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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

霊における激しい戦いに勝利し、復活の天的な領域に生きる

さて、これから必要なのは、キリストの復活の命、天の領域をどのように生きて行くか、その法則性を具体的に学ぶことである。

これまで起きて来たすべての霊的戦いは、新創造対旧創造の激しい戦いであったのだと分かるまで、私にはかなり時間がかかった。また、この戦いにはこの世的な方法でなく、それとは全く別の(霊的)方法で立ち向かわなければならないのだと具体的に学習するのにも、経験が要った。霊的な法則性、言葉では簡単に表せるが、それは人が十字架を知るまでには全く触れたことのない新たな法則性、新たな領域なのである。

キリストと共なる十字架の死を経験し、キリストの復活の命の領域に移されるということは、人がそれまでに生きて来たのとは全く異なる領域に移されることを意味する。そこにはそれまでの常識とは全く異なる法則があり、この領域を確かに生きるためには、それまでとは全く異なる知識、経験、方法が必要なのである。

それが分かるまで、信者はキリストの十字架の意味を知っても、依然としてそれまでの人としての常識や判断に従って生きようとする。だが、その方法ではもはや生きられないことが分かる。なぜなら、その人はもはやこの世の人ではないからである。こうして繰り返し、繰り返し、様々な失敗や試行錯誤を通して、信者はどんな方法がこの戦いに有効なのかを、次第に理解して行くことになる。

復活の領域を生き始めた信者の前に、まず全力を挙げて屹立し、対抗して来るのがこの世の「宗教」である。この「宗教」とは、旧創造の世界で、人が自らの力で罪悪感を克服し、神にたどり着こうとするあらゆる悲痛な努力によって支えられた絶望的な体系である。(キリスト教界はその一部である。)

「宗教」を支えるのは人の罪意識である。この世のすべての宗教は人間の罪意識を担保に成り立っており、あたかも罪の克服を目指しているようでありながら、その実、罪意識の外には一歩たりとも出られない仕組みになっている。いわば、人の死への恐れや罪意識を永久に利用して成立している体系だと言える。

「宗教」とは、人類が自らの罪を自力で克服しようとする試みである。だが、それはすでに述べた通り、キリストの十字架を介さずに人類が人類の罪の問題を自分で解消しようとするわけだから、達成不可能な試みである(=グノーシス主義)。それどころか、神の名を利用していながら、神に最も対立するものである。

結局、宗教とは、罪意識から逃れたいという人の弱点を利用して、永遠にそこから人を逃がさず、利用し続けるために囲い込む仕組みということになる。別な言い方で言えば、偽りの解決を提示することで人を欺きながら、永遠に人を罪の奴隷状態にとどめておくことによって、搾取する体系であり、それは人を罪から解放することを願っておられる神の御旨に真っ向から対立するものであり、当然ながら、反人間的な性質を帯びる。

復活の領域は罪意識と無縁である。復活の領域にある自由は、信者がキリストの血潮によって義とされ、罪の奴隷状態から解放されていることを根拠とする。しかし、罪意識がないからと言って、信者は何でも好き放題にして生きられるかというとそんなことはない。信者は自由を罪を犯す口実とするのではなく、その自由をもってキリストへの服従に生きるのである。

「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」(Ⅰペテロ2:16)

キリストの復活の命の領域にある信者は自由であり、どんな人間の指導者にも依存したり服従したりする必要がない。しかし、この世のすべての「宗教」はすべて人間の指導者への服従(序列の肯定)によって成り立っている。

「宗教」とは、まことの神の救いに偽装したバビロンであり、人を罪意識の中に閉じ込めて逃がさない巨大な監獄にたとえられる。(これは霊的な体系であるから、そこには宗教だけでなく、この世の堕落した社会・経済体系もすべて含まれている。)

その巨大な監獄に、人は決して自分では払いきれない罪の負債という身代金のために、一生、奴隷としつながれて、苦しんでおつとめしなければならないことになっている。

ところが、突然、何かの拍子に、一人の囚人が、自分は本当はキリストにあって新しい人とされており、古き人は死んだので、すべての罪状は赦されており、もはや借金はなく、刑期もなく、自分はとうに釈放されてしかるべきで、監獄にいる必要はない、という真理に気づく。そしてその自由を実際に行使して監獄を出て行こうとすると、この監獄全体に大変な衝撃が走る。

そこで、信者をこの復活の自由の領域から引き下ろすために、旧創造という監獄全体が地獄のように立ち向かって、さまざまな虚偽の「罪状書き」を見せては、信者を逃がすまいと追ってくる。旧創造の世界に構築されている「宗教」(バビロン、バベルの塔)は囚人が解放されてはたまらないと、全力を挙げて信者を責めたて、再び罪意識の奴隷としようとする。

しかし、これに対してはイエスの血潮と十字架が弁護する。

「あなたがたは罪によって、<略>死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」(コロサイ2:14-14)

信者に対する悪魔の申立書はすべて無効にされた。しかし、暗闇の勢力は卑怯なのであらゆる方法で虚偽を流布し、信者にまだ罪状が残っているかのように思わせては恫喝し、おびえさせ、何とかして監獄から出て行く自由の特権を行使させまいと妨げる。

残念ながら、その影響の多くは、クリスチャンと名乗っている人たちから来る。こうした人たちは、あたかもキリストにあって新しく生きることを語っているようでありながら、実は旧創造の虜であり、監獄の手先なのだということに気づくまでは、多くの無駄な奮闘があろう。

なぜ彼らが旧創造に属しているか分かるかと言うと、彼らは最初は解放を語っているよう見えるが、途中から必ず、人間の指導者に信者を従わせようと試み、それがうまく行かないと、信者を罪定めしようと態度を転じて来るからである。

そこで彼らの言う「罪」の概念も、全く歪んだ、聖書に基づかないものである。

聖書における罪とは、神に背くことを意味する。しかし、旧創造に属する人々が「罪」と呼んでいるのは、神に対して逆らうことや、御言葉に対して逆らうことではなく、人間(の指導者)の意向に従わず、人間のプライドや威信を傷つけることである。

クリスチャンに偽装しているバビロン信者たちは、神と御言葉に背いて生きる罪は全く容認できるものとして大目に見る一方で、彼らの立てた人間(の指導者)に背くことは許しがたい「罪」とみなし、自分たちの所属する組織や指導者の意向に従わない信者をしきりに責めたてようとする。
 
この異常な信者たちの間には、年功序列などのヒエラルキーがあって、彼らはそれに基づいて、権威を主張し、自分たちを絶対化しようとはかっている。

このヒエラルキーはいわば監獄の秩序であり、信者を奴隷にして人に従わせるための仕組みであり、重層的搾取の階層である(牧師制度もそれに含まれる)。むろん、聖書にはそんな階層の根拠はない。だが、上記のような信者は、このヒエラルキーを聖なるものとみなし、それに従って生きることこそ信仰生活だと勘違いしているので、神ではなく人間の指導者に服従することを要求し、それに逆らう者を「罪人」と呼んで責め立てるのである。

このように、結局、バビロン宗教の信者は人間を神のように絶対化し、人間(=自分たち)に逆らう者を罪人とする。しかし、実際には、それによって神を退けて己を神としているわけだから、これほど神をないがしろにする罪深い行為はない。だから、神以上に自分たちを高く掲げる彼らはそれによって神に反逆しているのであり、当然ながら、そこに救いはなく、彼ら自身、罪に定められることになるだけである。

さて、こうしたこの世の「宗教」にとらわれている異常な信者の虚偽の言い分をことごとく退けて彼らと訣別し、いよいよ信者が監獄を出る時が来る。その時、ペリシテ人の前に余興として引き出されて来たサムソンが最後の力を込めて異教の神殿を崩壊させたように、「宗教」の神殿ももはや信者を閉じ込めておく力を失い、崩れ去るであろう。

そこから誰かが自由になって出て行った、という事実が聞こえるだけでも、この監獄は震撼し、大変な脅威を感じるのである。なぜなら、彼らが「罪」としていたことが、実は罪でなかったことが判明し、彼らが「義」と主張していたことが、罪であったことが判明するからである。
 
「御子を信じる者はさばかれない信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(ヨハネ3:18)
 
神の御前で最終的に罪に定められるのは、キリストの義をつかんで自由とされた人ではなく、過越の子羊の血潮に隠れることのできなかった人々である。このように、神の義を退けても、自分の義をつかんだ人たちが、罪意識の中で死ぬことになる。結局、人は何によって自分を正当化するのか、そこにすべてがかかっているのだ。
  


終わりの時代、人々は歓呼して人間の罪を優しくかばい合い、堕落した互いの姿には見て見ぬふりをしながら、罪人である互いを聖なるもののように誉めそやし、自らを神のように正当化して祭り上げて行くだろう。そこには人類の一大連帯がある。正しいクリスチャンにとっては苦難の時代だ。

聖書にはそういう時代が来ることがはっきり予告されている。

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、

見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」(Ⅱテモテ3:1-5)

この御言葉は、はっきりと、クリスチャンを名乗る中からこういう人々が出現することを示している。見かけは「敬虔そう」であっても、行いにおいてはそれを否定する人々のことだ。

これまで私の前に「兄弟姉妹」を名乗って現れた人たちの中には、どうにもあらゆる角度から見て、主のしもべと呼ぶべきでない生き方をする人々が数多く存在することに驚かされた。

これらの人々はクリスチャンを名乗っていたが、観察した結果、得られる結論は、偽装した信者だとしか思えないということであった。たとえそうでなかったとしても、彼らが御言葉から逸れて歩む以上、兄弟姉妹として交わることは不可能だと判明するのである。

兄弟姉妹の交わりは厳格なものであって、本当にキリストだけを求めている者同士の間で成立した交わり以外のものは、人間の目にどんなに麗しく見えても、必ず、腐敗した本性を表して行く。多くの場合、後には深刻なトラブルの源になるのだった。

そのような人々と人間的な思いで関わったために、どれほど無駄な苦労をしたか分からない。これらの人々は、本来、仲良くすべき対象ではなかったのに、「兄弟姉妹」という言葉の響きゆえに、彼らが激しく対立するアンシャン・レジーム(旧創造の世界)に属しており、関わることさえ重大な危険なのだと理解できなかったのである。そのような態度を捨てたのは、だいぶ後になってからのことであった。
     
さて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団会員であったBr.Taka夫妻が他のAG信徒と一緒に私への中傷を広めたり、KFCを乗っ取ったりしたことはすでに記事に書いたが、彼らと一緒になって私を中傷した使徒らの中には、かつてKFCの姉妹教会であった横浜にある天声教会のメッセンジャーも含まれていた。

そこでは、ペンテコステ系の信徒である韓国人の既婚の幹事女性とメッセンジャーの青年が教会を拠点として密接な共同生活を送っていたため、私はその生活がクリスチャンに相応しいものでなく、主のみ名を穢すものであることを指摘した。だが、それを機にこの青年も私を敵のように憎むようになり、最後には、AG信徒と共同して私を陥れる側に回った。

青年は初め、ほんの一時的な手伝いのために教会に行ったことをきっかけとして、あっという間に教会に取り込まれてしまった。そして、メッセンジャーとなり、母ほどの年齢の女性信徒の強い影響下に置かれて言いなりになっていた。

朝5時から始まる早天祈祷会を筆頭として、朝から晩まで続く教会行事。私は実際にその教会生活に参加したこともあったが、早朝から起き出すと、昼頃には眠気がやって来る。そこで、皆がしているように、昼間に少し睡眠を取ると、もう一日中、クリアな思考で物事を考えることができなくなる。カルトに典型的な、人に冷静に考える余裕を与えない不健康な生活であった。

さらに、前述の女性は教会付近にブティックを経営していたが、そこでは水商売用のドレスが販売されていた。(そういう施設の多い伊勢佐木町界隈のことである。)こうした店の経営や、その売り上げが教会や信徒の収入源となることが、全く主の御名に相応しくないのは明らかであった。

当時、青年はルーク氏と出会って後、少しずつ解放へ導かれていたことから、私は彼がその危険な生活から一刻も早く離れられるようにと、ルーク氏に忠告を求めたが、ルーク氏はこれを放置するだけであった。

その当時、私はルーク氏にも幾ばくかの神に対する真実と貞潔があると思っていたため、最も頼るべきでない、当てにならない人物にその事実を告げているのだとは知らなかった。

ルーク氏は私の言葉を聞いて後、実際に教会を訪れて、ブティックをも視察した後に言った、「あれは水商売のドレスだ」と。それを聞くまで、私はそこで販売されているドレスが何の目的のためのものなのか知らなかった。だがルーク氏はそれが通常の服でないことをすぐに見抜いたのである。にも関わらず、彼は一切、誰にも忠告することなく、ただ事態を静観しただけであった。

同じように、杉本氏やグレゴリウス氏とのやり取りについても、どれほど私は彼に忠告を繰り返したか分からない。むろん、異端の教えが登場して来たときにも、真っ先に警告した。

だが、ルーク氏にとってはそんなことはすべて重要ではなかった。むしろ、そのような悪を大目に見ることによって、事態をさらにこじらせ、信者を翻弄して心を苦しめることこそ、隠れた目的だったのかも知れない。ルーク氏は私の警告のすべてをのらりくらりとかわし、不誠実で真実のない対応を続けるばかりで、事態を常により悪化させる方向で動いた。

このような人物を兄弟として交わり続けること自体が、全く意味のないことであり、極めて危険であるという結論に、後になって他の兄弟たちと共に達した。

ルーク氏の危険は、途中までは正しいことを告げて人々を解放に導きながら、一番、肝心なところで人の弱さを大目に見て、信徒の堕落を助長することにある。

彼は何事につけても信念を貫くということがなく、面と向かって人と対立することができなかった。彼がそう述べていたように、器用だから対立(ガチンコ)しなかったのではなく、臆病さゆえに対立を恐れたのである。

彼にはどんな利益と引き換えにしてでも守り抜くべき信念(神への忠誠、真実、貞潔)がなかったのであり、結局、人に嫌われたり、憎まれないためならば、御言葉など簡単に売り払っても、差し支えなかったと言えるだろう。というより、御言葉は彼の人生を美しく彩るための飾りであったとしか思えない。

そのような人物に関わっていると、関わっている人たちもだんだん同じようになって行くため、関わりを絶つ以外に選択肢はないのである。

娼婦バビロンとは、このように神に対する貞潔を失った全ての信徒らを指すものと私は考えている。大淫婦と呼ばれているからと言って、そこに含まれるのは、何も女性信徒ばかりとは限らない。二重性を帯びて偽善的な生き方をする人々は兄弟姉妹だと考えてはならないし、その偽善が分かった時点で、すぐに離れなければならないのである。

上記の人々もそうであるが、ペンテコステ系の信者、特に、統一教会からの脱会者には、後述するように、同じような危険な特徴が見られた。

ペンテコステの教えには、いつまでも人の弱点を大目に見て、それを足がかりに人を自立させないで支配する「母なるもの」の危険があるように思う。グノーシス主義(東洋思想)とは、もともと切り分けを否定して、すべてを包含する母なるものの存在を主張し、すべてがその中に統合されて行くという思想であると私は考えている(=原初的統合への回帰)。が、キリスト教は本来、これに対して、父性原理による切り分けの働きを持つ。十字架には切断の働きがある。光と闇が交わらないように、唯一の神と偶像は決して交わらず、聖なるものと汚れたものには何の一致もなく、新創造と旧創造は決して同じにならないのである。

ところが、キリスト教からこの切り分け(十字架)の役割が失われ、十字架の切り分けの機能が悪いもののように排除され、聖書に根拠を持たない「キリスト教への母性の回復の必要性」なるものが叫ばれ、キリスト教そのものが「母なるもの」という異端思想に飲み込まれて行っているのが現状なのである。

聖書にもあるように、人は自分の父と母を離れることで自立するが、多くの場合、コンプレックスやトラウマを抱える信徒には、いくつになっても自分を優しくかばってくれる保護者のような誰かをそばに求める傾向が強い。これは男女を問わず、宗教指導者であっても同じである。

それは決定的な心理的弱点であり、甘えの精神であり、集団性の基礎をなす恐れの心理なのであるが、これを克服できないと、人は絶えず本当の傷ついた自己から逃避し、自分の心の真相を見ないでおくために、誰か慰めて支えてくれる人によりかかり、その人物に人生を預けて責任を転嫁しながら、自分の人生からの逃避行を続けることになる。そして、多くの場合、その隠れ蓑とされるのが「宗教」なのである。

異端に影響を受けた信徒らは、このような信徒らの心理的な弱点を探り出すのがうまい。(だからこそ弱さによる連帯は危険なのである。)そして言葉巧みに彼らの弱さに優しく寄り添い、サポートするふりをしながら、精神的に彼らを支配して行く。

こうして、一見、優しく人の弱さをカバーして包み込む「母のような」信徒らに精神的に支配された信徒は、自己のプライドを傷つけられることのない安全な繭の中にこもる生活の快適さに安住し、ますます自分の弱さから目を背け、それを克服できなくなっていく。捕まった人たちは自分がサポートされていると思い込み、まさか冥土に送られているのだとは分からずに、その魅力に虜にされて行く。

その生活はまことに心地よいものなので、自分に優しくしてくれる母のような存在に頼れば頼るほど、自分に厳しい忠告をして来る信徒の言い分には耳を傾けなくなり、憤り、憎み、排斥するようになるのは当然である。

このような癒着が生じることを防ぐためには、信者がただ神だけを頼みとして進む必要がある。ある人は、エクレシアの戸口に至るまでに、人は死んでいなければならないと述べたが、実際にその通りである。

キリスト者の交わりはかなり厳しいものであり、そこに自己の好みや、自分の家庭の事情や、生活の必要性などの個人的な事情を持ち込むことは、かなり危険なことである。確かに、祈りのリクエストを出すこと自体が間違いではない。しかし、それには、見えないキリストを中心とする交わりを、目に見える人間の必要を満たすための人間同士の寄り合いへ変えてしまう危険が常につきものなのである。

もし信者が、人間同士、集まって互いをかばい合い、慰め合い、お互いを理解し合って、サポートし合いたいという欲望と手を切ることができず、人に頼ることを目的として兄弟姉妹の交わりを続けるならば、それは命取りになる。

カルトに入信する人の弱点は、孤独な環境ではなく、孤独に対処できない心の弱さから来る。多くの場合、孤独に向き合えない心の弱さ、人の温もりから離れられず、人を通して得られる慰めを手放せないという心理的弱点が取り除けないことが原因となる。

本当に内なる強さを持っている人は、どんな境遇にあっても自分自身を見失わない秘訣を知っている。しかし、内なる人が弱ければ弱いほど、その人は、逆境を一人で切り抜けて行くことができないので、逆境に置かれる度に、誰かの助言や慰めに頼ろうという依存心が生まれ、繰り返し、繰り返し、人を頼っては欺かれることになる。

異端団体は例外なく人の弱点を足掛かりに信者に取り込んでいく。異端に影響を受けた信徒らもやり方は同じである。 人の弱みを探り出し、助けてやる、慰めてやる、と見せかけて接近し、自分に依存させて支配していくのである。

だから、言えることは、逆境であれ順境であれ、すべてをキリストの命だけによって切り抜ける方法を学ぶことこそ、何にもまして重要だということである。全ての問題に人の力を借りずに、ただキリストだけを頼みとして切り抜ける覚悟がない限り、兄弟姉妹の交わりを求めても、何度でも、自分の心の弱点を足掛かりに偽クリスチャンに利用され、欺かれることになる。
 
そればかりではない。生まれながらの人間的な判断、自分のそれまでの常識や、感情的・感覚的な好悪を通して、兄弟姉妹の交わりを成し遂げようとすること自体、不可能なのではないかと私は考えている。 もしそのような(生まれながらの感覚的)判断に頼って、好ましく見える「兄弟姉妹」と交わりを続行しようとすると、その後、必ずそういう関係は腐敗して行くのである。
 
だから、これは本当に厳格な道である。アダム的な生来の愛情や、自分の目に好ましい人間を愛し、そばに置いておきたいとする自分の好悪の感情を基礎として信仰生活を歩むことはできないのである。さらに、兄弟姉妹の関係には年功序列もヒエラルキーもない。ギリシア人もユダヤ人も男も女もない。主にある兄弟姉妹は、この世の常識とは全く異なる関係なのである。

「わたしが来たのは血に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその人の敵となります。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失ったものは、それを自分のものとします。」(マタイ10:34-38)

イエスがこの御言葉で意図しておられたことは、昔ながらのお家制度の秩序を考えてみれば分かるように思う。そこでは家父長制や、年功序列はほとんど絶対的なものである。そして、そのような序列があって初めて、一家が互いに守り合い、助け合うことができる。それは人の目には美しい家庭の風景に見えるかも知れないが、人間の生まれながらの愛情と、生存のための助け合いの精神(死の恐怖)に基づいたもので、人間の生存本能、自己保存願望から生まれて来た肉の関係である。
 
信仰に基づく関係はこれとは全く異なる。そこで、この生来の関係の中に、後から信仰が関わって来ると、信者はもはや今までのように人間の序列を絶対的なものとしてこれに服従して歩むことができなくなる。むしろ、御言葉は、剣のように、生来の愛情と、神への愛を鋭く切り分け、両者がもはや共存できないことを知らせる。

これは信者が家庭を捨てねばならないとか、年長者に逆らうべきであるといったことを意味するのではない。ただ、信者はもはや今までのように常識や自分の感情や感覚に従って、自分にとって都合の良い、好ましい関係だけを優先して生きることができなくなる。さらに、神が求めておられる兄弟姉妹の関係は、肉による関係ではなく、自分の目に好ましいかどうかという好悪や、常識に基づくものではないことを思い知らされることになる。
 
こうして、十字架は人の生まれながらのものと、信仰による霊的なものを鋭く切り分けて行く。にも関わらず、この切り分けを否定して、すべてを優しく包含する「母なるもの」へ信者を引き戻そうとする力が、いかに危険であるかについては、また稿を改めて論じたい。

こうした問題に続いて、上記の青年にそれまでに考えられなかった急速な変化が起きたのは、彼がメッセンジャーになった後だったことを考えても、牧師やメッセンジャーという地位は、人の心を狂わせるものであり、神の地位を奪う、人の立ってはならないポジションなのだと私は改めて感じざるを得ない。

(ちなみに、私は自分にメッセンジャーとしての才覚がないがゆえに、メッセンジャーをやっかんで非難しているのだと曲解する人があるかも知れない。これについては、私は学生時代から相当議論の達人であったし、また、KFCに行って間もなく、ルーク氏が「もし(メッセージを)やりたかったらいつでも歓迎ですよ」と言って来たこともあった。彼はその他にも、ネット管理やら、いくつかのポジションを提案していた。だが、私はどれ一つも引き受けなかった。後になって、なぜ引き受けなかったのかと振り返ったことがなくはなかったが、やはり受けなくてよかったと今は思う。

このブログにしても、支払った労力の代償に私が得たものは、せいぜい世からの嘲笑と、いわれなき憎しみと、悪罵の言葉だけである。私の書いたものの反響の大きさは、常に拍手喝采ではなく、敵対する人々の憎しみの激しさと悪罵の多さによって裏付けられた。

だが、キリスト者の歩みはそれで良いのだと考えている。地上で人からの名誉など受けない方が良い。そんなものを受けてしまった日には、一体どんな末路が待ち受けていることか。肝心なのは、神が私をどう思われるかであって、よくやったという誉め言葉は、天の父から直接、受けるのでなければ意味がない。

こんなブログでさえ有料化することは可能であるが、神の御言葉を儲けの手段として利用しようという気は私にはない。まして、御言葉を宣べ伝えるというミッションを己の才能を誇示する機会にするほど愚かな行為はないと思う。)


  
さて、もう一例、危険な兄弟姉妹の交わりの特徴を挙げておきたい。

この世の法則は、先手を打って自己主張した者が勝つというもので、肉の力が強ければ強いほど、周りに強力な影響力を及ぼし、人を巻き込んで思い通りに操作することができる。そういう影響力の強い人だけが全てを手にする世界が、この世である。肉の力で働きかけないことには何も始まらないのである。

しかし、神の御霊の領域は、そのような堕落した肉による自己主張によって影響力を及ぼすものではなく、むしろ信者が肉の力に対して死んで、霊の領域から影響力を行使するものである。信仰の歩みは、常に誰にも知られない信者の内側から、神だけが知っているキリストとの共同統治から静かに始まる。

だが、御言葉から逸れて生きている危険な信者には、必ず自己の生まれながらの肉の力を誇るという特徴がある。

そのような人々には独特の押しの強さ、図々しさ、馴れ馴れしさ、厚かましさ、自己中心性がある。見かけは謙虚に見えても、近づくにつれて、彼らの内心の狡さと自己中心性がはっきりとわかって来る。

やがてその厚かましさは必ずと言って良いほど、キリストにある交わりを自分のために私物化しようという欲望となって現れる。

すでに述べたように、キリスト者の交わりとは、キリストの栄光のために捧げられるべきものであって、誰か人間の必要を満たすために、あるいは人間の満足のために存在するものではない。

しかし、危険な「兄弟姉妹」は、本当のエクレシアを純粋に求めているように口では言いながらも、交わりを徐々に自分の利益のために私物化して行くのである。

たとえば、ひたすら自分の生活の経済的な必要を訴えて、金銭的な援助を求めるために交わりを利用したり、あるいは、自分や自分の家族を中心としてそこに強力なスポットライトを当てて、自分の個人生活を交わりの中心に据えようとしたり、もしくは自分がメッセンジャーとなって他の兄弟姉妹の述べた事柄も含めて全てを自分の手柄として独り占めするなど、自分の必要をかなえるために、もしくは、自分が注目と脚光を浴びるために、交わりを利用しようとする。

その過程で、彼らは自分ほど図々しくない人を押しのけて隅に追いやるか、交わりから弾き飛ばすかして他人を圧倒し、自分が中心の座に着いてしまう。そして、そんな異常な「交わり」を続けていると、最後には彼らの押しの強さは強迫性を伴うものとなり、彼らの提示する話題も、切迫したおどろおどろしい内容となっていく場合が多い。

たとえば、Br.Taka夫妻の図々しさは今思い出しても想像を超えるほどであった。彼らの挙動がいかに異常であったかその顛末はすでに述べたことであるが、それ以外にも、多くの行動は常軌を逸して自己中心で厚かましいものであった。たとえば、約束の時間に2時間以上も遅れて来て謝罪しなかったり、ファミレスでひたすらドリンクバーのお代わりを繰り返し、店員に注意されると「出て行けってことですか?」と血相を変えて居直ったり、閉店まで粘り、終電に乗れるかどうかさえ分からない時間まで人を引き留める、など…。ある意味で、非常に子供じみて野性的な(肉的な)尽きないエネルギーを持っていたのだと言える。

そしてそんな自分勝手な行動の果てに、彼らはついに自分たちのメッセージに逆らう者は聖霊に逆らっているから赦されない罪を犯しているのであり、彼らと一緒に着いて来ないような信者は、みなふるいわけられて、神の救いから除外されるなどと言い始めたのである。

これとは別な他の兄弟の例では、仕事や生活の困難を訴え、そうこうしているうちに、具体的な借金返済の「デッドライン」を持ち出して、兄弟姉妹にしきりに祈りの支援(本当の目的は経済支援)を求めるというものもあった。

このように、兄弟姉妹を名乗りながら交わりをしているうちに、自分たちが中心となって話題をさらい、どんどん要求がエスカレートして行き、そのうち何らかの「踏み絵」となるような切迫した要求を一方的に提示して、有無を言わさず、彼らの願望をかなえるよう求めて来るやり方は、もはや交わりと呼べるものではなく、そんなものがクリスチャンの交わりの目的であろうはずもない。
 
そして、その要求に従わないと、こうした人々は決まって怒り出し、信者を罪定めしては、「クリスチャンには愛がない」と捨て台詞を吐いたり、あるいは、悪魔の手先だと罵ったりするのである。こうして、さんざん兄弟姉妹を翻弄した挙句、最後には交わりそのものも含め、すべてを否定し、破壊して去って行くのである。

このようなものは、自分勝手な要求の繰り返しと、人の主権を奪うための脅しと詐欺の手口であって、断じてクリスチャンの交わりと呼べるものではない。だから、このような人々は断じて兄弟姉妹とは呼べないし、相手にすべき人々でもなく、彼らに隙を与えてはならず、発言させるべきでもなく、交わりを明け渡すべきでもないのだ。エクレシアとはこのような人たちと折り合いをつけることを目的とする場所では断じてない。

だが、こうした人々も、最初は純粋にエクレシアを求めている風を装って接近して来るので、ただちには見分けがたい。少しでもおかしいと思ったときに、接触を断ち切らなければならず、油断していると、彼らは度を超えた厚かましさで、交わりの中心をどんどん彼らの方へシフトさせていく。そして、果てしなく自慢話を述べ立てたり、自己中心なリクエストをさんざん出したり、無駄話を延々と引き延ばしたりして、本物の交わりを妨げる。それでも放置していると、彼らの出して来る身勝手な要求によって多くの人たちが翻弄されることになり、人間関係も破壊され、果ては生活までも被害を受けるかも知れないし、もっと恐ろしい結末へと巻き込まれかねない。

さらに、危険な信徒の特徴の一つとして、パクリ(無断引用)と模倣(もしくは乗っ取り)がある。危険な信徒はもともと交わりを利用して自分が脚光を浴びるのが大好きであり、おそらくはそれだけを目的にやって来ているので、良さそうに見える他人の証などを存分に自分のメッセージとして勝手に利用して行く。本当に心から共感している証を引用しているのなら、まだ許容範囲なのだが、どうにも文脈がおかしい。絶え間なく誰かの引用を繰り返していたり、人の主張をまるで自分の主張のようにすり替えていたり、とにかく変なのである。そして、あるいはBr.Takaがしたように、他人のブログやらミニストリーそのものをパクることもある。それは自分自身では何も生み出せないので、兄弟姉妹の働きを盗むのである。

こうした図々しさ、押しの強さ、横領の精神、自己中心性は、単に人の生まれつきの性格を超えた、悪霊の働きとして見分けることができる。彼らがメッセージを語る時の特別な雄弁さや、疲れを知らない厚かましさなども、あるいは悪霊によって力が増幅されていると見ることも可能である。
 
いずれにせよ、主にあって十字架を経験していない肉なる存在は、常に自分の手腕を誇り、強い自己主張によって、他人を圧倒しては、自分に従わせようとしたり、都合の悪い他人を力づくで押しのけようとする。悪魔が常に異常に「肉的」な人々を用意しては、聖徒らの前進を妨害しようとして来たやり方は、聖書の様々なエピソードを思い浮かべるだけで十分である。

主の御霊はそんな風に肉的な力を頼みとして強迫的、圧迫的に自己主張することはない。むろん、それは御霊によって信者が断固たる調子で宣言することがないという意味ではない。だが、それでも、御霊は肉的な押しの強さによって人を圧倒することはない。そして常に人の自主的な意志に決定を任せる。それは御霊がキリストの謙虚さによって働きかけるからである。

「彼は叫ばず、声をあげず、
 ちまたにその声を聞かせない。
 彼はいたんだ葦を折ることもなく、
 くすぶる燈心を消すこともなく、
 まことをもって公義をもたらす。
 彼は衰えず、くじけない。
 ついには、地に公義をうちたてる。
 島々も、その教えを待ち望む。」(イザヤ41:1-4)

御霊の働きは、肉による自己主張の厚かましさとは対極にあり、神の働きは多くの場合、極めて繊細で控え目で、メガホンを持って叫び、自分の前で太鼓を鳴らすということは絶対にない。

アブラハムとロトが土地を分けた時、アブラハムはあえて自分の希望を述べず、黙って脇に退いて、ロトに好きなようにさせた。ロトはアブラハムをさしおいて、希望通りの土地を取ったが、それは後にソドムとゴモラになった。

神はロトが去った後に、アブラハムに現れて彼を祝福された。しかし、グノーシス主義者はこのような謙虚さを全く評価しない。彼らは自分がチャンスを得たと思うと、絶対に黙っていることができず、ここぞとばかりに飛びついて、隣人を出し抜くことを喜びとしている。そして、他人に先んじて奪い取ったものを分捕りものとしてひけらかし、謙虚な人間を蔑み、俺はあいつに勝ったのだと宣言せずにいられない。

そのような愚かで浅はかな行動を通して、彼らの目的と正体が明らかになる。このような人々は、聖徒らを押しのけ、聖徒らが得ようとしている実を先んじて奪い取ることを目的として近づいてきているのだと言える。ハンナとペニンナの場合もそうであるが、まず肉にある者が図々しく自己主張し、その後に御霊にある者の出番が来るのである。 

だが、仮にそのようにして肉にある者が聖徒らの手から何かを奪い取ったように見えたとしても、肉によって結ばれた実は、しょせん、ソドムとゴモラと同じ堕落した本質を現して行くだけである。それは彼らの恥にはなっても、栄光には決してならない。
 
そこで、こういうことが幾度か繰り返されると、パウロが悪霊につきまとわれたときのように、そのような人たちを見ても驚かなくなり、ああ、またやって来たなと分かるようになる。

それはすでに述べて来たように、この人々にはすぐにそれと分かる独特の不自然な特徴があるからだ。常に「俺が俺が」と自己主張し、もしくは「あたしたち」と、人間の連帯を高く掲げようとするからだ。〈最初は「わたしたち」と言いながら、最後には必ず「わ•た•し」に変わって行く。)

聖書の原則は、「もはや私ではなくキリスト」であり、肉的な方法で人が自己主張し、己を誇示することなどエクレシアの目的には全く含まれていない。だが、偽兄弟らの目的は、主から信者の目を逸らし、自分を見させることによって、エクレシアを奪って我がものとし、神から栄光を奪うことにある。 

こうした強盗のように主権侵害を繰り返し、エクレシアを強奪することを喜びとする人々を相手にしても得るものは何もなく、そういう人たちを兄弟姉妹として受け入れてもいけない、彼らは交わりの対象ではないのだ、ということが分かるまで、キリスト者は交わりのスタートラインにも立てないだろう。

しかし、こうした肉的な人々の出現が絶えることもまたない。彼らは旧創造の世界、堕落したバビロンという監獄から遣わされた手先のような存在である。旧創造は、キリストの支配下に逃れた者を以前の堕落したバビロンの囚人へと引き戻そうと、あの手この手で絡んで来る。ヤクザのように因縁をつけることで、再び、罪意識を抱かせて彼らの奴隷とするためである。キリスト者はしっかりと血潮を握りしめ、この策略にはまってはならない。
 
あたかもバビロンに反対しているようでありながら、バビロンにしっかり深く根ざして生きている信徒はまことに多い。肉をより頼んで生きている彼らに対する宣告は以下の通りである。

はこう仰せられる。
「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、
 心がから離れる者はのろわれよ。
 そのような者は荒地のむろの木のように、
 しあわせが訪れても会うことはなく、
 荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。
 に信頼し、
 を頼みとする者に
 祝福があるように。
 その人は、水のほとりに植わった木のように、
 流れのほとりに根を伸ばし、
 暑さが来ても暑さを知らず、
 葉は茂って、
 日照りの年にも心配なく、
 いつまでも実をみのらせる。」(エレミヤ17:5-8)

バビロンからの追手を絶えず振り切って、後ろのものを忘れ、前に向かって身を伸ばしつつ、キリスト者は出て来たところを振り返らず、まだ見ぬ約束の地へ、天の都を目指して歩き続ける。バビロンは亡霊のように後ろに横たわっているが、もうすでに死んでいて、影響を及ぼすことはできない。信者はあらゆる罪定めから解放されている。キリスト者の交わりは、キリストと共に十字架でバビロン(この世)に死んで、復活の領域で主権を手にして成立する。

この天的な主権を維持し、行使すること、すなわち、キリストと共なる十字架の死により、全てのバビロン的なものに対して死に、バビロンに対して主と共に霊的な勝利をおさめたという事実を前提として、この世に対して圧倒的な超越性・優位性を行使し、その超越的な法則と地位に基づいて生きることこそ、キリスト者の使命なのである。

だからこそ、主にある兄弟姉妹は互いにこの新創造の領域で出会わなければならない。キリスト者が、人間的な考えで人と付き合おうとすると、したたかにやられる。どの兄弟姉妹と交わるかも、神の導きに委ねるべきなのである。
 
キリスト者はエクレシアの戸口で自己を焼き尽くされて死んでおり、十字架の死の向こう側の新創造の領域でしか出会えない種族である。生まれながらのものはエクレシアに持ち込むことができない。それ以下の出会いは、すべてこの世の堕落した人間関係であって、交わりではないのだ。

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