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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

少年法改正から憲法改正への道

たまたま見つけた15年前の論考であるが、非常に的を射た秀逸な議論であると感じたので、ここに引用したい。

この論考の最後の部分のみを読んでも、今日の危機的な政治状況がいかに長い時間をかけて意図的に作り出されて来たものであるかが分かる。

 

「少年法「改正」とは何だったのか」 
小野田桃子著 (検察官関与に反対し少年法を考える市民の会/シンガーソングライター)、初出「教職課程」2001年2月


 少年法「改正」の動きについて、あるテレビのニュースキャスターが子どものことを理解できなくなった大人が、まるでモンスターのような子どもから大人社会を守ろうとしているかのようだと言っていた。また、ある作家は子どもへの怒り、報復の心理さえ働いていると述べた。

 

それは子どものせいなのか。

子どもを悪者にして、子どもをコントロールしようとすれば済む問題なのか。


学校にいかなければいけないという思い込みが、いい子でなければ愛されないという脅迫が、消費と長時間労働をよしとした価値観が、子どもを消費文化のターゲットにした商品社会が、人間関係を希薄にした大人社会が、子どもたちをここまで追いやっているのではないのか。

子ども本来の遊びを、子どもが子どもでいられる時間を、子どもの居場所たる安心できる関係を、自然を、労働をはじめとしたさまざまな体験を奪ったのは一体誰なのか。従軍慰安婦も南京大虐殺もなかったなどというでまかせで歴史を奪おうとするのは誰なのか。核廃棄物を積み上げて未来を奪うのは誰なのか。子どもが逃げ込める闇を奪ったのは誰なのか。

 

教育基本法を「改正」しようと息巻いている人々は言う。「子どもを自由にさせすぎた。そのせいでわがまま勝手な子ども若者ばかりになってしまった。子どもに規範意識を持たせ、個人よりも公=国家を重んじるようにさせよう
 少年法と教育基本法の「改正」問題は地続きなのである
 そしてそれは、憲法改正にまで進むことになるだろう。戦前回帰かどうかは別として、日本がどんどん危険な方向に動いていることはどうやら疑う余地がなさそうだ。

 子どもたちから奪ったものは、私たち大人も失ったものだ。
 そして、子どもの目の輝きが失われた社会は、本当に未来を失ってしまうだろう。
 子どもはおとなにとって、過去であり、未来である。

 

この論考はすでに15年前に「少年法と教育基本法の「改正」問題は地続き」であり、「それは、憲法改正にまで進むことになる」と予想していた。まさにその通りの動きが今日起きている。
 
著者はそのような流れの背後に「個人よりも公=国家を重んじるようにさせよう」と、個人(個)よりも公共性(公)を重視させようとする思想があることを見抜いていた。


日本人には集団性を重んじる国民性がある。だが、日本人が美徳と考えている集団性は、一歩間違えば、「公」の名の下に個性を圧殺し、踏みにじる凶器ともなる。この「公」の概念こそ、戦前には国家主義として多くの国民の命や安全を奪ったのであり、その反省に立って、我々は一体「公」とは何なのかということをいつも立ち止まって考えてみる必要がある。
 

「公」とは「個」と対立する概念なのであろうか。「公」は間違うことのない概念なのであろうか。
 
そもそも一体、「公」とは何なのか。
 

この曖昧な空気のような概念を明確に説明できる人はいない。今日も「公」という言葉で表現されるのは、社会全体の秩序、多数派の都合、国家や権力者の意思、大人たちがその時々に作った様々な不完全な制度そのものの総称といった、非常に曖昧模糊としたものではないかと思う。

そんな漠然とした「公」の正しさ、美しさをさかんに述べ立てて、大人たちの作った制度を何が何でも守るよう子供たちに強制するよりも前に、まずはそんな制度がいかに不完全で、問題に満ちているかについて考え、その不完全さを改める努力を行わないことには始まらないのではないか。

15年前の当時から、義務教育の弊害、格差社会の弊害、市場原理主義の弊害、国家主義の弊害などは明かであった。そういう大人たちが作り出した様々な制度の歪みが指摘されているときに、その制度の悪を見ずして、ただ制度に適応できなかった弱い個人=子供のみを糾弾して厳罰を科すようなやり方で、私たちはより良い社会を築いていくことができるのであろうか。

規律違反そのものはあるべきでないとしても、だからといって過剰な取り締まりや、強制力により、人間の本質までも変えることはできない。むしろ、取締りを強化すればするほど、犯罪もいたちごっこのように深刻化していくだけである。人間の本質は外からの強制力によっては変えられず、どんなに厳しい罰則を作っても、それ自体が人を根本的に変化させるわけではない。人が変わるためには、どうしても自主的な内的な変化の過程が不可欠であり、そのためには自由に考えるための時間が必要なのである。

だが、自分たちの作った制度のあり方が間違っているとはどうしても認めたくない大人たちは、自らも内省の機会を持とうとはしない。それは、自分たちの間違いなど見たくもないと思っているからだ。そこで、大人たちは一向に変化しないまま、頑なに自己の正当性を主張して制度を守ろうとし、それに違反する者への罰則だけを一方的に強化する。そうして違反者を社会から切り捨ててしまう。 違反者を隔離し、切り捨てることにより、存在そのものをタブーとし、考えることをやめる。いわば、隔離によって問題そのものを圧殺するのである。このように一方的な力づくの措置によって社会から切り離された「違反者」の少年たちは、社会との対話の外に置かれ、自ら問うことをやめてしまう。

少年犯罪は、そもそも既存の社会制度の歪みや腐敗を、鑑に映したように表す警告であり、大人たちの社会の危険信号であることを、まず第一に考えてみなければならない。

ただ罰則を強化して強制力を行使することにより、違反を取り締まったり、未然に防ごうとすることを考えるよりも、むしろ、なぜそのような違反が生まれるのか、現存の社会や秩序制度の中にすでに違反を生み出す根源が潜んでいるのではないか、大人たちの態度の中にこそそれを生み出す原因があったのではないかという点について、私たちは反省しなければならない。それが、制度を作った大人たちの責任であり、大人たちがそのように自らを反省することがあって初めて、子供たちもそれにならって考え始めるだろう。 こうした内省の作業なくして、ただ規律を破った子供や若者に厳罰を科すことにより問題を葬ろうとする態度では、厳罰主義が横行し、大人も子供も共にますます自ら考えることをやめて、「見つかって罰せられさえしなければ良い」と野放図になり、社会は荒れていくことになるのではないか。

今の時代はこのような警告とは真逆の方向へ向かって、すなわち、内省により人に自主的な変化を促すのでなく、厳罰化によって外側から取り締まる方向へますます向かって進んでいる。

この方法では、人間性は決して変えられない。そのことが皮肉な逆説によって立証されるだけであろう。

 

私はここでどうしても神戸の「少年A」の事件を思い出さずにいられない。

これは私の一つの推論であり、荒唐無稽と言われるかも知れないが、あの事件は少年法に厳罰化をもたらすための国家による自作自演の犯罪であり、少年Aの事件は冤罪であるという疑いは今も消えないのだ。

この疑問は私にかねてから付きまとってきたものであり、どうしても常識を破って考えてみなければならないと思わされる。そのきっかけを与えてくれたのが、少年A君のためにというサイトであった。

 
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