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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

御霊によって生きる自由――風は思いのまま吹く、それがどこから来てどこへ行くのか人は知らない

「風はその思いのままに吹き、
あなたはその音を聞くが、
それがどこから来てどこへ行くかを知らない。
御霊によって生まれる者もみな、
そのとおりです。」(ヨハネ3:8)

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:17-18)

 
キリスト者には、御霊による内面の造り変えの過程がある。
それは、信者がキリストに同形化され、キリストに似た者とされて行く過程である。

筆者は、キリストにある新しい人として生きるという、この栄光ある召しを、より深く知りたいと願う。この方の命、この方の人格、この方の性質を知ること―それ以上の願いは存在しない。

一体、人が地上に生まれて来るのに、キリストを知る以上に目的があるだろうか。神の花嫁たるエクレシアにふさわしく、キリストに似た者とされて行く以上に、人がこの地上に生きる醍醐味があるだろうか。

だが、それは信者が道徳的な人になることとは違い、より正しく、より立派な人になることとも違う。信者が御霊によって生かされる新たな人となること、それは従来の人間の変革の概念には全くおさまらず、どんな言葉でも説明し尽くすことはできないであろう。

キリストに似た者とされる内的刷新の過程で、おそらく信者は、それまで当たり前のように持って来た常識的なものの考え方にも、訣別を迫られることであろう。

たとえば、かつて筆者には、自分でも美徳と思っていた様々な長所があった。だが、それはこの世的な標準においてであり、神の目から見た美徳は、それとは異なる性質のものであることを知らされたのである。

筆者には、早くから、自分なりのものの考え方や、譲れない信念があり、キリスト者となってからは、殉教や、迫害といった事柄が自分とは無縁であるとも思っていなかった。

だが、それでも、一方では迫害や殉教を覚悟しながらも、他方では、筆者の中には、キリスト者として芽生えた人格と、この世の常識のもとに形成された人格が、同時に存在しているかのような状態が続いた。そして、この世で美徳とされている様々な性質を良きものとしてとらえていたがゆえに、これをキリストのゆえに手放すに至るまでに、多少の時間がかかったのであった。

たとえば、心優しく、繊細かつ敏感であるがゆえに、人との対立を嫌う思いもあり、周囲の激しい反対や妨害をくぐり抜けてでも、ただ神と差し向かいで、自分一人だけで御言葉に立ち続けて生きるほどの強さが養われるには、時間が必要であった。
 
また、潔癖で、真面目で、誠実でありたいと考えていたがゆえに、この世の信仰を持たない人々の中でもとりわけ卑劣な人々のように、自分がどれほど攻撃されても、嘲笑されたり、反対されても、決して己が非を認めることなく、あれやこれやと言い抜けながら、我欲を貫き通すほどの鉄面皮と言える大胆不敵さの持ち合わせはなかった。

だが、信仰生活を続ければ続けるほど、筆者は、神を知らない世人の不誠実さや厚顔さとは全く別の意味で、あらゆる反対や妨害を耐え抜いてでも、ただ神の権益のためだけに立ち続けるために、キリスト者にはどうしてもある種の強さと、揺るぎない自信が必要であることを思い知らされたのであった。

ただ心優しく、善良で、世間の誰からも好かれる、人と対立しない、柔軟で謙虚な自己イメージを持っているだけでは、何の役にも立たず、それは信仰者にあるべき強さとは全く無関係であり、かえって弱さにつながりかねない偽りの美徳と言っても差し支えない、早期に訣別する必要のあるものであった。
  
ただ神だけに栄光を帰して生きることが、どれほどこの世における価値観とはかけ離れた事柄であるかを、筆者は年々、思わずにいられない。

これはある意味で、厳しく、狭い道である。

この狭い道を通る過程で、以前には美徳だと思っていた様々な自己の長所すらも手放して行かざるを得ない。

実のところ、人が自分の人格の美徳だと思っているものの十中八九は、本当の美徳ではなく、世に対する恐れや、自己防衛の感情から来た印象操作でしかない。たとえば、世で謙虚さと呼ばれているもののほとんどは、真の謙虚さではなく、「出る杭は打たれる」という風潮の中で、自分が攻撃されないために、自分をあるがまま以上に低く、みすぼらしく見せかける自己防衛の手段でしかない。
 
こうした偽りの「長所」は無用なものとして手放す必要があることはもちろんだが、他の人にはない自分の専門や知識、人々に評価される様々な特技といったものですら、筆者は一つ一つ、十字架において手放して行く必要を感じた。それは誰から強いられたのでもなく、手放すとは、それらを全くなかったことにすることをも意味せず、ただそのようなものに自分を生かす力がないことを知り、そこに価値を見い出し、これを誇りとすることがもはや不可能なときが自然にやって来たのである。
 
神に従うために、本当にそこまでする必要があるのか? と問う人があるかも知れない。あなたの言っていることは、禁欲主義や、人が自分で自分を滅却しようとするむなしい自己否定の努力と、何が違うのですか? と。

筆者にも、万人を説得できるだけの上手な説明の持ち合わせはないが、それでも、使徒パウロも、キリストを知る絶大な価値のゆえに、自分が持っていた全ての肉なる長所を、まるでふん土のように無価値なものとみなした事実を挙げておきたい。

パウロは当時のユダヤ人の中でも最高と言って良いほどの宗教的なエリート教育を受けた人間であった。生まれも、受けた教育も、申し分がなかった。彼は八日目に割礼を受けた者、イスラエル民族、ベニヤミン族の出身で、生まれながらのローマ市民であり、律法を落ち度なく守るパリサイ人、へブル人の中のへブル人・・・。だが、パウロは、神の恵みによる救いの前に、キリストを知る価値のゆえに、自分がエリートとして持っていたすべての長所や特権や美徳をむなしいものとして投げ捨てたのである。

「もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私はそれ以上です。・・・しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うよういなりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」(ピリピ3:4,7-8)
 
人間の目に美徳や長所として映るものは、大抵、神の目には、無価値である。パウロの生まれながらのエリート性は、彼を神の教会の迫害者にする以外の何の効果も持たなかった。

だが、パウロが、そうした肉の誇りを無価値なものとして投げ捨てたのは、教会の迫害者としての過去を反省していることをアピールするためのパフォーマンスなどではなかった。

パウロは、キリストの人格、キリストのご性質の持つはかり知れない価値を知っていたがゆえに、地上的な人間の出自にすがりつき、それにより頼むことがどれほどむなしいことであるかをはっきりと理解していたのである。

これと同じように、筆者は、人の目にはあたかも長所と映るかも知れない自己の特徴さえ、もはやどうでも良いものとしかみなしていないのである。

筆者が知りたいのは、何よりも、キリストのご性質である。パウロが述べたように、キリストの死と復活にさらに同形化され、生きることはキリストとなるその瞬間のために、信仰によって、御子の性質を受け取りたいと願っているのだ。
 
かぐや姫の物語とは全く趣旨が異なるが、多分、キリスト者であれば、誰もがみな天の故郷に憧れて、そこへ帰る日を待ち望んでいることであろう。我々の本当の故郷は天にあるからだ。それに引き換え、地上での生まれや、経歴や、アイデンティティは、正直なところ、みなどうでも良いものばかりでしかない。天の故郷がリアリティを持って臨むに連れて、信者にとって、地上の出自や、肉の誇りはかすみ、意味が薄れて行く。

御霊は、ご自分と同じ性質のものを慕い求める。信者の内に住んで下さる御霊が、キリストの人格とご性質を追い求めるので、信者の思いも、キリストを知ることに一心に向けられるようになる。

信者の人生は、ただキリストを知るためにこそあり、それ以外の地上的な事柄は、すべて些末なことでしかない。

もし望むなら、信者には地上で世人と同様の生活を送ることもできよう。この世で尊ばれている職業に就き、立派な家を構え、子孫を増やし、財産を築き、この世の仕組みをよく理解してそこに居場所を構え、繁栄を享受することも可能であると筆者は思う。

だが、たとえそうであっても、この世を知るために費やす時間を、筆者はただ神だけに捧げ、キリストを知るために費やし、残る人生のすべてを、ただ神の栄光のためだけに捧げ尽くしたいと思わずにいられない。

それ以外の事柄は、みなどうでも良い事柄である。筆者がこれまで何者として生きて来たのか、どんな知識、どんな経験を蓄え、どれだけ人と異なる強みを持っているのか、そんなことは全くどうでも良いことである。

筆者は、そういうものを利用して、成功に至りつきたいという願いを全く持っていない。むしろ、もし神が栄光を受けられることを妨げるのであれば、そのような地上的な要素はみな無いことにして通り過ぎた方が良いと思う。

人にとってもし長所と呼ぶに値するものがあるとすれば、それはキリストのご性質だけである。キリストにどれほど同形化されたか、どれほど御子と同じ性質に与り、その似姿へと変えられたのか、どれほどキリストの思いを自分の思いとして、地上に引き下ろして生きたのか、人の人生で意味を持つものは、それ以外にはないであろう。

そういうわけで、キリストにある新しい人の性質を、筆者はより深く知りたいと願わずにいられないのだ。

ただし、この新しい人にあっては、信者が十字架において無価値なものとして捨てたように思っていた様々な要素も、以前のような形ではなく、新たな形で、ごく自然に、さりげなく、信者の新しい人格の中に統合されているものと筆者は思う。

だから、信者は自分で自分の過去を否もうと努力して、自己否定にいそしんだり、不自然な反省や懺悔をしたりする必要は全くないのである。過去に美徳であった性質は、世に対する美徳としては死んで、今度は、神に対して用いられる長所として、以前とは異なる形で、さりげなく、自然に、信者の中に生きて来ることであろう。

神の霊の重要な特長は自由である。キリスト者は主と共なる十字架を通して、この世に対して死んで、死の恐怖による悪魔の奴隷的束縛から自由とされた人々である。この自由を保ち、何によっても奪われないことが非常に重要である。

主イエスは言われた、風は思いのまま吹く、それがどこから来てどこへ行くのか人は知らない、御霊によって生まれた者も同様である、と。

これは信者の御霊にある内的な自由を指している。キリスト者は、キリストの命によって天から生まれ、束の間地上に生き、天へ帰って行く存在である。地上や、世の思惑にとらわれ、それに縛りつけられ、拘束される存在ではない。

世人は信者の姿を束の間、地上に見るだろう。そして、彼らの外見を見て、「あれはナザレのイエスだ」と、主イエスのことを噂し合ったように、信者の地上的な出自に注目して、その人となりを判断しようとするであろう。

だが、信者には、たとえ世人の目には分からなくとも、それとは異なる上からの出自があって、上からの人格があり、上からの生活がある。

主イエスは、地上におられた間、世人とは異なる生活を送られた。主はこの世におけるご自分の職業を持っておられず、ご自分の住処を持っておられず、どこに行って、何をする予定であるのか、どうやってご自分を養っておられるのか、人々には知らせなかった。世人は彼の生き様をも、目的をも理解することができなかった。それはみな上からの御霊の知恵によるものであり、御霊によらなければ、理解することのできないものだったからである。

キリスト者の人生もこれと同様である。御霊に従って生きることには、決まったスケジュールや、方法論はなく、序列もなければ、ルーチンもない。しばしば、御霊の導きは、信者自身にも、常識によっては全くおしはかることのできないものである。だが、たとえ人知や常識によって理解できないものであったとしても、そこに平安があるので、信者はそれが神から来たものであることを理解する。

霊の人は誰からもわきまえられることはないが、すべてをわきまえる、と御言葉にあるように、キリスト者が世に仕えるのではなく、世がキリスト者のために仕えねばならない、それが本当のあるべき秩序なのである。世はキリスト者を理解することができないが、キリスト者はこの世を超越した統治をこの世に対してももたらす存在である。ただそれは、ひとえに、信者が信仰によってキリストの死と復活に同形化されることによる。

そのようにして、この世がキリスト者を通して治められ、すべてのものが膝をかがめてキリストの権威に服することが、神の御心にかなう秩序なのであり、信者は神の国の秩序を地上で持ち運ぶ器であり、その秩序が信じる者の只中にすでに到来していることを、生きて証明しているのである。

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キリストにある新しい人の完全な主権の回復

キリスト者の歩みとは、主権の回復の問題だということを覚えておく必要があります。これはこの世の法則とは全く異なります。

この世の成功の法則は、主権を尊重することではなく、それを強奪することによって成り立っています。この世の歴史とは、絶えざる主権侵害の歴史であり、それを上手く成し遂げた者が成功者になるというものです。そのために、人々は先を争って他人に影響力を与えようとします。この世では強い影響力を行使する人間が全てを手にします。だからこそ、人々は先手を打って自己主張しようとするのです。

しかし、神の御霊の領域にある統治は、人が肉による自己主張によって他者に影響力を及ぼそうとするものではなく、むしろキリストと共なる十字架を通して、人が肉の力に対しては死んで、霊の領域から主と共に御言葉に基づき見えない影響力を行使することから始まります。多くの場合、それは静かで誰にも知られないものであり、その信者の内側で、主と共同して静かに始まるのです。

ですから、霊における主と共なる統治には、信者の外側の性格の強さ弱さや、体の強さ弱さななどの外面的な特徴は全く問題になりません。そうしたこの世の有利な特徴を利用して他人に影響力を及ぼそうとすることは、全てこの世の方法であり、御霊の働きではありませんし、霊的な領域には通用しません。ですから、そんな風にこの世の方法で勝負を挑んで来る人たちは避けましょう。悪魔が用意した土俵で戦ってもキリスト者は勝てないからです。

むしろ、肉の力により頼まず、霊的な領域において決して主権を放棄しないで行使することこそ、勝利の秘訣なのです。外側から来る圧迫に振り回されず、外側のものを頼みとするのでなく、御言葉に基づき、内側で確固たる主権を維持することです。

主権とは、誰とつきあい、誰に扉を開くのか、決定権はあくまで自分にあることを意味します。御霊は人の意思を侵害せず、決定権を人に与えます。ですから、たとえ聖書の言葉を引用して語っていたとしても、人を力づくで脅かし、恐怖によって有無を言わさず従わせるのは、悪霊の働きです。 メッセンジャーを名乗っていても、そのような人たちは数多く存在するのでこれも避けましょう。

問題は、あたかもバビロンに反対しているようでありながら、バビロンにしっかり深く根ざして生きている信徒が多いことです。バビロンとは、単に堕落した異端の教えであるだけでなく、そのように堕落した霊的体系に支配されるこの世そのものでもあります。信者の多くが肉をより頼んで生きています。御言葉は彼らにとって口先だけのものであり、彼らは常に外側の働きに没入しており、主と共に霊の領域で統治することを知りません。このような人たちに関わると後に深刻なトラブルに見舞われます。彼らは必ずこの世から召し出された者を以前の世界に引き戻そうとあの手この手で絡んで来るからです。

キリスト者同士の交わりは、バビロンに死んで、復活の領域で主権を取り戻した人々によって始まります。肉の影響力に圧倒されてバビロンに逆戻ることではなく、キリストにあって、全てのバビロン的なものに対する圧倒的優位性を維持し続けることこそ、キリスト者の使命なのです。

エクレシアとは、このようにバビロンに対して圧倒的な優位性、超越性を持って支配するキリストの御体のことです。これは団体的な統治ですが、同時に個人の内的な霊的統治でもあります。まずは一人一人がキリストにあって新しい人として自律的に治める(統治する)ところからエクレシアは始まります。

これは個人の主権の回復という問題と密接に関係しています。アダムが堕落して、罪の奴隷となったことにより、人の主権は損なわれました。キリストは十字架で信じる者を罪の奴隷状態から解放し、主権を回復されたのです。ですから、キリストにある新しい人は、この主権の回復という問題から始める必要があります。罪意識がある限り、人は決して自由にはなれませんし、内なる尊厳も回復することはできません。ですから、キリスト者は、まずは血潮による贖いを通して罪意識と訣別し、罪の奴隷状態から解放されて、自分の内で完全な主権が取り戻されねばなりません。

次に、キリスト者は人に翻弄されずに自分を保てるようになる必要があります。エクレシアを求める人の陥りやすい罠は、兄弟姉妹との交わりに鍵があると思い込み、人に重きを置くようになることです。しかし、あの兄弟この姉妹や人の集団に重点があるのでなく、あくまでキリスト者自身の内なる信仰に全ての鍵があります。信者は、エクレシアとはまず神の宮である自分自身であるという認識にしっかりと立たなくてはなりません。それが他者へ拡大して行くのは次の段階です。

この時点で、どのような信徒への精神的依存もここで断ち切られねばなりません。神以外に、何か「霊の父」や「霊の母」のようなものがあってはなりません。公平のために言っておけば、「母なるもの」だけでなく「父なるもの」も共に信者を人に依存させる危険があります。(三位一体を親子像としてとらえる異端思想を参照して下さい)。このような心の偶像を持たず、人間の指導者に依存せず、内なるキリストにのみ頼り、全てを切り抜けることが肝心です。

しかも、兄弟姉妹の交わりに見えるものを通して、十字架において対処されていない人から悪影響が来ます。それに対しては、神と二人三脚で立ち向かい、御言葉により、勝利を得ることによって、揺るぎない主権を確立するために戦う必要があります。しかし、この戦いもまた外側のものでなく、信者の内側のものです。

信者は自分の心の平安を脅かす全てのものに遭遇した時、常に内なるキリストに戻って行く必要があります。信者は自分にどんな影響を及ぼそうとする人々に対しても、自己決定権を奪われてはならず、ただ内なるキリストだけに聞き従って進んで行かなければならないことを知ります。

さらに、人だけでなく環境との戦いがあります。困窮やその他の災難の降りかかる時にも、どのような状況にあっても、環境に翻弄されずに、キリストの持っておられる高貴で独立した地位について、自らの主権を保ち、行使するための戦いがあります。これも内なる霊的な統治です。キリストと共に環境を自ら統治することを学ぶ必要があるのです。この過程で、主イエスが嵐を鎮められたように、キリスト者は全宇宙に対して見えない強力な影響力を常に行使する権限を持っていることが分かります。

キリストと共なる天的な統治は創造性のあるもので、信者の全ての必要に応えることができ、信仰によって必要の全てを無から呼び起こすことができます。仕事や、生活の必要も、交わるべき相手さえも、キリストの命により与えられます。

この主と共なる統治、創造的な生活を絶えず送るために必要なことは、信者自身がどんな状況の中でも自分のコントロール権を失わず、環境や人に自分の支配権を明け渡さず、平安に根ざし、霊の領域から全てを始めることです。霊の領域から始めることは、激しい行動を伴うものでなく、むしろ静かな宣言や、翻弄されるだけの立場から主権を行使する立場への転換、揺るがされない心の姿勢を意味します。それは神のみを頼りとし、御言葉の約束に反するどんな現実(のように見える状況)をも拒否し、これに徹底的に立ち向かって、神の真実を守り抜いて獲得するまでは決して諦めないという姿勢を取ることです。この姿勢を取るだけで、まだ何も起きていなくとも、暗闇の軍勢には大変な脅威と映るでしょう。

このように、霊的戦いは常に信者の心の中から始まり、常に信者の心や身体のコントロール権を巡る争奪戦となります。病や、貧困や、全ての圧迫は、人の霊的主権を巡る争いであることを覚えておく必要があります。これらすべてに立ち向かって、信者はまず自分自身を治めねばなりません。霊的統治は、まず信者自身の霊の内側から始まり、自分自身(霊によって魂、体を治めること)、次に周囲の環境へと及びます、

繰り返しますが、信者が自分のコントロール権を失わないためには、血潮により罪意識と訣別し、環境に支配されず、絶えず見えないキリストに戻り、キリストの命から全ての必要な力を得て、毅然とした姿勢で、自分を脅かす全てのものに立ち向かって、主と共に勝利し平和に治める必要があります。

神に一人で向かうという行程抜きにして、この激しい霊的争奪戦に勝ち抜き、全ての環境状況に立ち向かってこれを治めるための内なる平安と力を確かに得ることは決してできません。この世から隔絶したところで生活することはできませんが、内なる霊の統治は、キリストにある平安に深く根ざすことによらなければ始まりませんし、他の誰よりもまずキリストとの交わりを優先し維持する注意深さが必要になります。

信者が主の御前で十分に時間を取らず、全ての問題を主に持って行くことをせず、見えないキリストに心を向けるよりも、ひたすら外側の活動に熱中していると、その結果、必ず、その信者の霊的なコントロール権は失われることになります。問題は、圧迫的な出来事だけが人のコントロール権を奪うのではなく、楽しい出来事に過度に熱中することによっても、人は自分自身の支配権を失うということです。ですから、交わりを口実とした外側の活動にもその危険は大いにあるのです。自分に好ましく感じられる影響も支配権を失うきっかけになることについて、信者は無知でいてはなりません。そのようにして、外側の活動に没入するに連れて、その人はキリストとの密接な協力関係を失います。やがてその人はただ環境状況に翻弄されるだけの立場となりますが、楽しい出来事に熱中しているため、まだそれに気づいていまさせん。最後に、何かの異常な事件が降りかかり、初めてそこで自分のコントロール権がもはやないことに気づくことになります(髪を切られたサムソンのような無力な状態)。多くの場合、何らかの悲惨な事件は、あまりに長い間、信者が一人で神に向かわず、神以外のものに熱中していたために、その人の支配権が気づかないうちに失われた最後の結果として起きているのです。

しかし、目を覚まして主と歩んでいる限りにおいては、そんな事態に至る前に危険に気づき、対処できます。ですから、信者は自分の関心が外側の活動に強く惹きつけられる時、たとえそれがキリスト者の交わりや御言葉の学びなどを口実としたものであっても、警戒する必要があります。どんな理由があっても、外側の活動に重点を奪われるべきではありません。信者の強さは、ただ霊におけるキリストとの静かな共同統治にあります。肉的な信者が最も激しく反発して来るのはまさにこの点です。彼らは多分、あの手この手であなたの関心を外側の活動へと逸らそうとするでしょう。なぜなら、彼らの生活は外側の活動に完全に依存しており、見えないキリストに根ざしていないからです。