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私ではなくキリストⅦ(東洋からの風の便りIV)

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。Ⅱコリント4:18

環境を創造する(2)―天の都だけを見つめてまっすぐに歩む―

わが子よ。私のことばを聞け。
私の言うことに耳を傾けよ。
それをあなたの目から離さず、
あなたの心のうちに保て。
見いだす者には、それはいのちとなり、
その全身を健やかにする。
力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。
いのちの泉はこれからわく。
(箴言4:20-23)
 
このところ、様々な予期せぬ圧迫的な出来事に立ち向かって、主の変わらない憐れみ深い采配にとどまることの意味を思います。これはどんな信者にとっても容易なことではありませんが、誰しも、必ず、それに勝利する秘訣を学ぶことになります。ジェシー・ペンルイスが、キリスト者の日常生活に起こる出来事の90%以上は、偶然ではなく、その多くは偶然を装った暗闇の勢力からの攻撃であると述べていたことを思い出します。

実際、暗闇の勢力からの恐るべき妨害は、インターネットに限らず、日常生活にも溢れており、日々、あらゆる不幸なニュースが世間に飛び交い、多くの人々の心を不安に陥れています。信者は、たまたま耳にした凶悪な事件や、戦争や地震のニュースなどだけでなく、自分自身の日常生活に起きる実に些細な出来事や、人からの言葉なども、一つ一つ、決して偶然ではない複合的な暗闇の勢力の圧迫になりうるることを、徐々に知るようになります。
  
そうした出来事の目的が、すべて信者の「心」に対する攻撃であることが分かるとき、キリスト者は、もはやそうした事件を偶然とは思わず、自分の心を悪魔の毒矢からしっかりと守り、これに毅然と立ち向かって、主導権を手放すことなく、まっすぐに望みだけを見つめて歩むことの重要性が分かって来るのです。つまり、信者が天の都だけをまっすぐに目指して、この世の出来事に翻弄されずに歩む必要性です。

しかし、この道は決して容易ではなく、長い訓練が必要となります。そして、人間の予想をはるかに超えた暗闇の勢力の狡知の中で、信者は、どんなに知識があって、経験があるつもりでも、自分の信仰による判断力は、まだまだ極めて未熟で弱いことを知らされるのです。その過程で、信者は、御言葉に基づいて正しい判断を下すために、以前の自分の常識を改めなければならないことを知ります。

特に、信者がそれまで良いものだと考えて来たこの世の常識さえ、信仰による判断の大きな妨げになりかねないことが分かって来るのです。暗闇の勢力は、誰が見てもはっきりと悪いと分かる形だけでなく、この世の常識を利用して、まことしやかに良い影響を装って信者に近づきます。信者は、この世の常識において、まことに良いとされている事柄であるからといって、吟味もせずに安易に受け入れることは、あだになりかねないことを知るのです。

たとえば、この世の常識では、定期的に医者にかかることや、軽い病気で薬を服用するのは、何ら問題ではありません。むしろ、病気の早期発見のために、医者にかかることは有益として勧められています。もしくは、何か心に悩みが生じたときに、教師やカウンセラーのもとに赴くことも何ら問題とはみなされていません。
 
ここで私はいたずらに医師の治療を拒んだり、すべての助言を退けるようにと勧めているわけではありません。そうではなく、信仰による判断力が極めて未熟な信者が、何か悩みが発生したからと言って、安易に他人の助言を求めて走り回ったり、不用意にやって来た他者の助言や忠告に耳を貸すと、やがてとんでもない結果に至ることが実際にありうることを警告しているのです。
 
これは、個人預言の危険について述べた内容と基本的に同じなのですが、もしそれが個人預言や占いのような怪しげなメッセージの形を取ってやって来るならば、誰でも初めから警戒するでしょう。しかし、日常生活において、普通に受け入れられている立派な職業にある人々(教師、カウンセラー、弁護士、医者等)や、身近な親しい人々の言葉の出どころを疑い、さらにその時、環境に起きている出来事を一つ一つ吟味しながら、その言葉が何を目的に発せられ、どこへ自分を導こうとしているのか、源を問いただし、吟味することは容易ではありません。なぜなら、人間は、環境に起きる異変は偶然とみなしやすく、また、身近な親しい人間や、この世の権威とみなされている人々の言い分は疑わずに受け入れる傾向があるからです。

しかし、問題は、どんなに常識的に良い内容に見えたとしても、出来事や、人の言葉を含め、信者の外からやって来るすべての力が本当に良いものとは限らないことです。むしろ、良さそうに見えるあらゆる出来事や提案が、暗闇の勢力の準備した策略であることがしばしばあるため、信者は、まずはその力の出どころを吟味し、識別してから、受け入れるかどうかを判断し、退けるべきものをきっぱり退けるだけの判断力・識別力を持つことががどうしても必要になるのです。

しかも、極度に圧迫された状況であっても、信者はこの判断を冷静に行なわなければなりません。それはまことに容易ではありませんので、訓練が必要となります。
 
アブラハムも、飢饉が起きたとき、エジプトに下って助けを求めるという誤りを犯し、そのゆえに窮地に立たされることになります。むろん、神は信仰の人アブラハムを救って下さいますが、その経験は彼にとって大きな教訓となったでしょう。信者はこのように、極度に圧迫され、不安に陥れられた時、しばしばこの世の常識に従って、頼れる人や環境をあちこち探し求めがちなのですが、本当の助け主は内なるキリストのみであって、キリストに聞くより前に、この世の常識に従って判断すると、常に誤った結果がもたらされることを知るのです。

ただし、一度や二度、助けを求めてエジプトに下って窮地に立たされ、失敗を犯したと分かったとしても、それを悔やむ必要はありません。残念ながら、失敗なくして初めから戦いの秘訣を知っている人は誰もいないのです。しかも、信仰による判断は、その人が神を信じる前から持っていたこの世の常識とは全く相容れないため、信者は信仰によって歩むために、自分自身が持っていた従来のこの世的な思考や判断を、御言葉に合致するように変えて行く必要があるのです。それは長い道のりです。そして、その過程で、自分自身の判断力の弱さと未熟さの克服に取り組むことになります。
 
さて、暗闇の勢力の偽りを知って退けることは、信仰によって歩む人生の秘訣のたった半分でしかありません。極めて重要なもう半分の秘訣は、「主と共に信仰によって環境を創造する」ことです。この二つは大きく見て同じ課題の両面なのです。
 
暗闇の勢力の圧迫は、今、現に起こっていることか、ただちに起ころうとしていることでしかありませんが、信仰は、未来に向かっていくものです。まだ誰も見ておらず、理解もしていない未来に向かって、「望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるもの」(ヘブル11:1)です。ですから、信者は今現在自分を取り巻く状況がどうあろうと、自分自身の状態がどうあろうと、未来への望みを決して現状に応じてあきらめることなく、主にあって、望み続けて行くこそ、信仰によって環境を創造する秘訣であることを知ります。

信仰によって、キリスト者がどれほど多くのものを創造することができるか、それは筆者自身の人生でも確かめられ、裏づけられて来た実験ですが、このようなテーマを語り始めると、まだまだ反対も多く、あたかもキリストを信じているように言いながらも、信者が主に直接、願いを述べるのを妨げるような目くらましの力が働いていることを知ります。

つまり、望むこと自体を信者にあきらめさせることによって、本当ならば、主に願って彼らが手にいられるはずの自由と解放を、みすみす逃すよう仕向けている力があるのです。

もっと言うならば、そのようにして人の信仰を弱めることにより、人々が惨めな境遇から抜け出せないようにし、様々な問題で圧迫されたままの困窮した状態にとどまり、さらにはあたかもその窮地を人間の力によって救済できるかのように唱えて登場する偽の救済者たちに頼り、欺かれるように仕向けるという、何重もの惑わしが働いているのです。

いかに暗闇の勢力が、信者が心身ともにとらわれの状態から解放されることを恐れ、それが起きないように全力を尽くして妨げているかを思います。

しかし、実際、イエスは羊に豊かな命を与えるために来られたと聖書にあるのですから、信者は何がどうあれ、この命の豊かさを生きて実際に体験する必要があります。信仰は単なる机上の空論ではなく、道徳律でもなく、私達にとって命そのものなのです。キリストは私たちの霊においても、肉体においても、精神においても、すべての面における命であり、どんな時にも、十分に命となり、義となって下さることを生きて確かめることができるのです。
 
この信仰に堅く立つために、信者は信仰による判断力を磨くことと、どんな状況にあっても、冷静に判断が下せるように、自分の心の平安を主にあって守る術を学ぶ必要があります。心の冷静さが失われれば、どんなに優れた判断力も効果を発揮できません。自分の心を見張るとは、ただ落ち着いていることや、誤った誘惑に耳を貸さないというだけではなく、何が御言葉に照らし合わせて真実であるのかを、常に人に頼らず自分で吟味できるだけの判断力と冷静さを備えていることを意味します。
  
このように、信者が自分の心を守り、未来へ向かう望みに基づいて主と同労して環境を積極的に創造して行くために、最も必要なのは、「現状の圧迫を現実として受け入れない」ことと「過去を振り返らない」ことです。

信仰によって主に願い、待ち望むことの妨げになるのは、周りを見て、暗闇の勢力による圧迫を現実のものとして受け入れて、望みをあきらめること、もしくは自分が失敗したという失意に影響されて、自ら望みを放棄することです。

ですから、心を不安にさせるような事件のニュースがどんなに周りに溢れていても、信者は自分に与えられた今という時と環境が、主が共におられるがゆえに、完全であることを信じるのです。そして、過去、不信仰ゆえに受け取りそこなったものがあったとしても、あるいは自ら犯した失敗のために生じたネガティヴな要因が残っていたり、あるいは暗闇の勢力のもたらす激しい圧迫が現実に影響を及ぼしていたとしても、信仰に基づいて、それを事実として受け入れず、これを虚偽として退け、御言葉を堅く握り、そこに立ち続けることです。

信者の人生にはどんな些細なことについても、キリストの血潮が及んでいます。どんなに現実に問題が溢れ、希望が遠く見え、自分の現状が誤ったものに感じられることがあったとしても、信者はキリストにあって、自分自身が完全とされているということを事実として信じ、その事実を堅く握り続け、その完全性は、環境にあるのではなく、信者の現在や過去の行ないにあるのでもなく、今共にいて下さるキリストご自身にあることを信じ、これを宣言するのです。そして、その事実に反する状況が虚偽として逃げ去り、消失するまで、主の完全性に立って、あらゆる圧迫を拒んで、未来に望みを託し続け、その願いを御名によって父なる神に懇願し続けるのです。

その試みをずっと続けているうちに、やがて、信者が圧迫に翻弄されてエジプトに下るようなことは少なくなり、天の都への行路がまっすぐになり、無用な奔走や紆余曲折は減少して行くことでしょう。

<この記事は、神は決して正しい者がゆるがされるようにはなさらない。神は志の堅固な者を全き平安のうちに守られる。に続いています。> 

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