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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

私の宣教は、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく

現在、ブログやホームページのリニューアルのための準備をしています。新しい媒体を使うことも考えていますが、まずはひとこと欄の短縮のために、記事を書いておきましょう。

このブログについては、さわやか読者賞にも挙げているように、日夜、このブログを蹴落とすために工作している人々がいます。このブログが更新されない時間帯を見計らって、彼らは工作をしかけて来ますが、他方、私は自分のブログを上位にランキングさせるために今まで人為的な操作をしたことが一度もありません。

私はこれまでに自分のブログをヒットさせたり、上位にランキングさせたり、読者を増やしたり、ライバルを蹴落とすための人為的な工作をしたことがありません。

これはネットに限らず、すべてに通用することですが、上位にランキングするための確たる方法は、日夜ライバルを蹴落とす工作にいそしむことではなく、嘘のない誠実で質の良い記事を書き続け、有益な情報を提供し続けることにあります。

つまり、ここでは人間の質が問われます。一位を獲得することが目的なのか、それとも、類まれな高い品質を確保し、それによって高評価を得ることが目的なのか。どちらを目指しているのか、人の態度からすぐに明らかになります。ただ一位だけが欲しい、俺様だけが一番なのだ、という考えの人であれば、あらゆる不当な方法で政敵を貶め、モラルに反する反則行為を使ってでも、ただ自分が一番になれればそれで満足でしょう。しかし、品質が伴わないのに一番になっても何の意味もなく、それはむしろ悪魔のやり方です。

ですから、私は自分を人々に印象づけるためにしきりに宣伝したり、呼びかけたり、あるいは何か工作をするつもりはありません。そういうことを何もせずとも、有益な情報を提供していれば、必ず、人々がこれを自ら調べて糧として行くことを知っているからです。

つまり、命の泉が本当に湧き出てさえいれば、何もしなくとも、人の存在はいずれ世に知られることになるのです。その命の泉とは、人に媚びて、人間の耳に都合の良いことだけを言い続けることではなく、真実を訴えることであり、そのために必要な代償を絶えず払い続けることです。それが本当の意味で世の光となり、地の塩となることの意味です。

しかし、そのためには代価が必要です。どのような嘘の圧迫にも屈することなく、真実を擁護するために、必要な代価を自ら払い続けることが必要となります。

このブログを書き始めた当初、私よりももっと優れて洗練された信仰の証を発表していた人たちが数多くいました。その人たちは、私のブログを読んで、色々と酷評していました。彼らは自分たちの信仰のあり方が、私よりはるかに優れて立派だと考えていたので、私の前で、その本音を隠そうともしなかったのです。まあ、人生においては、十年も二十年も先輩の人々でしたので、当時、私は彼らの忠告や意見にあえて異議を唱えようとはしませんでした。

しかし、私を未熟なクリスチャンとみなしていた彼らは、書き続けるということをしなかったのです。特に、議論が盛んになり、反対者が現れ、自分の証が泥靴で踏みにじられたり、誤解され、嘲笑されたりするかも知れない恐れが生じたときに、彼らは色々な理由をつけて、さっさとブログを閉鎖し、蜘蛛の子を散らすようにネットから去って行ったのです。

「どうしてやめたのですか、あんなに素晴らしい証を書いていたのに。私は励まされていましたよ」と語りかけても、「いやあ、変な人たちに絡まれたくないからねえ」という一言で済まされてしまうのでした。
 
それまで、彼らは私にはまるで信仰の大先輩のように見えていましたし、彼らは日々いかにして迫害や苦難を耐え抜いてキリストに従い抜くかといった実に高邁なテーマを語ってもいたのですが、実際には、ほんのちょっとした嵐がやって来るのを見ただけで、自らの証を捨てて逃げ出してしまいました。

それを見ると、彼らはただ自分は安全な場所で美しい証を発表し、さももっともらしい信仰生活を送っているかのように人から賞賛され、肯定されたいという願いが動機となって信仰の証を書いていたのであり、暗闇の勢力による圧迫のすべてを耐え忍んで、それらに立ち向かって勝利する秘訣を学ぶために、激しい戦いの中に踏みとどまり、神の御言葉の正しさを生きて証明したいというほどの決意はなかったのだと分かり、非常に残念に思いました。

彼らは、通常のクリスチャンよりも、自分は真理を知っていると考えていましたが、いかなる戦いにも勝利する前に、自ら戦場から退いてしまいました。その戦いは、自分に対する戦いではなく、キリストに対する挑戦であることが、分からなかったのです。

ですから、こうした人々にふさわしいのは、「みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」(マタイ13:21)という御言葉でしょう。自分の利益のために証を書いている人たちは、その利益がなくなるや否や、たちまち、その活動をやめてしまいます。

そのようなスタンスを取ってはいけないのだということに、私自身、長い時間をかけて気づきました。みっともない思いをしたくない、名誉を傷つけられたくない、という思いが、もし人の願いのすべてであったならば、キリストはそのすべてを耐え忍ばれ、なおかつ、今日も、クリスチャンに自分の十字架を負って彼に従うように命じておられることの意味が、どうしてその人に分かるでしょうか。
 
たとえ迫害が起こらなかったとしても、自分の美が損なわれないことだけを第一に活動すると、いずれ、内実が伴わないのに、自分が一番でなくては気が済まないという悪魔の思いに取り込まれて行くことになります。キリストはすべてにおいて第一位の方です。しかし、首位になるために、彼は最も重い代償を支払ったのです。

ピリピにあるように、キリストは、神が神ご自身の栄光ある形を捨てて、むなしい人となられたというだけの点で、へりくだったのではなく、そのむなしい人の姿の中においても、最も低くされるという代償を支払ったのです。そして、死に至るまで御父に従順であったがゆえに、神は彼にすべてにまさる栄誉をお与えになったのです。

ですから、話を戻しますと、ちょっとした誤解や嘲笑にも耐えられないほどひ弱でありながら、どうして「死に至るまでの従順」など口にすることができるでしょうか。自分は神のために殉教したいなどと語る人が、ほんのちょっとした迫害にも耐えられなくて、どうしてその望みがかなうでしょうか。パウロが信仰の戦いを試合になぞらえたように、本当に信仰生活において戦いを立派に戦いぬいて、賞与を勝ち取りたいと願うならば、内実の伴う生活を送らなければならず、その内実を生み出すためには、代償が必ず必要となるのです。
 
逆に、必要な代価を払っていれば、その支払われた代償の重さと、これと引き換えに発表された真実の価値に気づく人々も必ず現れます。それが分からない人たちの理解は必要ないと言えます。そして仮に人の理解がなくとも、神が評価して下さるならば、それにまさる栄誉があるでしょうか。
 
これはネットを問わず、人生そのものの変わらない原則ですが、敵の攻撃はほんの一時的な効果しか持ちません。ひきかえ、質の高い人生を送ることは、根気と忍耐を要する地道な作業であり、その成果は一瞬にして現れませんが、長期的に見ると、「やみはこれ(光)に打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)ように、「虚偽は真実には勝てない」のです。
  
さて、もう何年も前のことになりますが、関東に来る前後の記事を読み返しますと、あの頃の私はまだ自分をとても未熟だと思っており、色々な不安が心にあり、自分の能力や、手練手管の不足を思い、心細さや不安に苛まれながら出発していたことがよく分かります。

その当時、こちらの「兄弟姉妹」に会うと、私が最も主の御前で真摯に祈ることができた頃の苦しい状態から抜けたのは良かったとか、安定した信仰生活を送ることだけが目標であるかのような言葉を聞かされて、違和感を覚えたり、あるいは、気後れを感じたり、俺様主義的な信者(後にやはり偽物のクリスチャンだと分かるのですが)に圧迫されて、隅に追いやられ、悩んだり、様々な出来事が起きました。

しかし、今振り返ってみると、その当時に感じていた不安や心細さは、みな自然な心境であり、それで良かったのであり、正しかったのだと分かります。つまり、全てをただ神に持って行くために、私が自信を持って人前で誇り、自分によりすがって俺様主義に陥ることが可能なほどの手練手管(肉なる力)を有していなかったことは、本当に幸運かつ良いことであったのだと思うわけです。

パウロは書いています、「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊の御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。」(Ⅰコリント2:4-5)

パウロには優れた知性、教養、雄弁さ、知恵の言葉などが備わっていたでしょう。それがなかったために、彼はこのように語っているわけでは決してないのです。むしろ、パウロはどんな人々の間においても引け目を感じずに済むだけの立派な出自を持っていました。その上、彼は兄弟姉妹と呼ばれる人たちの中にいたのです。敵の只中にいたのではなく、仲間と呼ばれる人々の中にいたのです。にも関わらず、パウロは「弱く、恐れおののいていた」と書いています。

御霊の御力の現れを受けるために、必要なのは、この恐れ、つまり、悪い意味での恐怖ではなく、自分は無力であるがゆえに、神に頼る必要があるという自覚ではないかと思います。

自分が力に溢れていると考え、十分な支持者や味方の数が確保できていると考え、自信を持っている人に、神の助けは必要ありません。むしろ、神の助けは、神の御前で常に自分がよるべない存在であり、寄留者であり、旅人であるという自覚がある人にこそ必要なのです。

ですから、私は自分を振り返って、もし初めから自分により頼むことのできる誇りや自信などが溢れていた場合、おそらく私は神の助けを全く必要とせず、信仰をも必要としていなかったであろうし、その結果、どうなっていたか分からないと考えるわけです。

すでに書いた通り、私の前で、立派な信仰を持っていたかのように振る舞っていた「兄弟姉妹」は、迫害が起きると、ただちに信仰の戦いから退き、安全地帯に逃れ、そこから同胞に石を投げて、むしろ迫害者の加勢に回ったのです。

初めはあまりのことに呆然としましたが、その後、彼らがどうなるのかを時間をかけて見ていると、かなり悲惨な状態に落ち込んで行くことになりました。最初は大勢いたかのように見えた彼らの仲間はどんどん少なくなっていき、家を手放したり、色々な生活の変化が降りかかり、集まることも難しくなり、会うこともできない遠方に遠のいてしまった人もおり、少なくとも、彼らは人数を誇ることは極めて難しい状態となりました。以前のような自由で隠し立てのないあけっぴろげな交わりはもう二度と持てなくなってしまったのです。

私がここへ来た当時、あたかも見た目には、彼らの生活は順風満帆で、何も問題を抱えておらず、これからも穏やかであるように見えたでしょう。交わりは始まったばかりで、これから成長して行くように見え、憂慮すべきは、彼らではなく常に私であると見えていたのではないかと思います。

しかし、事実はそうではないことが判明しました。肉の力の衰えは非常に早いもので、キリストを土台としていなければ、嵐が来れば建物は悲惨な倒壊を遂げます。くすぶる燈心のような私自身も、何度も信仰の火を吹き消されそうにはなりましたが、それでも、なぜか常に初心に引き戻され、戦いに戻って来るよう促されます。そして、その度ごとに、強められ、勝利の秘訣とは何かということが分かって来るのです。

戦いの方法を初めから知っている人はいません。勝利の秘訣は何度も試行錯誤してようやく分かって来るものなのです。いずれにしても、神は教えて下さいます。ただキリストのみに頼って、切り抜ける方法があること、それだけが勝利の秘訣であることを教えて下さいます。だから、ダビデは書いています。

「神、その道は完全。
 のみことばは純粋。
 主はすべて彼に身を避ける者の盾。
 まことに、のほかにだれが神であろうか
 私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。
 この神こそ、私に力を帯びさせて
 私の道を完全にされる。
 彼は私の足を雌鹿のよにし、
 私を高い所に立たせてくださる。
 戦いのために私の手を鍛え、
 私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。」(詩編18:30-34)

神の訓練においては、初めは一兵卒のようであった信仰者も、いずれは熟練した戦士になるのです。神がそれを可能とします。このことが分かってくると、この世の手練手管に頼ろうという思いはなくなっていきます。

たとえば、人前で社交的な人間を演じたり、正義感溢れる弱者の味方のように振る舞ったり、自分の能力を誇示し、偉業を成し遂げたり、誇るべき財産や地位や持ち物によって、人の歓心を買おうとか、そんなことは微塵も思わなくなって来るわけです。

従って、そのようなこの世的な手管はないに越したことはないし、あってもなくても引け目を感じなくなって行くのです。たとえ目の前で盛んに自分にはない力や人間関係を誇示する人が現れたとしても、焦燥感を覚えたり、気後れを感じたり、悲しんだり、あるいは自分もそれと同じものを獲得しなければならないと、心を動かされることがなくなって行くのです。

むろん、これにはちょっとばかり年の功もあります。それは、今までどんな局面においても、私の能力に関わらず、神が私を豊かに助けて下さり、必要の全てを供給して下さったことを、私は生きて十分に知って来たからです。仕事であれ、生活の糧であれ、必要な品であれ、娯楽であれ、人間関係であれ、兄弟姉妹であれ、全ては天から供給されるのです。

地上の人々は何よりお金は自分の努力の賜物と思っていますが、生活の糧さえ人の努力によって与えられるのでなく、神が直接、天から供給できるのです。

このように、人の肉なる腕によって支えられ動かされる地上の経済や人間関係とは全く違った法則によって支えられ動かされる、天の経済や天の人間関係といったものが確かに存在するのです。そして、そこに入るために必要なのは、繰り返しますが、自分の十字架を負うという代償なのです。針の穴を通ること、つまり、十字架における己の死を通ることです。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(自分の)いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのために(自分の)命を失う者はそれを見いだすのです。」(マタイ16:24-25)

自己の究極の弱さを知り、もはや自分の生まれながらの力により頼まないという態度を保持し、神の真実により頼んでいないと、キリストの命を見いだし、これによって生きる方法を知り、天に生き続けるのは無理なのです。

こうした経験をもとに、人が生きるに必要なのは、己の生来の能力や手練手管ではなく、信仰なのだと分かるのです。 しかし、このことを、生まれつき力のある人や、血気盛んで正義感溢れる有能な人間がすぐに理解することはできません。彼らは自分の生まれながらの力により頼んで生きており、それこそが力の根源だと考えているので、その肉的な力が、天的な生活には全く役に立たないどころか、障害になることが分からないのです。

この世で強い力を持って優位にあればあるほど、その人が、自己の優位性の腐敗していること、それが神の御前で全く無価値であることを悟るのは難しいのです。自分の無力を認め、告白するのは、人としてみっともないと彼らは思っていますので、どんなに無力であっても、その事実はひたすら隠し通さなければならないものであると思い込み、神に対してもそうしているのです。

こうした人々は、自分自身が強がって生きるだけでなく、自分の家庭をも、信仰的な観点から立派に見せて誇ろうとする傾向があります。肉によって築いた家庭をまるで信仰の手柄のように思っていることも問題ですが、さらにその家庭を、クリスチャンとして自分が高い評価を得るための手段として利用するのです。

しかし、聖書は、主に従う道には、肉的な家族関係を持ち込めないことを明確に教えています。キリストに従う道は「神の御前での単独者」の道であり、自分の父母娘息子よりも神を愛する態度が求められています。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることができません。」(ルカ14:26-27)

主に従う道は、極めて個人的な呼びかけであると言えるでしょう。ここに自分の大切な人々をみな連れて来て、魂の愛情に基づく人間関係を持ち込んで、みなで一緒に手を取り合って進んで行くことは不可能なのです。むろん、神は信仰者の家族を救って下さいます。しかし、いずれにせよ、魂の愛は十字架に渡されなければならないのです。

神の国の法則は一度たりとも変わったことはなく、人が生きるために最も必要なのは、己の生来の力や持ち物や人間関係から来る自信ではなく、自分がこの世では寄留者であって、神の御前で無力であるという自覚と、神の助けなしには生きられないという心細さ、それゆえに、神だけを信頼する子供のように単純な心です。

その単純な神への信頼がある時、神はその人の天然の弱さを不思議な強さによって満たされるので、人は自己の力の無であるに関わらず、いかなる欠乏もなく生きられるのです。それが聖書のパラドックスです。神は、自分は選民であり、選ばれて救われているから大丈夫と自己安堵する人々を常に退けて、孤独に見捨てられたような不安の中に置かれながらも、真実、神だけに頼る人々をみもとに招かれるのです。

「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、
愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。
『あなたがたは、わたしの民ではない。』と、
わたしが言ったその場所で、彼らは、
 生ける神の子どもと呼ばれる。」(ローマ9:25-26)

次回、なぜ神はあえて弱い女性にたとえられる教会の意志にご計画の実現を委ねておられるのか、そのことを書きましょう。よく目を開いて聖書を読むならば、神は決して男性だけを力強く用いるということはなさらず、むしろ女性に、しかも、女性の中でも特に最も寄る辺のない女性に、最大の期待をかけて来られ、彼女たちを不思議な形でご自身の御業のために活用された様子が分かります。エバは堕落しましたが、それにしても、当時、彼女の意志にすべてが委ねられていたことを思うと、彼女の担っていたものははかりしれず大きいのです。しかし、それはエバが教会の型であったということを見れば、理解できます。今日、教会が担っているものは、エバよりももっと大きな使命です。

そして、教会に求められている使命とは、堕落した人類の生まれながらの力によらず、キリストによって、御霊によって、実を結ぶことなのです。このことを理解する時、初めて、「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」(イザヤ54:1)というあの聖書のパラドックスの謎が解けるのです。
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