忍者ブログ

私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

真の謙遜とは何か(2)

高ぶりと信仰が、本質的にとうてい両立できないものであることを私たちが見るとき、私たちは、信仰と謙遜が、その根本において一つであること、そして私たちが真の謙遜を持っている以上に真の信仰を持つことは決してできないことを学ぶのです。

私たちは、高ぶった心をいだきながら、真理についての強い知的確信を持つことはできるでしょう。しかし、生きた信仰、神を動かす信仰を持つことは不可能なのです。

私たちは、しばらく、信仰とはいったい何かということを、考えてみる必要があります。それは、無価値の者、無力の者になることの告白ではないでしょうか。そして、神に明け渡し、神がみこころをなされるのを待つことではないでしょうか

それは、存在しうるかぎりの最も謙遜な事がら――私たちが従属者であることの承認、恵みによって授けられるもの以外、何ものも要求できず、獲得できず、なすことのできない者であることの承認――ではないでしょうか。謙遜とは、簡単に言えば、たましいを神に信頼して生きるように備えることです。

そして、すべての高ぶり――利己主義、わがまま、自己過信、自己高揚におけるいちばんひそかな高ぶりの息吹 ですら――は、自我――それは神の国にはいることができず、神の国のものを所有できないものです――を強めるものにほかなりません。なぜなら、それは、神 が本来あるべき状態になられること、すべてのすべてとなられることを拒否するからです。

信仰は、天的な世界とその祝福を識別し理解するための感覚器官です。信仰は神からの栄誉を求めますその栄誉は、神がすべてであるところにおいてのみもたらされるのです私たちがお互いの栄誉を受けているかぎり、私たちがこの世の栄誉――人からの名誉や評判――を探求し、愛し、油断なく守っているかぎり、私たちは、神から来る栄誉を求めておらず、また受けることができないのです。

高ぶりは信仰を不可能にします。救いは、十字架と十字架におかかりになったキリストから来るのです。救いとは、十字架の精神をもって、十字架におかかりになったキリストと交わることです救いは、イエスの謙遜との結合であり、イエスの謙遜を喜び、それにあずかることであるのです。

高ぶりがこの上なく支配しているとき、私たちの信仰が全く弱いことは、驚くべきことなのでしょうか。なぜなら、私たちが、救いの最も必要な祝福に満ちた側面としての謙遜を熱望せず、そのために祈ることをしないからです。
アンドリュー・マーレー著、『謙遜』、pp.64-65.

 
前回、世の中で考えられている謙遜と、神にある真の謙遜とは、多くの場合、概念が真逆になっていることについて書いたが、このことについて多少、補足しておきたい。

世の中では、人々が「思い上がっている」とか「己惚れている」などと誤解されて、望ましくない敵視や、攻撃を受けないために、自分を実際にあるがまま以上に弱く見せかけ、「私は無です。私には知識もありませんし、私には何もできません」などと言っては、自分を低く見せかけることがあたかも謙遜であるかのように考えられている。

だが、それは人が自分をあるがまま以上に弱く見せかけたり、自分よりも強い者の利益のために、本来、自分が持っている正当な自由や権利まで投げ出して、行使しないことによって、自分を無いもののように見せかける自己防衛の手段であって、謙遜とは全く異なる事柄である、ということを書いた。

そのような世的な自己防衛の考えに基づいて発せられる「私は無です!」という叫びは、真の謙遜とは何の関係もない。むしろ、その叫びの意味するものは、「私は無です、だからこれ以上、私を攻撃しないで下さい!」ということであり、それは世の奴隷とされている罪深い人間が、自己保存、自己防衛のために、世に向かってこれ以上、自分を弄ばないでくれと情状酌量を求める懇願の叫びに他ならない。実際には、それこそが、生まれながらの人間が、キリストによらず、自分で自分を守ろうとする高慢だと言って差し支えない。

真の謙遜とは、キリストにあって自分は何者であるか、という自覚に基づいている。それは神にあって人が自分に与えられた自由と権利を余すところなく認識して、いかなる恐れや不安にも根拠を与えず、御言葉に立って、神の絶対的な守りを確信している状態である。

確かに、アダムの命にあって、人は無であるか、あるいは無よりも一層、悪く堕落した存在であるが、キリストによって贖われた瞬間から、その人は、アダムの堕落した命によってではなく、キリストの命によって生かされるようになるため、その人は、もはやかつてのように、自分がどんなに堕落した負の存在であるかということを、それ以上、延々と繰り返しては、世に情状酌量を求める必要がなくなり、キリストの血潮により罪赦されて、世に対してでなく神に対して生きる新しい人というアイデンティティを与えられたのである。

たとえその信者自身が現実には、未熟で、年若く、多くのことを知らなくとも、神の知恵と守りは、彼にとって十分であり、だからこそ、その信者は自分に主にあって何も乏しいことはない、と堂々と胸を張って言える。もはや罪定めの感覚に脅かされることなく、自分の未熟さや不完全さのために思い煩うこともなく、弱さを感じる瞬間には、まっすぐに神の御許に進み出て、必要な助けを乞うことができる。そのおかげで、その信者は今までのように「私は無ですから、どうか私を攻撃しないで下さい!」と方々に頭を下げて助けを乞うて回る必要はもうないのである。

自分の不完全さに頼らず、神に全面的に信頼を置くことによって、神の完全に頼って生きることこそ、キリストにある真の謙遜である。

しかし、この世における偽りの謙遜は、自分の正当な権利を放棄することによって、自己を小さく無力に見せたり、いわゆる「耐え忍ぶ」ことを美徳とする風潮によって、あたかも正しいことであるかのように、キリスト者の間でも、誤って捉えられている。そして、その誤った概念が、神が信じる者に与えて下さった自由や権利を不当に奪い取る口実として用いられている。

たとえば、幾度か述べて来た例であるが、ある信者が、違法な労働条件で働かされていたとする。その信者は法を守り、真実に生き、自分自身を守るために、その不法のはびこる職場を辞めようと決意している。だが、そのを相談を持ちかけられた別の信者は、「あなたは辞めてはいけない。自分の置かれた場所で十字架を負うことこそ、信者の務めだ。それができないなら、私はあなたと絶交する」などという脅し言葉を使って、信者が悪しき環境を離れることを妨げようとすることがある。

あるいは、それと全く同じ論法で、ある信者が、自分の通っている教会が、指導者の誤った牧会によって、聖書に反する異常な方向へ進みつつあることに気づき、その組織を脱会しようと決意したとしよう。すると、別の信者が「騒ぎを起こすな。あなたは神のために自分の十字架を負うためにこの団体にやって来たのに、重荷を負うことを拒否するのか。それは不信仰だ」などの言葉で組織からの離脱を妨げようとすることもある。

このように、信者が他の他者に向かって、その人の持っている権利や自由を行使させず、その人から自主的な決断を奪い、自由になることを妨げるために、「十字架」の概念を用いて、半ば脅迫めいた威圧的な言葉を発することがある。

そのような感化や説得は、集団の中で自己主張を押し殺し、波風立てずに、権威者に黙って従うことを美徳とするこの世的な考えや風潮から出て来るものであって、決して御霊から来たものではなく、聖書の御言葉の正しい解釈でもない。だが、以上のような信者たちは、この世的な善悪や道徳の概念をそのまま信仰の世界にまでも持ち込み、その誤った概念を通して他の信者の生き方に介入し、他者の「誤りを正す」ことが、正しいことであるかのように思い込んでいる。

もし御霊から来た助言であるならば、それは決して人を脅したり、威圧したり、断罪することによって、人の自由意志を侵害し、他者の自主的な決断を妨げることにより、相手を自分の思い通りの結論に従わせようとすることはないであろう。

だが、以上に挙げたような誤解の中にいる信者は、他の信者に正当な権利や自由を行使させず、自己決定権を奪うために、脅しの材料として「十字架」の概念を用いることがある。
 
だから、そうした誤った忠告を受けた時には、彼らの威圧的・断罪的な口調から、それが御霊から来た助言や忠告ではなく、この世的な価値観に基づく偽りの「美徳」に基づくものに過ぎず、その隠れた目的は、目に見える組織や人間関係の序列の中に信者を束縛し、その支配から抜け出せないようにすることにあると、信者は気づく必要がある。

そこで言われる「十字架を負う」という概念は、一見、美徳のように装ってはいるが、よく観察してみれば、その実、人権の不当な抑圧、自由の剥奪、強権的な支配、搾取、不正、嘘、ごまかしなど、様々な悪事を覆い隠すためのカモフラージュにしかなっていないことが分かるであろう。それは堕落した世の側に立って、他者の悪事を容認し、「あなたはその犠牲になれ」と言っているに過ぎないので、そのような考えが神の御心にかなうものであると判断する根拠は聖書にはない。
 
そのような誤った忠告を受け入れれば、信者に待っているのは、悪しき環境にとどまって、無益な損失をひたすらこうむり続けること以外にはない。

だが、神は嘘や不正を嫌われる方であるから、不正な罪人の利益に仕えながら、信者が神のために「十字架を負う」ことは決して両立し得ない事柄である。真に「十字架を負う」とは、この世で波風立てず、自己主張せず、この世の悪事を見ても、見ぬふりを決め込んでこれと妥協して、世に同調して、この世の価値観の一部となって生きることを意味せず、むしろ、たとえこの世の常識や美徳と敵対することになっても、不正な生き方に染まらず、これに加担せず、御言葉に従って生きる道を模索することにある。
 
だが、筆者の観察の結果、この世的な誤った「謙遜」の概念を用いて、信者が他の信者を抑圧しようとする場面は数多く発生して来た。教会という枠組みの中であるか、外であるかを問わず、こうした信者たちは、人間の作り出した序列やヒエラルキーの中に他の信者を組み込んで自由を奪い、神ではなく、人間の教えや思惑に従わせるために、そうした助言を発する。

筆者はこれを「信者が信者を弟子化する」誤ったシステム、目に見えないネズミ講のように、信者間に広がる霊的搾取の体系として警告して来た。

こうしたネズミ講的「弟子化」システムは、牧師制度と同じくらい誤ったものであるが、草の根的に広まっているため、牧師制度のようにはっきりとそれと分かる組織的な形態をとっていない。

しかしながら、弟子化システムを押し広げている信者には共通する特徴があり、この世におけるネズミ講が、日用品や、サプリメントなどのような商品の販売を通じて、ネットワークを広げているならば、霊的搾取のためのネズミ講を作り出す信者たちにも、大概、独自の「売り物」となる目玉商品が存在する。

それが、多くの場合、霊的先人たちの教えなのである。彼らには、熱心に信仰の道を進もうと思っている有望な信者たちに近づいて、彼らをスカウトし、弟子とするきっかけを作るための、様々な「学習教材」のストックがある。それは何らかの霊的先人の感動的な「信仰的犠牲」の物語であったり、あるいは、クリスチャンがより聖潔な信仰生活を送るためのハウツー本のような教材であることが多く、彼らはそうした教材を用いて、それがあたかもクリスチャンの理想や手本であるかのように他の信者に説いて、その教材に他の信者の興味を引きつけることによって、自分たちの助言や忠告に従わせる機会として利用して行くのである。

そうしたツールを使って筆者を「スカウト」しようとした信者は、これまでに複数存在したが、そこには実に数多くのパターンがあった。中には、ウォッチマン・ニーの自己犠牲的な生き様に心酔し、これを他の信者に「理想」として推奨し、霊的に進歩したいという信者の願望(欲)を刺激して、その人の心を支配して行こうとする信者もいたし、あるいは、オズワルド・チェンバースの書いた罪についての威圧的な文章を送りつけるなどして、他者の心に罪悪感を呼び覚まし、その問題解決のために、自分の提示する教えに引きつけて行こうとするアッセンブリーズ信者もいた。あるいは、リンデの病死を美化し、その物語を流布することで、罪悪感や自己憐憫の感情から抜け出せないでいる他者の心をとらえ、自己の団体に引きつけて行こうとするベック集会の信者もいた。

だが、いかに彼らの掲げている「目玉商品」となる教本が、感動を呼び起こす美しい物語の形式を取っており、信者の霊的な進歩に役立つように感じられたとしても、肝心なのは、結局、その物語の提示をきっかけに、こうした人々が達成しようとしている目的は、一体、何なのか、という点である。彼らの目的は、結局、その教本を手がかりにして、自分たちのネットワークに信者を誘い出し、引きつけて行くことに他ならず、結果的には、自分たちの助言や、指導者の思惑にがんじがらめにすることによって、信者の意志と自己決定権を奪い取り、そのネットワークに束縛して行くことを目的としている。それが分かった時点で、こうした人々にはお引き取りいただく他ない。こうしたものは決して御霊の働きではないからだ。

筆者は、神のために信者がすすんで犠牲を負いながら奉仕すべき瞬間が、信仰生活には全くない、と言っているわけではない。キリストご自身が十字架を耐え忍ばれたのだから、キリストに従う者も、神のために自分の十字架を負って従うことが求められるのは当然である。

だが、問題なのは、主のために信者が捧げる奉仕は、あくまでその人が御霊に促されて自主的に行うべき決断であって、そこに他者が介在することはできない、という点である。それが決められる過程も、神とその人との間だけで交わされるひそやかなやり取りであって、人が人に説得して犠牲を要求したり、まして犠牲の内容を細かく具体的に指示して従わせるなど、あってはならないことである。そのようなものは、正しい忠告のあり方でもなければ、まして神から来た助言でもない。
 
しかし、上記のような人々は、信仰者の自己犠牲の物語を手本のように持ち出すことで、それを用いて、本来、御霊が行うべき役割を、人間の助言へとすり替え、自分たちの助言に他の信者を従わせる機会へと変えてしまうのである。

彼らは、そうした例を引き合いに出しながら、巧みに他者を自分の精神的指導の下に組み込んで行く。その教えを彼らは自分自身には適用せずに、他者に犠牲を支払わせるための説得材料として利用する。そのようなことが行われるのは、その先に、そうした犠牲を利用して彼らが建て上げようとしている何かの目的が存在するからである。

ネズミ講では、上部に行けば行くほど、もうけが多くなる仕組みが出来上がっているが、霊的搾取のために作られる目に見えないピラミッド・システムも同じで、できるだけ多くの信者を自らの配下に弟子化し、それらの信者にできるだけ多くの犠牲を支払わせた信者が、教師格のようにみなされて栄光化されて行く仕組みが存在する。

そこで、こうした「教本」を使ってしきりに他人を教えることに腐心している信者の生き様をよく観察してみると、教えている本人は、多くの人たちから尊敬を受けて、まるで権威者のごとく偉そうに振る舞っている一方、その周りにいる身近な人たちは、過度な犠牲を強いられて苦しんでいたり、残酷に排除されていたり、あるいは苦役のような奉仕を強いられ、あるいは死へと追いやられているといった現実が見えて来るのである。こうした効果は、もしその助言や教えが人を解放するものであったとしたら、決して生まれて来なかったものと言える。

つまり、彼らの助言や忠告は神から来たものではないので、それはただ信者が不幸や抑圧や隷従に甘んじて、サタンの奴隷状態を進んで受け入れることを助長するばかりで、決して信者をキリストにある自由にも解放にも導かない。むしろ、抑圧に甘んじることこそ「神の御心」だと考て、不幸な状態から自由になろうとする希求をやめるようにと偽りを吹き込む。こうして、人間の助言にがんじがらめにすることによって、信者が毅然と立ち上がって悪魔に抵抗する勇気や力を奪い取って行くのである。

だから、もし彼らの忠告を聞いて、ピラミッド組織の一員となれば、その信者はとうに抜け出せるはずの不幸な状態から抜け出すどころか、それに抵抗する力を失って、果てしなく無益な苦難の犠牲とされて行くだけである。

しかも、他者に「神のために犠牲を払うように」と教えている人たち自身が、注意深く観察してみれば、ほとんどの場合、自ら「模範」として説いている教えに全く反する生き方をしていることが分かるであろう。

たとえば、20年間、無実の罪のゆえに監獄に投獄されて、ついには他の監獄への輸送の途中でトラックの上でボロ切れのように死んだウォッチマン・ニーの生き様を「殉教」として涙して誉め讃える信者が、自分は神のためにどんな犠牲を耐え忍ぶのか、よく観察してみれば良いのである。そうすれば、毎日のように贅沢な食卓が用意される集会から集会へと飛び回り、信者の家々を訪問して歓待を受け、人前で拍手喝采や感嘆を受けながらメッセージし、美味しい料理や楽しいイベントをどれほど味わったかという自慢話を毎日のように語っていたり・・・といった具合で、自己犠牲などといった言葉からは、はるかにほど遠い、享楽的な生活を送っていることに驚き呆れる場合も珍しくない。

彼らの掲げている「教本」は完全に羊頭狗肉の口先だけの代物で、ただ自分以外の信者や、年少者に向かって特に厳しい禁欲と節制を説き、彼らを服従させるための材料として用いられているだけであり、それを説いている人間自身は、二重性を帯びた享楽的な生き方を謳歌することをやめられないのである。
 
人間は「努力目標」として表向きに掲げている理想が高ければ高いほど、掲げている理想とのギャップは、年々、よりひどいものになって行く、というパラドックスに満ちた霊的法則性が存在するのではないかと、筆者は疑わざるを得ないほどである。

企業の社長室や会議室に飾ってある、お題目と化した社是や社訓のようなものであっても、一応、言葉であるからには、何らかの効力を持っているだろう。だが、人が実態とかけ離れたスローガンを掲げていればいるほど、そのスローガン自体が、まるでその人をあざ笑い、告発するかのように、題目と現実との乖離状態が進み、やがて誰が見ても分かるほどまでに深刻化して行く。

信者の場合も同じで、主イエスが偽善者たちに向かって、モーセ(の律法)があなた方を裁く、と言われたように、以上のような人々にあっては、彼らの掲げている理想自体が、彼らを裁く基準となり、彼らの掲げている「教本」自体が、彼らを告発する材料となるであろう。その教本の内容が、他のどんなものよりも、彼らが達成してもいない目標を達成したかのように偽って、裸の王様のような自己陶酔状態に陥っている罪なる有様を、レントゲン写真以上に克明に万人の前にはっきりと証明するからである。

そのような深刻な乖離状態が起きる原因は、以上のような人々が理想として崇め、奉っているものが、ただ単に人間から生まれて来る美徳であって、キリストご自身の性質ではないからである。

人の目から見れば、道徳的な理想や、自己犠牲的な生き方は、美徳のように映るかも知れない。そのような生き方を全うした人々の話を聞けば、信仰の有無に関係なく、聞いた人は感動的な映画を観たときのように、心の清涼剤を受け取り、一時的に感化を受けるであろう。

信じやすい年代の子供たちや、青年たちは、大人たちから、理想的な人間の生き様について聞かされれば、それなりの感化を受けるであろうし、自分も同じような生き方を目指さなければならないように切迫した思いを持つであろう。また長年、信仰歴を持った大人のクリスチャンであっても、神に従いたいという熱心さがあればあるほど、模範的なクリスチャンについて聞かされるときには、自分の自覚していなかった罪を思い知らされて、襟を正させられるような気分になるであろう。

だが、そのように熱心な人たちの心に呼び覚まされる自己反省の気持ちや、罪責感を、以上のような人々は、その人を真に神に向かわせるためでなく、人間(自分)に依存させ、人間(自分)の支配に従わせるきっかけとして利用しているのである。
    
統一教会がビデオセンターを最初のきっかけに人々を宗教団体に勧誘することはよく知られている。ビデオセンターでは、人々の心に恐怖を呼び起こしたり、罪の自覚を生じさせたり、現状への強い不満や、改革への強い熱意を生み出したり、様々な感情を呼び起こす学習材料が提供され、それによって引き起こされた強い感情が、宗教へ入信させるためのきっかけとして利用される。

たとえば、この世の混乱、悲惨な出来事、理不尽などをたくさん盛り込んだストーリーを見せつけられた人は、居ても立ってもいられない気分になるが、その後で、「世界のこのような不条理を解決するためには、この指導者に帰依することがぜひとも必要です!」などという刷り込みが行われる。

まず最初に、強く世の理不尽を意識させるような問題が提起され、人々にその現状を放置して来たことに対する罪悪感を抱かせるようなメッセージが投げかけられ、それを聞いた人が現状にのっぴきならない深刻な問題があって、それを解決するために自分が何か行動しなければならない責任があるかのように意識した後に、その解決方法は自分たちの団体にしかない、という結論が提示されて、独自の教えに引き込んで行くというのが、ここで使われる心理操作のテクニックである。彼らの使う「教本」は、問題提起と解決方法がワンセットで盛り込まれたパッケージである。(といっても、まやかしの解決なので、これにとらわれた人には、結局、問題だけがいつまでも残り続けることになる。)

カルト被害者救済活動もやはりこれと同じように、キリスト教界の腐敗を訴えつつ、その解決が自分たちにしかないかのように提唱するマッチポンプの運動であることはすでに幾度となく述べて来たが、上記のような誤謬に落ち込んでいるキリスト教の信者たちも、結局、やっていることは、被害者運動や、エホバの証人や、ビデオセンターとさほど変わらないと言える。新興宗教の信者は、勧誘の際には、決まって最初に、この世がますます混沌として、悲しい事件が世に満ち溢れている…などといった、人の心に恐怖と不安を煽る内容を口にすることが多いが、上記のような「弟子化システム」の道具となっている信者たちも、自分たちの提供する視聴覚教材を通して、聞いた人の心に恐れや不安、罪悪感を呼び覚ますメッセージを投げかけ、それをきっかけに、自分たちの提供する助言に人々を依存させていこうとするのである。

たとえば、アッセンブリーズ信者によって筆者に送られて来たオズワルド・チェンバースの言葉も、キリストの血潮による罪の清めよりも、人間の堕落を強調することによって、人に罪悪感を抱かせ、自己反省を促す脅しのような効果を持つことはすでに指摘した。

キリストにあっては、罪の自覚は、ただちに血潮による清めへと結びつくので、真にキリストを信じている人が、長く罪悪感に悩まされることは決してない。また、たとえ信者が現実には年若く未熟な人間であっても、彼は常に神の知恵を求めることができるので、自分の未熟さを苦に思う必要もなければ、それを補うために、経験ある年長者に助言を乞う必要もない。信者はどんなことであれ、自分に不足を覚える時に、いつでも神を仰ぎ、神の助けを乞うことができるので、真に神を信じ、神に従っている信者が「私はこのままでいてはいけない」という強迫観念を長く持ち続けることは決してないと言える。

しかしながら、上記したような「教本」を使う人々は、その教本を通じて、信者に自分の足りないところを数え上げさせ、「自分はこんなに霊的に中途半端な状態ではいけないのだ。もっと神に喜ばれるために、霊的に進歩しなければならないのだ」という不安(もしくは、欲)を呼び起こし、神にある平安から外に引き出してしまう。

神はその贖われたクリスチャンをご覧になって、キリストをご覧になるように満足され、また、神がその人を教えるご計画をお持ちなのに、神が教えて下さる速度、方法、時間に信頼することをせず、信者に「自分はこのままではいけない、早急に変わらなければならない」という恐怖感を抱かせることによって、「もっと進歩しなければ、神に喜ばれない」と錯覚させて、キリスト以外の教えに引きつけて行こうとするのである。

こうして、強烈な問題提起を投げかけることによって、巧みに他の信者の心に穴を開けて入りこみ、罪責感などを足がかりに、キリストご自身ではなく、自分たちの教えに信者を従わせる、ということが実際に行われている。

だから、もしお節介な信者から、一つの学習教材が送られて来たならば、その時点で、信者はこれを断るのが最善であろう。そうしなければ、次から次へと新たな教材が送られて来て、挙句の果てには、気づくと、薬漬けのような状態にされて、その学習教材を送りつけて来た信者が、いつの間にか、あなたに対して「医者」や「教師」のようになって君臨し、自分の命令への絶対服従を求めて来るのを見るであろう。

これらの学習教材には、人の心を惹きつける美しい物語が引用されているかも知れない。だが、そのような引用をどれほど繰り返してみたところで、引用はその人を一ミリたりとも変化させる力を持っていない。

あるいは、その美しい物語を聞かされた人がどれほど涙を流したとしても、ただ外側からの感化だけでは、人を本質的に変える力を持たない。それどころか、むしろ、そうした物語は、聞いた人間に一種の自己陶酔のような魔力的な眩惑を生じさせ、その人の本当の姿を覆い隠し、自分自身の真の状態を忘れさせてしまう効果を持つだけである(=「イチヂクの葉」)。

そのまやかしの効果は薬に大変よく似ており、病気が進行し、絶えず痛みに悩まされている患者であっても、薬を用いて痛みを緩和すれば、束の間、健康になったような錯覚を抱く。だが、痛みが緩和されたことに喜び、それは病が治癒したのではなく、薬による一時的な錯覚に過ぎないという事実を見ずして、根本的な対処を怠るならば、薬の効果の陰で、病は刻一刻と進行し、最後には薬も効かない手遅れな状態が到来するであろう。

霊的にもこれと同じことが起きうる。理想的な生き方を成し遂げた先人たちの人生を、信者がどんなに「美しい教本」のように目の前に並べて、自分もそれに習おうと決意して、熱心な勉強会を開き、信者同士で互いに教え合い、その教本の内容を音読してみたところで、キリストによって人間の霊的本質そのものに根本的な変革がもたらされない限り、人間の内面の「手遅れな状態」は一ミリたりとも改善しない。

人間の霊的な堕落は、どんなに人が外側からの感化によって是正しようと試みても、改善不可能である。神ご自身も、それを改善できるとはお考えにならなかったので、キリストの十字架においてこれに死の宣告を下し、廃棄されたのである。だから、人が内側から変えられるために必要なのは、キリストの十字架の死に同形化されること、その上で、復活の命によって新たに生かされることだけである。

だが、道徳的感化によって人間性を改善することに期待をかけている人々は、自分たちがより良い人間になろうと努力していることは、甚だ良いことに違いないと思い込んでいるため、死未満のところで、改善不可能な人間性を改善するためのむなしい努力を続ける。そして、まるで受験勉強にいそしむように、霊的な教材を用いた各種の学びに没頭し、どれだけ「進歩」したかをはかりあい、自分たちの行っている「応急処置」が、どこまで行っても内面の手遅れな状態を変える力のないもので、むしろ、事の深刻さを覆い隠し、より根本的な治癒を遅らせる目隠しにしかなっていないことを理解しないのである。

だからこそ、彼らが美しい物語を引用し合っては、互いに涙に暮れ、慰め合い、励まし合っている瞬間にも、霊的病はその陰でより一層、進行し、その結果として、現実の彼らの姿は、彼らが題目として唱えている物語とあまりにも遠くかけ離れた、むしろ、それとは正反対のものとなって行くのである。

結局、キリスト以外のものを美徳として誉めたたえれば誉めたたえるほど、人は自己を現実以上に美化するようになり、内側が造り変えられるどころか、より本当の自分自身を見失って、より確信犯的な偽善者に近づき、より高慢で手遅れな堕落に陥って行く、ということが言えるのではないかと思う。

この世の人々が美徳だと思っている様々な性質も、もしそれが信者が直接キリストと結びついて、キリストご自身から生まれて来る性質でなければ、実際には全く美徳と呼べるものではなく、ただ単に人間の堕落した本質から生まれて来る堕落した性質でしかない。

アダムに由来する人間的な「美徳」は数多く存在し、それらはこの世ではあたかも「善」のように受け止められ、賞賛されているであろうが、それがキリストから生まれたものでなければ、それは神の目には、御心に反する悪としてしか映らないのである。だから、どんなに人の目に美しい自己犠牲と映る所業であっても、それがキリストから生まれて来たものでないならば、そのような行為をヒロイズムとして誉め讃えることは、神の目に忌むべき罪であって、信者を誤謬に陥れる大きな危険である。

そうした神によらない人間的な感化にどんなにすがり続けても、その道徳的感化によって人の内面が変化し、改善するということは絶対にない。 

そもそも「教会」という訳語が間違っていると筆者が指摘するのは、このようなことがあるせいで、クリスチャンの信仰生活は、神に従うものであって、人間の教えに従うものでは決してない。それにも関わらず、信仰生活をまるで人間が霊的進歩を追い求めるための学習塾のように考えている人たちは多い。

しかしながら、アダムとエバが蛇にそそのかされた時に利用されたのが、彼らが、神が彼らのために備えて下さった以上に、自分たちの力で霊的に進歩し、「神のようになりたい」と願う欲望であったことを思い出す必要がある。

この世においては、「もっと賢くならなければいけない」とか、「もっと美しくならなければいけない」などと、人の不安(欲)を煽ることが商機として利用されているが、同じように、信者の心に「もっと霊的に進歩しなければならない」という不安(欲)を煽ることによって、これを霊的搾取と支配の関係を打ち立てるきっかけとしようとしている偽りの勢力の働きが存在する。

聖書の動かせない原則は、真の教師はキリストのみであり、信者はキリストにのみ教わり、御霊にのみ聞け、というものである。労働によって人間性が改善できないように、いかなる学習材料を用いた道徳的感化や刺激によっても、人間の内面を変えることはできない。

人を変える力を持っているのは、神ご自身だけである。人が変えられるためには、キリストの十字架の死を土台として、神とその人との間の直接の交わりがなければならないのである。そこにいかなる人間も介入することはできない。にも関わらず、人間が御霊によらずに、十字架の死未満のところで、この世の常識や、人間の考え出した道徳や、教えや、美徳や、刺激や、感化によって、他者を変え、人間性を改善しようとする全ての試みは、聖書に逆らう悪魔的な働きであり、大変、危険である。

キリストにある完全さは、信者の現実の状態がいかなるものであっても、その人に必要な解決を十全に提供するので、信者はキリストにあって造り替えられるために、ただ神の御言葉に全幅の信頼を置いて、安んじる他、何もする必要がない。もし信者が早急に達成しなければならないことがあったしても、それに必要な力と知恵を、神が信者にお与え下さるであろう。

だが、この世と悪魔が人に吹き込む思いは、不安と焦りであって、信者には何かの問題があって、信者自身にはそれを早急に自分の力で何とかする義務がある、というものである。たとえば、信者には霊的な欠陥や未熟さがあって、それを乗り越えるために、信者は神に直接教わるのを待たずして、自らの努力によって学習を積まなければならない、と思わせるのである。

そのような不安や焦りに突き動かされると、信者は、御霊の自然な働きに全幅の信頼を置いて、静かに神を待ち望むことができなくなってしまう。そして、神がその人に御霊を通して実現させて下さる以上に、もっと早く進歩して、自分を正し、神の聖潔に達したいという欲に駆られることになる。それが欲であることさえ、信者には分からなくなり、まるでハウツー本を求めるように、各種の霊的な学習教材に手を伸ばし、それらを薬のように使いながら、ドーピングをするように、飛躍的に自分が高められたかのような錯覚に陥り、自分の霊的状態をあるがまま以上に飾り、本当の自分自身が分からなくなって行く。

そのような状態が長く続けば、いずれ最後にはその信者は自らの学習によって「神に到達した」と宣言することであろう。だが、現実には、その信者の霊的な状態は、チューブだらけにされた寝たきり患者と同じであり、その変化はまやかしであって、その人にもたらされた本質的な変化ではない。

自分の未熟さを強く自覚し、熱心に学習に励んでいる信者の姿は、人の目には良いもののように映るかも知れない。そのようにして自分に「足りない」ものを自覚して、その克服に努めることこそ、謙遜だと人の目には映るかも知れない。だが、実際には、それは神の目の前では、神の完全さに信頼を置かず、人間側からの努力によって欠乏を克服しようとするむなしいもがきに過ぎず、どこまで行っても、その努力は、神の満足される水準に到達することはないのである。

人は自分で自分の霊的状態を「進歩させて」、望ましい道徳的な人間に達しようなどという高慢で不届きな考えを一刻も早く捨てて、自分で神の高みに達するための努力などは一切やめて、生まれながらの自分は処置不可能で手遅れの罪人に過ぎないことを認めた上で、ただ神ご自身に信頼して、キリストの十字架の死に身を委ねるべきである。そうして、「神に明け渡し、神がみこころをなされるのを待つこと」こそ、御心にかなう姿勢だと言える。

PR

真の謙遜とは何か(1)

神の家の建造が可能になるには、まず<..>人を重んじるサタンの働きは完全に断ち切られなければなりません。人の栄光と、自分のために栄光を求める人の欲求は、低くされなければなりません。これは主の御名のための家であり、天と地と地獄の中にある他の名のためではありません私の栄光を他の者に与えはしないと主は言われます(イザヤ書42章8節)

主は常にこれをなさっています。ああ、神聖な領域における、人の肉の恐ろしい現れ! ああ、神に属する領域の中で得る名声! ああ、教会の中で地位を得る喜び! ああ、この肉は自分の喜びと満足を求めて何と頻繁に活動することか! 主は常に肉を激しく打ち、痛撃を加えておられます――それは、彼の家が私たちから出たものの上にではなく、正しい土台の上に建造されるためです。これは私たちに強い感銘を与えます。

「主よ、ダビデのために、彼のすべての謙卑を思い出して下さい」(詩篇132篇1節)。<...>

彼は言います、「私は何と自分を低くしたことでしょう! 私は自分の目に眠りを与えません。寝床にも上がりません。自分の家を楽しみません。私は自分を低くし、乏しくなりました。それは、主のために一つの場所を見いだすためです」。 

主はこの謙卑を要求されます彼は人をこのように砕かれます。それは、家が正しい土台の上に据えられるためです。これが私たちに対する彼の取り扱いの理由です。彼は私たちをひとかどの者にはされません

真に神の住まいとなるには、私たち自身は無でなければなりません。名声を求めてはいけません。印象づけようとしてはいけません。自分の威厳に固執してはいけません。人々よりも抜きんでて、彼らに自分を尊重させようとするようなことを、決して何もしてはいけません。そのようなことは主には通用しません

ですから、それを取り除きましょう。<...>神の目から見て自分がどのような者なのかを認識しましょう。彼はこれを成し遂げられます。ですから、自分の本当の姿とは異なる姿を人々の意識に植え付けて優位に立とうとするなら、私たちは神の家の原則に反することになります。自尊心はすべて捨てなければなりません。認められたいという欲求も、すべて捨てなければなりません。このようなことはみな、一掃されなければなりません。

神の家はそのようなものの上には据えられません。神はそれをお許しになりません。人は低くされます。それ以外のことは、すべて悪魔の働きです。それは、心の中に高慢が見つかった者から来ます。

 オースチンスパークス著、『神の家の諸原則』より

 
真の謙遜とは、多くのパラドックスをはらんでいる。神の目から見た真の謙遜は、この世や、人の目に謙虚と映るものとは、むしろ真逆である。

この世において「謙虚さ」と受け取られている内容は、おそらく、自分が何者でもないと認識し、人前に自分を誇らないことであろう。

特に、我が国のような場所では、自信満々に振る舞う人は、「己惚れている」とか、「思い上がっている」、「生意気だ」などとみなされて、叩かれる風潮がある。そこで、このような風潮の下では、人は他者から目をつけられ、攻撃されたくないばかりに、ことさらに自分を「謙虚」に見せかけようと、しばしばあるがまま以上に弱々しくふるまうし、自己卑下をする。そして、その結果として、いつしかあったはずの自信までも失って、本当に自分を無力だと認識するようになり、ここ一番という勝負の時にさえ、力を発揮できないまでになる。
 
しかしながら、そのように、自分が世から攻撃されないことを目的に、わざと弱々しく振る舞い、自分を弱い人間だと思い込み、そのように表明することは、一種の擬態のようなものであり、真の謙虚さとは全く関係がない事柄である。
 
神から見た謙虚さとは、アダムの命にあっては何も誇らなくとも、キリストにあって自分は何者なのか、神にあるアイデンティティを確固として掴み、手放さないことである。

つまり、「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。」(Ⅱコリント12:9)ということを確信し、信者が依然として自分の生まれながらの弱さを抱えているように思われる時でも、そこに働く神の強さを確信し、「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27)と固く信じて進んで行くことにある。
 
「神にはできる」最も重要な事柄は、キリストにある者を新創造として生かすことである。

「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことは、すべて神から出ているのです。」(Ⅱコリント5:17-18)

キリストにあって、贖われたということは、すべての罪から清められており、キリストの新しい復活の命によって生かされていることを意味する。それは信者の古き人のアイデンティティからの訣別を意味する。

こうした約束が与えられているにも関わらず、信者がただ「私は無です、無力です、私は死すべき罪人の一人に過ぎません」と言い続けるだけでは、単なる自己卑下に終わってしまい、神の御業がその人に大胆に表されることもなければ、神の力がその人を通して現れ出ることもない。

だが、このあたりが、今日のクリスチャンがあまりにも大きく誤解している点である。
 
たとえば、「真に神の住まいとなるには、私たち自身は無でなければなりません」という以上のオースチン-スパークスの言葉を、信者がまるで強迫観念のように受け取って、いかに自分は肉の満足を求めていないか、自分を誇っていないか、ということを周囲の信者に証明しようと、いたずらに自分の権利を放棄し、苦しい生活を送るだけでは、単なる自虐に終わってしまうであろう。

そもそも人前に謙虚に映るように振る舞うことと、神の目に謙虚であることは全く異なる事柄である。たとえば、聖書は、断食する時には、人前に見せびらかさないようにしなさい、とか、祈る時には、戸を閉じて隠れて祈りなさい、などと告げている。神に対する謙虚さ、熱心さ、奉仕は、隠れたところですべきものであって、人前でアピールすべき種類のものではない。

だから、「私は神のためにこんなに多くのものを捨てました!もはや肉の誇りに生きていません!」などと言って、信者が次から次へと自分の諸権利を捨てて行くことが、「真の神の住まいとなるために、自分を無にする」ことではないのである。

神にある謙遜とは、そのようなものではなく、「神の目から見て自分がどのような者なのかを認識しましょう」という言葉にもよく表れている通り、キリストにあって贖われた自分自身は、一体、何者なのか、という事実を信者が正しく認識し、これを掴むことである。

そこでは、信者が自分に与えられたキリストの御名の権威を過小評価して、「人にはできないことが、神にはできるのです。」という事実を信じず、「私には何もできない」と言い続けて、神の御業を退けることこそ、謙遜ではなく、高慢なのである。

では、一体、それでは、オースチン-スパークスの批判している、肉の高慢の正体は何なのか?と、問う人もあろう。

神聖な領域における、人の肉の恐ろしい現れ! ああ、神に属する領域の中で得る名声! ああ、教会の中で地位を得る喜び! ああ、この肉は自分の喜びと満足を求めて何と頻繁に活動することか!
 
このような肉の誇り、地位、名声は、ほとんど例外なく、信者の不信仰につけこんで出来上がる教会内ヒエラルキーから発生する、と筆者は考えている。

これまで筆者は、キリスト者がキリスト者を「弟子化する」ことの危険性を、幾度も述べて来た。御霊が教師となって直接、信者に御言葉の意味を教えて下さる以上、信者は人間の指導者に依存しなければならない理由はもはや存在しない。信者間の交わりはあって良く、信者が信者から光を受け、重要な気づきを与えられることも、十分に起こり得るが、だからと言って、信者間に序列や等級を作って、教師と師弟のような関係を固定的に結び、ヒエラルキーを作る必要は全くないと筆者は考えている。そのようなものは地上的な組織の形態であって、エクレシアとは関係のないものである。

しかし、信者を名乗っていても、教師やリーダー格になりたがる野心家は多く、年齢や経験や信仰歴をかさにきて威張ろうとする者もないわけではなく、さらに、牧師制度というものを敷いている集まりは多数存在する。牧師制度を置かない、と公言している団体でさえ、結局、牧師と変わらないリーダーを固定的に作り上げている例は多い。

このように、指導的立場に立ちたがる人間が、教会の中で一定の地位を占めると、キリストの御業は脇に追いやられることになるが、そんな人間が台頭して来るに当たって、必ず、利用されるのが、信者たちの心の恐れや、不安や、自信のなさや、弱点である。つまり、こうした野心家は、他の信者の心の弱さと不信仰につけこんで、これを足がかりに、優しい助言者や、教師のように振る舞いながら、人々を自分に依存させ、自らの地位を教会内で築き上げて行くのである。まず信者の不信仰が前提になければ、こういう肉なる野心家の台頭も決してあり得ない、と言えよう。

肉の誇りというものは、いずれの場合も、人間の弱さや恐れと密接に結びついている。この世のたとえで言えば、あたかも受験競争のようなものである。片方には、偏差値で優秀だと言われている人たちがいて、人前に栄光を受けているが、彼らの「優秀さ」なるものは、もう片方に、「劣等生」と呼ばれる一群が存在しなければ成り立たない。肉の誇りというものは、みなこのように、例外なく、他者との比較に基づいて、誰かを貶めることによって成り立っており、信者が教会内で肉を誇るというのは、要するに、信者が自分よりも弱く、劣って、惨めな信者たちを踏み台にし、自己の栄光の道具とすることを意味する。

だが、問題なのは、そうして嘲られ、踏み台にされ、利用されている信者たちが、あまりにも弱々しく、不信仰なので、彼らは自分たちが野心的なリーダーの栄光の道具とされていることの忌まわしさにさえ全く気づかずに、むしろ、自分たちのような弱々しい群れには、誰か象徴的に導いてくれるリーダーがいなければ、正常な信仰生活を送るのは無理であり、リーダーがいるだけありがたいとさえ思い込んで自ら隷従している点である。

そのようにまで自信を失い、不信仰に目をくらまされ、自立から遠ざかった群れは、自らの人間への依存状態が、人の肉の誇りを助長し、キリストの栄光を傷つけていることが分からない。このような群れの信仰の弱々しさにつけ込んで、人間の指導者が教会内で台頭して来るのであって、不信仰な群れの「霊的民度」の低さにふさわしいリーダーが立てられているのだ、と言えないこともないだろう。

だが、目立ちたがり屋の野心的指導者の肉の誇りはさて置き、そうでなくとも、生まれながらの人は、信者が信仰を通して得られる神の強さが理解できない。だから、信者が信仰によってサタンの枷を振るい落として、本当に力強く立ち上がろうとするときには、決まって、不信仰な人々から、激しい反対が起きて来ることは避けられない。「あれはナザレのイエスではないか」と言って、主イエスを侮った人々のように、「あなたは何者でもないのに、自分に力があると己惚れているだけであり、それは高慢ではないか」という非難が、不信仰な人々から必ずやって来ることになる。

そうした非難は、たとえば、信者が人間の指導者を離れて、真に神だけに従って生きようと自立する時に起きて来るであろうし、あるいは信者が、神の癒しを信じて、無益な薬と手を切って、病から本格的に立ち上がって健康を求めようとする時に起きて来るであろうし、信者がそれまでずっと引きずって来た何らかの弱さや依存状態を脱して、信仰によって力強く立ち上がろうとする時に起きて来るであろう。

信者がキリストにあって約束された自由を手にしようと、それまでの束縛を断ち切って立ち上がる時、必ず、悪魔は自分たちの手下となっている誰かを利用して、「そんな生き方は高慢だ!あなたは己惚れているだけだ!不可能事を目指しているのだ!」といった非難をぶつけて、信者が自由になることを妨げようとして来るものである。

それまで信者の弱さを食い物にして利益を享受して来た団体が、信者の足元に蜘蛛の糸のように群がって来て、何としても以前の依存状態に引きずりおろそうと画策して来るかも知れないし、裏切り者のように非難を浴びせるかも知れない。

その時になって初めて、信者は「自分たちのような弱々しい群れには、リーダーがいるだけありがたい」などと思っていたことが、全くの欺瞞であったことに気づく。リーダーは味方ではなく、信者を弱さの中に閉じ込めておくための束縛の枷でしかなかったのである。だが、それは信者が自ら依存状態を脱しようと立ち上がったときに初めて見えて来る事実であり、もし弱さを脱却しようと望まないなら、永久にその事実は見えないことであろう。

この世においては、自分を弱々しく、無力に見せかけることが、自己防衛の手段となるかも知れない。だが、神は贖われた信者にこう言われる、「あなたはもはや自分は弱い、などと言ってはなりません。私の強さがあなたの弱さを覆うからです。あなたはもはや自分は未熟で、助けてくれる人や、リーダーがいなければ生きられない、などと言ってはいけません。私こそあなたの真のリーダーとして、あなたを正しく導くことができるからです。あなたは自分は年若く力もないので、どうせ大したことはできない、などと言ってはいけません。神があなたの味方なのです。ですから、勇気を出しなさい、あなたはたった一人で地獄の軍勢と対峙する時にも、恐れなく、勇敢でありなさい。私があなたに必要な知恵を全て与えます。約束の通り、私は敵前であなたの頭に油を注ぎ、あなたの杯を祝福します。たとえあなたがこの世を見て、どんなにそこに強敵がいるように感じ、自分を弱く感じたとしても、恐れてはなりません。私の助けはいつもあなたにとって十分なのです。思い出しなさい、私は世に勝ったのです。あなたは私によって贖い出されました。あなたにはもはや再び世から来る各種の脅しに屈しなければならない理由はありません・・・。」

多くの信者たちの目には、信仰生活とは、霊的階段を高みに昇って行くための学習塾のようなものと映っており(そもそも教会という訳語からして不適切であろう)、信者が互いにできないところを教え合い、不勉強を助け合い、知的・霊的成熟に達するための訓練場のように受け取られている。だが、学習塾ならば、テストに合格するまでの間だけ通えばそれで良いであろうが、もし信仰生活を学習塾のようにとらえるならば、信者は一体、いつまでその「塾」に通い続ければ、及第点が取れるのであろうか? いつまで教師や助言者に依存し続けることになるのだろうか?

信仰生活とは、互いに教え合うサークルではなく、教える方は、キリストであり、信仰のナビゲーターである御霊を通して、信者はすでに必要のすべてを受け取っている。自分の中にすでに羅針盤があるのに、他の誰かに道を聞く必要はない。

たとえ信者が年若く、救われて間もなく、まだ多くのことを知らないように思われても、教えて下さる方は、キリストであり、キリストは信者を導く完全な知恵を持っておられる。この点を間違えて、信者が自分は未熟だからと考えて、人間の指導者に教えを乞えば、必ずや、誤謬の中に導き入れられ、後になって、近道を行ったつもりが、とんでもない遠回りをさせられたことに気づくであろう。
 
信者は自らの信仰の歩みに、他の信者から同意や許可を得る必要はない。たとえ人からの理解が得られず、未だ誰も歩いたことのない場所に新たな一歩を踏み出すことになる時にも、もしそれが神から出たことであれば、信者は人の思惑を気にせず、勇気を持って進んで行かなくてはならない。

信仰生活は、信者が、すべての面で自由を得ることと密接に結びついている。それは勝手気ままな放縦としての自由ではなく、神にあって、律法の要求を完全に満たすことのできる自由である。信者は限りなく、神がキリストを通して信者にお与え下さった自由を希求して行かねばならない。それがどんなにこの世の常識からかけ離れ、人間の目にあるいは不可能事と見えたとしても、信者は御言葉に従って、絶えず「人にはできなくとも、神にはできる」と告白し、自分の限界を見ず、神の全能を選び取って進んで行かなければならない。

真の謙遜とは、信者がいつまでも自分を無力と考えて、不自由や弱さや隷従の中にとどまり続けることを意味しない。むしろ、キリストにあって自分は何者とされたのか、その事実を信者が御言葉によってはっきりと掴み、それを自分自身に適用して、絶えず天から地に引き下ろすことこそ、真の謙遜である、と筆者は確信してやまない。