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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する。

思った通り、働かせ方改悪法案が強引に押し通されようとしており、これが通れば、まさに我が国は24時間働かせ放題のディストピアへと転じることになる。

筆者がこれまでずっと述べて来た通り、労働がまさに罪のゆえの終わりなき懲罰と化す時代が到来しているのだ。アウシュヴィッツ行きの列車が人々を満杯に乗せて、汽笛をあげて発車しようとしている。

この列車に乗ってはいけない。今は勤労の精神を説く時代ではない。プロテスタントの始まりと共にヨーロッパ諸国で勤労の精神が取り入れられたが、プロテスタントも、労働市場も、徹底的に腐敗堕落し、もはや終焉にさしかかっているのだ。

「私たちは安定的な雇用を得て、定期的な収入と、高い職業的な地位を得て、まっとうな市民としてのつとめを果たしているから大丈夫・・・」などと思っていると、行き先は飢えと死の支配する強制収容所となろう。

それはキリスト教界も同じで、宗教組織に所属し、宗教指導者に従うことで、それを神の救いの目に見える形の代替物のように思って握りしめていると、行き先は地獄でしかない。
 
この国は、もはやすべてにおいてタガが外れており、善と悪が逆転し、すべてのことがひっくり返っている。善良な人々が悪人とみなされ、悪人が善人面して跋扈している。
 
だが、そうなったのには、深い理由がある。これは我が国が経済成長だけを第一として、金儲けを至上の価値として歩んできたことの手痛いツケであり、必然的な結果なのである。

戦前もそうであったが、戦争は、政府や皇族や大企業の金儲けのために起こされるものであって、口実など何でも良いのである。要するに、儲かりさえすれば、どんな手段を取っても構わないという精神が、戦争へとつながって行くのだ。

人権軽視の憲法改悪と、武器の製造と輸出(軍需産業の育成)、国公立大学における人文科学の縮小、人間を過労死させるまで働かせて使い捨てることを厭わない働かせ方改悪法案などは、すべて根底では一つにつながっている。要するに、これらは金の力の前に人権および人命が徹底的に軽視され続けたことの結果、起きたことである。
 
最近、辛淑玉さんが事実上の国外亡命を果たしたというニュースを知って驚いた。以下のニュースは「読む・書く・考える」のブログから転載したものである。
 

東京新聞(3/14):

 「ニュース女子」問題で辛淑玉さん
 ヘイト標的 拠点ドイツに 

 沖縄県の米軍基地反対運動を扱った東京MXテレビの番組「ニュース女子」で、名誉を毅損されたと認められた団体代表の辛淑玉さん(59)が昨年11月からドイツに生活拠点を移した。本紙の取材に対し、昨年1月に番組が放送されてから民族差別に基づくヘイトクライム(憎悪犯罪)の標的にされかねない不安が高まったとして、「事実上の亡命です」と明かした。(辻渕智之)

 辛さんによると、番組放送後、注文していない物が自宅に届いた。近所で見知らぬ人が親指を下に向け批判するポーズをしたり、罵声を浴びたりもした。これまでも仕事先などへの脅迫や嫌がらせはあったが「私の身近な生活圏に踏込んできた」という。(略)
(略)
 最近は「スリーパーセル」(潜伏工作員)との中傷もある。先月、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部が銃撃されたことに触れ、「私が狙われてもおかしくなかった。国のリーダーは北朝鮮と敵対しても、『日本の中にいる朝鮮人たちは一緒に生きていく隣人です』と宣言してほしい」と訴える。


 この出来事についてブログの著者は呼びかけている、
 

「辛淑玉さんは、日米両政府から差別・迫害されるマイノリティ(沖縄)に連帯し、その自己解放運動を支援してきた。そんなマイノリティ(在日コリアン)女性の自宅を特定し、嫌がらせを繰り返して、ついには国内で生活できなくなるまで追い詰める。これが「愛国」だの「美しい国」だのを標榜している連中の正体なのだ。

一刻も早く、そんな不良日本人どもからこの国を取り返さなければならない。それは、間違いなく、この国のマジョリティである我々の責務である。


まったく同感である。だが、それにしても、ここまで事態が深刻化していたと知って筆者は驚いた。単なるテレビ番組だけの問題ではなくなり、実生活にまで被害が及び、もはや日本にいられないというまでの事態になっていたのだ。

「ニュース女子」とは、化粧品会社DHCの傘下のグループ企業が制作しているテレビ番組である。このDHCは、澤藤統一郎弁護士のブログの文章を理由に、弁護士に高額スラップ訴訟を起こしたことで知られる。DHCが起こした高額スラップ訴訟については、「澤藤統一郎の憲法日記」に詳しく、弁護士はDHCと勇敢に戦って勝訴し、今やDHCが被告となっている。

「ニュース女子」では最近、沖縄の高江・ヘリパット基地建設に関連して、事実として裏づけの取れていない、基地反対派の活動を一方的に敵視して貶める内容の放送を行ったとして、ネットでも数多くの批判を浴びていた。DHCのグループ会社が制作するこのTV番組は、まさにDHCという企業の意向を強く受けて制作されていたと見られる。
 

朝日新聞デジタル 「ニュース女子」打ち切りへ MXと制作会社に隔たり 
田玉恵美 2018年3月1日03時21分 から抜粋
 
 ニュース女子は、化粧品大手ディーエイチシーのグループ会社「DHCテレビジョン」が取材・制作し、MXが完成版の納品を受けて放送している。問題になった昨年1月2日の放送回については、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が昨年12月、MXが番組内容を適正にチェックせず、中核となった事実についても裏付けがないとして「重大な放送倫理違反があった」とする意見を公表していた。

 関係者によると、批判を受け、MXは自ら番組の制作に関与したいと申し入れて交渉していたが、DHC側から断られたという。このため、今春の番組改編に合わせて番組の放送をやめることを決めた。

 
しかし、BPOから放送倫理違反との結論が出されたことに対し、DHC会長は、かえって「BPOは正気か」とする反論を発表し、そこでBPOは委員のほとんどが「反日、左翼」に占められており、正常な判断など下せるはずがないと、偏見としか言いようのない衝撃的な見解を述べている。そして、「ニュース女子」はうちきりになったわけではない、これからも放映を続行すると強弁して、BPOに対決宣言と見える姿勢を打ち出している。
 

【DHC会長独占手記】「ニュース女子」騒動、BPOは正気か 
「ニュース女子」DHC会長、衝撃の反論手記 
から抜粋
「田嘉明(DHC会長)


 今、問題になっている放送倫理・番組向上機構(BPO)についてですが、まずこの倫理という言葉を辞書で調べてみると「善悪・正邪の判断において普遍的な基準となるもの」(「大辞泉」)ということになっています。そもそも委員のほとんどが反日、左翼という極端に偏った組織に「善悪・正邪」の判断などできるのでしょうか。

 沖縄問題に関わっている在日コリアンを中心にした活動家に、彼らが肩入れするのは恐らく同胞愛に起因しているものと思われます。私どもは同じように、わが同胞、沖縄県民の惨状を見て、止むに止まれぬ気持ちから放映に踏み切ったのです。これこそが善意ある正義の行動ではないでしょうか。

 先日、情報バラエティー番組『ニュース女子』の問題に関して、朝日新聞が「放送の打ち切り決定」というニュースを大々的に流したようですが、『ニュース女子』の放映は今も打ち切ってはいません。これからも全国17社の地上波放送局で放映は続行します。」
 


 だが、以上のような見解を見ても、すぐに分かることは、DHC側が、沖縄の基地問題を、日本と米国の外交問題、政治問題、また、日本本土と沖縄との偏って不公平な関係といった観点からとらえるのではなく、これを日本人対在日コリアンという民族対立のヘイト問題にすりかえることで、人々の目を問題の本当の核心から目をそらそうとしていることである。

もしも民族的対立という観点からとらえるのであれば、沖縄の基地問題は、何よりも、日本人から琉球人への差別という観点から論じられねばならない。今でも続行している日本本土による沖縄への基地の押しつけという不公平にこそ、まずは目を向けなければならない。

ところが、本土と沖縄という問題を、それとは全く異なる日本人と在日コリアンの対立という問題にすり替え、「在日コリアン側からの日本人への敵視」が行われているという、一種の被害妄想めいた話を作り出すことによって、沖縄を差別してきた加害者であるはずの日本人が、かえって被害者であるかのような問題のすり替えが行われようとしている。

そうした原因すり替え論の結果として、辛淑玉さんが国外亡命さざるを得ないような状況さえ起きて来ている。本来は、企業が政治活動に携わること自体が、望ましいことではないと筆者は考えるのだが、最近は、企業にもあからさまな右傾化が起きており、DHCのみならず、巨大企業がブランド力と動員力を使って、テレビだけにとどまらない政治的影響力を行使するようになっている様子が伺える。

とはいえ、日本人もTV番組や巨大企業の宣伝だからと裏づけの取れない情報を完全に鵜呑みにするほどまで愚かではないため、こうした動きに対しては、強い反発も起きており、DHC製品の不買運動もじわじわ広がっているようであり、上記の弁護士などもDHCの不買運動を呼びかけて広く反響を得ている様子である。

東京MXテレビとDHCの開き直りに反感、デモや不買運動もー『ニュース女子』沖縄ヘイト放送
志葉玲  | フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和)  2017/1/27(金) 8:59


だが、今のままだと、まもなく不買運動など呼びかけずとも、化粧品のことなど誰も考えていられないような恐るべき時代がやって来ることになるだろう・・・。しかも、まるでロシア革命時に大勢のロシア人が国外に亡命したように、辛淑玉さんのみならず、我が国で「非国民」のレッテルを貼られた人々が、続々とこの国を捨てて国外亡命を果たすような時代が、もうすぐそこまで来ていると感じられてならないのである。

こうした一連の出来事を見つつ、筆者も色々と考えさせられる。

筆者は最近、ヴァイオリンを弾きながら、辛淑玉さんのように、将来、ドイツへ行ってみるのも悪くないなあ・・・、などと思いめぐらしている。国外亡命のためではない。何しろ、ドイツは教育が無償だそうだから、改めて音楽を学び直す良い機会ともなろう。

音楽には国境もなければ言語の壁もないため、いざとなれば、日本国内外を問わず、そこから何か開けてくるものがあるだろうと思うのだ。筆者はこの試みが、深いところで、筆者自身の自由とも密接につながっていることを強く確信している。

筆者は以前から、この国はソドムとゴモラ化していると書いており、まさしくその通りの展開となっていることを感じている。そして、このような腐敗した領域からは出るべきだと述べている。だが、筆者が述べている「エクソダス」とは、あからさまな国外亡命のような、物理的な移動を指しているわけではないのだ。時には、そういうことが不可欠な場合もないわけではないと思うが、はるかに重要なのは、霊的エクソダスである。

これから先、どれだけ早く真実に気づいて「エクソダス」を成し遂げるかが、一人一人の生死を分けることであろう。

筆者は、働かせ方改悪法案に賛同しておらず、事実上の24時間労働制・国家総動員体制などに賛成票を投じるつもりも全くないが、それでも、残念ながら、我が国に国家総動員体制のようなものが敷かれるのはほとんど避けられない結果だと考えている。

それはこの国がこれまで敷いて来たヒエラルキー、競争原理が必然的にもたらす結果なのであり、一旦、とことん行き着くところまで行き着かない限り、この残酷な競争の激化は止められないのではないかと考えている。

だから、私たちはそうした先行きのない世界から目を逸らし、新しい地境を見るべきなのである。もし船の左側に網を降ろして何も魚が取れなかったなら、右側に網を降ろしてみれば良いのだ。左側は、人間の努力によってすべてを達成する道、右側は、神の約束によってすべてが達成される道である。

話が変わるように思われるかも知れないが、経済界および労働市場の絶望的なることを示すために、あるエピソードを述べておきたい。

それはかつて筆者が何年も前に、アルバイトのような仕事をして、とある故障・修理受付のセンターで働いていた時のことであった。

筆者がその職場に入ったとき、その職場は、開けた都会の駅からすぐの大型ショッピングモールのビル街の只中の、きれいでピカピカのオフィスにあった。まだ立ち上がったばかりで、大勢の同僚たちが雇用され、活気があり、窓から見える景色はきれいで、食べ物屋にも困らず、まことに良い雰囲気であった。

ところが、それがとことん異常になり果てて行くまで、3ヶ月もかからなかった。そのセンターの仕事には最初から前線部門と技術部門の二つの区分があり、最初、これらの部門の間に差別はなかった。だが、最初から給与が違っており、技術部門の方がわずかに高かった。前線部門は修理の受付をして技術部門へ渡すための一次対応であった。

センター始まってしばらくすると、いつの間にか、前線部門と技術部門との間にヒエラルキーのような格差が出来てきた。前線部門は、技術部門に接続する前段階の苦情受付のための捨て駒のような役目を押しつけられ、技術部門との間に、だんだん給与面だけでなく心理的にも大きな格差ができ、技術部門は特権的な地位のようにみなされるようになって行ったのである。

職場の中にヒエラルキーがあるということは心理的にも非常によくない。職場内にあからさまな無気力感が漂い、同僚同士が妬み合ったり、足を引っ張り合ったりして、何一つ良いことは起きない。

だが、そのセンターには、筆者が働き始めて3か月頃した頃から、今度は、いきなり現場の仕事には全く携わることのない庶務部門や、社員の仕事をチェックしてはダメ出しするだけの品質管理部門といった新たな部門が導入されて、さらに新たな重層的ヒエラルキーが出来上がり、事務仕事に携わる連中が、前線部門、技術部門を問わず、センター全体の仕事を見張り、難癖をつけては、大きな顔をするようになったのである。

いきなり導入された庶務部が、シフト管理などにうるさく口出しをし、全従業員に君臨して大きな顔をし始め、一つの職場内で、事実上の官僚集団のようになって行った。一つのセンターの中に完全な「お役所」が出来上がり、筆者は開いた口がふさがらなかった。

そのような事態になるまでの間に、仕事の質もどんどん落ちて行った。最初は活気があったセンターが、連日の苦情のために、どんどん疲弊して行った。さらに、従業員は、あくどい形で、顧客から金をとるために、修理しなくても良い箇所まで、修理させるようにとの業務指示を下されたりと、納得のできないことの連続で、顧客が可哀想だと思われることしきりであった。

何より、連日のように顧客から異常と思われる終わりのない苦情が入って来るようになり、それにみなが苦しめられていた。むろん、そんな苦情が発生したこと自体、企業の経営方針、倫理の欠如が深刻に問われる。そうした希望の見えない仕事の中で、職場では身びいきがはびこり、幹部の覚えめでたい連中だけが、見る間に出世して管理職に登用されて行き、管理者ばかりがゴロゴロいるようになったのであった。

筆者はより高い給与とましな仕事内容を求めて技術部門への転身を試みたが、あいにく実現しなかった。(そして、筆者の人生では、この仕事が本業とは関係のない最後のアルバイトとなった。)
 
以上のような変化の中で、筆者はこの職場には将来の希望が全く見いだせないため、早く転職せねばならないと思うようになった。品質管理部門が、皆の仕事に目を光らせて、あれやこれやとうるさく難癖をつけているため、思うように仕事もできなくなり、筆者はこの職場を一刻も早く出るべきと確信した。
 
ほんのわずかな期間に、入ったばかりの頃のわきあいあいとした雰囲気、同僚たちとのあけっぴろげな談笑、これから何かが始まるぞという活気は、急速に萎み、見る影もなくなっていた。

筆者が仕事に愛想を尽かしかかっている気配を察知して、それまで同僚だった人が、それを上部に密告し、友達の顔をして、筆者の動向を調べ上げ、中枢部に報告するようになった、筆者はうすうす同僚の裏切りを感じてはいたが、それでも、それを全く意に介さず、その同僚の説得を振り切って、センターを去った。

その同僚は、筆者の退職後、筆者を裏切り者のように言いふらしていたらしい。(だが、自己弁明しておけば、そのように悪しざまに言われていた人々の中には、筆者のみならず、この職場を脱出しようとしたすべての同僚たちがを含まれていたのである。)
 
そして、密告までして上部に媚を売り、その仕事にしがみつき、センターに残った人たちが、その後、どのような末路を辿ったのかは、センターにいた仲の良かった別な同僚が仔細に至るまで教えてくれた。

筆者がそこを出た後、なんとごくわずかな間で、本社からリストラ精鋭部隊なるものが送り込まれて、大規模リストラを決行し、そのセンターが事実上、崩壊したというのである。

筆者はその話を聞くまで、追い出し部屋だとかの話を耳にしても、半信半疑で、リストラ部隊などといったものは、あるはずのない話だと思っていた。まさかそれなりに名の通った大企業に、自社の社員たちをリストラすることだけを専門にしている社員が雇われているなど、考えてみたこともなかったのである。一体、何のために?

ところが、それは本当のことらしかった。本部から四人の凄腕のリストラ精鋭部隊が送り込まれて来て、センターに残っていた同僚たちをことごとく片っ端からクビにして行ったというのだ。

仕事のできる優秀な人々がまず真っ先にターゲットとされ、仕事に難癖をつけられては、何度も、何度も、訂正を求められ、それにうんざりして自分から辞めた人も多かったという。数か国語を扱える優秀な社員も同じようにターゲットとされて追い払われた。

次に、管理職、平を問わず、大規模なリストラが決行されて、センターの人員が半数近くもいなくなった。その後は、事実上の恐怖政治が敷かれ、最後までクビにならずに残った人たちは、シフトも自由に申告できなくなり、休みも思うように取れず、恐怖で辞めることもままならず、会社への密告を恐れて同僚と口を利くことさえできなくなり、職場に出勤しても、恐怖のあまり手が震えてパソコンを打てないほどだったという。

センター自体はなくならなかったはずだが、筆者が見知っていた同僚の8割がたは解雇されて入れ替えられた。筆者がいた頃に、身びいきで出世していった人々も、みなすげ替えられたのである。

筆者はこの他にも、職場の腐敗や、崩壊に近い現象をそれなりに見て来たが、短期間でこれほどまでにダイナミックな崩壊(自滅?)を遂げた事例は他に聞いたことがなかった。立ち上げ当初の活気ある雰囲気を知っていただけに、まさかという思いが今でも込み上げて来るが、やはり、自分の中の直観は正しかったのだと思う。

リストラ部隊は、筆者には、抜き身の剣を持った御使いたちの姿を思い起こさせる。コネや身びいきがはびこり、不平等なヒエラルキーが敷かれ、お友達ばかりが管理職になって出世し、誠実な人々はひたすら苦情処理のような味気ない仕事を押しつけられ、昇進の道も閉ざされ、将来の希望もなく、不公平、不正義、堕落、腐敗の代名詞のようになったセンターには、こうして目に見えない剣が投げ込まれて、誰の手にもよらず、職場が自壊して行ったのである。

そうした話を同僚から克明に聞かされた時、職場がそんなひどい状態に陥るよりも前に、筆者がそこを去ったのは、まことに正しい決断だったと、改めて心の中で頷いたものであった。たとえ裏切り者のように罵られたりしたとしても構わない、残っていれば、もっとはるかにひどい事態が待ち受けていたことは明らかなのである。

可哀想なことに、優秀でまじめで仕事好きだった同僚は、精神的に追い詰められて、疲弊した様子だった。決して誰とも対立したり、会社の悪口を言ったりするようなタイプではなく、思いやり深く、働き者の同僚であったが、結局、無理がたたって怪我をして、その仕事を続けることはかなわなくなったようであった。

筆者が何を言いたいかは、しまいまで言い切らずとも、分かってもらえるのではないかと思う。

これまで我が国は、「国と企業のために役立つ優秀な人材」を求めて、ひたすら偏差値教育やら、就職戦線やら、国家公務員試験制度やらを通して、国民同士を競争させ、国民の間にヒエラルキーを敷いて、差別的な階層を作り出した。仕事を得る上でも、新卒・既卒の差別や、正規雇用と非正規雇用の身分差別、圧倒的な賃金格差を作り出し、とことん不公平な体制を敷いて、国民同士を「勝ち組・負け組」に分断して、戦わせて来たのである。

そのような悪しき分断作戦に、国民は気づいて立ち向かうべきであったのに、競争原理に踊らされ、自分を「勝ち組」として、地位にしがみつくことに必死の人々は、隣人に起こっていることに無関心で、自分が優位にあるうちは、自分だけが大丈夫であれば良いと考え、他人を見殺しにした。自分自身が徹底的にターゲットとされるまで、搾取や、リストラや、過労死や、ハラスメントなどは、自分には関係のないことだと高をくくっていた。

そのような愚かさ、無関心さ、無慈悲さ、利己主義がもたらす最後の当然の結末として、我が国では、今や国家や企業の無限大の搾取の願望が、ついに24時間働かせ放題のディストピアという形で押し通されようとしているのだ。

もうこうなると、国の崩壊そのものが近いと言えよう。今や抜き身の剣を持った御使いたちが、天から派遣されて、目に見えない死の剣を、我が国の国民全体の頭上に振りかざしている最中なのである。

それなのに、人々は殺されるまで物言わぬ羊として、上からの覚えめでたい人間として生きるため、地位にしがみつくため、殺人的な政策にも黙って従い、屠殺場に黙って引いて行かれるつもりなのであろうか? 

残念ながら、こうした現象は、経済界だけに限ったことではなく、むろん、国の組織も、学術研究機関も同じであり、およそ地上の組織という組織が、腐敗して、頼りにならない、人間を苦しめ、圧迫し、閉じ込めるものとなっているのである。

それは、宗教指導者の利益を第一とし、宗教指導者から評価されることを信者の「救い」と取り替えた腐敗した宗教組織にも共通することである。

「囲いの呪縛から出よ!」と、筆者はもう一度、言いたい。私たちは「和の精神」の呪縛から自分を解放すべきなのである。

カルト団体では、宗教指導者が信者に死ぬ寸前まで奉仕を要求するが、今の経済界で起こっていることは、それと本質的に同じ現象である。合理的な結果を出すために働かせるのではなく、人間を完全に奴隷化して支配するために、限度を超えた労働を要求しているのである。

このような死の世界には触れてはいけない。問題は、過労死をいかに防ぐかとか、企業や団体に労基法をどうやって守らせるかとか、正規と非正規の格差をどうやって埋めるかと言ったところにはもはやないのだ。

この果てしない地獄のような搾取の願望、人命を何とも思わずに犠牲とする金儲け第一主義の腐敗した理念から、どうやって一人一人が身を引きはがし、身を守り、これにNOを突きつけ、これとは全く異なる価値観に従って生きて行くかという選択の問題なのである。

筆者はクリスチャンとして言うが、今やまさに一人一人の信者が、信仰によって神ご自身との直接のつながりを得て、人間の指導者を介さず、組織を介さず、神のまことの命からすべての供給を受けて生きて行かねばならない時代が来ている。
 
それはハドソン・テイラーやジョージ・ミュラーを含め、幾多のキリスト教の先人が生涯に渡って成し遂げて来た方法であるから、何も不可思議な方法論ではないし、恐れることでもない。

イエスは十字架にかかられる前にこう言われた。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:23-26)

この御言葉は、隣人愛のために自分を捧げるという文脈で誤解される向きが強いが、実際にはそうではない。この御言葉は、クリスチャンが、この世で得られるすべてのかりそめの栄誉、地位、財産など、人間の間で作り出される虚栄に対して死ぬという意味を強く持っている。

これは、人の目に立派な人間と認められ、この世でひとかどの者と認められて地位を築き上げようとすることをやめて、ただお一人の神だけに評価され、神の御心を満足させることだけを求めて生きよという神の命令なのである。そして、主イエスは、その実現のために、十字架の死に向かわれたのであり、ご自分の死を指して、ご自分の「栄光」だと言われたのである。

イエスが地上に来られた時代、地上には立派なエルサレムの都と神殿があった。多数の宗教指導者がいて、人々に敬われていた。だが、イエスはそうした人々から全く栄光をお受けにならなかった。むしろ、主イエスは彼らを偽善者と呼び、「白く塗った墓」にたとえ、「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ23:27)と非難されたのである。

イエスは彼らにこう言われた、

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者の子孫であることを、自ら証明している。

先祖のが始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ。蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。

こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」(マタイ23:29-36)

今日の時代もこれと全く同じではないだろうか。地上には荘厳で立派な教会がいくつも建てられ、立派な服を着た宗教指導者たちが講壇から重々しく説教し、うやうやしく荘厳な儀式が行われている。そして、彼らのもとに集まる信者は、自分たちは正しい宗教指導者を拝む正しい信者であると自負している。

あたかも、そこには完成に近い素晴らしい礼拝があり、素晴らしい敬虔な指導者や信者たちがいるように見えることであろう。

ところが、そうした人々は、神が遣わされた「預言者、知者、学者」を決して認めようとはせず、その中の「ある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」。そして、その血の責任を、自分自身の身に負っているのである。

イエスが、エルサレムの都と神殿の崩壊を予告して言われたことを思い出したい。

「「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。

見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。

イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指した。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石ここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」」(マタイ23:37-39.,24:1-2)

このような宣告が一切、我が国とは関係がないと、私たちは言えるだろうか? 義人を罪に定め、真実を闇に葬り、不法と虐げを見て見ぬふりをし、寄る辺ない弱い者たちを嘲笑して死に追いやり、神に従う信者を迫害し、神が遣わされた預言者を殺そうとする国や街が、この先、無傷で立ちおおせることなどあるだろうか?

だが、私たちは、地上のエルサレムではなく、天のエルサレムを目指して歩んでいる。地上の目に見える都、宗教組織、目に見える礼拝、目に見える宗教指導者に帰属するのではなく、天の都に根差して生きている。だから、私たちは常に見えない新しい地に目を注ぎ、地上の目に見える有様に足を取られることは決してない。上にあるものを求めるために、崩壊しかかっている地上の有様からは目を離すのである。

今日、私たちがこの身に負っている「イエスの死」は、現実の死ではなく、十字架における霊的死である。私たちは絶えず自分の心に問われている、あなたは何を第一として生きるのかと。この地上における栄誉、人からの賞賛や理解、高い地位などと言ったものを求め、それを第一として生きるのか、それとも、見えない神からの賞賛や評価だけを求めて生きるのか。神を愛し、神に従って生きることと、地上での栄誉を求めることは決して両立しない。

筆者は何も持たずにこの地へやって来たときと同じように、手ぶらかつ気楽に、しかし心から、神に向かって祈る、主イエスよ、私はあなたに従います。何があろうとも、私はあなたに従います。私は、キリストがそうであったように、完全な人となり、あなたに従いたいと心から願っている僕の一人です。私の行くべき道を教えて下さい。私を教え、導いて下さい。私の人生は、あなたの御手の中にあり、私は人生最後の瞬間まで、あなたの僕です。

私たち自身の努力や決意は不完全であっても、神は私たちの信仰に必ず応えて下さる。何しろ、私たちが神を選んだのではなく、主が私たちを選んで下さったのであり、それは私たちが出て行って、実を結び、その実が永遠に残るためなのである。

そこで、地上の有様がますます悲惨に、混乱に満ちて行ったとしても、私たちの心の中には、常に新しい尽きない感謝の歌がある。それは、私たちの永遠になくなることのない希望である、まことの神への尽きない賛美と感謝の歌である。

だから、私たちは確信を持って大胆にこう言う、「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなし得よう」と。イエスはすでに十字架で私たちのために勝利を取られたのであり、生涯の終わりまで、完全に私たちの味方でいて下さるのである。

「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
 イスラエルは言え。  慈しみはとこしえに。
 アロンの家は言え。  慈しみはとこしえに。
 主を畏れる人は言え。 慈しみはとこしえに。

 苦難のはざまから主を呼び求めると

 主は答えてわたしを解き放たれた。
 主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
 人間がわたしに何をなしえよう。
 
 主はわたしの味方、助けとなって
 わたしを憎む者らを支配させてくださる。
 人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
 君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。
 
 国々はこぞってわたしを包囲するが
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
 蜂のようにわたしを包囲するが
 茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。

 激しく攻められて倒れそうになったわたしを
 主は助けてくださった。
 主はわたしの砦、わたしの歌。
 主はわたしの救いとなってくださった。

 御救いを喜び謳う声が主に従う人の天幕に響く。
 主の右の手は御力を示す。
 主の右の手は高く上がり
 主の道の手は御力を示す。

 死ぬことなく、生き長らえて
 主の御業を語り伝えよう。
 主はわたしを厳しく懲らしめられたが
 死に渡すことはなさらなかった。

 正義の城門を開け
 わたしは入って主に感謝しよう。
 これは主の城門
 主に従う人はここを入る。
 わたしはあなたに感謝をささげる
 あなたは、答え、救いを与えてくださった。

 家を建てる者の退けた石が
 隅の親石となった。
 これは主の御業
 わたしたちの目には驚くべきこと。
 
 今日こそ主の御業の日。
 今日を喜び祝い、喜び踊ろう。

 どうか主よ、わたしたちに救いを。
 どうか主よ、わたしたちに栄えを。
 
 祝福あれ、主の御名によって来る人に。
 わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
 祭壇の角のところこまで
 祭りのいけにえを綱でひいて行け。
 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。
 わたしの神よ、あなたをあがめる。

 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編118:5-29) 

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小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださるのだから。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

さて、当方が申し立てた民事調停の第二回目の期日が開かれなかったことを、まるで当方が一方的に調停期日を「キャンセル」したかのように、自分に都合よく言いふらしている連中がいるようなので、一言断っておきたい。

普段から、裁判、裁判と叫んでいる割には、彼らは裁判手続きの詳しいことをよほど知らないらしい。当方は、申立を取り下げたわけでは全くなく、そもそも民事調停のキャンセルと不成立は全く違うものなのだ。

今回は、訴訟へ切り替えるために、裁判所に調停不成立としてもらえるよう要請を行った。後日、必要文書が裁判所から送られて来るので、それをつけて訴状を出すだけである。

民事調停は不成立になれば、これを前提として訴訟に移行することができる。その方がゼロベースから訴訟を起こすよりはるかに有利なのだ。しかも、今度は、原告の住所地の裁判所へ訴状を出すことになる。わざわざ遠方へ足を運ぶ必要がない。実に便利である。

訴えは複数、提起することになろう。しかし、この辺のことは戦略なのでブログで詳細を公にはしない。だが、本訴となれば、判決も含めて、申立の内容も、答弁書も公表されるため、誰が嘘を言っているのかは、当然ながら、万人に知れ渡ることになる。訴えに反論するためには十分な証拠が必要であり、根拠のある反論ができなければ、原告の言い分が認められるだけである。

カルト被害者救済を唱えている陣営は、案外、裁判手続きに疎いようで、この当たりのことを何も知らずに、ただ調停が開かれなかっただけで、争いは終わった、自分たちは勝った、通常通りの生活に戻ったと、恥ずかしげもなく嘘のプロパガンダを流布しているようだ。相変わらず、刑事事件も終結していないうちから、あまりにも軽率な連中である。
  
だが、考え違いをしないでもらいたいのだが、彼らのついた嘘は必ず、責任追及されることになる。当ブログは信仰告白がメインなので、裁判手続きについて細かいことは、これからも事前には決して書かない。場合によっては、事後も書かないことがあるかも知れない。今、言えるのは、こちら側では必要なアクションを着々と取って行くだけであり、脅されたからと言って退却することは決してないということである。

向き合う価値のない連中、あまりにも愚かな論争とは思うが、バアルの450人の預言者を相手取ったエリヤと同じように、勇敢に、決して途中で諦めたり、手を引くことはせず、決着をつけるまで戦い抜く所存である。

これまでも、幾度も見て来た光景なのだが、理屈の勝負となった時に、人数や力だけをよりどころとして来た連中は、絶対に勝てない。仮に向こうが当方を「口達者なだけで臆病な兎」と考えて馬鹿にし、見下げているとしても、口で筋の通った理屈を唱えられなければ、負けるのが裁判というものなのだ。そこでは、人数も図体も腕力も何の頼りにもならない。

それが証拠に、鳴尾教会との裁判で、アッセンブリー教団・村上サイドはボロ負けしている。そうなるまで、鳴尾教会の信徒の人数の減少を、村上は鬼の首でも取ったように吹聴して、さんざん上から目線で馬鹿にしていたが、その村上が負けたのだ。次には、「穴にこもった兎」と揶揄してさんざん馬鹿にしていた人間に負けることになる。事前に馬鹿にすればするほど、敗訴した時にはさらに面目丸つぶれとなろう。
 
このように、ジャイアン対のび太、ジャイアン対スネ夫の勝負であっても、ジャイアンが必ず負けるのが裁判というものなのだ。ジャイアン相手であれば、誰でも訴状を出しさえすれば、自動的に勝てると言っても過言ではない。別に口達者でなくてもよいのである。ジャイアンには腕力以外の取り柄がないので、誰にとっても恐れるに足りない。しかも、申立書は8割方出来ている。

もっと言えば、私たちはロゴスなるキリストに立脚して、信仰によって、すべてのことを行っている。私たちには、決して揺るがされることのない永遠の岩なるお方がおられる。だが、向こうには何も立脚するよりどころがない。あえて言うなら虚無の深淵、混沌から生まれて来たような、信仰のない連中である。このような闇が光に打勝つことは決してあり得ない。よろめいても、つかまる支えになるものさえ彼らにはなく、風に吹き去られるもみ殻である。

このような状況で、とある連中が、決着も着いていない争いについて、嘘のプロパガンダをさんざん流布していることは、こちらにとっては、実に好材料である。間違いなく、彼らが垂れ流す嘘は、賠償金や罪の重さに関わって来ることになるからだ。大いに油断させて、言いたい放題言わせて、周到に材料を集めながら、様子を見るのも一つの戦略で、愚か者は口が軽く、思い込みが強く、自惚れ切って、慢心しているため、自らの愚かさによって墓穴を掘るに任せよう。

ちなみに、参考までに書いておくと・・・

(被告の)名誉毀損行為が違法でないと認められるには以下の3つの条件が必要になります。
• 【公共の利害に関すること】
• 【書き込んだ目的が公共の利益を図るもの】
• 【その内容が真実である又は真実と信じる相当の理由がある】
これらを1つでも満たしていないことを裁判所に主張し、認められれば(原告の)請求が認められる可能性はあります。

これを読めば、我々にとっての戦いのハードルがどんなに低いかすぐに分かるのではないだろうか。筆者に関する誹謗中諸の書き込みは、この条件を全部満たしていない。筆者は公共性のある人間ではない。当ブログは公刊論文でもなく、宗教団体の発信したメッセージでもなく、公共の利益とは関係のない、私人の信仰告白に過ぎない。さらに、最後の真実であることの立証責任を彼らは絶対に果たせないであろう。本人でない者がこれを立証するのはもともと至難の業だからだ。

たとえば、実際に刑事告訴された人物について、事実に基づき、「誰それが刑事告訴された」とブログに書くのは、事実なので、基本的に違法行為とはみなされない。しかし、「誰それのブログ内容が犯罪的である」とか「誰それは精神疾患である」などと書き、それが名誉毀損の違法行為に当たらないと主張するためには、「誰それのブログに具体的な犯罪性があること」および「誰それが精神疾患に陥っていること」を、書いた本人や情報を掲載した者が、具体的根拠と共に立証せねばならないのである。

そこで、相手をよく知りもしないのに、根拠なく人を貶める印象批評ばかりしていれば、その記述のすべてについて、立証責任を問われることになり、それが立証できないために、誹謗中傷になって終わる。記事の削除くらいで済めば良いが、賠償請求の対象となる危険が極めて高いのだ。

だからこそ、当ブログでは結論を述べるに当たっては、必ず根拠となるソースを明白にするようにしている。画像の転載でも、安全と認められなければ、出典を記載しないことはない。こういう細かい作業は、論文の書き方の基本である。しかし、彼らの主張には根拠となるソースがいつもない。そこで、多分、彼らは反論のために論拠を探し出すだけでも、大変な苦労となるだろう。次々とネガキャンを書けば書くほど、立証責任がますます重く彼らにのしかかって来るというわけだ。

それから、もう少しだけついでに予告すると、訴えの内容如何によっては、賠償金は必ずしも判決が出てから支払いになるとは限らない。さらに、調停で一回請求がなされていると、延滞利息がつけられることもある。むろん、追加の請求が発生することは言うまでもなく…あとは、残念ながら、訴状が届いてからのお・楽・し・みだ。

そういうわけで、今、思い出されるのは、以前、筆者がこちらへ引っ越して来たばかりの頃に、筆者のバイクがいたずらで盗まれ、犯人が全員検挙された時のことだ。筆者は警察に被害届を出した際、犯人が見つかることには大した期待を寄せておらず、バイクも見つからないかも知れないと半分あきらめていた。しかし、すぐに近所で乗り捨てられていたバイクが発見され、それほどの故障もなく、十分に使用可能であったので、日常生活にはまるで支障をきたさなかった。後ほど弁護士から示談の電話がかかって来て、その時に、筆者のバイクを盗んだのは、8人くらいの少年グループで、あちこちで似た様な事件を引き起こしていたため、別の家で防犯カメラにばっちりと犯行の映像が映っていたことから、全員、面子が割れて捕まったと聞かされた。悔やまれるのは、その時、一人一人にきちんと賠償請求していれば、即座に新しいバイクが買えていたに違いないということだけである。

そこで、以前にも書いたように、村上密、杉本徳久を含め、カルト被害者救済活動の支持者らに誹謗中傷された人々は、集団訴訟に移行することを強くお勧めする。筆者はカルト団体は基本的に支持しないが、信教の自由を守る戦いにおいては、心は一つである。しかも、以上の連中は「不正に時効はない」という考え方のようなので、大昔の事件でも思う存分に追及されたら良いと思う。根拠のない脅しメール一通であっても、賠償請求に上乗せすればよろしい。迷惑を受けた宗教団体の方々は、アッセンブリー教団に公式に苦情と罷免の請求を送りつけられたらどうだろうか。当ブログでも、訴訟が開始すれば、署名なども募るかも知れない。

当ブログは、裁判沙汰やネガキャンにのめりこむことなく、この先も、あくまで基本路線の穏やかで平和な信仰告白と異端反駁を続けて行きたいと考えているが、おそらく、この事件の決着をつけることと、安倍政権の崩壊は深い所では一つにつながっているのではないかと感じられてならない。ネトウヨが跋扈して弁護士に勝ち目のない懲戒請求を送りつけるような、薄汚れた曲がった時代は早く終わらねばならない。きっと大勢の人々がそう感じているはずだ。

しかし、神の国の前進は、我々がぽかんと空を仰いでいてやって来るものではなく、一人一人のクリスチャンの毅然としたアクションにかかっている。そこで、我々は勇敢に真実を持って誠意ある行動を取るべきなのである。

「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)

まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。

見よ。の目は主を恐れる者に注がれる。
その恵みを待ち望む者に。
彼らのたましいを死から救い出し、
ききんのときにも
彼らを生きながらえさせるために。

私たちのたましいはを待ち望む。
主は、われらの助け、われらの盾。
まことに私たちの心は主を喜ぶ。
私たちは、聖なる御名に信頼している。

主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。
私たちがあなたを待ち望んだときに。
(詩編33:18-22)

主よ。私と争う者と争い、
私と戦う者と闘ってください。
盾と大盾とを手に取って、
私を助けに、立ち上がってください。
槍を抜き、私に追い迫る者を封じてください。
私のたましいに言ってください。
「わたしがあなたの救いだ。」と。

私のいのちを求める者どもが恥を見、
卑しめられますように。
彼らを風の前のもみがらのようにし、
の使いに押しのけさせてください。
彼らの道をやみとし、また、すべるようにし、
の使いに彼らを追わせてください。

まことに、彼らは
ゆえもなく私にひそかに網を貼り、
ゆえもなく、私のたましいを陥れようと、
穴を掘りました。
思わぬときに、滅びが彼らを襲いますように。
ひそかに張ったおのれの網が彼を捕え、
滅びの中に彼が落ち込みますように。

こうして私のたましいは、主にあって喜び、
御救いの中にあって楽しむことでしょう。
私のすべての骨は言いましょう。
よ。だれか、あなたのような方があるでしょうか。
悩む者を、彼よりも強い者から
救い出す方。
そうです。悩む者、貧しい者を、奪い取る者から。」
(詩編35:1-10)

「ききんのときにも生き永らえさせて下さる」、「私たちがあなたを待ち望んだときに、恵みが私たちの上にありますように」…。心強い御言葉である。神は神を畏れる者たちを知っておられ、あらゆる災いから助け出して下さる。

天の経済に生きることを始めてから、歩みを確かにする秘訣は信者の心の平安にあることを理解した。神に対する信頼がどれほど確固たるものかによって、信者の歩みは変わって来る。

どのような時にも、キリストの義に立ち続けることである。神は正しい者たちがゆるがされるようには決してなさらない。誰が神の義に立っており、誰がこれを拒んでいるのか、それぞれの生き様の結果が、いずれ万人の前に明白になろう。

キリスト者の存在がどんなに嬰児、乳飲み子のように頼りなくか弱く見えたとしても、我らについておられるのは万軍の主である。嬰児、乳飲み子の賛美と証の言葉が、エリコやバビロンの城壁を陥落させるのである。

当ブログでは分析を続けて行く。そのために時間を取ってもらえるよう主に願ったが、予想していなかった方法で、それは与えられた。

他の仕事ならば、どんなものでも、他の人が代行できるが、この仕事だけは、私以外に誰もする人がいない。多くの人たちが仕事を中途で投げ出した。また、荒野で倒れた。人に非難されるのを恐れて、自分の主張を曲げた。だが、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と、書かれている通り、肉なる人間に過ぎないこの世の者たちの言葉を恐れるくらいならば、神を恐れるべきではないか。十字架で神が人類に下された判決に逆らったならば、その人にはどのような末路が待ち受けていることであろうか。

人が従うべきは御言葉であって、この世の常識や道徳や、人間の作り出した主張や教えではない。にも関わらず、どれほど多くの人々が、集団的な空気のようなものを作り上げ、神に従う人々を組織的に貶め、排除し、その道を曲げようとして来たことか。神を信じて従う人の信仰そのものを嘲笑する雰囲気を作り出して来たか。この世の空気は、それ自体が、真理に目を閉ざさせるために作り上げられた偽りの体系なのである。だが、私たちはこの世の空気に従うことを拒み、あくまで聖書の御言葉に従う。

たとえすべての人を偽り者とすることになっても、私たちは神を真実な方とする。それは、私自身が神の御言葉によって義とされ、裁かれるときに勝利を得られるためである。神がこの地上を振り返って、試練の最中にも御言葉に堅く立ち続け、これを守り通した主の僕がいたことを認めていただきたいと願うからである。私は主の僕でありたいし、あり続けたいのである。だが、この願いを成就させて下さるのもまた神である。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときには勝利を得るため。」
と書いてあるからです。」(ローマ2:4)


主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。

「ああ。
反逆と汚れに満ちた暴力の町。
呼びかけを聞こうともせず、
懲らしめを受け入れようともせず、
に信頼せず、神に近づこうともしない。

その首長たちは、
街の中にあってほえたける雄獅子。
そのさばきつかさたちは、日暮れの狼だ。
朝まで骨をかじってはいない。
その預言者たちは、ずうずうしく、裏切る者。
その祭司たちは、聖なる物を汚し、律法を犯す。

は、その町の中にあって正しく、
不正を行わない。
朝ごとに、
ご自分の公義を残らず明るみに示す。
しかし、不正をする者は恥を知らない。

わたしは諸国の民を絶ち滅ぼした。
その四隅の塔は荒れ果てた。
わたしが彼らの通りを廃虚としたので、
通り過ぎる者はだれもいない。
彼らの町々は荒れすたれてひとりの人もおらず、
住む者もない。

わたしは言った、
「あなたはただ、わたしを恐れ、
懲らしめを受けよ。
そうすれば
わたしがこの町を 罰したにもかかわらず、
その住まいは断ち滅ぼされまい。
 確かに、彼らは、
繰り返してあらゆる悪事を行なったが。」

それゆえ、わたしを待て。
――の御告げ。――
わたしが証人として立つ日を待て。
わたしは諸国の民を集め、
もろもろの王国をかき集めてさばき、
わたしの憤りと燃える怒りを
ことごとく彼らに注ぐ。
まことに、全地はわたしのねたみの火によって、
焼き尽くされる。

そのとき、わたしは、
国々の民のくちびるを変えてきよくする。
彼らはみなの御名によって祈り、
一つになって主に仕える。
クシュの川の向こうから、
わたしに願い事をする者、
わたしに散らされた者たちが
贈り物を持って来る。

その日には、あなたは、
わたしに逆らったすべてのしわざのために、
恥を見ることはない。
そのとき、わたしは、
あなたの中からおごり高ぶる者どもを取り去り、
あなたはわたしの聖なる山で、
二度と高ぶることはない。

わたしは、あなたのうちに、
へりくだった、寄るべのない民を残す。
彼らはただの御名に身を避ける。
イスラエルの残りの者は不正を行なわず、
偽りを言わない。
彼らの口の中には欺きの舌はない。
まことに彼らは草を食べて伏す。
彼らを脅かす者はない。

シオンの娘よ。喜び歌え。
イスラエルよ。喜び叫べ。
エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。
主はあなたへの宣告を取り除き、
あなたの敵を追い払われた。
イスラエルの王、は、
あなたのただ中におられる。

あなたはもう、わざわいを恐れない。
その日、エルサレムはこう言われる。
シオンよ。恐れるな。気力を失うな。
あなたの神、は、あなたのただ中におられる。
救いの勇士だ。
主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、
その愛によって安らぎを与える。
主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。

例祭から離れて悲しむ者たちをわたしは集める。
彼らはあなたからのもの。
そしりはシオンへの警告である。
見よ。その時、
わたしはあなたを苦しめたすべての者を罰し、
足なえを救い、散らされた者を集める。
わたしは彼らの恥を栄誉に変え、
全地でその名をあげさせよう。

その時、わたしはあなたがたを連れ帰り、
その時、わたしはあなたがたを集める。
わたしがあなたがたの目の前で、
あなたがたの捕われ人を返すとき、
地のすべての民の間で、
あなたがたに、名誉と栄誉を与えよう、と
は仰せられる。」
(ゼパニヤ書第3章)

我弱くとも恐れはあらじ

「『子を産まなかったうまずめよ、歌え。
 産みの苦しみをしなかった者よ、
 声を放って歌いよばわれ。
 夫のない者の子は、
 とついだ者の子よりも多い』と主は言われる。」(イザヤ54:1)

 私は最近、既存の教会で培った礼拝や信仰のスタイルからますます離れつつあるように思います。信仰に関する制限がますますとりはらわれて行っているのです。ある人はそれを見て、これは危険だ、我流の信仰の始まりだ、潔癖症の始まりだ、禁欲主義だ、既存の教会で受けた根深いトラウマが、それを思い出させるあらゆるものに対する拒否反応を呼び起こしているのだ、きっとそのうちに何か自己流の神秘主義のようなものへ堕ちて行くに違いない、と危険を感じるかもしれません。しかしそう判断するのは、もうちょっと待っていただきたいのです。

 それはまず、下で述べたように、私が記憶している賛美歌の大整理から始まりました。
 既存の教会で習い、私の血肉となったような現代音楽の讃美歌がいくつもあります。中には、美しいメロディのものもありますし、奏楽をしているうちに脳裏に焼きついて、忘れられなくなったものもあります。かなり長い間、私は教会の奏楽に携わりましたので、当然のごとく、それらの歌は私の血肉になっていきました。ひらめきの感じられる、かなり気に入った曲、叙情的な曲もありました。しかし、それらの高揚感溢れる美しい賛美歌に、どういうわけか、私は年を追うごとにだんだん馴染めなくなってきたのです。

 私の賛美歌の好みは、飾り気のない単純素朴なものへと帰って行きます。私自身の心が、自分の血肉になるほどにまで慣れ親しんだ各種の讃美歌から、どういうわけか、離れて行くのです。

 今、私の頭に残っているのは、祖父が亡くなった時に、幼い姉妹たちと共に葬儀で歌った『主我を愛す』です。あまりにも単純な飾り気のないメロディと和音には、現代流行の音楽のように、興奮を煽る要素は何もありません。音楽としてはあまりにも素朴で、やや退屈なほどです。

 主我を愛す、主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ
 我が主イエス 我が主イエス 我が主イエス 我を愛す

 我が罪のため 栄えを捨てて
 天より降り 十字架につけり

 御国の門を 開きて我を
 招き給えり 勇みて昇らん

 我が君イエスよ 我を清めて
 良き働きを なさしめ給え
 我が主イエス 我が主イエス 我が主イエス 我を愛す

 この単純な歌詞、感動からは程遠いような単純な旋律を声に出さずに歌っているうちに、えもいわれぬ感動が内から沸き起こるのです。まるで獄中で、絶望の只中にありながら、ただ一人きりで、全身全霊をこめて歌っているかのようです。我が主イエス、我を愛す、この絶対的な関係の中には、いかなる他人も入り込むことはできません。四面楚歌の状況にあっても、ただ主と差し向かいで、私はこの歌を歌うのです。私の奥深いところから、その歌は生まれて来ます。

 次に、祈りが変わりました。既存の教会に通っていた頃、特に子供の頃のことですが、日曜学校などで、人前で祈らされる瞬間が嫌で嫌でたまらなかったことを覚えています。しかつめらしい、もっともらしい祈りの文句を頭の中で考えて、心にもない感謝の言葉を並べなければならないのが苦痛だったのです。

 けれども、今は、そんな形式的な祈りを一切しなくなりました。一人ぼっちで祈るのですが、声に出してつぶやくことさえほとんどありません。しかしながら、それは祈らなくなったということではなくて、生きている毎瞬が、祈りに変わったことを意味しています。今の私の祈りは、自分の魂を注ぎ出す、うめきに近いものです。ですから、言葉に直すとそれがどうなるのか、自分でもよく分かりません。ある人は、私に向かって「あなたはこのように祈ったらよいのです」と教えるのですが、私にはそれが受け入れられません。いや、いかなる形式も受け入れられません。主との二人きりの時間は、人には明かせないのです。

 今は、祈りとは、四面楚歌の状況にあっても、ただひたすら、うめきながら、泣きながら、神に助けを求め、罪を告白し、勝利を宣言し、来るべき出来事を知らせて下さいと頼むことへと変わりました。神への愛を静かに告白し、喜びに満たされることも自然に起こるようになりました。とりなしの祈りもあります。けれども、どのような順番で何を祈っているのか、自分でもよく分かっていません。それは全て密室の祈りであり、神と私だけの秘密であり、そこにはどんな形式も、入り込む余地はありません。

 礼拝も変わりました。毎瞬が祈りになったので、神を賛美することもそこに含まれるようになりました。ですから、礼拝という特別な時間を持たなくなりました。歌も特に歌わなくなりました。それで不自由を感じることもなくなったのです。

 今の私はちょうどサムエル記上の冒頭に登場するハンナのようです。ハンナはあまりにも深く嘆き悲しんでいたので、主の神殿を訪れても、まともに礼拝することができませんでした。楽しい歌も歌えませんでしたし、もっともらしい祈りを捧げることもできませんでした。ハンナの態度があまりにも常軌を逸していたので、エリは彼女が酔っ払っているのだとさえ誤解しました。しかし、ハンナは、愚痴のように、積もる憂いと悩みを神に告白することしかできなかったとはいえ、確かに、心のすべてを主の前に注ぎ出していたのです。

 礼拝とは何でしょうか。私たちが喜びと感謝を惜しみなく主に捧げることが礼拝なのでしょうか。
 楽しく主を賛美し、大胆に勝利を宣言し、快い、高揚した気分で、感動しながら、感謝しつつ主と向き合うことが礼拝なのでしょうか。
 必ずしも、そうだとは思いません。

 悲しみと憂いの只中から主に捧げる歌もあります。
 絶望の只中から生まれる涙の歌もあります。
 声にならない声、祈りにならない祈り、歌にならない歌があります。
 とても礼拝という範疇にはおさまらない、霊の切なるうめきがあります。

 主は、私たちが自分の心を偽らず、主に正直に申し上げることをこそ、何より喜ばれるのではないかと私は思います。それが憂いであるにせよ、悲しみであるにせよ、です。私たちが神の御前に格好をつけて、かくあれかしと思う装いを整えて出て行くことは、これ以上、必要ないのではないでしょうか。砕かれた魂を持って主に向き合うこと、それ以上に、神が私たちに求められ、また喜ばれるものはないと思うのです。

 今日の礼拝と呼ばれるものは、ほとんどが、人が人知により礼装を整えて主の御前に出ようとするものであるように私には感じられてなりません。その礼装が、霊によって着せられる服であれば良いのですが、ほとんどは、人が裸の惨めさを覆い隠して、神の御前で、また人前で格好をつけるための、人工的な服装、形式に過ぎないように感じられます。だから、心から悲しんでいる人たちは、教会の中に居場所を見いだせないのです。苦しんでいる人たちは、礼拝の中に居場所を見いだせないのです。そういう人たちに対しては、自己憐憫に溺れている、礼拝に水を差すので気持ちを改めて出直して来いとの非難の言葉がかけられるだけです。

 しかし、神はハンナの正直な告白に耳を傾け、彼女の涙とうめきをかえりみられたのです。神はいつも、自分は強いと自惚れ、自分は正しい心の持ち主であり、主を大胆に礼拝できるから感謝ですと告白する者たちではなく、自らの弱さを知って打ち砕かれた者たち、自分には神を礼拝する資格さえないと感じている者たちの味方なのです。
 主はいつも心砕かれた者を引き上げて下さいます。ハンナがサムエルを得た後に、喜びのうちに主に捧げた歌は、逆説的な勝利を謳ったものでした。
「勇士の弓は折れ、
 弱き者は力を帯びる。
 飽き足りた者は食のために雇われ、
 飢えたものは、もはや飢えることがない。
 うまずめは七人の子を産み、
 多くの子をもつ女は孤独となる。
 主は殺し、また生かし、
 陰府にくだし、また上げられる。
 主は貧しくし、また富ませ、
 低くし、また高くされる。
 貧しい者を、ちりのなかから立ち上がらせ、
 乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、
 王侯と共にすわらせ、
 栄誉の位を継がせられる。
 地の柱は主のものであって、
 その柱の上に、世界をすえられたからである。
 主はその聖徒たちの足を守られる、
 しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。
 人は力をもって勝つことができないからである。
 主と争うものは粉々に砕かれるであろう<…>」(サムエル記上2:4-10)

 キリストにあっての勝利とはいつもこのようなものです。勇士が与えられた力を感謝し、富める者がその安定した生活を感謝し、子沢山の女が神に感謝を捧げたからとて、何の不思議があるでしょうか。
 かえって、産まず女として軽んじられた女が、子を授かって喜びの声を上げ、貧しく蔑まれていた者たちが王侯のような栄誉を与えられて感謝を捧げ、弱い者たちが強くされて躍り上がる時にこそ、主の栄光が輝くのです。「夫のない者の子は、とついだ者の子よりも多い」、ここにこそ、神の御業の不思議があり、神の憐れみの深さがあり、人間の力によらない、神による逆説的な力の反転があるのです。

 神は常に心砕かれた弱い者たちと共におられます。礼拝とは、私たちが神の御前にまず自分の心を砕かれた状態で進み出ること、弱いままの自分を隠さずに御前にさらけ出すことから始まるのではないでしょうか。そこにはどんな装飾をちりばめた祈りも、高揚感溢れる情緒的な音楽も、大胆な宣言も、叫びも、踊りも、必ずしも必要ではありません。ただ単純素朴な、声にさえならないうめきがあるだけで十分なのです。

 工夫や粋を凝らした装飾を捨てて、ただ弱さだけを携えて静かに主の御前に出ませんか? そうすれば、私たちのその無の中に、弱さの中に、静寂の中に、主は限りなく現れて下さると思うのですが?

 主我を愛す、主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ
 我が主イエス 我が主イエス 我が主イエス 我を愛す

騒がしい信仰から静寂な信仰へ

主が今、確かに働いておられる、主は、牧者から打ち捨てられ、教会から捨てられて傷ついた羊のもとを一匹、一匹、訪ねておられる、社会から、家庭から、見捨てられかかったような貧しい人々のところを訪ね、魂の打ち砕かれた人々を神の御前に集めようとなさっておられる…、そのことをまさに実感できるような嬉しい手紙を遠方のクリスチャンからいただきました。
 その方は、金もうけ主義に堕した教会で思い切り傷つけられ、ショックのあまり御言葉を読むことさえできなくなり、一時は、聖書を封印すると宣言されていました。
 しかし、それほどの苦しみを乗り越えてでも、主は、その方を率直に御言葉に立ち戻るよう促されたのでした。それは、その兄弟が主によってどれほど愛され、どれほど主が彼を切に求めておられるかを示す出来事でした。

 彼が主にあっての兄弟であることを私は疑ったことはありませんが、それにしても、兄弟が父なる神の懐に大胆に飛び込み、主によって抱きしめられた瞬間を目にすることができたのは、私にとっても、大きな喜びであり、感動でした。

 ところで、彼は賛美について書いています。
「静寂な信仰をモットーにしています。
 あの、新興宗教(メガチャーチ)のライブ系、ヒップポップ系のノリノリの賛美礼拝というドンチャン騒ぎの大宴会場と化した教会は祈りの家と呼ぶのにふさわしくありません。あれは教会のクリスチャンの士気と結束力を高めるための歌にしか私には聞こえないです。神様に対して真心を込めた賛美ではないと感じます。」

 この言葉をここに引用させていただいたのは、「静寂な信仰」という言葉が、まさに私が求めている信仰のあり方とぴったり一致するからです。私は先日、ある人に向かって断言しました、「今日の教会は騒がしい現代音楽の賛美歌を捨てて、バッハに立ち戻れば良い」と。
 多分、このような意見を聞いた方は、誰でも、気分を害されるでしょう。それはよく分かっています。しかし、あえてこのような極論を述べるのは、現代音楽というものがいかにサタン的なものによって深く汚染され、堕落しているかということを、ひしひしと感じるからなのです。

 このように述べると、早速、「あんたは超保守派だ!」「どうせロックは悪魔の音楽だとか、そういうことを言うつもりなんだろう?」との批判が私に向けられるだろうことは分かっています。現代の化石、空気読めない人、クラシック・アニア、音楽的潔癖症…、まあ、ありとあらゆる非難の言葉が向けられるでしょうね。

 しかし、私にとって、特に、聖霊派の現代流行となっている賛美歌は、皆、人の感情や感覚に訴えかけることばかりが巧みで、肉的高揚感をひたすら煽るための一種の装置となっており、知性の感じられない、芸術性に乏しいものです。それはまるで濁った水溜りのようです。そこには、形式的に完成された美はありませんし、それを目ざそうとの意欲もありません。歌詞も極めて軽薄であり、知性に乏しく、音楽的に計算されつくした形式と美がありません、単調な歌詞と和音の繰り返しは、まるで人を暗示や催眠に陥れようと狙っているかのようです。

 現代音楽そのものがこういう道を辿っているので、非難されるべきは何も聖霊派の賛美歌だけではないのですが、このようなものは本物の音楽ではありません。私たちは水溜りを指して、これが海だと言うことができるでしょうか? インスタントラーメンを指して、これが本場のラーメンだと言うことができるでしょうか?

 特に聖霊派の流行の賛美歌は、どれもこれも、人間の肉を手っ取り早く喜ばせるには都合が良い、インスタント食品のようになってしまっています。手早く空腹を満たそうと思うならば、それは役に立つでしょう。しかし、そこには、沈黙の中で忍耐強く主の訪れを待つという要素は何もありません。静寂の中にこめられた深い感動、完成された形式の中にこめられた美、苦しみの極致から生まれて来る調和、といったものは、何も感じられないのです。言い換えるならば、それらの賛美歌の中には、手っ取り早く、主の素晴らしい臨在を我が物にしようとの欲望が働いており、人間が自分の心を無にして、ただ静寂の中に座し、主に心を明け渡して、忍耐強く、主の訪れを待ち望もうという覚悟が全く感じられないのです。

 とはいえ、私自身も、現代流行の賛美歌の中で育てられてきました。そこで、それらの音楽と私は切り離すことができません。私が曲を作ろうとしても、やはりそのような「くだらない音楽」が出来上がってしまうのです。それは時代の影響です。
 しかしながら、それでもあえて言うならば、今となってはもう、そのような賛美歌の底の浅さ、軽薄さ、無意味さに私は耐えられないのです。それらを「霊的」な賛美として理解することは、私にはもうできません。音楽に合わせて、叫んだり、泣いたり、手を叩いたり、騒いだり、跪いたり、歩き回ったり、そういうパフォーマンスを、霊的衝動であるかのように勘違いしていた時期が私にありましたが、今はもう、そんな外的現象、感覚的な要素は、霊的なものとほとんど関わりがないどころか、むしろ障害物のようにしか見えないのです。

 主の御前では、私たちが肉的衝動に突き動かされて忙しく動き回ることは、主の訪れを邪魔するものにしかなり得ないように思います。まるで片時もじっとしていられない駄々っ子が教室内を忙しく歩き回るように、次から次へと行動に移るのをやめて、自分の内に沸き起こるあらゆる衝動を鎮めて、ただ主にのみまっすぐ心を向けて、静けさのうちに主を待ち望むことが、今、私たちに求められているのではないでしょうか。古典音楽の中には静寂が絶妙な形で織り込まれていますので、それは私たちが主を静かに待ち望むことと矛盾しません。

 教会が偉大な古典の遺産を捨てて、さらには聖歌や新聖歌まで捨てて、どうして軽薄な即席の音楽を選び取らなければならないのか分かりませんが、時代の風潮は確かにその道を行っているようです。知性ではなく、感情や感覚に訴えかける音楽ばかりがますます採用されるようになってきているのです。しかし、私は、キリスト者はこのあたりで最新流行とはきっぱり手を切って、静寂の中に、沈黙の中におられる主に立ち帰った方が良いのではないかと思います。それほどに、現代流行の音楽には何かしらの危険を感じずにはいられません。

数え切れないバナナ(祝福)の中で…

 コアラ姉妹のために。
 主は私から、石の心を取り除き、兄弟姉妹への愛を与えて下さいました。十字架がもたらす平安の中で、人を見るとき、私はその人を愛さずにいられないのです。
 兄弟姉妹に会いたいと思う時、その愛は、激しい恋心のように燃え上がります。しかし、会うことができない間も、強く、穏やかな愛で、その人の幸せを主に願うことができるのです。

 約一年前、かなり貧しい暮らしの中で、私は苦心してある教会に通っていました。平日、通勤の際に持って行く弁当は、ゆかりご飯だけ。毎日、定刻にスーパーのタイムセールに駆けつけては、半額のお惣菜を買い込むのが日課でした。通勤で磨り減ったバイクのタイヤを交換できません。いつ、バッテリーが切れるかと不安です。緊急の余分な出費がいつ生じやしないかと、おびえながら暮らしていました。

 日曜日に、往復の電車賃を払い、教会で献金を払い、信徒との交わりの際に、店で昼食代を支払ってしまうと、残る一ヶ月、どのようにしてやり過ごせばよいのか、いつも、心に不安がありました。

 その頃、私は日曜礼拝に希望を託していましたので、礼拝に通わないことはできませんでした。信徒の交わりにも希望を託していました。だから、いつも主に祈ったものです、「神様、私は交わりの機会が欲しいのです。どうか、そのために必要な費用を与えて下さい。誰にも借金しないで暮らせるように、どうか助けてください」と。そして、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、昼食代を支払っていました。

 しかし、その教会で私が出会った姉妹が経験された貧しさは、それとは、比べ物になりませんでした。姉妹がカルト化教会にいた頃の献身生活とは、労働が制限され、収入はほとんど得られず、それでも、収入の5分の1以上を献金として捧げさせられるようなものだったのです。強制的な集団生活の中で、プライバシーが保てず、毎日、応じきれないような、理不尽な量と内容の奉仕が次々と要求され、極限まで疲労困憊させられていました。
 もちろん、ご飯のおかずなどありません。切り取ったにんじんのへたを窓際に置いて、徐々に生えて来る芽を摘んでは、炒めて食べる…。そんな生活であったことを、私は聞きました。

 ある日のことです。その過酷な献身生活の最中、姉妹が道を歩いていると、ふと、八百屋でバナナを売っていたのが目に入りました。一束、100円です。それを目にした時、姉妹はどうしても、バナナが食べたいと思ってしまったのです。しかし、収入は全てカルト化教会に捧げきっているので、買うお金が残っていません。だから、姉妹は神に祈りました、「神様、バナナを下さい、私はどうしてもバナナが食べたいのです」と。

 すると、後になって、本当に、考えられない方法で、食べきれないほどのバナナが知人を通して贈られたのだと、彼女は教えてくれました。神に仕えると言いながら、指導者を崇拝する偽りの教会の中にいたのに、そんな生活の中でさえ、主は彼女に御手を伸ばそうと、いつも彼女を見つめ、その時を待っていて下さったのです。(この事件については彼女の記事をご参照ください。)

 その話は、私にとってはあまりにも悲しく、かつ痛ましかったので、それを聞いた時に、答える言葉がありませんでした。けれども、
 「バナナが食べたい。」
 そんな小さな、取るに足りない、秘められた、切なる人の願いにさえ、豊かに応えて下さるのが主なのです。主は私たちの困窮を知っておられ、助けの御手を伸べる機会を待っていて下さるのです。

 私たちが神の助けを得るためには、まず、私たちが自分の願いを主に率直に申し上げ、その心の領域を主に明け渡す必要があります。このことについては、Dr.Lukeと、山谷少佐が明快に語っておられますので、ご参照下さい。(「十字架―交換の場―」「私たちのアイデンティティ」) 十字架とは、自分の願いと、主の願いとを交換する場なのです…。

 バナナ一本、食べたいなあと思う、願いであったとしても、私たちがそれを主に捧げる時、主は数え切れないバナナを持って、私たちの願いを満たして下さるのです。たとえ、その時、私たちに買うお金がなかったとしても、どんなに主から離れていたとしても、どんな混乱の最中であろうと、あるいは、カルト化教会の中にいようと、人知で考えられる限りの距離と障害を越えて、神は私たちが真心から主に捧げる願いを聞きつけ、それに応えようと、飛ぶようにして、私たちのもとに駆けつけて下さるのです。神はいつも待っておられるのです、私たちが、自力で何かをやろうとするのをやめて、ただ主に向かって目を上げ、主よ、成して下さいと、願いを神に委ねる時を…。
 
 さて、その後、私は引っ越し、姉妹との間にはかなりの距離が生じました。周知の通りの問題も手伝って、私たちの立場は今、離れています。
 しかし、私は信じています、私たちが信じているものが、同じ神である限り、一切の障害を超えて、私たちは姉妹として結ばれているのだと。
 いつか、もう一度、姉妹の元気な姿を主が私に見させて下さいますように、その時まで、互いの必要の全てを主に委ね、必要を満たされて健全な豊かさの中を生きることができますように。二度と以前のような困窮を通過せずに済みますようにと、願わずにいられません。

 教会に通っていた頃、彼女が詩を書き、私が曲を作りました。二人での初めての共同合作です。楽譜を書いて、牧師に提出しましたが、誰にも歌ってもらえませんでした。しかし、私としてはかなりの力作であったと、今も自負しているのです。まだ最終的な完成を見ていませんが、いつか歌える日が来ることを願います。(詩は一部変更。)

「礼拝」

私の全てを尽くして 愛する事を学ぶ
神様と この私自身と 弱さを覚えている 隣人を

弟子たちの足を洗ったイエスは
愛する事を教えてくれた
私の心に 主の愛が注がれ
私の心は変えられた

礼拝 それは愛する事
神様と 私と 隣人を


「愛する事を学ぶ」

イエスの十字架のゆえに
愛されていることを知ったとき
心から 主に従おうと
強く 強く 願う

御言葉に従おうとしても
できない自分がある
義にも 真理にも 届かなくて
あわれみ求め 叫ぶ

ありのままで 目を上げて
変わらない主イエスの愛を受けて
罪赦されて はじめの愛に戻り
愛する事を学ぶ

それが私の喜び
 


悲しめる者のためのくちびるの実



気絶しそうなほどの猛暑の中、美観地区を散歩して来た。
私は子供時代に、7歳になるまでこの街に住んでいた。
今になっても、記憶のどこかに、街の風景がおさまっている。

街中を歩くと、まるで方位磁石が身体の中に埋め込まれているかのように、遠い記憶が呼び覚まされる。
いつか通ったことのある道。いつか見た風景、いつか見た空き地、なじみ深い山々…。
写真を通じて、猛暑が読者に伝わることはないと思うので、美しい映像を載せておきたい。

昨日、ある方からとても嬉しいお便りをもらった。
「もしもこの先、苦しまねばならないなら、私もあなたと共に苦しみましょう、
けれども、キリストにあっての自由を私はあなたに楽しんでいただきたいのです」、という内容の便りであった。

それを読んだ時、こんな不思議なことがあって良いものだろうか? と思った。

これまで、キリスト教界において、私は泣く者と共に心ゆくまで泣いてくれた人を見たことがなかった。ましてや、苦しむ者のために立ちどまり、共に苦しみを担ってくれる人には出会ったことがなかった。

私の知っているクリスチャンと名乗る人たちのほとんどは、みな、自分が正しくふるまうことで精一杯だった。
何が正しくて、何が間違っているかを論じることで精一杯。
サタンの誤りに陥らないように気をつけることだけで精一杯。

それは、私の目には、幾度、倒されても、立ち上がる不死身の怪物のように見えた。
まるで痛みなどないかのように、弱さなどないかのように、不撓不屈の精神で、自分を鞭打って、わき目もふらず、そばにいる人の気持ちにさえ気づかずに、ただ前に、神の義にだけ向かって、まっすぐ、進んで行こうとする人たち。

何が正しくて、何が間違っているかを論じるために、果てしなく生み出される議論の数々(律法学者たちとまるで同じ)。
もつれた糸にからまるようにして、議論の中で訳が分からなくなり、立ちどまってしまった信徒は、道の途中で、置き去りにされた。
「信仰の勇者」になりたい人たちは、脱落者に構うことなく、信仰の弱い人を助け起こそうともせず、疲れ果てた人を置いて、議論しながら、どんどん先へ進んで行った。
自分達だけが、天国に到達し、神の御前で義人としてふるまうために。

どれだけの人が、気づけば教会に姿を見せなくなっていっただろう。
人の苦しみさえも、どう解決すべきかという議論に変えられてしまった。
主の御前で喜ぶことさえ、義務として教えられた
他人の苦しみに対して、涙一つ流さないまま、聖書を指差しながら、押し付けがましく、もっともらしく、残酷に、誤った考えを捨てるように、繰り返される説教。

まるで人生で一度も挫折したことがないかのように、「主にあっての喜び、平安」だけをひたすら強調し続ける、このお化けのような人たちに、ある日、私はついに、身体がついて行かなくなった。

まるで人生で一度もつまずいたことがなく、自らの失敗のために一夜も泣き明かしたことがないかのように、「何が正しいか」だけをひたすら説き、避けるべき過ちを潔癖症のように列挙する人たちに耳を貸せなくなった。

光は、闇を拒否することによって生まれるだろうか?
喜びは、悲しみを拒否することによって生まれるだろうか?
たとえ全ての誤った感情と行動を拒否したところで、人はそこから、真の自由や解放を得られるだろうか?

それはキリスト不在の福音であったのだが、私はそのことに長い間、気づけなかった。
そこで、私はキリスト教そのものを一旦、捨てなければならなくなってしまった。

身近なクリスチャンの語る不自然な「喜び」や「平安」に、私は辟易してしまった。
異常なほど熱狂的で明るい説教を、心が受け付けなくなった。
異常なほど歓喜に満ちて、軽薄な賛美歌に、心がついて行かなくなった。

ある教会の礼拝で、ゲストとして招かれた講師の説教に我慢しきれなくなった私は、いきなり礼拝堂から外へ向かって駆け出した。
「何してるの、一体、どうしたの…?」
他の信徒が不審そうに後を追って来た。

しかつめらしい服装をした、社会的にもそれなりの肩書きを持つ紳士たちの集う静かな教会だった。
何をしているのか、自分でもよく分からなかった。
どうしようもない拒否反応。どうしてこんなにも大勢の立派な人たちが、こんなくだらない説教に我慢できるのかという嫌悪感。
その時、私はもう生理的に、キリスト不在の礼拝に我慢できなくなっていた。

私はこの「義人お化け」のようなクリスチャンたちのいる教会から、嫌悪感だけを抱いて去った。彼らのうちには、人として何かとても大切なものが、大きく欠けているように思われてならなかった。

私は彼らに聞きたかった、なぜあなたたちは、人の悲しみや涙を受け入れないのか?
絶望的な環境にあって、笑顔も作れなくなった人たちの気持ちに、なぜ寄り添おうとしないのか?
なぜあなたたちは悲しむ者の悲しみを担わず、泣く者と共に泣くために、片時も立ちどまることなく、ただひたすら、自分の義のことだけを唱え、神にあっての喜び、勝利、平安ばかりを一方的に強調し続けるのか?

それから、私は長いこと、神なき絶望的な日々を送った。

ある人は、それを自己憐憫だったと言うかも知れない。
人につまずいて教会を離れた私を、浅はかだった、信仰が足りなかったと言うかも知れない。
私はただ自分の感情を優先しただけであって、それは信仰とは関係ない事柄だったと言うかも知れない。
人の憐れみや、助けを期待していた時点で、真に神に頼る信仰心がなかったのだと言うかも知れない。

だが、私は、「キリスト教」を離れて、初めて、人間的な感情を自分に取り戻すことができた。
もうこれ以上、不自然な喜びを自分に強制する必要がない。
無理な努力をして、キリストの枝らしくふるまう必要がない。
あらゆる苦難の中にあって、さも立派な解決を得たかのように、ありもしない勝利について語る必要がない。
私は失格者になったのかも知れないが、それならそれで良いと思った。これがあるがままの現実なのだから…。

そうして教会から遠ざかって、月日が過ぎた。
その間、ただ迷いと挫折だけがあったわけではない。私は確かに、自分の現在地を探し出すことができた。

多くのクリスチャンは自分の現在地を知ろうともせずに、ただ目的地のことばかり議論しているように私には思われてならない。
だが、たとえどんなに遠大かつ崇高な目的地を設定したとしても、自分の立っている現在地が分からないのでは、どうやって目的地にたどりつけるというのだろうか。

失意の日々に、私は地図を広げ、キリストから遠く遠く離れている自分の現在地を発見した。
現在地とは、自分が罪人であり、悔い改めて、神に立ち返らなければならないということであった。
それから、犯した罪を悔い改め、とにかく、どんなに時間がかかっても構わないから、ただ神へ向かって、キリストへ向かって歩こうと決意した。
誰もそばにいなかった。信仰の一人旅が始まった。

ところが、不思議なことに、その後、歩いているうちに、私の現在地と目的地が重なっていることに気づいた。
目的地であられるキリストが、いつの間にか、私と共に歩いて下さっていたからである。
「あなたはもうどこへも行かなくて良いのだ。あなたのうちに私がすでに宿っているのだから」と、神は我がうちに語られた。そして、今、私は自分がどこへ向かっているのか知らない。それを知っているのは、私ではなく、思いのままに吹かれる風――御霊である。



気づけば、他にも道連れが出来ていた。もはや一人旅ではなくなっていたのだ。
そして今、私に向かって、再び、主にあっての喜び、自由、平安を語る人があった。
それを聞いても、以前のような嫌悪感を、私はもう感じない。

それは、今、説かれている喜びが、以前のように、不自然な、上から強制される感情ではないことが分かるからだ。その喜びは、我がうちにおられるキリストからあふれ出てくるものであり、私が自分の感情を懸命に偽って、無いところから無理やりひねり出そうとする、不自然で到達不可能な感情ではないからだ。

イザヤ書の中で最も有名な箇所の一つを挙げよう。

「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
 われわれの慕うべき美しさもない。
 彼は侮られて人に捨てられ、
 悲しみの人で、病を知っていた。
 また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
 彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
 まことに彼はわれわれの病を負い、
 われわれの悲しみをになった。<…>

 彼が自分をとがの供え物となすとき、
 その子孫を見ることができ、
 その命をながくすることができる。
 かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。」(イザヤ53:2-4,10-11)

 これは御子イエスのことである。イエス・キリストはご自分の苦しみを通して、苦しむ人々に解放をもたらされた。主は喜びしか知らない人ではなかった。むしろ人の何倍も、悲しみと痛みを味わわれた。イエスの福音は、悩みのない富める者が、貧しく苦しんでいる罪人に、高みから押し付ける福音ではなかった。

 主は、私よりもさらにご自身を低くされ、私よりもさらに惨めな姿になって、無言のうちに、私に十字架の恵みを差し出された。そこには一切の強制がなかった。
 今日、もしも真の牧者と呼ばれるに値する人たちがいるならば、彼らはきっとイエスがされたのと同じように、自らを低くし、自分の打ち傷を通して、悲しむ人、泣く人を慰め、励ますことだろう。

イザヤ第61章1~3節。
「主なる神の霊がわたしに臨んだ。
 これは主がわたしに油を注いで、
 貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、
 わたしをつかわして心のいためる者をいやし、
 捕われ人に放免を告げ、
 縛られている者に解放を告げ、
 主の恵みの年と、
 われわれの神の報復の日とを告げさせ、
 また、すべての悲しむ者を慰め、
 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、
 灰にかえて冠を与え、
 悲しみにかえて喜びの油を与え、
 憂いの心にかえて、
 さんびの心を与えさせるためである。
 こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、
 主の栄光をあらわすために
 植えられた者ととなえられる。」

 愛に基づいた深い共感がなければ、人が人の心を開くことは難しい。悲しみを知らない人に、人の悲しみを慰めることはできない。痛みを知らない人に、他人の痛みを理解できない。捕われる苦しみを知らない人に、捕われ人の気持ちが分かるはずがない。
 だが、私たちは人として、実際にあらゆる種類の苦難を自ら体験できるわけではない。努力と経験によって、苦境に立たされている人たちの気持ちを正確に理解できるわけではない。

 どうすれば、私たちは、悲しむ者、憂う者の心を、主を信じる喜びと賛美へと導く「義のかしの木」となれるのだろうか。それは、他者の苦しみに対してとてつもなく深い共感を持っておられたイエスの姿勢にならうことによってである。私たちの拙い言葉と態度は、私たちの努力と経験によらず、イエスと御霊との力を受ける時にこそ、苦しんでいる人、悲しんでいる人たちの心に、届くものとなるだろう。

 私は、被害者や犠牲者と呼ばれる人たちの心の痛みを無視したり、否定するわけではない。だが、その人たちが、これ以上、いたずらに苦しみ続けることには反対である。なぜなら、すでに解放の喜ばしいニュースが届けられており、もう誰も、自分を犠牲者と呼んで、自らを卑しめなくとも良くなったのだ。なのに、どうしてその大きな特権を行使しない理由があるだろう?
 クリスチャン一人ひとりは、主によってすでにあがなわれ、完全に回復されている。私たちはその事実に堅く立って、ただ人の哀れみと同情ばかりを乞いつづける卑しい物乞いになることをきっぱり拒絶しようではないか。

 主イエスは私の苦しみのために、私以上に苦しんで死なれた。だから、私にはもうこれ以上、苦しむ必要がない。
 主イエスは私の悲しみのために、私以上に悲しんで死なれた。だから、私にはもうこれ以上、悲しむ必要がない。
 主イエスは私が見捨てられた以上に、人からも、神からさえも見捨てられて死んだ。だから、私にはもうこれ以上、誰からも見捨てられる苦しみを味わう必要がない!

 神が支払われたはかりしれない犠牲の中に、私の苦難は吸収されて消えて行く。
 主は語られる、「覚えておきなさい、あなたが苦しむ時には、あなたのために、すでに私が苦しんだのだと。私はあなたのために、十字架の上で無限に代価を払った。それはあなたの負債を返すために、私がかかった十字架なのだ。覚えておきなさい、私の十字架の血によって、あなたのために解放の証書が書かれた。これは奪い去られたあなたの権利を補って余りあるものである。あなたが一生、平安に暮らして余りあるものである。
 私があなたの代わりに、全ての痛みを担った。あなたの悲しみと病と涙とは、私がすでに代わりに支払ったのだ。だから、十字架を見上げる時に、思い出しなさい、あなたはもう苦しまなくてよくなったのだと。たとえこの世界にどんなことが起きようとも、あなたは絶望に心痛め、悲しみに暮れる必要はもうなくなったのだと」

 一体、誰がこれまで、私の痛み苦しみのために一瞬でも立ちどまってくれる人があっただろうか?
 そんな人はいなかった。
 誰が私の苦難を共に背負ってくれただろうか?
 そんな人はいなかった。

 いや、いたのだ、それがキリストである。
 手紙はそのことを私に告げていた。神は貴い十字架を通して、私がこれまでに受けた全ての傷から完全な解放を得、主にあって、喜びに満ちた自由な生活へと入ることを望んでおられるのだと…。
 それは捕われた人に解放と平安を告げる声であった。

「『わたしは彼をいやし、
 また彼を導き、慰めをもって彼に報い、
 悲しめる者のために、くちびるの実を造ろう。
 遠い者にも近い者にも平安あれ、平安あれ、
 わたしは彼をいやそう』と主は言われる。」(イザヤ57:18-19)

 全ての被害者よ、犠牲者よ、喜べ。あなたたちはもはや寝たきりの人のように、座して人の助けを乞わなくてよいのだ。主ご自身があなたを解放され、あなたに健康を取り戻された。主はご自分に従う者たちを悲しみから救い出し、その涙を拭い、苦しみの代わりに、平安と喜びを心に植えられる。だから、今、私たちは信仰によって歩き出そう。心と身体を拘束する被害者という鎖を断ち切り、自立して、大胆に歩き出そう。