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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか。どんな被造物も、キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために取り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができるましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために、
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-19)

とても気持ちの良い穏やかな日が続いている。書類の作成の真っただ中であるが、冒頭では少し違った話題を提供しておきたい。

筆者がヴァイオリンを再開してから約1年が経とうとしているが、今取り組んでいる曲の中には、バッハの『シャコンヌ』もある。

ブゾーニがこの曲をピアノ用に編曲していることを知ったのは比較的最近だ。両方をやってみると、改めてバッハのこの曲の奥深さ、ブゾーニの編曲の見事さが分かる。ピアノとヴァイオリンの両方の楽器の特性を活かして、それぞれの長所を曲に取り入れることもできる。

むろん、シャコンヌはもとは舞曲の様式であるから、葬儀とは何の関係もない。だが、筆者が昨年、ブゾーニの編曲版を練習し始めたのは、親族が亡くなる直前にあることを知らされたことがきっかけだった。
 
親族を見送るために演奏しようと考えていたのである。しかし、その親族の家にはピアノがなく、筆者は葬儀には立ち会うこともなかったので、幸いなことに、この美しくダイナミックな曲を葬儀で演奏することはせずに済んだ。

それでも、不思議なことに、その人が亡くなったのは、ちょうど筆者がこの曲に取り組み、曲がそれなりに出来上がった時のことであった。「そろそろ、完成したな」とつぶやいたその次の日に、その人は亡くなったという知らせが来たのであった。

バッハは敬虔なキリスト教信者であったが、筆者はこの曲の中に、それほど信仰的な要素を感じない。これはバッハの信仰を否定しているわけではなく、バッハの曲が、非常に人間的に感じられるということを言いたいのである。

信仰の歩みは、ある意味で、とても軽快な部分がある。人間の魂のあの切ないまでのもつれ、悲しみ、叫びといったものは、信仰生活にはそれほど関わって来ない。キリストの復活の命を知ると、特にそうだが、以前には抜け出られなかったそうした魂の重荷ともつれから、かなり解放される部分がある。

キリストにあっての信仰の歩みは、重い足取りではなく、相当に軽快な足取りなのである(筆者の記述からはあまりそれが感じられないと言われそうだが…)。
 
しかし、バッハの曲には、永遠にたどり着こうと願いながらも、自力ではそれができない、生まれながらの人間の限界、魂のもがき、紆余曲折、脆さ、儚さなど、人間のあるがままの弱さと、魂の遍歴、呻きが非常によく表れているように感じられる。

この曲を聴くと、生まれながらの人間の有限性を痛切に感じさせられ、人間とは一体、何なのだろうかという厳粛な思いにさせられる。聖書の中で呈される「人とは何者なのでしょう」という疑問は、神の人間に対する深い愛に基づくものであるため、感謝と喜びに満ちているのだが、バッハの曲から感じられる疑問は、まだ永遠にたどり着く前の人間の切ない叫びのように感じられてならない。

さて、ピアノがない代わりに、親族の家にはヴァイオリンを持って行ったが、その時、筆者の手元にあったのは、安物の楽器商から買った音の良くないヴァイオリンだけで、顎当てもなく、覚えている曲も、子供時代に弾いた一曲くらいであった。

当然ながら、演奏と呼べるような曲は弾けず、親族からのコメントもなかったが、その人と筆者とは全く異なる価値観に生きており、その人はクラシック音楽にも一切、関心がなく、最後まで「音楽など聴く高級な耳は私にはない」などと皮肉を言っていたほどなので、うまく演奏ができていたとしても、やはりコメントはなかっただろうと思う。

筆者がその人をバッハの曲で送ってあげたいと考えたのは、どちらかと言えば、筆者の自己満足であり、その人はバッハの音楽を理解する耳を持っていなかったので、そんなことを全く必要としていなかったのである。

だが、そういういきさつもあって、筆者は、この人と生きているうちに喜びを共有するためだけに会い、この曲を葬儀で演奏しなかったことは、まことに幸いだったと考えている。そして、この曲を弾いているうちに、いかにこの曲が荘厳で、有限なる人間の切ない魂の叫びを感じさせると言っても、それでもやはり、生きることの喜びを感じずにいられないのである。

音楽を演奏するのは、人を死出の旅路に送り出すためではなく、生きていることの喜びを共有するためである。
 
さて、それにしても、初心者が『シャコンヌ』をヴァイオリンで弾くというのは、どう考えても、背伸びのしすぎという考えもあるだろうし、実際、その通りだと言えよう。もし十分に時間があるならば、この曲にたどり着くまでの間に、あまたの曲に取り組み、そのような無謀な挑戦は避けるべきだと思う。

それでも、筆者はもともとこの楽器を思うように弾けるようになるまで、何年越しかのチャレンジだと覚悟を決めていたので、時間がかかることは最初から承知で、焦りもなく、気楽なものであった。

筆者は、ヴァイオリンについては、まずは楽器に友達になってもらうことが大切と考え、決して強引で無理な接近はしないことに決めている。一日に長時間弾くこともせず、難解な箇所を延々と繰り返すようなうんざりする練習の仕方を決してしない。弾けても弾けなくとも、無理をせず、曲が難しく、嫌になりそうになれば、2、3日、「寝かせておく」。

すると、しばらく経って、再び取り上げてみると、思いのほか、前には弾けなかったところが、弾けるようになり、出せなかった音が出て、不思議と上達しているのだ。一体、眠っている間に、なぜ上達があるのか、本当に不思議としか言いようがない。

ヴァイオリンは音作りのためだけに相当な時間がかかる。曲を覚えるのに時間は要らず、運指やポジションを覚えるのも全く大変ではない。とはいえ、重音の連続を美しく聞こえるように弾けるようになるまでには、大変な月日がかかる。低い弦の高音域は、押さえても音にならない。一曲を弾き通すだけでも、最初はエベレスト登頂のようにはるかに遠く感じられた。

それでも、取り組むこと3~4ヶ月くらいの頃だろうか、ある時、動画を見ていると、演奏者がまるで自分に乗り移ったように、力加減、バランスのとり方などについて、ふっと疑問が氷解したのであった。ああ、これで峠を越えたな、あとは時間をかけてゆっくり細部を完成させて行くだけだ…と分かったのである。この曲をある程度、満足するよう弾けるようになるまで、3年も5年もの月日はかからないであろうと分かった。

さて、この記事と話題が異なるが、今準備している書類について、少しだけ書いておこう。損害賠償請求訴訟は、原告の住所地(の管轄裁判所)で提起できる。被告が移送を申し立てても、よほどの理由がない限り、認められないことは、IWJの岩上氏が橋下氏から受けたスラップ訴訟の件でも証明されている。

裁判の管轄を決めるのはあくまで裁判官であって、管轄を争った場合の結果をある程度、予想することは可能でも、事前に断定することは不可能である。特に、岩上氏はジャーナリストで全国各地を飛び回っていることから、移送の申立てが認められなかったと見られる。それでは、被害者のために全国各地を飛び回っている牧師はどうだろう? 少し予想すれば、軽はずみに断定的な発言を記すことは控えようと思うはずである。

また、ブログの記述が名誉毀損に該当しないことを証明するためには、その記述内容が真実であることを裏づけるために被告の論証が必要になるのは言うまでもないが、これは被告にとって大変に骨の折れる作業になるというか、ほとんど不可能であると言って良い。もともと真実でない記述を真実だと論証するなど、誰にとっても無理な相談だ。

また、他人のブログの題名や文章を大量に剽窃して記事やコメントに含めたり、他人のブログに不必要なリンクを大量に貼るような記事を数多く投稿したりすることは、むろん、逆SEOの手法に含まれる。

工作員や親衛隊という言葉も、学生運動の専売特許ではない。コメント投稿者と共同して不正に検索順位を操作した記録があまた残っているのだから、工作員との共同作業と言われるのは仕方がないだろう。

もちろん、裁判手続きを取ったり、警察を利用することは、市民としての正当な権利を行使することであって、「公務員に助けを求める」ことを意味しない。裁判所の書記官はただ事務手続きを行うだけであり、警察は捜査を行うだけで、物事に白黒つけて決着を下すのは彼らではない。これらの人々は市民の救済者ではない。公務員は国民の公僕であるから、行政の職員はサービスを提供し、司法の職員は司法手続きを前に進めるだけである。

筆者がブログで述べているのは、憲法の言う公務員とは、選挙で選ばれた政治家を指すのであって、国家公務員制度や公務員試験の由来は、戦前の明治憲法時代の官吏にあるということだ。つまり、現在の公務員と呼ばれている人々は、旧時代の遺物なのである。

だが、こうした主張も、筆者の専売特許ではないし、何ら筆者が公務員を「罵倒」していることにも当たらない。ましてそれは筆者が市民として裁判を利用したり、警察を利用したりすることを不当であるかのように非難し、押しとどめる根拠とはならない。

こうしたごくわずかな事項を取り上げただけでも、向こうの記述がいかにデタラメで、およそ司法手続きを理解しない人間の言い分であり、勝ち目が薄いかは誰にでもすぐに分かるだろう。反論する価値もないので、これ以上詳しく書く必要もないものと思う。しかも、大半の記事は内容の是非を問う以前に単なる著作権法違反として削除の対象となる。

このような事態だからこそ、ずっと以前から、筆者はラスコーリニコフに学ぶよう伝えているのだ。

筆者は大地にひざまずき、神に感謝を捧げる。だが、それはラスコーリニコフのように罪の赦しを乞うためでなく、罪赦されて、義とされ、復活の命が与えられ、勝利していることを神に感謝するためだ。

クリスチャンは、自分が神に選ばれた者であることを大胆に宣言できなくて一体、どうするのだろうか。万民祭司の今の時代、クリスチャンは一人一人がみな神の預言者であり、祭司なのではないと否定するつもりなのだろうか。一体、そうした揺るぎない聖書的事実を自ら否定してどうするつもりなのだろうか。それは自分がクリスチャンではなく、神に選ばれておらず、神の祭司でも預言者でもなく、「神に疎外されし者」であることを、まさに自分自身の口から告白しているのと同じではないのか? そのようなことは考えるだに恐ろしい告白である。
 
筆者は、冒頭に挙げた御言葉は、まさに筆者のためにあることを信じて疑わない。筆者だけでなく、むろん、すべてのクリスチャンに同じように当てはまる。悪魔はディアボロスすなわち中傷者であり、訴える者である。しかし、キリストにあって、私たちにはすべての訴え、すべての罪定めからの救いと勝利が与えられているのだから、絶大な血潮の価値を確信して、大胆に前進して行くべきなのである。

この土地に、キリストの主権が打ち立てられることを確信して、高い山に登頂した人がするように、筆者は目に見えない勝利の旗を立てる。そして心で言う、主よ、感謝します。あなたの御言葉は正しく、あなたの知恵は十分で、あなたの栄光は揺るぎません。

私たちは永遠に至るまで、キリストの復活の証人であり、自らの証しを公然と高所に掲げるのです。私たちは世の光であって、山の下にある町は、この光から隠れることはできません。

白毫が世界を照らすのではない。私たちの持っているこの小さな光こそ、神の御言葉の真実を証するものとして世を照らすのです、私たちはこの光を隠しません・・・。


<参考までに…>


アルトゥール・ルービンシュテイン


ヤッシャ・ハイフェッツ


ナタン・ミルスタイン


イツァーク・パールマン


アンドレス・セゴビア

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十字架の死と復活の原則―敵のあらゆる力に打ち勝つ御名の絶大な権威を行使し、サタンを天から投げ落とし、イエスの命を体に現す―

ひとつのミッションが大詰めを迎えている。
長年、待ち望んだことが、少しずつ実現しているのだ。

クリスチャンを脅しつけては牢に閉じ込め、自由を奪い、逃げ出すことさえ禁じて来た悪の要塞が、エリコの城壁のように音を立てて崩れ去る瞬間まで、筆者は何事にも容赦する気はない。

「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

キリストの十字架の贖いにより罪赦されたクリスチャンを、再び人間的な観点やこの世的な価値観に従って訴え、有罪を宣告しようと企むような者は、かえって自らこそすべての権威と武装を解除され、キリストの凱旋の行列に捕虜として加えられ、さらしものにされるだけである。

悪魔は、自分こそクリスチャンを苦しめ、訴え、さらしものにする権利があると考えていることであろうが、事実は全く逆である。暗闇の軍勢とそれに仕えた者たちこそ、キリストの凱旋の行列の中でさらしものとされる。

だから、これから起きることをよく見ているよう読者に勧める。

筆者は、地上の教会組織に様々な堕落や問題があることは否定しないが、だからと言って、神のエクレシアまでも否定して、福音に敵し、教会に敵対した者たちがどうなって行くか、その悲惨な末路は、公然と世に示されなければならないと考える。

何度も述べて来たことであるが、実際に自分自身が体験した事実に基づき、地上の教会組織の堕落を憂慮し、御言葉に立ち戻るよう、兄弟姉妹に勧めることと、「教会のカルト化を憂う」ということを口実に、自分が所属もしていない、通ったことすらもない教会組織に対してまで、何の正当な権限にも基づかずに、教会の規則すらも無視して介入して行き、教会をスキャンダルの暴露の脅しで威圧して支配し、自分が裁き主であるかのように君臨しようとすることは全く訳が違う。

筆者は当ブログにおいて、自分が苦しみや喜びを持って体験・通過して来た事柄や、自分自身が生きて関わって来た人々についてしか触れておらず、そこで信者の実名も挙げておらず、筆者が書いた内容が、誰を指しているのかも特定できない人々がほとんどである。そして、そのことで筆者に対立して来るクリスチャンもいない。(対立しているのはカルト被害者救済活動の担い手だけである。)

にも関わらず、彼らは、自分が所属もしておらず、見たことも聞いたこともなく、関わったこともない教会やクリスチャンたちの非をあげつらっては、他教会の人事に公然と介入し、無関係なクリスチャンに争いをしかける。まるで通りすがりに因縁をつけるヤクザと同じように、一つの争いが起きると、その輪を広げて、次々とクリスチャンを争いに巻き込んで行こうとするのである。

彼らにお聞きしよう、筆者は自分自身が遭遇し、直接身をもって体験したことしか書いていないし、その体験談の中には、誰一人、一介の信者の本当の名も登場していないが、一体、あなたたちは、何の権限があって、自分が体験したこともなく、見聞きもしてもいない、自分に全く関係のない、被害すら受けたことのない教会の内情に干渉して行き、自分と無関係な人間の生き様までも、さらしものにしながら、裁いたり、非をあげつらっては、お説教する資格があるのかと。

要するに、「教会のカルト化」は、彼らが自分たちが所属もしておらず、通ったことすらない教会の内情に干渉し、支配権を握るための口実でしかない。このようなことこそ、教会の乗っ取りであり、強奪である。

神社に油をまくことが正しい福音伝道のあり方だなどと筆者は全く言うつもりもない。だが、もっと恐ろしいのは、そうした事件を針小棒大に取り上げては教会のスキャンダルに関する情報を振りまき、常日頃から秘密裏に教会に不利な情報を集め続けて、教会を脅しつけるチャンスを伺いながら、何者かがプロテスタントの教会の堕落をきっかけに、自分とは何の関係もない諸教会に介入する権限を握ろうとしていることなのである。

彼らの目的は、信者の弱みを握ることで、教会を思い通りに操ることにこそある。一度でも、誰か信者が、心弱くなって、彼らのもとを訪れ、相談を打ち明ければ、彼らはその信者の弱みを握り、それを盾に取って、いつまでも信者を脅しつけて、彼らの傘下から逃げ出せなくなるように仕向けるだけである。それでも、信者が彼らのもとを逃げ出そうとすれば、彼らは信者から質に取った情報を言いふらすことで、信者を中傷し、傷つける。そのことが筆者自身への彼らの仕業を通して実際に明白に証明されているではないか。

筆者は、地上的な教会組織がどうなろうとも構わないが、彼らの真の目的が、地上の教会組織を圧迫することよりも、むしろ、自由な共同体としてのエクレシアを圧迫することにあると知っているためにこそ、これに猛反対しているのである。

彼らが、どの教会組織にも属していない筆者を、どんな組織や団体よりも激しく圧迫・攻撃している事実は、彼らの真の目的が、もともと地上の教会組織に介入することにはなく、天的な共同体としてのエクレシアに介入し、これを蹂躙、強奪、支配することにある事実をよくよく物語っている。

こんな人々が正義の担い手であるはずがないことは、誰の目にも明白である。

だから、筆者は、神の神聖なる教会が、悪魔的な思想の担い手である暴徒のような人々によって蹂躙され、脅しつけられていることに対して、決して黙っていることはできないし、黙っていようとも考えないのである。御言葉が現実となって、これらの人々がエクレシアに手を触れることができなくなるまで、手を緩めることはしないし、このような人々を哀れんだり、惜しんだりもしない。

神の義と聖と贖いは、人間の正義を振りかざして、各教会にカルト化の疑いをかけてはクリスチャンの恥をさらし、教会の権威を貶めようとする者たちにはなく、キリストの御身体なる天的な共同体であるエクレシアにこそある。筆者はこの天的な聖なる構成体の一員として、彼らの暴言に立ち向かうのである。結末がどうなるのかは注視してもらいたい。

さて、これまで筆者は、様々な霊的な戦いを経て、それに勝利する秘訣を少しずつ学んで来た。

どれもこれも難しい戦いばかりであり、通り抜けるのは容易ではなく、当初はそれも神から来た懲らしめにも似た教育訓練に思われたが、どれも大きな価値ある戦いであった。霊的な幼子から、大人へと成長するために、信者はこのような訓練を避けては通れないものと思う。

その戦いの中で、筆者は、暗闇の勢力が、どのようにして、自分たちの劣勢を隠すために虚勢を張り、本当は負けることが最初から分かっている不利な戦いで、あたかも自分たちに勝ち目があるかのように見せかけるか、また、彼らは、本当は仲間内でさえ、互いに分裂しており、統制が取れず、意見はバラバラで、常に孤独であって、真の味方もいないのに、どのようにうわべだけ、あたかも全世界が自分の味方であって揺るぎない連帯があるかのように見せかけるか、どれだけ彼らが人数を水増ししたりしながら自分たちが優勢にあるかのように見せかけるのを得意とするか、また、信者の団結の勢いを削ぐために、どんなに卑劣な工作や心理戦をしかけて、信者同士を分裂させて裏切らせようとするか、筆者はこれまでかなり詳しく目にして学習を積むことができた。

むろん、まだまだ十分な量の学習に達したとは言わないが、現実にそうした工作を見、心理作戦をしかけられる中で、敵の狡猾さ卑劣さを知り、

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(マタイ10:16)

という言葉の意味を思い知る。敵のやり方から学ぶことは多くある。たとえば、負けているのに最後の最後まで勝っているかのように見せかけて、虚勢を張ろうとする姿勢には、クリスチャンもその執念に負けないまでの執拗さで、キリストの勝利を確信してやまない不動の決意が必要だと思い知らされる。

こうして、神と共に二人三脚で戦いを戦い抜くことを、繰り返し繰り返し学んでいると、次第に、暗闇の勢力による激しい心理作戦に惑わされたり揺るがされることなく、勝利をおさめる秘訣が分かって来るのだ。

以前にも、以下の詩編を引用し、これは霊的な戦いのことだと述べたことがある。クリスチャンが霊的な戦いにおいて熟練した強い兵士となるように、神自らが戦いの技を教えて下さる。

主のほかに神はいない。
 神のほかに我らの神はいない。
 神はわたしに力を帯びさせ
 わたしの道を完全にし
 わたしの足を鹿のように速くし
 高い所に立たせ
 手に戦いの技を教え
 腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

 あなたは救いの盾をわたしに授け
 右の御手で支えてくださる。
 あなたは、自ら降り
 わたしを強い者としてくださる。

 わたしの足は大きく踏み出し
 くるぶしはよろめくことがない。
 敵を見、敵に追いつき
 滅ぼすまで引き返さず
 彼らを打ち、再び立つことを許さない。
 彼らはわたしの足元に倒れ伏す。
 
 あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ
 刃向う者を屈服させ
 敵の首筋を踏ませてくださる。
 わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。

 彼らは叫ぶが、助ける者は現れず
 主に向かって叫んでも、答えはない。
 わたしは彼らを風の前の塵と見なし
 野の土くれのようにむなしいものとする。
 
 あなたはわたしを民の争いから解き放ち
 国々の頭としてくださる。
 わたしの知らぬ民もわたしに仕え
 わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い
 敵の民は憐れみを乞う。
 敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。

 主は命の神。
 わたしの岩をたたえよ。
 わたしの救いの神をあがめよ。
 わたしのために報復してくださる神よ。
 諸国の民をわたしに従わせてください。
 敵からわたしを救い
 刃向う者よりも高く上げ
 不法の者から助け出してください。
 
 主よ、国々の中で
 わたしはあなたに感謝をささげ
 御名をほめ歌う。
 
 主は勝利を与えて王を大いなる者とし
 油注がれた人を、ダビデとその子孫を
 とこしえまで
 慈しみのうちにおかれる。」(詩編18:32-51)

歴史上、これまでクリスチャンの民の間には絶えざる争いが起こって来た。しかし、主はご自分に従うキリスト者を舌の争いから解き放ち、自由にして下さるであろう。

筆者もダビデが書き記したように、暗闇の勢力を追いかけ、彼らを打ちすえ、彼らの首筋を踏み、二度と立ち上がって口をきけないまでに追い詰めるまで、その戦いから手を引くことはない。彼らが叫んでも、誰も憐れむ者もなく、彼らが風の前の塵のようにむなしいものとして吹き去られるまで、手を引かないし、彼らが去っても、二度と振り返ることはない。

「わたしを憎む者をわたしは滅ぼす」

この御言葉を実現するためには、信者は神の御前で自分自身をどれほど潔癖に保たねばならないであろうか。

霊的戦いに勝利するための秘訣は、決して神から来たのではないものを受け入れないこと、そうしたものをそばに置かないこと、まことしやかに味方を装い、助けを申し出て来る不要な助言者をすべて退け、肝心な時に裏切る不誠実な仲間と決して連帯しないことである。

ただ神だけをよりどころとして、他のすべてのよりどころを排除し、預言者エリヤのように、神の御前に単独者として立つ。そうすれば、戦いはもう7~8割方終わったようなものだ。

あとは大胆に一歩を踏み出すだけ。

「わたしの足は大きく踏み出し
 くるぶしはよろめくことがない。」

弱ったひざと、よろめくくるぶしでは、そう遠くまで歩いて行くことはできない。

ロトはソドムを脱出する際、御使いたちに山まで逃げるよう言われたのに、力不足のゆえに、遠くまで逃げられず、近くの低地の街までしか行けないと御使いに懇願した。神はロトの願いを聞き入れては下さったが、ロトは自らの力不足ゆえに、神の最善を退けたので、その後で困難な状況に見舞われることになる。

キリスト者は、霊的に高く、遠くまで行くことが求められている。そのためには、まっすぐなひざ、よろめくことのないくるぶし、走ってもたゆまず、歩いても疲れない体が必要だ。わしのように翼をかって、天高く舞い上がることが必要となる。

キリスト者にあっては、内側の霊の高度が、御名による支配権の行使と密接に関係している。クリスチャン一人一人にはこの世を超越する天的な支配権(キリストの御名による超越的な支配)が与えられているが、これを十分に行使するためには、クリスチャン一人一人が、心の内側で、霊的な高度を保っていることが必要なのである。

王は玉座から支配権を行使すが、クリスチャンは、キリストと共に御座につき、そこから天的な支配権を行使する。

だがもしクリスチャンの内側での霊的な状態が、御座に就いている状態からほど遠ければ、大胆に御名の権威を行使することができない。霊が圧迫されて極度の不安に陥っていたり、地上のものに心惹かれて低地をさまよっていたり、目を覚ましておらず、敵の不意の襲来に用意ができていなかったりすれば、御座から簡単に撃ち落とされてしまい、大胆に権威を行使することができない。

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。

あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1-4)


霊的な高度、すなわち、天の御座の高さに自分自身の霊を保つためには、信者には心の平安、平静、および、天的なものにのみ心を留める関心の高さがどうしても必要である。地上のものに心を留めず、絶えず目を覚まして、上にあるものを思い、神の御心や、あらゆる状況に注意散漫でなく、信者の関心を絶え間なく地上のものへと引きずりおろそうとする暗闇の勢力の作戦に対抗し、悪しき力にしっかりと抵抗して打ち勝っていること、御言葉を現実に適用することで、天的な富を地に引き下ろす秘訣を知っていること、滅びゆく肉体を持った人間であるにも関わらず、自分の肉なる人としての弱さを、神の力の強さによって覆う方法を知っていること…などが必要となる。

このことは決してクリスチャンが一朝一夕に学べることではなく、何度も、何度も、困難な戦いを経て、失敗を繰り返して、初めて習得する事柄である。そうなるまでには、信者は自分の心に激しい戦いをしかけて、信者の霊を天の高度から地上に打ち落とそうとする悪しき勢力が存在することを知り、どうやってこれに抵抗するかを学び、また、自分自身の弱さに目を留めると常に目指していた目的地まで到達できなくなることを知って、どうやって霊を奮い立たせて、この弱さを神の強さによって補強してもらうのか絶えず学び続けねばらない。これは長い学びの過程である。

さて、最近、筆者は、目に見える兄弟姉妹と地上的な連帯があるかどうかに関係なく、エクレシアは常に霊的に機能する共同体であると思うようになった。ここで言うエクレシア(教会)とは、地上的な組織や団体としての教会のことを指すのではない。

聖書には、キリストのみからだなる教会は、一つのからだであって、その一部が弱ったり、痛んだりすれば、からだ全体が共に痛み、その弱った部分を助けると記されている。

だが、我々は現実の目に見える人間としての兄弟姉妹と常に物理的接触があるわけではないし、信者には誰にも口に言い表すことのできない多くの問題がある。信者はそのような問題をただ神の御許へ持って行き、神との間で解決するが、その時、エクレシアはどうなっているのであろうか。

もしも信者が他の兄弟姉妹と現実に物理的な接触を持っていなければ、その人は、エクレシアからの助けを受けられないのであろうか?

答えはNOである。

もしエクレシアがそのようにこの世の物理法則にとらわれるものであったなら、パウロが投獄された時、彼はエクレシアから切り離されかかっていたことになろう。ガイオン夫人などはどういう状態にあったことになるだろうか。

しかし、現実には、クリスチャンがたとえ迫害されて牢に入れられて他の兄弟姉妹と会うこともできなくなっているような時でさえ、そのクリスチャンはれっきとして天的な共同体としてのエクレシアの一員をなしており、この共同体には、絶えずキリストの復活の命が流れ、霊的供給が行き巡っているのである。

「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。」(エペソ3:10-11)

エクレシアの目的の一つは、天上の支配や権威に対して、多種多様な神の知恵を知らせることにある。エペソ書には、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エペソ6:12)と記されており、天上には悪しき霊も存在することが分かる。

悪しき諸霊は、何とかして信者の霊を天の高度から地に引きずりおろし、撃ち落とそうとするが、逆に、信者の方が、悪しき諸霊を天から撃ち落とさなければならない。

「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。

イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。

しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:17-20)


以上の御言葉から、イエスに遣わされた者たちが、悪霊を屈服させ、追い払ったことにより、「サタンが稲妻のように天から落ちた」ことが分かる。老いた蛇である悪魔が最終的に火の池に投げ落とされるまでには、まだ時を待たねばならないが、そうなるまでの間にも、幾度となく、その予行演習のような戦いが行われ、悪の諸霊が天から転落するのである。そうすることがクリスチャンの使命である。

エクレシアの使命とは、天にいる悪の諸霊も含め、天上のあらゆる支配や権威に対して、神の知恵と力のどんなに豊かであるかを見せつけ、知らしめることにこそある。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エペソ1:17-23)

この御言葉は、人間の理解力を超えているため、説明し直すこともできないが、要するに、エクレシアとは、すべてを満たすキリストご自身が満ち満ちている場であり、そこには、すべての支配、権威、勢力、主権を超えて、来るべき世においてさえも、すべての名にまさる名であるキリストの御名の絶大な権威が付与されており、神の多様な知恵が働き、神の召しにこめられた絶大な希望があり、キリストある無尽蔵の富と豊かな栄光が宿り、キリストを死からよみがえらせた神の偉大な力が働いているのである。

エクレシアは時代を超え物理的制約を超えて、キリストに連なり、御子の復活の命にあずかる一人一人の者たちから構成されている。それはクリスチャン一人一人のことでもあるし、キリストの成分にあずかる者たち全体の、時代を超えた集合体のことでもある。

クリスチャンは、キリストの御体の一部として、絶えずキリストの命の供給を受けることができる立場にあり、弱り果てたときには強くなって立ち上がるための力を受け、困難に直面した際には解決のための知恵を供給され、どんな境遇にも対処することのできる知恵と力を「すべてのすべて」であられる方ご自身から供給される。

そこで、時にクリスチャンはこの世から憎まれ、追い詰められ、完全に孤立し、死にかかってさえいるように見えることもあるかも知れないが、真の現実は、それとはさかさまであり、クリスチャンこそ、すべてに勝利する秘訣を知っているのである。

それは、主イエスが次のように言われたことを思い出すだけで良い。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

パウロは次のように言った、

わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてを所有しています。」(Ⅰコリント6:8-10)

以上の言葉は、クリスチャンの宣べ伝えていることが、人々から嘘だと疑われて罵られたり、悪口を言われて貶められたり、あらぬ罪を着せられて罰せられる寸前まで行ったり、あるいは殺されかかったり、さまざまな苦難に見舞われて悲しんだり、貧しさの中を通らせられたりすることがあるにも関わらず、そのすべてにクリスチャンが勝利をおさめることが可能であることを伝えている。

この世の有様がどんなものであれ、また、クリスチャン自身の肉なる人がどんなに弱くとも、信者がそうした地上の制約にとらわれず、決してあきらめることなく、御名の権威を行使して、信仰によって御言葉が実際になることを要求し続ければ、嘘に過ぎない地上的な現実は後退して行き、キリストにある天的支配がリアリティとして実際に地に適用されるのである。

堕落したこの世の君は、自分たちの秩序こそ、永遠の動かせない現実であるかのように見せかけようとするが、現実はその逆なのだ。

筆者がこれまでに向き合って来た暗闇の軍勢の一部の様子を見れば、誰にでもすぐに分かることであるが、悪しき諸霊に導かれ、神のエクレシアに戦いを挑んでいる人たちの心の内は、自分たちの罪を暴かれ、責任を追及されることへの恐怖で満ちている。

彼らは、キリスト者にこそ、神の教会への彼らの乱暴狼藉に対し、厳正な処罰を求める権限があることを最初から知っているので、キリスト者が正当な権限を行使して、彼らに対してその罪の償いを要求し、彼らを駆逐することを恐れ続けて来たのである。

筆者は、彼らと出会った頃には、まだそういう結果になることを知らず、何より、この人々が神の敵の霊に導かれ、神の教会に敵する思想の持主であることさえ知らなかった。しかし、悪霊たちは、クリスチャン自身が自覚しているよりも、もっとはっきりと、最初から、クリスチャンの内側にある神の霊の偉大な強さを知っているのである。最初から、自分たちがどうなるのか、最後の結末を知っているのである。

そのことは、イエスが、悪霊につかれて凶暴化した二人の人間に出会って、その人たちから悪霊を追い出し、豚の群れに入るよう命じたという、聖書の有名なくだりを読めば分かる。

そのくだりには、悪霊たちは、イエスが近づいて来るのを見ただけで、イエスが自分たちに対してどのような権限を持っているか、自分たちの運命がどうなるのかががすぐに分かり、イエスを恐れて哀れみを乞うて叫んだことが分かる。

イエスが向こう岸のカダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。

二人は非常に凶暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここにきて、我々を苦しめるのか。」


はるかかなたに多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。

豚使いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者たのことなど、一切を知らせた。すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。」(マタイ8:28-34)


筆者が向き合って来た暗闇の軍勢もどこかしらこれとよく似ている。聖書に記された以上の悪霊どもは、とりついた人間を誰の手にも負えないほどに凶暴化させて、その人間を通して街の住人を脅しつけていたが、今、暗闇の勢力に動かされ、神の教会に立ち向かう人々も、これとそっくりな有様ではないか。

彼らは、当初、筆者や筆者の知り合いたちが彼らの狼藉に抗議を申し入れたときから、自分たちが駆逐される運命にあることをはっきりと知っていたのであろう。そこで、クリスチャンがそのような行動に出ることを全力で阻止しようと、まだ起きてさえいなかった戦いに反撃を開始し、あらん限りの罵詈雑言と共に、自分たちを訴え、罰しようとしているクリスチャンたちを罵り始めたのである。

彼らがそうしたのは、本当はクリスチャンこそ、彼らを神に訴え、取り押さえ、彼らの口を封じて、しかるべき場所に送る権限を持っていることを最初から知っていたためである。今も、そうされること怖さに、何とかしてクリスチャンを思いとどまらせようと、罵詈雑言を吐き続けているのである。

しかし、私たちは、このことから逆に、私たちに与えられた御名の権威が、どれほど絶大なものであって、彼らを天から投げ落とし、駆逐するに足るものであるか、彼らの敗北がどれほど最初から確定済みの事項であるかを伺い知ることができる。彼らの恐怖と、それを隠すための卑劣な工作を見るだけで、この人々が敗北することは必至だと知ることができる。

ただ、クリスチャンは正当な権限を自らの意志で行使しなければならない。その行使の時を遅らせるために、彼らはひたすらクリスチャンを脅しつけているのである。

さて、上記の聖書のくだりを読むと、悪霊に憑りつかれて乱暴狼藉を繰り返す人間も脅威であったとはいえ、街の住人たちも、五十歩百歩だったように思われてならない。

主イエスは、長年に渡り、悪霊にとらわれていた二人を解放されただけでなく、それによって、街の住人たちをも、悪霊の脅威から解放された。ところが、その街の住人たちは、その光景を見て喜ばなかったどころか、イエスに街から出て行ってくれと懇願したのである。

豚使いたちは、自分たちの商売道具が台無しになったことを惜しんでイエスを責めたのであろうし、他の住人たちは、イエスが一瞬で行われた解放の御業を見て、それを悪霊たちが長年かけて彼らに行って来た乱暴狼藉よりも、もっと恐るべき「秩序騒乱」とみなし、街の秩序がこれ以上、揺るがされないために、イエスに街から出て行ってくれと懇願したのである。

結局、その街の住人は、墓場に住む悪霊の乱暴狼藉にずっと苦しめられていた方が、イエスがその悪霊たちを瞬時に豚の群れの中に追放するのを見るよりは、ずっと良かったと言いたかったのである。彼らはそれほどまでに悪霊の支配に慣らされてしまい、抵抗する力を失っていただけでなく、自分たちの理解をはるかに超えた事態が起きたこと自体が耐え難かったのである。

つまり、街の住人でもなく、そこにひと時立ち寄っただけの「よそ者」である(はずの)イエスが、自分たちの街の長年に渡る秩序を瞬時に根底からひっくり返し、新しい秩序を打ち立てるほどまでに絶大な権威を持っていることを、決して認めたくなかったのである。

おそらく、今日もそれと同じ現象が起きているのではないだろうか。キリスト教界は、墓場に住む凶暴な悪霊に圧迫され、脅しつけられることにあまりにも慣らされ、自らそれに同意するまでに至っている。そこで、「サタンが天から稲妻のように投げ落とされる」光景をたとえ見たとしても、どれだけがその価値を理解して喜ぶかは疑問である。
 
それでも、信者は「サタンを天から投げ落とす」ことに貢献すべきである。そのためにこそ、地上に遣わされているのだから。

私たちは、目に見える地上の有様にとらわれず、聖書の御言葉にある通り、キリストの御名を用いて、神の喜ばれる天の支配をこの地に適用し続ける。そして、神がキリストにあってお与え下さった自由や解放をどこまでも追求してやまない。神がキリストの命の代価を通して私たちにお与え下さった義と聖と贖いを、どうして再び侵害されねばならない理由があるだろうか。

こうして決して二度と再び人の奴隷とならず、神だけにより頼んで信仰に立ち続けるその過程で、堕落したこの世の有様が、負けじと自己主張して来ることであろうが、彼らは御言葉によって天から投げ落とされることが確定している。へびやさそりやまむしを足の下に踏みつける権威は、クリスチャンにこそ与えられているのである。

「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。」(Ⅱコリント4:7-10)