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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

地上の経済によらず、天の経済に生きる―神のうちに隠された生活―

「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ3:3)

ある兄弟が経済問題で相談に来たことがあった。この兄弟とは常に経済問題を通して信仰を語り合って来た。兄弟は言う、何度も就職するのだが、どこへ行っても全く同じ困難に突き当たるのだと。どの職場へ行っても、待っているのは過酷な勤務条件、搾取や虐めなど、同じ問題であり、しかも、それは一人の努力によっては乗り越えられないほど壮絶であると。こういった問題は、この兄弟に限ったことでなく、日本の若者の多くが置かれている一般的な状況とも言えるものであった。

幾度かの再会の後、ついに兄弟はこう結論づけた。「この世の経済はマモンの神が支配しています。企業も同じです。この経済に身を置きながら、主に仕えることは絶対に両立しないとぼくは思います。労働とは、そもそも、聖書によれば、創世記で、人間の罪に対する罰として人に科されたものですよね。ぼくは最近、労働そのものが、人間に対する懲罰としての呪われた本性を現して来ているように思えてならないんです。」 

この問題提起は重要なものと感じられた。今やこの世の地上の経済がどうにも回復不可能なほど危機的な状況へ向かいつつあるらしいことは、誰も否定しない共通認識のようになっている。そこには行き詰まりしかなく、希望に満ちた新しい展望はない。では、我々、キリスト者はこのような中、どこに活路をみいだすのか?

私は兄弟に天の経済のことを語った。聖書の原則によると、人の生存は自己の労働によって支えられているものではないこと、蒔くことも刈ることもしない動物たちや草花が神によって生かされているように、信仰者の生存は神によって直接支えられているのであり、神が私たちの命に対して全責任を負って下さっていること。だから、この世の法則とは別に、まことの神を信じる者を生かす別の法則が必ず存在しており、神を信じて、落胆せずに、天の富を地上に引き下ろす方法を見つけるべきだと。
 
物質的な支援だけを当てにしているような人にとっては、このような話は荒唐無稽の空想物語にしか響かないだろう。しかし、私は、天の経済に生きることが実際に可能であることを、それまでの人生において、幾度も確かめて来ていた。ちょうど聖書に登場する昔の預言者たちが、世から敵とみなされて迫害され、行き場を失ったような時にも、神ご自身が彼らを生かし、養って下さったように、この世の常識によっては完全に道が絶たれているように感じられる時にも、神のみもとに身を寄せ、神を信頼して安んじるならば、必ず、神はその者たちをお見捨てにならないのだということを幾度も確かめて来たのである。

地上ではどんなに小さく取るに足らないか弱い存在であったとしても、神を信頼して、神にのみ頼る者を、神がお見捨てになるようなことは決してない。むしろ、世の助けを失ったと思われるような時にこそ、みなしごややもめのように寄る辺ない者をしっかりと保護される力強い神の真実、正しさを生きて味わい知ることができるのである。

「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。
 神は孤独な者を家に住まわせ、
 捕われ人を導き出して栄えさせる。
 しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。」(詩編68:5-6)

「彼に信頼する者は、失望させられることがない」(ローマ9:33)
 
 さて、この世の労働そのものがもはや人間への懲罰と化している、というテーマについては、いずれまた別の機会に触れることがあると思うが、ここで一つだけ断っておきたい。それは、労働を賛美する思想とは、共産主義の思想に顕著にみられた特徴に他ならないということだ。

確かに、聖書も、手ずから働いて、他人の厄介にならずに自立した生活を送るように勧めてはいる。「<…>落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」(Ⅰテサロニケ4:11) 使徒たちも、信者に負担をかけまいと、信者たちからの献金を受け取ることを断って、様々な仕事に従事していたことは知られている。

だが、共産主義の思想に従って作られた社会主義国では、労働の意味合いはそういう通常の概念とは全く異なっていた。そこでは私有財産というものが認められていなかったので、労働は全社会を栄えさせるためのものであっても、人が自分個人を養う手段ではなかった。さらに、そこでは「労働による再教育」が奨励されていた。つまり、労働とは、共産主義社会に見合う理想的な人間を作り出すための人格改造、思想改造の手段とみなされており、人が日々の糧を稼ぐための手段ではなかったのである。労働とは、堕落した人間を、理想的な社会にふさわしい人間に作り変えるための人間改造の手段だったのであり、さらには、人類の共産主義ユートピア社会を到来させるために、なくてはならない奉仕とみなされていたのである。

このような(歪められた)文脈での労働というものが、聖書に照らし合わせて、真っ向から神に対立するものであり、忌むべきものであることは間違いない。なぜなら、このブログで何度も指摘して来たように、神は決して外側からの圧力によって、もしくは人自身の努力によって、人間が人間を自己改造するということをお認めにならないからである。人間の変革、刷新という問題に対し、聖書が提示する答えはただ一つ、人が贖い主なるキリストを心に信じて受け入れることにより、信仰を通してキリストと結ばれ、キリストの十字架の死と一つになり、死と復活を通して、内側から変革されることだけである。そして、それは強制によらない、人の自主的な選択である。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

従って、労働を通じて人間を改造するという考えは、キリスト抜きに、神の介在なくして、人間が人間を自己改造しようという企てに他ならず、それには見込みがないだけでなく、そのような文脈における労働は、必ず人類による人類の自己処罰のような性質のものとなり、負い切れない重荷、呪われた苦行のようになって行くだけなのは目に見えている。そして、実際、これは大げさな表現ではなく、事実、社会主義国の歴史はそのような経過を辿った。労働は全く人を救う手段とはならなかったのである。

創世記にはこうある、アダムが罪を犯したゆえに、生まれながらの人には例外なく次のような宣告が下された。

「あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは、一生、
 苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。<…>」(創世記4:17-19)
 
おそらくはこれが地の経済の本質であろう。労働は、人間改造の手段などではなく、罪に対する報酬の一つであり、本来的に不毛なのである。ただ食を得るためだけに(命をつなぐためだけに)人は一生、苦しんで働かなければならない。だが、その苦労に対して、報いは少なく、最終的にはその努力は死となって結実する。

このような呪われた地上の法則に対して、私は、キリストにある人には、地上の法則とは別に、天の法則、天的な経済の法則があることを疑わない。確かに信仰者は生きる限り、地上に身を置いているので、完全に地上の法則と無関係になることはないが、天的な支配は、地上のすべての体系に優越し、それを支配するものである。この地上を超越する天の法則によって生きることこそ、以下で書いて来たように、自分の努力によらず、神の憐れみによって生きる生活であり、別の言葉で言い換えるなら、キリストの花嫁なるエクレシアとして、信仰者がただ神のみを主人として神ご自身に仕え、神にのみ頼り、あたかも神の専業主婦のように生きる生活ではないかと私は考えている。

このようなことを考えて行くときに、真っ先に思い出されるのが、創世記に登場するエノクの存在である。エノクが偉大な信仰者であったことは間違いないが、一体、彼が具体的にどういう信仰の歩みをしたのか、分かっているのは、次の二行だけである。

「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5:24)

エノクの人生には、預言者たちのような波乱万丈の事件に満ちた冒険的なストーリー、敵たちとの壮絶な闘いや目覚ましい勝利、などの偉業はなかったのであろうか。おそらく、私はそういう事柄はなかったか、あるいは彼にとって全く重要でなかったのではないかという想像に傾いている。

エノクの人生の特徴は、彼が神の中で安息し、神に対して生きることを他の何よりも優先したということに尽きるように思う。あたかも花嫁が花婿を愛し、喜び、彼を信頼して、自分のすべてを彼に預けてその肩によりかかり、花婿との語らいを至上の喜びとして生きるように、エノクは神の中に安らぎ、神と共に手を携えて生きることをすべてにまして愛し、優先したのだろうと。そこにどんな秘められた語らい、交わりがあったのかは誰にも分からない。だが、神がエノクの忠実さを喜び、彼を愛されたことは確かである。エノクには地上での自分の生活があったにも関わらず、彼はそこに主眼を置いていなかった。神との間で交わされる愛の語らい、交わりこそが、彼にとってすべてにまさるリアリティであった。それだからこそ、エノクは地上の人生が終わると同時にそのまま天の生活に移されたのである。つまり、エノクは地上にいる時からすでに天的生活を送っていたのであり、彼はこの世や、この世の人々に対して生きるよりも、なお一層、神に対して生きていたのである。
 
このように見ると、やはり、以下で記した天の経済に生きるとは、キリストの中で安息し、神の御前で、神に対して生きることに他ならないと考えられる。この時代が終わりに近づくに連れて、また、いよいよエクレシアが花婿なるキリストに迎えられる日が近づくに連れて、信仰者は今まで以上にキリストのみもとに身を寄せ、そのみそばに安息の場を求め、花嫁が花婿に自分を預けて寄り添うように、神を信頼して自分の全てをこの方に委ね、神ご自身だけに全ての関心を注ぐ秘訣を学ぶ必要があるのではないだろうか。それは神を隠れ家とし、そのみもとに隠される生活である。
 
詩編は言う、

「神はわれらの避け所、また力。
 苦しむとき、そこにある助け。
 それゆえ、われらは恐れない。
 たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。」(詩編46:1-2)

さて、主イエスは天国に招かれた人々のたとえ話の中で語られた。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない。」(マタイ22:14)と。

「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。」(マタイ22:1)
 
今、父なる神の最大の関心は、独り子なるキリストの婚礼の祝宴に向けられている。花婿なるキリストは、ご自分にふさわしい花嫁を迎える喜びに満たされている。父なる神は独り子の婚礼を祝うために、大勢の人々を招かれた。キリスト者は、ただ招かれた客であるばかりか、花嫁となるべく召し出された者たちである。

ところが、残念ながら、招かれた多くの人々は、神の願いには全く関心を払わず、婚礼への準備もしない。彼らにとっては、キリストご自身の願いよりも、自分の活動や働きの方がはるかに重大な関心事なのである。この人々は絶えず自分の生活や活動に目を奪われていて、自分の問題から目をそらすことができない。妻をめとり、畑を耕し、商売をし、本を出版し、集会を開き、外見を磨き・・・。そういう活動の方が、彼らにとっては神の御思い(などという抽象的な問題よりも)はるかに優先課題なのである。こういう人々は結局、天の御国から除外されてしまう。

さらに、多くの信仰者は神のためにという口実で目覚ましい働きを打ち立てようとする。だが、彼が誇り自負しているその働きよりも、もっと重要なのは、その人自身が、神の御前でどう生きたかという心の姿勢であることを理解している人は少ない。聖書には、確かにこう書いてあるのだ。

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」(マタイ7:21-23)

従って、人がこの地上において、神のためにどんな目覚ましい働きをし、どれだけの影響を世に及ぼしたのかといった問題も、ほとんど重要ではないのである。重要なのは、神は何を重視しておられ、人に何を願っておられるのか、また、人が神の御思いに対してどのくらい応答したのかという問題だけなのである。

もし神の御思いをとらえることさえできたなら、その他のことは、人にとってほとんどどうでもいい些末な問題でしかない。多くの人が日々心を砕き、思い煩っているような様々な問題には、ほとんど関心を払うだけの価値がない。もし本当に神ご自身の願いを知って自分の願いとし、神の御思いにふさわしい関心を払い、それに応答するならば、人の抱えるそれ以外の問題など、神ご自身があっけなく解決して下さることだろう。それは、それほどまでに神はご自分に心をしっかり向けて、ご自分を真に愛する人々を欲しておられるからである。それが、花嫁エクレシアに対する花婿キリストの愛なのである。

そこで、神の御思い、これに心の照準を第一に合わせ、神の御思いに応答しながら、その中を生きることができるかどうかが、これからの時代、信仰者にとってはかりしれないほど重要な課題となって来るであろうと私は思う。人に対して生きるのでなく、世に対して生きるのでもなく、神に対して生きること、この地上にありながら、神と共に天を生きることこそ、信仰者にとって何にもまして重要な課題なのであり、そのような生活を今から始めて行くことが肝要であろう。
 
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)
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