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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが来られるのを待っています。

先の記事でウェーバーを取り上げたとき、彼はその著書で、社会は、宗教すなわちキリスト教の最先端の信仰の運動が原動力となって動かされていることを指摘したのだと書いた。

ウェーバーは、マルクスのように下部構造(見えるもの)が上部構造(見えないもの)を規定すると考えることなく、むしろ、その逆に、見えないものこそ、見えるものを規定するのであって、その決定的要素となるものが、キリスト教であるとみなしたのである。

その考えはおおむね聖書の原則に合致している。現代人のほとんどは、宗教と社会の動きや、国際情勢は別物であって、キリスト教の最先端の信仰回復運動が社会を動かしているなどとは考えていないであろう。
 
しかし、聖書の原則は、すべてのものは、神の御言葉によって創造され、また御子によって支えられているのであり、目に見えるものは、見えないものから出来たのであって、見えるものが見えるものを生んだのではないというものだ。

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:3)

すべての聖書に基づかない宗教や、あらゆる詐欺師・錬金術師も、毎日、何とかして少しでも労苦せず、無から有を生み出し、濡れ手に粟式に富が手に入らないかと考えを巡らせていることであろうが、私たちを真に命の豊かさに至らせる秘訣は、まことの命である聖書の正しい御言葉にしかない。

そこで、もしも私たちが、真に今、世界で起きていることは何なのか知りたいと願い、また真に無から有を生み出すような豊かで生産的な人生を送りたいと願うならば、まず第一に、聖書の神の御言葉をよく研究してこれを理解し、神の御心(関心事)がどこにあるのかをとらえることが必要となる。

そうして、私たちの関心が、神御自身の関心と重なるならば、次の御言葉が私たちの人生の上に成就して、どれほど多くの錬金術師・魔法使いが束になっても、彼らには絶対に生み出すことのできない本当の命の豊かさに、私たちはあずかって生きることができるだろう。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)
 
神の命の豊かさに支えられて、平安のうちに生きる秘訣は、神の国の秩序を飽くことなく追い求めて生きることにのみある。

先の記事で、終末へ向けての神の関心事は、小羊の婚礼にこそあると書いた。それはエクレシアが完成に向かい、人がキリストのための花嫁なる教会として整えられることである。

だが、イエスのたとえでは、婚礼に招かれたほとんどの人々は、自分の生活の心配、自分の命の心配であまりにも心がいっぱいだったので、神の関心事にはまるで注意を払わず、神に招かれていたのに、祝宴に出かけず、その喜びと栄光に共にあずかる機会を逸し、悪い場合には、神の使いに反逆して滅ぼされ、あるいは、準備が出来ていないのに婚礼に出席しようとして、外の暗闇に追い出されてしまった。

このように、神の関心事に全く心が及ばない人々が、御心の外を、計画の外を歩いていて、祝福にあずかるわけもない。だから、真に祝福を受けようと思うなら、信者は神の関心事の中に入り込まなければならない。

先の記事で、イエスが幼子だったとき、イエスの両親が彼を長子として主に献げる儀式を行うため、エルサレムの神殿に入ったとき、シメオンとアンナが出迎えたことを書いた。シメオンはもちろんのこと、アンナも、シメオンがイエスを腕に抱いて神を誉め讃えているのを見て、幼子がメシアであることをすぐに悟って、人々にその到来を告げに行った。

彼女について書かれたくだりは、次の通りである。

「また、アシェル続のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」(ルカ2:36-38)

筆者は「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」というフレーズがとても好きである。この箇所は、ダビデの詩編の次の箇所を思い出させる。

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
 命のある限り、主の家に宿り
 主を仰ぎ望んで喜びを得
 その宮で朝を迎えることを。

  災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ
 幕屋の奥深くに隠してくださる。
 岩の上に立たせ
 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。
 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
 主に向かって賛美の歌をうたう。」(詩編27:4-6)

ダビデが願ったように、私たちも命のある限り、主の家に住むこと、すなわち、夜も昼も、神に仕え、神を賛美し、その御心を尋ね求めて生きことができる。

そのようにして、主の御心の中に入り込み、主の関心事が何であるのかを第一に追い求めて生きるならば、シメオンとアンナが幼子イエスを見た瞬間に、それがメシアであることが分かったように、私たちも、神のなさることの一つ一つの意味を、誰から説明を受けずとも、分かるようになるに違いない。
 
あらゆる宗教には、大抵、その宗教の聖典の研究だけに従事して生きる人々がいる。その人々は、一切、世俗の仕事をしないで、神の宮に仕えることだけを己が職業としている。
  
もしも私たちが真に願うならば、私たちも、自分を完全に主に捧げて、神の御心のためだけに自分を注ぎだして生きる人となることができるであろう。神はそのようにして御自分を待ち望む民を、これまでにも用意して来られたのであるが、これからも、そうした心意気の信者を歓迎して下さることを筆者は信じて疑わない。

これが、筆者がプロテスタントと資本主義を離れると言っていることの意味内容である。つまり、御言葉の奉仕者として、神に直接、養われて生きることは、いつの時代にも可能なのであって、その願いを持つ者は、ぜひそうすべきである。プロテスタントを離れる必要性については後述する。

* *  *

さて、聖書は、万物は、御子によって、御子のために造られたとしている。

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一となられたのです。

神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロサイ1:15-20)

神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座におつきになりました。」(ヘブライ1:3)

このように、御子は万物が創造される前からおられ、さらに、万物は御子によって、御子のために創造されたのであり、今でも、御子によって支えられているのだと分かる。

筆者は訴訟を進めるに当たり、法体系を調べた。その際に行った作業は、たとえるならば、まるでこの世という巨大な高層ビルの裏側に入り込み、人々が行き交う美しいエントランスや清潔なエレベーターではなく、誰も目にしない、立ち入ることもできないような、暗く、埃っぽい地下に降りて、むきだしのコンクリートの壁や、頑丈な鉄骨にじかに手を触れ、ビル全体の基礎構造を確かめているような具合であった。

人々は美しく整えられたビルの表面しか知らないので、その裏側や、ビルを支えている構造がどうなっているのかを知らない。法体系は、この世を支えている見えない秩序であって、いわば、ビルの基礎構造のようなものである。

むろん、この世では必ずしも定められた秩序の通りにすべてが動いているわけではないが、それでも、法は生きていて、この世に起きる諸事情を規定し、修正し、違反を罰することもできる。

だから、筆者は自らの訴えを書くに当たり、まずはその構造を調べに行き、その中に入り込んで、この基礎構造を支えとして自分の主張を作り上げた。そうすると、それはもはや単なる一個人の意見や主張のレベルではなくなり、しっかりとした基礎の裏づけに支えられる頑丈なものとなるのである。
  
この世の法体系は、世界を構成している見えない霊的秩序の絵図のようなものである。聖書は、イエスは神の御言葉そのものであって、万物はこの方によって生まれ、この方によって支えられていると言う。御言葉は、この世を規定している見えない秩序であるだけでなく、やがて来るべき秩序でもある。

そこで、私たちがこの世を生きるに当たり、自分の主張や生き様を、真に確かなものとしたいと願うならば、永遠にまで変わることのない、御言葉の堅固な基礎構造によりかかり、その裏づけを得て、これと一体化して、自分の歩みを進めるのが一番安全なのである。
 
私たち自身は、弱い被造物に過ぎないかも知れないが、御言葉と一つになることによって、それが私たちの強さとなり、力となり、私たちの主張が、神の御前に正しいと認められるために必要なすべての根拠を提供してくれる。神の御言葉こそ、全世界を成り立たせている基礎構造であり、私たちの個々の人生の中でも、基礎構造をなすべきものである。
 
しかし、万物は御子によって創造されたにも関わらず、アダムの堕落と共に、サタンに引き渡されて堕落していまった。それゆえ、現在の目に見える被造物全体は「虚無に服して」(ローマ8:20)いる。だが、神は被造物をこの虚無から救い出し、復活の輝かしい栄光の中に入れようとなさっておられるのである。

このことについて、オースチンスパークスの今日の論説は非常に興味深いので引用しておきたい。

 「キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(6)

 さて、これはとても実際的なことです。イエス・キリストを経ないまま神に至ろう、とあなたは思っていますか?御父の定めでは、すべてが御子と共にあります。さて、これは包括的であって、被造物全体を網羅します。彼の中で、彼を通して、彼に至るよう、万物は創造されました。それゆえ、被造物全体についての神の定めは御子と共にありました。すなわち、神は御子という立場に基づいて、創造された万物に対応されるのです。

さて、被造物がその最初の君主であるアダムを通して神の御子の諸々の王権を破り、それらを敵対者であるサタンに手渡した時、神は何をされたでしょう?パウロの素晴らしい言葉によると、神はただちに、全被造物のまさに中心に、「失望」を書き込まれたのです。御子の嗣業に対する彼の妬むほどの情熱は、彼は御子の外の敵対者や反逆をご覧にならないことを意味します。パウロは「被造物は虚無に服した」(ロマ八・二〇)と述べています。

そしてその瞬間から、被造物の中心に失望があります。これは人にも言えます。人のいかなる達成、成功、偉業、発明にもかかわらず、最後の結末は失望です。私たちの周囲の被造物の中に魅力的で美しいものがあったとしても、それはそこそこ進んだ後、色あせて死んでしまいます。すべてが死と腐敗に服しています。これは失望です。定めは破られました。

栄光、豊かさ、究極的完成は、御子に対して定められました。御子の外側では、そのように定められておらず、すべてが失望です。そうではないでしょうか?どうして人々にはこれが分からないのでしょう?他の誰も知らなくても、私たちクリスチャンはそれを知っています。

しかし、神はほむべきかな、私たちは神の定めに戻って、この失望は一掃されました。神は私たちのもとに、御子における定めに、キリストとの合一に戻って来て下さいました。


 
 聖書は言う、すべての被造物は、贖われるときを待ち望んで、産みの苦しみを味わっていると。

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。


見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:18-25)

以上のくだりは、先の記事でも触れたパウロの言葉、「しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」(Ⅰテモテ2:15)とも重なる。

ここで「婦人」とは人類を象徴していることを説明したが、パウロがこのくだりで、「子を産むことによって救われます」と指しているのは、人類がすべての被造物と共に、体の贖いにあずかり、完全に滅びの縄目から完全に解放されて、主と共に栄光に輝く復活の自由に達すること、また、そうなるまでの間、「産みの苦しみ」が存在することを表していると言えよう。
   
従って、ここでは、「産みの苦しみ」を耐え忍んでいるのも人類(全被造物)ならば、その苦しみの結果として、新しく生まれて来るのも人類(全被造物)なのだと言える。これは新創造が生み出されるまでに、全被造物が耐え忍ばねばならない産みの苦しみであって、そうして、すべてが新しくされる時には、人はさらにキリストに似た者とされて、彼と共に栄光にあずかる神の国の共同相続人とされている。

「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:15-18)
 
そこで、現在、全被造物が味わっている「産みの苦しみ」は、被造物が完全に贖われてキリストと同じ姿に、主の栄光を映し出すものへと変えられるための過程なのであり、そのときには、もはや人類(被造物)は虚無に服するものではなくなり、本体なるキリストと同じ姿を持ち、同じ栄光を持つ者とされる。

今日でも、私たちはキリストにあって霊による一致の中に入れられているが、その時には、さらにこの一致が完全なものとなる。

かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ14:20-21)
 
この約束を通して、どれほど神が人を愛し、人を重んじて下さっているかが分かるはずである。人はあくまで造られた被造物に過ぎないにも関わらず、神はキリストを通して、人に、ご自分を知ることのできる方法を備えて下さり、キリストはご自分を愛する人々に、御自身を現して下さり、ご自分に似た者となる道を開いていて下さるのである。

ここには、創世記で蛇が人類をそそのかしてささやいた、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:4-5)という、神の御言葉を排除して、人が神の性質を盗み取ることでしか、神に至りつけないという発想の入り込む余地が全くない。


  
図1 聖書における神と人との主従関係   
 
これに対し、依然として、蛇(サタン)が人類をそそのかすにあたり、述べたように、神は故意に、人をご自分よりも劣った卑しい存在として創造され、たのだから、人がこの劣った性質を克服するためには、神の意志に反してでも、神の神聖な性質を盗み取るしかないという考え(神に対するコンプレックス)に基づき、人が神の御言葉によらず、自分自身の意志と力で、神の性質を盗み、神と置き換わろうとしているのが、グノーシス主義だと言えよう。

グノーシス主義には一応、「原父(プロパテール)」という存在があり、聖書の父なる神に似たような存在が設定されている(真の至高者と同一)が、これはほとんど存在しないも同然の、形骸化した「お飾りの神」のようなものである。

すでに述べた通り、この至高者は、物言わぬ「鏡」であり、「虚無の深淵」であり、自らの意思によって力強く万物を生み出す存在ではなく、むしろ、被造物に受動的に自らの姿を映しとられて、自らの意思とは関係なく、信的存在を「流出」させることを、制御することもできない「神」である。

これは父としての権威と力を持たない「沈黙する神」と呼んでも良いだろう。この「沈黙する神」は、初めから他者から模倣され、自らのリアリティを侵害されて、神聖を簒奪されており、それに抵抗できない。
 
この思想では、「父なる神」が自らの意志に基づき、人を自分に似せた存在に創造したのではなく、神(至高神)の性質が「流出」(コピー)されることによって被造物が誕生している。すでに述べた通り、まだ「神々」なる被造物の誕生当初の段階では、この「流出」は「簒奪」と呼べるほどの故意性がなかったにせよ、それでも、誕生の段階から、すでに被造物の側からの至高神への浸食・侵害が起きていたことは確かなのである。

このことを見れば、グノーシス主義の思想の本当の主役は、神にあるのではなく、被造物の方にあるのだと分かる。つまり、これは「違法コピーを正当化し、偽物をオリジナルと置き換えるために造られたさかさまの思想」と言って良く、至高神の性質を盗み取るようにして生まれて来たあまたの被造物の存在を正当化するために造られた思想なのである。
  
グノーシス主義でも、原父(創造主―オリジナル)は父性原理を、被造物(被造物―コピー)は女性原理を代表するものとみなせるが、この思想は、母性原理(被造物―コピー)を「主」として、父性原理(創造主―オリジナル)を「従」とする、一言で言ってしまえば、神と人との主従関係を逆転して、目に見えるものを目に見えないものの根源に置き換える唯物論である。

これと同じ特徴が、万物を生み出す命の源は、女性原理にあるとみなして、女性原理を神とするすべての思想に流れており、むろん、「神秘なる混沌」「母なるもの」(女性原理)をすべての生命の源とみなす東洋思想にも、同じ発想が流れている。

従って、女性原理をすべての生命の源であると掲げているすべての思想は、要するに、見えるものを見えないものの根源としているのであり、根本的には唯物論だと言えるのである。

グノーシス主義では、至高者が「虚無の深淵」とされていること、すでに見て来たが、ここにも、神と被造物との関係を逆転させようとする聖書とは真逆の原則が表れている。聖書においては、被造物こそが堕落して虚無に服しているのであって、グノーシス主義はこれをさかさまにして、父なる神を虚無に服させたのである。

さらに、存在の流出に加えて、よりはっきりした形で、被造物が至高神の意志を無視・侵害して、神の神聖を模倣・簒奪したのが「ソフィアの過失」である。この事件は、ちょうどエバがエデンの園で、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」(創世記3:6)木の実を取って食べて、自ら神のようになろうとしたのと同様に、被造物が、己が情と欲に基づいて、自らの感覚を喜ばせることによって、神のようになろうとした企てとみなせる。

以上で確認した通り、聖書における「産みの苦しみ」とは、被造物の贖いが完成するまでのプロセスを指すため、これを考慮するならば、グノーシス主義のプロットにおいて、ソフィアが単独で子を産もうとした行為は、「被造物が、神(の意志)を抜きに、単独で己が贖いを完成しようとした」試みを指すことは明白となる。

ひとことで言ってしまえば、ソフィアの行為は、堕落した被造物が自分で自分を義とし、贖おうとしたこと、つまり、コピーに過ぎないものが、自らの力で本物のオリジナルに置き換わり、被造物であることをやめて、神の完全に達しようとした企てを意味する。

そして、グノーシス主義では、ソフィアの企てが、失敗に終わった後も、そのミッションは人類に受け継がれ、「母の過ち」を修正することが、人類の使命とされるのである。


   
図2.グノーシス主義における神と人との主従関係の転倒
  
こうして、グノーシス主義は、その骨組みだけを取り出せば、人が己の肉の情欲を満足させることによって、神へと至り着こうとする、聖書とは真逆の思想なのであって、そのために、この思想は、被造物の側から、創造主に対して、果てしない「模倣と簒奪」を繰り返すことを正当化するのである。
 
そこには、人類の罪も堕落もなければ、肉に対する十字架の死もない。だから、この思想に生きる人は、己が欲するままに生きた挙句、神の神聖に至りつけるかのように考えるが、それによって生み出されるのは、神とは似ても似つかない失敗作だけである。
 
このようなものが、女性原理を万物の生命の源とみなす思想の根本に存在するのであり、さらに極言すれば、そこには、人が己が情欲を「神」とする思想があるのだと言えよう。そのことを指して、パウロは次のように言った。

「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)

「腹を神」としているとは、肉と欲を神としているという意味であり、「恥ずべきものを誇りとし」とは、罪に生きることをあたかも正しいことであるかのように唱道していること、「この世のことしか考えていません」とは、己の欲を満たしてくれそうな、目に見えるものだけにより頼んで生きていることを指す。

だが、パウロは、これに続けて、私たちキリスト者が目指しているのは、そのようなものでは断じてなく、私たちは、主と共なる十字架において、この世に対してははりつけにされて死に、自分自身の肉に対しても死に、罪と死の法則に従ってではなく、命の御霊の法則に従い、目に見える都ではなく、あくまで見えない都、見えない天を目指していると述べる。

私たちは、そこからキリストが再び来られ、最終的に、私たちが完全に贖われて、もはや二度と堕落した肉に支配されることのない、キリストと同じ栄光の体へ変えられることを待ち望んでいる。

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:20-21)

そこで、結論として、これまで繰り返して来たように、今日、キリスト教における神への礼拝は、目に見える指導者、目に見える場所から解放される必要がある。

プロテスタントの牧師制度は、カトリックの聖職者制度や、荘厳で立派な礼拝堂を建設するための献金集めとしての免罪符の支払いから信者を解放した代わりに、今度は、目に見えないキリストを、目に見える指導者(牧師)に置き換え、聖書の御言葉を、信者がキリストではなく牧師を介在して受けとらざるを得ない状態にとどめたことで、改革を中途半端に終わらせただけでなく、最終的には、目に見える被造物(母性原理)を、創造主なる父なる神(父性原理)以上に高く掲げるという唯物論的逆転に陥ってしまった。プロテスタントの礼拝が、特定の教会の礼拝堂に固定化されていることも、同様の原則に基づく。

これでは結局、イスラエルの建国を促し、地上のエルサレムに再びユダヤ教の神殿を建設することで、キリストの再臨が促されると言っている人々と、原則はまるで同じである。
 
「目に見えるもの」が、贖いの完成へとつながる神聖な要素であるかのようにみなし、その発展を促すことで、人類の贖いが成就するかのように思い込んでいるという点で、これらはグノーシス主義と同じ、さかさまの理論であり、プロテスタントは牧師制度や教会籍制度を固定化することで、そこへ落ち込んでしまったと言える。
 
こうした「さかさまの理論」を主張し始めた人々は、「目が開け」るどころか、その顔に覆いがかかり、見えないキリストの栄光を映し出すことができなくなり、かえって、神を「虚無」に服させて、自分自身が神であるかのように錯覚するようになる。

そして、高慢になって、神の御名を自分たちの栄光を打ち立てるために利用し、己が肉の情欲を満たすことこそ、己が存在を神聖化する秘訣であるかのようにはき違えるようになる。
 
だからこそ、牧師制度からは離れなければならないのである。それはこの制度が、被造物を神と置き換えようとする思想の体現だからである。むろん、固定的な礼拝堂からも離れなければならない。その点で、カトリックからのみならず、プロテスタントからも脱出する必要があり、両者ともに信仰回復運動としての意義は失っている。

これを離れなければならないのは、そこにあるのが、被造物を父なる神以上に高く掲げ、目に見えるものを、目に見えないものの根源に置き換えようとする、本質的には唯物論と何ら変わらない聖書への反逆の思想だからである。
 
このような汚れた思想と分離せず、それを受け入れてしまうと、人は信仰によらず、己が情欲に従ってしか歩めなくなる。そして、このような転倒した教え、神不在の理論の中に身を置いていながら、同時に、まことの神を知りたいと願っても不可能なのである。

このことは、今日、当ブログが、目に見える指導者に従い、目に見える礼拝堂に通わないことを、恫喝と悪罵の言葉と共に非難し続けている人々が、どれほど常軌を逸した不法を働く者どもになり果てているか、その様子を見ても、よく分かると言えるだろう。

必至になって目に見えるもの(指導者、礼拝堂、儀式その他)を擁護し、あたかもそれが神聖であるかのように主張する彼らの姿は、いわば、目に見えるものを神とするプロテスタントの行き着く終着点なのである。今やプロテスタント全体が、このような不法の子らの恫喝を前に、抵抗する力を失ってしまったが、それはすでに述べた通り、プロテスタントが、教会がより本来的な姿へと回復されていく変遷の一過程でしかなく、その中には、過ぎ去らなければならない古き要素が含まれていたにも関わらず、これと訣別しなかったことの必然的な結果である。

今やプロテスタントの中の「目に見えるもの」(神への礼拝を目に見える牧師や礼拝堂の中に見いだそうとする制度)が、まことの神への礼拝の妨げとなっているのに、この宗派は、「目に見えるもの」を擁護して、これを神聖であるかのように保存しようとしたために、神の御言葉を退け、その結果として、上記のような不法の者たちと手を結び、行きつく先が同じとなってしまったのである。

プロテスタントであろうと、カトリックであろうと、神の御心から遠く離れたものを、あたかも神聖なものであるかのようにいつまでも擁護し続けていれば、誰しも、結局、サタンの虜となり、暗闇の勢力に引き渡されて行くのは仕方がない。

 
図3 キリストは神と人との唯一の仲保者であるから、エクレシア(教会)における兄弟姉妹はみな対等な関係にあるはずである。

図4 ところが、プロテスタントでは、牧師が神と人との唯一の仲保者であるキリストに置き換わってしまったために、神の栄光が反映しなくなり、神が無きに等しい者として形骸化した(唯物論的転倒)。
 
おそらくカトリックもプロテスタントも、ずっと前から、生きた信仰を見失って、目に見えるものを、目に見えないものに置き換える神不在の理論と化していたからこそ、その只中から、マザー・テレサや奥田牧師(もしくは遠藤周作)が唱えたような、人間を不条理の中に見捨てて「沈黙する神」のイメージが、発生して来たのだと言えよう。
 
このように人類の苦しみを見捨て、助けることもできないで、苦難の中に置き去りにして行くだけの、弱々しく沈黙する神は、聖書の神ではなく、御言葉からは、あまりにもかけ離れている。むしろ、これは人間が虚無に服させて自ら骨抜きにしてしまった神の姿であると言えよう。

しかし、人が目に見えるものの中だけを巡り続けている限り、まことのリアリティである神は決して見いだせない。その代わりに、このように人類を助ける力を全く持たない、無きに等しい神しか、見えて来るものはない。それは神というよりも、無力な人類が、自分自身の姿を、鏡に投影するようにして作り出した自己の似像に過ぎない。つまり、人間が自ら神を規定しようとした結果、彼らの神は、そのようにまで弱体化し、虚無にまで服してしまったのである。

だからこそ、こうした汚れた教えからは「エクソダス」せねばならない。そして、私たちは目に見えるものに従ってではなく、自分たちを本当に生かす力のある、目に見えない御言葉に従って、見えない都を目指して歩むのである。
 
わたしの民よ、彼女から離れ去れ。
 その罪に加わったり、
 その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
 彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
 神はその不義を覚えておられるからである。」(黙示18:4-5)

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。<略>神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せられる。
 
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。
(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

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たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。(3)

* * *

さて、今回は、前回の続きとして、グノーシス主義および東洋思想といった、非キリスト教的異教の思想の中には、決まって「ハガル―シナイ山―バビロン」の原則が流れている、ということに触れておきたい。

ハンス・ヨナス教授が述べた通り、グノーシス主義思想とは、特定の時代に限定された特定の思想を指すものではなく、時代の様相が混迷を極め、人々の思いの中に悲観が広がり、政治的にも危機的状況となり、明白な希望が失われているような時代には、いつでもどこでも、発生しうるものであり、さらに、この思想は、独自の神話を持たないため、あらゆる宗教や思想の中にもぐりこみ、それを換骨奪胎しては、自分に都合よく変えてしまう性質がある。

グノーシス主義は、いわば、常に何かの思想や宗教哲学などを宿主として、そこに潜り込み、寄生して成り立つ模倣と簒奪の思想なのである。

グノーシス主義には、独自の神話はないが、一応、神話的なプロットの原型はあり、果てしない模倣と簒奪を正当化するためだけに存在しているこの思想では、その神話的プロットも、当然ながらその原則に沿ったものとなる。それが「存在の流出」という考え方である。

まず、グノーシス主義思想では、真の至高者なる神が存在するとされるが、その神はあまりにも神々しい存在であるため、(一部の説では「独り子」以外には)、誰も見たことのない「知られざる神」であるという。

それにも関わらず、どういうわけか、その「知られざる神」が、この思想では「虚無の深淵」や「鏡」にたとえられ、その深淵である「鏡」に至高者の姿が映し出されることによって、無数の神的存在(アイオーン)が流出したとされる。

だが、これは非常に奇怪千万な話である。至高者にも関わらず、グノーシス主義の神は、自分の存在が「流出」することを自分でコントロールできなかったというのだろうか。

このことから、グノーシス主義の「神々」(アイオーン)は、至高神自身の意志とは関係なく、至高神の存在を模倣・簒奪して、まるで神の神聖が盗み取られ、漏洩されるようにして「流出」したものであると言える。つまり、グノーシス主義のプロットの中では、至高者は、神であるにも関わらず、自己存在が、自己の意志と関係なく「流出」することを、自分で制御することができない存在なのである。

このことを考えると、グノーシス主義における「神々」(アイオーン)の誕生は、聖書の神が、被造物を創造された時のように、主体的で能動的な創造行為ではなく、むしろ、被造物の側から、至高者の存在を盗み取り、これを模倣して自らを生んだも同然のものであるとしか言えない。

その点で、グノーシス主義の「神」は、至高神という名とは裏腹に、最初から自己存在を他の被造物によって見られ、知られ、盗み取られる受け身の神であって、主体ではなく、客体なのだと言えよう。
 
こうして、グノーシス主義の「神」は、最初から客体として、他の被造物に存在を盗み取られ、侵害されているのであって、神と呼ばれるにはふさわしくない存在である。その受動性、沈黙、弱さ、非独立性は、聖書における神が、「わたしはある」と言われ、自らの意思によって被造物を創造し、被造物が神に背いて堕落した際には、被造物を追放したり、滅びに定めることのできる、強い権限を持ち、人格と意志を持った能動的存在であることとはまさに逆である。
 
グノーシス主義の「至高神」は、たとえるならば、「御真影」のようもの言わぬ神であって、無数の「神々」であるアイオーンの存在に神的位置づけを与えるためのアリバイ、もしくは、お飾りのような存在に過ぎないと言えよう。

この点で、グノーシス主義は、最初から、神と被造物との関係を逆転し、至高神という神を規定しながらも、その神を「知られざる神」とすることによって、至高神に「リアリティ」があるのではなく、むしろ、至高神の神聖を映し取って生まれた模造品である被造物なるアイオーンの方に、「リアリティ」が存在するとして、神と被造物の関係性を逆転していると言えるのである。
 
結局のところ、グノーシス主義とは、本体である至高神から、その神聖を流出させて、模倣・簒奪して、無数の影のようなアイオーンたち(模倣者たち)を作り出すことを正当化するために生まれた思想であると言える。(ちなみに、アイオーンの間にもヒエラルキーがあって、至高者から遠ざかるに連れて、質の悪いコピーのようになって行く。)

そういう意味で、グノーシス主義とは、終わりなき質の悪いコピペを正当化する模倣と簒奪の思想なのであって、本来ならば、万物の創造主でなければならない神に主体性を持たせず、かえって神を客体として、被造物の方に主体性を与える「さかさまの思想」だと言えるのである。

さらに、グノーシス主義思想において、当初のアイオーンの流出は、アイオーンの側から至高者の神聖を盗み出すために意図的に起こされた反乱ではなかったが、この思想においては、その後、「ソフィアの過失」というさらに決定的な出来事が起きる。

グノーシス主義の神的世界では、すべてのアイオーンは男性名詞と女性名詞のペアとなっており、そのペアからしか子供は生まれないとされているにも関わらず、最下位の女性人格のアイオーンであるソフィアが、単独で子を産もうと欲して、何かしらの禁じ手を使って、おそらくは至高者なる神を「知り」、その「過失」の結果として、醜い悪神ヤルダバオート(デーミウルゴス)という子を生んで、この子を下界に投げ捨て、この悪神が、下界(地上)の支配者となって、悲劇と混乱に満ちた暗闇の世界がそこに創造され、悪神の子孫として人類が生まれたというのである。

ここで、ソフィアが単独で子を生んだことは、至高者の側からの願いに基づくものではなく、ソフィアの側からの意識的な反逆として、彼女が至高者の神聖を盗み取って、故意に流出させたものであるとみなせる。

このように、グノーシス主義の神話的プロットにおいては、繰り返し、神の神聖が、被造物の側から盗み取られていることが分かる。そして、後になるほど、その盗みは、より意図的で、より悲劇的で、より悪意あるものとなって行く。

そして、そのように、至高神の意志を介在せずに、被造物の側からの違反によって、神の神聖が不当に盗み出された結果、グノーシス主義では、人類が誕生したとされているのであって、父を不明として、ソフィアの過失をきっかけとして生まれた人類は、初めから悲劇を運命づけられている。

それでも、この思想においては、どういうわけか、父不明のはずの人類には、至高者のものである「神聖な霊の欠片」が宿っているため、人類は、自分の直接的な父である悪神よりも知恵があり、悪神を否定的に超えて、真の至高者へ立ち戻ることができ、それによって、「母の過ち」を修正することができるとされている。

グノーシス主義では、悪神ヤルダバオートが、聖書の創造主(ヤハウェ)と同一視されるため、この思想では、聖書の神を徹底的に愚弄して、これを出し抜くことが、あたかも人類の正しい使命であって、人類を真の神に回帰させることにつながるかのようにみなされるのである。

だが、ここで人類の母とされているソフィアが、どうやって単独で子を生んだのかがはっきりしない以上、グノーシス主義においける人類が、真に至高神から神聖な霊の欠片を受け継いでいるとする客観的な根拠は何もない。何よりも、グノーシス主義思想それ自体において、至高神は、人類を己が子孫と認める発言を行ってないのである。

それにも関わらず、人類が、自分は至高神の子孫であると名乗り出て、自分を天界に認知せよと求めただけで、至高神に連なる者となれるとしていること自体が、これまたこの思想のどうしようもない模倣と盗みの原則をよく表していると言え、グノーシス主義の世界観の中では、誰かが「自称」しさえすれば、何ら客観的な根拠がなくとも、それが真実であるかのようにまかり通ることをよく示している。

このように、グノーシス主義思想とは、初めから、誰かが自分よりも優れた他者の性質を模倣し、盗み取り、本体を映したおぼろげな映像に過ぎないものを、本体と置き換える盗みと反逆を正当化する思想なのであって、そこには、神に逆らって堕落した人類が、不当に神の性質を盗み、これを模倣・簒奪することにより、聖書の神を否定して、自ら神であると宣言して、神と置き換わろうとする悪魔的思想が流れていると言えるのである。

ところで、この悪魔的思想の「模倣と簒奪の原則」は、インターネットの掲示板でも、顕著に見て取れよう。今日、掲示板は、そこに集まった悪意ある人々が、現実世界に存在する様々な事物の姿を歪めて映し出しては、存在を流出させてディスカウントするための「鏡」となっている。

そこで、悪意ある人々は、掲示板で、この世の事物をターゲットとして映し出し、そこで自分たちが盗み取って流出させた歪んだ映像の方が、本体を凌ぐリアリティであるかのように言いふらし、自分たちにこそ、本体を見定める資格があると主張して、本体のオリジナリティを侵害し続けている。

さらに、そうして存在を盗み取られた人々の一部も、ヴァーチャルリアリティである掲示板の方に、あたかも「リアリティ」があるかのような虚偽を信じ、掲示板に書かれた誹謗中傷を苦にして、自殺に追いやられたりまでしている。

こうして、本体とその歪んだ映像に過ぎないものの主従関係を逆転し、本体の質の悪いコピーに過ぎず、影に過ぎないものを、本体であるかのように偽り、出来そこないのコピーの大量作成によって、本体を凌駕し、駆逐することを狙っている点で、掲示板は、本質的に、グノーシス主義と同じ、見えない悪意による「模倣と簒奪の原則」に基づいて成り立っていると言えるのである。

さらに、グノーシス主義における、人類の悲劇の誕生は、先の記事で触れたハガルとイシマエルの運命にも重なる。

ハガルは、女主人であるサラの考えによって、アブラハムに子をもうけるために与えられた奴隷であるから、自ら反逆として、アブラハムをサラから奪ったのではなかった。

とはいえ、アブラハムはハガルの夫ではなかったわけであるから、やはり、ハガルの行為は一種の盗みのようなもので、なおかつ彼女が子を産んでから、奴隷であるにも関わらず、自らが女主人であるかのように思い上がって、サラを見下げるようになったことは、主人らに対する反逆であったと言えないこともない。

また、ハガルが子を生んだことは、肉の働きであっても、信仰によるものではなかったわけであるから、その点でも、ハガルの行為は、本来は至高者を知る権限がなかったにも関わらず、己が欲望に基づき、至高者の子を欲したソフィアの過失に極めて近いものであったと言える。

さらに、ソフィアがその「過失」ゆえに天界から転落しかかり、その子であるヤルダバオートが下界に投げ落とされたように、ハガルとイシマエルは、アブラハムの家から追放されて、父のいない母子家庭になったという点も似ている。

そして、彼らは自分たちが行ったことが深い罪であって、自分たちが神の御心にかなわない不完全な存在であるとは決して認めたくないがゆえに、その後も、自分たちは神の家の正統な後継者であるかのように偽って、約束の子らを迫害し続けるのである。

このように見て行くと、グノーシス主義では、「信仰によらず、己が肉の力によって、神を知り、その実としての子を生みたい。」という、人類の肉の欲望を肯定する思想が、一貫して流れているのだと言えよう。

従って、これは一貫して、人類が自らの下からの生まれを、あたかも神聖なルーツであるかのように偽り、自らを神とする、聖書における大淫婦バビロンを肯定する思想だと言えるのである。

グノーシス主義は、どんな思想や宗教の中にでも入り込むものであるから、その発生は洋の東西も問わず、東洋思想において「母が脅かされている」とする考え方の中にも、これと本質的に全く同じものが流れていると言える。

東洋思想においても、万物を生み出す源は「神秘なる混沌」という母性原理にあるとされており、万物の生命の源は、「父」ではなく「母」にあるとされる。そこに我々は、被造物(女性原理=人類)と、創造主(父性原理=父なる神)との主従関係の逆転が起きている様子を見て取れる。

ちなみに、グノーシス主義思想の研究者である大田俊寛氏は、このような思想の発生を、古代社会においては、DNA鑑定もなく、母が誰であるかは明白であるが、父が誰であるかを確かめる術がなかったことに見いだし、「擬制(フィクション)としての父」という考えを提示している。

それに基づき、大田氏は、古代社会から家父長制から現代に至るまで、人類が父によって支配されるという考え方は、「フィクション」に過ぎないのだとし、そこから、聖書の父なる神もフィクションに過ぎないという考えを導き出すのである。

このことは、むろん、「父なる神」をフィクションどころか、「わたしはある」という絶対的なリアリティであると定義する聖書の真理に悪質に反する虚偽であることは明白であるが、グノーシス主義の核心を表すたとえとしては、言い得て妙である。

グノーシス主義では、ソフィアの過失が、具体的にどんな事件であったのかが全く明らかにされていないことを見ても分かるように、要するに、この思想においては、何らかの形で「子」が生まれさえすれば良いのであって、本当の父が誰であるかは、さして重要ではないのである。
  
もちろん、グノーシス主義は、このような考えが、聖書の唯一の神である「父なる神」を否定し、キリストと教会の関係に基づく一夫一婦制を否定するものであることを知っていればこそ、己が思想が、本質的に、キリスト教における、揺るぎないリアリティであるまことの父なる神に対する裏切り、反逆であり、キリスト教に悪質に敵対するものであることを無意識的に知っており、そうであればこそ、この思想の中には、潜在的にキリスト教(の「父なる神」)に対する恐怖、すなわち、いつか自分たちがキリスト教の「父なる神」によって罰せられることになるという恐怖が内包されているのである。

そのため、この思想には、父のいない母子家庭に生まれ、父からの正当な承認がないのに、神聖な神の子孫を自称(詐称)する人類が、いつか「父なる神」から罰せられることになるため、その御怒りから自分たちを守らなければならないという、自己防衛と被害者意識による連帯願望が流れていると言えるのである。

なお、東洋思想においては、この自己防衛の思想が「禅」という形で結晶化し、また、手段としての自己防衛は、「武士道(武術)」という形で結実した。武士道の根底にあるものは、人類を楽園から追放し、滅びに定めた聖書の神に対する怒りと憎しみの感情であって、それは神の御怒りに満ちた裁きから身を避けようとする人類の自己防衛の手段であり、永遠から切り離されて滅びに定められた者たちの生んだ悲痛な「死の美学」であることも、すでに確認した通りである。

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 (上二つの画像は、映画『龍の正体』から)


筆者はこれと同じ自己保存・自己防衛の願望を、戦前・戦中の日本の国体思想に、またユダヤ教メシアニズムにも、見出さずにいられない。

第二次大戦中の日本の沖縄戦における集団自決、そして、マサダの集団自決などに流れる思想は、根本的に全く同じものであると筆者はみなしている。つまり、それは、まことの父なる神の承認によらず、父なる神を避けて、人類という「母子」が、自らの力で自分たちのルーツを浄化して、神からの恵みと承認によらず、自力で神の神聖に至り着くことができるかのように主張して、自己防御しようとした結果、必然的に行きついた悲惨な滅びなのである。

そこには、己の力で神に達しようとする者が、霊的に罰せられずには終わらないというバベルの塔と同じ原則が働いている。

おそらく今日、ホロコーストを生き延びたユダヤ人によって建設されたイスラエルでも、自己防衛のための団結の願望は、以前にもまして強いものとなっていることが予想される。それがパレスチナ住民たちに対する攻撃の激しさの中にも現れているのだろう。

なお、プロテスタントの宗教改革の指導者であったマルチン・ルターは、ユダヤ人をキリスト教に改宗させることができると望んでいた間は、ユダヤ人を擁護していたが、それが不可能であることが分かってからは、ユダヤ人を激しく批判したことも知られている。今日、ルターのそうした言説は、反ユダヤ主義を促すものとして非難の対象となることもあるが、いずれにしても、人は神の恵みによって、信仰によってしか救われないとするキリスト教の信仰が、人は律法を守ることによって救われるとしているユダヤ教の理念と相容れないことは確かであるから、ルターによるユダヤ人への批判の中には、不思議とは言えない部分がある。

こうしてキリストを拒んだがゆえに、都を破壊されて失い、さらにプロテスタントのキリスト教徒からも激しい非難と迫害を受け、全世界に散らされた歴史的過去は、今日のユダヤ人には、トラウマに近い感情を残しているのではないかと想像される。それだからこそ、その悲痛な歴史的記憶の只中から、より一層、強固な自己保存、自己防御の感情が生まれて来るのであり、それが彼らのメシア待望という、聖書の神に最終的に逆らう終末の反キリストを生み出す原動力となって行くのではないかと考えられるのである。

人は信仰によって何かを獲得するためには、神が定められた約束の時まで、忍耐強く御言葉の成就を待つことが必要とされる。それは、あくまで神の決定としての御言葉の成就であって、人間の側からの欲望に基づく思いつきではなく、その約束を成就して下さるのも神である。そして、神がご自分の約束の成就される時、それは決して人間の肉欲を満足させる形で成し遂げられることはない。

だが、人は肉の情欲によって、神の約束を待つことができず、性急に自分で自分を保存しようとする。そして、常に感覚的満足(快楽)を欲し、己が力で成果を勝ち取ることで、神を喜ばせることができると考える。
 
しかし、どんなにそこに悲痛なまでの幸福への希求の思いが込められていたとしても、神の御言葉に立脚しないものは、すべて真のリアリティを持たず、永続性がない。だからこそ、肉によって生まれる子は、霊によって(信仰によって)生まれる子よりも、先に勢力を増して勝ち誇るがものの、その勢いは、ほんの一時的でしかなく、肉によって生まれたものは、神の計画によらないため、初めから滅びを運命づけられ、すぐに消えて行くのである。
 
「人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24-25)

そこで、当ブログでも、己が肉の力を誇り、この世の栄耀栄華を誇るクリスチャンに偽装する指導者らの唱える幸福が、草のようにしおれ、消失して行くのは当然だと主張している。

当ブログでは、とある宗教指導者の家庭に降りかかった様々な不幸のことにも言及したが、これもまさに、以上で述べた通りのバビロンに働く聖書の原則が成就したものに過ぎず、筆者が述べている個人的な見解ではない。

これに対する唯一の処方箋は、悔い改めて神に立ち帰ることである。

「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。 あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。 」(エゼキエル18:30-32)

かつてイスラエルの家が責められているように、今、プロテスタントの神の家と呼ばれる教会やその牧者たちも責められているのである。

だが、彼らが依然として、悔い改めを退け、己が富、権勢、支持者の人数、家庭、所属団体の規模、安楽な生活などを誇り、貧しい主の民を蔑み、嘲笑し続ける限り、彼らの繁栄は束の間の風のように過ぎ去るであろう。

主イエスが地上の都エルサレムに対して下された宣告と、その後のエルサレムの歴史、そして人類の肉に対する滅びの宣告を、私たちは思い出すべきである。

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:6-8)
  
だが、何一つ絶望する必要がないのは、エクレシアは最終的に、「夫ある女よりも多くの子を生む」と言われており、バビロンの栄耀栄華をはるかに超えて、永遠に至る栄光を約束されているからである。

だからこそ、私たちは地上にある間、己が権勢や、能力を誇らず、より一層、神の御前に「夫を持たない女」「やもめ」「子を生まない女」として、キリストだけを待ち望んで生きるつつましい純潔の花嫁、聖なる天の都を目指したいと願うのである。

十字架の死と復活の原則―天に備えられた故郷を熱望しつつ、上にあるものを求める―

全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(マルコ16:15-16)

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。

引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。

兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」(マタイ10:16-23)

* * *
 以上の御言葉が、以前よりもはっきり、切実なものとして筆者に迫って来る。
これらのことは、考えてみると、すべて筆者の身の上に成就して来たことばかりである。

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」
これも全くその通りである。

筆者が住んでいる街は、やって来た時には、大きな喜びがあったが、今やソドムとゴモラに近い場所になって来ていると感じる。その理由は前の記事に書いた。暮らしが快適でなくなったという意味ではない。霊的に衰退・退廃してしまったのだ。

筆者は、首都圏全体が、これから大きな苦難に見舞われようとしていることを感じている。

もっとも、このようなことを書いたからと言って、いたずらに人々を脅かしているとは思わないでもらいたい。新聞雑誌で報道されている通り、この先、30年間のうちに首都圏に関東大震災に匹敵する災害が起きる確率は70%以上である。中でも、横浜はとりわけ大きな被害に見舞われると予測されている。

その危険だけを取っても、こうした中で、あえて首都圏にとどまるかどうかは、重い決断である。筆者は阪神大震災、東日本大震災を経験した。幸いなことに、どちらの場合も、筆者自身も、周りにいた関係者も、それほど大きな被害を受けなかったが、次に来るであろう震災については、今までと同じように考えるわけにいかないのだ。

さらに、震災だけではない。戦争の危険が迫っている。このことについてはまた別の機会に書きたい。

だが、筆者は今回、震災や戦争を恐れて逃げ出そうとしているのではない。そのような噂を聞いても慌てるなと聖書に書いてある通りである。

むしろ、筆者は神ご自身から、ここを出るべきだという教訓を与えられたと感じている。
そして、その確信は、筆者が新しい快適な住居に来てからわずか数ヶ月でやって来た。

それはまだ筆者がお気に入りの家具を色々取り揃えている最中のことであった。筆者は信仰告白のブログを更新することよりも、カーテンのサイズをはかり、お気に入りの布を選び、照明器具を物色することに熱心であった。

それから、ピアノを猛特訓していた。ラフマニノフの美しいプレリュードの数々に取り組み、ピアノ・コンチェルトを弾いた。ヴァイオリンに熱中し、セザール・フランクのソナタをそれなりに弾けるようになって来た。実は、以前に記事でも書いた通り、このフランクのソナタが、この地と筆者との最初の挨拶の曲であり、また、別れの曲になってしまったのだが…。

こうして、ようやく落ち着いて楽器が弾けるようになり、気に入った家具を自分の好みに合わせて用意し、大好きな動物たちとゆっくり暮らせると思った矢先、

「あなたが熱中している生活は、私の心にかなうものではありません。」

と、神から示されたのだ。

いや、神からだけでなく、悪魔の側からさえ、皮肉な質問が向けられた、「ヴィオロンさん、あなたはいつからそんな風に、どこにでもいるただの普通の人になったんですか。いまだにこんなところでぐずぐずしてるんですか。まさか本気でここに定住する気じゃないでしょうね。」(そのメッセージはこの世の人々のごく些細な言葉を通してやって来た。)
 
筆者ははっとした。だが、そのような発想は、筆者の考えを超えていたので、筆者はなかなかその結論を受け入れられず、神と争っていたと言っても良い。

「主よ、私がこれまでどんな生活を送って来たか、あなたはご存じではありませんか。今まで一度だって、私は自分の生活に落ち着いて目を向けられたことはありませんでした。私は今まで照明器具のことでこんなに悩んだことはありません。この自由が悪だというのでしょうか。」

「あなたはどうしてしまったんですか。今あなたが物色している照明器具などよりも、はるかにまさったものを、私がいくらでもあなたのために天から用意できるということを、あなたは忘れてしまったんですか。あなたのための宝は、すべて私が天に備えていることをもう忘れたんですか。あなたは地上のものにばかり気を取られ、天の宝に対する憧れをもう持っていないのですか。あなたが今、夢中になって握りしめている地上のすべてのものが、本当に神の国のために本質的に重要だとあなたは思っているのですか。」

「でも、これはあなたが恵みによって私に与えて下さったものではありませんか…」

「いいですか、たとえ与えられた時には恵みであったとしても、あなたがそれを握りしめるなら、たちまちそれは腐敗します。あなたがもしもこの先も、今と同じように、この世の事柄に没頭し続けるなら、あなたは地の塩ではなくなるため、私はあなたを捨てざるを得ません。私は私への信仰によって成ったもの以外の生活を守ったり、保障することはできません。」

「待って下さい、主よ、それでは困ります。そんなことになるくらいなら、私は何もかも捨てます。あなたがすべてを剥ぎ取られる時、それがどういう形になるのか、私はこれまでの人生で痛いほど知っています。剥ぎ取られるよりも前に、私は喜んですべてを捨てます。何も握りしめたりしません。」

もちろん、このような対話が実際にあったわけではない。これは筆者の霊的な気づきの要約でしかない。ただ筆者は、やっと快適な生活が送れて、自分の趣味に没頭できると喜んでいた矢先、自分が心を砕いている生活が、神にとっては全く本質的に重要でなく、神が願っておられるものは、もっとはるかに高いところにあることを痛烈に思い知らされたのだ。

その時、筆者は考えた。平穏な生活の何と危険なことであろう。快適な住居で神を忘れるよりは、狭い不便な住居の中にいても、ただまっすぐに神を見上げていた方がはるかにましであると。

それ以来、筆者は自分の目を楽しませてくれたすべてのものを、パウロが言ったように、損と思い、厭うようになった。家具を物色することに時間を費やすのをやめたのはもちろんである。これは決して生活に必要なものまで放棄することを決めたという意味ではない。そのようなものに熱心に心を砕くのをやめたということである。
 
いつもそうなのだが、筆者は牧歌的な性格なのか、あまりにも楽観的に過ぎるのか、ちょっとした生活の平穏が与えられると、すぐに戦いをやめてしまう。これは人間の生まれつきの傾向であろう、ちょっとでも平和がやって来ると、自分の周りで起きているあまりにも激しい霊的な戦いから目を背け、神の権益を忘れ、自分自身の平和に安住しようとしてしまう。

筆者の心には、これまで「普通の人として穏やかに暮らしたい」という願望が根強く残っていた。できるなら、もう二度とあのような苦しく激しい戦いを戦うことなく、このまま立ち上がらず、穏やかに座ったまま暮らしたいという願いがこみあげて来る。

筆者は神に問う、「主よ、今、少しだけ、このまま立ち止まらせて下さいませんか。楽器を弾きたいんです。他にも色々と考えていることがあるんです。これまで私に一般人としての普通の暮らしという贅沢が、いつ与えられたことがあったでしょうか」と。

しかし、神は、それではだめなのだ、と言われる。楽器を弾くことが罪なのではない。ただ、神の御心にかなう生活は、決して「一般人としての普通の暮らし」などではないのだ。神は、神の御思いは人間の思いよりも高く、神のスタンダードは人間のスタンダードをはるかに上回り、神の考えは、筆者の考えよりもはるかに大きく、広い、と言われる。

筆者が価値だと思っているものよりも、はるかに大きな価値を、神は筆者のために用意しておられ、 「口を大きく開けよ、私がそれを満たそう」と言われるのだ。

なのに、筆者があまりにも小さくしか口を開けず、あまりにも少しの宝で有頂天になってしまうため、せっかく用意された天の宝が届かないのである。
 
要するに、神は、いつでも常に筆者の狭い考えを打ち壊される。筆者がどんなに最善を願っているつもりであっても、まだそれでは低い、と神は言われるのである。

それを示される度に、筆者は、神の恵みと憐れみの深さに、瞠目せざるを得なくなる。そして、やはり、神は神なのであり、人間に過ぎない筆者のちっぽけな思惑になど、とらわれる方ではないと、改めて畏れを覚えるのである。

気をつけておかねばならない。人生に次々と苦難が襲いかかって来るような時には、放っておいても、誰しも必死に神に助けを求めるであろう。油断がならないのは、平和な時である。

神のために召し出された者が、この世の人々と全く同じような生き方を目指していたのでは、塩気を失った塩として捨てられるだけである。

「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。」

さて、以上の御言葉も、全くその通りであることを筆者は知った。筆者はこの地にやって来た時、キリスト者の交わりを求めてやって来たが、当時、筆者が「兄弟姉妹」だと考えていた人々は、ことごとくクリスチャンらしさを失って行った。というより、手ひどい裏切りや中傷といった争いも起きたのだ。

にも関わらず、筆者はごくわずかな心あるキリスト者との交わりを続けていた。だが、ついに筆者が交わっていた心あるキリスト者の夫婦が地上を去ったというニュースをその親族から聞いた。見渡せば、この地にはもはや筆者が兄弟姉妹の交わりを求めてやって来た頃の痕跡は何も残っていなかった。

筆者が交わりを望んで来たクリスチャンらの堕落については、もはや述べる言葉がない。この世の人々がこの世の事柄に没入し、神に敵対して歩んでいるのであれば、まだ分かるが、かつて筆者が兄弟姉妹であると考えていた人々の実に多くが、ロトの日のように、娶り、嫁ぎ、食べ、飲み、売り、買い、この世のことに邁進しながら、本当に地に安住してしまうか、あるいは、イエスを売り渡したユダのように、兄弟を売って恥じないまでになってしまった。

また、首都圏はあまりにも不法と搾取に満ちており、腐敗して未来のない不毛の土地になりつつあるように感じられる。筆者はこれまで、地上の裁判などには一切関わることなく生きていきたいと願っていたが、それでも、この悪しき世の中で、暗闇の勢力からの激しい挑戦を受けて、やむなく一人で裁判官らの前に立ったことが数度ある。四人の弁護士に、筆者一人で対峙し、勝利をおさめたこともある。
 
筆者はこれを手柄や自慢話として書いているのではない。誰しも戦いなど望まないからだ。こうした争いは純粋にこの世の事柄であったが、長い間、いかなる争い事も、決してこの世の法廷に持ち出したくないと考えていた筆者も、それを機に立ち上がることを迫られた。最近では、正しい主張ならば、公然と人前で主張せねばならない事柄も多くあるのだということが分かった。

クリスチャンがこの世の裁判を通して、王や総督の前に引き出され、この世の人々に対して神を証することがある、という聖書の御言葉の正しさを知ったのである。そして、公然と主張すべき事柄を主張すれば、必ず、神が味方して正義を実現して下さると分かったのである。

そのようにして、物事にはきちんと決着をつけておくべき時がある。そのことが、もっと前に分かっていたなら、筆者は色々なことを曖昧なままにしておかず、公然と立ち向かって、早くに終止符を打てたはずのことが数多くある。そのことが今は分かる。だが、何事にも生きている限り、遅すぎることはないだろう。

さて、こうした戦いの過程で、筆者が学んだ何より重要な教訓は、どのような戦いの最中にある時にも、決して弁護人をつけず、神ご自身だけを弁護者として、全ての圧迫に自分で立ち向かって勝利をおさめる秘訣であった。

これまでどんな紛争が起きても、筆者は一切、弁護人をつけなかった。すべての主張をこのブログに記しているのと同じように、自分自身の言葉で書き記し、誰の力をも一切借りることなく、自分自身で不当な主張に立ち向かい、勝利して来たのである。

こうして、神と共に一人ですべてに立ち向かうことこそ、この地に来てから筆者が最も学ばねばならなかった教訓である。それを学ぶのにどれほどの時間を要したであろうか。筆者の戦いたくないという牧歌的で楽観的な考えや、常に誰か有力な人間を頼ろうとする少女的な考えの甘さは、その戦いの過程で相当に削ぎ落とされて行ったと言える。

どんなことが起きても、神と筆者の二人三脚で切り抜けることが可能だと、自信がついたのである。

戦いは難しければ難しいほど面白い。

これは好奇心で言うのではない。神の栄光が現れるためには、人間の力は強くなくて良いのだ。

預言者エリヤは450人のバアルの預言者に、たった一人で立ち向かった。それに比べれば、筆者の通過して来た出来事など、ほんの序の口だと言える。
 
我々には、最強の弁護者である神ご自身がついておられる。聖霊が我々と共にいて弁護して下さる。だから、我々は神以外のどんな存在にもより頼む必要はない。それなのに、心の弱さに負けて、肉なる腕に頼ろうとすれば、無用な苦しみが待っているだけである。

話が脱線するようだが、弁護士という職業は、自分の経済的利益のために、他人の争いを利用して成り立っている。弁護士は、依頼人が裁判に勝っても負けても、どちらの場合でも、自分には食いはぐれがないよう契約しているので、結果はどちらでも構わないのだ。できれば勝ちたいとは願うであろうが、紛争当事者のように、命がけで法廷に立つことは、弁護士には決してないのだ。

さらに、弁護士は時間に応じて報酬を受け取っているので、依頼人の争いがすぐに決着してしまうと損になる。従って、弁護士が、紛争の早期解決に努めることはまずなく、むしろ、紛争がもつれにもつれ、長引いた方が、彼らにとって得なのである。そんな職業である弁護士が、本気になって紛争当事者を助けてくれる理由がどこにあるだろう。
  
普通の人々は、弁護士を大勢つければ、勝算の見込みが上がると考えるのかも知れない。だが、筆者の目から見れば、事実はまるで逆である。

弁護士を大勢つけて戦いに臨むと、「船頭多くして船山に登る」式に、自分の主張に整合性が取れなくなって、勝ち目が薄くなって行くだけである。実際に、何人もの弁護士の書いた答弁書を読めば、まるでつぎだらけの布のように、主張内容に辻褄が合わない場所が多くあり、よく読めば、どの段落から新しい弁護士が担当したのかさえ、明らかになってしまうような有様である。

そこで、このように無責任かつ当事者意識の薄い人々にわざわざ法外に高い謝礼を払ってまでアドバイスを求めることは、賢明とは言えない。さらに、キリスト者がそのようなことをすれば、弁護士の一言一言が足手まといとなり、成るものも成らなくなるだけであろうと思う。

極めつけの問題は、弁護士自身が法を守らない、というお決まりの逸脱にある。弁護士の目的は、他人に法を守らせることであっても、自分自身が法を守り、法に従うことにはない。むしろ、数多くの弁護士が最も得意としているのは、「ああ言えばこう言う」式に、法をどれほど上手にかいくぐり、自分サイドに都合よく解釈して、自分たちだけが自由の幅を広げるかであり、そのような意識が高じると、ついに自分自身が法の上に立って、法を曲げ、支配するというところまで行ってしまう。

その究極の形が、改憲である。

世間は安倍首相の戦前回帰の思想やそれに基づく改憲の野望のことは批判するが、筆者が見たところでは、日本の政治家のほとんどは、与野党を問わず、改憲派である。

たとえば、立憲民主党の枝野代表もまた弁護士出身であり、同氏はかつて憲法9条に関する私的改憲案を自らの論文として出していたことで知られる(現在はその案を放棄しているそうだが)。

このように、立憲民主党の代表がかつて自ら9条の私的改憲案を出していたことは、大きな自己矛盾であり、皮肉であるとさえ言えるかも知れない。日本という国が、成立してこの方、一度も憲法をきちんと守ったことがないのに、すでに現状を優先して憲法を変えるべきだと、政治家は言うのである。

野党の代表でさえ、この始末であるから、一体、誰に期待できるのであろうか。このことは、立憲民主党が護憲政党では全くないことをよく表している。

こうしたことから容易に推し量れるのは、弁護士という職業が、紛争に巻き込まれた人々の弱さや苦しみに寄り添うように見せかけながらも、他者の争いを糧に生きる職業であるのと同様に、与野党の攻防などは、しょせん、国民の弱さや苦しみを糧にして生きる「政治家」という中間搾取層の隠れ蓑でしかなく、AチームBチームの戦いに過ぎないということだ。

話を戻せば、こうして、改憲案の内容には違いがあれど、結局、改憲それ自体は、ほとんどの政治家が目指している共通のゴールであるだけでなく、弁護士にとっても、何かしら最終目的のように見えているのではないかと思われてならない。
  
弁護士でさえ、法を守ろうとは考えておらず、憲法を現状に照らし合わせてズレのあるもの、時代遅れなものとみなし、現状に合わせて法の文言を買えるべきと考えている。彼らは、法よりも(彼らの目から見た)リアリティを優先する人々なのである。

あるいは、もっと言い換えれば、「自ら最高法規である憲法に手をつける」ことが、この国では、政治家だけでなく、多くの弁護士にとっても、悲願なのかも知れない。

もっとも、弁護士のすべてがそういう思いを持っていると言うつもりはない。だが、今、多くの人々の目には、憲法は、そのようにしか映っておらず、野党でさえ、来るべき改憲の日の準備のために、もっと憲法について国民の間で活発な議論がなされるべきだと考え、特に若者の意見を聞くことが必要だ、などと述べたり、誰でももっと気軽に改憲論議に参加できるようにすべきであって、憲法カフェのようなものを作ったらどうだろうか…、などと提案し、お手軽な憲法改正の地ならしをしているのだ。
 
彼らは筆者のように現状を法に合わせて修正すべきだとは考えていない。従って、彼らにとっては、(目に見える)現実の支配が法の支配よりも上位にあるのだ。これではどうやって法の精神を現実に適用することができようか。

従って、こうした事実から見えて来るのは、弁護士という職業は、概して、表向きに多くの人たちがそうに違いないと考えているように、法を敬い、法を遵守することを目的に生きている人々ではない、ということだ。極端な言い方をすれば、法に寄生することで、いかに法から自分の旨味を引き出し、首尾よく中間搾取を成し遂げるかが、弁護士という職業の醍醐味であるのだとも言える。

従って、こうした人々には、自らこそが、法の守り手であり、庶民に比べて、自分たちは法の精神に精通しているという誇りやプライドはあるかも知れないが、そのような自負が強ければ強いほど、かえって彼らは、自ら法に手を付けることも辞さない(自分自身を法の上位に置く)ほどの不遜さを同時に持ち合わせているのである。

厳しい表現を使えば、このような弁護士の不遜さは、パリサイ人や律法学者たちの不遜さに通じるものがあるのではないか、と筆者は思う。主イエスが地上におられた頃の律法学者やパリサイ人たちは、律法のことなら何でも自分たちにおまかせあれと言えるほどに勉強熱心であり、それゆえ、当時の庶民からは、立派な教師のごとく尊敬されていた。だが、主イエスが糾弾された通り、彼らは律法の教師を自認しながら、自分自身は律法を守っていなかったのである。

今日の牧師やいわゆる「御言葉の教師たち」もそれと同じである。講壇から信徒の上に立って、自分はあたかもすべての物事を理解したかのような調子で信徒に説教するが、人を教えながら自分自身を教えず、自分は聖書の御言葉に従って生きていないのである。

筆者はこれまで、牧師や「御言葉の教師」を名乗る人たちは、弁護士と同じように、信者の心の弱さに寄生して生きる霊的中間搾取階級である、と述べて来た。彼らは、自分一人では立てず、霊的な戦いを一人では戦い抜けないと考える心弱い信者を呼び寄せて、彼らの弱さや自信のなさにつけこんで、それを自己の利益や金もうけの手段に変えているのである。

だから、教会のカルト化など憂う前に、クリスチャンは、あちらの先生、こちらの先生へと浮草のように頼るべき存在を求めて放浪することをまずやめ、そもそも牧師という職業が万民祭司の時代には不要であることをきちんと認め、主イエスが教えられた通り、キリスト以外の誰をも教師とせず、ただ神だけを頼りとして一人で立つという気概とプライドがどうしても必要なのである。
 
弁護士からアドバイスを受ければ、足手まといになるが、「御言葉の教師」を自負する牧師や教師たちのアドバイスは、それよりももっとはるかに有害である。
 
「<…>いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:27)

聖書の御言葉がこのように命じているのだから、人間に過ぎない者に頼り、人間に栄光を帰そうとすれば、どのような悲惨な結果が待ち受けているかは明白である。

筆者はこの地へ来てから、「兄弟姉妹の交わり」と称する目に見える人間関係に、再三、欺かれて来た。そのことは、「兄弟姉妹の交わり」と呼ばれているものでさえ、目に見えるもの、地上的な、堕落した人間関係になりうることをよく示している。

勇者サムソンは、異教徒の娘デリラの誘惑に負けなければ、神から来る力を失うことはなかった。今日、デリラとは、弁護士や、教師や、牧師など、人の弱さを利用して、優しさや、思いやりや、助言を装って親切そうに近づいて来る、すべての霊的中間搾取者を指すと言っても差し支えないと筆者は考えている。

デリラと心の鎖でつながれたことによって、サムソンの力は絶たれた。自分一人ならば、どんな強力な鎖でも、彼は瞬時に断ち切ることができたのに、デリラという存在を受け入れてしまった瞬間に、完全に身動き取れず、がんじがらめになって鎖につながれ、自由を失い、さらに霊的視力を失って、両眼をえぐり出されて盲目にされ、奴隷にまで転落してしまったのである。

この警告を、我々は慎重に受け止める必要があるものと思う。デリラとは特に魅惑的な一部の若い女性のことだけを指すなどと矮小化してとらえるべきではない。デリラとは、この地のもの、滅びゆくもの、堕落した被造物全体を象徴していると言ってよく、そこには当然ながら、人間全般も含まれているのである。

我々が警戒しなければならないことは、兄弟姉妹の交わりを求めると言いながら、目に見える人間関係にしがみつき、束縛され、その結果として、見栄や競争意識や義理人情や欲望の渦巻く人間のしがらみの中に、がんじがらめにされて行き、御霊の自由を失うことである。

地上の宗教組織としての教会がそういう場所になってしまっていることについては幾度も論じて来たので、ここでは再び言及しない。今、筆者が述べたいのは、地上の教会組織に幻滅したと言いながらも、依然として、教会をキリストよりも上位に置こうとする誘惑がクリスチャンに強く働いていることである。

以前に、筆者は「エクレシア崇拝」に陥る危険性について警告したことがあった。キリストだけを純粋に慕い求めるエクレシア(教会)を探求するというのは、なるほど大変、美しい表現である。かつて筆者も、きっとどこかに初代教会のように純粋な兄弟姉妹の交わりがあるに違いなく、また、そうしたものを自分たちの交わりを通して実現したいと考えていたこともあった。

地上の宗教団体として堕落してしまった教会への幻滅がひどければひどいほど、初代教会のような交わりを求める気持ちは信者の心に強く働くだろう。

だが、実際には、初代教会が我々の追い求めるべき目標ではないし、理想的な兄弟姉妹の交わりを追い求めることが、クリスチャンの生きる目的でもない。そもそも我々が追い求めるべき対象は、エクレシアではなく、キリストなのである。にも関わらず、エクレシア(教会)に力点を置き、人間の作り出す甘美な交わりのうちに理想を模索したり、あるいは、自分たちの交わりを理想であるかのように賛美することは、結局、キリストを退けて、自己を見つめ、自己(人間)を栄光化することへつながって行く。

特に、自分たちの交わりことそ、まことの教会だと自負している人々や、「家々の教会」を主張している人たちに、この警告は有効であろう。筆者は、長い間、家庭集会などとは無縁の環境に生きていたので、さほど危険を感じなかったが、地上の家や、自分の家で行われる集会をそのまま教会と同一視することは、限りなく危険である。

確かに、主の御名によって、二、三人が集まるところに、主も共におられ、主は兄弟姉妹を通して大いに働いて下さることがある。だが、そういうことが一度や二度あったからと言って、その目に見える交わり、目に見える集会がただちに教会というわけでは決してないのだ。

エクレシアとは決して我々が地上に固定化することができず、これだという形式を探し出して、それにあてはめて定義できるものでもない。それは束の間、地上に現れたように見えるかも知れないが、決して地上的な要素に限定されたり、とらわれることのない、変幻自在で、永遠性を持つものなのである。エクレシアを支配しているのはキリストだけであって、神ご自身以外の者には、決してそれを掴み、私物化したり、エクレシアによって栄光を受けることはできないのである。

もしも誰かがエクレシアをこの手で掴もうとし、コントロールしようとし始めれば、たちまちそれは腐敗し、崩壊して行く。
 
この記事の冒頭で、筆者が最後にこの地で交わっていた善良なクリスチャン夫婦が亡くなった、ということを書いた。夫人が先に亡くなり、続いて夫が亡くなったが、彼らが祈りによって与えられたという美しい家に、筆者は夫人が亡くなる数か月前にお邪魔したことがある。そのことも記事でも触れた。

ノアの箱舟と同じ寸法だというその家には、夫人が選び抜いて設置したセンスの良い家具に囲まれた、清潔で美しい居間があり、そこには、白いアップライト・ピアノが置いてあった。そこで、筆者がピアノを弾き、夫人が讃美歌を歌った。夫人は、本当に筆者を愛してくれたので、涙を流して喜んでくれたほどである。壁には伝道の書の聖句を記した額縁がかけられ、屋上には、静かな森を見下ろしながら、誰にも遠慮することなく長時間祈れるルーフバルコニーがあった。

今でもよく覚えているが、その夫人はどれほど心を尽くして筆者をもてなしてくれただろうか。共に祈り、語らったひと時はどんなに美しい思い出になっているだろうか。

「ヴィオロンさん、私があなたをここへお招きしたのは、祈れば誰でもこれは(こういう家が)手に入ることをあなたに知らせたかったからなのよ」と、夫人は言った。

当時、家庭集会などとは無縁の、暮らすだけがやっとの家に住んでいた筆者は、夫人の言葉に、皮肉気に肩をすくめて笑った。そんな忠告、私にはまだ早いですよ、と思ったのだ。彼女に家の自慢をされたとは思わないが、筆者が家のことについて考えるのは、まだまだ先のことなので、忠告はただ心に留めて置く、と心の中で思った。

当時、筆者の目には、その夫人の家の素晴らしさよりも、誰にも知られず、そこで開かれる二、三人の交わりの方がはるかに素晴らしく映った。その美しい交わりの思い出は、まるで奇跡のように筆者の脳裏に刻まれた。

だが、そのようにしてキリスト者らが交わった家も、その夫婦の死後、すっかりがらんどうにされ、売却される予定だと知らされた。夫婦の親族さえも日本にはいなくなり、もはやその夫婦がこの地上に暮らしていたことを思い出す人々も、筆者の周りにはいなくなった。むろん、夫人が筆者のために何度も横浜にやって来ては、横浜駅の混雑の中で待っていてくれたことなど、誰も覚えてはいない。

その夫婦が亡くなったという知らせもショックであったが、あれほど豊かな交わりのひと時が持たれた美しい家、筆者の目には、神聖な場所も同然に見えていたその家が、すでに当時の面影をとどめておらず、家具もすべて運び出され、空っぽになり、ついには信仰とは一切無縁のこの世の人の手に渡るであろうというニュースは、もっと衝撃的であった。

まるで神聖な思い出が、踏みにじられ、無残に破壊されて行くような寂しさを心に覚えた。

だが、このニュースを、筆者はとても教訓的なものとして心に留めた。筆者はおそらくかなり鋭い感受性を持ち、すべての出来事を豊かな感性で受け止め、鮮明に心に記憶する。そうして記憶した事柄を、何度も思い返しては、分析を加え、書き記す。思い出はどのようなものであれ――良いものであれ、悪いものであれ――筆者の中で生きた記憶であり、まるで筆者自身の一部のようで、その記憶こそが、筆者という人間を形成しているように思われることがある。

さらに、キリスト者の交わりは、ただの思い出ではない。あの時、この場所で、あの兄弟姉妹たちとの交わりの中で、神が力強く働いて下さった、とか、神が私たちの存在を覚え、心に留めて下さった、という記憶は、どれほど人にとって光栄なものであろうか。

ところが、どんなに美しく大切な思い出であっても、主は、「それを手放しなさい、そこに真実があるわけではないのだから」と筆者に言われているように思うのだ。

クリスチャンの道のりは、見知った過去にあるのではなく、常にまだ見ぬ地へと、未来へ向かって行く。だから、主は警告されるのだ、「あなたの目を過去から離しなさい。悪い思い出だけを忘れるべきなのではありません。美しく良い思い出も同様なのです。どんなにそれが美しく心を誘う良き思い出であっても、どんなにそれが美しい交わりの記憶であっても、決してそれを理想化してはなりません。あなたの目標はいつでも、常にまだ見ぬ未来に、これから起きることの中にあるのです。あなたの心は、いつもこの先、私があなたのために天に用意している宝にこそ、向かっていなければならないことを心に留めなさい…。」
 
仮に過去にどんなに優れた、完全に近い兄弟姉妹の交わりがあったとしても、それは、筆者がこの手で掴もうとした瞬間に、幻のように消えて行く。主ご自身が、それが偶像となって筆者の心を支配する前に、これを地上から取り去られ、壊されるのだ。

思い出の場所が壊されて行き、痕跡をとどめなくなることは筆者にはつらい。だが、それでも、信仰の先人たちは、はるかにまさった都を目指して、常にまだ見ぬ地へと出て行ったのである、行き先を知らずに――。

だから、この先、地上でどんなに良い交わりを得たとしても、筆者は二度とそれに拘泥することはないだろうと思う。過去にあったのと同じものを再現しようと考えたり、過去にあった交わりを神聖なものであるかのように惜しんだりもしない。

地上に現れるものはすべて不完全であって、幻影のようなものである。神のエクレシアは決して地上に現れた諸現象によって定義できないし、とらえることもできない。

そのようなわけで、未来に何が待ち受けているのかなど、想像もつかず、知らない土地へ行くとなれば、想像の目安となるものさえもない。だが、それでも、どこへ向かうのか、行き先を知らないまま、出て行くのがキリスト者の役目なのだ。
 
キリスト者は、こうして、最初は弱くとも、次第に、一切の地上的なものを頼りとせず、どんな困難の最中でも、神と自分だけですべてを切り抜ける秘訣を必ず習得することになる。それができないと、前に進んでいくことはできない。

地上のものに頼らないとは、兄弟姉妹の存在にも一切頼らないということである。

だが、多くの信者は、この学課に耐えられないことだろうと筆者は思う。彼らにはほんのわずかな瞬間でさえ、自分一人だけで神と共に取り残されることが、耐えがたい孤独のように映るのだ。だから、人間の温もりから切り離されるくらいならば、いっそ信仰の前進をあきらめて、途中でリタイアしてしまう。
 
だが、筆者は横浜へやって来た当初の目的を決して忘れてはいない。それは、牧師や教師といった霊的中間搾取階級の存在しない、キリスト者の対等な交わりを得るためであった。

万民祭司の時代にふさわしく、信者一人一人がキリストから直接教えを受け、聖書から直接学び、御言葉の教師を自称しているだけの人間に過ぎない者たちに、二度と栄光を掠め取られたり、搾取されたり、支配されることのない、霊的中間搾取者のいない、対等なキリスト者の交わりに連なるべく、筆者はすべての組織及び牧師たちを離れて、この地にやって来たのである。

たとえ、筆者の周りのクリスチャンたちが、口ではキリストだけに頼ると言いながら、結局は、自分たちの好みのリーダーをてんでんばらばらに担ぎ上げ、あるいは、自分自身がリーダーとなって他の信者に君臨し、そうした地上的な人間関係のしがらみを少しも手放すつもりもなく、自らそこに束縛され、地上的な組織を作り上げてはそれをエクレシアと呼び、そこに安住することを考えていたとしても、筆者はそこを出て行かなければならないのである。

むしろ、筆者がそのような人々の中途半端さを疑問に思いながらも、これを退けることもせず、長年、彼らを信仰の敵と考えることもなく、同じ場所に佇んでいたことこそ、大きな停滞の原因であった。

筆者は、当初、キリスト者の自由な交わりを求めて来たはずなのに、自由のない交わりしか目にすることができず、かなり長い間、訳が分からず当惑していた。中途半端にも関わらず、その人間関係をきっぱりと断ち切る決断がつかなかったことが、大きな災いの源だったのである。

キリスト者の歩みは、戦って前進するか、それとも後退するか、そのどちらかしかない。もしキリスト者が勇敢に前進せずに、同じ地点に佇んで足踏みしていたなら、早速、紅海で溺れ死んだはずのエジプト軍が、ゾンビのように背後から襲いかかり、たちまちキリスト者をとうに後にして来たはずのエジプトへ、奴隷として引き戻そうとするであろう。

世の惑わしは、人間関係を通じて最も強力に働く。その中には、当然、クリスチャンを名乗る人々とのしがらみも含まれている。暗闇の勢力は、デリラの誘惑も同然の、「人間関係のしがらみ」を通じて、筆者に対して最も強力に働きかけたのである。

一見、聖なるものを装った、地上的な人間関係のしがらみが、決定的な瞬間に、クリスチャンを身動き取れなくさせる「デリラの罠」として機能するのである。筆者が立ち向かうべきものに毅然と立ち向かわねばならない瞬間に、気づくと、たくさんのデリラたちが、がっちりと筆者を両脇から取り押さえ、抵抗できなくさせてしまうだけでなく、やって来るエジプト軍に喜んで筆者を差し出し、彼らに捕虜として連行させてしまうのである。

だから、筆者の霊的な戦いは、まずは裏切り者のデリラたちにつけいる隙を与えない、ということから始まった。牧師、教師、弁護人、助言者、親切な助力者を装ってやって来る、すべての肉なる腕を排除するところから、戦いは始まった。クリスチャンについても同じである。

ああ、この人々はバビロンの手先でしかなかったのだと、筆者が心から気づいたのは、彼らと知り合って、もう何年も経ってからのことだった。しかも、そうなるまで、一体、何度、筆者はこの人々に裏切られては売り渡されたか、その回数ははかり知れない。

こうした学習を積まなければ、神に対する貞潔さを守り抜くために何が必要か、人間に対する未練が、神に従う上でどんなに重大な障害物となるか、分からなかったのである。

それに気づくためには、手痛い経験が幾度も必要であった。

キリスト者の歩みは、神の目にどう映るかよりも、人の目にどう映るのかを気にし始めた瞬間に、天から地上に転落する。だが、この移行(天から地への移行・転落)は、本人がほとんど気づかないほど些細な逸脱から始まるのだ。

さて、もう一度、話を戻すと、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり…」
これもまた然りである。

これはクリスチャンの兄弟姉妹だけでなく、筆者の親族についても、ことごとく当てはまる。そのことを筆者は予感するがゆえに、二度と地上の故郷を振り返らないと決意しつつ、地上の故郷を出て来たのである。

だが、筆者にも地上の人間としての記憶があるため、懐かしい記憶から、あるいは人間的な感情から、ふと彼らを振り返ろうとすることが度々あった。だが、その度に、ロトの妻に降りかかったような厄災が、猛烈に降りかかって来るのである。

かなり長い間、筆者はその厄災が何のせいで起きているのか分からず、信仰生活を送りながらも、地上の人間的な絆を維持することができると考えていた。ところが、それも誤りであった。

主イエスのために、父、母、娘、息子、家、田畑、仕事、およそ地上の人間のすべての絆を捨てねばならないというのは、本当のことだ。もちろん、地上的な名誉や地位もそこには含まれている。

もっと言えば、被造物全般への愛着を心の中からかなぐり捨てて、地上の一切の人間や事物への未練を断ち切り、ついには自分自身が地上の人間であることさえ否定して、キリストによって、上から生まれた人間として、完全に異なるアイデンティティを持たねばならないのだ。

「誰でもキリストにあるなら、その人は、新しく造られた者…」

実は、筆者の研究テーマは、この「新しい人間」にこそある。神と出会うまで、筆者はその当時、自分がどこへ導かれているのか、何を目指しているのか、自分で知らなかったが、筆者が最初に研究発表を行った時に語ったのが、この「新しい人間」というテーマについてであった。

つまり、筆者の生涯の研究テーマは、新創造なのである。新創造とは、すなわち、キリストである。

私たちはエクレシアを目指しているのではなく、キリストを目指している。そして、「もはや私が生きているのではない」という境地――、キリストが私を通して生きて下さっているという境地を絶えず目指している。

キリストが、もはや分かちがたいほどに私たちと一つとなって下さり、我々の全てがキリストの性質で覆われることを望んでいるのである。地上にある限り、見た目はただの弱々しく平凡な人間に過ぎないが、それでも、信仰によって、神はすでに信じる者と一つであると力強く約束して下さっているのだ。

「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」

そうなのだ。イスラエルの町々を全部回りきらないうちに、人の子が来ると主イエスは言われたのに、筆者はあまりにも長い間、一つの街にとどまっていた。迫害があっても、なお、出て行くことを考えなかった。何という呆れるほどの気づきの遅さであろうか。

要するに、筆者はとうに別の町へ去るべき時期に来ていたのだが、その事実が今まで見えていなかったのである。そして、今、ある予感が筆者をとらえている。それはかつてあの夫人が筆者に述べた言葉は、来るべき場所にて実現するだろうという予感だ。

聖書は何と言っているだろうか。アブラハムは行き先を知らないまま出て行ったが、その行く先に彼が財産として受け継ぐことになる土地があったと言っている。もちろん、私たちの最終的な財産は天にある。受け継ぐのは天の御国である。しかしながら、そこに行き着くまでの仮の宿としての地上の財産(家)も、神は当然ながら、用意して下さるであろう。

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ11:8)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、それを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいません神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)


十字架の死と復活の原則ー地に安住せず、さらにすぐれた故郷、天の故郷だけを目指して歩むー

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

"
人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し 
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします

即ち人にある宗教性には ある時間と場所を定め そこに「立派な礼拝」を
構築したいとする強い願望があるのです。

更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で 
この地上に自分達を根付かせ自分達の名を高く掲げたいと言う
人本来の宗教本能が働いているのです。


その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると。

<中略>

これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。
そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう

そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する

地に住む」(原文では「地に座る」)と言う
人の奥底に居座る根深い願望なのです。
それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。




教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて

出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。
教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。私達は単に 寄る辺無き 
何も持たない「やもめ」でなければならないのです。

「わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22) "

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:37-39)

「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。
 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:17-18)


わたしの民がわたしに聞き従い、

 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。

 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたがたを飽かせるだろう。」(詩編81:14-17)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

一つ前の記事で書いたことを訂正する必要がある。筆者はこの土地から筆者を追い払おうとする暗闇の勢力による激しい妨害と戦って、自分と住まいを守り通した、という趣旨のことを書いたが、そうした事柄は、勝利として宣言するには甚だ不十分であったことが判明したのである。

前にも書いた通り、クリスチャンにはこの世にあって様々な圧迫が押し寄せて来る時があり、そのほとんどは暗闇の勢力から来るものであるが、信者はこうした悪魔の妨害から、ただそれに立ち向かって、持っているものを信仰によって守り通しただけでは、獲得物はゼロでしかなく、勝利とは言えない。天の褒賞を手にして、ゼロからプラスに生活を拡張して、初めて勝利があったと言える。 

以前にも、「栄光から栄光へ、主の似姿に変えられて行く」とは、どのようなことであるか、という記事でも触れたが、キリスト者に苦難が与えられる時には、必ず、それに相応する天の慰めが待ち構えている。これは変わらない霊的法則性である。試練を信仰によって耐え抜き、戦い通せば、天の褒美が待っている。

だが、その褒賞を掴むには、特に揺るぎない信仰が要る。激しい戦いの最中に疲労困憊してしまったり、失意落胆して、希望を失ったりせず、平静でなければならず、必ず、神はご自分により頼む者を失望に終わらせず、天に褒美を備えて下さるという確信が必要であるが、それに加えて、激しい戦いが決着する時、決してその戦いの激しさだけに気を取られたり、決着したことだけで満足したりもせず、さらなる前進や飛躍に向かって、すぐに大胆に一歩を踏み出す信仰が要るのだ。

なぜなら、キリスト者に与えられる苦難とセットになって来る天の褒賞とは、多くの場合、現実生活において、信者が新たな前進や飛躍を遂げることのできる何かしらの稀有なチャンスとなって現れることが少なくないからだ。いわば、真っ暗闇のトンネルを通過するような激しい苦難の直後に、思っても見ない輝かしいチャンスが訪れるのである。

このようにして準備された天の褒賞に確固として到達しないことには、本当の意味で、信者の霊的な戦いは終わったとは言えず、ただ現状を守り通しただけでは、何も成果がないのと同然なのである。

それどころか、信者が天の褒賞を掴まないで、ただ現状を守り通しただけ満足してしまうと、神の守りから逸れてしまう危険性さえある。

特に、キリスト者の地上の住まいについては、特別な誘惑が伴うので、要注意である。クリスチャンが地上の住まいに固執することは、彼が地に安住してしまう危険性を常に伴うからである。もっとも、住まいに限らず、信者にはどんな事柄についても、自己満足したり、定住、定着、安住しようとする願望が、前進を妨げる大きな障害物となることに注意が必要である。

だが、筆者はここで、クリスチャンが地上の住まいを手放してホームレスになるべきだとか、すべての財産を文字通り捨てて無産階級になるべきだなどということを言っているのではない。そうではなく、神は常に信者が地上生活を送るために必要なすべてを供給して下さるのであり、信者はそれを享受して良く、当然、その中には住まいも含まれているのだが、信者はどんなものが信仰によって与えられても、決して地上的な利益に満足してその状態に定着・安住してはいけないし、それらに執着すべきでもなく、地上で与えられている状態が、過渡的で、不完全なものでしかないことを常に自覚して、地上においてさえ、常に今以上にまさったものを神が備えて下さっていることを信じて前進を続け、最終的には、天の都に到達することを目指さなければならない、と言いたいのである。(地上において決して現状に満足することなく、むしろ、現状に満足することを否んでさらに優れたものを求めて、たゆみなく前進し続けることは、天の都への行路と重なる。)

この点で、現在、オリーブ園にオースチン-スパークスの興味深い記事が連載されているが(末尾にも少し引用する)、そこにも、キリスト者が決して地的なものに巻き込まれることなく、天的な住まいに向かって歩み続けることの重要性が示されている。

キリスト者の前進は、こうして常に天の住まいを理想として、これを目指しながら、それに満たない地上の住まいを不完全なものとして拒み、前進し続ける時にのみ起きる。もし信者が地的なものを見てそれに満足し、そこに安住を企て始めると、たちまち霊的な前進はやみ、天の褒賞もなくなり、神はその事業から手を引かれるのである。
 
このような「地に定住する誘惑」は、信者の住んでいる地上の家が、快適からほど遠く、狭苦しく、貧相で、自慢もできない、あばら家に過ぎない時には、あまり大きなものとはならない。信者は自分の生活が不便であるうちは、早くそこを出て、もっと良い住処に行きたいと願い続け、その願いに天の住まいを重ねるので、地に定住しようなどという気にはならない。

しかし、信者の住んでいる家がそこそこ快適な住処になり、自分でも満足し、人に自慢もできるようなものになって来る時、信者がさらにまさったものを願い続けることをやめて、そこに安住してしまう危険性がただちに生じる。

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

と聖書にあるように、クリスチャンが信仰によって地上生活で得られるものの中には、霊的な糧だけでなく、物質的な糧も含まれる。これまで書いて来たように、信者は、住居であれ、生活の糧であれ、仕事であれ、何であれ、望むものを、ただ主にあって、御言葉に基づき、信仰により地上にリアリティとして引き出し、獲得することができるのである。

だが、今、すでに目に見えているものに満足する心には、信仰は必要ない。もし今、信者が手にしているものに満足し、見ている風景に満足し、さらにまさったものを神に求めることをやめてしまえば、その時、信者はもはや目に見えるものによって歩んでいるのであって、見えないもの(信仰)によって歩んでいるのではないのである。信者の心は、地上の目に見えている物質や、よく見知った光景に束縛され、それに執着し、神はその状態をどうご覧になるのか、神はそのような中途半端なスケールでは決して満足されることはなく、それをゴールだとも思っておられず、信者にもっともっと遠くまで前進するよう望んでおられ、今見ている風景よりもはるかにまさった都を、実際に信者のために常に用意されているのだという事実を忘れ、否定してしまうのである。

筆者はこれまで幾度もクリスチャンの様々な家庭集会に出席したことがあり、そこで実に立派で麗しい様々な家々を見て来た。そこにある平和で、立派そうな快適な暮らしを見て来た。当時、筆者はそれをまるで自分には手の届かないものを見るように眺め、また、そうした信者たちの中には、小規模な家庭集会を組織することで、初代教会のような、巨大組織を持たない信者の群れを形成しようとし、それが神の御心にかなっているのだと考える信者もいた。

だが、当時の経験に立って、今、筆者が言えることは、筆者は今決して自分で家庭集会を開こうとは思わないし、それが正しいことであるとも思わない、ということだけである。なぜなら、家庭集会というものには、どうしても人間の見栄や競争願望が強く働き、結局、それは自分の暮らしの経済的な規模や、家族の人数などを自慢する場となってしまい、信者たちがいかに地に定着して自分の暮らしに満足しているかをアピールする場になり果ててしまうだけでなく、そこに別な信者を集めることにより、エクレシアを地上に固定化し、別な信者まで「地に住む」者としてしまうという反聖書的・悪魔的な意味合いが強く出てしまうからである。
 
筆者がこの地に来る前にキリスト者たちから聞いた言葉、また、筆者自身が聖書を通して得られる確信は、エクレシアは物理的・地理的制約とは一切関係ないということである。もっと言えば、エクレシアとは、神を信じ、神の子供として受け入れられた信者自身のことであり、地上に固定化された教会の建物とは一切関係なく、また、信者の住んでいる家とも関係ない。
 
にも関わらず、信者が、信仰を口実にして、自分の地上の家に固執し、これを信仰の賜物であるかのように他の信者たちに向かって自慢し、そこに満足して定着し、これを神の神聖な宮のように誇示し始めると、それはたちまち腐敗し、神の御心にかなわないものとなってしまう危険がある。このことは、信者たちが誇る地上の建物としての教会にも全く同じように当てはまる。大規模な礼拝堂を建設することで、信者が神に奉仕できると考えることは全くの誤りだが、信者の地上の家についても同じことが言える。自分の家の経済的規模を誇ることが、神の栄光には全くつながらないのである。
 
もちろん、神は信者の地上生活に必要なものを全て与えられる。そこには家も含まれる。信者は自分が望むことを神に申し上げ、信仰によってそれを実体化すれば良い。より良い家を求めることが悪なわけではない。だが、それは決して、信者が与えられたものに安住し、これを神が目指していた都そのものであるかのように誇るためではない。信者はたとえ地上的な利益が、当初は信仰によって与えられたのだとしても、与えられたものに決して満足することなく、そこに安住もせず、常にさらに先へ進んで行かなければならない。

こうして信仰により、信者が天の報酬を掴みながら、「栄光から栄光へと」、さらに優れた都を目指し、それに近づきながら歩み続けることは、たやすいことではない。その前進の最も大きな妨げとなるのが、信者の自己満足、自己安堵である。

信者は、一つの試練を立派に勇敢に耐え抜いても、一つの戦いに勝利しただけで、たちまちそれがゴールだと思ってしまい、それ以上、進んで行くことを考えなくなることもある。戦いの激しさに疲れ、前進したくないと思うこともある。そうなると、神は信者をさらに前進させるために、信者の自己満足を打ち砕くための新たな試練を課し、信者が握りしめているものを容赦なく剥ぎ取ることまで、時にはせざるを得なくなる。

できるならば、そのような深刻な事態にまで至り着く前に、信者は気力を奮い起こして立ち上がり、真に神の御心を満足させる完全・完成へと至り着かないことには、自分自身も決して満足などしないという気概を取り戻し、さらに前進すべく行軍を進めるべきであろう。
 
さて、個人的なことを言えば、今回、筆者が疑念を抱いたのは、横浜という街に住んでいることへの自己満足であった。筆者は横浜に何のこだわりがあるわけでもなく、この街よりも都会に住んでいたこともあれば、もっと田舎暮らしの良さも知っているが、それでも、以前よりも良い住環境を手にした時、この地にとどまって安住してしまう危険が自分に忍び寄っていることに、遅ればせながらようやく気づいたのである。

そして、信者は何か一つの激しい戦いを経て、勝利を得ても、決してそれですべてが終わったなどと思うことなく、(ただちに)生活をさらに拡張すべく、新たな戦いへ出て行くべきであり、霊的前進がないのに、生活の拡張もあり得ないという事実に気づかされたのであった。

筆者はこの地にやって来た時、神が力強く働いて移住を後押してして下さったという確信があったので、それに気を取られるあまり、この地に深く定着することは、全く神の御心にかなうことでなく、そろそろ別な道が用意されているかも知れない、という可能性をすぐには思わなかったのである。

それどころか、住環境がより良くなると、かえって出る必要など全くないかのように思い、この地を出るべき時がひたひたと近づいていることに、随分、鈍感であった。

ところが、よく考えてみれば、このところ、特にこの数年で、筆者は、横浜の街のみならず、首都圏全域が、まるでソドムとゴモラのように腐敗・変質していることを思わざるを得ない。役人は不誠実、横暴・凶悪になり、住人の気質は陰険になり、人々は互いに騙し合い、搾取し合い、殺し合い、首都圏は、表向きのブランドイメージとは似ても似つかない、善良な人間にとっては、空気を吸うだけでも耐えられないような腐敗して、長くはとどまれない街に変わり果てている。
 
横浜という土地にも、深刻な疑念を抱かざるを得ない事件が、ここ最近、連続している。まず、一昨年は「津久井やまゆり園」事件があった。(2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」が、施設に恨みを持つ元施設職員 の若い男に襲撃され、19人が死亡、27人が重軽傷を負った事件)。そして、昨年は、座間の事件である。(神奈川県座間市の当時27歳の男が住むアパート室内で、若い女性8人 、男性1人の、計9人とみられる複数人の遺体が見つかり、死体遺棄事件として扱われた)。

こうした異常な事件では、どちらの場合にも、この社会で生きることに困難を覚えた社会的弱者たちが、その弱さを利用され、多数、犠牲とされた。後者の事件では、過酷な競争社会を生き抜くことに疲れを感じていた自殺志願者の若者たちの苦しみを足がかりにして、同じ若者世代に属する犯人が、同情的な態度を装いながら、彼らを騙し、歯牙にかけて殺したのである。

さらに、今年になると、新年早々、有名な着付け業者が、横浜の桜木町にあるみなとみらい店で、新成人を騙してサービスを提供せずに夜逃げし、新成人の成人式が大規模に台無しにされる事件が起きた。同様のことが八王子店でも起きたというが、これまで、首都圏でこんな事件が大規模に起きたことはなく、新成人という世代だけがターゲットにされることもなかった。しかも、業者の名前が「はれのひ」というから、皮肉も甚だしく、経営者が特別な反社会的な怨念に基づいて計画的に弱い立場にある者に無差別的な復讐を企てたかのような精神を感じざるを得ない。

だが、こうした事件だけでなく、筆者は日常生活においても、昔であれば、あり得ないような非常識なトラブルをよく見かけるようになった。さらに、西を向いても東を向いても、ブラック企業が蔓延し、それを取り締まる役所も機能停止し、弱い世代が根こそぎ犠牲にされ、食い物にされている。

さらに、このようにして前途ある人々が貧困に陥れられ、結婚もせず、家も買えず、車もなく、それゆえ少子化がますます加速している中で、同性愛者の人権などが公然と叫ばれるようになり、かえって、異性愛者が同性愛者に懺悔を迫られたり、肩身が狭くなる風潮が広がっている。同性愛者の人権を口実に、異性愛者が隅に追いやられたり、弾圧される世の中になりつつあることが感じられるのである。
 
こうした現象には、かつて「自分たちはキリスト教会で傷つけられた被害者だ」と主張するいわゆる「カルト被害者」を名乗る人々が、キリスト教界に登場して来た時、筆者のようなクリスチャンが、彼らの聖書に基づかない、およそクリスチャンらしくない、信仰の欠如した生き方を批判しただけでも、「被害者」を名乗る連中から袋叩きにされる危険に見舞われたのとそっくり同じ構図が見られる。

本来、キリスト教会というところは、聖書の御言葉への信仰を持つ信者によってのみ占められるべきであるのに、そこに、異常な牧師やカウンセラーたちが、「教会のカルト化」を憂慮すると言って、教会でつまずき、傷つけられたとする「カルト被害者」を、「加害者」たる教会が「救済」しなければならない責任があると叫び始め、公然と「被害者」たちをあたかも信者であるかのように教会に招き入れたために、教会が、もはや信者たちの場所ではなくなり、むしろ、教会や信者によって傷つけられたとする、信仰もあるかどうか分からず、さらには教会自体に怨念を持つ人々のたまり場へと変質させられて行ったのである。(その中にはキリスト教と縁がないばかりか、長年、カルトと批判される新興宗教の中にいて、ほとんど無理やり脱会させられただけの他宗教の信者なども数多く含まれていた。)
 
こうして「カルト被害者救済活動」が教会を舞台に公然と繰り広げられた結果、本来、最も教会のメンバーたるにふさわしいはずの正常な信仰を持つクリスチャンが、かえって「加害者」や「悪魔」のレッテルを貼られて、教会から外に追いやられる一方で、信仰の欠片もない「被害者」たちが堂々とまるで「信者」であるがごとくに教会に居残るという転倒した現象さえ、起きたのである。(このようなことは、いわば、教会の本当の信者たちを駆逐して、信仰を持たない人々に総入れ替えするために悪魔的勢力によって行なわれた、教会全体の乗っ取りであったと言えるだろう。)
 
ちょうど同様な現象が、LGBTの人権問題を皮切りに、起きつつあると言えよう。

「自分たちはこれまで差別され、苦しめられ、抑圧されてきた被害者・社会的弱者だ」と名乗る人々が現われ、彼らの存在を利用して、本来、何の問題もなかった正常なはずの人々に「加害者」のレッテルを貼り、罪悪感を抱かせ、追い詰め、これらの人々を駆逐して行くことをきっかけに、正常なものを異常なものによって駆逐し、取り替えようとする動きが出ているのである。

同性愛が、聖書において、神が定められた人間の自然なあり方でないことは繰り返すまでもない。だが、何者かが、同性愛者の「差別され、踏みにじられた人権の救済」を声高に主張することで、同性愛者対異性愛者という対立項をまことしやかに作り出し、同性愛者を異性愛者にぶつけ、両者を戦わせ、異性愛者に「加害者」のレッテルを貼って追い詰めることで、異性愛者を隅に追いやり、ますます異性愛者が生きづらくなり、少子化が加速化するだけの世の中を作っているのである。

その結果として、ついに最後は、結婚のイメージや、夫婦のイメージ、家族のイメージまでもが塗り替えられることであろう。同性同士の結婚が当たり前になり、チャペルは連日、同性愛者の結婚式を扱うようになる一方で、異性愛者は、彼らを差別し排除して来た「罪ある抑圧階級」として、うなだれて、隅に追いやられることになりかねない。

暗闇の勢力の真の目的は、社会的弱者の救済でもなければ、同性愛者の人権の「回復」(?)でもない。むしろ、同性愛者を口実にして、正常で自然な結婚生活、神が造られた自然な男女のあり方そのものを破壊し、駆逐し、根絶して行くことにこそあるのだと言える。

聖書に記されたソドムとゴモラの街は、不法や姦淫が満ち溢れていただけでなく、男色の街だったことに注意が必要である。それなのに、今やクリスチャンや牧師を名乗っている人々でさえ、同性愛者の人権の擁護に回っている始末である。

このようなわけで、筆者は近年、首都圏全体が、もはやソドムとゴモラ同様になりつつあるという感覚を抱かざるを得ない。

さらに、首都圏では、官民を問わず、あまりにも虐げと搾取が横行している。非正規雇用化が進み、どの職場も、まるで信者を食い尽くして存続するカルト団体のように、従業員や職員を骨までしゃぶりつくして利益を上げることに邁進し、長時間残業や、過労死や、不当な解雇や、賃金未払いや、職場でのイジメが横行して、働いても、働いても、豊かになれる見込みのない社会層が国民の圧倒的多数を占めるようになり、彼らは、未来の展望のまるでない、仕事と呼ぶよりも、もはや懲罰にも等しい働き方の中で、じわじわと殺されつつある。このような、カルト団体にも等しくなった社会がまるで「常識」のごとく唱える未来のない異常な生き方に自ら身を委ねるのは、自殺行為にも等しい、と言わざるを得ない。

こうして、貧しい人々を容赦なく踏みしだき、虐げながら、また、被災地の人々の苦しみを見殺しにしながら、一部の巨大企業だけが偽りの経済繁栄を享受して、政府はそれだけを根拠に我が国の経済は復興したと唱え、戦前回帰のイデオロギーに基づき、ありもしない「神国」の威光を世界に知らしめすべく、呪われた祭典としての東京オリンピックが進められようとしている。

筆者にはこんな異常な祭典が正常に開催されるとは到底、信じられないが、この祭典とそれが招きよせる呪いや破滅に巻き込まれないよう、そこから遠ざかる必要を感じないわけにはいかない。

いずれにせよ、カルト団体の中にとどまっていながら、幸福に生きることができないのが当然であるように、このように歪んで呪われたイデオロギーに基づく不毛な土地には、さっさと背を向け、その支配下にとどまることを避けるべきではないだろうか?との疑念が高まるのである。

カルト団体を是正しようとしても無駄なように、政治改革を唱えて、この異常なものと取っ組み合い、それを是正することが信者の仕事ではないであろう。彼らは自らの信念に従い、行き着くところまで行き着いて滅びるしかないことであろう。
 
そういうわけで、長年、安住という状況からほど遠かったがゆえに、特定の地に定住する危険にはさほど見舞われず、それに鈍感であった筆者も、今の首都圏では、何をどう模索しても、明るい未来の展望を切り開くことは無理なのだと思わざるを得ない。それどころか、ここはまさにソドムとゴモラの街そのものであり、どんなにこの腐敗した街で平和と安寧を享受したとしても、それは偽りの繁栄にしかならず、到底、神の御心を満足させるものとはならないのではないかと考えざるを得ない。

信者は、常に心の中では何も持たない貧しいやもめのごとく、身一つで、さらにまさった天の都を目指して歩き続けるべきだが、とりわけこの街については、神の使いは今、この街の大々的な腐敗に心を痛めている人々に一人一人、声をかけて、エクソダスの時を知らせておられるのではないだろうか、という思いさえこみ上げてならない。だが、もしその直観が思い過ごしでなく正しいものであるならば、遠からず、神はそのように道を整えて下さるであろう。
  
以下、オースチンースパークスの論説を引用して終える。

 「土台のある都」 第一章 導入的概論 (9)

四.寄留者であり旅人である

 それと密接に関係し、対応していることですが、その土地のアブラハムは寄留者・旅人として幕屋の中に住み、その地に何の分け前も持たず、その土地では旅人だった、と告げられています。これは天的性質の特徴ではないでしょうか?ここでは寄留者であり旅人です。しかし、それでは私たちはどこに属しているのでしょう?ペテロは彼の手紙を書くときこう述べています、「愛する者たちよ、私は旅人であり寄留者であるあなたたちにお願いします……」(一ペテ二・一一)天の国に属しており、天の市民権を持っているのです。

五.地的庇護や報いを拒むこと

 この世からの庇護や報いは、アブラハムには何もありませんでした。彼は正しい諸原則のために尽力したかもしれませんし、そうすることによってこの世の人々に益をもたらしたかもしれませんが(この地上の主の民の霊的奉仕がこの世に対して、この不敬虔な世に対してすら、何らかの益を及ぼしたことに、異を唱える人がいるでしょうか?その中に主の民がいなければこの世がどうなっていたかは、主だけが御存知です)、アブラハムは彼の活動から益を受けたこの世の人々や、ソドムとゴモラの町の人々に対して、彼らが何らかの報いを与えて彼を庇護しようとした時、「結構です」と言いました。アブラハムは依然として外に立っていたのです。

 この地上の神の民の奉仕を利用すること、彼らに感謝、称号、地位を送ること、彼らをこの地上の人々の間で重要なものにすることが、これまで悪魔が仕掛けてきた最も深刻な罠の一つでした。これらの昇進が行われ、これらの贈物が与えられ、この感謝が送られ、これらの地位が与えられる時、往々にして、深遠な霊的重要性が失われ、その生活の実際の霊的価値は終わりを告げることがわかります。多くの真に価値ある神の僕の悲劇は――彼らは霊的な方法で神によって力強く用いられましたが、その霊的価値を失い、その特徴を失ったまま人生を終えました――何らかの方法で彼らが感謝・受容されるようになり、この世からの感謝と恩恵と報いを受け取ったせいでした。天的性質と分離を維持することが、霊的価値を維持するのに必要不可欠です。