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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

キリストと共に天の御座から御名の権威を持って地に向かって命ずる

 以前に書いていた「キリストと共に天に昇り、御座から統治する」という記事を補足しておきたい。

 十字架においてイエスと共に死ぬこと、イエスの復活の命によって新しく生きること、それはもちろん、クリスチャンが日々、経験しなければならないことであるが、大まかなプロセスとしてみるならば、確かに、ある日、御霊の光によって、それらを経験的にはっきりと実際として理解させられる、ということは起きるのである。

 筆者自身、この経験を通して、ちょっとやそっとでない変化がもたらされた。いや、十字架の経験は、筆者を永久的に、完全に、内側から変えてしまった。たとえば、それまで、筆者は信仰を持っていたが、世人とほとんど変わらない人間で、自分の弱さと状況次第では、どんな罪でも犯しうる人間だと感じてきたが、その主と共なる十字架の経験以後、あからさまに罪を犯すことはもうできなくなった。

 聖書に書いてある「新しい霊と心を与える」ということがどういうことなのか、実感を伴って理解したのである。筆者の魂はあらゆる痛みや傷から全く解放されて、生まれたばかりのように生き生きと健康になり、肉的な悪習慣は跡形もなく消え去り、罪なる思いを否んで退けることができるようになった。

 自分が、今や御霊の制限の中を生きており、かつてのような罪と死の法則性には二度と戻ることができなくなったのを理解したのである。

 だから、御言葉が光となって人の内側を照らす時、光は人の中で死ぬべきもの(=旧創造に属する部分)を永久に殺してしまうということが分かる。この変化は、ある人が一旦、やめると宣言した悪習慣に、時が経てばまた逆戻するような、優柔不断で曖昧な変化ではなく、上から来る光は、照らすと同時に、殺す力を持っている。御言葉は、肉なるものを切り分けると同時に、永久にそれに死を宣告する効力を持っているのである。
 
 暗闇にいた人が、光の下で、徐々に目が慣れて来るように、筆者はそれ以来、何が肉であり、何が魂であり、何が霊であるのか、おぼろげながら、見分けられるようになった。たとえば、魂から出た愛情や、善意は、たとえどんなに美しく見えようとも、全て腐敗しており、希望がないこと、御霊によって生まれたものだけが、真のリアリティであることが理解できるようになった。

 周囲で起こっていることを見ても、何が魂の活動であり、何が霊の活動であるか、その微妙な境目を、少しずつ、識別できるようになった。

 それに加えて、少しずつ、御霊による支配が始まった。内なるキリストが、直接、筆者を通して、状況に働かれたという他には、全く説明のつかないような出来事が、さまざまな場面で起きた。キリスト者の内に住まう聖霊が、確かに生きて力強く働かれることが分かって来たのである。

 だが、決してそこで信者の歩みが完全になったわけではない。信者の中で生まれた「新しい人」は、まだ力なく、十分に成長していない、子供のようなものである。信者はもはや暗闇の中を歩んではいないとはいえ、依然として、この世や、暗闇の権威に打ち勝つ力をまだ知らず、暗闇からの圧迫が、予期せぬ事件や、突然の不調、不安を煽るような状況などとなって、波のように寄せてくるとき、それに対して信者は、初めのうちは、よくても受け身、悪い場合には、ただ翻弄されて後退を繰り返すだけで、これらの出来事に圧倒的に勝利する秘訣をまだ知らないが、それを掴む必要があるのだ。

 信者の生まれたばかりの新しい人の霊的無力さは、彼が天の高度に霊をはばたかせ、キリストと共に昇天し、主と共に御座から、キリストの御名の権威を持って主と共に治めることを実際に経験し始めれば、変わるであろう。むろん、信者は、資格の上では、すでにキリストと共に死と復活を経て、御座についているのであるが、それがどういうことなのか、実際に経験しなければならないのだ。そして、その経験の過程で、信者の新しい人は、霊的に強められ、信仰が成長し、勝利をおさめながら、キリストの似姿へ成長して行くのである。

 そこで、「キリストと共に天の御座から統治する」ということの意味を、知りたいと筆者は考え、神に願った。そのように霊的に天に昇り、御座から統治するという経験は、信者が暗闇に勝利する生活を送るにあたって、なくてはならない死活的重要性を帯びていると感じたためである。
 
 もし、十字架の死、復活と、それに続く昇天の経験がなければ、クリスチャンが、キリストの王国の勝利と支配の前味を生きて経験することはできないだろう。たとえば、地上の経済がますます悪化し、人心が荒れ、嘘と騙しと搾取が横行する今の世の中にあって、信者の職業の問題、経済の問題などには、信者ただ一人分の命を何とかしてつなぎとめるなどという意味ばかりでなく、それを通して、信者がキリストのまことの命による支配をこの地にもたらし、暗闇の勢力による支配を敗北させ、後退させるという意味を帯びているのである。

 ある信者が、「悪人の富は、善人(信仰者)のためにこそ、蓄えられる」と語ったが、まさにその通りなのである。キリスト者には、御名の権威によって、地の富が蓄えられている倉庫を開錠し、不正な罪人たちの富を天の倉庫に移行するということが可能なのであり、その方法を信者は実際に知らなくてはならない。

 この富の移行は、地上の悪人たちがいつもそうしているように、嘘や不正や脅しや略奪や搾取によるのではなく、ちょうど新約聖書で、ザアカイが主イエスの前に自ら悔い改めて、自分の蓄えた不正な富を虐げられた人々に還元すると述べたときのように、悪人が信仰による義人の前に、自ら己が不正な富を明け渡すという自然な成り行きによる。そのようにして地が天に仕えることが、本来の秩序なのである。そして、信者は、天の正しい霊的統治を地上で持ち運ぶ器なのである。
 
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 もう一度言うが、キリスト者は、主イエスと共に霊的に統治する方法を知らなければならない。そして、それは天の御座の高度から行われるべきことである。

  ただし、ここで少しばかり注意が必要なのは、これはスピリチュアリズムで流行した「アセンション」などとは全く異なる事柄で、アセンションなどは、キリストと共に信者が御座から統治することの偽物に過ぎないという点である。

 悪魔と暗闇の勢力は、人があたかもキリストの十字架を介することなく、神の恵みによらず、自力で自分本来の力に覚醒することによって、何かしら天的存在となり、神のようになれるかのような教えを常に捏造して来た。つまり、今もって彼らは、キリストと共なる死・復活・昇天の体験の偽物を盛んに流布しているのだが、このように偽物が現れて来るのは、本物がそれほどまでに貴重だからに他ならない。

 だから、キリスト者は、虚偽の教えが蔓延していることに幻滅して、本物を探し求めることまでやめるべきではなく、偽物が隠そうとしている本物が必ずあるはずだということに注目して、真に高価な「真珠」である霊的真理を探し続け、御言葉が生きて実際となる経験を求めるべきである。

 キリストの御座からの統治とは、山上の垂訓が実現した世界であり、それは信者の肉的高揚のために行われる自己顕示などとは全く異なる事柄である。信者は、自分に何らかの感覚的な高揚感をもたらす超自然的な体験の有無に左右されることなく、あくまで聖書の御言葉に立脚して、静かで落ち着いた信仰のもとに、これらの事柄(復活、昇天、御座)が、御霊によって信者の内側で実際となることを確信し、それを追い求めるのである。

 たとえ感覚的に何も体験したように感じられずとも、御言葉への確信の中にとどまることが肝心である。

 さらに、筆者がこのような追求の間に学ばされた重要なことがある。それは、キリスト者は、天の御座に就いて主と共に統治する者であるから、地上の経済の悪なる支配に巻き込まれて、その奴隷となってはいけない、ということである。

 筆者はこれまで、さまざまな方法で生計を神に満たしていただいたが、その満たしの方法は一定ではなく、時には、ジョージ・ミュラーのように信仰を試されることがなかったわけではない。

 なぜなら、信者は天に終身雇用されているのだが、地上においての雇用は変化する可能性があるからだ。地上には何一つ永続的な事柄は存在しない。そこで、この世で、どのような形で生計を満たすかという問題については、主はその時、その時で、いつも筆者に違った答えを下さった。

 だから、筆者はかなり長い間、世人と同じように、この世の職業に就き、まじめに働いて生きようと考えて来たのだが、いつも、その結果として、思い知らされることは、地上の労働なるものは、地上の呪われて堕落した経済の一環として、非常に悪しき呪われた要素をはらんでおり、その支配に身を委ねれば委ねるほど、誰しも、豊かになるどころか、貧しくなっていくだけだということである。

 そのような呪われた悪循環に身を委ねることが、神に喜ばれる信者の生き方ではなく、信者が養われる方法は、常にこの世が規定しているような自己の労働によるのではない別な天的な方法によるのだということを学ばされるのであった。

 だから、どんなに筆者が世人と同じような生活を送ろうと試みても、いつもいつも不思議な展開により、どういうわけか、神は常に労働によらない別の蓄えを用意して下さり、自己の努力によらず、神の恵みによって生きるようにと、筆者に促されたである。むろん、それは不正に蓄えられた富などではなく、むしろ、不正な罪人が裁きを受けて、正しい人のために、蓄えて来た富を明け渡さなければならなくなる、といった結末によって生じるものなのであった。
 
 だから、たとえこの世の経済がまるで呪われた悪循環のようなものとなっており、どんなに多くの世人がそれによって追い詰められ、暗闇の勢力がそれを使って信者の生活をも妨害しようと試みたとしても、結局、最後には、彼らの方が降参して、己が富を信者に明け渡さなくてはならなくなる、ということの連続なのである。そして、そのように不正な罪人が恥をこうむり、悔い改めた時に生まれる富の移行が、信者がこの世的な労働によって得るものよりもはるかに大きいのである。
 
 だから、筆者が言えることは、もし信者がキリストのみに忠実であろうと堅く決意し、主以外の何者にも頼らずに御言葉を守って生きるなら、我々の生存に必要な条件はすべての面において、神が保障して下さると信じて構わないということである。神が信者の義となって下さり、信者のために戦って下さり、信者のために報復し、この世の不正な罪人を屈服させて、彼らに恥をこうむらせ、彼らが義人から収奪して蓄積して来た富を、信者に明け渡させるのである。

 たとえ筆者自身がそういうことを望んでいなくとも、それでも、キリスト者は、地上の経済よりも上位にいて、地に対するキリストの命の霊的統治を及ぼす権威を持つ者なのだということを、どういうわけか、筆者は常に確信せざるを得ない出来事の連続の中に置かれて来たのである。

 キリスト者を騙し、虐げ、踏みにじり、搾取しようとするような者は、必ず恥と損失を受けることになる。そのようにして、地の富が天の宝物庫に移行することは、神の御心にかなっているのである。
 
 だから、筆者は誰かの施しや憐れみにすがって困窮状態を解決してもらわねばならないようなマイナスに陥ったことはこれまで一度もないし、かえって、筆者の「貧しさ」をあざ笑ったり、追い詰めたり、あるいは筆者を騙して損失をこうむらせようとした人々が、常に最後には恥をこうむり、償いをせねばならない事態となって来たのであった。

 たとえ望まなくとも自然にそのようになったのである。今、地上の経済は年々悪化の一途を辿っており、あらゆる組織・企業・団体が悪鬼化し、嘘と騙しと搾取が横行しているにも関わらず、御名の権威を持って、信者が彼らの前に立つとき、地上の悪なる主人たちは、結局、恥をこうむり、己が宝物庫を、キリスト者のために明け渡さなければならなくなるのである。

 だから、キリスト者の使命は、地上の悪なる主人の手下や奴隷となって、その思い通りに動かされ、無益な苦しみを味わうことではない、とはっきり言える。むしろ、聖書に書いてある通り、悪なる人々が、義人を陥れようと、どんな不正な計画を企み、罠を張ったとしても、信者は神にのみ絶対的な確信を置いて、心安らかに歩いて行けば良い。神が、彼らを自分でしかけた罠に突き落とされるからである。その結果、彼らの富が義人の手に移行するということが自然に起きるのである。
 
 だから、信者は神にのみ絶対的な確信を置いて、神に対してのみ忠実であればよく、聖書に書いてある通り、明日のために思い煩うということは、する必要のないことである。むろん、最低限度の管理は必要だが、自分で自分を支えようと絶えず心を悩ませ、限界まで力を振り絞って悲痛な努力をして(もしくは不正な方法論を巡らして)まで己の力で己を養おうと努力する必要はないのである。

 信者はただ率直に、何が自分に必要なのかを天におられる父に向かって祈り、申し上げ、主を信頼して生きれば良い。

 さらに、こうした祈りの際に、非常に有効なのは、信者がただ地上から天に向かって祈りを通して願いを神に懇願するだけでなく、もっと力と権威を持って、天の御座からキリストと共に、御名の権威によって地上に向かって命じるということなのである。

 これをするために、信者には「キリストと共に昇天し、御座につく」という経験が必要になるのだと筆者は考えている。天の御座からの権威をもった祈りは、地上から捧げる懇願の祈りよりももっとはるかに強力な効果を持っているからだ。
 
 信者の地上での行く先、なすべき事は、常に、天に備えられているが、ただ備えられているだけでなく、それは祈りによって、常に信者の心の願いに沿って与えられるものなのである。

  だから、信者はこの世のものさしに従って自分の人生をおしはかり、願いを限定すべきではない。たとえば、地上の経済が悪化しているから、選択肢もないだろうと考えて、信者があえて劣悪な条件に自ら志願したり、二度と関わるまいと決意した領域に戻ろうとしても、その道は常に絶たれる。

 主が信者のために用意して下さるのは、良心に恥じず、自分で自分を苦しめたり、貶めたりする必要がなく、不正に加担せず、なおかつ、信者自身の心の願いに合致し、さらに歴史の立会人になるような生き方である。

  信者にとって生活の糧は、自分で探し回って自己の努力によって得るものではなく、はたまた巧みな自己アピールによって獲得すべきものでもなく、主と信者が共同で作り出して行くものなのである。御霊の知恵が、どのように生きるべきかを信者に常に教えるのである。

  神には無限の多様な知恵があり、無からでも有を呼び起こすことのできる方が我々の主である。その主と共に生きている限り、信者は、神と共に信仰によって、自分の願う事柄を創造しているのであり、神には足りないとか、万策尽きたということが絶対になく、信じる者のために、神は常に豊富に選択肢を用意して下さることができる。

 だから、キリスト者の生活とは、この世の状況がどんなに悪くなって行ったとしても、それに左右されるものでは決してないのである。

  しかしながら、そこに信仰の戦いがある。信者の願いが成就するよりも前に、必ず、暗闇の勢力からの妨害があり、彼らは主が信者のために創造して下さった富が、何としても信者の手に渡らないように、必ず、何らかの方法で妨害して来る。

 その時に、信者は、敗北感や、恐れや、弱さを覚えたり、自分が神に願った恵みを受けるに値しないという怖れの中に沈まないことである。この否定的感覚に対して、徹底的に立ち向かい、これを拒否し、神の勝利に立ち続けて、天の高度を維持しながら、すべての圧迫に立ち向かうことが有効である。

 信者は決して起きる出来事にただ翻弄され、振り回されるだけの立場でいてはいけない。神が約束して下さった栄光に信者を至らせまいとする全ての悪魔の策略を見抜き、これを打破して突き進んでいく積極性が必要なのである。

 このような戦いを経由することなく、願っていた栄光(キリストの似姿)に信者が到達することはまずないと言えよう。悪魔はあらゆることについて信者に敗北をささやき、あらゆる方法で信者を意気消沈させようと試みるだろうが、敗北は悪魔に突き返してやり、絶対に認めないことである。また、敗北的な台詞を人々から投げかけられる時、これをきっぱりと否定することが重要である。

 悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう、と書かれている通り、キリスト者を迫害して来るような連中の悪事は、声を大にして世に告げ知らせれば良い。これについて、黙っている必要はない。この世の罪人がどれほど連帯して信仰によって生きる義人を迫害し、陥れようとしたとしても、キリスト者の内におられる方は、この世全体を合わせたよりもはるかに強いのであり、すでに世に勝った方なのである。

 だから、この世の情勢がどんなに厳しくなっても、信者の生存のために必要なすべては主が天に備えておいて下さり、しかも、それは必要最低限をはるかに上回るものなのであって、それを信仰の戦いを勝ち抜いて獲得することができる、ということを信じずべきである。

 信仰によって、天から地に御心を引き下ろし、地上の富を天に移行することが信者の重要な責務の一つなのだと認識すべきである。

 地は、天に住む者のためにその宝を蓄えており、これを明け渡さなければならない立場にある。キリスト者が地上の人々に仕え、その悪なる支配に翻弄されるのではなく、地上の人々がキリスト者に仕え、天の支配を知らなければならないのであって、これが本当の秩序のありようなのである。信者が地の奴隷になるべきではなく、信者はかえって地の悪なる主人の支配に恥をこうむらせ、これを後退させ、御心にかなう天的秩序を地にもたらすために地上に存在しているのである。

 人の力は、どんなに優れた能力がある人の場合も、年々衰えるだけであるが、主を待ち望む者は新たに力を得る。キリストの死と共に働く偉大な復活の力は、人間的な望みが尽きれば尽きるほど、ますますはっきり現れて来る。

 神を信じてより頼む者が失望に終わることはない、と聖書に書かれている通り、この世の法則と、信仰の法則は逆なのである。この世的な観点から絶望が増し加わる時にこそ、信者の信仰が試されており、信者に約束された天の栄誉も大きい。

 だから、今の時代のような時にこそ、信者は勇気をもって暗闇の勢力の妨害に敢然と立ち向かい、約束された勝利を勝ち取る積極性が必要とされる。たとえ確かな証拠が目に見えるところに何もなくとも、見えない神の偉大なみわざを信じる信仰を生きて働かせるべきである。

 敗北から立ち上がり、勝利の叫びをあげ、凱旋の歌を歌いなさい。もうこれ以上、弱々しい懇願の祈りを捧げていないで、まだ見ていなくとも、天の御座に主と共に座していることを信じ、地に向かって権威を持って命じなさい。

 アダムのために地は実りをもたらさないが、地はキリスト者のためには実りをもたらさなければならない。なぜなら、キリストは、アダムが失敗した統治を実現するために地上に来られ、今やその任務を、信じる者に委ねておられるからである。

 悪人の富は信仰による義人のためにこそ、蓄えられている。地はすべての富をキリストご自身に明け渡すためにこそ、蓄えているのである。彼らが己の欲のために富を蓄えていると思っているのは、勘違いに過ぎない。彼らが義人を虐げて不正な富を増し加えていると思っているのは勘違いに過ぎない。不正な罪人自身も含め、この地上にあるすべては結局、キリストに服従させられることになるのである。

 キリスト者は神の代理人として、霊的に地を治め、地の富の蓄えられている倉庫を開錠する権威を行使できる者である。特に不自然な努力を重ねなくとも、神にのみより頼み、御言葉のうちにとどまりさえすれば、最後には不思議とそういう結果になって、地上の不正な罪人らがキリスト者のために道を譲り、キリスト者のために奉仕し、不正を悔い改めて、その富を明け渡さなくてはならいような成り行きにすべてが進行する。そうなったときに、筆者がここに書いてあることが何だったのかも、分かるであろう。

 だが、これはキリスト者がこの世で権威者となることを意味しない。主イエスや弟子たちが地上にある間、あくまでこの世の経済的支配圏の外に立っていたように、キリスト者は、この世の支配に組み込まれない自由な人間として、それでも、この世の支配を超越した高み(天)から、この世の支配圏に対して権威を持って命じることのできる立場にある。

 このようなことを、筆者は人間的な思いで、あるいは高慢や支配欲もしくは復讐心などから言うのではなく、実際に、キリスト者には、貴い主の御名のゆえに、地を治める権威があって、その権威の前に、地の人々が従わなくてはならない、という秩序が存在することを知ってもらいたいがゆえに、述べているのである。筆者はおびただしい回数、それを見て来たのでそれが事実であることを知っている。
 
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復活の命にある自由――御名の権威を行使し、平安に座して天的領域を生きる

オースチンスパークス著、「私たちのいのちなるキリスト」から。

「私たちのいのちなるキリストが現される時・・・」
(コロサイ人への手紙3章4節)


聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、彼の復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

こうしたことには三つの要素があるでしょう。第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです。

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることです。

私たちは、神の霊の実際の働きはすべてをキリストご自身に帰することであることを学ばなければなりません。彼、キリストが「内なる人」である私たちの霊のいのちでなければなりません。それは、私たちが主の中で強くあるためです。自分自身や、他の人々や、物事によってではありません。私たちは、彼の内なる力だけで、逆境を切り抜けなければなりません。

キリストは私たちの知性のいのちでなければなりません。説明する力や理解する力がないために、私たちは困惑するかもしれません。しかし、御霊は教え導いて下さいます。

キリストは私たちの体のいのちである必要があります。肉体のための神聖ないのち、というものがあるのです。主は常に体を癒されるわけではありません。しかし、御旨を成就するために、主は体のいのちとなることをいつも願っておられます。苦難の中でもです。

いのちは主ご自身です。そして、主ご自身がいのちとなるために、いのちはしばしば天然の無力さという背景と対峙(たいじ)させられなければなりません。彼の復活の力は、最初から最後まで、キリストとの合一の法則です。主の民は恐ろしい圧迫の時代にあります。彼らの敵はほとんど休みを取りません。私たちのいのちなる主ご自身にのみ、十分な備えがあります

バルナバは最初、「心を堅く保って主にとどまるように」(使徒の働き11章23節)と信者たちを励ましました。この言葉には断固たる響きがあり、「私たちのいのちであるキリストが現される時」まで私たちに押し迫るでしょう。
 
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年明けに「キリストと共に統治する」ことが今年のテーマであると発表したが、これはキリストにあって、信者が彼と共にすべてを足の下にして支配することを意味する。
 
これは口にするのは極めて容易だが、思いもかけないほどに偉大な事柄である。
そして信者がキリストと共に統べ治めるためには、二つの決意が必要である。

一つ目は、目に見えるいかなる人間の指導者への依存心も完全に捨てて、ただまことのお一人の神のみを頼りとして生きる決意を固めること。どんな状況下でも、ただキリストの命だけによってすべてを切り抜ける覚悟を固めること。

二つ目は、どんな状況下でも、自分が環境や状況に翻弄される立場に立つのではなく、キリストにあって、環境状況を治める権威を持っていることを自覚し、内なる平安に根差しつつ、あらゆる事象の上に立ち、御名の権威を行使して環境を治める使命を実際に実行して行くこと。
 
オースチンスパークスが以上で書いているように、キリストの命の現れは、信者が人や組織や事物に頼ることによって制限を受ける。
 
私はこれを霊的中間搾取の原則と呼んで良いと考えている。 神と信徒との間に挟まっている隔てが多ければ多いほど、キリストの命の現れが減っていくのである。

人間のリーダーのいる団体でも、信徒の間での信仰の現れは皆無でない場合がある。だが、その現れは弱く、制限を受けており、最終的には、そこにとどまっていれば、信者はいずれリーダーを神として、偽りの神に仕えることが避けられなくなる。そこで、使徒らを含め、あらゆる信仰の偉人たちがそうして来たように、もし信徒が本当にキリストにあって自由になり、自立したいと願うのであれば、キリストから直接教わり、神のみを頼りとして生きるところへどうしても進まなければならない。

キリストの命の豊かさの現れは、信者が目に見えるものに頼るのをやめて、神に向いた度合いによって増し加わって行くのである。

主イエスが地上におられた時の生活を考えてみれば良い。公生涯が始まってから、主イエスは故郷を去り、それまでの職業を捨てられたので、彼は何も所有しておらず、その生計は常に天の不思議な供給によって満たされていた。

「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」(マタイ8:20)と言われた通り、おそらく今日どこに泊まり、誰とどんな風に食事をするのか、それさえ御霊の導きによったのだろうと思われる。

パウロも書いている、「私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでそうか。」(Ⅰコリント9:5)と。地上で自分の家庭も職業もなく、世話をしてくれる僕を連れ歩くこともなく、明日の保証を何も持たない寄留者の立場に徹することに心細さや不安が伴わないはずがない。蔑まれることもあっただろう。

だが、主イエスはただ天の父なる神の栄光のために、あえてどんな地上的なものをも頼りとせず、その信仰の証として何も所有せず、ただ神だけを頼りとして生きられた。

それでは主イエスはホームレスだったのか、と言えば、決してそうではない。あたかも何も持っていないようでありながら、彼の内にこそ、すべてがあった。主イエスはそのことを知っていたので、地上で何も所有していないことによって尊厳を傷つけられたり、貶められることが全くなかった。彼は常にご自分の必要を天の父に直接求め、父なる神はそれを喜んで聞き届けられた。

御子は天の父なる神と直結していたので、地上にいる人々に助けを乞う必要が全くなかったのである。ただその必要がなかっただけでなく、乞うてはいけなかったのである。主イエスはただ神だけをすべての供給者としてただ神だけにより頼んで歩まれ、神が全てを満たして下さることを生きて証明する必要があった。

「私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を作られた主から来る。」(詩編121:1-2)

こうして、不思議なパラドックスにより、地上では何も所有していないはずの貧しいイエスのもとに、地上の人々が助けを求めて殺到した。宗教的権威であり専門家である指導者よりも、主イエスのもとに駆けつけたのである。ただし、多くの人々が求めていたのは、地上のパンであったり、病の癒しであったり、奇跡であったりと、何か偉大な現象への期待がほとんどであったとはいえ、それでも地上の人々は、主イエスの内に不思議な何かがあって、自分たちが彼を助ける立場にいるのではなく、彼こそが自分たちを助ける立場にいることを知っていたのである。

このように、地上にあっては何も持たない無名の人でありながら、実際にはすべてのすべての統治者であるという立場は、主イエスが弟子たちに見捨てられ裏切られて十字架にかかられる瞬間でさえ、決して逆転することはなかった。

主イエスは嵐をも治める権威を持っておられ、いつもご自分の必要をどうやって満たすか、どうやってご自分に従う人々を見つけ出すか知っておられた。人々の心を治める方法を知っておられ、彼が命じると悪霊でさえ服従せざるを得なかった。それなのに、どうして十字架の死を防ぎ得なかったのか? これは人の目には不思議である。主イエスはすべてに優る権威を持っていたにも関わらず、ただ父なる神の栄光を表すために、ご自分を十字架の死に渡されたのである。

主イエスが十字架にかかられたのは、神の御旨を全うするためのご自分の意志によるものであり、彼は地上の残酷な人々に受け身に翻弄された結果、仕方がなく十字架に赴かざるを得なかった被害者ではなかった。人殺しと共に屈辱を受けて十字架にかけられて死に渡されるその時でさえも、主イエスはご自分の意志によって明確にこの道を自ら選択されたのであり、ご自分の命をただ天におられる神だけに委ね、人には委ねなかった。それゆえ、彼は死に至るまで自主性を失わなかったのであり、人としての尊厳を失うことがなかった。

主イエスは地上におられる間、人としてのすべての弱さを経験していたにも関わらず、内側に完全に何にも依存しない自由を持っていた。その自由は天の父なる神から来るものであった。それほど大きな自由を、主は自分のために行使せず、父なる神の御心に従うためにご自分を十字架に渡されたのである。
 
主イエスの生涯は、そのものが十字架の連続であったと言える。地上に生まれたその時から、彼は自分の居場所を持たず、人間の経験するすべての弱さと屈辱を通り、それに勝利された。人の目には、これらはすべてむなしいことであり、貧しさ、弱さ、敗北に見えるかも知れないが、人間にとって最大の恥辱である十字架の死においてさえ、彼が御父に従順であり、人としての尊厳を失うことなく、内面的にいかなる損傷をも受けなかったことは、その霊的な勝利を明確に表している。

こうして、御子の従順によって達成された十字架の死によって、今、御子を信じる者が、信仰によって彼に接ぎ木され、復活の命にあずかることが可能となっているのである。

クリスチャンはむろん、初めからこのような揺るぎない歩みをするわけではない。思わぬ出来事に遭遇し、動揺してはあちこち助けを求めて走り回り、人に頼ろうとしては裏切られるといったことも起きるかも知れない。そして、暗闇の軍勢はクリスチャンの人としての弱さを知り抜いた上で、信者をおびえさせ動転させるために想像もつかないような出来事を引き起こすこともある。

だが、そんなこんなにも関わらず、悪魔と暗やみの軍勢を相手にしている時でさえ、信者が自分の内には揺るがされることのないはかりしれない安定した力があって、その力が悪魔と暗やみの軍勢がもたらそうとするすべての害をすでに打ち破っており、自分自身の無知をも補って余りあるものであることに気づき始める時、彼はどんな状況をも内なる平安を基礎として治める秘訣を知り始めるのである。

キリスト者には、次第に周囲で起きるすべての現象は、自分の内面と密接につながっていることが分かって来る。つながっているのみならず、むしろ、その現象を支配する力は信者自身の側にあることが分かって来る。この力はキリストの復活の命に由来するものであり、信者が外側のものに翻弄されたり、助けを求めて走り回ることをやめ、内なるキリストに頼ることを学べば学ぶほどその支配力がはっきりして来る。

ここで平安に座すということが極めて重要である。激しい戦いのさなかにあって、平安に座すことはそんなにも容易ではない。だから、それはあくまで信仰によるのである。キリスト者だから、どんな困難の中にあっても、超人のごとくいかなる苦しみも悲しみも一切感じないということはない。キリスト者の歩みは常にパラドックスに満ちている。パウロが書いた通りである。

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身に置いて明らかに示されるためです。」(Ⅱコリント4:8-10)

キリストは信者にとってただ何か困ったことが起きたときの助けとして内におられるだけではなく、人生の常なるパートナーである。ここに本当に大きな不思議がある。神と人とはあまりにも異なり、相互理解さえ可能なのかどうか分からないほどにかけ離れているはずだ。人にとっては目に見える人間の伴侶の方がよほど理解可能に思われるだろう。それなのに、なぜ神はあえて人をパートナーとして選び出され、エクレシアを花嫁として召し出され、共同統治者にされたのであろうか。

これは巨大な不思議である。だが、そこに神の御心があることが分かり始めると、信者の関心はだんだんこの世の事物にではなく、目に見える人でもなく、神ご自身に向かって行く。神は一体、自分に何を願っておられるのか、神が信者を召し出された目的があることが分かり始める。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

神が信者を召し出された目的は、世界宣教に出かけて一人でも多くの改宗者を出すためではなく、信者が目覚ましい働きをして地上で名を馳せたり、可哀想な境遇にある人たちを一人でも多く助けるためでもなく、そうした一切の外面的な働きにまさって、神と人との愛に満ちた交わり、密接なパートナーシップの確立のためなのである。

そのパートナーシップを始めるにあたり、主イエスは、ご自分の御名によって父なる神に求めなさいと言われた。偉大な働きを始めなさいと言われたのではなく、無力な赤ん坊が親の胸に寄りかかって自分の必要を満たしてもらうように、信者が神により頼み、神からあらゆる必要や恵みを供給してもらうことを学びなさいと言われたのである。

多くの信者は信仰生活のありようを全く誤解している。彼らは自分が召し出されたことが分かるや否や、自分が神にとって有益な人間であることを一刻も早く示そうと精力的に活動しようとする。あたかも強迫観念に駆られているかのように。だが、おそらく、神は信者にそんなことを求めておられないと私は思う。

外側の活動に逃避し、没入する代わりに、むしろ、神は、戸を閉じて、隠れたところで、隠れたところにおられる神に向かって祈り、御名によって「求めなさい」と言っておられるのである。

つまり、信者自身が、自分の心の願いやビジョンを神に知っていただき、神と分かち合いながら、主と共に手を携えて歩みを進めて行くことこそ、神が願っておられることなのである。その過程で、信者は願っているものを天におられる父から直接、受け、キリストの命の豊かさにあずかって、内面的にも外面的にも満たされて喜び、その我が子の喜びによって天にの父なる神が栄光を受けられるのである。

こうして次第に、信者自身とキリストとの生活におけるパートナーシップが深まっていくにつれて、両者は分かちがたいほど一つになって行く。むろん、だからと言って、神と人が混合したり、人がキリストになるわけではない。にも関わらず、神ご自身がキリストを通して信者の内側に住んで下さるそのリアリティがまし加わるに連れて、夫と妻が分かちがたく一つであるように、神と信者とが一つになって、信者は安心して大胆に御名の権威を行使することができるようになるのである。

そうこうしているうちに、信者はキリストが全てを足の下にされているように、信者もまた彼と共にすべてを足の下にしているのだということが次第に分かり始めるのである。

最後にもう一度言うが、足の下にするとは、支配することである。命じられ、支配され、翻弄される側に立つのではなく、支配する側に立つことを意味する。支配という言葉を悪いものだととらえる必要はない。支配が悪であるのは、誤った統治が行われる限りにおいてである。

そもそも人の自由や自立は、自分の置かれている環境状況を人が自ら治めることによってしか成り立たたない。だが、この世において、信仰を持たない人間は、暴君であるこの世の君(サタン)の統治下で奴隷とされているだけである。

信者はキリストにあって、この世の暗闇の圧政から救い出され、自由とされているが、主にあって統治するということを学ぶために、クリスチャンは目に見える宗教指導者から自立して、直接、神から供給を受けることを学ぶ必要がある。

そこで、ジョージ・ミュラーを含め、あらゆる偉大な信仰者がして来たように、どのような状況下にある時にも、人に助けを求めたり、人に相談したり、人に乞うたりするのではなく、信者は神に直接、向かい、神ご自身から解決をいただいて生きるべきであり、そのことを通して、神の知恵の豊かさと憐れみの深さを生きて知るべきなのである。