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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。

「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:6)

「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、 ただあなたの御名にのみ帰してください。」(詩編151:1)

「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。<略>
わたしたちは、他人の労苦の結果を限度を超えて誇るようなことはしません。ただ、わたしたちが希望しているのは、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたの間でわたしたちの働きが定められた範囲内でますます増大すること、あなたがたを超えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。

「誇る者は主を誇れ。」自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。」(二コリント10:12-17)

 とある用事を終えて人と別れ、東神奈川の駅に続く高架橋の階段を上った途端、ダイナミックな花火が始まった。大勢の人たちが足を止めて夜空を見上げ、スマホで撮影していた。筆者も足を止めて、ビルの合間から、夜空に万華鏡のように映し出される光景に見惚れた。週末に向けて、天からの思いがけない特別なプレゼントを受け取ったような気分である。

キリスト者の人生は、神とその人との共同の歩みであり、そこで起きる出来事に偶然はない。主はまことにすべての出来事を、信じる者のために絶妙なタイミングで計らって下さり、ご自分に聞き従う人たちのために、良い出来事も、悪い出来事も、何もかも最終的に益になるようにとりはからって下さる。
 
さて、今日のテーマは「顔を上げて主をまっすぐに見る」必要性である。

これまで筆者にとって、書類の束は、人生には欠かせない道連れのようであった。仕事でも、それ以外の場所でも、果てしない時間を、書類とのおつきあいに費やして来たのである。

しかし、このところ「書類から人へ」のシフトが起きつつある。

それが起き始めたのは、皮肉なことに、当ブログを巡る裁判の第一審の最中であった。

ちょうど約一年前、最初の期日に出廷した際のことは今でもよく覚えている。

その日、筆者は人生最初の裁判に臨むために、百ページを超える訴状を携えて、被告が出廷するよりもかなり前に、法廷に入って着席していた。それは筆者にとって初めて法廷を見る機会であったが、およそすべてが常識から外れたこの事件では、何もかもが通常通りではなかった。

遮蔽の措置を願い出ていた原告の席は、被告席とも、傍聴席とも、囲いで隔てられ、顔を合わせるのは裁判官のみであった。

書記官に案内されて、その衝立で囲まれた席に着席した後、筆者は表情をこわばらせたまま、机の上に訴状を置いて、開廷の時を待った。裁判官が法廷に入って来て着座したが、それでも被告はまだ来なかった。

非常に長く感じられる沈黙の数分間が過ぎたが、裁判官が、その間、まじまじと筆者を見つめているのが分かった。一体、このような非凡な事件を提起したのはどういう人間なのか、今、原告は何を考えているのか、心の中まで観察されているようであった。

法廷の主は、裁判官ただ一人であり、そこで裁判官の意思を妨げるものは何もない。

だが、被告と対面せずに審理を進める手続きが取られた時点で、裁判官は、筆者の危惧を真剣に受け止めてくれていることが分かっていたため、裁判官は決して筆者に悪意を持っておらず、筆者の敵でもない、ということは分かっていた。

そこで、裁判官から観察されていることは、筆者にとって、不快な印象ではなかったが、筆者はあえてそれに気づかないふりをして、緊張気味に、手元の訴状に視線を落とした。

それが、筆者と法廷との最初の出会いであったが、こうして人生最初の裁判の期日において、法廷に最初に登場して来たのが、裁判官であったこと、一審の最初から最後まで、筆者が対面したのも、裁判官と書記官だけであったというのは、何かしら非常に印象的かつ象徴的な出来事であった。

筆者は以前にも書いた。対面することは、知り合うことを意味し、関係性が深まって行くことを意味するのだと。この審理において、筆者は被告とは知り合わず、全世界に対して、自分を閉ざしていた代わりに、ただ一方向に向かってのみ、裁判所の人々に対してのみ、心を開いていた。

そのため、この審理の間に学んだことも、被告に対してどう答えるかということではなく、むしろ、裁判官の言動の一つ一つに注意を払うことの重要性であり、控訴するに当たっても、判決文を読んで、自分の主張の足りないところを学ぶことが必要となった。

裁判官の書いた判決と争うのではなく、それを読んで、自分の論理にどう足りない部分があったのかを学んだのである。
 
これは裁判というもの自体に対する筆者の見方を変えた。筆者はそれまで裁判とは、主に被告に反論するための場所だと考えていたが、実際には、裁判において注意を払うべき相手は、被告ではないこと、また、以前にも書いた通り、裁判官と心が通わないまま、被告との議論に誘い出されて行き、それに溺れることが、いかに重大な危険であるかを知らされた。

さらに、裁判官は決して筆者に言葉で注意を促したことはなかったが、筆者が裁判官の話している最中に気もそぞろであったり、うつむいたり、わき見していたりすると、やや苛立たし気に、自分に注意を向けるよう、暗黙のうちに促していたように思われた。

そうして裁判官に注意を向けることには、ただ裁判の進行から目を離さないとか、自分に有利な結果を得たいがために、裁判官の心を自分に向けさせるといった目的とは異なる、より深い意味があったように思う。

なぜなら、その頃、筆者の勤めていた会社でも、上司がさかんに同じようなことを筆者に求めていたからである。

その当時の筆者に必要なのは、自分を生かし、解放することのできる権威者から、片時も目を離さず、その人間のそばを離れず、その陰に隠れ、一人で危険や死へ赴かないために、絶えずその人間に注意を注ぎ続けることであったように思う。

それまで何事も自分で判断し、自分で決断して歩み続けて来て、それに不足はないと考えていた筆者にとって、それは新しい学びであった。

とはいえ、それは裁判官や、あるいは上司の判断を鵜呑みにして、自分自身では何も判断しないということとは異なる。他者へ依存することをも意味しない。それだからこそ、判決を得ても、筆者の判断で、審理はまだ続いているのである。

とにもかくにも、このようにして、筆者が書き上げて来た膨大な書面に、注意深く耳を傾ける者が現れ、権威を持って事件を裁く者が現れたおかげで、筆者の作り上げた書面は、一方通行ではなくなり、裁判をきっかけに、筆者の注意は、「書類から人間へ」シフトし始めた。

当初は高みから筆者を観察していた裁判官は、次に筆者のそばへやって来て、同じ目線で語り合い、やがて筆者の眼差しをとらえ、筆者の関心をとらえた。

そうして、筆者が果てしない時を費やして積み上げて来た膨大な書類に生きた光が当てられ、それに見えない承認印が押され、現実に大きな変化をもたらす効果的な宣言が下された。だが、そのように解放的な宣言を受けたこと以上に、筆者は、不思議な「干潟」に働く作用に何より心を奪われたのであった。

だからこそ、筆者は一審が終わった後も、このフィールドに尽きせぬ関心を寄せて、そこにとどまり続けて、そこから、自分だけでなく、他者のためにも、不思議なエネルギーを汲み出す方法を開発しているのである。

ところで、「顔と顔を合わせて『知り合う』」ということは、ただ面識が出来て互いが何者であるかを知ること以上の意味がある。

聖書において、キリストと人とが顔を合わせるのは、人の贖いの完成の瞬間のことであり、顔と顔を合わせた者は、似た者同士になる。

「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(二コリント3:15-18)


これまで当ブログでは、聖書をさかさまにした偽りの悪魔的教えであるグノーシス主義の構造の分析に、多くの紙面を費やしてきたが、「鏡」とは、グノーシス主義において、極めて重要なシンボルとして利用されていることをも示した。

グノーシス主義における「鏡」とは、弱い者が、強い者の性質を盗み取る(簒奪する)ために使うトリックである。

映画"MISHIMA"の分析シリーズでそのことはすでに示したので、詳しく繰り返さないが、「神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から③」などを読んでいただければ、そのトリックがよく分かるものと思う。

グノーシス主義においては、被造物は「神々」であり、そこには無限のヒエラルキーがあり、その頂点に君臨する至高神とされている「神」は、「鏡」にたとえられる。
 
グノーシス主義では、神を「鏡」にたとえることにより、神があたかも被造物によって「見られる存在」、「知られる存在」(=対象)であるかのように置き換え(貶め)、被造物の誕生は、神が造物主として自らの意思で被造物を創造したことによるのではなく、至高神という「鏡」に、神の意思とは関係なく、神の姿が似像(映像)として乱反射するように映し出されることによって、そこに映し出された映像が、「存在の流出」として、「神々」すなわち被造物を誕生させたのだという。

このような概念の「鏡」は、神の概念を骨抜きにするものであり、被造物が何らかの方法で神を盗撮することにより、神の意思とは関係なく、神の聖なる性質を盗み取って、自己を栄光化したと言った方が良く、聖書における創造とは正反対である。

上記のコリント人への手紙を読めば、聖書において「鏡」とは、神ではなく、むしろ、被造物を指していることが分かるはずである。
 
鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」というフレーズによく表れているように、私たち信じる者たち一人一人が、神の栄光を、鏡のように映し出すことにより、主の似姿に変えられて行く存在なのである。

つまり、神が被造物の栄光を映し出す「鏡」なのではなく、被造物である私たち人間こそが、神の栄光を反映するための鏡なのである。だから、グノーシス主義はこの点で、聖書とはさかさまであり、神と被造物との関係性を逆転させていることがはっきり分かる。

さて、神と人との関係は、どこまで行っても、神は「知る者」であり、人間は「知られる者」であるという秩序から出ることはない。とはいえ、神と人とが対面して知り合うことによって、むなしい鏡に過ぎない被造物に、神の聖なる性質が光のように反映するのである。

このことは、人間が宮であり、神殿として創造されたことと密接な関係がある。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(一コリント3:16-17)

人間は誰であれ、信仰の有無に関わらず、神を迎えるための宮として造られている。神に見捨てられ、神が不在となった宮は、単なる空っぽな入れ物に過ぎず、何の価値も持たず、聖なる場所でもない。

神が不在である宮は、灯りをともされない真っ暗な建物にもよく似て、そこに光が当てられない限り、どんな機能があって、どんな構造になっているのか、誰にも分からない。しかも、宮として造られた建物は、通常の住居としても使えないので、どんな優れた装飾が施されていようと、神がやって来られて使用されなければ、何の役にも立たない無用の長物でしかない。

同じように、鏡は、映し出すべき対象がなければ、誰に対しても役目を果たさない。そのことは、私たち人間が、自己の力では、自分を知ることさえできないことをよく表している。

私たち被造物という「鏡」には、私たちが目にするもの、心に注意を向けるものが映し出される。

だが、その「鏡」に映し出されるのは、誰なのか、何なのか。この世の移ろいゆく事象か、自分自身の思いか、それとも、サタンの姿なのか、神の姿なのか・・・。

私たち自身が誰に目を向け、何に心を留めるかによって、私たちが心の鏡に映し出す映像が変わる。だが、その映像の如何によっては、その鏡は、ナルシスが覗き込んだ水面のように、「虚無の深淵」となって、私たち自身を吸い込んで終わるだろう。

なぜなら、鏡それ自体には、何も創造する力もなければ、自力で映し出すべき対象を見つけることもできず、映し出した対象に命を与えることもできないからだ。ただ鏡の持ち主がやって来て、自分の姿をそこに移し出すとき、初めて、鏡の役割が全うされるのである。

そのことは、被造物それ自体は、罪に堕落した瞬間から、滅びに定められ、虚無に服しているため、被造物の栄光は、ただお一人の神に目を向けることからしかやって来ず、人間は、自分では何も生きたものを生むことのできない虚無であることをよく物語っている。

人間の知識は、無限の鏡と、そこに映し出された果てしない自己の映像の中を生き巡っているだけで、どんなに鏡の中に自己の姿を映し出しても、そこから真実は見えて来ず、永遠の堂々巡りというトートロジーに陥るだけである。
 
そこから解放される手段は、私たちのまことの主であるただお一人の、生きておられる神に目を向けることだけである。

モーセの書は、何も映し出さない鏡のようなものである。それは、筆者が書き上げた膨大な訴状や、準備書面にも似て、そこには、意味のない事柄が書き連ねられているわけではないが、事件を裁く者が誰もいなければ、それは誰からも認定されることのない、正しいのかどうかも分からない、命が与えられることもない、一方的な主張に過ぎない。

モーセの書は、人間の違反を宣告するものであり、人間には自力で神の聖に到達する手段がないことを告げ知らせるだけの、人を生かす力のない「死んだ文字」である。その書のどこを探しても、終わりなき善悪の議論が展開しているだけで、そこから人間を救い出し、人にまことの命を与えるために、キリストが来られる必要があったのである。

第一審の開始当初、筆者の鏡には、まだ自分のモーセの書しか映し出されるものはなかったが、裁き主はすでに登場していた。

筆者はこの審理の最中、自分の心の鏡に「被告(ここでは象徴的にサタンとする)」を映し出すことをやめねばならないことに気づかされた。対面せずとも、心の鏡に映し出された対象と、筆者は向き合っているのと同じだからである。
 
そこで筆者は、自分の心の鏡には、真に価値あるものしか映してはいけないということに徐々に気づかされた。映し出された者と、筆者とは、鏡を通して「知り合う」こととなり、その鏡を通して、映し出された者の性質が、筆者に命として分け与えられる。
 
それは簒奪によるのではない、善意と自由意志と責務に基づく真実な分与である。

もしも筆者よりも弱い者が、鏡を使って筆者の映像を盗み取ろうとするならば、筆者はそれによって力を奪われ、卑しめられるであろう。しかし、筆者よりも強い者が、筆者を解放するためにやって来て、その鏡に自分の姿を映し出すならば、それによって、その者の強さが、筆者に分与されるのである。
 
不思議なことに、判決を通して、裁判官の持っていた性質が、幾分か、筆者にも付与された。裁判官の書いてくれた判決は、筆者に法的な世界へ扉を開いてくれる目に見えない紹介状となり、その紹介状を持って、新たな場所へ向かったところ、利害の異なる、対立する人々の言い分をジャッジするという、裁判官の仕事にどこかしら似た、新たな任務が与えられた。

これが命の分与の結果であった。筆者は判決を通して、ただ自分が訴状において求めていた解放を幾分か得たというだけにとどまらず、裁判官から分与された目に見えない命を通して、裁判官の行っていた仕事の性質を、幾分か分け与えられたのである。

こんなことは、およそ信じがたい、ファンタジーのような話だと思われるのは結構である。幻想と言われようと、そうなったことは変わらない事実である。

筆者の心には、自分に解放的な宣言を与えてくれた人にならって、自分も他者に同じように解放を与えることのできる仕事をしたいという願いが生まれ、その願いに応じて行動した時、次なる出来事が起きたのである。
 
* * *

さて、ある日、仕事に従事している最中、同様の作業に従事する人たち全員に一人一枚の「抽選券」が配られた。

そこには、仕事の奥義を学びたい、とりわけ熱意あるえりすぐりの有志たちに向けて、ある学習会が提案されていた。

誰もが参加できるわけではないが、申し込みは誰でも可能だというので、筆者は浅はかにも、学習を積む良い機会だと思って、行列ができる前に、応募してみた。

ところが、その抽選は極めて当たる確率が低く、しかも、学習会は、建設中の「バベルの塔」の中で行われることが判明した。
 
申し込んだ後で、当選の条件も変更された。学習会へ招かれるためには、まずは分厚い学習書として、モーセの書を自費で購入した上、それに精通し、ピラトの階段をひざで上り、今いるよりも上層のヒエラルキーまで昇格せねばならないことが知らされた。

だが、モーセの書は高価で、通常の書店に売っていない上、分厚く、とてもではないが、その勉強は、学習会の開催に間に合いそうにもなかった。しかも、ピラトの階段は、人がようやく登れる程度の幅しかなく、大変な高所にあるため、登っている最中に落ちて死んだ人が後を絶たないのだという。

筆者はピラトの階段に挑戦しようとしたが、一段、登ろうと、上の段に手をかけた途端、背中のリュックに入れていたモーセの書が、途方もない重さになって体にのしかかり、思わずよろめいた。

その瞬間、筆者の後から階段を上って来ていた同僚の誰かが「大丈夫ですか?」と親切そうに声をかけ、手を差し出してくれたので、筆者がその手につかまろうとしたところ、その同僚は、筆者の手を思い切りつかんで、筆者を下に引きずりおろし、筆者を押しのけて、さっさと上段に登って行った。その際、聞こえよがしに「身の程知らず」とささやいて行った。

こうして、階段を上るどころか、早々にひきずりおろされた筆者は、学習会と書いた旗が、はるか階段の上方にひらめいているのを見て、これは何かしら人間を愚弄するとてつもない罠のような話だから、そのような提案には乗らない方が賢明だとようやく理解した。

さて、見学会を率いる隊長は、ピラトの階段どころか、断崖絶壁を膝でよじ上るのが趣味で、すでにいくつもの奥義的な知識を身に着け、誰よりも上層のヒエラルキーに到達しているという噂であった。その人自身が、「ラビ」と呼ばれ、まるで断崖絶壁のような性格であった。親切そうに、謙虚そうに振る舞ってはいたが、人を容易には寄せつけず、また、彼の後を追って、ピラトの階段を登って行く人たちは、みな彼と同じような性格の人たちばかりであった。

いつの間にか、筆者を笑顔で階段から蹴落とした誰かが、当選者になっているという話も聞こえて来た。

筆者は、少数精鋭の当選者の集団が、バベルの塔で開かれる特別な奥義的知識を得るための学習会に向けて出発した後で、彼らが捨てて行った抽選券を拾い上げてみた。すると、そこには、誰が書いたのか、赤文字で、「クーデター。盗んだ水は甘く、ひそかに食べるパンはうまい。高ぶりは倒れに先立つ。バビロンから遠ざかれ。塔の崩壊に巻き込まれるな」と書き込まれてあった。

その時、筆者のもとには、紹介状に形を変えた判決文があったので、それを見ると、そこには、「あなたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたを選んだ。権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によって。わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さの中に完全に発揮される。」との文章が書き加えられていた。

筆者はそれを見て、塔の見学は高ぶりへの道だったことに気づき、このような抽選には申し込んではならなかったのであり、行かなかったことも、幸いだったと知った。そして、今一度、偽りの知識をためこむ生活から離れ、手元にあるモーセの書から目を離し、まことの主人に向かって目を上げなければならないと気づいた。

バベルの塔とは、別名を善悪知識の塔と言い、そこには、人が獲得した知識の程度に応じて、無数のヒエラルキーがあることを示す、果てしのないピラトの階段が、まるで塔にからまるツタのように、周りをらせん状に取り巻いている。その上層部には、あらゆる学者、宗教学者、数々の「専門家」らが名を連ね、彼らには絶大な富と、栄光が約束されている。

だが、筆者は、その塔が人に約束している幸福を与えず、彼らの独占する知識が、人を解放にも導かないことを知っていた。筆者自身が、専門家という呼称がいかにむなしいものでしかないかを思い知らされて来たのである。

しかも、このヒエラルキーがよすがとしている知識とは、昔々、サタンがエデンの園で、蛇の形を取って人類の前に現れ、この知識を身に着ければ、あなたは神のようになれると嘘を吹き込んだ、偽りの知識に由来するものである。

それは人を高慢にする知識であり、それをサタンから伝授された日以来、人類は果てしなく天に至るまでの塔を建設し続け、ピラトの階段をひざでよじ登り続け、互いに分裂と争いを続けている。

だが、筆者に与えられたミッションは、他でもないバベルの塔建設や、ピラトの階段を上る最中に、不幸な目に遭った人たちを助けることにあり、そこで筆者の課題は、人を不幸に追いやるピラトの階段のヒエラルキーを承認するのではなく、かえって、そこから零れ落ちた人々を助けることにあった。

この塔がためこんでいる知識は、どこまで行っても、人間を生かさない、独りよがりの閉ざされた知識であり、その知識を追求する限り、その人の人生に、他者というものは、一人も現れて来ない。

どんな家庭を築こうと、どんなに友達を増やそうと、どれほどの権威を身に着けようと、その知識を追求する人間にとっては、すべての人間が競争者であるから、彼は徹底的に孤独であり、人を信頼することができないのである。

筆者は、目の前に置かれたモーセの書を見ながら、法廷で訴状を前に、緊張しつつ、裁判官に見つめられていた瞬間のことを思い出した。

その時、筆者を取り囲んでいた囲いは、筆者が八方塞がりの状況にあること、解放は、ただ裁判官だけから来ることを告げていた。

だが、その時、筆者はまだ目の前に置いていたモーセの書にすがりつくように、これを一心に見つめ、裁判官でさえも、筆者の人生に、まだ生きた人間として、受け入れられていたわけではなかった。

その書面は、筆者の精いっぱいの自己防衛の手段であり、他者に自分を理解してもらうための唯一の説明であったが、筆者はその頃、他者とは誰かということさえ分かっておらず、裁判官でさえ、きっとこのような事件は、理解できまいと、心の中で考えていたのであった。

そこで、筆者は、自分で自分を肯定するために作り上げた書面を、唯一の武装手段のように思い、それが他者から承認されることなくして、生きたものとならないという現実――それゆえの他者の重要性――を、まだ十分に分かっておらず、事件の解決は、自分の努力によるものであって、他者からの助けは要らないかのように考えていたのである。

モーセの書は、人間の目に、あたかも正しい知識や、身を守るための理論武装の方法を教えてくれる武具のように見える。それは知識による人間の自己防衛の手段である。

だが、それを手に入れるために、人はどれほど果てしない苦労を費やさねばならないだろうか。筆者も、自分なりの書面を作り上げるために、どれほどの月日を費やしたかを思い出すが、その時、目の前に置かれていた訴状は、今でもまだ筆者の人生に形を変えては現れている。

裁判官は、筆者の作り上げた書を隅から隅まで読み、何度もそれを読み返し、その作成の苦労を知りつつも、その後、時間をかけて、筆者がモーセの書から目を離し、そこから解放されるように仕向けた。

裁判官は、筆者の作成した命の通わない書物に光を当てて、これを蘇生させた上で、共同作品のような宣言を作り上げたが、最も重要なのは、そこに書かれていた理屈ではなかった。

重要なのは、筆者の命の通わない訴えに、他者が命を吹き込んだということなのである。それによって、筆者に新たなミッションが与えられ、裁判官の任務の重要な性質の一部が、筆者の人生に分与され、それまで一方の当事者の立場にしか立つことのできなかった筆者に、自分を離れて、物事を俯瞰する新たな視点が与えられた。

こうして、筆者が一方の当事者である自分の立場だけから、すべての物事を見、主張し、判断するという制約から解き放たれたことは、おそらく筆者の人生を根本的に変えてしまうほどの大きな転換であって、これから先、徐々に筆者を取り巻くすべての人間関係に波及していく絶大な効果を持つ出来事なのだろうと予想する。

さらに、それまでモーセの書の研究という果てしなく孤独な作業に従事していた筆者が、そこから解放されて、生きた関係性の中に入れられたのである。

何か大きな逆転現象が起き、筆者がピラトの階段から、訣別宣言を突きつけられたのを機に、筆者と入れ替わるように、それまでモーセの書になどほとんど縁もゆかりもなかったと思われる大勢の人々が、筆者を押しのけるようにして、その階段に殺到して行った。

筆者は未だ手元の書面から、完全に目を離したわけでなく、そこから完全に解放されたわけでもないが、それでも、モーセの書をよすがに生きる人生を離れ始めた。

筆者のためのまことの裁き主は、常に筆者のそばにいてくれ、筆者に目を注ぎ、筆者の訴えを精査して、筆者の苦労を隅々まで分かち合いながら、常に筆者のために、弁護人となってくれ、知恵を与えてくれると同時に、筆者に対し、自分自身から目を離し、主ご自身に目を向けるよう、いつも教えてくれている。

「わたしを見なさい。わたしこそが、あなたにとって道であり、真理であり、命なのです。あなたの思いをわたしにすべて分かち合いなさい。わたしこそが、あなたの知恵であり、豊かさであり、あなたのための解放であり、安息なのです。わたしを見なさい。」

筆者は以前に、女性とはなぜ絶えず愚痴ばかりをこぼし続けている存在なのだろうかと書いたことがあった。このようなことを言えば、フェミニストが早速、抗議して来るかも知れないが、女性の話す内容に耳を傾けてみれば、その8割から9割は、愚痴と不満から成り立っており、残りの1~2割が自慢話と他愛のない雑談である。

古来から、異教の宗教では、女性は命を生み出す者として、豊饒のシンボルとして扱われて来たが、筆者はそうは考えない。聖書的な観点から見れば、命は女性から始まるのではなく、あくまで男性から始まる。その性質は、あらゆる場所に波及しており、フェミニストは、女性は男性と対等であるべきと言うが、筆者から見れば、女性には、男性と対等であれるだけの資質が初めから備わっていない。女性の働きは、どこまで行っても、陰のようである。

とはいえ、女性がその弱さを男性に対して率直に打ち明けるならば、男性は大いに彼女をかばい、守るであろうし、己が力を誇示して優位に立とうとは考えず、むしろ、彼女を助けることを光栄に思うだろう。

ただし、どういうわけか、そういう結果になることは少ない。弱いにも関わらず、女性が男性に君臨し、支配するというケースは至る所で見られる。多くの家庭ではそうなっているらしい。だが、もしも筆者の見立てが正しく、女性が本質的に虚無であるとすれば、女性による支配は、決して功を奏することはないだろう。

それでも、例外的に、女性の中には、女性の抱える弱さの制約を超えて、男性と同じような働きを成し遂げる人々がいないわけではない。だが、その場合でも、女性の抱える制約は、男性に比べて、圧倒的に強い束縛となると筆者は考えている。それは社会の進歩が遅れているせいではなく、生来の特徴から来るものである。

もしもそうした制約から完全に逃れたいと思うならば、条件はただ一つ、神に直結し、キリストに結ばれることである。そうすれば、その人は性別に関係なく、この世のすべての人々を超越することになる。
  
だが、そうした場合を除き、筆者から見ると、女性とは、限界ある被造物の象徴のようである。女性の弱さと限界は、被造物が、造物主なくしては、虚無でしかないことをよく表している。従って、女性が絶え間なく口にし続けている愚痴と不満も、とどのつまり、「私は単独では虚無である」ということを述べているに過ぎない。そこで、この虚無の中をどんなに探しても、正しい答えは見つからない。
 
この話は、性別の問題を論じるために持ち出したものではないし、女性差別の観点から主張しているわけでもない。

筆者はただ、女性の弱さと限界は、神の助け手として造られた人類が、神の御前で抱えている弱さと限界を象徴的に表している、ということを述べているだけである。

男であろうと女であろうと、人類が神の御前でしたためた書面には、自己の弱さと、限界と、苦悩の跡と、愚痴と不満しか書かれていない。誰であれ、神の御前では、弱さ以外に主張するものはないからである。

だが、神は人間が切なる訴えを抱えて、ご自分の御前に進み出るとき、決してこれを軽く扱うことはされないし、もちろん、人間の弱さを嘲笑うこともされない。

神の御前で全被造物は虚無であり、神は私たちの弱さ、限界、それゆえの惨めさをよく知っておられる。徹底的に心の中を探られても、私たち自身の内には、いかなる善も見つからないことも、予め知っておられる。

しかし、神はキリストのゆえに、私たちのすべての訴えに承認印を押して下さり、私たちの泣き言にも、十分に耳を傾け、疲れ切った私たちに新しい力を与え、罪に堕落し虚無に服した被造物を、御子のゆえに、洗い清め、義とし、新たな命を与え、生かして下さる。

それだけでなく、弱く、限界ある、堕落した、朽ちゆく卑しい存在であったはずの人間を、神の栄光を受けて、これを反映させる新たな高貴な人へと造り変え、万物を御子と共に統治する権威者、天の無尽蔵の富を受け継ぐ御国の相続人へと引き上げて下さる。

そこで、神と人とはもはや対立し、支配し合う関係ではなくなり、どちらかと言えば、パートナーのようになる。あれほど人間が求めてやまなかった神の聖、神の義、贖いが、すでに恵みによって、信じる者には約束されており、幾分か、実現してさえいる。もはや人間は、見捨てられて、弱く、孤独で、卑しい、寄る辺ない、蔑まれるべき存在ではない。

とはいえ、それはあくまで神の側からの恵み(恩寵)によるのであって、この恵みを受けるためには、人間の側でも、自己の限界を率直に認め、その恵みを求め、受け入れる姿勢が必要となる。

人間が、自分に弱さはなく、限界もないと言い張り、自分は神の助けを受ける必要はないと、自分を取り繕い、自力で神に等しい存在になろうと自己を鍛え、学習を積んでいるうちは、神の恵みはその人に注がれることはないであろう。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」(ヨハネ15:16-17)

そこで、筆者は改めて、自己推薦によってえりすぐりの集団に属するのではなく、神の推薦によって選ばれる人になりたいと願う。神ご自身が、ご自分の尊い性質を、私たちに分け与えようと自ら願って下さり、私たちを引き上げて下さる瞬間を待ちたいと思う。自力でピラトの階段を這い上り、自ら神の聖に到達しようとして、そこから転落して不幸になる道は御免である。

そこで、誰にも安息を与えることなく、高ぶりだけをもたらす偽りのヒエラルキーには背を向け、人の目に尊ばれるのでなく、恵みによって、神に選ばれ、生ける石となる道を行くことこそ、最高の安全策であることを思う。

そういうわけで、実に緩慢な変化であるとはいえ、筆者は手元の書類から徐々に目を離し始めた。書類は、これまで筆者にとって唯一の救命ボートのように見えており、武装手段でもあったが、力強い援護者が現れた以上、もはやそれにしがみつく価値はなくなったのである。

このことは、筆者が今後、訴訟を起こすことはないとか、書面を作成することはないという意味ではない。だが、モーセの書は高価な上、あまりにも重すぎて抱えきれず、救命道具どころか、大変な重荷となって、筆者の前進を阻んで来た。
 
ピラトの階段に別れを告げると、いつの間にか、主が筆者のそばにやって来て、筆者の手からこの重荷を取り上げ、代わりに持ち運んでくれるようになったのである。

今や筆者の人生には、様々な人々がやって来て、「あなたがこのような荷物を運ぶ必要はありません。私に任せなさい」と言って、筆者の手から重荷を取り上げて行く。そうでなければ、その重荷がまるで貴重な宝であるかのように、率先してそれを筆者から奪い取って行く人たちが現れる。
 
これは不思議な現象である。これまでの筆者は何でも自分でやってみたいと考え、挑戦するのが好きであり、苦労を苦労とも考えていなかったので、自分から断崖絶壁を登っていたのであり、その際、重荷を持ち運んでいるという自覚すらもなかったが、確かに、考えてみれば、このような重すぎる書物を自力で持ち運ぼうとすることは、それ自体が「身の程知らず」な行為だったと言える。

そういう意味で、バベルの塔へと続くピラトの階段の最初の一段目で、筆者が階段側から拒否されてこの道を離れたことは、まことに正しい結果だったと言えよう。それはまさに人にとって負い切れない重荷を担う苦行にしかならないからである。

今でも、目に見える地上の多くの教会には、まるで標語のように、以下の聖句が掲げられているが、筆者は、これを標語としてではなく、真実として受け止め、重荷を主に任せ、神によりかかって、安らぎのうちに歩きたいと願う。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)
  
この道は、筆者が始めたものではなく、神ご自身が始められ、筆者を任命されたものであるから、その行程を歩き通す力も、筆者自身に由来するのではなく、神が与えて下さるものでなくてはいけない。イザヤ書(40:25-31)にはこうある。

「お前たちはわたしを誰に似せ
 誰に比べようとするのか、
 と聖なる神は言われる。 

  目を高く上げ、
 誰が天の万象を創造したかを見よ。

 それらを数えて、引き出された方
 それぞれの名を呼ばれる方の
 力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。

 ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、
 歩いても疲れない。」

筆者に与えられた新たなミッションは、鳥のように天高く舞い上がり、そこから、地上のすべてを俯瞰するというものである。バベルの塔がどんなに高くとも、その高度はさらにそれを上回る。

筆者は天的な法廷に招かれ、そこで安全な囲いの中に入れられ、正しい裁きを宣告された。筆者の訴えは忘れられておらず、神ご自身が、筆者に正しい訴えを提起するための知恵を授けられたのである。
 
このように、神の側には、常に信じる者がすべての出来事に対処するに十分な備えがあり、神はへりくだった方であるから、へりくだった人を助けて下さる。そして、神は弱い人間を助けることを、心から光栄に思って下さる。人間が神の助け手として造られたにも関わらず、神は喜んで私たちを助けて下さり、またそうしたいと常に願って下さる。

だから、何事も主に相談し、すべての重荷を神ご自身と分かち合い、主に委ねよう。そうして、主と共に進むならば、私たちの荷は軽くされる。そして、自己の生来の限界と弱さにも関わらず、私たちは疲れることなく、立ち止まることもなく、常に軽い足取りで、心に喜びを絶やさず前進して行くことができるだろう。

走っても弱らず、歩いても疲れないだけでなく、翼をかって天高く舞い昇り、この世のすべてを天的な高度から見下ろし、平安のうちに統べ治めることができる。

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わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。

「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。

「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
遅れられることはない。
わたしの正しい者は信仰によって生きる。
もしひるむようなことがあれば、
その者はわたしの心に適わない。」

しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。
(ヘブライ10:35-39)


不思議なことに、裁判は筆者の人生観を大きく変えるきっかけとなった。不合理を打ち破るための強力な現実的な武器があること、勝利をおさめるまで最後まで粘り強く戦い続けることの重要性を実地で学ばされたためである。

筆者は物心ついた時から、言葉の世界に生きており、ある時には創作を、ある時には論文を書いたが、それらはどれも、筆者に定められた真のフィールドとは多少、異なっていたようである。

筆者が知りたかったのは、真に衝撃力の伴う、実体の裏づけのある正しく真実な言葉であり、そうした言葉は、以上の分野を通しては、発見することができなかった。

筆者が、初めて真の衝撃力を持つ言葉が存在することを知ったのは、聖書の御言葉が、生きた霊的な力を持つ真理であることを知った時のことである。

真理とは、実体と一つになった、全くズレのない正しい言葉であると言えるかもしれない。聖書の創世記において、神が「光あれ」と命令されれば、光ができたとあるように、言葉は本来、実体と完全に一つになっている、実体を呼び覚ますための命令なのである。

むろん、そういう言葉を行使できるのは、創造者であり、絶対者である神だけであり、地上の人間の発する言葉は、どれもこれも多くの誤謬と虚偽を含み、実体をどんなにとらえようとしても、とらえることのできない不完全なものである。地上の言葉は幾重にも分裂しており、多くの混乱と意志不疎通を極め、力のない者の叫びは、かりみられることもない。

とはいえ、不完全な人間の言葉の世界にも、聖書の御言葉に似た、生きた衝撃力を伴う言葉の世界を垣間見ることのできる分野があった。裁判に直面した時、筆者は新たな言葉のフィールドを発見した。この分野には、筆者が経験してきたどの分野とも根本的に異なる、もっと大きな言葉の衝撃力が、まるで地下に埋蔵されたエネルギー源のように眠っていたのである。

判決文には、法的拘束力がある。むろん、判決文がすなわち実体なのではなく、判決は行使されることによって初めて実際となるわけであるが、しかしながら、これはただの文章ではなく、実体を呼び覚ますことのできる威力の伴う言葉であり、責任を負うべき者に対しては厳しい裁きの宣告である。

我々は判決文を手にすれば、実力行使を行うことが可能になる。あるいは他人の財産に対して差し押さえに及ぶ根拠さえも得られる。これは悪人どもが地上の寄る辺ない人々を追い詰めるために日夜、不当に行使している手段であるが、それを正しい人々が正しい目的のために行使することも、可能となるのである。

だが、それを勝ち取るためには、我々はまず自分自身の訴えを提起し、自らの論敵と激しい論戦を繰り広げ、その不当性をことごとく指摘し、これを打ち破らなければならない。

地上における裁判の模様を観察して、筆者がつくづく感じたことは、これは神の法廷に似ている、ということであった。

私たちキリスト教徒の立場から見れば、この世は、聖書の神が見えない裁き主となって支配する法廷のようなものである。私たちは、望むと望むまいと、この法廷に、悪魔と弁論を戦わせるために呼び出されている。

悪魔に対する裁きはすでにカルバリで決定している。従って、悪魔こそ、真に有罪を宣告された被告に他ならないのであるが、悪魔は「兄弟たちを告発する者」であるから、何とかしてその宣告を否定し、覆したいと願っているのであって、それゆえ、人間(我々―信者)を罪に定めようと、あることないこと、日夜、訴え、何とかして我々の権利を不当にかすめ取ろうとしている。

神は悪魔がご自分に敵対・挑戦していることを十分に知りながら、まずは、悪魔を論破する仕事を私たち人間に託されている。私たちの使命は、悪魔と暗闇の勢力から投げかけられる虚偽の訴えに対抗して、これに打ち勝つことである。

そこで、私たちは、キリストの十字架の贖いに固く立って、悪魔が人間を罪に定めようと執念深く訴えているその訴えを、何倍も上回る激しさで、御言葉という目に見えない揺るぎない法を武器に、悪魔を有罪として告発し、失われた正当な法的権利を取り戻す。

さて、「悪魔を糾弾する」というテーマについては、当ブログでは、何年も前から書いて来たが、実際に地上で法的権利を行使する方法を学ぶ時に、それに実践的な裏付けが与えられたように思う。

一般に、世の中の人々は、弁護士や裁判官といった類の人々を恐れ、法廷闘争などには決して関わりたくないと願って生きている。その思いの中には、厳格な法秩序そのものに対する畏怖の念もあれば、悪者たちが司法を悪用して、貧しい人々を踏みにじっていることへの漠然とした恐れも反映しているだろう。

だが、もしも悪者たちが、寄る辺のない貧しい人々の権利をかすめ取るために、司法を悪用しているならば、その逆に、寄る辺のない貧しい者たちが、これを自分を擁護する武器として利用することも可能なのであり、この世の法秩序は、本来、弱く貧しく寄る辺のない者たちの権利を守るために存在するのであって、正しい用途で利用するならば、真に法的保護を受けるべき人々の実に強力な武器、要塞となる。

そのことが分かったとき、それまでよそよそしい場所でしかなかった裁判所は、まるで筆者のための強力な砦のように感じられた。家と言っても良いほどである。裁判所の権威の源となる、弱い人々の権利を、強い者の横暴から守るために定められた法が、筆者には真に敬うべき価値のあるもの、真理である御言葉の絵図のようなものとして受け止められた。

筆者は小説を書く方法も、論文を書く方法も誰からも教わらなかったが、訴状を書く方法も、準備書面を書く方法も、誰からも教わっていない。そこで筆者は、教科書もなく、前任者もいない、誰からも教わることのない、生きた人間が身をもって開拓して行くしかない道を進んでいるわけであるが、それにも関わらず、この作業に取りかかったときに、自分に定められたフィールドにとても近い場所まで来たような気がした。自らの言葉を紡ぐことにより、この世を雲のように分厚く覆う不条理に、ごくわずかでも穴をあけ、それを打ち破るきっかけを作るところまで来たのだ。

大きな津波も、押し寄せるときには、まず波がしらが砕け散ることから始まる。筆者のしていることは、波がしらが砕けるときに、そこから飛び散る一滴の飛沫のような作業でしかない。しかし、それが単なる飛沫なのか、それとも、津波の始まりなのかは、今はまだ誰にも分からない。この先、筆者の提起しているような無数の訴えが積み重なって行った時、雲の破れ目から光が差し、見栄えの悪い「干潟」に光合成がもたらされ、世の中の仕組みが変わり、法改正が促されるようなことも起きうると確信する。
 
それが、人の目からは隠されたこの「干潟」に眠っている、目に見えない巨大な利益なのである。筆者はこれを掘り起こすための作業をしており、筆者のための、隠されたエネルギー資源もここに眠っていることと思う。なぜ悪者たちがこれほどまで司法にこだわるのか、彼らはそこから自分のために何の利益を引き出そうとしているのか、筆者はおぼろげながら、理解し始めたのである。

従って、今起きている事柄は、将来のより大きく困難な戦いの準備段階であるという気がしてならない。この戦いの方法に習熟することは、非常に重要なチャレンジであって、その先に初めて、ダビデがゴリアテを打ち破ったように、弱く貧しい取るに足りない人間が、自分よりもはるかに強力な者の支配を打ち破るようなことが、可能になるものと思う。

むろん、筆者は将来に何が待っているのかは知らないが、何かしら筆者の果たすべきより重要な仕事があり、そのための学習をさせられているという気がしてならない。
 
いずれにしても、自分がまずどんな権利を持っているのかをきちんと認識し、固くそこに立って、一歩も譲らず、自分で自分を弁護し、自らの権利を擁護し、守り抜き、あるいは取り返す戦いを経ることは、私たちに非常な勇気と力を与えてくれる。

私たちの弁護者はキリストであって、彼自身が、言うべき言葉を私たちに与えてくださる。だから、勇気を持って日々、前進し、最後まで命の確信に立ち続けるべきなのである。


地上の経済によらず、天の経済に生きる―神のうちに隠された生活―

「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ3:3)

ある兄弟が経済問題で相談に来たことがあった。この兄弟とは常に経済問題を通して信仰を語り合って来た。兄弟は言う、何度も就職するのだが、どこへ行っても全く同じ困難に突き当たるのだと。どの職場へ行っても、待っているのは過酷な勤務条件、搾取や虐めなど、同じ問題であり、しかも、それは一人の努力によっては乗り越えられないほど壮絶であると。こういった問題は、この兄弟に限ったことでなく、日本の若者の多くが置かれている一般的な状況とも言えるものであった。

幾度かの再会の後、ついに兄弟はこう結論づけた。「この世の経済はマモンの神が支配しています。企業も同じです。この経済に身を置きながら、主に仕えることは絶対に両立しないとぼくは思います。労働とは、そもそも、聖書によれば、創世記で、人間の罪に対する罰として人に科されたものですよね。ぼくは最近、労働そのものが、人間に対する懲罰としての呪われた本性を現して来ているように思えてならないんです。」 

この問題提起は重要なものと感じられた。今やこの世の地上の経済がどうにも回復不可能なほど危機的な状況へ向かいつつあるらしいことは、誰も否定しない共通認識のようになっている。そこには行き詰まりしかなく、希望に満ちた新しい展望はない。では、我々、キリスト者はこのような中、どこに活路をみいだすのか?

私は兄弟に天の経済のことを語った。聖書の原則によると、人の生存は自己の労働によって支えられているものではないこと、蒔くことも刈ることもしない動物たちや草花が神によって生かされているように、信仰者の生存は神によって直接支えられているのであり、神が私たちの命に対して全責任を負って下さっていること。だから、この世の法則とは別に、まことの神を信じる者を生かす別の法則が必ず存在しており、神を信じて、落胆せずに、天の富を地上に引き下ろす方法を見つけるべきだと。
 
物質的な支援だけを当てにしているような人にとっては、このような話は荒唐無稽の空想物語にしか響かないだろう。しかし、私は、天の経済に生きることが実際に可能であることを、それまでの人生において、幾度も確かめて来ていた。ちょうど聖書に登場する昔の預言者たちが、世から敵とみなされて迫害され、行き場を失ったような時にも、神ご自身が彼らを生かし、養って下さったように、この世の常識によっては完全に道が絶たれているように感じられる時にも、神のみもとに身を寄せ、神を信頼して安んじるならば、必ず、神はその者たちをお見捨てにならないのだということを幾度も確かめて来たのである。

地上ではどんなに小さく取るに足らないか弱い存在であったとしても、神を信頼して、神にのみ頼る者を、神がお見捨てになるようなことは決してない。むしろ、世の助けを失ったと思われるような時にこそ、みなしごややもめのように寄る辺ない者をしっかりと保護される力強い神の真実、正しさを生きて味わい知ることができるのである。

「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。
 神は孤独な者を家に住まわせ、
 捕われ人を導き出して栄えさせる。
 しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。」(詩編68:5-6)

「彼に信頼する者は、失望させられることがない」(ローマ9:33)
 
 さて、この世の労働そのものがもはや人間への懲罰と化している、というテーマについては、いずれまた別の機会に触れることがあると思うが、ここで一つだけ断っておきたい。それは、労働を賛美する思想とは、共産主義の思想に顕著にみられた特徴に他ならないということだ。

確かに、聖書も、手ずから働いて、他人の厄介にならずに自立した生活を送るように勧めてはいる。「<…>落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」(Ⅰテサロニケ4:11) 使徒たちも、信者に負担をかけまいと、信者たちからの献金を受け取ることを断って、様々な仕事に従事していたことは知られている。

だが、共産主義の思想に従って作られた社会主義国では、労働の意味合いはそういう通常の概念とは全く異なっていた。そこでは私有財産というものが認められていなかったので、労働は全社会を栄えさせるためのものであっても、人が自分個人を養う手段ではなかった。さらに、そこでは「労働による再教育」が奨励されていた。つまり、労働とは、共産主義社会に見合う理想的な人間を作り出すための人格改造、思想改造の手段とみなされており、人が日々の糧を稼ぐための手段ではなかったのである。労働とは、堕落した人間を、理想的な社会にふさわしい人間に作り変えるための人間改造の手段だったのであり、さらには、人類の共産主義ユートピア社会を到来させるために、なくてはならない奉仕とみなされていたのである。

このような(歪められた)文脈での労働というものが、聖書に照らし合わせて、真っ向から神に対立するものであり、忌むべきものであることは間違いない。なぜなら、このブログで何度も指摘して来たように、神は決して外側からの圧力によって、もしくは人自身の努力によって、人間が人間を自己改造するということをお認めにならないからである。人間の変革、刷新という問題に対し、聖書が提示する答えはただ一つ、人が贖い主なるキリストを心に信じて受け入れることにより、信仰を通してキリストと結ばれ、キリストの十字架の死と一つになり、死と復活を通して、内側から変革されることだけである。そして、それは強制によらない、人の自主的な選択である。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

従って、労働を通じて人間を改造するという考えは、キリスト抜きに、神の介在なくして、人間が人間を自己改造しようという企てに他ならず、それには見込みがないだけでなく、そのような文脈における労働は、必ず人類による人類の自己処罰のような性質のものとなり、負い切れない重荷、呪われた苦行のようになって行くだけなのは目に見えている。そして、実際、これは大げさな表現ではなく、事実、社会主義国の歴史はそのような経過を辿った。労働は全く人を救う手段とはならなかったのである。

創世記にはこうある、アダムが罪を犯したゆえに、生まれながらの人には例外なく次のような宣告が下された。

「あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは、一生、
 苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。<…>」(創世記4:17-19)
 
おそらくはこれが地の経済の本質であろう。労働は、人間改造の手段などではなく、罪に対する報酬の一つであり、本来的に不毛なのである。ただ食を得るためだけに(命をつなぐためだけに)人は一生、苦しんで働かなければならない。だが、その苦労に対して、報いは少なく、最終的にはその努力は死となって結実する。

このような呪われた地上の法則に対して、私は、キリストにある人には、地上の法則とは別に、天の法則、天的な経済の法則があることを疑わない。確かに信仰者は生きる限り、地上に身を置いているので、完全に地上の法則と無関係になることはないが、天的な支配は、地上のすべての体系に優越し、それを支配するものである。この地上を超越する天の法則によって生きることこそ、以下で書いて来たように、自分の努力によらず、神の憐れみによって生きる生活であり、別の言葉で言い換えるなら、キリストの花嫁なるエクレシアとして、信仰者がただ神のみを主人として神ご自身に仕え、神にのみ頼り、あたかも神の専業主婦のように生きる生活ではないかと私は考えている。

このようなことを考えて行くときに、真っ先に思い出されるのが、創世記に登場するエノクの存在である。エノクが偉大な信仰者であったことは間違いないが、一体、彼が具体的にどういう信仰の歩みをしたのか、分かっているのは、次の二行だけである。

「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5:24)

エノクの人生には、預言者たちのような波乱万丈の事件に満ちた冒険的なストーリー、敵たちとの壮絶な闘いや目覚ましい勝利、などの偉業はなかったのであろうか。おそらく、私はそういう事柄はなかったか、あるいは彼にとって全く重要でなかったのではないかという想像に傾いている。

エノクの人生の特徴は、彼が神の中で安息し、神に対して生きることを他の何よりも優先したということに尽きるように思う。あたかも花嫁が花婿を愛し、喜び、彼を信頼して、自分のすべてを彼に預けてその肩によりかかり、花婿との語らいを至上の喜びとして生きるように、エノクは神の中に安らぎ、神と共に手を携えて生きることをすべてにまして愛し、優先したのだろうと。そこにどんな秘められた語らい、交わりがあったのかは誰にも分からない。だが、神がエノクの忠実さを喜び、彼を愛されたことは確かである。エノクには地上での自分の生活があったにも関わらず、彼はそこに主眼を置いていなかった。神との間で交わされる愛の語らい、交わりこそが、彼にとってすべてにまさるリアリティであった。それだからこそ、エノクは地上の人生が終わると同時にそのまま天の生活に移されたのである。つまり、エノクは地上にいる時からすでに天的生活を送っていたのであり、彼はこの世や、この世の人々に対して生きるよりも、なお一層、神に対して生きていたのである。
 
このように見ると、やはり、以下で記した天の経済に生きるとは、キリストの中で安息し、神の御前で、神に対して生きることに他ならないと考えられる。この時代が終わりに近づくに連れて、また、いよいよエクレシアが花婿なるキリストに迎えられる日が近づくに連れて、信仰者は今まで以上にキリストのみもとに身を寄せ、そのみそばに安息の場を求め、花嫁が花婿に自分を預けて寄り添うように、神を信頼して自分の全てをこの方に委ね、神ご自身だけに全ての関心を注ぐ秘訣を学ぶ必要があるのではないだろうか。それは神を隠れ家とし、そのみもとに隠される生活である。
 
詩編は言う、

「神はわれらの避け所、また力。
 苦しむとき、そこにある助け。
 それゆえ、われらは恐れない。
 たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。」(詩編46:1-2)

さて、主イエスは天国に招かれた人々のたとえ話の中で語られた。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない。」(マタイ22:14)と。

「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。」(マタイ22:1)
 
今、父なる神の最大の関心は、独り子なるキリストの婚礼の祝宴に向けられている。花婿なるキリストは、ご自分にふさわしい花嫁を迎える喜びに満たされている。父なる神は独り子の婚礼を祝うために、大勢の人々を招かれた。キリスト者は、ただ招かれた客であるばかりか、花嫁となるべく召し出された者たちである。

ところが、残念ながら、招かれた多くの人々は、神の願いには全く関心を払わず、婚礼への準備もしない。彼らにとっては、キリストご自身の願いよりも、自分の活動や働きの方がはるかに重大な関心事なのである。この人々は絶えず自分の生活や活動に目を奪われていて、自分の問題から目をそらすことができない。妻をめとり、畑を耕し、商売をし、本を出版し、集会を開き、外見を磨き・・・。そういう活動の方が、彼らにとっては神の御思い(などという抽象的な問題よりも)はるかに優先課題なのである。こういう人々は結局、天の御国から除外されてしまう。

さらに、多くの信仰者は神のためにという口実で目覚ましい働きを打ち立てようとする。だが、彼が誇り自負しているその働きよりも、もっと重要なのは、その人自身が、神の御前でどう生きたかという心の姿勢であることを理解している人は少ない。聖書には、確かにこう書いてあるのだ。

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」(マタイ7:21-23)

従って、人がこの地上において、神のためにどんな目覚ましい働きをし、どれだけの影響を世に及ぼしたのかといった問題も、ほとんど重要ではないのである。重要なのは、神は何を重視しておられ、人に何を願っておられるのか、また、人が神の御思いに対してどのくらい応答したのかという問題だけなのである。

もし神の御思いをとらえることさえできたなら、その他のことは、人にとってほとんどどうでもいい些末な問題でしかない。多くの人が日々心を砕き、思い煩っているような様々な問題には、ほとんど関心を払うだけの価値がない。もし本当に神ご自身の願いを知って自分の願いとし、神の御思いにふさわしい関心を払い、それに応答するならば、人の抱えるそれ以外の問題など、神ご自身があっけなく解決して下さることだろう。それは、それほどまでに神はご自分に心をしっかり向けて、ご自分を真に愛する人々を欲しておられるからである。それが、花嫁エクレシアに対する花婿キリストの愛なのである。

そこで、神の御思い、これに心の照準を第一に合わせ、神の御思いに応答しながら、その中を生きることができるかどうかが、これからの時代、信仰者にとってはかりしれないほど重要な課題となって来るであろうと私は思う。人に対して生きるのでなく、世に対して生きるのでもなく、神に対して生きること、この地上にありながら、神と共に天を生きることこそ、信仰者にとって何にもまして重要な課題なのであり、そのような生活を今から始めて行くことが肝要であろう。
 
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)