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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(30)ーこの朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

さて、このシリーズも30本に達した。次回からは、第二審に向けて標題を改めることにしよう。

先の記事で、本紛争は、行き着くところまで行き着き、中途半端な妥協点は退けられて、どちらかの陣営が社会的に抹殺されるなど、完全な勝敗が明らかになるまで、続くだろうと筆者は書いた。

筆者はこの紛争が始まる前から、論敵の口を完全に封じること、ハガルとイシマエルの子孫を神の家から駆逐することが紛争の目的であると何度か断って来た。だが、当初は筆者の目にも、それはあくまで霊的法則性を表すものであって、地上の人間に対しては各種の情けが必要であって、文字通りにその法則性を当てはめてはならないものと見えていたのである。

そこで、筆者は誰かを社会的に抹殺することなどを目的として本紛争を提起したわけではない。それにも関わらず、事態がどうやらそのような方向にしか進まないらしいことを、筆者はここ数日間で理解した。

筆者はこれまで、一審判決で下された命令を、被告に字義通り、忠実に実行させることが、自らの責務であると考えていた。「命令」と「実行」を一つにするとは、そういうことだと解釈していたのである。

ところが、被告は賠償金を支払わない。これを支払いさえすれば、新たなる差押がなされるなどの不利益を被ることはないと、どれほど伝えても、身を守るための措置も講じず、敗北を認めず、判決に従おうともしない。

こうして、賠償命令が未だに実現していない理由が、なぜなのかを考えるとき、それはこの戦いが、決して一審判決で命じられた事柄を字義通り実現しさえすればそれで良いという性質のものではないからだと、筆者は思わざるを得ない。

被告は、自分に不利な判決を取り消してもらいたいがゆえに、控訴したそうである。また、筆者との直接交渉の中で、筆者の意思と情けを踏みにじり続けることで、判決の解釈と実行をどこまでも自分に有利に曲げようとしている。

だが、もしも敵にそのような模索が可能ならば、こちら側にも当然、同じことができる。つまり、判決は変えられないが、その執行の形態はいくらでも変えられる。そのことは、判決の解釈を変更することに等しく、「命令」に対する相手方の反応を見て、その実行形態を様々に変化させて、段階的により容赦のない措置に及んで行くことを意味する。

これが、本紛争が究極的なところまで行き着かねばならないとする筆者の予想の根拠である。被告が命令に逆らえば逆らうほど、彼にはしたたかな破滅が避けられないものとなって行くのである。だが、それは筆者が選んでいるのではない。被告自身の選択なのである。
 
筆者は、供託係と話をした時に、この印象を伝えておいた。「第三債務者はよほど不運な人間だ。ここでお金をおさめておけば、これ以上、ひどい事態は起きようがなかったのに、支払わなくて良い口実をもうけるためだけに、係の者に接触し、自分に都合の良い解釈を引き出し、供託はできないと結論づけた。もう少し丁寧に物事を説明する係であったなら、彼にデメリットを教えてくれて、思いとどまるように示唆してくれたかも知れない。なのに、それもなく、彼は自分に都合の良い説明を聞いて、それに飛びついた。だが、このことは、彼にとってさらなる不利益にしかつながらない。こうして、彼は自分のために与えられた情けを自分で踏みにじり、自ら猶予を無駄にしたのだ。このようなことは、よほど不運な人間にしか起きない・・・。」

こうして、一審判決の解釈は幾通りにも変えられて、より情け容赦のない措置が取られることになるだけではない。一審判決そのものの不完全な部分も、控訴審で克服されて上書きされることになる。

筆者は、このような事態になっているのは、現在の成果で決して満足してはいけないという天の采配であるとみなしている。

幾度も言うが、筆者は本紛争を提起するに当たって、どちらかの陣営が社会的に抹殺されるまで争いたいとか、最高裁まで争いたいなどという願いは微塵も持っていなかった。むしろ、一審を担当してくれた裁判官が、とても善良で、優秀で頭脳明晰な人物と見え、かつ、それだけでなく、何より重要なこととして、本紛争の核心部分を、実に早い段階で深く理解してくれていることを知ったとき、これならば十分に一審で終われるだろうと考え、そうなることを望んでいたのである。

それにも関わらず、現在、その裁判官の判決を「上書き」することを求めて控訴する事態となっていることは、かえってとても良いことだと筆者は考えている。

筆者がこれまで常に学んで来た教訓は、キリスト者は、決して誰をも自分の心の偶像としてはならないし、自分の代理人としてもならない、ということであった。弁護士などという職業が、我々にとって不要なだけではない。どんなに優秀で、どんなに深い理解を持つ、どれほど親切で善良な人間であれ、神以外の何者も、私たちの代理人にはなれないのだ。

だから、決して地上のどんな人間に対しても、私たちは決して自分の願いをことごとく託すようなことはしてはならない。
 
むしろ、私たち自身が、キリストの代理人であり、そして、キリストが私たちの代理人となって下さる。私たち自身が、主の思いを実行する側に立っているのである。このことの絶大な意味を決して忘れてはいけない。

一体、キリスト以外の誰が、私たちの心を隅々まで理解し、私たちの権利をことごとく守るための力強い代理人となって下さるであろうか。誰が敵を粉砕し、足の下に踏みにじり、私たちのために大胆な勝利と解放の宣言を打ち立てて下さるであろうか。

私たちは、鏡に映すように、彼(イエス)の栄光を移す民である。この関係は実に言い尽くせないほどに価値ある、栄光に満ちたものだ。ところが、その神を捨てて、人間に過ぎない代理人を立てると、必ずや、私たちは、その人の意思や都合に束縛される結果となり、やがては二人三脚で破滅に落ち込んで行くことになる。
 
筆者は、牧師という存在は、人間(信者たち)の欲望の化身でしかないと述べて来た。人は自分の願いを手っ取り早くかなえてくれそうな誰かを常に代理人にしたがるものだ。そして、その者に自分の権利を託し、願いを託し、その者を自分の「偶像」に祀り上げる。だが、そのようにして、人が神を捨てて、人間に過ぎない誰かを自分の代理人に据えることの結果は非常に苦く厳しいものである。

神はそのようなことをキリスト者にお求めになっておられない。人間を偶像とすれば、解放されるどころか、束縛と隷従が待っているだけである。たとえそこまで深刻な事態に行き着かずとも、私たちが人情を優先して、そこで霊的前進を終わりにすることは、とても危険なことなのである。

そういう意味で、この紛争は、究極的結論に至るまでは、終わらないであろうことを筆者は予感した。そして、筆者自身が覚悟を決めて、そこまで歩んで行かねばならないことを悟った。誰かが筆者を優しくかばってくれて、筆者をこの労苦から早期に解放してくれることを第一に望むわけには決していかないのだと。最後まで大胆に立って、信仰の戦いを忍び通して、勝利を掴まなければならない。

そういう意味で、筆者はこの戦いが続行していることを、まさに主の御心に適うこととして、喜んで受け入れている。
 
* * *

聖書に書いてある、私たちは御使いをも裁く者、世を裁く者だと。従って、傲慢不遜と誤解されることをあえて承知で言うが、本紛争に関しても、真に裁きを下しているのは、実は目に見える地上の人間ではないのだ。

今、遅ればせながら、筆者は急ピッチで控訴理由書を書き上げているところだ。事件ファイルが高裁に届くのに随分時間がかかっていたようなので、おそらく誰も急いではいまい。新たに証拠となる記事も多数、追加されたことであるし、筆者が理由書の提出をするのは、ちょうど良い頃合いになるだろうと思う。

これまで駆け足で当ブログに発表して来た多くの記事は、理由書の土台とするために、過去記事を整理したものである。

そして、理由書を書き始めると、この作業は、非常に楽しいものであり、深い満足をもたらしてくれるものであることが分かった。

筆者は、第一審の時点から、村上が筆者に対して害意を持っていることを確信していたが、筆者が一審を提起した段階では、まだそれは行為としては成就していなかったし、証拠が明るみに出てもいなかった。そこで、このような状況では、裁判官とて如何ともしがたく、現在のような判決が生まれて来るのも、理由のないことではないと言える。

しかしながら、改めて控訴審への準備を進めているうちに、一審判決と戦うわけではないにせよ、一審判決の不完全な部分を、どのように覆い尽くすべきかが見えて来たのである。

ポイントは、第一に、これまでの記事にも書いた通り、カルト監視機構と宗教トラブル相談センターを結びつけて、同センターがカルト監視機構の延長上にあり、その構想の実現として設置されたものであり、根本的に同一であることを、目的と機能の面から論じ、カルト監視機構が設立されていないという判決の前提そのものを覆すことである。

第二に、村上が過去に統一教会信者の拉致監禁等を伴う説得に関わって来た行為なども指摘しつつ、反カルト運動による権利侵害の一助を村上の活動が担っていると見られることを指摘することだ。

そして第三に、村上が一審判決言い渡し直後から、筆者に対する人格権の侵害行為に及んだり、筆者を刑事告訴したと告げたり、筆者が犯してもいない犯罪行為を犯しているかのように示唆したり、裁判資料として提出した筆者のメールを無断で公開したりした行為は、すべて宗教トラブル相談センターの暴走を示すものであり、それが筆者に対する権利侵害に結びついているだけである。そのことは、筆者が2009年に、カルト監視機構が魔女狩り的な粛清を生むと予告して行った警告に、現実性・信憑性・相当性があることの証拠である。

こうしたロジックの組み立てによって、2009年に村上が著した筆者に関する二つの記事が、権利侵害に当たらないとする判決をも、覆せるだろうと筆者は考えている。

それと並行して、掲示板に対する訴訟を起こすことで、投稿者を特定し、共謀関係の有無を突き詰めることも重要な課題である。それにより、サイバーカルト監視機構の問題についても、新しい見方を与えることができる。しかし、これは時間のかかる作業のため、この問題が明らかにならないうちに二審が終われば、二審でもこの紛争は決着しない可能性がある。

当初は、個々具体的な権利侵害だけを論じる予定だったのだが、考えれば考えるほど、二審は「カルト監視機構」が争点となるという予感は否定できない。

筆者が一審の裁判官の仕事を高く評価していたのも、今でも移送の申立の却下通知をホームページに掲載している通り、この裁判官が「カルト監視機構」こそが、本紛争の最大の争点であることを、訴訟の開始当初から見抜いていたためであった。裁判官の文章は、あくまで筆者の主張を簡潔にまとめただけのように見えるかも知れないが、実はそうではないと、筆者は確信している。

筆者は、この文章を読んだとき、この裁判官が、本紛争は、カルト監視機構という悪魔的構想に対して、それぞれがどのような信仰的態度を取るかという、深い思想的(霊的)対立が引き金となって生まれたものであり、カルト監視機構の構想こそが、すべての問題の出発点であり、根源であるという深い理解と洞察を、そこで示していることを感じたのである。

その指摘の中には、筆者が気づいている以上の深い洞察が込められていたことに、筆者は驚きを覚えた。
 
だが、一審の最中には、カルト監視機構と宗教トラブル相談センターが実質的に同じ機能を持つものであることを、筆者は論証せず、統一教会の信者に対する拉致監禁など、カルト被害者救済活動の違法性を具体的に証拠立てる資料も提出せず、何よりも、村上と杉本やその他の人々との共謀関係を証拠立てる資料が出て来ず、また、村上も筆者に対するあからさまな権利侵害に及んでいなかったため、村上密という人物が、この悪魔的構想の生きた体現者であるということをはっきりと立証するための決定的な証拠が欠けていた。この状況では、裁判官とて何もできなかったであろう。

そこで、村上の本質が客観的に明らかになるためには、まず第一に杉本が口を封じられるという過程が必要だったのであり、そのためにこそ、一審判決は有益な役割を果たした。だが、紛争は決してそこで終わりになってはいけなかったのである。
 
それは、村上密という人間の本質を明らかにすることこそ、もともと本紛争の最も主要な課題だからであり、杉本の権利侵害行為とて、結局は「カルト監視機構」の発想が具現化して起きて来たものに過ぎないからだ。

筆者から見て、村上密という人物は、「カルト監視機構」という反聖書的発想の生きた体現者なのであって、その村上を手つかずで残したまま、杉本の不法行為だけを認定して終わりとすることは、本紛争の提起された意義を根本的に失わせ、かえって極めて不公平な判決を打ちたてるだけである。

しかし、筆者は一審が開かれていた最中は、そこまでの深い理解には到達していなかった。それどころか、判決が言い渡されても、杉本から賠償金が支払われさえすれば、そこで杉本との間では紛争を終わらせて構わないと考えていたくらいである。

ところが、決してそうなってはいけなかったのである。杉本が今に至るまで賠償金を払っていないことには、以上で述べた通り、深い意味がある。つまり、この問題は、額面通りの金銭によって解決されてはならないほど深いレベルに達しており、杉本は、村上が倒れない限り、決して筆者に敗訴した事実を認めるつもりはなく、神ご自身が、筆者がこの判決を元手に、可能な限りの打撃を敵にもたらし、杉本と村上の両名を打ち破って初めて、この紛争の目的が達成されるのであり、神がそのことを望んでおられるからこそ、杉本自身が、一向に敗訴の事実を受け入れず、未だ筆者の情けを踏みにじり続けているのだということにようやく気づいたのである。

この紛争は通常の紛争とは性質の異なる霊的戦いである。杉本は筆者が2009年に投稿した1件のコメントを利用して、筆者の人生に、最大限の打撃を与えるべく行動して来た。その目的は、筆者を社会的・精神的に抹殺することにあったと筆者は見ている。

そのように、筆者の死を願っていることを明らかにして行動しているような相手に、通常人と同じような情けをかけるべきではないのである。むしろ、その発想をまさに逆転して、彼ら(あえて彼らと呼ぶ)に返さなければならない。命じられた賠償を額面通りに実現させるだけでは解決にならず、それが神が願っておられる最も望ましい解決でもない――筆者はそう思い当たった。

これは正直に言って、大変、恐ろしい結論である。彼らの(霊的)債務が金銭ではかたをつけられないレベルにあることを意味するからだ。

だが、もしも神が本当にそのように考えておられるのであれば、そして、霊的戦いとしてのこの紛争の目的が、そこまで物事を徹底的に明らかにすることにあるならば、誰もそうなることを止めることはできないだろう。おそらく、この先も、杉本はすべての情けを踏みにじって、逃げられるだけ賠償から逃げることによって、最も厳しい断固たる措置が取られざるを得ない状況を自ら作って行くものと思う。

何度も言うが、通常の紛争では決してこのようなことは起きない。訴訟は、法的・社会的決着をつけることが目的であって、人間を破滅させることが目的ではないからだ。通常の紛争では、損害の大きさは、決まっており、賠償もその範囲にとどまり、債務が無限大に拡大して行くとか、どちらか一方が破滅するまで戦いが続行されるなどということはまずない。どれほど巨額の賠償が命じられても、人はそれを払えば、やり直しできる。もちろん、筆者もそう思って、紛争を提起していた。
 
ところが、霊的戦いは、人間の思惑の通りには進まない。そして人間的な観点から見て、明らかに妥当かつ合理的であると見られる解決を退けて、敗訴が究極的な破滅と同義になるほどまでの深刻な事態へ向かって進まないわけにいかない。それは、人々を導いている霊の本質が極みまで明らかになるために、どうしても避けては通れない過程なのである。

つまり、神を畏れることこそ、知識の初めであって、神を知る知識(聖書の御言葉)に逆らう者は、自分のすべてを失い、人生そのものが破滅するという霊的法則性が、動かしがたいものであることが、公然と世に証明されるためには、それ以外の道がないために、敵自らがそうなる道を選ぶのである。

あるキリスト者が、次のように言ったことを思い出す。「悪魔は本当に愚かですよ。なぜって、キリストを殺せば、復活が現れ、悪魔の最大の武器である死が打ち破られて無効になることを、悪魔自身が知っていた。それなのに、彼は抑え難い殺意によって、キリストを十字架にかけて殺さないわけにいかなかったのですよ・・・」

同じように、杉本は賠償金を踏み倒し続けることが、自分に何をもたらすか、知らないわけではない。なのに自らその道を選んでいるのだ。
 
そこで、この戦いには、究極的な結末が待ち受けているだけであって、やり直しのチャンスはない、ということに、筆者はようやく気づいた。被告らには、悔い改めもないし、再生もなく、忠告を聞き入れるチャンスも、情けを受ける余地もない。彼らの行く先は定まっており、それを来るべき世が訪れてからではなく、今この地上にあっても、客観的に人々に分かるように立証する使命が、筆者に託されているのである。

繰り返すが、これは極めて厳粛で恐ろしい事実である。

あらゆる訴訟には、個人の損なわれた利害の回復を目指すだけにとどまらない、個人を超えたレベルの社会的意義が込められているが、霊的紛争となると、その意味はもっともっと深いものとなる。

この紛争は、永遠にまで達する領域に関する物事を争うものなのであり、だからこそ、普通の人間の目に、ほどほどと思われる地点で終わりになることがないのである。

だから、予告しておきたい。筆者は一審判決を飲み込んで、これを上書きし、変更を勝ち取ることとなる。控訴状では、筆者は一審判決の取消ではなく、上書き(変更・追加)を求めている。これは判決の不完全な部分について、さらに主張を補い、完成に導くための措置である。

なぜ筆者が当ブログにおいて、訴訟に関する連続シリーズを書き続けているかという目的も、そこにある。これは歴史を塗り替えるため、存在の上書きをし、朽ちるものを朽ちないもので飲み込み、覆うための措置なのである。

杉本や村上は、人間の正義感に過ぎないものを振りかざし、神の御言葉によらず、教会を悪から浄化しようとしたが、そのような運動は、聖書の神に対する反逆であるから、決して成功に終わることはない、との指摘を筆者は続けて来た。

村上密は、2009年当初からカルト監視機構の構想を批判した筆者に「悪」のレッテルを貼っていたが、事実は全く逆なのであり、それゆえ、村上はいずれ筆者の批判に飲み込まれて終わるというのが、筆者の変わらない見立てである。

このようにして事実を上書きする(もしくは事の真相を明るみに出すことにより、偽りの情報を駆逐する)ために筆者はものを書いている。虚偽のプロパガンダに過ぎないものを、真実によって飲み尽くすために再評価を下し、名誉回復の作業にいそしんでいるのである。

また、この上書き作業は、「名を知る者がその者を支配する」原則に基づくものと言って良い。

杉本や村上は、自分たちが住所氏名電話番号まで自己の情報のすべてを開示して「逃げも隠れもせず」活動していることを盛んにアピールしていた。それを誠意の証しであるかのように宣伝していた。だが、筆者に言わせれば、そのように自己の情報を第三者に無防備に託すというのは、初めからその第三者(大衆)に自己存在を奪われ、第三者によって自己イメージを規定される道を選んでいるのと同じなのだ。

「わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえ究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。<略>霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
「だれが主の思いを知り、
 主を教えるというのか。」
 しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(1コリント2:10-16)

キリスト者は、自らすべての事柄を判断するが、自分自身は誰からも判断されることはない。

これまで杉本は盛んに筆者の個人情報を要求して来たが、それは善意によるものではなく、筆者に害を加えようとする意図に基づくものでしかなく、たとえば、氏名を知れば、誹謗中傷に利用する、住所を知れば、提訴するために利用するといった具合であるから、口座番号を伝えれば、強制執行を実行するために利用するだろう。

このように、反カルト陣営に関わる人々は、信者に関して入手したすべての情報を、信者に害をもたらすため、信者を不利な立場に立たせるため、本人の心を支配する脅しの手段として利用して来た。そのようにして、信者を不利な立場に陥れるきっかけをつかむために、彼らは裁判という場を利用して情報の開示を求めて来たのである。

だが、そのように信者に悪意を抱いている人々がいるならば、同じ原則を、そのまま逆に彼ら自身に当てはめることが可能である。自己の情報をみだりに第三者に開示し、「逃げも隠れもしない」などと豪語して、他者の名誉を貶める行為にいそしんでいる人々には、彼らが開示していた情報を利用して、責任追及を行い、開示されていない情報についても、司法を利用してさらに開示を求めるだけのことである。

もともと彼らがそのように世に対して自己の情報を開示していた行為は、それ自体が、他者(世)からの評価に自己存在を規定され、自己を左右され、評価され、簒奪され、上書きされるきっかけを自ら作っているのと同じであるから、彼らの存在は、さらに「聖域」を取り払われて、まるで裸にされるがごとく、徹底的にこの世に対する開示を求められることとなろう。

つまり、彼らが教会の「聖域」に畏れ知らずにもメスを入れ、神に代わって教会の恥を暴き、裁こうとした思い上がりに満ちた計画が、そのまま彼ら自身の上に適用され、成就するということである。それが、主が願っておられる計画であって、主の御名と教会を辱めようとした者に当然のごとく降りかかる報いであって、それ以前のところで決着をつけてはいけないということを、筆者は理解したのである。

筆者は当ブログにおいて自己存在をアピールするつもりは全くなく、キリストによって覆われた新しい人として、世に対して姿を現している。

村上密は、自分は被害者の代理人として行動して来たと言う。代理人とは、自分の名を名乗り、自分の権利のために行動するのではなく、自分が代理としている人物の名を用いて、その人物に代わって、その人物の利益のために行動する者である。
 
私たちは、地上において、誰の代理人なのか。むろん、私たちは、キリストの代理人であるから(牧師が神の代理権威なのではなく、信じる者一人一人が御名の権威を託されている)、私たちは、自己の利益を擁護するために立っているのではなく、キリストの利益を擁護するために生かされているのであり、従って、世の前に立つとき、私たちが自己の名を語るのではなく、キリストの名を用いるのは当然である。

そして、もしも私たちが代理人となって行動しているその方の御名が、私たちの名を圧倒的に超える絶大な権威を持つものであるなら、その方の代理人となることにより、私たち自身が、はかりしれない権限を持つこととなる。

従って、私たちクリスチャンが、幼い頃から「イエス・キリストの御名によってお祈りします。」と唱えることを教えられて来たのと同様、筆者は当ブログにおいても、自己の名ではなく、主の御名によって、すべての事柄を書き記している。

私たちの発する言葉は、一つ一つが不完全であり、私たちの存在も不完全で、影のようなものでしかない。だから、筆者は当ブログで用いている言葉が、隅から隅まで完全であると言っているわけではない。だが、それにも関わらず、私たちが「イエス・キリストの御名」の権威を帯びる時、私たちの不完全さは、主の完全さで覆われ、私たちの弱さは、主の強さに変わり、私たちの不真実は、神の真実によって取って代わられ、敗北は勝利に置き換えられ、悲しみは慰めに変わり、罪は赦しの恵みによって覆われ、朽ちる命が朽ちない命を上から着せられ、滅びゆく有限な者が、神の永遠の命を着せられて、キリストと共に栄光にあずかるのである。

そのようなわけで、私たち自身が、絶えずイエスの命によって、キリストの思いによって、存在を「上書き」されている。そうした現状があればこそ、筆者は、御名の権威を用いて、信仰のない人々の判断を上書きすることを辞さず、またその作業が可能であることを信じている。

筆者は、彼らの判断を飲み込んでしまい、それに上から新しい事実を「着せる」。筆者は「勝利者」として歴史を作り、書き換えているのだが、その「歴史」とは”His-story”であって、カルバリで取られたキリストの勝利に基づくものであって、筆者個人の勝利ではない。

つまり、筆者がすべての物事を「上書き」することによって、着せようとしているのは、キリストご自身なのである。そして、それに従わないものは、すべてのみ込まれて消えて行くか、罰せられるかに終わるであろう。

「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしたちの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分の苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(1コリント15:50-58)

こうして、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬべきものが命にのみ込まれるためにこそ、私たちは証の言葉を述べ続けている。
  
これは神の完全な贖いを巡る争いなのである。だからこそ、人間的な観点から見た合理的な解決に至り着いて終わりになることなく、完全な決着が着けられるまで、戦いが続行される。
 
神の贖いに反対する者には、この地上はおろか、永遠に至る領域においても、容赦のない裁きが下されることが確定している。その霊的法則性が明らかになる地点まで、本紛争は必ず進むだろう。筆者はこれを明らかにする責務を負わされているのであって、それを果たすまでは、この戦いは終わらない。そのことを、ここ数日間で筆者は心に確信させられたのであった。
 
わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(2コリント10:4-6)

主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

 
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)

 
  <続く>

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善良な人はその嗣業を子孫に残すが、罪びとの富は正しい人のためにたくわえられる。

「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。」(Ⅱコリント11:2-3)

外出先で車を走らせていると、ふとある教会を通り過ぎたが、その掲示板に「キリストと婚約」という説教題が書いてあった。 筆者はむろん、その教会に立ち寄るつもりも、礼拝説教を聞くつもりもないが、象徴的なタイトルだと心に留めた。

折しも、最近のオリーブ園には、オースチンスパークスの「キリストとの合一」の連載が始まったところである。

筆者は、ここ最近、ますますキリスト以外の何者にも頼ることなく、地上の人間との関わりに一切、心奪われることなく、ただ信仰だけによって生きるべきだとの確信を心に強めている。

上記の御言葉は、口語訳では、こうなっている、「 わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとり男子キリストにささげるために、婚約させたのである。 ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。 」

「ただ一人男子キリスト・・・」、この聖書の表現は、何ら嘘でもなければ、誇張でもない。なぜなら、花嫁なる民(エクレシア)にとって、花婿なる男性は、キリストただお一人だけなのであるから。
 
パウロは、キリストがご自分の花嫁を愛されるのと同じように激しい愛情を持って、自分が養い育てて来た信徒らを見つめ、もしや万が一にも、彼らの心が、キリスト以外のものに奪われ、神を悲しませやしまいかと、気をもんでいたのである。

パウロがいた当時のコリントの教会には様々な問題が起き、信徒たちの信仰も、頼りないものであったかも知れないが、パウロは、そうした現状を見るのではなく、神がご覧になっている花嫁としての教会の姿を見つめ、キリストご自身を反映したその美しさ、その完全さに、心奪われるほどまでに熱心な愛情を注いでいたのである。

エクレシアの一員たる私たち信徒は、自分がそのような眼差しで神に見つめられていることに気づいているだろうか。

さて、この人間社会に生きていると、不思議な出会いが多々あり、他者から熱心な好感を表明されたりすることも、時にはある。人は誰でも他人から好意を示されることに、悪い気はしないものだが、パウロが信徒たちを見つめていたような、熱心な愛情をこめて見つめられれば、なおさらのこと、情にほだされそうにもなるだろう。

ところが、筆者はここ最近、どんなに人から好意を受けようとも、どれほど賞賛と支持を受けようとも、人間の互助組合としての、人間の連帯からは、一切、離脱して、人間的な慰めにすがらず、ただキリストのみを頼りとして、キリストのためにのみ、生きるべきだという確信が、心に増し加わっている。

これは、筆者が人間嫌いの偏屈で頑固な変わり者であるがゆえに言うのではない。パウロも、別な箇所では次のように述べている。

「今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。<略>ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。

兄弟たち。わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」(Ⅰコリント7:16-31)

これは驚くべき言葉であり、パウロが実際に、キリストに結ばれた信者たちは、まことの伴侶なるキリストだけのために生きるのが理想であると考えていたこと(そしてパウロはそれを実践して生きたこと)をよく物語っている。

従って、冒頭に挙げた「キリストと婚約させた」という言葉は、パウロにとっては文字通りの意味を持っていたのであって、パウロ自身、キリストにのみ捧げられたエクレシアの一員として、生涯、キリストを満足させるためだけに生きたのである。
 
それだけでなく、パウロがここで、妻を持つことを、物を売ったり買ったり、喜んだり泣いたりするといった浮き世の些事と同列に論じていることに、注意したい。今日の世の中の多くの人々にとって、自分の望み通りの伴侶を得て、安定した家庭を築くことは、死活的な重要性を帯びた一大事であろうが、パウロは、そのようなことは、すべて永遠とは何の関係もない、移ろいゆくこの世の有様に過ぎず、取るに足らない地上的な事柄でしかないと、切り捨てているのである。

そして、人の目に自分がどう映るか、どうやって人を喜ばせるかといったことばかりに気を遣うのではなく、どうやって神を喜ばせるかに第一に心を砕いて生きるべきだと、信徒に語り続けるのである。

そこで今、筆者も、もしもこの世の人々が、私たち信じる者に、人間的な長所や魅力を見いだすとすれば、それはすべて、我々の生来の資質から来るものではなく、ただキリストご自身に贖われたエクレシアとしての栄光に満ちた輝きに由来するものだと考える。

神が筆者のために、キリストを贖いの犠牲としてお与え下さり、筆者が御子の命と性質にあずかっているからこそ、筆者にかけがえのない価値が生まれるのであって、もしも筆者が、ただ一人の男子キリストだけのために捧げられた聖なる花嫁(エクレシア)であるというステータスを自ら捨てるようなことがあれば、筆者の魅力、輝き、新鮮さといったすべての美点は、たちまちのうちに無いもののように消え去ってしまうことであろう。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

人間はみな神の宮として造られたのであって、宮は、神がその中に入ってこそ、初めて意味を持つ。ただ空っぽの、神不在の宮は、どんなに美しく造られていようとも、無価値である。

このようなわけで、筆者は、人々の優しさや好意、賞賛や賛同に触れるときには、注意しなければならないと思っている。神の目にではなく、人間の目に自分がどう見られるかを気にして生きるようになることは、キリスト者にとって重大な罠だからである。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)
 
筆者は大勢の人々が手に手を取って入って行く滅びに至る広い門を非常に忌むべきものとみなしており、これを拒み、ただキリストのつつましい花嫁として、人の目には評価されない十字架の道を歩んで行きたいのである。

つい今しがたも、これまで神の御前で単独者として、共に孤独な戦いを戦い抜きたいと願った人々の一部が、広い門へと逸れて行ってしまったのを見た。

彼らは、組織から離脱した人々であったが、再び、組織に所属することを選んだと筆者に告げて来たのである。

こういう事例を、筆者は今まで、数えきれないほど見て来た。腐敗した宗教団体からエクソダスし、人間の指導者につき従うことを拒み、神の御前の単独者として、聖なる花婿であるキリストだけを忠実に待ち望む花嫁として、孤独をも、恥をも耐えて、戦いを忍んで勇敢に生きようと決意した信者たちの、実に多くが、実際に孤独と迫害の中で、一人では立ちおおせなくなって、人間的な助けを求めて組織へと戻って行った。

筆者から見れば、そのようなことは、エジプトを脱出した人々が、再びエジプトに戻るのと同じ、信仰の後退であり、しかも、そういうことが起きる際、彼らが戻って行く先の組織は、決まって、彼らが先に所属していた組織よりも、もっと後進的で、命の息吹の感じられない、死んだ古い組織なのである。だから、そのような場所へ戻れば、彼らは前よりも悪い状態に陥りかねないと筆者はいつも危惧している。

そういう現象が起きるほど、信仰の試練を一人で立派に耐え抜くことは、大勢の人々にとって難しい。彼らにとって、リアリティと見えているのは、目に見えるこの世であって、見えない天ではない。

多くの人々は、神から疎外されることよりも、社会から疎外され、世から偏屈で頑固な変わり者だと非難されることを恐れる。彼らは、神との間で齟齬が生じることよりも、社会との間に軋轢が生まれることを恐れる。さらに、世に迎合しないことによって、生活の糧が失われることを何より恐れる。

昔の信仰の先人たちは、地上的な保障が何もないところで、ただ信仰だけによって、天からの富によって支えられて生きる方法を知っていたが、今日は、聖職者と呼ばれる人々の中にも、荒野にあっても、信仰によって生きる秘訣を心得ている人は、ほとんど見当たらない。

孤独や、窮乏や、迫害や、行きづまりが見えて来たとき、ほとんどの人たちは、それを信仰によって乗り越えられると思わず、回れ右して退却して行くしかないと考える。

今、真の意味で、神の国の働き人であり続けられる人々が、西を向いても、東を向いても、ほとんど見当たらないのである。

だが、荒野が嫌だからと、エジプトに戻れば、奴隷としての日々が待っているだけだ。それでも、彼らの目には、荒野で死に耐えるよりは、エジプトで再び奴隷となって生き延びる方が安全だと映る。人間の互助組合の助けを借りれば、せめて暮らしは保障されて、厳しい寒さや熱さを和らげることができると思うのであろう。だが、それは誤りである。

あるジャーナリストが、安倍政権が続いた先に待ち受けているものは、ベネズエラのような運命だと訴えているが、実際に、日本全土が、ここ数年で、恐ろしいほどの貧しさの中に落ち込んでおり、この先、それが和らぐ見込みは今のところ見いだせない。

宗教団体などの人間の作った互助組合も、貧しさの煽りを受けており、従って、一人では信仰の試練を忍び通せないと考える人たちが、身を寄せ合って寒さをしのごうとしても、そこで延命できるのは、せいぜい、一日か、二日程度である。無いものは無いのであって、分かち合えばさらに減るだけである。

何度も書いて来た通り、我々が無事にそして有り余る命の豊かさの中で生き残るためのただ一つの有効な手段は、どんな団体に所属するかという点にはなく、神の国とその義を第一として生きることにこそある。

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなた方に必要なことをご存じである。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:30-34)


この法則のおかげで、筆者は今もこうして神の義に立って証を続けることが可能となっている。だが、筆者は、これから先、ただ神の御前に義とされるだけでなく、栄光にたどり着かねばならないと考えている。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(ローマ8:28-30)

栄光を受けるとは、信仰の試練を立派に耐え忍び、勝利をおさめ、ただ「合格」基準に達するだけでなく、「よくやった」として褒賞にあずかることを意味する。
 
今、筆者は、エジプトで宰相となったヨセフが、来るべき大きな飢饉を予見して、それに備えて何年も前から、穀物の備蓄を命じたように、来るべき霊的飢饉に備えて、天に宝を貯蓄しておくことが必要だと考えている。それは目に見える飢饉が現実に迫っているだけでなく、霊的なひどい飢饉がすでに到来しつつあるためである。
 
イエスは言われた、「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、貴方の心もあるのだ。」(マタイ6:19-21)

しかし、一体、天に富を蓄えるとは、何を具体的に意味するのだろうか。
 
ここで、主イエスが、弟子たちに向かって、「わたしにはあなた方の知らない食べ物がある。」と言われたことを思い出したい。

「イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(ヨハネ4:34)

主イエスは、神の御心を行い、そのわざを成し遂げることが、ご自分の食物だと言われた。これは、神の国と神の義を追い求めれば、すべてのものが添えて与えられるという御言葉とほとんど変わらない意味を持つ。

神の御心を行うとは、神を愛し、その御言葉に従って、神が贖われた兄弟姉妹を愛し、貧しい者を虐げず、他人の物を奪わず、人を欺かず、とらわれ人を自由にし、悲しむ人を慰め、正義を行い、真実を尊び、神が真実で憐れみ深い方であるように、慈しみ深く生き、悪や虐げや暴虐から遠ざかること等を意味する。

「人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。 」(ミカ6:8)

神の御心を行い、神の慈しみに生きるならば、必ず、その人の生涯は、主ご自身が守って下さり、神がその人のすべての必要を満たして下さる。そのことは、ダビデも以下のように書いている通りである。

「主は人の一歩一歩を定め
 御旨にかなう道を備えてくださる。
 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
 主がその手をとらえていてくださる。
 若いときにも老いた今も、わたしは見ていない 
 主に従う人が捨てられ
 子孫がパンを乞うのを。
 生涯、憐れんで貸し与えた人には
 祝福がその子孫に及ぶ。
 悪を避け、善を行えば
 とこしえに、住み続けることができる。
 主は正義を愛される。
 主の慈しみに生きる人を見捨てることなく
 とこしえに守り
 主に逆らう者の子孫を断たれる。
 主に従う人は地を継ぎ
 いつまでも、そこに住み続ける。」(詩編37:23-29)

では、荒野で倒れた人々には、何が足りなかったのだろうか。彼らには、食物の少ない荒野にあっても、そこには、神の御言葉という、自分を生かす、目に見えない朽ちない食物があることが、発見できなかったのである。

彼らには、目に見える食物が目の前にないとき、目に見えない食物から、どうやって目に見える食物を取り出すのか、その秘訣が分からなかったのである。

そうなったのは、彼らには、信仰がなかったために、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:3)という事実が見えていなかったためである。

すなわち、我々信仰者は、見えない神の御言葉を通して、目に見えるものを実体として呼び起こし、引き出すことができるのであり、すべてのものはそのようにして神の御言葉によって出来たのであるが、その法則が、彼らには分からなかったのである。
 
宗教組織によりすがれば、安全な信仰生活を送れると考えることが、どうして間違っているのかという根拠もここにある。組織や団体は「目に見えるもの」である。しかし、信仰により、私たちが神の国を受け継ぐ者であることを保証し、まことの命の糧を与えてくれるのは、これらの「目に見えるもの」ではなく、目には見えない、内に住んで下さる聖霊である。

私たちがこの内なる御霊を通して、キリストご自身から全てを引き出す秘訣を学ぶことを捨てて、ただ厳しい試練を一人で耐え抜く自信がないために、あるいは、手っ取り早く安全な生活の保障を得たいがために、自分が生きている根拠を、「目に見えないもの(神の御言葉)」ではなく、「目に見えるもの(団体)」に取り替えると、私たちにすべてを供給してくれるまことの命の働きがやみ、やがて命の源が失われてしまうのである。

では、我々は一体、どうやって、逆境を切り抜け、信仰によって、御言葉による創造を行い、無いところから、有るものを呼び出し、朽ちない宝を生み出していくのか?
 
今、我々を取り巻く目に見える世界は、徐々に貧困化している。憎むべき悪魔は、今日もほえたける獅子のように、弱く貧しい無知な人々を、獲物のように食い尽くそうと、あたりを徘徊し、見つければ、虐げ、騙し、脅し、ゆすり、たかり、財産を巻き上げ、路頭に迷わせ、骨までしゃぶりつくそうと狙っている。

悪魔と暗闇の勢力は、人々を飢餓状態に陥れ、互いに憎み合わせ、殺し合わせ、あわよくば共食いにさえ陥らせたいと、グロテスクな計画に心躍らせているのかも知れない。

しかし、我々信じる者たちは、信仰によって、まるで熟練した腕前を持つ狩人のように、吠えたける獅子に御言葉を矢のように打ち込み、これを捕獲して、分捕りものとして縛り上げ、檻に入れて持ち帰り、凱旋の行進の中で、さらしものにした後で、蔵に食料として備蓄しておくことができる。

武装を解除してしまえば、それはもはや獣ではなく、おとなしい動物であり、食べ物にもなろうし、家畜にもなろうし、獣が従えていた捕虜たちも、当然ながら、分捕り物となるであろう。

このような話を聞いて、きっとこれは非常に悪い冗談か、皮肉を言っているに違いない、と思う人もあるかも知れないが、そういう人には、エステル記の終わりを読んで欲しい。

ハマンは王の家臣に過ぎなかったが、自分が王の代理人であるかのように慢心し、モルデカイが自分を拝まないことに腹を立て、ユダヤ人を皆殺しにしようとはかった。その謀略が王妃エステルによって暴かれ、ハマンがモルデカイを吊るそうとして庭に作った処刑台は、かえってハマンを吊るす処刑台となり、ハマンが所有していた豪邸は、王妃エステルに与えられた。ハマンがはめていた王の指輪は、モルデカイに与えられ、モルデカイはハマンのものであった家の管理を任されただけでなく、かつてハマンが占めていた地位を受け継ぎ、さらにそれを超えて、家臣というよりも、一人の王のようにさえなったのである。

さらに、ユダヤ人には、ユダヤ人を殺す目的で武装した人々を、逆に殺して財産を奪い取ることが許可された。エステル記8~9章にはこうある、

「その中で、王はすべての町にいるユダヤ人に、彼らが相集まって自分たちの生命を保護し、自分たちを襲おうとする諸国、諸州のすべての武装した民を、その妻子もろともに滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取ることを許した。 」

「モルデカイは青と白の朝服を着、大きな金の冠をいただき、紫色の細布の上着をまとって王の前から出て行った。スサの町中、声をあげて喜んだ。ユダヤ人には光と喜びと楽しみと誉があった。」

「モルデカイは王の家で大いなる者となり、その名声は各州に聞えわたった。この人モルデカイがますます勢力ある者となったからである。」


むろん、これは旧約聖書中の出来事であって、これを現代のキリスト教徒に文字通りに当てはめるわけにはいかない。

しかしながら、これは霊的絵図であって、今日、キリスト者に任されている使命が、御言葉を武器として用いて、暗闇の勢力が占領していた領域を、キリスト者に明け渡させることにあることを、はっきり示している。それが成就すると、暗闇の勢力の首領が恥をこうむって退却するだけでなく、明け渡しに伴い、財産の移譲が行われる。「もろもろの支配と権威」が武装解除されて、主の民の凱旋の行進の中に捕虜として連行され、さらしものとされる際に、それらの支配と権威が不当に占領して来たすべての富も、光の子らに明け渡されるのである。

そのことが、「善良な人はその嗣業を子孫にのこす、しかし罪びとの富は正しい人のためにたくわえられる。」という箴言13:22の御言葉にも表れている。

次のコロサイの書に記されている御言葉の中には、何を根拠に彼らが武装を解除されるかが示されている。むろん、根拠となるのは、信じる者の罪を一切、無効にするキリストの十字架である。私たち信じる者が一切の罪を赦され、義とされる代わりに、私たちを捕虜とし奴隷として拘束していた暗闇の勢力が罪に定められ、恥をこうむるのである。
 
「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:14-16)

このように、神の御心を行って生きるとは、御言葉を現実の目に見える世界に適用し、そこに貫き通して、神に敵対する勢力との間で起きる、激しい争奪戦に打ち勝って、暗闇の勢力が不当に占領していた目に見えない領土を奪還することを意味する。

それはただ単に困っている人々を助け、貧しい人々に施し、とらわれ人を自由にするといった、人間に対する善良な行いや、慈善事業を意味するのではない。

神の御心を行って生きることは、御言葉を用いて、神に逆らい、人間を虐げ、苦しみの中に閉じ込めている暗闇の勢力の支配を打ち破り、彼らが不当に占領していた領域と、所有物を吐き出させて、これを愛する御子キリストの、光の子らの支配下に移譲する戦いを意味する。

これが、永遠に至る収穫を得て天に富を蓄えること、また、目に見えない神の御言葉を行使して、そこから地上的な利益を引き出すことの具体的な意味である。しかし、この戦いが持つはかりしれない重要な意義、および、その戦いの方法を実際に知っている人は、信者の中にも、ほとんどいないであろうと思う。<続く>


霊における激しい戦いに勝利し、復活の天的な領域に生きる

さて、これから必要なのは、キリストの復活の命、天の領域をどのように生きて行くか、その法則性を具体的に学ぶことである。

これまで起きて来たすべての霊的戦いは、新創造対旧創造の激しい戦いであったのだと分かるまで、私にはかなり時間がかかった。また、この戦いにはこの世的な方法でなく、それとは全く別の(霊的)方法で立ち向かわなければならないのだと具体的に学習するのにも、経験が要った。霊的な法則性、言葉では簡単に表せるが、それは人が十字架を知るまでには全く触れたことのない新たな法則性、新たな領域なのである。

キリストと共なる十字架の死を経験し、キリストの復活の命の領域に移されるということは、人がそれまでに生きて来たのとは全く異なる領域に移されることを意味する。そこにはそれまでの常識とは全く異なる法則があり、この領域を確かに生きるためには、それまでとは全く異なる知識、経験、方法が必要なのである。

それが分かるまで、信者はキリストの十字架の意味を知っても、依然としてそれまでの人としての常識や判断に従って生きようとする。だが、その方法ではもはや生きられないことが分かる。なぜなら、その人はもはやこの世の人ではないからである。こうして繰り返し、繰り返し、様々な失敗や試行錯誤を通して、信者はどんな方法がこの戦いに有効なのかを、次第に理解して行くことになる。

復活の領域を生き始めた信者の前に、まず全力を挙げて屹立し、対抗して来るのがこの世の「宗教」である。この「宗教」とは、旧創造の世界で、人が自らの力で罪悪感を克服し、神にたどり着こうとするあらゆる悲痛な努力によって支えられた絶望的な体系である。(キリスト教界はその一部である。)

「宗教」を支えるのは人の罪意識である。この世のすべての宗教は人間の罪意識を担保に成り立っており、あたかも罪の克服を目指しているようでありながら、その実、罪意識の外には一歩たりとも出られない仕組みになっている。いわば、人の死への恐れや罪意識を永久に利用して成立している体系だと言える。

「宗教」とは、人類が自らの罪を自力で克服しようとする試みである。だが、それはすでに述べた通り、キリストの十字架を介さずに人類が人類の罪の問題を自分で解消しようとするわけだから、達成不可能な試みである(=グノーシス主義)。それどころか、神の名を利用していながら、神に最も対立するものである。

結局、宗教とは、罪意識から逃れたいという人の弱点を利用して、永遠にそこから人を逃がさず、利用し続けるために囲い込む仕組みということになる。別な言い方で言えば、偽りの解決を提示することで人を欺きながら、永遠に人を罪の奴隷状態にとどめておくことによって、搾取する体系であり、それは人を罪から解放することを願っておられる神の御旨に真っ向から対立するものであり、当然ながら、反人間的な性質を帯びる。

復活の領域は罪意識と無縁である。復活の領域にある自由は、信者がキリストの血潮によって義とされ、罪の奴隷状態から解放されていることを根拠とする。しかし、罪意識がないからと言って、信者は何でも好き放題にして生きられるかというとそんなことはない。信者は自由を罪を犯す口実とするのではなく、その自由をもってキリストへの服従に生きるのである。

「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」(Ⅰペテロ2:16)

キリストの復活の命の領域にある信者は自由であり、どんな人間の指導者にも依存したり服従したりする必要がない。しかし、この世のすべての「宗教」はすべて人間の指導者への服従(序列の肯定)によって成り立っている。

「宗教」とは、まことの神の救いに偽装したバビロンであり、人を罪意識の中に閉じ込めて逃がさない巨大な監獄にたとえられる。(これは霊的な体系であるから、そこには宗教だけでなく、この世の堕落した社会・経済体系もすべて含まれている。)

その巨大な監獄に、人は決して自分では払いきれない罪の負債という身代金のために、一生、奴隷としつながれて、苦しんでおつとめしなければならないことになっている。

ところが、突然、何かの拍子に、一人の囚人が、自分は本当はキリストにあって新しい人とされており、古き人は死んだので、すべての罪状は赦されており、もはや借金はなく、刑期もなく、自分はとうに釈放されてしかるべきで、監獄にいる必要はない、という真理に気づく。そしてその自由を実際に行使して監獄を出て行こうとすると、この監獄全体に大変な衝撃が走る。

そこで、信者をこの復活の自由の領域から引き下ろすために、旧創造という監獄全体が地獄のように立ち向かって、さまざまな虚偽の「罪状書き」を見せては、信者を逃がすまいと追ってくる。旧創造の世界に構築されている「宗教」(バビロン、バベルの塔)は囚人が解放されてはたまらないと、全力を挙げて信者を責めたて、再び罪意識の奴隷としようとする。

しかし、これに対してはイエスの血潮と十字架が弁護する。

「あなたがたは罪によって、<略>死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」(コロサイ2:14-14)

信者に対する悪魔の申立書はすべて無効にされた。しかし、暗闇の勢力は卑怯なのであらゆる方法で虚偽を流布し、信者にまだ罪状が残っているかのように思わせては恫喝し、おびえさせ、何とかして監獄から出て行く自由の特権を行使させまいと妨げる。

残念ながら、その影響の多くは、クリスチャンと名乗っている人たちから来る。こうした人たちは、あたかもキリストにあって新しく生きることを語っているようでありながら、実は旧創造の虜であり、監獄の手先なのだということに気づくまでは、多くの無駄な奮闘があろう。

なぜ彼らが旧創造に属しているか分かるかと言うと、彼らは最初は解放を語っているよう見えるが、途中から必ず、人間の指導者に信者を従わせようと試み、それがうまく行かないと、信者を罪定めしようと態度を転じて来るからである。

そこで彼らの言う「罪」の概念も、全く歪んだ、聖書に基づかないものである。

聖書における罪とは、神に背くことを意味する。しかし、旧創造に属する人々が「罪」と呼んでいるのは、神に対して逆らうことや、御言葉に対して逆らうことではなく、人間(の指導者)の意向に従わず、人間のプライドや威信を傷つけることである。

クリスチャンに偽装しているバビロン信者たちは、神と御言葉に背いて生きる罪は全く容認できるものとして大目に見る一方で、彼らの立てた人間(の指導者)に背くことは許しがたい「罪」とみなし、自分たちの所属する組織や指導者の意向に従わない信者をしきりに責めたてようとする。
 
この異常な信者たちの間には、年功序列などのヒエラルキーがあって、彼らはそれに基づいて、権威を主張し、自分たちを絶対化しようとはかっている。

このヒエラルキーはいわば監獄の秩序であり、信者を奴隷にして人に従わせるための仕組みであり、重層的搾取の階層である(牧師制度もそれに含まれる)。むろん、聖書にはそんな階層の根拠はない。だが、上記のような信者は、このヒエラルキーを聖なるものとみなし、それに従って生きることこそ信仰生活だと勘違いしているので、神ではなく人間の指導者に服従することを要求し、それに逆らう者を「罪人」と呼んで責め立てるのである。

このように、結局、バビロン宗教の信者は人間を神のように絶対化し、人間(=自分たち)に逆らう者を罪人とする。しかし、実際には、それによって神を退けて己を神としているわけだから、これほど神をないがしろにする罪深い行為はない。だから、神以上に自分たちを高く掲げる彼らはそれによって神に反逆しているのであり、当然ながら、そこに救いはなく、彼ら自身、罪に定められることになるだけである。

さて、こうしたこの世の「宗教」にとらわれている異常な信者の虚偽の言い分をことごとく退けて彼らと訣別し、いよいよ信者が監獄を出る時が来る。その時、ペリシテ人の前に余興として引き出されて来たサムソンが最後の力を込めて異教の神殿を崩壊させたように、「宗教」の神殿ももはや信者を閉じ込めておく力を失い、崩れ去るであろう。

そこから誰かが自由になって出て行った、という事実が聞こえるだけでも、この監獄は震撼し、大変な脅威を感じるのである。なぜなら、彼らが「罪」としていたことが、実は罪でなかったことが判明し、彼らが「義」と主張していたことが、罪であったことが判明するからである。
 
「御子を信じる者はさばかれない信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(ヨハネ3:18)
 
神の御前で最終的に罪に定められるのは、キリストの義をつかんで自由とされた人ではなく、過越の子羊の血潮に隠れることのできなかった人々である。このように、神の義を退けても、自分の義をつかんだ人たちが、罪意識の中で死ぬことになる。結局、人は何によって自分を正当化するのか、そこにすべてがかかっているのだ。
  


終わりの時代、人々は歓呼して人間の罪を優しくかばい合い、堕落した互いの姿には見て見ぬふりをしながら、罪人である互いを聖なるもののように誉めそやし、自らを神のように正当化して祭り上げて行くだろう。そこには人類の一大連帯がある。正しいクリスチャンにとっては苦難の時代だ。

聖書にはそういう時代が来ることがはっきり予告されている。

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、

見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」(Ⅱテモテ3:1-5)

この御言葉は、はっきりと、クリスチャンを名乗る中からこういう人々が出現することを示している。見かけは「敬虔そう」であっても、行いにおいてはそれを否定する人々のことだ。

これまで私の前に「兄弟姉妹」を名乗って現れた人たちの中には、どうにもあらゆる角度から見て、主のしもべと呼ぶべきでない生き方をする人々が数多く存在することに驚かされた。

これらの人々はクリスチャンを名乗っていたが、観察した結果、得られる結論は、偽装した信者だとしか思えないということであった。たとえそうでなかったとしても、彼らが御言葉から逸れて歩む以上、兄弟姉妹として交わることは不可能だと判明するのである。

兄弟姉妹の交わりは厳格なものであって、本当にキリストだけを求めている者同士の間で成立した交わり以外のものは、人間の目にどんなに麗しく見えても、必ず、腐敗した本性を表して行く。多くの場合、後には深刻なトラブルの源になるのだった。

そのような人々と人間的な思いで関わったために、どれほど無駄な苦労をしたか分からない。これらの人々は、本来、仲良くすべき対象ではなかったのに、「兄弟姉妹」という言葉の響きゆえに、彼らが激しく対立するアンシャン・レジーム(旧創造の世界)に属しており、関わることさえ重大な危険なのだと理解できなかったのである。そのような態度を捨てたのは、だいぶ後になってからのことであった。
     
さて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団会員であったBr.Taka夫妻が他のAG信徒と一緒に私への中傷を広めたり、KFCを乗っ取ったりしたことはすでに記事に書いたが、彼らと一緒になって私を中傷した使徒らの中には、かつてKFCの姉妹教会であった横浜にある天声教会のメッセンジャーも含まれていた。

そこでは、ペンテコステ系の信徒である韓国人の既婚の幹事女性とメッセンジャーの青年が教会を拠点として密接な共同生活を送っていたため、私はその生活がクリスチャンに相応しいものでなく、主のみ名を穢すものであることを指摘した。だが、それを機にこの青年も私を敵のように憎むようになり、最後には、AG信徒と共同して私を陥れる側に回った。

青年は初め、ほんの一時的な手伝いのために教会に行ったことをきっかけとして、あっという間に教会に取り込まれてしまった。そして、メッセンジャーとなり、母ほどの年齢の女性信徒の強い影響下に置かれて言いなりになっていた。

朝5時から始まる早天祈祷会を筆頭として、朝から晩まで続く教会行事。私は実際にその教会生活に参加したこともあったが、早朝から起き出すと、昼頃には眠気がやって来る。そこで、皆がしているように、昼間に少し睡眠を取ると、もう一日中、クリアな思考で物事を考えることができなくなる。カルトに典型的な、人に冷静に考える余裕を与えない不健康な生活であった。

さらに、前述の女性は教会付近にブティックを経営していたが、そこでは水商売用のドレスが販売されていた。(そういう施設の多い伊勢佐木町界隈のことである。)こうした店の経営や、その売り上げが教会や信徒の収入源となることが、全く主の御名に相応しくないのは明らかであった。

当時、青年はルーク氏と出会って後、少しずつ解放へ導かれていたことから、私は彼がその危険な生活から一刻も早く離れられるようにと、ルーク氏に忠告を求めたが、ルーク氏はこれを放置するだけであった。

その当時、私はルーク氏にも幾ばくかの神に対する真実と貞潔があると思っていたため、最も頼るべきでない、当てにならない人物にその事実を告げているのだとは知らなかった。

ルーク氏は私の言葉を聞いて後、実際に教会を訪れて、ブティックをも視察した後に言った、「あれは水商売のドレスだ」と。それを聞くまで、私はそこで販売されているドレスが何の目的のためのものなのか知らなかった。だがルーク氏はそれが通常の服でないことをすぐに見抜いたのである。にも関わらず、彼は一切、誰にも忠告することなく、ただ事態を静観しただけであった。

同じように、杉本氏やグレゴリウス氏とのやり取りについても、どれほど私は彼に忠告を繰り返したか分からない。むろん、異端の教えが登場して来たときにも、真っ先に警告した。

だが、ルーク氏にとってはそんなことはすべて重要ではなかった。むしろ、そのような悪を大目に見ることによって、事態をさらにこじらせ、信者を翻弄して心を苦しめることこそ、隠れた目的だったのかも知れない。ルーク氏は私の警告のすべてをのらりくらりとかわし、不誠実で真実のない対応を続けるばかりで、事態を常により悪化させる方向で動いた。

このような人物を兄弟として交わり続けること自体が、全く意味のないことであり、極めて危険であるという結論に、後になって他の兄弟たちと共に達した。

ルーク氏の危険は、途中までは正しいことを告げて人々を解放に導きながら、一番、肝心なところで人の弱さを大目に見て、信徒の堕落を助長することにある。

彼は何事につけても信念を貫くということがなく、面と向かって人と対立することができなかった。彼がそう述べていたように、器用だから対立(ガチンコ)しなかったのではなく、臆病さゆえに対立を恐れたのである。

彼にはどんな利益と引き換えにしてでも守り抜くべき信念(神への忠誠、真実、貞潔)がなかったのであり、結局、人に嫌われたり、憎まれないためならば、御言葉など簡単に売り払っても、差し支えなかったと言えるだろう。というより、御言葉は彼の人生を美しく彩るための飾りであったとしか思えない。

そのような人物に関わっていると、関わっている人たちもだんだん同じようになって行くため、関わりを絶つ以外に選択肢はないのである。

娼婦バビロンとは、このように神に対する貞潔を失った全ての信徒らを指すものと私は考えている。大淫婦と呼ばれているからと言って、そこに含まれるのは、何も女性信徒ばかりとは限らない。二重性を帯びて偽善的な生き方をする人々は兄弟姉妹だと考えてはならないし、その偽善が分かった時点で、すぐに離れなければならないのである。

上記の人々もそうであるが、ペンテコステ系の信者、特に、統一教会からの脱会者には、後述するように、同じような危険な特徴が見られた。

ペンテコステの教えには、いつまでも人の弱点を大目に見て、それを足がかりに人を自立させないで支配する「母なるもの」の危険があるように思う。グノーシス主義(東洋思想)とは、もともと切り分けを否定して、すべてを包含する母なるものの存在を主張し、すべてがその中に統合されて行くという思想であると私は考えている(=原初的統合への回帰)。が、キリスト教は本来、これに対して、父性原理による切り分けの働きを持つ。十字架には切断の働きがある。光と闇が交わらないように、唯一の神と偶像は決して交わらず、聖なるものと汚れたものには何の一致もなく、新創造と旧創造は決して同じにならないのである。

ところが、キリスト教からこの切り分け(十字架)の役割が失われ、十字架の切り分けの機能が悪いもののように排除され、聖書に根拠を持たない「キリスト教への母性の回復の必要性」なるものが叫ばれ、キリスト教そのものが「母なるもの」という異端思想に飲み込まれて行っているのが現状なのである。

聖書にもあるように、人は自分の父と母を離れることで自立するが、多くの場合、コンプレックスやトラウマを抱える信徒には、いくつになっても自分を優しくかばってくれる保護者のような誰かをそばに求める傾向が強い。これは男女を問わず、宗教指導者であっても同じである。

それは決定的な心理的弱点であり、甘えの精神であり、集団性の基礎をなす恐れの心理なのであるが、これを克服できないと、人は絶えず本当の傷ついた自己から逃避し、自分の心の真相を見ないでおくために、誰か慰めて支えてくれる人によりかかり、その人物に人生を預けて責任を転嫁しながら、自分の人生からの逃避行を続けることになる。そして、多くの場合、その隠れ蓑とされるのが「宗教」なのである。

異端に影響を受けた信徒らは、このような信徒らの心理的な弱点を探り出すのがうまい。(だからこそ弱さによる連帯は危険なのである。)そして言葉巧みに彼らの弱さに優しく寄り添い、サポートするふりをしながら、精神的に彼らを支配して行く。

こうして、一見、優しく人の弱さをカバーして包み込む「母のような」信徒らに精神的に支配された信徒は、自己のプライドを傷つけられることのない安全な繭の中にこもる生活の快適さに安住し、ますます自分の弱さから目を背け、それを克服できなくなっていく。捕まった人たちは自分がサポートされていると思い込み、まさか冥土に送られているのだとは分からずに、その魅力に虜にされて行く。

その生活はまことに心地よいものなので、自分に優しくしてくれる母のような存在に頼れば頼るほど、自分に厳しい忠告をして来る信徒の言い分には耳を傾けなくなり、憤り、憎み、排斥するようになるのは当然である。

このような癒着が生じることを防ぐためには、信者がただ神だけを頼みとして進む必要がある。ある人は、エクレシアの戸口に至るまでに、人は死んでいなければならないと述べたが、実際にその通りである。

キリスト者の交わりはかなり厳しいものであり、そこに自己の好みや、自分の家庭の事情や、生活の必要性などの個人的な事情を持ち込むことは、かなり危険なことである。確かに、祈りのリクエストを出すこと自体が間違いではない。しかし、それには、見えないキリストを中心とする交わりを、目に見える人間の必要を満たすための人間同士の寄り合いへ変えてしまう危険が常につきものなのである。

もし信者が、人間同士、集まって互いをかばい合い、慰め合い、お互いを理解し合って、サポートし合いたいという欲望と手を切ることができず、人に頼ることを目的として兄弟姉妹の交わりを続けるならば、それは命取りになる。

カルトに入信する人の弱点は、孤独な環境ではなく、孤独に対処できない心の弱さから来る。多くの場合、孤独に向き合えない心の弱さ、人の温もりから離れられず、人を通して得られる慰めを手放せないという心理的弱点が取り除けないことが原因となる。

本当に内なる強さを持っている人は、どんな境遇にあっても自分自身を見失わない秘訣を知っている。しかし、内なる人が弱ければ弱いほど、その人は、逆境を一人で切り抜けて行くことができないので、逆境に置かれる度に、誰かの助言や慰めに頼ろうという依存心が生まれ、繰り返し、繰り返し、人を頼っては欺かれることになる。

異端団体は例外なく人の弱点を足掛かりに信者に取り込んでいく。異端に影響を受けた信徒らもやり方は同じである。 人の弱みを探り出し、助けてやる、慰めてやる、と見せかけて接近し、自分に依存させて支配していくのである。

だから、言えることは、逆境であれ順境であれ、すべてをキリストの命だけによって切り抜ける方法を学ぶことこそ、何にもまして重要だということである。全ての問題に人の力を借りずに、ただキリストだけを頼みとして切り抜ける覚悟がない限り、兄弟姉妹の交わりを求めても、何度でも、自分の心の弱点を足掛かりに偽クリスチャンに利用され、欺かれることになる。
 
そればかりではない。生まれながらの人間的な判断、自分のそれまでの常識や、感情的・感覚的な好悪を通して、兄弟姉妹の交わりを成し遂げようとすること自体、不可能なのではないかと私は考えている。 もしそのような(生まれながらの感覚的)判断に頼って、好ましく見える「兄弟姉妹」と交わりを続行しようとすると、その後、必ずそういう関係は腐敗して行くのである。
 
だから、これは本当に厳格な道である。アダム的な生来の愛情や、自分の目に好ましい人間を愛し、そばに置いておきたいとする自分の好悪の感情を基礎として信仰生活を歩むことはできないのである。さらに、兄弟姉妹の関係には年功序列もヒエラルキーもない。ギリシア人もユダヤ人も男も女もない。主にある兄弟姉妹は、この世の常識とは全く異なる関係なのである。

「わたしが来たのは血に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその人の敵となります。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失ったものは、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-38)

イエスがこの御言葉で意図しておられたことは、昔ながらのお家制度の秩序を考えてみれば分かるように思う。そこでは家父長制や、年功序列はほとんど絶対的なものである。そして、そのような序列があって初めて、一家が互いに守り合い、助け合うことができる。それは人の目には美しい家庭の風景に見えるかも知れないが、人間の生まれながらの愛情と、生存のための助け合いの精神(死の恐怖)に基づいたもので、人間の生存本能、自己保存願望から生まれて来た肉の関係である。
 
信仰に基づく関係はこれとは全く異なる。そこで、この生来の関係の中に、後から信仰が関わって来ると、信者はもはや今までのように人間の序列を絶対的なものとしてこれに服従して歩むことができなくなる。むしろ、御言葉は、剣のように、生来の愛情と、神への愛を鋭く切り分け、両者がもはや共存できないことを知らせる。

これは信者が家庭を捨てねばならないとか、年長者に逆らうべきであるといったことを意味するのではない。ただ、信者はもはや今までのように常識や自分の感情や感覚に従って、自分にとって都合の良い、好ましい関係だけを優先して生きることができなくなる。さらに、神が求めておられる兄弟姉妹の関係は、肉による関係ではなく、自分の目に好ましいかどうかという好悪や、常識に基づくものではないことを思い知らされることになる。
 
こうして、十字架は人の生まれながらのものと、信仰による霊的なものを鋭く切り分けて行く。にも関わらず、この切り分けを否定して、すべてを優しく包含する「母なるもの」へ信者を引き戻そうとする力が、いかに危険であるかについては、また稿を改めて論じたい。

こうした問題に続いて、上記の青年にそれまでに考えられなかった急速な変化が起きたのは、彼がメッセンジャーになった後だったことを考えても、牧師やメッセンジャーという地位は、人の心を狂わせるものであり、神の地位を奪う、人の立ってはならないポジションなのだと私は改めて感じざるを得ない。

(ちなみに、私は自分にメッセンジャーとしての才覚がないがゆえに、メッセンジャーをやっかんで非難しているのだと曲解する人があるかも知れない。これについては、私は学生時代から相当議論の達人であったし、また、KFCに行って間もなく、ルーク氏が「もし(メッセージを)やりたかったらいつでも歓迎ですよ」と言って来たこともあった。彼はその他にも、ネット管理やら、いくつかのポジションを提案していた。だが、私はどれ一つも引き受けなかった。後になって、なぜ引き受けなかったのかと振り返ったことがなくはなかったが、やはり受けなくてよかったと今は思う。

このブログにしても、支払った労力の代償に私が得たものは、せいぜい世からの嘲笑と、いわれなき憎しみと、悪罵の言葉だけである。私の書いたものの反響の大きさは、常に拍手喝采ではなく、敵対する人々の憎しみの激しさと悪罵の多さによって裏付けられた。

だが、キリスト者の歩みはそれで良いのだと考えている。地上で人からの名誉など受けない方が良い。そんなものを受けてしまった日には、一体どんな末路が待ち受けていることか。肝心なのは、神が私をどう思われるかであって、よくやったという誉め言葉は、天の父から直接、受けるのでなければ意味がない。

こんなブログでさえ有料化することは可能であるが、神の御言葉を儲けの手段として利用しようという気は私にはない。まして、御言葉を宣べ伝えるというミッションを己の才能を誇示する機会にするほど愚かな行為はないと思う。)


  
さて、もう一例、危険な兄弟姉妹の交わりの特徴を挙げておきたい。

この世の法則は、先手を打って自己主張した者が勝つというもので、肉の力が強ければ強いほど、周りに強力な影響力を及ぼし、人を巻き込んで思い通りに操作することができる。そういう影響力の強い人だけが全てを手にする世界が、この世である。肉の力で働きかけないことには何も始まらないのである。

しかし、神の御霊の領域は、そのような堕落した肉による自己主張によって影響力を及ぼすものではなく、むしろ信者が肉の力に対して死んで、霊の領域から影響力を行使するものである。信仰の歩みは、常に誰にも知られない信者の内側から、神だけが知っているキリストとの共同統治から静かに始まる。

だが、御言葉から逸れて生きている危険な信者には、必ず自己の生まれながらの肉の力を誇るという特徴がある。

そのような人々には独特の押しの強さ、図々しさ、馴れ馴れしさ、厚かましさ、自己中心性がある。見かけは謙虚に見えても、近づくにつれて、彼らの内心の狡さと自己中心性がはっきりとわかって来る。

やがてその厚かましさは必ずと言って良いほど、キリストにある交わりを自分のために私物化しようという欲望となって現れる。

すでに述べたように、キリスト者の交わりとは、キリストの栄光のために捧げられるべきものであって、誰か人間の必要を満たすために、あるいは人間の満足のために存在するものではない。

しかし、危険な「兄弟姉妹」は、本当のエクレシアを純粋に求めているように口では言いながらも、交わりを徐々に自分の利益のために私物化して行くのである。

たとえば、ひたすら自分の生活の経済的な必要を訴えて、金銭的な援助を求めるために交わりを利用したり、あるいは、自分や自分の家族を中心としてそこに強力なスポットライトを当てて、自分の個人生活を交わりの中心に据えようとしたり、もしくは自分がメッセンジャーとなって他の兄弟姉妹の述べた事柄も含めて全てを自分の手柄として独り占めするなど、自分の必要をかなえるために、もしくは、自分が注目と脚光を浴びるために、交わりを利用しようとする。

その過程で、彼らは自分ほど図々しくない人を押しのけて隅に追いやるか、交わりから弾き飛ばすかして他人を圧倒し、自分が中心の座に着いてしまう。そして、そんな異常な「交わり」を続けていると、最後には彼らの押しの強さは強迫性を伴うものとなり、彼らの提示する話題も、切迫したおどろおどろしい内容となっていく場合が多い。

たとえば、Br.Taka夫妻の図々しさは今思い出しても想像を超えるほどであった。彼らの挙動がいかに異常であったかその顛末はすでに述べたことであるが、それ以外にも、多くの行動は常軌を逸して自己中心で厚かましいものであった。たとえば、約束の時間に2時間以上も遅れて来て謝罪しなかったり、ファミレスでひたすらドリンクバーのお代わりを繰り返し、店員に注意されると「出て行けってことですか?」と血相を変えて居直ったり、閉店まで粘り、終電に乗れるかどうかさえ分からない時間まで人を引き留める、など…。ある意味で、非常に子供じみて野性的な(肉的な)尽きないエネルギーを持っていたのだと言える。

そしてそんな自分勝手な行動の果てに、彼らはついに自分たちのメッセージに逆らう者は聖霊に逆らっているから赦されない罪を犯しているのであり、彼らと一緒に着いて来ないような信者は、みなふるいわけられて、神の救いから除外されるなどと言い始めたのである。

これとは別な他の兄弟の例では、仕事や生活の困難を訴え、そうこうしているうちに、具体的な借金返済の「デッドライン」を持ち出して、兄弟姉妹にしきりに祈りの支援(本当の目的は経済支援)を求めるというものもあった。

このように、兄弟姉妹を名乗りながら交わりをしているうちに、自分たちが中心となって話題をさらい、どんどん要求がエスカレートして行き、そのうち何らかの「踏み絵」となるような切迫した要求を一方的に提示して、有無を言わさず、彼らの願望をかなえるよう求めて来るやり方は、もはや交わりと呼べるものではなく、そんなものがクリスチャンの交わりの目的であろうはずもない。
 
そして、その要求に従わないと、こうした人々は決まって怒り出し、信者を罪定めしては、「クリスチャンには愛がない」と捨て台詞を吐いたり、あるいは、悪魔の手先だと罵ったりするのである。こうして、さんざん兄弟姉妹を翻弄した挙句、最後には交わりそのものも含め、すべてを否定し、破壊して去って行くのである。

このようなものは、自分勝手な要求の繰り返しと、人の主権を奪うための脅しと詐欺の手口であって、断じてクリスチャンの交わりと呼べるものではない。だから、このような人々は断じて兄弟姉妹とは呼べないし、相手にすべき人々でもなく、彼らに隙を与えてはならず、発言させるべきでもなく、交わりを明け渡すべきでもないのだ。エクレシアとはこのような人たちと折り合いをつけることを目的とする場所では断じてない。

だが、こうした人々も、最初は純粋にエクレシアを求めている風を装って接近して来るので、ただちには見分けがたい。少しでもおかしいと思ったときに、接触を断ち切らなければならず、油断していると、彼らは度を超えた厚かましさで、交わりの中心をどんどん彼らの方へシフトさせていく。そして、果てしなく自慢話を述べ立てたり、自己中心なリクエストをさんざん出したり、無駄話を延々と引き延ばしたりして、本物の交わりを妨げる。それでも放置していると、彼らの出して来る身勝手な要求によって多くの人たちが翻弄されることになり、人間関係も破壊され、果ては生活までも被害を受けるかも知れないし、もっと恐ろしい結末へと巻き込まれかねない。

さらに、危険な信徒の特徴の一つとして、パクリ(無断引用)と模倣(もしくは乗っ取り)がある。危険な信徒はもともと交わりを利用して自分が脚光を浴びるのが大好きであり、おそらくはそれだけを目的にやって来ているので、良さそうに見える他人の証などを存分に自分のメッセージとして勝手に利用して行く。本当に心から共感している証を引用しているのなら、まだ許容範囲なのだが、どうにも文脈がおかしい。絶え間なく誰かの引用を繰り返していたり、人の主張をまるで自分の主張のようにすり替えていたり、とにかく変なのである。そして、あるいはBr.Takaがしたように、他人のブログやらミニストリーそのものをパクることもある。それは自分自身では何も生み出せないので、兄弟姉妹の働きを盗むのである。

こうした図々しさ、押しの強さ、横領の精神、自己中心性は、単に人の生まれつきの性格を超えた、悪霊の働きとして見分けることができる。彼らがメッセージを語る時の特別な雄弁さや、疲れを知らない厚かましさなども、あるいは悪霊によって力が増幅されていると見ることも可能である。
 
いずれにせよ、主にあって十字架を経験していない肉なる存在は、常に自分の手腕を誇り、強い自己主張によって、他人を圧倒しては、自分に従わせようとしたり、都合の悪い他人を力づくで押しのけようとする。悪魔が常に異常に「肉的」な人々を用意しては、聖徒らの前進を妨害しようとして来たやり方は、聖書の様々なエピソードを思い浮かべるだけで十分である。

主の御霊はそんな風に肉的な力を頼みとして強迫的、圧迫的に自己主張することはない。むろん、それは御霊によって信者が断固たる調子で宣言することがないという意味ではない。だが、それでも、御霊は肉的な押しの強さによって人を圧倒することはない。そして常に人の自主的な意志に決定を任せる。それは御霊がキリストの謙虚さによって働きかけるからである。

「彼は叫ばず、声をあげず、
 ちまたにその声を聞かせない。
 彼はいたんだ葦を折ることもなく、
 くすぶる燈心を消すこともなく、
 まことをもって公義をもたらす。
 彼は衰えず、くじけない。
 ついには、地に公義をうちたてる。
 島々も、その教えを待ち望む。」(イザヤ41:1-4)

御霊の働きは、肉による自己主張の厚かましさとは対極にあり、神の働きは多くの場合、極めて繊細で控え目で、メガホンを持って叫び、自分の前で太鼓を鳴らすということは絶対にない。

アブラハムとロトが土地を分けた時、アブラハムはあえて自分の希望を述べず、黙って脇に退いて、ロトに好きなようにさせた。ロトはアブラハムをさしおいて、希望通りの土地を取ったが、それは後にソドムとゴモラになった。

神はロトが去った後に、アブラハムに現れて彼を祝福された。しかし、グノーシス主義者はこのような謙虚さを全く評価しない。彼らは自分がチャンスを得たと思うと、絶対に黙っていることができず、ここぞとばかりに飛びついて、隣人を出し抜くことを喜びとしている。そして、他人に先んじて奪い取ったものを分捕りものとしてひけらかし、謙虚な人間を蔑み、俺はあいつに勝ったのだと宣言せずにいられない。

そのような愚かで浅はかな行動を通して、彼らの目的と正体が明らかになる。このような人々は、聖徒らを押しのけ、聖徒らが得ようとしている実を先んじて奪い取ることを目的として近づいてきているのだと言える。ハンナとペニンナの場合もそうであるが、まず肉にある者が図々しく自己主張し、その後に御霊にある者の出番が来るのである。 

だが、仮にそのようにして肉にある者が聖徒らの手から何かを奪い取ったように見えたとしても、肉によって結ばれた実は、しょせん、ソドムとゴモラと同じ堕落した本質を現して行くだけである。それは彼らの恥にはなっても、栄光には決してならない。
 
そこで、こういうことが幾度か繰り返されると、パウロが悪霊につきまとわれたときのように、そのような人たちを見ても驚かなくなり、ああ、またやって来たなと分かるようになる。

それはすでに述べて来たように、この人々にはすぐにそれと分かる独特の不自然な特徴があるからだ。常に「俺が俺が」と自己主張し、もしくは「あたしたち」と、人間の連帯を高く掲げようとするからだ。〈最初は「わたしたち」と言いながら、最後には必ず「わ•た•し」に変わって行く。)

聖書の原則は、「もはや私ではなくキリスト」であり、肉的な方法で人が自己主張し、己を誇示することなどエクレシアの目的には全く含まれていない。だが、偽兄弟らの目的は、主から信者の目を逸らし、自分を見させることによって、エクレシアを奪って我がものとし、神から栄光を奪うことにある。 

こうした強盗のように主権侵害を繰り返し、エクレシアを強奪することを喜びとする人々を相手にしても得るものは何もなく、そういう人たちを兄弟姉妹として受け入れてもいけない、彼らは交わりの対象ではないのだ、ということが分かるまで、キリスト者は交わりのスタートラインにも立てないだろう。

しかし、こうした肉的な人々の出現が絶えることもまたない。彼らは旧創造の世界、堕落したバビロンという監獄から遣わされた手先のような存在である。旧創造は、キリストの支配下に逃れた者を以前の堕落したバビロンの囚人へと引き戻そうと、あの手この手で絡んで来る。ヤクザのように因縁をつけることで、再び、罪意識を抱かせて彼らの奴隷とするためである。キリスト者はしっかりと血潮を握りしめ、この策略にはまってはならない。
 
あたかもバビロンに反対しているようでありながら、バビロンにしっかり深く根ざして生きている信徒はまことに多い。肉をより頼んで生きている彼らに対する宣告は以下の通りである。

はこう仰せられる。
「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、
 心がから離れる者はのろわれよ。
 そのような者は荒地のむろの木のように、
 しあわせが訪れても会うことはなく、
 荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。
 に信頼し、
 を頼みとする者に
 祝福があるように。
 その人は、水のほとりに植わった木のように、
 流れのほとりに根を伸ばし、
 暑さが来ても暑さを知らず、
 葉は茂って、
 日照りの年にも心配なく、
 いつまでも実をみのらせる。」(エレミヤ17:5-8)

バビロンからの追手を絶えず振り切って、後ろのものを忘れ、前に向かって身を伸ばしつつ、キリスト者は出て来たところを振り返らず、まだ見ぬ約束の地へ、天の都を目指して歩き続ける。バビロンは亡霊のように後ろに横たわっているが、もうすでに死んでいて、影響を及ぼすことはできない。信者はあらゆる罪定めから解放されている。キリスト者の交わりは、キリストと共に十字架でバビロン(この世)に死んで、復活の領域で主権を手にして成立する。

この天的な主権を維持し、行使すること、すなわち、キリストと共なる十字架の死により、全てのバビロン的なものに対して死に、バビロンに対して主と共に霊的な勝利をおさめたという事実を前提として、この世に対して圧倒的な超越性・優位性を行使し、その超越的な法則と地位に基づいて生きることこそ、キリスト者の使命なのである。

だからこそ、主にある兄弟姉妹は互いにこの新創造の領域で出会わなければならない。キリスト者が、人間的な考えで人と付き合おうとすると、したたかにやられる。どの兄弟姉妹と交わるかも、神の導きに委ねるべきなのである。
 
キリスト者はエクレシアの戸口で自己を焼き尽くされて死んでおり、十字架の死の向こう側の新創造の領域でしか出会えない種族である。生まれながらのものはエクレシアに持ち込むことができない。それ以下の出会いは、すべてこの世の堕落した人間関係であって、交わりではないのだ。