文鳥は異彩を放っていると思う。文鳥は鳥綱スズメ目カエデチョウ科に属するそうだから、ほとんど雀のようなものだろう。

値段的にも手頃なので、文鳥は誰にでも入手できる(ただしよく馴れたものを飼わなければならない)。そこで、独り暮らしの老人や、様々な苦難に追われている人々の家にも、一羽の文鳥がいれば、人々は生きる意欲をこの小さな鳥からも、存分に学べるのではないかと思う。

何しろ、大きな鳥がエネルギッシュなのは当然であるとして、これほど小さな体の鳥がこれほど愛らしく造られ、賢く活発に飛び回って生きているその様子を見ていると、まして人間にはさらにもっと多くのエネルギーと知的可能性が備わっていることは疑いの余地がないと分かって来る。

こうした生き物を見るときに、彼らに注がれる神の愛を思わずにいられない。神の許しなしには、一羽の雀も地に落ちることはない(マタイ10:29)というフレーズを思い出す。それは転じて人間に対する神の愛として受け止められる。勇気を出しなさい、一羽の雀さえ、こうして神が素晴らしく造られ、養っていて下さるのだから、まして人間はもっと神の御前に高価で貴い存在ではないのか。

だが、それは単に人間の貴さを力説して人を自己満足させるための御言葉ではない。冒頭に引用したように、人間に注がれている神の愛は、信者が主の御名の証人として立つことと大いに関係がある。

こうして主が新しい鳥たちに出会せて下さるのも、小さな十字架の死と復活の働きである。
 
さて、参院選が近づいているが、今一つ選挙は盛り上がっていないような印象を受ける。大本営発表は早くも与党に有利な情報ばかりを流しているらしいが、筆者は大本営広報部というものは嘘しか発表しないと理解しているので、全く目にしていない。さて、ネットには次のような面白い記事があったので引用しておきたい。

マスコミに載らない海外記事」からの引用である。翻訳もさることながら、訳者のコメントがいつも気が利いていて面白い。巨城も蟻の一穴から崩れる、と言われる通り、IWJに6000人近くも読者いるのであれば、憂鬱になる必要はないだろう。なぜなら、その6000人がみなインテリであって、自分の耳に入れた情報を隣人に伝えて行く力があれば、それだけでかなりのインパクトがあるからだ。10万人の愚者が定期購読している御用新聞よりも、6千人の知者が購読している民間のメディアの方が力がある。

ここで筆者にはバアルに膝をかがめなかった7千人、という聖書のフレーズが頭をよぎる。

それはバアルの預言者たちの前で、大胆に神の奇跡を行ない、バアルの偽預言者たちを皆殺しにした神の預言者エリヤが、アハブ王を背教によって堕落させた王妃イゼベルに命を狙われ、彼女の追跡を恐れて逃亡していた時に神がエリヤに言われた言葉である。

エリヤはバアルの預言者たちの前であれほど大胆に主の御名を証したのに、なぜイゼベル一人に恐れを感じて荒野へ逃げたのか、という質問を投げかける人がよくいる。どのような方法でイゼベルがエリヤを追い詰めたのかは分からないが、少なくとも、エリヤは追われるのは沢山だ、自分の命を取ってくれと神に願うのである。

しかし、神はそんなエリヤをあざ笑ったり、見捨てたりすることなく、むしろ、食うや食わずで疲労困憊していた彼のために食事を備え(復活のイエスが漁をしていた弟子たちのために食事を整えた光景を思い出す)、そして、国中の全ての人間が背教に落ちたアハブ王とイゼベルの手先になっているわけではないことを告げ知らされる。しっかりしなさい、エリヤよ、あなたは一人で戦っているわけではないのだ、アハブとイゼベルに魂を売らなかった人間が確かに残っているのであり、その数は7千人であると。

筆者は考えている。志の純粋性さえ保てていれば、人数はそう多くなくて良いのだと。当ブログなど、再開当初は訪れる大半はさわやか読者であったが、そんな中でも、記事を書き続けていると、さわやか読者の数はもうほとんど1人、2人程度しか残っておらず、その代わりに、あっと思うような輝きを放つ検索用語で当ブログにたどり着いて来る人々が増えた。

以前のような聖書の脅し文句ではなく、真実、キリストを訪ね求めた人々でなければ、決して使わない御言葉である。

そんな光景を見ていると、御言葉を慕い求める人々が尽きたわけではないことがよく分かって来るのだ。常に筆者を意気阻喪させようと工作に余念がない人々の活動は脇に置いて、主が取り置いて下さった人々のことを考えたい。

ブログを書き続けていると、自ら発表したもののの影響の大きさを常に感じさせられるが、相手は常に人間ではないのである。目に見える読者でもなければ、読者数でもない。はっきり言えば、ものを書いて行く上での影響力の大きさは、情報の質である。

真に美味しいコーヒーや、入手しにくい珍しい鳥を訪ね求めてはるばる行脚する人々がいるように、安っぽい嘘にはうんざりして真実かつ高い質の情報を求めている人々は常に存在しており、そういう人々の要求に応えうるものを作って行けば、必ず、その衝撃力の大きさは現れるのである。

さらに、キリスト者である以上、筆者はただ人間の満足のためだけにものを書き続けているわけではない。これは主の御名による戦いであり、暗闇の勢力に対する衝撃力を伴う攻撃でもあるのだ。敵が我々を意気阻喪させることに余念がないならば、こちらも彼らを意気阻喪させねばならない。それはただ御言葉に基づき、何が真実であって、何が虚偽であるかを明るみに出すことによる。それが我々の霊的戦いなのである。

さて、以下の引用であるが、「スネオファシズム」とは実に言い得て妙である。誰に対するファシズムかと言えば、当然、のび太に対するファシズムである。つまり、我が国の行き先が参院選で問われているわけだが、選択肢は二つに一つだということである。

ジャイアンーースネオーーのび太という三者の関係から思い出すのは、常にキリスト教界や、他の教会や、他の信者を見下すことで、自分たちだけは天の特権階級であると誇って来たある宗教団体である。ペンテコステ・カリスマ運動を通じて、その宗教団体は、カルト被害者救済活動と一体であるが、その宗教団体は、自らの背教を隠すために、筆者にイゼベルの汚名を着せたのであった。しかし、すでに幾度も記事で書いて来た通り、イゼベルと呼ばれるにふさわしいのは、筆者ではなく、異端の教えを臆面もなく言い広めた上で、筆者に濡れ衣を着せようとした人々である。

その団体は、昔から高慢さと自己満悦で有名で、これに関わった人々は、筆者の周りでも、ことごとく手に負えない高慢さに落ちて行き、自分以外の他の信者を見下し、人の弱みをあげつらってはあざ笑うようになった。それを自分たちが「神に祝福されている証拠」だととらえ、どんな風に自分が欲望をかなえたか、どれほど他者には手の届かない非凡な体験をしたか、という話をまるで信仰の手柄であるかのように吹聴して回るようになった。日常の体験だけでなく、その人々は「神の御声を聞いた」とか「御姿を見た」とか、誰が聞いても怪しいとしか感じないような呆れる体験談を盛んに手柄として自慢するのである。
 
しかし、他者に対する優越感しかよすがのない人間というのは、本当に内面が空虚である。常日頃から、自尊心を捨てて、自分よりも強い者に媚びへつらい、魂を売って生きているからこそ、自分よりも弱い者の弱点を暴き立て、これを踏みしだき、優越を誇ることによってしか、自分の惨めさを隠し、憂さ晴らしする方法がないのである。そういう風に、人々の間に見えない階級制度を作り出し、互いの間に差別を敷くことによって、国民を分断し、互いに争わせ、もはやあるまじき出来事がどれほど身の回りで起きても全く心が痛まないほどに他者の痛みに鈍感になり、己の満足しか眼中になくなった人間を大量生産し、そういう愚者を操ることによって、己の統治を強化しようとしている何者かが存在するということを考えてみるべきであろう。他者への優越感を生き甲斐として他者を見下して勝ち誇っているような連中は、みなその格好の操り人形となっているだけである。だが、ある時期が来たら、そういう人々はみな御用となって消え去る。なぜなら、栄枯盛衰、権力というものはどれも永遠ではないからである。

さて、我が国がこれからもずっとジャイアンに踏みしだかれて、自尊心を絶えず傷つけられ、一個の人格として否定されながら、それでも自分よりも成績の劣ったのび太に対する優越感だけを生き甲斐として生きる惨めで意気地なしの「スネオ」であり続けるのか、それとも、のび太を踏みつけにすることで憂さ晴らしをするという虚栄の生き方を捨てて、のび太と共にジャイアンに立ち向かい、誰もが生きられる世界を目指すのか、問われている。

参院選の争点は、アベノミクスでなく、改憲なのだが、何よりも、対米隷属という「長い物には巻かれろ」式の生き方から、いつになればこの国は脱却するのかということが、毎回、問われている。「ジャイアン(米国)」の威を借る「スネオ」(奴隷)として生きることのみっともなさをそろそろ自覚すべき頃合いである。

というのも、ジャイアンの攻撃性は日々強まっており、今までのように、スネオがのび太を馬鹿にし、踏みつけにし、貢がせる程度のことでは、欲望がおさまらなくなって来ているからだ。今、ジャイアンが夢見ているのは、スネオに武器を持たせて、自分の代わりにスネオがのび太を殺す光景を見たいということだ。そのような見世物を俺様に早く寄越せと、ジャイアンは随分前から、スネオにせっつき、スネオを脅すようになっているのだ。さすがのスネオも一応、インテリのはしくれではあるので、こういう要求には我が身の危うさを感じ、蒼白になっている。

だが、ジャイアンは、別の町にもスネオのような、いや、スネオよりももっと凶暴な第二のスネオを抱えているので、スネオが要求をおとなしく飲まないと、殺されるのはのび太ではなくスネオだぞと脅している。いつになったら、そんな呪われた関係から、スネオは抜け出るのか、どこまでジャイアンと共に罪の連帯責任を負い続けるのか。ジャイアンのためなら、殺人者になることも厭わないのか? スネオは、その一線を超えるつもりなのか? そうして、いずれ町ごとジャイアンのための献上物、見世物として、焼け跡のように変えてしまうつもりなのか?

というのも、ジャイアンが、たかがのび太がやられたくらいのことで、満足するはずがない。スネオがのび太をやったら、ジャイアンの要求はさらにエスカレートするだろう。のび太が100人死んでも、ジャイアンの欲望はおさまらない。おそらく、スネオも死んで、町の住人が皆殺しになって、ジャイアン一人残るまで、ジャイアンは満足しないだろう。ジャイアンの猜疑心はそれくらい深いので、自分以外の誰かが生き残っているだけでも、王座を奪われるのではないかと、気が休まる時がないのだ。だから、ジャイアンにとっては、自分以外の誰もいない世界が望ましく、スネオであろうとのび太であろうと、皆が敵なのである。だが、そんなジャイアンの欲望の言いなりになっては、この国土はもはや灰塵と帰して何も残りはすまい。そして、その日にジャイアンは言うだろう、「おまえたちには大変、不幸なことだったな。何しろ、空から原爆が降ってきたんだ。どういういきさつでそんな惨事が起きたのか、俺は全く知らない」と。

むろん、これはジョークであるが、実際に、このような経過を我が国が辿ることはないであろう。なぜなら、歴史は繰り返せないからである。グノーシス主義の原初回帰が不可能であるのと同様、軍国主義の再来も不可能である。以前に起こったことをどんなにもう一度起こそうとしても、それは無理である。

そして、神は義人と悪人とを共に滅ぼすようなことはなさらない。地球が何万回滅びるほどの出来事が起きたとしても、神はご自分を頼る民を必ず守り、救い出して下さる方なのである。十字架の死は、決して霊的死のみでは終わらず、復活の前提なのである。主の御名は誉むべきかな。
 
  
以下は「マスコミに載らない海外記事」から抜粋(太字、赤字は筆者による強調)

大本営広報部とは、全く違う見方をする記事、今朝の日刊IWJガイド・ウィークエンド版をそのまま引用させていただこう。こういう記事・報道を読む人々の人数が、60,000人ではなく、6,000人に満たないという事実を読むたび、毎回、憂鬱になる。
 

■■■ 日刊IWJガイド・ウィークエンド版【参院選まであと15日!】「本日11時より、岩上さんが東電による『メルトダウン』隠蔽に関して郷原信郎弁護士に緊急インタビュー!/イギリスのEUからの離脱が確定、キャメロン首相が辞意表明/IWJでは各党各候補者の街頭演説に関する記事を続々とアップしています!」2016.6.25日号~No.1380号~ ■■■

(2016.6.25 8時00分)

 
おはようございます。IWJで主にテキスト関連の業務を担当している平山と申します。

 
世界は今、大きな曲がり角を迎えているようです。

 
昨日6月24日、イギリスでEU(欧州連合)からの離脱の是非を問う国民投票が行われ、離脱派が52%の票を獲得して48%の残留派をわずかに上回り、過半数に達しました。この結果、これから2年をかけ、イギリスはEUとの離脱協議に入ります。1973年に前身のEC(欧州共同体)に加盟して以降、43年にわたるイギリスのEU加盟に終止符が打たれることになりました。ヨーロッパは、分裂の危機を迎えることになったと言えます。

 
今回の国民投票の結果を受け、イギリスのキャメロン首相は辞意を表明。10月の党大会後に辞職し、イギリスでは新たな首相を選ぶ選挙が行われることになります。

 
イギリスによるEU離脱決定を受け、6月24日の東京市場は大混乱に陥りました。円高が急激に進み、一時1ドル=99円に。これは2年7ヶ月ぶりの値です。日経平均株価も、一時下げ幅が1300円を超えるなど大暴落しました。

 
この事態を受けて麻生太郎財務相は緊急の会見を開き、「足もとの為替に極めて神経質な動きがみられる。世界経済や市場に与えるリスクを極めて憂慮している」と述べました。しかし、円安・株高で輸出企業と富裕層のみが儲けるアベノミクスにおいて、どんな操作を行おうと、外的要因で思惑はこなごなです。

 
アベノミクス・ブームに乗せられて、株に手を出した個人投資家は、これまでも乱高下相場で痛い目にあってきましたが、今回は絶叫に近い悲鳴が聞こえてきそうです。また、こうした中でいつも気になるのは、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が運用する国民年金資金です。今回の株価暴落により、いったいいくらの国民の年金が消えたのか、その額ははかりしれません。

 
今回、イギリスでEUからの離脱派が残留派を上回った背景には、EU各国からイギリス国内に流入し続けている移民や難民が、英国人の雇用を脅かしている、というイギリス国内での認識があります。今回の結果を受け、フランスの極右政党「国民戦線」のマリーヌ・ルペン党首はただちに歓迎の意を表明。「フランスや他のEU加盟国でも国民投票の実施が必要だ」と語りました。また、米大統領選挙で共和党の指名権獲得を確実にしているドナルド・トランプ氏にとっても、追い風となることは間違いありません。

 
移民・難民を排斥する極右の台頭により、イギリス発、フランス経由、そしてアメリカ着で、戦後の国際秩序がみしみしと音を立てながら崩れ始めているように感じます。同時にこれは、冷戦後に国民国家の役割を相対化してきたグローバリズムにも、ブレーキをかけるものとなる可能性があります。

 
さて、今回のイギリスによるEUからの離脱確定は、日本の参議院議員選挙にどのような影響をもたらすでしょうか。日本人にとっては何よりも最大の気がかりです。

 
自民党改憲草案を見れば一目瞭然ですが、安倍総理が目指す改憲とは、「緊急事態条項」を創設することで基本的人権を停止させるとともに、集団的自衛権を行使して米軍とともに世界中で戦争をする「国防軍」を創設しつつ、天皇を「象徴」ではなく「元首」と戴く「祭政一致の国家神道」の復活を含意するものです。

 
これは、日本が戦前に復古し、国権を強化するベクトルと、米国にどこまでも忠実につき従ってゆく属国化、果ては植民地化へのベクトルという矛盾した真逆の方向を向く2つのベクトルを同時に抱えこむもので、いずれその矛盾によって破綻しかねないように思われます。

 
ただそのウルトラナショナリズム米国隷従のどちらにも共通するのは、日本国民の主権、人権、利益、権利が最小化されてゆくという点です。国民主権、基本的人権の尊重や平和主義といった、戦後の日本社会が日本国憲法を通じて守ってきた人類普遍の原理を覆し、戦後の国際秩序に対して挑戦し、孤立化を招くものです。米国の陰に隠れてさえいれば、あとは国内の国民の声も国際社会の米国以外の国々も無視するという、岩上さんいわく「ジャイアンに依存スネオファシズム」が極大化されます。

 
この時、「スネオ化」した日本の支配層は、「国民は総活躍しろ、血を流せ、死ぬまで働け、ためこんでいる金は吐き出せ、働けなくなったら死ね」と先日の麻生氏の発言を現実化してゆくのでしょう。その意味で、今回のイギリスにおける危機は、日本にとっても対岸の火事ではありません。英国の危機よりも、日本の危機の方がはるかに深刻であるというべきでしょう。

 
悲惨な戦争の記憶とともに築きあげられた平和と人権を守る戦後秩序を守るか、あるいは戦前の軍国主義とも少し違う「スネオファシズム」体制に突入してゆくのか。今回の参院選では、有権者一人ひとりに対し、このような問いが突きつけられていると言えます。

 
今週、IWJでは6月22日に公示を迎えた参院選の取材に、最も時間を割きました。本日の「日刊IWJガイド」は、ウィークエンド版として、今週の岩上さんによるインタビューとIWJによる取材成果をふり返ってゆきたいと思います。


ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去ります。

面白い記事があったのでちょっと引用しておきたい。

日本が機能不全を起こしている原因は何か?

この記事でもかなり鋭くツッコミが入っているが、私の考えでも、日本が機能不全を起こしている原因は、とどのつまり、「人々が自分の頭で物事を考えず、批判されたり、村八分にされたくないばかりに、権威者や、声の大きい人たちの言うことを鵜呑みにして従うようになった」ことにある。つまり、人々が自主的に奴隷になってしまい、独自の発想を捨てたことによる。

これは信仰者の世界も同じである。有名で立派な組織に所属し、偉い先生方の言うことを従順な弟子のように聞いて実行し、世間に波風立てず、皆にいい顔をし、優れて社会的な活動をし、弱者を助け、己を常に向上させるべく自己修練をし…、そんな生活を、立派な信仰生活だと、あまりにも多くの人たちが取り違えているのである。

そこでは、見てくれは良いかも知れないが、常に人の目に自分がどう映るかばかりを気にして、外面を整えることにばかり精を出し、狭い世間で、他者がどれほどバッシングされようとも、自分だけは問題児扱いされないで、「良い子」というお墨付きを得られるように、自分の心の本当の願望を押し殺し、自分の意志を捨て、真実を捨て、自分という個性を自分で滅却して生きる人々が、「優秀」な信徒だと評価されているらしい。

だが、それは本来、信仰とは何の関係もなく、信仰と呼ばれるべき生き様でもなく、信仰に偽装しただけの「この世」のものさしに従った生き方である。もっと言えば、そこにある隠されたものさしは、いかにキリスト教を装っていても、実際には、この世と同じ、見栄と弱肉強食の競争であり、いかにして他人を出し抜いて、自分が勝者としての栄誉を勝ち得るかだけを目的とする終わりなき競争である。

その競争は、本当は、この世(地上の組織としてのキリスト教界も含む)権威者が信者の思考を眠らせて、彼らを献金と奉仕を収奪する道具として、あるいは権威者や組織の栄光を立て上げるための道具として、気づかれないように徹底的に搾取するために作られたマインドコントロールの仕組みに過ぎない。このマインドコントロールに最も良くひっかかった信者が「優秀」だと評価されるのである。そんなにも馬鹿らしいシステムはないと思うのだが、組織に属すると、どんな信者もほぼ例外なく、ロボットのような思考停止状態に陥って、このシステムを永らえさせるための駒となってしまう。

そういう人々を観察していると、独特の不自然な「操られ感」が見られるのである。私は「悪霊の言葉」というものがあると考えているが、ネット上の議論を見ても、工作員信者の言葉は、呪文のようで、筋が通らない支離滅裂で切れ切れの文章が極めて多い。

彼らは自分自身の意志で生きていないので、自然な自分の言葉で語ることができない。ほんの見せかけだけの綺麗事で主張を固めることはできても、内実がないので、細かい議論になると、もう支離滅裂な返答になる。この「操られ病」が進行すればするほど、認知にも障害が出て来る。自分にとって都合の悪い事実は見ても見ないふりをする、聞いても決して理解しない。何もかも自分に都合の良いように話を曲げて行くので、だんだん思考能力も異常になって行くのである。

思い出されるのは次の御言葉である。

「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。

 こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に成就したのです。

あなたがたは確かに聞きはするが、
 決して悟らない。
 確かに見てはいるが、決してわからない。
 この民の心は鈍くなり、
 その耳は遠く、
 目はつぶっているからである。
 それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、
 その心で悟って立ち返り、
 わたしにいやされることのないためである。」(マタイ13:13-15)
 
かくて、を畏れることは知識の初めである。」(箴言1:7)ならば、この世を愛し、世の名誉を追い求めることは、神を否むことであり、精神崩壊の始まりである。このことは当ブログでずっと主張しているが、御言葉を曲げる異端思想を信じて、正常な思考を保ちえた人はいない。

世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。

すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(Ⅰヨハネ2:15-17)


この世を愛することは、神を愛する生き方とは正反対の、神に敵対する道である。だが、多くの人が誤解しているように、この世を愛するとは、宗教を離れた世界で富や権力や快楽を追い求めることばかりを意味しない。もしこの世がキリスト教界とは無関係だと考えている人がいるならば、それも間違いである。宗教界において自己の栄誉を追い求め、人の歓心を買おうとすることも、当然ながら、この世を愛することに含まれる。キリスト教界において信者らの評判を失うことを恐れ、信者らに良く見られたいばかりに、自分の外面を磨き、いかにも道徳的で立派な人のように振る舞い、己の栄誉を追い求めることも、この世との妥協であり、宗教界で得られる栄誉も、極めて大きな世の誘惑なのである。

名誉欲は、人の欲望の中でも相当に根強く取り去りがたいものである。すなわち、人の目を気にし、権威者のご機嫌伺いをし、周囲の人々の評価を失うことを恐れ、自分の評判を保ちたいばかりに、外面を取り繕うこと、これもまた、世を愛する道なのである。

イエスは、この世から拍手喝采を受けることだけを目的として、うわべだけ敬虔そうにふるまい、内実のない生き方を生き方をする偽善者らに向かって言われた。

「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれます。」(ルカ16:15)

別の訳では、「人に尊ばれる者は、神に忌み嫌われる」となっている。
 
この世の賞賛や歓心を得たいと願うことが、神に敵対する欲望であることをはっきり示している。
 
有名になろうと努力したり、偉業を成し遂げて名声を築き上げようと、何か特別なことをしなくても、身近な人々を含め、周りの人々の目を気にし、権威者に媚び、人の歓心を買おうと願い、人の目に自分がよく映り、良い評判を得られるようにという願いから、自分の行動を規制し始めた時点で、すでにその人は、人間にあがめられることを求めているのである。人の批判を恐れて、自分が嘲笑されたり、のけ者にされたりしたくないばかりに、何が正しいか分かっているのに、その事実を曲げた時点で、すでに世のご機嫌取りをしているのである。

聖書は、信者に向かって、再三に渡り、この世と世の人々を恐れてはならないことを告げている。旧約聖書を振り返っても、主の民は、敵に立ち向かうとき、敵軍がどれほど強大に見えようとも、彼らを恐れてはならないと神から警告された。預言者らは堕落した世に遣わされるとき、決して、世の人々の反対を恐れないように厳しく言い渡された。預言者らは世の人々から憎まれ、嘲られ、理解されず、命を狙われ、迫害されたが、それにも関わらず、決して世の歓心を得ようとしたり、彼らの迫害を恐れないように忠告されていた。

「恐れるな、強くあれ、雄々しくあれ」――このメッセージは、聖書において、神が選んで遣わされる者に、繰り返し、繰り返し、語られる言葉である。

「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。
 わたしが選んだヤコブ、
 わたしの友、アブラハムのすえよ。
 わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、
 地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。
 「あなたは、わたしのしもべ。 
 わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」
 
 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
 たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
 わたしはあなたを強め、あなたを助け、
 わたしの義の右の手で、あなたを守る。

 見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、
 恥を見、はずかしめを受け、
 あなたと争う者たちは、
 無いもののようになって滅びる。
 
 あなたと言い争いをする者を捜しても、
 あなたは見つけることはできず、
 あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。
 
 あなたの神、であるわたしが、
 あなたの右の手を堅く握り、
 「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」
 と言っているのだから。
 恐れるな。虫けらのヤコブ。
 イスラエルの人々。
 わたしはあなたを助ける。」(イザヤ41:8-14)
 
この原則は今日も同じである。

神を畏れると言いながら、世のご機嫌伺いをし、「この世」と一体化して、世の罪を連帯責任として背負って生きている人々は無数に存在する。このような人々は、たとえ信者を名乗っていても、巧みに、本物の信者たちをも堕落させて、彼らと同じ生き方へ誘い込もうとする。

そのような人々は、謙虚な風を装って、この世に波風立てず、権威者に逆らわず、人を不快にさせるようなことは何も言わず、誰もに良い顔をし、みなに覚えめでたい生き方をすることが、「信仰的」だと考えており、そうでない人々を非難し、攻撃し、排除しようと試みる。

こうして、彼らはこの世に調子を合わせた世論をクリスチャンの間でも作り出そうと、巧みに信者らの関心を「神の評価」から「この世の評価」へ逸らして行く。そして、信者たちに人に嫌われたり、批判されたり、排除されることを恐れさせて、彼らの「世論」に調子を合わせてご機嫌伺いをするように仕向け、結果的に、信者らが自分の主張を曲げて、神への真実な信仰を捨てて、神を畏れるのではなく、世の評価を恐れて、世と妥協するよう促すのである。

カルト被害者救済活動の支持者らが、自分たちの活動を拡大し、反対者を弾圧し、キリスト教界の言論を統制してその覇権を握るために利用したのが、この心理テクニックであった。彼らは巧みに不信者らを利用して、クリスチャンの間に偽りの「世論」を作り出し、そこで批判されることを恐れるがゆえに、信者らが自ら信仰告白を捨てて、自主規制を行ない、彼らに迎合するよう仕向けたのである。

これはある一定の目的を持って人工的に作られた流れであり、そもそも、偽装された世論であり、自然に生まれた世論でなく、ましてそれは不信者らが作り出したのであって、本物の信者たちの自由な議論によって支えられたものではなかったのだが、こうしたものがクリスチャンの「世論」だと考えてそれに飛びついた人々は、そこで自分が批判されないために、外面を整え、彼らに調子を合わせることによって、自分を守ろうとした。あるいは、彼らと交渉できると考えて、不信者らの議論に積極的に関与して行ったがために、結果的にこの世に取り込まれ、帰らぬ人となった。

そのような人々には、自分たちがご機嫌伺いをしている相手が、神ではなく、この世であり、自分たちの目指している生き方が、「神に従順な生き方」ではなく、「悪魔に対して波風立てない生き方」であることが分からなかった。

「この世の流れ」(エペソ2:2)、すなわち、この世の「空気」なるものを支配しているのはもともと「空中の権威を持つ支配者(エペソ2:2)、すなわち、悪魔である。従って、そこで、自然発生的な世論であろうと、人工的に作り上げられた世論であろうと、いずれにしても、人の目を気にし、人に批判されることを恐れ、この世の識者のご機嫌伺いをし、この世と交渉したり、それに調子を合わせることによって自分の身を守ろうとする者は、「この世の君(この世を支配する者)」(ヨハネ14:30)である悪魔に仕えているのである。だが、彼らにはそのことが自分では分からないのである。

彼らは、たとえ何かがおかしいとうすうす気づいていても、親玉を本気で糾弾するとひどい目に遭わされると思い込んでいるため、ストックホルム・シンドロームに陥った囚われ人のように、悪魔の共犯者となってその悪行をかばい、その罪を連帯責任で自ら負おうとすることしかできない。

だから、ひとたび、クリスチャンの誰かが不信者らが作り上げたこの偽りの「空気」を疑い、それがこの世に由来するものであり、御言葉に基づかない、堕落して悪なるものであることを主張し、これを断固、拒否して、御言葉に立ち戻って生きる必要性を訴え始めると、この世と一体化して操られている偽装信者たちが、わっと押し寄せて来て、この世に波風立てるな、おまえはひどい目に遭わされたいのかと、盛んに脅して口を封じようとするのである。そして、そのようなことをする信者は変人で厄介者だという「空気作り」に、より一層、励もうとするのである。

このような人々は、たとえ信者を名乗っていても、実質的には、「この世の君」の奴隷なのであり、もっと言えば、彼らの父は悪魔であるのだとさえ言える。

聖書にはこう書いてある、「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

そこで、はっきり言えるのは、悪魔に断固、立ち向かいさえすれば、彼らの脅しているような結末には決して至らないということである。
 
立ち向かわないから、ひどい目に遭わされるのであって、毅然として立ち向かえば、悪魔は逃げ去るとはっきり聖書に書いてあるのである。

さらに、もしひどい目に遭わされるとすれば、それは悪魔の奴隷とされている人々が、自分の主人に謀反を企てた場合であって、すでに奴隷から解放されて、悪魔を主人としていない者は、そのような罰を受ける筋合いにはない。一事不再理の原則が適用され、キリストが受けて下さった刑罰が、私の受けた刑罰となり、私はすべての罰をすでに受け切って、無罪放免された身なので、負債は残っておらず、罰せられる理由が何も存在しないのである。

私の主はキリストであって、悪魔ではない。従って、悪魔の支配するこの世の法則に従い、そこに住む人々の言い分を恐れ、彼らの思惑を忖度して暮らさねばならない理由が私には存在しないのである。

エクレシアはこの世から召し出された者たちであり、キリストはこの世よりも偉大な方であり、世に勝った方である。彼によって生まれ、彼を信じる者たちもみな彼と同じように、この世よりも強いのである。

そこで、信者が自分で何を信じるかだけが問題となる。信者は一体、誰の評価を得るために生きているのか。人の評価か、それとも、神の評価か。本物のクリスチャンがこの世から歓迎されることなど、あるはずもないことは、聖書が幾度にも渡り警告していることである。なのに、それでも人の評価が恐れるに足るというならば、神の評価は、一体、その何倍、恐れるべきものだろうか。

「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。
 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。

 ですから、彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。
 
 わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい。
 
 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:24-28)


だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

 ですから、わたしを人の前で認める者はいな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10:32-33)



「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ5:3-5)

「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」(Ⅰヨハネ4:4)