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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~

神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性 
~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による
「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~


「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

 というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」(Ⅱコリント11:3-4)

 



1.社会的弱者を無条件に美化することは、人の原罪を否定することにつながる
 ~平和な信仰生活を弱者救済という社会事業と政治闘争と置き換える危険~


ペンテコステ運動は、聖霊による超自然的な奇跡や癒しを強調することにより、社会から打ち捨てられた弱者を対象に、彼らへの早急な具体的支援を謳って、積極的に伝道を繰り広げて来たことで知られる。

アッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団もこの点では例外ではなく、同教団は、病者、障害者、元ヤクザ、元統一教会員など、社会で最も憂慮すべき状態にある社会的弱者を積極的に勧誘して信者に取り込み、彼らが神を信じる以前の「負の過去」をも、積極的に宣伝材料として伝道に利用して来た。たとえば、元ヤクザで形成される伝道団体ミッション・バラバの活動を積極的に後押しして来たことなども知られる。
 
だが、キリスト教は本来、社会的マイノリティの救済のための慈善事業ではなく、教会が福音伝道という本来的な目的から逸れて、こうした社会事業に没入することは、教会の本来のあり方を見失わせる危険がつきものである。さらに、弱者や被害者を名乗る人たちをよく確かめもせず同情や救済の対象とし、彼らを美化するのは極めて危険な行為である。


私はこのブログにおいて、弱者救済という活動の美名の背後に潜む非聖書的な理念の危険性を一貫して訴えて来た。以下で映画" Mishima A Life In Four Chapters The Criterion Collection] [1985] Paul Schrader "を紹介したのもそうした理由からである。

この映画からも理解できるように、社会的弱者だからと言って、必ずしも善良な人々であるとは限らない。それどころか、人の強さと同様に、弱さもまた、人が自分よりも強い人間を騙し、巧みに利用して、己の欲望を叶えるための武器になりうるのである。弱さを持った人間が、自分の本当の動機を隠し、自分の弱さを巧みに利用して人の同情や罪悪感を引き出すことにより、自分よりも強い者を騙し、搾取し、支配するということがありうる。こうして、社会的な弱者が、弱者であることをバネに、強者との関係を覆し、強者に君臨し、自らのコンプレックスの憂さ晴らしをして、強者に復讐を果たすということが事実上、ありうるのである。

このような方法は古来から利用されて来たし、思想としても存在して来た。たとえば、マルクス主義も、弱者の復讐願望を理論化したものであると言える。経済的・社会的弱者であるがゆえに、プロレタリアートは善なる人々であるとし、彼らを搾取するブルジョアジーを悪人として描くことにより、マルクス主義思想は、プロレタリアートの救済という大義名分の下、弱者が決起して強者を打ち倒すことにより、強者を抑圧し、復讐を遂げることを肯定したのである。

確かに、強い者が自らの力により頼んでおごり高ぶり、弱者を蔑み、騙し、虐げる罪は重い。だが、それと同時に、弱者が弱者であることを理由に自分を聖なる存在のようにみなし、その弱さを武器にして、復讐心から強者を騙し、搾取し、抑圧して、支配関係を逆転しようとする思想も、前者と同じほど重大な危険をはらむ、恐ろしい思想であると言える。

聖書は人間はみな生まれながらに堕落した罪人であると教えており、その点で、いかなる例外も存在しない。社会的弱者だから、マイノリティだからと言って、心の清い人間は一人もいないのである。社会的弱者が、社会的強者に比べ、優先的に救いに値する心の清い人々だとは、聖書は教えていない。

たとえ社会的弱者であっても、その人に信仰がなければ、人は救われることができない。罪を逃れることもできないし、神の聖にたどり着くこともない。社会的な弱者であるその立場が、信仰なしに魂の救済につながることは絶対にあり得ない。

にも関わらず、社会的弱者であるという点をことさらに強調することによって、まるで彼らが特別に優れて心の清い、神に近い聖なる存在で、最も救済に近い人々であるかのように美化して描くことは、聖書に悪質に逆らう大変、危険な思想であると言える。
 
人はみな生まれながらに罪人であるという聖書の事実を否定して、社会的弱者も社会的強者と全く同じように罪人であるという点を見ず、社会的弱者だから無条件に救済に値すると考えて、弱者を無条件に美化し、弱者救済活動を行うと、結局、人間の原罪そのものを否定し、キリストの十字架を抜きに、人類が自力で自己義認し、神へ反逆するという、最も福音からほど遠い、恐ろしい思想につながりかねない。



2.「異なる福音」~聖書に基づく「救済」の概念を歪曲し、この世的な生活改善を「救済」とみなす異端~

   
かつて記事「疎外されし者たちの復讐の哲学~抑圧された社会的弱者や被害者の内に神を見いだす危険②~」の中で述べたように、キリスト教界において行われて来た弱者救済活動の中には、多くの信仰に基づかない非聖書的な活動があった。というより、弱者救済活動に励むキリスト教徒の指導者は、往々にして、自らが神を見いだせないという絶望に悩み苦しんでいた。上記の記事で挙げたマザー・テレサや、奥田牧師といった人々もそうである。

マザー・テレサは、死んだように形骸化して人への憐れみを失った冷たいキリスト教界の教会生活の中で神を見いだすことができず、神が実在しているのかどうか分からず、神に見捨てられているという絶望感に苛まれていたことを告白している。マザーは、教会にいる信仰者の中にキリストを見いだせず、絶望しか感じられなかったからこそ、路上生活者のもとへ赴き、「イエス=キリストは路上で 生活する貧しい人々に遍在している」と考えて、信仰を持たない貧しい人々の中にキリストを見いだそうと、弱者「救済」に励んだのである。

奥田牧師も同様に、釜ヶ崎のホームレスの置かれている悲惨な状況を目撃し、神はどこにおられるのか分からないという絶望感に苛まれ、自らの絶望をアウシュヴィッツを経験したユダヤ教徒のエリ・ヴィーゼルの告白に重ねながら、虐げられたホームレスの人々の中に神を見い出そうと、路上生活者のもとを訪れた。

形骸化して死んだように生気に欠け、人間への愛や憐れみを見失った従来のキリスト教界とクリスチャンの交わりの中で、神を見いだすことができず、むしろ、自分は神に見捨てられているという絶望しか感じることができなかったからこそ、その絶望感を癒すために、彼らはあえて教会から見捨てられた社会的弱者を対象に、救済活動を始めたのだと見られる。

従って、彼らの活動は、ただ社会的弱者のためだけに行われたというよりも、彼ら自身が、神に見捨てられたという自らの内なる絶望感を解消するために行われた自己救済の試みであった。

つまり、彼らは社会的弱者の哀れな境遇に自分自身を投影し、弱者に優しく手を差し伸べ、その生活の状態を改善することにより、神に見捨てられた絶望感から自分自身を救おうと試みていたのである。

マザー・テレサや奥田牧師は、キリスト教徒であったので、彼らの「救済活動」も、ともすれば、聖書に基づくものだと考えられがちであるが、実際には、彼らの唱える「救済」は、魂の救いという、キリスト教における聖書に基づく従来の「救済」とは全く異なるものであった。
 
だが、彼らの救済活動は、決して聖書に基づいて福音宣教の範囲を拡大することにより、従来のキリスト教界の手の届かないところを補い、宣教の範囲を広げることで、より多くの人々をキリストへ導くことを目的にはするものではなかった。

むしろ、従来の教会の宣教では、決して救いの対象とならないであろう見捨てられた人々を積極的に集め、彼らのために、教会の提示する従来の福音とは異なる福音を作りだすことによって、この人々を救いの対象外に打ち捨てて来た憐れみのないキリスト教界(ひいては神ご自身)に、深刻な疑念を提示し、抗議することを根本的な目的としていたのだと見られる。
 
たとえば、マザー・テレサは、キリスト教を押しつけないという理由で、インドの人々にキリスト教への改宗を促さなかったことが知られている。これを通しても、マザーの「救済」活動は、滅びゆく人々の魂をキリストへの信仰に導く福音伝道を第一目的としていなかったことが分かる。

正常なクリスチャンであれば誰しも、たとえ社会的弱者がどんなに手厚い支援を受けて、人として尊厳ある死に方をしたとしても、もし信仰を持たず、魂の救いに至っていなければ、罪や死後の裁きから逃れる道はなく、永遠の命もないということを否定しないであろう。

さらに、ホームレス伝道の場合も含めて、上記のように弱者救済に励む人々が、たとえ福音伝道をその活動の一部に含めていたとしても、彼らはほとんどの場合、社会的弱者への物質的・精神的支援の必要性を強調して、弱者を支援者である彼ら自身に依存させてしまうだけで、キリストの命にこそすべてがあって、キリストだけを頼り生きることによって、弱者が目に見える人間の支援者に頼ることなく、完全な自立に至ることが可能であることを決して教えない。そこで、ホームレスはホームレス生活からは抜け出られたとしても、今度は支援者につかまってしまい、教会の助けなしには決して自立できないような依存した状態にとどまってしまうのである。
 
困窮する社会的弱者が、弱さや困難から抜け出る秘訣は、本当は、人間の支援者による助けにあるのではなく、キリストの復活の命にこそある。悩める人に必要なのは、人間の与える一時的で不完全な物質的・精神的支援ではなく、神の御子の十字架における贖いの完全性を信じ、永遠の命に至り、この命に立脚して自立して生きることである。

この世の物質的・精神的支援は、それ自体、無意味ではないにせよ、すぐに尽きてしまう束の間の延命治療のようなものに過ぎない。それは人を死から救うこともできないし、人の抱えるあらゆる必要を不思議な天的方法で満たすこともできない。

だが、キリストの十字架の贖いによる救いは、永遠に至るものであり、信者がこの世においても、来るべき世においても、直接、神から助けをいただいて、目に見える誰にも依存せずに、自立して生きる解放を約束するものである。

だから、社会的弱者へどんなに手厚い支援を行なったとしても、もし人々にキリストの十字架の贖いを信じて魂の救済を受けとるように導かず、さらにキリストを信じさせたとしても、ただキリストだけに頼り、キリストの命だけによってすべての必要を供給していただくことが実際に可能であることを教えず、かえって人間の支援者らによる物質的・精神的支援へと依存させていき、彼らの救済活動の枠組みから決して外へ出そうとしないならば、それは偽りの救済活動であり、その対象とされてしまった人々には、目に見える支援者から自立して生きる道が半永久的に閉ざされてしまう。

そのため、こうした活動においては、「支援する側」と「支援される側」に、永久に埋まらない溝(区別)ができ、その格差の分だけ、支援者だけが、弱者の救済の美名を利用して輝き、弱者を土台にして、賞賛され、栄光を受けるのである。

従って、こうした神によらない弱者救済活動は、一見、弱者を解放するように見えても、決して弱者を真の解放へは導かない。むしろ、弱者をまことの神への信仰から遠ざけ、前よりももっと巧妙で気づきにくい新たな支配と搾取の構図の中にからめとって行くだけなのである。ただ、利用されている側の弱者は、前よりも生活が良くなったのは支援者のおかげだと思わされているため、その新たな搾取の忌まわしさが分からないだけである。
 
こうした弱者救済活動にいそしむキリスト教の指導者は、「救い」の概念そのものを歪曲し、すり替えてしまう。彼らの提示する「救い」とは、社会的弱者が、彼らの提供するこの世の物質的・精神的支援を受けて、生活状態が改善することを意味しているのであり、彼らが見えないまことの神を信じて永遠の命を受け取り、その命に基づいて自立して生きることでを「救済」とはしていないのである。

こうして、「救済」の概念をすり替えることにより、こうした指導者は、聖書の提示する救いとは全く異なる別の救済の概念を作り出し、聖書とは「異なる福音」を宣べ伝えているのである。

こうしたことを考えるならば、たとえ世間でどんなにマザー・テレサの「偉業」が誉めたたえられたとしても、彼女の活動は、聖書の信仰を土台とせず、この世的な支援だけを行い、人々の生活状態の改善を「救済」とみなすことにより、むしろ、最も大切な聖書の真理を、滅びゆく人々の目から覆い隠し、彼らがまことの神を信じて魂の救いを受けとる機会を奪ったのだと言える。そうした文脈で見ると、これはキリスト教的な救済事業ではあり得ないどころか、神の福音に本質的に敵対する活動であったということになる。ほぼ同じことが、キリスト教指導者によって行われるホームレス伝道についてもあてはまるのである。



3.「異なるイエス」~キリストは信仰者の内におられるのではなく、信仰を持たない社会的弱者のうちにおられるとする異端~

すでに述べた通り、上記のような弱者救済活動は、救済事業に関わるキリスト教の指導者自身が、神を見いだせないという絶望感から発生していた。

つまり、教会の従来の宣教活動によっては、決して福音伝道の対象とはみなされず、従って、救いの対象外となるしかないような人々が存在していた。献金を払う余裕もなく、教会活動に何ら有益な貢献ができそうにないという理由で、初めから伝道の対象から除外されて、教会から見放され、悲惨な滅びと死へと向かわされている人々がいた。――彼らは地上で苦しんでいるばかりではなく、伝道の対象外であるために、従来のキリスト教の教義によれば、来るべき世でも苦しみしか待ち受けているもののない人々である。――もし、彼らが教会の不作為により、福音を伝えられず、キリストを信じることなく死んでしまった場合、彼らの魂が永遠に救済されないというならば、一体、これらの人々は何のために生まれて来るのか、誰が彼らの存在に対して責任を負うのか、神と教会はなぜこれらの人々を見捨てているのかーー。

自分自身が教会で味わった絶望とあいまって、見捨てられた弱者への痛みに満ちた共感が生まれ、それが彼らを見捨てて来た神と教会とクリスチャンに対する深い絶望感と憤りとなって、上記のような活動へと、キリスト教指導者を追いやったものと考えられる。

そこで、彼らは教会からは暗黙のうちに「救いの対象外」とみなされているような貧しい路上生活者のもとへ赴き、意図的に彼らを対象にして、今まで彼らを疎外することしかできなかった教会の提示する「狭い救い」の代わりに、この世的な手厚い支援を救済とする「広い救い」を作り出して、教会とは全く別のやり方で、これらの人々を「救済」しようとした。

それだけでなく、こうした指導者らは、「神」の概念をもすり替え、キリストは、冷淡で愛を失い生気なく死んだような教会の、死んだようなクリスチャンの只中におられるのではなく、むしろ、教会から見捨てられているように見えるこれらの社会的弱者の中にこそおられるのだと主張した。

そうすることで、彼らは、実は、神から見捨てられた自分自身と、教会から見捨てられた社会的弱者とで、共同のリベンジを果たしていたのだと考えられる。つまり、彼らの論理によれば、神が本当におられるのは、信仰を持っていると自称して自己安堵しながら他者への憐れみを失い弱者を容赦なく教会の外に見捨てているクリスチャンの只中ではなく、信仰を知ることもないまま打ち捨てられている貧しい路上生活者の只中にこそ、神がおられるのであり、従って、その論理を推し進めると、神に本当に見捨てられているのは路上生活者ではなく、むしろ彼らを容赦なく見捨てて来た教会の方だということになる。

こうして、弱者救済活動の支援者らは、自らが教会の中で見いだせなかった救いを、路上生活者のもとに見いだそうとする。彼らは路上生活者に生活の支援を与えることにより、彼らを「救済」してやる代わりに、路上生活者の中に「キリスト」を見いだし、それによって自分自身が「救い」を得るのである。

従って、彼らの活動は、このような観点から見ると、聖書をさかさまにしたものであり、たとえキリスト教界を公に糾弾したり、これと敵対したりすることがなかったとしても、本質的には、この活動は、社会的弱者を容赦なく打ち捨てて来た従来のキリスト教界と、彼らを救いの対象としえなかった従来の福音に対する異議申し立て、告発、強烈なアンチテーゼの意味合いを持っているのだと言える。
  
だが、もちろん、そのような活動は、人の耳には優しく聞こえるかも知れないが、聖書に基づかないものである以上、虚偽であり、まやかしでしかない。

こうした活動では、本来、神の救いを宣べ伝える側に立っているはずキリスト教の伝道者が、宣べ伝えられる側の人々の方に救いを求めているという点で、本末転倒であるだけではない。信仰なくして社会的弱者のうちに「神」が宿っているとする思想は、人の原罪を否定して、生まれながらの人を神に等しいものとしている点で、聖書に真っ向から対立する異端思想である。
  
そこで、こうした「弱者救済」の思想は、マルクス主義と同じく、本質的には、グノーシス主義に分類されるのだと言える。グノーシス主義思想においては、人は生まれながらに神聖な要素を内に宿しているため、その神聖に覚醒して目覚めさえすれば、自らを抑圧から解き放って神の聖に達することができるとされる。

グノーシス主義思想においては、生まれながらの人の原罪は否定されており、人は罪深い存在であるどころか、むしろ「神聖な要素」を内に宿しているのであって、ただこれが抑圧されているために、転倒した状態にあるだけだとされる。そこで、この思想においては、人は己のうちに抑圧されている神聖な要素を解き放ち、自分自身の中で秩序転覆を成し遂げ、神聖な要素を全体に押し広げさえすれば、自ら神のように聖なる存在に到達できるとされる。そのような秩序転覆は、一人の人の内側において可能であるだけでなく、社会全体にもあてはめられる。その際、社会全体の秩序転覆のために利用されるのが、「抑圧された(聖なる要素としての)社会的弱者」の存在である。

つまり、こうした思想においては、社会において「抑圧されている弱者」が「神聖な」要素とみなされているのであり、この「聖なる」人々を抑圧から解き放つことにより、社会全体が「聖化」され、弱者のユートピアという地上天国に至るというのである。

このような文脈における「弱者救済」の思想は、ただ単に個人としての社会的弱者を抑圧された生活状態から救うことを目的として目指しているのみならず、それは社会事業としての意味を持っており、すなわち、弱者の集団を社会全体において抑圧から解き放ち、強者と弱者の関係を覆すことにより、弱者のユートピアを築き、社会全体を浄化しようとする意味を自ずから含んでいるのである。
   
むろん、このような思想には、人の原罪という概念もなければ、人類の罪の贖いのためのキリストの十字架もなく、従って、これがキリスト教に悪質に敵対する異端的な思想であることは明白である。このようなグノーシス主義思想は、早い話が、弱者による秩序転覆のクーデターを容認するものであり、これを正当化する根拠として、社会的弱者をあたかも聖なる存在のように祀り上げているのである。



4.己を疎外した神と教会とクリスチャンに対する復讐としての「弱者救済活動」

  
すでに見て来たように、マザー・テレサや奥田牧師のような「弱者救済活動」に励むキリスト教指導者は、自ら信仰者を名乗っているので、彼らの活動がグノーシス主義思想に基づいているのだとはなかなか外からは見えにくい。

だが、 彼らが「信仰を持たない貧しい人々の中にキリストを見いだしていた」という事実を考えれば、これがまことの神を否定するグノーシス主義思想に沿った考え方であり、彼らが聖書の示す「神」や「救い」の概念をひっくり返して、本来、聖書によれば、罪に定められるべき集団を「聖」とみなし、救われていないはずの者たちを「救われている」とみなし、神に属しているはずのない人々を「神である」と唱え、それによって、最終的には、見捨てられた社会的弱者と共に、神に見捨てられた自分自身を、神に等しい者として祀り上げようとしていたのだと言うことができる。

つまり、彼らは、たとえ公言してはいないにせよ、社会的弱者を「キリスト」と同じ高さにまで祀り上げることにより、彼らだけでなく本当は神から見捨てられた自分自身を「神」としていたのだと言える。すなわち、本当に「キリスト」がおられるのは、神への信仰を持っていると言いながら、死んだ教会の死んだクリスチャンの只中ではなく、むしろ、彼らから疎外され、見捨てられた社会的弱者と自分自身の只中であると言うのである。そう主張することによって、彼らは、神に見捨てられているという絶望感を払拭できるだけでなく、自分を神の愛から疎外した冷たい教会とクリスチャンに復讐を果たし、ひいては、そのような方法で、人類のごく限られた人々しか救いの対象としていない聖書の神の「狭い福音」そのものに異議を唱えているのだと見ることができる。
  
同様のことが、カルト被害者救済活動にあてはまる。すでに述べて来た通り、この活動も、弱者救済という美名を隠れ蓑にしてはいるが、それ自体が、キリスト教界に対する強烈なアンチテーゼであり、告発であった。この活動は、あえてキリスト教界で信仰につまずき、教界から見捨てられて、教界に根強い不満や恨みを持つ分子を集めて来ては、彼らの存在を利用して、キリスト教界に闘いをしかけ、教界を告発して攻撃し、秩序転覆をはかって来た。

つまり、カルト被害者救済活動の支持者から見れば、正しい生き方をしているのは不当に虐げられたカルト被害者であって、彼らを見捨てて来た冷たい教会と冷たいクリスチャンではない。さらに、「救済」に値するのも、虐げられたカルト被害者であって、教会の中にいて彼らを見捨てて来たクリスチャンではないのである。
  
こうして、キリスト教界から見捨てられた「弱者」や「被害者」の存在を口実に、彼らを見捨てたキリスト教界と冷たいクリスチャンを告発し、ひいては神ご自身を非難して、救いの概念を歪曲し、聖書の福音そのものに異議を唱えようとする活動が、カルト被害者救済活動なのである。たとえ彼らがあからさまに神を呪ったり、罵ったりすることがないとしても、彼らにとっての「神」の概念は、正常なクリスチャンと同じものではない。この活動が聖書から著しく逸れたものであることは、すでに幾度も指摘した通りである。
  
こうして、キリスト教徒を名乗っている人々によって行われる「弱者救済活動」は、必ずしも、聖書に基づかないどころか、こうした活動の指導者らには共通して、キリスト教界から見捨てられた社会的弱者・被害者こそ「救済」にふさわしい対象であるとして、弱者のために特別に、従来の聖書の福音とは異なる「救済」を提示することによって、弱者を苦しみの中に容赦なく見捨てて来たキリスト教界の「狭い救い」を否定し、ひいては聖書の提示する福音そのものを否定するという側面があることは否めない。彼らの唱える「救済」は、弱者の生活を改善するという地上のパンを第一の目的としてはいても、見えない霊のパンである聖書の御言葉に基づかないのである。
  
そのため、こうした聖書に基づかない、信仰を抜きにした弱者救済の思想は、それ自体が、神と教会とクリスチャンに対する異議申し立てであり、抵抗運動であり、復讐であると言える。
   
ここで思い出されるのが、ドストエフスキーの大審問官や、サンダー・シングなどの存在である。ドストエフスキーの大審問官は、聖書的な方法では人類のほんの一部しか救われないため、自分はこのような残酷で狭量な救いの代わりに、人類の圧倒的大多数を救うことのできる寛大で広い救いを作ってやるのだと述べて、教会の提示する方法では救われない圧倒的大多数のための新たな福音を提唱する。

サンダー・シングもまた、ヨーロッパのキリスト教界に接触した際、形骸化した教会生活と高慢なクリスチャンに深い絶望を覚え、こうした「自称クリスチャン」の中に神はおられないという結論に至り、それをきっかけとして、「ヨーロッパの地の塵を足から払い落とし」「貧苦に喘ぎながらも真剣に神を求めている東洋の人々へと」関心を移した。(「聖なる導き インド永遠の書」林陽訳、徳間書店、p.19。)
 
マザー・テレサや奥田牧師の場合と同様、こうしてクリスチャンを名乗りながらも、教会から打ち捨てられた人々を積極的に救いの対象とする「弱者救済活動」を行う指導者は、往々にして、従来のキリスト教界と従来のクリスチャンに対する深い絶望感、嫌悪感を心の底に秘めている。

彼らの「救済活動」は、神と教会とクリスチャンに対する絶望をきっかけとして始まっており、彼ら自身の自己救済のためであると言える。その出発から見て、必然的に、そのゴールは、神と教会とクリスチャンの「横暴」によって虐げられた者たちを、神と教会とクリスチャンの手から救うという性質を持つものとならざるを得ない。その結果、彼らは信仰による解決を退け、信仰によっては救われない圧倒的大多数のために、別の福音を作り上げるのである。
    
こうした人々の弱者救済活動は、ただ単に形骸化したキリスト教界に対するアンチテーゼであるばかりではなく、本質的に、聖書の提示する狭き門として「狭い福音」そのものに対する抵抗であり、抗議なのである。

彼らはその活動を通して、神自身の「横暴」と「偏狭な救い」から人々を救おうとしているのだと言えるかも知れない。だから、こうした弱者救済活動は、本質的には神を仮想敵としているのだと言えるのである。すなわち、神に疎外され見捨てられた「クリスチャン」が、同じように、教会に見捨てられた人々に自己投影し、この哀れな人々を「救済」することによって、自己救済を成し遂げ、さらには自分たちこそ神に等しい者であると主張することによって、自分を見捨て来た神と教会とクリスチャンに復讐を果たし、彼らを見返そうとする心理がその根底に横たわっているのだと考えられる。
 
従って、こうした弱者救済活動は、いかにうわべはキリスト教的な装いをまとっていたとしても、聖書に基づくものではなく、その支援者らもクリスチャンとは言えない。彼らの救済活動は、本質的には「神と教会とクリスチャンの唱える偏狭な救いに対する抵抗運動」なのであり、彼らが真に糾弾している相手は、彼らを理不尽な苦しみに遭わせ、見捨てて来た神ご自身なのである。
  
従って、神を隠れた仮想敵としているこうした活動に関わると、たとえクリスチャンであっても、結果として救いを失うことは避けられない。どんなに人の耳に優しく響いたとしても、聖書の福音そのものに対して異議を唱えるこの活動に関わることは全く勧られない
  
  



5. アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による危険な「弱者救済活動」
~弱さに居直り、被害者意識と自己正当化に溺れ、欲望に歯止めが利かなくなる信者~

  
さて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、すでに述べたように、社会的弱者やマイノリティに接近しては、これを積極的に信者に取り込んで来たため、今や教団内には、社会的弱者が溢れるようになった。

さらに、同教団は、こうした社会的弱者やマイノリティの「負の過去」を積極的に伝道の材料として利用して来たので、今や教団内では、元統一教会員や、元ヤクザであることは、何ら恥ずべきこととはみなされず、むしろ、普通の信徒らには欠けている稀有な経験や希少な価値であるかのようにみなされ、歓迎されるようになった。

同教団は、このように社会的弱者やマイノリティを美化して盛んに受け入れるだけでなく、大規模な「カルト被害者救済活動」を推し進め、平和な信仰生活を、弱者救済のための手段に変えて来た。その過程で、キリスト教界につまずいて、キリスト教界に根強い恨みや不満を持つ信徒らを積極的に集め、カルト被害者を「救済」するという口実で、彼らの憎しみや怨念を利用して、既存の教会に争いをしかけて来たのである。

その結果、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、社会的弱者とマイノリティとキリスト教界に不満や憎しみを持つ者たちの「天国」のようにまでなった。
 
同教団では、平和的な信仰生活を送ることよりも、弱者救済を口実に、キリスト教界を絶え間なく非難して、教会やクリスチャンを相手に恒常的に争いに生きることこそ、信仰生活であるかのようにみなされ、争いが第一義的課題のようにまでなったのである。
 
だが、同教団の推進する「カルトとの闘い」は、当初から予想された通り、内ゲバや外ゲバのような泥沼の闘争へと発展し、あらゆる教会や信徒に対する無差別な迫害へと様変わりした。その活動はキリスト教とキリスト教界そのものに対する破壊運動のような様相を帯びて行ったのである。
 
こうした状況を考慮すれば、もはやアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団そのものが、聖書の神と教会とクリスチャンに敵対する者たちの要塞となり、キリスト教界全体に戦いを挑むことを第一目的とする極めて危険な集団になっていることが分かるであろう。
  
教団の誤った非聖書的な教えのために、教団の信徒らも、深刻な悪影響を受けた。 同教団からは、一方では、被害者意識に溺れ、弱さを武器にヤクザのようにクリスチャンを恫喝しては、身勝手な利益をほしいままに引き出す「信者」が生まれたかと思えば、他方では、怪しい非聖書的な霊的ムーブメントに欺かれた結果、偽りのメッセージを盛んに述べ立てては信徒を惑わせ、最終的には呪いや滅びの予告を捨て台詞に立ち去って行く破壊工作型の「信者」も生まれた。(Br.Takaなどは後者の顕著な例である。)いずれの場合も、彼らの真の目的は、信徒らの交わりを私物化して破壊し、兄弟姉妹に深刻な害を与えることにある。

私が関わっただけでも、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に深い関わりのある信者たちは、例外なく深刻なトラブルメーカーであった。デリラがサムソンに誘惑をしかけたように、彼らは自らの弱さを武器に、、自分よりも強い者を脅し、非難しては、罪意識を抱かせ、自分の前にひれ伏させ、謝罪させることに、至上の喜びを見いだしているようであった。
 
統一教会を脱会してアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団へ転籍するというカルト被害者救済活動のお決まりのコースを辿ったある信者は、兄弟姉妹の交わりを求めているように主張していたが、途中から、自らの切迫した生活状況を赤裸々に告白し、交わりを自分の個人的な必要を訴える場へと変えてしまった。そして、兄弟姉妹に具体的支援を求めて懇願を重ね、同情を勝ち得て、身内や信者から総額何百万円にも及ぶ借金を重ねることに成功した。だが、それほどまでに手厚い支援を受けながらも、彼はそれを有効に生かすことができず、次々と事業に失敗した挙句、最後には、自分に十分な同情を示してくれないクリスチャンを冷酷だと非難し、非クリスチャンの方がよほど同情的で信頼できると捨て台詞を吐いて立ち去るのであった。それなりの年齢で、家庭もきちんとありながら、常にクリスチャンに自分の生活改善などの必要のために利用することしかできず、幾度にも渡り手厚い支援を兄弟姉妹からむしりとったその後に、クリスチャンは信用ならないと捨て台詞を吐いて立ち去るのだから、始末に負えないとしか言いようがなかった。
 
こうした信者らを観察した結果として言えることは、彼らは従来の教会とクリスチャンに対する根深い恨みと被害者意識を心に抱えており、それゆえに、たとえ表面的には真の信仰や交わりを求めているように見えても、実際には、兄弟姉妹を自分に都合よく利用したり、身勝手な理由で非難しては懺悔させたり、精神的・物質的に搾取して損害を与えるような有害な形でしか関われないということであった。
 
どのように説得しても、彼らは自分たちの抱える問題を解決できるお方は神であり、ただ神だけに頼って自らの必要を供給してもらうことの方が、人に頼ることに比べ、はるかに安全な方法であることを信じようとはしなかった。また、兄弟姉妹がどれほど彼らに同情を注ぎ、支援を行なっても、彼らを教会やクリスチャンに対する被害者意識から逃れさせるのは、人の力では無理だという事実が判明するのである。

そこで、結論として言えるのは、このような「信者」を相手にしても、クリスチャンには損失以外、何も得られるものはないということである。彼らを被害者意識から立ち直らせるのは神の仕事であって、人の仕事ではない。同情はかえって恨みを増長させるだけで、あだにしかならない。そもそも兄弟姉妹の交わりを第一目的にしておらず、教会を自分の必要を訴える場と誤解している人々をクリスチャンが受け入れても、信仰的に結ばれる実は皆無に等しい。
 
さらに悪いことには、彼らは弱者に偽装しているだけで、本当の意味で手を差し伸べられるべき弱者ではなかった。よく観察してみれば、彼らが本当に困窮している人々に比べて、実に多くの富を手にしていることが分かる。だから、彼らは単に自分の弱さを巧みにアピールの材料として利用し、都合の良い利益を得るために、クリスチャンに接近しているだけだと分かるのである。 
  
しかし、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者にはあまりにもこの手の信者が多かった。 
このようなことが起きる背景には、すでに述べて来た通り、同教団が推し進めて来た誤った人類(弱者)救済思想が深く影響していることは否めない。同教団は、教会と信仰生活を、人が神に従う場ではなく、人が神を利用して自分の欲望をかなえる場所へと変えてしまったのである。

その結果、同教団の誤った教えに影響された「信者」らも、信仰生活とは、信者が聖書の御言葉に服し、見えない神に従い、見えない神を喜ばせるために送るものではなく、目に見える人間である自分自身を喜ばせ、己の欲望を満たす場であり、堂々と自分の必要を声高に主張して、兄弟姉妹をその欲望をかなえる手段として利用しても構わないという誤解に陥って行ったのである。しかも、彼らにとっての「神」とは、どうやら、聖書の見えないまことの神ではなく、社会的弱者である自分自身を指しているらしい。

このようにして「社会的弱者」であるがゆえに、自分自身を正当化し、被害者意識と、自己陶酔に陥り、自分を「神」のようにまでみなしてしまった人々は、もはや恥も外聞も罪の意識もなく、途方もない厚かましさで、兄弟姉妹の交わりを自分の欲望をかなえるための手段として利用する。その挙句、自分の願いに沿わない兄弟姉妹を容赦なく罪定めして退け、最終的には、信仰を持たない人々のうちに神がおられると言って、教会とクリスチャンに背を向けて、信仰者の目の前から立ち去って行くのである。
 
余計なお世話ではあるとはいえ、こうした人々が、たとえ教会とクリスチャンの冷酷さを非難して、教会に背を向けて、信仰を持たない人々のもとへ逃走したとしても、常に他人を利用して同情と支援を乞うばかりで、自分の人生に対して何ら自分で責任を負うことのできない無責任で甘えに満ちた態度では、その後も、正常な人生を送ることはできないであろうと思う。最初は気前よく同情し、支援を与えてくれた人々も、何度も同じことが繰り返されるうちに、本質的な原因がどこにあるのか見抜いて行く。

本質的な原因は、その人自身の信仰の欠落にある。神ご自身に頼って生きる秘訣を学ばない限り、彼らは人の助けや理解をどれほど得たとしても、結局、それを有効に生かすことができず、同じ問題が延々と繰り返されるだけに終わるのである。
 
だが、こうした無責任で甘えに満ちた信徒を大量に生んだ責任はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にある。同教団は、社会的弱者をさかんに美化することにより、彼らを自己陶酔に陥らせて、罪の悔い改めの機会を失わせた。そして、信者が自らの弱さゆえに、自分は清いと考えて己を神に等しいものとみなして自己の欲望を正当化し、他の教会やクリスチャンを見下しては、被害者意識をバネに、彼らを自分の利益を引き出す道具とすることを積極的に奨励して来たのである。
 
聖書がすべての人間は生まれながらの罪人であると教えている以上、たとえ社会的弱者であっても、神の御前に己の罪を否定し、御言葉に服さず、御手の下にへりくだることをしないならば、その人の末路は悲惨なものとなることは避けられない。

たとえ理不尽な苦しみを通されることがあったとしても、すべての人は神の御手の下にへりくだらなければならない。神こそ、人の弱さと苦しみをすべて理解し、人に必要な支援を与えて下さる方である。どれほど兄弟姉妹に失望することがあっても、性急な復讐に走らず、人に助けを求めるのではなく、忍耐強く神だけを待ち続ける態度がクリスチャンに求められている。
  
もし神を畏れることが知恵の初めならば、神を否定することは精神崩壊の始まりである。神は信者の内側には住んで下さっても、信仰を持たない社会的弱者のうちにはおられない。にも関わらず、社会的弱者を「神」のように美化し、人が己の欲望を成し遂げることを「救済」とみなし、福音からほど遠い非聖書的な活動を推し進めるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、決して関わらないことをお勧めする。

「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、
多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。
かれらの 思いは地上のことだけです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のかたらだと同じに変えてくださるのです。」(ピリピ3:18-21)

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