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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

人の子が来たとき、果たして地上に信仰が見られるだろうか。

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

さて、閑話休題。日本で唯一稼働中の原発近くの九州地方でまさかの大地震が起き、フクシマの教訓を無視するこの国がさらなる狂気へ向かってひた走ろうとしている様子が全世界に向けて明らかにされた。

全く単なる偶然とは呼べないような恐るべき意味深な出来事であると思う。これでは我が国は「世界の中心で輝く」どころか、自国の統治能力も全くない国だと非難されても仕方がないのではあるまいか。各地で火山活動も活発化し、国土も揺るがされる中、いつまでも刹那的営利優先の生き方を改められない危険な暴走国家。長期的な展望がまるでなく、党利党略しか念頭になく、未来のことを何も考えない政治。もはや全世界に対する自爆テロ犯のような脅威を与えているのではあるまいか。

東日本大震災の時のことがありありと思い出される。筆者も劇的な体験をしたが、科学者も含め、多くの人々が、福島原発の事故によって日本全体が一瞬で壊滅に追い込まれなかったことを「神の采配」と呼んだ。それほどまでにこの国が崖っぷちに立たされていたということだ。

むろん、今はもう崖っぷちでないということではないが、そこから、我が国は何も学ばなかった。フクシマの後で、原発再稼働を選んだ時点で、我が国はたとえ明日滅んでも、今日さえよければ、自分さえよければそれでいいという生き方を滅びに至るまで貫くことに決めたらしい。あの事故でさえ止めようのなかった愚かさを、今更、誰も止めることはできないということなのだろう。

愚かな怪物が、獅子のように吠えたけりつつ、生きとし生けるものをみな人質に取って、この世の目に見える物質の世界という密室に強制隔離した上で、次々と理不尽な条件をつきつけては脅かし、歪んだ「絶対隔離政策」の実験台としている。

この怪物は経済至上主義とか、色んな呼び名で呼ばれているが、身勝手な「絶対隔離政策」を繰り広げ、その隔離政策の下で、人体実験やら、断種やら、好き放題のことを繰り返した上に、次には「緊急事態」の爆弾をも投下し、人々をさらに混乱のるつぼに陥れたいと考えている。よほどの恐怖マニアが思い描いた悪趣味なゲームの筋書のようである。終わりなき金銭欲は単なる市場原理ではなく支離滅裂な思想である。

だが、それは虚偽であり、まやかしであるから、そのような愚かな実験につきあうつもりは筆者にはない。特に、世の圧政から救い出されて、御子の支配下に移されているキリスト者が、そんな不法なルールが自分に適用される必然性があると考えて、恐怖に踊らされ、怪物に跪く必要もないと思う。困難の中でも、必ず、信じる者に神は逃れの場と生きる道を与えて下さる。

さて、我が国、と書いたが、それは、本当の意味でのこの国のことではなく、民意を反映していない現在の政治状況であり、ほんの一部の人々の利益追求の態度であり、暴走でしかない。本当は、そのようなものは「国」と呼べない。

従って、どちらが真かが問われる。人々を質に取って恐怖で脅かしている怪物が我が国なのか? 怪物が与える恐怖が現実なのか? いや、隔離されているように見える人々の方が本当の我が国なのである。羊を食い物にする偽牧者・強盗・怪物が追放されて、羊が安心して眠れる環境が整えられるべきなのである。国とは、国民を脅かすために存在するものではない。だとすれば、必要なのは、強盗の手から主導権を奪還することだけである。

「不信者と、つりあわぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(Ⅱコリント6:14)

この御言葉は、理不尽なくびきに対する拒否として有効である。

天の経済を生きるということを実験し始めてから、この世の法則から離れてどれくらい御国の統治の特権にあずかることができるかを私は確かめている。

キリスト者には新たな霊的統治が与えられている。無法者と信念を同じくしていない者が、まして彼らと同じ利益にあずかってもいない人間が、彼らの悪事の責任だけは連帯で負わされて、いつまでも狂気じみた実験につき合わされなければならない理由は存在しない。

責任は、真に負うべき者に負っていただかなくてはならない。そこで、愚かすぎる実験からは、早く抜けさせてもらおう。彼らは、世界が信用で動いていることを知らないのだろう。フクシマの後、神話は崩壊し、権威は失墜し、信用は失われた。今あるのは、死ぬべき怪物が朽ち果てた惨めな姿をさらして延命を叫んでいる姿だけである。

いくら怪物が延命を要求しようと、死んだものは死んだのである。おとまなしく黄泉へお帰りいただく他ない。即刻、隔離されなければならないのは、人質に取られ脅かされている人間ではなく、彼らを人質に取って脅している怪物である。まもなく怪物には終焉が訪れるであろう。

だが、怪物がいなくなったその後も、長きに渡り、この国は暴政・悪政の数々の結果に苦しめられることだろう。真に「日本を取り戻す」ことが必要な時代となる。悪人の隆盛は一瞬かも知れないが、彼らがいなくなっても、その影響は長く続く。そこからいかにして「日本を取り戻す」かが、これからの未来世代の課題となる。随分、大変な国になってしまった。フクシマ以前の日本とそれ以後の日本は同じではない。なのに、何度、同じことが起きれば、目が覚めるのであろうか。



さて、ここ一週間ほど、色々なことを考えていたが、その中で特に重要だと思われたのは、信仰者が「まっすぐに目標だけを見つめて歩く」ことの重要性である。特に、嘘と卑劣さと暴力が横行し、騙し合いと裏切り合いが日常となり、誠実な人々が絶え果て、正義も真実も失われ、利己的な人々が不正な利益を勝ち誇りながら大手を振って歩くような暗黒の時代に、偽りの望みと、日々周囲で起こる忌まわしい出来事の噂に、翻弄されることなく、憤ることもなく、心穏やかにまっすぐに主なる神の真実と憐れみだけを見つめて歩むことは、ともすれば難しい。隣の人たちが大きくついたため息に、思わず、耳を貸しそうになることもある。

しかし、このブログでも妨害者との闘いを始めてから、はや4ヶ月ほどが過ぎようとしているが、その中で分かって来た重要な事柄もあった。まず、虚偽は虚偽としてきちんと訴え、主張すれば、後退して行くという事実。世の中は信用でなりたっているので、虚偽の虚偽たる所以がきちんと明らかにされれば、それを信じる者もいなくなり、嘘は効力を失う。次に、虚偽は虚偽として訴えた上で、ないこととして扱えば、あるように見える彼らの影響力も、消滅するという事実。

そのことは、他のさまざまな事柄についてもあてはまる。もう少し早くに戦い方が分かっていたならば、もっと早くに勝利が得られたこともたくさんあるように思う。関東へ来てから今までの歳月に関して、私には信者としてのふがいなさを反省することが山ほどある。おりしも、私がこちらへ出向いて来たその年は、政権交代が起きた年であった。だが、当時の政治状況を見ても、その時に起きていた巨大な出来事の成果が、今、どれくらい我々の手元に残っているだろうかと思う。一体、その出来事が何だったのかも分からないような形で結果が霧消し、あの時、人々が訴え、目指そうとしていた目標のほとんどが、果たされることもなく宙ぶらりんのままになっている現状は、クリスチャンの世界も同じであって、それで良いとは考えていない。

もっと毅然と立ち向かい、筋を曲げずに主張すべきことが数多くあった。どんな熾烈な戦いにも、圧迫されることなく、最後まで耐え忍んで立ち通すべきであった。どんな中傷を投げつけられても、恥を受けず、どんな卑劣な嘘で騙されそうになっても、嘘に対しては真実を提示して、闘いぬくべきであった。暗闇の勢力の作戦の卑劣さを見抜いた上で、決然とこれを退けるべきであった。暗闇の勢力に恥をこうむらせて撃退すべきであった。なのに、主の名をつけられている民が、これほどまでにふがいないとは、何と情けないことであろうか。このむなしい軍隊の他にスペアはないのだろうか。

しかし、自分の慰めのためにでなく言っておくが、初めから戦いの方法を熟知している人間は誰もいない。どんな人も、最初から敵の作戦のすべてが分かるわけでなく、何度も取り組んでいるうちに、ようやく勝利の秘訣が分かって来るのである。だから、起きた出来事にくよくよしている暇もない。後ろのものを忘れ、まだ見ぬ約束の地へ向かって、前進して行くだけである。

最近はよく思うのだが、たとえ世がこの先も混迷を深め、約束のものを見ることなくこの時代が終わったとしても、神がこの時代を振り返られて、そこにたった一人の真実な信仰者もいなかったとは思われたくないのだ。たとえ世がどれほど評価せずとも、信者の戦いの意味は、主が知って下さっていればそれで良いが、逆に言えば、世の評価がどんなに高くとも、神が全く評価されないような生き方をしても意味がない。全てが過ぎ去った後で、主から評価していただけるような生き方をせねば意味がないのだ。

「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:6-8)

この最後の問いかけは、神の真実な裁きを求めている信者たちに対する約束と共に語られている。私たちは不正を見れば憤り、悪事を見れば糾弾するであろうし、愚か者の暴政が早く終わるようにと心から願い、自分の平安を脅かすものを早く取り除いてもらえるよう神に訴えるだろう。

神は速やかにご自分の羊を助け出して下さる。だが、同時に、正義を求めて神に殺到する人々に神ご自身も問いかけておられるように思うのだ、「あなた方が欲しいのは、自分を救ってくれる正しい判決だけですか。それとも、私自身なのですか。予想を超えて困難が長引く時にも、あなた方には本当に私を信頼して待ち望むつもりがありますか」と。

最も必要なのは、人間を喜ばせる正義の決着が早くつけられて、人の苦しみが一刻も早く終わることだけではなく、聖徒が信仰を持ち続けて、神を待ち望み続けることではないだろうか。

このことは、問題がいつまでも解決されず苦しみが永遠に放置されれば良いと言っているのではない。だが、重要なのは結果だけではなく、プロセスでもあるのだ。悲しむ者が慰めを得、捕われている者が解放され、悪が後退し、正義と真実が芽生え、正しい裁きが行われることは、多くの人々の待ち望むところである。だが、人々の待望する正しい判決それ自体と同じくらいに大切なのは、最も圧迫されて苦しい最中にあっても、静かに神を待ち望む人々の粘り強く穏やかで揺るがされない信仰なのではないかと思う。

ともすれば、多くの信者たちは、すべての問題が解決されて、結果オーライとなり、人間が全ての苦しみや圧迫から解放されることだけが目的であり成果だと考えるが、そのような考えだと、クリスチャン生活においては、主を待ち望み信仰によって試される期間の大切さが忘れられてしまう。いつまでも問題が長引いている人は、「何とかしてあげなくてはならない可哀想な人」とみなされ、挙句の果ては「不信仰だからそうなるのだ」という非難さえ受けるかも知れない。人間は自分にとって心地よい結果だけを見ていたいと願う生き物だからだ。

だが、本当に大切なのは、人々を喜ばせる偉大な解放それ自体だけでなく、望んでいる解決が得られるまで、どんなに長くとも、神を信頼して待ち望む忍耐強く揺るぎない信仰なのだと思う。それは人に知られない内面的な歩みである。健やかな時も、病める時も、順調な時も、逆境にある時も、どんな環境条件の中でも、人生の真のパートナーである神を信じて、主と共に手を携えて歩む静かで粘り強い信仰である。あらゆる予期せぬ出来事が周りで起きるのは、神がその人の信仰を試しておられるだけなのであり、たとえ周りに見えている混乱がどれほど深くとも、キリスト者が主と共に目指している天の都はそれよりはるかに揺るぎないリアリティである。



「だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。神の御旨を行なって約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。

 『もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。
 遅くなることはない。
わが義人は、信仰によって生きる。
もし信仰を捨てるなら、
わたしのたましいはこれを喜ばない」。

しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。」(ヘブル10:35-39)


「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれてい たのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル 11:13-16)

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