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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。

「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。

「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
遅れられることはない。
わたしの正しい者は信仰によって生きる。
もしひるむようなことがあれば、
その者はわたしの心に適わない。」

しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。
(ヘブライ10:35-39)


不思議なことに、裁判は筆者の人生観を大きく変えるきっかけとなった。不合理を打ち破るための強力な現実的な武器があること、勝利をおさめるまで最後まで粘り強く戦い続けることの重要性を実地で学ばされたためである。

筆者は物心ついた時から、言葉の世界に生きており、ある時には創作を、ある時には論文を書いたが、それらはどれも、筆者に定められた真のフィールドとは多少、異なっていたようである。

筆者が知りたかったのは、真に衝撃力の伴う、実体の裏づけのある正しく真実な言葉であり、そうした言葉は、以上の分野を通しては、発見することができなかった。

筆者が、初めて真の衝撃力を持つ言葉が存在することを知ったのは、聖書の御言葉が、生きた霊的な力を持つ真理であることを知った時のことである。

真理とは、実体と一つになった、全くズレのない正しい言葉であると言えるかもしれない。聖書の創世記において、神が「光あれ」と命令されれば、光ができたとあるように、言葉は本来、実体と完全に一つになっている、実体を呼び覚ますための命令なのである。

むろん、そういう言葉を行使できるのは、創造者であり、絶対者である神だけであり、地上の人間の発する言葉は、どれもこれも多くの誤謬と虚偽を含み、実体をどんなにとらえようとしても、とらえることのできない不完全なものである。地上の言葉は幾重にも分裂しており、多くの混乱と意志不疎通を極め、力のない者の叫びは、かりみられることもない。

とはいえ、不完全な人間の言葉の世界にも、聖書の御言葉に似た、生きた衝撃力を伴う言葉の世界を垣間見ることのできる分野があった。裁判に直面した時、筆者は新たな言葉のフィールドを発見した。この分野には、筆者が経験してきたどの分野とも根本的に異なる、もっと大きな言葉の衝撃力が、まるで地下に埋蔵されたエネルギー源のように眠っていたのである。

判決文には、法的拘束力がある。むろん、判決文がすなわち実体なのではなく、判決は行使されることによって初めて実際となるわけであるが、しかしながら、これはただの文章ではなく、実体を呼び覚ますことのできる威力の伴う言葉であり、責任を負うべき者に対しては厳しい裁きの宣告である。

我々は判決文を手にすれば、実力行使を行うことが可能になる。あるいは他人の財産に対して差し押さえに及ぶ根拠さえも得られる。これは悪人どもが地上の寄る辺ない人々を追い詰めるために日夜、不当に行使している手段であるが、それを正しい人々が正しい目的のために行使することも、可能となるのである。

だが、それを勝ち取るためには、我々はまず自分自身の訴えを提起し、自らの論敵と激しい論戦を繰り広げ、その不当性をことごとく指摘し、これを打ち破らなければならない。

地上における裁判の模様を観察して、筆者がつくづく感じたことは、これは神の法廷に似ている、ということであった。

私たちキリスト教徒の立場から見れば、この世は、聖書の神が見えない裁き主となって支配する法廷のようなものである。私たちは、望むと望むまいと、この法廷に、悪魔と弁論を戦わせるために呼び出されている。

悪魔に対する裁きはすでにカルバリで決定している。従って、悪魔こそ、真に有罪を宣告された被告に他ならないのであるが、悪魔は「兄弟たちを告発する者」であるから、何とかしてその宣告を否定し、覆したいと願っているのであって、それゆえ、人間(我々―信者)を罪に定めようと、あることないこと、日夜、訴え、何とかして我々の権利を不当にかすめ取ろうとしている。

神は悪魔がご自分に敵対・挑戦していることを十分に知りながら、まずは、悪魔を論破する仕事を私たち人間に託されている。私たちの使命は、悪魔と暗闇の勢力から投げかけられる虚偽の訴えに対抗して、これに打ち勝つことである。

そこで、私たちは、キリストの十字架の贖いに固く立って、悪魔が人間を罪に定めようと執念深く訴えているその訴えを、何倍も上回る激しさで、御言葉という目に見えない揺るぎない法を武器に、悪魔を有罪として告発し、失われた正当な法的権利を取り戻す。

さて、「悪魔を糾弾する」というテーマについては、当ブログでは、何年も前から書いて来たが、実際に地上で法的権利を行使する方法を学ぶ時に、それに実践的な裏付けが与えられたように思う。

一般に、世の中の人々は、弁護士や裁判官といった類の人々を恐れ、法廷闘争などには決して関わりたくないと願って生きている。その思いの中には、厳格な法秩序そのものに対する畏怖の念もあれば、悪者たちが司法を悪用して、貧しい人々を踏みにじっていることへの漠然とした恐れも反映しているだろう。

だが、もしも悪者たちが、寄る辺のない貧しい人々の権利をかすめ取るために、司法を悪用しているならば、その逆に、寄る辺のない貧しい者たちが、これを自分を擁護する武器として利用することも可能なのであり、この世の法秩序は、本来、弱く貧しく寄る辺のない者たちの権利を守るために存在するのであって、正しい用途で利用するならば、真に法的保護を受けるべき人々の実に強力な武器、要塞となる。

そのことが分かったとき、それまでよそよそしい場所でしかなかった裁判所は、まるで筆者のための強力な砦のように感じられた。家と言っても良いほどである。裁判所の権威の源となる、弱い人々の権利を、強い者の横暴から守るために定められた法が、筆者には真に敬うべき価値のあるもの、真理である御言葉の絵図のようなものとして受け止められた。

筆者は小説を書く方法も、論文を書く方法も誰からも教わらなかったが、訴状を書く方法も、準備書面を書く方法も、誰からも教わっていない。そこで筆者は、教科書もなく、前任者もいない、誰からも教わることのない、生きた人間が身をもって開拓して行くしかない道を進んでいるわけであるが、それにも関わらず、この作業に取りかかったときに、自分に定められたフィールドにとても近い場所まで来たような気がした。自らの言葉を紡ぐことにより、この世を雲のように分厚く覆う不条理に、ごくわずかでも穴をあけ、それを打ち破るきっかけを作るところまで来たのだ。

大きな津波も、押し寄せるときには、まず波がしらが砕け散ることから始まる。筆者のしていることは、波がしらが砕けるときに、そこから飛び散る一滴の飛沫のような作業でしかない。しかし、それが単なる飛沫なのか、それとも、津波の始まりなのかは、今はまだ誰にも分からない。この先、筆者の提起しているような無数の訴えが積み重なって行った時、雲の破れ目から光が差し、見栄えの悪い「干潟」に光合成がもたらされ、世の中の仕組みが変わり、法改正が促されるようなことも起きうると確信する。
 
それが、人の目からは隠されたこの「干潟」に眠っている、目に見えない巨大な利益なのである。筆者はこれを掘り起こすための作業をしており、筆者のための、隠されたエネルギー資源もここに眠っていることと思う。なぜ悪者たちがこれほどまで司法にこだわるのか、彼らはそこから自分のために何の利益を引き出そうとしているのか、筆者はおぼろげながら、理解し始めたのである。

従って、今起きている事柄は、将来のより大きく困難な戦いの準備段階であるという気がしてならない。この戦いの方法に習熟することは、非常に重要なチャレンジであって、その先に初めて、ダビデがゴリアテを打ち破ったように、弱く貧しい取るに足りない人間が、自分よりもはるかに強力な者の支配を打ち破るようなことが、可能になるものと思う。

むろん、筆者は将来に何が待っているのかは知らないが、何かしら筆者の果たすべきより重要な仕事があり、そのための学習をさせられているという気がしてならない。
 
いずれにしても、自分がまずどんな権利を持っているのかをきちんと認識し、固くそこに立って、一歩も譲らず、自分で自分を弁護し、自らの権利を擁護し、守り抜き、あるいは取り返す戦いを経ることは、私たちに非常な勇気と力を与えてくれる。

私たちの弁護者はキリストであって、彼自身が、言うべき言葉を私たちに与えてくださる。だから、勇気を持って日々、前進し、最後まで命の確信に立ち続けるべきなのである。

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地上の経済によらず、天の経済に生きる―神のうちに隠された生活―

「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ3:3)

ある兄弟が経済問題で相談に来たことがあった。この兄弟とは常に経済問題を通して信仰を語り合って来た。兄弟は言う、何度も就職するのだが、どこへ行っても全く同じ困難に突き当たるのだと。どの職場へ行っても、待っているのは過酷な勤務条件、搾取や虐めなど、同じ問題であり、しかも、それは一人の努力によっては乗り越えられないほど壮絶であると。こういった問題は、この兄弟に限ったことでなく、日本の若者の多くが置かれている一般的な状況とも言えるものであった。

幾度かの再会の後、ついに兄弟はこう結論づけた。「この世の経済はマモンの神が支配しています。企業も同じです。この経済に身を置きながら、主に仕えることは絶対に両立しないとぼくは思います。労働とは、そもそも、聖書によれば、創世記で、人間の罪に対する罰として人に科されたものですよね。ぼくは最近、労働そのものが、人間に対する懲罰としての呪われた本性を現して来ているように思えてならないんです。」 

この問題提起は重要なものと感じられた。今やこの世の地上の経済がどうにも回復不可能なほど危機的な状況へ向かいつつあるらしいことは、誰も否定しない共通認識のようになっている。そこには行き詰まりしかなく、希望に満ちた新しい展望はない。では、我々、キリスト者はこのような中、どこに活路をみいだすのか?

私は兄弟に天の経済のことを語った。聖書の原則によると、人の生存は自己の労働によって支えられているものではないこと、蒔くことも刈ることもしない動物たちや草花が神によって生かされているように、信仰者の生存は神によって直接支えられているのであり、神が私たちの命に対して全責任を負って下さっていること。だから、この世の法則とは別に、まことの神を信じる者を生かす別の法則が必ず存在しており、神を信じて、落胆せずに、天の富を地上に引き下ろす方法を見つけるべきだと。
 
物質的な支援だけを当てにしているような人にとっては、このような話は荒唐無稽の空想物語にしか響かないだろう。しかし、私は、天の経済に生きることが実際に可能であることを、それまでの人生において、幾度も確かめて来ていた。ちょうど聖書に登場する昔の預言者たちが、世から敵とみなされて迫害され、行き場を失ったような時にも、神ご自身が彼らを生かし、養って下さったように、この世の常識によっては完全に道が絶たれているように感じられる時にも、神のみもとに身を寄せ、神を信頼して安んじるならば、必ず、神はその者たちをお見捨てにならないのだということを幾度も確かめて来たのである。

地上ではどんなに小さく取るに足らないか弱い存在であったとしても、神を信頼して、神にのみ頼る者を、神がお見捨てになるようなことは決してない。むしろ、世の助けを失ったと思われるような時にこそ、みなしごややもめのように寄る辺ない者をしっかりと保護される力強い神の真実、正しさを生きて味わい知ることができるのである。

「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神。
 神は孤独な者を家に住まわせ、
 捕われ人を導き出して栄えさせる。
 しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。」(詩編68:5-6)

「彼に信頼する者は、失望させられることがない」(ローマ9:33)
 
 さて、この世の労働そのものがもはや人間への懲罰と化している、というテーマについては、いずれまた別の機会に触れることがあると思うが、ここで一つだけ断っておきたい。それは、労働を賛美する思想とは、共産主義の思想に顕著にみられた特徴に他ならないということだ。

確かに、聖書も、手ずから働いて、他人の厄介にならずに自立した生活を送るように勧めてはいる。「<…>落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」(Ⅰテサロニケ4:11) 使徒たちも、信者に負担をかけまいと、信者たちからの献金を受け取ることを断って、様々な仕事に従事していたことは知られている。

だが、共産主義の思想に従って作られた社会主義国では、労働の意味合いはそういう通常の概念とは全く異なっていた。そこでは私有財産というものが認められていなかったので、労働は全社会を栄えさせるためのものであっても、人が自分個人を養う手段ではなかった。さらに、そこでは「労働による再教育」が奨励されていた。つまり、労働とは、共産主義社会に見合う理想的な人間を作り出すための人格改造、思想改造の手段とみなされており、人が日々の糧を稼ぐための手段ではなかったのである。労働とは、堕落した人間を、理想的な社会にふさわしい人間に作り変えるための人間改造の手段だったのであり、さらには、人類の共産主義ユートピア社会を到来させるために、なくてはならない奉仕とみなされていたのである。

このような(歪められた)文脈での労働というものが、聖書に照らし合わせて、真っ向から神に対立するものであり、忌むべきものであることは間違いない。なぜなら、このブログで何度も指摘して来たように、神は決して外側からの圧力によって、もしくは人自身の努力によって、人間が人間を自己改造するということをお認めにならないからである。人間の変革、刷新という問題に対し、聖書が提示する答えはただ一つ、人が贖い主なるキリストを心に信じて受け入れることにより、信仰を通してキリストと結ばれ、キリストの十字架の死と一つになり、死と復活を通して、内側から変革されることだけである。そして、それは強制によらない、人の自主的な選択である。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

従って、労働を通じて人間を改造するという考えは、キリスト抜きに、神の介在なくして、人間が人間を自己改造しようという企てに他ならず、それには見込みがないだけでなく、そのような文脈における労働は、必ず人類による人類の自己処罰のような性質のものとなり、負い切れない重荷、呪われた苦行のようになって行くだけなのは目に見えている。そして、実際、これは大げさな表現ではなく、事実、社会主義国の歴史はそのような経過を辿った。労働は全く人を救う手段とはならなかったのである。

創世記にはこうある、アダムが罪を犯したゆえに、生まれながらの人には例外なく次のような宣告が下された。

「あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは、一生、
 苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。<…>」(創世記4:17-19)
 
おそらくはこれが地の経済の本質であろう。労働は、人間改造の手段などではなく、罪に対する報酬の一つであり、本来的に不毛なのである。ただ食を得るためだけに(命をつなぐためだけに)人は一生、苦しんで働かなければならない。だが、その苦労に対して、報いは少なく、最終的にはその努力は死となって結実する。

このような呪われた地上の法則に対して、私は、キリストにある人には、地上の法則とは別に、天の法則、天的な経済の法則があることを疑わない。確かに信仰者は生きる限り、地上に身を置いているので、完全に地上の法則と無関係になることはないが、天的な支配は、地上のすべての体系に優越し、それを支配するものである。この地上を超越する天の法則によって生きることこそ、以下で書いて来たように、自分の努力によらず、神の憐れみによって生きる生活であり、別の言葉で言い換えるなら、キリストの花嫁なるエクレシアとして、信仰者がただ神のみを主人として神ご自身に仕え、神にのみ頼り、あたかも神の専業主婦のように生きる生活ではないかと私は考えている。

このようなことを考えて行くときに、真っ先に思い出されるのが、創世記に登場するエノクの存在である。エノクが偉大な信仰者であったことは間違いないが、一体、彼が具体的にどういう信仰の歩みをしたのか、分かっているのは、次の二行だけである。

「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5:24)

エノクの人生には、預言者たちのような波乱万丈の事件に満ちた冒険的なストーリー、敵たちとの壮絶な闘いや目覚ましい勝利、などの偉業はなかったのであろうか。おそらく、私はそういう事柄はなかったか、あるいは彼にとって全く重要でなかったのではないかという想像に傾いている。

エノクの人生の特徴は、彼が神の中で安息し、神に対して生きることを他の何よりも優先したということに尽きるように思う。あたかも花嫁が花婿を愛し、喜び、彼を信頼して、自分のすべてを彼に預けてその肩によりかかり、花婿との語らいを至上の喜びとして生きるように、エノクは神の中に安らぎ、神と共に手を携えて生きることをすべてにまして愛し、優先したのだろうと。そこにどんな秘められた語らい、交わりがあったのかは誰にも分からない。だが、神がエノクの忠実さを喜び、彼を愛されたことは確かである。エノクには地上での自分の生活があったにも関わらず、彼はそこに主眼を置いていなかった。神との間で交わされる愛の語らい、交わりこそが、彼にとってすべてにまさるリアリティであった。それだからこそ、エノクは地上の人生が終わると同時にそのまま天の生活に移されたのである。つまり、エノクは地上にいる時からすでに天的生活を送っていたのであり、彼はこの世や、この世の人々に対して生きるよりも、なお一層、神に対して生きていたのである。
 
このように見ると、やはり、以下で記した天の経済に生きるとは、キリストの中で安息し、神の御前で、神に対して生きることに他ならないと考えられる。この時代が終わりに近づくに連れて、また、いよいよエクレシアが花婿なるキリストに迎えられる日が近づくに連れて、信仰者は今まで以上にキリストのみもとに身を寄せ、そのみそばに安息の場を求め、花嫁が花婿に自分を預けて寄り添うように、神を信頼して自分の全てをこの方に委ね、神ご自身だけに全ての関心を注ぐ秘訣を学ぶ必要があるのではないだろうか。それは神を隠れ家とし、そのみもとに隠される生活である。
 
詩編は言う、

「神はわれらの避け所、また力。
 苦しむとき、そこにある助け。
 それゆえ、われらは恐れない。
 たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。」(詩編46:1-2)

さて、主イエスは天国に招かれた人々のたとえ話の中で語られた。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない。」(マタイ22:14)と。

「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。」(マタイ22:1)
 
今、父なる神の最大の関心は、独り子なるキリストの婚礼の祝宴に向けられている。花婿なるキリストは、ご自分にふさわしい花嫁を迎える喜びに満たされている。父なる神は独り子の婚礼を祝うために、大勢の人々を招かれた。キリスト者は、ただ招かれた客であるばかりか、花嫁となるべく召し出された者たちである。

ところが、残念ながら、招かれた多くの人々は、神の願いには全く関心を払わず、婚礼への準備もしない。彼らにとっては、キリストご自身の願いよりも、自分の活動や働きの方がはるかに重大な関心事なのである。この人々は絶えず自分の生活や活動に目を奪われていて、自分の問題から目をそらすことができない。妻をめとり、畑を耕し、商売をし、本を出版し、集会を開き、外見を磨き・・・。そういう活動の方が、彼らにとっては神の御思い(などという抽象的な問題よりも)はるかに優先課題なのである。こういう人々は結局、天の御国から除外されてしまう。

さらに、多くの信仰者は神のためにという口実で目覚ましい働きを打ち立てようとする。だが、彼が誇り自負しているその働きよりも、もっと重要なのは、その人自身が、神の御前でどう生きたかという心の姿勢であることを理解している人は少ない。聖書には、確かにこう書いてあるのだ。

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行なったではありませんか。』
しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」(マタイ7:21-23)

従って、人がこの地上において、神のためにどんな目覚ましい働きをし、どれだけの影響を世に及ぼしたのかといった問題も、ほとんど重要ではないのである。重要なのは、神は何を重視しておられ、人に何を願っておられるのか、また、人が神の御思いに対してどのくらい応答したのかという問題だけなのである。

もし神の御思いをとらえることさえできたなら、その他のことは、人にとってほとんどどうでもいい些末な問題でしかない。多くの人が日々心を砕き、思い煩っているような様々な問題には、ほとんど関心を払うだけの価値がない。もし本当に神ご自身の願いを知って自分の願いとし、神の御思いにふさわしい関心を払い、それに応答するならば、人の抱えるそれ以外の問題など、神ご自身があっけなく解決して下さることだろう。それは、それほどまでに神はご自分に心をしっかり向けて、ご自分を真に愛する人々を欲しておられるからである。それが、花嫁エクレシアに対する花婿キリストの愛なのである。

そこで、神の御思い、これに心の照準を第一に合わせ、神の御思いに応答しながら、その中を生きることができるかどうかが、これからの時代、信仰者にとってはかりしれないほど重要な課題となって来るであろうと私は思う。人に対して生きるのでなく、世に対して生きるのでもなく、神に対して生きること、この地上にありながら、神と共に天を生きることこそ、信仰者にとって何にもまして重要な課題なのであり、そのような生活を今から始めて行くことが肝要であろう。
 
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)