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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

御霊の油塗があるので、誰からも教わる必要がない――信者が信者を教本によって「弟子化」する危険

 私が勧められてウォッチマン・ニーの著書を真剣に読むようになったのはごく最近のことだが、不思議なことに、それと時期を同じくして、今まで誰にも知られていなかった獄中でのW.ニーについての証がSugarさんのブログ獄中のW.ニー(1)から発表された。
 W.ニーの優れた著書や、メッセージの記録を、自分たちの権威として巧みに利用しようとする団体がある一方で、この素朴な証は、何と誠実に、飾らず、W.ニーの人となりを正直に証し、彼の内におられたキリストを率直に証していることだろう。この証を知ってから、私はニー兄弟を含め、先人たちの存在を、どれほど身近に感じるようになっただろうか。

 当初は、亡くなった人を身近に感じるなんて、私は変なのでは?とも思った。けれど、兄弟姉妹に尋ねてみると、それは少しも不思議なことではない、との返事。私たちは永遠に一つのエクレシアに連なっているのであり、霊において、先人たちとも交わっているのですよ、と教えられた。ほら、イエスが山に登られた時、モーセとエリヤが彼の前に現れたのを覚えているでしょう?

 それから間もなく、私は先人を身近に感じるだけにとどまらず、自分が本当にエクレシアの只中にいることを発見した。これまで、私は真実なエクレシアを常に尋ね求めてきた。教会と名のつくところでは、ただ虚偽の交わりしか見つけられなかった。もちろん、私一人でもエクレシアの一員であるということを疑ったわけではない。だが、どうにかして、真実なエクレシアをどこかに見いだせないだろうか、真実な兄弟姉妹との交わりを見つけられないだろうか、と願って来た。

 そうして、あちこち尋ね求めているうちに、ふと、気づくと、私は自分がすでにエクレシアの只中にいることを発見した。しかも、太い鎖ががっちりと組み合わされるようにして、二度と切り離されることのない確かな形で、私はエクレシアに組み込まれていたのだった。しかも、そのエクレシアとは、イエスが天に昇られ、聖霊が信徒の上に下って以後、時を超えて、今日まで脈々と続いて来たものであり、先人たちを含めて、無数の兄弟姉妹が連なっている見えない共同体である…。

 以下は、私と、あるキリスト者の兄弟姉妹(計3人)のメールから抜粋(一部改訂)。

 「今まで、私は一生懸命に『神の御前での単独者』を生きようと苦心して来ました。環境面でも、私は長らく兄弟姉妹との交わりから遠く引き離されたところに住んでいましたから、いつも、信仰上の困難に、たった一人で立ち向かわなければならないというプレッシャーがあったのです。その上、教会という教会の中で、真実な交わりを見つけられなかったため、本当のエクレシアとは何なのか、どこに真実のエクレシアが見つけられるのか、ずっと探していました。一言で言えば、あれも、これも違うという違和感だけが重なり、確かなものを自分が掴んだという実感がなかなか沸かなかったのです。

 けれども、なぜか今日、不思議なことに、突然、亡くなった先人たちを含めて、あらゆる兄弟姉妹と共に、私は今、確かに、キリストの御身体の一部を生きているのであり、もはや私一人の人生は終わった、と分かったのです。今後、私がどこへ行って何をしようとも、あるいは、兄弟姉妹と接触していない時でさえも、私の一挙手一投足の全てが、エクレシアと共にあり、それはエクレシアのためなのであり、エクレシアと私とは二度と切り離すことができないものである、という確信がやって来たのです。

 ちょうど、あの手記の著者が獄中でニー兄弟と出会って、彼らの縁がそれ以後、二度と解かれることがなかったのと同じです! 私たちはとかく、ニー兄弟という一人の有名人にばかり注目しがちですが、獄中で神は彼をエクレシアの只中に置いたのですね。そこで与えられた素朴な交わりは、試練の最中にあって、彼にとって至福となったことでしょう。そうやって、彼の苦しみは分かち合われ、十字架は分担して背負われたのです。W.ニーは獄中でも、キリストの身体の一部としての役割の中を生きたのであって、決して一人、壮絶なまでに孤独に十字架を負ったわけではなかったのですね。
 
 これは決して、W.ニーの受けた試練を、安易な気休めで薄めようとして言うのではありません。あるいは、仲間意識とか、友情、連帯、助け合いを賞賛するという話でもありません。この時代にあって、私たちはみすぼらしい、苦痛に満ちた十字架を背負うことでしか、神の栄光をあらわすことが出来ません。私たちのために用意されているのは、キリストが飲まれたのと同じ、苦しみに満ちた杯であり、この道は、隠された、地味な、さえない、苦しみの道です。けれども、神は私たちに、決してそれを一人ぼっちで最期まで耐えぬくようにとは願っておられない。それは最大の苦痛をすでにキリストが負って下さり、それを私たちがもはや負う必要がなくなった、あるいは、神が私たちの苦痛を軽減するために兄弟姉妹を与えて下さったので、私たちはもはや一人でなくなった、というだけの意味だけにとどまらず、それは、一人の打ち傷が、全員の打ち傷となり、エクレシアが一つとして機能するためなのです。

 言い換えるなら、私たちはこの時代にあって、決して、ただ個人であることを許されていない、私たちのやることなすこと全ては、この時代、そして、それに続く時代のエクレシアとつながっており、そこから切り離されることはあり得ないのです。このエクレシアは なくなるどころか、今後、さらなる広がりを見せながら、キリストの身体としてのリアリティを増していくことでしょう。私はもう一人ではあり得ないのですね!」

「あなたにそのような光を送られた主を賛美するのみです。 『あなた一人が 単独なキリストと一つ』と言う光を基軸として その光が 『単独のキリストの無限への拡大、無限への延長としての 今日の奥義的な天地のキリストと 時空を超えて あなたは総てのキリスト者達と共に 少なくとも今 霊の中では一つである』と言う光へと あなたの中で発展したのでしょう。それを 真理があなたの中でそのツルを伸ばした、『御言葉があなたの中で成長した』とも言えるかも知れません。
 
 もともと その命は一つ 光も一つであり、それが総て今日においては 『あの大きな人』 の中にしか存在していないのですから、私達が分けられることはもう不可能です。それが可能な時があると仮定すれば、それは キリストの体が分解(or解体)される時に限られます。(分解とは死ですが、彼はもう二度と死ぬことは不可能であり、従って 御からだに解体はもはやあり得ません。)
 
 メールの後半で言われていることは 多分パウロの言う『私は あなた方のために、受ける苦しみを喜びとします。そしてキリストの体のために 私の身をもって、キリストの苦しみの欠けた所を満たしているのです。』(コロサイ1の24)と言うことでしょう。 
 パウロはここで 突然 異端者になったのではなく、永遠の中における『原型としての』キリストの苦しみは、更に彼の体の中、時空の中においても、(私達やパウロやW.ニーの肉体においても)あの二千年前にあったのと全く同じ死が 時空を超えて再現されなければならないことを言っているのでしょう。

 もしそれが今、時空の中で私達において再現されないならば、やはり『キリストの苦しみはまだ欠けている』ことになります。総ての永遠の真理は 『聖書に書いてある』だけでなく、時空の中で再現されなければなりません。それこそが、今日のキリスト者において欠落している最大のことです。」

「エクレシアと一つ。これは実に不思議な力のようですね。W.ニーでさえ過去の人ではなく 今もエクレシアの一員。こうなると パウロも ペテロも すでに天に上げられた人々さえ エクレシアの一員。そして見えないそれらの人々に 雲のように囲まれている。う~~ん 素晴らしい・・・」

 本当に、これは素晴らしいことです。いや、想像を絶するほどのことです。私が生きて出会ったことのない信徒とさえ、時空を越えて、主にあって、永遠に私たちは一つに結びつけられているのですから!

「時空を超えて 『あの監房の三人』と私達がつながっているとさえ 感じます。それが、またパウロの監房とも!」

 
アーメン! ぜひそうあって欲しいものです。キリストの苦しみを満たすという光栄な仕事を、どうか主が私たちに最後まで勇気を持って貫徹させて下さいますように。


ーーーー

2016年。この記事に追記しておきたい。

というのは、今から振り返って、Mr.Sugarが筆者にウォッチマン・ニーの著書を勧めたのは、筆者を精神的に「弟子化」するためであったと確信できるからである。

ウォッチマン・ニーの著書は、当時KFCのDr.Lukeも盛んに推奨していたし、Dr.LukeとMr.Sugarという二人のローカルチャーチ出身の兄弟にとっては、非常に感化を受けた書物であったものと考えられる。

筆者自身の目から見ても、キリスト教界には、ウォッチマン・ニーに相当するような霊的な深さを持った書物が存在しない。だから、こうした書物は、霊的な事柄に何の関心もない信者には、注目されないであろうが、一旦、霊に属する事柄が見え始めた信者にとっては、非常な関心の的となるのである。

しかしながら、筆者はニーの著書に多くの興味深い、また、正しい部分も含まれていることを認めつつも、同時に、こうした「教本」を使って、信者が信者を弟子化し、ピラミッド型の序列を作り上げ、支配関係を構築して行くということが、至るところで行われていることについて、これは非常に憂慮すべき出来事であると考えている。

2009年秋、筆者が関東に来た当初、筆者はKFCにはいかず、Mr.Sugarの関わっていたいくつかの交わりに出ていたが、そこにいた信者はみな、非常にニーの著書に関心を持ってこれを熱心に読んでいた。そして、自分の人生で起きた事柄を報告し合ったりして、霊的な前進をおしはかっていたのである。

しかしながら、筆者がこの交わりに疑問を抱く事件が起き、さらにKFCの教義の欺瞞性にも気づいた今となって言えることは、やはり、こうした霊的先人の書物を教本のようにして、あるリーダーのもとに信者が集まって教えを乞うかのような形式は、エクレシアの自然な姿ではなく、神の御心にかなうものでもない、ということである。

ウォッチマン・ニーの他にも、こうした「教本」として多くの霊的先人の書物が使われている。あるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者は、オズワルド・チェンバースの書物を使って、信者たちを「弟子化」していた。

こうした人々は、それぞれの信者の信仰の生長段階に合わせて、彼らの興味を引く書物を提示することによって、信者たちの心の中に巧みに入り込んで行き、主導権を握って、霊的支配を始めるのである。

良さそうな教本に興味を惹かれて、それを手に取って読んでいると、いつの間にか、それを紹介してくれた信者が、「師範」のような存在になって君臨し、あれやこれやと指図し、優劣や支配関係が出来ていることに気づくのである。

だから、こうした出来事を振り返るにつけても、これらの「教本」は、まるで統一教会のビデオセンターのように、信者が信者を弟子化して地上的な組織や人間関係の中にがんじがらめに拘束して支配して行くための最初のとっかかりとして使用されているのだという感が否めない。


だが、同時に、筆者は、これらの人々から受けた光や、学んだことが皆無だったと言うつもりはない。最初から、彼らがクリスチャンではなく、悪魔の手下だったとか、そのような極論を述べているわけではないのである。

だが、たとえ本当に神の御霊によって生かされる信者であったとしても、こうした人の教え、規則、人間関係などに束縛されるならば、キリストの命が制限されることになり、御霊によるのではないこの世の支配力がそこに働くことにならざるを得ない。

だから、Mr.Sugraの家庭では子供たちに異変が起き、そのうち一人は自殺に至っているが、筆者はこれがローカルチャーチの異端性と決して無関係に起きたことではないと確信している。

そして、ウォッチマン・ニーやオズワルド・チェンバースの言葉を改めて読んで振り返るにつけても、そこでは非常に潔癖な精神性はあれど、それがかえって人の罪に対する過度に厳しい警告となり、キリストの赦しの完全性に立たないで、信者にとってある種の脅しめいた効果を発するものとなっていることにも気づくのである。

つまり、いかに信者が罪深く、霊的に進歩のない存在であるかということばかりを強調し、罪悪感を抱かせることによって、それをきっかけに、信者の心に突破口を作ってそこから中へ侵入し、支配するためのカラクリが存在することを思わないわけにいかないのである。

もし「霊的に進歩したい」などという願いによって、信者が自分に与えられている現状以上に、何かを獲得しようとする欲求が起きるときには、警戒した方が良い。

信者は救われて、キリストの御霊によって生かされるようになったからと言って、一足飛びの進歩はない。彼はいきなり聖人になるわけではなく、依然として、数多くの失敗もあれば、罪を犯すことさえあり得る。それは時に自分でも嫌になるような進歩の遅さかも知れない。

だが、それでも、信者がキリストに従いたいと心から願っているならば、その進歩の遅さを恥じる必要はない。御霊による学習は、あくまで、主が教えて下さる程度に応じてしか進まないのであって、信者がどんな教本を読んでも、一足飛びの進歩など得られない。

だから、信者は高い霊性を獲得した信仰の偉人と自分を引き比べて、自分に進歩がないことを苦に思ったり、早く自分も何かを達成しなければならないと思ったり、あるいは自分の現状に罪責感を覚えたりする必要はないのである。

高度に霊的な人になることを追い求める願いは、場合によっては、自己啓発の変種のようなものであって、御霊から来たものでない可能性がある。

確かに、信者に霊的な進歩は必要なのであろうが、それはあくまで神がなさることであるから、信者は神を信頼して自分を委ねだけで十分である。一生懸命、勉強会を開いて、受験勉強でもするかのように、早く進歩したいと考えても、おそらく、そのような方法では決して、御霊の働きにあずかることはできないであろう。

信者はたとえ自分が現在、生まれたての赤ん坊のような存在であっても、全幅の信頼を神に置いて、神が御霊によってすべて必要なことを信者に学習させて下さるのに信じて任せれば良いのである。その他の一切の「松葉杖」(人間の助言者、教本)は、自分を無駄に弱体化させるだけのものとして、捨てて差し支えないものと筆者は思う。

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