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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

神は決して正しい者がゆるがされるようにはなさらない。神は志の堅固な者を全き平安のうちに守られる。

あなたの重荷を主にゆだねよ。
主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

しかし、神よ。あなたは彼らを、
滅びの穴に落とされましょう。
血を流す者と欺く者どもは、
おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。
けれども、私は、あなたに拠り頼みます。
(詩編55:22-23)

私たちには強い町がある。
神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。
城門をあけて、
誠実を守る正しい民をはいらせよ。
志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。

いつまでも主に信頼せよ。
ヤハ、主は、とこしえの岩だから。
主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、
これを下して地に倒し、
これを投げつけて、ちりにされる。
貧しい者の足、弱い者の歩みが、
これを踏みつける。
(イザヤ26:2-6)

信仰者の毎日は日々が霊的戦いである。日々起きることの中に偶然はなく、私たちは主によって与えられた自分の嗣業を守りぬかねばならない使命を与えられている。それは、キリストにあって真の自由、自立、豊かさに至りつき、神の愛と憐れみの深さを生きてこの世に証明するという使命である。

だが、悪魔と暗闇の軍勢は信者の嗣業を奪い取りにやって来る。模倣、脅し、欺き、あらゆる方法が使われる。非常にしばしば使われる手段は、似て非なるもの(模造品)を提示することである。

たとえば、あなたが何か神にあって自分の仕事を始めようとする。祈りが応えられてようやく与えられた新しい課題である。すると、暗闇の勢力に導かれる誰かがやって来て、あなたの隣で非常によく似たメッセージを叫び始める。ちょうどパウロが占いの霊につかれた女につきまとわれた時のように、その内容は、一見、あなたを応援しているように見えるかも知れないが、その実、あなたの主張の内容を盗んでいるのであり、あなたの真似をしたり、支援しているふりをしたり、同情者を装ったりしながら、彼らは巧みに人々の関心を自分の方へ逸らして行く。

「私たちが祈り場に出て行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。
彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。
幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。
(使徒16:16-18)

暗闇の勢力の目的が神の民の嗣業の略奪にあり、こうした見えない悪意との絶え間ない戦いが日々あって、それに勝利しながらでなければ進んでいけないことを、信仰者が明確に理解するまでには時間がかかる。

当ブログではこれまで、キリストがどれほど信者の願いと共に働いて、信者の信仰を通して、まだ見ぬすべての必要を実際に与えて下さるかについて書いた。どんなに小さなものから、どんなに大きなものまで、主は信者のすべての必要について、信者と同労して願いを実現して下さることができる。それが「主と共に環境を創造する」というテーマで訴えて来たことの意味である。

だが、それと同じほど重要なのは、信仰の試練の中で、主と共に創造し与えられた環境を守り、維持すること、暗闇の勢力によるあらゆる圧迫に立ち向かって、確固として与えられた霊的領地を維持し、なおかつ、さらに豊かにして行くことである。

これまで、主と共に願いよって新たな環境を創り出すということにかなり注意を払って来たが、次に、暗闇の勢力からの全ての圧迫に勇敢に立ち向かって、自分の嗣業を守ることについても、述べて行かねばならない。

このテーマ、すなわち「悪魔の圧迫に立ち向かう」というテーマの重要性をはっきりと自覚し始めたのは、数年前、信者たちとの交わりがきっかけであった。それまでは、「悪魔を糾弾する」などの話は、想像上の産物のように思われていた。

だが、目を覚まして周りを見ると、悪魔の圧迫というものが、実に日々、様々な形で存在することが実際に分かって来るのである。それは人からの嫌がらせのように、あからさまに悪意と分かる形でやって来ることもあれば、あたかも人の常識にかなった、良さそうな助言の形をとることもある。あるいは、全くの偶然にしか思えないような様々な出来事が重なって、一定の結果へ追いやられるということも起きる。

そのようにして、偶然を装った様々な出来事の連鎖を通して、悪魔が信者の嗣業を奪い、キリストが信仰によって与えて下さったものを、不当にかすめ取るということが、日々実際に起きているのだということがよく分かって来たのである。

信者を何としてもキリストの復活の命の豊かさに至らせまいとする、激しい悪意による圧迫が存在していることに、目が開かれるのである。そして、その実に多くの影響力が、「良さそうに見える」世の常識に偽装しているということも分かって来るのである。

キリスト者は、この悪しき力――あからさまな悪も含め、あたかも善のように見えるこの世の良識の全てを動員しては信者を脅し、弱体化させ、キリストの復活の命の豊かさに至らせまいとする力――に全力で立ち向かって、主の愛と憐れみとその解放の大きさを体現する使命を負っている。

悪魔は信者に向かってさも同情しているかのように装ってこう言うだろう、「きみは可哀想だね」と。「きみは可哀想だ、あまりにも多くの重荷を負っている。それは何年来、きみが背負って来たもので、容易には取り除くことができない。きみは随分、不当な立場に置かれている。そして幾多の失敗があった。生きるとは何とつらいことなのだろうね。多分、死ぬまできみはその理不尽な課題を解決できまい。」

これに対して、信者は答える、「私には重荷はありません。主が負って下さっているからです。あなたの言うような一生かかっても解決できない課題など私にはありません。神には不可能はないのです。主が共におられるのですから、私には理不尽はありません。可哀想なのは、あなたです。私にはすべての解決が与えられていますが、神を拒んでいるあなたには何もない。絶望しているのは私ではなくあなたです。あなたはそうやって敬虔そうな信者に近寄っては、キリストの救いはその人にとって不十分だと嘘を言っては、落胆させ、神の助けを拒ませようと試みることしかできないのです。しかし、あなたの言うことは嘘です。」

最近、筆者は悪魔によってかすめ取られ、奪われた損失を取り返し、補てんさせるということについて考えている。単に悪魔の嘘を見破って拒否するというだけでは物足りない。「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るだろう」と聖書に書かれている通り、悪魔に恥をこうむらせ、悪魔が恐怖にかられて大慌てで逃げ去るその背中を見るまでは、十分でない。ダビデが詩編に書いたように、その逃げ去る姿に追いすがって、さらなる打撃を加え、二度と立ち向かって来られないように徹底的に粉砕して追放しなければ、意味がないように思っている。繁栄を極めた大いなる都バビロンが、乳飲み子、嬰児のような者たちの素朴な信仰の証の前に敗北し、音を立てて引き倒され、灰塵と化し、弱い者たちの足がそれを踏みつける。その上、バビロンに巣食っていた悪党どもには単に敗北を味わってもらうだけでなく、これまで信者にもたらしたすべての損害に対する償いをしてもらわなければならない。

本当は、クリスチャンの仕事は、日々、そのような仕事をやり続けることなのである。これが本当の意味での霊的戦いなのである。信仰生活の課題とは、キリストの贖い、その死と復活を生きて証するだけでなく、悪魔が日々兄弟たちを告発している以上の執拗さを持って、キリスト者を不当に圧迫しているサタンの嘘に毅然と立ち向かい、全力で悪魔を糾弾し続けることにある。それこそ、キリスト者の使命の残されたもう半分なのである。なのに、あまりにも多くのクリスチャンが、損失を損失とも思わず、打撃を打撃とも思わず、敵にやられっぱなしで立ち上がれないでいるのは、その打撃がどこから加えられたのか分からず、その背後にある悪意が見えず、これを拒否する必要が分からないためである。あまりにも多くの人々が、自分の失敗ゆえに状況が悪くなったのだと思い込み、その失敗が取り返しのつかないもので、自分の弱さを克服しない限り、解決はないと思い込まされているために、立ち上がる気力を奪われているのである。

そこから立ち上がる秘訣は、キリストの義に徹底的に立ち続けること、悪魔の罪を身代わりに責任転嫁されるのを拒み、小羊の血潮の潔白に立ち続けることである。それは、キリストこそ、信者の人生の最終責任者であることを信じ、たとえ人の目からはどんなに無責任のように見えたとしても、それまでのように、自分に自分で責任を負って、自分で自分を贖おうとしないことである。また、世間に波風立てないことだけを第一として、人の目を恐れながら、あらゆることについて自主規制して外面だけを立派に整えて暮らすという内実のない空虚な生き方と決別することである。

キリストの贖いは、信者が外から見て道徳的に見えるか、立派に見えるか、良識的に見えるかどうか、と言った外面的な基準に照らし合わせて与えられるものではない。それは信仰を通して受けとる小羊の血潮による内側からの義認であり、信じる者に無条件で与えられている。そこで、信者は自分が外から見てどう見えるか、という恐れから解放される必要があり、外面的な評価におびえ、それを失いたくないという恐れにとらわれている限り、真の意味でキリストの贖いの意味が分からないのである。キリストの十字架は、このように、単に暴力や嘘や脅迫といったあからさまな悪だけではなく、常識や、世間体や、道徳と言った、良さそうなものに偽装しているすべての「この世の圧迫や支配」からも、キリスト者を解放したのである。

さらに、キリストの贖いは、信じる者の一生分の罪を覆い、永遠に至るまで信者を義とする。信者は「代価を払って買い取られたのだ」。この意味は非常に大きい。キリストの支払われた代価を帳消しにするような罪は存在しない。

信者に対する神の愛がどんなに強く、誠実で、約束にたがうことのない、永遠のものであるかを知る必要がある。神が信者を選んだのであって、信者が神を選んだのではない。たとえ信者が失敗してどんな深い淵に落ち込み、どんな地の果てに追いやられ、どんなに損なわれていたとしても、神は彼を見つけ出し、取り返して、回復し、安全の中に置いて下さることができる。神はすべての必要な犠牲を払って、信者をすでに取り戻したのである。キリストが全てをすでに解決された――この地点にしっかりと立つならば、信者は過去を何度も振り返って悔やむ必要もなければ、世間の誰彼に絶え間なく懺悔をして回るような必要もない。すでに贖われ、買い取られ、義とされている、その事実に立ち続けるのである。その地点から、悪魔が卑劣にも信者に加えて来たすべての打撃と損失に対する回復を要求し続けるのである。むろん、信者の義は、信者自身だけでなく、家族にも及ぶ。

キリストによって贖われた者に、取り返しのつかない失敗というものがあるだろうか? 思考の上では、信者は自分が失敗を犯したと感じることは多いだろう。もっとうまくやるべきであったと感じ、手遅れのように思うこともたくさんあるだろう。時計の針を逆戻すことはできない。

だが、キリスト者にあっては、不信者の場合とは異なり、常に不思議な法則が働き、何事についても、手遅れということがないのである。なぜなら、神は時空間を超越しておられるからである。信仰は未来に向かっていくものであると書いたが、信仰の働きは、時空間を超える。また、信者には(意図的に神に反逆を続けない限り)、決して取り返しのつかない失敗というものもない。なぜなら、小羊の血潮によって赦されない罪というものはないからである。

そこで、信者に必要なのは、日々、何が神が喜ばれる道であるのか、それに心を合わせ、できるだけそれに近づいて行こうとする願いであり、努力である。神が喜ばれる道とは何なのか、気づいていない時には、違った方向へ向かっていても、是正は不可能だが、気づいたその瞬間から、新たな創造が始まって行く。

神が喜ばれる道とは、虚偽を退けて真実を愛し、悪を拒否して公正、正義を打ち立て、不義ではなく真理に生き、人の義ではなく神の義により頼み、信者自身が、すべての面においてキリストの命の豊かさにあずかり、キリストの完全性を知り、キリストの身丈まで成長して、彼に似た者とされることである。

キリスト教とはこの世の道徳律ではない。それはこの世を超越した生きた命である。キリスト教は、人の目にかなう立派な行いをし、慈善事業を行なって弱者を助け、多くの人々を幸せにする手伝いをするために自分を犠牲にして骨身を惜しんで働くことではない。そのような行為は、人の目にはまことに良さそうに見え、世の中からは拍手喝采を受けるが、すべてが神の方ではなく人間の方を向いており、「世」の方向を向いているというところに、一つの大きな罠がある。もし人のために善行を行ないたいのであれば、自分の前でラッパを吹き鳴らすのではなく、隠れたところでするのが良策だろう。
 
私は常に思うのだが、信者にとって最も必要なのは、人を助けようと考える以前に、自分自身が神によって満たされる必要を抱えていることを素直に認めることである。人がどんな窮乏を抱えているかという問題を果てしなく論じる前に、自分自身がまず、神の御前にどれほど大きな必要を抱えており、自分自身がどれほど神の愛にあずかり、信仰によって、キリストの命にある無限の富を本当に知って、神が信者のために用意して下さった真に豊かな人生に至りつく必要を抱えているかに気づき、これを真剣に願い、追い求めることではないかと思う。

もし信者が、キリストの命の豊かさに向かう過程で、暗闇の軍勢のささやきに耳を貸して、恐れに駆られ、神の愛を拒否して、自分で自分を義としようと努力したり、世間体を整えるための自主規制の方向へ向かったりして、キリストの用意して下さった無尽蔵の富を拒否して、自分で自分を支える生き方へ逆戻ったとしても、その偽りに気づいたならば、正しい道に立ち戻るだけで良い。それは難しいことではない。

信者の目的は、過去に戻って何かを始めからやり直し、何一つ誤りがなかったかのように外面を正そうとすることにではなく、神が信者に何を願っておられるのか、それに気づいた瞬間から、過去の教訓を生かしつつ、すべての誤りが血潮によってすでに覆われていることを信じつつ、大胆に正しいと思う道へ進んで行くことにある。

その正しい道とは、神が人に願っておられる解放であり、キリストのゆえに信者に与えられているすべての権利を信者が完全に自分のものとして受け取り、行使することである。かつては悪魔の囚われ人であり、死の恐怖に支配されていた人が、キリストにあって贖われ、解放され、真の豊かさに至りつくことである。

信者は、目に見えない天の都を目指しているが、この地上においても、来るべき世の前味として、キリストの救い、その復活の命の意味を真に知って、これを信仰により、地上に引き下ろすことができる。人間を悪魔のあらゆる圧迫から解き放って自由とし、「乳と蜜の流れる地」へ導き、真の豊かさにあずからせようとしておられる神の御思いを生きて体現するために、信者はこの地上においても、真理を毀損しようとする嘘を退け、どんな圧迫があっても、決して屈することも、妥協することもなく、目的地にたどり着くまで何があっても諦めないという決意を徹底的に固め、貫く必要がある。

この世の識者や権威者が何を耳元で囁こうと、それには関係なく、御言葉は、信者にこの世の圧政からの完全な自由と解放を約束してくれている。キリストの十字架の贖いによって、彼の命の豊かさにあずかる権利は信者自身のものである。イエスは羊に命を与えるために、しかも、豊かに与えるために来られた。そこで信者は、神が約束して下さった解放と豊かさを見るまでは、決して後に退かず、暗闇の勢力からどんな圧迫や反対があろうとも、決して屈することなく、徹底的に目的を目指して歩み続ける必要があるのだ。
 
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悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです。

何年か前に他界した信仰の友が、東日本大震災の後で、なぜ神はこのような惨事が起きるのを許されたのか、なぜ多くの人々が犠牲になることを肯定されたのかと、長い間、祈りを通して神に直談判していたと語ってくれたことがあった。

正義感の強い、愛情溢れる心優しい友で、悲しみなど全く知らないかのように快活でエネルギッシュでありながら、心の深くに多くの憂いと葛藤を秘めており、困っている人たちにはいつも喜んで気前よく手を差し伸べる人であった。

以前から知っていたのに、親しく知り合ったのは、その人が他界するほんの少し前。多分、主が特別なひと時を与えて下さったのだと思っているが、他の人と分かち合うことのできない様々な出来事について事細かに語り合うことができた。

さて、どのようにしてその人の震災についての神に対する疑問が決着したのかは、私には聞いてもよく分からなかったが、何でも「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道の書3:11)という御言葉に落ち着いたのだそうだ。これが「3.11」と重なるのだとも言っていた。

以下の写真で、窓際の額にかけてあるのが、その御言葉だ。多くの人が不意の苦難に襲われ、長く続く影響から抜け出せないで苦しんでいる時に、このような御言葉を掲げれば、下手をすれば、人の苦しみを合理化している残酷な台詞だとも受け取られかねない。だが、言葉では説明することができなくとも、心では不思議に納得するものがあるのだ。

それは山上の垂訓で述べられていることとも重なるように思う。つまり、神が私たちに与えて下さる慰めとは、今、すべてがうまく行っており、順調で、何の苦しみもなく、問題もないから、私はハッピーで、十分に慰められています、というような軽薄な慰めでは決してないのだと。もしも、すべてが順調だから私は慰められており、神に感謝しますと言うのでは、そこには信仰など全く働く余地がない。

むしろ、信仰は、今、周りに見える状況が、どんなに慰めからほど遠くとも、確かに神はすべてをご覧になっておられ、信じる者のごく些細な心の動きまで把握しておられ、人の心を重んじて、きめ細やかに同情し、慰めを与えることのできる方だと信じさせてくれる。

だから、神によって慰められる余地があることは、幸いなことであって、不幸なことではないのだと思う。人から見れば、それは「あるまじき痛ましい状態」であり、あるいは「同情され、手を差し伸べられるべき哀れな境遇」に過ぎず、「早急に解決しなければならない問題」のように映るかも知れない、だが、神は決してそのように物事をご覧になることはないのだと私は確信している。

確かに、亡くなってしまった人々、失われた大きな財産については、なぜ、と問うこさえ難しい。だが、神の御前には、神によってしか満たされることなく、また、慰められる余地もないほど、深い深い孤独や、苦しみや、憂いや、渇きがあることは、決して不名誉なことではなく、恥ずべきことでもなく、そこにこそ、その人が信仰によって神に出会い、神が来てその人を慰め、寄り添われ、解決となられる理由が存在するように思われてならない。

人が神に出会うための理由は色々あるが、人間の側に求める心がなければ、神もその人に出会って下さらない。従って、神に叫び求め、神を待ち望み、神によってどうしても満たしていただかねばならないような欠乏が何も存在しないほどすべてに満たされていることほど不幸なことはないのではないだろうか。信者であっても、それは同じであり、神を待ち望み、神に出会う理由がなくなってしまった人には、信仰生活の意味がない。

そこで、不幸なのは、大きな悲しみや苦しみを抱えている人々ではなく、むしろ、自分はすべてにおいて満たされていて完璧なので、現状に非常に満足しており、これ以上、神に対して何も要求することはないと言い張っている人々ではないかと思う。

信者を名乗っている人々にも、そういう人たちは数多く存在しており、自分の満たされた生活状況が、自分の立派な信仰の証であるかのように思い、すべてにおいて満たされている幸せを神に対して勝ち誇るために神を礼拝しているようにしか見えないような節があるが、それにはどうにも首をかしげざるを得ない。信仰とは、「望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるもの」(ヘブル11:1)なのだから、目に見える全てにおいて順調で、この上、望むものもないというのでは、何のために神を必要とするのか、信仰など、そもそも必要ないのではあるまいか。

だからこそ、そこに私は、独りよがりの礼拝のむなしさだけでなく、「可哀想な社会的弱者の救済」を唱える人々の欺瞞をも見ずにいられないのである。こうした人々は、「すべての理不尽が解決されて満たされた状態」だけを良いものとして追い求め、裁判を通してでも、失われたものを原状回復することを願い、困難な状況にある人の状況を改善することだけを解決としており、人が時に説明できない、何のためにあるのかも分からないような苦しみを通されることの意味を深く理解しようとはしない。

全ての物事が順調でうまく行っており、今、願いがかなっていることだけを望ましい状態とみなすそのような考えでは、人のどんな努力によっても解決することのできない苦しみや悲しみというものは、何の意味もないことになってしまうだろう。

だが、人の抱える問題は、すべて神の栄光に通じるものであって、その意味で、信仰さえあるならば、それは「問題」ではない。むしろ、そこには逆説的な大きな可能性が潜んでいるように思う。苦しみは、目に見えるものが真の解決なのではないことを人に教えてくれ、その人が真に永遠のものを求めて、神に出会い、神にそれを満たしていただくためのきっかけとして存在しうるのであって、目に見える解決をすべてとして、それを補い、供給することで、人を「救済できる」かのように思い込んでいる自称救済者たちの手柄のために存在するわけではない。

信仰者にとっては特にそうだが、人の抱えるすべての問題の解決は、あれやこれやの物質が与えられ、環境が整えられることにはなく、キリストご自身にある。私たちの慰め主は人となられたイエスご自身であり、信者が待ち望んでいるのは、ただ自分の必要がかなえられて何らかの具体的問題に終止符が打たれることだけではなく、彼によってすべてが新しくされることである。人が地上で受けるすべての苦しみは、もし信仰さえ働くならば、人の個人的な生活のレベルをはるかに超えて、すべての被造物を贖うことのできる神ご自身を待ち望むという、深く壮大なスケールの心の要求へとつながっていく。神だけがそのような人間の深い心の願いと求めに十分に応じることのできる方なのであり、おそらく神はどんなきっかけを通してでも、ご自分を心から呼び求める人々の出現を待っておられるのではないかと思う。

「神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示21:3-4) 
 
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
 悲しむ者は幸いです、その人は慰められるからです。
 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:3-12)


主の大庭に安らぎ、生きる

「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(ルツ1:16)

「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39)

「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」(ローマ4:17)

以前、環境を創造するというテーマで書いた。全能の神が無から有を呼び出し、すべてを創造する能力を持っておられるように、キリストを内にいただいているキリスト者も、環境を支配し、創造する力を確かに持っているのだと。

多くの信仰者は主と共に統治する能力を自分が持っていることなどほとんど知らない。が、実際、キリスト者はこの世の天候、物流、人の心、などを支配する力を持っている。それはその人自身に備わった能力ではなく、すべてに優る主の御名の権威による。

しかし、その権威を行使することは、往々にして、神とその人しか知らないひそやかな行程である。ハドソン・テイラーの伝記のあるくだりを思い出すが、彼は宣教師になる準備のために勤務をしていた頃、彼は給与に関して、言葉の促しによらず、ただ祈りによってのみ、人の心を動かす方法を学んだ。

主と共に統治することは、隠れたところでの静かな祈りや、神との知られざる交わりの只中から起きて来る。決して人前での派手なパフォーマンスや、呪文のように自分の願い事を声高に唱えることにはよらない。

たとえ声に出さずとも、神はその人の願いや、必要を知っておられる。そこで、神に安心して願いを打ち明け、主がそれに責任を負って下さることを静かに信じれば良い。御心であれば、願いはかなうであろうし、もし御心でないなら、閉ざして下さいと言えるだけの心の柔軟さを持って、すべてを安心して主に委ねるのである。

さて、昨年から大変忙しかったので、私は様々なことを整理するために、まとまった時間がほしいと感じていた。ところが、年初になっても、立ち止まる時間などないかのようだ。年初めになかなか休暇から帰って来ない同僚を腹立たしく感じるほどに日常に忙殺されている自分を振り返り、こんな生活のままでは絶対にいけないと感じた。

その頃、私は主の御前に、長年、先送りにして来た一つの課題を片付けたいと願った。それまで取り組む気がせず、宣言しながらも、ずっと何年も後回しにして来た課題である。それは公正と正義と真実のために、もはやこれ以上、避けて通ることはできないと感じられた。

すると、たちまち環境が激変し、思いもかけないゆとりが生まれたのである。これまでにも時折、そういう不思議なことが起きた。突然、何かのはずみで、偶然のような出来事がいくつも重なり、まるで日常の隙間に入り込んだように、不意に慌ただしい喧騒から隠されて、神の内に安らぐ日々が始まる。

そういう時には、常識を超えた天の経済が働いて、私は安心して御翼の陰にかくまわれるのであった。

それでもしばらく私は日常に戻ろうとしたが、その試みを主がストップされた。あたかも神が私に優しく促されたようであった、「私があなたを苦労から救い出したのは、再びあなたがすぐに同じ状態に戻ってもう一度、そこにはまりこむためではありませんよ。これ以上、どんなことについても思い煩わず、安心してあなた自身を私に預けて、あなたが今、最も優先しなければならないと信じていることに取りかかりなさい」と。

そんな不思議な出来事が、今までにも幾度か起きていたので、私はもう心を煩わせず、先のことをあれこれ考えることもせず、主ご自身に心を向けるようにした。身近な人々には、主ご自身が私の必要をすべて知っておられ、直接、供給して下さっているので、助けを求めねばならないようなことは起きないのだと告げていた。
 
あたかもエリヤを主がかくまわれたように、エノクを主が連れ去られたように、主ご自身が私のそばまでやって来て、「ほら、私を見なさい。こちらに来て。私のために立ち止まって、時間を取りなさい。共に語らう時を持とうではありませんか」と優しく促しておられるかのようである。
 
そんな時には、こう応答するばかりだ。
「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。
 私は悪の天幕に住むよりは
 むしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」(詩編84:10)

そして、弟子たちが網を投げ捨てて主イエスの後を追ったように、日常の思い煩いのすべてを後ろに投げ捨てて、ただ御姿の後を追うのである。

以前からずっと同じことを書いているのだが、だんだんそういう召しへの応答が頻繁になり、その度ごとに、主と共に生きることがリアリティとなり、私の心が、それまでの日常から遠く離れ去ろうとするのが感じられた。一体、どうしたことか。つい昨日まであれほど地上生活に没頭しようと懸命に努力していたというのに…。

以前、殉教か携えあげか、などというテーマで、信仰者たちの間で会話が盛り上がり、皆が子供のようにはしゃいで未来の望みを語っていたことがあった。あの頃、自分が何を言っていたのか、誰一人、分かっていなかったのに違いない。殉教も携えあげも、自分のために願っていただけであろうし、その願いすらも、興味本位の域を超えるものであったのかどうか。

それでも主はその拙い思いにさえ耳を傾け、心に覚えて下さったかも知れない。今はその頃にもまして、主の臨在がリアリティとして強く押し迫って来て心をとらえるのだ。私は知っている、たとえ私がそれを感じていなかった瞬間にも、主が確かに私を守っていて下さり、誰にも知られない一瞬一瞬、共におられ、すべてをコントロールしておられたこと。生活の細部に至るまで、神の采配が及び、私を守って下さったこと。そして今は、自覚的に私自身もその統治の中に入り始めた。以前は全くおぼつかない神頼みのような人生を生きていたのが、次第に、自覚的な二人三脚の統治が始まったのである。

もし信仰者が、神が喜ばれることが何であるかを見極めようと心から努力し、それを最優先課題としてとらえ、心から公正と真実を愛して、御旨に生きたいと願うなら、それまで彼を苦しめていた日常の問題などは、まるで鎖が落ちるように、あっという間に取り払われるだろう。そして、神ご自身が彼に近づいて来られ、彼をご自分のみもとへいざなわれ、そこから、天的な生活が始まるだろう。主と共に統治する人生を学ぶ頃合いである。

「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ3:29-30)

「エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。」(雅歌5:16)

キリスト者に与えられた揺るぎない平安

まだ夜が明けるにはちょっと早いが、風が気持ちよさそうなので、これから外を散歩してくることにしよう。

 夜の散歩はとても心地よい。この近辺の数少ない礼儀正しい住人は、夜にはちゃんと寝静まっているので、深夜に、家を一歩外に出れば、世界は私だけのものだ! 星空を見上げながら、ゆうゆうと道を歩き回り、鳥や虫の声に耳を傾けることができる。
 夜は、虫や蛙たちが最も活発に歌いだす時間帯だ。田舎では特に、昼間には聴こえないオーケストラが夜には聴こえる。昼間とは、別の世界が広がっていると言った方がいい。

 さて、昨夜は、KFCのアクシデントつきの礼拝でお疲れのはずのDr.Lukeをつかまえて、私は受話器を通じて彼の時間を大量に奪い取り、さんざん私だけに必要なアドバイスをむしりとって行った。一応、断っておけば、そんなことをしでかしたのは今回が初めてである。

 Luke氏には色々と聖書を引きながら、疑問に親切に答えていただいたが、その中で、最もためになったのは、記事の中で氏が少しだけ触れておられるように、人が自分の十字架を負うとは、平安のうちに歩むことだという点に気づけたことである。

 え? 十字架が平安? そんな楽なことがあっていいわけ?
 と驚くような答えが、真の答えなのだと。なぜならば、人の十字架は、その人のうちにおられるキリストが負ってくださるものだからだ。
 だが、これはあまりに画期的な答えなので、あまり世間に言いふらしたくない。正直なことを言えば、誰にも教えたくない。何も知らない人々には、いつまでも、クルシチャンでいてもらって構わない。

 時々、クラゲ化があまりにも進行しすぎているように思われるLuke氏の文章に、正直なことを言えば、私のような生真面目な人間は、苛立たせられる瞬間があるのだが、それはあくまで表面的なこと。氏の文章に、背骨はしっかりと通っている。それが、分かる人にはちゃんと分かる。彼は言った、「生来の真面目さは、どこかで破綻しなければならないものですよ」と。

 生真面目な人種に属している私のような人間には、大いに考えさせられるものがある。真面目な人間というものは、かなりコワイ。わがまま勝手な人の有害性は外から見て分かりやすい。だが、外からは見えない、秘めた危険性を持っているのが、真面目な人々なのだ。

 真面目な人々は、一旦、何事かを思い込んだら、自分の正義を振りかざし、止めようのない力で、どこまでも、猪突猛進して来る。彼らを思いとどまらせるものは何もなく、一切の議論が無駄となり、ポリシーのためならば、命かけてでも、活動し、不撓不屈の努力によって、革命さえ、起こしかねない。しかも、真面目な人々は、自分の真面目さというものを高く評価しており、誇りに思っているので、それが裏目に出ることがあろうとは、露ほども考えてもみない。実際、生真面目な信念を持った生真面目な人々が結集した結果、はた迷惑な革命が、歴史上、幾度も起こされてきたのだ。

 十字架において自己に死ぬ、ということを考える時、その中には、己の短所や欲望に死ぬというだけでなく、自分では美徳だと考えているような長所にも死ぬことが含まれている。己により頼む気持ちが、あらゆる面で、一旦、破綻しなければならない、それが十字架なのだ。この全面的な死を経験しないと、美徳を養う名目で、相変わらず、セルフを引きずったままの人生が続いていってしまう…。落とし穴だ。自分では正しく生きているつもりなのだが、自分の力で必死で十字架を担おうとしているので、やがて疲れ果ててしまう。自己に死んでいないからこそ、自分の力で十字架を背負おうとする努力が生まれるのだ。

 だから、真に自己に死んだ者にとって、もはや自分の十字架を負うことは(=キリスト者として生きることは)苦しくなく、軽いことのはずだ。それが苦しく感じられるのは、状況のせいではなく、何か自分の中に、十字架上で死に切れていない部分があるからだと思っておいた方が良い。何かを負おうとしている自己があるからこそ、苦しみが発生するのだ。(と言うと、アリストテレスのような議論に落ち込んで行きそうだし、さらに、十字架上で己に死すべく、必死に努力する人々が現れることが予想されるが…、この堂々巡りについてはノーコメント)。 

 自分の周りにある一向に改善しない悪しき状況を見て、ため息つかないでいられる人間はどこにもいないだろうが、それでも、どんな状況のうちにも主がおられることを本当に信じられるようになれば、現象によって心が動かされることはなくなる。

「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。<…>
 わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも、深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:34-35,37-39)

 キリスト者の歩みが深まっていく時、そこには神への愛に根ざした揺るぎない平安が生じるはずだ。どんな現象も、人の言葉も、人の存在も、その人を動かすことができない。泰然自若とした生き方が自然と生まれる。

 時には、自分がどうにも、平安とは逆行する人生を歩んでいるように感じられることがあるが、そんな時には、私たちを神の愛から引き離すものは何もない、というふりだしに戻ろう。

 私の人生にとって、もはや何一つ、脅威となるものはないのだ。脅威の名で呼ばれるに値するのは、私をキリストから引き離す力を持っているものだけだが、そのような力を持つものはすでに存在していないことを、聖書が告げているのだから。どんな被造物も、魅力あるリーダーの言葉も、冷たい非難の言葉も、巧妙なサタンの策略も、キリストの勝利によって、すでに無効とされている。それを心から信じる時に、私を平安から外におびき出そうとする敵のあらゆる策略が、力を失うのだ。そして主の与えて下さる愛のうちで、ただ安らぐことができるようになるのだ。

 この平安から外に出ないように気をつけよう。この平安のうちを歩みながら、信仰生活を送って行くことにしよう。そうすれば、きっと今までの生き方よりも、今後の行程は、かなり楽になるはずだ。

 ところで、これ↓、何か分かる? (サマルカンドからタシケントへ戻る道中に見た光景。ヤバイよなあ…、これ、絶対、オマワリにつかまるよなあ、と思っていたら、ほんとにつかまっていた。)