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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(1)

「御国が来ますように。
 御心が天に成るごとく、地にもなさせたまえ。」

またもや大きな勝利があった。死の恐怖からの自由、不当な圧迫に対する勝利、むなしく不毛な苦役からの解放、自由の中での勝利が与えられた。神が信じる者をどれほど入念かつ注意深く助け、守って下さるかが証明された。そして、信じる者は、この地にあって、すべてを足の下にされているキリストの目に見えない復活の命の統治を持ち運んでいるがゆえに、地を従える者であることが証明されたのである。

オリーブ園に再び、オースチンスパークスの「開かれた天」が連載されている。ここには、地上におけるキリスト者がキリストと合一することにより、その者が天(御心)を地に引き下ろすための架け橋となることが記されている。

当ブログで、これまで繰り返し、オースチンスパークスを取り上げて来たのは、彼の論説が、明らかに御霊によって書かれたものだと分かるためである。私たちはそのような論説を読むとき、御言葉に基づく神の光によって、霊的に照らされることができる。

霊的に照らされるとは、私たちが地上の人間的な卑俗な観点や思いを離れ、何が神にとって最も重要な事柄であるのか、御国の権益に関わることとは一体、何なのか、改めて思い起こさせられ、目が開かれるということである。その効果は非常に絶大である。

残念ながら、霊的先人と呼ばれている人々の文章のすべてが、御霊によって導かれて書かれたものではない。正直に言えば、ペンテスコステ系の先人たちの論説のように、キリストを証しているように見せかけながら、実際には、人間の言葉に過ぎないものが数多くある。

しかし、真実、御霊に導かれて書かれた数少ない例外があり、筆者が見たところ、オースチンスパークスの論説もその一つである。それは、そこにキリストを証する文章、また、天的な法則性が記されていることからも分かる。「開かれた天」にも、キリストとの合一、死と復活の命の法則により、いかにキリスト者が、この地上にあって、御国をこの地上に引き下ろす存在となるかという法則性が記されているのである。

さて、そのようにして照らされることの重要性を述べた上で、当ブログでも、もう一度、御国の統治を地に引き下ろすことについて書きたい。

キリスト者は、死を打ち破って復活されたキリストのまことの命の霊的統治を持ち運ぶ者であることについては、これまでにも再三に渡り、書いて来た。

しかし、そのまことの命の統治が、はかりしれないほどに絶大なものであればこそ、キリスト者は、暗闇の勢力から絶え間なく攻撃を受け、何とかして神のまことの命の支配がこの地に実現しないように、妨害を受けるのである。

だが、そもそも、一体、神のまことの命の支配とは、具体的に何を意味するのか、と問われるであろう。それは福音伝道をしてクリスチャンを地上に増やすことなのか、教会の領域を押し広げることなのかと言えば、決してそうではない。

それは、地上では、か弱い人間に過ぎない一人の信仰者を通して、その者を死から贖われ、キリストの復活に同形化された神のご計画の正しさ、その者を死から贖った絶大な神の命の力が、この地上の人々にも、それと分かる形で、はっきりと現れ出ることを意味する。

究極的に言えば、一人の人間がすべての死の圧迫から解放されて、真に自由とされ、自由の中を、神と共に生きることを意味する。それは真実に基づく、偽りのない、御心にかなう生活である。
  
つまり、キリスト者は、地上では弱く脆い土の器であるが、その者が、自分を何とかして再び罪に定め、死に追いやろうと、飽くことなく敵意と憎悪を燃やしている地獄の全勢力からの果てしのない妨害を打ち破って、キリストの復活の命によって、神に対して真に生きる者とされ、永遠に贖われた神のご計画の正しさを明らかに証明することなのである。

この命の力、死を打ち破ったキリストの命の統治の力が発揮される時、暗闇の勢力と、天的な勢力との間の激しい支配権の争奪戦に終止符が打たれ、支配権が逆転するのを私たちは見る。

この世においては、キリスト者はあまりにも無力で、弱く、地獄の軍勢の虜とされて、苦しめられている罪人の一人のようにしか見えないかも知れない。いや、キリスト者となって贖われたがゆえに、世人をはるかに超える憎しみに遭遇し、世人以上に、なお一層、虜とされて苦しめられているようにさえ見えるかも知れない。

しかし、信仰によってそれらの妨害が打ち破られる時、地獄の支配権と、天的な支配権とが逆転し、悪魔の死の力を十字架において打ち破ったキリストの復活の力が、この世のすべての物事を超越してこれらを自らの意志に従えるという統治の順序の逆転が現れ出て来るのである。

つまり、キリストの復活の命は、支配権の問題であり、支配権の争奪戦だということが分かるだろう。神はアダムに地の支配権をお与えになったが、アダムの堕落のゆえに、地は悪魔によって不法に占領され、不法に統治されているが、これを悪魔の支配権から奪還して、キリストの復活の命の統治下に置くことが、神の命題であり、キリスト者の使命なのである。

そのために遣わされているのが、キリスト者なのであり、キリスト者は、神の命の支配、御子の復活の命の支配権を持ち運んでいる存在なのである。

そして、そのキリスト者が、内に御霊をいただくことによって、目に見えない形で絶えず持ち運んでいる、キリストと共に復活にあずかった新しい人としての新たなる支配権は、その者の中から、その者自身の意志、望み、活動と連動して、生ける水の川のように流れだす。ちょうど山頂に登頂した人間が、そこに旗を立てるように、その者が、何を征服しようと望み、どこに行き、何をするのかといった望みと活動に連動して、目に見えない支配圏が押し広げられて行くのである。

筆者が、キリストの復活の命の支配権の拡大を、登頂になぞらえたのは偶然ではなく、実際に、支配権(圏)の拡大は、新たなる領域を征服することにによってのみもたらされる。そして、キリスト者の場合、復活の命の支配権の拡大は、その者の内なる望みに基づく行動によるのである。

先に、キリストの命の支配の拡大とは、地上でクリスチャンが増えることや、教会の領土が拡大することとは何の関係もないということを書いた。それでは、一体、この支配とは何なのか?という疑問が生じよう。

それは何よりも、すでに書いた通り、人を真に自由とする支配であり、自由の中で、望みによって打ち立てられる支配である。

この世において、人は死の恐怖の奴隷とされている。己を養うため、命を支えるため、死から逃れるために、人は実り少ない苦役のような労働につながれ、絶えず、自分の命が失われるという恐怖の中に虜とされてしか生きることができない。何をするにも、どうやって自分の命を保たせるか、ということだけが中心課題となる。

しかし、神の復活の命の統治が現れ出る時、人はもはやそのような死の恐怖の虜ではなくなり、その恐怖から解放され、自由の中で、安息を得て、その安息の中で、自分の意思決定を下せるようになる。

これを表すに当たり、「必然の王国から自由の王国へ」という、かつて共産主義者が使用したスローガンを利用することもできるかも知れない。(ただし、共産主義者は、アダム来の人間の欲望に従って人間の自由を願ったが、キリスト者は、人に自由を得させることが、神の御心であるという事実に基づき、キリストと共に死と復活を経由した者として、自由を求めている。私たちは、己の欲望だけに従って欲望の実現を追い求めて生きているのではなく、神の御心にかなう真実で偽りがなく公正かつ自由な統治を求めているのである。)

つまり、贖われた人は、死の恐怖のゆえに、限られて乏しい選択肢の中から、仕方がなく意に沿わないものを選んで生きるしかないという限定された生活ではなく、真に自分の望みに従って、自由の中から自分の選択を決めることができるようになる。(共産主義者が使用したスローガンは、聖書における御国の模倣である。)
 
キリストの命の支配の拡大は、その者が何を望み、何を実現しようとするかにかかっている。信仰者には、どんなにそれが個人的な望みであっても、自分の個性、望みに従って、自由に行動することができる新たな生活が保障されているのである。

アダムは地の奴隷であったが、キリスト者においては、その関係が逆転しており、地の方が、キリスト者に従うようになる。これが真に正しい順序であり、その秩序が本当に現れ出る時、この世の人々、事物、状況のすべてが、キリスト者に従うようになるのを見て、私たち自身が、それが自分の力ではなく、自分の内にある神の命の支配の力によるものであることを知って瞠目するであろう。

キリスト者は、自分の望みを神に申し上げ、それが御心に反するものではないと認められたなら、その望みが実現するまで、激しい争奪戦を戦い抜いて、御国の統治を実現しなければならない。
 
だが、一体、キリスト者の自由な選択はどうやって保証されるのか?という疑問も生じよう。何を望むのも自由だが、望んだからと言って、どうしてすべてがかなうと言えるのか?
 
それを保証するものが、信仰であり、復活の命である。キリストの復活の命が、その者に必要なすべてを供給するのである。個人的なごくごく些細な望みに至るまで、その命が、その者の生活のすべてを支え、保証するのである。

人にはそれぞれ個人的に異なる望み、異なる生活がある。地上組織としての教会の拡大のために働くことと、キリストのまことの命によって生きることは何の関係もない。そこで、キリスト者が復活の命によって支えられながら、何を実現して生きようと願うのかは、個人によって異なる。クリスチャンだからと言って、その生活も、望みも、人によって全く異なる。一人一人に与えられている召しも、望みも、生きざまも、すべて異なるのである。

そこで、神の復活の命にどれほどのはかりしれない力が含まれているかについては、ちょうどこの地上の人々が、海底や、地底に人知れず眠っているエネルギー資源を見つけた時のように、一人一人が自らの生活の中で、その命の力を開発し、利用し、使う方法を具体的に学ばねばならないのである。

クリスチャンが、自分の願い、望みを率直に神に申し上げ、それを神の復活の命を経由させて、地に実現して行く方法を具体的に学ばなければならないのである。

キリスト者が地上で生きることが、ただ個人的なレベルの生活にとどまらず、御国の統治そのものと密接につながっており、御国の権益と関わっていることに気づき、天的な展望のレベルで物事を見る必要がある。
 
そして、キリストの復活の命にこめられた力を実際に知らなければならない。復活の命が、キリスト者に、ただ命の保障を与えるだけでなく、どうやって信仰によって、望みのものを約束し、保証してくれるか、これを開発し、法則性を探り出し、利用しなければならないのである。

その過程で、キリスト者は、まず何よりも霊的に積極性を失わない「攻めの姿勢」を持たなければならない。絶えず目を覚まして警戒を怠らず、新たに目指すべき目標が何であるかを知り、これに大胆に向かって行かなければならない。消極的で受動的な態度でいながら、霊的支配を拡大して行くことは無理である。
 
ここで言う「攻めの姿勢」とは、霊的な積極的な生産のサイクルと密接に関連している。

まず、それは妨害があっても、決してあきらめないだけの強い願いを持つことから始まる。キリスト者が(どんなに些細かつ個人的な事柄のように思われても良いから)、新たな望みを大胆に持ち、次に、どんなに周囲の状況が否定的で圧迫的に見えたとしても、その望みが神にあって実現可能であることを信じて、望みに向かって大胆に邁進して行き、望みが実現するまで、どれほど激しい戦いがあっても、臆して退却することなく、妨害を打ち破って、前進し続けることが必要となる。

こうして、キリスト者が積極的な望みに基づき、さらなる自由に到達し、神の栄光を増し加える新たな霊的山頂を目指して、絶え間なく前進して行き、勝利をおさめ、新たな自由を勝ち取ることが、目に見えない神の命の支配を拡大するための霊的生産サイクルなのである。

それは大いなる戦いであって、信仰者が御名によって、新たな見えない領土を獲得するための戦いである。その戦いがあまりにも激しくなると、キリスト者が意気阻喪して、望むことをやめてしまったり、前進をあきらめて立ち止まることがある。そうすると、霊的支配の前進もやんでしまう。それだけでなく、再び、彼自身が、死の圧迫の虜とされてしまうことがあるかも知れない。そうなれば、暗闇の勢力は、彼がすでに獲得したはずのものにも、大いなる打撃を与え、これを奪い取り、彼をどんどん退却させて行こうとするであろう。

しかし、たとえそのような停滞や退却があったとしても、キリスト者は再び、上からの力を受けて、絶え間なく、死の圧迫を打ち破って、自由に向かって前進し続けることが必要である。それを成し遂げて行くときに初めて、信じる者たちには、弱った足腰が強くされ、よろめく膝がまっすぐになり、たゆむことなく、遠くまで歩いて行くことのできる力が上から与えられる。こうして前進し続けて、さらなる自由を獲得し、御心を地に引き下ろし、御名に栄光を帰することが、キリストの復活の命の支配の拡大の法則性なのである。
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主は御座を高く置き、低く下って天と地を御覧になり、弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ、自由な人々の列に返して下さる。

「ハレルヤ。
 主の僕らよ、主を賛美せよ。
 主の御名を賛美せよ。
 今よりとこしえに
 主の御名がたたえられるように。
 日の昇るところから日の沈むところまで
 主お御名が賛美されるように。

 主はすべての国を超えて高くいまし
 主の栄光は天を超えて輝く。
 わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。
 主は御座を高く置き
 なお、低く下って天と地を御覧になる。
 弱い者を塵の中から起こし
 乏しい者を芥の中から高く上げ
 自由な人々の列に
 民の自由な人々の列に返してくださる。
 子のない女を家に返し
 子を持つ母の喜びを与えてくださる。
 ハレルヤ。」(詩編113:1-9)

今回、謙虚さとは何かというテーマをさらに少し追記したい。

我々の生活には、神の恵みを大胆に享受することと、暗闇の勢力に立ち向かうという二つの重大なイベントが同時進行で起きて来る。

今週一週間も大きな学習の時であった。

以前にも書いた通り、ジェシー・ペンルイスが、クリスチャン生活に起きることは100%偶然ではないと述べているように、信者の生活には、暗闇の勢力からの攻撃が多々起きて来る。

聖書において、最も試みられた人物として名が挙げられるのはヨブであろう。ヨブはサタンの試みによって、財産、家族を失っただけでなく、自分の健康、友人をも失った。しかし、ヨブはそれらの試練にも関わらず、忍耐を伴う信仰によって、神に義と認められ、失ったすべてを回復する。

このことから、私たちが学べるのは、神がサタンの活動を許しておられるのには、それなりのわけがあること、それは私たちに損失を与えたままで終わりにすることが目的ではないこと、もちろん、信者自身が強くなって、試練に立ち向かうすべを学ぶ必要があると同時に、試練を通して、信者の信仰が練られ、信者が神の御前にへりくだり、忍耐を持って、神の約束待ち望むことを学ぶ必要があるために、そうした苦難がもたらされることが分かる。

真の謙虚さとは、私たちが自分たちは無力で何もできないと考えて、神の約束までも手放して、悪魔のなすがままに翻弄されることではない。だが、同時に、神の約束が成就するまでの間には、それなりの時がある。私たちの人生に試練が起きてくるときには、私たちはほんの少しだけ、頭を下げねばならない。

人間に対して卑屈に平身低頭する必要はない。ただ心の中で、神に対して、自分の人生がことごとく神の御手の中にあることを認め、神にすべてを委ね、己を低くして、試練の時をやり過ごす必要がある。何が起きようとも、神にだけ全幅の信頼を置いていることを告白する必要がある。

筆者はかつては人間の心の裏を読むということはそれほどせず、特に信者であれば、信仰仲間だという気安さも手伝って、他者の発言を勘ぐってみたり、疑ってみることは少なかったが、ここ数年間のうちに、嘘が海のように深まるにつれ、起きた数々の出来事を通して、人間の心の裏側を予め見抜いた上で行動することがどれほど重要であるかを学ばされた。

警戒せねばならないのは、すぐにそれと分かる詐欺師ような人々の甘言だけではない。すでに書いた通り、長年のつきあいのある身近な人々から、親切心を装ってやって来る嘘の助言や、嘘の約束、偽の好意などにも、振り回されるわけにはいかないのである。もしその嘘が見抜けなければ、誰にとっても、命がいくつあっても足りないような時代が到来しているためである。

この世の不動産の広告には良いことづくめの内容しか書かれていないが、現地に行ってみれば、初めてその物件の欠点が分かることも多い。我々はそうした事実が分かったからと言って、いちいち不動産会社に向かって「嘘をついたな」と責めたりはしないかも知れないが、いずれにしても、不動産のみならず、世に溢れている広告には真実性がほとんどないことは確かである。その他にも、求人誌を開けば、存在しているかどうかも明らかでない、ものすごい数の偽りの広告が掲載されている。求人詐欺などだけが問題なのではなく、広告そのものの真実性が極度に薄れている。

今や雀の涙のような賃金で将来性もないアルバイトのように味気ない仕事でさえ、そのほとんどがとてつもない倍率となっていて、存在しないにも等しいおとり広告も同然であるという事実を実際に知っている人たちは少ない。

さらに、広告のみならず、現実生活においても、誰もが自分を粉飾し、自分にとって都合の良いことしか明らかにせず、他者の目に自分を偽っている。そこで、私たちは、世の中にこうして山のように溢れる虚偽の情報の中から、何が真実であるか、何が本当の可能性であるのかを自ら探り出して、真実な関係だけを選択して行かねばならない。それができるかどうかの能力が試されており、そこに命がかかっているのである。

何が真実であるかを見抜ける力があればあるほど、損失が少ない状態で、目的にたどり着くことができるだろう。

だが、忘れてはならないことは、私たちの助けは、そもそも人から来るものではないということだ。私たちは山に向かって目を上げる。私たちの助けは、山よりもはるかに高く、天高く御座におられる唯一の神ご自身からやって来る。

そこで、神ご自身がどういうお方であるかという事実に立脚して、私たちは神の喜ばれる選択を自ら見分けて行かねばならない。神は悪を憎み、嘘偽りを嫌われる方である。人を偏りみず、公平で、不正を憎まれる方である。

その神を信じる人々が、嘘や不正にまみれた粉飾した情報をまき散らす人々に自ら関わって、平和な生活が送れるはずもないことは明らかだ。

だが、結局のところ、神ご自身に比べれば、地上の人間は、どんな人間であれ、移ろいやすい心を持った、当てにならない存在でしかなく、誰一人、本当の意味で頼ることはできない存在である。

そうした中で、私たちは地上社会と全く関わりなく生きて行くわけにはいかない以上、もともと移ろいやすく当てにならない存在である人間社会の中にも、真実、公正、正義を飽くことなく追い求め、嘘偽りのない関係を探し、これを追い求めて行かねばならない。

このことは、誰かに自分の理想を重ね、自分の心にかなう人物が現れるのをひたすら待つという受け身な姿勢を意味しない。どんな人物が相手であれ、その対象となる人々との関係性の中に、限りなく真実な関係を追い求めて行かねばならないということを言っているのである。それができない人々、つまり、最初から真実な関係を願ってもいないような人々とは、関わってはならない。

たとえば、筆者は、先日、見違えるように変化した会社の説明会を案内してくれた親切な友人のことを記事で語ったが、その人間が本当に親切だったと言えるかどうかも定かではない。筆者はその友人の会社に行くことはなく、むしろ、その直後に、その友人の助けなどを借りなくても良い、その友人に感謝を表明する必要のない、しかも、以前に相当に劣悪な環境にあった企業などに改めて希望を見いださなくても良い、別な解決ルートが与えられたのである。

確かに、その友人の働いている会社は、以前に比べれば、かなり良好な環境となっていたと言えるだろう。確かに大きな変化があったのだ。だが、それでベストということではあるまい。しかも、ちょうど筆者が説明会を申し込んだ日が来る前日に、クライアントの都合で予定を変えてもらいたいという電話がその会社から入って来た。すでに何日も前から約束済みである予定を、クライアントのわがままでドタキャンのように突如、変えて欲しいとその会社が言い出したのを聞いて、筆者は、それがこの会社の約束の不確かさをよく物語っていると感じた。筆者はその変更の依頼を断ったが、その時に、この会社には活路が見いだせないということを理解したのだった。

さらに、友人がその後、お盆に実家に帰省する予定になっていると述べたことも、筆者には見逃せない事実であった。しかも、友人はその会社に入るに当たって、何度も、何度も面接を受け直したと述べていた。

そうした事実から、筆者は、友人は本当に筆者に自分と同じ会社に入社して欲しいがために、自分の会社を案内したのではなく、ただ自分がどれほど恵まれた状況にあるかということを、筆者に自慢したかったというのが本当の動機だろうと推測せざるを得なかった。
 
要するに、その知人の助言の中には、また、その会社の約束の中には、「然り」と「否」が混在していることが、様々な出来事を通して確かめられたのである。そこから、これは筆者のために用意された真実な選択ではない、ということが、確実に理解できた。
 
実際に、筆者が見つけ出したのは、神を信じない人々との縁故によらず、「然り」と同時に「否」と言う人々から来る助けによらないで済む別な方法であった。

このように、神が与えて下さる解決は、人知によるものではなく、人の努力や、感情に依拠した解決でもない。そして、嘘偽りに立脚して解決がもたらされることもなければ、不正な方法で達成されることもない。
 
ところで、筆者は今まで様々な環境で働いて来たが、不思議なことに、最も多かったのが、非常に眺望良好な職場であった。

どういうわけか、鳥のように空高いところから、雄大な景色を一望できるような職場に、筆者はしばしば在籍して来たのである。事務所の窓が全面ガラス張りで、東京の町がまるでタワーの天辺から一望するように見える美しい事務所もあれば、あるいは、みなとみらいの風景が高みから一望できるビルもあった。
 
そのような特別の眺望の職場に巡り合うときには、今までの一切の苦労を見ておられ、それをねぎらって下さる神の何かしらの特別な采配、恵みを思わずにいられないものである。
 
これまでに筆者は、人生で抱える様々な問題について、信仰仲間も含め、色々な人々から励まされたり、慰められたり、助けを受けたりして来た。特に、仕事については、実によく祈ってもらったものである。だが、そうして信者に祈りの支援を求めた結果、筆者が痛感して来たことは、人間の同情という感情の不確かさであった。

これまで、筆者の周りには年配者の信者が多く、その中には、専業主婦も相当な人数にのぼっていた。彼女たちは、筆者が仕事を探している時に、快く筆者のために祈ってくれると約束してくれたので、筆者はその言葉を信じて、彼女たちに、これからどんな職場に行きたいと願っているのかを告げ、差し迫っている面接や試験の予定を伝え、もしもこの計画が御心に反していないならば、神が助けて下さるように共に祈って欲しいと何度か依頼して来た。彼女たちはいつも二つ返事で引き受けてくれたものである。

ところが、実際に筆者がその仕事に採用されると、それまでは親切だった信者の態度がガラリと変わるということが、幾たびか起きた。中にはいきなり、「その仕事はあなたにはきっと合わない。すぐに飽きるでしょう」などと捨て台詞を投げつける人が現れたり、筆者があまりにも簡単にその仕事を得たように見えるせいか、憤りに近い感情を示す人々もあった。

要するに、彼女たちは、筆者が祈りの助けを求めた時には、快く同意して祈ってくれたけれども、その祈りが、実際に神に聞き届けられるとは、まるで信じていなかったらしいのである。

彼女たちが見ていたのは、現実社会の世知辛い有様や、筆者の縁故の少なさや、強そうには見えない平凡な外見だけだったのだろう。こうした人々は、神を信じ、神の助けを乞うと言いながらも、筆者が実際に御言葉に従って、神から助けを得て進んで行けるとは全く思っていなかったらしいのだ。

こうした信者らは、筆者が苦境の中にある時には、優しく、同情的に接してくれるが、筆者が大胆に神の助けを得て、苦境から脱し、問題がなくなって自立して、生き生きと暮らし始めると、早速、苦々しい捨て台詞を残して立ち去って行ったりするのであった。

筆者は当初、そうした行動を見る度に、非常に驚いたものであったが、何度か同じ出来事を見るうちに、ようやくこれらの年配者らは、ただ年少者である筆者の置かれている苦境を、自分には関係ないものとして、高みから見物して憐れみ、自分の優越的な地位を誇りたいがゆえに、筆者に同情を示しているだけなのだということを理解した。

もちろん、そのような偽物の同情ではなく、真の同情を示し、共に喜びを分かち合うことのできる信者も決していないわけではなかったことは申し添えておきたい(ただし、まれな存在ではあったが)。
  
こうして、実に数多くの信者らの同情は、本物ではないことが判明するのであった。彼らは、弱みを抱えた人々には常に優しく接するが、自分が世話をしてあげた人間に弱みがなくなって、その人が自立して、もはや彼らの助けを乞う必要もなくなり、彼らの優越的地位が失われてしまうと、その立場の逆転に我慢がならなくなり、まるで自分が恥をかかされたかのような思いになって、憤慨するか、それを機に、関係そのものが終わってしまうといった現象が何度か起きて来たのである。

彼らの目から見れば、いつまでも可哀想に思って、同情の涙を注いであげられる対象が見つかったと思っていたら、あっという間にその人が自立していなくなってしまい、自分の役割がなくなったということなのかも知れない。

だが、いずれにしても、「助ける側」と「助けられる側」との間に常に隔ての壁がもうけられているような関係は、しょせん長続きはしない。「助ける側」に立とうとする人々の同情は、同情の対象となる人々を永久に弱さの中に閉じ込め、その人をいつまでも上から憐れみ、踏み台にすることによって、自分が手柄を得ることを目的とするものでしかなく、決して心から人の解放を願うものではないのである。
 
これと似たような現象が、筆者が関東に移住して来たときにも起きたことを思い出す。筆者が移住する前には、様々な人々が、筆者の状況に心を寄せて、熱心に祈ってくれたり、励ましてくれたりもした。筆者は、その人々の言葉や感情を全く疑うことなく、またその裏を勘ぐっていられるような余裕もなかったので、人々の慰めや支援を非常に嬉しく受け止めていた。

ところが、神が真実に筆者の願いに応えて、様々な恵みを与えて下さり、筆者が移住を決行するだけのすべての必要が備えられ、すべての問題が解決し、筆者の人生にもはや何の苦境もなくなり、一切、人の同情を受けたり、助けを求めねばならないような余地がなくなると、かつて、筆者の目から見れば、最も熱心に祈ってくれて、最もその解決を共に喜んでくれるはずだと思われるような一部の人々が、筆者の目の前で、筆者に与えられた恵みのニュースを聞いて喜ぶどころか、何とも言えない苦々しい表情を浮かべたのである。

彼らの表情には「なんでおまえが」という文字が、まるで書いてあるようにはっきりと読み取れた。その反応は一瞬のことではあったが、筆者はこれを見逃さなかった。彼らの表情には、はっきりと、パリサイ人や律法学者が、イエスが病人を癒されたことに嫌悪感を示したように、とらわれていた人間が解放されて自由になることを許せないと思う憤りが読み取れたのである。
 
そこで、これらの人々も、筆者のために祈ってはくれたが、その祈りが天によって聞き届けられるなどとは、最初から全く信じていなかった人々なのに違いないと推測されるのである。
 
こうした人々も、結局のところ、困っている人々のために尽くしたり、祈ってやることにより、自分がどんなに親切心や同情心溢れる善良な人間であるかを世間にアピールし、自らの優越的な立場を誇り、自己満足することを目的にしているだけであって、初めから人の解放を心から願う気持ちなどはなかったと思われるのである。
  
さらに、こうした人々は、常に自己を粉飾して、自分の目に自分を偽っているために、心の中で非常に屈折した思いを抱えており、神に素直に助けを求めることができないという袋小路に置かれている。だからこそ、他者に起きた解放を喜ぶことができないのである。

彼らはいつも虚勢を張って、自分には一切問題がなく、自分だけは完璧で、落ち度なく、他人を助けられる指導者的な存在であるかのように思い込み、困っていて助けを必要としているのは、常に自分以外の誰かだけだと考え、そのように振る舞っている。

そのようにして彼らは、神の御前でも人の前でも、弱音を吐くことができず、自分は強いと思い込んでいるため、現実に自分がどんな弱さや問題を抱えているのか直視できず、それらの問題について素直に神に助けを求めたり、神の助けを受けることもできず、その結果、永遠にその問題から抜け出せないという苦しみを抱えることになるのである。

だから、こうした人々は、筆者のような人間が、人にどう思われるかに一切構わず、なりふり構わない率直さで、神に向かって弱音を申し上げ、人にも祈りの支援を乞い、本気で自分の願いを口にし、そこへ到達したいと信仰によって表明した結果、祈った問題に対する解決を天から受け取っているのを見ると、ちょうど放蕩息子の兄が、帰宅して父に大喜びで迎えられた弟を見るような思いになって、我慢がならなくなるのである。

これらの人々は、おそらく自分たちだけが天の選ばれた特権階級であって、自分たちは常に人を助けてやる立場にあり、その優位性のある階級の中に、自分たちとは別格の、真に弱く、貧しく、取るに足りない人々が、あたかも対等な存在であるかのように入り込んでくる余地など全くあってはならないと考えているのであろう。

そこで、彼らの思い込みが打破され、神ご自身が、彼らよりもはるかに弱く、劣った、力のない存在であるように見える人々を、塵灰の中から引き上げ、王侯貴族のような服を着せて、神の子供たちの一人として、彼らと対等に迎えられると、彼らは、自分たちが独占していた立場が揺るがされるように感じ、決してこのような事態を放置しておくことができない思いになるのである。

しかし、神の国には、特権階級はなく、これは誰の独占物でもなく、神の国には多くの人々がまるで奪い取るように熱心に殺到しており、信仰の有無以外には、これらの人々が排除される理由もない。
 
それにも関わらず、うわべだけは、あたかも貧しい人々、弱い人々、寄る辺のない人々に福音が届けられ、神の解決が行き届くことを願っているかのように述べる人々の一部が、もう一方では、筆者が最も手に手を取り合って喜んでくれるだろうと考えていた解放の瞬間に、苦々しい表情を見せたことを、筆者は忘れることはないであろう。その表情が、他のどんな言葉よりも雄弁に、彼らの心の内を物語っており、実際に、その後、予想通りの結果が起きたのである。

要するに、福音を人助けの手段のように利用して人前に善人として栄光を受けようとする人々は、神が人間を真に弱さから解放して自由にされると、彼らの助けの手を必要とする人々がいなくなり、失業してしまうため、人間の解放を決して願わず、喜ばないのである。こういう人々は本質的には福音の敵にも近い存在であると言えよう。
 
そういうわけで、話を戻せば、かつての職場の友人は、以上に挙げたような信者(?)たちとは異なり、他人の成功や良いニュースに嫌悪感を示したり、これを否定するなどの非礼な行為は決して行うことはなかったが、それでも、信仰者でないため、筆者の口からすでに別の解決ルートが与えられたという話を聞かされると、「良かったわねえ」と言ってはくれたが、「もう、そんなに早く?」と非常に驚いた様子であった。
  
彼女は筆者がさぞかし思い悩み、落ち込んでいるだろうと思って電話をかけて来たところ、慰めの必要が全くないと分かり、筆者の問題にそんなに早くの解決が与えられるとは全く思っていなかったために当てが外れた様子が伺えた。

筆者にとっては、このようなことは、実に不思議な神の采配である。要するに、神は人に栄光を与えられないのである。筆者にとって、誰が長年の友人であり、親族であり、つきあいの長い、思い入れのある存在であるかなどは全く関係がなく、ヴィオロンを助け得る存在は、天にも地にも、神お一人しかいないということを、神ご自身が、あらゆる機会に示されるのである。
 
神ご自身が、まるで筆者を助けようとした誰かに向かって「あなたは考え違いをしています。この人を助けるのは私の役割であって、あなたの出番は全くありません。人間に過ぎない者は退きなさい」と語られているかのような状況が用意されるのである。
 
だから、キリスト者同士の間であっても、何かの解決が与えられる瞬間までは、共に祈り、進むことができた信者同士が、解決が与えられた瞬間に、道が分かれるということは多々起きる。それによって、特定の誰かが「私が祈ってやったから、ヴィオロンにこの解決が与えられたのだ」などと誇りようがない状況が起きるのである。
  
神が祈りに応えて解決を与えられる瞬間は、人の目から見れば、非常にスピーディで、何の苦労もなく、劇的かつ飛躍的に物事が展開するように見える。多くの場合、人の目には、まるで筆者が神の特別な寵愛とはからいを得て、天高く引き上げられ、他の人々の及ばない安全な高みに置かれたかのように映るのである。

筆者にとって、その解決は、決して他人が考えるほどに早くもなければ、簡単に与えられたものでもないのだが、そのことは、口でどんなに説明しても、人に分かることではあるまい。筆者が一つ一つの問題を乗り越えるに当たり、どれほどの苦労を背負って来たかは、他の人には話しても決して分からず、理解してもらうことが可能であるとも思わない。
 
彼らの目には、信者が暗いトンネルの中を沈黙しながら通っている時の有様は見えないので、最後に起きた劇的解決だけを見て、すべてがあまりにも簡単で、こんなのはあまりにも不公平ではないかとさえ感じるようである。

だが、実のところ、筆者自身も、そんな風に感じないわけではない。神の助けを受けることは、確かに特別な経験である。この世で不信者と信者が公平に扱われるということは決してない。だから、信じる者の上には、確かに、神の特別なはからい、特別な関心、特別な恵みが臨んでいるのである。それは私たちの栄光のためではなく、神ご自身の栄光のために、神がなさる事柄である。
  
筆者は、高い高い空の上から、町全体をはるかに下に見下ろし、この下界の光景の中には、詐欺師たちや嘘つきどもによって日夜繰り広げられるソドムとゴモラの阿鼻叫喚のような地獄も含まれていることを考え、それらの問題をすべて足の下に踏みつけ、後にして来た事実を思い、これは実に不思議なはからいだと思わずにいられない。

新しい出来事が始まれば、かつて起きたことは忘れられ、思い出されもしない。子が生まれるまで、母親は苦労するが、生まれてしまえば、その苦労は何でもなくなると主イエスも言われた通り、新しい天と地が到来する時には、先の出来事はすべて忘れられる。
 
多くの人々は、人間の痛み苦しみだけに注目し、それに解決が与えられるとは信じていないかも知れない。人々は他人事のようにヨブの苦難には注目するが、ヨブに与えられた解決、以前よりもまさった恵みのことはあまり語らない。

だが、筆者は試練の後には、以前よりもさらにまさった恵みが与えられることが、神の御言葉の約束であると固く信じている。しかも、筆者は現在立っている地点を最終目的だとは思っていないため、今の時点で与えられている恵みに満足するつもりもなく、さらに天に近いところへ向かって、まだまだ歩みを進めねばならないと考えている。

こうしたビジョンは、多くの人々には絵空事のようにしか思われず、理解されないだろう。どうして平凡な外見しか持たない筆者にそのように長い行程を歩み通すだけの力があるだろうかと思われるだけであろう。
 
しかし、筆者は、取り立てて力があるようにも見えない無名の人間に世間が示す軽視や侮蔑の眼差しを、重大な出来事であるとは全く思っていない。我々信者が人の目にそのように無力に映るのは、いつの時代も変わりのないことで、我々が土の器である以上、そうなるのが当然なのである。

ただし、そのような中でも、ほんのわずかな瞬間、私たちが己を低くして、土の器としての痛みを黙って潜り抜ければ、その先に、思いもかけない栄光が待っていることをも筆者は知っている。

神は人が負って来た苦労のすべてをご存じで、そもそも人自身の目から見てさえ、取るに足りない力弱い存在である、塵に過ぎない人間に、永遠の御旨をお任せになったのである。そのパラドックスの意味をよくよく考えてみたい。

真の謙虚さとは、人が土の器に過ぎない己の分をわきまえた上で、その土の器に、不相応なほどにはかりしれない神の力と栄光を表すという高貴な使命を人に与えられた神のはかりしれない御旨に瞠目しつつ、この壮大な使命を喜びを持って理解し、受け止め、信仰により負って行くことではないだろうかと筆者は考えている。信じる者のうちには、脆く弱い土の器の部分と、絶大な栄光を帯び神のた力というパラドックスが同居している。人の目に確かに見えるのは、脆くはかない土の器だけであるが、永遠に残るものは、その内に住まわれる偉大な神の力、尊厳、栄光なのである。


命の御霊の法則に従って支配する―一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(2)

このところ、オリーブ園で連載されているオースチン-スパークスの論説は非常に興味深い内容なので、転載しておきたい。
 
まずは、T. オースチン・スパークス 「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (9)  から。
 

交わりのために成長する重要性

 そしてさらに、霊的交わりのために霊的成長がなければなりませんさらに優った積極的交わり抜きで、関係を持つおそれがあります。この関係は続きますが、今やあなたは交わりの中を進んでおり、真の霊的交わりのために霊的に成長しなければなりません。

交わりは私たちの関係性の所産であるべきであり、交わりに導かない関係性にはその麗しさと豊かさが欠けており、その真の目的に達していません。ある共通の基礎、共通の立場という点を超えて、私たちは互いにやって行くことはできません。

常に
あなたの自己が優勢なら、ただ主と共に進んで行きたいというあなたの望みのみに基づいてあなたと共に進んで行くことは私にはできません。また、あなたもその立場に基づいて私と共に進んで行くことはできません。私たちが一緒に進んで行けるのは、キリストという共通の立場がある時だけです

「合意なしに二人は一緒に歩めるだろうか?」。これは「合意なしに二人は関係を持てるだろうか?」という問題ではありません。確かに二人は関係を持つことができます。
同じ両親、同じ家族の子供たちは、一つの血によって関係していますが、一緒には歩んでいないかもしれません

一緒に歩む問題は進み続けて前進する問題です。共に歩めるのは、合意している時だけであり、共通の立場がある時だけです。もし一方が手前で立ち止まり、他方が進み続けるなら、この二人の間の交わりは進んだ地点までに限られます。もし一方が肉の中で進み、他方が御霊の中で進み続けるなら、彼ら二人が御霊の中で進み続けるのをやめる地点で彼らの交わりは終わりますが、彼らの関係は終わりません。

私たちは人々によって支配されてはなりません。たとえ彼らがクリスチャンであってもです。私たちはキリスト教の組織によって支配されてはなりません。たとえクリスチャンの組織であったとしてもです。私たちはあらゆる点で霊なる主によって支配されなければなりません。

 ここに豊かな実りがあります。御霊の度量の中で共に進むこの立場を得る時、私たちは絶対的有用性の立場に達します。とても多くのことがこれにかかっています。往々にして人は知的に何かを理解・把握し、それを誰かから得て、その中で進み続けようとするのですが、その事柄は彼らの存在中に決して造り込まれておらず、彼らはそれを人づてに得たにすぎません。それは彼らの存在中に、聖霊の懲らしめ・鍛錬・訓練によって、決して造り込まれていません。そして、それが彼らの内側から現れることは決してありません。聖霊によってその事柄を内側に造り込まれるというような問題では、私たちは確かでありたいと願っています。



この記事は、なぜ私たちはクリスチャンのうちのある人々と、信仰の歩みを途中までしか一緒にできないのかという問題に対する良い解説となっている。

これはある意味では困難で痛ましい問題でもある。なぜなら、神は決してクリスチャンの成長の度合いを最初から限定されたりはしておられないからである。一人一人の人間の生まれつきの才能や性質には様々な違いがあるとはいえ、それは霊的な度量の違いとは異なる。

神が初めからあるクリスチャンだけを偉大な霊の器として定め、ある人々を小さな器として定められたという考えは正しいものではない。たとえば、旧約聖書に登場する霊的先人たちは、ある種の型を示しているのであって、これを今日のクリスチャンにそのまま当てはめたりしないようにしたい。

ある人々にはダビデのように霊的に偉大な召しが与えられているが、ある人々はサウルのように失敗者となって終わることが決まっているなどと考えたりすべきではない。

(むろん、これは信者が人生における選択を誤った場合に当然、負わなければならない報いを意味するのではないし、信者が故意に御霊に逆らい続けた場合にも、信仰の失敗者とならないという意味でもない。)

ただ私たちは、クリスチャン同士の間に、あたかも人間の生まれつきの能力や才能のように、霊的命の等級のようなものが初めから定められていて、成長の度合いが初めから限られているなどという考えを持たないようにしたい。

新生されたクリスチャンの歩みは、同じ種類の植物の種を地面に蒔くようなもので、その種に初めからあまりにも大きな違いがあって最初から違った成長の度合いが定められているということは決してないのである。
 

主の民に関する大いなるすべてを含む言明は、彼らは神のための祭司の王国となるために選ばれたということです。これはつまり、主の民の僅かな人々ではなく全員が神のための祭司の王国となるよう召されているということです。

神は最初からイスラエルを祭司の王国と見なしておられました。民全体が祭司の地位にあると見なしておられました。これは次にレビの部族が引き継ぎました。レビの部族は全イスラエルの初子を代表するものであり、主の御前にもたらされて、聖所での務めのために分離されました。主の御思いでは、これは全イスラエルをその地位にもたらすことを表していました。

しかし同時に、そこには相違があったことを理解しそこなうことはありえません。そこにはレビ人たちがおり、祭司たちがいました。レビ人たちがおり、アロンの息子たちがいました。彼らは同じではなく、異なっていました。しかしこの相違は、相違が生じることを主が意図されたからではありません。

 私たちはこれをすぐに単純化してしまいますが、まず第一に、次のことをはっきりさせなければなりません。すなわち、
神が持っておられる最高の最も完全なものは彼のすべての民のためであり、一部の人のためではないのです。あるものは自分には過ぎたものである、自分がそれに到達することは決して主の意図ではない、と感じる時は常に、これを思い出して下さい。彼の豊かさは一部の人のためだけであるという考えを、あなたの思いの中から完全に追い出さなければなりません。

「御霊による生活」 第五章 祭司団 (1)

 
しかし、現実には、クリスチャンの霊的な成長には大きな違いが発生する。ある人々は霊的に前進し続けるが、ある人々は途中で停滞してしまうか、もっと悪い場合には後退し、脱落する。

私たちは、そのようなことは、神が新生されたクリスチャンに初めから定めた違いを意味するのではなく、おのおののクリスチャンの望みに応じて生じる違いなのだと気づくべきである。

すべてのクリスチャンには、それぞれが同じ種類の種のように、大きな霊的成長を遂げる可能性が備わっているものの、成長が起きるかどうかは、あくまで各自のクリスチャンの望み、また歩みによる。

今日、多くのクリスチャンを名乗っている人々の成長を妨げているのは、人間の作り出した宗教組織や、宗教指導者の教えという、人間が作り出した思惑や制度の枠組みである。あまりにも多くの信者が、これらが人自身が作り出した規則や考えに過ぎず、神の霊的な命の統治とは何の関係もないのものであるということを認めず、その枠組みから出る可能性を考えてみることもない。そのため、彼らがとどまっている枠組みが、そのまま彼らの霊的成長の限界となってしまうのである。

それはちょうど何メートルも生長する可能性を秘めた巨木の種を小さな温室に閉じ込めて育てようとするようなものである。

人間の作った宗教組織や、宗教指導者の教え以外にも、信者の霊的成長を縛り、邪魔し、制限しているものは多くある。たとえば、それはこの世の常識であったり、不信仰から来る信者の誤った思い込みであったり、信者自身が自分の心の中でもうけた制約などである。

一つ前の記事に、一羽の雀を天にはばたかせるのか、それとも地に落とすのかは、信者自身の心の選択にかかっているのだということを書いた。このことは、信者が自分で管理するよう地上で任されたものを、生かすのか殺すのか、増やすのか減らすのか、繁栄させるのかそれとも衰退させるのか、といった選択は、信者自身の信仰にかかっていることを意味する。

同じように、信者自身が霊的にどれだけ成長を遂げるのかも、信者自身の望みにかかっているのである。

言い換えれば、真に霊的に成長を遂げたければ、信者は自分自身のちっぽけな思いの限界をとりはらい、神の御思いにふさわしいだけの高さ、広さ、深さ、長さをもった思いを抱く必要がある。神が人に望んでおられるのと同じほど、気高く、高潔で、壮大な願いを抱き、それが自分に実現可能であることを固く信じ続け、どんな困難に遭遇する時も、あきらめることなく前進し続けなければならない。

信者が抱く望みの高さ、大きさに応じて、信者を取り巻く環境が押し広げられる(もしくは狭められる)。環境が信者の信仰を規定するのではなく、信者の信仰が、信者を取り巻く環境を規定するのであり、もしもその逆が起きているならば、その信者はもはや信仰に従って生きているとは言えない。

ところが、多くの信者が、自分で自分の信仰の成長を縛り、停止させていることに気づいていない。そのようにして信者が自分でもうけている限界や制限の中には、「私とはこのような人間である」とか「私はこのような人間でなければならない」といった信者の思い込みもある。

多くの信者が、「私は大した人間ではありませんから、大それたことはできません」などと告白することを、あたかも謙虚さであるかのように勘違いしている。しかし、そのように告白してしまえば、それが現実となるのは避けられない。

つまり、「私は大した人間ではありませんから…」と自ら述べている信者が、キリストの身丈にまで成長することはまず絶対にあり得ない。

そのようなわけで、信者は、神が願っておられる御心を真に掴み、本当にそれにふさわしいまでに成長し、遠くまで歩いて行こうと願うならば、まずは自分で自分を縛っている思いの狭さや限界自体を取り払い、変えなければならないのである。そして、「自分とはかくかくしかじかの人間である」という、自分でもうけた制約そのものを取り払って、神が自分に願っておられることは一体、何なのかという視点で自分を見るようにしなければならない。

ほとんどの人は、その必要性に気づかず、生まれ育った環境で身に着けた常識に従ってしか自分を見ようとしないため、信者となっても、キリストに似た者とされることの意味が全く分からず、自分が何を目指しているのかも分からないまま、完全にこの世の常識的な考えと枠組みの中だけで生涯を終えることになってしまう。

冒頭に挙げた記事に話を戻すと、クリスチャンは、自分の霊的な成長に応じてしか兄弟姉妹と交われない。そこで、交わりの中にいた信者の誰かの霊的成長が止まってしまうと、それまで一緒に歩いて行くことができた兄弟姉妹が、もはや共に進んで行けなくなるということがしばしば起きる。

宗教界にいる多くの信者たちは、信徒の交わりという問題について完全に誤解しており、彼らは、自分が所属している宗教組織にいる人々が兄弟姉妹だと考えているため、その組織に所属している限り、信徒の交わりから除外されることはないと考えている。

しかし、そのような考えは誤りである。そもそも地上の宗教団体に所属して得られる人間関係は、地上的な人間関係と何ら変わらず、御霊による霊的交わりではない。

当初は無知のゆえに、そうした地上組織がキリストの体を表すものであるかのように誤解している信者がいたとしても、その信者が真に霊的交わりを探求するならば、やがてその組織が誤りであることを見いだし、真理に従うために、そこを出て行かねばならない時がやって来る。

こうして、ある真理に気づいた信者が、それに気づかない人々の集合体を後にせねばならないということが起きるのである。

そのような現象は、信者が地上的な宗教組織を離れ、クリスチャンの兄弟姉妹と自由に交わっていても、やはり起きて来る。

そこでも、その交わりにいる誰かの霊的成長が止まり、あるいは、その人が霊的に後退し始めたり、もしくは、人間的な思惑に惑わされて、真理から逸らされたり、あるいは、自ら指導者となって他の信者たちを管理・統制し始めたりすれば、その交わりはもはや自由な交わりではなくなり、御霊の働きが損なわれる。

すると、そのことに気づいた信者は、その交わりを中止して、自分一人であっても、そこを出て先へ進まなければならなくなる。

このように、御霊による交わりは、キリストを土台としてか成り立たず、御霊の自由が損なわれれば、交わりが成立しなくなってしまう。人間的な思惑や力によって牽引される交わりは、信徒の交わりではなく、もはや別な何かである。

悪魔は心から信徒の交わりを憎んでいるので、これを壊すために、全力を尽くす。そこで、かつては自由であった信徒の交わりに連なる成員の心が、キリストの御霊とは異なる影響力から来る別の教えに誘惑され、逸らされて行く危険は十分にあり得る。

あるいは、キリスト教界をエクソダスしたと言っていた人々が、再び、キリスト教界に戻って、宗教組織や指導者の束縛の下に入ることもあれば、自ら指導者になろうとすることもある。

そのようなわけで、一旦、御霊の自由の上に打ち立てられた交わりの中にいたはずの信者たちが、再び、人間的な思惑の支配下に入り、そのために、御霊による交わりが損なわれると、信者は、最終的に、御霊自身がその交わりを去って、その交わりが完全に堕落・変質して破壊されるよりも前に、そこを去らねばならなくなる。

サタンの誘惑に屈して、聖書とは別な教えに逸れていった人々が、自ら交わりを壊したという自覚を持つことはほとんどない。霊的に後退した人々がその自覚を持つこともまずなく、まして自ら指導者となって、キリストに代わって交わりを支配しようとするような人間が、その行為が悪であることを自覚することはまずない。彼らを説得しようとしても、それはほとんど不可能な相談である。

そこで、信者はそのようにして御霊とは完全に異なる別の影響力が入り込んできて交わりが汚染されたことを悟れば、そして、それが助言や忠告によって修正できる範囲を明らかに超えていることが分かったならば、そこにいる人々を、共に前進できる兄弟姉妹であると考えることをやめて、静かにその交わりを出て行かねばならない。交わりが異なる福音によって汚染された事実を知りながら、人間的な情愛にとらわれて、そこに長い間、残っていれば、いずれ深刻な害を受けることになろう。

このように、一旦、光を受けて前進していた信者が、後退するか、脱落するかした場合、その人との交わりは、まるで異教徒との交わりと同じような具合になってしまい、同じクリスチャンを名乗っていながらも、交わりが全く成立しなくなるという状況が起きうるのである。

そこで、たとえクリスチャン同士であっても、共に手を携えて霊的に前進して行けるかどうかは、その人自身の霊的成長にかかっていると言える。

途中までは共に前進出来ても、途中から脱落してしまう人々は非常に多い。そして、たとえ物理的には互いに顔を合わせることのない兄弟姉妹同士であっても、キリストの身体全体は一つであるため、他の信徒らに先駆けて、霊的に目覚ましい成長を遂げ、キリストの体の中で、先駆的な役割を果たしていた信者が、別な教えに逸らされて脱落すると、それは後方にいる人々にも大きな悪影響を与えることになる。

エクレシアは全体としては軍隊のような力を持つものであり、物理的な制約にとらわれず、互いに連動して機能しているため、一人一人のクリスチャンが霊的に成長を遂げるとき、それはエクレシア全体の増強となり、サタンと暗闇の軍勢に対する大いなる衝撃力となる。一人一人の信者の霊的成長が、エクレシア全体にとっての力となり、暗闇の勢力にとって重大な脅威となる。だからこそ、サタンは何とかしてエクレシアの交わりを破壊し、一人一人の信者の霊的成長を阻止し、できるなら彼らを誤った道へ逸らし、交わりを分断・破壊しようとするのである。

とはいえ、他の信者の状態がどうあれ、あなたは決して前進をあきらめず、キリストだけを土台として、進み続けなければならない。たとえ一人きりで出発せねばならないと感じられる時でも、あなたが前進し続けるかどうかが、エクレシア全体の前進にも大きく関わって来るのであるから、進み続けることをあきらめてはいけない。

 しばらく離れなければならなかった兄弟姉妹とも、また交わりの中で再開できる時が来ないとは限らない。しかし、キリスト者の歩みの目的は、かつてあったような交わりを維持・再現することにはなく、ただキリストに従うことだけが目的でなければならない。

さて、以上は、信者が、自分の思いを、神が信者に願っておられるスケールにふさわしいまでに押し広げ、高い目標を持ち、自分で自分の成長に限界をもうけず、自分に与えられた高貴で責任の重い使命にふさわしい自覚を持つべきことについて書いて来た。

そのように高い目的意識と、それに見合った広い心を持ち、神の約束の御言葉に従って、自分自身がそこに到達できることを固く心に信じないことには、信者の霊的成長など起こり得ないのである。

次に、信者が自分の「さまよう思い」をコントロールすることについて書きたい。

現在、筆者の作業場は小鳥たちの楽園のようになっている。筆者のパソコンの画面にはたくさんの小鳥が止まっており、キーボードも、小鳥たちが走り回る遊び場となっている。南国の美しいブルー、ピンクなどの、小鳥たちの珍しい色が、目を楽しませてくれる。

これらの小鳥を見ながら、筆者は、標題の御言葉の意味を思いめぐらしている。

キリストの復活の命は、環境を創造する命であり、この世のすべてを超えた支配力を持つことを、これまでの記事で幾度か述べて来た。御霊によるキリストの新しい命は、信者の地上におけるすべての必要性を整えることができる。

そこで、信者の生活に、損失のように思える出来事が起きた時でも、信者がもしそれを損失であると認めず、素早くそこから立ち上がって前進を続けるならば、驚くほど素早くダメージが回復されるばかりか、以前よりももっと豊かな恵みが与えられる。

筆者が出会った小鳥たちも、御霊の統治の中で与えられたものであると言える。偶然ではない様々な波乱に満ちた出来事が多々起きる中、筆者は様々な条件を指定して鳥を探して来た。これまで何度も小鳥を探して来たが、珍しい種類の良い雛を見つけるのは簡単なことではない。筆者の周りにいる鳥たちとの出会いも、一つ一つが偶然ではなかった。

だが、小鳥の話は単なる比喩に過ぎず、ここで筆者が言いたいのは、信者には自分を取り巻く環境条件を自ら創造し、自分の支配下に集まって来るものを、どんな風に治めるかを、自分自身で決める権限があることだ。

信者は信仰によって、すべての願うものを無から呼び出して獲得し、得たものを主人として管理・統治する権限を持つ。その影響力は、小さな生き物だけでなく、信者の支配圏内にあるすべての人、物事、条件に及んでいる。

そこで、信者は、信仰によって何かを得ようと願うだけでなく、得たものを適切に管理・統治する方法を学ばなければならない。その過程で、信者の統治には、信者自身の思いがかなりの影響を与えることが分かってくるだろう。

生き物を育てると必ず分かることは、動物たちには、間違いなく、言葉を超えた伝達能力が備わっており、主人の思いを言葉によらずに、瞬時に的確に察知する能力があるということだ。

飼育されている生き物たちは、主人である人間が今、平安を感じているのか、それとも恐怖を感じているのか、何の伝達手段にもよらず、瞬時に察知できる。彼らは、主人が安らいでいることによってのみ、平安を得る。

また、これらの生き物は、主人が同じ部屋を立ち去って、少し離れた見えない場所にいても、主人の心がどういう状態にあるのかを的確に察知することができる。

筆者はこのような能力を、当初は動物に備わる本能的な直感や、人間である主人の生活に合わせる適応力なのだと思っていたが、実は、そこには単なる言外のコミュニケーションを超えたもっと重大な影響力の行使があることに気づいた。

その影響力は、やはり、すべての生き物を治める主人と、その支配下にある生き物の主従関係から発生して来るものなのである。それは王国における王と臣下の関係にも似ていて、飼い主の考えは、これらの生き物たちに瞬時に伝わるだけでなく、生き物の運命を決めてしまうほどに重大な決定権・影響力を持つ。

たとえば、飼い主が怒りっぽく、絶えず不安にさいなまれている人間であるのに、ペットだけが平安で幸福であるということはまずない。そればかりか、飼い主がペットを愛さなければ、ペットの方が、自分は必要とされていないと思い、世をはかなんで去って行くということさえ起きかねない。

どんな飼い主であっても、飼い主の意志と思いは、圧倒的な影響力となって生き物に行使される。それが主人であることの意味である。人自身が思っているよりも、はるかに強く、また、些細な思いに至るまで、人間の思いや感情は、生き物に伝達され、決定事項のように作用する。

そこで、飼い主は、自分自身の思いが、自分の配下にいるすべての生き物にとって、善き決定となり、良好な影響を与えるように、自分自身をコントロールしなければならない。

もちろん、飼い主は、自分たちの生活に脅威を与えるすべての悪しき力に立ち向かって、これを撃退し、いと小さき命を養う主人としての役目と責任を果たすべきことに加え、彼らを幸福に生かすために必要な条件を整えねばらならない。

その過程で、人間は、自分の思いがどれほどすべての環境条件に重大な影響を与えているかに気づかざるを得なくなるだろう。

筆者がなぜ今、生き物を例に話をしているのかと言えば、人間を相手にする場合は、受ける影響力が強すぎるため、どこまでが自分の責任範囲であるのかが、分かりにくいからである。

仮に軽自動車とダンプカーとの接触を考えてみた場合、あなたが運転していたのが軽自動車であって、相手が運転していたのがダンプカーであれば、あなた自身の影響力がどこまでのものであるかは極めて分かりにくいだろう。ダンプカーの力が強すぎるからである。このように、人間を相手に関わる場合は、相手から受ける影響が大きいがゆえに、自分自身の思いや行動がどれほど相手に影響を及ぼしているかは見分けにくい。

しかし、人間よりもはるかに弱く小さな生き物が相手であれば、人は自分がその生き物にどれほど絶大な影響を及ぼしているかを、人間を相手にする場合よりももっとはるかによく知ることができる。

多くの人々は、飼い主として果たすべき責任と言うと、まずは餌や水を与えること、適切な温度管理をすること、清潔な環境を整えること、などの物理的な飼育条件を思い浮かべるであろう。もちろん、これらの世話は必要なことである。だが、それよりももっと根源的なところに、飼い主の思いというものが存在する。

人が自分自身の思いを守ることの重要性は、あまり強調されないが、これは非常に重要な問題マである。飼い主の思いが平安であり、安定していなければ、物理的世話が行き届いていたとしても、その支配下にある生き物は幸福になれない。そもそも、飼い主の思いが安定していなければ、ペットの幸福はあり得ず、それは、しばしば、物理的な世話が行き届かない最たる原因となる。ただ愛情があるだけではダメで、変わらない愛情、常に安定した愛情を注ぐにふさわしい準備ができていなければならない。

だが、このことはペットの飼育に限らず、すべてのことに共通しており、人自身が平安に生きられるかどうかの鍵は、その人自身が自らの思いを守れるかどうかにかかっている。

多くのクリスチャンは、常に安定した愛情を、ペットのみならず、自分自身にも、他者にも、注ぐ用意ができていない。彼らの心はあまりにも不安定で、変わりやすく、その上、彼ら自身が、自分は怒りっぽい性格に生まれたとか、苛立ちやすいとか、不安に影響されやすいとか、体が弱いなどと考えて、自分で自分の性格を規定し、自分の弱さが自分の生まれ持った傾向であり、変えられない習慣であるかのようにみなして、自分の心を圧迫するあらゆるものに毅然と抵抗して、自分の心を守ることをほとんど完全にやめてしまっている。

それゆえに、彼らは自分の心の平安をかき乱すあらゆるものに勇敢に立ち向かうこともなく、受け身に翻弄されるだけとなり、自分の心を防衛の砦のように守ることができず、まるで風にきりきり舞いさせられる木の葉のように、起きる出来事に翻弄されては心の平安を失い、自分ばかりか、自分の支配下にあるすべてのものを危険にさらしているのである。実のところ、それは全く正しい行動とは言えない。

そういうことは、その信者が自分の思いをコントロールする術を学んでいないために起きることであり、また、同時に、信者が自分で自分の性格を規定してしまっているために起きている誤解なのである。

そのことを知らない人々の中には、以上のような天然の弱さからもっと進んで、たとえば、自分は運が悪いとか、決して人から愛されないとか、肝心なところでいつも失敗するとかいった、極めて否定的な根拠のない思い込みを頑なに真実であるかのように信じ込んで生きている者もある。それは彼らが心の思いの深いところで、すでに自分の人生を規定してしまっていることを意味する。

そのような否定的な「信仰告白」を繰り返していながら、一体、どうしてその人がキリストの身丈まで霊的成長を遂げることなどあり得ようか。

たとえば、自分の人生があたかも不幸の連続であるかのように自ら思い込み、決して自分は人から十分な愛情を注がれることなく、十分にかえりみられることもなく、何かの痛ましい事件の犠牲者となって生き続けるしかない被害者であるなどと、心の深いところで根拠もなく思い込んでいる人間が、自分の周りにいるいと小さき命を真に幸福にできることは決してないと言えよう。

そういう意味で、前回も書いた通り、「一羽の雀」をはばたかせるか、地に落とすかという選択は、生き物の飼育という問題をはるかに超えて、その飼い主である人間自身が、果たして自分を治めることができているのか、自分を生かすつもりなのか、殺すつもりなのか、生と死のどちらを選ぶのかという選択と深く関わっているのである。

本来、多くのものを適切に管理し、多くの命を生かさなければならない立場にあるはずの人間が、自分は不幸だと思い込み、環境の主人となるどころか、環境条件に振り回され、それゆえ、常に自分を失って、周りの命に大きな悪影響を及ぼしながら生きているといった現象は、決して一部の弱い人々にのみ起きていることではなく、霊的成長を遂げたいと願っている多くの信者にもしばしば当てはまるものなのである。

今日、クリスチャンを名乗っているほとんどの信者は、自分で自分をどれほど制約し、規定してしまっているかを知らない。彼らは口では、「キリストに似た者とされたい」と告白するが、それが一体、どういうことを意味するのか、内容を分かっていない。聖化だとか、栄化だとかいった専門用語のような概念を論じることはあっても、その内実が何であるのかほとんど理解してはいない。

彼らは自分というものを、あたかも救われる前まで、もしくは昨日まで、積み重ね、作り上げて来た狭い自己イメージであるとみなしており、そこに変化が起きうる可能性を全く想定していない。過去の蓄積として自分自身で作り上げた自分のイメージが、明日も、明後日も、続くのだと思い込んでおり、それに無意識のうちに束縛されてしまっているため、そこに信仰の働く余地が全くと言って良いほど存在しないのである。

その思い込みは、完全に事実無根というわけではなく、その中には、幾分か、信者自身の生来の性格や傾向も含まれており、事実、そのような過去が繰り返されて来たのかもしれない。

しかし、信者の信仰による歩みは、過去によって規定されるものでなく、信者の天然の命によって規定されるものでもない。そこで、まことしやかな「過去の蓄積」を自分自身だと思い込んで生きている限り、その信者の中から、天然の命の限界を打ち破るような信仰の働きは決して起きて来ることはない。

サタンは、信者の天然の傾向を入念に研究済みであって、信者の天然の命から来る限界や欠点を、あたかも信者の変えられない「運命」であるかのように思い込ませる天才である。それは、悪魔は、信者がいつまでも過去に縛られ、自分の天然の命の弱さから抜け出せず、決してその制約から立ち上がって、キリストの復活の命の豊かさにあずかれないことを願っているためである。

楽器の練習をする際に、昨日と同じように弾こうと考える者はいないだろう。必ず、昨日よりは上手く、昨日よりももっと自由に、より美しく、より高い完成度で演奏しようと考えるはずである。どんなに目標が遠く感じられても、根気強く、そこに近づいていきたいと願い続けているからこそ練習するのである。

ところが、信仰による歩みについて、あまりにも多くの信者たちが、いかなる目的も持っていない。彼らは何の目的意識もないまま、漠然と昨日と同じような今日を生き、その延長として明日が来るだろうと考えているだけで、全く目的意識も持っていないのに、まるで偶然のように自分に進歩が起きるのを受け身に期待しているだけである。

彼らはキリストに似た者とされることが、自分自身の内面の作り変えを意味し、自分の中で人として損なわれた尊厳を完全に回復することを意味しているなどとは全く考えてもみない。むろん、自分自身の内側で、天然の堕落した命の衝動に従って生きている限り、人としての尊厳がどれほど深刻に損なわれているかに気づいてもおらず、そのままでは、人生において完全な主権を打ち立てることもできないと分からない。

サタンは、信者に天然の弱さが克服不可能であるかのように思い込ませようとするか、もしくは、それを克服することは、人間の力では到底、不可能であるから、あきらめるしかない、と思い込ませようとする。そのようなサタンの策略が功を奏すれば、信者は自分のあれやこれやの弱さにひしがれ、それを否むことは、神のまことの命によってのみ可能であると考えてみようともせず、自分で自分の弱点を克服しようともがいた挙句、一向に克服できない自分の欠点や弱点に対する罪や恥の意識に常に苛まれて生きるしかなくなる。

そうしてサタンの策略が功を奏すれば、サタンは信者をただ天然の命の弱さによって思うがままに翻弄するだけでなく、その次に、信者の天然の傾向とは何の関係もない余計な重荷までも次々と信者に押しつけて来た上、それらを背負って生きることが、信者の「運命」であるから、あきらめるしかないと思い込ませようとするであろう。

サタンが願っているのは、信者の思いをひっきりなしに重荷によって圧迫し、かき乱し、平安を失わせ、信者があらゆる物事を判断する際に、ただ受け身に出来事に翻弄されるだけとなって、決して正常な決断が下せないように仕向け、主体性を失わせることである。

サタンは信者が神の国の霊的統治を持ち運ぶ王のような威厳と権威を備えた存在だということを何としても気づかせまいとしており、信者の見えない王国を統治する主人としての威厳と権威を損ない、信者が与えられた召しにふさわしい生き方ができなくなるように仕向けようとする。王の威厳にふさわしい者と言うより、奴隷と呼んだ方が良い生き方を強いようとする。

そのためにこそ、サタンは、信者は弱く、欠点ばかりを抱えた、一人では何事もできず、失敗を繰り返すだけの無力な人間であるから、常に誰かの助けと支えがなければ生きられないかのように思い込ませ、信者がまかり間違っても、大それた高貴な目的意識など持つことなく、自分がキリストの持っておられるすべての性質にあずかるにふさわしい人間であるなどという自覚を持たないように仕向けようとするのである。

サタンが願っているのは、信者が一生、自分の天然の命の限界から一歩も出ることなく、罪と死の法則だけに支配されて翻弄される客体として生きることである。

だが、信者はそのような悪しき惑わしの策略を打ち破り、これを振り切って、前に進んで行かなければならない。このことは、信者が重荷を避けて通ることを意味せず、むしろ、どれほどサタンが信者に不当な重荷を押しつけようとして来たとしても、信者がこれに勇敢に立ち向かって、それを撃退する方法を学び、その重荷を自分自身のものとして背負うことを断固、拒否する姿勢を保持することを意味する。

聖書には、「主をたたえよ 日々、わたしたちを担い、救われる神を。」(詩編68:20)という句があり、これは新改訳では、「ほむべきかな。日々、 私たちのために、重荷をになわれる主。」となっている。神は私たち自身を背負われる方であるから、私たちはいわれのない重荷によって心を絶え間なく圧迫されて正常な判断力を奪われることを固く拒否すべきなのである。確かに、主に従う上で、日々、負わねばならない十字架があるとはいえ、主イエスはその荷は軽いと言われた。

サタンが押しつけて来る重荷は、人間には負いきれない重荷であって、信者はそれを引き受けてはならない。しかし、その重荷の中には、信者の天然の命から来る限界だけでなく、信者が常識であるかのように考えて自分でもうけた制約なども含まれている。

信者の霊的成長にとってしばしば最も有害な障害物となるものが、信者自身が過去の記憶の蓄積や、人の言葉や評価を通して得た自分自身のイメージ、または、聖書に反する自分の常識を通して作り上げた自分自身のあるべきイメージである。

ガラテヤ人への手紙の中で述べられている「御霊の実」は、今日、多くのクリスチャンにとってほとんど絵空事に等しい。この聖句は今日、多くの信者の間で、「クリスチャンになった以上、人々に対して親切で善良な人間になりましょう」といった道徳訓くらいの意味合いにしか理解されていないが、ここで述べられていることは、そういう意味をはるかに大きく超えた、信者の内なる人格の作り変えのことである。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:19-26)

信者の内なる天然の人が、主と共なる十字架ではりつけにされて死に、その代わりに、キリストの高貴な人格の性質が、その信者自身の人格として付与され、信者がそれに一体化して行くということが起きねばならないのである。キリストの人格が、信者の人格と一致して働き、キリストの命に備わった性質が、信者自身のものとされ、信者の内側から発揮されなければならないのである。

だが、その作り変えは、決して信者の自覚や同意と関係なく自動的に起こることはない。その作り変えの過程で、信者の思いや、魂にも、十字架が適用されなければならず、信者は自分がそれまで自分だと思っていた天然の人を否み、これを手放し、それとは異なる人格(命の性質)に従って生きることを自分自身で選択せねばならない。

そのためには、何が天然の命に属するものであり、拒まなければならない性質であるかを、信者自身が理解せねばならない。

そんなにも多くの時間をかけて学ばなくとも、多くの人々は、自分の人生の調和を狂わせるようなあらゆる変調が、自分自身の心の中に存在することに、すでに気づいているだろう。

人の心の中には、さまよう思いがあり、それはきちんとコントロールしなければ、信者の心の中を荒れ果てた庭のようにしてしまう。それは、たとえるならば、演奏家が楽器を奏でる際に、様々な外的な要因によって注意を乱されたために呼び起こされた調子の外れた音のようなもので、信者の人生という美しい演奏を不意にかき乱し、場合によっては、壊してしまう。

しかし、信者は、信仰によって、主と共に自ら望むものを創造する者として、ちょうどどんなに劣悪な環境条件の下で演奏を強いられるときにも、最高かつ最善のパフォーマンスができるように自己鍛錬する演奏家のように、自分をコントロールする術を学ばなければならないのである。常に自分にとって完全な舞台が用意されてから、完全な演奏をしますと言っているのではだめなのである。

信者は、自分を取り巻く環境条件に関係なく、自分の内面をコントロールし、そこから信仰によって、自ら環境条件を治める術を学び、それによって、自分の人生の真の主人としての自立と尊厳を回復しなければならない。その回復作業に当たって、信者は、心の変調となりうるすべての要素を、自分の内から追い出さなければならない。

信者が自分自身の心を治める術を学ぶ過程は、非常に根気強いプロセスを必要とするもので、ただ主と共なる十字架における、主の死と信者との一体化、信者が天然の命の衝動を拒んで、神によって与えられた新しい命に従って生きることによってのみ可能である。

神の栄光にあずかるとは、信者自身の内面の作り変えと決して無関係に語れるテーマではないと筆者は考えている。それは決して、地上で信者が大々的な伝道を繰り広げてクリスチャンの数を増やすとか、大規模な事業を行って世間に注目されるといったことを意味しない。

地上で完全にただの人のように肉に従って生き、御霊の働きを知らず、御霊の導きに従って生きる方法も学ばないまま、信者が地上での生涯を終えても、復活の時が来さえすれば、栄光に満ちた姿に自動的に変えられると考えるのは、かなり甘いであろうと筆者は思う。

信者はこの地上において、すでにキリストと共なる死と復活にあずかっているのであり、復活による作り変えは、すでに今の時点からその人の内側で進行中なのである。やがてキリストが来られる時に、私たちがどの程度、主と共に栄光にあずかることができるのかは、私たちが今、この地上で、天然の命をどれほど否み、キリストの復活の命に従って生きたかという度合いによる。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1-5)


キリストと共に天の御座から御名の権威を持って地に向かって命ずる

 以前に書いていた「キリストと共に天に昇り、御座から統治する」という記事を補足しておきたい。

 十字架においてイエスと共に死ぬこと、イエスの復活の命によって新しく生きること、それはもちろん、クリスチャンが日々、経験しなければならないことであるが、大まかなプロセスとしてみるならば、確かに、ある日、御霊の光によって、それらを経験的にはっきりと実際として理解させられる、ということは起きるのである。

 筆者自身、この経験を通して、ちょっとやそっとでない変化がもたらされた。いや、十字架の経験は、筆者を永久的に、完全に、内側から変えてしまった。たとえば、それまで、筆者は信仰を持っていたが、世人とほとんど変わらない人間で、自分の弱さと状況次第では、どんな罪でも犯しうる人間だと感じてきたが、その主と共なる十字架の経験以後、あからさまに罪を犯すことはもうできなくなった。

 聖書に書いてある「新しい霊と心を与える」ということがどういうことなのか、実感を伴って理解したのである。筆者の魂はあらゆる痛みや傷から全く解放されて、生まれたばかりのように生き生きと健康になり、肉的な悪習慣は跡形もなく消え去り、罪なる思いを否んで退けることができるようになった。

 自分が、今や御霊の制限の中を生きており、かつてのような罪と死の法則性には二度と戻ることができなくなったのを理解したのである。

 だから、御言葉が光となって人の内側を照らす時、光は人の中で死ぬべきもの(=旧創造に属する部分)を永久に殺してしまうということが分かる。この変化は、ある人が一旦、やめると宣言した悪習慣に、時が経てばまた逆戻するような、優柔不断で曖昧な変化ではなく、上から来る光は、照らすと同時に、殺す力を持っている。御言葉は、肉なるものを切り分けると同時に、永久にそれに死を宣告する効力を持っているのである。
 
 暗闇にいた人が、光の下で、徐々に目が慣れて来るように、筆者はそれ以来、何が肉であり、何が魂であり、何が霊であるのか、おぼろげながら、見分けられるようになった。たとえば、魂から出た愛情や、善意は、たとえどんなに美しく見えようとも、全て腐敗しており、希望がないこと、御霊によって生まれたものだけが、真のリアリティであることが理解できるようになった。

 周囲で起こっていることを見ても、何が魂の活動であり、何が霊の活動であるか、その微妙な境目を、少しずつ、識別できるようになった。

 それに加えて、少しずつ、御霊による支配が始まった。内なるキリストが、直接、筆者を通して、状況に働かれたという他には、全く説明のつかないような出来事が、さまざまな場面で起きた。キリスト者の内に住まう聖霊が、確かに生きて力強く働かれることが分かって来たのである。

 だが、決してそこで信者の歩みが完全になったわけではない。信者の中で生まれた「新しい人」は、まだ力なく、十分に成長していない、子供のようなものである。信者はもはや暗闇の中を歩んではいないとはいえ、依然として、この世や、暗闇の権威に打ち勝つ力をまだ知らず、暗闇からの圧迫が、予期せぬ事件や、突然の不調、不安を煽るような状況などとなって、波のように寄せてくるとき、それに対して信者は、初めのうちは、よくても受け身、悪い場合には、ただ翻弄されて後退を繰り返すだけで、これらの出来事に圧倒的に勝利する秘訣をまだ知らないが、それを掴む必要があるのだ。

 信者の生まれたばかりの新しい人の霊的無力さは、彼が天の高度に霊をはばたかせ、キリストと共に昇天し、主と共に御座から、キリストの御名の権威を持って主と共に治めることを実際に経験し始めれば、変わるであろう。むろん、信者は、資格の上では、すでにキリストと共に死と復活を経て、御座についているのであるが、それがどういうことなのか、実際に経験しなければならないのだ。そして、その経験の過程で、信者の新しい人は、霊的に強められ、信仰が成長し、勝利をおさめながら、キリストの似姿へ成長して行くのである。

 そこで、「キリストと共に天の御座から統治する」ということの意味を、知りたいと筆者は考え、神に願った。そのように霊的に天に昇り、御座から統治するという経験は、信者が暗闇に勝利する生活を送るにあたって、なくてはならない死活的重要性を帯びていると感じたためである。
 
 もし、十字架の死、復活と、それに続く昇天の経験がなければ、クリスチャンが、キリストの王国の勝利と支配の前味を生きて経験することはできないだろう。たとえば、地上の経済がますます悪化し、人心が荒れ、嘘と騙しと搾取が横行する今の世の中にあって、信者の職業の問題、経済の問題などには、信者ただ一人分の命を何とかしてつなぎとめるなどという意味ばかりでなく、それを通して、信者がキリストのまことの命による支配をこの地にもたらし、暗闇の勢力による支配を敗北させ、後退させるという意味を帯びているのである。

 ある信者が、「悪人の富は、善人(信仰者)のためにこそ、蓄えられる」と語ったが、まさにその通りなのである。キリスト者には、御名の権威によって、地の富が蓄えられている倉庫を開錠し、不正な罪人たちの富を天の倉庫に移行するということが可能なのであり、その方法を信者は実際に知らなくてはならない。

 この富の移行は、地上の悪人たちがいつもそうしているように、嘘や不正や脅しや略奪や搾取によるのではなく、ちょうど新約聖書で、ザアカイが主イエスの前に自ら悔い改めて、自分の蓄えた不正な富を虐げられた人々に還元すると述べたときのように、悪人が信仰による義人の前に、自ら己が不正な富を明け渡すという自然な成り行きによる。そのようにして地が天に仕えることが、本来の秩序なのである。そして、信者は、天の正しい霊的統治を地上で持ち運ぶ器なのである。
 
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 もう一度言うが、キリスト者は、主イエスと共に霊的に統治する方法を知らなければならない。そして、それは天の御座の高度から行われるべきことである。

  ただし、ここで少しばかり注意が必要なのは、これはスピリチュアリズムで流行した「アセンション」などとは全く異なる事柄で、アセンションなどは、キリストと共に信者が御座から統治することの偽物に過ぎないという点である。

 悪魔と暗闇の勢力は、人があたかもキリストの十字架を介することなく、神の恵みによらず、自力で自分本来の力に覚醒することによって、何かしら天的存在となり、神のようになれるかのような教えを常に捏造して来た。つまり、今もって彼らは、キリストと共なる死・復活・昇天の体験の偽物を盛んに流布しているのだが、このように偽物が現れて来るのは、本物がそれほどまでに貴重だからに他ならない。

 だから、キリスト者は、虚偽の教えが蔓延していることに幻滅して、本物を探し求めることまでやめるべきではなく、偽物が隠そうとしている本物が必ずあるはずだということに注目して、真に高価な「真珠」である霊的真理を探し続け、御言葉が生きて実際となる経験を求めるべきである。

 キリストの御座からの統治とは、山上の垂訓が実現した世界であり、それは信者の肉的高揚のために行われる自己顕示などとは全く異なる事柄である。信者は、自分に何らかの感覚的な高揚感をもたらす超自然的な体験の有無に左右されることなく、あくまで聖書の御言葉に立脚して、静かで落ち着いた信仰のもとに、これらの事柄(復活、昇天、御座)が、御霊によって信者の内側で実際となることを確信し、それを追い求めるのである。

 たとえ感覚的に何も体験したように感じられずとも、御言葉への確信の中にとどまることが肝心である。

 さらに、筆者がこのような追求の間に学ばされた重要なことがある。それは、キリスト者は、天の御座に就いて主と共に統治する者であるから、地上の経済の悪なる支配に巻き込まれて、その奴隷となってはいけない、ということである。

 筆者はこれまで、さまざまな方法で生計を神に満たしていただいたが、その満たしの方法は一定ではなく、時には、ジョージ・ミュラーのように信仰を試されることがなかったわけではない。

 なぜなら、信者は天に終身雇用されているのだが、地上においての雇用は変化する可能性があるからだ。地上には何一つ永続的な事柄は存在しない。そこで、この世で、どのような形で生計を満たすかという問題については、主はその時、その時で、いつも筆者に違った答えを下さった。

 だから、筆者はかなり長い間、世人と同じように、この世の職業に就き、まじめに働いて生きようと考えて来たのだが、いつも、その結果として、思い知らされることは、地上の労働なるものは、地上の呪われて堕落した経済の一環として、非常に悪しき呪われた要素をはらんでおり、その支配に身を委ねれば委ねるほど、誰しも、豊かになるどころか、貧しくなっていくだけだということである。

 そのような呪われた悪循環に身を委ねることが、神に喜ばれる信者の生き方ではなく、信者が養われる方法は、常にこの世が規定しているような自己の労働によるのではない別な天的な方法によるのだということを学ばされるのであった。

 だから、どんなに筆者が世人と同じような生活を送ろうと試みても、いつもいつも不思議な展開により、どういうわけか、神は常に労働によらない別の蓄えを用意して下さり、自己の努力によらず、神の恵みによって生きるようにと、筆者に促されたである。むろん、それは不正に蓄えられた富などではなく、むしろ、不正な罪人が裁きを受けて、正しい人のために、蓄えて来た富を明け渡さなければならなくなる、といった結末によって生じるものなのであった。
 
 だから、たとえこの世の経済がまるで呪われた悪循環のようなものとなっており、どんなに多くの世人がそれによって追い詰められ、暗闇の勢力がそれを使って信者の生活をも妨害しようと試みたとしても、結局、最後には、彼らの方が降参して、己が富を信者に明け渡さなくてはならなくなる、ということの連続なのである。そして、そのように不正な罪人が恥をこうむり、悔い改めた時に生まれる富の移行が、信者がこの世的な労働によって得るものよりもはるかに大きいのである。
 
 だから、筆者が言えることは、もし信者がキリストのみに忠実であろうと堅く決意し、主以外の何者にも頼らずに御言葉を守って生きるなら、我々の生存に必要な条件はすべての面において、神が保障して下さると信じて構わないということである。神が信者の義となって下さり、信者のために戦って下さり、信者のために報復し、この世の不正な罪人を屈服させて、彼らに恥をこうむらせ、彼らが義人から収奪して蓄積して来た富を、信者に明け渡させるのである。

 たとえ筆者自身がそういうことを望んでいなくとも、それでも、キリスト者は、地上の経済よりも上位にいて、地に対するキリストの命の霊的統治を及ぼす権威を持つ者なのだということを、どういうわけか、筆者は常に確信せざるを得ない出来事の連続の中に置かれて来たのである。

 キリスト者を騙し、虐げ、踏みにじり、搾取しようとするような者は、必ず恥と損失を受けることになる。そのようにして、地の富が天の宝物庫に移行することは、神の御心にかなっているのである。
 
 だから、筆者は誰かの施しや憐れみにすがって困窮状態を解決してもらわねばならないようなマイナスに陥ったことはこれまで一度もないし、かえって、筆者の「貧しさ」をあざ笑ったり、追い詰めたり、あるいは筆者を騙して損失をこうむらせようとした人々が、常に最後には恥をこうむり、償いをせねばならない事態となって来たのであった。

 たとえ望まなくとも自然にそのようになったのである。今、地上の経済は年々悪化の一途を辿っており、あらゆる組織・企業・団体が悪鬼化し、嘘と騙しと搾取が横行しているにも関わらず、御名の権威を持って、信者が彼らの前に立つとき、地上の悪なる主人たちは、結局、恥をこうむり、己が宝物庫を、キリスト者のために明け渡さなければならなくなるのである。

 だから、キリスト者の使命は、地上の悪なる主人の手下や奴隷となって、その思い通りに動かされ、無益な苦しみを味わうことではない、とはっきり言える。むしろ、聖書に書いてある通り、悪なる人々が、義人を陥れようと、どんな不正な計画を企み、罠を張ったとしても、信者は神にのみ絶対的な確信を置いて、心安らかに歩いて行けば良い。神が、彼らを自分でしかけた罠に突き落とされるからである。その結果、彼らの富が義人の手に移行するということが自然に起きるのである。
 
 だから、信者は神にのみ絶対的な確信を置いて、神に対してのみ忠実であればよく、聖書に書いてある通り、明日のために思い煩うということは、する必要のないことである。むろん、最低限度の管理は必要だが、自分で自分を支えようと絶えず心を悩ませ、限界まで力を振り絞って悲痛な努力をして(もしくは不正な方法論を巡らして)まで己の力で己を養おうと努力する必要はないのである。

 信者はただ率直に、何が自分に必要なのかを天におられる父に向かって祈り、申し上げ、主を信頼して生きれば良い。

 さらに、こうした祈りの際に、非常に有効なのは、信者がただ地上から天に向かって祈りを通して願いを神に懇願するだけでなく、もっと力と権威を持って、天の御座からキリストと共に、御名の権威によって地上に向かって命じるということなのである。

 これをするために、信者には「キリストと共に昇天し、御座につく」という経験が必要になるのだと筆者は考えている。天の御座からの権威をもった祈りは、地上から捧げる懇願の祈りよりももっとはるかに強力な効果を持っているからだ。
 
 信者の地上での行く先、なすべき事は、常に、天に備えられているが、ただ備えられているだけでなく、それは祈りによって、常に信者の心の願いに沿って与えられるものなのである。

  だから、信者はこの世のものさしに従って自分の人生をおしはかり、願いを限定すべきではない。たとえば、地上の経済が悪化しているから、選択肢もないだろうと考えて、信者があえて劣悪な条件に自ら志願したり、二度と関わるまいと決意した領域に戻ろうとしても、その道は常に絶たれる。

 主が信者のために用意して下さるのは、良心に恥じず、自分で自分を苦しめたり、貶めたりする必要がなく、不正に加担せず、なおかつ、信者自身の心の願いに合致し、さらに歴史の立会人になるような生き方である。

  信者にとって生活の糧は、自分で探し回って自己の努力によって得るものではなく、はたまた巧みな自己アピールによって獲得すべきものでもなく、主と信者が共同で作り出して行くものなのである。御霊の知恵が、どのように生きるべきかを信者に常に教えるのである。

  神には無限の多様な知恵があり、無からでも有を呼び起こすことのできる方が我々の主である。その主と共に生きている限り、信者は、神と共に信仰によって、自分の願う事柄を創造しているのであり、神には足りないとか、万策尽きたということが絶対になく、信じる者のために、神は常に豊富に選択肢を用意して下さることができる。

 だから、キリスト者の生活とは、この世の状況がどんなに悪くなって行ったとしても、それに左右されるものでは決してないのである。

  しかしながら、そこに信仰の戦いがある。信者の願いが成就するよりも前に、必ず、暗闇の勢力からの妨害があり、彼らは主が信者のために創造して下さった富が、何としても信者の手に渡らないように、必ず、何らかの方法で妨害して来る。

 その時に、信者は、敗北感や、恐れや、弱さを覚えたり、自分が神に願った恵みを受けるに値しないという怖れの中に沈まないことである。この否定的感覚に対して、徹底的に立ち向かい、これを拒否し、神の勝利に立ち続けて、天の高度を維持しながら、すべての圧迫に立ち向かうことが有効である。

 信者は決して起きる出来事にただ翻弄され、振り回されるだけの立場でいてはいけない。神が約束して下さった栄光に信者を至らせまいとする全ての悪魔の策略を見抜き、これを打破して突き進んでいく積極性が必要なのである。

 このような戦いを経由することなく、願っていた栄光(キリストの似姿)に信者が到達することはまずないと言えよう。悪魔はあらゆることについて信者に敗北をささやき、あらゆる方法で信者を意気消沈させようと試みるだろうが、敗北は悪魔に突き返してやり、絶対に認めないことである。また、敗北的な台詞を人々から投げかけられる時、これをきっぱりと否定することが重要である。

 悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう、と書かれている通り、キリスト者を迫害して来るような連中の悪事は、声を大にして世に告げ知らせれば良い。これについて、黙っている必要はない。この世の罪人がどれほど連帯して信仰によって生きる義人を迫害し、陥れようとしたとしても、キリスト者の内におられる方は、この世全体を合わせたよりもはるかに強いのであり、すでに世に勝った方なのである。

 だから、この世の情勢がどんなに厳しくなっても、信者の生存のために必要なすべては主が天に備えておいて下さり、しかも、それは必要最低限をはるかに上回るものなのであって、それを信仰の戦いを勝ち抜いて獲得することができる、ということを信じずべきである。

 信仰によって、天から地に御心を引き下ろし、地上の富を天に移行することが信者の重要な責務の一つなのだと認識すべきである。

 地は、天に住む者のためにその宝を蓄えており、これを明け渡さなければならない立場にある。キリスト者が地上の人々に仕え、その悪なる支配に翻弄されるのではなく、地上の人々がキリスト者に仕え、天の支配を知らなければならないのであって、これが本当の秩序のありようなのである。信者が地の奴隷になるべきではなく、信者はかえって地の悪なる主人の支配に恥をこうむらせ、これを後退させ、御心にかなう天的秩序を地にもたらすために地上に存在しているのである。

 人の力は、どんなに優れた能力がある人の場合も、年々衰えるだけであるが、主を待ち望む者は新たに力を得る。キリストの死と共に働く偉大な復活の力は、人間的な望みが尽きれば尽きるほど、ますますはっきり現れて来る。

 神を信じてより頼む者が失望に終わることはない、と聖書に書かれている通り、この世の法則と、信仰の法則は逆なのである。この世的な観点から絶望が増し加わる時にこそ、信者の信仰が試されており、信者に約束された天の栄誉も大きい。

 だから、今の時代のような時にこそ、信者は勇気をもって暗闇の勢力の妨害に敢然と立ち向かい、約束された勝利を勝ち取る積極性が必要とされる。たとえ確かな証拠が目に見えるところに何もなくとも、見えない神の偉大なみわざを信じる信仰を生きて働かせるべきである。

 敗北から立ち上がり、勝利の叫びをあげ、凱旋の歌を歌いなさい。もうこれ以上、弱々しい懇願の祈りを捧げていないで、まだ見ていなくとも、天の御座に主と共に座していることを信じ、地に向かって権威を持って命じなさい。

 アダムのために地は実りをもたらさないが、地はキリスト者のためには実りをもたらさなければならない。なぜなら、キリストは、アダムが失敗した統治を実現するために地上に来られ、今やその任務を、信じる者に委ねておられるからである。

 悪人の富は信仰による義人のためにこそ、蓄えられている。地はすべての富をキリストご自身に明け渡すためにこそ、蓄えているのである。彼らが己の欲のために富を蓄えていると思っているのは、勘違いに過ぎない。彼らが義人を虐げて不正な富を増し加えていると思っているのは勘違いに過ぎない。不正な罪人自身も含め、この地上にあるすべては結局、キリストに服従させられることになるのである。

 キリスト者は神の代理人として、霊的に地を治め、地の富の蓄えられている倉庫を開錠する権威を行使できる者である。特に不自然な努力を重ねなくとも、神にのみより頼み、御言葉のうちにとどまりさえすれば、最後には不思議とそういう結果になって、地上の不正な罪人らがキリスト者のために道を譲り、キリスト者のために奉仕し、不正を悔い改めて、その富を明け渡さなくてはならいような成り行きにすべてが進行する。そうなったときに、筆者がここに書いてあることが何だったのかも、分かるであろう。

 だが、これはキリスト者がこの世で権威者となることを意味しない。主イエスや弟子たちが地上にある間、あくまでこの世の経済的支配圏の外に立っていたように、キリスト者は、この世の支配に組み込まれない自由な人間として、それでも、この世の支配を超越した高み(天)から、この世の支配圏に対して権威を持って命じることのできる立場にある。

 このようなことを、筆者は人間的な思いで、あるいは高慢や支配欲もしくは復讐心などから言うのではなく、実際に、キリスト者には、貴い主の御名のゆえに、地を治める権威があって、その権威の前に、地の人々が従わなくてはならない、という秩序が存在することを知ってもらいたいがゆえに、述べているのである。筆者はおびただしい回数、それを見て来たのでそれが事実であることを知っている。
 

復活の命にある自由――御名の権威を行使し、平安に座して天的領域を生きる

オースチンスパークス著、「私たちのいのちなるキリスト」から。

「私たちのいのちなるキリストが現される時・・・」
(コロサイ人への手紙3章4節)


聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、彼の復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

こうしたことには三つの要素があるでしょう。第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです。

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることです。

私たちは、神の霊の実際の働きはすべてをキリストご自身に帰することであることを学ばなければなりません。彼、キリストが「内なる人」である私たちの霊のいのちでなければなりません。それは、私たちが主の中で強くあるためです。自分自身や、他の人々や、物事によってではありません。私たちは、彼の内なる力だけで、逆境を切り抜けなければなりません。

キリストは私たちの知性のいのちでなければなりません。説明する力や理解する力がないために、私たちは困惑するかもしれません。しかし、御霊は教え導いて下さいます。

キリストは私たちの体のいのちである必要があります。肉体のための神聖ないのち、というものがあるのです。主は常に体を癒されるわけではありません。しかし、御旨を成就するために、主は体のいのちとなることをいつも願っておられます。苦難の中でもです。

いのちは主ご自身です。そして、主ご自身がいのちとなるために、いのちはしばしば天然の無力さという背景と対峙(たいじ)させられなければなりません。彼の復活の力は、最初から最後まで、キリストとの合一の法則です。主の民は恐ろしい圧迫の時代にあります。彼らの敵はほとんど休みを取りません。私たちのいのちなる主ご自身にのみ、十分な備えがあります

バルナバは最初、「心を堅く保って主にとどまるように」(使徒の働き11章23節)と信者たちを励ましました。この言葉には断固たる響きがあり、「私たちのいのちであるキリストが現される時」まで私たちに押し迫るでしょう。
 
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年明けに「キリストと共に統治する」ことが今年のテーマであると発表したが、これはキリストにあって、信者が彼と共にすべてを足の下にして支配することを意味する。
 
これは口にするのは極めて容易だが、思いもかけないほどに偉大な事柄である。
そして信者がキリストと共に統べ治めるためには、二つの決意が必要である。

一つ目は、目に見えるいかなる人間の指導者への依存心も完全に捨てて、ただまことのお一人の神のみを頼りとして生きる決意を固めること。どんな状況下でも、ただキリストの命だけによってすべてを切り抜ける覚悟を固めること。

二つ目は、どんな状況下でも、自分が環境や状況に翻弄される立場に立つのではなく、キリストにあって、環境状況を治める権威を持っていることを自覚し、内なる平安に根差しつつ、あらゆる事象の上に立ち、御名の権威を行使して環境を治める使命を実際に実行して行くこと。
 
オースチンスパークスが以上で書いているように、キリストの命の現れは、信者が人や組織や事物に頼ることによって制限を受ける。
 
私はこれを霊的中間搾取の原則と呼んで良いと考えている。 神と信徒との間に挟まっている隔てが多ければ多いほど、キリストの命の現れが減っていくのである。

人間のリーダーのいる団体でも、信徒の間での信仰の現れは皆無でない場合がある。だが、その現れは弱く、制限を受けており、最終的には、そこにとどまっていれば、信者はいずれリーダーを神として、偽りの神に仕えることが避けられなくなる。そこで、使徒らを含め、あらゆる信仰の偉人たちがそうして来たように、もし信徒が本当にキリストにあって自由になり、自立したいと願うのであれば、キリストから直接教わり、神のみを頼りとして生きるところへどうしても進まなければならない。

キリストの命の豊かさの現れは、信者が目に見えるものに頼るのをやめて、神に向いた度合いによって増し加わって行くのである。

主イエスが地上におられた時の生活を考えてみれば良い。公生涯が始まってから、主イエスは故郷を去り、それまでの職業を捨てられたので、彼は何も所有しておらず、その生計は常に天の不思議な供給によって満たされていた。

「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」(マタイ8:20)と言われた通り、おそらく今日どこに泊まり、誰とどんな風に食事をするのか、それさえ御霊の導きによったのだろうと思われる。

パウロも書いている、「私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでそうか。」(Ⅰコリント9:5)と。地上で自分の家庭も職業もなく、世話をしてくれる僕を連れ歩くこともなく、明日の保証を何も持たない寄留者の立場に徹することに心細さや不安が伴わないはずがない。蔑まれることもあっただろう。

だが、主イエスはただ天の父なる神の栄光のために、あえてどんな地上的なものをも頼りとせず、その信仰の証として何も所有せず、ただ神だけを頼りとして生きられた。

それでは主イエスはホームレスだったのか、と言えば、決してそうではない。あたかも何も持っていないようでありながら、彼の内にこそ、すべてがあった。主イエスはそのことを知っていたので、地上で何も所有していないことによって尊厳を傷つけられたり、貶められることが全くなかった。彼は常にご自分の必要を天の父に直接求め、父なる神はそれを喜んで聞き届けられた。

御子は天の父なる神と直結していたので、地上にいる人々に助けを乞う必要が全くなかったのである。ただその必要がなかっただけでなく、乞うてはいけなかったのである。主イエスはただ神だけをすべての供給者としてただ神だけにより頼んで歩まれ、神が全てを満たして下さることを生きて証明する必要があった。

「私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を作られた主から来る。」(詩編121:1-2)

こうして、不思議なパラドックスにより、地上では何も所有していないはずの貧しいイエスのもとに、地上の人々が助けを求めて殺到した。宗教的権威であり専門家である指導者よりも、主イエスのもとに駆けつけたのである。ただし、多くの人々が求めていたのは、地上のパンであったり、病の癒しであったり、奇跡であったりと、何か偉大な現象への期待がほとんどであったとはいえ、それでも地上の人々は、主イエスの内に不思議な何かがあって、自分たちが彼を助ける立場にいるのではなく、彼こそが自分たちを助ける立場にいることを知っていたのである。

このように、地上にあっては何も持たない無名の人でありながら、実際にはすべてのすべての統治者であるという立場は、主イエスが弟子たちに見捨てられ裏切られて十字架にかかられる瞬間でさえ、決して逆転することはなかった。

主イエスは嵐をも治める権威を持っておられ、いつもご自分の必要をどうやって満たすか、どうやってご自分に従う人々を見つけ出すか知っておられた。人々の心を治める方法を知っておられ、彼が命じると悪霊でさえ服従せざるを得なかった。それなのに、どうして十字架の死を防ぎ得なかったのか? これは人の目には不思議である。主イエスはすべてに優る権威を持っていたにも関わらず、ただ父なる神の栄光を表すために、ご自分を十字架の死に渡されたのである。

主イエスが十字架にかかられたのは、神の御旨を全うするためのご自分の意志によるものであり、彼は地上の残酷な人々に受け身に翻弄された結果、仕方がなく十字架に赴かざるを得なかった被害者ではなかった。人殺しと共に屈辱を受けて十字架にかけられて死に渡されるその時でさえも、主イエスはご自分の意志によって明確にこの道を自ら選択されたのであり、ご自分の命をただ天におられる神だけに委ね、人には委ねなかった。それゆえ、彼は死に至るまで自主性を失わなかったのであり、人としての尊厳を失うことがなかった。

主イエスは地上におられる間、人としてのすべての弱さを経験していたにも関わらず、内側に完全に何にも依存しない自由を持っていた。その自由は天の父なる神から来るものであった。それほど大きな自由を、主は自分のために行使せず、父なる神の御心に従うためにご自分を十字架に渡されたのである。
 
主イエスの生涯は、そのものが十字架の連続であったと言える。地上に生まれたその時から、彼は自分の居場所を持たず、人間の経験するすべての弱さと屈辱を通り、それに勝利された。人の目には、これらはすべてむなしいことであり、貧しさ、弱さ、敗北に見えるかも知れないが、人間にとって最大の恥辱である十字架の死においてさえ、彼が御父に従順であり、人としての尊厳を失うことなく、内面的にいかなる損傷をも受けなかったことは、その霊的な勝利を明確に表している。

こうして、御子の従順によって達成された十字架の死によって、今、御子を信じる者が、信仰によって彼に接ぎ木され、復活の命にあずかることが可能となっているのである。

クリスチャンはむろん、初めからこのような揺るぎない歩みをするわけではない。思わぬ出来事に遭遇し、動揺してはあちこち助けを求めて走り回り、人に頼ろうとしては裏切られるといったことも起きるかも知れない。そして、暗闇の軍勢はクリスチャンの人としての弱さを知り抜いた上で、信者をおびえさせ動転させるために想像もつかないような出来事を引き起こすこともある。

だが、そんなこんなにも関わらず、悪魔と暗やみの軍勢を相手にしている時でさえ、信者が自分の内には揺るがされることのないはかりしれない安定した力があって、その力が悪魔と暗やみの軍勢がもたらそうとするすべての害をすでに打ち破っており、自分自身の無知をも補って余りあるものであることに気づき始める時、彼はどんな状況をも内なる平安を基礎として治める秘訣を知り始めるのである。

キリスト者には、次第に周囲で起きるすべての現象は、自分の内面と密接につながっていることが分かって来る。つながっているのみならず、むしろ、その現象を支配する力は信者自身の側にあることが分かって来る。この力はキリストの復活の命に由来するものであり、信者が外側のものに翻弄されたり、助けを求めて走り回ることをやめ、内なるキリストに頼ることを学べば学ぶほどその支配力がはっきりして来る。

ここで平安に座すということが極めて重要である。激しい戦いのさなかにあって、平安に座すことはそんなにも容易ではない。だから、それはあくまで信仰によるのである。キリスト者だから、どんな困難の中にあっても、超人のごとくいかなる苦しみも悲しみも一切感じないということはない。キリスト者の歩みは常にパラドックスに満ちている。パウロが書いた通りである。

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身に置いて明らかに示されるためです。」(Ⅱコリント4:8-10)

キリストは信者にとってただ何か困ったことが起きたときの助けとして内におられるだけではなく、人生の常なるパートナーである。ここに本当に大きな不思議がある。神と人とはあまりにも異なり、相互理解さえ可能なのかどうか分からないほどにかけ離れているはずだ。人にとっては目に見える人間の伴侶の方がよほど理解可能に思われるだろう。それなのに、なぜ神はあえて人をパートナーとして選び出され、エクレシアを花嫁として召し出され、共同統治者にされたのであろうか。

これは巨大な不思議である。だが、そこに神の御心があることが分かり始めると、信者の関心はだんだんこの世の事物にではなく、目に見える人でもなく、神ご自身に向かって行く。神は一体、自分に何を願っておられるのか、神が信者を召し出された目的があることが分かり始める。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

神が信者を召し出された目的は、世界宣教に出かけて一人でも多くの改宗者を出すためではなく、信者が目覚ましい働きをして地上で名を馳せたり、可哀想な境遇にある人たちを一人でも多く助けるためでもなく、そうした一切の外面的な働きにまさって、神と人との愛に満ちた交わり、密接なパートナーシップの確立のためなのである。

そのパートナーシップを始めるにあたり、主イエスは、ご自分の御名によって父なる神に求めなさいと言われた。偉大な働きを始めなさいと言われたのではなく、無力な赤ん坊が親の胸に寄りかかって自分の必要を満たしてもらうように、信者が神により頼み、神からあらゆる必要や恵みを供給してもらうことを学びなさいと言われたのである。

多くの信者は信仰生活のありようを全く誤解している。彼らは自分が召し出されたことが分かるや否や、自分が神にとって有益な人間であることを一刻も早く示そうと精力的に活動しようとする。あたかも強迫観念に駆られているかのように。だが、おそらく、神は信者にそんなことを求めておられないと私は思う。

外側の活動に逃避し、没入する代わりに、むしろ、神は、戸を閉じて、隠れたところで、隠れたところにおられる神に向かって祈り、御名によって「求めなさい」と言っておられるのである。

つまり、信者自身が、自分の心の願いやビジョンを神に知っていただき、神と分かち合いながら、主と共に手を携えて歩みを進めて行くことこそ、神が願っておられることなのである。その過程で、信者は願っているものを天におられる父から直接、受け、キリストの命の豊かさにあずかって、内面的にも外面的にも満たされて喜び、その我が子の喜びによって天にの父なる神が栄光を受けられるのである。

こうして次第に、信者自身とキリストとの生活におけるパートナーシップが深まっていくにつれて、両者は分かちがたいほど一つになって行く。むろん、だからと言って、神と人が混合したり、人がキリストになるわけではない。にも関わらず、神ご自身がキリストを通して信者の内側に住んで下さるそのリアリティがまし加わるに連れて、夫と妻が分かちがたく一つであるように、神と信者とが一つになって、信者は安心して大胆に御名の権威を行使することができるようになるのである。

そうこうしているうちに、信者はキリストが全てを足の下にされているように、信者もまた彼と共にすべてを足の下にしているのだということが次第に分かり始めるのである。

最後にもう一度言うが、足の下にするとは、支配することである。命じられ、支配され、翻弄される側に立つのではなく、支配する側に立つことを意味する。支配という言葉を悪いものだととらえる必要はない。支配が悪であるのは、誤った統治が行われる限りにおいてである。

そもそも人の自由や自立は、自分の置かれている環境状況を人が自ら治めることによってしか成り立たたない。だが、この世において、信仰を持たない人間は、暴君であるこの世の君(サタン)の統治下で奴隷とされているだけである。

信者はキリストにあって、この世の暗闇の圧政から救い出され、自由とされているが、主にあって統治するということを学ぶために、クリスチャンは目に見える宗教指導者から自立して、直接、神から供給を受けることを学ぶ必要がある。

そこで、ジョージ・ミュラーを含め、あらゆる偉大な信仰者がして来たように、どのような状況下にある時にも、人に助けを求めたり、人に相談したり、人に乞うたりするのではなく、信者は神に直接、向かい、神ご自身から解決をいただいて生きるべきであり、そのことを通して、神の知恵の豊かさと憐れみの深さを生きて知るべきなのである。