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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。

見よ。の目は主を恐れる者に注がれる。
その恵みを待ち望む者に。
彼らのたましいを死から救い出し、
ききんのときにも
彼らを生きながらえさせるために。

私たちのたましいはを待ち望む。
主は、われらの助け、われらの盾。
まことに私たちの心は主を喜ぶ。
私たちは、聖なる御名に信頼している。

主よ。あなたの恵みが私たちの上にありますように。
私たちがあなたを待ち望んだときに。
(詩編33:18-22)

主よ。私と争う者と争い、
私と戦う者と闘ってください。
盾と大盾とを手に取って、
私を助けに、立ち上がってください。
槍を抜き、私に追い迫る者を封じてください。
私のたましいに言ってください。
「わたしがあなたの救いだ。」と。

私のいのちを求める者どもが恥を見、
卑しめられますように。
彼らを風の前のもみがらのようにし、
の使いに押しのけさせてください。
彼らの道をやみとし、また、すべるようにし、
の使いに彼らを追わせてください。

まことに、彼らは
ゆえもなく私にひそかに網を貼り、
ゆえもなく、私のたましいを陥れようと、
穴を掘りました。
思わぬときに、滅びが彼らを襲いますように。
ひそかに張ったおのれの網が彼を捕え、
滅びの中に彼が落ち込みますように。

こうして私のたましいは、主にあって喜び、
御救いの中にあって楽しむことでしょう。
私のすべての骨は言いましょう。
よ。だれか、あなたのような方があるでしょうか。
悩む者を、彼よりも強い者から
救い出す方。
そうです。悩む者、貧しい者を、奪い取る者から。」
(詩編35:1-10)

「ききんのときにも生き永らえさせて下さる」、「私たちがあなたを待ち望んだときに、恵みが私たちの上にありますように」…。心強い御言葉である。神は神を畏れる者たちを知っておられ、あらゆる災いから助け出して下さる。

天の経済に生きることを始めてから、歩みを確かにする秘訣は信者の心の平安にあることを理解した。神に対する信頼がどれほど確固たるものかによって、信者の歩みは変わって来る。

どのような時にも、キリストの義に立ち続けることである。神は正しい者たちがゆるがされるようには決してなさらない。誰が神の義に立っており、誰がこれを拒んでいるのか、それぞれの生き様の結果が、いずれ万人の前に明白になろう。

キリスト者の存在がどんなに嬰児、乳飲み子のように頼りなくか弱く見えたとしても、我らについておられるのは万軍の主である。嬰児、乳飲み子の賛美と証の言葉が、エリコやバビロンの城壁を陥落させるのである。

当ブログでは分析を続けて行く。そのために時間を取ってもらえるよう主に願ったが、予想していなかった方法で、それは与えられた。

他の仕事ならば、どんなものでも、他の人が代行できるが、この仕事だけは、私以外に誰もする人がいない。多くの人たちが仕事を中途で投げ出した。また、荒野で倒れた。人に非難されるのを恐れて、自分の主張を曲げた。だが、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と、書かれている通り、肉なる人間に過ぎないこの世の者たちの言葉を恐れるくらいならば、神を恐れるべきではないか。十字架で神が人類に下された判決に逆らったならば、その人にはどのような末路が待ち受けていることであろうか。

人が従うべきは御言葉であって、この世の常識や道徳や、人間の作り出した主張や教えではない。にも関わらず、どれほど多くの人々が、集団的な空気のようなものを作り上げ、神に従う人々を組織的に貶め、排除し、その道を曲げようとして来たことか。神を信じて従う人の信仰そのものを嘲笑する雰囲気を作り出して来たか。この世の空気は、それ自体が、真理に目を閉ざさせるために作り上げられた偽りの体系なのである。だが、私たちはこの世の空気に従うことを拒み、あくまで聖書の御言葉に従う。

たとえすべての人を偽り者とすることになっても、私たちは神を真実な方とする。それは、私自身が神の御言葉によって義とされ、裁かれるときに勝利を得られるためである。神がこの地上を振り返って、試練の最中にも御言葉に堅く立ち続け、これを守り通した主の僕がいたことを認めていただきたいと願うからである。私は主の僕でありたいし、あり続けたいのである。だが、この願いを成就させて下さるのもまた神である。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときには勝利を得るため。」
と書いてあるからです。」(ローマ2:4)

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主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。

「ああ。
反逆と汚れに満ちた暴力の町。
呼びかけを聞こうともせず、
懲らしめを受け入れようともせず、
に信頼せず、神に近づこうともしない。

その首長たちは、
街の中にあってほえたける雄獅子。
そのさばきつかさたちは、日暮れの狼だ。
朝まで骨をかじってはいない。
その預言者たちは、ずうずうしく、裏切る者。
その祭司たちは、聖なる物を汚し、律法を犯す。

は、その町の中にあって正しく、
不正を行わない。
朝ごとに、
ご自分の公義を残らず明るみに示す。
しかし、不正をする者は恥を知らない。

わたしは諸国の民を絶ち滅ぼした。
その四隅の塔は荒れ果てた。
わたしが彼らの通りを廃虚としたので、
通り過ぎる者はだれもいない。
彼らの町々は荒れすたれてひとりの人もおらず、
住む者もない。

わたしは言った、
「あなたはただ、わたしを恐れ、
懲らしめを受けよ。
そうすれば
わたしがこの町を 罰したにもかかわらず、
その住まいは断ち滅ぼされまい。
 確かに、彼らは、
繰り返してあらゆる悪事を行なったが。」

それゆえ、わたしを待て。
――の御告げ。――
わたしが証人として立つ日を待て。
わたしは諸国の民を集め、
もろもろの王国をかき集めてさばき、
わたしの憤りと燃える怒りを
ことごとく彼らに注ぐ。
まことに、全地はわたしのねたみの火によって、
焼き尽くされる。

そのとき、わたしは、
国々の民のくちびるを変えてきよくする。
彼らはみなの御名によって祈り、
一つになって主に仕える。
クシュの川の向こうから、
わたしに願い事をする者、
わたしに散らされた者たちが
贈り物を持って来る。

その日には、あなたは、
わたしに逆らったすべてのしわざのために、
恥を見ることはない。
そのとき、わたしは、
あなたの中からおごり高ぶる者どもを取り去り、
あなたはわたしの聖なる山で、
二度と高ぶることはない。

わたしは、あなたのうちに、
へりくだった、寄るべのない民を残す。
彼らはただの御名に身を避ける。
イスラエルの残りの者は不正を行なわず、
偽りを言わない。
彼らの口の中には欺きの舌はない。
まことに彼らは草を食べて伏す。
彼らを脅かす者はない。

シオンの娘よ。喜び歌え。
イスラエルよ。喜び叫べ。
エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。
主はあなたへの宣告を取り除き、
あなたの敵を追い払われた。
イスラエルの王、は、
あなたのただ中におられる。

あなたはもう、わざわいを恐れない。
その日、エルサレムはこう言われる。
シオンよ。恐れるな。気力を失うな。
あなたの神、は、あなたのただ中におられる。
救いの勇士だ。
主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、
その愛によって安らぎを与える。
主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。

例祭から離れて悲しむ者たちをわたしは集める。
彼らはあなたからのもの。
そしりはシオンへの警告である。
見よ。その時、
わたしはあなたを苦しめたすべての者を罰し、
足なえを救い、散らされた者を集める。
わたしは彼らの恥を栄誉に変え、
全地でその名をあげさせよう。

その時、わたしはあなたがたを連れ帰り、
その時、わたしはあなたがたを集める。
わたしがあなたがたの目の前で、
あなたがたの捕われ人を返すとき、
地のすべての民の間で、
あなたがたに、名誉と栄誉を与えよう、と
は仰せられる。」
(ゼパニヤ書第3章)

我弱くとも恐れはあらじ

「『子を産まなかったうまずめよ、歌え。
 産みの苦しみをしなかった者よ、
 声を放って歌いよばわれ。
 夫のない者の子は、
 とついだ者の子よりも多い』と主は言われる。」(イザヤ54:1)

 私は最近、既存の教会で培った礼拝や信仰のスタイルからますます離れつつあるように思います。信仰に関する制限がますますとりはらわれて行っているのです。ある人はそれを見て、これは危険だ、我流の信仰の始まりだ、潔癖症の始まりだ、禁欲主義だ、既存の教会で受けた根深いトラウマが、それを思い出させるあらゆるものに対する拒否反応を呼び起こしているのだ、きっとそのうちに何か自己流の神秘主義のようなものへ堕ちて行くに違いない、と危険を感じるかもしれません。しかしそう判断するのは、もうちょっと待っていただきたいのです。

 それはまず、下で述べたように、私が記憶している賛美歌の大整理から始まりました。
 既存の教会で習い、私の血肉となったような現代音楽の讃美歌がいくつもあります。中には、美しいメロディのものもありますし、奏楽をしているうちに脳裏に焼きついて、忘れられなくなったものもあります。かなり長い間、私は教会の奏楽に携わりましたので、当然のごとく、それらの歌は私の血肉になっていきました。ひらめきの感じられる、かなり気に入った曲、叙情的な曲もありました。しかし、それらの高揚感溢れる美しい賛美歌に、どういうわけか、私は年を追うごとにだんだん馴染めなくなってきたのです。

 私の賛美歌の好みは、飾り気のない単純素朴なものへと帰って行きます。私自身の心が、自分の血肉になるほどにまで慣れ親しんだ各種の讃美歌から、どういうわけか、離れて行くのです。

 今、私の頭に残っているのは、祖父が亡くなった時に、幼い姉妹たちと共に葬儀で歌った『主我を愛す』です。あまりにも単純な飾り気のないメロディと和音には、現代流行の音楽のように、興奮を煽る要素は何もありません。音楽としてはあまりにも素朴で、やや退屈なほどです。

 主我を愛す、主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ
 我が主イエス 我が主イエス 我が主イエス 我を愛す

 我が罪のため 栄えを捨てて
 天より降り 十字架につけり

 御国の門を 開きて我を
 招き給えり 勇みて昇らん

 我が君イエスよ 我を清めて
 良き働きを なさしめ給え
 我が主イエス 我が主イエス 我が主イエス 我を愛す

 この単純な歌詞、感動からは程遠いような単純な旋律を声に出さずに歌っているうちに、えもいわれぬ感動が内から沸き起こるのです。まるで獄中で、絶望の只中にありながら、ただ一人きりで、全身全霊をこめて歌っているかのようです。我が主イエス、我を愛す、この絶対的な関係の中には、いかなる他人も入り込むことはできません。四面楚歌の状況にあっても、ただ主と差し向かいで、私はこの歌を歌うのです。私の奥深いところから、その歌は生まれて来ます。

 次に、祈りが変わりました。既存の教会に通っていた頃、特に子供の頃のことですが、日曜学校などで、人前で祈らされる瞬間が嫌で嫌でたまらなかったことを覚えています。しかつめらしい、もっともらしい祈りの文句を頭の中で考えて、心にもない感謝の言葉を並べなければならないのが苦痛だったのです。

 けれども、今は、そんな形式的な祈りを一切しなくなりました。一人ぼっちで祈るのですが、声に出してつぶやくことさえほとんどありません。しかしながら、それは祈らなくなったということではなくて、生きている毎瞬が、祈りに変わったことを意味しています。今の私の祈りは、自分の魂を注ぎ出す、うめきに近いものです。ですから、言葉に直すとそれがどうなるのか、自分でもよく分かりません。ある人は、私に向かって「あなたはこのように祈ったらよいのです」と教えるのですが、私にはそれが受け入れられません。いや、いかなる形式も受け入れられません。主との二人きりの時間は、人には明かせないのです。

 今は、祈りとは、四面楚歌の状況にあっても、ただひたすら、うめきながら、泣きながら、神に助けを求め、罪を告白し、勝利を宣言し、来るべき出来事を知らせて下さいと頼むことへと変わりました。神への愛を静かに告白し、喜びに満たされることも自然に起こるようになりました。とりなしの祈りもあります。けれども、どのような順番で何を祈っているのか、自分でもよく分かっていません。それは全て密室の祈りであり、神と私だけの秘密であり、そこにはどんな形式も、入り込む余地はありません。

 礼拝も変わりました。毎瞬が祈りになったので、神を賛美することもそこに含まれるようになりました。ですから、礼拝という特別な時間を持たなくなりました。歌も特に歌わなくなりました。それで不自由を感じることもなくなったのです。

 今の私はちょうどサムエル記上の冒頭に登場するハンナのようです。ハンナはあまりにも深く嘆き悲しんでいたので、主の神殿を訪れても、まともに礼拝することができませんでした。楽しい歌も歌えませんでしたし、もっともらしい祈りを捧げることもできませんでした。ハンナの態度があまりにも常軌を逸していたので、エリは彼女が酔っ払っているのだとさえ誤解しました。しかし、ハンナは、愚痴のように、積もる憂いと悩みを神に告白することしかできなかったとはいえ、確かに、心のすべてを主の前に注ぎ出していたのです。

 礼拝とは何でしょうか。私たちが喜びと感謝を惜しみなく主に捧げることが礼拝なのでしょうか。
 楽しく主を賛美し、大胆に勝利を宣言し、快い、高揚した気分で、感動しながら、感謝しつつ主と向き合うことが礼拝なのでしょうか。
 必ずしも、そうだとは思いません。

 悲しみと憂いの只中から主に捧げる歌もあります。
 絶望の只中から生まれる涙の歌もあります。
 声にならない声、祈りにならない祈り、歌にならない歌があります。
 とても礼拝という範疇にはおさまらない、霊の切なるうめきがあります。

 主は、私たちが自分の心を偽らず、主に正直に申し上げることをこそ、何より喜ばれるのではないかと私は思います。それが憂いであるにせよ、悲しみであるにせよ、です。私たちが神の御前に格好をつけて、かくあれかしと思う装いを整えて出て行くことは、これ以上、必要ないのではないでしょうか。砕かれた魂を持って主に向き合うこと、それ以上に、神が私たちに求められ、また喜ばれるものはないと思うのです。

 今日の礼拝と呼ばれるものは、ほとんどが、人が人知により礼装を整えて主の御前に出ようとするものであるように私には感じられてなりません。その礼装が、霊によって着せられる服であれば良いのですが、ほとんどは、人が裸の惨めさを覆い隠して、神の御前で、また人前で格好をつけるための、人工的な服装、形式に過ぎないように感じられます。だから、心から悲しんでいる人たちは、教会の中に居場所を見いだせないのです。苦しんでいる人たちは、礼拝の中に居場所を見いだせないのです。そういう人たちに対しては、自己憐憫に溺れている、礼拝に水を差すので気持ちを改めて出直して来いとの非難の言葉がかけられるだけです。

 しかし、神はハンナの正直な告白に耳を傾け、彼女の涙とうめきをかえりみられたのです。神はいつも、自分は強いと自惚れ、自分は正しい心の持ち主であり、主を大胆に礼拝できるから感謝ですと告白する者たちではなく、自らの弱さを知って打ち砕かれた者たち、自分には神を礼拝する資格さえないと感じている者たちの味方なのです。
 主はいつも心砕かれた者を引き上げて下さいます。ハンナがサムエルを得た後に、喜びのうちに主に捧げた歌は、逆説的な勝利を謳ったものでした。
「勇士の弓は折れ、
 弱き者は力を帯びる。
 飽き足りた者は食のために雇われ、
 飢えたものは、もはや飢えることがない。
 うまずめは七人の子を産み、
 多くの子をもつ女は孤独となる。
 主は殺し、また生かし、
 陰府にくだし、また上げられる。
 主は貧しくし、また富ませ、
 低くし、また高くされる。
 貧しい者を、ちりのなかから立ち上がらせ、
 乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、
 王侯と共にすわらせ、
 栄誉の位を継がせられる。
 地の柱は主のものであって、
 その柱の上に、世界をすえられたからである。
 主はその聖徒たちの足を守られる、
 しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。
 人は力をもって勝つことができないからである。
 主と争うものは粉々に砕かれるであろう<…>」(サムエル記上2:4-10)

 キリストにあっての勝利とはいつもこのようなものです。勇士が与えられた力を感謝し、富める者がその安定した生活を感謝し、子沢山の女が神に感謝を捧げたからとて、何の不思議があるでしょうか。
 かえって、産まず女として軽んじられた女が、子を授かって喜びの声を上げ、貧しく蔑まれていた者たちが王侯のような栄誉を与えられて感謝を捧げ、弱い者たちが強くされて躍り上がる時にこそ、主の栄光が輝くのです。「夫のない者の子は、とついだ者の子よりも多い」、ここにこそ、神の御業の不思議があり、神の憐れみの深さがあり、人間の力によらない、神による逆説的な力の反転があるのです。

 神は常に心砕かれた弱い者たちと共におられます。礼拝とは、私たちが神の御前にまず自分の心を砕かれた状態で進み出ること、弱いままの自分を隠さずに御前にさらけ出すことから始まるのではないでしょうか。そこにはどんな装飾をちりばめた祈りも、高揚感溢れる情緒的な音楽も、大胆な宣言も、叫びも、踊りも、必ずしも必要ではありません。ただ単純素朴な、声にさえならないうめきがあるだけで十分なのです。

 工夫や粋を凝らした装飾を捨てて、ただ弱さだけを携えて静かに主の御前に出ませんか? そうすれば、私たちのその無の中に、弱さの中に、静寂の中に、主は限りなく現れて下さると思うのですが?

 主我を愛す、主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ
 我が主イエス 我が主イエス 我が主イエス 我を愛す

騒がしい信仰から静寂な信仰へ

主が今、確かに働いておられる、主は、牧者から打ち捨てられ、教会から捨てられて傷ついた羊のもとを一匹、一匹、訪ねておられる、社会から、家庭から、見捨てられかかったような貧しい人々のところを訪ね、魂の打ち砕かれた人々を神の御前に集めようとなさっておられる…、そのことをまさに実感できるような嬉しい手紙を遠方のクリスチャンからいただきました。
 その方は、金もうけ主義に堕した教会で思い切り傷つけられ、ショックのあまり御言葉を読むことさえできなくなり、一時は、聖書を封印すると宣言されていました。
 しかし、それほどの苦しみを乗り越えてでも、主は、その方を率直に御言葉に立ち戻るよう促されたのでした。それは、その兄弟が主によってどれほど愛され、どれほど主が彼を切に求めておられるかを示す出来事でした。

 彼が主にあっての兄弟であることを私は疑ったことはありませんが、それにしても、兄弟が父なる神の懐に大胆に飛び込み、主によって抱きしめられた瞬間を目にすることができたのは、私にとっても、大きな喜びであり、感動でした。

 ところで、彼は賛美について書いています。
「静寂な信仰をモットーにしています。
 あの、新興宗教(メガチャーチ)のライブ系、ヒップポップ系のノリノリの賛美礼拝というドンチャン騒ぎの大宴会場と化した教会は祈りの家と呼ぶのにふさわしくありません。あれは教会のクリスチャンの士気と結束力を高めるための歌にしか私には聞こえないです。神様に対して真心を込めた賛美ではないと感じます。」

 この言葉をここに引用させていただいたのは、「静寂な信仰」という言葉が、まさに私が求めている信仰のあり方とぴったり一致するからです。私は先日、ある人に向かって断言しました、「今日の教会は騒がしい現代音楽の賛美歌を捨てて、バッハに立ち戻れば良い」と。
 多分、このような意見を聞いた方は、誰でも、気分を害されるでしょう。それはよく分かっています。しかし、あえてこのような極論を述べるのは、現代音楽というものがいかにサタン的なものによって深く汚染され、堕落しているかということを、ひしひしと感じるからなのです。

 このように述べると、早速、「あんたは超保守派だ!」「どうせロックは悪魔の音楽だとか、そういうことを言うつもりなんだろう?」との批判が私に向けられるだろうことは分かっています。現代の化石、空気読めない人、クラシック・アニア、音楽的潔癖症…、まあ、ありとあらゆる非難の言葉が向けられるでしょうね。

 しかし、私にとって、特に、聖霊派の現代流行となっている賛美歌は、皆、人の感情や感覚に訴えかけることばかりが巧みで、肉的高揚感をひたすら煽るための一種の装置となっており、知性の感じられない、芸術性に乏しいものです。それはまるで濁った水溜りのようです。そこには、形式的に完成された美はありませんし、それを目ざそうとの意欲もありません。歌詞も極めて軽薄であり、知性に乏しく、音楽的に計算されつくした形式と美がありません、単調な歌詞と和音の繰り返しは、まるで人を暗示や催眠に陥れようと狙っているかのようです。

 現代音楽そのものがこういう道を辿っているので、非難されるべきは何も聖霊派の賛美歌だけではないのですが、このようなものは本物の音楽ではありません。私たちは水溜りを指して、これが海だと言うことができるでしょうか? インスタントラーメンを指して、これが本場のラーメンだと言うことができるでしょうか?

 特に聖霊派の流行の賛美歌は、どれもこれも、人間の肉を手っ取り早く喜ばせるには都合が良い、インスタント食品のようになってしまっています。手早く空腹を満たそうと思うならば、それは役に立つでしょう。しかし、そこには、沈黙の中で忍耐強く主の訪れを待つという要素は何もありません。静寂の中にこめられた深い感動、完成された形式の中にこめられた美、苦しみの極致から生まれて来る調和、といったものは、何も感じられないのです。言い換えるならば、それらの賛美歌の中には、手っ取り早く、主の素晴らしい臨在を我が物にしようとの欲望が働いており、人間が自分の心を無にして、ただ静寂の中に座し、主に心を明け渡して、忍耐強く、主の訪れを待ち望もうという覚悟が全く感じられないのです。

 とはいえ、私自身も、現代流行の賛美歌の中で育てられてきました。そこで、それらの音楽と私は切り離すことができません。私が曲を作ろうとしても、やはりそのような「くだらない音楽」が出来上がってしまうのです。それは時代の影響です。
 しかしながら、それでもあえて言うならば、今となってはもう、そのような賛美歌の底の浅さ、軽薄さ、無意味さに私は耐えられないのです。それらを「霊的」な賛美として理解することは、私にはもうできません。音楽に合わせて、叫んだり、泣いたり、手を叩いたり、騒いだり、跪いたり、歩き回ったり、そういうパフォーマンスを、霊的衝動であるかのように勘違いしていた時期が私にありましたが、今はもう、そんな外的現象、感覚的な要素は、霊的なものとほとんど関わりがないどころか、むしろ障害物のようにしか見えないのです。

 主の御前では、私たちが肉的衝動に突き動かされて忙しく動き回ることは、主の訪れを邪魔するものにしかなり得ないように思います。まるで片時もじっとしていられない駄々っ子が教室内を忙しく歩き回るように、次から次へと行動に移るのをやめて、自分の内に沸き起こるあらゆる衝動を鎮めて、ただ主にのみまっすぐ心を向けて、静けさのうちに主を待ち望むことが、今、私たちに求められているのではないでしょうか。古典音楽の中には静寂が絶妙な形で織り込まれていますので、それは私たちが主を静かに待ち望むことと矛盾しません。

 教会が偉大な古典の遺産を捨てて、さらには聖歌や新聖歌まで捨てて、どうして軽薄な即席の音楽を選び取らなければならないのか分かりませんが、時代の風潮は確かにその道を行っているようです。知性ではなく、感情や感覚に訴えかける音楽ばかりがますます採用されるようになってきているのです。しかし、私は、キリスト者はこのあたりで最新流行とはきっぱり手を切って、静寂の中に、沈黙の中におられる主に立ち帰った方が良いのではないかと思います。それほどに、現代流行の音楽には何かしらの危険を感じずにはいられません。

数え切れないバナナ(祝福)の中で…

 コアラ姉妹のために。
 主は私から、石の心を取り除き、兄弟姉妹への愛を与えて下さいました。十字架がもたらす平安の中で、人を見るとき、私はその人を愛さずにいられないのです。
 兄弟姉妹に会いたいと思う時、その愛は、激しい恋心のように燃え上がります。しかし、会うことができない間も、強く、穏やかな愛で、その人の幸せを主に願うことができるのです。

 約一年前、かなり貧しい暮らしの中で、私は苦心してある教会に通っていました。平日、通勤の際に持って行く弁当は、ゆかりご飯だけ。毎日、定刻にスーパーのタイムセールに駆けつけては、半額のお惣菜を買い込むのが日課でした。通勤で磨り減ったバイクのタイヤを交換できません。いつ、バッテリーが切れるかと不安です。緊急の余分な出費がいつ生じやしないかと、おびえながら暮らしていました。

 日曜日に、往復の電車賃を払い、教会で献金を払い、信徒との交わりの際に、店で昼食代を支払ってしまうと、残る一ヶ月、どのようにしてやり過ごせばよいのか、いつも、心に不安がありました。

 その頃、私は日曜礼拝に希望を託していましたので、礼拝に通わないことはできませんでした。信徒の交わりにも希望を託していました。だから、いつも主に祈ったものです、「神様、私は交わりの機会が欲しいのです。どうか、そのために必要な費用を与えて下さい。誰にも借金しないで暮らせるように、どうか助けてください」と。そして、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、昼食代を支払っていました。

 しかし、その教会で私が出会った姉妹が経験された貧しさは、それとは、比べ物になりませんでした。姉妹がカルト化教会にいた頃の献身生活とは、労働が制限され、収入はほとんど得られず、それでも、収入の5分の1以上を献金として捧げさせられるようなものだったのです。強制的な集団生活の中で、プライバシーが保てず、毎日、応じきれないような、理不尽な量と内容の奉仕が次々と要求され、極限まで疲労困憊させられていました。
 もちろん、ご飯のおかずなどありません。切り取ったにんじんのへたを窓際に置いて、徐々に生えて来る芽を摘んでは、炒めて食べる…。そんな生活であったことを、私は聞きました。

 ある日のことです。その過酷な献身生活の最中、姉妹が道を歩いていると、ふと、八百屋でバナナを売っていたのが目に入りました。一束、100円です。それを目にした時、姉妹はどうしても、バナナが食べたいと思ってしまったのです。しかし、収入は全てカルト化教会に捧げきっているので、買うお金が残っていません。だから、姉妹は神に祈りました、「神様、バナナを下さい、私はどうしてもバナナが食べたいのです」と。

 すると、後になって、本当に、考えられない方法で、食べきれないほどのバナナが知人を通して贈られたのだと、彼女は教えてくれました。神に仕えると言いながら、指導者を崇拝する偽りの教会の中にいたのに、そんな生活の中でさえ、主は彼女に御手を伸ばそうと、いつも彼女を見つめ、その時を待っていて下さったのです。(この事件については彼女の記事をご参照ください。)

 その話は、私にとってはあまりにも悲しく、かつ痛ましかったので、それを聞いた時に、答える言葉がありませんでした。けれども、
 「バナナが食べたい。」
 そんな小さな、取るに足りない、秘められた、切なる人の願いにさえ、豊かに応えて下さるのが主なのです。主は私たちの困窮を知っておられ、助けの御手を伸べる機会を待っていて下さるのです。

 私たちが神の助けを得るためには、まず、私たちが自分の願いを主に率直に申し上げ、その心の領域を主に明け渡す必要があります。このことについては、Dr.Lukeと、山谷少佐が明快に語っておられますので、ご参照下さい。(「十字架―交換の場―」「私たちのアイデンティティ」) 十字架とは、自分の願いと、主の願いとを交換する場なのです…。

 バナナ一本、食べたいなあと思う、願いであったとしても、私たちがそれを主に捧げる時、主は数え切れないバナナを持って、私たちの願いを満たして下さるのです。たとえ、その時、私たちに買うお金がなかったとしても、どんなに主から離れていたとしても、どんな混乱の最中であろうと、あるいは、カルト化教会の中にいようと、人知で考えられる限りの距離と障害を越えて、神は私たちが真心から主に捧げる願いを聞きつけ、それに応えようと、飛ぶようにして、私たちのもとに駆けつけて下さるのです。神はいつも待っておられるのです、私たちが、自力で何かをやろうとするのをやめて、ただ主に向かって目を上げ、主よ、成して下さいと、願いを神に委ねる時を…。
 
 さて、その後、私は引っ越し、姉妹との間にはかなりの距離が生じました。周知の通りの問題も手伝って、私たちの立場は今、離れています。
 しかし、私は信じています、私たちが信じているものが、同じ神である限り、一切の障害を超えて、私たちは姉妹として結ばれているのだと。
 いつか、もう一度、姉妹の元気な姿を主が私に見させて下さいますように、その時まで、互いの必要の全てを主に委ね、必要を満たされて健全な豊かさの中を生きることができますように。二度と以前のような困窮を通過せずに済みますようにと、願わずにいられません。

 教会に通っていた頃、彼女が詩を書き、私が曲を作りました。二人での初めての共同合作です。楽譜を書いて、牧師に提出しましたが、誰にも歌ってもらえませんでした。しかし、私としてはかなりの力作であったと、今も自負しているのです。まだ最終的な完成を見ていませんが、いつか歌える日が来ることを願います。(詩は一部変更。)

「礼拝」

私の全てを尽くして 愛する事を学ぶ
神様と この私自身と 弱さを覚えている 隣人を

弟子たちの足を洗ったイエスは
愛する事を教えてくれた
私の心に 主の愛が注がれ
私の心は変えられた

礼拝 それは愛する事
神様と 私と 隣人を


「愛する事を学ぶ」

イエスの十字架のゆえに
愛されていることを知ったとき
心から 主に従おうと
強く 強く 願う

御言葉に従おうとしても
できない自分がある
義にも 真理にも 届かなくて
あわれみ求め 叫ぶ

ありのままで 目を上げて
変わらない主イエスの愛を受けて
罪赦されて はじめの愛に戻り
愛する事を学ぶ

それが私の喜び
 


悲しめる者のためのくちびるの実



気絶しそうなほどの猛暑の中、美観地区を散歩して来た。
私は子供時代に、7歳になるまでこの街に住んでいた。
今になっても、記憶のどこかに、街の風景がおさまっている。

街中を歩くと、まるで方位磁石が身体の中に埋め込まれているかのように、遠い記憶が呼び覚まされる。
いつか通ったことのある道。いつか見た風景、いつか見た空き地、なじみ深い山々…。
写真を通じて、猛暑が読者に伝わることはないと思うので、美しい映像を載せておきたい。

昨日、ある方からとても嬉しいお便りをもらった。
「もしもこの先、苦しまねばならないなら、私もあなたと共に苦しみましょう、
けれども、キリストにあっての自由を私はあなたに楽しんでいただきたいのです」、という内容の便りであった。

それを読んだ時、こんな不思議なことがあって良いものだろうか? と思った。

これまで、キリスト教界において、私は泣く者と共に心ゆくまで泣いてくれた人を見たことがなかった。ましてや、苦しむ者のために立ちどまり、共に苦しみを担ってくれる人には出会ったことがなかった。

私の知っているクリスチャンと名乗る人たちのほとんどは、みな、自分が正しくふるまうことで精一杯だった。
何が正しくて、何が間違っているかを論じることで精一杯。
サタンの誤りに陥らないように気をつけることだけで精一杯。

それは、私の目には、幾度、倒されても、立ち上がる不死身の怪物のように見えた。
まるで痛みなどないかのように、弱さなどないかのように、不撓不屈の精神で、自分を鞭打って、わき目もふらず、そばにいる人の気持ちにさえ気づかずに、ただ前に、神の義にだけ向かって、まっすぐ、進んで行こうとする人たち。

何が正しくて、何が間違っているかを論じるために、果てしなく生み出される議論の数々(律法学者たちとまるで同じ)。
もつれた糸にからまるようにして、議論の中で訳が分からなくなり、立ちどまってしまった信徒は、道の途中で、置き去りにされた。
「信仰の勇者」になりたい人たちは、脱落者に構うことなく、信仰の弱い人を助け起こそうともせず、疲れ果てた人を置いて、議論しながら、どんどん先へ進んで行った。
自分達だけが、天国に到達し、神の御前で義人としてふるまうために。

どれだけの人が、気づけば教会に姿を見せなくなっていっただろう。
人の苦しみさえも、どう解決すべきかという議論に変えられてしまった。
主の御前で喜ぶことさえ、義務として教えられた
他人の苦しみに対して、涙一つ流さないまま、聖書を指差しながら、押し付けがましく、もっともらしく、残酷に、誤った考えを捨てるように、繰り返される説教。

まるで人生で一度も挫折したことがないかのように、「主にあっての喜び、平安」だけをひたすら強調し続ける、このお化けのような人たちに、ある日、私はついに、身体がついて行かなくなった。

まるで人生で一度もつまずいたことがなく、自らの失敗のために一夜も泣き明かしたことがないかのように、「何が正しいか」だけをひたすら説き、避けるべき過ちを潔癖症のように列挙する人たちに耳を貸せなくなった。

光は、闇を拒否することによって生まれるだろうか?
喜びは、悲しみを拒否することによって生まれるだろうか?
たとえ全ての誤った感情と行動を拒否したところで、人はそこから、真の自由や解放を得られるだろうか?

それはキリスト不在の福音であったのだが、私はそのことに長い間、気づけなかった。
そこで、私はキリスト教そのものを一旦、捨てなければならなくなってしまった。

身近なクリスチャンの語る不自然な「喜び」や「平安」に、私は辟易してしまった。
異常なほど熱狂的で明るい説教を、心が受け付けなくなった。
異常なほど歓喜に満ちて、軽薄な賛美歌に、心がついて行かなくなった。

ある教会の礼拝で、ゲストとして招かれた講師の説教に我慢しきれなくなった私は、いきなり礼拝堂から外へ向かって駆け出した。
「何してるの、一体、どうしたの…?」
他の信徒が不審そうに後を追って来た。

しかつめらしい服装をした、社会的にもそれなりの肩書きを持つ紳士たちの集う静かな教会だった。
何をしているのか、自分でもよく分からなかった。
どうしようもない拒否反応。どうしてこんなにも大勢の立派な人たちが、こんなくだらない説教に我慢できるのかという嫌悪感。
その時、私はもう生理的に、キリスト不在の礼拝に我慢できなくなっていた。

私はこの「義人お化け」のようなクリスチャンたちのいる教会から、嫌悪感だけを抱いて去った。彼らのうちには、人として何かとても大切なものが、大きく欠けているように思われてならなかった。

私は彼らに聞きたかった、なぜあなたたちは、人の悲しみや涙を受け入れないのか?
絶望的な環境にあって、笑顔も作れなくなった人たちの気持ちに、なぜ寄り添おうとしないのか?
なぜあなたたちは悲しむ者の悲しみを担わず、泣く者と共に泣くために、片時も立ちどまることなく、ただひたすら、自分の義のことだけを唱え、神にあっての喜び、勝利、平安ばかりを一方的に強調し続けるのか?

それから、私は長いこと、神なき絶望的な日々を送った。

ある人は、それを自己憐憫だったと言うかも知れない。
人につまずいて教会を離れた私を、浅はかだった、信仰が足りなかったと言うかも知れない。
私はただ自分の感情を優先しただけであって、それは信仰とは関係ない事柄だったと言うかも知れない。
人の憐れみや、助けを期待していた時点で、真に神に頼る信仰心がなかったのだと言うかも知れない。

だが、私は、「キリスト教」を離れて、初めて、人間的な感情を自分に取り戻すことができた。
もうこれ以上、不自然な喜びを自分に強制する必要がない。
無理な努力をして、キリストの枝らしくふるまう必要がない。
あらゆる苦難の中にあって、さも立派な解決を得たかのように、ありもしない勝利について語る必要がない。
私は失格者になったのかも知れないが、それならそれで良いと思った。これがあるがままの現実なのだから…。

そうして教会から遠ざかって、月日が過ぎた。
その間、ただ迷いと挫折だけがあったわけではない。私は確かに、自分の現在地を探し出すことができた。

多くのクリスチャンは自分の現在地を知ろうともせずに、ただ目的地のことばかり議論しているように私には思われてならない。
だが、たとえどんなに遠大かつ崇高な目的地を設定したとしても、自分の立っている現在地が分からないのでは、どうやって目的地にたどりつけるというのだろうか。

失意の日々に、私は地図を広げ、キリストから遠く遠く離れている自分の現在地を発見した。
現在地とは、自分が罪人であり、悔い改めて、神に立ち返らなければならないということであった。
それから、犯した罪を悔い改め、とにかく、どんなに時間がかかっても構わないから、ただ神へ向かって、キリストへ向かって歩こうと決意した。
誰もそばにいなかった。信仰の一人旅が始まった。

ところが、不思議なことに、その後、歩いているうちに、私の現在地と目的地が重なっていることに気づいた。
目的地であられるキリストが、いつの間にか、私と共に歩いて下さっていたからである。
「あなたはもうどこへも行かなくて良いのだ。あなたのうちに私がすでに宿っているのだから」と、神は我がうちに語られた。そして、今、私は自分がどこへ向かっているのか知らない。それを知っているのは、私ではなく、思いのままに吹かれる風――御霊である。



気づけば、他にも道連れが出来ていた。もはや一人旅ではなくなっていたのだ。
そして今、私に向かって、再び、主にあっての喜び、自由、平安を語る人があった。
それを聞いても、以前のような嫌悪感を、私はもう感じない。

それは、今、説かれている喜びが、以前のように、不自然な、上から強制される感情ではないことが分かるからだ。その喜びは、我がうちにおられるキリストからあふれ出てくるものであり、私が自分の感情を懸命に偽って、無いところから無理やりひねり出そうとする、不自然で到達不可能な感情ではないからだ。

イザヤ書の中で最も有名な箇所の一つを挙げよう。

「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
 われわれの慕うべき美しさもない。
 彼は侮られて人に捨てられ、
 悲しみの人で、病を知っていた。
 また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
 彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
 まことに彼はわれわれの病を負い、
 われわれの悲しみをになった。<…>

 彼が自分をとがの供え物となすとき、
 その子孫を見ることができ、
 その命をながくすることができる。
 かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。」(イザヤ53:2-4,10-11)

 これは御子イエスのことである。イエス・キリストはご自分の苦しみを通して、苦しむ人々に解放をもたらされた。主は喜びしか知らない人ではなかった。むしろ人の何倍も、悲しみと痛みを味わわれた。イエスの福音は、悩みのない富める者が、貧しく苦しんでいる罪人に、高みから押し付ける福音ではなかった。

 主は、私よりもさらにご自身を低くされ、私よりもさらに惨めな姿になって、無言のうちに、私に十字架の恵みを差し出された。そこには一切の強制がなかった。
 今日、もしも真の牧者と呼ばれるに値する人たちがいるならば、彼らはきっとイエスがされたのと同じように、自らを低くし、自分の打ち傷を通して、悲しむ人、泣く人を慰め、励ますことだろう。

イザヤ第61章1~3節。
「主なる神の霊がわたしに臨んだ。
 これは主がわたしに油を注いで、
 貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、
 わたしをつかわして心のいためる者をいやし、
 捕われ人に放免を告げ、
 縛られている者に解放を告げ、
 主の恵みの年と、
 われわれの神の報復の日とを告げさせ、
 また、すべての悲しむ者を慰め、
 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、
 灰にかえて冠を与え、
 悲しみにかえて喜びの油を与え、
 憂いの心にかえて、
 さんびの心を与えさせるためである。
 こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、
 主の栄光をあらわすために
 植えられた者ととなえられる。」

 愛に基づいた深い共感がなければ、人が人の心を開くことは難しい。悲しみを知らない人に、人の悲しみを慰めることはできない。痛みを知らない人に、他人の痛みを理解できない。捕われる苦しみを知らない人に、捕われ人の気持ちが分かるはずがない。
 だが、私たちは人として、実際にあらゆる種類の苦難を自ら体験できるわけではない。努力と経験によって、苦境に立たされている人たちの気持ちを正確に理解できるわけではない。

 どうすれば、私たちは、悲しむ者、憂う者の心を、主を信じる喜びと賛美へと導く「義のかしの木」となれるのだろうか。それは、他者の苦しみに対してとてつもなく深い共感を持っておられたイエスの姿勢にならうことによってである。私たちの拙い言葉と態度は、私たちの努力と経験によらず、イエスと御霊との力を受ける時にこそ、苦しんでいる人、悲しんでいる人たちの心に、届くものとなるだろう。

 私は、被害者や犠牲者と呼ばれる人たちの心の痛みを無視したり、否定するわけではない。だが、その人たちが、これ以上、いたずらに苦しみ続けることには反対である。なぜなら、すでに解放の喜ばしいニュースが届けられており、もう誰も、自分を犠牲者と呼んで、自らを卑しめなくとも良くなったのだ。なのに、どうしてその大きな特権を行使しない理由があるだろう?
 クリスチャン一人ひとりは、主によってすでにあがなわれ、完全に回復されている。私たちはその事実に堅く立って、ただ人の哀れみと同情ばかりを乞いつづける卑しい物乞いになることをきっぱり拒絶しようではないか。

 主イエスは私の苦しみのために、私以上に苦しんで死なれた。だから、私にはもうこれ以上、苦しむ必要がない。
 主イエスは私の悲しみのために、私以上に悲しんで死なれた。だから、私にはもうこれ以上、悲しむ必要がない。
 主イエスは私が見捨てられた以上に、人からも、神からさえも見捨てられて死んだ。だから、私にはもうこれ以上、誰からも見捨てられる苦しみを味わう必要がない!

 神が支払われたはかりしれない犠牲の中に、私の苦難は吸収されて消えて行く。
 主は語られる、「覚えておきなさい、あなたが苦しむ時には、あなたのために、すでに私が苦しんだのだと。私はあなたのために、十字架の上で無限に代価を払った。それはあなたの負債を返すために、私がかかった十字架なのだ。覚えておきなさい、私の十字架の血によって、あなたのために解放の証書が書かれた。これは奪い去られたあなたの権利を補って余りあるものである。あなたが一生、平安に暮らして余りあるものである。
 私があなたの代わりに、全ての痛みを担った。あなたの悲しみと病と涙とは、私がすでに代わりに支払ったのだ。だから、十字架を見上げる時に、思い出しなさい、あなたはもう苦しまなくてよくなったのだと。たとえこの世界にどんなことが起きようとも、あなたは絶望に心痛め、悲しみに暮れる必要はもうなくなったのだと」

 一体、誰がこれまで、私の痛み苦しみのために一瞬でも立ちどまってくれる人があっただろうか?
 そんな人はいなかった。
 誰が私の苦難を共に背負ってくれただろうか?
 そんな人はいなかった。

 いや、いたのだ、それがキリストである。
 手紙はそのことを私に告げていた。神は貴い十字架を通して、私がこれまでに受けた全ての傷から完全な解放を得、主にあって、喜びに満ちた自由な生活へと入ることを望んでおられるのだと…。
 それは捕われた人に解放と平安を告げる声であった。

「『わたしは彼をいやし、
 また彼を導き、慰めをもって彼に報い、
 悲しめる者のために、くちびるの実を造ろう。
 遠い者にも近い者にも平安あれ、平安あれ、
 わたしは彼をいやそう』と主は言われる。」(イザヤ57:18-19)

 全ての被害者よ、犠牲者よ、喜べ。あなたたちはもはや寝たきりの人のように、座して人の助けを乞わなくてよいのだ。主ご自身があなたを解放され、あなたに健康を取り戻された。主はご自分に従う者たちを悲しみから救い出し、その涙を拭い、苦しみの代わりに、平安と喜びを心に植えられる。だから、今、私たちは信仰によって歩き出そう。心と身体を拘束する被害者という鎖を断ち切り、自立して、大胆に歩き出そう。